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595: yukikaze :2017/02/15(水) 23 55 53 日清戦争史 第四章 混乱 黄海海戦での完全敗北は、紫禁城に激震をもたらした。 大敗の第一報を聞いた皇帝は、一瞬顔を青ざめるも、次の瞬間、戦死した丁司令官の一族を直ちに族滅するよう金切声をあげたとされる。 さすがにこれは、李や西太后が止めたものの、皇帝の丁に対する怒りは凄まじく、財産没収と官職剥奪、更には葬儀すら許さぬという苛烈ぶりであった。(なお、降伏した「鎮遠」の将兵の一族に対しては、「売国奴」「臆病者」として、直ちに官位剥奪及び流刑にしていた) また、大敗に対する怒りからか、海軍残存部隊への扱いは冷たく、海軍基地に残留していた兵は、悉く陸戦隊として最前線に配属されることになる。 当然のことながら、彼らの士気や規律は最悪レベルであり、陸軍からは「弾除けにもならない」と罵倒され、それが更に規律の悪化につながるという悪循環振りであった。 そして、海軍の大敗と皇帝の海軍への侮蔑感は、同時に海軍推進派であった李の政治基盤を揺るがせるのに十分であった。 無論、清国内において精鋭の陸軍を有していたことから、海軍壊滅即失脚にはならなかったが、それでも彼に対する風当たりは強くなり、反対に皇帝の側近や、李の政敵と言っても良い塞防派の勢いが増すことになる。 それは、老練な政治家である李に代り、感情的な思考しかない側近と、功名心に逸る塞防派が戦略を練るということであり、このことは清国の戦争指導が、極めて近視眼的なものへと陥らせることになる。 さて、北洋水師大敗によって制海権を完全に牛耳られた清国であったが、彼らは(しぶしぶながら)日本侵攻の戦略を諦め、代わりに朝鮮半島で遅滞防御戦を行いつつ、疲労の極にある日本陸軍を、塞防派の精鋭部隊によって完膚なきまでに叩き潰すという戦略を策定する。 彼らにしてみれば、海でついたケチは、陸での大勝利によって取り戻せることができ、そして自分達にはそれだけの実力があると確信をしていたからであったが、問題は、朝鮮半島での遅滞防御は李の部隊に任せるとして、主力部隊をどこに置くかであった。 当初、塞防派が主張したのは奉天であった。 東北部有数の要衝であるこの地は、大軍を養う事も可能であり、且つ半島にも近かった。 故に迅速に行動に移すのであれば奉天に陣取るのが一番良いのだが、皇帝側近から「蛮夷どもが天津に上陸した場合どうするのだ」という意見が出るに及んで、事はそう簡単にはいかなくなる。 皇帝側近にしてみれば、まず重要なのは自分の生命財産であり、それ以外の事象は全くの無価値であった。 そして彼らは、蛮夷の総大将ともいうべき人間が、天津から一気に北京を突く策に賛同しているという事を漏れ聞いて、自らの権益を守るために、北京防衛を主張したのである。 勿論、名目上は「蛮夷どもに帝都を犯させるなどあってはならない」という、誰もが表立っては反論できない理由を押し立てていたが、 彼らの本音がどこにあるかは、自明の理であった。 塞防派は、側近たちの真意を理解し、「奴らには大軍を渡洋させるだけの力はなく、上陸させたとしても2個師団が精々である。それならば、帝都の禁軍数万で十分対応できる」として、あくまでも奉天での戦力集結を訴えたのだが、11月に日本軍が1個軍団3個師団の兵力を、旅順の付け根にあたる花園江に上陸させ、一週間もたたずに金州を制圧し、旅順司令官である葉志超から悲鳴の如き救援要請が出てからはそうも言ってられなくなる。 597: yukikaze :2017/02/15(水) 23 57 01 塞防派は、あくまで敵部隊の主力は朝鮮半島から北上してくると考えており、旅順の部隊は、直隷で決戦をする為の地ならし部隊であると判断していたのだが、日本軍は朝鮮は無視して、先に旅順を制圧しに来たのである。こうなると騒がしくなるのが、皇帝側近であり、彼らは「一日も早く帝都防衛体制を取るべし」と騒ぎ立て、しかも皇帝までもが「この上は、朕自ら精兵を率い、北京近郊での決戦を行う」などと、やる気があるのはいいのだが、戦略的には頼むから邪魔しないでくれレベルの発言をし、とどめに威海衛にも時間をおかずに日本軍1個師団が上陸したことで、彼らの目論見は完全に消滅することになる。 結果的に彼らは、奉天に置くはずだった主力部隊を、天津及び皇帝直轄部隊として北京に置き、旅順を落とした日本軍が、北京を長躯突かないよう、朝鮮に送る予定であった李の子飼いの部隊を、錦州に駐屯させることで防壁とすることに決定した。 勿論、増援軍が来ないことに、朝鮮政府は悲鳴を上げることになるのだが、清側は完全にそれを黙殺していた。 もう既に日本侵攻が実質的に不可能になった以上、朝鮮の役割は、清への物資供給および侵攻してくる日本への足止めによる消耗以外何もないのである。 彼らは、征東行省長官に対し「錦州への物資の補給と根こそぎ動員で侵攻してくる日本への肉壁としての準備をせよ。何人死のうが構わんので、成果を出せ」と厳命を下し、件の男も忠実にそれを行っていた事で、もはや朝鮮の統治は四分五裂状態に陥っていた。 如何に属国とはいえ、後先をまるで考えてないこの対応は、後々ツケとして帰ってくるのだが、皇帝とその取り巻きの思いつきとしか言えない発言に振り回されていた塞防派には、そんなことまで思い至るだけの余裕は更々なかった。 こうして清側は漸くにして戦略を確定させることになるのだが、如何せん北洋水師の壊滅により、黄海及び渤海の制海権が日本側にとられてしまったことで、日本側は好きな時に好きな場所に上陸することができるという事実に、彼らは今更ながらに事の重大さを認識することになる。 実際、度重なる命令の変更は、清軍の行動に混乱を生じさせ、紙の上では、天津付近に8万、北京に7万、錦州に5万いる形になっているのだが、実際には命令の伝達上の不備等も重なって、天津に5万、北京に5万、錦州に4万、満州に2万、その他4万人は移動中という有様であったし、錦州や天津では急ピッチで防衛ラインを作り上げていたものの、未だ完成には程遠いという有様であった。 特に錦州方面部隊は、「一月はもってくれるであろう」と、願っていた旅順の守備部隊が、2週間持たずに陥落してしまったことに慌てた北京上層部の誰かが、「今すぐ田庄台にまで進出して迎撃せよ」という命令をだし、慌てて先遣隊として5千の軍勢を出したら、今度は「田庄台進出を取り止め、錦州で防衛せよ」と命令が下り、溜息をつきながら戻す命令を下したら、更に「先遣隊及び満州に残っている部隊とで、2万の軍勢を以て、遼陽に布陣し、旅順から進行する日本軍を挟み撃ちにせよ。なお、遼陽にはイクタンガが指揮し、錦州は宋慶が指揮せよ」という命令が出されるなど、もはや「どの命令が正しいのかわからない状態」に陥っており、宋が盛大に溜息をつきながら、何とか命令通りにした瞬間、「ただちに左宝貴に兵1万を率いさせて、田庄台を固めさせよ」という命令が来た時には「皇帝陛下の取り巻き共と塞防派の連中は、紙の上だけで戦争をしているのか!!」と怒鳴りつけるのも無理はなく、しかもこの発言を問題視した取り巻きの誰かによって、宋慶が北京に召喚されたことで、錦州軍指揮官代理になった劉盛休とイクタンガそれに田庄台に急いで向かった左宝貴の内、誰が総指揮をとるのかの合意が取れておらず、この時点で指揮系統面で錦州方面部隊は崩壊したと言ってよかった。 それを示すように、旅順を落とした日本軍第二軍団(指揮官:沼間守一中将)が、錦州方面軍の混乱をついて営口まで進出したことを危険視した左宝貴は、部下の「錦州と遼陽の援軍を待って出撃すべき」という意見を振り切って出撃したのだが、既に営口を落としていた沼間守一中将は、旧幕府軍の中では屈指の名将と言われただけあって、巧妙な防衛ラインを作成することによって、左の軍勢の吶喊を悠々と受け流し、彼らが気付いた時には、砲兵部隊だけでなく機関銃部隊からのもっとも濃密な射線を受ける場所にまで誘導されていた。 「勇敢だ。だが無謀だ」 先頭をきって突撃してきた左が真っ先に肉塊になるのと共に、左が率いた清軍が壊滅的な打撃を受けたのをみた沼間は、しかしその地獄絵図にも何ら躊躇せずに敵軍の殲滅に入っている。 598: yukikaze :2017/02/15(水) 23 58 52 彼らの役目を考えるならば、ここで相手を叩けるだけ叩いておかない策はない。 無論、一部の兵は『わざと』逃がすことによって、遼陽と錦州の部隊の更なる士気の低下を図らせる予定ではあるが、これからの戦で楽をする為には、敵の兵を減らすのに越した事はない。 欲を言えば、遼陽の部隊も纏めて殲滅できればよかったのだが、こればかりは致し方がない。 そもそも、敵の先手衆が来てくれただけでも、こちらとしては十分な戦果なのだ 「遼陽の部隊は、うちに増援で来た2個旅団を海城及び牛荘に進出させることで防衛可能。残りは予定通り錦州に向かう」 掃討戦にあらかた目途が立った後、沼間は、統帥本部の作戦通り行動を開始する。 彼にしてみれば、この作戦案は少しばかり巧緻に走っている部分はあったが、それでもまあ許容範囲であった。 少なくとも、主目標は徹底しているし、それを達成するための兵站も達成されている。 どこぞの水戸の馬鹿が、主目標もあいまい、兵站も滅茶苦茶という、悪夢以外の何物でもないしでかしで散々苦杯をなめさせられた沼間にとっては、この二点は死活問題であった。 まあ戦の腕はからきしだが、軍政家としては超一流の山縣や、同じく戦略の大家である種田が目を光らせているから、そういった馬鹿が組織のトップになることはそうそうないであろうが。 「第十三師団の土方中将に田庄台を抑えるように命じろ。勿論、住民に無用な損害を与えないようにな」 まあ土方中将にはいらん訓令だろうがな、と、沼間は煙草を投げ捨てながら一人ごちた。 京都で維新志士相手に猛威を振るった新撰組の「鬼の副長」であり、一部の維新志士気取りのボンクラの暴走で、西郷元帥がせっかく話をまとめた東北諸藩の恭順があわや崩壊しそうになった時に、会津の家老と共に、呵々大笑して腹を切って戦を止めた近藤勇の後を受け継いだ男は、戦術の鬼才であると共に、今ではもう珍しくなった武士の気風を頑固に守り続けていた。 そんな男にとっては、敵兵相手に詐術を使うことなど何の呵責もないであろうが、無辜の民が戦の巻き添えになることは死んでも耐えられないだろうし、仮に部下がそんなことをしたら『士道不覚悟』と、自ら首を跳ね飛ばしかねない御人である。 『文明の戦い』に拘る東京の連中としては、住民への無用な被害など御法度であり、それを考えるならば全軍の切っ先に土方中将を置いたのは、誠に理に適っていた。 「後は時間との勝負か。攻城戦を考えると正直厳しいが、あの玩具も使うか」 作戦が発動するまでおよそ3ヵ月間しかない。 第二軍団に課せられた条件を考えるならば、厳しいと言えば厳しいのだが、それで文句を言うほど、彼も旗下の将兵達もヤワではない。 ついでに言えば、東京から「攻城戦用の新兵器」とやらも複数持ち込まれてもいた。 彼にしてみれば、威力はなかなかだが「使い所が難しいな」という代物でもあったのだが、この際そう言った問題には目をつむるつもりであった。 「まあいいか。景気のいい花火と思えば」 錦州城に籠っていた劉将軍が聞いていたら、間違いなくこの発言に激怒したであろう。 沼間の言っていた「景気のいい花火」とは、史実で言う所の九八式臼砲であり、短射程で且つ数回発射すれば発射筒が壊れる代物であったが、威力直径が200m近い化物が数十発も一度に城壁に叩きつけられれば、当時の防壁で防げというのが酷というものであった。 当初の予定より幾分速い2月上旬。日本陸軍第二軍団は万全の態勢で錦州城前面に展開。 錦州城の堅い守りを当てにしていた錦州の防衛部隊は、攻撃二日目に起きた大規模な爆発と城壁の崩壊によって大混乱に陥り、そして沼間の三個師団が、軍団規模の朝駆けをかけた事で、混乱から回復することなく防衛線が崩壊し、劉将軍は自刎して果て、錦州防衛部隊の指揮系統は完全に消滅することになる。 そして沼間はその混乱を最大限利用し、遂に3月初旬には、北京への北方からの最終防衛ラインである山海関を強行策で落とすことで、統帥本部の計画をクリアすることになる。 そして、山海関陥落を以て、統帥本部は、この戦争を終結に導くべく、『烈風』作戦の発動を命じることになる。 600: yukikaze :2017/02/16(木) 00 09 35 更新終了。清国は何とか防衛戦略を固めたかに見えましたが、指揮系統の混乱を突かれて、遂に北京北方の防衛ラインが崩壊することになりました。 勿論、日本の第二軍団もある程度の損害と、インフラの問題からくる補給の減少には苦労しますが、それでもまだ戦闘能力は保っており、この圧力が北京にいる上層部をさらに混乱させることになります。 新兵器として登場させた九八式臼砲ですが、これ原理的には簡単な代物でして、短射程と砲撃の持続性のなさ、それとこの時代の火薬を考えた場合での威力の低下に目をつぶったとしても、数の暴力を受ければ、当時の清の防壁ではどうにもならないですしそれが達成できるだけの物量と、攻城戦の経験がある日本相手だったというのが不幸の元でした。 前作では、山川でしたが、今回は沼間と土方を出すことに。 沼間は板垣が「ガチで戦術能力高いわ」と嘆いたように、当時の幕府軍では一級の指揮官ですし土方もまた同じでしたので、彼らに参加してもらおうと。 なお、山川も参戦させる予定であります。 史実第一軍が求めていた遼河平原の決戦が、豊富な物量で達成できたことで、日本陸軍の選択肢は「直隷決戦」「山海関からの北京攻略」が実現可能になってきています。 次回辺りで決戦を描こうかと考えています。
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統合幕僚学校・高級幹部課程講義案 「『昭和の戦争』について」 福地 惇 (大正大学教授・新しい歴史教科書をつくる会理事・副会長) 第一章 「昭和の戦争」前史 第一章 「昭和の戦争」前史第一節 「十五年戦争」という歴史用語の陥穽(落し穴) 第二節 明治政府の国家戦略 第三節 日清戦争の歴史的意義 第四節 日露戦争の世界史的意義 第五節 複雑な国際情勢の出現・・・・一九一〇から三〇年まで 第六節 更に深まる支那大陸の混迷状況 第七節 欧州大戦及びロシア革命の甚大な影響 第一節 「十五年戦争」という歴史用語の陥穽(落し穴) 周知のように、満洲事変から支那事変、大東亜戦争へと、「昭和の戦争」は日本の国策として首尾一貫したアジア・太平洋方面への侵略戦争だったとする知識が日本のみならず世界の常識になっている。第二次世界大戦は平和と民主主義を愛する正義の諸国=『連合国』と世界征服を目指す邪悪な全体主義『枢軸国』との激突であった、と『連合国』側はあの戦争の性格を概念規定した。 だが、これは連合国側、特に米国とソ連とが、歴史の事実を歪曲して独善的に自己に有利な物語に仕立て上げた、いわば偽装された戦争物語に過ぎない。取り敢えず分りやすい反証を三つ挙げよう。 第一に白人欧米列国は三、四百年もかけて本国を遠く離れた地球の裏側まで、侵略戦争を果敢に展開する植民地支配連合を形成していた。 第二に、大日本帝国は、侵略戦争で獲得した植民地を持っていなかった。台湾は日清戦争の勝利によって獲得した領土であり、朝鮮半島は朝鮮王朝との外交交渉による条約で我国の領土に併合したのであり、満洲国は「五族協和」の理想を掲げて建国された独立国家だったのである。英国から独立した米国が英国の傀儡国家だと騒いでいる者を私は知らない。米墨戦争(一八四六―四八)でアメリカ合衆国がメキシコから割譲したテキサス州・カリフォルニア州・ニューメキシコ州を植民地支配だと騒いでいる者がいるのを知らない。台湾はカリフォルニア州となんら変ることのない戦争による領有関係の変更であった。 日韓併合は、米国のハワイ併合より穏やかな併合だった。チェコとスロバキアが合併してチェコスロバキア(既に解体した国家となったが)に、西ドイツと東ドイツが合併してドイツとなったのと何の変哲も無い。満洲国は日本が支援して建国された独立主権国家である。ソ連は満洲建国より八年も以前に、完全な傀儡国家であるモンゴル人民共和国を作っていた。米国のフィリピン独立支援よりも穏当な形の独立支援だった。また、現在の隣国共産支那は、チベットや新疆ウイグル、満洲や内蒙古を軍事力で国土に編入しているし、尖閣列島をじわじわと自国領土に取り込もうとしているし、台湾を武力で領有しようと身構えている。共産支那は明らかに現役パリパリの侵略国家である。だが、戦前の大日本帝国が侵略国家だったと未だに騒ぎ立てる手合いは多いが、共産支那は侵略国家で怪しからんと騒ぐものは徐々に増えてはいるが未だに少数派であるのが現実である。 第三に、日本帝国は、ナチス・ドイツやファシズム・イタリアと同一の全体主義の独裁体制の国ではなく、明白な立憲君主議会制国家だった。確かに、日独伊三国同盟を締結していた。大東亜戦争期に日本人の一部に「ファショ的雰囲気」は存在したたし、大戦争に遭遇したのだから当然「戦時体制」は敷かれた。しかし、明治憲法は大東亜戦争の敗北まで健在だったのである。軍国主義者の代表とされた東條英機は憲法に従って内閣首班・陸軍大臣を勤めて戦争を指導した。他方、『連合国』側には、超独裁主義者スターリンのソ連、典型的軍閥独裁者=蒋介石の中華民国が名を列ねている。ソ連には憲法は有ったがそれは空文に等しかった。蒋介石の中華民国はマトモナ憲法を持たず、公職に関する選挙制度も無かった。それ故、『連合国』の盟主米国に対して、お前の仲間は典型的独裁者だったのだから、お前も野蛮な「独裁体制の国」だったのだぞ、と言ってみよう。そう言われたアメリカ人が、顔色を変えて激怒するのは火を見るよりも明らかであろう。 何れにせよ、問題の核心は、「昭和の戦争」が、東京裁判が断案した通りの「侵略戦争」ではなかった点が証明出来ればよいのである。では、「昭和の戦争」の真相は何だったのか。それを述べる前に、あの大戦争の性格をより良く理解する為に、先ずそこに至る前段階=前史を概観することから始めよう。 第二節 明治政府の国家戦略 元寇以来未曾有の国難到来、それは十九世紀当初から高まった西欧列国の脅威だった。それは寛政年間(一八世紀末葉)から始まっていたが、大きな山は一八五三=嘉永六年(凡そ百五十年前)、米国ペリー艦隊の来襲だ。米国政府は徳川幕府に『開国要求』を突きつけた。その目的は欧米列強の世界支配の論理を日本に飲み込ませることであり、それが拒絶されれば、軍事力に物を言わせて植民地支配への道を切り開くことであった。「開国要求」の方法が所謂『砲艦外交(ガンボート・ポリシー)』であったのは、そのことを如実に物語る。同じ年に、プチャーチン座上のロシア艦隊が長崎に襲来して『開国』を要求した。この時点から日本の近代史は本格的に始まる。わが国は欧米列強の侵略の脅威に直面したのであって、それにどのように対応していくかが幕末政治史の核心的課題になったのである。 徳川幕府は、欧米列強の支配圏に参入することで、侵略の脅威を避ける道を選択した。一八五八=安政五年、日米通商条約締結である。この時点で我が国は不平等条約と言う重い足枷を嵌められて西洋列強の国際関係の枠組みの中に引きずり込まれたのである。この巨大な衝撃に耐え切れず徳川幕府は崩壊して一八六八=慶応四年に明治政府が登場する。欧米列強の東アジア侵略攻勢がなければ、近代日本の擡頭はありえなかった。つまり、内発的な動機から日本が近代世界に参入したのではない。徳川三百年の「泰平」は、我々が思っている以上に安定していて、対外政策は「鎖国」だったからである。 さて、欧米列強の東アジア侵略への防衛的対応という課題を背負って誕生した明治政府の国家戦略を端的に言えば、二点ある。 第一は、当然のことながら、日本民族の独立と安全の確保=「国権の確立」であった。「国権の確立」とは、先進西欧列強と対等並立できる強国に成ることで、「万国対峙」「万国並立」と表現された。当面の最大の懸案は「西欧的国民国家」の建設と「富国強兵」政策の推進と不平等条約改正事業だった。西洋列強が我が国を独立主権国家に相応しいと認知してくれない限り、「国権確立」は達成困難だったからである。そこで、「開国進取」の理念を基に近代西洋的国家・市民社会・産業社会の建設に全力を投入したのである。 第二は、「東洋世界の平和と安定の確立」(「東亜〔支那〕の保全・東亜〔支那〕の覚醒」)であった。昭和時代には「東亜(アジア)の解放」と言われたが、要するに西洋列強=白人覇権勢力の圧迫から植民地支配の悲哀に陥り恐怖に慄く被抑圧諸民族=有色諸民族を解放することである。幕末に幕臣勝海舟は、その目的を目指す手段として「日支鮮三国同盟論」なる東アジア連合を提案していた。この構想は、明治政府の要人たちにも受け継がれ、日本外交の一潮流としなっていく。だが、外交は、我が国の意向や思惑だけでは動いてくれない。二十世紀前半の我が国を取り巻く国際関係は、正にその典型だったと言えよう。 なお、明治政府は、凡そ二十有余年間、「西欧的国民国家」建設と「富国強兵」政策推進に涙ぐましい努力を重ねて、一八八九=明治二十二年には「大日本帝国憲法」を発布して、翌年からの帝国議会開設へと漕ぎ着けた。同時に産業社会の仕組・国民教育の機構・国民軍隊=陸海両軍もこの頃までにはその基礎構築を進展させていたのである。 第三節 日清戦争の歴史的意義 日清戦争の歴史的意義は何か。欧米列強の東亜侵略に対抗するための国際環境の整備という側面が重要だ。当時清帝国は、ロシア帝国の南下行動に有効な対抗策を打ち出せないでいた。他方で、朝鮮半島に対しては旧来の中華体制的宗属関係を維持していた。清国は朝鮮国の宗主国である。朝鮮半島は支那のいわば植民地的存在だった。宗主国支那がロシア帝国に侵略されれば、属国朝鮮も一網打尽の餌食となろう。そうなっては、我が日本の安全保障は重大な危機に直面する。「中華思想」「中華体制」で東アジアから西欧列強の侵略を撃退するのは不可能である。余りにも独善的で全体を冷静・客観的に見る能力を欠いている。朝鮮王朝を清帝国の支配から離脱させて独立主権国家に育成し、日鮮提携して極東の安全保障を強化する、これが我が国の朝鮮政策であった。日清戦争は、朝鮮半島から清帝国を追い払って朝鮮王国を独立させると言う文脈の中で起きたのである。(注・大韓帝国、皇帝、独立門)。 一八九五=明治二八年四月に下関講和条約で清国から遼東半島を割譲した。しかるに、露独仏の三国が、「東洋平和の為に」なら無いから清国に返還せよと強要して来た(三国干渉)。力関係を熟慮して我が国政府は、干渉を受け容れた(同年五月「遼東還付・臥薪嘗胆」)。ところが、お説教したロシアは、舌の根も乾かぬ内に清国から遼東半島(三一年六月、旅順・大連)を租借して強固な要塞を建設、また南満洲鉄道の敷設権を獲得して、満洲・蒙古と朝鮮半島への侵略政策に力を入れるに至った。シベリア鉄道の建設は間もなく完工を向かえる段階だった。朝鮮王朝の近代化改革を支援しようと日本が動いたその時、三国干渉で情勢急変、李朝は忽ち強いのは日本よりもロシア帝国だと擦り寄ったのである(朝鮮の「事大主義」)。日清戦争の成果は失われ、急転直下、朝鮮半島は更に危うい情勢に陥った。日露戦争の種は、こうしてロシアと朝鮮によって撒かれたといってよい。 第四節 日露戦争の世界史的意義 日清戦争後、清国に対する西洋列強の侵略運動が加速した。そこで義和団の過激な攘夷運動が燃え盛り、義和団事変となる。清国皇帝は義和団の攘夷運動を公認した。義和団は北京の列国外交団や居留民殲滅戦を展開し、清王朝は日本を含む欧米列強に宣戦布告した。日本軍を主力とした連合国軍はこれを撃退し、「北京議定書」が成立した。この情勢の中でロシア帝国は満洲を略完全に占領して南下政策強行の姿勢を示した。ロシアの朝鮮・満洲・支那・蒙古への侵略の阻止こそが我が国が対露戦争に立ち上がった動機である。兵員大量輸送のためのシベリア鉄道も略完成していた。 国力、軍事力の比で見れば日本の勝利はとても無理だと列国の軍事専門家筋は予想したが、わが陸海軍の勇猛果敢な奮闘で、一応の勝利となった。ポーツマス講和条約締結の際の苦労は日本の「善戦の末の辛勝」を如実に示している。英国と米国の支援を得た結果であった。いずれにせよ我が国は日露戦勝でロシアを満洲北部へ押し戻し、朝鮮を我が国の勢力圏に編入せしめた。明治政府の国家戦略の大きな前進だったのである。(注・日露兵力比) さて、日露戦勝の歴史的意義は、第一に、新興小強国として西欧列強の認知を獲得できたこと、第二に、ロシア帝国の露骨な支那・朝鮮・蒙古への南下を阻止したこと、第三に他の列強の形振り構わぬ支那分割に歯止めをかけたこと、第四に、白人覇権勢力に頭を抑えられ呻吟している有色諸民族に『民族解放』『国家独立』への大きな希望を与え、大いに激励することになったこと等であった。 なお、不平等条約改正問題は「国権確立」問題の象徴だが、実に困難な外交課題だった。治外法権の解消は日清戦争直前の明治二十六年七月、関税自主権完全回復は、何と明治四十四年二月であった。欧米列強との対等・平等への道が如何に長く困難だったかを如実に物語っている。尚、明治三五年一月に日英同盟が成立し、英国が有色人種の国家と対等な同盟条約を結んだ最初である。 一九一〇=明治四三年の「日韓併合」は、既に指摘しておいたように、外交交渉による日本への併合であって、侵略戦争で奪い取った植民地ではない。我が国が力関係で上だったから交渉を主導したのは当然であった。今でも、国際関係は力関係で大きく左右されているので不思議とするには当たらない。竹島を不法占領して恬として恥じない姿勢と比べれば、日韓併合条約締結過程は遥かに紳士的だったと言ってよい。歴史を直視しない現在の韓国政府は、勝手に決め込んだ歪曲史観から発する理不尽な怒りと不満で、「日帝三十六年の植民地支配」の清算などと国際法を眼中におかない妄言を吐いているが、当時の半島人の多くは日韓併合を大歓迎したのだ。李氏朝鮮王朝は、極端な独裁政治で民生の安定も図れず、況や自助努力で「独立主権国家」を形成する意欲も能力もなかった。朝鮮半島が「力の空白地帯」になることを日本は容認できなかった。ロシア帝国の朝鮮侵略意欲が目に見えていたからだ。 なお、日韓併合以後は、日本は国家財政を朝鮮半島経営に割いた。また、近代化の基礎構築、教育水準の向上、社会基盤や環境の改善等に融資と助力を惜しまなかった。朝鮮半島から搾取するものは殆ど無く、逆に本土からの資金の持ち出しであり、朝鮮人の社会環境や生活向上に多大の成果を挙げたというのが歴史の事実であった。大東亜戦争敗北後の我が国の経済復興、高度成長の原因は、財政上の重荷だった朝鮮や台湾を切り離されたお蔭である。戦前、我が国は朝鮮・台湾・満洲に対し一視同仁、「内外(鮮)一体」の気持から外地の発展に大きな資金を回していた、その分が無くなったためである。「東亜=アジアの解放」の努力として日本と朝鮮・台湾・満洲問題は見るべきものなのである。 若しこれをどうしても植民地支配と言いたいのであれば、実に立派な植民地支配である。英国のインド、アラブ地域支配、仏国のアルジェリア、モロッコ支配、スペインの中南米やオランダのインドネシア植民地支配、何れも実に虐殺も厭わす残虐で無慈悲な搾取と差別の支配であったが、それとは似て非なるものであった。然るに、韓国や北朝鮮は、『苛酷な植民地支配』だったと執拗に反省と謝罪を求める。また我が国のボケナスの保守政治家や左翼諸君は悪辣な植民地支配をしたと、謝罪と反省に余念が無い。その者たちは、先祖の偉業を侮蔑することに快感を覚える愚か者だ。また、朝鮮=韓国の人々は、日本をただ感情的に非難・攻撃する前に、右の事実や自分たちの先達の不見識と不甲斐なさに思いを致して反省すべきであろう。日本政府は事実を直視して毅然と対応すべきだ。 第五節 複雑な国際情勢の出現・・・・一九一〇から三〇年まで さて、日露戦争後、我が国と諸外国との関係に注目すべき変化があった。その第一は、米国の対日姿勢の変化である。講和条約締結に斡旋の労を取った見返りとして、米国は満洲市場への参入を要求してきた。我が国はそれをヤンワリと拒否した。満洲問題はロシアと清国との関係も複雑で、米国の参入が満洲問題を更に困難にするのを懼れたためである。米国はこれに気分を害した。日本を仮想敵とした米国海軍の有名な「オレンジ計画」は一九〇六=明治三九年に策定開始された。 一九〇八=明治四一年一〇月には、戦艦六隻の世界一周米国親善大艦隊《ホワイト・フリート》の横浜寄港がある。親善訪問とは謳われたが、明らかにガン・ボート・ポリシー=《砲艦外交》の発動であった。比較的好意的だった米国が、新興日本帝国の予想外の擡頭に対して今度は急速に警戒感を深め始めたのは皮肉な運命であった。ちなみに言えば、日本は基本的には「親米」的姿勢を変えていなかった。 注目すべき第二は、日露協商の締結による日露協調関係の出現である。ロシア帝国は、満洲北部に退却して、日本との協調を望むようになる。ここに、東アジアでの勢力均衡を求める日露協商体制が登場した。だが、日露協調時代は、一九一七=大正六年にロシア革命でロマノフ王朝が滅亡するまでの、およそ十年間の寿命だった。 注目すべき第三は、清王朝(北京政府)の対日強硬姿勢の出現である。清帝国がこの段階に至って南満洲の領有権と利権回収を要求し始めたのである。確かに、満洲は清国皇帝=愛新覚羅氏発祥の地で特別の地域だ。だが、清帝国は、満洲防衛の努力を長らく放置して、ロシアの満洲占領を容認していた。もし、我が国が国運と国力を賭けてロシアを北方に退けなければ、或いは日本が敗北していたならば、当時の国際情勢の流れから考えて、清国はロシアに丸ごと占領=植民地支配されるに至った可能性は高かった。だから、清国の主張は、自らの立場も責務も弁えず、我が国の必死の苦労を無神経に無視するに等しい遺憾な主張だった。ロシア帝国の南下の圧力が弱まった途端に、日本の奮闘努力を眼中に置かない支那の独善的な横暴が露見して来たのである。 支那政府は、国際社会に「日本の貪欲な侵略」などと訴えて、同情を引き出そうと宣伝工作に取り掛かる。虚偽によるプロパガンダ攻勢に支那民族は長けているようである。満洲への進出を欲する米国が支那に同情する。日露戦争前とは一転して、東アジアに新たに日露提携・対・米支接近と言う構図が出現したのである。 第六節 更に深まる支那大陸の混迷状況 さて、一九一一=明治四四年十月に辛亥革命が起こり、翌年一月、共和制を唱える中華民国が成立、清王朝は滅亡した。長らく日本有志の支援を受けて支那民族独立運動を続けていた孫文が臨時大総統に撰ばれたが、謀略家袁世凱(清王朝重臣、北洋軍閥首領李鴻章の後継者)に権力を奪取された。袁世凱は三月十日、臨時大総統就任後に首府を北京に移し、巧みに政局を操った。しかし、五年後の一九一六=大正五年、力量を過信して皇帝即位事件で躓き、失意の内に頓死した(六月六日)。支那全土は、忽ち軍閥割拠の混沌状況に陥り、内戦は一九二八=昭和三年十二月に蒋介石国民党が支那統一に略々成功するまで約一二年間続いた。 この大混乱は、満洲にも波及し奉天軍閥張作霖が台頭、張は初め北京政府に服従したが、袁亡き後、北洋軍閥は安徽・直隷・奉天の三派に分裂、北京政権争奪戦を約十年間繰り返す。結局は一九二二年と二四年の奉直戦争で張作霖が勝利、一九二六=昭和一年に北京政権を掌握した。だが、この間の覇権争奪戦中、張の故郷満洲経営は杜撰を極め、匪賊・盗賊が満州の荒野を徘徊する情況になった。日露戦争後、ポーツマス条約に基づき日本が管轄した南満州鉄道及び付属地一帯は我が関東庁と関東軍司令部の尽力で秩序を保ち、多くの難民が流入したのである。 第七節 欧州大戦及びロシア革命の甚大な影響 欧州大戦が、一九一四=大正三年七月から、五年間継続(一九一八=大正七年一〇月)した。凄惨な近代戦争でヨーロッパ諸国は勝者も敗者も甚大な打撃を蒙った。また大戦の最中、一九一七=大正六年三月、ロシア共産革命が起こりロマノフ王朝は滅亡した。シベリア出兵もこの大戦中にあり、米国の日本への不信感を深める要因の一つになる。 ところで、戦場が遠方だった日本と米国は参戦したが経済成長をものにした。歴史教科書的説明では、大戦で日本は経済的に潤い、成金が時代の雰囲気を代表し、都市化・産業化が進み新思潮大正デモクラシーの高まり社会主義運動の成長などと国内動向の変化のみを強調する。確かに、ヨーロッパの変動が思想・経済・社会情勢に大きな影響を与えた。 ロマノフ王朝の滅亡で日露協商関係は自動消滅した。そして、真に括目するべき事態は、国家の内と外から並び押し寄せてくる世界共産革命運動の不気味な波である。共産ロシア=クレムリンが発動するあの手この手の共産革命謀略工作こそは、これまでとは全く異質な日本帝国を滅亡へと誘う不気味な魔の手だったのである。我が国戦後の歴史研究者たちは、余りにもこの問題を軽視しすぎてきたと私は思うのである。 統合幕僚学校・高級幹部課程講義案
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昨日 - 今日 - 台湾の歴史・日台関係史 台湾の歴史・日台関係史概説・総論 年表 牡丹社事件・台湾出兵 日清戦争 いわゆる"日台戦争" 戦没者数 匪徒刑罰令 日英博覧会 「理蕃」と反抗・いわゆる「高砂族」 台湾総督府文書 人口構成 植民地台湾の評価 植民地経済 開発美談 台湾と十五年戦争 いわゆる"日本語族" 在日台湾人 現代台湾の政治動向 概説・総論 図説 台湾の歴史 New! 台湾の歴史 日台交渉の三百年 帝国主義下の台湾 MASAKI'S PLACE 同 台湾の歴史 黄昭堂 台湾民主国の研究(未作成) 黄昭堂『台湾総督府』 『近代日本と植民地2 帝国支配の構造』(岩波書店)(未作成) 日清戦争藤村道生 台湾出兵(未作成)毛利敏彦 日露戦争の世紀(未作成)山室信一 日清・日露戦争原田敬一 日清戦争従軍写真帖―伯爵亀井茲明の日記(未作成) 台湾終戦秘史―日本植民地時代とその終焉(未作成) 1984年 富沢 繁 現代史資料21,22 台湾I,II(未作成) 解説:山辺健太郎 年表 台湾植民地年譜 牡丹社事件・台湾出兵 Sinvaudjanから見た牡丹社事件上pdf Sinvaudjanから見た牡丹社事件下pdf 台湾出兵(未作成)毛利敏彦 台湾『牡丹社事件』から135年 明治政府初の海外出兵 東京新聞 2009年5月30日 朝刊 日清戦争 日清戦争藤村道生 日露戦争の世紀(未作成)山室信一 日清・日露戦争原田敬一 日清戦争従軍写真帖―伯爵亀井茲明の日記(未作成) 日清戦争の社会史 「文明戦争」と軍夫(未作成) 濱本利三郎『日清戦争従軍秘録』 いわゆる"日台戦争" 第7章 日本統治時代――天子が代わった(図説 台湾の歴史) wikipedia 乙未戦争 五十嵐真子・三尾裕子編『戦後台湾における〈日本〉──植民地経験の連続・変貌・利用』 『新しい歴史教科書』(扶桑社)を斬る13 「日台戦争」と呼ぶのは誤りか 大本営 領台十年史(未作成) 伊能嘉矩編,明38.6 台湾匪乱小史 台湾総督府法務部 『台湾総督府警察沿革誌』 戦没者数 日清・日台戦争戦没者数 匪徒刑罰令 匪徒刑罰令 匪徒刑罰令データ 日本植民政策一斑 日英博覧会 「人間動物園」、台湾先住民は出演者に過ぎないのか? 『黄色い仮面のオイディプス―アイヌと日英博覧会―』宮武公夫 黄色い仮面のオイディプスーアイヌと日英博覧会 英文wikipedia Human Zoo 日英博覧会事務局事務報告 第17章 日本余興 欧米遊覧記 英国より祖国へ 台湾日日新報「日英博の生蕃館」 英国人はアイヌ、パイワン族をどう見たか Daily Express, 16 May 1910 台湾人の結婚式 The Times, 5 Sep 1910. 「理蕃」と反抗・いわゆる「高砂族」 wikipedia理蕃政策 空爆の歴史と台湾 日本人植民地者と原住民の交流問題―台湾の『蕃界』における通事と通訳をめぐって チカソワン(七脚川 事件)事件1908(未作成) 台湾古道~台湾の原風景を求めて 「合歓礼讃」南投県仁愛郷公所発行 「以蕃制蕃」 高あきら・台湾「霧社事件」〔1〕 霧社 年表とメモ (楊威利)霧社事件 物語と歴史:霧社事件ってなんだろう? 写真記録 台湾植民地統治史―山地原住民と霧社事件・高砂義勇隊 「日本通」の目を通して見た台湾pdf 「戦前日本は台湾で何をやったのか」のその2 台湾山地開発と隘勇線(防衛線)(一部紹介) amazon抗日霧社事件の歴史―日本人の大量殺害はなぜ、おこったか amazon台湾秘話 霧社の反乱・民衆側の証言 (単行本) 林 えいだい 台湾からの手紙(未作成)早乙女勝元 高砂族に捧げる(未作成)鈴木明 台湾高砂義勇隊は「日本人」だったのか 「証言 台湾高砂義勇隊」林えいだい(未作成) 陸軍中野学校の東部ニューギニア遊撃戦 台湾高砂義勇兵との戦勝録 台湾蕃政志(未作成) 台湾蕃族図譜(未作成) 理蕃策原議(未作成) タロコ討伐(未作成) 台湾総督府文書 中京大学社会科学研究所台湾史研究センター 檜山幸夫『台湾総督府文書の史料論』抜粋 人口構成 台湾の人口構成データ 台湾の就学数もしくは就学率データ(未作成) 台湾国勢調査記述報文 大正13 植民地台湾の評価 帝国主義下の台湾 矢内原忠雄 SAVAGE ISLAND OF FORMOSA TRANSFORMED BY JAPANESE The Times 1905 日本にとって植民地とは何であったか 初瀬龍平 台湾統治五十年の歴史 衛藤俊彦 植民地経済 外国資本の駆逐 開発美談 水利技師・鳥居信平の知られざる業績 台湾と十五年戦争 いわゆる"日本語族" 漢族系台湾人高年層の日本語使用-言語生活史調査を通じて 漢族系台湾人高年層の日本語使用-言語生活史調査を通じて-(1) 植民地支配と日本語石剛 三元社 在日台湾人 台湾正名運動 「台湾人」という概念提唱は最近のもの 現代台湾の政治動向 台湾政治の逆流 田中 宇 台湾政治の逆流(2) 田中 宇 どうなる2008台湾総統選挙【台湾政治システム、基本知識】 どうなる2008台湾総統選挙【台湾の二大政党と独立問題】 どうなる2008台湾総統選挙【台湾総統選挙のゆくえは?】 外務省 最近の台湾情勢 むじな@台湾よろず批評ブログmujinatwさん New! 台湾:馬総統就任1年 中台関係一層強化へ「3通実現大きい」 台湾行政院長「対中市場開放、段階的に」 台湾代表、WHO総会で演説 国連脱退後初の参加 「海角七号」につづく最新作は霧社事件が題材 【資料】NHK JAPANデビュー第1回『アジアの“一等国”』をめぐって 15年戦争資料庫
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戦死者たちの洞窟3階 名前
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戦死者たちの洞窟 推奨レベル:87~93 戦死者たちの洞窟は、邪悪なネクロマンサーによってアンデッドとなり強靭な戦士たちが暮らしている場所です。洞窟の奥には誰かをしのぶために造られた石像があります。 [特産品:バラ、タチウオ、マミズクラゲ] 主な場所 用途 NPC名/場所 座標 テレポート 備考 フィールド ラビアス G9 冒険家 キブロ 〇 周回クエスト 薬草師 グレイ 〇 雑貨屋 冒険家 セリアン B-6,7 ディアス C6右上 生息するモンスター 画像 モンスター名 座標 備考 スライム 全エリア 黄金ゴブリン 全エリア 宝箱 全エリア グール 全エリア 荒くれグール 全エリア スケルトン剣士 荒くれスケルトン剣士 スケルトン斧兵 荒くれスケルトン斧兵 スケルトン傭兵 荒くれスケルトン傭兵 スケルトン大魔導士 荒くれスケルトン大魔導士 デュラハン 荒くれデュラハン ロヤン H-I5 フィールドボス 主な入手アイテム 画像 入手名 採取できるアイテム 画像 採取名 座標 備考 石 全エリア 銅鉱石 全エリア 銀鉱石 全エリア 金鉱石 全エリア 鉄鉱石 全エリア 上級鉄鉱石 全エリア 最上級鉄鉱石 全エリア 光る金鉱石 全エリア クエストアイテム 重い石 全エリア クエストアイテム クリスタル原石 全エリア サファイア原石 全エリア バラ 全エリア カイコ 全エリア 高級カイコ 全エリア バラの花束の袋 全エリア 釣りで入手できるもの 画像 入手名 分類 淡水エビ 魚 ツノダシ 魚 コクテンフグ 魚 貝 魚 ザリガニ 魚 ミノカサゴ 魚 エンゼルフィッシュ 魚 チョウチョウウオ 魚 マミズクラゲ 魚 タチウオ 魚 流氷の天使 魚 グリーントイエッグ パック ブルートイエッグ パック パープルトイエッグ パック オレンジトイエッグ パック 折れた骨 がらくた 真珠 岩石 上級HP回復薬 ポーション ゴブリンの洞窟探知棒 魔法グッズ 混沌の入口入場券 入場券 輝く涙 耳飾り ジェフィーの素材ボックス パック ナーイアスの祝福 素材 炭酸水 飲み物 名前
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交通戦争(こうつうせんそう)とは昭和30年代(1955年 - 1964年)以降交通事故死者数の水準が日清戦争での日本の戦死者(2年間で1万7,282人)を上回る勢いで増加したことからこの状況は一種の「戦争状態」であるとしてつけられた名称である。 日本における交通事故での死者数は1970年にピークに達するがこの後減少。しかし、1980年より再び増加に転じ1988年に1万人を超え、第二次交通戦争とも言われる状況となった。 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%80%9A%E6%88%A6%E4%BA%89 第一次交通戦争の開戦 1945年、太平洋戦争に敗戦した日本の復興のためにまずトラックが普及していった。経済が飛躍的な成長をとげるなか、商用トラックは小型から大型まで増加の一途を辿る。 昭和30年代(1955年 - 1964年)はトラックなどの商用車が主流だった。このころより「交通戦争」という言葉が流行語となるほど車による事故が多発。道路交通の場における弱者である歩行者の死亡事故が増加。歩道や信号機の整備が十分でなく、また十分な規制、取り締まりもされなかったゆえに死者は歩行者がもっとも多く、それも多くが子供であり、特に多数の幼児が犠牲者となっていた。華々しい経済発展とモータリゼーションの普及とは裏腹に、ドライバーは仕事に追われ、制限速度無視走行が蔓延し多くの市民が自動車の犠牲となった。ゆがんだ自動車優先意識が生んだ惨劇といえよう。 トラック需要は、日本経済が朝鮮戦争による特需ブームを迎えると、うなぎ登りに増加しました。 ディーゼル車の販売台数は急上昇しました。 そして1959(昭和34)年、現在も小型トラックナンバーワンを誇る「エルフ」の販売が始まりました。エルフは斬新で使い勝手に優れたCOE*型ボディを採用により、小さいながらもボンネットトラックに比べて多くの荷物を積載できるということから、瞬く間に小型トラックのベストセラーカーとなりました。link imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 自動車 メモ:交通大戦/三丁目の夕日の時代と交通戦争/第一次交通戦争の開戦 ギガントゥスまたはフォーディスト メモ:交通大戦 メモ:交通大戦/三丁目の夕日の時代と交通戦争 メモ:交通大戦争/人類は、いつから争い、殺し合い始めたのだろうか。 メモ:交通大戦争/国際法における戦争 メモ:交通大戦争/経済に対する軍需産業の比率と影響力 戦死者数 showrss プラグインエラー RSSが見つからないか、接続エラーです。 showrss プラグインエラー RSSが見つからないか、接続エラーです。 showrss プラグインエラー RSSが見つからないか、接続エラーです。 #ref_list 急速に発展したのは1950年頃だ。この頃はトラックなどの商用車が中心だったが、1953年頃から乗用車の生産も活発になり、そのとき9千台だった国産乗用車は、3年後の1956年には3万台にまで増えた。(自動車産業の外資政策史) 電通の広告年表では1960年の流行語の一つとして交通戦争を挙げている。 http //www.dentsu.co.jp/books/ad_nenpyo/r1960.html (黄金の60年,所得倍増,安保闘争,全学連,国立愚連隊,極東論争,インスタント,マスレジャー,ヌーベル・○○,私は嘘は申しません,声なき声,低姿勢,寛容と忍耐,裸足の王者,交通戦争,ダンプカー,家つき・カーつき・婆あ抜き,トップ屋,がめつい奴,行動右翼,七生報国,トラ箱,セックスが最高よ,永仁の壷,とうくろう,無い賃ゲール,~ちっち) 一方、乗用車も、1955年(昭和30年)、トヨタが「クラウン」を発表。「国産乗用車の新しい時代の幕開け」といわれる。その後を追ってトヨタコロナ(1957年)、富士重工業・スバル360(1958年)、日産ブルーバード(1959年)に代表される小型車・軽自動車などの乗用車販売が増加していく。さらに1966年には、日本の本格的なモータリゼーションの起爆剤になった日産サニーとトヨタカローラが発表され、この年はのちに「マイカー元年」と呼ばれる。ファミリーカーが登場し乗用車も普及の速度を増していく。 高度成長期の商用車、乗用車の増加に交通対策が追いついていなかったことから交通事故による死者数は1970年まで増加の一途をたどる。 参考 前史 黎明期と開戦まで 第一次交通戦争の終結 学童擁護員「緑のおばさん」による調停 東京都ではオリンピックにむけた大規模な工事がはじまり、制限速度以上にスピードを上げたトラックが急増したため、都は1959年から緑のおばさんを開始。23区内の小学校近くの交差点で黄色い手旗を振った。 警察は交通事故の危険から身を守るための知識や技能を習得することに重点を置いた交通安全教育をおこなう。また、全国交通安全運動では「歩行者の安全な横断の確保」を運動の重点とした。1960年ごろには、「止まって、見て、待って歩く」習性を身につけるための指導がおこなわれ、1965年前後には、「横断の際手を上げて合図する運動」が推進された。 が、本来、自動車は歩行者が横断歩道を渡ろうとしていたのならば急ブレーキでもとまらなければならないものであり、実際に歩行者の横断歩道通行を妨害した際には罰則もあるということをしらないドライバーが多いという状況が放置されており実に深刻といえる。現在でも、大半のドライバーが横断歩道で歩行者が待っていても停止すらしない(OECD諸国の多くの都市のドライバーは急ブレーキになろうとも停止する)という違反、暴力運転が蔓延しており、早急な対策がのぞまれている。 罰則も強化され1968年には業務上過失致死傷罪の最高刑が禁錮3年から懲役5年に引き上げられた(昭和43年法律第61号)。 1970年代にはいると、おもに繁華街において「人と車との分離」をねらい、欧米でおこなわれていた「カー・フリー・ゾーン」の取り組みを参考に歩行者天国を実施する自治体が増加した。 1971年より、交通事故死は現象に転ずる(「第一次交通戦争の終結」) http //ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%80%9A%E6%88%A6%E4%BA%89#.E5.AF.BE.E7.AD.96 学童擁護員(がくどうようごいん)とは、小学校の通学路上に立ち、児童の登校の安全確保に当たる職員のことである。児童の校外での様子にも、さりげなく気を配っている。女性の学童擁護員については、緑のおばさん(みどりのおばさん)という愛称で親しまれていた。この愛称は、交通安全のシンボルカラーである緑色の制服や帽子を身に着けていたことに由来する。英語ではlollipop womanというが、これは欧米で学童擁護員が持っている標識が棒付きキャンデー(lollipop)に似ていることが由来である。 1959年(昭和34年)11月19日に東京都においてこの制度が始まった。まだ女性の職場が少なかった戦後復興期に、寡婦の雇用対策として創設された職業である。 創設当初、勤務時間は午前2時間、午後3時間で、日当は315円であった。1961年以降、各地に広がった[1]。 当初は臨時職員であったが、1965年より都の正職員となった。長らく児童を見守る存在として親しまれたが、最近その存廃が議論されている http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%AB%A5%E6%93%81%E8%AD%B7%E5%93%A1 交通安全母の会
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15年(1931年~1945年)にも及ぶ戦争 今日のタイトル:「どのようにして15年に及ぶ戦争は起こったか?」 目標:戦争がどのようにして始まったのかを理解させ、15年における戦争の流れをつかむ→ワークシートにまとめる。 先生:「はい、授業を始めます!!今日から日本の15年に及ぶ戦争についてそのときの映像や資料を見ながら勉強していきたいと思います。まず、今から15年間の間に起きた戦争を書いていきます。」 (板書) 1931年~ 満州事変 1937年~ 日中戦争 1941年~ 太平洋戦争 先生:「このように15年間の間に3つの戦争が起きていて1930年~1945年までの15年間日本はずっと戦争をしていました。でも、15年間も戦争をしているけど、戦争ってどういうイメージがありますか?楽しいことだったらずっとしていてもいいけど…戦争って楽しいものだと思いますか?どうですか?」 生徒:「戦争は怖いものだと思う。」 :「たくさん人が死ぬ。」 :「食べるものがない…?」 先生:「みんながいってくれたとおりです。戦争は決して楽しいものではありません。なのに、日本は15年間に続く戦争を始めてしまったよね。なんで戦争は始まってしまったのでしょうか?」 生徒:「…」 先生:「ではこれから何で戦争が始まったか、をみんなで考えて生きたいと思います。まずこちらにあるこの地図を見てみてください。15年間の戦争の始まりは1931年に起きた満州事変からでしたね。満州事変というのは、満州の柳条湖というところで南満州鉄道の線路を爆破し、これを満州軍のせいだとして軍事行動を開始した事件です。そして、次の年1932年に日本は満州国を支配しました。ではここで問題です。満州って今のどこの国ですか?」 生徒:「中国?」 先生:「そうだね。ではこの地図を見てください。これは教科書P106ページの左端に載っている地図を拡大したものです。満州の場所が見つけられましたか?満州国は中華民国の一部です。日本という国の千葉県という感じですね。でも、私たちの憲に比べたらずいぶん大きいよね。国どうしで比べると、大きさは一目瞭然ですよね。みなさんだったらこんな大きな国に勝てると思いますか?また戦いにいこう!という気になりますか?」 生徒:「無理じゃない?」 :「でかすぎる。」 先生:「じゃあなんでこの国と戦争を始めたのか、ますます解らなくなってしまうね。そこで、資料②!!この戦争が始まるころの日本の様子についてみてみましょう。」 ※資料② 年表 1923年 関東大震災→不景気 1929年 世界恐慌→日本経済の混乱→多くの会社や工場の倒産→大量の失業者発生→米の値段が上がる 1931年 東北地方中心とした冷害による凶作→農民の生活は一層苦しくなる。→農民たち、国民同士での争いが盛んになる。(ここでは資料も見せる)※資料「大根をかじる東北の子供たち」朝日新聞社提供 先生:「さあ、この年表からこのときの日本の様子はどんな様子だと考えられますか?」 生徒:「貧しい」 :「仕事が無い人が多いから、お金が入らない」 :「食べるものも無い」 先生:「そうですね。では、このような状況でもし、みなさんが日本政府だったらどういう対策を立てますか?とりあえず今のままじゃいけないということは感じますね。そしたらなにかいい対策をとって国民を助けなければいけませんよね。さあみんなが政府だったらどうしますか?」 生徒:「う~ん…」 先生:「難しいですね。でもこのときは土地も広い、資源もたくさんある中国を攻めることで国民が苦しい生活を抜け出せられる、と思っていた人たちが多くいました。でもさっきみなさんはこんな大きな国とは戦いたいとは思わないって言う意見のほうが多かったですね。でも、実際には日本政府はこのような理由で攻めていってしまいました。ということはこのときの人は何か勝てる自身があったのですかね?みなさんはちょっと前に日清戦争について勉強しましたね。日清戦争はどういう結果だったかを思い出しながら考えてみてください。」 生徒:「日清戦争は勝ったから、また勝てると思ったのかも。」 先生:「いいことを言ってくれましたね。もう一回日清戦争を少し振り返ってみると、日清戦争では勝って賠償金がたくさん取れたし、遼東半島・台湾・澎湖諸島も割譲しましたね。もしこのときと同じようにお金が入ったら今の日本の状況をなんとかできるかもしれません。さあどうですか?戦って勝てると思いますか?」 生徒:「一回勝っているから攻める気になると思う。」 「またかってやろうと思うかも。」 先生:「そうですね。実は昔の人たちも同じことを考えていました。一回勝っているし、せめてしまえ!!ということで、1931年に柳条湖というところで南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国のせいだとして軍事行動を開始しました。これが15年間における戦争の始まりです。なんでこの15年にも及ぶ戦争が始まってしまったのかわかりましたか?では今日のおさらいとしてこのワークシートを埋めてみましょう。」 ワークシート ―15年に及ぶ戦争①― Q1.戦争が始まる前の日本はどういう状況だったか? 下の年代の隣に出来事を入れたあと、下に状況を記入せよ。 1923年~ 1929年~ 状況:①大量の会社・工場が ②景気→ ③国民の生活→ Q2.このような状況を抜けるために日本はどういう考えがうまれ、また行われたか? Q3.満州国はどこか、下記の地図で満州だと思われるところを黒く塗れ。 教科書P106ページの地図を貼り付ける。(ただし、国名は消しておく) ※授業でもワークシートでも教科書の地図を使い、家に帰って教科書を読むということを通して地理も定着させることを目的とする。 Q4.なぜ満州を攻めたか? ①土地が ②資源が ③日清戦争で一度 などの理由から Q5.下記の年代の隣に戦争名を記入せよ。 1931年~ 1937年~ 1941年~ 先生:「次は満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争と実際に始まってしまった戦争の様子とそれぞれの戦争の結果を勉強していきます。今日の復習もかねて教科書P104~107まで読んできてください!!ではこれで今日の授業を終わりにします。」 終わり りえ
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戦死者たちの洞窟5階 名前