約 319,287 件
https://w.atwiki.jp/rannritukoukou/
新学期の春・・・3年が卒業して 新たな1年が入学する時期・・・ 明治時代から引き継がれて来た武道を伝統に守り続けてきた 武帝高等学校も春を迎えた・・・
https://w.atwiki.jp/asterisk99/pages/447.html
M-Tea*6_29-明治宗教史(二)島地大等 2014.2.8 第六巻 第二九号 明治宗教史(二) 島地大等 六~一一 〔仏教〕 明治宗教の二大系統 初期の仏教対神儒二教 神仏判然 仏教迫害令 排仏毀釈 大教院の神仏雑糅 反キリシタン連盟 耶蘇教退治 西洋哲学と仏教哲学 忠実なる国家主義者としての仏教 政治心理の発動 外国伝道 天文問題 教学上の自大禍 仏教史学・教理学 反軍国主義的潮流 宗教心理の萌動 清沢と樗牛 幸徳事件 三教会同 〔結論〕 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第六巻 第二九号 ダウンロードサイトへジャンプ】 (1.9MB) 定価:100円(税込) p.111 / *99 出版 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 PDF マガジン 週刊ミルクティー* 今や転じて、仏教を中心としたる明治時代の宗教を概観すべき順序となってきた。じつに明治時代の宗教としては、その大系を概括して二大分統となすことができる。一つは在来の宗教であって、他は新来の宗教である。平凡な分かち方ではあるが、きわめて常識的でわかりやすい分類である。前者のうちには仏教と神道と儒教とがあって、それぞれ相異なった分野を持ってはいるが、新来の宗教すなわちキリスト教に対しては、だいたいにおいて類似の態度に立ちて拮抗したものである。ただし、神道と儒教とは明治期を一貫してさして有力なものではなかった。なんとしても仏教が日本固有の宗教を代表してキリスト教と相対峙した一大勢力と見るべきである。(略)いま、明治時代の日本宗教もやはり、この二大宗教の対立交渉に興味ある意義を存する。そこで、固有の日本宗教を代表するものは仏教である、新来の宗教はキリスト教である。すなわち明治時代の宗教は、仏教とキリスト教との交渉史を内容とするものだともいえるのである。ただし明治宗教史の第一ページは、キリシタン邪宗門の新来を予想したる神儒対仏教の内訌よりはじまっている。(「六」より) ※ #ref(6_29.rm) (朗読:RealMedia 形式 xxxKB、x xx) ※ お休みしまーす。 ※ PDF 形式、6インチ判。Windows 7 およびソニー Reader にて確認済み。 ※ この作品は青空文庫にて校正待ちです。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、転載・印刷・翻訳などの二次利用は自由です。 (c) Copyright this work is public domain, 2014. 島地大等 しまじ たいとう 1875-1927(明治8.10.8-昭和2) 学僧。幼名等。越後中頸城郡三郷村西松之木真宗勝念寺住職・姫宮大圓の二男。学僧たる父に仏典を学び、明治22年上京、築地積徳教校に入学、26年京都本山大学校文学寮に入り前田慧雲らの教えを受け、32年卒業。在学中、岩手県盛岡市外北山願教寺・董島地黙雷の養嗣となり、35年終業、東京高輪仏教大学にインド仏教教理史を担当。同年インドに渡航して西本願寺法嗣大谷光瑞の仏教史跡探究の一行に加わり、翌年帰朝。比叡山延暦寺の天台座主・山岡観澄に就きて真言を研究し、39年上京、曹洞宗大学、浄土宗立宗教大学に教授し、のち天台宗大学、東洋大学、日蓮宗大学にも教授した。大正6年、西本願寺幼法嗣の教養を命ぜられ、妻篤子とともに熱誠これにあたる。18年、東京帝国大学文科大学仏教の講師となり、後進の輔導に尽くす。享年53。著『思想と信仰』『教理と史論』『天台教学史』『真宗大綱』『仏教大綱』『日本仏教教学史』など。(日本人名)/「だいとう」(Wikipedia) ◇参照:Wikipedia 島地大等、『日本人名大事典』(初版第二刷、平凡社、1983.5)。 底本 底本:『解放』明治文化の研究号、大鐙閣。 1921(大正10)年10月発行 ※ うわづら文庫収録作品。 http //www.aozora.gr.jp/index_pages/person1566.html NDC 分類:162(宗教 / 宗教史・事情) http //yozora.kazumi386.org/1/6/ndc162.html 難字、求めよ 分対 神祇神道 神儀 別頭 別当か 勅修の法会 下馬・下乗の制 勧請崇祀 敬神敬祖 連念 れんねん? 須弥山論 新運 棹尾 掉尾(ちょうび)か。 鄙教徒 ひな きょうと? 数の自然 仏骨奉迎 世界宗教大会 唯心論哲学 大乗哲学 釈尊伝 学動 仏教史 吾史 西欧新学 散克利 サンスクリットか 隔靴覚掻 かっか かくそう? 一厳頭 自家独得 解案 老驥? 露現 日蓮主義 明灯 自我霊性 即是 これ、すなわち? 求道主義 法王教 神性 ディビニティー? 霊格法身 超神 司造 発展仏教 反キリスト教 第三王国 第三帝国に同じか 神人一如 如来性 ドレパー ドレーパーか。Draper, Charlotte Prinkney 1832-1899 アメリカ人。 井上博士 井上円了? 井上哲次郎? 「東京文科大学における井上博士の釈尊伝の講義がもっとも有力にこの機運を醸成」(本文) 村上博士 → 村上専精 むらかみ せんじょう 1851-1929 仏教学者。 『真理金針』 しんり 〓 井上円了の著。明治19年から翌年にかけて著わし、キリスト教を批判し、仏教顕彰に努めた。(国史「井上円了」) 『両約書自語相違』 明治八年(一八七五)の刊行。 『学問と宗教との衝突』 ドレパーの著。 『仏教活論』 井上円了の著。明治二十三年(一八九〇)刊行。 『仏教小史』 藤井宣正の著。明治二十七年(一八九四)刊行。 『仏教統一論』 村上専精の著。明治三十四年(一九〇一)より三十八年にいたる満三年間にその三巻を刊行。 むしとりホイホイ である、?? → である。?? 【。か】 加へたものではない、 → 加へたものではない。 【。か】 畢寛 → 畢竟 【竟】 底本確認。要修正。 別頭 → 別当 【当か】 託鉢 → 托鉢 【托か】 廢彿 → 廢佛 【佛】 底本確認。要修正。 されて居る、 → されて居る。 【。か】 すべきでない、 → すべきでない。 【。】 新 → 新た 【た?】 二教も → 二教、 【、】 底本確認。要修正。 途に → 遂に 【遂】 底本確認。要修正。 唱導か → 唱導が 【が?】 出てしめ → 出でしめ 【で?】 咀む → 阻む 【阻か】 中心としたる。 → 中心としたる、 【、か】 包める。 → 包める 【。不要か】 棹尾 → 掉尾 【掉か】 ちょうび。 沈澱 → 沈沒 【沒】 底本確認。要修正。 覺悟したる。 → 覺悟したる 【。不要か】 北海道、 → 北海道 【、不要か】 移氏 → 移民 【民か】 一暼 → 一瞥 【瞥】 底本確認。要修正。 存せさる → 存せざる 【ざ?】 無能なる。 → 無能なる、 【、か】 驥麟 → 驥※[#「馬+鄰のへん」、第3水準1-94-19] 【※[#「馬+鄰のへん」、第3水準1-94-19]】 底本確認。要修正。 於ける。 → 於ける 【。不要か】 六年にした → 六年にして 【て?】 であつて。 → であつて、 【、か】 通つて居る、 → 通つて居る。 【。か】 起り。 → 起り、 【、か】 括目 → 刮目 【刮か】 宗教觀か → 宗教觀が 【が?】 出てざる → 出でざる 【で?】 動き進んだ。 → 動き進んだ 【。不要か】 流か → 流が 【が】 底本確認。要修正。 昭代 → 時代 【時か】 員數を越ゆる → 頁數を越ゆる 【頁か】 絡點 → 焦點 【焦】 底本確認。要修正。 崇巖 → 崇嚴 【嚴】 底本確認。要修正。 審判す、 → 審判す。 【。か】 迂餘 → 紆餘 【紆か】 ものである、 → ものである。 【。か】 精、 → 稍、 【稍】 底本確認。要修正。 遣憾 → 遺憾 【遺】 底本確認。要修正。 諒慈 → 諒恕 【恕】 底本確認。要修正。 スリーパーズ日記* 書きかえメモ。 重なる → 主なる ベンザム → ベンサム ストラウス → シュトラウス エローペリル → イエローペリル サ※[#濁点付き片仮名ヰ、1-7-83]エー → ザビエル フランシス → フランシスコ 【コ】 まどもない → までもない 【で】 名あゐ → 名ある 【る】 棹尾 → 掉尾 【掉】 ちょうび。 移氏 → 移民 【民】 六年にした → 六年にして 【て】 括目 → 刮目 【刮】 員數を越ゆる → ページ数を越ゆる 【頁(ページ)】 昭代 → 時代 【時】 遣憾 → 遺憾 【遺】 2/04 外は嵐。北風の音。 2/07 図書館、ロビーがフェロモンくさーい。 2/08 大雪 西からの冷たい風。乾いた軽い雪。i-cafeへ。10時間パック。 翌朝、となりの家の屋根に積雪、目測で40センチぐらい。 2/10 晴れ のどのはげしい痛み。 オウム平田、サリンのあと、仙台、東北の温泉を女信者と逃避行。山形新聞によれば、1995年オウム事件の直後、国会図書館の貸し出し記録を警視庁が押収してたらしい。いままでまったく知らなかった。事実だろうか。 2014.2.8 公開 目くそ鼻くそ、しだひろし/PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/76.html
上ノ代館(かみのだいだて) 所在地喜多方市熊倉町都字村西丙 別称 築城年不明 築城者不明 城主変遷不明 廃城年不明 現状耕作地 概要 上ノ代館は福島県喜多方市に所在した城館跡である。 歴史 『新編会津風土記』に記載のある、構築年代、館主ともに不明の館村の館跡5箇所の内の1つで、その所在地の記載から上ノ代館跡と比定されている。なお東西55間、南北41間の規模であったという。 現在は圃場整備で潰滅しており、江戸時代末期、明治時代初期の字限図、及び明治時代の地籍図や圃場整備前の地形図で推定するほか無い。字限図、地籍図によると、周囲には館ノ内、土手外、上リ口などの小字名が見られ、圃場整備前は館ノ内と土手外の境界に幅1m、高さ0.5mの土手、それに沿った幅1m、深さ1mほどの堀が存在していたという。この土手や堀が館跡に関連する遺構かを判断するのは難しいが、土手外の小字名はこれに関連するものと推定される。館ノ内の所在する丘陵からその下までの比高は約15mほどである。 現状・感想 会津若松、塩川方面から奥さんの実家へ向かう道路沿いに所在するためしょっちゅう通る道沿いなんですが、その名も「館」集落のすぐ近くに所在し、いつも何となく怪しいと思っていた場所でした。まさか本当に館跡に比定されていたとは…。 城館と意識して初めて注視しましたが、南西、南東側はともかく北西、北東側は雄国丘陵からの続いている地形、圃場整備で地形がだいぶ改変されているにしても、大掛かりな堀切などが見られても良いかと思いますけどねぇ…。 関連項目 福島県の城館一覧
https://w.atwiki.jp/asoudetekoiq/pages/462.html
山口順子(オノーレ情報文化研究所) 明治時代かと思いました。文明国ではない情景です。 3人の即時釈放を!事実を正確に伝えないマスメディアは自殺している。
https://w.atwiki.jp/peopleonstamps/pages/1162.html
Prince Kitashirakawa Yoshihisa (1847/4/1 - 1895/10/28) 幕末・明治時代の皇族、陸軍軍人 最初の切手/出身国最初の切手(1896年、日本発行)
https://w.atwiki.jp/tokaiindex/pages/119.html
ヨハネス・デ・レーケ【Johannis de Rijke】 概要 明治時代に木曽三川の大規模治水工事を行なったオランダ人。 関連リンク ヨハニス・デ・レーケ - Wikipedia
https://w.atwiki.jp/wiki6_piro/pages/7721.html
木の下旅館 きのしたりょかん 千葉県香取市の佐原にある旅館。 所在地 千葉県香取市佐原イ498 地図 建築年:1901年(明治34年) 構造:木造 階数:2階 2007年4月15日 関連項目 タグ 2007年4月15日 千葉県 旅館建築 明治時代 歴史 歴史的建造物 香取市
https://w.atwiki.jp/net-net/pages/164.html
桜鍋(サクラ鍋、さくらなべ)は、馬肉(桜肉)をすき焼きのようにして食べる鍋料理のこと。味噌仕立てのすき焼き風に馬肉を煮る桜鍋は,明治時代から続く東京の伝統料理である。
https://w.atwiki.jp/wiki6_piro/pages/6845.html
東京国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部庁舎) とうきょうこくりつきんだいびじゅつかん(きゅうこのえしだんしれいぶちょうしゃ) 東京都千代田区にある美術館。 明治時代に建てられた建物を使用している。 旧近衛師団司令部庁舎として重要文化財に指定されている。 所在地 東京都千代田区北の丸公園1番1号 地図 竣工:1910年(明治43年) 設計:田村鎭(陸軍技師)推定 構造:煉瓦造 階数:2階、中央八角塔屋付 屋根材:スレート葺 建築面積:929.3m2 簡素なゴシック風にまとめられている。 明治時代煉瓦造建築の一典型。 2017-01-21 関連項目 2017-01-21 レンガ造建築写真 歴史的建造物写真 近代建築 この項目のタグ 2017年 2017年1月 2017年1月21日 レンガ 千代田区 官公庁建築 明治時代 東京都 歴史 歴史的建造物 美術館 近代建築 タグ「千代田区」がついた項目 2009-04-06 / 2010-04-03 / 2010-04-30 / 2010-05-16 / 2010-07-01 / 2011-04-10 / 2012-04-07 / 2012-06-24 / 2013-10-18 / 2014-01-25 / 2016-01-23 / 2016-04-10 / 2016-04-16 / 2016-10-14 / 2016-11-06 / 2017-01-21 / 2017-09-02 / 2017-09-30 / 2017-10-17 / 2017-11-01 / 2018-02-12 / 2018-05-14 / 2018-09-18 / 2018-12-01 / 2018-12-04 / 2018-12-13 / 2018-12-15 / 2019-01-06 / 2020-11-21 / 2020-11-22 / 2020-11-23 / 2022-07-30 / 2022-07-31 / 2022-08-07 / I-Kousya / あおもり北彩館 / 天野屋 / 市ヶ谷水管橋 / うどん丸香 / オーグードゥジュール / お好み焼きじ丸の内店 / ガヴィアル / 学士会館 / かごしま遊楽館 / カトリック神田教会 / カレー&オリエンタルバル桃の実 / 北の丸公園 / キッチンマミー / 旧日比谷公園事務所 / 旧文部省庁舎 / キンキン広場 / クアアイナ丸ビル店 / 九段斑鳩 / 九段会館 / クラフトビアマーケット大手町店 / 国会議事堂 / 国会前庭 / ザフォレスト北の丸 / 市政会館・日比谷公会堂 / 上智大学四谷キャンパス / 昌平橋 / 外濠公園 / たいやき神田達磨 / 千鳥ヶ淵公園 / 千鳥ヶ淵緑道 / 中華そば高はし / 春水堂飯田橋サクラテラス店 / つじ田奥の院 / 天雷軒九段下 / 常盤橋 / 常磐橋 / とんかついもや二丁目店 / とんがらし / ニコライ堂 / 二重橋 / 日本工業倶楽部会館 / 日本水準原点標庫 / 日本橋川 / パーニスダヴィンチ / 日枝神社 / 日比谷公園 / 日比谷高校 / 平河天満宮 / マーチエキュート神田万世橋 / 将門塚 / 万世橋 / まんぷく食堂 / 三崎稲荷神社 / むぎとオリーブマーチエキュート神田万世橋店 / 明治生命館 / めん徳二代目つじ田飯田橋店 / 家家家飯田橋店 / 山梨中央銀行東京支店 / 山の上ホテル / 悠讃 / よなよなビアワークス神田店 / 利一団子店 / れもん屋 / 和田倉噴水公園 / ワンズドライブ タグ「レンガ」がついた項目 網走刑務所 / 石川県立歴史博物館 / おおず赤煉瓦館 / 大日影トンネル遊歩道 / 旧第四高等中学校本館 / 求道会館 / 旧豊多摩監獄表門 / 旧丸山変電所 / 黒崎教会 / 蹴上インクライン / 国際子ども図書館 / 佐原三菱館 / 水路閣 / 玉川図書館 / 東京駅 / 東京国立近代美術館工芸館 / 弐郷半領猿又閘門 / 日本聖公会川越キリスト教会 / 北海道庁旧本庁舎 / 法務省旧本館 / ヤマサ醤油レンガ塀 / 横浜赤レンガ倉庫 / 早稲田奉仕園スコットホール / 旧千住製絨所煉瓦塀
https://w.atwiki.jp/nanasihennkagura/pages/67.html
概要 260年以上続いた徳川家による江戸幕府が終わり、1868年(慶応4年)1月、天皇を中心とした新しい政府「明治政府」が成立。 同年3月、明治政府の基本方針として「五箇条の御誓文」(ごかじょうのごせいもん)を発布、 同年9月には元号を「明治」と改め、明治時代が始まった。 明治政府は、「富国強兵」(ふこくきょうへい)をスローガンに、中央集権化、 そして西洋諸国に後れを取っていた近代化を目指して政治的改革を推し進めた。 1912年(明治45年)7月、「明治天皇」(めいじてんのう)が崩御し、明治時代、そして明治政府は終焉を迎えた。 ■ 「明治維新」(めいじいしん)と呼ばれる政治改革により、 1868年(慶応4年)1月江戸幕府に代わる新政府「明治政府」が発足し、同年3月「五箇条の御誓文」が発布. 初期の明治政府は、江戸幕府倒幕に貢献した薩摩藩(現在の鹿児島県)や長州藩(現在の山口県)出身者で固められた。 同年9月には、天皇1代につき、ひとつの元号を用いる「一世一元の制」(いっせいいちげんのせい)を定め、年号を「明治」に改める。 その後、明治政府は、江戸幕府の因習から脱却するため、 「版籍奉還」(はんせきほうかん)を勅令。 これは、全国の藩が所有する土地と人民を朝廷に返還させるための改革でしたが、 旧藩主はそのまま知藩事(ちはんじ)として実権を握り続けたため、1869年(明治2年)に「廃藩置県」(はいはんちけん)を断行。 欧米の先進諸国に倣った廃藩置県は、藩を廃止して府県に改めるもので、旧藩知事はすべて華族(かぞく)に列せられ、 新たに設けられた府知事や県知事は、明治政府が任命。 また、蝦夷地を北海道と改称し、先住民族「アイヌ」の土地を明治政府に帰属させ、国策として北海道の開拓を急速に進めた。 1879年(明治12年)には、軍事的な圧力を用いて、「琉球王国」(りゅうきゅうおうこく)も滅亡に追い込み、沖縄県を設置。 明治政府を中心とした中央集権化を進めた。 初期の明治政府は、明治維新に貢献した薩摩藩や長州藩が占める「藩閥政府」(はんばつせいふ)でもあった。 藩閥政府に不満を抱きつつも、武力による反乱は明治政府には効果がないと悟った板垣退助らは、 言論により政府批判を続け、やがて「自由民権運動」(じゆうみんけんうんどう)へと発展していった。 藩閥政府に対して、選挙による議会の開設や立憲体制を要求した。 明治政府は、たびたび官僚制を変更するが、自由民権運動の高まりを受け、天皇に直属する組織として新たに「内閣制度」が創設。 新たな内閣の下、憲法の制定や法治国家として必要な法の制定などを進めて近代化していった。 ■陰陽寮 陰陽師は、天文や暦に関する書物や道具を研究していた。 その知識は、方位や時間の吉凶に関する占いやまじないだけでなく、 祈祷や暦づくりなど、さまざまな場面で活用されていた。 陰陽師は貴族社会にとってなくてはならない存在でもあった。 戦国時代にも日本各地で活躍する陰陽師の姿が見られるほどであった。 武士が政治の中枢に入ると同時に陰陽師の地位も向上していった。 神事のみならず仏事にも介入するほどであり、 江戸時代には神社だけではなく仏教にも陰陽師の姿は頻繁に見られていた。 だが、近代化が彼らにも変革をもたらすことになる。 明治時代となり神仏分離 (しんぶつぶんり)が勅令される。 政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、 それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発したのである。 さらに軍事面の近代化も大きく進み、琉球と蝦夷を統一した日本は軍部の発言権が内閣で強まっていく。 この頃になると戦争の主軸は銃や戦闘機、戦艦になっており、 もはや戦争に暦や占いは使われておらず、厳密な戦略や統率のある軍隊が重要視されていた。 軍部は、非科学的な陰陽道が軍隊に介入されるのを嫌ったのである。 帝都には電線が張り巡らされ、線路が通り、自動車が走るようになった。 科学が急速に人々の間で認知され、神秘はおとぎ話となっていった。 医療制度も制定され、日本各地には病院も建築された。 これまでの陰陽道では「魔」や「気」によるものだとしていたが、 病魔はウイルスや細菌によるものであり、祈祷は効果がない。 ワクチンや薬で治療できる、と広く判明したのである。 陰陽師のような古いやり方に拘る、頼るものは次第に消え失せていた。 これらの理由により陰陽師の地位は完全に地に落ちたのである。 江戸時代の因習から脱却するため、という理由もあり、 明治2年(1869年)に時の陰陽頭、土御門晴雄が薨じたのを機として陰陽寮の廃止が決まる。 もはや必要とされなくなった陰陽師たちは政治の中核から離れた。(追い出された) こうして飛鳥時代に天武天皇により設置されてから実に13世紀に及ぶ歴史に幕を閉じたのである。 生計をなくした陰陽師たちは、比較的陰陽道の名残が強い神社の宮司へ転職した。 しかし、すでに神道国教化・近代社格制度によって組織化された神社は、 後から合流した陰陽師たちには風当たりが強かった。 結果、ご祈祷やおみくじ占いなどで細々と生計を立てていくことになった。 一世風靡した陰陽師たちはこうして表舞台から姿を消していったのである。 ■ 架空の創作では。 明治天皇が陰陽寮を地下組織化。 明治時代以降も存続するが、必要とされなくなったのは事実で衰退。 土御門晴雄の死亡はフェイクで、実は生きていた…。 など。