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どんな場所が危ないの? 放射性物質は、木や草が生い茂ったところに沢山たまっています。雨水が溜まる所にも沢山あります。 なのでそういう場所はなるべく近寄らないようにすると良いと思います。 放射性物質がたまりやすいところは ・雨どい ・道路の側溝 ・水たまり ・山野 などです。 特に山野に降り注いだ放射性物質は雨などに流されず、溜まり続けている可能性が高いです。 木製の物には放射性物質が溜まっている模様ですので、木のベンチなどは注意してください。 また、落ち葉には沢山の放射性物質が含まれていると思われるので、落ち葉が多い場所も要注意です。 小さな子を外で遊ばせる時に ・木製のベンチや遊具を使わせない ・公園では、なるべく広々とした場所で遊ばせる(端っこに行かせない) ・アスファルトや敷石の上に居させる(芝生は要注意) ・落ち葉は絶対に触らせない ・砂場で遊ばせない方が良い(特に泥遊びは禁止) ・雨が溜まるような、溝や水たまり、コケが多い場所には行かせない などに気を付けてあげてください。 子供は何が危なくて何が安全かを判断出来ません。守れるのは大人だけです。
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波動原理・ゼロ点効果の纏めサイト - 放射能除去法纏めサイト 無数の除去事例や超常的現象、量子の共鳴効果による意識・社会・環境の改善 万物における波動情報の原理・作用・効果・影響・意味合いと形成・発展・永続化 量子(電子・陽子・中性子・光子・ニュートリノ)=波動(気)・ゼロ点(Zero Point Field)・電磁波・プラズマ・幾何学的形態・物質(珪素・量子水・酵素)・微生物・コイル・波動器具・波動農法や意識・言葉・パワースポットなど、波動原理の各種効果(超科学・超能力・元素変換・健康・意識覚醒・自然環境の浄化・森羅万象の好転) *********************************** 項目6⑧:波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い 森羅万象の形成・発展・永続化、意識・社会・環境の浄化・改善 【霊魂の所作と活性化、日本の基層と神事、精神性・芸術性の淵源】 ●アイヌと沖縄について アイヌ・ニブフ・ウィルタ民族の概略 アイヌ民族の文化と信仰 蝦夷の歴史 日本の体制がアイヌ民族に強いた不当な境遇 ソ連と国際的体制がアイヌ・ニブフ・ウィルタ民族に強いた理不尽な追放・放置 日本におけるアイヌ問題の認識状況 沖縄・琉球の歴史 琉球神道について 南西諸島の伝統歌謡に見える古層とヤマトとの交流 南洋産貝製品の古代社会における重要性 沖縄的事物と女性祭祀と海人族が示唆する、古代社会の在り方と平和の希求と大規模な変化 日本の辺縁部に残る古代の日本語と祭祀形態 沖縄・琉球の位置付けについて 辺野古と大浦湾の類稀な環境・霊場・遺跡と、日米による破壊の危機 沖縄に対する国内外からの歴史的な抑圧 沖縄問題への誤った対処 アイヌ・沖縄問題に見える国内外の自己優位思想と従属思考 ヤマト・アイヌ・沖縄などの和合 南西諸島の伝統歌謡に見える古層とヤマトとの交流 琉球諸島には「神歌(かみうた)」という「神祀りの古謡」が残されています。これは「古くから村々の祭祀で、ノロが連綿と歌い継いできた口承歌謡」であり、何時間も歌い続けたりもします。地域ごとに名称や傾向が異なり、同じような歌でも地域によって内容がやや異なっていて、総数は膨大な数があります。特に沖縄本島北部の「ヤンバル(山原)」地方や「半島部の沿岸の村落」では、色濃く残っています。 「神歌」は総称で、沖縄諸島では「ミセセル(神の託宣を意味する)」「オタカベ(神を崇べて降雨などの願いごとを述べる)」「ティルクグチ(もとは託宣から出て現在は神に豊作などの祈願を捧げる形になった)」「クェーナやウムイ(同じく神に自分たちの願意を長々と訴える)」などがあります。 宮古諸島と八重山列島では、「神歌以外の歌謡」を「アーグ」「アヤゴ(宮古島の古語)」と言い、アーグは「沖縄芝居でできた群舞名」も指します。内容は「現世的英雄をたたえる史歌的性格の強いもの」「作物の豊穣祈願と予祝(後述)」「航海安全祈願」「機織等民衆生活の場をうたったもの」が多いと言います。 《宮古列島のアヤゴ(アヤグ)》 ・宮古諸島の古謡の総称。宮古方言で謡われる。 ニイリ、ニーリ、ニイラアグ ・「ニイラアグ」は「根の国(にいら・死者の居る国)のアヤグ」の意。 ・内容は祖先に関する謡で、代表的なものに「狩俣祖神(うやがむ)のニイリ」がある。 ・「フサ」「タービ」「ピャーシ」の神歌の要素を取りながら、祖先神の偉業などを壮大に叙述する。 アヤグ ・15世紀末から16世紀初頭にかけて作られた叙事的歌謡。 ・英雄の勲功を称えたものなどが多く、代表的なものに「仲宗根豊見親八重山入の時のアヤグ」がある。 長アヤゴ ・叙情的、民謡的なものが多い。 ・「トウガニ」「正月のアヤグ」「石嶺のあこうぎ」「旅栄」「多良間シユンガニ」など。 フサ ・神々の降臨・誕生から村落の創成などを述べたてて神を賛嘆する。 タービ ・神々を崇べる。 ピャーシ ・(同じく)神々を賛美する。 八重山諸島では「アヨー」「ジラバ」「ユンタ」「ユングトゥ」があります。 奄美諸島では「ナガレ歌」「八月踊歌」「ユングトゥ」があります。 「おもろさうし(おもろそうし)」は、「琉球王国第四代尚清王代の嘉靖十年(1531)から尚豊王代の天啓三年(1623年)にかけて、首里王府によって編纂された歌謡集」「ほぼ12世紀ころから17世紀初頭にわたってうたわれた、沖縄と奄美の島々村々の"うむい"を首里王府で採録した」「全二十二巻・歌謡一五五四編・実数一二四八編」です。沖縄の文化を語る時に、古の沖縄の様相の考証に、欠かす事のできない文化遺産です。 「おもろ」とは、古来より受け継がれてきた「叙事的な神歌」です。「おもろ」の語源は「うむい(思い)」であり、これらの神歌も「祝詞)(うむい」と呼びます。「そうし」は、大和の「草紙(物語・日記・歌書など和文で記された書物)」に倣った名称とされます。「おもろさうし」には、和歌を改編した歌謡も多く載っていて、そこでは和歌で見られる表現の一部が、用いられています。 その起源は「祝詞(のりと)」だったと考えられています。祝詞は「神道において神徳を称え、崇敬の意を表する内容を神に奏上しもって 加護や利益を得んとする文章」「神社・祭祀などで神職・崇敬者が奏上する物」であり、古来より奏上されてきました。本土における「祝詞(のりと)」は、沖縄では「神歌(かみうた)」や「祝詞(うむい)」などと呼ばれ、またそういった様相・形式として発展しました。「祝詞(うむい)」には、今では使われていない「琉球古語」が多く含まれていて、後述の伝統歌謡「琉歌(りゅうか)」の源流と考えられています。 おもろそうしには「勝連のアマワリ(地方豪族)を称える歌」として「勝連わ、何(なお)にぎや、たとゑる、大和の、鎌倉に、たとゑる(勝連を何に例えようか、大和の鎌倉に例えよう)」という歌詞が見られ、「鎌倉時代に沖縄人が鎌倉を見てきた」「沖縄では鎌倉が知られていた」とも考えられます。 「クェーナ」は「神に自分たちの願意を長々と訴える」もので、対語・対句形式をとり、内容は「雨乞い・五穀豊穣・航海安全等の予祝」が多いです。語源は「クイナという鳥の鳴き声」「はやしことばであるコイナ」という二説があります。変遷は「クェーナ」→「祝詞(うむい)」→「オモロ」→「琉歌(りゅうか)」と想定されています。 沖縄の神歌の概念とは異なりますが、本土の「神歌」は一般的には「神に関する歌謡の総称、神詠」「神をたたえ、神力の発揚を期してうたう歌」「神の詠歌も含むが、神楽・神遊びなど神事に用いる歌謡をさすことが多い」「神祇(じんぎ)に関する内容を、今様歌謡の曲節によって謡ったもの」と説明されています。 「予祝(よしゅく)」とは「豊作・繁栄などをあらかじめ祝う」行為で、「言霊信仰」によります。例えば「毎年春、農耕開始に先立つ時期に、演劇的・舞踊的な所作を伴ってうたわれた伝承歌」を、村落の共同体で行います。「万葉集」を始め、古代の歌には予祝の歌が多いです。 沖縄本島周辺の神歌には、その歌詞の多くに「ヤマト(大和)という言葉や、ヤマトの事物が出てくる」「弥生時代・古墳時代前期の、日本本土と琉球の社会・祭祀・文化などの関係性が題材となっているとみられる」いう際立った特徴があります。例えば、沖縄本島北部に伝わる「マガ玉をかいに大和へ」には「ヤヲの港」という歌詞があり、「大阪府八尾市」とも考えられます。 (「やお」地名は「奈良県磯城郡田原本町八尾」も) 多くの歌に「神々は北風に乗って飛来する」という旨が見られます。古代の本土‐沖縄間の交易は「季節風に乗って船が往来した」「北風に乗って沖縄に行き、南風に乗って南九州に帰った」とされます。南西諸島の祭祀について、「請島と与路島の神迎えは二月」「奄美の神送りは四月」「沖縄の神迎えは五月」「沖縄の海神祭が五月または七月」「奄美では神々を開聞岳(薩摩半島南部)へ見送る」という様相があります。これは「古代の琉球諸島の神々」とは「ヤマトで奉じられていた神々、又はヤマトの人達」だという事を示唆します。 そして、それらの中枢的な意味合いを持った歌詞として、「ヤマトから下たる赤椀の世直し(ゆのーし)」という歌詞が多くの神歌にあり、ノロたちによって歌われています。同義と思われる歌詞として、宮古島の神歌には「ユバナオレ(世は直れ)」とあります。これは何らかの歴史的史実を示している訳であり、この意味する所は、途方もなく深いでしょう。 沖縄の神歌には「日本中の他の多くの古くからの口承歌謡や祝詞などの類型パターンと、明白に異なっている題材が歌中に存在している」のですが、こういった内容の口承歌謡や口伝は、他の地域には無いでしょう。そして「神歌には、古代の日本本土と琉球の歴史の謎を解く鍵の幾つかが残されている」という可能性を見て取れます。 神歌は研究者により収集・採録されていますが、歌詞の意味する所の仔細な研究は進んでいな、言及する論説は少数です。しかし近年「神歌など各種の資料から、沖縄を通して日本史全体を再定義する論説」が提示されています。兎にも角にも「沖縄の神歌は日本中でも屈指の重要な歴史資料」であることは間違いありません。 「歌垣(うたがき)」は「特定の日時に若い男女が集まり、相互に求愛の歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗」です。現代では主に「中国南部からインドシナ半島北部の山岳地帯」に分布、「フィリピン・インドネシア」などでも類似の風習が見られ、典型的なリズムや旋律に、掛け合いの言葉が乗ります。 「古代日本における歌垣は、特定の日時と場所に老若男女が集会し、共同飲食しながら歌を掛け合う呪的信仰・予祝・感謝の行事」「古代の言霊信仰の観点からは、ことばうたを掛け合うことにより、呪的言霊の強い側が歌い勝って相手を支配し、歌い負けた側は相手に服従したのだ、と説かれる」とされ、記紀・風土記・万葉集などに見え、後の「歌合」「連歌」に影響を与えました。歌垣が行われた場所は各地にありますが、霊峰「筑波山(茨城県つくば市)」の歌垣は万葉集や常陸国風土記に見え、また「日本武尊(やまとたけるのみこと)」による「連歌発祥の地」でもあり、頂上の巨石群の中に「連歌岳」があります。 歌垣の一種と見られる風習として、沖縄の「毛遊び(もうあしび)」、福島県会津地方の「ウタゲイ」、秋田県仙北地方の「掛唄」があります。「毛(もう)」とは「原野」を意味し、集落によっては「アジマーアシビ(辻遊び)」「ユーアシビ(夜遊び)」とも呼ばれました。毛遊びは「主に夕刻から深夜にかけて、若い男女が野原や海辺に集って飲食を共にし、歌舞を中心として交流した集会」「単に男女の出会いの場としてのみならず、民謡や楽器演奏技術、舞踊、民話などといった固有文化の伝承の場として重要な機能を果たしていた」「嘗ての沖縄出身の多くの音楽家は、毛遊びで競い合うことによって音楽的素養を磨き、即興や掛け合いの中から新しい民謡を次々に生み出していった」とされ、かつて沖縄で広く行われていた慣習でした。 この歌垣の風習は南方系文化で、「焼畑耕作民にも水稲耕作民にも見られるが、特に山岳焼畑地帯で顕著であり、もとは山岳地帯の焼畑耕作民の文化だったと考えられている」とされます。ここから「東南アジアから中国南部・ヒマラヤ(日本南西部から台湾・華南・ブータン)にかけての一体の文化圏」の「照葉樹林文化論」と結び付けられて語られます。「照葉樹林文化圏」は「森林」「山岳」と結びついた要素が多く、の特徴として「根栽類の水さらし利用、絹、焼畑農業、陸稲の栽培、モチ食、麹酒、納豆など発酵食品の利用、鵜飼い、漆器製作、歌垣、お歯黒、入れ墨、家屋の構造、服飾」などが挙げられます。「稲作文化」「畑作文化」も考証され、発展段階は「プレ農耕段階」「雑穀を主とした焼畑段階」「稲作ドミナントな段階」と辿るとされます。「東日本のナラ林文化」も提唱され、「中国東北部や朝鮮半島に広がるモンゴリナラやブナ林の分布する地域にみられる文化要素」との関連も示唆されています。 「琉歌(りゅうか)」は「奄美群島・沖縄諸島・宮古諸島・八重山諸島に伝承される叙情短詩形の歌謡」「沖縄の和歌(短歌・長歌)」「詠むための歌であると同時に謳うための歌でもある」です。和歌と同様に「ウタ」とも言われ、「おもろ」「うむい」から変遷したもので、17世紀に盛んになりました。和歌は「五七調」ですが、琉歌は「八音を中心に、五音・六音・七音を標準とする」「サンパチロクといわれ、八・八・八・六が基本形」です。琉歌は「三線(さんしん)」などの楽器に伴奏されて歌われました。 琉球王国時代には「和歌」も盛んに詠まれ、琉歌の歌人は和歌にも精通していました。また、和歌を改作した「改作琉歌」も多数見られます。「改作琉歌」では、特定の言葉・表現法が多用されていて、これは当時の知識層の流行だったと思われます。 奄美諸島には「島唄(しまうた)」があり、歌手を「唄者」と呼びます。伝統的な唄者は声が良く、歌い方が上手いだけでなく、歌詞を多く知っていて、即興で唄を歌い合う「唄遊び(うたあしび)」の名手であることも条件です。「奄美方言(シマグチ・シマユムタ・シマユミタ・シマムニ・シマフトバ)」では「シマは自らの郷里を指し、シマ唄とは郷里の民謡を意味する」とされます。島唄には「グイン」と呼ばれる、非常に特徴的な瞬間的な裏声(ファルセット)の歌唱法があり、裏声を用いる歌唱法は世界でも島唄とヨーデルだけとされます。また「音域が非常に広い」のも特徴です。奄美大島の高齢者は、出身集落以外の歌は「シマウタ」とは呼ばないとの報告もあり、これは「奄美群島や沖縄県では、集落ごとに独自の民謡を持っていることが多く、多くの市町村に広まっている歌も、集落ごとに異なった歌詞のバリエーションを持っている」ことによると言います。島唄は「日本民謡の南限」「沖永良部島以南では琉球音階が用いられ、琉歌の北限」という側面も持っています。 《島唄について、達人の朝崎郁恵は次のように語っている》 ・私の歌っているのは神唄。 ・神唄は本来カミニンジョウといわれる神降ろしをして唄う人によってのみ唄われていた。 ・秋の収穫の際に村中の家から一合づつお米を集め、 トネヤといわれるご神事を行う祭事場でお神酒をつくる。 ・神迎えの唄を唄い、お神酒ができたら神送りの唄を唄い、できあがったお神酒を各家にふるまう。 ・今はカミニンジョウと呼ばれる人はおらず、神唄を唄える人もいなくなってしまったけれど、 祭事場のすぐ傍に家があった朝崎はいつも、神唄をまねて口ずさみながら妹とままごとをしていた。 南西諸島のうち、特に琉球諸島と奄美諸島では、「共通する古典芸能・伝統音楽・歌謡文化」が存在します。しかし諸島や島ごとに、独特の形態が存在しています。音楽においては、「カチャーシー」など、体の動きが伴う事が多いです。「琉球舞踏」は「三線(さんしん)」「箏(こと)」「笛」「太鼓」「胡弓(こきゅう)」により構成されます。 「琉球音階」は「ド・ミ・ファ・ソ・シ・ド」で構成され、「沖縄県全域と奄美群島の沖永良部島・与論島」に分布、沖永良部島と与論島は「北山王国」の領域内だったからと見られ、奄美群島の徳之島以北は、本土と同じ「ヨナ抜き音階」です。これらにより「琉球民謡」には、特徴的な様式・メロディーがあり、今日の「沖縄音楽」も色濃い地方性が見られます。 「魂振り・魂呼び・殯、神事・芸術の原点」にあるように、「音楽・舞踏・歌」「芸術」は古くは神事であり、主に「巫女」が携わっていて、生体を活性化させる「魂振り」をもたらす物でした。大王の「殯(もがり)」に携わった「遊部(あそびべ)」は「音楽・舞踏」を職掌としていました。南西諸島は「祭祀・神様」の他にも、「歌・伝統歌謡・古典歌謡」が比較的身近にあります。これらも「南西諸島には古代日本の姿が色濃く残っている」のが理由でしょう。更には、南西諸島では「シャーマニックな歌手」が多いように思われ、これもこういった土地柄によるのだと考えられます。 南洋産貝製品の古代社会における重要性 「沖縄・南西諸島の祭祀具の文化」は、古来より「沖縄独自の文化」「日本本土由来の文化」「南方系民族・南洋諸島由来の文化(台湾・フィリピンなど)」「中国由来の文化」が存在しました。 「沖縄における独自の祭祀文化・用具の文化」を物語る遺物の発掘例は、旧石器時代に遡ります。沖縄の旧石器時代には「骨角器文化」があったとされます。縄文時代晩期には、複雑で特徴的な幾何学的造形をした「蝶形骨器」が、主にジュゴンの骨などで作られています。 古代の沖縄を特徴付けるのは、特に「貝塚時代(BC5000〜AC1000年)」を彩る「貝製品文化」と言えます。 縄文時代の貝類の採集 ・縄文人が貝類を食糧資源・装飾品の原料として採取するようになったのは縄文早期前半で、 代表的な遺跡として「夏島貝塚(神奈川県横須賀市)」が挙げられる。 ・縄文早期の半ばには、瀬戸内海沿岸や東北地方でも貝塚が形成されるようになる。 ・採取対象は当初は「ヤマトシジミ」であったが、やがて「カキ」や「ハイガイ」などにその中心は移る。 ・「腕輪やペンダントの原材料」として採取された貝類もある。 特に目立つのが「オオツタノハガイ」の利用である。 ・「オオツタノハ」は、二枚貝である。 主に「屋久島」「トカラ列島」「竹島・硫黄島・黒島」の物が利用された。 縄文期には、特に縄文後期・晩期を中心に、 「関東地方全域」から、北は「有珠10遺跡(北海道伊達市噴火湾の小島)」でも出土している。 ・これについて、原材料となったオオツタノハガイは南九州から運ばれたという説と、 三宅島以南の伊豆諸島にも生息域があったのではないかとの説が対立している。 ・他には「ハチジョウタカラガイ」も広く利用された。 「貝製品」は「縄文時代・弥生時代・古墳時代の重要な祭祀具・装身具・装飾具」として、沖縄から北海道まで全域で数多く用いられてきました。貝製品は種類が多数あり、時代と共に変遷、「古代日本に特徴的な文化」「古神道の祭祀具・装身具」と言えます。「南方産貝製品」は「縄文時代・弥生時代・古墳時代の重要な交易品」でした。また後代では、貝製品は主に「装身具・装飾具」として利用されています。種類は「貝輪」「貝製足輪」「貝玉」「貝符」「垂飾」「耳飾り」・・・など多種多様です。複数の南洋産貝製品が北海道でも出土、また勾玉と同様に、「朝鮮半島」でも日本産貝製品が出土しています。巻貝を威信財に用いる文化は、中国では五千年前の黄河上流青海省の「馬家窯文化(まかよう)」に始まり、秦王朝(BC200)まで続きました。 「貝輪(かいわ)」は「貝殻で作られた腕輪」、貝の多くは「奄美群島以南」に産するもので、「九州」との間で盛んに取引されました。縄文時代は「サルボウなど大型二枚貝に、穴を開けたもの」が広く見つかっています。弥生時代、九州北部などで「巻貝類のカサガイ・オオツタノハなどに穴を開けたもの」「巻貝類のイモガイ・ゴホウラ・スイジガイなどを切ったもの」で作った貝輪が盛行し、支配階級を表す「威信財」となっていました。他には「ベンケイガイ」「マクラガイ」「ホタルガイ」なども用いられています。 縄文時代では、貝輪を装着した人骨は成人女性が殆どで、女性が着装する物だったとみられます。縄文早期から晩期の「山鹿貝塚(福岡県芦屋町)」では、3500年前(縄文後期)の人骨18体が発掘されました。そのうち呪術者と見られる女性人骨(2号人骨)は、「20才前後・推定身長150.3センチ」「右腕5個・左腕14個のベンケイ製貝輪をつけている」「胸に軟玉か蛇紋岩の、穴を開けた首飾りがあり、長さ75ミリ・幅31ミリ・厚さ14ミリ、常に着装していた」「鹿角2本(25センチ)を、穴を開けて胸にぶらさげている」「二本のサメの歯で作ったイアリングをつけている」「額に輪をはめていた圧迫痕がある」「彼女の上半身の周りだけは砂が赤く染まっていて、朱を撒いたか、赤い服を着ていた」「腕に生まれたばかりの赤ん坊(4号人骨)を抱いている」「左側に寄り添うように女性(3号人骨)がいて、30才前後で推定身長147.1センチ、ベンケイ製貝輪を右腕に11個・左腕に15個、鹿骨製かんざし2本つけている」という状態で発見されました。 弥生時代と古墳時代前期、特に「ゴホウラ製貝輪」「イモガイ製貝輪」「スイジガイ性貝輪」と、そこから派生した事物が重要視されました。こういった南方産の貝 「ゴホウラ(護法螺貝)」は、多くは見られない大型巻貝で、「成貝の殻は著しく重厚堅固で、高さ18cm・太さ12cmになる」「楕円形で背腹に扁平、螺塔の高さは中庸」「殻表は滑らかで乳白色の強い光沢がある」「奄美大島以南の熱帯太平洋に分布」「珊瑚礁の水深10mほどの深い砂場に生息」です。 ゴホウラ製貝輪は、弥生時代前期に「北部九州」で出現しました。中期後半の「北部九州」には「ゴホウラ製立岩型貝輪」「甕棺墓」「砂丘遺跡」という様式がよく見られます。そして「島根県(出雲)」「香川県(讃岐)」「愛媛県(伊予)」「岡山県(吉備)」「兵庫県(のうちの播磨)」などに普及しました。 ゴホウラ製貝輪 ・ゴホウラ製貝輪は、形の違いによって「金隈型」「土井ケ浜型」「諸岡型」「立岩型」「広田型」などに分類される。 ・初期の「縦切り型のゴホウラ製貝輪」は、貝の螺旋構造を活用し、幅広で厚い。 ・しかし、時代が下るとともに腕に数多く装着する「貝輪多連装着」が流行、規格的に厚みも1cm前後に変化した。 ・弥生時代後期前半、既存のゴホウラ製貝輪は、「有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)」に変化して姿を消す。 ・南九州で新たなゴホウラ製貝輪が出現、ゴホウラの貝塔の(縦方向の)中央付近の横端に「一大結節」を 意識的に研磨して強調した「鉤状突起(かぎじょうとっき)」が貝輪に形作られた。 ・この「鉤状突起と多連装着と薄型を特徴とした定型のゴホウラ製貝輪」と これを祖形に後に現れた 「鍬形石(くわがたいし)」は、ヤマト王権の象徴となり、「古墳時代前期の大規模古墳」に特徴的に副葬される。 ・ゴホウラ製貝輪は、男女共用の「広田型」以外は、殆どが男性が着装している。 「イモガイ(芋貝)」は、イモガイ亜科などの巻貝の総称です。貝製品としては南西諸島産「アンボンクロザメ」などをを使用し、「殻は円錐形で、ほとんどの種で螺塔が低く殻口が狭い」「殻長は最大で23cm程度」「和名は形状がサトイモに似る事から」「潮間帯から深海まで棲息」「日本では主に房総半島以南や能登半島以南に見られ、南西諸島では格段に増加、沖縄県では約110種を数える」という性質があります。 「スイジガイ(水字貝)」は、ゴホウラの近縁種、6本の突起がある特徴的な貝殻を持つ巻貝で、突起先端が円弧を描き、突起六本のうち五本は時計回り・一本は反時計回りです。「成貝は突起を含めて殻長24cm・幅16cmに達する」「貝殻は厚くて硬い」「殻口が大きく開き、螺塔の巻きは小さい」「貝殻の表面は巻きに沿って大小の螺肋があり、黄白色の地に黒褐色の縞模様が走る」「殻口は光沢のあるピンク色」「和名は形状が水の字に似る事から」「日本では紀伊半島以南の沿岸域の、浅海のサンゴ礁や岩礁の砂礫底に生息」「装飾品・貝細工に利用される」「火難除けや魔除けとして家の玄関や家畜小屋に吊す風習があり、民家の玄関に今も時折見られる」「宮古島ではヤドムリャといい、家を守るという意味で、魔除けに用いる」「沖縄県名護市・宮古島市のシンボル(市の貝)」「食用にもなる」という性質があります。「ゴホウラ・イモガイを多く産する産地」は「沖縄本島付近」です。 「ゴホウラ」は、奄美では「テルコニャー(太陽の貝)」と呼ばれ、「テルコ:太陽の古名」「ニャー:貝(ニナ)」であり「太陽の貝」を意味します。「スイジガイ」は、那覇で「ユーナチ・モーモー(世直しの牛貝)」、宮古で「ユーグルー(世直し?)」などと呼ばれます。これらの貝には「太陽」「世直し」という寓意が篭められています。そして「南方産の巻貝は、その多くが太陽を象徴する物、太陽祭祀に纏わる物」とされていて、「太陽を生み出す」と見られていた可能性もあります。 「ゴホウラ製貝輪」は「男性の右腕」に着装、「イモガイ製貝輪」「勾玉」は女性が着装していた、という傾向が見られます。記紀や沖縄などの伝承から、これら巻貝(特に開口部分)の形状には「ホト(女陰)」「子宮」「多産信仰」「邪を食らう」といった呪術的寓意あると言われます。「オオツタノハ製腕輪」は、幼児が着装した例がみられます。 「ゴホウラ製貝輪の加工途中とみられる物や半製品工房」が「大又遺跡(沖縄県名護市辺野古)」「ナガラ原西貝塚(沖縄県伊江村)」「高橋貝塚(鹿児島県南さつま市)」などで見つかっています。交易の為の「巻貝溜まり(集積遺構)」は多くの場所で発掘されていますが、「南方産貝製品の製造工房跡」は少数しか見つかってない貴重な遺跡で、完成品工場は未発見です。「ナガラ原第三貝塚(沖縄県伊江村)」は、縄文時代・弥生時代の沖縄の最大規模の遺跡で、「弥生時代の物とみられる石棺墓」の内部から「ゴホウラ製貝輪を装着た女性人骨」が出土、これにより「沖縄でも貝輪などを用いる装着・祭祀の文化が、弥生時代・古墳時代にあった」ことが確認されました。 弥生時代中期の「宇堅貝塚(うけん・沖縄県具志川市)」は、金武湾北岸に面した弥生時代中期・後期の遺跡群の一つで、「イモガイ(アンボンクロザメ)の集積遺構」「ゴホウラ」「ヒレジャコ」が出土、「土器一三七一点(弥生土器18%・弥生系土器7%・沖縄後期土器75%)」「貝刃」「ガラス小玉」と、全国的に希少な「板状鉄斧(国内3~4例)」「青銅製後漢鏡」「青銅製漢式三角翼(鏃=やじり=矢先に付ける/国内2例)」が出土しました。 「土井ヶ浜遺跡(山口県下関市)」は、弥生時代前期~中期の300体以上の人骨が出土した墓地遺跡で、響灘近隣の砂丘にあります。埋葬は「砂地を掘り、その中に遺体を安置し、砂で覆う簡単なもの」が大半で、他に「箱式石棺」「石囲い」「四隅や頭辺・足元などに配石した物」などがあり、簡単な墓標を設けているものもあります。弥生時代の多くの埋葬例のように「頭を東に向け、両手を胸で合わせ、足をやや折り曲げて足首を縛った仰臥の姿勢」です。体格は縄文人の形質と明らかに異なりますが、縄文の風習の「抜歯」も多く見られます。「鵜を抱く女」は、胸部に鳥を抱いた壮年女性で、「特別な霊的能力を持った女性シャーマン」とされます。後述のように弥生時代には「鳥信仰」がありました。「戦士の墓」の「英雄」は、弥生前期の体格のいい成人男性で、右腕には「ゴホウラ製貝輪」をしています。78人以上の人々と共に海岸の墓地に眠り、胸から腰に15本の石鏃が打ち込まれていて、「ムラを守った戦士」とされます。 「甕棺墓(かめかんぼ)」は「甕」に遺体を埋葬する風習で、弥生前期~中期の「九州の北西部」で顕著に見られ、被葬者が「ゴホウラ製貝輪」をしている事例が多いです。中国・長江流域から齎された風習と見られ、朝鮮半島南部にも見られます。「箱式石棺」は、縄文~古墳時代に見られます。弥生時代では九州北部・中国西部を中心に前期から出現し、その後近畿を除く西日本に広く分布、「甕棺」など他の埋葬施設と群集して共同墓地を構成します。沖縄にも「箱式石棺」があり、「ゴホウラ製貝輪」「九州北部の土器(特に弥生中期の須玖式土器・後述)」などが共伴します。沖縄で見られる「箱式石棺」「九州北部の土器」は、後述の「貝輪の交易をしていた海人族が齎した文化」とされます。 最近の研究で、歯の形態は「北部九州人:黄河流域や朝鮮のものに類似」「土井ケ浜人:モンゴルやバイカル湖周辺のものに類似」、貝輪の形態は「北部九州人:細い貝輪を重ねてつける(多連装着)」「土井ケ浜人:貝輪を一つ付け、それを大きく見せようとする」と報告されています。「中国山東省の遺跡で発掘された漢代の人骨資料の中に、「土井ヶ浜人」ときわめてよく似た形質をもつ資料が多く見つかっています。また「土井ヶ浜人」は「稲作を齎した人々」という説もあります。 (「初期渡来人とその文化」「稲作」は中国中南部から渡来したとみられるが、稲作が発展した「長江」「淮河」の流域からは人骨の出土が少なく、比較検討が難しい) 噴火湾の小島の「有珠10遺跡(北海道伊達市)は、通称「モシリ」と呼ばれる場所で、縄文時代晩期~続縄文時代(弥生時代)の遺跡です。島の中心は墓域で、周囲は貝塚となっていて、西日本に多い「改葬墓」と「イモガイ製貝輪」「ゴホウラ製垂飾」などが発掘されました。これは弥生時代における、沖縄から北海道に跨る広域の交流を示しています。「スイジガイ製貝輪」は、「松林山古墳(静岡県磐田市)」など、静岡県でも多く出土しています。 弥生時代後期から「青銅や石(碧玉など)」を用いて「貝輪に似せた意匠の腕輪・装飾品」が作られ始め、弥生時代末期に量が増えていきました。これらは「南方製貝製品」とともに、西日本を中心とした「弥生遺跡」「弥生墳丘墓」の副葬品に用いられています。古墳時代前期には「南方産貝製品から派生したの祭祀具・装身具・意匠」が非常に盛行、これらの「沖縄的事物(南方製貝製品と派生事物)」は「前期古墳(古墳時代前期の古墳)の重要な副葬品」であり、同時代の代表的な祭祀具の一群となっています。またこれらのうち「腕輪類」は、貝輪のように「多連装着」の事例も多いです。 これらの「沖縄的事物」は、弥生時代前期に「北部九州」で出現、中期に「瀬戸内地方」に波及して、後に「畿内」に普及、弥生時代後期~古墳時代前期に各地で盛行しました。「畿内」では弥生時代前記末で終了、中央から離れるほど、より後代まで続いていき、「九州地方」「関東地方」「東北地方南部」では古墳時代後期まで続きました。この「沖縄的事物の九州から畿内・大和地方へという普及」は「神武天皇の東遷伝承」と符合します。そして「沖縄的事物」の分布は、「海洋民・海人族(あまぞく)」の故地において、特によく見られます。 代表的な「南方産貝製品の派生事物」には、次の物があります(碧玉製などとあっても、他の素材もある)。 鍬形石(くわがたいし) ・「ゴホウラ製貝輪」を模した碧玉(青メノウ)製腕飾。 ・台形で、上半部に楕円形の穴があり、下半部は扁平な鍬の刃の形。 ・ゴホウラの腹面を利用する。 ・ゴホウラ製貝輪の輪郭、中央部の穴、鉤状突起の形状が、そのまま模してある。 ・ゴホウラ製貝輪から、鉤状突起以外は、左右対称に近い形に変化した。 ・畿内の前期の大型後円墳から多く出土する。 車輪石(しゃりんせき) ・「カサガイ」か「オオツタノハ」か「ゴホウラ」を模した碧玉製腕輪。 ・外形が楕円形で、輪の部分の表面に放射状の彫刻を配し、扁平な形。 ・真ん中に丸い穴が開き、放射状の彫刻を持ち、車輪に似ている事から命名された。 ・「ゴホウラの背面貝輪が祖型」とする説がある。 銅釧(かなくしろ) ・「ゴホウラ製貝輪」を模した青銅製腕輪。 ・「釧(くしろ)」とは「腕輪」を指し、「石釧」「貝釧(貝輪)」「銅釧」「鈴釧(鈴をつけた銅釧)」などがある。 ・銅釧は、南関東一帯で弥生時代後半から古墳時代前期に盛行した。 有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ) ・ゴホウラ製貝輪の「鉤状突起」を特に模した物。 ・弥生時代中期後半に「北部九州」に始まり、弥生時代後期に盛行、古墳時代前期前半に終焉に向かった。 ・全国で約40箇所の遺跡から、100点弱が見つかっている。 ・「北部九州」「瀬戸内地方」「大阪湾岸地域」「近畿地方北部」「東海地方」「南関東地方」に多い。 ・「伊豆半島の沼津以東」の有鉤銅釧は、「環部の帯状化」「鉤状突起の扁平化指向」の共通性が強い。 ・東日本には、女性用「有鉤銅釧」と、男性用「帯状円環型銅釧」があったと見られ、分布域が重なる。 石釧(いしくしろ) ・「イモガイ製貝輪」を模した碧玉製腕輪。 ・放射状の彫刻を持ち、今日的な腕輪に近い形状である。 ・沖縄的事物の中で、例外的に古墳時代中期以降も用いられた。 巴型銅器(ともえがたどうき) ・「スイジガイ」を模した物。 円形の胴体からつめのような複数の脚が放射状に伸び、スイジガイの形がそのまま表現されている。 大型のものは径15cm、通常は5~6cm。 ・「木の盾」に装着された形で見つかり、「盾などの飾り」とも言われる。 ・巴型銅器の鋳型は「吉野ヶ里遺跡(佐賀県吉野ヶ里町・神埼市)」など九州北部で三つ出土した。 ・全国で約40点が出土、出土地は「九州」「広島県」「愛知県」「神奈川県」「朝鮮半島」など。 ・弥生時代後期(2世紀)から作られた。 ・「巴形石製品」は、国内で6例が出土している。 最古の物は、纒向遺跡(奈良県桜井市)の古墳時代前期(3世紀後半)の物。 大王の居館とも推定される、中心部の建物跡付近の穴の中から出土した。 ・この項の他の物よりは出土数が少ない。 玉杖(ぎょくじょう) ・持ち手の部分の先端が「スイジガイ」を模した物。 ・王権の象徴として前期古墳で重視された。 ・東は「千葉県」「埼玉県」、西は「福岡県」から出土した。 琴柱型石製品(ことじがたいしせいひん) ・「玉杖」の先端部分に似る石製品。 合子(ごうす) ・石製の容器。 ・「スイジガイ」を模した意匠を持つ。 これら「南方産貝製品」は、基本的に日本で発明された物が多いですが、「玉杖」のように、中国由来で、朝鮮半島でも見られる物もあります。また一般的には、祭祀具においても古代中国の影響は多く見られます。 「直孤文(ちょっこもん)」は、古墳時代前期に最重要視された意匠であり、「王者の紋様」と言われます。限られた古墳からのみ出土して、「首長級の豪族が使用した紋様」「彩色・紋様などが描かれた装飾古墳の石棺に施された例が多い」です。これは「渦巻き紋様を複雑に幾何学的組み合わせをした意匠」であり、「死と再生・輪廻転生・永続性」という意味を持つ「高度に呪術的な意匠」だと言われます。直孤文の意匠は「ゴホウラ製貝輪(祖形)」又は「スイジガイの形状」→「弧帯文(こたいもん)」→「直弧紋」と変遷しました。 「ヤマト王権」誕生の時期は、古墳時代開始と、古墳時代初期の「箸墓古墳(奈良県桜井市)」など「出現期古墳」の築造と、同時代に設定されています。ヤマト王権の誕生には「吉備(岡山県)」勢力が最重要の役割を果たしました。「楯築遺跡(楯築墳丘墓・たてつき・岡山県倉敷市)」は、弥生時代の吉備地方の最重要遺跡です。「楯築墳丘墓」と、「山陰地方・吉備地方~北陸地方(越国)」に分布した「四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがた)」は、「古墳の祖形」です。吉備の「特殊壺・特殊器台」は「埴輪の祖形」です。「出現期古墳」には「吉備系の副葬品・様式」が多く見られます。 「楯築墳丘墓」は、弥生時代末期(2世紀末葉)の吉備地域の大首長の陵墓で、この地で「首長霊の継承儀礼」を行っていたとされます。通常、古墳に比べると「弥生墳丘墓の規模と副葬品」は非常に劣りますが、楯築の規模は大きく(墳丘長約80m)、副葬品は弥生墳丘墓で最多、「木棺(長さ約2m、前例のない、30㎏強の美しい水銀朱が敷き詰められた物)」から「翡翠製勾玉・瑪瑙製管玉・碧玉27個からなる首飾り」「数百の小さなガラスや管玉製首飾り」「長さ47㎝の鉄剣」が出土しました。楯築には「弧帯文」が施された「施帯文石」が二個あります。一つは嘗て頂上部にあった「亀石」は、亀の形に似た一抱えもある石で、表面全体に「弧帯文」があります。もう一個は、亀石より小振りで墳墓上の円礫堆下部から出土、百個以上の破片に砕かれていました。「施帯文石」は近隣の「鯉喰神社」の物も併せて、計三つが見つかっています。 楯築墳丘墓の墳丘には、吉備国一宮「吉備津神社(きびつ・岡山県岡山市北区)」の境外末社「楯築神社」が鎮座、亀石を御神体としています。「吉備津神社(岡山市)」と、備前国一宮「吉備津彦神社(きびつひこ・岡山県岡山市北区)」と、備後国一宮「吉備津神社(きびつ・広島県福山市)」は、共に「大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと・吉備津彦命)」が御祭神として、そして古代吉備王朝との関係性が語られます。「吉備津神社(岡山市)」「吉備津彦神社」が鎮座する「吉備の中山」は、古くは神体山だったとされ、巨大な「磐座」が多く、「環状列石(ストーンサークル)」があり、命の陵とされる「中山茶臼山古墳」など、多くの古墳があります。 この「施帯文石」は、「ヤマト王権最初の都」「邪馬台国の都」である「纏向遺跡(まきむく・奈良県桜井市)」の「弧文円板」と、葬送儀礼で共通するとされます。遺跡内の「纒向石塚古墳」は全長96メートル、3世紀始め頃の築造で、最古の前方後円墳とも言われます。「くびれ(後の造り出し)」に祭祀跡があり、柱を立てて、その上に「弧紋円盤」を飾っていました。このように瀬戸内地方を代表する勢力であった「吉備勢力」の大首長墓の最上部の大石に刻まれた文様と、初期ヤマト王権の陵の遺物に刻まれた文様が、「弧帯文」「直弧紋」であった事は、この紋様の非常な重要性を示します。 「装飾古墳」には「沖縄的事物の意匠」が多く描かれていて、「海人族」や「縄文系」とされるような意匠・事物も多く描かれています。装飾古墳は「熊本県」「福岡県」に集中的に分布します。「舟」は装飾古墳によく描かれる画題で、「舟形木棺」「舟形石棺」「船形埴輪」「舟形木製品」などと共に、「古事記 仲哀記」に見える「喪船(もふね)」を表すと考えられます。これらは「被葬者の乗り物」であり、出土地は「海人族の分布」と重なるとも言います。そして「舟葬(しゅうそう)」という、「海人族の死者を船で黄泉の国へ送る葬送儀礼」に対応しています。「熊野三山」の「熊野那智大社(くまのなち・和歌山県那智勝浦町)」の絵図には、「船に死者を乗せ、海上を航行している」「船の前後に鳥居が描かれている」という図があります。 「天鳥船(あめのとりふね)」は「日本神話に登場する神」であり、また「神が乗る船の名前」です。鹿島神「建御雷神(たけみかづちのみこと)」が「天鳥船」で、祭祀氏族でもある「物部氏(もののべ)」の祖神「饒速日尊(にぎはやひのみこと)」は「天磐船(あめのいわふね)」で、天より天下っています。装飾古墳には「舟と鳥」という図柄がよく見られます。「天鳥船は舟葬に纏わる神で、海人族の習俗を表す」との説もあります。「舟葬」「鳥と舟」という形態は、古代の東南アジアから東アジアに幾つか見られ、「鳥信仰」は広く東アジア・南シベリアなどに存在していました。弥生~古墳時代には「鳥は神の国と人の世を仲立ちする存在」とされていたと言われ、折口信夫は「古代、鳥、殊に水鳥は、霊魂の具象した姿、又はその運搬者と考えられた。しかも魂の一つの寓(やど)りである」と述べてます。また「鳥」は「稲魂」「穀霊」であるとも言います。 「翳(刺羽・さしば・さしは)」は「儀式用の調度の一種」「団扇に長柄をつけたもの」「貴人の外出時や、天皇が即位・朝賀などで高御座(たかみくら)に出るとき、従者が差し出して顔を隠すのに用いた」という物です。古代の翳の実物・図柄は少ないですが、「竹原古墳(福岡県宮若市)」の6世紀後半の壁画が知られ、他に「龍」「馬を曳く人」「朱」「小舟」「三角連続文」「波形文」が描かれています。一説に「翳」は「ゴホウラの形状を祖形とする」という説もあります。そして、装飾古墳によく描かれている紋様「蕨手文(わらびてもん)」「双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)」を「翳を模した図柄」とする説もあります。 「前方後円墳」とは、大規模な祭祀が行われた古墳時代において、大規模古墳(全長100m以上)を含めて、非常に多数が造営された古墳の中でも、その頂点に位置付けられた古墳(形状)です。また、世界的にもあまり例のない形状を持った遺構です(マナの壷と類似する)。そして「前方後円墳はゴホウラ製貝輪や鍬形石の形状に酷似する」という点から、「前方古円墳はゴホウラ製貝輪が祖形になった」という説があります。「ゴホウラ製貝輪」は、左右対象に近い「鍬形石」に変化、ここから「前方後円墳」に変化し、「鉤状突起」は後円部と前方部の間の「造り出し(当初は"くびれ"で後に変化、初期は重要な祭祀場)」に変化したとすると、「ゴホウラ製貝輪と鍬形石が首長墓などでの副葬が多い」「形状の類似」「左右を非対称にする造り出しの存在理由」の合理的説明ができます。また一部の主要な「御嶽」も、「前方後円墳やゴホウラ製貝輪の形状との類似がある」と言います。「弥生時代末期~古墳時代初頭の沖縄的事物の位置付け」を鑑みると、「ヤマト王権王権で最重視された大規模施設について、沖縄的事物の中で最重視されたゴホウラ製貝輪の形状を模す」のは当然とも考えられます。 古墳時代には、「滑石」「蠟石」ほか柔らかい石を用いた「石製模造品」や、「埴(はに=粘土・赤土)」を用いた「土製模造品」が大量に作られました。「模造品」は「鏡・玉類・武具・・・」ほか多数を模造した物で、「祭祀具」として祭祀の供物としました。またこれには「翡翠(硬玉)・碧玉」などは加工が困難で、細部の模造をし難いかったからでもあります。「沖縄的事物」の「石製模造品」「土製模造品」もあります。 この他にも幾つかあり、現在判明している物以外にも「沖縄的事物を祖形とした祭祀具・装身具・意匠」だと推察する説がある物があります。詳細はまだ分かってない物が多く、推論の域の物も多いですが、これらの説の幾つかには、妥当な説があると感じられます。 これらの南方産貝製品や派生事物は、他の祭祀具・祭祀文化や各種文化と同じく、地域や氏族ごとに志向が異なっていて、その分布範囲はモノによって別れます。これにより、「この文化はA地域で発祥、B地域を経由して、C地域で完成した」「D地域の氏族が他地域に進出した」「E地域とF地域とG地域の氏族は同族か、近い関係にある」などという推定が出来ます。 また、「沖縄的事物」とは異なりますが、「ヤコウガイ(夜光貝)」も珍重されました。インド太平洋のサンゴ礁域に生息する大型巻貝で、重厚な殻の裏側に真珠層があり、古くから螺鈿細工の材料として利用されました。古代「夜久貝」「夜句貝」「益救貝」「屋久貝」などと称され、これら表記は、交易品としての需要が高まった9世紀以降の資料に多いです。奄美群島では「ヤクゲー」「ヤッコゲ」、沖縄・先島諸島では「ヤクゲー」「ヤクンガイ」と呼びます。分布の北限の「屋久島」と「ヤコウガイ」の呼称は直接結びつきません。ヤコウガイはその美しさゆえ古くから工芸品に使われ、平螺鈿背八角鏡など、「正倉院」の宝物にも螺鈿として用いられています。また奄美大島北部の6~8世紀の遺跡からは、ヤコウガイが大量に出土します。 「沖縄的事物(南方産貝製品と派生事物)」は「弥生時代後期~古墳時代」を中心に、「弥生時代前期~古墳時代後期」にわたって見られ、「九州地方~東北地方南部」に分布、古墳時代前期のヤマト王権の領域全域に分布しています。このように「沖縄的事物」は「本土の弥生墳丘墓・古墳(前期古墳)の重要な副葬品」となっていて、「弥生時代から古墳時代の日本独自の特徴的な重要文化」「最も重要な威信財・価値財の一つ」「地域の最高権力者たちが多く使用した、特別な象徴的意味を有する希少品」でした。 「沖縄的事物」は「古墳の被葬者の直近で発見される」ことが多いです。特に「ゴホウラ製貝輪」「鍬形石」などは、その副葬のされ方から(被葬者との距離・副葬の丁寧さ)、古墳時代初期を代表し、最も価値があったとも看做されている祭祀具「三角縁神獣鏡(後述)」よりも重視されていたとされています。また「三角縁神獣鏡の副葬が多いと、沖縄的事物の副葬が少ない」「三角縁神獣鏡の副葬が少ないと、沖縄的事物の副葬が多い」という事例が多く、両方の性質は共通していたと見られます。 弥生時代前期末(約2500年前)・古墳時代において、「日本本土(九州)と沖縄諸島・奄美諸島・トカラ列島・大隈諸島の間」には、「貝の道」と呼ばれる「南方産貝製品の海洋交易ルート」が存在していました。沖縄諸島以北の南西諸島では「大量加工の工房跡の遺跡」も発掘されていて、九州由来の「箱式石棺墓」を伴った遺跡など、日本本土との文化交流を物語る遺跡・遺物が多数出土しています。貝製品は一旦備蓄されてから、本土へ運ばれていきますが、「備蓄場所は呪術的な意味合いを持つようになった」という説もあります。貝製品の交易は古代においては、飛鳥時代の7世紀まで続き、後に再び9世紀から少しずつ復活していきます。 もしこれらの論説・見立ての通りだとすれば、特に「前方古円墳はゴホウラ製貝輪が祖形になった」とすれば、また後段の「日の丸の起源」などにも遡及すれば、「古墳時代やヤマト王権のみならず、現在まで連なる国家・社会の制度・構造や祭祀形態の全体像」にまで、その中核には「沖縄的な事物・観念」が存在していた事になります。そしてこの事は事実であるでしょう。 沖縄的事物と女性祭祀と海人族が示唆する、古代社会の在り方と平和の希求と大規模な変化 ここで「沖縄的事物(南方産の貝・貝製品と派生した祭祀具・装身具・意匠)が重要視された理由」「近海産でなく、南洋産の貝製品が重視された理由」というのが問題となります。「本土では希少品であること」が理由なのは当然ですが、しかしこれだけでは不十分な説明です。 また、日本の歴史学は分野内の細部まで非常に詳細な研究が重ねられているのですが、何故か「弥生時代の墓構と古墳時代の古墳の副葬品・遺物」の「沖縄的事物」だけは「威信財・装飾具として重視された」というだけで片付ける傾向があり、その原因・背景への解明が等閑にされていました。しかし「非常に重視されたという状況になるには、当時の祭祀的・思想的な背景として、何らかの合理的理由が存在していた」はずであり、そもそも「たまたま非常に重視される祭祀具・威信財となった」「たまたま他の地方の事物はそうならなかったが、沖縄的事物だけは重視された」というのは、「古代の祭祀の重要性」「祭政一致体制」「世界的に類を見ない巨大祭祀とその労力」「社会的地位の証明の重要さ」から説得力に欠けます。そして、その解明には「古墳・副葬品・各種遺物の研究」「本土の古典や著名な神話・伝承などの資料研究」「大陸の古典」だけでなく、 更に各種の資料を調査する事が重要だと言えます。 ここまで「沖縄的事物」が重視されたのは「弥生時代・古墳時代前期の祭祀観と社会の思想的観念」による物であり、それは「南西諸島(沖縄諸島・奄美諸島・トカラ列島・大隈諸島)が、特別な文化的・観念的な位置付けをされていた」という可能性が考えられます。これについて、先述の神歌の研究による論説も含めて、「南洋の島々に対して、ある種の理想郷や聖地的な観念があり、それが同地の産品・製品に投影された」、このような意味合いがあったとする見方もあります。この説は「常世を沖縄に比定する説がある」ことが論拠の一つとなります。上記のように「海の彼方に理想郷がある」という思想は、古来より日本に広く存在、この思想が影響していた事は想像するに難くありません。 「弥生時代・古墳時代の沖縄では、戦争が無かった」とされています。実際の所は不明ですが、「戦争を想定させる古代の遺構・遺物は発見されていない」「武具も少ない」ので、平和な時代が長く続いたのは確実でしょう。 逆に、弥生時代の日本本土では戦乱が起こっていて、魏志倭人伝には「倭国大乱」と書かれています。社会の大きな階層化も発生、拡大していきました。古墳時代はヤマト王権の域内でこそ、戦争は殆ど無かったものの、その時代を通して言うと、概して社会階層が固定化していき、男女格差も固定化していきました。こういった世の中を沖縄では「戦世(いくさゆ)」と呼び、人々が何時の世にも求めるのは「真の平和」です。 弥生時代に戦乱が起こった大きな要因に、「稲作など農業の発達」により「土地と水を巡る争い」が起きたと言われます。そして「農業に必要な土地・水・太陽のうち、土地と水は有限だが、太陽は誰の頭上にも等しく存在する」ので、この意味においては「太陽:平和の象徴」と成り得ます。 そして「ヤマトから下たる赤椀の世直し(ゆのーし)」という「神歌の歌詞」は、古代における「平和な世の中の希求」という状況を示しているでしょう。それは古代沖縄の「共有社会」「母系的社会」といった様相で、「平和・幸福・真の豊かさ」に近くて、そして「縄文文化への回帰」であったでしょう。 この神歌が形成された時代は、弥生時代~古墳時代である筈です。江戸時代以降に本土と沖縄の関係は再び深まっていきましたが、この時代に作られた神歌が「世直し」という歌詞を繰り返し歌う訳がありません。それ以前に本土と沖縄が密接であった時期は、弥生時代~古墳時代です。そして神歌を歌うノロの首には、弥生時代の北部九州に発する「丁字型勾玉」が下がっています。 「赤椀」とは、弥生中期(2000年~2400年前)の北部九州の赤い土器で、沖縄各地で出土する「須玖式土器(すぐしきどき)」だと、上記論では説明されています。「須玖岡本遺跡(福岡県春日市)」は須玖式土器の標識遺跡で、豪華な副葬品があり、魏志倭人伝の「奴国」の都はこの付近にあったとされ、九州で最大の規模でした。「斎場御嶽」では「金の勾玉」などが出土しましたが、より下層で「須玖式土器」と「火を炊いて神祀りをしたらしい物証」が出土、往古からの聖地であると立証されました。 「ヤマトから下たる赤椀の世直し(ゆのーし)」と、類似の詞を持つ「神歌・祝詞(のりと)」「古代歌謡」は、「古代日本の多くの土地で歌われていた」のかもしれません。時代背景と遺物の状況を考えれば、平和や世直しの話題が社会の主要関心事の一つであった事は間違いないでしょうし、ならばそれを「神歌・祝詞」「歌謡」などの形で歌っていた筈です。しかし「口承歌謡であるので、文化継承が行われ得ない時代背景があって、後代に継承される事はなかった」という可能性も考えられます。 上記の論では、古墳時代後期後半~古墳時代前期の古代日本において、以下の様相があったと説明されている ・沖縄・南西諸島は、ある種の聖地的な場所であった。 ・その理由は沖縄が平和な世が続いていて、女性が尊重された社会だったからである。 ・太陽は、その光線の平等性から、平和の象徴とされた。 ・そこで太陽を象徴するとされる巻貝などの沖縄的事物に、平和思想が仮託された。 ・本土の一部地域で起こった平和への希求と、沖縄の精神的文化が合わさって、世直しの運動となった。 ・世直し運動は弥生時代中期の北部九州に発し、瀬戸内地方や中国地方全般へ至った。 ・一時期の途絶がありながらも、畿内へ東遷、弥生時代末期にヤマト地方へ至った。 ・世直し運動と沖縄的事物は、邪馬台国や初期ヤマト王権の精神的支柱であり、広範な国が参加した連帯運動であった。 ・巻貝の形状に意味があり、鏡と須玖式土器(本土では弥生中期のみ)と共に、太陽信仰の象徴だった。 ・南方産巻貝を祖形とした、鍬形石・車輪石・直弧文なども、太陽信仰の象徴であった。 ・前方後円墳の形状の祖形は鍬形石で、ゴホウラ製貝輪が起源である。 ・古墳時代前期末に、ヤマト王権の体制の劇的な変容によって、世直し運動は終焉した。 ・沖縄的事物は廃絶されていき、本土と沖縄が離れていった。 「北琉球の土器様式を南九州側が受容した事例」が、近年報告されています。これにより「古代に沖縄文化が日本本土に流入した事例がある」ことが判明、上記論説の当否とは別に、論が成立し得る事は判明しました。土器形式の変遷・影響は判別がしやすい物ですが、他の事物にも「古代に沖縄文化が日本本土に流入した事例」の可能性が、複数の事物について言及されています。 いずれにしても「弥生時代・古墳時代の沖縄と日本の祭祀・文化・社会の状況と、沖縄的事物の神聖視は、直接的に関連する」という可能性はかなり高いでしょう。そしてこういった論説に拠れば、「弥生時代の墓構と古墳時代の古墳の副葬品・遺物」「古代日本で重要視された物に沖縄に関連する事物が多い(クバなど)」「沖縄と本土日本の古層が共通する」「沖縄に日本語の古語が多く残る」「本土日本語と琉球方言の分岐が弥生時代~古墳時代前期とされる」という点を、素直に解釈できます。 南方産貝製品を交易した集団と、南方産貝製品に深く関わった集団としては、「隼人」と「海洋民・海人族」が挙げられます。先述のように、南九州の「隼人(はやと)」は「文化的・言語・祭祀(呪術)な独自性」「縄文的な様相」を多分に有した集団で、南西諸島への海路への影響力を持っていました。 古代日本の形成過程においては「海洋民・海人族(あまぞく)の文化・祭祀面の影響が強かった」とされ、「阿曇族(あづみ)」「宗像族(むなかた)」「海部氏(あまべ)」「凡海氏(おおあま)」「息長氏(おきなが)」などが知られ、「和珥氏(わに)」「久米氏(くめ)」「忌部氏(いんべ)」なども海人族的な性質が指摘されます。 縄文時代中期の6000年前をピークとした温暖な時期、日本列島の「海岸線」は現在よりも遥かに内陸にあり、そして入り組んでいて、「内海」「湖沼」が多く存在しました。現在のように土砂堆積や埋め立てなどで、乾燥した陸地が広がり、陸上交通が容易になったのは中世~近世以後のことです。近世まであった「香取海(かとりのうみ)」は「霞ヶ浦・北浦・印旛沼・手賀沼・利根川などに跨った広大な内海」であり、「東京湾」の海岸線はもっと内陸にありました。「奈良盆地」の標高45メートル線以下には、奈良時代以前の住居跡や遺物は無く、古くは湖・湿潤地の「大和盆地湖」がありました。「大阪湾・大阪平野」は「茅渟海(ちぬのうみ)」「河内湖(現在の学術的呼称)」「難波八十島」と呼ばれ、東大阪市付近まで入り江があって、「奈良盆地」「京都盆地」「琵琶湖」との舟による交通は、遥かに容易でした。 古代の主要な交通機関は、弥生時代中期以降に用いられた「軽野・枯野(かれの・からぬ)」と呼ばれる「準構造船」で、これは「丸木舟」に波切(なみきり)板や舷側(げんそく)板を備えて強固にした船です。取り分け「海洋民・海人族」は舟の扱いに長けていて、彼らは「国内各地や大陸・朝鮮半島との航海による交易」を握っていて、その動向は古代社会や王権に大きな影響を与えました。その過程で「祭祀形態」でも、海洋民・海人族に由来する事物が普及していき、そて日本各地の特に沿岸部に「文化」「地名」などで痕跡を残しました。しかし海人族の多くの氏族は、謎の多い氏族と言われます。 貝製品を運搬したのは「九州地方西北部(北部)」の集団とされ、ここは「安曇族・宗像族の本貫地」です。彼らは当時において、進んだ先進的集団で、故地は文化的先進地であり、また南方産貝製品が多く出土しています。 古墳時代・飛鳥時代・奈良時代の氏族について、以下の概念が重要です。 ・朝廷の氏姓制度・姓(かばね)の制度として、同族のなかの特定のものが、 「臣(おみ)」「連(むらじ)」「伴造(とものみやつこ)」「国造(くにのみやつこ)」 「百八十部(ももあまりやそのとも)」などの地位をあたえられ,それに応ずる氏姓を賜った。 ・「伴造(とものみやつこ)」とは「部民制の部の人々を率いた人」を指し、氏族集団の中でも中心の氏族が世襲した。 ・氏族集団には「血縁の氏族」と「擬制氏族(血縁はないが、地縁ほかの縁故で、一氏族と称した)」がある。 部民制(べみんせい) ・朝廷の仕事を分掌して奉仕・従属した体制 ・その種類は極めて多く、「何らかの仕事にかかわる一団」「王宮や豪族に所属する一団」の二つに大別される。 ・具体的な職掌名を帯びる「職業部」、技術者集団である「品部(しなべ・ともべ)」、 王権に服属した地方首長の領有民である「子代(こしろ)」「名代(なしろ)」、 中央の豪族の領有民である「部曲(かきべ)」、部曲の類似概念で、諸豪族の名を帯びる「豪族部」に分類される。 ・職業部 ・具体的な職掌名を帯びる部のことで、それぞれ伴造に統率され、朝廷に所属する。 ・「海部(あまべ)」「錦織部(にしごりべ)」「土師部(はじべ)」「須恵部(すえべ)」「弓削部(ゆげべ)」「麻績部(おみべ)」 「渡部(わたりべ)」「犬養部(いぬかいべ)」「馬飼部(うまかいべ)」「鳥飼部(とりかいべ)」「解部(ときべ)」などの例がある。 ・子代(こしろ)・御名代(みなしろ) ・王(宮)名のついた部。「舎人(とねり)」「靫負(ゆげい)」「膳夫(かしわで)」などとして奉仕する。 ・「刑部(おさかべ)」「額田部(ぬかたべ)」などの例がある。 ・御名代には在地の首長の子弟がなる。 ・子弟たちはある期間、都に出仕して、大王の身の回りの「世話(トネリ)」「護衛(ユゲヒ)」「食膳の用意(カシハデ)」にあたった。 ・豪族部 ・諸豪族の名を帯びる部。 ・例として畿内の有力豪族「巨勢臣(巨勢氏・こせ)」」の「巨勢部」、「尾張連(尾張氏・おわり)」の「尾張部」、「大伴連(大伴氏・おおとも)」の「大伴部」、「蘇我臣(蘇我氏・そが)」の「蘇我部」などがある。 ・多くの氏族集団には「大和地方周辺にいた中央の氏族」「品部としての地方の氏族」「品部の氏族に属する部曲」の三種類がいた。 ・5世紀に整備されたと見られ、律令制の実施に伴って廃止されていく。 律令制の実施後の部称は、たんに父系の血縁を表示するだけの称号であるにすぎず、所属する集団との関係を示すものではない。 「宗像族(宗像氏・むなかた)」は、「宗像大社(福岡県宗像市)」と「宗像三女神」を奉祀しました。宗像三女神は「田心姫神(たごりひめのかみ)」「湍津姫神(たぎつひめのかみ)」「市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)」の三神、「海の神」「航海の神」「水先案内の神」「先導神」「祓神」「水神」です。日本書紀に「天照大神は、宗像三女神に(中国大陸や朝鮮半島への)道の中にあって天孫を助けよと命じ、三神は道主貴(みちぬしのむち)と命名された」とあり、古代に国家的崇敬を受けた神でした。 宗像大社は「辺津宮(宗像市田島・九州本土)」「中津宮(宗像市大島)」「沖津宮(宗像市沖ノ島)」の三宮からなります。沖津宮が鎮座する「沖ノ島」は玄界灘の孤島で、宗像大社の神領として年一回の祭礼以外は立ち入り禁止です。亜熱帯性植物の北限で「ビロウ(クバの木)」「オオタニワタリ」等が生育、森林域は「タブノキ」「ヤブニッケイ」等を中心とした「沖の島原始林」は国指定天然記念物になっています。そして沖ノ島は「古代(古墳時代・飛鳥時代)に国家的祭祀が行われていた島」であり、各所に古代祭祀の遺物が点在する様は「海の正倉院」と称され、縄文時代前期~弥生時代の物も含めて、嘗て一部を発掘して出土した遺物八万点全てが、国宝に指定されています。 「市杵島姫神」は「神に斎(いつ)く島の女性=身を清めて大切に神を祀る巫女)」の意味、中世に「弁財天(べんざいてん)」と習合(同一視)して、各地の「厳島神社(いつくしま)」に祀られています。宗像三女神を奉じる神社は各地に鎮座、「水辺」「海辺」に多く祀られていて、これは宗像族の各地への進出も大きな要因です。魏志倭人伝には「倭人は黥面文身(入墨)をしている」とあり、これ南方系習俗ですが、一説に「宗像族の名の由来は胸と肩に文身をしていたから」とも言い、古くは「胸肩」「胸形」「胸方」「宗形」とも表記しました。「高市皇子(たけちのみこ)」は、7世紀中頃~後半の第四十代「天武天皇(てんむ)」の皇子で、「壬申の乱」で功績を挙げました。母親は宗像族で、十人の皇子の中では身分は低かったですが、各状況から「天皇だった」との説もあります。 (以下の意味もある 「厳・稜威(いつ) 」:「神聖であること。斎(い)み清められていること」「勢いの激しいこと。威力が強いこと」、 「厳し(いか・し)」:「霊威が盛んである。神秘的な力に満ちている」「たけだけしい。荒々しい」、 「厳(いち・いつ)」→「いちはやぶる」→ 枕詞の「ちはやぶる」) 「息長氏(おきなが)」は、「近江国坂田郡(滋賀県米原市)」を中心に「琵琶湖」東岸を本拠とした有力豪族で、海人族と言われ、「製鉄」氏族とも言われます。「神功皇后(じんぐう)」は別名「息長帯比売命(息長足姫命・おきながたらしひめのみこと)」と言い、第十四代「仲哀天皇(ちゅうあい)」の皇后です。各地の「八幡神社(はちまん)」に祀られる「八幡三神」の一柱で、記紀などに多くの伝承が伝わります。「息長帯比売命は息長氏」とする説は有力です。記紀には息長氏と皇室の関わりを物語る説話が多く載ります。一説に「息長」とは「息が長い」を意味し、「潜水を専門とする海人集団」とする説もあります。近江は弥生時代の一大中心地であり、特に琵琶湖南東部の「野洲市(や守山市)」は、「国内最大の銅鐸(高さ134.7cm・重さ45.47kg)」を含む「日本最大の銅鐸産出地」、「鉄の生産地域」であり、そして「重要遺跡」が点在しています。 第二十六代「継体天皇(けいたい」は、現在の皇統に連なる事が確実な最古の天皇で、自身と父が「近江国高嶋郷三尾野(滋賀県高島市)」出身、「息長氏系」だとも言われます。また「越国(こしのくに)」の系統とする説もあります。皇位に就く前は「越前国(福井県)」にいて、同地方を開拓、「男大迹王(をほどのおおきみ)」と呼ばれていました。皇位に就く為に同地を離れる前に、自らの霊を「足羽山(あすわ・福井県福井市)」の、後の「足羽神社」に鎮めて、娘の「馬来田皇女(うまぐたのひめみこ)」に「斎主」を託しました。継体天皇は現在も足羽神社に祀られていて、足羽山山頂に銅像が建っています。その周辺の「山頂古墳」は4世紀末の築造、「舟形石棺」の周りに「直弧文」「円弧文(同心円文)」が刻まれていて、最古の「装飾古墳」の一つです。 「海部氏(あまべ)」について、「海部・海人部(あまべ)」とは「漁業と航海技術によって朝廷に奉仕した部」であり、、氏族としての「海部氏(あまべ)」は「海部を統括する伴造氏族」です。言わば「海部(あまべ)」は「海人族の職業集団の一般的名称」であり、「海部氏」は「海部を代表する氏族」でした。そして「海部(あまべ・かいふ)」ほか、「海部」に纏わる地名は各地に見られます。 「凡海氏(おおあま)」は、「摂津国(大阪府)」「京都府北部の日本海沿岸」などに居住しました。一時期「海部の伴部」であったとされ、「新撰姓氏録」に「阿曇氏(後述)の同族」とあり、丹後国一宮「籠神社(この・京都府宮津市)」を奉祀しました。「籠神社」は、最も著名な「元伊勢(伊勢神宮が元々祀られていたとの伝承を持つ神社)」であり、二千年以上前の「日本最古の家系図」「世界最古の伝世鏡」が伝わり、「かごめ歌」に関連付けられて語られるなど、多分に神話性と神秘性を秘めています。数キロ離れた「大風呂南遺跡(京都府与謝野町)」では、西暦200年頃(弥生時代末期)の「弥生墳丘墓2基」「鉄剣11本」「ガラス製釧」「銅釧13個」「大量の鉄製品・管玉・朱」など、同時代の最も豪華な副葬品を持つ遺跡の一つで、この地域に強大な首長がいたとされます。周辺には、他にも「元伊勢」の神社が幾つも鎮座、「伊勢神宮外宮」の御祭神「豊受大神(とようけおおかみ)」は、この地域にいたとされ、多くの伝承が伝わります。また周辺には「龍宮伝説」「浦島太郎(浦嶋子)伝説」「天羽衣伝説」「徐福伝説(中国・秦王朝の始皇帝に、神仙境に不老不死の霊薬を取りに行くと具申、多分野の技術者など三千人を従え、五穀の種を持ち、船で東方に渡り王となり、帰らなかった)」なども伝わります。 (「凡海」の表記と読み:「凡海」「大海」「蒭蒲」「おおあま」「おほあま」「おほしあま」「おほさま)」) 籠神社の御祭神は「彦火明命(ひこほあかりのみこと)」、「太陽神」「農業神」「出雲神の系統」です。命の後裔は、尾張(愛知県)の有力氏族「尾張氏(おわり)」などがいて、祭祀氏族でもあった「物部氏(もののべ)」との関係も語られ、また「海部氏と凡海氏と尾張氏は物部氏系氏族(血縁が濃い)」とも言われます。「住吉大社(すみよし・大阪府大阪市住吉区)」の宮司家で、海人族である「津守氏」も、天火明命の後裔です。住吉大社は全国の「住吉神社」の本社、同社に代表される「住吉造」は最古の神社建築様式の一つで、御祭神は「住吉三神」「息長足姫命」、総称して「住吉大神」と称して、海人族に縁が深い神社です。 (「彦火明命」は一般に「天火明命(あめのほあかりのみこと)」と呼ばれる) (「住吉三神(すみよしさんじん)」とは「底筒男命(そこつつのおのみこと)」「中筒男命(なかつつのおのみこと)」「表筒男命(うわつつのおのみこと)」。住吉三神の別名か、又は後述の「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」を加えて、「住吉大神」と呼ぶ) 第四十代「天武天皇(てんむ)」と第四十一代「持統天皇(じとう)」の治世(7世紀後半・飛鳥時代のうちの白鳳時代)は、「日本の統治機構・宗教・歴史・文化の原型が作られた重要な時代」とされます。「天武天皇」の元の名「大海人皇子(おおあまのおうじ)」は「幼少期に養育を受けた凡海氏に因む」とされ、「壬申の乱(672年)」では凡海氏の助力を受け、海人族の全体的な応援もあったとも言われます。 「久米氏(くめ)」は「軍事氏族」で、海人族でもあったと言われます。久米氏は、南九州の「隼人(はやと・鹿児島県と熊本県)」「肥人(くまひと・熊本県)」と呼ばれた人々と関係が深いとされます。「久米」は、「熊本県」「肥後国(熊本県)」「肥前国(佐賀県・長崎県)」「肥(くま)」「球磨(くま)」に繋がる名称です。古くは、記紀に見える「熊襲(くまそ)」に由来すると言われます。「久米氏」の由来を、魏志倭人伝の「狗奴国(くなこく?)」に求める説があり、「邪馬台国北九州説」では「邪馬台国:九州北部」「狗奴国:肥後国菊池郡・球磨郡を中心とした九州南部」にあったとしています。また「九州南部が朝廷に服従した時期」は、「東北地方中北部」を除くと「本土日本では最も後の時期」です。 (「久米氏」の別表記:「来目氏」) (弥生時代後期・古墳時代初期の「狗奴国」は、「尾張国(愛知県)」に都があり、「関東地方」まで領域内だったとする説も有力) 「熊襲」は「隼人」の古名だとされ、「狗奴国」→「熊襲」→「隼人」→「久米」と繋がる可能性があります。「隼人:鹿児島県中心:朝廷に臣従」「熊襲:熊本県南部~鹿児島県西北部:朝廷に反抗」というように、やや様相が異なる部分があり、「熊襲が服従後に隼人と呼ばれるようになった」「隼人の服属は7世紀末頃(6世紀末・7世紀初め・5世紀説もある)」とされます。隼人は「薩摩隼人(鹿児島県西部)」「大隅隼人(鹿児島県東部)「多褹隼人(たね・種子島と屋久島)」「甑隼人(こしき・甑島)」「日向隼人(宮崎県)」から成り、「五島列島(長崎県)」にも似た集団がいたと言います。熊襲は「肥後国球磨郡(熊本県人吉市)から大隅国贈於郡(鹿児島県霧島市)」にいました。 (「薩摩隼人」は「阿多隼人(あた)」「吾田隼人(あた)」とも呼ぶ) (「熊襲」は「熊曾」「球磨囎唹」とも表記される) 隼人は「呪術的要素が濃い」「土着性が強い(他の地域の言語・文化とは異にした)」「縄文的要素が高い」という部族でした。その呪術性により、隼人は「都や殯宮の衛兵として邪を除ける」などの役割を与えられました。山幸彦・海幸彦」の説話では、「隼人」は「海幸彦(うみさちひこ)」=「火照命(ほでりのみこと)」が祖だと記されていて、これは「隼人の朝廷への服従」を物語る説話とされます。「神武天皇東征説話」に見える「来目歌」、「戦闘歌舞の代表」といえる「久米舞」も、久米氏の塗り替えられた由来を伺わせます。また、先述の「装飾古墳」「石人・石馬」は、熊本県の「菊池川」周辺に最も集中、これは「熊襲の居住地の北方」であり、「古代の福岡県~熊本県」には複雑な様相や文化がありました。 久米氏の祖「大久米命(おおくめのみこと)」は「神武天皇の東征」に従った人物で、「黥利目(さけるとめ・入墨をした目)」を持っていました。「阿曇氏(後述)」も「阿曇目(目の縁の入墨)」をしていて、久米氏との関係が語られます。「大伴氏(おおとも)」と「久米氏」は「膳夫(かしわで・宮中で食膳の調理をつかさどった人々)」を務めていて、「古来より神に供される御贄(みにえ)には海産物が主に供えられた為、海人系氏族の役割とされた」という事から、両氏族の海人族的性質が伺えます。「大伴氏」は軍事氏族で、「親衛隊的な大伴氏」「国軍的な物部氏」という違いがあり、「皇宮警察・近衛兵」のような役割をしていました。万葉集の有名な歌人「大伴家持(おおとものやかもち)」の歌に「大伴の 遠つ神祖の その名をば 大来目主と 負い持ちて 仕えし官」「大久米の 丈夫健雄を 先に立て 仕え来る 祖の職と 言立てて」とあります。これらから「久米氏が大伴氏と姓を変えた」とも言われ、これによれば「久米氏の衰退と大伴氏の興隆が同時期(5世紀か)」である事の説明がつきます。そして「黥面文身が大和地方から消え、地方にも波及、後に刑罰となった」という点は、海人族の消長を伺わせます。 (「神饌(しんせん)」「御饌・御食(みけ)」「御贄(みにえ)」とは、神・神社・神棚に供える供物で、米・五穀・御神酒や海産物などの食事が多いが、食事以外もある) また柳田國男は、本土の海岸地方から沖縄諸島にかけて、「久米(くめ)」=「久米島(沖縄県久米島町)」ほか、「酌(くみ)」「古見(こみ)」という名の米作適地が多く点在するとして、これを「南方系文化・稲作の渡来経路」「久米島は久米氏の故郷」とする論説を掲げました。 「忌部氏(斎部氏・いんべ)」は「最も代表的な祭祀氏族」であり、また海人族的な性質を多分に有しています。忌部氏は、古代の朝廷祭祀を「中臣氏(なかとみ)」と共に担っていました。「忌み(いみ・古代の用法)」「斎み(いみ)」とは「神に対して身を清め穢れを避けて慎む事」を指し、忌部氏は「古来より穢れを忌み、心身を斎み清めて神事・祭祀に奉仕、宮廷祭祀に用いられる各種の神具の製造や、神殿宮殿の造営に関わってきた氏族」です。特に「麻(大麻)」を、また「粟(あわ)」「穀(梶・かじ)」「桑(くわ)」「楮(こうぞ)」を栽培して、「木綿(ゆう)」「御幣(ごへい)」「神服(かんみそ)」ほかの祭祀具などを製造しました。故地にはこれら植物名の付く地名が多いです。非常に重要な氏族ですが、早期に衰退して、謎が多いとされます。 (「忌部氏の表記と読み:「忌部」「斎部(齋部)」「伊部」「員弁」「井辺」「印部」「諱部」「鋳部」「いんべ」「いみべ」「いむべ」「いなべ」「いべ」「きべ」「ものいべ」) 忌部氏祖神「天太玉命(あめのふとだまのみこと)」は「占いの神」「神事の神」であり、「天照大神の岩戸開き」でも活躍しています。「天太玉命」従った神を「忌部五部神」と呼びます。忌部諸氏には以下の氏族がいて、「租庸調(そようちょう)」の「調(みつぎ・みつき)」として、朝廷に祭祀具を献納しました。また、他にも「忌部氏系とされる氏族」「忌部氏が奉じた神という説の神」が多数います。 忌部氏 中央の忌部氏 ・奈良県橿原市忌部町(大和国高市郡金橋村忌部)周辺を根拠地とした。 阿波忌部氏(あわ・徳島県) ・祖神:天日鷲命(あめのひわしのみこと) - 紡績業・製紙業の神 ・中央の氏族以外では、忌部諸氏の中心の氏族。 ・「木綿」「麻」を朝廷に納めた。 ・「阿波国」は、古くは北部は「粟国(あわのくに)」、南部は「長国(ながのくに)」と呼んだ。 阿波国十郡のうち、南部に「那珂郡(なか)」「海部郡」が置かれた。 ・「阿波國続風土記」には「阿波國は海國(あまのくに)の意」 「凡直(おおしのあたい・南海道)、粟凡直(あわのおおしのあたい・阿波国)は海神に縁(えにし)があり」「凡直は尾張連・凡海連・安曇連と同祖」とある。 讃岐忌部氏(さぬき・香川県) ・祖神:手置帆負命(たおきほおいのみこと) - 木工の祖神 ・「矛竿(ほこさお)」「盾」を朝廷へ納めた、「矛竿」とは「竿竹(さおだけ)の幟(のぼり)」の祭祀具。 ・「讃岐」の語源は「竿調国(さおつきのくに)」とも言う。 紀伊忌部氏(きい・和歌山県) ・祖神:彦狭知命(ひこさしりのみこと) - 木工の祖神 ・「木」を朝廷に納め、「宮殿」を作るなどした。 ・「紀伊国」は元は「木国(きのくに)」と言って、良質な木の産地で、「丸木舟」「準構造船」も多く作られた。 出雲忌部氏(いずも・島根県) ・別名:玉作氏(たまつくり) ・祖神:櫛明玉命(くしあかるたまのかみのみこと) - 玉類製造の神 ・「玉(ぎょく)」を朝廷に納めた。 筑紫忌部氏(ちくし・福岡県) ・祖神:天目一箇命(あめのまひとつのみこと) - 鍛冶の神 ・天目一箇命は「ダイダラボッチ」と関係があり、「ひょっとこ(火男)」の原型とも言う。 ・「古語捨遺」に「筑紫・伊勢に天目一箇命を祖とする忌部がいた」「命に刀・斧・鉄鐸・鏡を作らせた」とある。 ・「筑紫忌部氏」と「伊勢忌部氏」は「鍛冶として刀・斧を貢納した」とも言う。 伊勢忌部氏(いせ・三重県) ・祖神:天目一箇命(あめのまひとつのみこと) - 鍛冶の神 ・「伊勢神宮」に「神衣(かんみそ)」を献納した伊勢の「麻続氏(おえ)」は「天日鷲命」の後裔で、「阿波忌部氏」系とも言う。 安房忌部氏(あわ・千葉県) ・祖神:天富命(あめのとみのみこと) ・「天日鷲命」後裔の「天富命」は、初代「神武天皇」に東国開拓を命じられ、忌部諸氏を率いて(後の)安房国に上陸した。 後裔は「房総半島」を開拓、「常陸国(ひたち・茨城県)」に進出した。 ・「安房」「阿波」の名は「粟」に由来する。 千葉県の「上総国(かずさ)」「下総国(しもうさ)」の「総(ふさ)」とは「麻」を意味する。 これらは良質な「粟」「麻」が取れた事に由来する地名という。 ・「阿波國続風土記」には「阿波國は海國(あまのくに)の意」とある。 ・古代の「安房国」は、海産物を朝廷に献納する「御食国(みけつくに)」の一つであった。 「国生み」神話には、「阿波への道」の意とも取れる「淡路島(兵庫県)=淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)」が最初に、次に「四国島=伊予之二名島(いよのふたなのしま)」が生まれたとあります。また「伊予之二名島」は「胴体が一つで、顔が四つあり、其々名前がある」のですが、「阿波」の名の「大宜都比売(おほげつひめ)」とは「食物神」「五穀と養蚕の起源の神」「豊受大神と同神とする説がある」という神です。また記紀には、「国生み」ほか「阿波」を想定させる記述が多く、「邪馬台国阿波説(四国山上説)」もあります(主流説ではない)。これらは「阿波と忌部氏」の重要性をうかがわせる物です。 「筑前国の北部(福岡県)」「阿波国(徳島県)」「紀伊国の南紀(和歌山県)」「伊勢国と志摩国(しま・和歌山県)」「伊豆国(静岡県)」「安房国(千葉県)」などには、「阿波・安房・粟・淡(あわ)」「那珂・那賀・那加・長(なか・なが)」「勝浦・勝占・桂(かつうら・かつら)」「白浜(しらはま)」ほか、共通する地名が幾つもあります。これら地域は「忌部氏」と「軽野・枯野」「準構造船」という共通性が伺えます。 また、古代の「香取海(かとりのうみ)」は「東国の交通の拠点」で、「香取神宮(千葉県香取市)」は中世まで香取海の船の往来の権益を所管していましたが、「香取」は古くは「楫取」と言い、「船の舵取り」と同じで、これは阿波の「吉野川」を往来する「楫取船(かんどりせん)」や、に由来する名称だともいわれます。「香取神宮」は「物部氏(もののべ)」の神社で、物部氏の祖に「梶取阿刀造等の祖・天津麻良(あまつまら)」がいて、ここから「香取」とは「物部氏」「忌部氏」の両氏族に関する名称とも考えられます。 「和珥氏(わに)」は「5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族」「出自については2世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ朝鮮系鍛冶集団とする説がある」「七人の天皇に九人の后妃を出した」「春日氏・小野氏・柿本氏などの十六氏族を輩出した」という氏族で、海人族だったという説があります。「和珥」とは「鰐(わに)」で、古くは「鮫(さめ・鰐鮫)」を意味しました。「山幸彦と海幸彦」の説話において(後述)、「綿津見神は和邇(鮫や魚)を呼び寄せ、一匹の和邇が山幸彦をが地上に送り届けた」「豊玉姫の正体は八尋和邇(やひろのわに/一尋=1.8m))」となっています。 (和珥氏氏族・部の名は「和邇」「和迩」「丸邇(わに)」「丸(わに)」「丸子(わにこ)?」とも表記される) 「阿曇族(阿曇氏・あづみ)」は「阿曇族」「安曇族」とも表記されます。名称は「海人津見(あまつみ)」の転訛とされ、「津見:住みの古語」と言われ、その説では「海に住む人」を意味します。「日本書紀」に「応神天皇三年(272)、諸国の海人の騒ぎを鎮めた大浜宿禰(おおはまのすくね・阿曇氏祖)を海人の統率者とし,同五年海部を定めた」とあります。律令制の下では、宮内省に属する「内膳司(ないぜんのつかさ・天皇の食事の調理を司る)」の長官を務めていて、先述のように「古来より神に供される御贄(おにえ)には海産物が主に供えられた為、海人系氏族の役割とされた」ことに由来します。 氏神は「志賀海神社(しかうみ・福岡県福岡市)」、博多湾の「志賀島」に鎮座します。志賀島は「漢委奴国王印の金印」の出土地で、「後漢の光武帝が建武中元二年(57)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印」とされ、「鈕(ちゅう・つまみ)」は「南方諸民族に与えられる蛇紐」となっています。阿曇族は古墳時代後期、本拠地を離れて日本の多くの地域に進出していき、その故地には「阿曇」「安曇」「厚見」「厚海」「渥美」「阿積」「泉」「熱海」「飽海」「安津見」などの地名が付いています。志賀島を離れた後の本拠地は、信濃国三宮「穂高神社(ほたか・長野県安曇野市)」、「奥穂高岳(3190m/長野県松本市・岐阜県高山市)」頂上に「嶺宮」が鎮座、内陸にも拘らず、例大祭「御船祭」では船形の山車が巡幸します。阿曇氏が本拠を離れた原因は、継体天皇二十一年(527)の「磐井の乱(いわい)」、天智天皇二年(663)の「白村江の戦い」の敗北での「安曇比羅夫(あづみひらふ)」の戦死にあるとも言われます。 「磐井の乱」で朝廷軍に敗れた「筑紫君磐井(ちくしのきみいわいのきみ)」は、「岩戸山古墳(福岡県八女市)」の被葬者とされ、阿曇氏だとも言われます。「岩戸山古墳」は九州北部最大の古墳(全長170m以上の前方後円墳)で、6世紀前半築造、埴輪の代わりに「人物・動物・器財」を象った「石人・石馬」という独特の副葬品が建っています。「石人・石馬」は「福岡県の八女丘陵と筑後川中流など」「熊本県」「大分県北部」に集中して分布、この地域は「装飾古墳」も多く、また「博多湾沿岸」にも「装飾古墳」が点在します。この分布には「海人族」「在地性・土着性の高い文化」「縄文文化への近さ」という共通した様相が伺えます。 阿曇族の祖神「綿津見神(わだつみのかみ)」は「海の神」「龍宮の神」です。「山幸彦と海幸彦」の説話において、「山幸彦(やまさちひこ)」は、兄の「海幸彦(うみさちひこ)」の釣り針をなくして困っていた所で、潮流の神「塩椎神(しおつちのかみ)」に、竹籠の小舟「無目籠(まなしかたま)」を与えられ、海神「大海津見神(おおわたつみのかみ)」がいる海底の宮殿「綿津見神宮(わたつみのかみのみや)」に行くようにと教えられました。そこで山幸彦は、大綿津見神の娘「豊玉姫(とよたまひめ)」と結婚、後に綿津見神から「潮位を自在に操る宝珠」である「潮満瓊(しおみつたま)」「潮乾珠(しおふるたま)」を授与されました。「山幸彦=火遠理命(ほおりのみこと)」と「豊玉姫命」の孫に、初代天皇「神武天皇(じんむ)」がいます。「海幸山幸」の伝承や、「海幸彦」「山幸彦」「豊玉姫」を祀る神社は「宮崎県」「鹿児島県」に多く、「鹿児島」の由来説に一つに「無目籠が鹿児山で作られた」という説があります。また両県 (「綿津見神」は「底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)」「中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)」「上津綿津見神(そこつわたつみのかみ)」の三神の総称) (「綿津見神」は「大海津見神(おおわたつみのかみ)」「海神(わたつみ・わたのかみ)」「豊玉彦(とよたまひこ)」「海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)」「少童命(わたつみのみこと)」「志賀神(しかのかみ)」、「山幸彦」は「火遠理命(ほおりのみこと)」、「海幸彦」は「火照命(ほでりのみこと)」、「塩椎神」は「塩土老翁命(しおつちのおじのみこと)」「塩筒老翁」「事勝因勝長狭神(ことかつくにかつなぎさのかみ)」、「無目籠」は「無目籠・無目堅間・无間勝間(まなしかたま・まなしかつま)」、「綿津見神宮」は「綿津見の宮(わたつみのみや)」、「豊玉姫」は「豊玉毘売命」、「潮満瓊」は「潮盈珠(しおみつたま)」「思則潮溢之瓊(おもえばしおみちのたま)」、「潮乾珠」は「潮涸瓊(しおひのたま)」「思則潮涸之瓊(おもえばしおひのたま)」とも呼ばれる) (「塩土老翁命(しおつちのおじのみこと)」は、陸奥国一宮「鹽竈神社(しおがま・宮城県塩釜市)」の御祭神) 「貝製品と派生事物」は「生命力を与える」、「潮満瓊」は「血潮を満たす」、「豊玉彦」は「魂を殖やす」という共通した意味合いが見受けられます。似た説話の「浦島太郎」の「龍宮城」は、「蓬莱山(ほうらいさん)」にあり、「古代中国で東の海上(海中)にある仙人が住むといわれていた仙境」です。「ニライカナイ・常世・根の国・龍宮・蓬莱山」などには、「海の彼方にある(ともいう)」という点など通底する物があり、これら伝承の背景には海洋民集団があります。そして「海神・龍宮・龍神・浦島太郎」などの伝承は沖縄に色濃く存在します。これらから、こういった神・伝承・説話の起源には沖縄が絡むという可能性を感じ取れます。 「海・海人・海部・海女・海士(あま)」は「天(あま)」と読みが共通して、これは「古代における海人族の存在の重要性」の傍証ともする説もあります。上記のように、古代の社会・祭祀においては、海人族の動向が非常に重要で、「阿曇族」「宗像族」「海部氏」「忌部氏」は共に、祭祀面でも非常に重要視される氏族です。このように重要だった「海・海人・海部・海士(あま)」と、当然ながら重要である「天(あま)」の読みが一致するのは、偶然にしては出来過ぎていて、「両概念の読みの一致の背景には、古代における海人族の重要性が関係する」とも言われます。 また一説に「琉球の創生神・アマミキヨは、海人(アマンチュー)」に由来する神である」「奄美は海人に関係する名称である」とも言われます。これら共通点の背景には、同一の古代の社会的背景が垣間見えます。 他の海人族としては、下記の氏族が挙げられることがあります。 紀氏(き) ・紀州(和歌山県)の古族で、日本最古の氏族の一つであり、「紀伊国」「木国」の国名に纏わる。 ・第八代「孝元天皇(こうげん)」の子孫で、「武内宿禰(たけうちすくね)」の子「紀角宿禰(きのつののすくね)」を始祖とする。 ・紀氏の流れを汲む「紀伊国造(きいくにのみやつこ)」、初代「神武天皇」の畿内平定の後に国造に封じられ、 「天道根命(あめのみちねのみこと)」の嫡流であるとされる。 ・「紀伊国造家」は「日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)」の宮司家である。 ・紀氏と紀伊国造は、木の神「五十猛神(いそたけるのかみ)」と縁が深い。 ・「紀伊忌部氏」とも関連性がある。 ・「古今和歌集」編者の「紀貫之(くのつらゆき)」「紀友則(きのとものり)」を輩出した。 越智氏(おち) ・伊予国(愛媛県)の豪族 ・承平六年(936)の「藤原純友の乱」に「伊予水軍」として 朝廷側として参画している。 ・流れを汲む「河野氏(こうの)」は「河野水軍を率いるなどした平安~安土桃山時代の豪族。 ・伊予地域を含む瀬戸内地方には、後述の「倭迹迹日百襲媛命」や、父の「孝霊天皇」の伝承が色濃く残る。 日本に渡来した人々・文化の経路は、縄文時代後期~弥生時代初期は「中国・中南部(長江文明)→東シナ海→九州西部・北部」という経路が多く、後になるほど「中国中北部→朝鮮半島→対馬海峡→九州北部」が増加、総合的には後者が多いです。前者は、初期の渡来人・渡来文化の経路を示します。 縄文時代以来、日本の海洋文化には「南方系民族・文化」が強く影響、これが「海洋国家としての日本の基層」です。弥生時代以降の日本の文化形成には、南方系民族・文化が大きく寄与した事は知られていて、また、日本は南方系と北方系の各方面からの民族・文化が複合されて、形成していったことも知られています。「日本語の起源」には「オーストロネシア(南島)語の影響が強い」とも言われます。 中国南部の「長江文明」は「南方系文化」を持っていました。縄文時代~弥生時代に流入した南方系文化は、この地方の文化です。この地域の人々は、歴史的に「中国南部の山岳地域(雲南省など)」「東南東南アジア北部」に南下していて、5000年以上前には「台湾」から「太平洋諸島」へ進出しました。浙江省周辺の「越(えつ・紀元前600年頃~紀元前334年)」、江蘇省周辺の「呉(ご・紀元前585年頃~紀元前473年)」など、弥生時代初期前後に滅亡した国家の遺民は、一部が「日本」や「朝鮮半島」に渡り、また周辺に四散したとされます。この「歴史的な南方系の民族・文化の拡散」により「東アジア」「東南アジア」「太平洋諸島」には、海洋民文化と山岳民族文化において、かなりの共通性が見られます。 弥生時代~古墳時代、「倭国」「倭人」の社会の中で、「海人族」的な集団は高い位置を占めていました。彼らや海外の海洋民は「日本本土」「南西諸島」「朝鮮半島」「中国の北部・中部・南部」の間を、海を跨いで船で交易、この「海洋民ネットワーク」は古代社会の中核の一つです。南方産貝製品の重視の理由として、一つにはこういった文化的背景から「南方系の文化的背景を持つ本土日本の海洋民が、遥か遠海の希少な南西諸島産貝製品に、霊性を見出して崇拝した」という可能性が伺えます。 往古、世界の多くの地域は「共有社会」「母系的社会」でしたが、徐々に権威主義的な、階層化が進んだ社会になりました。その中でこの地域の「南方系文化」「海洋民・海人族」に連なる人々の社会においては、割合に「共有社会」「母系的社会」の様相が見られます(北方系民族にも共有思想がよく見られる社会はよくあります) 。これは日本においては「縄文文化」的とも言え、初期渡来人や海人族は、在来の縄文人と融和的だったとも見られます。縄文人は「海洋民的性格」も持ち、「自然崇拝」をしていたので、縄文人と海人族は「照葉樹林文化圏」の文化的背景を共有していたとも考えられます。しかし、海人族はどの氏族も中古以前に衰退し、その独自文化も痕跡が減少していき、この理由は不明です。 古代日本の統治体制「ヒメヒコ制」は、「弥生時代後期から古墳時代前期(紀元前1世紀から紀元4世紀)にかけて日本各地で成立した男女別集団の共立的統治形態」「農耕的女子集団の長を主にヒメ、軍事的男子集団の長を主にヒコといったことからヒメヒコ制と名づけられた」という制度です。これら「○○ヒメと○○ヒコ」は「名前に国名・地域名を冠しているものが多い」「その地の神社の由来となっていることが多い」ので、「ヒメやヒコを神社名や祭神名にしている地域はかつてヒメヒコ制の統治があったことを物語っている」とされます。 延長五年(927)に完成した『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』には、「ヒメヒコ制」の名残と考えられる、「ヒメとヒコ(ワケ)」が対になって祭られている神社が35地域に知られています。また「地域名をおったヒコあるいはヒメが単独祭られている神社は、片方のヒメあるいはヒコが何かの理由で欠落した可能性が考えられる」とされます。 (「延喜式神名帳」は、律令の「延喜式」に載る「祈年祭奉幣にあずかる神社」「官社」で、二千八百六十一社(天神地祇三千百三十二座)があり、記載された神社を「式内社」と呼ぶ) 記紀や風土記には、「豊国宇佐地方(大分県)」に「宇沙都比古(うさつひこ)と宇沙都比賣(うさつひめ)」、「火国阿蘇地方(熊本県)」に「阿蘇津彦(あそつひこ)と阿蘇津媛(あそつひめ)」、「丹後国加佐地方(京都府)」に「加佐比古(かさひこ)と加佐比売(かさひめ)」、「伊賀国(三重県)」に「大伊賀津彦(おおいがつひこ)と大伊賀津姫(おおいがつひめ)」、「常陸国芸都地方(茨城県)」に「寸津毘古(きつびこ)と寸津毘売(きつびめ)」がいたことを伝えています。『播磨国風土記(はりま・兵庫県)』は、各地で「ヒメ神とヒコ神」が一対で統治したことを伝えています。 「古事記 神武天皇紀」には、大和国(奈良県)の「宇陀地方」に「兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(うかし)」、「磯城地方」に「兄磯城(えしき)と弟磯城(おとしき))」が伝えられています。この内「弟宇迦斯」「弟磯城」は「祭祀的女性」を意味し、それぞれ「菟田県主(うだあがたぬし)」と「磯城県主(しきのあがたぬし)」になり、「軍事的男子首長」を意味したと思われる「兄宇迦斯」「兄磯城」は「神武天皇」に滅ぼされています。「美濃国(岐阜県)」では「兄遠子と弟遠子」「兄夷守と弟夷守」「兄熊と弟熊」の伝承があり、これも「ヒメヒコ制」の反映とされます。 2世紀後半~3世紀後半の「邪馬台国」は「女王国」とも記されていて、女王「卑弥呼」「台与」がいました。魏志倭人伝には「卑弥呼は王に共立され呪術的支配を行った」「男弟有り、佐(たす)けて国を治む(卑弥呼の意思を政治的に執行した)」とあります。 「呪術(祭祀)的首長」を意味する「ミミ」や「タマ」という名前は、倭人伝に見える「投馬国」「不弥国」の長官であり、どちらも女性がその座についていたとされます。邪馬台国に属する「対馬国(長崎県)」「壱岐国(長崎県)」では長官には「ヒコ(卑狗)」がいました。「不弥国」の副官は「軍事的役職」を意味する「ヒナモリ(鄙守り)」と呼ばれる男性が就いていたと考えられます。 この「ヒメヒコ制」を現在に伝える物が、沖縄の「おなり神」の祭祀形態だと考えられます。このような「親族との間の祭政の二頭体制」は「琉球王と聞得大君(きこえのおおきみ・最高の神女)」「天皇と斎王(さいおう)・斎宮(さいぐう)」にも見られます。「斎王」とは、古代から中世までの「伊勢神宮などに仕えた女性」「天皇の内親王(皇女と姉妹)と親王(嫡出子や兄弟などの娘)が就任」「天照大神の御杖代(みつえしろ・神意を受ける依代)」です。 日本神話では「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」「天照大神(あまてらすおおかみ)」「豊受大神(とようけおおかみ)」を始め、多くの女神が存在します。これは「母系社会」だった縄文時代からの流れと言え、社会の階層化が起きた弥生時代においても、国を統治した祭司女王や、特別な地位にあった女性祭司者が何人もいた事が確認されています。 「魏志倭人伝」に王の存在が記された三カ国のうち、二カ国に女王が存在しました。先ずは「邪馬台国」がそうです。 倭人伝に「世々王有り」とある「伊都国(いとこく)」の都とされる「平原遺跡(ひらばる・福岡県糸島市)」には、弥生時代後期の、非常に多数の鏡・玉類などの副葬品を伴う女王の墓があります。出土した「大型内行花文鏡(太陽鏡)」は「奈良県の一部大古墳」の物と類似、太陽神「天照大神」を祀る「伊勢神宮」にある「三種の神器」の一「八咫鏡(やたのかがみ)」とも同型です。ここから「大型内行花文鏡と八咫鏡は同系の物で、伊都国から齎された」とも言われ、発掘者・原田大六は女王を「玉依姫命(たまよりひめのみこと)」「大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ・天照大神の別名)」に比定しています。墓東側の「直径約70cmの縦穴」を市報告書は「大柱跡」、原田は「井戸」として、墓から見て東の「日向峠」の方角に位置することから「太陽信仰」に関係し、これら墓を囲む遺構は「殯宮(もがりのみや)」だとも言われます。「平原遺跡」とその文化は、「邪馬台国」「ヤマト王権」「大和朝廷」に密接に連なる物だと看做されています。 弥生時代末期~古墳時代初期の青銅鏡「三角縁神獣鏡」の金属製レプリカを製作したところ、壁に投影した反射光の中に「鏡の背面に刻んだ文様」が浮かび上がる「魔鏡」現象が起き、「太陽光線など平行光で特に顕著」だと判明しました。投影された文様は「太陽」を表していると思われ、特に「太陽の日輪(周縁部)と中央部」の輝度が高いです。これで「背面の中央や三角形の縁部・神獣像などが厚い」「中央の最厚部は約2センチあるのに対し最も薄い部分は約0・8ミリ」「割れる危険性があるのに、何故こんな薄く仕上げたのか」という理由が判明しました。弥生末期~古墳時代前期の東アジアは寒冷化が進み、大雨・洪水など災害が多く、収穫は少なかったとされます。そして太陽は「豊作や生命力の象徴」でした。 (中国・三国時代(3世紀)に由来する銅鏡として、「三角縁神獣鏡」は北方の「魏(魏鏡)」、「画文帯神獣鏡」「線彫式獣帯鏡」などは南方の「呉(呉鏡)」に由来する。「画文帯神獣鏡」は希少で、棺内部にあって、地域の王墓とされる古墳に埋葬され、「呉鏡」は大古墳に多い) 日本神話の「倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)」は、第七代「孝霊天皇(こうれい)」の皇女で、巫女的性質を持ちます。第十代「崇神天皇(すじん)」に頼まれた占いで、命に神懸りした「大物主神(おおものぬしのかみ=大国主神)」が「吾を祀れば災厄は収まる」と述べ、「三輪山(みわやま・奈良県桜井市)」山麓の「大神神社(おおみわ)」が創建されました。陵墓の「箸墓古墳(はしはか)」は「最古級の前方後円墳」であり、その築造を以って古墳時代の開始とされます。 「倭迹迹日百襲媛命」は「卑弥呼の同一人物の最有力候補」です。「卑弥呼」は「日巫女(日神子・日御子・日女子)」との意だとされ、太陽祭祀を司っていたシャーマンであり、「太陽の象徴」の一つが「鏡」で、「三角縁神獣鏡」は「卑弥呼の鏡」との説があります。「卑弥呼」と「台与」は、邪馬台国の都であった巻向地方(奈良県桜井市)の「纒向遺跡(まきむく)」に、居館を構えていたとされます。 (箸墓古墳は纒向遺跡にある) 「倭迹迹日百襲媛命」の名の意味は、前段は「倭=ヤマト(大和地方)」です。中段は、「トトヒ(トトビ)=鳥飛び」:「弥生時代の鳥信仰」「霊魂が身体から離脱して空中の鳥のように飛んでゆく離魂型巫女」などの説があります。弥生時代には「鳥装をして、羽をはばたかせたシャーマン(鳥の格好をして羽を腕・頭部などに付ける)」という祭祀形態があり、「高殿(神殿)と鳥装シャーマンと鹿」という構図の絵柄が描かれた土器が、纒向の前の都「唐古・鍵遺跡(からこかぎ・奈良県田原本町)」と周辺や、他の拠点集落で出土しています。「鳥信仰は太陽信仰に関係する」とも言われ、「八咫烏(やたがらす)」は「太陽の化身」、「神武天皇東征説話の金鵄(きんし・金色のトビ)」も太陽に関連します。 後段の「百襲(モモソ)」については、古来沖縄で「百襲・百人(モモソ)」は「国王」「国家統治機構」「狭義は首里城正殿」を意味して、これには「中央・中枢」といった語義が伺えます。「モモソ」は琉球王朝発祥の地「浦添(うらそえ)」の地名にも纏わり、琉球王国では名を冠した重要な儀礼が行われていました。そして日本中には、「百襲媛の意味を、整合性のある解釈が可能な言葉」が他にありません。 以上から「倭迹迹日百襲媛命」=「ヤマトの中央の、鳥信仰(太陽信仰)の、日女巫女(神子・ひめみこ)」=「都(中央)の巻向から邪馬台国を治めた女王・卑弥呼」などと解されます。「卑弥呼」は「南方産貝製品」を着装して、「三角縁神獣鏡」を持ち、「鳥装」をして、「三輪山」「巻向山」から昇った「太陽」を祭祀していたと考えられます。そして寒冷化で困窮した世の中において、この祭祀で「太陽の復活」が成されて救われると、当時の人々は考えたのでしょう。 ここから、「百襲」との言葉が伝わる沖縄の特別の意味が示唆されます。沖縄本島では「女性だけで大和へ行った」という伝承があちこちにあると言い、先の神歌にもそういった歌詞が存在します。また「日本という国号」は「日(太陽)の本」を意味し、「日本国旗」の「日の丸」は「太陽を象徴した図柄」です。これら事象の背景には「弥生時代・古墳時代前期の本土と沖縄を結ぶ祭祀の様相」「女性の祭司者」「海人族」「太陽信仰」「南方産貝製品の崇拝」という共通性が存在します。 然しながら、古墳時代の何れかの時期に「南西諸島関連の貝製品・祭祀具・装身具・意匠」が、突如として本土の表舞台から消えていきました。この祭祀形態の大きな変化は、ヤマト王権の中で劇的な政治・文化の変化があったからと考えられます。 「特に本土と沖縄に特別な関係性があったのは、弥生時代前期から古墳時代前期(4世紀初め~中頃)まで」とみられます。それは「沖縄的事物(南洋産貝製品と、それを祖形とした祭祀具・装身具・意匠)が、古墳に副葬されていた時期」が、概ね古墳時代前期~前期末の間だけだからで、この古墳時代前期末~中期は、畿内での「古墳の築造・副葬の大幅縮小」「勾玉などの玉類祭祀の終了」の時期と一致します。 (古墳時代の編年は「前期:始まりが3世紀半ば、終了が4世紀初めか中頃」「中期:4世紀末か後半以降」と論が分かれる) この「体制の劇的転換」の時代状況を物語るのが、葛城地方の「島の山古墳(奈良県川西町)」で、4世紀後半の全長200mの前方後円墳です。古墳の従属部位の「前方部」の石室から「夥しい数の石製腕飾り(鍬形石・車輪石・石釧など百四十点)」が出土しましたが、副葬法は従前と異なり、乱雑で遺棄されたと思えるほどです。その上には三度にわたり「勾玉・臼玉など玉類がばら撒かれていた」という状態でした。「合子三点」「鏡」も出土、「武具類」が少なく、被葬者は「王権中枢に近い呪術性を強く持った女性」とされます。古墳の主体部位の「後円部」には嘗て立派な石室があって、被葬者は「強い勢力を持った男性」と推定されています。当古墳以後は「沖縄的事物」はほぼ消滅、大王墓は奈良盆地から河内平野に移行した時期にあたります。従来ならこういった女性(女性祭司者)が「前方部」に葬られる事はなく、そして「持っている事を憚ったようにさえ見える、沖縄的事物の投機的な副葬」を見ても、「如何に状況が急激に転換したかという事が伺えます。 何故、それほどの「体制の劇的転換」があったのかですが、これについて「元々は、古神道は巫女が重視された形態を有していて、祭政一致の下、政治・祭祀のマツリゴトや社会全体において、女性の地位が高かった(ある程度だが男女同権に近い)」「しかし古墳時代中期、男性が政治体制の上位を独占するようになった」「南西諸島関連の貝製品・祭祀具・装身具・意匠には、巫女や平和といった事象と親和性があり、その為にそれら祭祀具が除外されていった」という説があります。実際に「古代の国を代表する女性祭司者がいた時代」から、何れかの時点で「社会上層部が男性のみで占められるようになった」のであり、その転換期が古墳時代にあったのは確実で、この論説を補強します。 先述のように、遺跡の遺物や史書の記述から、古墳時代中期(4世紀中頃)~和銅七年(714)ごろの三百年ほどは「本土日本の朝廷と、沖縄の交流は途絶していた」と見られます。ここには、「大和王権の劇的な体制変換」による「沖縄的事物の排除と関係性途絶」と「そこから後に少しずつ関係が改善し、後代にまた途絶した」といった様相が伺えます。 (南九州の「隼人」は6世紀末~7世紀末に朝廷に服従したとされる) この最初の途絶期間の初期、古墳時代前期末か中期(4世紀中頃か)に、朝廷としては「排除の為の思想的な共通認識」を築く必要があった筈です。体制的には今までの「平和思想や男女同権や沖縄的事物の排除」と、これからの「自らの体制と男性中心主義の正当化」の両面を推し進める「大義名分」を普及が必要であり、これは表裏一体の思想・施策でした。また「平和・連帯思想の復活」にも神経を尖らせたでしょう。 「沖縄的事物が平和・連帯思想による連帯の鍵」であった時代、その「社会的位置付けを最高辺から最底辺への追いやる急速な排斥」には、思想的根拠としての「沖縄自体を否定する共通の認識論」が必須であり、これなくして施策の浸透は有り得ません。また、これが浸透すれば「沖縄的事物の排除は容易で、復活も無い」=「平和思想排除と体制正当化」がされます。中央集権体制であっても、施策には「大義名分」が必要であり、またそれは世界の歴史上の独裁体制の例を見ても「事実だろうが嘘だろうがどちらでも良い」のであって、ただひたすら「これこれこうだから否定・排除する(しろ)」という「絶対的前提とその強制」のみが必要です。 ここから、この「体制の劇的転換」の初期に「沖縄への謂れ無き蔑視・否定論」が「上意下達の官製認識論」として扇動・流布されたと思われます。東北日本の「蝦夷(えぞ)」にも蔑視はありましたが、朝廷の領域と接してるので、お互いに人や事物の交流が普通に行われていて、これは相互理解も促します。しかし「沖縄・南島」は本土日本と遠く離れた地にあって、人や事物の交流が限られたり朝廷が制限できるので、「一旦否定されてしまえば、その回復は成され難い状況にあった」でしょう。更に、たまたま隣り合っていたと言える対蝦夷とは異なり、対沖縄には「体制側にとっての無理矢理にでも否定すべき理由」が存在しました。勿論「平和・連帯思想や沖縄的事物に思いを寄せる人」も多数いたでしょうし、そういった認識論は多数の「暗喩的な神話・伝承」として形成されていったことでしょう。しかし思いを寄せる人自体は、次第に過去の物となりました。 世界の日本の歴史を見ても、どこの社会のいつの時代でも、敵対的関係の社会に対しては、根拠の無い否定論が流布されていて、それは日常的でした。過去の世界においては、ある意味それは仕方ない状況だったとも言えるのでしょう。また特に「よく知らぬ僻地の敵対勢力」に対しては、「又聞きの又聞きの誇張・捏造された伝聞情報」が流される物です。 恐らくは、古墳時代前期末~中期に朝廷による「沖縄の否定の言説と沖縄的事物の排除」が一気に下達され、しばらくは「平和的思想などの復活」を警戒したでしょう。しかし一旦認識論が普及して、沖縄的事物が一層された期間が続けば、また「当時のヤマト王権は弥生時代のクニと異なり、日本の広域を支配、情報浸透度が段違いだった」こともあり、その認識論を新たに普及させる事はなかったとも考えられます。これは「体制再転換の可能性が無くなり、関係性途絶が続き、更に認識論を浸透させる理由が無くなった」からです。そしてその時代には「沖縄に対する、なんとはなしの根拠の無い否定的認識や作り話」が常識化していたでしょうし、これは後々にも少なからぬ影響を与えたことでしょう。勿論、このような情報に流されない人達も多数いたでしょうが、古代社会では「客観情報の入手・客観思考の維持」自体が難しい物があり、惑わされるのも仕方ないです。また、これらが解消されたのは、かなり時代が下った後だったでしょう。ここには「社会における不幸な、故意ではない不理解」といった様相があったとも思われます。 古代に本土と沖縄の交流が途絶えた時期、本土では古墳時代の祭祀文化が縮小しています。古墳時代の祭祀は、西暦250年頃の古墳時代開始と共に「前方後円墳を頂点とした文化」「様々な祭祀具の製造・副葬」を特徴として、一気にヤマト王権の支配領域や領域外に広がり、古墳時代前期(250年~4世紀後半)に大規模な祭祀文化が展開されました。この時代の祭祀形態は「大規模古墳」「多様な祭祀具」「装身具・服飾・彩色など身体装飾」といった、鮮やかな様相を持っていました。 しかし古墳時代中期(4世紀末~5世紀末)に入ると、一部の大古墳以外で、古墳の規模が縮小、祭祀具の製造・副葬の規模も縮小していきます。そして古墳時代後期(6世紀初頭~7世紀後期)、後期初頭に更に古墳規模が縮小、古墳の築造終了時期は概ね「畿内・西日本:7世紀前半頃」「関東:地方8世紀初め頃」「東北地方:8世紀末頃」です。そしてこれらの時期に「王・首長の男性への固定化」が進んでいったとみられます。 いずれにしても「縄文時代の文化と奈良時代以降の文化の間」には、「基層を受け継いだ部分」と「かなり異なる部分」の、両面があります。差の部分については、「古代日本における社会形態・祭祀形態の変化が与えた影響は非常に大きい」と言えます。そしてその「文化の差を生じさせる事になった切っ掛け」の部分については、「本土と南西諸島・沖縄との関係性低下が、祭祀文化の在り方その物と、ひいては日本全体の社会・文化に大きな影響を与えた」と言えます。 日本の辺縁部に残る古代の日本語と祭祀形態 南西諸島には「琉球方言は古代に本土の日本語と分岐した」「南西諸島には古代日本語を伝える言葉が多く残っている」「琉球方言を方言とする場合、日本語族に日本語派と琉球語派が属する」という様相があります。また「言語」というのは「文化・民族・国家の共通性・同一性や淵源・変遷を判別するのに、最重要の観点の一つ」と言えます。 言語学に「方言学」「言語地理学(方言地理学)」があります。「方言周圏論(ほうげんしゅうけんろん)」は、「方言の語や音などの要素が文化的中心地から同心円状に分布する場合、外側にあるより古い形から内側にあるより新しい形へ順次変化したと推定するもの」「見方を変えると、一つの形は同心円の中心地から周辺に向かって伝播したとする」「これを周圏分布と呼ぶ」という説で、言語学の基本的な仮説です。提唱した柳田邦夫は「日本では京都を中心として文化が時間をかけて伝播したことになり、つまり各地方には古い京都の文化が残っている」「各地の民俗文化を調査研究することは、古来より受け継がれてきた日本そのものを研究することになる」としています。「等語線」は「言語地理学において、語、発音、語義、アクセントなどの言語の要素を分布図に示したときに現れる境界線」、言語分布には飛び地や湾曲などが多数存在します。 「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」が明らかになると、より詳細な「真の日本史・日本学・祭祀学」と、「日本という物の基層・実相」が明らかになってきます。この解明には様々な学問分野の学際的な研究が必要で、上記分野以外に、「考古学・歴史学・日本史」「民俗学」「歴史地理学」「文化地理学」「文化人類学」「アイヌ学・沖縄学」・・・など、広範な分野に及びます。また江戸時代の「国学」は、こういった分野の先駆けです。 そして「古語に由来する類似名称」の多い分野の一つとして、特に「古代日本の辺境・周縁部の地域の、祭祀・祭祀場に関連する名称」があります。 「古代・古神道の祭祀場」は、一般的に自然の場所に設けられ、特に「山・丘」「岩・磐座(いわくら)」「森」「泉」「岬」などに多く存在しました。そういう場所に古代人は、超越的な「神聖・霊性」を見出し、「神が隠れ住まう地」である「神奈備(かんなび)」として、「神が降臨する依り代」である「神籬(ひもろぎ)」を立て、「注連縄(しめなわ)」を張って結界としたり、神域として「禁足地」とするなどしました。建築物が建てられるようになったのは後代で、南方系文化由来の「高床式建物」を「神殿」として築造、これは「社・屋代(やしろ)」で、「神社(神社建築)」となっていきました。 「東北地方の多くの地域(特に北部)」「四国地方の一部」「九州地方の一部」「山梨県」には、山名が「○○森」「○○森山(もりやま・むりやま)」となっている「山」が存在します。「森とも山ともつかぬ地方的な聖地」として、「ウタキ(御嶽):沖縄県」「オボツヤマ:奄美諸島」「ガローヤマ:種子島」「根神山など:トカラ列島」「モイドン・モリドン(森殿):薩摩・大隈(鹿児島県)」「荒神森:西石見(島根県西部)」「荒神ブロ:西伯耆(鳥取県西部)・美作(岡山県北部の一部」「天道山:対馬」などがあります。 沖縄の御嶽の別名に「腰当森(くさてむい)」「拝み山」「山」「杜(むる)」があり、その起源と原初の観念を伺わせます。また「嶽(たけ・がく)」とは「ごつごつと高く険しい山」の意。本土には「御獄(おんたけ・みたけ)」という名の山が多数存在しています。「拝所(うがんじゅ・うがん・をがん)」は、語源は「ウガミ(沖縄北部)」「ウガミヤマ(拝み山・奄美)」、民間では「ウガン」「森(ムイ)」「ヤマ」が普通使われます。多くの拝所の起源は「洞窟などに設けられた、神人などの墓地」で、そこが聖地となっていきました。 「山・丘などを意味する言葉」として、アイヌ語では「moi, kimuy(アイヌ語)」「mui, kim, kir・kiri(古アイヌ語)」「ムイ(muy)=モイ=ムリ=モリ:湾・浜、峰・山頂・山並み、森、集める(古アイヌ語)」などの言葉があります。これに由来する山名としては、「藻岩山(北海道札幌市)」「円山(札幌市)」「靄山(もややま・青森県五所川原市)」などがあります。琉球方言では「muy, mor, mur, moy, muy:山」「mui:丘」、八重山方言では「murakku, mur i, muri, mur ikko, mur ikkott i:丘」などの言葉があります。これらは時に「頭部・頭頂」なども意味する事があり、また、山名に「マル(丸)」が付く山も多いです。 万葉集において「杜」を「やしろ」と詠ませる例は七例あり、うち五例は「神の杜(かみのやしろ)」という表現をしています。「神社」という表記は二例あり、いずれも「もり」と詠ませていて、「杜も神社も同義」であって、「もり」も「やしろ」も両方とも神社を意味しています。「神社の森・杜」の「鎮守の森(社叢林)」は「神域を包括する空間」であって、「自然崇拝の起源と地域の古層」を伝える場所となっています。 「モリ」とは元々「霊魂の活動を示す語」「霊魂の降誕する神聖な場所」を意味し、「林は生やしを語源として、森は盛る・盛り上がると同一起源の言葉」と言われます。また「モリ」の原義は「(霊魂の)守(もり)」だとも言います。「古朝鮮語・満州語・ツングース語諸語」などにも、「森と山などの名称」の類似性が見られるとも言います。一説に「モリはアルタイ諸語・北方系民族由来」「ヤマはオーストロネシア語・南方系民族由来」との説があります。これらの言葉は、「アイヌ語」にも同系の言葉が見られる事から、、日本では「縄文語」まで起源が遡ると考えられます。 また、鹿児島(薩摩・大隈)の聖地「モイドン・モリドン(森殿)」、沖縄の祭祀場の「殿(トゥン)」と、ノロの家系の「ノロ殿地(どぅんち)」にも、「殿」の読み方に近似性があります。九州地方全域(本土・南西諸島・その他島嶼)では、地名・人名における「原」の読みは、多くが「ばる」となっています。 拝所の主要起源の一つの「洞窟が墓地として使用され、後に拝所になった」という例のように、古代の日本本土も「祖霊信仰」の場として、墓地が聖地となる事例はごく一般的でした。縄文時代の「環状列石(ストーンサークル)」は、墓域である事例が多いです。弥生時代~古墳時代などの上代、首長などの陵「古墳」は祭祀施設であり、「奥津城(おくつき):奥深い所にあって外部から遮られた境域」として神聖視され、後に多くの古墳で後裔集団が「神社」の社殿を建てました。古墳時代、海人族が多く居住し、古墳築造が少なかった地域の中に、「房総半島南部(安房地方・千葉県)」「三浦半島南部(神奈川県)」「伊豆半島南部(静岡県)」など、主に「洞窟(洞窟遺跡)」を陵墓として使用していた地域があり、「舟形石棺」などを用いています。この分布は海人族・祭祀氏族である「忌部氏(いんべ)」の故地と重なり、忌部氏は「軽野(かるの)・枯野(からの)」と呼ばれた準構造船で各地を往来していました。ここから「日本の沿岸部を結んでいた海洋民ネットワーク」の痕跡が伺えます。 「東北地方」の「山岳信仰」に「はやま信仰」があり、「はやま」は「葉山」「端山」「羽山」「麓山」などの表記で、これらの名の「山」「神社」が多数存在します。これは「本山(奥山)」に対する「手前側・端の山」であり、現世と常世の「境」でもありました。東北地方には「死者の霊(祖霊)は里の近くの山に帰り、数十年後に奥山へ、そして常世に帰る」という「山上他界」の信仰が強くありました。山や麓に「葉山神社」「端山神社」「羽山神社「麓山神社」などが鎮座、多くの御祭神は「羽山祇神(はやまつみのかみ)」「少彦名命(すくなびこなのみこと)」です。特徴に「作占における託宣儀礼」があるといい、「農神(農業神)」の神格があります。 東北地方には「お山かけ」と呼ばれる風習があり、「秋田県男鹿半島」の「男鹿三山(真山・本山・寒風山か毛無山)」や、津軽富士と言われる「岩木山(青森県弘前市・鰺ヶ沢町)」を始めとした各地の山で、集落住民が成人儀礼などとして登山をします。このように東北地方では「山岳信仰」の伝統が強く存在します。そしてそこには、祖霊が住むという「山上他界」思想があります。「はやま信仰」「お山かけ」は、屋久島の「岳参り」の風習に類似します。 御嶽は「自然信仰(森の信仰)」「祖霊信仰」などの様相が濃いですが、古くは「山岳信仰」「磐座信仰」でもあったとも言い、「墓地」だったとの説もあります。御嶽も拝所も、文字通り「嶽・山」や、山の意味でもあった「森・杜」の文字が使われています。御嶽の最も聖域の部分にある石碑「イベ・イビ(威部)」は、周囲が「岩盤」「塚状の場所」となっている場所が多く、これは「磐座信仰」と同じです。丘陵上の「城(グスク)」には、頂上に「御嶽がある場」がかなり多く、多くで「イビ石」が祀られていて、「元々御嶽があった場所にグスクが築かれた」とも言います。 「イビ石の祀られ方や、周辺の構造」は、「富士塚」など、「本土の神社における山岳信仰の石碑・祠」に類似しています。「御嶽山(おんたけさん・長野県木曽町・王滝村・岐阜県下呂市・高山市)」「富士山」「白山(石川県白山市・岐阜県白川村)」「立山(富山県立山町)」や、「月山・羽黒山・湯殿山(古くは葉山)」からなる「出羽三山(山形県)」や、その他多くの「山岳信仰の石碑・祠」が、各地の神社に建っています。山岳信仰と磐座信仰は、両方ともされている聖地は多いです。これらは中世以降に各神社に祀られたものですが、その祀り方の起源は「社殿建立以前の、古神道の山岳信仰・磐座信仰の祭祀場を、神社内に再現した」という事にあったのかもしれません。この項にある「聖地の祭祀形態」は、中世以後に形態・名称が現行の物となった所も多いでしょうが、同時に古代祭祀の様相を留めてもいます。 「福井県大島半島」に「ニソの杜(もり)」という、御嶽に酷似した祭祀場が三十二カ所存在します。「ニンソー」「モリさん」とも呼ばれ、山麓にあって、タブなどの照葉樹林の森に覆われた神域で、多くで祠が祀られています。元は「埋葬地(サンマイ)」と呼ばれる先祖の墓で、同地を開拓した祖霊を祀っているともいい、域内に古墳時代の「積石古墳」が点在している所もあります。「ニソ田」と呼ばれる耕地を持つニソの杜もあり、その収穫で祭祀料をまかない、かつては十一月の祭祀が終了すると当番の家に集まって「ニソ講(モリ講・モリマツリ)」を行っていました。「祭日以外は近寄ってはならない」「1人でお参りしてはならない」「草木を採ってはならない」「穢れを忌む」などの禁忌があります。柳田国男は「ニソの杜は日本の神社の原型である」と言っています。大島半島は山深く、近年まで近辺へ行くにも船を用いていて、また割合温暖な地で、嘗ては海人族が活躍していました。 「モイドン・モリドン(森殿)」は「鹿児島県の薩摩・大隈地方」百箇所以上あり、「薩摩地方」に多く、特に「指宿市」には約四十箇所あるといいます。これは「モイヤマ(森山)の一部を祭祀場とする神」で、殿は神様を意味する敬称です。村近くの森が神域であり、普通は祠も神体もなく、 大木を神の依り代として同族の間で祀り、大木の根元に御幣があったり、お供え物をしたりします。また近くに「山ン神(内神)」「イナイドン(稲荷神)」の祠があったりします。 「対馬」には「太陽信仰」である「天道信仰(てんどう)」の、地方独自の形式が残る ・対馬に「天道山」「天道地」と呼ばれる禁忌の聖地が三十数箇所ある。 ・「鬱蒼とした山や森や藪」であり、社殿は無く、自然石を御神体としていて、何も無い所もある。 ・禁足地であり、神饌を捧げたりする。 ・太陽の光が女性の陰部に差し込んで孕み、子供を産むという太陽感精神話が伝えられ、 母神と子神として祀るようになった。 ・母神を山麓に子神を山上に祀り、天神たる太陽を拝むことが多い。 ・子神は天童や天童法師とも言われる。 ・「石塔」を作って「山と太陽を拝む」信仰があり、 対馬の南岸に位置する豆酘の東の浅藻にあるオソロシドコロ、八丁角が名高い。 ・「多久魂神社」に奉仕していた供僧も神仏習合によって天道を祀り、赤米の赤に託して豊穣を祈願した。 ・北部の佐護湊の「天神多久魂神社」も天道信仰である。 ・天道の祭りは、太陽を拝むと共に、山を崇拝し、米や麦の収穫感謝を願った。 ・嘗て対馬全島で行われた「ヤクマの祭り」では、石塔を立てて拝む習俗が天道信仰の名残りで、麦の収穫祭でもあった。 中部の木坂地区と青海地区に現存、海辺の石を積み上げて「ヤクマの塔」を造り、旧暦6月の初午の日に神饌を供える。 また、この2地区では、埋葬する墓と拝み墓を別に設ける両墓制という独特の葬制があった。 ・天道信仰は「母子神」が基盤にあったので、「八幡信仰(はちまん)」と習合した。 ・太陽によって孕んだ子供を天神として祀る天道信仰の上に、 母神「神功皇后」と子神「応神天皇」を祀る八幡信仰が重なった。 ・母子神信仰は、日本神話と結び付けられて、「豊玉姫命」と「鵜茅草葺不合命」とも解釈された。 ・しかし、母子神信仰の基層には、海神や山神の祭祀があり、太陽を祀る天道信仰が融合していた。 ・元々は自然崇拝に発した祭祀が、歴史上の人物に仮託され、社人による神話の再解釈が導入され、 明治時代以降は国家神道の展開によって、祭神が日本神話の神々に読みかえられ、 式内社に比定されて祭神も天皇につながる神統譜に再編成された。 九州西部「対馬」「壱岐」「長崎県松浦」「熊本県」「鹿児島県」に、「ヤボサ神」という神を、石祠に祀る信仰が見られます「ヤボサ講」があり、祭礼の日には、神主が来て祀ります。折口信夫は「畑の神」「陰陽師の屋敷跡に多い」「元は古墓である」と述べていて、ヤボサ神の別神格は「大己貴神(おおなむちのかみ)」であることが多いと言います。「対馬」「壱岐」は、記紀の日本神話に現れる地で、古社も多く、そして独特な祭祀場・祭祀形式が多数あります。 「荒神ブロ」は「西伯耆(鳥取県西部)」「美作(岡山県北部)」の聖地で、西伯耆では「荒神」とも呼びます。神の一般的名称「荒神(こうじん)」は「屋敷神(火の神や竈の神)」や「地荒神(山の神・屋敷神・氏神・村落神)」という二つの属性があり、荒神ブロは両方の性質があります。荒神ブロは「荒神の森」の意、三間坂では「村や屋敷内のモリ(フロ)を神聖視して祀る」、西伯耆では「モリや石造物を荒神として祀る」という形です。西石見の「荒神森」は「旧家の裏山などに祖霊を祀る」という形態です。これらの聖地は、後代に「荒神社(あらじんじゃ)」が建てられた場所も多いです。 これらを見ると「東北地方・北海道や九州地方・南西諸島など、古代日本の辺縁部」に、言語・文化・祭祀がかなり共通している事が一目瞭然です。その多くには「山岳信仰」「森・杜の信仰」「磐座信仰」「他界思想」という共通項があり、祭祀の古層をよく残しています。ここから「古代日本の聖域と、それに纏わる観念」が伺え、「古代において、山(嶽・丘)も森(杜)も、類似した聖域と見做されていた」「他界との境でもあり、神社・御嶽・拝所などの原点であった」「山・森・杜や墓・陵墓や神社・御嶽・拝所は、多くの場合、祭祀的性質が重複していた」という事が分かります。また、こういった神域や禁足地は、例えば「入らずの森」と言われる場所など、近代まで各地域に沢山あったのですが、近年の開発により激減しています。 当然ながら、日本本土と沖縄の類似点は他にも無数にあり、「日本本土と沖縄の類似性から、特に古代日本の辺境地域同士の類似から、古代日本の言語・文化・祭祀の基層の姿が伺える」「古代の言葉・事物が多く残る地域は、古代日本の姿を多く留める地域である」と言えます。 沖縄・琉球の位置付けについて 日本の歴史の最大の謎は、諸々の要素を鑑みると、「倭国・倭人に纏わる謎」「邪馬台国に纏わる謎」とともに、「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」が挙げられるでしょう。そしてこれらは、本来的に「表裏一体の事象」であり、「倭国・邪馬台国の謎の大きな解明」は「古代沖縄の謎の大きな解明」無しには有り得なく、逆もまた然りです。 「倭国・倭人に纏わる謎」「邪馬台国に纏わる謎」については、歴史的に詳細な研究がされてきています。これらは日本の起源と直接関連する重要な事象であり、故に現在の数多の事象と絡んでいます。これは「波動原理的にもそう言える」のであり、当サイトで「縄文時代~奈良時代ごろの歴史的事象と意味合い」をかなり記述しているのも、「国・地域・社会の基層・古層は、その地域の波動的な特性を大きく決定付ける」「その解明と適切な解釈、良い方向での利用が、日本国土と社会と人々の量子的飛躍にとり重要である」からとの認識によります。しかし同時に、邪馬台国論争は「一つの時代・古代国家の事象」でもあります。 「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」については、「日本史・考古学・歴史学」「日本文化学」「民俗学・民族学」「地理学・地域学・地政学」「言語学」「神道・祭祀研究」など、広範な学問分野において、「古代の日本本土・ヤマト:北海道・アイヌ:沖縄・琉球の関係性は詳細が不明である」という事が、研究・議論の具体化・進展の障害となっています。言語・文化・祭祀に見られるように「古代の沖縄は本土と共通していた・近かったものがあった」という通念はありますが、それは漠然と認識されているに過ぎません。 この理由には幾つかありますが、「古代も現代も沖縄が辺境の地であるから、それほど重視しない」「どう位置付けたら良いのか分からない」「沖縄側から見ても、自らの立ち位置がよく分からない」という感覚は大きいものがあるでしょう。現代「日本史の最大の謎とされるのは「邪馬台国はどこにあったか」であり、「弥生時代・古墳時代などの、日本が国家樹立した時代における、日本史・考古学や祭祀文化など研究」は、多くの場合「畿内」「九州(北部九州)」「出雲」を中心とした、限られた地域に対象が偏重しています。日本には各分野に優れた研究者・在野研究者がいて、日本史・考古学や祭祀文化も、多くの人が素晴らしい研究・考察を行っていますが、例えば学会においては、どうしても主流の関心点・常識に偏重してしまいがちです。その結果、研究領域の僻地にあるような分野は「盛んな研究議論」→「論点の収斂」→「説の標準説化」という進展が起き難くなります。 この分野には「沖縄・琉球という広大な地域について、未だにさほど解明が成されていない」「古代日本の様相が多く残っているのは漠然と知られている」「歴史的事象だけでなく、現代の沖縄や南西諸島、日本や日本辺縁部に纏わる事象についての、解明・認識の深化に直結する」という状況があります。状況的には前提として「一般認識のボトルネック」が存在していて、ここが突破されると、その先への波及領域は非常に広範な範囲に及びます。 ここから「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」の解明は、「倭国・倭人に纏わる謎」「邪馬台国に纏わる謎」の解明へと導き、そして「古代日本の在り方の解明」「日本の波動的な様相の大規模な解明」へと繋がっていきます。そしてこの一連の流れについて、「古代の沖縄」こそが「日本史の最大のミッシングリンク」と言えるでしょう。 (「世界の超古代文明」は存在しますが、ここでは省きます) しかし「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」という観点は、日本史の教科書に殆ど載っていません。これは学会などの統一的な通念が無いからです。関心を持つ識者はかなり多く、「古代に共通文化があった」というのは昔からの通念ですが、しかしそれ以上の物とはなっていなく、何とはなしのボヤッとした通念のままです。日本史の教科書に載ってないから、現状は一般レベルでは「古代の本土と沖縄の関係性」について、何となく「言葉とか文化とかを見ると、あったらしいね」程度の認識しか持たれていません。これは「日本史という学問分野」のみならず、「日本の自国・自分達の文化についての認識」において、非常に重大な問題点です。あまり認識されてないですが、この影響はかなり深刻だと思われます。 「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」の現状と解明すべき事 1:弥生時代・古墳時代という、日本の国家樹立の時代における、 本土と沖縄の言語・文化の関係性、具体的事象、その影響。 2:祭祀・祭祀具・祭祀場・神道・神話・伝承に纏わる、本土と沖縄の関連性。 3:貝の道に纏わる事象。 沖縄的事物(南方産貝製品と、派生した事物)が、何故そこまで重視されたのか。 4:沖縄・南西諸島に居住していた集団、本土との間の航海者集団。 4:沖縄・南西諸島に存在する古代日本の姿、その様相。 5:日本各地に存在する古代日本の姿と、その比較文化。 6:沖縄・南西諸島は、日本・本土・ヤマト文化にとり、どういう存在・位置付けであったのか。 7:これらを基に再構成した、古代日本の在り方と流れ、日本史全体。 若しこれらが解明されて、一般認識となっていけば、「真の日本史」の解明へと導かれ、更には波動的な影響も含め、非常に多くの方面へ波及していくことでしょう。 先ず「日本語と琉球方言(琉球語)は、日本語を起源とした、同じ語族の言語」「神道と琉球神道は、古神道に淵源がある」「古いタイプの日本人・日本の先住民である縄文人のDNAの型を、アイヌ人・琉球民族は多く残している」という点は、先述の通りです。古代は「祭祀・信仰」が生活の中心にあり、各種文化はそれに伴って起きた物で、「神道と琉球神道は起源が同一」であるので、「日本本土も沖縄も基層文化は同種の物である」と言えます。 「沖縄の歴史」という観点では、「沖縄の独自文化」「日本本土と沖縄の基層文化の同一性」「江戸時代或いは明治時代以後の、日本国の領域としての沖縄」「台湾などの南方系文化の流入」「中国伝来の文化の流入」「日本と清の両属体制」と、これらの観点は其々に、沖縄の歴史の重要な一角を成す物です。 然しながら、こうして見ると「日本本土も沖縄も基層文化は同種の物である」という項目は、事実関係は明白でありながらも、世間の一般観念では、よく知られる常識とはなっていません。やはり先に述べたように、教科書に載っていない事などから「なんかそうらしいね」程度です。 「日本語と琉球方言(琉球語)は、日本語を起源とした、同じ語族の言語」「神道と琉球神道は、古神道に淵源がある」というのは通説ですが、ここから「日本本土も沖縄も基層文化は同種の物」「古代は同じ文化圏だった・古代において同じ国だった」という部分までの間が、通念としては抜け落ちてしまっています。ここまで進めば「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」「真の日本史」の解明がかなり進み、全てが一体的に判明していく事になります。 しかし「沖縄が地理的・歴史的に、日本の辺境・辺縁部にある事」と、潜在的な「ヤマト民族・ヤマト文化の優位思想」「方々に蔓延る沖縄への二級市民扱い」は、これを完全に阻害してしまっています。しかし「辺縁部にあるから、本土に対して下位構造である」というのはおかしな認識論で、そもそも「辺縁部こそが、日本の基層・古層をよく残している」のです。 古代日本では「縄文時代には日本全国に、広い意味で共通文化があり、これは日本文化の基層である(縄文土器・土偶・祭祀関係・集落構造など)」「弥生時代にクニが各地に生まれた(首長の誕生)」「合従連衡で幾つかの国に収斂された(邪馬台国など)」「古墳時代に統一的な政体を持つヤマト王権が誕生した」「王権は周縁部に領域を拡大していった」という状況がありました。 そしてこれらの問題は、還元すると「古代日本において、沖縄は日本文化の辺縁部にあったのか?周縁部にあったのか?」ということです。「辺縁部」であれば「古代日本の文化の領域内」に、「周縁部」であれば「古代日本の文化の領域外」にあった事になります。これは先述の全ての事項から分かるように、「沖縄は古代日本の文化の領域内にあった」のは明白です。だからこそ「沖縄・南西諸島は日本の基層・古層をよく残している」のです。 しかし、この部分の意味が、いまいち一般的に認知されていない・重視されていない事から問題は発生し、様々な方面へと深刻な悪影響を招いています。そして、この解明と認識の一般化が進めば、様々な方面へ好影響が波及、好循環が生まれてゆくでしょう。様々な学問・界隈が、ここの部分を重々認識して、その意味合いをしっかりと捉えて、そして社会へ訴えていく必要があります。 このような「歴史的事実と認識論」が一般化していけば、「アイデンティティの迷い」が存在する現在の沖縄について、その空白部分を埋める物となり、人々の意識に大きな肯定的影響を与えるでしょう。また「琉球は信仰・神の存在が身近にある」ことは知られていますが、これに加えて「日本の国家樹立の黎明期の姿や、神道や各種文化の原初の姿を、それが色濃く残る琉球を通して見る」という観点が新たに認知されていけば、「自然の綺麗さ・豊かさ」「独自文化」という資源も合わさって、観光産業興隆の非常に大きな呼び水になるでしょう。 更には「日本の歴史に対する、日本人一般の関心興味の興隆」「神道・琉球神道・アイヌ神道や祭祀・信仰」と、他にも様々な事象へ、大きく波及していく事は間違いありません。こういった自然に興った人々肯定的な観念は、特定思想を強制的に植えつける施策よりも、遥かに健全で、多方面への肯定的な影響を与えるでしょう。こうなれば日本全体の経済面や国力にも寄与、これで国力重視の思考からも、メリットは大きい筈です。どのような観点で見ても、この方向はメリットが多大で、デメリットはありません。 辺野古と大浦湾の類稀な環境・霊場・遺跡 普天間米軍基地の移転候補先の「辺野古(へのこ・沖縄県名護市)」と東方の「大浦湾(おおうらわん)」には、「御嶽・拝所」などの聖域が幾つも分布していて、記録には八十箇所が記されています。そして「辺野古の霊的な重要性」について「辺野古は沖縄三大霊場の一つ」「沖縄島の東海岸には島に寄り添うように巨大な龍がシマを守っている」「辺野古マナル岩(マナヌ岩)は龍の頭、斎場御嶽はヘソ、金武は腹、久高島は尻尾」とされます。「マナル岩(マナヌ岩)」は、辺野古の海の沖合いにある、珊瑚礁の岩礁です。「日本列島は龍体である」と言われ、「琉球」とは「龍のタマ(霊・魂・心/玉・珠・勾玉/松果体)」と解され、「頭」の語源説の一つに「天玉((あまたま)」があり、これらの地の根源的な重要性を示しています。そして、神歌の「赤椀の世直し」という歌詞は、辺野古の神歌にも見られます。 (「あたま」とは、元は「頭頂部中央の骨と骨の間の隙間(小泉門?)」を指した言葉で、後に「頭頂」「頭全体」を指すようになったという) 辺野古漁港の堤防先端に「トングヮ」という小島があり、こんもりとした緑に覆われています。ここには御嶽「竜宮神」が鎮座、石段の途中に鳥居があって、奥に威部(イビ)の石祠があります。その奥に男神「ターリー」が住み、島には「ニライカナイの神が座る神所」があって、対岸の森に女神「アヤー」が住んでいます。ここは如何にも神が住まう地といった感を見受けます。「基地」の有刺鉄線には、多くの旗がはためいてますが、その中に「竜宮神 ジュゴンのすむ辺野古の海は宝の海」と書かれた物もあります。 辺野古沿岸と大浦湾湾縁には「ユビエダハマサンゴ・アオサンゴ・ハマサンゴ・ミドリイシなど、多くの種類の珊瑚の大群落」があり、特に絶滅危惧種の「世界最大級の青珊瑚群落」は特筆されます。「珊瑚礁」には「海を浄化する事で広域の波動を高める」という特性があり、これは「森林」「湿原植物」と同じであり、「魚が湧き出る海」と言われるほど魚介類の生存に適しています。「イノー」と呼ばれる珊瑚礁内側の磯・干潟は「熱帯魚・甲殻類(エビ・カニなど)・藻類など海生生物の宝庫」で、、大浦湾では魚種は170種が報告されています。 この地域は「国内唯一で世界北限のジュゴン生息域」です。ジュゴンは「哺乳綱カイギュウ目(海牛目)ジュゴン科ジュゴン属の海洋哺乳類」、好奇心旺盛で船や人に近寄って来る事もあります。「人魚」のモデルで、英名は、フィリピン・タガログ語の「海の貴婦人(lady of the sea)」の意味の言葉に由来します。でのと言われます。琉球方言では「ザン」「ザンヌイユー(ザンの魚)」と呼ばれ、「犀魚(ざんのうお)」とも呼ばれます。また「ジュゴンは鮫(サメ)を意味する日本の古語」という説もあります。 ジュゴンは国際的な保護動物で、国内唯一の生息地域の沖縄・南西諸島では、極めて個体数が少なくなっていて、非常に絶滅の危機に瀕しています。「日本哺乳類学会のレッドリスト」では「南西諸島のジュゴン」を「絶滅危惧種」に指定、「水産庁のレッドデータブック」でも「絶滅危惧種」となっています。2000年の「国際自然保護連合(IUCN)」総会で「沖縄のジュゴンとノグチゲラとヤンバルクイナの保護」が決議されました。辺野古沿岸域は「沖縄県の環境保全指針のランク1(自然環境の厳正な保護を図る区域}」に指定されています生物多様性基本法に基づき2013年に策定した「生物多様性おきなわ戦略」で、県は北部圏域の将来像に「ジュゴンとその生息環境が保全され、ジュゴンの泳ぐ姿が見られる」と盛り込みました。 環境省の「南西諸島のジュゴン」の推計は残り3頭、しかし非公式の目撃例が時々報告されていて、ただそれらを合計しても数十頭とされます。ジュゴンの生存環境には、餌の海草が育つ「藻場」の健全さが必須で、辺野古・大浦湾には県内最大級の藻場「ジャングサヌミー(ジュゴン草の海)」があります。辺野古や大浦湾では、ここ数年ジュゴンの藻の食み痕がよく見掛けられ、「数頭のジュゴンが沖縄本島東海岸に住み着くようになり、同海域はその重要な藻場となっている」とも言います。またこの藻場には「海亀」も生息しています。 古くから沖縄では、ジュゴンは「神々の乗り物」と言われてきました。辺野古の伝統行事「六月ウマチー(御祭)」は、五穀豊穣と豊漁を祈る神事で、謡われる神歌の中にジュゴンが出てきます。大浦湾沿岸には「ジュゴンの見える丘」があって、歌手Coccoの歌にも歌われました。 大浦湾は平成二十一年(2009)に「一度に甲殻類の新種39種が発見された場所」であり、これだけの数の新種が一度に確認されるのは、日本周辺では非常に稀な事です。世界で当海域にしかいない「オオウラコユビピンノ」がいて、「甲殻類」「ナマコ類」「貝類」「藻類」など、様々な分類群の未記載種の発見が相次いでいます。国内での絶滅危惧種「褐藻類ウミボッス」など、国内初確認は25種、「シャコ類」では3新種と国内初確認4種が判明しています。この調査では、採集した全甲殻類のうち約13%が新種や日本で初確認の種でした。新種の多くは「干潟の泥の穴にすむ1~2センチほど小さな生物」です。辺野古と大浦湾は「多くの絶滅危惧種の生息地」「未記載種の発見が相次ぐ海域」であるのです。 河川では「リュウキュウアユ」「ボウズハゼ類」などが遡上します。河口には名護市天然記念物の「マングローブ」「干潟」が発達、周囲の山林には「イタジイ・オキナワウラジロガシを主とする深い森林」が存在します。 辺野古と大浦湾は、自然が特異的に豊かで、山林は緑が濃く、海の動植物の生態系は豊かであり、「海から山までの連続的で一体的な生態系」が存在しています。ここは「自然環境と生態系の宝庫」「狭い地域に多様な環境がある場所」であり、これほどの自然豊かな地は滅多に存在しません。そして「紺碧の海と、深緑の山林と、その間を縫うように存在する無数の入り江」は、非常に美しいコントラストを描いていて、正に「美ら海(ちゅらうみ)」と言われるような場所であるのでしょう。 日本は「先進国の中で唯一、自国内にサンゴ礁生態系を持つ国」「豊かな自然環境を持つ国」であり、古くから自然の美しさは「山紫水明」と例えられました。しかし近年、自然の保護・維持をしっかりやっているとは、とても言えない状況となっています。諸先進国の平均的状況からすると、明らかに程度が低く、取り組みは遅れをとっていますし、もし諸先進国にこのような自然環境があれば、間違いなくしっかりと守られる方策はとられているでしょう。辺野古や大浦湾の保護は、日本人の自然環境に対する・意識と民度が、正にそのまま映し出される事象です。 辺野古沿岸部には、本格調査は未実施の古代遺跡が6箇所あり、付近には他の遺跡の存在も推定されています。これらは全てキャンプシュワブ基地内にあって、地区一帯で最古の「大又遺跡(うふまた)」は2千年以上前の遺跡で、弥生時代~古墳時代前期(邪馬台国の時代前後・沖縄では貝塚時代後期)に相当、「ゴホウラ製貝輪の半製品の製造工房があった」「付近からは弥生土器などが出土している」ということが判明しています。 他には、同じく先史時代の「思原長佐久遺物散布地(うむいばるながさく)」や、「思原石器出土地」「思原遺跡」「ヤニバマ遺物散布地」「美謝川集落関連遺跡群(びじゃがわ)」があります。このうち近世~近現代の「美謝川集落関連遺跡群」は、移設に向けた埋め立て土砂の採取予定地にあり、辺野古ダム周辺の広い範囲にまたがっており、琉球王国時代の「宿道(街道)」の石積みを含む陸上交通遺跡群などが確認されています。他の遺跡は、殆ど内容が分かっていません。 ゴホウラはあまり見られる貝ではなく、ゴホウラ製貝輪の半製品工房は、過去に少数の例しか発見されていません。辺野古にゴホウラが多く生息していた事と、工房跡の存在は、辺野古の波動環境を示していて、「辺野古の海岸沿いに分納する古代遺跡群」は「本土と沖縄が一体だった当時の交流・交易の跡を示す重要な遺跡群」です。 「弥生時代・古墳時代における、貝製品・神歌などが示す沖縄の在り方」を考えると、更にその意味合いは高まります。そして「日本の国家黎明期の最重要の文化の一端を示す貴重な遺跡」であり、「日本・沖縄の歴史と、当時への国家観の通説を、劇的に塗り替える可能性が高い遺跡群・事象の1つ」「日本本土と沖縄の歴史・文化・祭祀・波動の根源に位置」「日本本土と沖縄の歴史的一体性を示す」という可能性を有します。 「沖縄三大霊場の残り二箇所は斎場御嶽と久高島」であり、これを考えれば「辺野古は沖縄三大霊場の一つという事は、往古から琉球神道の重要な聖地であった事は確実である」のであって、辺野古というのは、真にそのような地であるのです。 そして「辺野古・大浦湾の自然・歴史・遺跡・祭祀・波動環境の豊かさ」は、「辺野古・大浦湾は自然環境・歴史伝統・祭祀の上で非常に重要な地であり、波動的に重要なパワースポット(龍穴・龍脈)である」と示します。霊場にしても、御嶽などにしても、ゴホウラ製貝輪の工房跡など古代遺跡にしても、そして自然の豊かさにしても、このような地は非常に限られていて、波動的に考えればそこには特別な意味があるのであって、全ては波動において繋がっているのは確実であり、辺野古という土地の持つ類稀な重要性を示しています。 しかしその類稀な聖地である辺野古には、他国・アメリカの軍事基地である「キャンプシュワブ米軍基地」が存在していて、大きな面積を占有しています。 現在、辺野古では「普天間米軍基地」の移設計画が、日本政府とアメリカ政府による「飴と鞭(恣意的な利益配分と権力濫用)」「様々な嘘・詭弁・隠蔽」により、進行され続けています。「導入予定のオスプレイは、未亡人製造機と形容されるほど事故の危険性が高い」にも拘らず、人家の上空を飛んでいます。 「海兵隊の存在は、軍事的には大した意味が無く、金銭的問題による撤退も頻繁に議論されている」「沖縄での訓練は半減できる」とされます。2012年度の米連邦議会の委託調査で、有力研究所が「現在、沖縄に駐留する海兵隊のうちのほとんどをカリフォルニアに移転させたとしても、有事の際のレスポンスタイムに大幅な遅延を来すことはない」と結論づけています。これは「論者により意見が変わるが、然しながら海兵隊は沖縄にいても米国にいても、即応体制に影響ないという意見が出るほどの違いしか、軍事能力差は出ない」という事を示していて、これは「辺野古の基地移設問題」「普天間基地問題」の根本的存在意義を完全否定するもので、「在沖米軍・在日米軍」全体の存在意義にもかかわります。 「日本政府は抑止力の名目で辺野古に海兵隊基地を造ろうとしているが、米国は沖縄は中国のミサイル射程圏で近すぎると考え、海兵隊をオーストラリアやグアムにシフトさせようとしている」「沖縄の米軍基地は有事に使えなく、ローテーション部隊しか残らないだろう」「尖閣などの離島防衛も、日米ガイドラインには"自衛隊が尖閣などの離島防衛を担う"とあり、"辺野古の基地と海兵隊は離島防衛と抑止力維持に必要"という論理は成り立たない」「オスプレイ導入で航続距離が4倍にあり、沖縄の海兵隊の存在意義は更に薄れたが、防衛省は全く見直さない」とも言われます。 しかし「世界中に類例がない、他国への盲目的服従」である「日本の米国追従と資金供給」によって、アメリカ政府と日本政府は辺野古への移転を強行しようとしています。 また「那覇空港の増強計画は早くても2020年の完成だが、嘉手納米軍基地を軍民共用にするのが最も手っ取り早く、また那覇空港の自衛隊を嘉手納に移す手もある」「嘉手納空港の滑走路は空きが充分にあるが、米軍の既得権益を聖域視している日本政府の弱腰がこれを阻んでいる」と言われます。 「辺野古・キャンプシュワブの軍港化」は、長年危惧されてきました。2013年12月、防衛局が県に提出した埋め立て申請書に記された「船が接岸する護岸の長さや弾薬搭載区域の規模」が「それまで県に示していた計画よりも拡大し、軍港並みの機能であるる」「護岸の全長は約200メートルから272メートルへ伸びた、幅30メートルは初めて記された」「オスプレイ12機や強襲揚陸艦の立ち寄りが可能」「揚陸艇の水陸両用訓練が可能となる斜路の存在も新たに図示された」という事が判明しました。これは「都合の悪い大きな事実を最後の段階まで隠してきた」という隠蔽工作です。 昔から大浦湾では、海を爆破するなど、米軍が裏で海軍基地建設を画策していました。沖縄の本土復帰時、防衛庁担当者が大浦湾を海上からの上陸訓練場として使う事を求め、その度に名護市漁業組合長が断ったという経緯があります。日本の体制側というのは、そして特に軍事関係では、大小様々な隠蔽・捏造・詭弁・糊塗に塗れていて、辺野古ではこの類の事象は長年の日常茶飯事です。 辺野古の古代遺跡群の多くは、キャンプシュワブ基地内と移設候補地内にあります。しかし「非常に多数の場所が調査・アセスメントもないまま掘り返されている」「水陸両用車が轟音と共に海と陸とを行き来、この上陸演習などで海岸が痛めつけられている」「日本・沖縄の成り立ち・原初の基層が眠る非常に重要な遺跡が、他国に軍隊により破壊されている」という状況にあります。 これは「古来より聖地であったろう地の、波動環境・龍脈を大規模に破壊するもの」です。辺野古の「竜宮神」の御嶽は、海の埋め立ての範囲内にあって、シュワブ基地が拡張されれば、この古来より篤く守られてきた神域は、その時限りで完全に異なった場所となってしまいます。 キャンプシュワブ基地の存在により、既に多くの森林が破壊されてしまっています。現在でも水陸両用戦車などにより、珊瑚などの海域と海岸の自然は日々傷められ続けています。 「辺野古沿岸の造成」は、沖縄各地の深刻な問題である「赤土の海への流出」を深刻化させます。「海の埋め立て」は、「貴重な珊瑚・熱帯魚・甲殻類・藻類やジュゴンなどの生息環境を大規模に破壊する」ものです。現在でも珊瑚礁は痛めつけられていますが、「海域の埋め立てが行われれば、珊瑚礁や藻場を始めとした生態系全体に深刻な被害が出る」のは確実視されています。 基地建設の為の調査船が現れていた期間、大浦湾のジュゴンは姿を消しました。ジュゴンというのはそれほどの繊細な動物で、基地が拡張されれば、この海域から消えて、絶滅へ追いやっていくのは確実です。沖縄防衛局は「移設予定先にジュゴンの餌場や食跡があったのを隠蔽した」という事があり、その後防衛局が県に提出した「環境影響評価(アセスメント)」の評価書では「移設によるジュゴンへの大きな影響はない」と主張、そもそも「隠蔽体質に塗れた移設推進組織が環境影響調査をやる事」自体が噴飯物です。 防衛局が示す「外来種対策」や「環境影響評価書」を受け、沖縄県は「環境保全は不可能」と結論付けました。そして辺野古沖は「県の環境指針で厳正に保護するランク1」に指定されています。然しながら、沖縄県知事は最終的に埋め立て申請を承認、これは完全に非論理的で非科学的です。 基地が拡張されるとと「絶滅危惧種の北限のジュゴンの絶滅」が起きてしまう、非常に高い確率の危険性が存在します。この海域には「青珊瑚」や「新種甲殻類」など、非常に個体数が少ない希少種が多く、これらの種と、その生育環境の存続が、重大な危機に瀕します。そうなったら、誰が責任を取るのでしょうか?日本政府は、アメリカ政府と米軍は、賛同者は、「ジュゴンなどの生物種の絶滅の責任」を取るのでしょうか?そもそも一体どうやったら責任を取れるのでしょう。一回絶滅してしまったら、もう元には戻らないのです。 環境に対しては、埋め立ての直接的被害だけでなく、「大量の海砂の投入による、珊瑚礁生態系の一部の、砂底上の生態系の破壊」「本土の資材搬入による外来種の侵入」「環境を汚染する物質の使用による継続的な大規模汚染(そもそも化学物質は自然界に無い物質ばかりで、環境とは相容れない物が多い)」など、数多の被害が懸念されます。 多くの「海砂の投入」の工事では、その地域の固有の環境を破壊、この工事での投入も、この地域の生態系の独特の「海底・干潟の砂・泥」の環境とは相容れません。「外来種の侵入」は、特に「アリ・菌類」など微小サイズの生物は防ぎようが無くて、海砂を採取予定の地では、外来種のアリが大繁殖していて、この地域とは異なる菌類の生態系が存在します。 本より、「島嶼部の生態系は固有性が大きい」「南西諸島の生態系は固有性が大きい」「辺野古・大浦湾の生態系は非常に独特で、豊富である」という事は最初から分かっていて、「工事はその環境を根本的に破壊する物である」ことも明確です。ほぼ全ての「自然保護団体」が「辺野古への基地移設と陸域と海域の造成・埋め立てに反対」であり、「基地が拡張されれば、豊かな自然環境は重大な損壊を受ける」としています。 「政府機関や御用学者の、自然保護は成されるというお墨付き」は全く無意味で、そんな根拠はどこにも存在しません。そういった人・意見は単に「体制側の方針を追認するロボット・駒」でしかなく、非正義を押し通す事に無感覚になっています。逆に、こういった「自然保護に携わる組織・学者」の方が、遥かに自然環境の在り方を分かっていて、その組織・学者がこぞって反対してるのであって、「このような重大な破壊の到来が、自然保護の観点から見た、現実に起きること」です。 日本は古来「捕鯨文化」があり、身体部位を余す所無く利用してきました。しかし今後の時代に、こういった事が良いのかは十分な議論が必要です。そもそも「肉食」自体が、動物の命の問題、知的生物の問題、肉食が低波動を招く事から問題です。「希少種以外の鯨・イルカについての捕鯨問題」を語る時、そこには必然的に「肉食問題」が伴います。肉食問題を無視して捕鯨を叩くのは欺瞞ですが、米豪などは肉食大国です。 多くの国が捕鯨に反対していますが、捕鯨問題が国際的大問題になった切欠は「ベトナム戦争泥沼化で窮地の米ニクソン大統領の再選時、環境保護派の対立候補に優位に立つ為、環境に無関心だったが、体の良いバッシング対象として、日本の捕鯨を槍玉に挙げた」「いきなり政府の重要事項になり、当該主張をしていた団体に利便供与した」「複数の国際会議で強硬に主張、流れを反捕鯨で纏め上げた」いう物です。「自然保護の問題全体の大きさに比した、捕鯨問題の割合」「他の捕鯨国との扱いの差」も含め、ここには「自然保護という高邁な理念」と同時に、「様々な負の意識」も強く存在します。 ここで重要な点として、「一般的な鯨・イルカの問題」よりも、「絶滅危惧種の北限のジュゴン」の方が、「自然保護の問題」「生物種の希少性と存続の問題」から見て、遥かに重要な問題であるのは言うまでもありません。更に「知的生物の問題」が発生し、これは「知能や愛嬌などの度合いは、鯨・イルカがジュゴンより、明白に上という事は無い」ですし、ジュゴンの方が上と捉える事もできます。「生物種保護の優先順位の考慮要素」は、こういった「希少性」「知的生物」などの観点に拠るというのは、「全ての自然保護運動・団体の活動理念」に見られるでしょう。 しかし「海洋哺乳類・海獣類の鯨類の生命や、生物としての尊厳の問題」を声を大にして主張するのに、同じ「海洋哺乳類・海獣類」であり、更には「希少種という概念以上の危機に瀕する絶滅危惧種」「公式には3頭しかいない」という特別に重要な要素を持つ、「北限のジュゴンの危機問題」を完全に黙殺するアメリカなどの態度は、「自己の立場・主張ばかりを絶対的とする、完全な二重基準(ダブルスタンダード)・ご都合主義・偽善」であり、「自然保護・生物種保護という概念に対する根源的な欺瞞・裏切りと、環境重視・道義性優位のイメージングを利用した詭弁」に過ぎません。米政府は「捕鯨は非人道的・残酷・自然保護に反する」と言いますが、対極的に、何故「絶滅寸前のジュゴンの生存環境への過酷な破壊行為は問題が無い、無視するべき」なのでしょうか。アメリカはこういった行為を、アメリカ本土やヨーロッパで行うでしょうか。そして「銃所持」「レジャーとしての狩猟文化」を放置・称揚しているのに、殊更「捕鯨」を問題視して、しかし「ジュゴン絶滅は問題しない」のは、其々が極端に矛盾しています。ここに「まともな論理的理由」など存在はせず、米政府は徹底して説明を回避して、無視と詭弁を続けるのみでしょう。 こういった「欺瞞的態度」は方々で見られるものであり、「全ての正誤の基準や、世界中の事象の価値判断は、自分らが定めるという、超大国の典型的な傲慢な姿勢」以外の何物でもないです。「捕鯨問題」は「モラル的に米・欧米は上位で、日本・アジアは下位とする、格差固定の意図」「日本叩きの道具」であり、「ジュゴン問題」は「自己利益にならないから無視」というのが潜在意図にありますが、「日米間の問題で、アメリカは自国が世界中に批判されることは無いと考えている」ので、少々の批判をやり過ごせると考えています。このような「全ての正誤の基準を決める覇者」という立場と、その「基準制定・主張・実施の恣意的運用」を駆使て、特に従属国のような国に対しては、強大な権限を振るい続けています。 「正誤の基準や価値基準の判断」を行い、それを世界中に公然と主張するのであれば、出来得る限り「常に何事でもぶれなく揺るがない、透徹した姿勢を貫くべき」ですが、であれば「その論は正当性を有する」「自らの信ずる論を述べるべき」のです。しかし全くそんな態度は伺えず、単なる「絶対的地位の保全」「自文化中心主義」の言動を繰り返しているのみで、その影で「弱者たるジュゴンが絶滅に瀕するという自然破壊の状況」が進行しています。そして日本を軽視するだけならまだしも、「アメリカ政府には、沖縄のジュゴンを絶滅させる権利はない」「自然保護を語る資格も無い」のであって、自らの道義的問題を深刻に考えるべきです。 南西諸島には、独特な生態系があり、豊かな自然環境が存在します。日本政府は「奄美・琉球」を「世界自然遺産」に登録しようとしていて、現在暫定リストに登録されています。その範囲は、沖縄本島では北部「やんばる(山原)」地域の「東村」「大宜味村」「国頭村」が決まっています。この地域は本島では残り少なくなってきた、美しい自然がよく残っている地域です。 しかし「やんばるの山と辺野古沿岸域は近距離にあり、同一のエリアといっていい。外来種が侵入すれば、生態系への影響は計り知れない。自然遺産登録の手続きとしてIUCNによる現地調査がある。IUCNは過去にノグチゲラ、ヤンバルクイナと生息地の保全、辺野古のジュゴン保護を求める勧告を出している。基地建設のための公有水面埋め立てを調査団がどう判断するだろうか」「埋め立てて基地を造ることが、公有水面埋立法でいう"国土利用上適切かつ合理的"に当たるのか。大いに疑問だ」「辺野古沖は県の環境指針で厳正に保護する"ランク1"に指定されている」「承認ありきで自ら作った環境指針を否定する。何のための指針か(沖縄タイムス)」という状況があります。 「日本政府や沖縄県知事の言動と施策の差は完全な欺瞞」であり、「世界自然遺産」「公有水面埋立法の国土利用上適切かつ合理的との条項」「県の環境指針で厳正に保護するランク1の指定」などの精神に、完全に逸脱しています。「自然保護が大事で、それをしっかりやっている」などと言ったり、ポーズをしながら、それは常なる所業に反する詭弁にしか過ぎません。「類稀な環境を破壊する暴挙」を犯そうとしながら、もう片方の口で「自然環境をしっかり保護している」と言うのは、あまりに醜過ぎます。 世界遺産「奄美・琉球」に登録申請した各地域には素晴らしい自然がありますが、更に「辺野古・大浦湾」には類稀なる自然環境・生態系があるのであって、「より高度な自然環境・生態系がある地域を何故外すのか、合理的理由が存在しない」「何故この両地域に、登録される地と登録されない地の差が出るのか、論理的説明がない」です。そして客観的に考えれば、他の場所との根拠の比較考量で考えれば、「辺野古と大浦湾は基地問題がなければ世界遺産に登録申請されていたのは間違いない」です。 しかし日本政府の「環境相」は、国会において、「政府が目指す沖縄本島北部を含む"奄美・琉球"の世界自然遺産の登録に名護市辺野古沿岸海域や大浦湾を追加する可能性について」の質問に対して、「ユネスコのルールにのっとって、守るべきものがいないところを政治的な問題として後から加えることは環境省として考えていない」と述べました。「日本の環境保護を統括する立場である環境省の最高責任者」の環境相の発言であり、これは完全な論拠が無い暴言で、「如何に日本政府が自然保護に全く関心が無いか」「自然破壊を繰り返しているか」という事を如実に表しています。 拠って「日本政府は辺野古・大浦湾を、世界遺産"奄美・琉球"の登録地域に申請すべき」「キャンプシュワブ基地を撤廃して、自然に戻すべき」です。若しくは「自分達や支持者は、自然環境の重要性など歯牙にもかけない立場であり、拠って、世界遺産"奄美・琉球"の登録申請を取り下げる」と、開き直って宣言したらよいでしょう。 今後「深刻な環境・霊場・遺跡などの破壊」「軍事基地による犯罪やマイナスイメージ増加と、深刻な低波動の蔓延」「基地撤退後の、破壊のみが残る状況」という愚行を犯すよりも、この「環境・遺産・精神・波動などの共存的・修復的手法」を採る方が、長い目で見た地元利益にも適うのは明白です。 キャンプシュワブ基地が拡張されれば、これらの環境に更なる破壊と壊滅的打撃を与えるのは必至であり、「世界的にも稀に見るほど豊かな自然環境と、往古よりの聖地であった沖縄三大霊場と、古代日本の鍵を握るゴホウラ貝製品工場が存在する大又遺跡など辺野古の古代遺跡群が、アメリカの軍事基地により破壊される」のです。 辺野古のみならず、他の米軍基地・基地跡についても、若し維持・開発するにしても、「自然環境・遺跡・聖地・文化に重々配慮して出来得る限り保存を図る」「環境の破壊や汚染は行わない」のは当然です。しかしこういった道義上問題は、常に蔑ろにされてきました。 必要だというなら、何故「隠蔽・捏造・詭弁・糊塗や利権配分・汚職など、非道徳的手法を駆使してごり押しする」のでしょう。正々堂々と全ての考慮材料を公開して、議論を尽くして、論を訴えるべきです。そのような事を行うのは、動機にやましい部分・不純な部分があったり、理の部分では劣後していると考えているからでしょう。それは波動原理の上からも、そのように考えられ、これは低波動その物の行動原理です。 ここ数年のアンケート調査では毎回、沖縄県民と名護市民の過半数が「普天間基地の県内移設反対」の意見を表明しています。反対意見は概ね「3分の2(66%)程度~8割以上」です。「オスプレイの配備」にも、大多数が反対しています。 「アメリカ政府・米軍」と「日本政府」はごり押しをしていますが、殆どの「地元自治体の首長・議会」が反対であり、「沖縄県議会」「名護市長」「名護市議会」ともに反対意見を貫き、「沖縄県知事」だけが「基地建設の埋め立て申請を承認」をしています。移設反対の名護市長が再選された平成二十六年(2014)1月、その直後の沖縄県内全41市町村長へのアンケートでは、34人から回答を得て、「全首長の約6割にあたる24人が名護市の民意を尊重し、辺野古移設計画を断念すべきだと回答」「27人が県外・国外への移設を回答」「3人は回答しないと回答」「4人は出張などで回答不可能」いう結果でした。 このような地元の県・市の住民・自治体の過半数の反対の声を全く無視して、権力と暴力を盾に、強圧的に軍事基地建設を強行する権利が、アメリカと日本国にはあると思っているのでしょうか。それほどまでに、豊かな自然や様々な遺産をぶち壊しても良いほどに、彼らは自分達が偉いとでも考えているのでしょうか。「アメリカという国家と日本政府は、沖縄が反対している沖縄への過酷な破壊を、反対論を徹底無視して、権威主義的に押し切って強行する権利がある」「それほど自分らは偉く、優位であり、相手より遥かに上位に位置している」、彼らがそう考えていないと、こういった行為はできない筈で、故に彼らはこのように考えていると言えます。 「地元の県・市でのアンケート・選挙結果は、常に基地移設反対の声が大多数なのに、日本政府とアメリカ政府はそれを無視して、他国の軍事基地建設をごり押ししている」「常に自分達の利益や、世界的な権力構造での有利になる事しか考えてのであり、こんな事は他の先進国では有り得ず、これら問題には「国内外の格差構造が齎す、極端な不正義・愚行」が集約されています。 沖縄に対する国内外からの歴史的な抑圧 沖縄は、明治五年(1872)~明治十二年(1879)の「琉球処分」で、近代日本国家の体制化に組み込まれました。明治時代以降、政府は各地の土着の祭祀信仰・文化に対して介入を行い、沖縄では様々な抑圧がされました。一般レベルでは、多くの場合で、琉球民族や文化・祭祀は二級扱いを受けるなどして、弾圧もありました。一説に「沖縄のノロなどが持っていた勾玉は、政府による弾圧により散逸、本土の古物商などに売られるなどした」と言います。 沖縄有数の聖域の「首里城」では、明治維新後に日本の体制側の施策により軍営や学校となってしまいました。戦前に一部修復された物の、第二次世界大戦の「沖縄戦」で大規模に破壊され、残りも米軍に略奪されました。戦後も修復はされず、琉球大学が設置されました。後に徐々に修復がされ始め、かなり修復されてきたのはつい最近の事です。当然首里城だけでなく、沖縄では各所に「明治維新後・戦中・戦後の、日本の体制側と米国・米軍による、聖域への破壊・放置行為」が見られます。 これが「日本本土の有数の聖域」だったらどうでしょうか。それらの地は、明治維新後と戦後、日本の体制側が首里城に行った行為と、同様の行為に遭う事は決してありませんでした。アイヌ民族の項にあるように、「日本本土の聖地たる場所」では「無闇な開発は許されなく、重要な整地とされる多数の場所を開発しようとすれば、徹底的に弾劾・攻撃される」という状況があり、「有名な○○神社・○○陵・著名な霊山・著名な遺跡」などの域内・境内・隣接地が、大規模に破壊される事は決してありません。この著しい差別と不正義は何なのでしょうか。これらは、沖縄とアイヌの地で繰り返されてきた差別と不正義の氷山の一角です。 「沖縄戦」では、日本軍と米軍との間の「鉄の暴風」と呼ばれた苛烈な戦闘で、沖縄人の4人に1人の18万人が死亡しました。日本政府は沖縄を「捨石」として利用しました。米軍の「焦土作戦」により、多くの地域が破壊され、特に沖縄本島中南部は以前の状態を残した場所が殆どありませんでした。「御嶽・拝所・神社等の聖地」も、多くが戦災に遭いました。 戦後はアメリカが沖縄を占領しました。昭和四七年(1972)の沖縄の本土復帰まで、名目上の「自治」がありましたが、実際はアメリカの意思通りに政策は行われました。知事にあたる行政主席は、米軍の琉球軍司令官が勤める高等弁務官が任命、議会の議決は弁務官の指令書一つで覆されました。ある弁務官は「沖縄に自治があるなんて神話だ」と言いました。沖縄で起こった、米軍などによる暴行・略奪ほかの不正義は、その殆どは本土では報道されませんでした。 米軍は「銃剣とブルドーザーによる土地接収」と呼ばれるやり方で住民を追い出し、特に土地利用のしやすい地域を中心に、多くの土地を軍用地として強制収奪、家屋を次々となぎ倒して基地建設を進めました。その為、現在まで「米軍基地の占有面積/県面積」「米軍人・軍属・家族の人口/自治体の人口」が、世界中でも日本中でも、突出して大きな割合を占めています。「2010年度の米国防総省の発表では、151カ国に米軍が駐留し、このうち118カ国は駐留50人以下」「日本は世界最大の米軍駐留国で、沖縄には日本全体の64%を占める2万6500人が駐留、日本の米軍基地面積は74%が沖縄に集中する」となっています。沖縄ではこの戦争と基地造成の過程で、非常に多くの豊かな自然や神域・遺跡が、破壊されてしまいました。 ここ数年のアンケート結果の一つとして、以下のものが報告されました(複数のアンケートから)。 ・アイデンティティーの基本構造について、「自分は沖縄人」は40%、「日本人である」は21%、「沖縄人で日本人」は36%。 ・今後の日本における沖縄の立場(状況)について、「現行通り日本の一地域(県)」は61・8%、「特別区(自治州など)」は15・3%、「独立」は4・7%。 ・沖縄の米軍基地について、「縮小」「撤去」が65・9%、「現状維持」「増設」は不明。 (独立派の割合がもっと高いアンケートもある) 沖縄では公共事業の乱開発で自然破壊された場所も非常に多く、現在も「泡瀬干潟(沖縄県沖縄市)」など各所で開発は進み、沖縄本島では自然海岸は少なくなっています。 米軍について、「海外の駐留米兵・軍属の犯罪率は、在日の米兵・軍属・家族が、在他国に比して突出して高い」「中でも・在沖の犯罪率が突出している」「起訴率が非常に低い」「特に起訴率が低い県では、余程の重犯罪でないと起訴されず、殆どが無罪放免される」「軍法会議にかけられる事例は僅か」という状況があります。これは「完全に不平等な国際的地位」「日米間の地位格差」「米側の人種観の現れ」であり、それ以外に全く解釈の仕様がありません。 「米兵の公務外の事件・事故の賠償金は、兵士に支払う義務がある」「賠償能力がない場合、被害者は防衛局を通じて米軍に支払い請求する」「米軍は独自の査定を行い、見舞金という形で払う」「見舞金で払わなかった差額は、日本政府が払う」となっていますが、「公務で無罪になった事例と、公務外だが日本の法務省が裁判権を行使しないとした事例が、非常に多数に上る」という状況があります。「性犯罪の起訴率は軍全体は68%、在日米軍は24%で懲役刑は殆ど無い」「被疑者が無罪や懲役刑となった以外は、加害者に罰金・降格・外出禁止・除隊・文書注意などの処分が下される」という状況です。 更には「裁判権などが不平等」「家族の起こした事件は米側が賠償しない」「賠償自体があまり行われない」「米側が起訴・不起訴対象者の情報を情報を収集していない」などの状況があります。水面下には更に多くの事件・事故がありますが、その多くは隠蔽されています。「米軍関係の飛行機・車両・装備による事故」は、米軍は被害を殆ど認めず、自衛隊も「米軍がそう言ってる」として追従します。「子供の犯罪・軽犯罪は野放しに近い」という状況があり、警察に言っても諦めてくれと言われる事が多いと言われます。 「軍用機の爆音による騒音問題」は、ごく普通の日常の生活さえも阻害しています。「米軍は米本土では低空飛行訓練など、危険な訓練を住宅地上空で行っていない」のですが、日本では各地で行っています。日本上空に「非常に広域の米軍用空域」がありますが、「協定違反の空域での飛行」は茶飯事であり、抗議をしても馬耳東風です。基地の存在は、防災と避難路の確保の上での障害ともなっています。 「米軍基地内外の汚染」は、不平等協定である「日米地位協定」に「汚染の原状回復義務が無い」ので、汚染が発覚しても無視し、日本政府が除染しています。また「環境調査」も許さないので、日本国土にも拘らず、そもそも基地内の汚染状況は不明です。 長年にわたり、各基地では「有害物質の投機」が横行、基地外部での投棄も横行していて、環境基準を大幅に超える猛毒物質で各地が汚染されています。米軍は沖縄の米軍基地外(屋外)において「生物兵器の散布実験」「非核三原則に反する核持ち込みと核被爆事故」「那覇港の海底土砂は、コバルトなどの投棄で日本最悪の汚染度」という環境汚染を起こしました。琉球八社の「普天間宮」のすぐ裏側では、米軍が廃棄したと思われるドラム缶十数本が見つかりましたが、日米地位協定で未調査の状態が続いています。 枯葉剤は「基地内の歩道の雑草が邪魔だから」などという安易な理由で定期的に大量散布され、更に大量投棄により、ダイオキシン類が各地で見つかっていて、米軍基地周辺の珊瑚礁が壊滅的なのはこの影響だとも言います。「枯れ葉剤の主要成分を含む30ガロンのドラム缶が多数発見された」「検出されたダイオキシン類は水質基準値の280倍、土壌基準値の8・4倍」という件で、「ベトナム戦当時に貯蔵していた55ガロン容量とは異なる」との理屈で「枯れ葉剤の可能性は考えにくい」と米軍は説明、しかし米軍兵の行ったという証言があり、被害を受けた米軍兵が各地で当局に賠償を求めています。しかし「アメリカ本国では沖縄戦にしか軍役しなかった人達の枯葉剤の後遺症を保障で認めている」「沖縄には枯葉剤は一切持ち込んでいないとの公式発表をしている」「ベトナム戦争時の物資は全て沖縄経由で持ち込んでいるが、枯葉剤だけは別だったとしている」「日本政府はアメリカの説明に追従するのみで、全く調査しようとしない」という状況があり、米国と日本の隠蔽体質と日本と沖縄への軽視により、これら事実を殆ど認めようとしません。 世界屈指の亜熱帯林が広がる北部「山原(やんばる)地方」の「高江の森(沖縄県東村)」では、絶滅危惧種が複数見つかっていますが、米軍のヘリパッドが建設されています。こういった「森林や海域の重大な破壊」は、辺野古や高江だけでなく、占領当時から各地で発生していて、そこに更に「汚染物の大量投機」が重なって、被害を深刻化させています。 沖縄の米軍基地では、上述のような環境・遺跡の破壊の事例は、数え切れないほど存在します。「沖縄のロゼッタストーン」は「沖縄本島などで出土した線刻石版」で、年代や製作者集団は不明です。沖縄の歴史を語る上で決して外せなく、その不思議さは、ある種のオーパーツとも思える物があります。しかし北谷地方では、「北谷基地」の建設前は100個以上あったとも言われましたが、建設後は2つしか残っていませんでした。当然、基地内の遺跡探査はできませんし、もう既に破壊された遺構・遺物は多数になるでしょう。同様に、基地建設で既に破壊された事例は非常に多数に上るでしょうし、米軍は遺跡探査などする気もありません。基地内においては、遺跡はただ破壊を免れている事を望むのみです。 地位協定により、日本政府の各種の費用負担と便宜供与を行っていて、それを当たり前の事として利用しています。「夏の外出時は、クーラーを付けっ放しにしていく」「日本の小中学校ではエアコン整備立は数%だが、米軍基地内の学校は100%」というのも、その一端に過ぎません。 他にも「条約や法律に基づかない独断行為」「非道義的行為」が多数に上ります。「法律・協定・不文律・道徳上義務・約束などの反故」は著しく、これらは全て「制度的暴力と差別・格差・思い上がり」による物です。 「アメリカ側の思惑として、何故こういった状況を続けるのか」、その大きな要因に「世界的な権力構造やパワープレゼンスの維持」「歴史的正当性」という観念があります。こういった状況を続けていないと「覇権国家たるアメリカ」を維持できなく、「日本という都合の良い従属国・ポチ・財布」を利用して、その地位を維持しようとしています。また、従属国に対して「地位協定や諸々の状況を改善する」というのは、特段やる動機はなく、「既得権益・当然の権利の譲歩」であるので拒否します。そもそも「非常に優先順位・重要性の低い事項」に過ぎなく、「時々褒めてやったり、脅したり、すかしたりをすれば、問題は先延ばしされて有耶無耶になるし、連中は尻尾を振って付いてくる」といった程度でしょう。これらは「第二次大戦の戦勝国としての、世界構造の覇権国としての当然の行動」「従属国はそれに従うべき」であって、こういった観念が「世界の警察官」という自画像を醸成しています。要するにこれらは「世界構造や従属国に対する最上位の地位保全の方策」という事です。 「米国や欧州で、辺野古のような地に軍事基地を建設するのは絶対不可能」で、やろうとすれば全方面から底的に弾劾されます。もとより「県民や市民の意見を押し切って、欧米以外の国の軍事基地を欧米に建設する」という事からして有り得ません。しかも「世界支配の為に、他の候補地を拒否し、外国のそのような地に建設を強要する」という行為であり、この格差も著しく卑怯です。そもそも普天間基地移設問題の本格化は婦女暴行事件が発端であり、それがこんな「破壊性・暴力性の新たなる押し付け」という結末になることは、あまりに矛盾に満ちていて、正義がどこにも存在しなく、非道の行為です。 これら全ての基地問題は「欧州などに駐留する基地・兵隊・軍属の問題」の場合なら、現代の欧米の世界支配構造の下、世界中で大問題として頻繁に報道されて、早期に是正されてゆくでしょうが、これは「日本・アジアの問題」なので全く報道されずに、完全に放置されたままです。 しかし「日本政府は日米地位協定を改定する能動的な気構えはない」です。また日本の体制による「よりましな候補地選定・基地縮小・地位協定の能動的改定などの否定・忌避」は、彼らには当事者意識・能力が著しく欠けている事を示します。 これは他の対米問題の対応と同様で、大問題が起きたり、都合が良い時(基地移設の承諾など)だけ、お為ごかしの部分改定の日米合意が行われるのみです。最近の米政府による世界中の政府への盗聴事件でも、各国が厳しい抗議や対応をしたのに対にして、日本政府だけが唯一「まともな抗議をしない」という対応を見せました。このように米軍基地と米兵・軍属・家族と、日本国内の米国の機関は、半ば「治外法権」にあり、日本は完全に「従属国」となっています。 本より、沖縄の本土復帰時点の「沖縄返還協定」「核抜き本土並み」など日米間の協定・約束事が、全くの嘘だった事は、当時から公然の事実でした。米軍による様々な犯罪・不祥事・非道徳的行為を、不公正な手法で隠蔽してきただけであり、最初から日米の政府に公平性はなく、延々と非正義による蹂躙ばかりを行ってきました。 そして「日本の体制側は、こういった対米関係・国際的地位格差に、疑問さえ持たずに隷属している」のであって、彼らの「下位構造の沖縄」「内部的に下位構造に格差を受け入れさせる権威主義」と、「上位構造の米国」「外部権威からの絶対的格差を受け入れる隷属性」は、「表裏一体の権威主義・従属思考の二重基準」「強きに従い、弱きをくじく」という思考法を示しています。 ある防衛大臣は辞任直前に「軍事戦略的には何も沖縄でなくてもいい」「政治的に一番適切な場所」と述べました。ここで見えるのは、推進の理由の一つに「体面」があって、「何度も"やる"と言い続けてきたので、引っ込みが付かなくなっている」という状況です。凡そ政界・官界の中枢の在り様とは、この程度の「内部と外部の権威と無謬性の妄信」「事勿れ主義」「付和雷同」「自己保身」と「その競い合い」に覆われた物に過ぎません。ここに個々の政治家・官僚などが持つ「理想」「公平性」などの視点は入る余地が無いというのが、この「硬直した政治・社会構造」の際立った特徴です。 また「財政力指数0.3未満の県において、沖縄県の国への依存財源は一人当たり31.5万円の全国18位(2011年度)で、類似10県平均の41.2万円を下回っている」=「低所得の県の平均的な国財源への依存度より低い」という状況にあり、事実関係として「国への集り」などの論は成立しません。「沖縄への米軍基地負担押し付けの強硬な推進派」には「沖縄の反対論は集り」とする論が多く存在します。しかしこのクラスターには「公共事業や恣意的な箇所付け等の乱発による、国財源の私的な利権化、集り構造の構築、国・社会構造の低質化」については肯定論が多いという様相があり、勿論、その最たる物の「原子力」については、全く批判などしません。他にも「恣意的な二重基準の押し付け」がやたらと目立ちますが、ここには低質の意識に塗れた状況が存在します。 沖縄では「観光業」が主要産業で、現在は米軍基地の経済効果は低く、返還されれば多様な効果が期待できます。更には「2001年アフガン紛争では、米軍基地への襲撃を恐れて、沖縄を訪れる観光客が急減した」という状況がありました。平時でも「安らぎ」を求めに来るのに、対極の軍事など邪魔なだけでしょう。 「人間はこの地球で暴虐の限りを尽くしている」という状況がありますが、その「極性の刃が向けられている地域」というのが幾つかあって、「環境の破壊・汚染、戦争・軍事、国内格差・国際的地位格差・人種間格差、物質至上主義・金銭至上主義・など、各種の暴力が集約されて沖縄と辺野古に向けられている」と言えます。 沖縄問題への誤った対処 沖縄での米軍の存在は、主に「中国による領土・海洋境界の主張・行動」「中国の一部の沖縄への領土主張と沖縄独立論」「日本への揺さぶりとしての、琉球は清王朝に服属し、後に日本が奪い、元は中国領土だったとする論」の為だとされます。実際に中国の体制側の「他国の水準や国際的基準との比較時の、主張・行動原理の極端な乖離・非対称性」「個別事案と2国間・多国間関係の変遷ごとに、主張の根拠を頻繁に変える事」「あらゆる手段を用いた主張・利益の最大化」「国内外に対しての攻撃的・威嚇的な言動」は非常に問題です。 例えば「中国・ベトナム間のトンキン湾における境界画定」では、「ベトナムは大陸棚の権利を主張」「中国は中間線を主張」、中間線を基本に決着しています。国際法は等距離・中間線を基本原則としています。ベトナムは中越戦争やその後の経緯や、人口・面積とも中国に比べ小さい事から、当初の主張は止む無しと言えます。しかし「日中の海洋境界」では「日本は日中中間線を主張」「中国は大陸棚の延長を主張」しています。太平洋の「沖ノ鳥島」は、満潮時に海面上に出ていて、「日本は島と主張(排他的経済水域・EEZが発生)」「中国は岩と主張(EEZが発生しない)」です。しかし南シナ海の「赤瓜礁」では、満潮時に海面上に出ているか不明ですが(ベトナムは満潮時に海中に没すると報道)、「中国が海戦でベトナムから奪取した後に、島と主張し、領有宣言して、巨大な建築物を構築した」という状況にあり、しかし沖ノ鳥島での中国の主張に沿えば、少なくとも岩以下の赤瓜礁は領土足りえません。 南シナ海における「九段線」について、中国は「南シナ海での中国の権利と国益は歴史的に形成され、国際法で保護されている」などと主張します。しかしその根幹の「具体的な歴史的事象と国際法の条項」を説明する事は決してありません。このような二重基準は頻繁に見られ、自国利益にやたらと固執しています。若し日中が逆の主張をしていたならば、中国の反応・対応はいかばかりか、強硬というレベルどころではないでしょう。 しかしそもそも、領土問題を考慮する際に、その前提になる認識論自体がおかしいのが現実です。 ここでは論点明確化の為、「沖縄独立論」は除外しますが、本来「どの人・集団も、自分で自己の在り方を決めるべきで、他人・他集団はできるだけそれを尊重すべき」であって、独立論は「当該集団の多数派が主張するなら有効」です。また「○○は◎◎の領土という主張」「他国の過去(対日の言動の負の部分)」をとかく主張したい訳ではなく、元々近代国家を生んだ分断的思考法には問題があり、いずれ世界に国境は無くなります。しかし、こういった問題・歴史が存在するのは事実で、「沖縄・アイヌへの軽視・不正義と背景の暴力性・破壊性」「辺野古などの環境・遺跡・波動の破壊」という現状・未来を阻止と、更に「人類・社会の誤った思考行動原理の背景」を改善するには、最も妥当な選択と、その為の具体的考察が必要であり、その意味で記述します。 軍事と言うのは、若し軍備増強をしても、相手側も増強するだけで、環境も精神も破壊して、互いに疲弊するだけで、全く無益であり、ここに解決法はありません。しかし「言語・文化などを中心とした、古代の土地の基層」を領土主張の根拠とするならば、これに反駁するのは非常に困難です。再反論として無理筋の主張をすれば、後々に自分に跳ね返ってきて、他の事象・主張においても、自らの存在基盤・論理的基盤を益々危うくするだけです。 また先述のように、主張・論述に際しては「主張という物は、自分達に有利だろうが不利だろうが、高い論理的一貫性が必要である」「自分達に有利だから不利だからという基準で、主張・持論の論拠を二転三転するのは誤りであり、その論拠の無意味さを示す」という、一般論としての前提が存在します。 「領土問題の解決」には「世界の多数が認める道義的な判断・解決法」「国際法・国際慣習法」が尊重されます。具体的には「ある地域がどの国の領土か判別するには、その地域の住民(特に先住民族)の帰属意識と、言語・文化・歴史・DNA(人種)という観点・証明が必須である」「この比較考量による"どちらにより理があるか"の判別で決する」と言えます。そして「本来的な土地の居住・占有・帰属の意味合い」からすれば、「その土地をどの集団がどう利用してきたか(呼称・文化も含む)」というのが重要です(より根源的には「地球上の全ての土地は全地球人の共有物」です)。 これらの点では、言語・祭祀・DNAを中心に、明白に「沖縄を日本領土とする論拠が大多数」です。言語は「琉球方言は日本語(族)」「文字は日本語」であり、これは日本固有の状況であり、「中国語由来の言葉」もありますが、全体数から見ると少数です。祭祀は「琉球神道も神道も起源が同一」「沖縄には、巫女教時代の古神道が残っている」「祭祀文化に符合が多い」、これは日本固有の状況です。神道の神社を建て始めたのは、琉球王朝です。これら祭祀は、沖縄における社会的位置付けを考えると、沖縄の歴史的文化の中枢に位置する事象です。「本土の縄文遺跡・弥生遺跡・古墳時代の遺跡の遺物と、同時代の沖縄の遺物は、多くが一致する」のも、日本固有の状況です。「古書に見える沖縄県の地名の記載」も、日本の奈良時代の物に複数見られ、12~13世紀以降に度々登場します。DNA的に「琉球民族は縄文人が祖(又は縄文人と同系統集団が祖)」で、これは「アイヌ民族」「大和民族」と同じであり、また中世以後に本土の人々が沖縄に多数流入、これらも日本固有の状況です。 そして「帰属意識」でいうと、「自分を沖縄人と捉える人」が多いですが、「自分を日本人か、沖縄人であり日本人と捉える人」も多いです。「中国に対しての帰属意識を持つ人」は、ほぼ皆無です。 しかし、歴史・文化の観点においては「沖縄の明・清への朝貢(日本と両属)」「中国の文化・言葉・法律などの歴史的流入」といったように、中国からの影響を多大に受けました。三山時代以降、特に琉球王国時代には、中国(明・清)文化が多く流入し、上流階層や国家制度を中心に大きな影響を与えました。ただ、古来中国文化は高い次元にあって、日本も含めて、周辺国・地域はどこも強い影響を受けてきたので、それだけで「中国に属する」と論じるのは不可能です。検討には、その度合い・内容が重要です。 本土日本の文化も、先述のように古代は勿論の事、中世以後にも沖縄に流入、上流階層や国家制度に大きな影響を与えています。「平仮名」の導入により、文章は琉球方言と日本語を取り混ぜて記述されていました。「漢詩」も詠まれましたが、それ以上に「和歌」や「琉歌」が詠まれていました。「琉球方言の中の中国由来の言葉」は、基本的に琉球王国時代に渡来した言葉が多いと思われ、「古層(祭祀など)に位置する本土日本と南西諸島の言葉ほど類似性が高い」という傾向が見られます。また、そもそも「日本語・琉球方言」と「中国語」は、別系統の言語です。 拠って、実質的根拠は「朝貢関係」だけで、これも以下により否定されます。慶長十四年(1609)以後は「日本と明・清への両属」の関係にあり、「明・清だけへの朝貢」はそれ以前の時代で、これは遥か昔です。「過去に中国の歴代王朝に朝貢していた国は多い」「モンゴル民族の元王朝の中国(中原)支配」「満州民族の清王朝の中国(中原)支配(歴史的に異国とされてきた万里の長城北方の民族の王朝)」などがあり、「どこが中国領で、どこが中国領でなくて、(中国も含めて)どこが他国・他民族領か」という区分の根拠は曖昧です。朝貢関係だけでの領有主張は不可能で、これが通ると「中国はモンゴル領」になります。そして「ある民族集団を中国人であるとする論拠とは何か」「何故、他国・他地域には領土主張をしないのか」という根本的問題があり、これら事実に整合性はなく、認識の恣意性が問題です。これらは「沖縄が日本領でないという論拠よりも、中国国内の少数民族地域が中国領でないという論拠の方が遥かに多い」と示します(少数民族居住地が中国領かどうかを判断する物でなく、比較により、沖縄領有論に理が無い事が論証されるという意味)。 これらを比較考量すると、「古代:沖縄⇔日本の関係性・文化流入の方が多い」「中世・近代初頭(江戸時代初頭まで):沖縄⇔日本、沖縄⇔中国の関係性・文化流入は同程度か(詳細な考慮ではない)」「近代初頭以後(江戸時代初頭以後):沖縄⇔日本の関係性・文化流入の方が多い」「沖縄と本土日本の関係性は、沖縄と中国の関係性よりも、一般的に古層に位置する」「沖縄と本土日本の関係性・文化流入の方が、かなり総量が多い」と言えます。そして非常に重要な点として、「沖縄と中国」の例に比して、「沖縄と本土日本の関係性・文化流入は、双方向的である」「沖縄と本土日本の、相互の共通性は高い」という事が挙げられます。これは古代は勿論の事、江戸時代以降にも双方向性は高まり、近年は更に多様な関係になっています。勿論、当サイトに記述しているように、その様相には非常に誤った点は多々ありますが、これは対中国との関係性では全く見られない点です。これは「同一の文化圏」たる根源的な傍証の一つであり、更に先述の「言語・祭祀・遺跡の状況・DNA」を鑑みれば、「沖縄が日本文化圏に属する」ことは明白です。 沖縄と本土の「沖縄の歴史・考古・伝統などに詳しい識者」は、その誰もが「古代や歴史に由来する沖縄と日本本土の各文化の一致点と、沖縄の持つ高い独自性」の双方を強く認識して、研究と報告を行っています。識者は「古来沖縄は広域の日本文化圏にあった」「沖縄には日本の基層・古層が残っている」と認識していて、その中で識者ごとに「どれほどの独自性を見出すか」が異なります。翻って中国の領有主張の根拠は「数百年の朝貢関係」だけという薄弱さで、「沖縄の歴史・考古・伝統などに詳しい沖縄人の識者」は、昔から誰も沖縄が中国に属すると考えていませんでした。実際の歴史によらずに、一部事象を極大視して領有主張をするのは、肥大化した国家・民族意識による身勝手さ故で、荒唐無稽その物です。またこれら「中国の体制側の思考・行動の問題点」は、集団化した際の「権威主義・全体主義」「国粋主義・民族優位主義」などが問題なのであって、これは日本も歴史的に同じであり、特にそれによる災厄を他国に与えたという歴史もあり、どの国・社会・民族・集団も重々気をつけなくてはなりません。 「久場島(くばじま)」は「尖閣諸島(沖縄県石垣市)」に属します。島名の由来は「クバ(ビロウ)」、沖縄では古来、本土でも古代に神聖視された木で、島の南側に「クバの木」が広ります。先島諸島の島民に「クバシマ」、八重山列島では「チールージマ(黄色い島)」とも呼ばれ、琉球王国の文書に「黄尾嶼」とあります。「尖閣諸島」を、20世紀初頭の八重山の古老は「イーグン・クバ島」、明治時代に沖縄県人は「ユクン・クバ」と呼びました。「与那国島(沖縄県与那国町)」では、クバの葉を採る為に尖閣諸島へ行く人が多くいました。大正十二年の「与那国島図誌」に、「与那国島」の「スユリギ(豊年祭や字祭りなどで唱えるユンタ)」が載っていて、「ニシマジマワタリミリ クバシマニツタイイキ ミヤラビバミカギヨウリ・・・」とあり、日本語訳は「北の島へと渡ってみ、クバの島へと渡って行き 島のみやらび(乙女)を娶れば・・・」です。「与那国島」の北方(正確には北東)には「尖閣諸島」しかなく、海流に乗れば自然に「尖閣諸島」付近も通る事になります。16世紀の明王朝時代の複数の地図に、「尖閣諸島」が「北山」と記されてると言います。しかし「八重山列島」の古名に「北木山」があり、この語源は不明です。 「尖閣諸島問題」においては、従来あまり語られていなかった重要な問題として、「日本の江戸時代以前・中国の明王朝時代以前の時期に、日本人(八重山列島の特に与那国島)や中国人は、尖閣諸島を知っていたか、どのように利用していたか、どう呼んでいたか」という点があります。これについては、後述のように、琉球王国・日本・中国ともに、尖閣諸島の存在は知っていました。しかし「明王朝時代の北山などの表記は、八重山列島の人の知識を基にした記述の可能性がある」と言えます。また「海禁政策で中国人は島を利用できる状況になかった(基本的に琉球とは交易のみ)」と言えます。しかし「日本や琉球王国の黄尾嶼・赤尾嶼などの島名表記は、中国名に準拠した物」です。 他の「尖閣諸島への日本と中国の領有権主張」には、「双方の言い分ともに、ある程度以上の論拠が存在する」「双方ともに、不利な事実を複数抱える」と言えます。例えば「日本側」:「日本が先に領有権主張した」「中国が領土主張を長年せず、新聞・地図・要人・政府機関の発言・記述などで日本領としていた」「中国の明・清時代の古地図などに、明確に自国領土と記した物が一つも無い」、「中国側」:「中国の明・清時代の複数の地図に尖閣諸島の記載がある」「日本の江戸時代の地図に一つしか記載が無い」が挙げられます。日本(領有主張する前)や琉球王国や・明・清は、何れも「尖閣諸島を版図とした認識や地図を持っていたと証明する証拠が存在しない」です。。 以下においては「尖閣諸島問題の領有権問題の部分」については除外して、それ以外の「沖縄問題」について考察・記載します(領有権論争以外の双方の言動は考慮)。 いずれにしろ「世界的な意識の"量子的飛躍"が起きて、世界が現在と比較にならぬ高みに向けて前進しだし、人間関係・社会・国際関係に共有思考が広まり、それを以って尖閣諸島問題・竹島問題や、数々の国際間・人種間の紛争が消滅・解決していく」というのは間違いなく、衝突を拡大するような行動を殊更行う必要はありません。こういった全ての問題は、そのうち「世界的な意識の量子的飛躍」が解決してくれるので、基本的には寛容に・鷹揚に構えているのが良いです。 本題に戻り、ここで論説の際に重要になるのが、先述の「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」の各事象です。そして「古代の・古来の遺跡・遺物・祭祀信仰・伝承・言葉」などが、「その関係性を立証する証拠」となります。繰り返しですが、現在の「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」への一般的認識は深くはなく、それが沖縄などへの軽視を生んでいます。然しこれは歴史的事実がきちんと認識されていないからであって、「古代日本や邪馬台国など、日本と沖縄の歴史的関係性は非常に密接だった」と明確化すれば、その根本の部分が転換する事になります。 そしてこれには、「本土・沖縄の古代遺跡」「沖縄の神歌」などの解明を進めていく事が必要です。そこから真の古代史と日本の実像が判明し、沖縄やアイヌなどの存在への認識の深化へと繋がっていきます。 即ち「これらの解明と認識の一般化こそが、問題の原因の根源的解決への最大の方策」であり、「沖縄への軽視と思い上がり、軍事防衛的観点による基地造営と破壊に対して、これを阻止する最大の論拠」「辺野古の大又遺跡などの古代遺跡群を保護し、真の歴史を解明していく事が、日本と沖縄の自己探求と、領土保全と総合的防衛力の強化を行う事になる」「辺野古・大浦湾の自然環境・伝統・祭祀を継承していく事が、日本と沖縄の基層と、素晴らしさと、波動環境を保全・改善していく事になる」と言えます。ただ「自然環境の保護」「伝統や遺跡などの保護」「地方の尊重」などを訴えても、現実には届いていない物があり、それ故に、このような具体性を持つ主張が必要不可欠でしょう。 しかし現状は「基地建設と地域・自然・遺跡の破壊」が進行・画策されているのであり、これは「歴史的経緯や文化面の根源的論拠の破壊と、生命・精神や、過去~現在の自分達の存在自体の破壊である」「日本本土・琉球の歴史的一体性を示す最有力事象の破壊で、防衛に資する非常に有力な事象の破壊であり、やっている事・黙認は、論拠と精神性の破壊・自殺行為である」のです。然しながら、現状では「権威・金銭・破壊性などの否定的観念」が先走り、特に「遺跡・歴史的意義への視点」は、ごく少数を除きありません。 若し、これほどの貴重な「辺野古・大浦湾の自然・歴史・遺跡・祭祀・波動環境」を、米軍基地建設により破壊されるようになるならば、従来の反対活動とは異なる次元の反対論・反対活動が展開されていくでしょう。このような自然・遺跡があり、「日本本土と琉球の古来からの一体性を明確に示す遺跡」だという点を明確にアピールしていけば、「それの破壊行為こそ、日本の軍事的脆弱化を招く活動」だと認知されてゆくでしょう。 この点は以前には無かった視点の主張であり、とりわけ有力な反対論拠です。このような「豊富な自然環境・歴史遺産の破壊の画策」「そもそも不要な基地の為に、相手国が金を払うからとの理由で、圧倒的な力関係を盾に、米国が日本・沖縄に破壊を強制している」「日本の極端に酷い環境保護精神と、内への傲慢と、外的権威への隷属根性」という事を、国際的な場や国連で訴えれば、各国の有力新聞の意見広告を出せば、各国の自然保護団体と連携すれば、ネット上で強く主張していけば、両国の異常性が世界中に知れ渡っていくでしょう。また「辺野古のジュゴン保護」「日本政府が埋め立て着工を決めた場合、米政府に日本側関係者の米軍施設内への立ち入りを許可しないよう求める」という内容の訴訟を、米・サンフランシスコ連邦地裁に提訴する動きがあり、この判決次第では計画は中止されます。 更には「辺野古・大浦湾の自然・歴史・遺跡・祭祀・波動環境」などによって導き出され・解明されてゆく「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」とは、「それら事実は、どの勢力の自民族中心主義・自文化中心主義・エスノセントリズムをも、否定する物」です。この点は非常に重要な点で、「真理という基軸は、如何なる人・勢力の独善的な思考法をも、無効にする物」であり、「社会の覚醒が起きた後の世には、如何なる"真理と相容れない思考法"も無効になる」のです。 アイヌ・沖縄問題に見える国内外の自己優位思想と従属思考 「北海道などのアイヌ・ニブフ・ウィルタなど民族と、沖縄・琉球民族の歴史的状況」は、過酷でした。アイヌは先住地を追放され、土地を奪われ、聖地を破壊され、文化・言語の継承を阻害されてきました。沖縄は土地を破壊され、収奪され、軍事基地にされて、聖地を破壊されました。その文化・祭祀形態は、明治以降の地域文化を否定し、日本全国を均一化しようとした思想により否定されて、彼らは体制側からは、常に下位構造・二級市民と見做されてきました。 これは、近現代社会に横たわってきた「国内外の地位格差・不正義」「民族集団・地域の重層的な負の関係性」をそのまま現す物で、「日本・日本国の体制側・ヤマト民族‐北海道・アイヌ民族・沖縄・琉球民族」「欧米・白人‐日本・日本国の体制側・ヤマト民族‐北海道・アイヌ民族・沖縄・琉球民族」「欧米・白人‐アジア・モンゴロイド」「征服者‐被征服者」「世界の統治構造の上位集団‐下位集団」という、理不尽な世界の格差構造が存在しています。 そしてこの「前者の集団」は、世界構造の中で権力を持ち、主張の広報手段が豊富で、その思惑を実現させてきました。「後者の集団」は、権力は無く、声は無視され、権利擁護はされず、常に蔑ろにされてきました。こういった「自己優位思想(自民族中心主義・自文化中心主義・エスノセントリズム)」「上位階層が支配する世界構造」は、従来の世界の負の側面でした。 「何故、利益集団のムラ社会があれほどに力が強く、アイヌ・沖縄などの存在の声は小さいのか」について、現代の社会構造は「権力がある集団の勝ち」「声が大きな集団の勝ち」「カネのある集団の勝ち」という仕組みになっています。日本の体制側から見て、沖縄の声は小さく、アイヌの声はそれこそミクロ単位でしょう。現代日本では、声が大きな集団の力で、議員・官僚・財界・マスコミなどがなびき、権力・カネ・利権が差配されて、「原発ムラ」に代表されるような構造が、日本の政官財を牛耳っていますが、アイヌや沖縄にはそんな力はありません。 「アイヌ・沖縄の問題」に対しては、「千島列島・樺太の帰属」の問題では、関係国家による「強者・勝者の論理」「領土の分捕り合戦」の態度が、この醜悪な構造・状況を放置させたままにしてきました。国内では、日本に非常に特徴的な「同調圧力」「寝た子を起こすな」「臭い物に蓋」「本音と建前(ご都合主義と欺瞞性)」、そして「面倒に関わりたくない・関係ない」という感覚によって、「問題自体が存在しない」「意見するのはおかしい」「大した事でない」「蒸し返すな」とい空気が醸成され、これが支配してきました。「議論の土壌が弱い」という悪癖を持つ日本においては、これら問題は「非本質的な諸問題の報道量に比べて、ごくごく僅かな量の報道しかされてこなかった」という扱いを受けてきて、「どうでも良いようなメディア報道・番組が氾濫する中で、特にアイヌ問題が報道される事は、非常に稀な機会しかない」です。 そして「自己側に利する場合は盲目的に肯定、利さない場合は盲目的に否定」「極端な権威主義と隷属思考」という様式が横行するネット掲示板・ブログなどでは、「沖縄・アイヌを誹謗・嘲笑するろくでもない書き込み」が蔓延っています。また「米軍などの不祥事では、それを問題ないとして、関係ない組織・人を攻撃する」「被害者を無根拠に中傷する」ことが、毎度のように繰り返されています。 第二次世界大戦の戦前~戦中、日本などの帝国主義国家の行動により、多くの国々・地域・集団が甚大な被害を受けました。帝国主義は「暴力的に自己を他者の上に立たせる社会施策」と言え、これは「外国」だけでなく、「内なる他者」にも向かうのであって、多くの国で「国内の少数集団・少数民族・先住民族」が征服対象とされました。 「日本は帝国主義の下に行ってしまった国内外への甚大な罪科を、真摯に反省すべき」であり、そして「何時如何なる時も、他国をとやかく言う前に、先ずは自国の姿勢を改めるべき」です。日本の戦前から戦中の行為と、その影響により、多くの国に対して「本来遭わなくてよい過酷な災禍」を与えてしまい、特に「中国」「フィリピン」「太平洋諸国」の被った被害は深刻でした。この過程で、日本は居住民に対して「戦闘・戦死」「捕虜」「虐待」「非人道的・暴虐行為」「重大過失による非常に多数の死者発生」などの目に遭わせて、「多くの地域の苛烈な破壊」を行いました。これは戦地になった各地域での直接的な戦災だけでなく、非戦闘時の軍人による行為の為であり、この事は現地の多くの人が語っていて、そして幾らかの軍人も語っています。 「日本の戦争責任の否定論」と、「幾つかの大戦中の日本による非人道的行為(とされる件)に対しての疑義の意見」があり、不明確な点も多いです。しかし、それらが無かったとしても、如何様にも「シンガポール華僑虐殺事件」「中国などでの幾つかの特務機関の重犯罪行為」「ポンティアナック事件(インドネシア)」などの件は否定しようも無く、この背景として「日本の侵略行為と苛烈な非人道的行為」があったのも否定しようがありません。「日本軍の中国の重慶爆撃」は民間人犠牲者が1万人規模、「国際法が禁じる無差別大量殺戮」とする説が多数で、「異論(中心部に高射砲などの陣地を構えた)」はあっても、「他国で行った苛烈な非人道的行為」に間違いありません。「中国側の行為を以って、日本側の行為を非がなかった・仕方なかったとする論法」がありますが、「他国に侵略された国は、様々な手段で抵抗する」「日本も同様の目に遭ったら、同様に様々な手段を用いるのは明白」「そもそもその地域は他国・他民族の土地であり、戦線縮小・非軍事的手法に極力努めなければならない」のであり、論拠薄弱です(あらゆる観点は即ち要素で、各々は重要な論点だが、だが論証の必要十分条件足り得てない)。 本来フィリピンは「無辜の第三者」的な立場でしたが、日本軍と米軍の戦闘で激甚な国土破壊を受けました。「マニラの戦いとマニラ大虐殺」では10万人が死亡、日米双方の攻撃によりますが、日本軍の市民虐殺が横行しました。そして日本軍による「自己優位思想と極端な傲慢さ」による非人道的行為が行われ、失政による飢饉が発生、その統治は搾取的でした。 「ベトナム」「ビルマ(ミャンマー)」では、日本の占領後の統治体制が悪かったので、当初は期待していた住民達が反旗を翻して、「抗日戦争」に至りました。「ベトナム」では、失政と過酷な食糧徴発により大飢饉が発生、100万人以上が亡くなりました。「ビルマ」では、日本と連合国(とビルマ国民軍)との間の戦争で、「マンダレー」「メイクテーラ」など、貴重な文化遺産がに彩られた都市が破壊しつくされてしまいました。当然ベトナムやビルマの人々には、このような事をされる謂れは何一つありませんでしたが、帝国主義勢力の暴力の為に、このような過酷な目に遭う事になりました。 「戦前~戦中にかけての日本の諸地域での行動」というのは、その是非の程度は一様でないですが、「対中国など:明らかな侵略戦争」「対数カ国:侵略戦争・独善主義・自信過剰・重過失などの面が濃い」「対数カ国:統治の功の部分も多少あった」というように、「どの地域でも負の部分の方が多い」です。「欧米の植民地からの解放戦争的な解釈」については、「元々太平洋戦争の原因は、大陸での日本の植民地・権益の維持拡大を阻む国との争い」「東南アジアにはその余波で進出した」「当初から解放戦争を企図して戦争の立案をした訳ではない」「政府の体制が優れていたのではない」「幾らかの統治者の資質は良かった」「しかし他の人達の行動基準は悪かった」「実際に被った被害は甚大である」「人・物資・食料の徴発が酷かった」「被害の歴史として記憶している(ロームシャなどの言葉も含む)」という事が重要です。基本的に「食料や多くの物資は現地調達」「資源調達で南進した」「善政を敷いた事で左遷されたりした」のであり、これで統治がうまくいく訳がありません。またどの地域においても、誤った政策や、厳し過ぎる対応が多数行われています。いずれにしても「大多数の現地住民に招請されて軍を派遣した訳ではない」ので、殊更肯定するのは空虚な事です。 これらの状況は、どの地域でも、戦況が悪化するほど深刻化しました。当初は比較的良好な統治もありましたが、これは「アジア開放の理想」を信じた人達による物と言えます。しかし次第にどこも過酷な統治や状況になり、戦争の直接被害も含めて、深刻な被害が発生していき、この中で複数の虐殺事件も起きています。物事は「状況が悪化した時に、その真価が問われる」のであり、こういった状況は、統治の是非を示しています。戦後に独立戦争に従軍した人達もいましたが、その行為が個人に帰すべき事です。そして「明治以来の厳しい上下関係による組織統治」が横行していた日本のやり方は、これは異常なのであり、これを統治下の諸国で行ったのは誤りであり、上手くいかない上に、反発が起きるのは当然です。それを無視してやり方を押し通すのは、傲慢その物です。 元々「アジア主義」の論説の中には、「平等主義」「人道主義」「平和協調」「民族自決」といった高邁な思想を伴った物が多数ありました。アジア各地域の人々が日本に留学、日本では多くの人が理想の信じて、独立運動家などに支援を行いました。こういった思想の背景もあり、また自国利益の観点もあり、1919年の「パリ講和会議」で、日本政府は世界初の「人種的差別撤廃提案」を行いました。 しかし日本では、明治時代から「帝国主義」は跋扈していたのであり、「中国(清)での義和団事件での日本の行為(他の列強も同じ)」「台湾の植民地化」「朝鮮半島(李氏朝鮮)での江華島事件」は帝国主義による行為です。 そして「アジア主義」のの様相も、周辺状況の変化と共に次第に変節、後のスローガンとしての「アジア・モンロー主義」「八紘一宇」「南進論」「東亜共栄圏」などは、帝国主義その物です。そもそも「何故諸国・諸民族が、日本を盟主として仰がなくてはならないのか」という根本的疑問への論理的回答などある訳もなく、これは「肥大化した自我意識による物」です。日本では明治から戦後まで、この二つの相反する方向性が、せめぎあっていました。しかし第二次世界大戦に至るまでの過程と戦中において、負の方向性が拡大していきました。 また、「日本の戦前の強圧的体制が、敗戦を経ずして、どの程度修正されたか」という事を考えると、「戦後の状況より相当酷い社会体制」が想定され、結果的に敗戦自体は良かったと言えます。戦後~現在の社会もそうですが、戦前社会は「客観的な議論の土壌」「自己修正能力」がより大きく欠けていて、これはあまりに深刻な根本的問題でした。故に「日本の社会・体制の有り様が、強圧的な雰囲気を惹起させて、帝国主義・覇権主義という侵略行為を他国に行った」というのは、全く否定しようがありません。 結局の所「日本は第二次世界大戦で、多くの国にあまりに過酷な目に遭わせた」という事が、日本人の持つべき意識としては最重要です。それは「他国の膨大な人々の人権を蹂躙した」「人間は他人の権利を侵す権利はない」からであって、如何に良い点を羅列しても、数多の悪事を覆い隠せる訳がありません。ただ重要なのは、事実はどうであったか、客観的に考えるという事です。 第二次大戦以前の列強各国は、大概がどこも帝国主義と覇権主義の行動をとっていて、アメリカ・イギリスやソ連や他の強国もそうでした。ソ連については既述の通りで、帝国主義や覇権主義が色濃い行動を繰り返していました。 アメリカは「公民権問題(先住民・黒人・アジア系などの基本的人権の制限)」「黄禍論」「アジア系移民の禁止法」「各種の土地法」「パリ講和会議での人種差別撤廃案の拒否」「日系人の強制収容(他国へも強制収用を要求、多くの国が行った)」など、歴史的に人種差別が過酷でした。その刃は、当時アジア系移民の中で多数を占めた日系人に向けられ、日本の昇竜の勢いの国情も危機感を持たせました。こういっ状況も伴って、米英などが日本を戦争へ追い込んでいったのは各事実から明白です。「ABCD包囲網(対日経済制裁)」「ハルノート」は最たる物で、「米英の援蒋ルートや、米のフライングタイガースなどの対中支援」「日本人資産凍結」も挙げられます。ルーズベルト米大統領を始め、多くの有力者が日本を戦争へ追い込む為の物だったと、当時や後の書で明かしています。戦争中の行為も、戦争末期以前は、太平洋戦線での日本兵投降者・捕虜は概ね殺されています。 歴史的に「米英仏など列強は、世界中にも中国大陸にも植民地や独占利権を持っていた」のであり、その権益への侵害者たる日本の排除が目的で、別に高邁な思想から対中支援を行った訳でもありません。「米軍の各都市への空襲」「広島・長崎への原爆投下」は「国際法が禁じる無差別大量殺戮」です。非人道的行為は、捕虜などに対しても、また戦中戦後の占領期にも横行しました。日本以外の国に対しても、例えば「米軍はフィリピン兵を日本軍への盾に使った」「元々米国は長年フィリピンに帝国主義的行動を行っていた(米比戦争の経緯を見れば一目瞭然)」という事実があります。これら事実を見れば「米国などの日本に対しての道義的優位」など存在しません。 しかし「太平洋戦争の戦端は日本の真珠湾攻撃で開かれた」のは、紛う事なき事実です。また大戦のかなり前から、日米の戦争に至るとの予見の下に、日米ともに戦略を検討していたのであり、戦争の責任は両国にあります。そして、不当な侵略を受けていた中国にとっては、米国などの行為は有意義な支援であり、こうでもしないと「日本の対中侵略」は抑止できませんでした。それでも日本の自信過剰と覇権主義は止まらずに、日中戦争は泥沼化していきました。 云わば「第二次世界大戦は、帝国主義・覇権主義・自己優位思想が肥大した者同士による、巨悪と巨悪の全面的戦い」でした。そして、多くの地域の人々がその被害者となって、「内国・他国・他集団に対しての帝国主義という世界的構造の中で、常に先住民族や少数民族はヒエラルキーの下位集団と位置づけられ、その居住地域は侵略され、基本的人権が蹂躙され、文化を否定・毀損された」という歴史が繰り返されてきました。 ただ、史実の考察においては、近代の世界状況も勘案されます。ほぼ全ての国は、外国との関係において「良い歴史」もあれば「負の歴史」もあります。また近代でも、中国「清」は「朝鮮半島(李氏朝鮮)」を属国としていて、その統治は酷いものでした。そして、こういった様相ばかりな訳でもなく、「当時の欧米列強諸国の組織・人々による、世界各地域への支援や有意義な研究」などは多数あったのは言うまでもなく、そこには「無数の善意・利他心」があるのであって、その様相は一様ではありません。 このように第二次大戦の戦前から戦中の様相は、簡単に全否定・全肯定などできる物ではなく、しかし「日本を含めた列強は、苛烈な悪事を行った」という事ははっきりしています。「日本は過酷な加害者としての重大極まる歴史的責任を負っている」のであって、これは日本の紛う事無き歴史の一部であり、無視する事は決して許されません。その上で、日本の行状に対しての過大な言い分があったとすれば、それは否定して、淡々とその証拠を提示れば良いです。 戦後、帝国主義は終わりを告げたかのように言われますが、実際は形を変えただけです。「帝国主義の残滓」「新たなる帝国主義」「遅れて来た帝国主義」や、依然とした「覇権主義」「膨張主義」「国家的独善主義」の現れである「国家や国際政治の場による、理不尽な施策・行動・言質」が、世界中で行われてきました。これは強国・強者だけでなく、多くの国・集団が繰り広げていて、「国家の施策・行動・言質」「国際体制による施策」や、「コーポラティズム(特に企業による社会統治)」を利用した方策などもあります。そもそも時点で、多くの「戦後処理」自体が「独善主義による領土分捕りや、自己を善者側とする認定」に塗れています。 そして「世界中の多くの先住民族の少数民族は、歴史的に強者から多大な被害を受けてきた」のと同様に、「アイヌ民族・琉球民族とは、国内外の帝国主義とその残滓により、歴史的に多大な被害を受けてきた民族」です。多くの少数民族とて、長い歴史のうちには周辺との戦争や侵略も行いましたが、しかし大規模な行為というのは先ず存在せず、少なくとも近代においては世界中に「支配集団の横暴と文化否定の同化主義による、構造的加害者と被害者の構図」が存在していました。 彼らは近代の国際的パワーゲームにおいて、身勝手で暴力的な強者から、常に不当な脅威を受けてきました。従来の世界構造とは、常に「強者の国家・地域・民族・集団が、世界統治のピラミッド構造や、国内の統治構造において、圧倒的な地位を得てきた」のであり、「その対極に位置する少数民族は、常に敗者の立場に追いやられてきた」のです。「Environmental Racism(エンバイロメンタル・レイシズム=環境を通じた人種差別)」「Nuclear Racism(ニュークリア・レイシズム=核を通じた人種差別)」は「資源・核原料の採取・精製・廃棄による環境汚染が、先住民族の居住地域で行われることが非常に多く、世界の人種差別構造の典型例である」ことに対して、この事実の周知と改善の為に作られた造語ですが、これもこの世界構造の一端に過ぎません。それが「権威主義・物質主義・攻撃性・破壊性が支配してきた、従来世界の負の構造」です。 総じて日本では、「個の抑圧」「全体主義」に発する問題により、そういった状況を重ねて、自らに有利な状況を積み重ねて、カネや非道徳行為を使って、相手に諦めさせて、無理に同化させ、問題を風化させ、経年的に問題を消滅させてゆくという、暗黙の方策が採られてきたと言えます。 特に同調圧力が強い幾つかのネット掲示板では、偏狭な優位思想により「アイヌ・沖縄問題では、まともな議論が成立し難い」「理不尽な論理・攻撃・レッテル張りに終始する」という状況が長く存在します。特にアイヌ問題では全く議論が成立せず、このような「国内の民族、特に先住民族の議論が、中心的なネット掲示板で全く成立できない先進国は唯一日本のみ」です。 そして「自国の少数民族・少数派には根拠無き攻撃を加えるが、敵対国の少数民像・少数派は称揚する」という言動が横行しています。これは「敵の味方は敵」「敵の敵は味方」「自己が属する集団への絶対的肯定」「利害観念のみが判断基準」「他の存在をどうでも良いとする」という思考法による物で、その対象国でも幾つかの少数民族・少数派に同様の言動が行われています。何れの場合も「(敵対国の少数民族の)人道問題」を指摘するも、彼らは「一般的に自国・他国の人道問題に全く無関心」「自国に有利・不利という判断基準に関わる場合のみ人道問題を重視するのであり、通常は対極の性質の「権威主義」を称揚します。その言動の根幹には「都合の良い時と悪い時では、全く言動が異なる・真逆になる」という「論理的一貫性の欠如」「ご都合主義の二重基準」、「喚いた者勝ち」という「非論理的な言動様式」、「実際は人道問題はどうでも良く、利害関係だけに関心」という「欺瞞性と非共存思考」があります。「このような主張の人が敵対国で転生したら(頻繁にある)」を考えると、そこでも「自国の少数民族・少数派には根拠無き攻撃を加えるが、敵対国の少数民像・少数派は称揚する」のを繰り返すでしょうし、これは低波動の意識の問題です。これらは世界中で長年続いてきた「極端な利己主義・独善志向・非道義性」による物で、それが現在にも引き継がれています。「アイヌ民族と琉球民族」とは歴史的に、「国同士・民族同士の争い」ゆえに、理不尽にも最も「穢れた強者たちの陣取り合戦の思考法」の犠牲になった民族の一つでもあります。 また、平和国家などと言われていますが、その実相の一端として「まともな議論の土壌や、民主主義的概念が弱い」「これにより体制側・権力側が常に非常に有利で、非体制側は常に不利である」という様相があり、これが当該状況が長年中々改善されなかった要因です。更には「草の根的・市民的・オルタナティブ(代替)の社会機能・メディアなどの存在を担保する社会土壌」も弱く、これらは通底します。 これらの原因は、多くが「個の抑制・空気優先主義・権威主義」に還元され、それが長年無数の悪果を招いてきました。「アイヌ・沖縄の問題」も「原発問題」も「企業社会やメディアの問題」も、その他の多くの問題も「もっと早期に改善できたのに、自己利益や権威主義の為に、放置・不作為・嘘・隠蔽・糊塗・犠牲・破壊・・・が繰り返されてきた」という点で、共通した悪化要因により問題が深刻化しました。 「沖縄の基地問題・辺野古への基地移設問題」について、「このような環境汚染・自然破壊・犯罪・遺跡破壊は、米国本土(の居住地域)と欧州では、米軍は決して行う事はない」、これは非常に重要な点で、社会が徹底して考え抜くべき観点です。これは「現代世界の統治構造の極端な制度的犯罪性」を示しています。然し、その支配体制下にある現代の世界にあって、特に日本において突出して、あまりに多くの人が「仕方が無い・そういうもんだ」などと考えてしまっています。 日本の体制側は「徹底した欧米への、特にアメリカへの隷属思考」に、完全に染まりきっていて、「これほどにある国が他国に完全従属している例は、世界中に他には存在しない」です。これはある種の信念で、極端に狭い思考範囲の先に見える光景を、絶対的常識としてしまっています。この思考法を持った体制が長年支配してきた事により、現代の日本社会においても、同様に「欧米の事物・基準=絶対的基準」とする思考が隅々に蔓延しています。 そしてこの前提の下に、「軍事的に沖縄での海兵隊は不要で、デメリットが大きい」→「アメリカは自国が費用負担するなら、沖縄に海兵隊を置く意味が無い」→「だが要求すれば、従属国の日本が費用負担する」→「世界におけるパワープレゼンス向上の為に、沖縄に置く事を日本に要求する」→「日本は何でも要求通りに唯々諾々と受け入れる」→「反対派封じ込めの為、利益配分・権力濫用・御用マスコミの提灯記事が行われる」という「上意下達の強要」が続いてきました。 「日本の体制側は、対外的権威には従属的だが、国内の下位構造には強圧的という二面性を持つ」のであって、「権威主義と破壊性と非共存的思考(自然破壊の許容)と、飴と鞭の駆使により、沖縄へ基地移設受け入れを強要する」という行為を行っています。 この過程においては、政界(与党)・官庁は「デメリットの勘案(危険性・犯罪・騒音・環境破壊など)「他の案の検討」「県民・市民の意向」などを、真剣に勘案する事はありません。特に「極端に従米思考に支配されている官庁」では、絶対にありません。多くのマスコミもそうであり、「日本のマスコミの特徴である、ジャーナリスト精神の希薄さと利害重視」により、「大勢においては、受任は仕方ないんだ・そういう物なのだ、という空気を作り出す事」を旨としています。 「空気支配」が最大の特徴である日本社会において、どんな事でも「お上の判断(日本の体制側と欧米・アメリカ)」なら「最初からそう決まっているのだ・そういう物なのだ」として処理されて、「実質的思考は全くせずに、既決事項として流すの当たり前」という観念が蔓延しています。こういったメカニズムで、常に日本では「日本の体制側やアメリカが決めた事」が、絶対的前提として空気のように受容されていきます。これは「米軍問題」「対米問題の全て(アメリカの対日行為)」「原発問題」「TPP」など、何時如何なる時もこのようになっています。 これは他国であったら、その国や社会はもっと自律的思考をしているので、こんな事は決して起きません。しかし「日本だけが全く自己が無いかのように思考放棄して、ただ只管に上位概念の基準をそのまま受容する」という事を行っています。そしてこれは、特に「日本の大組織・体制側」が特徴的に持つ傾向であって、その構造に隷属する人が追従を繰り返しています。 そして「福島第一原発事故で失った、(ある程度以上)清浄な・居住可能な地域の面積」と「千島列島・樺太以外の領土問題での島の面積」を比較した時に、「前者を殊更矮小化して、後者については常に極大の関心を向ける」という態度が、頻繁に見受けられます。これについて「EEZ」という加算要素はあっても、「究極の僻地」という減算要素もあり、そして「福島第一原発事故で汚染された地域は、歴史的・居住的・経済的にも日本の非常に重要な一部」です。この状況はあまりに異常であり、如何に感覚が「攻撃的な意識」「他の集団との際限なき争い」に塗れてしまっているかを示します。 こういった日本特有の負の状況の原因ですが、これは戦後「個の抑制と権威主義に発する、無思考と、強者への付和雷同」が、蔓延し続けた結果として引き起こされた集団的アノミーの現象で、社会の末期的症状です。 更に遡れば、「そういう物」というのは「そういう物としてきた歴史の積み重ねが原因」で、「そういう物としないとすれば今後は変わる」のに、しかし「そこまでに思い至らなく、諦念・思考放棄してしまう」という状況があり、こういう構造を作り上げたのは「従属させた方が支配するには楽」だからで、これは「個の抑制と人間の均質化・ロボット化を招く、明治以来の全体主義的な統治政策」に起因します。この残滓が強く残り過ぎていて、「教育制度」「政界・官界」「企業社会・労働風土・労働組合「マスコミ」など「日本社会における大規模構造」は押しなべてそうです。これが日本を破壊した根源です。 結局の所「権威主義と隷属思考は表裏一体の物」であり、その中心的観念とは「上位概念に隷属して、下位概念に押し付ける事で、自己の地位を保とうとする行為・心象」に他なりません。この負の循環の中で、「アメリカ」→「日本の体制側」→「沖縄」という「下位構造への軽視・従属集団扱い」が続いています。実際に政界・官界・マスコミ・ネットなどを見ると、「上位概念(米国・欧米)への高い従属意識を持つ人は、アイヌ・沖縄を軽視する姿勢を持つことが多い」というのが明確です。 これは波動原理から考えると当然の事で、端的に言えば「権威を第一とするか、共存を第一とするかの違い」「権威を第一として、それを振るうか、従属するかの違い」だけです。「権威に従属する・従属させる」、この「低波動の社会における行動原理その物」の風潮が変わらない限り、こういった思考・行動から脱却しない限り、絶対に社会状況は改善しません。 そして「覇道」というのは、遂には成就しません。その最中の時代には、その国家において称揚する声が挙がり、極端な意見が純化していく事が多いですが、その方向では何も解決はしません。これは波動原理的に「社会の波動が悪化していく」からで、そういう思想が低波動である以上、不可避です。そして後の時代から見れば、そのような方向性は虚しく見えるばかりで、残した爪痕に苦しむ事になります。現代の世界の多くの様相は、その原因は「非・共存性」にあって、覇道は対極に位置します。 本質的には「アイヌ問題・沖縄問題とは、意識の高低の問題」です。意識に問題があるから、全てが疲弊して破壊されて、こういった問題が改善しないのです。「アイヌ問題・沖縄問題は、日本の戦後社会の様相が特徴的に現れている事象」だと言えますが、「自律的に考えて、平和共存を思考して、その輪を繋げる」ことでしか、この問題と、ひいては日本の全ての問題は改善できないでしょう。 何故ならば「全ての人間は神性を持つ」「全ての人間・社会は平等である」のであり、「高い意識を持った個が連来する」「それが繋がってゆく」ことでしか、社会は良くならないからです。非常に簡潔な事ですが、ここを踏み外すと、物事の本質的改善は不可能です。またこれは「常に何事も高度だったり完璧だったり」が望まれるのではなく、「高い労働強度」が求められるのでもなくて、ある意味「気楽・適当」で良くて、そこに「共存を想う心」さえあれば良いのであって、これは「精神世界と最新の量子力学の諸々の見解の纏め」による見解です。 解決するのは「共存を想う心」、これさえあれば、何事も改善してゆくでしょうし、一旦社会がそうなれば、量子的飛躍(クオンタムリープ)が訪れれば、それは簡単に成され続けてゆくでしょう。 ヤマト・アイヌ・沖縄(琉球)などの和合 本来は「北海道などのアイヌなど、本州・四国・九州などのヤマト民族、沖縄などの琉球民族が、互いに尊重して仲良く暮らせば良いだけの事」、ただ単にそれだけのことです。 しかし「他集団に対して、自らを優位な立場に置きたいとする潜在意識」により、「相手に不都合な立場を押し付ける」という事が横行して、「社会に多くの軋轢・格差が生じる」という社会状況を招き、これが事態の改善を阻害しています。「上下関係を強いて、根拠の無い優越感に安住して、その為には無辜の他人に犠牲を強いてもいい」とするならば、何処にも「真の平和・幸福に満ちた社会」「個人の意識の高まり」はありません。 結局は「他の存在との共存意識の欠如」であり、全ては「波動原理による、低意識とその悪影響」に行き着きます。他国・世界体制の理不尽な行為の影響はあったにせよ、いずれにしても、戦前~戦後の日本は対内・対外的に多くの過酷な行為を起こしたのであり、言われ無き甚大な被害を与えてしまった他国と自国内の集団に対しては、その罪をありのままに認めるのは当然です。 そして「事実に目を瞑る・臭い物に蓋をする・都合悪い事を隠蔽する」のが横行する現状を最終的に選択したのは戦後日本であり、それが「無思考」「諦念」「付和雷同」を招き、「物事の真の部分を見ないような空気」「長い物に巻かれろという因習」「多様性・多様な思考を排除する社会構造」を醸成、それに流されてきてしまいました。そしてこれが「権威・カネ・空気による支配の固定化」を生むという悪循環が、戦後日本の概要です。 この戦前~戦後の流れと社会力学は、「権威主義・統制主義」「物質至上主義」の下、「体制側からの、過剰同質性への順応と多様性排除を受忍させる空気」を特徴としています。逆に「共存・連帯を深化させてゆく機能」が脆弱で、草の根レベルに良い部分が沢山あっても、この激流下では支えきれる物ではありませんでした。個人レベルに共存意識が無いと言うより、「ピラミッド構造の上層部」が集う大組織に無いのであって、それは「全体主義的体制による統治思想」による物です。そして戦後日本を覆った「物質主義・消費主義」「破壊性(環境破壊・上意下達・労働強度の強さなど)」というのは「過剰競争を煽る性質」があり、更に「空気支配」「同調圧力の高さ」に促進され、共存意識が阻害されました。 そして当然の事として、これら事象が大幅改善されて、「ヤマト民族・アイヌ民族・琉球民族など」が調和共存して助け合なくては、日本の復興もありません。そもそもこれは人間として社会として、余りにも当然過ぎる最低限の事です。よくメディアやネットであるような、形ばかりの「和の精神」や「和を以って尊しと成す」といった自画自賛をするのではなく、その真意に沿って「円満な対等性と相互尊重の実践」という「魂」を入れて、大同団結しなければ、「大きな和・大きな輪(=大和)」にならないでしょう。沖縄の反戦平和運動のスローガン「命どぅ宝(命こそ宝)」や、古くから伝わる「意地ぬ 出じれー 手ー引ち 手ーぬ出じれー 意地引ち(いじぬ んじれー てぃーふぃち てぃーぬ んじれー いじふぃち/腹が立ったら手を引きなさい。手が出そうになったら怒りを引きなさい)」の精神を刻み付け、そして「真の平和とはどのような物か」を考え、実現していく必要があります。 量子・波動というのは遥か昔にも影響を与え、誰しもがその影響を無意識に受けるので、「大和の国号が一般化した波動的な理由」は、「量子的飛躍の以後の時代における、大きな和・大きな輪という、幸福な連帯が循環する社会状況」を、意識体(神)が意識した事によると思われます。そのような社会を理想としたのでしょう。 「古神道‐縄文神道‐弥生時代・古墳時代の神道‐琉球神道に色濃く残存」「縄文文化‐アイヌ文化」などの関係性を見ても分かるように、元々は「ヤマト民族・アイヌ民族・琉球民族は同じ根を持つ」のであり、これに上とか下はありません。ただ並列的に存在するだけで、そして近しい関係にあるという事です。 原初の神道は「八百万の神を祀る」「地方ごとに多様な神々がいる」「歴史伝統や地域の民俗に根ざす」という形態でした。これは「個の重視や尊重や、地方や末端組織への分権体制に近い」「ピラミッド型よりネットワーク型」「硬質性より緩やかさ・柔軟さ」「多様性や大らかさや包容力」という種類の物です。そして「押し付け的・お上的・観客的」でなく「個人個人が真摯に本質と対峙している形態」、「破壊的・抑圧的・一方的」でなく「自然や多くの人との共存型・相互型」であり、元々は「原始共同体社会の縄文文化」から発しています。現代でも「アイヌ民族・琉球民族」は縄文文化に近く、「縄文は母権的」であり、この社会形態は「両性が高い社会的役割を持つ社会」に近い物があります。文明が発達して社会の階層化が進みましたが、この「日本の基層部分にある平等感覚・平和精神」という良い部分を見失っては、道を誤ります。 若し多民族が融合した「真の大和(大きな和・大きな輪)の社会」になったならば、其々に民族・文化が別れる前の、より柔軟で平和だった「縄文時代の思想」や、「日本の基層にある精神性」に回帰する事であり、それは「弥勒の世の中」であるのでしょう。更に「千島列島・樺太」も日本に戻ってきたならば、それは「日本国土の龍体の復活」であり、波動的・霊的に非常に高くなっていくでしょう。精神世界的に「日本=世界の雛形」「日本国土=龍体」「北海道=龍の頭(アタマ)」「沖縄・琉球=龍のタマ(霊・魂・玉・珠)」とする見立てがありますが、その波動的構造が完全化してゆくという事です。「封印された神々の復権」「縄文回帰」が言われますが、これらも含めた総合的な事を指し、本質に戻る時代が来たのでしょう。そしてそれこそが、在るべき姿です。 「アイヌ問題・沖縄問題」には、多くの問題が集約されています。そしてその際たる物が「辺野古の地」で、「自然環境」「歴史・遺跡」「祭祀・信仰・伝承」「日本の体制の全体主義性・権威主義・画一的思考法・統制主義」「関係国の傲慢さ・独善性・優位主義思想」「軍事・基地などの暴力性・破壊性」など、これら「高波動:修復的性質」⇔「体波動:破壊的性質」の事象が、一点に集約しています。これは波動原理的に考えれば、「極性が集中する辺野古の地から、世界の大転換が始まっていく」という事を示唆しているとも思えます。l 今後、これら「アイヌ問題・沖縄問題」を契機に、全ての流れが大きく変わっていく可能性は充分にあります。時代はいつ社会の大変換が起きてもおかしくない時点まで来ていて、これら事象が契機にならなかったとしても、近い将来に何かが切っ掛けとなり、或いは自然な流れで、社会や世界が大きく激変していくのは間違いありません。そして一つの問題として、「肯定的な社会の大激変を起こそうと、能動的に努力をするか」「ただひたすら、世間の空気の前に受動的に居続けるか」の違いがあります。「沖縄と北海道が、世界の大転換の端緒の地になる」というのは「縄文への回帰」という観点にも即しています。この点から、ある意味でこれら事象・問題は「今後の世界の雛形」と言えるでしょう。 当サイトの項目 項目1:波動原理と放射能除染の概略 (メニュー1) 項目2:波動器具・一部農法・一部機器等による除染法 (メニュー2) 項目3:量子水・還元水素水・水酸素ガスによる除染法 (メニュー3) 項目4:フルボ酸・微生物等による除染法 (メニュー4) 項目5:珪素・炭素同素体・ナノ物質・竹炭等による除染法 (メニュー5) 項目6:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」目次(メニュー6) 項目6①:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー7) 項目6②:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー8) 項目6③:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー9) 項目6④:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー10) 項目6⑤:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー11) 項目6⑥:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー12) 項目6⑦:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー13) 項目6⑧:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー14) 項目6⑨:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー15) 項目6⑩:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー16) 項目6⑪:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー17) 項目6⑫:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー18) 項目6⑬:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー19) 項目6⑭:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー20) 項目6⑮:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー21) 項目6⑯:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー22)
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福島とチェルノブイリ 甲状腺等価線量比較(早野先生 2013.2.16(公表データに基づく)福島の子供とチェルノブイリ周辺の子供の甲状腺被曝線量の比較 2013.2.13開催「県民健康管理調査」検討委員会配布資料「甲状腺スクリーニング検査からの甲状腺線量推計」 結論:チェルノブイリと福島の子供について比べると甲状腺被曝は桁違い チェルノブイリの未就学児半数が1Sv(1000mSv)以上。中には10Sv(10,000mSv) それに対して 飯館などの地域の99%は30mSv以下。 ※線量はいずれも等価線量 飯館などの地域1080人び99%は等価線量 30mSv以下 下に掲載しているスライドにあるように、川俣・飯館の15歳未満を調べた結果、推測される甲状腺等価線量は最大で30mSv未満。 チェルノブイリは1000mSV超が続出 未就学児では半数以上が1Sv=1000mSvを甲状腺に被曝(等価線量)。5000mSv以上の存在 補足:甲状腺被曝量が多くなった原因 1)数千Bq/kg以上の汚染された牛乳や乳製品を摂取 チェルノブイリ事故直後、住民は事故を知らず政府が対策しなかった。 2)放射性ヨウ素を取り込みやすい状態 チェルノブイリ周辺は内陸部のために海藻などを摂取しないので甲状腺にヨウ素が少ない状態だった。 このため放射性ヨウ素を取り込みやすい状態だったと考えられている。 ※1Gy→1Sv=1000mSv ※左側が未就学児童 右側が就学児童 福島原発事故とチェルノブイリ原発事故の甲状腺等価線量を比較 from Ryu Hayano 原発事故や放射能について有益な情報を発信している東大の早野先生のTwitterより 【公表データを使って福島原発事故とチェルノブイリ原発事故の甲状腺等価線量を比較】 http //www.slideshare.net/RyuHayano/ss-16566183 (福島の子供の甲状腺等価線量は桁違いに低いように見えるが,1080人しか実測しなかったのは痛恨.もっと大勢測定していたらどうなっただろうか)
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New Vegas ロケーションガイド/た行 五十音順。 クエストと関係ないマップポイントの紹介を主な目的としているため、関係している個所は該当クエストページを御覧下さい。 凡例ベッド…★★ 熟睡ベッドあり スキル本・雑誌…★★★ 両方あり/★★ 本のみ/★ 雑誌のみ 第188交易所 探鉱者のすみか チャールストン洞くつ チャンジャン記念広場 チャンスの地図 墜落したB-29 墜落したベルチバード テチャッティカップ・マイン デュラブルダンの 用済みキャラバン 毒物廃棄所 第188交易所 No. ベッド 作業台 リロードベンチ キャンプファイヤー スキル本/雑誌 スターキャップ 商人 勢力 英wiki 5.02 ★ ★ 商人、修理、キャラバン NCR 英wiki 掲載クエストページ:I Could Make You Care 探鉱者のすみか No. ベッド 作業台 リロードベンチ キャンプファイヤー スキル本/雑誌 スターキャップ 商人 勢力 英wiki 4.20 ★ ★ ★ ★★ ★ 商人 英wiki 初訪問時は内外にジャッカルギャングがいる。ジャッカルギャングや死んだ探鉱者が各種キャラバンカードを所持。キャラバンショットガン等も所持。 洞窟内の建物に入ってすぐ右の部屋、左のドレッサーにスキル雑誌「騎士物語」(入っていないことも)。右の台の上、チェス盤の上にサンセット・サルサパリラ・スターキャップ。 寝室右奥、小型ロッカーのそばにスキル本「今日のタンブラー」。寝室にはNORMAL武器ケース、EASYガンケース。特にめぼしいものはない。 奥の部屋にはリロードベンチ。救急箱や自動販売機、左手の棚にヒドラとキャッツアイもある。 ジャッカルギャングを一掃した後、しばらくすると探鉱者や探鉱者商人などが住み出す。商人はキャラバンカードを販売。 南の丘陵地帯は重度の放射能汚染地帯で、スーパーミュータントやケンタウロスの住処になっている。 チャールストン洞くつ No. ベッド 作業台 リロードベンチ キャンプファイヤー スキル本/雑誌 スターキャップ 商人 勢力 英wiki 1.07 ★ ★ ★ 英wiki 掲載クエストページ:Guess Who I Saw Today チャンジャン記念広場 No. ベッド 作業台 リロードベンチ キャンプファイヤー スキル本/雑誌 スターキャップ 商人 勢力 英wiki 4.07 ★ ★ ★ 英wiki 埋葬塚あり。 東の看板のねもとにダッフルバッグあり。 周辺にラッドスコルピオンが多く出現するので低レベル時は要注意。 北西に捨てられた小屋がある。トイレのそばにスキル本「若者の人生」。ドアのそばに9番アイアン。 「チャンジャン」は長江のこと。チャンジャン作戦 (Fallout 2 で言及) で死んだ米兵を弔っている。 実際にサンディエゴにあるソルダッド山記念碑 (朝鮮戦争慰霊碑) に似ている (外部リンク)。 チャンスの地図 No. ベッド 作業台 リロードベンチ キャンプファイヤー スキル本/雑誌 スターキャップ 商人 勢力 英wiki 1.16 英wiki 日本では予約特典だったグラフィックノベル "All Roads" に登場した。 墜落したB-29 No. ベッド 作業台 リロードベンチ キャンプファイヤー スキル本/雑誌 スターキャップ 商人 勢力 英wiki 3.26 英wiki 掲載クエストページ:Volare! 墜落したベルチバード No. ベッド 作業台 リロードベンチ キャンプファイヤー スキル本/雑誌 スターキャップ 商人 勢力 英wiki 6.24 英wiki 強化されたセントリーボット、強化されたMr.ガッツィーが生息。 ユニーク・テスラキャノンのテスラビートンが落ちている。 テチャッティカップ・マイン No. ベッド 作業台 リロードベンチ キャンプファイヤー スキル本/雑誌 スターキャップ 商人 勢力 英wiki 6.08 ★ 英wiki 掲載クエストページ:Anywhere I Wander デュラブルダンの 用済みキャラバン No. ベッド 作業台 リロードベンチ キャンプファイヤー スキル本/雑誌 スターキャップ 商人 勢力 英wiki 2.16 ★ 英wiki 掲載クエストページ:Heartache by the Number 毒物廃棄所 No. ベッド 作業台 リロードベンチ キャンプファイヤー スキル本/雑誌 スターキャップ 商人 勢力 英wiki 6.05 英wiki 放射能汚染地帯。ウェイストランド人の死体がある。しばらくして訪れるとリスポンしたウェイストランド人がいるが、話しても何もない。 すぐ南の丁字路にある車のそばで、リージョン新兵2人が死んでいる。ウェイストランド人と関係があるのかは不明。西にノバックの恐竜が見えるので、ブーンたちに狙撃された? 北の看板 (ヘリオス1) から南南西の小さな丘に木が一本あり、そこから東北東のランタンそばにガイコツが2つある。薬などが落ちている。 ロケーションガイド (英字)/あ行/か行/さ行/た行/な行/は行/ま行/ら行
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反原発学者リスト 237 名前:地震雷火事名無し(チベット自治区)[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 22 11 49.73 ID 4LyIqDTk0 京都大学 原子炉実験所助教小出裕章 「大阪は東北のガレキを受け入れるべきなのです!それしかない!!!」 http //blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65780711.html 小出 「空気を冷やせばセシウムはまた個体に戻りますし、フィルターというものを適切に設置する限りは(強調)、私はとれると思います。 フィルターを取り付けた上で、私は引き受けるべきだという発言をして、すいませんがみなさんから怒られ続けていますが。 え、今の事態を乗り切るためにはそれしかないと思っています」 240 名前:地震雷火事名無し(愛知県)[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 23 21 07.16 ID DKKWdbvr0 [1/3] 237 小出さん。 すごく良心的な学者なんだけど、最後の最後は原子力村の人なんだな。 どうしても、これだけは譲れない一線があるみたい。 241 名前:地震雷火事名無し(東日本)[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 23 37 14.88 ID kxsMMKLR0 240 村の論理と言うよりは、村を止められなかった自分たち国民は広く薄く責任を取るべきという考えでは? それが放射能の危険性を国民に低く思わせたい原子力村の意向と一致してしまってるのは皮肉だが。 242 名前:地震雷火事名無し(愛知県)[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 23 41 17.66 ID DKKWdbvr0 [2/3] 241 原子力村から村八分されているとは、二分はお付き合いがあるということ。 243 名前:地震雷火事名無し(愛知県)[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 23 42 52.22 ID DKKWdbvr0 [3/3] 東京のことは言えても、大阪のことは言いづらい事情もあるでしょう。 責めてるつもりはない。 245 名前:地震雷火事名無し(京都府)[sage] 投稿日:2011/12/17(土) 01 27 40.59 ID 0KcxNyOo0 242 汚染された食物は積極的に食べろって言ったのと同じだな 246 名前:地震雷火事名無し(徳島県)[sage] 投稿日:2011/12/17(土) 02 04 16.72 ID kEi9RNod0 まあ小出氏は危険厨のなかでも現実派だからゼロリスク厨は気にいらないみたいだね。 まあ俺は逆にそこを評価してるけど。 247 名前:地震雷火事名無し(千葉県)[sage] 投稿日:2011/12/17(土) 02 41 50.92 ID hR9SheHO0 [1/3] 小出氏はどんな低い被曝でも決して安全と言ってはいけない、 それなりの危険は必ずあるとはっきり言ってるよ。 彼は原子力には東京が地方へ、都市が農村へ危険を押し付けて来た事を問題視している。 さらに事故が起って、周辺の人だけに被曝までも強いている構造になってるから それを問題視してるの。 結局福島で瓦礫を処理すれば周辺の人間がさらに被曝を強いる事になる。 どうしても誰かが被曝をしないといけないとすれば、 それは責任に応じて公平に被るべきだと言う事だろ。 柏の焼却灰を秋田の農村に捨てるなんて持っての他。 そんなのは原子力ムラと関係ないだろ。 行政は危険は無いとして、ただどこかでこっそり処理すれば良いと思ってるだけ。 全然違う。 248 名前:名無しさん@12周年(秋田県)[] 投稿日:2011/12/17(土) 02 47 10.98 ID 06RmdDmg0 小出さんは「人口の多い都会を避けて過疎の地方にばかり原発を押し付けるのは許せない!」ということで反原発に転向したので、 放射能汚染でどうにもならない状況とはいえ福島の過疎地にばかり汚染物質を押し付けることも、やはり「許せない!」なんだろうね。 249 名前:地震雷火事名無し(WiMAX)[sage] 投稿日:2011/12/17(土) 03 26 26.33 ID fUzUXakk0 247 東電の事故による健康リスクを大阪に押し付けることにはいかなる正当性もない。 250 名前:地震雷火事名無し(千葉県)[sage] 投稿日:2011/12/17(土) 04 15 25.97 ID hR9SheHO0 [2/3] そんな事が言えるならこう言えてしまう。 瓦礫を引き受けたり押し付けたりしてるのは東京電力じゃないから。と。 まじめに言えば東京電力に原子力をやらせたり許したりしてるのは国だから。 国政として原子力を推進して来た事に、なぜ大阪府民だけ免罪されるのか。 間違いなく意思決定にかかわっている。 核燃料一つとっても全国を回って六ヶ所村やもんじゅを存在させてるし あの記録映画のように、くしくも福島第一原発は日本の原子力の「黎明」を担っていた。 たかが電力会社の管轄で責任が分断されるはずがない。 地域間で分断しようとするなら世代間倫理なんか到底考えが及ばない。 78 : 地震雷火事名無し(東京都)[sage] : 投稿日:2012/04/22 10 29 57 ID D3E1RDhJ0 小出裕章の「使用済み核燃料の再処理」の説明が、ウナるぐらいにわかりやすい! 小出「はい。もともとですから、原爆を作りたい、ということでプルトニウムをとり出すというのが、 その再処理という技術、なのです。え…ですから、極めて高度な軍事技術なのであって。 え…外国はけして教えてくれないのですね、そのことを。技術の内容を」 http //blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65801464.html 再処理、高速増殖炉、ガラス固化等々、核燃料サイクルに必要な技術で 未だ実現できてない技術の進捗具合ってどんなもんなんでしょう? 517 : 地震雷火事名無し(関西地方)[] : 投稿日:2012/12/20 11 38 14 ID nynm1pst0 今朝のモーニングバード「そもそも総研」での小出先生の発言 「元々政治には絶望しているが、こういう選挙結果が出てしまう日本人に体質に絶望する」 「生活を良くしてくれと目先のことしか考えられない日本人」 「原発は戦争と同じ、こういうことになっても反省も総括もできない日本人」 ね、日本人そのものが本質的御用ってことですよ なお、実況スレは非難轟々の模様 特集ワイド 原子力廃絶、子どもらのため 京大・小出裕章助教、最後の講義 毎日新聞 2015年03月04日 大阪夕刊 http //mainichi.jp/area/news/20150304ddf012040011000c.html ◇放射能は100万年続く災い 大人は福島の責任を取れ 原発の危険性を40年以上にわたって指摘してきた京都大学原子炉実験所(大阪府熊取町)の小出裕章助教(65)が今月末の定年退職を前に、2月27日、実験所内の自主講座で最終講義をした。豊富な知識と分かりやすい語り口から福島第1原発事故以降、全国での講演やラジオ番組へ引っ張りだこだった。講義のテーマは「原子力廃絶への道程(みちのり)」。福島事故を見詰め、自分の人生についての思いを真摯(しんし)に語った。【大島秀利】 ◇たまった汚染水、今や50万トン 小出さんは1974年に助手(現助教)として実験所に入所。原発に批判的な同僚と80年に「原子力安全問題ゼミ」を作り、「熊取の6人組」などと呼ばれた。 この日、全国から詰めかけた約140人を前に、福島原発の現状をこう切り出した。 「事故の収束なんてとんでもない。現場が見えず、溶け落ちた核燃料などの炉心は、いまだにどこにどのような状態で存在するのか分からない。人が近づくと即死するほどの放射能があるからです。こんなに過酷な事故は、発電所では、原発でしか起こらない」 膨大な「汚染水問題」は一般には2013年ごろから注目されたが、小出さんはその2年前の11年5月、ラジオ番組で地下に遮水壁を張り巡らせるよう主張していた。講義では、そこで働く作業員にも目を向けた。 「この4年間は、核燃料をこれ以上溶かさないようにしようとひたすら水をかけ続けた。水は当然、汚染水になり、50万トンもがタンクに詰められている。今や、敷地内は放射能の沼のような状態。そこで苦闘する7000人近くの労働者は、きちんとした仕事をしようとすれば、たくさん被ばくするので、タンクからの漏れの対応も難しい」 原発敷地外の放射能汚染はどんなものか。小出さんは、原子炉実験所で長年従事してきた放射性廃棄物の管理業務での経験を基に語った。 「政府が避難指示している地域は、到底人が住めない地域です。琵琶湖の面積の1・5倍にあたる約1000平方キロが無人地帯なのです」 さらに広大な地域の汚染の深刻さを説明するのに職場での規制について話した。 「放射性物質を取り扱える場所は、法律で放射線管理区域に限定されている。一般の人が立ち入れない場所であり、私だってここに入れば、水を飲んでも食事をしてもダメ。管理区域から出る時には、汚染検査が必要で、その基準値は1平方メートル当たり4万ベクレル。私はこの法律を守り、41年間、管理区域外に汚染したものを持ち出して人々を被ばくさせないように細心の注意を払ってきた」 ところが、その努力もむなしくなった。 「避難指示の区域よりもはるかに広い東北や関東の一部地域が放射線管理区域の基準以上の汚染レベルになった。これは、日本政府が示した事実であり、風評でも何でもない。そこに人々が普通に暮らしている」 最も強調したのは「この広大な土地に子どもたちが生きている」ことだった。 「残念ながら私には時間を戻す力はない。私がやりたいのはたったひとつ、これです」。子どもたちを被ばくから守る構図のイラストを示した=<左>、柚木ミサトさん画。 「子どもは放射線被ばくに大変敏感です。子どもには全く責任がない。大人は自分が被ばくしてでも子どもを守らなければならない。放射能汚染はなくならないので除染ではなく、実際は“移染”ですが、人が住んでいる現状では移染もしなければなりません」 大人の責任に関連して、70年前までの軍国主義国時代と今との共通点を指摘した。 「国民は戦争に協力し、神の国だから負けないと信じ込まされ、戦争を止めなかった。ごく普通の人々が、戦争に反対する人を非国民と責めた。戦後、多くの人は政府にだまされたと言い訳した。原発では、推進派が決して事故なんて起こさないと言った。いま、国民が推進派にだまされたとも言う。今後、原子力に対してどう向き合うか、私たちは未来の子どもたちから必ず問われる」 ◇環境と仲間のおかげで闘えた 講義の最後、「間違った人生だったが、それでも恵まれた人生だった」と振り返った。 小出さんは東京都の私立開成高校出身。「間違った」というのは、「原子力開発に夢を抱き、命をかけるため」、原子核工学を学ぼうと1968年に東北大に進んだことを指す。大学院でも学んだが、反対派に回った。その理由も話した。 「原発は都会に建てずに危険性が過疎地に押し付けられ、事故が起きなくても放射性物質の毒は約100万年隔離が必要。それを子どもたちや未来に押しつける。原子力を選択する限り、核兵器と縁が切れなくなる。原子力は差別と平和の問題に関わっている」 だが、「自分の愚かさに落とし前をつけるため」原子力の専門の場に残った。 「原子力の廃絶を目指したが、原子力を進める組織はあまりに巨大で、私は敗北を続け、ついに福島事故が起きてしまった」 落とし前は「つけられなかった」と考えている。「福島事故を契機に原子力廃絶に向かうならばまだしも、福島のことがなかったかのように原発を進めてきた人は責任をとらず、この国は、原発の再稼働、新設、輸出へと動いている」からだ。 小出さんは原子炉実験所での41年間を助教のまま終える。だが、反原発を公然と掲げる小出さんに学内での「迫害」はなかったと断言する。それは「京大の独創性を重んじる学風に関係するかもしれない」とみる。 「(職務さえ果たせば)やりたいことができた。全国で闘う仲間たち、6人組の仲間にも恵まれた」と話を終えた。 退職後は、長野県に移住し、「年相応に身を引き仙人のように暮らしたい」と話した。講演は数を減らして引き受けるが、推進派との論争、原発立地地域からの依頼、若者の依頼を優先するという。 6人組のうち福島事故の汚染・被ばく調査をする今中哲二助教(64)が現役の殿(しんがり)だが、1年後に定年退職を迎える。小出さんは「今中さんの退職前に最後の安全ゼミを私が呼びかけます」と宣言した。
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Artist ALMA BT-028 ●水の壁 / Wall of Water Summon [ 4(水) / 100f ] 壁の召喚 Atk=0 , HP=4 水耐性+1 , 炎耐性+3 , 壁 ・召喚(水熊)[ 2MP / 350f ]対象のあなたのフィールドに水熊を召喚する。水の壁を完全破壊する。 ノンアクティブスキル?で《水熊》を召喚?することができる壁。まさに攻防一体。 それにより《放射能汚染》や《寄生開始Ⅱ》などのジワジワと弱らせるカードに対して完全な耐性を持っている。 また400f以上の対象?をとる除去も通用しない。 Ver2.09の時点では「召喚」の詠唱時間が50fであり、これと《繁殖地》と《死者の呪い》のコンボデッキが登場。 あまりにも強力だったため、Ver2.10で「召喚」の詠唱時間が350fに変更された。 参考リンク カードリスト:Basic Test カードリスト:水属性 外部リンク 水熊と水の壁(Ver.2.09)・・・Ver.2.09時点での《水の壁》に対する問題提起(2009/01/22・だんぱ ABCDを語る) サイクル Basic Testにおいて各色に存在する0/4のステータスを持つ壁クリーチャー。(無名の壁は登場時0/4) 《無名の壁》 《炎の壁》 《風の壁》 《光の壁》 《闇の壁》 ver.up履歴 2009/01/17 2.10 スキル「召喚」の詠唱時間を50fから350fに変更 2009/01/17 2.09 スキル「召喚」を追加 2006/05/31 1.68 「水耐性+1」を追加 2005/01/01 0.61 詠唱コストを5(水水)から4(水水)に変更 2004/11/18 0.44 詠唱時間を400fから100fに変更 2004/09/24 0.22 初出 フレーバーテキスト 水は生命を育てるだけではない、守りもするのだ。
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ニュースリスト ニュースリスト 2013 2013.3.1 1年で空間線量40%減 原発80キロ圏をヘリで測定 2013.2.21 アゴラ「福島で人は住めない」--放射能デマ騒ぎの悲しい結末 Togetter 神戸での小児甲状腺コントロール調査について 神戸の甲状腺調査結果を福島のものと比較しています。 2013.1.30 福島民報甲状腺被ばく30ミリシーベルト以下 原発事故時周辺の1歳児、放医研推計 2013.1.26 茨城新聞牛久市民の内部被ばく検査 全7468人、セシウム不検出 2013.1.17 アゴラ放射能デマにトドメを刺そう-- 書評『風評破壊天使ラブキュリ』 過去の記事 ニュース履歴を編集 [管理用] 以下はトップページに表示されていたもの +説明 説明 「ニュースリスト」ページから、このページ「ニュース履歴」を参照して表示する仕組みになっています。 ※atwikiのincludeプラグイン機能を利用 +記事保存 記事保存 記事保存ページ 新聞社やニュースサイト記事の多くは一定期間を過ぎるとweb上から削除されてしまうため、一部記事については保存目的のために上記ページに保存しています。 ニュース 2012年 +... 福島県、放射線量の現状 ― 健康リスクなし、科学的計測の実施と愚かな政策の是正を アゴラ記事 福島の甲状腺被曝はチェルノブイリのおよそ1000分の1 <甲状腺がん>検査で子ども1人確認 原発事故と関係否定2012年09月11日 毎日新聞 福島でコメ全袋検査…すべて不検出、関係者安心 2012.8.25 読売新聞 福島県 母乳検査 全員分セシウム不検出2012年07月09日 毎日新聞 福島県は9日、妊産婦や乳幼児の母親を対象に6月から始めた母乳検査で、同月中に実施した26人全員分について、放射性セシウムが不検出だったことを明らかにした。 内部被ばく調査 子供の99%、セシウム未検出に…福島 2012年5月15日 毎日.jp 福島県南相馬市立総合病院は15日、3月末までの半年間の検査結果をまとめた... 食事の放射性物質100世帯調査} 9割の90世帯不検出 2012年05月15日 河北新報社 コープふくしま(福島市)は福島県内の100世帯を対象に食事に含まれる放射性物質の摂取量調査を実施し、14日、結果を公表... <福島県立医大調査>精神科入院の24%に被ばく恐怖影響 2012年3月26日 毎日.jp 東京電力福島第1原発の事故後に福島県内の精神科に入院・再入院した患者のうち、放射線被ばくの恐怖が関連した可能性のある人は24.4%と全体の4分の1に達したことが福島県立医大の調査で分かった… 【ふくしまの話を聞こう】 福島で生きるための放射線知識 「福島おうえん勉強会」は、放射線の影響が心配な小さなお子さんをお持ちのお母さんたちの疑問に応えるような勉強会 シノドス・ジャーナル 【NEWS】3/11『福島の放射能について考える』勉強会開催(郡山市) 3月11日に勉強会が開催されました。Ustreamでも中継され、その様子は録画されてネットで配信されています。ぜひご覧下さい。詳しくはこちら 牛乳のセシウム、すべて下限値以下 乳業協会が検査結果 2012年2月29日 asahi.com <内部被ばく>「検出できず」6割 南相馬市立病院が調査 2012年2月5日 毎日新聞 福島の食事、1日4ベクレル 被曝、国基準の40分の12012年1月19日 asahi.com 全員健康に影響なし (福島)県の内部被ばく検査 2012年1月25日 福島民友ニュース ニュース 2011年 +... 「明治ステップ」から、放射性物質(セシウム)が検出された件 2011.12.09 サイト内 郡山の小中学生線量測定「ただちに健康へ影響なし」線量測定 2011.12.09 asahi.com 家庭の食事の線量調査「健康に問題ないレベル」 コープふくしま 2011.12.02 福島民報 ネット上の書き込み「白血病患者急増 医学界で高まる不安」について 2011.11.29 日本医師会、お知らせページより 横浜で検出されたストロンチウムは原発事故由来ではなく「核実験」によるものと判明。2011.11.28 サイト内 横浜のストロンチウム、核実験で降下…文科省 (読売新聞 - 11月24日) 上記記事についての解説的なブログエントリー だから、こういう分析で原発由来と言うのは時期尚早外部リンク 2011.10.21 会津若松市がより細かく全300地点で放射性物質検査を実施。すべてND(不検出レベル)会津若松市 甲状腺機能異常の報道について放射線科医の見解Togetter 武田邦彦氏の哀しいウソ外部リンク 武田邦彦氏の売り歩く放射能デマ外部リンク [オリジナル記事] Twitterで発見した「不思議な、牛乳の放射線測定結果」サイト内 メグミルク「特濃」から、ちょっと考えられない程の放射線数値がでた。という話。 「ふくしま新発売」 というサイトを発見!外部リンク 浪江町の子ども、生涯3ミリシーベルト未満も 内部被曝調査で(日経) 福島産早場米すべて出荷可能 一般米予備調査も基準以下 (asahi.com 11.9.10) 放射性セシウム:土壌からほぼ全量回収可能…新技術を開発每日 2011.9.1
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タコ氏のデマ「検出限界以下の食品を食べ続けると、高線量被曝になる」 タコ氏は、「検出限界以下の食品を食べても中線量被曝から高線量被曝になる」という珍説を主張しています。 肝心な事には答えないで「忙しくなってしまった」ようです。 http //blog.livedoor.jp/tacodayo/ タコ氏のブログ 検出下限は、機器や検査機関にもよりますが、10Bq/kg程度 検出下限は、機器や検査機関にもよりますが、10Bq/kg程度と考えてよいです。検出下限ギリギリの食品を毎日数キロ食べても、預託実効線量で「高線量」となることは、私の知る限りありえないことです。 「ダメージが蓄積する」などという意味不明な言い訳をしていますが、具体的に何を言いたいのでしょうか。もしかして「NDの食品を摂取して内部被曝したとする。それによってDNAが傷つくが、修復システムがまったく効かない状態が蓄積する。」という珍説でしょうか? NDギリギリの10bg/kgのものだけを、一日二キロ食べるという無茶な計算でも年間0.1mSv どちらにせよ、預託実効線量を計算するサイトで試算したほうがいいです。 10bq/kgの食品を2kg、一年間毎日食べたとします。(ここではセシウム137で試算) http //testpage.jp/m/tool/bq_sv.php ここで計算してみてください。 この場合、預託実効線量は0.0949 mSv つまり、年約0.1mSvです。これが「ダメージが蓄積する」に該当するでしょうか? 何万年NDの食品を食べ続ければ、高線量被曝するのだろうか 以下引用です。ミリグレイ(mGy)は、ほぼミリシーベルト(mSv)と読み替えていいようです。 つまり、仮の試算で、かなり多めに見積もった値、年0.1mSvというレベルは低線量域の中でも極低線量の領域です。 高線量というからには2000mSvに達することになります。 外部被曝の比較になりますが、自然放射線量の世界平均は年2.4mSv これの10分の1にも満たない値なのに、タコ氏というのは罵倒を繰り返しつつ、トンデモ珍説デマを掲示板で繰り返し唱え、訂正もないまま、去っていったのでした。 低線量放射線は総線量で200ミリグレイ未満、高線量放射線は2000ミリグレイ以上とされており、その間には中線量という定義もあります。 http //www.aomori-hb.jp/ahb2_08_h08_term.html 結論 まったく内部被曝について理解してない人であり、それを理解し訂正することも出来ない人であったことがわかりました。 人間は間違えたり知らなかったことは罪ではありません。訂正すれば良いのです。持論が間違っているのに、相手を不当に非難して逃げることは最も恥ずべきことです。 ※あきらかに侮辱する言葉を吐いています。私は正直呆れるだけですが、こういう態度の人間にさえ相手にしないといけないのは不条理だと感じます。 ただし、こういう無茶苦茶な誤解さえも、一つ一つ検証していくことは重要です。時間のある限り、当サイトの批判については誠意を持って回答していきたいと思います。 「鼻血が出るから放射能のせい」という理屈 ここでは話が拡散するので取り上げませんでしたが、簡単にタコ氏が言う「鼻血が出るのは(根拠がないけど)放射能のせい」ということについて。本当に現在の低線量放射線で「鼻血が出る」というのなら、ちゃんと疫学的に調べましょう。このデマ、都市伝説は多くの場所で語られていますが、ちゃんと科学的に調査した例を聞いたことがありません。世間には反原発団体(例えばグリーンピースとか)反原発派の議員、ジャーナリスト、識者、一般人、放射能なんとかのネットワークとかいう団体もあります。全国規模の組織がありながら、なぜ「鼻血について科学的な調査」をしないのでしょうか。 もし国が調査して「鼻血は増えてない」といっても納得しないんだから、自分たちでやるべきです。内部被曝ならホールボディーカウンターで被曝量を測定し、被曝量と鼻血発現率の相関関係を見る。もし外部被曝なら空間線量との相関関係を検証すればいいんじゃないですかね?真剣に「放射能で鼻血が出る」って思っているなら、やるべきです。 冗長になるので、あえて一部のスレッドのみ抜き出し転載。 タコさんへお願い 管理人 2012/10/15 (Mon) 03 52 35 小さい椀子蕎麦でも10杯も食べれば、タコは満腹になるが…(^_^;) 検出限界以下の食品を食べ続けると、中線量被曝から高線量被曝になるという話が判らない? 足し算が出来ない? タコ氏は上記のように「NDの食品を食べ続けると高線量」主張していましたが、都合が悪くなったのか、全然関係の無い話を持ちだしてごまかしています。 そもそもタコ氏は自身のブログで「正しい放射能情報を見つけるためのサイト」を「安全デマサイト」と言ってたようですが、 実際にはタコ氏は放射線の基礎知識も無く、生物学的半減期(放射性物質が体外へ排出されること)も知らず、しかも「高線量」になる。と思っていたようです。 さらに、「鼻血が出るから放射能の影響だ」と私管理人を論破していたつもりのようですが、「一つの結果をすべて一つの起因するものでしかない」という珍妙な理屈で押し通していたことも理解できないようです。 氏のブログも陰謀説を扱うブログのようですが当初から罵詈雑言で議論の態度も悪く、論理展開も稚拙です。嫌がらせをしたつもりですが、自ら墓穴を掘り続けています。 ですので、アクセス禁止なんてせずに、しばらく「NDの食品を食べ続けると高線量」という珍説についてどう言い逃れで誤魔化すのか、話をどのように拡散させて誤魔化すのか、罵倒で誤魔化すのか、しばらく見守りたいと思います。 アクセス禁止にしたら「言い訳で誤魔化す芸」が見れなくなるからです。 ※もちろんログはすべて保存し、削除しても後ほど公開いたします。 Re タコさんへお願い タコ 2012/10/15 (Mon) 09 08 41 》全然関係の無い話を持ちだしてごまかしています。 比喩、例え、という言葉を知らないようですね。 検出限界以下の食品を食べ続けてることは、小さいお椀で御代わりを沢山するという事を象徴しているのに、「全然関係の無い話を持ちだしてごまかしています。」 ですか…(^_^;) キチガイ? 》生物学的半減期(放射性物質が体外へ排出されること)も知らず、 》しかも「高線量」になる。と思っていたようです。 ダメージが蓄積されていくことが判らないようですね。 例えていうなら、ボクシングでボディーブローを喰うようなものです。 おっと ( ̄□ ̄;)!! また、「全然関係の無い話を持ちだしてごまかしています。」 と言うのでしょうね。 ギャハハ 外部被曝の場合も、皮膚の細胞は3日から1週間で全て入れ替わりますが…(^_^;) 外部被曝と内部被曝の違いを論じるのに「生物学的半減期」ですか…(^_^;) ピントがづれていることにいい加減気がついたらどうです。 ちなみに、「生物学的半減期」については、当ブログの「放射性物質の生態濃縮」で、とっくの昔に記事にしていますが…(^_^;) プゲラ 鬼の首をとったつもりでしょうが、とんだ赤っ恥でしたね。 それではお休みなさい。 タコも暫く忙しいので、返事が遅れますが、気を悪くせず、書き込みしてください。 ただし、簡潔に要点だけでお願いします。 それではお休みなさい。 タコも暫く忙しいので、返事が遅れますが、気を悪くせず、書き込みしてください。 ただし、簡潔に要点だけでお願いします。 Re タコさんへお願い 管理人 2012/10/15 (Mon) 09 43 21 小さい椀子蕎麦でも10杯も食べれば、タコは満腹になるが…(^_^;) 検出限界以下の食品を食べ続けると、中線量被曝から高線量被曝になるという話が判らない? 足し算が出来ない? 私は「内部被曝と外部被曝の違い」について指摘しているのではありません。 上記のようにタコ氏は「検出限界以下の食品を食べ続けると、中線量被曝から高線量被曝になる」と言っております。今更ごまかさないで。 結局「検出限界以下の食品を食べ続けると、中線量被曝から高線量被曝になる」は正しいということで良いのですよね? 「生物学的半減期」について理解できなかったとしても恥ではありません。自分の間違い・デマを訂正しないまま罵詈雑言で誤魔化すほうが【恥】なのです。 Re タコさんへお願い 管理人 2012/10/15 (Mon) 10 00 36 ただし、簡潔に要点だけでお願いします。 ですから、【すでに】要点をまとめて答えやすく質問しています。 タコ氏が主張していた「検出限界以下の食品を食べ続けると、中線量被曝から高線量被曝になる」について、イエス・ノー、または数値でお答えください。 (二回目) 1)放射性物質が微量(ND)でも蓄積して高線量被曝するんですよね? 2)体から全く排出しない(蓄積する)んですね? 3)NDの食品を食べ続けて、どれくらいの量(Bq)が、蓄積しますか? 4)その高線量の具体的な数値は何mSvですか?
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波動原理・ゼロ点効果の纏めサイト - 放射能除去法纏めサイト 無数の除去事例や超常的現象、量子の共鳴効果による意識・社会・環境の改善 万物における波動情報の原理・作用・効果・影響・意味合いと形成・発展・永続化 量子(電子・陽子・中性子・光子・ニュートリノ)=波動(気)・ゼロ点(Zero Point Field)・電磁波・プラズマ・幾何学的形態・物質(珪素・量子水・酵素)・微生物・コイル・波動器具・波動農法や意識・言葉・パワースポットなど、波動原理の各種効果(超科学・超能力・元素変換・健康・意識覚醒・自然環境の浄化・森羅万象の好転) *********************************** 項目6⑥:波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い 森羅万象の形成・発展・永続化、意識・社会・環境の浄化・改善 【霊魂の所作と活性化、日本の基層と神事、精神性・芸術性の淵源】 ●魂振り・魂呼び・殯、神事・芸術の原点 ●一霊四魂 ●霊・魂・玉・珠・タマの増殖による産霊・生体の活性化、斎み清めること ●神性と芸術と意識状態 ●玉(ぎょく・たま) ●縄文時代と、日本の基層の自然信仰や緩やかな融和的意識 ●魂振り・魂呼び・殯、神事・芸術の原点 古代日本の葬送儀礼「殯(もがり)」は、「人の死後、本格的な埋葬までの間、遺体を棺に納めて喪屋内に安置し、あるいは仮埋葬して、儀礼を尽くして霊を慰める、日本の原初の葬制」です。大王・首長などが眠る喪屋「殯宮(もがりのみや)」を建てて、祭祀具・呪具が置かれて、一部の人がそこに入りました。その前の「殯庭(もがりのにわ)」には、多くの親族・知人・高官・祭祀関係者などが集まり、各種の儀礼が行われました。弥生時代・古墳時代・奈良時代など、古くは広く行われていました。火葬導入後に衰退、現在は一日に短縮され「通夜」となっています。殯が行われた事の背景に「古墳造営までの期間」があり、最大の背景には「古代の霊的観念・死生観」があります。 それは「病気は霊魂の衰弱、死は体から霊魂が完全に離れる事で起きる、その前は蘇生の見込みがあった」「生死の境が明らかでなく、殯が行われるのは生死なお不明の時であった」「死の直後の魂はまだ完全に肉体と切り離されていなく、離脱しそうになっている霊魂を捕え、魂呼びで呼び戻したり、魂振りで活性化すれば人は甦るとされた」という観念です。 「殯宮(もがりのみや)」と「殯庭(もがりのにわ)」では、次の儀礼を含め、各種の儀礼が行われました。 「魂振り(たまふり)」が「舞踏・歌舞(神楽)」などを以って行われました。携わっているのは「葬送儀礼での歌舞の奉納」を主な職掌とした「遊部(あそびべ)」などです。祭祀具の着装をした「巫女」が多数いて、「遊部の女性」は「巫女」でもあります。今でも一部神社では「巫女」を「舞姫(まいひめ)」と呼びます。この舞は「巫女舞」「神楽(かぐら)」の原型の一つです。また、女性だけでなく男性も舞をしています。 「魂呼び(たまよび)」は「魂が弱って体から離脱しつつある遊離魂に対して、呼び返したり蘇生させる」ことが目的、「大声で名を呼ぶ・名を呼びかける」「慟哭・すすり泣く」などを行い、明治時代までは広く行われていました。婦人達は魂呼びで「歌」を歌ったりもしていて、「琴」を弾く男性などがいます。人々は呪術的意味を持つ「隈取(くまどり)」などの「顔面の彩色」をしています。 そして「魂振り」や「魂呼び」で蘇生が叶わないとなると「鎮魂の儀礼」に移ります。「魂鎮め(たましずめ)」は「死者の魂が荒ぶらないよう・安らかに眠るよう」にと、「武具を持ち、呪文を唱えながら、棺の周りを回る」という行為を行いました。 「誄(しのびごと)」は「偲び言」の意、「死者を思慕する言葉」「貴人・民間人の死を悼み、生前の功徳・業績を称えて、その死を悲しむこと」です。古代では「各豪族・部曲から代表が出て、それぞれ伝来の誄を唱えた」というのが形式です。これは元は「寿詞(よごと)」に通じる物です。 「寿詞」は「善い言葉」の意、「賀詞」とも書いて、「天皇・貴人などの長寿・隆盛を祝福し、臣従を誓う善言・吉言」「寿(ことほ)ぎ祝う言葉」で、「呪言・神言的要素」を持ちます。「祝詞(のりと)」は「神徳を称え、崇敬の意を表する内容を神に奏上する言葉で」、語源は「のりとごと(宣之言・宣処言・宣呪言)」」とされます。古代の祝詞には「〜と宣(の)る(宣ふ)」、寿詞には「〜と申す(白す)」と結ばれている物があり、起源(原初の祝詞・寿詞)についての説は複数あります。これらは共に「言霊信仰」に基づき、同じ物と理解されたり、または「祝詞のうち、祝賀の意味の多い物を寿詞と呼ぶ」などとされます。 そして復活が叶わないとなると「殯」が終了されて、陵墓である「古墳」への葬送行列へと移りました。葬列の中心には、棺などが乗った車が何台も続いて、車には「旗状の五色の幣(ぬさ)」が付けられていました。万葉集の歌人で、「歌聖」「三十六歌仙」と称される「柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)」は、多数の「挽歌」を詠んでいます。「柿本氏」は「葬送行列に従って挽歌を詠む」のが職掌だったとも言われ、また「柿本人麻呂」は「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいます。 古墳は「奥津城(おくつき・上代の墓)」であり、祭祀施設です。「墳頂部」やそこに設けられた「壇」「御柱(おんばしら)」や「石室」「造り出し」などで祭祀を行い、「石室」「墳丘」「周濠」に大量の祭祀具が副葬されました。この祭祀・儀礼は「葬送儀礼」「政権交代式」「王権継承式」「亡くなった前首長の霊を継承する儀式」という意味を持っていました。これで、葬送が終了しました。 「古墳」は「殯」と深い関係にあり、「長期間殯を行ったのは、古墳造成までの期間が関係した」「墳丘に並ぶ埴輪群像・埴輪列の多くは、殯に纏わる物で、葬送や墓前での祭祀・儀式と結びついて配置された」とされます。「魂振り」「魂呼び」「魂鎮め」「誄」ほかの行為を行う「武人・巫女・力士・芸能を行う人」などを象った「人物埴輪」、「盾・甲冑」などの「器財埴輪」、「馬列」などの「動物埴輪」、「宮殿か殯宮」とされる「家型埴輪」など、そこから古代の葬送儀礼・祭祀形態・社会文化が再現できます。 古代の「群馬県」は、「栃木県」と共に「毛野国(けぬのくに)」と呼ばれ、後に二国に別れ「上毛野国(かみつけぬのくに)」「上野国(こうずけのくに)」と呼ばれました。古墳時代の東国の一大中心地であり、「古墳」は一万二千基以上と東国最多、「精巧な埴輪」「鈴鏡(れいきょう・銅鏡の周囲に鈴が付いた物)」という、独自性の高い文化を有していました。「埴輪」では「腰かける巫女」「挂甲をつけた武人埴輪」「帽子をかぶる正装の男子埴輪」「踊る埴輪」が知られていて、太田市に東日本最大の前方後円墳・全長210mの「太田天神山古墳」があります。 腰かける巫女(文化遺産オンライン) 「両肩に襷(たすき)を掛け,意須比(おすい・おすひ)と呼ばれる右前合わせの衣に,幅広い帯を締める。髪は島田髷(しまだまげ)に結い,輪状の髪飾りをつける。二重の頸玉(くびたま・首飾り)・足玉(あしたま・足飾り)に,手玉(てたま・腕飾り)・耳飾と盛装し,左腰には鈴鏡(れいきょう)と香袋(こうぶくろ)を帯にとめる。腰掛けは古墳に副葬される石製品や埴輪の椅子に似ており,この埴輪が神に仕える神聖な巫女を表現したものであることを窺わせる。」 古代(縄文~飛鳥時代)の服飾・身体装飾は、各地で様相が異なりますが、基本的にはこれが「古代の巫女の姿」です。服は朱色などの彩色があり、「ブラウス」のような衣装を着て、上に袈裟状衣の「意須比(襲/おすひ・おすい)」や「手繦(襷・たすき)」を着て、腰に「連続三角文の幅広の帯」をつけ、スカート状の「裳(も)」をはいて、髪型は「古墳島田」で「櫛」を刺し、顔面に「隈取」をしている事もあり、足は「裸足」、「玉類」を手足首耳に付けて、「鏡」「鈴」「装飾性の高い祭祀具」を着装する・持つ、といった様相で、中世以後よりも相当に鮮やかです。この姿で、各種祭祀と共に、「魂振りとしての舞」を踊っていたものと思われ、歩くたびに「鈴の音」が鳴りました。 (「意須比(襲/おすひ・おすい)」や、古代の「千早(ちはや)」(後述)は、中央に穿たれた穴から頭を出して着る「貫頭衣(かんとうい)」で、古来の日本の衣装を神事に用いていた) 「踊る埴輪」は「男子が踊っている光景」であり、「魂振り」か「新首長誕生の祝祭」を表現していると見られます。「武人埴輪」は全身装備した全身立像、極めて丹念な作りで、達や弓を持っていて、これは「殯宮や古墳を警備する姿」です。男子の服装・装飾は、服は「衣(きぬ)」と「褌(はかま)」、髪型は「美豆良・角髪(みずら)」、「櫛」「玉類」を着装、というのが一般的で、地位・仕事に応じて多様な出で立ちがあります。 古代日本には、「古墳と祭祀具の大量造営・製造」という「世界的に稀に見る大規模な祭祀」があって、「殯に纏わる概念」は「神道の形式・様相や、現代社会の多くの名称・概念の起源」となっています。 「魂振り(たまふり)」には「魂に活力を与え再生させる行為・呪術」「殯において、死者の遊離魂を呼び返し蘇生させる事」「殯において、遊離しかかっている魂を賦活させ、蘇生させる事」「祭りで、御神輿(おみこし)が神幸する際に途中で上下左右に荒々しく揺さぶる事」など、多様な意味があります。これは「魂や物を振るわす事、揺さぶる事で、活力を与える行為」であり、およそ「何かを振り動かすこと・揺り動かすこと」は、全てが「魂振り」に該当します。 「神社参拝での、鈴を鳴らす行為・柏手を打つ行為」は魂振り、「お祓いとして大麻・大幣(おおぬさ)を神職が振る行為」は、元は魂振りでもありました。神事やお祭りで「フサフサした物(大麻など)」「何かしらの物(御神輿など)」など、色々な物を「振るわしたり・震わしたり・揺すったり・動かしたり・ぶつけたり」するのは、「魂を復活させる儀礼=魂振り」の意味が込められています。 「魂振り」の一つに「袖を振る行為」があり、これは「自らの・病人の・死者の・誰かの、手や袖を振って、活力を与えようとした」という行為で、古くは非常に広く行われていました。「(名詞としての)袖振り」は「別れを惜しんだり、愛情を示したりするために、袖を振る」という意味で、「魂振」りから「恋愛表現や相手の気持ちを引き寄せる仕草」などに意味が変化しました。「"いってらっしゃい"で手を振る事」も元は「魂振り」で、「手・袖を振り、神霊を招いたり、呪力を相手に及ぼして、旅の安全などを願った行為」に由来します。巫女装束「千早(ちはや)」に纏わり、万葉集の「千早振る(ちはやふる・ちはやぶる)」は「神」「宇治(地名)」に掛かる枕詞ですが、前者の用法は「神事での腕・体の動きにつれ、装束が振り動いていた様子」に由来、これも「魂振り」です。 「経津主神(ふつぬしのかみ)」は「香取神宮(かとり・下総国一宮・千葉県香取市)」の御祭神、「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」は「石上神宮(いそのかみ・奈良県天理市布留町)」の御祭神であり、両神は同一神とされます。「物部氏」は古代に非常に大きな勢力を持った氏族、両社は物部氏の代表的神社のうちニ社であり、「石上神宮:物部氏が奉じた最も中心的な神社」「布留地区:物部氏の本拠」「香取神宮:東国の要の神社」です。「フツ」は「霊がフツフツ湧き上がる様子」、「フル(布留)」は「魂や物を振る」「ふるい起す」、両方とも「魂振りに纏わる名称(神名・地名)」です。「物部氏」とは「祭祀氏族」「フツ・フルの氏族」「魂振りの氏族」です。 「石上神宮」に伝わる「十種の神宝」は、物部氏祖神「饒速日命(にぎはやひのみこと)」が「天神御祖」から授けられた宝とされます。その時の教え「布瑠之言(ふるのこと)」には「若し痛む所有らば、この十の宝を、一二三四五六七八九十と唱えて振るえ。 ゆらゆらと振るえ(由良々々止布留部)。此の如くせば、死人も生き反らむ。」とあります。「石上神宮」や「宮中」で斎行される「鎮魂祭(ちんこんさい・みたましずめのまつり)」は「最も活力が低下した冬至に行う、十種神宝を振る、魂振りの神事」であり、また「冬」の語源は「殖やす(ふやす)」だとされます。 「古代出雲(島根県東部・鳥取県西部)」は弥生時代に非常に栄え、「銅鐸祭祀」を特徴として、一説に「フツ・フル(魂振り)」の観念が強かったとも言います。常陸国一宮「鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)」は、古来朝廷から「東国の最重要の神社」と看做されてきました。御祭神「建御雷神(たけみかづちのかみ)」は、別名に「建布都神(たけふつのかみ)」「豊布都神(とよふつのかみ)」というのもあります。鹿島神宮や建御雷神は、古くは「フツ・フル」のお社・神様だったとする説もあります。 更に「魂振り」とは、およそ「感動する事」「魂が揺さぶられる事」「昂揚感を感じる事」の全てです。同義あるいは類義の概念に「魂触」「魂殖」があり、「威力ある魂に触れる魂触によって、魂・霊威が増殖する魂殖が成される」となります。「見る事」「聞く事」「鑑賞する事」「感じる事」でも、魂振りは起きます。「音楽・舞踏・歌」「芸術」は、古くは神事であり、魂振りをもたらす物でした。大王の殯に携わった集団「遊部(あそびべ)」は、「音楽・舞踏」を職掌としていました。 そして「歌舞・芸能の女神」「音楽・舞踏・歌・神楽の祖神」とされる「天宇受売命(アメノウズメノミコト)」が、「天照大神」が「天岩戸」に隠れた「岩戸隠れ」において、大神を岩戸から引き出す為に踊った「神がかりした舞踏」とは、「太陽神を復活させる為の魂振り」「シャーマニックな行為・神託的な行為」です。ここで命は、桶を伏せて、これを踏んで太鼓のように音を鳴らし、手にしていた「茅纏の矛(ちまきのほこ)」は「鐘の一種の鐸(たく)を付けた矛」とされます。「俳優(わざおぎ)」の祖で、「わざおぎ」とは「神を招(お)ぐ態(わざ)の意」「面白おかしい技を演じて、歌い舞い、神や人の心を和らげ楽しませること。また、それを行う人」で、これら全ての行為は古くは「神事」と関わっていました。「天宇受売命」の神名は、巫女装束の一つの「髻華(うず)を結った女性」とする説もあり、後裔「猿女氏」は巫女の氏族です。 《巫女・シャーマン」は大きく「脱魂型」「霊媒型」に分類される》 脱魂型 ・シャーマンの霊魂が身体を離脱して霊界に赴き、諸精霊を使役してもろもろの役割を果たす。 ・広義の精霊統御者型の一種。 精霊統御者型 ・補助霊を駆使してもろもろの役割を果たす。 霊媒型・憑霊型 ・シャーマンが神霊・精霊を自らの身体に憑依させ、人格変換が行われ、シャーマンは神霊自身として一人称で語る。 予言者型・霊感型 ・シャーマンは神霊・精霊と直接交信し、その意思を三人称で語る。 ・シャーマン自身の個人的意志がある。 見者型 ・神霊の姿が見え、或いは声が聞こえる。 ・神霊の意思を三人称で語る。 邪馬台国の「卑弥呼」は「日の巫女(神子)」の意と言われます。魏志倭人伝に「鬼道を用いた」とあり、これはシャーマニズムとされます。「天照大神」は「太陽神」で、また「巫女」ともされます。「倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)」は「卑弥呼」に比定する説もあり、名前は「ヤマト(大和)のトトビ(鳥飛び)に基づく神祀りに仕える巫女」、「霊魂が身体から離脱して空中の鳥のように飛んでゆく、離魂型の巫女名」とされます。「神功皇后(じんぐうこうごう・息長帯姫命)」は、全国の「八幡神社」に祀られる「八幡三神」の一柱で、この神も巫女とされます。 縄文時代~古墳時代までは「衣装・身体装飾」は華やかで、女性だけでなく、男性も古墳時代までは、身体装飾を多くしていて、遺跡からはそのような遺物が多く発掘されていています。古墳から出土する「女性像の埴輪」は、その殆どが「巫女埴輪」であり、鮮やかな装束を重ね着していて、装飾具を各所に付け、鈴・鏡などを下げている物が幾つもあります。古代の有力な女性というのは、巫女的な性質を持っていて、その神託・託宣は、社会にとり重要な物でした。 「全てが一体的・融合的に存在」「全生活が世界観と表裏一体な物」「神人合一・神人和楽」という様相の中で、往古は人々は暮らしていました。後に社会の階層化していった後も祭政一体であり、集団の族長・首長らは、皆が霊的権威も兼ね備えていました。そういった社会においては、集落(遺跡)や多くの道具が、祭祀的な意味合いを有していて、即ちそれらは、波動的な意味合いを強く持っていた(持っている)という事を表しています。「神職・巫女」などの原型も、そういった古神道の在り方に発しています。 そういう社会の中で、「芸術・音楽・服飾」というのは「高度に精神的な物」「神事と一体的な物」でした。そして「大いなる何か」「宇宙とも、大地・地球とも、自然とも繋がるような・交わるような、壮大な感覚」「心底の楽しみ・感動」を感じるなどして、それら芸術行為を行っていたのでしょう。どんな行為でも、見るだけでも、聞くだけでも、「想い」「強い気持ち」などが篭っていれば、それは「魂振り」となります。往古には「祭祀・祈り」も「魂振り」も「芸術・音楽・服飾」も、日々の暮らしの循環において、その基盤となる世界観に一体的に組み込まれていました。 古書に「ホツマツタエ」という物があり、この中の「アワの歌」は「歌中の四十八音に、整然と言霊がこめられている」と言われます。「十種神宝はチャクラ十箇所に対応、これを活性化させる物」という説もあります。一見意味が良く分からない物でも、「波動原理においては非常に理に適った物、高度に計算された物、真理と同一の物」は多数あります。 波動原理では「全ての物質は振動している・回転している・波である」「エネルギーや光が固定化された物が物質」「物質は波動が上がると光・量子エネルギーになる」「意識・物質・光は根源的には同一で、相互に共鳴・振動・影響しあっている」「意識とは、即ち波動の性質である」とされます。そして「量子もつれ」効果により「対象物の性質に意識が同調すると、同効果が自己内に齎される」「量子エネルギーが溢れている事象に意識が同調すると、感動すると、愛情を感じると、その他何かしらの意識を持つと、同種のエネルギー・波動が、虚世界から体内に流入する」となります。拠って「魂振りに該当する行為」は、その全てが「霊魂を賦活・活性化させる物」「量子エネルギーを得て、"陽性の波動・朗らかな波動"を受けて、生体が活性化する物・元気になる物・意識が前向きになる物」「波動が上昇する物」です。 ●一霊四魂 神道には「一霊四魂(いちれいしこん)」という「心の構造の概念」があります。心は「天と繋がる一霊:直霊(なおひ)」「四つの魂」から成り立つという思想です。四魂には「荒魂(あらみたま)」「和魂(にぎみたま)」「幸魂(さちみたま)」「奇魂(くしみたま)」という神様の名前が付いており、それらを統括するのが直霊、これが人間の一霊四魂の仕組みです。 四魂は魂ごとに、他のどの魂とどういう関係にあるか、どれと結び付き易いか・離れ易いか、どういう効果を齎すか、という固有の性質があります。「産霊(むすひ)」は、この一霊四魂を増殖するものです。Wikiに以下のように記されています。 荒魂には「勇」、和魂には「親」、幸魂には「愛」、奇魂には「智」というそれぞれの魂の機能があり、それらを、直霊(なおひ)がコントロールしている。簡単に言えば、勇は、前に進む力、親は、人と親しく交わる力、愛は、人を愛し育てる力、智は、物事を観察し分析し、悟る力である。 これら4つの働きを、直霊がフィードバックし、良心のような働きをする。例えば、智の働きが行き過ぎると「あまり分析や評価ばかりしていると、人に嫌われるよ」という具合に反省を促す。つまり、この直霊は、「省みる」という機能を持っている。 《一霊四魂》 荒魂(あらみたま):勇 ・「勇」は荒魂の機能であり、前に進む力である。勇猛に前に進むだけではなく、耐え忍びコツコツとやっていく力でもある。 ・その機能は、「勇」という1字で表される。行動力があり、外向性の強い人は荒魂といえる。 和魂(にぎみたま:親} ・二つ目の魂の機能は和魂であり、親しみ交わるという力である。その機能は、1字で表現すれば「親」である。平和や調和を望み親和力の強い人は和魂が強い。 幸魂(さちみたま・さきみたま):愛 ・三つ目の魂は幸魂であり、その機能は人を愛し育てる力である。 ・これは、「愛」という1字で表される。思いやりや感情を大切にし、相互理解を計ろうとする人は幸魂が強い人である。 奇魂{くしみたま):智 ・四つ目は奇魂であり、この機能は観察力、分析力、理解力などから構成される知性である。 ・真理を求めて探究する人は、奇魂が強いといえる。 ●霊・魂・玉・珠・タマの増殖による産霊・生体の活性化、斎み清めること 「古代の霊・魂などを意味する言葉」には、「タマ」「ヒ」「チ」などがあります。先述のように、「タマ」は「魂・霊」の読みであり、「玉・珠(球・弾)」も「同じ読み・類似の原義」です。 「ヒ」は「霊」の読みの一つ、「日・火・陽(灯・燈)」なども「同じ読み・類似の原義」で、「火は霊の象徴やその物」でした。 「人(ヒト)」とは「霊止(ヒ・ト)」で、「霊が留まっている存在」です。男性の名詞「彦(ヒコ)」は「日子(ヒ・コ)」です。女性の名詞「姫・媛・(ヒメ)」は「日女(ヒ・メ)」で、「日売・比女」などとも表記されました。「人・彦・姫」ともに、往古の「人とは根源的に霊である」という観念を表した言葉です。 「チ」は「自然の霊力」のような意味で、「命・血・乳」に通じ、「魂・霊」とも類似の概念です。「イノチ」とは「生きる命」、「イ」は「湧き上がる命」のような意味で、「生・息・井」に通じます。 「稜威(いつ)」とは「神聖であること。斎(い)み清められていること」「勢いの激しいこと。威力が強いこと」の意味、「稜威(りょうい)」「御厳(みいつ)」とは「天子の威光」を意味、また稜威とは「外来魂」であるとも言います。 神道に「むすひ」という最重要概念の一つがあり、「産霊・産巣日・産日・産魂」という字が宛てられていて、「むすひ(むすび)」を神名に含む神は多数います。これは「ものを生み出す力」「天地・万物を生成・発展・完成させる霊的な働き」で、万物は「むすひ」の働きによって生じ、発展すると考えられています。 「むすひ」とは、古代の観念における「大地・自然の豊穣、多産と健やかな一生、魂の不老不死、輪廻転生を顕現させる為の、神が備えた能力」でもあります。「魂振り」も、霊を産み殖やす「むすひ」の働きを現した概念です。 「結び(むすび)」と「むすひ」は同じ原義で、「全ては繋がっている・結ばれている」という概念です。この方向には、意識・思いやり・奉仕的役割が繋がっていく「連帯」、常に新しい物(生命・意識・事象)を生み続ける「輪廻転生」「循環」「メビウスの輪」があります。「輪」もそうでしょうし、更に「和」「共生・共存」「融和性」に通じていきます。「むす」は「産むす(うむす)」に通じて、「生命はむすひ・結びによって生まれる物」であり、「息子」「娘」も「むすひにより生まれた子供」です。 逆に、こういう方向の事を蔑ろにすると「気枯れ(けかれ)」が生じて、「気が枯渇」していき、「不浄」となって、「生命力の低下」「寿命の早期化」を齎します。「穢れ(けがれ)」という言葉の原義もここにあり、現在の意味は「けがれること。特に精神的に醜い事。良くない事」とされます。「イヤシロチ(弥盛地)」に対する「ケカレチ(気枯れ地)」は「気が少ない土地」で、生物・物質の寿命・状態は悪い傾向にあります。 同様の言葉に「忌み(いみ)」があり、現在は否定的な言葉ですが、元は「清浄な・浄化された」という意味を含んでいました。「斎み(いみ)」「忌み(肯定的意味)」は「清浄な・浄化された」という意味です。「禊(みそぎ)」は神道の基本的概念の一つで、「自分自身の身に穢れのある時や重大な神事などに従う前、又は最中に、自分自身の身を氷水、滝、川や海で洗い清めること」を指し、「水垢離(みずごり)」は類語です。「物忌み(ものいみ)」「潔斎(けっさい)」「斎戒(さいかい)は「神事などのため、ある期間、飲食・言行などを慎み、不浄を避け、心身のけがれを除くこと」です。 禊の後に「祓(はらえ・はらい)」が行われ、「罪や穢れ、災厄などの不浄を心身から取り除くための神事・呪術」「神を迎え交流するための準備として、罪穢れのない清浄な空間をつくりあげること」を指します、具体的には「神前で祈祷」「祝詞奏上」「財物などを祓物として拠出」などで、祓の神事を行うことを「修祓(しゅばつ・しゅうほつ)」と呼びます。「禊」は「身体の穢れを除去して浄める行為」、「祓」は「罪や災いをとり除く行為」、互いに機能が近く、記紀の時代には「ミツギハライ」と複合した言い方もされていました。 「神道」においては「心の浄化」「各種の穢れを清めること」を最も重視します。「罪穢れについては、神事に臨む個人のものだけではなく、この世界のあらゆる罪穢れを徹底的に祓い浄め、"明(あか)き浄(きよ)き正しき直き"境地を求める姿勢こそが、神道の根本思想とされる」とされます。その為に、「禊」「潔斎」「物忌み」などで「自己を斎み清める(いみきよめる)・清浄な状態を保つ」ように努めたり、「祓い」「祝詞奏上」「各種の祭祀」で「対象や場を清める」と、いうのが基本的な考え方です。「八百万の神や霊的なものを重視して、精神と体を斎み清める」、これが古神道の時代から続いてきた「人の生きる道」であり、神であるままにという「神ながら(随神・惟神・かんながら)」の在り方です。 「イヤシロチ(弥盛地・弥栄地)」は「量子エネルギーが多い」「酸化還元電位が低い」「生命の寿命を長くする」「物が壊れ難い」という特徴があり、「龍穴・龍脈・気脈」「パワースポット」は類似概念で、その多くに「祭祀場」があって「清浄な地」となっています。 「魂は磨いていないと曇る」ので「御魂磨き」は重要です。神は「自らの心」にも「どの場・物質・命」にもいます。「意識の波動的な力は強い」ので、これにより祭祀を行いますが、神と繋がるには、より高い能力や、心身の清浄な状態が必要になるので、「神職・巫女」のような方々がいます。 まとめると「斎み・物忌みなどで、魂・波動は浄化される」「産霊で生命が生まれて、産霊・魂振りなどで、生命力は増加する」「気枯れ・穢れで、不浄となって、生命力は低下する」となります。「霊は、生命力は、精神・意識は、産まれ、殖やされる物」なのです。「意識の浄化」「魂振り(感性)」は「生命力の源」です。「穢れた意識・低い意識」は「生命力を低下させる存在」です。 また「他の意識・波動」との「結び」が繰り返されていけば、「意識が結ばれて、連帯が成されて、波動の効果が乗数的に増大する」「自己も他者も森羅万象も調和して、波動が上昇する」となります。これは波動原理に則っていて、こうして「集合意識」が形成されていきます。 ●神性と芸術と意識状態 波動を上げるには、基本的な意識状態が「調和・融和・共存」「柔軟性・融合性」「思いやり・優しさ・愛情」「素直さ・純粋さ」「低意識で現れる典型的感情を、常としないこと」などにあると良いとされます。人間には喜怒哀楽があって、、様々な感情は、人間足らしめる事や、更に世界の発展にも重要です。「間違った事に怒る」のは、「関係ないとして無関心でいる(利己主義)」に比べたら、基本的な意識状態は高いと言えるでしょう。ただ言えるのは「低意識で現れる典型的感情は、一時的な物として、それを常としないことが重要」だという事です。スパイスにはなっても、主食ではないという事でしょう。 人間は「無心」になると「脳波が下がる」という現象が起き、これは雑念が無い状態で、「脳波・意識」が「単一波長(コヒーレント状態)」になっていて、レーザー光線のように、強い効力を発揮します。人間には「肉体的意識」「霊的意識(無意識)」があります。「無意識状態・超越的な意識状態」にあると、「松果体」などを通じて「宇宙の根源的波動」まで通じていきます。また「他人の持つ有用な意識」とも「共鳴効果(量子もつれ効果)」を起こしやすくなります。このような状態にあると、「探していた解決法」「高度な知識・知見」「高い芸術性」などが得られ易くなります。「催眠術」は、外部的にこの状態を起こす物で、「人間の潜在意識に指令を与え、肉体をコントロールする手法」です。 波動を上げる為の基本的な意識状態の「素直さ・純粋さ」は、こういう意識状態・作用原理・現象と通じる物です。また、曇りの無い心であれば意識が高いでしょう。人間の心は複雑で、様々な要素が存在し、例えば「頑固さ」も有用に用いれば、多大な効果(各種成果や意識・波動の上昇)を齎すと思われます。ただ心象の全てで無いにしても、「心の中の何処かに素直さ・純真さがあり、それを大事にしている」というのは重要でしょう。「心の何処かの素直さ純真さ」があれば、「意識の現実化効果」「真理を見極める能力」「意識や波動」が高くなるでしょう。これは「子供や赤ちゃんの無邪気さと、その高波動」にも通じます。 巫女が踊る「神楽」「巫女舞」は「歌や踊りで神様を招き寄せたり、もてなしたりする行為」であり、その起源は、古代の「神遊び」です。「神遊び」は現在はあまり残っていませんが、縄文文化の名残を伝える「琉球地方」や「新潟県糸魚川市」などに残っています。 「神遊び」には幾つかの物があったり、又は決まった形式は無かったりしますが、元は「巫女や女性が、神々などと戯れる舞いや踊り」に発するとされ、原初は「楽しげに、自由に、心向くままに踊る、丸で天女の舞のような様子」であったと思われます。また「アメノウズメ」が踊った「忘我・無我の境地で舞い踊る状態」もそうです。こういう時は「素直さ・純真さ」「超越的意識」だと思われ、これこそが「神と繋がる意識」「高次元に導かれる意識」なのだと思われます。 では何故「素直さ・純真さ」「超越的意識」が良いのか、それは「雑念の無い状態」「意識が単一波長的な状態」だからでしょう。先ず「波動には低意識(=低波動)は厳禁」です。そして「波動は意識と同調する」ので、「高度な意識集中」或いは「無になり、神霊に任せる」という状態が必要です。そして「雑念を取り去って、邪魔な波動を無くして、ゼロ点と単一波長の波動を発生させる」「意識(無意識)・心身を同調させて、更に大地・宇宙とも同調して、波動を最大限に共鳴増加させる」と解釈できます。これは「シャーマニックな歌手が、意識を完全没入して、体全体を楽器にして歌い、場全体に世界観を顕現させ、超越的なパフォーマンスを見せる」というような光景に通じるでしょう。 ●玉(ぎょく・たま) 「勾玉(まがたま)」は「曲がっている玉(たま・ぎょく)」の意、日本独自の「玉(ぎょく)」です。「玉」は「魂・霊(たま)」に通じる言葉であります。 《勾玉の形状の由来説》 ・動物の牙で作った牙玉(牙製垂飾・牙勾玉) ・動物の犬歯 ・動物の腎臓の形 ・胎児の形を模した ・魂の姿を象った(霊魂を形象化した物) ・松果体の形状 ・神社の社紋や家紋によく使われる巴形を模した ・月の形を模した、三日月(鏡は太陽、勾玉は月) ・陰陽や太極図(勾玉二つを反対向きに置く) ・昆虫の蛹(さなぎ=銅鐸に通じる)、繭の形 ・魚などの形、ナマズ・イルカなど ・釣針の形 ・形・角度そのものに意味があった ・天体の位置と関係する ・破損した玦状耳飾りを再利用した ・南洋産巻貝のゴホウラの断面 ・他にも幾つかの説があり、何がが由来となっているか、そもそも一つのものを由来とするのかもよく分かっていない。 「勾配」の「勾」は角度を表し、古くは「勾」は「直角三角形の短辺」を指しました。「勾玉の語源」は「曲っている玉」から来ているという説が有力です。 勾玉は、先ず「東日本」で広く流通、弥生時代に「出雲地方」「九州北部」などで分布するようになり、日本中で用いられました。 石を身に付ける風習は、12000年前(縄文時代早期)の「湯の里遺跡群(北海道知内町)」の「小玉類」が最古の出土例、素材のダナイトは「ロシア・バイカル湖周辺」の物と確認されています。同遺跡群では「琥珀製小玉」や「二重の環状列石(ストーンサークル)」「立石」「垂飾」「漆製品」など、縄文時代の遺物も発掘されています。「垂飾(すいしょく)」は「石製の首飾り」で、一説に旧石器時代には存在していたとも言われます。 「玦状耳飾り(けつじょうみみかざり)」は「石製・土製・骨製の耳飾り」「円形か長方形で、中央に穴をあけ、外縁からこの穴に切れ目を入れたもの」で、主に東日本から見つかっています。古代中国の玉類「玦(けつ)」に類似する事からついた名称で、中国が起源とも言います。玉類の文化は、古代中国から伝播し、後に日本で独自発展を遂げました。 縄文時代の装飾具「大珠(たいしゅ)」は、木の葉状の形状をしていて、勾玉と同じく翡翠などが素材です。「天神遺跡(山梨県北杜市)」は、八ヶ岳山麓の縄文遺跡群の代表遺跡の一つで、日本最古の翡翠製装飾具として、墓坑から縄文時代前期末の約5.5cmの「翡翠製大珠」が出土しました。勾玉と大珠は、同時期の6000年前頃に誕生したと言われます。 「玉(ぎょく)」は「美しく価値のある石の類」、素材・分類は「宝石製」だけでなく、「石製模造品」「土製模造品」「貝製など」も含めた総称です。種類は「勾玉」「菅玉(くだたま)」「丸玉(まるだま)」「平玉(ひらだま)」「臼玉(うすだま)」「小玉(こだま)」・・・など多種多様で、「祭祀具」でも「装飾具」でもあります。 日本においては、玉の頂点は「勾玉」でした。勾玉が不思議な所は、上記の管玉など「石を削り穴を開けた玉」の中で、唯一左右が非対称な事です。古代の勾玉の素材は、「翡翠(ひすい)」「碧玉(へきぎょく)=青瑪瑙(あおめのう)」「水晶」「琥珀(こはく)」などの宝石、「滑石(かっせき)」「蝋石(ろうせき)」「蛇紋岩(じゃもんがん)」「緑色凝灰岩≠グリーンタフ」「雲母片岩(うんもへんがん)」など柔らかい石を用いた「石製模造品」、「埴(はに=粘土・赤土)」を用いて埴輪・土師器と同質の「土製模造品」、「ガラス製」と、稀に「青銅製」もあります。 中でも尊ばれたのは「翡翠」で、「軟玉(なんぎょく)」より「硬玉(こうぎょく)」がより価値が高く、「新潟県糸魚川市」産の硬玉は、市内に分布する工房で、勾玉などに加工されました。 糸魚川周辺は、古代の「越国(高志・古志・こしのくに)」があった地で、永らく独自文化が存在していました。越国の女王「奴奈川姫・沼河比売(ぬなかわひめ)」は「翡翠の女王」「勾玉の女王」であり、糸魚川を流れる「姫川」は奴奈川姫に由来、産地の「青海海岸」は翡翠の青緑の色から来ています。万葉集に「渟名河(ぬなかは)の 底なる玉 求めて 得まし玉かも 拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも」という歌があり、「渟名河:姫川」「底なる玉:翡翠」とされます。 次いで価値が高い「碧玉(青瑪瑙・青メノウ)」は、「花仙山(島根県松江市玉造)」の「玉造石」、「新潟県佐渡地方」の「赤玉」、「青森県津軽地方」の「錦石」などがあります。「錦石」は、縄文時代~弥生時代にかけて「三内丸山遺跡(青森県青森市)など、県下の各遺跡から原石・祭祀具・装飾具が発見されています。佐渡産の碧玉製管玉は、北海道の弥生時代の遺跡でも見つかっています。 「出雲国(島根県東部)」では、弥生時代に「玉造石」を用いて「出雲型勾玉」が造られていて、非常に盛行した古代出雲の文化の中でも、勾玉は重要な位置にありました。古墳時代には「玉作氏(たまつくり・出雲忌部氏)」が玉類の製作、古墳に埋納したり、朝廷に献納しています。全国の多くの地域に「玉造・玉作(たまつくり)」という地名があります。これは古墳時代に「玉作部(玉作氏)」などの「玉類の製造者集団が集団居住していた地」で、「部民(ぶみん)」として、朝廷から専門的な職掌を任ぜられていました。 出雲は「国作り」「国譲り」をした「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の地です。大国主命は沼河比売に「妻問い(求婚)」をしましたが、これは「古代の出雲と越国の日本海沿岸の交流」を示すとされます。大国主命を祀る「出雲大社(島根県出雲市)」境内の大石の下(真名井遺跡)から、4世紀の「大型の翡翠製勾玉」「臼玉」「銅戈(どうほこ)」が発掘されました。大国主命の別名に「八千矛命(やちほこのみこと)」があり、死後に多量の勾玉と共に埋葬されたとされます。 古墳時代の代表的氏族「土師氏(はじ)」は「埴(はに=粘土・赤土)や土木の扱いを職掌とした氏族」、畿内の大古墳を造営した「土木工事の専門集団」「古墳用・祭祀具用の石材加工の専門集団」であり、古墳に副葬する「祭祀具を大量に発明・製造した氏族」であり、これらを総合した「代表的な祭祀氏族の一つ」でした。土師氏は「土師器(はじき)」「須恵器(すえき)」などの土器・土製品を大量に製造、「日用の土器」と、「祭祀用の土器」「埴輪」「土製模造品」「石製模造品」「棺用の甕(みか)」などを製造しました。模造品とは、粘土や柔らかい石を素材として、例えば「勾玉など玉類」「鏡」「剣」などを模造して造り、一般の祭祀と古墳副葬で用いた物で、古墳時代の代表的な祭祀具であり、土師氏は「玉類の製造氏族」でもありました。土師氏の祖「野見宿禰(のみのすくね)」は、記紀に「埴輪を創出した」「相撲の祖」とあり、大古墳に用いられた「二上山(大阪府・奈良県)」の石材「サヌカイト」を押えていたとも言います。 古墳時代、ヤマト王権の誕生と共に、「前方後円墳」を頂点とした祭祀制度が一気に王権領域内に展開されました。古墳の全国総数は20万基以上と言われ、全長100メートル以上の大規模古墳が各地に築造されました。「伝仁徳天皇陵」とされる「大仙陵古墳(だいせんりょう・大阪府堺市)」は、墓域面積が世界最大(全長486m・高さ35m)です。これほどの大規模な葬制・祭祀は、世界的にも類例がありません。古墳は形状などに高度な画一的文化を有しながらも、内部構造(石室・石棺ほか)や副葬品は地域ごとに多様性があり、これは当時の地域文化の広がり・氏族の分布・交通と移動などを示しています。 一般の祭祀や古墳副葬で用いられた「祭祀具」は、「埴輪」「祭祀用の土器」「玉類」「模造品」「銅鏡」「鈴」「武具」「馬具」・・等等、多種多様な物があります。「古墳内壁や祭祀具に施された意匠」は、「直弧紋(ちょっこもん)」「蕨手文(わらびてもん)」・・・などがあり、また「祭祀具自体の形状」も含めて、これら意匠・形状は「特別の呪術的な含意が篭められた物」でした。「古墳の「祭祀具」「意匠」は、時代と地方ごとに種類と傾向が変遷して、質量ともに豊かな文化を形成していました。 中でも特徴的なのは「沖縄・奄美諸島」などで産する「南方産貝製品(ゴホウラ製貝輪)」と、その派生事物「車輪石(しゃりんせき)」「鍬形石(くわがたいし)」「「直弧紋」など「沖縄的事物」の存在で、日本の弥生時代~古墳時代前期のみで見られ、この時代に非常に重要視されました。これは「古代の日本本土・ヤマト:沖縄・琉球の関係性・位置付け」「邪馬台国に纏わる謎」「古代日本の成り立ち」「国・地域・社会の基層・古層」の解明と、「その解明と適切な解釈、良い方向での利用が、日本国土と社会と人々の量子的飛躍にとり重要である」という点から非常に重要であり、「アイヌと沖縄について」の項で記述します。 このように古墳時代は、中央の大王や有力氏族・地域の豪族・祭祀集団・部民などが非常に多様な文化を作り上げていました。その祭祀文化は「大規模古墳」「多様な祭祀具」「装身具・服飾・彩色など身体装飾」「巫女・遊部(あそびべ)などによる歌舞」などといった、鮮やかな様相を持っていて、日本史上最大の大規模な祭祀を行っていた時代です。古墳時代を非常に特徴付けるのが「古墳築造」と「豊かな祭祀具の文化」であって、中でも最も多く製造されたのが「玉類」です。そして「勾玉」「前方後円墳」は、日本を代表する代表的な祭祀具・祭祀場ですが、その形状は独特で、世界的に類例がありません。 「勾玉を用いた祭祀」「沖縄的事物の古墳への副葬」は、畿内では古墳時代前期の終了時点までに終了、勾玉の使用は地方ではこれより遅く、九州地方や関東地方では古墳時代後期に終了しました。そして他の「玉類」と「多くの祭祀具」の製造も徐々に衰退、古墳時代後期(7世紀半ば以前)に終了しました。この時期は、畿内より始まった「古墳築造の衰退」と重なっていて、東国では続いていた古墳や埴輪などの築造・製造も、飛鳥時代終末(和銅三年・710)以前には概ね終了しました。これを以って、古代祭祀の時代が終わりを告げ、祭祀において勾玉を着装する事もなくなりました。しかし古神道の形式が残り続けた「沖縄」では、その後現在に至るまで、巫女である「ノロ」が勾玉を着装して祭祀を続けています。 「記紀(日本書紀・古事記)」や、各種の古典・神話・伝承には、玉類が頻繁に現れ、各種の名称が付いています。中でも「三種の神器」の一つ「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は最も有名です。記紀に見える「山幸彦・海幸彦(やまさちひこ・うみさちひこ)」の説話において、山幸彦は「龍宮」の海神「綿津見神(わたつみのかみ)」から、「潮位を自在に操れる玉」である「潮満瓊・潮涸瓊(しおみちたま・しおひたま)」を授けられました。先述の「十種の神宝(とくさのかんだから)」の意味する所は、「霊・魂(たま)」「玉・珠(ぎょく・たま)」「フル(魂振り・霊の活性化)」です。 「たまゆら」「オーブ」という物があり、「浮遊する光体」の意、漢字では「玉霊」「玉響」「魂響」と書きます(項目6②)。肉眼でも見えますが、よく写真やビデオにも映り込み、波動の感度が高い人は多く見えます。「たまゆら」は「波動原理における意識体」、意識に感応して「ゆらゆら揺らめいて」、斥力(反重力)により「ふわふわ浮遊」、量子エネルギーの集合体なので「ほのかな光体」と成しています。 万葉集の柿本人麻呂の歌に「玉響」という言葉があります。古語で「読み・意味・原義・一般的用例」は諸説ありますが、一般的に次のように言われます。「玉響」は「たまゆら」か「たまかぎる」と読む、意味は「少しの間・ほんのしばらく・暫時」、原義は「勾玉同士が触れ合ってたてる微かな音」です。「夕(ゆうべ)」に掛かる枕詞で、「夕日の光は玉の放つ光のように、ぼわっとした感じで光っている」というのが枕詞になった理由です。 「丸い形状の:玉・珠(たま)」「宝石・土・石などの:玉(ぎょく)」「霊魂の:魂・霊(たま)」、これらは古くは「性質が近い物」として捉えられていました。それは「丸い物や、大切にしている物には神霊が宿る」「宝石だけでなく、埴・丹などでできた、一部の土製品も、神霊が宿りやすい」という古代人の観念を表しているのでしょう。また、これらの「概念の性質・名称の類似」は、それだけ「こういう性質の物には、高波動状態が現れやすく、神霊が宿りやすい」という事を示しています。 波動原理に拠れば、「意識」とは「霊魂」、珪素などを多く含有する「宝石類」は「高波動」、「埴(はに・赤土)」などは「珪素分が多い」、更に「土でも、強い意識が篭められた物」は「高波動になる」「意識が顕現化する」「他の高波動物質や意識と共鳴する」、「量子エネルギー」は「丸い形状として発生する」、勾玉のモチーフとも言われる「胎児」は「最も波動が高い・原初的な姿・純粋で生まれたての魂」となります。 また「玉のような子」「玉石混交」などの言葉に見られるように、「玉」は「大事な物・価値ある物」の象徴的な言葉でした。ただ「石・土」も非常に重要な意味を有していて、「ただそこら辺にある物」という無機的な認識論から、「その本質性を感じる」という統合的感覚へと変遷するでしょう。 波動原理を考えると、これらの「魂・霊・玉・珠などに纏わる用法・表現・事物」には、高い波動や意味があるのは確実です。「特に日本においては、意識の面から、それら事物には特別な意味がある・効果がある」と考えられます。それは「往古にそう看做され、強く信じられていた」「往古からそう看做されてきた」という「意識の所作の積み重ねの効果」によります。そして実際に、それらで言及される事象を探っていくと、他の伝承・伝統・神事などと同様に、多くの物に高い波動効果の存在が見えてきます。 ●縄文文化に由来する、日本の基層の自然崇拝と緩やかな融和的意識 「縄文時代」の開始年代には諸説あり、約16500年前や16000年前に始まったとするのが一般的です。時代区分は「草創期(約16000or15000~12000年前)」「早期(約12000~7000年前)」「前期(約7000~5500年前)」「中期(約5500~4500年前)」「後期(約4500~ 3300年前)」「晩期(約3300~2800年前)」などの区分法があります。 縄文時代前期の約6000年前にピークに、気候は現在より温暖湿潤で、年平均で1~2℃気温が高い環境でした。海面は2~3メートル高く、日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込んだ「縄文海進」により、特に「南関東」で「香取海」「奥東京湾」を形成しました。しかし縄文時代晩期・3000年前は、前の縄文時代後期に比べて、一気に気候が約2度下がりました。 縄文初期には2万人だった日本の人口は、前期には10万人、中期には26万人になったと推定されています。その人口の多くは「東日本」に集中していました。 文化は時代ごとに変遷して、地域ごとでも異なり、縄文時代中期には九つの文化圏があったとされています。特に「東北地方」「北海道南部・中部」「中央高地(長野県・山梨県)」「新潟県」で高度な文化が発達、「北陸地方」「関東地方」「静岡県」にも特筆される物が多く見られます。中でも「東北地方北部(青森県・岩手県・秋田県)」と「北海道南部」の「津軽海峡文化圏」は、全国の最も中心的な地域であり、多くの盛行した文化と大規模集落が存在、そのうち後述の遺跡を含む17遺跡は「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」として世界遺産の暫定リストに登録されています。 縄文時代の食糧事情は、早期は厳しく、前期に徐々に良くなっていき、中期には豊かであったとも言います。九つの文化の分布地は、それらの地域ごとに、食料事情が異なっていた事により、人口の増減も食糧事情によります。 食料は「木の実(クリ・クルミ・ドングリ・トチの実など)」が非常に多かった事が分かっていて、中でも「ドングリ」が主要な食物でした。「貝類・魚類など海産物」も重要な食料資源で、「漁労具や貝殻・魚の骨」はどの沿岸の縄文遺跡からも出土、「川を遡上してきた鮭」は寒冷期の東日本の重要な食料資源でした。植物は「穀類(イネ・アワ・ヒエ・オオムギ)」「豆類(大豆)」「ソバ」「シソ」「エゴマ」「ヒョウタン」や「漆(ウルシ)の木」などを栽培していました。「酒」「発酵ジュース」が生産されていたとも言います。動物では「鹿・猪」「鳥類」などを狩猟、「骨角器」にも利用しました。「犬」が家畜とされていた事も分かっています。 「中里貝塚(東京都北区)」は、非常に大規模な「水産加工場」と言われます。貝塚では大型のカキとハマグリしか見られず、生活遺構はなく、茹でてから干して、内陸部へ干貝を供給する仕事場だったとされます。また海中でカキをつけるために立てたと思われる「カキ養殖用の杭列」も見つかっています。 「稲(イネ)」は、栽培種が「アフリカイネ」「アジアイネ」に分かれ、アジアイネは「インディカ種」「ジャヴァニカ種」「ジャポニカ種」の3亜種に分類されます。「インディカ種」は「長粒種」「東南アジアから南アジア」「世界生産量の8割」、「ジャバニカ種」は「大粒種」「陸稲」「インディカ種とジャポニカ種の中間の種」「東南アジア島嶼・ベトナム・中国南部」「生産は少量」、「ジャポニカ種」は「短粒種」「東アジア」「生産量は15%以下」というようになっています。「稲作」は1万年以上前の「中国南部の長江流域」で発祥、「ジャポニカ種」の発祥地も同地域です。「ジャバニカ種」は、「2メートル近い草丈・太い桿(かん)・長い芒」といった特徴があります。 日本の稲作は、「陸稲」では「彦崎貝塚(岡山県)」の「朝寝鼻貝塚(岡山県)」の6000年前(縄文時代中期)の「プラントオパール」が、「水稲」では「板付遺跡(いたつけ・福岡県福岡市博多区)」「菜畑遺跡(なばた・佐賀県唐津市)」の3000年前(縄文時代晩期後半)の「水田跡」が最古です。菜畑遺跡からは「ジャポニカ種」の米粒が出土、2300年前(弥生時代前期初頭)の水田跡から大規模営農を裏付ける「水路・堰・取排水口・木の杭・矢板を用いた畦畔(けいはん)」が発掘されていて、また松浦湾沿岸の同地域には「魏志倭人伝」に見える「末盧國(まつら・まつろ)」があったとされます。 縄文~平安時代の日本の水田跡から出土するイネの「プラント・オパール」は「ジャポニカ種」が主体で、「ジャヴァニカ種」も含まれています。大正末期まで「沖縄」に分布した在来種にも「ジャバニカ種」は含まれていました。「赤米」には「ジャヴァニカ種」「日本型赤米(ジャポニカ種)」の二種類があり、柳田國男は祝い事で「赤飯」を炊くのは、古代の「赤米」を再現しているからだと考えました。種子島の「宝満神社(ほうまん・鹿児島県南種子町)」は、社の縁起に「種子島は日本における稲作の始まりの地」とあって、「神田」で「赤米」を栽培する神事は2千年の歴史があると言います。 各種事象を重ね合わせると、「稲作の日本への伝播経路」は、縄文時代の「ジャパニカ種:長江下流域→九州北部(対馬暖流ルート)」「ジャヴァニカ種:中国江南か東南アジア→西南諸島→九州南部(黒潮ルート)」という二つのルートが考えられます。これは「日本への南方系文化の主要な流入経路」でもあり、そして「多くの古の碩学が探求してきた、渡来人・渡来文化の渡来の初期の、南方文化渡来の道」と重なります。 湖沼・内海が多く、陸上の交通手段に難があった古代は、船の重要性は現在の比較にならない物がありました。日本は海洋国家ですが、海洋民的な南方系文化は、縄文時代やそれ以前から受け継がれてきた物です。「丸木舟」は「巨木を刳りぬいた舟」で、これで日本各地を航海していました。また丸木舟を進化させた準構造船の古名「軽野・枯野(かるの)」は、「カヌー」と同じ語源とする説があります。「千葉県」は「貝塚」「出土した先史時代の丸木舟」の数が日本一です。 「加曽利貝塚(かそり・千葉県千葉市若葉区)」は「世界最大規模の貝塚」で、住居跡や遺物も多数出土しています。「斧・剣・磨石・皿・玉など、道具によってそれぞれの石材の種類が異なる」「県内の同時期の遺跡の出土品と共通点が多い」「素材の石は、殆どが県内にはない」「完成品を関東各地や甲信越から川や海を船に乗せて運んだと思われる」とされます。 「鳥浜貝塚(福井県若狭町)」では、日本最古の植物栽培跡らしき縄文時代早期の「瓢箪」など栽培植物多数、日本最古の「赤漆塗り櫛」、世界最古の12600年前の「漆の枝」など、多数の遺物が出土、漆の技巧は現在と変わらないほど高水準といいます。同遺跡など、三方湖周辺の縄文遺跡からは「丸木舟」11隻が出土しています。 「麻(あさ)」」は、元は「大麻(おおあさ・アサ科アサ属)」の繊維を指し、後に「苧(からむし・イラクサ科)」や「亜麻(あま・アマ科)」も含めるようになりました。「大麻」「苧」は縄文時代以来、日本の生活・文化には最も必須だった物の一つであり(大麻は戦後GHQに一般栽培が禁じられるまで)、、高い成長力があります。特に大麻は「糸・縄・網・布・衣服などの素材の繊維」「食用(栄養価が高く、油が取れる)」など、各種用途に利用され、「縄文土器」の紋様は麻の縄で付けたとも言います。そして大麻は「高い波動と浄化能力」を有していて、多くの「祭祀具」の素材に用いられました。 日本最古の針は、「栃原岩陰遺跡(長野県南佐久郡北相木村)」の縄文早期・1万年前の「骨製の釣り針・縫い針」で、精巧にできています。縄文人は針を用いて、毛皮を縫い合わせて衣服としていました。 「縄文土器」と「土偶」は、地域や時代ごとに、大きく形式が異なっていて、時代ごとに編年がされています。土器・土偶は、製造地から他の地域へ、運搬された物も多かったことが分かっています。 「人型の土偶」は、ほぼ全てが「デフォルメした女性像」、「大地の女神・地母神を表現したもの」とされ、「母性信仰・多産信仰」の祭祀具とされます。土偶は人型以外にも、「動物を象った物」や、「筒形土偶」「ハート形土偶」「山形土偶」「ミミズク土偶」など多種多様の物があります。多くが東日本に分布、出土数は上位から「岩手県」「長野県」「山梨県」です。人を象った土製品としては「人面付き土器・土偶・土版」もあります。粘土を素材とした祭祀具として「土偶」「土製品(土偶に分類される物も)」「土板」、同系の石を素材とした祭祀具に「岩偶」「岩板(石板)」があります。 宇宙人とも形容される「遮光器土偶」を始めとした「亀ヶ岡文化」「亀ヶ岡式土器」は、縄文時代最末期に「青森県・岩手県」などで栄えた、際立った造形美を特徴とするた高度な文化で、「北海道中部~近畿地方」まで多くの影響を与えています。縄文時代後期には、掌に収まってしまう「ミニチュア土器」など、明らかに祭祀目的の物が増加します。3000年前の縄文時代晩期、前の縄文時代後期に比べて、一気に気候が約2度下がり、生活基盤に大打撃を受け、東日本では人口が大幅減少しました。これは後に生まれた「亀ヶ岡文化」の背景となり、人々は祭祀に重点を置く事で、共同体の拠り所としていて、様々な祭祀具や装飾具が発展しました。「冬」の語源は「殖やす(ふやす)」とされ、「太陽が低くなり光量が少なくなると、世界が消滅すると感じた」とも言われ、「魂振り」の項の「鎮魂祭(ちんこんさい・みたましずめのまつり)」は、冬至に行われる生命活性化の儀式です。そしてこの時代の後、人口が希薄だった西日本では徐々に増加、これが弥生時代へと繋がります。 この時代の呪術具に「土製仮面(仮面土偶)」があり、また「木製仮面」「皮製仮面」もあります。大きさから「実際に顔に被って使える大形の物」「小形で被るのは困難な物」の2種類があります。東北地方が分布の中心、関東地方や北陸地方でも見られます。様々な表情をしていて、「仮面を被った呪術者を模した物」とされます。呪術的意味があり、「精霊との対話が行われていた」とも言われ、広く仮面を用いた儀式が行われていました。 「縄文土器」は、文様が変化に富み多く用いられ、装飾は時には容器としての実用性からかけ離れるほどに発達しました。一説に「縄文の紋様は波動が螺旋状に湧出する様子を模したもの」とも言います。実用的な「ランプ」などだけでなく、祭祀用の土器が多く存在します。その一つとして「モチーフを形象した土器」があって、対象は「人体・人面」「動物」「鳥類」「魚介類(魚・貝など)」「何らかの事物」と様々です。「実用から掛け離れた装飾を持つ土器」「特殊な形状の土器」「小型の土器」は、多くが祭祀用の土器とされます。特に「新潟県」を中心とした地域で縄文時代中期に盛行した「火焔土器(馬高式土器)」「水煙土器(曽利式土器)」は、火焔や水煙のような装飾性に溢れ、縄文土器の最高傑作とも評されます。日本最古の土器は、「大平山元遺跡(おおだいやまもと・青森県外ヶ浜町)」の縄文時代草創期・16500年前の縄文土器で、同遺跡の弓に用いる「石鏃(せきぞく)」も日本最古の物です。 「新潟県糸魚川市」産の「翡翠(ひすい)」、「千葉県銚子市」「岩手県久慈市」産の「琥珀(こはく)」、「山梨県」など各地で産する「水晶」、「島根県」などで産する「瑪瑙(めのう)」は、特に縄文時代~古墳時代にかけて利用された代表的な宝石です。翡翠と琥珀や、柔らかい「滑石」「蝋石」などを用いて、「勾玉(まがたま)」「大珠(たいしゅ)」を始めとした各種の祭祀具・装身具を製造、製品は広域で流通しました。 「貝製品」は近海産の製品の他に、「南西諸島(沖縄県・鹿児島県島嶼部)」産の物が各地で流通、祭祀具・装身具として利用され、弥生時代・古墳時代に特に重要視されました。縄文時代の道具や装飾具・祭祀具には「石」「粘土」「木」「動物・魚類・鯨類の骨・牙・角(骨角器)」「貝(貝器)」が用いられています。 「道具」の材料としては、「黒曜石」は全国各地に産地があり、「伊豆諸島神津島」の物は「南関東」の2万年前の遺跡、「佐賀県腰岳」の物は「朝鮮半島南部」、「隠岐」の物は「ロシア・ウラジオストク」で見つかっています。「秋田県」産の「アスファルト」は接着用として用いらています。「香川県」「二上山(大阪府・奈良県)」「広島県」「佐賀県」で産する石材「サヌカイト」は、固いもので叩くと高く澄んだ音がするので「カンカン石」とも呼ばれ、旧石器時代から交易されて、多様な用途に用いられました。 北陸地方最大の集落遺跡「長者ヶ原遺跡(新潟県糸魚川市)」は、縄文時代の「翡翠製玉」「蛇紋岩製石斧」の生産・交易拠点でした。ここから000年前(縄文時代中期)とも言われる、「翡翠製大珠」「翡翠製勾玉」と「加工道具」「工房跡」などが出土、これが最古の勾玉とされます。翡翠製玉の製造以前には、滑石・蛇紋岩などで「耳飾・管玉」が作られていて、北陸独自の「蛇紋岩製指輪状石製品」が出土しています。また「独特な土偶」が多数出土、明らかに祭祀用の「ミニチュア土器」も幾つも発掘されているなど、多様な様相を持つ遺跡です。 亀ヶ岡文化の「是川遺跡(青森県八戸市)」は、集落・貝塚・ゴミ捨て場などの複合遺跡です。発掘された「縄文琴」は「世界最古の現存する弦楽器」「日本最古の琴」とも言われます。他に「縄文土器多数(特に漆塗りや彩文のある土器)」、祭祀に纏わる「赤色顔料がまかれた人骨」「石棒」「石刀」「土偶」「勾玉」、装飾具の「木製腕輪」「耳飾り」「櫛」「ガラス玉」、狩猟用や武具の「弓」「大刀」や、「赤い漆塗りの植物性容器」「果実の種」や、弥生時代の「遠賀式土器」など、多数の遺物が見つかっています。 「キウス周堤墓群(しゅうていぼぐん・北海道千歳市}」は、縄文時代後期(3000年前}の8基の墓で構成され、縄文時代に作られた墓としては日本最大です。名称は墓の周りを堤が囲っていることから名付けられたもので、盛土遺構や建築物の跡も見られます。出土したものには土器や木製品などがあります。 「上野原遺跡(うえのはら・鹿児島県霧島市)」は、縄文時代早期から近世にかけての多くの遺物が出土した複合遺跡で、南に鹿児島湾、北に霧島連山を望む高台に位置します。同遺跡からは「国内最古・最大級の定住集落跡の、約9500年前(縄文時代早期前葉)の竪穴式住居跡」「約7500年前の、弥生土器に類似した1組の壺形土器」が発見されました。縄文土器や土偶や各種道具には、赤色顔料の「朱(しゅ)=弁柄(べんがら)」や「赤漆・黒漆」で彩色されている物があります。朱は墓の遺体に散布されたりしていて、「生命の躍動を表し災いを防ぐ」として呪術用に用いられました。日本最古の彩色土器は、「塚原遺跡(つかばる・宮崎県宮崎市)」の、11500年前(縄文時代草創期)の朱塗りの縄文土器です。しかしこうした南九州の縄文文化は、7300年前の「鬼界カルデラ」の噴火による南九州全滅で途絶、植生の回復には500年かかったとも言います。一説にこの影響で、海を航海した縄文人が「南米」「南太平洋」に縄文土器を伝えたとも言います。 「鹿角製腰飾り」は全国で20例ほど出土、鹿角の分岐部分が素材で、紐などを通して腰に着けたと推定されます。男性人骨の腰の辺りからの出土例が多く、「呪術的首長が身に付けていた」とも言われます。「寺下遺跡(青森県階上町)」では、鹿角製腰飾りがほぼ完形で出土、縦26cm・横約11cm・厚さ約4cm、「一端が長く尖った短剣のような形式」で、精巧な文様と優美な彫刻が見られます。2900年前(縄文時代晩期中頃)の「蛇骨の入った無紋の壷型土器」は、「蛇神信仰」の起源を探る上で重視されます。 縄文時代の葬制として、遺体に装身具が付けられている物があります。地域別に「北海道・青森県:玉類や櫛の着装、朱の土坑への散布」「関東・上信越:玉類・石製耳飾りの着装」「愛知県以西:貝輪や腰飾りの着装」という傾向があります。「貝輪は9割が女性」「腰飾りは大半が男性」であり、両方とも呪術具と見られます(貝輪については"アイヌと沖縄について"で後述)。 縄文時代には他にも、装飾具としては「髪飾り」「指輪」「耳輪」「鼻輪」などがあり、凝った物では「鹿角製飾櫛」など複雑な形の物があります。祭祀具としては「石剣」「足形付土版」「巻貝型土製品」ほか多数、また用途不明の遺物は多数ありますが、祭祀具として用いられていた物が多いと見られます。楽器では他に「土鈴」「土笛」「石笛」があり、「太鼓」もあった可能性があります。 縄文時代などの「配石遺構」は全国で500箇所以上あり、多くは「祭祀・葬送の場」とされます。また、各地の「ピラミッド山」「一部の磐座」「一部の海底遺跡(沖縄県与那国島の海底遺跡など)」などと共に「超古代文明の遺跡」とも言われます(超古代文明はあったのは確実です)。代表的な配石遺構に「環状列石(ストーンサークル)」があり、円環状の類似遺構に「環状土籬(かんじょうどり)」「環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ・ウッドサークル)」があります。「大和(やまと)は大きな輪を意味する」「その淵源は、縄文時代の環状列石・環状木柱列などに代表される円状の構造物である」「これは平等思想による」とする見立てもあります。 環状列石(ストーンサークル) ・環状の配石遺構 ・環状列石は実際には真円でなく、 「長軸・短軸・外部に出っ張った配石がされた場所で構成される多角形」である。 これは「世界各地に共通する構造の定形様式」であり、フランス人学者が解明した。 ・環状列石は、集落内に造られた物と、集落外に造られた物がある。 ・長径30~40メートルの隅丸方形に配石している。 ・一番外側に、二重・三重に川原石を環に並べた「外帯」と、 多くの場合、その中心に「内帯」がある。 ・「内帯」の内側は、直径5メートル内外の方形または円形の広場ができている。 ・これらの配石の下に墓穴があったり、石列の間に土器棺があることが多い。 ・環になっている石の一部が途切れ、幅2~3メートルの通路ができ、両側に石が並び外に続いている。 ・「祭祀場」であり、多くは「墓構・墓域」でもある。 多くは山などを目印として構築されていて、「日時計・暦を計る」という機能を持っている。 ・「血縁・地縁をもった氏族の連合が40~50キロほどの距離をおいた領域を占有し、 その中心に祭の場を築造したのではないか」と考えられている。 ・日本で最も密に分布するのは、 「東北地方の青森県・秋田県北部」「北海道西南部(特に渡島半島)」。 ・東北地方から北海道では、縄文時代中期後半から後期にかけて作られている。 大きさは直径30m以上のものと直径10m以下のものがあり、 大きいものは祭祀の場として作られ、小さいものは竪穴住居の周囲に石を置いたものが多い。 ・直径が30m以上のものは、 まず縄文時代中期の終わりごろに「静岡県」「山梨県」「群馬県付近」で作られる。 続いて縄文時代の後期前半に「秋田県北部」「青森県」「北海道西南部」で作られる。 ・同じころ、「岩手県」では、「石を直線状や弧状に並べるもの」が作られている。 ・配石遺構は、縄文中期後半から後期になると各地で築造される。 ・現在までのところ最も古いと考えられているのは 「阿久遺跡(長野県諏訪郡原村)」の配石遺構で、縄文時代前期のものと推定されている。 ・「伊勢堂岱遺跡」「小野牧遺跡」など環状列石には、 表面が亀甲状・裏面が平滑の祭祀具「三角形岩板」が出土した場所が多い。 ・「ドルメン」が多いが、大分県には 人間の背丈程の「メンヒル」を環状に並べた「佐田京石(大分県安心院町)」がある。 代表的な環状列石 大湯環状列石(おおゆ・秋田県鹿角市) ・4000年前(縄文時代後期)、日本で最も著名な環状列石。 ・100基以上の配石遺構で構成され、東西南北の四方向に大きな石を配している。 ・2つの環状列石「野中堂」「万座」があり、直径が44mと52mと日本最大規模。 放射状に石が配置されていて、中心に立石が立っている。 2つの環状列石の中心を結んだ線は、夏至の日没方向を指す。 ・野中堂の中心に「日時計状組み石」がある。 ・14基の遺構の地下が調査され、11基の地下から長さ1m・深さ50cmの土壙(穴)、3基の地下から大小円形の土壙が確認された。 ・死者の埋葬施設としても用いられていて、葬送儀礼の場でもあった。 ・使用した石は7200個以上、しかし大正時代に遺跡と気付かれぬまま、相当数の石が運び出された。 ・高さは最大で約80cm程度、重さは平均30kgで最大200kg。 ・「石英閃緑ひん岩」を使用、、約6km離れた安久谷川(諸助山山麓)から運ばれた。 ・翡翠のような断面と、表面の美しさを持つ石で、硬くて重い。 ・「医王石(戸室石)」とも呼ばれ、波動の高い石で、ミネラルが多く、各種効果が報告されている。 「マイナスイオン効果(量子の湧出効果)」「多孔質」「吸着作用」「イオン交換作用」「水の浄化作用と腐敗防止」など ・富山県と石川県の県境の金沢市戸室地区の霊山「医王山(いおうぜん)」でも産出され、古墳時代から利用されてきた。 奈良時代の「修験道(神道と仏教が習合した山岳信仰)」の僧「泰澄」が開山した。 泰澄は「恒武天皇」の病を、医王石(薬草とも)を処方して回復させ、大師の称号を得て、石を採取した山は医王山と称された。 ・北東の「黒又山(クロマンタ)」を綺麗に望め、関係性が指摘されている。 三角錐の山容を持ち、ピラミッド山と言われ、平坦な台地に立つ標高80mほどの小山である。 山麓から山頂への地中に、階段式のピラミッド構造がある可能性があり、嘗て頂上に環状列石のような配石遺構があった。 南西方向にだけ裾野が長く、大湯環状列石と黒又山の間には、まだ地下の遺構があるとされる。 伊勢堂岱遺跡(いせどうたい・秋田県北秋田市) ・4500年前(縄文時代後期前半) ・4つの環状列石があり、国内で最も集中している地域である。 三内丸山遺跡(青森県青森市) {小牧野遺跡(こまきの・青森県青森市) ・4500年前(縄文時代後期前半) ・配石の仕方が北方の三内丸山遺跡と共通して、珍しい組み方である。 ・直径55mある。 忍路環状列石(おしょろ・北海道小樽市) ・小樽から余市町には環状列石が80基以上存在、その中の代表的な遺跡である。 ・すぐ近隣に「地鎮山環状列石」がある。 御所野遺跡(岩手県一戸町) ・5000年前(縄文時代中期後半)。 ・東西500m・南北100~150m。 ・竪穴住居跡が遺跡のほぼ全域に確認された。 千居遺跡(せんご・静岡県富士宮市) ・富士山周辺の列石群の一つで、これら遺構は「富士山信仰の淵源」とも言われる。 環状土籬(かんじょうどり) ・「土堤を巡らした周堤墓」である。 ・知床半島の基部にある「朱円遺跡(しゅえん・北海道斜里郡斜里町)」や、 「キウス遺跡(北海道千歳市)」は、「巨大な土堤を巡らした周堤墓」である。 ・キウス遺跡には、周堤墓が14カ所あり、 周堤の外径が74メートル、高さが5メートルに達するところもある。 ・周堤の内部には土壙だけでなく立石の伴う遺跡もある。 環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ) ・巨木柱を環状に配置した遺構。 ・日本海沿岸を中心に、全国で十数例が見つかっている。 ・「チカモリ遺跡(金沢市新保本町)」では、 直径50~85cmのクリ材による直径7メートルの遺構が確認されている。 ・「桜町遺跡(富山県小矢部市)」では、縄文晩期の直径30~60cmのクリ材10本を用いた 直径6メートルの遺構が確認されている。 列状列石(れつじょうれっせき) ・組み石が直線状になっている配石遺構。 館石野遺跡(岩手県田野畑村) ・山の斜面にあり、等高線に沿って3列状に並んでいる。 ・1号列石は延長が約80メートル、2号が約20メートル、3号40メートル。 ・いずれも墓とみられている。 ・斜面の下の平坦地では竪穴住居が出土、集落とセットの遺構とされる。 立石(りっせき) ・遺構の一種で、大きな河原石を地面に穴を掘って立てたものをいう。 ・日本では縄文時代とくに後期の墓域によくみられる。 ・「大湯環状列石(秋田県鹿角市)」の「日時計様組石」が有名である。 ・ある種の記念物・墓標あるいは何かの目印として立てられたものと考えられる。 ・縄文時代早期のものとしては「こぶし畑遺跡(長野県松本市)、 前期のものとしては「根羽子沢遺跡(秋田県横手市)」、 「阿久遺跡(長野県諏訪市)」「上原遺跡(長野県大町市)」の例が知られる。 ・これらはいずれも古い段階の立石遺構である。 ・中期~晩期になると数が増え、分布域も広がる。 掘立柱建物(ほったてばしらたてもの、ほりたてばしらたてもの} ・地面に穴を掘りくぼめて礎石を用いず、そのまま柱(掘立柱)を立て地面を底床とした建物。 ・建物には、土間のままの建物もあり、床の高さが数十センチから一メートルくらいの木の床の建物もある。 そのような建物は柱数によって大きさが異なってくる。 ・建物の周りに立てる側柱(がわはしら)上で屋根を支持する日本の伝統的な建築様式で、高床建築と平屋建物に大別される。 ・民家建築としては18世紀頃まで建物の主流であったが、近世後期には一般庶民の民家にも礎石が用いられるようになった。 ・遺構(考古資料)としての掘立柱建物跡は、通常、柱穴の規則的な配列として確認される。 ・掘立建物の床が人の背を越えるほどで、階段か梯子が必要な建物を「高床建物」という。 高床建築の場合は、生活の痕跡が当時の生活面に残りにくい傾向がある。 三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき・青森県青森市) ・縄文時代前期中頃から中期末葉((約5500~4000年前)の日本最大の大規模集落跡、国特別史跡。 ・沖館川右岸の河岸段丘上に立地する。 「八甲田山」から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートルで、遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっている。 ・集落は「住居」「墓」「捨て場」「住居」「大型掘立柱建物」「掘立柱建物」 「貯蔵穴」「土坑墓」「粘土採掘穴」「盛り土」「道路」などが、計画的に配置されている。 ・遺跡には、通常の遺跡でも見られる「竪穴住居」「高床式倉庫」の他に、「大型竪穴住居」が10棟以上、約780軒にもおよぶ「住居跡」、 さらに祭祀用に使われたと思われる「大型掘立柱建物」が存在したと想定されている。 ・他の遺跡に比べて「土偶」の出土が多く、板のように薄く造られていて「板状土偶」と呼ばれ、「日本最大の板状土偶」が出土した。 次の縄文後期・晩期の「立体的に体の各部を表現した土偶」とは大きく異なっている。 ・出土遺物は段ボールで数万箱に及んだと言われ、1958点が国の重要文化財に指定された。 ・「土器」「石器」が中心であるが、「土製品」「石製品」も多く出土している。 ・縄文時代前期~中期の「東北地方北半部~北海道南西部」に 「円筒土器」を特徴とする「円筒土器文化圏」があり、当遺跡でも文化圏の遺物が出土した。 土器の種類・器形は「台付浅鉢」「深鉢形土器」 ・石製品としては、実用的な石器のほか、祭祀用とされる「石棒(せきぼう)」「石冠(せっかん」「異形石器(用途不明)」や、 「円筒土器文化」の特徴的な石器「半円状扁平打製石器」「抉入扁平磨製石器」などが見つかっている。 ・「木製品」「赤や黒の漆器」「漆塗り土器」「多様な用途の骨角器」が出土した。 ・日本各地域を中心とした交易で得たと推測される「黒曜石(北海道から長野県)」「琥珀(岩手県久慈産)」「漆器」 「翡翠(新潟県糸魚川産/大珠など10数点)」「錦石(碧玉=青メノウ/津軽産)」「アスファルト(秋田県産?)」などが出土している。 これらは舟で運ばれたとされる。 ・長野県霧ヶ峰産の「黒曜石の矢尻」は、製品として入ってきた可能性がある。 ・装飾具・祭祀具として他に、「耳飾」「玦状耳飾り」「土製垂飾」「石製垂飾」「イモ貝形土製品」などが出土している。 ・「直径約1メートルの栗の柱と穴」が、6本・6箇所検出された。 「六本柱建物(長方形の大型高床建物)」「神殿などの祭祀施設」とする説が多い。 ・精密な検証の末に復元された建物は、地面を併せて三層構造で、 軒高(三階の部分)が高さ14.7m、 屋根の頂上が17m、木柱の長さは地下も含めて16.5m。 ・園内掲示板には「一部漆塗りの神殿」「シンボルタワー」「典型的な記念物」の3説のイラストがある。 「物見櫓」説もある。 ・「巨大木柱のすべてが内側に向かって幾分、傾斜した状態で建てられていた」 「木柱の周囲と直下にかなりの荷重がかかっていた」ことが判明、これは屋根付建物があったと示唆する。 ・「柱穴の間隔・幅・深さ」がそれぞれ「4.2メートル・2メートル・2メートル」で全て統一されている。 ・柱本体にも腐食を防ぐため周囲を焦がすという技術を使っており、腐食を長い間防いだ一因となっている。 ・この建造物は多くの人々の労働力を必要としたであろうし、集落居住者の一致協力と指導者がいたのではとの想像もできる。 これは、その当時既に測量の技術が備わっていたことを示し、ここに住んでいた人々が当時としては高度な技術的水準に達していたことを示すものである。 ・「幅10メートル以上の大型竪穴式住居跡」がいくつも検出されているが、 その中でも最大なものは「長さ32メートル、幅10メートル」のもので、これが復元されている。 ・一般の住民が暮らしていたと思われる「竪穴式住居跡」も多数検出されている。 屋根に関しては茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類の屋根を持った住居をそれぞれ想定・復元した。 ・東西約75メートル、南北約18メートルの範囲に「掘立柱建物」のものであると推測される「柱穴群」が検出されている。 この掘立柱建物の柱穴の周辺及び内側には、生活の痕跡が確認できなかったため、 この掘立柱建物は「高床式建物」であった可能性が高いと判断され、現在高床式建物として復元されている。 ・道の跡周辺からは「環状配石墓(ストーンサークル)」が二十二基検出されている、小型で直径2~4メートル。 ・南方のやや離れた所にある「小牧野遺跡」に先行する中期後半の物で、石の並べ方が小牧野遺跡と共通している。 ・この墓の一つから炭化材が出土したが、これは「最古の木棺墓」の跡であるとも言われる。 ・これらはムラ長の墓とも考えられている。 ・石は長さは15cmから30cm程度のものが多く、大きなものでは1m以上ある。 南方約10kmの堤川上流(荒川)、東方約10kmの野内地区で採取したとみられる。 ・大人は、地面に掘られた円形や楕円形の土坑墓に埋葬された。 大人の墓は集落東側の道路に沿って、両側に2列に配置されていた。 ・子どもは亡くなると、丸い穴を開けたり、口や底を打ち欠いた土器の中に入れられ、住居の近くに埋葬された。 土器の中から握り拳大の丸い石が出土する場合が多く、当時の習慣に関係するものと考えられる。 ・集落の中心から幅約12メートル、長さ420メートルにわたって、海に向かって延びている。 道路は地面を少し掘り下げて、浅い溝のようになっているものや、さらに土を貼って「舗装」されているものもある。 南北にのびる道路も見つかった。 ・「食糧の貯蔵穴」「捨て場」「粘土採掘跡」などが発見された。 ・多数の「堅果類(クリ・クルミ・トチなど)の殻」、さらには一年草の「エゴマ」「ヒョウタン」「ゴボウ」「マメ」などといった栽培植物も出土した。 ・大粒の栗が出土、周辺の森の多くは栗林で、栗の巨木が遺跡で多用された。 ・三内丸山の人たちは、自然の恵みのみに依存した採取活動ではなく集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられる。 ・出土した動物の骨の7割弱が「ノウサギ」「ムササビ」の骨であり、縄文人が食料としていたと推察できる。 ・三内丸山遺跡は「物資を集散する交易拠点」で、居住者数は数百人とみられている。 ・遺跡は他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握しきれていない。 ・三内丸山遺跡と一連のものであると考えられる遺跡 「熊沢遺跡」「三内遺跡」「三内沢部遺跡」「三内霊園遺跡」「近野遺跡」「安田水天宮遺跡」 ・遺跡の内容は、縄文時代の文化が従来考えられていたものよりも進んだものであることを示すものであった。 ・これほどの集落がなぜ終焉を迎えたのかは謎である。 一因としては、気候の寒冷化などが挙げられるが、それだけで集落全土を手放すとは考えづらく、 栗の栽培を停止しなければならない何か特別な理由があったという見解も示されてはいるが、それが何であるかは分かっていない。 縄文時代は「竪穴住居」を家としていて、一般に平安時代ごろまで庶民の家として用いられました。どのような地に集落が営まれたかについて、沿岸部では「海岸線近く(漁労や貝の採取)」、内陸では「日当たりの良い台地で、食料の得やすい場所」が多いようで、、そしていつの時代にも「水の確保が容易な場所」が必須要件です。集落の規模は30人程度、「三内丸山遺跡」のような数百人というのは異例です。集落が大きくなると「施設配置の増加と規格性」「植物栽培地など食料を確保する場の増加」が必要になります。 「縄文時代から温泉の近くに集落を営まれていた」「古代の温泉数十カ所を調査して、内陸部に集落遺跡ができた要因の一つとして、近くに温泉があった」とする論説があります。「嬉野温泉(佐賀県嬉野市)」の公園から「石斧や黒曜石の剥片」が出土、「上諏訪温泉(長野県諏訪市)」がある諏訪湖の湖底遺跡から「湯垢が付着した土器」が出土したといいます。「日本書紀」「風土記」「万葉集」には温泉の記述が見られます。「道後温泉(愛媛県松山市)」は日本最古級の歴史があり、約3000年前(縄文中期)の「土器・石鏃」が出土、神代からあると伝わります。温泉にはミネラルが多く、特に内陸部では「塩化ナトリウム(塩)」が重要でした。温泉地は波動が高いパワースポットで、「湯治場」と呼ばれるほど、体への効果が高いです。このような地に集落が営まれるのは、道理に適っています。 しかし縄文社会については分からない事だらけです。どのような会話や教育がされていたのか、歴史・伝統・信仰の口承について、老若男女がどう行っていたのかは不明です。 縄文時代には「巨木信仰・高木信仰」があったとされ、これが「古神道」の「自然祭祀」の代表的な姿の一つです。 出雲大社(島根県出雲市大社町)の本殿と心御柱 ・「大国主神(おおくにぬしのかみ)」は、「国譲り」に応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った(古事記)。 この葦原の中つ国は、命のままにすでに献りぬ。ただ僕(あ)が住所(すまひ)は、天つ神の御子の日継ぎ知らしめさぬ、富足る天の御巣のごと、底つ石根に宮柱太しり、高天原に氷木高しりて治めたまわば、僕は百足らず八十摑手(やそくまで)に隠れ侍いなむ(古事記)。 ・「高皇産霊尊(たかみむずびのみこと)」は、国譲りに応じた「大己貴神(おおなむちのかみ・大国主神の別名)」に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命(あめのほひのみこと)をに祀らせよう」と述べた(日本書紀)。 汝(あ)は天日隅宮に住むべし、今まさにつくりまつらむ、すなわち千尋の拷縄(たくなわ)を以て結いて百八十紐にせむ。其の宮を作る制は、柱は高く太く、板はすなわち広く厚くせん。またみ田つくらむ、また汝がかよいて海に遊ぶ具のために、高橋、浮橋および天鳥舟またつくらむ(日本書紀)。 ・これが現在の「出雲大社」で、「大国主大神」が主祭神として祀られている。 ・正式名は「出雲大社(いずもおおやしろ」、一般に「いずもたいしゃ」と呼ばれる。 古くは「杵築大社(きづきのおおやしろ)」「杵築社」「杵築宮」などと呼ばれた。 社格:延喜式内社 出雲國出雲郡 杵築神 名神大(名神大社)、 出雲國一宮、官幣大社 ・社伝によると、創建当時の本殿の高さは「三十二丈(約96m)」あった。 実存性に疑義が持たれているが、これは古今東西比類なき木造高層建築物である。 「山の頂上に建てられ、その山の高さも含めた大きさである」とも言う。 ・本殿背後の「八雲山(蛇山・不老山・宇迦山)」は標高約90mのピラミッド山、禁足地で巨大な磐座がある。 「大国主神のの陵墓」があったとも言われ、元は「八雲山が神体山として崇拝されていた」ともいう。 ・後に、本殿は「十六丈(約48m)」の高さになった。 ・社殿は11世紀から13世紀の間に十一回倒壊したと伝わる。 ・十六丈の時の本殿は、先ず建築に際して、根固めを強固に行う。 ・「(出雲大社の)宮材造る山」と出雲國風土記に記された「吉栗山」から切り出した杉の大木を三本束にして、一つの柱として、穴に建てる。 ・九本の大きな柱が建っていて、その上に拝殿が乗っていた。 ・社殿は海岸からごく近い所に建っていてた。 ・海岸から真っ直ぐに長さ110mもの大階段がついていた。 ・古事記の「底つ石根に宮柱太しり」は、同じ文が、神事で奏上する「大祓祝詞」にある。 「大倭日高見の国を、安国と定奉て、下津磐根に宮柱太敷立、高天原に千木高知・・・(口語訳:地中深く土台石の上に太い柱をどっしりと差し立て…)」 ・出雲大社に代表される神社建築「大社造」においては、「九本の柱を田の字構造に配した社殿」が建つ。 「掘建柱」「切妻造」「妻入」であり、屋根には優美な曲線がある。 社殿中央に「心御柱(しんのみはしら)」は、「心の太柱」「岩根御柱」とも呼ぶ。 長さ六間半(11.8m)・直径二尺八寸八分(0.87m)、現在は礎石の上に立つが、近世までは根元を土中に埋めた掘立柱だった。 心御柱は、上部の「垂木(たるき・小屋組構造材)」を支える。 妻中央の、やや外側に飛び出し棟へ達する柱を「宇豆柱(うずばしら)」と呼び、本殿の棟を支え、心御柱を補助する 宇豆柱は、他の神社建築では「棟持柱(むなもちばしら)」と呼ぶ。 「側柱(がわばしら)」が桁を支える。 ・出雲大社の宮司家は「出雲国造」後裔の「出雲國造家(千家)」、「天照大神」の御子神「天穂日命(あめのほひのみこと)」を祖とする。 千家に伝わる平安時代の図面「金輪造営図」は、平安期の本殿の指図(設計図)の1つとされ、 本殿は「心御柱(大木の杉柱3本を合せ鉄の輪で束ねた直径3mの柱)」で支えられ、階段の長さは109mとなっている。 (「国造(くにのみやつこ):古墳時代・飛鳥時代などに朝廷に任じられ、地方の国(令制国以前の国)を治めた首長、地方の大古墳は国造一族の陵」) ・近年の出雲大社境内の発掘で、大社造の九本柱のうち「心御柱」「宇豆柱」「側柱」の三本が、図面通りに綺麗に並んで見つかった。 年代測定などにより、これら巨柱群は平安時代末から鎌倉時代初め頃に造営された神殿のものと判明した。 「心御柱」は直径135cmの杉の巨木3本を束ね、柱と釘に朱が塗られ、「祭祀用土器・勾玉・鉄製手斧」ほかが出土した。 ・山陰地方で弥生時代中期に出現する「高床式建物」が起源とされ、大社造本殿と平面の共通する九水柱の建物が出土する。 しばらくの空白期間を経て、古墳時代中期以降に九本柱遺構は増加する。 ・現在の出雲大社は、高さ「八丈(約24.2m)」で、神社としては日本最高の高さである。 この建築物の淵源は、「東北地方・北陸地方の日本海沿岸」を中心に分布する、縄文時代の「大型木造建物」「巨木列柱」「環状列柱(ウッドサークル)」などです。「環状列石」中央部にある「立石(りっせき)」も同類の物だとも言います。「弥生墳丘墓や墓構(弥生時代)」「古墳(古墳時代・飛鳥時代)」には、墳丘の石室真上(墳丘の無い墓構はその上部)に「木製の柱・柱列」「標石(立石)」が建っていた物もあり、そこで祭祀をしたとされます。 「祭礼で使う柱」や「環状木柱列(ウッド・サークル)」を検出した縄文遺跡は、晩期の「桜町遺跡(富山県小矢部市・縄文時代晩期)」、後期~晩期の「チカモリ遺跡(石川県金沢市)」、晩期の「真脇遺跡(石川県能登町)」ほか、各所に見られます。これらは伴出の遺物から、祭祀や葬送にかかわる施設である可能性が高いとされます。 これら構造物の構築には、「縄文尺」と呼ばれる共通の尺度(度量衡)が用いられていたとされます。「縄文尺」は基本が「35センチメートル」であり、「35センチメートルの倍数の距離」が「柱列の間隔」に用いられていました。これは「東日本の大型の建物や祭祀遺構」の多くに見られ、「祭祀場に用いられた度量衡」と見られます。「35センチ」は「肘から中指の先の長さに相当する」「中国西南部や東南アジアの家造りでも使われる」といい、江戸時代の材木の長さを測る道具も約4.2mです。 「三内丸山遺跡」には、「祭祀施設(神殿)」として直径1メートルの栗柱六本を用いた「六本柱建物」があり、「柱穴の間隔・幅・深さ」がそれぞれ「4.2メートル・2メートル・2メートル」で全て統一されています。「環状列石(ストーサークル)」では、「各遺構の大きさや配石のライン」などが「4.2メートル」を基準とした数値で構成されています。「チカモリ遺跡」「真脇遺跡」の環状木柱列は「35センチ」を基本に設計されています。 「桜町遺跡(さくらまち・富山県小矢部市)」では、「栗柱」「床」「杉の薄板を網代編みした壁」「屋根(垂木の上に細い材の屋根木舞を組み、オニグルミの樹皮で葺かれ、上にススキが逆葺き)」が出土しました。これを基に「棟高8メートルの高床建物」を復元、その大きさから倉庫でなく「神殿・祭殿」とされ、「縄文尺」が用いられています。また「環状木柱列」や、「日本最古の舗装道路跡」として、2つの川の湧水地を結んだ、全長約40メートル・幅約2.5メートルの遺構が出土、地面を50センチ掘って砂利を敷きつめ、両側に大きく平たい石を並べてありました。 「宮畑遺跡(みやはた・福島県福島市岡島)」は、縄文時代中期・後期・晩期(4500~2500年前)の集落遺跡で、多くの遺構が出土、3つの時代ごとに様相が異なります。中期の竪穴住居約40箇所は、その半数が長期間にわたり焼き壊されていて、その理由は不明です。後期の約2800年前ごろの集落は、中央に広場と考えられる東西45m・南北60mの空閑地があり、周囲に「掘立柱建物」を環状に配列、外側から幼児用の墓と考えられる「埋甕」が多数出土しています。建物群には、直径90センチの太柱を用いた「大型掘立柱建物」があり、巨大な柱穴跡が「4.2×3.6メートル」の長方形に区画されていて、当時最大級の建造物とされます。これは「祭祀・葬送儀礼などのムラの行事の際に使用されていた」と推定されています。大量の遺物が廃棄された捨て場から、大量の「土器」「石器」のほか「土偶」「石剣」「石刀」などの祭祀遺物が出土しています。「埋甕(うめがめ)」とは「土器内に亡くなった子供を入れて竪穴住居の床面などに埋める葬法」で、「子供の母胎に帰り再生を願う呪術」と推測されます。体の一部をおりまげる屈葬とのばした状態の伸展葬があり、頭部に石や土器をのせることもあった。これは死者の霊魂が外界に遊離しないことをいのった儀礼と思われます。 往古よりの「御柱(おんばしら・みはしら)」と、上記の縄文時代(~古墳時代)の「大型掘立柱建物」は、起源・性質を共有するとも言われ、共に「かなりの高さを持った木造構造物」です。各地に残る「御柱信仰」は、この名残です。神社の本殿では「心御柱(しんのみはしら)」と呼ばれ、「社殿の中央にある柱のことであるが、建築構造上、意味をなさない柱」です。また「棟持柱(むなもちばしら)」も「構造上では強度にはあまり寄与しない」とされます。これらは「神社建築の起源に由来する、象徴的な意味合いの構造物」です。 中央高地の「長野県・山梨県の八ヶ岳~霧ヶ峰~諏訪湖」は、縄文時代前期~中期に非常に栄えた地域で、日本を代表する遺跡が多数あります。しかしこの繁栄は、縄文時代中期・4000年前に突然終了、その後も継続した集落は少数です。「尖石遺跡(とがりいし・長野県茅野市)」は、縄文中期の代表的な遺跡です。近隣の「棚畑遺跡(たなばた・長野県茅野市)」の約4500年前の「縄文のビーナス」は全長27cm・重量2.1kg、最古の国宝です。頭部は平らで文様があり、帽子とも髪型とも言われ、粘土の雲母により金色に輝いています。「中ッ原遺跡(なかつぱら・長野県茅野市)」は、後期前半まで営まれた集落の一つで、土器や翡翠・琥珀の装飾品などが出土しました。約4千年前の「仮面の女神」は、高さ34cm・重量2.7kgの大型立像で、仮面土偶としては国内最大級、墓構から出土しました。内部は空洞で、逆三角形の大きな仮面で覆われた顔を持ち、下腹部は妊娠を示すように膨らみ、股間に女性器、胴部に幾何学文様が描かれています。「天神遺跡(山梨県北杜市大泉町)」は、前期の大規模集落・墓坑群が主体で、日本最古級の5000~6000年前(前期末)の翡翠製大珠(5.5cm)が出土しました。この周辺には縄文前期の遺跡が多数あります。 八ヶ岳山麓の土器は、「呪術性を感じさせる装飾美」「種類の豊富さ」で知られています。3〜5cmのミニチュア土器から、70cm以上の大型土器ままで、器形は「壷・浅鉢・円筒型・器台」ほか多種多様です。把手(とって)が付いた「釣手土器(つりでどき)」は、中期の中央高地から関東地方の「勝坂文化(勝坂式土器)」で特に多く出土します。その一つとして、八ヶ岳周辺に多い「蛇体装飾把手付土器」「顔面把手付土器」などの形式があります。「蛇は勝坂文化に多い意匠」「蛇の装飾は八ヶ岳から広まった」「蛇装飾がある土器に八ヶ岳の石を材料に混ぜた」とも言われ、八ヶ岳周辺は一大文化発信地でした。また「和田峠(長野県長和町・下諏訪町)」の黒曜石は最高品質とされ、青森県まで運ばれています。 信濃国一宮「諏訪大社(長野県諏訪市)」は、「諏訪湖」を挟んで「上社」「下社」に分かれ、さらに「上社前宮」「上社本宮」「下社春宮」「下社秋宮」の四社に分かれ、「本殿」はありません。六年に一度の「御柱祭(式年造営御柱大祭)」では、それぞれの社に四本、四社で計十六本の大木を建てます。そして各社境内の四方には「一之御柱~四之御柱」が建っています。長野県の多くの神社では同様に「御柱祭」「四方の御柱」が見られ、特に諏訪地方では、小さな祠や境内摂社でも「四方の御柱」が見られます。「諏訪大社」は「五穀豊穣・狩猟・風・水・農耕の神」であり、「御柱祭」は平安時代以前から続く、これらの祈願祭だったとされます。 「大国主神の国譲り」に際して、御子神で諏訪大社御祭神「建御名方神(たけみなかたのかみ)」は、鹿島神宮御祭神「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」に敗れ、降伏の地の諏訪から出ないと誓い、その時結界として神社の四隅を仕切った、と伝わります。これは「地鎮祭」の神話的表現とも考えられます。「土地の神・水神・・・を鎮める」という祭祀形態は縄文の往古から存在するとされ、「龍・蛟(みずち・みつち)など:水の神:水の豊かさ・水害を鎮める」「銅鐸:土地の神・農耕神:土地を鎮める」と言われます(左記は弥生時代以降の例)。そして「建御名方神」は、古来諏訪地方を統べる神であった「洩矢神(もりやしん・もれやしん)」に勝ち、諏訪に居住しました。 (「統べる(すべる)」:「全体をまとめて支配する。統轄する」) 「石棒(せきぼう)」は縄文時代を代表する祭祀具の一つで、中期の遺跡で全国的に見られます。「石棒」は普通50センチメートルから1メートル程度、「豊穣や集落の繁栄を願う祭祀の象徴」「男根の象徴」などとされ、これは「御柱」の性質の一つでもあると言います。諏訪地方の遺跡では、石棒が非常に多数出土します。長野県佐久穂町では日本最大の縄文時代中期後半の高さ2.3m・直径25cmの「北沢の大石棒」が発掘されています。「石棒」は縄文後期に彫刻が複雑化、更にやや意味合いが異なる「石剣(せっけん)」「石刀(せっとう)」へと変遷しました。 諏訪地方には古来よりの「ミシャグジ神」の信仰が色濃く存在、この神は「石神」で、「大蛇の神」「塞の神(さいのかみ=境界の神)」とも言われ、「先祖神」「生産神」「豊穣神」などと言われます。由来としては「当初は主に石や樹木を依代とする神であったとされる。地域によっては時代を経るにつれて狩猟の神、そして蛇の姿をしている神という性質を持つようになった」「その信仰形態や神性は多様で、地域によって差異があり、その土地の神や他の神の神性が習合されている場合がある」と言われます。「石棒」が御神体である事が多く、同様に縄文遺跡から出土する「石皿」「丸石」「石臼」も御神体の場合があります。ミシャグジの名称の表記・読みは「御社宮司」「石神(シャクジン)」「石神井(東京の地名)」「赤口」「社口」「シュグジ」「ミサグチ」・・・など多様で、神社や地名は「長野県・新潟県・静岡県・山梨県」を中心に全国的に分布します。 「ミシャグジ神社(御社宮司神社など)」は、縄文遺跡・弥生遺跡の近隣に鎮座している事が多いです。祠の無い神社も多く、巨木を御神体「ミシャグジの木」としたりしています。諏訪大社神長官「守屋氏(もりや・洩矢神の後裔)」は「御柱はミシャグジの依り代」と伝えています。諏訪大社に祭具として「神代鉾(じんだいほこ・鉄鉾)」「八栄鈴(やさかのすず)」「佐奈技鈴(さなぎのすず)」が伝わります。「佐奈技鈴」とは「鉄鐸(てったく)」で、「ミシャグジ神」を降ろす時に鳴らされます。そして「洩矢神」は「縄文中期以来の自然神であるミシャグチ神を束ねていた神」とも言われます。「ミシャグジ神社」の御祭神は、夫婦神の「猿田彦命(さるたひこのみこと)」「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」や、食物神「保食神(うけもちのかみ)」が多いです。 (「鐸」は「さなぎ」「ぬりて」「ぬで」と訓じられ、「鐘(かね)」の一種、「銅鐸」「鉄鐸」などがある。「イザナギ」「イザナミ」の二神は「サナギの神」と言われる) また諏訪には「蛇神」である「ソソウ神」の信仰があったとも言われます。「ミシャグジ神」や「ソソウ神」の「蛇神」としての神格は、縄文時代の「蛇体装飾把手付土器」に遡る可能性も考えられます。 「御柱祭・御柱信仰・巨木信仰」「ミシャグジ信仰」「石棒信仰」「蛇信仰」は、「記紀神話」以前からの信仰に由来します。諏訪地方の信仰形態の淵源は縄文時代に遡り、そこから重層的に信仰が折り重なっていて、日本の古層の一つです。 「伊勢神宮」には「正殿(本殿)」の床下に「心御柱(しんのみはしら)」があって、これは「神の依代(よりしろ)」です(依代について後述)。「伊勢神宮 内宮(ないくう・三重県伊勢市)」の「心御柱」は「天照大神(あまてらすおおかみ)の依代」、「伊勢神宮 外宮(げくう・三重県伊勢市)」の「心御柱」は「豊受大神(とようけのおおかみ)の依代」です。「心御柱」は「直径一尺(約30cm)の檜の堀立柱」であり、長さは内宮が五尺五寸ほど、外宮が五尺ほどで、地中に二尺ほど埋められます。心御柱は特に神聖視され、清浄神秘が重んじられます。式年遷宮では夜間に厳かな秘儀が行われ、二十年後の次の遷宮まで、仮の社が建てられ同じ場所で安置され続けます。また「境内摂末社の古殿地」には、旧殿の「心御柱」を祀った小祠が幾つもあります。「心御柱」は「忌柱いむはしら)」「天御柱(あまのみはしら)」「天御量柱(あまのみはかりのはしら)」とも呼ばれます。 (「伊勢神宮」は、「内宮」の正式名称は「皇大神宮(こうたいじんぐう)」、「外宮」の正式名称は「豊受大神宮(とようけだいじんぐう・とゆうけ‐)」) (「伊勢神宮」での御祭神の正式名称は「天照坐皇大御神((あまてらしますすめおおみかみ)」「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」) (「天照大神:太陽神・高天原の最高神」「豊受大神:食物神(ウケ=食物)」で、二神とも女神である) 「高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)」は、別名「高木神(たかぎのかみ)」、「高木を神格化した神」「産霊(むすひ)の神・生命力を高める神」「創造・発展・完成せしめる神」です。日本神話の神々の中で始原的な「造化三神(ぞうかのさんじん)」の一柱であり、神道における非常に重要な神です。「高皇産霊尊」は「御柱の神」とも解せられ、「木は気その物」とも言われます。後述の「チャクラと岩戸開き」「産霊(むすひ)」の項と、「正中線(せいちゅうせん):人体の中央部を頭頂から真下に貫く線」に纏わり、「巨木信仰」「御柱」「高皇産霊神」とは「人体の正中線を現す物」だと捉える事ができます。また神社の参道の中央部は「正中(せいちゅう)」と言い、ここは「神様が通る道」だと言われます。 「伊弉諾神(いざなぎのかみ)」「伊弉冉神(いざなみのかみ)」による「国生み」に際して、先ず「天の浮き橋(あまのうきはし)」から「天の沼矛(あまのぬぼこ)」を使い、海を掻き回して持ち上げると「オノゴロ島」ができて、そこに、太い柱の「天之御柱(あめのみはしら)」を中心に、広大な御殿「八尋殿(やひろどの)」を建てました。「天之御柱」は「大地の気と天の気が繋がった場所」などと理解されています。 そして「ライトボディ(体幹の光の柱)」「チャクラ・正中線」「高木・巨木」「御柱・心御柱」「天之御柱」「高皇産霊神」「光の柱(世界各地で稀に見られる)」などは、全てが「波動(量子)が垂直に立ち上がっているもの」であり、「量子エネルギーが天地の間を渦巻きながら上下している」という同じ性質を有しています。「神話・伝承・古書」「古来の科学・医学・哲学(アーユルベーダなど)」「精神世界」に共通するこれら事象は、波動が起こす基本的現象をあらわしています(後述)。 古来、木の生育環境に適した日本には「木の文化」があって、豊かな木材資源により「木造建築・木工」が発達しました。「伊勢神宮」を代表とする神社建築様式「神明造」は「高床式建物」ですが、これは「弥生時代に稲作の普及とともに穀物を蓄えるための倉として用いられた」ことから発展したとされます。各地の「稲荷神社」で祀られる「倉稲魂命・宇迦之御魂神(うかのみたまのみこと)」は「穀物の神・稲の神」であり、伊勢神宮では「御倉神(みくらのかみ)」と呼ばれています。 高床式建物や、これを祭祀場とする形式は縄文時代から存在していて、「三内丸山遺跡(青森県青森市)」の縄文時代中期(5000年~4000年)の「高床式建物」は、祭殿に用いられたと見られています。弥生時代の全国の中心地とも言われる「唐古・鍵遺跡(からこかぎ・奈良県田原本町)」には、「高床式建物(多層式の楼閣)」があったことが判明していて、これは王権祭儀の神殿「高殿」とされます。近隣の「纒向遺跡(まきむく・奈良県桜井市)」は「邪馬台国の最有力候補地」「古墳時代に最初に都が置かれた地」であり、「卑弥呼の居館」とも言われる大型建物跡があります。弥生時代~古墳時代の複数の「銅鐸」「銅鏡」「土器」には、「装飾」が表現された「多層式の楼閣」や、更に「鳥・鹿」「船」など、当時の祭祀形態に伴った事物が描かれています。 弥生時代・古墳時代の「神殿・祭殿・王の宮殿」は、各地に存在しますが、概ねが「木造の高床式建物」です。「石材」は「古墳・弥生墳丘墓」や、宮殿を含む「大規模建造物の地下構造」などに利用され、畿内の大古墳に九州の石材を用いるなど、遠方から運ばれました。 古来「神社・神殿・祭殿・王宮」などは「木造建築物」であり、これは日本の特徴となっていて、これは「縄文時代以来の自然崇拝・八百万の神の信仰」に由来するとされます。神社建築物は「縄文時代以来の高床式建物など大型木造建物の神殿」「弥生時代に稲作と共に普及した高床式倉庫(文化)の神殿」「仏教と共に大陸から渡来した寺院建築」という、三つの木造建築様式が基になっています。また「縄文時代~古墳時代前期にかけて、一部で高床式建物を神殿として用いて、後に寺院建築の普及と共に、神社に建築物を築くのが一般化した」と言えます。 「巨木信仰・高木信仰」「御柱信仰」として、神域に「木の御柱」が建てられて、それは神が降臨する「依代(よりしろ)」の「神籬(ひもろぎ)」であり、そこで祭祀が行われました。これが後に、神社本殿の「心御柱」に変遷しました。 神社では古樹・高木が「御神木」とされていて、「神体・神域」である事を示す「注連縄(しめなわ)」が張られたり、「紙垂(しで)」が巻かれていたり垂れ下がったりしています。高波動の環境にある境内・参道の木には、螺旋状に湧出する波動の性質により、グニャっと変形したり、絡み合った木が、多く見掛けられます。「木」は「気その物」とも言われ、神道では「木々に囲まれた清浄な神域」という環境の維持・保護が重視されてきました。縄文時代は、山紫水明の国土に大森林が広がり、高木・巨木が林立していたでしょうし、現在でも「縄文杉」を始め、日本には古木が多く存在します。 「鎮守の森(社叢林)」は、神社・神道にとって非常に重要で、これにより神聖な波動が保たれていて、内部が神域である事を示し、外界と隔てる「垣(瑞垣)」の役割も持っています。古代日本の辺縁部の「東北地方北部」「南九州・南西諸島」を中心に、「山」の山名が「○○森」である例が多数あります。地方独自の聖域の名称が「○○森」「○○山」となっている例が複数あります。沖縄の祭祀場「御嶽(うたき)」の別名に「腰当森(くさてむい)」「拝み山」があり、これらは元は神社と同じ、古神道に由来する祭祀場です。万葉集の内容から「杜も神社も同義」「"もり"も"やしろ"も神社を意味する」と判明しています。「もり」の原義は「(霊魂の)守(もり)」に通じるとも言います。このように「森・杜」というのは、古来「神が鎮まる場所」だとされてきました。 神様は「一柱・二柱」と数えますが、これは「巨木信仰・御柱信仰」に由来するといいます。「御柱」や「立石」などは「神の依代」とされますが、「天と地を繋ぐ柱」でもあったとも考えられます。これら全ては、「巨木信仰・高木信仰」「巨木・高木・御柱を建てて祀った」という、往古の自然崇拝の世界観に由来する物です。 古代において、神々は、人間の住む所や「現世・顕世(うつしよ)」から、遠く離れた世界に住んでいると考えられていました。そして「高い山の頂」「大きい森の中」などは、神々の居住地であったり、そことの境界であったり、そこに近いと思われていました。そういった概念が「常世・常夜(とこよ)」「幽世・隠世(かくりよ)」「天(てん・あま)・高天原(たかあまはら)」などであり、またそこは「祖霊」が帰っていく場所でもありました(高天原は除く)、そういった、神が隠れ住まう「神奈備(かんなび)」を仰いで、そこで神々を祀り、「巨石」「高木」などを神々が依り付く「依り代(よりしろ)」と考えて、「神籬(ひもろぎ)」「磐座(いわくら)」として祀ったのが、古代祭祀の姿です。 古代祭祀においては、「祭祀場」の多くは、又は「祭祀場の原型」は「自然の場」であり、元々は「自然そのもの」を祀っていました。日本語の「カミ(神)」は、元は「クマ(限)・クム(隠れる)を語源とする水源の山谷に隠れた霊性を指した」と言わます。これらの場は「元々波動が高く、波動上昇の効果も高い(効果的に人為的な波動上昇ができる)」という特性があり、更に「祭祀場の設定」「祭祀行為(祈祷や祭祀具による意識エネルギー・形態エネルギーの効果)」で波動を上昇させます。 自然崇拝での「祭祀対象・祭祀場」は、木の信仰として「巨木・高木」「森」、霊峰を信仰する「山(嶽・岳・丘)」「火山(火の信仰)」、巨石信仰の「磐座(いわくら)」、水の信仰として「海」「河川・湖沼」「滝」「泉」、神奈備としての「島」、「気象現象」の「風雨」「雷」、超越的存在の「天(宇宙)・太陽・月・星」」、「鳥」「鹿」「蛇」「「狼」ほか「動物(後に神使として)」、など多岐に亘ります。そして「祖先・祖神」への信仰も原初から存在しました。これらは「神奈備:自然崇拝」「神の降臨地:神話・伝承」「陵墓・廟(びょう):祖霊崇拝」「トーテム(集団が奉じる動物・魚介類・植物)」に大別されます。 祭祀場の一般的な名称に「斎場・斎庭(ゆにわ・ゆには)」「斎場・沙庭(さにわ・さには)」「神庭(かんば・こうには)」などがあります。元は「清庭(さやには)」で、「斎(い)み清められた場・清浄な場」を意味します。「庭(にわ・には)」の原義の一つに「神事・行事などの行われる場所」「山の奥深く、人里離れたところにあり、神々が来臨する場」「家から離れたところにあった広い土地」があり、後の「祭祀場」「日本庭園(一部の)」の設定・構築に際しては、「神奈備の風景・様相を、切り取った・移植した場所」「神奈備の風景・様相と一体的である場所」という思想が見られます。 「神奈備である霊山の、山上にある磐座の前に、神籬としての御柱を建てた」、往古の祭祀形態はこういった「山岳信仰・巨岩信仰・巨木信仰が融合した自然崇拝」という姿でした。「高床式建物」の「神殿」も、縄文時代から存在しました。また「環状列石」「弥生墳丘墓」「古墳」もあります。「神社」の起源は、この辺りに求められます。 そしてそれらの「祭祀場」において、人間が住む「宮(みや)」「御殿(みあらか)」に擬して、「高床式建物」が「祭壇」「神殿」として設けられ、これが建築技術が発達するにつれて「神社建築物」へと変遷、「神社・神宮」となり「鳥居」が建てられるようになりました。そこには「自然の一部として存在する」「自然を出来るだけ豊かに保つ」という思想があります。こういった変遷から「日本における祭祀・祭祀場の原点」とは「自然の奉祀・自然の場の信仰(自然神)」「祖霊信仰」に集約されます。 古い祭祀形態を伝える古社には、「社殿(本殿・拝殿」の何れか、又は両方とも無い神社があり、そういった神社では「巨岩・磐座」「神体山」などの「自然の場」に対して祈祷をします。古代の日本の様相が色濃く残る「沖縄・南西諸島」では、「琉球神道」の祭祀場として「御嶽(うたき)」などがあり、神社の起源の姿を留めています。「北海道」でも、「カムイコタン」などの祭祀場は自然の場にあります。神奈備「三輪山(みわやま)」は、古の祭祀場である「磐座」が多数あり、付近から古代の祭祀具が多数出土しています。別名「三諸山(みもろやま)」「三室山(みむろやま)」は「古代の山・森・杜などの名称」に由来するとも言います。大和国一宮「大神神社(おおみわ・奈良県桜井市)」は本殿を持たず、拝殿から神体山の三輪山を遥拝、邪馬台国首都の最有力候補「纒向遺跡」近隣に鎮座します("アイヌと沖縄について"の項)。 「神楽(かぐら)」の語源は「神座(かむくら・かみくら)」から転じたとされます。神座は「祭祀場」であり、具体的には「神の宿るところ」「招魂・鎮魂を行う場所」を意味、「神座に神々を降ろし、巫・巫女が人々の穢れを祓ったり、神懸かりして人々と交流するなど神人一体の宴の場であり、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになった」とされます。記紀の「天照大神の岩戸隠れの段」で「天宇受賣命(天鈿女命・あめのうずめのみこと)」が神懸りして舞った舞いが神楽の起源とされ、後裔の「猿女君(さるめ)」が宮中で「鎮魂の儀」に関わるため、本来神楽は「招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊び」だったとも考えられています。また「殯(もがり)」での巫女の舞も起源とされます。沖縄の「御嶽」には、奉納芸能を行う広場「神あしゃぎ」があります。「祭祀場とは芸術・芸能の起源の纏わる場」でもあり、そこでは自然神や祖霊などへの奉納が行われていました。 神籬(ひもろぎ) ・神道において、神社や神棚以外の場所において祭を行う場合、 臨時に「神を迎えるための依り代(よりしろ)」となるもの。 (「依り代・依代・憑り代・憑代(よりしろ)」:「神霊が依り憑く(よりつく)対象物のことで、神体などを指すほか、神域を指すこともある」) (「依り代」を指す言葉:「御霊代(みたましろ)」「巫(かんなぎ・巫女など)」「神代・上代(かみしろ)」「神籬」「神奈備」など) ・形式は、「八脚台」という木の台の上に枠を組み、 その中央に「榊の枝」を立て、「紙垂(しで)」と「木綿(ゆう)」を取り付けたものである。 ・神籬には、「常緑樹(常磐木・ときわぎ)」)が用いられてきており、 「榊(さかき)」のほか、「松」なども使用されている。 ・古来、日本人は自然の山や岩、木、海などに神が宿っていると信じ、信仰の対象としてきた。 そのため、古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祭るのではなく、 祭の時はその時々に神を招いてとり行った。 ・その際「神を招くための巨木の周囲に玉垣をめぐらして、注連縄で囲うことで神聖を保った」。 古くはその場所が神籬と呼ばれた。 ・次第に神社が建てられるようになり、祭りも社殿で行われるようになったが、 古い形の神社は「建物の中に玉垣を設けて常盤木を立てて神の宿る所とし、祭るもの」であった。 ・後にはこの常盤木を神籬と呼ぶようになった。 ・現在は、神籬は「地鎮祭」などで用いられる。 ・「ひもろぎ」は、古代には「ひもろき」と呼んだ。 語源は、「ひ」は神霊、「もろ」は天下るの意の「あもる」の転、 「き」は木の意とされ、「神霊が天下る木、神の依り代となる木」の意味となる。 ・漢字の「神籬」は宛て字であり、「籬」は「竹や柴で作られた垣根」を意味する。 ・「垣」も「垣根」を意味するが、こちらはもともと 「土塀(土で作られた垣根)」を意味していたのが、広く垣根全般を指すようになったものである。 ・「神籬」の本来の読み方は「かみがき」「みづがき」であった。 ・日本神話の「天孫降臨」において、「高皇産霊神」は 「天児屋根命(あめのこやねのみこと・中臣氏祖神)」「太玉命(ふとだまのみこと・忌部氏祖神)」に、 「天津神籬と天津磐境を起こし樹(た)てて、常にわが天孫のために斎(いわ)い祭りなさい」と命じた。 ・「岩戸開き」においては、「天照大神(あまてらすおおかみ)」が篭る「天岩戸(あまのいわと)」に、 根ごと引き抜かれてきた「真賢木(まさかき)」が神籬として据えられ、各種の神具が据え付けられた。 榊(さかき) ・神棚や祭壇に供えるなど、神道の神事にも用いられる植物。 ・ツバキ科サカキ属の常緑小高木。 低木を見ることが多いが、高さ12m、胸高直径は30cmになるものがある。 ・若枝は緑だが、幹の樹皮は灰淡褐色になる。枝先の芽は裸で、若葉が巻いて鎌状になる。 ・葉は二列生の互生で、厚みのある革質、のっぺりとした表面で、鋸歯は全くなく、きれいな楕円形である。・裏面はやや色薄く、両面ともに無毛。 ・6月ごろ側枝の基部の側の葉腋から白い小さな花を咲かせる。 花は1-4個が束状に出て、いずれも葉の下に出て、下向きに咲く。 11月ごろには黒くて小さな液果を付ける。 ・本州では茨城県、石川県以西、四国、九州に分布する。 国外では済州島、台湾、中国から知られる。 ヒマラヤと中国南部には、別亜種が知られる。 var. wallichiana - ヒマラヤ産。花が大きい。 var. parvifolia - 中国南部。葉が小さい。 ・日本では古くから神事に用いられる植物であり、「榊」という国字もそこから生まれた。 古来から、植物には神が宿り、特に先端がとがった枝先は神が降りる「依り代」として 「若松」や「オガタマノキ(招霊木)」など様々な常緑植物が用いられたが、 近年は、もっとも身近な植物で枝先が尖っていて、 神の依り代にふさわしい「サカキ」や「ヒサカキ」が定着している。 ・家庭の神棚にも捧げられ、「月に2度、1日と15日(江戸時代までは旧暦一日・十五日)」に 取り替える習わしになっている。 ・神棚では榊立を用いる。 ・田舎などでは庭先に植えている家庭が多い。 ・また、常緑樹でもあることから庭木としても使われていることがある。 ・サカキの語源は、神と人との境であることから「境木(さかき)」の意であるとされる。 ・常緑樹であり、さかえる(繁)ことから「繁木(さかき)」とする説もあるが、 多くの学者は後世の附会であるとして否定している[要出典]。 ・混同されやすいので、「榊」は「本榊(ホンサカキ)」とも呼ばれ、 「ヒサカキ」については「シャシャキ」「シャカキ」「下草」「ビシャコ」 「仏さん柴(しば)」「栄柴(サカシバ)」などと地方名で呼ばれることもある。 ・サカキは関東以南の比較的温暖な地域で生育するため、 関東以北では類似種(別属)の「ヒサカキ(Eurya japonica)」 をサカキとして代用している。 ・「オガタマノキ(招霊木)」は、モクレン科オガタマノキ属の常緑高木。 日本列島の本州の関東中南部以西と四国の海岸部、九州の低地、南西諸島に分布し、原名変種は日本固有。 八重山には「タイワンオガタマ(var. formosana Kanehira)」があり、 この種は台湾、フィリピンにも分布、ただし別種とする判断もある。 日本では中国原産の「カラタネオガタマ(別名:トウオガタマ)」が栽培されることが多く、 オガタマノキよりも出合う機会が増えている。 榊の自生しない地域を中心に神前に供える玉串として 古くから代用されたり、神木とされて神社の神域などに植栽されている例がみられる。 磐座・磐倉・岩倉(いわくら) ・古神道における、岩に対する信仰のこと。あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。 ・神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代「神籬」と「神威」をもって祭りの中心とした。 ・時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、 元々は古神道からの信仰の場所に「社(やしろ)」を建立している場合がほとんどなので、 境内に依り代として「注連縄が飾られた神木や霊石」が、そのまま存在する場合が多い。 岩にまつわるものとして他にも、「磐座を中心とした祭祀場」である 「磐境(いわさか)」があるとされるが、こちらは「磐座」に対してその実例がないに等しい。 そのため同一のものと目されることもある。 日本書紀では磐座と区別してあるので、磐座とは異なるなにか、 「さか」とは「神域との境」「境界(坂・峠・岐・・・)」であり、 「神籬」の「籬」も「垣という意味で境」であり、禁足地の根拠は「神域」や「常世と現世」との端境を示している。 「磐境の境はを意味し、このときの坂も神域との境界の意味を持つ。 現在ではご神木などの樹木や森林または、儀式の依り代として用いられる「榊などの広葉常緑樹」を「神籬」と言い、 「山や石・岩」などを依り代として信仰することを「磐座」という傾向にある。 神奈備(かんなび・かむなび・かみなび) ・表記は「神名備・神南備・神名火・甘南備」、読みは「かんなび・かむなび・かみなび」。 ・神道において、「神霊(神や御霊)」が宿る 「御霊代(みたましろ)」「依り代(よりしろ)」を擁した領域のこと。 ・または、「神代(かみしろ)」として「自然環境を神体(しんたい)とする」こと。 ・神が「鎮座する」または「隠れ住まう」「山や森の神域」や、 「神籬(ひもろぎ)」「磐座(いわくら)」となる「森林」「神木(しんぼく)」「鎮守の森」 「神体山」を、また「特徴的な岩(夫婦岩)」「滝(那智滝)」がある神域などをさす。 ・神籬と磐座の総称でもある。 ・依り代となる森林や岩などがない「神奈備野」もある。 ・「男体山」「女体山」の名も古い類語と考えられる。 ・現在の神社神道の神体は「社(やしろ)」であり、神奈備とはいわない。 神社神道も、本来は日本で自然発生的に生まれた原始宗教といわれ、 自然崇拝や精霊崇拝を内包する古神道から派生して現在に至る。 ・現在の神社には、主たる祭神の「尊(みこと)」とは別に、 「自然」という神体が存在するのが常で、神体として注連縄が飾られた社とともに、 境内の内外に「神木」「霊石」「鎮守の森」「湖沼」「滝」などの神体が存在する。 ・古い神社では、拝殿や本殿もなく、自然の神奈備そのものを祭神として祀るところもある。 ・神奈備は「アニミズム」でもあり、「自然への感謝や畏敬や畏怖の体現」であるが、 「神の住まう神域」や、「常世(とこよ)と現世(うつしよ)の端境」、 または、その「常世と現世をわかつ結界」や、「禁足地」なども意味する。 ・自然を手付かずに残す事例として、自然環境の保護の観点からも重視され、 里山やその周囲の文化として貴重であり、固有の土壌細菌の発見が新薬の開発の きっかけとなることがあるほか、世界中の自然環境学の研究者などが、研究に訪れる場所でもある。 ・「カンナビ」は「神並び」の「カンナラビ」が「カンナビ」となったとする説や、 「ナビ」は「隠れる」を意味し「神が隠れ籠れる」場所とする説がある。 ・「神が鎮座する」を、古語では「神留まる(かんづまる)」「神留坐す(かむづまります)」などと言う。 地鎮祭(じちんさい・とこしずめのまつり) ・土木工事や建築などで工事を始める前に行う、その土地の神(氏神)を鎮め、土地を利用させてもらうことの許しを得る。 ・神式と仏式がある。 ・一般には神を祀って工事の無事を祈る儀式と認識されている。 ・「安全祈願祭」「鎮地祭」「土祭り」「地祭り」「地祝い」とも言う。 ・一般的な形式:「土地の四隅に青竹を立てる」「その間を注連縄で囲って祭場となす」「斎主たる神職のもと、建築業者・施主の参列の上で執り行う」 「祭場の中には八脚台(木の台)を並べる」「その中央に神籬を立てて祭壇となす」「酒・水・米・塩・野菜・魚等の供え物を供える」 ・関西などの特定の地方によっては、「伊勢神宮」近隣の浜から砂または塩を取り寄せ、四隅に置く場合もある。 ・祭壇の左右に「緑・黄・赤・白・青の五色絹の幟」に榊をつけた「真榊」を立てる場合もある。 この「五色絹」は「五行説」における天地万物を組成している五つの要素、つまり「木・火・土・金・水」を表している。 ・日本以外では韓国や台湾でも地鎮祭に似たお祓いをすることがある。 縄文時代、「八百万の神」などの観念とは別に、どのような「神名を持つ神」を祀っていたかは不明です。ただ「ミシャグジ神」「アラハバキ神」「クナト神」「瀬織津姫神」を「縄文神」とする説があります。「蛇神」の信仰があり、「大神神社」の御祭神「大物主大神(おおものぬしおおかみ・大国主命の別名)」は「蛇神」「水神・雷神」とされます。「縄文神」という言葉は、「弥生時代以降、縄文人の血統が色濃い集団・地域で奉祀された神」というニュアンスも持っています。 「アラハバキ神」は「荒覇吐神」「荒吐」「荒脛巾」「アラバキ・アラブキ」など、様々に表記され、古層の伝統文化の多く残る地、特に「東北地方」で信仰が残っています。記紀・風土記などには全く登場しない謎の神で、民間信仰で祀られてきて、「足腰の神」「蛇神」「塞の神(さえ・境界を守る神)」などの説があります。多くで「客人神(まろうどがみ)」とされ、これは本来「主祭神」だったのが、後に来た集団が違う主祭神を祀り、「客人(まれびと)の神」とされた物です。各地の「荒神社」のうち、一部に関係を推察する説もあります。古史古伝「東日流外三郡誌」に「遮光器土偶」の絵で示され、ここから様々な想像を呼んでいます。 「クナト神」は謎の神で、詳細は不明ですが 、「出雲」で祀られていたとも言います。「岐神(ふなどのかみ)」や、日本書紀に見える「来名戸之祖神(くなとのさえのかみ)」と同神とも言われ、「来名戸:来るな」「さえのかみ:塞の神」という意なので、これによると「境界を守る神」です。 「瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)」は「穢れを祓う神(低波動を浄化する神)」、代表的な「祓神(はらえのかみ)」です。「祓戸四柱」の一柱であり、「祓戸(はらえど)」は「祓を行う場所」「穢れを祓う場」、四柱の神は「祓戸大神」と呼ばれます。「水は浄化能力が高い」ので、祓神は水辺に多く祀られています。代表的な祝詞の一つ「大祓詞(おおはらえのことば)」では、最初に登場する神です。多くの神話・伝承が残る「遠野地方(岩手県)」には、瀬織津姫神の信仰が色濃く見られます。 日本の「感覚や祭祀の基層」は、「古神道」の「自然崇拝」「精霊崇拝(アニミズム)」という形態で、「八百万の神」などに見られる「自然と生活・文化・世界観が一体的に存在するという観念・様相」があり、古くは「縄文時代の文化・思想」に由来しています。「古神道」とは定義は無いですが、「仏教・儒教・道教の渡来以前の神道」で、「縄文時代・弥生時代・古墳時代の信仰」「渡来後の時代でも、その影響をあまり受けてなかった頃・地域・神社での信仰形態」というニュアンスがあります。また「縄文時代の信仰」は「縄文神道」とも呼ばれ、古神道・縄文神道は「日本の祭祀・信仰の淵源」です。「古くからの文化・信仰を残す地域・神社」には、このような往古の日本の姿が色濃く残っています。 そして「自然の場は、元々は波動に満ち溢れている」のであって、自然崇拝は「自然の大いなる波動を奉祀する」という形態があり、今後の時代には「自然・環境の波動の潜在的能力を最大化していく」「自然・環境を清浄にする」「様々な波動的手法を駆使する」のが必要で、また「心を清浄に保つ」のも求められます。 縄文時代は「共存しながら平和に暮らしていた世の中」でした。戦争が行われた形成はなく、人間の攻撃に用いるような道具もありません。また「母系社会」であって、土偶は「縄文時代の代表的な造形物(美術品)・祭祀具」「大地の豊穣と多産を願った物」であり、この時代の「母系社会の世界観を現した物」とされます。「呪術者」とみられる墓の副葬品から、後期・晩期に社会の階層化が現れたとする説がありますが、いずれにしても、さほどの大きな格差は無かったとされます。 往古の日本は「平和的」「母性的」であり、「大自然や宇宙などの大いなる存在」と共にあり、「八百万の神」の概念のように、緩やかな社会と時間と世界観がありました。縄文文化を多く受け継いでいる「北海道のアイヌ文化」「琉球地方」「奄美諸島」には、今でもこの傾向が割合残っていて、「自然」「神」が身近にあります。 縄文文化をを受け継ぎ、「弥生時代・古墳時代の祭祀は、巫女が中心的立場」であり、「神託を基にした祭政一致体制」を行い、又は「"女性:祭祀者""男性:政治権力者"という二重体制」も多数存在していました。「邪馬台国」の「卑弥呼」「台与」も女性の巫女・シャーマンで、日本神話には多数の「女性神」「シャーマン的な女性」が登場します。「日本の祭祀・信仰・文化」というものは、元々このようにして存在していました。 「日月神示」には「世界中揺すりて眼覚ますぞ。三千年の昔に戻すぞ。煎り豆花咲くぞ。上下ひっくり返るぞ。」とあります。先述のように、亀ヶ岡文化もこの3000年前以降の時代の文化です。しかし「三千歳・三千年(みちとせ)」と読む場合は「三千年(さんぜんねん)」「きわめて長い年月」の二通りの意があります。神示は、どちらを指しているのかは分かりません。 縄文時代以後、何度かの歴史的区切りごとに「縛りが多くなる風潮」が浸透、徐々に「縛りが多い社会」となっていきました。近年の日本は「規則決まり事が多く、周りに合わせないといけない社会」ですが、元々からこういう訳でなく、逆に元々の日本は「緩くて、ゆっくりして、平和で、母系的な社会」でした。 近年は「縄文時代の観念・認識論が重要」「縄文回帰」や「自然回帰」という論が、徐々に増えています。「江戸時代」の一般社会は、明治時代以降より「のんびりした印象」が持たれていて、最近の関心の高まりも、通底しているものがあると思われます(身分制度などもありましたが)。 これは「人間の社会というのは、自然が身近にあって、共存的で、ゆったりしているのが良い」という、潜在感覚に根ざした本能的渇望によるのでしょう。「あまりに自然を破壊して、環境を汚染して、非共存的で、持続可能性がなく、ギスギスしたり、あくせくし過ぎている」というのでは、それは「知的生命体の社会」と言い難いものがあります。「縄文文化の自然との一体性や共存型社会」「古神道の自然崇拝」「縄文回帰」「自然回帰」などは、今後「自然環境と人間の波動の量子的飛躍」を迎える時代にあって、必要とされる感覚と軌を一にするものです。 しかし歴史的に日本社会も、海外の多くの地域と同様に、自然破壊に見舞われました。産業革命以前の自然破壊は、概ね「森林伐採の横行よる環境の荒廃・荒地化・禿山化」に集約され、「木材供給の逼迫」「河川氾濫・台風被害・山林火災などの増加・激甚化」が起こりました。「最初に里山のオーバーユースによる森林破壊が顕在化したのは畿内であり、日本書紀によると、天武天皇六年(676)には南淵山・細川山などで木を伐採することを禁じる勅令が出されている」「800年代までには畿内の森林の相当部分が、また1000年頃までには四国の森林も失われ、1550年代までにこの二つの地域の森林を中心にして日本列島全体の25%の森林が失われたと考えられている」「織豊政権期、江戸時代に入っても日本列島の森林破壊は留まる所を知らず、1710年までには本州、四国、九州、北海道南部の森林のうち当時の技術で伐採出来るものの大半は失われた」「こうした激烈な森林破壊の背景には日本列島の人口の急激な膨張による建材需要や、大規模な寺社・城郭の造営が相次いだことがあったと考えられている」とされます。また一説に「平城京(奈良)から平安京(京都)への遷都」は「奈良盆地の森林資源枯渇と災害多発」「京都盆地の広大さと交通の便」が理由だとも言います。 この森林の荒廃に対して、近世から植林が奨励されていきました。日本最古の人工造林の記録は、室町時代の「秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ・静岡県浜松市天竜区」での杉・檜(ひのき)の植林で、この神社は「火防(ひよけ)・火伏せの神」「修験道の神」として広く信仰された「秋葉大権現(あきばだいごんげん)」を祀り、神社本庁傘下の八百社、小祠は無数にある、全国の「秋葉神社」の総本山です。また「奈良県吉野川上郡」でも、杉の植林が開始されました。徳川幕府は寛文八年(1666)以降、森林保護政策に乗りだし、森林資源の回復促進と厳格な伐採規制・流通規制をしきました。これにより森林の回復が始まりましたが、近代でも「明治維新後の乱伐」「「太平洋戦争時の乱伐」「近年の里山などの開発」という危機がありました。ただ国産木材資源の利用が減少、これにより近年は、古代以降で最も森林が回復しつつあるとも言います。 「里山」とは「集落・人里に隣接した結果、人間の影響を受けた生態系が存在する山」を指します。その生態系は「集落や農地」「森林や草原」「自然と人工の小川・池」などと共生、森林は「雑木林」が多く、「多種多様な動植物が暮らす共有域」です。「里山」という単語の初出は、宝暦九年(1759)に尾張藩が作成した「木曽御材木方」です。奈良県の「吉野山地」では、山を村落から近く標高が低い順に「サトヤマ」「ウチヤマ(内山)」「オクヤマ(奥山)」「ダケ(嶽・岳)」と区分、「サトヤマ」は「集落の周囲の斜面にある畑や雑木林」に該当します。里山の利用は、古くは縄文時代の栗の木や漆の木の栽培に見られ、「三内丸山遺跡」では集落近隣の森に植えていました。里山は歴史的に「木材供給」「薪炭林」「防風林」「踏鞴製鉄・陶磁器・製塩などの燃料」「草山(肥料用)」「食材資源の確保」など、多種多様に利用されてきました。しかし江戸時代には多くが「アカマツ林(痩せた土地でも生える)」「竹林」「草山」「禿げ山」と化し、回復に多大な努力が払われてきました。 西日本から東日本太平洋岸の多くは「暖帯域」「降雨量が多い(湿潤)」、「日本海側」も「降雨量が多い(湿潤)」という環境があり、また山がちな地形も相まって、日本の自然環境は森林の成長には適してい手、森林面積は広大です。中部地方以西から東北地方沿岸域本の沿岸域は「照葉樹林」、中部地方の山岳地域から北海道南部は「落葉広葉樹林」、より北部・高地では「針葉樹林」が、土地の気候や土壌などの環境に合致した「潜在自然植生」とされます。 日本に残る「原始林(有史以来、人の撹乱を殆どない)」「原生林(極相の後のある程度の期間、人の撹乱がない)」は希少で、原始林の「知床半島(北海道)」「白神山地(青森県・秋田県)」と原生林の「屋久島の縄文杉などの森(鹿児島県)」が有名です。「極相(きょくそう)」は「生物群集の遷移の最終段階で見られる平衡状態」、「極相林」は「樹種の構成がさほど変化しない状態の林(極相に達した林)」、「極相種」は「主に極相林で生育する樹木種」を指します。一般的に落葉樹林では「草地」→「松など」→「ミズナラ・ブナが優占」と変遷、乾燥・低温などの環境では「草地」、水辺では「湿原」が極相になったりします。 この中で、神社・寺院の「鎮守の森(社叢林)」「社寺林」は聖域として守られてきたり、利用価値が高い木が植えられたりしたものの、収奪的利用は避けられてきました。日本の広域の原初の姿たる「照葉樹林」は、伐採など人為的撹乱をすると「落葉広葉樹林」に遷移、一部「鎮守の森」「社寺林」に残るのみです。極相林は、都市地域にはほぼ無く、郊外では一部の「鎮守の森」に残り、天然記念物となっています。「春日大社(奈良県奈良市)」は「藤原氏」の氏神として崇敬された神社で、神体山「春日山」の連峰には、笠を伏せたような山容の「御蓋山(三笠山・みかさやま)」などがあり、万葉集・百人一首などに詠まれています。樹木伐採が承和八年(841)から禁じられている「春日山原始林(実際は原生林)」は、暖帯南部の植物が非常に多く、滝もあり、都市近郊の原生林は世界的に極めて稀です。 明治時代の自然学者・民俗学者「南方熊楠」は、神社合祀令による神社合祀に反対しましたが、これは「鎮守の杜の生態系の破壊」「土着の信仰・習俗などが毀損」を危惧したからです。「柳田國男」「折口信夫」など「著名な民俗学者」「日本の基層・古層を深く研究していた人」は、その多くが「自然に親しんだ感覚」を持っていました。「「日本の基層・古層と、その研究者」は「自然に親しんだ感覚」を持っていたと言うのは、殊の外重要です。 ここから「日本の自然環境は、気候風土と、鎮守の森・社寺林など神域の杜により、より大規模な破壊を免れてきた」「日本の信仰は、自然と共生しながら存在してきた」と言えます。それこそが「日本や和の真髄・基層」であって、決して「明治時代以降や戦後の権威主義・全体主義や、物質至上主義・経済至上主義・消費主義と、それによる自然環境の軽視」には存在しません。 「神事・各種伝承など」は「波動原理に沿った物」「効果が大きい物」が多く、「長年積み重ねられてきた、神事の歴史・意識・言霊など」により「地域・国・世界に対して、非常に重要な波動上昇効果の役割を果たしてきた」と言えます。これが無かったら、日本も世界もより酷い状況にあり、崩壊していたかもしれません。神道・琉球神道・アイヌ神道をはじめ、各地の伝統宗教はこのような波動原理の基盤の上に存在しています。 その上で、上記のように「魂振り」「玉・魂・霊」とは「波動原理その物」「波動原理で全てを説明できる物」であり、また「波動原理が齎す効果・恩恵の中枢に位置する物の一つ」です。また「芸術」も「波動原理で説明できる物」「真の科学たる波動原理に沿った物」で、根源的には「人間の神性と切り離せない物」です。 「霊魂」というのは「夕日のように揺らめき儚げで、たまゆらのようにフワッとして、勾玉のように美しく、想いにより健全化する物」かもしれません。なので「子供達の環境」というのは、あまり縛り付けるよりも、自由にふわふわした感じにさせていて、それでいて暖かく包まれていた方が、「霊魂・霊性」「意識」「精神性・感受性」「各種能力(真の意味の深い能力)」の育成という面から、良いのだと思われます。 また「日本語の語彙」は、多くが「元の言葉を組み合わせて、混成して出来た言葉」と、「その概念の性質から連想的に、新たな概念を作る、又は何らかの概念に宛てる言葉とする」というように出来ています。なので「両義的・多義的な含意を持つ言葉」「ダブルイメージを伴った言葉」が多数存在します。「忌み言葉」が多数ある事の背景には、このような点もあります(何でも忌み言葉とするのは無意味でしょうが)。 日本語は、この点も含めた歴史的経緯と、固有の特性により、「言葉の持つ波動」である「言霊」の力が強いと言われます。「言霊」は「過去の意識の積み重ね」であり、日本においては「意識の高低(斎み・穢れ)が大事だと、歴史的に強く認識してきた事により、強い肯定的効果が得られるようになった物」「近年は各種状況により、非常に危機に瀕している物」であります。 縄文時代~弥生時代・古墳時代は「魂振りに連なる概念」が重視され、非常に広範に存在しました。それは、より根源的には「霊・魂・魄・玉・珠・球(たま)が重視された」ということで、「意識・精神こそが中枢」「それを中心に物事は連なっている」「その健全化・大事にすることが要」という感覚だったとも考えられます。 「三つ子の魂百までも」と言いますが、「森羅万象は意識が形成する」「原初の意識・想念は、その物の根源的な性質・状態・方向を規定する」と言えます。そして、このような観念が「日本の原初の観念」かもしれません。日本は「霊・魂・魄」「魂振り」「霊性・精神性」「感覚・感受性」「想い・心」を大事にすべきだと思います。これを失ったら、「霊性・精神性」を失ったら、意識の顕現たるこの世において、「最大多数の最大幸福は不可能」です。 これらに見られるように「神事・神話・伝承」「霊魂・産霊・魂振り」というのは、意味は途方もなく深遠で、実際にその効果は莫大です。これらが残されてきた事に感謝して、残してくれた「神々(霊・意識体・spritほか定義や名称は色々)」、残す為に努力をしてくれた「先人・御先祖様たち」に感謝したい物です。 残してくれた「神々」は「高級霊」とも表されますが、要は「意識・精神性が高い意識体」です。では「高次元の神・意識体」は「自然破壊」「理不尽さな格差」「欺瞞」「金銭・物質への偏重」を望むでしょうか。そんな訳はありません。現代社会の「力学」は、「高次元の神・意識体」の望んでいる方向と反対方向にあるでしょう。 それは現在は理不尽にも放置されている事、「ヤマト民族とアイヌ・琉球民族との格差」「男女格差」も当然含まれます。これは端的に「低い意識・霊性の成せる状況」であり、こういう事を放置し、自分達は優位だとしていて、その上で神が霊がと言っても、それは全て欺瞞であり、それで世の中が良くなる訳はありません。何故なら「波動原理や高級霊の意識に、そういう観念が沿っていない」からです。そして、沿う沿わない以前に、道義的に間違っています。 全ての人は本来神性を持っていて、即ち「全てが平等」であり、この真理は永久に普遍不変です。またこれに反した時の「超長期的な因果律」も普遍不変で、誰しもが「高い意識・低い意識の因果応報」「相応の結果」を受けます。宇宙に遍く波動原理は「道義的な物として存在」、これは「量子もつれ・共鳴効果」「因果律」でそう説明されます。拠って「高い意識・精神性の顕現が、神・霊に適う事」「低い意識・精神性の顕現は、神・霊に適わない事」です。 今を生きる世代が成すべき事は、一つにはこれらを出来うる限り全て後代に伝える事、更に自然環境を回復させる事、波動原理・真理に沿う、理不尽さのない社会を目指す事でしょう。社会を正常化させ、在るべき状態となれば、波動が高い社会となりますし、そう行わなかったら波動が高い社会とはなりません。 当サイトの項目 項目1:波動原理と放射能除染の概略 (メニュー1) 項目2:波動器具・一部農法・一部機器等による除染法 (メニュー2) 項目3:量子水・還元水素水・水酸素ガスによる除染法 (メニュー3) 項目4:フルボ酸・微生物等による除染法 (メニュー4) 項目5:珪素・炭素同素体・ナノ物質・竹炭等による除染法 (メニュー5) 項目6:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」目次(メニュー6) 項目6①:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー7) 項目6②:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー8) 項目6③:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー9) 項目6④:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー10) 項目6⑤:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー11) 項目6⑥:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー12) 項目6⑦:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー13) 項目6⑧:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー14) 項目6⑨:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」 (メニュー15) 項目6⑩:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー16) 項目6⑪:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー17) 項目6⑫:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー18) 項目6⑬:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー19) 項目6⑭:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー20) 項目6⑮:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー21) 項目6⑯:「波動情報と共鳴の原理・作用・効果・影響・意味合い」(メニュー22)
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Index ・ステージ1 キャッスルスタイナー・ステージ2 クリーピーホロウ・ステージ3 アップタウン・ステージ4 ゾンビタウン・ステージ5 フリークファーム ・ステージ6 ブーニーズ 原子力発電所 ・ステージ7 ダウンタウン ピット社 ステージ6 ブーニーズ 原子力発電所 攻略ポイント 放射汚染地帯に毒の沼、迷いやすいマップに狭い足場・・・・・結構な難所が連続しているステージ。慎重に歩を進めていこう。 旧ホープフォールズ フレッドの事務所 事務所にいるベニーに話しかけ、ミッション「地下通路」を受け鍵をもらう。 ベニーから鍵を受け取ったらフレッドの農場に行き、そこから墓地に向かおう。・「墓地のドアの鍵」入手 ↓ フリークファーム フレッドの農場 墓場~地下トンネル 霊廟の裏に地下トンネルへの入り口がある。 落石をストーンの体当たりで崩した後は、カカシで周囲を照らしながら進もう。 火山地帯は入り口から前方にある二本の石柱の間に足場がある。その後はボーンヘッドで壁を登り、再びカカシで周囲を照らしながら先へと進む。 ↓ フリークファーム ティンタウン(ワープポイントあり) ファームに着いて、すぐに出会うNPCからミッションを受ける。 ・鶏小屋を壊せ・・・ドラム缶から引火させた火カラス弾で3箇所壊す。炎上した小屋から炎上した鶏が飛び出してくるが、直ぐに焼死するのでほっといても良い。 ・チャペルを救え・・・頂上に塔のようなものがあるのが、教会。チャペル内のチンピラを倒し、ゾンビで消火。 クリアすれば、教会内のブーニーズに続く地下道への鍵をもらえる。。 ストーリーに関係ないものの教会内の地下道へ向かわず道なりへと進むとパイ食い競争の会場へ行ける。上記ミッション達成後に現れる女性に話しかければ、大会関係のミッションを2つ受けられる。パイ食い大会には、会場ステージ横にいるオヤジに話しかければ参加できる。「ホタル」マークが出ないので見落としがち。 ↓ ブーニーズ ここからは、ミュータントまでが徘徊している。ヘッド屋サムにミュータントのヘッドが必要集めるよう依頼されるので集めながら先に進もう。 対ミュータントにはストーンヘッド。頭集めには、同じく有利なボーンヘッドの愛称が良い。ミュータントのゲロに当たると、動きが遅くなる上に毒状態に。 ↓ 毒湿地帯 分かれ道×電撃洞窟×蜂の巣 分かれ道を左に入ると障害物に塞がれた先に発電機と近くにドラム缶が見える。障害物の丸太付近に火が燃えている箇所があり、火とドラム缶が一直線になる場所から主観でカカシヘッドのカラスを飛ばそう。上手くすると火を通過したカラスがドラム缶に当たり発電機が壊れてくれる。 発電機を破壊したら反対側ルートに周ろう。まず進んだ先にある蜂の巣はカカシヘッドのカラスで巣を狙撃して壊してしまおう。蜂もカラス弾3発で倒せる。 蜂を近距離で倒す場合、赤と緑は攻撃を避けて地面に突き刺さった所を蹴飛ばす。青は正攻法で倒そう。 洞窟入り口まできたら、ストーンの体当たり落石を崩し先へと進もう。 ↓ ブーニーズ 動かない船 民家の横にある草の絡みついた船は、手前のミュータントの巣の横に除草剤で除去する。家についてるロープもボーンヘッドの攻撃で切る事ができる。 船は出ないが、更にもう一艘ボートが。この船が次に進ませてくれる。 ↓ ブーニーズ ボグタウン(ヘッド屋前にワープポイント) フェザードームやビリヤード場がある。ジュースが足りない場合はビリヤード場で補給しよう。 ヘッド屋が町の奥にある。ミュータントヘッドをまだ持っていない場合は入手しておこう。・「ミュータントヘッド」入手 ヘッド屋の途中にストーン体当たりで壊せる洞穴が。中には放射能が平気なミュータントヘッドだからとれるアイテムがある。 ここから先は放射能地帯が多発する。ミュータントにミュータントヘッドで対抗しなければならない場面も多い。HPを回復できる赤や紫のミミズジュースを、しっかり補給しておこう。 ↓ ボグタウンの先 廃屋の壁にある送風機の風をゾンビヘッドで吸って車を飛び越える。車の先にある家の入り口がふさがれてるがストーンの体当たりで壊せる。中は放射能汚染地帯。ミュータントもいる。 更に先に巨大扇風機が設置された家がある。風で前に進めないがストーンで近づき体当たりで壊そう。扇風機を壊すと前後の巣からミュータントが出現するので注意。 家のそばにガソリンタンクがある。吸ってから家の中を通って、船に注入。すると船の扇風機が動き出す。風にはゾンビ。かなり飛んで向こうの家へ。 渡り切ったら、クレーンを調べて木箱を落として足場に。足場の先は蜂の巣がある。灰色の蜂の巣は壊せないが、蜂を吐き出さない。迷いやすいがあたりを見回せば先へ進める道がある。 ↓ 核ゴミ捨て場前 フライム博士の小屋(ワープポイントあり) 蜂の巣にミュータントがいるが、博士の小屋まで走り抜けてしまってもいい。イベント後、ゴミ捨て場へ。・グライム博士から「ゴミ捨て場の鍵」入手 ↓ 核ゴミ捨て場 放射能汚染地帯。ミュータントが4人、蜂がいる。倒すなら確実に1体ずつ、ジュースを飲むことに抵抗がなければミュータントを撃破後、カカシで蜂の巣を狙撃して処理しまった方が楽。足場を飛び渡り、左にカーブしていった所の、ゴミの小山の向こうにカスパロフの死体がある。・「カスパロフの鍵」入手 ↓ グライム博士の小屋(ワープポイントあり) 発電所へ主も向く前にブティックで「防護服」を入手しておこう。小屋の奥を抜ければ、原子力発電所への扉がある。 しっかり補給を済ませてから突入しよう。 ピット原子力発電所 (発電所はクリア後休憩室以外侵入不可になる。アイテムの取り忘れに注意!) 待合室 防護服を着た状態で警備員室窓口に近づけば、発電所に侵入する許可がもらえる。 イベント後、回廊へ。防護服を購入済なら窓口横の着替え室で着替えることも可能。・「発電所のパスキー」入手 ↓ 回廊 食堂の先にエレベーターがあるが監視カメラで警報が鳴なる。パスキーがなければ動かすことも出来ない。 食堂に戻ってくるとミュータント鶏が逃げ出し、職員を襲うイベントが発生する。助ければ、エレベーターのパスキーがもらえる。監視カメラは、ビーカーの透明化で通過できる。・エレベーターのパスキー入手 ↓ シャワー室 ミュータントに襲われている職員を助けると階下へのエレベーターを動かしてもらえる。 ロッカーにはいくつかアイテムがあるが、ひとつだけ鍵がかかって開かない。(ボーンヘッドの歯飛ばしで開ける。しかし中身はガラクタ!) ↓ 1F 101A ミミズ研究室 柵で動かせないエレベーターがある。まずは、鶏を蹴散らしつつ先に進もう。「1」と看板がついたドアがミミズ研究室。ミュータント2体がいる。中を通って、うごめく研究機材を避けて(ボーンヘッドの歯飛ばしで落とすと紫ジュースが入手できる)ドアから出ればエレベーター前に出られる。 ↓ 2F 回廊 廊下にもミュータントが出るので後ろから襲われないように。回廊を回って、A鶏研究室前のエレベーターで3Fへ。 ・201B鶏研究室 鶏3羽と戦闘になるだけ。入らんでいい。 ・201A鶏研究室 回廊の裏にある研究室。上の階へのエレベーター前。最初、鍵が掛かっていて入れない。3Fで鍵を手にいれれば入れる。「鶏の卵」を1つGETできる。 ↓ 3F 回廊 廊下が所々途切れている。ボーンで壁を渡れる。2Fに落ちてしまったら、エレベーターですぐ上がろう。 ・301Aネズミ研究室 檻に閉じ込められた研究員がいる。ミッション「檻の中の苛立ち」を受けよう。テーブルに置いてある「魔法の弾丸」の取り忘れ注意。 ・301Bネズミ研究室 ミュータント長がいる。倒せば「檻の鍵」入手。紫ミミズジュースが3つもある。 これでこの辺の研究室の鍵が開く。・動物研究室の鍵・・・漏れたパイプの向こうの扉を開く ・研究室の鍵・・・2Fの201A鶏研究室の鍵 3F 動物研究室前 漏れたパイプ 監視カメラがある。いきなりビーカーの透明化では通れない。まず、パイプをミュータントゲロで塞いでから、ビーカーの透明化で通る。 ↓ 3F 動物研究室 レフティとの会話の後、鶏と爆弾牛との波状攻撃が待っている。 安全攻略法は、まず、部屋奥の仕切りの裏に走りこみ、机に上に乗る。これで鶏が一気に襲ってくることもないし、まず爆弾牛は無効化できる。そして仕切りの端からちょっと出ては引っ込んで、鶏を1羽ずつおびき寄せて確実に仕留めていこう。 すべて仕留めれば、仕切り横のドアが開く。 ↓ 休憩室(ワープポイントあり) 中間ポイント。ビリヤード、ピンボール台がある。 ↓ 廊下 破れパイプをミュータントゲロで全て塞ぐ。高いところは主観モードで。 ↓ クーラントタンク室 放射能汚染地帯。渡り廊下の亀裂が入ってる部分に主観ゲロを当てて渡り廊下を落下させる。上通路への坂道に。錆びたレバーはストーンヘッドで押す。タンクのミドリの液体)が抜けて通路が現れる。 ↓ プロペラ部屋 プロペラの風の上をゾンビで飛んで足場を目指す。クレーン当たると、落ちて即死なので注意。 赤ランプの灯る制御室を目指したいが、鍵が掛かっているため通れない。 右奥にある出口をまずは目指そう。最初のプロペラの風で、一番手前のチンピラのいる足場へ渡り、2つ目のプロペラの風に乗って、右奥の足場へ。 足場のガイコツはカカシの火カラス弾をドラム缶に当てることで炎上させて排除できるが、照準がガイコツに合ってしまうため難しい。無視して飛んでもあまり問題ない。 ↓ 発電機室 発電機室には、ガイコツが2体ずついる。 電線はシュリンクヘッドで渡る。感電すれば即死なので、タイミングに注意しよう。渡りきったらボーンヘッドで発電機の電線を切る。装置は3つあるので、全て停止させよう。 ↓ プロペラ部屋(エンジンルーム) 廊下で今度は火攻めに遭う。カカシヘッドの火カラス弾で天井のスプリンクラーを3つ主観で狙って作動させて消火。 今度は緑ランプの灯った制御室へ。プロペラ回転が弱まってしまっているので飛べず、プロペラに乗って移動する。下段の足場からプロペラにはジャンプせずに乗れる。あとはボーンで壁を登って行けばいい。 ↓ 制御室 床にスイッチがふたつある。両方のスイッチを押すと停止装置の端末が上昇してきて発電所を停止させることができる。まず、片方のスイッチの上でチキヘッドのオトリを出す。それから自分が、もう一方に乗ればいい。 ↓ クーラントタンク室 自動的に戻ってこれる。目の前に発電所の中心への通路が出現している。通路はミュータントが群れている。数が多いので相手にしているとキリがない。先へのドアまで走り抜けてしまおう。 次はとうとう、レフティとの決戦が待っているぞ。 発電所の中心 BOSS レフティ 走り回りながらマシンガンを乱射し。近づけば巨大なパンチが飛んでくる。しかし、マシンガン攻撃はあまり痛くない。白ミミズジュースで防御をアップしとけば更にに安心。 レフティが立ち止まる所には、頭上に金属のボックスがぶら下がっている。遠距離攻撃でボックスを落下させれば大ダメージ与えられる。 BOSS モンスター・レフティ 周りを見回すと、赤いランプの灯った機械がある。モンスター・レフティが中央の一段下にいるときに、ゲロをかけてショートさせよう。すると下段は放射線物質の池になり、上からは2本の電極が降りてくる。逃げ回りながら、電極の場所へおびき寄せよう。何回かおびき寄せて感電させればとりあえず発電所はクリア。 →ダウンタウン ピット社へ