約 103,416 件
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/200.html
しかしながら、一人の天才、一人の賢者によって、自然研究の大方針は樹てられ、 方向づけられることは古来の科学発展経過の我々に教えるところである。我々は万 骨の枯るるを|惜《おし》みながらも、一将功なる輝きをなお仰ぎ望むものである。 自然研究の大道が指示されて、その道に従って努力すれば、科学の発達が出来上 ると考えるものは|愚者《ぐしや》の意見である。自然研究に、いかなる事物が飛び出すかは誰 人も|臆測《おくそく》することは出来ない、ただ天才が出でてその方向を明示するのである。天 才は常人の考え得る以外の範囲を|思索《しさく》するのであ奄この思索の力は、幾人かかっ ても|比敵《ひてき》することは出来ない、全く一人一人の力の競争である。|毛利元就《もうりもとなり》が|臨終《りんじゆう》の 床に子息を呼んで与えた|教訓《きようくん》はこの場合、決してあてはめることは出来ないのであ る。天才は何人の助けをも|借《か》らずして一人にて自然の研究を進めて行くのである、 その頭脳こそ|至宝《しほう》といわなければならない。天才の頭脳の構造は常人より力強いと か、|繊細《せんさい》であるとかいうのではないと思う。なんとなれば全く質的に異なったこと が考えられるからである。 したがって努力により、あるいは研究時間を倍加したりしても、決してよきもの が出来るのではない。たとえば通常の画家がいかに努力をしても、また、|画布《キヤンバス》の前 にいかに長時間坐ってもよき画が出来るということはなく、むしろ長く書いていれ ばいるほど拙い画が出来るというほうが当っているのである。これに反して、天才 画家はむしろ努力をするというよりも、あたかも短時間働いて作り上げてしまうの である。これはいかにも理に合わぬようであるが決してさようではないのである。 およそ自然研究に携る研究者にもこの傾向があるのではないかと思われる。それ は必ずしも机に向かっていることが勉強でもなければ、研究室で実験に|没頭《ぼつとう》するの が努力でもないのである。もちろん、ある種の予備的労作は必要には違いないが、 それのみではなんら持ち来すところがなく、それらの労作に|魂《たましい》を打ち込む思索行動 が大切なのである。即ちその人に|具《そなわ》った思想の現われが活躍しない限りは、作品と してまた成果として人々に仰がれるものが出来ないのである。思想の|鍛錬《たんれん》は全く人 格の修養と同じである。万人は何程かの人格はあり、何程かの思想あれども、これ らを正しき、力あるものとなすところに|涵養《かんよう》を要する。人一生の年月を費してもこ の道から離反することは出来ないのである。 自然科学者は常に自然の動向に心を用いること、古来天才科学者の業績に接する こと、かくして自然の何たるか、自然研究の方法が|体得《たいとく》されるのである。いたずら に凡庸学者の言を信じて、いささかも自然の|風貌《ふうぼう》に接することなく、|蟄居我説《ちつきよがせつ》に|棲存《せいそん》するはもっとも悪しき行動といわなければならぬ。 天才といえども決して生まれながらにして自然現象を|熟知《じゆくち》するものに非ず、また 研究方法を体得しているものではないのである。この世に生まれて来て初めて、自 然現象に接し、学に携って自然研究の|徹進《てつしん》を|探索《たんさく》し得たのである。この研究方法の 中にも古来の諸学者の方法に|暗示《あんじ》を得てその方法を進展しているものの多いことは 確かであろう。天才の異なる点は凡庸学者の手法を範としているのではなく、古来 の天才学者に|倣《なら》って卒直にその行動を起こしたとも思われるのである。 要するに凡庸と天才との|分岐点《ぶんきてん》は正にその思想の動向である。いたずらに試す必 要なき研究を|墨守《ぼくしゅ》して、貴重なる人生を費すか、思想的に必然性を認めて自然現象 の|帰趨《きすう》を|看破《かんぱ》するかにある。しかしながら、思想とたんに|命名《めいめい》するが、これは哲学 者流の思想とは全く異なるのである。科学者の思想は全く自然現象中の事物を基と して発足するのである。いやしくも自然現象中の事実に反した事物を論じてもなに ものにもならないのである。事実は最後に決定を与える|宣言書《せんげんしよ》である。この前には いかなる科学者といえども決定権に服さざるを得ないのである。 以上の意味を以てすれば、尊きものは事実であるという|風潮《ふうちよう》が|漲《みなぎ》るかも知れぬが、 これは自然そのままの姿であって、決して人類の存在あるが故にという問題ではな い。人は自力を以て研究し、自力を以て仮説を作る、そこに尊さがあるのであって、 事実を|聯接《れんせつ》して科学という一大体系を作るところに尊さがあるのである。科学者は 事実の前に服するのは当然であるが、それなるが故に事実の発見のみを|尊敬《そんけい》すべき ものではない。これはあたかも裁判官の前に於てその判定に服すといえども、裁判 官は尊敬すべき人士であるや否やは別問題である。いわんや自然に備なわるものと して、これを|摘出《てきしゆつ》する動作は自然研究上欠くべからざるものには相違ないが、科学 の本体に対して系統づけるところに絶大の意味のあることを思わなくてはならぬ。 確かに古来科学上の論争が新事実の出現によって|終結《しゆうけつ》を告げた例は多い。たとえ ば太陽系の遊星が太陽を中心として回転する事実を渦巻説を以て説明したものが ニュートンの|万有引力説《ばんゆういんりよくせつ》によって置き替えられ、今日何人も|不審《ふしん》を|抱《いだ》くことがない が、またニュートンの光粒子説は、フレネルの波動説によって完全に光の|伝播《でんば》は波 動によって行なわれるということが確立された。また電子粒説はブロイの集合波説 によって大なる展開を示したが、いずれも観測、実験に照してその真相が|窺《うかが》われた 結果にほかならない。然もその実証に携るものは天才として認められるのである。 なんとなれば余人はかかる現象を|夢想《むそう》し得ないからであり、天才のみその思索範囲 が常人のそれと異なって拡張されているからである。この常人を|超越《ちようえつ》した思想、こ の思想が結局実験を行なわしめ、事実を確立せしめたのであった。 天才の思索は全く常人の考え得ない範囲にまで延長するため、その言動はしばし ば|奇異《きい》の感を起こさしめ、いわゆる常軌を|逸《いつ》すといえるのである。天才は常に系統 の改善あるいは延長を考えることに気が奪われているために、かかる言動が自然に 現われるのである。よく若き芸術家が好んで赤いネクタイを結び、荒い|縞《しま》ズボンを |履《は》いて人々の意表に出でんとする行為と混同してはいけない。一方は万事に無関心 になるに反し、一方は|事毎《ことごと》に人目につくような|振舞《ふるまい》をする。天才の言動は思索の|高潮《こうちよう》に|浸《ひた》る結果、世事には|無頓着《むとんちやく》になるのであって、全くある場合には監視人をも要 する。天オは全く常人と異なった種類の人間であり、全く思索上に|卓越《たくえつ》した学者で ある。このために従来|樹立《じゆりつ》された系統にあきたらず新系統を創立するのである。し かしながら、天才といえども従来の系統がいかなるものであり、また事実を解析理 解するに充分の能力あるを必要とし、ある点までは常人と同じ過程を踏まなければ ならない。 天才としてまた必要なるものは、その生まれ時期であるとも考えられる。研究は 全く事実を自然現象中から|摘出《てきしゆつ》する行為を必要とするのであるから、もし当時得ら れた事実がすべて系統づけられて、|手腕《しゆわん》を|振《ふる》う余地がないこともあるであろう。即 ち、大天才の|没後《ぼつご》ただちにその道に向かってもおそらく大発展を|遂《と》げることは困難 であろうと思われる。即ち当時までの事実はすべて系統づけられてあますところが ないからである。即ち科学の発展に於ても新事実の集るまで、事の経過を待たねば ならぬのではあるまいか。またある考え方によれば、事実はどこにも|転《ころが》っているの であって、以上の|杞憂《きゆう》はなんらないものであるという論者もあるようであるが、筆 者の論説としては、ある時代、その時には事実の|蒐集《しゆうしゆう》がもっともよく行なわれ、事実 の|堆積《たいせき》が|混沌《こんとん》としてある場合に生まれた天才は幸福であるという。 即ち石材は已に集まっているが、それに彫刻を施すべき|巨匠《きよしよう》の出でざるためにい たずらに原石のまま横たえてある状態であるのに|匹敵《ひつてき》されよう。ミケランジェロの 伝によれば、数年来フィレンツェの町に|大理石《だいりせき》の大塊が人の手がつけられずに横た えられていたのであるが、彼は二十七歳にしてこれに手をつけて立派なダビデの立 像を|彫《きざ》み上げたという。果たしてこの大理石の大塊なくして、、、、ケランジェロは、 彼の|怪腕《かいわん》を振い得たであろうか。もちろんミケランジェロ出でずしてその巨大な像 の出現の|覚束《おぼつか》なきはもちろんであるが、石塊なくしてもかかる巨像の出来上ったこ とも望めないのである。 この意味を以てすれば、筆者は天才の出現すべき時代にも大いに意味あることを 信ずるのである。おそらく各時代に、質的には天才として|謳《うた》われる程度の人士が生 まれ出ずるのであろうが、時を得ずしてそのまま力量を示すに到らず、朽ち果てる のではなかろうか。また朽ち果つべき充分の理由を感ずるのである。天才の種子は 四方に|蒔《ま》き散らされるが、育たずして枯れるというのは聖書中の言であるが、確か にその|比喩《ひゆ》は場所的にも時間的にも言えることである。またある場合には学制の不 備であることから、天才の出現すべき道が断たれ、|可惜絶世《あたらぜつせい》の才を以て生まれ来た れる天才も、そのままに葬り去られて、なんら|為《な》すところがないのである。 筆者はかつて、イタリアのルネッサンスに主として芸術方面ではあるが、偉人の 籏出せる事実を見て、その伝統の然らしむるところもないとはしないが、当時特別 の事情のあるを窺知せんと試みた。たとえば幾百年前の出来事であろうが、新星の 発現により、当時宇宙線がもっとも大量に地球に降り注いだ結果ではないかと疑っ た。もしかかる宇宙線の影響とすれば、世界各国平等に天才の現出するはずである が、日本に於ても|足利《あしかが》時代の文化|爛漫期《らんまんき》であり、|能楽《のうがく》創始者たる|世阿弥《ぜあみ》のごとき、 あるいは|雪舟《せつしゆう》のごとき|不世出《ふせいしゆつ》の天才の出現等と思い合せて、その威力の並ならざる を思ったこともあるが、天才の出現はむしろ社会的状勢を|看破《かんぱ》すべきことの大なる を信ずるに至ったのである。 天才は地球上常に|蒔《ま》き散らされているが、育つものは幾人であるか、天才の種子 こそ|凡庸人《ぼんようじん》に比較して極めて少なきものであり、また生長しにくいものである。社 会は天才を生育すべく制度化されていないのである。即ち各所に|障壁《しようへき》があって、天 才はこれを越えるに大なる|困却《こんきやく》を感ずるものである。天才を育てしめる制度の良否 を考えて後ルネッサンスのそれに比すべき偉人群の出現を望むほかはないのであ る。天才はこの意味に於て全く人為的に出現し得るのである。しかし、多数の人間 中より少数の人間を選び出すことであるから、その点には多くの|操作《そうさ》を要すべきは もちろんであり、多くの当事者の充分の理解を必要とするものである。 天才の出現が極めてまれであるために、その出現にはなにか不可思議の存在があ るかのごとく|瑞摩《しま》する人もないとはいえないが、筆者はそれにはなんらの|疑惑《ぎわく》も考 えない。自然現象の通則として、人類の中、|偉人《いじん》と|白痴《はくち》とは全体に較べて少数であ り、ほとんど全部は凡庸人である。統計的にはこれらの分布度を判定をなすことが 試みられていないし、また出来ないからでもあろうが、かような分散は必ず存在し ているのである。すなわち天才の少数なる事は統計上の問題であり、また少数なる が故に偶然的に発生するともまた考えられるのである。 |然《しか》るにこの偶然的発生において、その因子は全く社会的状勢によるものの多きを 思えば、天才は全く社会の産物であり、良き花園には良き花が咲き誇るのである。 花園を耕すことを忘れて天才の出ずるを待ち|焦《こが》れていても駄目である。花園の|開拓《かいたく》 こそ、全く天才出現の|素地《そじ》である。 然らばいかにして天才の出現を待望すべきか、美しき花をいかにして咲き出でさ すか、ここに|結着《けつちやく》の問題がある。天才を発育するためには、一律的な試験制度を|廃《はい》 止することである。もちろん試験あるが故に勉強もし、学力もつくのであろうから 全廃するには及ばないが、ことさらに門をせまくしていたずらに競争試験を激甚《げきじん》た らしむるは不可である。 またいずれの学課も一人にして完全に習得するごときことを賞揚《しようよう》せずに、むしろ 特長ある人間を養成すること、即ち数学と体操とを二つながら上達せしめるような ことはしないことである。もちろんいずれも出来る者があれば|慶賀《けいが》に|堪《た》えないが、 人間中平等に恵まれている者は少ないのである。|頭脳《ずのう》の優れたるものは体力劣り、 体力の優れたものは頭脳の働きは|鈍《にぶ》る。かかる二つの動作を画一とせず、優れたる 技倆があれば、それを充分発達努力せしめること、これは正に天才を見出す一つの 方法である。 世の中に天才教育を|標榜《ひようぼう》して、その到達を図る企てはあるにしても、一校、一団 体がこれを行なっても社会一般がこれと歩調を合せない限りにおいては実現は難か しいのである。社会はその学歴を以てその人の能力を|査定《さてい》し、|差別待遇《さべつたいぐう》をあえてす る。かかる現状においては、なんら進展する術がないのである。これはまた徳川時 代の封建制度下において、各人独特の才能をもっていても伸ばすことが出来ず、制 度下に坤吟したものよりは確かに進歩しているには違いないが、天才を育むべき理 想的制度からすれば、未だ|前途遼遠《ぜんとりようえん》といわなければならない。天才教育の|主旨《しゅし》は正 に万人の頭脳の改正から始めなくてはならない。その|暁《あかつき》に於ては自然に筆者の主張 する天才教育に一致するのである。要は正しき教育を|漲《みなぎ》らして社会一般の文化を高 めれば、その中には制度の改革が叫ばれるに違いない。 要するに天才論なるものは多くの人々によって唱えられ、天才の本質について、 また天才の出現について多くの論議が闘わされたにもかかわらず、今日|依然《いぜん》として 天才教育には程遠き教育が実施されているのである。要路の人々に改正の意志なき を|詰《なじ》るよりも、現状のままにても、より多くの人々を教育する方が先決であるかも 知れない。天才教育よりもより多き凡庸教育を前以て|為《な》すべき努力を、必要とする かも知れない。天才は数においては極めて|僅《わず》かである、少人数の偉人を作るよりも、 力量はそれよりも劣るが人数の多き凡庸中の優秀なる人間を作る方があるいは近道 であるとも考えられるであろう。現在は正にその通りを行なっているともいえる。 多数の優秀凡庸人が作られる時において、おもむろに天才教育が議せられてもある いはよいのでもあろう。現在教育の主義の中にはおそらく少数という理由を以て|却下《きやつか》される傾向もあるのであるから。 かくて天才に要望するものは、我々の思索する範囲を充分拡げて、この領域に未 だ凡庸人の労作する余地を示すならば足るのであって、この領域に再び進歩、発達 が|齋《もた》らされるのである。天才といえども人間である、ある領域においては凡庸人に 敗けるところがあるは必然である。しかし、思索的領域拡張に対して、充分の手腕 が振えるならばそれでよろしいのである。したがって天才の一生は迫害の多きを知 るが、死後その努力の順次に展開されて|麗《うるわ》しき科学の園に百花|捺乱《りようらん》たるを現出する のである。 !-- 改ページ -- !-- 付録は省略 --
https://w.atwiki.jp/kit-classes/pages/75.html
2021年度 毎回課題があって期末2000字。
https://w.atwiki.jp/ranonline2010/pages/151.html
敏捷型育成 力型育成 精神型育成 名前 コメント 敏捷型育成 育成 Lv1~Lv20 Lv21~Lv30 Lv31~Lv40 Lv41~Lv50 Lv51~Lv60 Lv61~Lv70 Lv71~Lv80 Lv81~Lv90 Lv91~Lv100 Lv101~Lv110 Lv111~Lv120 Lv121~Lv130 Lv131~Lv140 Lv141~Lv150 Lv151~Lv160 Lv161~Lv170 Lv171~Lv180 Lv181~Lv190 Lv191~Lv200 Lv201~Lv210 力型育成 育成 Lv1~Lv20 Lv21~Lv30 Lv31~Lv40 Lv41~Lv50 Lv51~Lv60 Lv61~Lv70 Lv71~Lv80 Lv81~Lv90 Lv91~Lv100 Lv101~Lv110 Lv111~Lv120 Lv121~Lv130 Lv131~Lv140 Lv141~Lv150 Lv151~Lv160 Lv161~Lv170 Lv171~Lv180 Lv181~Lv190 Lv191~Lv200 Lv201~Lv210 精神型育成 育成 Lv1~Lv20 Lv21~Lv30 Lv31~Lv40 Lv41~Lv50 Lv51~Lv60 Lv61~Lv70 Lv71~Lv80 Lv81~Lv90 Lv91~Lv100 Lv101~Lv110 Lv111~Lv120 Lv121~Lv130 Lv131~Lv140 Lv141~Lv150 Lv151~Lv160 Lv161~Lv170 Lv171~Lv180 Lv181~Lv190 Lv191~Lv200 Lv201~Lv210
https://w.atwiki.jp/p051284s/pages/40.html
テクニカル分析は「ファンダメンタルズ分析」と並んでもう一つの株式投資の分析法です。 「テクニカル分析」と「ファンダメンタルズ分析」は車の両輪で、株式投資では双方の 分析法を活用することが、投資成績を向上させるのには大切です。 それでは「テクニカル分析」とはどんな分析手法なのでしょうか? 「ファンダメンタルズ分析」が企業の収益力や経営の安定性、財政状態を分析し、 また経営環境や与件が企業の営業活動におよぼす影響を分析する手法でした。 しかし、「ファンダメンタルズ分析」で投資妙味のある銘柄を発掘しても、 買うタイミングが誤っていたら、多くの利益を望めないどころか、 高値で買ってしまい損をすることさえあるのです。 そこで「テクニカル分析」が必要になるわけです。 「テクニカル分析」は過去の値動きから将来の値動きを予測する方法で、 売買のタイミングを計るための手法です。 今週のシミュレーションは? ↓↓ http //tinyurl.com/ycez5m 使ったソフトは? ↓↓ 超短期投資分析表作成マニュアル
https://w.atwiki.jp/persona2batsu/pages/343.html
タウン 蓮華台|平坂区|夢崎区|青葉区|港南区|鳴海区|蝸牛山 フィールド 七姉妹学園|蝸牛山裏道|森本病院|空の科学館|GOLD|ゾディアック|青葉公園|下水処理施設|理学研究所|珠閒瑠テレビ|スマイル平坂|廃工場|日輪丸|海底遺跡|岩戸山|地下鉄工事現場|アメノトリフネ|珠閒瑠城|モナドマンダラ ギガ・マッチョ|ムー大陸|春日山高校|防空壕 出入口 ドア エレベータ 上り階段 下り階段 アイテム 回復施設 ベルベットルーム メッセージ HPダメージ SPダメージ 毒ダメージ 落とし穴 移動床 ワープ床 マップ マップ ()をクリックで別ウインドウ表示 [宝箱] No 場所 名称 No 場所 名称 1 2F 傷薬×3 2 2F 地返しの玉×2 3 3F ガラガラドリンク×2 4 3F ダマスクス鋼 5 3F 罠(HPダメージ) 6 3F 体の勾玉 7 4F 反魂香 8 4F チューインソウル×2 上へ
https://w.atwiki.jp/goukakutuuti2009/pages/481.html
東京海洋大学 海洋科学部 3-465
https://w.atwiki.jp/galileodiscorsi/pages/21.html
のべアクセス数 - 人 yokkunさん、いつもありがとうございます。図を貼り付けました。 -- Leon (2009-01-09 20 51 18) 名前 コメント . サルヴィアーティ[75] 定理1[76] サグレード[77] サルヴィアーティ[78] サグレード[79] シンプリーチョ[80] サルヴィアーティ[81] シンプリーチョ[82] サルヴィアーティ[83] サルヴィアーティ[84] サグレード[85] シンプリーチョ[86] サルヴィアーティ[87] サグレード[88] サルヴィアーティ[89] シンプリーチョ[90] サルヴィアーティ[91] 【訳注】[92] 第四日 サルヴィアーティ[75] ちょうどシンプリーチョさんもおいでになりました。それではさっそく運動について始めることにしましょう。我々の著者のテキストは次の通りです。 定理1[76] 投射体の運動について 均等運動において生じる現象や、任意の傾きの斜面上での自然加速運動において生じる現象については、先に考察した。これから始める以下の考察では、可動体が、二つの運動すなわち均等運動と自然加速運動とから合成された運動によって動く場合に、それに生じるある種の知るに値する特有の性質を明らかにし、その上でそれを確固たる証明によって確立しよう。しかも我々のいう投射体の運動とは、まさにそのようなものに他ならないと考えられるのである。この運動は次のようにしてつくられるのである。 あらゆる障害が取り除かれた状態で、ある可動体が水平面に沿って投げ出されたと想定する。すると他の所〔第三日〕で詳細に述べたことから明らかなように、もし平面が無限に延びているならば、この運動は均等でその平面に沿ってどこまでも続くことになるだろう。しかし、もしその平面が有限(1)であり、高い所に置かれていると考えるならば、私はその可動体が重さを持っていると想定しているので、可動体が平面の瑞まで行き、それを越えて進む際に、最初の均等で不滅な運動にさらに固有の重さによって持つ下方への傾向が加わり、その結果、水平方向の均等運動と下方への自然加速運動から合成された運動が生じるだろう。それを投射〔projectio〕と呼ぶのである。その性質の幾つかを証明しよう。その第一のものは次の通りである。 【訳注】(1)「重さ」「軽さ」とは、アリストテレス的な意味では、それぞれ「地球の中心、すなわち下方に向かう傾向」「地球の中心から離れ上方に向かう傾向」を意味する。ガリレオがこのような概念規定に反対したことはすでにみたとおりであるが、術語の使用法という点では、ガリレオもこの伝統に従っている。以下でも、「重さを持つ」という意味で「重い」という表現がされ、現代なら「(より)軽い」と言うところで「重さの少ない」という言葉が使われる。ここでは、これらの表現はそのままの形で訳してある。なお、「(より)重さの大きい」という比較級の表現も、文脈上明らかな箇所ではやはり「重い」と訳してあるので注意されたい。 定 理一 命 題一 投射体は、水平方向の均等運動と下方への自然加速運動から合成された運動によって進む間は、その運動を通じて半パラボラ曲線〔linea semiparabolica〕を描くだろう。 サグレード[77] サルヴィアーティさん、私のために、そして恐らくはシンプリーチョさんのためにもここで少し休んでいただけませんか。私は幾何学にそれほど通じているわけではないのです。アポッロニオスについては、彼がパラボラや他の円錐曲線(1)について論じたことは知っていますが、それ以上の勉強はしていないのです。それらの曲線とその性質についての知識がなくては、それらに関係する命題の証明も理解できないと思います。そして早くもこの素晴らしい最初の命題において、著者は、投射によって描かれる曲線がパラボラ曲線であることを証明せねばならないと我々に述べています。ですから、他の曲線〔楕円と双曲線〕については論じる必要がないにしても、この図形〔パラボラ〕の性質については、アポッロニオスが証明したもの全てとはいわないまでも、少なくともここで論じている学問に必要なものは完全に理解することが絶対に必要だと思います。 サルヴィアーティ[78] あなたは大変謙遜なさって、先日よく知っていることとして認められた知識を御存じないとおっしゃりたいのですね。それは、はっきり申し上げれば、抵抗力についての論考でアポッロニオスのある内容についての知識が必要になったとき〔「第二日」の内容。なお、ここでいう抵抗力とは、物体を破壊しょうとする力に対する抵抗、すなわち物体の機械的な強度のこと〕のことで、そのときあなたはそれについて何の困難も感じなかったではありませんか。 サグレード[79] 私がその命題をたまたま知っていたのかもしれませんし、その論考において必要になったときだけ、さしあたり仮定したのかもしれません。しかしここでは、その曲線に関するすべての証明を聞かねばならないと思いますから、それをいわばうのみにすべきではないでしょう。というのは、それでは時間と労力の浪費にしかならないでしょうから。 シンプリーチョ[80] それに、サグレードさんは御自分に必要なすべて〔の知識〕を十分お持ちだと思いますが、私はといえば、〔著者の命題の〕最初の用語自体がすでに新しいものなのです。というのは、我々の哲学者たち〔アリストテレス主義者たち〕もこの投射体の運動という問題を扱ってはいますが、投射体の描く線については、鉛直上方への投射を別にすればごく一般的に、それはいつも曲線であるといっているだけです。それがどのような線であるかを定義する必要に迫られているような場合は思い当たりません。ですから、我々が以前に他の論議〔ガリレオの前著『世界系対話』〕をしたときからこれまでの間に私はエウクレイデス〔の『原論』〕から幾何学についてわずかばかりのことを学びましたが、それだけではこのあとの証明を理解するのに必要な知識を得たことにはならないのでしたら、私としては、それらの命題を理解できなくてもただ信じるだけで満足すべきなのでしょう。 サルヴィアーティ[81] いや、私はあなた方に、それらの命題をこの著作の著者自身の助けによって理解して欲しいのです。著者は、私にこの自らの労作を見せてくれたときに、私がまだアポッロニオスの著作を手許に持っていなかったので、才知を働かせて、私のためにパラボラの最も主要な二つの性質を何の予備知識も前提とせずに証明してくれたのです。そしてこの論考において我々に必要なのはこの二つだけなのです。もちろんアポッロニオスもこれらの性質を証明していますが、他の多くの性質の後になっているので、それを知るまでに時間がかかるでしょう。そこで私は、第一の性質をパラボラの生成そのものだけから直接導き出し、この性質から第二の性質の証明を導き出すことによって、道程を大いに縮めたいと思います。それでは第一の性質から始めましょう。 直円錐があり、その底面を円IBKC、頂点を点Lとし、この円錐を母線LKに平行な平面で切ると、断面BACができると考えましょう。これがパラボラと呼ばれるものです。その底BCが、円IBKCの直径IKを直角に切るとし、パラボラの軸をADとしましょう。これはLKに平行です。曲線BFA上に任意の点Fをとり、線分FEをBDに平行に引くとします。私は、BDの平方がFEの平方に対して持つ、比は、軸DAがその部分AEに対して持つ比と同じであると主張します。点Eを通り、円IBKCに平行な平面を考えましょう。この平面は円錐内で円形の断面を作りますが、その直径を線分GEHとします。そして、円IBKの直径IKの上に垂線BDが立てられているのですから、BDの平方は、〔IKの二つの〕部分ID、DKから作られる長方形〔の面積すなわちIDとDKの積〕に等しいことになります。また上の円は点G、F、Hを通ることがわかっていますから、同様にして、線分FEの平方は、GEHの〔二つの〕部分〔GEとEH〕から作られる長方形に等しくなります。それ故、BDの平方がFEの平方に対して持つ比は、長方形IDK〔すなわちIDとDKの積〕が長方形GEHに対して持つ比と同じです。また、線分EDはHKに平行なので、EHとDKは互いに平行で、等しくなります。したがって、長方形IDKが長方形GEHに対して持つ比は、IDがGEに対して、すなわちDAがAEに対して持つ比と同じでしょう。それ故、長方形IDKが長方形GEHに対して持つ比、すなわちBDの平方がFEの平方に対して持つ比は、軸DAがその部分AEに対して持つ比と同じになります。これが証明すべきことでした。 この論考において必要なもう一つの命題は、次のようにして明らかになります。パラボラを描き、その軸CAを外側にDまで延ばします。また、任意の点Bをとり、さらにその点を通ってパラボラの底に平行な線分BCを引くとしましょう。そしてDAが軸の部分CAに等しいとすると、点D、Bを通って引かれた直線は、パラボラの内部に入り込まずに外部にあり、したがってちょうど点Bでパラボラに接するだけであると主張します。それは次のような理由によるのです。もしDBがBより上で、あるいは延長されたときにBより下でパラボラを切り、パラボラの内部に入り込むことがありうるならば、その内部に〔DB上の〕点Gを任意にとりましょう。この点を線分FGEが通るとします。するとFEの平方はGEの平方より大きいのですから、FEの平方がBCの平方に対して持つ比は、GEの平方がBCの平方に対して持つ比よりも大きくなります。そして以前に証明したことから、FEの平方対BCの平方は、EA対ACに等しいのですから、EAがACに対して持つ比は、GEの平方がBCの平方に対して持つ比、すなわち、EDの平方がDCの平方に対して持つ比よりも大きいのです(というのは三角形DGEにおいて、GE対〔GEの〕平行線BCはED対DCに等しいのですから)。ところで線分EAがACに対して、すなわちADに対して持つ比は、長方形EADの四倍がADの平方の四倍に対して、すなわちCDの平方(これはADの平方の四倍に等しいのです)に対して持つ比に等しいのです。したがって、長方形EADの四倍がCDの平方に対して持つ比は、EDの平方がDCの平方に対して持つ比よりも大きくなります。それ故、長方形EADの四倍はEDの平方よりも大きいことになってしまいます。実際には小さいのですから、これは誤りです。というのは、線分EDの〔二つの〕部分EA、ADが互いに等しくないからなのです。よって直線DBはBでパラボラに接し、それを切ることはありません。これが証明すべきことでした。 シンプリーチョ[82] あなたの証明の仕方は余りに見事過ぎます。またお見受けするところでは、あなたは議論を進めるにあたって、エウクレイデスの〔『原論』の〕すべての命題が私にとって、その最初の公理と同じほどなじみのあるもので、いつでも使えるものであると常に仮定しておられますが、実際にはそうではないのです。たった今、線分EDの部分EA、ADは等しくないので、長方形EADの四倍はDEの平方よりも小さいと述べて説明をすませたことにも、私は満足できず、疑問が残っています。 サルヴィアーティ[83] 実際、れっきとした数学者はみな、読者が少なくともエウクレイデスの『原論』には通じているものと仮定しています。そして、ここであなたの必要に応じるためには、〔『原論』の〕第二巻のある命題〔命題五〕を思い起こすだけで十分でしょう。その命題では、ある線分を等しい〔二つの〕部分と、不等な〔二つの〕部分に分けたとき、不等な部分からなる長方形が、等しい部分からなる長方形(〔もとの線分の〕半分の平方)よりも小さいこと、そしてその差は、不等な部分と等しい部分との差の平方に等しいことが証明されています。このことから、線分全体の平方はその半分の平方を四つ含んでいますので、不等な部分からなる長方形の四倍よりも大きいことは明らかです(2)。さて、円錐に関する基本的な諸定理の中から、二つの命題を採って証明しましたが、これらは、この論考の続く部分を理解するために覚えておかなければなりません。なぜなら、著者が用いているのはこの二つだけで、それ以上は何も用いていないのですから。これで本文へ戻って、著者がどのようにして第一命題を証明しているかを見ることができます。そこで彼は、水平方向の均等運動と自然落下運動から合成された運動で落下する重い可動体によって描かれる線が、半パラボラであることを我々に示そうとしています。 水平線あるいは水平面ABが高い所に置かれていると考え、その上を可動体がAからBへ均等運動によって進むとせよ。だが平面による支えがBで終わるために、この可動体に、固有の重さのために鉛直線BNに沿う下方への自然加速運動が加わるとせよ。平面ABからさらに真っ直ぐに線分BEを延ばすと考え、時間の流れあるいは尺度として、その上に任意の等しい時間部分BC、CD、DEを自由にとるとせよ。そして点B、C、D、Eから鉛直線BNに平行な直線を引いたと考えよ。それらの最初の直線上に任意の部分CIをとるとせよ。次の直線上にその四倍であるDFをとり、さらにその次の直線上に九倍であるEHをとるとせよ。そして結局残りの直線上にも、線分CB、DB、EBの平方相互の比、あるいは言い換えればこれらの線分の二倍比(3)に従って部分をとるとせよ。もし可動体がBを越えCに向かって均等運動によって進むとき、それに量CIに応じた鉛直方向の降下が加わると考えるならば、その可動体は時間BCの後に点Ⅰに見出されるだろう。さらに先へ進み時間BCの二倍の時間DBの後では、下方への下降距離は最初の拒離CIの四倍となる。というのは、最初の論考〔二四九ページ、定理二 命題二〕で証明されたように、重い物体が自然加速運動によって通過する距離相互の比は時間相互の二倍比となるからである。また同様にして、結局時間BEで通過する距離EHは〔CIを単位とするとき〕九にあたるだろう。その結果明らかに、距離EH、DF、CI相互の比は線分EB、DB、CBの平方相互の比に等しい。さて、点Ⅰ、F、Hから線分EBに〔それぞれ〕平行な直線IO、FG、HLを引くとせよ。線分HL、FG、IOは各々線分EB、DB、CBに等しく、また線分BO、BG、BLも各々線分CI、DF、EHに等しくなる。HLの平方対FGの平方は線分LB対BGに等しく、FGの平方対IOの平方はGB対BOに等しいだろう。よって点Ⅰ、F、Hは同一のパラボラ曲線上にある。そして同様にして任意の大きさの相等しい時間部分を任意の数だけとると、同様の合成運動によって進む可動体の、これらの時間における位置は、一つのパラボラ曲線上に見出されることが同様にして証明されるだろう。よって命題は明らかである。 サルヴィアーティ[84] この結論は、先に提示した二つの命題のうちの最初のものの逆からわかります。このことは次のように説明されます。たとえばパラボラが点B、Hを通るように描かれたとき、二点F、Ⅰのうちのどちらかが、描かれたパラボラ曲線上にないとすれば、その点はその内部か外部にあることになります。その結果、線分FGは、〔Gから始まり〕パラボラ曲線上で終わる線分よりも小さいか、あるいは大きいでしょう。したがって線分LBがBGに対して持つ比は、HLの平方がFGの平方に対して持つ比には等しくなく、それ〔HLの平方〕が、FGの平方より大きいかあるいは小さい他のもの〔平方〕に対して持つ比に等しいことになるでしょう。しかしこの比〔LB対BG〕は、実際にはHLの平方がFGの平方に対して持つ比に等しいのです。それ故、点Fはパラボラ曲線上にあることになり、同様のことが他の全ての点についてもいえます。 サグレード[85] この議論が斬新で、才知にあふれた説得力を持つものであることは否定できませんが、これは「仮定による〔ex suppositione〕」議論です。すなわち次のことを仮定しています。横方向の運動は常に均等の状態を維持し、また下方への自然運動も、時間の二倍比に従って常に加速していくというその状態を同じく維持するということです。さらにこのような運動とその速さは、合成される際に互いに変化を及ぼすことも、攪乱することも、妨害することもないので、結局運動を続けていく際に、投射体の〔描く〕線が他の種類に変わってしまうことはないということも仮定されています。このようなことは、私には不可能であるように思われます。それは次のような理由によります。我々のパラボラの軸は、それに従って重い物体の自然運動がなされると仮定されていますから、水平面に垂直であり、地球の中心へ向かいます。そしてパラボラ曲線は常にその軸から離れて広がり続けますから、いかなる投射体も〔地球の〕中心へ向かわないことになるでしょう。あるいは次のようにも言えます。投射体が地球の中心へ向かうのは必然であると思いますが、もしそうならば、投射体の〔描く〕線は、パラボラとは非常に異なる他の線へとそれていくことになるでしょう。 シンプリーチョ[86] 私は、この他にも困難があることを指摘したいと思います。その一つは、我々が、どちらへも傾いていない水平面が直線状であるとし、そのような直線が、その全ての点において〔地球の〕中心から等距離であるかのように仮定していることです。これは正しくありません。なぜならば、その直線の中央から出発し端の方へ行けば、それにつれて絶えずいっそう〔地球の〕中心から離れるので、したがって常に上昇することになります。このことの結果として、〔この直線に沿う〕運動が永久に続くことは不可能になります。それどころか、ある〔有限の〕距離の間でさえも〔運動が〕均等であることは不可能で、常に衰えていくことになるのです。さらに私の信じるところでは、媒質による妨げを逃れて、横方向の運動の均等性や落下する重い物体における加速の規則が成り立つようにすることは不可能です。これらすべての困難を考えると、このような不確実な仮定によって証明されたことが、現実の経験において確証されうるとは到底思えません。 サルヴィアーティ[87] あなた方が述べられた困難や異論はすべて、もっともな根拠のあるものですから、それらを取り除くことは不可能だと思います。また私としてはそれらをすべて認めますし、同様に我々の著者もまた認めるだろうと思います。そしてこのように抽象的に証明された結論は、具体的な場合には変わってしまい誤りになることを認めましょう。たとえば横方向の運動は均等ではなく、自然運動の加速は仮定された比に従わず、投射体の〔描く〕線はパラボラ曲線ではないということになります。しかしながら、著者の仮定はなるほど誤りではありますが、同じ仮定は他の偉大な人びとも行っているのです。ですから、こういった困難や異論のために、著者がこのような仮定をすることが許されないということがないようにお願いします。アルキメデスの権威によるだけで、誰もが満足するでしょう。彼は、機械学に関する著作やパラボラの最初の求積(4)において、天秤あるいは竿秤の腕がその全ての点において、重いものの共通の中心〔地球の中心〕から同じだけ離れた一つの直線であることや、錘の吊るされている糸が互いに平行であることを真なる原理として用いています。これらのことを認めたことを許している人たちもいます。というのは、実際の活動においては我々の用いる道具や〔活動に関係する〕距離が、地球の中心から我々までの大きな距離に比べて非常に小さいので、地球の大円の角度の一分ほど〔の弧〕をあたかも直線であるかのようにみなし、そしてその両端から吊るされている二本の鉛直線を互いに平行であるかのように考えることができるのです。もし実際の活動においてこうした細かなことを考慮に入れねばならないとすると、まず建築家たちを非難せねばならないでしょう。彼らは、鉛直線を用いて極めて高い塔を平行線の間に建てることができると考えているのですから。ここで付け加えておきますが、アルキメデスや他の人々は、考察するにあたって〔我々が〕地球の中心から無限に離れていると仮定しているともいえるのです。この場合には、彼らの前提〔二つの鉛直線は互いに平行であることなど〕は誤りではありません。それ故、彼らは絶対的な証明でもって結論を導いていたということができるのです。そこで我々が、無限の距離を仮定することによって証明した結論を、〔地球の中心からの〕限られた距離において実際に用いようとするならば、地球の中心から我々までの距離が実際には無限でないために問題となることを、証明された真理から差し引かねばなりません。しかしこの距離は無限でないにしても、我々が用いる人工的な手段の小ささに比べれば十分に大きいといってもよいのです。我々の手段の中で最大のものは、投射体を発射することであり、その中でも大砲によるものに限りますが、それでもいくら大きくても四ミーリオにも達しないでしょう。一方我々は、およそ四〇〇〇ミーリオも地球の中心から離れているのです。そしてこれらの投射体が地球の中心まで運動を続けるならば、パラボラの形は大きく変わってしまうでしょうが、運動は地表で終わるのですから、パラボラの形の変化は知覚できない程度でしかないでしょう。 次に、媒質の妨げから生じる撹乱についてですが、こちらの方がもっと重要なことなのです。しかしこれは非常に多種多様なものなので、それを確固たる規則に従わせたり、それに関する理論〔scienza〕を与えたりすることはできません。というのは、我々の考えている運動に対して空気がもたらす妨げだけを考慮するとしても、この妨げは全ての運動を乱すものであり、その仕方も、可動体の形や重さや速さに無限の多様性があるのに応じて無限にあるのです。速さについて言えば、速さが大きくなるのに応じて、空気が及ぼす抵抗も大きくなるでしょう。また空気は、可動体の重さが少なければ、それに応じていっそう可動体を妨げるでしょう。ですから、落下する重い物体が、その運動の継続時間の二倍比で加速しながら進んでいくはずであるとはいえ、極めて高い所から落下してくるときには、どんなに重い可動体であっても、空気の妨げが、可動体がそれ以上速さを増すことを不可能にして可動体に一様で均等な運動をさせるほどに大きくなるでしょう。そしてこのような釣合〔の状態〕は、物体が軽ければそれだけ早く、より小さい高さ〔短い落下距離〕で達成されるでしょう。水平面上での運動もまた、他のすべての障害が取り除かれれば均等で永続するものになるはずですが、空気の妨げによって変化が起こり、ついには止まってしまうでしょう。この場合にもやはり可動体の重さが少なければ、それだけ早く静止するでしょう。こういった重さや速さ、そしてまた形という付帯的なことには無限の多様性があるので、これらに関する確固とした理論を与えることはできません。それ故、このような問題を学問的に扱うことを可能にするためには、抽象を行い、妨げを捨象した結論を見出して証明し、さらにそれを実際に用いる場合には、経験によって知られる限定内で用いる必要があります。しかし、だからといってその有効性がわずかしかないわけではありません。というのは、可動体の材質や形としては、媒質の妨げを少ししか受けないように重くて丸いものが選ばれますし、〔運動の〕距離や速さは一般にさほど大きくないので、その運動が容易に補正できないほどに〔抽象によって得られた結論から〕逸脱することはないはずだからです。それに、我々が実際に用いることができる投射で、重い物質からなる丸い形のものや、それほど重い物質でなくとも矢のように円筒状の形をしているものが投石器や弓から発射されるならば、それらの運動と正確なパラボラ図形との相違は全く感知できないでしょう。さらに(もう少し〔話し続けることを〕お許しいただきたいのですが)、我々が実際に用いることのできる手段においては、それらが小さいために、媒質の妨げをはじめとする外的で付帯的な妨げはほとんど目に付かないほどであるということを、二つの実験によってあなた方に明らかにすることができます。空気中で行われる運動を考えましょう。というのは、我々が論じているのはもっぱらそのような運動についてですから。空気は運動に対して二つの仕方で力を及ぼします。一方は、重い物体よりも重さの少ない物体をよりいっそう妨げることによるもので、他方は、同じ可動体に対しても、小さな速さよりも大きな速さに対して強く対抗することによるものです。第一の妨げに関しては、同じ大きさであるが、たとえば鉛の球と樫の球のように、一方が他方より一〇倍ないし一二倍も重い二つの球が、一五〇あるいは二〇〇ブラツチョの高さから落下するとき、両者はほとんど同じ速さで地面に到達することが実験によって示されますから、空気による妨げや減速はどちらにおいてもわずかであることが確信できます。もし鉛の球が、もう一つの木の球と同時に高い所から出発したときに少ししか減速されず、一方木の球が大いに減速されるならば、一〇倍も重い鉛は、地面に到着するときに木をかなりの距離引き離すはずです。しかし、このようなことは起こりません。それどころか、鉛の球は高さ全体の一〇〇分の一ほども先には進んでいないでしょう。そして鉛の球と、その三分の一ないし半分の重さしかない右の球とでは、地面に着く時間の羞はほとんど観察できないほどでしょう。さて、二〇〇ブラッチョの高されら落下する際に鉛の球が獲得するインペトゥスは(それは、均等運動を続けるとするならば、落下に要したのと同じ時間内に四〇〇ブラツチョを通過するだけのものです)、我々が弓や他の器械を用いて投射体に与える速さと比べても決して小さいものではありません(ただし火器によるインペトゥスは別にしてですが)。したがって、媒質による変化を考慮せずに証明される諸命題を結論として認め、絶対的に真であるとみなしても目につくほどの誤差はないでしょう。次にもう一方の問題ですが、同じ可動体が大きな速さで運動するときに空気から受ける妨げが、ゆっくり運動するときに受ける妨げよりもさして大きなものではないことを示すことに関しては、次の実験によって揺るぎない確実性が得られます。四ないし五ブラッチョの長さの等しい二本の糸に二つの等しい鉛の球を吊り下げ、その糸を高い所に結び付けましょう。これら二つの球を鉛直の状態から、一方は八〇度ないしそれ以上、他方はほんの四、五度だけ離すとします。そして両方の球を放して自由にすると、一方は下降して鉛直線を通過し、一六〇、一五〇、一四〇度といった極めて大きな弧を描きますが、それは少しずつ小さくなっていきます。もう一方も自由に運動し、一〇、八、六度といった小さな弧を描きますが、これらの弧もやはり少しずつ小さくなっていきます。ここでまず私は、後者が一〇、八度など〔の小さな弧〕を通過する時間のうちに、前者は一八〇度、一六〇度など〔の大きな弧〕を通過すると主張します。このことから、第一の球の速さは、第二の球の速さよりも一六ないし一八倍大きいことが明らかです。それ故、大きな速さが、小さな速さよりも空気によって余計に妨げられるはずならば、一八〇度ないし一六〇度の極めて大きな弧の振動数は、一〇、八、四、さらに二や一度の極めて小さな弧の撮動数よりも小さくなければなりません。しかし、実験ではそのようにはなりません。すなわち二人の人が、一人は大きな方の振動を、もう」人は小さな方の撮動を数え始めると、何十回、何首回数えても、一回たりとも、それどころかごくわずかさえも〔二つの振動の間に〕差が生じないことがわかるのです。そしてこの観察は、我々に二つの命題を同時に保証してくれます。すなわち、極めて大きな振動と極めて小さな振動とはすべて各々等しい時間で行われるということ、空気による妨げや減速は極めて速い運動においても、極めて遅い運動における場合と同程度にしか作用しないということです。これは、ほんの先ほどまで我々も一致して判断していたことに反しています。 サグレード[88] いや、それだけではなく、空気が両者の運動を妨げることは否定できないのですから、速い運動も遅い運動も衰え、ついには止まってしまう以上はそれらの減速が両者に同じ比で作用すると言うべきです。しかしそれはどのようなものでしょうか。〔空気の〕及ぼす抵抗がある場合には大きく、他の場合には小さいということは、〔可動体の〕インペトゥスや速さがある場合には大きく、他の場合には小さいということ以外のいかなることから起こるというのでしょう。そして、もしそのとおりだとするならば、可動体の速さの量自体が抵抗の量の原因であり、同時に尺度でもあることになります。したがってすべての運動は、遅いものも速いものも同じ比で減速され、妨げられます。これは軽視できない知識だと思います。 サルヴィアーティ[89] そこでこの第二の場合においても、外的で付帯的な状況を捨象することによって証明される結論における誤差については、〔投射という〕我々の人工的な手段の場合は、さほど考慮する必要はないと結論できます。すなわち、一般に扱う程度に大きな速さの運動や、地球の半径や大円の大きさに比べて極めて小さいとしか言いようのない距離の場合には、それほど問題にならないのです。 シンプリーチョ[90] 私はあなたが、火のインペトゥスによる投射体、すなわち火薬の力による投射体のことだと思いますが、それを他の投石器や弓や石弓による投射体から区別した理由と、それが空気による変化や妨げに同じ仕方では従わない理由を聞きたいと思います。 サルヴィアーティ[91] それは、そのような投射体が撃ち出されるときの過度の、いわば超自然的な激しさのためです。というのは、マスケット銃や大砲から射ち出された弾の速さは、超自然的と呼んでも決して誇張ではないように思われるからです。その理由を説明しましょう。そのような弾が非常に大きな高さから空気中を自然落下するとしても、その速さは、空気の抵抗のために永久に増加し続けはしないで線が描かれます。 しかし今のところは、論考の先へ進みましょう。著者はそこで、二つの運動から合成された運動をする可動体のインペトゥスに関する考察や探究へ我々を導こうとしています。まず最初は、一方は水平で、他方は鉛直な二つの均等運動の合成についてです。 【訳注】[92] (1) 円錐曲線とは、円錐の平面による切り口であり、平面と円錐の母線とのなす角によって楕円(ellipsis)、パラボラ(parabola)、双曲線(hyperbola)という三種の曲線が生じる。ペルゲのアポッロニオス(Apollonius gaeus.262-1908B.C.)は、この理論を集大成し、『円錐曲線論』を著した。 (2) 線分ABが、点Cで二等分され、一方点Dで不等な二つの部分に分けられるとする。エウクレイデスの命題によれば、AC^2=(AD×DB)+DC^2すなわちAB^2=4AC^2A(AD×DB) となる。 (3) 「パオロ・サルピヘの書簡」の注(2)参照。 (4) 『運動について』〔第一四〕章の注(4)参照。 - ページの先頭に戻る
https://w.atwiki.jp/galileodiscorsi/pages/20.html
のべアクセス数 - 人 暮れから読み始め、ようやく第3日を読み終えました。 -- Leon (2009-01-04 11 58 41) 定理四以下の証明はもう少し見やすく書き直したいものです。どうすれば見やすくなるかアドバイスをお願いします。 -- Leon (2009-01-04 23 47 09) 自然加速運動の記述は、一様加速運動から始まり斜面の法則を経て、弦の法則で閉じられています。(残念ながら斜面の法則も、弦の法則もいまの教科書ではほとんど取り上げられません) -- Leon (2009-01-04 23 50 28) 名前 コメント . 定理3[68] サグレード[69] 系[70] 定理4[71] 定理5[72] 定理6[73] 異なる証明[731] 系1~3[74] 定理3[68] 定 理三 命 題三 もし同一の可動体が同じ高さの斜面および鉛直線上を静止から出発して通過するならば、運動時間相互の比は、斜面の長さと鉛直線の長さとの比に等しいだろう。 斜面をAC、鉛直線をABとし、両者の水平線CBに対する高さは同一で、すなわち線分BAであるとせよ。その可動体の斜面AC上の下降時間が鉛直線AB上の落下時間に対して持つ比は、斜面ACの長さが鉛直線ABの長さに対して持つ比と同一であると主張する。何となれば。任意の線分DG、EI、FLが水平線CBに平行であると考えよ。前提から明らかなように、運動の始点Aから出発した可動体の点GとDにおける速さの度合は、水平線への接近が等しいので互いに等しい。同様にして点I、Eにおける度合も同一になり、またLとFにおける度合も同一になる。もしこれらの平行線だけでなく、線分AB上のすべての点から線分ACまで平行線を引くと考えるならば、各々の平行線の両端の点における速さのモメントゥムあるいは度合は常に互いに等しいだろう。それ故、二つの距離AC、ABは〔両者の対応する各点においてそれぞれ〕同一の速さの度合で通過される。ところで、もし二つの距離が同一の速さの度合で運動する可動体によって通過されるならば、距離が相互に持つ比は運動時間が相互に持つ比と同一であることが証明されている。よってAC上の運動時間対AB上の運動時間は斜面ACの長さ対鉛直線ABの長さに等しい。これが証明すべきことであった。 ここで,「ガリレオは微積分に接近している」と私は多分早とちりしているのですが,次のサグレードの言明を見るとやはりガリレオの根拠は「マートン規則」の域を出ていないかもしれません。(yokkun 10/10) 現代流には等加速度運動の基本式を使って簡単に証明できることですが、ここでの証明は独特です。「落下時間の比は距離の比になる」というこの定理三はこのあとくり返し使われます。(Leon 1/4) サグレード[69] 私には、同じことがきわめて明瞭かつ簡潔に結論できるように思われます。というのは、AC、AB上を通過する加速運動〔の速さの度合〕の総和〔la somma〕は、速さの度合が最大の度合CB(1)の半分である均等運動〔の速さの度合の総和〕と等しいことがすでに結論されているからです。したがって、二つの距離AC、ABが同一の均等運動によって通過される場合には、通過時間相互の比が距離相互の比に等しいことは、第一巻〔「均等運動について」〕の命題一〔定理一〕から確かに明らかです。 【訳 注】 (l) 原文はこのとおりだが、ここで言及されている定理三の図では、定理一や定理二の図とは異なり、CB等の平行線分は「速さの度合」を表すものではない。したがってこの部分は正しくは、「CやBにおいてもつ最大の速さの度合」とすべきだろう。 系[70] 系 これより、傾きの異なる斜面上の下降時間相互の比は、それらの高さが同じ場合には斜面の長さ相互の比に等しいことが結論される。すなわち、もしAから始まるもう一つの斜面AMが同じ水平線CBで終わると考えるならば、AM上の下降時間対AB上の下降時間は線分AM対ABに等しいことが同様にして証明されるだろう。一方AB上の時間がAC上の時間に対するように線分ABは線分ACに対する。 よって等間隔比より〔ex aequali〕(1)、AMがACに対するようにAM上の時間はAC上の時間に対するのである。 【訳 注】 (l)『運動について』の〔第14〕章の注(6)を参照。ここでは、t(AM):t(AB)=AM:AB,t(AB):t(AC)=AB:ACのとき、「等間隔比より」、t(AM):t(AC)=AM:ACとなる.ただし、t(AM)はAM上の下降時間を表す。他も同様。 定理4[71] 定 理四 命 題四 〔長さは〕等しいが傾きの異なる斜面上の運動時間相互の比は、それらの斜面の高さ相互の交換された二分比〔subdupla ratio elevationum permuntatim accepta〕(1)となる。 同一の瑞点Bから始まり、〔長さは〕等しいが傾きの異なる斜面をBA、BCとせよ。そして水平線AE、CDを鉛直線BDまで引き、斜面BAの高さをBE、斜面BCの高さをBDとせよ。またこれらの斜面の高さDBとBEの比例中項をBIとせよ。明らかにDBのBIに対する比はDBのBEに対する比の半分〔subdupla rationis〕(2)となる。斜面BA、BC上の下降時間すなわち運動時間相互の比は、BI対DB(3)の交換された比と同一である。すなわちBA上の運動時間はもう一つの斜面BCの高さすなわちBDに対応し、一方、BC上の運動時間はBIに対応すると主張する。したがって証明すべきことは、BA上の運動時間対BC上の運動時間がDB対BIに等しいことである。ISをDCに平行に引くとせよ。するとすでに証明されたように、BA上の下降時間対鉛直線BE上の落下時間はBA対BEに等しく、またBE上の落下時間対BD上の落下時間はBE対BIに等しい。さらにBD上の落下時間対BC上の下降時間はBD対BC、あるいはBI対BSに等しい。よって等間隔比より、BA上の下降時間対BC上の下降時間はBA対BSあるいはCB対BSに等しくなる。ところでCB対BSはDB対BIに等しい。よって命題は明らかである。 数式で示してみました。下手で見にくいですがご勘弁を。 「〔長さは〕等しいが傾きの異なる斜面上の運動時間相互の比は、それらの斜面の高さ相互の交換された二分比(1)となる」 図に即して示せば、=・・・・・(イ)ですね。これが定理4です。 「同一の瑞点Bから始まり、〔長さは〕等しいが傾きの異なる斜面をBA、BCとせよ。そして水平線AE、CDを鉛直線BDまで引き、斜面BAの高さをBE、斜面BCの高さをBDとせよ。またこれらの斜面の高さDBとBEの比例中項をBIとせよ」 = すなわち =・・・・・(ロ) 「明らかにDBのBIに対する比はDBのBEに対する比の半分(2)となる」 =*= ((ロ)より)となるから =・・・・・(ハ) 「斜面BA、BC上の下降時間すなわち運動時間相互の比は、BI対DBの交換された比と同一である。すなわちBA上の運動時間はもう一つの斜面BCの高さすなわちBDに対応し、一方、BC上の運動時間はBIに対応すると主張する。したがって証明すべきことは、BA上の運動時間対BC上の運動時間がDB対BIに等しいことである」 (イ)が証明されれば(ハ)より、証明すべきことは =・・・・・(ニ)になる、ということです。 「ISをDCに平行に引くとせよ。するとすでに証明されたように、BA上の下降時間対鉛直線BE上の落下時間はBA対BEに等しく、またBE上の落下時間対BD上の落下時間はBE対BIに等しい」 定理3より=・・・・・(ホ) 定理2系2より=・・・・・(ヘ) 「さらにBD上の落下時間対BC上の下降時間はBD対BC、あるいはBI対BSに等しい」 定理3より==・・・・・(ト) 「よって等間隔比より、BA上の下降時間対BC上の下降時間はBA対BSあるいはCB対BSに等しくなる。ところでCB対BSはDB対BIに等しい。よって命題は明らかである」 (ホ)*(ヘ)*(ト)より、=。 最初の条件でBA=CB、相似より= となるから === よって証明終わり。(Leon01/03) 【訳 注】 (1)「交換された比」とは「逆比」、すなわち前項と後項とを入れ換えた比のことである。また「二分比」とは前項と後項の平方根同士の比のことである。 (2)「二分比」と同じ意味である。すなわち√A対√Bとこいう比はA対Bという「比の半分」となる。 (3) 原文は「DB対BI」となっているが、文脈より判断して入れ換えた。 定理5[72] 定 理五 命 題五 傾きと長さが異なり、高さも等しくない斜面上の下降時間相互の比は、斜面の長さ相互の比とそれらの高さ相互の交換された二分比とから合成される。 斜面AB、ACは傾きが異なり、また両者の長さと高さも等しくないとせよ。AC上の下降時間のAB上の下降時間に対する比は、ACのABに対する比と両者の高さ相互の交換された二分比とから合成されると主張する。何となれば。鉛直線ADを引き、それに水平線BG、CDが交わるとせよ。また高さDAとAGの比例中項をALとせよ。さらに点Lから水平線に平行に引いた線分が、Fにおいて斜面ACと交わるとせよ。AFもまたCAとAEの比例中項となる。そしてAC上の下降時間対AE上の下降時間は線分FA対AEに等しく、またAE上の下降時間対AB上の下降時間は線分AE対線分ABに等しいので、明らかにAC上の下降時間対AB上の下降時間はAF対ABに等しい。したがって証明すべきこととして残っているのは、AFのABに対する比が、CAのABに対する比と、高さDA、AGの交換された二分比であるGAのALに対する比とから合成されるということである。ところがFAとABの間にCAを置けば、〔FA対ABは、FA対CAとCA対ABとから合成されるので〕このことは明白である。というのは、FAのACに対する比はLAのADに対する比、あるいはGAのALに対する比と同一であり、これは高さGAとADの比の半分だからである。そしてCAのABに対する比は長さ相互の比にほかならない。よって命題は明らかである。 定理3,4,5はとどのつまりは,定理5に集約されると思います。(yokkun 9/29) 定理5を図に即して示せば、=*です。証明は、=(定理2系2より)、=(定理3より)。両辺の積を取って=。一方、AF=を用いると、=*=*。証明終わり。(Leon01/04) yokkunさんの言うとおりですね。そしてこれが定理六(弦の法則)の布石となっています。形の上では第三日は弦の法則をゴールとしています。弦の法則の法則としての位置づけはどうなんでしょう、やはり最重要?(Leon 1/4) 定理6[73] 定 理六 命 題六 もし水平線に対して立てられた円の最上点あるいは最下点から任意の斜面が円周まで引かれるならば、それらの斜面上の下降時間は互いに等しいだろう。 水平線GHに対して立てられた円があり、その最下点すなわち水平線との接点から直径FAが〔垂直に〕立てられ、そして最上点Aから円周まで任意の傾きの斜面AB、ACが引かれるとせよ。これらの斜面上の下降時間は互いに等しいと主張する。直径に対して垂直にBD、CEを引き、斜面の高さEAとADの比例中項をAIとせよ。すると長方形FAE〔すなわちFAとAEの積、以下同様〕、FADは〔それぞれ〕AC、ABの平方に等しく、また長方形FAEが長方形FADに対するようにEAはADに対する.よってCAの立丁方がABの平方に対するように線分EAは線分ADに対する。ところで線分EAがDAに対するようにIAの平方はADの平方に対する。よって線分CA、ABの平方相互の比は線分IA、ADの平方相互の比に等しく、それ故、線分CAがABに対するようにIAはADに対する。そして先に説明したように、AC上の下降時間のAB上の下降時間に対する比は、CAのABに対する比とDAのAIに対する比とから合成されるが、後者はBAのACに対する比と同一である。よってAC上の下降時間のAB上の下降時間に対する比は、CAのABに対する比とBAのACに対する比とから合成される。したがってこれらの時間相互の比は等しいものの比〔一対一の比〕となる。よって命題は明らかである。 定理6は有名な「弦の法則」ですね。(Leon01/04) 定理6を図に即して示せば、t(AB)=t(AC)。証明は、△FAC相似△CAEよりFA*AE=。同様に、FA*AD=。両辺の積を取って=。またAI=から=。これを用いて、=。一方定理5より=*=1。(Leon01/04) 異なる証明[731] 同じことが機械学的考察から〔ex mechanicis〕、異なる方法で証明される。すなわち次の図において、可動体は等しい時間でCA、DAを通過することが証明されるのである。 何となれば。BAはDAに等しいとし、また鉛直線BE、DFを引くとせよ。機械学の原理〔elementa mechanica〕(1)から明らかなように、線分ABCに沿う斜面上の錘のモメントゥムがそのモメントゥム全体に対して持つ比はBE対BAに等しく、また斜面AD上の同じ錘のモメントゥムがそのモメントゥム全体に対して持つ比はDF対DA、すなわちDF対BAに等しい。よってその錘のDAに沿う斜面上のモメントゥムがABCに沿う斜面上のモメントゥムに対して持つ比は、線分DF対線分BEに等しい。それ故、同一の錘が等しい時間のうちに斜面CA、DA上で通過する距離相互の比は、第一巻〔「均等運動について」〕の命題二〔定理二〕より線分BE、DFの比に等しくなる。ところでBEがDFに対するようにACがDAに対することは以下のように証明される。よって同一の可動体は等しい時間で線分CA、DAを通過するだろう。 さて、BEがDFに対するようにCAがDAに対することの証明は次のとおりである。 CDを結び、そしてDおよびBを通り、点ⅠでCAを切るDGLと、BHを、AFに平行に引くとせよ。すると角ADIは角DCAに等しくなる。というのは、両者は相等しい弧LA、ADに対するものだからである。また角DACは共通である。よって、互いに角が等しい三角形CADとDAIの等しい角をはさむ辺は〔両者が相似なので〕互いに比例する〔proportionalis〕だろう。すなわちCAがADに対するようにDAはAIに対し、これはBA対AIあるいはHA対AGに、つまりBE対DFに等しい。これが証明すべきことであった。 同じことが以下のようにして異なる仕方でより容易に証明されるだろう。 この部分の証明は「モメントゥム」自身やこれと距離との関係がつかめていないのでよくわかりません。概要は、①BA=DAに注意すると三角形の相似から =。②線分ABCとDAのモメントゥムm(CA)、m(AD)の比は = が成立。③同じ時間に斜面ABC、DAを通過する距離s(CA)、s(AD)の比はモメントゥムm(CA)、m(AD)の比に等しい。④以上から、線分CA、DAを通過する時間は等しい。となるかと思います。(Leon01/04) 水平線ABに対して円を立て、その直径CDが水平線に対して垂直であるとせよ。さらに最上点Dから円周まで任意の斜面DFがあるとせよ。同一の可動体の斜面DF上の下降と直径DC上の落下は等しい時間で行われると主張する。何となれば。水平線ABに平行なFGを引くとせよ。するとこれは直径DCに対して垂直になる。またFCを結ぶとせよ。ところでDC上の落下時間対DG上の落下時間は、CDとDGの比例中項対DGに等しい。そして半円内の角DFCは直角であり、FGはDCに対して垂直であるから、CDとDGの比例中項はDFである。それ故DC上の落下時間対DG上の落下時間は線分FD対DGに等しい。一方、DF上の下降時間対DG上の落下時間が線分DF対DGに等しいことはすでに証明されている。したがってDF上の下降時間とDC上の落下時間は、同一のDG上の落下時間に対して同じ比を持つ。よって両者は等しい。同様にして、もし最下点Cから落CEが斜めに引かれているならば、水平線に平行なEHを引き、EDを結ぶと、EC上の下降時間は直径DC上の落下時間に等しいことが証明されるだろう。 IをDG、DCの比例中項とすると、定理4を用いて=。一方△CDF相似△FDGより=DG*DC=。ゆえにDF=DI。よって、=。他方定理3より= が成立するから、両辺の比較から、t(DF)=t(DC)。(Leon01/04) 【訳 注】 (1) ここで用いられている原理は、彼の『機械学』(Le mecaniche)の中で述べられている(Opere,Ⅱ,181-183)。 この原理は,力の合成・分解(平行四辺形の法則)および「仕事の原理」に直結するものと思われます。(yokkun 9/29) 系1~3[74] 系一 これより、端点CあるいはDから引かれたすべての弦上の下降時間は互いに等しいことが結論される。 系二 さらに、もし同一の点から鉛直線と斜面が引かれ、両者上で等しい時間のうちに下降がなされるならば、両者はその鉛直線を直径とする半円内にあることが結論される。 系三 これより、斜面上の運動時間が等しくなるのは、それらの斜面の〔長さの〕等しい部分の高さ相互の比がそれらの斜面〔全体〕の長さ相互の比に等しい場合であることが結論される。なぜなら、一つ前の図において、ADに等しい部分ABの高さ、すなわちBEの高さDFに対する比がCA対DAに等しい場合に、CA、DA上の運動時間が等しいことが示されているからである。〔Ⅷ,pp.191-223〕 (伊藤和行訳) - ページの先頭に戻る
https://w.atwiki.jp/p051284s/pages/68.html
貴方は、「為替の変動」を見て「円高」だから売り、「円安」は買いと短絡的な考えを持っていませんか?チョット待ってください。 それでは儲かりませんよ! 「為替を読む」ことができれば、株式相場で大儲けも夢じゃない! 円高と円安の局面が顕著に現れた時、株価に対する影響を推測し株価の方向を決定しなければなりません。 その基準は・・・。 「為替」が円高になるとニュース等のコメントでは「急激な円高」で「株式市場は主力株中心に売られました」などと言うコメントをよく耳にします。 しかし、その後の株価をたどって見ますと、下げても直ぐに戻るか、それ以上に高くなっているケースが多いのです。 そこで具体的に「円高」「円安」の原因を理解し、その原因によって株価への影響が異なることも覚えておきましょう。 (A)投機的な動きで日本市場にマネーが流入してきていることが原因で 「円高」になっている時 ⇒ 「株高」 (B)日本経済が、成長過程にあり外国よりも経済の実力が評価されて 「円高」になっている時 ⇒ 「株高」 (C)外国、特にアメリカ経済が不況でドルが売られることによって 「円高」になっている時 ⇒ 「株安」 (D)アメリカをはじめ外国の経済が好調でドル買い先行で 「円安」になっている時 ⇒ 「株高」 (E)政府の「円高介入」によってドル高を是正して 「円安」になっている時 ⇒ 「株安」 (F)日本経済が不況で企業業績・財政 等に不安が生じて 「円安」になっている時 ⇒ 「株安」 となります。 したがって、短絡的に「円高」だから企業輸出が減少して、不況になり「株安」となるとか、「円安」で輸出が盛んになり企業業績が好転するから「株高」になると思うのは慎まなければなりません。 為替変動の内容を良く吟味し、実体を理解して投資の方針を決定することが「株で勝つ」ための基本なのです。 主観や感覚的に株式投資をするのではなく、誰でも簡単に『買いポイント、売りポイント』が判断できる投資法があったらいいと思いませんか? ↓ ↓ 無料のメールセミナーはこちらから ■超短期投資分析表作成マニュアル そして, 確実に勝つためのデイトレ入門,そして応用テクニック 今すぐ実践できる方法を教えるそんなマニュアルです ↓ ↓ ■デイトレ分析表作成マニュアル ■稼ぐデイトレテクニカルマニュアル
https://w.atwiki.jp/shinsyu10m/pages/90.html
眼科 さいげんず 10M本試験 10M本試験解答←New!! ↑とりあえず、解答あげました。つっこみどころあったら教えていただけるとうれしゅうございます。 かこもんず 過去問02,04-06m 過去問07-09m 09m解説改訂版 しけぷりーず 上がってる分のしけプリ全部zip 1.眼球・視路の概略、視力障害 2.眼球・付属器の解剖生理 3.視力の定義、屈折異常、視機能検査 4.緑内障 5.糖尿病網膜症 6.角膜疾患 7. 8. 9.ぶどう膜炎 10. 11.眼疾患の薬物療法 12. 13.眼窩・涙道 14.