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元朝鮮人女子勤労挺身隊員に対する損害賠償等請求控訴事件・控訴人準備書面(1) ソース:http //www.geocities.jp/teisintainagoya/kouso/kousokeika/zyunbi1.pdf 【小目次】 第10 裁判官の「良心」と本件の証拠調べの必要性1 日本国民の戦後責任(1)一般に戦争責任や戦後責任として議論される問題は、 2 憲法上の「良心」規定と裁判官の責務(1)日本国憲法が「良心」について規定しているのは、 (2)裁判官は「良心」に従うべき憲法上の義務 (3)まさに日本国憲法が裁判官に「良心」に従う義務を規定した理由は 3 日本政府の応答責任、裁判官の応答責任(1)本準備書面の冒頭で本件で問われている責任について (2)日本国民が戦争責任や戦後責任を他国民から問われる時 (3)責任を果たすことは、呼びかけに応えることであるが (4)被控訴人日本国は応答責任の問題は無関係だというかもしれない (5)道義的国家たるべき義務を 4 本件における証拠調べの必要性 第10 裁判官の「良心」と本件の証拠調べの必要性 1 日本国民の戦後責任 (1)一般に戦争責任や戦後責任として議論される問題は、 一般に戦争責任や戦後責任として議論される問題は、日本人全体としてのそれであり、道義的・政治的責任の問題である。本件は法的な責任の有無を問うものであり、その責任の性格が異なることと、責任主体についても日本国家と企業という組織体が対象であり、この議論と直結するものではない。しかし、法的責任の有無は道義的・政治的責任の有無と無関係ではなく、むしろ、それを前提にしており、法的責任の有無の判断にあたっても、道義的・政治的責任の有無が影響することになるため、この点について触れる。 戦時中の行為について、当時、加事行為に直接関与した人間がその関与の程度に応じて責任を問われるのはいわば直接の罪責として当然である。それに対して、戦時中に存在せず加害行為に直接関与していない戦後生まれの日本人が戦前の行為について、「私たちは何も知らない。直接、関与もしていない行為になぜ責任を問われるのか?」という問いを発することは一見正当であるかのように思える。 しかし、戦後生まれの日本国民といえども日本国家の国民たることを止めない限り、日本国家の法的保護の下に存在していることは間違いがなく、また、日本国民として有形無形の財産を承継して日本国民として現に存在している以上、負の財産を承継するのは当然である。道義的・政治的責任が被害国民との関係で、被害の訴えに対する応答可能性(レスポンシビリティ)の問題であるということから考えれば、日本国民であるという立場にある戦後生まれの日本国民もこの意味での責任を免れない。まして、本来、組織として責任を負うべき日本国家が責任を果たさない状態を継続している時、他国民が問う「日本は何の責任も果たさない」という問いは、主権者たる日本国民にも向けられているのである。これはまさに戦後責任の問題である。 本件の控訴人らが問いかけているのは、代理人や支援する会の会員、裁判官も含めた日本国民に対して「あなた方は、日本という国が加害行為に対して何の責任もとらないことを認めるのですか?」という問いであり、私たちはそれぞれの立場からそれに向き合い、応えることが道義的に求められているのである。それが日本国民一般の道義的・政治的責任である。 2 憲法上の「良心」規定と裁判官の責務 (1)日本国憲法が「良心」について規定しているのは、 日本国憲法が「良心」について規定しているのは、憲法19条の国民に対する「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という規定と憲法76条の裁判官に対する「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」(76条3項)という規定のみである。 規定上明らかなように、憲法19条は、国家による国民の個々人の「良心」への不干渉を定めている。一方、日本国憲法は、裁判官には国民に対するのとは異なり、「良心」に従うことを義務付けているのである。司法権を行使する裁判官として、憲法76条が何故、「良心」に従うことを義務づけているのかが留意されなければならない。 それでは、日本国憲法が国民に保障する「良心の自由」とは何を意味し、裁判官に従うことを要求している「良心」とは何を意味するのであろうか。 (2)裁判官は「良心」に従うべき憲法上の義務 裁判官は「良心」に従うべき憲法上の義務が存在する。そして、日本国憲法が敢えて裁判官に良心に従う義務を課した意味は何か。よく知られているように、日本国憲法76条の「良心」について、憲法学では、「主観的良心」説と「客観的良心」説とが対立している。しかし、この両説の結論はそれほど大きな隔たりをもっているものではない。「主観的良心説 も、良心に基づいて裁判官が法律を無視してよいとは言わず、客観的良心説も<およそ裁判官は皆すべての裁判官に共通した善悪の基準を共有する>と説くわけでもない」(西原博史『良心の自由 増補版』(成文堂)412頁) それでは、日本国憲法が裁判官に「良心」に従って裁判を行うべき義務を負わせている意味についてはどう考えるべきか。西原教授は、次のようにこの意味を説明している。 「裁判官が法の一義的な解釈によって回避できないと考える判決が自らの良心 に反する場合には、どうなるのか。ただ、この問いは、日本国憲法を前提とし た場合に、実際上はあまり意味をなさない。違憲立法審査権が裁判官に認めら れていれば、…中略…、道徳的な考慮を憲法解釈に反映させ、自らの良心に反 する法律を違憲と判決する可能性がある。さらに、法律全体を違憲としないま でも、できることは少なくない。宮沢が、『悪法』を前にした裁判官にできる ことを述べている。『どこまでも法実証主義的立場に立ちながら、与えられた 法―悪法―を解釈するにあたって、法の解釈というものに必然的に課される限 界の範囲内において、その社会で一般に承認された道徳則ともいうべきものを 最大限に作用させ、それによって、その具体的な事件において、法の悪法性を 少しでも減らそうと努める』。ここで『道徳則』云々の部分は、良心的である ことを義務づけられた裁判官が正当性を否認する法律の適用を回避する方策を 探る上で、『自らの良心の命じる所』と言い換えられる。良心に反する不正な 判決を回避するための法的フィギュアは、種々用意されている。日本国憲法が、裁判官に良心に従う義務を課すのも、法解釈を通じた幅広い法創造的機能に着 目してのことと考えられる。裁判官が安易に『職業倫理』の陰に隠れ、他の機 関に対する過度の敬譲に服するなら、違憲立法審査権を保障することを通じて 憲法が裁判官に期待した憲法保障の機能は、無に帰していく。それを防ぐため に、憲法は、裁判官に対して良心に従う義務を ― 具体的な法的効果を特に 想定しないまま ― 規定し、高度に公的な職業の遂行をあえて個人の人格性と結びつけた。それにより、裁判官の活動に関しても、実定法が悪かったことで判決に対する個人の人格的責任を逃れる道が切断される」(西原前掲書414~415頁) (3)まさに日本国憲法が裁判官に「良心」に従う義務を規定した理由は まさに日本国憲法が裁判官に「良心」に従う義務を規定した理由は、憲法保 障を担う立場にある裁判官が自らの個人的な人格の中核たる「良心」に従うことによって、悪法に対して、人格を賭して対峙することによって、自らに与えられた権限を行使して、憲法を保障しようとした点にあるのである。本件のような日本国憲法自体の根本規範に違反するような違憲の国家行為が問われている時こそ、裁判官は自らの「良心」にかけて憲法保障を果たすことが国家機関として日本国憲法が裁判官に求める義務なのである。 3 日本政府の応答責任、裁判官の応答責任 (1)本準備書面の冒頭で本件で問われている責任について 本準備書面の冒頭で本件で問われている責任について法的責任であると整理し、それに必要な限度で日本国民としての道義的・政治的責任について簡潔に触れた。ここでは日本政府の「責任」及び裁判官の「責任」について検討する。 (2)日本国民が戦争責任や戦後責任を他国民から問われる時 日本国民が戦争責任や戦後責任を他国民から問われる時、そこに生じる責任 は、呼びかけられた時には呼びかけた人に応答しなければならないという「責め」が含まれることになる。ここでは、責任を問う者、責任を問われる者、責任を問われる歴史的事件の三つが少なくとも必要である。そして、責任を問う者は責任を問われる者との関係で互いに外部にある必要がある。責任を問う者が自らに加えられた侵犯行為が、植民地差別や人種差別、民族差別、性差別、戦争という人間の諸集団の区別の確立のために遂行されたとき、責任を問われた者は、個人として特定の歴史的事件に直接関わらなかったとしても、植民地差別や人種差別、民族差別は個人の心理の問題ではなく制度的な客観的な事態だから、相手方から責任を問われている以上、当該諸集団に属する者として、その「責め」を自ら遺棄したり、「問いかけ」から逃避することはできないこととなる。 (3)責任を果たすことは、呼びかけに応えることであるが 責任を果たすことは、呼びかけに応えることであるが、直ちに自らの有罪を認めることでも謝罪すべき立場にあることを意味するわけではない。むしろ、自らの無罪を主張することによって呼びかけに応えるという責任の果たし方もあるのである。自ら特定の歴史的事件について無罪を確信するとき、責任を問われた際、応答義務としての「責任」は、呼びかけた人々を説得するために呼びかけた人々に語りかけ、説明する作業が含まれなければならない。 本件の朝鮮女子勤労挺身隊は、戦前、日本政府が企業とともに日本国内において不足する労働力を補うため、植民地機構及び学校を通じて募集、連行し、民族差別に基づく劣悪な労働条件の下に過酷な労働に従事させ、自由を奪われる環境の中での労働を強いたものである。この朝鮮女子勤労挺身隊は、日本政府と企業によって作られた制度であり、それを通じて戦後日本国民でなくなった控訴人ら朝鮮の少女を被審者として搾取し、虐待したものである。朝鮮女子勤労挺身隊員の選択において、日本人女性よりも低い年齢の少女が選ばれたこと、待遇(寮から自由に外出できないことや賃金が支払われないこと)面及び工場での対応などにおいて民族差別があったこと、戦後、勤労挺身隊員に対して何の手当もされず放置され続けたことなどにつき、日本国民は、この問題の責任を問う韓国人である控訴人らの前で応答する義務を負う。そして、それ以上に、日本政府は、自らが組織として同一性を持っている大日本帝国が戦前にしたこの朝鮮女子勤労挺身隊による被害について、応答する責任を負うものである。 しかるに、日本政府は、本件でも法的主張の穴に閉じこもり、事実の認否すら拒み、原告らの問いかけに正面から応答をしようとせず、逃げ続けている。まさに、この態度こそ、日本政府が道義的責任を放擲していることを如実に表す何よりの証左である。そして、裁判所についても、本件で問題となっている事実について向き合い、判断するという本来国家機関としてもっている責務だけでなく、日本国家を構成する国家機関として有する応答責任を回避し続けていると言わなければならない。原審判決などはその典型例である。裁判所のこのような対応について、「戦争中の日本政府によって搾取虐待された中国や韓国・朝鮮からの強制労働者の補償に関する訴訟が、敗戦後になって国民対非国民の区別に基づいて、日本国家の司法機関である裁判所によって却下されていることは銘記しておく必要があります。つまり、国民差別、民族差別は、戦争中の侵犯行為だけでなく、その侵犯行為の裁判や補償においても、継続的に機能し続けてきているのです」(酒井直樹『日本史と国民的責任』「帝国と国民 国家」(青木書店)158頁)と裁判所の対応自体が新たな差別として継続的に機能していることが批判されているのである。 (4)被控訴人日本国は応答責任の問題は無関係だというかもしれない 被控訴人日本国は、本件は法的責任の有無を問う場であるから、道義的責任である。しかし、すでに控訴理由書に詳細に論じたとおり、日本国家が道義的国家たるべきことを日本国憲法は要請しているのである。 日本国憲法の根本規範たるポツダム宣言の前提となるカイロ宣言中には、「第一次世界大戦の開始以後に日本国が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本国からはく奪すること、並びに満州、台湾及び膨湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還すること」、「日本国は、また、暴力及び強慾により日本国が略取した他のすべての地域から駆逐される」、「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする」という、帝国日本の侵略戦争と植民地支配を不法なものとし、原状の回復を要求した文書があり、ポツダム宣言は、「カイロ宣言の条項は、履行せらるべく」(8項)とカイロ宣言を受け、その履行を求めていた。このようなカイロ宣言を受けたポツダム宣言に基礎づけられて成立した日本国憲法は、とくに前文及び9条において、わが国が次のような内容の道義性を備えた国家とならなければならないことを明示している。すなわち、憲法前文は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」するとともに、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」し、さらに、「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはなら」ず、普遍的な政治道徳に従うことが責務である、と規定した。これは、前記のカイロ宣言、ポツダム宣言に照らすとなおさら、わが国が過去の侵略戦争と植民地支配に対する反省を表明したものであることが明らかである。このような認識に立って、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する」基本姿勢をもって安全と生存を図るとした上で、9条において、戦争の放棄と戦力の不保持を公権力に命じた。憲法は、このようにして、平和的道義国家の指針を定めたのである(甲E第2号証(「戦後補 償」の国家責任―立法不作為を中心に―、小林意見書7頁)。この「道義的国家たるべき義務」は、国家の行動原則であることを本質とするものである。しかも、それは、憲法価値の抜本的な転換を内容とするわが国公権力に宛てられた重要な指針である。したがって、立法、行政及び司法を含むわが国公権力がいずれも従わなければならない国家の行動原則なのである。 (5)道義的国家たるべき義務を このような道義的国家たるべき義務を行動原則とすることを憲法によって義務づけられている日本国家が、少なくとも応答責任を果たさず、逃げることは許されない。それは、裁判官も国家機関の一員として同様である。そればかりか、裁判官は憲法において「良心」に従うことが義務づけられているのであるから、真正面から呼びかけに応えることなく、逃げることは新たな侵略行為であるだけでなく、これらの憲法上の義務にも違反することとなるのである。 本件のように日本国政府や日本を代表する企業が日本国憲法自体が要請する責任に背を向けている時こそ、裁判官は自らの「良心」にかけて自らに与えられた法解釈の権限を行使して正義の実現を目指さなければならない。それこそが、日本国憲法が裁判官に求める義務なのである。 4 本件における証拠調べの必要性 わが国では、戦前、日本がどのようにして朝鮮を植民地としたのか、どんな植民地支配がなされたのか、本件のような戦時労働力動員が何故、どのようにして実施されたのか、そこに国家や企業がどのように関与したのか、これらのことにつき日本政府は明確に教えようともせず、殆どの国民が知ることもない。何故、日本に数多くの在日韓国人、朝鮮人が存在するのか、それが戦前の日本政府の行為によるものだということを知ろうとせず、表面的な韓流ブームとヒステリックな北朝鮮バッシングに明け暮れている。本件訴訟ですでに主張してきたように、日本は、戦前の植民地支配だけでなく、戦後、韓国と北朝鮮の分断国家が生まれるのにも大きく関わっている。そして、戦後、一貫して韓国の軍事独裁政権を支え、韓国の人権侵害に加担し続けてきたのである。 高齢の控訴人らが「自らの生命のあるうちの解決を」と訴えている本件について、少なくとも植民地支配の実態とその中で実施された朝鮮女子勤労挺身隊の動員、他の戦時労働動員などがどのようになされ、そこに日本国家と企業がどのような関与をしたのかを知ることなしに、法的な評価を行うことはできない。 裁判所としては、法的な判断の前提として十分な証拠調べが必要である。そのために、控訴人が申請する証人全員の採用が不可欠である。そして、まず、本準備書面でその概略を述べてきた植民地支配と朝鮮人戦時労働動員の実態を知るために山田昭次証人の採用が必要である。 以上 indexへ
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「いじめは犯罪である」と言われることがある。しかし、教育法規を扱うときには、厳格に意味を限定する必要があるから、この言葉をまず吟味するところから始めよう。 もちろん、いじめのすべてが犯罪であるわけではない。極めて良くないことであるという意味で、「犯罪」という言葉を安易に使用すべきではないだろう。しかし、もちろん、犯罪であるいじめも多数存在するし、実際に刑事罰の対象になるいじめも存在する。それは、「罪刑法定主義」で規定される法律で犯罪とされる行為を、いじめとして行なった場合に適用される。「恐喝」「暴行」「傷害」「名誉毀損」などが代表的なものである。このような行為は「犯罪」であり、刑法で処罰される対象であることを、教師はきちんと生徒に教える必要がある。 しかし、犯罪とはいえない「いじめ行為」もある。「無視」などはその代表的な例だろう。誰でも、ある特定の人と話したり、何か一緒にしなければならない「法的義務」などは存在しないのだから、無視することは、いじめであっても、犯罪とはいえない。しかし、教育的にみれば、いじめとして行なわれる「無視」は、解決が必要なことがらである。 したがって、いじめとは犯罪や犯罪とはいかないが、人としての規範や価値に反する行為と考えると、法律問題と教育問題の両方の解決課題として存在しているといえるのである。 では、実際にいじめに対応する法的問題および、いじめによる不幸な事態が起きた場合の責任問題はどのようなものか。 ここでは学校で起きるいじめを対象にする。学校とは全く無関係に起きるいじめは、法的関係が異なるからである。 学校で起きることは、学校が管理責任を負っている状況でいじめが起きていることを意味する。義務教育の場合には、義務として学校に在籍し、勉学しているのであり、自由意思によるわけではない。従って、学校には安全配慮義務があり、児童・生徒は安全に学校生活を送ることを期待してもよい。いじめは、安全な学校生活を脅かすものだから、学校の管理が不十分であることを意味する。従って、学校でのいじめは、まずなにりよも学校の管理責任が問われるといえる。 しかし、いじめは教師の見えるところで行うことは稀であり、たとえ教師が気づいたとしても、被害者生徒自身がいじめを否定することすらある。従って、教師がいじめを認識することは、それほどやさしくなく、知ることが極めて困難な状況で起きたいじめをなくすことは、事実上不可能だろう。その場合、法的責任があるのか。 加害者の責任
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○CSR(corporate social responsibility) ○企業が利益を追求するだけでなく、組織活動が社会へ与える影響に責任をもち、あらゆるステークホルダー(利害関係者:消費者、投資家等、及び社会全体)からの要求に対して適切な意思決定をすること
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主題の件、やはり業界の諸悪の根源がある。一番の問題点は、コンプライアンスを無視し、 ”営利第一主義”の法律の規定を無視・安全を犠牲にし『自分の都合』を人に押し付ける 業者(指導者)であり『アマチュア無線&簡易無線を食い物』にしていること。 この行為を技能証を発行する団体は協賛し『業界の組織的行動』である。 法律違反のこの無線が事故原因になった場合の法的責任者は・・? http //homepage2.nifty.com/ye21/paraglider.html (フライヤー弁護士事務所:合法無線で技能証を得た??と疑いを持たれる) 大切な『お客様』に違法行為を強いたり、公共エリア利用の基本条件(法令遵守)を 無視している場合は、「まともな商売人(指導者)」のすることではありません。 そういう業者(指導者)は、社会のためにすぐに廃業するか、潰れるべきです。 『まじめにやる者がバカを見る』ような世界は、発展が望めません。 ”独特の世界”のスカイスポーツ・レジャーに於けるバブル期はト~イ昔に過ぎました。 それは、アマ無線界でもスカイスポーツでも同じ事です。新しい人が来るどころか、 それに気付いた(無線以外のことを含む)既存の人も逃げていってしまいます。 ””無 理 難 題 を 申 し あ げ ま す”” まず、フライヤーの皆さんには、そこを認識して欲しい。そして、費用をかけてでも まじめにこつこつとやる業者(指導者)を育ててあげて欲しい。 そうすることによってこそ、スカイスポーツを志す人も安心してスクールに通え、 その裾野も広がるはずです。 そういった真面目(スポーツ精神)なスカイスポーツをやっている人たちが、仲間内の 親睦を深めるためにアマチュア無線を使ってくれるなら、それを批判する人はほとんど いなくなると思います。 そして、そのようなフライヤーが、私たちの仲間としてアマチュア無線界もに積極的 に出てきてくれれれば、一石二鳥・・・
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モデル登録 オシャレ道場モデルとは? オシャレ道場とは、画像を貼り付けることができる掲示板を用い、ユーザーのファッション(できれば全身。顔出しがNGな場合などは、自分で画像処理を行ってください)を披露し合うためのサイトです。(当然ですが完全無料です) ここでご登録いただいたユーザー様には、オシャレ道場 モデル>ファッションショーへ書き込むことができ、さらに人気投票(ただいま準備中)を受ける権利を得ます。 また、オシャレ道場モデル>プロフィール(ただいま準備中)において、自己紹介を行うこともできます。 ブログ、HP等をお持ちのユーザー様には、当サイトからリンクを貼らせていただきます。 ここからは未定ですが、今後このサイトの盛り上がり、そしてモデルの人気によっては、メルマガの作成、またはモデル事務所、芸能事務所への売り込み等も考えています(実現できるかは不明)ですが、みんなで盛り上げれば必ず実現できると信じています。 モデル・芸能関係に興味がある方、 まずはこのサイトでデビューしてみませんか? 一緒にこのサイトを盛り上げてみませんか?? もしかすると、このサイトが あなたの夢へと繋がるかもしれません☆ 以下の規約を必ずお読み下さい ■禁止事項 公序良俗に反する行為、掲示板への書き込み 国内法に抵触する行為 掲示板への書き込み 誹謗、中傷、作為の虚偽情報等を流布することによって特定または不特定の第三者に著しい不利益をもたらす行為、掲示板への書き込み その他、当サイトに損害を与える、与える恐れのある行為、掲示板への書き込み 住所や氏名など個人情報の書き込み 宣伝を目的にした書き込み(ただし、登録していただける方のブログやHPについては、リンクを貼らせていただきます) ■免責事項 書き込みされる方は、その内容に対して、あらゆる法的責任、損害賠償および訴訟費用について全責任をお持ちいただきます。 禁止事項にあたる行為・書き込みは、予告無しに削除させていただくことがあります。 当利用規約は必要に応じて予告なく改定いたしますのでご了承ください。 改めてご確認ください。 運営の都合により予告無くサービスメンテナンス、サーバダウン、サーバメンテナンスを行うことがあります。ご了承ください。 以上の規約に 同意する/同意しない
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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第Ⅰ部 統治と憲法 第12章 議院内閣制 本文 p.83以下 <目次> ■1.権力分立のなかの議院内閣制[59] (1) 連携か分立か [60] (2) 議院内閣制の歴史的展開 ■2.議院内閣制の合理化[60続き] (1) 大陸の動き [60続き2] (2) 法的責任から政治的責任へ [60続き3] (3) 統治方針一致原則の固定化 ■3.議院内閣制の特質[61] (1) 権力分立の変形 [61続き] (2) 責任か均衡か ■4.日本国憲法と議院内閣制[62] (1) 明治憲法との比較 [62a] (2) 議院内閣制の特徴 - 再確認 ■用語集、関連ページ ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 ■1.権力分立のなかの議院内閣制 [59] (1) 連携か分立か “日本国憲法は議院内閣制を採用している”といわれ続けてきたために、「そうに違いない」と我々は信じてきた。 それと同時に、“日本国憲法は権力分立制を採用している”とも教示されて、「そうに違いない」とも信じてきた。 ところが、権力分立制を「完全分離論」で理解したとき、上のふたつの命題が両立するのか、疑問を抱いて当然だ。 また、権力分立を“議会(国会)と執政府(内閣)との間に抑制と均衡をもたせることだ”と理解するとしても、内閣が国会の信任に依存する議院内閣制は権力分立とどうもしっくりこない、と薄々感じざるを得ない。 なぜなら、国会の多数派から内閣総理大臣のみならず、多数の閣僚が選出される制度は、国会と内閣との連携関係をくっきりと浮かび上がらせるからだ。 そればかりでなく、現実の我が国の統治過程をみたときには、内閣が議会の信任に依存するのではなく、議会が内閣に指導されているようにもみえる。 さらに現実をみれば、先の第11章でもみたように、内閣は議会制定法に従いながらそれを執行する「行政」部門ではなく、官僚団を従えながら法律案を作成し、国家の基本方針を模索し、予算を作成し、外交関係を舵取りしていく・・・・・・国政の最高機関のようだ。 ひょっとすると、現実が理論から外れているのかも知れない。 が、その現実は、短期間、我が国だけに現れた例外現象でもなさそうだ。 議院内閣制の母国といわれるイギリスにおいても、強力なリーダーシップを発揮する首相のもとで、国会(野党)が事後的な監督作用に専心しているかのようである。 国会の多数派が内閣の構成員を送り出そうとするとき、彼らは多数派のリーダーたちを選出するだろう。 そうなると、〔議会-その多数派-内閣〕という連携が生まれるに違いない。 この三者の連携におけるリーダーシップの序列は、〔内閣>その多数派>議会〕となるだろう。 このイギリスにおける統治の実態は、「議会中心の統治」と称するより「内閣主導型統治」あるいは「首相指導型」というほうが適切である。 議会と内閣の上のような関係は、果たして権力分立なのか、はたまた、議会を中心とする統治= parliamentary government であるのか? 議院内閣制の真の意味を知ることは、予想以上に難題のようだ。 [60] (2) 議院内閣制の歴史的展開 “議院内閣制は、行政権を民主的にコントロールしようとしてイギリスに産まれた”とよくいわれる。 ところがこの説明は、ふたつの不正確な部分を残している。 第一に、 イギリスで誕生したのは憲法上の制度ではなく、統治の慣行としてだったという点である。 第二に、 民主的にコントロールしようとした相手方は、内閣ではなく、官僚団だった点である(厳密な意味での「行政」部門を民主的部門が統制しようとしたのだ)。 つまり、 君主を「尊厳の部分」に置くことが確固とした国制となり、しかも、 〔国民→議会→内閣〕という民主的な垂直的な関係が国制の慣行となった次の課題が、 非公選部門でありながら情報と権限を蓄積しつつあった官僚団をいかに民主的に統制するか、であった。 そのための慣行が、《政と官とは分離されておりながら、政が官に優位する》という規範となった。 これが parliamentary government (※注釈:議会政治)である。 ■2.議院内閣制の合理化 [60続き] (1) 大陸の動き 議会中心の統治を憲法に制度化しようとしたのは民主主義を渇望してきた大陸においてだった(⇒[53])。 大陸においては、長い二元的統治の歴史があった。 二元的統治とは、国家のなかに君主と等族という、ふたつの「国家内国家」が存在したことをいう。 もし「君主-議会」というふたつの国家機関が存在するとすれば、統治を安定させない二元的統治が再び演じられるだろう。 君主は「われが血筋または伝統の力によって最高機関である」といい、議会は「われは国民の代表機関であるが故に最高機関である」というだろうから。 これを避けるためには、君主と議会との間にあって、両者の蝶番(ちょうつがい)となる機関を置けばいい。 君主に対しては議会の声を伝え、議会に対しては君主の意思を伝える導管役である。 この役が大臣団、後の政府または内閣である。 ちょうど歴史は、立憲君主制にまで到達していた。 立憲君主制は、《大臣を置かなければならない政治体制》である。 それは、すべての国家権力の源泉を君主に帰属せしめながらも、君主を無答責とするために大臣が助言する体制だった。 大臣助言制における責任は法的なそれであり、大臣の法的責任を追及するために議会の用いた手段が弾劾裁判だった(この法的責任追及によって法治国が完成した、といわれることもあった。が、責任の構成要件は曖昧だった)。 [60続き2] (2) 法的責任から政治的責任へ その後、議会勢力が次第に優勢となるにつれ、“君主こそすべての国家権力の源泉だ”との主張はもはや通用しなくなる。 立憲君主制は、議会が立法の中心部分を担当する、という権力分立構想に歩み寄ることを余儀なくされたのだ。 そのため、立憲君主制を採用する憲法は、立法権を君主と議会とが共同行使する、という手続を組み入れた。 そればかりでなく、執政権の中心部分は大臣団(政府)に移行し、これが憲法上の正式機関としての地位も得た。 ここに、権力分立構造における機関のひとつとして、内閣が誕生したのだ。 この新たな誕生物は、議会と対等な地位を占めると主張することによって、議会の優越性を否定するイデオロギッシュな働きもした。 憲法上の正式機関として内閣が誕生したことで、ふたつの変化が現れた。 第一は、 君主権限が内閣の執政権によって控除されて「中性的権力」へと限定されていったことだ。「中性的権力」とは、国家諸機関間の憲法抗争を最終的に調整・中和する君主権限である。大臣の任命権、議会召集権、民選儀院の解散権、恩赦権等の調整権がこれである。これらの調整権限がさらに形式化・儀式化されたときの主体は「元首」と呼ばれることがある。 第二は、 大臣の責任の性質が変化したことだ。上にふれたように、大臣助言制のもとでの責任は、もともと法的責任であり、議会による追及方法が弾劾裁判だった。大臣の守備範囲が広くなるにつれて、議会は政治的な責任を問い始めた。そうなると、大臣訴追や弾劾制の方法は後退し、それに代わって、内閣の活動は議会の統治の基本方針と食い違ってはいないか、という政治責任追及の方向が望まれた。議会は「内閣が議会の統治の基本方針から明らかに逸れている」と判断したとき、議会は内閣の政治責任を問う、弾劾権とは別の武器を持とうとした。 このふたつの政治的な展開が、議院内閣制を憲法上設計する際の参考とされた。 [60続き3] (3) 統治方針一致原則の固定化 議会と内閣との間に、統治方針の一致原則を恒常的に維持するにはどうすればいいか? 政治の成り行きに任せて慣行が出来上がるのを待つことでは、この一致原則は心許なくなる。 一致原則を憲法上の制度として取り込むことだ。 「政治過程から法的過程へ」固定化すればよい。 この選択は「議院内閣制の合理化」と呼ばれることがある。 統治の基本方針を一致させるという原則を憲法に制度として固定するにはどうすればよいか? 選択肢はふたつだ。 ひとつは、 “内閣(または大臣)は、恒常的に議会の信任に依存する”と規定することだ。 他のひとつは、 “議会が格別に責任を追及しようとしないときには内閣は信任を受けているものとみなされるが、統治方針一致原則は破綻したと議会が判断したとき、内閣は政治責任を正式に追及され、場合によっては辞職しなければならない”と規定することだ。 制度の真価は、危機の際に発揮されるのが世の常である。 ということは、憲法上制度化されるにあたって最重視されたのが、後者の方法である(但し、ある憲法が“議院内閣制を採用する”と明文で述べることはない)。 もっとも、後者に従うとしても、“議会と対立したときは、内閣は辞職すべし”との議会の判定だけが決め手だとされれば、内閣はあたかも議会の中の委員会の如くなってしまうだろう(このタイプは、「議会統治制」とか「議会主義」と呼ばれ、議院内閣制とは区別される)。 そうならないためには、内閣または大臣が議会に対抗する武器を持たなければならない。 その武器が《君主・元首への副署権を通して、君主・元首の持っている中性権(調整権)としての議会解散権に訴えること》だ。 《連携せよ、さもなくば抑制し合え、然らば新たな均衡がもたらされよう》というわけだ([52]と比較せよ)。 ■3.議院内閣制の特質 [61] (1) 権力分立の変形 このように、議院内閣制は、権力分立の変種となるよう、設計主義のもとで抽象理論として大陸に登場した。 権力分立と同じように、憲法に取り込まれるとき、当該国家の歴史と政治状況のなかで「変容」させられた。 議院内閣制の実態が、国によって大いに異なるのはそのためだ。 そのことは承知のうえで、議院内閣制の特質をまとめるとすれば、次のようになる。 第一は、 権力分立の一態様だ、という点である。確かに、議院内閣制は、執政府と議会との協働体制であって「分立」の形跡すらないではないか、との疑問が生ずる。しかし、議院内閣制は、議会も、政府(内閣)も、憲法上はそれぞれ独立したひとつの機関であるという点で、議会に権力を集中する、先にふれた「議会統治制」ではない。そしてまた、次にふれるように、協働の体制ばかりではないのだ。 第二は、 権力分立の一態様であることの証左として、執政府と議会とが抑制の関係におかれている点である。これが、上で既にふれた、「議会による内閣(大臣)不信任決議⇔内閣による(元首の調整権を通しての)議会解散権」である。この解散または辞職によって、再び、議会と執政府との間の統治方針一致原則を取り戻そうというのである。 第三は、 執政府が二元構造となっており、内閣は議会および君主の双方に責任を負う点である。但し、歴史の流れを振り返ったとき、元首または(および)大統領が君主に取って代わったことが多く、二元構造も変わってきた。なかでも、内閣とは別に、公選にかかる大統領が存在する場合、大統領は解散権を発動し、選挙民の選挙を通して、議会と執政府との間の統治方針一致原則を回復しようとすることがある(この点が、アメリカの大統領制との違いである。確かに、アメリカにおいても「内閣」は存在するが、それはあくまで大統領への諮問機関である。また、アメリカの大統領は議会の解散権を持たない)。特に、大統領が均衡の回復起点を選挙民の投票に委ねるとき、国民が主役となり、大統領の調整(解散)権は二次的な意味しか持たなくなった。 上の第三の特徴に留意したとき、議院内閣制は、権力分立の場合と似て(⇒[58])、〔国民-議会-大統領〕という構造のなかで捉え直されるべきだろう。 それでもなお、治者と被治者の分離が厳然たる事実であることを軽視しないとなると、治者の中での〔議会-内閣・大統領〕の関係こそ決定的な意味をもっている。 [61続き] (2) 責任か均衡か 〔議会-内閣・大統領〕という決定的な局面で、「これぞ議院内閣制の本質を表す要素だ」といえるのが、先にふれた〔議会による内閣(大臣)不信任決議⇔内閣による(元首の調整権を通しての)議会解散権〕である。 この見方は「均衡本質説」、または執政府がふたつあることに注目されたとき「二元説」と呼ばれることがある。 それは、《議会解散権と不信任決議権とが、あたかもピストンとシリンダーのように対をなして作用することこそ、議院内閣制の本質だ》というのである。 換言すれば、議院内閣制を決定するものは、〔議会-内閣・大統領〕の連携関係(統治方針一致の原則)が一旦崩壊したとき、それぞれが、どのような公式権限を発動するか、という反発・抑制関係にある。 反発・抑制関係が残されているからこそ、議院内閣制は権力分立の一種だ、ともいえるのである。 〔議会-内閣・大統領〕の間に、統治方針の一致をもたらす工夫は、勿論、これ以外にも複数ある。 たとえば、 ① 議会に対する内閣または宰相の責任を憲法典に明記すること、 ② 大臣に対する質問権、大臣の議会出席要求権を議会がもつこと、 ③ 首相は議会構成員から選出すること、 ④ 大臣の一定数を議会構成員から選出するよう総理大臣に義務づけること、 等である。 ②~④は、①にいう「議会に対する責任」を内閣をして全うさせる手段である。 ①に集約され得る工夫をもって「これぞ議院内閣制の本質を表す要素だ」と捉える立場が「責任本質説」である。 「均衡本質説/責任本質説」の対立は、実は相互排他的ではない。 責任本質説、均衡本質説ともに、〔議会-内閣・大統領〕の間に統治方針一致の原則をもたらすことを念頭に置きながら、その一致を確保する手段として「責任か、均衡か」を問うのである。 責任本質説は、執政府が恒常的に議会の信任を受けておく点に着目するのに対して、均衡本質説は、議会が執政府不信任の意思をある時点で特定・明示的に表示した際に、執政府が取り得る公式権限に着目する。 一方がポジの接近法であり、他方がネガのそれである。 この場合に限っては、ネガの接近法が我々の目に鮮やかである。 というのも、責任本質説にいう「責任」または「信任」概念は多義的であり、しかも、「内閣の議会への責任」を強調するあまり、選挙民の最終的選択を軽視しがちとなるからだ。 ■4.日本国憲法と議院内閣制 [62] (1) 明治憲法との比較 明治憲法のもとでは、天皇の輔弼機関として国務大臣が置かれた(55条1項)。大臣助言制は、立憲君主制の常道であったが、明治憲法での輔弼は、主任の大臣が意見・案を上奏して大権の執行につき過誤なきことを期すばかりでなく、天皇の責任部分を「空」とするためだった。国務大臣は、担当の国務に関する大権を輔弼するにあたって、文書による詔勅に副署することを要した(同条2項。大臣の輔弼を要する範囲は、天皇の国務上の大権に限定され、統帥大権および栄典大権には及び得ないと解されていた)。これは、諸外国の立憲君主制のもとで採用された大臣助言制に倣ったものといわれるが、輔弼の法的拘束力について通説は「国務大臣の進言を嘉納せらるゝや否やは聖断に存する」ということにしている。この大臣助言類似の制度のもとでは、主任の大臣は天皇に対して責任を負うにとどまり、議会から超然としていた。超然内閣制である。 これに対して、日本国憲法は内閣が連帯して国会に対して責任を負うことを明示した(66条3項)。超然内閣制を排斥したのである。では、日本国憲法における内閣と国会との関係は、どう捉えられるべきか?圧倒的多数の学説は、内閣と国会の関係を議院内閣制だ、と捉えてきた。ところが、学説が議院内閣制というとき、その念頭に置かれるモデルと狙いは曖昧だった。ある論者は、イギリス型の議院内閣制がモデルとなっているとみて、“議会が内閣の進退を左右し得ることをその核心とする制度だ”と説明してみせた。ところが、当のイギリスにおいては、先の [60〕 でふれたように、「議会中心の統治」ではなく「内閣主導型統治」となっていた。また、同論者は、議院内閣制の狙いとして、「行政権を民主的なコントロールの下に置こうとするにある」ことを挙げた。この説明は、“明治憲法下にあっては議会の権限が弱すぎた”という反省も手伝ってか、多くの人を納得させた。が、戦後、内閣が統治を先導し議会が事後的に監視している、という政治状況がほぼ一貫して続くなか、この理論は、“議会が内閣の進退を左右する”どころか、内閣が議会の進退を決定している実状を説明できなかった。学者のなかには、“現状のごとき議院内閣制は、権力分立の趣旨に悖(もと)る”と考える者もあった。その論者の頭の中には、“国会が統治の基本方針を決定し、国会によって法令化された事柄だけを内閣が執行することこそ議院内閣制または権力分立制のはずだ”という思考がこびりついているのだろう(⇒[140])。 現状が理論から逸脱し過ぎたのだろうか? それとも、理論がもともと間違っていたのだろうか? あるいは、理論は正しいものの、そのモデルとして取り上げたサンプリングに間違いがあったのだろうか? さらには、もっと根源に立ち返って、“日本国憲法は議院内閣制を採用したとは言い難い”と問い直すべきなのか? 最後の疑義が私の頭にある。 [62a] (2) 議院内閣制の特徴 - 再確認 議院内閣制の特徴は何であったのか、もう一度、ここで確認してみよう。 その特徴のなかでも、ここで最も重要な点は、 (ア) 執政府が二元構造となっていること、 (イ) 〔議会による内閣(大臣)不信任決議⇔内閣による議会解散権〕という対等の権限を有していること、 (ウ) 「内閣の議会(民選議院)解散権」は、二元構造の執政府のひとつである元首または大統領の調整権に淵源するもので、内閣自体が有しているわけではないこと、 である。 日本国憲法の場合、上の (ア)~(ウ) 特徴をすべて欠いているようにみえる。 “執政府が二元構造となっている”というためには、天皇が国政に関する権限をもっていることが必須となろう。 だが、そう論ずる学説は稀有である。 次に、(イ)は、なるほど、満たされているように思える、が、戦後ほぼ一貫して内閣が不信任決議を待たないで、7条に基づいて衆議院を解散してきていることを解明できない。 また、(ウ)については、学説論争に決着はついていない(この学説の対立については、内閣の助言と承認を論ずる [87] でふれることにしよう)。 学説は議院内閣制のイメージを当初から描き損なったように私にはみえる。 通説の議院内閣制は、41条のいう「国会は、国権の最高機関」のイメージに引きずられて、国民を代表する国会が内閣を民主的にコントロールする、という〔国民→国会→内閣〕という垂直的配列を説いた。 だからこそ、“内閣の存否が議会の信任に依存する”という責任本質説が影響力をもったのだ。 議院内閣制という概念は、日本国憲法を理解していくうえで、予想以上に不毛だった、と私は感じている。 最近の学説のなかには、議院内閣制というタームに代えて、「国民内閣」と表現しつつ、内閣が統治し、国会がこれを監視しているという実態を上手く説明しようとするものがある。 これを「国民内閣制」というかどうかは別として、思考の筋としてはこれが妥当だろう。 ※以上で、この章の本文終了。 ※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。 ■用語集、関連ページ 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第十一章 議院内閣制 ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 名前 コメント
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イオンディライト訴訟 事件番号:津地方裁判所四日市支部 平成25年(ワ)第94号 被 告:イオンディライト株式会社(外6名) ※緊 急 連 絡 イオンディライト社に対し,【求釈明】を申立てました。 原告提出「求釈明申立書」抜粋(リンク先URL)↓http //cdn57.atwikiimg.com/aeondelight/?cmd=upload act=open pageid=20 file=AD%E6%B1%82%E9%87%88%E6%98%8E.pdf 参照 イオンの基本理念http //www.aeon.info/company/rinen/ イオンディライト経営理念http //www.aeondelight.co.jp/corporate/philosophy.html イオンディライト行動規範(ページ下段)http //aeondelight-security.co.jp/corporate/index.html ※株主の方へ イオンディライト社に対する『株主代表訴訟』をご検討されている株主の方は,当ページ下部の連絡先まで御一報下さい。 本件訴訟の詳しい経緯をお伝え致します。 事件の概要 原告は,イオングループの一員である「イオンディライト株式会社」(以下,「イオンディライト社」という)の下請業者の現場責任者として「イオン四日市尾平店」にて業務に従事していたが,現場責任者の役職を解任され,結果,会社を退職。 当該原告の解任及び,在職時の職場環境配慮義務違反につき,「イオンディライト社」にも責任があると原告は主張。 なお,「イオンディライト社」は上記事実を否認し,また法的責任も生じ得ない旨を主張。 提訴に至った経緯 原告は「イオンディライト社」及び関係者に対し,文書ないし架電にて話し合いの場を設けるよう要望したにも拘らず,「イオンディライト社」は一切対応に応じず。 原告は,やむなく「イオンディライト社」及び関係者らを相手方とする民事調停を四日市簡易裁判所に申立てる。 「イオンディライト社」及び関係者らは,調停期日に出席せず,調停は不成立となる。 上記を受け,原告は「イオンディライト社」及び関係者らを共同被告として,津地方裁判所四日市支部に訴えを提起。 サイトメニュー:リンク 当サイトの編集方針 イオンディライト社の反社会性 訴訟進行の記録 連絡先 E-mail:fuky_fuky_fuky@hotmail.com URL:http //www57.atwiki.jp/aeondelight/ イオンディライト訴訟ホームページ 合計: - 今日: - 昨日: - トップページの合計: -
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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第Ⅰ部 統治と憲法 第12章 議院内閣制 本文 p.83以下 <目次> ■1.権力分立のなかの議院内閣制[59] (1) 連携か分立か [60] (2) 議院内閣制の歴史的展開 ■2.議院内閣制の合理化[60続き] (1) 大陸の動き [60続き2] (2) 法的責任から政治的責任へ [60続き3] (3) 統治方針一致原則の固定化 ■3.議院内閣制の特質[61] (1) 権力分立の変形 [61続き] (2) 責任か均衡か ■4.日本国憲法と議院内閣制[62] (1) 明治憲法との比較 [62a] (2) 議院内閣制の特徴 - 再確認 ■用語集、関連ページ ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 ■1.権力分立のなかの議院内閣制 [59] (1) 連携か分立か “日本国憲法は議院内閣制を採用している”といわれ続けてきたために、「そうに違いない」と我々は信じてきた。 それと同時に、“日本国憲法は権力分立制を採用している”とも教示されて、「そうに違いない」とも信じてきた。 ところが、権力分立制を「完全分離論」で理解したとき、上のふたつの命題が両立するのか、疑問を抱いて当然だ。 また、権力分立を“議会(国会)と執政府(内閣)との間に抑制と均衡をもたせることだ”と理解するとしても、内閣が国会の信任に依存する議院内閣制は権力分立とどうもしっくりこない、と薄々感じざるを得ない。 なぜなら、国会の多数派から内閣総理大臣のみならず、多数の閣僚が選出される制度は、国会と内閣との連携関係をくっきりと浮かび上がらせるからだ。 そればかりでなく、現実の我が国の統治過程をみたときには、内閣が議会の信任に依存するのではなく、議会が内閣に指導されているようにもみえる。 さらに現実をみれば、先の第11章でもみたように、内閣は議会制定法に従いながらそれを執行する「行政」部門ではなく、官僚団を従えながら法律案を作成し、国家の基本方針を模索し、予算を作成し、外交関係を舵取りしていく・・・・・・国政の最高機関のようだ。 ひょっとすると、現実が理論から外れているのかも知れない。 が、その現実は、短期間、我が国だけに現れた例外現象でもなさそうだ。 議院内閣制の母国といわれるイギリスにおいても、強力なリーダーシップを発揮する首相のもとで、国会(野党)が事後的な監督作用に専心しているかのようである。 国会の多数派が内閣の構成員を送り出そうとするとき、彼らは多数派のリーダーたちを選出するだろう。 そうなると、〔議会-その多数派-内閣〕という連携が生まれるに違いない。 この三者の連携におけるリーダーシップの序列は、〔内閣>その多数派>議会〕となるだろう。 このイギリスにおける統治の実態は、「議会中心の統治」と称するより「内閣主導型統治」あるいは「首相指導型」というほうが適切である。 議会と内閣の上のような関係は、果たして権力分立なのか、はたまた、議会を中心とする統治= parliamentary government であるのか? 議院内閣制の真の意味を知ることは、予想以上に難題のようだ。 [60] (2) 議院内閣制の歴史的展開 “議院内閣制は、行政権を民主的にコントロールしようとしてイギリスに産まれた”とよくいわれる。 ところがこの説明は、ふたつの不正確な部分を残している。 第一に、 イギリスで誕生したのは憲法上の制度ではなく、統治の慣行としてだったという点である。 第二に、 民主的にコントロールしようとした相手方は、内閣ではなく、官僚団だった点である(厳密な意味での「行政」部門を民主的部門が統制しようとしたのだ)。 つまり、 君主を「尊厳の部分」に置くことが確固とした国制となり、しかも、 〔国民→議会→内閣〕という民主的な垂直的な関係が国制の慣行となった次の課題が、 非公選部門でありながら情報と権限を蓄積しつつあった官僚団をいかに民主的に統制するか、であった。 そのための慣行が、《政と官とは分離されておりながら、政が官に優位する》という規範となった。 これが parliamentary government (※注釈:議会政治)である。 ■2.議院内閣制の合理化 [60続き] (1) 大陸の動き 議会中心の統治を憲法に制度化しようとしたのは民主主義を渇望してきた大陸においてだった(⇒[53])。 大陸においては、長い二元的統治の歴史があった。 二元的統治とは、国家のなかに君主と等族という、ふたつの「国家内国家」が存在したことをいう。 もし「君主-議会」というふたつの国家機関が存在するとすれば、統治を安定させない二元的統治が再び演じられるだろう。 君主は「われが血筋または伝統の力によって最高機関である」といい、議会は「われは国民の代表機関であるが故に最高機関である」というだろうから。 これを避けるためには、君主と議会との間にあって、両者の蝶番(ちょうつがい)となる機関を置けばいい。 君主に対しては議会の声を伝え、議会に対しては君主の意思を伝える導管役である。 この役が大臣団、後の政府または内閣である。 ちょうど歴史は、立憲君主制にまで到達していた。 立憲君主制は、《大臣を置かなければならない政治体制》である。 それは、すべての国家権力の源泉を君主に帰属せしめながらも、君主を無答責とするために大臣が助言する体制だった。 大臣助言制における責任は法的なそれであり、大臣の法的責任を追及するために議会の用いた手段が弾劾裁判だった(この法的責任追及によって法治国が完成した、といわれることもあった。が、責任の構成要件は曖昧だった)。 [60続き2] (2) 法的責任から政治的責任へ その後、議会勢力が次第に優勢となるにつれ、“君主こそすべての国家権力の源泉だ”との主張はもはや通用しなくなる。 立憲君主制は、議会が立法の中心部分を担当する、という権力分立構想に歩み寄ることを余儀なくされたのだ。 そのため、立憲君主制を採用する憲法は、立法権を君主と議会とが共同行使する、という手続を組み入れた。 そればかりでなく、執政権の中心部分は大臣団(政府)に移行し、これが憲法上の正式機関としての地位も得た。 ここに、権力分立構造における機関のひとつとして、内閣が誕生したのだ。 この新たな誕生物は、議会と対等な地位を占めると主張することによって、議会の優越性を否定するイデオロギッシュな働きもした。 憲法上の正式機関として内閣が誕生したことで、ふたつの変化が現れた。 第一は、 君主権限が内閣の執政権によって控除されて「中性的権力」へと限定されていったことだ。「中性的権力」とは、国家諸機関間の憲法抗争を最終的に調整・中和する君主権限である。大臣の任命権、議会召集権、民選儀院の解散権、恩赦権等の調整権がこれである。これらの調整権限がさらに形式化・儀式化されたときの主体は「元首」と呼ばれることがある。 第二は、 大臣の責任の性質が変化したことだ。上にふれたように、大臣助言制のもとでの責任は、もともと法的責任であり、議会による追及方法が弾劾裁判だった。大臣の守備範囲が広くなるにつれて、議会は政治的な責任を問い始めた。そうなると、大臣訴追や弾劾制の方法は後退し、それに代わって、内閣の活動は議会の統治の基本方針と食い違ってはいないか、という政治責任追及の方向が望まれた。議会は「内閣が議会の統治の基本方針から明らかに逸れている」と判断したとき、議会は内閣の政治責任を問う、弾劾権とは別の武器を持とうとした。 このふたつの政治的な展開が、議院内閣制を憲法上設計する際の参考とされた。 [60続き3] (3) 統治方針一致原則の固定化 議会と内閣との間に、統治方針の一致原則を恒常的に維持するにはどうすればいいか? 政治の成り行きに任せて慣行が出来上がるのを待つことでは、この一致原則は心許なくなる。 一致原則を憲法上の制度として取り込むことだ。 「政治過程から法的過程へ」固定化すればよい。 この選択は「議院内閣制の合理化」と呼ばれることがある。 統治の基本方針を一致させるという原則を憲法に制度として固定するにはどうすればよいか? 選択肢はふたつだ。 ひとつは、 “内閣(または大臣)は、恒常的に議会の信任に依存する”と規定することだ。 他のひとつは、 “議会が格別に責任を追及しようとしないときには内閣は信任を受けているものとみなされるが、統治方針一致原則は破綻したと議会が判断したとき、内閣は政治責任を正式に追及され、場合によっては辞職しなければならない”と規定することだ。 制度の真価は、危機の際に発揮されるのが世の常である。 ということは、憲法上制度化されるにあたって最重視されたのが、後者の方法である(但し、ある憲法が“議院内閣制を採用する”と明文で述べることはない)。 もっとも、後者に従うとしても、“議会と対立したときは、内閣は辞職すべし”との議会の判定だけが決め手だとされれば、内閣はあたかも議会の中の委員会の如くなってしまうだろう(このタイプは、「議会統治制」とか「議会主義」と呼ばれ、議院内閣制とは区別される)。 そうならないためには、内閣または大臣が議会に対抗する武器を持たなければならない。 その武器が《君主・元首への副署権を通して、君主・元首の持っている中性権(調整権)としての議会解散権に訴えること》だ。 《連携せよ、さもなくば抑制し合え、然らば新たな均衡がもたらされよう》というわけだ([52]と比較せよ)。 ■3.議院内閣制の特質 [61] (1) 権力分立の変形 このように、議院内閣制は、権力分立の変種となるよう、設計主義のもとで抽象理論として大陸に登場した。 権力分立と同じように、憲法に取り込まれるとき、当該国家の歴史と政治状況のなかで「変容」させられた。 議院内閣制の実態が、国によって大いに異なるのはそのためだ。 そのことは承知のうえで、議院内閣制の特質をまとめるとすれば、次のようになる。 第一は、 権力分立の一態様だ、という点である。確かに、議院内閣制は、執政府と議会との協働体制であって「分立」の形跡すらないではないか、との疑問が生ずる。しかし、議院内閣制は、議会も、政府(内閣)も、憲法上はそれぞれ独立したひとつの機関であるという点で、議会に権力を集中する、先にふれた「議会統治制」ではない。そしてまた、次にふれるように、協働の体制ばかりではないのだ。 第二は、 権力分立の一態様であることの証左として、執政府と議会とが抑制の関係におかれている点である。これが、上で既にふれた、「議会による内閣(大臣)不信任決議⇔内閣による(元首の調整権を通しての)議会解散権」である。この解散または辞職によって、再び、議会と執政府との間の統治方針一致原則を取り戻そうというのである。 第三は、 執政府が二元構造となっており、内閣は議会および君主の双方に責任を負う点である。但し、歴史の流れを振り返ったとき、元首または(および)大統領が君主に取って代わったことが多く、二元構造も変わってきた。なかでも、内閣とは別に、公選にかかる大統領が存在する場合、大統領は解散権を発動し、選挙民の選挙を通して、議会と執政府との間の統治方針一致原則を回復しようとすることがある(この点が、アメリカの大統領制との違いである。確かに、アメリカにおいても「内閣」は存在するが、それはあくまで大統領への諮問機関である。また、アメリカの大統領は議会の解散権を持たない)。特に、大統領が均衡の回復起点を選挙民の投票に委ねるとき、国民が主役となり、大統領の調整(解散)権は二次的な意味しか持たなくなった。 上の第三の特徴に留意したとき、議院内閣制は、権力分立の場合と似て(⇒[58])、〔国民-議会-大統領〕という構造のなかで捉え直されるべきだろう。 それでもなお、治者と被治者の分離が厳然たる事実であることを軽視しないとなると、治者の中での〔議会-内閣・大統領〕の関係こそ決定的な意味をもっている。 [61続き] (2) 責任か均衡か 〔議会-内閣・大統領〕という決定的な局面で、「これぞ議院内閣制の本質を表す要素だ」といえるのが、先にふれた〔議会による内閣(大臣)不信任決議⇔内閣による(元首の調整権を通しての)議会解散権〕である。 この見方は「均衡本質説」、または執政府がふたつあることに注目されたとき「二元説」と呼ばれることがある。 それは、《議会解散権と不信任決議権とが、あたかもピストンとシリンダーのように対をなして作用することこそ、議院内閣制の本質だ》というのである。 換言すれば、議院内閣制を決定するものは、〔議会-内閣・大統領〕の連携関係(統治方針一致の原則)が一旦崩壊したとき、それぞれが、どのような公式権限を発動するか、という反発・抑制関係にある。 反発・抑制関係が残されているからこそ、議院内閣制は権力分立の一種だ、ともいえるのである。 〔議会-内閣・大統領〕の間に、統治方針の一致をもたらす工夫は、勿論、これ以外にも複数ある。 たとえば、 ① 議会に対する内閣または宰相の責任を憲法典に明記すること、 ② 大臣に対する質問権、大臣の議会出席要求権を議会がもつこと、 ③ 首相は議会構成員から選出すること、 ④ 大臣の一定数を議会構成員から選出するよう総理大臣に義務づけること、 等である。 ②~④は、①にいう「議会に対する責任」を内閣をして全うさせる手段である。 ①に集約され得る工夫をもって「これぞ議院内閣制の本質を表す要素だ」と捉える立場が「責任本質説」である。 「均衡本質説/責任本質説」の対立は、実は相互排他的ではない。 責任本質説、均衡本質説ともに、〔議会-内閣・大統領〕の間に統治方針一致の原則をもたらすことを念頭に置きながら、その一致を確保する手段として「責任か、均衡か」を問うのである。 責任本質説は、執政府が恒常的に議会の信任を受けておく点に着目するのに対して、均衡本質説は、議会が執政府不信任の意思をある時点で特定・明示的に表示した際に、執政府が取り得る公式権限に着目する。 一方がポジの接近法であり、他方がネガのそれである。 この場合に限っては、ネガの接近法が我々の目に鮮やかである。 というのも、責任本質説にいう「責任」または「信任」概念は多義的であり、しかも、「内閣の議会への責任」を強調するあまり、選挙民の最終的選択を軽視しがちとなるからだ。 ■4.日本国憲法と議院内閣制 [62] (1) 明治憲法との比較 明治憲法のもとでは、天皇の輔弼機関として国務大臣が置かれた(55条1項)。大臣助言制は、立憲君主制の常道であったが、明治憲法での輔弼は、主任の大臣が意見・案を上奏して大権の執行につき過誤なきことを期すばかりでなく、天皇の責任部分を「空」とするためだった。国務大臣は、担当の国務に関する大権を輔弼するにあたって、文書による詔勅に副署することを要した(同条2項。大臣の輔弼を要する範囲は、天皇の国務上の大権に限定され、統帥大権および栄典大権には及び得ないと解されていた)。これは、諸外国の立憲君主制のもとで採用された大臣助言制に倣ったものといわれるが、輔弼の法的拘束力について通説は「国務大臣の進言を嘉納せらるゝや否やは聖断に存する」ということにしている。この大臣助言類似の制度のもとでは、主任の大臣は天皇に対して責任を負うにとどまり、議会から超然としていた。超然内閣制である。 これに対して、日本国憲法は内閣が連帯して国会に対して責任を負うことを明示した(66条3項)。超然内閣制を排斥したのである。では、日本国憲法における内閣と国会との関係は、どう捉えられるべきか?圧倒的多数の学説は、内閣と国会の関係を議院内閣制だ、と捉えてきた。ところが、学説が議院内閣制というとき、その念頭に置かれるモデルと狙いは曖昧だった。ある論者は、イギリス型の議院内閣制がモデルとなっているとみて、“議会が内閣の進退を左右し得ることをその核心とする制度だ”と説明してみせた。ところが、当のイギリスにおいては、先の [60〕 でふれたように、「議会中心の統治」ではなく「内閣主導型統治」となっていた。また、同論者は、議院内閣制の狙いとして、「行政権を民主的なコントロールの下に置こうとするにある」ことを挙げた。この説明は、“明治憲法下にあっては議会の権限が弱すぎた”という反省も手伝ってか、多くの人を納得させた。が、戦後、内閣が統治を先導し議会が事後的に監視している、という政治状況がほぼ一貫して続くなか、この理論は、“議会が内閣の進退を左右する”どころか、内閣が議会の進退を決定している実状を説明できなかった。学者のなかには、“現状のごとき議院内閣制は、権力分立の趣旨に悖(もと)る”と考える者もあった。その論者の頭の中には、“国会が統治の基本方針を決定し、国会によって法令化された事柄だけを内閣が執行することこそ議院内閣制または権力分立制のはずだ”という思考がこびりついているのだろう(⇒[140])。 現状が理論から逸脱し過ぎたのだろうか? それとも、理論がもともと間違っていたのだろうか? あるいは、理論は正しいものの、そのモデルとして取り上げたサンプリングに間違いがあったのだろうか? さらには、もっと根源に立ち返って、“日本国憲法は議院内閣制を採用したとは言い難い”と問い直すべきなのか? 最後の疑義が私の頭にある。 [62a] (2) 議院内閣制の特徴 - 再確認 議院内閣制の特徴は何であったのか、もう一度、ここで確認してみよう。 その特徴のなかでも、ここで最も重要な点は、 (ア) 執政府が二元構造となっていること、 (イ) 〔議会による内閣(大臣)不信任決議⇔内閣による議会解散権〕という対等の権限を有していること、 (ウ) 「内閣の議会(民選議院)解散権」は、二元構造の執政府のひとつである元首または大統領の調整権に淵源するもので、内閣自体が有しているわけではないこと、 である。 日本国憲法の場合、上の (ア)~(ウ) 特徴をすべて欠いているようにみえる。 “執政府が二元構造となっている”というためには、天皇が国政に関する権限をもっていることが必須となろう。 だが、そう論ずる学説は稀有である。 次に、(イ)は、なるほど、満たされているように思える、が、戦後ほぼ一貫して内閣が不信任決議を待たないで、7条に基づいて衆議院を解散してきていることを解明できない。 また、(ウ)については、学説論争に決着はついていない(この学説の対立については、内閣の助言と承認を論ずる [87] でふれることにしよう)。 学説は議院内閣制のイメージを当初から描き損なったように私にはみえる。 通説の議院内閣制は、41条のいう「国会は、国権の最高機関」のイメージに引きずられて、国民を代表する国会が内閣を民主的にコントロールする、という〔国民→国会→内閣〕という垂直的配列を説いた。 だからこそ、“内閣の存否が議会の信任に依存する”という責任本質説が影響力をもったのだ。 議院内閣制という概念は、日本国憲法を理解していくうえで、予想以上に不毛だった、と私は感じている。 最近の学説のなかには、議院内閣制というタームに代えて、「国民内閣」と表現しつつ、内閣が統治し、国会がこれを監視しているという実態を上手く説明しようとするものがある。 これを「国民内閣制」というかどうかは別として、思考の筋としてはこれが妥当だろう。 ※以上で、この章の本文終了。 ※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。 ■用語集、関連ページ 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第十一章 議院内閣制 ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 名前 コメント
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阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊) 第Ⅰ部 統治と憲法 第12章 議院内閣制 本文 p.83以下 <目次> ■1.権力分立のなかの議院内閣制[59] (1) 連携か分立か [60] (2) 議院内閣制の歴史的展開 ■2.議院内閣制の合理化[60続き] (1) 大陸の動き [60続き2] (2) 法的責任から政治的責任へ [60続き3] (3) 統治方針一致原則の固定化 ■3.議院内閣制の特質[61] (1) 権力分立の変形 [61続き] (2) 責任か均衡か ■4.日本国憲法と議院内閣制[62] (1) 明治憲法との比較 [62a] (2) 議院内閣制の特徴 - 再確認 ■用語集、関連ページ ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 ■1.権力分立のなかの議院内閣制 [59] (1) 連携か分立か “日本国憲法は議院内閣制を採用している”といわれ続けてきたために、「そうに違いない」と我々は信じてきた。 それと同時に、“日本国憲法は権力分立制を採用している”とも教示されて、「そうに違いない」とも信じてきた。 ところが、権力分立制を「完全分離論」で理解したとき、上のふたつの命題が両立するのか、疑問を抱いて当然だ。 また、権力分立を“議会(国会)と執政府(内閣)との間に抑制と均衡をもたせることだ”と理解するとしても、内閣が国会の信任に依存する議院内閣制は権力分立とどうもしっくりこない、と薄々感じざるを得ない。 なぜなら、国会の多数派から内閣総理大臣のみならず、多数の閣僚が選出される制度は、国会と内閣との連携関係をくっきりと浮かび上がらせるからだ。 そればかりでなく、現実の我が国の統治過程をみたときには、内閣が議会の信任に依存するのではなく、議会が内閣に指導されているようにもみえる。 さらに現実をみれば、先の第11章でもみたように、内閣は議会制定法に従いながらそれを執行する「行政」部門ではなく、官僚団を従えながら法律案を作成し、国家の基本方針を模索し、予算を作成し、外交関係を舵取りしていく・・・・・・国政の最高機関のようだ。 ひょっとすると、現実が理論から外れているのかも知れない。 が、その現実は、短期間、我が国だけに現れた例外現象でもなさそうだ。 議院内閣制の母国といわれるイギリスにおいても、強力なリーダーシップを発揮する首相のもとで、国会(野党)が事後的な監督作用に専心しているかのようである。 国会の多数派が内閣の構成員を送り出そうとするとき、彼らは多数派のリーダーたちを選出するだろう。 そうなると、〔議会-その多数派-内閣〕という連携が生まれるに違いない。 この三者の連携におけるリーダーシップの序列は、〔内閣>その多数派>議会〕となるだろう。 このイギリスにおける統治の実態は、「議会中心の統治」と称するより「内閣主導型統治」あるいは「首相指導型」というほうが適切である。 議会と内閣の上のような関係は、果たして権力分立なのか、はたまた、議会を中心とする統治= parliamentary government であるのか? 議院内閣制の真の意味を知ることは、予想以上に難題のようだ。 [60] (2) 議院内閣制の歴史的展開 “議院内閣制は、行政権を民主的にコントロールしようとしてイギリスに産まれた”とよくいわれる。 ところがこの説明は、ふたつの不正確な部分を残している。 第一に、 イギリスで誕生したのは憲法上の制度ではなく、統治の慣行としてだったという点である。 第二に、 民主的にコントロールしようとした相手方は、内閣ではなく、官僚団だった点である(厳密な意味での「行政」部門を民主的部門が統制しようとしたのだ)。 つまり、 君主を「尊厳の部分」に置くことが確固とした国制となり、しかも、 〔国民→議会→内閣〕という民主的な垂直的な関係が国制の慣行となった次の課題が、 非公選部門でありながら情報と権限を蓄積しつつあった官僚団をいかに民主的に統制するか、であった。 そのための慣行が、《政と官とは分離されておりながら、政が官に優位する》という規範となった。 これが parliamentary government (※注釈:議会政治)である。 ■2.議院内閣制の合理化 [60続き] (1) 大陸の動き 議会中心の統治を憲法に制度化しようとしたのは民主主義を渇望してきた大陸においてだった(⇒[53])。 大陸においては、長い二元的統治の歴史があった。 二元的統治とは、国家のなかに君主と等族という、ふたつの「国家内国家」が存在したことをいう。 もし「君主-議会」というふたつの国家機関が存在するとすれば、統治を安定させない二元的統治が再び演じられるだろう。 君主は「われが血筋または伝統の力によって最高機関である」といい、議会は「われは国民の代表機関であるが故に最高機関である」というだろうから。 これを避けるためには、君主と議会との間にあって、両者の蝶番(ちょうつがい)となる機関を置けばいい。 君主に対しては議会の声を伝え、議会に対しては君主の意思を伝える導管役である。 この役が大臣団、後の政府または内閣である。 ちょうど歴史は、立憲君主制にまで到達していた。 立憲君主制は、《大臣を置かなければならない政治体制》である。 それは、すべての国家権力の源泉を君主に帰属せしめながらも、君主を無答責とするために大臣が助言する体制だった。 大臣助言制における責任は法的なそれであり、大臣の法的責任を追及するために議会の用いた手段が弾劾裁判だった(この法的責任追及によって法治国が完成した、といわれることもあった。が、責任の構成要件は曖昧だった)。 [60続き2] (2) 法的責任から政治的責任へ その後、議会勢力が次第に優勢となるにつれ、“君主こそすべての国家権力の源泉だ”との主張はもはや通用しなくなる。 立憲君主制は、議会が立法の中心部分を担当する、という権力分立構想に歩み寄ることを余儀なくされたのだ。 そのため、立憲君主制を採用する憲法は、立法権を君主と議会とが共同行使する、という手続を組み入れた。 そればかりでなく、執政権の中心部分は大臣団(政府)に移行し、これが憲法上の正式機関としての地位も得た。 ここに、権力分立構造における機関のひとつとして、内閣が誕生したのだ。 この新たな誕生物は、議会と対等な地位を占めると主張することによって、議会の優越性を否定するイデオロギッシュな働きもした。 憲法上の正式機関として内閣が誕生したことで、ふたつの変化が現れた。 第一は、 君主権限が内閣の執政権によって控除されて「中性的権力」へと限定されていったことだ。「中性的権力」とは、国家諸機関間の憲法抗争を最終的に調整・中和する君主権限である。大臣の任命権、議会召集権、民選儀院の解散権、恩赦権等の調整権がこれである。これらの調整権限がさらに形式化・儀式化されたときの主体は「元首」と呼ばれることがある。 第二は、 大臣の責任の性質が変化したことだ。上にふれたように、大臣助言制のもとでの責任は、もともと法的責任であり、議会による追及方法が弾劾裁判だった。大臣の守備範囲が広くなるにつれて、議会は政治的な責任を問い始めた。そうなると、大臣訴追や弾劾制の方法は後退し、それに代わって、内閣の活動は議会の統治の基本方針と食い違ってはいないか、という政治責任追及の方向が望まれた。議会は「内閣が議会の統治の基本方針から明らかに逸れている」と判断したとき、議会は内閣の政治責任を問う、弾劾権とは別の武器を持とうとした。 このふたつの政治的な展開が、議院内閣制を憲法上設計する際の参考とされた。 [60続き3] (3) 統治方針一致原則の固定化 議会と内閣との間に、統治方針の一致原則を恒常的に維持するにはどうすればいいか? 政治の成り行きに任せて慣行が出来上がるのを待つことでは、この一致原則は心許なくなる。 一致原則を憲法上の制度として取り込むことだ。 「政治過程から法的過程へ」固定化すればよい。 この選択は「議院内閣制の合理化」と呼ばれることがある。 統治の基本方針を一致させるという原則を憲法に制度として固定するにはどうすればよいか? 選択肢はふたつだ。 ひとつは、 “内閣(または大臣)は、恒常的に議会の信任に依存する”と規定することだ。 他のひとつは、 “議会が格別に責任を追及しようとしないときには内閣は信任を受けているものとみなされるが、統治方針一致原則は破綻したと議会が判断したとき、内閣は政治責任を正式に追及され、場合によっては辞職しなければならない”と規定することだ。 制度の真価は、危機の際に発揮されるのが世の常である。 ということは、憲法上制度化されるにあたって最重視されたのが、後者の方法である(但し、ある憲法が“議院内閣制を採用する”と明文で述べることはない)。 もっとも、後者に従うとしても、“議会と対立したときは、内閣は辞職すべし”との議会の判定だけが決め手だとされれば、内閣はあたかも議会の中の委員会の如くなってしまうだろう(このタイプは、「議会統治制」とか「議会主義」と呼ばれ、議院内閣制とは区別される)。 そうならないためには、内閣または大臣が議会に対抗する武器を持たなければならない。 その武器が《君主・元首への副署権を通して、君主・元首の持っている中性権(調整権)としての議会解散権に訴えること》だ。 《連携せよ、さもなくば抑制し合え、然らば新たな均衡がもたらされよう》というわけだ([52]と比較せよ)。 ■3.議院内閣制の特質 [61] (1) 権力分立の変形 このように、議院内閣制は、権力分立の変種となるよう、設計主義のもとで抽象理論として大陸に登場した。 権力分立と同じように、憲法に取り込まれるとき、当該国家の歴史と政治状況のなかで「変容」させられた。 議院内閣制の実態が、国によって大いに異なるのはそのためだ。 そのことは承知のうえで、議院内閣制の特質をまとめるとすれば、次のようになる。 第一は、 権力分立の一態様だ、という点である。確かに、議院内閣制は、執政府と議会との協働体制であって「分立」の形跡すらないではないか、との疑問が生ずる。しかし、議院内閣制は、議会も、政府(内閣)も、憲法上はそれぞれ独立したひとつの機関であるという点で、議会に権力を集中する、先にふれた「議会統治制」ではない。そしてまた、次にふれるように、協働の体制ばかりではないのだ。 第二は、 権力分立の一態様であることの証左として、執政府と議会とが抑制の関係におかれている点である。これが、上で既にふれた、「議会による内閣(大臣)不信任決議⇔内閣による(元首の調整権を通しての)議会解散権」である。この解散または辞職によって、再び、議会と執政府との間の統治方針一致原則を取り戻そうというのである。 第三は、 執政府が二元構造となっており、内閣は議会および君主の双方に責任を負う点である。但し、歴史の流れを振り返ったとき、元首または(および)大統領が君主に取って代わったことが多く、二元構造も変わってきた。なかでも、内閣とは別に、公選にかかる大統領が存在する場合、大統領は解散権を発動し、選挙民の選挙を通して、議会と執政府との間の統治方針一致原則を回復しようとすることがある(この点が、アメリカの大統領制との違いである。確かに、アメリカにおいても「内閣」は存在するが、それはあくまで大統領への諮問機関である。また、アメリカの大統領は議会の解散権を持たない)。特に、大統領が均衡の回復起点を選挙民の投票に委ねるとき、国民が主役となり、大統領の調整(解散)権は二次的な意味しか持たなくなった。 上の第三の特徴に留意したとき、議院内閣制は、権力分立の場合と似て(⇒[58])、〔国民-議会-大統領〕という構造のなかで捉え直されるべきだろう。 それでもなお、治者と被治者の分離が厳然たる事実であることを軽視しないとなると、治者の中での〔議会-内閣・大統領〕の関係こそ決定的な意味をもっている。 [61続き] (2) 責任か均衡か 〔議会-内閣・大統領〕という決定的な局面で、「これぞ議院内閣制の本質を表す要素だ」といえるのが、先にふれた〔議会による内閣(大臣)不信任決議⇔内閣による(元首の調整権を通しての)議会解散権〕である。 この見方は「均衡本質説」、または執政府がふたつあることに注目されたとき「二元説」と呼ばれることがある。 それは、《議会解散権と不信任決議権とが、あたかもピストンとシリンダーのように対をなして作用することこそ、議院内閣制の本質だ》というのである。 換言すれば、議院内閣制を決定するものは、〔議会-内閣・大統領〕の連携関係(統治方針一致の原則)が一旦崩壊したとき、それぞれが、どのような公式権限を発動するか、という反発・抑制関係にある。 反発・抑制関係が残されているからこそ、議院内閣制は権力分立の一種だ、ともいえるのである。 〔議会-内閣・大統領〕の間に、統治方針の一致をもたらす工夫は、勿論、これ以外にも複数ある。 たとえば、 ① 議会に対する内閣または宰相の責任を憲法典に明記すること、 ② 大臣に対する質問権、大臣の議会出席要求権を議会がもつこと、 ③ 首相は議会構成員から選出すること、 ④ 大臣の一定数を議会構成員から選出するよう総理大臣に義務づけること、 等である。 ②~④は、①にいう「議会に対する責任」を内閣をして全うさせる手段である。 ①に集約され得る工夫をもって「これぞ議院内閣制の本質を表す要素だ」と捉える立場が「責任本質説」である。 「均衡本質説/責任本質説」の対立は、実は相互排他的ではない。 責任本質説、均衡本質説ともに、〔議会-内閣・大統領〕の間に統治方針一致の原則をもたらすことを念頭に置きながら、その一致を確保する手段として「責任か、均衡か」を問うのである。 責任本質説は、執政府が恒常的に議会の信任を受けておく点に着目するのに対して、均衡本質説は、議会が執政府不信任の意思をある時点で特定・明示的に表示した際に、執政府が取り得る公式権限に着目する。 一方がポジの接近法であり、他方がネガのそれである。 この場合に限っては、ネガの接近法が我々の目に鮮やかである。 というのも、責任本質説にいう「責任」または「信任」概念は多義的であり、しかも、「内閣の議会への責任」を強調するあまり、選挙民の最終的選択を軽視しがちとなるからだ。 ■4.日本国憲法と議院内閣制 [62] (1) 明治憲法との比較 明治憲法のもとでは、天皇の輔弼機関として国務大臣が置かれた(55条1項)。大臣助言制は、立憲君主制の常道であったが、明治憲法での輔弼は、主任の大臣が意見・案を上奏して大権の執行につき過誤なきことを期すばかりでなく、天皇の責任部分を「空」とするためだった。国務大臣は、担当の国務に関する大権を輔弼するにあたって、文書による詔勅に副署することを要した(同条2項。大臣の輔弼を要する範囲は、天皇の国務上の大権に限定され、統帥大権および栄典大権には及び得ないと解されていた)。これは、諸外国の立憲君主制のもとで採用された大臣助言制に倣ったものといわれるが、輔弼の法的拘束力について通説は「国務大臣の進言を嘉納せらるゝや否やは聖断に存する」ということにしている。この大臣助言類似の制度のもとでは、主任の大臣は天皇に対して責任を負うにとどまり、議会から超然としていた。超然内閣制である。 これに対して、日本国憲法は内閣が連帯して国会に対して責任を負うことを明示した(66条3項)。超然内閣制を排斥したのである。では、日本国憲法における内閣と国会との関係は、どう捉えられるべきか?圧倒的多数の学説は、内閣と国会の関係を議院内閣制だ、と捉えてきた。ところが、学説が議院内閣制というとき、その念頭に置かれるモデルと狙いは曖昧だった。ある論者は、イギリス型の議院内閣制がモデルとなっているとみて、“議会が内閣の進退を左右し得ることをその核心とする制度だ”と説明してみせた。ところが、当のイギリスにおいては、先の [60〕 でふれたように、「議会中心の統治」ではなく「内閣主導型統治」となっていた。また、同論者は、議院内閣制の狙いとして、「行政権を民主的なコントロールの下に置こうとするにある」ことを挙げた。この説明は、“明治憲法下にあっては議会の権限が弱すぎた”という反省も手伝ってか、多くの人を納得させた。が、戦後、内閣が統治を先導し議会が事後的に監視している、という政治状況がほぼ一貫して続くなか、この理論は、“議会が内閣の進退を左右する”どころか、内閣が議会の進退を決定している実状を説明できなかった。学者のなかには、“現状のごとき議院内閣制は、権力分立の趣旨に悖(もと)る”と考える者もあった。その論者の頭の中には、“国会が統治の基本方針を決定し、国会によって法令化された事柄だけを内閣が執行することこそ議院内閣制または権力分立制のはずだ”という思考がこびりついているのだろう(⇒[140])。 現状が理論から逸脱し過ぎたのだろうか? それとも、理論がもともと間違っていたのだろうか? あるいは、理論は正しいものの、そのモデルとして取り上げたサンプリングに間違いがあったのだろうか? さらには、もっと根源に立ち返って、“日本国憲法は議院内閣制を採用したとは言い難い”と問い直すべきなのか? 最後の疑義が私の頭にある。 [62a] (2) 議院内閣制の特徴 - 再確認 議院内閣制の特徴は何であったのか、もう一度、ここで確認してみよう。 その特徴のなかでも、ここで最も重要な点は、 (ア) 執政府が二元構造となっていること、 (イ) 〔議会による内閣(大臣)不信任決議⇔内閣による議会解散権〕という対等の権限を有していること、 (ウ) 「内閣の議会(民選議院)解散権」は、二元構造の執政府のひとつである元首または大統領の調整権に淵源するもので、内閣自体が有しているわけではないこと、 である。 日本国憲法の場合、上の (ア)~(ウ) 特徴をすべて欠いているようにみえる。 “執政府が二元構造となっている”というためには、天皇が国政に関する権限をもっていることが必須となろう。 だが、そう論ずる学説は稀有である。 次に、(イ)は、なるほど、満たされているように思える、が、戦後ほぼ一貫して内閣が不信任決議を待たないで、7条に基づいて衆議院を解散してきていることを解明できない。 また、(ウ)については、学説論争に決着はついていない(この学説の対立については、内閣の助言と承認を論ずる [87] でふれることにしよう)。 学説は議院内閣制のイメージを当初から描き損なったように私にはみえる。 通説の議院内閣制は、41条のいう「国会は、国権の最高機関」のイメージに引きずられて、国民を代表する国会が内閣を民主的にコントロールする、という〔国民→国会→内閣〕という垂直的配列を説いた。 だからこそ、“内閣の存否が議会の信任に依存する”という責任本質説が影響力をもったのだ。 議院内閣制という概念は、日本国憲法を理解していくうえで、予想以上に不毛だった、と私は感じている。 最近の学説のなかには、議院内閣制というタームに代えて、「国民内閣」と表現しつつ、内閣が統治し、国会がこれを監視しているという実態を上手く説明しようとするものがある。 これを「国民内閣制」というかどうかは別として、思考の筋としてはこれが妥当だろう。 ※以上で、この章の本文終了。 ※全体目次は阪本昌成『憲法1 国制クラシック 全訂第三版』(2011年刊)へ。 ■用語集、関連ページ 阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 第十一章 議院内閣制 ■要約・解説・研究ノート ■ご意見、情報提供 名前 コメント
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