約 9,062 件
https://w.atwiki.jp/shuinn/pages/4465.html
泉蔵院 愛知県南知多町、知多四国八十八ヶ所霊場第45番・泉蔵院の御朱印「本尊阿弥陀・薬師如来同座」です。 知多四国の専用納経帳にいただいた御朱印です。平成26年は弘法大師知多巡錫1200年、平成30年は知多四国開創210年の記念印をいただくことができました。 南知多三十三観音第30番札所「南無千手観世音」の御朱印です。 ★住所 愛知県知多郡南知多町大字内海字南側69 - 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/cttum/pages/59.html
ゲンドゥン・チューキ・ニマ少年(当時6歳)がチベット宗教界でダライ・ラマに次ぐ高位にあるパンチェン・ラマ11世の生まれ変わりと宣言した。その3日後に、少年は中国共産党(中共)政府に自宅から強制連行され、居場所が分からないまま現在に至っている。ゲンドゥン少年はその時から世界最年少の政治犯となった。 ゲンドゥン少年は1989年4月24日にチベット自治区嘉黎県に生まれ、1995年5月17日に中共当局に自宅から強制連行された。のち、中共当局はギャンツェン・ノルブをパンチェン・ラマ11世に認定した。 ゲンドゥン少年は強制連行されてから、国連人権委員会、国連人権事務局高官、国連人権事務局・児童権利委員会が相次いで中共当局に対して、少年本人との面会を要請したが、中共当局にすべて拒否された。 中共政府高官は対外的に、ゲンドゥン少年は正常な生活をしており、両親も少年の生活を乱されたくないことを望んでいると発表した。しかし、今年17歳になったゲンドゥン少年は未だに自宅に戻ることが出来ない。 しかし、皮肉にも、これまでに「世界最年少の政治犯」だったゲンドゥン少年は、はその座を譲ることになった。2006年9月30日、中国国境警備隊はナンパ・ラ・パス(Nangpa La Pass)で、ダライ・ラマ14世がを目指して脱出するチベット人一行を射殺し、少なくとも少女2人が死亡し、他20人が逮捕されたという。逮捕されたチベット人の中に16歳、15歳、13歳、12歳と最年少の7歳の子供がいたが、みな行方不明である。 パンチェン・ラマは生き仏「パンチェン・エアドニ」の略称で、ダライ・ラマに次いで最高位のチベット仏教の指導者である。パンチェンは梵語の「パンチタ(博学を意味する)」およびチベット語の「チャンボ(大きいを意味する)」の略称で、阿弥陀如来の化身と言われれる。 出典 かつて世界最年少の政治犯、パンチェン・ラマ11世はいずこ http //jp.epochtimes.com/jp/2006/12/html/d41908.html TSNJ:『世界最年少の政治囚』パンチェン・ラマ11世救出キャンペーン http //www.geocities.jp/t_s_n_j/panchen_lama/ 強制失踪の被害者 2008年4月現在 まだ行方がわかりません!! http //www.geocities.jp/aijptibet/pancen.htm パンチェン・ラマ http //www.tibethouse.jp/panchen_lama/ ゲンドゥン・チューキ・ニマ少年の失踪 http //www.tibethouse.jp/panchen_lama/gc_nyima.html 国連によるパンチェン・ラマ接見要求、中国、再度拒否 http //www.epochtimes.jp/jp/2005/09/html/d66550.html 史上最年少の政治囚・パンチェン・ラマ11世 http //tibet.turigane.com/panchenlama.html ダライ・ラマ特使、中国当局にパンチェン・ラマ釈放要求 http //jp.epochtimes.com/jp/2007/04/html/d62019.html ダライ・ラマ後継者問題、言動不一致の中国共産党 http //jp.epochtimes.com/jp/2007/11/print/prt_d78053.html あの写真の少年は誰? (Days in Ladakh) http //ymtk.jp/ladakh/2008/03/post_75.html ゲンドゥン・チューキ・ニマ - Wikipedia http //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%9E ワールド・チベット・ニュース 創刊号 http //www16.ocn.ne.jp/~tcc/TCC-W/back-number/NO.001.html Free Tibet Campaign - Free The Panchen Lama http //www.freetibet.org/campaigns/panchen/ International Campaign for Tibet Campaigns The Panchen Lama http //www.savetibet.org/campaigns/pl/index.php BBC NEWS | World | Asia-Pacific | Tibet's missing spiritual guide http //news.bbc.co.uk/1/hi/world/asia-pacific/4551425.stm Buddhist Channel | Buddhism News, Headlines | Issues | Gedhun Choekyi Nyima the XIth Panchen Lama turns 18 Still disappeared http //www.buddhistchannel.tv/index.php?id=70,4013,0,0,1,0 Students for a Free Tibet Gedhun Choekyi Nyima, the 11th Panchen Lama of Tibet still disappeared http //noluv4google.com/article.php?id=566 His Holiness the 11th Panchen Lama of Tibet http //www.panchenlama.info/panchen_lama_abduction_facts.htm 河北新報ニュース 4月17日 http //www.kahoku.co.jp/column/syunju/20080417_01.htm キャッシュ パンチェン・ラマ 消えた少年 _ _
https://w.atwiki.jp/th_seiti/pages/37.html
住所 〒606-8331 京都府京都市左京区黒谷町121 京阪鴨東線「神宮丸太町」より徒歩30分 地下鉄東西線「蹴上」より徒歩30分 京都市バス32, 93, 100, 203, 204系統「岡崎道」より徒歩10分 京都市バス5系統「東天王町」より徒歩15分 有料駐車場あり(30台) 関係あるとみられるもの 黒谷ヤマメ(東方地霊殿) 九十九八橋(東方輝針城) 金戒光明寺 金戒(こんかい)光明寺は阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺院で、法然上人が承安5年(西暦1175年)に庵を結んだことに始まる。 これが法然43歳の時でありはじめて草庵を営んだ地であることから、ここが浄土真宗最初の寺院となった。 この地はもともと比叡山の黒谷青龍寺の所領であったが、指導者であった叡空が入滅(簡単に言うと死亡)したことに伴ってこの地を法然に分け与え 比叡山を元黒谷、ここを新黒谷と呼び分けるようになった。その後、単に黒谷(くろだに)と呼ばれるようになり、現在では地名になっている(左京区黒谷町)。 地元では「くろ谷さん」として親しまれ、高麗門の脇には「くろ谷」と書かれた石柱が立っている。 土蜘蛛退治には様々な伝説があるが、14世紀に書かれた絵巻物「土蜘蛛草紙」ではこう書かれている。 源頼光(伊吹童子退治した人)がその家来の渡辺綱(茨木童子の腕切った人)らと共に蓮台野(上品蓮台寺付近?)で空飛ぶ骸骨を見つけ、 それを追っていくと神楽岡の古い屋敷にたどり着いた。頼光らは次々と現れる妖怪たちに驚かされるがやがてこれを斬り殺し、その正体が土蜘蛛であることを知った。 源頼光と土蜘蛛退治の伝説に関しては、葛城一言主神社(土蜘蛛の墓)に詳しく書かれているのでそちらを参照。 神楽岡という地名は現在も残っており、金戒光明寺から100mほど北側の吉田神社周辺である。 この記述に従えば土蜘蛛は神楽岡で退治されたことになるが、「平家物語」の記述では「頼光らは北野神社裏手の塚で土蜘蛛を発見し殺した」とされており、 北野東向観音寺にはその伝説に従って土蜘蛛塚が存在する。 また、上品蓮台寺にもこの伝説に関連した頼光塚がある。 ちなみにZUN氏は黒谷ヤマメについて、源頼光に退治された伝説は全然意識していないとのこと(キャラ☆メルVol.7インタビュー)。 八橋検校 八橋検校(1614-1685.7.13)は江戸時代初期の盲人音楽家である。初名は城秀。出身は磐城(現在の福島県いわき市)が定説とされるが、摂津とする説もある。 金戒光明寺境内の墓地にその墓があり、その横にある碑には次のように書かれている。 八橋検校ノ碑 八橋検校ハ慶長十九年陸奥 岩城ニ生ル年少江戸ニ出デ 三絃ノ技ニ名アリ偶マ筑紫 筝ノ数曲ヲ学ビ眞諦ニ通ゼ ントスル念止ムベカラズ奮 励艱苦ヲ冒シテ九州ニ下リ 終ニソノ奥義ヲ極ム業成ツ テ京都ニ歸リ住ムヤ古典ノ 神韻ニ尚創意ノ潤飾ヲ加ヘ テ組唄十三曲ヲ作ル律格調 和ヲ愛スル生来ノ好尚ト情 ニ厚ク感性ニ敏カリシ天稟 ノ鋭トヲソコニ併セテ古典 創作ノ大業ヲ新時代ノ意義 ニ於テ完成シ近世筝曲ノ開 祖トシテ世ノ尊崇ヲ受ク俊 髦ソノ門ニ集リ以後同流全 国ニ普及シテ今日ノ盛運ヲ 見タリ昭和九年第二百五十 年忌ニ際シ全国思慕ノ同志 塋域黒谷金戒光明寺内ニ碑 ヲ建テ後進邦楽家ノ上ニ及 ブ啓示ノ愈ヨ強力無窮ナラ ンコトヲ期シテ厚ク検校ノ 霊ヲ祀リソノ偉功ヲ称揚ス 文学博士 太宰施門 撰文 大僧正 郁芳随圓 題字 大日本筝曲會聯盟 ざっくりと現代語訳すると次のようになる。 八橋検校は慶長十九年に陸奥の国の岩城に生まれた。年少のころに江戸へ行き、三絃(三味線の別称)の技術で名を挙げた。 たまたま筑紫筝を数曲学んだところ、その真理に触れたいという思いを止められず、苦労しながら九州で学びついにその奥義を極めた。 京都に帰ってからは古典の韻に創意の潤飾を加えて組唄十三曲を作った。規則的な調和を愛する生まれながらの好みと 情に厚く感性豊かという天性の鋭さとを合わせ、「古典創作」という大業を新時代の意義で完成し、近代筝曲の祖として世の崇敬を受けた。 優秀な門下生が集まり、以後流派は全国に広がり今日の盛運を見ることとなる。 昭和九年第二百五十年忌に際し手全国の同志が墓所のある黒谷金戒光明寺に碑を建て、後進の邦楽家が上記の啓示に窮することがないよう期待して 厚く検校の霊を祀りその偉功を称揚する。 死後、その業績をしのんで琴の形を模した堅焼き煎餅が配られ、それが京都名物として有名な八ツ橋の発祥とされることもある。 その説を主張する会社の一つである老舗聖護院八橋は、金戒光明寺からすぐの場所に本店を構えている。 江戸時代の妖怪画集「百器徒然袋」に描かれている琴の付喪神妖怪「琴古主」について、画集の 作者の鳥山石燕はこう書いている。 八橋とか言へる鼓しやの しらべをあらためしより つくし琴は名のみにして その音色をきゝ知れる 人さへまれなればその うらみをしらせんとてか かゝる姿をあらはしけんと 夢心におもひぬ この画集は検校の死後およそ100年が経ってから書かれたものであり、八橋検校が筑紫箏をもとに創作を加えた近代筝曲が成立したことによって 本来の古典的な筑紫箏が失われてしまったことを示している。 室町時代の「百鬼夜行絵巻」にも琴の妖怪の姿は描かれており、琴古主はこれをもとにして描かれたという説もある。 九十九八橋の二つ名が「古びた琴の付喪神」であることから、琴古主を土台としてそれと関連する八橋検校の名を取ったと考えることができるが 公式によって明言されたことはない。 ちなみに「百鬼夜行絵巻」では琴の妖怪の隣にそれを引っ張る琵琶の妖怪の姿が描かれている。 八橋検校の墓は山門をくぐって右手の道から墓地へ行き、階段を一番上まで登り切った先にある三重塔の裏側にある。 周りに宮内庁管轄の天皇陵や倒れた墓石などが転がっているので注意。 八橋検校の業績について、箏に詳しくないので調べてもよくわかりませんでした。誰か加筆訂正をお願いします。 - 名無しさん 2015-07-24 21 26 22 名前
https://w.atwiki.jp/occultfantasy/pages/879.html
仏教・如来 宝生如来 (1)宝を生み出し、人々の願望を叶えるとされる南方の仏で、左手は上を向けて拳にし、右手は五指をのばし肘のところから横に出した形をしている。 参考 新紀元社 密教曼荼羅
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/402.html
目次 1.禅道に、只管打坐と禅問答あり 2.禅は是、時時、刻刻の 際断 にあり 3.「無」は宇宙観、「機」は是、発願 4.禅における生死、往生の悟り 5.因縁解脱は可能か 6.「不昧因果」とは 7.「不落因果」の悟り 8.悟りの要諦は、自他一如の真我の理解にあり 9.無門禅師の前世はアリストテレス、今世は西田幾多郎として生まる 10.自らの人生を、鉛を変えて黄金となす錬金術師たれ 11.前後を際断する宗教たれ、教えとなれ (1986年8月10日の霊示) 1.禅道に、只管打坐(しかんだざ)と禅問答あり 無門 無門です。 ―― 無門禅師ですね。お初に御意を得ます。私は、かねてより、先生の御著になる『無門関』の書により学ばせていただいている者でありまして、本書のお教えの内容の極めて深遠なることに常々感銘いたしております。 さて、私どもの仕事の上から、「自力門」の方がた、とくに禅宗諸賢哲の方から"自力の悟り"ということについて、ご高説を承(うけたまわ)りたいとこう思いまして、先般は、道元禅師よりお説をうかがったのでありますが、本日は、ぜひ無門先生のお教えをうかがって、私どもをはじめ、現代の求道者一同の勉学の資とさせていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたしたいと思います。 無門 わかりました。もういつ呼ばれるかと思って、待っておりましたが――。 ―― そうですか、それはありがたいことです。それでまあ、私としましては、今回、「自力門」と申しましても、禅宗の方がたのご教義を取りまとめまして、一冊の本に仕上げ、世に出したいとこう思っておりますが、まず一番に、禅とは何か。禅の本義について。二番目には、人生における禅の効用について、三番目に悟りとは何か。真の悟りについて。これらのことについて、お説を承りたいと存じます。 無門 わかりました。第一は、禅の本義についてですね。禅とは、その名の示すとおり、単に示す、「単刀直入に示す」ということであります。では、単刀直入に、一体何を示すか。単刀直入に示すものは、すなわち、「是、仏の心、是、仏の道」、これであります。真理は、単純なもののなかにあるのです。すなわち、知識によって、さまざまなことを知ることが、真理の近道ではないということです。真理は、単にそれを直示することができるのです。 真理というものは、それを眼に見、手に取ることができないものである以上、これをまた、眼に見、手に取る形で示し表わすこともむつかしいものであります。限に見、耳に聞き、そして指に触ることができないものが真理であるならば、真理を感得する方法もまた、五官を超えたものではならないはずです。しかして、五官を超えたるものを如何にして感得し得るか。 およそ人間、この三次元世界において、有限世界において生きる者が、如何にして眼に見、耳に聞き、指に触れざるものを、感得しうるか。すなわち、五官によって、完全に感知しうるものではないこと。五官をも使うことによって、その五官を超えたるものを、ひとつの手がかりを通して感得することが、真理を悟る道ではなかろうか。 さすれば、五官を通して五官を超える道、五官を通して五官に非(あら)ざるものを感じ取る手立てが必要なはずである。それは一体何か。これを解き明かしたのが禅である。この五官を通して、五官を超える方法、これを得るに、禅はすなわち、是、二つの道を用意せり。第一の道は、是、只管打坐(しかんだざ)。日常性を捨て、ひたすらに打坐することにおいて、きっかけをつかんでいくという道。是、すなわち、「道元」の道なり。 しかして、ひとつの道あり。この道は、天より降りたるひとつのインスピレーションをもって、人間の五官知を打ち砕き、しかして、本然と悟らしめる道である。すなわち、是、禅問答。禅問答における公案は是、人の五官知において了知(りょうち)することあたわざるものなり。それを超えたるもの、知識によって判断できるものにあらず。知識を超えたるものなり。禅問答是(ぜんもんどうこれ)、論理的なるものならず。論理を超えたるものなり。論理を超えたるものを、直示することによって、現象を超えたる悟りの道を是、示すなり。これが禅の第二の道。 この第一の道、第二の道をあわせ考え得るに、第一の道は是、心身調和の法。心身の調和を経ずして、禅の一転語(てんご)もまた、価値なきものなり。まず、禅の意義は、第一義として、心身の調和にあり。心身の調和を経ずして、この三次元世界を超ゆる、新たなる悟りを感得することはできぬ。しかして、禅の真意義は、心身の調和のみならずして、心身の調和の後に、この三次元論理を超ゆるものを感得するところにあり。すなわち是、「イデア」の世界なり。如何にして三次元にいながら、イデアの世界を感得しうるかということは是、悟る道なり。 イデアの世界とは何であるか。イデアの世界是、「実相」世界なり。実相世界是、神の世界なり。神の世界是、三次元以降、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元、十次元の世界なり。是、「イデア」の世界にして、「実相」の世界なり。 「実相」世界は、人間のつくりたる世界にあらず。実相世界は是、神のつくりたる世界なり。この世界の秘密を知り得ることをもって、悟りを得ると言う。是、禅の究極の意義なり。 簡単に説き明かせば、以上の二点が、禅の意義であるが、この点に関し、あなたに異言があれば、おうかがいいたす。 ―― 禅の意義というものを解説すれば、お話になられた今の一、二、の二つにおかれるのであるというお説でございますが、まあ、そうであろうと思いますけれども、このイデアの世界を感得する方法というものは、これはいわゆる坐禅によって得るのでしょうか。 無門 坐禅という言葉に執われる必要はないが、坐禅はその大道、あなた方のうちに、横たわって神と霊交し得る者があるかもしれんが、これは本道にあらず。神仏は人間に是、ひとつの法を与えたるなり。是、坐禅にして、坐禅は体を垂直に立てることにして、これにより、心身の調和によるひとつの霊的波長をあわせるものなり。霊的波長をあわせることは、この地上に神の放送を受け得るアンテナを立てることにして、このアンテナを立てずして、神の世界の霊波を受くることは是、あたわざるなり。これが原則である。 あなた方のうちの多くは、光の指導霊たちの霊波を受けることがなかなかむつかしいはずである。それはそのとおり、このアンテナをこの地上に立てることは、末法の世においては、非常にむつかしいことである。なぜならば、この地上界そのものが、さまざまな悪想念におかされ、けがされ、乱され、単にアンテナを立てるのみでは、神の世界の霊波を受信することはできないからである。 あなた方の多くは、坐禅により、あるいは、他の観法により、アンテナを立てる方法を修法するのであるが、単にアンテナを立てるのみでは、あの世の実相世界とは是、霊交すること、不可なるべし。すなわち、坐禅というものは、単にこの地上に、三次元世界に、受信のアンテナを立てるにして、これのみにしては、我々と交信することはあたわず。現在のように、この三次元世界が、さまざまな悪想念にて乱されておるときには、アンテナを立ててしかる後に、発信をせねばならぬ。こちらから呼んでいるということを発信せねばならぬ。そうでなければ、さまざまな妨害電波によりて、汝らの考えることは、我らが世界には届かぬものなり。 すなわち、坐禅ということは、アンテナにして、坐禅を修することによって、このなかにどのような心を持ちて、どのような調和せる波長を出し得るかということが問題なのである。坐禅という名前に是、こだわる必要はないが、何らかの坐禅的なものを通さずして、我らの世界の者と霊交することは是、またむつかしい。 ―― 今のお話で、第一番目の禅の意義ということについて、お話をいただいたわけですが、この禅による人生の転換と言いますか、その方向へ良きもの、清きもの、正しきもの、その方向へ自身の心を開いていくということによって、我々が願う究極の目的というものを、どのようにして把握できるかということ、またこれを、どのように実生活に運用していけるかということです。 2.禅は是(これ)、時時、刻刻の"際断(さいだん)"にあり 無門 禅は是、三次元世界の、三次元的生活の、是、際断、前後際断す。是、禅なり。汝らの生き方、三次元世界においては、連綿と続くその日常生活において、三次元を超えること是、むつかし。従って、この三次元生活をどこかにおいて、前後際断する必要あり。これが禅なり。連綿と続く、三次元生活のなかにおいて、人間は是、悟ることを得ず。是、前後際断し、前と後を、まったく別の人生とする必要あり。この前後際断、人生の前後際断において、肝要なること、是、一大発起(ほっき)なり。一大発心(ほっしん)なり。是、仏法において、菩堤心(ぼだいしん)と言うなり。 人生の前後を際断せずして、際断するための発心なくして、人生の一大転換はあり得ない。禅は是、転機。禅は是、転回。禅は是、発願。禅は是、転換。禅は是、死。そして、生。禅は是、終わり。そして、はじまり。終わりにしてはじまり。三次元的生活の終わりとして、是、また、三次元を超える生活の始まりなり。三次元的生活を禅に発心することによって、前後際断し、これを転回せよ。一躍跳入せよ。一躍眼を開け、鱗(うろこ)を落とせ。これが禅である。日々少しずつ自分を改善するという道もあるであろうが、しかし、この連綿と続く三次元世界を、ぶち切らずして、人間は悟ることはできない。是、禅なり。 では、如何にして際断するか。際断とは何であるか。際断とは是、三次元なる空間において、その三次元に流れる時間のなかにおいて、客観的時間のなかに、無限の時間を是、感取することなり。汝らが生きる時間は是、二十四時間、一日二十四時間、時計の長針と短針の組合わせによって決まる。そのような一日二十四時間を、だれもが生きている。しかし、人間の実人生においては、人間の真人生においては、各人一日二十四時間に、是、あらず。悟りたるとき、その人の時間は、一躍永遠のときのなかに跳入するのである。 前後際断とは、三次元生活における前後際断とは是、永遠なる今を感ずること。平凡な日々のなかに、非凡なる瞬間を見出すことである。人生に二種類の"時(とき)"あり。ひとつは是、朝起き、昼を食し、夜就寝す。かくの如き二十四時間の生活なり。しかしまた、人生に、新たな"時"あり。これは神仏の声を聴き、神仏の気持ちを看取し、神仏と自己とが一体となるときなり。 このときに、我は永遠の"時"を生くるなり。この"時"に過去なく、この"時"に未来なく、この"時"に現在なく、永遠の"時"を生きるなり。永遠の如来を生きるなり。是、永遠のときにして絶対の時間、絶対の時間にして純粋の時間なり。この純粋なる時間を感得し得ずして、人間は人生の前後際断することを得ず。おわかりか。 ―― まあ、そういうことでございますが、これが人間、日常、常に煩悩に支配されておりまして、たえずそのような澄み切った精神の持続ということがなかなか困難でありまして、そこに迷いがあり、悩みがありという形になります。それを正しい方向に常住坐臥(じょうじゅうざが)、その心を調和した状態に置くということは、これは、一日のうちの限られた時間の"観法"だけで、修されましょうか。 無門 「際断」は是、継続にあらず。一期(いちご)一期が、是また、際断を発するとき、また、新たなる際断が起きる。継続をもって旨とせず。日々に人生を際断せよ。時々刻々に人生を際断せよ。迷える自分と、迷わない自分とを、一挙に際断せよ。迷える自己を見つめたとき、迷える自己を際断せよ。このときに、新たなる自己が現われるであろう。際断に"時"なし。際断に持続なし。際断は時時、刻刻なり。 3.「無」は宇宙観、「機」は是(これ)、発願(ほつがん) ―― ご著による『無門関』を拝読いたしておりますが、この「無」というものは、今おっしゃられた"際断"ということでしょうか。 無門 無は是、際断にあらず。無は是、際断を通じて、「空」の世界、是を観ずることなり。無は是、世界観にして、単なる際断にあらず、際断せるとき、はじめて感得しうるものは是、無。無は是、宇宙観なり。無は是、空間把握なり。そして、無はまた、空間のなかに存在の把握であり、存在のなかに、時間の把握をも含む。無は単なる無にあらず。無は無のなかにすべてを含む。そしてまた、そのなかにすべてを含まない。すべてを含み、すべてを含まざるもの、これが無なり。 無は時間にして、存在にして、しかして、虚無なり。虚無にして存在、存在にして時(とき)、これが無なり。「無」は、別の言葉を使うとするならば、無は是、神の意、神の意は無にして、無にして有(ゆう)、有にして無、時にして時にあらず。存在にして存在にあらず。 ―― そういうことを感得できるということは、やはり坐禅なり、観法によって感得できるのでしょうか。 無門 それが平凡なる人間にとっては感得する大道である。しかしてまた、他の道はあろう。 ―― 先般、中国の老子様、荘子様のご意見を承ったのですが、この方がたは、「無為自然」という教えを説かれておるのでありますが、これは、禅宗と相通うような気がするのですが……。 禅というのも、ひとつの知識を積み重ねていって悟りを開くというのではなく、言うならば、立ち止まって今、自分が被っている砂なり、埃なりを即座に払って、本来の神の子、仏子という宝塔を掘り起こし、実相を顕現する方法である。というようなお説を聴いたのでありますが、禅との関わりを、どのように解釈したらよろしいですか。 無門 禅は是、方法論。しかして、老荘は是、方法論にあらず。 ―― さて、それでは、禅による悟りのなかには、ひとつの、「機」というようなものが付加されるような感じがしますが、そういうものを意識する必要はないでしょうか。 無門 あります。「機」は全人生において、もっとも重要なる「時」であります。機なくして悟りなし。機というものは、先程申した発願であり、また、求道心でもあろうと思いますが、その発願なり、求道心なりを持たずして、人生を終えていく人間が大半であります。この人生のなかで、どこか前後が相違う断面が是、機。あなたの人生にしても、そういう断面があったはず。 その断面のときこそ機であり、この機こそ、人生における勝利の瞬間である。機なくして人生を終えた人間に勝利なし。この人生における勝利とは、この三次元生活に流されながら、流され切れない、実相の世界にある自分を感得すること、この瞬間をもって、"機"と言い、この機をもって、勝利のときとす。是、人生の真理なり。 ―― あなた様のこのお説を拝聴していると、お説には、いささかの剰語(じょうご)といって、余る言葉もなく、簡潔で、正、否をくっきりと裁断(さいだん)され、真理を明快に示されたものと存じます。なお、先般、他力門のかつての聖賢の方がたからお教えを承ったのですが、その節、人間の生死の問題、人間死後の状態と、死期にあたっての往生の仕方など、いろいろお聴きしたのですが、聖道、自力門の方がたは、この人間の死の問題をどのようにお教えになっておられるのでしょうか、おうかがいいたします。 4.禅における生死、往生の悟り 無門 人生は日々に是、生死あり。生ありて死あり。これは他人のことにあらず。自分自身の内(うち)にあり。人生日々に生死あり。人生日々に臨終あり。一刻、一刻、吐く息、吸う息、この一瞬、一瞬に吐く息が止まりても、吸う息が止まりても、汝らが人生は、それにて終わりなり。 人生は日々に、人生は刻刻に是、臨終なり。是、誕生なり。人生日々に、刻々に生死あり。しかして、往生の極意は、この人生日々に生死ありということを知ることなり。すなわち、死が迫りてはじめて、悟り得て、極楽浄土に行くのではない。人生日々に、時々、別々に生死あり。一瞬の後にこの世を去るとしても、よき覚悟をして、日々を生きるということ。たとえば、あなたは今、私と話をしている。私と話し終えて命途絶(とだ)えるあなたであってもいいようなあなたで、生きねばならない。死は先のことにあらず。死はただ今のなかにあり。死は、阿弥陀如来を願って素晴らしいものとなり、あの世へと往生できるのではない。日々、刻々に白装束にて、単刀を喉元(のどもと)に突き立てたるような、このようなことが、人間の日々である。 これを分からずして、人生の本義は分からん。人間は日々に切腹を命ぜられているような存在なのである。あなたの吐く息が止まっても、吸う息が止まっても、それまでである。息が止まれば、十分と持ち堪えられる体ではない。すなわち、禅における往生の意義とは、現在ただ今に全人生を生きるということ。単に生きるのみならず、全人生を生き切るということ、これにつきる。すなわち、わかりやすく言うならば、今日命はてても悔なきあなたであるかどうか、こういうことだ。これを日々、自らに問いつつ生きなさい。是、往生の意義。是、禅における往生なり。禅は是、生死を超える道なり。 5.因縁解脱(いんねんげだつ)は可能か ―― 禅師が、『無門関』第二則(百丈野狐(ひゃくじょうやこ))の公案解説で説かれている"不昧因果(ふまいいんが)、不落因果(ふらくいんが)"の件(くだり)でありますが、これを現代人で、「公案禅(こうあんぜん)」を弁(わきま)えていない者は、どのように理解すればよろしいか。 無門 因縁、因果について、あなたの思うところを、もう少し語ってみなさい。因果、因縁とは、何をもって、あなたは因縁とされているのか。 ―― 因縁とは、要するに、我々の住んでいるこの三次元世界において、人びとの思想、信条、考え方がみな異なっている。従って、日常生活においても、みなそのとおり違った生活となっている。 この考え方の因ってくるところは、自分がこの世に生まれてよりこのかた、考え行なったとおりの結果が現われているのでありますが、さらに生前、あるいは、前世において、自分が思い、考え、行なってきたことの結果の積み重ね、これは正邪ともにですが、そういう、何世にもわたって積み重ねてきた自分の考え、念いが、この世に生きる今の自分に引き継がれてきて、その結果として、今の環境なり、今の生活があるということだと思います。 このように、この世の人生は、善因、善果、悪因、悪果の現われている相であって、この悪因悪果を晴らすためには、それだけの"悟り"が必要だということではないでしょうか。この点に向かって大悟したならば、すなわち、一躍跳入如来地、ということもありうるのでしょうか。 6.「不昧因果(ふまいいんが)」とは 無門 では、この点に関しては、かなり肝要なことであるから、分かりやすく説明することにする。よろしいですか――。 まず、因果の理法とは、どのようなことをすれば、どのような反応があるか。分かりやすく言うなら、作用、反作の法則、昔流に言う譬(たと)え話で言うならば、蒔(ま)かぬ種は生(は)えぬ。自ら蒔いた種は、刈り取らねばならぬ。こうした簡潔な言葉となるでしょう。 従って、人間がこの世に生きていくうちにおいて、その一生において成したこと。思ったこと。思ったことを行なったこと。心に描きたること。聴きたることに関して、思いたること。すべて是(これ)、自らの作用にして、この反作用を受くること、これを逃がるる手段なし。是、"不昧因果"と言う。 しかして、これを断ち切る道あり。是、悟りの道なり。たとえば、これは、分かりやすくするため、説明するのである。十人の人を殺した人が、ここにおるとする。この者が死後どうなるか。九九パーセント、この人間は地獄にて苦しむこととなる。九九・九パーセント、と言っておく。是、"不昧因果"なり。たとえその人の地位が高かろうと、地位が低かろうとも、十人の人を、善意な無垢な人を殺したならば、まず地獄に堕ちること、これより逃れる手段なし。 仏教者であるあなたが殺そうとも、帝王と称ばれた人が殺そうとも、また、一通行人が、ある日、その気になって人を殺そうとも、あるいは、これまた悪霊の憑依(ひょうい)によりて、気が狂って人を殺そうとも、それ悪霊の所為にあらず、その人はその人なりの責任を負う。是、不昧因果なり。 7.「不落因果(ふらくいんが)」の悟り 無門 しかして、しからば、人生の前半において、十人の人を殺せし人が、後にまた、一大教化者となり、百万人、千万人の人の命を救ったときに、はたしてこの人は、地獄に堕つるや否や。これが、この問答の肝要なる点なり。かつて十人の命を奪いたる自分、しかして後、翻然と悟りて、世のため、人びとのために、悟りの道を説き、世の多くの人びとを救いつつ、全人生をまっとうし得た人。この人は、はたして地獄に堕つるや、否や。「不落因果」是、すなわち正解なり。因果の理は是、昧(くら)ますことできず。しかし、断ち切ることができる。 すなわち、ある作用に対して反作用が起きるという法則自体は、これは、如来であろうと、菩薩であろうと、変えることはできない。しかしながら、その反作用を打ち消すだけの、さらに大いなる作用を起こしたならば、その反作用はなくなってしまう。つまり、悪しき作用あれば、悪しき反作用あり。これは人生の真なり。 しかし、悪しき反作用に対し、さらに良き作用をしたならば、是、悪しき反作用を打ち消すものなり。是、「不落因果」なり。すなわち、悟りはすべてを超ゆるものにして、仏が救いの一乗をここに与えたるなり。そこに一乗の救いの光あり。どのような悪人であろうとも、どのような悪行を生きた人であろうとも、この悟りの一乗によりて、一躍跳入如来地に行ったならば、是、因果の理に惑わされることあらず。 すなわち、悟りは、大いなる青龍刀にして、すべての絆を、断ち切るものなり。すなわち是、作用、反作用の法則は昧(くら)ますことあたわず。されど、さらに大いなる"発心"によりて、この作用、反作用を打ち消す如(ごと)き働きあり。乗り越えるが如き働きあり。是、「不落因果」なり。 地獄にありても、一躍菩提心を起こし、翻然と悟ったならば、その人は、もはや地獄にあらず。百年の地獄の生活も一瞬にして、是、天国、変わりうること確かである。すなわち是、人生の「機」、人生の機は是、生きたる人間のみにあらず。死後の世界にあり、地獄にあり。百年あり、二百年ありて、自らを病のうちに苦しむと思い、百年、二百年を苦しみ、自らは、自らの犯した悪によりて良心を苦しむ。このようなことにて、百年、二百年を苦しむ。しかして、病いの念を持ちて二百年苦しみたるものが、人間肉体なし、霊のみ是、実相。是、悟りたるとき、すでに病なし。すでに地獄なし。是、天国。自らのなしてきたる悪に執われて、地獄に永く住みし者も、翻然と悟って菩提心を起こし、そして、世のため、人のためにつくさんと、一大発心をなしたならば、是、まさに地獄にあらず。 すなわち、人生に量と質あり。質は量を凌駕(りょうが)するものなり。地獄にありても、地獄にありて、さまざまなる悪魔が攻め来たるとも、人間の本性は悪魔にあらず。神は悪魔をつくり給わぬ。悪魔は実在にあらず。悪魔なし、と強く悟ったならば、悪魔はその人に対して何もすることはできない。悪は悪として認めて後はじめて、その力を現わすのである。 いっさいを際断せよ。迷いを際断せよ。迷いを打破し、道破せよ。そこには、"神理"しかない。迷いを打破し、道破したときに、"神理"のみ実在、"光"のみ実在、そこに一乗の"光明"ありて、一乗の光明は世を覆(おお)い、すべてを覆う。これを見出す者は、是、人生の勇者なり。勇者にしてはじめて、悟りを得るなり。人びとよ、人生の勇者たれ。勇者を奮い起こして、真なる自己を発見し、真実なる人生を生きよ。過去に執わるることなかれ。因果の理法ありとも、敢然とこれを断ち切れ。すなわち、前後際断せよ。迷いたる自分を際断せよ。悪人でありし自分を際断せよ。そして、まったく違った別人格として、人生を生きていけ。そのときにすでに、因果断ち切られたるなり。 8.悟りの要諦(ようてい)は、自他一如の真我の理解にあり ―― この因果の法則を際断する力というものは、単なる言葉や、単なる思考や、空念仏でなせるものではない。その力というもののなかには、非常に充実した質的なものが横溢(おういつ)しているものであると思います。浄土、他力門の方は、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えることによって、いわゆる前後際断ができて、悟りの境地に入れるというのですが、これでよろしいですか。 無門 それは、「南無阿弥陀仏」の中味による。真実発願を起こし、南無阿弥陀仏のなかに自己投入し、自分が大宇宙のなかに混然一体と化したならば、南無阿弥陀仏の世界は是、光明の世界。自他が別になっているようでは、南無阿弥、に効用なし。迷える自分というものをそこに置いて、迷っていない他の者が自分を救ってくれると思っているうちは、南無阿弥陀仏に救いなし。 しかし、南無阿弥陀仏のなかに、"阿弥陀如来"と一体なる自己を発見するならば、そこに救いあり。そこに迷いなし。そこに悟りのみあり。 ―― 要は、"発心"の質が問題だということですね。 無門 理解である。――南無阿弥陀仏、ということを、迷える自分でない、悟れる「阿弥陀如来」よ救い給えと言うのであるならば、迷える自分を背負って迷いは解けぬ。しかし、「南無阿弥陀仏」を、迷える自分のなかに、眠っている光明せる我を信ずることであるならば、是、迷える我なし。すなわち是、理解、神理の理解にして、これがすべてなり。 ―― 深遠なる哲理、真理をお説き願って、まことにありがとうございました。なお加えて、今の世の求道者にご教導願えるお教えがございましたら、この機会にお願いできたらと存じます。禅宗の教えに関して、あるいはまた、禅宗によらず、他に現代人の生くる上において、肝要と思える訓えがございましたら、お願いいたします。 無門 "禅"は是、方法論にして、またこれに執われてはならぬ。従って、今、他力のなかにも真理あり。要するに、人生において、勇気を奮い起こしたときに、真の求道心を起こしたときに、人間はすでに是、仏道に入るなり。 仏道に入れば是、迷いなし。仏道はただ是、一筋に神仏の本に通じているものなり。従って、方法論にこだわる必要なし。日々の生活のなかにおいて、前後を際断するような、勇気ある発願をなして、力強く人生を生きていくこと、そして、その持続は必要ではない。その刻刻に、思いつきたる時時、刻々に、際断せよ。自らの人生を際断せよ。それがまた、人生の秘義であると思う。 "禅"は是、人生を勇気づける方法なり。禅の言葉は是、人生の勇気の言葉なり。これをもって、心に灯を掲げて、高く掲げて歩め。そこに一筋の"光明"の道があるはずである。 ―― それでは、"禅"に関しては、禅をひとつの方法として、悟りの世界に、光明の世界に入れ、と。さすれば、因果の理法をも超えれるものだという今のお言葉で、禅の本義を理解すればよいということでよろしいのですね。 無門 それでよろしい。 ―― ありがとうございました。 無門 とくにあなたは、現代の日本において、これからいろんな人の教えを説こうとしている。ただ、これを他の人の言葉と思うな。これ以外にあなたの自説があると思うな。ひとつひとつの言葉のなかに、彼であり、あなたであり、あなたであり、彼であるような真理があるならば、それは、彼の言葉にあらず。我れの言葉なり。我れの言葉として彼の言葉なり。 あなたの仕事について言うならば、あなたは、他の方がたの高級霊たちの言葉を紹介しているのであろうが、それを単なる紹介と思うな。その言葉のなかに、あなたの胸を打ち、あなたを共感させるものがあるならば、それ、是、あなたの自説、自説にして他説、他説にして自説、是、単なる紹介にあらず。あなたの言葉を述ぶるなり。この理を忘れてはならない。 自らのやっていることを、先程の他力信者のように、自分以外の者が何かを教えてくれると思うな。あなたが教えてもらっていることは、すべてあなた自身のなかにあるものである。この自他一体の、諸如来諸菩薩と自他一体の境地に入りなさい。さまざまの人が来て、さまざまな教えを説いているのであろう。その教えのなかで、共感するものがあったなら、それ自体は、あなた自身の考えであり、あなた自身の「法」であるということ、これを忘れてはならない。さまざまの方の教えのなかで、あなたのなかに共感するものがあったら、それを綴(つづ)りあわせたものが、あなたの法であり、あなたの教えである。自他は一体であり、自と他を分けるな。 9.無門禅師の前世はアリストテレス、今世は西田幾多郎として生まる ―― ありがとうございました。 それと、話は変わりますが、先生は、かつて中国にお生まれになられたのですが、近年、この日本に、ご再誕されたご経験はございますか。 無門 あります。 ―― お聴きするところによると、京都大学の哲学科で教鞭(きょうべん)を執られていた西田幾多郎先生が、かつての無門禅師だということですが。 無門 そのとおりです。 ―― 西田先生は、我が国において、「西田哲学」という観念論哲学の創始者となられ、「無」の統一論など、高い論理を展開されておられますが、これは無門先生のお考えとは相通ずるものがございますか。 無門 同じです。我は西田にして、西田にあらず。無門にして無門にあらず。無門にして西田、西田にして無門、西田幾多郎是(これ)、無門慧開(えかい)なり。無門慧開是、西田幾多郎なり。 ―― 西田幾多郎先生としてご再誕されて、無門和尚として何かお教えされた上に何かをつけ加えられたもの、新たな発見、発展というものがあられたのでしょうか。 無門 宗教は宗教として、すでに、世の人びとを救う力がない。今後の世界の人びとを救うのは是、思想。是、哲学。あなた方も、思想として、哲学として、一貫した筋のあるものでなければならない。単なるご利益宗教に走ってしまったのではいけない。これを忘れないことだと思う。 ―― 私は戦後、ある機会を得まして、西田先生のお弟子様であられた京都大学の哲学科教授、山内得立先生とお会いし、数日間起居をともにした際、哲学に関し、種々お教えを賜ったことがあります。当時、「関係の論理と実践の論理」など、観念論哲学を大いに高揚されておりましたが、この方も、西田先生のご指導を受けた方だと思いますが。 西田 かつて仏教を学びし者、あるとき、日本に生まれて哲学者となり、あるときは、ドイツ、フランスに生まれて、哲学者となる。哲学もまた是、神の教えの現われなり。近代においては、とくにそのような形で現われている。 ―― 日本の観念論学派の方がたは、ドイツのカント先生など、ドイツの観念論派の方がたとは相通ずるものがあるわけですね。 西田 カントは是、旧約の預言者。ヘーゲルは是、かつて禅宗にて道を学びし者なり。 ―― この新しい時代を迎えて、天上界において、だれかこの「神理」を哲学的に体系づけられる人を用意されておられるのでしょうか。 西田 もはや哲学のなかには、救いはないと私は思います。もはや哲学を超えていかねばならない。哲学はあまりにも、抽象的知識のほうに走りすぎ、現在のこの天上界から見ていると、地上に行なわれている哲学は是、あまりにも論理学、あるいは、数学的なものに走っておるようです。記号論理学のなかに救いなし。 ―― 過般、ソクラテス先生をお招きしていろいろお教えをうかがい、これを『ソクラテスの霊言』として書物に著しましたが、今、天上界では、かつての哲学者方が、神の栄光のひとつの現われとして、ソクラテス、プラトン、カントなどの諸聖賢が、"知"のグループを形成しておられるということですが、そのなかに、先生もご一緒されておられるのでしょうか。 西田 そうです。私は以前に、ギリシャにも生まれております。 ―― ギリシャと言われますと、アリストテレスとか……。 西田 アリストテレス、その人です。私はギリシャに生まれ、アリストテレスとなり、また、その後、中国に生まれ無門慧開となり。日本に生まれ、西田幾多郎となっています。 10.自らの人生を、鉛を変えて黄金となす錬金術師たれ ―― そうでありましたか。本日承った範囲では、無門慧開禅師ということでお教えを承りましたが、このお教えの中味を広げたなら、非常に膨大な哲学的論理となろうと思うのであります。集約してお説き下さったのですが、このお言葉のなかには、非常に密度の濃い法理が満たされていると存じました。これを、私どもが押し延べて広めるということについては、なかなか至難なことであろうと存じます。 西田 ただ、わかりやすい言葉で言っておくならば、あなた方も、「禅」のなかで一番大切なものは、やはり"機"だと思うでしょう。人生には、やはり、かつての人生と違った人生を歩むべき瞬間というものがあります。この"機"というものを大切にして、人びとを導いていただきたいのです。 あなた方の教えのなかに、"一転語"として、やはり何か翻然と悟らしめるものがなければいけない。これが人生の機であろうと思う。このときに、前後を際断して、永遠なる宇宙のなかの自分、永遠なる「実相世界」のなかの自分、これを悟ることが必要です。 ―― お訓えになられた人生の"機"の機はまた、気力の"気"にも通ずるものではないかと思われるのですが。 西田 機は気に通じます。もちろん、そのとおりです。しかし、気力だけではダメです。気力だけで生きている人は、いくらでもいるのです。気力のなかに、ある時点で、それをつきつめたときに、翻然と悟る、量が質に変わる転換点、それがいります。――ある時点で、核融合が起きるように、ある時点で核分裂が起きるように、その瞬間というものがあります。物質が変化する瞬間であります。それはあなた方の人生の質が、転換する瞬間であります。 自らの人生を、鉛を転じて黄金とせよ。黄金とするために、さまざまな坐法もあり、観法もあり、教えがあるのだということ、これを悟りなさい。つまり、悟りというものは、鉛の人生を、黄金の人生に変えるための錬金術ということです。 ―― まことに有益な、ありかたいお教えを承って、ありがとうございました。 11.前後を際断する宗教たれ、教えとなれ 西田 まあ、あなた方に、今ひとつ言っておくとするならば、私は、かつて西洋において、西洋哲学の、まあ、基礎をつくった人間のひとりでありますが、西洋哲学と、東洋哲学は、それぞれ性格を異にしているように見えながら、本質においては同じだということです。私が西洋哲学をやっていたときに、私がアリストテレスとして生まれたときに、論理学というような思考体系を組み立てていきましたが、やはり論理だけでは超えられないものがある。それを知らしめるために、無門慧開として出て、"禅"というものを深めていき、これを体系化していきました。そしてまた、日本の地において、今後、さまざまな思想世界を広げていく、私は、そのひとつの布石として、西田幾多郎として、また出たのです。 やがて日本を中心にして、新たな文化文明が、興(お)きていくでありましょう。そのときに、哲学のひとつの始祖、となるために、私は出て来たのです。日本はやがて、かつてのギリシャとなるでありましょう。文明の淵源の地となるでしょう。ギリシャ、エーゲ海のあの小さな小島を擁したギリシャの半島において、あれだけ質の高い文明が栄えたのです。それと同じく、この日本の地が、また未来の人類にとって、ひとつのギリシャの地となるでありましょう。我々は、そのために出て来たのであり、我々のなかには、私もあり、あなた方もあるということです。 ――西田先生のお教えを受けた京都の諸先生方は、また代が変わって、新たな時代に向かっての命題に取り組んでおられることと思いますが。 西田 京都の学派は問題ではないのです。また哲学も是、前後裁断、人類の歴史のなかで、幾人かの大哲学者が出て、歴史を前後際断しておるのです。ソクラテス以前と以後とでは、人類の歴史は違うのです。デカルト以前と以後では、人類の歴史は是、違うのです。 あなた方もまた、新たな宗教を起こすのであるならば、前後を際断するような宗教となっていただきたい。あなた方の仕事は大変に多いように思われるでありましょうが、ひとつに、それは、各人の想いの方向を転換、百八十度の転換させることです。これをさせるということです。それにつきておるのです。 悟る、悟らない。救う、救われないは、やはり各人の問題なのです。最後には、そこまでは、あなた方が面倒をみる必要はないのです。あなた方は、人生を転換させるためのひとつの"活"を与えるという、そういう役目のために来ているのです。ひとりひとりの人を救うために来たのではないのです。 ―― 私たちも、あなた方は総論をつくるのであって、各論はあなた方の教えの裾野(すその)から出て来るのだと訓えられておりますが。 西田 あなた方の弟子がそれをすると言っているのではないのです。あなた方の教えに触れたひとりひとりが悟るということです。禅は、どの宗派に属しても、悟りは個人に属するものです。宗派に属するものではありません。同じであります。 ですから、あなた方の教えを聴いても、悟る人、悟らぬ人、さまざまでありましょう。以上のようなことでありますが、それ以外に何がありますか。――"禅"としては、もうこれ以上のことは、私は言えません。禅を超えた場合には、もちろん、これ以上の話はあります。ただ、現在のあなた方の目的に、それは合致しておらぬでありましょう。 ―― はい、西田先生。それでは、本日はどうもありがとうごぎいました――。
https://w.atwiki.jp/trinity_kristo/pages/334.html
キリスト教との関連などから考えていく。 より広範なものとしては、他の神話との関係を参照。 宗教の分類 宗教の系統 宗教には大きく分けて三つの源流があり、①アブラハムの宗教、②アーリア人の宗教(インド宗教)、③東アジアの宗教 である。ここではこれらに、④神秘主義 を加える。 ①アラビアの多神教→メソポタミア神話→ウガリット神話→ユダヤ教→キリスト教、イスラム教(→シク教) ②インド・ヨーロッパの祖多神教→インド・イラン神話(→ゾロアスター教)、ギリシャ神話(→ローマ神話)、バルト神話、スラブ神話、ゲルマン神話(→北欧神話)、ケルト神話 ②サンスクリットの多神教→ジャイナ教、ヒンドゥー教(→シク教)、〔上座部〕仏教(→大乗仏教) 宗教の特性 同じ系統の宗教であっても、教義が相いれないことはある。ここでは、宗教の特性ごとに分類する。 1.アブラハムの宗教 シュメール神話、アッカド神話、ウガリット神話(カナン神話)に起源を持つ。 ユダヤ教 神…ヤハウェ(主) 信仰の対象…神 預言者…モーセ(前13世紀頃)、エリヤ(前9世紀)、イザヤ(前8世紀)、エレミヤ(前7世紀末~前6世紀前半)など 聖典…旧約聖書(前7世紀頃編纂) 開祖…特になし(強いて言えばモーセ) 成立…原始的な形態は前12世紀頃とされるが、現在の形になったのは前539年のユダヤ帰還後 地域…イスラエル 70年にエルサレム神殿が破壊されて以来、預言者はユダヤの民に下されなくなったのだと考えている。この世に預言者がなくなれば、神との契約は更新されることはありえないとし、ユダヤ教徒はモーセの「旧い契約」に対して、キリスト教で神と結んだ「新しい契約」と主張される新約聖書の内容を認めていない。 キリスト教 神…三位一体(父(ヤハウェ)、イエス・キリスト、聖霊) 信仰の対象…三位一体たる神 預言者…ユダヤ教の預言者、ザカリア、洗礼者ヨハネ 聖典…旧約聖書、新約聖書(1世紀中盤~2世紀中盤) 開祖…イエスの弟子たち(特にパウロ) 成立…紀元30~33年頃(イエスの活動期~十字架刑) 地域…イスラエル→ローマ帝国→全世界 神の子イエス・キリストの磔刑による死を以て、人間の原罪が赦されたと考える。 イスラム教 神…アッラー(ヤハウェ) 信仰の対象…神 預言者…ユダヤ教の預言者、キリスト教の預言者、イーサー(イエス)、ムハンマド 聖典…クルアーン、ハーディス、(旧約聖書のモーセ五書、新約聖書の福音書) 開祖…ムハンマド 成立…622年(メディナにウンマ(イスラーム共同体)ができたヒジュラの年) 地域…アラビア→北アフリカ、中東、東南アジア ユダヤ教から分化した宗教であるため、神はキリスト教と同じだが、イエスをキリストとして認めず、預言者の一人に含める。また、ムハンマドを最大にして最後の預言者と考える。聖典には聖書も含まれるが、改竄されて信用できないものであると解釈するため一般的には読まない。 クルアーン4 157-158の記述から、現代イスラム教では「イーサーは十字架の上で死なず、替え玉とすり替わり、昇天した」という立場をとる。しかし、クルアーンの記述のみを考えると、本来想定していたのはグノーシス主義やマニ教のように「肉体としてのイエスは十字架刑により死んだが、「真のキリスト」は死なずに昇天した」という捉え方をしていたと推察される。 バーブ教(新宗教) 神…ヤハウェ? 預言者…イスラム教で認められる預言者に加え、バーブ 聖典…バヤーン(Persian Bayán) 開祖…バーブ 成立…1844年 ムハンマド以降の初の預言者を標榜している。 バハーイー教(新宗教) 神…ヤハウェ? 預言者…バーブ教で認められる預言者に加え、ゾロアスター、釈迦、バハーウッラー。 聖典…クルアーン、バハーウッラーの著作(「キターブ・アクダス」など 開祖…バハーウッラー 成立…バーブが処刑された1850年以後 イスラム教から分化した宗教だが、多神教を網羅する一神教で、多神教の神も全て唯一神が、地域と時代により伝え方がその民族にあった伝え方をしたためにおきた現象であり、ゾロアスターや釈迦などを含めて、全て同じ事を言っている、そのため、他の宗教を批判する事は誤りである、としている。 2A.アーリア人の宗教(ゾロアスター教系) インド・ヨーロッパ神話に起源をもつもののうち、ペルシャで普及したゾロアスター教に関するものである。 ゾロアスター教 神…多神教(最高神以外は被造物) 最高神…アフラ・マズダー 信仰の対象…最高神 預言者…ザラスシュトラ(前7世紀頃とするのが定説だが、前13世紀頃とも言われ、はっきりしない) 聖典…アヴェスター(紀元3世紀) 開祖…ザラスシュトラ 成立…少なくとも紀元前6世紀以前 地域…イラン ゾロアスター教はアーリア人の祭司だったザラスシュトラによって開かれた。彼が30歳の時、天使ウォフ・マナフ(Vohu Manah)に導かれて正義の神アフラ・マズダ(Ahura Mazda)に出会い啓示を受けた。アーリア人は多くの神を信じていたが、ザラスシュトラは、アフラ・マズダこそが唯一の神であると説き、アフラ・マズダの言葉を人々に伝え始めた。ゾロアスター教の教えである一神教、天国と地獄、最後の審判などの概念は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教あるいは仏教に大きな影響を与えたといわれている。 ミトラ教 神…多神教 最高神…太陽神ミトラス 信仰の対象…最高神 開祖…特になし(イランのゾロアスター教教の神官?) 成立…前1世紀 流行:後1世紀~4世紀 地域…ローマ帝国 ミトラ教は牡牛を屠るミトラス神を信仰する密儀宗教である。信者は下級層で、一部の例外を除けば主に男性で構成された。信者組織は七つの階級があり、上から①父、②太陽の使者、③ペルシア人、④獅子、⑤兵士、⑥花嫁、⑦大鴉であった。それぞれは①土星、②太陽、③月、④木星、⑤火星、⑥金星、⑦水星の守護下にあった。七つの星界を経て魂が上昇して不死にあずかるという教義があったらしい。入信には試練をともなう入信式があった。 マニ教 神…光の王国の光明の父・偉大なる父(ズルワーン)、闇の王子 人間の創造主…「光明の父」が呼び寄せた「第三の使者」を模倣して、大悪魔と大女魔が創造した。 信仰の対象… 預言者…イエス(西方)、釈迦(東方)、ザラスシュトラ(中央世界)、マニ(最後の預言者) 開祖…マニ(3世紀) ゾロアスター教を背景に、キリスト教グノーシス派の流れを汲んでおり、啓典宗教の特徴をもつ。かつては北アフリカ・イベリア半島から中国にかけてユーラシア大陸で広く信仰された世界宗教であった。 ユダヤ教、キリスト教、仏教、ゾロアスター教の考えを引き継いでおり、それぞれの開祖を預言者と位置付けているが、イエスに関しては、肉体を持たない「真のキリスト」と、それとは対立する十字架にかけられた人の子イエス(ナザレのイエス)とを区別する。すなわち、十字架刑により人の子イエスは死んだが、「真のキリスト」は父の元へ帰ったと考えている。 2B.アーリア人の宗教(インド神話系) インド・ヨーロッパ神話に起源をもつもののうち、インドで普及したバラモン教に関するものである。 バラモン教 神…雷神インドラ、火神アグニ、水神ヴァルナなどを重要視する多神教 聖典…ヴェーダ(前15世紀頃) 開祖…なし 成立…前15世紀頃 インドに侵入してきたアーリア人によってつくられた宗教。 ヒンドゥー教 神…多神教 最高神…三神一体の神(創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァ) 信仰の対象…三神一体たる神 聖典…ヴェーダ(前15世紀頃) 開祖…なし 成立…前5世紀頃 ヒンドゥー教は西暦4世紀以降のインドで隆盛となった宗教である。しかし、その起源は古く、紀元前10世紀以前のインドに起こったバラモン教(ヴェーダの宗教)の流れを汲むものだといわれる。 ヴェーダの宗教とヒンドゥー教の間には数々の違いがあるが、終末論的な観点からいうと、ヒンドゥー教が輪廻転生の思想を基本にしていることだといえる。輪廻転生とは、この世に生きているものは人間も動物も死後に再び生まれ変わって誕生し、これが永遠に繰り返されるという考えである。このような考えは、ヴェーダの時代にはなく、ヴェーダの時代が終わってから紀元前500年頃までの間に誕生したものである。 インド生まれの宗教として、ヒンドゥー教の他に仏教やジャイナ教があるが、これらはみなこの時代以降に成立したので、いずれの場合も輪廻転生の思想を持っている。 なお、近世以降、ヒンドゥー教では「三神一体論(トリムルティ)」とよばれる教義が唱えられた。この教義では、本来は一体である最高神が、三つの役割「創造、維持、破壊」に応じて、三大神「ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ」として現れる。 シク教 神…イク・オンカール・サト・ナーム(「唯一の神は真理である」の意味、アッラーもヴィシュヌも同じ存在) 信仰の対象…神との合一(ムクティ) 聖典…グル・グラント・サーヒブ(教典にして、生ける永遠のグル) 開祖…グル・ナーナク イスラム帝国がインドを征服した歴史の中で、「ヒンドゥー教徒もイスラーム教徒もいない」人類すべてが分かち合える『唯一なる真理』のメッセージを人々に送るためにつくられた宗教。 ヒンドゥー教と同様に輪廻転生を肯定している。カーストを完全否定しているがこれにはイスラム教の影響もあると考えられている。神は一つであるとして、唯一神を標榜している。神には色々な呼び名があり、それぞれの宗教によって表現のされ方の違いはあるが諸宗教の本質は一つであるとし、教義の上では他宗教を排除することはない。アラーもヴィシュヌも同じ神の異名にすぎないという立場である。 シク教の最終目標は、輪廻転生による再生を繰り返した末に、神と合一するムクティである。ムクティに至れるかどうかは他人への奉仕とグルの恩寵にかかっており、ムクティと個人の性やカーストは無関係とされている。人の一生を精神の超越への行程と考えるヒンドゥー教に対し、シク教では人は自分の事ばかり考える人間は5つの煩悩(傲慢、欲望、貪欲、憤怒、執着)に負けてしまうため、真のシク教徒は一生を常にグルに向け、神を究極の師(サド・グル)として仰ぐ。 2C.アーリア人の宗教(仏教) インド・ヨーロッパ神話に起源をもつもののうち、バラモン教から発生した仏教に関するものである。 原始仏教・上座部仏教 神……不可知論的だがバラモン教と共有 最高神…創造神ブラフマー〔梵天〕(その他に、軍神インドラ〔帝釈天〕など重要) 信仰の対象…なし(強いて言うならブッダ(覚醒者)) 聖典…パーリ仏典 開祖…ブッダ〔仏陀〕=ガウタマ・シッダールタ〔釈迦〕 成立…前5世紀 輪廻転生が言われていた古代インドにおいて出現した思想。出家して厳しい修行を積んだ僧侶だけがさとりを開き、輪廻転生から解脱して、死後、天へ行くことができる。したがって、悟りを開くための修行をしたわずかな人が救われ、一般の人々は救われない。小乗仏教では、さとりを開いた35歳以上の釈迦を崇拝する。 大乗仏教(顕教) 宇宙仏〔神〕…毘盧遮那仏〔ヴァイローチャナ〕 人に姿を変えた宇宙仏…釈迦如来 信仰の対象…釈迦如来(日蓮宗など)、阿弥陀如来(浄土宗) 聖典…『華厳経』『法華経』『般若経』『涅槃経』など。(浄土宗は『大無量寿経』) 開祖…龍樹〔ナーガールジュナ〕 成立…2世紀 ブッダとは歴史上にあらわれた釈迦だけに限らず、過去にもあらわれたことがあるし未来にもあらわれるだろうとの考えはすでに大乗以前から出てきていたが、大乗仏教ではこれまでに無数の菩薩たちが成道し、娑婆世界とは別にある他方世界でそれぞれのブッダとして存在していると考えた。この多くのブッダの中に西方極楽浄土の阿弥陀仏・阿弥陀如来や、東方の浄土とされる浄瑠璃世界の薬師仏・薬師如来(阿閦如来)などがある。ただし、密教とは異なり、衆生を教化するために姿を示現した「釈迦如来が、秘密にすることなく明らかに説き顕した教え」である。 大乗仏教の仏とは、宇宙そのものであり、宇宙の真理とでもいうべき仏陀(宇宙仏)である。(一般の宗教での「神」に当たるのが宇宙仏とも言える)この宇宙仏が真理を説き、教えを説く。しかし、宇宙仏は姿、形が無く、そのままでは教えを説く事が出来ない。そこで宇宙仏が人間である釈迦に姿を変えてこの世に登場した、と考える。 しかし、宗派によって最高位の仏は異なり、毘盧遮那仏が人となって表れた釈迦如来を最高位に置く宗派と、西方極楽浄土の仏である阿弥陀如来を最高位に置く浄土宗系の宗派に分かれる。 3.東アジアの宗教 シンクレティズム(syncretism, 習合)は東アジアの宗教に共通の特徴である。シンクレティズムとは、相異なる信仰や一見相矛盾する信仰を結合・混合すること、あるいはさまざまな学派・流派の実践・慣習を混合することである。そのため、個々の信仰を認識するのが困難な場合が多い。 また、東アジアでは宗教を権力正当化のよりどころとしなかったため、宗教的統一が図られなかったという事情もある。 道教・中国伝統宗教 神…多神教 最高神…神学的には元始天尊だが、時代により変わる 信仰…道(タオ)と一体となること 開祖…老子? 道教は漢民族の土着的・伝統的な宗教である。中心概念の道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。道の字は辶(しんにょう)が終わりを、首が始まりを示し、道の字自体が太極にもある二元論的要素を表している。この道(タオ)と一体となる修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬、丹を錬り、仙人となることを究極の理想とする。それはひとつの道に成ろうとしている。 全真教と正一教が主要な宗派。全真教は古代(三国志の時代の太平領王道辺り)の初期道教を継承したものでこちらが玉皇大帝を最高神とする場合が多い。正一教は明代以降に「老子」の教えを取り込んだものでこちらが三清などが最高位に来る場合が多い。 儒教 神…『天』という曖昧な概念だけがあり、人格は存在しない。 信仰…「礼」を尽くすことで、君子の政治を実現させること 開祖…孔子 君子の政治を実現させ、「仁義」という理念と「礼」という作法を強調し、年齢や身分による上下関係を説くものである。儒教は一見、為政者の理念を説いているようでいて、それ以上に民衆の義務を強調していることから、施政者によって利用されてきた。 神道 神…多神教ですべての者に神が宿る、祖霊崇拝性により祖霊も神に含まれる 最高神…天照大神(あまてらすおおみかみ)だが、神学上は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ) 開祖…なし 神道(しんとう)は、日本の宗教。山や川などの自然や自然現象、また神話に残る祖霊たる神、怨念を残して死んだ者などを敬い、それらに八百万の神を見いだす多神教。自然と神とは一体的に認識され、神と人間とを取り結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。 4.神秘主義系統 一言でいうならば、神(絶対者)を直接認識し、直接つながり、合一することができると信じる宗教形態である。各地の大宗教からも生み出されている。 プラトン哲学 根本原理…諸々のイデア(ものごとの真の姿) 物質世界の創造主…デミウルゴス 提唱者…プラトン プラトンは、我々の属する物質世界、現象世界の上にイデア界(叡智界)をおいた。このイデアという概念は、プラトン哲学の中心概念ともいえる。イデアとは言ってみれば、完全にして普遍、永遠の真実性であり、物体としては捉えられない存在である。我々の感覚的世界の事物はこのイデアを原型とする模造であり、イデアを分有してのみ存在する。イデアは、我々の感覚的知覚の対象とはならず、理性的認識の対象である。 グノーシス主義(キリスト教グノーシス派) 神…至高神 物質世界の創造主…偽の神ヤルダバオート(=デミウルゴス、=YHWH) 信仰の対象…至高神、至高神の送られた霊的存在イエス 預言者…イエス(至高神により天の国バルベーローから送られてきた存在) 聖典…独自の聖書 開祖…特になし ユダヤ教的な唯一絶対の創造神を設定した場合、それだけでは、善なる唯一神が存在していながらその一方で人々を不幸に陥れあるいは破壊する悪が絶えないのはどうしてかという解決不能な問題が持ち上がる。グノーシス主義はこの問題に様々な解答を試みたが、その中には物質的な宇宙の創造は全能の神によるものではなく、サタン(悪)もしくは「神の不完全な代理人」が神の意図を誤解しておこなったものであるというものがあった。すなわち、善なるものは霊的なものに限られ、物質は悪に属するという考え方である グノーシス主義では、『旧約聖書』に登場するヤハウェと名乗っているデミウルゴスを、固有名で「ヤルダバオート」と呼んでいた。『旧約聖書』において愚劣な行為を行い、悪しき行いや傲慢を誇示しているのは、「偽の神」「下級神」たるヤルダバオートであるとした。しかしヤルダバオートは自らの出自を忘れ、自らが唯一の神であると信じている。 グノーシス神話では、神の国・天の国はバルベーローである。バルベーローとは至高神の似姿からつくられたアイオーン(至高の最初のイデア)の国である。イエスとは至高神により、バルベーローから送られてきた存在という位置づけである。 物質界が不完全であるのは、物質界が至高神のバルベーローから零れ落ちた存在であり、したがって物質界はバルベーローから最も離れた場所にあるからである。これを「流出説」と呼ぶ。 新プラトン主義(=神秘主義) 根本原理=神…一者(ト・ヘン/to hen) 信仰の対象…我々の魂を「一者」と合一させること 提唱者…プロティノス プラトン哲学と基本的には同じだが、従来のプラトン哲学のイデア界以上の究極の原理を求める。 すなわち、このイデア界にも様々な階層がある。そして、この究極の原理を求めるのならば、一切の多様性を取り除いた原理が求められなければならない。これは、多様性どころか存在や思惟すらも超えた所にある原理でなければならない。これこそが「一者(ト・ヘン)」であり、様々な物に分化する前の統一体でもある。 この「一者」は空間や時間を超越した存在であるから、どこにあるわけでも、いつあったわけでもない。動きもしないし、静止もしていない。形も大きさも重さもない。意識すら当てはまらない。意識は「見るもの」と「見られるもの」という対立から生じるのだが、「一者」には、そういった区別も無い。また「一者」は、神とも呼ばれるが人格を持っているわけでもない。要するに、あらゆる規定や法則に縛られない根本原理のことである。 新プラトン主義も「流出説」をとる。つまり、流出したということは、完全な存在である『一者』から、こぼれ落ちた存在だということになる。『一者』からの流出は、『ヌース(知性、精神、理性。イデアを認識するための理性的能力のこと)』から『魂』を経て、段階を踏んで『質料(物質的な存在)』に行き着く。 しかし、人間は本来は、天上的な存在であり、我々の「魂」の故郷はイデア界にある。よって、「魂」を解放してイデア界に帰り、そこからさらに「ヌース」へと高まり、ついには「一者」そのものと合一する。 狭義の新プラトン主義の定義としては、①超有的超知性的な最高始元(つまり『一者』のこと)を設定していること、②イデア界において『ヌース』と『魂』を区別していること、③流出説を承認していること、④我々の魂の最高始元との合一の可能性を承認していること、この4つの条件を満たしている哲学思想のことを言うという。 ヘルメス思想 神…「一者」(=YHWH) 聖典…ヘルメス文書 信仰の対象…「一者」からの万物の流出や、神を認識することを救いとする。 開祖…ヘルメス・トリスメギストス ヘルメス文書に由来する思想。ヘルメス文書には紀元前3世紀に成立した占星術などの部分も含まれるが、紀元後3世紀頃までにネオプラトニズム(新プラトン主義)やグノーシス主義などの影響を受けて、エジプトで成立したと考えられている。内容は複雑であり、占星術・太陽崇拝・ピタゴラスなどの要素を取り入れている。他にも、「一者」からの万物の流出(ネオプラトニズム的)や、神を認識することが救いである(グノーシス主義的)などの思想もみられる。 ヘルメス主義とグノーシス主義は互いに共通のイメージ(神話、プラトン哲学、聖書など)を用いるが、前者が親宇宙的(Pro-cosmic)であるのに対して、後者が反宇宙的(Anti-cosmic)である点が異なる。創造主の否定につながるグノーシス主義が正統派のキリスト教と相容れないのに対し、ヘルメス主義は必ずしもキリスト教と矛盾するものではない。 大乗仏教(密教) 宇宙仏〔神〕…大日如来〔ヴァイローチャナ〕(日本密教)、本初仏(チベット仏教) 人に姿を変えた仏…釈迦如来 信仰の対象…大日如来(日本密教)、本初仏(チベット仏教) 聖典…『大日経』『金剛頂経』『理趣経』など。 開祖…龍猛(伝統的に龍樹〔ナーガールジュナ〕であると言われるが時代が異なる) 成立…伝承によれば2世紀? 顕教では釈迦を通じて教えを得ようとするが、密教では直接、大日如来に教えを聞こうとする。宇宙仏(神)と直接つながろうとする点で、神秘主義の一種である。顕教とは異なり、真理そのものの姿で容易に現れない「大日如来が説いた教えで、その奥深い教えである故に容易に明らかにできない秘密の教え」である。全ての諸仏は宇宙仏が現れたものだと考えるため、どのような仏像を祀っていても、信仰の対象は宇宙仏である。 チベット仏教では、大日如来をも超える根源的な存在となる法身の「本初仏」を崇拝する。 カバラ 神…エイン・ソフ(YHWH) 聖典…聖書に加え、独自の聖典 開祖…3-6世紀頃自然発生 カバラはユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想である。独特の宇宙観を持っていることから、しばしば仏教における密教との類似性を指摘されることがある。しかし、これはもっぱら積極的な教義開示を行わないという類似性であって、教義や起源等の類似性のことではない。 カバラでは世界の創造を神エイン・ソフからの聖性の10段階にわたる流出の過程と考え、その聖性の最終的な形がこの物質世界であると解釈をする。この過程は10個の「球」と22本の「小径」から構成される生命の樹(セフィロト)と呼ばれる象徴図で示され、その部分部分に神の属性が反映されている。したがってカバラは一神教でありながら多神教や汎神論に近い世界観を持つ。 『エイン・ソフ』は、自らの姿を見ようと欲してこの世を創られたとあるが、『エイン・ソフ』から私達の住む現象世界は、直に発生させることはできなかった。そこで『エイン・ソフ』は、自らと現象世界を媒介とさせるために「セフィロト」を放射したといわれている。この世に存在する自然万物はすべて「セフィロト」の力によって発生したものである。『エイン・ソフ』は、全宇宙の統治者であり、自然万物の中に秘められて存在しているといわれている。 スーフィズム 神…アッラー 聖典…クルアーン 開祖…9-10世紀頃自然発生 スーフィズム教団間を統括するような教理体系は現れなかったが、おおむね一致する教理として次のようなものがある。つまり、創造者である神と被創造物である人間の内的な繋がりを仮定し、強い愛の力によって両者の隔たりを消滅させ、精神的合一を目指すというものである。 スーフィーの修行は階梯にたとえられ、神の与えてくれる心的状態(アフワール)を経験するとひとつ上の段階に移行できる。すべての階梯を登り切ると忘我の境地に至り、霊知(マアリファ)と真理(ハキーカ)と呼ばれる高い意識を永続的に得られると考えられた。 スーフィズムでは禁欲的で厳しい修行を行う。 修行法は様々だが、もっとも重要な行はズィクルと呼ばれる祈祷句を読み上げる儀礼である。神に思念を集中し一心不乱に連祷することでファナー(消滅・消融)と呼ばれるトランス状態に入り神秘体験をする。 ファナーに入るために音楽や踊りも盛んに用いられた。たとえば、白い布状の服を身につけて一心不乱に回る、回旋舞踊(セマー)と呼ばれるものを行い、神との一体化を求めた。スーフィーは導師の指導の下、決められた修行(マカーマート)を段階的にこなし、準備を進める。最終段階では、雑念を捨て去り一心に神の事をのみ考え、神と合一したという悟りが訪れるのを待つ。この境地に至った者は、時として聖者に認められ、崇拝の対象となった。 オカルティズム 「隠されたもの」 occultaを認める思想およびそれに基づくいろいろな行動をさす。通常の認識では解明できない自然現象、人間的事象などがその対象となる。占星術、呪術などをさすが、歴史的には近代科学を準備したともみられる面がある。 近代においてはバラ十字団やシェリングの学徒ケルナー、ツェルナーなどが、学問的復権をはかり、19世紀以来の神智学もこの系統に数えられる。特定の思想を指す言葉ではないため、宗派によって神や世界観は異なる。 5.無宗教・不可知論 不可知論 神…神の有無について知ることはできない 不可知論(agnosticism)は、ものごとの本質は人には認識することが不可能である、とする立場のこと。神の存在を知るとか、証明することは不可能であると考えており、原始仏教に近い立場ともいえる。 無神論 無神論(atheism)は、世界観の説明に神の存在、意思の介在などが存在しない、または不要と主張する考え方である。 「無宗教」と混同されがちだが、無宗教は特定の宗教を支持しない状況を指しており、積極的に神を否定する無神論と厳密には区別して考えられるべきである。唯物論や機械論を無神論とみなす者もいるが、これらの理論は霊魂や物質世界への超越的な力の介入を否定しているのであって、必ずしも神の存在を否定しない。 神の比較 イスラム ユダヤ・キリスト ゾロアスター バラモン・ヒンドゥー 仏教 アッラー YHWH - - - - - - ブラフマー ブラフマー〔梵天〕 - - アフラ・マズダー ヴィローチャナ ヴァイローチャナ〔毘盧遮那仏〕 サタン サタン 暗黒神アーリマン - - 大天使ミーカール 大天使ミカエル ミスラ ミトラ マイトレーヤ〔弥勒菩薩〕 リンク キリスト教と他宗教との関係(Wikipedia) List of religious populations(Wikipedia) 信者数が多い世界の宗教ランキングとその宗教の概要 世界の諸宗教 世界の宗教人口 宗教とは(Religion) 世界の宗教の聖典を日本語で読む ユダヤ教関連 ユダヤ人が長い間迫害されてきた理由が良く分かるまとめ ヒンドゥー教・バラモン教関連 バラモン教の神々 仏教関連 PCCM 3rd Ed(東洋の学問研究サイト) 大乗仏教にみられるキリスト あるキリスト教者の仏教誤解 正しい教えの白蓮 大乗仏教と上座部仏教 歴史的宗教 http //zatugaku.jp/reli-3.htm ゾロアスター教関連 世界史講義録よりゾロアスアー教 道教関連 道教の神々 新プラトン主義 http //www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/shinpi/sinpuraton.htm
https://w.atwiki.jp/gods/pages/4007.html
サンジュウニチヒブツ(三十日秘仏) 罪障消滅と祖先の冥福を祈るために毎日一人ずつ供養された仏。 中国ではじめられたとされる。 内訳: ジョウコウブツ (定光仏) トウミョウブツ (燈明仏) タホウブツ (多宝仏) アシュクブツ (阿閦仏) ミロクブツ (弥勒仏) ニマントウミョウブツ (ニ万燈明仏) サンマントウミョウブツ (三万燈明仏) ヤクシニョライ (薬師如来) ダイツウチショウブツ (大通智勝仏) ニチガツトウミョウブツ (日月燈明仏) カンキブツ (歓喜仏) ナンショウブツ (難勝仏) コクウゾウボサツ (虚空蔵菩薩) フゲンボサツ (普賢菩薩) アミダブツ (阿弥陀仏) ダラニボサツ (陀羅尼菩薩) リュウジュボサツ (竜樹菩薩) カンゼオンボサツ (観世音菩薩) ニッコウボサツ (日光菩薩) ガッコウボサツ (月光菩薩) ムジンイボサツ (無尽意菩薩) セムイボサツ (施無畏菩薩) ダイセイシボサツ (大勢至菩薩) ジゾウボサツ (地蔵菩薩) モンジュボサツ (文殊菩薩) ヤクジョウボサツ (薬上菩薩) ルシャナブツ (盧遮那仏) ダイニチニョライ (大日如来) ヤクオウボサツ (薬王菩薩) シャカニョライ (釈迦如来) 別名: サンジュウニチブツメイ (三十日仏名) サンジュウブツ (三十仏)
https://w.atwiki.jp/spiral-kou/pages/12.html
2011-10-16 平成23年度 1月 大晦日 午後7時半~ 大祓 1日 未明~ 元旦祭 9・10・11日 今宮えびす 18日 午前10時〜 阿弥陀三尊供養・神式護摩 18日 午後2時〜 平国祭 23日 午前10時〜 桃の禊 24日 午前9時半〜 伊勢神宮(内宮・外宮)正式参拝・月讀宮・猿田彦神社・倭姫宮参拝(三重県) 土用から二週間内の一週間 冬の土用の七社参り・潔斎・禊(要口伝) 2月 1日 午前10時〜 月例祭 15日 午前10時〜 阿弥陀三尊供養・神式護摩 21日 午前11時半〜 笠山荒神・三輪明神参拝(奈良県) 27日 午前10時〜 桃の禊 28日 午前10時半〜 平国祭 3月 1日 午前9時〜 月例祭 15日 午前9時〜 阿弥陀三尊供養・神式護摩 東日本大震災犠牲者追悼供養 16日 午前7時〜 旧初午 葛ノ葉稲荷参拝(大阪府) 19日 午前10時〜 平国祭 21日 竹生島参拝・多賀大社(滋賀県) 27日 午前10時〜 桃の禊 4月 1日 午前9時 月例祭(国家平安祭) 14日 午前9時〜 阿弥陀三尊供養・神式護摩 24日 午前10時〜 桃の禊 25日 午前11時〜 高野山金剛峯寺奥の院参拝・尊師祭(和歌山県) 5月 1日 午前9時〜 月例祭 17日 午前9時〜 阿弥陀三尊供養・神式護摩 22日 午前10時〜 桃の禊 23日 大峰山登拝(奈良県) 6月 1日 午前9時〜 月例祭 15日 午前9時〜 阿弥陀三尊供養・神式護摩 20日・21日 隠岐島 由良比女神社・水若酢神社参拝 26日 午前10時〜 桃の禊 30日 夏越祓・御劔新魂之儀 土用から二週間内の一週間 夏の土用の七社参り・潔斎・禊 7月 1日 午前9時〜 月例祭 7日 宇賀神大祭 11日・12日 剣山登拝・大麻比古神社参拝(徳島県) 13日 午前9時〜 阿弥陀三尊供養・神式護摩 24日 午前10時〜 桃の禊 8月 1日 午前9時〜 月例祭 10日 午前9時〜 阿弥陀三尊供養・神式護摩・供養護摩 13日〜22日 奥駈回峰行(福井県・滋賀県・奈良県・和歌山県) 28日 午前10時〜 桃の禊 9月 1日 午前9時〜 月例祭 15日 午前9時〜 阿弥陀三尊供養・神式護摩 20日 石鎚山登拝・石鎚神社参拝(愛媛県) 25日 午前10時〜 桃の禊 10月 1日 午前9時〜 月例祭 14日 午前9時〜 阿弥陀三尊供養・神式護摩 17日・18日 大山登拝・大神山神社(鳥取県)・神魂神社・熊野大社・出雲大社・ 美保神社・日御崎神社・八重垣神社・須佐神社参拝(島根県) 23日 午前10時〜 桃の禊 11月 1日 午前9時〜 月例祭 15日 時間未定 阿弥陀三尊供養・神式護摩 25日 時間未定 金眼白龍大元神大祭・住吉大社 奥海龍社参拝(大阪府) 26日 午前10時〜 桃の禊 ※前日に繰り上げ 28日・29日 弊立神宮(熊本県)・三カ所神社・三カ所神社奥宮・二上山登拝・二上神社・槵觸(くしふる)神社 荒立神社・高千穂神社・馬生木八大龍王水神社(雄龍)・永の内八大龍王水神社(雌龍) 天岩戸神社(東宮・西宮)・瀬織津姫の塚・天の安河原・天の真名井参拝(宮崎県) 12月 1日 午前9時〜 月例祭 15日 時間未定 阿弥陀三尊供養・神式護摩 日時未定 金刀比羅宮参拝(香川県) 25日 午前10時〜 桃の禊 日時未定 みそはらい 31日 午後7時半~ 大祓
https://w.atwiki.jp/zoom100/pages/73.html
「彫刻一覧~廻向堂 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂」 09.廻向堂 念佛宗(念仏宗)無量寿寺 佛教之王堂 彫刻一覧表 ① 番号テーマ部位室名W(m)H(m)面積(㎡)数量 1鳳凰・桐欄間彫刻内陣1.1930.5350.6381 2⑤閻魔王〃内陣3.9840.5352.1311 3鳳凰・桐〃内陣1.1930.5350.6381 4←龍・雲・波〃内陣2.0300.5351.0861 4'松・鶴(2)〃側廊2.0300.5351.0861 5←龍・雲・波〃内陣2.3110.5351.2361 5'波・亀(3)〃側廊2.3110.5351.2361 6←龍・雲・波〃内陣2.0300.5351.0861 6'松・鶴(2)〃側廊2.0300.5351.0861 7→龍・雲・波〃内陣2.0300.5351.0861 7'松・鶴(2)〃板の間2.0300.5351.0861 8龍(正面)・雲・波〃内陣2.3100.5351.2361 8'亀(3)・松・波〃板の間2.3100.5351.2361 9雲・波・龍←〃内陣2.0300.5351.0861 9'松・鶴(2)〃板の間2.0300.5351.0861 10雲・波・龍→〃内陣2.0300.5351.0861 10'松・鶴(2)〃側廊2.0300.5351.0861 11雲・波・龍→〃内陣2.3110.5351.2361 11'波・亀(3)〃側廊2.3110.5351.2361 12雲・波・龍→〃内陣2.0300.5351.0861 12'松・鶴(2)〃側廊2.0300.5351.0861 13牡丹・蝶々(3)〃内陣1.0450.8370.8751 14(欠番) 15牡丹・蝶々(3)欄間彫刻内陣1.0450.8370.8751 16①秦広王〃内陣1.8840.8371.5771 16'蟷螂(2)・藤・燕〃側廊1.8840.8371.5771 17②初江王〃内陣2.1610.8371.8091 17'蝸牛(5)・紫陽花・蝶々〃側廊2.1610.8371.8091 18③宗帝王〃内陣1.8840.8371.5771 18'柳・蝉・白鷺〃側廊1.8840.8371.5771 19④伍官王〃内陣1.8820.8371.5751 19'蝶々・菊(大小)・猫〃板の間1.8820.8371.5751 20⑥変成王〃内陣2.1610.8371.8091 20'昆虫・紅葉・虎〃板の間2.1610.8371.8091 21⑦太山王〃内陣1.8820.8371.5751 21'昆虫・葡萄・犬〃板の間1.8820.8371.5751 22⑧平等王〃内陣1.8840.8371.5771 22'載勝・桐〃側廊1.8840.8371.5771 23⑨都市王〃内陣2.1610.8371.8091 23'八手・笹・八哥〃側廊2.1610.8371.8091 24⑩五道転輪王〃内陣1.8820.8371.5751 24'笹・(雉)〃側廊1.8820.8371.5751 25~30(欠番) 31黄連雀・通草欄間彫刻外部1.7510.5350.9371 31'飛天(2)〃板の間1.7510.5350.9371 32薬師如来〃外部2.0300.5351.0861 32'←鳳凰(吽)・桐〃板の間2.0300.5351.0861 33弥勒菩薩〃外部2.3100.5351.2361 33'飛天(2)〃板の間2.3100.5351.2361 34普賢菩薩〃外部2.0300.5351.0861 34'鳳凰(阿)→・桐〃板の間2.0300.5351.0861 35石榴・九官鳥〃外部1.7510.5350.9371 35'飛天(2)〃板の間1.7510.5350.9371 36松・(鷹)〃外部1.7510.5350.9371 37阿弥陀如来〃外部2.0300.5351.0861 37'飛天(2)→〃側廊2.0300.5351.0861 38勢至菩薩〃外部2.3090.5351.2351 38'←鳳凰(吽)・桧〃側廊2.3090.5351.2351 39観音菩薩〃外部2.0300.5351.0861 39'飛天(2)→〃側廊2.0300.5351.0861 40木葉木菟・竹〃外部1.7510.5350.9371 40'鳳凰(阿)→・松〃板の間1.7510.5350.9371 41牡丹・庭鳥〃外部1.7510.5350.9371 42松・翡翠〃外部1.1930.5350.6381 43地蔵菩薩〃外部3.9840.5352.1311 44梅・(藍鵲)〃外部1.1930.5350.6381 45櫻・長尾鴨〃外部1.7510.5350.9371 46桃・(寿帯)〃外部1.7510.5350.9371 46'←鳳凰(吽)・芙蓉〃側廊1.7510.5350.9371 47文殊菩薩〃外部2.0300.5351.0861 47'←飛天(2)〃側廊2.0300.5351.0861 48釈迦如来〃外部2.3090.5351.2351 48'鳳凰(阿)→・蓮華〃側廊2.3090.5351.2351 49不動明王〃外部2.0300.5351.0861 49'←飛天(2)〃側廊2.0300.5351.0861 50柳・白鷺〃外部1.7510.5350.9371 09.廻向堂彫刻一覧表 ② 番号テーマ部位室名W(m)H(m)面積(㎡)数量 51飛天(5)・寿帯(2)・雲 〃外部1.8930.4550.8611 52飛天(7)・寿帯(3)・雲〃外部2.1760.4550.9901 53飛天(3)・寿帯(3)・雲〃外部1.8960.4550.8631 54雲・鳳凰(阿)→〃外部1.0590.4550.4821 55鳳凰(吽)・雲〃外部3.8540.4551.7541 56←鳳凰(吽)・雲〃外部1.0590.4550.4821 57鳳凰(阿)・雲欄間彫刻外部1.6220.4550.7381 58鳳凰(吽)・雲〃外部1.6220.4550.7381 59飛天(5)〃外部1.6220.4550.7381 60飛天(3)〃外部1.6220.4550.7381 61飛天(5)〃外部1.6220.4550.7381 62飛天(3)〃外部1.6220.4550.7381 63飛天(5)〃外部1.6220.4550.7381 64飛天(3)〃外部1.6220.4550.7381 EA飛天(5)人・鳳凰天井彫刻内部2.4772.4776.1361 E-1蓮華・寿帯持送り外部W=0.139H=0.273D=0.6302 E-2獏木鼻外部W=0.225H=0.334D=0.4688 このサイトは、個人が念佛宗(念仏宗)無量寿寺の資料などを元に作成しており公式なものではありません。
https://w.atwiki.jp/kyoto-database/pages/89.html
清水寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 清水寺(きよみずでら)は、京都市東山区にある寺院。宗派はもと法相宗に属したが現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。山号は音羽山。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮上人。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、古くからの観音霊場として知られる。西国三十三箇所観音霊場の第16番札所でもあり、古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 宝亀9年(778)、大和国子島寺(奈良県高市郡高取町に現存)の僧・延鎮が、夢のお告げで霊泉を訪ねて辿りついたのが、現在清水寺が建つ音羽山であった。この山には数百年も修行を続けているという行叡居士(ぎょうえいこじ)という修行者(観音の化身ともいう)がいた。行叡は「自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていったため、延鎮は行叡居士が残していった霊木に観音像を刻み、草庵に安置した。これが清水寺のはじまりという。その2年後、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂は、修行中の延鎮に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となった田村麻呂は、無事に蝦夷を平定し都に帰ることができた。延暦17年(798)、延鎮と田村麻呂は協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩?と毘沙門天の像を造り、ともに祀ったという。延暦24年(805)に坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810)、嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となったことが史実とされ、この頃に本格的な寺観が整ったようである。清水寺は『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』などの古典文学に言及されており、『枕草子』では「さはがしきもの」の例として清水寺の縁日の日を挙げており、平安期に既に多くの参詣者を集めていたことが伺われる。また清水寺は京都では珍しい法相宗(南都六宗のひとつ)寺院で、長らく興福寺の支配下にあった。本堂をはじめとする伽藍はたびたび焼失し、現在の本堂は寛永10年(1633)、徳川家光の寄進による再建である。他の諸堂の多くはこの年に再建されている。 伽藍 東大路通から清水寺までの約1kmの坂道は清水坂と称され、道の両側には観光客向けのみやげ物店などが軒を連ねている。境内は標高242mの清水山(音羽山)中腹に石垣を築いて整地され、多くの建物が軒を接するように建ち並んでいる。 本堂 徳川家光の寄進により寛永10年(1633)に再建。「清水の舞台」で知られる。寄棟造、檜皮葺。正面左右に入母屋造の翼廊が突き出し、多くの長大な柱(139本という)が「舞台」と呼ばれる山の斜面にせり出した部分を支える舞台造。内陣には、秘仏本尊の千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩?をそれぞれ安置する3基の厨子が置かれ、本尊厨子の周囲には千手観音の眷属である二十八部衆と風神雷神像が安置される。本尊の千手観音立像は、42本の手のうちの2本を頭上で組み合わせる特殊な形。この様式を持つ千手観音は清水型と呼ばれる。33年に1度開扉される秘仏であり、平成12年(2000)3月3日から12月3日まで開扉された。 奥の院 本堂より小規模ながら、崖にせり出した舞台造の建物である。本堂と同様に千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩?、二十八部衆、風神雷神の諸仏を安置する。本尊の秘仏千手観音坐像は、鎌倉時代の作で像高69cm。正面・右・左の3つの顔をもち、頭上に25の小面を乗せた特異な形の像で、平成12年(2000)に重要文化財に指定されている。平成15年(2003)には3月7日から12月7日まで243年ぶりに開帳された。 随求堂 塔頭慈心院の本堂で、江戸中期に再興された。衆生の願い・求めにすぐに随って、すべて叶えてくれるという大功徳をもつ本尊随求菩薩(秘仏)を祀る。堂下には随求菩薩の胎内に見たてた真っ暗な空間を大数珠をたよりにお詣りする「胎内めぐり」がある(有料)。 仁王門 丹塗りの美しさから赤門とも呼ばれる。入母屋造、檜皮葺で仁王像を安置する。 三重塔 西門の横に建ち、三重塔としては日本最大級の高さ約31m。寛永9年(1632)に再建された。各重の横木に桃山様式の文様を残すと共に平安後期に完成された和様式が保たれた建築物。初層内陣には大日如来像をまつり、四周の壁や天井、柱などには密教?仏画や飛天、龍などが極彩色で描かれている。内部は通常非公開。 子安塔 本堂の南、錦雲渓を隔てた丘上に建つ。江戸初期に再建。檜皮葺で高さ約15mと、やや小ぶりの塔。子安観音をまつり、安産や子育てに信仰を集める。もとは仁王門前にあったが、明治末に現在の場所に移築された。旧参道の「産寧坂(三年坂)」の名称は、この「産寧(安産)」の信仰にちなむものである。 音羽の滝 こんこんと流れ出る清水は古来から清めの水として尊ばれ、今日でも参詣者が列をなして柄杓に水を汲み、六根清浄や所願成就を祈る。滝の祠には不動明王と清水寺開祖の延鎮上人がまつられている。 主な塔頭・鎮守社 成就院 境内北方にある、清水寺の本坊。室町時代中期、文明年間(1469~1487)に願阿上人により創建された。現在の建物は寛永16年(1639)に徳川家光の妹、和子(東福門院)の寄進により再興されたものという。「月の庭」と呼ばれる池泉回遊式庭園は江戸時代初期の作庭で国の名勝に指定されている。秋季などに行われる特別公開の時期を除き、通常非公開である。 地主神社 本堂の北にある、清水寺の鎮守社で縁結びの神として信仰を集めている。本殿、拝殿、総門は寛永10年(1633)の再建。本殿は入母屋造と権現造の様式を合わせた檜皮葺の建物で、桃山風の華麗な極彩色で彩られている。拝殿は入母屋造、檜皮葺の建物で、鏡天井には狩野元信の筆による龍図が描かれている。 文化財 国宝 本堂 重要文化財(建造物) 清水寺伽藍(仁王門 馬駐 西門 三重塔 鐘楼 経堂 田村堂(開山堂) 朝倉堂 鎮守堂(春日社) 本坊北総門 轟門 釈迦堂 阿弥陀堂 奥の院 子安塔) 地主神社(本殿 拝殿 総門) 重要文化財(美術工芸品) 木造千手観音坐像(奥の院本尊) 木造十一面観音立像 木造伝観音・勢至菩薩立像 木造大日如来坐像 渡海船額(末吉船図・角倉船図) 板絵著色朝比奈草摺曳図(伝・長谷川久蔵筆) 鉄鰐口 梵鐘 木造毘沙門天立像(慈心院所蔵) 重要文化財の仏像のうち、千手観音坐像は秘仏、その他の像は宝蔵殿に収蔵され非公開である。朝比奈草摺曳図(絵馬)は、京都市内の社寺に残る大絵馬のうち最古のものとして著名で、寛永6年(1629)の旧本堂炎上の際、これのみ焼け残ったもの。天正20年(1592)の奉納銘があり、筆者は長谷川等伯の子、久蔵とされている。 名勝 成就院庭園 拝観情報 住所 京都市東山区清水1 電話番号 075-551-1234 拝観時間 6:00~18:00(季節により変動あり) 拝観料 本堂拝観300円、胎内めぐり100円 アクセス 市バス「清水道」下車徒歩10分 駐車場 徒歩圏内(約10分)に市営駐車場あり(800円) 主な行事 1月1日より7日間 修正会 2月1日より3日間 修二会 節分当日(立春前日) 節分会 2月15日 涅槃会 3月5日 玄奘三蔵会 3月彼岸入り 春の彼岸会 4月8日 降誕会 4月初旬 春季・夜の特別拝観 5月23日 開山忌 8月1日より5日間 盂蘭盆法話 8月9日~16日 千日詣り(開白~結願) 8月14日~16日 宵まいり(夜の特別拝観) 8月15日 盂蘭盆法会 8月23日 地蔵盆会 11月13日 慈恩会 11月16日 落葉忌 11月中旬~下旬 秋季・夜の特別拝観 12月1日より3日間 仏名会 12月8日 成道会 12月12日 「今年の漢字」発表(事情によりずれる場合もあり) その他 ライトアップ・夜間拝観 春は4月初旬~中旬、秋は11月中旬~下旬に行われる。 北法相宗 仏教文化講座 例月第二・第四日曜日に早朝7時半(冬期8時)より大講堂円通殿において開講。 京洛六阿弥陀まいり 六阿弥陀縁日の正月15日・2月8日・3月14日・4月15日・5月18日・6月19日・7月14日・8月15日・9月18日・10月8日・11月24日・12月24日に阿弥陀堂にて催される。 今年の漢字 日本本漢字能力検定協会が全国公募して毎年決定する、その年の世相に合う漢字一文字のことである。1995年から発表されており、毎年12月12日の「漢字の日」前後に京都の清水寺貫主により揮毫され、本尊に奉納される。 歴代今年の漢字一覧 1995年 震 兵庫県南部地震発生。地下鉄サリン事件により社会不安が拡大。 1996年 食 O-157による集団食中毒が多発して学校の給食などにも影響。 1997年 倒 大型企業倒産・銀行破綻が相次ぐ。 1998年 毒 和歌山毒物カレー事件の余波で毒物混入事件が多発。 1999年 末 世紀末。東海村JCO臨界事故発生。相次ぐ警察不祥事。 2000年 金 シドニーオリンピックで、田村亮子(現姓・谷亮子)が悲願の金メダル。初の南北首脳会談 2001年 戦 アメリカ同時多発テロ事件発生。 アメリカ軍によるアフガニスタン侵攻開始。 2002年 帰 初の日朝首脳会談。北朝鮮に拉致された日本人5人が帰国。 2003年 虎 阪神タイガース18年ぶり優勝。 2004年 災 新潟県中越地震発生。台風23号が上陸して多大な被害を与えた。 2005年 愛 愛・地球博の開催や純愛ドラマの流行、黒田慶樹氏と紀宮清子内親王の成婚など。 2006年 命 悠仁親王の誕生の他、小・中学生の自殺多発や北朝鮮の核実験、医師不足などによる命の不安。 2007年 偽 不二家や白い恋人、赤福餅など食品表示偽装、年金記録問題の発覚。 京都検定出題 平成16年(2004)第1回京都検定2級出題 「清水寺成就院は、寛永6年(1629)に焼失したが、誰の寄進により再興したか。」 「次のうち西国三十三箇所霊場でないのはどれか。 (ア)長楽寺 (イ)今熊野観音寺 (ウ)清水寺 (エ)善峯寺」 平成17年(2005)第2回京都検定2級出題 「清水寺の塔頭である成就院の庭園は国の名勝に指定されているが、通称は何というか。」 「神社と主なご利益について誤っているものを選びなさい。 (ア)北野天満宮・学問の神 (イ)恵美須神社・商売繁盛の神 (ウ)白山神社・育児の神 (エ)地主神社・良縁の神」 平成17年(2005)第2回京都検定1級出題 「西国三十三所観音霊場のうち、第16番札所の寺院は( )である。」 リンク 清水寺オフィシャル http //www.kiyomizudera.or.jp/ 地主神社オフィシャル http //www.jishujinja.or.jp/ 清水寺心に響く 般若心経と法話 (講談社DVDブック)