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「渡嘉敷島の惨劇は果して神話か」―曽野綾子氏に反論する― 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p167-215 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か1疑惑の転進命令。誰が赤松を「告発」する資格があるかということではなく、どうして、赤松に住民を殺す資格があったのか、ということが問題であり、赤松を告発するのは特定の個人ではなく、社会のルールである。 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か2なぜ、戦闘必須の兵器である手榴弾が多数住民の手に渡っていたか。もし防衛隊員(正規兵といえない)の手から流れたというなら、一人の防衛隊員が妻に会いに行ったぐらいで処刑するような軍隊が、兵器の管理をなぜ怠ったか。 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か3ただ自己弁護する赤松――罰なくして罪を悟れない人間の弱さを痛感する。一方、「反省を強いることのできるのは神だけだ」という作者と、他方では、陸軍刑法など引用して赤松をかばおうとする作者に矛盾を感ずる。 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か4赤松隊の候補生や兵隊は食を求めて住民のいる場所をうろうろしていたらしい(統率は乱れていた)。彼らはなんともないのに防召兵が住民に接近しただけで処刑している。そこに「差別」を感ずる。 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か5『ある神話の背景』の中で、赤松隊員は、「自分たちが渡嘉敷島で持久戦をやれば、それだけ敵をひきつけ、軍全体の作戦に寄与できた」などといっているが、渡嘉敷島にひそむ日本兵など、米軍は、かゆみとおぼえないほど無視していた。 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か6『ある神話の背景』の作者は、「赤松令嬢」の立場にひどく同情しているようだが、その場合、赤松に処刑された人たちの遺族の、戦後の苦しみにも思いを到すべきであろう。 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か7他人に対して狂暴となるのは、生死の境にあって、生を求めるもがきがあるからであるとおもわれる。慶良間列島に配置された陸軍特攻艇は、特攻機や海軍特攻艇とちがって「必死兵器」ではなかった。 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か8「渡嘉敷島で、父母をナタで殺した少年は加害者であったか? (中略)、彼らはれっきとした加害者であり、被害者であった」と曽野氏はいう。この論法で、「赤松は加害者であり、かつ被害者でもあった」と弁護する。ここで集団自決と住民処刑が混同されている。 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か9集団自決という事実は、厳としてあったのである。それは赤松第三戦隊長のいた渡嘉敷島だけでなく、第一戦隊(梅沢裕少佐)のいた座間味でもあったし、第二戦隊(野田義彦少佐)の守備配下にあった慶留間島でもあったようだ。これらの事実は符節を合わしたような偶然の出来事だったのだろうか。 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か10「朝鮮の人たちのことが発表されたら、それこそ大変なことになるでしょうね」と、曽野氏が真顔で語ったのは印象的だった。「それは、そうでしょうね」と私はうなずいたが、とにかく、曽野氏が、朝鮮の人たちの話は、タブーだとして回避する意向であったことがわかる。 渡嘉敷島の惨劇は果して神話か11隊員の兵隊二人が、あるとき逃亡した。そのとき、赤松は「去る者を追うのはよそう」と言った。兵隊の逃亡を黙認した赤松の態度は、まことに寛大といわざるをえない。陣地をはなれたという理由だけで、防召兵に「逃亡」の罪をきせ、どこまでも追いかけてさがし出し、陣地に連れもどして処刑した赤松、これが同一人の態度かとうたがわざるを得ないほど隊員に対しては寛大であったことがわかる。 集団自決などをめぐって
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「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(3) ジャーナリストか 太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある。 太田氏は連載の第三回目で、「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と書いている。 もしこの文章が、家庭の主婦の書いたものであったら、私は許すであろう。しかし太田氏はジャーナリズムの出身ではないか。そして日本人として、ベトナム戦争、中国報道にいささかでも関心を持ち続けていれば、新聞社の集めた「直接体験者の証言」なるものの中にはどれほど不正確なものがあったかをつい昨日のことのように思いだせるはずだ、また、極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったということを承認した例がある。いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない。 赤松氏庇う理由ない 太田氏によると、古波蔵村長は直接体験者だというが、自決命令に関してもし古波蔵氏自身が証言したとしたら、それはやはり伝聞証拠なのである。なぜなら、古波蔵氏自身は、赤松大尉から自決命令を直接聞く立場にいなかった、とあの当時私に強調した。古波蔵氏は自決命令はあくまで安里巡査が伝えてくるべきものだったと言い、私もその立場を納得した。そして安里巡査は自決命令が出されたことを否認した、というのがその経緯である。 太田氏は、「『赤松証言』に曽野綾子氏は重点を置いている」と言うが、私は赤松氏とは、ほかの人ほど接触しなかった。こういう場合の当事者が何をいっても弁解だということになることは目に見えているから、私はむしろエネルギーを省きたかったのである。はっきりしておきたいのは、私が赤松氏をかばう理由は何もないということだ。私は赤松氏の親類でもない。取材の時に一度訪問したことはあるが、それ以来遺族との交渉もない。 むしろそういう意味で、太田氏こそ、この人のことは信用できる。この人のことは信用できない、という感情的な決めつけ方をしている。それは次のようである。 「この命令説の真相を知っていると思われる人物が二人いる。一人は、赤松氏の副官である知念少尉であり、一人は赤松氏と住民の間に立って連絡係の役をつとめた駐在巡査の安里喜順氏である。この二人とも、『ある神話の背景』の中で真相を語っているとはおもえない。知念は赤松と共犯者の立場にあり、安里は自決命令を伝えたなどとは言い難いので『自決命令』を否定するほうが有利なのである」 「真相」を知る二人が二人とも否定していても、なお事実は違うのだ、と言いきることが妥当かどうかは別として、太田氏のこの言葉を私は一応受け入れよう。しかしそれなら、私は改めて太田氏に問わねばならない。 知念少尉の証言 太田氏は『鉄の暴風』の中で、前述の知念氏について次のように書いたのだ。 「日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いたが、そのとき赤松大尉は『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している』ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」 太田氏にとって知念副官という人物は、どちらの顔がほんとうだったのか。しかし太田氏はご丁寧にも、『鉄の暴風』は決してうそではないのだ、と次のように今回の反論の中でも強調する。 「住民の自決をうながした自決前日の将校会議についての『鉄の暴風』の記述を曽野氏はまったくの虚構としてしりぞけている。(中略)が、あの場面は、決して私が想像で書いたものではなく、渡嘉敷島の生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない」 つまり知念副官が赤松隊長の残虐さに慟哭したという場面も伝聞証拠ではないというなら、知念氏の内面の苦悩を書いた場面は特に知念氏自身から聞いて書いたのだろうと思うのだが、その知念氏が「真相を語っているとは思えない」と太田氏は自らいう。太田氏という人は分裂症なのだろうか。 目次へ | 次へ
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「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(4) 多数の島民が証言 つい先日、ベトナム戦争の時、一人の市民をピストルで射殺した軍人の記録フィルムをテレビで見た。その軍人の名前ははっかり分かっていて、彼は今アメリカでレストランを経営しているという。 それを撮影したアメリカ人のカメラマンの発言は、しかし実にみごとなものであった。彼は自分がそのような決定的瞬間を撮ることで、その殺した側のベトナム軍人の生涯に、一生重荷を負わせてしまったことに責任を感じていた。カメラマンは、自分もあの場にいたら多分同じ事をしたろうと思うから、という意味のことを言ったのである。 これこそが、本当に人間的な言葉であろう。そしてこの赤松隊の事件を調査した時も、同じようなすばらしい言葉を、私は渡嘉敷島の人々から聞いたのだ。つまり村の青年の中にも、 「総(すべ)て戦争がやったものであえるから、そういうことはなすり合いをしたくないというのは、私の考えです。そういう教育を受けたんだし」 と私に言った人がいたのである。 太田氏は、しきりに自分は伝聞証拠ではなく、体験者からの証言で書いたと言うが、私が現実に、島の人たちから聞いた赤松氏に対する見方を、太田氏は今回も全く無視している。島の人の中には、もちろん私などには会いたくない、という人もいたはずである。しかしその半面、私の『ある神話の背景』を読んで頂ければ分かることだが、決して一人は二人ではない多数の人々が、生死を共にした赤松隊の人々に会うことや、彼らとの戦争中の体験を私に語ることを、少しも拒まなかった。 著述業者なら盗作 彼らは集団自決のことに関しても、実に正確に、理性的に、あるがままを私に語った。はっきりしないことははっきりしないこととして、その間を見てきたような話でつなげたりはしなかった。しかしそのような人々の発言を、太田氏は全く無視する。それはあまりに失礼な態度ではないのだろうか。 太田氏は私が、渡嘉敷島の事件を証言する渡嘉敷村遺族会編『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』と渡嘉敷村が出版した『渡嘉敷島における戦争の様相』の二つの資料のある部分が、太田氏の筆になる沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』からの引き写しとしか思えないことについて「この三つの資料は、文章の類似点があるとはいえ、事実内容については、大筋において矛盾するところはないのである。それは当然のことで、『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものでないことはもちろん、むしろ、上述の他の戦記資料によって『鉄の暴風』の事実内容の信ぴょう性が立証されたといえるのである」と書いているが、この三つの資料に、独自の調査によって書かれたとは思えない程度の文章の類似性が見られることはどうしようもない。 もしこれが、私たち著述業者のしたことで、原作者(一番発行日が古いもの)から著作権の侵害として訴えられた場合、当然、盗作と認められる程度のものである。しかしもちろんこれを書いた人たちは、私たちのような専門家ではないし、悪意や自分の利益のためにしたことではないことも明らかなのだから、私も少しも批難するつもりはない。 上陸は3月27日 しかし私は再び太田氏に問いたい。米軍が島に上陸した日、といえばそれはおそらく島民にとって、忘れようとしても忘れられない日であったろうが、その日を三つの資料が三つとも三月二十六日とまちがって記載するということも自然なのだろうか。初め私はこの事実に気がついた時、上陸が二十六日の夜中で、もう二十七日になっていても分からないような時刻ではないか、と思った。しかし調べてみると、上陸は三月二十七日の、午前九時〇八分から四十三分の間、つまりまぎれもない朝なのである。そのような大事な日時というものは、独自の調査をして行けば(かりに一つが、思い違いや書き間違いをしたとしても)三つがそろって誤記するということはほとんどあり得ないものなのである。 私はもはや一々太田氏の内容に反論する気になれない。初めに言ったように、私はだれに限らず、だれかが正しくて、そうでない人は、徹底して悪いのだ、という論理をただの一度もとったことがないのである。赤松氏に作戦上の問題がない、ということもない。住民も動転していた。それは私たち日本人皆が持っていた当時の判断の形式であった。 ただ、ある人間だけをよしとし、反対の立場に立つ人は悪人だとする判断は--もちろんそういう判断を好む人がいても、私はそれに対して何も言うつもりはないが--それは、そのひとはとうてい大人の判断をもって人間を見ることのできない性格なのだ、とひそかに思うだけである。なぜなら、自分がもしその立場に置かれたら、ひょっとして自分も同じことをするのではないか、と思える人と思えない人とは、善悪を超えて異人種だということを、私も長い年月の間に分かるようになったからである。 目次へ | 次へ
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太田良博 『すべてのうしろには"菊"がある』―「日の丸」と沖縄戦―より 太田良博著作集3、p337-339 「日の丸」ときくと、すぐ思いうかべる事件がある。 沖縄戦で悲惨な事件の数々を聞かされているが、これほど悲惨な話を私は知らない。沖縄戦に関しては、これまで二百冊前後の記録が出ているが、その中でたった一つ、この事件にふれているとおもわれるのがあるが、それも、それらしい事件があったことを臭わせているだけで、その真相は記されていない。つまり、この事件の真相は、これまで、私の知る限りでは、どの戦記にも書かれていない。この事件をにおわせた唯一の記録というのは、第三十二軍(沖縄守備軍)の高級参謀だった八原博通大佐の『沖縄決戦』である。それには以下のように記されている。 戦闘開始後間もないある日、司令部勤務のある女の子が、私の許に駆けて来て報告した。「今女スパイが捕えられ、皆に殺されています。首里郊外で懐中電灯を持って、敵に合い図していたからだそうです。軍の命令(?)で司令部将兵から女に至るまで、竹槍で一突きずつ突いています。敵慌心を旺盛にするためだそうです。高級参謀殿はどうなさいますか?」私は「うん」と言ったきりで、相手にしなかった。いやな感じがしたからである。(同書一八六頁) 高級参謀が司令部勤務の女子職員から報告をうけたという事件は、私が聞いたのと同一事件のようである。 私に事件の真相を語った当時の目撃者、K氏(弁護士)も、八原参謀の記述したのと同一の事件であると証言している。 K氏は当時、沖縄師範学校の生徒で、学徒動員兵として、首里洞窟司令部のなかにいた。「女スパイがつかまった!」というので、洞窟内からドヤドヤと野次馬がとび出した。K氏もその群集のなかの一人であった。場所は、洞窟司令部の南側斜面である。 憲兵に縄をうたれた一人の若い女が現われた。カーキー色の短かいパンツに短袖シャツ、一見、女子挺身隊員かとおもわれる服装である。小柄小肥り、みたところ二十五、六才の色白の女性で、頭髪はザンギリになっている。その女はたえず童謡を歌っていた。「ハトポッポ」を歌うかとおもえば、それがおわると「ギンギンギラギラ」と別の童謡を歌うといった調子である。精神異常の女だったのか、殺されることを予知して放心状態になっていたのかは、知るところではない。 女は、田んぼの近くの電柱にしばられ、そこに集まった連中に突かれることになった。まず、最初に突かせたのは、朝鮮人慰安婦である。朝鮮からつれてこられ、兵隊相手に売春をさせられていた娘たちに「日の丸」鉢巻をさせて、帯剣や竹槍などで、かわるがわる突かせたのである。 電柱にしばられていたのは、もちろん、沖縄の娘である。帯剣や竹槍の先が、女の胸や腹部にプスッぷすツとささるごとに、鮮血が噴出して、シャツをそめる。そのたびごとに、女は「痛い」「痛い」と悲鳴をあげる。わめく。だが、突くほうも女である。力が弱いので致命傷にならない。なぶり殺しの形になった。日本の封建武士社会では、竹光による切腹が最も惨酷な刑罰であったようだが、それに劣らぬ惨酷刑である。処刑されている女性は、かなり生命力があったようで、なかなか死ねない。それだけ長い時問、苦しんでいたわけだが、かなり突かれて、ついに悲鳴もだんだんか細くかすれ、ついにぐったりしてしまった。その時である。一人の若い将校が縄をといて、「立てツ!」と鋭く気合いをかけた。すると、ほとんど死んだと思われた、その若い女性は、すくっと立ち上った。それには、みんなおどろいたようである。見物の群集の中から、低いどよめきのようなものがおこった。「歩けッ!」声がかかると、女はよろよろと歩き出した。「坐れッ!」女は田んぼの近くの草むらの上に端坐した。端坐したのである。そのとき、例の将校は、みんなに聞こえるような声で、「おれは、剣術は、あまり上手じゃないがのう」と言いながら、腰の軍刀をサッと勢いよく抜き放った。得意然というか、今の言葉で言えば、カッコよい動作をしたわけである。そして斬首! 首と胴体が離れた女の屍体は、泥田のなかにころがされ、みんなにふんずけられた。ふめ、ふめといわれて、つぎつぎに、この野郎とか、売国奴とかののしりながら、田んぼにころがされ、半ば泥のなかに沈んだ、女の屍体をふんずけた。その屍体は、泥のひとかたまりになり、もはや人間の形の見わけもっかないほどになった。 朝鮮の慰安婦に「日の丸」鉢巻をさせて、沖縄娘をなぶり殺しにさせた日本軍の演出は実に象徴的である。殺された女がスパイだったという確証があったはずもない。
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「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(5) 沖縄中心の考え方 私は今回、こういう企画が行われて、私の本がたとえ一冊でも多くの方々の眼にふれるようになったことを喜んでいる。安い文庫本のことだから、売れると印税が儲かる、ということではない。 数年前、『ある神話の背景』が出てしばらくした頃、私は知人にあげるために一緒に那覇市内の本屋に行って、この本を買おうとしたことがあった。しかし、本屋にはこの本がないばかりでなく、私が当の著者であることを知らない店員さんは、入荷の予定もない、とそっけなかった。知人はその本屋が「思想的に特徴のある本屋ですからね。曽野さんの本は置かないのかもしれませんね」という意味のことを言ったが、私は穏やかに前金を払って自分の文庫を取ってもらうように頼んで来たことがある。 私はかねがね、沖縄という土地が、日本のさまざまな思想から隔絶され、特に沖縄にとって口あたりの苦いものはかなり意図的に排除される傾向にあるという印象を持っていた。その結果、沖縄は、本土に比べれば、一種の全体主義的に統一された思想だけが提示される閉鎖社会だなと思うことが度々あった。 もしそうとすれば、これは危険な状況であった。沖縄の二つの新聞が心を合わせれば(あるいは特にあわせなくとも、読者の好みに合いそうな世論を保って行こうとすれば)それほど無理をしなくても世論に大きな指導力を持つ。そして市民は知らず知らずのうちに、統一された見解しかあまり眼にふれる機会がないようにさせられる。もし私が沖縄に住むなら、私は沖縄の新聞と共に必ず全国紙を一紙取るだろう、と私は思った。そうでないと、沖縄中心の物の考え方が次第に助長されるようになる。世界の中の日本、日本の中の沖縄あるいは東京、というバランス感覚がなくなるのである。 「日の丸」と「君が代」 特に沖縄では、学校の先生の指導で、国旗も掲揚せず、一応国歌と認定されている君が代も歌わない学校が多いので、生徒たちの中には歌えない者も多いと聞かされた時には、特にその感を深くした。 日の丸と君が代はいやだ、という人は沖縄でなくてもいる。最近、社会党は君が代や日の丸を認めないという条項を綱領から外したが、党員の中にはそれを不満とする人も少なくないという。もし今の国旗と国歌に反対なら、それをできるだけ早く別のデザインの国旗と、別の歌である国歌に改変するように動くべきなのだ。しかし現在、地球上の国家で、自国の国歌や国旗に対して尊敬の態度を教えない国など、あまり聞いたことがない。 ましてや沖縄には基地問題がある。もしアメリカの軍人たちに、ここは主権が日本にある土地であり、基地があることは不自然だということを示そうとするなら、私だったら、ことあるごとに、国歌を歌い、、国旗をあげてそれをアメリカに対する一種の闘争の方法、意志の表示とするだろう。日の丸も揚がらず、国歌も聞こえない土地でどうしてここが日本だということを簡単明瞭に示すのだろう。 しかし沖縄では、一部の人たちが日の丸も君が代もだめだ、となると、子供たちが、現在国歌と認められている歌さえも歌えないような、地球的に見てもおかしな教育がまかりと追っているのだとしたら、このような偏りは、本土の学校では考えられないことである。なぜなら、社会には、常に違った考えの人がいるから、国民の選挙によって選出された議会政治の決定したことに、この次の選挙までは従う、という民主主義の原則を受け入れるほか、方法がないからである。 ほしい冷静な態度 前にも書いたように、私の本など、実はどうでもいい。しかし大切なのは、沖縄が、もっと強烈な個性とその対立に、堂々としかも冷静に耐え、切磋琢磨し、しかし対立する思想こそ世の中を安全に動かす元だと評価する習慣を持つことである。今までのところ沖縄は失礼ながらそうではなかった。少しでも沖縄に対して批判的なものの考え方をする人は、つまり平和の敵・沖縄の敵だ、と考えるような単純さが、むしろ戦争を知っている年長の世代に多かった。 その世代が今は少しずつ、替わりかけている、と私は実感するようになっている。 だからと言って、沖縄戦の記憶が古びたのでもなく、意味を失ったのでもない。むしろ沖縄戦を直接体験しない若い世代は、沖縄の戦いを、個人やその家族の歴史または知的資産とする範囲から脱して、今はもう未来に向かって普遍化する時代に来ている。反戦が、抗議と反対運動に集約されていた時代はもう古いと私は思っている。何せ、戦いの体験を全く持たない人たちがもう四十歳なのだ。 私は、このごろ、反戦や平和というものは、口で言うものではなく、最低限黙ってそのために労働か金かをさし出すものだ、ということをしみじみ教えられた。もっと偉い人はもっと大きな犠牲を払っている。そのようなことを私にも思わせる遠い過去には、私にも私なりの生涯を決定するほどの大きな戦争の体験があったからである。 (おわり) 目次へ | 次へ
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被告準備書面(3)要旨2006年6月2日その2 ソース:http //www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/syomen3.html 被告準備書面(3)要旨2006年6月2日その1 被告準備書面(3)要旨2006年6月2日その2 第2 同書面第2(渡嘉敷島における集団自決の神話と実相)について1 同1(渡嘉敷島の集団自決の神話)について 2 同2(渡嘉敷島における集団自決の経過の概要)について(1)渡嘉敷島における集団自決の経緯ア 原告らは、安里喜順元巡査の手記(甲B16)や イ 前記のとおり、沖縄においては、「皇民化教育」が強力に推し進められ、 (2)原告ら主張の「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」についてア 原告らが、「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」と主張するところのものは、 イ また、原告らが星氏の「集団自決を追って」とともに挙げている安里喜順元巡査の手記(甲B16)は信用性がない。 3 同3(「鉄の暴風」と赤松命令説)について(1)同(1)(赤松命令説の発端)について (2)同(2)(「鉄の暴風」に登場した赤松命令説)についてア 同a)の「鉄の暴風」の記載は認める。 イ 同b)は認める。なお「牧浜篤三」ではなく「牧港篤三」である。 ウ 同c)のうち太田良博が渡嘉敷島には自ら行かなかったこと、 (3)同(3)(軍命令による集団自決の証言者)についてア 原告らは、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)51頁を引用して イ また原告らは、「鉄の暴風」について、 (4)同(4)(「鉄の暴風」の本質的誤り)について (5)「ある神話の背景」の信用性についてア まず、「ある神話の背景」によれば、 イ また、曽野綾子氏は、同書執筆のための取材過程において、 ウ なお、「ある神話の背景」は、 エ 以上のとおり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によるもので、事実の記述について信用性があるとはいえない。 4 同4(自決命令の命令者、伝達者、受領者の不在)について 5 同5(赤松命令説を掲載した『戦闘概要』と削除した『戦争の様相』)について 6 同6(自決命令の言い換え)について(1)同(1)(古波蔵惟好の場合)について (2)同(2)(富山真順元兵事主任の場合)について 7 同7(「陣中日誌」)について 8 同8(衛生兵の派遣と恩賜の時計)について(1)同(1)について (2)同(2)について 9 同9(赤松命令説をつくったもの)について 10 同10(当時の沖縄県民の意識について)について 11 同11(「神話の背景」以後)について(1)同(1)について (2)同(2)について (3)同(3)について 第3 敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立要件(補充) 第2 同書面第2(渡嘉敷島における集団自決の神話と実相)について 1 同1(渡嘉敷島の集団自決の神話)について 本件書籍三「沖縄問題20年」(甲A2)に、原告引用のとおりの記述があることは認める。 2 同2(渡嘉敷島における集団自決の経過の概要)について (1)渡嘉敷島における集団自決の経緯 ア 原告らは、安里喜順元巡査の手記(甲B16)や 星雅彦氏の記事「集団自決を追って」(甲B17)を根拠に、赤松隊長による自決命令はなかったと主張している。しかし、渡嘉敷島における集団自決の経緯は以下のとおりであり、赤松隊長による自決命令があったことは明らかである。 イ 前記のとおり、沖縄においては、「皇民化教育」が強力に推し進められ、 日本軍は「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍民一体の総動員作戦を展開していたもので、座間味島や渡嘉敷島の日本軍は、秘密保持のため住民が村外に避難することを許さず、米軍が上陸した場合には住民とともに玉砕する方針を宣言していた。 そして、渡嘉敷島においては、当時兵事主任であった富山(新城)真順氏が証言しているとおり(乙12、乙13-197頁)、米軍が上陸する直前の1945年(昭和20年)3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山氏に対し渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令し、富山氏が軍の指示に従って17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に集めると、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせ、集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、 「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」 と訓示したのである。 渡嘉敷島において、軍を統率する最高責任者は赤松隊長であり、手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれていた武器である。兵器軍曹が赤松隊長の意思と関係なく、手榴弾を配布し自決命令を発するなどということはありえない。すなわち、この時点であらかじめ軍(すなわち赤松隊長)による自決命令があったものである。 そして、米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日、赤松隊長から兵事主任に対し、 「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」 という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が住民に伝えられた(乙12、乙13-197頁)。さらに集団自決で生き残った金城重明氏の証言(乙11-279頁~287頁)、古波蔵(米田)惟好氏の証言(乙9-768頁~769頁)にあるとおり、同27日夜、住民が同命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まり、翌3月28日米軍の艦砲や迫撃砲が打ち込まれる状況の中で、村の指導者を通じて住民に軍の自決命令が出たと伝えられ、防衛隊員(陸軍防衛召集規則(昭和17年9月26日陸軍省令第53号)に基づいて召集された軍の正規兵)が手榴弾を持ち込み、住民に配り、そこで集団自決がおこなわれたのである。 以上の事実経過は、「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(乙10)にあるとおり、「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」ものに他ならない。 (2)原告ら主張の「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」について ア 原告らが、「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」と主張するところのものは、 ほとんど星雅彦氏の記事「集団自決を追って」(甲B17)に依っている。 しかし、まず「集団自決を追って」は、作家である星氏が取材し執筆したものであるが、いかなる対象に対していかなる取材を行ったか明らかではない。そして同記事は、星氏自身が、 「本稿は私が当時の村長や駐在巡査や若干の村民から取材した集団自決の内容を、私なりにまとめ、悲劇の再現を試みたものである。いな、悲劇の再現とは、口はばったい言種である。ただひたすら、二十六年前の悪夢を想像してみたまでである」(傍点被告訴訟代理人) とするとおり、渡嘉敷島の集団自決の事実を記述したものとはいえない。 筆者自らが認めるとおり、「集団自決を追って」は想像に基づいて再現したものにすぎず、同資料に基づいて赤松大尉による集団自決命令がなかったとは言えない。 しかも、「集団自決を追って」は、 「防衛隊の過半数は、何週間も前に日本軍から一人あて二個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら、それで戦うか自決するかせよということであった」 とし(甲B17、210頁上段)、その防衛隊によって村民に「玉砕する」話がひろめられた(同210頁下段)としているのであって、同資料は前記(1)記載の集団自決の経緯を否定するものではない。 イ また、原告らが星氏の「集団自決を追って」とともに挙げている安里喜順元巡査の手記(甲B16)は信用性がない。 すなわち、「集団自決を追って」においては、赤松大尉自らが住民に軍陣地の北側の西山盆地への移動を指示したことになっているが(甲B17-208頁中段。なお赤松大尉自身 「部隊は西山のほうに移るから住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう」と言ったとしている(甲B2-217頁))、「安里元巡査の手記」では、赤松大尉から場所の指定はなく、軍陣地付近へ避難することは住民たちが決定したことになっている。また「集団自決を追って」では、3月28日に、手榴弾が足りないことから、防衛隊が手榴弾を取りに出掛け、さらに防衛隊によって村民に「玉砕する」話がひろめられ、その後集団自決がはじまったという経過になっているが、「安里元巡査の手記」では、安里は玉砕に反対し、部隊長(赤松)の確認をとるために伝令を出したところ、その伝令が帰ってこないうちに集団自決がはじまったことになっている。 このように安里元巡査の手記は、星氏の記事との比較においても、赤松大尉や自己の責任を回避しようと意図していることが明らかである。安里元巡査は、集団自決の現場へ住民を集結させ、集団自決の現場から少し離れたところから 「私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決はできません」 と言って見ていたとされる人物であり(乙9-768頁)、その責任を逃れるため、集団自決は軍や赤松隊長の命令によるものではなかったとしなければならない立場にあるもので、その手記は信用性があるとはいえない。 3 同3(「鉄の暴風」と赤松命令説)について (1)同(1)(赤松命令説の発端)について 渡嘉敷島の自決命令について最初に記載された資料は「鉄の暴風」であること、「慶良間列島戦況報告書の渡嘉敷島戦争の様相」には自決命令の記載がないことは認め、その余は否認する。 (2)同(2)(「鉄の暴風」に登場した赤松命令説)について ア 同a)の「鉄の暴風」の記載は認める。 イ 同b)は認める。なお「牧浜篤三」ではなく「牧港篤三」である。 ウ 同c)のうち太田良博が渡嘉敷島には自ら行かなかったこと、 山城安次郎、宮平栄治の取材をしたことは認め、その余は否認する。 (3)同(3)(軍命令による集団自決の証言者)について ア 原告らは、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)51頁を引用して 「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は渡嘉敷島へは行かず、那覇において山城安次郎と宮平栄治の二人のみから取材したとし、山城は渡嘉敷ではなく座間味村の出身で集団自決当時は座間味村におり、宮下は戦後南方から復員したのであるから、渡嘉敷島の集団自決を目撃しておらず、この二人が証言したとしても間接的なものでしかない、と主張している。 しかし、太田良博は山城と宮平からのみ取材したのではなく、直接体験者から取材をしており、太田良博の取材経過に関する「ある神話の背景」の記述は誤りである。 すなわち、太田良博の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり、「鉄の暴風」は、沖縄タイムス社が体験者を集め、その人たちの話を記録して文章化したもので、渡嘉敷島に関する記録も、沖縄タイムス社が直接体験者を集めて記録したものである(223頁)。証言者を集めたのは沖縄タイムス社の専務だった座安盛徳氏であり、証言者を集めた場所は「那覇市内のある旅館の一室」で、旅館に集まった証言者の中に渡嘉敷村長だった古波蔵惟好氏もいた(224頁)。また、太田良博は、渡嘉敷島が戦場となった当時、国民学校の校長であった宇久真成氏からも渡嘉敷島での体験を聞き、「鉄の暴風」にある記録を書いたものである(226頁~227頁)。 以上のとおり、「鉄の暴風」は、伝聞証拠に基づくものではなく、まさに集団自決の現場において集団自決を直接体験した人々から取材し、執筆したものである。 太田良博自身、 「戦後二十年もたって曽野氏が赤松大尉やその隊員から聞いた話よりも、戦後間もなく戦争体験者から聞いた話によって書かれた『鉄の暴風』の記録がより確かであると信ずる」 としている(225頁)。 イ また原告らは、「鉄の暴風」について、 沖縄在住の知念元副官や安里元巡査にインタビューしていないこと等から「沖縄タイムスの政治的で偏った編集方針により作成された疑いが強いものといえる」などとも主張しているが、集団自決の直接体験者からの取材等に基づいて編集することは(知念元副官や安里元巡査のインタビューをしていないとしても)、原告ら主張のような編集方針を疑わせるような事情には全くならない。 (4)同(4)(「鉄の暴風」の本質的誤り)について 原告らは、「鉄の暴風」が米軍の渡嘉敷島上陸の日時を3月26日午前6時ころとしている点について、これは3月27日の誤りであり、「鉄の暴風」の事実調査がずさんで信用できないとする。 しかし、わずか1日の誤差でしかなく、同書の記載が同一の米軍上陸の事実を指していることは明らかであり、この一事から、「鉄の暴風」の事実調査がずさんであることにはならない。 (5)「ある神話の背景」の信用性について また、原告らの主張は、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)の記述にほぼ全面的に依拠しているものであるが、同書の記述内容は、以下に述べるとおり、一方的な見方によるもので信用性がない。 ア まず、「ある神話の背景」によれば、 「鉄の暴風」は直接集団自決を体験した者からの取材に基づいて執筆されたものではないとしている(同書51頁)が、前記のとおり、執筆者である太田良博が、当時の渡嘉敷村の古波蔵村長、宇久真成国民学校校長、その他の集団自決体験者から直接取材したことは明らかである。 イ また、曽野綾子氏は、同書執筆のための取材過程において、 渡嘉敷村の兵事主任であった富山(新城)真順氏に会ったことはないと証言している(乙24「裁かれた沖縄戦」(曽野綾子証言)219頁、90項)。 しかし、曽野氏の取材経緯を調査した安仁屋政昭沖縄国際大学教授が指摘しているように、 「曽野綾子氏が渡嘉敷島を調査した1969年当時、新城真順氏は渡嘉敷島で、二回ほど曽野綾子氏の取材に応じている。会見の場所は、源洋子さん(当時66歳)経営の、なぎさ旅館である。なぎさ旅館は、そのころ渡嘉敷部落で唯一の旅館で、奥に洋間が二つあったが、曽野綾子氏は左手の洋間に宿泊していた。新城真順氏は、その洋間に招かれ、曽野綾子氏の取材に数時間もまじめに対応し、証言を拒否するような場面はなかったという。」(乙11-14頁) のであり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によって、不都合なものを切り捨てているといわざるを得ない。 安仁屋教授も 「兵事主任に会うこともなく、その決定的な証言も聞かなかったということであれば、曽野綾子氏の現地取材というのは、常識に照らしても納得のいかない話である。また、兵事主任の証言を聞いていながら『神話』の構成において不都合なものとして切り捨てたのであれば、『ある神話の背景』は文字どおりフィクションということになる」(乙11-14頁~15頁) としている。 ウ なお、「ある神話の背景」は、 渡嘉敷島の集団自決命令について記述した「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(乙10、以下「戦闘概要」という)と「渡嘉敷島戦争の様相」(乙3、以下「戦争の様相」という)は、「戦闘概要」「戦争の様相」の順で引き写したと推測し、「戦闘概要」には「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」と書かれているのに対し「戦争の様相」にはその部分がないことから、「戦争の様相」作成に関与した「当時の古波蔵村長、尾比久孟祥防衛隊長は赤松命令を確認しなかったことになる」と結論づけている。(同書48頁)。 しかし、「戦闘概要」と「戦争の様相」の順序については、伊敷清太郎氏が詳細に分析しているとおり、「戦闘概要」には「戦争の様相」の文章の不備(用字、用語、表現など)を直したであろう跡が随所に見受けられること、当時の村長の姓が「戦争の様相」では旧姓の古波蔵とされているが、「戦闘概要」では改姓後の米田とされていることなどから、「戦争の様相」が先で、これを補充したものが「戦闘概要」であると考えられる(乙25 伊敷清太郎著「『ある神話の背景』における『様相』と『概要』の成立順序について」、なお乙24-210~212頁 曽野証言68~71項)。このように「戦争の様相」の後に「戦闘概要」が作成されたもので、「戦闘概要」に「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」ことが明記されたとみることができる。 エ 以上のとおり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によるもので、事実の記述について信用性があるとはいえない。 4 同4(自決命令の命令者、伝達者、受領者の不在)について 原告らは、赤松大尉が自決命令を出したことを否定しており、自決命令が誰を通じて住民側に伝えられたかも全く不明であるとし、「命令者も受領者も伝達者もわからない命令はあり得ない」ので、「自決命令で集団自決したとする結論を導くことは到底不可能である」と主張する。 しかし、渡嘉敷島における集団自決の経緯は、前記2(1)記載のとおりであり、軍(すなわち赤松隊長)が自決命令を出したものであって、3月28日の段階での命令の伝達経緯が明確に特定されていないからといって(但し防衛隊員を通して伝達されたものであることは明らかである)、赤松大尉による自決命令が存在しなかったことにはならない。 5 同5(赤松命令説を掲載した『戦闘概要』と削除した『戦争の様相』)について 原告らは、「戦闘概要」には赤松大尉による集団自決命令の記述があるが、「戦争の様相」にその記述がないことについて、「遺族会編の『戦闘概要』には自決命令が記載されたのは、遺族会編の私的文書であれば、確認されていない、あるいは事実に反する自決命令が記載されても構わないと考えたものと推測される」とするが、これは根拠のない憶測にすぎない。 前記3(5)ウ記載のとおり、「戦争の様相」の後に「戦闘概要」が作成されたのであり、「戦闘概要」に「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」ことが明記されたとみるべきである。 6 同6(自決命令の言い換え)について (1)同(1)(古波蔵惟好の場合)について 原告らは、自決命令の村民側の最終受領者である古波蔵村長が命令の受領を明確にできない以上、同人の証言から赤松元隊長の自決命令を認定することは不可能である、と主張する。しかし古波蔵村長が、赤松元隊長から自決命令があったとしていることは明らかである。 まず、古波蔵村長は、週刊朝日の記事で「自決命令はしなかった、と赤松はいっているが、住民を部隊の陣地へ集合させておきながら、出ていけというのは、住民に死ねというのと同じではありませんか」(甲B20)と言ったとされているが、「沖縄県史10巻」(乙9-768頁~769頁)において、より具体的に、赤松隊長の命令によって陣地の裏側の盆地に集合させられたこと、陣地から飛び出してきた防衛隊員と合流したこと、米軍の艦砲や迫撃砲が執拗に打ち込まれている状況であったこと、防衛隊員の持ってきた手榴弾によって集団自決が行われたこと、古波蔵村長自身手榴弾を防衛隊員から渡されたこと等を証言しており、古波蔵村長が、赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された、としていることは明らかである。 古波蔵村長は、昭和43年4月8日付琉球新報(乙26)においても、赤松大尉が「集団自決を命令したことも、戦わずして生き延びようとしたこともすべて真実だ」としている。 原告は、防衛隊員から手榴弾を交付されたことを自決命令に結びつけることは、争点をずらすもので、論理の飛躍である、と主張するが、渡嘉敷島における集団自決の経緯というのは前記2(1)記載のとおりであり、古波蔵村長の証言もまさにこれを裏づけるものであって、争点をずらすものでも、論理の飛躍でもない。 (2)同(2)(富山真順元兵事主任の場合)について 原告は、富山元兵事主任が証言している、兵器軍曹が手榴弾を一発は敵と戦うために、一発は捕虜になる時には自決せよと言って渡したという事実そのものが疑わしい、などと主張するが、富山元兵事主任が虚偽の事実を述べる理由は全くない。 また原告は、富山氏が「潮」1971年11月号(甲B21)において、赤松隊長からの自決命令にふれていないことを問題としているが、「潮」の記事は簡単なものであって(同記事には「自決のときのことは話したくないンですがね・・・・・・」とある)、「俄かに、手榴弾を配布したことが自決命令であるといい出した」などということでは全くない。朝日新聞記事(乙12)でも「43年後の今になってなぜ初めてこの証言を?」という問に、富山氏は 「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、あらためて証言しておこうと思った」 と証言し、軍(赤松隊長)により自決命令が出されたことを明確にしている。 7 同7(「陣中日誌」)について 原告は、「陣中日誌」(甲B19)には、自決命令が出た形跡がないとする。 しかし、同「陣中日誌」は、昭和45年3月に赤松元大尉が渡嘉敷島を訪れた際の抗議行動が報道された後の昭和45年8月に発行されたものであり(したがって本来の陣中日誌ではない)、赤松元大尉が自決命令を出したことを否定している以上、赤松隊が戦後20年経過した後に発行した「陣中日誌」に自決命令の記載がないのはむしろ当然のことである。同「陣中日誌」に自決命令の記載がないからといって、自決命令がなかったことの根拠にはならない。 なお、同「陣中日誌」の原告引用部分には、昭和20年3月29日の集団自決後の約200名の死者の光景が記述されているが、「神話の背景」では、赤松隊の中では、集団自決後の多数の死者をみた者はいないことになっている(甲B18-131頁)。 8 同8(衛生兵の派遣と恩賜の時計)について (1)同(1)について 原告は、赤松部隊からは、渡嘉敷村の村民が自決に失敗した後、衛生兵を派遣していることから、赤松元隊長が自決命令を出したとすれば、衛生兵の派遣は全く説明がつかない、と主張する。しかし、古波蔵村長が証言しているのは、衛生兵が住民を治療したという事実だけであり、戦場の混乱した状況の中で、現実に負傷している住民を衛生兵が治療したということと、赤松隊長が自決命令を出したこととが矛盾するわけではない。 (2)同(2)について 不知。 なお渡嘉敷村資料館に赤松隊長の時計が飾ってあるとしても、赤松隊長が自決命令を出さなかったことの根拠になるわけではないことはいうまでもないことである。 9 同9(赤松命令説をつくったもの)について 原告は、「神話の背景」をもとに(前記のとおり、「神話の背景」は一方的な見方によっているものであり、信用性のないものである)、自決命令がなかったことを前提に、赤松命令説をつくったものとしてその推理を縷々述べているが、仮定に基づく憶測にすぎない。 10 同10(当時の沖縄県民の意識について)について 原告は、「神話の背景」にある富野稔元少尉の言葉を引用して、住民が軍の命令や強制なしに集団自決をしたと主張するようである。 しかし前記のとおり、沖縄においては、「皇民化教育」が強力に推し進められ、日本軍は「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍民一体の総動員作戦を展開していたもので、座間味島や渡嘉敷島の日本軍は、秘密保持のため住民が村外に避難することを許さず、米軍が上陸した場合には住民とともに玉砕する方針を宣言し、住民に対し米軍の捕虜となることを禁じ、米軍の捕虜となった場合は女は強姦され、男は八つ裂きにされるなどと脅し、いざというときは自決するよう言渡していたものである。そして、夥しい数の米軍の艦船等によって島を包囲され、逃げ場を失った住民は、集団自決のために集められ、自決用の手榴弾を渡されるなどして、自決に追い込まれたのである。軍の強制や関与なしに自発的に自決したものでは決してない。 11 同11(「神話の背景」以後)について (1)同(1)について 「神話の背景」が一方的な見方によっていることは前記のとおりであり、同書により渡嘉敷島の集団自決命令がなかったと評価され、今日それが定着している、などということはない。 (2)同(2)について 「沖縄問題20年」が、昭和49年に出庫終了となったのは「神話の背景」により自決命令が虚偽であることが露見したからではない。 「沖縄問題20年」の著者である新崎盛暉氏と中野好夫氏は、昭和40年6月に同書を出版後、昭和45年8月に「沖縄・70年前後」を出版した。その後、両氏は昭和47年5月の沖縄の本土復帰を機に、「沖縄問題20年」と「沖縄・70年前後」の両著作をあわせ、昭和47年5月の復帰までの歴史をまとめて、昭和51年10月に「沖縄戦後史」を出版した。以上の経緯から、「沖縄問題20年」は昭和49年に出庫終了となったものである。 (3)同(3)について 「太平洋戦争」の第2版は、渡嘉敷島の記載を完全に削除したのではなく 「沖縄の慶良間列島渡嘉敷島に陣地を置いた海上挺身隊の隊長赤松嘉次は、米軍に収容された女性や少年らの沖縄県民が投降勧告に来ると、これを処刑し、また島民の戦争協力者等を命令違反と称して殺した。島民329名が恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い凄惨な集団自殺をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない。」 と記載しており、軍による自決命令がなかったとしているわけではない。 第3 敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立要件(補充) 被告ら準備書面(1)3頁以下に記載した死者に対する遺族の敬愛追慕の情侵害の不法行為責任の成立要件について、同準備書面で引用した東京地方裁判所判決(乙1)の控訴審判決(東京高等裁判所平成18年5月24日判決・乙27)は、「比較的広く知られ、かつ、何が真実かを巡って論争を呼ぶような歴史的事実に関する表現行為について、当該行為(故人の生前の行為に関する事実摘示又は論評)が故人に対する遺族の敬愛追慕の情を違法に侵害する不法行為に該当するものというためには、その前提として、少なくとも、故人の社会的評価を低下させることとなる摘示事実又は論評若しくはその基礎事実の重要な部分が全くの虚偽であることを要するものと解するのが相当であり、その上で、当該行為の属性及びこれがされた状況(時、場所、方法等)などを総合的に考慮し、当該行為が故人の遺族の敬愛追慕の情を受忍しがたい程度に害するものといい得る場合に、当該行為について不法行為の成立を認めるのが相当である。」と判示した。 このように、本件のような歴史的事実については、当該歴史的事実に関する表現行為において摘示された事実がその重要な部分において「一見明白に虚偽」(地裁判決)ないし「全く虚偽」(高裁判決)であることを要するものである。 以 上 戻る | index
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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―6 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p188-192 目次 6 【引用者註】渡嘉敷島の日本軍と住民との関係 『ある神話の背景』の作者は、「赤松令嬢」の立場にひどく同情しているようだが、その場合、赤松に処刑された人たちの遺族の、戦後の苦しみにも思いを到すべきであろう。 『ある神話の背景』で、いわゆる「遊泳許可事件」に関して、知念元少尉は、「米軍がもし渡嘉敷島の海岸で海水浴をしようと思ったら、そんな協定を結ばなくても、全く自由にできましたな」と証言する。 188 それは自ら渡嘉敷島の日本軍が無力化していたこと、同島が米軍の完全支配下にあったことを問わず語りに語ったものである。かかる状態で、赤松のいう「島の死守」とは何を意味していたのだろうか。 『鉄の暴風』の中で、処刑される伊江島の女たちに穴を掘らせたと書いたら、作者の問いに対して赤松隊員は、「墓穴を掘る体力も自分たちにはなかった」とトンチンカンな返答をしている。 作者は作戦要務令の綱領を引用して、「軍隊の目的は戦力だけを保持することだ」と説明する。墓穴も掘れないような赤松隊員の「戦力」とは何だったのか。彼らは「戦力」どころか、自分たちの「生命」を保持するだけがやっとであったという実情ではなかったのか。 『ある神話の背景』や同じ作者の『切りとられた時間』のあちこちで、大岡昇平の『野火』にでてくるような軍隊の姿が描写されている。 知念元少尉の証言に、米軍に投降するときは、「三百人の生き残りが並びまして、連隊旗を持ち、ラッパを吹いたんです」というのがある。いかにもちゃんとした軍隊だったことを誇示する言葉である。 穴も掘れないような餓死寸前の兵隊がフラフラし整列して、軍隊の格好を保とうとして 189 いる光景が目に浮かぶ。 ラッパを吹く気力もまだあったんだゾと言っているように聞こえる。 餓死寸前の状態にあった渡嘉敷島の日本兵がどうして「島を死守し、全軍の戦局に有利になるような作戦任務を遂行していた」ことになるのか、非現実的な屁理屈としかとれない。 「日本軍の監視哨の間を、自由にくぐり抜けて出入りしていたと思われる一人の防召兵をとらえて、陣地のもようを敵に通報したという理由で処刑した」ということが『切りとられた時間』に書かれている。 右の事実の真否はわからないが、そう書いている作者が、『ある神話の背景』では、防召兵を「れっきとした正規兵」だったと規定する。正規兵なら監視哨の間を出入りしても処刑されるわけはないはずである。「陣地のもようを敵通報した」という証拠は敵に聞かなければわからない。立証が不可能に近い理由で処刑するなど防召兵に対する扱いがいかなるものであったかがわかる。 渡嘉敷島の集団自決についてよく、「共同体意識」といったものからの解釈がなされることがある。集団自決の理由を島自体の固有の問題とむすびつけようとする考え方である。伊江島の例をとると、米軍の猛攻をうけ、日米両軍の激闘があったのに、伊江島ではなぜ 190 集団自決がなかったのだろうか(※1)。特攻隊員のいた渡嘉敷島や座間味島で集団自決があったのはそれらの島々の住民の特殊な事情というより、「そこにいた日本軍と住民の特殊な関係」と「外部から遮断された閉鎖状況」に原因があったのではないだろうか。 【引用者註】※1 今は、伊江島でも大規模な集団自決があったことが知られている。 『切りとられた時間』の中で、渡嘉敷島のことを「誰もがみんな泳いで脱出することを考又たこの島」と表現している作者が、どうして『ある神話の背景』では「渡嘉敷島を死守するつもりだった」という赤松隊生存者の言葉を確信するように紹介してあるのだろうか。 『切りとられた時間』の中に、「どこの国の軍隊も、住民のお守りなどしないよ。国民のために闘う訳だけどね。その国民はもっと抽象的な存在でね、すぐそこらへんにいる住民ということじゃないんだ。どこの誰がそんな高尚な論理を考え出したかね」という言葉がある。渡嘉敷島の問題を考える場合、右の会話の一部は、最も核心をついたもののように私にはおもわれる。 それは、国家、国民、戦争、軍隊の関係を考えさせられるものをふくんでいる。「国家悪」の根源の問題もふくまれている。 作者は、この問題はよけて通っている。 『切りとられた時間』に、集団自決で家族を殺した一人の女が、戦後、殺人罪として島 191 の駐在に自首することを考えていた、というくだりがある。こんなことを書く作者が、どうして、『ある神話の背景』の中では、赤松の住民処刑と、その無反省を弁護しているのだろうか。 「私が渡嘉敷島の指揮官だったら、どんな卑怯なことをしたかわからない」という作者の確信のようなものは、その場になってみなければわからないことで、「戦後的発想」かも知れない。作者自身、戦時中の少女時代を回想して、あの当時、「生きて虜囚のはずかしめをうけず」という信念をもっていたとのべている。 この「戦後的発想による仮定的思考」の上に、『ある神話の背景』の論理が組み立てられている。宇久真成氏(当時、渡嘉敷国民学校長)の話によれば、大城徳安氏は教頭だったが、あからさまに赤松隊の行動を批判するので、要注意人物として、陣地付近で苛酷な労働を強要されていたという。大城氏は当時、五十近い人で、親子ほども年の違う赤松隊員たちからいじめられたことも、陣地を離れる原因の一つだったかも知れない。大城氏の処刑には多分に感情的要素がまじっていた、とおもわれる。 192 次へ
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被告準備書面(7)要旨2007年1月19日その2 http //www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/syomenn7.html 被告準備書面(7)要旨2007年1月19日その1 被告準備書面(7)要旨2007年1月19日その2 被告準備書面(7)要旨2007年1月19日その2第3 平成18年11月10日付原告準備書面(5)に対する反論1 同第1(『鉄の暴風』と座間味島の《梅澤命令神話》)について(1)原告らは、1945年(昭和20年)3月25日夜、 (2)すでに被告準備書面(5)において詳述したとおり、 2 同第2(座間味島の《梅澤命令説》に関する被告主張に対する反論)について(1)同2(県史の実質的修正について)について (2)同3(宮村幸延の『証言』(甲B8)について)について (3)同4(宮城初枝証言について)について (4)同5(座間味村公式見解、住民手記、『自叙伝』について)についてア 同(1)(宮村盛永『自叙伝』について)について イ 同(2)(住民手記について)について ウ 同(3)(座間味村公式見解について)について 3 同第3(「鉄の暴風」と渡嘉敷島の《赤松命令神話》)について(1)同2ないし7について (2)同8(「ある神話の背景」が語る赤松命令形成の背景)について (3)同10(上原正稔「沖縄戦ショウダウン」)について 4 同第4(渡嘉敷島の≪赤松命令説≫に関する被告主張に対する反論)について (1)同1(手榴弾配布について)についてア 原告は、 イ また原告は、日本軍は渡嘉敷での地上戦を予想しておらず、 ウ さらに原告は、手榴弾が軍の厳重な管理の下に置かれていなかったとも主張するようである。 エ 原告は、 (2) 同2(太田良博の『鉄の暴風』取材等について)について (3) 同3(富山証言の信用性について)について 第4 百人斬り競争事件上告審決定について 第3 平成18年11月10日付原告準備書面(5)に対する反論 1 同第1(『鉄の暴風』と座間味島の《梅澤命令神話》)について (1)原告らは、1945年(昭和20年)3月25日夜、 従来からの軍命の伝達方法に従い、防衛隊長である助役から指示された伝令役の防衛隊員が、 「忠魂碑前で玉砕するから集まるように」 との指示を座間味島の村民に伝え、村民はこれを軍の玉砕(自決)命令であると受け止めたことを認めるに至った。また、この指示は「軍の命令」ととれるかのような形で村内に伝えられたことも認めるに至った(以上、原告準備書面(5)5~7頁)。 ただし、原告らは、上記指示は助役ら座間味村幹部が行ったもので、「軍命令」「梅澤隊長命令」ではなかったと主張する。 原告らは、その根拠として、 「二十五日に、道すがら助役に会うと“これから軍に、自決用の武器をもらいに行くから君も来なさい”と誘われた。この時点で村人たちは、村幹部の命によって忠魂碑の前に集まっていたが、梅沢少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と、武器提供を断った」 との神戸新聞掲載の宮城初枝氏の談話及び同新聞に紹介された宮村幸延氏の話を引用している。しかし、前記のとおり、初枝氏の上記談話は、「母の遺したもの」などに掲載されている初枝氏の手記の記載内容に反するものであり、幸延氏の話も同氏への取材にもとづくものとはいえない。 (2)すでに被告準備書面(5)において詳述したとおり、 沖縄戦において日本軍は、「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍官民一体の総動員作戦を展開していたもので、座間味島や渡嘉敷島の日本軍は、米軍が上陸した場合には村民とともに玉砕する方針を採っており、秘密保持のため、村民に対しても米軍の捕虜となることを禁じ、米軍の捕虜となった場合は女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺されるなどと脅し、いざというときは玉砕(自決)するよう言い渡していたものである。 座間味島では、1942年(昭和17年)1月から太平洋戦争開始記念日である毎月8日の「大詔奉戴日」に、忠魂碑前に村民が集められ、「君が代」を歌い、開戦の詔勅を読み上げ、戦死者の英霊を讃える儀式を行ったが、海上挺進戦隊第一大隊(梅澤隊長)と海上挺進基地第一大隊(小沢義廣隊長)が駐留することになった1944年(昭和19年)9月10日以降は、村民は日本軍や村長・助役(防衛隊長兼兵事主任)らから戦時下の日本国民としての「あるべき心得」を教えられ、 「鬼畜である米兵に捕まると、女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される。その前に玉砕すべし」 と指示されていた(甲B5「母の遺したもの」97~98頁。海上挺進隊の基地化について同161頁以下)。また、上記駐留開始直後、小沢隊長は座間味島の浜辺に島の青年団を集合させ、米軍が上陸したら耳や鼻を切られるなどの虐待をされ、女は乱暴されるから自決するよう指示している(乙41)。 前記のとおり、座間味島では、1945年(昭和20年)3月25日の夜に、米軍の上陸を目前にして、米軍の艦砲射撃のなか、防衛隊長である助役の指示により、防衛隊員が伝令として、玉砕(自決)のため忠魂碑前に集合するよう村民に伝達して回り、その結果集団自決に至ったものであるが、軍は、軍官民共生共死の一体化の方針のもと、いざというときは玉砕するようあらかじめ村民に指示しており、軍の部隊である防衛隊の隊長であり兵事主任でもある助役が、自決命令が出たことを防衛隊員から村民に伝えさせ、自決のため集合させたことは明らかであり、この自決命令は軍の命令にほかならない。村民たちが軍の自決命令が出たと認識していたことは前記のとおりである。 また、村民に自決のために手榴弾が渡されているが、手榴弾は貴重な武器であり、軍(=隊長)の承認なしに村民に渡されることはないと考えられ、実際にも、手榴弾は防衛隊員その他の兵士から渡されている。 2 同第2(座間味島の《梅澤命令説》に関する被告主張に対する反論)について (1)同2(県史の実質的修正について)について 原告らは、紀要(甲B14)末尾6行部分は原告梅澤が記した文ではなく、大城将保氏が書いたものであると主張する。しかし、同部分は原告梅澤の手記の後半部分が主観的記述であったので、手記の掲載にあたり後半部分をカットし、その代わりに末尾6行に原告梅澤の結論を加筆し付加したものである(乙45)。(なお、甲B10の神戸新聞掲載の大城将保氏の談話が本人への取材によるものでなく、事実に反するものであることは前記のとおりである。) (2)同3(宮村幸延の『証言』(甲B8)について)について 『証言』が真実を記載したものでないことは、前記(第2,1(1))のとおりである。 (3)同4(宮城初枝証言について)について 原告らは、3月25日夜の原告梅澤と助役らとの会談について、宮城初枝氏の手記と原告梅澤の陳述書との食い違いは些末であると主張するが、重大な食い違いである。原告梅澤は陳述書で、 「決して自決するでない。共に頑張りましょう」 と述べたとしているが、初枝氏は手記において、原告梅澤は 「今晩は一応お帰りください。お帰りください」 とだけ述べたとしている(甲B5・39頁)。初枝氏は玉砕するという助役の言葉に驚いたというのであるから、梅澤隊長が「自決するでない」と言ったのであれば、当然このことを記憶し手記に記載しているはずである。また、初枝氏はこのときのことを心の重荷として記憶し続けていたというものであるのに対し、原告梅澤は1980年(昭和55年)12月に初枝氏から告げられるまで、このときのことを覚えていなかったというのであるから(甲B5・262頁)、初枝氏の手記の記載に照らし原告梅澤の陳述書の記載は到底信用することはできない。 (4)同5(座間味村公式見解、住民手記、『自叙伝』について)について ア 同(1)(宮村盛永『自叙伝』について)について 宮村盛永氏が梅澤隊長の自決命令があったとしていることは、昭和63年(1988年)11月18日付の座間味村村長の沖縄タイムスあて回答(乙21の1、正式な公文書)に、宮村盛永氏が部隊長命令があったと明言していると記載されていること、「自叙伝」(乙28)に 「今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着替えて集合しなさいとの事であった」(71頁) との記載があること(息子の盛秀の言葉として「玉砕せよとの命令があるから」と記載されていることから、命令とは盛秀の命令ではなく軍の命令であることが明らかである)、「自叙伝」が詳細を参照するよう指摘している「地方自治七周年記念誌」(乙29)に、 「夕刻に至って部隊長よりの命によって住民は男女を問わず若い者は全員軍の戦闘に参加して最後まで戦い、また老人子供は全員忠魂碑の前において玉砕する様にとの事であった」(451頁) と記載されていることから明らかである。 イ 同(2)(住民手記について)について 原告らは、玉砕命令があったとの住民の手記に命令の主体が記載されていないと指摘するが、軍が絶対権力を掌握していた座間味村において、「命令」は軍の命令以外にありえないものである。 また、原告らは、野田部隊長や、一軍曹、水谷少尉、一兵士などの住民への玉砕指示は梅澤隊長の自決命令があったことの根拠とはならないと主張するが、これらの事実は、慶良間諸島に駐留していた日本軍が、「軍官民共生共死の一体化」方針のもとに、米軍上陸時には玉砕するよう住民に指示していたことを示す証拠であり、軍の命令(梅澤隊長命令)が存在したことの根拠となるものである。 ウ 同(3)(座間味村公式見解について)について 原告らは、座間味村が集団自決を援護法の適用対象とするため部隊長命令を作出したので、部隊長命令を維持せざるをえないのだと主張するが、前記のとおり、集団自決が部隊長命令によるものであることは昭和20年(1945年)当時から村民の共通の認識であり、戦闘参加者処理要綱を決定する以前から集団自決はこれに該当するとされており、部隊長命令がなければ適用対象にできないと言われたから部隊長命令があったことにしたものでないことは明らかである。また、宮村幸延氏の厚生省への陳情は、上記処理要綱が決定された後に、適用年齢を14歳未満へ引き下げることについて行われたものである。したがって、原告らの主張は理由がない。 また、原告が指摘する本田靖春氏の「第一戦隊長の証言」(甲B26)記載の援護法申請に関する厚生省係官の発言等は、原告梅澤の手記をもとにしたものにすぎず、その内容は信用できない。 原告ら引用の神戸新聞記載の幸延氏の話も、幸延氏への取材によるものではなく、記者が友人である原告梅澤から聞いた幸延氏の話を記載したものにすぎない(前出)。 3 同第3(「鉄の暴風」と渡嘉敷島の《赤松命令神話》)について (1)同2ないし7について 原告は、「鉄の暴風」に記述された赤松隊長による自決命令は、根拠の薄弱な噂ないし風説に基づくものであるとし、援護法適用以前にそのような「噂や風説が成立した理由」として縷々主張し、その前提として、「沖縄県史第10巻」(乙9)における徳平秀雄郵便局長、金城ナヘの手記、及び「沖縄県警察史第2巻」(甲B16)における安里喜順の手記、1971年(昭和46年)「潮」11月号(甲B17)における星雅彦のエッセイに基づいて、渡嘉敷島における集団自決は、赤松隊長の命令によるものではなく、村の責任者の協議により決定され、古波蔵村長の主導で自決に至ったものだとして、集団自決が発生したのは、主として古波蔵村長の責任であるかのように主張している(原告準備書面(5)24頁~27頁)。 しかし、渡嘉敷島における集団自決の前に、村の有力者の協議があり、古波蔵村長による演説があったとしても、その点を捉えて、集団自決が村の有力者や古波蔵村長によって決定されたなどということには全くならない。 前記のとおり、米軍が上陸する直前の1945年(昭和20年)3月20日に、赤松隊長の命令によって集められた20数名の住民に対して、赤松隊の兵器軍曹から、手榴弾を2個ずつ配り、 「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」 と訓示して、あらかじめ隊長による自決命令がなされている。また、米軍が渡嘉敷島に上陸した同年3月27日には、赤松隊長から兵事主任に対し、 「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」 という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が住民に伝えられ、住民が同命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まると、翌3月28日、村の指導者を通じて住民に軍の自決命令が出たと伝えられ、軍の正規兵である防衛隊員が手榴弾を持ち込んで住民に配り、集団自決が行われたのである。したがって、村長ら有力者による協議および古波蔵村長による演説等があったとしても、それは軍(赤松隊長)による自決命令の伝達にすぎず、古波蔵村長らの主導によるものなどでは全くない。 (2)同8(「ある神話の背景」が語る赤松命令形成の背景)について 原告は、古波蔵村長が集団自決の音頭を取っていながら生き残った村長としての責任を軽減するために、存在しない赤松隊長による自決命令を生み出したと解するのが合理的であると主張する(原告準備書面(5)29頁~32頁)。 しかし、前記のように、古波蔵村長が住民に対して演説を行っていたとしても、それは軍(赤松隊長)による自決命令の伝達にすぎず、古波蔵村長が存在しない自決命令を生み出したなどという原告の主張は誤りである。 (3)同10(上原正稔「沖縄戦ショウダウン」)について 原告は、「沖縄戦ショウダウン」(甲B44)が琉球新報に掲載されていたことが、赤松命令説がもはや沖縄でも虚偽であることが広く認識されていることを意味していると主張する。 この「沖縄戦ショウダウン」には、 「赤松隊長は悪人ではない、それどころか立派な人だった」(金城武則)、 「村の人で赤松さんのことを悪くいうものはいないでしょう」(大城良平)、 「赤松嘉次さんは人間の鑑です」(安里喜順(※1))、 「尊敬している。嘘の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」(知念朝睦(※2)) という赤松隊長を賛美する住民らの発言が多数引用されている。 【引用者註】(※1)当時駐在所巡査として部隊から村長らへの命令伝達者。(※2)当時赤松隊長(大尉)の副官で少尉 しかし、赤松隊長は、渡嘉敷島において住民を虐殺している。米軍が投降勧告のために、伊江島から移送された住民6名を西山陣地に送ったところ、赤松隊長は、これを捕らえて処刑し(乙8・411頁、乙13・200~201頁)、投降を呼びかけに来た少年2人を処刑し(乙8・411頁)、国民学校の訓導(教頭)であり防衛隊員であった大城徳安氏を、家族を心配して軍の持ち場を離れたということだけで処刑したことが明らかになっている(乙8・411頁、乙9・693頁)。このように、赤松隊長は、罪のない住民を虐殺した人物であるにもかかわらず、「沖縄戦ショウダウン」に引用されている住民らは、赤松隊長を「立派な人」「悪くいう人はいない」「人間の鑑だ」などと一方的に評価している。 「沖縄戦ショウダウン」は、このように赤松隊長を一方的に評価している者の証言だけから執筆されたものであって信用性がなく、これにより、赤松命令説が沖縄でも虚偽であることが広く認識されているとはいえない。 4 同第4(渡嘉敷島の≪赤松命令説≫に関する被告主張に対する反論)について (1)同1(手榴弾配布について)について ア 原告は、 「3月20日、21日は、第一次戦闘配備計画作業完了により、戦隊の各隊は休養日に充て、戦隊長は村民の労を慰うために村長以下各指導者と会食している(甲B19・7頁)」 として、 「このような日に戦隊が17才未満の少年と村役場職員を集めて手榴弾を配り、自決命令を下すことはあり得ない」 などと主張する。 しかし、まず富山証言は、 「島がやられる2、3日前だったから、恐らく3月20日ごろだったか」(乙12) と証言しており、「3月20日」と断定しているわけではない。そして仮に3月20日、21日が戦隊の休養日だったとしても、「兵器軍曹と呼ばれる下士官」が、役場に来て、訓示するということは十分考えられるのであり(むしろ休養日であったからこそ行えたとも考えられる)、戦隊が自決命令を下すことはありえない、などは全くいえない。 イ また原告は、日本軍は渡嘉敷での地上戦を予想しておらず、 渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も、渡嘉敷島への米軍の上陸を全く予想していなかったので、米軍の上陸を予想しない赤松部隊が米軍の上陸した場合の戦闘に備えて17才未満の少年や役場職員に手榴弾を配布する必要がない、と主張するようである。 しかし、安仁屋意見書(乙11・155頁)にあるとおり、 「第32軍は、慶良間諸島について米軍とは全く違った戦略的判断をしていた。慶良間諸島は地形の険しい島々で飛行場に適する平地もないから、米軍が沖縄本島攻略後に二次的に上陸することはあっても、沖縄本島上陸に先立って攻撃を受けることはないと考えた」 だけであり、仮に日本軍の想定通り、米軍が沖縄本島に上陸し、その上陸船舶団に対し、背後から渡嘉敷の第3戦隊が海上特攻を行って、「玉砕」した場合、米軍が海上特攻の拠点地を攻撃するために渡嘉敷島に上陸することは当然考えられるのであり、その場合に備えて住民に 「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残り1発で自決せよ」 と訓示することは、何ら不自然なことではない。 原告が「富山証言は荒唐無稽なデッチアゲそのものである」などと主張する根拠は全くない。 ウ さらに原告は、手榴弾が軍の厳重な管理の下に置かれていなかったとも主張するようである。 しかし、原告が例として挙げる住民の証言は、 「義兄が、防衛隊だったけど、隊長の目をぬすんで手榴弾を2個持ってきた」 という、わずか1人のそれも盗んだとする者とは別の人間の証言にすぎず、また盗んだとする者が正規兵である防衛隊員(したがって手榴弾を盗まなくても正式に入手できる)であるという点からしても、手榴弾が軍の厳重な管理の下に置かれていなかったという根拠にはならない。 原告が主張の拠りどころとする陣中日誌(甲B19)の3月24日(米軍上陸3日前)の欄にも、 「戦隊長左の日命を下達す。陸軍中尉 田所秀彦、渡嘉敷警備隊長となり防衛隊並に連絡所勤務者を指揮し渡嘉敷村落の警備に任ずべし、敵機退去後舟艇の整備、器材修理、弾薬糧秣の集積、通信線の復旧、消火等全員夜を撤して行う。」 とあり、赤松隊が弾薬を厳重な管理の下に置いていたことがわかる。 また「赤松隊長は村民に手榴弾が渡ることを予想していなかった」などとも主張するが、渡嘉敷島において、軍を統率する最高責任者は赤松隊長であり、このような主張は言い逃れにすぎない。 エ 原告は、 「金城重明の話は、最初は、①自決命令にふれなかったが、次には、②自決命令があったことを明らかにし、その後、③村の指導者を通じて軍から命令が出たと時間が経過するにつれて変遷する」と主張する。 しかし、金城氏が「最初は、①自決命令にふれなかった」とする根拠というのは、曽野綾子氏が金城氏に取材した際に「(自決命令については)その当時は伺いませんでした」と証言していることだけであり、真実曽野氏が取材の際に金城氏から自決命令のことを聞かなかったとしても、それだけで話が「変遷」したということには全くならないうえ、金城氏は曽野氏に当初から自決命令のことを述べており(甲B18・155頁)、金城証言が変遷しているなどということは全くない。 (2) 同2(太田良博の『鉄の暴風』取材等について)について 原告は、太田良博氏と曽野綾子氏の沖縄タイムス紙上の論争を引用して、太田良博氏の「鉄の暴風」における赤松隊長の自決命令説は信用性がない、と主張する。 しかし、太田良博氏の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)、「沖縄戦に神話はない-『ある神話の背景』反論」(甲B40)に記載されているとおり、「鉄の暴風」は、沖縄タイムス社が体験者を集め、その人たちの話を記録して文章化したもので、渡嘉敷島に関する記録も、沖縄タイムス社が直接体験者を集めて記録したものである(乙23・223頁)。証言者の中には、渡嘉敷村長だった古波蔵惟好氏(乙23・224頁)や、国民学校の校長であった宇久真成氏(乙23・226頁~227頁)がおり、「鉄の暴風」は、伝聞に基づくものではなく、集団自決を直接体験した人々から取材し、執筆したものである。 そして太田良博氏が 「戦後二十年もたって曽野氏が赤松大尉やその隊員から聞いた話よりも、戦後間もなく戦争体験者から聞いた話によって書かれた『鉄の暴風』の記録がより確かであると信ずる」 とする(乙23・225頁)のももっともである。 そして太田良博氏が 「赤松大尉の命令、または暗黙の許可がなければ、手りゅう弾は住民の手に渡らなかったと考えるのが妥当である」(乙23・231頁、甲B40・4月13日分) と指摘したのに対して、曽野氏が反論できなかったことも事実である。 以上のとおり、「鉄の暴風」の記述に信用性がないとはいえない。 (3) 同3(富山証言の信用性について)について 原告の富山証言に信用性がないという主張に理由がないことはすでに述べたとおりである。 原告は 「赤松隊長の自決命令説を維持するために登場したのが、富山証言であり、富山氏は3月20日の手榴弾配布と自決命令説を主張して、既に露見した自決命令の虚偽の隠蔽をはかったのである」などと主張する。 しかし富山氏が虚偽の事実を言う必要など全くない。原告の主張はその一点において失当というほかない。 繰り返しになるが、富山氏が 「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、改めて証言しておこうと思った」(乙12) と、証言するとおりである。 第4 百人斬り競争事件上告審決定について 死者への敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立要件について、摘示された事実が全くの虚偽であることを要するとした東京高裁平成18年5月24日判決(乙27)に対する上告審において、最高裁判所は、平成18年12月22日、上告棄却決定及び上告不受理決定を行い(乙46)、上記東京高裁判決は確定した。 以上 戻る | index
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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―3 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p175-179 目次 3 【引用者註】天皇の旗の下、敗残兵が強いた住民の死 「赤松氏には反省がないという言い方もあるが、軍人として過ちはおかしてないという赤松氏の発言にも妥当性がある」と、作者はいう。しかし、問題なのは、「軍服をぬいだ現在の彼」が二十数年をへて、なお「軍人としてまちがっていなかった」としかいえない貧弱な精神内容である。 日本の社会では、いま、どんな殺人魔でも死刑執行できない状態である。大久保清のような男でも死刑の判決をうけただけである。かかる社会事情の中で、戦争で死んだ行った 175 人たちを考えるとまことに気の毒である。妻に会いに行ったとか、降伏勧告をしたというだけで直ちに処刑された善良な人たちを考えるとき、悪い時代に生まれ合わせた人たちだったという気持ちぐらいは、処刑者として持てないだろうか。 ただ自己弁護する赤松――罰なくして罪を悟れない人間の弱さを痛感する。 一方、「反省を強いることのできるのは神だけだ」という作者と、他方では、陸軍刑法など引用して赤松をかばおうとする作者に矛盾を感ずる。 「沖縄のあらゆる問題を取り上げる場合の一つの根源的な不幸にでくわす筈である、それは、常に沖縄は正しく、本土は悪く、本土を少しでもよく言うものは、すなわち沖縄を裏切ったのだというまことに単純な理論である」と作者はいう。ここで作者が、赤松の問題を、本土対沖縄の関係でとらえている片鱗をのぞかせている(この点については、詳説をさける)。 グアム島で発見された元日本兵横井庄一氏を敗残兵と規定するのに誰も異論はないであろう。だが、赤松隊員と横井庄一氏とどうちがうのだろうか。ちがうところは、赤松隊員は、終戦の声をきくやいなや降伏したが、横井氏は二十八年間も頑張ったということだけである。沖縄戦がおわり、慶良間の一孤島で、米軍の目を避けてひそみ、無力化していた兵隊たちは、客観的にみれば敗残兵である。 176 米軍は、三月二十九日(昭和二十年)に、渡嘉敷島確保宣言をなし、同三十一日には慶良間列島全域の占領宣言をおこなっている。 これは作戦上、重大な意味をもつ。米軍が沖縄本島に上陸したのは四月一日で、本島の占領宣言を行ったのは、軍司令官が摩文仁で自決し、事実上、第三十二軍が潰滅した六月二十二日である。その後の作戦を米軍では、「敗残兵掃討作戦」としている。自国軍隊が主観的に自らを敗残兵とすることはまれで、敗残兵を規定するのは敵国軍隊による客観的視点においてである。 米軍の沖縄本島上陸前に米軍は慶良間占領を宣言しているから、慶良間列島は、沖縄本島戦開戦前に、すでに沖縄本島における戦争終結の状態と同様の状態になっていたわけで、その状態が終戦まで続いたわけである。この事実は弁解の余地がないとおもわれる。『ある神話の背景』の中の知念少尉の証言に、「連隊旗をもって」云々というのがある。チャンとした軍隊だったことを誇示する言葉である。連隊旗は「軍旗」の俗名である。歩兵と騎兵の連隊にしかない軍旗、ふつう師団以上の大部隊の重要作戦とともに戦地におもむく軍旗が、大隊の形であっても兵力から言えば中隊ていどの、しかも船舶隊配下の小部隊にあったのだろうか。また、先任士官梅沢少佐の第一戦隊ではなく、序列最下位の赤松戦隊が軍旗をもっていたというのもうなづけない。 177 日本の軍旗は「明治天皇の分身」ともいわれ、「天皇の象徴」ともいわれるもので、天皇から勅語とともに直接、親授されるものである。渡嘉敷島に軍旗があったということになれば、「天皇の象徴」の下で、住民が虐殺されたことになり、それは実に象徴的な事件といえる。 また軍旗を奉持する部隊が、本来の任務たる特攻出撃を中止し、終戦の声をきくと待っていましたとばかり下山投降する。しかもその際の陣中日誌には、軍旗の処置については何もふれていない。こんな軍隊があるだろうか。括目して疑わざるをえない。 ただし、(赤松隊員証言の信憑性と関連して)軍旗のことは、『ある神話の背景』の中では知念少尉以外、誰もふれていない。 なにかの旗のかん違いか、デタラメを言ったのだろう。 終戦前に捕虜となったのは投降だが、われわれは終戦の詔勅によって武器を捨てたのだから投降ではないと、赤松隊員は『ある神話の背景』の中で、妙な理屈をこねている。今だからそんなことが言えるが、終戦直後、沖縄の屋嘉捕虜収容所やハワイのPW.キャンプあたりで言ったとしたら、沖縄本島の戦闘で、激戦のすえ、九死に一生を得た他の多くの兵隊たちから、それこそ袋だたきにされたにちがいない。 作者は不用意に、右の「妙な理屈」を受け売りしている(詳説をさける)。 178 島の駐在巡査だった安里喜順の証言は、赤松隊と同じ立場に立つ者の証言として聞かねばなるまい。「非戦闘員は、生きられるだけ、生きてくれ」と赤松隊長は言った、と安里は作者に語っているが、そんなら集団自決の現場にいた安里は、なぜ、住民の自決をとめなかったか。それを傍観し、みとどけてから、赤松隊長に報告するといった態度はどう説明するのか。 『鉄の暴風』で私として訂正しておきたい点がある。沖縄出身の知念少尉が上官と住民の板ばさみで悩んだように書いたが、事実に反する。知念少尉は伊江島の女性を殺害している。彼をして同郷人を斬らしめるほどの異常な空気が赤松隊にはあったのがわかる。 179 次へ
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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―5 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p184-188 目次 5 【引用者註】欺瞞的な「抗戦」と「降伏」の苦しい弁護 防衛庁防衛研修所戦史室による『沖縄方面陸軍作戦』中の「海上挺進第三戦隊(渡嘉敷島の)戦闘」に、左の記述がある。 「八月十六日米軍から終戦の放送があったので、戦隊長は十七日木村明中尉以下四名を米軍に派遣して確認させた。 翌十八日戦隊長は米軍指揮官と会見し、終戦処理について協議し、まず停戦を協定し、八月二十四日、一〇〇〇部隊全員武装解除を受けた」と。 右は赤松元戦隊長提供の資料に基づくものである。 赤松戦隊長は、部下本隊(八月二十四日降伏)より約一週間早く、米軍の保護下にはいっていることになる。終戦の翌日、米軍の放送を聞き、さらにその翌日、直ちに敵である米軍の下に部下を派遣して終戦を「確認」させたというが、早手回しのこの行為からみて、すでに戦意を失い、戦争の終わる機会をうかがっていたとしか思えない。 赤松隊が、日本軍側の情報で終戦を「確認」したのは八月二十一日(『ある神話の背景』に記載)だから、それを待たずに赤松は降伏しているが、抗戦中の軍隊の指揮官のとる態度としてはうなずけない。あの当時、敵軍の終戦情報だけで、あつさり降伏にふみ切るような感情や思考の百八十度の転回が簡単にできたのは「見事」といわざるをえない。天皇 184 の詔勅も、赤松隊が、いつ、どんな方法で確認したのか不明だ。前述の戦闘記録の中で、「停戦を協定し……」うんぬんと白々しいことを書いてあるが、「降伏手続きに関する取り決め」をやったあと、敗残兵の苦境から脱したということである。「停戦協定」とは「事後戦力保持者」のとりうる手段である。 当時、渡嘉敷国民学校長だった宇久真成氏から聞いた話では、五月中旬ごろ、山中で、のんびりと、銃をかついで、一人で歩いている十八歳位の米兵をみたそうである。そのころは、米軍の少年兵が山中を一人歩きのできるほど、渡嘉敷島は、米軍にとって危険な場所ではなかったわけである。 『ある神話の背景』の中で、赤松隊員は、「自分たちが渡嘉敷島で持久戦をやれば、それだけ敵をひきつけ、軍全体の作戦に寄与できた」などといっているが、渡嘉敷島にひそむ日本兵など、米軍は、かゆみとおぼえないほど無視していた。米軍の記録『日米最後の戦闘』には、「慶良間確保は日本軍の損失以上に米軍にとって大きな収穫であった。いまやアメリカの手中に帰したこの投錨地は、周囲を島で防備された小型海軍基地となった。ここから海軍機は飛び、艦船は燃料弾薬を補給し、傷ついた船は修繕された」と記している。 当時、米軍の一個分隊は、日本軍一個中隊以上の火力を持っていた。『沖縄方面陸軍作戦』で、赤松隊が米軍の二個大隊を阻止したとか、一個中隊を撃退したとか、いろいろ書 185 いてあるがマユツバである(戦果や損害にっいては明記してない)。 米軍の記録は、座問味島や阿嘉島では、日本軍の手ごわい反撃にあったと書いてあるが、渡嘉敷島の戦闘についてはとくにふれていない。渡嘉敷島住民も、戦闘らしい戦闘はなかったといっている。 『沖縄方面陸軍作戦』の記録で座間味、阿嘉、慶良問各島の損害を比較すると左の通りである。 (カッコ内は戦死) 【座間味】 戦隊一〇四名(六九名) 基地隊二五〇名(約一〇〇名) 船舶工員約五〇名(三二名) 水上勤務約四〇名(一五名) 【阿嘉島】 戦隊一〇四名(二二名) 基地隊二三四名(六五名) 水上勤務二一名(一〇名) 186 【渡嘉敷】 戦隊一〇四名(二一名) 基地隊二一六名(三八名) 水上勤務一三名(不詳) つまり、渡嘉敷の赤松戦隊の犠牲が最もすくなかった。逆に住民の犠牲は渡嘉敷島がいちばん多かったのである。 赤松隊は、防召兵や住民に対して実に厳格な態度でのぞんでいた。その点、彼らの軍人としての行動も厳格に批判されてよいはずである。米軍の記録によれば、米軍が渡嘉敷島に最初に上陸した、三月二十七日と同二十八日は野砲で五百回以上も砲撃し、ほかに艦砲射撃や空襲、陸上砲撃で山形改まるまで弾丸をうちこんでいる。 日本軍の抵抗はほとんど無視できるほどのもので、米軍は日本軍の応戦より、島の地形に悩まされたといっている。あれだけの砲撃で、「陣地らしい陣地もなかった」と赤松隊員が証言している小島で、隊員の犠牲は意外にすくない。その後、日本軍は抵抗らしい抵抗をやった様子がない。そのはずで、もし頑強に抵抗していたら本格攻撃をうけて全滅しただろう(上陸三日目の三月二十九日、米軍は全島を偵察している)。 六月中旬、沖縄戦が終わって以後、慶良間各島の日本軍に米軍はたえず降伏勧告をして 187 いる。米軍の記録によると、日本軍捕虜や二世などを通じて渡嘉敷島の指揮官と交渉(この点、伊江島住民処刑の理由がなりたたない)したら、降伏は拒んだが、米軍が日本軍陣地に接近しなければ、こちらから攻撃を加えることはしない、米人が渡嘉敷ビーチで水泳しても何もしないと告げたと書かれている。これこそ重大な通敵行為である。『ある神話の背景』で作者はこれを「遊泳許可事件」として、赤松隊長のために、つじつまのあわない苦しい弁護をしており、その中で作者は「遊泳許可事件」の汚名を阿嘉島の指揮官に転嫁しようとさえしている。米軍記録にははっきり「渡嘉敷島の指揮官」「トカシキ・ビーチ」としてある。 赤松隊員がそれを否定しても、米軍の記録を信用するほかない。 188 次へ