約 2,251 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2615.html
http //mainichi.jp/life/housing/news/20100310ddm013100151000c.html 子どもは見ていた:東京大空襲65年/下 在日朝鮮人たち ◇家を失い、差別に泣く 両親、仕事求め渡日/裕福だった生活一変 自宅の玄関に小さな防空壕(ごう)があった。豆電球がつき、食糧を入れていた。空襲が本格化するまで、子どもにとってはまるで秘密基地。朴基碩(パクキソク)さん(72)は暗闇にろうそくを立てて遊ぶのが楽しくて「防空壕で寝たい」と言っては両親を困らせた。 基碩さんが住んでいた荒川区南千住には、朝鮮半島出身者が多かった。アボジ(父)も半島の貧しさから日本に渡った一人で、廃品回収業や海鮮物の販売をしながら一家8人を養っていた。 45年3月10日の記憶は、家を逃げ出す場面から始まる。オモニ(母)は末っ子の弟をおぶい、妹と基碩さんの手を引き、姉はオモニのもんぺにしがみついた。六角形の細長い焼夷弾(しょういだん)が空一面から降ってくる。翌朝、焼け野原ではぐれていたアボジたちと奇跡的に再会し抱き合った。傍らで、女性が我が子の名を呼びながら黒焦げの遺体をひっくり返して歩いていた。その声が今も耳から離れない。 約10年前から横浜市で韓国語教室を開いている。「朝鮮人」とばかにされ、幼稚園に1日しか行けなかったこともあるが、いま教室は日本人でいっぱいだ。 「なぜ朝鮮人が日本にいたのか。日本で空襲に遭わねばならなかったのか」。子どものころの疑問は大人になるにつれ分かってきた。でもいまだに分からないことがある。「たくさんの朝鮮人が空襲の被害に遭ったことが、なぜほとんど知られていないのだろう」 □ 軍需工場の多かった下町には、植民地だった朝鮮半島から仕事を求めて移住したり、連行された人たちが多く住んでいた。旧内務省の資料によると、45年時点で東京には約10万人いたという。 本所区(現・墨田区)菊川に住んでいた李建中(リコンジュン)さん(74)は当時珍しかった黒革のランドセルを背負い、名門校へ越境通学していた。軍需工場を経営する父は幅広く事業を展開し、従業員たちは建中さんを「坊ちゃん」と呼び、毎日三輪トラックで学校まで送迎してくれた。 「大きくなったら戦争に行く」と思っていたが、父は「医者になれ」と、医療器具を買いそろえた。息子の将来を早くから案ずる姿に、若くして来日した父が成功するまでの苦しい道のりを感じた。 そんな生活も戦況の悪化で一変した。44年4月、新潟県の寺に学童疎開した。食事は粗末で、栄養失調のようにやせ細った。 7月、父が初めて面会に来た。チヂミをいっぱい持ってきた。「誰にもやるな。隠れて食べろ」。暑さでほとんど腐ってしまった。冬には背丈を超える雪が積もった。東京から履いていった革靴は凍ると硬く、登校中に足から血が出た。でも家族への手紙に「つらい」とは書けない。逃げ出して朝一番の汽車で東京へ帰ろうとする子もいたが、次の駅に先回りした先生に連れ戻され、みんなの前で木刀でたたかれた。 翌年3月10日過ぎ。東京で大きな空襲があったと聞いた先生が様子を見に行き、帰ってきた。「全滅だ」。数日後から生き残った親たちが次々と迎えに来る。「うちはみんな死んでしまったのか」。残った友だちと抱き合って泣いた。 従業員の兄弟という見知らぬ人が来たのは、8月13日のことだ。「なんだ、今ごろ来やがって」と強がった。「坊ちゃん。みんな死んじゃいました」。信じられなかった。 千葉に疎開した祖父母の元へ身を寄せることになった。2日後、新潟駅に着くと、ホームや待合室で大人たちが泣いていた。「日本が負けた」と聞かされても、何とも思わない。ただ、肉親に会いたかった。 遺骨さえ見つからない家族たち。「ひょっこり帰ってくるんじゃないか」との淡い期待も、年と共に薄れていった。父親代わりだった祖父も中学2年で亡くなった。高校受験では自分より点数が低い日本人の子が合格し、自分は不合格。中卒後、トラック運転手になり、還暦過ぎまでハンドルを握った。 終戦で遠い祖国は解放され、日本には平和が訪れた。だが、建中さんは言う。「空襲さえなければ全く違った人生だった。戦争は生き残った者にも苦しみを与える」 子どもが親や社会に守られ育っていく大切な時間を奪った空襲。一人一人の体験を聞く時間は、あまり残されていない。【木村葉子】 ◇体験者の記録少なく 東京大空襲による朝鮮人死者は少なくとも1万人とみられるが、正確には分かっていない。体験者の記録もほとんどが日本人によるものだ。「東京大空襲・朝鮮人罹災(りさい)を記録する会」の金日宇(キムイルウ)代表は「教育を受けた人が少ないうえ、戦後祖国に帰った人も多かったことから、体験が記録されてこなかった」と話す。 関東大震災の犠牲者を鎮魂するために建てられた東京都慰霊堂(墨田区)に、空襲犠牲者の遺骨約10万5000柱が納められている。個人が特定された約3700柱のうち、名前などから朝鮮半島出身者とみられる遺骨は約50柱あるとされる。朝鮮人犠牲者を追悼する会は07年以来、毎年開かれている。 ============== ■ご意見お寄せください 連載への感想、あなたの体験などを募集します。表題を「空襲」とし、郵便とメールは欄外のあて先へ。ファクスは03・3212・5177。 【関連記事】 【写真特集】東京大空襲 1945 <子どもは見ていた>東京大空襲65年/上 孤児になって <子どもは見ていた>東京大空襲65年/中 聾唖学校の生徒たち <ものがたり’10春>乳がん手術乗り越え 語り継ぐ東京大空襲--海老名香葉子さん 毎日新聞 2010年3月10日 東京朝刊 空襲体験記
https://w.atwiki.jp/kikipedia/pages/250.html
0001-0050/0051-0100/0101-0150 0001 hyousen(2006-1-25)妖怪や幽霊、といえば興行やテレビの世界では完璧に夏(特にお盆のまえうしろ)が旬になってますが、春夏秋冬、四季それぞれ、この季節といえばこの妖怪だ!!――と、いうものを皆様もっておられたりするでしょうか?ふと、考えついたので、スレッドを立てさせていただきました。今もちょうど、寒い盛りですが、冬といえば、この妖怪さまです。というのがございましたら是非、お教えねがいます。(いろいろ持ってるイメージの差が見えておもしろいかなぁ…、と想います。)ちなみに、私にとっての「冬の妖怪」の筆頭は「鬼」です。節分とか、なまはげとか、そういうもののイメージが、冬とか雪に結びついてるので、そんな風に感じています。 0002 tama(2006-1-25)こんばんは。月並みですが、冬の妖怪と言えば、やはり「雪女」がイメージとして浮かびます。子供の頃、夜寝る前に母親から聞いた「雪女」の話は本当に怖かったです。話を聞いただけなのに、そのシーンがイメージとして、はっきりと見えました。吹雪の音とか、雪女が冷たい息をふきかける音とか、その音を想像するだけでも怖いです。 0003 azukizuki(2006-1-25)こんばんは。今夜もお寒うございます。イメージが貧困で申し訳ないですが、冬と言えば‘かさじぞう’って妖怪かいなという話もありますが……。元旦の朝雪が積もってたりすると「よーいさ、よーいさ、よーいさな」とそりひきの声がしないかななどと。残念ながらまだ一度も聞いたことありませぬが、その前にまだ一度もじぞうさまに笠かぶせてないですけど。雪深い山道を歩く地蔵様ご一行。ちょっと観て見たいのはワタクシだけでしょうか。 0004 nyagaimo(2006-1-25)確かに、日本では花火・怪談と言えば夏ですよね。蒸し暑くて寝苦しい夜、声をひそめて語り合う・・・とっても素敵な風習です。でも丁度今みたいに、雪の降る夜にこたつで怪談とかもなかなかおつな感じです。イギリスでは花火&怪談と言えば冬だそうですね。みんなで暖炉の前に座り、夜通し語り合うのだと高校の英語の授業で習いました。冬の妖怪ですか。うーん。私もパッと思いつくのは雪女でした。あとはかさ地蔵とか・・ってのは妖怪じゃないですかね?そういえば、こなきじじいが羽織っている“みの”?って言うのでしたっけ。あれは雪よけの為と言うわけではないんでしょうか。 0005 hyousen(2006-1-26)tamaさん>なるほど、やっぱり、いのイチバンは「雪女」さんですね。「冬の妖怪といえば!」の代表選手ですね。個人的には、怪談で有名な雪女のはなしも好きですが、雪女の抱かせてくる赤ん坊を怖がらず、機転を利かせて抱き続けて、宝物や不思議なちからをもらう、というはなしも楽しくて好きです。 azukizuki>「かさじぞう」さんですか。確かに、あれも舞台が冬のおはなしですね。笠が一個たらなくて、自分のかぶってた手拭いをおじいさんがかけるあたりで、涙線を刺戟されたりするのは多分ワタクシだけです。 0006 hyousen(2006-1-26)nyagaimoさん>なるほど、イギリスでは真冬が旬なわけですね。ベンキョウになりました。「みの」は雨とか雪とかを防ぐものなので一応「雪よけ」にはなっているでしょうね。でも「こなきじじい」は、はだしなので雪の上は結構キツイかもしれません。 0007 azukizuki(2006-1-26)こんばんは。冬の妖怪とちょっと違うんですが大先生の‘妖怪道五十三次’少しずつ集めておりまして(レプリカですが…木版画も欲しい!!)これ季節感があるんですね。で、季節と気分にあわせて飾るのをかえております。冬なので今は‘蒲原 雪中妖怪図’です。雪景色です。 0008 shion(2006-1-26)私も、安直ですが、冬といえば雪女を思い出しました。あと、私の勝手なイメージでは、夏は海、冬は山というかんじがしています。 0009 hyousen(2006-1-26)azukizukiさん>『妖怪道五十三次』ですか、宿場ごとに季節感が出ているので季節にあった1枚を飾る、というのも確かにイイですね。五十三次の雪景色の中には蒲原と亀山がありますが、やっぱり蒲原の絵の方が人気が高いみたいですね。私の場合、蒲原には「みのわらじ」亀山には「ゆきじじい」…と、双方渋いお気に入り妖怪がいるので軍配が上げられません。んー。 shionさん>夏は海、冬は山、…なんとなくそういうイメージが確かにありますね。特に山は、夏になって緑がキラキラしてる山の中よりしーーーんと何ひとつ音もしなさそうな冬の山のほうがちょっとこわい雰囲気ですしね。 0010 yoshino(2006-1-26)こんばんは。冬の妖怪といえば『白粉婆』もですよね。裸足で雪の上を歩いているのは、考えただけでも寒そうです。今昔百鬼拾遺には「しはすの月夜」とあるので、旧暦でちょうど今頃のことなのでしょうね。東雲先生のアバターのような可愛いおばあちゃまだったら、一緒に一杯やりたいですが。 0011 hyousen(2006-1-27)yoshinoさん>そうですね、「白粉婆」も冬の妖怪ですね。妖怪の世界で、まだ太陰暦が一般だとすると現れるのは、まさしく今頃ですね。確かに石燕の描いた「白粉婆」は、はだしですね。(映画『妖怪百物語』に出てた「白粉婆」は、わらじばきでしたが)…けっこう妖怪には素足派の方が多いですね。 0012 aki-ra(2006-1-27)冬の妖怪といえば、鬼太郎に登場する「雪男」「雪女」「雪んこ」の強力冬山妖怪タッグでしょうか。でも「雪男」というと、なぜか先にヒマラヤの雪男の方を思いうかべてしまうのは、私だけでしょうか!? 0013 shion(2006-1-28)>aki-ra さん私もそういうイメージあります。「雪女」はきれいな女性、「雪んこ」は蓑を被った子というかんじがするんですが、「雪男」というと毛むくじゃらの姿を思い浮かべてしまいます・・・。 0014 hyousen(2006-1-29 )aki-raさん>…たしかに普通に「雪男」ってどんなイメージ? と聞いたら、だいたいそんな感じのイメージが答として帰ってきそうですね。やっぱり、チベットとかシベリアの方に住んでいそうな毛がもくもく生えてるようなイメージの「雪男」の方がイメージとして濃く染みついちゃってるのでしょうかね?そこらへんは今までジックリ考えたことがなかったので、ベンキョウになりました。 0015 KAMURO(2006-1-31)冬の妖怪ですか。今、みちのくは太いツララが軒に連なっています。日に照り輝いてキラキラととてもきれいです。で、そんなきれいなツララの化身、「しがま女」ってのはいかがでしょうか。 0016 hyousen(2006-1-31)KAMUROさん>そうですね。「しがま女」や「つらら女」なども「雪女」と肩を並べる見事な冬の代表選手ですね。たしかに、つららは大きければ大きいほどお日様にあたった時の照り具合が、キレイですよね。この前、関東地方にどっさり雪が降ったとき我が家にもだいぶつららが下がりましたが、良い枝振り(?)のつららが1本出来てました。 0017 tasogare(2006-2-2)やっぱり雪女系は冬の定番(?)妖怪なんですね~。京都は雪があまり降らないし、降ったとしても積もらない地域なので、雪女が出そうな豪雪地帯は結構行ってみたかったりするんですよね。冬の妖怪といえば、少しマイナーかな?という気はするんですが、「ミソカヨーイ」っていうのが確かいたような・・・。長野の方の大晦日に現れる声だけで姿のない妖怪だったと思うんですが・・・たしか。あう、記憶が曖昧です。すみません。 0018 shion(2006-2-2)こんばんは。明日は節分。鬼さんたちが主役の日ですね。でも主役なのに豆を投げられてしまうんですよね・・・。 0019 hyousen(2006-2-3)tasogareさん>「みそかよーい」ですね。…来ましたねぇ、とってもマイナーかつ、出る日まで完全に限定されてる冬の妖怪さんが。長野や新潟で「みそかよい」とか「みそかよーい」とか呼ばれていて、白い狐が声を出してる、とか、山の神様の声だ、鬼だ、とかいろいろ言い伝えられているみたいですね。大晦日、山や海に行かない、というしきたりは結構多いですね。 shionさん>いよいよ節分、日本全国で鬼さん達がが豆をぶつけられちゃいますね。中国から伝わって来た「方相氏」も、今の暦で言えばこの節分が活動日ですね。 0020 George(2006-10-22 )hyousenさん、こんばんは。季節の妖怪 ~冬編~ 見つけました…って、早い?早いですか!? (汗)しかし…誰かが…誰かがやらなくてはッ!! (笑)と言う訳で、少し早いですけど行かせていただきます。(すいません…我慢できなかったんでス、はい笑)とりあえず、ざっと拝見したトコロまだ、メジャーな妖怪さんしか登場していないようなので私もシンプルに思いつくモノから推挙したいと思います…。『寒戸の婆』はいかがでしょうか。もう冬しかないでしょう、と言う感じがするんですけど「絵」も寒そうなら、その生い立ち(?)も、かなり寒そうな妖怪さんです…。まあ、そろそろ冬も近いと思いまして少し、フライング気味のGeorgeでした。 0021 KARASU(2006-10-23)冬の妖怪と言えば。なまはげ。いやあ、東北人ですみません。あ、雪男の話が出てましたね。ヒマラヤ山脈のイエティ、あれは神様のように祀られていますね。しかし、雪男の毛皮とされているものは大概動物の毛皮だそうです。 0022 sudou(2006-10-23)こんにちは!Georgeさん、フライング大いに結構だと思いますよ、いずれ誰かがやらねばですしね 僕も相当フライングですが(コト八日には二ヶ月ないし四ヶ月早い)「一つ目小僧」&「ミカリ婆」などいかかでしょうね?僕としては雪女の次ぐらいには挙がってるかと思ったのですが…冷静に考えるとそんなわけないですよね(爆)冬は来訪神の季節と勝手に感じているsudouでした♪ 0023 hyousen(2006-10-23)George隊長、こんばんは。わぁぁ、早い冬編へのご出陣w「寒戸の婆」…なるほど、北国ものですな。2周目以後に突入していくと、次第次第に選択範囲がせばまってくるやも知れませんが、各季随時募集中ですので、どうぞ、どしどしご推挙くださいませw 0024 hyousen(2006-10-23)KARASUさん、こんばんは。「あまめまぎ」や「なもみたくり」や「ひかたたくり」などなど各地でいろいろ呼び名がありますが、「なまはげ」さん、…おおー、大看板さんがまだでしたなw 0025 hyousen(2006-10-23)sudouさん、こんばんは。「一つ目小僧」&「みかり婆」…なるほど、やって来るのが、12月8日と2月8日ですからこのふたり連れも「冬」の季節の妖怪さんですねw「来訪神の季節」というのはイイご指摘ですねぇ、「春」に季節が変わる節目に里にやって来る神様や妖怪さんは多いですからねぇ… 0026 sudou(2006-10-24)こんばんは!はい♪僕の中の冬と言えばランキングでも上位のコンビです あぁやっぱり(笑)年神なんかも訪れる神だよなとか思いつつ言ってみました。話が出ていたなまはげなんかもそうなんでしょうかね?さあ続いての冬と言えばの妖怪さんは…「加牟波理入道」もし大晦日に彼と遭遇したとしたら…絶対唱えません!!(爆) 0027 you-chan(2006-10-24)こんにちは。お久しぶりです、hyousenさん(笑 「一本だたら」。紀伊半島の山中で、雪の中に一本足の足跡を残すくらいですから、問題なく「冬の妖怪」だとおもうんですが・・・・。 0028 suparutan(2006-10-24)>「一つ目小僧」&「みかり婆」…なるほど、やって来るのが、12月8日と2月8日ですから え! hyousenさん、そ、それはどういうお話なのでしょうか。恥ずかしながら詳しくないので教えてください。・・・2月8日誕生日なもんで(笑) 0029 hyousen(2006-10-24)sudouさん、こんばんは。そうですね「なまはげ」さん達も、年神さんとかのお仲間うちと言ってもイイですな。――「加牟波理入道」さんですか!そうですね「がんばりにゅうどうほととぎす」は大晦日に唱えるおまじないですからネ。これは堂々「冬の妖怪」さんに加入ですな。…たしかに、妖怪さんがたに遭いたい!逢いたい!遇いたい!という場合は唱えないほうがいいかもですねw 0030 hyousen(2006-10-24)you-chanさん、こんばんはw「一本だだら」さんといえば、雪にのこしたひとつ足跡…、ですからね!こちらもナイスなご推挙でありますw紀州には「雪ん坊」という名前の一本足の雪んこさんもおられますし、信州には「しっけんけん」、伊予に「雪ン婆」、飛騨の「雪入道」などなど、雪の妖怪さんと、雪にのこしたひとつ足跡は関係深々ですねw 0031 hyousen(2006-10-24)suparutanさん、こんばんは。「一つ目小僧」&「みかり婆」のおふたり等がやって来る12月8日と2月8日は、共に、ことようか(事八日)といわれていて、12月は「ことおさめ」の日、2月は「ことはじめ」の日として斎事やお祭りをする特別な日とされていたそうですよ。 0032 Akathuki(2006-10-28)おはようございます。最近は、足先が冷えてまいりますね。みのわらじ、はいかがでしょうか。変な蓑と草鞋のじじいが雪山を徘徊、というひねりのないイメージもってますw秋の方がお似合いでしたかなwww 0033 hyousen(2006-10-29)Akathukiさん、こんばんは。なるほど「みのわらじ」さん!『百鬼徒然袋』の中でも雪景の中に描かれていますしわたしも「みのわらじ」さんと言えば「冬」!というイメージですね、でも、わらじで雪の中を…とか考えると寒そうで、ちょっとふるえがきます…w 0034 George(2006-10-29)季節の妖怪探索隊隊長のGeorgeです、こんにちは。何だかしばらく見ない間に、かなりイイ感じになっておりますが…いや…あの、すいません。私がフライングしてしまったばっかりに(汗)でもですね…今からコレをやっとくと、hyousenさんが〔冬の庵〕を開かれる頃には、かなりの数になるのではと思いまして…。(えっ…よけいなお世話だって?)冬の妖怪は夏同様、多くの妖怪が登場すると予想されますので私なりに、多少早くても問題無しと判断したのですが…ダメですかね?(笑)さて、皆さんからの妖怪を拝見させていただきましたが「なまはげ」や「みかり婆」など、思わず「おお!!」とウナル妖怪さん達が登場しておりますねェ。そんな中、私もふと考えていた「加牟波理入道」さんも登場しておりましたので時季的に少し早いかと思われる妖怪さんも、今の内に言っておかないと他の方に出されてしまうので、いっときます(笑)年末はこの妖怪さんの出番です 『いそがし』今年も残すところ、あと二ヶ月あまり…なんだかんだと忙しい季節がやって参ります。皆さん、毎年必ずとり憑かれているのではないでしょうか? 0035 shion(2006-10-29)こんにちは。今年もこのスレッドの季節になってきましたか。もう寒いですものね~。では、こんな寒い時期だからこそ・・・。「甘酒婆」さんで。この方、単に甘酒を売り歩いてくれる地方もあれば、返事をすると病気になる地方もあるので、逆にひやりとする気もしますが(笑)個人的な話ですが私は甘酒が苦手なので、無事でいられそうですw 0036 sudou(2006-10-29)こんばんは!みかりに加牟波理と若干マニアックに続けてしまったので今度はこんなのはいかがでしょう?「風の神」…はい、反省の色なしでございます(爆)彼の吹かせる風に当たると風邪になってしまうとか…皆々様もどうかお体にはお気をつけくださいませ 0037 George(2006-10-30)こんばんは。本日二怪目の妖怪さんです。『座敷わらし』です。いや…別に「冬」でなくてもイイんですが…何と言いますか先に「かさじぞう」の話題が出ていましたので…それで、大先生の鬼太郎に登場する「座敷わらし」の話を思い出しイメージ的に「冬」にピッタリだなと(笑)東北地方なんかにも多いですよねェ「座敷わらし」のお話は。ああ、我家にも住みつかないかなぁ…(笑) 0038 hyousen(2006-10-30)Georgeさん、こんばんは。なるほど隊長、さすが、おめめが高入道でございますなw…〔冬の庵〕びらきの前にかなりご推挙の数が揃っているとみなさんにとってもベリーナイスですねw ご英断に感謝です。なるほど「いそがし」さんですか!年の瀬、師走の冬の空に実にぴったりな妖怪さんです。今年の末も大発生しくれちゃいそうですねぇ…w こわいこわい…、、お次ぎは「座敷わらし」さんですか!う~む、なるほど、たしかに我が家にも来て欲しい!! 0039 hyousen(2006-10-30)shionさん、こんばんは。おぉーーー「甘酒婆」さん☆なかなかお洒落なところで攻めてまいりましたなぁ…たしかにこちらさんも「冬」のイメージが深くありますね~。(「おしろい婆」さんに近いイメージがあります、どことなく) 0040 hyousen(2006-10-30)sudouさん、こんばんは、「風の神」さまや「風邪」さま…ですか☆いよいよ本格木枯らしも徐々に吹く季節になってきてますからね、気をつけなきゃいけませんな。びくびく…。 0041 George(2006-10-30)おはようございますノシさて、本日も元気に『季節の妖怪 ~冬編~』いってみたいと思いまする☆「送り拍子木」でございます。言わずと知れた「本所七不思議」の怪の一つです。冬と言えば「火の用心、さっしゃりやしょ~!!」てな訳で夜廻りの季節…。皆様も火の元には十分お気をつけ下さいませ。チョ――――ン!! 0042 George(2006-10-30)はい、と言う訳で(笑)続けて失礼いたします。「本所七不思議」シリーズ冬の巻。消えずの行燈『燈無蕎麦』!!「送り拍子木」の次に来るモノと言ったらコレしかありません☆冬空の下、寒さに負けてウッカリ入らないようにして下さいませ…(私は入っちゃいそうです…笑) 0043 hyousen(2006-10-31)Georgeさん、こんばんは。おおっさすが、隊長、秋の「河童の親類」シリーズにずずぃと続いて、冬にもシリーズもので参りましたなw…たしかに「本所七不思議」の中でも夜霜に響く「送り拍子木」とあったかさむい「消えずのあんどん」 or 「あかりなし蕎麦」は「冬」の情景たっぷりですねwあったかい食べ物がだいぶ恋しい季節になって来ましたねwちょっと的はずれかも知れませんが、真っ赤に焼けたあちあちの鍋がさがってくるという山形の「鍋おろし」さんなんかはいかがでしょう?冬っポイ…ですかなぁ? 0044 George(2006-10-31)こんにちは。「鍋おろし」!!おお、それはイイですねェ☆凍えた身体を抱えて歩いていたら、思わず中身をチェックしちゃいそうですな(笑)さて、まんまの「冬」の妖怪、思いついちゃいました。『雪爺』です(爆)なんでこんなバッチリハマルモノを忘れていたのかと思うほどの妖怪さん!!雪深い山の中、女の妖怪や老婆の妖怪に出会うのも不気味でございますが、ジジイに会うと言うのもなかなかどうして、イヤだよなァ…(笑) 0045 Pocopen(2006-11-1)hyousenさん ご無沙汰しておりました、こんばんは。冬! 寝肥さん です。こたつを出したのですが・・・なんて素敵なんでしょう。天国です。出られません!!!このままでは・・・と言う事で寝肥さんですどうして、こたつに首まで入ってしまうんでしょうか? そのビジュアルはまさに、こたつ亀 です 0046 hyousen(2006-11-1)Georgeさん、こんばんは。「雪爺」! なるほど、「雪一家シリーズ」の中でもそこに参りますか! さすが隊長wツボをこころえていらっしゃるご推挙ですwたしかに「雪爺」さんが、ぼーーーっと現われてきたら…相当ビックリしちゃいますねw 0047 hyousen(2006-11-1)Pocopenさん、こんばんは、冬の「ねぶとり」さん!…わぁw そうですねぇ、ついに「こたつ」のシーズンが巡って来たんですね、これはまた「食欲の秋」以上に「ねぶとり」さんの勢力がアップしそうな道具だてですwこたつ亀しつつアイス、とか、いい心持ちなんですよねぇぇ…、 0048 suparutan(2006-11-2)hyousenさん、「ことようか」の件、ありがとうございました。勉強になりました。年はとりたくありませんが、別の意味で誕生日が楽しみになりました(笑)「びしゃがつく」あられの降った後にでるそうですから、冬の妖怪ですかねえ。イメージとしては冬版べとべとさんなんですが。あれ?「ぶるぶる」は出てましたっけ? 0049 hyousen(2006-11-2)suparutanさん、こんばんは。いえいえ、どういたしましてwおお「びしゃがつく」!「冬」もまだまだイイ妖怪さんが出てきますねぇw――たしかに、私も「べとべとさん」の親戚、みたいなカンジでいつも見てますwあ、「雑俳」の方では何度か顔を出していますが「冬の妖怪」では、未推挙でしたね「ぶるぶる」さん。 0050 Akathuki(2006-11-3)こんにちわ、もう神帰月ですね~冷え性にはすでにツライ季節です。私の勝手なイメージなのですが、雪山で猛吹雪にさらされた時、「音霊」に遭い、音を聞いてしまったらチ~ン……だなと思いました。季節の変わり目ですので、風邪にはお気をつけて~ハックション!てやんでばろっちょぉぃw 季節の妖怪
https://w.atwiki.jp/hikoushiki/pages/38.html
+日本中世の開幕 日本中世の開幕 平治の乱で敗れた源義朝、その子供である頼朝は捕えられ、伊豆に流された。 紆余曲折を経て、かれは北条時康の娘、政子と結婚する。1177年のころと考えられる。 1180年4月、後白河法皇の皇子以仁王と源頼政は平氏打倒の兵をあげ、敗死する。6月半ば、京都にいる乳母の妹の子三善康信からの密使により、諸国の源氏追討計画の話を聞いて、頼朝はついに挙兵。謀反の話が京都まで達していることを知り、一か八かの先制攻撃をかける。それが、当面の敵である伊豆国の政庁の支配者、目代山木兼隆の館への夜襲であった。8月17日のことである。 夜討ちは成功したものの、頼朝にとって四方はみな敵。わずかに箱根山をこえた関東平野には、相模の三浦氏一族という来援を期待できる武士団がある。頼朝はかれらと合流するため、東方へと血路をひらこうとした。 頼朝は二十日、かれのもとへ集まってきた三百騎ほどの武士たちをひきいて東へ山をこえ、二十三日午後おそく、ようやく相模国石橋山に到着した。そのときすでに、大庭景親以下平氏側の相模・武蔵の武士三千余騎は前方に、後方の山には追尾してきた伊豆の伊東祐親の軍三百余騎が控えていた。 大庭勢は多勢をたのんで強硬策に出、暗夜、雨の山中に血みどろの戦いがくりひろげられた。翌日、一帯の山々には頼朝軍残党の掃討戦が展開された。頼朝の一身も危険な状況にさらされたが、かれは奇跡的にも一命をたすかった。頼朝との関係が深かった箱根権現の別当は弟に山中を捜索させ、頼朝一行を発見し、箱根権現へと案内したのだった。 (Shade) +東の国々 東の国々 頼朝たちの乗り出していこうとしていた関東平野の情勢はどんな具合であったのだろうか。 この地方は新たに征服された植民地であり、さらに新たな征服運動をおこなうための軍事基地であったといえる。こうした歴史的経緯から、この地帯には数多くの武士団が並び立つようになっていた。 武士団とは、館を中心とする開拓農場の別名であり、その政治的表現にほかならない。関東武士団は、うちは百姓たちを支配し、かれらから年貢をとりたて、また外部からの侵入に対しては武力をもって農場を守った。 それぞれの国でもっとも強力な武士団がいずれも国府の在庁官人の有力者であり、また有力武士団は国府政庁におかれた軍事警察面の司令官でもあった。かれらはまた国府の政庁に関係をもつだけではなく、庄園を根拠とし、その現地管理人である庄司・下司などの地位にあった。 館を中核におし進められた開拓事業こそが、武士団を成立・成長させた真の原因なのであった。 開発された農場は、「別府の名」、略して「別名」とよばれる一つの特別区域として国府の田所に登録され、館の主人は「別名の名主」として、年貢の徴収をし、国府の税所に支払う役となった。 国―郡―郷の三段階の地方行政組織からなっていた律令制度は、ながい平安時代のあいだにすっかり変化してしまい、国―郡・郷の二段階の組織が生まれた。 新しい郡も、郷も、ふるい郡を分割して生まれた単位である条も、みな同格の地域的な徴税単位となり、それぞれに「郡司・郷司」などの役人が任命され、徴税と国司への上納をうけおうようになった。郡司・郷司にはだいたい地元の有力者が任命され、かれらは国府政庁の在庁官人を兼任することも多かった。 一方では、中央の大貴族や社寺に属する私有地としての「庄園」や、また庄園に類似したものであり中央の役所などの所有する支配地域である「保」も生まれてきた。それにつれて郡・郷に保をふくめて、いちおう国府の政庁の支配下に属する地域を「公領」または「国衙領」とよび、庄園と区別する風がおこってきた。 中央では、高位の皇族・貴族、大社寺が各国の国衙領からあがる年貢などの収入を個人的な収入とする「知行国」制度があらわれ、やがて一般化してきた。 このような環境のもとで、別府の名主たちがまずねらったのは、郡司・郷司のポストであった。徴税と上納の責任があるが、免税地がみとめられ、年貢徴収の際のたし前をとりあげることも、担当地域内の農民たちの使役権限も公認されるからである。 こうして支配圏を強化し、拡大していくことが館の主人である武士たちをつき動かす原動力であった。 ただ、郡司や郷司は規定額の年貢を収めないなどの事由により免職される危険があり、また近隣の館の主人に取って代わられる危険も大きく、不安定であった。 そこで新たに発案されたのが、「庄園としての寄進」という方法であった。何らかのつてを求め、知行国主や国司よりさらに有力な中央の高級貴族や大社寺、あるいは上皇に、一定範囲の地域を自らの支配領域であるとして庄園に寄進してしまうのである。 土地を寄進した館の主人は、今度は庄司・下司、あるいは「地頭」などとよばれる現地の管理人に変じ、本所と呼ばれる庄園の名義上の所有者に年貢などを送るようになる。郡司・郷司として従来もっていた権益は保障され、相続も認められ、上納する年貢の高も減少する。しかし、寄進先の貴族や社寺の実力如何により庄園としての承認をとり消されるなどの不安定さがあった。場合によっては、郡司・郷司としてとどまるほうが有利な場合もあった。 こうして武士たちは、その支配権の維持・拡充のために、つねに周囲の状況の変動に細心の注意を払い、中央政局の行くえにも敏感とならざるを得なかった。 こうした不安定な状況をぬけ出すためにかれらが模索し、さぐりあてたのが、中央貴族の出身で、数々の武勲にかがやく「武家の棟梁」の源氏を主君とあおぎ、その下に結集して発言権を高めてゆくことであった。 だが、この棟梁義朝は平治の乱にて敗れ、以後、平氏の全盛時代がやってくる。東国の武士たちはその下で不遇をかこち、いつかかれらのねがいにこたえてくれる理想の主君の出現を待ち望んでいたのである。 頼朝軍の一隊がのり出してゆこうとしていた関東平野は、当時まさに以上のような情勢にあった。 (Shade) +鎌倉殿の誕生 鎌倉殿の誕生 石橋山の一戦に敗北した頼朝は三浦氏一族とともに海路を伝って安房へと逃れるが、当時房総半島に勢力を張っていた下総の千葉介常胤、上総の上総介広常の二大豪族を従えて一気に威を取り戻すと、その後も休むことなく次々と関東の豪族を従えながら南下して、1180年10月には大群を率いて鎌倉に入った。 石橋山敗戦から僅か四十日余という短い時間で、この奇跡の復活を可能ならしめた要因は何か。ひとつは頼朝が、武家の棟梁である源氏の先代義朝の遺児中もっとも年長で、正妻の出であるという権威を持っていたということ。いまひとつは既に東国では天皇に等しい至高の存在となっていた以仁王の令旨を掲げていたことである。さらに頼朝の政策の基本線である「目代への攻撃」「在庁官人ら武士たちの結集」は、当時の現状に不満であった東国武士たちを惹きつける最大の魅力であった。東国の武士たちが頼朝に希望を託して次々と与して来たのも不思議ではない。 鎌倉入りした頼朝は鶴岡八幡宮を現在の山寄りの地に移し、その東側の大倉郷に新たな館を立てる。後の鎌倉幕府の基礎である。 ところで同年九月には頼朝挙兵の知らせを受けて平維盛・忠度らを大将とする頼朝追討軍が派遣されていたが、甲斐源氏一族との富士川の合戦に大敗し潰走、火の手は鎌倉まで及びもしなかった。平家東征軍の指揮力不足と、鎌倉という拠点の位置、沿道諸国の武士の挙兵、延暦寺以下の僧兵の反乱、凶作・大飢饉の影響、一方の東日本の豊作という食糧事情など、頼朝にとっては有利な条件が揃いに揃っていたのである。 いまや南関東一帯を中心にした東海道東半部諸国は頼朝の手になった。頼朝は鎌倉の主という意味で「鎌倉殿」と呼ばれるようになり、これを主君と仰ぐ新しい東国の政権が生まれようとしていた。 鎌倉殿となった頼朝には果たすべき二つの責任がある。本領安堵と新恩給与である。関東武士団が期待し願っていたのはなにより彼らの所領の安全・確実な保護と、公正な裁判であった。この要望に応えることこそ、かれらの支持を獲得する道である。東国内の職や地位の任命・罷免を行うことによって、頼朝はこの仕事を地道に進めて行く。 (Shiraha) +政治家頼朝の成長 政治家頼朝の成長 平清盛必死の立て直し策も敢無く、蜂起と反乱は全国に拡大していった。鎮静の気配はいっこうにない。一方混乱する京都を横目に、頼朝は東国の地がためを着々と進めて行った。東国武士団の連携も今のところはまだ反平氏の同盟関係に過ぎず、頼朝を完全に主君と認めたわけではない。より多くの武士を御家人として確実な権威を築くべく、内政に集中したのである。 1183年、平氏軍は北陸に勢力を張っていた木曽義仲討伐を目論むも、義仲はこれを返り討ちにし、7月には京都に迫った。平氏一族は幼帝安徳天皇と「三種の神器」を奉じて京都を去る。平家の都落ちである。 ところが荒れに荒れ果てた廃墟のような京都の地である。統率もなく寄り集まっただけの急造軍に義仲は十分な権威を振るうこともできず、法皇以下貴族たちに翻弄されつつ孤立無援のまま京に居座るだけであった。空白となった皇位には、後鳥羽天皇が即位した。 同年10月、後白河法皇からの上京を促す使者に応じて頼朝は、国衙領・荘園を国司・本所に返還することを命じる勅令発布を後白河法皇に要請する。この提案は窮境にある中央貴族の大歓迎を受けた。さっそく要請通り「東海・東山両道の国衙領・荘園の年貢は国司・本所のもとに進上せよ。もしこれに従わぬ者があれば、頼朝に連絡して命令を実行させよ」という勅令が宣旨として公布される。十月宣旨である。この功績により頼朝は朝敵の名を逃れて従五位下に復帰した。 十月宣旨は一見頼朝にとって譲歩に見える。しかし宣旨の後半部分に注目すれば、命令の実施は頼朝に一任されており、武士たちにとって当時最大の問題である土地問題の解決に必要な権限が頼朝に与えられたことが確認出来る。つまりこの宣旨によって頼朝は、以仁王の令旨と違い、源氏の中でも彼一人だけが掲げることのできる錦の御旗を手に入れたのである。 さて京の義仲はやがて自ら征夷大将軍となり独裁体制を敷いたが、所詮は内実無き孤独な独裁に過ぎず、かつてともに入京した武士たちも義仲を見放して行った。1184年1月には、義経率いる東国軍に滅ぼされることになる。 義仲を破った義経軍はさらに平氏追討の宣旨を受け、西に勢力を張っていた平氏一族を一ノ谷に破る。屋島に逃れた平家は瀬戸内海一帯の制海権を握って抵抗するが、義経はこれを壇ノ浦に追いつめ、1185年3月、ついに平氏を全滅させる。 こうして対抗勢力を弱体化させつつ、頼朝は、支配体制を整え、勢力圏の拡大を一歩一歩進め、新政権の中枢機構を着実に発展させていったのだった。 (Shiraha) +東西武士団の群像 東西武士団の群像 富士川合戦の場面で描かれる斉藤実盛の東西武士比較は、源平合戦の本質の総体を突いたものであると言うことができよう。 実盛が最初に示すのは弓と馬であり、これらは武士の象徴ともいえた。当時の合戦は馬上の一騎打ちであり、馬上での弓術が重んじられる。その点で馬術に長ける東国武士は有利である。 当時の合戦の作法は、まず軍使を取り交わして合戦の日時を決めるところから始まる。両軍が対峙すると武士たちは名乗りを上げながら馬を走らせ、敵へと矢を放つ。矢が少なくなると、太刀を用いた乱戦となった。敵をうちとる際には組み打ちとなり、馬から敵を引き落として組み合いをした。そうして敵を弱らせ、首を取るのである。 このように武士の戦いは、一騎打ちの空気が強い。だが一方で、源平合戦期とは集団合戦への移行期でもあった。 武士たちの論功行賞は、首のぶんどりが最も大きな功とされた。また、討死や手負いも功とされる。先駆けも功の一つであり、これを争う話は数多い。 東国が馬を主体とした軍であり、陸上でその威力を発揮したのに対し、西国では海上での戦が多く、船が大きな威力を持った。そのため源氏は平氏に度々苦杯をなめさせられている。 また、未開の地であり大自然の猛威が荒れ狂う東国では、人も荒々しく命を惜しまない。そのことも東国武士の力強さを表していた。 東国の武士団は血縁地縁による深い結びつきを持っており、それゆえ強固な軍団として機能した。これに対し西国武士は、あくまで令による結びつきであるために軍団として機能しにくかった。 功を示すために、鎧の色や笠印なども重要視され、それゆえに様々な色形の鎧が現れることにもなるが、これも武士の功への意欲の現れである。 またその所領を守ることには並々ならぬ意欲を持ち、中には所領争いに敗れると出家してしまった熊谷直実のようなものもいた。 頼朝の挙兵では、大武士団の協力が不可欠であったことは事実だが、同時に小武士団より支持を得られたことが大きかった。彼らの独立へのエネルギーこそが幕府形成の原動力なのである。 (Spheniscidae) +天下の草創 天下の草創 壇ノ浦で平氏が滅亡したという報は、頼朝にとって義経との決定的なわだかまりのできる要因である。また三種の神器のうちの剣を失ったのも頼朝にとってマイナスであった。 この義経の前半生については全く謎であるが、鎌倉武士から外れた辺境武士や僧兵などとの結びつきを強めた存在であり、そのことから、畿内での活動経験は想定される。 義経は一の谷後の恩賞に与かることはできず、代わりに後白河法皇より官位を授かることになった。このため頼朝より大きな怒りを買うことになる。だが、代役の範頼は平氏討伐に失敗し、半年後に義経は召喚され、彼によって平氏は滅ぼされることになる。 壇ノ浦後、義経と頼朝の対立は決定的となる。戦時から平時へと移行に際して、獲得した権益を守ろうと懸命な頼朝にとって、従わぬ者の存在は許されなかったのである。頼朝は権益保護の為に、朝廷との交渉にも必死であった。 京都に帰った義経は、院より宣旨を戴いて挙兵するが、その支持者は少なく、あっという間に離散の憂き目にあう。一方その報を受けた頼朝は軍勢を上洛させ、其の兵力を背景に義経追討宣旨の発令と、守護地頭の設置を後白河院へ飲ませたのである。 さて、この守護地頭であるが、吾妻鏡による記述には潤色がなされていることが、他の史料からわかっている。吾妻鏡の守護地頭の記述は玉葉の引き写しなのである。 守護地頭の実態については今だ定説はないが、軍事警察権をはじめとした在地の統治権を頼朝が握った物として解される。 ただし藤原氏の手にあった奥州は頼朝の完全勢力外であり、また西日本は地頭を全体に置くことはできていない。また守護という職種は存在せず、当時は総追捕使と呼ばれた。地頭の職掌は、年貢の徴収・納入であり、その結果として領主としての承認を得ることができた。 また朝廷の体制変革も要求し、それを成し遂げることもできている。 (Spheniscidae) +鎌倉幕府の新政治 鎌倉幕府の新政治 義経は頼朝の手を巧みに逃れ、全国を放浪していた。彼は孤独ではなく、比叡山延暦寺や奈良興福寺、京都鞍馬寺・仁和寺、法皇御所、前摂政藤原基通邸などを転々としながら機を待っていた。これまでのやり方が手ぬるいと悟った頼朝は各寺院に圧力をかけ、法皇を恫喝した。これによって反幕派貴族たちの行動も次第に規模が小さくなっていく。 1187年(文治三)の秋、義経が陸奥の秀衡に庇護されているという知らせが鎌倉・京都に入る。頼朝は詰問の使者を遅らせたが、秀衡はこれを黙殺。頼朝へ反旗を翻す準備を進めていた。しかし、秀衡は十月の末病魔に侵されてしまう。秀衡は義経を主君とするように遺言を残して死ぬ。頼朝は喜んだ。義経が畿内近国などの一大勢力が存在する場所ではなく、辺境の地に身を寄せていたことがわかったからである。そして後援者の秀衡ももういない。義経逮捕を口実に陸奥平泉の地に駒を進める時期がようやく到来したのである。頼朝は秀衡の後を継いだ泰衡に、義経の身柄を差し出せば恩賞を与えると告げる。これを聞いた泰衡は、迷いつつも義経の館を急襲する。義経は自害した。享年三十一である。 民衆の間で英雄義経の人気は高く、生存説をベースとした逸話が多く創られた。いわく北海道を征服した、いわくモンゴルにわたりジンギスカンとなった、などである。前者は江戸時代、後者は明治時代に世上をにぎわした。義経の根強い人気が窺える。 頼朝の奥州征伐は徹底的であった。彼は泰衡との約束を破り、義経隠匿を重罪とし泰衡を征伐。清衡以降四代に渡った奥州藤原氏がここで終焉を遂げることとなる。これにより陸奥・出羽両国は幕府の直轄地となり、日本領土の一部として緊密に結びつけられることとなる。平氏討伐から泰衡謀殺までを経て、内乱の時代は終焉を迎えた。 頼朝は内乱を治めたことで「鎌倉殿」としての自信をつけ、ついに上洛して法皇と会談する。法皇とは余人を交えず長時間政治談議をした。この十年間、相対立してきた二人の大政治家が、何を語らい、どんな取引をしたのか。今となっては知る由もない。確かなことは、頼朝が渇望していた 征夷大将軍 の地位は認められず、右近衛大将(武官の最高位)および権大納言の職に任命されただけということである。頼朝は三日でこれを辞退し、単なる王朝の侍大将にとどまらぬ意思を天下に明示した。頼朝は法皇御万歳(法皇の死)を待った。一度流罪にかけられた頼朝は「待つ」ということを知っていたのである。彼は摂政九条兼実と連携を図り、裏で静かに権力基盤を固めていく。この作戦が功を挙げ、1192年、後白河法皇は腹病をこじらせて死亡する。動乱の時代を豪運と覇気で生き抜いて来た大人物も、全ての人間が背負いし無情の宿命には敵わなかった。 法皇の死により、兼実は関白として朝廷政治の主導権を握るようになる。そして頼朝はついに念願の征夷大将軍に任命される。苦境から学んだ男が最後に勝利を勝ち取ったのである。頼朝は自らが頂点に立ち、今までばらばらであった各地の武士団を 御家人 組織として幕府の中に組み入れた。彼は偉大な指導者であり、それを傍証する多くの逸話も残されている。 頼朝は幼少において父母と別れ、敗軍の将として流罪を受け、数々の逆境を経験した。その前半生が彼を怜悧冷徹な指導者の器に育て上げたのだ。弟と協力して敵を撃ち、そしてその弟をも政治的脅威とあらば滅ぼし、さらにはそれを口実に東北の地まで制圧する。そこで功を焦らず、機を待ちつつ地盤を固め、最後には頂点に立ち国をまとめ上げる。男子の本懐とも言える功績をあげた政治家・頼朝の胸中はいかようであっただろうか。 頼朝は畿内・九州と幕府の支配力を強化する政策を取り、このまま順風満帆にことが進むかのようにみえた。しかし泰平は早くも陰りをみせることになる。「満つれば欠くる世のならい」とはよく言ったものである。 頼朝はこれまで対立してきた木曽義仲とついに和解し、その子清水義高を人質に取り、北条政子との初子である大姫の許嫁とした。ちなみに大姫は五~六歳、義高は十一歳。いかに早婚の時代といえ、流石に正常の夫婦としてはふるまっていなかっただろう。遊び友達、もしくは仲睦まじい兄妹といったところだろうか。頼朝と義仲の関係はその後破局を迎え、翌1184年(元暦元)義仲は敗死する。頼朝はかつて父義朝を殺された恨みもあり、義高の殺害を決意するが、これを聞いた女房たちが哀れに思い義高をひそかに鎌倉から脱出させる。頼朝は激怒して武士を派遣し、義高を武蔵国入間川の川原で殺害する。信愛していた少年にもう会えない。六~七歳の少女にとってそれはどんな恐怖と絶望なのだろう……大姫は暗闇の中で泣いても無駄なのでただ憂愁に沈んでいるだけだった。 頼朝もやはり人の子であり、悲しみに暮れている娘の笑顔を取り戻したいと考えたのであろう。追善供養・読経・祈願などあらゆる方法で大姫の心を癒さんと奔走した。しかし幼女が少女に成長するまでの十余年の間に、悲嘆の情はますます募っていく。幼心に抱いた自然で暖かな情愛は、少女に成長する頃には恋心までに昇華していたのだろうか。あるいは現在で言うところの鬱病の傾向を持っていたのだろうか。いずれにせよ、頼朝の手を焼かせたのは想像に難くない。 頼朝はそれでも諦めなかった。1194年(建久五)の夏、大姫が小康状態にあった折、京都から一条高能という貴族がやってくる。歳は十八。大姫との縁談にはうってつけである。しかし大姫はこれを一蹴し、再婚するぐらいなら投身自殺するとまで言ってのけた。ここまで行くと恋慕の情を通り越し、狂気の偏愛である。 その後、頼朝は誰かから一策を授かる。後鳥羽天皇ではどうかというものだ。天皇は当時十八歳、大姫は当時十六歳。年齢も近いし、玉の輿であれば流石に大姫も拒絶しないだろう。頼朝にとっても、これで京都の朝廷にも勢力を及ぼすことができるようになる…… 男を狂わすのはいつも女である。覇者たる頼朝と言えど、それは例外ではなかった。特殊だったのは、それが肉体関係のある女性ではなく、血縁関係のある子供であったということだ。この極めて人間的な誤りが、彼を徐々に蝕んでいく。 兼実の娘も後鳥羽天皇の中宮であった。頼朝はかつての盟友であった兼実を出し抜く作戦を採る。しかし我が子への愛に盲目となった頼朝は、逆に院側近の源通親から利用され、当時その所有権を否定した荘園を彼らに与えてしまった。この時期に頼朝は征夷大将軍の地位も辞している。かつ兼実から授かった地位である。兼実が頼朝の指示を失ったことが、天下に知らしめられた。通親は立て続けに兼実と頼朝を対立させるように計らった。兼実は関白職を罷免され、九条家一門は忽ち窮地に陥った。 かつての輝きを失った男に対して、運命は冷酷であった。大姫は1197年、齢二十歳にして死亡する。兼実以下の親幕府派は壊滅し、朝廷側には毟られるだけ毟られるという惨状だけが無情と共に残った。 通親はさらに追い打ちをかけるように、自らの養女の生んだ土御門天皇を即位させる。頼朝は反対であったが、もはやそれを訴える代弁者はいない。通親は天皇の外祖父、上皇の院司となり、「源博陸」(源氏の関白)と呼ばれるほどの勢力となる。 頼朝は中央貴族であった。彼もまた、名誉欲に目を曇らされてしまったのだろうか。全てを得てしまった男は、実にちっぽけな拘りで滅びてしまうのかもしれない。頼朝は翌1199年死亡する。享年五十三。全国を翻弄した彼もまた心弱き、一個の死ぬ人間であった。 (Jiyu) 後編 へ
https://w.atwiki.jp/rion0601/pages/10.html
天正18年(1590年)、徳川家康の江戸入府と同時に、良質な飲料水を得るために上水が造られたと伝えられている。家康は江戸の街づくりの第一歩として、何よりもまず飲料水の確保に目を向けたのである。 家康は、江戸入城にともない上水道の整備を大久保藤五郎に命じた。藤五郎は、小石川(現在の後楽園のあたり)の流れを利用し、この水を小さな堀割で駿河台方面へと流した。 これが、江戸の上水道の始まりであり神田上水の原型と言われている。(藤五郎はこの工事の功績により、主水の名を授かった) 徳川幕府の発展と共に、江戸の街も大きくなり、三代将軍家光の頃には、江戸は数十万の人口を抱えるようになったのに対応するため、上水設備の拡張工事が行われるようになった。当時は、いくつかの自然河川が江戸の街を流れていたが、その中で最大の河川だった井の頭池を水源とする川(つまり神田川)を利用して、神田上水が作られた(寛永六年)。 江戸への供水は、目白下関口に設けられた堰で取水して、堀割を伝って小石川の水戸屋敷へ導かれ、その後地中の導水管へと続き、現在の水道橋のあたりで掛樋となって神田川を渡り、 駿河台方面へと供水された。関口に設けられた堰は、大洗堰と呼ばれた。上水の余水は江戸川となり、船河原橋(現在の飯田橋付近)より下流は神田川と呼ばれるようになった。神田上水の工事は今でいう一大公共工事だったため、多くの人間が工事に参加した。 その中の一人には松尾芭蕉もいたと言われている。 その当時芭蕉が寝食を行った家が関口芭蕉庵として残されている。 3代家光将軍の代に大名の参勤交代制度が出来、大名や家臣が江戸にも屋敷を構えるようになる。商人や職人も争って江戸に集まり人口は急増。神田上水と赤坂溜池の清水では足りなくなってしまっていた。 承応2年(1653年)4月4日から工事に着工。羽村の取水口から四谷大木戸(現在の新宿御苑前)まで約40キロを、武蔵野台地の最も高い稜線に沿って掘り進んでいる。取水口から四谷大木戸までの標高は約92メートルで、その傾斜を利用して水が流れるよう設計してある。測量は暗闇の中で束にした線香や提灯の明かりを利用したといわれる。機械のない時代にクワやツルハシなどを使ってまったく人力で掘ったにしては、43キロもの長さをたった8ヶ月、11月15日に工事は完了した。当時の水道としては世界一の規模と言われている。 幕府は庄右衛門・清衛門兄弟に玉川の苗字を名乗ることを許し、後に2百石を与えた。 玉川上水が完成した後、世界有数の100万都市江戸の人々の暮らしを支えることができた。 多摩川の羽村の堰で取水された水が、江戸中央部へと給水を行い、神田上水は、小石川地区から神田川以南の日本橋、京橋、大手町地区に供水していた。 また、本所、青山、千川、三田の4上水が整備され江戸周辺へと給水された。 玉川上水は江戸の飲料水の貴重な水源だったが、1722年(享保7年)以降の新田開発によって多くの分水が開削され武蔵野の農地へも水を供給し農業生産にも大いに貢献していった。 こうして作られた上水道も明治の時代に入ると、水質悪化などの問題が発生し、浄水施設を持つ近代水道の必要性が求められ、明治26年に工事着工。32年に改良水道工事が完成。 神田上水は、明治34年6月30日にその使命を終えた。 玉川上水は一時廃止されたりしたが市民運動や清流復活へ向けての試みが行われ 結果、今も健在で都民の生活用水として使われている。 :玉川上水の出発点である羽村: 江戸時代では羽村・五ノ神村・川崎村の3つに分かれ、幕府が直接治める天領と数人の旗本の領地になっていた。水田は多摩川に沿った所に少しある程度で、大部分は畑だった。しかも、このあたりは多摩川が武蔵野台地を削ってつくった階段状の地形(河岸段丘)のため、水田のある所以外は水に乏しく、土もやせていて、野菜や雑穀がようやくできるといった状態だったようである。 こうした村の生活に、玉川上水ができたことで大きな変化が起こります。先に述べたとおり、玉川上水は長大な土木構築物です。特に羽村の堰には、多摩川を横切っている堰本体、二つの水門と余り水の吐き口、そして上水路の土手があり、それぞれが竹・石・木・土などを組み合わせてつくられた複雑な構造をしています。これらのどこかに少しでも不具合があると、江戸まで水が送れない。ですから日ごろのちょっとした補修はもちろん、大水の後には大掛かりな修理が必要なこともたびたびだった。また、水量の管理も大切である。刻々と変わる多摩川の水量と江戸で必要な水量を考え合わせて水門の開き具合を調節した。 こうした玉川上水の管理をするために、羽村には陣屋と呼ばれる幕府の役所が置かれ、その下で実際の仕事、作業を請け負う水番人と呼ばれる人が働いていた。水番人は日常の管理の仕事のほか、大きな修理が必要なときは、工事の内容を決めた仕様書をつくる。それをもとに陣屋が入札にかけて工事の請負人を決めた。水番人はこの入札に個人として参加することが許されていた。 大水が出て緊急の時には、羽村・五ノ神・川崎の各村はもとより近隣の村々から人が集められて応急の処置にあたった。これは幕府の命令で、夜中でも、畑が忙しくてもやらなければなりません。しかし、玉川上水で大きな修理があると、経済的に余裕のある人は入札に参加し、そうでない人も人足として働いて稼ぐことができ、村人にとってはひとつ働き口が増えたといえるだろう。幕府は年間に600両という大金を堰の管理や修理のために使っていたことが記録に残っている。 水番人をはじめ、入札に参加するような農民は、いつでも必要な資材や、人手を集められるように準備するなど、現在の土木建設業に近いような仕事をしていた。玉川上水ができて以来、羽村にはこうした人が何人も出るようになり、まわりの村とはしだいに少し違った様子を持つようになった。 http //www.kanda-gawa.com/pp005.html 参考文献:神田川逍遙~江戸の暮らしと神田上水 http //www.waterworks.metro.tokyo.jp/pp/rekisi/index.html 水道歴史館・東京都水道局 http //park5.wakwak.com/~toshkish/index_ie.html 江戸なんでも工房 http //ja.wikipedia.orgウィキペディア www.city.hamura.tokyo.jp/ 羽村市ホームページ 「雑学大江戸事情」石川英輔 講談社文庫 「玉川上水 水と緑と人間の賛歌」アサヒタウンズ編 けやき出版
https://w.atwiki.jp/jikkyoushugi/pages/67.html
「実況プレイPart1リンク」「ドラクエ実況Part1リンク」「推理実況part1リンク」などのタグをたどってまとめていきます。 実況者の方の「名前」「性別」は一部推測です。間違ってたらごめんなさい。また、全ての実況動画を網羅しているわけではありません。あらかじめご了承下さい。 ドラゴンクエスト1Part1集 ドラゴンクエスト2 悪霊の神々Part1集 ドラゴンクエスト3 そして伝説へ…Part1集 ドラゴンクエスト4 導かれし者たちPart1集 ドラゴンクエスト6 幻の大地Part1集 ドラゴンクエスト7 エデンの戦士たちPart1集 ドラゴンクエスト8 空と海と大地と呪われし姫君Part1集 ファミコン探偵倶楽部Part1集 THE 推理シリーズPart1集 タグ 実況プレイpart1リンク コメントが新しい10件 【バイオハザード RE 4】1人より2人#4【孤独】 お姫様の為に旅に出る【カエルの為に鐘は鳴る実況part1】 #1【ドラクエ9】天使と呼ばれてみました!ドラゴンクエスト9【実況】 □■イースXを初見実況プレイ part1【姉弟実況】 §【実況】ロックマンワールドをやろう Part1 帰ってきた極めて危なっかしいドンキーコング2!Dieジェスト4-1 【Fork Road】正解はどちらかしかない。究極選択の脱出ホラーゲーム 【前編】 ほぼ初見なので【高速青鬼】やってみた part1 謎の鹿ゲームを初見実況プレイ【ごく普通の鹿のゲームDEEEER Simulator】 【テラファッ●ン遼一】先輩が私の妄想にドージンする?! ~ボディータッチにご用心~ 体験版実況 前編【PC版】 タグ 女性実況part1リンク コメントが新しい10件 □■ホグワーツ・レガシーをまったり実況 part1【女性実況】 【実況2周年記念】ファミコン探偵倶楽部 消えた後継者 #1 #001【ペルソナ5R】ちょっとスタイリッシュに世直ししてくる【女性実況プレイ】 【実況】ドキドキ!!お家デートで彼ピを誘惑しちゃお♡【しようよ七海君!/前編】 【ファミレスを享受せよ】ファミレスで永遠に駄弁るやつ【初見実況】第一夜 #1【全部読み上げ!】パラノマサイトFILE23-本所七不思議実況してみました 【PS】実況プレイ@Toys Dream part1 UNDERTALEを初見実況プレイする #1 #1【StafferCaseスピンオフ】StafferReborn実況してみました 【実況】 逆転裁判蘇る逆転で遊んじゃうどー Part1 ~第一話はじまり~ タグ ゆっくり実況プレイpart1リンク コメントが新しい10件 【RTA/ゆっくり解説】カービィのエアライド シティトライアルAny% 42 24 Part1/2 【英語で】Untitled Goose game【ゆっくり実況】#1 物理とかよくわかんないゆっくり神無迷路part1 【Minecraft】 まいくら産業 part1 【MOD+ゆっくり茶番】 「7 Days to Die V1.0」新しい狂気のその先へPart1「我々は弱者」【ゆっくり実況マルチ】 【バーガーバーガー2】新装開店!ゆっくりバーガー!!part1【ゆっくり実況】 【Hoi4】ニイタカヤマノボレ!! #01【ゆっくり実況】 【ランダム縛り】ファイアーレッド【ゆっくり実況】PART1 【ゆっくり実況】 怪異症候群 #1 【FNAF Into The Pit】初見で逝く、警備しない5日間 Part1【ゆっくり実況】 タグ RPG実況part1リンク コメントが新しい10件 【サガフロ2】世界観が凄く好き!さぁ始めよう。全力で楽しむ実況【初見実況】#1 【グローランサー3】ドラマチックを駆け抜ける実況プレイ【その1】 ポケットモンスターブラック2_チャレンジモードRTA_3時間55分31秒 part1/うんこ 【FF16☆part1】FF上級者(自称)がFINAL FANTASYシリーズ1から楽しく実況プレイ♪ ロマサガ3・偉人の遺物で世界を救え!その1 □■カリギュラODを最高難易度EXTREMEで実況プレイ part1【姉弟実況】 【ネタバレが激しすぎるRPG】ネタバレがすごすぎてツッコミが止まらないゲームをやってみた!【かとりょー/Vtuber】 【百英雄伝】幻水好きがひたすら楽しむ実況 #1【実況】 【紲星あかり_蕾実況プレイ】ドルイドはお腹ペコペコ 01【Skyrim】 【モンスターメーカー 7つの秘宝】手強いファミコンゲームをやろう会_Part01 タグ アクション実況part1リンク コメントが新しい10件 基本的に拒否権が無いヒゲによる泣く泣く幽霊退治アゲイン【ルイージマンション2 HD】#1 【祝!ニコニコ復活!】超魔界村でいい大人達も再起動【実況】 「エルデンリング」フロムゲー界最強の玄人がレベル1素寒貧拳縛りでエルデンリングに挑戦する#1 祇園の龍。【龍が如く 見参!】#1 【A.I.VOICE実況】紡乃世詞音とGO GO ACKMAN #1 (Stage 1 前半) 【RTA】悪魔城ドラキュラ Any% 35分57秒 Part1/2 【実況】オバケのQ太郎 ワンワンパニックを本気で遊んでみた。part1 【ゴエモン3】がんばれゆかり?多人数でカラクリ卍固めpart1【VOICEROID実況プレイ】 お前に食べさせるタンメンはねえ!『スパルタンX』1play1周-なんてセリフはない【voiceroid実況】 (ENDER MAGNOLIA)エンダーマグノリア part1 タグクラウド 2ch系テキスト ARIA D猫殿下 Forget me not -パレット- ICO Multimedia Fusion 2 NewスーパーマリオブラザーズWii Part1集 RPGツクール Rabi Revin THE推理 U1 hsp in those days! obasan tiger tpitaru あにぃ いつもひとり かにぱん がんばれゴエモン けんじろ してくべ しんすけ せんとす ぜろた たろちん ちょい っしー教授 つわはす つわはす.ディディーコングレーシング ときめきメモリアル のべるげ のや はるしげ はーとふる彼氏 ひぐらしのなく頃に ふひきー もるひね やりこみ ゆっくり ゆとり組 りこ りーちゃん アイドルマスター アトランチスの謎 アニキ アブ アメリカ横断ウルトラクイズ イボーン キミキス キヨ クッキングママ クラッシュバンディクー クラッシュバンディクー2 クラッシュバンディクー3 クロノクロス クロノトリガー ゲーム攻略 ゲーム音楽 コラム ジャック・オ・蘭たん スネークズリベンジ スパーク スペースチャンネル5 スーパードンキーコング3 スーパーマリオ64 スーパーマリオRPG スーパーマリオサンシャイン スーパーマリオブラザーズ2 セピア ゼルダの伝説 ソニックアドベンチャー2 タカ タケシ ティタン テハフ データベース トワイライトプリンセス ドグマ風見 ドラえもん ドラゴンクエスト1 ドラゴンクエスト2 ドラゴンクエスト3 ドラゴンクエスト4 ドラゴンクエスト5 ドラゴンクエスト6 ドラゴンクエスト7 ドラゴンクエスト8 ドリームミックスTV ニコニコRPG ニコ割ゲーム ニンテンドーDS ハローキティといっしょ! ブロッククラッシュ123! ! バイオハザード ピクミン ファイナルファンタジー3 ファイナルファンタジー4 ファイナルファンタジー6 ファイナルファンタジー8 ファイナルファンタジー9 ファミコン ファミコン探偵倶楽部 フジ フリップニック ペルソナ3 ペルソナ4 マリオカート ミスピーチワールド ムク メイアン ヤス ラジオ リティナ ルカ ルーツ レトルト ロックマン 任天堂 処女はお姉さまに恋してる 単発 名探偵コナン 大乱闘スマッシュブラザーズ 大魔司教ガリウス 学校であった怖い話 宮助 幕末志士 掃除 探偵神宮寺三郎 改造マリオ 星のカービィ 最終兵器俺達 朝子 東方アレンジ 東方神霊廟 東方風神録 桃太郎電鉄 永井先生 汗だく 涼宮ハルヒの逆転 神々のトライフォース 突然!マッチョマン 紫苑 終わらざりし物語 自作ゲーム 藤原 超魔界村 金田一少年の事件簿 雪割りの花 青鬼 音楽 風来のシレン 鬼畜王マリオ
https://w.atwiki.jp/kaiseimaru/pages/54.html
相原定常(あいはらさだつね) 慶安元年(1648)-正徳四年(1714) ■プロフィール 相原定常(あいはらさだつね) 仙台藩 和算家 慶安1年(1648)-正徳4年(1714) 五左衛門、五平治、五平次と称する。 幼少より算数を好み、江戸に出て和算を中西氏に学ぶ。正徳四年七月三日に没する。新寺小路の成覚寺に葬る。 なお、相沢と記されている資料もあるが、治家記録では相原。 ■相原定常年表 慶安 元 1648 生まれる 寛文 七 1667 一両四口を賜る 延宝 六 1678 十二月六日、於御國本木村新兵衛相原五平次割屋方統取役ニ因テ各俸金給未ヲ增賜フ、石川覚兵衛行沢次左衛門割屋方本人ニ召出サレ各俸金給未ヲ增賜フ 延宝 八 1680 四月二三日 割屋統取役相原五平次木村新兵衞割屋役行沢次左右衛門石川覚兵衛ニ如定例各俸金給米加増ヲ賜フ 貞享 元 1684 六月二八日 相原五平次知行拝受ノ御礼、太刀目録献上拝謁 元禄 元 1688 十二月十七日 相原五平次正月二日発足、江志彥惣窪田権九郎差登サルニ就テ大町清九郎可奉命、 発足ノ日限ハ惣左衛門追テ可告達旨・・・右三人日光御用ヲ命セラルニ就テナリ 元禄 二 1689 二月 九日 斎藤安右衛門大内甚七郎相原五平次渡邉六兵衛奉行ノ名目無シト雖モ、 従者五人鎗一柄ノ格ニ因テ諸奉行ノ並ニ幕支度ノ義、監物伺ヒ奉リ幕用ユヘキ旨命セラル 二月十六日 (日光普請の辞令)・・・其餘伊藤六兵衛渡辺六兵衛相原五平次等ニ監物奉命。 六月 六日 奈良坂八郎兵衛本所勘定方考役命セラル、相原五平次渡辺六兵衛並ニ勤仕スヘキ旨監物奉命。 七月 七日 副役人渡邉六兵衛相原五平次モ庄内長六郎一同ニ雁儀替リニ致サスヘキヤト 七月十一日 考役渡邉六兵衛相原五平次ニ各銀子二枚賜之、内職奉命 八月十六日 佐藤平助相輸塔下卜切番所卜リ相原五平次ヲ差置ル。 十一月 十日 岡本庄内小島長六郎渡邉六兵衛相原五平次、此度御普請御仕廻以後江戸へ差登セ御勘定等ノ儀モ承合、 其以後江戸日光仙台ニ在ル役人トモ手前内勘定モ見届サスヘシト吟味仕ルノ由、鈴木長兵衛へ告達シ・・・ 十一月十六日 渡邉六兵衛相原五平次ニ各十两・・・褒賜ノ旨木工奉命。 十一月十六日 於御対面所寄場斎藤安右衛門小野権𠮷渡邉六兵衛相原五平次、於使者之間草野十助河東田孫兵衛・・・ 元禄 三 1690 六月二三日 大内甚七郎小野権吉渡辺六兵衛相原五平次奈良坂八郎兵衛各麻上下、 七月 二日 斎藤安右衛門大内甚七郎相原五平次ニ各時服一領判金一枚、小野権吉渡辺六兵衛ニ各時服一領黄金五兩 七月一〇日 ・・・御国元江罷下候、小野権𠮷相原五平次石村喜兵衛関八兵衞飯塚安・・・右ハ江戸江罷登候、七月八日。 元禄 四 1691 十二月十六日 御勘定ニ預ル輩渡辺六兵衛相原五平次已下ニ、豊前木工ヲ以テ可慎旨命セラル、依 元禄 五 1692 十一月十一日、去ル七日岡本庄内渡邉六兵衛相原五平次、日光御勘定所へ御牒持参ノ処、組頭衆石原平十郎・・・ 元禄 六 1693 一月二五日 渡邊六兵衞相原五平次加増各百石日光御勘定調済ノ賞賜ナリ 二月二五日 【伊達治家記録】 元禄 七 1694 五月廿九日 山田安兵衛へ、以使者越後縮五端鱈十枚贈遣、日光御普請御用古物拂牒相原五平次書写スニ就テナリ。 元禄 八 1695 二月廿一日 相原五平次ヲ勘定奉行同列ニ命セラル 五月 九日 列勘定奉行同格ノ御礼相原五平次各太刀馬代百疋献上拝謁在所ヘ入セラル 五月十一日 ・・・伊藤作大夫大田権右衛門相原五平次能拝見於連歌ノ間料料二汁五飣 元禄 九 1696 一月 一日 勘定奉行相原五平次定俊・・・ 二月十三日 相原五平次ニ三浦権左衛門代勘定奉行仮役ニ命セラル 二月廿九日 三浦権左衛門義通在京相原五平次鈴木弥左衛門直行佐藤文右衛門成允 三月 九日 三浦権左衞門左京相原五平次石母田市之允 五月二七日 相原五平次龍筒﨑奉行金奉行津奉行御腰物奉行下大所役人 七月二六日 戸板市郎兵衛嫡子十太郎病次男次郎吉ヲ嗣子ニ成賜フ 十一月 十日 戸板市郎兵衛子次郎吉・・・各並居始テ御礼太刀馬代百疋献上 十二月廿一日 相原五平次割奉行作事奉行京都弟留守居勘定奉行龍箇崎奉行金奉行津奉行相去足軽頭評定所役人 元禄 十 1697 六月十三日 於御座間金須兵太郎、出入司方御用取次勤ヘシ、列郡司ノ上ニ進ラレ、御用方取次免許ノ旨命セラル。次ニ大槻権内、兵太郎代り御用方取次命セラル、次ニ相原五平次兵太郎ニ指続キ動へシ、近習見習ノタメ御次ニ詰居へキ由命セラル 七月十五日 伊兵衛佐賀市即左衞門相原五平次大島新平 八月十五日 今宵月見ノ宴ニ因テ、父君へ御慰ニ塗重一折御進上使者相原五平次、北御方へ塗重錠口ヨリ贈せラル。 九月二八日 御出ノ節於所々例月ノ御礼、父君へ當日ヲ賀せラル使者相原五平次 十月廿一日 相原五平次、勘定奉行命セラレ列知行割奉行ノ上ニ命セラル、 十月廿二日 於伺公間、相原五平次勘定奉行命セラル御礼各太刀馬代百疋献上。 十月廿八日 中条五郎助自津七郎兵衛相原五平次吉住五兵衞大嶋新平佐藤文右衛内濱田半九郎遠慮各四人 十二月廿一日、勘定奉行になる 【伊達治家記録】 元禄十一年 1698 一月廿四日 金須兵太郎相原五平次留守火消南方田邉喜石衙門西方油井茂兵衛・・・ 六月廿一日 相原五平次養子ニ小原清之丞 九月十四日 賄奉行相原五平次各命せラル 元禄十三年 1700 五月一日 古内孫十郎相原五平次参上、元禄八年穀舩破損濡米八丈島へ渡置ク・・・ 元禄十四年 1701 八月十二日 白石勘觧由相原五平次定俊、各去年蓑作殿買懸り金償フ義、同役ニモ議セス鹿抹ナル状ニ因テ閉門命セラル旨、於仙台奉命ノ由上達 十月十六日 白石勘觧由相原五平次閉門免許 正徳 四 1714 七月三日 没。67才。 ■師弟関係 ┌首藤孫左衛門 │ 元禄十四年五月十五日免許 ├石川理兵衛信安(1668-1741) │ 勘定所統取主立・勘定奉行 中西正則──相原定常──┼吉田正兵衛( -1701) (1648-1714) │延宝三年家を継ぎ元禄元年没ヵ ├半沢 某 ┌─安達彦助 │ │ └天野茂平治─┴─菅野長三郎(片倉家家中) (江志知辰と共に潜穴の測量)
https://w.atwiki.jp/hgsscn/pages/65.html
1.叉耳朵皮丘 此剧情请携带09年剧场版预约卷兑换的闪光皮丘触发。 携带闪光皮丘并放在队伍的第一位至ウバメのもり桐树林的神社处调查神社,叉耳朵皮丘就会从里面出来,并且和闪光皮丘成为好朋友,加入你的队伍一起旅行,前提是你身上有一个空位,没有的话也可以触发剧情,可以以后再去拿。另外还可以听到看守桐树林的老人讲一些有关拥有穿越时间能力的精灵传说。 叉耳朵皮丘以下属性固定 性格:やんちゃ 性别:母 携带道具:いかずちプレート 不可进化、不可通讯交换 2.炎帝 雷皇 剧情到圆珠市解开烧焦塔的封印后,就可以在城都地区随机遇到它们了,40级,和以前一样还是见面就跑。如果在战斗中打到他们,可以挑战一次四天王,之后他们即会复活,依然全城都地图移动。 3.水君 同炎帝和雷皇不同,水君在解开封印后会按顺序固定出现在以下地方,每次见到后都会触发事件逃跑,在最后的地方才会和你战斗,40级。因为前3次推剧情肯定会遇到,所以这里就只给出最后2次地点的截图了。 第一次:タンバシティ湛蓝市上面的海滩。 第二次:42号道路中段靠下。 第三次:枯叶市,出港的时候在岸边。 第四次:14号道路右侧水中,有一堆风力发电机那附近。 第五次:25号道路正辉家边上。 如果在战斗中打到他,可以挑战一次四天王,之后他即会复活,地点固定在烧焦塔地下。 3.三大空间神兽的诞生 此剧情请携带09年剧场版赠送的阿尔塞罗斯(720)并在升级完全国图鉴后触发 携带阿尔塞罗斯到アルフのいせき阿鲁夫遗迹的一所民家,可以触发剧情。考古学家会带着主角和草泥马一起进入遗迹,就在考古学家研究壁画的时候,主角被传送到了一奇怪的空间。出门一看居然来到了城都地区最北方的シントいせき新都遗迹,进入登山者小屋的门一看居然是新奥地区的冠军白菜姐姐,跟着白菜姐姐回遗迹,白菜姐姐说想举行仪式只能携带草泥马一只精灵,回去小屋把其他精灵存起来再回去。仪式只能诞生一只空间神兽,白菜姐姐会让你选择是右下法阵的帕路基亚或者左下法阵的迪亚路加或者上方法阵的奇拉蒂娜,精彩的剧情动画之后就可以得到你选择的空间神兽了,只有1级。剧情结束后自动传回阿鲁夫遗迹。 注:由于奇拉蒂娜的变身道具白金玉无法传送,所以想在金心银魂内获得白金玉就只有在此选择奇拉蒂娜才可以拿到。 4.水都兄妹 此剧情需要在关东地区触发 剧情进行到给山吹市的小妹妹找车票时,从最喜欢口袋妖怪俱乐部要了娃娃出门时会遇到方缘地区的冠军大吾,他会给主角看水都的照片,金心为红水都,银魂为蓝水都,并告诉主角水都目前正出没在关东地区。这之后水都就在关东地区随地乱跑了,35级,见面就跑。如果在战斗中打到他们,可以挑战一次四天王,之后他们即会复活,依然全关东地图移动。 5.另一只神鸟 此剧情需要在关东地区触发 在关东的ニビシティ尼比市右侧出口的高地上可以找到一位老人,他会给你银色羽毛。(银魂版是七色羽毛)带着这个羽毛去漩涡列岛(铃塔)就可以让看门的和尚让路,进去到瀑布深处(塔顶)和路基亚(凤凰)战斗。这次可以直接在里面找到神鸟,而不像剧情那样需要去圆珠市舞场触发剧情。 6.红绿版三主角 此剧情需要击败小智后触发 击败小智后回到真新镇找大木博士,他会送给你小火龙、秒娃种子、杰尼龟三只中任选一只作为礼物,身上要留一个空位。 7.宝石三主角 此剧情需要击败小智后触发 击败小智后前往关东地区的山吹市,在西路夫公司右上角的柜台可以见到方缘地区的冠军大吾先生。他和以前一样还是个石头控,会拿出三块美丽的石头让你挑选。如果你身上有空位的话,他会根据你选择的石头颜色不同,会送给你木守宫,火雉鸡,水跃鱼其中一只。对应关系为:“みどりのいし绿色石头”木守宫,“あかいいし红石头”火稚鸡,“あおいいし蓝石头”水跃鱼。 8.三圣鸟 此剧情需要获得全部16枚徽章后触发 三圣鸟均为50级。 1)闪电鸟 闪电鸟会被抢占发电站的工作人员赶出了家门,只好站在发电站门口。 2)冰冻鸟 冰冻鸟还宅在双子岛,从右下入口处进去比较快。 3)火焰鸟 火焰鸟从冠军路搬家到白银山去住了,稍微难找一点。 9.超梦 此剧情需要击败小智后触发 击败小智后,ハナダシティ华兰市左边水中的洞穴看门人会消失,进入内部深处,70级的超梦就在里面等着你。 10.海皇牙 古拉顿 此剧情需要完成并领取6剧情的关东三主角后触发 在30号道路可以找到口袋妖怪爷爷的家(就是上来拿图鉴的小屋),他会告诉你收到了大木博士的信,并交给你一块宝玉,金心是あいいろのたま蓝色宝玉,银魂则是にじいろのたま虹色宝玉。携带这2块宝玉去湛蓝市穿过洞穴抵达47号道路,路上会遇到四岛馆主,他会告诉你利用攀岩可以抵达一个洞窟,在那里就可以见到海皇牙或古拉顿了。 11.裂空座 此剧情需要完成10剧情后触发 将10剧情获得的海皇牙和古拉顿传至同一卡带内,之后携带它们去真新镇找大木博士,可以获得もえぎいろのたま绿色宝玉(新葱色宝玉)。带着绿色宝玉去47号道路同样的地点就可以找到裂空座了,注意从宝石传来的海皇牙和古拉顿无法触发此剧情,必须使用在金心银魂版本所捕获的。
https://w.atwiki.jp/sysd/pages/3538.html
エイチワン 本店:さいたま市大宮区桜木町一丁目11番地5 【商号履歴】 株式会社エイチワン(2006年4月1日~) 株式会社ヒラタ(1990年1月~2006年4月1日) 平田プレス工業株式会社(1953年7月~1990年1月) 平田工業株式会社(1939年4月23日~1953年7月) 【株式上場履歴】 <東証1部>2017年3月6日~ <東証2部>2016年6月16日~2017年3月5日(1部指定) <東証JASDAQ>2013年7月16日~2016年6月15日(2部指定) <大証JASDAQ>2010年4月1日~2013年7月15日(東証に統合) <ジャスダック>2004年12月13日~2010年4月1日(取引所閉鎖) <店頭>1994年9月2日~2004年12月12日(店頭登録制度廃止) 【合併履歴】 2006年4月1日 株式会社本郷 【沿革】 昭和14年4月 東京都本所区に金属プレス製品の生産を目的として平田工業株式会社を設立 昭和18年8月 元陸海軍監理指定工場として、軍事用マスク金属部品等を生産 昭和20年11月 本社を東京都足立区に移転 昭和27年8月 本田技研工業㈱向けのオートバイ、スクーター部品の生産を開始 昭和28年7月 商号を平田プレス工業株式会社に変更 昭和29年2月 航空機用クランプ類の生産を開始 昭和32年3月 クランプ類が防衛庁認定品に登録され、防衛庁、航空・陸上・海上自衛隊との直接取引を開始 昭和35年3月 航空機用ジェットエンジンの各種精密板金プレス部品の生産を開始 昭和36年10月 埼玉県北足立郡戸田町大字下笹目にプレス板金製品・機械加工部品の製造販売を目的として株式会社本郷製作所を設立 昭和36年11月 群馬県前橋市に前橋製作所を設置 昭和38年9月 三重県亀山市に亀山製作所を設置 昭和41年5月 防衛庁の副契約会社として、20㎜弾薬用リンクベルトの量産を開始 昭和42年6月 本田技研工業㈱からドアー、ホイールアーチ、バックプレート、リヤースカート、フロントバルクヘッド、インストルメントパネルなどの部品を受注し、本格的な四輪自動車部品の量産を開始 昭和42年6月 ㈱本郷製作所において、本田技研工業㈱から、初めて量産自動車(軽360)のボンネットスティフナー等の部品を受注し、自動車部品の本格的な量産を開始 昭和43年5月 ㈱本郷製作所において、三重県鈴鹿市国府町に鈴鹿営業所を開設し、本田技研工業㈱鈴鹿工場に対する営業活動を開始 昭和46年4月 ㈱本郷製作所において、福島県郡山市喜久田町に郡山事業所を設置し、本田技研工業㈱向けに四輪自動車部品の本格的生産を開始 昭和59年5月 当社及び㈱本郷製作所がアメリカ合衆国オハイオ州の自動車部品の製造販売を目的とするケー・ティ・エイチ・パーツインダストリーズ・インコーポレーテッド(現、連結子会社)設立に資本参加 平成2年1月 商号を株式会社ヒラタに変更 平成2年10月 ㈱本郷製作所において、栃木県芳賀郡芳賀町の芳賀工業団地内に、本田技研工業㈱との製品設計の共同開発を目的として栃木開発技術センターを開設 平成3年1月 ㈱本郷製作所において、商号を株式会社本郷に変更 平成4年3月 ㈱本郷において、栃木県那須郡烏山町に烏山事業所を設置し、栃木開発技術センターを移転統合 平成6年5月 ㈱本郷において、営業活動体制の整備の一環として、鈴鹿営業所を廃止 平成6年9月 日本証券業協会に株式を店頭登録 平成6年9月 タイ王国アユタヤ県の自動車部品等の製造販売を目的とするヒラタ・パーツ(タイランド)カンパニー・リミテッド(現、連結子会社)設立に資本参加 平成8年2月 当社、㈱本郷及びケー・ティ・エイチ・パーツインダストリーズ・インコーポレーテッドの共同出資により、アメリカ合衆国オハイオ州に自動車部品の製造販売を目的とするカライダ・マニュファクチャリング・インコーポレーテッド(現、連結子会社)を設立 平成9年5月 当社、㈱本郷及びケー・ティ・エイチ・パーツインダストリーズ・インコーポレーテッドの共同出資により、カナダ オンタリオ州に自動車部品の製造販売を目的とするケー・ティ・エイチ・シェルバーン・マニュファクチュアリング・インコーポレーテッド(現、連結子会社)を設立 平成9年7月 栃木県芳賀郡に技術情報センターを設置 平成9年12月 ㈱本郷において、インド国ニューデリーに現地資本との共同出資により、自動車部品の製造販売を目的として、連結子会社ホンゴウ・インディア・プライベート・リミテッドを設立 平成10年2月 群馬県前橋市に金型技術センターを設置 平成11年7月 ㈱本郷において、アメリカ合衆国オハイオ州に同社100%出資により、ダイナミック・ソリュージョンズ・マニュファクチャリング・リミテッド・ライアビリティ・カンパニーの持株会社として連結子会社ホンゴウ・アメリカ・コーポレーションを設立 平成11年7月 ㈱本郷において、アメリカ合衆国オハイオ州に㈱富士テクニカとの2社合弁でプレス金型・プレス製品の製造販売及びエンジニアリングサービスを目的として、ダイナミック・ソリューションズ・マニュファクチャリング・リミテッド・ライアビリティ・カンパニーを設立 平成12年6月 当社、㈱本郷及びケー・ティ・エイチ・パーツインダストリーズ・インコーポレーテッドの共同出資により、アメリカ合衆国アラバマ州に自動車部品の製造販売を目的とするケー・ティ・エイチ・リーズバーグ・プロダクツ・リミテッド・ライアビリティ・カンパニー(現、連結子会社)を設立 平成12年6月 ㈱本郷において、日本証券業協会に株式を店頭公開 平成13年7月 イギリス コベントリーの自動車部品の製造販売を目的とするユー ワイ ティ リミテッドに資本参加 平成13年11月 技術情報センターを栃木研究開発センターに改称し、新建屋を栃木県芳賀郡に建設 平成14年1月 当社及び㈱本郷が中華人民共和国 広東省の自動車部品の製造販売を目的とする広州愛機汽車配件有限公司(現、連結子会社)設立に資本参加 平成16年10月 ユー ワイ ティ リミテッド(現、持分法適用会社)の増資に参加 平成16年12月 当社及び㈱本郷が日本証券業協会への店頭登録を取消し、ジャスダック証券取引所に上場 平成17年2月 当社及び㈱本郷が中華人民共和国 広東省の自動車部品の製造販売を目的とする清遠愛機汽車配件有限公司(現、連結子会社)設立に資本参加 平成17年2月 当社及び㈱本郷が中華人民共和国 湖北省の自動車部品の製造販売を目的とする武漢愛機汽車配件有限公司(現、連結子会社)設立に資本参加 平成17年9月 当社及び㈱本郷が平成18年4月1日付で合併することで基本合意 平成17年10月 ㈱本郷において、グループ戦略見直しのため、連結子会社ホンゴウ・アメリカ・コーポレーションが保有するダイナミック・ソリューションズ・マニュファクチャリング・リミテッド・ライアビリティ・カンパニーの全株式を売却 平成17年11月 イギリス コベントリーの建物・土地の賃貸借を目的とするヒラタ ヤチヨ リーシング リミテッド設立に資本参加 平成17年11月 タイ王国スパンブリ県の自動車部品の製造販売を目的とするシー・エヌ・シー・ディーテックス・カンパニー・リミテッド設立に資本参加 平成17年11月 ㈱本郷と合併契約書を締結 平成17年12月 ㈱本郷との合併契約書が臨時株主総会(12月16日)において承認 平成18年4月 ㈱本郷と合併し、同社の資産、負債及び権利義務の一切を引き継ぐ 平成18年4月 商号を株式会社エイチワンに変更 平成18年4月 本社を埼玉県さいたま市に移転
https://w.atwiki.jp/platinumbeads/pages/46.html
<天神のとなり>の登場人物 池田(イケダ) 久栄興行の息がかかっている法律事務所の社員 板長(イタチョウ) 錦糸町にある寿司屋の板長。鏑木とは顔見知り 二十代のころはヤクザで、傷害で一年ほど世間から離れたあと足を洗った 今井大五郎(イマイダイゴロウ) 京二の店のアルバイト まじめだが世渡りは下手。胃潰瘍を患っている (=柳) 内村(ウチムラ) 室戸組を裏切り、シノギのネタを持って東京へ逃げてきた エイコ目当てに『マイガール』に通う (本名:山村正利) 宇野ユズル(ウノユズル) 柳田内科が契約している介護ビジネス会社からの派遣介護士 妻子と別居中 王明江(オウアキエ) 柴又にある『ピンクパンサー』という小さなスナックのママ 柳の幼馴染 郭行博(カクユキヒロ) 8年前に、千葉市内の飲食店『万雷軒』に強盗に入った4人組の一人。台湾人 体重が100キロ近くある巨漢 九州から東京に来るので鏑木が駅まで迎えに行く 桂川昌喜(かつらがわまさき) 室戸組の末息子、政略結婚させられそうになり高知から逃げてきた デビュー前の涼子と付き合っていた 門倉(カドクラ) 8年前に、千葉市内の飲食店『万雷軒』に強盗に入った4人組の一人。捕まっていない 金村(カネムラ) 松重の前のマネージャー 三千万くすねた。不慮の事故で亡くなる 川崎カワサキ 三浦と一緒に挙げられた男 怪しげな健康食品販売会社「爽界」の開発部長 君塚(キミヅカ) 鏑木が大学に勤務していたころ、工学部の研究室に研究生で籍を置いていた 中央官庁に勤務していたが、企業との癒着を取り沙汰され依願退職。現在は海洋資源開発関係の下請け会社に勤務 ジーナ ブラジル人。マイガールで働いている松重の女 以前は金村の女だった 島川(シマカワ) 白樺の舎弟。十年近く前に鶯谷でポン引きをやってたころ白樺に拾い上げられた 荒川の水辺公園で乗用車のトランクから死体で発見される ジュン 上野のキャバクラに勤めるホステス 青木の愛人 紹一芳(ショウガズヨシ) 日本国籍を持つ台湾員のチンピラ。新生墨田と山村の間で動いていた 錦糸町駅近くで車中から死体で放り出される 竹地(タケチ) 万雷軒の前の経営者。現在は北千住でマッサージ店「バラクーダ」をやっている 新生墨田連合の藤波派 田中こずえ(タナカコズエ) 小岩の風俗店に勤めている女、山村を捜しに来た男たちに殴られ、相米医院に入院 中村(ナカムラ) 山村の件で昌喜が鏑木に教えてくれた男。品川で湾岸関係の派遣業をやっている 春木賀代子(ハルキカヨコ) 義則の妻、夫とは17歳差。歳のわりにあか抜けている 旧姓 金賀代子 春木義則(ハルキヨシノリ) 墨田連合の戦争後に隠居、先代に可愛がられていた ここ数年は療養生活、入院先の柳田内科で刺殺される 藤波(フジナミ) 新生墨田連合の組長、先代の娘婿 堀(ホリ) 鏑木が光西部連合の話を聞きに行った、吉原にある『花園』というソープのマネージャー〇 牧(マキ) ガルーダの子会社であるゲーム機レンタル会社の社長 天藤会の末端の組員 マコト 島川の事務所で働いている 牧と繋がっている 松重良文(マツシゲヨシフミ) 一年前から亀戸にあるヘルス「マイガール」のマネージャー 亀戸天神近くの繁華街で射殺された まゆこ 秋葉のメイド・カフェのメイド。子供っぽい恰好と仕草だが年齢はそれなりに食ってそう 青木の愛人 三浦(ミウラ) クラモト建設の幹部。白樺にとっては兄貴分。数年前に企業恐喝で挙げられた 出所してからは天藤会の系列会社で経営コンサルタント 美奈子(ミナコ) 涼子のあとのガルーダの秘書、30歳は超えているが、元ダンサーだけあってプロポーションはなかなか 一般的な美人ではないが、妙な色気がある 室井(ムロイ) 8年前に、千葉市内の飲食店『万雷軒』に強盗に入った4人組強盗の主犯、捕まってない 柳田正治(ヤナギダマサハル) 西日暮里にある柳田内科の医師。春木義則の主治医 ギャンブルで数千万の借金を抱え、病院の薬を横流ししてクビになったところを白樺が拾った 柳(リュウ) 8年前に、千葉市内の飲食店『万雷軒』に強盗に入った4人組の一人 悪い人間ではないが、意思が弱く周りに影響されやすい (=今井大五郎) <塔の下>の登場人物 池田(イケダ) 天藤会お抱えの弁護士 磯吉(イソキチ 志の乃屋の芸妓 加藤(カトウ) 畠の後釜。白樺が使えるやつか見極めてこいと鏑木が大阪へ会いに行く 可奈子(カナコ) スナック夜桜のママ 烏山(カラスヤマ) 両国、錦糸町、亀戸にいくつも物件を持っている金持ちのおじいちゃん、98歳 エイコを贔屓に夜桜へ通う カリート・八代(カリート・ヤシロ) 「TEN」の社長 表向きは音楽レーベルだが、裏で汚れた金の洗浄も引き受けていた 北原(キタハラ) 久栄の若手幹部 木下(キノシタ) 緑和の課長 邦江(クニエ) 場末のクラブのホステス。閔の元妻 熊木(クマキ) ガルーダの古株 シオン 千束にある「ルナティック」のホスト デイジーに借金があり、佳枝に近づいて志乃の屋の様子を探っていた 志乃香(シノカ) 志の乃屋の女将。元芸者の70近いばあさん 先代の墨田連合の会長の世話になっていた 清水(シミズ) 畠の仕事を手伝っていた気の弱そうな男 京二の父親 鈴川速司(スズカワサクジ) 閔の小学校時代の友人。父親は服役中 志乃の屋の女将の甥。架空の投資詐欺の実行犯 高橋(タカハシ) 勾留中の山下に会うため、白樺が用意した大物弁護士 チョウ 偽造のプロ 津村(ツムラ) 本所署の悪徳警官。磯吉の愛人 白樺が警察内部の情報を手に入れるために小遣いを渡している 土岐里(トキノサト) 烏山に投資話をしつこく持ち掛ける 富永(トミナガ) 「トミナガ・プレス」というプラスチック加工会社の社長 パトリシアとプライベートでも付き合いがあった 中村(ナカムラ) 南千住で「ホテル キタ」をやっている60過ぎの特徴のない男 久垣の鉄砲玉の一人だった 畠良作(ハタリョウサク) 人材派遣会社「緑和」の社長。天藤会の盃を受けた構成員 16歳の少女へのわいせつ行為で逮捕される パトリシア 亀戸近くのロシア・パブ「シベリアンハスキー」の従業員 畠の愛人 浜田(ハマダ) ミエに入れあげ渋谷のキャバクラに通っていた鳶職人 布木尾(フキオ) 「夜桜」のバーテン兼用心棒、相撲部屋の出身 マルさん 隅田川沿いのホームレス ミエ 藤波の愛人 ガルーダの元秘書 三上(ミカミ) 天藤会の本社から来た吉井の後釜 三又(ミツマタ) 楓会のトップ、天藤会一の武闘派 指名手配中 閔健徳(ミンケントク) 荒川区出身の在日三世。久栄の幹部、北原の舎弟 モク 神南の雑居ビルで「卵の店」というレストランのコック 5年前までガルーダで使いっパシリをしていた在日韓国人 柳口(ヤナギグチ) 飯田橋でレンタル屋をやっている富永の悪友 山本圭太(ヤマモトケイタ) 2年前まで墨田連合の傘下にいた ユチョン 夜桜のバーテン。布木尾の後釜 韓流スターのようなハンサム 佳枝(ヨシエ) 志の乃屋で見習い芸者 河野と日下 架空の投資話を餌に金を集めていた (河野=閔健徳)(日下=鈴川速司)
https://w.atwiki.jp/kaiseimaru/pages/324.html
年表 寛永一一 1634 真説、「長曆」刊行 寺町誓願寺前(京都) 西村又左衛門 寛永一二 1635 洛下回生菴可敬叟玄璞、「新刊素問入式運気論奥 3巻」刊行 寛永一九 1642 今村知商「日月会合算法」 「天地万物造化論」刊行 (宋)魯齋/王/栢 撰 廬陵/周/顒 註 田原/仁左衛門〈京都〉,寛永19(1642) 寛永二〇 1643 岡野井玄貞、朝鮮の人容螺山に就いて天文のことを質する(春海先生実記) 正保 元 1644 「宣明曆」刊行 出版元等不明 正保 二 1645 「倭漢皇統編年合運図」刊行 円智(日性) 著 吉田光由 補 正保 三 1646 林吉左衛門長崎に刑死、門人、小林義信禁錮(長崎年表) 正保 四 1647 参府和蘭商館員バイレン、井上筑後守の家臣に天文学を伝う(出嶋蘭館日誌) 慶安 元 1648 樋口権右衛門(小林義信)、規矩元法を唱う 吉田光由、古曆便覧刊行 慶安 三 沢野忠庵(クリストヴァン・フェレイラ)没する。五二歳? 承応 二 1653 先天図刊行 明曆 二 1656 渋川(初の保井、元禄十五年、渋川之改姓)春海、岡野井玄貞・松井順承に曆学を学ぶ 万治 元 1658 榎並和澄、曆学正蒙刊行 万治 二 1659 渋川春海、中国及四国各地の北極出地度を測り、時差を考え、食の食分の多少を明にす(春海先生実記) 乾坤弁説石(同書、向井玄松序) 寬文 三 1663 安藤有益、長慶宜明曆算法刊行 寛文 四 1664 参府和蘭商館長、昇降図二枚献上(塩尻) 寛文 七 1667 小林義信、禁錮を解かれる(先民伝) 小野昌碩歿(先民伝) 渋川春海、保科正之と曆事を談ず(春海先生実記、年譜) 寛文 九 1669 天原発微刊行 寛文一〇 1670 渋川春海、天象列次之図刊行 渋川春海、春秋杜曆考刊行 渋川春海、地球儀用地図毫作不 渋川春海、渾天儀製作、新製渾天儀七命名(春海実記、年譜) 宗禅十重算日取文珠押利卷刊行 寛文一一 1671 渋川春海、書詩礼曆考刊行 寛文一二 1672 授時曆經曆刊行 渋川春海、この年の七曜暦を作る 七十二候刊行 この頃星野実宣、運気六十年図刊行 延宝 元 1673 渋川春海、上表(春海実記) 吉村長藏歿(先民伝) 小川正意、「新勘授時暦経及同立成」 延宝 四 1676 安藤有益、「再考長慶宣明曆算法」 渋川春海、「日本書紀曆考」 延宝 五 1677 渋川春海、「天文分野図」 渋川春海、「日本長曆」 向井元升歿、年六九(先民伝) 延宝 六 1678 太極図説刊行 延宝 八 1680 閔孝和、「授時発明」 安藤有益、「東鑑曆算改補」 沙門焉求、「宿曜経」 天和 元 1681 長曆刊行 奥田有益、新編算数記著力L、宜明曆書至附 天和 二 1682 簠簋解大全刊行 天和 三 1683 渋川春海、上表して、宣明暦を廃し大和暦法を採用せんことを朝廷に請う、成らず(春海実記) 領曆、十一月日食を註す。小林義信その誤を予言す(先民伝) 小林義信歿、年八三(十一月二十四日)、二儀略説の著あり 山本洞雲、「礼紀月令諺解」 貞享 貞享 元 1684 三月改暦、大統暦を行う。春海上表して然るべかざるを言う(春海実記) 春海、京都梅小路にて安倍泰福と共に天体観測に従事す(春海実記) 十月、朝廷、大和暦を嘉納、貞享暦と命名す(春海実記) 渋川春海、初めて天文方に補せらる。天文方の始なり(天文方代々記)(徳川実記) 暦仮名抄刊行 貞享 二 1685 薩藩、仁礼吉右衛門・本田親貞に貞享暦及び推歩法を学ばしめ、これを藩内に行う。(鹿児島県史) 中根元圭、「古驛便覧」刊行 西川如見、「教童暦談」刊行 「增益暦之抄大成」刊行 貞享 三 1686 渋川春海、勅により上洛、幸徳井官内に暦法を指南(天文方代々記) 渋川春海貞享暦書、日本長暦朝廷に献ず(春海実記) 春海、本朝七十二候を制定 東方朔秘伝置文 貞享 四 1687 安藤有益、「本朝統暦」刊行(同書序跋) 貝原好古、「日本歲時記」刊行 元禄 元 1688 蘆草碩歿、年四二 (先民伝) 元禄 二 1689 渋川春海、天文台を本所二ツ目に築ㄑ(天文方代々記) 小泉光保 「願書長暦」刊行 井口の門人とある。 井口常範 「天文解」刊行 京都の人。後に江戸で水戸藩に仕える。 元禄 三 1690 小泉光保、簋日用大成刊行 元禄 五 1692 苗村丈伯、重訂古暦便覧備考刊行 元禄 七 1694 門化石(秦山集) 谷秦山、渋川春海 天文精義中星刊行 元禄 八 1695 谷秦山、安倍家永貞享暦伝授在受ㄑ(秦山譜) 元禄 一〇年 1697 渋川春海、江戸城中で日食観測(天文方代々記) 井口常範 「授時暦図解」 関孝和 「四余算法」 関孝和 「宿曜算法」 安藤有益 「先代旧事本紀暦考」 春秋春王正月考刊行 元禄一一年 1698 渋川春海 「天文瓊統成る」 元禄一二年 1699 渋川昔尹 「天文成象刊行」 今井氏、「日月行道区私語鈔」刊行 元禄一三年 庚辰 沙門宥範、俱舍論世間品日月行道图解刊行 元禄一六年癸未 渋川家の天文台を本所二ツ目先より駿河台へ移す(天文方代々記) 小泉光保、「授時暦経図解」刊行 宝永 元 1704 岡本為竹、「素問入式運氣論奥諺解」刊行 宝永 三 1706 馬場信武、「初学天文指南」刊行 宝永 六 1709 遠藤盛俊、「昼夜長短之図」及び「二十四気七十二候」刊行 宝永 七 1710 児島正長、「秉燭或問珍」刊行(後、天地或問珍改題) 正徳 元 1711 渋川春海、天文方の職を退き、男昔尹嗣ぐ(天文方代々記) 亀谷和竹、「授時暦経諺解」刊行(同書序) 正徳 二 1712 西川如見、「天文義論」刊行(同書序) 正徳 四 1714 西川如見 「教童暦談」刊行(再刊) 中根元圭 「皇和通暦」刊行 林正廷 「授時暦図解発揮」刊行 中根の門人 葛西重矩 「天文秘抄」 蜂屋可敬序 遠藤盛俊 「天地儀解」 正徳 五 1715 渋川昔尹歿、年三三(四月四日)弟敬尹嗣ぐ(天文方代々記) 渋川春海歿、年七七(十月六日) (天文方代々記) 尾田玄古(馬場信武と同人)、「諸説弁断」刊行 「運気日用晴雨便覧」刊行 享保 享保 元 1716 德川吉宗、建部賢弘及び中根元圭を召して曆法を問う(徳川実記) 猪飼豊次郎・渋川敬尹、曆作手伝拝命(天文方代々記) 尾田玄古、天文図説刊行(下卷は翌年) 小泉光保、授時曆口訣成 小泉光保、撰日教要録刊行 享保 二 1717 徳川吉宗、参府和蘭商館長にアストロラビウムを示して天文の事を問う(出嶋蘭館日誌) 長崎奉行、アストロラビウムを出嶋に送り、その使用法を問う(出嶋蘭館日誌) 小泉光保、循環曆刊行 沙門寿岳、簠簋袖裏集婕径刊行 尾田玄古、書経集伝天度弁刊行 享保 三 1718 参府和蘭商館長、天上の質問を受く(出嶋蘭館日誌) 幕府令して暦本の私製板行を禁ず (享保集成) (徳川実記) 谷山歿、年五六(六月晦) (秦山先生小伝) 小泉光保篇秘決伝刊行 享保 四 1719 西川如見、天文御用として江戸に召さる(先民伝、徳川実記) 参府和蘭商館長、天文学者二名の訪問を受け、質疑あり(出嶋蘭館日誌) 西川如見、十二宮歌抄刊行 西川如見、天文教導倭歌(序) 田中允沢 三才或問刊行 小泉光保 袖鑑撰日枢要記刊行 享保 五 1720 徳川吉宗、禁書の令を緩む(好書故事) 建部賢弘、 天文数学に就き数年吉宗の顧問に預るを以て賞を賜う(徳川実記) 西川如見、書暦象俗解刊行 源慶安、本朝天文刊行 享保の初年 徳川吉宗、雨量を測定せしむ(徳川実記) 享保 六 1721 入間川重恒、日刻或問成る 猪飼豊次郎、渋川敬尹、再び暦作手伝を命ぜらる(天文方代々記) 享保 七 1722 朝岡春睡、指頭暦算成る 幕府、和蘭商館に望遠鏡を注文す(出嶋蘭館日誌) 建部賢弘、辰刻愚考成る 享保 九 1723 西川如見歿、年七七(九月)(先民伝) 享保一〇 1724 大島芝蘭、推新暦経剪定朔之一例成る 建部賢弘、諸国地図を製せしにより賞を賜う(徳川実記) 享保一一 1725 暦算全書舶載、 徳川吉宗、 中根元圭をして調訳せしむ (好書故事、徳川実記) 渋川敬尹、年三一(四月十日) (天文方代々記) 西川如見、運気指南後編刊行 享保一二 1727 建部賢弘、江戸近郊測量の事により賞を賜う(徳川実記) 徳川吉宗、参府和蘭商館長の時計を見ん事を求む(出嶋蘭館日誌) 渋川敬也歿年四〇(三月晦日) (天文方代々記) 香月牛山、運気論奥算法俗解刊行 細井広沢、測量秘書成る 求故斎通恕 天文精義中星図解刊行 大島喜侍、時計考成る 享保一三 1728 幕府令して板行の暦本に廿四気の名井時刻昼夜の数を記せしむ(憲教類典) 建部賢弘、中根元圭、暦書の事を掌るにより賞を賜う(徳川実記) 松宮俊仍、分度余術成る 享保一四 1729 建部賢弘、賞を賜う(徳川実記) 享保一五 1730 西川正休、訓点天経或問刊行、大略天学名目鈔を附録とす 有沢致貞、暦本抄成る 享保一六 1731 山本格安、星座図考成る 拝村正長、享保十七年見行草抄授時暦推歩成る 享保一七 1732 春日経高、暦林要略刊行 杉村長郡、日東通暦刊行 松永良弼、宿曜算法諺解及び四余算法諺解成る 中根元圭、吉宗の命により伊豆下田及び江戸深川において日出の時限及び最高高度を測る 幸田親盈、八線儀術意成る 享保一八 1733 暦算全書の訓訳成り、紅葉山文庫に収む(好書故事、徳川実記) 中根元圭、割円八線表を訳す(好書故事(徳川実記) 中根元圭歿、年七二 建部賢弘致仕(徳川実記) 享保一九年 1734 幸田親盈、推積年日法術及類法成る 和蘭時計工渡来(出嶋蘭館日誌) 享保二〇年 1735 松永良弼、天経或問発揮及天学名目鈔正誤成る 細井広沢歿、年七八 田曜(大観)、月出算法解成る 書物奉行深見久太夫、参府和蘭人を訪い、天文に関して質疑す(出嶋蘭館日誌) 元文 元 1736 和蘭時計工アントニー、クロイト渡来す(出嶋蘭館日誌) 通詞今村元右衛門、和蘭商館に至り将軍に提出すべき四分儀を求む(出嶋蘭館日 在府長崎奉行、その所有する四分儀の用法を参府蘭人に質す(出嶋蘭館日誌) 深見久太夫、天文暦法のことを参府蘭人に質す(出嶋蘭館日誌) 暦を作る和蘭人一名の派遣を蘭本国に求む(出嶋蘭館日誌) 猪飼豊次郎、天文方となる(天文方代々記) 松永良弼、天経或問発揮刊行 元文 二 1737 深見久太夫、参府蘭人に天文の事を質問す(出嶋蘭館日誌) 北島見信、紅毛天地二図賛説成る (同書巻末記) 安倍泰邦、天経或問正義成る 元文 三 1738 深見久太夫、参府蘭人に天文暦法につき質す(出島蘭館日誌) 蜂屋定章、授時暦月行遅疾一周之弁成る 元文 四 1739 建部賢弘、年七六(七月) 中根元圭、天文図解発揮刊行 僧盛典、簠簋冠註大全刊行 元文 五 1740 幕府、西川正休を挙げて渋川則休と共に暦作をなさしむ(天文方代々記、徳川実記) 元文の頃 徳川吉宗、長崎の工人に命じ、自鳴鐘を製せしむ(徳川実記) 寛保 元 1741 西川正休、吹上御苑に召され観測に従事す(徳川実記) 寛保 三 1743 深見久太郎外一名、参府蘭人に天文につき質す(出島蘭館日誌) 延享 元 1744 長崎奉行、人をして出嶋蘭館に天文暦法の事を問わしむ(出嶋蘭館日誌) 徳川吉宗、天文台を江戸神田に建て、自ら製する所の簡天儀を以って之に備う(徳川 実記) 松永良弼(六月廿三日)(内藤家文書) 山本格安、星名考刊行 金森頼錦、天度測量 延享 二 1745 北島見信、長崎奉行所天文方となる(長崎年表) 西川正休、参府蘭人に天文の事を質す(出島藺館日誌) 延享 三 1746 十月改暦の令あり、渋川則休及び西川正体をして事に当らしむ(天文方代々記) 延享 四 1747 西川正休、天文方となる(天文方代々記、徳川実記) 陰陽師吉川郡治、天文方造暦の事に参与すべきを命ぜらる(徳川実記) 薩摩藩磯永周英、幕府に徴せられ、改暦に従事す(島津国史、仰望節録) 寛延 元 1748 山路主任、補暦御用手伝となり、次で天文方となる(天文方代々記) 桜井養仙、漏刻説刊行 寛延 二 1749 天文方西川正休・渋川則休、改暦の事を命ぜらる 和蘭通詞、和蘭暦本を出嶋蘭館に持参、日月食の事を質す(出島蘭館日誌) 小林随景、日用暦談刊行 寛延 三 1750 西川正休・渋川則休等、改暦御用にて上洛、秋分及び冬至点を測定 渋川則休歿、年三四(八月廿四日)(天文方代々記) 佐々木秀長(吉田四郎三郎と改む) 暦職助手となる(天文方代々記) 杉村長郡 天度弁断刊行(序) 入江脩敬、天経或問註解刊行(序) 箕輪蕃昌、天時占候刊行 小泉光保、頭書長暦刊行 宝暦 宝暦 元 1751 西川正休等改暦の為再び京都にて観測 (天文方代々記、徳川実記) 六月、吉宗歿、年六八 宝暦 二 1752 西川正休、土御門家と異見あり、江戸に召還さる (天文方代々記) 宝暦 四 1754 沙門文雄、九山八海解嘲論刊行(序) 改暦、宝暦甲戌元暦頭行(徳川実記、泰平年表) 西村遠里、天官書図解補註成る 安倍泰邦、暦法新書を上る 宝暦 五 1755 西川正休罪を得て其職を除かる 幕府令して領行暦本の誤を注し、且つ昼夜の数、吉日等を記せしむ (丁未雑記) 江戸において秋分点及び冬至点を測定す(天文方代々記) 宝暦 六 1756 渋川光洪、山路主住、天測御用として再上京(天文方代々記) 西川正休歿、年六四(五月一日)(天文方代々記) 宝暦 七 1757 渋川光洪、 山路主、御用済にて帰府天文方代々記) 幕府、神田の天文台を廃す(教令類纂、徳川実記) 三宅薫之、宮次考刊行(序) 宝暦 八 1758 幸田親盈歿、年六七(十二月八日) 沙門文雄、非天経或間刊行 西村遠里、得一暦成る 千葉歳胤、天文大成真遍三条図解成る 宝暦一〇 1760 浅井氏卿、暦注梓言 殿村晴辰、天学答問記成る 宝暦 一一 1761 西村遠里、授時解成る 西村遠里、数学夜話成る 宝暦一二 麻田剛立、明年九月日食につき官暦の誤を指摘す、西村遠里・川谷貞六・磯永周英等 も亦之を言う(伊能忠敬) 山県昌貞、天経発蒙成る 川合貞六、七曜暦を作り、藩主に献上す(洋学年表) 殿村晴辰、天文拾遺成る 宝暦の頃 山瀬春猛、天文和解 明和 元 1764 山路主住、天文方となる(天文方代々記) 吉田秀長、天文方となる (天文方代々記) 明和 二 1765 吉田秀長、補暦御用として上京(天文方代々記) 天文台を江戸牛込に再置(天文方代々記) 薩藩水間良実、幕府に徴せられ、改暦に参与(薩藩旧記追録仰望節録) 明和 三 1766 小倉永世、天文秘書成る 千葉歳胤、蝕算活法率成る 平野昌伝、歩天歌参考、天文成象弁成る 明和 四 1767 中西敬房、増補民間晴雨便覧刊行 長久保赤水、長崎にて始めて昇降図を見る(行役日記) 明和 五 1768 山路主住、木星見行草成る 千葉歳胤、皇倭通暦蝕考刊行(序数) 戸板保祐、天文図儀解注成る 明和 六 1769 天文方吉田秀長、修正宝暦甲戌暦、同解義、暦法新書続録成り進覧(天文方代々記)