約 8,542 件
https://w.atwiki.jp/minnasaba/pages/1073.html
【元ネタ】史実 【CLASS】セイバー 【マスター】??? 【真名】木下藤吉郎 >羽柴秀吉 >豊臣秀吉 【性別】男性 【身長・体重】150cm・42kg(召喚時) 【属性】混沌・善 >中庸 >悪 【ステータス】筋力E~A 耐久E~A 敏捷D~A+ 魔力E~A 幸運C~EX 宝具E~EX 【クラス別スキル】 対魔力:C~A 魔術に対する抵抗力。 一定ランクまでの魔術は無効化し、それ以上のランクのものは効果を削減する。 召喚直後はセイバーとしては低い対魔力だが、召喚日数と共に向上。 騎乗:C 騎乗の才能。 大抵の乗り物、動物なら人並み以上に乗りこなせるが、野獣ランクの獣は乗りこなせない。 特筆するような騎乗の逸話を持たないため、これまたセイバーとしては低いランク。 【固有スキル】 黄金律:A 人生においてどれほどお金が付いて回るかという宿命を指す。 日ノ本の全ての黄金を集めたといわれるほどの超絶黄金成金。 カリスマ:B~A+ 希代の人たらしと呼ばれた秀吉の驚異のカリスマ。 あのサルぶっ殺してやると乗り込んだ武将が次の日にはズッ友になって帰ってきた、 とかいうレベルの日本史上稀にみる問答無用のコミュ力。 おまけ効果で上司や敵に気に入られたり、敵の対応がちょっと甘くなったりする。 7日目にはA+となり、ここまで来ると呪いじみた魅力となり、抗うには対魔力:B以上を必要とする。 中国大返し:C~A 絶対のピンチをチャンスに変える奇跡の逃走スキル。逃げ足めっちゃ速い。 仕切り直しと似た効果を持つが、判定成功時には必ず有利な状態で戦闘を再開できる。 ノッブの仇を討つために備中高松から全軍を取って返した逸話がスキルとなったもの。 【宝具】 『日輪の子(にちりんのこ)』 ランク:E~A 種別:神性宝具 レンジ:- 最大捕捉:- 召喚から7日の間、ステータスが上がり続ける。 日を追うごとにパラメータが上昇し、7日目にはまさに日輪そのものともいえる大英霊へと位階を上げる。 ステータスの上昇と共に各スキル、宝具も強化されていき、4日目以降は神性を獲得、最終的には7日目に神性:Aを獲得する。 ただし8日目以降は同じく7日をかけてステータスが下がり続けていく。 落日とともに姿も老成していき、14日目に消滅する。 日輪とともに駆け上がり天下を取った秀吉の生涯そのものともいえる宝具である。 『刀狩り(ブレイド・テイカー)』 ランク:E~EX 種別:対宝宝具 レンジ:1 最大捕捉:1人 1日目はランク:Eで幸運判定に失敗した相手の武装宝具を極短時間使用不能にするだけだが、 4日目のランク:Bでは判定に失敗した相手の武装宝具を自身のものにして使用可能に、 7日目に最大ランク:EXとなり自身が宝具判定に成功すると奪った宝具の真名開放(一時的に)が可能となる。 秀吉が発したかの有名な「刀狩令」が宝具となったもの。 この宝具のおかげで秀吉はセイバーでありながら特徴的な自身の武装を持たない、 という極めて珍しいタイプのセイバーとして顕現している。 ちなみに本人はそれほど武器の扱いが得意ではないので、使用効果は本来の所有者より劣る。 『一夜城(スノマタ・キャッスル)』>『超絶絢爛日輪城(ちょうぜつけんらんにちりんじょう)』>『黄金魔境ZIPANG(おうごんまきょうジパング)』 ランク:E~EX 種別:城塞宝具 >??? レンジ:1~100 最大捕捉:1~???人 「一夜城」ランク:E~B 敵の攻撃を受け止める城塞を召喚する。しかし効果のほどは城塞とは名ばかりのささやかなもの。 ランクD以上の宝具であれば問題なく突破される。ランクごとに耐久力がやや上昇。 「超絶絢爛日輪城」ランク:A 6日目以降に召喚可能となる城塞宝具。 城塞中心にある黄金の魔力炉から無尽蔵の魔力を放出し、固有結界ともいうべき天下人秀吉の黄金大魔術城塞が顕現する。 黄金炉のバックアップにより自身はほぼ無限ともいえる魔力を行使でき、さらには城塞から豊臣恩顧の英霊を 軍勢として出撃させることも可能。 但し、彼らの召喚は黄金炉の魔力によって賄われているため城塞の外では短時間しか戦う事は出来ない。 日本史上最高といわれた防御力を誇る鉄壁の巨大黄金城塞である。 ちなみに徳川はこないよ、五大老だけど仕方ないね。 「黄金魔境ZIPANG」ランク:EX 詳細不明。
https://w.atwiki.jp/choco1211/pages/14.html
松前城 北海道 松前郡 1850年(江戸時代) 松前崇弘が築城。 当時、長沼流軍学の粋を集めた天下一の名城と言われていた。 弘前城 青森県 弘前市 1611年(江戸時代) 洪水被害を避ける為、また短期築城を実現する為、様々な工夫が盛り込まれた城 盛岡城 岩手県 盛岡市 1592年(安土桃山時代) 天守閣の部分には、華頭窓(かとうまど)と呼ばれる特徴的な窓が配置されていた。 久保田城・御隅櫓 秋田県 秋田市 1603年(江戸時代) 近年、模擬建造された櫓。 佐竹氏二十万石、十二代を支え続けた名城。 山形城・東大手門 山形県 山形市 1357年(南北朝時代) 城の敷地面積は最大級。 門の規模は江戸城のそれに匹敵した。最上義光の居城 仙台城・伊達政宗像 宮崎宮城県 仙台市 1600年(安土桃山時代) 手前の櫓は隅櫓(すみやぐら)と呼ぶ。 政宗像は現在も仙台の街を見守っている。 鶴ヶ城 福島県 会津若松市 1590年(安土桃山時代) 戊辰戦争の重要な舞台となった城。 この城にまつわる白虎隊の話は特に有名。 水戸城 茨城県 水戸市 1190年(鎌倉時代) 徳川光圀(水戸黄門)でお馴染みの城。 徳川御三家の城だが天守は建造されなかった。 宇都宮城 栃木県 宇都宮市 不明(平安時代) 宇都宮動物園にある、模擬天守。 釣天井事件の話に基づき建造された。 一郷山城 群馬県 多野郡 1438年(室町時代) 近年建造された模擬天守。 上杉憲実が居城の西構えとして建造した城の1つ。 忍城 埼玉県 行田市 1480年(室町時代) 堅城で、石田光成の水攻めにも耐えた事から、「浮き城」と呼ばれた逸話のある城。 江戸城 東京都 千代田区 1457年(室町時代) 最終的に天下を統一した、徳川家康の威信をかけた城。 世界でも稀な大城郭であった。 千葉城 千葉県 千葉市 1126年(平安時代) 千葉氏により鎌倉時代以前に築かれた城。 現在は模擬天守を兼ねた歴史資料館が存在する。 小田原城 神奈川県 小田原市 1495年(戦国時代) 関東北条氏の居城。 北条氏滅亡後も城は残り続け、江戸末期の天守姿で再建されている。 甲府城・稲荷櫓 山梨県 甲府市 1583年(安土桃山時代) 徳川綱豊が養嗣子に出るまでは将軍家一門が城主となる特別な城であった。 新発田城・三重櫓 新潟県 新発田市 1598年(安土桃山時代) 最上階の屋根の形状がT字型で、三匹の鯱が配置された天守を持つ国内唯一の城。 富山城 富山県 富山市 1543年(戦国時代) 近年建造された模擬天守。 神保長職築城の後、佐々成政の越中制圧の拠点となった。 金沢城・石川門 石川県 金沢市 1580年(安土桃山時代) 加賀百万石を支えた、金沢城の石川門。 天明時代に再建されてから今日まで現存する。 丸岡城 福井県 坂井市 1576年(安土桃山時代) 国内でも貴重な現存天守の一つ。 時を経た現在でも、古風で重厚な趣を保っている。 松本城 長野県 松本市 1504年(戦国時代) 石川数正親子により建造されたこの天守は、貴重な現存天守の1つでもある。 駿府城 静岡県 静岡市 1585年(安土桃山時代) 徳川家康の隠居後の居城。 史上最多階層の七階建て構造の天守は非常に豪華であった。 名古屋城 愛知県 名古屋市 1609年(江戸時代) 尾張徳川家を十七代に渡って支えた城。 徳川家の威光を示す「金の鯱」が有名である。 岐阜城 岐阜県 岐阜市 1201年(鎌倉時代) 斎藤氏、織田信長の居城。 合戦の為の城というよりも、住居として主に使われた。 安土城 滋賀県 蒲生郡 1576年(安土桃山時代) 織田信長が天下布武の象徴として建造させた城。 信長の死後まもなくして廃城、消失。 伊賀上野城 三重県 伊賀市 1585年(安土桃山時代) 昭和初期に建造された模擬天守。 筒井定次が築城、後に藤堂高虎が改修にあたった。 大和郡山城・追手門 奈良県 大和郡山市 1580年(安土桃山時代) 門の側にある月見櫓は豊臣秀吉の弟・秀長が築城した当時の面影を偲ばせる。 伏見城 京都府 京都市 1592年(安土桃山時代) 豊臣秀吉の隠居後の居城。 現在は「伏見のシンボル」としての模擬天守が存在する。 大坂城 大阪府 大阪市 1583年(安土桃山時代) 大阪市のシンボル。 復興天守には、豊臣、徳川双方の時代の姿が参考にされている。 姫路城 兵庫県 姫路市 1346年(南北朝時代) 現在の天守は、「西国将軍」池田輝政が築き上げた。 世界遺産にも登録されている。 和歌山城 和歌山県 和歌山市 1585年(安土桃山時代) 豊臣秀長、藤堂高虎らにより築城され、徳川御三家を250年間支え続けた城。 岡山城 岡山県 岡山市 1346年(南北朝時代) 豊臣五大老の宇喜多秀家が安土城天守閣を模して築城。 黒塗りの姿から「烏城」ともいう。 河原城 鳥取県 鳥取市 1580年(安土桃山時代) 豊臣秀吉が因幡攻めの際に陣を張った山頂に建造された模擬天守。 通称「天空に近い城」。 松江城 島根県 松江市 1611年(江戸時代) 山陰地方では唯一の現存天守。 234年間に渡り松平氏を支え続けた。 広島城 広島県 広島市 1589年(安土桃山時代) 中国地方の覇者、毛利氏の豪壮な居城。 中国地方一帯を治めるべく築城された。 萩城 山口県 萩市 1590年(安土桃山時代) 赤瓦を使用した事もある天守。 関が原での敗戦後、滅封された毛利輝元が築城した。 高松城 香川県 高松市 1588年(安土桃山時代) 瀬戸内海の水軍の要として生駒親正が築城。 日本三大海城の1つである。 川島城 徳島県 吉野川市 1573年(戦国時代) 阿波九城の1つ。 豊臣時代、蜂須賀家政が徳島城の防衛の為に築城させた。 高知城 高知県 高知市 1603年(江戸時代) 山内一豊が築城。 南海道随一の名城と呼ばれる。 再建から253年、今も現存している。 伊予松山城 愛媛県 松山市 1602年(安土桃山時代) 加藤嘉明が25年かけて、勝山山頂に築城。 現存天守としても貴重な城である。 小倉城 福岡県 北九州市 1602年(安土桃山時代) 古くから陸海路の中心地小倉に、毛利氏が築城した事が始まり。 近年再建された。 中津城 大分県 中津市 1587年(安土桃山時代) 築城名人、黒田如水が築城。 「扇城」とも呼ばれた。 現在は模擬天守が存在する。 唐津城 佐賀県 唐津市 1602年(安土桃山時代) 豊臣秀吉の側近であった寺沢広高が7年かけて築城。 当初は名護屋城の後詰の城であった。 綾城 宮崎県 東諸県群 1331年(鎌倉時代) 元弘年間に綾氏が築いた後、廃城になるまで島津氏が領有した。 660年の歴史がある。 熊本城 熊本県 熊本市 1601年(安土桃山時代) 日本三大名城の1つで加藤清正築城。 西南の役では難攻不落の城として真価を発揮した。 鹿児島城・御楼門 鹿児島県 鹿児島市 1601年(安土桃山時代) 島津氏が三カ国支配を維持する為に建造した平城。 これは本丸正門部分で御楼門と言う。 島原城 長崎県 島原市 1624年(江戸時代) 江戸幕府から特別な許可を得た松倉重政が築城。 かつて島原の乱の舞台ともなった城。 首里城・正殿 沖縄県 那覇市 14世紀末(南北朝時代) 1400年以前には建造されていたと推定される。 築城の際には風水学が用いられた。 レアランドマーク 札幌時計台(レア) 北海道 札幌市 1878年(明治時代) クラーク博士の精神を受け継いだ建物。 1888年には札幌市の標準時時計になった。 善光寺(レア) 長野県 長野市 600年前後(飛鳥時代) 三国伝来の阿弥陀如来像を安置して以降、約1400年以上も続く日本随一の霊場。 浅草寺雷門(レア) 東京都 台東区 942年(平安時代) 門内部にある左の像は雷神像、右は風神像。 かつては風雷神門と呼ばれた。 富士山(レア) 静岡県・山梨県 約1万年前(最終氷期) 名実ともに日本一の名山。 その美しい稜線は古の時代から日本人の心の拠り所である。 通天閣(レア) 大阪府 大阪市 1912年(明治時代) 大阪のシンボル。 塔の東面には、文字盤直径5.5mという日本最大の時計がある。 原爆ドーム(レア) 広島県 広島市 1915年(大正時代) 平和のシンボルとして世界的にも知られている。 元々は広島県物産陳列館として開館。 坂本龍馬像(レア) 高知県 高知市 1928年(昭和時代) 桂浜にある、言わずと知れた幕末の偉人の像。 故郷桂浜以外にも、多数存在する。 平和記念公園像(レア) 長崎県 長崎市 1955年(昭和時代) 世界恒久平和を願って造られた像。 世界各国からの平和のモニュメントも並んでいる。 クッパ城(レア) Nintendo 1985年(昭和時代) キノコ王国の平和を乱す、クッパ大王の居城。 様々な仕掛けが、数多くの人々を苦しめた。
https://w.atwiki.jp/castle_compare/pages/77.html
前ページ次ページ和歌山県 和歌山城(ワカヤマ-)概要 イラスト 場所 口コミ ギャラリー コメント 和歌山城(ワカヤマ-) 別名:虎伏城・竹垣城 概要 和歌山城 1585年の紀州征伐の後、豊臣秀長の命により藤堂高虎によって築かれた 翌年に城代として桑山重晴をおき、さらに1596年繁晴隠居に伴い孫の桑山一晴が城代とされた 関ヶ原後は浅野幸長が入城、広島へ転封されると徳川頼宣が入場し御三家の一つ紀州徳川家となった 維新後は廃城令により廃城となり、二の丸御殿は大阪城へ移築され大阪市迎賓館として利用された(昭和22年火事により焼失) 天守は国宝に指定されていたが、和歌山大空襲により焼失。現在の天守は1850年に復元されたもの 主な城主:豊臣秀長 浅野幸長 紀州徳川家(徳川頼宣など) イラスト 御城プロジェクト 城姫クエスト 城姫の虎イメージは別名の虎伏城からだろう 和歌山城が建てられた山が虎伏山である 場所 口コミ #bf ギャラリー +... 城プロ 名前 城娘 御嬢 半壊 特技 和歌山城 和歌山城(旧) 城姫 名前 城姫 開城 和歌山城 和歌山城弐式 和歌山城[温泉] 和歌山城[騎] スライドショー « » var ppvArray_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9 = new Array(); ppvArray_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9[0] = http //w.atwiki.jp/castle_compare/?cmd=upload&act=open&page=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%2F%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E&file=p%E2%80%99.%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E_%E5%8D%8A%E5%A3%8A.png ; ppvArray_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9[1] = http //w.atwiki.jp/castle_compare/?cmd=upload&act=open&page=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%2F%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E&file=q.%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E%5B%E6%B8%A9%E6%B3%89%5D.png ; ppvArray_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9[2] = http //w.atwiki.jp/castle_compare/?cmd=upload&act=open&page=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%2F%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E&file=q.%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E%5B%E9%A8%8E%5D.png ; ppvArray_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9[3] = http //w.atwiki.jp/castle_compare/?cmd=upload&act=open&page=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%2F%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E&file=q.%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E5%BC%90%E5%BC%8F.png ; ppvArray_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9[4] = http //w.atwiki.jp/castle_compare/?cmd=upload&act=open&page=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%2F%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E&file=q.%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E5%BC%90%E5%BC%8F_%E9%96%8B%E5%9F%8E.png ; ppvArray_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9[5] = http //w.atwiki.jp/castle_compare/?cmd=upload&act=open&page=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%2F%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E&file=q.%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E.png ; ppvArray_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9[6] = http //w.atwiki.jp/castle_compare/?cmd=upload&act=open&page=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%2F%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E&file=q.%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E_%E9%96%8B%E5%9F%8E.png ; ppvArray_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9[7] = http //w.atwiki.jp/castle_compare/?cmd=upload&act=open&page=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%2F%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E&file=p.%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E_%E7%89%B9%E6%8A%80.png ; ppvArray_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9[8] = http //w.atwiki.jp/castle_compare/?cmd=upload&act=open&page=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%2F%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E&file=p.%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E_%E5%8D%8A%E5%A3%8A.png ; ppvArray_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9[9] = http //w.atwiki.jp/castle_compare/?cmd=upload&act=open&page=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%2F%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E&file=p.%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E.png ; ppvArray_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9[10] = http //w.atwiki.jp/castle_compare/?cmd=upload&act=open&page=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%2F%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E&file=p.%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E_%E5%BE%A1%E5%AC%A2.png ; window.onload=function(){ ppvShow_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9(0); }; function ppvShow_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9(n){ if(!ppvArray_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9[n]){ alert( 画像がありません ); return; } ppv_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9$( ppv_img_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9 ).src=ppvArray_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9[n]; ppv_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9$( ppv_link_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9 ).href=ppvArray_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9[n]; ppv_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9$( ppv_prev_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9 ).href= javascript ppvShow_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9( +(n-1)+ ) ; ppv_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9$( ppv_next_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9 ).href= javascript ppvShow_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9( +(n+1)+ ) ; } function ppv_0_dfa106c48fe4757a3fa366c524571bf9$(){ var elements = new Array(); for (var i = 0; i arguments.length; i++){ var element = arguments[i]; if (typeof element == string ) element = document.getElementById(element); if (arguments.length == 1) return element; elements.push(element); } return elements; } コメント 名前 コメント 城プロ 城姫 復元天守_外観 日本100名城
https://w.atwiki.jp/sengoku-taisen/pages/3577.html
武将名 とよとみひでより 天下人の子 R豊臣秀頼 豊臣秀吉の子で、母は側室の淀の方。父亡きあとは、家督を継いで、大坂城で暮らした。関ヶ原の戦いでは、西軍総大将の毛利輝元の庇護下におかれた。戦後、摂津・河内・和泉の直轄地のみを治める一大名の座に転落した。「なにかたのしいお話、聞かせてくれる?」 出身地 摂津国(大阪府) コスト 1.0 兵種 弓足軽 能力 武力1 統率3 特技 防柵 魅力 豊国 計略 後は任せたよ! 城内の最も武力の高い豊臣家の味方を戦場に一瞬で移動させる。自身は自城に一瞬で移動する。さらに日輪ゲージが増加する。 必要士気2 Illustration 21498 まだ少年のころの豊臣秀頼。 柵と魅力はありがたいものの、武力1の弓なので戦力としては苦しいスペック。 計略は自身を自城に、城内の豊臣家の味方1部隊を戦場中央に出現させる転進計略。 さらに日輪ゲージが+1される効果がある。(3.00A)
https://w.atwiki.jp/sengoku-yaraideka/pages/227.html
【城攻めマイスター】豊臣秀吉 imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (height=100.png) レア度 LE レベル 1 最大Lv70 スキル1 【極】無限の銭力 コスト 59 攻撃力 7,815 19,130 スキル2 攻撃増強・左[中] 継承可能 兵科属性 特殊 防衛力 3,259 7,978 奥義名 人心掌握の妙技 兵科種類 大筒兵 兵力 6,563 16,066 武運 140%(10/31~11/30) 編集 消費奥義P 28 - - - 知運 -
https://w.atwiki.jp/sengokutougekipc/pages/30.html
勢力 ランク 武将名 コスト 兵種 武勇 智謀 統率力 財力 編集 姫 C 安濃津姫 1.0 騎馬隊 4 2 4 4 編集 姫 C 千姫 1.5 弓隊 5 4 3 6 編集 姫 C 豪姫 1.0 鉄砲隊 3 6 2 3 編集 姫 B 立花誾千代 2.0 足軽隊 7 7 3 5 編集 姫 B 妙麟尼 2.0 足軽隊 7 7 3 3 編集 姫 C 慶誾尼 1.0 槍隊 2 6 2 4 編集 姫 A 甲斐姫 2.5 騎馬隊 8 8 6 2 編集 姫 A 江 2.0 足軽隊 7 8 3 5 編集 姫 C 初 1.5 弓隊 5 6 2 3 編集 姫 .S 淀 3.0 槍隊 9 6 3 7 編集 姫 A 本多小松 3.0 騎馬隊 9 7 6 4 編集 姫 B 義姫 2.0 槍隊 7 6 2 3 編集 姫 C 蛍 1.0 鉄砲隊 3 5 2 2 編集 姫 B お市 2.0 鉄砲隊 7 8 3 5 編集 姫 B 小少将 1.5 槍隊 4 8 1 6 編集 姫 B お船 2.0 騎馬隊 7 6 5 2 編集 姫 A 綾姫 2.5 槍隊 8 9 4 3 編集 姫 B 寿桂尼 2.0 弓隊 7 9 4 8 編集 姫 A 五徳 2.5 足軽隊 7 8 1 7 編集 姫 B 瀬名姫 1.0 弓隊 2 5 2 5 編集 姫 C 里美 1.5 騎馬隊 5 5 5 1 編集 姫 C 琴姫 1.5 弓隊 4 6 3 2 編集 姫 B 諏訪姫 1.0 騎馬隊 1 5 4 2 編集 姫 C 三条夫人 1.0 騎馬隊 2 7 4 5 編集 姫 .S 寧々 2.0 弓隊 6 9 4 6 編集 姫 C 千代 1.0 足軽隊 2 8 4 4 編集 姫 A ガラシャ 2.5 鉄砲隊 6 7 3 4 編集 姫 C まつ 1.0 槍隊 1 8 4 2 編集 姫 C 吉乃 1.0 槍隊 3 5 2 6 編集 姫 .S 濃姫 2.5 鉄砲隊 7 9 3 6 編集 姫 B 井伊直虎 2.0 騎馬隊 8 3 6 3 編集 姫 C 問田の大方 1.5 足軽隊 5 6 4 3 編集 姫 C 吉川夫人 1.5 鉄砲隊 5 7 2 4 編集 姫 C お波 1.0 弓隊 3 6 6 3 編集 姫 A 千代女 2.5 槍隊 9 3 2 1 編集 姫 C 朝日姫 1.0 足軽隊 3 5 4 1 編集 姫 C 摩阿姫 1.0 槍隊 2 5 2 4 編集 姫 B やや 1.5 弓隊 5 7 3 3 編集 姫 A お愛の方 3.0 騎馬隊 9 8 8 3 編集 姫 .S 光姫 2.5 槍隊 8 10 6 4 編集 姫 C 定恵院 1.0 弓隊 2 7 2 8 編集 姫 C おつやの方 1.0 騎馬隊 3 3 3 2 編集 姫 B 出雲阿国 2.0 鉄砲隊 8 3 2 1 編集 姫 B 竹姫 2.5 足軽隊 9 3 4 5 編集 姫 A 京極竜子 3.0 鉄砲隊 8 8 3 10 編集 姫 C 安濃津姫 1.5 騎馬隊 5 7 4 4 編集 姫 C 千姫 1.0 弓隊 2 6 1 6 編集 姫 C 豪姫 1.5 鉄砲隊 5 4 2 3 編集 姫 B 立花誾千代 2.0 足軽隊 8 2 3 5 編集 姫 B 妙麟尼 2.0 足軽隊 6 7 3 3 編集 姫 C 慶誾尼 1.5 槍隊 5 4 2 4 編集 姫 A 甲斐姫 2.5 騎馬隊 9 3 6 2 編集 姫 A 江 2.5 足軽隊 9 4 3 5 編集 姫 C 初 1.0 弓隊 1 6 2 3 編集 姫 .S 淀 3.5 槍隊 9 9 5 7 編集 姫 A 本多小松 2.5 騎馬隊 8 8 5 4 編集 姫 B 義姫 2.0 槍隊 8 2 3 3 編集 姫 C 蛍 1.5 鉄砲隊 5 3 1 2 編集 姫 B お市 2.5 鉄砲隊 8 8 3 5 編集 姫 B 小少将 2.0 槍隊 6 4 1 6 編集 姫 B お船 1.5 騎馬隊 5 7 6 2 編集 姫 A 綾姫 2.5 槍隊 8 9 3 3 編集 姫 A 五徳 3.0 足軽隊 8 9 3 7 編集 姫 B 寿桂尼 2.0 弓隊 6 9 4 8 編集 姫 B 瀬名姫 2.0 弓隊 6 7 3 5 編集 姫 C 里美 1.0 騎馬隊 3 6 4 1 編集 姫 C 琴姫 1.0 弓隊 2 6 3 2 編集 姫 B 諏訪姫 1.5 騎馬隊 4 7 5 2 編集 姫 C 三条夫人 1.5 騎馬隊 5 6 4 5 編集 姫 .S 寧々 2.5 弓隊 7 10 4 6 編集 姫 C 千代 1.0 足軽隊 1 7 4 4 編集 姫 A ガラシャ 2.5 鉄砲隊 7 8 3 4 編集 姫 C まつ 1.5 槍隊 5 7 4 2 編集 姫 C 吉乃 1.5 槍隊 6 1 1 6 編集 姫 .S 濃姫 3.5 鉄砲隊 10 4 3 6 編集 姫 .S 甲斐姫 2.5 騎馬隊 8 9 6 2 編集 姫 .S 慶誾尼 1.0 槍隊 2 6 3 4 編集 姫 .S 五龍姫 1.5 騎馬隊 5 8 5 4 編集 姫 .S 千姫 1.5 弓隊 5 5 3 7 編集 姫 .S お愛の方 3.0 騎馬隊 9 9 8 4 編集 姫 .S 荒木たし 2.5 足軽隊 9 5 2 2 編集 姫 .S 豪姫 1.0 鉄砲隊 3 6 6 3 編集 姫 .S お市 2.0 鉄砲隊 7 8 7 5 編集 姫 .S 寧々 2.0 弓隊 6 9 4 6 編集 姬 .B おなべの方 2.0 鉄砲隊 7 7 3 4 編集 その他 C 諏訪頼重 1.0 槍隊 2 6 2 2 編集 その他 C 足利義昭 1.0 弓隊 1 7 1 7 編集 その他 C 六角義賢 1.0 槍隊 2 5 1 2 編集 その他 .S 北条氏康 3.0 槍隊 9 8 4 5 編集 その他 A 本願寺顕如 2.0 弓隊 6 8 3 7 編集 その他 B 斎藤義龍 1.5 足軽隊 4 7 2 3 編集 その他 A 斎藤道三 2.5 槍隊 8 9 4 5 編集 その他 B 雑賀孫一 1.5 鉄砲隊 5 7 3 2 編集 その他 B 松永久秀 2.0 鉄砲隊 7 5 2 7 編集 その他 C 朝倉義景 1.5 弓隊 4 7 1 7 編集 その他 A 浅井長政 2.5 騎馬隊 9 5 6 4 編集 その他 B 長野業正 2.0 足軽隊 7 8 3 3 編集 今川徳川 B 井伊直政 2.0 騎馬隊 7 6 5 3 編集 今川徳川 C 鳥居元忠 1.0 足軽隊 4 1 1 2 編集 今川徳川 C 榊原康政 1.5 足軽隊 6 4 3 2 編集 今川徳川 B 本多忠勝 2.0 槍隊 7 7 3 3 編集 今川徳川 C 酒井忠次 1.0 足軽隊 2 7 2 2 編集 今川徳川 B 服部半蔵 1.5 槍隊 5 5 2 2 編集 今川徳川 C 朝比奈泰朝 1.5 足軽隊 5 5 2 2 編集 今川徳川 C 岡部元信 1.5 弓隊 3 6 2 3 編集 今川徳川 C 今川氏真 1.0 弓隊 1 5 1 7 編集 今川徳川 A 今川義元 2.5 弓隊 7 8 3 9 編集 今川徳川 .S 太原雪斎 2.5 弓隊 8 9 4 7 編集 今川徳川 .S 徳川家康 2.5 足軽隊 8 9 4 5 編集 上杉 C 長尾政景 1.0 槍隊 3 2 1 2 編集 上杉 C 小笠原長時 1.0 足軽隊 3 4 1 4 編集 上杉 B 村上義清 1.5 足軽隊 5 7 3 2 編集 上杉 C 斎藤朝信 1.0 騎馬隊 2 6 5 1 編集 上杉 A 直江兼続 2.0 鉄砲隊 7 8 4 4 編集 上杉 B 鬼小島弥太郎 2.0 槍隊 7 1 2 2 編集 上杉 A 柿崎景家 2.5 騎馬隊 9 2 6 4 編集 上杉 B 甘粕景持 2.0 騎馬隊 8 3 5 3 編集 上杉 B 宇佐美定満 1.5 弓隊 4 9 3 2 編集 上杉 C 上杉景虎 1.5 足軽隊 3 6 1 4 編集 上杉 A 上杉景勝 2.5 足軽隊 8 7 4 3 編集 上杉 .S 上杉謙信 3.5 騎馬隊 12 4 7 5 編集 武田 C 内藤昌豊 1.5 騎馬隊 5 7 7 2 編集 武田 C 原虎胤 1.0 騎馬隊 2 7 7 2 編集 武田 C 多田満頼 1.0 騎馬隊 4 1 5 2 編集 武田 C 飯富虎昌 1.0 騎馬隊 3 4 6 2 編集 武田 C 馬場信春 1.5 騎馬隊 6 3 6 2 編集 武田 B 高坂昌信 2.0 騎馬隊 7 8 8 3 編集 武田 A 山県昌景 2.5 騎馬隊 9 3 7 3 編集 武田 B 山本勘助 2.0 弓隊 6 9 8 3 編集 武田 A 真田幸隆 2.5 槍隊 8 9 8 2 編集 武田 B 武田信繁 1.5 騎馬隊 4 8 8 4 編集 武田 B 武田勝頼 2.0 騎馬隊 8 3 7 5 編集 武田 .S 武田信玄 3.0 騎馬隊 9 8 9 6 編集 織田 A 竹中半兵衛 2.5 弓隊 7 9 4 2 編集 織田 C 荒木村重 1.0 足軽隊 2 5 1 3 編集 織田 B 加藤清正 1.5 槍隊 5 3 2 1 編集 織田 A 明智光秀 2.5 鉄砲隊 8 9 3 4 編集 織田 C 丹羽長秀 1.0 鉄砲隊 2 8 3 3 編集 織田 C 滝川一益 1.5 鉄砲隊 5 6 2 4 編集 織田 C 森長可 1.0 槍隊 4 1 1 2 編集 織田 A 羽柴秀吉 2.0 足軽隊 5 5 3 2 編集 織田 C 佐々成政 1.5 鉄砲隊 6 4 2 4 編集 織田 B 前田利家 2.0 槍隊 7 5 2 2 編集 織田 B 柴田勝家 2.0 騎馬隊 7 8 5 4 編集 織田 .S 織田信長 3.0 鉄砲隊 9 10 4 8 編集 豊臣 C 細川忠興 1.0 鉄砲隊 2 5 3 3 編集 豊臣 C 大谷吉継 1.5 弓隊 5 7 5 2 編集 豊臣 B 石田三成 1.5 足軽隊 3 8 3 2 編集 豊臣 B 福島正則 2.0 槍隊 8 1 2 1 編集 豊臣 A 黒田官兵衛 2.5 鉄砲隊 7 10 6 3 編集 豊臣 C 蒲生氏郷 1.0 騎馬隊 3 3 5 2 編集 豊臣 C 仙石秀久 1.0 足軽隊 2 1 1 1 編集 豊臣 B 加藤清正 2.0 槍隊 7 8 7 2 編集 豊臣 A 豊臣秀長 2.0 弓隊 7 7 3 6 編集 豊臣 .S 豊臣秀吉 3.5 槍隊 11 6 6 5 編集 山陰山陽 C 毛利隆元 1.5 騎馬隊 5 9 5 3 編集 山陰山陽 B 小早川隆景 2.0 弓隊 6 10 5 3 編集 山陰山陽 B 吉川元春 2.0 槍隊 8 8 4 2 編集 山陰山陽 A 尼子経久 2.5 槍隊 7 11 9 2 編集 山陰山陽 .S 毛利元就 3.0 弓隊 9 12 7 5 編集 山陰山陽 A 山中鹿之介 3.0 弓隊 7 6 7 2 編集
https://w.atwiki.jp/sengokutaisenark/pages/2188.html
武将名 とよとみひでよし 中国大返し SR豊臣秀吉 当初は今川家、後に織田家に属して、そこで才覚をあらわす。備中高松城攻略にあたっていた天正10年、信長横死の報を受けた秀吉は即座に敵の毛利家と和睦し、尋常ならざる手際と速度で東へと転進。明智光秀を山崎の地に追い詰め、敵討ちを果たした。「行くぞぉ! 不可能を、可能にしてみせる!!」 出身地 尾張国(愛知県) コスト 2.5 兵種 騎馬隊 能力 武力7 統率10 特技 攻城 魅力 軍備 計略 暁天走破 豊臣家の味方の武力と統率力が上がり、効果終了時に日輪ゲージが増加する。計略発動時に日輪ゲージが5つあった場合、さらに武力と兵力と移動速度が上がるが、日輪ゲージをすべて消費する。 必要士気8 Illustration 萩谷薫 計略効果 カテゴリ 士気 日輪 武力 統率 速度 兵力 効果時間 その他 日輪采配 8 4以下 +4 +4 - - 8.8c(統率依存0.2c) - 計略終了時、生存部隊が1部隊以上あれば日輪ゲージ+3 超絶絢爛 5 +8 +4 +25 +25% 計略使用時、日輪ゲージ-5 豊臣家限定。 範囲は自身中心円。 (以上3.20A) (最終修正3.20A) 解説 豊臣家の代表が日輪持ちの通常騎馬で登場。 武力7軍備は采配持ちとしてはまずまずで、統率10の騎馬隊というのはかなりの魅力。 計略の「暁天走破」日輪5消費で「日輪の天下人」のような超絶絢爛、そうでなければ一般的な日輪采配+日輪貯め、と2つのモードを持つ。 士気8で日輪3は一見効率が悪いように見えるが、勝負を決める大型計略・日輪貯め・相手の攻勢を凌ぐ采配・高統率の通常騎馬と、 1枚ですべて自己完結した能力を持つため、費用対効果はかなり良いと言える。 それこそ残りは日輪を3→5にする通常日輪計略が必要なくらいで、デッキの自由度も高い。 また士気2~3で日輪1個の計略を採用しない場合、士気4日輪計略3回と日輪5までの使用士気は変わらない。 フルコンに持ち込む場合、最後に余った日輪3個を消費できる大絢爛計略があると良いだろう。 備考 中国大返し中の秀吉。 絆 天下人への道 、 豊国強兵の辣腕 台詞 \ 台詞 開幕 行くぞぉ! 不可能を、可能にしてみせる!! 計略 勝機と見れば、なりふり構わず進む! └超絶絢爛 嵐なんてぶっ飛ばせ! 俺たちは、日輪の男だぁー!! タッチアクション 突っ走れ! 撤退 一旦逃げる! 復活 今だけは退けねえ! 伏兵 - 虎口攻め この程度の城じゃ、止まんねえぞぉ! └成功 まだ止まるなよ! こっからが本番だ! 攻城 俺に任せろって! 落城 俺は、必ず天下泰平の世を実現する! 熟練度上昇 みんな、ありがとな
https://w.atwiki.jp/otanibba/pages/22.html
★2ch荒らし(活動範囲:2ch) 大谷ババア”と名前がつけられた原因の荒らし。2chの荒らしをヲチして検証していく中でpixiv荒らしやtwitter荒らしが発見された。 ■主な活動&特徴 ・吉継高虎ageと三成秀長中心に他キャラsageが特徴。 ・戦国無双4スレを中心に大谷吉継と藤堂高虎のCP妄想を場所を選ばずたれ流し、その邪魔となる石田三成と豊臣秀長を執拗に叩いたため、5月頃から自然発生的に”大谷ババア”と呼ばれるようになった。 ・三成と秀長以外では真田兄弟、宗茂、宗矩、子飼いらがよく叩かれ、高虎吉継との比較sageなどに利用されている。 ・吉継と高虎に対する不自然な擁護も特徴。 ・大谷と高虎の関係が叩かれると「他キャラの馴れ合いはいいのか!」「お前が腐だからそうみえる」「近所のガキが抱きついたりして遊んでるから男の手繋ぎは自然」など即座に擁護が入った時期があった。 ・無双本スレでキャラの関係が叩かれるのはよくあることで、子飼いや元親と光秀の関係などもよく叩かれている。 ・だが無理な擁護が入るのは高虎と吉継の話題の時だけ。 ・高虎と吉継の4での所属勢力が叩かれている時も擁護が入ることが多い。 ・こちらも左近の武田所属が叩かれている時などには無理な擁護が入ることはない。 ・元ネタ倉庫として腐女子の関連スレを利用している。 ・レスの特徴などから高虎腐吉継腐、無双長年の粘着荒らし、便乗犯など最低でも三人以上いると考えられている。 ・詳しくは2chでの過去のレスまとめへ ・発売から数ヶ月して自然と書き込みが少なくなりいなくなったように見えたが、クロニクルの新情報が出てきたことでまた現れ始めた。 ・IDを変更しての自演、ソースのない本人認定なども多用。 ■時系列 【2015年の動き】 2015年1月18日頃以降、本スレ、愚痴スレ、大谷ババアヲチスレ等で1日平均20レス以上の連投荒らし復活 内容は主に吉三叩きや晒し行為。大谷ババアヲチスレも連投荒らしで乗っ取る ↓ 2015年5月、戦国無双4Empires発表後も荒らし継続。Twitter荒らしと並行しての晒しなどもあり IDを変えたうえでの自演レスも目立っているが、浮いているため分かりやすい 例:吉継萌えレス、IDを変えて「高虎乙」、Twitterなどから晒しレス、単発IDで本人認定レスを繰り返すなど ↓ 2015年8月・10月、Twitter、pixiv、サイトへの凸行為、更に2chへの晒しが確認される 【2013~2014年の動き】 2013年秋頃、荒らしまがいの吉継腐妄想が腐スレに連投されるようになる ↓ 4発売後に歴ゲ板の本スレや腐スレに荒らしがわく ↓ 4月に荒らし隔離の為に【腐女子】戦国無双【専用】というスレが建てられる。書き込みは高虎吉継の腐妄想が多い ↓ 5月頃、特徴的な文体で執拗に荒らしを続けたため粘着荒らしがいると歴ゲ板の本スレの住民に認識されるようなり、腐の妄想をしていることから女の蔑称のおばさん、大谷の話をしていることから大谷を組み合わせて”大谷おばさん”と荒らしが呼ばれるようになる 荒らしが続くのでいつの間にか”おばさん”からもっと強い蔑称の”ババア”に呼び名が変わる ↓ 6月にババア=腐ヲチスレ民でありババア=twitter荒らしと発覚 ↓ 発売から日が経ち7月8月頃は比較的落ち着いていたが、クロニクルの新作の情報が出たことでまた怪しい書き込みがちらほら見つかるようになる ■参考 いきなりの晒し行為に対する普通の住人の反応 【大谷ババアヲチスレ避難所より】 http //jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/internet/22434/1427287744/ 928 名前:名無しさん[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 10 11 21 222 :名無し曰く、:2015/10/16(金) 18 49 03.96 ID kgyqxoi1 もう触るのやめとけよ 支部で愚痴スレ晒すって喚いてるぞ これ以上はヲチスレとかでやれ 225 :名無し曰く、:2015/10/16(金) 19 46 55.30 ID 2bk/M2kE 221 ツイッターじゃなくてサイト サイトやってる時点でお察しだけど、なんというか旧時代のガチ婆って感じ 今時2chに晒されたくらいであれだけ騒ぐのも珍しいわ ここら辺の書き込みただのスレ住民に擬態したいのかもしれないが 普通は突然晒された腐女子の作品特定しにpixivやサイトまで行かないから そしてサイトやってたらどうのという腐女子の生態も知らん 【無双愚痴スレ52より】 http //nozomi.2ch.sc/test/read.cgi/gamehis/1444658390/ ※sc 257 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2015/10/16(金) 23 45 21.75 ID rTypH6ll.net 大谷BBAが持ってきたホモ小説を普通に全文読める つまりホモに慣れてるということで普段からそういうもの読んでるってことですね そしてその話題をいつまでも引っ張り続けて無自覚にスレを荒らし続けるとか 最近たまにある完全に冷静さ失ってるキャラ叩きとか腐れまんこ臭すぎだし 腐女子は書き込み禁止ってテンプレに加えろ 274 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 00 34 37.89 ID EuNQZxGH.net ババアいる時は一気に単発が湧いていなくなる時は不気味なくらい全員一緒にいなくなるのな 一人がID変えて踊ってるのか 緑色で表記したような、ある程度事情を知っているようなレスはスレ内でも浮くため分かりやすく 内容を読み換えれば間接的な晒しにもなっているため、場合によってはババアの自演を疑ってもよいかもしれない ※荒らしに触る奴も荒らし。NG登録してスルーを推奨
https://w.atwiki.jp/flancurzy/pages/78.html
B-11:豊臣秀吉の五奉行と五大老・一覧 ※五奉行は豊臣政権で制定された実務を担う役職のこと。 ※五大老は豊臣政権末期に豊臣秀頼を補佐すべく制定された役職。家康の台頭で有名無実化。 【五奉行】 ■1 ◇浅野長政(あさの・ながまさ) ○メモ:賤ヶ岳の戦い、朝鮮出兵で活躍。太閤検地や京都所司代の任務を遂行。 ■2 ◇石田三成(いしだ・みつなり) ○メモ:豊臣家の財政、内政で活躍。毛利輝元を総大将に関ヶ原の戦いを起こす。 ■3 ◇長束正家(なつか・まさいえ) ○メモ:元丹羽長秀家臣。関ヶ原の戦いで敗走して自刃。五奉行の中で最も年下。 ■4 ◇前田玄以(まえだ・げんい) ○メモ:小田原征伐、朝鮮出兵で活躍。五奉行の中で最も年上。 ■5 ◇増田長盛(ました・ながもり 【五大老】 ■1 ◇宇喜多秀家(うきた・ひでいえ) ○メモ:秀吉の「秀」を与えられ改名。正室は秀吉の養女・豪姫。五大老の中で最も年下。 ■2 ◇小早川隆景(こばやかわ・たかかげ) ○メモ:毛利元就の三男。五大老の中で最も年上。 ■3 ◇徳川家康(とくがわ・いえやす) ○メモ:江戸幕府の初代将軍。日光東照宮などで神として祀られる。 ■4 ◇前田利家(まえだ・としいえ) ○メモ:加賀前田藩の祖。「槍の又左」の異名。妻・まつ。豪姫の実父。 ■5 ◇毛利輝元(もうり・てるもと) ○メモ:長州藩初代藩主。関ヶ原の戦いで西軍総大将。 ■6 ◇上杉景勝(うえすぎ・かげかつ) ○メモ:上杉謙信の養子。小早川隆景の死後に五大老に加えられる。
https://w.atwiki.jp/sengokuita/pages/70.html
徳川家康 徳川信康 徳川秀忠 豊臣秀吉 豊臣秀次 豊臣秀長 豊臣秀頼 徳川家康 徳川家康(1543―1572) 三方ヶ原の戦いに大敗し籠城するも、 血迷うて自ら門を開けたため、あっさり敵に討ち取られる。 脱糞して戦死したことから「海道一のウ○コ野郎」と現在までバカにされる。 徳川家康(1543~1610) 三河出身。人質として暗い青春時代を過ごす。 そのことが後々人格形成や思考回路に大きな影響を及ぼすことになる。 織田信長の同盟者として寄生虫のようにして成長して行き、 やがて信長が死に秀吉の天下になるとこれに服従。筆頭奉行として重きを成す。 1598年秀吉が没すると、石田三成ら文治派の年寄達との確執が表面化し、 1600年遂に両派閥は軍事衝突に至るが、この時敵軍に属していた 吉川・小早川両家から寝返りの内諾を得たことに安心してしまい、戦場である 関ヶ原における布陣を疎かにしそのため敵軍に囲まれる形となってしまう。 どうせ寝返るので不利でもかまわないという価値観の逆転が産んだ間隙に 機運に聡い吉川広家・稲葉正成らが手をこまねいているはずもなく、 寝返りを拒否し布陣が誘うままに包囲攻撃してきたため、大敗北を喫してしまう。 混乱の中身一つで落ち延びたが、またもや悪い癖が出て盲点を狙うとばかりに 松尾山の麓の躑躅の陰にほっかむりをしてうずくまっている所を伊藤盛正の 手の者に捕縛され、市中引き回しの末隠岐島に流された。 しかしその半年後に旧臣達の助けによって島を出て出雲に上陸を果たし、 捕らえにきた青木一矩の軍勢を丸ごと取り込んでしまう等流石戦国の古豪と 言わんばかりの振る舞いを見せるが所詮燃え尽きる前の輝きであり、 宇喜多秀家率いる討伐軍に敗北を喫し、今度は八重山群島のどこかに流され、 その地で蝙蝠の天麩羅に中毒して没した。 家康死去の報を聞いた三成は「それは十年前なら一大事だが、今では些事だ」 と呟いたと言われている。 徳川家康(1543―1543) 生まれてまもなく便所に落ちて死亡 徳川家康 豊臣政権 五大老筆頭として太閤豊臣秀吉の死後天下の政務を預かる。 前田利家の死後専横を極めたとされているが、当時の風紀の乱れを粛清する為 やむをえない措置という意見もある。 彼が同じ五大老の上杉景勝に詰問の末謀反と断罪して会津征伐の軍を起こす。 しかし津川口、米沢口、仙道口の諸軍は日和見であり信夫口の伊達政宗が白石城を 攻め落とした以外は白河口から進軍した家康の軍のみが上杉と交戦 地の利を生かした戦法で上杉が終始優勢に戦を進め 佐竹の裏切りという虚報で見事に家康を敗走させたことから天下の形勢は一変する。 大阪ではこの気に専横な家康を排除すべく待機していた後詰の西国諸侯を 大阪留守居の大老毛利輝元が総括 家康に蟄居を促すべく西軍を起こす。 西軍は総力を挙げて伏見を落すと全軍を持って清洲に進軍 堀尾忠氏が西軍に鞍替えしたのをはじめ 伊達政宗も家康の命運尽きたと見て最上南部に兵を向けた。 佐竹と前田の軍も上杉と合流 ここに関東包囲の体制が整い 家康は関東から会津40万石に移され徳川の後に関東には上杉が入府する。 大老の地位も奪われ石高も6分の1に減り 仙台150万石の伊達と関東250万石の上杉、常陸下野100万石の 佐竹という油断のならない大国に囲まれたまま 失意の晩年をすごす。 徳川家康 織田信長の盟友であり「東海一の弓取り」と称された戦国末期の代表的な武将。 天下を平定した秀吉に唯一負けなかったとも言われており 秀吉の母親を人質に上洛した逸話は有名である。 しかし後世には、家康という人物は戦下手という評価が付きまとっている。 その最大の要因は関が原の合戦でそれまで戦下手と定評のあった三成に 敗北してしまっていること。 小早川秀秋と吉川広家の裏切りと内応を信用し不利な陣形のまま戦に望むという 無謀な賭けを行い逆に小早川と吉川に裏切られたこと。 などなどがあげられるが一番有名なのはこのエピソードであろう。 家康は戦場を命からがらに逃れ清洲に到着した時恐怖のあまり脱糞してしまった のを焼き味噌と言い訳したのである。 戦後は豊臣家への謀反として切腹ではなく斬首とされたが 刑場に運ばれる際、のどの渇きを癒す為 白湯を所望したが、代わりに干し柿を出され、それで腹の調子を崩し 脱糞したという逸話も残っている。 武田信玄との合戦で同様のエピソードもあり 家康といえば「三河殿の焼き味噌」として知られている。 徳川家康 弱小大名の嫡男で、幼少時織田や今川に人質に出された 今川義元が桶狭間で死ぬと独立 その後少しずつ領土を広げていきその領土は100万石近くになった 苦しい時も織田との同盟を頑なに守り続けたその姿は日本一義理堅い男とされ、日本国民の鏡となっている 政治:85 統率:77 知力:79 徳川家康 戦国期の武将。幼名竹千代。 今川義元の人質として育ち、長じてからは織田信長の同盟者として 天下統一に貢献するが本能寺の変の後、台頭してきた羽柴秀吉と敵対 小牧長久手の戦いで秀吉の甥秀次に破れ 所領は岡崎15万石に落とされてしまう。 関東には秀吉の弟の秀長が入るが死去、空き地となった関東の問題や 蒲生氏郷の急死、朝鮮出兵の失敗で混迷する中 秀吉が死去、続く前田利家の死で 豊臣の天下の擾乱は決定的となる。 老練な家康は少ない石高ながら加藤清正や福島正則、伊達政宗らと婚姻を結び 三成を標的として一戦を仕掛け勝利する。 世にいう関が原の戦いである。 しかしわずか15万石の身代しかない徳川の基盤は脆弱で 空き地の関東に移るものの、その開墾は時間をとられ 征夷大将軍任官するも幕府として天下に号令するのも 難しい有様であった。 やがて徳川恐れるに足らずとみた黒田如水の挙兵に破れ 江戸幕府はわずか数年で瓦解 家康は江戸から奥羽への逃走中に命を落す。 徳川家康 幼い頃は織田・今川の人質として過ごし、桶狭間の戦い直後に岡崎城に帰り自立。 以後は織田と同盟を結び今川・武田と戦い、本能寺の変の混乱に乗じて三遠駿甲信を領する大大名となる。 1度は秀吉と敵対するも後に臣従し、小田原征伐の後に関東へ移封され、 豊臣政権下の大名の中で最高の地位を得る。 秀吉の死後、石田三成と対立し関ヶ原にて決戦を展開するも、 傍観していた小早川秀秋の陣へ不用意にも発砲し、秀秋の逆襲を誘発、大敗した。 家康は逃走中に捕らえられ、京都六条河原にて処刑された。 徳川家康(1542~1615) 大坂夏の陣にて真田隊の猛反撃に遭い、数度の本陣後退。 輿に乗っての退却中、真田方の将兵により 輿の外から槍を受け絶命し、遺体は近くの南禅寺に葬られる。 世上の同様を防ぐため、1年限定で小笠原秀政が影武者を勤め、 南禅寺にひっそり眠るは家康、東照宮で大いに祀られるは秀政・・・ 徳川家康 今川義元の人質となり、そのまま元服し、従軍。 かの桶狭間の合戦では義元が討たれたことにビビり、脱糞。 その後、独立し、織田と同盟を結ぶ。 三河の一部を領土としていたが、突如三河一向一揆がおこり、多数の家臣が離反。 その時、家康の肛門から糞も離反していたという。 織田・徳川で朝倉攻めを行ったとき、浅井が裏切り挟撃をかける。 織田の殿、秀吉と共に逃走劇を繰り広げるが、脱糞してしまう。 姉川の戦いでは、織田の13陣のうち11陣破れたときき、ここでも脱糞。 これはやばいと思った家臣の活躍で難を逃れる。 忘れてはならないのが、武田信玄が攻めてきたときである。 三方が原で激突した両軍であるが、風林火山の猛攻に耐え切れず、史上最も有名な脱糞を行う。 もう二度と脱糞しないという意味もこめて、特異な肖像を残す。 その後、本能寺の変が勃発。堺にいた家康が本国に戻ろうとする。 この時、何度も自害しようとしたが、腹心・本多忠勝が諌めたため、脱糞で済ますことに。 本国に戻り、信長の仇をとろうと行軍していたが、尾張のあたりで、 秀吉が明智光秀を討ったことを危機、あまりの速さに驚き脱糞する。 豊臣秀吉の天下、家康は移封を命じられる。理不尽な移封であったが、脱糞により乗り越える。 その後、秀吉が死に、家康は関ヶ原で西軍と激突する。 内通していたはずの小早川秀秋が中々動かないため、焦燥のあまり脱糞。 このことを聞いた秀秋は糞を投げつけられたら困ると思い、内通を決意。 3年後、幕府を開く。 しかし、依然として豊臣家は存在しているため、秀吉の遺児、秀頼に危機感をおこし、2回に分けて豊臣討伐に出る。 通称冬の陣とされる戦いでは、まだ初陣であった木村重成が異様な抵抗を見せる。 謀略のために偽りの和議を結ぼうとするが、この重成に血判が薄いことを指摘され、思わず脱糞。 夏の陣では、大坂方の要、後藤基次を伊達軍が討ち取る。 窮地に追い込まれた大坂方は、家康軍と大激突することに。 この時、平和ボケしていた両軍であったが、毛利勝永と真田信繁の活躍が家康のケツに火を付けた。 本陣を何度も踏み荒らされる始末。家康は馬上で何度も腹を切ろうとしていたが、家臣に止められたので脱糞に留めたという。 最後はテンプラを食べて、珍しすぎて脱糞。 そのまま帰らぬ人となった。 徳川家康 元は願人坊主の子供が松平家の若殿の影武者になったのが始まりとされる。 武家と名ばかりの出身ながら、厚顔無恥にも源氏の血筋を名乗った。 織田信長の知遇を得たことで五ヶ国の大名になったが 同じく信長の知遇を得た豊国大明神秀吉公とは違い天下を見る器のなさを 露呈したのか、これが自力での限界だったという。 恐れ多くも天皇家と萩中納言家の出自である豊国大明神秀吉公と比べれば 父場の違いもあったのではともいわれている。 若かりしころの関白秀次公との戦で、実力ではなく運だけでうまく戦ったおかげで 実力以上の厚遇を得て関東255万石と大老職を許されている。 しかし厚顔無恥振りをさらけ出し秀吉公に大明征伐をするように 進め、豊臣家の没落を画策、しかし期待したのとは裏腹に 海外交易の利権や所領の拡大に成功したため日本国中の全大名武家で 唯一出兵を断っていた徳川家の立場は弱くなる。 にもかかわらず秀吉死没の際には五大老の筆頭などの身に過ぎた 立場を得ていたのを利用して豊臣家の天下の簒奪を画策 こともあろうに豊臣家の重鎮にして槍働きで織豊の関羽とされた 前田利家公の病没を狙い、前田に家康暗殺の嫌疑をかけたのを皮切りに 身のほど知らずにも軍神上杉謙信公の再来とされる 北国の竜上杉景勝公に戦争を仕掛けた。 世にいう慶長徳川の乱である。 当然ながら豊臣の懐刀石田三成、慶長の義将大谷吉継 人中の仏とされ予言で名高い安国寺恵瓊長老をはじめ 天下の三兵法、真田昌幸、直江兼続、黒田如水 謀将毛利元就の再来と恐れられる日之本六分一殿毛利輝元 南海の覇者島津義久義弘兄弟 四国の蓋長蘇我部盛親 などそうそうたる武将が西軍として立ち上がり 当然のごとく大敗する。 刑場に引き出される際に馬上で恐怖のあまりウンコをちびった にもかかわらず老境にさしかかろうかという武将が半泣きで 「それは焼き味噌だ」といった故事は有名 松平元康(?―1560) 三河の豪族。義元の傘下に入る。 後、義元の上洛に従い討ち死に。 松平元康 松平元康(1543-1616)は、戦国期の武将。幼名竹千代。 今川家9代当主・義元の軍師として名高い太源雪斎の薫陶を受けて育ち、 元康もまた、義元の子・氏真の軍師として今川家を二人三脚で支える。 氏真の経済、外交戦略を自らが先頭となって実施し、 その執行力は、「当代随一の行政官」として名高い。 1615年、氏真の死を見て、摂津大坂に中国の毛利氏が進出すると、 老体に鞭打って出陣、これを駆逐した(大坂の陣)。 以後毛利家は、今川家との協調路線へと体制転換していく。 これは、ともすれば「文弱」とのそしりを受ける今川家の武力を天下に見せ付けるとともに、 後に今川家によって進められる事になる、全国統一事業の布石ともなった。 帰国後すぐに体調を崩し、翌年息を引き取った。死の間際、 「(西国の情勢を)心配していた氏真公に、よい土産話ができた」 と語ったという。 元平清康 松平広忠の子 今川義元から一字を授かるも、偉大な祖父の名のままでいたかったため苗字につけたらしい 徳川信康 徳川信康(1559-1623) 江戸幕府第2代将軍。徳川家康の嫡男。 1579年、織田信長に謀反の疑いをかけられるが、服部半蔵らの手によって替え玉が立てられて脱出して出家する。 本能寺の変後、徳川家に復帰して各地で転戦する。 1600年の関ヶ原の戦いでは真田昌幸の姦計に気付いて合戦前日に関ヶ原に到着する。 1605年、父から将軍を譲られる。 父の晩年には大久保忠隣の改易や大坂の陣を巡って父と確執があった。 父の死後、弟の駿河大納言秀忠と本多正純の謀略で元和の乱が起きる。これを打ち破って秀忠は信康の養嗣子となった実子・家光の手で討ち取られる。 間もなく、病を得て死去。一説には弟を討った事悔やんで倒れたのだと言う。 徳川秀忠 徳川秀忠 豊臣政権五大老筆頭徳川家康の嗣子としてしられ、 豊臣秀頼の生母淀の方の妹を妻としている。 父家康が豊臣家の名を利用して邪魔な上杉に謀反の嫌疑をかけ おこした会津征伐の際に、上方で西軍の決起が起こるが 背後の上杉、伊達、佐竹ともいずれも後背定かならぬ相手であり それを警戒した家康は中仙道を慎重に進み 秀忠に東海道を進ませた。秀忠が他の東軍諸侯の動揺を沈め 家康の到着を待つまで抑えておく為であった。 実際のところ真田の足止めや洪水のせいで家康の到着は大幅に遅れ 戦況の変化から関が原の合戦に縺れ込むこととなる。 しかし西軍に有利な鶴翼の陣形を取られ、秀忠軍は戦闘中に陣営を後退させ (一説には退却の準備)本田正信の諌止により先陣を福島正則に許した他 徳川はほとんど戦闘に参加せず、逆に日和見(一説には内応していたとも) していた小早川秀秋に鉄砲を乱射し、家康ならぬ秀忠の行動に怒った秀秋の 猛攻撃で東軍は総崩れとなる。 さらに、この後、本田正信が密かに豊臣恩顧の共倒れを意図して 徳川は戦争に参加しないので無事退却を許されたしという密書を大谷に送っていた 事実が発覚する。 家康は秀忠らの再戦すべしという主戦論を退け本田正信の押す和睦をとった。 しかし領土安堵の約束と裏腹に戦後徳川は津軽南部30万石に移封される。 実質10分の1への大減封であった。 家康は不運を嘆き剃髪し天海をなのる。 本田正信は、その功をもって3万石を与えるように指名されたが 徳川家で本多家は冷遇され万石取りながら大名格の扱いを許されなかった。 その後「猿がつき狸がこねし天下餅座りしままに食うは○○」 の歌で知られるように、1年続いた混乱を収拾した○○が徳川の後の 江戸に幕府を開設 大阪の陣では徳川家は10分の1以下の石高になったにもかかわらず 最大級の兵力を送り、 豊臣家の滅亡を見届けたあとは、徳川家は江戸幕府に最も警戒された外様 として尾張の城建設、河川補修などにかりだされていく。 徳川の家臣が正月の挨拶で「関東征伐の儀どうしましょうと?」 たずねさせ秀忠は「時節でない」と返答する挨拶はあまりに有名で 秀忠のことを別名「まだだよ公」と称するのは、ここからきている。 徳川秀忠(1579-1623) 家康の三男。徳川幕府二代将軍。 温厚篤実な性格で江戸幕府の基礎を固めるが、1623年、東照宮参拝の途中に立ち寄った宇都宮城で 寝室に仕掛けられた釣り天井の罠に押し潰されて暗殺される。 首謀者である宇都宮城主・本多正純はすぐさま幕府の討伐を受けて滅ぼされるが、 将軍の呆気ない頓死で幕政は大混乱を来し、江戸幕府が三代で終わる原因となる。 豊臣秀吉 羽柴秀吉(1536―1598) 尾張中村出身。出自は貧農説が高い。 織田信長につかえ数々の手柄を立て長浜城主にまでなる。 信長が本能寺の変で戦死し明智光秀追討のために京都へ向かうも、 背後から追ってきた小早川隆景軍の猛攻を受けて討ち死にする 木下秀吉 1536-1570 織田家家臣 仕官を求め国を歩くも出自が卑しいために叶わなく 一時は乞食にまで身を落としていたが 信長に戦の才を見出され従うようになった 浅井長政の離反で絶体絶命の危機の時は 即座に殿を希望し、三千の兵と共に三万もの浅井朝倉連合軍と激しく戦った 殿隊壊滅寸前に信長の離脱成功の報を聞き、笑いながら「勝ったぞ!」と叫びなら 敵陣に突撃し討ち死にした。 統88 知71 政21 朝松元吉(木下秀吉) 1536~1575 今川家臣。鳴海城主。織田信長( 1)の小姓出身とも言われる。弟の真吉(秀長)と共に義元の雅噺衆を勤めながら、故・雪斎上人の後任軍師的な働きを見せる。刈谷事件に連座し、政敵・松平元康に謀られ自害した。茶人で著名。 木下藤吉郎(?-1561) 名は秀吉・久吉など諸説あり。織田信長の軍師。美濃奇襲戦を立案したが、作戦に失敗。その後 逃亡し、放浪の後足利義昭をそそのかして挙兵させ槙島城に篭城したが 敗れ、京都四条河原に於いて斬首された。良質な資料に名が見えないので 存在が疑問視されている。 平林秀吉(1536-1598) 尾張国中村の百姓として生まれ、はじめは木下藤吉郎と名乗る。 織田信長に仕えて次第に頭角を表し、平林秀吉と改名した。 重臣・平手政秀と林秀貞から一字ずつ字をもらって苗字としたという。 ほかの苗字候補としては、柴久間、佐々間、丹田、柴手、など。 木下藤吉郎(1536―1597) 法名は秀吉(しゅうきち)、号を夢幻斎と称する。 安土桃山時代の茶人。 型にとらわれない天衣無縫な茶道で知られる木下流の始祖。 尾張中村出身。 地元の権力者である織田尾張守信長の茶道仲間であったが、信長の勢力拡大とともに門弟の数を増やす。 大納言となった信長の天下統一の際、特別に造らせた黄金の茶室で茶を点て、侘び茶を極めようとするライバル千利休に「権力におもねる俗物めが」と毒つかせたエピソードは有名。 信長の死後も、後継者の右大臣信忠の茶道の師として織田家中に影響力を持ったが、若くして信忠が病死したため織田の家督争いに否応なしに巻きこまれる事となる。 一般に「清洲会議」と呼ばれる織田家督相続問題では、内大臣信雄派、左中将信孝派、信忠嫡男三法師の鼎戦の中で、後の岐阜中納言信秀、三法師を支持。 家督は信雄の相続で決定したが、藤吉郎は三法師を支持した事で新たな天下人の不興を買ってしまう。 これが遠因となったか、後に信雄の勘気に触れて藤吉郎は山崎の地に閉門となる。 弟子である秀吉七哲の大名、福島正則(月翁)や加藤清正(永運斎)、糟屋武則(真雄)らの取りなしための奔走の甲斐もなく、信雄に切腹を命ぜられ、呼び出された二条城内で藤吉郎は見事な作法で切腹したという。 閉門中、藤吉郎が庭に生えていた竹で茶匙を作り秀吉七哲に与えたのが「山崎の七本匙」であるが、現存するのは肥後細川家に伝わる国宝の「銘 猿」の一本のみである。 尾張国愛知郡中村の藤吉郎(生没年不詳) 年代はよくわからないが戦国時代の頃に大言雑言をはく猿に似たご先祖様が居たらしい・・ と我が家に伝わる。 まあ、名前が伝わってる位だから地元じゃそこそこ有名なご先祖さまだったのかも知れない。 木下秀吉(1936年~?年) 今川義元配下。元は乞食であったという。 義元配下の一武将が彼の才覚を大いに評価し、推挙された。 また、元々下層階級の出身であったから領民には優しかったと言われ、 それと同時に様々な知略が伝承として地元に残っては居るものの、 出自が低かった為、500石以上の出世は叶わなかった。 無論、元はただの乞食であった事を考えれば大出世とも言うべきであり、 乞食が禄を得るまでの出世した事実そのものに、乱世の妙が感じられる。 今川家滅亡後は織田家に降伏し、以降、その領地を平穏に納めた。 木下道糞(1536~98) 尾張の人。織田家臣。諱は秀吉。 軽卒の出身であるといわれるが、機知に富むところを気に 入られて織田信長に仕官し抜擢された。 なかでも、城の塀の修理を期限内に普請した逸話、墨俣に 一夜城を築いた逸話はよく知られる。安土城の作事奉行に も起用され、その功により尾張岩崎城主となる。 しかし、天正8年に、林秀貞・佐久間信盛・安藤守就ととも に突如信長に追放された。 追放の理由は定かではないが、天正8年4月に鷹狩に出た信長 が、近江の伊庭山において目の前に突如大石が落石するとい う事故に遭遇したという。山上で秀吉の家臣が普請していた のである。幸い事故にはならなかったが、信長はこの事故に ついて秀吉を深く恨んでいたという。 追放後は秀吉は高野山に上って隠棲するも、本能寺の変後に 罪を許されて織田信雄に仕官し、旧領を回復したという。 また、一時は織田家重臣の柴田・丹羽にあやかり羽柴の姓を 用いていたが、追放の際に恐れ多いということで旧姓の木下 に復した。隠棲後は木下道糞と名乗るも、これは自らを卑下 したものと言われる。 豊臣秀次 三好信吉(1568-1600) ※後の羽柴秀次・豊臣秀次 羽柴秀吉の甥(姉の子)で三好家に養子となり 近江40万石を拝領し羽柴秀次と改名する。 長久手の戦いでは奇襲攻撃を見抜き、若江八人衆とともに猛攻を仕掛け 徳川家に多大は損害を与える。 四国征伐や小田原征伐において軍功を上げ、 織田信雄旧領尾張国と北伊勢国の100万石を治める。 1591年秀吉嫡子鶴松が亡くなり、関白を譲られる。 1593年秀吉に秀頼が生まれたことで秀吉との関係が悪化する。 前野長康らの説得により、関白職を秀吉に返上に隠居する。 謀反の疑いありとされ秀吉により、北伊勢12万石に減封される。 関が原の合戦は東軍につき、西軍の伊勢進行軍により戦死する。 豊臣秀長 羽柴秀長(1540-1591) 美濃守、小一郎。 もとは尾張中村の百姓であったが、兄秀吉に口説かれ、兄の家臣となる。 ところが1570年4月、兄が金ヶ崎の戦いで戦死。兄に付随して与力であった 蜂須賀正勝・竹中重治ら美濃国人衆も戦死したため、羽柴軍団は解体され、 秀長が家督を相続したものの、丹羽長秀家臣となる。 文武両道に秀で、かつ人格者であったため諸将の信頼も厚かったが、 兄のような派手さがなかったため常に微妙な地位にとどまった。 1577年、丹羽家与力のまま但馬出石城6万石の主となる。 1582年、本能寺の変の折には優柔不断な丹羽を説得して攝津諸大名に 明智討伐の兵を挙げるよう遊説したが、その間に徳川家康が小牧長久手で 明智を討ってしまったため、そのまま徳川家に従属。 その後は四国征伐・九州征伐などで武功を上げ、家康からも 「律儀の美濃殿」として評価を得、地味に加増を重ねた。 1591年、大和郡山20万石の城主として病没。 余りにも意外性のない生涯であったが、茶坊主から石田三成を育て上げ、 徳川幕府の遠国奉行として幕政に重きをなさしめたことは特筆されて良い。 妻は兄の妻、寧々。美人で有名であった。 一説には兄が浮気者で兄嫁を蔑ろにしているのを 見かねた秀長が、兄に無謀な殿を進言させ、わざと討ち死にさせて妻を 奪ったともいい、甚だしい説にいたっては兄に粗暴のふるまいがあった ことを憤った秀長が、近習加藤虎之助に命じて兄を切り殺したともいう。 寧々と秀長は相思相愛で、秀寄・秀明・秀継・郷姫の 三男一女が生まれている。 豊臣秀頼 羽柴(豊臣・徳川)秀頼 江戸初期の大名。大和郡山藩祖。 豊臣秀吉の第二子として生を受ける。母は浅井氏(淀殿)であったが、 生まれてすぐ北政所の元に送られ、柳生石舟斎に剣術を学び、 質実剛健な人物となった。大柄な彼は体格を生かし、自ら 豊臣新陰流を創始し、石舟斎から絶賛されたという。 幼い頃から英明を謳われた彼は、時代の趨勢は既に徳川幕府に傾いて 居る事を知っており、二条城で徳川家康と会見した時、大坂城返上を明言。 家康をあっといわせる。大野治長や生母浅井氏(淀殿)はこの 発言に激怒し、1615年秀頼の子国松を秀国と改名させて 後を継がせ、豊臣政権復活を図るが、機先を制した秀頼が 豊臣新陰流の剣を以って大野を斬殺。秀頼の意を受けた片桐且元が 淀殿を出家させ、計画は頓挫する。 大坂城を去った秀頼は、大和柳生に於いて愛妻・千と伴に しばらく隠棲していたが、家康は彼の英明さを愛し、 羽柴秀長の家を継がせ大和郡山一万石の捨扶持を与えた。 その後、柳生宗矩に推挙され堺奉行となり、秀吉により破壊された 堺の復興に尽力し、父秀吉が猿とあだ名されていたことに因み猿飛佐助という 偽名を使って真田信繁・大岩(長曽我部)祐夢と伴に諸国を巡回し、 悪人を退治するなど、多方面で活躍した。 徳川姓を賜り御三家に準ずる扱いを受け、石高は最後には15万石に達している。 豊臣秀頼 (1593年~1672年) 太閤と呼ばれた豊臣秀吉の次男。秀吉の死後、家臣である徳川家康の乱などがあったが それらも無事平定され、1605年に関白に叙せられる。 また1609年には征夷大将軍に任命される(様々な工作などが噂されている)。 1612年、五大老筆頭の石田三成を中央から遠ざけ自ら独裁政治を開始する。 翌年反旗を翻した石田・小西同盟軍を討ち果たす。 事あるごとに朝廷内に介入し、何度も公家からの毒殺の危機にあうが回避。 1620年には父秀吉の悲願であった唐入りにチャレンジするも 自らの腹痛により方針を転換。国中の医師にお触れを出し治療を命じる。 大の南蛮かぶれでもあり、大坂城をビッグキング城と改名。 周囲には自分をサーと呼ばせていたという。 さらに嫡男にジョン、次男にポール、三男にジョージと名づけ 愛犬にはリンゴという名をつけたことでも有名。 1639年、嫡男ウェルドに将軍職を譲り隠居。大御所として権勢を誇る。 秀頼の女狂いは父秀吉以上に有名で国中の美女(10歳~25歳)を集めさせ 南蛮伝来の衣服を元に考え出した「せいらあ服」と呼ばれる衣類を身につけさせ ビッグキング城には500人近い美女が生活していたという。 家臣の妻や娘に手を出すことは日常茶飯事であったという。 1672年、14歳の南蛮人のレイとのマグワイの最中に死亡。享年79。