約 60,152 件
https://w.atwiki.jp/wiki8_unknown/pages/4.html
フォーラムセレクタ > 政府 原作にも登場(ごく一部だけ) OCU日本 USN EC ラーブヌイ共和国 ベルゲン共和国 アラブ連邦 オリジナル OCUマハーカル ガーランド バーラエナ共和国 イモゲ島 ニジポ連邦 シュールストレミング領域 オリジナル・ニジウラ各州(各国) 場所は太平洋(虹裏海域)、日本に近い新しく隆起した諸島にある img img州軍 WAP島 出撃者たちの最大拠点がある重要エリア ジオフロント ネームレス島 プリンセスカーナ島 dat may nov jun cgi
https://w.atwiki.jp/mahousyouzyoapple/pages/43.html
日本政府。超戦闘魔法少女計画の遂行機関である。 白熱する核開発、近隣諸国の台頭、その他もろもろに防衛上の脅威を感じているものの、非核三原則や平和理念のために軍整備が硬く禁じられている。また、武力放棄を訴える某政党が連立与党の一員となったため、防衛力の強化はより一層難しくなっている。 その現状を打破するために開始されたのが、超戦闘魔法少女計画である。 武力・兵器放棄のために、より強力な力、超戦闘魔法少女が生み出されたとは、なんとも皮肉な話である。
https://w.atwiki.jp/erostg/pages/18.html
汚染が始まる以前、世界を統一していた連合政府 恐怖政治によって世界を治めていて、反感の意を持つ者は容赦なく始末していた 人体実験など人徳に反する事を多々行っていた――という黒い噂もある それを応用して創られたのがNext-Generationと言われているが、真相は定かでは無い 世界の汚染後も極めて高い軍事力を保ったままであり、全ての都市シェルターに通じる物を造り出して、再び世界を統一するNext計画を目論んでいる 汚染後は急遽人型兵器の適正者だけを集めた部隊を造り出した だが、予想していた数よりも大幅に人数が少なかったため、Next-Generationを造り出す事となる これによってNext計画がより現実的となり、企業間の争いに乗じて動き出した。 常に3人の主将によって議論が行われ、方針が決められる。
https://w.atwiki.jp/sakaki-gunparade/pages/54.html
榊ガンパレオリジナルキャラクター 政府関係者一覧 略記(詳細は各キャラクター名をクリック) □日本政府□ 大原しのぶ西郷(さいごう)小川 (おがわ) 樺山文生(かばやま ふみお)丸山(まるやま)酒井 (さかい) 脇田(わきた) 村山(むらやま) 藤江巴(ふじえ ともえ)新井(あらい) 井原 (いはら) 聖沢(ひじりざわ)料理長 里崎(さとざき)菅野(かんの)鹿野(かの) 小津(おづ) 宮沢(みやざわ) □北海道庁□ 小笠原 武春(おがわさら たけはる)吉良 潤(きら じゅん)公安委員会阿部康光(あべ やすみつ)アンナ 井川恭子(いがわ きょうこ) □居留地□藤川一輝(ふじかわ かずき)ターニャ(藤川タチアナ)マーシャ クリコフパーシャ(パーヴェル)ザイツェフルージン アントン ソフィア [浅井総合研究所] 浅井遊馬(あさい ゆうま)依田アズサ(よだ) 片岡歳三(かたおか としぞう)中江玲子(なかえ れいこ) クラブミスリル満代(みつよ)エリカ □その他□徳川侯爵 (とくがわこうしゃく)一場和之(いちば かずゆき)星野 (ほしの) □かの大国□ジェイソン ブライスバーナードパーシバル J.Jジョーンズ 〈在日大使館〉 ゴールドウィン ロナルド・マクレーンジェームズ・マストニー パトリック・スミス 〈レイクサイドヒル〉バーネット 市警本部 ベッカー キース・マクベインルイス ラファイエット アップロードタウンハウエル 《シアトル》 マーク・オルレイアンナ・ドナヒュー □日本政府□ 戦後は都合のいい現実(耳障りの良いスポ根物語)を 国民に見せ続けたツケを払うことになる。 政治家は少なからぬ政治資金を必要としているのが現状。 事件により与党議員減少。 官房長官(後任) 大原派のベテラン 正義感が強く原理原則論好きな「正論先生」 国土交通大臣 運輸大臣 通信産業大臣 財務大臣 外務大臣(良識派) 最も注意深く細心に接しなければならないのは財務関係(牧島) 官僚は会議オタク(吉良) 穏健派の徹底サポートが方針。 米の戦時国債買い支えによって戦費を賄ってきた為、失業率は辛うじてひと桁台。 大原しのぶ 登場巻 :九州奪還4,5 東京動乱 津軽強襲 役職:女優→日本国首相・自衛軍最高司令官 六十代ながら張りと艶がある表情で、人を引きつけるオーラを放つ美女。 サーモンピンクの上品なスーツを着た、ほっそりとした外見。 にこやかな笑みがトレードマーク。 元女優で、子役時代から一貫して芸能界で活躍。 人気絶頂だった子役の頃は我儘だったが弁護士の父に諭され改心。 八代戦の後、政権党が平身低頭(西郷が徳川侯爵を通じて打診) して政治家に転身させた党の看板で、 西郷官房長官とブレーンに政治を任せているとの世の噂だが、 子役時代から芸能人として大人達を観察し、 政治家に転じた後は伏魔殿の様な"妖怪"達に揉まれてきており、 秋元総監の忠告に従い裏社会に影響を植え付けている等、 実は決断力と度胸に富む戦時指導者。 (憲兵総監の他、内閣調査室・中央情報局・軍調査部を掌握) 対馬暴動の際は閣僚として徹底弾圧を支持。 大阪を中心とした関西政財界がバックボーン。遠坂財閥より"政治資金" 戦争を長引かせる事には反対。総理の印は淑女の嗜み。正夢は外れた事が無い? どこかの誰かにとてもよく似た高笑い。 一挙に電撃的に事を運ぼうとする、恐ろしく攻撃的な本質(合田) 華やかな劇場型政治家の裏に、強かな計算(吉良) 不屈、果断、冷徹な眼差しは軍人すらたじろがせる迫力。 外交の鉄則は相手の予測を裏切る事。 正義等という大袈裟なものは見た事も聞いた事も食べた事も無いが、 この国の人々の生命を守る事がそれに近く、 最後に勝つのは平和共存を理想とする者である との認識。 末期国家の最高責任者は負の連鎖を断ち切る事を決意。 奪還戦時は善行に"忘れ物"を届けた。 西郷(さいごう) 登場巻 :九州奪還4 東京動乱 役職 :内閣官房長官→首相候補 会津閥で最も影響力のある政治家の一人で、 痩せて貧弱、小柄な体の割に頭が大きく皺が多い顔の老人。主戦派。 三女を山川中将に嫁がせ、中将の退役・政治家転進まで席を暖める身で、 戦争が長引いても利益を得るルートを沢山持つ(樺山亮平とは不仲) 経済通で、情報統制により戦争を遠い世界の物語にした。 (滅亡に怯える世界では精神的に疲労し内需が先細りになる というのが持論) 会津藩松平家の家老を代々務めた家系か? 腹芸・駆引きの上手い、したたかな妖怪で、 孫の山川道久を可愛がっている(孫の話をしている限りご機嫌) 主戦派の顔も和平派の顔も作る事が出来る灰色の蝙蝠で、金満好き(泉野) 言葉を選び剥き出しの表現を嫌い、 敵とゲームを楽しみ利益を積み重ねる二枚腰の政治家にして、 攻撃の緩急を弁えた一流の策略家(小川秘書) 東京宅は目白。庭に鯉(鑑賞以外に血を啜り食卓に乗せる事も) 応接室は古いが重厚。 黒幕志向で、決起の際も高みの見物を決め込む予定で、 大原・芝村閥とも気脈を通じ、 武装蜂起には絶対反対の立場を初芝を通じ伝えてあったのだが‥ 時、めぐり来る。 動乱の最中、"脳血栓" 小川 (おがわ) 登場巻 :東京動乱 役職 :西郷の第1秘書 黒縁のメガネをかけている中年の痩身男。言いたい事は言う性格。 秘書に必要な素質をバランス感覚であると考え、西郷の為に働く。 樺山文生(かばやま ふみお) 登場巻 :東京動乱 所属 :新日本新聞記者→民自党衆議院議員 役職 :「日本の国防を考える会」主催者 樺山財閥の御曹司。35歳 童顔 チック症 西郷に飼われている一人 新日本新聞記者を経て33歳で衆議院初当選。 防衛族若手ホープとして「日本の国防を考える会」を主催。 民自党次世代の最右翼。愛人は公安の協力者。 丸山(まるやま) 登場巻 :欧亜作戦 役職 :樺山議員の第一秘書 一流の秘書 海千山千 酒井 (さかい) 登場巻 :極東終戦 所属 :民自党・日本の防衛を考える会 役職 :衆議院議員 『日本の防衛を考える会』のメンバー。樺山太一議員の盟友(腰巾着) 30代 青年将校然としたスマートな姿で見栄えが良く、 ファッション誌のベストドレッサーに選ばれた経験あり。 シナリオ通りに喋らせれば中々の論客。自分の弁舌に酔うタイプ。 樺山の手札だが、気弱く脆い。 堪え性のないプライド・声が大きいだけの坊や(大原) 大原に対し"責任"を追究後… 脇田(わきた) 登場巻 :欧亜作戦 役職 :内閣官房長官 冷静な表情を繕う鶴の様に痩せたパフォーマンス好き 執務室には埃の被ったエアロバイク 灰色 村山(むらやま) 登場巻 :東京動乱 役職 :法務大臣 樺山の番頭とも呼ばれる政治家で、樺山議員と蜜月との噂。 恰幅の良い老人で、声だけは一流。お喋り好きなオウムとは西郷の評価。 戦争継続を叫び続ける為に認知症を周囲から嘲られている。 悪い人間ではないが、放言癖がありパフォーマンス好き。 山川と同程度の長身で、押しだけはよい。 黒 藤江巴(ふじえ ともえ) 登場巻 :5121暗殺 役職 :文部科学大臣 元・文部省エリート官僚。34歳。アメリカに長期出向・赴任し、教育制度を学んだ経験あり。 学兵組織の文部省一元管理を主張し、州兵の様な予備軍としての常備化を目指す。 【文部省】休戦期前の損害の多さから学兵が文部省地方自治体の管理下に置かれる事となり躍進、 人員・権限・利権が拡大。 各戦役にも役人を送り出し、軍の作戦にも口を挟む様に。 新井(あらい) 登場巻 :極東終戦 役職 :警察庁長官 首相とは距離を置いている、頭が不自由で気の小さい"風見鶏" 灰色→黒 三億 1.18 夜 自己保身による大惨事 井原 (いはら) 登場巻 :東京動乱 役職 :国会議員 国土回復を叫んで派閥を纏めようとするが、実際は若手議員の神輿程度の人物。 聖沢(ひじりざわ) 登場巻 :北海道独立2 役職:民自党国会議員 第4師団、師団長である聖澤の弟 兄弟揃っての大原派 料理長 登場巻 :東京動乱 役職 :首相官邸付料理長 五十年配。情に厚い。車は5人乗りセダンのアコード。 コーヒー豆は焙煎・技術より鮮度。水さえ新鮮で美味しければ。 里崎(さとざき) 登場巻 :極東終戦 役職 :防衛大臣 軍産複合体の大番頭。 派閥の力学によって自動的に就任した八方美人のイエスマンと思われていたが、 議会に於いて闘争の本質を剥き出しに。 菅野(かんの) 登場巻 :5121暗殺 役職 :防衛大臣(後任) 藤江文部大臣と協力関係 鹿野(かの) 登場巻 :九州奪還4 所属:防衛省 役職:内局部長 防衛省の背広組の一人。善行が東京に呼び戻された際には善行の弁護に回る。 小津(おづ) 登場巻 :極東終戦 役職 :野党党首 厚生族の重鎮 医師免許あり 選挙区は秋田 味方に引き入れるべく画策 宮沢(みやざわ) 登場巻 :北海道独立2 役職 :最大野党党首 厚生族重鎮 元医師 議会にて質問役を担当 □北海道庁□ 道庁は巨大で飾り気のない長方形ビル 道章は青地に赤の五稜星 暗黙の了解として代々、名族小笠原家によって知事職世襲 特定地域特別措置法によって、 道警が警察権を持つ等、半ば自治権が認めれており 道庁の出先機関のみを東京に置いている 日本の重工業の一大拠点でもあり 出先機関の部長のほうが日本国大臣よりも立場が上となってしまっている 議会は小笠原王朝の大政翼賛会 別名「道庁政府」 従順であった猫が虎となり日本本土との決戦へと向かう。 小笠原 武春(おがわさら たけはる) 登場巻 :北海道独立1 役職 :医学部→国会議員→第十一代北海道知事→北海道共和国大統領 徳川幕府に連なる名族の血筋に生まれ、 若い頃は北海道選出の国会議員として中央基幹産業と北海道のパイプを作る。 (議員の頃は厳しくも優しい快活な族兄だった様子) その後、30年務めた父の跡を継ぎ北海道知事となり、 父親が成し得なかった北海道独立を目指してゆく。 名門出身らしい振る舞いと繊細な政治手腕で 北海道民を魅了しつづけた”治世の能臣”170cm、47歳。コーヒー党。 小笠原が属していた徳川閥が 芝村・会津・薩摩閥に対して遅れをとっていることなどから 中央政府に対する抵抗心を強く持っている。 樺山とは密接な姻戚関係。ロシア人師団の扱いに関しては慎重。 専用車はリンカーン・コンチネンタル。 誇り高く責任感が強い立派な方だが、 道民を守る事と既得権益にしがみつく事を混同し、 政府と対立し悪魔を呼び込み身動きが取れなくなった(吉良) 〔I機関〕シンクタンク 自立の可能性を研究・提言 委員の中には樺山の息がかかっている者も多い ・オレンジ ・グリーン 内政不干渉・互恵関係維持 北海大学医学部にて脳科学を研究していた科学者 自ら戒める欠点は「冷笑家の本性」 絶対的小笠原の安泰なくして道民の幸福もまたあり得ない 吉良 潤(きら じゅん) 登場巻 :北海道独立1 所属:北海道庁 通商産業部→労働委員会 監督官(見習)→ 知事秘書室長→大統領補佐官→ 政治顧問 階級:少佐(名誉) 代々小笠原家に使える家令の家柄の出身の30代前半の女性。本土回帰派。 群青色の瞳・ボブカットでメガネ着用な美人さん。口数が少なく有能。 知事のスケジュール管理が役目だが、公安委員会等の情報機関の窓口も兼ねる。 道庁きってのキャリアでもあり東都大学卒業後に北海道庁に入庁、 通商産業部、労働委員会を経、二期目の終わり頃より知事秘書官となる。 権力近いことを自覚して自分の意見を語ることは少ない。 欠点は、暴力に関して無知な事。 大原に憧れている。趣味は歴史研究とコーヒー。 子供の頃は小笠原武春にべったりだった。 砂浜に隠された宝石の様に貴重な無私無欲の権化にして、 魑魅魍魎が住まう地の運命を担う秘書官。 その務めは、理念実現を邪魔する者を断固として排除する事。 "癌細胞"を切除するべく、特使の肩書を得て奔走。 正義なき、理念なき国家など砂上の楼閣 公安委員会 道警の上部機関 独立派の牙城 実行部隊にロシア人多数 阿部康光(あべ やすみつ) 登場巻 :北海道独立1 役職:北海道庁公安委員会・道東支部 根釧工業地帯の治安維持を総括。 アンナ 登場巻 :北海道独立1 役職:北海道庁公安委員会 情報屋のような小太りな事務員風の女性。 シコルスキーがロシア人を「約束の地」へ導いてくれる事を信じている。 井川恭子(いがわ きょうこ) 役職:所長 白衣を着た中年の女性。権力を振う為人望無し? □居留地□ 共同出資で開発されていた鉱山基地。 人口5万人。公用語は日本語。煙草が好物。サングラス愛用。 交通網の一つはディーゼル機関車牽引鉄道。主な交通機関は犬橇。 漆黒の闇にナトリウム灯が浮かぶ零下40℃の世界。 街路樹が無く、本来は人間の生存を許さぬ永久凍土。 夏は暖かいが冬の風は危険。 エリア2は情報交換・交流の場(ゲート警備員は雪焼けしたイヌイット) エリア0には"城" 山際にコンクリートビルの中央研究所(3F奥に藤川教授の執務室) 更に北の石油精製工場では自前分のみの生産、エネルギーの自給が死活問題。 北極海の氷塊上に気象観測ステーション、風力発電用風車多数(三割)。 鉄鉱石(最大の特産品)・石炭・亜鉛、 10kmに及ぶ馬蹄型鉱石積み出し港の沖10kmに石油ターミナル。 漂流ステーションが天然ガス発見。機材の殆どが日本製でバイオエタノール燃料を使用。 ダルマストーブあり。作業員は住宅不足。 鉱石粉塵・大気汚染が酷く、野菜不足の為ビタミン欠乏だが錠剤は高価。 呼吸器・耳・鼻の病気、粉塵・煤煙により喘息になる子供が多いが、 医師養成機関が無い為に医師不足。 病院は一昔前の鉄骨造りビルで、廊下の奥まで患者がびっしり。 医師は規模の拡大を希望。 中学校は山肌をくり抜き三層の四角い窓が延々と穿たれた建物。 階段は木で滑り止め。一月十四日は「学力向上週間」 "黙認"される為、 藤川の信念とクリコフの機知により中立を貫いてきた、金の卵を産む鶏。 判断も承認も無かった為、"存在しないもの"とされてきたが、一蓮托生。 本能の様に他者を気遣う人々、屈強な男達が働く地下100mの鉱山、 氷海に浮かぶ石油採掘プラント、犬橇タクシー、ネネツ人のトナカイ放牧。 幻想的で美しく、実用的で無駄がない、個人のエゴは許されない世界。 彼等はここで寒さと栄養不足、病気と闘いながらも、 堂々と、誇り高く、懸命に生きている。 住民の殆どがロシア系であり、環境は厳しくとも、彼等の心は、強く、逞しく、美しい。 藤川一輝(ふじかわ かずき) 登場巻 :青森血戦 所属 :中央研究所 役職 :居留地代表・教授 銀髪+メタルフレーム眼鏡+白衣 若々しく伸びた背筋。 技術団を率い、鉄鉱石、ニッケル、石油、天然ガス等の総合プラントを建設した、 プラント建設技術の天才。 現在は資源探査・食料確保に心血を注いでいる。 慢性的な赤字に悩む多忙な人物。 ターニャ(藤川タチアナ) 登場巻 :青森血戦 所属 :初期居住区 役職 :中学生(3年A組・理数クラス) 藤川教授の娘 15才 首席 栗色の髪・鳶色の瞳のすっきりした顔立ちの少女。 トナカイ皮コート+ブーツ姿。スポーツは柔道とスケート。 パイプラインによる資源の安定供給に興味があり、 進路は資源開発局研究員。 住居はコンテナハウス(6畳×2) 壁面を占領する本棚には日本語とロシア語の専門書。 ベッド下には日本のファッション誌。 天才少女(自称)にして好奇心の塊。 芯が強く、素直で柔軟。前進前進また前進。 マーシャ 登場巻 :青森血戦 所属 : 役職 :中学生(3年A組・理数クラス) 図書館アルバイト ターニャと同じ学校の、ひっつめお下げ髪内気女子。 図書館端末にてラリーサと共にドラマ『愛のかたち』を見、続編希望。 クリコフ 登場巻 :青森血戦 役職 :機械化中隊長→監察官・内務局長(対外担当) 階級 :将軍 ニコライ・セルゲーエヴィッチ・クリコフ エリア2を管轄する対外交渉役 緑がかった快活な瞳で話し好き 無私、公正、献身 元・機械化中隊長 大殺戮を経験したうえで庇護を受けている為、立場は複雑 政府・王の間での"外交"に慣れ過ぎた? パーシャ(パーヴェル) 登場巻 :青森血戦 所属 : 役職 :中学生(3年A組・理数クラス) コークス売りアルバイト パーヴェル・ニコラエヴィッチ・クリコフ クリコフの息子で、ターニャと同じ学校に通う幼馴染のずんぐり君 金髪・緑色の瞳の少年。柔道黒帯。 部屋にはスナック菓子が散らばりアニメのポスターだらけで悪趣味? 立派で尊敬されるオタクになる為、アキハバラに行くのが夢 (フィギュアコレクションに自信あり) 芯が強く、素直で柔軟 親の後を継ぐ予定 ザイツェフ 登場巻 :青森血戦 役職 :警備・保安担当 階級 :大尉(名誉階級) クリコフの部下 淡い灰色の瞳にサングラス トナカイ肉窃盗団捜査中 ルージン 登場巻 :青森血戦 役職 :門番 階級 :曹長 クリコフ将軍の下で各地を転戦 重傷を負った後門番に カーキ色羅紗地コートに勲章を幾つか 懐中時計所持 アントン 登場巻 :青森血戦 所属 :ポポフ班 役職 :鉱山労働者 髭面+ヘルメットの大男 班員内の騒ぎを仲裁中(ノルマがきつい?) ソフィア 登場巻 :青森血戦 役職 :赤軍戦車兵 クリコフに従ってきた戦車兵(故人) 向学心旺盛だが戦傷の為に短命だった。 [浅井総合研究所] 芝村系情報機関の一つ(諜報全般) 政財界・軍・大学等の協力者から情報を収集 幻獣との共存と和平が大原則 企画書はA4二枚以下 浅井遊馬(あさい ゆうま) 登場巻 :弘前防衛 新大陸編(1) 役職 :?→所長 細身のスーツ・メタルフレームの眼鏡・華奢で端正な顔立ちの青年 軽やかな身のこなし+覚えたての隠しナイフ。 一度は死んだ身であり、悪夢と活発な少女の夢をよく見るらしい。 "あの事件"以来、戦場に出ておらず、両足に幻痛? 前述の通り、『一度は死んだ身』であり、その正体は 落合悠紀夫。 ”あの事件(早合点による歪なサイコロ)”の際にゴブリンに両足を切断され、瀕死の重傷の所を芝村勝吏に派遣された芝村の私兵に救出された。 会津閥と芝村閥の政治的駆引の関係で、表向き”戦死”となった代わりに、新たな名と人生を与えられ、浅井総合研究所の所長となる。 (浅井総合研究所が芝村系情報機関なのは、この為である。) 依田アズサ(よだ) 登場巻 :青森決戦 所属 :常勤首席分析官 無口・無表情な眼鏡の女性。合気道二段。 端末に目を凝らしたまま熟睡し、ブドウ糖の補給により覚醒する睡眠の達人。 学生時よりこの手の研究をしていたらしい。 片岡歳三(かたおか としぞう) 登場巻 :青森決戦 役職 :田舎の公立中学→?→次席情報分析官(見習?) 浅井によりスカウトされた、 情報提供者のスカウト・情報の分析等を行う「情報の鬼」 相当腐っており世を憎んでいる軍人上がり。流暢な英会話をこなす居合経験者。 小石川のマンションに在住。 底意地の悪さが軍産複合体を攻め立てるのに打ってつけ(浅井) 貴方程臆病な人見たこと無い(依田)数学を食べて育った(自称) 5km先の幼年学校もとい中学に冬はスキーで通ったらしい。 東京の樺山邸での一件後、中江玲子を叔父として引き取った。元・軍人? 中江玲子(なかえ れいこ) 登場巻 :北海道独立2 片岡歳三の受難と幸福 役職 :ミッション系私立中学→樺山亮平の庶子→公立中学卓球部 14才の小柄な少女。端正だが表情に乏しい顔。 病気がちの母と二人暮らしが長かったが、死別後樺山の元へ。 東京の樺山邸での一件の後、片岡に引き取られマンションへ。 近隣の学校を"偵察"後、転入。マンションでは家事全般を受け持っている様子。 クラブミスリル 赤坂地下二階 間接照明付き防音個室制 山川のホームグラウンド 満代(みつよ) 登場巻 :津軽強襲 役職 :ママ(内閣調査室エージェント) 銀座でも一、二のやり手ホステスで、戦争関連の話にもついてくる。 エリカ 登場巻 :津軽強襲 役職 :水割り係(樺山系エージェント) 若く、あどけなさが残る見習いホステス。 木塚に接近し樺山と木塚の連絡係となる。 □その他□ 徳川侯爵 (とくがわこうしゃく) 登場巻 :東京動乱 役職 :当主 "聖域"内に屋敷を構える首相贔屓の顎鬚老人。 温厚な人柄で敵を作らない才能あり。 山川中将は義父の紹介を受け毎年園遊会に出席。 大原に対し求婚歴あり。 名族は他に松平氏、近衛氏など。 一場和之(いちば かずゆき) 登場巻 :津軽強襲 弘前防衛 所属 :厚生省検疫課 筑波中央研究所 役職 :首席研究員 クローン技術の天才であり、第一人者。 筑波の中央研究所の所属であったが突然姿を消す。 その半年後に奥多摩の粘菌遺伝子研究所に出向している。 星野 (ほしの) 登場巻 :東京動乱 役職 :千葉県警捜査一課 警部 茜に半ば乗せられて、士官候補生達の先導役になる。 □かの大国□ 自称・正義の味方。 共生派との内戦により国家が割れても尚、 国全体が自給自足の繁栄を続ける唯一の国家(カナダも所属) (ロッキー山脈を挟み、ワシントン正当政府とシアトル[[幻獣共生派]]政府に分裂した とされ、 山岳地帯・カナダ国境にて五十年間"内戦"中 というのが中高生が教わる"常識") 幻獣の研究書が焚書され、東海岸では"魔女狩り"が流行。 迫害を受けた清教徒による建国以来、原理主義と共にあり、 自らを十字軍に準え幻獣を悪魔と考え、 ユーラシア勢力を討ち滅ぼすクルセーダー(十字軍:異教徒を討ち滅ぼす聖戦)を夢見る。 (政財界は原理主義者が多数派) 多くの市民・兵は、幻獣圧迫下からの解放を善意で考えており、 マスコミ報道により「山口・九州・青森・北海道の経緯は経済援助により齎された」と結ばれ、 自尊心を大いに満足。 …「但し、仮に同盟国が参戦すれば"神の摂理"は全う出来たであろう」 冷徹な分析・行動力の底に紛れる子供っぽさ。 西海岸の共生派狩りでガス抜きしていたが、派手な戦争が羨ましくなった? (歴史的背景を持たない移民国家が纏まる為には外敵が必要?) 未だに南北戦争の南軍将軍を尊敬・同情しており、 「英雄的な戦い」が民衆の心に火を点けた? 支配層は理念なき者を侮蔑し、 熱狂・冷酷・冷静で、情報を分析し敵の弱点を見抜く。 現政権は、原理主義者・穏健派間のバランス上に成り立っている。 国務長官は日本軍需産業会から政治資金? シアトルとの接触を監視。 前・在日大使の更迭後、原理主義者政党が躍進。 ロッキー山脈に 外界の幻獣共生派対策としてびっしり仕掛けられた通信妨害設備ウォール。 カリフォルニアに幻獣・幻獣共生派勢力圏。 戦争は中西部砂漠地帯・山岳地帯に限定。 幻獣との実戦経験が不足。 対日政策においては 幻獣出現によるなし崩しの和平締結後、 南アフリカ以上の同盟国として重視し、 大量の戦時国債を買い支え、 十倍超の護衛船団を以て物資・経済面で莫大な援助。 GNP比3対1、GDP比2対1。 同盟は✕ 和平は△ 休戦は辛うじて〇 ・オペレーション・サクラ 上陸・協力しての完全勝利 ジェイソン 登場巻 :新大陸編① 役職 :元大統領 ベトナム撤収を指示後、 70年代にボストン防衛線を大規模工事 ブライス 登場巻 :新大陸編① 役職 :大統領 軍事はあまり顧みず保険制度改革に興味 バーナード 登場巻 :新大陸編① 役職 :国防長官 野心的原理主義者にして軍産複合体の代弁者。 ロジスティクスを民間委託し、 陸軍では軍医(少佐~中佐)・衛生兵(中尉~少佐)は軍事企業団医療サービス部門が請け負う様に。 航空群の整備兵も大半は民間から派遣されたエンジニア(下士官業務は中尉・大尉) パーシバル 登場巻 :新大陸編① 役職 :牧師 兼大統領顧問 牧師服を着た中肉中背の、すらりとした中年。 TVで人気抜群でシャンプーCMにも出演。 反幻獣十字軍を提唱。 J.J 登場巻 :5121暗殺 役職 :愛国党政治家 軍産複合体の顔役の一人。 大統領も国防長官もその意向は無視出来ないという大物。 熱狂的な原理主義者にして十字軍マニア。神威に惚れ込む。 ジョーンズ 登場巻 :新大陸編① 所属 :軍産複合体生体兵器研究所 役職 :研究者 異臭を放つ肥満体 突飛で奇抜な発想の持ち主。 同僚は切り裂きジャック。 〈在日大使館〉 前大使は火事場泥棒を嫌う穏健派で大原も気に入っていたが、 外国人水葬の件での会見の翌日、更迭。 ・大使 外交使節団、外交官における最上位称号 ・公使 外交使節団において大使に次ぐ地位 ゴールドウィン 登場巻 :5121暗殺 役職 :新任大使 原理主義者寄り。人型戦車の技術供与・米軍基地の貸与を要求(北九州~山口?) ロナルド・マクレーン 登場巻 :新大陸編① 役職 :前大統領副国務長官→新任大使 長身ブロンドの典型的アングロサクソン系白人支配層出身。 物腰は紳士的で如才なく、政治家としての格も前大使よりひとまわり大きい。 ジェームズ・マストニー 登場巻 :5121暗殺 役職 :首席公使 日本の対外交渉史を専門とする歴史学者で、上等なスーツの穏やかな紳士。穏健派の実力者達が友人。 「異なる文化・国家が並び立ってこそ自由貿易圏は保たれる」が信念であり反原理主義。 日本政府と紳士協定。ライフワークは「日米関係史」執筆。 前大使の懐刀として、動乱・独立に対する不干渉を進言。 日本政府からは対幻獣情報を引き出し、本国政府からも高評価。 懐石が好みの様で、箸の扱いも器用。 時折四谷の聖ソフィア教会へ。 パトリック・スミス 登場巻 :5121暗殺 役職 :首席公使(後任) 原理主義的傾向の強い財閥御曹司。 〈レイクサイドヒル〉 バーネット 登場巻 :新大陸編① 役職 :市長 観光客誘致の為、景観保持条例を制定し煉瓦造り建築物建造。 襲撃に際し、避難誘導を放棄し自家用ヘリにて逃亡。 市警本部 ベッカー 登場巻 :新大陸編① 役職 :署長 熱心な原理主義者 冷静 キース・マクベイン 登場巻 :新大陸編① 所属 :殺人課 役職 :警部 30代の金髪碧眼痩身 この地方出身 本部の指揮権を握り部下を叱咤 ルイス 登場巻 :新大陸編① 所属 :防犯課 役職 :巡査部長 メキシコ湾岸戦に参加した古株 テキサス出身 ラファイエット 登場巻 :新大陸編① 役職 :SWAT隊 隊長 フランス系 アップロードタウン ハウエル 登場巻 :新大陸編① 役職 :保安官 シェリフハットの中年男 《シアトル》 人口約二百万。エネルギー、重化学工業が盛ん。 メタンハイドレード鉱床が発見され実用化。 西海岸の狭い平地部分に要塞都市を構築し北上を阻止。 反原理主義。 ・シアトル管区 警戒解除地域 市域人口四百~五百万 ・サンフランシスコ管区 第三種警戒地域 人口はシアトル管区並み 軍需産業が盛ん ・ロスアンジェルス管区 郊外に時折幻獣が出現するため政府軍の主力が展開 ・サンディエゴ管区 第一種警戒地域 ここからシエラネバダ山脈に沿って阻止線(最前線) 山岳部以外は住民ゼロ マーク・オルレイ 登場巻 :5121暗殺 役職 :代表 碧眼長身の40代男性。 アンナ・ドナヒュー 登場巻 :5121暗殺 役職 :副代表 代表と同年代のスーツ姿の女性。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/729.html
Template 日本の歴史? 大正(たいしょう)とは、日本の元号の一つ。明治の後、昭和の前。大正天皇の在位期間である1912年7月30日から1926年12月25日までの期間を指す。 改元 明治45年(1912年)7月30日 - 大正天皇即位の為、改元の詔書を公布、即日施行した。 大正15年(1926年)12月25日 - 昭和天皇即位の為、昭和に改元、同日は昭和元年12月25日となった。 出典 「大正」の由来は『易経』の「大享以正天之道也」(大いに享を正すをもって天の道なり)から。「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。 大正年間の概要 thumb|300px|竣工当時の[[東京駅。1914年(大正3年)に完成した。]] 本時代は後世から振り返った時、大正デモクラシーに基づいた安定期として見られる事が多い。しかし、同時代的には、近代日本の象徴であった明治天皇の崩御、そして病弱であった大正天皇の即位、という不安感を拭きれない状況から始まったのである。また、大正期を通じて都市に享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働争議の激化など社会的な矛盾が深まっていった。 大正年間には、2度に及ぶ護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、明治以来の藩閥支配体制が揺らいで、政党勢力が進出した。それは大正デモクラシーと呼ばれ、尾崎行雄・犬養毅らがその指導層となった。大正デモクラシー時代は、大正7年の米騒動の前と後で分けられることが多いが、米騒動後、初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民宰相原敬が内閣を組織した。しかし、原はその登場期に期待された程の改革もなさないままに終わり、一青年により東京駅頭で暗殺された。普選運動が活発化し、平塚雷鳥や市川房枝らの婦人参政権運動も活発となった。大正14年には、普通選挙法が成立したが、同時に治安維持法が制定された。言論界も活況を呈し、天皇制と民主主義を折衷しようとした吉野作造の民本主義や美濃部達吉の天皇機関説などが現れた。大正12年に関東大震災が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、山本権兵衛内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。大正末期には、ベルサイユ・ワシントン体制に順応的な幣原外交(加藤内閣)が展開され、中国への内政不干渉、ソ連と国交回復など、一定の民主的な色彩を示した。 護憲運動と政治 明治末期にかけては軍部や元老山県有朋の下で藩閥政治が続いていたが、大正初期にかけては山県系列の桂太郎と比較的リベラルな西園寺公望が交代で組閣し、桂園時代とも呼ばれていた。明治45年、第2次西園寺内閣の陸軍大臣上原勇作が、内閣が2個師団増設を否決したことに抗議して単独辞任し、陸軍は後任陸相を出さなかったため軍部大臣現役武官制によって陸相を欠いた西園寺内閣は総辞職した。 その後、桂太郎が議会での交代のルールを無視して宮中侍従長から3度目の首相に返り咲こうとした。この桂の返り咲きに対して、都市部の知識階級を中心にその反発は強まった。そして尾崎行雄・犬養毅らによる憲政擁護運動(護憲運動]])が起こり、新聞の批判も起こった外、民衆が国会を取り囲む事態も生じ、ついには僅か数ヶ月で倒閣となった(第一次護憲運動、大正政変)。 このため山本権兵衛(第1次)に組閣の命が下った。立憲政友会の援助を受け、原敬内相の下、安定した政権運営を行った。軍部大臣現役武官制を緩和するなど、政党寄りの姿勢を示したが、シーメンス事件をきっかけに再び世論の反発を受け、最終的には貴族院との関係悪化から倒れた。 次いで元老井上馨の後押しにより、庶民的で大衆に人気のあった大隈重信が組閣した。1914年に勃発した第一次世界大戦では、加藤高明外相が中国に二十一か条の要求を提出した(対華21ヶ条要求)。 大隈内閣退陣後には、二大政党制を目指し、1913年に桂が死の直前に結成した立憲同志会が他党を取り込むかたちで憲政会へと拡大した。 これとほぼ同時に組閣した寺内正毅内閣が成立した。1917年のロシア革命でソ連が成立したが、日本は革命政権の転覆のためシベリアに出兵した。折から、大戦景気によるインフレとシベリア出兵をきっかけとして国内では米価が暴騰し、富山県から米騒動が起こり、全国に広がった。政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は退陣した。 代わって初めて爵位がなく、また衆議院に議席を持つ平民宰相として政友会の原敬が首相となり、1918年本格的政党内閣として原敬内閣が成立する。しかし、1921年に原が東京駅頭で一青年に暗殺された。 続いて政友会総裁となった高橋是清が首相となったが、政友会の調整能力に欠き、高橋内閣倒閣後は非政党内閣が続いた。 その後、関東大震災や虎ノ門事件の発生は、それまでの藩閥に危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れた後、枢密院議長から天下って清浦奎吾が内閣を組織しようとした。それに対し憲政会・革新倶楽部・政友会の三派は、普選の採用、政党内閣制の樹立を掲げて、藩閥・官僚勢力を主体とした政友本党に対抗した。護憲三派(憲政会、政友会、革新倶楽部)は選挙で勝利し、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した(1924年、第二次大正政変)。 加藤高明内閣は1925年(大正14年)、普通選挙法を成立させ、ついに身分や財産によらず成人男子すべてに選挙権を与える普通選挙が実現することになる。普選は、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。またそれは「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、それと同時に治安維持法を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」の活動を厳重に取り締まった。しかし、これによって政党政治が定着するようになった。この後、昭和7年に犬養毅内閣が五・一五事件で倒れるまで、政党政治が続き、明治以来の藩閥政治は一応終焉した。1932年の五・一五事件まで、政党内閣時代が続き(憲政の常道)、政治は、官僚や軍部を基盤にしつつも政党を中心に動いていくこととなった。 第一次世界大戦と景気 1914年には第一次世界大戦が勃発した。日本は直接的戦闘地域は殆どなかったにもかかわらず元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦し戦勝国の一員となった。 発生直後こそは世界的規模への拡大に対する混乱から一時恐慌寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本と米国両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。特に世界的に品不足となった影響で造船業・繊維業・製鉄業が飛躍的に発展し、後進産業であった化学工業も最大の輸入先であるドイツとの交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に近代化が進んだ。こうした中で多数の「成金」が出現する。また、政府財政も日露戦争以来続いた財政難を克服する事に成功する。 だが、1918年に戦争が終結すると過剰な設備投資と在庫の滞留が原因となって反動不況が発生して景気が悪化した。更に戦時中停止していた金輸出禁止の解除(いわゆる「金解禁」)の時期を逸したために、日本銀行に大量の金が滞留して金本位制による通貨調整の機能を失って、政府・日銀ともに景気対策が後手後手に回った。更に関東大震災による京浜工業地帯の壊滅と緊急輸入による在庫の更なる膨張、震災手形とその不良債権化問題の発生などによって、景気回復の見通しが全く立たないままに昭和金融恐慌・世界恐慌を迎える事になる。 震災復興 1923年(大正12年)には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、震災後、山本権兵衛内閣が成立し、その内務相となった後藤新平が辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され、大変革を遂げた。またラジオ放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画されたパリやロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、日本は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の首都高速の建設につながる。一方、この震災に乗じて、暴動が生じるというデマが振り撒かれ、朝鮮人や共産主義者の虐殺が行われた亀戸事件などが起こったことや、震災直後の緊急対策であった筈の震災手形の処理を遅らせて不良債権化させた結果として金融恐慌を招いた事は歴史の負の側面であろう。 大正文化 大正時代前後に都市を背景にした大衆文化が成立した。今日に続く日本人の生活様式もこの時代にルーツが求められるものが多い。 東京においては、震災の影響が総じて少なかった丸の内、大手町地区にエレベーターの付いたビルディングの建設が相次ぎ、一大オフィス街が成立した。下町で焼け出された人々が世田谷、杉並等それまで純然たる農村であった地域に移住して、新宿、渋谷を単なる盛り場から「副都心」へと成長させた。それより先大阪では、おびただしい私鉄網が完成し、なかんずく阪神急行電鉄の巧みな経営術により、大阪平野に広大な住宅衛星都市群が出現した。東京帝大の卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、「サラリーマン」が大衆の主人公となった。明治時代まで呉服屋であった老舗が次々に「百貨店」に変身を遂げ、銀座はデパート街へと変貌した。 明治神宮外苑に「神宮外苑野球場」ができたのが大正15年、その前年出発した「東京六大学野球」が愈々隆盛をきわめるようなる。「 b 大阪朝日新聞 /b 」、「 b 大阪毎日新聞 /b 」が100万部を突破して東京に進出、それに対抗した読売新聞も成長を果たして、今日「三大紙」といわれるようになる新聞業界の基礎が築かれた。大正14年3月には、東京、大阪、名古屋でラジオ放送が始まり、新しいメディアが社会に刺激を与えるようになる。震災で鉄道が被害を受けたこともあって、「自動車」が都市交通の桧舞台にのし上がり、「円タク」の登場もあって、旅客か貨物であるかを問わず陸運手段として大きな地位を占めるようになる。都市部では新たに登場した中産階級を中心に“洋食”が広まり「カフェ」「レストラン」が成長、飲食店のあり方に変革をもたらした。又、コロッケなどの登場によりそれまで洋食とは縁のなかった庶民の食卓にまで影響が及ぶこととなった。明治時代まで庶民に縁のなかった「欧米式美容室」、「ダンスホール」が都市では珍しい存在ではなくなり、男性の洋装が当たり前になったのもこの時代である。一方、地方(特に農漁村)ではそういった近代的な文化の恩恵を受けることはまれで、都市と地方の格差は拡大していった。 文学界には、芥川龍之介や白樺派の人道主義(ヒューマニズム)が台頭した。 このころまでに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、芥川龍之介、有島武郎・武者小路実篤・志賀直哉ら白樺派、中里介山の『大菩薩峠』や『文藝春秋』の経営にも当った菊池寛などの文芸作品が登場した。同時期の大正10年には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また大正13年には、演劇で小山内薫が築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などの娯楽も徐々に充実した。 社会問題 この当時、社会事業をめぐる議論が盛んとなり、米騒動後には政府・地方で社会局および方面委員制度の創設が相次いで行われ、それらの機関によって都市の貧民調査や公設市場の設置などが進められていった。 また大正八年には、第一次世界大戦を契機とした国民の思想・生活の変動に対処するという目的で内務省の主導による民力涵養運動が開始されており、後の教化総動員運動の先駆けともなる、国家が国民の生活の隅々まで統制を行おうとする傾向がこの時期から見られるようになる。 こうして大正時代において社会事業が活発となった原因として、小作争議の頻発や労働運動の大規模化など、地方改良運動に見られるような従来の生産拡大方針では解決不可能な問題が深刻化したことが指摘されている。 略年表 1913年(大正2年) 大正政変 1914年(大正3年) シーメンス事件、第一次世界大戦勃発 1917年(大正6年) ロシア革命 1918年(大正7年) シベリア出兵、米騒動 1919年(大正8年) パリ講和会議、選挙法改正 1920年(大正9年) 国際連盟設立 1921年(大正10年) 原敬首相東京駅で暗殺 1923年(大正12年) 関東大震災 1925年(大正14年) 治安維持法制定、普通選挙法 西暦との対照表 大正元年2年3年4年5年6年7年8年9年10年 西暦1912年1913年1914年1915年1916年1917年1918年1919年1920年1921年 干支壬子癸丑甲寅乙卯丙辰丁巳戊午己未庚申辛酉 大正11年12年13年14年15年 西暦1922年1923年1924年1925年1926年 干支壬戌癸亥甲子乙丑丙寅 その他 明治天皇が崩御して、新元号をスクープしたのが朝日新聞の緒方竹虎である。彼は記者時代の新元号スクープにより出世し、同社編集長、更に後には政治家へと栄転する。 大正を名乗る企業・団体・人物 大正製薬 大正大学 大正火災海上保険(後に三井火災海上保険。現三井住友海上火災保険) 大阪市大正区 日本大正村 大正九年(ミュージシャン) 大正薬品工業 大正薬化工業 家具の大正堂(ルームズ大正堂) 大正銀行 関連項目 大正デモクラシー 大正ロマン(大正浪漫) 阪神間モダニズム 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年3月13日 (木) 12 21。
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/4382.html
486: yukikaze :2017/02/19(日) 19 31 24 それでは投下します。 日清戦争史 第五章 英雄 「清国は英国の仲介案を蹴ったそうじゃ。まだ負けちゃおらんて」 居間で胡坐をかきながら、男は顎鬚を扱きつつ、外務省から伝えられた情報を盟友に伝えていた。 「そいはそうじゃろ。皇城と天津を併せて10万以上無傷の兵がおっでな、気も大きなろ」 「じゃっどん。第二軍団は山海関に迫り、後続の軍勢も合わせればこっちも8万近くおっど」 「一蔵どん。人間はおかしもんでな。自分の懐に大金があれば途端に気がおおきなっど」 「そいはわかっどんなあ・・・」 幕末のお由良騒動の余波で、散々に金の事で苦労した大久保である。 人間と言うものは、金がなければないで心を荒ませてしまうことが多いが、逆に大金が懐に入ったら気が大きくなって、後から考えるととんでもないバカなことをしがちなのである。 維新志士を気取っていた面子が、政府の役人になった瞬間、これまでの地位の低さや貧乏からの反動からか、幕府の汚職役人に勝るとも劣らない愚行をしでかしたのを、彼は嫌というほど見ていた。 無論、その手のバカは、彼が即刻叩き出し、目に余るものは有無を言わさず処断したのだが。 お蔭で彼は一時期、逆恨みを受け、幾たびか暗殺の危機にもあっていた。 幸いにも、目の前の男が気を利かしてくれて、腕利きの剣客を護衛につけてくれた事で事なきを得ていたが、政府高官の何人かは実際に暗殺をされ、以降、護衛については厳しいものになっている。 「一蔵どん。我が国も同じじゃっど」 「将軍どもとそれの尻馬に乗る馬鹿な若衆でごわんか」 やはりあの時処断しておくべきだったかと、大久保は臍を噛んでいた。 陸軍において完全に非主流派となっていた桐野や谷、三浦と言った面子は、現在では退役中将として貴族院におり、政府批判の急先鋒となっていた。 大久保にしてみれば、政府批判は我慢できるが、問題はその内容であった。 『暴清膺懲』というスローガンを掲げた彼らは、政府の弱腰を批判し、今すぐにでも北京に日章旗を掲げ、清国皇帝を捕えろといった強硬意見を連日連夜主張し、それにマスメディアや視野の狭い若手や中堅の軍の連中が煽り立てることで、一種のヒーローとなっていた。 バカどもが。講和条件が「15億両の金塊」「朝鮮半島・満州・台湾の割譲」とか、我らを泥沼の戦争にそれほどまでに引きずり込みたいのか。 特に桐野は「征韓論」の頃から、薩摩の連中と語らって馬鹿なことをしでかす傾向があったが、最近では吉之助さあの言葉すら聞かなくなってきている。 「吉之助さあ。もうあいつらはよかが。見限ろう」 「一蔵どん。そげん言うが、あんしらも維新の功労者じゃっど」 「何が功労な。半次郎はあの年になって分別がなく、谷も三浦も何も学んではおらん。そもそも谷なんざ思い込みで危うく奥羽を敵に回す粗忽もんじゃっど」 全く・・・坂本の敵だか何だか知らんが、勝手に新選組と会津を敵認定して、吉之助さあが命がけでまとめた和平案をあわやぶち壊しにした男なんざ、あそこで処断しておけばよかったと、大久保は思い出しただけでも腹が立っていた。 あの時は、会津の家老達と新撰組の近藤が、江戸明け渡しの時の家茂の態度に感銘を受けて、「死に場所は今」と、見事に腹を斬ってくれたから事なきを得たものの、あそこで戦争が起きていたらどうなっていたか。 そう言えば、坂本を襲ったのは、結局は、見廻組だったようだが、あれで重傷を負った坂本が、政治にこりごりして、郷里の岩崎と組んで財界に行ったのは良かったのか悪かったのか。 坂本が政治から足を洗い、中岡は殺され、見所のあった乾は、甲府で会津の山川に討ち取られ、残ったのが小物と言っていい後藤だけ。 佐賀の江藤や大隈は、下野してもまだ一角の政治家として名を成しているが、土佐のこの状況を見れば、「薩長藩閥政府」という谷の批判にも「お前たちが碌な能力を持っていないからだろうが」と、怒鳴り付けたい気分であった。 487: yukikaze :2017/02/19(日) 19 32 34 「若衆に灸を据えればよかろ。田中に松川、井口辺りかの」 「思いっきりやっくいやい。中央の官界の連中はおいが拳骨を食らわしもんで」 「そいは可哀想に。一蔵どんの拳骨はかてでな」 破顔大笑する西郷であったが、この親友の「拳骨」は相当なものであろう。 まあ見所があるものだと10年近い地方巡りだが、見切られたものは問答無用で首だろう。 外務省の伊藤にしろ、内務省の了介にしろ、一蔵どんの視線で睨まれれば、それこそ戦々恐々だろうて。 まあ了介が一蔵どんの一喝を食らって以来、一滴も酒を飲まない状態なので、その効果は絶大ではあるが。 「まあ国内と講和条件は一蔵どんに一任する。おいは一蔵どんがやりやすいようにうごっで」 「吉之助さあ。今更ながらじゃっどん、他の者に替えられんか? 山縣も弥助どんも七次どんもおらいよ」 「山縣は戦が平凡、弥助は一蔵どんを助けないかんし、七次は戦はうまかどん、あいはきかんぼうやっでな」 大久保は溜息を吐きたかった。 山縣は稀代の軍政家ではあるが、戦の腕前は平凡で、当人もそれを気にして武功に逸りかねない所があるし野津は戦上手であるのは確かだが、良くも悪くも武人気質で政治を理解するか不明。 大山はその点バランスが取れているが、兵部大臣の要職についている状態。仮に大山の代わりとなるとそれこそ山縣を大臣に据えないといけないが、逆に「なら自分が方面軍司令官になる」といいかねない。 なにしろ軍の位階を考えるならば、西郷を除けば最高位にあるのは山縣なのだ。 「山縣の気持ちもわかっで、おいが面倒を見る。むしろ弥助が兵部大臣としておった方がよか」 「兵部大臣の命令にあっては、例え戦地におる軍の位階が上の指揮官であっても命に服さんといかんとわからせるためか」 「七次だとそれができんでなあ。「現場の事は現場がようしっちょる」とかゆっせ、大陸の奥地にまで走りかねんど」 容易にその光景が思い浮かんだのか、2人は困った表情を浮かべる。 良くも悪くも野津は、典型的な薩摩隼人である。誰かが手綱を握っていないと、暴走しかねないのだ。 「まあ清国皇帝も主力軍が壊滅すれば目もさむっやろ。さまさんでも、西太后と李鴻章が抑えるじゃろ。 皇帝はともかく、あの2人は付き合わん。英国やうちの外務省の情報だと、はよ講和をせい。条件闘争もできんぞ、というのが李鴻章。西太后も皇帝とその取り巻きの戦の拙さに辟易としているようじゃ。 まあ西太后はアロー号事件で都から逃げ出した経験があるから、都に戦火が近づくのを嫌っているようじゃが」 「幕末そのものじゃな。李が勝先生。西太后は大奥、問題は皇帝じゃが・・・」 「水戸のタワケと同じと考えていた方が良いじゃろ。そっちの方が火傷が少なくてすむ」 大久保の辛辣な評価に、西郷は苦笑するが、色々と情報を突き合わせていくと、どうもこの皇帝は責任感はあるようにも見えるが、行動が粗忽且つ軽率で、言動も空回りしがちである。 お蔭で事態を鎮静化させるどころか、悪化させる方向に努力しているようにも見えるのだが、この性格を考えるならば「遷都しても戦う」と言った所で、どこまで周囲がついていくか甚だ疑問である。 成程。あの『夢幻会』と名乗っている連中の『誰が政権の主導権を握っているのか、そこを見極めて対策を立てないと意味がない』という指摘には、学ぶものがある。 まあ桐野達とは違い、あの者達はかなりしっかりとした国家戦略を持っているようなので、西郷としても手放しで受け入れるつもりはないが、危険視するつもりもなかった。 「まあ・・・後、3月と言った所か。情報部によると、清の防衛構想も混乱の極みだそうじゃなかか」 「せっか、天津に6万の軍勢を集めたのに、山海関を陥落されたことで、半分の兵を取り上げられて北京と山海関の間に防衛線を築こうとしちょるとか。後、錦州から逃げてきた兵達を懲罰部隊として前線に縛り付けているとも」 「むごかことじゃ。そげん扱いをすれば、兵は逃ぐっど。沼間どんな見逃さんじゃろ」 「新手の第四軍団2個師団を先鋒にし、防衛線に穴をあけような。向こうでは『鬼上官』と言われとるとか」 「清正公と同じか。沼間どんもよか気分じゃろ」 かつて太閤秀吉の先鋒として、半島を制圧してのけた英雄と同じ異名をつけられたのならば、武人としては満足できるものであろう。この手の武人が好きな明治天皇も、喜んで勅使派遣をするであろう。 488: yukikaze :2017/02/19(日) 19 33 16 「沼間どんの第二軍5個師団が山海関から北京を伺い、山縣率いる第一軍6個師団が天津から北京を伺う。 後、これに支作戦ということで、威海衛を守護していた1個師団と1個旅団で、現在台湾を攻略中。 占領しているのとしておらんとでは扱いが違うとはいえ、台湾攻略戦は兵力としては痛かなあ」 「まあ台湾を抑えれば、この国の南からの防衛線はかなり楽になっでなあ。新八どんも最後の御奉公じゃというて、きばっちょっでなあ」 西郷としては、万全を期して3個師団及び海軍主力を以て攻略をしたかったのではあるが、指揮官である村田の「直隷決戦に注力すべし」の言葉で、1個師団と1個旅団。それに筑後型4隻しか派遣できない状態であった。 前述した夢幻会が「鉄道連隊及び瘴癘の地であるため、医療部隊及び医薬品の拡充は必須」と強硬に主張しそのためのマニュアル本を急いで配布したことで、台湾での病気での被害は許容範囲に収まっているのが救いと言えば救いであり、弟分である村田も病で死ななかったことに、西郷は私人としても感謝をしていた。 「どら・・・そろそろ時間じゃな」 「吉之助さあ。くどかこというかもしれんが、身体には気をつけてたもんせ」 「そいは小兵衛にいっくいやい。あいが操艦が下手じゃったら、おいは船酔いで寝込みもんそ」 「吉之助さあ。小兵衛どんは、海軍でも有数の船乗りじゃっど。あん人を下手くそ言うたら、海軍みな下手くそじゃ」 「一蔵どんのお墨付きなら怖いもんなしじゃ。おいも鼻がたかか」 兄弟愛の強い西郷である。その中でも殊更かわいがっていた末弟が、海の武人として名を轟かせているのは、肉親として嬉しいものがあった。 強制的に隠居され、心中どれだけ悔しかったかもしれないのに、そんなことはおくびも出さず、「お前は吉之助に一番似ている」と、隠居所で小兵衛に目をかけ、海軍の道に歩かせてくれた斉彬公には何百回生まれ変わっても返し切れない恩を、西郷は感じていた。 「そいでは行ってまいりもす」 「御武運を。帰ってきたときは、吉之助さあの好きな、かるかん饅頭をずんばい用意しちょっで」 「そいはよか。2人で鹿児島に帰って墓参りにいこかい」 2時間後。明治天皇の『西郷元帥を勅命を以て征清軍総司令官に任命する。将兵は須らく元帥の命に服すべし』の言葉を受け、西郷は、眼下の将兵に短く『いっど』と、述べるや、悠々とした表情で、元帥座乗艦となった『浅間』に乗り込むことになる。 西郷の雄姿に歓声を上げながら乗り込む将兵達を見つつ、明治天皇以下文武の重臣達は皆、船が水平線から見えなくなるまで敬礼し続けたという。 ――天津防衛線崩壊。日本軍は北京に向けて進撃開始 この報を受けた時、李は来るべきものが来た想いを抱いていたとされる。 正直、山海関まで落とされた時点で詰みだというのに、皇帝とその取り巻き達は、錦州陥落から山海関陥落まで碌に動くことができず、右往左往するばかり。 しかも、山海関落とされてから、山海関と北京との間の防衛強化を叫びだす後手後手もさることながらその兵力を、錦州から落ち延びてきた兵を使うだけでなく、天津の兵を転用するという大愚策をしている。 これには塞防派が本気で抗議したのだが、皇帝の取り巻きにとっては「帝都防衛の兵を一兵たりとも動かすなど利敵行為」でしかなく、しかも皇帝がこういう時に限って決断力を発揮しないために、結果的に天津の軍を半数以上動かさざるを得ない羽目になってしまった。 百戦錬磨の李にすれば「血迷ったか」と吐き捨てたい気分であったが、既に軍権を事実上剥奪されている身にとっては何もできることはなかった。 489: yukikaze :2017/02/19(日) 19 34 25 そしてなお悪いことに、天津の防衛司令部では、この兵力の減少を受けて、水際で防衛線を行うか内地に引きずり込んでの防衛戦を行うかで意見が対立してしまい(兵力引き抜き前は、それぞれに均等に兵を分けていた)、しかも双方のトップが仲が悪かったこともあって、各々が勝手に防衛線を作るという、もはや勝ちを放棄したかのような有様であった。 勿論、こうした状況下で勝てるはずもなく、水際防御は敵の輸送船団にある程度の打撃は与えたものの敵の連合艦隊の集中砲火を受けて砲台が沈黙したことで敵の上陸を許し、満を持して迎撃を行った筈の部隊は、日本陸軍の重火力の前に磨り潰される羽目になっていた。 内地防衛派の将軍は、同僚のこの不手際に激怒し、救援要請を一顧だにしない傍ら、防備を固めつつ北京に援軍要請を行ったのだが、北京においては、「山海関方面の防衛もあることから現有戦力で死守せよ」という命令しか返ってこず(これは皇帝の取り巻きが握りつぶしたことが判明している)、更に天津の防衛ラインも、第一次大戦のような本格的な塹壕戦ではなく、地形は利用しているが、漫然とした布陣であることから、日本側砲兵部隊の集中砲火を受けて、部隊が混乱している間に、敵部隊の吶喊を受けて、砂上の楼閣として崩れ去ってしまっている。 「もうこれで終わりじゃな」 皇帝などは「北京にはまだ10万近い大軍がいる」と豪語しているが、向こうは天津の軍勢だけで8万近い軍勢を有しており、山海関から進撃を開始している面子まで入れると、15万人近い大軍勢である。 しかもこちらは、近代化していた北洋軍閥系の軍は崩壊し、北京にいる部隊も、多くは旧式兵器を所有している部隊である。質も量も向こうが上なのである。 一部には、「西安辺りに遷都し、日本軍を奥地に引きずり込み、消耗戦を行うことで勝てる」と、ナポレオンの一件を先例に主張するのもいたが、李からすれば噴飯ものであった。 あれは、ナポレオンは孤立しており、ロシアには列強が同盟していたからこそ成立した策であり、仮に欧米列強が日本と組んで我が国を蚕食しようと決定したらどうなるというのか。 太平天国の乱のときに、英仏がどのような態度を取っていたかを記憶している李にとっては、彼らの『好意』とやらを馬鹿正直に信じることなどできる筈もなかったのだ。 「何としても講和にもっていかなければ。まだ北京の無傷の軍勢があるうちにな」 そう。今ならまだ条件闘争は可能であった。 本来ならば錦州陥落時にやっておけばまだマシであったのだが、ことここに至っては、案山子であろうとなんであろうと『清国正規軍10万』という看板の存在が、交渉のカードになりえた。 仮にこのカードが失われれば、条件闘争すらできなくなるのである。 「敵の総大将は西郷。道理が分かる男ではあるが」 かつて彼も一度だけ会ったことがあるが、まぎれもなく英傑であった。 武人ならば誰もが誇るであろう、江戸城攻略や奥州等の平定についても、自らの功を誇ることはなく敗将であるはずの徳川家茂や他の諸侯達を褒めるなど、決して敗者を辱めるような言動はしなかった。 営利を求めることもなく、地位にも恬淡として、道理を重んずる性格。 成程。多くの将兵が問答無用で従う訳だと、李も得心していた。 「皇太后陛下は儂の言を聞いてくれるだろう。北京まで攻め込まれた以上、あの方は徹底抗戦など望まれることはせぬ。翁同和や李鴻藻等虚け者どもにこれ以上乱されてたまるか」 強硬な正論を吐くのは結構ではあるが、実力の伴わない正論ほど始末に負えないものはない。 彼らのくだらない言説のお蔭で、皇帝の権力強化どころか首都失陥の危険性すらでているのだ。 軍事指揮権はないが、内閣学士兼総理衙門大臣ではあることから、李は戦争指導の稚拙さを以てこの両名を含む皇帝の取り巻きの排除を決意していた。 「急がねば・・・何としても奴らの旗がこの外壁から見える前に意見を纏めねば」 皇帝に対する敬意はとっくに失っていたが、国に対する忠誠はまだ失ってはいなかった。 李もまた確かに愛国者であり英雄であったのだ。 惜しむらくは、西郷には仕えるにたる君主に恵まれていたのに対し、李の場合は真逆であったことなのだが。 もっとも・・・李の行動はあまりにも遅すぎた。 490: yukikaze :2017/02/19(日) 19 35 05 「馬鹿な!! あまりにも早すぎる」 報告を聞いて3日後。李は、茫然とした表情で、外壁越しから日本軍の旗を見つめていた。 李のこれまでの経験を考えるならば、部隊の再編と補給の関係から、彼らが到着するのは1週間後と見ていたのだが、彼の予測を上回るような速さで、日本軍は進撃してきたのだ。 無論、天津に上陸した6個師団全軍という訳ではないものの、少なく見積もっても、4万以上はいると見積もっていた。 「奴ら・・・朝夕関係なく駆けてきたというのか」 李の予測は間違っていなかった。 天津の防衛ラインを撃破した山縣は、念願の武功を立てたことに大いに満足してのけたのだが、同時に『北京一番乗りを果たしたい』という欲求に耐え切れず、小川又次参謀長もそれに同意したことから予備としていた第三軍(九州中心の軍勢:軍団長は野津道貫中将)に対して、「北京まで突っ切れ』と命令。野津も『山縣どんも、ちったあ戦が分かってきちょいもすな」と、快諾してのけ、暴走に近い進撃を開始したのである。 西郷や総参謀長である奥保鞏は、この暴走に半ば呆然としたとされるが、慌てて進撃停止を命じようとする奥に「保鞏どん。あげんはやっちょる軍勢を止めようとしても無駄じゃ。おい達もはしっど。七次にはおいが来るまで防備を固めよと命じてくいやい」と、西郷はこの暴走を半ば追認すると共に、馬に乗って駆け出すことになる。(なお、山縣以下の諸将は、西郷が北京に到着した後、『第二軍との連携を考えずに功に逸るとはそれでも大軍の将か』と、大雷を落とされることになる) 「いかん・・・このままでは」 半ば呆然としていた李であったが、ある事実に気づいて今度こそ顔から血の気が消える。 そう。敵軍が予想以上に早く進撃し、同時に敵軍の数がこちらよりも少ない場合、思慮の足りない連中が何をしでかすかと言えばたった一つである。 「正門前に行くぞ。バカどもを止める」 あたふたする従卒達を尻目に、李は全力で馬を飛ばす。 これが北京の全軍による平押しならば、まだ敵軍を押しつぶせるかもしれないが、もし敵の姿を見て頭に血の昇った将帥が、三々五々出撃してしまえば、取り返しのつかないことになる。 「速まるな・・・速まるなよ」 だが、李の願いもむなしく、彼が正門前についた時には、既にいくつもの部隊が「倭の連中を追い返せ」と、叫び声を上げながら出撃し、更に他の門からも出撃している有様であった。 全ての終りに地面に座り込む李の耳には、日本軍の間断なき砲撃と射撃音。 それに清国の兵達の断末魔の叫び声がいつ終わるともなく続いたのであった。 491: yukikaze :2017/02/19(日) 19 47 41 更新終了。今回は英雄の対照的な状況を描いてみました。 山縣及び野津の独断ですが、これは日清戦争でもやらかした前科から。 相手が小出しに波状攻撃を仕掛けたのと、こちら側が機関銃を大量に用意し、敵の砲撃にもカウンターで潰せたことから、今回は勝利に持ち込めましたが、本来第二軍と共同して北京攻囲する計画を壊していますので山縣と野津は本気で西郷から絞られることになります。 実際、西郷は沼間に対して深々と詫びを入れ、山縣や野津も自分達のしでかした事の拙さを骨身に浸みることになり、少なくとも戦術面はともかく、戦略面での独断専行は日本陸軍では完全に御法度になります。 なお、北京の部隊ですが、何だかんだ言って失われたのは数千レベルであり、総兵力は天津から引き抜いた部隊も入れれば、8万近くは無傷の軍がいます。 まあ、山海関からの防衛ライン碌に作られずに、急行してきた第二軍併せて、10万人以上の日本軍に、首都を取り囲まれ、布陣直後に攻めて散々に叩かれたという事実を見て継戦意欲があるかと言えば困難ですが。 次回はいよいよ講和問題に。 しかし・・・ひゅうが氏のように派手な会戦書きたくても、どうにも政治談議に 終ってしまうなあ。 誤字修正
https://w.atwiki.jp/aerion/pages/22.html
政府 政治体制は各シェル・モジュールの区議会議員によって構成される「星形議会」、浮遊都市全体の運行を統括する「魔術師連盟」、都市の司法と安全を統括する「騎士団」からそれぞれの代表者が派遣され、によって構成される「都市議会」によって運営される代表民主主義制が取られています。 「区議会」はシェル・モジュールそれぞれに設置された議会です。区長を筆頭に十数人の議員が所属しています。「星形議会」は各区議会から区長と区長が必要と認める3名が各シェル・モジュールから派遣され、合計15名で適宜構成されます。 「魔術師連盟」は市長を筆頭とした都市機能の維持に従事する魔術師(エーテル技術者)で構成される集団です。市長は評議会の最終的な決定権を持ちますが、連盟事態は浮遊都市の航路や都市機能に関する点以外に強い発言力を持ちません。 「騎士団」は浮遊都市の防衛や評議会で決定された法に則って治安維持を行う軍事組織です。各シェル・モジュールに騎士団長が統括する支部が置かれ、それらをセントラル・モジュールに存在する本部で騎士総長が総括しています。 施行されている法律は日本のそれとほぼ変わりません。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/207.html
thumb|250px|国民政府が使用した[[中華民国の国旗。1928年12月17日に、「青天白日滿地紅旗」が中国の正式な国旗として制定された。]] 国民政府(こくみんせいふ)とは、中華民国における中国国民党による政府のことである。略称は国府(こくふ)。国家元首は主席(しゅせき)。ただし日本と中国では、一般的な「国民政府」の定義にそれぞれ差異がある。 日本:1925年以降に国民党が樹立した政府。中華人民共和国の意向を反映し、1925年から1949年までの間に国民党が中国大陸で樹立した政府とする場合もある。いずれにせよ、1971年に中華民国が国際連合から脱退し、その後日本との国交が断絶してからは、国民政府という呼び方は用いられなくなった。 中国:1925年の広州国民政府樹立から、1948年に中華民国憲法に基づく政府が樹立(憲政の開始)されるまでの間、「訓政時期約法」に基いて国民党が運営していた中央政府の機構及びに最高行政機関を指す。 国民政府の変遷 国民政府という呼び名は、政府のあった場所の地名を冠して使われることが多い。したがって、国民政府と呼ばれるものは複数あるが、主たるものは、以下のとおりである。最も、1950年までの中華民国は常に政治的に混乱しており、その事を反映して一時的に2つの国民政府が並立することもあった。 正統な国民政府 今日の中華民国政府を基準に考えると、中華民国の歴史において、以下の5つの国民政府が正統な国民政府ということになる。 広東(広州)国民政府 1925年~1926年 (主席 汪兆銘) 武漢国民政府 1926年~1927年 (主席 汪兆銘。ただし、正統であるのは、1927年に次項の南京国民政府が成立するまで。) 南京国民政府 1927年~1928年 (最初、武漢と並立、1927年9月に武漢政府は南京政府に統合) 南京国民政府 1928年~1932年 (北伐完了を受けて。成立時の主席 蒋介石) 新南京国民政府 1932年~(1948年)1949年 (広州南京合作。成立時の主席 林森) 台湾国民政府 1950年~1996年 (1949年に台湾に移転してきた南京国民政府を再編成して成立) 注記 新南京国民政府の別称 武漢国民政府 1937年~1938年 (日中戦争時に、南京政府が武漢へと遷都していた時期の呼称) 重慶国民政府 1938年~1946年 (日中戦争時に、南京政府が重慶へと遷都していた時期の呼称) ※南京国民政府と新南京国民政府は、特に区別しない場合もある。 ※新南京国民政府の蒋介石政権は、中華民国憲法に基づいて政府組織を1948年5月20日に改編し、国民政府を中華民国総統府とした。そのため、中国ではこれ以降の国民政府を、憲法に基いた正統な政府として、「中華民国政府」と呼称している。なお、中華民国支持者は、1949年以降も今日に至るまで「中華民国政府」が存続していると主張している。 ※台湾における中華民国の存在を認めない中華人民共和国は、中華民国政府を「台湾当局」と呼んでいる。 ※1932年1月、南京に新国民政府が成立し(南京・広州合流。主席は林森)、行政院長に汪精衛が就任した直後(1月のうち)に、洛陽への遷都を宣言し、以降、4期2中全会などを洛陽で行った。同年12月には、南京へ遷都(還都)。洛陽に政府が存在したのが一時的であったこともあり、「洛陽国民政府」という呼び方は通常なされない。 その他の国民政府 中華民国の歴史において、「その他の国民政府」とは、上記の「正統な国民政府」以外の国民政府を指す。これらは、当時の政治的な混乱を背景として、正統な国民政府と並立しながら一時的に存在していた。 1927年 武漢国民政府(1927年の南京国民政府分裂後) 1930年 北平国民政府(主席 閻錫山) 1931年 広州国民政府(主席 汪兆銘) 1940年 南京国民政府(主席 汪兆銘) 国民政府主席一覧 ここに挙げる国民政府主席一覧は、今日の中華民国政府を基準として、「正統な国民政府」とされる国民政府の主席を挙げている。その他の国民政府については、それぞれの項目を参照のこと。なお、国民政府の主席は、全員が中国国民党の党員である。 国民政府主席一覧表 氏名 政党 就任 辞任 備考 広州国民政府 汪兆銘 中国国民党 1925年7月1日 1926年3月21日 中山艦事件を契機として、26年3月21日に休暇を取得し、5月11日に広東を離れる。 譚延闓(代理) 中国国民党 1926年3月21日 1927年4月10日 汪兆銘去職後、代理主席職權、7月6日選任真除 南京国民政府1927年4月10日-1927年9月20日寧漢分裂、武漢南京均設立國民政府。1927年3月10日、武漢國民政府廢除主席、1927年4月28日南京國民政府仍設主席一職。(張朋園、沈懷玉、《國民政府職官年表》 胡漢民 中国国民党 1927年4月18日 1927年9月16日 不設主席 1927年9月16日 1928年2月 譚延闓 中国国民党 1928年2月 1928年10月8日 蒋介石 中国国民党 1928年10月8日 1931年12月15日 林森 中国国民党 1931年12月15日 1943年8月1日 蒋介石 中国国民党 1943年8月1日 1948年5月20日 前置の機関:中華民国大総統 中華民国の国家元首1928年 - 1948年 後続の機関:中華民国総統 太平天国天王府跡 太平天国天王府跡は、中華民国臨時政府の総統府、及びに南京国民政府の総統府が置かれていた地でもある。同地には更に、明朝の歸徳侯府と漢王府、清朝の両江総督府、及び江寧織造署が置かれていた。現在の住所は、南京市長江路292号である。 1853年3月に太平天国の乱で洪秀全が南京を天京と改称し、天王府を置く。清軍により南京が陥落した後に曽国藩により天王府は焼き払われ、同治9年(1870年)に再び両江総督府が置かれる。林則徐、曽国藩、李鴻章、劉坤一、沈葆楨、左宗棠、張之洞、端方らは両江総督を務めている。 1911年に辛亥革命が勃発して清朝が打倒され、1912年1月1日に孫中山が総統府にて中華民国臨時政府の臨時大総統に就任する。袁世凱の臨時大総統就任により1912年4月に、中華民国臨時政府は北京へ移り(北京政府)、黄興により総統府は南京留守府に変わり、1913年の第二革命により袁世凱討伐軍の総司令部が置かれる。1913年から1927年の間には、江蘇都督府、江蘇督軍署、江蘇将軍府、江蘇督弁公署、副総統府などが置かれる。1927年に蒋介石により南京国民政府が置かれる。日中戦争下の1937年12月、日本軍により南京が陥落すると、傀儡政権である汪兆銘の中華民国維新政府(後の汪兆銘政権)が発足し行政院、立法院、監察院、考試院、交通部、鉄道部、日本陸軍第16師団司令部などが置かれる。1945年に日本が連合国に対し降伏したことにより、汪兆銘政権も崩壊する。1946年5月に重慶国民政府が南京に戻り、社会部、地政部、水利部、僑務委員会、主計処、軍令部、総統府軍務局、首都衛戍総司令部などが置かれる。1948年5月20日に蒋介石が総統、李宗仁が副総統を務めてからは、国民政府から総統府の名称に変わる。国共内戦勃発後の1949年4月23日に人民解放軍が南京を占領すると、総統府は同月24日に人民解放軍によって占拠される。中国共産党による南京「解放」後も、総統府には中華人民共和国の政府機関がおかれたが、1980年代には他の場所に移っていった。 1998年に総統府旧址に南京中国近代史遺址博物館の建設が計画され5年の歳月がかけられ2003年に完成する。総統府HPにて「南京中国近代史遺址博物館」が総統府の正式名称と確認できるが、入場券には「南京中国近代史遺址博物館」の文字は見当たらない。一般的な名称は「総統府」であり、最寄のバス停も「総統府」である。博物館の総面積は約9万平方メートルあり、東区、中区、西区の3つの見学区域に分けられ中区が蒋介石、李宗仁の執務室、文官長執務室、政務局がある弁公楼、中華民国に関する資料陳列館など、西区には孫中山の臨時大総統弁公室、秘書処、総参謀本部、総統府図書館、南京に現存する2つの古典園林の一つ煦園など、東区には行政院、馬厩舎、防空壕、太平天国に関する資料陳列館がある。孫中山の執務室等は見学者で混雑している。場所によっては空いているところもあるので混んでいるところは後回しにするのも良い。見学時間は少なくても2時間は欲しいところである。総統府図書館など一部区域は軍事管理区域になっており立ち入り禁止であり注意が必要である。南京城内では夫子廟と並ぶ主要観光地である。 入場料・開館時間 (2004年現在の情報) 40元*閉館1時間半前に入場券の販売終了 4月15日~10月15日 7 30~18 30 10月16日~4月14日 8 00~17 30 ギャラリー 関連項目 北京政府 清 外部リンク 総統府 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月23日 (火) 14 12。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/223.html
大正政変(たいしょうせいへん)は、1913年(大正2年)2月、前年末から起こった憲政擁護運動(第1次)によって第3次桂内閣が倒れたことを指す。広義には、第2次西園寺内閣の倒壊から、第3次桂内閣を経て第1次山本内閣の時代までとされる ref name=okubo 大久保(1964)。 狭義の大正政変 概略 明治末以来、藩閥勢力の代表で陸軍に近い桂太郎(長州藩出身)と立憲政友会の西園寺公望(公家出身)が「情意投合」1911年(明治44年)1月26日の桂・西園寺会談の結果、1月29日に発表した合意のこと。第2次桂内閣が立憲政友会の支援を必要としていることから、桂は次期首班に政友会を推し、自分は再び政権につかないという確約を政友会の原敬とのあいだに結んだ。これにより、政府と政友会の提携が成立した。のもと、交互に政権を担う慣例が続いていた(桂園時代と呼ばれる)。 明治天皇崩御(死去)直後の1912年12月、第2次西園寺内閣は日露戦争後の財政難日露戦争の戦費は日清戦争の8倍、開戦前年の国家財政の約7倍に達した。その8割は公債であり、戦後、償還の負担等が財政を圧迫した。から緊縮財政の方針をとり、陸軍の二個師団増設要求を拒んだ。それに対し、陸軍大臣上原勇作は帷幄上奏権を利用して、単独で即位直後の大正天皇に直接辞表を提出した。陸軍は後任を送らなかったため、西園寺内閣は総辞職に追いこまれる事態となった。これにさきだつ1900年(明治33年)に山縣有朋は軍部大臣現役武官制を成立させていた。 元老会議は後継首相に桂太郎を指名したが、桂は半年前に内大臣兼侍従長になったばかりであり、この点に関して「宮中・府中の別」1885年(明治17年)に創設された内閣制度では、宮内省を内閣の外に設け、宮中と府中(行政府)との別を明らかにし、さらに天皇を補佐する内大臣をおいていた。を乱すものとして非難の声があがった。また、財政に関心の深い財界からも軍閥の横暴に批判の声が高まり、さらに陸軍(山県閥)による非立憲的な倒閣の策動や藩閥政治家の再出馬に憤る声が広汎に広がって、憲政擁護運動(護憲運動)がはじまった。12月13日、東京の新聞記者・弁護士らが憲政振作会を組織して二個師団増設反対を決議し、翌14日には交詢社1880年(明治13年)に福澤諭吉が提唱して結成された日本最初の実業家社交クラブ。有志が発起人となって時局懇談会をひらいて、会の名を憲政擁護会とした。19日の歌舞伎座での憲政擁護第1回大会では、政友会、国民党の代議士や新聞記者のほか実業家や学生も参加し、約3,000の聴衆を集めて「閥族打破、憲政擁護」を決議している。12月21日、西園寺内閣が正式に総辞職して第3次桂太郎内閣が発足した。27日には、野党の国会議員や新聞記者、学者らが集まって護憲運動の地方への拡大を決めた。 left|thumb|180px|63年間[[衆議院議員を務めた「憲政の神様」、尾崎行雄]] 翌年1月、「憲政擁護」を叫ぶ大会が各地でひらかれ、日露戦争後の重税に苦しむ商工業者や都市民衆が多数これに参加した。21日、議会の開会予定をさらに15日間停会した桂内閣の処置により、かえって運動は加熱し、24日の東京での憲政擁護第2回大会はじめ、運動は全国的なひろがりをみせて一大国民運動となっていった。こうした動きに対し、桂首相は明治天皇の諒闇中(服喪期間)であるから政争を中止するように諭した大正天皇の詔勅(優詔)を受けてこれを乱発し、政府批判を封じた(優詔政策)イギリスのジョージ5世が即位したころ(1910年)、即位直後を理由に自由党と保守党との政争の中止を命じて、これを実現させたことにならうもので、イギリスから帰国した直後の加藤高明が提案した。。 この間、立憲政友会と立憲国民党の提携が成立し、とくに立憲政友会党員の尾崎行雄や立憲国民党党首の犬養毅が中心となって活躍した。2月5日、再会された議会で政友会や国民党などの野党は内閣不信任決議案を議会に提出し、ただちに停会となった。このときの「彼らは常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国の一手専売の如く唱へておりますが—(中略)—玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」のフレーズで知られる尾崎行雄の桂首相弾劾演説は有名である。 2月9日の憲政擁護第3大会は2万の集会となり、さらに、翌10日には数万人の民衆が議会を包囲して野党を激励、民衆示威のなかで桂は帝国議会の開会をむかえたこのとき川上親晴警視総監は、騎馬憲兵25騎を民衆の中に投じた。。桂は議会解散を決意したが、解散は内乱誘発を招くとの大岡育造衆議院議長からの忠告大岡は桂に対し「議長としてでなく長州人として申し上げる」と述べたと伝わる。により内閣総辞職を決意して、閣僚に辞表を書くよう指示し、再び停会を命じた。議会停会に憤激した民衆は警察署や交番、御用新聞の国民新聞社などを襲撃した。つづいて同様の騒擾は大阪・神戸・広島・京都などの各市へも飛び火した。 2月20日、桂内閣は発足よりわずか53日で総辞職、「五十日内閣」と呼ばれた。後継の首相には海軍大将で薩摩閥の山本権兵衛が就いた。 桂園時代の終焉 大正政変は、山縣・桂率いる陸軍・長州閥が第2次西園寺内閣を倒閣し、これに反対する民衆運動が政党組織や優詔政策といった小手先の政策で交わそうとする「閥族内閣」を打倒したというイメージが強い。しかし、大正政変を経て誕生した「桂新党」(立憲同志会→憲政会)は立憲政友会とともに政党政治をリードすることになる立憲民政党の前身であり、桂と政党を敵視し続けた山縣とをひとくくりにして大正政変を論じることはできない。 2度の内閣を組織し、明治天皇から強い信頼を得ていた桂太郎は、「桂新党」の設立と山県系官僚閥を改革する新政策を模索していた。これは、自ら結成した新党を政権基盤とする政権を樹立し、政友会への依存からの脱却と山縣からの自立を企図するものであった。それを察知した山縣は、明治天皇崩御(死去)直後の1912年8月に桂を内大臣兼侍従長に押し込めて政治的引退を図る。一方の西園寺も、政友会の党務を事実上取り仕切り、地方利益の追求をすすめる原敬との確執を強めていたこのころの『原敬日記』には西園寺への批判が多く記されている。。 そもそも増師問題は、当初は陸軍・政友会間での妥協が図られていたが、これを政権復帰の好機と見た桂・「桂園時代」により政権から遠ざかっていた薩摩閥両者の思惑が上原を強硬な態度へ導いたことで大きな問題となったのである。事態の急変に対して山縣は、内閣と陸軍を調停する優詔を起案したが桂により握りつぶされる。体調不良と原との確執により既に政権続行への意欲を失っていた西園寺と桂との会見で山縣の真意が倒閣にあると曲解した原は内閣総辞職を決断、「山縣の手による倒閣」が成功する。 後継首相の選定は、薩摩閥の推す松方正義が高齢を理由に辞退、同じく薩摩閥の山本権兵衛、山県閥の平田東助が政権運営の困難を理由に辞退したことで混迷し、大命は桂に降ることとなった。桂は斎藤実海相を優詔により留任させると、若槻礼次郎、後藤新平ら自前の官僚勢力、イギリス流政治を信奉する加藤高明(駐英大使)を入閣させて自前の内閣を組織している。桂の新政策とその意欲の一方で、優詔政策の失敗政治の混乱を詔勅により収拾することは明治期から行われていたが、即位後の大正天皇の権威は明治天皇とは比較にならず、民衆からは桂の陰謀と強く認識されることとなった。など護憲運動への対応の迷走、政友会との決定的な対立、貴族院工作の失敗、山縣・寺内ら陸軍内部からの不信政党結成に動いたことはもちろん、桂が軍部大臣文官制を企図していたことも陸軍の不信を強めた。が桂を追いつめていくことになる。 大正政変は藩閥勢力に大打撃を与えるとともに、政権担当能力を有する第二党の成長も出遅らせることとなった。 また、西園寺は「違勅」(政争を辞めるようにとの天皇の「優詔」に違反した罪)を盾に政友会総裁の辞任を表明する。桂が出させたものであるとはいえ、「公家は天皇の藩屏でなければならない」と信じる西園寺にとって、自分が率いる政友会が天皇の詔勅を無視したことは許されないという論理である。政友会の幹部達はこの「違勅」の論理に困惑したが、西園寺の決意は揺らぐことが無かった。西園寺が後継に指名した松田正久の死去により、後継総裁に原敬が就任して立憲政友会は新たな段階へと進むことになる。 歴史的意義 日比谷焼打事件でも示された民衆運動の力がついに政権を覆した。民衆の直接行動が内閣を倒した最初の事例であり、大日本帝国憲法下では唯一の事例でもある。藩閥政治の行き詰まりと民主政治の高まりを示すこととなり、これ以後、普選運動など大正デモクラシーの流れをつくっていった。松尾尊兌は、ここに始まる大正デモクラシーが一部の都市知識人による脆弱な輸入思想ではなく,戦後民主主義に直結する性質を有する、広汎な民衆運動であったことを説いている ref name=matsuo 松尾(1974)。 結果 1913年1月、護憲運動のさなか、桂は立憲政友会に対抗するため、自ら政党を結成した(桂新党)。2月に桂内閣は倒れ、その年の10月に桂も死去するが、これが立憲同志会、のちの憲政会となった。 桂退陣後に成立した第1次山本内閣は、立憲政友会を与党とし、原敬(内相)や高橋是清(蔵相)ら政友会の有力者を閣僚としてむかえた。山本は世論を怖れて、桂の二の舞を踏むことを避け、軍部大臣現役武官制を緩和して予備役・後備役でも可とし、政党勢力に譲歩するなど、国民に対して融和的な政治をとることで政局の安定化を図った。 一方、第1次山本内閣への入閣という形で利益を得る事になった立憲政友会に対して、国民はもちろんの事、立憲国民党や政友会内部からも反発が噴出して尾崎行雄は岡崎邦輔らとともに政友会を離党する(岡崎は後に復党するが、尾崎はそのまま中正会を結党した)。政友会は議会での孤立と党首不在という2つの非常事態に陥った。 広義の大正政変 冒頭に示した通り、大正政変の時期には広狭二義ある ref name=okubo/ 。 第1次山本内閣の時代を含めることにより、この時期の民衆が一方では憲政擁護運動以来の反閥族感情を保ちながらも、他方では1913年7月の中国第二革命の混乱に際しては、革命派擁護を名目とする対中出兵論に容易に乗るような大正デモクラーの一側面が視野にはいってくる。松尾尊兌はこれを「内には立憲主義、外には帝国主義」という二面性をもったものとして説明している ref name=matsuo/ 。 シーメンス事件によって第1次山本内閣が倒れたのち、民衆に人気のある大隈重信が立憲同志会、大隈伯後援会および中正会を与党として2回目の組閣をおこなったが、ここでは山東半島におけるドイツ勢力の駆逐と中国利権の確保を契機として、政友会と国民党は選挙で敗北し、陸軍二個師団増設が議会を通過し、のちに中国人のナショナリズムをおおいに刺激することになる「対華21か条要求」が国民的承認をうけるのであった。 脚注 関連項目 桂園時代 憲政擁護運動 大正デモクラシー 参考文献 松尾尊兌『大正デモクラシー』(岩波書店、1974)、岩波書店<岩波現代文庫>、2001.6、ISBN 4006000553 大久保利謙『日本全史10 近代3』東京大学出版会、1964、 B000JBHAEE 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年7月31日 (木) 17 09。
https://w.atwiki.jp/hanguk/pages/59.html
トップページ 韓国市郡ガイド 京畿道 議政府市 公式HP(日本語) 漢字 議政府市 カタカナ ウィジョンブシ ハングル 의정부시 ローマ字 Uijeongbu-si 住所コード(上5桁) 41150 市外局番 031 郵便番号(上3桁) 480 隣接市郡 楊州市 抱川市 議政府市 南楊州市 ソウル特別市 シンボルマーク ・上の緑は自然フレンドリーで、平和で、きれいで、好ましいイメージを象徴・下の青は、21世紀に情報と文化都市を確立する議政府の意志を象徴・左上にみえる鳩は議政府の大志と繁栄を象徴。 About 議政府 かつての地下鉄1号線の始発駅は、議政府北部(現・佳陵)駅だった。 キム・プンイク戦績記念碑がある。 京畿道|韓国市郡ガイド|トップページ