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「プロデューサーは……軽い冗談が自分の手の届かないところで大ごとになってしまったことって、 あります?」 「……なんだって?」 お互い別行動だった昨日、なにかがあったらしい。今朝から律子の様子がおかしかった。 今日は幸い打ち合わせ関係ばかりでカメラに写る仕事は入っておらず、この妙にやつれたご面相 を全国に発信することにはならなかったが……いつまでもこのままではいるわけにもいくまい。 渋る彼女をなだめたりすかしたりの挙句、今しがたのように律子が口火を切る気になったのは もう日暮れ間近になってからだった。一服の名目で入った喫茶店、アイスティーを一口飲んで 律子が言葉を継ぐ。 「うーん、たとえば、ほんの冗談で『あなたの家が火事よ』って嘘をついたら消防車を呼ばれたとか。 『なんでも当たる占い師です』って普通のおばさんを紹介したら全国から人が集まってしまったとか」 「ふむ、プラシーボ効果ねえ」 「……それ、お医者さんから『これは血圧の薬だ』って言われて薬を渡されると、実はビタミン剤 でも高血圧の人が一時的に降圧したりするっていうのですよね。こういうことにも言うんですか?」 「拡大解釈気味だがね。あの理論のキモのひとつは『権威のある人物の言う言葉には相応の影響力 がある』という部分なんだ」 その効果を確認する実験にしても、八百屋の親父に薬を渡されたところで信じる被験者はいまい。 白衣の研究者がもっともらしい説明とともに渡した薬だから、効能を発揮するのだ。 「そうだな、たとえば高木社長がテレビ局のお偉いさんに『この人物は信頼できる、腕の立つ プロデューサーです』と、さっき街で出会ったばっかりの若造を紹介したとする」 「ふふ、プロデューサーの話ですよね、たとえ話じゃなくて」 ようやく笑みがこぼれるのを見て、会話の方向性はこうであったかと内心で胸をなでおろした。 「どうかな。するとその人物が思いつきで語った『理系アイドルVS文系アイドル・ディベート大合戦』 なんて企画が本当に番組になるわけだ」 「で、その後で担当することが決まった事務員兼任アイドル候補生がオーディションに駆り出される ことになるわけですか」 「お前が候補生で本当に良かった……いや、あくまでたとえ話だぞ」 「はいはい、そういうことにしておきます」 もちろんその番組制作に、その日プロデューサーになったばかりの俺は関与していない。実際 にはディベートではなくクイズバトルになったし、どういうわけだかプールで水着で収録されたその 番組はしかし、視聴率が取れたのでパート2が作られ、パート3の制作も決定した。後に社長から 裏話を聞いて、見出された恩を少しでも返せたかと喜んだ記憶がある。新人アイドルだったがゆえに ねちっこいカメラアングルを拒否できなかった律子からはしばらくブツクサ言われ続けたのだが、 と、いやこれは脱線だ。律子に話題を振り返す。 「で?お前は誰に何をどう吹っかけたんだ?社長みたいに『俺が敏腕プロデューサーだ』って ハリウッドにでも売り込んだのか?」 「私の身が滅びますよ、そんなことしたら。……んー、ええと」 しばし目を泳がせて、たとえ話ですよ、と改めて念を押す。 「あるところに、タカラヅカ系って言うか、ぱっと見カッコいい王子様タイプの女の子がいて、女の子 らしい立ち居振る舞いに憧れているとします」 「……真がなにかやらかしたのか?」 「ち、違いますよ逆です、たとえ話って言ったじゃないですか」 「あ、そーか」 「もうっ。で、その子が『女の子らしさを勉強したい』って相談に来たので、アイドル事務所を紹介したら」 「オーディションで落とされて、その子がふさぎこんだ?」 「社長が即採用しちゃったんです……女の子なのに、男性アイドルとして」 「あちゃあ」 現在の芸能界は少々のことはすべて話題性や個性と受け取る風潮がある。もと男性の女性タレント がいたり、逆の事例があったり、この業界では男か女かといったことは、八重歯のあるなし程度の 個性にしか過ぎないのだ。もっとも、真剣に悩んだ結果この世界に救いを見出した、という者も 存在するので全てを悪と切って捨てることは出来ないが……。 「……こうなるはずじゃなかった、って感じなのか。律子にとって」 「その場の状況から結末は読めたんですけど、ここまでとんとん拍子に進むとは思ってなくて ……あの、あくまでたとえ話ですよ?」 「わかってるって。エッセンスはこうだ、『お前はちょっとノリ過ぎた』、そうだろ?」 実際の経緯がどうあれ、その過程で律子は誰かを巻き込んでしまったのだろう。普段なら冗談は 冗談で済むよう手回しできる彼女が、場に流されて収拾をつけられなかったということなのだ。 「その子は本意でない仕事をさせられて困ってるんだな。で、お前はそれを気に病んでゆうべは 一睡もできなかったと」 「……あはは、バレてましたか」 「アイドルが目の下にクマってのはいただけないな。そんなに深刻なのか?」 「まあ、私としては少々戸惑ってます」 ことの軽重を度外視するなら、こういう事は実はよくある話だ。うっかり吹いた自慢話に食いつかれたり、 誰も聞いていないと思った愚痴を広められてしまったり。プラスの影響もあるのが噂話の侮れない ところだが、彼女はそのマイナス部分を相当シリアスに受け取っている。具体的になにが起きたか は示されていないが、人に笑顔を与える人気者商売は心配事を抱えたままやっていけるものではない。 「リアルな話をするが、損害賠償とか訴訟に発展しそうか?」 「いえ、まだそういうレベルでは」 「なら、全部ぶちまけて、謝ってすっきりするべきではないか?俺が足しになるんなら一緒に頭を 下げるが」 「それができれば、一番いいんでしょうね」 「……できないってことか?」 「はぁ」 テーブルに目を落とした律子が、上目遣いで俺を見る。 「本人が……やる気になっちゃいまして」 「ハイ?」 「私、その子を励ましちゃったんです。意にそぐわない正反対の仕事にこそ真実がある、って」 「……問題点を整理したいのだが、いいか?」 つまり、このたとえ話の内容は、こういうことだ。 1.女らしさを身に付けたい女の子が律子を頼ってきたが、律子が紹介した事務所はその子を 男性アイドルとして評価した。 2.事務所の社長は『律子の紹介なら』とその子を採用したが、律子の思惑とは裏腹に彼女を 男性アイドルとして売り出すことにしてしまった。 3.女の子は『話が違う』と律子に抗議したが、成り行き上律子は『男の子を演じることで男の子の 理想像をつかむことができる』と説得し、女の子も『律子がそう言うなら』ととりあえず男性アイドルの トップを目指す気になってしまった。 「……こんなところ?」 「はい」 「つまり律子先生は今回、ニセ薬を合計二人に処方したってわけか?」 「そう、なりますかね」 「登場人物の誰一人として困っていないようなのだが」 「私が困ってるんですっ!」 「あー了解」 律子としては、自分のプラシーボがここまで有効に作用して、今さら引っ込みがつかないのだ。 このままその子が挫折すれば律子のせい、どこかで秘密がバレても律子のせいになる。逆にこの プロジェクトが成功しても、真実を話せない律子に手柄は届くまい。 「でもアレだぞ?この話の中で悪いのは事実をネジ曲げた事務所社長だぞ?お前は知らんふりか、 なんならその子の側に立って被害者を演じる事だってできる」 「でもあの子には」 「最終的に決断したのは本人だ。たとえ律子の説得でも、本当に嫌なら断われたはずだ」 「でも……でもっ」 いつもなら、整然と論理を詰めるのは律子で、感情論で立ち向かうのは俺だ。義理人情で問題を ややこしくするのは俺で、損得を計算して冷静にことに当たるのは律子だ。それがどうしたことか、 今日だけは立場が逆だった。 手元のコーヒーを飲み干し、俺は言った。 「よし、わかった」 本当はなにもわかってなどいない。たとえ話の応酬で始まった会話は、組み合わさっていない ピースをいじるだけの成果のない遊びになっていた。しかし、その中にもゆるぎない事実がある。 いま、律子が困っている、ということだ。 「ならばこうだ。律子、お前も根性を決めろ」 そして、彼女が困っているのなら、俺はどんなことをしても彼女を助けるのだ。 律子はさっき『違いますよ、逆です』と言った。ということは、たとえ話は全くの絵空事ではないのだ ろう。ある点では彼女の話したとおりのことが起きているのだ。 「この話の最大の問題は、お前の手から離れたところでものごとが進んでいるという点だ。なら これを解決するのにベストの手段がある。律子、お前が事態を掌握するんだ」 「え、だ、だって」 「お前のたとえ話で二つ確かなことがあった。事務所社長と女の子が、お前を信頼しているという ことだ。ここに間違いはないな?」 「は、はい」 「それなら話は簡単だ。お前はその両方に食い下がれ」 秋月律子という人物の長所はその企画立案能力で、短所はその硬直性だ。計算が思い通りに いった時の効果は抜群だが、想定外の事態に対処できない。今回はその想定外の事態が 起きているのだ。 「その子の事務所に割って入って、その子に有利なプロモーションを奪い取れ。そしてその子を 指導して事実を隠蔽する能力を磨き、男とか女とかじゃない人間としての魅力を高めてやるんだ」 「で、でもよその事務所――」 「紹介したのは律子だろう、いわば保護者で後見人だ。お前にはその権利も義務もある」 「あの子にだって自分の考えが――」 「アイドルでいく道を選んだのは本人だ、その分野ではお前がはるかに先輩だろう?お前の知識と 経験から可愛い後輩にもっとも効率的な方法を指導してやるのは、むしろお前の使命じゃないのか?」 そしてその想定外の事態に対処するのがいつもの俺の役割だった。彼女が昨日、どこかで やらかした計算違いを、いま俺が補ってやるのだ。 「もちろん、おおっぴらにやったらカドが立つ。そいつを密やかにスムースに行なうのが、お前の プロデュース能力の発揮しどころだぞ」 「私の……プロデュース能力?」 「そうだよ、アイドル兼プロデューサー見習い・秋月律子どの。いまからお前は、その子の影の プロデューサーだ」 律子の目標はトップアイドルではなく、プロデューサーだ。その子にしても、わざわざ律子を 頼ってきたのは彼女のことを心得ているからにほかならない。それに、律子が全てをご破算に するのをためらう理由のひとつも、きっとここにある。 「お前には、その子をこの世界に誘った責任がある。その子に決意を固めさせた責任がある。 違うか?」 「……違っては、いないと思います」 「よし。ならば責任を果たすべきだ」 本人が意識しているか否かは置いて、律子は自分の手でアイドルをプロデュースしたいと思って いるのだ。 「律子、お前は今日からアイドル・秋月律子であると同時にプロデューサー・秋月律子だ。俺と 一緒にアイドルとしてのトップを目指し、そしてその子をトップアイドルにすべく導いてやるんだ」 律子の動きが止まっていた。躊躇しているのではない。テーブルを見つめる視線に迷いがない のがわかる。俺の説明をシミュレートし始めているのだ。 「うわー、これは……まいりましたね」 「大変だぞ。俺はもちろんお前のプロデュースの手を抜く気はないし、お前がトップを目指せない のならその子への説得力にならない」 「個人的な電話、かける時間くらいはいただけますか?」 「お前の心がけ次第だけどな。できるか?」 「……できます。やります」 再びこちらを見つめた視線にはもう迷いはない。『まいった』なんて嘘っぱちだ。楽しくてしょうが ないという表情になっている。 「あの子に関しては確信があります。絶対いいアイドルになる。あとは私の方ですけど……確かに、 ちゃんとやらなきゃ示しがつきませんからね」 「嬉しいね。ともかく、お前がアイドル頑張る気になったのが」 「なに言ってるんですか。これまでだって頑張ってましたよ」 飲みさしの紅茶をぐっとあおって、律子は立ち上がった。 「さて、そうなるとこんなところで油売ってるわけには行かないか。今日は上がりでよかったですよね?」 「ああ」 「お先に失礼します。二、三連絡をしておきたいので」 「お疲れさん。勘定はやっておく」 「すみません。でも経費清算は早くお願いしますよ?」 「はいはい」 律子を見送り、俺も荷物をまとめた。彼女だけでなく、俺も当然やることがある。これから事務所に 戻るつもりだった。 「……まるで医者の不養生だな。正確にはニセ医者だが」 『プラシーボ効果のキモ』にはもうひとつの側面がある。潜在能力の発露だ。 的確なアドバイスとともに与えられたビタミン剤は、その人物が本来持っている自己治癒力を 呼び覚まし、たとえば高血圧治療や、場合によっては腫瘍すら小さくしてしまう。病気に限ったこと ではない。記憶力や体力、あるいは……プロデュース能力にもこのニセ薬は有効なのだ。 誰かを指導する素質も能力もある律子だが、苦手なこともある。それは自分を鼓舞することだ。 人の才能を見抜いて的確なアドバイスができるくせに、自分に関してはコンプレックスの塊。そんな 彼女にプラシーボを処方できるのが、俺の数少ない取り柄だった。 これからはきっと忙しくなる。アイドルのプロデュースにプロデューサー見習いの指導。その どちらもトップレベルを要求されるに違いない。事務所に戻ったら、スケジュールの再調整をして みるつもりだった。 しかしそれで律子が満足するなら、俺には本望だろう。達成感に満ちた彼女の笑顔は今度は、 俺のやる気への特効薬になる。 「……これまたプラシーボだけどな、へっへっへ」 先の楽しみを想像しながら、俺は店をあとにした。 おわり
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条件 かなででHなことを想像したの条件を満たす。 松下ルートの似顔絵をかく選択で「俺」を選択。
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本ページについて フリーゲーム『Ib』の世界についていろいろ想像したメモです。 ゲームのストーリーのネタバレを多く含みます! ゲームのDLは公式サイトから→『Ib』公式サイト 注意事項 テンプレート使用のためにwikiを採用していますが、wikiではありません。⇒管理人以外の編集は現在許可していません。 資料の提供を目的としていません。 攻略を目的としていません。 ゲーム中のネタバレを羅列することを目的にしていません。 本ページ発足の目的 『時間が経っても時々Ibの事を思いだしてもらえるとさらに嬉しい』 『色々想像してお楽しみください』 『感じ方は人それぞれ』 という作者kouriさんのお言葉により、Ibの世界をもっと探検し、いろいろ考えを巡らせたいと思いました。 私の「想像」を書き留めたページであり、考察と言えるようなものではありません。『人それぞれ』なので、Ib好きな皆さんのご意見もたくさん聞いてみたいと思っています。 各ページはコメント可能です。(2012.4.27現在、コメント機能未実装です) メールもお気軽にお送りください。xxbuch★gmail.com(★⇒@)
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裁判制度の理想化 山崎今朝彌 一、廃止か改善か 裁判制度の起原沿革や他国との比較研究、其他物識りに関する事に就ては他にイクラも適当の人があり、又僕のガラでもないから、僕は貧乏弁護士の一人として貧乏人の立場から、自ら経験体得した裁判制度に対する観察を書いて見る。『法廷より観たる裁判制度』『貧乏弁護士の観たる裁判制度』などが適当の表題であらうか。 戦争は平和の為である。武術は逃げる為の用意である。法律は法律を無用にする為である。然らば裁判は裁判を廃止する為であらねばならぬ。裁判を廃止するには裁判の原因である争の根本を廃止せねばならぬ。我が物、人の物の区別を廃して詐欺泥棒の類を根絶しなくてはならぬ。自分の為め他人の為めの区別を取払ふて、横取り抜け駆けを禁止せねばならぬ。併しソレでは人生に余り曲がない、アヤが無さ過ぎる、マー気永にチヨビリチヨビリそう云ふ事に致さうとあつて茲に改善問題が起る。 二、裁判の社会化民衆化 法律、裁判の社会化、民衆化を口にしない人は今日一人もない。此問題は平たく云へば裁判所がいま少し人民の便利を計れと云ふ事だ。裁判関係者の一番不平不服は蓋し 時間 であらう。裁判所も検事局も書記も判事も検事も、ソレが被告であらうが証人であらうが、原告だらうが被告だらうが、素人だらうが玄人だらうが、時間に就ては更に人の事を考へては呉れて居らぬらしい。呼出しは何でも九時、順序には規律がない、朝から晩まで待つて、明日又来いで、格別の御叱りなきはまだよい方である。コンな事は其局に当る者が少し智恵を出し、気を働かせれば、ナンの雑作はない事である。然るに永年世の非難を受けながらドウしても之れが改められぬは何の為であるか。ソレは即ち官尊民卑の弊たる 官吏の威厳 のハキ違いであらう。兎角今時の官吏は矢鱈に威張りたがつて困る。裁判関係の役人も深く自ら社会の公僕たる地位を自覚し、時間にキチンと出勤し、来た人の順に、又同順位の人多数あるときは迷惑の度合の多少により先後を定めて、ズンズン職務を執行し、延期にでもなりそうなら、早く注意するがよい。優しく出られたり、下た手に出られたりすれば、不平など起るものではない。言葉違ひとて其通り、何も官吏だからとて尊大横柄の言葉を用ひねば其威厳が保てぬ道理がない 座席問題も同一で、僕は検事のみならず判事も書記も、便利の為を除いての外は、刑事々件でも民事事件でも皆、原告証人弁護人等と卓を丸く囲んで、談笑の間に事実の真相を発見すべきものと思ふ。厳しい姿や堂々たる仕掛で裁判を受ける人を威圧するでなければ、裁判の威厳は保てぬもの、被告や裁判に敗けた者はドウしても裁判に心服するものでない、と極めるのは自分の徳の足りない事を棚に上げる者である。 三、裁判官 僕も今年でもう四十何歳と云ふ老人になつたせいか、法廷へ出て、ズラリと向ふへ並んだ判事が余り若輩だと、コンナ若僧にホントの裁判が出来るかしらと云ふ不安の感が湧いて来る。ソウかと思へば又来年か再来年は愈々定年法で退職だと云ふ、大きな声を出せば転びそうな判事にブツカルと、尚一層の情けない不安を感ずる。流石は東京地方裁判所の名判官、テキパキしたものだと感心する中から、其イライラした態度ビクビクした神経過敏を見ると、田舎裁判所の田舎判事に対する様な、ノンビリした尊敬の念が起らぬ、と云ふて時々東京の事件で、地方の裁判所に証拠調の為め出張する事があると、頭の違ふ計りでなく、土地の異ふ為め取扱慣れぬ事件の為めに、其解からぬ事夥しいのに驚ろく事がある、昨日も弁護士会館での大笑ひだつたが、此節は漸く裁判所も人間味が出て、朝憲紊乱事件も公開する、秩序紊乱事件を、公開禁止した例はな□不敬事件も責付を許す、仮出獄を許す世の中に、コレは又ドウシタ事か、田舎と云ふても横浜とあれば都会地だのに、其地方裁判所では数日前に、行政処分の秩序紊乱出版物頒布事件を、何を驚いてか公開禁止で裁判し、剰へ全国画一的に東京初め各地で皆廿日の拘留に処した事件を、何を間違つてか四ケ月の禁錮に処したとの風説がある。由是観之判事にも検事にも上マセの定年法が必要であると同時に、下マセの定年法も必要だ。又コレカラの判検事は悉く相当経験ある弁護士から採用すべきだ。一人前の弁護士になるには二三年の見習を必要とするがよい。裁判所には老年、少年、商事、破産、労働、思想等の外其他色々の特別係を置くべきである。一人が事件を少し宛受持つ為に又調べを完全にする為めに判検事の数を多くする。経費の都合もあるから三級審を廃止して二級審にする。唾八封の様な裁判を三度するより、当になる一度の裁判の方がましだ。一審は凡て判事は一人とする。面倒の事件に限り二人でも三人でも主任判事の好みに任せるがよい。 四、裁判 事実認定 弁護士はよく、裁判に勝つては笑ひ敗けては笑ひ、と云ふ。コレは事実認定の誤り多い事を笑ふ言葉である。判事の方では当人が満足するか否か、事実の真相に触れてるか否か、と云ふ事には余り重きを置かず、只判決が立派に理屈付いてるか、上官や人に見られて非難を受けぬかどうか等にのみ気を取られているらしい。併し之れは大なる間違ひである。今時の裁判はドウせ虚言の展覧会だ、ドツチの虚言がホントの虚言かと云ふ事を見定めるのが裁判官の役目である。然るに間違つた事実認定をすれば、外の事と達ひ事実の事だから、イクラ素人にも間違は間違ひとわかり、ツイ裁判官を馬鹿にし度くなるは人情だ。依て僕は判事にはウント高給を払ふてモツト悧巧の裁判官を集め、一方弁護士等は全然廃するか又は全部官吏(生活を保証すること)にして、民事も刑事も均しく事実の真相を究むるを専一とする事とし、セメテ裁判だけは世の信用を得る様にしたいと思ふ。 証人と宣誓 事実の真相を究むるには証人が偽りを言はぬ様にするが第一だ。処が証人は中々事実を語らぬ、之れには場後れがして事実を巨細に述べ得ない者と、ズウズウしくて偽証する者とがある。前者に対しては成るべく人の少ない所で判事のみが丁寧に訊問すべきだが、後者に対しては誰からでも訊問を許し、ミツチリ油を取らせるがよい。何れにするも現今の宣誓は無意味の様に思ふ。証人の中刑事々件の警察官の証言と来たら当にならぬ事夥しい。と云へば警察官計り、イケ図々しい悪人の様だが決してソウ云ふ訳でもない。誰でも警察官になり犯人検挙に関係し其の事実に付て証人に呼ばれるれば、自分又は同僚又は長官の手柄になり落度にならぬ様極力言ひ張るのは当節である。只無闇に之れを心から信用する係官が薄野にてだと云ふの外はない。豈独り警察官のみならんや。 予審判事や検事の聴取書 と雖も当にならん事がある。勿論此等の人々が悪い心でやるとは云はぬ。併し誰しも自惚はある予断が生ずる、コノ事件はコウでコノ被告はコウだと睨む、睨んだが最後事件を其通りに仕様とする、理屈攻をする、遂々往生させる。検事や予審判事の取調は実は取調でなく申立を聴取るだけだと云ふ事にする外、コウなる事は止むを得ぬだらう。ソコで 陪審制度 の問題が八釜敷くなつて来たが、陪審制度なるものが、自分達の仕出がした事柄や間違は、自分達の事を能く知つてる仲間の者から裁判して貰へると、云ふ事なら至極結構だが、世間で騒ぐ様な陪審制度なら、先づ吾々には無い方がましだ、此間世間に発表された陪審規則の原案によると、国を盗んだり親を殺した大泥棒には、官費で陪審裁判して呉れるが、吾々貧乏人のする小泥棒には自費で金を出さなければ陪審員を付けては呉れぬ。其費用が出せる位なら弁護士を頼む。加之一人の判事に説法したり弁解したりするさへ随分骨の折れるものだのに、尚ワケのワカらぬ多勢の陪審員を口説くのは大仕事だ。西洋の諺には『一人のバカより十人のバカの方が始末に困る』とある。 刑期 『金ちやん事件』と云ふ高師生殺しの弁護をした時、検事は無期懲役を求刑し弁護人は二三年が適当だと論じた。裁判の結果は十三年となつたが、刑事弁護で有名の某弁護士は七年が正当だらうと云ふた、其時傍に居た刑事部長として前の名判官だつた某弁護士は、僕なら執行猶予にすると言ふた、刑期の量定は中々面倒なものだ、一体刑法が有罪無罪の外、執行猶予から死刑迄を判事の一存に任せた事は果して正当だらうか。 未決拘留 は刑罰でないと云ふが、未決中に刑の執行をする処を見ると矢張り刑罰である。其刑罰即ち未決が時には未決の数倍永引く事がある。依て未決拘留は何ケ月以上する事がならぬ法律にするか、又は特別の条件があつた場合の外原則として未決拘留を許さぬ事にするがよい。現今も保証責付と云ふ制度があるが、之れは言論の自由と同様法律の上であると云ふだけで、実際は無いも同じである。即ち充分刑罰を与へた後、予審終結とか、証拠調終了とか判決言渡とかがあつた後初めて漸く畏る怖る許す位のものである。 五、検事局の独立 裁判所裁判官と社会との間に親しみ温みを持たせたいと云ふのが僕の希望である。ソレには世人をして裁判所は無理をせぬ処、話しの解かつた処と云ふ考を持たせるに限る。司法警察官や検事も私利の為でなく社会の為に働くものではあるが、職務上ドウしても恐ろしきものコワイもの敵役のものである。其の敵役が裁判所と一所に居て同じ様な事をして居たでは、何と弁解しても理屈を付けても、人の頭脳には同じ穴の狸としか思へない。依て先づ第一に僕は検事局を全然裁判所と独立させたいと思ふ。即ち役所建物から別にして掛からねば駄目だ。役所が別になれば色々変つた規則が出来て来て順々に裁判所とは別物らしくなる。 検事局を裁判所から独立させる外も一つ警察からも独立させたい。今の処の実際では、止むを得ぬとは云ひ条、検事局は凡で警察の出店である。従つて其処に色々の不都合と弊害とが生ずる。依て警察から司法警察権を取り上げて検事局に直属の司法警察官を置いたら、ホンマに司法権の威信が保てると思ふ。巨細の事は一寸今僕のも考案が浮ばぬが、誰か三人も寄つて相談したら文殊の智恵が出るに相違ない。 六、警察裁判 主として刑事々件に限つた話ではあるが、現今一番多く、裁判してる所は控訴院でも大審院でも地方裁判所でも区裁判所でもなく、警察である。警察では廿九日以下の拘留しか言渡は出来ぬが、数が多いのと矢鱈に出来るのとで、地方裁判所や区裁判所で言渡す禁錮懲役の延日数と警察で言渡す拘留の延日数とを比べて見れば、比較にならぬ程警察の日数の方が多い。即ち□る日本の裁判は裁判所でやるのでなく実は警察でやつてるのである。して此裁判官は司法主任と云ふ巡査部長殿か又はセイゼイ警部補である。規則では拷問も禁じ被告人の陳述も聞けとあるが多くは医者にも見せず被告の陳述聴取書も作らない。一昨日も恰度清水と云ふ警部が藤岡と云ふ十八九の青年を多勢で殴打してる処を見て来たと云ふ新聞があつた。中には言渡もなく拘留を終り、警察を出てから初めて言渡があつたと云ひ聞かされるのもある。此裁判には裁判所へ正式の裁判を求むる申立が出来る事にはなつてるが、事実は誰にも面会は許さず、紙は呉れず規則は教へず、よし正式裁判の申立をしても其申立書を裁判所へ取次では呉れぬ。故に間違つて正式の裁判にでもなれば大概無罪になる。僕の取扱つたのには被告が正式裁判を申立て欠席の儘で証拠不充分として無罪になつたのが今年九月から十二月迄に数件あつた。 故にホンとの裁判制度の改善は、警察裁判の改善でなくてはならぬ。然るに世にはヤレ陪審をどうの、予審をどうの裁判をどうのと騒ぐ閑人はあつても、警察の裁判改良を叫ぶ憂国の士がない。之れは如何なる訳かと云ふに、実は当然の事である。警察へ引つ張られて拘留を喰つたり科料になつたりする程の者は皆スリ、カツパライ、淫売、乞食、労働者、立ン坊、天下無宿の浪人が、学生等が関の山、何れも貧乏人のみの数である、大概無力で諦めるが、ヨシ騒いだ処で誰も之れをカツイで儲けようとする者がない。之れに反して予審や裁判で規則通りの保護を受けてる悪人は皆紳士紳商、高位高官の人達とか又は、社会上相当の地位を有する醜類である。此人達が自分の不便だつた事を、不都合だつたとして所謂有力者と称する仲間に話す。其れではタマラヌと其仲間が騒ぎ出す仲間には連絡がある。新聞がある。議会がある。金がある。力がある警察裁判なんかは人事であるが、コツチの事は自分の事である。ソコで所謂中流又は上流階級の間に少数の所謂輿論が出来る。 輿論は兎も角大多数の人の為めには、警察で裁判する事を絶対に禁ずるか、警察の裁判は執行前一々裁判所の認可を受くる事とするか、被告を裁判所へ呼出して不服の有無を聴く事とするか、何れにするも警察に二日以上置く事を禁じなくてはならぬ。 <以上は、山崎今朝弥氏が著作者である。> <旧仮名遣いはそのままとし、踊り字は修正した。旧漢字は適宜新漢字に直した。> <底本は、社会問題資料研究会編『中央法律新報第二巻下』(東洋文化社)1346頁、底本の親本は、『中央法律新報』(中央法律新報社)第2年(大正11年、1922年)第17号8頁>
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Help!!!! 08/02/01 一般的な意味での「プラトニックラヴ」という概念は好きだが(というよりもはや私の本質)、 その語源であるプラトンの提唱した、最初の意味での「プラトニックラヴ」はだいぶ私の思想とは違う。 以下wikipediaより転載 プラトニック・ラブ プラトニック・ラブ (Platonic love) とは、肉体的な欲求を離れた、精神的な愛のことである。 かつては、好き合った男女同士でも結婚までは純潔を保つべきである、として結婚までは精神的な愛を理想と考え、 それをプラトニックと呼んだが、本質的でなく、また、死語と化している。 ただし、アメリカ合衆国ではキリスト教保守派の思想により、「純潔宣言」をする若者も多い。 それは畢竟、婚前限定純潔運動家でしかない。 プラトニックとは「プラトン的な」という意味で、古代ギリシアの哲学者プラトンの名が冠されているが、 プラトン自身が純潔を説いた訳ではなく、自身も男色者として純潔ではなかった。 初発には、後述のように、イデアへ向かうプラトン的な愛、の意味だった。 が、イデアへの愛は彼にとっての理想で、実態は男色の現実愛にあった。 プラトンの時代にはパイデラスティアー(paiderastia, 少年愛)が一般的に見られた。 プラトンは『饗宴』の中で、男色者として肉体(外見)に惹かれる愛よりも、 精神に惹かれる愛の方が優れていると説いた。 (中略) この言葉が転用され、男女間の禁欲的・精神的な愛を指すようになっていった。 北村透谷は「悲しくも我が文学の祖先は、処女の純潔を尊とむことを知らず」と 遊里を賛美するような江戸文芸の低俗さを嘆いた(『処女の純潔を論ず』1892年)。 現代では性愛と恋愛感情を不可分のものとするロマンチック・ラブ及び婚前交渉が一般化している。 つまりは処女幻想。文句あっか。 ちなみに大久保松江とは関係ない。 あとは、ええと・・・・・・プラトニウム。 08/02/01 上の記事は、レヴュー書いてたらプラトニックって単語が出てきたので、 そういえば自分のテーマだったと思ってまとめなおしてみたもの。 最後に「処女幻想」って言葉を使ってみたので、それって一般的な単語か確かめるために ググってみたら、トップに出てきたアレのせいでいまいましいあの事件を思い出して鬱モードに入った。 08/02/01 かぜぎみ。 08/02/04 かぜがなおんなーい 08/02/04 バッキー事件について。 以降、見なかったことにできる方のみ。 もう3年以上前の話ですが。 レイプ系アダルトビデオの撮影という名目で、 実態は殺人未遂といっても過言ではないガチレイプを行い、 関係者が逮捕され、懲役20年近い判決を言い渡された事件。 まとめサイトはいっぱいあるけど、 こことか見るとわかりやすいかもしれん。 で、この事件に関する俺の感想。 AV女優っていうのをちゃんとした職業として考えたとき、確かにこれは 傷害・詐欺が通用すると思うし、その判決は正しいと思う。 ただあくまで個人的な感想としては、 AV女優とかもともとゴミみたいなもんなんだから、ゴミがゴミらしく扱われたところで 別になにか問題があるとは思えないけどね。 生活に不自由してるわけでもない頭のおかしい若い女性が、「エロい事興味あるからw」とか言ってほいほいついていって、 ガチ撮影で殺されかけて、「ひどい目にあった><もうやだ><」とか言ってても、 ざまあwwwwwwwwwwwwwwwwwとしか思わん。 ちなみに、一般のレイプ事件に対しては僕は胸糞悪く感じます。 特に、純潔を大事にしている女性に対するレイプは、殺人よりはるかに重い罪と考えます。 妹や彼女が殺されても、多分立ち直れるが、妹や彼女がレイプされたら多分立ち直れない。 純潔を大事にしている女性が少ないからなのか、不思議とレイプ>殺人というこの主張はあまり聞かない。 08/02/05 カウンタがちょうど1000まで回っていた。 今日だけで750回以上回された事になる。 このことが何を主張しているのかわからない 08/02/06 安全側、という工学用語がある。 例えば、「点灯」「消灯」の1ビットの情報だけで「とまれ」「すすめ」を伝える信号機があったとする。 その信号の設計としては、次の二通りが考えられる。 1、点灯時に「とまれ」とする(赤いランプだけがついているイメージ)。 2、点灯時に「すすめ」とする(青いランプだけがついているイメージ)。 どちらの設計が、安全面から見て優れているか。レッツシンキング 優れているのは、点灯時に「すすめ」となるほうである。 なぜなら、停電や故障によって、交差点に面する両方の信号が消灯状態にあるとき、 両方に「とまれ」の命令を出し続けているほうが安全だからである。 このとき、2、の設計を「安全側」と呼ぶ。 以上、昔読んだ森博嗣の著作からうろ覚えで転用。 安全側っていう用語がうろ覚えだけど、フェイルセーフと言えば間違ってないと思う。 08/02/06 上記の続き。 1、相手は自分のことを好きである 2、相手は自分のことを嫌いである ※ 好き、嫌いというのは恋愛感情よりもっと広い意味で。 どちらの仮定のほうが、安全面から見て優れているか。レッツシンキング 僕が考えるに、優れているのは、相手は自分のことを嫌いであるという仮定である。 なぜなら、相手は自分のことを好きであると思っていて、実は自分のこと嫌いでした、という場合に生じる 心理的ダメージは非常に大きいからだ。もともと嫌われていると思えばそんなことは起きない。 まず、世界中のすべての人間は僕のことを嫌いである、という仮定からはじめる。 世界の99%以上の人間は僕とあまり接点が無いが、ここでは「好き」「嫌い」の二元論で考えるので 「日本人は嫌い」「人間は皆嫌い」という思想の人もいることを考慮し、安全側で思考する。 この、全世界四面楚歌状態から、ある任意の人間を「自分のことが好きである」という仮定に変更する。 そのとき、前述の論理より、「実は嫌いでした」というリスクが発生する。 では、そのリスクに見あうメリットは何なのか。 「実は嫌いでした」と言われるリスクを背負ってまで、「あの人は僕のことを好きだろう」と思うメリットはあるのか。 誰かに好かれている、必要とされているという仮定が、生きる糧となるのだろうか。 人に認めてもらう、必要とされることを、生き続ける上で不可欠とする人間は、 リスクを負ってまで「自分は誰かに好かれている」という仮定をするだろう。 08/02/06 他の誰に認めてもらわなくてもいい、特定の存在にのみ認めてもらえればそれでいい、という思想の人間もいる。 例えば、世界中の人間に嫌われてもいいから、自分のパートナに認めてもらえれば幸せに生きていける、というタイプ。 これは、リスクを一点に集中させる事により、「確率」を限界まで低減させているパターン。 ただし、自分の存在理由を一点に集約させているため、パートナに「実は嫌い」といわれたら多分死ぬ。 例えば、世界中の人間に嫌われてもいいから、「神」に認めてもらえれば幸せに生きていける、というタイプ。 これも基本的には上記の例と同じである。 神が裏切るかどうかについては、ここでは議論を避ける。 宗教にどっぷり漬かっている人間はこのパターンが多い。もちろん悪い意味ではない。 08/02/06 僕は誰に認めてもらうことを自分の人生の糧にしているのだろう。 姫様(仮名)に認めてもらうことだろうか。恐らくそうだ。 姫様が常に僕の人生を視ているので、僕は彼女に不快な思いをさせないために自分の生活を律する。 法に触れることや、モラルに反することを抑制し、自尊心を保ち、死なずに生き続けていられるのは 姫様が僕に微笑み続けてくださるからだ。 姫様を悲しませることが無いように。 僕は、命の糧を姫様に捧げ、彼女に認めてもらえれば他の何もいらない。 姫様は僕の脳内に存在し、僕の世界から出てこない。 08/02/07 なんか感想もったらガンガンひとこと送信してくれないと寂しい。 ニュースにコメントするのって、ますますブログ化の一途をたどるばかりなので あまりしないほうがいいかとは思うのですが、ついしちゃう 僕はテレビもニュースも見ない人間なので、 くだらないニュースに対する音速が非常に遅いのですが、 35歳になると羊水が腐るそうですね。 僕も常日頃から20歳過ぎたあたりから頭脳が腐ってくると思っているのですが、 僕が有名人だとしてこの発言をしたら叩かれるのだろうか? 羊水というのが子供を産む器官の一部だというのが関係してるのかなぁ。 お前の子供は、お前の中の腐った水で育つ、って言っているわけだから。 水が腐っているよりももっと腐っているものがたくさんある。 人間の頭が腐っていることのほうがはるかに重要。 女性は産む機械だからな っていうか、産む機械発言って文脈から自然に思えるのだが、 喩えに噛みつく頭の悪い人間のせいで、語彙の乏しい政治家は殺されていく。 理系に対する偏見だが、理系はあの発言に対して怒らない気がする 08/02/07 GA2巻のキョージュの髪のさらさら度がやばかったから。 僕の理想の恋愛の形態のひとつというのは、髪がさらさら過ぎる女性と部屋でだらだらしていて、 僕がその女性の髪をなでなでふわふわしたいのだが、僕の手はそれには値しないほど汚れているので 粉石鹸かなんかで、その女性に僕の手を優しく包み込むように洗ってもらい、 その手をふかふかのタオルで拭いてもらい、それでこう思う存分髪をなでなでし放題という そういう気持ち悪い妄想を日々しているんだが、 この記述ひとつ取ってみても俺の恋愛感女性観の歪みっぷりがわかる。 「女性」を神聖視、絶対視し、(註:「女性」とは女性一般ではない) 一方で生身の人間である「自分」のケガレを認識しているがゆえに、 単純な言語に当てはめると「卑屈」「被支配系マゾヒズム(⇔苦痛系)」に近い。 これは、「自分」は四六時中見知っているのでいかに汚れているか知っているものの、 「女性」とは滅多に接する機会が無いため、美化し放題の神聖視し放題というのが原因だと自己分析。 それに僕は生身の人間に恋愛をしたことが無い。 以前話した人には話したが、ここに再掲する 時間が今日はないのでこんど 08/02/11 ガラスの透明度を競う大会があるとする。 各国の技術者達は、「世界一透明なガラス」の栄誉を勝ち取るべく、必死の努力を傾け、精製するガラスの純度を上げていた。 ある日、この大会で使用されるガラスの透明度を測る機械は、赤を識別できないということがわかった。 つまり、ガラスが微かに青く濁っていると、その機械はそれに激しく反応するものの 赤く濁っているガラスは、まるで透明であるかのような扱いを受けるということだ。 ある国の技術者は、「100%の透明を目指すより、100%の赤を目指す方が楽だ」と言い、 ガラスに真っ赤な塗料を吹き付けてエントリーした。 他の国は、当然透明度を追求したガラスで勝負してきている。 結果、透明なガラスを求めた技術者は、ほんの僅かな、人間に識別できない程度の不透明さによって2位に甘んじ、 より100%に近い純度の真っ赤な塗料によって、機械的に「透明度が高い」と認識された技術者が優勝した。 「100%の透明を目指すより、100%の赤を目指す方が楽だ」という思想はほとんどの国に広まり、 ごく一部の、あくまで当初の目的どおりの「透明度」を目指す技術者を除き、 より純度の高い真っ赤な塗料によって、機械で測定した「透明度」を高める技術者ばかりが目立つようになってきた。 こうして、この世界でより高い「透明度」のガラスを求める研究は、著しく妨げられた。 本来、学習や研究の機関は、より優れた頭脳を得たいと思ってるはずなのに、 単に機械で測定した成績のよさだけを上げようとしている人間があまりにも多すぎる。 受験生は、透明度を上げるよりも、機械で透明と測定されるために真っ赤な塗料を吹き付けている。 これが受験のシステムの不備。 大西科学の769番を参考にしました、っていうか大西科学の方が、はるかにわかりやすいね。 僕はあくまで以前から思っていたことを書いただけ。 08/02/13 自分がちょっと気になってる女の子が男と歩いていた。ショック。 ↓ なぁんだ、兄だったのか っていうネタがよくあるけど、 兄だったのかっておまえ、そんな仲のいい兄がいるとかうらやましすぎだろ。なおショックだろ。 08/02/16 今日わらったコピペ 164 名前:名無しオンライン[sage] 投稿日:2008/02/16(土) 11 51 04.46 ID HgELxJZn そんなことよりちょっと聞いてくれよ レンタルビデオ屋に、頭文字Dのビデオ借りに行ったんだけど 「か行」探しても全然ないんだよ で、レンタルビデオ屋のアホ店員は「あたまもじD」って読んでるんじゃね?と思って 「あ行」を確認したらマジで置いてあってびびったwww 08/02/19 いくらなんでもこの思想は子供っぽ過ぎる。ここには書けないほどのものがある。 自分でも意味がわからない。それが僕の本質に影響している。死ね。 08/02/19 僕は人間に恋をしたことが無い。 ・・・帰ってから続きを書きます。 08/02/22追記 帰ってから放置していましたごめんなさい。今から書きます。 でも僕のリアル友人は知っている話だと思いますよ。 僕は人間に恋をしたことが無い。 僕は今まで、人を好きになったことが何度かあると思っていたが、 それはいつもの思い込みで、夢で、幻想だった。 僕は実在の人間を基にして自ら生み出したキャラクタしか好きになったことが無い。 架空の人格のでっち上げ、美化、偶像化、イデア化。 その人間のうちほんの少し、1%未満しか知らないので、 残りのover99%は脳内が補完する。 あの人はこういう性格だといいな、だろうなぁという願望を 脳内は事実とだんだん勘違いする。 もはやその人自身を詳しく知る必要はなくなり、むしろ知らないほうがよくなる。 なぜなら自分の理想像とその人の実体が乖離するのが怖いから。 イメージの崩壊。こんな人じゃないはずなのに。 こんな人ならば、別に自分は、好きではない。 その人の姿を見たい。声を聞きたい。 それは単に、自分の作ったキャラクタと同じ行動を求めているだけ。 幻想の定着、実体と理想がずれていないことの確認、よかった、やっぱりこういう人だ。 それならば最初から二次元でいいんじゃねーの 「二次元は裏切らない」(笑) 話は変わる、矛盾するかもしれないが面倒なので検証しないし分析しない。 それどころか自分の中でまとまってる話ですらないので以下メモ。雑多。ノイズ。 三次元の実在する人間を基に二次元のキャラクタは作られる。 いいえ、 三次元の人間の精神の存在自体が幻想で、キャラクタのイデアしかない。 二次元のキャラクタの方がビットが低いから純粋な感情になり 三次元は複雑すぎる。カオス。量子的な振る舞い 嘘しか憑かない。 二次元は三次元に近づかない。三次元は二次元に近づく。 二次元とか三次元という用語が、多様に向いていない。 あたらしい単語で言い代えるべき。 08/02/22 月が赤い 憑きが紅い 08/02/23 妹との一線を越えた。 そのときまではすごく幸せだったのに、 一線を越えてからは最低な気分になった。 妹は変わらぬ態度で僕に接してくれているが(むしろ以前よりベタベタしてくる)、 周囲の目や、僕自身の良心が僕を激しく責めたてる。 くるしい。 ※註 夢オチです。最低の目覚めでした。繰り返しますが僕は妹に性欲は抱いてません。 08/02/24 「遊びで人を殺していると?」 「遊びで殺すのがいちばん健全だぞ」 「仕事で殺すとか勉強のために殺すとかいう理由よりはずっと自然だ」 「・・・・・・・・・お嬢様 それはお言葉が過ぎます」 「では何か宗教的な儀式だとか 恨みを晴らすためだとか」 「理由があれば殺人を肯定できるとでもいうのか?」 「心情的には理解できます」 「殺人者の心情を理解して何が嬉しいのだ」 「嬉しいというのではなく」 「納得というか安心するわけですな」 「何を馬鹿なことを 勘違いするな 私は自然な殺人ならやってもいいと言っているわけではないぞ」 「殺人者の心境が想像の範囲内であることの方が不健全だとは思わんか?」 「なるほど そういう理由でなら自分もいつか人を殺したくなるかも知れない」 「などと納得するよりは 遊びで殺した 全然理解できない で済ませる方が安心だというのだ」 黒猫の三角 / 森博嗣 より、瀬在丸紅子と根来機千瑛の問答 小説版が手元にないので漫画版から引用 こういう知的なやり取りをしたい 自分で無理なら せめて自分の小説の人間にくらいは言わせてみたい 08/02/27 気分が最低に落ち込んでいる時の方が、音楽とかのインスピレーションは沸く感じ。 ものすごい感動した時とかも沸くので、ようするに感情が激しく動かせばいいわけだな 感動した時は、気が狂ってるとしかいいようが無いメロディのTRANCECORE 落ち込んでるときは、世界を破壊する音と、SPEEDCORE、GABBA DTMのソフトを手足のように使えるようになれば、感情を音楽にできる 無能な人間の感情は無駄に消費されて虚に消えていくのみ。一切が無価値。 必要のないもので、廃棄されるだけのものなんだよ 08/02/28 他人には、異常に高いものを求める。 それは一般の基準とはかけ離れたルール、規律であり、モラル、道徳であり、レベル、基準。 さらに、物事を0か100かでしか判断しないから、 大抵のものは全身全霊を込めて愛する価値のないものと見なす。 また、100に該当する、自分の条件に照らし合わせて完璧な存在が現れたなら、 0である自分はそれには釣りあわないので、愛する資格はない。 僕の世界は100-100でなければならない。 理想が高すぎる、といわれても関係ない。基準を下げる必要がありますか? 軽蔑され、人を見下す理想主義者、狂人と言われてもいいよ。 狂っていてはいけませんか?あなたは狂ってはいませんか? 誰か僕と一緒に狂った世界を構築してくれませんか? アハハハハハハハハハハハハハハハハ みんな死ねよ。みんな死ねよ。 先生、どうして2回言うんですか つまり、自殺するしかないってことだ。ずっと思っていたはずなのに、 無理に忘れようとし、奇跡的に忘却は実現された。 それは厨二病と、思春期特有の憂鬱からの離脱などではない。現実から目を背けていただけだ。 死すべき僕が、生きられる方法を真剣に考えなければならない。僕が考えなければならない。 思考は人生だ。 つまり、こうして何かを考えている間はいき続けていらr
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目次 1.愛の意味 2.男女愛の高度化 3.家庭愛の進化 4.性と罪悪感 5.罪悪感の起源 6.神理と性欲 7.高次の目的を持て 8.愛と性を超えて (1988年5月13日の霊示) 1.愛の意味 谷ロ雅春です。さて、本章では特に読者の皆さんからもご依頼が多いので、「愛と性の問題」について答えてみたいと思います。 宗教家は、愛については説くことが多いけれども、性については特にタブー視をしていて、なかなかそれに踏みこもうとしない。その理由として自分自身、語る程の経験がない場合も多いが、やはりタブー視、罪悪視して、逃げているというのが現状ではないかと思う。 私は、生前からもずいぶん話はしてきましたが、やはり、この愛と性の問題を解き得ずして、本当に人々へ福音(ふくいん)を伝えることはできないと思うのです。これは、現代の宗教家の使命の一つだと思う。 確かに今から二千年も三千年も前の人であれば、こうした欲望に対して恬淡(てんたん)であれたかも知れないけども、現代人であってこうした性欲というようなものに、まったく関心を持たずに飄々(ひょうひょう)と生きるということは、そうたやすいことではないし、また、そういうふうに生きるということが、一つの変わり者か何かのように言われやすいということも事実であろうと思います。 この意味において、やはり宗教家の使命として、どうしてもこの問題は避けて通れない。単にきれいごとだけを言うのではなくて、具体的、実践的な問題についても答えてゆかねばならん。それが、宗教家の使命ではないのか。私はそういうふうに思います。 こうして見ると、愛という意味も、私は単なる観念論だけではいかないと、このように考えます。やはり、実践というものがどうしても大事だ。実践を伴った愛というのが、どうしても大事であろうと思う。 そこで、愛というのをどのように定義するか。キリスト教的に言えば大変美しい言葉で綴(つづ)られていると思うけれども、具体的にわかりやすく愛とは何か、どういうことなのか、ということを話すとするならば、結局こういうことだと思う。他の人に対して、思いやりを持ち、思いやりの行為をすること。「深切行(しんせつぎょう)」を行ずるということだ。前も少し言ったけれども、「深切」というのは、「深く切なる」と書く。深切行、深く切なる態度で人に接するということだ。通り一遍、表面だけの生き方をしないということだ。 何気なく投げかけた言葉で、人を不幸にするというようなことはいくらでもある。ちょっとした不注意から、人間は不幸になることがあるのだ。そういう現実を知った時に、やはり、私たちは愛に対して、それほど無関心ではいられない。他人に対して無関心ではいられないと思う。自分の傷ついたこと、苦しんだことの原因のほとんどは、やはり人の言葉であったり、態度であったりしたことが多いであろう。それをどう受け止めるかという問題、どう聞くかという問題はあるけれども、やはりそれとは別に、能動的にどのように話していくか、どのように接していくかという問題が残っていると思う。 こうしたふうに、具体的な実践を伴わないで、愛だけを語るということは、これは不毛であると私は思います。愛を語る者よ、まず実践せよ。実践の中に、汝の言葉は光ってくるのだ。汝の観念も光ってくるのだ。そのように考えます。したがって、愛について説けば説くほど、考えれば考えるほど、実践ということの大事さというものを考えて下さい。実践を伴わない愛は意味がない。死んだ愛です。 実践とは何かと言うと、具体的には自分が今、何らかの関わり合いを持っている人に対して、いったい何かできるかを考えてみることです。これができると思ったら、この利他行(りたぎょう)、愛他行(あいたぎょう)を、愛行(あいぎょう)をまずやってみることだ。それで結果が悪ければ、何か自分の思い、あるいは自分のやり方に問題があったのではないか。そうしたことを振り返ってみて欲しいと思います。 2.男女愛の高度化 さて、愛についての一般論を述べたわけだけども、男女愛について、さらにその高度化ということについて語っておきたいと思う。 現在はここが一番乱れているであろう。男女の愛ということが、男と女が性器と性器を合わすという、それだけのことを愛と言っていることが多い。特に十五や十六で「あなたを愛します」というのは、そういうことの方が多いようだ。これは大変問題が多いと思う。 中学生売春、高校生売春というようなことも起きたり、そうしたところで異性をすぐ知ってしまうというようなことが、よくあるけれども、この問題点はいったいどこにあるかと言ったら、まあもちろん性的な行為そのものが悪いとは私は言わんが、それはそれで何も悪くはないのだけれども、ただ、それは幸福という観点から見た時に、本人の長い意味での幸福にならないということだ。親とか、先生とかは、もうちょっと幸福論の見地からも説くべきだと思う。幸福論の見地から防衛をしておく、予防をしておくということが大事だ。 一つには、もちろん女性の場合には、妊娠出産というようなことが予定外に起きるということがあるし、こうしたことはもちろん生まれてくる子供の両親が経済的にも、社会的にも、ある程度立場を確立しているということを前提としている。こうしたこともあるし、では避妊さえしていればよいのかという問題だけれども、結局どういうふうになるかと言うと、「擦(す)れっ枯(か)らしの男女」ができるわけです。擦れっ枯らしの男と擦れっ枯らしの女ができるわけだ。特に十代からできてしまう。これが本当の意味で人間的な幸福につながるかと言えば、私はつながらんと思う。それははっきりしている。 なぜつながらんかと言うと、本当の純粋な愛というのを、あるいは恋愛と言ってもいい、人間が人間として成長していくためには、純粋な恋愛というのを経験しなければいけないのです。純粋な恋愛というのは、肉欲というものを、もちろん想定しないわけではないけれども、それが達成されない、そうした状況において、異性をどれだけ理想化し得(え)るか。これは、人間が大きく成長していくためには、どうしても必要なロマンなのです。 皆さんはそれを知らぬかも知れないけれども、十四や十五で異性の肉体を知ってしまったということは、どれほどその人の青春を汚しているか、虚(むな)しくしているかということの意味を考えていただきたい。十六、十七、十八。十九、二十。二十一、二十二、二十三。この頃は、異性というものがとても素晴らしく、美しく、理想化して見える時だ。この時期は、神さまが私たちに下さった大切な時期なのです。この時期に異性というものが素晴らしいと見えなければ、理想化して見えなければ、その人は一生異性というものを、肉欲の対象として見続けねばならんようになる。これは非常に寂しい人生であるということを、知らねばならんと思う。 これは結局どういうことかと言うと、月給日の前に前借りで、すべて使ってしまう。あるいはボーナスの前に、ボーナス金額前借りで、すべて使ってしまう。そうした発想と同じだ。ボーナス日になったら一円も入らない。ボーナスには借金を払っているだけであって、一円も入ってこない。こうした人生観とよく似ている。そういう意味で、現在のクレジットカード時代と非常に軌を一にした考え方かも知れぬ。 私は、この理想――男女の理想――恋愛という、神秘的な感覚、これをどうしても皆さんに通って欲しい。異性の肉体を知ってしまった人は、異性を理想化することはできないんだ。それがいい女かどうかとか、いい男性かどうかとか、こういうことでしか見ない。肉体的にしか異性を見なくなる。精神的に相手を恋する、理想化するという時期は、これは人間の生長にとってもどうしても必要なのです。これがなければ、文学もなく、哲学も、詩も、なんにも成熟しないのです。私は、その魂の純粋な時期というものを、何年間か持っていて欲しいと思います。 女性には特にそうした純潔が要求されることが多いが、男性は、たとえば童貞であるというようなことを恥ずかしいことのように言うけれども、私は、男性諸君にも童貞であることを誇って欲しいと思う。特に、二十五才までに男性が、女性を経験しているのとしていないのとでは、実は魂的には大きな意味の違いがある。 二十五才過ぎるまで、異性というものを直接経験しないで生きた男性というのは、魂の中にそれだけ理想的傾向がある。これは事実です。現実を克服しようとする理想の力がある。この力は、やがて大きなものを生み出していくことになる。これは事実です。いちばん欲しい時に、いちばん異性が欲しい時に、それを我慢してより高次なもののために努力した経験のある人間というのは、やがて、社会に出て多くの仕事をやっていくようになると思う。歯を食いしばってね――。それが、「まあ、あるがままでいい。まあ、ある時はある時で、その時その時でやっていけばいい」という人間との違いとなっていくと思う。 したがって、本書の読者の中にも若い青年は多いと思うけれども、二十五才を過ぎてまだ女性を知らんという男性がいたら、私はおおいに称賛したい。君たちは克己心(こっきしん)がある。忍耐心があると思う。異性などは経験してしまえば、どうということはないことだ。たいていの人間は、結婚して一ヶ月もすれば自分の妻に飽きてくる。ま、そうしたものだ。三ヵ月ももてばいい方、長い人で六ヵ月、それ以上過ぎれば、「なんだ。こんなことであったか」と、自分があれほど恋い焦がれていた女性というのは、こんなものであったのかと――。こういうふうにたいていの人は感じる。このために、「ああ、あんなに苦しんで損をした」、こういうことになるわけだ。 ただ大事なことは、一人でいろんなことを考え抜くという性格をつくるということ。これは、青春期でなければなかなかできない。二十代でそうした思索的経験を持たない人にとっては、将来、大成するということはないと思う。 この意味においては、私は男女の結婚というようなことは、やはり、これは社会的にそれ相応の立場、経済的条件、こういうものができた時になして当然であって、その先食いのようなことはしない方がいい。それは大いなる幸福の観点からもしない方がいい。 また、男女がお互いに初めて結婚生活に入るということが、どれほど新鮮であるかということを考えていただきたいと思います。決して、そういう性のテクニシャンみたいなものばかりが幸福をつくっていくわけではない。未熟であっても共に生活していく。この方が、私は大きい眼で神の心に適(かな)っていると思います。 3.家庭愛の進化 さて、家庭愛ということに関して、少し考えてみたいと思う。先ほど男女愛ということを話したけれども、男女愛の次は、結婚するわけだから、家庭愛、こうしたことに入ってくるわけです。 家庭愛もなおざりにされているところは非常に多いと思う。宗教の影響力というのが非常に現在では弱まっているがために、家庭での夫のあり方、妻のあり方、これを教えてくれる人がいない。親の子に対する接し方、子の親に対する接し方、これを教えてくれるところがない。それゆえに、家庭の内部については、まったくの治外法権となっていて、任せっきりになっているわけだ。好きなようにしなさいと、こういうふうになっているわけだ。 そして、この家庭の砂漠化、家庭の不毛さが、結局社会の活力を鈍らしたり、社会の道徳を鈍らすということになっているのではないかと思います。 これに対抗するためには、いったいいかなる方法があるか、これについても考えてみたいのだが、結局は、ひとつの理想像が今欠けているのではないか。そういう結論に達するわけです。家庭愛に対する理想像だ。これが欠けている。 これは、たとえば会社であれば、仕事をすればするほど勤務評定されて、給料が上がるというようなことがあるわけだけれども、家庭の中では、妻を愛すれば愛するほど給料が上がるとか、夫を愛すれば愛するほど妻の小遣いが増えるということも、それほどないわけだ。こういうことで、評価されない面がずいぶんあるし、お互いに慣れ合いというところがあって多くを慣れ合いでやってしまう。こういうことがあると思う。 ただ私は、家庭の中でくつろいでいる時間があることも大事だけども、その中でもやはり、役割の違いというものを忘れてはならんと思う。やはり、夫は一家の大黒柱としての自覚、これがなければいけない。だから、妻や子に対して泣きごとは言ってはならん。泣きっ面(つら)を見せてはいかん。こういうところがある。どんなことがあっても、「最後は俺が解決する」という頼もしい性格、これが必要であろうと思う。 また、妻は妻で、いつまでも我(が)を通してはならん。素直に「はい」と従う心、これが大事です。家庭調和の根本は、「はい」という言葉です。「はいっ」とそのままに受ける。そのままに従う。そのままに動く。この気持が大事です。素直な気持、「はい」の心、「はい」という言葉だ。今、「はい」と答える妻がいったいどれだけいるか。「いえ、違います」というような受け方をする妻が、非常に増えていると思う。これは嘆くべきことだと思う。 「はい」という言葉――これが、日本女性の美徳であったのです。「はい」と素直に受け取る心。旦那さまがもし悪いことを言うようなら、その悪いことを言わせるように旦那さまをしむけたのは自分である。したがって、その悪い言葉であっても、そのまま「はい」と受ける。それは自分が至らないからである。自分がもっと一生懸命にやっていれば、旦那さまはそんな無理なことはおそらく言わんであろう、そういう気持が大事だと思う。 女性が「はい」という気持を持っておれば、夫婦生活、夫婦の夜の営みもまた正常になってくるだろう。女性の方が自我意識が強いと、夜の生活もだんだんおかしくなってきて、遠ざかっていくようになる。たいていの場合は、女性の意識が、自我意識が強すぎる。こういう場合には、男性はだんだん安らぎを得られないので、夜の生活を拒否していくようになっていく。 すなわちこういうことだ。女性というものは、男性をくつろがせるような性格でなければいけない。その意味で受け身であって、また、優美さをたたえていなければいけないと思う。権利意識の強い女性の場合は、男性はだんだん遠ざかっていくようになっていく。この辺についても、深く考えておいていただきたい。そのように思います。 4.性と罪悪感 さて、性の問題を語っているわけですから、「性と罪悪感」ということについても、話をしておきたいと思います。 仏教でもそうですし、キリスト教でもそうで、「性」ということに関して、それほど好ましい評価はないし、むしろ欲望という言葉に近い言葉で、表されていると思います。 釈迦が、男女の性というようなものを否定した。その方向に行ったということは、厳然たる事実であります。また、キリスト教の方でも、性欲、性愛というのは、海の水だ、塩水を飲むようなものでのどの乾きを潤(うるお)すことはできない、次から次へとのどか乾いていく、こうした塩水のようなものだ、こういうふうにイエス様も言っているところがある。これはもちろん、釈迦、キリストといえども、自分の生き方、これによってかなり、人生観を左右されているという事実がある。それゆえに、いかんともしがたいところがある。 もちろん性生活というものも、ごく秘められたところがあって、あんまり露骨にその性生活というのが出てくると、いやらしいという気持を受けるのは、これは万人の感情であるので、性の中にはそうしたものもあるということは事実です。 けれども、神聖な営みであるということも事実です。子孫をつくる、という神聖な営みであることは事実で、これを馬鹿にはできない。そのために結婚という儀式をして、親類やあるいは知り合いとかにみんなに祝福してもらって、家庭生活に入るわけです。こうして見ると、性というものは非常に両面性を持ったものだという感じを受けるわけですね。 ただ性というものが、これが子孫をつくるためだけにあると考えると、これまた苦しいことになる。たとえば夫婦生活をしていても、子供二人と決めているなら、その二人の子供をつくってしまえば、もうそうした夜の生活がいらないのか。それは罪なのか。情欲なのか。煩悩なのか。 こうした問題があるということですが、私はそこまで厳格に考えることはないと思う。人間というのは、やはり、ある程度の範囲でゆとりというものも大事だと思うし、楽しみというものも大事であろうと思う。杓子定規(しゃくしじょうぎ)に人生を生きていくだけが、本当の生き方ではないだろう。もちろん手あたり次第に異性に飛びつくというような性格であっては、心の安定もないであろうし、性格の安定もないであろう。 多くの人に祝福されて、自分に合うと思われた伴侶と一緒に生活をしているからこそ、その一定の範囲の中である程度の自由性が許されていると、このように思ってよいと思う。したがって、子供をつくる時以外に性生活はしてはならんという考えは、やはりこれは考え方が違っている。こう思っていいだろう。 というのは、それは人間の生理そのものに起因しているということだ。人間の生理というものは、肉体的に体力があれば一年中いつでもあるようになっている。こうであるならば、やはり、子供をつくったということ自体で、そうした感覚がなくなればいいけれども、そうもならないというところを見ると、まだ夫婦生活をすることが許容されていると、そのように考えてもよいと思う。 性に関しても、特に罪悪感が非常に強い人が多いが、私はもう少しおおらかな考えを持っていてよいと思う。異性に触れれば悟れないとか、地獄に堕(お)ちるとか、こういうふうに考えるのではなくて、もっと魂が伸び伸びとしてもよいのではないか。そうした感じを強く持っています。 5.罪悪感の起源 性と罪悪感について話をしてきましたが、この「罪悪感の起源」ということについても、多少語っておきたいと思います。 こうしてみると、罪悪感というのはいったいどこから来ているかというと、ひとつには、やはり羞恥心(しゅうちしん)からも来ているということが言えるだろう。人から見られたら恥ずかしい。こうした気持から羞恥心が起き、その羞恥心が罪悪感に到っている。こういうふうに言えるのではないかと思う。 また、罪の意識などもそうであろう。罪を犯したという行為、誰にも知られていないと思うが、もし神に知られたら恥ずかしい。神さまから見られたら恥ずかしいという思いから、次に罪悪感へと転化していったのではないか。私はそういうふうに感じるわけです。そうすると、結局、罪悪感というのは、この羞恥心からかなり来ていると言えると思う。 こうしてみると、仏教者たちの罪悪感がどこから来ているかと言うと、やはり似たようなところから来ていると思う。「仏教をやっているということは、悟りを求めている修行者である。修行者であるのに、こういうことをしていたら一般の人から見られて恥ずかしい」。こういう思いがある。肉が食べたいとかいうような思い、これが恥ずかしい。異性への思い、これも恥ずかしい。こうした気持がある。もう一つは、根本仏、仏から見られたら恥ずかしい。こういう気持もあるだろう。こうしたところが、罪悪感の起源でもあろうと私は思います。 こういう観点から見た時に、私は、罪悪感というのはどういうことかと言うと、結局、宗教家たちの罪意識、これから来ているのではないかと思う。 ではなぜ、宗教者たちがそうした罪意識を持っていたかと言うと、すなわちこれは、自分自身に対する「ねばならない」という言葉による執着、あるいはひっかかりが多いのではないか。私はそういうふうに思うわけです。宗教者たちは、とにかく「ねばならない」という考え方が強い。「かくあらねばならない」――枠に入れていくわけです。戒律を自らに課していきます。そして、人にも課していきます。こういう「ねばならない」という意識、とにかく修行せねばならない。「ねばならない」でいろんなものを縛っていく。こういう傾向があるだろう。 羞恥心を経由して、罪悪感が生まれるという話を先ほどしたけれども、次に別の観点から見るとするならば、この「ねばならない」が罪悪感の正体でもある。こう言えるのではないか。「自分は自分で自由に生きる」と、ロで言うことはたやすいが、実際に生きれる人はそう多くはない。その自由に生きるということが、本当に神の心にかなっているかどうかがわからんからだ。だから、わからないということによって、周(まわ)りの人が守ろうとする規律に従おうとする。それで、それを破ると良心が痛む。こういうことだ。 たとえば、小さい頃から「酒を飲んではいけない」というふうに教わると、酒を飲むということに何か罪悪感を感じる。人間がつくったこういう罪意識というものも、ずいぶんある。酒というもの自体は、別に善でも悪でもないと思う。飲む場所さえ間違えなければ、これは善になるであろう。くつろいだ雰囲気で飲まれる時には、本当にいいことになるだろうが、これがたとえば勤務時間中に酒を飲むというようなことになれば、たちまち悪になる。あるいは受験勉強中に酒を飲むということになれば、これが悪になる。 こういうふうに善悪というのは、その時、ところ、あるいは人によって、善となったり悪となったりして現れることがあると思う。これを、その「時、ところ、人」によって区別しないで、どこでも悪だというふうに決めつけるところに、罪悪感の罪悪感たる所以(ゆえん)があるように思う。 したがって、いつのまにか「ねばならない」ということになるわけだ。英語で言うと、した方がよい――ハド・ベター(had better)ということが、しなければならない――マスト(must)という言葉に変わってくる。求道(ぐどう)の気持が強ければ強いほど、そうした傾向があるということが言えると思う。 私は、いったんこの罪悪感を断ち切るべき時がもう来ているのではないか、そういうふうに思います。仏教やキリスト教で何千年にもわたって、人間は燻製(くんせい)のごとくこの罪悪感という煙でいぶられ続けて来たわけだけれども、そろそろそれから離れて、もう一度新たに人間観を打ち立てるべき時が来ているのではないのか。 本来人間は神の子であるならば、本来人間無罪のはずです。人間はもともと罪の子だとする考え方には、私は反対です。そうした考え方が結局、言葉の創化力によって罪悪観をつくり、また罪悪観が悪しき現象を起こしているのではないか。このように考えるわけです。したがって、「罪がある」、「間違った」、「お前は堕落した」というような言葉を使わないことだと思います。「良くなるんだ。良くなるしかないんだ」という言葉を、常々使っていく。そうしたことが必要だと思います。 6.神理と性欲 さて、「神理と性欲」ということについても、話をしておこう。 私は、真理という言葉はいつも「真の理」というふうに書いていたけれども、「神の理」と書いているようだ。これはこれでよいだろう。「真の理」というよりも、真が何かわからないというならば、「神の理」ということでいいわけだ。「神の理」、「神のルール」ということだ。この神のルールと性欲の問題を考えてみたいと思う。 仏教では地獄観というのがあって、「地獄がいっぱいある。八大地獄というのがある。その中には、色情地獄というのが厳然としてある」このように言われている。「谷口雅春は、『罪悪感を去れ。本来罪はないのだ』と言うが、色情地獄というのが本当にあるのかないのか。あるとすれば、それをどうするのか。現にあるのに、『罪はないのだ。ねばならないにひっかかるな』と言うならば、これは大変な惑わかしではないか。その言葉につられて、本当に地獄に堕(お)ちたらいったいどうしてくれるのだ」、こういうふうに言う人もいると思う。 さて、ではどういう性欲がその地獄というものにつながっていくのか、ということだ。本来地獄は無いものであるけれども、一時的な現象、過渡的な現象として、それもあるかに見えることもある。それは、人間の魂が正常でない場合だ。元通りに戻っていない、心を病んでいる場合に、そうした地獄という現象が現れてくるわけだ。 その地獄の現象の中に、色情地獄というものもないわけではない。これはどういうことかと言うと、色情関係に関する心の病のある人たちが集まっているということだ。地獄というふうに言うことは必要もないけれども、そうした同じ傾向の者が集まっている。そのように言うことができると思う。同じ傾向、魂において引かれ合うもの、同じ波長を出している者同士が集まっている世界があるということだ。 この地獄というのを見た時に、何が問題であるかと言うと、すなわち、これは価値の転倒を起こした人たちが行っているところだということだと思う。その人の人生観というのが非常に大事です。唯物的でこの世的、そして人生の最高のものは、もうこれは性欲の達成以外にない、また、そういう思いでもって実践してきた人、こういう人がだいたいそうしたところに行っていると思っていい。 男女の愛の問題、男女の性の問題に関して、いわゆるノイローゼ患者になったような人です。あるいは三角関係で悩んだり、離婚問題で悩んだり、結婚問題でものすごくトラブルを起こしたり、こういうふうにとにかく男女の問題でトラブルが起きやすい方。こういう人が心のノイローゼ患者として、そうしたところに行くということだ。 そうすると、このノイローゼ、その性欲に関するノイローゼについて検討する必要があるということだ。これは、私は基本的には先ほども言ったように、「一夫一婦制」すなわち、妻と夫、これがいて家庭をつくっていくという基本的な枠組みをくずさない方がいいと思う。これでもって、人間はある程度満たされていくと思う。独身者たちにある程度の理性ある行動を求め、そして早く夫婦になっていくように。こうした方向でやっていった方がいいと思う。 性欲そのものは、神の理に反することもどうこうするということもないのだけれども、その使い方、これが問題だ。一日中、性欲で頭がいっぱいのような人であるならば、これはやはり心に問題がある。やはり病気である。心の病気である。このように言える。したがって、そうした心の病気がなくなるようにもっていく必要があると思う。 結局、神理というものは、「これはしていい、これはしてはいけない」ということよりも、それを行うことによってどれだけ心が乱れるか、調和されるか、こうした基準でもって計(はか)っていると言っていいだろうと思う。心の乱れを解く。こういうことが必要なのではないか。私はそういうふうに思います。 7.高次の目的を持て さて、性の問題を解決するにあたって、もう一つ大事なことがあると思う。人間は、同時に二つのことは考えられないということが、よく言われることです。この延長上に、やはり、性欲だけで頭がいっぱいであると、それ以外のことができない、ということが言えると思うのだな。特に受験期の子供たちの場合、異性への欲望をつのらしているとどうしても勉強ができない。高校三年ぐらいになると、恋愛をしているとどうしても勉強ができない。いつもいつも相手の顔が浮かんできて、もう勉強が手につかない。こういうことがよくある。 したがって、人間の心の傾向、二つのことを同時に思えないという傾向から見て、この性欲ということが一時的に悪に見えることがあるということだ。これに対して、どのようにそれを解消していくか、昇華していくかという問題がありますが、私は一つには、人生の目的にも関係するのではないか、そういうふうに思います。高次の目的を持つということだ。人生において高次の目的を持つ。高次元の目的を持つということが、大事ではないかと思う。 それは、心に同じく二つのことを思えないならば、高次のことを考えておれば、同時に低次の考えは浮かんでこないということだ。したがって、高次の目的に対する時間を持てば、その間低次の目的に対する時間が減っていく。そういう相関関係があるということなのです。 だから、この高次の目的を持って生きていない人にとっては、毎日が停滞生活です。毎日がゴロゴロしていて、毎日が何か刺激さえあればよいというような、そうした生き方になってくるわけだ。このような生き方であれば、人生は非常に苦しい、またはかないものだ。何か楽しみごとでもないと、やっていけない。そういうふうになって、やや動物に近づいてくるわけだ。動物には明日がないといわれるけれども、正しくその通りだ。動物には明日がない。明日何しようかというのを考えていない。とにかく目先のこと、今日一日のことしか考えていない。 高次の目的を持っている人というのは、やはり将来のビジョンがある方であると、こういうふうになる。将来ビジョンのための今日唯今(こんにちただいま)がある。そのための久遠(くおん)の今がある。今を生き切るのである。こういう考え方があるということだ。 したがってね、一つの性欲の解決策、性欲に翻弄されて苦しんでいる人たちに対する私からの提案は、「高次の目的を持て」「崇高な目的を持て」、こうぃうことであろうと思う。 あとは、もし日中性欲がムラムラと起きて、どうしようもなくなってきた時にはどうしたらいいかというと、御両親の顔を思い浮かべたり、あるいは会社の上司、上役の顔を思い浮かべる。その人の前で自分が今いるとして、どう思われるか、どう感じるか。こういう感じだ。厳粛な感じになってみるということだ。これが非常に大事なことだと思う。 それと思春期にあって、とにかくもう肉体の欲に引きずられていく男女にあっては、相手にも御両親があるということを考えて欲しいと思う。たとえばあなたが若き男性だとして、道で通りすがりの女性を誘惑したいという気持に非常にかられるとする。その時に相手にも両親があり、また兄弟があるということを思って欲しい。行きずりの性欲の対象者として見るのではなくて、相手にもそうした人間関係があるということを思って欲しい。自分にもし妹がいたら、どうだろうかというようなことを思って欲しい。自分が親であって、娘を持っていたらどんな気持がするかということを思って欲しい。 そうすれば、必ず幸せになって欲しいと思うはずだ。自分の娘にそうなって欲しくないと思うようなことは、自分も人にはしないことです。これはイエス様や孔子様も言っているように、「汝(なんじ)の欲せざるところ、人に施すことなかれ」ということだと思う。結局、息子や娘を持ってみると、よくわかるのです。その気持がね。そういうことだと思います。 8.愛と性を超えて さて、最後になりましたので、「愛と性を超えて」という話をしておきたいと思います。 さあ、高次の目的という話をしましたから、これでもって愛と性を超えるという考え方もあるけれども、結局、私はこういうことだと思うのです。人間は忙しく働いていると、性欲、あるいは性生活についてそうそう考えておられない。かまっておられないという面があると思う。ところが、暇で退屈だと、どうしてもそうしたものにひかれていくということだ。 それと、もう一つ言っておきたいことは、現代のこの性の乱れ、性風俗の乱れの根本原因は、夜型生活にあると私はみています。 夜の時間帯というのは、非常に想念が乱れています。欲望の想念でいっぱいになっている。街角(まちかど)、特に都会の繁華街は、もう欲望の想念がいっぱい渦巻いている。こうしたところを通っていれば、ついフラフラフラと、いろんなものに誘惑されるようになっていくと思う。こうした生活は、今の都市型の生活の弊害がきていると思うのだ。 さすれば私は思うのだが、やはり夜型生活は改めていく必要があるのではないか。朝型生活に切り換えていくということだと思う。たとえば、朝の五時、六時に起きて生活していて、朝の清新(せいしん)な空気に触れ、朝日を浴びた時に、そうしたことが頭に浮かぶだろうか。思わないのだ。たいていは脳が疲労した夕方から夜になってくると、そうした煩悩が角(つの)をもたげてくる。 できるならば朝型生活に切り換えて、そして夜はもう日が落ちて夕食を食べたら、すぐぐっすりと眠る。こうした生活をしている方が、私は健全であり、間違いがないと思う。愛と性を超える一つの方法は、朝型生活にあり。私はそういうふうに思います。 そして朝型生活に切り換えて、朝の時間にしっかりとした神理の書を読むことです。勉強することです。偉人の書を読むことです。寸暇を惜しんで学んでいくことです。さすれば天才ができてきます。そして、人類のために尽くす人が出て来ると思う。 古来、偉人や天才たちはみんな性欲がなかったかと言えば、そんなことはありません。非常に強い性欲を持っていたと思います。そして愛についてはどうかと思うと、愛についても非常に強かったし、また、異性に対する恋愛感情も非常に人一倍強かった。あのゲーテをみても、ずいぶん恋をしていますし、その恋は八十を過ぎてもとどまることはなかった。そうした方であったと思う。 ただそれは、結局その人たちがバイタリティー、エネルギーをそれだけ持っていたということの証拠だと思う。要はこのエネルギーを、どのように使うかということだ。より高次な目的のための奉仕として使っていくならば、それだけの多くのことができるということだ。 私は詩人のゲーテや、あるいはハイネが、恋多かったこと、これを一向に悪いこととは思わん。そのために彼らは多くの詩をつくったではないか。多くの詩をつくることによって、人類に奉仕したではないか。人類の心をなぐさめたではないか。もし、ハイネに異性を思う心がなく、性欲もなければ、私たちはあのような詩を読むこともなかったであろう。ゲーテにまた、異性を思う心がなければ、あれだけの詩を読むこともなかったであろう。そうぃうことだ。 事実は事実としてあっても、それをどちらの方向に使っていくか、向かわせていくか。ここには無限の選択の可能性がある。この事実を知って欲しい。そして、諸君にも早く「愛と性の問題」について、より高次な解決をしていくように願う。結局「ああそんなこともあったな」というぐらいで越えてしまって、日々日々、毎日毎日が、価値ある仕事の連続体であるように、そういうふうに生きて欲しいと思う。まあ、以上です。
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保育観 あいさつ 遊び 絵・歌・踊り 読み聞かせ 飼育活動 劇活動 職員会議 自主性、意欲、思いやり 甘え 0歳から6歳までの発達の流れ 誰かを愛するようになる保育をしたい
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「あれからなかなか人に会えないな…」 言葉こそ軽いが、さやかは上條恭介を生還させるためにゲームに乗っている。 その緊張と精神的疲労は、さやかのソウルジェムを少しずつではあるが、黒く濁らせ始めていた。 手には魔法少女時の剣を持っている。実際なら、先ほど既に一人を殺めているはずだったのに、あの少年には逃げられてしまった。 「でも、今度は絶対、」 バァン。 「ーーーーー、え?」 さやかの胸元から赤い華が咲き誇っていた。 直後に、形容しがたいほどに大きな激痛がさやかを襲う。 「………すまねぇ」 さやかを撃った高校生くらいの少年は、ゆっくりとさやかに背を向けて歩きだした。 追おうとはしたが、できない。 荒耶により、魔法少女の力は一部抑えられている。前までのさやかであれば、並外れた再生力で少年を返り討ちにしていたかもしれないが、今は無理だった。 ーーーそんな ーーーこんなのって、ないじゃん ーーー恭介の役になんて、立ててない ーーーもう、楽になろう ーーーみんな、死んじゃえ ーーーあたしって、ほんとバカーーー 美樹さやかのソウルジェムが真っ黒になり、砕けてしまった。 ◆ もう、美樹さやかはどこにもいなかった。 そこに居たのは、人魚姫の魔女、オクタヴィア。もう彼女に自我などは存在しない。 全てを捨てた魔女は、今破滅の権化となった。 【美樹さやか@魔法少女まどか☆マギカ】 死亡(魔女化) 【残り33/40人】 ◆ 岡崎朋也は、苦虫を噛み潰したような表情で電柱を蹴りつけた。 彼は殺し合いに乗った。 最愛の彼女、古河渚だけでも生きて元の世界に帰すために。もう既に戻る道は存在しない。あの少女は確かに死んだだろう。 「……渚」 ただ、その名前を呟くことしかできなかった。 【深夜/d-6】 【岡崎朋也@CLANNAD】 [思考・行動] 基本:古河渚を優勝させるためにゲームに乗る。 1 渚と春原には会いたくない。 2 春原に会っても容赦しない。渚に会ったら逃げる。 ※渚に告白をした直後からの参加です 情報を制す者は人生を制す 投下順 OPEN THE EYE リア充爆発しろ 美樹さやか GAME OVER GAME START 岡崎朋也 主人公たちの三つ巴