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飯田武郷 後漢書・魏志・北史・隋書・三国史記に倭女王卑弥呼(ヤマトノジョウオウヒミコ)とある人を 神功皇后なりと本居宣長の云ひしより後全く定説となりたれとも是大なる誤なり」先上代に彼国 にて倭国と云ひしハ我日本全国のことにハあらすして西偏の一地方をさすもの也其ハ前漢書地理誌 楽浪海中有二倭人一分為二百余国一以二歳時一来献見とあるを始め北史に倭国在百済新羅東南水陸 三千里於二大海中一依二山島一而魏時譯通二中国一三十余国皆自称レ王云々なとあり之は今の九州 地方のことにて日本全国に非す尚証を上くれバ彼国にて九州の内南は日向大隈の域ハ筑前国 (今王那珂郡)辺迄を倭国と云ひしなり其は旧唐書に倭と日本を別になし又日本国倭国之別種也 ともあり其は後漢書に倭奴国と云が始て見へて倭国の極南界とあり之は北史に引ける奴国の上に 倭の字を置きたるにて(之を彼委奴国王印とある委奴とするハ非也)倭の国と云ことにて筑前の 儺県を倭之奴国と云へる也是筑前も倭国の内なる証也さて以上の証にて日本と倭とハ異なること 明なれとも尚云はヽ北史魏志等に韓地より倭国に至れる道程を記して始渡二一海一千余里至二 対馬国一又南渡二一海一千余里名曰二倭4). 海一至二一支国一又渡二一海一千余里到二末盧国 (肥前松浦郡)東南陸行五百里到二伊都国一(筑前怡土郡)東南至二奴国一(筑前那珂郡)百里 東行至二不弥国一(筑前宇弥)百里至二投馬国一(蓋肥後玉名即歟。東国通鑑に多婆那国とあり) 水行十日(一に云く廿日と)至二南邪馬臺国一女王之所レ都とある此女王の都する処が即 倭にて女王は即卑弥呼なり(六人部是香云く是れ熊襲なりと)之にて神功皇后は卑弥呼に非る こと分明ならん尚云はヾ後漢書に桓霊間倭国大乱更相攻伐歴年無レ主有二一女子一名曰二卑弥呼 一とあり之は倭国の王にて神功皇后にあらざることは桓霊間は(後漢の桓帝霊帝)日本にては 成務帝十七年より五十九年迄にて其間に右に記せる如きことは更になきを以て知るべし次に彼 卑弥呼が年長不レ嫁事二鬼神道一云々とあれども是如何で皇后と云を得んや次に卑弥呼以死 大作冢云々とあれども此事ハ皇后の崩し玉へる六十九年より廿三年前のことなり。且つ又殉葬者 奴婢百余人とあれとも我朝廷にてハ既に垂仁帝の代より殉死は禁しある也されば定めて西国の 僭王のことならん而して今の日本紀板本には神功皇后紀に三十九年是歳也大歳己未の下ノ注に 魏志云明帝景初三年六月倭女王遣二大夫難斗米等一詣レ郡求下詣二天子一朝献上云々とあり 又四十年の下ノ注に魏志云正始元年遣二建忠校尉梯携等一奉二勅書印綬一至二倭国一とあり 又四十三年の下注に正始四年倭王云々上献とあり又六十六年の下の注に(前略)倭女王遣二重訳 一貢献也とあれども是ハ皆古写本及集解に引ける古本にはなき由にて後に纔入せしものならんと云 されば上古彼史にて倭と云は我皇国に非ること断然明也
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《ヴェルサス/Versus》 アイコン ゲスト 性別 女性 人種 人間 年齢 17(1986年没) 身長 174cm 職業 傭兵 好 ボルシチ 嫌 意志の伴わない力 趣味 暴力 Battle Themeα Narwhal Battle Themeβ Holy Moonlight 生命は皆戦士だ 血を、環境を、星を、世界を 理を凌駕する意思の力を以て初めて"人"と定める 人物 本名:ルクレツィア・ルフス 『対成す者』 故人。1986年、極北で発生した『対政府軍軍事クーデター』に傭兵として参加し戦死している。 白の長髪、死人の様に青白い肌、狼同然の銀色の瞳が特徴の少女。 当時は積雪地に駐屯し単独任務に望んでいた為、白いコートを愛用していた。 現役時代のジョンの相棒であり、同時に彼でさえも殺し得なかった『狼』 人類初のクリシス"単騎"討伐者。人類の枠を逸脱した"生物" 人を人として認識せず、命を命として扱わない。典型的な『サイコパス』である 意思の力を尊重し、生物の価値は『意思の価値』と考え、意思の力を命よりも重要視する。 唯一の肉親として『妹』の『ルニア』がおり、彼女の事だけは唯一『人』として扱い、大切にしていた 『霧ノ原』という孤児院を創設しており、多くの戦争孤児を引き取る。 傭兵行は愚か、戦いに関する事柄の全てを強制せず、田畑の耕し方や狩の方法等、生きる術のみを教えているという。 ロナ曰く『力なき戦士に戦う術と、戦い続ける義務』を与える存在。戦士の母 片桐曰く、『説明の付かない災害』『この世の理不尽を煮詰めたような何か』『人のナリをしてはいけない存在』 来歴 ■■■■年11月11日 極北にある非世界政府加盟国の精霊信仰民族に対する弾圧から守る為クリティアス・ヘイヴンと共に政府軍と交戦 双方壊滅寸前の痛手を負う。明らかに劣勢だったが、目的だった民族の避難まで前線を維持させた功績はヴェルサス単身によるもの 当時の大将2名を殉死させ、大隊5つを殲滅させても、民族の避難誘導という本分を達成しても尚"満足せず"政府軍を駈り続けた この際、突如発生した"虚数の穴"へ巻き込まれ、消息を絶つ。 + ... 経緯は不明だが、オリヴィエの主人格としてこの世に生を繋ぎ止めている 半ば転生、半ば憑依という歪な形での生存であるが、その意思の強さ故か記憶を失う事なく自我を保ち続けている。 演じきる事は不得手である為、オリヴィエの人格はそのまま残し、日常生活や、 家族との会話当の些事はオリヴィエに任せ、肉体が生前の全盛期に近づくまで表に現れず、 一方でオリヴィエには『剣術』に関する記憶のみを共有し、幼少期から基礎を叩き込む事で彼女を手助けしていた オリヴィエが『自己』に固執しながら、同時に『自己』を超えるべき目標と定めていた背景には、 彼女の存在を自覚しかけていたが故かもしれない 緋月の夜叉姫においては『オリヴィエ』の人格が既に『何かを依り代』に切り離されており、 完全に肉体の支配権を奪取した一方で、その肉体の不完全さ、何より『己の肉体』でないが故の意識の不安定さに不満を抱いている この問題を解決するべく『義体』を求め『大和国』へ潜入した 現在 『■■■』事件を経、『義体』を経てこの世界へ『再臨』を果たした が、変わらず『本体』は『深淵』に留まり『戦士』を待ち続けている 戦闘 NO DATA 関連ページ オリヴィエ 関連画像 全身
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前半は、昭和天皇参照 エピソード 皇太子時代 幼少時、養育係の足立たか(後の鈴木貫太郎夫人)を敬慕し、多大な影響を受けた。学習院初等科時代、「尊敬する人は誰か?」という教師の質問に対し、生徒の全員が「明治天皇」を挙げたのに対し、裕仁親王一人だけ「源義経」を挙げた。教師が理由を聞くと、「おじじ様(明治天皇)の事はよく知らないが、義経公の事はたかがよく教えてくれたから」と答えたという。 初等科時代の学習院院長・乃木希典を「院長閣下」と呼び尊敬していた。ある人が「乃木大将」と乃木を呼び捨てたのに対し、「それではいけない。院長閣下と呼ぶように」と注意したという。1912年(大正元年)の乃木殉死の日、乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように」との訓戒に対し、裕仁親王は「院長閣下はどこに行かれるのですか?」と質問した。乃木の殉死に薄々感づいていたのかもしれないTemplate 要出典?。 司馬遼太郎の「殉死」によれば、この際乃木は山鹿素行の『中朝事実』の講義を行なったという。これを読んだ中曽根康弘が約55年の後、その事実について尋ねたところ「あったのかもしれない」とのみ述懐した。乃木の朱が入ったその稿本は、宮内庁書陵部に長く保存されていたという。 学習院時代、学友たちがお互いを名字で「呼び捨て」で呼び合うことを羨ましがり、御印から「竹山」という名字を作り、呼び捨てにしてもらおうとした(実際、この皇太子の提案に学友が従ったかどうかは不明)。 皇太子時代にイギリスを訪問したときロンドンの地下鉄に初めて乗った。このとき改札で切符を駅員に渡すことを知らず、切符を取り上げようとした駅員ともみ合いになり(駅員は、この東洋人が日本の皇太子だとは知らなかった)、とうとう切符を渡さず改札を出た。この切符は後々まで記念品として保存されたという。 この外遊に際して理髪師大場秀吉が随行。大場は裕仁親王の即位後も専属理髪師として仕え続け、日本史上初の「天皇の理髪師」となった。天皇の専属の理髪師は戦前だけで五人交代している。この大場を始め、昭和天皇に仕えた近従は「天皇の○○」と呼ばれることが多い。 皇太子時代から「英明な皇太子」として喧伝され、即位への期待が高かった。北海道、沖縄はじめ各地への行啓も行なっている。北海道行啓では先住民族が丸木舟に乗って出迎えた。 天皇時代 戦前 大正天皇が先鞭をつけた一夫一婦制を推し進めて、「側室候補」として「未婚で住み込み勤務」とされていた女官の制度を改め「既婚で、自宅通勤」を認めた。 父・大正天皇について、激務に身をすり減らした消耗振りを想起して「父は天皇になるべきではなかった」と語ったことがある。長弟・秩父宮も同様の発言をしている。 晩餐時、御前で東條英機・杉山元の両大将が「酒は神に捧げるが、煙草は神には捧げない」などと酒と煙草の優劣について論争したことがあるが、自身は飲酒も喫煙もしなかった。酒は一度試して悪酔いし、以後だめになったとも伝わる。 「天皇の料理番」秋山徳蔵が晩餐会のメインディッシュであった肉料理に、天皇の皿だけ肉をくくっていたたこ糸を抜き忘れて供し、これに気付いて辞表を提出した際には、招待客の皿について同じミスがなかったかを訊ね、秋山がなかったと答えると「以後気をつけるように」と言って許したという。孫の紀宮清子内親王にも同様のエピソードが伝わっている。 学習院在学中に古式泳法の小堀流を学んだ。即位後、皇族でもできる軍事訓練として寒中古式泳法大会を考案した。御所には屋外プールが存在した。 アドルフ・ヒトラーから当時ダイムラー・ベンツ社の最高ランクだったメルセデス・ベンツの770K(通称:グロッサー・メルセデス)を贈呈され乗っていたが、非常に乗り心地が悪かったため好まなかったと伝わる。ちなみにこのグロッサーの車体はドイツ製ではなく、日本で作られたもので骨組みは竹製、外装は樹脂製であったという。このほか、菊紋をあしらったモーゼルなども贈られたと言われる。 戦時中 南太平洋海戦の勝利を「小成」と評し、ガダルカナル島奪回にいっそう努力するよう海軍に命じている。歴戦のパイロットたちを失ったことにも言及している。 ミッドウェイ海戦の敗北にも泰然自若たる態度を崩すことはなかったが、ガタルカナル以降は言動に余裕がなくなったという。戦時中の最も過酷な状況の折、宮中の執務室で「この懸案に対し大臣はどう思うか…」などの独り言がよく聞こえたという。 原爆や細菌を搭載した風船爆弾の製造を中止させたと伝わるなど、一般的には平和主義者と考えられているが、戦争開始時には国家元首として勝てるか否かを判断材料としている。戦時中は「どうやったら敵を撃滅できるのか」と質問することがあり、太平洋戦争開戦後は海軍の軍事行動を中心に多くの意見を表明し、積極的に戦争指導を行っている。陸軍の杉山参謀総長に対し戦略ミスを指弾する発言、航空攻撃を督促する発言なども知られる。 ガダルカナル島の戦いでの飛行場砲撃成功の際、「初瀬・八島の例がある。待ち伏せ攻撃に気をつけろ」と日露戦争の戦訓を引いて軍令部に警告を発したが、参謀の妨害にあって(事故とも伝わる)伝わらず、結果お召し艦であった比叡を失った。 天皇として自分の意を貫いたのは二・二六事件と終戦の時だけであったと語っている。このことを戦後徳富蘇峰は「イギリス流の立憲君主にこだわりすぎた」などと批判している。 1945年(昭和20年)8月15日には事前に録音された玉音放送が流され、天皇自身の声が国民に終戦を告げた。この放送における「耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍び」の一節は終戦を扱った報道特番などで度々紹介されており、非常に知名度が高い(しかし、その発言はさほど重要ではない。詳しくは玉音放送を参照のこと)。 戦争を指導した側近や将官たちに対してどのような感情を抱いていたのかを示す史料は少ない。『昭和天皇独白録』によれば、東條英機に対して「元来、東條という人物は話せばよく判る」、「東條は一生懸命仕事をやるし、平素いっていることも思慮周密で中々良い処があった」と評していた。もっとも、追い詰められた東條の苦しい言い訳には顔をしかめることもあったと伝わる。しかしながら、のち、東條の葬儀には勅使を遣わしている。また、『昭和天皇独白録』などにより松岡洋右や宇垣一成などには好感情を持っていなかったと推察されている。また、二・二六事件で決起将校たちに同情的な態度を取った山下奉文には、その人柄や国民的な人気、優れた将器にもかかわらずこの一件を理由として良い感情を持たなかったとも伝わる。マレー作戦の成功後も、天皇は山下に拝謁の機会を与えていない(もっとも、拝謁の機会を与えなかったのは東條英機の差し金によるものとも言われる)。なお晩年、『猪木正道著作集4』を読み「特に近衛文麿と広田弘毅については正確だ」と首相・中曽根康弘に伝えたという。この本では両者とも批判的に書かれており、天皇の人物観の一端が窺えるTemplate 要出典?。 戦後 GHQ占領期 1946年初春、巡幸が開始された当時は「神ではない、ただの猫背の中年男」、「石のひとつも投げられればいい」と天皇の存在感を軽視していたGHQは、これを見て大いに驚いた。当時の英国紙は「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地への巡幸において、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている」と書き、驚嘆を表した。 天皇の余りの影響力に、1946年12月の中国地方巡幸の兵庫県における民衆の国旗を振っての出迎えが指令違反であるとしてGHQ民生局は巡幸を中止させたが、国民からの嘆願や巡幸を求める地方議会決議が相次いだため、1948年からの巡幸再開を許可した。 巡幸開始の直前、1946年1月18日には名古屋で洋品店を経営していた熊沢天皇(寛道)がマッカーサーに陳情を行ない、天皇の巡幸の後を追いかける格好で全国遊説を開始し対面を要求した。当初GHQは熊沢に利用価値を認め、外電や雑誌『ライフ』に報道、遊説には護衛の将校をつけると篤く遇していたが、天皇への国民の敬意が深いことが知れると、GHQの熊沢への処遇はどんどん薄くなっていった。同時に19人もが存在した自称天皇も姿を消していった。 初の日本社会党政権の片山哲に対しては「誠に良い人物」と好感を持ちながらも、急激な改革に走ることを恐れ、側近を通じて自分の意向を伝えるなど、戦後においても政治関与を行なっていたことが記録に残っている。 1949年5月22日の佐賀県基山町の因通寺への行幸では天皇暗殺を目的として洗脳されたシベリア抑留帰還者が天皇から直接言葉をかけられ、一瞬にして洗脳を解かれ「こんなはずじゃなかった、俺が間違っておった」と泣き出したことがある。天皇は引き揚げ者に「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と言葉をかけ、長い年月の苦労を労った。 同地ではまた満州入植者の遺児を紹介され「お淋しい」と言い落涙した。別の遺児には再会を約する言葉を残している。 行幸に際しては、食事についてなど、迎える国民に多くの生活に密着した質問をした。行幸の時期も、東北地方行幸の際には近臣の反対を押し切り「東北の農業は夏にかかっている」と農繁期である夏を選ぶなど、民情を心得た選択をし国民は敬意を新たにした。 行幸先で労働者から握手を求められたことがある。この時にはこれを断り、お互いにお辞儀をするという提案をして実行した。 独立回復後 アメリカからの使節が皇居新宮殿について感想を述べたとき、「前のはあなたたちが燃やしたからね」と皮肉を返したと伝わる。皇居新宮殿以前に起居していた御常御殿は戦災で焼失しており、吹上御所が完成する1961年まで、天皇は戦時中防空壕として使用した御文庫を引き続いて住まいとしていた。 戦後の全国行幸で多くの説明を受けた際、「あ、そう」という無味乾燥な受け答えが話題になった。もっともこの受け答えは後の園遊会などでもよく使われており、説明に無関心だったというよりは単なる癖であったと思われる。本人も気にして「ああ、そうかい」と言い直すこともあった。寛仁親王も、「陛下は『あ、そう』ばかりで、けっして会話が上手な方ではなかった」と語っている。もっとも謁見の機会を得た細川隆元は、その「あ、そう」一つとっても、 「ああ、そう、そう」 「あ、そう」 「ああ、そーう」 「ああ、そう、そうか」 「あ、そう、ふーん」 「ああ、そう、うん」 などのバリエーションがあったと書いている。細川曰く「同感の時には、体を乗り出すか、『そう』のところが『そーう』と長くなる」(『天皇陛下と語る』)とのこと。 一方で表情は非常に豊かで、満面の笑みを浮かべる天皇の表情のアップなども写真に残っている。ちなみにこの、『あ、そう』と独特の手の上げ方は非常に印象的で、昭和天皇の癖として小中学生果ては幼稚園児にいたるまで、国民に広く知られており、似た挨拶の仕方をする者に「陛下」との通称がつくほど親しまれていた。この所作を物真似する者も多かった。過去には、タモリが声真似をレパートリーとしていた。 1969年(昭和44年)1月2日に、皇居新宮殿が完成してから初の(1963年以来の)皇居一般参賀で長和殿のバルコニーに立った際、パチンコ玉で狙われた(負傷せず)。これを機に長和殿のバルコニーに防弾ガラスが張られることになった。犯人は映画ゆきゆきて、神軍の主人公奥崎謙三で暴行の現行犯で逮捕された。 皇居の畑で芋掘りをしていたときヤツガシラが一羽飛来したのを発見。侍従に急ぎ双眼鏡を持ってくるように命じた。事情のわからない侍従は「芋を掘るのに双眼鏡がなぜいるのですか」と聞き返した。このときのヤツガシラは香淳皇后が日本画に描いている。 イギリスなど王政を執る国に対しては、新興国のイランなども含めて好感と関心を抱いていたという。逆に共産主義陣営には不信感をぬぐえず、ペレストロイカが進んだ晩年においても懐疑的な発言がしばしばあったとされる。 第二次世界大戦を戦った経験もあってか、各国の戦争問題については特に関心が深く、時にはかなり踏み込んだ発言も行なっていたという。そうした言葉が表に出ることはないが、天皇の戦争についての考察は常に「命令権者」、即ち往年の大元帥としての視線だったと指摘する声がある。フォークランド紛争においては、英国は軍事行使に出ないと外務省も踏んでいた中、その帰結を一人正しく予期していた節があり、北方四島問題についての進講の際も、ふと「北方四島と北海道の間にある海峡は、潜水艦は通れるのか」と官僚に尋ねるなどしている。 生真面目な性格もあり、政争絡みで政治が停滞することを好まなかったことが窺える。「入江相政日記」には、いわゆる「四十日抗争」の際、参内した大平正芳に一言も返さないという強い態度で非難の意を示したことが記録されている。 同じ時期、政治家たちの会食中「皇居の堤防からは都内が良く見えますが、陛下はどこをご覧になりますか」との質問が飛んだ。天皇は「言うまでもないではないか、国会議事堂だよ」と言って笑ったという。政局に明け暮れる政治家たちへのきつい皮肉に、一同は「恐れ入りました」と思わず平伏したと言う。 1945年(8月20日及び11月臨時大招魂祭、昭和天皇行幸)、1952年(4月10日、昭和天皇、香淳皇后行幸)、1954年(10月19日、創立八十五周年、昭和天皇、香淳皇后行幸)、1957年(4月23日、昭和天皇、香淳皇后行幸)、1959年(4月8日、創立九十周年、昭和天皇、香淳皇后行幸)、1965年(10月19日、臨時大祭、昭和天皇行幸)、1969年(6月10日、御創立百年記念大祭、昭和天皇、香淳皇后行幸)、1975年(11月21日、大東亜戦争終結三十周年、昭和天皇、香淳皇后行幸)と靖国神社に参拝している。(靖国神社公式サイト内神社年表、『靖国神社 正しく理解するために』監修:三浦朱門、海竜社などを参照のこと) 1964年8月15日には靖国神社で行われた全国戦没者追悼式に参加した。1965年からの日本武道館での全国戦没者追悼式にも崩御直前の1988年まで欠かさず出席していた。 歴史教科書問題の持ち上がった1982年には「わが庭のそぞろありきの楽しからず わざわひ多き今の世を思へば」、自身最後となる戦没者慰霊式典に参加した1988年8月15日にも「やすらけき世を祈れどもいまだならず くやしくもあるかきざしみゆれど」との御製もある。御製に関しては、昭和天皇の大御歌も参照のこと。 1975年 1975年5月7日、1971年の訪欧の返礼としてエリザベス2世が来日した。警備要員として5万人の警察官が動員され、77万人の観衆が沿道に詰め掛けるフィーバーとなった。しかし国鉄労組のストのため、女王は関西に向かう往路での新幹線乗車を果たせなかった。 9月30日からは三年越しの計画であった訪米が二週間の日程で挙行され(1973年には田中角栄内閣で計画されたが、突発的な立案であったこともあり実現せず。1974年にも計画があったが、実務レベルでの調整不足により実現せずに終わっている)た。 訪米出発まで国内では東アジア反日武装戦線をはじめとする新左翼を中心に反対運動があり、訪米阻止のデモ行進や、9月4日には東宮御所爆破未遂事件、中核派爆弾製造アジト誤爆事件、15日には新左翼団体による葉山御用邸火炎瓶事件、原宿駅発煙筒事件と天皇を標的とした同時多発テロが発生し、都内は厳戒態勢が取られた。 同15日には共産主義者同盟戦旗派による伊勢神宮放火事件、自衛隊武器補給所前爆発事件も発生し、この日だけで計4件、皇室関係だけでも3件のテロが起こっている。 国会において野党・社会党の皇室の宮中祭祀への攻撃も強まり、5月29日秦豊参議院議員の参議院内閣委員会における「侍従は国家公務員であり、天皇の名代ということも個人的な資格ということが許されないと思う。伊勢神宮は明らかに宗教法人であるありように合わせ明らかに憲法二十条に抵触する習慣であると思う。これを習慣として見逃すことは余りにも重大であると思う」との国会質問に対して政府委員角田礼次郎内閣法制局第一部長が賛成答弁を行い、これを受けて9月以降、宮内庁は宮中三殿での祭祀の方式を簡略化、伊勢神宮、橿原神宮に派遣される勅使を従来の侍従から国家公務員の身分を持たない掌典に変更した。 この1975年11月21日の参拝を最後に昭和天皇は靖国神社への参拝を行わなくなった。以後、天皇の靖国神社参拝は三十二年にわたって途絶えている。1978年、極東国際軍事裁判被告人として絞首刑となったり獄中死した14名の重臣が合祀された際も、参拝することはなかった。なお、靖国参拝が途絶している正確な原因はいまもって不明である。富田メモ(日本経済新聞、2006年)・卜部亮吾侍従日記(朝日新聞、2007年4月26日)といった史料が真相を記したものと報道されているが、これらに続く史料は発見されていない。 訪米に出発する前の9月上旬には米NBCテレビと、20日にはニューズウィーク誌の東京支局長バーナード・クリッシャーと単独会見を行った。帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で皇室初の記者会見が行われた。10月31日の会見にはグレーのスーツ姿で記者会見場に姿を現した。(日本記者クラブ「特記すべき記者会見」[1] の「天皇・皇后記者会見 1975年10月31日」) NHK朝の連続テレビ小説を見るのが日課だったらしいが、前述の1975年10月31日記者会見で「テレビはどのようなものをご覧になるか」という質問に対し、微笑を浮かべ身を乗り出して、「テレビは色々見ますが、放送会社の競争がはなはだ激しいので、今ここでどういう番組が好きかという事はお答えできません」と微笑みつつ冗談交じりに返した。記者達はこの思わぬ天皇の気遣いに大爆笑した。(同上) アメリカ人記者から「『王子と乞食』のように一般人になりたいと思ったことはありませんか」の問いには「幼いころ『王子と乞食』を読んで、そのようになりたいと思ったが、この作品と同じ結末になったと思う」と応えた。 在位五十周年 在位五十年記念事業として、立川飛行場跡地に国営昭和記念公園が建設された。 記念硬貨として昭和天皇御在位五十年記念百円ニッケル貨が1976年12月23日から発行され、発行枚数は7000万枚に上った。 その他 歌番組も楽しみにしており、祭祀を行うため最後まで見られなかった紅白歌合戦の結果を近習に訊ねたり、昭和天皇時代の内廷皇族(明仁親王一家、特に当時の三皇孫)が揃って歌謡曲通であったという雑誌記事が伝わっている。 1982年(昭和57年)の園遊会で黒柳徹子と歓談。その際、黒柳が当時出版した自著・「窓ぎわのトットちゃん」の説明をし、「国内で700万部出版し、世界35ヶ国でも翻訳されました」との言葉に対して、「大そうお売れになって」と答えた。この天皇の答えにより、黒柳がまるで天皇に自著の自慢をしてるように周囲の目に映ってしまった。周囲は大爆笑し、黒柳は照れ笑いを浮かべるほかなかった。 このほか、柔道の山下泰裕選手が天皇の質問の中にあった「骨を折る」という語の意味を「骨折」と取り違え、しかもそのことに気づかず朗らかに返答するといったハプニングも記録されている。 晩年、足元のおぼつかない天皇を思いやって「国会の開会式には無理に出席しなくとも……」の声が上がった。ところが天皇は逆に、「むしろ楽しみにしているのだから、楽しみを奪うようなことを言わないでくれ」と訴えたという。 1988年8月には、歩行も思うに任せぬ状態になっており静養先から都内までの移動には従来のお召列車ではなく陸上自衛隊のヘリコプターを使用したが、全国戦没者追悼式会場での文書の朗読の声は従前と変わらぬ朗々たるものであった。 崩御に際しては元軍人を中心に殉死者が出た。確認されているだけで3件の殉死事件が発生し、未遂1人を含むと11人が殉死(自刃、飛び降りなど)を遂げている。このうち一人についてはニュースで取り上げられ、方法が切腹であったこと、殉死した場所である公園と「すめらぎの…臣殉ず」の辞世が報道された。 大膳を務めた谷部金次郎(秋山徳蔵の後任の主厨長)は、崩御を機に退官している。ある意味、天皇に殉じたと言える。神道界の重鎮小泉太志命も、天皇と運命を共にすると公言していた。 人物像に関するもの 3人の弟宮との関係は良好で、特に性格のほぼ正反対と言ってよい長弟秩父宮雍仁親王とは忌憚の無い議論をよく交わしていたという。秩父宮が肺結核で療養することになると、「感染を避けるため」見舞いに行くことが許されなかったことを悔やんでいた。その為、次弟高松宮宣仁親王が病気で療養するとたびたび見舞いに訪れ、臨終まで立ち会おうとした。臨終の当日も見舞いに訪れている。高松宮と末弟三笠宮崇仁親王は天皇の参拝が途絶えた後も靖国神社参拝を継続している(2006年7月21日東京新聞朝刊)。皇太子明仁親王の結婚問題においては、三笠宮が皇族を代表して賛意を表明することで一件落着を助けるなど、天皇と連携しこれを補完する形で行動した。いわゆる富田メモとされる文書にも、昭和天皇が高松宮の人物評をしたとされる箇所があるが、「自分にはない軽妙に外国人と付き合い戦後一時期はこの国にも役に立った面があり評価している」などと、長所短所を述べ公平に評した記録が残っており(「富田メモ抜粋」日本経済新聞2007年5月1日・同2日)、忌憚なく意見を交わす仲であったことがうかがえる。また天皇と三人の弟はその妃たち同士も仲が良く、これも関係を良好に保つ大きな助けとなった。前述した皇太子明仁親王の結婚問題では香淳皇后が秩父宮妃、高松宮妃と共に天皇に反対を唱えるといった一件も起こっている。 香淳皇后のことは良宮(ながみや)と呼んでいた(良子皇后は皇族の久邇宮家出身である)。 香淳皇后との夫婦仲は円満であった。はじめ皇女が4人続けて誕生したときには側近が側室を勧めたほどだが、これに対し「良宮でよい」と答えたという。また、行幸先では必ず「良宮のために」と土産を購入した。訪欧時にも、皇后を気遣ったエピソードがある。 ひげを蓄えたのは、成婚後からで「成婚の記念に蓄えている」とも「男子、唯一つの特権だから」と、理由を説明している。他方、1986年以降文仁親王が口ひげをたくわえはじめたときには「礼宮のひげはなんとかならんのか」と苦言を呈した。ちなみにこのときは両親である明仁親王夫妻が取り成して結局許されている。 第1子照宮成子内親王が誕生した際、「女の子は優しくていいね」と喜んだ。 スポーツに関しては「幼いときから色々やらされたが、何一つ身に付くものはなかった。皇太子(明仁)がテニスが上手いのは良宮(香淳皇后)に似たのだろう」と発言している。自身は乗馬が好き(軍人として必要とされたという側面もある)で、障害飛越などの馬術を習得しており、戦前は良く行っていた。戦後でも記念写真撮影に際して騎乗することがあった。また水泳(古式泳法)も得意で、水球を楽しむ写真も残っている。青年期にはゴルフに熱中したが、自ら言うようにあまり上達はしなかったようだ。 独立回復後はキリスト教を好まず、独立前の常陸宮正仁親王が美智子皇太子妃とキリスト教について語らい、喜んでいたことを知った際には激怒し皇太子妃がひれ伏して許しを乞うてもなかなか怒りが解けなかったと伝わる。もっとも敗戦直後にはキリスト教に対し容認的な姿勢をとっていた(現に皇太子の家庭教師は宣教師のヴァイニング夫人である)。 知的好奇心が旺盛で、天皇の質問に対しては、一切のごまかしも通用しなかったほどあらゆる出来事に精通していたといい、質問を受けた者は常に緊張していたという。その質問は予想もしないようなところから飛んでくるものも多く、しばしば相手に冷や汗をかかせた。もっとも相手を追い詰めるような質問はすることがなかったという。 進講などを受けるときには、両手を膝の上に置き、足をそろえてじっと相手の話に聞き入った。話が一通り終わると、メモも取っていないにも拘らず要点を適切に捉えた質問を向けたと言い、多くの人が天皇の記憶力の確かさに驚いたことを述べている。 学問に関しては、後述の生物学研究や御製の「おおらか」さなどから理科系人間である。秦郁彦は「さきの大戦のとき政府の要人で理科系の人物は昭和天皇だけであった(文藝春秋)」と評している。ちなみに敗戦後、皇太子明仁親王に送った手紙には「精神を重んじ科学を軽んじた」「米英を侮った」ことなどが敗退を重ねた原因であると記している。 一方で歴史、特に西欧の中世から近世にかけての国家の興亡史に造詣が深く、箕作元八の『仏蘭西大革命史』や『西洋史講話』はボロボロになるまで読んでいた。皇太子時代の訪欧では「わが国の歴史に十分な理解を持っている」との現地での評が残っている。独特の歴史観と言うべきものを有しており、発達した西洋文明をローマ帝国になぞらえ、その未来を憂うことがあったという。 1983年5月行田市の埼玉県立さきたま史跡の博物館を行幸したとき、ガラスケースの中の金錯銘鉄剣を見ようとしたとき、記者団が一斉にフラッシュをたきその様子を撮影しようとしたところ、「君たち、ライトをやめよ!」と記者団を叱った。フラッシュがガラスに反射して見えなかったのを怒ったものである。昭和天皇が公式の場で怒りをあらわにした唯一の例とされる。 男はつらいよシリーズの大ファンで、ビデオは全て持っていたと言われる。 独特の魅力を持っており、アメリカのフォード大統領も訪日の際、昭和天皇に謁見したが、そのカリスマに終始手を震わせたと帰国後に告白している。鄧小平も1978年の訪日の際、懸案となるであろうと予想された両国の過去の問題について開口一番率直な謝罪を述べた天皇に「電気にかけられたようになって震えていた」と入江相政が語っている。国内では河野一郎が「俺には『この人には敵わない』という人が地上に二人いる、フルシチョフと天皇陛下だ」と述懐したと伝えられる。崩御の際には人種・地域を問わず、世界各国から代表者が顔を揃えた事からも、彼が世界に与えた影響を窺い知る事が出来る。 特に海外の要人に対する心遣いが深く、1984年のブルネイ国王ハサナル・ボルキア一家の来日においては、挨拶の際に王女たち一人ひとりに対してまで、彼女たちの趣味などを話題にしながら会話を交わしたという。こうした真摯な態度が、多くの人々を魅了した一因でもあろう。 猫背、猫舌で、蕎麦と鰻茶漬が好物であった。月一回の蕎麦が大変な楽しみで、配膳されたときには御飯を残して蕎麦だけを食べたという。猫舌については、浜名湖で焼きたての鰻の蒲焼を食べて火傷をした逸話が伝わる。このほか、鴨のすき焼きも好んだと伝わる。このほか、食に関する逸話は非常に多い。 朝食にハムエッグを食べることを好んだという。 戦後はオートミールとドレッシング抜きのコールスローにトースト二枚の朝食を晩年まで定番とした。 晩年には体調が悪化したため好物の肉料理が食事に出なくなったことを残念がっていた。 魚が好きであり、臣下との会話で魚の話題が出ると喜んだという。趣味として釣りも楽しんだ。沼津において、常陸宮正仁親王を伴って磯釣りに興じたことがある。釣った魚は研究のため、全て食べる主義であった。終戦直後には「ナマコが食べられるのだから、ウミウシも食べられるはずだ」と、葉山御用邸で料理長にウミウシを調理させ食したという。 1959年の伊勢湾台風の直後、被害状況を説明する農林大臣の福田赳夫に突然「時に農林大臣、桑名のシジミはどうなったか」と尋ねた。桑名と言えばハマグリなのになぜシジミ? と福田は疑問に思いつつ退出したが、後で調べると当時桑名ではハマグリはほとんど採れず、シジミが名産品となっていた。福田は天皇の魚介類に関する知識の豊富さに舌を巻くとともに「要するにからかわれたのだ」と気付いて苦笑したという。 1962年の若狭行幸ではフグの蓄養を見、ハマチ釣りをして大変に喜んだという。若狭にはこの時のほかにも数回行幸しており、馴染みの宿も現存している。 1964年に下関に行幸した際には中毒の恐れがあるからとフグを食べられないことに真剣に憤慨し、自分たちだけフグを食べた侍従たちに「フグには毒があるのだぞ」と恨めしそうに言ったという逸話もある。その一方で同所ではイワシなど季節の魚に舌鼓を打ったという。 宮中にフグが献上された場合も同じ理由で食すことを止められ、時には「資格を持った調理人が捌いたフグを食べるのになんの問題があるのか」「献上した人が逆臣だとでも言うのか」と侍医を問い詰めることもあった。ついに生涯、食べることができなかった。 シーラカンスの解剖に立ち会ったことがある。これを食したかどうかについては語られていない。 相撲好きであり、蔵間を贔屓にしていた。蔵間が大関昇進を果たせないことを大変残念がり、「蔵間、大関にならないねえ」とこぼしたこともある。このほか、「突貫おじさん」こと富士桜の取り組みも大変楽しんだとされる。なお前述のぼやきは当時の春日野理事長を恐縮させ、蔵間は日本相撲協会理事長室に呼びつけられて叱責されたという。もっとも「一視同仁」、というわけで天皇自身がこうした力士の好みを口にすることはなく、天覧相撲の際にも極力抑えた態度で観戦していた。しかしプライベートでは別で、テレビ観戦時には身を乗り出してひいきの力士の取り組みを見守る天皇の姿があったという。 徳仁親王、文仁親王の留学に随行する侍従・警護官の人選など、東宮家の諸事に関して最終決定を行っていた。 太平洋戦争史上最大の激戦と言われたペリリュー島の戦いの折には「ペリリューはまだ頑張っているのか」と部隊長の中川州男大佐以下の兵士を気遣う発言をした。中川部隊への嘉賞は11度に及び、感状も三度も与えている。 特攻には批判的であったとされる。特攻第一号の報告がもたらされた際には「馬鹿なことを…だが、よくやった」と言ったとされ、特攻した兵士の覇気を讃えた。 南方熊楠のことは後々まで忘れることはなく、その名を御製に詠んでいる。南方および弟子からは都合四回にわたって粘菌の標本の献呈を受けている。 喫煙せず、煙草は喫煙者の臣下に下賜していたが、その際に「僕は煙草はのまないから煙草呑みにやろう」と言い、近臣が「陛下、朕と仰って下さい」と慌てる場面などもあったという。 見学した新幹線の運転台が気に入り、侍従に時間を告げられてもしばらくそこから離れなかったこともある。訪欧時にもフランスで鯉の餌やりに熱中し、時間になってもその場を離れなかったエピソードがある。 武蔵野の自然を愛し、ゴルフ場に整備されていた吹上御苑使用を1937年に停止し、一切手を加えないようにした。その結果、現在のような森が復元された。また「雑草という植物はない」(ただしくは「雑草と言う言葉には不快感がある」)といったことでも有名。 「テツギョ」というキンギョとフナの雑種とされる魚を飼育していた。後にDNA鑑定でキンブナとリュウキンの雑種と判明。 天皇の日常生活をいくらか近代的なものにした。宮城内に通常の半分の9ホールからなるゴルフコースを作ってゴルフをプレイしたり、天皇として初めてレコードを聴いたという。 運動神経の良い香淳皇后には自分が教えたゴルフで負け通しだったが、それでも笑っていたという。 海洋生物学を研究する関係からか、英語よりフランス語を得意としたと伝わる。訪欧時フランスのバルビゾンのレストラン「バ・ブレオー」でエスカルゴを食べる際、その個数について日本語とフランス語をかけて近臣をからかったこともある。 富士産業と三菱からスクーターを献上された。ラビットスクーターSー12型に乗ったことがあり、東宮御所においてこれに乗っている写真が現存する。乗っているのは三菱シルバービジョンc-11型であるとも言われる。 後述とも関連するが、学者としても一級であった。天皇の書いた論文を読んだイスラエルの学者が「この論文を書いた学者に会いたい」と言い、署名を見て論文の作者を知り非常に驚いたというエピソードがある。 現人神としての天皇に関するもの 戦前「天皇は神である」ということが喧伝されており世界的にも知られていたため、戦後日本に進駐したある米兵は日本人が進化論を知らないと思い込み、日本人相手に大真面目で講義を行った。相手の日本人は「中学で習ったことをいまさら教わるとは思わなかった」との感想を述べている。 昭和後期、欧米のテーブルトークRPGに天皇が登場したことがあり、1980年代末になって日本の富士見ドラゴンブックから発行されたTRPG関連書籍で紹介された。このときのゲーム上での設定は極めてよく研究されたものであり、「レッサー・ゴッド級の魔法を使う」など現人神としての性格が強調されていた。 政治学者の太田一男は「子供のとき学校でどう教えられたかというと、天皇陛下をまともに見たら目が腐るというのですね。それだから見てはいけない、そういうことを学校の先生がまじめに教えたんですよ」(1999年07月16日、衆議院内閣委員会)と証言している。 1997年8月29日、民放のドキュメンタリー番組驚きももの木20世紀で昭和天皇誤導事件が取り上げられたことがある。このとき再現ドラマにおいて、道を間違えた先導車の運転手である警察官はハンドルを握ったまま硬直し、泣きそうな顔、上ずった声で「ま、間違えました~!!」と、道を間違えたことを激しく狼狽する様子を演じていた(番組CMでもこのシーンは流された)。当時、神である天皇の先導という大任を任せられながらミスをしでかしてしまった者の心情、また天皇がいかなる存在として見られていたかがよく分かる内容となっている。この運転手の上官である警部は責任をとるために自殺を図ったが、一命を取り留め天寿を全うした。 現人神、最高指導者としてのイメージおよび残影は戦後も長く残り続け、黒豹シリーズにおいてはさすがに名は伏せられていたものの、天皇が主人公・黒木豹介に事件の解決を文字通り「泣いて頼む」シーンも描かれている。崩御後には仮想戦記シリーズにも登場している。 A級戦犯の容疑をかけられた徳富蘇峰(内務省勅任参事官などを歴任)の日記の『頑蘇夢物語』(講談社、2006~2007年、全4巻)では昭和天皇が敗戦の最大の責任者として批判され、また明治天皇と比較して「天皇としての御修養については頗る貧弱」、「マッカーサー進駐軍の顔色のみを見ず、今少し国民の心意気を」などと述べられている 山本武利「徳富蘇峰が「幻の日記」に記した敗戦の原因 ―右派ジャーナリズム最大のタブー「昭和天皇批判」が随所に―」「現代」40巻9号、2006年9月号p248~254、講談社参照。。 後半は昭和天皇-3参照 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月5日 (月) 16 14。
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191. New ◆QTlJyklQpI 2009/06/01(月) 00 47 46 乃木ネタ投下 支援SS 乃木希典のハルピン戦闘記 1905年 ハルピン近郊 日本軍陣地 「よっしゃぁー!!叩きのめせぇー!!蹴散らせぇー!!」 ロシア軍に打ち込まれる無数の砲弾幕。本日は日本軍がロシア軍のアジア進出の拠点の1つハルピンを制圧しようと している頃。日本の司令部が設けられているここで大声を上げている人が1人いた。 「閣下、静かに願います。お願いですから。」 参謀の1人がそう言うがこの人には届かないらしい。 「今まさに、今まさに砲が戦場の神である事が証明されてるんだぞ!?ここで騒がずしてどこで騒ぐ!?」 「・・・・・前も騒いでたじゃなかとですか・・・・。」 参謀たちは天を仰いだり、胃がある箇所をおさえたりしていた。そんな彼らの姿が見えないのか 騒いでいる御仁は自分で持ってきたマントを靡かせながら更なる大声を上げていた。 「くぅ〜、その○、歴史が動いたとは正にこの一瞬!!地球に生まれてよかったぁー!!」 御仁の名は乃木希典。彼は逆行者であった。逆行者たちが明治維新を早期に達成し、旧士族の 雇用もある程度保障したため、西南戦争は起こったが規模は小さく、西南の乱とこの世界では呼ばれた。 その時乃木はまだ逆行してなかったが初戦で流れ弾を受けて生死の境を彷徨った時に逆行者になった。 中身は軍オタであり、引き籠り中に心臓発作を起こして気づいたら乃木になってたらしい。 それでもめげることなくこつこつ仕事をこなしてドイツへ留学、塩分高めの食品とドイツ将校の精神論に霹靂 したが軍事・政治・経済を学び帰国そこで日本が史実と違うこと、同じ仲間がいることを知った。 何しろ機関車の線路が広軌になり、史実より労働時間や待遇も多少ましになっていたからである。 その後、夢幻会が発足すると初期メンバーに入り、伊藤や坂本と面識を持ったあと台湾統治を任される。 この時、児玉源太郎を連れて行って彼と共に飴と鞭で台湾を統治し、海南島の開発の為に港湾設備を 中心に整備した。彼は引き籠りだったせいか無口であったがよく散歩に出かけ話しかけられれば 和やかな雰囲気で話すので台湾人にも受けが良く、陸軍では自分は口を閉じて泰然として、部下に 意見を出させてやらせるので部下からも受けが良かった。 軍事でも初歩的だが料理経験をある者に料理器具を持たせて給食部隊を設置したり、 騎馬部隊を減らして馬車を改造した兵員輸送車を提案したりし部隊の機動力を上げた。 そして彼は日露戦争を指揮することになった。旅順要塞は早期に無力化したので陸軍は ロシア軍を求めて北上を続け、ハルピン攻略に着手することになった。 「閣下、戦闘は終了しました。敵が後退していきます。」 部下がそう言うと「うむ。」とさっきのはしゃぎっぷりはどこへやら無口な彼に戻る。 どうやら戦闘時のみスイッチがONになりハッスルするらしい。 その後乃木は学習院院長になり後の昭和天皇らを教育し、明治天皇が御崩御しても殉死はせずに 陸軍の砲火力を高めるよう活動した。彼は一般に好評価を得ているが一部では良い評価は得られなかった。 「くっそ〜。こんなに砲弾使いやがってどんだけ金がかかんだよ〜。」 殺気満ちるこの場所は大蔵省。彼が砲火力を強化したので史実より恐ろしい費用を使ったのであった。 結局この世界でも彼の評価は賢将・愚将に分かれたのだった。
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【元ネタ】史実 【CLASS】キャスター 【マスター】 【真名】春日虎綱(高坂昌信) 【性別】男性 【身長・体重】154cm・46kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力E 耐久D 敏捷C 魔力C 幸運B 宝具C+ 【クラス別スキル】 陣地作成:- 宝具と引き換えに陣地作成スキルは失われている。 道具作成:C 魔術により様々な道具を作り上げる能力。 魔術は修得していないものの、宝具の応用により多少の作成はできるようだ。 【固有スキル】 戦闘続行:A 戦闘から離脱する能力。 また、敗戦において自軍領地まで生きて辿り着く能力。 紅顔の美少年:C 人を惹き付ける美少年としての性質。 男女を問わずに魅了の魔術的効果として働くが、抵抗の意思があれば軽減出来る。 対魔力スキルで完全回避が可能。 男性にも女性にもモテたという逸話の持ち主。一説には『逃げ弾正』の異名は言い寄る女性たちから逃げていた為につけられたとも。 騎乗:B 騎乗の才能。大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、 魔獣・聖獣ランクの獣は乗りこなせない。 【宝具】 『逃げ弾正(にげだんじょう)』 ランク:C+ 種別:対軍宝具 レンジ:0~50 最大捕捉:500人 退却戦に秀でたことから『逃げ弾正(または退き弾正)』の異名を取ったという逸話が宝具化したもの。 退却戦闘に限り、耐久・敏捷が1ランク上昇する。 この効果は自身のみならず味方にも付与することができる。 『甲陽軍鑑(こうしゅうりゅうぐんがく)』 ランク:C 種別:対人宝具 レンジ:0~1 最大捕捉:1人 武田勝頼に対する諫言のために編纂され、後には甲州流軍学の聖典ともなった軍学書。 対象者に、武田家で用いられていた専業スキルを取得させる。 時間をかければかけるほどに取得できるスキルの数やランクは増していく。 【解説】 戦国時代の武将。甲斐武田家に仕えた。武田四天王(武田四名臣とも)の一人。 高坂昌信の名で知られるが、史料から確実視される名前は春日虎綱とされる。 『逃げ弾正』の異名を持ち、真田幸綱(真田幸隆)、保科正俊と共に戦国の三弾正の一人にも数えられる。 百姓の生まれで、父の遺産を惹きつけず身寄りも無かったが、その美貌を武田晴信(信玄)に見初められ衆道(男色)関係を結んだ。 信玄の寵愛に加えて、当人にも力量があったことから次第に出世し、 上杉謙信との戦いでは最前線となる海津城を任される。 以後も多くの戦いに参陣するなど重用された。 武田信玄の死後は殉死の勢いであったが、結局、後を継いだ武田勝頼にそのまま仕える。 上杉の抑えとしての役割から長篠の戦いには参陣しなかったが、 大敗後の勝頼の軍勢を出迎えた際には、衣服や武具を変えさせて敗戦の見苦しさを覆い隠し、今後の方針について献策したと伝わる。 上杉謙信の死後、上杉景勝、上杉景虎の二名が後継者を巡って争う、所謂『御館の乱』が勃発すると、 勝頼は景勝側に助力し、虎綱(昌信)はその取次を行った。 江戸時代に隆盛を極めた甲州流軍学の聖典『甲陽軍鑑』の原著者とされるが、 その記述には誤りが多く、甲州流軍学の創始者・小幡景憲の偽作という説もある。 上で述べた略歴も『甲陽軍鑑』に依るところが多く、全てが史実であるかどうかは、今後の研究が待たれる。 低い能力値はキャスター補正の賜物。
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「週刊少年ジャンプ」で連載中の漫画「ムヒョとロージーの魔法律相談事務所」の登場人物。本名は 今井玲子(いまい れいこ)。 藤原裁判官補佐とコンビを組み、第18魔監獄で当直していた。 ヨイチの先輩。MLSの同期生に毒島春美がいる。 責任感が強く、職務を遂行するためなら自らを危険にさらすこともいとわない。 また行動力があり、睡眠中のムヒョに水をぶっ掛けて起こすなど思い切ったことをすることもある。 妙に仰々しい口調が特徴。 身長164cm、2月10日生まれ。好物は牛乳や乳製品に酢の物。特技は暗記と復唱で、剣道五段の達人である。苦手なものは星座占い。気になるので見たくないらしい。 攻撃に長けた裁判官で、攻撃系最強クラスの陣である『六方破魔手形の陣』が使える。 また、魔厄小太刀の達人中の達人である。 魔監獄の最下層に封印されていた強大な悪霊「ソフィー」の脱獄を身を挺して阻止し、殉死したかと思われたがおかっぱ頭のおかげで生還。 また、実は反逆者だったリオに襲われて大穴から落下したが、今井裁判官はプロなので無事生還。 さらには禁魔法律家のティキに襲われ、蚊トンボ扱いされた上に首を絞められて殺されかかったが、エンチューが「ムダなことはしないでほしい」と言ったので再び生還。 このようにたびたび訪れた命の危機から逃れ、燃えさかる魔監獄から前田監獄守を抱えて生還したことで、ヨイチによって「不死鳥」にたとえられた。 その後は協会に戻り、ペイジの下で仕事をしている。 ムヒョから「無期限の休暇」を言い渡されたロージーの世話をした。 ビコからパン作りを教わっている。 大木裁判官補佐を新しい助手にした。 ミックにさらわれた。 また、登場人物のほとんどがお互いをあだ名で呼び合うこの作品において、他人を苗字で呼ぶ稀有な存在である。 呼び名リスト ムヒョ「六氷殿」「六氷執行人」 ロージー「草野…くん」→「草野」 エンチュー「円殿」 ビコ「我孫子殿」 リオ「リオ師」「リオ殿」 ヨイチ「火向」 ペイジ「ペイジ執行人」「ペイジ殿」 笹ノ葉梅吉?「梅吉」 毒島春美「毒島」 藤原裁判官補佐「藤原」 大木裁判官補佐「大木裁判官補佐」 今井フェニックス伝 MLS時代の今井裁判官が打ち立てた不死鳥伝説。毒島春美が語った。 悪霊やっつける ほら穴に7日間家出 海に置き去り 20km遠泳 名台詞 「起こすのよ」 「ドラ○もん・・・?」 「大丈夫だ 私は簡単には死なん… このまま下にいる前田さんを助けに行く…!!」 「無事でよかった! 前田さんまで死んでしまっていたら私は・・・!!」 「私はプロですから・・・!!」 「フンッ 人をバケモノ扱いしおって…!!」 「甘ったれるんじゃない…っ!!」 「ボーッとするなオマエ等ぁぁ!!!」 「何もしない内に弱音を吐くんじゃない」 「いずれまた会う事になる それまで無事でいる事が礼だと思え…!!」 「草野ッ 長旅ご苦労!!!」 「毒島は―― そんなにヤワじゃないぞ!!」 「正面突破!!並んでついて来るように!!」 「水かけたのおぼえてた…」 「――…六氷殿… 失礼ながら注意点に疑問があります…!」 「あやつられた者に触れられても『糸』は伝染ると思います」 「バカ草野!!――」 「片手あれば何とかなる!」 「草野… 命にかえても六氷殿をお守りしろ!!!」 「キサマの問いに答える言葉など無い!!」
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ゴヨウ 列伝 水滸伝一〇八星の1人。天機星。席次第三位。道号は加亮。梁山泊の軍師。兵法に通じ、策謀に長けていたことから「智多星」をあだ名された。東渓村で寺子屋を営んでいたが、晁蓋に誘われ、阮三兄弟らと共に生辰綱(役人の賄賂)強奪作戦に加わる。妙計を立てて策を成功させた後に発覚し、晁蓋らと梁山泊に逃亡。やがて晁蓋が梁山泊の首領となると、軍師として戦略を担った。晁蓋死後は、宋江を支えて勢力拡大、人材確保に貢献。方臘(ホウロウ)征討後は官を辞していたが、宋江が高俅らの悪計によって毒殺されたのを聞くと、花栄と共に殉死した。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 44 30 96 86 77 333 74 170 順位 偏差値 成長期 普通 普通 維持 維持 普通 - - - 能力持続 短い 短い 長い 短い 長い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 C C A C S A 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 22 32 20 35 25 39 24 30 30 37 26 37 順位 偏差値 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技 百出 部隊計略の消費気力が1になる マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 75 4/5 2/5 2/3 161 184 217(57歳) 冷静 冷静 丁寧 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 ○ ○ ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 呉用 親愛 宋江、戴宗、晁蓋 宋江、朱仝、戴宗、劉唐、李逵、阮小二、阮小五、阮小七、晁蓋 嫌悪 高俅、童貫、蔡京 童貫、蔡京、楊戩 うっかり軍師の代名詞だが、今作では百出が鬼。原典でのもう一人の軍師格・公孫勝と同じ部隊に編成すればまさに無敵。 -- (名無しさん) 2011-04-23 21 08 56 諸葛亮みたいなモデルだけど固有? -- (名無しさん) 2011-09-23 01 04 54 やたら誤用先生、無用先生とひどい呼ばれ方をされているが、高知力で百出持ちなので今作では非常に頼れる。 少しくらい計略や助言をはずしても笑って許してあげましょう。 副軍師の公孫勝とのコンビは強力だが、やりすぎると強すぎてつまらなくなってしまうのでほどほどに。 なお、モデルはモブ文官に諸葛亮の羽扇を持たせたようなもの(PS2PK)。なんかアンバランスな気がする。 -- (名無しさん) 2011-11-01 17 26 21 同じ特技の登山家と並べて見るとあら不思議。笑いがこみ上げます。 -- (名無しさん) 2012-04-28 14 52 16 原作でのやらかしっぷりもアレだったが、Gロボにいたってはリハクなみの扱いであったw それはさておき、特技が超優秀な上に最高に相性のいい副軍師までいる。 その陰に隠れがちだが適正も非常に優秀で、 兵器隊の副将にしながら計略と戦法を使い分けるのも有効。 政治も高く、平時であってもあぶれることはないだろう。 -- (名無しさん) 2018-02-02 11 54 55 諸葛恪、馬謖と素は優秀なんだけど残念エピ持ちの二人の特技百出は呉用にピッタリと思ってしまった -- (名無しさん) 2020-03-03 12 44 57 最新作・三國志14にも古武将の一人として登場しましたね。特技はもちろん超優秀だが、統率が引いので猛将系の副将として戦場を駆け回り、敵部隊を翻弄させたい。 -- (名無しさん) 2020-04-12 13 41 02 名前 コメント すべてのコメントを見る
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【元ネタ】史実 【CLASS】アサシン 【マスター】 【真名】マルクス・サルウィウス・オト 【性別】女性 【身長・体重】170cm・51kg 【属性】中立・中庸 【ステータス】筋力C 耐久B 敏捷B 魔力D 幸運D 宝具B 【クラス別スキル】 気配遮断:D サーヴァントとしての気配を絶つ。 隠密行動に適している。 【保有スキル】 佯狂:B+ やんちゃしてた時代のイメージによる霊格偽装。 相手が判定に成功するまで、オトをサーヴァントとして認識させない。 暗殺者ではないので、アサシン能力「気配遮断」を使えないが、 このスキルを応用しての気配遮断を行うことができる。 皇帝特権:B 本来持ち得ないスキルも、本人が主張する事で短期間だけ獲得できる。 該当するスキルは騎乗、剣術、芸術、カリスマ、軍略、等。 ランクA以上ならば、肉体面での負荷(神性など)すら獲得できる。 ……本人によれば、“わがまま”は卒業したのでランクが低いという。 伝承発掘:D+ ダムナティオ・メモリアエを課された盟友ネロの像の再設置を認めた逸話から。 相手の知名度補正を上昇させ、能力を強化する。 このサーヴァントの場合、“情報抹消”への耐性ともなる。 【宝具】 『屠り祀る毀誉の短剣(ヒロイック・イモレイション)』 ランク:B 種別:対人宝具 レンジ:1 最大捕捉:一人 皇帝オトを“殉国”させた短剣の一撃。 個人的な醜聞を持つ英霊に対し、 その悪評のレベルに応じて攻撃力とクリティカル率を向上させる放蕩者殺し。 この宝具は生前の“女々しい”イメージを払拭し、死後のオトを英雄化した逸話を持つ。 それこそが「栄誉の死による英雄化」という概念、 醜聞を持つ英霊に対する特攻という希少属性の所以である。 【Weapon】 『双短剣』 自刃に用意したもの。 実際に使われた一本と未使用の一本のセット。 宝具『屠り祀る毀誉の短剣』はどちらからでも放てるようだ。 『醜聞』 ここで言う醜聞とは、英雄らしくない逸話のこと。 狂気と呼ぶには妄執も真剣さも足りず、人間らしさと呼ぶには卑近で下劣すぎる、 輝かしくも悍ましくもない、老醜、痴態、若さ故の過ち等を指す。 【解説】 ガルバの謀反にいち早く賛同し、以後彼の後釜を狙うが、ピソが後継者に指名されるにあたって叛逆、 皇帝親子を粛清し、自らローマ皇帝の座に就く。 だがウィテリウスの脅威に晒され、そのためか情緒不安定となり、初戦での敗北後、 逆転の目を残しながら自決した。 名門サルウィウス氏族に生まれ、若い頃はネロの悪友にして放蕩息子として知られた。 ネロの愛人(後にネロの妻)ポッパエア・サビナに入れあげた為にルシタニアに左遷されるが、 周囲の予想に反してルシタニアでは公明正大な善政を敷いた。 民衆からネロと呼ばれ、ネロの如き大盤振る舞いを期待され、ネロと自称したが、3ヶ月で死んだ泡沫皇帝。 最初の公務は、ネロのドムス・アウレアを完成させるための予算の承認だったとされる。 ガルバを反面教師としてか兵士には手厚く接し、その死に際して殉死者が複数出るほど人気があった。 その潔すぎる最期は、帝国を割り多くの将兵の血を流すことを避けたのだろうと好意的に解釈され、 それまでのイメージを覆して賞賛された。個人的にはノイローゼのせいだと思う。 ネロとは互いに男色の関係であったともいわれる。 ネロと呼ばれたので女性(三度目)。 外見は似ていないが性格は多少近い設定。冷酷なヘタレ。長身美女。 自分を暗殺したのでアサシン。使った逸話はないけど双短剣キャラ。宝具はネロの天敵である。
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+由比正雪の乱 由比正雪の乱 1651年に家光が死去すると、その後を継いだのは長子家綱だったが、幼すぎるため会津藩主保科正之が補佐官として登場する。 そんな中、江戸の軍学者由比正雪が、大乱をおこす計画を立てた。火事を起こし、慌てる将軍の家臣たちを打ち取る計画であった。 ところが、いまだに理由はわからないが、この計画は漏えいする。江戸で待機していた彼の同心は捕えられ、駿府に潜伏していた正雪は自害した。 理由は正雪の遺書からは、政治の乱れを憂い、怒る人民を代表して蜂起したとされている。だが、牢人の救済という理由があるかもしれないので、結局のところはわからない。 国家の転覆を狙ったクーデターは日本で何件か起きた(大塩平八郎の乱、五・一五事件、二・二六事件)が、成功したものは数少ない。 この由比正雪の乱もまたそうであるが、この乱が与えた影響は小さくなかった。幕府はこれを牢人の扱いのひどさに起因する蜂起とみた。 牢人というのは失業した武士であり、彼らを放置すれば危険であることはだれでもわかる。しかし、幕府は彼らを放置していた。 幕府は会議を開き、末子養子の禁を緩めるに至った。 由比正雪の乱が起きてまもなく、次々と乱が続いた。幕府はこれらの事件を牢人によるものとして、牢人たちの名前をいちいち記録することにした。 彼らの活動は君主への尊敬を薄めるキリスト教の思想によるものかという説があるが、結局のところはわかっていない。 (ほたるゆき) +明暦の大火 明暦の大火 江戸の町において火事は、つねに人々の脅威だった。庶民だけでなく幕府でさえも必死になる事態だ。 だからこそ乱を起こすときは放火、と定番化されていたのだろう。 それゆえ、江戸の人々は火事が起こらぬよう、つねに注意を払っていた。 1654年には玉川上水が完成し、水路の通る町ができるようになった。また1655年には細かい防火令が出された。 しかし、こうして対策を取っているにもかかわらず、火事がなくなることはなかった。 明暦3年――1657年、「明暦の大火」と名付けられる大火事が起こる。日蓮宗の本妙寺において、供養のために焼いていた振袖が舞い上がり、寺の屋根を焼いた。 その炎は風に乗り、瞬く間に江戸中に広がった。数日雨が降っておらず、乾燥していたためなす術がなかったのだ。 人々は逃げるが、焼死したり、川に逃げ込んだため溺死・凍死するものが多く、火事がはじまって間もなく9600人近くが亡くなった。 翌日になると火は弱まったように見えたが、まだ消えていなかった。火は火薬に燃え移り、再び猛火を巻き起こした。 火が消えたあと、江戸の町を見た人々は驚いた。ほとんど廃墟になっており、火事によって異様な形になった無数の死体が転がっていたらしい。 こんな状況下で火事場泥棒が蔓延し、このおかげで巨大な財産を築いたものも少なくなかった。 明暦の大火での死者は不明である。しかし、少なくとも3万人、多くとも10万人ではないかと言われている。 先ほど、この火事は寺から起きたものだと述べた。しかし、同時に放火したものがいたのだということも判明した。 彼らは普通に捕まったものだけでなく、密告によって逮捕されたものもいた。警察制度が固まっていなかった当時、密告制によって犯人を捕らえることが多かったのだ。 しかし、たとえ犯人でも仲間がいたことを密告をすれば、密告したものは褒美を与えられた。そのせいで、本来犯人だったものが許されるケースがあったのだから、考えものである。 このころ江戸では、供待所(主人を待つところ)での喫煙を禁止するなどの対策が取られた。一方で、「柴垣」というものが流行し、そこでは「人々の欲望が火事を大きくした」と述べられている。 火事の後、大雪が降った。火事の前は雨が降らなかったのに、だ。 食べものがなく餓死するものや、寒さで凍死するものが後を絶たない。幕府は寺にお金を与えて、死者たちを供養させた。 また、大火による米価の高騰を抑え、飢民のために安く払い下げた。また、一般物価も払い下げていたことが記録されている。 人々の救済だけでなく、幕府は思い切った改革を行った。町においては道路の幅を広げたり溜池を作る、屋根に土を塗るなど、火の足が遅くなる工夫を凝らした。 火消役も改められ、火事への迅速な対応ができるようにした。新しく生まれた火消役は定火消役と呼ばれ、それに続いて町火消が作られた。 忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)の祖父である浅野長直は、火消であることを誇りに思っていた。 彼は家臣にも徹底的に火消の作法を教え込み、家臣もそれに従っていた。 この主君と家臣の強い絆こそが、後に忠臣蔵を引き起こしたのかもしれない。 <補足> ○振袖 現在では未婚女性が着用する、もっとも格式高い着物。袖が長い。 しかしかつては、男性も着用していたらしい。 ○明暦の大火 別名「振袖大火」「振袖火事」とも言われる。その理由について。 振袖を着た寺小姓(僧侶の補佐、僧侶の夜の相手として寺にいる美少年)に恋をした女性が、同じ振袖を作ってもらった。 ところが寺小姓はやがて女性の目の前から姿を消し、女性はやがて心を病んで死去。彼女が着ていた振袖は、質屋に出された。 質屋から振袖を買い取った女性が振袖を身に付けると、その振袖の持ち主と同じ年で亡くなった。つぎに買い取った女性もまた、同じ年で死亡。 不気味なこの振袖を供養してもらうことになり、本妙寺に手渡された。 その供養中、火のついた振袖が舞い上がった。その煙から、最初に死んだ女性の顔が浮かび上がったという話がある。 こうして、明暦の大火がはじまった。 (ほたるゆき) +旗本奴と町奴 旗本奴と町奴 正雪のように直接的な反抗ができない人々は、他の人間とは異なるいでたちをしてみせ、それによって体制への反抗を見せた。この人々をかぶき者と言う。そのような人々はあちこちで乱行を行い、故に幕府の取り締まる所のものとなり、縁者も含め多くの者が処罰の対象となった。 そもそも、島原の乱にて戦乱が収束すると、武を以て鳴らす武士は瞬く間に居場所がなくなっていった。その結果、彼らは悪所通いや乱行に出、また小姓との男色に走り、かぶき者へとなったのである。最初は旗本出身の者が多く、やがてそれを真似する町人も現れるようになった。 彼らの中には、信義・侠気を重んじるという独特の価値観を有するようになる人々がいる。彼らを奴(やつこ)といい、言葉も奴詞という独自のものを使った。彼らは狼藉も度々行い、故に騒擾の原因ともなっている。 そしてこのような文化は地方にも広まっており、各藩も禁制を打ち出している。綱吉代となると取り締まりは厳しくなり、次々に罰せられることなる。 彼らは体制への反抗者として、庶民の間にもてはやされることとなるが、それは庶民の代弁者として形作られた偶像であり、その本質は弱者を虐する存在でしかなかった。 (Spheniscidae) +江戸八百八町 江戸八百八町 この時期の江戸の町は一気に発展する。江戸の町へ来た外国人たちが驚いているように、当時江戸は世界有数の都市であり、人口は百万に近いものであったと考えられ、そのうち半分が武士であった。 その土地の6割は武家地であり、2割が町人地である。彼らはその職能に応じて集住し、故に紺屋町・鍛冶屋町などの町名も生まれている。明暦の大火以後の江戸町整理の後、漸次江戸の町は拡張され、その町の数は900を数えた。 その広い町を統括するのが町奉行であり、おおよそ北と南の二つが置かれた。奉行の下には与力25騎・同心100人が従っており、それぞれ与力は裁判の補助を、同心は警察の補助を行った。同心は前科人を金で雇って捜査を行わせており、彼らは目明しと呼ばれている。 町奉行の指令を受けて具体的に事務を行うのが町年寄であり、その元で町名主が実際に町人たちへ命を伝えた。町名主は1つの町に1人とも限らず、数人いる町もあれば、月行事町と呼ばれる、輪番制の町もあった。 町人という言葉は、広義には町全体に住む者を指すが、実際はもっと意味はせまい。そもそも江戸の町に住む人々には、土地を持つ"地主・地主の命を受けて家賃徴収等を差配する"家守"・土地を借りて家を建てた"地借"・家も借りる"店借"と分けられる。狭義の町人はそのうち前者ふたつを指す。家の貸し借りの際には五人組や地主の裁可を必要とし、そのために身元は充分調べられた。それゆえに不審なものは入り込みにくく、治安の安定化を齎した。 他、治安維持のためには辻ごとに辻番が置かれたが、これは次第に名目化して役に立たなかった。また火災防止のために自身番というのもおかれ、これは家主の輪番制からやがて雇用するように変化する。 町に於いては、間口の長さに応じて税が賦課され、それは地主・家守が対象となった。彼らは税を払う代わりに公民権を認められ、税を払わぬ地借や店借は権利も認められなかった。 この町人たちの元で働くのが、奉公人である。この主従関係はかなり重いものであり、その間での争いは常に主が優先された。 江戸の町は常に水が不足しており、それゆえ水道が通されていた。中でも玉川上水は重要な役割を果たしているが、その開削の由来は数説あって一定しない。また、この水道の為に地脈が止められ、火災が呼び起こされるという風聞から上水が廃された所もある。 町人として一人前になるには、時間が非常に掛かるものであり、それまでは妻帯すら許されず、家を構えることも許されなかった。 (Spheniscidae) +夜の世界、新吉原 夜の世界、新吉原 徳川家康が江戸に幕府を開いて以来、江戸八百八町、全国一の城下町が形成されていき、その中には旗本や町人が遊ぶ傾城屋、つまり遊女と遊ばせる店も方々に開業していた。 傾城屋を営んでいた庄司甚右衛門は、彼の店が江戸城普請の為に召し上げられるに際し、江戸中の傾城屋を1箇所に集めるように請願して、これを許された。こうして江戸南東部の芦の生い茂る湿地を開いて出来たのが葭原、字を改めて「吉原」と呼ばれる遊郭である。またこの甚右衛門は吉原で「おやじ」と呼ばれ、庄司の家は代々吉原の町名主を勤めた。 寛永19年、ここで働いていた遊女達の記録がある。容姿良く、歌の上手く、扇を持って一節舞う最上の遊女、太夫が75名、それに次ぐ格子が31人で、これは京都では天神と呼ばれた。その下は端、端女郎、局女郎などと呼ばれるのが881人に上ったという。その他にも手伝い役の「かぶろ」や遊女の指南役である「鑓手」など多数の者が働いていたようだ。 さて1656年、吉原を御用地として召し上げられる事が通達され、吉原の傾城屋・また遊女を揚げて遊ぶ揚屋は、浅草田んぼの一角、日本堤のあたりに移転することになった。これに際し幕府は、1万5千両を与え、夜間営業を許可、町役の免除、また江戸中にあった、吉原の商敵であった風呂屋を悉く取り潰すなどの特典を与えた。こうして明暦の大火後1657年に吉原の店々は移転し、新吉原として再出発した。 しかし、余りに町はずれに位置する新吉原は交通の不便の為、江戸町内の手近な茶屋等に町人の客を取られ、加えて武家財政の困窮が影響して衰微し始めた。 そこで新吉原は町奉行に訴え出て、江戸中の茶屋を新吉原に移転させた。これら官許の遊郭以外からやってきた遊女は張りが無いので、他の遊女と差別して散茶女郎などと呼ばれた。このころからは、この散茶女郎などの安い遊女が増え始めた。 さて、この遊郭で遊ぶには多額の金銭に加え、男の器量、そして暇が必要であった。 最初に吉原に入ったときは最低10両の祝儀を持っていかねばならなかったし、2回目以降も太夫であれば2,30両の心付け、その他の店員にもそれぞれチップを必要とし、年末には4,50両に及ぶ贈り物をしなくては相手をしてもらえなかった。 これだけ金銭を費やしても、遊女達を楽しませるだけの器量が無ければ見向きもしてもらえず、また吉原へ行く前には前もって茶屋に通いつめて、女の扱い方を学ばねばならなかったのである。 多額の金銭が流れ、華々しく見える吉原や京都の傾城屋街島原であったが、そこで働く遊女達の大半は貧苦の為に身売りをしてきた者たちであった。彼女らは家族に金銭の渡る代わりに働いているのである。遊女達が自由になれるのは、なじみの客に身請するときだけであった。しかし大抵はそんな幸運に巡り合えるでもなく、太夫になっても次第に客も離れてゆき、格子、局と身を落とし、暗い生活を送るのであった。 (hanaze) +殉死の禁 殉死の禁 4代将軍家綱は、病弱であったが穏和な性格であり、また自制のできる将軍であった。その元、松平信綱・保科正之ら老中たちは集団合議で政治を行っており、これが機能した15年は日本史上珍しい時代であったと言える。またこの家綱治下では災害が続発し、その対応に幕府は追われる。また旗本・御家人の窮乏は次第に酷くなっている。 家綱が出した施策としては、殉死の禁止がまず挙げられる。この当時、主君に殉じて切腹する殉死が流行を見せており、家綱はこれを抑えようとしたのである。既に一部の大名は殉死禁止令を出していたが、それが幕府の法として正式に定められ、堀田正信が家綱に殉死したことを以て江戸時代の殉死は断絶する。また人質として重臣の子弟を江戸に置く制度も緩められた。既にこれらのことで忠誠を確かめる必要はなかったのである。 一方旗本の困窮は酷く、その身分を売るものまで現れていた。幕府はこれを禁止し、代わって役料を給付している。これは職務に付随して与えられる米のことであり、遂行に多額の支出を要する職務に多く支給された。 家綱治世後半は、有力者の死去に伴って酒井忠清が大きな力を握るようになる。その権勢故に彼は"下馬将軍"とさえ呼ばれた。 家綱には子供がいなかった。それゆえ、彼が危篤となると次代の将軍が問題となった。ここで忠清は有栖川宮幸仁親王を立てようとしたが、老中に反対され、弟・綱吉が選ばれた。この忠清の意見は、既に将軍が徳川一族でなくともよくなったという事実を示しており、つまり幕府とは将軍よりも機構そのものに重点が置かれていたのである。 (Spheniscidae) +東廻りと西廻り 東廻りと西廻り この時代、町人に対して倹約令が度々発布されている。これは則ち、町人が華美に走りがちであったということを示しており、つまりは都市での消費が増加していたということを表している。 このころあった寛文の大火では、人々は家財を地面に埋めるという形で防火を図り、故に被害はそれほど大きくならなかった。またこれに伴って、将軍の親衛隊に当たる番士に休暇が与えられるなどされる。これは、幕府の官僚機構が整ってきたことを良く表している。また、このような大火は江戸の町における最大の消費であり、幕府らは大きな出費を迫られることとなる。 江戸の繁栄に伴って、江戸は多額の物資を要することとなる。これに伴い、上方から船で物資を運ぶことが行われるようになった。これは、菱垣廻船・樽廻船と呼ばれ、大坂を中心として大きく栄えた。幕府はこの海運に対しても不正を禁じる法を出しており、これは商人の協力もあって徹底、結果として海運は安定した運送として確立される。 このような海運の拡大に大きな役割を持ったのが川村瑞賢である。彼は伊勢の百姓に生まれたが、その才幹によって次第になりあがり、明暦の大火の際に木曽の材木を大量に買い付け、江戸へ売りさばいたことで大きな利益を得て大商人となった。 その彼に目を付けたのが、財政が窮乏しつつあった幕府である。幕府は遠隔地の天領からの年貢米運送に困っており、その改革を行わせたのである。瑞賢はこれに応えて、東東北から銚子・三崎を経由する東廻り航路、西東北から日本海・下関・大坂を経由する西廻り航路を開拓した。これによって、大消費地である江戸・上方と生産地である地方とが直結されることと為り、その結果として日本全国が一つの経済領域として成立した。 都市での莫大な消費は、生産の発達を呼び起こした。それに伴う運送の発展は、元禄時代を支える一つの大きなファクターだったといえる。 (Spheniscidae) +天下の台所、大阪 天下の台所、大阪 大坂、とくに中之島・北浜は、日本経済の心臓だった。 ドイツ人医師ケンペルによると、大坂は娯楽の町であったことも述べられている。 この地が幕府の直轄地になると、幕府はただちに大坂城の修復をはじめた。10年を費やす大事業だった。 ここに赴任し、城中の警護、および西国大名の監視を行うのが、大坂城代である。 後に大塩平八郎がこの城を占拠しようと挙兵したが、失敗。大坂城の警備の強さが証明されることになった。 この地大坂の民政を仕切っていたのは、大坂町奉行と呼ばれる人だった。 ただし、事実上支配していたのは惣年寄と呼ばれる人々だった。彼らは糸割符なども務めたが、これは慶長年間に糸割符の役を務めた町人が引き継いだかららしい。 この町人から選挙によって町年寄が選ばれ、彼らを補佐する役として町代が作られた。 町代は公事場の手伝いをしたものの、その仕事が増えると専任の惣代が作られるようになる。 1634年、大坂に住む人々が払う税(地子銀)が免除された。 同じころ、大坂は浮き沈みの激しい地として知られていた。 貧しい人がいる一方で、商人として栄える人々もいた。ではこのような人々が携わる商業は、どのように発展してきたのか。 まず、蔵屋敷。ここは各藩の物資を保管する場所である。ときに町人にはここの管理を任されることもあった。そして、それを藩の了承を得たうえで販売するのである。 また、町人の中には大名に対して金貸しを行っているものがいた。 そしてなにより大きいのは、蔵米の販売を任されていたことだろう。 こうして大坂は天下の台所として認知されてきたのだが、これに対する反論がある。 大坂が市場経済の中心だったという証拠は、わずかな期間に限定されたものしかない。そこからは江戸もまた大市場になっているので、江戸と大坂の2つともが中心的市場だという意見である。 だがそれでも、日本中の生産物が大坂に集められていたことには変わりない。 結局のところ大坂を天下の台所と呼ぶのは、この形態こそがゆえんではないだろうか。 (ほたるゆき) +犬公方 犬公方 徳川綱吉は、戌年生まれの将軍である。 綱吉は就任してからまもなく、越後騒動と呼ばれるお家騒動についての決断を改めた。 綱吉は民の苦痛を減らし、幕府自身も倹約を掲げるなど、家綱とは対称的な政治を行った。 庶民だけでなく大名に対しての取り締まりも厳しくなり、緊張した状態が続くようになった。 そうなると、大名たちも安息を得ることができなかった。いつ、だれの身になにがおこるかわからないからだ。 1683年には厳しい制限令が出され、服だけでなく輸入品にも制限が加えられた。 江戸市民には評判が悪かったが、もし彼らが贅沢をすると、以下のような弊害が予測できる。 江戸市民が裕福になる。 ⇒武士がたくさんお金を使うから。 ⇒武士が農民に対して厳しい搾取をするようになる。 だからこそ、倹約はよいことだという意見もあった。江戸市民の不満が、すぐに悪政に繋がるとは限らないのだ。 また、ちょうどこのころ、大老の堀田正俊が刺殺される事件が起きた。理由は複数あるものの、正俊の方針が受け入れられなかったからと言われている。 将軍の綱吉自身も彼を疎んじていたらしく、この事件後、大老を置かなくなった。自分の方針を貫くためだ。大老の代わりに台頭するのが、側用人と呼ばれる人々だった。 側用人の中で有名な人物としてあげられるのが、柳沢吉保である。彼は本来 親藩の土地か、幕領として定められていた土地を受け取るなど、ずいぶんと寵愛されていた。 これだけでも綱吉の個性がずいぶんと発揮されているが、他にも特徴的なことがある。外様大名や旗本を幕府の役職に就任させたことだ。 じつはほかにも、小唄・踊り・音曲などの芸能を、家臣にさせたり自ら演ずることもあったらしい。ドイツ人医師ケンペルも、その犠牲になっている。 これだけでは済まない。ストッパーになる存在がいないのをいいことに、自由気ままに改易・減封を行った。 家綱の時代で減っていた改易・減封は、家綱の時代に大増加を迎えたのだった。 そして極めつけは生類憐みの令である。家綱の考えがそのまま反映されたこれは、彼が死ぬまで続いた。 これを続けるために必要な費用は、江戸をはじめとする関東の町人が負担させられることになった。 (ほたるゆき) +湯島の聖堂と貞享歴 湯島の聖堂と貞享歴 徳川綱吉は非常に学問好きな将軍だった。林信篤ら儒学者に命じて学問(主に儒学)が広く普及するようにしたのも彼だった。 家綱が朝廷の崇拝や、親孝行に力を入れたのも、儒学の影響と切り離すことができない。 家綱が朝廷に対して忠誠を誓ったためか、家光時代までの緊張した朝幕関係は回復しつつあった。6代将軍家宣のときには、さらに回復する方針が固められた。 このように書いてみると、まるで家綱の時代から学問がはじまったようだが、そうではない。すでに家康が藤原惺窩を招いて、彼の門人である林羅山を儒官にしているように、家康からすでに学問ははじまっていた。 この羅山は家光にも仕えていた。1630年には尾張の徳川義直が、彼のために孔子堂を建てている。釈奠(孔子をまつる儀式:せきてん)が翌年に行われてから、儒学者の地位は高まるようになった。 1633年には光地院崇伝に任されていた「武家諸法度」や外交文書のことが、林家に任されるようになった。 1688年、孔子堂(改造され、聖堂となる)が上野から昌平坂に移された。 上野にあった寛永寺から遠ざかったため、仏教と朱子学の関係はここで切れた。理由は、聖人を祀るのに仏の近くではまずいからだという。 これももちろん綱吉の指示によるものだ。綱吉が学問好きであったことがわかるエピソードである。 また、学問好きの綱吉の指示により、たくさんの出版物が世に出回った。 それに触発され、各地の大名も学問を志すようになった。結果、たくさんの出版物が完成した。徳川光圀の、『大日本史』が有名である。 彼が藩主を務める水戸藩では、これ以外のものとしては天皇を支持する書物がいくつも書かれた。これが幕末になって、尊王思想を高める原因であったと言われている。 また、学問が広まったことにより、学者が多く産出される結果となった。 武功によって出世できないので、学問によって出世を狙ったのだ。 まとめると、以下のようになる。 朱子学者:山崎闇斎(垂加神道を開く) 陽明学者:熊沢蕃山 古学者:荻生徂徠 古義学者:伊藤仁斎 またこの元禄時代、非常に出版が盛んだったため、学問もまた盛んになったと考えられる。 江戸以前から印刷については変化してきており、慶安ごろからは木版印刷がほとんどである。 日本語には漢字が多いことや、挿絵の流行により、活字印刷が厳しくなりつつあったのだ。 ところでこの元禄時代、貞享暦という暦法が採用されることになった。安井算哲が提唱したもので、当時のものとしては非常に正確だった。 時差などの、地理的な状況が計算されていたためだと思われる。 (ほたるゆき) +忠臣蔵 忠臣蔵 元禄14年3月14日、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、江戸城殿中にて高家旗本の吉良上野介義央を切りつけた。石高は低くとも、名門たる高家の吉良の驕った態度が怒りを買ったようであるという。 浅野長矩は殿中抜刀の罪で切腹となり赤穂藩は改易となったが、一方の吉良家には何の咎めもなかった。 これに憤る急進派の遺臣達は、すぐさまの仇討を唱えた。しかし赤穂で藩政を見ていた筆頭家老大石内蔵助は御家再興のチャンスを伺うべきだ、と抑え、方々に御家再興を嘆願しつつ時機を待った。彼は赤穂城の引き渡しが済むと京都山科へ移住している。 江戸にいる急進派堀部安兵衛らは幾度となく内蔵助に敵討ちの催促をする手紙を送っていたが、穏便派の内蔵助も、浅野長矩の養子だった浅野大学長広が広島藩に永預かりとなったことで御家再興の望みが断たれると、もはや討ち入りのみ、と思い急進派との対立も解消された。 これまでに討ち入りのメンバーから脱落した者も多く、300余名の家臣中、130名あまりが討ち入りに名乗りを上げていたが、最終的に47名となった。 彼らは翌15年12月14日に吉良屋敷に討ち入り、手向かいする者16名を切り捨て、23名を傷つけて吉良上野介を首級を挙げ、そのまま主君浅野長矩の眠る泉岳寺へ詣でた。そこから彼らは細川・松平・水野・毛利の4家に留め置かれた。 そして、義ではあるが、私の論である。長矩が殿中で抜刀し罰された事について、吉良氏を仇として公儀の許し無く騒動を起こした、という荻生徂徠の進言をとった幕府評定所の判決により切腹を申しつけられた。 彼らの行為は江戸期よりその善悪を論ずるもの多々あったが、綱吉犬公方の治下、吠えたてる犬にも逆らえぬ、抑圧された気分の民衆は、法を破ったという非難以上に忠義の武士達を慕った。 (hanaze) +窮乏する財政 窮乏する財政 まず、以下の表を見ていただきたい。財政に関するものである。 ○=財政よし △=財政が傾きはじめる ▽=財政が危機 家康 ○:貿易、金銀の発掘が盛ん。 秀忠 ○:非常に多くの財産あり。 家光 ○:日光東照宮を造り、11回もお参りするが、破たんはしていない。 家綱 △:明暦の大火により、貨幣が溶ける。また、その後処理のため、莫大な資産を投じる。 綱吉 ▽:諸大名への御なり・下賜品の増大、寺院への莫大な援助。 これより先はこの章の主題から外れるので、割愛する。 この表を見ると、5代将軍綱吉が財政窮乏の原因であるかのように書かれている。 綱吉時代、幕府の財政が窮乏する原因は、以下のような4つが理由が大きい。 1、諸大名への御なり、下賜品の増大。 ∟近親者を支援して救助することや、下賜品の増大を頻繁に行った。 2、役料制の復活。 ∟役料制とは、主君から知行をもらい、それに応じて軍役を負う制度。これにより、基準となる家禄以下のものにも、定額の給与が与えられた。 3、寺院への援助。 ∟綱吉はあらゆる宗派に敬意を示し、寺社の救済などに当て、たくさんの資金を投じた。 4、悪貨の鋳造 ∟金銀の量が減っているため、貨幣を造りなおして量を増やした。勘定吟味役の荻原重秀が将軍に勧めたことによる。 これによりインフレが起こり、金融上の動揺が起きる。 しかも、この状況において災害が連続で起こった。1707年のことだ。東海道から四国・中国に及ぶ地震、富士山の噴火である。 勘定吟味役荻原重秀はこれに対して資金を投じたと言われているが、実際には横領したのではないかといわれている。 彼の存在もまた、財政窮乏の原因の1つかもしれない。 幕府が財政の破たんを目前にした1708年、綱吉はこの世を去った。 (ほたるゆき) +元禄模様 元禄模様 元禄時代、倹約の傾向であるにもかかわらず、女性が身を飾る文化が生まれつつあった。 たとえば帯。本来帯は前で結ぶものだが、このころからは後ろで結ぶことが流行した。 このように、元禄時代には女性がある意味最も栄えた時代だと考えられる。絵画史上で、女性が最も多く題材にされたのもこの時代である。 また、男性の中にも飾りを行った人もいる。たとえば、若衆という少年。彼は男色の性行為において受け手になる人物である。 この時代、芸能者の多くは芸能よりも、売色の仕事をすることが多かった。相手を誘うので、飾りは一生懸命やらなくてはいけないのだ。 槍や刀の時代はおわり、お金が力を持つ世の中になった。建築も入札制になり、奉行に渡す礼物がなければ、ほぼ落札できない。 このシステムこそが、幕府の財政を窮乏させていると新井白石は述べる。通常は安くできる工事も、このような原因から、過剰な資金が必要になったからだ。 幕府はたくさんの資金を散布しなくてはならず、金座・銀座は貨幣をたくさん鋳造した。結果、インフレーションが起きた。 幕府の財政危機は、目前に迫っていた。 幕府と結びついていた大商人たちは次々と没落した。また、この時代、大きな商人が没落していることが明らかになっている。 大名にお金を貸し、踏み倒されるからだ。大名たちも余裕がなくなり、返済ができないのだ。 損をした町人の中には、別の大名に貸して元をとろうとするものもいる。そういった人々は、またもや踏み倒されて破産する。 大名ならたくさんお金を持っているだろうという考えこそが、彼らを破滅に至らせるのだ。 金座や銀座が貨幣鋳造によって安泰するに対して、呉服屋は悲惨な状況下にあった。 今まではオーダーメイドで服を作っていたのに、倹約の流れのせいで注文が減り、店をたたむものが多かった。 ところが、のちに財閥となる三井は違った。 堅実な方法で和歌山の徳川家に大名貸しを行い、両替や、新田開発を行った。こうした用心深い政策のおかげで、三井は潰れることなく、今日まで残っていると言える。 ところで、このころ、農民の税が重かったのはご存じだと思う。 だが、一方で、商人たちの税は実質0だったことはご存じだろうか。 この体制に異を唱えた人物はいたが、真摯に受け止めたものは幕府にはいなかった。これにより、商人たちは力を持つようになる。 彼らに大して税をかけたのは田沼意次であり、株仲間の結成を許した。特権を与える代わりに、税をとったのだ。 この体制こそが、農業の発達妨害・消費の異常発達を促進し、元禄の華美な文化を作り出したと考えられる。 (ほたるゆき) +絵の世界と侘の境地 絵の世界と侘の境地 桃山時代に全盛を極めた狩野派も、狩野探幽以降は下り坂となる。一方で、土佐派や琳派が勃興していくことになる。また布に自由な柄を染めつけられる友禅がこの時期に現れ、大きな流行を見た。 また浮世絵もこの時代に出現する。肉筆で描かれ高価だった絵は、こうして版画となることで数が出回るようになり、庶民の手にもわたるようになる。 藝術がこうして庶民の間に広がるのはまさにこの時代であり、藝術の面ではこれまでとは異なった時代が来たと言うことができるだろう。 またこのような動きは歌の世界でも見られた。これまで古今伝授の伝統が否定され、自由に解釈され、また歌われるようになったのである。こうした動きの原因の一つには、印刷技術の向上に伴う書籍出版の広がりが挙げられる。 このような状況の中で誕生したのが芭蕉である。彼は日本の古典や唐詩に親しみ、また参禅もしている。そうして俳諧の中から人生の究極を掴みだそうとしたのである。彼は幾度も旅に出ており、その中で人生を旅そのものと捉え、そこに自己を捕えんとしていく。 芭蕉の書く旅行記は芭蕉自身の創作の手が入っており、全てが事実ではない。またその態度は、現実の生活の中に風雅の世界を見出すにすぎぬもので、その点では現実逃避的である。時代の圧迫に対して、芭蕉は現実も変化する物々の一つと断じ、その中で普遍の真理を求めようとしたのである。 (Spheniscidae) +一代男と曽根崎心中 一代男と曽根崎心中 この当時、三十三間堂では端から端に矢を放つ通し矢が盛んであり、一日で何本通すかが競われた。これと同じくして一日で俳諧を何句詠むるかということ競われ、これは井原西鶴が一日で二万句詠んで決着となった。 この西鶴が才を尤も顕著に示したのが、小説である。彼が最初に書き始めたのは好色物と呼ばれる、男女の情を描いたものであった。この中で西鶴は、人の世が思いがけぬ転回をすることを、見事に描きだしている。 また西鶴は、武家物・町人物も書いているが、特に町人物の『胸算用』では才智では如何ともしがたき社会を描いており、西鶴の文学性を示す。 この時期、浄瑠璃も流行を見せる。とりわけ、近松門左衛門が脚本を書き、竹本義太夫が人形操作をした際には大きな評判となった。彼らは最初竹本義太夫を座元としたが、後に竹田出雲が代わっている。 近松の描くものは人情と義理の相克が表に出ており、中でも世話物と呼ばれる、人間の心情に主題を置いた作品群は評価が高い。 近松はまた歌舞伎の作品も書いている。戦国末の女歌舞伎に淵源を持つ歌舞伎は、風俗取り締まりの影響でこの時期には大人の男が演じる野郎歌舞伎となっていた。歌舞伎では坂田藤十郎や市川団十郎が名を馳せている。 この浄瑠璃・歌舞伎のような、一般庶民が広く楽しむことのできる藝術の誕生が、まさに元禄時代の特色だったということができるだろう。 (Spheniscidae)
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RANK 》C メタウロ(*1)AC // アフォニアン(*2) METAURO // APHONIAN ”ざーんねーんでーしたっ、僕は捕虜とか取りませーん♪" 所属 ベイラム/レッドガン第2分遣隊≪インダス隊≫ 強化世代 第4世代 インダス隊に所属する小柄(*3)な女性パイロット。元諜報員という異色の経歴を持つ。 コーラルを巡る戦いの中で諜報活動を担ったエージェントの一人。諜報網の壊滅と再教育センターへの移送に伴い殉死したと思われていたが、脱走に成功し現地に潜伏しており、インダス隊に志願し入隊をもぎ取った。 調整によって劣化した操縦技術を独自の勝負勘やミサイルの飽和攻撃で補い、いざとなればACでの徒手格闘を厭わないストイックなスタイルを取る。 彼女は厳密には旧世代型強化人間であったが、アーキバスの再教育に伴う実験的な調整により代替技術による焼き付きの中和に成功している他、持ち前の強靭な精神力もあり人格的にも安定している。 だが一方で再教育センター送りとなった諜報班の境遇と処置により、彼女のアーキバスに対する敵愾心は非常に強く、報復行為そのものを「しなければならない」と評し、楽しんでいる。 軍隊然としたベイラムにおいて彼女は非常に目立つ。ほとんどの場合、彼女は右手に杖や傘を持って、お洒落な帽子を被り、履いている靴はどれもヒール付きである。一時期とある憲兵が小柄な彼女に眼を付け服装規定違反で「周囲に溶け込め」と注意したことがあったが、以後一週間、誰も彼女がどこでなにをしているのか分からなくなった。インダスに詰め寄られたその憲兵は掲示板に謝罪文を掲示しお咎めなしとした。掲示から2時間後、いつもの恰好でメタウロは再び出現した。 彼女の身体は精密検査と調査の結果、外見的には判別できないほど精巧な技術によって、複数の人物からさまざまな部位や臓器を移植されたことが判明している。使用された人物のほとんどは、彼女の所属していた諜報班のエージェントであった。 医療記録 患者26歳女性 + ... 医療記録 患者26歳女性 ルビコン3駐留のメディカルチームに送信された医療記録 ---------- エージェント≪ヴァニラ≫もとい、メタウロの精密検査の結果、健康状態は良好であると判断する。患者がいたって健康と主張する通り、その健康状態に異常はない。 しかしながら、定期的な検査とカウンセリングは必須である。 患者が術後副作用により摘出したはずの声帯は元より、複数の部位が本来のものと挿げ替えられている。医療記録からいくつかの部位はエージェント■■■■■、エージェント◇◇◇◇のものであると確認された。どのような判断と処置によってこうなったのかは現在のところ不明。 警告 当該エージェントについて + ... 警告 当該エージェントについて 情報処理部門から隊長クラスへ送信された文書 ---------- エージェント≪ヴァニラ≫はその身体的特徴から異性隊員から注目されやすいが、留意すべき点がある。取扱説明書と捉えてもらって構わない。 当該エージェントは任務に忠実で、程よく残酷でサディスティックであり、承認欲求が強く、優秀である。潜伏や破壊工作のプロであると同時に、強かで、すべきことを躊躇なく行える決断力と記憶力、そしてなにより目にした情報を伝えるために生存することができる。 我々の諜報班≪コーヒーハウス≫が壊滅しながらも彼女が生き残ったのは奇跡ではない。 彼女はバーティツとカポエラを得意としており、無意味な負傷者を出さないためにもその危険性を周知すべきである。また、一般的な銃器の取り扱いに関してもわが社の標準基準を上回っている。本人の強い希望から情報処理部門は今回の異動を承認するが、もしレッドガンが彼女を手放したいというのなら遠慮することなく即座に上伸して欲しい。 関連項目 インダス ガドリエル リオ・グランデ 登場作品 背中を押す人たち 投稿者 狛犬えるす