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資料 「サラの日記」=狼魔人(江崎孝)作演出の誣告事件、江崎による最初の書き込み」 2009.11.4採録 ちなみに「狼魔人」が引用したブログ『サラの日記』10月15日は、なぜか既に抹消されている。 現在の書き換えられた日記は、文面文体の違う、他人の手が入ったものではないかという疑念を抱かせる。発端の『日記』を書き換えてしまったところに、重大な落ち度があるといえよう。 狼魔人こと江崎孝 1941沖縄県生まれ。慶応大学卒業。東京にて貿易会社勤務の後、沖縄で輸入業を経営。2004年より政治・歴史ブログ「狼魔人日記」開設、多くの読者の支持を得る。(秦郁彦「沖縄戦・『集団自決』の謎と真実」での自称) http //blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/af4bbbbfe1815df8b7e93fd685446907 15日、Xディ 犯罪者は市長になれない! 2009-10-15 14 49 46 | ★「石垣市長暴行事件」 人気blogランキングへ クリックお願いします ブログセンターランキングへ。 10月15日、Xディ、決行の日。 沖縄の一人の女性が「沖縄の暗部」に向かって遂に立ち上がった。 沖縄は全体主義の島である。 女性が反撃の狼煙を上げた対象は彼女をこれまでがんじがらめに押さえ込んできた沖縄の全体主義である。 彼女は自分が受けた女性としての最大の恥辱を弁護士や新聞社など、沖縄の識者に相談した。 が、すべてもみ消されてきた。 加害者が長期政権を誇る革新市長だったからだ。 沖縄の二紙に異論は許されず、それが紙面を飾ることはない。 最近の例で言えば沖縄二紙に敢然と異論を唱えた星雅彦、上原正稔両氏の勇気ある告発が記憶に新しい。 沖縄紙の論調に媚びて紙面を独占する「有識者達」は、紙面に掲載されないのは中身が無いからだと嘯く。 沖縄二紙を中心にした沖縄の言論空間が全体主義か否かで小林よしのり氏と佐藤優氏が戦争中であることは前稿で述べたが、長年沖縄に在住する沖縄県人の筆者が身をもって体験しただけでも、この論争は小林氏に理がある。 本日、沖縄の全体主義に敢然と宣戦布告した女性は、「不都合な事実」には目を閉じる沖縄の新聞人、政治家、弁護士などいわゆる有識者と言われる方々の「全体主義」的態度に悩まされ、自分が受けた婦女暴行の事実が、闇に葬られようとするのに我慢できず、勇気を持って告発したのだ。 沖縄の知識人が、革新市長が犯した犯罪(不都合な事実)を隠蔽しようと画策するする様は正に「沖縄の闇」そのものである。 告発は、来年の2月28日の石垣市長選で5選を狙う大浜石垣市長の犯罪に対してだ。 現役の石垣市長大浜長照氏が、市の女子職員に対して婦女暴行という恥ずべき犯罪をおかしていたのだ。 大浜市長については過去に当日記でも触れたが、婦女暴行事件については女性のプライバシーに関わる問題なのでそれについては伏せてきた。 ⇒南の島のペンギン王国! 皇帝ペンギンの五選を阻止せよ! ⇒第二弾!南の島のペンギン王国 長期政権を阻止せよ 女性が告発する対象は大浜市長だけではない。 大浜市長に関わる参議院糸数慶子氏、那覇市議の高里鈴代氏、弁護士の島袋隆氏、県議長の高嶺善伸氏などの日頃沖縄紙の紙面を飾る面々を初めとする、左翼運動家達もまとめて告発している。 沖縄紙は米兵の起こした事件となると、女子中学生とのナンパトラブルや比売春婦とのトラブルを、「米兵婦女暴行事件」として大々的にキャンペーンを張る。 その一方、長期政権を誇る革新市長が起こした「婦女暴行事件」には沖縄紙は見て見ぬ振り、女性の人権には敏感なはずの糸数慶子参議院議員や高里鈴代那覇市議に相談してもウヤムヤにされ闇に葬られる。 相談した弁護士もすべて裏ではこれら左翼勢力と繋がっており、瞬時に情報は加害者側に筒抜けになる。 女性は熟慮の結果、勇気を持って自らブログという手段で告発に踏み切ったのだ。 とにかく本人の筆による勇気ある告発を読んでください。 なお当該女性とは面談し、本人確認済みである。 以下は告発をした女性のブログサラの日記 よりの引用です。 ◇ 15日、Xディ 犯罪者は市長になれない 沖縄の全体主義の犠牲となり、8年の歳月をへて全様を語ることができるようになった。 15日、 現石垣市長を含め、参議院糸数慶子、高里鈴代、弁護士の島袋隆、県議長の高嶺善伸、などの面々を初めとする、左翼運動家のしてはいけなかった事件を公にする。 事件捏造をつくり連日タイムスに載せ叩き続けた。営業妨害も甚だしい、恐ろしくもやりたい放題の運動振り。新報は載せなかった。 これは石垣市長が女性職員に暴行事件を起こし起訴という騒ぎになり、その女性職員の兄の企業を狙い、セクハラ事件をそちらででっちあげた。職員の兄は追い詰められ、市長と歩み寄るという罠に落とされた。 これらを来年五選を当然のように出馬する予定の、お花畑へ向けて宣戦布告する。 五選すれば、20年。 その間に、与那国、石垣と危ないのはいまさら語るまでもなく、 彼らは、仲間から芸術家を出す。仲間を食わせるために反戦運動を食い物にする。 「反戦商人」 彼らはその事件のあと、美味しい汁を吸っている。 それを取り上げようと思っている。 県議長は、被害状況を知りながら穏便にとふたをしたまま。公人のとるべき態度ではない。 糸数慶子、無知なジェンダーおばさんは、セクハラと聞くだけですぐに応援。 実際はあなたの足元が火元。脅迫に手を貸したあなたも公人として情報収集を怠り、あわや沖縄の教育産業に貢献の大きい人材を潰そうとした罪は大きい。これも問います。 何故なら、あなたに相談持ちかけた当人がセクハラの実行者、犯人側に立つ政治家は辞めていただく。 高里鈴代、大浜石垣市長妻より相談を受けたあなたがすばやく動いた結果です。 市長夫人、文子は女性職員の勤務先で大声で罵倒、上司を集めて罵倒、八重山病院のカルテ開示を求めてドクター数名と騒動となる。 富里八重子石垣市議は、市長妻と常に脅迫時に同伴。 ビラ配りなどは異常な行動。市長の性的対象として応じなかったことで、組合が反発。 女性が結婚すると、仕事への妨害をし、組合入会を許可せず、日々、圧力をかけ、女性は体調を崩し退職。女性の兄は運動家たちへこれ以上の混乱を避けて680万円を支払った。 公用車で女性職員の実家に乗り込むこと頻回、仕事として夜間の呼び出し頻回、非常勤務から本採用という条件をちらつかされての呼び出しだったが、 結果的に上司が女性職員を必要と判断し、お願いしているが、それを数年、えさのように伸ばし続けた。 女性職員は事件後。精神的にうつ状態に陥り通院加療を続け、完全な回復を得た。 石垣市を全体主義の権力者の意のままにはさせない。独裁政治を終わらせるために、一網打尽の心構えで挑みたい。 事件の詳細、時系列は別枠でまとめてアップします。 市長は独裁者。みなイエスマン。嫉妬深いので優秀な人材は育ちません。傍におくことはなによりいや。 有名人大好き。全部面談。子ども二人はちゃっかり市職員。当然採用は全て市長の胸三寸。 人気blogランキングへ クリックお願いします ブログセンターランキングへ。 コメント (18) | トラックバック (0) | | | goo 18 コメント おー、楽しみ (縁側) 2009-10-15 19 20 29 狼魔人さま こんばんは この「事件」は、新聞でも取り上げてほしいですね。ご本人への事実確認ができるなら、産経那覇支局あたりに持っていってもいいのではないでしょうか。もちろん、その女性が了解すればですが。テレビドラマのようなストーリーですが、沖縄の変態議員や、低脳マスコミの焦る顔が目に浮かびます。 Unknown (サラ) 2009-10-15 20 50 30 サラの日記からまいりました。当記事を取り上げて頂きありがとうございます。ブックマークへ置いていただければ幸いです。一度、表に出したのですから、堂々と戦いたいと思います。これまで意味がわからず歳月がたってしまいましたが、中川元大臣がお亡くなりになった時、涙が止まりませんでした。お会いしたことのない方に、これだけ感情移入したのは初めてです。理不尽、そう感じました。小さな島ですから、恐れがないと言えば嘘になります。政治家ではありませんが、私が知ったことを黙ることで、何かが歪曲し続けていくというのはよくないと思い、書き出しました。 人権団体の皆さん、出番ですよ! (KOBA) 2009-10-15 20 56 41 ・・のはずですが、沖縄の関連団体はまず声を上げることは無いでしょう。多分本土の団体・組織も「性暴力の被害者」はあくまで米兵の犯罪による犠牲者、という独自の?定義を持っていると思われるので、ブログで取り上げることはまず無いでしょうね。 況や「人民の味方」であるはずのセクト連中も恐らくは・・・ 県外から (ヒロシ) 2009-10-15 22 35 21 県内メディアは動かないでしょうね。 ブログを通して県民の声が大きくなると同時に県外メディアが大きく報道してくれる事を願います。 沖縄に日本に巣食う悪を少しでも退治しましょう。 法務大臣は強権発動しないように。 Unknown (涼太) 2009-10-15 23 12 16 狼魔人様 沖縄勤務時代は良く聞いた話です。 石垣に限らず、本島などでも自冶体の長がかなり権力を握っており、血縁関係が強いので、採用などは全て縁故関係。公私のけじめが無く、役所の職員などもかなり横暴に振舞っているとか。 もともと沖縄はシマ社会(暴力団のシマの意味です。)なかなか異論を許さない社会です。 そんな沖縄においても、正々堂々異議申し立てする人達も出てきました。先日のうらそえ文藝みたいに。行政、マスコミ等が一体となって行われる犯罪まがいの行為者たちが、実は一番恐れるのが同調圧力に屈しない人達です。平成の日本の出来事とはとても思えません。水戸黄門の悪代官を見る重いです。 微力ながら応援します。 Unknown (涼太) 2009-10-15 23 34 15 狼魔人様 本エントリーとは関係在りませんが、支離滅裂のハトがまた支離滅裂なことを言っています。 「国民の気持ちが大事だ。国民が赤字国債の増加を認めないなら、マニフェストの変更もある。」 何の事は無い、民主党の無策を全て国民に責任を押し付けているだけです。ハトは記者会見で、国民が、国民の気持ちが、と必ず使います。 国民を26000円で買収したようなものです。 普天間問題でも、県外、県外と言いますが県外移転を検討した気配もありません。 Unknown (トラネコ) 2009-10-16 08 15 46 サラさんの日記読みましたが、酷い話ですね。首長なども大統領や首相などと同様に最大任期の期限を設定すべきでしょうね。 私が石垣にいた6年前までにもいろいろ大濱市長の黒い噂は聞いていました。縁故就職などはあそこではごく普通のことですし、驚きはしませんでしたが、今回の・・・はあまりに酷すぎます。ぜったい五期目は落選させないとますます独裁者は付け上がりますw Unknown (狼魔人) 2009-10-16 09 23 53 縁側さん このような事件が新聞の報じない裏側で起きていると聞くとオドロキですね。 どうせ沖縄紙は無視を決め込むでしょうが、しばらくネットで晒して産経あたりは面白いでしょうね。 サラさん 勇気ある告発に敬意を表します。 当日には多くの読者がついています。微力ながら応援していますので頑張って下さい。 ヒロシさん ペンギン市長は悪事の限りを尽くした上、更に5期を狙うというから許せませんね。 法務大臣の識見発動はともかく、石垣署長あtりから捜査禁止令の発動があったりして。(笑) 実際、高嶺県議長は「止めなさい」といっているしうですよ。 涼太さん 噂では良く聞く話でも、実際にご本人が告発するのを聞くと今さらながら、新聞を中心にした沖縄の「有識者」たちの堕落ぶりには驚かされます。 鳩山政権は長年連れ添った女房には「無駄使いするな」とうるさく言って、表では大盤振る舞いする見栄男を想像します。 トラネコさん こんなクズが5選を果たしたら沖縄の恥ですね。 遠い空から応援してください。 これは酷い (青空) 2009-10-20 23 41 02 こんな悪虐非道な婦女暴行があったなんて知りませんでした。(ちなみに私は佐藤守氏のブログからここに辿り着く) 脅迫と隠蔽で揉み消そうとする石垣市長とその一派、絶対に報じようとしない沖縄メディア、まさにファシズム・全体主義です。 この石垣市長の悪事をネットで広めていきます。 がんばれ!! (遠くより祈願する) 2009-10-21 00 54 59 がんばってください。 真実は1つ、時間がかかっても義は我にあると定めたら、絶対に心に刻んで踏ん張れ。 横暴を許すと、共産政権とおなじに声も出せなくなります。 「週刊文春」か「週刊新潮」に取材に来てもらいなさい。大きな力になると思います。 多くの人がこの雑誌で助けてもらっていますので。絶対に声を上げ続けること。 Unknown (緑風) 2009-10-21 22 26 53 沖縄の政治事情についてはよくわからないのですが、糸数慶子は容赦なく叩いてください。 こいつはキリスト教徒ですし、私は彼女がキリスト教徒である事を問題にはしていません。( ちなみに、私は彼女と同じ宗派の人間です。こいつは私のいる宗派の恥さらしです)) 信教の自由があるからです。 私が問題にしているのは、こいつの所属する宗派には「わたしたちは王、大統領、統治者、長官に従うべきこと、法律を守り、尊び、支えるべきことを信じる。」という教えがあり、これに従えば、沖縄での反日反戦活動など到底不可能なはずなのだが、そんなのを平気で無視してやっているからです。 沖縄は先の大戦では相当な犠牲者が出ましたし、ぶっちゃけて言えば本土の盾にされたからこそあれだけの犠牲者数になったという事もあり、そこは本土の人間として非常に心苦しく思っています。 ですが、なんでもかんでもアメリカと日本政府が悪という沖縄における反日反戦活動は冗談抜きでいい加減にしてもらいたいというのもまた偽らざる心境です。 おばかさんたち (koko) 2009-10-21 23 31 10 サラの日記を読んで感じたこと、自分の世界に入り込んでいる。 宗教に入り込んでいるようなきがしました。 そういう目にあったのは、本人自身にもかなりの隙があったのでは? 選挙前にそんなことをするなよ!! 卑怯だぜ・・・ サラの日記は、疑ってしまう。 それが、真実としても私は貴女にも非があるとしか思えない。 同じ女性とし。経験、これまでの人生を獲ての いち一人の女性として言う、自分は自分で守れ。他人を頼るな。他人の責任にするな。 自分が居るなら、相手もいる。 バカはどっちだか(嘲笑) (えいみ) 2009-10-21 23 49 49 狼魔人さん、いつも拝読しています。 そしてコメントに対してコメントをすることをお許しください。 kokoさん: 大丈夫ですよ! サラさんは警察に訴えましたし、万が一サラさんの言うことが嘘だったとしたら、捜査の中で明らかにされますからね。要はそれだけの事だってことです。 ちなみにあなたがおっしゃっている言葉、あなたのお母様や姉妹が同じ目にあったら、果たして同じこと言えますか?あなたの書いていることって、セカンドレイプ以外の何物でもありませんよ。 kokoさん (古代) 2009-10-22 08 00 18 犯罪に選挙前とか関係ないですよ! あなたの文章の方が、 洗脳されてる感じがするのは私だけでしょうか? あなたみたいなのに限って、 自分の主張は曲げないで、 騒いでみたりするのでしょうね 卑怯なのはどっちだ (ルル) 2009-10-22 09 01 12 卑怯なのは、パワハラとセクハラのデパートである大濱市長ですよね。 選挙前だろうが後だろうが、大濱市長が卑怯なことに変わりはありませんよ。 アホか (ほー) 2009-10-22 16 06 24 kokoは市長側のブサヨメンバーだな 許せん!! (ら~こ) 2009-10-23 01 09 27 夫に勧められてサラさんのブログに辿りつきこちらまできました。 石垣市民・同じ女性として馬鹿にされてるようで悔しいです。 全国的にサラさんのブログやこちらの記事が広まるように口コミしてきます!! 正義は勝つゾ。 ちゃんと支援を・・。 (野武士) 2009-10-24 01 03 05 サラさんは被害届を出されたということで決意の強さを感じています。 私が少し心配していることがあります・・・。 警察には被害届を出しただけなのでしょうか?告訴・告発の意思は伝えたのでしょうか? 事件の発生は2002年9月15日~16日にかけてということですが、おそらく公訴時効が経過しています・・・。 現在の刑事訴訟法は2005年に改正施行されたもので、サラさんの事件があった2002年は当時の時効が適用されます(刑事罰不遡及の原則)。つまり刑法第177条の強姦罪は3年以上の有期刑であるので刑事訴訟法第250条第3号(改正前)の「長期10年以上の懲役又は禁錮にあたる罪については7年」が公訴時効です。サラさんが、告発を公開したちょうど1か月前に時効を迎えたことになります。 民事での戦いになっても民法第724条の援用で3年が消滅時効です。 相手が罪を認めた客観的な証拠だけは、ちゃんと整理してあると思いますが、相手に名誉棄損で訴えられないようにアドバイスしてあげてください。 ちゃんと対応策はありますよね・・・。 その他庫
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『システム英単語 Ver.2』 刀祢雅彦 霜 康司 (駿台文庫) 出版社 / 著者からの内容紹介 最新の入試データベース(入試問題7000回分、設問数30,000題以上)のデータだけでなく、 巨大データベースBank of English や雑誌「TIME」などの現代の実用英語も可能な限りリサーチ。 意味まで頻度順で収録。出る意味、出る形を超速学習できるミニマル・フレーズを採用。 ポイント・チェッカーと語法Q Aで単語のツボを直撃。 名前 レビュー すべてのコメントを見る
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http //blog.zaq.ne.jp/osjes/article/62/ http //nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=2836 forum=1 viewmode=flat order=ASC start=2010 控訴人準備書面(3) 平成20年(ネ)第1226号出版差止等請求控訴事件 (原審大阪地方裁判所平成17年(ワ)第7696号) 控訴人:梅澤裕、赤松秀一 被控訴人:株式会社岩波書店、大江健三郎 控訴人準備書面(3) 平成20年9月9日 大阪高等裁判所第4民事部ハ係御中 控訴人ら訴訟代理人 弁護士:松本藤一 弁護士:徳永信一 弁護士:岩原義則 弁護士:大村昌史 弁護士:木地晴子 弁護士:中村正彦 弁護士:高池勝彦 弁護士:本多重夫 [他、26名略] 目次 控訴人準備書面(3)第1立証された《赤松命令》の虚偽性1.沖縄における『ある神話の背景』の評価と影響 2.『鉄の暴風』の資料的価値再考 3.『沖縄県史第10巻』と『太平洋戦争』から削除された《赤松命令説》 4.事前の手榴弾交付と《赤松命令》との決定的な違い 5.結論の再確認 第2本件訴訟の目的について1.控訴人らの真意 2.命令説の果たした役割 第1立証された《赤松命令》の虚偽性 1.沖縄における『ある神話の背景』の評価と影響 曽野綾子著『ある神話の背景』は、出版直後から沖縄においても高い評価がなされ、沖縄の良心的な言論人に強い反省をもたらした。 小林よしのり編著『誇りある沖縄へ』(甲B139)の中で、宮城能彦沖縄大学教授は『ある神話の背景』が出版された昭和48年当時の、同書に対する地元沖縄の言論空間での評価の高さを指摘している。 当時琉球大学の助教授であった岡本恵徳は、昭和48年6月8日付『沖縄タイムス』において、『ある神話の背景』につき、「あたう限りの時間と労力を注ぎ込み、現存する資料や、渡嘉敷島の生存者、さらに自決命令を下したと伝えられる赤松嘉次氏やその部下、また赤松氏の責任を追求する人達にまで幅広く接触して、真相を追求しようとする著者の姿勢には迫力さえ感じさせるものがあった」とし、「視線はあくまで冷静で文章も理性的に抑制されており、その点でかなり説得力のあるものとなっている」 と評価したうえで、「結論では注意深く断定は避けてはいるものの、赤松元大尉が自決命令を下した可能性のないことを浮き上がらせており、このような惨劇のなかでの人間のありかた、そのような人間のありかたに対する人間の責任追及ということのもつ意味を奥深い所で問いかけているのである」と正しく分析している(甲B135)。 更に、昭和48年6月10日付沖縄タイムスでは、「何故、沖縄の圧倒的に多数の人々が、事実を確かめようとすることなく、赤松元大尉が命令を下したと信じたのかということは、赤松元大尉の責任の問題とは別種のことがらであろう。そのような“信仰”が成立した背景には、沖縄の本島の戦争の体験のなかで同種の事件が広範に存在したからであり、そのことが、事実を確かめるまでもないことだという判断を生んだに違いない」(甲B136)と推測している。 そこで岡本は、集団自決における命令の有無にかかわりなく、軍が責任を免れ得ないことを論じようとしているが、そのことは、『沖縄ノート』が論評の前提としている《赤松命令》の真偽とは別次元の議論であり、「別種のことがら」である。あくまでも、岡本は、当時信じられてきた《赤松命令》が事実を確かめることなく成立した虚偽の信仰であることを認めているのである。 沖縄の作家である星雅彦は、同年6月13日付沖縄タイムス紙上において、『ある神話の背景』について、「ともかく曽野綾子の切れ味はみごとというべきである。多くの沖縄戦記の集団自決をあつかった章が、まちがいであったことを、一網打尽のごとく、立証したのだから。それは沖縄問題のあらたな転機を予見させるかのごとく、前代未聞である」と評価している(甲B137、甲B139p183)。 地方公務員のいれいたかしは同年6月20日付沖縄タイムス紙上で、「著者は、集団自決に果たして赤松命令があったかどうかを執拗に追い続ける。もちろんそれはあるはずがない」と述べている(甲B138、甲B139p183)。 これらは要するに、『ある神話の背景』が出版された昭和48年当時、沖縄の言論空間においても、『鉄の暴風』で描かれ、『沖縄ノート』で事実として引用されるに至った《隊長命令》の有無という事実問題については、「こうした軍命はなかった」という見解が一般化していたことを示すものである(同p184、5~7行目)。 2.『鉄の暴風』の資料的価値再考 宮城教授は、『鉄の暴風』の執筆者の1人である太田良博が、「自分は誰から取材したか覚えていない」と述べていることについて、「ハッキリ言って、誰から話を聞いたか記録をとっていないということは、新聞記者に限らず私たち聞き取り調査をする人間にとっては致命的なことであり、そういう証言はもはや資料的価値がない。使えないはずなんです。聞き取り調査というものは、話者の名前や職業、社会的地位だけでなく、経歴その他、そして、誰がどんな状況でどんな訊き方をしたのかまでが問われる。もちろん、そこまで記事に書くわけではないのですが、裏付けとしてそういう記録は何より大切なはず。それを、開き直って堂々と『忘れた』とか記録がないとか言える神経が私には全くわからない」と酷評している(甲B139p186)。 研究者の種稲秀司も、宮城教授と同様の見解を述べている(甲B141)。「『鉄の暴風』は、証言者たる住民の氏名が記載されていないため情報源が不明であり、証言の真偽についてウラのとりようがない。曽野綾子氏によると沖縄タイムス社から依頼されて執筆者となった太田良博氏が、渡嘉敷・座間味両島の集団自決を書く際に、山城安次郎・宮平栄治の両氏から証言を得た。しかし、宮平氏は当時南方に出征中であり、山城氏は座間味島にいた。この二人の「伝聞」が集団自決の証拠として固定された(『ある神話の背景』)。太田氏自身は、後年、渡嘉敷・座間味両島の記述は住民側の証言をそのまま信じたもので、梅澤戦隊長が死亡したとの誤記もこれによるもの、と語っている(『太田良博著作集』第三・五巻)。つまり、住民の証言が正しいか否か、十分な検証をしていなかったのである。」(甲B141p26上段最後から6行目~)。 「歴史史料としての価値判断に欠かせないことの一つが、史料における誤記の有無であるが、『鉄の暴風』は、①米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日を3月26日と間違っており、?座間味島の日本軍は最終的に『全員投降、隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの2人と不明の死を遂げたことが判明した』とあるが、梅澤氏は健在であり、『全員投降』の事実もない(座間味島の部隊の損害は大きく、戦死者は210数名に上った)」(甲B141p26 下段最後から2行目~p27の対照表)。 原判決が事実認定において資料的価値を有するとして重視した『鉄の暴風』に 歴史を検証する資料的価値のないことは余りにも明らかである。 3.『沖縄県史第10巻』と『太平洋戦争』から削除された《赤松命令説》 少なくとも渡嘉敷島においては、《赤松命令説》、即ち、『鉄の暴風』が描き、これを下敷きにした上地一史著『沖縄戦史』に記述され、これを『沖縄ノート』が事実として引用した「日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令」(甲A3p69)の事実がないことは、沖縄における歴史研究においても定着し、昭和59年3月に発行された『沖縄県史第10巻』(乙9)においては、従来の立場がはっきり見直され、それまであった「渡嘉敷島でいよいよ敵の攻撃が熾烈になったころ、赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた」という《赤松命令》は削除され、係争中だった家永教科書訴訟において集団自決が軍の命令に基づくものだとして争っていた家永三郎も、昭和61年9月に発行された『太平洋戦争』(第2版)において初版本の立場(甲B7p213)を変更し、《赤松命令》を同書から削除したことは(甲A1p300)、こうした歴史研究を踏まえたものであった。 4.事前の手榴弾交付と《赤松命令》との決定的な違い 昭和62年に出版された『渡嘉敷村史資料編』(甲B39)には、「自決の直接的な動機についても不明な点が多い。『生キテ虜囚ノ辱メヲウケズ』という皇民化教育のもとにあったとはいうものの、島の『日本軍指揮官や指導者層の命令あるいは何らかの示唆』が、自決の誘引になったことも数多く指摘されている」としているだけで、日本軍指揮官(赤松隊長)による命令についてはその内容が特定されず、「何らかの示唆」と同列に論じられており、しかもそれは自決の「誘因」となったとしてあげられているだけで、軍の命令がもっているはずの強制力については触れられていない(p365下段)。 ところで、『渡嘉敷村史資料編』には、「(渡嘉敷島では)すでに、上陸前に、村の兵事主任を通して軍から手りゅう弾が配られており、『いざという時』にはこれで自決するように指示されていたといわれるが、誰が『いまが自決の時だ』と判断し自決を指示したかは不明である」(p366下段)ともある。 ここで指摘しておきたいことは、『沖縄ノート』に書かれている《隊長命令》、即ち、「日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令」は、有無を言わさぬ強制であり、『いざという時』のため、米軍による暴行・虐殺を免れ、人としての尊厳を守るために手榴弾を渡して自決を示唆し、その誘因となったという類のものとは全然違うということである。『沖縄ノート』では、赤松隊長は、「およそ人間がなしうるものとは思えぬ決断」としての自決命令を発し、「余りに巨きな罪の巨塊」を犯したものと断定され、「屠殺者」と呼ばれ、「アイヒマンのように裁かれるべきだった」とされているのである。それは、何よりも部隊が生き延びるため、住民に犠牲を強いる非情の命令であった。そして、そこでの命令は、住民の意思を制圧するだけの強制力を伴うものであったと一般の読者は理解するのである。 『鉄の暴風』で描かれ、『沖縄戦史』で記述され、『沖縄ノート』に引用された軍隊の命令は、かかる非情の命令であり、?部隊が生き延びる目的のために、?住民の犠牲を、?強制するもののことである。 かかる非情かつ無慈悲な自決命令としての《赤松命令》が存在しなかったことは明らかであって、『いざという時』のための手榴弾の交付と自決の指示は、それとは全く別のものである。それは、集団自決という悲劇に対する赤松隊長の責任、あるいは軍の責任を問うことはできても、『沖縄ノート』に事実として引用された自決命令とは、重要な点において異なっているばかりか、赤松隊長に対する「罪の巨塊」や「屠殺者」や「アイヒマン」などといった一方的な人格非難を正当化できるものではないのである。 なお、米軍上陸前の「3月20日」に「村役場」に「17才以下の少年達を集め」、村の兵事主任を通じて軍が手榴弾を配布したという富山証言が極めて疑わしいものであることは、金城重明証言及び吉川勇助の陳述書から明らかになっており、このことは控訴理由書p108以下で詳しく述べたところである。 5.結論の再確認 事前の手榴弾交付を自決命令の根拠だとする被控訴人らの議論は、実態としては、「示唆」であり、「誘因」に止まるものを、強制力を伴う「命令」と強弁するものであった。集団自決の原因としては、米軍に対する恐怖、鬼畜米英の刷り込み、皇民化教育、戦陣訓、家族愛、部隊や兵士そして教員や村幹部からの『いざというとき』の自決の示唆というものがあったことは、これまで提出された証拠から明らかである。それらは、軍や赤松隊長の集団自決の「責任」を論じる根拠とはなっても、事実としての自決命令、即ち、?部隊が生き延びるために、?住民の犠牲を、?強制する「命令」ではない。 被控訴人らは、集団自決に関する軍の責任の有無という規範的評価に関する問題を、隊長からの発せられた自決命令の存否という事実の証明の問題とすり替えようとしているのである。 もはや『沖縄ノート』に事実として書かれた渡嘉敷島における《隊長命令》が事実でないことは明らかであり、その虚偽性は完全に立証されている。 第2本件訴訟の目的について 1.控訴人らの真意 被控訴人らは、本件訴訟が、控訴人らの自発的な意思によるものではなく、特定の歴史観に基づき歴史教科書を変えようとする政治運動の一環として行われていることが明らかであると非難するが、控訴人らが自らの意思で本件訴訟を提起し、出版差止等を求めていることは、彼らが法廷で述べたところからも明らかである。 また、控訴人梅澤が提訴前に『沖縄ノート』を通読していなかったことや、控訴人赤松が、これを飛ばし飛ばしで読んだことを取り上げて非難しているが、名誉毀損訴訟においては、名誉を毀損し、敬愛追慕の情を侵害する記述が存することの認識があれば十分であり、事前の通読を必要とするかのような被控訴人らの主張は全く理解しがたいところである (因みに、新聞記事や週刊誌による名誉毀損訴訟において、誹謗箇所とは関係のないテレビ欄や社説、別事件の記事を読んでいなくとも名誉毀損を問うことの障害にならないことと同じである)。 そもそも控訴人らの提訴の動機は、単なる自己の名誉や敬愛追慕の情の侵害に止まらず、権威をもって販売されている本件各書籍や教科書等の公の書物において、沖縄における集団自決が赤松隊長ないし控訴人梅澤が発した自決命令によって強制されたという虚偽の記載がなされていることに対する義憤であり、このまま放置することができないという使命感であった。そのことは、また、代理人らも月刊誌等において広く訴えてきたところである(乙116)。そしてその意味では、昨年の教科書検定を通じて教科書から「命令」や「強制」が完全に削除されたことは、勇気をもって提訴に及んだ訴訟の目的の一つを達したと評価できる事件であった。 世間の耳目を集める訴訟が個人の権利回復に止まらず、より大きな政治的目的を併有していることは珍しいことではない。著名な薬害エイズ訴訟や薬害肝炎訴訟もまた、原告本人に対する損害賠償という目的のほかに、被害者全員の救済(そこにはエイズ治療や肝炎治療に係る医療体制の充実や真相究明による再発防止も含まれていた。)という政治目的を掲げていたことはよく知られている。 被控訴人らによる前記主張は、控訴人らを冒涜するものであり、裁判所に予断と偏見を持ち込まんとするものである。証拠に基づく審理がなされるべき司法において持ち出すべきものではないだろう。 2.命令説の果たした役割 本件訴訟を通じて思うことは、集団自決の歴史を伝えていくうえで『命令』説が果たしてきた役割のことである。すでに論じてきたように、集団自決の原因は、島に対する無差別爆撃を実行した米軍に対する恐怖や鬼畜米英の思想、皇民化教育や戦陣訓、死ぬときは一緒にとの家族愛、そして防衛隊や兵士から『いざというとき』のために渡された手榴弾など様々の要因が絡んだものである。これを軍の命令としてくくってしまうことは過度の単純化、図式化であり、かえって歴史の実相から目をそらせるものである。 そもそも仮に、「住民は自決せよ」という軍の命令があったとしても、果たしてそれにやすやすと従って、愛する家族や子供を手榴弾やこん棒やカミソリで殺せるものであろうか。それは、現在に生きる一般人の想像を超えている。そこでの村民は、『沖縄ノート』に描かれているように、「若い将校たる自分の集団自決の命令を受け入れるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者」であり、近代的自我や理性のかけらもない「『土民』のようなかれら」としてしか認識できないことになるのである。 それは日本がかつて経験したことのない地上戦としての沖縄戦において集団自決という悲劇を経験した沖縄県民の尊厳を貶めるものにほかならない。 集団自決の歴史を正しく伝えていくことの意味は、軍命令という図式ではなく、米軍が上陸する極限状況のなかで住民たちが、その時、何をどのように考え、どのような行動の果てに自決していったのかを伝えていくことにある。 そのことが本件訴訟の目的である。 以上 沖縄集団自決訴訟第2審
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田中雅彦 spanclass プラグインエラー class名は半角英数字で入力してください。 N- 巧 --- 長 --- 走 --- 送 --- 守 --- 精 --- 総 --- LvMax 巧 --- 長 --- 走 --- 送 --- 守 --- 精 --- 総 --- 備考: 打順 n/n/n 投打 n/n 編集
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合計: - 今日: - 昨日: - 氏名 所属 職種 社会人経験年数 伊藤雅彦 ポーラープランニング代表(教育コンサルタント、IT評論家、システムエンジニア) コンサルタント 26年 経歴 1962年 兵庫県生まれ 1984年 花園大学文学部社会福祉学科卒業 1984年 株式会社中央システムサービス入社 1989年 株式会社ライトウェル入社 1994年 株式会社日本アイリカ入社 1995年 ポーラープランニング設立今に至る 大阪産業大学エクステンションセンター講師兼任今に至る 1999年 帝塚山学院人間文化学部非常勤講師兼任ヘに至る 2001年 大阪コミュニケーションアート専門学校非常勤講師兼任今に至る ㈱アイ・アカデミー取締役就任今に至る 業務内容 サーバ構築管理、サイト構築、教育相談、IT公衆、大学再建計画立案 やりがい 大学再建を実現する為に、どのようなことにもちょっとした工夫や心遣いを凝らし、若者のニーズにあったものを考えることにより、問題を解決していくこと。 仕事への姿勢/考え方 様々な方策を用い、どのような計画にも、自分なりの工夫を凝らす。大学再建に関し、若者の心をとらえ、心配りをしている。教育とビジネスの両方を、自身の経験を元に考え抜く。 転機 平成元年から、遠隔教育プロジェクトに参加した。その成果を元に、大学や専門学校に本格的に講師として参加し、現在の会社の設立に至った。 今後の目標 プログラマやSEをしてきた経歴から、IT教育を如何に社会福祉に貢献するかといった点 参考URL 講師.com:http //koushi.com/product_info.php/cPath/30_69/products_id/61?osCsid=b11cff533939b0a5d68d0dbdbdd81d99 講師依頼.com:http //www.kouenirai.com/search/detail-BIZ004-368.html 感想① サービス事例内でのセミナーの個別セッションをコンサルタントの方のセッションに行ったため、今回コンサルタントについて調べた。コンサルタントというと、主に企業での営利目的の活動をしているものという先入観があったため、今回、社会福祉関連でのコンサルティングを行っている伊藤さんを選んだ。伊藤さんは、プログラマとSEを計10年経験してから、コンサルタントになっている。また、この経験の中で、教育関連のプロジェクトにも参加している。このような異なる二点の経験があったからこそ、教育のコンサルタントとして活躍なさっている。また、業務の一環である「大学再建」といったものは、まさにこの経験を発揮できる業務であるといえる。この大学再建は、少子化の中で、大学という産業では必須ともいえる業務である。そのため、問題解決が必要か、若者の心情はどのようなものなのかといった様々な問題点が存在する。このような問題を、経験を元に、また自身の工夫を凝らした方法で解決していき、志望者の増加をしている。私はこのような、業務の中にも、自身の経験を元にしたアイディアを盛り込んでいくような立派な社会人になりたいと思う。 感想② 伊藤さんは大学では文学部福祉学科といういかにも『文系』といった印象の学問の経歴があるようだが、プログラマやSEの経験もあり、物事を多方面から考えることで教育やビジネスをよりよいものにしているように思う。大学再建から社会福祉への貢献まで、常に広い視野を持ち、自身の豊富な経験を生かした細やかな心遣いと工夫が、彼のキャリアを更に実りあるものにしているのであろう。私は今大学で学んでいる専門分野があまり得意ではないが、苦手を克服しつつどんな経験も自分の『糧』となると考え大切にしていきたいと思う。 感想③ 彼は文系の学部出身でありながら、プログラマーやSEとして活躍している。私は情報社会学科の生徒として非常に親近感を覚えた。彼の主な職業はコンサルタントであるが、様々な経験を経ていることがコンサルタント業に活きているという。私も情報社会学科として様々な経験をして将来に活かしていきたいと思った。 【登録タグ 26~30年 CONS SE プログラマ 工夫 教育 社会福祉 経験】 選択肢 投票 この人材像に憧れる (7) この人材像に共感する (5) この記事が役に立った (4) IT×教育 という分野はまだまだ可能性のある分野だと感じる。 -- 名無しさん (2011-01-21 15 20 52) 記事を読んで、いろんなことを経験しているからこそいいものができると思った。 -- 名無し (2011-01-21 15 31 32) IT化での遠隔教育などに興味を持っているので、気になった -- 名無しさん (2011-01-21 15 36 19) 名前 コメント
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『横山ロジカル・リーディング講義の実況中継』 横山 雅彦 語学春秋社 出版社 / 著者からの内容紹介 著者の英語の速読法「ロジカル・リーディング」(論理的読解法)について、根幹をなす部分を、ほとんど完全な形で公開。前著『横山英文速読入門講義の実況中継』よりも丁寧に英語の「ロジック」を解説。 また、講義のポイントを「主題文の発見」に絞り、その徹底的な習得を図っている。例外的なルールについても、できる限り説明。英文のバックグラウンドについての解説を最小限に抑え、なるべく多くの問題をこなせる実践的な内容にしている。 名前 レビュー すべてのコメントを見る
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http //okinawasen.web5.jp/html/kousai/2_syomen_03.html 被控訴人準備書面(3)3/3 準備書面(3)1/3 準備書面(3)2/3 被控訴人準備書面(3)3/3第3 同第3(真実相当性に関する事実認定上の問題点)について7 同7(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その3)―渡嘉敷島―)(84頁)について(1)同(1)(『ある神話の背景』に対する原判決の評価)についてア 同ア(曽野は〈赤松命令説〉を否定するのか)について イ 同イ(『ある神話の背景』の住民の供述は詳細でないのか)について ウ 同ウ(曽野の取材には偏りがあるのか)について エ 同エ(大城将保の『ある神話の背景』に対する評価の変遷)について オ 同オ(命令の伝達経路の不明確)について カ 同カ(古波蔵蓉子のエピソードが物語る《赤松命令説》の不存在)について (2)同(2)住民の体験談)についてア 同ア(徳平秀雄郵便局長の体験)について イ 同イ(大城良平の体験)について (3)同(3)(『秘録沖縄戦記』復刻版で《赤松命令説》は訂正されたか)について (4)同(4)(その他資料の評価)についてア 同ア(『陣中日誌』の転載の正確性)について イ 同イ(大江志乃夫の判断について)について (5)同(5)(知念証言について)について (6)同(6)(皆本証言について)について (7)同(7)(赤松大尉手記)について (8)同(8)(被控訴人大江は十分な取材をしたのか)について (9)同(9)(富山真順の証言の評価)について (10)同(10)(金城重明の証言の評価)について (11)同(11)(吉川勇助の証言の評価)について (12)同(12)(金城武徳の証言の評価)について 第4 同第4(宮平秀幸証言)について 第5 同第5(『沖縄ノート』による人格非難について)について1 同1(原判決の判示)(120頁)について 2 同2(究極の故人攻撃)(121頁)について 第3 同第3(真実相当性に関する事実認定上の問題点)について 7 同7(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その3)―渡嘉敷島―)(84頁)について (1)同(1)(『ある神話の背景』に対する原判決の評価)について ア 同ア(曽野は〈赤松命令説〉を否定するのか)について 控訴人は、原判決が「ある神話の背景」について「曽野綾子自身の見解として赤松命令説を否定する立場を表明したものではない」(原判決179頁)としたことについて、「『ある神話の背景』で赤松隊長の自決命令があったことを証明する証拠はなく赤松隊長の自決命令はなかったというのが曽野の結論である」と主張する。 しかし、原判決が認定するとおり、曽野は、平成12年10月16日の司法制度改革審議会において、「ある神話の背景」について「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかった、とは言っていません。ただ、今日までのところ、その証拠は出てきていない、と言うだけのことです。」と答えた旨の発言しており(甲B40の2、「正論」(平成15年9月号)(甲B55)も同旨)、「ある神話の背景」について「客観的な根拠を示して赤松命令説を覆すものとも、渡嘉敷島の集団自決に関して軍の関与を否定するものともいえない」(原判決181頁)との原判決の証拠評価は正当である。 イ 同イ(『ある神話の背景』の住民の供述は詳細でないのか)について 控訴人は、原判決が「曽野綾子は、『ある神話の背景』において、赤松大尉による自決命令があったという住民の供述は得られなかったとしながら、取材をした住民がどのような供述をしたかについては詳細に記述していない。」(原判決180頁)と認定したことについて、ある神話の背景には関係者の詳細な証言が多数収録されており、「調査の丹念さと内容からして『ある神話の背景』は高い信用性があると評価すべきである」と主張する。 しかし、原判決が述べていることは、「ある神話の背景」によると、曽野綾子は、住民から赤松大尉による自決命令があったという直接の供述は得ていないが、それに関連して、住民からどのようなことが具体的に供述されたかについて詳細には記述がないという意味であって、関係者の証言が収録されていないなどとは全く指摘していない。 ウ 同ウ(曽野の取材には偏りがあるのか)について 控訴人は、原判決が、曽野が「ある神話の背景」を執筆した際、富山真順に取材しなかったとされることについて、「取材対象に偏りがなかったか疑問が生じる」(原判決180頁)としたことを、「曽野が意図的に富山氏を取材対象から外したかのように決めつける原審判決こそ限りなく被告側に偏った証拠の評価をしている」と主張する。 しかし、まず、原判決は、富山(新城)真順兵事主任への取材を行っていないとする曽野綾子の主張が「それが事実であれば」取材対象に偏りがなかったか疑問が生じるとしているのであり、曽野が意図的に取材対象から富山を外したと決めつけたものでは全くない。 曽野綾子の取材経緯を調査した安仁屋政昭沖縄国際大学教授が、「曽野綾子氏が渡嘉敷島を調査した1969年当時、新城真順氏は渡嘉敷島で、二回ほど曽野綾子氏の取材に応じている。会見の場所は、源洋子さん(当時66歳)経営の、なぎさ旅館である。なぎさ旅館は、そのころ渡嘉敷部落で唯一の旅館で、奥に洋間が二つあったが、曽野綾子氏は左手の洋間に宿泊していた。新城真順氏は、その洋間に招かれ、曽野綾子氏の取材に数時間もまじめに対応し、証言を拒否するような場面はなかったという」(乙11・14頁)と具体的に指摘しているとおり、曽野は、富山に取材を行っている。安仁屋が「兵事主任の証言を聞いていながら『神話』の構成において不都合なものとして切り捨てたのであれば『ある神話の背景』は文字どおりフィクションということになる」(乙11・14~15頁)と指摘するとおり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によって、不都合なものを切り捨てており、信用できないものであって、原判決の証拠評価は正当なものである。 エ 同エ(大城将保の『ある神話の背景』に対する評価の変遷)について 控訴人は、原判決が、大城将保は「全体として集団自決に関して軍の関与自体は肯定する見解を主張している」と判示した点について、「大城の主張は度々変遷し、しかも意味不明に、政治的な目的で変わる」などと主張する。 しかし、大城の集団自決に関する主張は全く変遷していない。大城は、原判決が指摘するように、「青い海」(昭和52年)においては、「私自身は、今のところ戦争責任の追及の問題に言及する用意はないし、自決命令があったかどうかについてはさして興味がない」としたうえで、星雅彦が指摘する集団自決の様々な原因のなかに事実はほとんど網羅され、その要因の中でも旧日本軍が常に発散させていた国民への圧力を重視すべきであるとしており、当初から、集団自決への軍の関与を肯定している。その後、大城は、「沖縄戦を考える」(昭和58年)において、「ある神話の背景」に対する星雅彦らの反論が曽野の論証を覆していないとし、「鉄の暴風」の誤記等に関する指摘についての反証が出てきていないとするが、これは議論の状況についての大城の見解を述べたものにすぎず、赤松隊長の自決命令がなかったとの見解を示すものでは全くなく、大城の主張に変遷はない。 オ 同オ(命令の伝達経路の不明確)について 控訴人は、「命令の伝達経路が明らかになっていないことは、命令がなかったことを示すものであり、自決に失敗した負傷者を赤松部隊が治療した事実と併せ(甲B18p121、122、141、142)、自決命令がなかったことを物語っている」と主張する。 しかし、富山真順兵事主任の証言から明らかなように、赤松隊の兵器軍曹が米軍上陸前に、村役場にて17歳未満の少年と役場職員を集めて手榴弾を2個ずつ配布し、「敵に遭遇したら1個は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ」と訓示しており、重要な武器である手榴弾が隊長の命令なしに住民に配布されることは考えられない。また、軍の命令で西山に集結した住民は、軍の自決命令によって自決したと認識している。したがって、戦時下の混乱状況での命令の伝達経路が明らかでないからといって、赤松隊長の自決命令がなかったということにはならない。 また、自決命令にしたがって自決を図り、負傷して現に苦しんでいる住民を治療することは、自決命令を出したことと矛盾するものではなく、赤松隊が自決に失敗した住民を治療したからといって、自決命令がなかったことにならず、赤松隊長による自決命令を否定するものではない。 カ 同カ(古波蔵蓉子のエピソードが物語る《赤松命令説》の不存在)について 控訴人は、「ある神話の背景」に記載されている、斬込みに行くことを願い出た古波蔵蓉子が赤松隊長に引き留められたとする話が、赤松隊長が自決命令を出していない決定的な証拠であると主張する。 しかし、古波蔵蓉子が斬込みに行くことを願い出たとされているのは集団自決の3か月半後の7月12日のことである(甲B18・236頁)。これは、米軍上陸後、住民が軍とともに避難し、軍が米軍に対して散発的に攻撃を行っていた時点での話であり、米軍上陸を目前にしていた集団自決直前とは全く状況が異なるのであって、古波蔵蓉子を赤松隊長が引き留めたという話は、何ら隊長による自決命令を否定する根拠とはならない。 (2)同(2)住民の体験談)について ア 同ア(徳平秀雄郵便局長の体験)について (ア)控訴人は、徳平秀雄の手記(乙9)について、「赤松隊長が途方に暮れ、統率力を失っていた状態を明らかにし、村民に自決命令を出す余裕もなく、また命令を村長に届けさせることもできなかったこと言わんとしている」と主張するが、これは控訴人独自の偏った解釈である。 徳平秀雄の手記は、「このようなことは一体誰の責任でしょうか。あの時特攻舟艇を自沈させ、うつろなまま上陸を迎えて途方に暮れ、統率力を失っていた赤松隊長の責任か、また、村民の責任なのか、私はこれから更に、この問題を考え続けていかなければならないだろうか」とあるように、赤松隊長による自決命令を否定するものではないことが明らかであり、徳平の手記に記載された事実が赤松命令説を覆すものではないことは、原判決が認定したとおりである(原判決184頁)。 (イ)また、控訴人は、徳平の手記が「防衛隊が現れてから協議が始まって自決と決まったことを明らかにしているが、命令があったのならば、協議をする必要もないのであり、村長ら村の幹部の協議の結果、自決が決まったというのであるから、自然発生的に自決したのであり、赤松隊長の命令で自決したものでないことを徳平は語っている」と主張する。 しかし、徳平の手記は赤松隊長の命令で自決したのではないなどとはしていない。日本軍の陣地の中から出てきた防衛隊員の伝令が古波蔵村長に伝達事項を伝えた後、古波蔵村長は徳平郵便局長と話をし、その後、古波蔵村長の呼び掛けで「天皇陛下万歳」を三唱し、「発火用意」という村長の号令のあとに手榴弾による集団自決が行われたことは、吉川勇助の陳述書(乙67)記載のとおりである。防衛隊を通じて軍から自決命令が伝えられ、徳平と村長らは具体的な自決の手順等を協議したことは十分に考えられるのであって、村の有力者の協議によって自然発生的に自決が行われたのではなく、軍の指示、命令により集団自決が行われたものである。 (ウ)なお、控訴人は、秦郁彦が徳平の手記を「信頼性のある私的記録と高く評価していることに留意すべきである」と主張するが、秦の意見書(甲B104)は、徳平の手記が信頼性のある私的記録であるとする根拠を明らかにしておらず、控訴人の主張は根拠のないものである。 イ 同イ(大城良平の体験)について 控訴人は、大城良平は一貫して赤松隊長を擁護し、《赤松命令説》を否定しており、大城の証言が《赤松命令説》が虚偽であることを明らかにしている旨主張する。 しかし、原判決が、「『沖縄県史第10巻』(乙9・781頁)に記載された大城良平の体験談も、赤松大尉が部下を指揮できなかったという事情について具体性はなく(大城良平の体験談以外に、赤松大尉が部下を指揮できなくなっていたと語るものは、本訴で提出された書証等の中には存しない。)、多くは大城良平の観測を述べるものにとどまっている」(原判決184頁)と認定しているとおり、大城の体験談は赤松隊長による自決命令がなかったことの具体的根拠を示しておらず、観測を述べるものにすぎないことから、大城の証言は、赤松隊長による自決命令がなかったとするものではない。 (3)同(3)(『秘録沖縄戦記』復刻版で《赤松命令説》は訂正されたか)について 控訴人は、「秘録沖縄戦記」の復刻版(甲B53)について、原判決が「赤松命令説に反対する見解の存在又は沖縄戦の認識をめぐる紛争の存在を考慮して、復刻版を出版した遺族である山川一郎が慎重な態度をとったにすぎない」、「『秘録 沖縄戦史』及び『秘録 沖縄戦記』の資料的価値に変更を認めることはできない」(原判決185頁)したことについて、「遺族山川一郎が慎重な態度をとったと判断するに無理があり、判決の著しい偏りといえる」と主張する。 しかし、原判決が認定しているとおり、「秘録 沖縄戦記」復刻版は、山川泰邦の死後に復刻され、慶良間列島の集団自決等に関する記述の一部を削除した理由について、「集団自決についてはさまざまな見解があり、今後とも注視をしていく必要があることを付記しておきたい」としており、復刻版の出版者である山川一郎が集団自決に関するさまざまな見解の存在を考慮して慎重な態度を示していることは明らかであり、同復刻版は、集団自決について隊長命令があったことを否定するものではなく、原判決の認定は何ら偏ったものではない。 (4)同(4)(その他資料の評価)について ア 同ア(『陣中日誌』の転載の正確性)について 控訴人は、原判決が「陣中日誌」について「その転載の正確性を確認できない」(原判決186頁)としていることについて、「根拠もなしに、不正確かのように評価するのは恐ろしく乱暴な証拠評価といわざるをえない」と主張する。 しかし、原判決は、「赤松大尉が渡嘉敷島を訪れた際に抗議行動が起こり、そのことが報道されたのが同年3月であるところ(甲A4ないし7)、『陣中日誌』は、このような報道後、同年8月15日に発行されたものであるし、その元となった資料は書証として提出されておらず、その転載の正確性を確認できない」とし、抗議行動を受けて、赤松隊長に不利な集団自決の経緯に関する記述をしていない可能性が疑われることや、「陣中日誌」作成の根拠となった資料の内容が不明である点を指摘して、その記載の正確性が確認できないとする根拠を具体的に示しており、原判決の証拠評価は正当である。 イ 同イ(大江志乃夫の判断について)について 控訴人は、大江志乃夫が「花綵の海辺から」(甲B36)に「赤松嘉次隊長が『自決命令』を出さなかったのはたぶん事実であろう」と記載したことについて、「『沖縄県史第10巻』(p778~p783)、『沖縄戦ショーダウン』(甲B44p3)で取り上げられる大城良平の取材を基にしたものであり、赤松隊長が自決命令を出さなかったという記述は、文科省の平成18年度教科書用教材検定における専門委員の意見書が、いずれも赤松隊長の自決命令を認めていないことからしても客観的事実に合致する」とし、「集団自決の本質をとらえており、その指摘は評価に値する」と主張する。 しかし、「沖縄県史第10巻」の大城良平の手記の内容は、原判決が認定したとおり、大城の観測を述べるものにすぎず(本準備書面43頁)、「沖縄戦ショウダウン」、「花綵の海辺から」における大城の証言は「沖縄県史第10巻」の大城の手記と同じ内容であって、これも大城の観測にとどまるものであり、赤松隊長の自決命令がなかったとするものではない。また、前記第3、2のとおり、平成18年度の教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会が意見聴取した専門家のうち、赤松隊長の自決命令がなかったとしているのは、秦郁彦と原剛のみであり、その他の専門家は隊長による自決命令を否定していない(甲B104)。したがって、「赤松嘉次隊長が『自決命令』を出さなかったのはたぶん事実であろう」とした大江志乃夫の見解は大江の感想を述べたものにすぎず、本訴における資料価値は低いとした原判決の判断は正当である。 (5)同(5)(知念証言について)について ア 控訴人は、原判決が、知念証人が陳述書(甲B67)に、常に赤松隊長の傍らにいたと記載しているにもかかわらず、西山陣地への住民に対する集結指示は知らない旨証言し(知念証人調書12頁)、住民が西山に集結した事実を知らなかった旨陳述書に記載していることを、「知念証人の証言の信用性に疑問を生じさせるか、知念証人が赤松大尉の言動をすべて把握できる立場にはなかったことを窺わせるもので、いずれにしても赤松大尉の自決命令を『聞いていない』『知らない』という知念証人の証言から赤松大尉の自決命令の存在を否定することは困難である」(原判決188頁)としたことについて、「知念少尉が、事実上の副官であったとしても、軍の問題でもない部落民の避難場所の相談に対し、そのすべてに関与することはあり得ない」「住民の避難の相談について知念少尉が知らなくても不思議ではない」などと主張する。 しかし、知念証人は、陳述書(甲B67)において「私は、正式には小隊長という立場でしたが、事実上の副官として常に赤松隊長の傍におり、私を素通りしていかなる赤松隊長による下令もあるはずがありません。私は、赤松隊長が自決命令を出したことは、見たことも聞いたこともありません。赤松隊長の傍には私が常にひかえていたのですから、自決命令がなかったことは間違いありません」と記載しながら、赤松隊長自身が認めている住民に対する西山への避難命令(集結指示)について、知らなかったと証言しており(知念証人調書12頁、甲B67)、知念証人が赤松隊長の出した命令・指示のすべてを把握してはいなかったことが明らかであり、赤松隊長による自決命令がなかったと証言できる立場にない。 イ また、控訴人は、原判決が「手榴弾を配布したことを副官を自称する知念証人が知らないというのは、極めて不合理であるというほかない」(原判決189頁)としたことについて、「手榴弾は勤務隊の兵器係が管理していたものであり(甲B36p27)、防衛隊に渡された手榴弾も勤務隊を通じて配布されたものである」「勤務隊から直接防衛隊に配布された場合には、第3戦隊の赤松隊長や副官の知念少尉がその事実を知らないことになる」と主張する。 しかし、補給路を断たれた第三戦隊において貴重な武器であり厳重に管理されるべき手榴弾が、勤務隊も含めた渡嘉敷島の日本軍の最高責任者であった赤松隊長の命令・許可なく住民に配布されるとは考えられず、原判決の認定は正当である(赤松隊の中隊長であった皆本証人は、防衛隊員による手榴弾交付について「恐らく戦隊長の了解なしで勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思います」と証言している(皆本証人調書25頁))。 ウ さらに、控訴人は、原判決が、知念証言について、「原告ら代理人の質問には迎合的で、被告ら代理人の質問には拒否的で、一貫性のない表現をしている」(原判決190頁)と判示した点について、「裁判所の偏見にみちた認定という他はない」と主張する。 しかし、知念証人は、原告代理人に対しては「沖縄県史第10巻」の「副官の証言」の記載は事前に確認して間違いがない旨証言したのにもかかわらず、一審被告代理人の質問に対しては、米軍に保護された少年2名を日本軍が処刑したことについて、「正直いってそれは分かりません」「私は直接会っていませんし、このことについて今初めて聞くんですから、ちょっと分かりません」と証言し、また、伊江島の女性等の処刑について、「伊江島のこの処刑については、私はぜんぜん知らないんです」などと証言しているのであり、「原告ら代理人の質問には迎合的で、被告ら代理人の質問には拒否的で、一貫性のない表現をしている」との原判決の認定は正当である。 知念証人は、原審証人尋問において、「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」と赤松隊長が住民に対して伝言したことがあるかとの一審原告代理人の質問に対し、「これはあります」と答え(知念証人調書5頁)、一審被告代理人の質問に対しては、そのように一審原告代理人の主尋問に答えたことについて記憶にない旨証言するなど(知念証人調書11頁)、隊長の自決命令に関する証言が一貫しておらず、赤松隊長が住民に対する自決命令を出したことはないとする証言自体信用できない。 そして、知念証人は、赤松隊長が、捕虜になることを許さないとして、伊江島の女性、朝鮮人軍夫、大城訓導の処刑を口頭で命じたと証言しており(知念証人調書15頁)、昭和20年3月28日当時においても、赤松隊長は、住民が捕虜になることがないよう、住民に自決命令を発したと考えられる。 エ なお、控訴人は、母親を殺したという姉弟に赤松隊長の命令で乾麺麩を与え財布を渡したとする知念証人の行動から、「隊長あるいは部隊が自決命令を出していないことは容易に推測できる」と主張するが、米軍上陸直前に住民に対する自決命令を出すことと、その後生き残った幼い姉弟に乾麺麩等を与えることとは何ら矛盾するものではなく、赤松隊長が自決命令を出していないことは推測できるとはいえない。 オ 以上述べたとおり、知念証言に対する原判決の判断は全く正当である。 (6)同(6)(皆本証言について)について ア 控訴人は、皆本証人が「現実には赤松隊長に戦況報告にいった際には、赤松隊長は、手榴弾配布のことも、自決命令のことも何もいっていない(甲B66p17)。そうであれば、自決命令はもちろん、自決のための手榴弾配布もされなかったというのが自然な解釈というべきである」と主張し、原判決が、皆本証人が赤松隊長の言動を把握できる立場にないと認定したこと、及び手榴弾に関する陳述書(甲B66)の記載及び証言が信用できないとしたことを論難するようである。 しかし、皆本証人が赤松隊の本体に合流したのは3月28日午前10時であり(皆本証人は、赤松隊の本体に合流したのは3月28日午前10時であるとの「沖縄方面陸軍作戦」の記載について、防衛研究所戦史室の調査にもそのように答えたと認めている(皆本証人調書16~18頁))、また、皆本証人が中隊長であった第三中隊は本部とは別の場所に配置されていたのであるから(皆本証人調書21頁)、皆本証人が陣地内の状況をすべて把握していたわけではない(皆本証人調書27頁)。したがって、皆本証人は常に赤松隊長のそばにいたのではなく、赤松隊長の言動を把握しておらず、赤松隊長の自決命令がなかったと証言できる立場にないことが明らかである。 そして、渡嘉敷島の集団自決において、住民は、富山の証言等にあるように、軍や防衛隊員から配られた手榴弾で自決を図ったのであるが、手榴弾は軍の重要な武器であり、皆本証人も軍の最高責任者である赤松隊長の了解なしに防衛隊員に手榴弾が交付されるはずはない旨証言しており(皆本証人調書25頁)、手榴弾の交付が赤松隊長の指示・了解なしに行えないことを認めている。 イ なお、控訴人は、「沖縄方面陸軍作戦」(乙55)と皆本証人の陳述書(甲B66)の本隊への合流時間の齟齬について、「資料のごく一部と証言の食い違いに特段の意味を見出すのは合理的な証拠評価といえない」と主張するが、原判決は、合流時間の齟齬のみを理由に皆本証人の証言を信用できないとしたものではない。 ウ 以上述べたとおり、皆本証言についての原判決の認定は正当である。 (7)同(7)(赤松大尉手記)について 控訴人は、原判決が、「潮」に掲載された赤松隊長の手記(甲B2)の記載と「週刊新潮」の取材に応じた記録(甲B73)の記載を比較して、「潮」の「赤松手記の記載内容には疑問があり、それを直ちに措信することはできない」(原判決196頁)としたことについて、「週刊新潮」の記事は、「赤松隊長に取材したなら、起こるはずのない虚偽を記載しており、その余の記載にも信用性がない」とし、「『週刊新潮』の記事を『赤松隊長の手記』と比較するのは、前提において誤っている」と主張する。 しかし、「週刊新潮」の赤松隊長に対する取材記事(甲B73)は、一審原告によって赤松隊長の自決命令を否定する証拠として提出されたものであり、その記載内容に信用性がないとする控訴人の主張は、不可解というほかない。 原判決は、赤松隊長の手記(甲B2)、赤松隊長に対する「週刊新潮」(甲B73)、「琉球新報」(乙26)の取材記事の記載内容を比較して赤松隊長の手記(甲B2)は「自己弁護の傾向が強く、手記、取材毎にニュアンスに差異が認められるなど不合理な面を否定できず、全面的に信用することは困難である」として「ただちに措信することはできない」とするもので、その判断は正当である。 (8)同(8)(被控訴人大江は十分な取材をしたのか)について 控訴人は、被控訴人大江の「沖縄ノート」執筆の際の取材について、「牧港ら、被控訴人大江が親交を結んだメンバーは、牧港が『鉄の暴風』共著者であることを除けば、渡嘉敷島、座間味島の集団自決とは関係のない、社会活動家、政治活動家であり、被控訴人大江が渡嘉敷島、座間味島の集団自決の具体的情報を得るだけの体験も資料も持っていた兆候はない」と主張する。 しかし、被控訴人大江が取材した当時、牧港篤三は沖縄タイムス社の記者であり、「鉄の暴風」を執筆し、新川明は八重山地方で沖縄タイムス社の記者を務めており(後に沖縄タイムス社の編集局長、社長を務めた)、外間守善は沖縄の文化・伝統の研究の第一人者であり、大田昌秀は自ら鉄血勤皇隊の一員として沖縄戦を戦った経験者として沖縄戦及び沖縄の民衆意識を研究し(後に沖縄県知事を務めた)、いずれも沖縄の歴史・文化に対して十分な見識を有する知識人であり、これらの知識人について「集団自決の具体的情報を得るだけの体験も資料も持っていた兆候はない」という控訴人の主張は、誤った憶測にすぎない。また、「鉄の暴風」が伝聞に基づくものではなく、集団自決の体験者からの直接の聞き取りをもとにしていることは前記第3、4(1)のとおりである。 被控訴人大江は、自ら渡嘉敷島、座間味島に赴いて現地で調査することはしていないが、集団自決の直接体験者からの聞き取りに基づいて執筆された「鉄の暴風」や「沖縄戦記」(乙3)等の書籍を収集、検討し、体験者の証言を集めた本を中心に読み、「鉄の暴風」の執筆者である牧港ら知識人らから話を聞き、何度も牧港の元を訪れて取材し、牧港から沖縄タイムス社にある資料を見せてもらうなどし、これらに基づいて「沖縄ノート」を執筆したのである(乙97、被告大江本人調書8頁)。 このように、「沖縄ノート」は十分な取材に基づいて執筆されたものであり、原判決が被控訴人大江の沖縄ノート執筆の際の取材状況を、赤松隊長の自決命令があったことが真実であると信じるについて相当の理由があったとする判断の一要素として考慮したことは、全く正当な判断である。 (9)同(9)(富山真順の証言の評価)について ア 控訴人は、昭和20年3月20日に、兵器軍曹が村役場で、17歳未満の村民に手榴弾を2発ずつ配ったという富山真順の証言について、原判決が「『自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する』と述べているが(原判決p206)、当該証言に内容の変遷があるという重大な事実を全く考慮しておらず、あまりに杜撰な証拠評価を行っている」などと主張する。 しかし、原判決の認定は正当であって、控訴人の主張は全く理由がない。 富山真順の証言は、 「(1) 1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山氏に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した(非常呼集)。富山氏は、軍の指示に従って『17歳未満の少年と役場職員』を役場の前庭に集めた。 (2) そのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、『米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ』と訓示した。 (3) 3月27日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任の富山氏に対して軍の命令が伝えられた。その内容は『住民を軍の西山陣地近くに集結させよ』というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。 (4) 3月28日、恩納河原の上流フィジガーで住民の『集団死』事件が起きた。このとき防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の『自殺』を促した」 というものであるが(乙11・158頁、乙12、乙67)、この手榴弾配布に関する証言は詳細であるうえ、朝日新聞記事(乙12)において「この位置に並んだ少年たちに兵器軍曹が自決命令を下した」と、実際に手榴弾を交付されて自決命令を受けた場所を指し示すなど、非常に具体的である(乙12写真説明)。そして証言をした理由を問われた富山が、「いや、玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、改めて証言しておこうと思った」としているとおり、富山は、軍(赤松隊長)による自決命令があったことについての渡嘉敷村における住民の認識を改めて明らかにしたものであり、同証言がなされた経緯は何ら不自然ではない。富山証言を「実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する」とした原判決の判断は全く正当である。 イ 控訴人は、第三次家永訴訟における証人尋問において、初めて富山証言がなされたことが不自然であるとし、安仁屋政昭が金城重明に働きかけて工作したのではないかとの疑いすら生じると主張するが、富山証言がなされた経緯は上記のとおりであって何ら不自然ではない。 また、金城重明は、富山証言について、「本人から直接聞きました」「きっかけは、私が家永訴訟の体験者、証人として証言をするということを富山さんも知ったわけですよ。だから、実はあなたのおやじさんとは親しい、身近な関係だったと。あんたが出るならこういう事実があったんだよと言って、手榴弾を配った話をじかにしてくれました」「会ったわけですよ。渡嘉敷に行って」「証人は複数いますから、連絡を取り合ってます。例えば沖縄国際大学の教授をしておられた安仁屋さんとか、連絡を取り合っていますから、彼の方が情報が先だっただろうかなと思います。富山さんがこういう情報を持っているよと。多分そういう経緯で、私が後からかけたと思います」(金城証人調書24~25頁)と証言している。金城証人は、第三次家永訴訟で証言するにあたり、安仁屋政昭から、富山が渡嘉敷島での手榴弾交付の事実を知っている旨を知らされ、自ら渡嘉敷島へ赴いて、昭和20年3月20日の村役場における兵器軍曹による手榴弾交付の事実を、金城証人の父親と親しかった富山本人から直接聞いたものであり、安仁屋が金城に働きかけて工作したなどということは全くなく、富山証言が真実であることは疑いがない。 なお、控訴人は、渡嘉敷島の住民からの聞き取りからなる「渡嘉敷村史資料編」(甲B39)に富山証言にある手榴弾交付の事実が記載されていないことについて、「当時《手榴弾交付説》が住民のだれも知らないものであったことの証左である」と主張するが、「渡嘉敷村史資料編」における富山の手記は昭和19年10月10日の空襲時の状況を内容とするもので、集団自決について述べたものではない。また、安仁屋政昭が執筆した同書籍の第四章、第一節「慶良間諸島の戦争(解説)」の「渡嘉敷島の戦闘と住民」の項に、「すでに上陸前に、村の兵事主任を通して軍から手りゅう弾が配られており、『いざという時』にはこれで自決をするように指示されていたといわれる」(甲B39・366頁)と記載されているように、富山証言にある手榴弾交付の事実が記載されている。 ウ 控訴人は、吉川勇助の陳述書(乙67)において、昭和20年3月20日の村役場における日本軍による手榴弾配布の事実が記載されていないことについて、「吉川の記憶にそれがなかったことを証明している」と主張する。 しかし、吉川は、陳述書において、自身が所持していた手榴弾の入手先について、1個は3月23日の空襲のあとに敵に捕まった時の自決用にもらったもの、もう1個は、3月28日に軍から伝令が古波蔵村長のもとに来た後、村長が号令をかける前に村長からもらったとの事実を記載しているのであり、富山証言にある3月20日の手榴弾交付の事実の記憶がなかったのではない。吉川が3月20日に兵器軍曹から手榴弾の交付を受けていないからといって、渡嘉敷村の17歳未満の少年と役場職員の全員が役場に呼ばれたわけではなく、富山証言が虚偽であるということはない。 (10)同(10)(金城重明の証言の評価)について ア 控訴人は、原判決が、金城重明の証言を「自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する」と判示したことについて、「証拠の吟味を最初から放棄したかのような、極めて杜撰な、偏ったものである」と主張するが、以下に述べるとおり、原判決の判断は正当である。 イ 控訴人は、昭和20年3月20日に兵器軍曹が住民に対して手榴弾を交付したとの富山証言が真実ならば、「命令の一貫性から考えて、一部の部落だけに手榴弾を交付したり、『自決せよ』と言ったりすることはあり得ないし、周囲20㎞の狭い島の中で『手榴弾の交付を受けたという話を誰からも聞いていない』などということはあり得ない」と主張する。 しかし、金城は、軍の本部があった渡嘉敷島の渡嘉敷部落ではなく、渡嘉敷部落から離れた字阿波連の住民であったことから、富山証言の手榴弾の交付の対象ではなく、当時のことは知らないのであって、富山証言にある手榴弾の交付の事実を、第三次家永訴訟時点まで知らなかったとしても何ら不自然ではない。 ウ また、控訴人は、《万歳三唱説》なるものが、「潮」11月号(甲B21)、「ある神話の背景」に記載されておらず、家永訴訟における証人尋問においても証言されておらず、平成19年6月8日付沖縄タイムス紙上において《万歳三唱説》を唱えるに至ったとし、金城が最近になって無理やり《万歳三唱説》を作出したなどと主張する。 しかし、金城重明は、第三次家永訴訟の証人尋問においても、本訴原審における証人尋問においても、自身の記憶に基づいて、詳細かつ誠実に、集団自決の際の事実関係について証言している。渡嘉敷島における集団自決の際に、古波蔵村長の号令により「天皇陛下万歳」を三唱して自決が始まったことは、金城の「集団自決を心に刻んで」(甲B42・52頁)に記載されているほか、「渡嘉敷村史資料編」(甲B39)の小嶺幸信の手記(386~387頁)にも記載されており、金城によって近年突然語られるようになったものではない。金城は、本訴原審における証人尋問において、悲惨な集団自決の状況を、誠実かつ詳細に証言したのであり、「無理やり《万歳三唱説》を作出した」などということは全くない。 なお、控訴人は、「集団自決を心に刻んで」(甲B42)の「軍から命令が出たらしいとの情報が伝えられました(この事実関係については議論がある)」との記載について、金城が「軍による自決命令について自ら疑問を抱いていたと」しているが、これは、軍による自決命令があったとの立場である金城が、自己の立場を前提に、軍命令を否定する見解がある事実を客観的に記載したものにすぎない。 エ さらに、控訴人は、金城が、集団自決後に負傷した部位を治療するために軍の医療班のもとへ通ったと証言したことについて、「真に軍から自決命令が出ており、それが被控訴人らの主張するように『島民を死に追いやる程に意思を拘束していた』というのであれば、金城が負傷した部位を治療するために軍の医療班のところまで何度も通うということはあり得ないし、そもそも治療してもらって生き延びようという発想自体生じるはずがない。また、赤松隊長が自決命令の対象である島民にわざわざ薬のありかを教えるはずもない」とし、上記金城の証言が赤松命令を否定する重要な事実であり、これを金城が語ることが大きな矛盾であるなどと主張する。 しかし、金城が軍の医療班のもとへ通っていたのは、米軍が上陸し、米軍の攻撃から生き延びた軍・民ともに避難生活を送っていた時点でのことであり、集団自決が行われたその時とは、全く事情が異なるのであって、治療のために医療班のもとへ通うことは何らおかしなことではなく、このことは赤松隊長の自決命令の存在を否定するものではない。 (11)同(11)(吉川勇助の証言の評価)について 控訴人は、「そもそも『伝令』なるものの存在が疑わしい」「吉川証言は『手榴弾の交付』という本件の重要な問題点について相矛盾しており、その信用性は疑わしい」として、原判決が、吉川勇助の陳述書(乙67)、吉川の証言を掲載した沖縄タイムス記事(乙70の1ないし3)について「実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する」としたことについて、「明らかに証拠の吟味を欠いた、極めて杜撰な、偏った認定である」と主張する。 しかし、吉川勇助は、軍陣地から出てきた40歳過ぎの中年男性である防衛隊員が「伝令」と叫びながら古波蔵村長の隣まで来ると、村長の耳元で何かを伝え、村長は何度も頷いていたこと、伝令の話を聞き終えた村長が郵便局長と話をし、しばらくたって住民に呼び掛けて「天皇陛下万歳」を三唱し、村長の「発火用意」との号令によって集団自決が始まったことを述べており、その供述は具体的かつ詳細であり、吉川勇助の陳述書(乙67)、沖縄タイムス記事(乙70の1ないし3)について「実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する」とした原判決の認定は正当である。 控訴人は、沖縄タイムス記事(乙70の1ないし3)に米軍上陸前に2発の手榴弾が交付された事実が記載されていることをもって、陳述書(乙67)と相矛盾すると主張するが、米軍上陸前に日本軍が2発の手榴弾を交付した事実(富山証言によって明らかになった事実)と、陳述書に記載した吉川自身が手榴弾を受け取った経過とは何ら矛盾するものではない。 (12)同(12)(金城武徳の証言の評価)について 控訴人は、原判決が金城武徳の証言について存在を指摘するのみで何ら評価を加えておらず、「意図的ともいえる判断の遺脱であり、証拠評価に不均衡があることを如実に物語るものである」と主張する。 しかし、金城武徳の「正論」(甲B38)、DVD(甲B52の1ないし2)における証言は、単に集団自決が軍の命令ではないとするのみで、隊長命令がなかったことを具体的に指摘するものではなく、金城は隊長命令がなかったことを指摘できる立場にない。 したがって、原判決に証拠評価の不均衡は存在しない。 第4 同第4(宮平秀幸証言)について 被控訴人準備書面(2)で反論したとおり、控訴人主張の宮平秀幸の新証言は、母宮平貞子の証言や宮城初枝の証言、宮平春子の証言に照らし、また、従前の宮平秀幸の供述などに照らし、全く信用できない。 第5 同第5(『沖縄ノート』による人格非難について)について 1 同1(原判決の判示)(120頁)について 「沖縄ノート」について両隊長に対する名誉毀損性が認められないことは、当審答弁書記載のとおりである。 2 同2(究極の故人攻撃)(121頁)について 控訴人指摘の「沖縄ノート」の論評部分が違法性を有しないことは、原判決が丁寧に判示しているとおりである。 以上 1/3へ | 前へ | 沖縄集団自決訴訟第2審
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被告準備書面(7)要旨2007年1月19日その2 http //www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/syomenn7.html 被告準備書面(7)要旨2007年1月19日その1 被告準備書面(7)要旨2007年1月19日その2 被告準備書面(7)要旨2007年1月19日その2第3 平成18年11月10日付原告準備書面(5)に対する反論1 同第1(『鉄の暴風』と座間味島の《梅澤命令神話》)について(1)原告らは、1945年(昭和20年)3月25日夜、 (2)すでに被告準備書面(5)において詳述したとおり、 2 同第2(座間味島の《梅澤命令説》に関する被告主張に対する反論)について(1)同2(県史の実質的修正について)について (2)同3(宮村幸延の『証言』(甲B8)について)について (3)同4(宮城初枝証言について)について (4)同5(座間味村公式見解、住民手記、『自叙伝』について)についてア 同(1)(宮村盛永『自叙伝』について)について イ 同(2)(住民手記について)について ウ 同(3)(座間味村公式見解について)について 3 同第3(「鉄の暴風」と渡嘉敷島の《赤松命令神話》)について(1)同2ないし7について (2)同8(「ある神話の背景」が語る赤松命令形成の背景)について (3)同10(上原正稔「沖縄戦ショウダウン」)について 4 同第4(渡嘉敷島の≪赤松命令説≫に関する被告主張に対する反論)について (1)同1(手榴弾配布について)についてア 原告は、 イ また原告は、日本軍は渡嘉敷での地上戦を予想しておらず、 ウ さらに原告は、手榴弾が軍の厳重な管理の下に置かれていなかったとも主張するようである。 エ 原告は、 (2) 同2(太田良博の『鉄の暴風』取材等について)について (3) 同3(富山証言の信用性について)について 第4 百人斬り競争事件上告審決定について 第3 平成18年11月10日付原告準備書面(5)に対する反論 1 同第1(『鉄の暴風』と座間味島の《梅澤命令神話》)について (1)原告らは、1945年(昭和20年)3月25日夜、 従来からの軍命の伝達方法に従い、防衛隊長である助役から指示された伝令役の防衛隊員が、 「忠魂碑前で玉砕するから集まるように」 との指示を座間味島の村民に伝え、村民はこれを軍の玉砕(自決)命令であると受け止めたことを認めるに至った。また、この指示は「軍の命令」ととれるかのような形で村内に伝えられたことも認めるに至った(以上、原告準備書面(5)5~7頁)。 ただし、原告らは、上記指示は助役ら座間味村幹部が行ったもので、「軍命令」「梅澤隊長命令」ではなかったと主張する。 原告らは、その根拠として、 「二十五日に、道すがら助役に会うと“これから軍に、自決用の武器をもらいに行くから君も来なさい”と誘われた。この時点で村人たちは、村幹部の命によって忠魂碑の前に集まっていたが、梅沢少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と、武器提供を断った」 との神戸新聞掲載の宮城初枝氏の談話及び同新聞に紹介された宮村幸延氏の話を引用している。しかし、前記のとおり、初枝氏の上記談話は、「母の遺したもの」などに掲載されている初枝氏の手記の記載内容に反するものであり、幸延氏の話も同氏への取材にもとづくものとはいえない。 (2)すでに被告準備書面(5)において詳述したとおり、 沖縄戦において日本軍は、「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍官民一体の総動員作戦を展開していたもので、座間味島や渡嘉敷島の日本軍は、米軍が上陸した場合には村民とともに玉砕する方針を採っており、秘密保持のため、村民に対しても米軍の捕虜となることを禁じ、米軍の捕虜となった場合は女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺されるなどと脅し、いざというときは玉砕(自決)するよう言い渡していたものである。 座間味島では、1942年(昭和17年)1月から太平洋戦争開始記念日である毎月8日の「大詔奉戴日」に、忠魂碑前に村民が集められ、「君が代」を歌い、開戦の詔勅を読み上げ、戦死者の英霊を讃える儀式を行ったが、海上挺進戦隊第一大隊(梅澤隊長)と海上挺進基地第一大隊(小沢義廣隊長)が駐留することになった1944年(昭和19年)9月10日以降は、村民は日本軍や村長・助役(防衛隊長兼兵事主任)らから戦時下の日本国民としての「あるべき心得」を教えられ、 「鬼畜である米兵に捕まると、女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される。その前に玉砕すべし」 と指示されていた(甲B5「母の遺したもの」97~98頁。海上挺進隊の基地化について同161頁以下)。また、上記駐留開始直後、小沢隊長は座間味島の浜辺に島の青年団を集合させ、米軍が上陸したら耳や鼻を切られるなどの虐待をされ、女は乱暴されるから自決するよう指示している(乙41)。 前記のとおり、座間味島では、1945年(昭和20年)3月25日の夜に、米軍の上陸を目前にして、米軍の艦砲射撃のなか、防衛隊長である助役の指示により、防衛隊員が伝令として、玉砕(自決)のため忠魂碑前に集合するよう村民に伝達して回り、その結果集団自決に至ったものであるが、軍は、軍官民共生共死の一体化の方針のもと、いざというときは玉砕するようあらかじめ村民に指示しており、軍の部隊である防衛隊の隊長であり兵事主任でもある助役が、自決命令が出たことを防衛隊員から村民に伝えさせ、自決のため集合させたことは明らかであり、この自決命令は軍の命令にほかならない。村民たちが軍の自決命令が出たと認識していたことは前記のとおりである。 また、村民に自決のために手榴弾が渡されているが、手榴弾は貴重な武器であり、軍(=隊長)の承認なしに村民に渡されることはないと考えられ、実際にも、手榴弾は防衛隊員その他の兵士から渡されている。 2 同第2(座間味島の《梅澤命令説》に関する被告主張に対する反論)について (1)同2(県史の実質的修正について)について 原告らは、紀要(甲B14)末尾6行部分は原告梅澤が記した文ではなく、大城将保氏が書いたものであると主張する。しかし、同部分は原告梅澤の手記の後半部分が主観的記述であったので、手記の掲載にあたり後半部分をカットし、その代わりに末尾6行に原告梅澤の結論を加筆し付加したものである(乙45)。(なお、甲B10の神戸新聞掲載の大城将保氏の談話が本人への取材によるものでなく、事実に反するものであることは前記のとおりである。) (2)同3(宮村幸延の『証言』(甲B8)について)について 『証言』が真実を記載したものでないことは、前記(第2,1(1))のとおりである。 (3)同4(宮城初枝証言について)について 原告らは、3月25日夜の原告梅澤と助役らとの会談について、宮城初枝氏の手記と原告梅澤の陳述書との食い違いは些末であると主張するが、重大な食い違いである。原告梅澤は陳述書で、 「決して自決するでない。共に頑張りましょう」 と述べたとしているが、初枝氏は手記において、原告梅澤は 「今晩は一応お帰りください。お帰りください」 とだけ述べたとしている(甲B5・39頁)。初枝氏は玉砕するという助役の言葉に驚いたというのであるから、梅澤隊長が「自決するでない」と言ったのであれば、当然このことを記憶し手記に記載しているはずである。また、初枝氏はこのときのことを心の重荷として記憶し続けていたというものであるのに対し、原告梅澤は1980年(昭和55年)12月に初枝氏から告げられるまで、このときのことを覚えていなかったというのであるから(甲B5・262頁)、初枝氏の手記の記載に照らし原告梅澤の陳述書の記載は到底信用することはできない。 (4)同5(座間味村公式見解、住民手記、『自叙伝』について)について ア 同(1)(宮村盛永『自叙伝』について)について 宮村盛永氏が梅澤隊長の自決命令があったとしていることは、昭和63年(1988年)11月18日付の座間味村村長の沖縄タイムスあて回答(乙21の1、正式な公文書)に、宮村盛永氏が部隊長命令があったと明言していると記載されていること、「自叙伝」(乙28)に 「今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着替えて集合しなさいとの事であった」(71頁) との記載があること(息子の盛秀の言葉として「玉砕せよとの命令があるから」と記載されていることから、命令とは盛秀の命令ではなく軍の命令であることが明らかである)、「自叙伝」が詳細を参照するよう指摘している「地方自治七周年記念誌」(乙29)に、 「夕刻に至って部隊長よりの命によって住民は男女を問わず若い者は全員軍の戦闘に参加して最後まで戦い、また老人子供は全員忠魂碑の前において玉砕する様にとの事であった」(451頁) と記載されていることから明らかである。 イ 同(2)(住民手記について)について 原告らは、玉砕命令があったとの住民の手記に命令の主体が記載されていないと指摘するが、軍が絶対権力を掌握していた座間味村において、「命令」は軍の命令以外にありえないものである。 また、原告らは、野田部隊長や、一軍曹、水谷少尉、一兵士などの住民への玉砕指示は梅澤隊長の自決命令があったことの根拠とはならないと主張するが、これらの事実は、慶良間諸島に駐留していた日本軍が、「軍官民共生共死の一体化」方針のもとに、米軍上陸時には玉砕するよう住民に指示していたことを示す証拠であり、軍の命令(梅澤隊長命令)が存在したことの根拠となるものである。 ウ 同(3)(座間味村公式見解について)について 原告らは、座間味村が集団自決を援護法の適用対象とするため部隊長命令を作出したので、部隊長命令を維持せざるをえないのだと主張するが、前記のとおり、集団自決が部隊長命令によるものであることは昭和20年(1945年)当時から村民の共通の認識であり、戦闘参加者処理要綱を決定する以前から集団自決はこれに該当するとされており、部隊長命令がなければ適用対象にできないと言われたから部隊長命令があったことにしたものでないことは明らかである。また、宮村幸延氏の厚生省への陳情は、上記処理要綱が決定された後に、適用年齢を14歳未満へ引き下げることについて行われたものである。したがって、原告らの主張は理由がない。 また、原告が指摘する本田靖春氏の「第一戦隊長の証言」(甲B26)記載の援護法申請に関する厚生省係官の発言等は、原告梅澤の手記をもとにしたものにすぎず、その内容は信用できない。 原告ら引用の神戸新聞記載の幸延氏の話も、幸延氏への取材によるものではなく、記者が友人である原告梅澤から聞いた幸延氏の話を記載したものにすぎない(前出)。 3 同第3(「鉄の暴風」と渡嘉敷島の《赤松命令神話》)について (1)同2ないし7について 原告は、「鉄の暴風」に記述された赤松隊長による自決命令は、根拠の薄弱な噂ないし風説に基づくものであるとし、援護法適用以前にそのような「噂や風説が成立した理由」として縷々主張し、その前提として、「沖縄県史第10巻」(乙9)における徳平秀雄郵便局長、金城ナヘの手記、及び「沖縄県警察史第2巻」(甲B16)における安里喜順の手記、1971年(昭和46年)「潮」11月号(甲B17)における星雅彦のエッセイに基づいて、渡嘉敷島における集団自決は、赤松隊長の命令によるものではなく、村の責任者の協議により決定され、古波蔵村長の主導で自決に至ったものだとして、集団自決が発生したのは、主として古波蔵村長の責任であるかのように主張している(原告準備書面(5)24頁~27頁)。 しかし、渡嘉敷島における集団自決の前に、村の有力者の協議があり、古波蔵村長による演説があったとしても、その点を捉えて、集団自決が村の有力者や古波蔵村長によって決定されたなどということには全くならない。 前記のとおり、米軍が上陸する直前の1945年(昭和20年)3月20日に、赤松隊長の命令によって集められた20数名の住民に対して、赤松隊の兵器軍曹から、手榴弾を2個ずつ配り、 「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」 と訓示して、あらかじめ隊長による自決命令がなされている。また、米軍が渡嘉敷島に上陸した同年3月27日には、赤松隊長から兵事主任に対し、 「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」 という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が住民に伝えられ、住民が同命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まると、翌3月28日、村の指導者を通じて住民に軍の自決命令が出たと伝えられ、軍の正規兵である防衛隊員が手榴弾を持ち込んで住民に配り、集団自決が行われたのである。したがって、村長ら有力者による協議および古波蔵村長による演説等があったとしても、それは軍(赤松隊長)による自決命令の伝達にすぎず、古波蔵村長らの主導によるものなどでは全くない。 (2)同8(「ある神話の背景」が語る赤松命令形成の背景)について 原告は、古波蔵村長が集団自決の音頭を取っていながら生き残った村長としての責任を軽減するために、存在しない赤松隊長による自決命令を生み出したと解するのが合理的であると主張する(原告準備書面(5)29頁~32頁)。 しかし、前記のように、古波蔵村長が住民に対して演説を行っていたとしても、それは軍(赤松隊長)による自決命令の伝達にすぎず、古波蔵村長が存在しない自決命令を生み出したなどという原告の主張は誤りである。 (3)同10(上原正稔「沖縄戦ショウダウン」)について 原告は、「沖縄戦ショウダウン」(甲B44)が琉球新報に掲載されていたことが、赤松命令説がもはや沖縄でも虚偽であることが広く認識されていることを意味していると主張する。 この「沖縄戦ショウダウン」には、 「赤松隊長は悪人ではない、それどころか立派な人だった」(金城武則)、 「村の人で赤松さんのことを悪くいうものはいないでしょう」(大城良平)、 「赤松嘉次さんは人間の鑑です」(安里喜順(※1))、 「尊敬している。嘘の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」(知念朝睦(※2)) という赤松隊長を賛美する住民らの発言が多数引用されている。 【引用者註】(※1)当時駐在所巡査として部隊から村長らへの命令伝達者。(※2)当時赤松隊長(大尉)の副官で少尉 しかし、赤松隊長は、渡嘉敷島において住民を虐殺している。米軍が投降勧告のために、伊江島から移送された住民6名を西山陣地に送ったところ、赤松隊長は、これを捕らえて処刑し(乙8・411頁、乙13・200~201頁)、投降を呼びかけに来た少年2人を処刑し(乙8・411頁)、国民学校の訓導(教頭)であり防衛隊員であった大城徳安氏を、家族を心配して軍の持ち場を離れたということだけで処刑したことが明らかになっている(乙8・411頁、乙9・693頁)。このように、赤松隊長は、罪のない住民を虐殺した人物であるにもかかわらず、「沖縄戦ショウダウン」に引用されている住民らは、赤松隊長を「立派な人」「悪くいう人はいない」「人間の鑑だ」などと一方的に評価している。 「沖縄戦ショウダウン」は、このように赤松隊長を一方的に評価している者の証言だけから執筆されたものであって信用性がなく、これにより、赤松命令説が沖縄でも虚偽であることが広く認識されているとはいえない。 4 同第4(渡嘉敷島の≪赤松命令説≫に関する被告主張に対する反論)について (1)同1(手榴弾配布について)について ア 原告は、 「3月20日、21日は、第一次戦闘配備計画作業完了により、戦隊の各隊は休養日に充て、戦隊長は村民の労を慰うために村長以下各指導者と会食している(甲B19・7頁)」 として、 「このような日に戦隊が17才未満の少年と村役場職員を集めて手榴弾を配り、自決命令を下すことはあり得ない」 などと主張する。 しかし、まず富山証言は、 「島がやられる2、3日前だったから、恐らく3月20日ごろだったか」(乙12) と証言しており、「3月20日」と断定しているわけではない。そして仮に3月20日、21日が戦隊の休養日だったとしても、「兵器軍曹と呼ばれる下士官」が、役場に来て、訓示するということは十分考えられるのであり(むしろ休養日であったからこそ行えたとも考えられる)、戦隊が自決命令を下すことはありえない、などは全くいえない。 イ また原告は、日本軍は渡嘉敷での地上戦を予想しておらず、 渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も、渡嘉敷島への米軍の上陸を全く予想していなかったので、米軍の上陸を予想しない赤松部隊が米軍の上陸した場合の戦闘に備えて17才未満の少年や役場職員に手榴弾を配布する必要がない、と主張するようである。 しかし、安仁屋意見書(乙11・155頁)にあるとおり、 「第32軍は、慶良間諸島について米軍とは全く違った戦略的判断をしていた。慶良間諸島は地形の険しい島々で飛行場に適する平地もないから、米軍が沖縄本島攻略後に二次的に上陸することはあっても、沖縄本島上陸に先立って攻撃を受けることはないと考えた」 だけであり、仮に日本軍の想定通り、米軍が沖縄本島に上陸し、その上陸船舶団に対し、背後から渡嘉敷の第3戦隊が海上特攻を行って、「玉砕」した場合、米軍が海上特攻の拠点地を攻撃するために渡嘉敷島に上陸することは当然考えられるのであり、その場合に備えて住民に 「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残り1発で自決せよ」 と訓示することは、何ら不自然なことではない。 原告が「富山証言は荒唐無稽なデッチアゲそのものである」などと主張する根拠は全くない。 ウ さらに原告は、手榴弾が軍の厳重な管理の下に置かれていなかったとも主張するようである。 しかし、原告が例として挙げる住民の証言は、 「義兄が、防衛隊だったけど、隊長の目をぬすんで手榴弾を2個持ってきた」 という、わずか1人のそれも盗んだとする者とは別の人間の証言にすぎず、また盗んだとする者が正規兵である防衛隊員(したがって手榴弾を盗まなくても正式に入手できる)であるという点からしても、手榴弾が軍の厳重な管理の下に置かれていなかったという根拠にはならない。 原告が主張の拠りどころとする陣中日誌(甲B19)の3月24日(米軍上陸3日前)の欄にも、 「戦隊長左の日命を下達す。陸軍中尉 田所秀彦、渡嘉敷警備隊長となり防衛隊並に連絡所勤務者を指揮し渡嘉敷村落の警備に任ずべし、敵機退去後舟艇の整備、器材修理、弾薬糧秣の集積、通信線の復旧、消火等全員夜を撤して行う。」 とあり、赤松隊が弾薬を厳重な管理の下に置いていたことがわかる。 また「赤松隊長は村民に手榴弾が渡ることを予想していなかった」などとも主張するが、渡嘉敷島において、軍を統率する最高責任者は赤松隊長であり、このような主張は言い逃れにすぎない。 エ 原告は、 「金城重明の話は、最初は、①自決命令にふれなかったが、次には、②自決命令があったことを明らかにし、その後、③村の指導者を通じて軍から命令が出たと時間が経過するにつれて変遷する」と主張する。 しかし、金城氏が「最初は、①自決命令にふれなかった」とする根拠というのは、曽野綾子氏が金城氏に取材した際に「(自決命令については)その当時は伺いませんでした」と証言していることだけであり、真実曽野氏が取材の際に金城氏から自決命令のことを聞かなかったとしても、それだけで話が「変遷」したということには全くならないうえ、金城氏は曽野氏に当初から自決命令のことを述べており(甲B18・155頁)、金城証言が変遷しているなどということは全くない。 (2) 同2(太田良博の『鉄の暴風』取材等について)について 原告は、太田良博氏と曽野綾子氏の沖縄タイムス紙上の論争を引用して、太田良博氏の「鉄の暴風」における赤松隊長の自決命令説は信用性がない、と主張する。 しかし、太田良博氏の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)、「沖縄戦に神話はない-『ある神話の背景』反論」(甲B40)に記載されているとおり、「鉄の暴風」は、沖縄タイムス社が体験者を集め、その人たちの話を記録して文章化したもので、渡嘉敷島に関する記録も、沖縄タイムス社が直接体験者を集めて記録したものである(乙23・223頁)。証言者の中には、渡嘉敷村長だった古波蔵惟好氏(乙23・224頁)や、国民学校の校長であった宇久真成氏(乙23・226頁~227頁)がおり、「鉄の暴風」は、伝聞に基づくものではなく、集団自決を直接体験した人々から取材し、執筆したものである。 そして太田良博氏が 「戦後二十年もたって曽野氏が赤松大尉やその隊員から聞いた話よりも、戦後間もなく戦争体験者から聞いた話によって書かれた『鉄の暴風』の記録がより確かであると信ずる」 とする(乙23・225頁)のももっともである。 そして太田良博氏が 「赤松大尉の命令、または暗黙の許可がなければ、手りゅう弾は住民の手に渡らなかったと考えるのが妥当である」(乙23・231頁、甲B40・4月13日分) と指摘したのに対して、曽野氏が反論できなかったことも事実である。 以上のとおり、「鉄の暴風」の記述に信用性がないとはいえない。 (3) 同3(富山証言の信用性について)について 原告の富山証言に信用性がないという主張に理由がないことはすでに述べたとおりである。 原告は 「赤松隊長の自決命令説を維持するために登場したのが、富山証言であり、富山氏は3月20日の手榴弾配布と自決命令説を主張して、既に露見した自決命令の虚偽の隠蔽をはかったのである」などと主張する。 しかし富山氏が虚偽の事実を言う必要など全くない。原告の主張はその一点において失当というほかない。 繰り返しになるが、富山氏が 「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、改めて証言しておこうと思った」(乙12) と、証言するとおりである。 第4 百人斬り競争事件上告審決定について 死者への敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立要件について、摘示された事実が全くの虚偽であることを要するとした東京高裁平成18年5月24日判決(乙27)に対する上告審において、最高裁判所は、平成18年12月22日、上告棄却決定及び上告不受理決定を行い(乙46)、上記東京高裁判決は確定した。 以上 戻る | index
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プロフィール 凡例 捕手 39 1982/1/9 175/75 右右 奈良
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雑誌「潮」1971年11月号 特別企画・沖縄は日本兵に何をされたか ドキュメント 集団自決を追って 星雅彦(作家) (本稿は私が当時の村長や駐在巡査や若干の村民から取材した集団自決の内容を、私なりにまとめ、悲劇の再現を試みたものである。いな、悲劇再現とは、口はばったい言種である。ただひたすら二十六年前の悪夢を想像してみたまでである) 集団自決を追って砲弾とどろく渡嘉敷島 米軍上陸で動揺する村民 闇の雨中を西山盆地へ集結 "玉砕するしかない" 「みんな一緒に死のうね」 修羅場と化した西山盆地 二十六年前(一九四五年)に、沖縄戦の最初の上陸地点、慶良間列島の中の渡嘉敦島で、想像を絶するような陰惨な悲劇があった。それは、日本の末端の皇国の民の、玉砕という名のもとに引き起こした"集団自決。である―― 砲弾とどろく渡嘉敷島 集団自決があったのは、前夜の雨がやんだ後のくもり空が、茂った木の葉の間から見える西山盆地の雑木林の中で、三月二十八日の午後一時ごろだった。 三月二十三日には、初めての本格的な空襲で、村の役場や郵便局が焼けたので、ほとんどの村民はそれぞれの壕に避難したり、荷物を運んだりした。二十四日も空襲で、二十五日には、艦砲射撃も加わって、島は遠く近く砲弾のとどろく音と地鳴りにあけくれた。 夜になって、無気味な静けさの中で、防衛隊が二人、壕の入口まできて、ウシ(三十七歳の主婦)に向かって「阿嘉島にアメリカーが上陸したそうだ」「阿嘉島の人たちは、みんな玉砕したそうだ」と知らせてくれた。三人の子供をかかえたウシは、この渡嘉敷島の暗い運命を予感して、大変なことになったと思った。 古波蔵村長(三十三歳)は、在郷軍人であった。このさい、日本軍に協カして戦いたい気持ちもあったが、日本の特幹隊は遠くトカシクに本部をおいていて、すぐに行けもせず、また彼は家族といっしょに壕に避難していたので、家族のことも気になって、何度も壕を出たりして、若い青年たちを走らせ情報をキャッチすることに努めていた。が、阿嘉島がやられているとは聞いたが、玉砕したとは聞いてなかった。 安里駐在巡査(二十九歳)は、沖縄本島に妻子を置いて単身一月下旬に赴任したぱかりで、島の地形も日本軍のこともよくわからなかった。しかし彼は二、三日前から、赤松隊長を探し出すために、トカシクの山の中を歩き回っていた。日本軍の動きはあわただしく、阿波連に向かって移動していたので、馴れぬ山道をあっちこっち歩いたが、二十五日も二十六日も赤松隊長には逢えなかった。 大本営からの阿嘉島は玉砕した(注.誤報であった)という情報は、安里巡査の耳にも入っていた。誰から聞いたかは憶えてないが、とにかく、巡査よりも村民のほうが先に、戦況やそうした近海の米軍の動きなどをよく感じ取っていた。 敵の軍艦が慶良間海峡に侵入していることは山の上から見ればすぐわかったが、大町大佐が阿嘉島から阿波連の海岸に立ち寄ったということは、極秘中の極秘のはずだが、防衛隊が彼に教えてくれた。安里巡査はあせっていた。小学生まで陣地構築に協力してきた村民が、これから先どうあらねぱならぬか、安里巡査は赤松隊長に相談したかったのだ。村長も一刻も早く隊長と相談してこいということだった。 翌二十七日も砲弾のとび交う中を、腰にぷらさげたサーベルをカチャカチャ音させて歩き回り、やっと西山のほうへ移動したばかりの赤松隊長の居所をつきとめた。その間に、出会った防衛隊や朝鮮人軍夫や村民から、特攻舟艇の破壊作業のことや、米軍の上陸や、日本軍が迎撃する交戦の模様を、伝え聞いた。 支那(北支から中支)で軍隊生活をおくった経験のある安里巡査は、これまでに阿度か軍隊生活を話題にし、日本軍が「こっぴどく支那人をやっつけた」ことを話したことがあったが、あの残虐なことが、あすはわが身にふりかからねば幸いだがと、ふと不安に思った。なにしろ兵隊たちの間から、米軍の捕虜になったら間違いなく戦車で礫き殺されるという風聞が出ていて、それは疑う余地がないようだった。 ただ一方には、日本が最後には勝つ、という信念があった。がしかし、それは惨澹たる道程の果てに、最終的に勝利の結果を産むという、悲壮な意味を含んでいて、自分たちは犠牲にならねばならぬかもしれぬという気持ちが同居していた。そうした心情は村民の一般的傾向であった。 米軍上陸で動揺する村民 三月二十六日の朝、米軍が阿波連から上陸したことが村民に知れわたったとき、村民のほとんどは動揺し、壕から壕へ移動した。 ウシは子供たち(長女十二歳.二女七歳.長男三歳)を連れて、屋敷内の壕から、港に向かって西側の川向こうの山の麓の壕に行った。そこにはすでに二家族が入っていた。その家族の中の十六、七歳になる少年たち二人が、あわただしく出たり入ったりして落ち着かず、しきりに死ぬ覚悟で何かしなければならぬといったりしていた。竹ヤリを持ち歩く姿は、頼もしい感じであった。ウシたちは、ガテカル(嘉手刈)の壕で一夜をあかした。 翌二十七日になると、敵が攻めてくるのが感じられたし、阿波連から避難してきた人たちも敵が押し寄せてきていると話していたので、ウシたちは、ウンナガーラ(恩納川)近くに叔父たちが掘った壕があるのを思い出して、そっちへ向かった。その途中で、山のほうのミーヤーの上のところで、アメリカーが何やら作業しているのが見えた。 ウンナガーラのイチャチチというところの壕に着いたら、叔父や十八歳になるその息子は「いざとなったら、天皇陛下万歳をいって死ぬんだ」と語し合っていた。けれども、敵機の爆音は、ひっきりなしに聞こえるし、遠くから砲弾の炸裂音が近づいてくるように聞こえるので、みんなぴどくおぴえていた。ウシは「死ななくても、すむよ、友軍がついているから大丈夫よ」と逆に元気づける始末だった。 安里巡査は、朝から敵機に見つからぬよう隠れたりしながら、午後も夕方近くなって、やっと西山の谷間の日本軍の陣地を探しあてて、そこではじめて赤松隊長と逢った。そこへたどりつくまでに、空襲ですっかり焼けた部落や山林の中を歩いているとき、安里巡査は沖縄本島にいる妻子の安否を思った。渡嘉敷に赴任してから、一度は宇久校長(沖縄本島出身)といっしょに御真影を保管するために沖縄本島に渡ったことがあったが、あのとき帰ってこなければよかったと、彼は後悔したりもした。 西山のトトンジャーラ(イシッピ川)の奥地の日本軍の陣地は、移動してきたばかりで何もできてなくて、朝鮮人軍夫や兵隊たちが、盛んにタコ壷を掘っていた。陣地壕はまだほとんど掘られてなかった。赤松隊長は、陣地構築の指図をしていた。(注・防衛隊や軍夫や村民の幾人かは、集団自決の後日、壕掘り作業に出ている―小嶺善吉らの証言。二十七日に地下壕内で将校会議か開かれたという記録は間違いで、将校は分散したタコ壺の中か外で戦闘配置についていた。村民をどうこうするという会議を開く余裕はまったくなかった―知念朝睦〈少尉〉の証言) そこで安里巡査は、赤松隊長に向かって、村民はあっちこっちの壕に避難して右往左往しているが、これからどうしたらよいかわからないので、軍のほうでなんとか保護する方法はないものか、どこか安全地帯はないものか、と相談を持ちかけた。 そのとき赤松隊長は、次のようにいった。島の周囲は敵に占領されているから、誰もどこにも逃げられない。軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、住民は一か所に避難していたほうがよい。場所は軍陣地の北側の西山盆地がいいだろう(注・比嘉喜順、旧姓・安里、元駐在巡査の証言)。そこで安里巡査は早速、居合わせた防衛隊数人に対し、村民に西山盆地に集合するよう伝達してくれと告げた。彼自身も、各壕を回っていい伝えて歩いた。 防衛隊の一人は、古波蔵村長にいち早くほぽ正確な伝達をした。そして村長からも、同様の伝達が出た。それは人の口から人の口へ、すぱやくつぎつぎと広がって伝わっていったが、村民のあるものは赤松隊長の命令といい、あるものは村長の命令だといった。 闇の雨中を西山盆地へ集結 ウシたちの壕には、防衛隊の一人がきて、「村長命令だ、ウンナガーラから西山にのぼれ」といった。そこで迷いながらも、ウシたちはともかく出掛けるしたくをしていた。こんどは三人の防衛隊がきて「もうすぐそこに敵がきている」「みんな西山に登ってください」「村長命令です、西山に集まってください」と口々にいった。その三人の防衛隊は、ウシの弟、モリスケ叔父、ミサトの叔母の妹の夫で、三人とも輿奮してせきたてていた。村長命令とあらば、どんなことでも従うほかはないと、ウシは思った。 ウシたちが恩納川を登って行くうちに、雨はどしゃぶりになった。ウシは三歳の息子をおぷって、七歳の二女の手を引いて歩いた。十二歳の長女(本誌119ページの安座間豊子さん)は、三日分の食糧(米と黒砂糖とカツオ節)を入れたランドセルを背負って、ウシの後につづいた。ウシたちは、ずぶぬれになって暗い谷川のふちを歩き、ときどき滑って水の中へ落ちこんだりした。ぬれた赤土はよく滑るし、もう夜になっていて、何も見えなかった。 ざわめくような足音や、親子の名を呼び合う人声で、多数がぞろぞろ西山へ向かっていることが判った。ウシは長女に三日分の食糧だけを持たせてあったが、一日か二日、西山に避難するつもりだった。後でわかったことだが、ある人たちは、クワやナタやカマを持っていた。それらの農具は、西山で壕や小屋をつくることを予想して持ち運ぱれたのだ。多数が持っていた一メートルほどの棍棒は、荷物を肩にかけて持ち運ぶときに使われた。 恩納川の上流の谷間の上のほうが、西山の盆地だった。日本軍の最後の本部となった陣地は、小高い山を一つ隔てた小さいもう一つの谷間(トトンジャーラの上流)にあった。この二つの谷間の川は、渡嘉敷部落からは別々に並行しているが、上流に行くにしたがって接近し、西山高地に達するところで、深い谷底に小さい溝のようになって消えていた。西山の頂上の平たんな雑木林は、この二つの谷間の北方にあった。そこが西山盆地で、戦後、村民が玉砕場と称するところである。 その日の、雨の降りしきる夜半、渡嘉敷村の約三分の二の人たちが、ウンナーガーラ(恩納川)にそって苦心しながら北上した。そして、ほとんどが、上流の谷間の林の中で一夜を明かした。そのあたりには、以前に建てた避難小屋が三軒あったが、大多数は身を隠す場所が見つからず、野ざらしであった。ウシたちは、大きな木の葉を手探りで集めて、それを敷いてその上に横になり、眠るともなくうつらうつらしていた。 そのころ、阿波連の人たちは、約一時間遅れて西山にようやく到着していた。その多数は、阿波連から上陸した米軍に追われて渡嘉敷へ向かっている途中で、人々の口から「西山に集まれという村長命令が出ている」と聞かされ、渡嘉敷部落の人たちの後につづいたのだった。阿波連の人たちのほとんどは、それぞれ山の壕に避難していたが、食糧や衣類などは壕に残したまま、荷物らしい荷物は持たず、手ぶらの人も少なくなかった。また、壕やトカシクの野戦病院に、ケガ人を残してきた人もいた。 一方、渡嘉敷村の女子青年団は、不断から日本軍に献身的につくしていたので、いざとなったら皇国のために死ぬ覚悟ができていて、それぞれ懐中にカミソリを隠し持っていた。また防衛隊の過半数は、何週間も前に、日本軍から一人あて二個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら、それで戦うか自決するかせよということであった。 "玉砕するしかない" 三月二十八日は曇天だった。木の葉の間から、チラチラと朝の光が見え、まどろんでいた村民は起きて、雨で黄色く濁った谷川の水で顔を洗ったり水を飲んだりした。ウシは弁当箱に水をくんできて、子供たちに飲ませたり黒砂糖をなめさせたりした。食事らしい食事は誰もしなかったし、そんな準備をする余裕も元気もなかった。みんな打ち沈んでいた。こんもりと潅木のおい茂っているその谷間いったいには、見渡すかぎり村民が終結していた。朝の七時ころになって、防衛隊の数人がどなるように、「みんな上のほうに集まれ」「西山盆地に集まれ」と叫んだ。それで村民は命令どおり、そこからわずか二百メートルほど離れた平たんな場所に移動した。 ウシたちが、そこの雑木林にたどり着いたときには、すでに多数の渡嘉敷部落の人たちが入りこんでいて、みんな十人か十五人ぐらいずつかたまって、地べたにすわっていた。しぜんに肉親を中心に親族同士が寄り集まっていた。後から後からぞろぞろと、阿波連の人たちもつづいて入ってきて、およそ千人の集団となった。それから約三時間、集められた村民はそのまま放ったらかされていた。 その間、集団の一角に、村長を中心にして、郵便局長や校長や助役や巡査や役場の人たちと防衛隊の幹部ら、約十数人が寄り集まって、何やらしきりに協議していた。そのころになると、上空には敵の偵察機がぐるぐる回っていた。茂った木の葉から、ときどき敵機がよぎって行くのが見えた。「これからどうするかという意見を出し合ったが、話し合っていくうちに、玉砕するほかはない、という結論になってしまった。しぜんに、玉砕ということになって、その恐怖感から逃れられなくなった」(比嘉喜順らの証言) そこで気丈夫な古波蔵村長は、具体的にどういうふうにするか、と話を進展させた。あれこれ意見が出たが、結局、みんなが死ぬにしては、手榴弾が足りないということになった。一人の防衛隊が、「友軍の弾薬貯蔵庫から、手榴弾を取ってきましょうか」と申し出たことから、それに一決して、不断から親しく兵隊と接触している防衛隊三人が出掛けることになった。 それから一時間後に、防衛隊によって、ひそひそと村民に「玉砕する」話がひろめられた。村の指導者たちは、バラバラになって、それぞれの家族や親戚の人たちに、「やさしく説得するように」玉砕のことを話した。阿波連の防衛隊たちは、少し離れて散在している部落の人たちに、もっと中心に寄り集まるようにいい伝えた。 集まった村民は、恐怖に打ちおびえながらも、静かに親族同士で輪になってすわった。渡嘉敷の人たちは、比較的に荷物を持ち運んできていたので、死ぬ覚悟を決めて着替える人が少なくなかった。が、集団のはずれにいる人たちの中には、まだ暖昧な気持ちで、これから何が起こるか、何もわからず、集団自決を予想だにしない人たちがいた。 古波蔵村長は、次のような理由から、駐在巡査を通じて赤松隊長から玉砕命令が出たにちがいないと、ひそかに思っていた。西山にきて協議の緒果、いわぱ自発的に玉砕することになりはしたが、昨日、安里巡査一人が赤松隊長に逢ってきた結果、集合が決まったこと、それから安里巡査は一人死ぬのを避けるふうに、「自分は村民の玉砕を見とどけて、軍に報告したい」(米田惟好<当時の古波蔵村長>の証言)といって、いざというときには少し離れたところに彼一人立っていたというのである。(注・米田惟好の解釈―軍は持久戦を考えて食糧確保のため、村民に対し「ロベらし」「足手まとい」だと思ったにちがいない) 「みんな一緒に死のうね」 「アメリカーが上陸して、家も焼かれてしまったし、帰るところもないし、どうせ死ぬならみんないっしょのほうがいい」とウシの弟の防衛隊が話しているとき、安里巡査がきて、「手榴弾が破裂するときは手にしっかり握っていたほうがよい」と助言した。それから間もなくして、古波蔵村長がみんなの中央に立って、「敵にとり囲まれてもう逃げられないから、玉砕しなければならない。大和魂をもって天皇陛下万歳をとなえ、笑って死のう」と、声をふるわせながらいった。 急にしーんと静まり返った。ウシはその気になって、誰かが持ってきた茶わんに水を入れて、みんなの前に差し出し、「みんないっしょに、あきらめて、死のうね」といい終わるか終わらないうちに、遠くで誰かが「発火用意、打て!」と叫ぶと同時に、ぱあーんぱあ-んぱあーんと、つづいて手榴弾の炸裂音が聞こえた、ウシはわなわな震えがきて、水をこぼしたとき、急に耳を強く打たれたようになって、何が何やらわからなくなった。 ウシが気がついたときには、彼女自身は三歳の子供を抱いたまま僻せになっていた。目の前に倒れている二人の娘も無傷でねぼけたような顔で起き上がった。が、手榴弾を持っていた弟は、断末魔の様子で、血だらけの片手をがたがたふるわせて倒れていた。その背後には、弟の妻が、両眼をほおの上にとび出させたまま、死んでいた。 ウシはわが目を疑い、からだをまるめて俯せたままで、まわりをながめた。と、たくさんの死体がころがっているのを見届けると同時に、まったくとつぜん、鳥が泣き叫ぷようないやな声が入り乱れて聞こえてきた。 「アキサミヨーアキサミヨー」(感嘆詞)「母ちゃんよー母ちゃんよー」「アンマーヨーアンマーヨー」(母親の呼称)と悲痛におおぜいが叫んでいた。頭上からはブーンブーンブーンと敵機の爆音が響いていた。ウシは動転し、しばらく目をとじていた。が、ふたたび周囲を見まわした。手榴弾を破裂させた弟は死に、そのすぐ側にいた自分たちは無事だったのだ。そして、まわりにいた親族の七、八人は即死していた。それからウシは、何やらうめきながら逃げて行く集団を見た。 赤い血を鮮明につけたケガ人たちや、恐怖のあまり泣き叫ぶ女子供たちをまじえて、約三百人あまりが、わさわさ押し合うようにしてそこから立ち去って行くのだった。その逃げて行く集団の中に、郵便局長と村長がいるのがはっきり見えた。 ……集団自決の場所から群をなして立ち去ってきた約三百人は、日本軍の陣地のほうへ向かってなだれたが、三百メートルも行かぬうちに、米軍の迫撃砲の攻撃を受けた。米軍の砲弾は、どこからくるのか判然としなかったが近くでどんどん炸裂した。その破片にあたって即死したものが幾人かいた。弾にあたって郵便局長の妻も倒れて死に、局長は子供を背負わなければならなくなった。その集団は、そこで立ち往生したまま、騒いでいた。 村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている) おりしも助けを求めてなだれこんだその集団は、日本軍陣地の百メートル近くまできていた。日本軍は戦闘配置についていたが、発砲は自滅に等しいとみて、ただ敵の様子をうかがっていた。そこへ泣き叫ぶ村民がなだれこんできたので、追い払うために、将校は一様に抜刀して威嚇した。たちまち村民は悪夢からさめたように静まりかえり、恩納川の谷間へと散り散りに去って行った。 修羅場と化した西山盆地 一方、西山盆地では、ほとんど無傷でいた阿波連の人たちの間から、無残な殺し合いが始まっていた。それは三百人の集団がアラシのように立ち去った直後だった。遠くで、迫撃砲が激しく炸裂するのを、生き残っている多数の村民は上の空で聞きながら、ある人たちはナタやガマを借りて生ま木を切って棍棒を作っていた。その側で、母や妹や弟を、青年になった息子が、ベルトでつぎつぎと締め殺していた。また手榴弾で死にそこなった渡嘉敷の人たちの間では、持ってきた農具がそのまま凶器に変わって、血縁へ向かって理解しがたい怨念を打ち出すように、妻子を惨殺しはじめた。 ウシたち親子四人は「ここは地獄だ、早く逃げよう」と、いったんそこから立ち去りかけたが、血相をかえた阿波連のお婆さんたちが下のほうからきて「下からオランダー(外人)が登ってくるよ、いまに耳や鼻を切り取られるよ」といわれ、こわくなって舞い戻った。アメリカ人につかまることへの恐怖感がつのった。ちょうど十メートルぐらい離れたところに、夫の妹たちが生き残っていて、茫然とすわっていた。そこには、ケガして歩けない人たちが二十人ぐらい集まっていた。ウシたちはそこへ助けを求める気持ちで行った。すぐ側で、イノハさん(医者)は、不発弾の手榴弾を何度も石にたたきつけていた。 彼はあきらめて、それを投げ捨て「何かないか」とキョロキヨロしていた。そのとき小学生の息子が、「お父さんポク肥後ノ守があるよ」と小刀を出した。するとイノハさんは、「お母さんからね」というとすぐ、自分の妻の首を切り、それから息子と娘の首も、つぎつぎと切って、見ているまえで、彼は木の股に小刀をはさんで、自分の首を押しあててずっと刺しこみつづけた。そして急にガクンとぐったりなってころがり倒れた。 それが契機となって、隣の家族は、急に殺気立って、妻がおびえている夫を叱った。「日本人じゃないの! あんた男のくせに殺しきれないの!」と中年の女は、ナタを振り上げ、すわっている四、五歳の女の子の頭をめった打ちにして殺し、それからうなだれている夫を、「エイ、エイ、エイ」と叫びながら同様に打ち殺した。すると連鎖的に、老人が孫の頭をつかんで、カマでその頸動脈をかき切った。血が倒れた首から噴き上げた。 「アキサミョー」(感嘆詞)「私も殺してください」とウシは思わず叫んだ。だが老人は、振り向きもせず黙って木に登り、首つりのしたくをするのだった。 ウシが気が変になったように、「クルチ、クミソウリ」(殺してください)と小声で繰り返し言っているとき、七歳になる二女は「死にたくない、死にたくない」と泣き叫んだ。長女は妹を腹の下に隠すように押えつけ、ただ恐ろしさのあまりじっとしていた。そのとき、阿波連の青年たちがワイワイ騒ぎ立てながら走ってきた。血の気のない顔で、彼らは何やら奇声をあげ、まだ生きている人を探し出しては、持っている梶棒で撲殺するのだった。 その中の金城重明(現牧師)という十六歳の少年がウシの側へ近寄ってきた。学校で成績がよいと評判の少年だった。彼は立ち止まった。と、いきなり直径十センチぐらいの棍棒を振り上げ、「まだ生きているのか!」と叫び、妹を抱き押えて後込みしている長女の頭へたたきつけた。ギャツという声が短く走り、頭から血が流れた。少年はもう一度たたきつけた。娘たちは動かなくなった。それから少年は血走った目をむいて、ウシを見た。ウシは祈るように、「重明……」と小声でいって目を閉じた。ガーンと頭が割れるような音がした。ウシは額の上を二度叩きつけられるのを感じた後、意識を失った。 何時間かたって、ウシも長女も意識を取り戻した。夕方間近くなっていた。周囲は死者ぱかりだった。首つり自殺をとげた死体が、十五、六人、潅木にぶらさがっていた。二女は痴呆状態になってすわっていた。ウシが抱いていた子供は、口がほおのところへ移って顔がゆがんでいた。ウシの額に振りおろされた棍棒は勢いあまって子供の顔にもあたったようである。 ウシは急にわれに返って、娘に、「水をくんできて」と叫んだ。娘はふらふら立ち上がり、ころがっている薬カンを拾って、水をくみに行った。その間、ウシは自分の顔いっぱいについている血糊をソデでふき、割れた前頭部からまだ血か流れるのを防ぐために、湿った赤土を取って傷口に塗りこんだ。それから娘がくんできた水を、抱いた子供の顔にかけた。すると子供は全身ひきつらせ、顔をぶるぶるけいれんさせて、元に戻った口から血のアワを出した。「生き返ったよ」と、ウシは思わず笑顔になった。 それからウシたち親子四人は、なんとか生きようと思い、谷間のほうへ下りて行った。 (え・粟津潔) 潮1971年11月号特集index