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扶桑皇国海軍Imperial Fusolese Navy、通称皇国海軍)とは、東洋最強国・扶桑皇国の偉大なる守護神にして精強無比を誇った軍事組織である。 空母機動艦隊、戦闘攻撃機、戦略潜水艦など革新的な戦術、兵器を大胆に導入するなどし米帝と主に太平洋で対決し、深刻な環境破壊活動を行った。 皇国海軍と双璧を為す存在として、無敵皇軍の扶桑皇国陸軍が存在する。両組織とも、19世紀後半から20世紀初頭の地球に於いて、世界最強の軍隊として三千世界にその名を轟かせた。 北海道戦争の敗北以後はしばらく連合艦隊を解体し常備艦隊と鎮守府所属艦のみの編成となっていたものの、ユークが崩壊し人革連が台頭してきたことを受け再び連合艦隊が編成されることとなった。 特徴・戦術 異次元ともいえる防空能力は以前健在。 先の戦争での苦戦が相当堪えたのか、対潜能力を大幅に増強させている。 君塚商事から艦艇を購入するなどして艦艇数等では戦力を回復させたものの、先の北海道戦争でベテラン水兵を多数失っており、咄嗟の場面での判断・行動等に不安が残る。 大型空母を中心とした3個機動部隊が艦隊の中核であり、基本的に2個艦隊が前線にいて、その間に1個艦隊が休息・整備にはいるというローテーションを組んでいる。 艦隊編成 北海道戦争によりほぼ壊滅したものの、戦艦10隻、正規空母10隻、軽空母4隻、重巡12隻、軽巡8隻、駆逐艦85隻、潜水艦45隻という規模にまで戦力を回復した。 GF司令長官は高垣楓大将。 第一艦隊 戦艦を主力とした水上打撃艦隊である。 主に呉や横須賀等の内地に展開している。 艦隊司令官は清瀧幸助中将。 戦艦10隻、重巡4隻、軽巡1隻、駆逐艦24隻、ヘリ空母2隻、護衛艦24隻、ミサイル艇52隻、海防艦14隻 第一戦隊 戦艦 山城 薩摩 第二戦隊 戦艦 肥前 壱岐 丹波 石見 第三戦隊 戦艦 土佐 伊予 讃岐 阿波 第四戦隊 重巡 富士 鳥海 磐梯 八甲田 第一水雷戦隊 軽巡 、駆逐艦4個駆逐隊16隻 第三防空戦隊 軽巡 川内 那珂 、駆逐艦8隻 第二艦隊 原子力空母を中心とした機動部隊。 基本的に佐世保を母港としている。 艦隊司令官は塩見周子中将。 空母3隻、軽巡2隻、駆逐艦10隻、護衛艦6隻 第一航空戦隊 空母 白鳳 海鳳 第五航空戦隊 空母 隼鷹 第一防空戦隊 軽巡 石狩 高梁 、駆逐艦10隻 第二潜水戦隊 潜水艦 伊11 伊12 第三艦隊 同じく空母を中心とした機動艦隊。基本的に舞鶴を母港としている。 艦隊司令官は月美津聖二中将。 空母5隻、軽巡2隻、駆逐艦10隻、護衛艦8隻 第二航空戦隊 空母 翔鶴 瑞鶴 第六航空戦隊 空母 雲龍 神龍 紅龍 第二防空戦隊 軽巡 雄別 雄物 、駆逐艦10隻 第三潜水戦隊 潜水艦 伊13 伊14 第四艦隊 同じく空母を中心とした機動艦隊。 基本的に大湊を母港としている。 艦隊司令官は生石明中将。 空母2隻、ヘリ空母1隻、軽巡2隻、駆逐艦12隻、護衛艦6隻 第三航空戦隊 空母 紅鶴 紅鶴 第四航空戦隊 ヘリ空母 飛鳥 第二水雷戦隊 軽巡 神通 夕張 、駆逐艦12隻 第六艦隊 潜水艦を主力とした艦隊。 主に通商破壊や後方錯乱等に当たる。 司令官は前川みく中将。 潜水艦45隻 艦艇一覧 戦艦 肥前型戦艦 同型艦 肥前 壱岐 4隻 丹波 石見 性能諸元 基準排水量 98,100t 全長 307.8m 全幅 43.8m 最大速度 31.0kt 航続距離 10,500海里/18kt 武装 46cm45口径三連装砲 4基12門 オットー・メラーラ127/54 単装速射砲 4基 ハープーン4連装発射筒 6基 Mk.41 mod.34 VLS br; ・ESSM 短SAM 前部29セル、後部48セル RAM Mk.31 GMWS 6基 Mk.15 Block1B CIWS 2基 搭載機 SH-60K対潜ヘリ 2機 改尾張型戦艦。 原設計のままでも優秀な防御力を発揮した尾張型を戦訓をもとに改設計された。 山城型戦艦 同型艦2隻 山城 薩摩 性能諸元 基準排水量 105,300t 全長 315.6m 全幅 44.2m 最大速度 29.9kt 航続距離 12,100海里/18kt 武装 46cm45口径三連装砲 4基12門 オットー・メラーラ127/54 単装速射砲 6基 ハープーン4連装発射筒 6基 Mk.41 mod.34 VLS br; ・ESSM 短SAM 148セル RAM Mk.31 GMWS 6基 Mk.15 Block1B CIWS 4基 搭載機 SH-60K対潜ヘリ 2機 改大和型戦艦 同型艦 土佐 伊予 4隻 讃岐 阿波 性能諸元 基準排水量 71,000t 全長 275m 全幅 40.1m 最大速度 30kt 航続距離 8,500海里/18kt 武装 46cm45口径三連装砲 3基9門 オットー・メラーラ127/54 単装速射砲 8基 ハープーン4連装発射筒 2基 54式汎用導弾発射管 64セル RAM Mk.31 GMWS 10基 37式4連装巡航誘導弾発射機 4基 搭載機 SH-60K対潜ヘリ 2機 北海道戦争時最新鋭だった大和型戦艦を改良した戦艦。 改良工事の結果若干排水量が重くなり、その分速力が少し落ちた。 だがその分攻防を高いレベルでまとめた優秀な艦に仕上がっている。 空母 白鳳型空母 同型艦 2隻 白鳳 海鳳 性能諸元 満載排水量 104,600t 全長 350.4m 船体幅 41m 発着甲板幅 70.5m 最大速度 31.0kt 武装 ファランクスCIWS 3基 ESSM 短SAM8連装発射機 3基 RAM 近SAM21連装発射機 2基 搭載機 七五式艦上戦闘機征風 46機 73式艦上攻撃機神山 24機 SH-60K対潜哨戒ヘリ 8機 V-22オスプレイ 2機 早期警戒管制機飛鴎 4機 合計 84機 翔鶴型空母 同型艦 翔鶴 瑞鶴 4隻 紅鶴 天鶴 性能諸元 満載排水量 102,000t 全長 333.4m 船体幅 41m 発着甲板幅 76.8m 最大速度 31.0kt 武装 ファランクスCIWS 3基 シースパロー 短SAM8連装発射機 3基 RAM 近SAM21連装発射機 2基 搭載機 七五式艦上戦闘機征風 44機 73式艦上攻撃機神山 16機 SH-60K対潜哨戒ヘリ 8機 早期警戒管制機飛鴎 4機 合計 62機 型空母 巡洋艦 川内型巡洋艦 同型艦 川内 那珂 4隻 夕張 神通 性能諸元 基準排水量 8,900t 全長 175.5m 全幅 17.8m 最大速度 34.0kt 航続距離 7,400海里/14kt 武装 オットー・メラーラ127/54 単装速射砲 2基 90式/17式SSM 4連装発射筒 4基 Mk.41 mod.34 VLS br; ・ESSM 短SAM (64+32セル)2基 Mk.15 Block1B CIWS 2基 搭載機 SH-60K対潜ヘリ 1機 石狩型で達成した防空能力をよりコンパクトなサイズで、より安価にすることを目的に建造された防空巡洋艦。 その結果船体が一回り小さくなり、コストカットと建造期間の短縮に成功しているがその分居住性が悪化していて乗組員からは不満の声が上がっている。 石狩型巡洋艦 同型艦 石狩 高梁 4隻 筑後 雄物 性能諸元 基準排水量 12,550t 全長 193m 全幅 27.5m 最大速度 34.5kt 航続距離 8,000海里/18kt 武装 Mk.45 mod.6 62口径5インチ単装砲 2基 Mk.50 mod.10 VLS(64+64) 17式 SSM-2B SSM4連装発射機 4基 HOS-303 3連装短魚雷発射管 2基 SH-60KR 3基 扶桑海軍が初めて建造した、大型ミサイル巡洋艦である。 本艦の特徴として、まず新型の対空レーダーである『FCS-5CL』にある。 これは現在最新鋭の『AN/SPY-3レーダー』と『FCS-3/4』を複合させることによって、双方の長所をかなわせつつ、イージス艦並みの同時捕捉能力を持ちつつ、かつ〝より確実な撃墜能力の保持〟を目的として開発され、結果その目標撃墜能力はいかなるときでも90%以上を保つ記録を出すにいたる。 その能力は北海道戦争においても遺憾なく発揮され、戦争終結後に増産が決定された。現在でも扶桑艦隊における防空の中心を担っている。 富士型巡洋艦 同型艦 富士 鳥海 4隻 磐梯 八甲田 性能諸元 基準排水量 3,8500t 全長 248m 全幅 27.5m 最大速度 34kt 航続距離 8000海里/16kt 武装 50口径35.6cm砲 連装 5基10門 Mk.50 mod.10 VLS(64+64) 1基 17式 SSM-2B SSM4連装発射機 4基 61.0cm 4連装魚雷発射管 2基 SH-60KR 3機 北海道戦争の結果水上砲撃戦が起こりえる可能性があることが判明したため、戦艦を補助するための戦力として建造された一等巡洋艦。 主砲は筑波型に搭載されていたものを手直しして搭載している。 分艦隊旗艦としての運用も考慮されており司令部要員を乗せるために艦橋は大型化し、その威圧感から稀に砲艦外交に用いられることもある。 駆逐艦 八重雲型 性能諸元 基準排水量 6,850t 全長 152m 全幅 16.5m 最大速度 34kt 航続距離 8000海里/16kt 武装 Mk45 62口径127mm連装速射砲 2基 高性能40mmCIWS 1基 Mk.41 mod.29 VLS 106セル 90式4連装短魚雷発射管 2基 旗風型 性能諸元 基準排水量 3,980t 全長 132.5m 全幅 16.3m 最大速度 31kt 航続距離 7500海里/16kt 武装 62口径5インチ単装砲 1基 Mk.41 VLS(8セル) 2基 Sea RAM 1基 17式SSM 4連装発射筒 2基 90式4連装短魚雷発射管 2基 桜型 護衛駆逐艦 1号型 性能諸元 基準排水量 1,830t 全長 117m 全幅 11.8m 最大速度 29.5kt 航続距離 4,200海里/18kt 武装 62口径5インチ単装砲 1基 高性能40mmCIWS 1基 17式SSM 4連装発射筒 4基 90式4連装短魚雷発射管 2基 20号型 性能諸元 基準排水量 1,850t 全長 88.9m 全幅 11.4m 最大速度 29.5kt 航続距離 2,200海里/18kt 武装 62口径127mm単装速射砲 1基 高性能40mmCIWS 1基 17式SSM 4連装発射筒 4基 90式4連装短魚雷発射管 2基 ミサイル艇 はやぶさ型 同型艦 多数 性能諸元 基準排水量 200t 全長 50.1m 全幅 8.4m 最大速度 44kt 武装 62口径76ミリ単装速射砲 1基 12.7mm単装機銃M2 2基 17式 SSM連装発射機 2基 北海道戦争で壊滅した海上機動戦力を補助するため大量に建造され整備された中型ミサイル艇。 近海防衛にならそれなりに使えると判断され、現在も増産が続いており総数は200隻を数える。 潜水艦 伊1001型 性能諸元 基準排水量 1,350t 全長 160m 全幅 21.6m 最大速度 70kt 巡航速度 20kt 武装 魚雷発射管 6門 トリウム溶融塩型原子炉を動力として用いる『電磁推進』試験潜水艦。超潜伊10001 須佐之男号の随伴艦兼先行試作艦などとして建造された。設計当初は核融合炉搭載が検討されていたが開発が遅延して間に合わなかったため、急遽実用化が適った『トリウム溶融塩型核反応炉』を搭載する事となった。 艦種は『水中作戦支援潜水艦』とされ、敵艦のスクリュー音等を探知して得たデータを収集する情報収集が主任務であり、武装は少ない。但し高速航行時の噴射水流を活かして敵潜水艦や味方艦に向かった魚雷を破壊することも可能(ただし高速航行時に発生する渦流が敵艦に探知されてしまうが超高速のため攻撃するのは困難)。 伊215型 性能諸元 基準排水量 2900t 全長 84m 全幅 9.5m 最大速度 13kt(水上)/20kt(水中) 武装 魚雷発射管 6門 潜水艦魚雷防御システム(10番艦以降) 北海道戦争以前では最新鋭の通常動力潜水艦。 いわゆるそうりゅう級である。 扶桑海軍初の非大気依存推進(AIP)潜水艦であると同時に、世界で初めて機関の構成要素にリチウムイオン蓄電池を採用した潜水艦級でもある。 合計で24隻が建造され、扶桑潜水艦隊の中核をなす存在となっている。 伊10型 性能諸元 基準排水量 9,000t 全長 120.m 全幅 13m 最大速度 35kt(水上)/55kt(水中) 武装 533mm魚雷発射管 8門 扶桑海軍が初めて建造した攻撃型原子力潜水艦である。 同型艦は6隻。 おまけ(扶中戦争の前触れ) 海護第10管区より緊急連絡! 護衛艦が撃沈された模様です! はぁ!? それは真か? 詳細は分からぬのか? 情報が錯誤しており詳細が分からないのですが、人革連の艦隊に撃沈されたとも台湾海軍に襲われたとも… とにかく情報収集だ、それから第二艦隊に出撃準備命令を、護衛艦乗員の救助部隊は? 那覇より護衛艦2隻がすでに出港した模様です わかった 第10管区より続報、どうも人革連の艦艇に襲われた模様です、領海侵犯した相手にいつもの感じで抗議したところいきなり主砲を撃ってきたとか 人革連政府からは何か言ってきたのか? いえ、まだ何も… 外務省を通じて抗議はしているようですが まさか、いきなり戦争を仕掛けてくることはあるまいが… 念のため警戒レベルを3に、いつでも艦隊を動かせるように準備しておけ 了解しました!
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306: 635 :2019/06/18(火) 18 55 19 HOST 119-171-231-231.rev.home.ne.jp 銀河連合日本×神崎島 小ネタ14 名無しのフィンランド さて我らがスオミネイトはエイラ・イルマタル・ユーティライネンであるが他の国はどうだい? 名無しのトルコ それ神崎島の妖精じゃねえか 名無しのイギリス うちはオールドレディが女神ブリタニアかねえ 名無しのポーランド 艦娘でそれも神崎島じゃねえか 名無しのフランス 女神マリアンヌはリシュリューかコマンダンテストかペリーヌ・クロステルマンか 名無しのカナダ 神崎島しかいねえ 名無しのブラジル それ以外にあるのか? 名無しのロシア 母なるロシアやルーシは同士ガングートかねえ? 名無しのドイツ お前らいいな、艦娘や妖精だとナチ的だからと… 名無しのアルゼンチン アイオワやリシュリュー、ウォースパイトがナチとな。 名無しの中国 ドイツは女神ゲルマニアなビスマルクではないのか!? 名無しのジョージア 妙高型二番艦は確かに那智だなww 名無しのイタリア イタリア・トゥッリタは戦艦イタリア一択だな 名無しのアメリカ 女神コロンビアはアメリカ人テンプレのアイオワか古き良きアメリカ女性サラトガのどちらだろ? ネットでの国の擬人化話題 『こちらは駆逐艦神風、韓国漁船に告ぐ!ここは日本の排他的経済水域内である!即刻退去せよ!』 「北が出て来なくなったと思ったら南と大陸とはな。」 「神崎島が舞鶴まで進出してくれて助かりましたね。」 「巡視船だけでは足りないから特設哨戒艇が来てくれて良かった。軍艦が来たら護衛艦や島の海軍さんの海防艦や駆逐艦が来てくれるからな。」 日本海大和灘での巡視船内での会話 「クっ、これが通商破壊というものデスカ!実に効果的…!」 「柏木、フェルさんどうなってるんだ?(汗)」 「ああ。大陸にインドからのカレー用香辛料輸送中の船舶が拘束されてまだ日本に来れないからお気に入りのが品薄らしい(汗)。」 「カンザキ提督に掛け会って敵通商破壊部隊の排除のため旧聖イゼイラ大皇国帝位継承権者として連合艦隊の派遣を求めなケレバ!」 「「ちょっと待て!?」」 「ナゼデスカ!?こんな時のためのフリンゼの地位と称号デスヨ!?」 ティ連、通商破壊の恐ろしさ実感する 307: 635 :2019/06/18(火) 18 57 53 HOST 119-171-231-231.rev.home.ne.jp 「なんでリーダーいるの!?」 「ケラーはインディア国の環境について日本での再現を試みている有識者ですからな。」 「マサトサン、カレー原料の香辛料の供給不安は安全保障上の問題なので当然なのデスヨ!」 「その通りだよケラー。ヤルバーンの社会不安にも繋がりかねないからティエルクマスカ防衛総省としても看過できない問題だ。」 「お腹いっぱい食べられないのは問題ですからね!」 「アカギサン、ソノ通りデス!」 ヤルバーンの要請により開かれた食料安全保障会議にて 「なんか基地の周辺に集まってるな。」 「なんでも旧日本海軍の軍艦の寄港を阻止するとか。」 「寄港しないよな?」 「はい、沖縄本島を経由しないで直接石垣島方面へ向かう筈ですが…。」 「「??」」 海上自衛隊沖縄基地での会話 「まじで乗るんだな…。」 「乗るんだねえ…。」 「分かってて私に頼んだんじゃないの!?」 戦艦等大型艦艇用レーダーの試験中の駆逐艦霞と乗り込んだ技術者の会話 「一応持ってきたけどマジで大戦型駆逐艦に載せるのか?」 「製造元から『艦これの駆逐艦ならいけるから!』と押し切られてな。」 「コイツを装備してるのあの駆逐艦の様なナニカだろ…。」 「でも多分載るんだろうなあ…。で、誰に乗せるんだ?」 「夕雲型の一隻が志願しているらしい。」 神崎島の軍港に入港した米海軍がチャーターした重量物運搬船の甲板上での会話 「誰だコレを持ってきたの?」 「政府の方からナチが破棄したものだから良い物だとか…。」 「ソビエトも運用していただろと…。」 「水上戦力と航空戦力を強化できて一石二鳥とか…。」 「頭痛い…。」 旧第三帝国の遺産大西洋作戦型航空巡洋艦の検討命令が下されたドイツ海軍 308: 635 :2019/06/18(火) 18 59 27 HOST 119-171-231-231.rev.home.ne.jp 「春の戦艦祭りだなこりゃ。」 「柏木ぃ春のパン祭りみたい言うな。」 「隻数集めるとお皿プレゼントてか?」 「ムー、ワタシ達も参加するべきデショウカ?」 「ティ連だとどんな艦だ?」 「ズイウーン搭載は必須デスネ。」 「フェルさん瑞雲から離れような(汗)。」 安全保障会議の休憩中の会話 「サア!ミナサンでズイウーン力(ちから)を高めるのデス!」 「あいつら何やってんだ?」 「なんでも瑞雲力を高めるとか。」 「瑞雲力とは一体?」 瑞ぐるみを囲み瑞雲色の航空機誘導灯を両手に持ちながら踊るヤルバーン乗員達 「ねんがんの 瑞ぐるみをてにいれたゾ!」 メ几 「木又してでもうばいとル。」 「な、なにをする きさまラー!」 「イゼイラ人達何やってんだ?」 「何でも発達過程文明の様式美だとか。」 「何か間違っている。」 瑞ぐるみの供給されたヤルバーンでの一幕 『「「「「ウワーーーーー!!」」」」』 『「「「「U・S・A!U・S・A!」」」」』 『BIGSEVEN!!Foo!』 『「「「カスミチャンカイニヲタタエヨ!!」」」』 『「「「ズイウンヲタタエヨ!!」」」』 『こちらコロラド州デンバーから生中継でお送りします!皆さん戦艦コロラドの艦これ実装と神崎島への配備を祝っています!』 「デンバーからの生中継、凄い反応だな(汗)。」 「戦艦級実装ということで注目集まってマシタカラネ。海防戦艦期待してたフィンランドサンとかはお通夜らしいデスケド。」 「というか変なのいないか?(汗)」 「ズイウーンを称えるとはアメリカ国もナカナカやりマスネ…。」 夕方のニュース番組を見る柏木夫妻 フィリピン紙『護衛駆逐艦アザートン実装はよ!』 スペイン紙『空母カボットなら実装ワンチャン?』 オーストラリア紙『ケント級重巡洋艦の実装お願いします!』 カナダ紙『お願い、我が国の艦実装を!どんな艦でもいいの(涙)』 「…なんか切実だな。」 「自国の艦だった艦娘がいるというのが現在の国家ステータスの一つだからねえ。G7でいないのカナダだけだから…。」 コロラド実装後の各国の新聞記事 309: 635 :2019/06/18(火) 19 00 05 HOST 119-171-231-231.rev.home.ne.jp 以上になります。 転載はご自由にどうぞ。
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日本海海戦の時ってどんな感じだったのですか? 日本海海戦のときに連合艦隊がバルチック艦隊の艦船に日本語の当て字を使ってたと思うのですが。 日露戦争で南米のどこかの国の軍艦を要らなくなったから日本が2隻ぐらいもらったから、海戦に勝てたと聞きましたが 日露戦争のルーズベルトの調停は将来の日米の対立に備えて、日本に不利な内容にしたのでしょうか? 日露戦争時のロシア艦隊の編成について教えて下さい。 日露戦争の日本海海戦で「敵艦見ユ」の信号打電をロシア艦はECM使って妨害したんじゃなかったんでしたっけ? バルチック艦隊はアフリカ周りで来たのですか?スエズ運河はイギリスの嫌がらせで使えなかったのですか? 水師営会見でステッセル将軍が乃木大将に送ったアラビア馬は、ちゃんと乃木大将の手に渡ったんでしょうか? 日本とロシアの動員兵力と、両国の戦死者・捕虜の数教えてください バルチック艦隊は最初20ノットぐらい出せたのが航海中にフジツボが付いて速力が二桁切ったと聞きました。 日露戦争のときにアメリカ軍は朝鮮に上陸しましたか? 日露戦争は1904年2月に日本より開戦したと聞いております。 日露戦争において、日本軍は充分な冬季装備を持っていたでしょうか? 日露戦争のことを書いた本で読んどいたほうが良い本はありますか? ポーツマス条約についてのことなんですけど 「日本海海戦の東郷の戦法は、李舜臣の戦法から真似た」って話、聞いたことありますか? 日露戦争の旅順港において、かの28サンチ榴弾砲にて港内の旅順艦隊を砲撃、そのほとんどを沈めたわけですが、 天気晴朗なれども って一文は意味があってかかれたものですか 日露戦争の時、同盟国のイギリスとアメリカ・ドイツ・フランスといった国々はどちらが勝つと思っていたんでしょうか 日露戦争で、杉野兵曹長はどうなったのでしょうか? 日露戦争で大活躍をした時、明石元二郎の階級は何ですか? 日露戦争は英語で言うとなんですか? 日露戦争の開戦日等がどのサイトもまちまちで分かりません。 今「坂の上の雲」を読んでるのですがあの本に書かれている日露戦争の経過は正確なものなんですか? 日露戦争時の、日本陸軍の装備は諸外国に遅れをとっていた? 日露戦争におけるロシア側の勝利条件は何だったのでしょうか? もしも日露戦争で、満州で陸軍が完敗したり、日本海海戦で連合艦隊が壊滅してたらロシアは日本上陸作戦を行う予定や余裕は当時あったんでしょうか? 森鴎外と脚気…って,いったい戦争に何の関係があるんですか? 脚気の治療法は麦飯で確定してたけど、森鴎外やその他が騒いで妨害したんですよね? 東郷提督が連合艦隊長官に推挙された時に「東郷は運がいいから」,と言われたそうですが,そんなに運が良かったんですか? 加藤徹「西太后」という本にはロシアと清は日本に当たる秘密条約があったと書いてたんですが、それは考慮されなかったんでしょうか? 日露戦争当時の日本の状況を教えてください 日露戦争の時の三笠って当時はイギリス本国のものと比較しても最新鋭の戦艦だったんですよね。最新鋭の艦を売るようなまねを何でしたんでしょうか? 三笠は日本海海戦時に多くの敵弾を受け100人以上の士官、水兵の犠牲を出しましたが、その際の三笠の被害状態はどの程度のものだったのでしょうか? 日露戦争でロシア軍はまだまだ戦えたといいますけど、ならなんで朝鮮半島を諦めたのですか? なんで日露戦争にロシア側として動員された兵士はポーランドやフィンランド出身のものばかりなんですか? 日露戦役で挺身部隊への補給はどうのように行ったのでしょうか? 日露戦争で、日本海軍に津軽海峡を機雷封鎖する意思と能力はあったのでしょうか 下馬戦闘しかしていない秋山好古の部隊はとうてい騎兵とは言えないのではないでしょうか? 橘中佐は何が偉くて軍神になったのでしょうか。先頭に立って突撃したからですか? 日露戦争で日本海軍に使われた艦艇は全部、日本で作ったものではなくて外国産なんでしょうか? 日露戦争において、世界の政治家や軍人達が得ることの出来た教訓のようなものはあるのですか? 山本五十六長官が日露戦争当時に中指と人差し指を失う重傷を負ったのに、除隊にならなかったのはなぜでしょうか? 日露戦争の旅順要塞戦で、日本軍の野砲は効果があったんでしょうか? 日本海海戦は、丁字戦法で勝利したのでは無いって言われたんですけど、本当ですか? 日露戦争の旅順攻略戦で日本軍は機関銃に苦しめられたとのことですが、これは後の軍に影響を与えましたか? ポーツマス講和条約が締結されなかった場合、日露両軍はどんな作戦を採るつもりだったんでしょうか 日露戦争(とそれ以前の戦争)では兵士達が夜には酒を飲み交わしたというのは本当なんでしょうか? 日露戦争の黄海海戦のロシア艦隊は燃料不足になっていて、ウラジオストックまでたどり着く見込みは絶無だったというのは本当なのでしょうか。 日露戦争において日英同盟は役に立ったのですか? 日本海海戦の時ってどんな感じだったのですか? 日本海海戦の時は、重油でなく石炭焚きですから、煙で敵の接近を知りました。 その煤煙を目標にして、水平線上に艦影に映ってから照準を行いました。 (11 名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2) 日本海海戦のときに連合艦隊がバルチック艦隊の艦船に日本語の当て字を使ってたと思うのですが。 旗艦クニャージ・スウォーロフ 国親爺坐ろう アレクサンドル3世 呆れ三太 ボロヂノ ボロ出る アリヨール 蟻寄る オスラービヤ 押すとピシャ シソイウェリーキー 薄いブリキ アブラクシン 油布巾 ドミトリー・ドンスコイ ごみ取り権助 イズムルード 水漏るぞ 手許に本がないのでうろ覚えですが、こんな感じだったと思います。 この話は、日本側から日本海海戦を取り上げた本にはたいてい出ているかと。 (13 868) 日露戦争で南米のどこかの国の軍艦を要らなくなったから日本が2隻ぐらいもらったから、海戦に勝てたと聞きましたが アルゼンチンです。 巡洋艦「モレノ」「リヴァダヴィア」をそれぞれ買い取り装甲巡洋艦「日進」「春日」と命名しました。 正確には要らなくなったのではなく、イギリスが手を回して建造中の船を日本に買い取らせたのです。 (29 名無し軍曹) 日露戦争のルーズベルトの調停は将来の日米の対立に備えて、日本に不利な内容にしたのでしょうか? んなこたぁ無いです。 継戦能力が限界にきててルーズベルトに頼るしか打つ手が無かった日本、 相次ぐ敗北で国際金融資本に見捨てられかけてたロシア、 こんな状況でどちらか一方のみにだだ甘の条件で手打ちなんか出来ませんって。 戦略的には痛みわけ、戦術的には日本の勝利ということで 戦前の日露交渉を日本有利の形で決着させる、ってのは妥当な線です。 日本が奉天・ウラジオも一気呵成に占領、 満州全域を支配下に収めロシアは極東の拠点をすべて失った……とかいう戦況であの条件なら、 そりゃああなたの言うような側面もあったかもしれませんが。 (33 373) 日露戦争時のロシア艦隊の編成について教えて下さい。 戦艦 Imperator Nikolai I(1891年竣工→1905年敗残艦隊を率いて降伏し、二等戦艦「壱岐」になり 後一等海防艦に艦種変更 → 1918年廃艦除籍・金剛/比叡の主砲射撃標的となる) Navarin(1896竣工→1905.5.28水雷艇からの魚雷で撃沈。) Sissoi Velki(1896竣工→1905.5.25砲雷撃で撃沈) Petropavrovsk(1899竣工→1904.4.13触雷、爆沈) Poltava(1899竣工→1904.8.10黄海海戦で大破→旅順からの28センチ砲により 爆沈→1906浮揚し、一等戦艦「丹後」となる→1912一等海防艦となり、 1916ロシア海軍に売却し、Tchesmaと改名→白海艦隊に配備されるも、 1923スクラップ) Sevastopol(1899竣工→1904.6.24と8.23に触雷小破→1905.1.2旅順からの 28センチ砲により大破、更に被雷し、着底、放棄 Peresviet(1901竣工→1904黄海海戦で大破→12.6旅順からの砲撃で着底→ 1906浮揚し、一等戦艦「相模」となる→1913一等海防艦に変更→ 1916.5.4ロシアに寄贈→1917.1.4回航中にポートサイドにて触雷沈没) Osliabia(1901竣工→1905.5.27対馬で撃沈) Pobieda(1901竣工→1904.4.13触雷→12.6旅順への28でセンチ砲砲撃で着底→ 1906浮揚し、一等戦艦「周防」となる→1913一等海防艦に変更し、第二 艦隊旗艦となる→1922除籍雑役船となり、呉工廠で解体中に浸水転覆 三つ子島の護岸用に船体は沈められる。) Retvisan(1901竣工→1904.2.9旅順港第一次攻撃で被雷、避難中に擱座→8.10 黄海海戦に出撃→12.6旅順港への砲撃で大破着底→1906浮揚し、一等 戦艦「肥前」となる。→第一次大戦では遣米支隊で米国沿岸に出動、 後にウラジオに派遣。→1922一等海防艦に変更→1923除籍→1924実艦的 として連合艦隊の前に沈没) Tsessarevitch(1903竣工→1904.2.9旅順で被雷→8.10Virgeft提督の旗艦として黄海海戦 に出撃するも中破、提督死亡。→清に逃亡し抑留→1914黒海艦隊に配備 される→1917.10.17ドイツ戦艦と戦闘するも逃亡に成功→1922廃艦) Bolodino(1904竣工→1905.5.27対馬で弾薬庫の爆発により撃沈) Imperator AlexanderIII(1903竣工→1905.5.27対馬にて大破口からの浸水で沈没) Orel(1904竣工→1905.5.27対馬にて中破→翌日捕獲し、一等戦艦「石見」となり、1910完成 →1913一等海防艦に変更し第一次大戦では青島に出動→シベリア出兵でウラジオに 派遣→1922除籍雑役船(標的船)となり、1924横須賀航空隊の爆撃標的で沈没) Kniaz Suvarov(1904竣工→1905.5.27対馬にて水雷艇の魚雷により沈没) 海防戦艦 Admiral Ushakov(1895竣工→1905.5.28撃沈) Admiral Seniavin(1896竣工→1905捕獲→二等海防艦「見島」→第一次大戦で青島に派遣。 →1920砕氷艦兼用に改造し、ウラジオ、シベリアに出兵。 →1924特務艇潜水艦母艇となる。→1935除籍→1936廃艦第七号として実艦的となる。 General Admiral Graf Apraskin(1899竣工→1905捕獲→二等海防艦「沖島」→第一次大戦で 青島に派遣→1923除籍雑役船(練習船)→1926廃船→ある財団法人に払い下げ→ 宗像郡津屋崎に回航、繋留し記念艦となるが、荒天で座礁したため、1939解体。 装甲巡洋艦 Vladimir Monomakh(1885竣工→1897改装→1905.5.28対馬にて撃沈) Dmitri Donskoi(1885竣工→1895改装→1905.5.29対馬から逃亡中、駆逐艦による夜襲を受け、自沈。) Admiral Nakhimov(1888竣工→1899機関換装→905.5.28自沈) Rurik(1895竣工→1904.8.14蔚山沖で日本巡洋艦隊と交戦し、撃沈。) Bayan(I)(1903竣工→1904.7..27触雷→1904.12.8旅順港への28センチ砲により着底。 →1906一等巡洋艦「阿蘇」となり、候補生練習艦として使用→1922敷設艦に改造、1931除籍 廃艦→1932艦砲射撃の実艦標的として撃沈) など。 (39 眠い人 ◆ikaJHtf2) 日露戦争の日本海海戦で「敵艦見ユ」の信号打電をロシア艦はECM使って妨害したんじゃなかったんでしたっけ? ロシア艦隊は無電の妨害はしなかった聞いています。 信濃丸がバルチック艦隊に接触したとき、ロシア艦隊も信濃丸を発見しています。 そこで、ロシア艦の1隻が無電妨害をするか旗艦に問い合わせたところ(当時は 火花式送信機のため、妨害は容易でした)、ロジェストウェンスキー司令長官は 「日本船の無電を妨害するな」という命令を出したそうです。 (40 598) バルチック艦隊はアフリカ周りで来たのですか?スエズ運河はイギリスの嫌がらせで使えなかったのですか? スエズ運河の渡航限界の都合で、艦隊を二分し、 一方はスエズ、他方は喜望峰周りで、マダガスカルで合流。 このマダガスカルでの待機期間が、東行行程のロスにもなった。 (45 340) まあそういうわけでスエズ不使用はイギリスの妨害工作……ってわけじゃないですが、 ロシアの同盟国であるフランスの港をなるべく使わせないよう、イギリス政府がフランス政府に圧力かけてたのは事実です。 結果、バルチック艦隊は航路の各地においておちついて休みをとることが出来ず 日本近海まで来たときには艦隊のコンディションは劣悪な状況でした。 「海路一万五千余浬(り) 万苦(ばんく)を忍び東洋に 最後の勝敗決せんと 寄せこし敵こそ健気(けなげ)なれ」 (45 342) 水師営会見でステッセル将軍が乃木大将に送ったアラビア馬は、ちゃんと乃木大将の手に渡ったんでしょうか? ステッセル将軍から送られたアラビア馬ですが、乃木邸の横に設けられた 馬小屋で飼われていたそうですよ。 ステッセル将軍のその後ですが、1906年8月に旅順開城の責任を問われて裁判に かけられています。1908年2月に財産没収のうえ銃殺刑と言う有罪判決が下りましたが 裁判所から皇帝に対し減刑(懲役10年)の請願があり、皇帝はそれを承認して 禁固10年に減刑され、彼はペトロパブロフスク要塞に収監されました。 1909年特赦により釈放、 1915年没。 乃木大将のその後は有名なので、調べてみてください。 (52 名無し軍曹) 日本とロシアの動員兵力と、両国の戦死者・捕虜の数教えてください 手元の資料に被害だけが載っていたので転載してみます。 日本側損害 (1)人員 死亡及び服役免除者 118000名 その他 2000名 (2)軍馬 38050頭 日本人捕虜については資料無し 露国側損害 人員 約115000名 日本側が捕獲した捕虜 79454名 捕獲馬 3983頭 軍旗 3 動員兵力は少しわかりませんでした。 (55 431) バルチック艦隊は最初20ノットぐらい出せたのが航海中にフジツボが付いて速力が二桁切ったと聞きました。 これはホントのことですか?また、本当ならロシアはなぜ掃除をしなかったんですか? 艦底の掃除はドック行かないと出来ない。 (68 258) 258でも答えが出ていますが、フジツボなどを落とす場合は、ドック入りをする必要があります。 しかし、英国と日本は日英同盟を結んでおり、明らかに日本に荷担していましたし、 ロシアと伝統的な同盟国であるフランスは、英国からの圧力が強く、 ドック提供を行えませんでした。 これは他国に於いても同様で、結果としてドックに入渠してのメンテナンスが出来ず、 マダガスカル島とインドシナでの簡単なメンテナンスしか行っていません。 (68 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日露戦争のときにアメリカ軍は朝鮮に上陸しましたか? 確かに開戦当初の仁川沖海戦の際には米軍艦が入港してたと思いますが。 居留民保護のために上陸したことはあっても戦闘のために上陸したことは無いでしょうね。 (68 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日露戦争は1904年2月に日本より開戦したと聞いております。 開戦の年を先延ばしにして、日本の軍事力・経済力の向上を待ってゆとりを持って開戦とか、 ロシアから宣戦布告してくるのを待って迎え撃つとかは現実的ではなかったのでしょうか? ゆとりを持って開戦 その間当然ロシア側も戦力を強化(旅順や奉天の守備隊を強化するとか それこそバルチック艦隊をウラジオに派遣するとか)する事ができ余計不利になるのでは? (69 465) 日露戦争において、日本軍は充分な冬季装備を持っていたでしょうか? 凍傷・凍死による被害はどうでしたか。 当時の日本軍の寒冷装備は、八甲田山であれほどの被害を出したにもかかわらず 非常にお粗末なものでした。 防寒具の調達は明治37年2月から始まり55万着を調達しました。 主に羊毛を使った胴衣を着用しましたが、生産能力が低かったため色や形がバラバラなうえ 前線に十分行き渡らずわら靴まで支給して寒さをしのがせたとのことです。 (79 名無し軍曹) 日露戦争のことを書いた本で読んどいたほうが良い本はありますか? 「ツシマ」 これ以外は資源の無駄、と断言しても良い (80 232) 「機密日露戦史」を忘れちゃいかんがね。 (80 ミリ屋哲 ◆qmwryStCos) ポーツマス条約についてのことなんですけど 日本がロシアから賠償金を取るのを諦め、代わりに カムチャッカ半島 樺太 ウラジオストック近辺を除いた、樺太北端のアムール川河口から上流までの南部 を領土として要求できなかったのでしょうか? 身の丈を弁えない主張ですね。 まるで、当時のマスコミの論調です。 既に日本には戦闘を行えるだけの国力が無く、ロシア本土への浸食は 間違いなく列強の干渉を招きます。 また、縦しんば、占領地を得たとしても、シベリア出兵のように、労多くして 益少なしと言う状況には代わりありません。 第一、インフラ整備だけで相当の国力を費やすと思いますけど。 (85 眠い人 ◆gQikaJHtf2) というか,ロシアがそんな提案に乗ると思う? 極東のロシア軍が完全に壊滅状態だったり,あるいは日本陸軍が圧倒的な数的優位に有るような 仮想世界なら話しはまた別だが。 ロシア側も早いところ戦争を切り上げたいと思っていたのは確かだが,日本側は ポーツマス会議が決裂したらもう後が無いぽ。 (85 716) 逆に賠償金を取り、代わりに旅順を返還するといったことは出来なかったのでしょうか? 当時の国民感情からすると、あれだけの兵士の血(とは言え、乃木の拙劣な指揮が原因ではあるが)で 贖った遼東半島とか旅順を取らないと言うのなら、国内的に大暴動が起きます。 (既に、賠償を取らないと決めた時点で、某新聞などの扇動で暴動が起きています) そもそも、日本の戦争目的は、日清戦争で遼東半島を獲得したのに、 それをロシアを始めとする三国干渉で取られたことに起因します。 旅順を放棄しても、清国、ロシアによって軍港設備が整備されている訳ですから、 何処か(ドイツ、フランスなど)が其処に進出してくるのは目に見えており、その周辺 海域の制海権を維持するためには、進出国にとって、日本の勢力圏たる朝鮮半島 が目障りになるので、同じ展開になる可能性が高くなります。 また、日露戦争の戦費については、英国で起債して調達した訳ですが、 その償還に問題が生じます。 賠償金だけでは、戦費償還が出来ません。 また、不安定な支配地域では、 他国からの投資を呼び込もうにもなかなかままならない所があるでしょうね。 満州を押さえても、その産品の積出港及びその近辺を他国に抑えられているとしたら、 容易に経済制裁が行えますし、積出港を新たに設けるとしたら、 インフラ整備などに多大な投資を必要とします。 (85 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 「日本海海戦の東郷の戦法は、李舜臣の戦法から真似た」って話、聞いたことありますか? 司馬遼太郎の創作だったと思われ。 「坂の上の雲」じゃなかったかな (86 436) 日露戦争の旅順港において、かの28サンチ榴弾砲にて港内の旅順艦隊を砲撃、そのほとんどを沈めたわけですが、 「なぜ、榴弾で戦艦を撃沈することが出来たのでしょうか?」 28サンチ砲は、もともと沿岸砲台として使用されていました。 それを取り外し、旅順まで持って行った。 つまり、最初から艦船を砲撃するための砲だったわけです。 また、旅順のベトン製要塞を砲撃した際も、分厚いベトンを貫徹することが 求められ、期待に応えた。 このことからも28サンチ砲が相当な貫通能力を有することが解ると思います。 また、指摘の通り当時の艦船は大落下角の砲弾への防御が十分でなかったことも 事実ですし、全般に防御力は貧弱でした。走攻守そろった戦艦の登場は、 ドレッドノートを待たねばなりません。 (92 859 天気晴朗なれども って一文は意味があってかかれたものですか 天気晴朗なれど波高し 天気は晴れていても、波が高いから、船体の上下運動が激しく、 主砲の狙いが付け難いから注意しなさいよ・・・って意味。 (94 35) 今日は天気が良いので敵を発見し損なう事は無い、砲戦になれば波の為に 照準が困難になるが、こちらの方が錬度が高いので負けることは無い。 という、ロシア艦隊に対する必勝の想いが込められている、 と聞いた事があります。 (94 75) 当時暗号電文を打つ時には解読を困難にするため末尾に意味の無い文を付け足したとの事。 この文の前には「敵艦見ゆとの警報に~」という本文があり、 前述の「天気晴朗~」が付け足しとして付けられたので、意味が無いと言えば無いともいえます。 (94 76) 35の捕捉・・・というか蛇足 その日の天気予報が「天気晴朗なれど波高し」だった 本格的な気象観測ははじまったばかりで 天気予報の的中率など高が知れていた時代だ 大してアテにならない筈の天気予報どおりの気象だったの 「こりゃ幸先がいい」 と、士気向上のために電文に盛り込まれた という話がある (94 87) 日露戦争の時、同盟国のイギリスとアメリカ・ドイツ・フランスといった国々はどちらが勝つと思っていたんでしょうか そりゃ、当時の世界の下馬評ではロシア有利だったわな。 日本海海戦の戦訓の一つは「軍艦は砲撃で破壊できる」だった。 英ドレッドノートに端を発するド級艦・超ド級艦の登場と、列強によるそれらの建造競争。 そういった大艦巨砲主義の時代の端緒となった面もなくはない。 実際WW2の日本は日本海海戦の勝利再びといったつもりで戦艦を建造していたわけだし。 (98 105) 日露戦争で、杉野兵曹長はどうなったのでしょうか? 明治37年3月27日の第二回旅順口閉塞作戦において、広瀬中佐は戦死し 杉野兵曹長は行方不明とされています。(いずれも死後昇進) しかし、杉野兵曹長に関しては日露戦争の後から生存説が囁かれていました。 大戦終結後には中国で生存している云々の報道が新聞に掲載されたようです。 今となっては真偽はわかりかねますが・・・。 (103 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 杉野兵曹長生存説については、 「杉野はいずこ」 林 えいだい 著 新評論 刊 定価 1800円+税(1998年)が詳しいかと。 (103 700) 日露戦争で大活躍をした時、明石元二郎の階級は何ですか? 1907年に陸軍少将に昇進するまでは大佐です. (105 消印所沢@FAQ保守員) 日露戦争は英語で言うとなんですか? Russo-Japanese War (105 眠い人 ◆gQikaJHtf2) Russo-Japan War, もしくはRusso-Japanese War (105 114) 日露戦争の開戦日等がどのサイトもまちまちで分かりません。 日露国交断絶通告、日本の宣戦布告、それぞれ何月何日ですか? 先ほど自分も確認にぐぐりましたが、「日露戦争」でも十分な情報が手に入りますが・・・ 2月6日に国交断絶 2月8日に旅順港奇襲 2月10日に宣戦布告です。 宣戦布告は遡って軍事行動開始後の8日から有効とされています。 蛇足としてはこの日本の宣戦布告が一つの動機となり、 1907年のハーグ陸戦協定で宣戦前の軍事行動は禁じられました。 (111 430) 今「坂の上の雲」を読んでるのですがあの本に書かれている日露戦争の経過は正確なものなんですか? 少なくともスパイ工作の評価の点では史実と大幅に異なります (115 306) 日露戦争時の、日本陸軍の装備は諸外国に遅れをとっていた? そうでもないよ。 (121 61) 日露戦争当時だと殆ど変わらんと思いますが。 (121 62) 1904年ごろは欧米の軍も日本の軍も その装備について大きな差はありません。 少なくとも「時代遅れ」なんて断言できるほどの差はなし。 (121 66) 当時、日本陸軍が装備していた三十年式歩兵小銃や、三一年式山砲は、性能的にも列強の物 と比べ劣る物では無かったし、機関銃の装備数とて、対峙した極東ロシア軍より多数装備していた。 海軍の装備も、敷島級戦艦などは、当時の世界最大、最強級の戦艦だった訳で、質の面で大きく 遅れていた訳ではない。しかし、まあ、当然新興国なので欧州列強より貧乏な訳で、弾薬等の 備蓄、生産がままならず、あっと言う間に底をついてしまったのは仕方の無い事ですが。 (121 69) 日露戦争におけるロシア側の勝利条件は何だったのでしょうか? ロシアとしては、時代によって異なるのですが、戦争前の段階では、日本は朝鮮半島を、 ロシアは、満州地域を、それぞれ互いに権益や経済特権を認めると言うものでした。 朝鮮半島全体の領有については、ロシアは費用対効果の面から無意味と思っていたようです。 但し、開戦直前の状況では、更に進んで、満州地域全体の領有を目的とし、その地域の安全を得るために、 朝鮮半島の一部を勢力圏に納める、あるいは、最低限、朝鮮半島を中立化すると言うものでした。 (201 眠い人 ◆gQikaJHtf2) もしも日露戦争で、満州で陸軍が完敗したり、日本海海戦で連合艦隊が壊滅してたらロシアは日本上陸作戦を行う予定や余裕は当時あったんでしょうか? 無理ですね。補給的に最良でも朝鮮半島まで取って終了でしょう。 ロシアとしては日本が大陸に手を出さなければOKなので、制海権握ればあとは問題なし。 わざわざ日本を占領しようって気はまるでなかったと思う。 (363 139,140) 森鴎外と脚気…って,いったい戦争に何の関係があるんですか? 第二軍軍医部長(のち,1907年10月に陸軍軍医総監)だった鴎外が脚気病原菌説に拘泥し,兵に白米を食わせ続けたため,脚気を蔓延させたという一種の薬害事件 in 日露戦争 日露戦争中,兵士の脚気が深刻な問題となった. 原因は主食が白米で,ビタミンB1が不足していたからだ. その事態に,軍は古くからの経験則より玄米食を制式採用しようとした. しかし,ドイツ医学を学び,脚気細菌原因説をとなえる森鴎外はその案に猛反対. 結果日本軍は露西亜でいらぬ犠牲を増やすことになったとさ. 「日露戦争中,森鴎外はどんなロシアの将軍よりたくさんの日本兵を殺している」 という話すらある. もっとも,脚気は鴎外だけに罪があるわけではなく,白米を基本的糧食とすることを望んだ兵隊にも,多少の責任があると思う. 確か,江戸時代の一人扶持を精米したものが,陸軍の一日の支給量と一致していたと思う. 白米が腹いっぱい食えることが軍のウリの一つだったしな. もちろん鴎外が,脚気の話のみで評価してしまうには惜しい人物であることに変わりはない. (軍事板) 脚気の治療法は麦飯で確定してたけど、森鴎外やその他が騒いで妨害したんですよね? 違います。 たしかに脚気は、経験上「江戸患い」といって、古来より白米を多く摂取する江戸に多く発生する風土病? のように受け取られていたのは事実。 だけど、明治時代の、しかも日露戦争の時点じゃ科学的な根拠はなーんもなかった。 もし、海軍軍医総監高木兼寛の実験を根拠にして言っているんなら、あんたは科学を知らない。 {高木軍医の実験} ①1883年、練習艦龍驤が訓練航海で脚気患者169名、死亡者25名を出した。 ②1884年、洋食に変更した改善食で、全く同じコースを訓練航海した練習艦筑波脚気患者14名、死亡者0名。 ただ、この実験は、①と②で全く同じ条件の航海だったという保証がないから、医学の実験としては不適切なの。 本当に比較試験したかったら、②の航海のときに、兵隊を2つの集団に分けて、片方の集団に従来食を、 もう片方の集団に洋食を与えなくてはいけない。 ですから、この実験が示された段階では、「脚気の治療法が麦飯である」とは断言できない。 「経験的に脚気の治療法が麦飯であろうと思われる」とならいえると思う。 ただし、この結果を示されながら、何も動かなかった森林太郎は外道だという評価は、言うまでもないと思いますが。 (644 耳鼻科医 ◆8SInHkpG2A*一部加筆修正) 軍隊での医者の仕事は戦力の維持。その観点からすれば「原因がわからなくても 対策ができる」のであれば採用する。実際、海軍は採用した。無根拠だのデータが 無いだのという話も「原因を医学的に証明する」論文やデータが無い、という話であ って、脚気対策としては高木の海軍病院でのデータがあって、それを踏まえての筑 波での洋食の実施になる。机上の空論であれば、予算も人員も装備も時間も必要 な上に、死者の出る可能性のある実験を行う理由が無い。 兵隊を2つの集団に分けて、片方の集団に従来食を、もう片方の集団に洋食を与えなくてはいけない。 これもおかしい。 海軍は脚気対策に成功し、その過程は陸軍に伝えている。細菌原因説に固執する がゆえに「納得がいかない」のは陸軍の軍医たちの都合。納得がいかないからと兵 を脚気で殺す理由にはならない。 データが用意できないのが悪い、というのは責任転嫁だ。脚気対策についてはドイ ツ留学組よりも臨床医学のイギリス留学組が早期に対策に辿り着いたために、面 子からそれを認めず、延々と非難を続けた。「到底受け入れられるはずも無い」とい うのであれば、ドイツ式の臨床医学で検証すればよいだけだ。 (667 ふみ ◆Y.QUKJBduY) 東郷提督が連合艦隊長官に推挙された時に「東郷は運がいいから」,と言われたそうですが,そんなに運が良かったんですか? 東郷提督の強運を示す例として黄海海戦の時を挙げるが ウラジオに逃げようとする旅順艦隊の戦艦レトウィザンが浸水,艦隊の速度が低下し,連合艦隊が砲戦を仕掛ける時間が増えた. 海戦で乗艦の三笠は被弾20発以上の損傷を受けるが,露天艦橋にいた提督はかすり傷一つ無し.(周囲は怪我人続出) 三笠から放たれた砲弾が敵旗艦ツェザレウィッチの艦橋に2発も命中. これにより旅順艦隊の首脳陣が全滅し,その混乱で艦隊は大打撃を受けた. と言った例がある. まあ,「運」だけが推挙理由ではないようだが. 加藤徹「西太后」という本にはロシアと清は日本に当たる秘密条約があったと書いてたんですが、それは考慮されなかったんでしょうか? 清は表向きは局外中立。 ロシアと清との協議はあくまで中立の内容についての交渉。 ただし戦時には中国の地方官憲から日本への献金が相次いだり 戦後日本は袁世凱や中国官憲に多くの勲章を進呈しているから 好意的中立で密かに協力してくれていたことに日本も感謝しているわけだ。 (365 461) 露清秘密協定が締結されたのは、三国干渉によって遼東半島を日本が返還した頃。 この三国干渉を見た清国は、これを利用して日本を抑えることができるんじゃないか?と考え、 ロシアと連携して日本を抑える「連露抑日論」が主流意見となったことが、 この秘密協定締結にまで至った原因。 ところがその後の義和団の乱では、ロシア軍は自国の権益のため、 協定をたびたび違反してやりたい放題で、清国では今度は逆に 日英同盟を利用してロシアを抑えようとした。 これは清国をして、第2次露清密約(旅順協定)の破棄に成功することとなる。 このように清国は、日本が進出しすぎていると思えばロシアと結び、 ロシアが進出しすぎていると思えば日本と結ぶという、 よく言えば臨機応変、悪く言えば長期戦略に欠けた、ふらついた行動をとっていたわけ。 で、日露戦争の頃はちょうど、抑露の側に立っていたということ。 (初心者スレ491 465) 日露戦争当時の日本の状況を教えてください 太平洋戦争では空襲により工業力が激減しましたが一応兵士は三食ちゃんと食えていたとききます しかしよもやま物語(どれかは忘れましたが)によれば日露戦争当時、内地では昼飯が饅頭一個という状況と書いてありました もしかすると太平洋戦争より日露戦争のほうがもっとヤバイ状況だったんじゃないでしょうか? 日露戦争(1904開戦)当時ったら、ついこの間まで江戸時代 八幡製鉄所の操業開始(1901年)したのが一昨々年で 東京に電灯が設置されてから15年 一般庶民の暮らしは「野麦峠」の世界だから、戦争なんかしなくたって国民のほとんどが極貧 昼飯に饅頭食うような贅沢は都市部の恵まれた住人で、田舎の貧農は娘売って一日一食の食事を浮かすありさま (363 241) 太平洋戦争末期の日本は、饅頭すら満足に作れなかったんだが… (砂糖が無い、餡子が無い、小麦粉が無い…) (363 242) 饅頭は贅沢品だから(小豆はともかく砂糖が高価)あんまり食べられないけれども, 雑穀飯が3度3度食えないほどには貧窮してないと思うぞ.今古い資料を見てみたけど, 1909年当時でひとりあたま一日2000kcalちょっとは消費してる.老人や女子供込みで. だから成年男子だったら2500以上は食ってるだろう. 田舎の貧農は娘売って一日一食の食事を浮かすありさま これは昭和恐慌のときの話.それ以前にはありえないほどひどい有様だったから 青年将校を含む多くの人間の憤激を買ったわけで.もちろんそれ以前にも 何らかの不幸により売られた娘はたくさんいただろうけど,社会現象という ほどじゃない. 太平洋戦争末期の日本は、饅頭すら満足に作れなかったんだが・・・・ だが実は最悪だったのは戦争末期よりは戦後すぐだったりする.45年に入ると 実は政府は既に戦争に勝利することをあきらめて,軍需物資よりも消費財の生産を 増やしてたりする.しかし戦争が終わると統制の緩みや配給制度の崩壊などで 状況が更に悪化してるんだよな.引き揚げてきた連中にも食わす必要があったし. (363 344) 日露戦争の時の三笠って当時はイギリス本国のものと比較しても最新鋭の戦艦だったんですよね。最新鋭の艦を売るようなまねを何でしたんでしょうか? 一つは、日英同盟による売却です。 もう一つは単純に商売としてのもの。 最新鋭戦艦を数隻保有していても、英国の方が数的に勝っているので、然程影響 が無いとの判断でしたし、自国で建造したものであれば、弱点は全て分かっていますから 対策も採りやすい。 最後が、新装備のテストとしてのもの。 自社開発したものが、自国の海軍で制式配備されるかどうか、使えるものであるか どうかをテストする為もありました。 (553 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 三笠は日本海海戦時に多くの敵弾を受け100人以上の士官、水兵の犠牲を出しましたが、その際の三笠の被害状態はどの程度のものだったのでしょうか? 日本海海戦の際に「三笠」は敵艦隊の砲撃の的となって 30.5センチ砲弾10発、15.2センチ砲弾21発を被弾しています。 このうちの30.5センチ砲弾1発によって後部マストが切断されました。 その他煙突なども穴だらけになったものの、外見上よく分かる致命的な破損は受けていません。 (580 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 日露戦争でロシア軍はまだまだ戦えたといいますけど、ならなんで朝鮮半島を諦めたのですか? ポーランドの内乱ぐらいで大国ロシアの戦争継続能力がゆらぐとは思えないのですが 血の日曜日事件を調べましょう。 これを契機に国内いたるところで暴動が発生して、とても戦争を継続できる状況じゃなくなったから。 (587 697) 最終的に日本を屈服させなければ朝鮮だけ取ったところで意味がないから。 ロシアが朝鮮を欲しがったのは貿易に必要な不凍港を欲したからだが、 朝鮮半島から太平洋に出ようにもそれを塞ぐ形で日本列島が立ちふさがってる。 (当時の日本は日本列島を千島から台湾までの領有していた) これじゃあトルコにダーダネス海峡を塞がれた黒海と同じじゃないか。 もちろん、朝鮮を足がかりにして日本を攻撃してもいい(日本はそれを懸念して日露戦争に踏み切ったわけだ)。 しかし、日本海を渡ろうにもロシアのバルチック艦隊と極東艦隊が壊滅してしまって、日本海軍は健在。 しかも後ろには米英がついてる。英は黒海を塞ぐクリミア半島で何度も何度もロシアの南下を阻止してきた。 これじゃあ、無理じゃねって思うよ。 (587 モッティ ◆uSDglizB3o) なんで日露戦争にロシア側として動員された兵士はポーランドやフィンランド出身のものばかりなんですか? わざわざ地球を半周させなくても、中央アジアあたりから徴用したほうが輸送コストがかからないんじゃないですか? ロシア語がわかんないと命令を聞かせられない。 わざわざ教育するのは面倒だし。 それに彼らは「辺境の現地民」であって、徴兵するような「国民」では なかったから。 (333 921) 日露戦役で挺身部隊への補給はどうのように行ったのでしょうか? 書籍やネット上では活動内容の情報は得られましたが、補給について詳しく記載された資料は見当たりませんね。 所持する日露戦役のDVDの中で部隊が敵後方の村で宿営するシーンが有りました。 現地人に変装した日本の軍人が部隊を出迎えて宿と食糧の手配をしています。 そこからの推定になりますが、事前に敵後方に複数の人員を派遣して挺身隊の支援活動をしていた思われます。 本来の彼らの任務は情報収集でしたが、これらの活動もしたのでしょうね。 DVDの題名は「敵中横断300里」です。同名の小説も有ります。詳しく知りたいのなら入手されてはいかがですか。 (602 不動産屋のオッチャン ◆UMCByHJxYk) 日露戦争で、日本海軍に津軽海峡を機雷封鎖する意思と能力はあったのでしょうか バルチック艦隊が対馬海峡を通ってウラジオストックに向かった理由の一つに、 津軽海峡は日本海軍が機雷封鎖している可能性が高い為だと聞きました。 津軽海峡で機雷戦…て日本はやる気満々でした。 運送船韓崎や駆逐艦山彦など、敵前強行敷設を担当する船も手配済みの状態で待ち伏せてました。 (325 携帯鷂 ◆exxupUqotM) 下馬戦闘しかしていない秋山好古の部隊はとうてい騎兵とは言えないのではないでしょうか? 日本陸軍の騎兵は偵察捜索が重要任務で、秋山支隊は偵察捜索隊も出し、 さらに撹乱の為に中隊規模の挺身隊まで出しています。 司馬氏の騎兵に対する捉え方はわかりませんが、 騎兵の強襲戦は南北戦争や普仏戦争で失敗か、大損害を受けて成功した例しかありません。 それを陸大で学び、フランス留学した秋山少将が分からない筈がないでしょう。 騎兵が可能な事は捜索、ごくまれに機会があれば強襲、機動に勝れば奇襲。 ただ、日本陸軍は兵力不足でしたから、黒溝台では左翼貼り付け配置になり、 結果的に陣地戦になったのでしょうね。 奉天戦では機動力を生かしてロシア軍背後の脅威になっています。 (607 57) 橘中佐は何が偉くて軍神になったのでしょうか。先頭に立って突撃したからですか? 遼陽会戦に於いて、敵堡塁に突撃、自ら塹壕に飛び込んで敵兵を斬り伏せ、血刀掲げて部下を叱咤激励した。 しかし、兵力差、火力差は如何ともしがたく、兵士の大半を喪い、少佐自ら左腕に敵弾が命中したが、怯まずに軍刀を尚振りかざし、 部下を励まして、遂に目的の高地を奪取し、頂上に国旗を掲げた。 これを回復せんと、ロシア軍が攻め込み、脇にいた内田軍曹が撤退を薦めるが、これを聴かず、「一旦占領した堡塁を敵手に渡すな」 と、大声で叫ぶと、敵の攻撃を二度、三度退けた。 その三度目に、少佐は肩に弾丸を受け、昏倒。 内田軍曹は慌てて塹壕に彼を引き込んだが、更に軍刀を杖にして立ち上がろうとした。 そこで、軍曹は少佐を背負って険しい道を駆け下ったが、激しい銃撃で、双方共弾丸を受け、その場に昏倒。 しかし、敵兵の突撃が迫る。 少佐は、「多くの兵を喪いながら、占領した陣地を取り返したのは残念だ」と述べ、「今日は皇太子殿下の誕生日。 このめでたい日に戦死するのは軍人の面目だ」と譫言を繰り返したという。 瀕死の軍曹であったが、少佐を背負ってなお自陣に戻ろうとして少佐の馬丁に出会い、遂に帰還を果たすも、 同日、両方とも死亡。 その少佐の勇敢無比な行動と壮絶無比な最後が、広瀬中佐と並び称せられ、軍神と言われるようになった。 (318 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日露戦争で日本海軍に使われた艦艇は全部、日本で作ったものではなくて外国産なんでしょうか? いいえ。 例えば対馬級防護巡洋艦は国内で建造されました。 つhttp //homepage2.nifty.com/nishidah/stc0316.htm 埋めがてら補足すると日露戦争期には小型巡洋艦が国産化され 明治末期から主力艦の国産が始まってます。 (317 991,996) 日露戦争において、世界の政治家や軍人達が得ることの出来た教訓のようなものはあるのですか? 「日露戦争で欧米列強陸軍が得た戦訓としては, 1. 重機関銃を陣地防御の要とする. 2. 敵陣突破の決め手は榴弾砲,とくに15cm以上の榴弾砲,10cm以上の加濃砲といった重砲の集中使用にある 3. 有刺鉄線の防御効果は絶大である. と言うもので,各国は重機関銃,重砲の開発,大量配備に躍起となり,陸戦力の主力兵科となりました.」 「戦訓としては日露戦争の日本海海戦(対馬海戦)が各国海軍に決定的影響を与えた。 最大の戦訓として採り入れられたのは、前半の主力艦同士の決戦だった。 ここから生じた結論は海戦では戦艦が決定的な役割を果たし、 その他は主要な砲戦に参加することができないというものだった。 そしてその他の艦は一括して補助艦艇と呼ばれるようになった。」 下記を参照ください。 http //www6.atwiki.jp/army2ch/pages/285.html 下記、海の戦いを参照ください。 http //ww1.m78.com/honbun-2/naval%20warfare.html (663 霞ヶ浦の住人 ◆ORAm06ellg*一部修正) 山本五十六長官が日露戦争当時に中指と人差し指を失う重傷を負ったのに、除隊にならなかったのはなぜでしょうか? ぎりぎり、除隊基準まで行かなかった。もう一本失ってたら、除隊だった。 (292 546) 日露戦争の旅順要塞戦で、日本軍の野砲は効果があったんでしょうか? 殆ど、効果はありませんでした。 この原因として挙げられるのが、砲弾です。 日露戦争では榴弾1発につき、榴散弾6発の割合で補給されました。 現場では、「榴弾寄越せ、ヽ(*`Д´)ノゴルァ(意訳)」だったのですが、陸軍中央では、その実態を把握せず、 平坦地であろうが要塞であろうが、榴散弾偏重で、生産が行われていました。 榴散弾は時限信管で前方に中の子弾を飛散させるもので、榴弾が着発または時限信管で弾体そのものを 破裂させてその破片による殺傷効果を全周に渡って及ぼすのに比べ、調定に失敗すると子弾の飛散範囲 が小さくなったり、威力が落ちたりします。 また、地上に落ちて起爆すると、前方にしか子弾が飛ばないので、意味がありません。 こうしたことから、野砲の砲撃は、余りにも効果がありませんでした。 しかも、1904年5月の南山の戦闘で消費した砲弾は2日で3万発。 これは、開戦前に見積もった数値の半年分、砲弾生産量の3ヶ月分で、9月には備蓄砲弾が底を突いて いますから、砲撃もおいそれと行われなかったので…。 (小銃弾の補給も追いつかず、石つぶてを投げたと言う話もあったりしますが) (255 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本海海戦は、丁字戦法で勝利したのでは無いって言われたんですけど、本当ですか? 丁字戦法をとった場合、艦隊の末尾方向に進路を取られると、 頭を押さえられなくて逃げられるということが黄海海戦で何度かあった。 当時の日本艦隊は、バルチック艦隊がウラジオストックに 逃げこむことを一番おそれていたし、バルチック艦隊もそれを 目指していた。 だから、綺麗な丁字型を描かず、艦隊の末尾方向に逃げられないような 進路をまずとってからターンをした。 その動きを丁字戦法と解釈するか、それとも絶対にウラジオ方面に 逃げられないように敵艦隊の頭を押さえる動きと解釈するかは、 解釈する人次第。 こんな動き。 http //www.z-flag.jp/suigun/naval/tsushima_war.html だいたいの戦闘は同航戦なのは確か。 (246 32) 日露戦争の旅順攻略戦で日本軍は機関銃に苦しめられたとのことですが、これは後の軍に影響を与えましたか? その戦闘を観戦した武官の報告により、英国以外の欧州各国は、その導入に邁進しました。 それには、日本も例外ではありません。 例外が米国と英国で、米国は1916年に至るまで、ルイス機関銃の試射さえ拒み続けましたし、 英国は、1914年段階で、歩兵大隊に2丁の機関銃が割り当てられていたに過ぎませんでした。 詳しくは、「機関銃の社会史」というそのものずばりの本が、平凡社から出ていますので、ご参照 いただければ宜しいかと思いますよ。 (236 眠い人 ◆gQikaJHtf2) ポーツマス講和条約が締結されなかった場合、日露両軍はどんな作戦を採るつもりだったんでしょうか ロシアについては、長春、哈爾浜方向に日本軍を誘導し、補給線を切断、更に、 補給が途絶えたところで一気に攻勢を掛け、日本軍を追い落とすと言う、朝鮮 戦争の状況を考えていたみたいです。 日本については、満州方面では持久戦を何とか行い、優勢な海軍力を利用して、 樺太を占領後、浦塩を占領すべく、兵力を動かすと言う感じだったか、と。 どちらにしても、これ以上の攻勢は掛けられませんでしたが。 (235 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日露戦争(とそれ以前の戦争)では兵士達が夜には酒を飲み交わしたというのは本当なんでしょうか? 日露戦争で日本が国力をぎりぎりまで注いだのは正しいが 総力戦といわれるとそれは違う (俺初質スレ436 331) ロシアは革命が起こりそうだったんで(国力の)全力は出せてないし 日本は経済がヤバくなるんで(国力の)全力は費やしていない (俺初質スレ436 333) 日露間だけの出来事とはいえ総力戦の様相を呈した初めての戦争だったわけですが第一次世界大戦から何故そういったことが無くなったのですか? 戦闘の合間に両軍が戦死者の遺体を収容する時間があって、その時は戦闘も停止して酒を酌み交わしたと言われてる 一次大戦でも最初は互いの偵察機が挨拶したり、ほのぼのしてたが途中から拳銃で撃ち合いやレンガの投げ合いになり、後半は飛行機に機銃積んで撃ち合った 潜水艦の通商破壊も、当初は攻撃前に警告して船員を避難させてから攻撃した 日露戦争や南北戦争は、一応総力戦の萌芽とは言われる だが本格的な総力戦になると、そんな余裕はなくなり殺伐としたものになる (俺初質スレ436 334) 総力戦かどうかの違いは、国民の戦争参加の度合いだ 従来の戦争は政府と軍だけで戦争して国民は無関係だったが、総力戦では国民も無関係ではない 戦時動員で平時の数倍の生産力を求められ、産業動員で軍需工場で働いたり、都市が空襲されたり 徴兵で訓練済みの兵だけでなく、根こそぎ動員で未訓練の兵まで短期訓練で戦地に行く 統制経済によって、産業は軍需一辺倒になり、物流や資源は戦争遂行に最優先で投入される 国家全体国民全体が軍事最優先になるのが総力戦だ (俺初質スレ436 337) 日露戦争の黄海海戦のロシア艦隊は燃料不足になっていて、ウラジオストックまでたどり着く見込みは絶無だったというのは本当なのでしょうか。 明確に嘘 「ツシマ」も「もうひとつのツシマ」も邦訳出版されているから 読んでおくべきだと思うぞ(邦題は違うが検索すれば多分ヒットする) (俺初質スレ436 482) そんな話は信頼できる資料には出てこないな。 大体、ロクに活動してない旅順艦隊がなんで 石炭不足になると思うのかが良く分からん。 (俺初質スレ436 483) 仏印で補給してるし、上海に給炭艦回して買い込んでるぞ。 (俺初質スレ436 484) お前ら、黄海海戦と日本海海戦を勘違いするなよ? 日本海海戦の話なら石炭不足で津軽海峡や宗谷海峡 のルートが取れなかったのは事実なんだからな? (俺初質スレ436 485) 482はバルチック艦隊と旅順艦隊とを混同していませんか? 黄海海戦で戦ったのは旅順艦隊です。 「ツシマ」、「もうひとつのツシマ」はバルチック艦隊の話で、 旅順艦隊の詳しい話が載っていた覚えはないのですが、私の記憶違いでしょうか。 旅順艦隊に所属している多くの軍艦の航続距離では戦闘を行って旅順からウラジオまで たどり着くのは難しいと聞いたのですが。 実際に「ノーウィック」は燃料切れで補給のためにコルサコフに立ち寄り、そこで撃破の憂き目を見たそうですが。 間違いでしょうか。 484によると旅順艦隊は仏印で補給を受けたとのことですが、どうやって受けたのでしょうか? まさか旅順から遥々仏印まで行き、それからウラジオへ? (俺初質スレ436 486) 旅順艦隊の動向はバルチック艦隊の面々の関心の的でもあったので 各所に分散して折に触れ記述があるよ (俺初質スレ436 487) 旅順からウラジオストックまでの海路は1100マイル ぐらいしかないので航続距離は十分足りる。 ノーウィックが石炭切れになったのは 単艦では対馬海峡が突破できないから 東シナ海から太平洋に出て宗谷海峡経由で帰る というとんでもない遠回りを強いられたから。 (俺初質スレ436 488) 日露戦争において日英同盟は役に立ったのですか? 立った (俺初質スレ436 913) 具体的には? 戦ってたのは日本だけでイギリスは何もしてないのでは 別に直接戦う必要はない 戦争中はイギリスがロシアに協力しないというだけで影響は出てくる 例えば石炭などをイギリスやイギリス植民地から輸入できないとか、イギリス植民地に艦隊が寄港できないとか 日本の国債を買ってもらったり、日本の戦艦をイギリスで建造購入したりなど 逆にロシアはイギリスから軍艦の購入はできない (俺初質スレ436 918) イギリスがロシアと軍事衝突すると、フランスとの戦争にまで繋がりかねないので。 これが交戦状態になってたら、日本が返済できる金利での日本国債の購入やバルチック艦隊 回航に見られるような、中立国へのえげつない外交圧力が出来なくなったかと。 あとバルチック艦隊が日本艦隊と誤認してイギリス漁船を砲撃したりはしてますけど。 (俺初質スレ436 919) 有名な「坂ノ上の雲」もバルチック艦隊に関する記述は、ほぼ「ロシア海軍残酷物語」だしな。 (俺初質スレ436 920) 外債募集のチャンスはロンドンで与えてる、日露戦争の戦費の大半はここで調達した外債頼み アルゼンチンが手放した巡洋艦2隻をロシアが買う前に買わないかと通報、日本が競り勝ち この2隻は日本海海戦でも重要な役割を果たす バルチック艦隊を出港から英海軍がちくいち見張ってる、 しかも出港直後、確認ミスで英漁船をさせ英国世論、ひいては国際世論をロシア不利に誘導 航路においてもフランス他に石炭補給やめろの圧力、これが日本海海戦の帰趨にかなり大きく影響したのはご存知 あまり出回ってない情報だがバルチック艦隊のコース逐一日本海軍に通報の援護 最終的には自国の国益のためとはいえ、ぶっちゃけ日英同盟本文や通例の同盟国の範疇を超えて協力してる、それが大英帝国 ボーア戦争以後栄光ある孤立を捨てて最初に選んだ同盟国・日本への義理堅さもあったかもしれない (俺初質スレ436 921) もっとも日本海海戦以後は英国も当時の例外ではなく 黄禍論的な沈鬱なムードに染まっていくけどな、 日本海海戦勝報にさぞ同盟国のロンドンっ子は喜んでるだろうと街に繰り出した孫文が見て残した日記が有名 風刺画だけで上下巻の本になってるから読んでみ、その量に圧倒されるから (俺初質スレ436 922)
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716. earth 2011/10/28(金) 00 21 37 憂鬱とは異なる火葬戦記ネタです。即興のネタですのでご容赦を。 西暦1948年、世界の半分がドイツ第三帝国の版図に組み込まれていた。 彼らの勢いは日を増すごとに増していき、それはインド洋、さらに太平洋にさえ及び始める。 「開戦も已む無し」 御前会議の席での陛下の決断から世界で残された数少ない自由主義国家であり、昨今、成長著しい日本帝国はドイツ第三帝国との 総力戦に突入することになる。 だがその過程を見ていた陛下は非常に心苦しい思いであった。 陛下自身の大決断の数々によって日本は『電算機』の向こう側にあるとされる『史実』と呼ばれる並行世界と違って、対米戦争を することなく平和を謳歌していたのだ。 その平和が崩れるというのは、陛下にとって苦しいものだった。 そして同時に、ドイツ第三帝国の史実以上の躍進は陛下にある確信を与えていたのだ。 そう、彼らもまた自分と同じように『電算機』、向こうの世界の住人から言わせれば『パソコン』を、それも向こうの世界と交信 することが出来るものを持っていることを。 ネタSS『今上陛下が某巨大掲示板に降臨されますた』 『それ』が現れたのは陛下が即位される前だった。 目の前に突如として現れた『それ』に、最初は驚いたものの、何かの声に導かれるように『それ』……『電算機』の使い方を 学んでいった。 そして、『いんたーねっと』に接続して情報を集めた結果、その果てに向こうの世界が自分達の未来の世界であることを陛下は 知った。勿論、日本帝国がこのままでは滅ぶことも。 陛下は苦悩した。だがこのまま指を咥えてみているわけにはいかない。陛下は向こうの世界で評判の良い軍人や政治家などと 密かに協力し、未来を変えるべく動き出した。 最初は失敗もあったが、向こうの世界の『掲示板』の住民の情報や意見を参考にした結果、この世界は変わり日本は豊かになると 同時に、対米戦争を避けることが出来た。 だが事態はそれで終らなかった。 ポーランド侵攻以降、破竹の勢いで進撃を続けたドイツ第三帝国は、イギリス本土を陥落させ、さらにソ連さえもウラル以東に 追いやった。 勿論、これを傍観することを良しとしなかったアメリカ合衆国は1943年にドイツに対して宣戦を布告。全力でドイツ打倒を 目論んだ。だがその結果は無惨なものだった。 ドイツ軍が開発した超重爆撃機が投下した原子爆弾によってワシントンDC、ニューヨークを含む東部主要都市の幾つかが 灰燼に帰したことで、アメリカの戦意は一気に崩れ、アメリカは呆気なくドイツと屈辱的な講和を余儀なくされることになる。 そして増長したナチスドイツは、太平洋にまで勢力を拡大しようと目論んだのだ。それもドイツは日本に対して屈服を要求した。 「『我が闘争』から、ナチスドイツが我々を対等な相手と見做していないのは明らかだ」 「中華民国はドイツと接近して、我々を挑発してきている。これ以上は放置できない」 「ドイツ討つべし!」 国内ではドイツ討つべしとの意見が強まった。 一方で陛下を含めた同志達は、このドイツの強さから、ドイツにも自分達と同じような存在が居るのではないかと考えた。 故に開戦には慎重な意見が多かったのだが大勢を覆すには至らない。 そしてさらに日本とドイツの戦争をアメリカ、ソ連、自由イギリス政府などが煽り立てた。ドイツの脅威を少しでも減らすためには 昨今、驚異の成長を続ける日本を利用するしかなかったからだ。 「海軍、陸軍はインドでドイツ軍を迎え撃ちます」 改大和型戦艦、改大鳳型空母を擁する連合艦隊が、五式中戦車などの強力な戦車を保有する陸軍戦車師団が次々に展開を開始する。 そして弾道弾を装備した伊400も行動を開始する。 日本とドイツ、この二大新興帝国の戦いの幕があけようとしていた。
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シミュレーションゲーム 137 名前:水先案名無い人 :2007/08/18(土) 08 45 28 ID 0Feli7cK0 全シミュレーションゲーム&シミュレーションRPG入場!! 虎戦車は生きていた!! 更なる研鑽を積み第三帝国が甦った!!! 軍神!! アドバンスドワールドウォー千年帝国の興亡だァ――――!!! ヘックス式SLGはすでにシステムソフトが完成している!! シリーズ元祖 現代大戦略だァ――――!!! ゲーム開始しだいヘンテコ軍艦を作りまくってやる!! 海戦ゲーム代表 鋼鉄の咆哮だァッ!!! SLGの作りあいなら人類の歴史まで再現する!! 至高のゲーム! シド・マイヤーズ シヴィライセージョン!!! 真のFE後継作を知らしめたい!! ユトナ英雄 ティアリングサーガだァ!!! 1人プレーでも充分おもしろいがオンラインなら全世界オレのものだ!! マイクロソフトの鉄拳 エイジ・オブ・エンパイアだ!!! やりこみ対策は完璧だ!! 全日本一柔(ソフト)ウェア 魔界戦記ディスガイア!!!! 全SLG中のシンプルイズベストは私の中にある!! SLGの異端児が来たッ ロード・モナーク!!! タイマンなら五分五分で負ける!! スレン王のケンカ見せたる 迷作代表 ボコスカウォーズだ!!! ロボット大集合(なんでもあり)ならこいつがおもしろい!! バンダイのピュア・ファイター スーパーロボット大戦だ!!! アルマムーンからバカ王子が上陸だ!! リアルタイム! 半熟英雄!!! 生産の無いSLGがしたいから月面を舞台にしたのだ!! ハドソンのケンカを見せてやる!! ネクタリス!!! 慰安じゃなくて慰労とはよく言ったもの!! 連合艦隊の新型爆弾が今ワシントンでバクハツする!! Wシブサワ流シミュ術 提督の決断だ―――!!! 地震に火山にハルマゲドンが地上最強の代名詞だ!! まさか神様がきてくれるとはッッ ポピュラス!!! 国取りゲームを作りたいからここまでまで来たッ 続編・外伝・多すぎて不明!!!! アイデアファクトリー スペクトラルフォースだ!!! スクウェアはRPG最強ではないロボットゲーでも最強なのだ!! 御存知ヴァンツァー フロントミッション!!! 大人気イィィィィィいッ説明必要!! 2週間で100万本!! 全世界で500万本!!! ウォークラフトだ!!! 説得は幕末で使えてナンボのモン!!! 超連打ゲーム!! 本家コーエーから維新の嵐の登場だ!!! 全ての女はオレのもの 邪魔する男は思いきり殴り思いきりランスアタック!! 成人ゲーム統一王者 鬼畜王ランス! モテモテを試しに太正時代に来たッ!! キャラ萌え全SLGチャンプ サクラ大戦!!! パロディーに更なる磨きをかけ ”ライトゲーマー切り”パロウォーズが帰ってきたァ!!! ハドソンのSLGに生産は無い!! 射手座の日の元ネタ アースライト!!! 中国四千年の歴史が今ゲームになる!! コーエーから三国志だ!!! 住民の前でならオレはいつでも聖人君子だ!! 燃える松野 伝説のオウガバトル クエストから登場だ!!! ハーンの仕事はどーしたッ オルドの炎 未だ消えずッ!! 戦争も子作りも思いのまま!! 蒼き狼と白き牝鹿だ!!! 誰でものめりこめる! こいつはどえらいシミュレーションなのは当たりまえ!! 母ちゃんたちにはないしょだ!!! 任天堂開山! ファミコンウォーズが出てくれた―――!!! スウェーデンで磨いた大戦ゲーム!! 政治レベルのデンジャラス国際情勢 ハーツオブアイアンだ!!! ガンダムゲーだったらこのソフトを外せない!! 超A級キャラゲー ギレンの野望だ!!! 超一流シリーズの超一流最新作!! Wii棒振ってオドロキやがれッ ファイアーエムブレム!! 暁の女神!!! 戦車バトルはこのゲームが完成させた!! RTSの切り札!! サドンストライクだ!!! 最強の王者が帰ってきたッ これで何作目なンだッ コーエーッッ 俺達は殿を待っていたッッッ 信長の野望の登場だ――――――――ッ 加えてSRPG不足に備えリザーバーを4名御用意致しました! 召喚システム サモンナイト!! うるし原キャラ ラングリッサー! 夢の共演! ナムコクロスカプコン!! ……ッッ どーやらもう一本はオウガと酷似している様ですが、到着次第ッ皆様にご紹介致しますッッ 関連レス 141 名前:水先案名無い人 :2007/08/18(土) 09 48 49 ID aRdPczPh0 ティルナノーグとかヨーロッパユニバーサリスとかヴィクトリアもほしいなあ 172 名前:水先案名無い人 :2007/08/20(月) 12 20 05 ID sahtGRXV0 137-140 『肉体の粗野な欲望を克服せよ』 は、ともかくCivとネクタリスとポピュラスとファミコンウォーズが入ってるとは。 一応Sim CityやSim Earthなんかの箱庭系は除外? 205 名前:水先案名無い人 :2007/08/25(土) 22 33 25 ID ecZLMfvC0 172 箱庭や育成シミュレーションはあまりやったことが無いんですよ だから無理に入れて間違いがあるとまずいと思ったんです。 よかったらシムシリーズとかA列車とかのネタで一本書いてみませんか? コメント 名前
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しおすおうこく フィルアデス大陸南方、アルタラス王国の東にある文明圏外国の島国。面積はアルタラス王国に比べずっと小さい(北海道程度)。交易の中継地として栄える貿易立国で、第三文明圏の商人たちも多く訪れる。ロデニウス大陸とも交易はあり、ロデニウスの3カ国はいずれも重要な貿易相手らしい。 日本に対してはロウリア王国敗北以降は好意的であり、大東洋諸国会議ではトーパ王国と同じく『日本は文明が進みすぎているだけであり、攻撃しない限りはなにもしてこないし理不尽な要求もしてこない。さらに関わるだけで技術水準が上がる』という意見であった。 なお、ロウリア敗北後のかなり早い段階で日本と国交を結んだらしく、アルタラス島の戦い時点で自衛隊基地が存在する。後のアルタラス王国のルバイル基地と同じくムーの空港を改修したもので、ゴーマ空港基地と呼ばれている。アルタラス島や皇都エストシラントのパーパルディア皇国軍基地を空爆したF-2やBP-3Cは、ここから出撃した。 ただし、グラ・バルカス帝国連合艦隊の日本侵攻に際しては、基地建設に賛同したとはされておらず、あくまで一時使用許可状態であると思われる。 元々は、パーパルディア皇国に服従している様な立場で、皇国からの要求を常に受け入れていたが、日本との国交樹立後は一気に強気な対応をしており、第3外務局の職員が憤慨している場面もある。 コミカライズ版では、海岸間近に建てられた宮殿と大規模な温室が立てられており、シオス王と大臣の姿が描かれていた。 また、早い段階で日本との国交が築けた理由としてパーパルディア皇国との関係調整が上手かったことが上げられていて、目を付けられていなかったらしいことが挙げられていた。 関連項目 登場国家|アルタラス島の戦い ※既存のコメントに返信する場合、返信したいコメントの左側にチェックを入れて下さい。 過去のコメント 何で空自の基地あるんだと思ったけど元はムーの空港だったのか -- AGM-88 (2018-01-05 00 06 52) 奴隷などの無茶な要求をしないで高度な知識や技術が手に入るのならば好意的にもなりますよね。 -- 名無しさん (2018-01-05 07 22 42) ムー「空港あげるよ」 日本「ありがと、すぐ改修だ!」 シオス「あの、国交を・・」 -- 名無しさん (2018-01-05 07 33 23) シオス「観光地ゲ~ット」 -- 名無しさん (2018-01-05 07 50 00)位置的にスペインのマヨルカ島っぽい感じもせんでもない。インフラが整えば観光立国でやっていけそう - 名無しさん (2020-10-09 01 45 48) ↑*2日本がムーに空港の使用許可を求めたとき、空港がある国にも権利があると言っていたから、国交樹立は不可欠と思われる。 -- 名無しさん (2018-01-05 08 17 50) 豊かで新鮮な海産物が期待できそうな国名 -- 名無しさん (2018-06-28 18 13 07) あまり目立ちませんが、アルタラス島と共にエストシラント空襲の拠点となった重要な国です。 - 名無しさん (2018-06-29 00 11 47) ↑×6 企業奴隷ならありまっせww - 名無しさん (2018-11-17 10 53 46) シオス王国にそんな描写無いぞ。少なくとも「www」ってドヤる話では無いね - 名無しさん (2019-03-13 03 32 33) 木主が返信している↑×6の「名無しさん (2018-01-05 07 22 42)」はシオス王国について一言も言及していないぞ。少なくとも語気強く半ば咎め立てするような口調で突っ込む話ではないね。 - 名無しさん (2019-03-27 09 01 14) ああ、塩酢王国と胡麻基地なのか - 名無しさん (2020-05-20 23 52 29) 王様の髪型が… - 名無しさん (2021-04-14 17 30 08) シオス王国南島海水浴日本国お客様良いところ - 突然掩うし (2021-05-29 21 01 08) 王様自ら如雨露を手に鉢植えに水をやっとる - 名無しさん (2021-06-08 18 10 57) 趣味であろう植木に水やってるだけだろ。それを言ったらドラクエ4では自ら畑耕してる王がいるし、リアルでも天皇陛下は自ら田植えをなさる。 - 名無しさん (2021-06-09 23 01 41) 大切なものを人任せにせず自ら率先してやる立派な王様だよ - 名無しさん (2021-06-23 15 40 20) 名前 ここを編集 〔最終更新日:2020年10月14日〕
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875 :第三帝国:2012/01/21(土) 23 40 24 ユリアンの日記 宇宙暦79×年 11月某日 ニホンへ引っ越すことが決まった、それを機会に今後日記を記そうと思う。 今から7年前、同盟が「もっとも古く、新しい国」と出会った際の騒動はよく覚えている。 というよりも、あまり仲がよくなかった祖母が僕に嬉しそうに語っていたからかもしれない。 しかし、僕はここで印象は残っていても、 知性的な意味でニホンについては無知に等しいことに気づいて、 とりあえずニホンに行ったことのあるヤン准将にニホンについて聞いてみた。 「驚きの連続だったね」 「准将でも驚くことがあるのですね」 「おいおい、私をなんだと思っているんだい」 首から下は不要の人、と答えたら先輩め、と苦笑しつつ何冊かの書類を僕に渡した。 どうやら軍が纏めたレポートらしく堅苦しい印鑑が押してある。 機密上まずいのではと言ったけど、どうやらヤン准将が独自に纏めた資料らしく、公開してもよいものらしい。 「准将も働く時があるんですね」 「いや、これは趣味だよ」 准将は怠け者だった。 宇宙暦79×年 11月某日 宇宙船では准将やその他の人々と一緒に3次元チェスをして時間を潰している。 思えばこの年の春に准将の家に引き取られてから随分駆け足で楽しい生活だった、いや、であるだ。 「ん、どうしたユリアン」 「いえ、なんでもありません」 宇宙風が強いらしい。 随分と揺れる、気持ち悪い。 876 :第三帝国:2012/01/21(土) 23 41 26 →875の続き 宇宙暦79×年 12月某日 驚きの連続だ。 イゼルローン並みの要塞、いや宇宙船。 さらには各種防御施設、書類で事前に知ってはいたけど改めて見ると凄い。 難航不落の要塞地帯とはこのことかもしれない。 だからだろうか、僕はつい准将に尋ねてみた。 「准将ならどうやってここを攻略しますか」 「うん、残念だけど前提として敵対する方が間違っているかな。 戦史上二正面作戦で成功を収めたケースは極めてまれだからね。 それにこれじゃあ、イゼルローンと違い移動宇宙船を中から攻略して他の防衛施設が残っているから少し難しいな」 凄く参考になった 宇宙暦79×年 12月某日 今日ほど初めてと驚きの連続はなかっただろう。 ぼくは同盟から派遣された近年有力な軍人の非保護者ということで、 ニホン側の人と初めましてと挨拶だけでで一日が終わった、 驚いた点について特に印象に残るを取り上げると。 まず、なんといっても惑星周囲に浮かぶ港の巨大さ。 今まで立体TVや写真で見ていたけど、やはり実物が与える印象は違った。 今日はもう遅いので、 一度港のホテルで一泊してから、明日帝都に降り立つ。 非常に楽しみだ。 宇宙暦79×年 12月某日 帝都にある同盟の大使館近くにある、一軒家がぼくと准将の新しい住居だ。 なんでも、ニホンの貴族が所有していたと言われる家で部屋の飾り、彫刻の一つ一つが見事なものだ。 それと家に来てから、ヤン准将の気分は大変よろしいらしいからそのわけを聞いてみた。 「僕の給料ではこんな家は買えないからね」 そう言いつつ、部屋の飾りを食い張るように眺めていた。 それ以外の理由があったのはのは明確だった。 宇宙暦79×年 12月某日 ニホンの首都、いや帝都はコンクリートジャングルな同盟の首都と違い、 建築制限がされた銀河帝国首都のようにどこか古く、同時に緑豊かな場所だ。 今日はヤン准将の付き添いで、連合艦隊最高司令長官ことシマダ大将と対面した。 同盟にいたころ時からインフラネットで随分と騒がれたから知ってはいたけど、実際の人物はすごく美人だった。 見た目歳は15、6程度で背は150センチ程。 眼はグル―ン、髪は黄色、というより黄金と表現していいほど見事な金髪だ。 擬体を使用しているらしいけど、生身の人間との差が見えない。 ニホンの貴族階級出身らしいけど、気さくで、冗談も言うしすごくいい人だった。 ただ、そんな彼女が50歳超えた人であると思うと少し残念な気持ちに襲われる。 「君がユリアン君か?なるほど、いい眼をしている。」 自分より少し背丈小さい少女?から年上のような言葉を投げかけられるのは違和感を覚える。 その後、将来は軍人になりたのか?と問われた時ぼくは、はいと答えて。 「それは法に定めた義務にしたがってか?」 シマダ大将の反応はこちらを探るような感じだった。 だからぼくは堂々と自分の本心を打ち明けた。 「ヤン准将の傍にいたいからです」 そしたらシマダ大将はおもしろそうにぼくを見て微笑んだ。 その姿がなんというか、凄く様になっていたから正直どきり、とした。
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608 :ひゅうが:2011/12/10(土) 01 05 22 →590 支援というか、ネタですw ――西暦20XX年 12月8日 「平成世界」東シナ海 「結局こうなるのか・・・」 「まぁ・・・あの国ですから。」 超大型原子力空母「大鳳(Ⅱ)」の艦橋で嶋田繁太郎元帥は溜息をついた。 はじまりは、あの時空のトンネル連結だった。 東京湾の庭先に繋がった時空トンネルの向こう――平成世界は、嶋田たちのいる21世紀の「昭和世界」の存在によって大混乱に陥った。 それはそうだろう。アメリカ合衆国とソ連、そしてロシアという超大国は第2次世界大戦の結果崩壊。中華人民共和国などという存在は影も形もなく中華世界は実に7つに分かれて慢性的な内乱状態である。 世界人口も21世紀を迎えながらも30億で横ばい状態であった。 これを見た人口問題に悩み、経済的混乱から戒厳令寸前の状況だった某大国は「日帝には我々を援助する義務がある」という軍部や民間の圧力に抗しえず、屈服を迫った。 彼らとしては、人口希薄地帯である旧合衆国や中華大陸への入植に加え、経済援助を要求するつもりだったのだろう。 が、それに平成日本の左派市民団体と、相も変わらず邪魔ばかりする某半島国家が加わったことで事態は混乱を極めた。 ここに至って、同じく経済的混乱状態の米国も消極的な賛成(自国を滅ぼした連中は少しは苦労すればいいのだ)のもとで平成日本列島に軍事圧力をかけはじめた。 条件は、「時空ゲートの国連管理」、そして「平行世界に関し日本国が有する道義的責任に基づく関与」。 要するに、お前らが矢面にたって向こうの大日本帝国を何とかしろというものである。 肝心の平成日本はというと――ねじれ国会のもとで暴走する与野党の間で怒鳴りあいが続き、一応の挙国一致内閣が成立。 結局、対処を「昭和世界日本帝国」に丸投げするという有る意味納得な対応をやらかす。 嶋田たちはというと、外務省を通じて発した「遺憾の意」を見た向こうの世界の英国が必死になっている様子を見ながら、 「あーこれは、奴ら来るなぁ」と半ば呆れて事態の推移を見守っていた。 遺憾の意。 昭和日本世界では世界が震え上がる帝国の意思表示手段は――途中で交代した中国共産党や某半島国家を付けあがらせた。 やる気のない米軍の監視のもと、宮古水道を抜けた人民解放軍と某国軍の連合艦隊は、 「この際だあいつら屈服させとこう。ついでに時空ゲート確保。平成日本を人質にすれば日帝も言うこと聞くだろ」という希望的観測のもとで日本列島沿岸を北上していたのだった。 東シナ海には60隻あまりの通常動力潜水艦と核弾道ミサイル原潜、攻撃型原潜が展開していたが、平成日本は「宣戦布告をされていないから」という理由で攻撃ができない。 憲法解釈の努力を放置した結果がこれだった。 まだ海上警備行動の発令しかなされていない。 誰もが思った。これは終わった、日本帝国もやはり日本みたいな弱腰だと。 609 :ひゅうが:2011/12/10(土) 01 05 53 だが――彼らは忘れていた。 日本帝国という名の国家がどんな存在であったのかを。 まして列強筆頭ともなれば、舐められるわけにはいかない。 ――大神軍港を、原子力空母を含む巨大な空母機動部隊が出撃。 核ミサイルを搭載した弾道ミサイル原潜や、世界最大ともいわれる戦略爆撃兵団が出動。 さらには、海外展開を見越して編成された緊急展開部隊が日本本土各所に飛来する。 南西諸島では、自称市民団体を「排除」し、容赦なく憲兵隊に検挙させながら(日日安全保障協定という急きょ締結された日米安保の類似形を遠慮なく彼らは行使した)強力な戦車部隊と陸上部隊が展開している。 そして・・・日本沿岸には、帝国海軍の象徴とされる巨大戦艦を含む水上戦闘部隊が展開していた。 10年あまり前に崩壊したドイツ第3帝国を打ち破るべく作り上げられた強力なステルス戦闘機群はすでに九州や中国地方、日本海沿岸に待機している。 ゲートを見守っていた米軍は戦慄する。 「これは――何の冗談だ?」と。正面決戦をやったら、軍の半壊を覚悟しなければならないのだ。 こうして、米国は態度を決する。 「閣下!在日米軍より通告。吉林省通化基地よりミサイル発射を確認!」 CDCで嶋田は頷く。なるほど、舐めた真似を―― 「政府声明発表。『極めて遺憾であると言わざるを得ない』と。 「はい。」 通信回線の向こうの辻が頷く。平成世界の首相官邸は、今や彼らの雰囲気にのまれているらしい。怒号が聞こえる。 「全艦、対弾道弾迎撃戦はじめ。」 ――戦端は開かれた。
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レイテ沖海戦での栗田艦隊と米護衛空母群との砲撃戦で日本側の発射した砲弾が徹甲弾であったため命中したが爆発せず素通りしてダメージを与えられなかったという話を再三聞いたがいくらなんでもそれはないのでは? 「ミッドウエーのエース重松大尉のその後」について知っておられる方 1945年7月に行われた釜石に対する艦砲射撃に関する日本側および連合軍側よりの戦闘/被害/戦果に関する資料が知りたいのですが 南極観測船〈宗谷〉は、ミッドウェー海戦に一体何をしてたんですか? 第二次大戦中に日本の潜水艦がドイツに行ったらしいけど燃料とかどこで補給したんですか? 太平洋戦争の天王山はミッドウェー海戦ではなく、マリアナ沖海戦だったというのは本当ですか? 結局栗田氏が反転した理由は何なんですか? ミッドウェイ海戦では、爆装と雷装の換装ミスが主たる敗因となりましたが、当時の陸用爆弾と魚雷では、艦船に対して与えられるダメージは、どの程度の差が出るのですか? ミッドウェー作戦では、どうして戦艦部隊は後ろからついていったんですか? 陸軍はミッドウエー海戦の大敗北等の海軍の失態を把握していたんでしょうか? マリアナ沖海戦においてなんですが、陸海軍の基地航空隊は米機動部隊を攻撃しなかったんでしょうか? アリアナ沖海戦は七面鳥打ちとか一方的に負けてますが、どうしてなんですか? 珊瑚海海戦のときに、日本艦隊の攻撃隊がアメリカ側に比べて少ないのは? 連合艦隊は、あ号作戦でサイパン上陸されるのを待ってノロノロし、地上戦開始後も上陸部隊輸送船団を放置して、沖の空母をウロウロ指向したそうですが、 大和の沖縄特攻の際、航空機の援護がなかったのは、出さなかったのか、出せなかったのか、どちらなんでしょう? サマール沖海戦で、カサブランカ級護衛空母は最高速でも20kt無かったはずですが、なぜ数時間も追撃しておきながら1隻沈めただけで取り逃がしてしまったのでしょうか? レイテ沖海戦では壊滅している海軍航空隊ではなく、陸軍航空隊に栗田艦隊の護衛とかは頼めなかったんでしょうか? 坂井三郎氏の「ミッドウェー会戦での急降下爆撃による空母被弾は上空の備えを怠ったから」という指摘は妥当なのでしょうか? ミッドウェーの敗因は運がとにかく悪かった? 真珠湾での魚雷発射ですが水深12メートルで魚雷を投下し進ませるには海面より何メートル位で投下したのでしょうか 栗田艦隊のヤキ1カ電とはなんですか? エンガノ岬沖海戦で、伊勢日向は適切な航空弾幕を張って敵機を寄せ付けなかったと聞きます。これの発想や指導は誰がしたのですか? ミッドウェー作戦がずさんだったのはなぜ? 坊ノ岬沖海戦で大和を含めた全10隻撃沈されなかったのは何故? レイテ沖海戦では、第一遊撃部隊はブルネイからレイテまでの遠距離を踏破しなければいけないわけですが、駆逐艦等の小型艦の燃料が切れたら、戦艦から補給する予定だったんでしょうか? レイテ沖海戦時って日本艦艇の練度は低下していたんか? レイテ沖海戦で、何故大日本帝國海軍は、米上陸船団や輸送船団ではなく、主力艦隊を狙ったんですか? パールハーバー奇襲で燃料補給タンクを破壊しなかったのが問題だったという説 真珠湾奇襲攻撃により沈められた米艦船は、その後修理されて戦列に復帰したそうですが、これは日本の想定内だったのでしょうか? ミッドウェーでは索敵、偵察が不十分だったのがああなった原因の一つって聞いたんですけど、確か日本軍はわざわざ艦上偵察機作ってましたよね? マレー沖海戦で英国軍が誇る新型の対空火器であるポムポム砲が、低速な上に防弾装備が貧弱な日本の双発爆撃機相手に、ほとんど威力を発揮できなかったのは何故なんでしょうか? ビスマルク沖海戦で100機も護衛機を付けてもらったのに輸送船は全滅、護衛駆逐艦の半分は喪失とは、木村昌福は無能では? 真珠湾攻撃のときの南雲部隊の艦船攻撃なのですが、なぜ日本側の戦果確認の報告と米軍側の発表とが一致しないのですか? 長門はなんで大和と共に海上特攻をしなかったのですか? ミッドウェー海戦では空母4隻沈められましたが、この時点で空母搭乗員の再養成は不可能でしたか? ミッドウェーで受けたダメージはパイロット予備軍となる人材の絶対数が少なかった日本にとっては痛恨だった? 日本軍がパールハーバーにいると思われた米空母を全艦撃沈出来たとしたら、残りの米空母は何隻あったのでしょうか? FS作戦は1942年7月11日に中止が正式決定されたのですよね? ミッドウェーについて、加賀/蒼龍は雷撃処分だったのですか? レイテ沖海戦において、日本側の潜水艦が不活発だった理由は何だったのでしょうか? 真珠湾攻撃に置いて民間人が日本軍によって殺されたのは事実ですか? 大和の特攻の時に、アメリカ海軍には戦艦同士のガチンコ勝負を行うよう命令があったけど、空母機動部隊にフライングされて妨害されたのですよね? ソロモン海戦において、アメリカ側が新型戦艦を温存して豊富にある旧式戦艦を出動させる方針を取らなかったのはなぜ? レイテ沖海戦での栗田艦隊と米護衛空母群との砲撃戦で日本側の発射した砲弾が徹甲弾であったため命中したが爆発せず素通りしてダメージを与えられなかったという話を再三聞いたがいくらなんでもそれはないのでは? ありえます。 徹甲弾は、一般に硬いものに一番効力を発揮するものですが、護衛空母は一般的な商船の構造そのままを用いているので、 徹甲弾が威力を発揮する硬さの鋼材ではありません。 従って、徹甲弾が威力を発揮する前に突き抜けてしまうこともあります。 また、戦艦相手だと、装甲を突き破ってから内部で爆発するのが一番効果的なので、遅延信管を用います。 ところが、突き抜けてしまうので、外に出てから爆発し、至近弾程度しかダメージを与えられなかったようです。 こういった商船構造の船に対しては、榴弾でしかも触発信管の方が効果的だったのでしょうが、 「軍艦=装甲しているもの」という観念があったからか、頑迷なまでに徹甲弾を使っていたようです。 (大和の場合、三式通常弾24発に対して91式徹甲弾は100発も使っている) (20 眠い人 ◆ikaJHtf2) 「ミッドウエーのエース重松大尉のその後」について知っておられる方 ミッドウエー後の経過はわかりませんが、重松大尉は昭和19年7月、サイパン島で戦死なされたそうです。 (21 ベタ藤原 ◆94Ls6/3E) 1945年7月に行われた釜石に対する艦砲射撃に関する日本側および連合軍側よりの戦闘/被害/戦果に関する資料が知りたいのですが 釜石艦砲射撃 http //www2u.biglobe.ne.jp/~yunta/06.htm おそらくそれほど詳細な資料は、現地に出向いて市役所や現地図書館で市史やその他 戦災関連資料を閲覧するしかないのでは? (36 679) 南極観測船〈宗谷〉は、ミッドウェー海戦に一体何をしてたんですか? 測量と輸送任務ですね。 (44 961) 第二次大戦中に日本の潜水艦がドイツに行ったらしいけど燃料とかどこで補給したんですか? マダガスカル島付近で洋上補給を受けています。 当時の航路は、インド洋からアフリカ南端の喜望峰を回り大西洋を北上してフランスをめざす 航路しかありませんでした。 たとえば伊30潜水艦は昭和17年6月30日に仮装巡洋艦報告丸・愛国丸から補給を受けて 一路フランスをめざし8月2日にフランスのビスケー湾に到達しています。 また伊8潜は昭和18年7月6日にマレー半島ペナン港を出発し、途中伊10潜から補給を受けて 約二ヶ月でブレストに到着しています。 (48 名無し軍曹) 太平洋戦争の天王山はミッドウェー海戦ではなく、マリアナ沖海戦だったというのは本当ですか? 後世の評価は様様ですが、一方の当事者、日本海軍から見た場合。 ミッドウェイで損耗した空母機動部隊をなんとか建て直し数も揃えた。 練度に問題はあるが日本機の特徴である大航続距離というアドバンテージそのものは崩れていない。 小沢冶三郎中将は出撃前の訓示で「この戦いに負ければ海軍に存在意義は無い」と語ったそうです。 実際には諜報、集積戦力、燃料、防空システム、その他もろもろで惨敗しますが、 日本海軍が「戦争そのものに勝つつもりで米海軍に挑んだ」すなわち太平洋の覇権を 争う道具である空母機動部隊を用いた最後の機会だったわけです。 意気込みだけで戦争をするわけではありませんが日本海軍は間違いなく 「天王山」のつもりでいましたし、これを下した米海軍については、 この海戦以降は空母を起工していない…すなわち戦争の帰趨は決したと考えていたと思われます。 ですから主敵たる米軍側呼称「太平洋戦争」の「天王山」がマリアナ沖海戦であるという指摘は間違いではありません。 分析する視点によって変わるのは既に軍板住人諸兄姉の書き込み通りです。 (51 ふみ) 結局栗田氏が反転した理由は何なんですか? 謎のまま。 研究者の間でも意見が分かれていて、定説と言えるほどのものはない。 (92 259) 勝算の無い戦いで将兵を無駄死にさせたくなかったという説が有力 真相は私の曽祖父が知っています (92 260) もしそのまま行ってたら米軍をブチ倒すことはできたんですか? 上陸部隊の艦艇は壊滅、しかし栗田艦隊も全滅していただろう。 フィリピンを一時的に奪い返すことが出来ただけ。 (92 262) 輸送艦と刺し違えるのがイヤだったから、という説が有力。 真相は栗田の霊が知っています。 (92 263) 栗田健男元中将は1977年に死亡するまで、反転の理由を説明していませんの で、真相は不明です。 主な説を挙げておくと 米軍の波状攻撃によりすでに多数の沈没・損傷艦を出しており、それ以上 の前進は将兵の命の浪費にしかすぎないと判断した。 北方に敵機動部隊ありの電報を受け、これの攻撃に向かった。 (この電報は存在しないとの説も有力。また、戦後明らかになったところで は、栗田部隊の北方で活動していた米機動部隊はない) 小沢部隊の陽動作戦成功の報告が、栗田の元まで届かなかった。 (92 266) 補足 北方に敵機動部隊ありの電報を受け、これの攻撃に向かった。 (この電報は存在しないとの説も有力。また、 戦後明らかになったところでは、栗田部隊の北方で活動していた米機動部隊はない) 米軍の偽電につられた、 偵察機が栗田艦隊自身を補足し、しかも北側に位置を間違って報告、という説もあり。 (92 267) ミッドウェイ海戦では、爆装と雷装の換装ミスが主たる敗因となりましたが、当時の陸用爆弾と魚雷では、艦船に対して与えられるダメージは、どの程度の差が出るのですか? ミッドウェー時に97式艦上攻撃機が積んでたのは30~80kg級の小型爆弾複数。 水平爆撃で運良く当っても甲板の掃除ができるくらい。 99式艦爆は陸用250kgだったけど触発信管だから飛行甲板上で爆発。 普通450kg三発喰らって生還した翔鶴よりは被害が少ないと思う。 (369 270) ミッドウェー作戦では、どうして戦艦部隊は後ろからついていったんですか? 敵艦隊の出現を警戒しているんなら、なるべく前に出て、哨戒機が敵艦隊を発見したら速やかに艦砲で反撃したほうがいいんじゃないですか? 艦隊決戦をするためです。 主力部隊はミッドウェー攻撃を知った米艦隊が真珠湾を出撃し、ミッドウェー来援に到着する頃に 同様に決戦海面に到着することを想定しています。 日本海軍が、その主力部隊(戦艦部隊)を、わざわざ空母機動部隊の後方500kmに位置させた理由は何なのですか? 500kmという数字の意味をよく考えてください。 遠方に見えてわずか300浬弱。 18ノットの艦隊巡航速度で半日強で追いつける距離です(南雲部隊が同一海面に留まる前提ですが)。 これは後方と言えるほど後方ではないのです。 戦略単位として考えるなら半日強の時間差は部隊間距離として十分にアリです。 そもそも戦略機動力では南雲部隊も主力部隊も巡航速度は変わりません。 どちらも足は十分に速いのです。 もっとも実際の戦闘においても日本の戦艦部隊は25ノット前後の高速戦艦部隊であり、 空母部隊が30ノットで動いたとしてもその差は5ノットでしかないのです。 それで、戦艦部隊の存在意義はあったのですか? あります。 米艦隊は戦艦の出撃も検討しており、 南雲艦隊は戦艦以外にも2隻の米空母(ヨークタウンは想定外)とミッドウェー航空隊を相手取らねばなりませんから、 それに対抗するのには完全に力不足です。 仮に米戦艦が現れないにしても、南雲艦隊の消耗を補うためにはやはり別の艦隊が必要なことに変わりはありません。 ミッドウェー作戦は、どの道南雲艦隊だけで完遂できるようなものではないのです。 (518 ゆうか ◆9a1boPv5wk) 陸軍はミッドウエー海戦の大敗北等の海軍の失態を把握していたんでしょうか? 少なくともミッドウェー海戦の敗北に関しては、直後に陸軍に伝えられています。 戦史叢書「大本営海軍部・聯合艦隊 3 昭和十八年一月まで」p10から転載 六月六日午前、軍令部第一課は参謀本部作戦課長以下の来部を求めて、戦況を説明するとともにF・S 作戦を延期すべき意見を述べた。その情況は左のとおりであった。 [出典:「井本日誌」 当時、参謀本部第二課部員井本熊男中佐(のち大佐)の業務日誌] 海軍ノ面持沈痛也 山本中佐より「ミッドウェー」方面ノ戦況ヲ説明ス 昨五日ヨリ本日ニカケ航空作戦ヲ 実施 戦況不利ニシテ赤城、加賀、蒼龍、飛龍ノ四隻沈没シ 聯合艦隊ハ戦を離脱シテ布哇西方約一千 浬ニ集結中也(中略)F・S作戦ハ一時中止 Fハ少クモ二ヶ月延期スルコトトナル(軍令部一課ノ意見) この敗戦は陸軍部にとっても、まさに青天の霹靂であり、田中作戦部長を「思いもかけぬ大敗北、太平洋 の覇業潰えたり」と嘆でしめ、杉山参謀総長は暗然として「永野総長の二年間の保証が破れた。屈敵の方 法を太平洋以外に選ばなければならなくなった」と述べた。 [出典:「田中新一中将業務日誌」 当時、参謀本部第一部長田中新一少将(のち中将)の業務日誌] (526 918) マリアナ沖海戦においてなんですが、陸海軍の基地航空隊は米機動部隊を攻撃しなかったんでしょうか? ビアク方面で消耗していたため、戦力が残っていなかった。 一応出撃しているが、たいした効果がなかった。 2月23日の空襲で120機を喪失。 その後、なんとか600機を整備。 ビアク襲来に反撃のため相当数をパラオ方面へ移動し、その大半である400機以上を失う。 マリアナへの直前空襲で150機を失う。 反撃可能戦力約50機。 (525 948) アリアナ沖海戦は七面鳥打ちとか一方的に負けてますが、どうしてなんですか? 陸戦・海戦を問わず「ここで負けたら後はない」という戦いだったのに マリアナの敗戦原因は以下が挙げられると思います 軍人官僚政府にありがちな人命軽視、シビリアンコントロール欠如 1)ミッドウェーで空母の安全欠陥が判明したが「軍の外からメスが入らなかった」 米国と違い、議会主導で軍部の外に「ミッドウェー敗戦原因究明委員会」を設けて抜本的に 軍艦の安全性の総点検をしなかった。従って「ミッドウェーで問題になった箇所」 しか安全欠陥が改善されず、別の箇所の安全欠陥が露呈して空母大鳳を失った 2)零戦が燃え易いなど安全性の欠陥があったが改善されなかった これは源田など不適切な人間を指導的地位に上げた「上司主観評価」人事制度の欠陥 と、上記のように「敗戦/問題の官僚組織外からの外部監査」が不徹底だったことによる また2.26/5.15のあと軍部を批判した勢力は殺される風潮が広がり、誰も軍部を批判できなくなった 米国なら戦闘機の防弾不足は新聞に叩かれ、政治家から軍部へ改善への強い指示があった筈 だが「戦前の日本は現在以上に民主主義国ではなかった」ため軍人の人命軽視文化が支配していた その結果、マリアナの頃には多数の熟練パイロットを失っていた 3)米国と違い、飛行艇によるパイロットの救出を行わなかった 4)米英独に比べ科学者の地位が低く、軍人の技術や試作の必要性への理解度が低かった また、官僚組織は減点主義なので、新兵器を多数試作して技術優位を掴もう とするより、会議でケチをつけて自分を賢く見せようする有害な連中が跋扈 する文化であった。(これは現在にいたるも大して変わっていない) 全般的に、マリアナでは、戦術的には比較的ミスも油断も(ELV覆った事以外)なかったが、日本は米国 より軍人官僚主義の弊害が大きく、この頃になると一気に噴出していたのが国力と並ぶ敗因でしょう 現在も、「飛行機墜落の場合のような原因究明・再発防止委員会」が議会主導で開かれないで 責任はうやむやにされることは多いです。年金問題も薬害問題もそうですね また現在も、他の先進国が戦車を犠牲にしてもAPC確保している一方で陸自はAPCの装備率が低いです 改革しないとまた同じような過ちを繰り返して恥ずかしい負け方をするであろうと思われ (532 872) 珊瑚海海戦のときに、日本艦隊の攻撃隊がアメリカ側に比べて少ないのは? 空母の数で上回っていて、日本では最大級の2隻も参加してるのに、どうして少なかったんでしょうか? 空母が3隻といっても1隻は軽空母の祥鳳で戦闘に参加する前に沈められました。 これで隻数は互角。 空母のほうですが翔鶴級よりもレキシントン、ヨークタウンのほうが搭載機数自体が 多かった。さらに航空機が減ってるのは、出撃して帰還時に損傷が大きいと判断された 機体は海中に投棄されてる為。 (526 549) もともと搭載してる数が少なかったんです。 翔鶴型はたしかに搭載能力が大きく、真珠湾攻撃時には常用72機が定数でしたが、 珊瑚海海戦の際には定数が54機に減らされてしまっていました。 搭乗員が足りなかったようです。 開戦後に空母も陸上航空部隊も増えてますし、よそから借りた乗員は返さなきゃいけないし。 そのうえ戦闘で消耗し、 翔鶴が損傷して2隻分収容せねばならないこともあって、 上のレスのとおり傷ついた機体はどんどん捨てたり。 おかげで昼間の攻撃隊の数も少ないですし、作戦終了時の残存戦力が激減してるんです。 (526 553 ◆yoOjLET6cE*一部改編) 連合艦隊は、あ号作戦でサイパン上陸されるのを待ってノロノロし、地上戦開始後も上陸部隊輸送船団を放置して、沖の空母をウロウロ指向したそうですが、 これは犯罪ではないですか 主攻撃目標が敵機動部隊だったから。 まず機動部隊を撃滅してから輸送船団を攻撃するという計画だった。 機密連合艦隊命令第76号 1 連合艦隊は(…)敵進攻兵力、就中敵機動部隊を覆滅し以て敵の反抗 企図を激摧せんとす 2 本作戦を「あ号作戦」と呼称し作戦要領を別冊第1乃至第3の通定む 別冊第1 「あ」号作戦要領 作戦方針 (…)本決戦は主として昼間強襲に依り敵機動部隊を攻撃撃滅す 機動部隊「あ」号作戦計画 機動部隊作戦方針 (…)敵進攻兵力、就中敵機動部隊を覆滅し以て敵の反抗企図を激摧す 第1機動艦隊戦策 戦闘方針 (…)航空部隊の全力を挙げ機先を制し先ず敵航空母艦を撃滅し 更に 艦隊の全力を挙げて残敵を追撃し之を殲滅するを本旨とす (538 125) 大和の沖縄特攻の際、航空機の援護がなかったのは、出さなかったのか、出せなかったのか、どちらなんでしょう? 別の任務、すなわち全力特攻を行っていた。 むしろ大和は囮任務だったのだよ。 菊水1号作戦は、水上特攻と航空特攻を組み合わせたもので、 航空部隊は同時に行われた航空特攻作戦に大半が投入されていた。 それでも、水上部隊には一応の護衛をつけることになっていたが、兵力不足から断念した。 鹿屋から航続距離ギリギリまで援護があったそうだが、なにしろ空母がいないからな。 沖縄はもうほとんど制空権をとられていたし。 (363 326,327,334) サマール沖海戦で、カサブランカ級護衛空母は最高速でも20kt無かったはずですが、なぜ数時間も追撃しておきながら1隻沈めただけで取り逃がしてしまったのでしょうか? 空母から発艦した攻撃機が、日本艦隊を執拗に攻撃した。 航空機に攻撃された日本艦隊は、どうしても攻撃機に対して回避行動を取らなければならないから、 日本艦隊とアメリカ艦隊との距離は離れていった。 爆弾や魚雷を既に投下した攻撃機も、日本艦隊に何度も擬似反復攻撃を繰り返した為、アメリカ艦隊 との距離は益々離れていった。 アメリカ艦隊を護衛していた駆逐艦も日本艦隊が驚くほど勇敢に戦い、煙幕を張って空母を逃がし、 日本艦隊に突撃して、執拗に砲撃を加えた。 この海戦は、たとえ空母艦隊が戦艦群に襲撃されても、空母側が攻撃機を発艦できたら、ほぼ互角に 戦えることを証明した海戦でした。 (344 826) レイテ沖海戦では壊滅している海軍航空隊ではなく、陸軍航空隊に栗田艦隊の護衛とかは頼めなかったんでしょうか? 頼むことはできたでしょうけど、拒絶されるのが関の山。 そもそもフィリピンの航空戦で、手一杯。 (俺初質スレ430 656) 坂井三郎氏の「ミッドウェー会戦での急降下爆撃による空母被弾は上空の備えを怠ったから」という指摘は妥当なのでしょうか? 「源田が悪い。空母の上に一機ずつでも戦闘機を上げて待機させておけば防げた。 たとえ一機だけでも、 戦闘機は爆撃機にとって怖ろしい存在なのだから」というような発言をされてたように記憶しているのですが まあ、後知恵になるけど、考えは正しい。 当時の零戦に搭載していた無線機は劣悪で、ろくに会話もできなかったくらいなので、 効果的な迎撃ができなかった。ようはワーワーサッカーとおなじで、敵を見つけて、誰かが攻撃を始めると みんなそっちに行って母艦の上空待機に回る人の割り振りができなかったのも事実。 ミッドウェーでは雷撃隊の迎撃に全機が向かってしまい高空から近づいてきた急降下爆撃機に対応できなかった。 上げてた直援戦闘機隊は低空飛行しながら雷撃態勢に入ってたデヴァステーター隊を迎撃していた。 (デヴァステーターは全滅) なので空母の「上空」はガラ空きで、その隙を突かれた事は失態だが、雷撃機は無視できない脅威だから 一概に失策とも言えない。 ただやはり上空警戒機を残して置くべきであったとは思う。 (582 694,696) ミッドウェーの敗因は運がとにかく悪かった? と、よく言われるミッドウェーだが 一番の原因は、何より 「こうなったら、こうする」「そうなったら、そうする」「こうもそうもならなかったら、あぁする」 という事前の作戦の詰めがもうどうしようもないくらいに甘かったこと。 そもそも 「ミッドウェー諸島を攻略すれば敵機動部隊が出張って来るだろう。そうしたらそれを叩く」 という、 「一番肝心なところが相手任せ」 の”決戦”を挑んだ所からして根本が間違ってる。 真珠湾攻撃であれだけ事前に緻密に作戦を詰めた(もっともそれが後々裏目に出た訳だが)のに ミッドウェー攻略がこうも適当なのは何故だったのか? 考えるべきはそこのところで、「運が悪かった」ではないだろうな。 (582 704) 作戦の実施前に潜水艦部隊と空母部隊よりそれぞれ、作戦延期の提案が出てる。 理由は、潜水艦部隊は作戦決定が急で、索敵線への潜水艦の展開が間に合わない。 空母部隊からは、インド洋から帰ったばかり、さらには、真珠湾作戦の関係で凍結していた人事異動を行ったため、 部隊の休養と再訓練ができてないことが理由。 (582 707) 真珠湾での魚雷発射ですが水深12メートルで魚雷を投下し進ませるには海面より何メートル位で投下したのでしょうか また魚雷投下の技術?は終戦まで同じようにいったのですか? 真珠湾での魚雷発射はうろ覚えだが、 魚雷が深く沈まないように抵抗板か何かを付けてたような気がする 雷撃の例 ①機首を敵艦の艦腹方向に向け、 ②高度20メートルほどで水平飛行に入り、 ③敵艦との距離が約1000メートルの地点で投下、 ④魚雷は一旦水深15メートルほどに潜ってからエンジンを始動。 水深6~7メートルほどの所を速力30~40ノットで直進、 ⑤敵艦に炸裂する! K(攻撃)501銀河飛行隊の例 攻撃目標に近づくまでは編隊は間隔をとり約3000メートルの中高度を飛ぶ。 オートパイロットを使いながら雲層直下を巡航していた。目標を発見した 直後、巡航高度より高速で迫る。それから各機は増槽(タンク)を捨て間隔 を詰め、時速556キロの緩降下高速で単列一文字に攻撃発起点へと侵入、そのまま 高速緩降下を続け水平巡航に入る。エアブレーキを適宜使いながら魚雷は速度 463キロ、高度50メートル、距離800メートルが基準である。 離脱は全速直進、最短の時間と距離で行うように訓練したが、敵対空砲火により 雷撃機は半数から4分の3を失った。 (584 835) 栗田艦隊のヤキ1カ電とはなんですか? レイテ沖海戦で、最終的に栗田ターンをするきっかけになったとされる電文の通称。 いわゆる北方機動部隊の出現を、「南西方面艦隊」から通知したもので、 「ヤキ1カ」というのは、スルアン灯台5度113マイル地点を示す暗号。そこに敵がいると。 この情報を受けて、突入しないでその機動部隊を攻撃しようと進路を変えたと言われる。 結果から言うと「ヤキ1カ」に該当する機動部隊は実在せず、誤報だった。 ちなみに、この電文を打ったという記録が南西方面艦隊に残ってないようで、 受信記録はあるが発信元不明という風に言われてきた。 栗田さんは、南西方面艦隊からだったとはっきり言ってる。 (今は判明してるかもしれないが、最近のことはよく知らないので) (585 64) エンガノ岬沖海戦で、伊勢日向は適切な航空弾幕を張って敵機を寄せ付けなかったと聞きます。これの発想や指導は誰がしたのですか? 当時の戦隊司令が松田少将で彼は大和の艦長やってたころから 回避運動や対空射撃の研究をしていました。 ちなみに日本で最初にレーダー載せたのも彼です。載せたのは日向と伊勢でした。 かなりの航空機を割いたにもかかわらず大した損害も与えられなかった航空戦艦二隻に対して ハルゼー提督は忌々しく思っていたらしくレイテ沖海戦が終わった後にも撃沈しようと機動部隊で攻撃を仕掛けますが 日本本土への輸送任務で上手く攻撃を擦り抜けた為、代わりにと言ったら変ですが輸送船団が壊滅してます。 大和特攻の際には、この戦訓は取り入れられなかったと思います。なぜですか? 条件がかなり違うよ。天候が違うし。 空母の護衛艦として戦艦が参加した作戦と、 戦艦が目的地にたどりつくための作戦では、 攻撃側(米艦載機)の集中度もかなり違うから、戦訓だけでは評価はできないよ (334 53,58) ミッドウェー作戦がずさんだったのはなぜ? 山本五十六は日米の戦力差が圧倒的になる前に、アメリカ軍の航空戦力を壊滅して早期講和に持ち込むため、 ミッドウェー作戦を強行しましたが、それほど危機感を抱いていたわりに、無計画だったのはなぜでしょうか? 構想こそあったがが、具体化したのが東京初空襲に対抗してのドサクサまぐれだったから。 だから、機動部隊からインド洋作戦から戻り凍結されてた人事異動を行ったので再訓練の時間が欲しいとか、 潜水艦部隊から、哨戒線への潜水艦の展開が間に合わないから最低半月延期しろという要望はすべて却下 して実施したから。 (586 704) ミッドウェー作戦が帝都空襲を受けて、政治的な要請から発起された作戦だし、 ミッドウェー島の戦略的価値はさほど無かったのは事実。 あくまでも敵の機動部隊をつり出して決戦を図るためのもの。 でも作戦自体は言うほどずさんじゃなかったと思うよ。 帝国海軍の戦力を集結し、米艦隊より大きな戦力でぶつかることに成功してるんだから。 負けたのは情報戦、判断のミス。あと確かに運も悪かった。 あと帝国海軍の決戦思想なんかもあるけど、普通に戦争が長引けば必ず負けるから投機的な作戦に打って出ざるを得ないというのもまた現実だな。 (586 モッティ ◆uSDglizB3o) 珊瑚海海戦に参加した五航戦は 真珠湾攻撃のため開戦少し前に編成されたばかりで練度が比較的低く ミッドウェーに参加する二航戦航空隊からは「妾の子」呼ばわりされて侮られていた。 その「妾の子」ですら2対2の空母戦で勝てているんだから ミッドウェーは楽に勝てるという油断があった。 そして海軍は珊瑚海海戦で米空母2隻撃沈と報告を受けていたから ミッドウェーでは米空母が出てきても2隻が限度だと考えていた。 2隻+ミッドウェー基地航空隊なら、日本の4空母の航空戦力の方が優勢だから 怖るるに足らずという意識。 (588 264) 坊ノ岬沖海戦で大和を含めた全10隻撃沈されなかったのは何故? http //miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/BattleShip_Yamato14.htm 大和撃沈で米軍の作戦目敵を達成したからです。 あとの残敵掃討をやってると沖縄上陸軍の支援に支障をきたす事や、 残敵掃討中の隙を突いて特攻機が飛び込んでくる恐れがあったか らです。 (333 9) レイテ沖海戦では、第一遊撃部隊はブルネイからレイテまでの遠距離を踏破しなければいけないわけですが、駆逐艦等の小型艦の燃料が切れたら、戦艦から補給する予定だったんでしょうか? 問題になるとすれば一番航続力の短い松型かと思われますが、 16ノットで3500海里走れますので、ブルネイで燃料満載できれば問題ないかと思われます。 ブルネイ-レイテ-ブルネイの行程は目分量ですがだいたい1400海里程度かと。 戦闘行動その他を見越して航続距離を半分としても、少しばかり余裕があります。 (328 22) レイテ沖海戦時って日本艦艇の練度は低下していたんか? 面白いぐらい撃沈されてるし そのころには対艦兵器の攻撃力のインフレが凄まじかった。 たとえば航空魚雷は、マレー沖海戦で陸攻が用いたのが九一式改航空魚雷だったが これは弾頭炸薬量がTNT250kg相当(当時の英海軍の航空魚雷がTNT170kg相当)で、 POWやレパルスを数発の被雷で沈めたように戦艦を撃沈するのに十分な威力の魚雷だった。 英戦艦はロイヤルオークやバーラムがUボートのTNT300kg相当の魚雷3~4発で轟沈しているから 当時の戦艦はTNT250~300kg相当の魚雷には全く無力だったというべき。 これがレイテ沖で米軍が使用した航空魚雷MK13になると トルペックス新式炸薬を弾頭に250kg用いたTNT換算400~500kgという 命中したら装甲を隔壁ごと破壊する凄まじいものになる。 潜水艦や艦船用の魚雷になるとさらに強力で、 日本は損傷を元にこれらの魚雷の破壊エネルギーを計算すると あまりの威力に「同一箇所に2発同時に命中した」んじゃないかと疑うほどだった。 (603 371) レイテ沖海戦で、何故大日本帝國海軍は、米上陸船団や輸送船団ではなく、主力艦隊を狙ったんですか? 作戦実施前に主目標が上陸部隊の輸送船とGF司令部から指令を受けてる。 もっともその際に、好機があれば米軍の主力艦を攻撃してもよいとの許可も与えてる。 主力部隊を追っかけたのは、上陸開始から時間がかなり経過してるので、上陸部隊の 輸送船はすでに荷揚げを終え、空船だからこれを攻撃するよりはと追っかけただけ。 ソロモン海戦なんかの失敗を繰り返さないために、連合艦隊司令部は珍しく? この点に 関しては気を使った。 もっとも豊田副武は栗田を信用してなかったこともあって艦隊出撃後も何度も「作戦目的について」 再三通信文で念を押し、栗田始め艦隊首脳部にウザがられたけど。 宇垣纏は日記に「過去の失敗を繰り返すなというのはわかるが執拗すぎる」「そんなに中央は現場を 信用していないのか」と何度も書いていたりする。 (609 252,269) パールハーバー奇襲で燃料補給タンクを破壊しなかったのが問題だったという説 アメリカとしては、空母と巡洋艦戦力が健在なので、たとえ燃料タンクが破壊されても 代替設備を建設する間、ハワイ諸島の他の泊地、港湾を利用して、そこにアメリカの 豊富なタンカーを回し、燃料タンク代わりにするだけなので、あまり意味がない。 またそもそも南雲艦隊が抱えていった爆弾の総量を考えても一部は破壊できても全部の破壊は無理。 何せ、破壊の検討をしたことが無いので、効果的な爆撃コースや目標の選定が出来ない。 さらに言うと第1次攻撃第1波、第2波で湾内が黒煙で爆撃目標確認が困難。 (609 247) 「450万バーレルの根燃料が保存されていた燃料タンク基地が、手つかずのままで残った。これが破壊されていれば、 艦隊は本土西岸へ後退せざるをえなかったあろう。このほか、必要不可欠の修理施設が目こぼしにあずかり、 対日反抗の先陣をうけたまわることになる潜水艦の根拠地が敵の攻撃をまぬかれた」。 上記は、提督ニミッツ (1979年) [古書] (-) E.B.ポッター (著), 南郷 洋一郎 (翻訳)の一節です。 原著の発行元は、アメリカ海軍協会です。 著者は、アメリカ海軍兵学校歴史学部教授です。 450万バーレルの燃料の量の感覚が、霞ヶ浦の住人には掴めません。 検索してみて、日本海軍全体で1942年に消費して重油の約3分の1だと、分かりました。 下記、石油関連データの石油製品消費量推移(本土内、単位:1000バレル、1945年は4-9月)を参照ください。 http //www.geocities.jp/eiji96301045/oil.htm (609 霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.) 当時保存されていたのは、450万バーレルです。 太平洋艦隊が保有していたタンカーは、7万バーレルです。 同じ量の燃料を蓄えるためには、64倍のタンカーを必要とします。 (611 霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk.) 開戦当初は、ドイツのUボートの活躍により、タンカー不足になっています。 シマロン級だけで8隻、他にT2型タンカーだけで10隻以上開戦と同時に海軍に買収されてます。 ようは、開戦時真珠湾にいたのが1隻だけだったという話でアメリカには、軍を除いても民間にタンカーが 存在しそれを順次海軍が買収しているので、史実以上に真珠湾の機能麻痺は望めません。 (611 192,210) 真珠湾奇襲攻撃により沈められた米艦船は、その後修理されて戦列に復帰したそうですが、これは日本の想定内だったのでしょうか? 当然、範囲内。真珠湾の水深と港の使い勝手を考えると、引き揚げて放置するなり、 修理して使うなりは想定の範囲内。 あの三笠でさえ沈んだ後引き揚げて使ってたリサイクル戦艦だぞ。 (315 112) ミッドウェーでは索敵、偵察が不十分だったのがああなった原因の一つって聞いたんですけど、確か日本軍はわざわざ艦上偵察機作ってましたよね? 偵察にはそれなりに力入れてたんじゃないの? 索敵なら、巡洋艦、戦艦から、水上偵察機、空母から、艦攻と合計で、12機ほど出してる。 筑摩機がアメリカの空母を見逃し、カタパルトの不調から発進が遅れた利根機で索敵計画が狂った コースを進み偶然発見するも機動部隊の位置、構成を間違えて報告した、はっきり言って不運によるもの。 (641 610) ミッドウェー海戦の敗北は「偵察が不十分だった」ってのは 宇垣連合艦隊参謀長が言ったことだが 敗北そのものは単純に偵察機を飛ばすのが不足してたってだけじゃなく 情報戦からして戦闘前に既に不利な状態にあったことが原因でもあり 同時にこの海戦の作戦自体、強引で無理があるのも指摘されてる そして、宇垣参謀長は同時に「程度は別としてわが企図が敵に判っていた疑いがある」 と述べており、日本軍の暗号が解読されて米軍に行動が筒抜けだったのも大きい あと、海戦の前にマーシャル諸島南方で空母を発見しているが これの所在位置についての判断を誤ったのもある また、潜水艦索敵網にも日本軍は不備があったし 空母艦載機を索敵に多用すると当然、攻撃機は不足する 偵察専用機を艦載すればやっぱり攻撃機はその分減るし同じ事 それに、元々日本海軍は空母艦載機の偵察機数より 巡洋艦からの水上機による偵察を主にしていたし、空母搭載艦上偵察機は重視して無い 彩雲は一時期思いついてとりあえず作ってみたけど、実際に艦上運用するのはやっぱり取りやめてしまったって事 (641 611) マレー沖海戦で英国軍が誇る新型の対空火器であるポムポム砲が、低速な上に防弾装備が貧弱な日本の双発爆撃機相手に、ほとんど威力を発揮できなかったのは何故なんでしょうか? 一般に言われてるのは、低速な雷撃機を想定してたせいで、 高速な雷撃機に対しての命中率が低かったからとか。 弾幕射撃は艦艇、砲の数が揃わないと効果が薄い。 マレー沖ではそのどちらも満たしていない。 後、ポムポム砲はでかいから追従性が悪い。 この砲は口径が40mmと一見、強力そうだが有効射程が短く、 弾道特性も悪いために実際は当らなかった。 さらに、射撃中に弾体と薬莢が分解して頻繁に弾詰まりを起こすと言う悪癖を持っていた。 主なデータではマレー沖海戦によるプリンス・オヴ・ウェールズ搭載のポムポム砲は一基だけで12回も故障を起こし、 もう一基も8回も射撃中止に陥った。 (303 522-529) ビスマルク沖海戦で100機も護衛機を付けてもらったのに輸送船は全滅、護衛駆逐艦の半分は喪失とは、木村昌福は無能では? ビスマルク沖海戦に関しては、事前に航空優勢を確保できなかったにも拘らず、 運任せで作戦を強行した杜撰な作戦計画が問題。 連合軍の航空戦力が圧倒的に優勢なあの状況なら、誰が輸送船団指揮しても全滅する。 木村昌福が名将と言われるのは、キスカとレイテとミンドロでの困難な作戦を成功させたことによる。 (645 875) 真珠湾攻撃のときの南雲部隊の艦船攻撃なのですが、なぜ日本側の戦果確認の報告と米軍側の発表とが一致しないのですか? 日本側の「確認」は、飛行中の航空機(しかも下方視界はそれほどよくない)からの目視によるもの であること 米軍側は魚雷に関しては事後の修理の途中で確認が取れているものの、爆弾の投弾数に関しては正確 な記録など望むべくもないこと 戦場に付きものの戦果誤認など を考え合わせれば、「どれが本当の数字か」なんて神様でもなけりゃ分かりません。まあ被雷数に関し て言えば米軍側がより信憑性が置けそうという程度でしょう。 (にしても被害程度の算出誤認による被雷数の数え間違いは当然あるはず) (301 264) 長門はなんで大和と共に海上特攻をしなかったのですか? 何とか自力航行可能な状態ではあったが、とても戦闘可能な整備状態ではなかったよ。 無傷ってわけでもなく、中破に近い状況だったし。 戦後接収後の長門の写真は米軍撮影のものが残っているので、それを見てみれば終戦時期の 長門の状況は把握できるかと。 (298 890) ミッドウェー海戦では空母4隻沈められましたが、この時点で空母搭乗員の再養成は不可能でしたか? 不可能。てか、手遅れ。 日本海軍の予科練だと、最初は3年、短縮されて2年を養成に費やす。米海軍は12ヶ月で 空母搭乗員にしたらしいけど、あっちは自家用車を乗り回す大学生が大量に志願している のだから、教育の根本部分での手間数が違う。 予科練だと最初期は年間80名とかの養成人員で、開戦時に搭乗員がひっくるめても5000 名強の規模でしかない。昭和17年で8000名、昭和18年で4万4000名を募集しているが、同 時期に5万人以上のの練習生が在籍しているのに練習機が1000機に満たないとかで、養 成もへったくれもない。 昭和19年になると予科練で12万近い人数を集めているが、それに見合うだけの教育環境が 無い。練習飛行隊を19箇所に増やしても、1箇所あたりで練習生が5000人以上、どんなマン モス大学だよという話だし、増強されて帳簿上では1600機の練習機でも1機あたりで、70人と か80人になる。予科練出身なのに穴掘りしかしていなかったと語る人が多いのはそのため。 戦没者で見るなら、一般から集めた甲飛乙飛なら昭和17年までの入隊、海軍内部から丙飛 であれば昭和18年までが多く、それ以降の募集では極端に…6パーセントとか、0.5パーセン トとか…低くなる。戦場に出るだけの、あるいは特攻に出すだけの訓練でさえできていなかっ たことの証明ともなる。なので。 (669 ふみ ◆Y.QUKJBduY) ミッドウェーで受けたダメージはパイロット予備軍となる人材の絶対数が少なかった日本にとっては痛恨だった? 戦間期の航空産業従事者およそ5600人。英伊でもそれぞれ3万2千人だってのに 最近知られるようになってきましたがミッドウェーのパイロット損耗は100名程度で いかに日本軍であっても補充に苦労する数字ではありません。 決定的に問題だったのはやはり空母という動く飛行場をなくし 柔軟な作戦運用が不可能になったことです。 つまり、戦略的な主導権を握れなくなったのです。 以後の日本軍は歴史が示す通り、連合軍の動向に対応する「受身」の形でしか作戦を展開できなくなります。 (673 ゆうか ◆u8WC078ef5ch) 日本軍がパールハーバーにいると思われた米空母を全艦撃沈出来たとしたら、残りの米空母は何隻あったのでしょうか? そもそも太平洋艦隊所属の空母が、エンタープライズ、レキシントン、サラトガの3隻。 ハワイで活動してたのがエンタープライズとレキシントンの2隻。 大西洋艦隊に、ホーネット、ヨークタウン、ワスプ、レンジャーの4隻. というわけで、答えは5隻になります。 (291 476) FS作戦は1942年7月11日に中止が正式決定されたのですよね? FSは7月1日をもって「一時取止メ」となります。 具体的には7月6日の「作戦指導砲身変更ノ経緯説明覚」にあり 別紙第三 作戦指導方針 五 >F作戦はインド洋方面の積極的交通破壊戦終了し 「モレスビー」攻略後の「ニューギニヤ」方面航空戦進展の状況 >並に航空機増産の状況を見定め 且当時の敵情を考慮し概ね本年十二月以降之が開始を企図するものとし所要の作戦準備を促進す また >F作戦の必要性は将来減少することなしとの見解にして抜本的に豪州攻略の可能性生ぜざる限り之が攻略の企図は >飽迄も之を放棄せざるものなり として全く諦めてません。 当面はインド洋方面で攻勢を展開し、将来に備えてラバウル周辺の地歩を固めておく、構想の一環がガ島飛行場建設で、 このあたりの経緯・詳細は「SN作戦」を調べるとわかります。 その中でもガ島の飛行場は日本軍前進基地としてのツラギ泊地の防空と、連合軍艦隊への哨戒を主眼とした攻勢的な目的を有しています。 (673 ゆうか ◆u8WC078ef5ch) ミッドウェーについて、加賀/蒼龍は雷撃処分だったのですか? 戦闘詳報の記述が正しいとすれば、加賀も蒼龍も引火爆発で沈んでおり、雷撃処分はしてません。 詳報そのものの信憑性が疑われている状態なので、 結論は検証を終えないと出そうにありません。 蒼龍の場合は、飛行長さんが何度か決死隊を組んで消火を試みたものの 救助した駆逐艦が認めなかったようです。 米軍記録も、ノーチラスの加賀雷撃など未確認戦果を載せてるあたり 詳報と同様に100%の信憑性はありません。あくまでも有力な情報の一つにすぎません。 (289 携帯鷂 ◆exxupUqotM) レイテ沖海戦において、日本側の潜水艦が不活発だった理由は何だったのでしょうか? アメリカの潜水艦は重巡を2隻も撃沈したりして大きな戦果を挙げましたが 日本海軍の潜水艦運用に根本的な欠陥があったのが原因です。 わが海軍において潜水艦は敵艦隊の予想進路上に散開線をはり、敵艦隊の移動に合わせて 水上高速で進出して攻撃を反復する方法が取られていました。 しかしこの作戦は潜水艦の行動をすべて司令部が電報によりコントロールするように 定められており、他国の潜水艦のような艦長の裁量に任せた指揮が取れず 移動中の通信を傍受されて早々に撃沈される悲劇が相次ぐこととなりました。 さらにガ島方面での輸送任務により多数の潜水艦を喪失し、集中運用が難しくなっています。 レイテ沖海戦の際は14隻の潜水艦が参加しましたが、散開線配備方式は続いており、 戦果は伊41潜がルソン東方海面で軽巡レノを雷撃、大破させた程度で我が方は 6隻の潜水艦を喪失しています。 (288 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 19年10月の保有数そのものが、伊号19隻(丁型除く)・呂号8隻しかありません。 実際にフィリピンへ出撃したのが伊号8隻・呂号6隻。 回天訓練中の3隻はともかく、残る8隻は老朽または損傷。 14隻でも目いっぱいの投資です。 そのうち伊号4隻・呂号1隻がフィリピン東海上で喪失。多くはDD・DEの戦果です。 ちなみに、無事に内地へ帰って次の作戦に出られたのは、伊号2隻・呂号5隻に過ぎません。 要は駒そのものが少なく、米軍の対潜能力が高すぎたのですね。 (288 携帯鷂 ◆exxupUqotM) 真珠湾攻撃に置いて民間人が日本軍によって殺されたのは事実ですか? 誰も巻き添えが出ていないかどうかは不明。 ただし、当日真珠湾及び周辺の地域で発生した巻き添え被害のほとんどは 海軍艦艇や高射砲/対空機銃が見境無しにぶっ放した弾の流れ弾。 艦名は忘れたが、低空飛行する日本軍機を対空機銃水平撃ちしてた脇の艦に 銃撃されて上部構造物くまなく”縫われた”駆逐艦があったりして、米軍は 流れ弾で相当の被害を出している。 でもそれらは皆被害報告で「日本軍機の銃撃」とか「日本軍機の爆撃」と 処理されてるので、本当にどこまで日本軍機に攻撃されて被害が出たのかは 今だに不明なまま。 ホノルル市に落ちた不発弾てのも、高射砲のやつだしな (287 714-717) 大和の特攻の時に、アメリカ海軍には戦艦同士のガチンコ勝負を行うよう命令があったけど、空母機動部隊にフライングされて妨害されたのですよね? さらに上の司令部から、 「戦艦部隊は間に合わないから、空母部隊が攻撃しろ」 という正式の命令が出ています。 (287 846) ソロモン海戦において、アメリカ側が新型戦艦を温存して豊富にある旧式戦艦を出動させる方針を取らなかったのはなぜ? 太平洋艦隊配備の旧式戦艦は改装中で新型戦艦しか投入出来なかったから。 (俺初質スレ2048 10)
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野村正起 沖縄戦負兵日記 玉砕戦一等兵の手記 1974年10月15日 第1刷発行 1978年 8月15日 第2刷発行 太平出版社 II 根差部―「優勢ナル敵主力ガ上陸ヲ開始セリ」三月二三日(金)晴 やや暖かい 三月二四日(土)晴 白雲多し 三月二五日(日)晴 三月二六日(月)晴 三月二七日(火)晴 やや冷たい 三月二八日(水)晴 三月二九日(木)晴 三月三〇日(金)晴 三月三一日(土)晴 四月一日(日)快晴 II 根差部―「優勢ナル敵主力ガ上陸ヲ開始セリ」 三月二三日(金)晴 やや暖かい 早朝、麓の部落(豊見城村字高安)で、空襲警報発令のサイレンが鳴った。と同時に、すさまじい爆音と機銃掃射の轟音があたりをつつんだ。アメリカ軍機グラマンの襲撃であった。 部落にはいままでにないことである! あわてたわれわれ通信分隊の一〇名は、機械を肩にして、山腹の宿舎から飛び出した。 そして、東麓の各壕へ避難しようとして部落から駆け登つてくる中隊の者や住民らとともに山を越え、その麓の南方に位置する分隊壕へと駆け込んだ。 ほどなく付近に群がっていたグラマン機は飛び去った。が、カーチスも交えて、アメリカ軍機の数は刻々と空に増え、いずれも那覇方面に向かって飛んだ。 那覇上空は、すでに爆弾の黒煙と高射砲の弾幕に満ち、無数のアメリカ軍機が乱舞していた。 息つく暇もないアメリカ軍機の攻撃である。われわれはただ壕内に潜んで、アメリカ軍機の去るのを待つよりほかにしかたがなかった。 午前八時に至つて、那覇市垣花(かきはな)町の第一船舶団司令部より、「現在マデノ敵艦載機数、延べ三五〇機。主トシテ全島ノ港湾、飛行場ヲ襲撃中」との電信があった。 35 空襲には慣れきっているわれわれも、互いに顔を見合わせて、「いよいよ敵の上陸する前哨戦だ」と語り合った。 アメリカ軍機の攻撃は、そのわれわれの思いを駆りたてるかのように、ますます激しくなった。 上空をまるで川の流れのようにアメリカ軍機の群れが、あとからあとから那覇に向かつた。そしてそのうちの何機かは、壕の前を地上すれすれに飛んで、あたりに機銃を乱射していった。 陽が落ちて、さしものアメリカ軍機の攻撃も途絶えた。ようやくわれわれは壕を出たが、那覇の空は暗くかげって、黒煙が数条立ち昇っていた。 幸い付近に被害はなかった。 間もなくわれわれの第二中隊は、一部人員を徹夜の壕掘り作業に残して、部落へ引揚げていった。……まだ中隊の壕は、完成されていない。 この中隊の動きに前後して、住民たちも部落へ向かった。 分隊は、司令部との交信を終え、暗くなってから、全員、宿舎に帰った。 やがて、遅い夕食をとって横になったが、分隊長源田軍曹(仮名)と、補充兵の稲葉亮一上等兵(千葉県出身)、竹節勇上等兵(長野県出身)、初年兵の津代忠雄一等兵(仮名)、沢田勇一等兵(愛知県出身)、の五人が、またアメリカ機動都隊の来攻について、とやかく話しはじめた。 日ごろからうまの合う神経質なやつばかりである。わたしには、うるさくてしようがなかった。 そんなことをいくら詮議してみたところで、しよせん、どうすることもできない問題である。どうせ、なるようにしかならない運命であるのだ。 36 三月二四日(土)晴 白雲多し 午前三時の船舶団司令部との交信後、「敵機動部隊接近!」の入電を伝える分隊長の声を耳にした。が、わたしはそのまま眠ってしまった。疲れてもいたが、いまさら騒いでも仕方があるものか、との思いがしたからである。 しかし、数時間後の明け方、わたしは、分隊長に起こされた。「オイッ、敵艦が見えたぞ! 壕へ移動することになったから早くせい!」。分隊長の声はうわずっていた。 わたしは、あわてて駆け出す分隊長につづいて宿舎を出た。 山頂に続く道は、壕へ急ぐ兵士と住民の群れで、ごったがえしていた。 頭上には、まるでおもちやのトンボのような格好の速度の鈍いアメリカ軍機が五~六機、低く飛んでいた。観測機である。 その上空を、グラマン、カーチスの大編隊が、絶え間なしによぎった。 壕内に駆けこむと、敵艦を見てきたという初年兵の佐藤敏男一等兵(岡山県出身)、芹沢忠一一等兵(静岡県出身)、大須賀義雄一等兵(静岡県出身)、の三人が、しょげた表情で、そのもようをわたしに語った。「まるで海の色が見えないほどに敵の艦船がひしめいている!」というのである。 ―午前九時ごろ、わたしは、分隊長に従って壕を出た。 昨夜、壕の東北約四〇〇メートルに位置する木立に囲まれた高地台上の根差部部落へ、連隊本部が移動してきたので、従来の船舶団司令部中継の本部との通信連絡が廃止され、本日正午から・直接本部と交信することになったので、その事務打合わせについて、本部通信小隊を訪ねるためであった。が、二人にはそのついでに、自分たちの目で、アメリカ艦隊を確認しておきたいという希望もあったのである。 37 途中、人影はまれであった。たくみにアメリカ軍機の下を潜つて、根差部落台上西方の芋畑にでたときである。二人は、思わず息をのんで足を停めた。 眼下の海面を蔽うばかりの無数のアメリカ艦艇を見たのである。教えられてはいたが、あまりにもおびただしい数であった。 いよいよおれもこの沖縄で最後になるかも知れない、とわたしは思った。そして、生きることへの未練を、自然の摂理にまかせようと考えることによつて、解決した。わたしの死生観である。 やがて二人は、福木に岡まれた赤瓦葺きの屋敷に仮泊している通信小隊を訪ねた。 わたしには、ひさしぷりに会う小隊の連中である。懐かしかった。しかし、ろくに落ち着いた話もできなかった。ここもアメリカ艦隊の噂でもちきりで、異常な緊張が渦巻いていたのである。 二人は、小隊長代理の橋本曹長に会つて、事務打合わせを終え、早々に小隊宿舎をあとにした。 二人が分隊壕に帰り着くと同時であつた。遠雷のような轟音が起こつた。砲弾の炸裂音である。「艦砲射撃らしいぞ」。わたしがいうと、「艦砲射撃!?」ひとりひとりが、異様な顔をしてつぷやきかえした。皆には初めて耳にする砲弾の音である。 間もなく、「本日九時二五分ヨリ、本島東南海岸二対シ、敵艦隊ハ艦抱射撃ヲ開始セリ」との報が、本部より伝えられた。 「砲撃の次は上陸!!」それは島嶼攻略のアメリカ軍の常套手段である。皆、その事を予期して、壕内に息を潜めていた。艦砲射撃は、午後二時二五分に至って途絶えた。 その後も艦載機の空襲と、観測機の地上慎察は執拗をきわめた…。 日が暮れると、昼間の騒音にくらべて、無気味なほどの静けさがやってきた。海上のアメリカ艦隊 38 も、陸の日本軍も、いま、沈黙の対峙を続けている。 情報によれぱ、本島を包囲するアメリカ軍艦艇は一、二〇〇隻とのことである。 われわれ沖縄島守備軍(第三二軍)の兵力は、約一〇万といわれるが、この大攻囲軍を相手にして、いかに戦うかが問題である。 「本土からの特攻機の襲撃!!」「連合艦隊の救援!!」などを信じる声も強いが、最近の戦況を考えるに、その援助は望みうすだ。玉砕したサイパンや硫黄島のことを思えば、正直な話、わたしは憂欝になってくる。 しかし、沖縄は日本の一角である。この沖縄が敗れるときは日本の最後だ、いかに衰えたりとはいえ、過去においてあれだけの戦果をあげてきた日本軍である。まだこの島から敵を追っ払うだけの底力は期待してもよいとわたしは思う。 三月二五日(日)晴 早暁より、艦載機は来襲した。観測機-トンボは、しだいに数を増して飛んでいる。 兵士も住民も、皆、壕内にとじこもっていたが、わたしは窮屈な壕生活に飽きて、佐藤・大須賀・芹沢の三人を誘いだし、無人の高安部落をぶらついて、朝のいっときを自由にすごした。 そのわれわれ四名が、分隊壕に帰ってからのことである。また、遠くに砲声が起こった。と、こちらの海の方にも、ドラムを連打するような発射音がして、ヒユーツ、ヒューツと、砲弾が頭上をかすめだした。 ほどなく、牛前九塒三〇分の連隊本部との交信が開始されたが、「九時一五分ヨリ・敵艦隊ハ、本島東南海岸オヨビ慶良間列島ニ砲撃ヲ開始セリ」との電信に接し、壕内は、異常に緊張した。 39 慶良間列島内の座間味島(ざまみとう)には、中隊から乳井小隊も派遣されているのだ。皆その安否を気づかって、いろいろと語り合った。慶良間列島と普通呼ばれている島々は、那覇の西方約二〇海里の海上に浮かぷ島々で、列島中の座間味・阿嘉・慶留間・渡嘉敷などの大きな島には、海上挺身隊と海上挺身基地隊、ならびに船舶工兵二三連隊と二六連隊の一部を合わせた、少なぐとも三、○○○の将兵が配置されているもようである。 昼前、壕の前を通りかかった海軍兵曹長と兵長の二人が、連合艦隊の救援を確信ありげに語っていった。硫黄島にはその姿を見せなかった連合艦隊が、この沖縄には必ずやってくるというのである。 午後一時三〇分の本部との交信で、次のような電信をえた。 三月二五日一三時軍司令部情報部発表 一、三月二四日六時五〇分ヨリ、敵艦載機南西諸島ニ来襲ス。現在マデノ来襲数延七二三機ナリ。九時二五分ヨリ一四時二〇分マデ、沖縄本島東南海岸、敵艦ニヨリ艦砲射撃ヲ受ク。 二、現在マデノ戦果ハ、撃墜二一機、撃破一五機。 三、我ガ方ノ損害キワメテ軽微ナリ。 日没後、特攻機が来襲した。本土からの初の救援に、全員、壕を出て、歓声をあげて空を仰いだ。 特攻機は、西北の空を紅に染めた敵の曳光弾幕の中に、さか落としに舞いおりていった。と、同時に、火柱が高く立ち昇った。 機体もろとも、敵艦に体当たりしたのにちがいない! 噂には聞いていたが、目撃したのは初めてである。わたしは、いい知れぬ感動と、哀感に胸をうたれた。 やがてアメリカ軍は、照明弾を打ち上げはじめた。夜空にいくつも輝くその照明弾は、一弾が消えると、また一弾がボッと炸裂して、絶え間なく地上を照らしている。 40 艦砲射撃は、依然としてやまない。 三月二六日(月)晴 夜っぴで、慶良間列島および本島東南海岸にたいする艦砲射撃は続いた。 そして夜が明けると、また艦載機が空を制し、トンボが飛んだ。 午前八時三〇分、本部との交信で、「本日八時五分ヨリ、慶良間列島へ熾烈ナル艦砲射撃支援ノモト一、優勢ナル敵ノ先遣部隊ガ上陸ヲ開始セリ。所在ノ我ガ部隊ハ、直チニコレヲ邀撃(ようげき)敢闘中ナリ」との電信が入った。 ついに! との思いが、期せずして見合わす皆の面を走った。 なんといっても離島の小部隊である。われわれは乳井小隊はじめ友軍部隊を案じ、かつその健闘を念じた。 だが、午後二時に至って本部より、「慶良間列島守備隊トノ通信杜絶セリ」との絶望的な入電があった。分隊長以下、暗然として声もなかった。 ひそかにわれわれが期待していた連合艦隊も、ついにその姿を見せなかった。慶良間は陥ちたのである。 わたしは、いまさらのように兵士のはかなさを痛感した。そして、いずれはこの本島も、同じ運命におかれるのではなかろうか…、との不安に襲われた。 41 夕刻、また特攻機が来た。だが、もう昨日のように歓声をあげる者はなかった。 薄闇の西空を、アメリカ艦艇から撃ち上げる曳光弾がほのかに赤く彩られて、さびしく消えていった。 三月二七日(火)晴 やや冷たい 昼ごろ、本部通信小隊より船舶団長戦死の報が伝えられてきた。 その報によれば、船舶団長大町大佐は、一昨日の三月二五日、慶良間列島内の渡嘉敷島守備隊(海上挺身第三戦隊および海上挺身基地隊)基地を巡視中、慶良間列島攻略を企図するアメリカ機動部隊の奇襲に遭遇。余儀なく同島守備隊を指揮して、アメリカ機動部隊邀撃の機を待ったが、船舶団司令官としての責務上、本島に帰還して隷下全部隊の指揮をすべく、同夜、特攻○レ艇に身を託して帰島の途次、海上において戦死したもようである。 この司令官戦死の報は、慶良間列島守備隊全滅直後のこととて、余計にわれわれの気持ちを暗いものにした。 午後四時三〇分、大本営は、アメリカ軍の慶良間列島上陸について、次のように発表した。無線機で聴取したものである。 一、敵ノ機動部隊ハ、ソノ後、南西諸島近海ニ出現シ、三月二三日以来、主トシテ沖縄本島ニ対シ、砲爆撃ヲ実施中ニシテ、二五日一部ノ兵力ハ、慶良間列島ニ上陸セリ。 二、所在ノ我ガ部隊ハ、コレヲ邀撃スルト共二、我ガ航空部隊ハ、右機動部隊二対シ、果敢ナル攻撃ヲ続行中ニシテ、現在マデニ確認セル戦果ツギノ如シ。 艦船轟沈 大型五隻 轟沈マタハ大破 大型五隻 飛行機撃墜 四四機 撃破 約一一〇機 日暮から、東北高地上に、しきりに艦砲弾が落下しはじめた。高地上のあちこちに、轟然と真っ赤な火炎を吹き上げて炸裂するさまが、壕の入口から手にとるように見える。分隊の者は、初めてのこととて驚き、かつ珍しそうにこれをながめている。 この砲撃は、夜陰に乗じて高地台上の道路を往来する友軍部隊の行動を阻止するためであろうが、ときおり、思い出したように、その高地とこちらの山の間の畑のなかを走る道路上にも、艦砲弾が飛んでくる。これはまた間近いだけに、すさまじい閃光と轟音と震動が、肝を奪う。いよいよこのあたりも、砲弾の脅威に曝されることになってきたのである。 三月二八日(水)晴 午後三時ごろ、中隊本部壕より帰つた分隊長は、一同を集めて、「第二中隊は、明日没後、東北高地の、根差部部落南西の山間にある壕へ移動することになった。移動後の中隊と連隊本部との通信連絡は、有線によって行なわれることになったので、通信分隊は、移動先の中隊本部壕より同高地の東北約五〇〇メートルの山間にある連隊本部壕との間に今夜中に線路を構成(電話線を架設)しなければならない」と、中隊長斎藤栄三郎大尉(東京都出身)からの命令を達した。 そして、「野村、ご苦労だが、津代を連れて、行ってくれないか」と、わたしにいった。命令である。 間もなく、わたしは分隊長と根差部高地に下検分にでかけた。 43 日が暮れてから、わたしと津代は、互いに電話線(軽被覆線)一巻を肩にかけて、壕を出た。めざす根差部高地には、しきりに艦砲弾が炸裂していた。 途中、津代は行くことをしぷって、「命令が無謀ですよ!」と、わたしに帰隊を要求したが、「いまさら帰れるかッ、行け!」と、わたしはかれを強引にうながして道を急いだ。 日ごろから古参兵にたいして、「飛んでくる弾丸は前ばかりではない……」と、ほのめかすほどの津代である。自分の了見の前には、命令も蜂の頭もなかった。 わたしにしても、最初から不服はあった。日ごろ、進級などに関しては粗略に扱っておきながら、なにも一等兵であるおれを指揮官にして出さなくても、分隊長が行けなければ、上等兵である稲葉か竹節を出せばよいのに……と、思ったことである。しかし、出てきた以上、「艦砲がひどいので…」といって帰るわけにはいかなかった。 やがて二人は、中隊本部壕にたどり着いた。それと同時に、ようやく砲撃が衰えた。思わずわたしはホッとしたが、先を急がなければならない。 わたしは津代をうながして、中隊本部壕から台上の道賂に至る山の斜面の雑木の枝に電話線を架設し、さらに、台上道路の東側の杉の木から、西側の杉の木へと、電話線を高くかけ渡した。この道賂は、連隊本部壕の方向から、やや東寄りに北に走って、その右側にまばらに杉の木が立ち、左側に狭い芋畑がつづいている。 連隊本部壕への電話線のコースは、この道路の左側の芋畑の前方五〇メートル程の地点に在る製糖工場の小屋の手前から、左へ二〇メートルぐらい歩いて、台上西方の広い芋畑に出、その芋畑の中を北東に直進するわけである。 わたしは、津代と道路沿いの芋畑の上に、電話線を敷設していった。 44 そして、製糖工場の小屋のままできたときである。突然、なだれのように砲弾が落下しはじめ、二人はアワをくって、横手の石垣の陰にとびこんだ。 いつときして、砲弾が衰えると、突然、怒鳴るように津代はいった。「古兵殿、これ以上やることは無茶です。津代は帰ります!」。 「何!」。わたしは思わず拳を固めてつめよった。しかし、それ以上、引止めることの無駄を知ってやめた。 「気をつけて帰るんだぞ……」。わたしは、静かにいった。 「帰ります!」。津代は、それが当然ででもあるように、自分の肩にかけていた電話線をわたしの足元に置いて、すたすたと闇のなかに消えていった。 わたしは、かれのうしろ姿を見送りながら、中隊長を恨んでいた。中隊長は、弱兵の多い初年兵にたいして、ただ人数の確保のみに力を注ぎ、兵士として鍛えることをしなかった。だからこんな不心得者ができたのである。 わたしもでけらめな兵士ではあるが、命令のなんたるかは心得ている。わたしも砲弾は恐ろしい、しかし、兵士が砲弾を恐れてばかりいては、戦争はできないのだ。また、「砲弾を恐れて逃げ帰った」といわれることは、兵士としてこのうえもない恥である。 だが津代にはそんな考えはない。かれはなによりも自分がだいじである。自分の前には命令もクソもないのだ。 ようし! おれは意地でもひとりでやってやる。そのかわり帰ったら、「中隊長が甘いからこんな不心得者が出るのだ!」と、中隊長の目の前で、津代を殴り倒してやる! と思うことによって、わたしは、自分の感情をおさえた。 45 三月二九日(木)晴 一晩中、艦砲弾の落下する根差部高地台上で、移動先である中隊本部壕から連隊本部壕までの電話線の架設作業をひとりで続けたわたしは、ようやく、未明に作業を終えた。 そして帰途につくと、昨夜来の欝積していた憤懣が、任務を果たした喜びの前に、うすらいでいくのを覚えた。それは ―津代はどうしたであろうか。かれのことだから、おそらく平気でしゃあしゃあと分隊に帰ったであろう。まさか途中で艦砲にやられたのではあるまい。しかし、それにすると、分隊長の処置がおかしくなってくる。津代が帰った以上は、当然、だれかを応援によこしそうなものである― ということであったが。 分隊壕にわたしが帰り着くと、他の者はもとより、分隊長までが、手をとらんばかりにして迎えてくれた。 わたしは、しばし興奮した誇りに酔っていたが、壕内の奥に、津代が首を垂れて坐しているのを見て、にわかに昨夜来の憤りがこみあげてきた。 なぜ!? わたしは、なじるように分隊長を見た。一瞬、分隊長の面に困惑の色が走った。そして、衷願するようにわたしにいった。「津代はけしからんことをした。後悔している。許してやってくれ」。「……」。わたしは返事をしなかった。 分隊長は、命令にそむいて逃げ帰った津代を「許してやってくれ」とわたしにいうのである。一人あとに残って命令に従ったわたしには、応援の者も出さずにおきながら……、わたしは、腹立たしさに身震いした。 だが、中隊長にしたってどうせ分隊長と同じことであろうと思うと、わたしは急になんともいえない情けない感じにつつまれた。 46 わたしは、分隊長の相手になるのが馬鹿らしくなって、黙ったまま奥の自分の席に入って、寝ころんだ。じっさい、疲れてもいたのである。そのままわたしは、いつしか眠っていた。 夜に入って、中隊は根差部高地南西の山間の壕へ移動した。 通信分隊は、東側の山腹にある壕が完成していないので、砲撃が遠いのを幸い、器材置場として借用した指揮班壕上部の道路端の茅葺きの民家に入った。壕生活からくらべるとなんだか心細いが、たとえ板の間にしても、やはり家の中は快適である。 木立に囲まれた台上の部落には、住民の帰宅した煮炊きの火が木の間越しに洩れ、まるで昨夜の砲撃が、嘘のようにしか思われないのどかさである。 三月三〇日(金)晴 アメリカ軍の本島上陸が、いよいよ間近に迫った。 情報によれば、「港川オヨビ嘉手納ノ沖合ニ、敵輸送船ガ集結シテ、上陸の公算大ナリ」とのことである。 情報のとおりだとすれば、一方は牽制ではなかろうか? しかし、西海岸からの上陸ということも考えられる。が、ここだけではなくて、他の地点にも、アメリカ軍は上陸しそうな気配を見せている。 糸満と天久(あめく)である。部落を往来する他部隊兵士や住民たちの話によれば、糸満と天久の海岸に、「敵が何十隻もの舟艇で押し寄せて来て、機関砲をぶっぱなしていった」とのことである。また、港川にも糸満にも、同様のことが行なわれたという者もある。 47 だいたい、アメリカ軍が上陸しそうな気配をみせている地点は、以上の四か所らしいが、これはアメリカ軍が企図する上陸地点の抵抗を少なくしようとして、防御軍の注意を四方に分散させるためか。または、各防御陣地の配備を探って、そのもっとも適した地点に上陸しようとするためかのいずれかであろう。 が、果たしてアメリカ軍は、いつ、どこの海岸へ上陸してくるであろうか……。 三月三一日(土)晴 艦砲射撃がすごくなった。昨日まで、ヒューツ、ヒューツと、巨大な笛のように空に聞こえていた砲弾の通過音が、ゴオーという音に変わった。まるで幾百もの雷が鳴っているような轟音である。そしてその炸裂音が、ヅルヅルと地響きをともなって聞こえてくる。 タ暮、台上西方の墓地に、艦砲弾が集中した。アメリカ軍は、沖縄特有の巨大な墓を、日本軍陣地とでも間違えたのであろうか。 このため、連隊本部と中隊間に架設した電話線が切れて、わたしは芹沢と保線(補修)に出た。すでに砲撃は途絶えていたが、台上には、直径四~五メートルもある弾痕が、いたるところにできていた。 はるかな海上には、こうこうと電灯に輝くアメリカ艦がひしめいて、さながら大都市の灯を望むようであった。 午後九時ごろ、那覇市垣花町の船舶団司令部通信班勤務についていた四年兵の山崎上等兵(仮名)が、同通信班勤務を解かれて帰隊し、分隊に復帰した。 通信班の井手軍曹や僚友井手富夫兵長(愛媛県出身)も、元気だとのことである。「司令部は落ち 48 着いたものだ」と、かれは、司令部がいかにも勝算ありげに見えることを一同に語った。 四月一日(日)快晴 今朝は、付近にアメリカ軍機も見えず、砲撃もない閑散な時間がつづいた。空はあくまでも晴れてただ遠くに海鳴りのような轟音が聞こえていた。 わたしや佐藤・大須賀・芹沢は、まるで戦いを忘れたかのようなそののどけさに、日ごろの緊張も解けて、あてもなく部落をうろついて回った。 しかし、それは、われわれのみが感じた地域的な平和でしかなかった。われわれが宿舎に帰ってからのことである。午前八時四〇分であった。 指揮班へでかけていた分隊長が、急いで帰ってきて、「おいッ、敵が嘉手納付近へ上陸し始めたぞ!」といった。「…」。全員、亜然として、分隊長の顔を見た。分隊長は、興奮していた。 分隊長が指揮班で聞かされたという連隊本部からの伝達によれば、「本日八時一○分ヨリ、本島南部地区ノ海岸嘉手納付近ヘ、熾烈ナル艦砲射撃支援ノモトニ、優勢ナル敵主力ガ上陸ヲ開始セリ、所在ノ我ガ守備部隊ハ、直チニコレヲ邀撃激戦中デアル」とのことであった。 「嘉手納付近へ上陸し始めた!」。われわれは初めて口にして、緊張した顔を見合わせた。意外なショックであつた。だれしも最初はアメリカ軍を、水際で撃退できると固く信じていたのである。 それが上陸し始めたとは、同方面のわが部隊は、いったいどうしていたのであろうか!? むざむざ敗れて上陸されたとは思われない。しかし、現実には、アメリカ軍が上陸しはじめたことにまちがいはないのだ。 しいて考えれば、日本軍の誘導作戦ともとれるが、いずれにしても、この本島の地上をアメリカ兵 49 (つづく) 沖縄戦負兵日記