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四十八願 (しじゅうはちがん)とは、阿弥陀仏が法蔵菩薩として修行していたとき、それに先立って立てた願のこと。浄土教の根本聖典とされる康僧鎧訳の 無量寿経 では四十八願となっている。異訳の諸本には願の数に相違があり、二十四願系統と四十八願系統に大別できる。前者は初期の浄土教思想、後者は後期の発展した浄土教思想を示すと見られる。 法然は四十八願のうち第十八願を念仏往生の願と名づけ、これが中心の願であるところから、第十八願を王本願と呼んでいる。 願名 無三悪趣の願 不更悪趣の願 悉皆金色の願 無有好醜の願 令識宿命の願 =宿命智通 令得天眼の願 =天眼智通 天耳遥聞の願 =天耳智通 他心悉知の願 =他心智通 神足如意の願 =神足智通 不貪計心の願 =漏尽智通 必至滅度の願 光明無量の願 漢本から言えば「光明勝過願」。 寿命無量の願 第十一願の往生浄土する者を必ず成仏せしめるという誓いの後の第十二・十三願であるから、往生浄土したものに具わるべき徳。この第十二・十三願によって真仏土巻が説かれる。 声聞無量の願 眷属長寿の願 離諸不善の願 諸仏称名の願、諸仏称讃の願、諸仏咨嗟の願、往相廻向の願、選択称名願 称讃・称名・咨嗟はともに讃歎の意味であり、名前を称える称名ではない。 至心信楽の願、念仏往生の願、選択本願、本願三心の願、往相信心の願 「唯除五逆謗法|誹謗正法」の句があるのは梵・蔵・唐訳だけである。 設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法 至心発願の願 至心廻向の願 果遂について、親鸞は一生果遂の義。この果遂の願のままに、第十九願の仮門から第二十願の真門に入り、第十八願の弘願に転入する三願転入を説く。 具足諸相の願 還相廻向の願、必至補処の願、一生補処の願 供養諸仏の願 供養如意の願 説一切智の願 一切智によって諸法を演説する。 得金剛身の願、那羅延身の願 万物厳浄の願、所須延身の願 道場樹の願、見道場樹の願 得弁才智の願 弁才無尽の願、智辯無窮の願 国土清浄の願 妙香合成の願、宝香合成の願 触光柔軟の願 聞名得忍の願 女人往生の願、女人成仏の願、変成男子の願 法然は「女人往生の願」。親鸞は「変成男子の願」。存覚は「転女成男の願」「聞名転女の願」。第18願の別願。 聞名梵行の願、常修梵行の願 作礼致敬の願、人天致敬の願 衣服随念の願 常受快楽の願、受楽無染の願 見諸仏土の願 聞名具根の願、諸根具足の願 聞名得定の願、住定供仏の願 聞名生貴の願、生尊貴家の願 聞名具徳の願、具足徳本の願 聞名見仏の願、住定見仏の願 随意聞法の願 聞名不退の願、得不退転の願 得三法忍の願 分類 中国の慧遠と憬興(きょうごう)は3つに分類している。其々の名と分類は以下の通り。 摂法身願・求仏身願 仏が自らの仏身を完成すること 第12・13・17願 摂浄土願・求仏土願 衆生を往生せしめる仏土の完成 第31・32願 摂衆生願・利衆生願 正しく衆生の救済を願うもの その他の43願 日本の親鸞は、48の願を真実と権仮(ごんけ)に区分する。 真実+-往相+--教----無量寿経 | |--行----第17 諸仏称名願 | |--信----第18 至心信楽願 | |--証----第11 必至減度願 | +真仏土+---第12 光明無量願 | +---第13 寿命無量願 +-還相--------第22 還相廻向願 権仮-----化身土+要門-第19 至心発願願 +真門-第20 至心廻向願 これらの願は、すべて衆生の悲しみ苦しみをすべて観察した上で立てられたものであり、その解決としてある。本当の意味での「苦」の解決は、衆生が仏になることですべて解決されるから、往生浄土の上で仏となることが四十八願のもっとも重要な部分となる。
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【元ネタ】史実 【CLASS】キャスター 【マスター】Extra主人公 【真名】玉藻の前 【性別】女性 【身長・体重】160cm・49kg 【属性】中庸・悪 【ステータス】筋力E 耐久E 敏捷B 魔力A 幸運D 宝具B 【クラス別スキル】 陣地作成:C 魔術師として、自らに有利な陣地を作り上げる。 が、どうも性格的に向いていないらしく、工房を作る事さえ難しい。 【固有スキル】 呪術:EX ダキニ天法。 地位や財産を得る法(男性用)、権力者の寵愛を得る法(女性用)といった、 権力を得る秘術や死期を悟る法がある。 しかし過去さんざん懲りたのか、あまり使いたがらない。 変化:A 借体成形とも。 玉藻の前と同一視される中国の千年狐狸精の使用した法。 殷周革命(『封神演義』)期の妲己に憑依・変身した術だが、 過去のトラウマからか、あまり使いたがらない。 【宝具】 『水天日光天照八野鎮石(すいてんにっこうあまてらすやのしずいし)』 ランク:D 種別:対軍宝具 レンジ:3~30 最大捕捉:100人まで 玉藻の前が身につける鏡。 呪詛によって常世の理を遮断した結界で、この結果以内ではあらゆる呪力行使コストがゼロになる。 本人の霊格が落ちている為、ランクも下がっている。 本来ならEXランクの対界宝具。EX時の範囲は一国を覆うとされる。 キャスターの扱う呪術は、すべてキャスター自身の体を使って行われる物理現象だ。 通常の魔術は、“そこにあるものを組み替える”プログラムだが、 呪術は“自身の肉体を素材にして組み替える”プログラム。 「今回はムーンセルからの制約で一つしかありませんが、 本来なら多数の尾から百万の軍勢を生み出せるのです!」 とはキャスター本人の弁。実に眉唾である。 【備考】 『呪術』 キャスターの扱う呪術は、すべてキャスター自身の体を使って行われる物理現象である。 通常の魔術は、“そこにあるものを組み替える”プログラムだが、 呪術は“自身の肉体を素材にして組み替える”プログラム。 「今回はムーンセルからの制約で一つしかありませんが、 本来なら多数の尾から百万の軍勢を生み出せるのです!」 とはキャスター本人の弁。実に眉唾である。 『常世咲き裂く大殺界(ヒガンバナセッショウセキ)』 殺生石を用いたキャスターのスキル。 玉藻の前が死後石に変じたものを“殺生石”と言い、これはたいへんな呪毒を帯びた石で、 近づく人や獣を中毒死させた。 本来は栃木の那須高原にあったが、後に玄翁和尚という高僧によって砕かれ、 日本に三箇所ある高田という場所に飛散した。 また、この際に飛散した残りはオサキ狐や犬神となり、各地の使役術師に使役される 使い魔となったという。 【人物背景】 平安時代末期、鳥羽上皇に仕えた絶世の美女。 白面金毛九尾の狐が化けた姿とも言われている。 幼名は藻女(みずくめ)。 十八歳で宮中に仕え、のちに鳥羽上皇に仕える女官となり、 玉藻の前(たまものまえ)と名乗った。 その美貌と博識から次第に鳥羽上皇に寵愛されたという。 諸説様々だが、その後、鳥羽上皇は病に伏し、 その原因を調べた陰陽師によって狐の正体を暴かれ、宮中から追い払われた。 宮中から去った後は那須野で悪名を重ね、 上皇からの命によって八万もの討伐軍を派遣されるもこれを撃退。 二度目の戦いにおいて人間に敗北するも、 その骸は毒を放つ石になったと言われている。 【『ダキニ天』】 元来、“玉藻の前”は巷間に九尾の狐といわれるが、厳密には野干(ジャッカル)であり、 本来は「アマテラス(垂迹)=(本地)大日如来(法身)=(報身)ダキニ天」として崇拝された稲荷明神…… 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)であると考えられる。 ちなみに源平盛衰記には、平清盛がこのダキニ天の力を用いた修法によって権力を握った伝承もある。 EXTRAにおける玉藻の前はアマテラスから分かれた御魂であり、 その正体は九尾の狐ではなく神の表情の一つとして扱われている。 また、彼女を英霊としてカテゴライズするのは大きな間違い。 玉藻の前の“良妻になりたい”という願いを実現させる為に英霊になったため、本来のスペックを発揮できずにいる。 悪霊、荒御魂として再現された場合、 彼女は百の英雄すら返り討ちにする大化生へと変貌を遂げるだろう。 日本三大化生の一人の名は伊達ではない。
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510p 当体義抄 日蓮 之(これ)を勘(あた)う 1 十界の事相に約す 問う、妙法蓮華経とは、その当体は、どのようなものであろうか。 答う、十界の依報と正報とのすべてが、妙法蓮華経の当体である。 問う、もしそうであるならば、われわれのような一切衆生も妙法の全体であるといえるのであろうか。 答う、もちろん、そうである。 その証文としては、方便品第二に「所謂諸法・乃至・本末究竟して等しい」とあるとおりである。 この文を、妙楽大師は金錍論(こんぺいろん)で次のように解釈している。 「実相には必ず諸法がそなわっている。諸法には必ず十如がそなわり、十如は必ず十界に収まる。 十界は必ず正報と依報の身土に収まっている」と。 天台大師は法華玄義に 「十如・十界・三千の諸法は、法華経の正体なのである」と説いている。 南岳大師は法華経安楽行義において 「いったい、いかなるものを妙法蓮華経というのであるか。 答う、妙とは衆生が妙であるが故に、法とは衆生が法であるが故に、衆生は妙法の当体である」 と述べている。 さらにこれを天台大師が釈して「衆生の法は妙である」と法華玄義でいっている。 2 十界の事相の所以を釈す 問う、一切衆生の当体が、そのまま妙法の全体であるならば、地獄界から菩薩界までの九界の業因業果も、 すべて妙法の当体なのであろうか。 答う、諸法の不思議な理として、一念には「染浄の二法」がある。 染法が働くならば迷いとなり、浄法が働けば悟りとなる。 この悟りが、すなわち仏界であり、迷いは、衆生すなわち九界となるのである。 この迷語の二法は二であるけれども、しかもその根底においては共通した法性真如の一理である。 譬えば、水精の玉は太陽に向ければ火を取り、月に向ければ水を取る。 このように玉は一つであるが、縁によってその功能が同じでないようなものである。 十界に具わった真如の妙理も、また、このようなものである。 法性の理は、ただ一つの妙なる真如の理ではあるけれども、 悪縁にあえば迷いとなり、善縁にあえば悟りとなる。 その悟りはすなわち法性であり、迷いはすなわち無明である。 譬えば、夢の中で、善悪の業についていろいろと見る。 しかし、夢からさめて、これを思い返してみれば、自分自身の一心の作用であるようなものである。 このように本来的に具わっている一心こそ法性真如の理であり、 夢の善悪は迷いの無明と悟りの法性である。 このようにわきまえたならば、悪い迷いである無明を捨てて、 善の悟りである法性にもとづくべきことは当然である。 華厳経の大円覚修多羅了義経(だいえんがくしゅたらりょうぎきょう)には 「一切諸の衆生の無始以来の幻(迷い)・無明は、 すべて衆生の本性である本覚の法身如来の心から作り出したものである」といっている。 また天台大師は摩訶止観(まかしかん)巻五に 「無明の癡惑(ちわく)は、本来それ自身が法性と一体である。 しかし、癡と迷いのために法性が変じて、無明となるのである」と述べている。 また妙楽大師の法華玄義釈籖(ほっけげんぎしゃくせん)の巻一には 「理性といっても、別の本体があるのではなく、すべて無明の働きによるのである。 また無明といっても、無明に別の本体があるのではなく、すべて法性の働きによるのである」 と説いている。 無明は断じ尽くすべき迷いであり、法性は証得すべき仏法の道理であって、 まったく異なるものであるのに、どうして無明と法性とが体一であるかという疑問は、 511p 以上の数々の経釈の文義によって正しく理解すべきである。 大智度論(だいちどろん)の巻九十五に説かれた夢の譬えや、天台大師の玉の譬えは、 共に無明・法性一体であることをよく説明してあり、まことに興味深く思うものである。 まさしく無明と法性とが体一であるという証拠は、法華経の方便品第二の 「是の法は、法位に住して世間という差別相がありながら、 そのまますべて衆生、仏ともに永遠に常住である」の文である。 大智度論には 「明(悟り)と無明とは、何の異もなく別もない。このように知ることを中道と名づけるのである」 といっている。 ただ真如の妙理に、染浄の二法があるという証文は多いけれども、 華厳経の「心と仏と及び衆生とこの三つは、まったく差別がない」という文と、 法華経の「諸法実相」の文に勝るものはない。 南岳大師は「心の本体に染法と浄法の二法を具足して、しかも、別に異なった姿はなく、 まったく一味平等である」と。 また同じく南岳大師の明鏡の譬えは、まことに詳しい。 さらに詳しくは大乗止観(だいじょうしかん)の釈のとおりである。 また、すぐれた釈文としては、妙楽大師の法華玄義釈籖の六に 「一念三千の道理が、ただ衆生の理具としてとどまっているだけであれば、それを無明と名づけ、 一念三千が仏果として成就したのであれば、すべてそれを常楽というのである。 いずれにしても、一念三千という実相は不変なのであるから、無明即明であり、 三千が衆生、仏ともに常住であるがゆえに倶体倶用である」といっている。 この解釈によって明らかであろう。 3 信受に約す 問う、一切衆生が、皆ことごとく妙法蓮華経の当体であるならば、 われわれのように愚癡(ぐち)で道理に闇(くら)く、理解も鈍い凡夫も、妙法の当体であるのか。 答う、当世の人々は数多いけれども、全ての人は二種類に収まってしまう。 それは、権教を信ずる人と実教を信ずる人である。 しかして、権教・方便の念仏等を信ずる人は、妙法蓮華の当体ということは出来ない。 実教の法華経を信ずる人が当体の蓮華であり、真如の妙体なのである。 涅槃経には 「一切衆生の中でも、とくに大乗を信ずるゆえに大乗の衆生と名づけるのである」とある。 南岳大師の四安楽行義(あんらくぎょうぎ)には 「大強精進経(だいごうしょうじんきょう)に、衆生と如来とが同共の一法身であって、 清浄にして妙で比(たぐ)いないことを妙法蓮華と称するのである」と説いている。 また、同じく南岳大師は 「法華経を修行する者は、一心一学の修行にあらゆる得果がそなわる。しかもそれは 一時にそなわるのであって、歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)のように次第に得入するのではない。 それはあたかも蓮華の一つの華に、多くの果実を一時にそなえているようなものである。 これを一乗の衆生の義と名づけるのである」と述べている。 また「二乗の声聞及び鈍根の菩薩は、方便道の中での次第に修学して得果していく歴劫修行を 修めるのである。これに対して利根の菩薩は、正直に方便を捨てて次第の修行である歴劫修行をしない。 もしも法華三昧を証得するならば、一切の果徳をことごとく具足するのである。 これを一乗の衆生と名づける」と。 南岳大師のこの釈の中の次第行の三字の意味を、当世の学者は別教であると理解している。 しかし、この釈の意味は、法華経の因果具足の教えに相対して、方便道を次第行といっている。 故に次第行とは爾前の諸大乗経並びに頓漸大小の諸経をいうのである。 その証拠として、法華経の開経である無量義経説法品第二に 「次に方等十二部経・摩訶般若、華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説した」 と説かれている。 利根の菩薩は正直に方便を捨てて次第行を修めないで、もし法華経を証得するときは、 一切の果徳を具足することができる。 512p これを一乗の衆生と名づけるのである。 これらの文の意を考えてみれば、 三乗・五乗・七方便・九法界等、四味三教を修行する一切の凡夫・聖人等を、 大乗の衆生・妙法蓮華経の当体と名づけるべきではないのである。 たとえ仏であっても、権教の仏に対しては仏界すなわち真実の仏と名づけるべきではない。 権教の三身 は、いまだに無常を免(まのか)れないからである。 まして、その余の九界に対しては、どうして当体蓮華と名づけられようか。 ゆえに正・像二千年の国王・大臣よりも、末法の非人のほうが尊貴であると釈しているのもこの意である。 南岳大師は法華経安楽行義に 「一切衆生は法身の蔵を具足しているので、仏と同一であって何ら異なることはない」 と述べている。 また法華経法師功徳品第十九では 「父母所生の清浄の常の眼・耳・鼻・舌・身・意もまた是くのごとし」と説いている。 さらに同安楽行義に 「問うていわく、仏は、いずれの経の中で眼等の諸根を説いて名づけて如来とするのか。 答えていわく、大強精進経の中に、衆生と如来とが同共の一法身であって、その清浄にして妙であって 比類がないことを妙法蓮華経と称するのである」と説いている。 この大強精進経は方便権教の文ではあるが、法華経がすでに説きあらわされているから引用することが できるのである。 法華経に不同共の念仏者等は、すでに所具の仏法が法身如来に背くゆえに妙経の当体ではないのである。 所詮、妙法蓮華経の当体とは、 法華経を信ずる日蓮の弟子檀那等の父母から生じたところの肉身そのものをいうのである。 正直に方便の教えを捨て、ただ法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱える人は、 煩悩・業・苦の三道が、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦がそのまま一心に顕われ、 その人の所住の処は、常寂光土となるのである。 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは、 日蓮の弟子檀那等のなかの正しい信心をする者のことである。 これすなわち法華の当体であり、妙法に具わる自在神力の顕わすところの功徳である。 決してこれを疑ってはならない。 これを疑ってはならない。 4 当体蓮華と譬喩蓮華を明かす 問う、天台大師は法華玄義で妙法蓮華を当体蓮華と譬喩蓮華の二つの立義で説き明かしている。 それでは、その当体蓮華と譬喩蓮華とはどのようなものであろうか。 答う、譬喩の蓮華とは、施開廃の三釈に詳しくあるから、これを見られるがよい。 当体蓮華の解釈については、法華玄義巻七下に 「蓮華は譬えではない。当体そのものの名前である。たとえば住劫の初めには万物に名がなかったが、 聖人が道理にのっとり、その道理にふさわしい名をつけていったようなものである」とある。 また、法華玄義巻七下に 「今、蓮華という呼び名は、喩えていったものではない。これこそ法華経の法門を指しているのである。 法華の法門は、清浄そのものであり、因果が奥深くすぐれているので、 この法華の当体を名づけて蓮華とするのである。 すなわちこの蓮華が、法華三昧という鈍一無雑な法華の当体そのものの名前であり、 決して譬喩ではないのである。」と。 またいわく、 「問う、蓮華というのは、はっきりさせれば、これは法華三昧の蓮華であろうか。草花の蓮華のことだろうか。 答う、明らかに、これこそ法華経のことである。 513p だが法華経といっても理解しがたいので、草花を譬えとして使用している。 利根の者は蓮華の名前を聞いて、直ちに妙法を理解し、譬喩は必要としないで法蓮華を悟る。 ところが中根・下根の者はそれだけでは悟れず、譬えを用いて知ることができる。 そこで理解しやすい草花の蓮華を用いて難解な当体蓮華の譬えとしたのである。 それ故、迹門において、釈尊は三周の説法にあって、 上根・中根・下根の機根にそれぞれかなうよう説法を行なった。 上根の者に約せば蓮華という法の名を、中根・下根の者に約せば蓮華という譬えの名を借りたのである。 このように上中下の三根合論し、ならべて法説と譬喩説をあらわしたのである。 このように理解すれば、誰がこの問題でどうして論争するであろうか」と。 天台大師の法華玄義巻七下の釈の意味は、妙法の至理には、もともと名はなかったが、 聖人がその理を観じて万物に名をつけるとき、因果倶時の不思議な一法があり、 これを名づけて妙法蓮華と称したのである。 この妙法蓮華の一法に十界三千の一切法を具足して一法も欠けるところがない。 よってこの妙法蓮華を修行する者は、仏になる因行(妙因)と果徳(妙果)とを同時に得るのである。 聖人(仏)は、この妙法蓮華の法を師として修行し覚られたから、妙因・妙果を倶時に感得して、 妙覚果満の如来となられたのである。 ゆえに伝教大師は守護国界章の中の巻に 「一心の妙法蓮華とは、因華・果台が倶時に増長するものである。 仏の三周の説法に、おのおの当体蓮華と譬喩蓮華がある。総じて法華経一経に皆、 当体蓮華と譬喩蓮華がある。その中でも別しては、七譬・三平等・十無上の法門があって皆、当体蓮華がある。 この当体蓮華の理を詮ずる教を名づけて妙法蓮華経というのである」 と述べている。 また、妙楽大師は法華玄義釈籖の巻一に 「すべからく七譬を解釈するときには、おのおのの蓮華が権実の義を顕わしているのと同じ義で 解釈しなければならない。何となれば、蓮華はただこれ実の為に権を施(ほどこ)し、 次にその権を開いて実を顕わすことを譬えたものであり、七譬もことごとく同様であるからである」 と説いている。 また住劫の初めに、草花があり、聖人はその理を見て蓮華と名づけた。 この草花は因果が一時にそなわっているところが、妙法蓮華に似ている故に、 この草花を同じく蓮華と名づけたのである。水中に生ずる赤蓮華・白蓮華等の蓮華がこれである。 譬喩の蓮華とは、この草花の蓮華を指しているのである。 この草花の蓮華によって難解な妙法蓮華をあらわしているのである。 天台大師が法華玄義の第一の巻に 「妙法は解しがたいが、譬えを仮りれば理解しやすい」と釈したのはこの意味である。 5 如来の自証化他を明かす 問う、劫初からこれまでの間に、いったい誰人がこの当体蓮華を証得したのであろうか。 答う、教主釈尊(久遠元初自受用報身如来)が五百塵点劫の当初(久遠元初)に、 この妙法の当体蓮華を証得してその後、迹を垂れて世々番々に成道を行ない、 能証所証(のうしょうしょしょう)の本理を顕わされたのである。 そして今日(在世)、また釈尊は中天竺摩訶陀国(てんじくまかだこく)に出世して、 この当体蓮華を顕わそうとしたが、衆生の機が熟しておらず、いまだ時いたらなかったので、 一法の当体蓮華ではあっても、三つの草花に分けて、その三乗の権法である仮の教えを衆生に施し、 四十余年の間、擬宜誘引(ぎぎゆういん)したのである。 この期間は、衆生の根性が万差であったので、種々の草花の譬えをかりて権教に顕わし示して、 ついに妙法蓮華を示されなかった。 故に、法華経の開経である無量義経には 「我先に道場菩提樹の下で乃至四十余年間真実はあらわさなかった」と示している。 そして法華経にいたって、四味三教である方便の権教・小乗等に説かれた種々の譬喩の 514p 草花を捨てて、唯一の妙法蓮華を説き、三つの草花の譬喩蓮華を開いて一の妙法蓮華を顕わす際に、 四味三教に従っていた権教の人達に、初住の蓮華を授けることからはじめて、 本門の開近顕遠の蓮華にいたって、二住・三住乃至十住・等覚・妙覚の極果の蓮華を得させたのである。 6 本地の所証を示す 問う、法華経では、どの品の、どの文にまさしく当体・譬喩の蓮華を説き分けているのであろうか。 答う、もし三周の声聞に約してこのことを論ずれば、方便品は全部、当体蓮華を説いており、 譬喩品・化城喩品には譬喩蓮華を説いているのである。ただし、方便品にも譬喩蓮華がないというのではなく、 他の品にも当体蓮華が説かれていないというのではない。 問う、もしそうだとすると、まさしく当体蓮華を説いた文は、どの文であろうか。 答う、方便品の諸法実相の文がこれである。 問う、どうしてこの文が当体蓮華の文であるということを知り得るのであるか。 答う、天台・妙楽が、今の諸法実相の文を引いて法華経の法体を解釈しているからである。 また、伝教大師が釈して 「問う法華経は何をもって法体とするのであるか。答う、諸法実相をもって体とするのである」 といっている。 この釈で明白である (当世の学者は、この釈をかくして妙法蓮華の名を顕わさない。しかしながら、この十如実相の文こそ 妙法蓮華という義である)。 また現証は宝塔品の釈迦・多宝・分身の三仏がこれである。あるいは涌出品の地涌の菩薩、 提婆品の竜女の即身成仏がこれである。地涌の菩薩を現証とすることは、 涌出品第十五に「世間の法に染まざること、蓮華の水に在るが如し」という故である。 これは菩薩の当体蓮華であると説かれているのである。 竜女を現証とする理由は、 提婆品の中に霊鷲山に詣でて、千葉(せんよう)の蓮華の車輪のように大きな蓮華に坐し、 と説かれている故である。 また妙音菩薩の三十四身や観音菩薩の三十三身がその現証である。 これを妙楽大師は止観輔行伝弘決(しかんぶぎょうでんぐけつ)に 「法華三昧の不思議自在の業を証得しんなかったならば、 どうしてよくこの三十三身を現ずることができようか」と説いている。 あるいは方便品第二に「世間の相常住なり」と。 以上の諸文は皆当世の学者の勘(かんが)えた文証である。 しかしながら日蓮は方便品の十如実相の文と、神力品の如来一切所有之法等の四句の要法の文とを 当体蓮華の証文とするのである。 この神力品の文を天台大師もまた引用して法華経の五重玄と釈している。 ゆえに神力品の一文はことさらにまさしく当体蓮華の証文である。 7 結要(けっちょう)付嘱の法体を明かす 次上(つぎかみ)に引いた数々の文証・現証は、殊に勝れている。 それなのに、どうしてあなたは神力品の一文に執着するのか。 答う、この一文には、深い意味がある故に当体蓮華の文として最もふさわしいのである。 問う、その深意とは何か。 答う、この文は、釈尊が、本眷属である地涌の上行菩薩に結要の五字の当体を付嘱すると お説きになられた文だからである。 久遠実成の釈迦如来は 「わが昔の所願は今すでに満足した。一切衆生を化導して皆仏道に入らしめた」 といわれて、その願いをすでに満足し、 ついで 「如来滅後・後五百歳の中において広宣流布をさせよう」という結要付嘱を説かんがために、 地涌の菩薩を召し出し、本門の当体蓮華を 515p 要をもって付嘱した文である故に、 釈尊の出世の本懐であり、道場所得の秘法であり、 われらが現当二世の願いである成仏を成就する当体蓮華の誠証(じょうしょう)はこの文なのである。 故に末法今時において、如来の使い以外に、この当体蓮華の証文を知って取り出す人はありえないのである。 真実をもって秘文であり、真実をもって大事であり、真実をもって尊いのである。 南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経 (爾前の円の菩薩等が法華経の座に連なり、八万の大衆となって具足の道を聞きたいと、 仏にお願いしたのは、このことを意味しているのである)。 8 当流の法門の意を明かす 問う、当門流の法門の意は、諸宗の人が来て当体蓮華の証文を問うたときは、 法華経のどの文を出すべきであるのか。 答う、二十八品の始めに妙法蓮華経と顕わしているが、この文を出すべきである。 問う、何をもって、各品の題目が当体蓮華であるということを知ることができるのか、。 その故は、天台大師が法華経の首題を釈するについて、 蓮華とは譬喩をあげているのであるといって譬喩蓮華なりと釈しているではないか。 答う、題目の蓮華は当体・譬喩の両方の蓮華を合説しているのである。 天台大師の今の解釈は、その譬喩の辺を解釈した場合の釈である。 玄文(法華玄義)第一にある本迹の六譬は、この意味なのである。 それに対して玄文第七は、当体蓮華の辺を釈してある。 故に天台大師は、題目の蓮華をもって当体・譬喩の両方を釈している故に失は無いのである。 問う、どうして題目の蓮華が、当体・譬喩の両義を合説しているということを知ることができるのか。 南岳大師も妙法蓮華経の五字を解釈する時に 「妙とは衆生が妙であるからであり、法とは衆生が法そのものであるからである。 蓮華とは、草花の蓮華を借りて譬えたのである」と安楽行義の中で述べており、 このように南岳大師も天台大師も共に譬喩蓮華と解釈しておられるがどうなのか。 答う、南岳大師の解釈も、天台大師の解釈と同様である。 ただ当体・譬喩の両義を合説するということは、経文上では、明らかではないが、南岳大師も天台大師も、 すでに天親菩薩の法華論と竜樹菩薩の大智度論によって当体・譬喩の合説の意を判釈している。 いわゆる法華論には 「妙法蓮華とは、二種の義がある。第一は、出水の義である。 乃至、蓮華が泥沼から水上に出るというのは、諸の声聞が、仏の大衆の中に交わり入って坐し、 諸の菩薩たちと同様に蓮華の上に坐って、如来の無上の智慧、清浄の境界を説くのを聞いて、 如来の秘密の蔵を証得することに喩えるが故である。 二に華開とは、諸の衆生が大乗の中に於いて、その心が怯弱で、信心を生ずることができないので、 如来が、自ら浄妙報身(じょうみょうほうしん)を開示して信心を生ぜしめようとするが故である」 と説かれている。 この文の諸の菩薩の諸の字は、法華以前の大乗小乗の菩薩が、法華経の会座に来てはじめて、 仏の蓮華を証得することができるということが、法華論の文に明らかである。 ゆえに、菩薩が法華以前に処々で悟りを得たということは方便であることを知るべきである。 天台大師は、この法華経の文を法華玄義巻七に解釈して 「この論の意味を解釈すれば、法華論で、仏が衆生に浄妙法身を開示して見せしめるというのは、 妙因の開発することを指して蓮華とすることである。 また、仏が大乗の中に入って蓮華の上に坐るというのは、 516p 妙報の国土を指して蓮華とすることである」 といっている。 また、天台大師が、当体・譬喩の両義を合説する様子を詳しく解釈された時、 大集経の「我れ今、仏の蓮華を敬い礼拝する」という文と、 法華論の今の文とを引証して解釈して、次のようにいっている。 「若し大集経によれば、修行上の因果を蓮華とする。菩薩が蓮華の上に坐していれば、これは因の華であり、 仏の蓮華を礼拝するならば、すなわちこれは果の華である。 若し法華論によれば、依報の国土を蓮華とするのである。 また菩薩が、蓮華の法を修行することによって、その果報として蓮華の国土を得るのである。 これによってまさに依報の国土も正報の自身も、因である菩薩も果である仏も、 ことごとくが蓮華の法であることを知るべきである。 したがって、どうして譬えを借りてあらわすことを必要とするのであろうか。 しかしながら、鈍根で法性の蓮華を理解できない者のために、草花の蓮華を挙げて譬えとすることもまた、 何の妨げとなろうか」と。 また「もし蓮華でなければ、何によって、完全に、以上述べた法華の諸法を喩えられるであろうか。 法と譬えとを並べ論するが故に、妙法蓮華と称するのである」 と述べている。 次に竜樹菩薩の大論には「蓮華とは法と譬えとを共に並べ挙げている」といっている。 伝教大師は守護国家界章(しゅごこっかいしょう)巻中の中に、 この天親菩薩の法華論と竜樹菩薩の大智度論の文を解釈して 「法華論の文はただ妙法蓮華経と名づけるのに、二種の義があるといっているのであり、 ただ華草の蓮華に二種の義があるといっているのではない。 およそ、法と喩えとは、互いに良く似ていることが好ましいのである。 もし、似ていなかったならば、どうして、他の人々を理解させられようか。 この故に大論には法と喩えを並べ挙げたのである。 一心の妙法蓮華とは、因の華と果の台とが同時に増長するのである。 この義は理解しがたい。しかし喩えを仮れば理解しやすい。 この理が教をあらわす故に妙法蓮華経と名づけるのである」と。 これらの論文や釈義によって明らかである。 文についてよく見るべきである。 包み隠すところは、まったくなく、法譬合説の義は、説き尽くしているのである。 およそ法華経の真意は、譬喩即法体・法体即譬喩である。 故に伝教大師は、法華経を解釈して 「法華経には、譬喩が多くあるけれども、大きな喩えは七つである。 この七喩は、そのまま法体であり、法体はそのまま譬喩である。 故に譬喩の外に法体はなく、法体の外に譬喩はない。 ただし法体とは法性の理体であり、譬喩とはそのまま妙法の事相の体である。 事相がそのまま理体であり、理体がそのまま事相である。故に法譬一体というのである。 以上の理由によって竜樹・天親、南岳・天台等の解釈には、 皆、蓮華を釈する時は法体と譬喩とを並べ挙げている 」等と述べている。 このように釈の意が明らかであるから、これ以上重ねて述べない。 9 如来在世の証得を明かす 問う、仏の在世においては、いったい誰が蓮華を証得したのであるか。 答う、法華経以前の四味三教の時は、 三乗・五乗・七方便・九法界・権を帯びて説かれた爾前の円教の菩薩や、その教主、 さらには、法華経迹門の教主にいたるまで、総じて本門寿量品の教主を除く外はすべて、 本門の当体蓮華の名目さえも聞かない。 まして証得することがどうしてありえようか。 声聞・縁覚・菩薩の三乗の教えを聞いて一仏乗をあらわした、 迹門における無上菩提の蓮華の法門さえ、四十余年の間にはこれを顕わさなかった。 その故に無量義経に「終に無上菩提を成ずることを得ず」と述べて、 517p 迹門で説かれた開三顕一の蓮華は、爾前四十余年の間には、これを説かなかったというのである。 まして、開近顕遠・本地難思・境智冥合・本有無作の文底の当体蓮華を、 迹化の弥勒菩薩等が、どうして知り得るわけがあるだろうか。 問う、いかなるわけで爾前の円の菩薩や、迹門の円の菩薩が、本門の当体蓮華を証得しなかったということを 知ることができるのか。 答う、爾前の円の菩薩は、迹門の蓮華を知らない。また迹門の円の菩薩は本門の蓮華を知らなかった。 故に天台大師は 「爾前権経の補処である大菩薩でも迹化の衆を知らない、同様に、迹化の衆は、本化の衆を知らない」 といっている。 また伝教大師が註無量義経巻二に 「これは直道ではあるが、大直道ではない」 あるいは同巻三に 「いまだ菩提の大直道を知らない故に」といっているのは、このことをいっているのである。 したがって、爾前迹門の菩薩は、一分だけ断惑証理の義があるとはいっても、 本門に相対して見たときは、当分の断惑であって、一重立ち入った跨節(かせつ)の断惑ではないから 未断惑の者といわれるのである。 したがって爾前経においても菩薩が処々に得道したと釈しているけれども、それは二乗を弾呵するために、 一往、菩薩に得道の名を与えたまでである。 故に爾前迹門の大菩薩が、仏の蓮華を悟ることができるのは、本門の時である。 すなわち真実の断惑は、寿量品の一品を聞いた時である。 天台大師が、涌出品の 「五十小劫をいう長い年月を、仏は神通力をもって、諸の大乗に、わずか半日の短時日のようにおもわせた」 という経文を解釈して、法華文句の巻九の上に 「解者は、短に即して長、すなわち半日の時日を五十小劫という長い年月と見る。 逆に、惑者は、長に即して短、すなわち五十小劫の長年月をわずか半日と見る」と説いている。 妙楽大師は、この解釈を受けて、法華文句記の巻九で 「本化の菩薩は、すでに無明惑を破っている。これを称して解とする。 迹化の大衆は、いぜんとして無明惑を破ることができないので、賢位すなわち十信の位にとどまっている。 これを名づけて惑とする」と解釈している。 この解釈によって意味は明らかである。 すなわち爾前迹門の菩薩は惑者であり、ただ地涌の菩薩のみが解者であるということである。 このように両者の差がはっきりしているにもかかわらず、 当世の天台宗の学者の中には、本門と迹門の同異を論ずるときに、本迹の相違はないといって、 この文を解釈して、解者の中に迹化の大衆も入っているのだというのは大きな僻見(びゃっけん)である。 経文、そして天台等の解釈の義は明らかである。 どうして、そのような邪な考えをすることができようか。 涌出品の文は 「地涌の菩薩が五十小劫の長い間、仏を讃(ほ)めたたえたことを、 霊山の迹化の菩薩の衆はわずか半日のように謂(おも)った」と説き明かされたのを、 天台大師が解者と惑者を出してそれを相対して 「迹化の菩薩衆は惑者であるために半日のように思った。これは、僻見である。 地涌の菩薩は解者であるために五十小劫の長時日と見る。これが正しい見解である」 と解釈されているのである。 妙楽大師は、さらにこの解釈をうけて、 「無明を破した菩薩は解者であり、未だ無明を破すことのできない菩薩は惑者である」 と解釈していることは、文についてまさに明らかである。 迹化の菩薩であっても初住以上の位に登った菩薩は、すでに無明を破した菩薩であるなどという学者は、 無得道の爾前経を得道できると習ったがためである。 爾前、迹門は当分において、妙覚の位があるけれども、 本門寿量品の真仏に 518p 相対したときには、あくまで惑者であり、なお賢位をでない者といわれるのである。 権教における法報身の三身が、いまだ無常を免れない理由は、 夢の中のできごとと同様の架空の仏だからである。 爾前と迹化の衆とは、いまだ本門にいたらないときは、未断惑の者といわれ、 本門に来た時に初めて初住に住することができたのである。 故に妙楽大師は法華玄義釈籖の巻一に 「迹を開いて本を顕した時に、皆が初住の位に入る」といっている。 この意と先に述べた「大衆はいまだに賢位に居る」という解釈とを思い合わせるがよい。 爾前・迹化の衆は惑者であって、いまだ無明惑を破っていない仏菩薩であるということは、まさに真実である。 故に、本門の寿量品が説き顕わされた後は、霊山の会座の大衆は、皆ことごとく当体蓮華を証得したと 知ることができるのである。 二乗も、不信謗法の一闡提(いっせんだい)も、決定性(けつじょうしょう)の者も、 女人や悪人等も、皆、久遠本仏の蓮華を証得したのである。 伝教大師は「一大事の蓮華」を守護国界章の巻下に釈して 「法華経の肝心である一大事の因縁は、蓮華の顕すところである。 一とは中道実相であり、大とは、その中道実相が森羅万象にわたってのものである、 事とは法性すなわち本来そなわったところの事実の姿・振舞いという意である。 一究竟事は円の理境と教義と智慧と修行と円の法身、般若、解脱の三徳とである。 これによって一仏乗、三乗、決定性、不定性、内道の者、外道の者、阿闡提の者、 皆ことごとく一切智地という仏の位にいたることができる。 故に、この一大事によって仏の知見を開かしめ、示し、悟らしめて、一切の者が成仏したのである」 と述べている。 これは在世の女人・一闡提・決定性・二乗等の極悪人が霊鷲山において、当体蓮華を証得したことを いっているのである。 10 末法の衆生の証得を明かす 問う、末法今時において、誰人か、当体蓮華を証得したものがあるだろうか。 答う、当今の世相を見る時、正法を誹謗(ひぼう)して無間地獄の当体を証得する人は数多いけれども、 仏の蓮華を証得した人はまったくいない。その理由は、得道できない権教方便の教えを信じて、 法華の当体である真実の蓮華を毀謗(きぼう)するからである。 釈尊は法華経譬喩品第三にこのように説いている。 「もし、人が此の法華経を信じないで毀謗するならば、その者は、すなわち一切世間の仏の因種を 断ってしまうであろう。あるいは、その者は、死んで後、無間地獄に堕ちるであろう」 と。 天台大師は 「此の法華経は、あまねく六道の者の仏種を開くのである。もしも、この経を謗るならば、 それは六道の仏種を断絶することになる」 と解釈している。 日蓮は、次のようにいいたい。 この法華経は、広く十界の仏種に通ずるのである。 もしも、この経を謗(そし)れば、それは十界の仏種を断絶することになる。 したがって、その者は死んで後、無間地獄が決定して、そこから出られる機会が得られないのである。 しかるに、日蓮の一門は正直に権教方便の邪法・邪師の邪義を捨てて、 正直に正報・正師・正義を信ずるが故に当体蓮華を証得して、常寂光の当体の妙理を顕わすことは、 本門寿量文底の教主の金言を信じて、南無妙法蓮華経と唱えるからである。 11 迹化未弘の所以を示す 問う、南岳大師も、天台大師も、伝教大師も、共に法華経によって一仏乗の円教の法理を弘められたけれども、 未だ南無妙法蓮華経とは唱えられなかった。 それはどういうわけか。また、もしも、そうであるならば、これらの大師は、 いまだに真実の当体蓮華を知らないし、また悟ることもできなかったというべきではないか。 519p 答う、南岳大師は観音菩薩の化身であり、天台大師は薬王菩薩の化身であるといわれている。 たしかにそうであるが、霊山において本門の寿量品の説法を聞いた時は、この仏の蓮華を証得したけれども、 出現した時節が妙法流布の時ではなかった。 故に妙法という名字をかえて、「止観」と名づけて、一念三千、一心三観の法門を修行したのである。 ただし、これらの三大師等も、南無妙法蓮華経と唱えることを自行のための真実の内証とされたのである。 南岳大師は法華懺法に「南無妙法蓮華経」といい、 また天台大師は 「南無平等大慧一乗妙法蓮華経」また「稽首妙法蓮華経」また「帰命妙法蓮華経」といわれている。 伝教大師の最後臨終の十生願の記にも 「南無妙法蓮華経」と記され、皆、自行として「南無妙法蓮華経」と唱えられたことがわかる。 問う、たしかに文証は明らかである。では、何故内証の悟りをそのまま弘通されなかったのか。 答う、それは二つの理由がある。 一には文底の大法弘通の時が来なかった故で、すなわち末法の時ではなかったためである。 二には迹化の菩薩であるため文底の大法を付嘱されなかったのである。 およそ妙法の五字は、末法に流布すべき大白法であり、 本化地涌千界の菩薩に付嘱されたのである。 それ故、南岳、天台、伝教大師等は、心の中では、十分知っていたのであるが、 末法の導師に譲られて、弘通しなかったのである。 当体義抄送状 問う、当体の蓮華ということは、理解しがたい。 そこで、譬喩を仮りて、これをあらわしたというが、その証拠が経文にあるか。 答う、法華経従地涌出品第十五に 「本化の菩薩は、世間の法に染まらないこと、あたかも蓮華が泥沼の中にありながら、 清浄であるのと同じである。しかも、この本化の菩薩は大地から涌出した」と説かれている。 これは、まさしく地涌の菩薩が当体蓮華であることを示している。 譬喩はおのずと明瞭であろう。 これについては後日、改めて書くことにする。 この当体蓮華の法門は、法華経の究極の理であり、釈尊の出世の本懐であって、 地涌の菩薩に付嘱したところの、末法に弘通すべき法門の肝心である。 このことは国主が信心した後に、はじめていい出すべき秘蔵の法門である。 日蓮は、これを最蓮房に伝えたのである。 日蓮 花押
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1358p 諸法実相抄 文永十年五月 五十二歳御作 与最蓮房日浄 日蓮 之 を記す 1 諸法実相の意義を明かす 問うていうには、 法華経第一の巻方便品第二に 「諸法実相とは、所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、 如是果、如是報、如是本末究竟等」 と説かれている。 この経文の意味はどのようなものであろうか。 答えていうには、 下は地獄界から上は仏界までの十界の依報・正報の当体が、一法も残さず妙法蓮華経の 姿であるという経文である。 依報があるならば必ず正報が住している。 妙楽大師の法華文句記巻十下には、 「依報も正報も常に妙法蓮華経の法理を顕している」等と述べている。 また、金剛錍(こんごうべい)には、 「実相は必ず諸法とあらわれる。諸法はまた必ず十如をそなえている。 その十如は必ず十界という差別相がある。 その十界には必ず身と土が存在する」と述べている。 また、同じく金剛錍のなかで 「阿鼻地獄の依報と正報は尊極の仏の自身のなかに具わり、 毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)の法身の生命も凡夫の一念の外にあるものではない」としている。 これらの妙楽大師の釈義は分明である。 誰が疑いを生ずるであろうか。 したがって、法界の姿は妙法蓮華経の五字にほかならないのである。 したがって、釈迦仏・多宝仏の二仏といっても時に応じて働きとして現れた用の仏であり、 妙法蓮華経こそ本仏であられる。 法華経如来寿量品第16に「如来秘密神通之力」と説かれているのはこのことである。 「如来秘密」は体の三身であって本仏である。 「神通之力」は用の三身であって迹仏である。 凡夫は体の三身であって本仏である。 仏は用の三身であって迹仏である。 したがって、釈迦仏が我ら衆生のために主師親の三徳をそなえられていると思っていたのであるが、 そうでなくて、かえって仏に三徳をこうむらせているのは凡夫なのである。 2 虚空会の儀式の意義を明かす 釈迦仏・多宝仏の二仏といっても妙法蓮華経の五字のなかから用の利益を施すとき、 事相に釈迦・多宝の二仏と顕れて多宝塔のなかでうなずきあわれたのである。 このような法門は日蓮を除いては申し出す人は一人もいないのである。 天台大師、妙楽大師、伝教大師等は心の中では知っておられたのであるが、 言葉に出されることはなかった。 ただ、胸の中にしまっておかれたのである。 それも道理なのである。 それは付嘱がなかったゆえであり、時が未だ来ていないゆえであり、 釈尊の久遠の弟子ではないゆえなのである。 地涌の菩薩のなかの上首・唱導の師である上行菩薩・無辺行菩薩等の菩薩よりほかには、 末法の始めの五百年に出現して、法体の妙法蓮華経の五字を弘めるだけではなく、 宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すことができる人はいないのである。 これはすなわち、法華経本門如来寿量品に説かれた事の一念三千の法門であるからである。 3 妙法蓮華経が本仏なるを示す したがって、釈迦仏・多宝仏の二仏といっても用の仏であり、妙法蓮華経こそ仏であられるのである。 法華経如来寿量品第十六に「如来秘密神通之力」と説かれているのはこのことである。 「如来秘密」は体の三身であって本仏である。「神通之力」とは用の三身であって迹仏なのである。 凡夫は体の三身であって本仏である。 仏は用の三身であって迹仏である。 したがって、 釈迦仏が我ら衆生のために主師親の三徳をそなえられていると思っていたのであるが、 そうではなくかえって仏に三徳をこうむらせているのは凡夫なのである。 そのゆえは、如来というのは天台大師の法華文句巻九下には 「如来とは十方三世の諸仏、真仏、応仏の二仏、法身・報身・応身の三身、 本仏、迹仏の一切の仏を通じて如来と号するのである」 と判じられている。 1359p この釈に「本仏」というのは凡夫であり、「迹仏」というのは仏である。 しかしながら、迷いと悟りの相違によって、衆生と仏との異なりがあり、 このため衆生は、倶体・倶用ということを知らないのである。 そうであるからこそ、諸法という言葉で十界を挙げ、これを実相であると説かれたのである。 「実相」というのは、妙法蓮華経の異名である。 ゆえに「諸法」(十界)は妙法蓮華経であるということなのである。 地獄は地獄の姿をみせているのが実の相である。 餓鬼と変わってしまえば地獄の実の姿ではない。 仏は仏の姿、凡夫は凡夫の姿であり、 万法の当体の姿が妙法蓮華経の当体であるということを「諸法実相」とはいうのである。 このことについて天台大師は 「実相の深理は本有常住の妙法蓮華経である」と述べている。 この釈の意味は「実相」の名言は迹門の立場から言ったものであり 「本有の妙法蓮華経」というのは本門の上の法門なのである。 この釈をよくよく心中で案じられるがよい。 4 人法一箇の御本尊建立を示す 日蓮が末法に生まれて上行菩薩が弘められるところの妙法蓮華経を先立ってほぼ弘め、 作りあらわされるところの本門寿量品の古仏である釈迦仏、迹門の宝塔品で涌出された多宝仏、 従涌出品の時に出現された地涌の菩薩等をまず作りあらわしたてまつることは 自分の分際を過ぎたことである。 この日蓮を憎むとも、内証をどうすることもできないのである。 それゆえに、このような日蓮を佐渡の島まで遠流した罪は無量劫を経ても消えるとは思われない。 法華経譬喩品第三には 「もし、法華経誹謗の罪を説くならば、劫のあらんかぎり説いても説き尽くすことはできない」 と説かれているのはこのことである。 また、日蓮を供養し、また日蓮の弟子檀那となられたその功徳は 仏の智慧によっても量り尽くすことはできない。 法華経薬王菩薩本事品第二十三には、 「仏の智慧をもって量っても、その功徳の多少を量り尽くすことはできない」と説かれている。 地涌の菩薩の先駆けは日蓮一人である。 あるいは、地涌の菩薩の数に入っているのかもしれない。 もし、日蓮が地涌の菩薩の数に入っているならば、日蓮の弟子檀那は地涌の流類ということになろう。 法華経法師品第十の 「よくひそかに一人のためにでも、法華経そしてまたその一句だけでも説くならば、 まさにこの人は如来の使い、如来から遣わされて如来の振る舞いを行ずるものと知るべきである」 との文は、だれか他の人のことを説かれたものではない。 5 妙法弘通の人を諸仏・諸天が賛嘆 人からたいへんによく自分がほめられるならば、 どのような困難でも耐えていこうとする心が出てくるものである。 これはほめる言葉から起きてくるものである。 すなわち、「末法に生まれて法華経を弘める行者には三類の強敵が起きて、死罪、流罪にまで及ぶであろう。 しかれども、この難に耐えて法華経を弘める者を、釈迦仏は衣をもって覆ってくださり、 1360p 諸天は供養をし、あるいは肩に担い、背に負うて守るであろう。 その行者は大善根の者であり、一切衆生のためには大導師である」と。 釈迦仏、多宝仏、十方の諸仏、菩薩、天神七代、地神五代の神々、鬼子母神、十羅刹女、 四大天王、梵天、帝釈、閻魔法王、水神、風神、山神、海神、大日如来、普賢菩薩、 文殊師利菩薩、日月天などの諸尊たちにほめられているので、 日蓮は、無量の大難をも耐え忍んでいるのである。 ほめられれば我が身の損ずることもかえりみず、 そしられるときには我が身の破滅することも気づかずに振る舞うのが凡夫の常である。 6 弟子門下の信心の在り方を説く このたび、信心をしたからにはどんなことがあっても、法華経の行者として生き抜き、 日蓮の一門となりとおしていきなさい。 日蓮と同意ならば地涌の菩薩であろうか。 地涌の菩薩であると定まっているならば、釈尊の久遠の弟子であることをどうして疑うことができよう。 法華経従地涌出品第十五に 「これらの地涌の菩薩は、私が久遠の昔から教化してきたのである」と説かれているのはこのことである。 末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は、男女の分け隔てをしてはならない。 皆、地涌の菩薩が出現した人々でなければ、唱えることのできない題目なのである。 はじめは日蓮一人が南無妙法蓮華経と唱えたが、 二人、三人、百人と次第に唱え伝えてきたのである。 未来もまたそうであろう。 これこそ地涌の義でないだろうか。 そればかりか広宣流布のときは、 日本中が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは大地を的とするようなものである。 7 法華は末代衆生のためなるを説示 ともかくも法華経に名を立て身を任せていきなさい。 釈迦仏、多宝仏、十方の諸仏・菩薩が集まり、 虚空会において釈迦仏・多宝仏の二仏がうなづきあい、定められたことは別のことではない。 ただひとえに末法の令法久住のためである。 すでに多宝仏は半座を分けて釈迦如来に譲(ゆず)られたとき、妙法蓮華経の旛(はた)をさしあらわして、 釈迦仏・多宝仏の二仏が大将として定められたことがどうして偽りであろうか。 それは我々を仏にしようとのご談合なのである。 日蓮はその座には居合わせなかったが、 経文を見ると少しの曇りもなく明らかである。 またその座にいたのかもしれないが、凡夫であるから過去のことは分からない。 しかし現在は明らかに法華経の行者であるからには、 また末法は決定(けつじょう)して当詣道場(とうけいどうじょう)となるであろう。 過去のこともこのことをもって推するならば、虚空会にも居合わせたであろう。 三世の生命が別のものであるわけがない。 8 御本仏の絶対的な境界を述ぶ このように思い続けていると、流人ではあるが喜悦(きえつ)は測り難いものである。 うれしいことにも涙を落とし、辛いことにも涙を落とすものである。 涙は善悪に通じているものである。 釈尊滅後、釈尊の弟子の彼(か)の千人の阿羅漢は、 仏のことを思い出して涙を流し、 1361p 涙を流しながら文殊師利菩薩が「妙法蓮華経」と唱えられると、 千人のなかの阿難尊者は泣きながら「如是我聞」と答えられたのである。 余の九百九十人は、泣く涙を硯(すずり)の水として、 また如是我聞(にょぜがもん)の上に「妙法蓮華経」と書きつけたのである。 今、日蓮も同じである。 このような流人の身となった事も妙法蓮華経の五字七字を弘めたゆえであり、 これは釈迦仏・多宝仏が、未来の日本国の一切衆生のために留め置かれたところの妙法蓮華経であると、 このように日蓮も聞いたゆえである。 現在の大難を思い続けるにも涙があふれ、末法の成仏を喜ぶにつけても涙が止まらないのである。 鳥と虫とは泣いても涙を落とすことはない。 日蓮は泣かないが涙がひまないのである。 しかしこの涙は世間の涙ではない。 ただひとえに法華経のゆえの涙である。 もしそうであるならば甘露(かんろ)の涙ともいえよう。 涅槃経には 「父母・兄弟・妻子・眷属に別れて流すところの涙は四大海の水よりも多いが、 仏法のためには一滴をもこぼさない」と説かれている。 法華経の行者となることは過去の宿習である。 同じ草木であっても仏とつくられることは宿縁である。 仏であっても権仏となるのはまた宿業なのである。 9 信・行・学の要諦を示す この手紙に日蓮の大事な法門を書いておいた。 よくよく読んで理解し、肝に銘じていきなさい。 一閻浮提(いちえんぶだい)第一の御本尊を信じていきなさい。 あいかまえてあいかまえて信心を強くして釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏の三仏の守護を受けていきなさい。 行学の二道を励んでいきなさい。 行学が絶えてしまえば仏法ではないのである。 我も行い、人にも教化していきなさい。 行学は信心から起きてくるのである。 力あるならば一文一句であっても人に語っていきなさい。 南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。恐恐謹言。 五月十七日 日 蓮 花 押
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【元ネタ】史実 【CLASS】キャスター 【マスター】EXTRA主人公 【真名】玉藻の前 【性別】女性 【身長・体重】160cm・49kg 【属性】中庸・悪 【ステータス】筋力E 耐久E 敏捷B 魔力A 幸運D 宝具B 【クラス別スキル】 陣地作成:C 魔術師として、自らに有利な陣地を作り上げる。 が、どうも性格的に向いていないらしく、工房を作る事さえ難しい。 【固有スキル】 呪術:EX ダキニ天法。 地位や財産を得る法(男性用)、権力者の寵愛を得る法(女性用)といった、 権力を得る秘術や死期を悟る法がある。 しかし過去さんざん懲りたのか、あまり使いたがらない。 変化:A 借体成形とも。 玉藻の前と同一視される中国の千年狐狸精の使用した法。 殷周革命(『封神演義』)期の妲己に憑依・変身した術だが、 過去のトラウマからか、あまり使いたがらない。 【宝具】 『水天日光天照八野鎮石(すいてんにっこうあまてらすやのしずいし)』 ランク:D 種別:対軍宝具 レンジ:3~30 最大捕捉:100人まで 玉藻の前が身につける鏡。 呪詛によって常世の理を遮断した結界で、この結果以内ではあらゆる呪力行使コストがゼロになる。 本人の霊格が落ちている為、ランクも下がっている。 本来ならEXランクの対界宝具。EX時の範囲は一国を覆うとされる。 キャスターの扱う呪術は、すべてキャスター自身の体を使って行われる物理現象だ。 通常の魔術は、“そこにあるものを組み替える”プログラムだが、 呪術は“自身の肉体を素材にして組み替える”プログラム。 「今回はムーンセルからの制約で一つしかありませんが、 本来なら多数の尾から百万の軍勢を生み出せるのです!」 とはキャスター本人の弁。実に眉唾である。 【キーワード】 【呪術】 キャスターの扱う呪術は、すべてキャスター自身の体を使って行われる物理現象である。 通常の魔術は、“そこにあるものを組み替える”プログラムだが、 呪術は“自身の肉体を素材にして組み替える”プログラム。 「今回はムーンセルからの制約で一つしかありませんが、 本来なら多数の尾から百万の軍勢を生み出せるのです!」 とはキャスター本人の弁。実に眉唾である。 【常世咲き裂く大殺界(ヒガンバナセッショウセキ)】 殺生石を用いたキャスターのスキル。 玉藻の前が死後石に変じたものを“殺生石”と言い、これはたいへんな呪毒を帯びた石で、 近づく人や獣を中毒死させた。 本来は栃木の那須高原にあったが、後に玄翁和尚という高僧によって砕かれ、 日本に三箇所ある高田という場所に飛散した。 また、この際に飛散した残りはオサキ狐や犬神となり、各地の使役術師に使役される使い魔となったという。 【人物背景】 平安時代末期、鳥羽上皇に仕えた絶世の美女。 白面金毛九尾の狐が化けた姿とも言われている。 幼名は藻女(みずくめ)。 十八歳で宮中に仕え、のちに鳥羽上皇に仕える女官となり、玉藻の前(たまものまえ)と名乗った。 その美貌と博識から次第に鳥羽上皇に寵愛されたという。 諸説様々だが、その後、鳥羽上皇は病に伏し、その原因を調べた陰陽師によって狐の正体を暴かれ、 宮中から追い払われた。 宮中から去った後は那須野で悪名を重ね、上皇からの命によって八万もの討伐軍を派遣されるもこれを撃退。 二度目の戦いにおいて人間に敗北するも、その骸は毒を放つ石になったと言われている。 【『ダキニ天』】 元来、“玉藻の前”は巷間に九尾の狐といわれるが、厳密には野干(ジャッカル)であり、 本来は「アマテラス(垂迹)=(本地)大日如来(法身)=(報身)ダキニ天」として崇拝された稲荷明神…… 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)であると考えられる。 ちなみに源平盛衰記には、平清盛がこのダキニ天の力を用いた修法によって権力を握った伝承もある。 EXTRAにおける玉藻の前はアマテラスから分かれた御魂であり、 その正体は九尾の狐ではなく神の表情の一つとして扱われている。 また、彼女を英霊としてカテゴライズするのは大きな間違い。 玉藻の前の“良妻になりたい”という願いを実現させる為に英霊になったため、本来のスペックを発揮できずにいる。 悪霊、荒御魂として再現された場合、彼女は百の英雄すら返り討ちにする大化生へと変貌を遂げるだろう。 日本三大化生の一人の名は伊達ではない。 【元ネタ】日本神話、三大化生の一角 ホノルルビーチ希望 【CLASS】ランサー 【マスター】 【真名】玉藻の前 【性別】女性 【身長・体重】160cm・49kg 【属性】中立・夏 【ステータス】筋力B 耐久C 敏捷A 魔力E 幸運A 宝具C 【クラス別スキル】 騎乗:A 騎乗の才能。ランサークラスならあって当然のものだが、そのランクがとても高い事に何らかの事件性を感じる。 陣地作成:A 過去のトラウマとは何だったのか。 夏の浜辺こそ我が狩猟場と言わんばかりの陣地作成能力。 いつでもどこでも日陰を作り、エレガントさを演出するビーチパラソルは伊達ではないという事か…… 神性:A++ ある神霊の分け御霊……というか分身……というかお忍び……だった筈なのに、夏の陽気にうかれてこの始末である。 ……どうなんだこの良妻になりたいフォックス。 【固有スキル】 ビーチフラワー:EX まさに向日葵の化身と申しますか。 愛の女神、ここに降臨! 「いえいえ、実際神ですよワタクシ?」 夏のタマモは女としての美しさをアピールするものの、隙あらばLOVEトラップ、という態度ではない。 夏・浜辺・ビーチパラソルとくれば、それは優雅さをアピールするチャンス。 夏の浜辺で普段以上にチャームしておいて、日常に帰った時にはもうメロメロという作戦である。 「それもう淑女ではなくハンターなのでは?」 「うむ、その通りだご主人。 あやつはオリジナルでありながらタマモナインに片足を突っ込んだ玉藻の前……海のハンター、人呼んでタマモシャークなのだな」 真夏の呪術:A 強力な魅惑の力。受けた相手は様々なデメリットを受けるが、同時にやる気が起きてしまうのかチャージゲージが増してしまう。 女神変生:B 変化スキルの最高位。女神に変生(へんしょう)する。 ものすごいバフ祭り。ただし、その後スタン。 とある電脳空間ではこのスキルを獲得した聖女がいたらしい。 【宝具】 『常夏日光・日除傘寵愛一神(とこなつにっこう・ひよけがさちょうあいいっしん)』 ランク:C 種別:対人宝具 レンジ:4~30 最大捕捉:1人 「日除け」は「魔除け」とかけたもの。マスターにつく悪い虫を退治する、という願いが込められている。 ある世界では「一夫多妻去勢拳」とも。 無論、男性特攻。 詳しい話は(おそらく)ロビンフッドが詳しい。 【解説】
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四諦(したい、 !--サンスクリット語?:-- catvaari aaryasatyaani चत्वारि आर्यसत्यानि、パーリ語:ariya-saccaani アリヤ・サッチャーニ)とは、仏教用語で、釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた苦集滅道の4つをいう。四聖諦とも。 聖諦とは「神聖なる真理」という意味であり、よって四諦とは「4つの真理」の意である ref 「諦」は通常「諦(あきら)める」と読み、仕方がないと断念したり、思い切ってその(良くない)状態を受け入れたりする、という否定的な意味あいで使われるが、本来の意味は「あきらか」「つまびらかにする」である。 /ref 。4つの真理とはそれぞれ、 苦諦:この世界は苦であるという真理 集諦:その苦は迷いになる業が集まって原因となっている真理 滅諦:迷いを絶ち尽くした永遠で平和な境地が理想であるという真理 道諦:八正道こそが苦の滅を実現する道であるという真理 前二者は流転の因果を示し、後二者は悟りの因果を示す。 !--前二者は、明らかに迷の現実とその原因を示したものであり、後二者は悟りの結果とその方法を示したものである。-- == 概要 == 釈迦はさとりを得た後、ベナレスの鹿野苑において、初めて五比丘のために法を説いた(初転法輪)。この時、この四諦を説いたと言われ、四諦は仏陀の根本教説であるといえる。四諦は釈迦が人間の苦を救うために説いた教えであり、あたかも医者が、患者の病気の何であるかをよく知り、その病源を正しく把握し、それを治癒させ、さらに病気を再発しないように正しく導くようなものだ(応病与薬)と言われている。 釈迦は初転法輪において、まず迷いの現実が苦であることと、その苦は克服しうるものであることを明らかにした。しかも、苦は単に苦として外にあるのでなく、我々がそれをどう受け取るのかで変わってくることを説いて、「煩悩」こそがすべてを苦と受け取らせる原因であることを明らかにした。したがって、この煩悩を正しく処理すれば、苦に悩まされない境地をうる。その道こそ、いっさいの自己愛を捨て、他に同化することにあるので、その根本は自己の本姿に徹することである。つまり、本来、執着すべきでない自己に執着することこそ、苦の原因である。この「苦」を滅して涅槃の世界に入る方法こそ「仏道」である。 == 四つの真理 == === 苦諦 === 苦諦(くたい、duHkha-aaryasatya)とは人生の厳かな真相、現実を示す。「人生が苦である」ということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿である。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。 四苦とは、生・老化|老・病気|病・死の4つである。これに、 愛し合うものが別れてゆかねばならない「愛別離苦」(あいべつりく) 憎む対象に出会わなければならない「怨憎会苦」(おんぞうえく) 求めても得られない、または得られないものを求めてしまう「求不得苦」(ぐふとっく) 最後に人間生存自身の苦を示す「五陰盛苦」(ごおんじょうく)、または「五取薀苦」(ごしゅうんく) を加えて「八苦」と言う。非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句「四苦八苦」はここから来ている。 === 集諦 === 集諦(じったい、duHkha-samudaya-aaryasatya)とは、苦が、さまざまな悪因を集起させたことによって現れたものである。という真理、またはこの真理を悟ることを言う。 集諦とは「苦の源」、現実に苦があらわれる過去の煩悩をいうので、苦集諦といわれる。「集」とは招き集める意味で、苦を招きあつめるものが煩悩であるというのである。 この集諦の原語は「サムダヤ」(samudaya)であり、この語は一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「つみかさねる」などを意味し、さらに「結合する」ことなどを意味する。その点、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。 苦集諦とは "duHkha-samudaya-satya" とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。そこで、具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛(かつあい)をいう。これらは欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。 さて、仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起である。この十二縁起とは苦の12の原因とその縁を示している。十二縁起より、苦とは12の原因のシステムという事になる。12個集まってそれ全体が苦なのである。だから、「無明」も「渇愛」も「愛欲」も、苦の根本原因であり苦集諦である。 === 滅諦 === 滅諦(めったい、nirodha-aaryasatya)とは、「苦滅諦」といわれ、煩悩が滅して苦のなくなった涅槃の境地を言い、いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので解脱の世界であり、煩悩の火の吹き消された世界をいう。または、苦の滅があるということを認識すること、すなわち苦の滅の悟り、または苦の滅を悟ることを滅諦という。 具体的には、諸法皆空という言葉で言われているように、森羅万象全ての法、すなわち諸法はすべてこれ空であって、実体のあるものではなく、因と縁から成り立っているものであり、苦は縁であり、縁は因(たとえば心や行いなど)を変えることによって変わりうるという悟りであるとも言える。 === 道諦 === 道諦(どうたい、maarga-aaryasatya)とは、「苦滅道諦」で、苦を滅した涅槃を実現する方法、実践修行を言い、これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道である。 == 涅槃経における四諦 == 大乗の『大般涅槃経』の四諦品では、通常の四諦に新しい大乗的な解釈を加えた、涅槃の教理的な四聖諦を説いている。 ;苦聖諦 この世の苦を明らかに徹見し、如来常住の真理を会得すること。また常住の法身を信じないことが生死の苦の根源であると知ること。 ;集聖諦 苦の根源は煩悩妄執であることを徹見し、それに対して如来の深法は常住にして不変易であり、窮まりないと證知すること。また非法を先とし正法を断滅することが生死の苦悩を受け集める原因であると知ること。 ;滅聖諦 苦の原因である一切の煩悩を除き、苦を滅する事が悟りの境地であるが、如来の秘密蔵を正しく知り修智すれば、煩悩があってもよく除く事ができる。また、衆生の一人一人が自己に内蔵する如来蔵(仏性)を信ずる一念が苦を滅するということ。 ;道聖諦 仏道修行を通して一体三宝(仏法僧は差別無く一体である)と解脱涅槃の常住不変易を知り、修習すること。また如来が常住不変易であるから、三宝の一体、解脱は涅槃経の2つも常住不変易であると知ること。
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【表記】タマモ 【俗称】キャス狐 【種族】サーヴァント(ムーンセル) 【備考】 【切札】 【設定】 【ステータス】 筋力E 耐久E 敏捷B 魔力A 幸運D 宝具B(魔) 筋力B+ 耐久E 敏捷A 魔力A 幸運B 宝具D(狂) 筋力B 耐久C 敏捷A 魔力E 幸運A 宝具C(槍) その正体は反英霊であり、神霊クラス……というか、ほとんど神さまである。 力を失っているので人間の英霊レベルであるが、尾を増やし、霊格を最高値まで上げた場合、人間の知覚では全容が測れないほどのモノとなる。 それも当然、彼女の大本(おおもと)は日輪を奉ったモノ。その存在規模は太陽と同義なのだから。 ちなみに尾を一本取り戻すたび、キャス狐の力は九倍になっていく。マックス状態である九尾にもなれば、その数値は九の九乗。 仮にAランクサーヴァントの能力数値を100(宝具のぞく)とすると、一尾キャス狐の能力数値を9ぐらい。一尾ではこの通り、どうあってもAランクには勝てないキャス狐だが、尾を増やしていくと……いや、比較するのも馬鹿らしい。 【スキル】 陣地作成:C 魔術師として、自らに有利な陣地を作り上げる。 が、どうも性格的に向いていないらしく、工房を作る事さえ難しい。 呪術:EX ダキニ天法。 地位や財産を得る法(男性用)、権力者の寵愛を得る法(女性用)といった、権力を得る秘術や死期を悟る法がある。 しかし過去さんざん懲りたのか、あまり使いたがらない。 キャスターの扱う呪術は、すべてキャスター自身の体を使って行われる物理現象である。 通常の魔術は、“そこにあるものを組み替える”プログラムだが、呪術は“自身の肉体を素材にして組み替える”プログラム。 「今回はムーンセルからの制約で一つしかありませんが、本来なら多数の尾から百万の軍勢を生み出せるのです!」 とはキャスター本人の弁。実に眉唾である。 変化:A 借体成形とも。 玉藻の前と同一視される中国の千年狐狸精の使用した法。 殷周革命(『封神演義』)期の妲己に憑依・変身した術だが、過去のトラウマからか、あまり使いたがらない。 神性:A ところでタマモの神性がさりげなくA++になっているが、それは夏の太陽補正で天照としての側面が漏れているからなんだとか。 狐の嫁入り:EX スキル・道具作成を独自に色々といじったもの。 一方的に嫁入りを宣言し、祝福の天気雨を降らせ、その場に居合わせた味方っぽい者たちに引き出物を押しつけて祝わせる、というまさに巫女狐としか言えないチートスキル。 そこまでにしておけよ天照。 ビーチフラワー:EX まさに向日葵の化身と申しますか。 夏の女神、ここに降臨! 「いえいえ、実際神ですよワタクシ?」 夏のタマモは女としての美しさをアピールするものの、隙あらばLOVEトラップ、という態度ではない。 夏・浜辺・ビーチパラソルとくれば、それは優雅さをアピールするチャンス。夏の浜辺で普段以上にチャームしておいて、日常に帰った時にはもうメロメロという作戦である。 「それもう淑女ではなくハンターなのでは?」 「うむ、その通りだご主人。あやつはオリジナルでありながらタマモナインに片足を突っ込んだ玉藻の前……海のハンター、人呼んでタマモシャークなのだな」 女神変生:B 変化スキルの最高位。 女神に変生(へんしょう)する。 ものすごいバフ祭り。ただし、その後スタン。 とある電脳空間ではこのスキルを獲得した聖女がいたらしい。 『常世咲き裂く大殺界(ヒガンバナセッショウセキ)』 殺生石を用いたキャスターのスキル。 玉藻の前が死後石に変じたものを“殺生石”と言い、これはたいへんな呪毒を帯びた石で、近づく人や獣を中毒死させた。 本来は栃木の那須高原にあったが、後に玄翁和尚という高僧によって砕かれ、日本に三箇所ある高田という場所に飛散した。 また、この際に飛散した残りはオサキ狐や犬神となり、各地の使役術師に使役される使い魔となったという。 【宝具】 『水天日光天照八野鎮石(すいてんにっこうあまてらすやのしずいし)』 ランク:EX→D 種別:対軍宝具 レンジ:3~30 最大補足:百人まで 玉藻の前が身につける鏡。 玉藻鎮石(たまもしずいし)と呼ばれる神宝の中の神宝を一時的に解放したもの。 鎮石とは出雲にて祀られていた、武日照命が天より持ち来たったという神宝である。 日本書記の記述によると、朝廷の要請によって出雲より持ち出され、後に河内に祀られるようになった。 おそらく後の八咫鏡(やたのかがみ)であり、即ち、天照大神の神体である。 また、鎮石は物部の十種神宝(とくさのかんだから)の原型と考えられ、 魂と生命力を活性化させる力を持つ。 本来なら死者さえも蘇らせる冥界の神宝だが、サーヴァント化している彼女では、 そこまでの権限は持てないらしい。 『常夏日光・日除傘寵愛一神』 ランク:C 種別:対人宝具 とこなつにっこう・ひよけがさちょうあいいっしん。 「日除け」は「魔除け」とかけたもの。マスターにつく悪い虫を退治する、という願いが込められている。 ある世界では「一夫多妻去勢拳」とも。 無論、男性特攻。 詳しい話は(おそらく)ロビンフッドが詳しい。 『ダキニ天』 元来、“玉藻の前”は巷間に九尾の狐といわれるが、厳密には野干(ジャッカル)であり、 本来は「アマテラス(垂迹)=(本地)大日如来(法身)=(報身)ダキニ天」として崇拝された稲荷明神…… 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)であると考えられる。 ちなみに源平盛衰記には、平清盛がこのダキニ天の力を用いた修法によって権力を握った伝承もある。 EXTRAにおける玉藻の前はアマテラスから分かれた御魂であり、 その正体は九尾の狐ではなく神の表情の一つとして扱われている。 また、彼女を英霊としてカテゴライズするのは大きな間違い。 玉藻の前の“良妻になりたい”という願いを実現させる為に英霊になったため、本来のスペックを発揮できずにいる。 悪霊、荒御魂として再現された場合、 彼女は百の英雄すら返り討ちにする大化生へと変貌を遂げるだろう。 日本三大化生の一人の名は伊達ではない。 怪力B 変化:B 借体成形とも。玉藻の前と同一視される中国の千年狐狸精の使用した法。 殷周革命(『封神演義』)期の妲己に憑依・変身した術。 過去のトラウマから自粛していたものだが、タマモキャットに自粛・自嘲・自制の文字はない。 あるのはただ自爆だけである。 狂化:C 全パラメーターをランクアップさせるが、理性の大半を奪われる。 はじめから理性が薄めのタマモキャットなので狂化とは言いがたいが、まあ似たような状態なので誰も気にしない。 たまに含蓄のある言葉を呟いてまわりを驚かせる。 『燦々日光午睡宮酒池肉林(さんさんにっこうひるやすみしゅちにくりん)』 ランク:D 種別:対人宝具 レンジ:~ 最大補足:人 水天日光天照八野鎮石(すいてんにっこうあまてらすやのしずいし)から派生したもの。 酒池肉林は「林に虎を放し飼いさせ、そこに人間を放って楽しむ」拷問遊戯だが、現代ではその意味合いは変化している。 【戦闘描写】 タマモの宝具は直接的な打撃を与える物ではなかったが、 長い戦い――― 一騎打ちではなく合戦のような―――で、 真価を発揮する物だ。 【能力概要】 【以上を踏まえた戦闘能力】 【総当り】
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雲雷覆乾坤 玄天欺羅魔 昏君殺無辜 乱臣詐伯公 将成大力王 卒化護國鬼 欲知佛祖功 須看封神傳 Fate/Grand Order "Epic of Lost Wonder" 亜種特異点 B.C.1023:異聞封神釋厄傳 殷周革命 開放条件:亜種特異点 ユカタン のクリア 2018年3月1日、配信開始。 2018年6月16日、定礎復元。 本編 No タイトル 更新日 00 序 雷公揮鞭鬧天宮 2018/03/01 01 第一節 英霊再遇革命中 2018/03/04 逆 おまえは封神演義でインド神話を目撃する(非逆噴射聡一郎) 2018/03/09 02 第二節 王者急求定海寶 2018/03/15 03 第三節 鬼神奔尋頸上功 2018/03/21 04 第四節 七星降臨起黒風 2018/03/27 05 第五節 万里長城遮土崩 2018/04/07 06 第六節 九州何処埋蔵鼎 2018/04/14 07 第七節 称名無間幽冥聲 2018/04/21 08 第八節 移山翻江転北斗 2018/04/28 09 第九節 意馬心猿変南走 2018/05/05 10 第十節 大聖羅刹闘佛契 2018/05/12 11 第十一節 六賊絶蹤断腸藪 2018/05/19 12 第十二節 世尊顕現金色相 2018/05/26 13 第十三節 悟空真実唯幻装 2018/06/02 14 第十四節 法身如来度魔縁 2018/06/09 15 結 和光同塵互助幇 2018/06/16 マテリアル・ピックアップ召喚 No タイトル 更新日 01 周ピックアップ召喚 2018/03/12 02 殷ピックアップ召喚 2018/04/11 No タイトル 更新日 03 周のキャスター 2018/06/30 04 周のセイバー 2018/07/07 05 殷のアーチャー 2018/07/14 06 殷のライダー 2018/07/21 07 殷のバーサーカー 2018/08/11 08 ■■の■■■■ 2018/07/28 09 ■■■の■■■■■■ 2018/08/04 登場人物 +主人公陣営 ○◆◆◆ アメリカはLA在住のヤク中。現在無職の20代。ヤクと酒と女が好きなロウライフのクズだ。多分イングランド系で宗教はプロテスタント。 特殊な能力は一切なく、体力も根性もない。面倒事はごめんだが、やるしかないならぶつくさいいながらもやる。 不幸にもウォッチャーによって勝手にマスターに立てられてしまった。基本的にひどい目にばかり遭う。 ○ユカタンのキャスター 手のひらサイズの水晶髑髏。頑丈だが動けないのでマスターが手に持って運ぶ。ある程度大きさを変えられ、マスターの心身を保護している。 相方で案内役代理。どこだか分からぬ胡乱な方言で喋る(マスターにはアメリカ南部方言っぽく聞こえる)。後知恵ではあるが知識自体は豊富。 ただし物忘れが激しく、言うのが遅い。もともと頭脳労働には向いてないはずだが、今回はキャスターとして現れた。 ○カルデアのシールダー いつもの彼女。ウォッチャーによって特異点に引きずり込まれ、サーヴァントの力が蘇った。 センパイ(女)とはなんか顔が近い仲である。今回は見ず知らずのアメリカ人男性が勝手にマスターにされているためピリピリしている。 なんだかんだでパーティの生命線。戦闘能力は本来低いが、センパイがしっかり育てていたので充分に強い。 ○ユカタンのランサー 大身槍を振るいスリケンを投げ、禍々しいメンポと漆黒の具足を身に纏うサムライニンジャ戦士。 強烈なニンジャアトモスフィアを漂わせ、地の文まで無自覚に侵蝕するヤバイやつ。戦闘力は実際高く生真面目。 忍術スキルを気配遮断に代用することも可能。ニンジャ野伏力判定に失敗すると気づかれてしまう。 +周陣営 ○周のキャスター 鷲鼻で肌の浅黒い、中年の小男。口髭を生やし、歯が欠けていて、片足が不自由なため杖を突いている。 愛嬌はあるが酷薄そうで、全体的に胡散臭い。幻術を得意とするが、魔力を大結界の維持に振り向けてしまったため今は燃料不足。 世界史的には結構な有名人。アサシンの適性もあるかもしれない。 ○周のセイバー 黒髪の少年。少女のような顔に奇妙な入墨。装束は黒檀色、腰に双剣。外見年齢は15歳程度で、古風な口調で話すショタジジイ。 怒りっぽい熱血漢で、執念深く我が強く、積極性と計画性と実行力に富み、雄弁でズケズケと物を言い、苦難に耐え清濁併せ呑む器量の持ち主。 一応アヴェンジャーの適性もあるが、既に復讐は成し遂げた。 ○ユカタンのアサシン ユカタンを地元とする神霊(死神)系サーヴァント。ホットなベイブでタフな姐御。縄で吊り上げた魂を喰うので邪悪は邪悪。 雑魚を喰うのは得意だが、相性が悪い相手にはいまいち。縄で魂や霊脈に触れ、情報を収集することも一応可能。 なんだかこっちへ喚ばれてしまった。記憶はそのまま残っているので仲間意識はある。 +殷陣営 ○殷のアーチャー 中背で筋肉質な青年。肌は浅黒く、眉間に第三の目があり、額から二本のねじれた角が伸び、牙と鉤爪を持つ。髪は赤茶色で逆立っている。 端正な顔立ちだが常に怒ったような表情。キャスターの適性もあり、幻術によって様々な姿に変化する。 卑劣な手段を厭わず、暴虐で凶悪な魔王そのものだが、とある縁により、やや穏やかな性格になっている。 ○殷のライダー 黒い甲冑に身を包んだ日ノ本の騎馬武者。両眼を赤黒く輝かせ、顔はぐねぐねと蠢く奇怪な面頬に覆われ、窺い知れない。 数騎の同じ姿をした騎馬武者を召喚して率い、太刀や弓矢を用いて戦う。異様な妖気を放っており、近づく者の平衡感覚を狂わせる。 一体何者なのか……? そして作者は大丈夫なのか……? 一応この間お参りして来ました。 ○殷のバーサーカー 気が触れた老人。髭はぼうぼう、髪はボサボサ。唇から泡をこぼし、血走った眼球、瞳はうつろ。右手にはごつい棍棒を握りしめている。 完全に発狂しており役に立たない。棍棒から電撃を放つので、アーチャーからは電力供給源として活用されている。 自分を召喚した商王受(帝辛、殷の紂王)に憑依してしまっている。彼をどうにかしないことには史実どおりに歴史を動かす事ができない。 +その他 ○レオナルド・ダ・ヴィンチ 皆様御存知、荒木飛呂彦、土方歳三、千川ちひろ、太乙真人、もといダ・ヴィンチちゃん。カルデアの責任者。 人類が生んだ万能の天才のひとり。ウォッチャーから観察対象のひとりにされてしまっている。 今回は特異点の側と通話が出来るが、物資やサーヴァントのやり取りは出来ない。驚き役や解説役として頑張って下さい。 ○ウォッチャー 謎の介入者。自らを「観察者(ウォッチャー)」と名乗り、藤丸立香やカルデア側のサーヴァントたちを突然誘拐、特異点を作って◆◆◆を送り込んだ。 マシンガンのようにべらべら喋るが、神だか悪魔だか人類だか精霊だか、それとも天使だか分からない。彼が嘘をついている可能性は大いにある。 一体何者なのか……? ○■■の■■■■ 異様な風体の怨霊。目の下に黒い隈。頬が痩け、無精髭を伸ばし、陰気な顔の中年男。 ボロボロの水浅葱を纏い、ざんばら髪は抜けて薄く、青褪めた皮膚には死斑。首元には黒ずんだ血。 周囲には冷たい瘴気を漂わせ、雨にも消えない燐火を浮かべている。 とくべつ企かく No タイトル 更新日 愚 四月馬鹿与太話・ブラグダコ 2018/04/01 感想・コメント欄 始まった!またお前かよ!やったぜ! - 名無しさん 2018-03-04 23 42 59 二度目となる完結おめでとうございます! そしてお疲れ様です! 本編の凄まじさも勿論凄いですが、前作に続いてこんな濃い内容でありながら、そこそこの話数で風呂敷を畳められる……という構成力も素晴らしいです! 改めて、本当にお疲れ様でした! - 名無しさん (2018-06-19 22 16 03) 名前
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登録日:2015/09/29 (火) 17 55 01 更新日:2021/10/25 Mon 22 38 04 所要時間:約 10 分で読めます ▽タグ一覧 アニヲタ悪魔シリーズ アニヲタ神様シリーズ アフラ・マズダ ゲッターアーク マハーヴァイローチャナ 不動明王 仏 仏教 大日如来 天照大御神 太陽神 奈良の大仏 如来 宇宙 宇宙神 密教 毘盧遮那如来 王者 真言宗 空海 華厳宗 釈迦 ■大日如来(だいにちにょらい) 『大日如来(梵 マハーヴァイローチャナ)』は大乗仏教(密教)の尊格。 真言宗の本尊。 大乗仏教が発展していく中で古代インド神話やヴェーダ、漢字圏の陰陽思想を巻き込みつつ成立していった密教(秘密仏教)の最高位の仏である。 我が国には弘法大師により齎されたが、他ならぬ弘法大師自身が結縁灌頂を結んだ仏でもある。 古代の太陽神信仰を源流とするとされる尊格であり、仏法の示す“宇宙”その物であるとされる事から法身仏(*1)と呼ばれる。 このため、SF的に云えば太陽神どころか宇宙神と呼べる存在であり、思想的にはそれをも越えた概念であると云える。 華厳経の主であり、根源仏(※智慧の光により釈迦を生み出した仏)として考え出された『毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)』(=奈良の大仏様として有名)の概念を更に発展させた存在と考えられているが、大日如来へと繋がる系譜は仏教の黎明期より存在しているとの説もある。 何れにせよ、大日と(毘)廬遮那は共に同じ如来(仏)である、と解釈されている。 廬遮那仏の時点で、仏の智慧の光は太陽の様に宇宙の隅々までに果てしなく広がると共に人々を導く釈迦を生み出し、それが数えきれぬ程の平行宇宙でも繰り返されて仏の慈悲は時間と空間を越えて広がっていく……という、とんでもなくスケールの大きい思想を示した仏様であり、大日如来の場合には、そうして誕生した世界その物もまた大日如来(御仏)の影であると説かれている。 梵名を音写した摩訶(大)毘盧遮那如来(仏)や、遍照金剛(如来)の名も用いられる。 概要 7世紀にインドで成立し、8世紀初めに善無畏三蔵が漢訳して中国に伝えた「大日経(大毘廬遮那成仏神変加持経)」と、同じく7世紀にインドで成立し、8世紀に不空三蔵が中国に持ち帰った「金剛頂経(金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経)」に説かれる“仏法”その物を顕す仏。 胎蔵、金剛界の両部曼荼羅の中心に座す、秘密仏教が示した仏教宇宙の中心にある仏であり、大乗仏教に於ける宇宙(※眼に視える世界)とは、大日如来の光により生じた実体の無い故に絶えず移り変わる影に過ぎない云う。 よって、釈迦如来をも含む大乗仏教で信仰される仏や神、悪鬼の本性とされるが、より本質的には人や畜生、草木と云った宇宙の凡て(※輪廻による循環や平行宇宙的な概念をも含む)が大日如来の影である。 ここから、密教では己は勿論、この世の凡てに仏性が有ることを悟り、大日如来へ還れと説いているのである。 仏法その物の化身とされる為か、如来としては例外的に仏陀となった後に拓いたとされる浄土が考え出されていなかったのだが、後に浄土信仰をも内包した密巌浄土(世界)(*2)なる概念が生み出されている。 これは、上記の様に我々の生きとし生ける世界が既に大日如来の浄土であり、真実にさえ気付けは直ぐに仏に至れるという真言密教の即身成仏の境地と合致するものである。 由来 一般的には梵名の毘盧遮那(ヴァイローチャナ)や、それに近い名前=ヴィローシャナが、仏教誕生以前の古代インド神話から、ヴェーダを経てヒンドゥーにまで登場するアスラの名として見られる事から、それが仏教に取り込まれたと解釈されており、そう紹介されている場合も多い。 ただし、元々はこの名はバラモン-ヒンドゥーの成立以前の古代インド~ペルシャ地域の太陽神の系譜の名であり、アスラもまた悪魔ではなく、アーリア人による支配を受ける以前のインダス文明を生んだ同地域の民族に信仰された神々であり、悪魔等では無かった。 原典となる「大日経」を訳出した善無畏の解説に依ると“太陽=毘盧遮那(ヴァイローチャナ)”に似ているが、その功徳がより巨大(=物質的な光の概念を越えた仏の智慧の光)である事から“摩訶(大)を冠して摩訶毘盧遮那如来(マハー・ヴァイローチャナ・タターガタ(Maha vairocana Tathāgata))と呼ぶ”と記述されている。(*3) ……よって、単にヴィローシャナ(遍照)や、派生でヴァイローチャナ(遍照の息子)等と呼ばれた神性やその眷属が仏教に持ち込まれた……と云う事では無いらしい。 例えば、初期仏教の頃より開祖である釈尊を神格化する流れが起きているが、この時点で釈尊を古代から続く太陽神信仰と結びつける=仏陀の智慧を光として讃える表現が既に見られると云う。(*4) これは、前述の様に古代インド(*5)には、後にアーリア系神話と共にヴェーダとして纏められた自然神信仰があり、太陽神はその最高位の神格であった事、 他ならぬ釈迦牟尼(シャカ族の聖人)を生んだシャカ族自体がコメ作りを行っていた農耕民族であり、シャカ族の生活の根底に日神、月神信仰があった事も理由なのではないかと考えられている(*6)。 遡って釈尊とインドラとの問答と云う形式で描かれた初期仏典の中で、仏陀=釈尊を“太陽を親族とする者”とする記述があり、これを10世紀に法賢が“如来大日尊”と漢訳している。 そして、3~7世紀にインドで広まった「華厳経」では釈迦の異名として毘盧遮那を挙げ、釈迦(応身仏=現実に現れた仏)と盧遮那仏(法身仏=仏法その物となる仮定上の仏)を同格・同一の仏とする記述がある。 いずれにせよ、釈迦の思想を衆生に伝えるべく仏法思想その物を“宝”として体系化していく中で、神格化された釈迦=仏陀の智慧を顕す名として毘盧遮那が用いられており、大乗仏教の興ったとされる頃には既に釈迦牟尼毘盧遮那仏の呼称があったと云う。 ……一方、これらの古代インド寄りの土着信仰は、上記からも窺えるようにアーリア系のヴェーダ神話と習合しつつも淘汰され、一時はヴェーダ=バラモンに対しアスラ(非アーリア系神話)が優勢だったものの、最終的には敗れた(吸収されてしまった)経緯がある。 初期仏教に於いて釈迦を毘盧遮那=アスラと呼ぶのは非アーリア系神話から見れば尊称であるが、後のヒンドゥーでは蔑称である。 仏教ではヴェーダ=バラモンの神話が取り込まれていたが、逆に同じ方法で誕生したヒンドゥーではアスラはディーヴァと呼ばれる神々の源流、或いは悪魔の名として取り込まれ、アスラの“神格その物”は剥奪されてしまっているのである(*7)。 後のヒンドゥーの時代では、アスラは大意では悪魔の名前となっており、その首領となる有力なアスラに太陽神の名であった筈のヴィローシャナの名が付けられてしまっている。 ヒンドゥーで三大主神となったシヴァやヴィシュヌは元来はアスラ(※土着の地方神)だったと考えられており、太陽神であるスーリヤや、太陽光の一つの属性の神格化であるヴィシュヌにヴィローシャナや、それに近しい名が捧げられたりもしているのだが、ヒンドゥーでは元々は天空を意味していたと考えられているアフラ=アスラが「天(ア)にあらざる者(スラ)=唯物論者、仏教徒」とされてしまう等、アーリア系から他の土着民族の蔑視や文化の吸収、破壊もあってか、それらの事実が後に変遷して行き「ヴィシュヌがアスラを滅ぼす為に釈迦に化身した」=誤った思想を流した異端者とする神話が生まれている。 アーリア系=バラモン→ヒンドゥーの立場から見れば釈迦は思想、出自からもアスラ(※宗教的、民族的な蔑視の意味から)であり、それを首魁とするのが仏教だったからである(後に、このヒンドゥー寄りの視点をも仏教は取り込んでいる)。 ……いずれにせよ、大日如来=毘盧遮那の名は単に古代の太陽神、光明神が仏教思想に取り込まれたと云うだけではなく……或いは、単にそれだけだったとしても非常に多様な段階での考察を含む事の出来る名であり、その功徳を説く「大日経」系、「金剛頂経」系の教典が成立して東方に伝来して行く中で、実際に多くの新しい解釈をも加えて発展して行った概念である様である。 ※大日如来の名を最初に漢訳したのは「大日経」を訳出した善無畏三蔵と、その弟子の一行禅師。 「金剛頂経」系では毘盧遮那如来の名が使われていたが、空海が胎蔵、金剛界を両部曼荼羅として対になる存在として日本に持ち帰り大成させた事もあり、同じく大日如来と訳出される様になっていった。 姿 他の如来が成道者たる釈迦に倣ったシンプルな仏陀の姿をしているのに対して、大日如来は王冠を被り、華美な装飾品を身に纏った古代インドの王の姿をしている。 王者たる大日如来には王者の姿が相応しいと考えられた為とされるが、 これは仏門の宝である智慧と現世の宝である富を兼ね備えた理想の姿であると解釈されている。 また、煌びやかな仏と云えば如来の前段階としての菩薩(※衆生を救うべく敢えて成道しない仏)が在るが、大日如来は存在その物が既に宇宙であり、その本願が生きとし生ける全ての衆生の救済を第一にしている事から=菩薩形をしている(*8)と云う解釈もされている。 一方、大乗仏教誕生当時の仏典も伝来しているとされるチベットでは通常の如来形の毘盧遮那も発見されていると報告されている事から、現在の姿が定まったのは大乗仏教も後期に入ってからとも考えられており、インドでは釈迦と同じ触地印を示した作例も発見されている。 これらの事から、釈尊を神格化、様々な仏尊として図像化されていく中で大日如来の場合は特に神性の部分を抜き出して成立させられた尊格なのではないか?とも考えられている。 姿には大きな違いは無いものの、智拳印を結ぶ金剛界大日如来(白色)と法界定印を結ぶ胎蔵界大日如来(金色)の二通りの姿があり、これは各々の両部曼荼羅の主尊として密教宇宙の中心に座す。 天台宗やチベット密教では大日如来の功徳を独自に解釈、発展させた仏頂、仏母なる尊格が考え出されており、本尊である釈迦如来と同体とする説が積極的に出されている。 両部曼荼羅 □金剛界 「金剛頂経」に説かれる、宇宙が仏の智慧(知)により統制されて行く姿を描く。 仏との一体化=即身成仏となる事による解脱を段階的に説明した図である。 ■胎蔵界 「大日経」に説かれる、宇宙が仏の慈悲(理)により生まれ=互いに影響し合いつつ誕生していく姿を描く。 太陽の如く放射線状に拡がる大日如来の光より、その影たる如来、菩薩、明王、天部、更には悪鬼や羅刹が生まれ、その更に先から幾つもの宇宙が生まれる様を描いた図である。 ※両方の曼荼羅は別々の道を辿り成立していった概念だったが、漢字圏の陰陽思想を受けて表裏一体の概念となった。 特に空海は金胎不二の理想を掲げ、曼荼羅世界の象徴化に尽力した。 この両部曼荼羅を基本として、我が国では様々な尊格、または宗派による仏法理念の図像化がバリエーション化されて行く事となった。 五智如来(五仏) 大日如来の智慧を五つの段階と五体の如来に分けた物。 密教思想の最も根源となる仏である。 □金剛界 金剛界大日如来(中央)・阿閦如来(東)・宝生如来(南)・阿弥陀如来(西)・不空成就如来(北) ※光の色は順に白・青・黄・赤・黒。 真言宗系寺院に見られる五色の由来だが青が緑、黒が紫になったりしている。 ■胎蔵界 胎蔵界大日如来(中央)・宝幢如来(東)・開敷華王如来(南)・無量寿如来(西)・天鼓雷音如来(北) ※金剛界五仏と名称を異とするが、両者は同一の存在である(金胎不二)。 三輪身 密教では仏は必要に応じて「自性輪身」「正法輪身」「教令輪身」の三つの姿を顕すとされるが、 特に五仏が姿を変えた化身はそれぞれ「五智如来」「五大菩薩」「五大明王」のグループとなっており、教義の体現、説明に用いられている。 ■五智如来(自性輪身) 大日如来(中央)・阿閦如来(東)・宝生如来(南)・阿弥陀如来(西)・不空成就如来(北) ■五大菩薩(正法輪身) 金剛波羅蜜菩薩(中央)・金剛薩埵(東)・金剛宝菩薩(南)・金剛法菩薩(西)・金剛業菩薩(北) ■五大明王(教令輪身) 不動明王(中央)・降三世明王(東)・軍荼利明王(南)・大威徳明王(西)・金剛夜叉明王(北) ※五大菩薩は東寺の作例に倣う。 ※五大明王は五仏の変身と云う事実を越えて大乗仏教を代表する尊格として知られる。 化身・別身 前述の様に大乗仏教で信仰される凡ての尊格が大日如来の影であるが、特に化身として有名な尊格を挙げる。 ■不動明王(尊) 大日如来の化身として特に有名。 諸仏の王とも呼ばれる。 空海が伝来させた日本仏教の守護者。 ■降三世明王 五大明王の一つ。 大自在天(シヴァ)を降伏する際に化身したとされる。 この説話は後に不動尊に組み込まれている。 実は不動尊や降三世明王の起源もまたシヴァにある。 ■金剛薩埵 真言宗の第二祖。 梵名から金剛力士と起源を同じくすると考えられるが、密教の深化の中で大日如来の修行中の姿=五仏の師(前段階)と考えられる様になった。 修行僧と大日如来の仲立ちを行う尊格であり、普賢菩薩、金剛手菩薩と同体とされる。 ■一字金輪仏頂 天台宗最高位の仏。 究極の梵字「ボロン」の功徳を示した仏である。 一字=「ボロン」、金輪=最高位の転輪聖王(古代インドの理想上の王)=大日如来(仏頂)となる。 本尊である釈迦如来形の金輪もある。 岩手県中尊寺に作例があり“人肌の大日”として知られる秘仏となっている。 関連する神性 ■アフラ・マズダ 古代ペルシャの太陽神で、後のゾロアスター教の最高神。 アフラ(天空)・マズダ(光)の名と神性の解説、地域的な関連から毘盧遮那と起源を同じくすると見られている。 ■天照大御神 伊勢神宮内宮に鎮座在す日本の皇祖神。 太陽神である事から神仏習合に於いて同体とされた。 種字 □金剛界 バン ■胎蔵界 アク 真言 □金剛界 オンバザラダドバン ■胎蔵界 ナウマクサマンダボダナンアビラウンケン 追記修正は宇宙と一体であると気づいてからお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] ヴィローシャナ(virocana)じゃなくてヴァイローシャナ(vairocana)だろ -- 名無しさん (2015-09-29 21 31 19) それよく間違えられるよな ヴィローシャナはインド神話 -- 名無しさん (2015-09-29 22 35 15) メガテンで大日如来はギガテンに出演して他にもアスラおう名義で真1、ヴィローシャナ名義で真2に登場している。 -- 名無しさん (2015-09-30 07 48 42) ヴィローシャナは毘盧遮那のほうか -- 名無しさん (2015-09-30 22 44 45) ↑ ちょっとググればわかるが、毘盧遮那仏はヴァイローシャナだよ。ヴィロ-シャナという単語との関係は音感が似てるだけで、意味自体も別。 -- 名無しさん (2015-10-02 15 00 37) そんな名前のモンスターが遊戯王にいた気がするが、これが元ネタか。 -- 名無しさん (2015-11-14 13 08 16) ライドウにも出てきたな。紅蓮属で閣下の次にレベルが高かったっけ -- 名無しさん (2016-12-19 22 51 16) インド神話と仏教で世界観の大きさ争いした結果の存在みたいな印象 -- 名無しさん (2020-11-26 18 04 46) 名前 コメント
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仏典 インドの仏教 開教から教団分裂まで - 約100年間 原始仏教、根本仏教、シャーキャムニ・ブッダ(釈尊、釈迦)とその直弟子の時代 ラージャグリハ(王舎城)郊外に500人の比丘が集まり、最初の結集(けちじゅう)が行われ、経典と律とがまとめられた。座長は摩訶迦葉(まかかしょう、マハーカッサパ)、経は阿難(あなん、アーナンダ)、律は優波離(うぱり、ウパーリ)が担当したと伝えられている。 マウリヤ朝第3代アショーカ王の時代(紀元前259年頃)、仏教が急速に広まる 仏滅後約100年 戒律の解釈問題で教団内に対立が起こり、上座部と大衆部に分裂。この戒律の異議のため、毘舎離で七百人の比丘を集めて第二結集が行われた。 仏滅後200年 アショーカ王の時代に、パータリプトラで1,000人の比丘を集めて、第三結集が行われた。 部派仏教の成立 - 前3世紀ごろ 仏滅後300年の初めに上座部は、説一切有部と雪山部に分かれ、説一切有部から犢子部、犢子部から法上部、賢冑部、正量部、密林山部が分かれる。仏滅後300年には説一切有部から飲光部が、さらに400年には、説一切有部から経量部が別れる。これらの主な分裂を含めて、上座部系11部、大衆部系9部に分かれたと伝えられている。この分裂の中で、それぞれの部派は独自の聖典を持つにいたる。 大乗仏教運動の興隆 - 前1世紀ごろ 在家者の信者の増加 仏塔崇拝・仏陀崇拝 経典を主題ごとにまとめる作業が行われ、智慧や縁起を説明する『般若経』が成立。空という独自の視点で縁起を説明した教典で、信徒たちが築いた参拝活動を是認する論理が書き加えられた。 初期大乗経典…般若経、維摩経、法華経、無量寿経――3世紀には龍樹によって空の理論が体系化され、中観派の基礎を作る。 中期大乗経典…勝鬘経、涅槃経、解深密経、大乗阿毘達磨経――5世紀には無着、世親兄弟によって瑜伽行唯識学派が生まれる。 後期大乗経典…楞伽経、大乗密厳経――6世紀になると、大乗経典の中にも密教の萌芽が見られる。 密教の成立 - 7世紀ごろ 周辺の宗教から影響を受け、呪術・儀礼を強調 「大毘盧遮那成仏神変加持経」(別名「毘盧遮那経」「大日経」) 「金剛頂経」 ヒンドゥー教に倣ってマントラ(真言陀羅尼)を唱えたり、多数の新奇な仏尊が礼拝対象となったり、さらには仏法の中心が大日如来や金剛薩埵、法身普賢となったり、タントラの影響で性的な修行も取り入れたりした。これらの結果として、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)が説いた教えからは非常にかけ離れてしまった。また、後期インド仏教とヒンドゥー教との差別化が曖昧になるにつれて、後期インド仏教のヒンドゥー教に対する劣勢は確定的になった。 中国の仏教 古訳 仏教伝来~ 旧訳(くやく) 鳩摩羅什(4世紀)~『坐禅三昧経』3巻 『仏説阿弥陀経』1巻 『摩訶般若波羅蜜経』27巻(30巻) 『妙法蓮華経』8巻 『維摩経』3巻 『大智度論』100巻 『中論』4巻 新訳 智ギ、玄奘三蔵(602-664)(7世紀)~唐末(10世紀) 日本の仏教 飛鳥時代 三経義疏 法華経 『法華義疏』(伝615年) 日本最古の書物(古事記は712年、日本書紀は720年) 聖徳太子自筆の草稿本と考えられているが、異説もある。 勝鬘経 『勝鬘経義疏』(伝611年) 維摩経 『維摩経義疏』(伝613年) 奈良仏教系 (南都六宗) 華厳宗 教典 『華厳経』 736 審祥によって伝えられる 743-749 華厳経の思想を反映した東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立される 法相宗(唯識) 653 道昭が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。 8-9世紀には法相宗は隆盛を極める 修円は興福寺に伝法院を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。 徳一は天台宗の最澄との間で三一権実諍論(さんいちごんじつのそうろん)で争った。 律宗(四分律) 753 鑑真が『四分律』による戒律を伝える 唐招提寺 三論宗 (中論・十二門論・百論) 倶舎宗 (説一切有部) 成実宗 (成実論) 平安仏教(平安二宗)系・密教系 真言宗(東密) 開祖 弘法大師「空海」 本山 八幡山東寺・高野山金剛峰寺ほか ご本尊 大日如来 言葉 「南無大師遍照金剛」ほか 教典 『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地羯羅経』『瑜祇経』『要略念珠経』『般若理趣経』ほか 戒律は『十誦律』を重んじ、『四分律』を支持せず、 天台宗(台密) 法華円宗とも 開祖 伝教大師「最澄」 高祖 天台大師智顗 本山 比叡山延暦寺ほか ご本尊 久遠実成無作の本仏・釈迦如来・阿弥陀如来・観世音菩薩など 言葉 「南無阿弥陀仏」 「南無宗祖根本伝教大師福聚金剛」 教典 『法華経』『大日経』『金剛経』『蘇悉地経』『梵網菩薩戒経』『仁王般若経』『阿弥陀経』『観無量寿経』『無量寿経』 法華系(鎌倉仏教法華系) 日蓮宗 開祖 立正大師「日蓮」 本山は身延山久遠寺ほか ご本尊 大曼荼羅 言葉 「南無妙法蓮華経」 教典 『妙法蓮華教』(法華経) 浄土系(鎌倉仏教浄土系) 浄土宗 開祖 円光大師「法然」(源空・黒谷上人・吉水上人とも) 本山 華頂山知恩院・報国山光明寺(粟生光明寺)・聖衆来迎山禅林寺ほか ご本尊 阿弥陀如来 言葉 「南無阿弥陀仏」 教典 「浄土三部経」(『観無量寿経』『無量寿経』『阿弥陀経』の3つ) 浄土真宗 真宗・一向宗とも 開祖 見真大師「親鸞」(親鸞聖人)(法然の弟子) 本山 龍谷山本願寺(西本願寺)・真宗本廟(東本願寺)ほか ご本尊 阿弥陀如来 言葉 「南無阿弥陀仏」 教典 『観無量寿経』『無量寿経』『阿弥陀経』『教行信証』『正信念仏渇』 「信心正因 称名報恩」 他の仏教宗派に対する真宗の最大の違いは、僧侶に肉食妻帯が許される、無戒であるという点にある(明治まで、妻帯の許される仏教宗派は真宗のみであった) 日本の仏教諸宗中、最も多くの寺院(約22,000ヶ寺)、信徒を擁する。 多くの宗派に分かれているが、最も大きいのは真宗十派の浄土真宗本願寺派(西本願寺)、真宗大谷派(東本願寺)である。 融通念仏宗 大念仏宗とも(平安仏教系との考えも) 開祖 聖應大師「良忍」 本山 大念仏寺 時宗 開祖 証誠大師・円照大師「一遍」(一遍上人・智真とも) 本山 藤沢山清浄光寺(遊行寺) 禅系(鎌倉仏教禅系)・禅宗系 曹洞宗 開祖 承陽大師「道元」(道元禅師) 本山 吉祥山永平寺・諸嶽山總持寺 ご本尊 南無釈迦牟尼仏 言葉 「南無釈迦牟尼仏」 教典 『正法眼蔵』『修証義』『般若心経』『観音経』『法華経』『大悲心陀羅尼』『普勧坐禅義』『坐禅用心記』『伝光録』 臨済宗 開祖(日本における) 千光国師「栄西」(栄西禅師)ら 本山 建仁寺・円覚寺・妙心寺・東福寺ほか ご本尊 釈迦牟尼仏 言葉 「南無釈迦牟尼仏」 教典 『般若心経』『大悲呪』『観音経』『白隠禅師坐禅和讃』『宗門安心章』 宋から茶を日本に持ち帰る 江戸時代(禅系) 黄檗宗(おうばくしゅう) 旧臨済宗黄檗派 開祖 真空大師・華光大師「隠元」(福建省福州福清県の生まれ)(インゲン豆の語源) 1654年(承応3年)に明末清初の中国から招聘された中国臨済宗の隠元隆琦により始ま 本山 黄檗山萬福寺(京都府宇治市) インゲン豆の他、タケノコ、レンコン、スイカも隠元禅師が伝えた 普茶料理(ふちゃりょうり)「普く(あまねく)多くの人にお茶を差し上げる」