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https://w.atwiki.jp/mtgflavortext/pages/12288.html
imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (Loran Disciple of History.png) ウルザとミシュラはトカシアの生徒の中で最も高名な者であったかもしれない。だが、彼女の遺産を真に受け継いだ者はロランであった。 Urza and Mishra may have been Tocasia's most famous students, but Loran was the true heir to her legacy. 兄弟戦争 【M TG Wiki】 名前
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「御先祖を、畏れの心をもってひたすら愛していたならば、1789年からの野蛮な行動など及びもつかぬ水準の徳と智恵を祖先の中に認識したことでしょう。・・・フランス人を目して時代遅れの国民、1789年という解放の年まで惨めであった、生まれの賤しい奴隷的国民と見なす、などという選択をすることもなかったでしょう」 エドマンド・バーク『フランス革命の省察』(1790年) <目次> ■このページの目的 ■ルソーを知るには、まずこの本から ■英語圏では、否定的に扱われているルソーとフランス革命(1)TIME社(米)発行『TIME マガジン ミレニアム特集号』『ライフ人間世界史』は共に完全無視 (2)J.M.ロバーツ(英)著『世界の歴史』は冷淡に短く記述し、バークの保守主義を併記 ■なかなか難しいフランス人自身の革命の評価 ■マルクス主義者に占拠されている日本の史学会<参考1>歴史学研究会「戦後歴史学と歴研のあゆみ」-創立60周年記念-1993年5月刊行- <参考2>歴史学研究会「戦後歴史学を検証する」-歴研創立70周年記念-2002年12月刊行- ★日本の歴史教科書が、今もルソーとフランス革命を賛美し続ける理由★ ■参考リンク ■関連ページ ■ご意見、情報提供 エドマンド・バークの保守主義に学べ!~共産党の正体 遠藤健太郎(KNN TODAY) ■このページの目的 日本において、戦後長く、社会科学の分野で暴威を振るったマルクス主義思想は、1989-91年のソ連・東欧諸国の共産主義体制崩壊で、完全に勢いを喪失しました。 しかし、マルクス主義思想の母胎となったジャン・ジャック・ルソー『社会契約論』に見られる革命思想は、現在でも学校教育で学童・学生に無意識のうちに刷り込まれ続けています(中学生の歴史教育から文系大学生の社会思想・政治思想科目まで、ルソーとフランス革命を無批判に賛美する傾向が強い)。 いわゆる「左翼」といわれる人たちのうち、 現在でも残存する真正の共産主義者(マルクス主義者)は、もはや救い様のない確信犯的な人々であるとして、 このルソーを起源とする革命思想に取り憑かれた人々は、まだ洗脳を解く余地があると判断できるのではないでしょうか。 もっとも、進歩派知識人といわれる人々や、鳩山由紀夫・加藤紘一など「リベラル左翼」政治家などは確信犯の域に達しており救い難いと思われます。 このページでは、こうしたルソーの革命思想の正体を、フランス革命の海外での一般的な評価も踏まえて詳解し、戦後日本で行われ続けている「革命教育」の残滓を完全に払拭することを目的とします。 但し、このテーマはルソー流の「人権思想」「社会契約説」に深く侵されている「日本国憲法」の是非の問題(そして戦後の法学界の異常性の問題)に直接絡む遠大なテーマでもあり、このページが一応の完成を見るには、相当な時間がかかると思われるのでご容赦願います。 ■ルソーを知るには、まずこの本から 告白(上中下 3巻本) (岩波文庫)ジャン・ジャック・ルソー(著), 桑原 武夫(翻訳)ルソーの「自伝」ですが、脚色(嘘)が非常に多いと言われています。文庫本で3冊と長いのですが、大学などで習う『社会契約論』のイメージとはまた別のルソーの人物像を知るのに最適です。内容も波乱万丈で面白いはず(スタンダールの傑作『赤と黒』はこの『告白』を下敷きの一つとして着想されています)。なお、同じく岩波文庫からでている『ジュリ~新エロイーズ』も読めればルソーの実像が完璧に見えてきますが、現在品切れ・再刊の予定なしで残念です。※参考リンク オスカルも読んだ!? ~新エロイーズ ジャン・ジャック・ルソー~(タロット占い師のぐだぐだ日記様ブログ) ■英語圏では、否定的に扱われているルソーとフランス革命 (1)TIME社(米)発行『TIME マガジン ミレニアム特集号』『ライフ人間世界史』は共に完全無視 権威あるニュース雑誌『TIME』を発行している米TIME社は、1999年に発行したミレニアム特集号(“この千年間に活躍した世界の人物”)にてルソーやフランス革命を完全に無視。ナポレオンは何と源頼朝と同格の扱いだった。日本でも訳本が出版された『ライフ人間世界史』シリーズ(タイム社ライフブックス編集部刊、絶版:図書館にてどうぞ)は21巻の大作にも関わらず、やはりフランス革命を完全に無視している。 (2)J.M.ロバーツ(英)著『世界の歴史』は冷淡に短く記述し、バークの保守主義を併記 英『オックスフォード・ヒストリー・シリーズ』監修者J.M.ロバーツ教授の邦訳版 『世界の歴史』第七巻「革命の時代」 では、ルソーの扱いは1ページのみであり、英国人らしくルソーとフランス革命を否定したエドマンド・バークの思想をルソーの思想の後に併記している。フランス革命もその影響力の大きさは認めるものの、その意義については否定的な記述が目立ち、やはり終わりのほうで以下のようなエドマンド・バークの革命への批判を確り記述している。「保守主義による最初の反革命論の著作が出版されたのはイギリスでした。1790年に出版されたエドマンド・バークの『フランス革命の省察』がその本です。バークはそれ以前に、アメリカの植民地住民の権利の保護を主張していた人物で、この本もたんに特権階級を擁護しただけのものではありませんでした。バークは、社会は意思と理性でつくられるものではなく、何よりもまず道徳性の現れであると説きました。そしてフランス革命については、それは知識階級の傲慢と不毛な合理主義、そして最悪の罪であるうぬぼれの現れであるとして、きびしく非難したのです。」 ■なかなか難しいフランス人自身の革命の評価 日本では幸い、フランス近代文学が多数翻訳されており、貴族文化の華が咲いたフランス革命以前(17-18世紀)から、パリ・コミューン壊滅(1871年5月)をもって一連の革命運動が完全に終結し、経済的繁栄が続いた第三共和制の時代(20世紀前半)まで、豊富な文学作品によって当時を生きたフランス人の意識と世相を定点観測することが不完全ながら可能である。 代表例を挙げれば、 1. 大革命前 1.ルソー『告白』(前述)2.ラクロ『危険な関係』 2. 大革命~第1帝政期(ナポレオン1世) 該当なし 3. 王制復古期 1.バルザック『ゴリオ爺さん2.スタンダール『赤と黒』 4. 7月王制期~第2共和制期 1.フローベール『感情教育』 5. 第2帝政期(ナポレオン3世) 該当なし 6. 第3共和制期 1.ジッド2.モーリヤック3.プルーストなどの諸作品 | ※これだけ読んだら、教科書そのままに、ルソーとフランス革命を賛美し肯定するような単純頭からは脱却できるはず。 私の感想では、革命、特に流血の大革命を肯定的に捉えている文学者は皆無であり、むしろ貴族的な生活に強烈な、あるいは仄かな憧憬を抱いているような場合が普通のように見受けられる。「ブルジョワの趣味は俗悪」という捉え方が一般的であり「やはり品のいいのは本物の貴族だ」というのが彼らの最大公約数的な見解である。 要するに、自分は革命で立場が強化されて成り上がったブルジョワに過ぎず、再度自由を奪われるのは困るが、貴族的なものへの憧れは実は非常に強い、という精神構造で、多くのフランス人が生きていたようにみえる。この傾向は現在も変わらないのではないか。 いずれにせよ、フランス人が心底から、あるいはこぞって7月14日の革命記念日(バスチーユ牢獄襲撃の日)を称揚しているなどとは思わないほうがよい(もっともフランスは左翼政党や左翼文化人が強い勢力を持っており、心底から革命記念日を祝っている人も多いと思われる)。 ■マルクス主義者に占拠されている日本の史学会 以下は歴史問題の基礎知識の「劣化著しい史学界」より転載。なぜ日本でルソーやフランス革命が場違いに大きく扱われているのか、その背景を説明。 歴史学研究会(戦後に、羽仁五郎を暫定委員長として再建され史学界を仕切ってきたマルクス主義史観の学術団体)が、ソ連崩壊後の1992年に至って、以下のような序文を付した雑誌を発行している。今となっては余りにも馬鹿馬鹿しい内容であるが、彼らの正体をここでもう一度しっかり確認しておこう。 <参考1> 歴史学研究会「戦後歴史学と歴研のあゆみ」-創立60周年記念 -1993年5月刊行- はじめに -批判的史学をめざして-1932年12月に創立された歴史学研究会は、自らの歴史を振り返ってすでに『歴史学研究会 四十年のあゆみ』、『歴研半世紀のあゆみ』を刊行している。昨年、六十周年を迎えるにあたっても記念行事・出版を考えたが・・・財政的にもあまり余裕のない状況だったので、つつましい企画で満足することにした。・・・歴史学研究会の創立は、必ずしも反「史学会」とか、その後有力になっていく皇国史観に逸早く対抗するとかの意識をもってのことではなかったようだ。・・・だが、第二次世界大戦後、歴研はマルクス主義者を中心に時代のエートスに応える歴史研究者の団体として大きな影響力を及ぼすに至った。いわゆる「戦後史学」の中軸をになったと言ってよかろう。しかし1970年代になると、「戦後史学」はイデオロギーの面でも歴史研究の方法の点でも批判に晒されるようになった。その頃の特徴は批判者の多くが歴研と同根の「左翼」の人々であったことである。1980年代の末ともなると、ソ連邦が消滅するという、それを長らく願っていたような人ですら意表をつかれるような事態が生じた。歴研を批判していた「左翼」にとっても歴研批判どころではなくなり、土台が一緒に揺らいだと言える。・・・歴研委員会の中ですら、歴研にとっては馴染みの「人民的・変革的・科学的」という言葉に対する違和感が表明された。私は、1990年の総会の答弁で述べたとおり、その三つの言葉を「下からのまなざしをもち、現実の矛盾から目を逸らさず、学問的な手続きをきちんとふむ」ことと理解する。・・・歴研は今もこの三つを追及しようという人々の集まりである。あくまでも現実と歴史に批判的な目を持ち続けるのが「歴研」であろう。そして、江口委員長の時代から、党派的分裂の危機を何度も乗り越えてきた伝統を持っている。その伝統と観点に立って、1992年12月5日(土)、東京大学本郷キャンパスで「いま、なぜ歴史学か」というテーマを掲げてシンポジウムを開催し、約200名の参加を得た。・・・さらに、全12巻の「講座世界史」(東京大学出版会)と「国民国家を問う」(青木書店)との出版を準備している。これも六十周年記念企画の一環である。以上すべての企画に協力された方々に深く感謝したい。とくに若い委員の諸君に。そうした若い諸君の存在こそが歴研の未来を保証してくれるのである。1993年3月 委員長 西川 正雄 ※「あくまでも現実と歴史に批判的な目を持ち続けるのが「歴研」であろう」⇒日本国の現状と歴史を常に否定的に見るのが「歴研」の使命だと告白。 ※「全12巻の「講座世界史」(東京大学出版会)と「国民国家を問う」(青木書店)との出版を準備している」⇒要するに日本で出版される歴史全集はマルクス主義者が執筆。 以下は、同じく歴研の2002年発行の雑誌のあとがきである。こんなインチキ嘘つき団体が未だに跋扈しているのが日本の史学界の現状である。 <参考2> 歴史学研究会「戦後歴史学を検証する」-歴研創立70周年記念 -2002年12月刊行- あとがき(前略)60年、70年ごろと現在では歴史学をとりまく状況も学問のスタイルも大きく異なっている。最近の委員の中に、自分は社会主義者であると自認したり、人民闘争史を追求していると自己紹介したりする人は皆無といってもいい。しかし、では戦後の歴研がこだわってきたテーマや戦わされた議論は無駄だったのだろうか。私にはとてもそのようには思えない。60年代、70年代の歴研がこだわった精神、築いたもの、そこから今につながっている地下水脈を確認することが、歴史学の危機とまでいわれる現在の状況の中で、歴研が今後も魅力ある歴史学会として活動していくための足場となるだろう。三回にわたった討論会はいずれも予定時間を超過して、活発な議論が交わされた。70年なんてまだ生まれていなかった、という若い会員も多いだろうが、是非、三つの討論会記録をお読みいただきたいと思う(後略)2002年12月14日 歴研創立70周年記念誌作成担当 榎原 雅治 ※「戦後の歴研がこだわってきたテーマや戦わされた議論は無駄だったのだろうか」⇒完全に無駄・無意味でした。もういい加減にしましょう。 ※「60年代、70年代の歴研がこだわった精神、築いたもの・・・歴研が今後も魅力ある歴史学会として活動していくための足場となるだろう」⇒嘘の上塗りは止めましょう。 ★日本の歴史教科書が、今もルソーとフランス革命を賛美し続ける理由★ 教科書執筆者(=革命論者)が、日本でも、フランスのような「革命」(皇室廃止)を目論んでおり、その願望の反映である。 フランス革命は、小市民(サン・キュロット)によるプロレタリア革命の要素を含んでおり、マルクス主義者からの好意的解釈が生じ易い。 フランス革命は、82年後のパリ・コミューン成立(世界初のプロレタリア政権成立)に繋がっており、その面からも好意的解釈が生じ易い。 ■参考リンク 哲人? 狂人? ルソー(全体主義の祖)の『社会契約論』 フランス革命の真実───人類の負の遺産 保守主義の父 エドマンド・バーク保守主義 フランス革命-wiki ■関連ページ 法学の基礎知識 文学の基礎知識 ■ご意見、情報提供 名前 コメント
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「御先祖を、畏れの心をもってひたすら愛していたならば、1789年からの野蛮な行動など及びもつかぬ水準の徳と智恵を祖先の中に認識したことでしょう。・・・フランス人を目して時代遅れの国民、1789年という解放の年まで惨めであった、生まれの賤しい奴隷的国民と見なす、などという選択をすることもなかったでしょう」 エドマンド・バーク『フランス革命の省察』(1790年) <目次> ■このページの目的 ■ルソーを知るには、まずこの本から ■英語圏では、否定的に扱われているルソーとフランス革命(1)TIME社(米)発行『TIME マガジン ミレニアム特集号』『ライフ人間世界史』は共に完全無視 (2)J.M.ロバーツ(英)著『世界の歴史』は冷淡に短く記述し、バークの保守主義を併記 ■なかなか難しいフランス人自身の革命の評価 ■マルクス主義者に占拠されている日本の史学会<参考1>歴史学研究会「戦後歴史学と歴研のあゆみ」-創立60周年記念-1993年5月刊行- <参考2>歴史学研究会「戦後歴史学を検証する」-歴研創立70周年記念-2002年12月刊行- ★日本の歴史教科書が、今もルソーとフランス革命を賛美し続ける理由★ ■参考リンク ■関連ページ ■ご意見、情報提供 エドマンド・バークの保守主義に学べ!〜共産党の正体 遠藤健太郎(KNN TODAY) ■このページの目的 日本において、戦後長く、社会科学の分野で暴威を振るったマルクス主義思想は、1989-91年のソ連・東欧諸国の共産主義体制崩壊で、完全に勢いを喪失しました。 しかし、マルクス主義思想の母胎となったジャン・ジャック・ルソー『社会契約論』に見られる革命思想は、現在でも学校教育で学童・学生に無意識のうちに刷り込まれ続けています(中学生の歴史教育から文系大学生の社会思想・政治思想科目まで、ルソーとフランス革命を無批判に賛美する傾向が強い)。 いわゆる「左翼」といわれる人たちのうち、 現在でも残存する真正の共産主義者(マルクス主義者)は、もはや救い様のない確信犯的な人々であるとして、 このルソーを起源とする革命思想に取り憑かれた人々は、まだ洗脳を解く余地があると判断できるのではないでしょうか。 もっとも、進歩派知識人といわれる人々や、鳩山由紀夫・加藤紘一など「リベラル左翼」政治家などは確信犯の域に達しており救い難いと思われます。 このページでは、こうしたルソーの革命思想の正体を、フランス革命の海外での一般的な評価も踏まえて詳解し、戦後日本で行われ続けている「革命教育」の残滓を完全に払拭することを目的とします。 但し、このテーマはルソー流の「人権思想」「社会契約説」に深く侵されている「日本国憲法」の是非の問題(そして戦後の法学界の異常性の問題)に直接絡む遠大なテーマでもあり、このページが一応の完成を見るには、相当な時間がかかると思われるのでご容赦願います。 ■ルソーを知るには、まずこの本から 告白(上中下 3巻本) (岩波文庫)ジャン・ジャック・ルソー(著), 桑原 武夫(翻訳)ルソーの「自伝」ですが、脚色(嘘)が非常に多いと言われています。文庫本で3冊と長いのですが、大学などで習う『社会契約論』のイメージとはまた別のルソーの人物像を知るのに最適です。内容も波乱万丈で面白いはず(スタンダールの傑作『赤と黒』はこの『告白』を下敷きの一つとして着想されています)。なお、同じく岩波文庫からでている『ジュリ~新エロイーズ』も読めればルソーの実像が完璧に見えてきますが、現在品切れ・再刊の予定なしで残念です。※参考リンクオスカルも読んだ!? ~新エロイーズ ジャン・ジャック・ルソー~(タロット占い師のぐだぐだ日記様ブログ) ■英語圏では、否定的に扱われているルソーとフランス革命 (1)TIME社(米)発行『TIME マガジン ミレニアム特集号』『ライフ人間世界史』は共に完全無視 権威あるニュース雑誌『TIME』を発行している米TIME社は、1999年に発行したミレニアム特集号(“この千年間に活躍した世界の人物”)にてルソーやフランス革命を完全に無視。ナポレオンは何と源頼朝と同格の扱いだった。日本でも訳本が出版された『ライフ人間世界史』シリーズ(タイム社ライフブックス編集部刊、絶版:図書館にてどうぞ)は21巻の大作にも関わらず、やはりフランス革命を完全に無視している。 (2)J.M.ロバーツ(英)著『世界の歴史』は冷淡に短く記述し、バークの保守主義を併記 英『オックスフォード・ヒストリー・シリーズ』監修者J.M.ロバーツ教授の邦訳版『世界の歴史』第七巻「革命の時代」 では、ルソーの扱いは1ページのみであり、英国人らしくルソーとフランス革命を否定したエドマンド・バークの思想をルソーの思想の後に併記している。フランス革命もその影響力の大きさは認めるものの、その意義については否定的な記述が目立ち、やはり終わりのほうで以下のようなエドマンド・バークの革命への批判を確り記述している。「保守主義による最初の反革命論の著作が出版されたのはイギリスでした。1790年に出版されたエドマンド・バークの『フランス革命の省察』がその本です。バークはそれ以前に、アメリカの植民地住民の権利の保護を主張していた人物で、この本もたんに特権階級を擁護しただけのものではありませんでした。バークは、社会は意思と理性でつくられるものではなく、何よりもまず道徳性の現れであると説きました。そしてフランス革命については、それは知識階級の傲慢と不毛な合理主義、そして最悪の罪であるうぬぼれの現れであるとして、きびしく非難したのです。」 ■なかなか難しいフランス人自身の革命の評価 日本では幸い、フランス近代文学が多数翻訳されており、貴族文化の華が咲いたフランス革命以前(17-18世紀)から、パリ・コミューン壊滅(1871年5月)をもって一連の革命運動が完全に終結し、経済的繁栄が続いた第三共和制の時代(20世紀前半)まで、豊富な文学作品によって当時を生きたフランス人の意識と世相を定点観測することが不完全ながら可能である。 代表例を挙げれば、 1. 大革命前 1.ルソー『告白』(前述)2.ラクロ『危険な関係』 2. 大革命~第1帝政期(ナポレオン1世) 該当なし 3. 王制復古期 1.バルザック『ゴリオ爺さん2.スタンダール『赤と黒』 4. 7月王制期~第2共和制期 1.フローベール『感情教育』 5. 第2帝政期(ナポレオン3世) 該当なし 6. 第3共和制期 1.ジッド2.モーリヤック3.プルーストなどの諸作品 | ※これだけ読んだら、教科書そのままに、ルソーとフランス革命を賛美し肯定するような単純頭からは脱却できるはず。 私の感想では、革命、特に流血の大革命を肯定的に捉えている文学者は皆無であり、むしろ貴族的な生活に強烈な、あるいは仄かな憧憬を抱いているような場合が普通のように見受けられる。「ブルジョワの趣味は俗悪」という捉え方が一般的であり「やはり品のいいのは本物の貴族だ」というのが彼らの最大公約数的な見解である。 要するに、自分は革命で立場が強化されて成り上がったブルジョワに過ぎず、再度自由を奪われるのは困るが、貴族的なものへの憧れは実は非常に強い、という精神構造で、多くのフランス人が生きていたようにみえる。この傾向は現在も変わらないのではないか。 いずれにせよ、フランス人が心底から、あるいはこぞって7月14日の革命記念日(バスチーユ牢獄襲撃の日)を称揚しているなどとは思わないほうがよい(もっともフランスは左翼政党や左翼文化人が強い勢力を持っており、心底から革命記念日を祝っている人も多いと思われる)。 ■マルクス主義者に占拠されている日本の史学会 以下は歴史問題の基礎知識の「劣化著しい史学界」より転載。なぜ日本でルソーやフランス革命が場違いに大きく扱われているのか、その背景を説明。 歴史学研究会(戦後に、羽仁五郎を暫定委員長として再建され史学界を仕切ってきたマルクス主義史観の学術団体)が、ソ連崩壊後の1992年に至って、以下のような序文を付した雑誌を発行している。今となっては余りにも馬鹿馬鹿しい内容であるが、彼らの正体をここでもう一度しっかり確認しておこう。 <参考1>歴史学研究会「戦後歴史学と歴研のあゆみ」-創立60周年記念 -1993年5月刊行- はじめに -批判的史学をめざして-1932年12月に創立された歴史学研究会は、自らの歴史を振り返ってすでに『歴史学研究会 四十年のあゆみ』、『歴研半世紀のあゆみ』を刊行している。昨年、六十周年を迎えるにあたっても記念行事・出版を考えたが・・・財政的にもあまり余裕のない状況だったので、つつましい企画で満足することにした。・・・歴史学研究会の創立は、必ずしも反「史学会」とか、その後有力になっていく皇国史観に逸早く対抗するとかの意識をもってのことではなかったようだ。・・・だが、第二次世界大戦後、歴研はマルクス主義者を中心に時代のエートスに応える歴史研究者の団体として大きな影響力を及ぼすに至った。いわゆる「戦後史学」の中軸をになったと言ってよかろう。しかし1970年代になると、「戦後史学」はイデオロギーの面でも歴史研究の方法の点でも批判に晒されるようになった。その頃の特徴は批判者の多くが歴研と同根の「左翼」の人々であったことである。1980年代の末ともなると、ソ連邦が消滅するという、それを長らく願っていたような人ですら意表をつかれるような事態が生じた。歴研を批判していた「左翼」にとっても歴研批判どころではなくなり、土台が一緒に揺らいだと言える。・・・歴研委員会の中ですら、歴研にとっては馴染みの「人民的・変革的・科学的」という言葉に対する違和感が表明された。私は、1990年の総会の答弁で述べたとおり、その三つの言葉を「下からのまなざしをもち、現実の矛盾から目を逸らさず、学問的な手続きをきちんとふむ」ことと理解する。・・・歴研は今もこの三つを追及しようという人々の集まりである。あくまでも現実と歴史に批判的な目を持ち続けるのが「歴研」であろう。そして、江口委員長の時代から、党派的分裂の危機を何度も乗り越えてきた伝統を持っている。その伝統と観点に立って、1992年12月5日(土)、東京大学本郷キャンパスで「いま、なぜ歴史学か」というテーマを掲げてシンポジウムを開催し、約200名の参加を得た。・・・さらに、全12巻の「講座世界史」(東京大学出版会)と「国民国家を問う」(青木書店)との出版を準備している。これも六十周年記念企画の一環である。以上すべての企画に協力された方々に深く感謝したい。とくに若い委員の諸君に。そうした若い諸君の存在こそが歴研の未来を保証してくれるのである。1993年3月 委員長 西川 正雄 ※「あくまでも現実と歴史に批判的な目を持ち続けるのが「歴研」であろう」⇒日本国の現状と歴史を常に否定的に見るのが「歴研」の使命だと告白。 ※「全12巻の「講座世界史」(東京大学出版会)と「国民国家を問う」(青木書店)との出版を準備している」⇒要するに日本で出版される歴史全集はマルクス主義者が執筆。 以下は、同じく歴研の2002年発行の雑誌のあとがきである。こんなインチキ嘘つき団体が未だに跋扈しているのが日本の史学界の現状である。 <参考2>歴史学研究会「戦後歴史学を検証する」-歴研創立70周年記念 -2002年12月刊行- あとがき(前略)60年、70年ごろと現在では歴史学をとりまく状況も学問のスタイルも大きく異なっている。最近の委員の中に、自分は社会主義者であると自認したり、人民闘争史を追求していると自己紹介したりする人は皆無といってもいい。しかし、では戦後の歴研がこだわってきたテーマや戦わされた議論は無駄だったのだろうか。私にはとてもそのようには思えない。60年代、70年代の歴研がこだわった精神、築いたもの、そこから今につながっている地下水脈を確認することが、歴史学の危機とまでいわれる現在の状況の中で、歴研が今後も魅力ある歴史学会として活動していくための足場となるだろう。三回にわたった討論会はいずれも予定時間を超過して、活発な議論が交わされた。70年なんてまだ生まれていなかった、という若い会員も多いだろうが、是非、三つの討論会記録をお読みいただきたいと思う(後略)2002年12月14日 歴研創立70周年記念誌作成担当 榎原 雅治 ※「戦後の歴研がこだわってきたテーマや戦わされた議論は無駄だったのだろうか」⇒完全に無駄・無意味でした。もういい加減にしましょう。 ※「60年代、70年代の歴研がこだわった精神、築いたもの・・・歴研が今後も魅力ある歴史学会として活動していくための足場となるだろう」⇒嘘の上塗りは止めましょう。 ★日本の歴史教科書が、今もルソーとフランス革命を賛美し続ける理由★ 教科書執筆者(=革命論者)が、日本でも、フランスのような「革命」(皇室廃止)を目論んでおり、その願望の反映である。 フランス革命は、小市民(サン・キュロット)によるプロレタリア革命の要素を含んでおり、マルクス主義者からの好意的解釈が生じ易い。 フランス革命は、82年後のパリ・コミューン成立(世界初のプロレタリア政権成立)に繋がっており、その面からも好意的解釈が生じ易い。 ■参考リンク 哲人? 狂人? ルソー(全体主義の祖)の『社会契約論』 フランス革命の真実───人類の負の遺産 保守主義の父 エドマンド・バーク保守主義 フランス革命-wiki ■関連ページ 法学の基礎知識 文学の基礎知識 ■ご意見、情報提供 俺は日本第一党を支持する保守派だと思ってるけど、自身を自虐的に描いた告白を第一に紹介するってw、ルソーはジュネーブで生まれたが、我々が独裁制を好まないように、絶対主義を好まないとか色々な愛国心の仕方があるわけで、これはどうかと思うな -- 通りすがり (2016-10-02 19 45 54) 名前 コメント
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啓蒙主義の歴史記述 ビュフォン 代表的著作『自然誌』およびその補遺のなかで機械論的自然観に基づいて地球の自然史を記述した。彼は人間の歴史と自然史を区別し、聖書に基づく従来の歴史記述との矛盾を極力回避しようと試みた。彼は地球がやがて冷却してあらゆる生物が死滅すると述べたが、これも従来の終末、神の救済へと至るキリスト教の歴史観とは異なるものであった。彼の地球科学理論は極めて思弁的であったが、その著作が広く読まれ、自然史と人類史との分離を定着させた功績は偉大である。このような特徴は地理学や歴史学、生物学、地質学など記述的な面の比重が大きい科学研究分野での啓蒙思想の影響をよく示している ここでは啓蒙主義?の歴史記述について解説する。 特徴啓蒙思想の歴史意識 普遍史 聖書批判 近代的年代学 啓蒙主義の歴史記述古典古代 歴史的展開事実の把握、その個別化ベール ライプニッツ 目的論の拒否ヴォルテール ヒューム 構造の把握、同時代への批判モンテスキュー ルソー 進歩史観コンドルセ そしてロマン主義へヘルダー 啓蒙主義的歴史研究の限界ヨーロッパ中心史観 中世史の欠如 歴史事実と歴史概念の背理 参考文献 使用条件など 特徴 西洋における歴史記述は啓蒙時代に大きく前進し、今日の科学的世界史成立における重要な契機をこの時代におくことができる。啓蒙主義を「非歴史的である」と批判したロマン主義?の主張はこの点適正を欠いている。啓蒙主義の歴史学は、史料から客観的な方法で歴史事実を明らかにする視点に乏しいという意味で批判されるべき性格を持っているが、検証可能という意味で客観的な歴史法則・歴史的展開を記そうとしている点は科学的であったと評価できる。啓蒙主義の歴史学は個別的事実の把握とその客観的な整合性の把握においてはいまだ不徹底さの中にあったといえるが、人類史の記述方法について合理性を追求している面は高く評価できるし、その多くを今日の歴史記述・歴史学は遺産として引き継いでいることも見逃してはならない。 ここでは特に啓蒙主義以前の歴史研究からの継続面・断絶面を個別に説明し、啓蒙主義の歴史研究・歴史記述の特徴を示す。 啓蒙思想の歴史意識 ピラミッド 古代エジプト文明が残した驚異的な建造物。このエジプト文明の古さの問題が神学的歴史記述の大きな問題となった 啓蒙思想は自然科学的な方法を重視し、従来は神学的に解釈されていた事柄についても合理的な説明をおこなった。たとえばローマ帝国?の盛衰について、モンテスキュー?はローマ帝国の制度が絶え間ない戦争によって形成されたと指摘し、軍隊の影響力が増し、共和政から帝政に移行していったのは当然の帰結であったとする。ローマの滅亡も軍事的な衰退に求められており、道徳的退廃などは全く重視されていない[1]。これは従来の神学的歴史研究、いわゆる普遍史においてはローマ帝国がキリスト教帝国であるゆえに発展し、その崩壊とともに終末が訪れるという救済史から解釈されているのと異なり、ローマ帝国それ自体の分析・把握からその歴史的性格を明らかにしているものである[2]。このような科学的精神は後述する従来の歴史研究、普遍史・伝統的聖書解釈・聖書的年代学の批判にも通じ、また同時代の生物学?・地質学?などの自然研究においても同様の方法論的転回が見られた。 [1]モンテスキューは悪徳を犯した皇帝がしばしば偉大な軍事的成功を収めていると述べている。たとえばユスティニアヌス?、老アンドロニクス・コムネヌス?などを例にあげ、これらの皇帝は徳性において恵まれていないにもかかわらず、時代状況によって幸運にも業績を残すことができたという。 [2]たとえば普遍史の古代における代表的論者アウグスティヌス?は、モンテスキューとは正反対に道徳的退廃をローマ帝国の衰退理由としている。 普遍史 キリスト教の世界観は天地創造から終末の神の救済へと至るものであった。普遍史とはキリスト教の世界観に基づき、当時知られた世界の歴史をキリスト教的に解釈するものであった。具体的には天地創造から大洪水、アッシリア・ペルシャ・ギリシャ・ローマの四世界帝国の繁栄が続き、ローマ帝国の滅亡とともに神の国実現がなされるというものである。 宗教改革?がおこると、普遍史においてプロテスタント?とカトリック?の間で論争がおこなわれるようになった。従来聖書の底本としては七十人訳聖書?がキリスト教徒の間で支配的であった。プロテスタントはこの七十人訳聖書を批判して、より原典に近いと思われるヘブライ語?の聖書に依拠することを主張し、すぐれた翻訳をおこなった。問題はこのヘブライ語聖書によって得られた事件の年代が七十人訳聖書で得られる年代と相違し、イエス生誕の時点で1000年ほどの誤差が生じた。さらに聖書の記載する天地創造からイエス生誕までの歴史は4000年ないし最長で5500年ほどであったが、エジプト?文明がそれ以前にさかのぼりうること、および地理的発見により聖書に記載されていないアメリカ大陸の住民が知られるようになったことがこの問題を一層深刻にした。そのため両派はこの事実を解明するためにより厳密な聖書批判と記載された事実の歴史研究へ向かうこととなった。 聖書批判 メランヒトン すぐれた聖書研究家であり、聖書年代学者であった。大部分が彼の手になるとされる『カリオン年代記』は、プロテスタント的普遍史であるが、1555年ころからほぼ1世紀の間ヨーロッパで最も広く読まれた歴史書の一つであった このような矛盾を解決する直接的な動きは聖書の文献批判によってまずおこなわれた。とくにモーセ自身が書いたものと思われていた「モーセ五書?」に対する批判的検討が進み、ラ・ペレール?・ホッブズ?・スピノザ?によってモーセ五書が後世の時代にモーセにさかのぼって記述されたものであることが明らかにされた。さらに1711年にはドイツの牧師ヴィッターによって、1753年にはジャン・アストリュック?によって、聖書の記述主体として2つの人間集団が想定されることが明らかにされた。具体的には聖書内において神の呼称は「ヤーヴェ」と「エロヒム」として現れるが、これをそれぞれの使用例ごとに分割すると、それぞれ一貫した文書となることが判明した。これにより聖書内の記述の重複、いわゆる「ダブレット」の問題も合理的に説明可能となり、聖書批判は大きく前進した。 近代的年代学 年代の記載方法にも大きな前進が見られた。従来の天地創造を基点とした年代記述では、エジプト史、さらに新たに知られた中国史をそのうちに取り込むには困難を伴った上、すでに述べたように典拠とされる聖書によって年代の不一致が生じた。 スカリゲル?は太陽暦・太陰暦、さらにローマの税制の基礎となっていたローマン・インディクション[1]を掛け合わせて7980年というユリウス周期を基準とする年代決定法を提唱し、その始まりを紀元前4713年においた(1583年)。このユリウス周期上には一日刻みにユリウス日という単位がおかれ、日食・月食などの天文学的な出来事をその上に配置することが可能で、それに基づいて歴史に残された天文記録に基づく年代考証が可能となった。彼はこれにより聖書に依らない科学的な年代学を確立した。 しかしこの紀元前4713年という時間は従来の聖書解釈に基づく歴史を対象としていたために、エジプト史や中国史が聖書で求められる年代以前にさかのぼることが認識されるようになると、スカリゲルのユリウス周期に歴史事実をおさめることは困難になった。フランスのイエズス会?士ペダヴィウス?はイエスの生誕年に歴史記述の基点を定めることを実用性という観点から科学的に主張した[2]。彼はイエス以後の年号はどの聖書に基づいても一致し、かつイエス以前についてさかのぼっても比較的近い過去は年代の誤差が少ないことを指摘し、年代記述の基点をイエス生誕の年とすることを主張した。これは今日の歴史学において一般的に採用されている年代記述である。 [1]ローマ帝国では313年以降15年を単位として財産評価が行われ、年号の表記にも取り入れられた。これがローマン・インディクションである。 [2]ペダヴィウス以前にも歴史記述で補助年代としてイエス生誕を基準とした年代記述はなされていたが、彼は合理的にその意義を主張したという点で科学的であるとされる。 啓蒙主義の歴史記述 啓蒙主義の歴史研究は、以上のような前時代の歴史研究の方法論に関する成果を踏まえて、歴史そのものに合理性・法則性を見出していくものとなった。それは歴史の一般法則を追求する方向へ向かったという意味で、普遍史的な方向性を持っていたが、その法則自体は神学的な説明を排し、合理的でより科学的な説明が期待された。また従来歴史記述において聖書に反する歴史事実は軽視あるいは無視される傾向にあったが、歴史事実自体を尊重して歴史の把握に関しては、事実からの帰納が重視された。 古典古代 啓蒙主義の歴史研究は古代ギリシャ・古代ローマを自らの文明の出自とし、そこからヨーロッパ文明が直線的に進化してきたという自生的な文明観を持っていた。従来の普遍史においては周縁に過ぎなかったギリシャ文明と異教時代のローマを重視する歴史記述をおこなった。 歴史的展開 ライプニッツ 代当時の中国学の第一人者でもあり、未完の中国道徳哲学についての著作がある。彼のモナド論はのちの歴史研究にも影響を与えた 事実の把握、その個別化 啓蒙主義精神の直接の起源はデカルトの演繹論に求められるが、その歴史研究においてはむしろベーコンやロックの帰納主義のほうが決定的であった。歴史事実に基づかない歴史法則を設定することを拒否したその歴史研究は、当然歴史事実それ自体を尊重するものであった。 ベール ベールは『歴史批評辞典』を著し、事実を事実として尊重する立場を示した。彼は歴史事実を事実として並列的に扱い、それに普遍的な意味づけをせずにただ記載して辞典的に把握する方法をとった。しかしこのことは同時に歴史哲学が歴史のある時点で主観的に形成されること、すなわち歴史哲学が歴史的な産物であることを示して、従来の普遍史的な歴史把握を鋭く批判するものであった。 ライプニッツ 哲学者?・数学者?としてよく知られるライプニッツは、当時中国学の権威でもあり、中国の古さ・儒教の道徳的価値の高さを評価していた。彼は歴史事実を静態的に扱うのではなくて、動態的に、一つの過程として認識すべきことを主張した。これは彼のモナド論?に基づく知見であるが、近代歴史学の原理に直接つながるものであった。 目的論の拒否 神学的な世界史解釈、つまり世界が救済に向かっているというような認識を啓蒙主義は厳しく批判した。啓蒙主義は事実や人間性、社会から歴史が構成され認識されるべきであると述べた。ただしこの傾向はあまりに心理学的、文化人類学的な研究方針につながり、啓蒙主義は今日で言えば文化史的な風潮を基調とするものとなった。 ヴォルテール ヴォルテールはボシュエの神学的世界史を批判し、人間性に注目した心理学を重視する歴史理論を唱えた。彼は国民の精神や時代の精神といったものに着目し、それらの要素が文化に影響を与える様子を記述しようとした。また彼は中国史を西洋史より古いものであると扱っている。 ヒューム ヒューム 啓蒙主義の理性主義へ激しい批判を加えた。後半生は歴史研究へと向かった ヒュームはあらゆる観念の理性による基礎付けを否定した。彼は理性的な認識が蓋然的な事実どうしの因果関係を認識するにとどまるとした。しかし人間がそのような蓋然的にすぎないものに依拠しつつ、なぜ普遍的な道徳法則を設定することが可能かと言えば、それは共通の社会的基盤に立った共感によるからであるとされた。このことはただ神学的な目的論のみならず、あらゆる目的論的歴史学を拒否するものであった。したがって彼の歴史研究は、普遍的な歴史法則の追求よりも社会そのものの記述に向かった。 構造の把握、同時代への批判 啓蒙主義の歴史研究では、歴史事実の集積から一定の社会構造・政治構造を抽出しようという試みもおこなわれた。一般にこのような抽出された社会構造・政治構造は現実の社会批判に結びつき、きわめて実践的なものとなり、有力な社会理論・政治理論に根拠を与えるものとなった。 モンテスキュー モンテスキューは歴史研究を通して古今の政体を比較・分類した。さらにこうして明らかにされた政体ごとに関連する歴史事実を整理・分類することで、その性質をより厳密に、構造的に把握するが可能となり、偶然的な歴史事実に一定の形式を与える社会構造・政治構造の認識が可能であるとし、それを実践した。 ルソー ルソーは歴史をより実践的で教訓的であるべきとし、しかも歴史家の見地を排して事実を忠実に伝えるものであるべきと述べた。しかし一方で、彼は歴史事実に自ら憶説的と認める推理を導入し、さらに理性を重視して先験的な法則性を重視し、歴史事実を副次的に扱う傾向も強く認められる。このことが彼の政治理論において歴史事実が現在の問題と深く結びつけられることとなり、逆説的に歴史事実の尊重につながっている。 進歩史観 啓蒙主義は科学的成果と地理的視野の拡大に基づく人間認識の向上に支えられ、時代が新しい局面に入ったという希望を人々に抱かせた。このことは前の時代よりも啓蒙時代が一層優れているという認識となり、それが人間が進歩的な歴史を歩んでいるという意識につながった。 コンドルセ コンドルセは人間精神の発達を10の段階に分け、啓蒙時代をその9段階目まで実現された時代であると述べた。彼は人間社会の発展を、知識や学問の進化という形で捉えた。 そしてロマン主義へ ヘルダー ロマン主義の思想家。カッシーラーによれば、啓蒙主義歴史研究に替わる、新たな歴史認識の一歩を踏み出した 歴史事実は一回性・偶然性に基づくが、それを記述し価値を見出していくためにはそこに何らか他の価値や事実との同一性・整合性が見出されなければいけない。啓蒙主義は事実を事実として尊重した一方、人類史を合理的に研究しようとしたが、多くの歴史研究は事実に偏るか法則性に偏るかに分裂し、その統一には概して失敗した。新たな歴史研究は過程の同一性・整合性という視野を開き、啓蒙主義の歴史研究を超克していった。 ヘルダー ヘルダーは啓蒙主義の普遍的な人間観を批判し、たとえばエジプト人の歴史はエジプト人自身の特性から考察されるべきだとした。彼によれば、歴史事実は互いに異なる重心を持った球のようなもので、それぞれの地域・民族の歴史は異なった重心を持つ独立の歴史として統一的に把握されなければならないと述べた。 啓蒙主義的歴史研究の限界 ここでは啓蒙主義の歴史記述の限界について指摘する。 ヨーロッパ中心史観 啓蒙主義の世界観が、世界大の広がりを持ったものであったにせよ、それがヨーロッパから見た世界でしかなかったということは、歴史研究においても影響を及ぼした。ヨーロッパの文明が古代から啓蒙時代に進歩した歴史を歩んできたのに対し、アジアは古代から変わらず停滞しているという認識が認められる。 中世史の欠如 啓蒙時代には古代と啓蒙時代の比較が文芸評論を中心にいろいろ論じられたが、ルネサンス以前の中世に対しては否定的かつ全くと言っていいほど無視された。また啓蒙思想が問題にした古代とは古代ギリシャ・古代ローマに限られていた。 歴史事実と歴史概念の背理 啓蒙主義は普遍史の神学的歴史解釈を批判し、歴史事実を重視することを論じ、さまざまな理論探求がおこなわれたが、その熱心さにも関わらず、歴史の体系的把握に成功しているとは言い難い。多くの場合歴史事実の一回性・偶然性を持てあまし、それを価値体系に結びつけて記述することを放棄するか、あるいは極端に一面化した法則のなかに歴史を閉じこめようとする傾向にあった。 参考文献 岡崎勝世?著 『キリスト教的世界史から科学的世界史へ』勁草書房、2000年 岡崎勝世?著 『世界史とヨーロッパ』講談社現代新書、2003年 カッシーラー?著、中野好之?訳 『啓蒙主義の哲学 下』ちくま学芸文庫、2003年 使用条件など -
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永原 慶二(ながはら けいじ、1922年7月12日 - 2004年7月9日 )は日本の歴史学者。専門は日本中世史。一橋大学名誉教授、和光大学名誉教授。一橋大学経済学博士。 妻の永原和子は女性史研究者である。門下に池享(一橋大教授)や池上裕子(成蹊大教授)、西田美昭(東京大名誉教授)。 目次 [非表示] * 1 生涯 * 2 著書 o 2.1 単著 o 2.2 編著 * 3 参考文献 生涯 [編集] 中国大連市に生まれる。1939年に東京高等学校文科乙類を卒業後、東京帝国大学文学部国史学科に入学。1943年、文科系学生の徴兵猶予停止にともない、海軍の大竹海兵団に入団。1944年、東京帝国大学国史学科卒業。終戦後に帰郷し、東京帝国大学大学院に入学。1947年東京大学史料編纂所員となり、『大日本史料』第三編の編纂業務に従事。1958年、一橋大学経済学部助教授となり、日本経済史講座を担当。1962年に一橋大学より「日本封建制成立過程の研究」により経済学博士の学位を取得。1963年から1986年まで一橋大学教授を務めた。退官した1986年に一橋大学名誉教授。1986年から1988年まで日本福祉大学経済学部教授(88年から98年まで客員教授)、88年から93年まで和光大学人文学部教授。同大学退官にあたって名誉教授。 また、学界においては、1970年から1973年まで歴史学研究会委員長、1978年から1985年まで日本学術会議会員、1978年から1993年まで文化財保護審議会専門委員、1983年から1989年まで比較家族史研究会(のち比較家族史学会)会長をつとめる。 在地領主制、とくに荘園制・大名領国制研究を展開して、日本中世史像の基礎を確立した。その学問については、自身による回想や門人らによる業績紹介・追悼文によって構成された『永原慶二の歴史学』が刊行されている他、主要著作について、吉川弘文館より『永原慶二著作選集』全10巻が刊行。戦後、代表的なマルクス主義に基づく歴史研究を行った学者である。 著書 [編集] 単著 [編集] * 『新日本史講座 封建時代前期の民衆生活』(中央公論社、1950年) * 『日本封建社会論』(東京大学出版会、1955年) * 『源頼朝』(岩波書店〈岩波新書〉、1958年) * 『日本封建制成立過程の研究』(岩波書店、1961年) * 『日本の歴史10 下剋上の時代』(中央公論社、1965年) * 『体系・日本歴史3 大名領国制』(日本評論社、1967年) * 『日本の中世社会』(岩波書店、1968年) * 『日本経済史』(有斐閣、1970年) * 『日本中世社会構造の研究』(岩波書店、1973年) * 『日本の歴史14 戦国の動乱』(小学館、1975年) * 『中世成立期の社会と思想』(吉川弘文館、1977年) * 『中世内乱期の社会と民衆』(吉川弘文館、1977年) * 『荘園』(評論社、1978年) * 『歴史学叙説』(東京大学出版会、1978年) * 『日本経済史』(岩波書店、1980年) * 『日本中世の社会と国家』(日本放送出版協会982年) * 『皇国史観』(岩波書店、1983年) * 『大系日本の歴史6 内乱と民衆の世紀』(小学館、1988年) * 『新・木綿以前のこと』(中央公論社〈中公新書〉、1990年) * 『天皇制・新国家主義と歴史教育』(あゆみ出版、1990年) * 『室町戦国の社会 商業・貨幣・交通』(吉川弘文館、1992年) * 『中世動乱期に生きる 一揆・商人・侍・大名』(新日本出版社、1996年) * 『戦国期の政治経済構造』(岩波書店、1997年) * 『「自由主義史観」批判』(岩波書店〈岩波ブックレット〉、2000年) * 『歴史教科書をどうつくるか』(岩波書店、2001年) * 『富士山宝永大爆発』(集英社〈集英社新書〉、2002年) * 『20世紀日本の歴史学』(吉川弘文館、2003年) * 『苧麻・絹・木綿の社会史』(吉川弘文館、2004年) * 『永原慶二著作選集』(吉川弘文館、2007-2008年) o (1)日本封建社会論 日本の中世社会 o (2)日本封建制成立過程の研究 o (3)日本中世社会構造の研究 o (4)荘園 荘園制と中世村落 o (5)大名領国制 中世後期の社会と経済 o (6)戦国期の政治経済構造 戦国大名と都市 o (7)日本中世の社会と国家 中世史の争点 o (8)日本経済史 苧麻・絹・木綿の社会史 o (9)歴史学叙説 20世紀日本の歴史学 o (10)歴史教育と歴史観 編著 [編集] * (古島敏雄)『商品生産と寄生地主制』(東京大学出版会、1954年) * 『日本経済史大系2』(東京大学出版会、1965年) * 『人物日本の歴史4 鎌倉と京都』(読売新聞社、1966年) * 『戦国期の権力と社会』(東京大学出版会、1976年) * 『戦国時代 1550年から1650年の社会転換』(吉川弘文館、1978年) * 『カレンダ-日本史 一日一史話』(岩波書店、1979年) * (松島栄一)『元号問題の本質』(アンリ出版、1979年) * 『日本経済史を学ぶ』(有斐閣、1982年) * 『講座・日本技術の社会史 第1巻』(日本評論社、1983年) * 『中世・近世の国家と社会』(東京大学出版会、1986年) * 『中世の発見』 ほか多数 参考文献 [編集] * 永原慶二追悼文集刊行会 編『永原慶二の歴史学』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-07959-9 参照:ウィキペディア「永原慶二」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%8E%9F%E6%85%B6%E4%BA%8C 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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歴史 旧石器時代 日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年ないし約3万年前までさかのぼる。古く北海道と九州方面は大陸と地続きでありナイフ形石器と呼ばれる石器が列島全域で広く使用された。このナイフ型石器は北海道では発掘されていない。約2万年前にはシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まった。しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ型石器文化が併存したが、ほどなく細石刃が西日本にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消した。 また、約3万5000年前の世界最古の磨製石器(局部磨製石斧)が見つかっており、すでに列島では独自の磨製石器の使用が見られる。 岩戸遺跡からは約3~2万年前のものとみられるこけし型の岩偶が見られ、旧石器時代にも何らかの信仰があったことがうかがえる。 約1万2千年前頃、最終氷期が終わり急激な温暖化による海面上昇が始まると、日本列島はアジア大陸から分離した。これにより、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、南西諸島を除いて、次の縄文時代へ移行していった。 縄文時代 縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。 草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。この頃の日本列島人は縄文式土器を作り、早期以降定住化が進んで主に竪穴式住居に住んだ。弓矢を用いた狩猟、貝塚に見られる漁労、植物の採集などで生活を営み、打製石器、磨製石器、骨角器などを用いた。 雑穀や堅果などの栽培も行われたとする仮説も提示されており、野生のイヌビエから穀物のヒエへの栽培化のプロセスが追跡できるとする研究や、クリの選択が行われて栽培化の動向がうかがわれるとされる研究も公表されている。後期から晩期にかけては稲作も導入された。 南西諸島においてこの時期の前半は旧石器時代が継続していたが、約6千年前以降に貝塚時代に移行し、およそ平安時代末期まで続いた。 弥生時代 紀元前9世紀頃から3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生式土器に由来する。稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から本州最北端以北を除く日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれた。当時多く築造された墳丘墓は大型地域集団の首長墓と見られ、身分差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。 当時の日本列島は中国から倭・倭国と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の「国」が中国と通交していたとされる。倭の奴国王は後漢へ通使し金印を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を2世紀初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に帥升がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後半に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、その後邪馬台国の卑弥呼が倭国王となった。卑弥呼は魏との通交により倭国連合の安定を図った。 北海道・北東北地方においては水田耕作が受容されず続縄文時代に移行した。 古墳時代 3世紀中後半から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。3世紀中頃に畿内に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まっており、このことは畿内(ヤマト)・北部九州(筑紫)・北関東(毛野)・山陽(吉備)・山陰(出雲)に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている。ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされている。この王権が後に国家としての体制を整え、さらに大和朝廷と称される政権に発展するが、どの時期以降をもって朝廷と呼ぶべきかに関しては、なお議論がある。 4世紀後半からヤマト王権は、列島主要部の支配を固めるとともに武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島への進出を開始し、半島諸国の国際関係にも介入するようになったが、これを契機として朝鮮や中国の技術と文物が倭国へ流入した。 5世紀に入るとヤマト王権は本拠を河内平野へ移し、朝貢することで朝鮮半島諸国との関係を優位にすべく、その目的にふさわしい官爵を求めて中国の南朝との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。 倭の五王最後の倭王武に現時点で比定されているのは、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)であり、後世雄略天皇(470年頃治世)と諡(おくりな)されている人物である。このころより、大王_(ヤマト王権)や治天下大王と称するようになる。また朝鮮半島での勢力拡大を思うように行えなかったことから、それを目的にしていた中国の王朝への朝貢も行われなくなった。この時期の前方後円墳は、特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。 倭の五王の後、5世紀後半から6世紀前半にかけて、ヤマト王権では混乱が見られた。しかし北陸・近江根拠地の傍系王族から即位した継体天皇の登場と統治により、ヤマト王権の列島支配が強まり、これ以後は現天皇に繋がる体制が確立した。なお、継体天皇期には、北九州で磐井の乱などが起こっているが、ヤマト王権と北九州豪族磐井の関係については不明の点が多い。 またこの時代には、朝鮮半島諸国の国際関係への介入は大きく後退した。こうした内向政な時期を経て、ヤマト王権による日本列島支配体制はさらに強化されていった。同時期にオホーツク海沿岸地域では、オホーツク文化が成立し、およそ13世紀まで続いた。 この時代(場合により次の飛鳥時代を含めて)を、大和時代と呼ぶことがあったが、現在は古墳時代とするのが一般的である。 飛鳥時代 6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。6世紀後半にはヤマト王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化・白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。6世紀末、400年ぶりに中国を統一した隋の登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらし、倭国でも7世紀前半にかけて聖徳太子と蘇我氏により遣隋使派遣・冠位十二階制定・十七条憲法導入などの国政改革が行われた。しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。 7世紀中頃の大化の改新も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→白村江の戦い)であり、倭国内の諸勢力は国制整備を進めることで一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。天皇号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。 なお、この時期北海道中西南部・青森県北部においては擦文時代を迎える。 奈良時代 8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれた。この時期は、律令国家体制の形成と深化が図られた。王土王民思想に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては編戸制・班田制・租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われた。8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、三世一身法・墾田永年私財法などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、8世紀後半に入ると、百姓階層の分化が始まり、百姓の逃亡が増加するなど、律令支配の転換を迫る状況が生じていった。 また、新羅を蕃国とし、東北地方の蝦夷・南九州の隼人を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。 文化面では、『日本書紀』・『万葉集』・『風土記』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた天平文化が栄えた。仏教では鎮護国家思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺・国分寺が国家護持の名目で建立された。 平安時代 8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。平安前期には古墳時代の地方首長層に出自する古来の国造一族から任命された郡司階層の没落と百姓階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで朝廷は11世紀初頭頃から地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制が成立した。王朝国家では、朝廷から大幅に統治権限を委譲された受領とその国衙機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系は従来の律令体制における、戸籍による個別人民把握と郡司層の百姓層に対する首長権に裏付けられた、人頭税方式の課税から、土地単位の課税と有力百姓階層や土着した元国司子弟などの富豪層への農地経営請負委託を組み合わせた、負名体制へと変貌した。また地方統治を裏付ける軍事面においては、国衙軍制を通じて武芸の家として武装と武力の行使を公認された官人層である、武士階層が登場した。また、中央政治においては11世紀に藤原北家が天皇家の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。 12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から13世紀にかけて荘園の量的増加と、経営単位として自律した一円領地化という質的変化が著しくなり、権門を荘園領主とする荘園と、国衙が支配する公領が対等な存在として拮抗して並び立ち、このそれぞれにおいて荘園・公領間の武力紛争に耐えられる武士が現地の管理者として在地領主化する、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には上皇が治天の君として政務に当たる院政が開始しており、この時期が古代から中世への画期であるとされている。平安末期には保元・平治両乱を経て武士の軍事力が中央政界の政争の帰趨を左右するようになり、その結果、中央政界で政治の主導権を握った伊勢平氏によって原初的な武家政権と評価される平氏政権が登場した。 奈良時代から漸次的に進んでいた文化の日本化が国風文化として結実し、漢字を元に生み出された平仮名・片仮名が使われていくようになり、『源氏物語』・『枕草子』に代表される物語文学などが花開いた。密教や末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。 南西諸島においては、12世紀頃からグスク時代に入る。以降の詳細は、北から奄美群島の歴史、沖縄県の歴史、先島諸島の歴史などを参照のこと。 鎌倉時代 12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱で勝利して平氏政権を打倒し、その過程で守護・地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と並びうる政権へと成長した。13世紀前半の承久の乱の結果、公家政権は武家政権に従属した。その後、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立した。 13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出など、大きな社会変動が生じ始めた。この動きは13世紀後半の元寇によって加速し、幕府の対応策は徳政令発布や得宗専制という形で現れた。また在地社会では悪党・惣村などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。 文化面では運慶と快慶の東大寺南大門金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面では鎌倉新仏教の成立により、民衆へ仏教が普及していった。北海道においては、13世紀頃からアイヌ文化が成立した。 南北朝時代 14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統の南朝と足利氏が支援する持明院統の北朝に朝廷が分かれた。大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、武士層の不満が増すと、足利尊氏はそれを背景に新政から離反し、持明院統を擁立して大覚寺統を南の吉野に追った。荘園公領制の変質が、社会各層における対立を顕在化させ、南北朝の争いを大義名分とする全国的な抗争が展開した。 文化面では、ばさらに代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、連歌が流行し、『二条河原落書』など文化の庶民化への動きが見られた。 室町時代 14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。足利尊氏が南朝に対して北朝を擁立し室町幕府を開いた。京都に本拠を置いた幕府は、朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷(公家政権)は政治実権を失っていった。各国に置かれた守護も半済等の経済的特権の公認や守護請の拡大などを通じて、国内支配力を強め、国衙機能を取り込んでいき、守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる支配体制を築いた。こうして幕府と守護大名が構築した相互補完的な支配体制を室町幕府-守護体制という。 足利義満は南北朝合一を遂げ、また日明貿易を行い明皇帝から日本国王に冊封された。義満は守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺すると明応の政変を契機としてついに崩壊し、戦国時代へと移行した。 この時代の社会原則は自力救済であり、各階層内において連帯の動き=一揆が浸透した。村落社会の自立化が進み惣村・郷村が各地に成立した。西日本では交易が活発化し、その活動は朝鮮・中国に及んだ(倭寇)。文化面では、連歌・猿楽・喫茶など身分を超えた交流に特徴付けられる室町文化(北山文化・東山文化)が栄えた。この文化は禅宗の影響を受け、簡素さと深みという特徴も持っていた。 戦国時代 15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。この時代は、守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。そうした流れの中で16世紀半ばに登場した織田信長は、兵農分離などにより自領の武力を強力に組織化して急速に支配地域を拡大していった。 この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達し、各地に都市が急速に形成されていった。また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が開始し、火縄銃やキリスト教などが伝来し、それまでの戦術や日本の宗教観念に大きな影響を与えた。 安土桃山時代 織田信長は室町将軍足利義昭を放逐し、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。しかし、信長が本能寺の変により滅ぼされると、天下統一の事業は豊臣秀吉が継承することとなった。 秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から九州に至る地域を平定し、統一事業を完了した。秀吉もまた中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、太閤検地の実施を通して荘園公領制・職の体系を消滅させ、これにより中世は終焉を迎えた。秀吉は朝鮮への出兵を実行したが、その最中に死去。後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化していった。 秀吉による天下統一により、政治や経済の安定がもたらされると大名・武士を中心として豪壮な桃山文化が栄えた。 江戸時代 慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれ、江戸に江戸幕府が置かれた。 秀吉の死後、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して権力を掌握すると江戸に幕府を開き、大坂の役で豊臣氏を滅ぼした。この後幕府は、17世紀中葉までに武家諸法度の発布、参勤交代の義務化、有力大名の改易などを通して、諸大名との主従制を確固たるものとし、また朝廷統制を強め、幕府官僚機構を整備した。並行して、キリスト教の制限と貿易の管理強化を進め、社会の安定化に努めた。そうした中勃発した島原の乱は、キリスト教禁止の徹底と出島での管理貿易による鎖国の完成へとつながる。日本の境界領域である琉球王国と蝦夷地(和人地である渡島半島を除く北海道、樺太及び千島列島)の支配は大名を通じて行なわれた。 一方で、社会の安定化に伴い、耕地開発の大事業が各地で実施され、倍増した耕地面積は食糧増産と人口増加をもたらし、村請を通じて幕府財政や藩財政を支えるとともに、全国的な流通経済を大きく発展させた。以上のように、江戸時代前期に確立した支配体制を幕藩体制という。 社会の安定と経済の成長は、都市の発展を支え、17世紀後半の元禄文化に結実した。18世紀に入ると幕府財政が慢性的に悪化し、徳川吉宗は幕府権力の再強化と財政再建(享保の改革)を推し進めた。その後も体制維持および財政再建の努力(寛政の改革、天保の改革等)は行なわれるが成功はしなかった。この頃に都市町人を中心とする化政文化が花開いた。しかし、商品経済の発達による社会各層での貧富の拡大とそれに伴う身分制の流動化などを背景として、幕藩体制は次第に動揺していった。 19世紀中頃までに、国内の社会矛盾と国外からの圧力(ロシア、イギリス、アメリカ船の接近)により、幕藩体制は限界を迎えていた。同後半の黒船来航と日米和親条約締結による開国を契機として幕府の管理貿易(鎖国)は解かれた。結果として幕府の威信は低下し、朝廷の権威が増大することになり、幕府は大政奉還により権力の温存を図ったが、倒幕派の薩摩藩、長州藩らとの内戦(戊辰戦争)に敗北し、瓦解した。 江戸時代は文化の担い手が庶民にまで拡がり、歌舞伎、俳諧、浮世絵、お陰参りなどが盛んになったほか、寺子屋や藩校で広く教育が行われた。 明治時代 明治年間(1868年 - 1912年)は明治時代と呼ばれる。倒幕派の諸藩を中心とする維新政府は戊辰戦争を経て旧幕府勢力を退けると、明治新政府を樹立した。新政府は天皇大権のもと欧米の諸制度を積極的に導入し、廃藩置県、身分解放、法制整備、国家インフラの整備など明治維新と呼ばれる一連の改革を遂行した。その過程で日本の境界領域であった琉球王国や、樺太を除く蝦夷地(北海道の大部分と千島列島)、小笠原諸島を完全に日本の領域内に置き、国境を画定した。不平等条約の改正をするため、帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成と軍事力強化(富国強兵)を国策として推し進め、近代国家の建設は急速に進展した。その後、日清戦争と日露戦争に勝利を収めた後、列強の一角を占めるようになり、国際的地位を確保していく中で台湾統治や韓国併合を行った。 文化面では、欧米から新たな学問・芸術・文物が伝来し、その有様は文明開化と呼ばれ、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。言文一致や変体仮名の整理、標準語の普及が進められ、近代的な日本語が成立した。宗教面では従来の神仏混交が改められ(神仏分離)、寺請制度が廃止された。神社は行政組織に組み込まれ、皇室を中心とする国家神道に再編されていく。キリスト教の布教も許されたが、仏教の巻き返しもありキリスト教の勢力はそれほど大きなものにはならなかった。 大正時代 大正年間(1912年 - 1926年)は大正時代と呼ばれる。日本は日英同盟に基づき第一次世界大戦に参戦して勝利し、列強の一つに数えられるようになった。米騒動を契機とする大正デモクラシーと呼ばれる政治運動の結果、アジアで最初の普通選挙が実施され政党政治が成立したが、同時に治安維持法が制定され共産主義への弾圧が行われた。日本は大戦特需による未曾有の好景気に沸くが、大戦が終わるとその反動による深刻な不景気に苦しみ、そこに関東大震災が混迷する状況に追い討ちをかけた。 昭和時代 1945年8月6日に広島、同年8月9日に長崎に原子爆弾が投下された。 高度経済成長期には、新幹線等各種インフラが整備された。 昭和年間(1926年 - 1989年)は昭和時代と呼ばれる。大正期から続いた不景気に世界恐慌が直撃し、社会不安が増大した。政党政治に代わって軍部が力を持ち、関東軍は独断で満州を占領して満州国を樹立し、これがアメリカやイギリスの反発を招いて国際連盟を脱退した。その後、第二次上海事変等により中華民国との戦争状態(日中戦争・支那事変)に発展した。日本はドイツ国、イタリア王国と三国同盟を結び、真珠湾攻撃でアメリカ合衆国と開戦して第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)に突入した。 開戦当初は優勢だった日本軍はアメリカ軍の物量と通商破壊に圧倒され、各地で敗北を重ねた。戦争末期には主要都市を軒並み戦略爆撃で焼け野原にされ、広島と長崎には原子爆弾を投下されて敗れた。 戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策に基づいた象徴天皇制、国民主権、平和主義を定めた日本国憲法を新たに制定した。朝鮮戦争時には占領軍の指令に基づき掃海部隊や港湾労働者を朝鮮半島に送り込むなど韓国支援活動を行った[1]。昭和27年(1952年)にサンフランシスコ平和条約により主権を回復した後、急速に戦後復興を進め、冷戦下の西側陣営として日米安全保障条約を締結した。自民党と社会党の保革55年体制のもと、韓国・北朝鮮による日本人漁民抑留、竹島軍事占領、新潟日赤センター爆破未遂事件、日本人拉致事件を除き諸外国からの物理的な実力行使がなされることなく、高度経済成長を経て経済大国の仲間入りを果たした。 オイルショック後の安定成長期には重化学工業から自動車・電機へと産業の主役が移る産業構造の転換が進み、日本企業の輸出攻勢は貿易摩擦をもたらした。昭和末期、日本はプラザ合意を発端とするバブル景気と呼ばれる好景気に沸いた。 平成時代 平成年間(1989年 - )は平成時代と呼ばれる(平成(へいせい)は、日本の元号の一つであり、正確にいうと「時代」ではない)。昭和末期から続いたバブル景気が崩壊し、その後の長期にわたる不況は失われた10年と呼ばれ、経済面での構造改革が進められた。政治面でも冷戦終結と同時に変革を求める声が高まり、自社両党による55年体制が崩壊。非自民連立内閣が成立したが早々に瓦解した。 また、社会不安が高まる中で阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件、東日本大震災及び福島第一原子力発電所事故などの大規模な天災・人災が発生、危機管理に対する意識が高まるきっかけとなった。 21世紀に入り、BRICSなどの新興国台頭、経済面でのグローバル化及び産業空洞化、少子高齢化なども相まって、文化・生活の多様化(「一億総中流」から「格差社会」への移行)が一層進展している。また、国家財政や年金会計における債務超過、通貨危機の懸念が高まっている。 時代区分 日本の歴史における時代区分には様々なものがあり、定説と呼べるものはない。しかしながら、一応のところ、(原始・)古代・中世・近世・近代(・現代)とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられている。この場合でも、各時代の画期をいつに置くかは論者によって大きく異なる。 古代の始期については古代国家の形成時期をめぐって見解が分かれており、3世紀説、5世紀説、7世紀説があり、研究者の間で七五三論争と呼ばれている。中世については、中世通じての社会経済体制であった荘園公領制が時代の指標とされ、始期は11世紀後半〜12世紀の荘園公領制形成期に、終期は荘園公領制が消滅した16世紀後半の太閤検地にそれぞれ求められる。近世は、太閤検地前後に始まり、明治維新前後に終わるとされる。近代の始期は一般に幕末期〜明治維新期とされるが、18世紀前半の家内制手工業の勃興を近代の始まりとする考えもある。さらに、第二次世界大戦での敗戦をもって近代と現代を区分することもあるが、最近は日本史においても、近代と現代の境目は冷戦構造が崩壊し、バブル崩壊で右肩上がりの経済成長が終わった1990年前後に変更すべきという意見もある。(以上の詳細→古代、中世、近世、近代、現代) 上記のような時代区分論は、発展段階史観の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘されている。そのため、時代を区分する対象ではなく移行するものとして捉える「時代移行論」を提唱する研究者も現れ始めている。 一般によく知られている時代区分は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分である。この時代区分は明確な区分基準を持っている訳ではなく、歴史研究上の時代区分としては適当でない。単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分である。文献史料がなく考古史料が残る時代は、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代と区分する。文献史料がある程度残る時代以降は政治センターの所在地に従って、飛鳥時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代と区分するが、これだけでは必ずしも十分でないため南北朝時代・戦国時代という区分を設けており、これらは中国史の時代区分からの借用である。江戸時代の次は本来なら「東京時代」と呼称すべきであろうが、天皇の在位に従って明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代と呼ばれている。これらのうち、明治維新から第二次世界大戦までの時代(明治時代・大正時代・戦前昭和時代)は、政体(憲法)に因んで「大日本帝国時代」と呼ぶ例もある[2]。また、北海道・北東北、南西諸島などの周縁部については、これらとは異なる時代区分が用いられている(詳細→日本史時代区分表)。 また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・飛鳥文化・白鳳文化・天平文化・弘仁貞観文化・国風文化・院政期文化・鎌倉文化・北山文化・東山文化・桃山文化・元禄文化・化政文化・明治文化・大衆文化〜などとする区分もある(詳細→日本の文化#歴史)。 歴史認識・歴史叙述 日本における近代的な歴史思想の導入は、19世紀後半の明治維新以降のことであるが、それ以前も、古代から歴史認識および歴史叙述の展開が見られた。 古代 ヤマト王権が統一国家を形成しようとしていた6世紀には、倭王家の系譜を記す『帝紀』・倭国の神話を記す『旧辞』が、7世紀前半には聖徳太子らによって『天皇記』が編纂された。そうした修史の伝統を継承して、律令統一国家が成立した8世紀前半には、日本最初の正史である『日本書紀』が完成した。『日本書紀』は中国の正史の影響を強く受けており、天皇支配の正統性を強く訴え、皇位継承の経緯に関する記述が主たる内容だったが、もう一つ重要な点としては、中国・朝鮮に対する日本の独自性を主張していたことであった。この「天皇の正統性」「日本の独自性」の主張は、『日本書紀』を含むその後の正史(いわゆる六国史。『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)の主要なテーマであり、以後、幕末期までその影響が及んだ。 正史である六国史の編纂は「撰国史所」などと呼ばれていた機関を中心に国家事業として行われたが、『日本三代実録』を次ぐ『新国史』の編纂が途中で中止されたのを最後に正史の編纂は行われなくなり、平安中期以降は官司請負制に基づき家職を請け負う貴族・官人の家ごとに政務処理に先例を参照するための歴史資料として、日記が半公的な記録としてつけられるとともに、『類聚国史』『日本紀略』『百錬抄』やその他各種の年代記が編纂された。以上の歴史叙述はすべて漢文体によるものだったが、平安後期になると、人間をあるがままに日本風に描くという国風文化の影響のもと、表現形式がより柔軟かつ豊富な和文体による歴史物語・軍記物語・説話集が多数記されるようになり、これらは、従前の正史的歴史観への新たな歴史的意味付けの所産であると解されている。代表的なものとしては、歴史物語では『栄花物語』『大鏡』『増鏡』などが、軍記物語では『平家物語』『太平記』などが、説話集では『今昔物語集』などがある。こうした作品により、武士や庶民へも歴史認識が広く流布することとなった。 中世 鎌倉時代以降の武家台頭に対し、危機感を募らせていた公家層を代表して、新たな歴史認識を示したのは慈円の『愚管抄』である。慈円は末法思想と「道理」をテーマとして国初以来の歴史を説き起こし、武家が大きな政治権力を握ったことを「道理」観念で合理的に理解しようとしており、同書をもって初めて歴史認識が明確に示されたとする見解もある。中世には仏教的な歴史意識が広まったが、それに対抗して神官の間では『日本書紀』神話の講読が盛行し、神道の立場を中心として神話と歴史を結合させる思想が起こった。これを背景として、中世中期には、北畠親房により神道的な神国思想をテーマとする『神皇正統記』が著された。また、中世のもう一つの歴史認識は、年中行事や有職故実などの儀礼を通じて歴史を考えるというもので、そのため、故実を伝えるための日記や各種記録文書が多数作成された。その影響で、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』も日記体をとっている。 近世 近世(江戸時代)に入ると、将軍家や大名家は権力を正当化するため、儒教思想を積極的に採用し、歴史の編纂を通じて自らの正当性を主張した。代表的なものに『武徳大成記』『本朝通鑑』『大日本史』などがある。儒教は本来合理的な思考を有しており、儒教思想の興隆は合理主義的な歴史叙述、例えば新井白石の『読史余論』『古史通』などとして結実した。これらの動きは実証的な歴史研究、すなわち18世紀の荻生徂徠や伊藤東涯らによる政治制度史研究へとつながっていき、あわせて国学へも大きな影響を与えた。近世期の合理的・実証的歴史認識の一つの到達点が富永仲基である。仲基は、仏教・儒教・神道といった宗教・思想も歴史的に変化してきたのであり、これらを絶対視するのでなく客観的に捉えるべきことを唱えている。こうした状況は、日本の歴史研究が近代的な歴史学を受容するための十分な素地を既に生んでいたと評価されている。一方、江戸後期には幕藩体制の矛盾と対外緊張の高まりの中、庶民の間でも歴史への関心が広がり、『日本外史』『皇朝史略』など通俗的な歴史書が多く出版された。 近代 幕末から明治維新にかけて、文明史など西欧の近代歴史学が一気に流入したが、特に進歩史観・進化史観が日本で急速に広まった。これは従来の日本にない新しい歴史観であり、歴史の中に普遍的な法則性を見出そうとする歴史観であった。この影響のもと、在野において書かれたのが田口卯吉『日本開化小史』や福澤諭吉『文明論之概略』などである。これは日本史と西欧史の共通点を強調する方向へ進でいった。 一方、明治政府の立場からは、天皇を中心とする国民国家を建設するため、国家主義的な歴史叙述が構築されていった。それは大政奉還・王政復古を正当化する歴史観であり、そのため大化の改新・建武の新政・明治維新が最も重要な改革に位置づけられ、こうした国家主義的な歴史観はとりわけ歴史教育の現場へ積極的に導入されていった。これは前代の国学や尊王思想を背景とするもので、根底には『日本書紀』以来続いてきた日本の歴史の独自性を強調する考えが流れていた。このように、明治以降の歴史認識・歴史叙述には、2つの潮流 - 歴史に普遍性を見出す方向と日本の歴史の独自性を強調する方向 - を見出しうるのである。 明治20年(1887年)に実証主義史学の祖ランケの弟子に当たるルードビヒ・リースが帝国大学に招聘された。リースは厳密な実証史学を指導し、いわゆる官学アカデミズムが形成されたが、史料考証を重んじすぎるという憾みがあった。明治末期には、ドイツ歴史学派の影響による発展段階説が唱えられ、またマルクス主義による唯物史観が紹介された。大正期に入ると、マルクス唯物史観が重んじる歴史法則性を強く否定視する歴史理論(カントやディルタイ)が紹介され、歴史哲学への関心を高める契機となった。この時期は社会経済史・文化史・思想史など幅広い分野に関心が拡がっていた。こうした歴史学の発展の一方で、歴史学と国家主義的な歴史観との衝突も発生していた(「神道は祭天の古俗」事件、南北朝正閏論争、天皇機関説事件など)。歴史学が実証主義を重視しすぎ、歴史認識や史学方法論を軽んじたことも国家主義的な歴史観の台頭を許す一因となり、昭和期に入ると国粋主義的な天皇を中心とする歴史観(皇国史観)や勧善懲悪史観が隆盛するに至った。 現代 第二次世界大戦後は、日本の歴史の独自性を主張する立場は大きく後退し、歴史に普遍性を見出そうとする社会科学的な立場が主流となった。その中でも実証主義史学と特に唯物史観史学の2つが主潮流をなした。国家主義的な歴史観のくびきから解かれた戦後史学は多くの重要な実績を残したが、実証主義には歴史哲学を軽視するという弱点が、唯物史観には教条的になりがちという弱点があり、1960年代後半頃からその限界が指摘され始めた。1970年代からは、戦後歴史学に対する反省と見直しが始まり、1980年代からは特に精力的な取り組みが加速していった。この時期からは、従来あまり顧みられていなかった民俗学や文化人類学などの成果を歴史学へ学際的に反映させる試みが積極的に行われている。これらの歴史研究の結果、人口に膾炙した歴史像を大きく覆すような成果が多数発表されており、網野善彦などがその代表として挙げられようが、反面、一般の間の歴史像と近年の研究成果との乖離が広がっていることも近年指摘され始めている。 他方で戦後は歴史の大衆化が進み、海音寺潮五郎や司馬遼太郎など歴史小説の流行、または邪馬台国論争の隆盛のように歴史ブームというべき現象も起きており、学術的に認められていない俗説も一定の広がりを見せている。さらに、戦後大きく後退していた日本の歴史の独自性を強調する立場が、平成初年頃から自由主義史観と称してその主張を展開している。これらはいずれも歴史学と呼びうるレベルにはないが、一般の歴史に対する関心の反映として認識することができる。 引用元 日本の歴史 平成をちょっと過ぎた辺り このへんでVIPROへ鯖できた 設立日は1989年1月8日~2011年12月12日の間(詳細な設立過程や日時は焼失してしまった。)
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しんぶん赤旗2008.11.22~23 歴史ゆがめる田母神前空幕長「論文 明治大学教授(歴史学)山田朗さんに聞く 画像コピー提供はdj19さん。「偉そうな軍人さんは嘘をつく」庫コメント欄参照。dj19さんの論考をぜひお読みください。 (上)侵略当時の論理そのまま クリックすると拡大 (下)自衛隊の質的強化狙う クリックすると拡大 「偉そうな軍人さんは嘘をつく」庫
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自由選択儲けと考えている方に以下の授業を推薦する。必ずしも行く必要がない。 超楽単型(2020年から開講なし) 前期 火1ことば(徹夜でも平気な方オススメ) 後期 火1英文法再確認 水2 世界の言語 いずれも出席100%の御三家。 楽単型 前期 火3 環境問題A 木5 生活と光の作用(医学部大半なので要注意) 金3 環境問題B 後期 火1 環境科学A 木1 環境科学B 普通型 前期 月5 経済学D 火 3 地球科学A 水2 物理学入門(統計熱力学行かない方の暇つぶし) 水3 歴史学D1 水5 歴史学B 後期 月2 大学生のための世界史再入門 月3 ユーラシア地球環境学 月4 物理学の世界 火2 地球科学B 木4 微生物とヒトとの関わり 木4 大学と現代社会 英語得意な方(人数が多いと抽選制なので要注意、事前確認必要) TOEIC対策1234 イングリッシュコミュニケーション
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現代におけるリタ派の思想家の一人であるフィシャ・G・フィレナ リタ派(理:litavera)とは、リパラオネ観念論を継承し、哲学を展開したグループの一つ。ヴェルテール哲学における歴史解釈において、現在生きる歴史と記述された歴史の間に大きな差異を認め、またその差異は人間の利益として利用することが出来ると主張した。これらはリャフェーアや歴史自由主義とは異なり、二律背反的な考えを退けて両立を目指した点で近代観念論歴史学の中では特徴的である。 近代観念論歴史学は歴史学の刷新を目指す風潮が強かったが、リタ派は倫理学的な追求をすることが多かった。このため、リタ派はリパラオネ近代倫理学の祖とも言われている。 目次 概要 思想家レシェール・ユナフラ 概要 リタ派のリタ(LITA)は時間学的国際物語研究グループ(Liestulyrnasch Ispien Talsorlbergen Alarta)の略であり、ルティーセ学院大学に存在する哲学研究組織である。リタ派はこのグループを中心に発展し、一つの学派を形成した。 思想家 レシェール・ユナフラ リタ派の思想家レシェール・ユナフラは、一七世紀当時のリパラオネ社会においては最も急進的な哲学者の一人であり、彼は「生きている歴史と記述された歴史の間には上下がない」として無限戦争における道徳的基準を提示した。記述された歴史と生きている歴史の間の関連性とは、人間が死んでいった後に彼が生きていたという事実だけであると考える。つまり、今まさに生きている人間は道徳的基準を提示できないとする。道徳的基準は記述された歴史の中にのみあるものであり、我々は歴史を省みることでのみ倫理的な行動が出来るのだとする。 このために必要なのが記述された歴史、物語られる歴史の研究――時間学的物語研究(liestulyrnasch talsorlbe)であるとした。これは、現実に存在する出来事だけではなくて、未来にも起こりうるかもしれない過去の事実を研究することを意味していた。例えば、中世リパラオネ文学史などを研究対象とし、過去に存在した文学作品を分析することで、歴史上の出来事に対する理解を深めるという試みであった。 また、こうした態度は、同時期の歴史哲学が「片方の歴史」に対して無関心であることを批判している点でも重要な意味を持つ。すなわち、二つの歴史を比較することに意味はなく、両者の関係を考察することが重要だというのである。