約 60,153 件
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/326.html
護憲運動(ごけんうんどう)とは、大正時代に発生した立憲政治を擁護する国民や政党などの運動。憲政擁護運動(けんせいようごうんどう)とも呼ばれている。 なお、第一次憲政擁護運動については大正政変の項目も併せて参照のこと。 第一次憲政擁護運動 第一次憲政擁護運動の背景と発端 明治時代から大正時代にかけて、日本の政治は元老と呼ばれる9人の実力者たちによって牛耳られていた。この9人は江戸幕府を倒す討幕運動のとき功績を挙げた人物たちで、山縣有朋、井上馨、松方正義、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎、黒田清隆、伊藤博文の9名のことである。この9名のうち、8名は薩摩藩・長州藩の出身者で、法的な規定は無かったが、大日本帝国憲法の下で首相を決定することができる権限を持っていた人物たちで、いわゆる藩閥政治を形成していた。 しかし明治時代が終わり、大正時代という新たな時代を迎えた国民は、このような藩閥による政治を批判し、憲法に基づく民主的な政治を望んでいた。そのような最中の大正元年(1912年)12月、第2次西園寺公望内閣の陸軍大臣・上原勇作が陸軍の二個師団増設を提言する。しかし西園寺は日露戦争後の財政難などを理由にこれを拒否した。すると上原は単独で陸相を辞任してしまう。軍部大臣現役武官制により、後任の陸相を据えることができなかった西園寺内閣は、こうして内閣総辞職を余儀なくされてしまった。 西園寺の後継内閣には、陸軍大将の桂太郎が第3次桂内閣を組閣することとなった。民衆はこれを、山県の意を受けた桂が陸軍の軍備拡張を推し進めようとしたものとみなし、国民も議会中心の政治などを望んで藩閥政治に反発し、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとする憲政擁護運動(第一次)が起こったのである。 第一次憲政擁護運動 立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅らはこれに反発し、お互いに協力しあって憲政擁護会を結成する。 大正2年(1913年)2月5日、議会で政友会と国民党が桂内閣の不信任案を提案する。その提案理由を、尾崎行雄は次のように答えた。 Template quotation? 桂は不信任案を避けるため、苦し紛れに5日間の議会停止を命じた。ところが停会を知った国民は怒り、桂を擁護する議員に暴行するという事件までが発生する。だが、桂もこれで黙ってはいなかった。尾崎行雄らに対して詔勅を盾にして不信任案を撤回するように圧力を加えたのである。尾崎はやむなくこれを了承するしかなかった。 2月10日。この日に再び議会が開かれることとなっていた。ところが過激な憲政擁護派らが上野公園や神田などで桂内閣をあからさまに批判する集会を開き、その集会での演説に興奮した国民の一部が国会議事堂に押し寄せるという事件を起こしたのである。このような中で、桂は議会を解散して政友会と国民党などの勢力を削ぐために、政府干渉による総選挙を行なうことで変事に対応しようとした。ところが衆議院議長の大岡育造が議会の解散に猛反対したために解散させることができず、桂はひとまず、3日間の議会を停会を命じるだけであった。 一方、桂の煮えきらぬ態度に怒り狂った国民は、国民新聞社や警察などを襲った。さらにこの憲政擁護運動は東京だけでは収まらず、関西などにおいても新聞社や議会の邸宅が襲われるなど、各地で桂内閣に反対する暴動が相次いだ。このような中での2月11日、桂内閣は総辞職を余儀なくされたのである。 第一次憲政擁護運動の意義 大日本帝国憲法の下で、国民による運動で内閣が倒されたのはこのときだけである。そのため、このことは大正政変とも呼ばれ、藩閥政治の行き詰まりと民主政治の高まりを示すこととなったのである。 桂内閣の後に組閣したのは、海軍大将で薩摩藩出身の山本権兵衛(第一次内閣)であった。山本は桂の二の舞を踏むことを避けるため、軍部大臣現役武官制を緩和(陸海軍の大臣は現役の大将・中将から出すこととなっていたが、山本は政党の軍部に対する影響を強めるために、予備役や後備役にまで拡大した)して政党に譲歩するなど、国民に対して融和的な政治を執ることで政局の安定化を図っている。このような後継内閣の政策を見てもわかるように、第一次憲政擁護運動が成した意義は大きかったと言えよう。 第二次憲政擁護運動 第二次憲政擁護運動の背景と発端 原敬と高橋是清によって政党内閣による政治が行なわれたが、それも4年足らずで終わった。さらにこの頃になると、国民の間では普通選挙権を求める運動が日増しに高まっていた。 このような中での大正12年(1923年)12月27日、帝国議会の開院式に望んだ摂政裕仁親王(後の昭和天皇)が、自称共産主義者の難波大助という青年によって狙撃されるという事件が起こったが、幸いにして裕仁親王は無傷であった(虎ノ門事件)。しかしこの事件により、第二次山本権兵衛内閣は責任を取る形で総辞職を余儀なくされ、代わって枢密院議長の清浦奎吾に内閣組閣の大命が下った。しかし清浦内閣は、総理大臣と外務陸海軍大臣を除く全ての閣僚が貴族院議員から選出されるという超然内閣であった。 この頃には国民の間で政党内閣の復活や普通選挙要求などが日増しに高まっていたこともあって、国民の間で再び憲政擁護を求める運動が発生した。いわゆる第二次憲政擁護運動である。ただし、第二次憲政擁護運動は第一次のように暴動が起こることもなく、それほど盛り上がることもなかった。これは当時、清浦内閣を翌年5月10日に予定されていた総選挙施行のための期間限定の選挙管理内閣であり、中立性に配慮した結果、政党色のない貴族院議員が占めるのは仕方がないとする見方もあったからである。憲政会の加藤高明と革新倶楽部の犬養毅が、清浦内閣を批判してその打倒を進めるという、第一次と較べるとあまりにも小規模な運動に過ぎなかったのである。 第二次憲政擁護運動 大正13年(1924年)1月15日、立憲政友会総裁の高橋是清も、加藤や犬養に呼応して清浦内閣打倒を決断する。この頃、政友会は衆議院で278名の議席を取る第一党であり、高橋も当初は清浦内閣を支持していた。しかしそれは、半年間の期限付の内閣であると見なされていたこと、清浦内閣を支持する勢力が衆議院でいなければ社会主義者などの過激な運動が高まる危険性を恐れてのことであり、高橋も本心では清浦内閣にはあまり好意的ではなかったのである。 しかし床次竹二郎らが犬養らと結託して清浦内閣を倒すことに反対し、床次らは政友会の反対派148名を集めて政友会を脱党して政友本党を結成する。この政友本党は政友会に残った130名を凌ぐ148名であったことから、第一党となって清浦内閣を支持したのである。これによって政友会は倒閣運動における主導権を失った。 同年1月18日、三浦梧楼の斡旋によって三浦邸に集まった加藤高明・高橋是清・犬養毅らは互いに協力しあって護憲三派を結成し、「清浦内閣を倒して憲政の本義に則り、政党内閣制の確立を期すこと」で互いに合意した。 Template quotation? さらに加藤ら護憲三派は、関西で憲政擁護大会を開いて演説を行なうなどして国民からの支持を呼びかけるなど、盛んに運動する。加えて貴族院では清浦がかつて所属していた研究会の議員を閣僚10人中3人も入閣させるという「論功人事」を行ったことに対する他会派からの批判が湧き起こっていた。このため、これら一連の動きなどから、1月31日清浦内閣は衆議院の任期満了を待たずに議会を解散して総選挙を行なうことで白黒をつけようとした。これは本来の選挙管理内閣としてのあり方を逸脱して、研究会と政友本党の支持を背景に長期政権化を狙ったものとされて、世論の硬化を招いた。このため、この解散は「懲罰解散」ないし「清浦クーデター」の名称で呼ばれるようになる。さらに前年の関東大震災による選挙人名簿の損傷によって投票日が当初予定通りの5月10日に延期され、その間に清浦内閣が護憲三派の選挙運動の妨害を図ったことから、国民各層の憤激を招いた。 そして5月10日に行なわれた第15回衆議院議員総選挙の結果、護憲三派からは286名(憲政会151名。政友会105名。革新倶楽部30名)らが当選する。これに対して清浦内閣を支持していた政友本党は109名が当選したにとどまり、護憲三派の圧勝に終わった。そして6月、遂に清浦内閣は倒れ、第一党の加藤高明に内閣組閣の大命が下った。加藤は、政友会から2名、革新倶楽部から1名を加えた護憲三派内閣を組閣する。ここに、高橋是清以来3代ぶりの政党内閣が復活したのである。 第二次憲政擁護運動の意義 第二次憲政擁護運動は、国民からの運動ではなく政党からの運動であり、その規模も第一次と較べるとあまりに小規模であった。しかし天皇機関説を唱えた美濃部達吉は、「長い梅雨が明けて、かすかながらも日光を望むことができたような気持ち」と、この運動を高く評価している。 加藤内閣は陸軍4個師団の廃止や予算一億円の削減、有爵議員のうち、伯・子・男の数を150名に減らすなどの貴族院改革、幣原喜重郎の協調外交によるソ連との国交樹立、普通選挙法の制定など、多くの改革が行なわれた。このように加藤内閣のもとで国民のためになることも確かに多かった。 しかし治安維持法が同時に制定され、これは「悪法」として非難された。尾崎行雄や徳川義親(松平慶永の子)らは最後まで治安維持法成立に反対したが、結局、治安維持法は成立してしまった。この治安維持法はのちに戦前の悪法のひとつとされるようになるが、その悪法が護憲運動をもとに組閣された内閣のもとで成立したというのは、皮肉なものである。 関連項目 憲法 大正政変 憲法改正論議 護憲 大正デモクラシー 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月30日 (木) 03 46。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/766.html
天皇制(てんのうせい)は、天皇を君主又は象徴とする国家体制。特に天皇を元首又は象徴とする近代以降の国家体制(近代天皇制)を指すこともある。大日本帝国憲法(明治憲法)では天皇を元首とし、また日本国憲法では天皇を日本国の象徴であり日本国民統合の象徴として位置付けている。明治後期から敗戦までは天皇制などと表現することは不敬な表現であり、国体(=くにがら、くにぶり/漢書成帝紀)とよばれた。 概要 「天皇制」という用語は「君主制」を意味するドイツ語のMonarchieの和訳とされ、本来はマルクス主義者が使用した造語であった。1922年、日本共産党が秘密裏に結成され、「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。1932年のコミンテルンテーゼ(いわゆる32年テーゼ)は、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえて「天皇制」と表記し、天皇制と封建階級(寄生地主)・ブルジョワジー(独占資本)との結合が日本の権力機構の本質であると規定した。第二次世界大戦が終結するまで「天皇制」は共産党の用語であり、一般には認知されていなかったが、現代では共産党と関係なくマスメディア等一般にも使用されている。ただし、天皇制という語の由来からこれを忌避して皇室という表現もよく用いられ、中にはあえて国体と戦前によく使われた表現を用いる人も根強く存在する。歴史学者の間では天皇が国家統治機構の前面に登場する近代以前の国家体制に適用することに対して批判もある。 以下、古代以来の天皇と政治体制との関わりを中心に解説する。 歴史 古代 歴史学上、天皇家は古墳時代に見られたヤマト王権の「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」(あるいは「大王(おおきみ)」)に由来すると考えられている。3世紀中期に見られる前方後円墳の登場は統一政権の成立を示唆しており、このときに成立した大王家が天皇家の祖先だと考えられている。大王家の出自については、弥生時代の邪馬台国の卑弥呼の系統を大王家の祖先とする説、大王家祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。当初の大王は軍事的な側面だけではなく、祭祀的な側面も持っていたと考えられる。 8世紀になると中国の政治体制に倣った律令制が整備され、天皇を中心とした中央集権制が確立し、親政が行われた(古代天皇制)。このとき歴代天皇に漢風諡号が一括撰進された。律令制が確立した当初において、政治意思決定に天皇が占める位置は絶対的なものとされていたが、9世紀ごろから貴族層が実質的な政治意思決定権を次第に掌握するようになっていった。10世紀には貴族層の中でも天皇と強い姻戚関係を結んだ藤原氏(藤原北家)が政治意思決定の中心を占める摂関政治が成立した。11世紀末になると天皇家の家督者たる上皇が実質的な国王(治天の君)として君臨し、政務に当たる院政が始まった。藤原氏(摂関家)の地位は相対的に低下した。天皇位にある間は制約が多かったものの、譲位して上皇となると自由な立場になり君主としての実権を得た。院政を支えたのは中級貴族層であった。 中世 鎌倉に武家政権が成立すると、天皇・上皇を中心とした朝廷と将軍を中心とした幕府とによる二重政権の様相を呈した。承久の乱では幕府側が勝利を収めた。だが、天皇側の勢力もまだ強く、鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇が天皇親政を復活させた。建武の新政参照。 室町幕府が成立すると南朝・北朝に分裂した。その後続いた長い戦乱の中、天皇の権威は衰えながらも主に文化・伝統の継承者として存続していった。 Template 節stub? 近世 織田信長、豊臣秀吉も天皇の存在や権威を否定せず、政治に利用することによって自らの権威を高めていった。江戸幕府のもとでも天皇の権威は温存されたが、紫衣事件などにみられるように、年号の勅定などを僅かな例外として政治権力はほとんどなかった。 幕府が学問に儒学の朱子学を採用したことから、覇者である徳川家より「みかど」が正当な支配者であるという尊王論が水戸徳川家(水戸藩)を中心として盛んになった。 尊皇攘夷論 江戸時代末になると尊皇攘夷論が興り、天皇は討幕運動の中心にまつりあげられた。尊王攘夷論は、天皇を中心とした政治体制を築き、対外的に独立を保とうという政治思想となり、幕末の政治状況を大きく揺るがせた。吉田松陰の唱えた一君万民思想は擬似的な平等思想であり、幕府の権威を否定するイデオロギーともなった。しかし、尊皇攘夷派の志士の一部は天皇を「玉」(ぎょく)と呼び、政権を取るために利用する道具だと認識していた。 明治維新 江戸幕府が倒れ、明治の新政府は王政復古で太政官制を復活させた。ヨーロッパに対抗する独立国家を創出するため、中央集権体制が創られた。明治政府は不平を持つ士族の反乱や自由民権運動への対応の中から、議会制度の必要性を認識していった。日本の近代化のためにも、国民の政治への関与を一定程度認めることは必要であり、近代的な国家体制が模索された。モデルになると考えられたのは、ヨーロッパの立憲君主国であった。 なお、真の統治者が将軍ではなく天皇である事を知らしめるため、当時、九州鎮撫総監が“将軍はいろいろ変わったが、天子様は変わらず血統も絶えずに存在する”という趣旨の文書を民衆に配布している。京都府もやはり天皇支配を周知すべく告諭を行なっている。更に新政府は行幸をたびたび行なった中奥宏『皇室報道と敬語』三一新書。 憲法下の天皇制 大日本帝国憲法 大日本帝国憲法はプロイセン王国やベルギー王国の憲法を参考に作成されたと言われている。伊藤博文は、ヨーロッパでは議会制度も含む政治体制を支える国民統合の基礎に宗教(キリスト教)があることを知り、宗教に替わりうる「機軸」(精神的支柱)として皇室に期待した。 天皇の地位 大日本帝国憲法第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められており、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、日本国憲法とは異なり明確に「元首」と規定されている。 天皇の大権 大日本帝国憲法において天皇は以下のように記されている。 天皇は国の元首にして統治権を総攬する。 天皇は陸海軍を統帥する。 天皇は帝国議会の協賛を以って立法権を行う。 国務大臣は天皇を輔弼する。 司法権は天皇の名に於いて法律により裁判所が行う。 立憲君主制 大日本帝国憲法の制定により、日本は立憲君主国になった。大日本帝国憲法を起草した伊藤博文も、天皇に絶対君主の役割を期待するようなことはなかった。法文を素直に解釈すると大日本帝国憲法においての天皇は大きな権力を持っていたように読めるが、明治以降も、天皇が直接命令して政治を行うことはあまり無かった。この点について「君臨すれども統治せず」という原則をとる現代の日本やイギリスなどの君主と実態においては近しい存在であったという意見もある。しかしながら重要な政治的局面で影響力を行使することもあったため異なるという意見もある。大日本帝国憲法下の天皇の法的位置付けについては憲法学上さまざまな論争がなされてきた。 統帥権 衆議院において政府に反対する勢力が多くを占めることを予想して、貴族院に衆議院と同等の権限を持たせている。 実際に政治を運営するのは、天皇でなく元老や内閣(藩閥政府)の各大臣である。行政権は国務大臣の輔弼により天皇が自ら行うものとされた。大日本帝国憲法では、内閣の大臣は天皇を輔弼するもの(総理大臣も他の大臣と同格)と規定された。しかし、最終的な政治決断を下すのは誰か、という点は曖昧にされていた。対外的には、天皇は大日本帝国皇帝であるが実際の為政者は内閣としていた。内閣は憲法ではなく内閣官制で規定されており、内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの対等な地位とされた。 この構造の欠陥が昭和に入ってから野党や軍部に大きく利用されることとなった。「軍の統帥権は天皇にあるのだから政府の方針に従う必要は無い」と憲法を拡大解釈して軍が大きな力を持つこととなった(権力の二重構造、統帥権干犯問題)。軍部が天皇直隷を盾に独走・政府無視を続けて、もはや統制できない状況になるケースもあった。二・二六事件の際は昭和天皇が激怒し、「自ら鎮圧に行く」とまで主張したため、反乱軍は鎮圧された。また、終戦の際、ポツダム宣言の受諾・降伏を決定することは総理大臣にも出来ず、天皇の「聖断」を仰ぐ他なかった。しかし、天皇は立憲君主としての立場を自覚していたため、上御一人(最高権力者)であってもこの2例を除いて政治決定を下すことはなかった。こうした政治的主体性の欠如した統治機構を、政治学者の丸山眞男は「無責任の体系」と呼んだ。 なお、明治以降から終戦までの天皇制は従来の天皇制と異なるとして、絶対主義的天皇制、近代天皇制という語が用いられることもある。(天皇制ファシズム参照)。 日本国憲法 Template main? 連合国軍最高司令官総司令部は占領政策上、天皇制が有用と考え、日本国憲法に象徴としての天皇制(象徴天皇制)を存続させた。天皇制は昭和天皇の各地への行幸や皇太子結婚などのイベントを通して大衆に浸透し、一定の支持を得るに至っている。大衆の支持を基盤にした戦後の天皇制を大衆天皇制と呼ぶこともある。 憲法学会の学説では、日本国憲法下の現行体制を立憲君主制とは捉えず、また天皇は元首ではないとするのが通説であるが、実質的に元首であるという見解を示す説もある。しかし諸外国は、日本を天皇を元首とした立憲君主国とみなしており例えば、CIA各国要覧の日本の項では、「chief of state Emperor AKIHITO (since 7 January 1989)」と明記している。、日本政府も事実上天皇を元首として取り扱っている。 日本政府の公式見解は以下の通りである出典 象徴天皇制に関する基礎的資料 最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会(平成15 年2 月6 日及び3 月6 日の参考資料)。pdfファイル。。 (日本を)立憲君主制と言っても差し支えないであろう1973年(昭和48年)6月28日参議院内閣委員会、吉國一郎内閣法制局長官答弁。 (天皇を)元首と言って差し支えないと考える1988年10月11日参議院内閣委員会、大出峻郎内閣法制局第一部長答弁。 戦前の論評 「日本の失敗を天皇制のせいだと非難はしても、日本の成功に関して天皇制を褒めることはしなかったのが戦後歴史家たちであるが、これと異なり、明治知識人たちは日本の進歩の功を天皇に帰しはしても、その短所を天皇のせいにはしなかった」という指摘が明治時代と戦後の天皇制に関する論評の違いについてなされているベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎 (翻訳)、講談社、2003年01月、220頁。ISBN 978-4062116756。(第6章『近代的父性像の構築』より引用)。。 皇室擁護派の意見 天皇の世界征服による世界平和の実現「世界最終戦を経て、全人類が天皇を現人神(あらひとがみ)として信仰し、天皇の霊力によって世界を統一するべきである。」 大日本帝国陸軍参謀であった石原莞爾は、「人類が心から現人神(あらひとがみ)の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。」と主張した『世界最終戦論』(1940年・立命館出版)。「我らの信仰に依れば、人類の思想信仰の統一は結局人類が日本国体の霊力に目醒めた時初めて達成せられる。更に端的に云えば、現人神(あらひとがみ)たる天皇の御存在が世界統一の霊力である。しかも世界人類をしてこの信仰に達せしむるには日本民族、日本国家の正しき行動なくしては空想に終る。」とも主張した『戦争史大観』(1941年・中央公論社)。 皇室批判派の意見 Template 節stub? 戦後の論評 第二次世界大戦が終わると、共産主義や近代政治学(前記の丸山眞男ら)の立場などから天皇制批判が数多く提議された。1950年代から1960年代には、共産主義者を中心に天皇制の廃止を訴える意見もあった。昭和天皇崩御の際、テレビ朝日の『朝まで生テレビ!』で天皇制の是非について取り上げられた。しかし、これ以降、この問題を積極的に取り上げるマスメディアはほどんどない。 日本共産党は2004年に綱領を改正し、元首化・統治者化を認めないという条件の下、天皇制の是非については主権在民の思想に基づき国民が判断すべきである、という趣旨に改めた。[1] 各種の世論調査では、象徴天皇制の現状維持を主張する意見が多数であり、現在のところ象徴天皇制は日本国民に支持されている制度であると言える。これについては、国民の天皇への関心が薄らいだことや、マスメディアが各方面からの圧力を恐れて天皇制の廃止につながる話題、批判をタブー視していること(菊タブー)が原因であるとする見解もある。 「天皇制は日本人の心性に深く根ざしたもので、変える事は出来ないのではないか」と考えられることもあるTemplate 要出典?。例えば、戦後、天皇制廃止を叫んでいた日本共産党も、組織の内実は家父長的Template 要出典?な指導体制を取っており、徳田球一委員長は「徳田天皇」と揶揄された(思想家、竹内好はこうした事態を「一木一草天皇制」と呼んだ)。しかし、天皇制も日本の歴史の中で様々に位置づけを変えてきている。その中でも天皇制が権力者にとって都合のよいように様々に利用されてきたことは注意すべき点であろう。 皇室擁護派の意見 「思想取締りの秘密警察は現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する。……さらに共産党員であるものは拘禁を続ける……政府形体の変革、とくに天皇制廃止を主張するものは、すべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕する」日高六郎『戦後思想を考える』岩波新書、1980年、3頁による。 内務大臣山崎巌、1945年10月 「天皇制の下に他国とは趣の異なったデモクラシーの運用が行われねばならぬ」(安岡正篤・1945年12月) * 安岡正篤「政体と日本天皇制」(部外秘)1945年12月。。 「天皇を現人神と仰ぎ奉り皇国を毒する内外一切の勢力を打滅せん事を期す」「大日本帝国憲法の復活」「核武装による皇軍再建」(大日本殉皇会・1961年設立) ref name= 公安 公安調査庁編『主要右翼団体規約・綱領・宣言集』公安調査庁、1968年。 「天皇制の下に日本民族の主体性を把握」(治安確立同志会・1952年設立) ref name= 公安 / Template 節stub? 皇室批判派の意見 Template main? 「天皇をたゞの人間に戻すことは現在の日本に於て絶対的に必要」(坂口安吾・1946年6月)坂口安吾「天皇小論」『文学時標』第九号、1946(昭和21)年6月1日発行。。 「天皇制が侵略戦争をはじめた」(宮本百合子・1949年2月)宮本百合子「ファシズムは生きている」『われらの仲間』第六号、1949年(昭和24)年2月25日発行。と述べている。 オウム真理教の日本シャンバラ化計画(オウム国家の樹立) 「シヴァ大神の化身で大宇宙の聖法の具現者たる麻原彰晃が神聖法皇として全権を掌握する祭政一致の絶対君主制国家である。」「オウム国家樹立に伴い、神道に基盤におく皇室は当然の如く廃止され、新たに葛城等の姓を与えて民籍人とする。代わって麻原一族が皇族となる。(既に自身の長男・次男に皇子なる称号を授与していた)。」「日本という国名は、天皇と密接に繋がっており、オウム国家を表すものとしては相応しくない。よって以下の国号に変更するのが望ましい。真理国、オウム国、神聖真理国、太陽寂静国。」 破壊活動防止法の解散指定のために公安調査庁が提示した「証拠の要旨」より。公安調査庁はこの計画をもって、オウム真理教を破壊活動防止法や無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律に該当するテロ組織と規定している。。 Template 節stub? 天皇制絶対主義 Template 独自研究? 天皇制絶対主義とは、講座派による日本近代における近代天皇制の体制を定義した言葉。「絶対主義的天皇制」とも言われる。 明治維新後の政治体制を、絶対主義とみなし「絶対主義天皇制」と規定したのは、主に唯物史観を取り入れた左派の歴史学者である。この場合、明治維新から第2次世界大戦までの日本の政治体制は絶対主義であり、明治維新はブルジョワ的市民革命ではなく、不十分な改革であったと評価される、社会経済史理論の一形態である。 これに対して、「自由主義史観」では、歴史解釈は「類似」し、「平行」する現象の存在により成立するので、幕府が外交権・貿易権を有した江戸時代がすでに絶対主義体制であったと考えられる、としている新しい歴史教科書をつくる会編『国民の歴史』産経新聞社、1999年、486頁参照。。 また、啓蒙君主と比較して論じる者や、明治維新を市民革命と比較する視点もある。 脚注 Template 脚注ヘルプ? Template reflist? 参考文献 天皇制絶対主義の文献 服部之総『天皇制絶対主義の確立』(『新日本史講座6』所収) 井上清『天皇制絶対主義の発展』(『天皇制に関する諸問題』1954年所収) 那須宏「明治維新-天皇制絶対主義の成立と再編」『岐阜経済大学論集』ISSN 03865932 岐阜経済大学学会編・岐阜経済大学学会発行、I~IVに分けて6巻1号〔1972年1月〕、6巻3号〔1973年3月〕、7巻1号〔1973年6月〕、7巻2号〔1973年9月〕に掲載。 関連項目 象徴天皇制 天皇制廃止論 天皇制ファシズム 天皇機関説 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月26日 (水) 08 14。
https://w.atwiki.jp/urusugu/pages/32.html
政府とは とある国の政府。様々な国に侵略し、世界を征服しているといっても過言ではない。実は、(ここはネタばれだよ。お金を払うと見れるよ!)である。とりあえず、諸悪の根源。
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/323.html
<目次> ◆2.1 大日本帝国憲法◇2.1.1 大日本帝国憲法の制定 ◇2.1.2 大日本国憲法の基本原理と運用 ◆2.2 日本国憲法の制定◇2.2.1 憲法制定の過程 ◇2.2.2 日本国憲法制定の法理① - 八月革命説 ◇2.2.3 日本国憲法制定の法理② - ノモス主権論 ◇2.2.4 両説の検討 - 憲法の科学 ◆2.1 大日本帝国憲法 ◇2.1.1 大日本帝国憲法の制定 大日本帝国憲法制定の背景 大日本帝国憲法(明治憲法)の制定は、国内政治のレベルでは、藩閥政府と自由民権運動との抗争と妥協の産物として、憲法思想のレベルでは、西欧を起源としながら普遍的な妥当性を主張する近代立憲主義と日本固有の国家体制を確立し維持しようとする考え方との対立の中で理解することができる。 明治国家建設の過程で、政権抗争に破れ下野した副島種臣、板垣退助らは1874年に「民選議院設立建白書」を左院に提出し、加藤弘之らの設立尚早論者との論争が新聞、雑誌等で広く行われるようになった。 政府は翌1875年には「漸次立憲政体樹立の詔」を出し、1876年9月には、・・・(中略)・・・国憲起草の勅命が、元老院に対して下された。 元老院は、1880年末に「日本国憲按」と題する最終案を作成して、天皇に奏上した。 この案は当時のヨーロッパ諸国の憲法、とくにベルギーおよびプロイセンの憲法に依拠したものであったが、海外「各国之憲法ヲ取集焼直シ候迄ニ而我国体人情等ニハ聊モ致注意候モノトハ不被察」(伊藤博文の岩倉具視あて書簡)、あるいは「我カ国体ト相符ハサル所アル」(岩倉具視の論評)ものと考えられ、採択されるに至らなかった。 伊藤博文の起草作業 出直しとなった憲法起草作業は伊藤博文を中心として進められた。 伊藤は、憲法調査の勅命により1882年にはヨーロッパに赴いて、ベルリン、ウィーンでグナイスト(Gneist, R. v.)、シュタイン(Stein, L. v.)、モッセ(Mosse, A.)らの講義を聴き、帰国後、井上毅、伊藤巳代治、金子堅太郎の3人の協力を得て憲法の起草に着手し、1888年に成案を得た。 伊藤らの草案は、彼自身を議長とする枢密院への諮詢を経て確定し、翌1889年2月11日に「大日本帝国憲法」として公布された。 施行されたのは、上諭第4項の定めるとおり、第1回帝国議会開会の時にあたる1890年11月29日である。 【日本語としての「憲法」】日本において「憲法」という言葉は、聖徳太子の「十七条憲法」に見られるように、法や掟を一般的に指す意味で用いられ、必ずしも国家の根本法という意味では用いられてこなかった。明治の初年に西欧の法律学を導入する際、constitution あるいは Verfassung にあたる訳語として「国憲」あるいは「国制」と並んで「憲法」という言葉が充てられるようになり、明治15(1882)年、伊藤博文をヨーロッパ各国の憲法制度の調査に派遣する際、勅語に付帯する調査項目の一つとして「欧州各立憲君治国の憲法に就き其淵源を尋ね其沿革を考へ其現行の実況を視利害得失を研究すべき事」が挙げられていたことから、国家の根本法の意味で「憲法」の語を用いることが一般化した(美濃部・原論54頁)。 ◇2.1.2 大日本国憲法の基本原理と運用 大日本帝国憲法には、天皇主権、皇室の自律、天皇大権による国政運営など、天皇の統治権を広範に認める側面と、欧米諸国の憲法にならって、権利の保障、権力の分立、限定された民主政治など、自由主義あるいは民主主義に即した制度を取り入れた部分とがある。 天皇主権 1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とされ、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とされるとおり、統治権は天皇が行使するものとされ、立法、司法、行政の各権能は、究極的には天皇に帰属し、議会、裁判所、政府各機関は、大権を翼賛するに過ぎないとの建前がとられた。 立法権については、天皇は緊急勅令いよび独立命令を発する権限を持ち(8条、9条)、また議会の議決した法律案も天皇の裁可によって初めて法律として成立すると考えられ、議会の立法権は限定されていた(もっとも、議会の議決した法案で、裁可されなかったものはない)。 その他にも、天皇は行政各部の官制の制定および官吏の任免(10条)、陸海軍の統帥(11条)、非常時における戒厳の宣告(14条)など、広範な権限を有した。 また、統帥権については、慣習法上、国務大臣の輔弼によらず、陸軍参謀総長、海軍軍令部長が大権を輔弼するものとされ、従って、議会も政府の責任追及を通じてこれをコントロールすることはできないものとされた(美濃部・撮要322-30頁)。 皇室の自律 さらに、皇室に関する事項は皇室典範、皇室令などにより皇室自らが定めるものであって、そもそも憲法の定めるべきことではなく、従って一般国民や議会の関与する余地はないとされた(2条、17条、74条)。 臣民の権利と義務 大日本帝国憲法はその第2章で、国民の権利と義務について定めを置いたが、そこで保障されたのは「臣民」として天皇から認められた限りでの権利と義務であり、個人の生来の平等な権利が保障されたわけでえはない。 保障された権利は、主として、居住及移転の自由(22条)、言論著作印行集会及結社の自由」(29条)などの消極的自由権であり、いずれも「法律ノ範囲内ニ於テ」という法律の留保の下にあった。 衆議院議員の選挙制度も「選挙法ノ定ムル所」に委ねられている(35条)。 学説においても、「我が憲法に於ける臣民の権利の保障は原則として唯行政権及司法権に対する制限たるに止まり立法権に対する制限に非ず。・・・・・・憲法は其の各条に於て臣民が法律の範囲内に於て何々の自由を享有し、又は法律に定めたる場合を除く外其の自由を侵されざることを定めたるに止まり、国民が法律に依りても侵されざる権利を有することを定めず」(美濃部・撮要181頁)と理解されていた(もっとも、美濃部によれば、「法定の裁判官の裁判を受くる権利」(24条)と「公安を害せず臣民の義務に反せざる限に於て信教の自由を有すること」(28条)とはこの例外で、立法権自身が憲法に制約されている(前掲))。 もっとも、権利の制約が法律に委ねられている限りでは、フランス第三共和政やイギリスが伝統的にそうであったように、議会が人権の擁護者としての役割を果たす余地もあり得たが、1938年の国家総動員法の制定によって国民の自由と財産の制約が勅令に白紙委任されると、このような民主的歯止めも失われることとなった。 また、臣民の権利は、非常時における天皇大権の行使に対抗できない旨が明記されている(31条)。 国政の運営 政治運営の面では、国務大臣はそれぞれ天皇に責任を負うものとされ、議会の信任を在職の要件とするものではないとの超然内閣主義が当初とられた。 しかし、大正末から昭和初期にかけては、衆議院の多数派政党が政権を担当するという議院内閣制が「憲政の常道」とされた。 衆議院は、貴族院と同等の権限を持ち、議会の支持がない限り、政府が必要とする法律、予算を得ることは困難であったから、政府が衆議院に対して責任を負う政治運営には、制度上の困難があったといえる。 この間、1925年には男子普通選挙法が成立し、1928年の衆議院選挙において初めて実施されている。 しかし、統帥権が政府の輔弼の対象とならないとされたことや、陸軍大臣および海軍大臣に現役の将官を充てる制度が長期に亘って存在したことなどから、軍が内閣の構成に至るまで政治的に大きな発言権を確保した。 とくに1932年の五・一五事件以降、軍部の政治介入に対する有効な歯止めが失われるとともに、政治制度の民主的な運用も廃れることとなり、1940年に諸政党が解散して大政翼賛会が組織されたことで、政党内閣の基礎自体が失われた。 ◆2.2 日本国憲法の制定 ◇2.2.1 憲法制定の過程 ポツダム宣言受諾と憲法改正 1945年8月14日に日本政府が受諾したポツダム宣言は、その10項後段で、「日本国政府は、日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙(しょうがい)を除去すべし。原論、宗教および思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし」とし、さらに12項では、「日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ、平和的傾向を有しかつ責任ある政府が樹立せらるる」ことを連合国占領軍の撤収の条件としていた。 このポツダム宣言の内容を実現するために、大日本帝国憲法の改正が必要か否かについては、少なくとも、敗戦直後に成立した東久邇宮内閣では、否定的見解が強かった。 「国体護持」を謳って、辛うじて終戦に踏み切った直後であるだけに、憲法の改正を言い出しにくい情勢であったことにもよると思われる。 これに対して、連合国最高司令官のマッカーサーは、1945年10月4日、東久邇宮内閣の国務大臣であった近衛文麿に対し、さらに、10月9日に成立した幣原内閣の首相、幣原喜重郎に対して、ポツダム宣言実施のためには憲法改正が必要であることを示唆した。 幣原内閣は、マッカーサーの示唆を受けて、1945年10月25日、松本蒸治国務大臣を長とする憲法問題調査委員会(通称、松本委員会)を発足させた。 松本委員会は、憲法改正について消極的であり、委員会発足に際しての松本委員長の談話でも、同委員会は「必ずしも憲法改正を目的とするものではなく、調査の目的は、改正の要否および改正の必要があるとすればその諸点を明らかにすることにある」とされていた。 委員会が最終的にまとめた「松本案」といわれる改正草案も、天皇主権を維持し、国会に対して責任を負わない枢密院を残し、国民に対する権利の保障についても広範な法律の留保を設けるなど、保守的なものであった。 総司令部による草案の起草 総司令部は、憲法改正は必要としながらも、改正は日本政府のイニシァティヴで進められるべきものとの立場をとっていたが、1946年2月3日になって、マッカーサーは、総司令部が独自に改正草案を作成し、これを日本側に提示すべきだとの立場をとるに至る。 この方針転換の背景には、以下のような2つの考慮が働いていたと考えられる。 第一に、 極東委員会の発足前に、憲法の改正を進めるべきだとの考慮である。日本占領軍は、少数のイギリス軍の他は、アメリカ合衆国軍によって構成されていた。ソ連をはじめとする他の連合国は、そこで極東委員会という機関を設け、日本の占領統治をコントロールすることを要求し、アメリカ政府もこれを受け入れた。マッカーサーとしては、この委員会に手を縛られる前に、本国政府および総司令部の考える方向での改正を進めておくべきだとの意向であったと考えられる(佐藤達夫 [1994] (3) 210-25頁)。 いま一つの考慮は、 毎日新聞による松本案のスクープという全くの偶然事に由来する。松本委員会の審議内容は秘密とされ、総司令部もその内容については知らされていなかったが、1946年2月1日、毎日新聞が、「松本案」のスクープ記事を掲載した。実際には、毎日新聞がスクープしたのは、委員会の最終案ではなく、それよりは進歩的な「宮沢甲案」であったが、それでも総司令部の予想よりはるかに保守的なものであった(高柳他 [1972] 41-75頁)。そこで、マッカーサーは、総司令部独自でポツダム宣言の内容に合致する草案を作成し、日本政府に提示して、政府がこの案に沿った形で憲法改正案をまとめることが望ましいと考えた。 マッカーサーは、2月3日、総司令部民政局(Government Section)のメンバーに憲法草案の起草を命じ、その際、草案に必ず盛り込むべき原則として、①天皇制の存続、②戦争放棄、戦力の不保持、交戦権の否認、③封建制度の廃止と貴族制の改革、の3点を示した。 いわゆるマッカーサー・ノートである(高柳他 [1972] 99-107頁)。 総司令部は、2月13日、吉田茂外相官邸での会談において、総司令部案を日本政府側に手渡した。 日本国憲法の誕生 日本政府は、結局この総司令部案を基礎として改正を行うことを受け入れ、松本国務大臣の下で、総司令部案に相当の修正を加えた「3月2日案」を作成する。 さらに、総司令部との折衝の結果、3月6日に「憲法改正草案要綱」を閣議決定した。 ついで、4月10日に衆議院議員の総選挙が行われ、最後の帝国議会の衆議院議員が選出される。 政府の憲法草案は、枢密院での審議を経た後、6月25日に衆議院本会議に上程され、衆議院で約2ヶ月、貴族院で約1か月半に亘る審議を経た後、10月7日に確定され、枢密院での審議、天皇の裁可を経て、同年11月3日に公布された。 施行は、憲法100条の定めるとおり、公布後6か月を経た1947年5月3日である。 【押しつけ憲法論】本文で述べたような日本国憲法制定の経緯から、現憲法は総司令部によって押しつけられたものであるから無効である、あるいは新たに「自主憲法」を制定する必要があると主張されることがある。憲法改正草案要綱に示された後の選挙で選出された衆議院議員を含む帝国議会で十分な審議を経て制定された憲法を、押しつけられたと言い得るか否か疑わしいが(芦部・憲法27-29頁参照)、たとえそれが押しつけであるとしても、国民に押し付けられたという意味では、大日本帝国憲法も天皇(あるいはその名において行動した政府)によって押し付けられた欽定憲法であることに注意する必要がある。現在は国民主権であるから天皇主権下の時代とは異なるという反論は意味をなさない。国民主権原理自体も、連合国によって押し付けられたものだからである。押し付けられたもののうち、国民主権原理のみは所与の前提として受け入れ、それに基づいて憲法を排撃しようとする議論は、あまりにも都合の良過ぎる議論であろう。首尾一貫させるために国民主権をも押しつけられたものとして排撃するならば、天皇主権へ回帰することとなり、結局天皇による憲法の押しつけを免れ得ないことになる。押しつけ憲法論は、そもそも内在的に一貫した議論として成り立ち得ない。 ◇2.2.2 日本国憲法制定の法理① - 八月革命説 日本国憲法は、形式的には明治憲法の改正として、明治憲法73条の定める改正手続に則って成立した。 しかし、その内容をみると、明治憲法とは全く面目を一新しており、新しい憲法の制定と考える方が相応しい。 とくに、明治憲法で統治権の総攬者とされた天皇が、単なる象徴とされ、新たに国民が主権者として位置付けられている点は、憲法改正の限界を超えるものと見ることができる。 このような国民主権原理の確立と日本国憲法の制定とが如何にして正当化し得るかについては、宮沢俊義教授のいわゆる八月革命説が一般に受け入れられてきた。 その概要は以下のとおりである(宮沢 [1967])。 法的意味における革命 国政の最終的な決定権という意味での主権は、明治憲法下では本来、天皇にあった。 ところが、敗戦時に日本政府が受諾したポツダム宣言の12項は「日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ・・・・・・政府が樹立せらるる」ことを要求している。 これは国民主権の確立を要求するものであり、ポツダム宣言の受諾により、日本の主権は天皇から国民へ移ったことになる。 このような主権の転換は、法的意味における革命と考えることが出来る。 現行憲法は、国民主権原理を採用しているが、これはポツダム宣言の受諾に伴う主権の転換の帰結を宣言しているに過ぎず、創設的な意味を持つものではない。 主権原理の転換と改正の限界 現行憲法は明治憲法の改正手続に則って制定されたが、本来、明治憲法の改正手続を通じて憲法の根本原理である天皇主権の国民主権への転換を行うことは、憲法改正の限界を超えており、法的に不可能のはずである。 これが可能であるとすれば、それはポツダム宣言の受諾によってすでに主権原理が転換し、国民主権原理と抵触する限りにおいて、明治憲法の意味内容に根底的な変更が加えられていたからである。 さらに、ポツダム宣言の受諾によって主権原理が転換し、明治憲法の意味内容が根底的に変化している以上、改正手続のうち、貴族院、枢密院の審議裁決、および天皇の裁可は、法的には不必要であった。 ◇2.2.3 日本国憲法制定の法理② - ノモス主権論 八月革命説に対しては、ポツダム宣言の受諾は、日本に国民主権の確立を義務付ける債権的効果を持つにとどまり、ただちに国民主権への移行をもたらす物権的効果は有しないのではないかとの批判や、日本が占領下に置かれ、国家としての主権を喪失しているにも拘わらず国政の最高の決定権の国民への移行を論ずる意味はあるのか等の批判がある。 中でも、明治憲法と日本国憲法との根本的な連続性を主張し、宮沢教授との論争に発展した尾高朝雄教授のノモス主権論が注目に値する。 その概要は、以下のとおりである(尾高 [1954])。 主権はノモスにある 国政のあり方を最終的に決定する者が天皇であれ、国民であれ、その決定は、法の根本原理たるノモス(nomos)に従っていなければならない。 ノモスとは、所与の具体的条件の下で、できるだけ多くの人々の福祉をできるだけ公平に実現していかなければならないという規範である。 国政が、常にこのノモスに従っていなければならない以上、主権はノモスにあるというべきである。 明治憲法では天皇にあった主権が、新憲法の下では国民にあるといわれることがあるが、いずれの憲法の下でも主権はノモスにあり、従って新憲法制定による変革は、日本の国家組織を根本的に変えるものとは言えず、日本の「国体」は変化していない。 【正義と理性の主権】ノモス主権という考え方は、尾高教授に固有のものではなく、類似する思想は多い。たとえば、ギゾー(Guizot, F. P. G.)、ロワイエ=コラール(Royer-Collard, P.-P.)などフランスの王政復古期に活躍した正理論派(doctrinaire)の論者は、ルソーの説く人民主権論は、無知な大衆による衆愚政治を招くとして批判し、社会を支配する唯一の主権は、正義と理性の主権(souverainete de la justidee rt de la raison)でなければならないと説いた。つまり、主権は人民の多数派の意思の実現を目的とすべきではなく、人民の福祉にとって公正であり、合理的であるところを実現すべきであるとした。 ◇2.2.4 両説の検討 - 憲法の科学 「主権」をどう捉えるか 八月革命説とノモス主権論との対立の中心には、「主権」という概念の捉え方がある。 宮沢教授のように、国政のあり方を最終的に決める力として主権を捉えるならば、この力を有するのは具体的な人間でなければならず、天皇か、国民か、それとも他の誰かかという形で答えられねばならない。 たとえ、国政がノモスに従っていなければならないとしても、ノモスの内容を判定する者は誰かという問いに答えない限り、主権の問題は解決しないことになる。 もちろん、尾高教授のように、国政に関する決定が常に従わなければならない規範を主権の在りかとする主権の捉え方もあり得、その限りでは、両説の対立は概念の組み立て方の問題となり、簡単には決着がつかないことになる。 しかし、尾高教授のように、国政の最終的決定権者が変わっても国家組織の根本的変動はないとの立場をとると、フランス革命もロシア革命も、革命とはいえないことになり、常識と大きく異なる言葉の用法だといえよう。 「憲法の科学」と八月革命 八月革命説とノモス主権論との対立は、いずれが「憲法の科学」として妥当であるかについての対立であるとされることがあるが、そこで言われている「科学」の意義については慎重な検討が必要である。 八月革命説を取ろうと、ノモス主権論を取ろうと、我々は実際に起こった歴史的事実を残らず知ることが出来る。 「八月革命」は、これらの具体的事実と並ぶもう一つの事実ではなく、これらの事実に関する一つの描写の仕方、一つの解釈である。 八月革命説も、ノモス主権論も、具体的な事実の摘示によって「反証」されることはなく、従って反証可能な仮説としての「科学」ではあり得ない。 もっとも、これは八月革命説がいかなる意味でも「憲法の科学」ではあり得ないことを意味しない。 法の「科学」は、事実によって反証可能な仮説の構築と、そのテストに限られるわけではない。 法的関係を認識し、記述する学問は、単に、外的に観察し得るデータを記述するだけではなく、その法的関係にコミットする参加者の視点から見て、それらの観察し得るデータが如何なる「意味」を持っているかを理解し、認識する必要がある。 たとえば、交通ルールの研究者は、赤いランプが点灯した際、何パーセントの車が停止するかを記録するだけではなく、運転者がそれを「停止せよ!」という意味を持つ「信号」として理解し、それを自己および他者の行動の評価基準として受け入れていることをも記述する必要がある。 八月革命説が「憲法の科学」であるとすれば、それが、戦後の憲法体制を戦前の国家体制と正統性根拠の点で切断された体制として受け入れ、コミットする人々から見て、明治憲法から現行憲法への移行が、如何に首尾一貫して説明され得るかを明らかにしているからである。 従って、八月革命説は、その本来の姿においては、つまりそれにコミットする人々から見れば、一つの実践的立場の表明である。 それが「科学」であり得るとすれば、宮沢教授がそのような立場にコミットせず、そのような立場を「記述」することに終始している限りにおいてである。 同様のことが、対立する実践的立場についてであるが、ノモス主権論に関してもいえる。 【内的な視点】法の認識に、外的に観察し得るデータの記述のみではなく、制度参加者の視点からの、つまり「内的な視点」からの記述も含まれることは、ハート(Hart, H. L. A.)など、多くの論者によって指摘されている(ハート・法の概念 91-100頁)。この問題については、長谷部 [1991] 第7章参照。
https://w.atwiki.jp/wiki7_mikawa/pages/19.html
学問 四文字言葉 アメリカの独立宣言が出されたのは何年? 1776 土星最大の衛星はタイタンですが、木星最大の衛星は? ガニメデ 日清戦争で戦死し、死んでもラッパを放さなかったというエピソードで知られる日本兵は? 木口小平 最初は「詩人」というタイトルだったフランスの彫刻家ロダンの代表作は? 考える人 1968年に『少年愛の美学』で第1回日本文学大賞を受賞した『一千一秒物語」などの作品がある作家は? 稲垣足穂 小説『賢者たちの贈り物』『最後の一葉』で有名なアメリカの作家はO・○○○○? ヘンリー クチナシやコーヒーといえば何科の植物? アカネ科 フランスとスペインの国境となっているのは○○○○山脈? ピレネー 『小倉百人一首』の撰者として知られている鎌倉時代の歌人は? 藤原定家 映画にもされたイギリスの作家ジェームズ・ヒルトンの小説は『○○○○先生さようなら』? チップス 向田邦子の直木賞受賞作『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』などが収められた短編集の題名は『思い出○○○○』 トランプ ~~ですが、道路標識などに表記されている、政令制定都市の区を意味するアルファベット4文字の略称は? WARD 薩長による藩閥政治が批判されたときに行われた、薩長政府を正当化する演説は? 蛮勇演説 北越雪譜を著した江戸時代の文人は? 鈴木牧之 「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」の四部からなる作家・三島由紀夫の絶筆となった小説の題名は? 豊饒の海 ウクライナの黒海の北岸にある半島で、19世紀半ばにロシアと同盟軍が争った競争の舞台にもなったのは○○○○半島? クリミア 津軽平野の南部に位置する青森県の村で、稲の植え方によって名画を再現する「田んぼアート」で有名なのは? 田舎館村 松尾芭蕉の『奥の細道』に収められている、日光で詠んだ有名な句は「あらたふと○○○○の日の光」? 青葉若葉 イグナティウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエルが所属していた修道会は○○○○会? イエズス 中国「明」時代の土地台帳は「魚鱗図冊」ですが、戸籍帳は○○○○? 賦役黄冊 島崎藤村の小説「夜明け前」の主人公の名前は○○○○ 青山半蔵 沖には「トド島」と呼ばれる無人島があり遠くサハリンも望める、北海道にある礼文島最北端の岬は○○○○岬? スコトン 1953年に芥川賞を受賞した松本清張の小説の題名は『或る「○○○○」伝』? 小倉日記 『彩雨』『二日月』『紅白梅』『行く春』などの代表作がある明治から昭和にかけて活躍した日本画家は? 川合玉堂 『ふらんす物語』『腕くらべ』『断腸亭日乗』などの作品で知られる耽美派の作家は? 永井荷風 マラリアの特効薬となるキナから抽出されるアルカロイドは? キニーネ 大和政権の時代に大陸から渡来してきた人々のうち刀剣などの鋳造に従事する者のことを何と呼んだ? 韓鍛冶部 ポルトガルの航海者マゼランが亡くなったフィリピンの島は○○○○島? マクタン 岡倉天心の指導の下、日本画の近代化に貢献した明治の画家で代表作に「落葉」「賢首菩薩」「黒き猫」などがあるのは? 菱田春草 高句麗の19代王の名前 広開土王 お互いに距離が近い小惑星グループ「ヒマラヤファミリー」に名前を残す宮城県出身の天文学者は? 平山清次 惑星の運動に関する3つの法則を発見した17世紀ドイツの天文学者は? ケプラー 1989年に採択された有害廃棄物の国境を越える移動を規制する条約は○○○○条約? バーゼル 1981年に小説「人間万事塞翁が丙牛」で直木賞を受賞している元東京都知事といえば? 青島幸男 1970年に打ち上げられた日本初の人工衛星は? おおすみ
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/1792.html
<目次> ◆2.1 大日本帝国憲法◇2.1.1 大日本帝国憲法の制定 ◇2.1.2 大日本国憲法の基本原理と運用 ◆2.2 日本国憲法の制定◇2.2.1 憲法制定の過程 ◇2.2.2 日本国憲法制定の法理① - 八月革命説 ◇2.2.3 日本国憲法制定の法理② - ノモス主権論 ◇2.2.4 両説の検討 - 憲法の科学 ◆2.1 大日本帝国憲法 ◇2.1.1 大日本帝国憲法の制定 大日本帝国憲法制定の背景 大日本帝国憲法(明治憲法)の制定は、国内政治のレベルでは、藩閥政府と自由民権運動との抗争と妥協の産物として、憲法思想のレベルでは、西欧を起源としながら普遍的な妥当性を主張する近代立憲主義と日本固有の国家体制を確立し維持しようとする考え方との対立の中で理解することができる。 明治国家建設の過程で、政権抗争に破れ下野した副島種臣、板垣退助らは1874年に「民選議院設立建白書」を左院に提出し、加藤弘之らの設立尚早論者との論争が新聞、雑誌等で広く行われるようになった。 政府は翌1875年には「漸次立憲政体樹立の詔」を出し、1876年9月には、・・・(中略)・・・国憲起草の勅命が、元老院に対して下された。 元老院は、1880年末に「日本国憲按」と題する最終案を作成して、天皇に奏上した。 この案は当時のヨーロッパ諸国の憲法、とくにベルギーおよびプロイセンの憲法に依拠したものであったが、海外「各国之憲法ヲ取集焼直シ候迄ニ而我国体人情等ニハ聊モ致注意候モノトハ不被察」(伊藤博文の岩倉具視あて書簡)、あるいは「我カ国体ト相符ハサル所アル」(岩倉具視の論評)ものと考えられ、採択されるに至らなかった。 伊藤博文の起草作業 出直しとなった憲法起草作業は伊藤博文を中心として進められた。 伊藤は、憲法調査の勅命により1882年にはヨーロッパに赴いて、ベルリン、ウィーンでグナイスト(Gneist, R. v.)、シュタイン(Stein, L. v.)、モッセ(Mosse, A.)らの講義を聴き、帰国後、井上毅、伊藤巳代治、金子堅太郎の3人の協力を得て憲法の起草に着手し、1888年に成案を得た。 伊藤らの草案は、彼自身を議長とする枢密院への諮詢を経て確定し、翌1889年2月11日に「大日本帝国憲法」として公布された。 施行されたのは、上諭第4項の定めるとおり、第1回帝国議会開会の時にあたる1890年11月29日である。 【日本語としての「憲法」】日本において「憲法」という言葉は、聖徳太子の「十七条憲法」に見られるように、法や掟を一般的に指す意味で用いられ、必ずしも国家の根本法という意味では用いられてこなかった。明治の初年に西欧の法律学を導入する際、constitution あるいは Verfassung にあたる訳語として「国憲」あるいは「国制」と並んで「憲法」という言葉が充てられるようになり、明治15(1882)年、伊藤博文をヨーロッパ各国の憲法制度の調査に派遣する際、勅語に付帯する調査項目の一つとして「欧州各立憲君治国の憲法に就き其淵源を尋ね其沿革を考へ其現行の実況を視利害得失を研究すべき事」が挙げられていたことから、国家の根本法の意味で「憲法」の語を用いることが一般化した(美濃部・原論54頁)。 ◇2.1.2 大日本国憲法の基本原理と運用 大日本帝国憲法には、天皇主権、皇室の自律、天皇大権による国政運営など、天皇の統治権を広範に認める側面と、欧米諸国の憲法にならって、権利の保障、権力の分立、限定された民主政治など、自由主義あるいは民主主義に即した制度を取り入れた部分とがある。 天皇主権 1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とされ、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とされるとおり、統治権は天皇が行使するものとされ、立法、司法、行政の各権能は、究極的には天皇に帰属し、議会、裁判所、政府各機関は、大権を翼賛するに過ぎないとの建前がとられた。 立法権については、天皇は緊急勅令いよび独立命令を発する権限を持ち(8条、9条)、また議会の議決した法律案も天皇の裁可によって初めて法律として成立すると考えられ、議会の立法権は限定されていた(もっとも、議会の議決した法案で、裁可されなかったものはない)。 その他にも、天皇は行政各部の官制の制定および官吏の任免(10条)、陸海軍の統帥(11条)、非常時における戒厳の宣告(14条)など、広範な権限を有した。 また、統帥権については、慣習法上、国務大臣の輔弼によらず、陸軍参謀総長、海軍軍令部長が大権を輔弼するものとされ、従って、議会も政府の責任追及を通じてこれをコントロールすることはできないものとされた(美濃部・撮要322-30頁)。 皇室の自律 さらに、皇室に関する事項は皇室典範、皇室令などにより皇室自らが定めるものであって、そもそも憲法の定めるべきことではなく、従って一般国民や議会の関与する余地はないとされた(2条、17条、74条)。 臣民の権利と義務 大日本帝国憲法はその第2章で、国民の権利と義務について定めを置いたが、そこで保障されたのは「臣民」として天皇から認められた限りでの権利と義務であり、個人の生来の平等な権利が保障されたわけでえはない。 保障された権利は、主として、居住及移転の自由(22条)、言論著作印行集会及結社の自由」(29条)などの消極的自由権であり、いずれも「法律ノ範囲内ニ於テ」という法律の留保の下にあった。 衆議院議員の選挙制度も「選挙法ノ定ムル所」に委ねられている(35条)。 学説においても、「我が憲法に於ける臣民の権利の保障は原則として唯行政権及司法権に対する制限たるに止まり立法権に対する制限に非ず。・・・・・・憲法は其の各条に於て臣民が法律の範囲内に於て何々の自由を享有し、又は法律に定めたる場合を除く外其の自由を侵されざることを定めたるに止まり、国民が法律に依りても侵されざる権利を有することを定めず」(美濃部・撮要181頁)と理解されていた(もっとも、美濃部によれば、「法定の裁判官の裁判を受くる権利」(24条)と「公安を害せず臣民の義務に反せざる限に於て信教の自由を有すること」(28条)とはこの例外で、立法権自身が憲法に制約されている(前掲))。 もっとも、権利の制約が法律に委ねられている限りでは、フランス第三共和政やイギリスが伝統的にそうであったように、議会が人権の擁護者としての役割を果たす余地もあり得たが、1938年の国家総動員法の制定によって国民の自由と財産の制約が勅令に白紙委任されると、このような民主的歯止めも失われることとなった。 また、臣民の権利は、非常時における天皇大権の行使に対抗できない旨が明記されている(31条)。 国政の運営 政治運営の面では、国務大臣はそれぞれ天皇に責任を負うものとされ、議会の信任を在職の要件とするものではないとの超然内閣主義が当初とられた。 しかし、大正末から昭和初期にかけては、衆議院の多数派政党が政権を担当するという議院内閣制が「憲政の常道」とされた。 衆議院は、貴族院と同等の権限を持ち、議会の支持がない限り、政府が必要とする法律、予算を得ることは困難であったから、政府が衆議院に対して責任を負う政治運営には、制度上の困難があったといえる。 この間、1925年には男子普通選挙法が成立し、1928年の衆議院選挙において初めて実施されている。 しかし、統帥権が政府の輔弼の対象とならないとされたことや、陸軍大臣および海軍大臣に現役の将官を充てる制度が長期に亘って存在したことなどから、軍が内閣の構成に至るまで政治的に大きな発言権を確保した。 とくに1932年の五・一五事件以降、軍部の政治介入に対する有効な歯止めが失われるとともに、政治制度の民主的な運用も廃れることとなり、1940年に諸政党が解散して大政翼賛会が組織されたことで、政党内閣の基礎自体が失われた。 ◆2.2 日本国憲法の制定 ◇2.2.1 憲法制定の過程 ポツダム宣言受諾と憲法改正 1945年8月14日に日本政府が受諾したポツダム宣言は、その10項後段で、「日本国政府は、日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙(しょうがい)を除去すべし。原論、宗教および思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし」とし、さらに12項では、「日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ、平和的傾向を有しかつ責任ある政府が樹立せらるる」ことを連合国占領軍の撤収の条件としていた。 このポツダム宣言の内容を実現するために、大日本帝国憲法の改正が必要か否かについては、少なくとも、敗戦直後に成立した東久邇宮内閣では、否定的見解が強かった。 「国体護持」を謳って、辛うじて終戦に踏み切った直後であるだけに、憲法の改正を言い出しにくい情勢であったことにもよると思われる。 これに対して、連合国最高司令官のマッカーサーは、1945年10月4日、東久邇宮内閣の国務大臣であった近衛文麿に対し、さらに、10月9日に成立した幣原内閣の首相、幣原喜重郎に対して、ポツダム宣言実施のためには憲法改正が必要であることを示唆した。 幣原内閣は、マッカーサーの示唆を受けて、1945年10月25日、松本蒸治国務大臣を長とする憲法問題調査委員会(通称、松本委員会)を発足させた。 松本委員会は、憲法改正について消極的であり、委員会発足に際しての松本委員長の談話でも、同委員会は「必ずしも憲法改正を目的とするものではなく、調査の目的は、改正の要否および改正の必要があるとすればその諸点を明らかにすることにある」とされていた。 委員会が最終的にまとめた「松本案」といわれる改正草案も、天皇主権を維持し、国会に対して責任を負わない枢密院を残し、国民に対する権利の保障についても広範な法律の留保を設けるなど、保守的なものであった。 総司令部による草案の起草 総司令部は、憲法改正は必要としながらも、改正は日本政府のイニシァティヴで進められるべきものとの立場をとっていたが、1946年2月3日になって、マッカーサーは、総司令部が独自に改正草案を作成し、これを日本側に提示すべきだとの立場をとるに至る。 この方針転換の背景には、以下のような2つの考慮が働いていたと考えられる。 第一に、 極東委員会の発足前に、憲法の改正を進めるべきだとの考慮である。日本占領軍は、少数のイギリス軍の他は、アメリカ合衆国軍によって構成されていた。ソ連をはじめとする他の連合国は、そこで極東委員会という機関を設け、日本の占領統治をコントロールすることを要求し、アメリカ政府もこれを受け入れた。マッカーサーとしては、この委員会に手を縛られる前に、本国政府および総司令部の考える方向での改正を進めておくべきだとの意向であったと考えられる(佐藤達夫 [1994] (3) 210-25頁)。 いま一つの考慮は、 毎日新聞による松本案のスクープという全くの偶然事に由来する。松本委員会の審議内容は秘密とされ、総司令部もその内容については知らされていなかったが、1946年2月1日、毎日新聞が、「松本案」のスクープ記事を掲載した。実際には、毎日新聞がスクープしたのは、委員会の最終案ではなく、それよりは進歩的な「宮沢甲案」であったが、それでも総司令部の予想よりはるかに保守的なものであった(高柳他 [1972] 41-75頁)。そこで、マッカーサーは、総司令部独自でポツダム宣言の内容に合致する草案を作成し、日本政府に提示して、政府がこの案に沿った形で憲法改正案をまとめることが望ましいと考えた。 マッカーサーは、2月3日、総司令部民政局(Government Section)のメンバーに憲法草案の起草を命じ、その際、草案に必ず盛り込むべき原則として、①天皇制の存続、②戦争放棄、戦力の不保持、交戦権の否認、③封建制度の廃止と貴族制の改革、の3点を示した。 いわゆるマッカーサー・ノートである(高柳他 [1972] 99-107頁)。 総司令部は、2月13日、吉田茂外相官邸での会談において、総司令部案を日本政府側に手渡した。 日本国憲法の誕生 日本政府は、結局この総司令部案を基礎として改正を行うことを受け入れ、松本国務大臣の下で、総司令部案に相当の修正を加えた「3月2日案」を作成する。 さらに、総司令部との折衝の結果、3月6日に「憲法改正草案要綱」を閣議決定した。 ついで、4月10日に衆議院議員の総選挙が行われ、最後の帝国議会の衆議院議員が選出される。 政府の憲法草案は、枢密院での審議を経た後、6月25日に衆議院本会議に上程され、衆議院で約2ヶ月、貴族院で約1か月半に亘る審議を経た後、10月7日に確定され、枢密院での審議、天皇の裁可を経て、同年11月3日に公布された。 施行は、憲法100条の定めるとおり、公布後6か月を経た1947年5月3日である。 【押しつけ憲法論】本文で述べたような日本国憲法制定の経緯から、現憲法は総司令部によって押しつけられたものであるから無効である、あるいは新たに「自主憲法」を制定する必要があると主張されることがある。憲法改正草案要綱に示された後の選挙で選出された衆議院議員を含む帝国議会で十分な審議を経て制定された憲法を、押しつけられたと言い得るか否か疑わしいが(芦部・憲法27-29頁参照)、たとえそれが押しつけであるとしても、国民に押し付けられたという意味では、大日本帝国憲法も天皇(あるいはその名において行動した政府)によって押し付けられた欽定憲法であることに注意する必要がある。現在は国民主権であるから天皇主権下の時代とは異なるという反論は意味をなさない。国民主権原理自体も、連合国によって押し付けられたものだからである。押し付けられたもののうち、国民主権原理のみは所与の前提として受け入れ、それに基づいて憲法を排撃しようとする議論は、あまりにも都合の良過ぎる議論であろう。首尾一貫させるために国民主権をも押しつけられたものとして排撃するならば、天皇主権へ回帰することとなり、結局天皇による憲法の押しつけを免れ得ないことになる。押しつけ憲法論は、そもそも内在的に一貫した議論として成り立ち得ない。 ◇2.2.2 日本国憲法制定の法理① - 八月革命説 日本国憲法は、形式的には明治憲法の改正として、明治憲法73条の定める改正手続に則って成立した。 しかし、その内容をみると、明治憲法とは全く面目を一新しており、新しい憲法の制定と考える方が相応しい。 とくに、明治憲法で統治権の総攬者とされた天皇が、単なる象徴とされ、新たに国民が主権者として位置付けられている点は、憲法改正の限界を超えるものと見ることができる。 このような国民主権原理の確立と日本国憲法の制定とが如何にして正当化し得るかについては、宮沢俊義教授のいわゆる八月革命説が一般に受け入れられてきた。 その概要は以下のとおりである(宮沢 [1967])。 法的意味における革命 国政の最終的な決定権という意味での主権は、明治憲法下では本来、天皇にあった。 ところが、敗戦時に日本政府が受諾したポツダム宣言の12項は「日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ・・・・・・政府が樹立せらるる」ことを要求している。 これは国民主権の確立を要求するものであり、ポツダム宣言の受諾により、日本の主権は天皇から国民へ移ったことになる。 このような主権の転換は、法的意味における革命と考えることが出来る。 現行憲法は、国民主権原理を採用しているが、これはポツダム宣言の受諾に伴う主権の転換の帰結を宣言しているに過ぎず、創設的な意味を持つものではない。 主権原理の転換と改正の限界 現行憲法は明治憲法の改正手続に則って制定されたが、本来、明治憲法の改正手続を通じて憲法の根本原理である天皇主権の国民主権への転換を行うことは、憲法改正の限界を超えており、法的に不可能のはずである。 これが可能であるとすれば、それはポツダム宣言の受諾によってすでに主権原理が転換し、国民主権原理と抵触する限りにおいて、明治憲法の意味内容に根底的な変更が加えられていたからである。 さらに、ポツダム宣言の受諾によって主権原理が転換し、明治憲法の意味内容が根底的に変化している以上、改正手続のうち、貴族院、枢密院の審議裁決、および天皇の裁可は、法的には不必要であった。 ◇2.2.3 日本国憲法制定の法理② - ノモス主権論 八月革命説に対しては、ポツダム宣言の受諾は、日本に国民主権の確立を義務付ける債権的効果を持つにとどまり、ただちに国民主権への移行をもたらす物権的効果は有しないのではないかとの批判や、日本が占領下に置かれ、国家としての主権を喪失しているにも拘わらず国政の最高の決定権の国民への移行を論ずる意味はあるのか等の批判がある。 中でも、明治憲法と日本国憲法との根本的な連続性を主張し、宮沢教授との論争に発展した尾高朝雄教授のノモス主権論が注目に値する。 その概要は、以下のとおりである(尾高 [1954])。 主権はノモスにある 国政のあり方を最終的に決定する者が天皇であれ、国民であれ、その決定は、法の根本原理たるノモス(nomos)に従っていなければならない。 ノモスとは、所与の具体的条件の下で、できるだけ多くの人々の福祉をできるだけ公平に実現していかなければならないという規範である。 国政が、常にこのノモスに従っていなければならない以上、主権はノモスにあるというべきである。 明治憲法では天皇にあった主権が、新憲法の下では国民にあるといわれることがあるが、いずれの憲法の下でも主権はノモスにあり、従って新憲法制定による変革は、日本の国家組織を根本的に変えるものとは言えず、日本の「国体」は変化していない。 【正義と理性の主権】ノモス主権という考え方は、尾高教授に固有のものではなく、類似する思想は多い。たとえば、ギゾー(Guizot, F. P. G.)、ロワイエ=コラール(Royer-Collard, P.-P.)などフランスの王政復古期に活躍した正理論派(doctrinaire)の論者は、ルソーの説く人民主権論は、無知な大衆による衆愚政治を招くとして批判し、社会を支配する唯一の主権は、正義と理性の主権(souverainete de la justidee rt de la raison)でなければならないと説いた。つまり、主権は人民の多数派の意思の実現を目的とすべきではなく、人民の福祉にとって公正であり、合理的であるところを実現すべきであるとした。 ◇2.2.4 両説の検討 - 憲法の科学 「主権」をどう捉えるか 八月革命説とノモス主権論との対立の中心には、「主権」という概念の捉え方がある。 宮沢教授のように、国政のあり方を最終的に決める力として主権を捉えるならば、この力を有するのは具体的な人間でなければならず、天皇か、国民か、それとも他の誰かかという形で答えられねばならない。 たとえ、国政がノモスに従っていなければならないとしても、ノモスの内容を判定する者は誰かという問いに答えない限り、主権の問題は解決しないことになる。 もちろん、尾高教授のように、国政に関する決定が常に従わなければならない規範を主権の在りかとする主権の捉え方もあり得、その限りでは、両説の対立は概念の組み立て方の問題となり、簡単には決着がつかないことになる。 しかし、尾高教授のように、国政の最終的決定権者が変わっても国家組織の根本的変動はないとの立場をとると、フランス革命もロシア革命も、革命とはいえないことになり、常識と大きく異なる言葉の用法だといえよう。 「憲法の科学」と八月革命 八月革命説とノモス主権論との対立は、いずれが「憲法の科学」として妥当であるかについての対立であるとされることがあるが、そこで言われている「科学」の意義については慎重な検討が必要である。 八月革命説を取ろうと、ノモス主権論を取ろうと、我々は実際に起こった歴史的事実を残らず知ることが出来る。 「八月革命」は、これらの具体的事実と並ぶもう一つの事実ではなく、これらの事実に関する一つの描写の仕方、一つの解釈である。 八月革命説も、ノモス主権論も、具体的な事実の摘示によって「反証」されることはなく、従って反証可能な仮説としての「科学」ではあり得ない。 もっとも、これは八月革命説がいかなる意味でも「憲法の科学」ではあり得ないことを意味しない。 法の「科学」は、事実によって反証可能な仮説の構築と、そのテストに限られるわけではない。 法的関係を認識し、記述する学問は、単に、外的に観察し得るデータを記述するだけではなく、その法的関係にコミットする参加者の視点から見て、それらの観察し得るデータが如何なる「意味」を持っているかを理解し、認識する必要がある。 たとえば、交通ルールの研究者は、赤いランプが点灯した際、何パーセントの車が停止するかを記録するだけではなく、運転者がそれを「停止せよ!」という意味を持つ「信号」として理解し、それを自己および他者の行動の評価基準として受け入れていることをも記述する必要がある。 八月革命説が「憲法の科学」であるとすれば、それが、戦後の憲法体制を戦前の国家体制と正統性根拠の点で切断された体制として受け入れ、コミットする人々から見て、明治憲法から現行憲法への移行が、如何に首尾一貫して説明され得るかを明らかにしているからである。 従って、八月革命説は、その本来の姿においては、つまりそれにコミットする人々から見れば、一つの実践的立場の表明である。 それが「科学」であり得るとすれば、宮沢教授がそのような立場にコミットせず、そのような立場を「記述」することに終始している限りにおいてである。 同様のことが、対立する実践的立場についてであるが、ノモス主権論に関してもいえる。 【内的な視点】法の認識に、外的に観察し得るデータの記述のみではなく、制度参加者の視点からの、つまり「内的な視点」からの記述も含まれることは、ハート(Hart, H. L. A.)など、多くの論者によって指摘されている(ハート・法の概念 91-100頁)。この問題については、長谷部 [1991] 第7章参照。
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/194.html
<目次> ◆2.1 大日本帝国憲法◇2.1.1 大日本帝国憲法の制定 ◇2.1.2 大日本国憲法の基本原理と運用 ◆2.2 日本国憲法の制定◇2.2.1 憲法制定の過程 ◇2.2.2 日本国憲法制定の法理① - 八月革命説 ◇2.2.3 日本国憲法制定の法理② - ノモス主権論 ◇2.2.4 両説の検討 - 憲法の科学 ◆2.1 大日本帝国憲法 ◇2.1.1 大日本帝国憲法の制定 大日本帝国憲法制定の背景 大日本帝国憲法(明治憲法)の制定は、国内政治のレベルでは、藩閥政府と自由民権運動との抗争と妥協の産物として、憲法思想のレベルでは、西欧を起源としながら普遍的な妥当性を主張する近代立憲主義と日本固有の国家体制を確立し維持しようとする考え方との対立の中で理解することができる。 明治国家建設の過程で、政権抗争に破れ下野した副島種臣、板垣退助らは1874年に「民選議院設立建白書」を左院に提出し、加藤弘之らの設立尚早論者との論争が新聞、雑誌等で広く行われるようになった。 政府は翌1875年には「漸次立憲政体樹立の詔」を出し、1876年9月には、・・・(中略)・・・国憲起草の勅命が、元老院に対して下された。 元老院は、1880年末に「日本国憲按」と題する最終案を作成して、天皇に奏上した。 この案は当時のヨーロッパ諸国の憲法、とくにベルギーおよびプロイセンの憲法に依拠したものであったが、海外「各国之憲法ヲ取集焼直シ候迄ニ而我国体人情等ニハ聊モ致注意候モノトハ不被察」(伊藤博文の岩倉具視あて書簡)、あるいは「我カ国体ト相符ハサル所アル」(岩倉具視の論評)ものと考えられ、採択されるに至らなかった。 伊藤博文の起草作業 出直しとなった憲法起草作業は伊藤博文を中心として進められた。 伊藤は、憲法調査の勅命により1882年にはヨーロッパに赴いて、ベルリン、ウィーンでグナイスト(Gneist, R. v.)、シュタイン(Stein, L. v.)、モッセ(Mosse, A.)らの講義を聴き、帰国後、井上毅、伊藤巳代治、金子堅太郎の3人の協力を得て憲法の起草に着手し、1888年に成案を得た。 伊藤らの草案は、彼自身を議長とする枢密院への諮詢を経て確定し、翌1889年2月11日に「大日本帝国憲法」として公布された。 施行されたのは、上諭第4項の定めるとおり、第1回帝国議会開会の時にあたる1890年11月29日である。 【日本語としての「憲法」】日本において「憲法」という言葉は、聖徳太子の「十七条憲法」に見られるように、法や掟を一般的に指す意味で用いられ、必ずしも国家の根本法という意味では用いられてこなかった。明治の初年に西欧の法律学を導入する際、constitution あるいは Verfassung にあたる訳語として「国憲」あるいは「国制」と並んで「憲法」という言葉が充てられるようになり、明治15(1882)年、伊藤博文をヨーロッパ各国の憲法制度の調査に派遣する際、勅語に付帯する調査項目の一つとして「欧州各立憲君治国の憲法に就き其淵源を尋ね其沿革を考へ其現行の実況を視利害得失を研究すべき事」が挙げられていたことから、国家の根本法の意味で「憲法」の語を用いることが一般化した(美濃部・原論54頁)。 ◇2.1.2 大日本国憲法の基本原理と運用 大日本帝国憲法には、天皇主権、皇室の自律、天皇大権による国政運営など、天皇の統治権を広範に認める側面と、欧米諸国の憲法にならって、権利の保障、権力の分立、限定された民主政治など、自由主義あるいは民主主義に即した制度を取り入れた部分とがある。 天皇主権 1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とされ、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とされるとおり、統治権は天皇が行使するものとされ、立法、司法、行政の各権能は、究極的には天皇に帰属し、議会、裁判所、政府各機関は、大権を翼賛するに過ぎないとの建前がとられた。 立法権については、天皇は緊急勅令いよび独立命令を発する権限を持ち(8条、9条)、また議会の議決した法律案も天皇の裁可によって初めて法律として成立すると考えられ、議会の立法権は限定されていた(もっとも、議会の議決した法案で、裁可されなかったものはない)。 その他にも、天皇は行政各部の官制の制定および官吏の任免(10条)、陸海軍の統帥(11条)、非常時における戒厳の宣告(14条)など、広範な権限を有した。 また、統帥権については、慣習法上、国務大臣の輔弼によらず、陸軍参謀総長、海軍軍令部長が大権を輔弼するものとされ、従って、議会も政府の責任追及を通じてこれをコントロールすることはできないものとされた(美濃部・撮要322-30頁)。 皇室の自律 さらに、皇室に関する事項は皇室典範、皇室令などにより皇室自らが定めるものであって、そもそも憲法の定めるべきことではなく、従って一般国民や議会の関与する余地はないとされた(2条、17条、74条)。 臣民の権利と義務 大日本帝国憲法はその第2章で、国民の権利と義務について定めを置いたが、そこで保障されたのは「臣民」として天皇から認められた限りでの権利と義務であり、個人の生来の平等な権利が保障されたわけでえはない。 保障された権利は、主として、居住及移転の自由(22条)、言論著作印行集会及結社の自由」(29条)などの消極的自由権であり、いずれも「法律ノ範囲内ニ於テ」という法律の留保の下にあった。 衆議院議員の選挙制度も「選挙法ノ定ムル所」に委ねられている(35条)。 学説においても、「我が憲法に於ける臣民の権利の保障は原則として唯行政権及司法権に対する制限たるに止まり立法権に対する制限に非ず。・・・・・・憲法は其の各条に於て臣民が法律の範囲内に於て何々の自由を享有し、又は法律に定めたる場合を除く外其の自由を侵されざることを定めたるに止まり、国民が法律に依りても侵されざる権利を有することを定めず」(美濃部・撮要181頁)と理解されていた(もっとも、美濃部によれば、「法定の裁判官の裁判を受くる権利」(24条)と「公安を害せず臣民の義務に反せざる限に於て信教の自由を有すること」(28条)とはこの例外で、立法権自身が憲法に制約されている(前掲))。 もっとも、権利の制約が法律に委ねられている限りでは、フランス第三共和政やイギリスが伝統的にそうであったように、議会が人権の擁護者としての役割を果たす余地もあり得たが、1938年の国家総動員法の制定によって国民の自由と財産の制約が勅令に白紙委任されると、このような民主的歯止めも失われることとなった。 また、臣民の権利は、非常時における天皇大権の行使に対抗できない旨が明記されている(31条)。 国政の運営 政治運営の面では、国務大臣はそれぞれ天皇に責任を負うものとされ、議会の信任を在職の要件とするものではないとの超然内閣主義が当初とられた。 しかし、大正末から昭和初期にかけては、衆議院の多数派政党が政権を担当するという議院内閣制が「憲政の常道」とされた。 衆議院は、貴族院と同等の権限を持ち、議会の支持がない限り、政府が必要とする法律、予算を得ることは困難であったから、政府が衆議院に対して責任を負う政治運営には、制度上の困難があったといえる。 この間、1925年には男子普通選挙法が成立し、1928年の衆議院選挙において初めて実施されている。 しかし、統帥権が政府の輔弼の対象とならないとされたことや、陸軍大臣および海軍大臣に現役の将官を充てる制度が長期に亘って存在したことなどから、軍が内閣の構成に至るまで政治的に大きな発言権を確保した。 とくに1932年の五・一五事件以降、軍部の政治介入に対する有効な歯止めが失われるとともに、政治制度の民主的な運用も廃れることとなり、1940年に諸政党が解散して大政翼賛会が組織されたことで、政党内閣の基礎自体が失われた。 ◆2.2 日本国憲法の制定 ◇2.2.1 憲法制定の過程 ポツダム宣言受諾と憲法改正 1945年8月14日に日本政府が受諾したポツダム宣言は、その10項後段で、「日本国政府は、日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙(しょうがい)を除去すべし。原論、宗教および思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし」とし、さらに12項では、「日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ、平和的傾向を有しかつ責任ある政府が樹立せらるる」ことを連合国占領軍の撤収の条件としていた。 このポツダム宣言の内容を実現するために、大日本帝国憲法の改正が必要か否かについては、少なくとも、敗戦直後に成立した東久邇宮内閣では、否定的見解が強かった。 「国体護持」を謳って、辛うじて終戦に踏み切った直後であるだけに、憲法の改正を言い出しにくい情勢であったことにもよると思われる。 これに対して、連合国最高司令官のマッカーサーは、1945年10月4日、東久邇宮内閣の国務大臣であった近衛文麿に対し、さらに、10月9日に成立した幣原内閣の首相、幣原喜重郎に対して、ポツダム宣言実施のためには憲法改正が必要であることを示唆した。 幣原内閣は、マッカーサーの示唆を受けて、1945年10月25日、松本蒸治国務大臣を長とする憲法問題調査委員会(通称、松本委員会)を発足させた。 松本委員会は、憲法改正について消極的であり、委員会発足に際しての松本委員長の談話でも、同委員会は「必ずしも憲法改正を目的とするものではなく、調査の目的は、改正の要否および改正の必要があるとすればその諸点を明らかにすることにある」とされていた。 委員会が最終的にまとめた「松本案」といわれる改正草案も、天皇主権を維持し、国会に対して責任を負わない枢密院を残し、国民に対する権利の保障についても広範な法律の留保を設けるなど、保守的なものであった。 総司令部による草案の起草 総司令部は、憲法改正は必要としながらも、改正は日本政府のイニシァティヴで進められるべきものとの立場をとっていたが、1946年2月3日になって、マッカーサーは、総司令部が独自に改正草案を作成し、これを日本側に提示すべきだとの立場をとるに至る。 この方針転換の背景には、以下のような2つの考慮が働いていたと考えられる。 第一に、 極東委員会の発足前に、憲法の改正を進めるべきだとの考慮である。日本占領軍は、少数のイギリス軍の他は、アメリカ合衆国軍によって構成されていた。ソ連をはじめとする他の連合国は、そこで極東委員会という機関を設け、日本の占領統治をコントロールすることを要求し、アメリカ政府もこれを受け入れた。マッカーサーとしては、この委員会に手を縛られる前に、本国政府および総司令部の考える方向での改正を進めておくべきだとの意向であったと考えられる(佐藤達夫 [1994] (3) 210-25頁)。 いま一つの考慮は、 毎日新聞による松本案のスクープという全くの偶然事に由来する。松本委員会の審議内容は秘密とされ、総司令部もその内容については知らされていなかったが、1946年2月1日、毎日新聞が、「松本案」のスクープ記事を掲載した。実際には、毎日新聞がスクープしたのは、委員会の最終案ではなく、それよりは進歩的な「宮沢甲案」であったが、それでも総司令部の予想よりはるかに保守的なものであった(高柳他 [1972] 41-75頁)。そこで、マッカーサーは、総司令部独自でポツダム宣言の内容に合致する草案を作成し、日本政府に提示して、政府がこの案に沿った形で憲法改正案をまとめることが望ましいと考えた。 マッカーサーは、2月3日、総司令部民政局(Government Section)のメンバーに憲法草案の起草を命じ、その際、草案に必ず盛り込むべき原則として、①天皇制の存続、②戦争放棄、戦力の不保持、交戦権の否認、③封建制度の廃止と貴族制の改革、の3点を示した。 いわゆるマッカーサー・ノートである(高柳他 [1972] 99-107頁)。 総司令部は、2月13日、吉田茂外相官邸での会談において、総司令部案を日本政府側に手渡した。 日本国憲法の誕生 日本政府は、結局この総司令部案を基礎として改正を行うことを受け入れ、松本国務大臣の下で、総司令部案に相当の修正を加えた「3月2日案」を作成する。 さらに、総司令部との折衝の結果、3月6日に「憲法改正草案要綱」を閣議決定した。 ついで、4月10日に衆議院議員の総選挙が行われ、最後の帝国議会の衆議院議員が選出される。 政府の憲法草案は、枢密院での審議を経た後、6月25日に衆議院本会議に上程され、衆議院で約2ヶ月、貴族院で約1か月半に亘る審議を経た後、10月7日に確定され、枢密院での審議、天皇の裁可を経て、同年11月3日に公布された。 施行は、憲法100条の定めるとおり、公布後6か月を経た1947年5月3日である。 【押しつけ憲法論】本文で述べたような日本国憲法制定の経緯から、現憲法は総司令部によって押しつけられたものであるから無効である、あるいは新たに「自主憲法」を制定する必要があると主張されることがある。憲法改正草案要綱に示された後の選挙で選出された衆議院議員を含む帝国議会で十分な審議を経て制定された憲法を、押しつけられたと言い得るか否か疑わしいが(芦部・憲法27-29頁参照)、たとえそれが押しつけであるとしても、国民に押し付けられたという意味では、大日本帝国憲法も天皇(あるいはその名において行動した政府)によって押し付けられた欽定憲法であることに注意する必要がある。現在は国民主権であるから天皇主権下の時代とは異なるという反論は意味をなさない。国民主権原理自体も、連合国によって押し付けられたものだからである。押し付けられたもののうち、国民主権原理のみは所与の前提として受け入れ、それに基づいて憲法を排撃しようとする議論は、あまりにも都合の良過ぎる議論であろう。首尾一貫させるために国民主権をも押しつけられたものとして排撃するならば、天皇主権へ回帰することとなり、結局天皇による憲法の押しつけを免れ得ないことになる。押しつけ憲法論は、そもそも内在的に一貫した議論として成り立ち得ない。 ◇2.2.2 日本国憲法制定の法理① - 八月革命説 日本国憲法は、形式的には明治憲法の改正として、明治憲法73条の定める改正手続に則って成立した。 しかし、その内容をみると、明治憲法とは全く面目を一新しており、新しい憲法の制定と考える方が相応しい。 とくに、明治憲法で統治権の総攬者とされた天皇が、単なる象徴とされ、新たに国民が主権者として位置付けられている点は、憲法改正の限界を超えるものと見ることができる。 このような国民主権原理の確立と日本国憲法の制定とが如何にして正当化し得るかについては、宮沢俊義教授のいわゆる八月革命説が一般に受け入れられてきた。 その概要は以下のとおりである(宮沢 [1967])。 法的意味における革命 国政の最終的な決定権という意味での主権は、明治憲法下では本来、天皇にあった。 ところが、敗戦時に日本政府が受諾したポツダム宣言の12項は「日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ・・・・・・政府が樹立せらるる」ことを要求している。 これは国民主権の確立を要求するものであり、ポツダム宣言の受諾により、日本の主権は天皇から国民へ移ったことになる。 このような主権の転換は、法的意味における革命と考えることが出来る。 現行憲法は、国民主権原理を採用しているが、これはポツダム宣言の受諾に伴う主権の転換の帰結を宣言しているに過ぎず、創設的な意味を持つものではない。 主権原理の転換と改正の限界 現行憲法は明治憲法の改正手続に則って制定されたが、本来、明治憲法の改正手続を通じて憲法の根本原理である天皇主権の国民主権への転換を行うことは、憲法改正の限界を超えており、法的に不可能のはずである。 これが可能であるとすれば、それはポツダム宣言の受諾によってすでに主権原理が転換し、国民主権原理と抵触する限りにおいて、明治憲法の意味内容に根底的な変更が加えられていたからである。 さらに、ポツダム宣言の受諾によって主権原理が転換し、明治憲法の意味内容が根底的に変化している以上、改正手続のうち、貴族院、枢密院の審議裁決、および天皇の裁可は、法的には不必要であった。 ◇2.2.3 日本国憲法制定の法理② - ノモス主権論 八月革命説に対しては、ポツダム宣言の受諾は、日本に国民主権の確立を義務付ける債権的効果を持つにとどまり、ただちに国民主権への移行をもたらす物権的効果は有しないのではないかとの批判や、日本が占領下に置かれ、国家としての主権を喪失しているにも拘わらず国政の最高の決定権の国民への移行を論ずる意味はあるのか等の批判がある。 中でも、明治憲法と日本国憲法との根本的な連続性を主張し、宮沢教授との論争に発展した尾高朝雄教授のノモス主権論が注目に値する。 その概要は、以下のとおりである(尾高 [1954])。 主権はノモスにある 国政のあり方を最終的に決定する者が天皇であれ、国民であれ、その決定は、法の根本原理たるノモス(nomos)に従っていなければならない。 ノモスとは、所与の具体的条件の下で、できるだけ多くの人々の福祉をできるだけ公平に実現していかなければならないという規範である。 国政が、常にこのノモスに従っていなければならない以上、主権はノモスにあるというべきである。 明治憲法では天皇にあった主権が、新憲法の下では国民にあるといわれることがあるが、いずれの憲法の下でも主権はノモスにあり、従って新憲法制定による変革は、日本の国家組織を根本的に変えるものとは言えず、日本の「国体」は変化していない。 【正義と理性の主権】ノモス主権という考え方は、尾高教授に固有のものではなく、類似する思想は多い。たとえば、ギゾー(Guizot, F. P. G.)、ロワイエ=コラール(Royer-Collard, P.-P.)などフランスの王政復古期に活躍した正理論派(doctrinaire)の論者は、ルソーの説く人民主権論は、無知な大衆による衆愚政治を招くとして批判し、社会を支配する唯一の主権は、正義と理性の主権(souverainete de la justidee rt de la raison)でなければならないと説いた。つまり、主権は人民の多数派の意思の実現を目的とすべきではなく、人民の福祉にとって公正であり、合理的であるところを実現すべきであるとした。 ◇2.2.4 両説の検討 - 憲法の科学 「主権」をどう捉えるか 八月革命説とノモス主権論との対立の中心には、「主権」という概念の捉え方がある。 宮沢教授のように、国政のあり方を最終的に決める力として主権を捉えるならば、この力を有するのは具体的な人間でなければならず、天皇か、国民か、それとも他の誰かかという形で答えられねばならない。 たとえ、国政がノモスに従っていなければならないとしても、ノモスの内容を判定する者は誰かという問いに答えない限り、主権の問題は解決しないことになる。 もちろん、尾高教授のように、国政に関する決定が常に従わなければならない規範を主権の在りかとする主権の捉え方もあり得、その限りでは、両説の対立は概念の組み立て方の問題となり、簡単には決着がつかないことになる。 しかし、尾高教授のように、国政の最終的決定権者が変わっても国家組織の根本的変動はないとの立場をとると、フランス革命もロシア革命も、革命とはいえないことになり、常識と大きく異なる言葉の用法だといえよう。 「憲法の科学」と八月革命 八月革命説とノモス主権論との対立は、いずれが「憲法の科学」として妥当であるかについての対立であるとされることがあるが、そこで言われている「科学」の意義については慎重な検討が必要である。 八月革命説を取ろうと、ノモス主権論を取ろうと、我々は実際に起こった歴史的事実を残らず知ることが出来る。 「八月革命」は、これらの具体的事実と並ぶもう一つの事実ではなく、これらの事実に関する一つの描写の仕方、一つの解釈である。 八月革命説も、ノモス主権論も、具体的な事実の摘示によって「反証」されることはなく、従って反証可能な仮説としての「科学」ではあり得ない。 もっとも、これは八月革命説がいかなる意味でも「憲法の科学」ではあり得ないことを意味しない。 法の「科学」は、事実によって反証可能な仮説の構築と、そのテストに限られるわけではない。 法的関係を認識し、記述する学問は、単に、外的に観察し得るデータを記述するだけではなく、その法的関係にコミットする参加者の視点から見て、それらの観察し得るデータが如何なる「意味」を持っているかを理解し、認識する必要がある。 たとえば、交通ルールの研究者は、赤いランプが点灯した際、何パーセントの車が停止するかを記録するだけではなく、運転者がそれを「停止せよ!」という意味を持つ「信号」として理解し、それを自己および他者の行動の評価基準として受け入れていることをも記述する必要がある。 八月革命説が「憲法の科学」であるとすれば、それが、戦後の憲法体制を戦前の国家体制と正統性根拠の点で切断された体制として受け入れ、コミットする人々から見て、明治憲法から現行憲法への移行が、如何に首尾一貫して説明され得るかを明らかにしているからである。 従って、八月革命説は、その本来の姿においては、つまりそれにコミットする人々から見れば、一つの実践的立場の表明である。 それが「科学」であり得るとすれば、宮沢教授がそのような立場にコミットせず、そのような立場を「記述」することに終始している限りにおいてである。 同様のことが、対立する実践的立場についてであるが、ノモス主権論に関してもいえる。 【内的な視点】法の認識に、外的に観察し得るデータの記述のみではなく、制度参加者の視点からの、つまり「内的な視点」からの記述も含まれることは、ハート(Hart, H. L. A.)など、多くの論者によって指摘されている(ハート・法の概念 91-100頁)。この問題については、長谷部 [1991] 第7章参照。
https://w.atwiki.jp/miyabi733/pages/201.html
政府軍とは、世界政府の最高勢力である。 一騎当千の猛者が数多く所属し、戦闘機や戦艦などの超兵器を保有するなど、その戦力は極めて強大。 その目的は全世界の平和を築き、「絶対的正義」を掲げて「悪人」から民衆を守ること。しかし、己の信ずる「正義」に徹するあまり、場合によっては民衆の意に反した冷酷非情な行動に走る者も少なくない。一部には自らの利益のみを目当てに非道な行いをする者もいる。 階級は上から、元帥(政府軍トップ)、大将(総督)、中将、少将、准将、大佐、中佐、少佐、大尉、中尉、少尉、准尉、曹長、軍曹、伍長、一等兵、二等兵、三等兵(新兵)、雑用。 また、政府軍主力である政府軍本部の他に多種多様な部隊、部署が存在する。詳細は下記を参照。 元帥 大将 中将 少将 准将 大佐 中佐 少佐 大尉 中尉 少尉 准尉 曹長 軍曹 伍長 一等兵 二等兵 三等兵(新兵) 雑用 政府軍関連組織・部隊・部署 CPO(Calm Peace Organizations) 政府軍情報部 第48独立大隊 S.G.A(Slay Guilty Angel) 第11機関 覚醒能力者(イヴォーカー)特別対策係第2班 政府軍関係者
https://w.atwiki.jp/chaosdrama/pages/923.html
――― 混沌なる大地に秩序なる華を ――― 正式名称:World Government "INFINITY" 世界政府(またの名を政府軍)とは、国家の上部組織としてケイオス全体を統治する巨大国際組織。 本拠地『メビウス』をCentral・A・Landに構え、ケイオスの8割の広域に影響力を持つ。加盟国は150ヵ国以上に及ぶ。 世界平和と種族平等、いわゆる絶対的正義を掲げて活動しているが、 混沌の名を持つケイオスを完全なる秩序世界へ変革することを最終目的としている。 一騎当千の猛者が数多く所属し、戦闘機や戦艦などの超兵器を保有するなど、その戦力は極めて強大。 異能力者やケイオス外界からの悪しき訪問者、即ち世界に何らかの損害を与える存在を対象に粛正活動を全うする。 しかし己の信ずる正義に徹するあまり、場合によっては民衆の意に反した冷酷非情な行動に走る者も少なくない。 一部には自らの利益のみを目当てに非道な行いをする者もいる模様。 階級は元帥から雑用まで存在。少尉以上は「将校」、中将以上は「上層部」と呼ばれる。 兵士には必ず『M.C.』(メビウスコード)と呼ばれる識別番号が割り当てられている。 また、政府軍主力である政府軍本部の他に多種多様な部隊、部署が存在する(詳細は下記参照)。 神界政府と提携し、星という巨大規模による大事件が勃発した際には協同解決へと臨む。 5年に一度、聖地「コスモス」で開催される首脳会議には、元帥を除く上層部が護衛として出席することになっている。 劇中において初めてその名が明かされたのは大戦争編からであり、何年前から存在しているのか、その歴史的な詳細は謎に包まれている。 階級一覧 + ... 元帥 大将 中将 少将 准将 大佐 中佐 少佐 大尉 中尉 少尉 准尉 曹長 軍曹 伍長 一等兵 二等兵 三等兵(新兵) 雑用 政府軍関連組織・部隊・部署 + ... CPO(Calm Peace Organizations) 政府軍情報部 サイファーポール 第48独立大隊 S.G.A(Slay Guilty Angel) 第11機関 A.U.S.T. スクール 覚醒能力者特別対策係 コスモス派 ケイオス刑事警察機構 政府軍関係者 神界政府 関連ページ 犯罪者名簿 デッドエンド インフェルノ
https://w.atwiki.jp/chaosdrama2nd/pages/1270.html
――― 混沌なる大地に秩序なる華を ――― 正式名称:World Government "INFINITY" 世界政府(またの名を政府軍)とは、国家の上部組織としてケイオス全体を統治する巨大国際組織。 本拠地『メビウス』をCentral・A・Landに構え、ケイオスの8割の広域に影響力を持つ。加盟国は150ヵ国以上に及ぶ。 世界平和と種族平等、いわゆる絶対的正義を掲げて活動しているが、 混沌の名を持つケイオスを完全なる秩序世界へ変革することを最終目的としている。 一騎当千の猛者が数多く所属し、戦闘機や戦艦などの超兵器を保有するなど、その戦力は極めて強大。 異能力者やケイオス外界からの悪しき訪問者、即ち世界に何らかの損害を与える存在を対象に粛正活動を全うする。 しかし己の信ずる正義に徹するあまり、場合によっては民衆の意に反した冷酷非情な行動に走る者も少なくない。 一部には自らの利益のみを目当てに非道な行いをする者もいる模様。 階級は元帥から雑用まで存在。少尉以上は「将校」、中将以上は「上層部」と呼ばれる。 兵士には必ず『M.C.』(メビウスコード)と呼ばれる識別番号が割り当てられている。 また、政府軍主力である政府軍本部の他に多種多様な部隊、部署が存在する(詳細は下記参照)。 神界政府?と提携し、星という巨大規模による大事件が勃発した際には協同解決へと臨む。 5年に一度、聖地「コスモス」で開催される首脳会議には、元帥を除く上層部が護衛として出席することになっている。 劇中において初めてその名が明かされたのは大戦争編からであり、何年前から存在しているのか、その歴史的な詳細は謎に包まれている。 階級一覧 + ... 元帥? 大将 中将? 少将 准将? 大佐? 中佐? 少佐? 大尉? 中尉? 少尉? 准尉? 曹長? 軍曹? 伍長? 一等兵 二等兵? 三等兵(新兵)? 雑用? 政府軍関連組織・部隊・部署 + ... CPO(Calm Peace Organizations)? 政府軍情報部 サイファーポール 第48独立大隊? S.G.A(Slay Guilty Angel)? 第11機関? A.U.S.T. スクール 覚醒能力者特別対策係? コスモス派? ケイオス刑事警察機構? 政府軍関係者? 神界政府? 関連ページ 犯罪者名簿 デッドエンド インフェルノ