約 197,511 件
https://w.atwiki.jp/yajikumaazu/pages/39.html
業務の終はりも近づいた頃、急遽として熊井に接待役が囘つてきた。 相手は金融廳幹部の立川といふ人物で、これといつた面識は無かつたが、 直々の指名を拒む理由も無い爲、祕書から傳言を受け取ると即座に返答した。 歸りが遲くなるので夕飯は要らない、又先に寢て構はない、等といつた旨のメールを妻へ送信した。 これで、2夜連續、愛妻の手料理が食べられない。夫が食さぬ時の茉麻の飯は簡單になるさうで、 父としては少し娘達を不憫に思つたが、仕事だから致し方がない。 熊井側が歡待する場所は、立川行き付けの會員制高級クラブで、これも相手側の指定だつた。 席に著くなり、立川から見覺えのある顏のホステスを紹介された。 桃子である。 ドレスやアクセサリーで著飾つてはゐるが、熊井にはすぐに誰なのか判つた。 事態を呑みこむのに時間はかゝつたものゝ、どうやら桃子が立川に依頼し、 店へ誘ひ出したのだといふ事を知つた。 しかし、得意客、それも官僚を利用してまで自分に會はうとする桃子の執念は理解し難い。 こんな使はれ方をした立川に、不快ではないか訊ねても、彼は鷹揚に構へてゐる。 「君に粗相があつたからつていふんで、お詫びをしたひさうだよ」と、立川がわざはざ上席を讓る。 洋酒も薦められたので一口飮む。熊井は桃子を見た。 「どうしてこゝまでする?」 「お召し上がりになつて」 熊井を無視するかのやうにワインを注ぐ桃子。 不意に立川が歸る準備を始めた。 「立川さん、どちらへ」呼びとめる熊井。 「桃子は君に貸すよ」と告げる立川は笑顏だ。 「そんな」 熊井は困惑を隱せない。 「さ、立川樣もあゝ仰つて下さつてますから」 桃子は初めから立川と仕組んでゐた。 嵌められた、と思ひながら、熊井は桃子に向き直した。 「夜はまだ始まつたばかりですよ」 さう言つて、桃子は微笑むのだつた。 ←前頁 次頁→
https://w.atwiki.jp/yajikumaazu/pages/15.html
娘の2人ともが、父を出迎えると同時に、土産を強請った。 無論、熊井にそのような代物を用意できていたはずもなく、不興を買うのみだった。 熊井は、スーツを妻に預けがてら娘達を部屋へ押し戻してやり、リビングのソファへ落ち着いた。 後から茉麻がやってくる。 「あなたお酒はいる?」との問いを、熊井は手で払い除け、俄かに妻を抱き寄せた。 子供部屋を気にしながら、茉麻は、腰の引けた様子で夫の腋窩へ身を寄せる。 「急にどうしたの?」 自嘲気味の笑みを浮かべながら、茉麻が尋ねた。 「別になんでもないよ」と淡泊な口調の熊井は、リモコンからテレビを点けた。 夫婦の間に流れる無言の表面を、テレビの音声が滑ってゆく。 躊躇い沈黙ではない。もとより、言葉に被けたコミュニケーションを、 熊井は得意とはしていなかった。飽くまで肉体の距離を誤魔化す虚構に過ぎない。 桃子に奪われた唇の分を、取り戻さんとする気持ちで、熊井は妻の肩に腕を巻きつけた。 茉麻は、夫の腕に包まる様に、その鎖骨へ頭を凭れ掛けてみた。 長細く整った夫の指を愛でる。慣れ親しんできた夫の体温と体臭とが、茉麻を陶酔させた。 できるものなら、ずっとこのままで居たかった。 衣服を脱いで、皮膚も脱ぎ、茉麻は熊井の血肉と同化してしまいたいのである。 夢想や願望は膨張するばかりだが、気を抜けば肉体の現実が、限界を教えてくれる。 ぶふぅう、と放屁の音が響く。 無表情だった熊井が頬で笑った。 夫の方を向こうとしていた茉麻の瞳は己が尻へ。 「シャワー、浴びてくるよ」 腹を抱えながらリビングを出てゆく夫を、空笑いの茉麻が見送った。 ←前のページ 次のページ→
https://w.atwiki.jp/yajikumaazu/pages/18.html
まだ、隣部屋の梨沙子と舞が眠ってもいない時分、父母は男女のまぐわいを行使するに至った。 性欲に効能があるらしい白檀も今宵は出番の機会無く、信楽焼の香炉で彼等の所業を静観している。 女にしては逞しい体躯の茉麻を組み敷く様にして、熊井は仰向けに寝かせてから、 彼女の寝間着を下の方から徐々に脱がせに入った。 身に着けたあらゆる物を剥がされあるがまま赤裸々となった茉麻。 指や掌で表皮を愛撫しながら蜘蛛蛇蠍の如く這い寄って来る夫に捕食を許すべく妻は四肢を絡めた。 夫婦は互いの唇に齧り付くと同時に舌で取っ組み合ったり泡や唾液を押し付け合ったりした。 交わり合う鼻腔と口腔の僅かな隙間に呼気と吸気とが渦を巻いて酸味を含んだ熱感を帯びてゆく。 茉麻が夫のうなじや耳の裏を丁寧に舐れば熊井は妻の鬱蒼とした腋毛の茂みの奥を舌先で突く。 熊井が妻の唇を歯で柔らかく痛めつけては悦ぶと茉麻は瞳を潤ませて夫の耳朶を甘噛みしてみる。 妻が右の手を熊井の下着へ忍ばせ陰嚢を弄んでみれば、彼は茉麻の乳房を粘土宜しく揉みほぐす。 夫は体勢を移動し妻に顔を太股で挟ませる。妻は必然夫の陰嚢を顔に頂きそれを口の中で転がす。 娘達の気づく懼れ、……声だけは漏らさないように、……息の詰まる解放感に妻と夫は更に逆上せた。 が、茉麻が異変を察したのはその直後であった。 「んん、ねえ、ねえパパ、ねえ、あっ、ん、ねえ、きいて」 夫が秘所をせめる事に夢中だったので、茉麻は彼の陰嚢を軽く叩いて声を報せた。 応答は「わかっている」とだけ。 いくら触っても、なぶっても、扱いても、舐めたところで、彼の、熊井の陰茎は萎え、力尽きていた。 それでも、熊井は、せめて妻の肉体だけでも満足させようと思い、あらゆる手を尽くそうと考えていた。 好奇心旺盛で、独創的に性の技を編み出す上に、特に妻の弱点にも通暁している夫の手練手管は、 確かに茉麻の性的鬱憤を晴らす事に非力ではなかった。壁の向こうの娘にも憚らず、茉麻は啼いた。 しかしながら、一時の忘我も、一体となれぬ欠乏と、夫を勃起させられぬ我が身の不徳が、妻を苛んだ。 ←前のページ 次のページ→
https://w.atwiki.jp/yajikumaazu/pages/26.html
昨年の冬頃から熊井は、自分が、勃起不全(impotence) なのではないかといつた不安を抱へはじめた。 妻の茉麻への愛情は變はらないはずなのに、牀を共にすると 不思議な感覺ではあるが、途端に情慾の入れ所を忘れてしまふのだ。 茉麻が夫を誘ひにかける日の夜は、香の匂ひが寢室を漂ふ。 恐らくは、夫婦の途絶えた營みを再開する試みに違ひないが、 應へられる見込みのない熊井にとつて、それは苦痛でしかなかつた。 妻のはうは、今すぐにでも豐沃な肉體を夫の身體に重ね合はせ、 氣持ちを確かめたいのに、對手の視線はよそを向いてしまつてゐる。 ―――いつそ無理矢理のしかゝつてしまはうか、といつた感情も湧いて、 既に寢入つた夫の指を、肉厚の脣に咥えてしやぶる夜もあつた。 慰めも空しいまゝ、半年もの間、ふたりが交はる機會は訪れなかつた。 そんな折、熊井は同社の友人の有原から、バーで女性を紹介された。 有原が取引先で知り合つた社員といふ觸れ込みの彼女は、 桃子と名乘り、質素な出立に黑髮を艷めかせてゐた。 魅力的ではあるが、有原が自分とこの女をひきあはせた理由がわからなかつた熊井は、 桃子が有原の世話を燒く姿や、會話の端々でこちらに視線を絡めようとする樣子を觀察した。 小動物みたく、ちよこまかと行動する桃子に、熊井は、茉麻とは眞逆の性質を見出してゐた。 「部長さんなんですか!」 「意外?」と、熊井は桃子の甲高い聲に合はせず、惡戲つぽく返した。 「ぢやあ~、渾名はくまいちよーさんで」 桃子の思ひがけない切り返しには有原も驚いたやうであつた。 熊井は笑ひながらワインを口にして、腕時計を見た。 「なんだ、お店寄つていかないの?」有原が尋ねた。 「かみさん待つてるから。惡いね。二人は俺なんか氣にせずどうぞ」 熊井は手刀を作つて席を立つた。 別れ際に有原が熊井を呼び止めて、桃子の連絡を渡した。 だが、熊井はまた會ふつもりがなかつたので、紙くづを丸めて捨てようと思つた。 次頁→
https://w.atwiki.jp/yajikumaazu/pages/34.html
翌朝、熊井は夢精してゐた。 窓ガラス越しに曙光を眺めて途方に暮れながら、昨夜を思ひ出した。 とまれ、和合達せぬ己の不能を嘆いてみても始まらない、今はこの恥を隱滅すべきだ、と熊井は考へた。 妻の目が覺めぬやう、愼重にベッドを下り、洗面臺で下著を洗濯した。 しかし、置き場に困る。隱すのも後々問質されるであらうし、洗濯機へ放り込んでも疑はれる。 考へ倦んでゐる内に尿意を催して來たので、トイレのドアを開けると、梨沙子が便座に腰掛けてゐた。 熊井は股間を諸手に覆ひつゝ、慌てゝ飛び出し、理由もなく壁に背を張り付けた。 「吃驚したなあ、ゐるなら電氣くらゐ點けておきなさい」 梨沙子は返事もせず下著を穿き、俯き加減で立ち去つた。 娘の後姿に妻の面影を見るが、思ひ出したやうに熊井は「アイツ手洗つてないな」と呟いた。 用を足した後で、熊井は、濡れた下著を、念入りに絞つてから穿き直し、 ベッドの下に散らかつてゐた、寢間著に用意してゐた、黒色のパジャマを身につけた。 携帶電話に會社と、有原からメールが屆いてゐたので確認してゐると、茉麻が目を覺ます。 夫婦は、無言で視線を交はし、目配せで慰め合つた。 茉麻が用意した朝食も早々に濟ませると、熊井は出勤の支度を始める。 妹の舞に率ゐられる樣に、梨沙子も“再び”起牀し、スーツ姿の熊井を一瞥した。 父と長女は、互ひに照れ笑ひを浮かべた。 ←前頁 次頁→
https://w.atwiki.jp/yajikumaazu/pages/24.html
業務の終わりも近づいた頃、急遽として熊井に接待役が回ってきた。 相手は金融庁幹部の立川という人物で、これといった面識は無かったが、 直々の指名を拒む理由も無い為、秘書から伝言を受け取ると即座に返答した。 帰りが遅くなるので夕飯は要らない、又先に寝て構わない、等といった旨のメールを妻へ送信した。 これで、2夜連続、愛妻の手料理が食べられない。夫が食さぬ時の茉麻の飯は簡単になるそうで、 父としては少し娘達を不憫に思ったが、仕事だから致し方がない。 熊井側が歓待する場所は、立川行き付けの会員制高級クラブで、これも相手側の指定だった。 席に着くなり、立川から見覚えのある顔のホステスを紹介された。 桃子である。 ドレスやアクセサリーで着飾ってはいるが、熊井にはすぐに誰なのか判った。 事態を呑みこむのに時間はかかったものの、どうやら桃子が立川に依頼し、 店へ誘い出したのだという事を知った。 しかし、得意客、それも官僚を利用してまで自分に会おうとする桃子の執念は理解し難い。 こんな使われ方をした立川に、不快ではないか訊ねても、彼は鷹揚に構えている。 「君に粗相があったからっていうんで、お詫びをしたいそうだよ」と、立川がわざわざ上席を譲る。 洋酒も薦められたので一口飲む。熊井は桃子を見た。 「どうしてここまでする?」 「お召し上がりになって」 熊井を無視するかのようにワインを注ぐ桃子。 不意に立川が帰る準備を始めた。 「立川さん、どちらへ」呼びとめる熊井。 「桃子は君に貸すよ」と告げる立川は笑顔だ。 「そんな」 熊井は困惑を隠せない。 「さ、立川様もああ仰って下さってますから」 桃子は初めから立川と仕組んでいた。 嵌められた、と思いながら、熊井は桃子に向き直した。 「夜はまだ始まったばかりですよ」 そう言って、桃子は微笑むのだった。 ←前のページ 次のページ→
https://w.atwiki.jp/ssteam/pages/116.html
個人戦3回戦SSその2 PM 7 21 ショッピングモール アーケード越しの夜空が、安道ハル子を見下ろしている。 立ち並ぶ商店の暖かな光は、彼女の手による極彩色の広告とはまったく違う、生きた色彩のように思えた。 横のショーウィンドウに映り込んだ自らの姿を見る。乱雑に染めた金髪。無頓着な服装。 親子連れが、安道ハル子のすぐ隣をすれ違った。幸せに笑いながら、息子が母親の手を引いていた。 (――後悔だけは、十分に済ませてきた) 湧き上がる不安を押し殺すように、ポケットの中で手を握りしめる。 逃げ続けた果ての人生だったように思う。それでも、何かが間違っていたとは思わない。 心のどこかに、この光景になじまない惨めさを心地よく感じる部分がある、ということは安道も自覚している。 ある意味で誰もが、望んだ姿の通りに生きている。 たとえその姿が、下方修正や正当化で歪み果てたものであったとしても。 それは、数多の広告で人々の望みを歪ませ続けた彼女が辿り着いた哲学のひとつだった。 (……保坂一誠。アイドルか) 安道ハル子は、アイドルと戦っている。人々が望む姿の偶像。『無色の夢』が選んだ敵。 ……背後を振り返ると、監視カメラのひとつと目が合った。 このショッピングモールまで、相手は追ってくるだろうか。 (そうじゃないとこっちが困る。見失うなよ) あくまで自然に、ただ逃げているだけのように見せかけることが、何よりも重要だった。 群れなす数千のファンによる追っかけ。取材記者からの執拗なるパパラッチ―― 誰よりも『追われる』ことを知る存在ならば、逃げる者の立場を想像し、僅かな痕跡を追跡できるだろうか? どちらにせよ、このショッピングモールに到達した時点で、安道ハル子は目的の8割を達している。 逃げるのはここまでだ。 「……派手にやってやる」 『こちらとしても、そのようにお願いしたいところです』 口の中で漏らした呟きを逃さず、イヤホン越しの声が返る。 『準備は、既に万端整っております。今後の手筈は貴女のキャパシティ次第となりますが、 少なくともドリームマッチまでの貴女の生存及び勝率向上は、保証できるかと。 ――無論、相手方は決して殺さぬようお願いいたします』 買い物客を遠くに眺めながら、安道は小さく舌打ちをした。こんな場所でも会田の声が聞こえる。 今すぐにでもこの男の期待を裏切ってやりたい衝動を、抑えつけていなければならない。 敵を真に倒すプランのためには、彼女の魔人能力と……当の会田の力こそが必要不可欠だからだ。 この1日の出来事を思い出す。彼女ら2人は、悟られることなく、完全に仕掛けを終えていた。 「わかってるよ。そりゃ殺しはしないけどさ」 無数の監視カメラが見ている。道行く消費者を。安道ハル子を。そして……いずれ保坂一誠を。 広告の真髄は、消費者を騙す技だ。誰も気付けないうちに、獲物を罠にはめる。 「悪夢を見せてやる」 夢の戦いは、まだ始まっていない。 AM 5 08 マカマカ教団事務所 長く、待ち望んだ日が来た。 電話口でそれを告げた保坂一誠の言葉は短く、師父である天川宗理も、何も言わずにこの応接室に現れた。 「相手の出方次第だけど、犯罪のリスクも俺はありだと思っている」 ソファに座り、膝の上で指を組んだまま、保坂一誠が呟く。 開け放たれた窓からの風もなく、夏の空気は気怠く淀んでいた。 特徴的な三白眼は、一日のはじまりの薄明に浮かび上がって見える。 「始まる前にブッ殺す手か? そりゃ……」 向かいのソファで座る老人――天川宗理は、何かの反論を挟もうとして、止めた。 身振りで、まずは弟子に続きを促す。 「……殺すまではやらないさ。戦いが始まるまでに、最悪でも安道ハル子の足を潰しておきたい。 頭をブン殴るわけじゃないし、折ったとしてもまず間違いなく量刑は罰金で収まる。 理想としては右足の捻挫か、脱臼ってところかな」 「右足だァ? 安道ハル子の利き足もまだ分かってねぇだろおめぇ」 「――おいおい、ズレてんな? ボケはもうちょっと後にしてくれよ」 保坂は皮肉げに笑った。こういう時の保坂一誠は饒舌になることを天川は知っている。 議論や暴力の中で相手のイニシアチブを奪うことを楽しむ悪癖を、矯正してやるつもりもない。 アイドルとして必要な資質のひとつだからだ。 「俺が思うに、安道の勝ち筋で現実的な可能性は……戦闘領域離脱だけだ。 アンタの経験上、リングの境界は感覚的に分かるらしいけど、あいつの魔人能力はその感覚を乱すからさ。 境界付近で情報過多にさせるか、向こう側に自分の姿を投影するかで……踏み越えさせる」 「走る足がなけりゃ、誘いも隠れもできねェってか?」 「分かってないな。そうとも限らないから右なんだよ。夢の空間に車が置かれてる可能性だってある。 利き足がどっちだろうと……アクセルを踏むのは右足のほうだからさ」 「ハッ」 天川は、その考えを鼻で笑った。冷めた焙茶を飲み干す。 「おめぇは裏をかきたい気持ちが強すぎて、効率悪い手しか考えつかねェんだよ。 夢の戦いはタイマンだぞ? 仲間も呼べねえ、仕込みもできねえ。ならアイドルやってるおめぇの勝ちだ。 これよりマシな状況に持ち込めねえなら、そいつァおめぇの自己満足だわな。 それともアレだ、こっちで襲って、間違ってブッ殺しちまった時、どう言い訳するか答えられるか?」 「……戦いが起こらなくても、報酬の夢を見てる間は昏睡状態になるんだろ。 俺に殺人容疑がかかったとしても……その間は、勾留の執行停止が成立する。時間が稼げる。 アンタの弟子連中でも動員して、証拠なり目撃証言を――いいや」 準備期間は1日しかない。通常の倫理を逸脱した仕込みまでは、非現実的だ。 せいぜい、どこかに呼び集めたり、人海戦術で誰かを探し出させる程度だろう。 一部の信者による過激な事件が週刊誌を騒がせることもあったが、 マカマカ教全体の割合としても、違法に踏み込めるレベルの狂信者は滅多に存在しない。 「ボケてんのはやっぱおめぇの方じゃねえか。組織でぶつかりゃ、こっちが勝てねえよ。 安道の側にゃ――企業がついてやがんだからな」 安道ハル子の魔人能力については、2時間もかからずに調査させることはできた。 彼女の『あらゆる広告を展開する』魔人能力は、それ自体が自身の能力を喧伝するものだからだ。 ……そして、同時にそれは、彼らが敵に回すバックの大きさを知る結果ともなった。 具体的なプロジェクト内容は不明だが、安道ハル子を活用しようと目論む企業は、あまりにも多い。 仮に夢の戦いに勝利したとして、その後、社会的な脅威に追い込まれることはないか…… 「……下手に動くんじゃねェぞ。一誠」 「相手の出方次第って言っただろ。日が沈むまでに終わらせる。 こっち側で壊すのは、最悪の展開になった時だ」 保坂の横目が差し込んだ陽光を睨む。 どちらにせよ、保坂一誠は動くつもりだ。それが天川にもわかった。 やはり、悪癖だ。 PM 7 57 ショッピングモール ショッピングモールの光が、天の月をかき消している。 ムーンライトバタフライゴシックを身に纏う保坂一誠にとって、不吉なステージではあった。 安道ハル子が、あらゆる仕掛けを講じて迎え撃ってくるであろうことは、保坂も認識している。 今は、敢えてその状況に飛び込む必要がある。 (それでも……この1日、あらゆる不測の事態を想定して打ち合わせてきた。 大抵の状況になら対応できる。……今、やれる) ライブステージに臨む獰猛な眼光。ゴシックドレス調のコーデから覗く高密度の筋量。 周囲の買い物客が、保坂一誠を前にざわめき、道を作るように退いていく。 臨戦態勢に入ったアイドルが街に現れれば、当然そのようになる。 遍く生命には、捕食者の威圧と存在感を察知する、五感とは異なる原初的な防衛本能が備わっている。 オーラと呼ばれるそれは、特に強力なアイドルの出現を知らしめるものでもある―― 「安道」 捕食者が不意に呟き、視線を爪先に落とす。 【……の成分は、な、なんと! 《100%》 無添加・天然素材なんです! ある商品をたった《二週間》使っただけ! その驚きの結果とは!? 知りたい方はいますぐクリック! ↓↓↓URLはこちら↓↓↓ 】 無限じみた改行で羅列された、不自然に長大な広告が、保坂の足元に伸びている。 接触した物体の全てを広告媒体と化し、自由自在なデザインの広告を即座に掲載する魔人能力。 『興國アド魅ラル』という名で呼ばれていると聞いている。 「――そいつは、俺には効かない」 そしてこの時、保坂一誠もまた、魔人能力を使用している。 事実、圧倒的訴求力を誇る安道ハル子の宣伝の魔力は、この短い一言で無意味化されていた。 ――『自明なる公理』。自己暗示の範疇が許す限り、自身に対する言及を揺るぎない真実に変える能力。 偶然のめぐり合わせか、果たして無色の夢が意図してそのような悪意を振るったのか。 精神をかき乱す安道ハル子の広告効果に対し、まさに天敵となる魔人能力であった。 【エッ!?ぼくの週休が五日に!】【★超・応援★ムフフなお付き合い…】 広告を意に介することなく、王者のごとく歩を進める。 接触した箇所を起点に、広告を展開する能力。それを逆にたどるだけで良い。 「予想外だな。いきなり本体を晒すってさ」 「なんッで、効かねーんだよ……! 待った! お兄さん、まずあたしの話を聞いてかない!?」 「いいよ。まずどこか折ってからだな」 フリルスカートのポケットから、手に収まる程度の小石を取り出す。何の変哲もない飛び道具だ。 始球式という旧習を思い出すまで、遠距離がアイドルの間合いではないと錯覚する者は多い。 「いやそこまでする!? さすがに犯罪――」 ……その時。保坂一誠は、怯えたように右手を翳す安道ハル子の、左手側の動きに気づいていた。 まるで秒読みのように、簡単には気付かせないように、指を折っている。3、2、1。 安道が一瞬逸らした視線を追った。そして。 「――じゃないんだよね、これ!!」 横合いから飛び込んだ5tトラックが、保坂一誠の眼前にあった。 PM 0 12 パブリック・プレジャー株式会社 殺風景なオフィスに会田が姿を現したのは、ちょうど正午を回った頃だった。 一方安道は、『無色の夢』から目覚めてすぐに呼びだされ、ずっと1人で待機状態だ。 「遅くなってしまい、申し訳ありません。ヌシ様方との最終調整がどうしても必要でしたので」 「別にいいよ。謝るフリもやめろ。それより、本当に保坂一誠ってやつと戦うことになるわけ? あたしが?」 「……ええ」 会田は直立不動のまま、無機質な笑みを浮かべた。 「確実です」 原理は不明だが、この広告戦略を仕組んだ『DMネットワーク』なる実態不明の企業は本当に、 自由自在に無色の夢を見る……あるいは見せる方法を確立しているらしい。 というよりも、むしろこのノウハウを市場に売り込む目的で設立された企業と考えるべきかもしれない。 どちらにせよ、まともな連中ではない。 「勝敗問わずっていうのが、まず分かんないんだけど。まあ、ろくな説明がないのはいつものことだけどさ……」 「その件に関しても、先方とのミーティングで詳細な段取りを受け取っております。 貴女にはDMネットワーク社様の広告を可能な限り、ドリームマッチの場に掲載していただくことになりますね」 「……そりゃあ、今回のスポンサーだとDMが一番多く出資してるわけだし、大体はそうなるんじゃない。 それだけ? 賞品だか罰ゲームだかの夢があるって話だけど」 「ああ。それは、今回の商品とは関係ありません。副産物です」 無表情のままで、会田はあっさりと断言した。 瑞夢も凶夢も、この男にとっては等しく無価値なのだろう、と安道は思う。 「そもそも、何故『ドリームマッチ』が行われるのか? 競技のように、同じ魔人という条件で、隔離された平等な状況下において。 そして、勝敗は誰が裁定し、なぜ戦闘後の仮想体験が瑞夢と凶夢に分岐するのか。 DMネットワーク社様はこれらの原因を、その戦闘にオブザーバーが存在するため、と結論づけております」 「……『観察者』。あたしらを殺し合わせて、楽しんでるやつがいるってことになるのか」 「その程度の単純な動機であればより良いのですが。 重要なのは、オブザーバーが実在するのだとすれば、そこに知覚があり、精神がある、ということです。 少なくとも『ドリームマッチ』の間は、夢の内容を観察している――」 安道は、胸が悪くなるような悪寒を覚えた。自分が何をすべきなのかを察したからだ。 比喩ではなく、この連中の底知れない傲慢さに嘔吐しそうな気分だった。 「つまり、こう言いたいんだな? ……あたしに、『観察者』向けの広告を作れと?」 「ええ。接触は一度で構いません。貴女の広告がその1人の顧客に十分に訴求した場合は、 我々が動かずとも、顧客側からのコンタクトが期待できるとのことです。 オブザーバーが所有する莫大な広告スペースを、我々が買い取ります」 ――DMネットワーク社が安道ハル子に作らせようとしているのは、『広告業の広告』だ。 仮に『観察者』とやらが金銭価値の概念を持たない何かだったとしても…… 例えば、競技を盛り上げるさらなる生贄の提供を。人間の世界が生み出した、多種多様な堕落と娯楽を。 この狂人どもは、あらゆる対価を惜しみなく差し出すのだろう。それも、人間の夢を土足で踏み荒らすために。 (……こいつら、破滅させてやる) 何度頭に過ぎったか分からない思考と共に、脳を回転させる。すなわち、この戦いに勝利する方法だ。 夢の報酬についてヌシが無頓着であることは、ひとまず有益な情報であったはずだ。 「……会社の連中を使って調べさせてたみたいだけどさ。アイドルなんでしょ? 保坂一誠ってやつ」 「そのようです。その分だと、存外に早く、調査成果が上がっていたようですね」 「試合開始前にやれないかな」 「と、申しますと?」 「いや、あたしの実力でいくら逃げまわっても、本職のアイドル相手に、多分1分も持たないしさ。 すると、これだけ金が掛かったプロジェクトでCM枠が1分って事に。 試合開始前に相手がボロボロになってたりしたら、もっと時間掛けてやれるんじゃないかなー……って」 安道の内心は、全身が冷や汗に浸るような心持ちである。 だが、事前に十分に動揺は見せている。今更不信にも思われないはずだ、と楽観すべきだ。 ……敵を倒すために、こいつらの力を利用させてもらう。 「あのさ! この前の夜魔口の配信? あれ使えると思うんだよね! 場所と人間さえいい感じなら、あたしの能力だって結構いい線行けると思うしさァ……! 決まった場所で、あたしと保坂の戦いを広告主様に中継するってやつ…… リアルタイムで広告料を振り込めるようにすれば、残弾の問題だって解決するだろ、これ」 「成程。一理ある意見です。前回の試みは想定以上の成功を収めておりますので、説得材料は十分ですが」 「そ……そうだろ。その上で、保坂を半殺しにする」 前例を持ち出したことが功を奏したのかもしれない。 もちろんどのような提案であれ、最終的な決定権はあくまで会田にあるのだろうが。 「それと――こっち側でやるなら、もうひとつ掲載しときたい広告があるんだけど」 PM 8 03 ショッピングモール 中型トラックの直撃を受けて、保坂一誠は消失した。 ――少なくとも、次の一瞬はそうなったかのように見えた。 「……嘘だろ」 直後の安道は、苦々しい、呆れたような表情を浮かべた。アイドルとは、これほどのものか。 おそらく直撃の寸前、ギリギリまで地面に伏せて、車体の下を潜っていた。 反射神経はもとより、どのようなアイドルレッスンを経ればそんな柔軟さが身につくのか。 「そういう避け方、する!? そりゃ、この程度でやれるなんて思ってなかったけど!」 立ち上がった保坂をめがけた軌道で、さらに斜め後方からセダン。 これは軽いステップで回避される。だがその直後、左からミニバンが。 同時に反対側から走り来たもう1台を踏み台にする形で切り抜ける。 激突音と悲鳴が、重なりあって響く。すべての車両が、続けざまに商店を破壊した。 「なんだこりゃ……アンタの攻撃か?」 驚くべきことに彼は、次のステップの蹴りで、軽自動車のボンネットを破壊すらしてみせた。 ……ドライバー達がいくら撃破されようと、その実彼らは安道ハル子の仲間ではない。 ここまで保坂を襲っているのは、すべてが不幸な脇見運転の『事故』にすぎないのだ。 ただしその不幸は、言うまでもなくこの安道ハル子に起因している。 最初に展開した長大な改行広告を足がかりとして、ショッピングモール内へと張り巡らせた壁面広告だ。 【「金ならいくらでも出すわ!」普段は強気なアイツが…?「もっと…見て…」《全話無料》】 2014年、ロシア・モスクワ。女性の胸を強調した移動広告の宣伝用トラックが、 多数の男性ドライバーの脇見運転を誘い、1日のうちに実に517件の交通事故を引き起こした。 会社は自主的に補償費用を支払ったものの、この事件による行政処分を受けていない。 ――広告に触発された行為の責任は、消費者の側にある!! (罪を犯さず、勝つ。あたしの能力にはそれができる) 先ほどからの無軌道な広告展開すらも、例外ではない。 映像配信の準備の他に、戦いの場をこのショッピングモールに定めた理由がある。 『くれぐれも、有効なスペース活用をお願いいたします。 戦闘行動に不要な分も含め、出来うる限りの広告掲載を』 イヤホン越しに、会田の声が届く。 安道の戦いはドリームマッチの前哨戦であると同時に、PP社にとっての広告商品でもあった。 『そのために……このショッピングモール全域を、ひとつの巨大広告として借り受けているのですから』 この商店街の不動産は、このビジネスに参画したヌシのグループ企業が所有している。 そうだとしても、半日足らずでこれほど大掛かりな『イベント』を押し通した手腕は、 卓越した広告展開力を武器とする安道からしても、驚異的という他ない。 ドリームマッチを勝ち抜くのならば、会田は確かに恐るべき後方支援者だった。 「……カメラの集まるキルポイントに保坂を誘い込んだぞ。もうどの方向からも見える。 あたしの広告の扇動で、車と人間を、くたばるまでけしかける。 あいつが包囲を逃れてくるなら、そっちのほうでも把握できるんだよな?」 『無論、その程度であれば私が直接オペレート可能です。 貴女の方は、ああ。現在は逃走中と』 「当たり前だろ……あんな出鱈目な野郎、もう絶対近づかないからな! どれだけ広告を展開しても、スペースも金も尽きない。保坂の映像もモニタリングできる! もっと離れたところから、安全にやる……!」 ポケットの中に入れた手を、また不安に握りしめている。 先ほどのトラックとの交錯で保坂が見せた身体能力は、想像以上だ。 本物の……最強を標榜した時代のアイドルをやっているとの情報も、ハッタリではなかったのだろう。 ただ買い物客を暴徒化させたり、交通事故に巻き込ませるだけでは、試合の形すら成せないはずだ。 「それに……もうひとつの仕掛けのほうも、もう動いてるだろ」 夜魔口の一件でPP社が得た収穫は、もう一つある。 苛烈な戦闘で配信視聴者を興奮状態に置けば、広告商品の売上高は飛躍的に向上するということだ。 安道ハル子としても、広告主を十分以上に満足させる必要がある。 「何人来た?」 PM 8 09 ショッピングモール 先程まで穏やかな夜に息づいていたはずのショッピングモールは、 炎と狂騒、そして猥雑な広告の光と音に蹂躙され尽くしていた。 (……なるほど。事故の混乱に紛れれば、ある程度直接やりあっても誤魔化しが効くか? しかも今の玉突き事故で、アーケードの入口を塞いだ…… 警察や消防の横槍を入れずにやりたいわけね) その只中。脳裏に暴走車の襲撃を反芻しつつ、保坂一誠はひとつの違和感に気づく。 最初の5tトラックの強襲に、なぜ気付けなかった? 壁の広告に衝突した乗用車は大破したが、あのトラックはどこににも見えない。 「……俺には」 『自明なる公理』。一瞬で判断する必要がある。 「俺には、聞こえる」 潜在能力の全てを傾けた聴力は、それを捉えた。死角となる背後から迫るエンジン音。 重量に見合わぬ異様なほどの静音は、そのためだけにカスタムされているとしか思えなかった。 今度は、十分な余裕を持ってトラックの突進を回避する――が。 「うッ……お!?」 すれ違うトラックのコンテナ部分の形状が、突如としてひし形に『膨らみ』、保坂の頭部を刈ろうとした。 予兆を聞き取れていなければ、身を屈める間もなかったかもしれない。あまりにも予測不能の変化。 しかもコンテナの形状は、次の一瞬で直方体に復元している。 (魔人か。こいつ) 暗殺トラックは、その巨体で見事にサイドターンを決め、明確な殺意でこの道幅を反転してみせた。 ドライバーと『コンテナを変形させる』能力者は別であろう、と保坂は推測する。 あの操縦テクニックを奮いながら、魔人能力で攻撃を仕掛けているとすれば、集中力が持たない。 敵は2人―― 「ああ」 一瞬の判断。アスファルトの中から『湧いて出た』腕の手首を、保坂は爪先で切り払っていた。 アイドルのダンスレッスンがステップを最も重視するのは、下段への警戒と、対処のためでもある。 「……3人かよ!」 「キヒッ。速いねあなた」 甲高い笑い声とともに、黒い包帯に覆われた手が再び沈んだ。 地中からの手を掴んで捕らえることはできない。たとえば物質に潜り込み、泳ぐ魔人能力の使い手か。 こちらに相対した暗殺トラックが加速を始める。コンテナが四次元図形のように蠢く。 ――コンテナの変形がある。轢殺の『間合い』が読めない。そして奇襲するダイバーが1人。 「フ。本気かよ」 保坂一誠は笑った。絶好の機会を前にした今、それがもっとも自然な反応だった。 あの伝説のアイドルの、あの天川宗理の技を受け継いできた。 誰もを魅了する、真のライブパフォーマンスのためには、それを見せるに値するファンが必要だ。 「なかなか面白い相手を用意してくれるじゃないか、安道ハル子……」 PM 8 19 パブリック・プレジャー株式会社 「――ええ。送り込んだ者は、3人です」 広告戦略資料をなめらかに作成しつつ、試合映像を注視し、電話口の問い合わせに応答する。 人間性と引き換えにそう生まれたのか。会田という男には、経営者として明らかに非凡な才能があった。 もっともその欠落故に、安道ハル子と同じような、非合法の闇の内に生きるしかない人種なのだろう。 「全員が、我々ドリームマッチ・プロジェクトとの無関係を保証された魔人傭兵です。 同時多発事故の混乱に紛れて、保坂一誠の戦闘不能を確実なものといたします」 ひとつの箱として認識できる室内を、自在に変形させる能力を持つ者。 付近の対象1人の視界を、運転する車両のカーナビに反映する能力を持つ者。 およそ影と認識される、あらゆる領域へと潜行する能力を持つ者。 相手を誘う狩りならばともかく、屋外の乱戦であれば、このスリーマンセルが最も有効な編成なのだという。 コンテナ内に守られた『ボックス』の質量と破壊力を、『ドライバー』が機動力と奇襲性で運用し、 僅かでも綻びが生じたその時には、影に隠れた『ダイバー』が抹殺する。 『えっ、3人も集まったの!? 多すぎない!?』 顧客との会話を傍受していた安道が、驚いたように口を挟む。 「貴女の広告がそれだけ顧客にアピールしたということでしょう。 それと、インセンティブの額はこちらで設定させていただきましたので」 安道ハル子が掲載を提案したのは、彼女自身がスポンサーとなる広告だ。 内容は、彼女が最も訴えたい事柄――保坂一誠の殺害ミッションのための『求人広告』。 自分自身が戦わずとも、戦う力を集めることができる。 彼女の広告クリエイティブはその観点で、何よりも巨大な影響力を持つ稀有な才能であった。 『それより』 傭兵用無線機の向こう側で、『ボックス』が会話に加わる。 『カメラでターゲットの動向が分かるのはいいけど、モニタが無線だから画質がよくない。 車体を潜って来た時はチャンスだったのに、これで2回外した』 「装備の変更はありません。コンテナ内の電波状況ですので、ある程度了承していただく他ございませんね」 『しかたないな。ちょうど連続して下に潜ってくれてるから、とりあえず『菱』の頭狙いを何度かやって、 地面まで届かないと思い込ませた頃合いに、『屋根』で膝丈を切断してみる』 通話内容を裏付けるように、モニタの中の保坂は、3度目の轢殺を回避していた。 ヌシ達の快哉めいた声も届いてくる。順調だ。極めて順調に、マーケティングは推移している。 『あと、俺は荒い映像だからいいけど、ドライバーが広告を直視しなきゃなんないのがきついのかもな。 さっきからターゲットに直撃できない。クスリだけで精神影響を抑えるのは結構な負担じゃないのか?』 『どうなんスかね? 毎回きっちり視界の外からカマしてるんスけど、もう当たんないッスよ。 せめて狭いとこに逃げ込んでくれれば、先輩――ボックスの『針』でエグり殺せるんッスけど』 『わたしへの反応も速いけど、トラック避けてるのは妙ね。感覚強化か近未来予知と見たよ。 一撃狙いが当たらないなら、あいつの足止めて打ち合うしかないね』 『ドライバー』と『ダイバー』も、ターゲットの怪物じみた勘の良さを警戒しているようだった。 保坂一誠を相手取るにあたって、多くの者が最大の懸念事項として挙げたのが、魔人能力の不明さだった。 まったく無用な能力なのか。それとも完全に、使っていることを悟られない類の能力であるのか。 「――皆さん。ミーティングでお伝えした通り、他に警戒していただきたいことが」 会田の考えは違う。ショッピングモール全域の監視カメラにも、まだその最大の脅威の予兆はない。 「天川宗理です。SSランクのリスクファクター。伝説通りの危険度ならば…… 最悪の相手を、最悪のタイミングで殴りつけてくるでしょう。確実に」 PM 8 22 ショッピングモール 【*警告*悪質なソフトウェアに感染しています!】【あなたの漫画が本になる!?】 【実際安い】【あのiPadが……《限定》¥0】【本格的で、しかも基本無料】【今夜は爆乳で……】 保坂一誠は、冒涜的文面を吐き散らす広告の海に包囲されていた。 そのひとつひとつが、誘蛾灯的魔力で欲望を暴走させる、悪魔の認識兵器。 「ヤスイ……ヤスイ」 「イマダケ……ゲンテイショウヒン……」 「ニク、オイシイ。ネットクーポンナラ40%オフ」 譫言を漏らしながら虚ろな目でショッピングモールを徘徊する、ゾンビめいた有様である。 1時間前で平和を享受していた買い物客達は、いまや完全なる資本主義の奴隷と化した。 ああ。これが、欲望に突き動かされて進化を遂げた人類の、行き着く果ての姿だというのか。 しかもこの奴隷は、明確な広告配置パターンの流れに沿って、保坂一誠を包囲し、呑み込もうとしていた。 人をコケにした【 本 日 の 主 役 】のライトアップがロックオンマーカーの如く保坂に投影されている。 (……急迫不正の侵害。集団の暴徒や殺し屋相手に素手でやってるうちなら、正当防衛は成立する。 全力でやらなきゃ負ける。多対一のやりかたができなきゃ……アイドルは、話にならない) 一度でも掴まれ、押さえこまれたら終わりだ。スイッチを切り替えた後の動き出しは、保坂のほうが速い。 「――《涙の朝日》」 ~《涙の朝日》~ 作曲:真鍋智 作詞:ギャランドゥ=ウィトゲンシュタイン 「♪水面に揺れる 過去 と過去♪」 掴みかかってくる正面の相手の鼻面を殴り、反対側の手刀で別の相手の首を打つ。 「♪砂時計のように 指から崩れる の♪」 次の相手に叩き込んだ掌底は、顔面をすべらせるように襟首に。 指を引っ掛け、体勢を崩す予備動作になる。 「♪行かないで ひとりにしないでー♪」 同時に近づいていた2人の間にその体を割り込ませ、動きを止めたところで、右手側の敵に金的。 決して、1人にはしない。 「♪私の影 寂しそうにぃー 泣い てる……♪」 返す足で背後の相手の膝を砕く。 黒い包帯を巻いた手が生えつつあった地点に被せるように調整した。 今はこの潜行の殺し屋にすべての集中力を傾けるべきだ。2秒後には、蹴り足の反動で大きく跳んだ。 「♪ああ 夜明け 夜明け♪」 直後、無数の人間を轢き潰しながら、5000kgの鉄塊が眼前を通り過ぎる。 背後の暴徒を倒したのは、いざという時の回避方向を確保するためでもあった。 「♪涙のー 朝日が やみに泣く……♪」 保坂を狙ってブレード状に変形したコンテナも、密集しすぎた群衆の肉が阻む形になる。凌いだ。 「――まだだ。この程度じゃない。アイドルを舐めてるのか」 強い言葉で断言する。圧倒的実力差の勝利に見せかけるためだ。 ただ個人が群衆を制圧するだけのことなら、サブマシンガンでも持ち出せばずっと話は早いのだろう。 だが、それは武器の強さであって、個人に属する強さではない――少なくとも観客は、そう認識する。 武器が強かったから。仲間を引き連れていたから。環境が有利だったから。卑劣な手段を使ったから。 アイドルの強さは、そのようなものであってはならない。 少なくともステージの上でだけは、そうした言い訳のできない、最強の存在でなければならない。 「俺を見せてやる! もっとファンをくれ!」 「オオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」 吠える保坂一誠に呼えるように、欲望の奴隷たちも熱狂した。 一般人多数。5tトラック1台。戦闘型魔人能力者3人。支援型魔人能力者1人。スポンサー多数。 かつては、誰もが知っていた。多対一の戦いは、アイドルにとって不利ではない。 ファンが多いほど、その憧れを一心に受けるアイドルもまた、強くなるものだからだ。 「……来いよ。全員、叩きのめしてやる」 誰もが圧倒的不利に思う。保坂一誠自身すら。その流れを引き寄せる瞬間を、待っていた。 ライブパフォーマンスの時だ。 「――《君 Dream...》」 ~《君 Dream...》~ 作曲:つきゆび 作詞:菜々原メイコ 「♪君との約束……忘れてないよ♪」 トラックが轢き殺した死体の山に踏み出す。押し寄せる群衆の足場を制限する。 「♪僕たち 大切な Partner♪」 当然、判断力を失った暴徒のひとりが躓き、よろめく。 「♪倒れそうなときは そばにいるっ のっ♪」 倒れそうな恋人に寄り添うように、ベルトを掴み、上手投げめいて倒す。別の相手にぶつける。 「♪君の背中 守らーせ て♪」 あえて背後に隙を見せる。だが、その一瞬を狙った相手には、 掴んだ暴徒をカウンターウェイトにした、後ろ足のハイキックがヒットしている。 絶好のコンディションだ。このまま歌い切れば―― 「♪信じてくれれば I ll Go Dreaming 夢の【アッ夢の新技術!マイクロ水素原子のすごいチカラ!】」 リズムが乱れた。耳障りな音声が割り込む。 ――なるほど。そういう演出で来たか。 「俺は、歌を乱さない。♪……の日、君のノートに【★驚愕★☆★お得情報満載!?★】だったね♪」 顔が歪む。右腕で、まともに角材を受けてしまったからだ。初めてクリーンヒットを食った。 振り下ろされた角材は掴むのではなく、踵で踏み、押さえ込む。両腕は背後の敵に備えなければならない。 『自明なる公理』の暗示がどのレベルまで有効なのか、保坂自身にも保証することはできない。 「♪今も【人気グラビアアイドルの×××画像♪】見つめて【《絶対儲かる》お金…困ってませんか?《FX》】」 ショッピングモールのスピーカーから。店舗が掲げる看板の全てが。アーケードの天蓋が。 すべてがノイズ情報のスクリーンと化し、誰もを悪意の泥沼に飲み込んでいく。 「♪【得袋→Click←】に君 Drea【DMネットワーク!新たな広告ソリューションを提案します!】」 ――1番のサビを封じられた。その事実を認識するより早く、黒い腕が伸びている。 ナイフはかろうじて左掌で止めた。 生体にも潜り込めるのか。潜行の殺し屋の腕が、広告の光で逆光となった暴徒から生えていた。 「♪【ちょっとモテすぎて困る件wwwwww】【お試しセットなら三週間無料】【安全なお・く・す・り】」 「多勢に無勢。あなたようやく終わりね」 中手骨に通したままの刃を返して、左腕を捻られる。痛みとともに、体幹に不自然なモーメントをかけられる。 この状態で固定されるのはまずい。空いている右腕で打ったとしても、腰が入らない体勢になる。 格闘技相手の『やり方』を知っているやつだった。それに、暴徒相手の戦いを観察されすぎた。 保坂は広告の海に抗いながら歌唱している。能力のために息継ぎをする暇もなかった。 「♪【○珍!?秘宝映像】なときは そばにいるっ 【嫁と姑…骨肉の争い…《今すぐ全話読む》】」 黒い包帯の殺し屋は、空いた左腕で、新たなナイフを腰から引き抜こうとしている。 口元に歪んだ笑みが覗く。おそらくこの男は、広告の狂気に抵抗していないのだろう。 すべての欲求を殺人のモチベーションに直結する才能。故に、この敵をもっとも警戒すべきだった。 「♪そっと教えてくれた ポエムの【水晶パワーで『痛くない』0%の運『俺は強い』】だから♪」 ――『自明なる公理』。突如として割り込んだ言葉が、痛みを消し、筋力を強化する。 ロックされた左腕を強引に引き戻し、ナイフを握る敵の右腕を逆に捻る。 腹部を狙って突き出された切っ先は逸れて、肋骨を浅く削るだけだ。 「キヒッ」 殺し屋は素早い判断で右手のナイフを離し、影に潜った。反撃する余地もない。 保坂一誠は、右ポケットの内で再生していたICレコーダーを止める。 能力を発動する意思があり、自分自身の声で、自分自身に言い聞かせることで発動する能力。 「♪……夢に落ちた瞬間 君に 触れて いたいから♪」 終局は近い。誰もが圧倒的不利に思う。保坂一誠自身すら。 地面を流れ続ける広告に目を落とす。 今まで止まっていた暗殺トラックが……この瞬間、死角から迫りつつあることがわかった。 そして保坂一誠はこの時、倒れた暴徒に、右手側の逃げ場を封じられていた。 左方の影が沸き立ち、黒い包帯の男がそちらに注意を向けようとしていた。 広告が切り替わる次の一瞬で、すべてが終わるように思えた。 「♪君に……君の瞳に♪」 ショッピングモールを覆い尽くす――すべての、広告表示が。 【 保 坂 一 誠 I S S E I H O S A K A Produced by SOURI AMAKAWA 2016.4.1 D E B U T 】 ありえない事態が起こっていた。 「♪――君……ッ、Dream!!♪」 保坂一誠以外のすべてが停止する一瞬。その一瞬だけでよかった。 敵の黒い包帯に指を掛け、体をトラックの軌道上へ放る。 急ハンドルで回避を試みた重い鉄塊は、それでも外輪差で殺し屋を跳ね飛ばした。 そして停止した。 群衆を魅了するライブパフォーマンスと広告クリエイティブが同じものを映し出したその瞬間、 欲望の奴隷になっていた暴徒たちのすべても、動きを止めた。 何もかもが、一瞬の逆転。 アイドルの戦いに、魅了されていた。 PM 8 40 パブリック・プレジャー株式会社 「……これは、一体?」 あり得なかった逆転劇を前にしても、会田の心は揺らがなかった。 不合理な状況に対する、無数の疑問だけがあった。 「安道さん、状況の説明をお願いします」 『や……そんなの……あたし、知らないって! だって、適当な広告に切り替えようとしたら、いきなり』 「ドライバーさん。ターゲットは左手しか負傷していません。戦闘の続行をお願いします」 『あ、無理ッス』 殺し屋のトラックは停止したままだ。彼らの動きもどこか妙だった。 保坂が群衆やダイバーと戦闘している間、ドライバーが攻撃する機会はいくらでもあったのではなかったか? 『多分、ラジエーターがイってるんスよ。水温計の温度が上がりすぎて、休ませないとエンジンが死ぬッス。 さっきはさすがに終わりっぽかったんで、ダイバーさんとタイミング合わせてやったんッスけど』 「機械のトラブルですか? ……一体」 『悪いけど会田さん。任務は失敗だ。こっちは引き上げる。田中……ダイバーを回収する必要もある』 『――トラックのラジエーターっていうのはさ』 続く声は、無線機からのものではなかった。 中継の音声を拾うマイク越しの、保坂一誠の声だった。 『シャーシの下に隙間があって、メンテナンスの時に、コアに手が届くんだよね』 「……?」 『ラジエーターコアは指で潰れるくらい強度が弱い部品で、異物が入り込んだらすぐに損傷する。 そうなると冷却液が漏れて、その状態で走り回れば、当然、オーバーヒートするってわけ。 ……ま、普通ならタイヤで跳ね飛ばした異物が入るような箇所じゃないんだけどさ』 カメラの映像の中で、保坂一誠が何も持たない片手を挙げた。 『そこで問題です。俺が最初に持っていた小石は、いつ、どこに消えたのでしょー……か?』 歓声が、殺風景なオフィスを揺らした。 戦いの場を取り巻く群衆の、中継を見守る広告主達の、興奮の声だった。 トラックの下を潜り抜けた離れ業。その時には既に、保坂一誠は破壊を済ませていた―― (それよりも、今のは一体、誰に話しかけて) モニタの画面に目を落とす。コンバージョン件数は、際限なく上がり続けている。 極めて順調に、マーケティングは推移している。 違う。これは過剰だ。広告展開として、あまりにも過剰な盛り上がりだった。 制御を離れるほどに、試合が盛り上がりすぎた。 会田は恐怖した。モニタを掴み、身を乗り出す自らの反応で、はじめてそれを自覚した。 『そうそう。最後のサプライズは楽しんでもらえたかな?』 なぜ、安道ハル子は最後に保坂一誠の広告を掲載したのか。 彼が――否、おそらく教団のダミー企業を通した天川宗理が、最初から彼女の口座に入金していたのだ。 敵の正体に辿り着き、その能力を知った時、彼らは自らスポンサーとなって、自分自身の宣伝を用意させた。 おそらく、そういうトリックだ。そこまでは理解できる。 『誰に言ってるのか、分かるよな?』 保坂一誠は、自分の戦いが中継されていたことに気づいていた。いや、知っていた。 何故だ。安道ハル子の口座残高への入金が止まらない。誰もが熱狂している。 会田は、気づくことの恐怖に直面していた。 (ドリームマッチの前哨戦ではなかった。広告配信ですらない。最初から、これは) 不自然だった。直接戦闘能力で圧倒的に勝る保坂一誠がなぜ、わざわざ試合開始前に仕掛けてきたのか。 なぜ、このショッピングモールに1人だけで踏み込んだのか。 熱狂し、興奮の空気を作り上げた群衆は、本当に全てがショッピングモールの買い物客だったのか。 保坂一誠の広告を無作為に選んだのなら、あのタイミングでの表示は出来過ぎた展開ではなかったか。 2番サビの直前、広告の妨害が停止した時間があった。いつでも、そうする用意があったのではなかったか。 最初のドライバーの奇襲。保坂にタイミングを知らせる、何らかの目配せや合図がなかっただろうか。 例えば安道の広告は、ボックスの攻撃の盾になるように、暴徒を誘導していなかったか。 保坂がトラックの突撃のタイミングを尽く察知していたのは何故か。 モニタを通してその方向を知る何者かが……地面の広告を通して、知らせていなかったか。 ――安道ハル子は、我々の破滅を望んでいる。 口では反抗しながら、本気で逆らうことだけはあり得ないと、思い込んではいなかったか。 (……最初から、そうだったのか) もう遅い。彼はこの戦いを配信してしまった。 最大の危機と逆転のスペクタクルに彩られた、誰もを熱狂させる『夢の戦い』を。 もう、DMネットワーク社以外の協賛企業の誰も、これが新たなる広告展開の宣伝だと考えることはないだろう。 そんな曖昧な商品よりも鮮烈な印象が、積み上げられた企画の全てを上書きしてしまった。 『えー、改めて自己紹介します。アイドル、保坂一誠。 デビュー前の特別イベント、楽しんでもらえたよな?』 カメラとマイクで全ての映像を余すところなく届ける、特別なステージ。 色とりどりの光と音。群がる無数のファンに武器を使わず立ち向かう、ただ1人のアイドル。 これではまるで、アイドル全盛期のライブではないか――。 (最初から、何もかもが) 『ファンの皆さん、応援ありがとーっ!』 (八 百 長) PM 8 45 ショッピングモール 「ざまあみろ……ハハ! ざッまァーみろ! バーカ!!」 安道ハル子は、無線機に向かって叫んだ。 積年の怒りと嫌悪の表現としては、あまりにも陳腐な語彙しか出てこなかった。 だが、いい気分だった。 「あたしはちゃんと言ったよな!最初に!」 広告の真髄は、消費者を騙す技だ。誰も気付けないうちに、獲物を罠にはめる。 保坂からの接触は、広告主との打ち合わせで、会田が不在だった午前。 彼女ら2人は、悟られることなく、完全に仕掛けを終えていた。 しかもこの1日、あらゆる不測の事態を想定して打ち合わせてきた。 「――悪夢を見せてやるってさ!」 保坂一誠の強さで顧客の印象を上書きするために、映像配信の提案もした。 全力で戦っても罪に問われることのない、強力な敵を用意してもらう必要もあった。 敵自身の力を以って……無力な奴隷が、真の敵を刺したのだ。 「おう安道、おつかれ。そいつが会田につながってるのか?」 保坂一誠。あの激戦の直後にしては、気の抜けたような声だった。 血に塗れた左手をポケットに隠している。 「ああ、うん。もう必要ないけどさ」 「貸してくれ」 無線機を投げ渡す。会田にさらなる屈辱を与えられると思ったからだ。 「……アンタもお疲れさんだな? 会田。ところでさ。 韓遂って知ってる? 馬超と組んで戦ってたけど、曹操軍のスパイ疑惑を着せられたってやつ。 韓遂は追いつめられて、マジに曹操軍に寝返っちゃっうんだよね……」 『………………………………。突然、何を?』 「まだショックが抜けきってないのか? つまり」 保坂は座り込んで、凶悪に笑った。 「アンタが韓遂で、DMネットワークが馬超ってことだよ。 観戦していた企業の連中には、新しいアイドル立ち上げ事業のスポンサーとして携わってもらいたい。 そうするには、あんたがDMネットワークを裏切ればいいだけだ」 『貴方に……いえ、貴方がたに従う理由があると?』 『そりゃ、あるだろ。なあ?』 無線機の向こう側で聞こえた声は、この瞬間を見計らっていたかのようだった。 このショッピングモールに最後まで姿を現さなかった、伝説のアイドル。 『天川……宗理』 最悪の相手を、最悪のタイミングで、殴りつける。 今がその時だった。狙われていたのは会田で、もう逃げられない。 『おめぇに選択権なんてねェんだ。安道って小娘が広告して……おめぇがスポンサーを集める。 見ただろ! この俺がアイドルを教えた、一誠のデビューだ! ハハハハハハハハ! いつかの時代みてェな、最強のアイドルになるぞ!』 ――アイドル全盛の時代の裏には、常に広告業界の助けがあった。 数多くのライブの裏側で、彼らはアイドルの最強を演出し、圧倒的な強さを宣伝し続けてきた。 国民の誰もの心をひとつにした、最強という偶像への憧れは…… 広告業界が新聞やテレビといった媒体を離れ、インターネットに移行するに従って消えていった。 ただひとりで勝ち続ける者など存在しない。 いるとすればそれは、偽りの夢だ。しかし。 「会田。俺と天川宗理が見せる夢は……夢の広告みたいな偽物じゃない。 バカどもに、本物の夢を見せてやるのさ」 武器が強かった。組織力と金という武器を持っていた。 仲間を引き連れていた。安道ハル子は、最初からグルだった。 環境が有利だった。ありとあらゆる演出は、その実保坂一誠に味方していた。 そして――誰よりも、卑劣な手段を使っていた。 それを知る者がいない限りにおいて、最強の偶像は、心の中で真実となる。 (――夢) 安道ハル子は、夢について思いを馳せた。 破壊と広告で蹂躙されたショッピングモールを眺め渡す。 いつかの商店街にしたことよりも、ずっと極悪な所業だ。 それでも安道ハル子は、自らの意志で、抗うことができた。 保坂も、天川も、会田も……そして安道も、誰もが平等に、悪党だった。 誰もが、望んだ姿の通りに生きている。 (あたしの魔人能力で、夢を見せられるだろうか) 保坂一誠が通話を終える。安道ハル子は、ポケットに入れた手を握りしめた。 距離は5m。2人ともが、これから何が起こるかを知っている。 ……夢の戦いは、まだ始まっていない。 PM 9 00 夢 安道ハル子には、最後の勝算があった。 そう呼ぶにはあまりにも陳腐で、身も蓋もない手段が。 彼女に誰かを殺す度胸はなかったし、その実力もないと自覚していた。 現実の戦いでひたすら裏方に徹していた彼女を見て、誰もがそう思ったことだろう。 逆に言えば、相手が死なないことさえ分かれば、殺せるのだ。 夢の戦いのはじまりを告げた、夜魔口組の男との対決。 あの日は、安道が倒れた男の懐を漁るところまでも中継されていただろうか? 幸運が味方した薄氷の勝利だった。そして臆病な安道は当然、次に同じ事態に遭遇することを恐れた。 不安のたびに握りしめていたポケットの中には、無骨な銃把があった。 現実世界では、永久に引き金を引くことができないであろう銃が。 もしも彼女自身の夢がほしくなった時には、夢の戦いですべきことを決めていた。 地面を通して伝わらせた広告で、保坂一誠の視界を直接塞ぐ。そして、銃を撃つ。 ――あまりにも陳腐で、身も蓋もない手段。 (……今だ) 距離は5m。思ったよりもなめらかに、保坂一誠に広告を投影することができた。 ただシンプルな、赤い同心円だ。実際に射撃の的としても用いられた、『撃て』という広告アイコン。 『ラッキーストライク』。その狙いに従って、撃てばよかった。 後ろに見えるアーケードは朽ち果てている。 ところどころの商店にシャッターが降りて、広告の一枚も見当たらない、灰色の光景だった。 世界に欲望がひとつもなかったのなら、こんな風景になるのかもしれない。 今も思い出すことができる。自分の仕事が、スーパーマーケットに客を溢れさせた…… 何も知らない人々が浮かべる、笑顔と喜びがそこにはあった。 (ああ) 時間が引き伸ばされている理由にも気づいていた。 焼き付いた過去を、ふたたび思い出す理由も。 安道ハル子は保坂一誠の魔人能力を知らない。 もしかしたら彼は天川宗理と同じ人間で、何ひとつ、特殊な能力など持ちあわせていないのかもしれない。 それでも、自分が敗北することを分かっていたように思う。 (こいつ、やっぱり強いなあ) 保坂一誠は悪党だ。けれど、あの絶望的なライブの中で、自分が口にしたことを、すべて実現させた。 まるで、その言葉だけが信じるに足る、自明なる公理だとでも言いたいかのように。 ――夢に落ちた瞬間、 確かに、その歌詞を聞いていた。 ――君に触れていたいから。 拳が到達していた。 状況を認識してから広告を展開した安道よりも速く、保坂一誠は自動的に動いた。 夢の戦いは一撃で終わった。 悪夢 安道ハル子は、自室のベッドで目覚めた。 天井の色がどこかおかしいように思ったが、よろめく足で洗面所に向かう方が重要だった。 蛇口を捻り、顔を洗う。水飛沫が不自然に散って、『D』『M』の文字を象っているようだった。 歯ブラシを手に取る。湾曲した複雑なカーブを描いている。どこかで間違って曲げてしまったのか。 パラケルススワークスのエンブレムに似ていた。持ちやすい。そのまま歯を磨き、口をすすぐ。 「……KPI」 自室に戻った安道は、天井の模様をぼんやりと眺めた。 そうだ。KPIグループ。ここの天井はKPIグループの提供だったのか。 「KPI。あなたの『べんり』をクリエイトする」 安道自身の言葉までもが、彼女の意志とは無関係にキャッチコピーを紡いだ。 不思議なことではなかった。声を出し、自ら動く人間は広告としてとても有用な媒体だ。 遍く広告スペースは、有効に活用されなければならない。 ラップにかけて放置していた、冷めた飯を口に含む。デジ産業のロゴが一粒一粒に刻印されている。 あのデジ産業製の食品を食べて生きていける。なんて夢のような暮らしなのだろう。 そうだ。あたしは夢の報酬を受け取った。全世界の人々の夢に、他でもないあたしが作った広告を届けるのだ。 「……。そうじゃない、だろ……」 本能が叫ぶ頭痛に耐えながら、窓を開ける。 それはさらに恐ろしい景色だった。 ――空白。 白く脱色された、茫漠とした町並みが、ただ広がっていた。 そのひとつひとつに、小さなゴシック体で刻まれた、『広告主募集中』の文字だけがあった。 「……違う」 安道ハル子は顔を覆った。 保坂一誠がどうだろうと、本当は従う気なんてなかったんだ。 本当は、もっと美しい何かを、すべての人の夢に届けられればよかった。 「まだ、やり直したい。何かを考えて、作り出せる能力があるのだと、信じてみたかったんだ――」 多くの人間の欲望を弄んだ安道は、また新たな悪党と組んで、欲望を煽ろうとしている。 それでも、彼女の作り出す虚構を見た誰かが、何か美しいものを夢見ることができるのなら。 (やりなおせるかな。あたしは) 悪夢を償うには、まずは自分がそうしなければならないこともわかっていた。 引き出しの中に仕舞ってあった、安物の色鉛筆を取り出す。 どこの企業のものだかわからない、ロゴマークすらもついていないものだ。 (会田。やっぱりお前は間違ってるよ) 扉を開けて、空白の世界に踏み出していく。 (人生の3分の1どころじゃない。人間にはもっと大きな領域があるる。 そこにだけはきっと、他の誰も踏み込めないんだ) そのひとつひとつに、彼女の描くデザインを刻みこむために。 美しいもので、再び心の中を満たせると証明するために。 瑞夢 夢の報酬で願うことは、最初から決まっていた。 保坂一誠の望みはずっとひとつだけで、他のことなど考えもしなかった。 だから最初に湧き上がった感情は、心配だった。 (夢の記憶は鮮明に保ったまま目覚められるとして――どの程度を記憶していられるか。 できるだけ多くの人間の『弱み』を握っておきたい。複雑な内容は後回しにしたほうがいい) (望みのままの夢なら、情報は手元の本やテキストファイルとして現れる形がいいのか? 画像や音声の証拠はどうなる? 持ち帰れなくても、知っておくことで有利になれるのなら……) ――ようやく。 もう一度この世界に、保坂が憧れた天川宗理を知らしめることができる。 マカマカ教を内側から支配して、日本最大のアイドル事務所に変える。 たったひとりのアイドルの師父(マスター)を、もう一度、本物のステージに立たせてやりたい。 自分が本物のアイドルになれないことくらいは、最初からわかっている。 夢を集めるにふさわしい者こそが、最強の栄光を受け取るべきだ。 次に目を見開くと、保坂は見慣れた自室に座っている。 普段と異なる違和感や、すべてを思いのままにできる全能感もなかった。 感覚すらも鮮明な、もうひとつの現実のようだった。 「おいおい……」 思わず苦笑した。机の上に封筒が置いてある。 夢の中で望んだ物事から正しい情報が得られるのか、事後確認のためだけの封じ手。 既に天川宗理が夢の性質を確かめている以上、そんなものを置く必要はない。 何気なく封筒を破り、手紙の文面を見た。 『お前の夢に、正直に生きろ』 それだけだった。 「……」 一生に一度の夢。 ただひとつの願い。 それは現実の夢を叶えるために、この部屋で秘密を暴き続けることだ。わかっている。 俺はのし上がるほうを選べる人間だからだ。 だから、外に出るドアを見るのが怖い。 「……クソ……なんだよ」 手紙を握りしめたまま、保坂は呻いた。 「今さら、ハハ。なんなんだよ……」 聞こえるのだ。 扉の向こうから、会場を満たすファン達のざわめきが。 色とりどりの光が、扉の隙間から漏れているのだ。 その向こうに何が広がっているのか、保坂一誠にも分かっていた。 自分の心の中にも、やはり、同じ望みがあったことを知った。 それも、師父の天川宗理よりも、ずっと遅れて気づいたことだった。 「夢に……夢に、正直に生きろだって?」 輝く星になれる、運命のドア。 ただ一夜だけ……まるでシンデレラのような、最強のトップアイドルの世界へと。 「俺の夢は――」 エピローグ 「おう。目が覚めたか」 天川宗理の声で、再びこの現実に戻ってきたことを知った。 薄暗い、いつものダンススタジオ。 あの日。保坂一誠はここから始まった。 「……安道は? あいつには悪いことをした」 「まだ眠ってるが、まァ大丈夫だろ」 天川宗理は、口元を歪めるように笑う。そんなアイドルだった。 「悪夢なんざ、クソッタレな現実に比べりゃ、大したことァねぇさ。 一週間か、一ヶ月か――目覚めるやつは何人もいた。 その時だ。はじめるぞ。おめぇのプロジェクトを!」 どこか遠い光景を、それでも確信を持って見つめているような、熱のこもった眼差しだった。 新しい弟子のこれからについて話すとき、天川宗理はいつも嬉しそうだ。 「――師父。俺が見た夢の話なんだけどさ」 「あぁ? そういや、そんなのもあったな」 保坂一誠もつられて、何でもないように笑った。 「夢の話をしたいんだ」 『ダンゲロスSSドリームマッチ ショッピングモール』 おわり
https://w.atwiki.jp/yajikumaazu/pages/13.html
バーを出るなり紙を握りつぶそうとしていた熊井を、背後から特徴ある声が呼びとめた。 「待って、ごめんなさい」 振り向く熊井。桃子が必死の形相で駆けてくる。 あまりにも急ぎ過ぎるから、桃子はつんのめって転んだ。 助け起こす熊井。桃子は尚も縋りついた。 「どうしたの?」 「怒らないで聞いて下さいね」 そう断ったのち、息を整えつつ桃子は説明を始めた。 「わたし、本当は会社員なんかじゃないんです。全部、仕組んだことで……その、 実はクラブに勤めてるんですが、水商売の人間とはお会いしていただけないんじゃないかと思って、 常連の有原さんに協力していただいたんです」 「有原が常連?」 「いつも中島さんとご一緒に来店されます」 「ふうん。それで、どうして会いたいと?」 「中島さんの携帯にくまいちょー、いえ、熊井さんが写っているお写真を拝見して、 その、ひ、ひとめぼれ、を……奥さまがいらっしゃることはわかっていますし、 ただお顔を直接拝見してみたかっただけだったんです。 でもやっぱり騙しているのには変わらなくて。本当にごめんなさい」 「そう。本当のことを話してくれてありがとう」 素っ気なく返事をすると、熊井は捕まえたタクシィへ乗り込もうとしたが、 不意に横から張り出して来た桃子の唇は避けきれなかった。 尖りのある真に迫った感触が、熊井の神経を隙間から刺激した。 「困るよ」 熊井は、動揺を隠せないまま、桃子を振り切るようにタクシィを発車させた。 あとで桃子の連絡先を記した紙を捨て忘れたことに気づいたので、車の窓から投げてやった。 丸めた紙は、一瞬だけ螺旋を描いて舞い上がり、道路を跳ねていった。 ←前のページ 次のページ→
https://w.atwiki.jp/yajikumaazu/pages/21.html
勤務地へ向かう地下鉄車両内で、熊井は、とある事件に出くわした。 ドア付近に場所をとり、手摺に掴りつつ新聞に目を通していた熊井の耳に、 隣の車両から話し声が聞こえた。どうやら揉め事のようだった。 「やってねえよ」と、如何にも煩わしそうに言い捨てるしょぼくれた声の後、 「この目でハッキリ見ていたんだ」と、衒いも有漏も感ぜられぬ若い声が届く。 やがて駅に到着すると、若い声が再び響き渡る。 「待て!」 下車する乗客群を、白線の内側で巧みに避けながら、小男が自分の前を横切ろうとしたので、 熊井は咄嗟に、左足をプラットホーム側へソッと放り出し、小男を躓かせた。 長い、熊井の脚に引っ掛けられた小男は、無様にも顔面から転倒し、 後を追って来た青年によって取り押さえられた。 「ありがとうございます」 青年は白い歯を見せて熊井を仰いだ。 と同時にドアが閉まり、次の駅へ発車した。 ←前のページ 次のページ→
https://w.atwiki.jp/yajikumaazu/pages/6.html
アーカイブ @wikiのwikiモードでは #archive_log() と入力することで、特定のウェブページを保存しておくことができます。 詳しくはこちらをご覧ください。 =>http //atwiki.jp/guide/25_171_ja.html たとえば、#archive_log()と入力すると以下のように表示されます。 保存したいURLとサイト名を入力して"アーカイブログ"をクリックしてみよう サイト名 URL