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They welcomed Lieutenant Yanagawa and others who landed in Java and began to accommodate them. 老婆から「伝説」の話を聞いた柳川中尉は「よし、自分がその英雄になろう」と決意。 Liutenant Yanagawa heard "the legend" from an older lady and decided. "All right, I myself will become the hero". インドネシアの村人に対し、次のように宣言した。 He declared to the Indonesian people as follows; 「諸君と我々は、同じアジア民族だ。 "You and we are the same Asian race. このたびの戦闘は、4世紀にわたって欧米諸国の圧政の下にある植民地から、君たちを解放することが目的である。 The objective of this war is to release you from the colony under the tyranny of the Western countries for over four centuries. このインドネシアよりオランダ兵を追放し、必ず君たちに自由を与えることを約束する」 I promise you, we will banish the Dutch soldiers from this country and give you the freedom". 日本軍の上陸後、わずか9日で、オランダ軍は全面降伏した。 After landing of the Japanese army, within 9 days, Dutch troops fully surrendered. それから、独立への準備が始まった。 Then, the preparation for independence began. 300近い言語をインドネシア語に統一し、州の長官、副長官などにインドネシア人を登用。 Unified nearly 300 different dialect into one Indonesian language and appointed the Indonesian Secretary of State, and Deputy Secretary. インドネシア人によって、議会や行政が運営された。 Government and parliament were operated only by the Indonesians. 独立運動の指導者、スカルノたちに感銘を受けた今村中将らは、インドネシア防衛義勇軍(PETA)を結成。 Impressed by the independence movement leader, Sukarno, Lieutenant General Imamura formed a Indonesian Defense Militia (PETA). インドネシアの青年たちの教育と訓練を行ったのは、柳川中尉をはじめとする、日本の将校たちだった。 The education and military training conducted to Indonesian youth were lead by Lieutenant Yanagawa himself and the Japanese military officers. 1945年8月15日 終戦 August 15, 1945, End of War 日本軍が降伏した2日後、スカルノたちは、すかさずインドネシア共和国憲法を採択し、スカルノは大統領に就任。独立宣言を行った。 Two days after the surrender of Japanese army, Sukarno immediately adopted the Constitution of the Republic of Indonesia and became the president and declared the independence. 宣言 Declaration 我々インドネシア国民は、ここにインドネシアの独立を宣言する。 We the people of Indonesia here by declare the independence of Indonesia. 政権の移譲、その他は迅速かつ正確に行われるべし。 Transfer of administration shalt be carried out quickly and accurately. ジャカルタ 皇紀二千六百五年 八月十七日 Jakarta August 17, Year of Kouki 2605 インドネシア民族の名において In the name of Indonesian Race スカルノ ハッタ Sukarno Hatta しかし、オランダとイギリスは植民地の復活を狙い、再びインドネシアに侵攻。 However, to re-colonize Indonesia, the United Kingdom the Netherlands invaded Indonesia again. インドネシアは、オランダとの独立戦争に突入する。 Indonesia rushed into the war of independence against Netherlands. オランダは、降伏した日本軍に対し、独立運動の阻止を命ずるが、日本の軍人たちは命令に背き、数万もの武器や戦車を、秘密裏にインドネシア軍に渡した。 To the surrendered Japanese army, the Netherlands order the blocking of the independence movement but the Japanese soldiers rebelled against the command and secretly aided tens of thousand of tanks and weapons to the Indonesian military. さらに2000名近い旧日本兵が、日本へ帰国せず、独立義勇軍に参加。 Further more, nearly 2000 former Japanese soldiers did not return to Japan and participated in the independent militia. インドネシア独立のために、身を投じてオランダ軍と戦ったのである。 For the independence of Indonesian, they fought against the Dutch troops by staking their life. インドネシアに残った日本兵たちは、「何が何でも独立を勝ち取れ!」と、インドネシアの青年たちを叱咤激励した。 The Japanese soldiers who remained in Indonesia encouraged the young Indonesians to regain the independence at any cost. 独立戦争は4年5カ月間続き、多大な犠牲を払って、ついにインドネシアは独立を勝ち取った。 The War of Independence lasted for 4 years and 5 months and finally won the independence by paying a great deal of sacrifice. インドネシア独立 Independence of Indonesia インドネシア独立のために、義勇軍として戦った旧日本兵たちは、経験の浅いインドネシア兵にかわり、最前線で戦闘になって戦った。 For the sake of Indonesia independency, the former Japanese soldiers fought in the front line of the battle field as a militia in stead of inexperienced Indonesian soldiers. そのために、彼らの半数、約1000名が戦死した。 For that reason, about 1000 Japanese soldiers were killed. インドネシア政府は、彼らを英雄として、手厚く国立墓地に埋葬した。 Government of Indonesia with the great honour entombed them in the National Cemetary as the heroes. 『インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実』(桜の花出版) "The Truth of the Japanese Military Testifed by the Indonesians" (Sakura no Hana Publication) おそらくインドネシア人の9割ぐらいは、日本の占領をありがたいと思ったでしょう。 Probably about 90% of the Indonesians show their respect to the Japanese occupation. 何しろオランダ人を追い出し、白人をみな降参させたのですから。 At any rate, because they expelled Dutch away and made the white people surrendered. 日本は私たちに、どのようにしたら独立を勝ち取ることができるかを、また、どのような苦しみを経なければ勝ち取れないかを、教えてくれました。 Japan taught us how to win independence and what sort of suffering we should go about to achieve independence. 日本人が大東亜戦争をやらなければ、アジアの国々は独立していなかったでしょう。 If Japan have not done the Greater East Asia War, the Asian countries would not have been independent. タイやフィリピン、その他の国もみな、日本に大変感謝しています。 Philippines, Thailand and all other countries are also very grateful to Japan. それぞれの国を指導している人たちは、その事実をよくわかっています。 All the leaders of these countries knows this fact well. 日本は歴史に残ることをしてくれました。 Japan has done such to remain in the history. その歴史を、我々がねじ曲げることなど、できはしません。 We just can not twist this history. メリーランド大学と英BBCによる世界33カ国を対象にした世論調査(2005年) Public opinion survey done by the BBC and the University of Maryland in 2005 to 33 countries. 日本は世界に対してよい影響を与えている Japan has a positive impact to the world はい…31カ国 Yes...31 countries いいえ…2カ国(中国・韓国) No...2 countries(China, South Korea) 「日本は世界によい影響を与えている」と答えた国民がもっとも多かった国 The country most people who answered "Japan has a positive impact toward the world" 1位 インドネシア 85% 1st Indonesia 85% インドネシアは、世界一の親日国なのです。 Indonesia is the most pro-Japanese country in the world.
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【慰安婦】■基礎からわかる「慰安婦問題」(解説)(読売新聞) いわゆる従軍慰安婦問題をめぐる論議が再び蒸し返されている。米下院では、慰安婦問題を「奴隷制」「人身売買」になぞらえ、日本政府に謝罪などを求める対日決議案の審議が進んでいる。どうしてこうした曲解が広がってきたのか。あらためて論点を整理する。 (政治部・高木雅信、松永宏朗、山田恵美) ◆公娼制度の戦地版 慰安婦問題を論議するためには、「公娼制度」が認められていた当時の社会状況を理解しておくことが欠かせない。公娼制度とは売春を公的に管理する制度で、戦後も1957年の売春防止法施行まで、いわゆる赤線地帯に限って売春が黙認されていた。 慰安婦は、戦時中に軍専用の「慰安所」と呼ばれる施設で対価を得て将兵の相手をしていた女性のことだ。政府が93年8月4日に発表した調査報告書「いわゆる従軍慰安婦問題について」によると、32年(昭和7年)ごろ中国・上海に慰安所が設けられた記録があり、45年(昭和20年)の終戦まで旧日本軍が駐屯していた各地に広がった。軍直営の慰安所もあったが、多くは民間業者により経営されていた。現代史家の秦郁彦氏(元日大教授)は、慰安婦を「戦前の日本に定着していた公娼制度の戦地版と位置づけるべきだ」と指摘する。 慰安婦は、従軍看護婦や従軍記者らのように「軍属」扱いされることはなく、「従軍慰安婦」という呼称は存在しなかった。その呼称が広まったのは戦後のことで、作家の千田夏光氏が73年に出版した「従軍慰安婦」の影響が大きかった。 慰安婦となったのは、日本人のほか、当時は日本の植民地だった朝鮮半島や台湾の出身者、旧日本軍が進出していた中国、フィリピン、インドネシアなどの現地女性が確認されている。秦氏の推計によると、慰安婦の約4割は日本人で、中国などの女性が約3割、朝鮮半島出身者は約2割だったとされる。 ただし、正確な総数は不明だ。96年に国連人権委員会のラディカ・クマラスワミ特別報告者がまとめた報告書には、北朝鮮で受けた説明として、朝鮮半島出身者だけで「20万人」と記載されている。ただ、同報告は事実関係の誤りや情報の出所の偏りが多く、この数字についても、日本政府は「客観的根拠を欠く」(麻生外相)と否定している。 慰安婦や慰安所を必要とした理由は、 〈1〉占領地の女性の強姦など将兵の性犯罪を防ぐ 〈2〉検診を受けていない現地の売春婦と接することで軍隊内に性病が広がることを防ぐ 〈3〉将兵の接する女性を限定し、軍事上の秘密が漏れることを防ぐ ——ためとされている。 こうした制度や施設の存在は、旧日本軍だけの特別な事例ではなかった。戦後、日本に進駐した米軍は日本側の用意した慰安施設を利用した。米軍関係者が日本当局者に女性の提供を要求したケースもあった。また、ベトナム戦争の際に旧日本軍とそっくりな慰安所が設けられていたことも、米女性ジャーナリストによって指摘されている。 このほか、秦氏によれば「第2次大戦中はドイツ軍にも慰安所があった。しかも、女性が強制的に慰安婦にさせられたケースもあった。韓国軍も朝鮮戦争当時、慰安所を持っていたことが韓国人研究者の調べでわかった」という。 ◆強制連行の資料なし 問題が蒸し返される根底には、官憲による組織的な「強制連行」があったという誤解が十分には解消されていないことがある。 政府は、「旧日本軍は慰安所の設置や管理に直接関与した」として、旧軍が「関与」したことは率直に認めている。ただし、ここで言う「関与」とは、 〈1〉開設の許可 〈2〉施設整備 〈3〉利用時間や料金を定めた慰安所規定の作成 〈4〉軍医による検査 ——などを指すものだ。一方で、慰安婦の強制連行については「公的資料の中には、強制連行を直接示す記述はない」(97年3月18日の内閣外政審議室長の国会答弁)と明確に否定している。これを覆す確かな資料はその後も見つかっていない。 「強制連行はあった」という見方が広がるきっかけとなったのが、83年に元「労務報国会下関支部動員部長」を名乗る吉田清治氏が出版した「私の戦争犯罪」という本だ。吉田氏は、済州島(韓国)で“慰安婦狩り”にかかわった経験があるとして、「泣き叫ぶ女を両側から囲んで、腕をつかんでつぎつぎに路地に引きずり出してきた」などと生々しく記述した。しかし、この本は90年代半ばには研究者によって信憑性が否定され、安倍首相も07年3月5日の参院予算委員会で、「朝日新聞(の報道)だったと思うが、吉田清治という人が慰安婦狩り をしたと証言した訳だが、後にでっち上げだと分かった」と述べ、強制連行の証拠にはならないと指摘した。 また、慰安婦問題が政治・外交問題化する過程で、韓国や日本の一部で、「女子挺身隊」と慰安婦を同一視する誤った認識を喧伝する動きがあったことも、「強制連行」イメージに拍車をかけた。女子挺身隊は、秦氏の「慰安婦と戦場の性」(新潮選書)によると44年8月から、「女子挺身勤労令」に基づいて12〜40歳の未婚女子を工場労働などに動員したものだ。あくまで労働力確保が目的だった。 慰安所に女性を集めてくる女衒などの仲介業者が、高収入が得られるなどの甘言で誘ったり、慰安所での暮らしを十分説明しなかったりする悪質な手段を使う事例はあった。陸軍省が中国派遣軍にあてた「軍慰安所従業婦等募集に関する件」(38年3月4日付)では、誘拐に近い募集など問題のある業者がいると指摘し、「軍の威信保持上、並に社会問題上、遺漏なき様」と呼びかけている。軍としては、募集が強制的にならないよう注意を払っていたことを示す資料と言える。 それでも、戦争の混乱の中で、インドネシアでは旧日本軍の「南方軍幹部候補生隊」が抑留されたオランダ人女性を慰安所に送り込んだ事件(スマラン事件)が発生した。事情を知った上級司令部はすぐに慰安所を閉鎖させたが、事件の責任者らは戦後、オランダ軍による戦犯裁判で死刑を含む厳罰に処せられている。 ◆あいまい表現の河野談話 「強制連行」の誤解広げる/歴代首相おわびの手紙 基金から償い金も 慰安婦問題が政治・外交問題化する大きなきっかけを作ったのは、92年1月11日付の朝日新聞朝刊だった。「日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していたことを示す通達類や陣中日誌が、防衛庁の防衛研究所図書館に所蔵されていることが明らかになった」と報じたもので、「従軍慰安婦」の解説として「開設当初から約8割が朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」とも記述していた。 宮沢首相(当時)の訪韓直前というタイミングもあり、この報道で韓国世論が硬化。訪韓中、首相は盧泰愚大統領との会談で「慰安婦の募集、慰安所の経営に日本軍が何らかの形で関与していたことは否定できない」と釈明した。 政府は92年7月6日、旧日本軍が慰安所の運営などに直接関与していたが、強制徴用(強制連行)の裏づけとなる資料は見つからなかったとする調査結果を、当時の加藤紘一官房長官が発表した。 その後も韓国国内の日本に対する批判はいっこうに収まらなかったことから、政府は93年8月4日、慰安婦問題に対する公式見解となる「河野洋平官房長官談話」を発表した。 ただ、この河野談話は表現にあいまいな部分があり、日本の官憲による強制連行を認めたと印象づける内容になっていた。 第一に、慰安婦の募集について「軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」と明記した。第二に、朝鮮半島における慰安婦の募集、移送、管理などは「総じて本人たちの意思に反して行われた」と重ねて記述した。これにより、ほとんどが強制連行だったとの印象を強めることになった。 強制連行を認めるよう迫る韓国側に配慮し、談話によって問題の政治決着を図ろうという狙いがあった。談話作成にかかわった石原信雄・元官房副長官も後に、「強制連行を立証する資料はなく、慰安婦の証言をもとに総合判断として強制があったということになった」と証言している。 しかし、この河野談話は慰安婦問題を完全決着させる効果は果たさず、むしろ官憲による「強制連行」という誤解を内外に拡散させる結果を生んだ。 国連人権委員会のクマラスワミ氏がまとめた報告書では、慰安婦を「性的奴隷」と規定し、日本政府に補償や関係者の処罰を迫ったが、その根拠の一つが河野談話だった。現在、米下院で審議されている決議案の代表提出者マイケル・ホンダ議員(民主党)も、決議案の根拠として河野談話を挙げている。 日系のホンダ議員が決議案の代表提出者となった背景には、3月16日付本紙朝刊国際面で紹介したように、日系人が相対的に減少傾向にある一方で、中国系や韓国系住民が増加している選挙区事情があるなどと指摘されている。 95年7月、政府は河野談話を前提に、財団法人「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」を設立。これまで364人の元慰安婦に償い金など合計約13億円を渡した。併せて、橋本、小渕、森、小泉の歴代首相がそれぞれ「おわびの手紙」を送っている。 河野談話について、安倍首相は06年10月5日の衆院予算委員会で、自らの内閣でも基本的に引き継ぐ考えを示したが、官憲による「強制連行」は否定した。 ______ ◇米下院の対日決議案要旨 日本国政府は、1930年代から第2次世界大戦中にかけてのアジア及び太平洋諸島の植民地および支配の期間中において、世界に「慰安婦」として知られる、若い女性を日本帝国軍隊が強制的に性的奴隷化したことに対する歴史的な責任を公式に認め、謝罪し、受け入れるべきである。 日本国政府による強制的軍売春である「慰安婦」制度は、その残忍さと規模において、輪姦、強制的中絶、屈辱的行為、性的暴力が含まれるかつて例のないものであり、身体の損傷、死亡、結果としての自殺を伴う20世紀最大の人身売買事案の一つであった。 日本の公務員や民間の要職にあるものが、近年、慰安婦の苦難について、心からのおわびと反省を表明した93年の河野官房長官談話の内容を薄めたり、撤回したりすることを願望する旨表明している。 下院の考えとして、公式の謝罪を日本の首相が公的立場において声明として公にすべきであり、(日本政府が)日本帝国軍隊による「慰安婦」の性的奴隷化や人身売買は決してなかったとのいかなる主張に対しても明確かつ公に反論すべきであることを決議する。(外務省の仮訳より) 【おわり】 ▽ソース:読売新聞 2007年3月27日付 17面 20070328117503906431752000.jpg
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総括所見:インドネシア(第1回・1994年) 予備的所見(1993年)/第2回(2004年)/第3回・第4回(2014年) CRC総括所見日本語訳(国別)/CRC総括所見日本語訳(会期順) CRC/C/15/Add.25(1994年10月24日) 原文:英語(平野裕二仮訳) 原文は国連人権高等弁務官事務所のサイト(国別情報のページまたはCRC会期一覧ページ)を参照。 1.委員会は、1993年9月22日および23日に開かれた第79回~第81回会合(CRC/C/SR.79-81)においてインドネシアの第1回報告書(CRC/C/3/Add.10)の検討を開始した。同会期中には多数の質問を全面的に明確にする充分な時間がなかったことを踏まえ、委員会は同報告書の検討を終了しないことに決定した。締約国は、第7会期における委員会の検討に供するため、委員会の予備的所見に掲げられた懸念(CRC/C/15/Add.7、パラ7~18)への回答として1993年12月31日までに追加的情報を提供するよう要請された。委員会は、1994年9月28日および29日に開かれた第161回および第162回会合(CRC/C/SR.161 and 162)においてインドネシア政府から提供された追加的情報(CRC/C/3/Add.26)を検討した後インドネシアの第1回報告書の検討を終了し、以下の総括所見を採択した(注)。 (注)1994年10月14日に開かれた第183回会合において。 A.序 2.委員会は、第1回報告書への追加的情報を提供し、かつ同報告書の検討を第7会期に再開するという委員会の要請にしたがった点について、インドネシア政府の協力に評価の意を表する。しかしながら、委員会は、締約国における条約の実施に関して以前に提起した懸念のいくつかは、いまなお効果的に対応されないままであると考えるものである。 B.積極的な側面 3.委員会は、子どもの権利の実施を向上させるためにとるべき措置についての委員会の助言および援助を締約国が重視していることに満足感とともに留意し、かつ、子どもの状況を増進させることを目的とした政策およびプログラムを見直しかつ発展させるため、締約国が委員会、他の国際連合機関および非政府組織との協力に決意を示していることを歓迎する。 4.委員会は、条約にもとづく義務に照らして国内法を見直すことについて締約国が前向きな姿勢を表明したことに留意する。委員会は、とくに、ウィーン宣言および行動計画に一致する形で、かつ1993年国家政策基本指針および国内人権プログラムにしたがって、子どもの権利が国家開発プログラムに統合されたことを歓迎するものである。子どもの権利に関するさらなる意識および子どもの福祉を草の根レベルで促進する目的で「村プログラム」を導入する決定がなされたこと、および人権分野でセミナーおよびワークショップが開催されていることは、その他の積極的な進展である。 5.委員会は、条約第1条、第14条、第16条および第29条に関して批准時になされた留保(締約国の代表団は宣言と見なしている)を撤回するという締約国の決定を歓迎する。委員会はまた、条約のすべての規定が締約国において適用可能と見なされる旨をまもなく事務総長に通告するという、締約国の発言にも留意するものである。 C.条約の実施を阻害する要因および困難 6.委員会は、締約国における条約の迅速な実施を阻害する困難、とりわけ、360の民族集団が存在すること、人口がインドネシア群島全域に散らばっていること、締約国一般およびとくにインドネシア住民の一部の層がいまなお経済的問題に直面していることに、留意する。 D.主要な懸念事項 7.批准時に行なわれた留保、とくに条約第17条、第21条および第22条に関する留保の地位が、現時点では全面的に明確ではない。しかしながら、委員会は、締約国が、近い将来これらの規定に関わる留保の撤回を構想することに前向きな姿勢を見せていることを、心強く思う。 8.委員会は、国内法を条約の規定と一致させ、インドネシアの管轄下にあるすべての子どもが条約で保障されている権利によって充分に保護されることを確保し、かつ、具体的に目標を定めた戦略および達成された進展の監視の基盤を提供するため、国内法の包括的見直しが必要であると考える。 9.委員会は、子どもが婚姻できる年齢に関わる国内法が、条約第2条に反映された差別の禁止規定と両立しないことを懸念する。 10.委員会は、子どもも含む一般公衆および子どもに直接接して働いている職員のあいだで条約の規定および原則に関する意識水準が低いように思えることに懸念を表明する。 11.委員会は、条約の一般原則、とくに第2条、第3条および第12条の実施に対していまなお適切な注意が向けられていないことを懸念する。委員会は、これらの原則の実施は予算の制約に依存するものではないということをあらためて指摘するものである。 12.委員会は、経済的、社会的および文化的権利は利用可能な資源を最大限に用いて実施されるべきであると強調した条約第4条の規定に反して、社会部門、とくにプライマリーヘルスケアおよび基礎教育に対してわずかな割合の予算しか振り向けられていないことを、依然として懸念する。委員会はさらに、締約国において社会部門に配分されている資源の現行水準を国際機関が問題にしてきたことに留意するものである。 13.委員会は、条約第14条および第15条の実施に関して懸念を表明する。委員会は、公式な認定を一部の宗教に限定することは差別の慣行を生ぜしめる可能性があることをあらためて指摘するものである。委員会はまた、宗教、表現および集会の自由の行使の「合法的目的」による制限を公的機関が幅広く解釈しているように思え、それによりこのような権利の全面的享受が阻害される可能性があることも懸念する。 14.委員会は、少年司法制度が第37条、第39条および第40条を含む条約の規定およびこの分野における他の関連の国際連合基準、とくに「北京規則」、リャド・ガイドラインおよび自由を奪われた少年の保護のための国際連合規則の規定と両立していないことを、とくに憂慮するものである。 15.締約国は、ディリにおいて平和的にデモ行進していた子どもに対して治安部隊が過度の暴力を振るった1991年11月の事件と同様の侵害は二度と起こらないことを保証した。しかしながら、委員会は、集会の自由への権利の侵害が一貫して行なわれていること、および、とくに逮捕および身柄拘束の状況下における警察、治安部隊または軍隊要員による子どもの不当な取扱いの苦情申立てが多数行なわれていることに、依然として深刻な不安を覚えるものである。委員会はまた、そのような侵害で有罪とされた者を処罰し、かつそのような行為の被害者のリハビリテーションおよび補償を行なうために、公的機関が効果的な措置をとっていないことにも不安を覚えるものである。 16.委員会は、生き残るために路上で暮らしかつ/または働くことを余儀なくされた子どもが多数にのぼることを憂慮するものである。 17.委員会は、児童労働に関する国内法にいまなお深刻な乖離または欠落が存在することを遺憾に感ずる。とくに、委員会は、法第1/1951号が全面的に制定されまたは実施されたことがないこと、および働く子どものために必要な保護を1987年行政規則が提供していないことに留意するものである。委員会はまた、法律で規定された罰則が寛大であること、および人材省の査察官による監督が行なわれていないことも懸念する。 E.提案および勧告 18.委員会は、インドネシア政府に対し、子ども関連の法律と条約の規定との一致を確保するためにその見直しを完了させるよう奨励し、かつ、これとの関連で、国際連合人権センターの助言サービスおよび技術援助のプログラムによって発展させられてきた活動にあらためて注意を促す。子どもの最善の利益および子どもに関わる差別の禁止の原則は国内法に編入されるべきであり、かつ裁判所での援用も可能であるべきである。 19.政府は、条約に掲げられた規定の尊重および効果的な実施を確保し、かつそれによって児童労働に関するものも含む国内法に条約の規定が反映されることを確保するために、あらゆる必要な措置をとるべきである。あらゆる子ども関連の法律または規則の実施を国および地方のレベルで監視するため、関連の機構が設置されるべきである。条約の実施およびその監視に携わる非政府組織との協力が強化されるべきである。 20.委員会は、締約国が少年司法制度の包括的改革を行なうこと、および、その見直しにあたっては条約、および「北京規則」、リャド・ガイドラインおよび自由を奪われた少年の保護のための国際連合規則のようなこの分野における他の国際基準を指針と見なすことを、勧告する。条約第39条にしたがい、社会復帰および社会的再統合のための措置にも注意が向けられるべきである。 21.公的機関は、子ども、とくに貧困下で暮らしている子ども、路上で暮らしかつ/または働いている子ども、ならびにマイノリティ・グループに属している子どもおよび他の傷つきやすい立場に置かれている子どもに対して充分な資源が配分されることを確保するため、利用可能な資源を最大限に用いてあらゆる適切な措置をとるべきである。 22.委員会は、もっとも傷つきやすい立場に置かれたグループに属している子ども、とくに貧困下で暮らしている子ども、路上で暮らしかつ/または働いている子ども、へき地で暮らしている子どもおよびマイノリティに属する子どもに対する差別と闘うため、ジェンダーにもとづくもののような差別的態度および偏見を解消するための措置も含む緊急の措置をとるよう勧告する。 23.委員会は、働く子どもおよび青少年の保護に関わって充分な基準を採択しかつ規制を実施するために現在進められている努力を奨励する。条約の実施を評価し、かつ法律と運用との乖離を狭める目的で、働く子どもの状況を監視するために設置された機構が強化されるべきである。委員会は、とくにILOの技術的助言がこれらの問題に関して適切ではないかと考える。 24.委員会は、締約国が未成年者の失踪、拷問、不当な取扱いおよび違法なまたは恣意的な拘禁を防止するためにあらゆる必要な措置をとり、そのような行為の容疑者を起訴するためにそのようなあらゆる事件を制度的に捜査し、かつ、有罪とされた者を処罰しかつ被害者に補償を行なうよう促す。 25.委員会は、一般公衆、ならびにとくに教員、ソーシャルワーカー、法執行官、矯正施設職員、裁判官および条約の実施に関わる他の職業従事者のあいだで条約の規定を広く広報するよう勧告する。 26.委員会は、第1回報告書および追加的情報を、関連の議事要録ならびに委員会が採択した予備的所見および総括所見とともに、非政府組織を含む公衆一般が広く入手できるようにするよう勧告する。 27.最後に、委員会は、条約第44条4項に照らし、前掲パラ18~20で構想された法改正およびその実施に関わる進展についての追加的情報を2年以内に委員会に提出するよう勧告する。 更新履歴:ページ作成(2011年9月28日)。
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潜入地点 インドネシアコモド半島 コモド造船所 インドネシア共和国コモド島 2006年4月18日 05時24分 潜水艦に侵入せよ サドノの「パンドラ・トゥモロー」コールは、放棄されたとおぼしき造船所に停泊している潜水艦に送られ、その上で艦に搭載された通信システムを介して暗号化して転送されていた。 潜水艦に侵入し、通信システムにアクセスして、通話先を更に追跡せよ。 ミッション目的 コモド半島の造船所に侵入し、サドノの暗号化された通信先を特定する 造船所に侵入する 犬小屋近くの袋小路からスプリットジャンプで小屋の中へ 地下の制御室で技術者を尋問し潜水艦を浮上させる ゴンドラに乗って移動する 潜水艦のハッチから内部に侵入する 大佐を拘束しSISSIXSにアクセスする 脱出地点から脱出する 攻略詳細 侵入 開始地点は右手にブービートラップ、正面にサーチライトとタレット、巡回が一人。サーチライトは範囲が狭いので気をつければ問題ない。右回りと左回りで侵入できる。 次のエリアに椅子に座った敵が二人と巡回が一人。犬もいるが檻の中なので騒がれる以外は問題ない。左手の細い路地に入りスプリットジャンプで乗り越えて次にエリアへ。 ここでチェックポイント。 ステルスルート 開始後左手周りで移動し、オブジェクトで敵の気を引いて建物に入る。視線をそらさないと入り口が明るいため発見される。 次のエリアで座っている敵はゆっくり移動すれば気づかれない。暗闇を縫って川に入り、犬小屋の下から移動する。犬が騒ぐと一人確認に来るので、敵が帰るのを確認して川から上がる。 小屋~射撃場 天井のパイプから移動できるが、端の穴から降りた方が無難か。着地時にしゃがめば音は小さくなる。 小屋の中に一人、射撃場に二人。 小屋の中は移動式のレーザーセンサーがあるので、サーマルビジョンで確認。 床の梯子から地下へ降りる。 ここでチェックポイント。 ステルスルート 端から降りると地上の壁に穴が開いているのでそこから射撃場の的の裏に出る事が出来る。移動はスワットターンで。 電気のスイッチ前の一人が移動したらスイッチは消さずに梯子から屋根に上り、建物の中に入る。 管制室 巡回が二人。 入って右手通路奥の制御室に技術者がいるので尋問し潜水艦を浮上させる。 ステルスルート 敵の会話が始まるとそのまま中に入れる。出るときは入り口付近に接近すると怪しんで扉前の敵が確認しにくる。その敵が帰るときに後を追うように移動すると発見されない。 ゴンドラ 巡回が一人、ゴンドラに乗ってからは敵の銃撃を受ける事になる。狙撃、もしくはガスグレネードなどで対処しよう。 ステルスルート 潜水艦内 管内は狭いが隠れる場所はある。敵を倒すと後で警戒される場合があるのでなるべくスルーで。 ステルスルート 通路の敵は暗い場所で回避。カフェテリアにいる敵はスイッチを消すか、身を乗り出して銃を構えると警戒して移動する。その隙にこっそり移動しよう。 SISSIXS 暗号化通信システムにアクセスするために、ブリッジに入る必要がある。大佐を羽交い締めにし、網膜スキャナーの扉を開く。確保に失敗するとミッション失敗。入って右手奥の狭い所にあるコンピュータにアクセスする。 中に入ってから大佐を気絶させても、しばしばミッション失敗になる場合があるので、なるべく奥に入ってから気絶させよう。 ステルスルート 敵が一人外に出るが、入り口近くでじっとしていればバレない。 脱出 潜水艦から出て脱出地点に向かう。 激しい戦闘になるが、SC-20Kやガジェットのほか、所々に発火性のドラム缶もある。有効に活用しよう。 +作戦完了 コモド造船所 インドネシア共和国コモド島 2006年4月18日 06時32分 潜水艦の中継地点から、サドノの通話は5人の衛星電話利用者に送られており、それぞれの人物は民間軍事企業「アームド・ガーディアン・サービス(アーガス)」と関わりを持っている事が判明した。シャドーネット・チームが「ポックスボックス」(天然痘ウィルスを収容したND133)を無力化する。 これにより、サード・エシュロンはスハディ・サドノを遠慮なく叩ける事になる。 会話聞き耳ポイント 開始地点 犬小屋 管制室前 潜水艦内 名前 コメント
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インドネシア語については、英辞郎の代わりに、無料で公開されているインドネシア語PDIC辞書を使えばいい。 PDICインドネシア語の収録語数は約9000語。 フリーソフトである。 http //www.ojisan.com/freeware/index.shtml インドネシア語PDIC辞書の見出し単語数は9296語である。 インドネシア語PDIC辞書をPSS問題集に変換して、問題の抽出によって問題集の作成を行うという方法についても書き残しておく。 indonesia.txtなどとしてPDIC1行テキスト形式で打ち出す。 PDIC1行テキスト形式をEmEditorなどの正規表現が使えるエディタを使って開く。 http //www.ojisan.com/freeware/index.shtml からダウンロードして、indonesia.zipを解凍するとindonesia.dicが現れる。 インドネシア語PDIC辞書のunicode化のやり方 見出語は SIL IPA93 to Unicode table 以外で変換する。 訳語は cp932 to unicode table で変換する。 用例は cp932 to unicode table で変換する。 発音は SIL IPA93 to unicode table で変換する。 indonesia.dicをunicode化するとファイル名がindonesiaU.dicとなる。 インドネシア語PDIC辞書を辞書の変換機能を使って、indonesia.txtなどとしてPDIC1行テキスト形式で打ち出す。 PDIC1行テキスト形式をEmEditorなどの正規表現が使えるエディタを使って開く。 正規表現を使って「 /// 」を基準として左側の文字列(インドネシア語)を全て削除する。 置換を使って [0-9a-z,.()\-\/\s]{1,30}\s\/\/\/\s と入力し、何の文字もない状態に置換すると左側の文字列(インドネシア語)を全て削除できる。 正規表現を使い、大文字小文字を区別しないとする。 空のPSSの問題集をエクセル形式で打ち出す。 打ち出した問題集をエクセルを使って開く。 残った日本語訳をF5のセルに貼り付ける。 変更を保存しないでエディタを閉じる。 もう一度、PDIC1行テキスト形式をEmEditorなどの正規表現が使えるエディタを使って開く。 正規表現を使って「 /// 」を基準として右側の文字列(日本語など)を全て削除する。 \s\/\/\/\s[0-9a-z. !? \-\/\s()あ-んア-ンァー一-龠々ヶ~「」①②③④⑤×,。・= ]{1,150}
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エンドネシア 機種:PS2 作曲者:安達昌宣、谷口博史 開発元:バンプール 発売元:エニックス 発売年:2001 概要 『moon』のラブデリックから派生したメーカーであるバンプールが開発したRPG。 常夏の島を探検し、封印されている神様を救出するのが目的だが、『moon』と同じく戦闘が一切無い。 音楽はTHELONIOUS MONKEESの安達氏・谷口氏ペアが制作。 フィールドのBGMは主人公のパラメーターである元気(満腹度)によってアレンジが変化する。 元気が一杯なほど音が多くなって賑やかになり、少なめなほど音が少なくなって寂しくなるという仕組みである。 収録曲(仮曲名) 神様を救出した時の専用のテーマもあるが、神様の数が多すぎるので割愛。 曲名 作・編曲者 補足 順位 メインテーマ タイトル画面 チュートリアル エントランスゾーン ファンシーゾーン 森ゾーン ジャングルゾーン 荒地ゾーン ロンリーゾーン 山ゾーン 最後の選択 村での選択肢 ギルルとの結婚式 エンディング1 スタッフロール(結婚式エンド) オオカミサマ登場 エンディング2 スタッフロール(現実帰還エンド)