約 2,251 件
https://w.atwiki.jp/wanisita/pages/2082.html
問題文 解答 補足 1972年9月2日に放送されたTV時代劇『必殺』シリーズ第1弾『必殺仕掛人』第1話のサブタイトルは? 仕掛けて仕損じなし 1992年に映画化されたロシアに漂流した大黒屋光太夫を主人公とする、井上靖の小説は? おろしや国酔夢譚 1992年に放送された、戦国武将・織田信長を主人公とするNHKの大河ドラマは『信長 KING OF ○○○○○○○』? ZIPANGU 2002年に放送された、戦国武将・前田利家とその妻を主人公としたNHKの大河ドラマは『利家とまつ~○○○○○○○~』? 加賀百万石物語 2007年にテレビ朝日で放映された北大路欣也主演の時代劇は『○○○○○○○○○~捕物控ぶらり旅』? 八州廻り桑山十兵衛 2007年にテレビ東京で放映された中村俊介主演のTV時代劇は『よろずや○○○○○○』? 平四郎活人剣 2010年放送のNHK大河ドラマ『龍馬伝』のオープニングテーマを歌ったオーストラリア出身の女性アーティストは? リサ・ジェラルド 2013年に「第2回歴史時代作家クラブ賞」を受賞した伊藤潤の小説は『○○○○ ○○○○○』? 義烈千秋天狗党西へ 2015年7月よりNHKで放送の福士誠治主演によるTV時代劇は『○○○○○~麻之助裁定帳~』? まんまこと 2019年12月に刊行された宮部みゆきの時代小説は『○○○○○○○ 三島屋変調百物語六之続』? 黒武御神火御殿 『孤剣』『刺客』『凶刃』と続編も発表された、青江又八郎を主人公とする藤沢周平の小説は? 用心棒日月抄 『平賀源内捕物帳』『顎十郎捕物帳』などの時代小説でも知られる、第26回直木賞を『鈴木主水』で受賞した作家は? 久生十蘭 NHK大河ドラマ『武田信玄』から生まれた1988年の流行語は「今宵は○○○○○○○○○ござりまする」? ここまでに致しとう NHK大河ドラマのロケ地としてもよく使用されている岩手県奥州市江刺にある平安時代のテーマパークは? えさし藤原の郷 TBSで放送されたTV時代劇『水戸黄門』の主題歌のタイトルは? ああ人生に涙あり TV時代劇『遠山の金さん』に登場する主人公・遠山金四郎のモデルとなった実在の人物は? 遠山左衛門尉景元 浅田次郎のベストセラー小説を原作とする、新撰組の無名隊士吉村貫一郎を中井貴一が演じた2003年公開の時代劇映画は? 壬生義士伝 安房の国の名門・里見家の再興を目指して8人の武士が戦う江戸時代の作家・滝沢馬琴が28年かけて完成させた小説は? 南総里見八犬伝 江戸・深川の七不思議にまつわる七つの短編から構成される宮部みゆきの時代小説は? 本所深川ふしぎ草紙 江戸時代に実在した剣豪・千葉周作を中村俊介が演じた2000年にテレビ朝日で放映された時代劇は? 熱血!周作がゆく 江戸時代を舞台に殺し屋という裏の顔を持つ針医者を主人公とした池波正太郎の時代小説は? 仕掛人・藤枝梅安 江戸の裏世界に生きる男・郎次を主人公とする月村了衛の時代小説は『○○○○○○○○残月』? コルトM1851 江戸八百八町を舞台にした補縄の名人と居合の達人の2人が悪を追う石ノ森章太郎原作の時代劇アニメは? 佐武と市捕物控 上條恒彦が歌って大ヒットした1972年放映のTV時代劇『木枯し紋次郎』の主題歌は? だれかが風の中で 北大路欣也、萬田久子主演で1998年にフジテレビで放映された時代劇のタイトルは? 隠密奉行・朝比奈 黒澤明、木下恵介、市川崑と共に「四騎の会」を結成した小林正樹が、その第1作として作った時代劇映画は? いのちぼうにふろう 作家・佐々木味津三の小説『旗本退屈男』シリーズで主人公・早乙女主水之介が用いる無敵の剣術は? 諸羽流正眼崩 里見浩太朗、瑳川哲朗らが出演していた、1974年に放映を開始したTV時代劇は? 大江戸捜査網 時代に翻弄される悲劇の剣豪・兼見三左エ門を豊川悦司が演じた、2010年公開の時代劇映画は? 必死剣鳥刺し 視聴者の間で話題になった2022年9月25日放送のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第37話の不思議なサブタイトルは? オンベレブンビンバ 柴田錬三郎の小説を原作とする1995年に放映を開始した渡辺謙が演じる剣の達人を主人公としたTV時代劇は? 御家人斬九郎 主人公・奥脇抄一郎が東北の小藩の財政を立て直すという内容の第17回大藪春彦賞を受賞した青山文平の時代小説は? 鬼はもとより 女性歌手のMISIAが歌った2009年に放映されたドラマ『JIN-仁-』の主題歌は? 逢いたくていま テレビ東京で放送された時代劇『大江戸捜査網』の劇中で隠密同心の心得を説いた有名なフレーズは? 死して屍拾う者なし 唐から天竺へ外交使節として渡航した実在の人物・王玄策を主人公とする田中芳樹の小説は? 天竺熱風録 徳川二代将軍・秀忠の正室の生涯を描いた、2011年に放送されたNHK大河ドラマは『江~○○○○○○~』? 姫たちの戦国 徳川吉宗が組織した影の御庭番組織のリーダーを三田村邦彦が演じた、1996年にテレビ朝日で放映された時代劇は? 将軍の隠密!影十八 中村敦夫が演じたTV時代劇の主人公・木枯し紋次郎の有名な口癖は『あっしには○○○○○○○○○』? 関わりのねえこって 日本では1993年に劇場公開され特にアメリカで高い評価を受けた川尻善昭による時代劇アニメといえば? 獣兵衛忍風帖 日本で初めて西洋医学を学んだ女性・楠本イネを主人公とした吉村昭の歴史小説は『○○○○○○○○○の娘』? ふぉん・しいほると 土師清ニの時代小説『砂絵呪縛』に登場する無頼の浪人の名前は? 森尾重四郎 阪東妻三郎が主演した戦後最初に製作された時代劇映画は? 狐の呉れた赤ん坊 藤沢周平の小説を原作とする溝端淳平の時代劇初主演作となる2016年5月より放送の、NHK・BSプレミアムの時代劇は? 立花登青春手控え 藤沢周平の小説を原作とする2004年に公開された永瀬正敏主演、山田洋次監督の時代劇映画は? 隠し剣鬼の爪 藤沢周平のベストセラー小説『用心棒日月抄』を原作とした村上弘明が主人公・青江又八郎を演じた、1992年のTV時代劇は? 腕におぼえあり 平安時代の武将・平将門と藤原純友の生涯を描いた1976年に放映されたNHK大河ドラマは? 風と雲と虹と 前田敦子が主人公・八百屋お七を演じる、2013年9月より放送の時代劇は『○○○○○○○~八百屋お七異聞』? あさきゆめみし 漫画『カムイ伝』で逆手に持った刀を背中に隠してすれ違いざまに相手を斬るカムイの必殺技は? 変移抜刀霞斬り 漫画『シグルイ』の原作となった南條範夫の時代小説は? 駿河城御前試合 身寄りのない子供たちの面倒をみる大工の若棟梁の姿を描いた山本周五郎の時代小説は? ちいさこべ 名君として有名な江戸時代の米沢藩主・上杉鷹山の生涯を描いた、作家・藤沢周平の絶筆となった小説は? 漆の実のみのる国 山田風太郎の小説『忍者月影抄』を原作とした、2011年公開の阿部真里主演の映画は『○○○○○○ ○○○』? くノ一忍法帖影ノ月 山田風太郎の『甲賀忍法帖』を原作とする、オダギリジョーと仲間由紀恵が忍者を演じた2005年公開の映画は? SHINOBI 隆慶一郎の歴史小説を『一夢庵風流記』を原作とする原哲夫の漫画『花の慶次』の主人公は? 前田慶次郎利益 隆慶一郎の歴史小説を原作とする原哲夫の漫画『花の慶次』の副題は? 雲の彼方に 浪人・古橋笙之介を主人公とする、2013年に刊行された宮部みゆきの時代小説は? 桜ほうさら
https://w.atwiki.jp/asamikuchisaki/pages/53.html
ほうこう/ほんこう 全文字数 ひらがな 表記 必要文字 必要文字数 意味 5 ほんごうし こうし 3 6 ほんごうこう 本郷甲 こう 2 山形県大江町の大字。 ほうこうせい 方向性 こうせい 4 目指すところがあること。 ほうこうぞく 芳香族 こうそく 4 ベンゼンなどの環状不飽和有機化合物。 7 ほうこうしじき 方向指示器 こうしき 4 右左折時の方向や車線変更の際に用いる自動車やオートバイの器具。ウインカー。 ほうやこうこう 保谷高校 うやこ 3 東京都西東京市にある都立高校。東京都立保谷高等学校。 8 ほうおうこうこう 鳳凰高校 うおこ 3 鹿児島県南さつま市にある私立高校。 ほんごうこうこう 本郷高校 こう 2 東京都豊島区にある私立男子高校。 ほうじょう 全文字数 ひらがな 表記 うしよ+必要文字 うしよ+必要文字数 意味 6 ほうじょうし 北条市 - 0 愛媛県にあった市。現在は松山市に編入。 7 ほうじょうえき 北条駅 えき 2 北条駅(きたじょうえき)の誤読。 8 ほうじょうたかし 北條たかし たか 2 日本の歌手。 ほうじょうひろし 北条浩 ひろ 2 日本の軍人、政治家。創価学会4代会長。 9 ほうじょううじかつ 北条氏勝 かつ 2 江戸初期の大名。下総国岩富藩初代藩主。北条氏繁の次男。 ほうじょううじくに 北条氏邦 くに 2 戦国時代の武将。北条氏康の四男。 ほうじょううじしげ 北条氏重 け 1 江戸前期の大名。 ほうじょううじつな 北条氏綱 つな 2 戦国時代の武将。北条早雲の嫡男。 ほうじょううじとき 北条氏時 とき 2 戦国時代の武将。北条早雲の息子。 ほうじょううじのり 北条氏規 のり 2 戦国時代の武将。北条氏康の五男。 ほうじょううじまさ 北条氏政 まさ 2 戦国時代の武将。北条氏政の子。 ほうじょううじやす 北条氏康 やす 2 戦国時代の武将。氏綱の長男。 ほうじょうづじょう 放生津城 つ 1 富山県射水市にあった城。 ほうちょう 全文字数 ひらがな 表記 ちよう+必要文字 ちよう+必要文字数 意味 6 ほうちょうし 包丁師 し 1 料理人。 ほうむちょう 法務庁 む 1 戦後日本の法務行政を司った官庁。 ぽんとちょう 先斗町 と 1 京都府京都市中京区の地名。花街として有名。 7 ほうかんちょう 奉還町 か 1 岡山県岡山市の地名。 ほうでんちょう 宝田町 て 1 愛知県名古屋市瑞穂区・兵庫県神戸市須磨区の地名。 ほちょうちょう ホ長調 - 0 ホ音を主調とする長調。 ぽーる 全文字数 ひらがな 表記 る+必要文字 る+必要文字数 意味 5 ぽーるけい ポール・ケイ けい 2 アメリカの言語学者。 ぽーるべる ポール・ベル へ 1 南アフリカの野球選手。 6* ほーるけーき ホールケーキ けき 2 切り分けて食べる円柱形のケーキ。 ぽーるけりー ポール・ケリー けり 2 イギリスの総合格闘家。 ぽーるこーと ポール・コート こと 2 アメリカの政治学者。 ぽーるすみす ポール・スミス すみ 2 イギリスのファッションデザイナー。また彼のブランド。 ぽーるもーる ポールモール も 1 ブリティッシュ・アメリカン・タバコ社のタバコブランド。 ぽーるらんど ポール・ランド らと 2 アメリカのグラフィックデザイナー。 7 ぽーるあざーる ポール・アザール あさ 2 フランスの比較文学研究者。 ぽーるこーなー ポール・コーナー こな 2 ボヘミア出身の映画プロデューサー。 ぽーるじょーじ ポール・ジョージ しよ 2 アメリカのバスケットボール選手。 ほーるでぃんぐ ホールディング ていく 3 球技などで手で相手を妨害する行為。 9 ぽーるくりゅーがー ポール・クリューガー くりゆか 4 トランスヴァール共和国の政治家。初代大統領。 ぽけもん~ 全文字数 ひらがな 表記 けも+必要文字 けも+必要文字数 意味 5 ぽけもんえ ポケモン絵 え 1 誤検出語。 ぽけもんき ポケモン記 き 1 誤検出語。 ぽけもんご ポケモン後 こ 1 誤検出語。 ぽけもんず ポケモン図 す 1 誤検出語。 6 ぽけもんあか ポケモン赤 あか 2 「ポケットモンスター 赤」の略称。 ぽけもんあお ポケモン青 あお 2 「ポケットモンスター 青」の略称。 ぽけもんかー ポケモンカー か 1 ポケモンをモチーフとした改造車。 ぽけもんかい ポケモン界 かい 2 ポケモンプレイヤー・ファンの界隈。 ぽけもんずき ポケモン好き すき 2 ポケモンが好きな人。 ぽけもんせい ポケモン生 せい 2 誤検出語。 7 ぽけもんちゅう ポケモン厨 ちゆう 3 ポケモン好きな厨房。 ぽけもんにわか ポケモンにわか にわか 3 ゲーム「ポケットモンスター」のにわかファン。 ぽけもんぬりえ ポケモンぬりえ ぬりえ 3 ポケモンの塗り絵。 ぽけもんばんく ポケモンバンク はく 2 ポケモンのユーリティソフトの一つ。ポケモンの保管管理を行える。 ぽけもんまんが ポケモン漫画 まか 2 ポケモンの漫画。 8 ぽけもんぜんこく ポケモン全国 せこく 3 誤検出語。 ぽけもんせんたー ポケモンセンター せた 2 ゲーム「ポケットモンスター」に登場する施設。また、株式会社ポケモンが運営するグッズショップ。 ぽけもんたいかい ポケモン大会 たいか 3 ゲーム「ポケットモンスター」シリーズの対戦を行う大会。 ぽけもんぶらっく ポケモンブラック ふらつく 4 「ポケットモンスター ブラック」の略称。 9 ぽけもんれんじゃー ポケモンレンジャー れしや 3 ポケモンから発売されたゲームシリーズ。 10 ぽけもんかーどげーむ ポケモンカードゲーム かとむ 3 ポケモンを題材としたTCG。 ほっと~ 全文字数 ひらがな 表記 つと+必要文字 つと+必要文字数 意味 6 ほっとさんど ホットサンド さ 1 温かいサンドイッチ。 ほっとぱんつ ホットパンツ は 1 0-1分丈前後の短いズボン。 ほっとみるく ホットミルク みるく 3 温めた牛乳。 ほっともっと ほっともっと も 1 プレナスの運営する持ち帰り弁当のチェーン店。 ほっとらんど ホットランド ら 1 たこ焼きチェーン、築地銀だこの運営会社。 ほっとろーど ホットロード ろ 1 紡木たくの漫画。 7 ほっとこーひー ホットコーヒー こひ 2 温かいコーヒー。 8 ぼっとんべんじょ ボットン便所 へしよ 3 汲み取り式便所の呼び名の一つ。 9 ぽけっとびすけっつ ポケットビスケッツ けひす 3 日本テレビのバラエティ番組「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」から誕生した音楽ユニット。 ほんだ(ただ)~ 全文字数 ひらがな 表記 た+必要文字 た+必要文字数 意味 5 ほんだあい 本多愛 あい 2 漫画『速攻生徒会』の主人公。 ほんだけい ホンダ系 けい 2 本田技研工業に関わるもの。 ほんだこう 本多晃 こう 2 漫画「テラフォーマーズ」の登場人物。 ぼんたたき 盆たたき き 1 愛知県愛西市の行事。 ほんだのり ホンダ乗り のり 2 本田技研工業の自動車の運転手。 ほんだまい 本田舞 まい 2 日本のアナウンサー。 ほんだまち 本多町 まち 2 全国各地の地名。 6 ほんだしんじ 本田信次 し 1 日本の詩人。 ほんだずーく ホンダ・ズーク すく 2 本田技研工業がかつて販売していたオートバイ。 ほんだたかこ 本田貴子 かこ 2 日本の女性声優。 ほんだたくや 本田拓也 くや 2 日本のサッカー選手。 ほんだたけし 本田毅 けし 2 日本のギタリスト。 ほんだただお 本多忠雄 お 1 陸奥国泉藩主、本多忠籌の嫡男。病気のため廃嫡された。 ほんだただし 本多忠 し 1 日本の競泳選手。 ぼんたんあめ ボンタンアメ あめ 2 セイカ食品の販売する飴菓子。 7 ほんだけいすけ 本田圭佑 けいす 3 日本のサッカー選手。 ほんだせんたー ホンダセンター せ 1 アメリカ、アナハイムにある屋内競技場。 ほんだただかつ 本多忠勝 かつ 2 戦国時代の武将。 ほんだただざね 本多忠実 さね 2 戦国時代の武将。本多忠高の弟。 ほんだただたか 本多忠高 か 1 戦国時代の武将。本多忠勝の父。 ほんだただなが 本多忠良 なか 2 江戸時代の大名。越後村上藩2代藩主など。本多忠英の長男。 ほんだただつぐ 本多忠次 つく 2 江戸時代の大名。三河挙母藩2代藩主。本多忠利の婿養子。 ほんだただとき 本多忠刻 とき 2 江戸時代の大名。播磨姫路新田藩初代藩主。本多忠政の長男。 ほんだただとも 本多忠朝 とも 2 江戸時代の大名。上総大多喜藩2代藩主。本多忠勝の次男。 ほんだただなお 本多忠直 なお 2 江戸時代の大名。大和郡山藩3代藩主。本多忠晴の長男。 ほんだただはる 本多忠晴 はる 2 江戸時代の大名。陸奥浅川藩の第2代藩主など。本多忠義の四男。 ほんだただまさ 本多忠政 まさ 2 江戸時代の大名。伊勢桑名藩第2代藩主など。本多忠勝の長男。 ほんだただよし 本多忠義 よし 2 江戸時代の大名。播磨姫路新田藩3代藩主など。本多忠政の三男。 8 ほんだれんたかー ホンダレンタカー れか 2 本田技研工業の自動車をレンタルするレンタカー店。 9 ほんださんかっけー 本田△ さかつけ 4 日本のサッカー選手、本田圭佑の愛称。 ほ~えき 全文字数 ひらがな 表記 えき+必要文字 えき+必要文字数 意味 5 ほうふえき 防府駅 うふ 2 山口県防府市にあるJR西日本山陽本線の駅。 ほそええき 細江駅 そ 1 静岡県牧之原市にあった、静岡鉄道駿遠線の駅。 ほそのえき 細野駅 その 2 長野県松川村にあるJR東日本大糸線の駅。 ほんとえき 本斗駅 と 1 樺太本斗町に存在した鉄道省樺太西線の駅。 6 ほりきりえき 堀切駅 り 1 東京都足立区にある東武鉄道伊勢崎線の駅。 ほんまちえき 本町駅 まち 2 大阪府大阪市中央区にある大阪市営地下鉄の駅。 7 ほうじょうえき 北条駅 しよう 3 北条駅(きたじょうえき)の誤読。 8 ほんかわごええき 本川越駅 かわこ 3 埼玉県川越市にある西武鉄道新宿線の駅。 ほんこまごめえき 本駒込駅 こまめ 3 東京都文京区にある東京メトロ南北線の駅。 発展 元単語 発展語 ぼでぃ (+2)ぼでぃーそーぷ ぼうえい (+1)ぼうえいたい,(+2)ぼうえいいかだい ほうしゃ (+1)ほうしゃこう,ほうしゃそう,(+2)ほうしゃけい,ほうしゃせんぎし,(+3)ほうしゃせんかがく ほうせい (+1)ほうかいせい,ほうせいかい,ほうせいだい,ほうせいだいせい,(+3)ほうせいだいがく ほうそう (+1)ほうそうもう,(+2)ほうしゃそう,ぼうそうはんとう ほんかく (+1)ほんかくじ,ほんがくじ,(+4)ほうしゃせんかがく ほんごく (+1)ほんごくじ ほんせい (+1)ほんせいじ ほんもく (+1)ほんもくか ほうしゅう (+0)ほうしゅうじ,ほうじゅうじ,ほんしゅうじ,(+1)ほんしゅうとう ほっきょく (+1)ほっきょくぐま ほんみょう (+1)ほんみょうきょうよう ほ~がわ (+2)ほなみがわ ほ~じんじゃ (+0)ほしじんじゃ ほ~まち (+1)ほんまちえ,(+2)ほしのまち,ほそえまち,ほたかまち,ほんまちえき ほ~むら (+2)ほしのむら,ほそのむら,ほなみむら その他 全文字数 ひらがな 表記 必要文字 必要文字数 意味 5 ぽいんたー ポインター いた 2 獲物の位置を知らせる鳥猟犬。 ほうかんじ 法観寺 うかし 3 京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。 ほーきんぐ ホーキング きく 2 イギリスの理論物理学者。「車椅子の物理学者」。(+2)ほーきんぐはくし,(+3)ほーきんぐはかせ ほーきんす ホーキンス きす 2 英語圏の姓。 ほーみんぐ ホーミング みく 2 日本の成人向け漫画家。 ぽーらんど ポーランド らと 2 中央ヨーロッパにある共和国。→ぽーとらんど ほーりんぐ ホーリング りく 2 競走馬。 ぼーりんぐ ボーリング りく 2 円筒状の穴を開けること。 ぽーりんぐ ポーリング りく 2 アメリカ合衆国の量子化学者。ノーベル化学賞・平和賞受賞。ライナス・ポーリング。 ほーんゆき ホーン・ユキ ゆき 2 日本の元アイドル。 ほくとんく 北屯区 くと 2 台中市の市轄区。 ぼんかれー ボンカレー かれ 2 大塚食品のレトルトカレー。日本初のレトルト食品。 ほんがんじ 本願寺 かし 2 日本各地にある寺院。特に、浄土真宗各派の本山。 ぽんきっき ポンキッキ きつ 2 フジテレビが放送していた子供向け番組。(+1)→ぽんきっきーず ほんげんじ 本源寺 けし 2 宮城県登米市にある日蓮正宗の寺院。 ほんざんじ 本山寺 さし 2 岡山県美咲町にある天台宗の寺院。 ほんせんじ 品川寺 せし 2 東京都品川区にある真言宗醍醐派の寺院。 ほんぜんじ 本漸寺 せし 2 千葉県東金市にある顕本法華宗の寺院。 ほんねんじ 本念寺 ねし 2 全国各地にある寺院。 ほんまなな 本間奈々 まな 2 日本の政治家。2015年の札幌市長選に出馬し次点落選。 6 ぽーくびっつ ポークビッツ くひつ 3 伊藤ハムのソーセージ。 ほーちみんし ホーチミン市 ちみし 3 ベトナム南部にある、ベトナム最大の経済都市。 ほーでぃんぐ ホーディング ていく 3 居住空間において大量の物品を収集してしまう精神障害。 ぽーとさいど ポートサイド とさい 3 エジプト北東部の都市。 ぽーとらんど ポートランド とら 2 アメリカ、オレゴン州にある都市。 ぼーとれーす ボートレース とれす 3 ボートを用いた競走。 ぽーとれーと ポートレート とれ 2 肖像。 ほーむげーむ ホームゲーム むけ 2 試合を主催するときの試合。 ぽーらんどご ポーランド語 らとこ 3 印欧語族に属する言語の一つ。ポーランドの公用語。 ほーろーなべ ホーロー鍋 ろなへ 3 ほうろう引きの加工をした鍋。 ほしのけんじ 星野ケンジ しのけ 3 日本の俳優。 ほそのしんじ 細野晋司 そのし 3 日本の写真家。 ほりきりまき 堀切麻紀 りきま 3 日本のアイドル。 ほんがんじは 本願寺派 かしは 3 浄土真宗の一派。 ほんこまごめ 本駒込 こまめ 3 東京都文京区の地名。 ほんこんはつ 香港発 こはつ 3 誤検出語。 ほんじょしょ 本所署 しよ 2 本所警察署の略称。 7 ぽいんてぃんぐ ポインティング いてく 3 イギリスの物理学者。ポインティング・ベクトルを考案。ジョン・ヘンリー・ポインティング。 ぽーくびーんず ポークビーンズ くひす 3 豚肉と大豆の洋風煮。 ほーらんえんや ホーランエンヤ らえや 3 日本各地で行われる祭事。 ほーりーねーむ ホーリーネーム りねむ 3 オウム真理教における教団内での祝福名。 ほふまんてんい ホフマン転位 ふまてい 4 ホフマンによって報告された転位反応。 ぽんきっきーず ポンキッキーズ きつす 3 フジテレビが放送していた子供向け番組。 8 ぽーかーふぇいす ポーカーフェイス かふえいす 5 感情を表に出さない顔。 ぽーかーふぇーす ポーカーフェース かふえす 4 ぽーかーふぇいすの表記揺れ。 ほーきんぐはかせ ホーキング博士 きくはかせ 5 スティーブン・ホーキングのこと。 ほーきんぐはくし ホーキング博士 きくはし 4 スティーブン・ホーキングのこと。 ほーりーとーかー ホーリートーカー りとか 3 綾峰欄人の漫画。 9 ぼあえーじぇんしー ボアエージェンシー あえし 3 東京都渋谷区にある芸能事務所。 ぽーらんどぶんかつ ポーランド分割 らとふかつ 5 18世紀末にプロイセン・ロシア・オーストリアが行ったポーランドの分割。三度目の分割でポーランドは消滅。 ぼかんごーごーごー ボカンGoGoGo かこ 2 バンプレストの発売したゲーム。タイムボカンシリーズのキャラが登場。 ほりえーじぇんしー ホリエージェンシー りえし 3 東京都目黒区にある芸能事務所。 ほんがんじけんにょ 本願寺顕如 かしけによ 5 戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。 10 ぼーどこんぴゅーたー ボードコンピューター とこひゆた 5 1枚の基板の上にCPU、メモリなどを搭載した小型コンピュータ。 ほっかいどうけいさつ 北海道警察 つかいとうけさ 7 北海道を管轄区域とする警察組織。 ぽりびにるあるこーる ポリビニルアルコール りひにるあこ 6 合成樹脂の一種。
https://w.atwiki.jp/kanhai/pages/333.html
681系 サンダーバード用 ←富山方 編成番号 Tc681 M681 Tpc680 全検日 要検日 備考 T11 201 301 501 はくたか対応工事施行車 はくたか用 ←越後湯沢方 編成番号 Tc681 M681 Tpc680 全検日 要検日 備考 W11 8 8 508 W12 9 9 509 W13 4 4 504 W14 6 6 506 W15 207 2 507 N11 2001 2001 2501 北越急行車 N12 2002 2002 2502 北越急行車 編成番号 Mc681 Tp680 T681 M681 Tp680 Tsc681 Mc側3両全検日 Mc側3両要検日 Tsc側3両全検日 Tsc側3両要検日 備考 W01 507 13 207 207 14 7 W02 508 15 208 208 16 8 W03 504 7 204 204 8 4 W04 505 9 205 205 10 5 W05 506 11 306 307 12 6 N01 2501 2002 2201 2201 2001 2001 北越急行車 N02 2502 2004 2202 2202 2003 2002 北越急行車 683系 サンダーバード用 ←富山方 編成番号 Mc683 Tp682 T683 T683 M683 Tp682 M683 Tp682 Tsc683 新製 Mc側3両全検日 Mc側3両要検日 中間3両全検日 中間3両要検日 Tsc側3両全検日 Tsc側3両要検日 備考 T41 5501 4301 4801 4701 5401 4401 5001 4302 4501 21.02.07近車 T42 5502 4303 4802 4702 5402 4402 5002 4304 4502 21.05.26近車 T43 5503 4305 4803 4703 5403 4403 5003 4306 4503 21.05.22近車 T44 5504 4307 4804 4704 5404 4404 5004 4308 4504 21.06.25近車 T45 5505 4309 4805 4705 5405 4405 5005 4310 4505 21.08.04近車 T46 5506 4311 4806 4706 5406 4406 5006 4312 4506 22.01.13川重 T47 5507 4313 4807 4707 5407 4407 5007 4314 4507 22.01.22川重 T48 5508 4315 4808 4708 5408 4408 5008 4316 4508 22.07.13近車 2011/11/29 4002M踏切事故車(復帰) T49 5509 4317 4809 4709 5409 4409 5009 4318 4509 22.09.18川重 T50 5510 4319 4810 4710 5410 4410 5010 4320 4510 22.10.09川重 T51 5511 4321 4811 4711 5411 4411 5011 4322 4511 23.02.28川重 T52 5512 4323 4812 4712 5412 4412 5012 4324 4512 23.07.22近車 はくたか用 編成番号 Tc683 M683 Tpc682 全検日 要検日 備考 N13 8701 8001 8501 北越急行車 編成番号 Mc683 Tp682 T683 M683 Tp682 Tsc683 Mc側3両全検日 Mc側3両要検日 Tsc側3両全検日 Tsc側3両要検日 備考 N03 8501 8001 8301 8301 8002 8001 北越急行車 波動用 ←富山方 編成番号 Mc683 T683 Tpc682 全検日 要検日 備考 R10 3522 2410 2710 R11 3523 2411 2711 R12 3524 2412 2712 R13 3525 2413 2713 しらさぎ用 ←富山方 編成番号 Tpsc682 M683 Tp682 T683 Mc683 Tpsc側2両全検日 Tpsc側2両要検日 Mc側3両全検日 Mc側3両要検日 備考 S01 2001 3401 2201 2501 3501 S02 2002 3402 2202 2502 3503 S03 2003 3403 2203 2502 3505 S04 2004 3404 2204 2504 3507 S05 2205 3405 2205 2505 3511 S06 2006 3406 2206 2506 3513 S07 2007 3407 2207 2507 3514 S08 2008 3408 2208 2508 3516 S09 2009 3409 2209 2509 3517 S10 2010 3410 2210 2510 3518 S11 2011 3411 2211 2511 3519 S12 2012 3412 2112 2512 3521 編成番号 Tpc682 T683 Mc683 全検日 要検日 備考 S21 2701 2401 3502 S22 3702 2402 3504 S23 3703 2403 3506 S24 3704 2404 3508 S25 3705 2405 3509 S26 2706 2406 3510 S27 2707 2407 3512 S28 2708 2408 3515 S29 2709 2409 3520 489系 ←長岡 Tc489 M489 M488 M489 M488 Ts489 M489 M488 Tc 489 備考1 備考2 備考3(廃車日) 1(建屋内留置) 6(内装解体完了) 6(内装解体完了) 19(内装解体完了) 204(内装解体完了) 23(解体完了) 4(内装解体完了) 4(内装解体完了) 501 2012/5/15廃車回送済・松任本所留置中・組成解体済 Tc489-1は準鉄道記念物 Tc489-1を除き、H24/6/1除籍 521系 ←金沢 編成番号 Mc521+Tpc521 新製 全検日 要検日 備考 G01 6 21.10.27近車 G02 7 21.10.27近車 G03 8 21.12.22近車 G04 9 21.12.22近車 G05 10 21.12.22近車 G06 11 22.02.15近車 前面転落防止柵設置 G07 12 22.02.15近車 G08 13 22.03.02近車 G09 14 22.03.02近車 G10 15 22.03.02近車 G11 16 22.12.18川重 G12 17 22.12.18川重 G13 18 10.12.18川重 G14 19 23.01.12川重 G15 20 23.01.12川重 475系 ←直江津 編成番号 Mc475 M474 Tc455 Tc全検日 Tc要検日 Mc側2両全検日 Mc側2両要検日 備考 A05 17 17 13 A06 18 18 14 A07 19 19 19 地域色 A10 7-16 6-16 43 A12 7-18 6-18 65 A13 7-19 6-19 61 A15 42 42 58 A18 45 45 47 地域色 A19 46 46 60 国鉄色Mc475-46は準鉄道記念物 A21 48 48 57 地域色 A22 49 49 63 A24 51 51 59 A25 52 52 41 A26 53 53 42 413系 ←直江津 編成番号 Mc413+M412+Tc412 Tc全検日 Tc要検日 Mc側2両全検日 Mc側2両要検日 備考 B01 1 B02 2 B03 3 B05 5 B06 6 B07 7 B08 8 地域色 B09 9 地域色 B10 10 編成番号 Mc413+M412 Tc455 Tc全検日 Tc要検日 Mc側2両全検日 Mc側2両要検日 備考 B04 4 701 B11 101 702 415系 編成番号 Mc415+M414+Tc415 Tc全検日 Tc要検日 Mc側2両全検日 Mc側2両要検日 備考 C01 801 地域色・McはWAU102形分散クーラー搭載 C02 802 地域色・McはWAU102形分散クーラー搭載 C03 803 地域色 C04 804 地域色 C05 805 地域色 C06 806 地域色,UFOの街羽咋号 C07 807 地域色 C08 808 地域色,和倉温泉わくたま号 C09 809 地域色 C10 810 地域色,国宝長谷川等伯号 C11 811 地域色,七尾とうはくん号
https://w.atwiki.jp/qanaka/pages/57.html
あ い う え お か き く け こ さ し す せ そ た ち つ て と な に ぬ ね の は ひ ふ へ ほ ま み む め も や ゆ よ ら り る れ ろ わ を ん は ひ 悲之供養塔 ひのくようとう 涅槃城内の施設 人間より下の者にかけられた佛の大慈悲により、ペットの供養が赦されている。この塔で妙法華経をあげ供養する者は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちない約束をしてもらい、何世生まれても衣・食・住に困らない。又、ペットも合祀され供養を受けることで、速やかに人間に生まれてくることができると説明している。 関連リンク 関連する用語 涅槃城 慈乃供養塔 平等大慧会 ぴょうどうだいえかい [所在地]739-04 広島県佐伯郡大野町字亀ケ丘700 [電話] 0829-56-0360 [創始者] 梅本武志(教主=現) [信者数] 52万人(面談) [教師数] 2100人(面談) [法人数] 2(面談) [法人関係]昭和29年11月宗教法人法による法人(兵庫県届)、昭和36年4月宗教法人(広島県届)。 [概要] 梅本武志が、大正5年(1916)より諸教を体験した結果、仏教の真髄である大衆皆平等の大義に則り、大衆を救おうとして、平等大慧教菩薩法佛所護念の妙法華経を著し、 昭和29年(1954)11月、姫路市にて宗教法人乎等大慧会として立教。 翌年1月24日、千葉県の小湊清澄山旭ケ森において御来迎を拝し立教宣言を行う。 昭和33年3月、本部を広島に移し、昭和36年4月、広島市において第二の立教を行い宗教法人として発足する。同年、耆しゃ崛山道場が完成。 昭和49年4月、鹿児島県指宿郡開聞町に多宝佛塔、博物館を完成させたのに続き美術館等を建設。昭和56年11月には、王舎城並びに王舎城美術宝物館(広島県佐伯郡大野町)、 昭和59年6月には、屋上に身長33メートルの涅媒像が横たわる涅樂城(鹿児島県肝属郡佐多町)が完成する。 昭和61年7月には妙塔が完成(鹿児島県三島村黒鳥)。 これら博物館や美術館からの収入は慈善事業へと寄付されている。 現在、鹿児島県指宿郡、福岡市、倉敷市、島根県浜田市、京都市の五カ所に事務所が設置されている。 昭和57年7月、日中友好のため、妙法華経を以て中国敦煌を中心に布教並びに空からの供養を行う。また地球を空中から十文字に妙法華経を以て供養するとして、昭和63年にはカナダ・ニューヨーク・フランス・ベルギー・ポーランド・ソビエト・中国という横廻り線御供養を、平成元年にはニュージーランド・南極・アルゼンチン・ウルグアイ・ブラジル・アフリカ・スペイン・ドイツ・オランダ・北極・ソビエトと廻る供養を行う。現在は高齢の教主会長に代わり業務の多くを本部長の梅本道生が行っている。 参照 「新宗教教団・人物事典」弘文堂 平成8年1月30日初版1刷発行 関連リンク 関連する用語 ふ 佛足跡石 ぶっそくせきいし 王舎城内 本殿玄関前の石碑 佛の足跡を刻んだもの、佛の足跡を辿って行くことにより成仏できると説明している 『佛の足跡はこの所より発す。慈悲をもって大衆を救護し、安穏の楽、世間の楽、涅槃の楽(過去から現在、そして未来へと続く楽)をここにおいて属累す。不老・不死の良薬、那国常所(仏の本所)より、この地に至り帰す。衆生皆、佛の足跡を追い全国土の安楽を成就せん』 石の左下に『悉皆成仏(地獄界から佛界まで、悉く成仏する)』と表している 関連リンク 関連する用語 へ ほ 宝珠 ほうじゅ 昭和34年12月31日 宝珠が出現したとの記録あり 魔に護られ、自分の思い通りになると言われる数珠のこと 宝珠拝受式に出席で入信後にもらえる数珠 事前に、誓願書と寿(金銭)とで申し込む 一生に一度しかしか貰えないものとの説明 宝珠をもらうと云うことは、仏の子になると云うこと 日々の生活で、何かに邪魔され、なかなか自分の思い通りにならない、などと云った原因は、魔の仕業であり、魔の仕事は、人を困らせることである。 しかし乍、魔であっても、人間を苦しめることは苦しいことであり、魔も仏に、救いを求めている。仏は、仏の子(仏子)になる事を願い出た者を守るならば、魔も助けると仏と魔との間に約束が交わされた。 仏より、「ご宝珠」という宝の珠を授けてもらうことで、自分を邪魔し、苦しめてきた魔に護られるようになる他、ご宝珠は、 如意宝珠 と言われ、自分の願いが何でも叶うようになっていくと言われている。また、 無価の宝珠 とも言われ、価値のつけようのないほど、たいへん尊いものだと説明している。 四悪から逃れるカギ 身の回りには危険ばかりで、何時どんな災難に遭遇しても不思議ではない。天災、地災、人災がはびこり、地獄、餓鬼、畜生、阿脩羅の四悪が現れ、今現在、恐怖悪世の時代が到来しており、そのような世の中にいても、諸仏や祖先に護ってもらい、日々安穏に、幸せで豊かな生活を送っていくことができる。 そうなるには、地獄、餓鬼、畜生、阿脩羅の四悪から逃れることが出来る「四法親近・仏所ご供養」という業をすること。 それは、広島と鹿児島にある四か所の仏所を供養してまわることであり。その仏所に入るためのカギが「ご宝珠」であると説明している 関連リンク 関連する用語 菩提樹 ぼだいじゅ 王舎城内 常所(御本部)の玄関にある施設 昭和48年4月1日に完成、複数のコブ等がある台湾ヒノキの幹部分 菩提樹は、一天の戒壇と言われ、経典に『梵天、帝釈、も来下して踏み給ふべき戒壇・・ 』とあり、いかなる神も来下し、すべての者が、罪を謝り赦して頂ける所。 困る事は、過去知らず知らずに、身で犯した殺、盗、婬、心で不善を念じた罪によって起こるとしている。 殺とは殺すとこと、私たちは毎日飲食物を口にし、生き物の命を奪ってる。 盗とは盗むこと、盗んでいないと思っていても、盗み聞き、盗み見などもこれにあたる。 婬とは男女の淫らな行為を表わす。 不善を念ずるとは、心では不善と言って、他人の幸せを心から喜べないとか、妬み・恨みを持つ等、である。 これらは皆罪となり何時かその報いが帰って来た結果が、自身に困ることが起こると云う結果となって現れて来る。 菩提樹では、このような罪を、佛より頂いた念願文を唱えることにより赦して頂ける。 ・菩提樹は、常所の玄関に安立され、すべてのものの始まりの揚所 『親』という字は「立ち木を見る」と書く、よって、菩提樹樹は総祖先すなわちすべての生き物の親である。 ・菩提樹には、十二支をはじめ多くの生き物の姿が現れている。 ・菩提樹で謝ることで、南方栴檀徳佛様に罪を赦して頂ける。 ・戒壇は普通、戒めをかける場所だが、菩提樹は戒めをほどいて頂く戒壇である ・お経に、「古い者は吹き散らされ、常に新しい者をふらす」とあり、新しくなることが大切と教えられいるが、「新」と言う字は、「立ち木に近づく」と書く。「新」しくなるには、菩提樹または菩提樹に近い道場に足を運び、立ち木に近づくことである ・菩提樹のある常所の本門から、宮島の厳島神社の鳥居が見えます。本門の入口から宮島を見ると、本門の門の間に宮島の鳥居が入り「開」と云う文字を現わす事となる。 関連リンク 関連する用語
https://w.atwiki.jp/kaiseimaru/pages/346.html
■師弟関係 ┌─首藤孫左衛門 │ 元禄十四年五月十五日免許 ├─石川理兵衛信安(1668-1741) │ 勘定所統取主立・勘定奉行 中西正則──┬─相原五平次─┼─吉田正兵衛( -1701) | (1648-1714) │延宝三年家を継ぎ元禄元年没ヵ │ ├─半沢 某 ┌─安達彦助 │ │ │ │ └─天野茂平治─┴─菅野長三郎(片倉家家中) │ (江志知辰と共に潜穴の測量) │ │ │ ┌─青木長由(1669-1740) │ │(数学門弟 元禄15年正月免許) │ ├─古山新之丞 │ │(数学門弟) 渋川春海─>┴─江志知辰──┼─杼窪新之丞(?-1731) (1639-1715) (1649-1714) │ ├─伊藤十兵衛 │(岩出山大肝入:数学門弟) ├─杉沼善之丞宿守 │(数学門弟 元禄五年養子(?)) ├─竹田半之丞(数学門弟) │ ├─遠藤盛俊(1672-1734) │ ├─芦東山(1696-1776) │ ├─葛西重矩 │ ├─セウデン(盲人) │ ├─ホウミヤウ院(山伏) │ ├─ハンセウ院(山伏) │ ├─金成太平(易学門弟) │ └─岡部市左衛門 延宝 六 十二月六日、於御國本木村新兵衛相原五平次割屋方統取役ニ因テ各俸金給未ヲ增賜フ、石川覚兵衛行沢次左衛門割屋方本人ニ召出サレ各俸金給未ヲ增賜フ 延宝 七 十月 六日 知行割役永野三之丞及川彦右衛門大越半之丞田代十之丞遠藤十三郎石川覚兵衛行澤次左衛門 十二月 六日 知行割役及川彦右衛門大越半之丞遠藤善三郎田代十之丞ニ藤喜兵衞須藤勘太郎各俸金給米加増ヲ賜フ 十二月二五日 本内五郎左衛門隠居跡式養子五郎八戸板市郎兵衛江戸勘定所統取役勤労ノ賞俸金加増ヲ賜フ 延宝 八 四月二三日 割屋統取役相原五平次木村新兵衞割屋役行沢次左右衛門石川覚兵衛ニ如定例各俸金給米加増ヲ賜フ 天和 元 十一月 六日 割屋役遠藤善三郎田代十之丞ニ藤喜兵衞須藤勘太郎各俸金給米加増ヲ賜フ 天和 三 二月十三日 知行割役万城目平左衛門尾花久三郎宮沢半六各番所広間を命セラル 貞享 元 一月二一日 戸板市郎兵衛子十太郎、次之間初テ御礼 六月二八日 相原五平次知行拝受ノ御礼、太刀目録献上拝謁 貞享 二 十二月二七日 割役宮沢半六郎万城目平左衛門尾花久三郎熊谷正助宮沢儀兵衛渡辺彦内・・・ 各勤労ノ賞俸金加増セラル奉行衆奉命 元禄元年 三月 五日 古山新之丞給米俸金如例賜リ勘定人ニ召出サル 十二月十七日 相原五平次正月二日発足、江志彥惣窪田権九郎差登サルニ就テ大町清九郎可奉命、 発足ノ日限ハ惣左衛門追テ可告達旨・・・右三人日光御用ヲ命セラルニ就テナリ 元禄二年 二月 九日 斎藤安右衛門大内甚七郎相原五平次渡邉六兵衛奉行ノ名目無シト雖モ、 従者五人鎗一柄ノ格ニ因テ諸奉行ノ並ニ幕支度ノ義、監物伺ヒ奉リ幕用ユヘキ旨命セラル 二月十六日 (日光普請の辞令)・・・其餘伊藤六兵衛渡辺六兵衛相原五平次等ニ監物奉命。 六月 六日 奈良坂八郎兵衛本所勘定方考役命セラル、相原五平次渡辺六兵衛並ニ勤仕スヘキ旨監物奉命。 七月 七日 副役人渡邉六兵衛相原五平次モ庄内長六郎一同ニ雁儀替リニ致サスヘキヤト 七月十一日 考役渡邉六兵衛相原五平次ニ各銀子二枚賜之、内職奉命 八月十六日 佐藤平助相輸塔下卜切番所卜リ相原五平次ヲ差置ル。 十一月 十日 岡本庄内小島長六郎渡邉六兵衛相原五平次、此度御普請御仕廻以後江戸へ差登セ御勘定等ノ儀モ承合、 其以後江戸日光仙台ニ在ル役人トモ手前内勘定モ見届サスヘシト吟味仕ルノ由、鈴木長兵衛へ告達シ・・・ 十一月十六日 渡邉六兵衛相原五平次ニ各十两・・・褒賜ノ旨木工奉命。 十一月十六日 於御対面所寄場斎藤安右衛門小野権𠮷渡邉六兵衛相原五平次、於使者之間草野十助河東田孫兵衛・・・ 元禄三年 六月二三日 大内甚七郎小野権吉渡辺六兵衛相原五平次奈良坂八郎兵衛各麻上下、 七月 二日 斎藤安右衛門大内甚七郎相原五平次ニ各時服一領判金一枚、小野権吉渡辺六兵衛ニ各時服一領黄金五兩 七月一〇日 ・・・御国元江罷下候、小野権𠮷相原五平次石村喜兵衛関八兵衞飯塚安・・・右ハ江戸江罷登候、七月八日。 十一月 六日 古山新之丞去年十二月マテ勘定役廿五月ノ勤功ニ因テ、如定例加増一両二分四人分ニ成賜ル、各於江戸奉命ノ由上達 元禄四年 一月十九日 本多郷右衛門子平三卽田代十之丞子三七郎鈴木新平子次兵衛・・・始テ御礼 十二月十六日 御勘定ニ預ル輩渡辺六兵衛相原五平次已下ニ、豊前木工ヲ以テ可慎旨命セラル、依 元禄五年 八月廿八日 蔵方役人、戸板市郎兵衛杼窪三内ニ、加増各俸金給米判金一枚十人分 十一月十一日、去ル七日岡本庄内渡邉六兵衛相原五平次、日光御勘定所へ御牒持参ノ処、組頭衆石原平十郎・・・ 元禄六年 一月二五日 渡邊六兵衞相原五平次加増各百石日光御勘定調済ノ賞賜ナリ 元禄七年 五月廿九日 山田安兵衛へ、以使者越後縮五端鱈十枚贈遣、日光御普請御用古物拂牒相原五平次書写スニ就テナリ。 元禄八年 二月廿一日 相原五平次ヲ勘定奉行同列ニ命セラル 五月 九日 列勘定奉行同格ノ御礼相原五平次各太刀馬代百疋献上拝謁在所ヘ入セラル 五月十一日 ・・・伊藤作大夫大田権右衛門相原五平次能拝見於連歌ノ間料料二汁五飣 元禄九年 一月 一日 勘定奉行相原五平次定俊・・・ 二月十三日 相原五平次ニ三浦権左衛門代勘定奉行仮役ニ命セラル 二月廿九日 三浦権左衛門義通在京相原五平次鈴木弥左衛門直行佐藤文右衛門成允 三月 九日 三浦権左衞門左京相原五平次石母田市之允 五月二七日 相原五平次龍筒﨑奉行金奉行津奉行御腰物奉行下大所役人 七月二六日 戸板市郎兵衛嫡子十太郎病次男次郎吉ヲ嗣子ニ成賜フ 十一月 十日 戸板市郎兵衛子次郎吉・・・各並居始テ御礼太刀馬代百疋献上 十二月廿一日 相原五平次割奉行作事奉行京都弟留守居勘定奉行龍箇崎奉行金奉行津奉行相去足軽頭評定所役人 元禄十年 六月十三日 於御座間金須兵太郎、出入司方御用取次勤ヘシ、列郡司ノ上ニ進ラレ、御用方取次免許ノ旨命セラル。次ニ大槻権内、兵太郎代り御用方取次命セラル、次ニ相原五平次兵太郎ニ指続キ動へシ、近習見習ノタメ御次ニ詰居へキ由命セラル 七月十五日 伊兵衛佐賀市即左衞門相原五平次大島新平 八月十五日 今宵月見ノ宴ニ因テ、父君へ御慰ニ塗重一折御進上使者相原五平次、北御方へ塗重錠口ヨリ贈せラル。 九月二八日 御出ノ節於所々例月ノ御礼、父君へ當日ヲ賀せラル使者相原五平次 十月廿一日 相原五平次、勘定奉行命セラレ列知行割奉行ノ上ニ命セラル、 十月廿二日 於伺公間、相原五平次勘定奉行命セラル御礼各太刀馬代百疋献上。 十月廿八日 中条五郎助自津七郎兵衛相原五平次吉住五兵衞大嶋新平佐藤文右衛内濱田半九郎遠慮各四人 元禄十一年 一月廿四日 金須兵太郎相原五平次留守火消南方田邉喜石衙門西方油井茂兵衛・・・ 六月廿一日 相原五平次養子ニ小原清之丞 九月十四日 賄奉行相原五平次各命せラル 元禄十三年 五月一日 古内孫十郎相原五平次参上、元禄八年穀舩破損濡米八丈島へ渡置ク・・・ 元禄十四年 八月十二日 白石勘觧由相原五平次定俊、各去年蓑作殿買懸り金償フ義、同役ニモ議セス鹿抹ナル状ニ因テ閉門命セラル旨、於仙台奉命ノ由上達 十月十六日 白石勘觧由相原五平次閉門免許
https://w.atwiki.jp/trpgken/pages/2578.html
◆概要 +... ▼システム:天下繚乱RPG ▼GM:いなえ ▼話数:2話 ▼備考:木曜キャンペーン ◆ハンドアウト +... 【PC1:元同心】 コネクション:遠江景漸 関係:旧友 指定クラス:仕事人 君は江戸は下町に住む自由人だ。君の仕事は至って簡単。江戸の町人から寄せられた依頼をこなすこと。人探しからお使いまで、基本的にはなんでもこなす。 ……かつて君は同心であり、北町奉行所の定 町廻方であった。しかし腐敗や権力闘争に塗れた役人組織に嫌気が差し、君は同心を辞めた。 コネクションの“遠江景漸”は町人の出であり、君とは幼少期からの友人である。正義感の強い生真面目な男だ。君と同時期に同心となったが、彼の方はまだ北町奉行所に在籍しているらしい。 キャンペーンギフト 【月輪の輝き】 タイミング:常時 あなたが使用する【光芒一閃】の効果に以下を加える。 「戦闘以外でのみ使用可能。対象に神属性10D6点のダメージを与える代わりに、対象を死亡させても良い。さらに戦闘以外でのみ、以下の条件を満たす場合、付随する効果を強制的に得る」 1:光芒一閃の対象が、あなたにとって悪党である場合、使用する光芒一閃は使用回数を消費しない。また光芒一閃が使用済みであっても使用出来る。 2:光芒一閃の対象が、 外道属性:天 を持つ場合、「殺害場面を目撃されない」「死亡した対象は遺体が見つからない」「殺害が事故にしか見えない」「殺害があなたの行いであるとバレない」の効果から任意の個数を得ても良い。この偽装は奥義以外の方法で見破られない。 3:光芒一閃の対象が、あなたにとって悪党でない場合(あるいは悪党でなかったと後から判明した場合)、あなたはNPC化する。 【PC2:姫君or若様】 コネクション:遠江景漸 関係:信頼 指定クラス:天下人 君は、徳川の(あるいは周辺諸藩や大名家の)姫(または若様)である。 ある日、君の住む屋敷を刺客が襲った。刺客の狙いは君の家ではなく、同心として君の家に出入りしていた遠江景漸であるらしい。 刺客はすぐに逃げ去ったが、景漸を追っているらしい。景漸はある任務(君は詳細を知らされていない)で鎌倉へ行っている。 景漸の身を案じた君は、“身分を隠して”(≒家の者には黙って)、彼にこのことを伝える旅に出た。 旅のお供(兼護衛)は、街の何でも屋であり景漸が日頃から「友人」と君に話していた“PC1”という人物に依頼することにした。 キャンペーンギフト 【日輪の輝き】 タイミング:常時 あなたが使用する【一件落着】に以下の効果を加える。 「あなたがそのセッション内で法律を犯さずにいる場合のみ、一件落着の使用が 外道属性:天 によって打ち消された際、日輪カウンターを1つ得る。日輪カウンターを1つ消費する毎に、以下の効果から1つを得る」 1:情報1つを得る。対決や判定が必要な場合、奥義によるクリティカルとして扱う。 2:使用済みの奥義1つの使用回数を回復する(自身のみ) 日輪カウンターの使用は「タイミング いつでも」として扱う。 【PC3:江戸町奉行】 コネクション:遠江景漸 関係:疑惑 指定クラス:なし 君は北町奉行である。 最近、江戸では御家人や旗本の襲撃事件が発生している。犯人は未だ捕まえられていないが、これらの事件で、奉行所が所持する情報が外部に漏れている可能性が出てきた。 君の部下である同心の内に、犯罪結社と通じている者が紛れ込んでいるかもしれないのである。 中でも疑惑が強い遠江景漸を、君は泳がせることとした。景漸に鎌倉への親書を届けさせる命を与え、君自らがその尾行を行うという計画…… ……のはずだった。 君は、老中より“家を飛び出して遠江景漸を追いかけているらしい姫君(or若様)(PC2)”のお目付け役を任されてしまった。君がお目付け役であることは姫(or若様)にはバレてはいけないらしい…… キャンペーンギフト 【世を偲ぶ仮の姿・改】 タイミング:本文 常時/効果1:あなたは変装によってその正体が町奉行であるとバレない。この効果はあなたが解除すると宣言するまで持続し、奥義以外の効果で見破られない。 いつでも/効果2:視界内の対象に任意の社会的制裁を与える。ただし 外道属性:天 を持つ対象には効果がない。この効果はセッション中1回まで使用可能であり、効果の使用と同時に全てのキャラクターにあなたの正体が町奉行であるとバレる。 ◆世界観 用語説明 +... 【奉行とか奉行所】 奉行所は行政機関の1つ。奉行(奉行人)はそのトップ。 勘定奉行(所):今でいう財務大臣(財務省) 道中奉行(所):今でいう国土交通大臣(国交省) 町奉行(所):今でいう都知事(都庁) 【江戸の町奉行所】 江戸の町奉行所は、北町奉行所と南町奉行所の2つがあり、月ごとに交代で業務を行っていた。 当番の奉行所が窓口業務、非番の方はその間に事務仕事を行うような形式であった。 南北それぞれに与力25騎程度、同心100名程度が在籍。 役所でいう課が約20あることを考えると、各課は与力1騎(課長)+同心4名(平社員)という状態。 基本的に激務 人手不足であった。 町奉行所内の組織構成と主要業務は以下の通り 組織名 業務 構成 内与力 奉行の秘書 与力のみ 年番方 奉行所の人事+経理+総務 与力+同心 吟味方 裁判+刑の執行 与力+同心 赦帳方 恩赦資料の作成 与力+同心 撰要方 判例集作成 与力+同心 人別調掛 人口調査+戸籍作成 与力+同心 例繰方 判例の調査+記録 与力+同心 本所見廻 本所/深川の警備等 与力+同心 養生所見廻 保健所+病院の管理 与力+同心 牢屋敷見廻 刑務所の管理 与力+同心 定橋掛 橋の管理+維持 与力+同心 町会所見廻 町会所の事務管理 与力+同心 猿屋町会所見廻 札差(武家への給与支払い仲介業者)の管理 与力+同心 古銅吹所見廻 銀行業務の監督 与力+同心 高積改 河岸警備+火災警戒 与力+同心 町火消人足改 消防の指揮+監督 与力+同心 風烈見廻 強風時の警備+火災警戒 与力+同心 人足寄場定掛 刑務所の管理 与力+同心 定町廻 警察業務 同心6名 臨時廻 警察業務の補佐+指導 同心6名 隠密廻 奉行直属の諜報 同心2名 警察や公安にあたる定町廻+臨時廻+隠密廻を指して三廻(または廻り方)と呼ぶ。十手を持っていたりと、何かと特徴的。 補足:町奉行所(と内包する警察権)は、寺社や武家の敷地内には捜査権や逮捕権を持たない。寺社は寺社奉行所が管理しており、武家もまた別な為。 【同心、町方同心】 かつての足軽身分であり、江戸幕府の下級役人。武士の端くれ。苗字を名乗り帯刀を許される身分。 町奉行所に勤める同心を特に町方同心と呼ぶ。 上記の奉行所内での仕事など同心として受け持つ業務は基本世襲制であるが、廻り方同心は特殊であり、罪人を扱う汚れ仕事であるため世襲ではなかった(ノウハウのいる職業なので実態としては世襲も多い) 世襲に際し、優秀な人材を養子縁組することで確保することもあった。 また同心の身分を売る者もおり、それを買った町人が武士となる例もある(処理としては金を払って養子縁組してもらう感じ) 【御用聞/岡っ引き】 三廻方だけでは警察業務は手が回らないため、それら同心が私的に雇った部下。非正規雇用警察官。 基本的に町人であり、街の顔役からヤクザごろつきまで様々。身の証として十手を預けられている。 【武士】 貴族で政治家で軍人で公務員。 江戸時代、武士の数って増えすぎちゃったのよね…… 幕府が払うお賃金もお安いので、基本的に貧乏。武士の数が多いので仕事がない(あっても仕事量がほぼない)って武士も多い。 奉行所勤めでもない限り、副業に精を出していた。 武士は食わねど高楊枝…… ※町奉行所は激務 高給なのでかなり例外 【旗本とか御家人とか】 武士の身分。 将軍への謁見の権限があるのが旗本。侍。 謁見権限がないのが御家人。従士。 同心は従士で、御家人。 与力は侍だが、謁見権限はないので御家人。 ……ややこしい。 町奉行は基本的に二千石から三千石クラスの旗本が就任する。 【火付盗賊改】 町奉行所以外で警察権を持つ組織。与力10騎、同心50名で構成。文官ではなく武官で構成されている。 放火犯や武装盗賊団などの凶悪犯を主に相手にする。 町奉行所と職権が被っているので、当然の如く仲は良くない。 裁判や刑の執行は町奉行所の仕事なので、捕らえた犯罪者は町奉行所に引き渡す約束だが、抵抗されたとかなんとかで勝手にぶっ殺しちゃうことが多い。 町奉行所と仲良くする気ないな? 町奉行所と違い、武家や僧侶も逮捕できる。 町奉行所三廻方と同じく御用聞を雇っている。 【出てきそうなNPC】 【老中:田沼意次】 概ねPC3の上司。 ダブクロでいう霧谷(その1) 【大目付:大岡越前】 大目付は、諸大名の監視や街道の管理、切支丹の取締りが仕事。 ダブクロでいう霧谷(その2) 【南町奉行:鳥居耀蔵】 正義の人。過激な取締りを行う。 法律重視+俺が法律、というタイプ 【火付盗賊改長官:“鬼平”長谷川平蔵宣以】 正義の人。罪を憎んで人を憎まず。 守るべきルール 犯罪撲滅、というタイプ。 ※ざっくり調べて書いてるので、間違ってる箇所あれば修正します ◆各話 第1話 『月光は誰が為に、夜を照らす』 第2話 『月光は誰が為に、夜に散る』 ◆キャラクター 【PC名】? 【PC名】? 【PC名】? 【NPC】 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/gosi/pages/43.html
海舟全集第9巻 鶯谷庵独言 おれが此一両年、始て外出を止められたが、毎日毎日諸々の著述、物の本、軍談、また御当家の事実、いろ〳〵と見たが、昔より皆々、名大将、勇猛の諸士に至まで事々に天理を知らず諸士を扱ふ事、又は世を治るの術、乱世治世によらずして、或は強勇にし、或はほふ悪く、或はおごり女色におぼれし人々、一時は功を立るといへ共、久しからずして天下国家をうしなひ、又は知勇の士も聖人の大法に省く輩は始終の功を立ずして、其身の亡びし例をあげてかぞへがたし。和漢とも皆々天理にてらして君臣の礼もなく父兄の愛もなくして、とんよくきょうしゃ故に全き身命を亡し、家国をもうしなふ事、みな〳〵天の罪を受る故と、初めてさとり、おれが身を是までつゝがなくたもちしはふしぎだと思ふと、いよ〳〵天の照鏡をおそれかしこみて、なかなか人の中へも顔出しがはづかしくて出来ずと思ふは、去ながら昔年、暴悪の中よりして多くの人を金銀をもおしまず世話をしてやり、又人々の大事の場合も助けてやったから、夫故に少しは天の恵みがあった故、此様にまづあんのんにしているだらふと思ふ。息子がしつまい故に、益友をともとして、悪友につき合ず、武芸に遊んでいて、おれには孝心にしてくれて、よく兄弟をも憐み、けんそにして物を遣はず、麁服をもはぢず麁食し、おれがこまらぬよふにしてくれ娘が家内中の世話をしてくれてなきもおれ夫婦が少しも苦労のないよふにするから今は誠の楽隱居になった。おれのよふな小供が出来たらば、ながく此楽は出来まいと思ふ、是もふしぎだ。神仏には捨られぬ身と思ふ。孫や其子はよく〳〵義邦の通りにして子々孫々のさかえるよふに心がけるがいゝぜ。年は九歳からは外の事をすてて、学文して武術に昼夜身を送り諸々の著述本をみるべし。へたの学問よりははるか増だから女子は十歳にもなったらば髪月代を仕習て、おのれが髪も人手にかゝらぬよふして縫はりし、十三歳ぐらゐよりは我身を人の厄介にならぬよふして手習などもして人並に書く事をすべし。他へかしても事をかゝず一家を治むべし。おれが娘は十四歳のときから手前の身の事は人の厄介になった事はない。家内中の者が却々世話になる。男子は五体を強よくして、そしきをして武芸骨をり一芸は諸人にぬき出ていを逞ましくして旦那の為には極忠をつくし親の為には孝道を専らにして妻子にはじあいし下人には仁慈をかけてつかひ勤をばかたくして友達には信義をもって交り専らにけんやくしておごらず、そふくし益友には厚くしたひて道をきゝ師匠をとるなら業はすこし次にても道に明らかして俊ぼくの仁をゑらみて入門すべし。無益の友は交るべからず。多言を云事なかれ。目上の仁は尊敬すべし。万事内輪にして慎み祖先をまつりてけがすべからず。勤は半時早く出べし。文武を以て農事と思ふべし。少しも若き時はひまなきよふ道々を学ぶべし。ひま有時は外魔が入て身をくづす中だちの遊芸にはよる事なかれ。年寄は心して少しはすべし。過ればおのれのよふになる。庭へは諸木を植ず畑をこしらへ農事をもすべし。百姓の情をしる。世間の人情に通達して心にをさめて外へ出さず守べし。人に芸の教受せば弟子を愛して誠を尽し気に叶ぬものには猶々丹誠を尽すべし。ゑこの心を出す事なかれ。万事に厚く心を用ひする時は天理にかなひて、おのれの子孫に幸あらん。何事も勤と覚らば、うき事はなかるまじ。第一に利欲は絶つべし。夢にも見る事なかれ。おれは多欲だから今の姿になった。是は手本だ。高相応に物をたくわへて、若、友達か親類に、ふ慮の事があったならば、をしまず、ほどこしやるべし。縁者はおのれより上の人と縁組べからず。成丈にひん窮より相談すべし。おのれに勝るとおごりかって家来はびんぼう人の子を仕ふべし。年季立たらば分限の格にして片付てやるべし。女色にはふけるべからず。女には気を付べし。油断すると家を破る。世間に義理をばかくべからず。友達をば陰にて取なすべし。常住坐臥とも、にうはにして家事を治め主人のいかうをおとすことなし。せいけんの道に志て万慎みて守るときは一生安穏にして身をあやまつ事はなかるまじ。おれは是からはこの道を守心だ。なんにしろ学問を専要にして能く上代のをしへにかなふよふにするがいゝ。随分して出来ぬ事はないものだ。それになれると、しまひには、らくに出来る物だ。けっして理外の道へいることなかれ。身を立、名をあげて、家をおこす事はかんじんだ。譬へばおれを見ろよ。理外にはしりて人外の事ばかりしたから祖先より代々勤めつゞいた家だが、おれがひとり勤めないから家にきづを付た。是が何寄の手本だは。今となりて覚て、いく様も後悔をしたからとて、しかたがない。世間の者には悪輩の様にいわれて持てゐた金や道具は、かしとりにあいて夫を取にやれば隠居が悪法で拵らへた道具だから何返すに及ずといふし、金もまた其の心持で居るから、ろくに挨拶もせずによこさぬは。悟ば向ふが尤と思ふ。よい。かよふの事が出ても人をばうらむものではない。みんなこちちのわるいと思ふ心がかんじんだ。怨敵には恩を以てこたへば間違はない。おれは此度も頭よりおしこめられてから取扱のものどもをうらむだが、よく〳〵考へて見たらば、みんなおれが身より火事を出したと気がついたから、まいばんまいばん罪ほろぼしには、ほけ経をよんで陰ながら、おれにつらく当ったと、おれが心得違た仁々は、りっしんするよふに祈てやるから其せいか此ごろはおれの体も丈夫になって家内のうちに、なにもさいなんもなく親子兄弟とも一言のいさかひもなく毎日〳〵笑てくらすは誠に奇妙のものだと思ふから子々孫々も、こふしたらば、よかろふと気がつゐた故に、ひまにあかして折々出付た。善悪の報ひをよく〳〵あぢはふべし。恐多くも東照宮の御幼少の御事、数年の御なんせん故に、かくの如くに太平つづき、万事さかへるうれひ忘れ、妻子をあん楽にすごし、且は先祖の勤苦、思ひやるべし。夫より子孫はふところ手をして先祖の貰た高を取うけて昔を忘れて美服をき、美味をくらひ、ろくの御奉公をも勤めざるは不忠不義ならずや。ここをよくおもって見ろ。今の勤めは畳の上の畳事だから少もきづかひがないは万一すべってころぶ位の事だ。せめては朝は早く起き其身の勤にかゝり夜は心を安じて寝て淡白のものを食し、おごりをはぶひて諸道に心をつくし不断のきるいは破れざれば是として勤の服はあかのつかざれば是とし家居は雨もらざればよしとし畳きれざれば是として専らに、けん素にして(脱落有り)よくはすべからず。倹吝の二字を味をふてすべし。数巻の書物をよんでも心得が違ふと、やろふの本箱字引になるから、ここを間違ぬよふにすべし。武芸もそふだ。ふころの業を学ぶと支体かたまりて、やろふの刀掛になる故、其心すべし。人間になるにも其通りだ。とくよく迷ふと、うはべは人間で心は犬猫もどふよふになる。真人間になるよふにい心懸るが専一だ。文武諸芸ともみな〳〵学ぶに心を用ひざれば、不残このかたわとなる。かたわとなるならば学ばぬがましだ。よくよくこの心を間違ぬよふに守が肝要だ。子々孫々とも、かたくおれがいふことを用ゆべし。先にもいふ通り、おれは之までも、なんにも文字のむつかしい事はよめぬから、こゝにかくにも、かなのちがひも多くあるから、よく〳〵考へてよむべし。 天保十四寅年の初冬、於鶯谷庵かきつゞりぬ 左衛門太郎入道 夢酔老 気心は勤身 気はながくこゝろはひろくいろうすく つとめはかたく身をばもつべし 外に まなべたゞゆふべになろふみちのべの 露のいのちのあすきゆるとも おれほどの馬鹿な者は世の中にもあんまり有まいとおもふ故に孫やひこの為に、はなしてきかせるが、能く不法もの、馬鹿者のいましめにするがいゝぜ。おれは妾の子で、はゝ親が親父の気にちがって、おふくろの内で生れた。夫をほんとふのおふくろが引取て、うばでそだてゝくれたが、がきのじぶんよりわるさ斗して、おふくろもこまったと云事だと。夫におやぢが日きんの勤め故に内には居ないから毎日〳〵わがまゝ計りいふて、強情故みんながもてあつかった、と用人の利平次と云ぢゝいがはなした。其時は深川のあぶら堀といふ所に居たが、庭に汐入の池が有て、夏は毎日〳〵池にばかりへは入てゐた。八ツにはおやぢが御役所より帰るから、其前に池より上り、しらぬ顔で遊んで居たが、いつもおやぢが池のにごりてゐるを、利平ぢゝにきかれるとあいさつに困ったそふだ。おふくろは中風と云病ひで、立居が自由にならぬ。あとはみんな女計りだから、ばかにして、いたづらのしたいだけして、日をおくった。兄きは別宅していたから、なにもしらなんだ。おれが五つの年、前町の仕事師の子の長吉といふやつと凧けんくゎをしたが、向ふは年もおれより三つばかり多きい故、おれが凧をとって破り、糸もとりおった故、むなぐらを取て、きりいしで長吉のつらをぶった故、くちびろをぶちこはして、血が大そう流れてなきおった。そのときおれが親父が、庭の垣根から見ておって、侍を迎ひによこしたから、内へかへったら、親父がおこって、人の子にきづをつけてすむかすまぬか。おのれのよふなやつはすておかれずとて、椽の柱におれをくゝして庭下駄であたまをぶちやぶられた。いまにそのきづがはげて、くぼんでゐるが、さかやきをする時は、いつにてもかみすりがひっかゝって血が出る。そのたび長吉の事を思ひ出す。 おふくろがほふほふより来たくゎしをしまっておくと、ぬすみ出して食てしまふ故、方々へかくしておくを、いつもぬすむ故、親父にはいはれず、こまった。逸體はおふくろがおれをつれて来た故、親父には、みんなおれがわるいたづらは、かくしてくれた。あとの家来はおふくろをおそれて親父におれが事は少しもいふことはならぬ故、あぼれほふだいそだった。五月あやめをふきしが、一日に五度までとって、しよ婦打をした。利平おやぢが、あんまりだといって親父にいつけたが、親父がいふには、小供はげんきでなければ医師にかゝる病人になるは。いく度もふき直し菖蒲を沢山買入れよといった故、利平も菖蒲がなくて困った、とおれが十六七才のときはなした。このおやぢも久しくつとめて兄の代には信濃国までも供して行おったが、兄きがつかった侍は、みんな中間より取立て信州五年づめの後、江戸にて不残、御家人のかふを買てやられたが、利平は隠居して、かぶの金を貰って、身よりの処へかかりて、かねを不残、其やつにとられてしまった。兄きの家へ来たが、ほふばいがじゃまにしてかあいそうだから、おれが世話をして、ぼふづにし千ケ寺にだしてやったが、まもなく又きたから谷中のかんのふ寺の堂ばんにいれておいたが、ほどなく死におったよ。おれが三十ばかりのときだ。 おれ七ツのとき、今の家へ養子にきたが、そのとき十七歳といって、げしぼふずの前がみをおとして、養家の方で小普請支配石川右近将監と組頭の小尾大七郎に、初て判元の時にあったが、其時は小吉といったが、頭が、年は幾つ。名はなんといふ、ときゝおった故、名は小吉。年は当十七歳、といったら、石川が大きな口をあいて、十七にはふけた、とてわらいおった。其時は青木甚平と云大御番、養父の兄きが取持をしたよ。 おれが名は亀松と云。養子にいって小吉となった。夫から養家には祖母がひとり、孫娘がひとり、両親は死んだ後で、不残深川へ引取り、親父が世話をしたが、おれはなんにもし知らずに遊んでばかり居た。此年にたこにて前町と大けんくゎをして、先は二三十人ばかり。おれはひとりでたゝき合、打合せしが、ついにかなはず、干かばの石の上においあげられて、ながさをでしたたかたゝかれて、ちらしがみになったが、なきながら脇差を抜て、きりちらし、諸せんかなはなく思たから、腹をきらんと思ひ、はだをぬひで右の上にすはったら、其脇に居た白子やと云米屋がとめて、内へおくって呉た。夫よりしては近所の小供が、みんなおれがてしたになったよ。おれが七つの時だ。 深川のやしきもたび〳〵のつなみ故、本所へやしき替へをおやぢがして、普請のできるまで駿河台の太田姫稲荷の向ふ若林の屋敷を当分かりて居たり。其やしきは広くって庭も大そふにて隣に五六百坪の原があったが、ばけ物やしきとみんながはなした。おれが八つ計の時に、親父が内中のものをよんで、其原に人の形をこしらへて、百ものがたりをしろといった故、夜みんながその隣の屋敷へひとりづゝいって、かのばけものゝ形の袖へ名を書たふだを結付て来るのだが、みんながこわがって、おかしかった。一ばんしまひにおれが行ばんであったが、四文銭をみがきて人の形の顔へ目にはりつけるのだが、夫がおれがばんにあたって夜の九つ半ぐらゐだと思たが、其晩はまっくらでこまったが、とふとふ目を付て来たよ。みんなにほめられた。 おれが養家のばゝどのは、若い時からいぢがわるくって、両親もいぢめられて、夫故に若死をしをったが、おれをまい日〳〵いぢめをったが、おれもいまいましいから、でほふだいに、あくたいをついたが、その時親父が聞付て、おこっておれに云には、年もゆかぬに、ばゝさまにむかって、をのれのよふな過言を云やつはない。始終が見届けない、とて脇差を抜て、おれに切付たが、清といふ妻はあやまってくれたっけ。 翌年、よふ〳〵本所のふしんが出来て、引越たが、おれがゐる所は表の方だが、はじめてばゝどのと一所になった。そふすると毎日やかましいことばかりいひをったが、おれもこまったよ。不断の食ものも、おれにはまづいもの計くはして、にくいばゝァだと思て居た。 おれは毎日〳〵そとへ計り出て遊んで、けんくゎばかりして居たが、或時亀沢町の犬が、おれのかっておゐた犬と食合て、大げんくゎになった。そのときは、おれが方は、隣の安西養次郎と云十四計のがかしらで、近所の黒部金太郎、同兼吉、篠木大次郎、青木七五三之助と高浜彦三郎におれが弟の鉄朔と云ふと八人にて、おれの門の前で町のや郎たちとたゝき合をした。亀沢町は緑町の小供を頼んで、四五十人計だが、竹槍を以て来た。こちらは六尺棒、木刀、竹刀にてまくり合しが、とふ〳〵町のやつらを追かへした。二度めには向ふにはおとながまじって、又〳〵たゝき合しが、おれが方がまけて、八人ながら隣の滝川の門の内へはいり息をついたが、町方では勝にのって門を丸太にてたゝきおる故、また〳〵八人が一生けん命になって、こんどはなまくら脇差を抜て門を開いて不残切り立しが、其のいきおひにおそれ、大勢がにげおった。こちらは勝にのって切立しも、おれが弟は七つ計だがつよかった。一番におっかけたが、前町の仕立屋のがきに弁治と云やつが引返し来て、弟の手を竹やりにてつきおった。其時おれがかけ付て、弁治のみけんを切たが、弁治めがしりもちをつき、どぶのなかへおちおった故、つゞけうちにつらを切てやった。前町より小供の親父らが出てくるやら大さわぎさ。夫から八人が勝どきを揚て引返し、滝川の内へはいり、互ひによろこんだ。そのさわぎを、親父が長屋の窓より見て居て、おこって、おれは三十日計り目通止られ、おしこめにあった。弟は蔵の中へ五六日おしこめられた。 九ツの時、養家の親類に鈴木清兵衛と云御細工所頭を勤める仁柔術の先生にて一橋殿、田安殿始、諸大名、大勢弟子を以て居る先生が横網町と云所に居る故、弟子になりにゆくべしと、親父が云故いったが、三八五十の稽古日にて、はじめて稽古場へ出て見た。始は遠慮をしたから段々いたづらを仕出し、うち弟子ににくまれ、不断ゑらきめにあった。或日稽古に行と、ばんの木馬場と云所にて、前町の小供、其おやどもが大勢あつまって、おれが通るを待って居る。一向にしらずして、其前を通りしが、それ男谷のいたづら子がきた。ぶちころせ、とのゝしりおって、竹鎗、ぼうちぎりにて、とり巻しが、直に刀を抜てふりはらひ〳〵、馬場の土手へかけ上り、御竹蔵の二間計りのぬま堀へはいり漸々にげ込しが、其時羽織はかまなどが泥だらけになりおった。夫から御竹蔵番の門番は、ふだん遊びに行故に、いろいろ世話をしてくれたが、内へかへる気がひがある故、たのんでおくって貰た。四五十人ばかりまち伏をしおった。大まなめにあった。その後は二月ばかり亀沢町はとほらなんだが、同町の縫はくやの長と云やつが、門の前を通りおったから、なまくら脇差にてたゝきちらしてやったが、内の中間が漸々とめて、辰の内へつれていって、はんの木馬場のしかへしのよしをそのや郎のおやによくいったとさ。夫よりは亀沢町にておれに無礼をするものはなくなったよ。 柔術のけいこ場で、みんながおれをにくがって、寒げいこの夜つぶしと云事をする日、師匠からゆるしがでて、出席の者が食いものをてん〳〵にもち寄てくふが、をれも重箱へまんぢうをいれていったが、夜の九ツ時分になると、稽古をやすみ、皆々持参のものを出してくふが、おれもうまいものをくってやらふと思って居ると、みんなが寄って、おれを帯にてしばって天上へくゝしあげおった。其下で不残寄おって、おれがまんぢうまでくひおる故、上よりしたゝかおれが小便をしてやったが、取ちらした食ものへ小便がはねおった故、不残捨てしまひおったが、その時はいゝきびだとおもったよ。 十の年、夏、馬の稽古をばしはじめたが、先生は深川菊川町両番を勤める一色〳〵幾次郎と云師匠だが、馬場は伊予殿橋の六千石とる神保磯三郎といふ人の屋敷で稽古をするのだ。おれは馬がすきだから、毎日〳〵門前乗をしたが、二月めに遠乗にいったら、道で先生に逢ってこまった故、横町へにげこんだ。そふすると先生が、次の稽古にいったら、こゞとをいひおった。まだくらもすわらぬくせに、以来はかたく遠乗はよせ、といひおった故、大久保勘次郎と云先生へいって、せめ馬の弟子入したが、この師匠はいゝ先生で、毎日木馬に乗れとて、よくいろ〳〵をしへて呉たよ。毎月五十くら乗をすべしとて、借馬引にそふいって、藤助・伝蔵・市五郎といふやつの馬をかり、毎日〳〵馬にばかりかゝっていたが、しまひには馬を買て、藤助にあづけておいたが、火事には不断でた。一度、馬喰町の火事の時、馬にて火事場へ乗込しが、今井帯刀と云御使番にとがめられて、いつさんににげたが、本所の津軽の前までおっかけおった。馬が足が達者故とふ〳〵にげおふせた。あとで聞ば、火事場は三町手前よりは火元へ行ものではないといふ事だよ。 壱度、すみだ川へ乗行しが、其時は伝蔵といふ借馬引の馬をかり乗たが、土手にて一さんにおひちらしたが、どこのはづみか、力皮がきれて、あぶみを片っぼ川へおとした。其まゝ、かたあぶみで帰たことがある。 十一の年、駿河台に鵜殿甚左衛門と云剣術の先生がある。御簾中様の御用人を勤む、忠也流、一刀流にて銘人とて、友達が咄しをった故、門弟になったが、木刀の形ばかりをしへをるゆへ、いゝことにおもってせいを出しいたが、左右とかいふ伝受を呉たよ。其稽古場へ、おれが頭の石川右近将監のむすこがいでしが、おれの高や何かを能しっている故、大勢の中で、おれが高はいくらだ、四十俵では小給者だとって笑ひをるが、不断のこと故、おれも頭の息子故内輪にしておいたが、いろ〳〵ばかにしおる故、或とき木刀にて思ふさまたゝきちらし、あくたいをついて、なかしてやった。師匠にひどくしかられた。今は石川太郎左衛門とて御徒頭を勤めているが、古狸にて、今になんにもならぬ。女を見たやうな馬鹿野郎だ。 十二の年、兄きが世話をして学問をはじめたが、林大学頭の所へ連れ行やったが、夫より聖堂のき宿部や保木巳之吉と佐野郡左衛門と云きもいりの所へいって、大学をしへて貰たが、学問はきらひ故、毎日〳〵さくらの馬場へ垣根をくぐりていって、馬ばかり乗ってゐた。大学五六枚も覚しや。両人より断わりし故、うれしかった。 馬にばかり乗りし故、しまいには銭がなくなってこまったから、おふくろの小遣又はたわいの金をぬすんでつかった。 兄きが御代官を勤めたが、信州へ五ケ年つめきりをしたが、三ケ年目に御機嫌窺に江戸へ出たが、そのときおれが馬にばかりかかってゐて銭金をつかふ故、馬の稽古をやめうとて、先生へ断の手紙をやった。其上にておれをひどくしかって、禁足をしろといひおった。夫から当分内に居たがこまったよ。 十三の年の秋、兄が信州へかへったから、又々諸方へ出歩行、のらくらしてゐたが、とかくおれがばゝあどのがやかましくて、おれがつらさへ見ると、こゞとをいひおる故、おれもこまって、しまひには兄よめに咄して、智恵をかりたが、兄よめも気の毒におもって、親父へはなして呉たが、そこで或る日親父がばゝあどのへいふには、小吉もだんだん年もとる故、小身者は、にたきまで自身に出来ぬと身上をばもてぬものだから、以来は小吉が食物などは当人へ自身にするやうにさっしゃるがよい」といって呉た故、猶々おれがことはかまはず、毎日〳〵自身に、にやまをしたが、醤油には水をいれておくやら、さま〴〵の事をするから、心もちがわるくってならなかった。よそよりくゎし、何にても貰へば、おれにはかくして呉ずして、おれがきものは一ツこしらへて呉ると、世間中へふひちょうして、わるく計いひちらし、きもがいれてならなかった。親父にいふと、おれ計しかるし、こんなこまったことはなかった。 十四の年、おれが思うには、男は何をしても一生くはれるから、上方あたりへかけおちをして、一生ゐやうとおもって、五月の廿八日に、もゝ引をはきて内を出たが、世間の中は一向しらず、かねも七八両ぬすみ出して、腹に巻付て、先品川まで道をきゝ〳〵して来たが、なんだか心ぼそかった。夫からむやみに歩行て、其日は藤沢へとまったが、翌日早く起きて宿を出たが、どふしたらよからふと、ふら〳〵ゆくと、町人の二人連の男が跡より來て、おれに、どこへ行と聞から、あてはないが上方へゆく、といったら、わしも上方まで行くから一所にゆけ、といひおった故、おれも力を得て、一所にいって小田原へとまった。其時、あしたは御関所だが、手形はもってゐるか、といふ故、そんな物はしらぬ、といったら、銭を二百文だせ。手形を宿で貰てやる、といふから、そいつがいふ通りにして関所も越たが、油断はしなかったが、浜松へ留った時は、二人が道によく世話をして呉たから、少し心がゆるんで、はだかで寝たが、其晩にきものも大小も腹にくゝしつけた金も、みむなとられた。朝、目がさめた故、枕元を見たらなんにもないから、きもがつぶれた。宿屋の亭主に聞たら、二人は尾張の津島祭りに間に合ないから先へゆくから後よりこひ、といって立をったといふから、おれもとほふにくれてなゐて居たら、亭主がいふには、夫は道中のごまのはいといふ物だ。わたしは江戸からの御連とおもったが、何にしろきのどくなことだ。どこを志してゆかしゃる、とて、しんじつに世話をしてくれが、いふには、どこといふあてはないが上方へゆくのだ、といったら、何にしろじゅばん計にてはしかたがない。どしたらよからう、と、十方にくれたが、亭主が飛しゃく一本くれて、是まで江戸子が、此海道にては、まゝそんなことがあるから、おまへも此ひしゃくをもって、浜松の御城下在とも一文ツゝ貰ってこい、とおしへたから、漸々思ひ直して、一日方〳〵貰って歩行たが、米や麦や五升ばかりに、銭を百二三十文貰って帰った。 亭主、いゝものにて、其ばんはとめてくれた。翌日、先伊勢へ行て、身の上を祈りてくるがよかろうといふ故、貰た米と麦とを三升計に銭五十文ほど、亭主に礼心にやって、夫から毎日〳〵こじきをして伊勢大神宮へ参ったが、夜は松原又川原或は辻堂へ寝たが、蚊にせめられてろくに寝ることも出来ず、つまらぬさまだっけ。 伊勢の相生の坂にて、同じこじきに心易くなり、そいつがいふには、龍太夫といふおしの処へいって、江戸品川宿の青物や大阪やの内よりぬけ参りに来たが、かくのしだい故、留てくれろといふがいゝ。そうすると向ふで張面をくりててとめる、とをしへて呉た故、龍太夫の内へいって、中の口にて其の通りいったら、はかま抔きたやつが出て張面を持って来てくり返し〳〵見をって、奥へ通れといふから、こは〴〵通ったら、六畳敷へおれをいれて、少し立て其男が来て、湯へはいれといふから、久しぶりにて風呂へはいった。あがると、麁末だが御ぜんをくへ、とて、色々うまいものを出したが、これも久敷くはないから腹いつぱいやらかした。少し過て、龍太夫はかり衣にて来おった。能こそ御参詣なされた、とて、明日は御ふだを上ませう、といふ故、おれはたゞ、はい〳〵といってじぎばかりしてゐた。夫から夜具蚊やなど出して、お休みなされといふから寝たが、心もちがよかった。翌日は又々馳走をして御札を呉た。そこでおれが思ふには、とてものことに金も借てやらふと、世話人へそのことをいったが、先の取つぎをした男が出て来て、御用でござりますか」といふから、道中にてごまのはゐのことをいひ出して、路銀を二両計かして呉るやう頼むといったら、龍太夫へ申聞かすとてひっこんだ。少し間だが過て、おれにいふには、太夫方も御らんの通り大勢さまの御逗留故、なか〳〵手廻りまさぬ故、あまり軽少だが是を御持被下やうとて壱貫文呉た。夫を貰って早々にげ出した。夫から方々へ参ったが、銭はあるし、うまいものを食ひどふしだから、元のもくあみになった。 龍太夫を教へて呉た男は、江戸神田黒門町の村田と云紙屋の息子だ。夫からこゝで貰ひあそこで貰ひ、とふ〳〵空に駿河の府中迄帰った。なにをいふにも、じゅばん壱枚、帯はなわをしめ、わらじはいつにもはひたこともねへから、ざまのわるいこじきさ。府中の宿の真中ごろに、くゎんおんか何かの堂があったが、毎晩夜はその堂の椽の下へ寝た。 或日、府中の城の脇の御紋付を門のとびらにつけた寺があるが、其寺の門の脇は竹やぶ計の所だが、その脇に馬場の入口に石がたんとつんで道からそこへ一夜ねたが、翌日、朝早く侍が十四五人来て借馬のけいこをしてゐたが、どいつも〳〵へただが、むちうになって乗てをるから、おれが目を覺しておきあがったら、馬引どもが見おって、爰にこじきが寝ておった。ふてい奴だ。なぜ、かこひの内へ、へゑりおった、とてさん〴〵しかりおったが、いろ〳〵わびごとして其内へかゞんで居て、馬乗を見たが、あんまりへたがおほいから笑ったら、馬喰共が三四人でしたゝかおれをぶちのめして外へ引づり出しおった。おれがいふには、みんなへただからへただといったがわるいか、と大声でどなったらば、四十計の侍が出おって、これ、こじき、手前はどこのやつだ。子蔵のくせに、侍の馬乗をさっきからいろ〳〵といふ。国はどこだ。いへ〳〵、と云から、おれが、国は江戸だ。それに元からこじきではない、といったら、馬はすきか、といふ故、すきだといったら、ひとくらのれ、といひおる故、じゅばん壹枚で乗て見せたら、みんながいひをるには、この小蔵めは侍の子だらふ、といひおって、せんの四十計の男が、おれの内へ一所にこひ。めしをやらふ、といふから、けいこをしまひ、帰るとき、其侍の跡につひていったら、町奉行屋敷の横丁のかぶき門の屋敷へはいり、おれをよんで台所の上りだんで、したゝか飯と汁をふるまったがうまかった。 其侍も奥の方で飯をくって仕舞って又台所へ出てきて、おれの名、又親の名をきゝおるから、いゝかげんにうそをいったら、なんにしろ不便だからおれが所へいろ、とて単物を呉た。そこの女房も、おれがかみを結て呉た。行水をつかへとて湯をくんでくれるやら、いろ〳〵とかあいがった。今かんがへると与力とおもふよ。其侍は肩衣をかけて、どこかへいったか、夕方内へ帰った。夜も、おれを居間へよんでいろ〳〵身の上の事を聞たから、町人の子だ、といってかくしていたら、いまに大小と袴をこしらへてやるから爰にてしんぼうしろ、といひおる。六七日もいたが、子のやうにして呉た。 おれが腹の内で思ふには、こんな内にしんぼうしてゐてもなんにもならぬから、上方へゆきて公家の侍にもなるほふがよからふと思ひて、或ばん単物帯もたゝんで寝所におひて、じゆばんをきて其内をにげ出して、安部川の向ふの地蔵堂に其晩んは寝た。翌日、夜のあけないうちに起て、むやみに上方のほふへにげたが、銭はなし、食物はなし、三日計はひどくこまったが、夫から一文づゝ貰って、宇都宮の地蔵堂にふた晩寝たが、其夜五ツ時分に、堂の椽がわに、どんと音がする故、其音にゆめがさめたが、人がゐる様子故、せきばらひをしたら、其人が、そこに寝て居るはなんだ、といひおるから、伊勢参りだといったら、おれは此先の宿へばくちにゆくが、此銭を手前かつひでゆけ、御伊勢さまへおさいせんを上るから、といひおるゆゑ、起出て其銭をかつひでゆくと、たしかまり子の入口かとおもった、普請子屋へはいりしが、おれもつゝひて入しが、三十人計、車座になりおって、おれを見て、其こじきめはなぜ爰へ這入った、と親方らしい者がいふと、連の人がいふと、こいつは伊勢参りだからおれが連て来た、といふと、そんなら手前はめしでもくってまってろ。今に御伊勢様へ御初穂を上るから、とて飯酒を沢山ふるまった。 少し過ると、連てきた人が銭を三百文計、紙にまひてくれた。外のものも五十、百、廿四文、十二文てん〴〵に呉たが、九百計貰た。みんながいひ居るには、はやく地蔵さまへいってねろ、といふ故、礼をいふてこの子屋を出ると、ひとりがよびとめて、大きなむすびを三ツ呉た。 うれしくって又半道計の所をもどって、地蔵へさいせん上てねたが、夫よりふらふら壱文づゝ貰ひ、四日市までゆくと、先頃龍太夫ををしへた男に逢た。其時の礼をいって百文計、礼にやったらば、其男がうれしがって、久敷飯をはら一ぱいくわぬから飯をくはふ、とて、二人で飯を買て、松原にねころんで食た。 別れてより楽にいろいろのめに逢た咄しをして、其日は一所に松原に寝たり、こじきの交りは別なものだ。 夫から二人いひ合て又々伊勢へいった。其男は四国の金比羅へ参るとて、山田にて別れ、おれは伊勢に十日計ふらふらしてゐたり。段々四日市の方へ帰って来たが、白子の松原へ寝たばんに頭痛強くして、ねつが出てくるしみしが、翌日には何に事もしらずして松原に寝てゐたが、二日ばかり立て漸く人こゝろが出て、往来の人に壱文づゝ貰ひ、そこに倒れて七日ばかり水を呑で、よう〳〵に腹をこやしゐたが、其脇に半町計り引こんだ寺があったが、そこの坊主が見付て毎日〳〵麦のかゆを呉た故、やう〳〵力がついた。 二十二三日計、松原に寝てゐたが、坊主がこも弐枚呉て、壱枚は下へしき、壱枚は夜かけて寝ろ、といった故、其通にして、ぶらぶらして日を送ったが、二十三日めごろか足が立た故、大きにうれしく、竹きれを杖にして少しつゝ歩行た。 夫から三日計りして、寺へいって礼をいったら、大事にしろ、とて坊主の古いかさとわらぢを呉た故、漸く一日に一里位つゝ歩行きたが、伊勢路では火でたいた物は一向くはぬ。生米をかじりて歩行たり。病後故に腹がなをらぬから、又々気分がわるくって、處を忘れたが、或河原の土橋の下に大きな穴が横にあいて居るから、そこへはゐつて五六日寝て居た。 或晩、若い乞食が弐人来て、おれにいふには、その穴は先月まで神田の者が寝処にした所だが、どこへかゆきをった故に、おらが毎晩寝る處だ。三四日か稼ぎに出た故、手前にとられてこまる、といふゆへ、病気のよしをいったら、そんなら三人にて寝よう、とぬかして、六七日一所にゐたが、食ひ物に困り、どふしよふ、と二人へいったら、伊勢にては火の物は太神宮様が外へ出すをきらいだからくれぬ故、在郷へいって見ろ、といふから、杖にすがって、そこより十七八町の脇の村方へ這入ったら、番太郎が六尺棒を持て出て、なぜ村へ来た、其為に入口に札が立てある、このべらぼうめが、とぬかして棒でぶちをったが、病気故に気が遠くなって倒れた。そうすると足にて村の外へ飛ばしおった故、匍匐ばうようにして漸く橋の下へ帰て来たら、二人が、どふした、といふから、其しだいをいったら、手前は米はあるか、といふから、麦と米と三四合貰ひためたをだして見せたら、そんならおれがかゆこを煮てやらう、といって、徳利のかけを出して、土手のわきへ穴を堀て、徳利へ麦と米と入て水をも入れ、木の枝をもして、かゆを拵へて呉たから、少しくった後は礼に二人にふるまった。 夫よりおれも古とく利を見付て、毎日毎日貰た米麦、引わりを其徳利にて煮て食たから、こまらないやうになったが、夫迄は誠に食物にはこまった。 だん〳〵気分がよくなったから、そろ〳〵とそこを出かけて府中まで帰たが、とかく銭がなくって困るから、七月、丁度盆だから、毎夜〳〵町々を貰て歩行たが、伝馬町と云所の米屋で、ちいさい小皿に引わりを入てせぎゃうに見勢へならべて置から一つとったが、一つのさしに銭の壱文あるから、そっと又一つとった。そうすると、米をついていた男が見付おって腹を立て、二度取りをしおる、とてにぎりこぶしで、おれをしたゝかぶちおったが、病後故、道ばたに倒た。 やう〳〵気が付た故、くゎんおん堂へいって寝たが、其時は漸く二本杖であるく時故か、翌日は一日腰が痛くって、どこへも出なんだ。 夫から或日の晩がた、飯がくいたいから、二丁町へはいったが、麦や米計呉て飯をくれぬから、段々貰って行たら、まがり角の女郎やで、客が騷いで居たが、おれにいふには、手前は子蔵のくせ、なぜそんなに二本杖であるく、わずらったか、といふ。さよふでござり升、といったら、そふであろふ、よく死なゝかった、どれ飯をやろふ、とて、飯や肴やいろ〳〵のさゐを竹の皮につゝませ、銭を三百文つかんで呉た。おれは地ごくで地蔵に逢たやうだと思って、土へ手をつゐて礼をいったら、其客が、手前は江戸のやうだが、ほんのこじきでは有まい、どこか侍の子だろふ、とて女郎にいろ〳〵はなしおるが、ひぢりめんの袖口の付た白地のゆかたと、こんちりめんのふんどしを呉れが、うれしかった。 其の晩は木賃宿へ留つて畳のうえへ寝るがいゝ、といった故、厚く礼をいって、夫から伝馬町の横町の木賃宿へ夜になると留ったが、しまひには宿せんやら食物代がたまって、はらひにしかたがないから、単物を六百文のしちに入れて貰て、さう〳〵そこのうちを立て、残りの銭をもって、上方へ又志してゆくに、石部までいって、或日宿のはづれ茶やの脇にねて居たら、九州の秋月と云大名の長持が二棹きたが、其茶屋へ休んでゐると、長持の親方が二人来て、同しくせう木に腰をかけて酒を呑で居たが、おれにいふには、手前はわづらったな、どこへゆく、といふから、上方へ行、といったら、あてが有のか、といふ。あてはないが行、といったら、それはよせ、上方はいかぬ所だ、それより江戸へかへるがいゝ、おれがつひていってやるから、まづ、かみさかゆきをしろ、とて向ふの髪結所へ連ていって、させて、そのなりでは外聞がわるい、とてきれいのゆかたを呉て、三尺手拭を呉た。 何にしろ杖をつひては、らちがあかぬから、かごへ乗、とて、かごをやとひて、のせて毎日〳〵よく世話をして呉た。 江戸へいったら送ってやらふ、とて、府中まで連て来たが、其晩、親方がばくちのけんくゎで大さわぎが出来て、おれを連た親方は国へ帰るとて、呉た単物を取返して木綿の古じゅばんを呉て、直に出て行おったから、今一人の親方がいふには、手前は是迄連てきて貰たをとくにして、あしたは一人で江戸へ行がいゝ、とて、銭を五十文計呉おったが、しかたがないから、またこじきをしてぶら〳〵来て、所は忘れたが、或がけのところに其ばんは寝たが、どふいふわけか、がけより下へ落ちた。 岩のかどに、きん玉を打たが、気絶をして居たとみえて、翌日漸々人らしくなったが、きん玉がいたんであるくことがならなんだ。 二三日過ぎると、少しづゝよかったから、そろ〳〵とあるきながら貰ていったが、箱根へかゝってきん玉がはれて、うみがしたゝか出たが、がまんをして其翌日、二子山まであるいたが、日が暮れるから、そこに其晩は寝て居たが、夜の明方、飛脚が三度通りて、おれにいふには、手前ゆふべはこゝに寝たか、といふ故、あい、といったら、つよひやつだ、よく狼に食れなんだ、こんどから山へは寝るな、といって、銭を百文計呉た。 夫から三枚橋へきて茶屋の脇に寝て居たら人足が五六人来て、子蔵や、なぜ寝て居る、といひおるから、腹がへってならぬから寝て居る、といったら、飯を一ぱい呉た。 其中に四十位の男が云には、おれの所へきて奉公しやれ、飯は沢山くはれるから、と云故、一所にいったら、小田原の城下のはづれの横丁にて、獵師町にて、喜平次と云男だ。おれを内へいれて、女房や娘に、奉公につれてきたから、かあひがつてやれ、といった。女房娘もやれこれといって、飯をくへ、といふから、飯を食ったら、きらずめしだ。魚は沢山あつて呉た。 一日たつと、あすよりは海へ行て船をこげ、といふから、江戸にて海へは度々いった故、はい〳〵、といって居たら、子蔵の名はなんといふ、と聞から、亀、といったら、おはちのちさいのを渡して、是に弁当をつめて朝七つより毎日毎日ゆけ、手前は江戸子だから、二三日は海にて飯は食へまいから、もってゆくな、と喜平がいひおるから、おれは江戸にて毎日海に船を乗たから、こはくない」といったら、いや〳〵江戸の海とは違ふ、といふから、それでもきかずに弁当をもっていった。 夫から同船のやつが内へおれを連ていってたのんだから、翌日より早くこひ、と云。それから毎朝〳〵船へいったが、みんなが云には、亀があるくなりはをかしい、といひおる。そのはづだ、きん玉がはれが引ずに居て、水がぽたぽたたれて困ったが、とう〳〵かくしとふしてしまったが、困ったよ。 毎日、朝四ツ時分には沖より帰って、船をおかへ三四町引上げ、あみをほして、少しづゝ魚を貰って小田原の町へ売にいった。 夫から内へかへつて、きらづをかって来て四人の飯をたくし、近所のつかひをして二文三文づゝ貰た。内の娘は三十計だの、いゝやつで、時々、すゐくゎんなどを買てくれた。女房はやかましくつて、よくこき遣った。 喜平は人足故、内へは夜許り居たが、是はやさしいおやぢで、時にくゎしなんぞ持て来て呉た。十四五日計居ると子のやうにしおった。 おれに江戸事を聞て、おらが所の子になれ、といゝおる故、そこで考へて見たが、何にしろおれも武士だが、内を出て四ケ月になるに、こんな事をして一生居てもつまらねへから、江戸へ帰って、親父の了簡次第になるがよかろふと思ひ、娘へきげんをとり、引ときものゝつぎだらけなのを一ツ貰ひて、閏八月の二日、銭三百文、戸棚にあるをぬすんで、飯を沢山.弁当へつめて、浜へゆく、といって、夜八ツ時分起て喜平が内をにげ出して、江戸へ其日の晩の八ツ頃にきたが、あいにく空はくらし、すゝ森にて犬が出て取まひて、一生けん命大声を揚てわめくと、番人こじきが犬をおひちらして呉た故、高輪のりゃう師町のうらにはいりて、のり取船があったから、夫をひくり返して其下に寝たが、あんまり草臥たせいか、あくる日、日があがっても寝て居たから、所のものが三四人出て目付てしかりおった。 わびことをしてそこを出て、飯をくひなどして、あたご山へまで一日寝て居て、其晩は坂を下るふりをして山の木のしげみへねた。 三日計、人目を忍んで、五日めには、よる両国橋へきて、翌日ゑかふ院のはか場へかくれて居て、少しづゝ食物かって食て居たが、しまひには銭がなくなったから、毎晩〳〵かきねをむくり出て貰ていたが、夜はくれてが少ないから、ひもじい思ひをした。 ゑかふ院奥のはか場にこじきの頭が有が、おれに、仲間にはいれ、とぬかしおったから、そやつの所へいって、したゝかめしを食た。そして夫から亀沢町へ来て見たが、なんだか、しきゐが高いやうだから、引返してニツ目の向ふの材木問屋のかげへいって寝た。 三日めに朝早く起て、内へかへったが、内中、小吉が帰った、とって大さわぎをし、おれが部屋へはいって寝たが、十日ばかりは寝どふしをした。 おれが居ない内は、加持祈禱いろいろとして従弟女の恵山といふびくは上方迄尋て登たとてはなした。 夫から医者がきて、腰下に何か、しさゐがあらふ、とていろ〳〵いったが、其ときは、まだ、きん玉がくづれていたが、強情に、ない、といってかくしてしまった。三月ばかりたつと、しつができて段々大そふになった。起居もいできぬやうになつて、二年計はそとへもゆかず、内ずまひをしたよ。 夫から親父が、おれの頭、石川右近将監に、帰りし由をいって、いかにも恐入事故、小吉は隠居させ、外に養子いたすべき、といったら、石川殿が、今月かへらぬと月切れ故、家は断絶するが、まづ〳〵かへって目出たい、夫には及ばぬ、年取て改心すれば、お役にも立べし、よくよく手当して遣すべし、といはれた。夫から一同安心した、とみなが咄した。 十六の年には漸く、しつも能なったから、出勤するがいゝ、といふから、逢対をつとめたが、頭の宅で張面が出て居るに銘々名を書くのだが、おれは手前の名がかけなくつてこまった。人に頼んで書て貰た。 石川が逢対の後で、乞食をした咄しをかくさずしろ、といったから、初めからのことをいったら、能く修行した、今に御番入をさせてやるから心ぼうをしろ、といはれた。 また内ではばゝあどのが、猶々やかましくつて、おのれは勝の家をつぶそうとした、なと、いろいろいひおってこまった故、毎日〳〵内には居なんだ。 兄きの役所詰に久保島可六と云男があったが、そいつがおれをだまかして連て行きおったが、おもしろかったから、毎晩〳〵いったが、かねがなくって困て居ると、信州の御料所から御年貢の金が七千両来た。役所へ預りて改て御金蔵へ納るのだ。其時、おれに番人を兄きよりいひつけたから番をして居ると、可六が云には、かねがなくては吉原は面白くないから百両計ぬすめ、と教たが、おれも、左うだ、といって千両箱をあけて弐百両とったが、跡ががた〳〵する故こまったら、久保島が石ころを紙につゝんでいれて呉た故、しらぬ顔で居たが、二三月立と知れて兄きがおこったが、色々せんぎをしたら、おれが出したと役所の小遣めが、はく状しおった故、おれに金を出せとて兄がせめたが、しらぬ、とて強情をはり通したが、兄が親父へ其訳を咄したら、親父がいふには、手前も年の若いうちは度々そんな事は有ったけ。わづかの金で小吉をきづものにはできぬ故、なんとか了簡してみやれ、といった。そこでいよ〳〵おれが取ったに違ひない故、それぎりにしてたれもしらぬ顔でおさまった。おれは其金を吉原へもっていって、壱月半ばかりにつかってしまったが、夫から蔵宿やほうぼうを頼んで金をつかった。 或日、おれの従弟の処へいったら、其子の新太郎と忠次郎と云兄弟が有が、一日色々咄しをして居たが、そこの用人に源兵衛と云が居たが、剣術遣ひだと云ことだが、おれに云には、お前さまは色々とおあばれなさりますが、けんくゎはなさいましたことが有升か、是はきもがなくってはできません、と云から、おれは喧くゎは大好だが、小さい内から度々したが、おもしろいものだ、といった。左やうで御座升が、あさっては蔵前の八幡の祭があり升が一喧嘩やりましゃうから、一所にいらっしゃいまして一勝負なさいまし、といったから約束をして帰った。 其日になりて夕方より番場の男谷へいったら、先の兄弟も待て居て、よく来た、今、源兵衛が湯へいったから帰ったら出かけやう、と支度をして居ると、間もなく源兵へが帰った。夫より道に手はづをいひ合て八幡へいったが、みんなつまらぬやつ計で、相手がなかったが、八幡へはいると、向ふよりきいたふうのやつが二三人で鼻歌をうたって来る故、一ばんに忠次郎がそいつへ、つばを顔へしかけったが、其野郎が腹を立て、下駄でぶってかゝりおった。そふするとおれがにぎりこぶしで横つらなぐってやると、跡のやつらが惣がゝりになってかゝりおるから、目くらなぐりにしたら、みんなにげおったゆえに、八幡へいったってふらふらして居ると、廿人ばかり、ながとびを持てきおった。 なんだ、と思って居ると、壱人が、あのや郎だ、とぬかして四人を取まきおった。それから刀をぬひて、きりはらったら、源兵衛が云には、早く門の外へ出るがいゝ、門をしめると取こになる、と大声でいふから、四人が並で切立て門の外へ出たら、そいつらが加勢とみえて、又三十人計、とび口を持て出おったから、並木の入口の、すなばそばの格子を後ろにして、五十人計を相手にして、たゝき合たが、一生けん命になって、四五人ばかりきづを負したら、少し先がよはくなったゆゑ、むやみにきりちらし、とび口を十本ほどもたゝき落した。そふすると、また〳〵加勢がきたが、はしごを持て来た。其時源兵衛が云には、最早かなわぬから三人は吉原へにげろ、跡は私がきりはらひ帰るから、と、早くゆけ、といったが、三人ながら源兵衛ひとりをおくを不便におもひ、一所におひまくつて一所ににげやう、といったら、おまへさん方は、けがゝ有てはわるいから、是非〳〵早くにげろ、と、ひたすら云故、おれが源兵衛の刀がみじかいから、おれの刀を源兵衛に渡して、直に四人が大勢の中へ飛こんだら、先のやつはばらばらと少し跡へ引込だはづみに、にげだして、漸々浅草の雷門で三人一所になり、吉原へいったが、源兵衛がきづかいたから引もどして番場へいって飯をくはふと思っていったら、源兵衛は内へ先へ帰つて玄関で酒を呑で居た故、三人が安心した。 夫から源兵衛と又々一所に八幡の前へいってみたらば、たこ町の自身番へ大勢人が立て居るから、そこへいって聞たら、八幡で大喧嘩が有て、小揚の者をぶったが始まりで、小あげの者が二三十人、蔵前のしごと師が三十人で、相手をとらへむとしてさはいだが、とふとふ一人もおさへず、にがした。其上にこちらは十八人計、手負が出来た。今、外科がきづを縫て居る、といふから、四人ながら内へ帰って、おれは亀沢町へ帰ったが、あんなひどい事はなかったよ。 翌年正月、番場へ遊びにいったら、新太郎が忠次郎と庭で、剣術を遣って居たが、おれにも遣へと云故、忠次と遣ったが、ひどく出合頭に胴をきられた。其時は気が遠くなった。夫より二三度遣たが、一本もぶつ事がで出来からくやしかった。 夫から忠次に聞て団野へ弟子入にいった。先の師匠からやかましくいったが、構はず置た。夫から精を出して早く上手にならふと思って、外のことはかまはず稽古をしたが、翌年より伝受も二つ貰た。夫からあんまりたゝかれぬやうになつてからは、同流の稽古場へ毎日〳〵いったが、大勢が暴ってきて、小吉〳〵といふやうになつた。他流へむやみと遣ひにいったら、其時分はまだけん術が今のやうに、はやらぬから、師匠が他流試合をやかましくいった。他流は勝負をめったにはしないから、皆へたが多く有た故、おのれが十八の年、浅草の馬道生江政左衛門と云、一刀流の師匠が居たが、或時新太郎と忠次とおれと三人でいって、試合をいひ入たが早速に承知した故、稽古場へゆって、其弟子とおれと遣ったが、初めての事故、一生けん命になって遣ったが、向ふがへたでおれが勝た。夫から段々遣って、師匠と忠次に政左衛門が体当りをされて、後の戸へつき当られて、雨戸がはづれて、あほのけに倒たが、起る処をつゞけて腹を打れた。其日は夫きりで仕舞たが、始めに師匠が高まんをぬかしたがにくひから、帰りにはおれが玄関の名前の札を抜打にして持て帰った。夫から方々へ行、あばれた。 馬喰町の山口宗馬が処へ神尾。深津、高浜、おれ四人でいって試合をいひこんだら、上へ通して宗馬が高慢をぬかした故、試合をしやう、といったら、今晩は御免被下。重てこゐ、といった故、帰りがけに入口ののれんを高浜が刀で切さゐて、奥へほふりこんで帰った。 夫から同流の下谷あたり、浅草、本所共に他流試合をする者は、みんなおれが差図を受たから、二尺九寸の刀をさして、先生づらをしていたが、だん〳〵と井上伝兵衛先生が其頃は門人多く、おもだったやつら皆おれが配下同然になり、藤川鴫八郎門人、赤石郡司兵衛が弟子、団野のはいふに及ばず、きり従ひ、諸方へ他流に行たが、運よく、みなよかった。他流は、中興、先づおれがはじめだ。 翌年夏だが、遠州掛川在の、雨の宮大明神の神主、中村斎宮の息子が、江戸へ国をにげて来て、石川瀬兵次といふ剣術遣ひの弟子になったから、諸々をたづねているから、其時おれが世話をして弟子にしてやったら、瀬平次が三州吉田へ行時、其斎宮方へきて、息子の剣術の師、何の隼太といふやつと試合をしたが、手もなく隼太が石川に負けた。その時、石川が、まん心して、隼太をもゝへ乗て、鎗のすごきをしてみせた故に、名人だとおもって、江戸へあとを追てきたといったが、田舎者は馬鹿ものだ。其頃は石川先生の中にも、へただった。斎宮の息子は帯刀といふたが、だん〳〵出精して、目録になつて国へ帰た。 十八の年、又信州へいったが、其年は兄きが、きしょくがわるくって、榊木といふ村の見所場の、けん見をおれにさせたが、出役して、一番悪処の場へ棹を入て、取並の時、もみ一升二合五勺あったから、六合五勺の取並を云付たら、一同百姓が嬉しがった。 此月、陣屋元の郡代百姓の所へ、上州の仁田万次郎が近親、桜井某とか云家来がねだりにきて、けんくゎになり、刀を抜て一人百姓をきった。 夫より、さわぎになったが、大勢出て召捕とったが、二尺八寸計りの刀を真向にかざし、郡代の門をいるやつをきりおる故、役所より手代が二三人出て下知をしたが、こわがった。只わめく計りだから、兄がおれに、いっておさへろ、といふから、一さんに飛んでいったが、門と、そやつがいる所と、四尺計りで、はゐる事ができぬから、見ていたら、ゑたがいふは、私がとり様がある、といって、六尺棒を一本ぶつけたが、其者が二ツにきった刀を上る所へつけこんで組付たが、こしたからもゝへかゝりて切れた。 其時、おれが砂をつかんで面へ打つけたが、目に入てしか、うつぶせに伏たから、先刻のゑたが、きんをとって引すへた。夫より二三人ゑたが打かさなってしばった。それから陣屋のろうへ入たあとは上州の仁田と懸合になった。 きられたゑたは榊木の者だが、七人扶持、公儀より一生貰た。片輪にはなったが、つよゐやつらだっけ。 夫から、けん見に諸々へいった。其内江戸でおふくろが死だとしらせてきたから、御用を仕まって、江戸へ来る道で、信州の追分で、夕方、五分月代の野郎が、馬方のかげにはゐいて下にいたが、兄が見付て、おれに、とれ、といふから、かごの脇から十手を抜いて、かけ出したら、其野郎は一さんに朝間の山の方へ逃げおったから、とふ〳〵おっかけて近寄たら、二尺九寸の一本脇差をそりかへして、御役人様、御見のがし被下ませ、といったから、うぬ、なに、見のがす物だ、とそばへゆくと、其刀を抜おったが、引廻しをきて居たが、其すそへ小戻が引かりて、一尺計、抜おったが、おれが直にとびこんで、柄を持て中がへりをしたら、野郎も一所にころんで、おれの上になったが、後から平賀村の喜藤次といふ取締が来て、野郎の頭をもって引くりかへした故、おれも起上りて十手にて、つゝきちらした。夫からなはを打て、追分の旅宿へ引来た。 上田、小諸より追々、代官、郡奉行が出てきて、野郎を貰にきた。いったい、こいつは小諸の牢に二百日計居たが、或晩牢ぬけをして追分宿へきて、女郎やへ金をねだり、壱両とって帰る道だといった。音吉とて、子分が百人もあるばくち打だと、役人がはなした。夫から、大名へ渡すと首がないから、中の条の陣屋へやった。其後、そいつの刀を兄が呉たが、池田鬼神丸国重と云刀だつけ。二尺九寸五分あった。おれが差料にした。 夫から、うすゐ峠で、小諸の家老の若い者等が、休足所へきて、無礼をしたから、塩沢円蔵と云手代とおれと、その野郎をとらへて、向ふの家老のかごへぶつけてやった。 上州の安中でも、所の剣術遣ひだといったが、常蔵と云中間の足を、白鞘を抜て、ふいにきりにかゝつたから、其時もおれと二人で打のめしてしぼってやった。宿役人へ引渡して聞たら、酒乱だといった。 十一月初めに江戸へ帰った。夫からまた〳〵他流へあるきさわひだが、本所の割下水に、近藤弥之助と云剣術の師匠が居たが、夫が内弟子に小林隼太と云奴があったが、大のあばれ者で、本所ではみんながこはがった。或とき、小林が智恵をかって、津軽の家中に小野兼吉と云あばれ者が、おれの所へ他流をいひこんだ。其時は内に居た故、呼入て、兼吉へ逢たが、中西忠兵衛が弟子で、其はなしをして居ると、兼めが大そうな事計ぬかし、手前の刀をみせて、長ゐのを高まんをいひをるから、聞て居たら、十万石の内にて、この位の刀をさす者がない。私計だ、といふから、刀を取て見たら、相州物にて、二尺九寸、そこでおれのさし料を見せたが、平山先生より貰た三尺二寸の刀故、兼吉めが大きにひるみをったから、つけこんで高まんをいひ返してやった。 夫から、試合をしやう、といったら、なんと思ったか、今日は御免、とぬかしをる故、日限を約束して、兼吉の所へ行つもりにして、下谷連へいってやったら、四五十人計、集た故、兼吉方へ手紙を持せてやったら、たゞ今屋敷へ来る、とて返事はよこさず、待て居たら、近藤の弟子の小林めが肩衣なんど、き居って、おれの所へ来て、色々あつかひを入て、兼吉にわびをさせるから了簡しろ、と云故、急度、念をしたら、此後、兼吉がおまへ様を、かれ是いったら、私が首を献じます、と云からゆるしてやった故、本所はたいがい、おれの字になった。 此年、芝の片山前に居る湯屋が、向ふ町へ転宅をすることにて、仲間もめがして、山内の坊主が町奉行の榊原へ頼んでやるといって、金弐十両とったが、元よりうそ故に、其湯屋がほんとうにして、右の趣を奉行所へ願書にして出したら、奉行所でいふには、湯屋は樽屋三右衛門の懸りだから差越願ひだ、とて取上ぬ故、大きにこまった。中野清次郎といふ者がおれに頼だから、幸ひおれが従弟の女が樽屋へよめにいって居るから、其親父の正阿弥といふものは心易いから頼んでやろふ、といったら悦び、其の坊主を連て来たから、おれが正阿弥の所へいって、訳をだん〳〵咄して、夫より樽やへいってやったら、樽やが承知して、奉行所より願出を下て、惣方利がいをいって聞して、其湯やが向ふへ引越したが、嬉しがった。其礼に樽やへ三十両、正阿弥へ二十両、おれに四十両、呉た。其からは酒井左衛門の用人のめかけがもって居るといひをった。湯やは向ふへ普請をすると、八十両かぶが高くなる、と清次郎がはなした。 此年、又々兄と越後蒲原郡水原の陣屋へいった。六万八千、巡見したが面白かった。越後には支配所の内には大百姓が居る故、いろ〳〵珍らしき物も見た。反物、金をも、たんと貰てかへった。夫から江戸へ帰たが、近藤弥之助の内弟子、小林隼太が、男谷のほうへ替流して、りきんだが、あばれ者故に、みんながこはがって居るから、相弟子どもを馬鹿にしをる故に、おれにも咄があった故、隼太めを目に物見せんと思て居たが、久敷、風を引て寝て居るから、夫れなりにしておいた。或日、少し気分がいいから寒稽古に出たら、小林も来ていて、勝様、一本願たい、とぬかすから、見る通り、久しく不快で、今に月代もそらず居る位だが、せっ角の事だから、一ぽん遣ひましゃう、といって遣ったが、先、二本つゞけて勝たら、小林が組付たから、腰車に掛てなげてやると、あふのけにたをれたから、腹を足にておさへて、のどをついてやった。其時、小林が起上り、面をとっておれにいひをるには、侍を土足にかけて済かすまぬか、とぬかすから、是は貴公の言葉にも似ぬいひ事かな、最初の立相に、みじゅく故、差図をして呉ろ、と御申故、侍の組打は勝とかやうの物だと仕形をして見せたのだ、いひぶんはあるまい、といったら、御尤、一言もござりませぬ、といひをった。夫から、おれをやみ打にするとて、付をったが、時々油断を見ては夜道にて、すっぱ拔をして切をったが、時々羽織なぞ、少づゞきったが、きづはつけられた事はなかった。夫からいろ〳〵しをったが、おれも気を付て居た故に、或時、暮に親類に金をかりにいった時に、道の横町より小林が酒をくらった勢ひで、おれが通ると、いきなりではなの先へ刀を抜て、つき出た。昼だから往来の人も見て居る故、其時、おれがわざと懐手をして居て、白昼になまくらを抜てどふする、といったら、小林が、此刀を買ましたが、切れるか切れぬか見て呉ろ、といふから能みて、骨位はきれるだろふ、といったら、鞘へ納めて別れた。人が大勢、立留て見て居た。古今のめっぼふけい者だ。 十八の年に、身代を持て、兄の庭の内へ普請をして引移た。其時、兄から借金三百両計の証文と家作代を家見に呉た。親父よりは家ざいの道具を一通り貰たから、無借になって嬉しかった。夫からいろ〳〵の居候者が多く来おったから、幾らもおいたから、借金が出来たよ。 十九の年、正月稽古始に男谷の稽古で、東間陳助と平川右金吉と大喧嘩をして、互に刀を持て、けいこ場へ出てさわいだが、其時も、おれが引分てやう〳〵和睦させた。 此年より、諸方の剣術遣ひを、大勢子分のやうにして、諸国へ出したが、みんな、おれが弟子だといってあるく故、名が広くなって来た。夫から、本所中のいゝ頭をしているのらくら者を不残たいじして、みんながおれが差図にしたがった故、こわゐ者はなくなったが、夫には金もいるし、つき合がはったから、たいそう借金が出来た。 又、他流試合を商売のやうにして、毎晩喧嘩にみんなを連て歩行た。或とき平山孝蔵と云先生へもいって、いつも〳〵和漢の英雄の咄しを聞ては、みんなをしこなして居た。夫から色々馬鹿計して居たから、身上がわるくなって来て、借金がふへる計。仕方がないから、出来ないそうだんに、むやみに借金をして居たが、廿一の年には一文もなくって、しやうがなかったから、さし料の刀は、終や、久米右衛門といふ道具やより買た盛光の刀、四十一両で買た故、夫を売かと思ったが、夫も、をしいからよしたが、逢対に行にも、きたまゝになつたから、気休めに吉原へ行た。親が呉た刀やら、色々質に置て、相弟子へも金をかり、色々して、漸々、三両二分計、出来たを持て、其の晩は吉原へいって、翌日、車坂の井上の稽古場へ行、剣術の道具を一組かりて、直に東海道へかけ出した。 其日はむごくに歩行て、藤沢へ泊て、朝七ツ前に立て、小田原へ行て、先年世話になって居た内の喜平次を尋ていったが、喜平もこじきが侍にばけて来たものだから、初めはふしんした。喜平の内を出た亀だといったら、漸々思ひ出して、いろ〳〵酒などふるまったが、三百文ぬすんだ事をいひ出して、金を二分二朱やった外に、酒代を二朱出して、以前、船へ一所に乗った野郎共を呼で、酒を呑して、今は剣術遣ひになったことを咄して笑ったら、みんながきもをつぶして居た。今晩はぜひとも泊れ、といったが、江戸より追手がくるだらふと思たから、早々別れて、そこを立て、箱根へかゝった。喜平次と外三人計、三枚橋まで送て来たが、そこより返して、漸々関所へかゝったが、手形がないから、関所の椽がはへいって、剣術修業に出し由申、御関所を通して被下、といったら、手形を見せろ、といふから、そこで、おれがいふには、御覧の通り、江戸を歩行通りのなり故、手形は心づかず。けいこ先より、不計、思ひつひて、上方へ修業にのぼり候。雪踏をはき候まゝ、たび支度もいたさず参りし事故、相なるべくは御通し被下候様に、といったら、番頭らしきがいふには、御大法にて手形なき者は通さず。しかし御手前の仰の如く、御修業とあれば無余儀故、御通し可申、以来は御心得可被成、といった故、かたじけない、とて、夫から関所をこして、休んで居たら、後よりきた商人がいひをるには、今、私が御関所を通りましたが、おまへさまの噂をしてござったが、今通った侍は飛脚でもないが、はん中でもなし、なんだらふとて噂をして居ました、といふから、其筈だは、おれは殿様だから、といってやった。山中で日が暮てから宿引めが、泊れ、とてぬかしたが、とふ〳〵、がまんで三島までいったら、四里が間、五月二十九日の日だから、まくらがりでなんぎした。せったをぬいで腰へはさみ、漸々夜の九ツ時分、みしまへ来て、宿へかゝって戸をたゝき、泊て呉ろ、といったら、当宿は、にら山さまから御ふれで、ひとり旅は泊ぬ、といふから、問屋場へ奇て、おこして宿をたのんだら、そいつがいひをるには、問屋が公儀の御触れはやぶられぬ、差図はできぬ、ときめるまま、そこでおれがいふには、海道筋みしま宿にては水戸のはりまの守が家来はとめぬか、おれは御用の儀が有り、遠州雨の宮へ御きがんの使に行のだが、しかたがないから、是より引返して、道中奉行へ屋敷より掛合ふ故、夫迄は御用物は問屋へ預け参から大切にしろ、とて、稽古道具を障子ごしになげこんだ。そふすると、役人共がきもをつぶし、起て出をって、土に手を付をって、はりま様とは不存、不調法恐入た、とて色々あやまるから、図に乗て、荷物はあづけるから、急度、受取りをよこせ、といったら、困りをって、外に二三人も出て、はいつくばり、いかやうにも致しますから、まづ〳〵宿屋ゑへいって少しの内、休足して呉ろ、といふ柄、漸々、案内といったら脇本陣へ上ゲをって、段々不調法の訳をわびをり、飯を出したから、猶々やかましくいったら、役人が重ねて、当宿の宿役人が不残しくじるから、何分にも勘弁しろ、と云から腹がいた故、ゆるしてやった。そふすると酒肴をだして馳走しをった。其時、書付をよこせ、といったら、夫に因って、夫も出すまいといった故、又々引くり返してやったら、金を一両弐分出して、又々あやまりをった故、金が思ひよらず取れる故、済してやった。其内に夜が明かゝったから、寝ずに三島を立たら、道中かごを出したから、先の宿迄寝て行た。其筈だ。稽古道具へ、箱根を越し、水戸と云ふ小札を書て、さして置たものだからうまくいったのだ。おれが思ふには、是からは日本国を歩行て、何ぞあったら切死をしやうと覚悟して出たからは、なにもこはいことはなかった。 夫からだん〳〵行て、大井川が、九十六文、川になったから、問屋へ寄て、水戸の急ぎの御用だから早く通せ、といったら、早々、人足が出て、大切だ、はりま様だ、とぬかして、一人前、はらって、おれは、れん台でこし、荷物は人足が越たが、水かみに四人並んで水をよけて通ふしたが、心持がよかった。 夫から遠州の掛川の宿へ行たが、昔帯刀を世話したことを思ひ出したから、問屋へ行て、雨の森の神主、中村斎宮迄、水府の御祈願の事で行からかごを出せ、といふと、直にかごを出して呉たから、乗て森の町といふ秋葉海道のしゅくへ行た。宿でかご人足に聞たら、旦那は水戸の御使で中村さまへゆかしゃると云たら、一人かけだして行きをったが、程なく中むら親子が迎ひに出てきたから、おれがかごから顔を出したら、帯刀がきもをつぶして、どふしてきた、といひをるから、「内へいってくわしく咄そふ、とて、帯刀の座敷へ通りて、斎宮へも逢たが、江戸にて帯刀が世話になつたことを厚く礼をいひ居る。夫から江戸の様子をはなして、思ひだしたから逢ひにきた、といったら、親子が悦で、まづ〴〵ゆる〳〵と逗留しろ、とて、座敷を一間明て、不自由なく世話をして呉たから、近所の剣術遣ひへ遣ひに行やら、色々すきなことして遊んで居たが、其内弟子が四五人出来て、毎日〳〵けいこをして居たが、所詮こゝに長く居てもつまらぬ故、上方へゆかふと思ったら、長州萩のはん中に城一家馬と云修行者が来たから、試合をして、家馬が諸々歩行た所を書写して居る内、家馬が不快で六七日逗留をしたいと云から、泊って居る内はたゝれず、いろいろと支度をしたら、斎宮が或晩、色々異見をいって呉て、江戸へ帰れ、といふから、最早けっして江戸へはかへられず、此度で、二度まで内を出た故、夫は忝ないが聞ぬ、といったら、そんなら今暑いさかりだから、七月末までゐろ、といふ故、世話にもなったからふりきられも出来ぬから、向ふのいふ通りにしたら、悦で猶々しんせつにして呉た。 毎日〳〵外村の若ひ者がきて、けいこをして、その後では方々へ呼れていったが、きものは出来、金も少しは出来て、日々入用のものは通ひ帳が弟子よりよこしてあるから、只買て遣ふし、こまることもなく、そこより七里脇に向坂といふ所に、さき坂浅二郎と云が居るが、江戸車坂、井上伝兵衛の門人故、江戸にてけいこもしてやったもの故、そこへ度々行て泊て居たが、所の代官故に工面もいゝから、おれがことはいろ〳〵して呉、夫故にうかうかとして七月三日迄、帯刀の内に逗留して居たが、或日、江戸より石川瀬兵衛が吉田へくる序に、今日こゝへよるといふから、座敷のそうじをして居たら、おれが甥の新太郎が迎ひに来をったから、夫からしかたなしに逢たら、おまへの迎ひに外の者をやったら、切ちらして帰るまいと、相談の上わたしが来たから、是非とも江戸へ帰るにした。 翌日、斎宮方を立て、段々帰るうち、三島の宿で甥が気絶して大さはぎをやったが、気が付て、夫から通し籠駕で江戸へ帰ったが、親父も兄もなんにもいはぬ故、少し安心して内へいった。 よく日、兄が呼によこしたからいったら、いろ〳〵馳走をした。夕方、親父が隠宅から呼にきたからいったら、親父がいふには、おのれは度々不埓が有から、先、当分は、ひっ足して、始終の身の思案をしろ、しょせん、直には了簡は付物ではないから、一両年考て見て、身のをさまりをするがいゝ。兎角、仁は学問がなくてはならぬから、よく本でも見るがいゝ、といふから内へ帰ったら、座敷へ三畳の、をりを拵て置て、おれをぶちこんだ。それから色々工夫をして一月もたゝぬ内、をりの柱を二本ぬけるやうにして置たが、能々考た所が、みんなおれがわるいから起たことだ、と気がついたから、をりの中で手習を始めて、夫から色々、軍書本も毎日みた。友達が尋て来るから、をりのそばへ呼で、世間の事を聞て頼しんで居たら、二十一の秋から二十四の冬迄、をりの中へはいって居たが、苦しかった。 其内、親父より度々、書取にしていけんをいって呉た。其時、隠居をして、息子が三ツになるから、家督をやりたい、といったら、それは悪い了簡だ、是まで種々の不埒があったから、一度は御奉公でもして、世間の人口をもふさぎ、養家へも孝養をもして、其上にて、すきにしろ、と親父がいってよこしたから、尤のことだ、と、はじめて気が付た故、出勤がしたいと兄へいったら、手前が手段で、勤道具、衣服も出来るなら勝手にしろ、おれはいかひこと手前にはいり上た故、今度は構はぬ、といった故、其時はおれが、ほふの下に、はれ物が出て居て寝て居たが、少も苦労をかけまい、と云書付を出して、をりを出で、翌日、拝領屋敷へ行て、家主へ談じて、金子二十両かり出して、色々入用のものを残らず拵て、十日めに出勤した。 夫から毎日〳〵上下をきて、諸々のけんかを頼んであるいたが、其時、頭が大久保上野介といひしが、赤坂喰違外だが、毎日毎日行て御番入をせめた。それから以前よりいろ〳〵わるいことをした事を、不残、書取て、只今は改心したから見出して呉ろ、といったら、取扱が来て、御支配よりおんみつをもって世間を聞糺から、其心得にていろ、といふから、待て居たら、頭が或ときいふには、配下の者は何事もかくすが、御自分は不残行路を申聞た故、所々、聞合た所が、いわれたよりは事大きい、しかし改心して満足だ、是非見立やるべし、精勤しろ、といふから、出精して、あいにはけいこをして居たが、度々書上にもなったが、兔角、心願ができぬからくやしかった。 此年、親父や兄へいひ立て、外宅をして、割下水、天野右京といった人の地面をかりて、今迄の家を引たが、其時居所に困たから、天野の二階をかりて居た内に、俄に右京が大病にて死んだ故、色々と世話をしたが、其内に普請も出来、新宅へ移り居ると、右京方にては跡取りが二歳故、本家の天野岩蔵といふ仁が、久来の意趣にて、家督願ひの時、六ツかしくいひ出して、右京の家をつぶさんとしたから、いろ〳〵もめて片付ず、其時おれが本家とは心あひから色々なだめ、とふ〳〵家督にさせた故、天野の親類が悦で、猶々跡のことを頼みをったから、世話をして居る内、右京のおふくろが不行跡で、やたらに男ぐるひをして、ふだん、そうどふして困るから、折角、普請をしたが、其家を売て外へこそふと思って、右京の子、金次郎が頭向へいひ出したら、その取扱がいふには、今おまへにゆかれると跡は乱みゃくになるから、一両年居て呉ろ、といふから居たが、人のことはおさめても、おれが内がをさまらぬから困って居たら、或老人がをしへて呉たが、世の中は恩を怨で返すが世間人の習ひだが、おまへは是から怨を恩で返して見ろ、といったからだ。其通りにしたら、追々、内も治て、やかましいばゝア殿も段々おれを能して呉るし、世間の人も用ひて呉るから、夫から人の出来ぬ六かしい相談事、かけ合、其外、何事に限らず、手前の事のやうに思てしたが、しまひには、おれに、はむかった奴らが、段々したがって来て、はい〳〵、といひ居る。是も、かの老人がたまものとうれしく、同流の剣術遣いが、ふらち、又は遣込して、とほふにくれて居る者は、夫々、少づゝ金を持せて、諸方へ遣し、身の安全をしてやったら、幾人か数もしれず、其後おれが諸国へいった時、いかひ事、とくになった事がある。歩行た所で、おれが名をしって居て、世話をしたっけ。 天野のが地面に居る内も、とかく地主のごけが事でむづかしいこと計がいって、こまったから、三年めに同町の出口鉄五郎が地面へ家作が有から引越たが、此鉄五郎が惣領は、元より心易かったが、いろ〳〵内をかぶつた時に、世話をやいてやった故、其ばゝア様が、是非地面へこひ、といふから行た。此年、勤の外には諸道具の売買をして内職にしたが、始は、そんばかりして居る内、段々なれて来て、金をとった。始は一月半ばかりの内に五六十両損をしたが、毎晩〳〵道具やの市に出たから、随分、徳が付た。なにしろ早く御勤入をしやうと思った故、方々かせいであるひて居た内に、男谷の親父がしんだから、がっかりとして、なにもいやになった。 しかも、そっ中風とかで、一日の内、死だから、其時はおれは真崎いなりへ、出稽古をしてやりに行て居たから、内の子侍が迎ひにきたから、一さんにかけて親父の所へいったが、最早ことが切た。それからいろ〳〵世話をして、翌日帰へった。毎日、其事にかゝって居た。息子が五ツの時だ。夫から忌命があいたからまた〳〵かせいだ。 此年十月、本所猿江に、摩利支天の神主に吉田兵庫と云者があったが、友達が大勢、此弟子になって神道をした。おれにも弟子になれといふから、行て心易くなったら、兵庫がいふには、勝様は世間を広くなさるから、私の社へ亥の日講といふを拵て被下ませ、とて頼だから、一ケ月三文三合の加入をする人を拵たが、剣術遣ひはいふに及ず、町人百姓迄いれたら、二三ケ月の中に百五六十人計、出来たから、名前を持て兵庫にやったら、悦で受取た。夫から一年半かゝったら五六百人になった。全くおれが御陰だから、当年は十月亥の日に神前にて十二座并跡でおどりを催して、神いさめをしたい、とて頼むから、先づ構中の世話人を三十八人拵へた。諸々へ触て、当日参詣をして呉ろ、といってやり、其日には、皆々、見聞のためだから世話人は不残御紋服を来て呉ろ、といふから、其通りにしてやったら、兵庫はしゃうそくをきて居た。段々、参詣も多く、初めてこのやうなにぎやかな事はないとて、前町へはいろ〳〵商人が出て居た。夫から講中が、段々、来ると、酒肴で跡で膳を出して振まってゐると、兵庫めがいつか酒に酔てゐるをって、西の久保で百万石ももったつもをしをり、おれが友達の宮川鉄次郎と云に太平楽をぬかして、こき遣ふ故、おれがおこってやかましくいったら、不法の挨拶をしをるゆゑ、中途でおれが友達をみんな連て帰った。そうすると外の者があつかひをいってあやまるから、おれがいふには、ひつきょうは此構中はおれが骨折故出来たを、難有もおもはなひとみえて、太平楽をぬかすは、ものをしらぬやつだから、構中をばぬけるからそふいって呉ろ、といったら、大頭伊兵衛、橋本庄兵衛、最上幾五郎と云友達が、尤だが、折角出来たのに、おまへが断ると皆々断るゆえ、兵庫、今更、後悔してあやまるから、ゆるしてやれ、と種々いふから、そんなら以来は御旗本様へ対し慮外致すまいと云書付を出せ、といったら、どの様にもさせるから、と云故、宮川、并深津金次郎といふ者と一所に兵庫の所へいった。そうすると大頭伊兵衛が道迄、迎にきていふにには、おまへがお入には兵庫は、かり衣をきて門まで御迎に出る。それから座敷へ出て、昨日の不調法をわびさせるから、挨拶をしてやれ、といふから、聞届た、といへ、たゞ、それからは講中が不残出て、馳走するから、跡では決して右の咄しはして呉るな、といふから、おれがいふには、不残、承知したが、外の者へよくよく口留をしなさい、若しも、昨日の咄しをしたやつが有、其時は世話人がうそつきになるから、片はしより切て仕舞つもりで来たから、よくいひきかして置なさるがいい、とていじょうをこめて帰した。間もなく兵庫が宅へいったら、同人が迎に出るし、世話人も不残、玄関迄、でたから、座敷の正面へ通ったら、刀かけに、おれが刀をかけて、皆々、座に付た。 兵庫も出て、おれに、昨日は酒興上、不礼の段々恐入たり。以来つゝしみ可申由、平伏していひをるから、おれがいふには、足下は裏だな神主なる故、何事もしらぬと見える。御籏本へ対して不礼、言語同断故、咎めしなり。講中、漸々広くならんとする時に、最早心におごりを生じた故、右の如く不礼有り。随分慎て取続く様に、とて、夫から一同がおれにいろ〳〵機げんを取てもてなしたが、酒がきらひ故に、人々酔てさはぐを見てゐたら、兵庫の甥に大竹源太郎と云仁が有が、おれが裏だな神主だといったを聞をって腹を立て、きのふのしまつを、宮川をだまして聞をり、小吉はいらぬ世話をやく、宮川のことで、伯父に大勢の中で、はぢをかゝしをった、是からはおれが相手だ、さあ小吉でろ、といって、其身、御紋服をきながら、はち巻をして、片はだぬぎて、座敷へ来る故に、しらぬ顔して居たら、直におれが向へ立て、じたばたしをるから、おれがいふには、大竹は気が違ふたそふだ、雑人の喧嘩を見たやうに、はち巻とはなんのことだ。武士はぶしらしくするがいゝ、此方は侍だから中間小者のやうなことはきらいだ、といったら、ふとひやつだ、とて、吸物ぜんを打付たから、おれがそばの刀を取て立上り、契約を違へて、たわごとをぬかすは、兵庫が行届ざるからだ。甥が手向ふからは云合たにちがひないから、のぞみ通り相手になってやらふ、とていったら、大竹が、くそを食へ、とぬかしたから、大竹より先へつきはなして呉やうと思ひ、おっかけたら、みんなが、にげ出した。 夫から兵庫が勝手の方、大竹もにげたから、おひ行くと、折わるく兵庫が、なん戸へおれがはいったから、大勢にて杉戸を入て、おさへて居から、出ることが出きぬ。大竹は恐て丸腰で、うぬが屋敷の伊予殿橋まで帰った。夫から大勢が杉戸口へ来て色々といふから許してやったら、大竹と和じゅくして呉、といひをるから、大竹が不礼の事をとがめたし、色々あつかひがはいって、特には大竹がおふくろがないてわびたから、伊よ橋へ呼にやって、源太郎が来たから、段々、酒酔の上、恐入たとて、殊更相支配ゆゑに、何卒、御支配へは、はなしおして呉るな、とて和ぼくをした。 それから酒がまた出て、大竹が云ふには、一ばい呑め、といふから、酒は一向、呑ぬ、といったら、夫はまだ打とけぬからだ、とぬかす故、盃をやう〳〵取たら、汲物わんで呑、とみんなが云。かんしゃくにさはったから、汲物わんで、一杯、呑だら、大勢よって、今一ぱい、とぬかす。夫からつゞけて、十三杯、呑だ。後のやつらは酔ていろ〳〵不作法をしたから、おれは其席では少しも間違たことはしなかった。 兵庫が籠駕を出したから乗て、橋本庄右衛門が林町の内迄来たが、それからは何もしらなかった。内へ帰っても三日ほどはのどがはれて、飯がくへなかった。翌日みんなが尋て来て、兵庫が内の様子をいろ〳〵はなした。其時、橋本と深津は後へ残て居て、以来は親類同様にしてくれ、といふから、両人が起証文を壱通づゝよこした。夫から猶々、本所中がしたがったよ。兵庫が、むねがわるいから講中も断てやった。其時おれが加入した分は、不残、断た故、段々すくなくなってつぶれたとよ。 (つづく)
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/653.html
「宣教師」が偽装結婚300組 ホームレス男性使う 2008.7.11 12 52 韓国人の女に長期在留資格を取得させるため偽装結婚を仲介したとして、警視庁組織犯罪対策1課と本所署などは電磁的公正証書原本不実記録などの疑いで、東京都墨田区江東橋、結婚相談所従業員、秋葉広仲容疑者(62)=同容疑で逮捕=を再逮捕、内縁関係の宣教師、安津畑節子容疑者(50)=同=を同容疑などで追送検した。 安津畑容疑者は昭和63年に結婚相談所を設立。20年間に約300組を偽装結婚させ、約3億円を得たとみられる。 調べでは、2人は韓国人のエステ店員の女(37)に長期在留資格を取得させるため、平成19年11月13日、日本人の麻雀店員の男(52)との婚姻届を区役所に提出させた疑い。 2人は韓国の雑誌に結婚相談所の宣伝を出すほか、東京・上野公園で炊き出しなどを行い、独身のホームレスに偽装結婚を持ちかけていた。韓国人が支払う偽装結婚の代金は約150万円。50万円を相手の日本人に渡し、残り100万円を2人で分けていた。 安津畑容疑者は u(){「最初は普通の結婚相談所をやっていたが、経営が苦しくなり、偽装結婚を始めた」}と容疑を認めている。 偽装結婚した2人は教会で結婚式を挙げ、その写真を入国管理局に提出して、入管を信用させていた。安津畑容疑者は入管の審査前に、“偽装夫婦”に家の間取りや前日に食べたものを口裏合わせさせる勉強会を開催。在留資格を得られるまで、金を取っていたという。 2人はホームレスに「偽装結婚してくれる人を紹介してくれたら金を払う」などと話していたが、ホームレスの1人が「仲介料が入らない」と警視庁に情報を寄せたことから、犯行が発覚した。 2007年08月25日21時03分---朝日新聞インターネット版 「国際偽装結婚「偽見合い」1日30人 出稼ぎ隠れみのに 福岡市の国際結婚相談所「ブライダル祐」が結婚ビザを不正取得しようとした事件で、「この相談所が複数のフィリピン人を来日させるため、日本人との偽装結婚を繰り返し仲介していた疑いが強いことが福岡県警の調べでわかった。「伴侶」を紹介された日本人の中には、1日に30人と見合いをさせられた女性や、多額の手数料を取られた高齢の男性もいた。いずれも実態的な結婚生活はなく、出稼ぎのための隠れみのだったとみられる。相談所側は日本人だけでなく、フィリピン人からも稼いだカネの一部を取り上げていたという。 福岡市の40代の女性は05年夏、ブライダル祐を訪ねた。応対したのは、阿部信博(53)とフィリピン国籍の妻(44)の両容疑者=公正証書原本不実記載、同行使容疑などで逮捕=だった。 「日本人よりフィリピン人の方が優しくて働き者」。阿部容疑者はフィリピン人男性との「見合い」を強く勧めた。渡航費や滞在費を支払うとまで言われ、女性はフィリピン・マニラに行くことを受け入れた。 現地では、郊外の一軒家に案内された。応接室のいすに腰掛けて待っていると、別室に集まっていた男性が数分交代で入ってきた。簡単な英会話での「見合い」を約30回繰り返した。 「ジェス」と名乗る35歳くらいの男性にひかれた。翌月、現地で結婚式を挙げ、婚姻届を出した。 ジェスは06年1月に来日。工事現場や焼き鳥屋でアルバイトした。10万円近い月給のほぼ全額を本国に送り、2人の生活費は女性が払った。 4カ月後、女性が仕事を終えて帰宅すると、姿が消えていた。その後、関東に住む実姉のもとに身を寄せているらしいが、本人とは連絡が取れていない。 「ジェスは結局、日本に来たかっただけ」 ブライダル祐が絡んだこうした国際結婚について、福岡県警は30組前後を把握。中には、紹介料220万円を払って結婚しながら女性と同居できなかった70代の男性や、自分が知らない間に「妻」が来日してホステスをしていた30代の男性もいた。「妻」はブライダル祐で寝起きしながら、稼いだカネの一部を阿部容疑者に納めていたという。 厚生労働省によると、05年の国際結婚は約4万1400組。結婚全体の18組に1組の割合だ。10年前に比べると、1.5倍に増えた。 一方で、警視庁は今年6月、中国人や韓国人に偽装結婚相手を紹介したとして、都内のコンビニエンスストア経営者ら14人を逮捕。兵庫県警も同月、偽装結婚を手助けした疑いで、大阪府内の行政書士を逮捕するなど、摘発例は各地で相次いでいる。 警察庁は偽装結婚の摘発総数は把握していないが、外国人の女が歓楽街などで働くために、日本人と実態のない「夫婦」になっているケースは少なくない。だが、「夫婦ではない」ことを立証するのは容易ではなく、「摘発されるのは氷山の一角」との指摘もある。 http //www.lifeaaa.jp/11.html 半角 ■国際結婚詐欺(偽装結婚) 国際化が進み 国際結婚する人も急増しています 又国際結婚を斡旋する結婚相談所も多数存在します しかし その影で 騙されたというケースが急増しています 国際結婚詐欺の目的は ①お金 ②ビザ(滞在資格) ③肉体関係 が殆んどです ①のお金が目的の場合 相手が女性でも男性でも一番多い目的です それと 国際結婚を斡旋している業者の中に 会員とぐるになり騙しを行なっているという噂も聞かれます これは 結婚紹介所に入会 成婚で成婚料を払い 結婚後 日本に来ないケースや 日本に来ても数ヶ月で行方をくらましてしまうというケースが多数あります ②のビザは 結婚して日本人の配偶者ビザを取り 入国してどこかで働きます 外国人には 外国人のコネクションがあり 日本に入国してしまえば 働く道は幾らでもあるのです そして 後はビザが切れようが 不法滞在で捕まるまで日本に居ます 捕まっても 強制退去させられるだけです 日本で稼げるだけ稼ぐといった考えです ③のケースは 女性が日本人 男性が外国人に多いケースです 国際結婚詐欺との出会い方 ①国際結婚紹介所 ②ナイトクラブ(職場) ③遊びに行った先 といった出会い方です 先にも書きましたが 国際結婚を紹介している会社は 非常に多いです 中国・タイ・フィリピン・ベトナム・ロシア・東欧圏などが多いです これは 経済格差があり 相手から見れば日本は「ジャパンドリーム」が叶う国だからです ●実際調査を行った幾つかの事例を紹介します 中国人女性との結婚を斡旋している紹介所で 決めた相手と現地で結婚して 5ヵ月後に入国 後2ヶ月で妻が家出し行方不明になる ロシア人との結婚を斡旋している紹介所で 紹介された女性と交際 結婚する予定で 必要経費等を送金 その後連絡が付かなくなった タイ人女性との結婚を斡旋している紹介所で決めた相手と現地で結婚して帰国後 何時まで待っても妻が入国しない 電話連絡もつかなくなった ナイトクラブで知り合った女性と結婚を約束 ビザが切れたので一旦帰国 結婚準備金等を送金 その後連絡が取れなくなる フリピン女性との結婚を斡旋している紹介所で 決めた相手と現地で結婚 6ヵ月後日本に入国 3ヵ月後に 家出し行方不明になる 中国人女性との結婚を斡旋している紹介所で 決めた相手と現地で結婚して 妻が入国 1週間で家出し行方不明になる 知り合いの紹介で中国人女性と結婚 4年後永住権を取得後家出してしまった インターネットのサイトで知り合った オーストラリアの男性と結婚の話になり 日本に来る為の 渡航費用を送るがその後連絡が取れなくなる リンク http //blog.livedoor.jp/qwe5551/
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/727.html
「宣教師」が偽装結婚300組 ホームレス男性使う 2008.7.11 12 52 韓国人の女に長期在留資格を取得させるため偽装結婚を仲介したとして、警視庁組織犯罪対策1課と本所署などは電磁的公正証書原本不実記録などの疑いで、東京都墨田区江東橋、結婚相談所従業員、秋葉広仲容疑者(62)=同容疑で逮捕=を再逮捕、内縁関係の宣教師、安津畑節子容疑者(50)=同=を同容疑などで追送検した。 安津畑容疑者は昭和63年に結婚相談所を設立。20年間に約300組を偽装結婚させ、約3億円を得たとみられる。 調べでは、2人は韓国人のエステ店員の女(37)に長期在留資格を取得させるため、平成19年11月13日、日本人の麻雀店員の男(52)との婚姻届を区役所に提出させた疑い。 2人は韓国の雑誌に結婚相談所の宣伝を出すほか、東京・上野公園で炊き出しなどを行い、独身のホームレスに偽装結婚を持ちかけていた。韓国人が支払う偽装結婚の代金は約150万円。50万円を相手の日本人に渡し、残り100万円を2人で分けていた。 安津畑容疑者は u(){「最初は普通の結婚相談所をやっていたが、経営が苦しくなり、偽装結婚を始めた」}と容疑を認めている。 偽装結婚した2人は教会で結婚式を挙げ、その写真を入国管理局に提出して、入管を信用させていた。安津畑容疑者は入管の審査前に、“偽装夫婦”に家の間取りや前日に食べたものを口裏合わせさせる勉強会を開催。在留資格を得られるまで、金を取っていたという。 2人はホームレスに「偽装結婚してくれる人を紹介してくれたら金を払う」などと話していたが、ホームレスの1人が「仲介料が入らない」と警視庁に情報を寄せたことから、犯行が発覚した。 2007年08月25日21時03分---朝日新聞インターネット版 「国際偽装結婚「偽見合い」1日30人 出稼ぎ隠れみのに 福岡市の国際結婚相談所「ブライダル祐」が結婚ビザを不正取得しようとした事件で、「この相談所が複数のフィリピン人を来日させるため、日本人との偽装結婚を繰り返し仲介していた疑いが強いことが福岡県警の調べでわかった。「伴侶」を紹介された日本人の中には、1日に30人と見合いをさせられた女性や、多額の手数料を取られた高齢の男性もいた。いずれも実態的な結婚生活はなく、出稼ぎのための隠れみのだったとみられる。相談所側は日本人だけでなく、フィリピン人からも稼いだカネの一部を取り上げていたという。 福岡市の40代の女性は05年夏、ブライダル祐を訪ねた。応対したのは、阿部信博(53)とフィリピン国籍の妻(44)の両容疑者=公正証書原本不実記載、同行使容疑などで逮捕=だった。 「日本人よりフィリピン人の方が優しくて働き者」。阿部容疑者はフィリピン人男性との「見合い」を強く勧めた。渡航費や滞在費を支払うとまで言われ、女性はフィリピン・マニラに行くことを受け入れた。 現地では、郊外の一軒家に案内された。応接室のいすに腰掛けて待っていると、別室に集まっていた男性が数分交代で入ってきた。簡単な英会話での「見合い」を約30回繰り返した。 「ジェス」と名乗る35歳くらいの男性にひかれた。翌月、現地で結婚式を挙げ、婚姻届を出した。 ジェスは06年1月に来日。工事現場や焼き鳥屋でアルバイトした。10万円近い月給のほぼ全額を本国に送り、2人の生活費は女性が払った。 4カ月後、女性が仕事を終えて帰宅すると、姿が消えていた。その後、関東に住む実姉のもとに身を寄せているらしいが、本人とは連絡が取れていない。 「ジェスは結局、日本に来たかっただけ」 ブライダル祐が絡んだこうした国際結婚について、福岡県警は30組前後を把握。中には、紹介料220万円を払って結婚しながら女性と同居できなかった70代の男性や、自分が知らない間に「妻」が来日してホステスをしていた30代の男性もいた。「妻」はブライダル祐で寝起きしながら、稼いだカネの一部を阿部容疑者に納めていたという。 厚生労働省によると、05年の国際結婚は約4万1400組。結婚全体の18組に1組の割合だ。10年前に比べると、1.5倍に増えた。 一方で、警視庁は今年6月、中国人や韓国人に偽装結婚相手を紹介したとして、都内のコンビニエンスストア経営者ら14人を逮捕。兵庫県警も同月、偽装結婚を手助けした疑いで、大阪府内の行政書士を逮捕するなど、摘発例は各地で相次いでいる。 警察庁は偽装結婚の摘発総数は把握していないが、外国人の女が歓楽街などで働くために、日本人と実態のない「夫婦」になっているケースは少なくない。だが、「夫婦ではない」ことを立証するのは容易ではなく、「摘発されるのは氷山の一角」との指摘もある。 http //www.lifeaaa.jp/11.html 半角 ■国際結婚詐欺(偽装結婚) 国際化が進み 国際結婚する人も急増しています 又国際結婚を斡旋する結婚相談所も多数存在します しかし その影で 騙されたというケースが急増しています 国際結婚詐欺の目的は ①お金 ②ビザ(滞在資格) ③肉体関係 が殆んどです ①のお金が目的の場合 相手が女性でも男性でも一番多い目的です それと 国際結婚を斡旋している業者の中に 会員とぐるになり騙しを行なっているという噂も聞かれます これは 結婚紹介所に入会 成婚で成婚料を払い 結婚後 日本に来ないケースや 日本に来ても数ヶ月で行方をくらましてしまうというケースが多数あります ②のビザは 結婚して日本人の配偶者ビザを取り 入国してどこかで働きます 外国人には 外国人のコネクションがあり 日本に入国してしまえば 働く道は幾らでもあるのです そして 後はビザが切れようが 不法滞在で捕まるまで日本に居ます 捕まっても 強制退去させられるだけです 日本で稼げるだけ稼ぐといった考えです ③のケースは 女性が日本人 男性が外国人に多いケースです 国際結婚詐欺との出会い方 ①国際結婚紹介所 ②ナイトクラブ(職場) ③遊びに行った先 といった出会い方です 先にも書きましたが 国際結婚を紹介している会社は 非常に多いです 中国・タイ・フィリピン・ベトナム・ロシア・東欧圏などが多いです これは 経済格差があり 相手から見れば日本は「ジャパンドリーム」が叶う国だからです ●実際調査を行った幾つかの事例を紹介します 中国人女性との結婚を斡旋している紹介所で 決めた相手と現地で結婚して 5ヵ月後に入国 後2ヶ月で妻が家出し行方不明になる ロシア人との結婚を斡旋している紹介所で 紹介された女性と交際 結婚する予定で 必要経費等を送金 その後連絡が付かなくなった タイ人女性との結婚を斡旋している紹介所で決めた相手と現地で結婚して帰国後 何時まで待っても妻が入国しない 電話連絡もつかなくなった ナイトクラブで知り合った女性と結婚を約束 ビザが切れたので一旦帰国 結婚準備金等を送金 その後連絡が取れなくなる フリピン女性との結婚を斡旋している紹介所で 決めた相手と現地で結婚 6ヵ月後日本に入国 3ヵ月後に 家出し行方不明になる 中国人女性との結婚を斡旋している紹介所で 決めた相手と現地で結婚して 妻が入国 1週間で家出し行方不明になる 知り合いの紹介で中国人女性と結婚 4年後永住権を取得後家出してしまった インターネットのサイトで知り合った オーストラリアの男性と結婚の話になり 日本に来る為の 渡航費用を送るがその後連絡が取れなくなる リンク http //blog.livedoor.jp/qwe5551/
https://w.atwiki.jp/warc/pages/11.html
5/23(金)第17回会合のお知らせを更新しました! 第17回会合について 【日時】5月24日(土) 【時間】10 00~13 00 【場所】早稲田大学早稲田キャンパス15号館もしくは14号館を予定。 【内容】行政判例を読む~自衛隊のイラク派兵差止等請求控訴事件~ 【発表者】大江 弘之 レジュメはコチラ ☆参加希望者は hiroyuki_ohe@excite.co.jp までご連絡ください。 前回会合について 【日時】4月20日(日) 10 00~ 【場所】早稲田大学 【集合】10 00 東京メトロ早稲田駅B2出口(地上) 【テーマ】教育の冷戦構造 -学力低下の問題から-(豊田) 昨今話題になっている、いわゆる「学力低下問題」から、今日の教育界における二項対立構図をあぶりだし、新たな学力観・教育観について提案・議論したいと思います。 ☆レジュメはこちら>第16回会合レジュメ ☆まとめはコチラ} ◆継続中のテーマ 「『教育現場』の問題を考える -子供を支える大人たちの視点から」 発表者:豊田 教育現場における教師の役割から学校と家庭や地域の関わり合いまで考えます! →継続して扱います。 春休み期間中の企画について 案をお書きくださいな~。 本所の防災センター 裁判の傍聴 教育現場(曖昧でゴメン)の見学 現代研究会研究テーマ かんがえちゅ。 イラク戦争とかやってみたいな(大江) ゆとり教育についてとか、教育再生の議論についてとか(豊田) 日教組問題について、鋭意調査中です(豊田) 過去の会合について 会合の詳しい内容については hiroyuki_ohe@excite.co.jp までおたずね下さい。議事録も順次公開してまいります。 ◇◇以下2007年度◇◇ 第15回会合 【日時】3月27日(木) 16 00~ 【場所】早稲田大学 【集合】15:45 東京メトロ早稲田駅B2出口 【テーマ】来年度の活動について 【議事録】コチラからどうぞ。 <第14回会合> 【議事録】コチラからどうぞ。 【日時】2月9日(土) 13 00~ 【場所】東京ウィメンズプラザ 【集合】12:45 東京メトロ表参道駅B2出口 【テーマ】教育とは何か -第1回 教育と言語・思想 -国語科教育の視点から (発表者:豊田) 「教育」とは何か、を考える、第1回発表です。今回は教育と言語・思想との関わりについて、国語科教育とは何か、という切り口から考えていきたいと思います。 ★レジュメはこちら ★注意:ウィメンズプラザの予約状況によっては、場所が変更になる可能性があります。予めご容赦下さい。 <第13回会合> 【日時】12月16日(土) 11:00~13:00 : レクチャー 14:00~ : ディスカッション 【場所】早稲田大学 学生会館 【集合】10:45 東京メトロ早稲田駅B3出口 【テーマ】CSRって何?(発表者:山本) <第12回会合> 連続発表テーマ「制度と個人」第2弾 【日時】11月17日(土) 10:30~12 30(レクチャー) 13 30~(ディスカッション) 【場所】東京ウィメンズプラザ(表参道) 【テーマ】近代法学的思考を探る ―現代社会を支える一つのプロである法学者 (発表者:大江) レジュメはこちら <第11回会合> 【日時】11月11日(日) 【集合】10 20 東京メトロ表参道駅B2出口 【場所】東京ウィメンズプラザ 【テーマ】 ロシア考 ―ソヴィエト連邦を中心に 第1部 小説「докторживаго(ドクトル・ジバゴ)」を語る 第2部 プーチンから現代ロシアを描き出す。 (発表者:大江) レジュメはこちら <第10回会合> 日付:10月14日(日) 時間:16:00~(予定) 集合:15:45 東京メトロ東西線 早稲田駅B3出口 場所:早稲田大学 学生会館 テーマ:今後の活動など レジュメはこちら 【重要】〔会合の内容について(まとめ)〕 ◆これまでの発表について、発表者の感想・反省 発表者自身の理解が深くなかった・議論が漠然としすぎたなどの反省。 ◆今後の活動について(大枠) ●3週間に1回ほどのペースで年間17~18回開催したい。 :月に1回のペースだと、年間12回なので、活動の幅・内容も割合窮屈になる。かといって、2週間に一回だと、発表の準備とうが厳しい。 ●今年度中は個別発表を続ける(現状維持)。 :一通り、参加者の発表を聞くことは、参加者それぞれがどのような分野に興味を持ち、どのような分野を得意としているのか、を知る上で重要だと思われる。また、発表者の経験を積むことそれ自体が有意義である。 ●共通テーマの発表について、年内にテーマを列挙し、来年度から個別の発表と一緒に行っていきたいたい。 :ひとつの大きなテーマについて多角的な視点から考察・研究する、ということでぜひやってみたい。ただし、上記の理由や、テーマ設定などの準備期間が必要である。 ●会合の時間について、前半2時間(きっかし)と、後半2時間(延長の可能性あり)に分割し、前半はレクチャー(講義)形式の内容を、後半は議論を行う、といった形をとってみたい。 :これは、計画性を持って会合を進めようということであり、講義・議論の時間を制限するものではない。(例えば、議題のスケールが大きく、時間がかかりそうな場合は、あらかじめ講義の回数を3回、という風に回数を多めに定める。1回やってみて終わらないので次回も…、という形を避ける、ということである。ただし議論については中途半端に終わるとかえって混乱を招くので、時間を2時間以上、とした。 <第9回会合> 【日時】9月22日(土) 【場所】明治大学 リバティータワー 【プレゼンター】稲塚 【内容】 「児童虐待」 <第8回会合> 【日時】8月22日16時00分より19時00分頃まで 【場所等】都内 【プレゼンター】二宮 【内容】 「自衛権・9条・自衛隊」 演習「これからの安全保障政策と憲法改正の是非」 (始めに簡単に前回までの復習と近況の概説を行います) <第7回会合> 議事録(まとめ)作成中。 【日時】7月16日(月) 海の日 【集合時間】10時40分 【集合場所】東京メトロ東西線早稲田駅 B3出口前 【場所】早稲田大学 学生会館 【テーマ】 「自衛権・9条・自衛隊」 講義2回目「自衛権、国際情勢と国防政策の推移」 プレゼンター:二宮 <第6回会合>補足資料をアップしました! 議事録(まとめ)作成中。 【日時】6月30日(土) 【集合時間】10時40分 【集合場所】東京メトロ東西線早稲田駅 B3出口前 【場所】早稲田大学 【テーマ】 「『教育現場』の問題を考える - 子供を支える大人たちの視点から」 プレゼンター:豊田 第6回会合レジュメ ※1 土曜日 1:00に最終修正版をアップしました。 ※2 当日、別資料を配布します。 補足資料はここ! 第6回会合補足資料1 ※7月16日(月)にアップしました。 <第5回会合> 議事録作成中。 【日程】6月16日(土) 【場所】早稲田大学学生会館 【時間】14 00~17 30 【集合】東京メトロ東西線 2番出口に13時30分 【内容】 ■メイン 二宮 「自衛権・九条・自衛隊」レジュメ(発表とのかねあいで重要な留保を省いている箇所があります) 「国際法上の自衛権」 <第4回会合> 議事録作成中。 【日時】5月26日(土) 【時間】11 00~14 00(予定) 【場所】明治大学リバティータワー 【テーマ】PFIに見る国家機能の変遷とその是非 【プレゼンター】三森遼太 【配布資料】 第4回会合レジュメ 第4回会合資料 <第3回会合> (議事録作成中) 【日時】5月4日(金)みどりの日 【時間】11 00~14 00 【場所】東京大学駒場キャンパス(予定) 【テーマ】 「アメリカ文化考①~アメリカ社会と銃~」(プレゼンター:大江) 【配布資料】 第3回会合レジュメ 第3回会合議事録 <第2回会合> 第2回会合議事録 第2回会合レジュメ 【会合情報】 開催日:4月21日(土) 議題:今後の活動について(プレゼンター大江)