約 3,227,861 件
https://w.atwiki.jp/nonwater/pages/84.html
新入生にして、生徒会の一員となった乙女たち。 二条乃梨子 「きっと私は瞳子が好きなんだ」 現在の「白薔薇のつぼみ」。志摩子の妹。実の妹が実家にいる。 仏像が大好きで、それを見に行っていたが為に志望校に落ち、カトリック系のリリアンに入学した。本人曰く「逆隠れキリシタン」。 現在は親戚である菫子さん(年齢不詳)の家に居候中。「リコ」と呼ばれている。 志摩子と桜の下で出会い、仏像を見に行った寺で再会、やがてロザリオを渡される。 瞳子とはなんだかんだで仲良し。最近はやけに瞳子の世話を焼いている。 おかっぱ頭。聖に耳の穴に指を突っ込まれたりしている。
https://w.atwiki.jp/sakura-color/pages/90.html
ふと気がつくとその小さい背中を追っていた。 俺の意識とは関係なく、だ。 それは部活中にだけではなく、 1年が移動しているとき、 全校生徒の前で話しをするとき、 全ての行動の中にあの生意気な目を探している自分がいた。 部活時は一番大変だ。 ずっと見ているのだから… 確かに彼のテニスセンスは優秀だ。 しかし其れだけで見ているのだとは自分のなかで思えなかった。 なにがこんなに引っかかるのか解らなかった。 水曜日の雨の日、もちろん部活は中止。 廊下で筋トレなどやっても良いのだが、いつも優先してもらっている為に どうどうとは使えない。 なので休みを入れてみたのだ。 家に帰っても勉強は早く終わってしまうだろう。 そう推測し、本を借りるため図書室に寄った。 …寄ったのが間違いだった。そこには越前が居たからだ。 仕事もせずにカウンターに突っ伏して寝ている。 幸い他の者は居ないようだ。 しかし起こさないわけにもいかないので、 「越前、起きろ」 言いながら揺さぶり起こす。 「ん…ぶ、ちょー?」 可愛い。不覚にもそう思ってしまった。 まだ眠たいのか唸っている。 「寝ていないで仕事をしろ。」 そんな思考を振り切るため思ってもいないこと言ってみる。 「…でも部長、起こしてくれ…たじゃないッスか」 「それは仕事をしていないからで、「ねぇ、部長?」」 俺が言葉を紡いでいるのにそれを越前は遮り、 「部長に好きな人はいますか?」 いきなり聞いてきた。 そのとき、何故だか解らないがそのとき、 俺は越前が好きなのだとはじめて知った。 【恋をしたと、はじめて知った。】 (好きな人か?…あぁ…いるぞ。) 手塚→(←)越前 2009.11.11.志花久遠. novelへ戻る
https://w.atwiki.jp/baketan/pages/23.html
気になる場所リスト 気になる場所のリストです。 訪問するかどうかの検討材料で。 札幌近辺 スッポト 場所 曰くなど 平和湖 西区平和 平和荘という廃墟 北広島カーブミラー? 北広島 地図 探索済 藻南公園 札幌市南区 花魁淵、警官自殺トイレ 観音聖地 当別町 まちB過去ログPart6 探索済 オタモイ海岸? 小樽 心霊写真ビデオでは龍宮城跡がやばいらしい。 探索済 廃喫茶 中央区 某サイト 消滅 廃寮 中央区 某サイト 場所特定済み 廃墟 銭函 某サイト 厚別川さん情報 場所特定済み探索済 篠津山囚人墓地 月形町 過去ログ 秀○荘 白石区 過去ログ。レストラン時代に2Fの女子トイレで社内いじめにあった女性が首を吊ったとか 月寒送信所 豊平区 只の廃墟!? 無理心中? 西区発寒6-7 イノウエマサコ 空知 スッポト 場所 曰くなど 廃神社1 ? 厚別川さん情報 探索済 幌内神社? 三笠 三笠市内から鉄道博物館に向かい、そのまま直進。砂利道少し行くと変電所跡あり、その上(階段で登る) 探索済 プリンス平安 赤平 探索済 炭鉱跡 美唄 我路とか。心霊写真ビデオでは三菱美唄炭鉱跡公園が収録にアジア霊が居るらしい。 探索済 月形炭鉱? 月形町 曰く不明 地図?? 上川 スッポト 場所 曰くなど 中国人墓地 東川 工事さん情報。階段下が激ヤバ 探索済しかし違うかも 神居古潭 旭川 飛込みとか。相当前にイヨマンテ儀式を目撃(・(ェ)・) 探索済 山本家 旭山の奥 複数情報あり。池? 探索済 留萌 スッポト 場所 曰くなど 築別炭鉱跡 羽幌 工事さんが知っている? 三毛別羆事件跡地 苫前町古丹別三毛別(現在三渓)、通称六線沢の御料地 (・(ェ)・) 第一トンネル 留萌市春日町 道道1048号行き止まりの先 ttp //kihade-kakueki.sakura.ne.jp/tesiotankoutetudou.html 強制労働とか自殺とか 後志 スッポト 場所 曰くなど 豊浜トンネル 積丹 心霊写真ビデオで収録。不謹慎では? 胆振 スッポト 場所 曰くなど 天華園 登別 探索済 樽前ジョイランド 苫小牧 探索済 苫小牧焼き場跡 苫小牧 探索済 渡島 スッポト 場所 曰くなど 某家 函館? 斧で追い回されるとか 某旅館 函館湯の川 階段に佇む霊が・・・ ばけトン 函館空港滑走路下 クラクションを3回鳴らすと・・ ばけトン 函館西桔梗JR下 首吊りとかサンルーフでの首ちょんぱとか 碧血碑 函館 新撰組 赤い墓 函館 横津岳 函館 飛行機墜落とか 旧函館検疫所 函館市船見町25番18号 不明 びびり神社 函館空港近く石倉稲荷神社の偉そうな方 鳥居の上に自分の首持った男の噂 隠れキリシタン村(墓地) 北斗市陣屋史跡右手から裏手の山道 函館地域最恐とのうわさだが…? 隠れキリシタン殉教碑 福島町大千軒岳 ttp //hokkaido.yomiuri.co.jp/tanken/tanken_t030510.htm 関東! スッポト 場所 曰くなど 首塚 大手町 将門公 八王子城址 八王子 戦跡 千駄ヶ谷トンネル 小坪トンネル 逗子 千駄ヶ谷トンネル 旧吹上トンネル 青梅 http //www.m-net.ne.jp/~hiro_/road/to53_01.html ょぅι゛ょ 小峰トンネル 八王子 宮崎 青木ヶ原樹海 。。。 佐白山 茨城県笠間市 ガリバー王国 上九一色 呪いのビデオ 唐木田山中の廃病院 更新するのマンドクサとか、コメントどうぞ -- gol5 (2006-10-18 09 51 54) 当別の観音聖地はこないだ行きました 怖かった -- タカ (2007-01-05 22 52 56) タカさんいらっしゃいませ~。観音聖地には凸初めの初詣企画で再訪しました。掲示板へもぜひどうぞ! -- gol5 (2007-01-21 05 49 46) 関東はトンネルばっかり -- gol5 (2007-03-11 13 01 48) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/dista/pages/1532.html
スーパーモリシタ米本店<勝田台駅ver> 〒263-0043 千葉県八千代市米本2208 TEL:047-489-7175 最寄駅:京成線勝田台駅 行き方:南口の2番バス乗り場から東洋バス「米本団地」に乗車し、「米本団地入口」で下車。 下車後、バス停の先にある歩道橋を渡り、左側の階段を降りる。そのまま住宅街側の道を直進し、佐藤病院がある角を右折。直進すると正面に店舗があります。 バス乗車時間16分、下車と徒歩6分、バス乗車時間260円。 ◇バス時刻表◇13.11.14確認 【平日】 8時:08 15 23 32 41 53 9時:09 25 40 55 10時:10 25 40 55 【土日祝】 8時:09 25 40 53 9時:10 20 30 40 55 10時:05 18 33 45 55
https://w.atwiki.jp/kassanwiki/pages/25.html
- 目次 同類なのに「俺はこいつらと違う!」と勘違いしてるバカの図 新スレっ!?ここかっ!! 足並み揃える特訓中 / かっさんの「か」はカトウの「か」!!! 無職スタンプ 館山のドンクリーク すこすこピースセット1 すこすこピースセット2 すこすこピースセット3 すこすこピースセット4 かっさんすこすこ健ちゃんセット 健ちゃんえろえろセット 同類なのに「俺はこいつらと違う!」と勘違いしてるバカの図 新スレっ!?ここかっ!! 足並み揃える特訓中 / かっさんの「か」はカトウの「か」!!! 無職スタンプ 館山のドンクリーク すこすこピースセット1 すこすこピースセット2 すこすこピースセット3 すこすこピースセット4 かっさんすこすこ健ちゃんセット 健ちゃんえろえろセット タグ かっさん 高田健志
https://w.atwiki.jp/trinity_kristo/pages/86.html
『シラ書』は、ユダヤ教とプロテスタント諸派では外典として扱われ、カトリック教会と正教会では旧約聖書に含めている書物のうちひとつ。『集会の書』もしくは『ベン・シラの知恵』とも呼ばれる。タイトルは著者のベン・シラ(シラの息子の意)に由来。序言には、著者の名前はイエスス(ヨシュア)で、もともとヘブライ語で書かれていたものを著者の孫が(ギリシャ語に)翻訳したことが記されている。 このオリジナルのヘブライ語版は長きにわたって失われたものと思われていたが、19世紀にカイロでユダヤ教ラビ・ソロモン・シェクターによって発見され、20世紀に入ってマサダ城砦の遺跡でも発見されている。死海文書でも一部がヘブライ語で書かれているものが見つかっている。 ヘブライ語版との比較 『シラ書』は、キリスト教会において「正典」の一部として、すなわち「第二正典」として認められてきたが、伝承上「正典」とされたテキストは「七十人訳聖書」(セプトゥアギンタ;LXX)に含まれるギリシア語本文であった。したがって19世紀以降、この『シラ書』のヘブライ語原典が発見された際にも、その原典テキストが正典とされるには至らなかった。 その発見の経緯とは、1896年にカイロのゲニザ(廃本貯蔵室)において、11~12世紀に筆写された5つの断片部分が見つかり、その後クムランで1946年に、またマサダでは1964年にそれぞれヘブライ語テキストの一部が発見されるというものであった。だがこれらのヘブライ語テキストを合わせても、ギリシア語テキストの3分の2ほどの長さにしかならない。 一方、ラテン教父ヒエロニュムス(340- 420)によるラテン語ウルガータ訳聖書では、すでに2世紀に完成していたとされる古ラテン語訳がそのまま採用された。この古ラテン語訳聖書は、ギリシア語訳から重訳されたものと推定されるが、現行の七十人訳聖書には見られないテキストを多数本文に含んでいるため、おそらく初期キリスト教会における注記が本文に紛れ込んでいると考えられる。それと同時に、初期キリスト教会において、この書物が倫理的勧告の書として好まれた痕跡を知ることができ、またこの書物が『集会の書』という別名を有する経緯も推察される。 なお、シラ書には〔〕書きで省かれた箇所がかなり多岐にわたって見られるが、これはLXXb(ヴァチカン写本)にのみ見られる記述であるため、省かれたものである。 構成 序言(0章) 知恵の賛歌(1章) 神をおそれること(2章) 教訓1(3-23章) 知恵の賛歌(24章) 教訓2(25 1-42 14) 神の賛美(42 15-43 33) 先祖への賛歌(44 1-50 21) シラの言葉、祈り(50 22-51 30) file ///C /Users/Masato/Downloads/2.pdf
https://w.atwiki.jp/trinity_kristo/pages/705.html
キリスト教の用語で、神論(Patriology)は父なる神に対する研究である。Patriologyという用語は、ギリシャ語の πατέρας (pateras, 父) と、λογος (logos, 論) からなる合成語である。キリスト論 (Christology) および聖霊論 (Pneumatology) と密接な関係にある。 旧約聖書における「父なる神」の呼称 旧約聖書では、ヤハウェ (יהוה [Yahweh], Yahweh/Jehovah)、神<複数形> (אלהים [Elohim], Gods/powers)、主 (אדני [Adonai], Lord)、神<単数形> (אל [El], God/power) などの呼称が用いられる。「ヤハウェ」は約6800回、「エロヒム」は約2600回、「主(アドナイ)」は439回、「エル」は238回現れる。 旧約聖書にもわずかながら、神を「父」として表す部分がある。 イザヤ63 16 あなたはわたしたちの父です。 アブラハムがわたしたちを見知らず イスラエルがわたしたちを認めなくても 主よ、あなたはわたしたちの父です。 「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。 イザヤ64 7 しかし、主よ、あなたは我らの父。 わたしたちは粘土、あなたは陶工 わたしたちは皆、あなたの御手の業。 これは、神を「父性ある保護者」として見ることによる比喩である。 新約聖書における「父なる神」の呼称 新約聖書では、神 (θεός [Theos], God)、主 (Κύριος [Kyrios], Lord)、父 (πατέρας [Pateras], Father) の三つの呼称が父なる神を意味する。これにくわえ、アラム語の 「アッバ(Ἀββᾶ [Abba])」(אבא, 父) も用いられている。 キリスト教では、単に「父性ある保護者」としてではなく、キリストという「ひとり子」を遣わせた「父」という意味合いが強くなる。 使徒信条には次のように書かれている。 父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。 ヤハウェの起源 イスラエル人の多神教信仰(エル信仰) イスラエル人の宗教は元々多神教だったと考えられている。以下の部分では神が自らを「我々」と名乗ったり、「神々」や「天の万軍」が登場する。 創世記1 26-27 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 創世記2 22 主なる(ヤーヴェ)神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」 詩編82 1 神は神聖な会議の中に立ち 神々の間で裁きをおこなわれる。 列王記上22 19 だが、ミカは続けた。「主の言葉をよく聞きなさい。わたしは主(ヤーヴェ)が御座に座し、天の万軍がその左右に立っているのを見ました。……」 高等批評では、ユダヤ教成立以前の信仰をヤハウェ信仰、あるいはエロヒム信仰(エル信仰)とよぶが、両者は同一の信仰ではなく、四資料説において、エルやエロヒムを神の呼称とする「E資料」、ヤハウェを神の名とする「J資料」が想定されている。両者はかなり性質の異なる別系統の神々だったが、唯一神教化する過程で混同され、同一神とみなされるようになった。 エロヒム信仰・エル信仰はヤハウェに比べてより古い信仰であり、もともとはセム系の諸民族にみられる多神教における最高神で、抽象的・観念的な天の神であった。イスラエルにおいてはサマリアやガリラヤなど北部で信仰された。これは、エジプトの衰退、カナン都市国家の抗争、海の民の侵入といった混乱から自らを守るために生み出された信仰であり、エル信仰によって繋がった民族が「イスラエル」と名乗ったと考えられる。 出エジプトにおける拝一神教化(ヤハウェ信仰) これに対し、ヤハウェ信仰の起源はエル信仰の起源に比べるとやや時代が下る。 もともとはヘブロンを中心としたイスラエル南部の信仰であった。この神はエジプトに奴隷的身分として存在していた周辺民族が自由を求めて脱出した時にその中心的役割を果たした部族の神であった。それはイスラエルよりは南方にある遊牧民ミディアンの「嵐の神」の可能性が高い。 この神は逃れてきた少数の集団と共にイスラエルの地に溶け込んで、この地方の主神エル(イスラエルのエル)と習合してヤハウェとなった。 ヤハウェは、抽象的なエロヒムと異なり、具体的な人格神で、慈愛だけでなく怒りや妬みも表す感情的な神である。怒りや妬みなど人間的感情がある。ヤハウェの祭儀は祭司階級であるレビ族に担われた。 ヤハウェは出エジプト記では最高神として扱われている。ここでは、他の神々存在は認めているものの、崇拝するのはヤハウェただ一人であることが定められている。 出エジプト18 11-12 (エトロは)言った。「主をたたえよ/主はあなたたちをエジプト人の手から/ファラオの手から救い出された。主はエジプト人のもとから民を救い出された。今、わたしは知った/彼らがイスラエルに向かって/高慢にふるまったときにも/主はすべての神々にまさって偉大であったことを。」 これは、元々ヤハウェ信仰が、バアル崇拝の拡大に対向していたことが関係している。山地に居住していたイスラエルの人々が海岸部の都市に進出して戦いに明け暮れる間に、戦闘に必要な犠牲と団結の必要性からヤハウェがますます信仰されるようになったと考えられる。 ユダヤ王国の末期、ヨシヤ王の宗教改革の際になると、他の神を信じることを厳しく禁じたが、それでもなおイスラエル人の信仰は拝一神教であり、他の神々が想定されていた。 申命記5 7 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 バビロン捕囚後の唯一神教化 ヤハウェは民族の守り神であって、他民族にはそれぞれの神がある。少なくともイスラエルの民族はヤハウェを崇めなくてはならない、というのが拝一神教である。これが次第に「神はヤハウェしかない」という唯一神教に変わっていくのである。 イザヤ書44 6 イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。 わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。 バビロン捕囚という民族的災難を経験し、ヤハウェへの信仰が一時期薄れたとき、「ユダヤ人に怒ったヤハウェがバビロニアを遣わして罰を与えた」と解釈した。これにより、ヤハウェはユダヤ人の世界に住む神ではなく、ときには異民族を遣わして罰を与える世界的な神へと変貌した。信仰を取り戻したユダヤ人はやがてバビロンから開放されるが、そこで出エジプトの伝説が思い起こされ、それを追体験する。拝一神教時代のモーセの言葉が再解釈され、排他的一神教的な意味を帯び、深くユダヤ人に共有されるようになった。 第2イザヤではこのほかに偶像崇拝についての詳細な記述とその否定が強調されている。これは捕囚の民もバビロニアの偶像崇拝に巻き込まれていたからである。絶望からの救いと偶像崇拝の禁止、という2つの目的の為に、ヤハウェの唯一神性が作られたのである。 ※ただし、唯一神教化した時代をより古く見積もる説では、出エジプトの頃のヘブライ人は古代エジプトのアテン神を信仰しており、そのためアテン信仰が廃された後に弾圧され、エジプトを脱出したのではないかとする説もある。 https //en.wikipedia.org/wiki/Patriology http //www.bibletopics.com/biblestudy/154.htm http //blog.daruyanagi.jp/entry/2013/09/07/045632 http //www.asahi-net.or.jp/~aw7k-mk/books/yamaga.htm
https://w.atwiki.jp/trinity_kristo/pages/677.html
宗教的排他主義 キリスト教カトリックでは、ローマ帝国の国教となって後長らく『教会の外に救いなし』というドグマが掲げられており、キリスト教カトリック以外のすべての宗教はキリスト教とは異質で無価値なものであるという信念が支配していた。カトリックから分離したプロテスタントは『キリスト教の外に救いなし』とこの文言を修正したが、やはりキリスト教以外の宗教に価値を認めないという点では同じであった。しかし非キリスト教圏に赴いた人々の中には、一定程度包括主義的な見方を示す人々も居た。 旧約聖書・新約聖書では「偶像崇拝は悪」と明記されているために、必然と仏教や神道とは対立する。 宗教的包括主義 宗教的包括主義(Religious inclusivism)とは、他の宗教の存在を認め、その教えに一定の価値があることを承認するものの、究極的な自宗教の優越性への信念は放棄しない思想である。この場合他の宗教は自宗教の理想を一段劣った形で伝えるものとみなされる。 宗教的包括主義は、他宗教を表立って攻撃せず、その教えに一定の価値があることを承認し、尊重するという点で宗教的排他主義とは異なる。しかし、自宗教の絶対的優越性への信念を放棄しない点で宗教多元主義とも異なる。 キリスト教では、一般にプロテスタントは宗教的包括主義を認めない。しかし、ローマ・カトリック教会が公布した公式な教理文書『カトリック教会のカテキズム』は、ムスリムについて次のように記述している。 カトリック教会のカテキズム 教会とイスラム教徒との関係 救済計画には創造主を受け入れた人々も含まれており、ムスリムはその筆頭である。彼らはアブラハムへの信仰を明言しており、我々と同じく、あがめるのは慈悲深いただ一人の神、最後の審判の日に人類を裁く方である。 イスラームでは、啓典の民という呼称などに見られるように早くから一定程度包括主義的な姿勢を他宗教に対して見せており、そのため前近代において他宗教の信者は差別と抑圧の元ではあるものの、共存を許されていた。また宗教多元主義に近いレベルで他宗教への寛容性を説いた思想家、スーフィー達も少なくなかった。 クルアーン2(雌牛) 62 本当に(クルアーンを)信じる者、ユダヤ教徒、キリスト教徒とサービア教徒で、アッラーと最後の(審判の)日とを信じて、善行に勤しむ者は、かれらの主の御許で、報奨を授かるであろう。かれらには、恐れもなく憂いもないであろう。 また、日蓮宗国柱会の創設者である田中智學は、「キリストは梵天の仲間であり、釈尊の霊鷲山での法華経の説法に梵天も拝聴してるので、キリストも法華経を知ってるはずだ」との趣旨を述べ、キリスト教の教えにもブッダの教えが組み込まれうることを示している。 ジョン・ヒックの説いた宗教多元性 宗教多元性とは、諸宗教は、宗教的な「実在」に対する異なる仕方での応答の形であるとみなし、それぞれの宗教の信者がその信仰の枠組みの中において救済に預かっているとする説である。 ジョン・ヒック(John Hick)はキリスト教徒の哲学者で、宗教多元論の主唱者として最もよく知られている。もともとは伝統的な福音主義者であったが、文化的・宗教的な多様性が現に存在しているという事実を、神の愛と一致させる問題を考えることを通じて、次第に多元論へと向かっていった。彼の説いた宗教多元論は多くのものに影響を与えている。 キリスト教以外の信仰者は死後どうなるのか もし、キリスト教が伝統的に教えられてきたように、キリストへの信仰を唯一の救済の手段とするならば、そもそも福音や永遠の罰について何も聞いたことのない人々は神によって捨て去られ、永遠の破滅へと向かうことになる。これはセオドア・ドレンジによる「不信仰からの論証」の背後にある考えであり、ヒックが宗教多元論へと移行していったことの背景となっている考えでもある。宗教的信仰とは、大部分において文化の産物であるように見える。世界の圧倒的多数の人々は、自分で自らの信仰を選んだとは言い難く、その多くは生まれた地域や時代、またその家族の信仰を受け継いでいる。そうした人々は、キリスト教の福音なるものを受け入れる素地を持たない。しかし、伝統的、福音主義的、排他主義的なキリスト教の信仰によれば、そうした人たちでさえ、罪のうちに死ぬことが確実なのであり、また、多くの(全てではない)キリスト教の教派の主張によれば、彼らは厳しく非難され、救いを受けることができないとされている。ヒックはこのことがキリスト教の神の愛についての教えと相容れないのではないかと考えた。ヒックの見解によれば、現に他の宗教が存在しているのだから、福音主義的なキリスト教の教えは不整合に陥っているのである。 ヒックはまた包括主義をも否定する。これは他宗教をキリスト教の亜種もしくは変形としてとらえるものであり、キリスト教優越主義というドグマを脱したものではないと主張する。 ヒックへの、あるいは宗教多元論への批判者は、たいてい、福音について聞いたことのない人々がいることを否定するか、これら無知な不信仰者は地獄に落ちるということを否定するかのどちらかである。さらには、この地獄行きの永遠の断罪は神の愛とは相容れないということを否定する人々もいる。 諸宗教は「真実在」への応答…キリスト教の優越性を否定 ヒックのこの問題に対する答えは、宗教的な真理というものを、文化および個々の人間に対して相対的なものとして見るというものである。彼はキリスト教の排他主義を間違ったものとして退ける。その一方で、他の様々な宗教を、それぞれがその文化や伝統などに基づいた形での、「真実在」への適切な応答だとみなすのである。これはキリスト教を含めた一神教に強いとされる『万民のための神』という思想に、多神教に強いとされる『神の多元性』という考え方を組み合わせたものともいえ、諸宗教の根幹精神における一致と現実の形態の多様性を共に承認し、共存の柱とするものである。 ヒックは三位一体を拒絶し、イエスは神の霊に満たされ、愛と慈悲に満ち溢れた偉大な預言者であり、キリスト教徒の指針であるが神そのものではなく人間であるとしている。これは『キリスト教が受肉した神自身により打ち立てられた』という信仰が、レイシズム、植民地支配、キリスト教優越主義など歴史上多くの罪悪を正当化してきたという批判が前提となっている。神の受肉という教義は、あくまでもメタファー(比喩)として考えるべきであるというのが彼の考えである。 「生まれ変わり」について ヒックは論文「位格の復活」 ("Resurrection of the Person") の中で、死後の生に関しての理論を提示している。この論文で彼は、突然死してどこか他の場所でその人の「生まれ変わり」として「生まれ変わった」人はもとの人と同じ人物である、と説明するのがもっとも合理的だと主張した。それゆえ彼によれば、人が(神によって新しい世界へと「生まれ変わらされる」という仕方で)同一性を保ちながら、異なる世界に存在することが論理的に可能なのである。ただしそれは、何らかの異なる形式においてであろうが。 その他の宗教多元性 仏教の言説ではあるが、神経症の治療法である「森田療法」の創始者である森田正馬は、1922年に発行された『神経質の本態と療法』の中で以下のように書いている。 自然科学から見れば、神は民族心理の過渡的産物である、とかいうように、神という実体の存在はない。神、仏、真如とかいうものは、宇宙の真理、すなわち「自然の法則」であって、法そのものにほかならない。 真の宗教は、自己の欲望を充たそうとする対象ではない。神を信じるのは、病を治す手段でもなければ、安心立命を得る目的としてもいけない。神仏に帰命頂来するということは、自然の法則に帰依、服従するということである。 Wikipedia キリスト教とイスラム教
https://w.atwiki.jp/kumicit/pages/562.html
Kumicitのコンテンツ 宗教とインテリジェントデザイン カトリック 和田幹男主任司祭の「聖書の天地創造と現代の自然科学」 教皇庁立ウルバノ大学神学博士学位を持つ英知大学元教授でカトリック箕面教会主任司祭である和田幹男氏によれば、「自然科学書として聖書を扱うな」という意見は最近のものではなく、既に1931年に浦川和三郎氏によってなされている。 そもそもその誤りの根源は、聖書を自然科学の書と同じように見るということにあった[浦川和三郎「聖書は人に科学を教える目的で書かれたものではない。科学の証明を聖書に求めるのは、それこそ求める方が野暮である」(1931)]。 しかるに、聖書は自然科学の書でもなければ、聖書記者も自然科学者ではない。このことを知らぬまに忘れてしまった結果、このような誤りを犯すことになった。また、天地創造のことは、造り主である神が啓示された聖書に出ているはずだという単純な発想から様々な符号主義の聖書解釈が出されることもある。しかし、聖書の天地創造は、何憶年に及ぶ地球生成の過程を啓示しようとして神がお書きになったものかどうか、今一度その記述の仕方を見て再吟味する必要がある。 [ 和田幹男 "聖書の天地創造と現代の自然科学" ] 特に若い地球の創造論に対して和田幹男氏は、「大人として聖書を読めるように教育されることはなかったのではないか。」とまで評している: 聖書の記述を文字通り受けとめ、24時間を1日とする日を6日で、神がこの世界をお造りになったと、そのまま信じるキリスト教徒のことである。進化論など自然科学が明かにすることなど頭から拒否し、これを反信仰的と敵視さえする。このようなキリスト教徒は米国をはじめキリスト教国にかなりいる。最近も進化論と同様に聖書の天地創造も公立学校で教えることを立法化しようと要求した人々が、米ルイジアナ州などにいて、米連邦最高裁によって拒否されたとの報道があった。この人々はそのカテゴリーに入る。このようなキリスト教徒は信仰を持っていても、大人として聖書を読めるように教育されることはなかったのではないか。 [ 和田幹男 "聖書の天地創造と現代の自然科学" ]
https://w.atwiki.jp/shinmegamitensei2/pages/23.html
トップ|基本|悪魔|マップ|シナリオ |その他 真2用語辞典 『真・女神転生2』を遊ぶ上で、知っていると理解の幅が広がるであろうと思われる単語を収録。 悪魔 英語のDevilは古英語のDeofel、ラテン語のDiabolus、ギリシア語のDiabolosなどに由来し、これはまた「敵対者・反対者・反逆者」などを意味するヘブライ語Satanの直訳である。キリスト教において悪魔は、サタン、ルシファー、稀にベルゼブブとかベリアルなどと呼ばれている。 古代のヘブライ宗教においては、ヤハウェはもともと善悪両義的な神として受け取られていたが、時が経つにしたがい、善なる性格のみがヤハウェに帰せられるようになり、悪はサタンに帰せられるようになった。この区別は旧約聖書に始まったが、黙示文学のユダヤ教においては、はっきりとした二元論的性格を取るようになった。 アダム 神が土から人を形作り、その鼻に命の息を吹き込んだ。こうして誕生したのがアダムである。名の由来は、「土」をヘブライ語でアダマというところからきている。ちなみにアダムのあばら骨から造られたエヴァは、ヘブライ語で「命」の意。 アダムとエヴァはエデンで自由に暮らしていたが、蛇にそそのかされ、エデンの園の中央にあった知恵の木の実(一般にリンゴとされる)を食べてしまう。知恵の実を食べることは神に禁じられていたため、ふたりは神に背いてしまったことになる。知恵の実を食べてしまったふたりは、裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉で腰を覆い隠した(新世紀エヴァンゲリオンのNERVのマークはイチジクだが、このエピソードから取ったものだろうか?)。神に問い詰められたアダムはエヴァに罪をなすりつけ、エヴァは蛇のせいにした。そして神は罰として、アダムには労働の苦しみを、エヴァには出産の苦しみを与え、永遠の命を奪い、死が来ることを定めたのち、楽園からふたりを追放した。 イエス Jesus。イエスという名はギリシア語のIesousを由来とする。これはヘブライ語のヨシュアYeshuaの音訳である。歴史研究によって知られる「ナザレのイエス」なる人物を指すものとして用いられている。キリスト教の創始者。 イザナミ イザナギと共に国土の修理固成をおこなった女神。大地母神の性質を持つ。ヒノカグツチを生んださい、性器を火傷して死ぬが、瀕死の状態で苦しみながらも、吐しゃ物や大小便から数々の神を生成したという恐るべき神。 黄泉の国まで追ってきたイザナギが、約束を破って自分の醜い姿を覗き見てしまい逃げ出したことに怒り、現世の人間を一日に千人殺すと宣言したことでも知られる。幸いにも『真・女神転生2』に出てくるイザナミにはそうした性格は見られないが、考えようによっては、「普段は大人しい人を急に怒らせると何をしでかすか分からない」ということを示唆している神話なのかもしれない。 割礼 簡単に言うと、チンコの皮を切っちゃう宗教的儀式。近東では、ペルシアによって征服されるまでほとんど普遍的におこなわれていた儀式。一般的には成人式の儀式であるが、ユダヤ人の間では幼児に対して、普通は生後8日目におこなわれたという。なんとも迷惑な話である。 割礼をおこなうようになったのは、創世記によればアブラハムの時代からとされているが、しかし実際にいつどこで始まったものであるかは、太古の昔に埋もれて不明になっている。 クロウリー 魔術師。ゲームに登場するが、実在した人物。クロウリーは1898年、黄金の曙光団(イングランドのメーソン的団体。親方格のメーソンにのみ開かれた英国再生会のメンバーによって、1887年のロンドンで設立された)に入団するが、メンバーのメイザースと仲違いをし、1905年にArgenteum Astrum、銀の星という自分自身の教団を設立した。 クロウリーは自らを新たなアイオン(無限に長い時期)、ホラスの時代の声と考えた。クロウリーによるとそれは、キリスト教の時代に取って代わるものであるという。 乾雲坤竜 乾雲丸・坤竜丸は、神変夢想流・小野塚鉄斎が所持する刀のこと。『丹下左膳』が元ネタのようだ。八卦では『乾』は陽を意味し、天に対応する。『坤』は陰を意味し、地に対応する。 サタン キリスト教において、サタンは重要な位置を占める。サタンは荒野におけるキリストの誘惑者であり、この世の君、キリストによって終わる古き時代の王でもあるらしい。サタンは神により善なる性格を持つ天使として造られたが、この偉大なる天使は自由意志により罪に堕ち、多くの天使たちを味方に引き入れた。そしてサタンはその仲間ともども天から追放され、地下の世界に追いやられた。サタンは人類を誘惑して原罪に陥らしめ、神の許可のもとにこの世を治め、試み、罰しているという。 聖書 聖書とは神と人との出会いをつづった物語であり、2000年以上に渡って人々の心の拠り所となっている書物のこと。聖書には“旧約“と”新約”とふたつの聖書があるが、この「約」というのは、神と人との契約を指す。 旧約はユダヤ教の聖典として伝わったもので、神とユダヤ人との古い契約を意味する。一方新約は旧約聖書の内容を踏襲しながらイエスの死後に書かれたもので、民族を超えてイエスを信ずる者と神との新しい契約を意味する。 聖書の影響は大きく、たとえば西暦の紀元前(B.C.)はBefore Christ、キリスト前という意味であるし、紀元(A.D.)はAnno Domini、ラテン語で“我が主の年”を意味する。 方舟 アダムとエヴァの間にカイン、アベル、セトという子供が生まれ、以降子孫は増えていったが、人々は次第に神への信仰を忘れ、悪もまた地上にはびこるようになっていった。神は人を造ったことを後悔し、洪水を起こして人間も動物も、地上のすべてを拭い去ろうと決意する。しかし堕落した人間たちの中で、ノアだけは神に従う無垢な人間であったため、彼の一家だけは救済することにした。ノアは神に命じられたとおりの方舟を作り、すべての動物をひとつがいずつ乗せ、家族と共に方舟に入った。ほどなくして大洪水が始まり、地上にいた者はことごとく息絶えた。 ノアの方舟は150日間漂流したのち、トルコ、イラン、アルメニアの国境上に実在する山、アララト山に止まったと言われている。 バベルの塔 ノアの息子たちの子孫がどんどん増えるにつれ、彼らは再び信仰心を忘れていった。そんなときバビロンに住む人々が、「天まで届く塔のある町を作って有名になろう」と言い出し、塔の建設を始めた。この様子を見た神は、「皆ひとつの言葉で話しているから、このようなことを始めたのだ」と、考えたのだという。 聖書によれば、このときまで世界にはひとつの言語しかなかったとされている。しかし人間の傲慢さのシンボルとも言えるバベルの塔が、神の怒りを買った。神は罰として言葉をバラバラにしてしまったため、言葉が通じなくなったバビロンの人々は塔の建設を続行できなくなってしまった。そして人々は各地へ散っていったのだという。この話は原因譚として、世界中でさまざまな言語が使われている理由として、語り継がれている。 2Dフィールド上で見るセンターのビルというのは、まさにこのバベルの塔といったところか?先っぽだけ宇宙に飛んでいって、メギド・アークで皆殺しにされてしまうあたり、どうもイメージが重なってしまう。 ヒルコ 「蛭のように手足が萎えたような子」、の意。イザナギとイザナミの初めての性交から生まれた神であるが、イザナミが先に求婚の声をかけたために、不完全な子として生まれてしまったとされる。そして、葦船に入れて捨てられてしまう。 『真・女神転生2』ではなぜヒルコが天津神を裏切ったのか、という理由が一切語られていない。自分が捨てられたという恨みから、国津神に力を貸してしまったという解釈でよいのだろうか? マリア エンディングの最後に出てくるのはマリアだろうか?それはともかく、マリアはナザレのヨアキムとアンナの間に生まれる。夫婦は長い間子供が授からなかったが、神のお告げでようやくマリアを授かる。アンナは神への感謝の印に、我が子を生涯神に捧げると決意し、マリアが3歳になったとき、神殿へ預けた。マリアは両親とはなれ、14歳まで神殿で過ごしたといわれる。 考えてみればヒロコもまた、実の親から記憶を操作した上で引き離され、人体実験の材料にされ、メシアを生むこととなった。ただ単に処女懐妊を再現するだけでなく、実は「我が子を捧げる」という行為からして、メシア教の伝承どおりにメシアを造り上げようという壮大な計画が始まっていたのかもしれない。 メシア メシアとはヘブライ語で“油を注がれた者”という意味があり、救世主を意味する。聖書ではしばしば預言者が神から示された人物に油を注ぐという記述があり、最初に油を注がれた者がザウル王、そしてダビデ、ソロモンと続く。 ユダヤ教とキリスト教では救世主の意味するところに違いがある。キリスト教ではイエスそのものが救世主であるとしているが、ユダヤ教ではあくまでもダビデに象徴される政治的な指導者、王国を復興して神殿を再興するなどの政治的指導性を発揮する者、イスラエルの王を意味する。 ヤハウェ(Yod-Heh-Vau-Heh) 唯一神。黄金の曙光団によれば神の名ヤハウェは、宇宙における力の顕現のさまざまな段階を表すものであるらしい。Yodは第一次元的なエネルギー、Hehはエネルギーの形としての出現を示し、Vauは形成過程の安定化を示し、Hehはエネルギーの形への移動の完了を表すという。 ユダヤの教えではYHVHのYは宇宙が創造された原初の点、万物の父を指し、YHVHのHはエロヒム、万物の母を指すという。つまりヤハウェとは、父と母をひとつに組み合わせた聖なる名前で、宇宙の神秘を秘めているとされている。 またヤハウェはその行為によってさまざまな名前で呼ばれるとされており、裁きを下すときはエロヒム、悪と戦うときはツァバト、人類の罪を赦すときはエル・シャダイ、世界を慈悲の心で包むときはヤハウェであるらしい。 上へ