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勘九郎地蔵(大久保) bgsound 港南区大久保の自性院というお寺に、勘九郎地蔵というお地蔵さんががあります。万治三年(1660)とかかれた古いお地蔵さんです。 以前は、南区六ツ川の武蔵の国と相模の国の国ざかいにあったものをここに移したそうです。今でも勘九郎地蔵のあったもとの場所には、かわりの石のお地蔵さんと、そのいわれを書いた碑が建てられています。 むかし、その国ざかいを勘九郎という名の歌舞伎役者が先を急いでいました。 このあたりは、昼間は多くの旅人や村人が行き来しますが、夜ともなれば、それはそれはさびしいところでした。 次の朝、村人が見たのは、その勘九郎の変わりはてたすがたでした。おいはぎにでもおそわれたのか、身ぐるみはがされて、息たえていました。村の人々はあわれんで、手あつく葬むり、石のお地蔵さんをつくりました。 それから間もなく、近くの村では悪い病気がはやり、多くの人々が死んでいきました。 むかしは、こうした病気をなおすことができませんでした。ただいっしょうけんめい神や仏にいのるしかありませんでした。またこうした悪い病気の原因は、殺された人々の悪霊のたたりだとも考えられていました。 それで村人たちは、勘九郎地蔵にいろいろな物を供え、たたりをしずめるように いのりました。 するとどうでしょう。ふしぎなことに、悪い病気はぴたりとおさまり、村人たちは、勘九郎地蔵のおかげだと大変よろこびました。 しかもそのうわさはすぐにひろまり、近くの村々はもちろんのこと、行商する人たちや旅人たちを守るお地蔵さんとしても、お参りされるようになりました。 勘九郎の死んだとされる28日には、多くの人々が集まり、店を出したり、しばいまでやっていたと伝えられています。今でもお参りする人が多く、お供えの花がなくなることがありません。
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和田義盛の関所跡 (最戸) 最戸と別所の境にある,餅井坂を登りきったあたりの両側に,小高い丘があります。 土地の人々は,この付近一帯を「和田山」と呼んでいます。 それは,この急な坂道を利用して,鎌倉幕府の要職にあった和田義盛が,関所を設けた 所との言い伝えがあるからです。 この「和田山」付近には,「和田義盛の仇討」という伝説もあるそうですが,詳しいことはわかっていません。 また,和田山には大きな塚があって,甘酒台にも,首塚と呼ばれるものがあったといわれています。 和田義盛は,頼朝に信頼されていたため,武士をまとめる役所である侍所の最高責任者の別当に任ぜられ,各地に鎌倉を守るための砦などをつくったといわれています。 起伏の激しいこの和田山をふくむ丘陵地帯は,関所として利用するには都合のよい地形であったのでしょう。 そして,ここを通る「鎌倉下の道」は,武蔵の国を通って,北関東やいまの東北地方にあたる奥州につながっている,重要な道でしたから,この道にそって,和田義盛が多くの関所や砦を設けたという,言い伝えが多く残っています。 その主な場所としては,いまの野庭団地のあたりに,「関城」と呼ばれる和田義盛が築いた大きなお城があったといわれています。 関城の北側から西側には,馬洗川の上流をへだてて,「鎌倉下の道」が通っているため,このあたりは鎌倉を守るための関所としても,たいせつなところであったわけです。 そして,今も和田義盛の館跡などの伝説は,「鎌倉上の道」である,境川周辺にもあり,また,金沢区や栄区の古い道筋にもあります。 とくに,和田氏の子の朝比奈三郎が,一晩で朝比奈の切り通しを造ったとの伝説は有名です。 鎌倉時代につくられた『吾妻鏡』には,和田義盛のことを,あまりよく書いていませんが,この遺跡分布の伝説を見ていきますと,ほんとうはとても頭の良い戦略家であったことがわかります。
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鎮魂の句碑 (笹下) 昭和も太平洋戦争直後のお話です。 笹下町の日下小学校前の道から大岡川の方へ下って行くと、古い曲田橋へ出ます。むかしを偲びながらこの橋を渡って行くと、成就院のお寺の山門が見えてきます。 むかし、間宮氏が築いたといわれる笹下陣屋の門を移したものと言われています。 この寺の名は「梅花山成就坊」(後に成就院)といいますが、梅の花と境内の美しさから、今まで呼ばれていた「曲田山」を「梅花山」と名を改めたということです。 この山門のすぐ脇に、この地域の方々の悲しくも美しいいわれのある句碑が建っています。 激しく戦われた戦争に、笹下の若者たちも戦場へ駆り出され、何人かの戦死者を出しました。 この地域の人たちは、勇敢に戦い、若い命を散らしたこの霊を慰め、永遠に戦争をなくし、平和を守ることを誓い、碑を建てました。 その気持ちが、この碑の形や碑文の表現ににじみ出ているのです。 戦後の当時は、進駐軍の占領下にあったため、日清、日露戦争や満洲事変後に各所に建てられたような忠魂碑を、自由に建てることができなかったのです。人々は知恵をしぼり、俳句の形で、戦死者の鎮魂の碑を建てることにしました。 そこで、横浜で有名な俳人大野林火に碑文をお願いしました。すると、意味深いこの碑文の句が詠まれ、送られてきました。 地域の人たちはこの立派な俳句によって、この気持ちを永遠に残すことにしたのです。 句碑は次のような句文です。 林 火 猛り鵙 松籟にいま 鎮まりぬ 秋が訪れ、鵙が大きな松の木の枝で、キキキッ、と甲高い声を張り上げて鳴いている。 秋風が松の枝をゆらし、音を奏でて吹き抜けて行く、鵙の高鳴きが静まった。 若き御霊よこの故郷の地に安らかに眠れ! 平和よ、永えに! 実はこんな深い意味を持つ句碑だったのですね。
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室の木と富士塚 (港南) みなさんは、葦という植物を知っていますか。水辺に生える多年草で、茎はすだれなどの材料になり、別名をよしともいいます。 そのむかし、日野川はよく氾濫し、河原はよしでおおわれていました。これが、鎌倉街道にある「吉原」という地名の由来です。 区役所から、南高校の方に坂をのぼって行くと、相武山小学校につきあたります。その辺りは武蔵国と相模国の境で、「室の木」が植えられていました。 「室の木」は、ねずともいわれ、高い木で冬でも緑の葉をつけているため、目印になったようです。今は、その木はありませんが、地名として、坂やバス停、また、公園や幼椎園の名前に使われています。 吉原村の北のはずれの一番高いところ、すなわち、室の木の近くには、富士塚がありました。富士塚には、富士浅間宮と彫られた、石の供養塔が置かれていました。上部には、仏さまが、下部には、二匹の猿が、向きあって手を合わせている姿が彫られています。これは、とても珍しいものだそうです。 江戸時代には、厳しい身分制度があり、農民は重い年貢に苦しみました。また、大雨が降ると日野川はすぐにあふれて、田畑を流し、あすの食べ物にも困りました。そして、疫病がはやって大勢の人がなくなり、悲しみに暮れました。 それらを支える信仰として、富士山に登る人が多くいました。白装束を身につけて、富士塚に旅の安全を祈願してから出かけました。また、富士山まで行かれない人は、この富士塚を拝んで、そのかわりとしました。昔は、村と村、国と国との境に、よそから悪霊が入らないようにするために、このような石塔や石仏を建立し、また樹木などを植えて境や道標の役目をもたせていました。 また、疫病などを境で塞ぐ「塞の神」や、旅の道中の安全を守る「道祖神」もよくまつられています。相模の国だった永谷には、男と女の神様が仲良く並んだ姿を石に刻んだ、珍しい道祖神塔がまつられています。 近年、富士塚は住宅地になり、石塔は日野二丁目五十四番の、小高く木の茂っているところに移されました。 「ざんげ、ざんげ」が「さわげ」になって、いまの港南区と磯子区の間にある坂道を「さわげ坂」、そのせまい谷を「さわげ谷」といい「さわがや」(沢ケ谷)になったといいます。
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西成成年後見の会 成年後見フォーラム 2007 「成年後見制度における「法人後見」の可能性を探る」 日時:2007年6月30日(土) 13:30~16:30(12:30~受付) 会場:西成区民センター (大阪市西成区岸里1-1-50 TEL 06-6651-1131) 地下鉄四つ橋線「岸里」駅 2号出口 東へ徒歩1分 南海電鉄 「天下茶屋」駅 徒歩5分 *駐車場はありません 主催:西成成年後見の会 定員:250名 参加費:無料 プログラム 13:30~13:40 あいさつ・オリエンテーション 13:40~14:10 基調報告 「法人後見の意義と可能性~積極的権利擁護の実践に向けて」 特定非営利活動法人 西成後見の会 代表理事 岩間 伸之氏(大阪市立大学大学院生活科学研究科 准教授) 14:10~14:40 調査報告 「法人後見に関する基礎調査」の結果について(概要) 特定非営利活動法人 西成後見の会 事務局 鈴木 貴子 氏 鵜浦 直子 氏 14:50~16:30 パネルディスカッション 「成年後見制度における法人後見の可能性を探る」 パネリスト *特定非営利活動法人 こうけん 事務局長 原 一行 氏 *社会福祉法人 八幡浜市社会福祉協議会 総務福祉課長 田中 奈美 氏 *特定非営利活動法人 PASネット 理事長 上田 晴男 氏 コーディネーター 岩間 伸之 氏 申込み方法: 下記アドレス宛に件名を「法人後見フォーラム参加希望」と記入のうえ送信していただくと 参加申し込みフォームが返送されます。フォームに記入のうえ、再送信してください。 申込みアドレス suzuki-t@nishinari-kouken.org 申込み締切: 2007年6月22日(金) (定員になり次第締切り・定員を超えた場合のみ連絡があります) 問い合わせ先:特定非営利活動法人 西成後見の会 事務局(鈴木、新田、原口) 〒557-0063 大阪市西成区南津守7-12-32白寿苑付 TEL 06-6651-3004 FAX 06-6651-6060
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幻の笹下城 (笹下) みなさん,笹下にお城があったという話を信じますか。 幻の笹下城といわれている城は,いまの成就院のあたりの高台を中心として,築かれた戦国時代のお城です。 しかし,調査が充分行われないうちに,洋光台の開発の波にのみこまれたために,その内容が詳しくはわからないので,幻の城ともいわれているのです。 このお城を築いたのは,小田原北条氏に仕えた間宮豊前守信元であったとされています。 古くは,篠笥城とも佐々木城とも呼ばれていました。この近くには,空堀,水堀,犬走りの跡らしいものが見受けられます。 杉本(笹下四丁目)あたりから見渡しますと,山あり,谷ありで,その間にはいく筋もの川が流れていました。 このような自然の地形を利用するのを,「谷津構え」の山城ともいうのです。 さらに,その外がわには,北に日野川,東に笹下川,南に笹下川支流がめぐり,西側にはけわしい山があるのです。いざという時には,ここから大船にあった玉縄方面へも連絡することができたのです。 織田信長が安土城を造ってから後の,安土桃山時代や江戸時代には,平地に天守閣がそびえる,きれいなお城が造られるようになりましたが,それ以前はこうした自然の地形を利用した,砦のような要塞を造るのが普通でした。 その時代には,戦いがない時には,城をまもるべき武将の生活は,陣屋と呼ばれるところで行われていました。 間宮氏の陣屋は,現在の「洋光台入口」の信号から西の,山を背負った平地にあったと考えられています。 「間宮一族って,どんな武士団なの?」 よく,そんな質問を受けます。 この横浜を代表する,戦国の武将については,非常に話題も多いので,かいつまんでいくつかをとりあげてみたいと思います。 戦国時代のはじめ,北条早雲が,そのころ関東地方を支配していた山内上杉氏と扇ケ谷上杉氏に対して,戦いをしかけたことがあります。 そして,いまの横浜駅の近くにあった,権現山という砦に兵をかまえました。両上杉氏は二万の大軍をもって,権現山を攻撃しました。 この時,砦のなかから,間宮と名乗る武者が,たいへん派手なよろいを着て,兜のさきには笠印という小さな旗のようなものを付けて,敵陣へと打って出たのです。 その笠印には,佐々木源氏の紋章である「四つ目結び」が浮き出ていて,それが浜風になびくさまはたいへん勇壮であったそうです。 城を守る武士たちは 「間宮をうたすな,間宮をうたすな」 と応援にかけつけ,激しい戦いになったとのことです。 この戦いがあってから,間宮氏は小田原北条氏に認められたらしく,「相模衆十四家」の筆頭として,北条早雲の相模進出の最前線をまかされることになりました。 そして,両上杉氏にそなえるために,間宮信盛が,いまの京浜急行川崎駅に近い,堀之内という場所に館を築きました。 しかし,上杉氏がだんだん勢力を失い,北関東へと退いて行きましたので,信盛の子,信元が笹下へと移ったのです。 なぜかと言いますと,その頃,房総(いまの千葉県)にいた,里見氏の勢力がだんだん強くなり,特に,その水軍がしばしば金沢や磯子などの,久良岐郡沿岸に上陸してくるようになったからです。 里見氏撃退は,小田原北条氏にとつて重要なことでした。 笹下に移った間宮氏は,本城以外にも,杉田陣屋,森陣屋,氷取沢陣屋,さらには港南区の中登台に松本城などを設け,兵力を張り巡らせていました。 そのため,さしもの里見水軍も攻めてくることがなくなりました。 時代がくだって,豊臣秀吉の天下統一により,小田原北条氏は滅ぼされます。 しかし,この時,間宮一族の箱根の山中城を守った戦いぶりが,あまりにみごとであったため,攻撃軍の徳川家康は,笹下に残っていた間宮氏のなかから,多くのものを家臣として取り立てました。 のちの世に,その一族からは,間宮海峡を発見した間宮林蔵や,オランダ医学をはじめて我が国に移入した,杉田玄白のようなりっぱな人たちも多く世にでたのです。
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一般社団法人 仙台市青葉区大町1-3-7裕ビル6階 設立日 平成27年7月1日 せんだい・みやぎNPOセンターから独立 役員体制 代表理事 紅邑晶子 特定非営利活動法人せんだい・みやぎNPOセンター 常務理事 千葉富士男 一般社団法人みやぎ連携復興センター 理事 阿部重樹 東北学院大学 経済学部 教授 理事 木村正樹 特定非営利活動法人いしのまきNPOセンター 専務理事 理事 針生英一 仙台印刷工業団地協同組合 代表理事 理事 山崎泰央 石巻専修大学 経営学部 教授 監事 宇都彰浩 宇都法律事務所 理事就任予定者 兼子佳恵 特定非営利活動法人石巻復興支援ネットワーク 代表理事 鈴木守幸 宮城県サポートセンター支援事務所 所長
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お知らせ日記 和(なごみ)からのお知らせや、活動報告を書いています。 #weblog ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 広 告 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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NPO法人とは 設立までの流れ 設立の要件 管理・運営の基本 NPO法人のメリット・デメリット NPO設立に必要な書類 NPO法人とは まず、「NPO(Non Profit Organization)」とは一般に非営利組織などと呼ばれるように、 「営利を目的とせず、社会に貢献する活動を行っている団体」のことです。 特に「NPO法人(特定非営利活動法人)」と呼ぶ場合は、NPOのうち 「特定非営利活動促進法(NPO法)」に基づいて法人格を取得した団体のことを指します。 「営利を目的としない」というと、「利益を上げない」もしくは「無償ボランティア」をイメージしがちですが、 実際には「利益の分配をしない」という意味で使われます。 すなわち会社のように株主や出資者に分配するなどといったことをせず、 NPO法人を解散する際にも残余財産の分配をしないということです。 つまりこれを守っていれば、事業収入を得ることも職員が労働の対価として給料を得る事も可能ということです。 この点が一般的に誤解されている所です。 組織を安定的かつ継続的に運営するためには収益は必要です。 ただ、NPOの多くが資金不足に悩まされているのも現状です。 ここではNPO法人が持つ特性について述べていこうと思います。 設立までの流れ 出所)内閣府 NPOホームページ「NPO法人をつくる・営む」(http //www.npo-homepage.go.jp/found/index.html)より 設立の要件 この法律に基づいて、特定非営利活動法人になれる団体は、次のような要件を満たすことが必要です。 (ア)特定非営利活動(注)を行うことを主たる目的とすること (イ)営利を目的としないものであること (ウ)社員の資格の得喪に関して、不当な条件を付さないこと (エ)役員のうち報酬を受ける者の数が、役員総数の3分の1以下であること (オ)宗教活動や政治活動を主たる目的とするものでないこと (カ)特定の公職者(候補者を含む)又は政党を推薦、支持、反対することを目的とするものでないこと (キ)暴力団又は暴力団若しくはその構成員若しくはその構成員でなくなった日から5年を経過しない者の統制の下にある団体でないこと (ク)10人以上の社員を有するものであること (注)特定非営利活動 1.次に該当する活動であること(法律の別表) 01.保健、医療又は福祉の増進を図る活動 02.社会教育の推進を図る活動 03.まちづくりの推進を図る活動 04.学術、文化、芸術又はスポーツの振興を図る活動 05.環境の保全を図る活動 06.災害救援活動 07.地域安全活動 08.人権の擁護又は平和の推進を図る活動 09.国際協力の活動 10.男女共同参画社会の形成の促進を図る活動 11.子どもの健全育成を図る活動 12.情報化社会の発展を図る活動 13.科学技術の振興を図る活動 14.経済活動の活性化を図る活動 15.職業能力の開発又は雇用機会の拡充を支援する活動 16.消費者の保護を図る活動 17.前各号に掲げる活動を行う団体の運営又は活動に関する連絡、助言又は援助の活動 2.不特定かつ多数のものの利益の増進に寄与することを目的とするものであること 以上より、NPOが持つ意義は社会への奉仕であり、営利を目的としないことが分かります。 しかし設立要件(エ)の項から、役員となった人たちの一部には「役員報酬」を渡すことが認められています。 理事などの重役に対する手当て、と見ることができるでしょう。 それでは、責任者ではないが実際に活動を行った実働の役員の人はボランティア参加としてなにも見返りを求めることができないのでしょうか? 実は、実際に活動を行っている人に対しては、役員報酬を受け取るかどうかにかかわらず、「給与」を与えることができるのです。 これはNPO法人による収入のみで生活することも不可能ではないということを示しています。 もちろん一般的なイメージ通りボランティアとして給与を受け取らず、気軽に参加することも可能です。 来るもの拒まず。これがNPOの精神なのです。 管理・運営の基本 役員 法人には、理事3人以上および監事1人以上を置かなければなりません。 理事は法人を代表し、その過半数をもって業務を決定します。 役員になれる人については、親族の数の制限など法律で一定の制限が設けられています。 総会 法人は、少なくとも毎事業年度1回、通常総会を開催しなければなりません。 その他の事業 法人は、特定非営利活動に必要な資金や運営費に充てるために、特定非営利活動に支障がない限り、 特定非営利活動に係る事業以外の事業(その他の事業)が行えます。 この場合、その他の事業に関する会計を特定非営利活動に係る会計から区分しなければなりません。 会計原則 法人は、正規の簿記の原則に従って会計簿を記帳するなど、法律の第27条に定められた原則に従い 会計処理を行わなければなりません。 情報公開 法人は、毎事業年度の事業報告書、貸借対照表、収支計算書等の書類を所轄庁に提出するとともに、 事務所に備え置いて、利害関係人に閲覧させなければなりません。 また、これらの書類は、所轄庁において一般公開されます。 なお内閣府が所轄庁となる法人の場合は、事務所の所在する都道府県においても、公開されることとなります。 監督 所轄庁は、法令違反等一定の場合に、法人に対して、報告を求めたり、検査を実施し、また、場合によっては、 改善措置を求めたり、設立認証を取消すこともできます。 NPO法人のメリット・デメリット メリット 社会的信用が高い 節税が可能 団体名による契約・登記可能 不動産・口座・自動車・公共料金・・・etc. 経費面での優遇 補助金や寄付金などが受けやすい 代表者の交替がしやすい 設立に経費が一切かからない 法人の場合資本金以外に20万ほど必要 法的責任を分離できる 代表のみ過大な責任を負うことはない マスコミに取り上げられやすい デメリット 設立に時間がかかる 書類提出後審査だけで4~6ヶ月ほどかかる (普通の法人の場合1ヶ月もあれば可能) 書類作成が非常に難しい (内閣府配布の手引に従ってもなかなか受理してもらえないらしい) 厳正な事務処理 事業報告書・収支計算書・貸借対照書・財産目録・役員名簿・社員名簿を毎年提出する (この資料は全て情報公開の義務) 経理は正規の簿記の原則に基づく必要あり 財産の名義変更が必要 (全て手続きが必要・場合により税金がかかる) 活動内容の制約 行動するのに理事会での合意が必要 事業内容は定款の制約を受ける (これは普通の法人でも同じ) 定款の変更には社員総会の決議を受け所轄庁認証を得る (設立と同じくらい時間がかかる) 解散時残余財産の返還がない 税務申告義務 NPO設立に必要な書類 認証申請書 認証を得るための申請書です。所轄庁の書式通りに作成して下さい。 以下は添付書類- 定款 法人の目的や手続など基本的な事項を定める、いわば法人の憲法です。 役員名簿 設立当初の役員(理事と監事)の氏名、住所、報酬の有無を記載します。 就任承諾及び誓約書の謄本 役員になることを承諾し、NPO法に反しないことを誓約する書面のコピーです。 役員の住所又は居所を証する証書 通常は市役所などでもらう住民票のことです。外国人のときは各自治体から配布される手引き参照。 社員のうち10人以上の者の名簿 社員(会員)が10人以上いることを示すため氏名、住所を記載します。 確認書 設立する法人がNPO法に挙げた要件に反しないことを確認する書類です。 設立趣旨書 法人化の趣旨や申請に至るまでの経過などを記載する書類です。 設立についての意思の決定を証する議事録の謄本 設立するために開いた総会の議事録のコピーです。作り方にパターンがあります。 設立当初の事業年度及び翌事業年度の事業計画書 定款で定めた事業についての具体的な計画を記載する書類です。2年分用意します。 設立当初の事業年度及び翌事業年度の収支予算書 2年分の収支の予算を記載します。「その他の事業」があれば別に作成します。----
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鎮魂の句碑 (笹下) bgsound 昭和も太平洋戦争直後のお話です。 笹下町の日下小学校前の道から大岡川の方へ下って行くと、古い曲田橋へ出ます。むかしを偲びながらこの橋を渡って行くと、成就院のお寺の山門が見えてきます。 むかし、間宮氏が築いたといわれる笹下陣屋の門を移したものと言われています。 この寺の名は「梅花山成就坊」(後に成就院)といいますが、梅の花と境内の美しさから、今まで呼ばれていた「曲田山」を「梅花山」と名を改めたということです。 この山門のすぐ脇に、この地域の方々の悲しくも美しいいわれのある句碑が建っています。 激しく戦われた戦争に、笹下の若者たちも戦場へ駆り出され、何人かの戦死者を出しました。 この地域の人たちは、勇敢に戦い、若い命を散らしたこの霊を慰め、永遠に戦争をなくし、平和を守ることを誓い、碑を建てました。 その気持ちが、この碑の形や碑文の表現ににじみ出ているのです。 戦後の当時は、進駐軍の占領下にあったため、日清、日露戦争や満洲事変後に各所に建てられたような忠魂碑を、自由に建てることができなかったのです。人々は知恵をしぼり、俳句の形で、戦死者の鎮魂の碑を建てることにしました。 そこで、横浜で有名な俳人大野林火に碑文をお願いしました。すると、意味深いこの碑文の句が詠まれ、送られてきました。 地域の人たちはこの立派な俳句によって、この気持ちを永遠に残すことにしたのです。 句碑は次のような句文です。 林 火 猛り鵙 松籟にいま 鎮まりぬ 秋が訪れ、鵙が大きな松の木の枝で、キキキッ、と甲高い声を張り上げて鳴いている。 秋風が松の枝をゆらし、音を奏でて吹き抜けて行く、鵙の高鳴きが静まった。 若き御霊よこの故郷の地に安らかに眠れ! 平和よ、永えに! 実はこんな深い意味を持つ句碑だったのですね。