約 4,647,793 件
https://w.atwiki.jp/rulebook/pages/218.html
P.64 テキストの用語 ゲーム内における~ そのゲーム中の全ての場所の全てのカードを指します。取り除かれたカードは含まれません。 本来の~ ゲーム内における~ 無作為に
https://w.atwiki.jp/eb_tw3/pages/1140.html
マギラント北方における水棲系バルバ 水棲系バルバとはシーバルバ上陸阻止戦で登場した特殊なバルバの種族たち。 アクエリオにおいても登場したがそれとは由来が異なる。 アクエリオにおけるシーバルバについてはこちら。 概要 水棲系バルバは、海における環境下で、水中でも生息できるよう独自進化したと思われるバルバたちの総称。 エラとヒレがあるので水棲系というように呼ばれているが、陸上でも生活ができるため肺呼吸も可能と思われる。 種類はさまざまだが、地上に住んでいる普通のバルバの亜種のような姿をしている。通常のこれらのバルバたちと違い、水中でも生活ができるようエラと足ヒレがある。区別のためにシージャグランツ、シーボアヘッドなどのように「シー」を頭につけ呼んでいるようだ。 アクエリオにおいては太古に封印された「魔王ゼルデギロス」の眷属だといわれていたが、マギラント北方地図範囲外におけるシーバルバはかつて勇者に敗北したため大魔女によって隷属する地位に落とされたと信じられており、『カーニバル』の支配下、海鉱石などの資源採取の労働力として働かされている。 ただし、この伝承自体真偽が不明であるような描写もある。(歪の悲願)(狼の花葬) 登場した水棲系バルバとシナリオ シースネークヘッドネイビー・エンカウンター 溟海に蛇影は這う 海から来た脅威 シーバルバの魔海 怨嗟の清算 シーヴォルフル蒼き狼は空に吼える 海鳴りの域 海より来たる九つの影 狼の花葬 散華せよ、海狼決死隊 海狼強襲 海狼蠢く追跡戦 突貫してくる敵を迎撃せよ! 復讐の獣は海波を背に 牙鳴復讐曲 ネズミ型マスカレイドシーバルバ深世界より トビウオのシーバルバ波間を越える復讐者 シーディアホーン歪の悲願 サブマリン・デイズ シーディアホーンの特攻 海渡る鹿頭は、復讐に燃える シーラッコバルバ片喰の守人 シータウラスAvengers/Rage of the Sealane ウミウシ(?)たちの進撃 シームジナ鍋狸悲願 シーサテュリアン海底より来たりて 咎の金角よ、みなそこに眠れ シーベアルグ其は海より来たりて シーボアヘッド特攻シーバルバを撃退せよ 勇士号防衛戦線 矛盾なる特攻隊 シーチッタニアンハイスピード・トラップ この恨み、晴らすでち! シーローチアンぬめりシーバルバの特攻 シージャグランツ自爆特攻隊を阻め シークワガタ人海で待つ、復讐の獣 復讐果たすべく特攻せよ!? シーオークシーオーク曰く「積年の恨みを晴らすべく、今! 爆発の時!」 半魚人バルバ強襲! シーバルバ特攻隊 関連項目 バルバ類 生態系 アクエリオにおける水棲系バルバ シーバルバ上陸阻止戦
https://w.atwiki.jp/detoxjapan/pages/41.html
Template 単一の出典 ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(“War Guilt Information Program”、略称“WGIP”、ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム江藤1989では「インフォーメーション」と長音符が一つ多い。又はウォー・ギルト・プログラム或はウォー・ギルト・インフォメーション、戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)とは、大東亜戦争(太平洋戦争)後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、以下GHQと略記)による日本占領管理政策として行われた政治宣伝。文芸評論家の江藤淳が著書『閉された言語空間』(文藝春秋・平成元年(1989年))においてこうした政治宣伝が政策として行われたと主張した。この名称は江藤の発言を後進達が次々に引いているものだが、GHQの内部文書に基づいたものだと江藤は主張している。 概要 Template 和暦2月6日付、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」との表題の文書がCI E(民間情報教育局)からG-2(CIS・参謀第2部民間諜報局)宛てに発せられた、冒頭に「CIS局長と、CI E局長、およびその代理者間の最近の会談にもとづき、民間情報教育局は、ここに同局が、日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植えつける目的で、開始しかつこれまでに影響を及ぼして来た民間情報活動の概要を提出するものである。」江藤1989、225頁。。 ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムについて江藤は、その嚆矢である太平洋戰爭史という宣伝文書を「日本の「軍国主義者」と「国民」とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている」と分析 ref name= Eto1999-p223 江藤1989、233頁。。また、「もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、CI Eの「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、一応所期の目的を達成したといってよい。つまり、そのとき、日本における伝統的秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。以後日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、二度と再び米国に向けられることなく、もっぱら「軍国主義者」と旧秩序の破壊に向けられるにちがいない」とも指摘している ref name= Eto1999-p223 / 。 また、「「軍国主義者」と「国民」の対立という架空の図式を導入することによって、「国民」に対する「罪」を犯したのも、「現在および将来の日本の苦難と窮乏」も、すべて「軍国主義者」の責任であって、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起った災厄であって、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、ということになるのである」としている ref name= Eto1999-p223 / 。 “WGIP”を主に担当したのはGHQの民間情報教育局 (CIE) で、“WGIP”の内容はすべてCIEの機能に含まれている ref name= GHQ183 GHQ/USAFPAC(米太平洋陸軍総司令部) 一般命令第183号(1945年9月22日付)「民間情報教育局の設置」 ref name= GHQ4 GHQ/SCAP 一般命令第4号(1945年10月2日付)「民間情報教育局の設置」。当初はCIEに“War Guilt Anti-Millitarist”(これまで「戦犯・反軍国主義」と訳されてきた) ref name= 児玉 児玉三夫訳『日本の教育-連合国軍占領政策資料』(明星大学出版部、1983年、ISBN 9784895490597) ref name= NHK NHK放送文化調査研究所放送情報調査部編『GHQ文書による占領期放送史年表(昭和20年8月15日~12月31日)』(1987年)、あるいは“War Guilt Criminal” ref name= 有山96 有山輝雄『占領期メディア史研究』1996年、柏書房、ISBN 9784760113460という名称の下部組織(後に「課」)が置かれていた(1945年11月の組織改編で消滅)。 “WGIP”は「何を伝えさせるか」という積極的な政策であり、検閲などのような「何を伝えさせないか」という消極的な政策と表裏一体の関係であり、後者の例としてプレスコードが代表的である。昭和21年(1946年)11月末にすでに「削除または掲載発行禁止の対象となるもの」として「SCAP-連合国最高司令官(司令部)に対する批判」など30項目に及ぶ検閲指針がまとめられていたことが、米国立公文書館分室所在の資料によって明らかである江藤1989、203-207頁。。プランゲ文庫保存のタイプコピーには、多少の違いがあるが同様の検閲指針として具体的内容が挙げられている。詳細はプレスコードを参照のこと。 経緯 昭和20年(1945年)9月22日の降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針で米国はマッカーサーに対し「日本国国民ニ対シテハ其ノ現在及将来ノ苦境招来ニ関シ陸海軍指導者及其ノ協力者ガ為シタル役割ヲ徹底的ニ知ラシムル為一切ノ努力ガ為サルベシ」文語体と指令した。 GHQは同10月2日、一般命令第四号に於いて「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」と勧告した江藤1989、226頁。。 米国政府は連合国軍最高司令官に対し11月3日、日本占領及び管理のための降伏後における初期の基本的指令を発し「貴官は、適当な方法をもって、日本人民の全階層に対しその敗北の事実を明瞭にしなければならない。彼らの苦痛と敗北は、日本の不法にして無責任な侵略行為によってもたらされたものであるということ、また日本人の生活と諸制度から軍国主義が除去されたとき初めて日本は国際社会へ参加することが許されるものであるということを彼らに対して認識させなければならない。彼らが他国民の権利と日本の国際義務を尊重する非軍国主義的で民主主義的な日本を発展させるものと期待されているということを彼らに知らせなければならない。貴官は、日本の軍事占領は、連合国の利益のため行われるものであり、日本の侵略能力と戦力を破壊するため、また日本に禍をもたらした軍国主義と軍国主義的諸制度を除去するために必要なものであるということを明瞭にしてやらなければならない。(下略)」と命令した。保阪正康『日本解体 「真相箱」に見るアメリカGHQの洗脳工作』扶桑社文庫、平成16年ISBN 4594047947 同12月8日、GHQは新聞社に対し用紙を特配し、日本軍の残虐行為を強調した「太平洋戰爭史」を連載させた。その前書は次の文言で始まる。「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙に遑(いとま)がないほどであるが、そのうち幾分かは既に公表されてゐるものの、その多くは未だ白日の下に曝されてをらず、時のたつに従つて次々に動かすことの出来ぬ明瞭な資料によつて発表されて行くことにならう。(下略)」仮名遣いは出典のママ。()内はルビ。 ref name= 正仮名 歴史的仮名遣(正仮名) ref name= 江藤 江藤1989 それと平行し、GHQは翌9日からNHKのラジオを利用して「眞相はかうだ」の放送を開始した。番組はその後、「眞相箱」等へ名称や体裁を変えつつ続行された。昭和23年(1948年)以降番組は民間情報教育局 (CIE) の指示によりキャンペーンを行うインフォメーション・アワーへと変った。 ref name= 櫻井 / 昭和20年(1945年)12月15日、GHQは神道指令を発すると共に、以後検閲によって大東亜戦争という文言を強制的に全て太平洋戦争へと書換えさせ言論を統制した。 昭和20年当時、米軍検閲官が開封した私信(江藤は「戦地にいる肉親への郵便」かという)は次のような文言で埋めつくされていた。 「突然のことなので驚いております。政府がいくら最悪の事態になったといっても、聖戦完遂を誓った以上は犬死はしたくありません。敵は人道主義、国際主義などと唱えていますが、日本人に対してしたあの所業はどうでしょうか。数知れぬ戦争犠牲者のことを思ってほしいと思います。憎しみを感じないわけにはいきません」(8月16日付) 「大東亜戦争がみじめな結末を迎えたのは御承知の通りです。通学の途中にも、他の場所でも、あの憎い米兵の姿を見かけなければならなくなりました。今日の午後には、米兵が何人か学校の近くの床屋にはいっていました。/米兵は学校にもやって来て、教室を見まわって行きました。何ていやな奴等でしょう! ぼくたち子供ですら、怒りを感じます。戦死した兵隊さんがこの光景を見たら、どんな気持がするでしょうか」(9月29日付) 江藤は、「ここで注目すべきは、当時の日本人が戦争と敗戦の悲惨さをもたらしたのが、自らの「邪悪」さとは考えていなかったという事実である。/「数知れぬ戦争犠牲者は、日本の「邪悪」さの故に生れたのではなく、「敵」、つまり米軍の殺戮と破壊の結果生れたのである。「憎しみ」を感ずべき相手は日本政府や日本軍であるよりは、先ずもって当の殺戮者、破壊者でなくてはならない。当時の日本人は、ごく順当にこう考えていた。」と指摘した江藤1989、137-8頁。。 GHQ文書(月報)には敗戦直後の様子が記されていた。「占領軍が東京入したとき、日本人の間に戦争贖罪意識は全くといっていいほど存在しなかった。(略)日本の敗北は単に産業と科学の劣性と原爆のゆえであるという信念が行きわたっていた」産経新聞平成17年12月20日Template 出典無効 こうした日本人の国民感情はその後もしばらく続き、CIEの文書はG-2(CIS)隷下の民間検閲支隊 (CCD) の情報によれば昭和23年になっても「依然として日本人の心に、占領者の望むようなかたちで「ウォー・ギルト」が定着してなかった」有力な証拠であると江藤は指摘する江藤1989、228頁。。 また、このプログラムが以後正確に東京裁判などの節目々々の時期に合わせて展開していった事実は看過できないとも指摘する ref name= 江藤 / 。 東京裁判で東條英機による陳述があったその2箇月後、民間情報教育局 (CIE) は世論の動向に関して次のような分析を行っている。「一部日本人の中には(中略)東條は確信を持つて主張した、彼の勇気を日本国民は称賛すべきだとする感情が高まつてゐる。これは、東條を処刑する段になると東條の殉教といふところまで拡大する恐れがある。」「広島における原子爆弾の使用を『残虐行為』と見做す・・・最近の傾向」 ref name= 正仮名 / (昭和23年(1948年)3月3日附CIE局長宛覚書) こうした国民の機運の醸成に対しCIE局長は6月19日、民間諜報局 (CIS) の同意を得た上で、プログラムに第三段階を加える手筈を整え、情報宣伝に於ける対抗処置を取った。勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争 米軍占領下の検閲が歪めたもの』 実例 昭和20年(1945年)12月8日から、「太平洋戦争史」を全国の新聞に掲載させた。 ref name= 江藤 / 「太平洋戦争史」は新聞連載終了後、中屋健弌訳で翌年高山書院から刊行された(発行日は4月5日と6月10日の2回)。 昭和20年(1945年)12月15日 - GHQ、覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ニ関スル件」(いわゆる「神道指令」) ref name= 神道 覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ニ関スル件」(1945年12月15日、SCAPIN-448、CIE発出)によって、公文書で「大東亜戦争」という用語の使用を禁止。 昭和20年(1945年)12月31日 - GHQ、覚書「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」 ref name= 覚書 覚書「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」(1945年12月31日、SCAPIN-519、CIE発出)によって、修身・国史・地理の授業停止と教科書の回収、教科書の改訂を指令。 昭和21年(1946年)1月11日 - 文部省、修身・日本歴史・地理停止に関するGHQ指令について通達 ref name= 通達 学制百年史 資料編 年表(文部科学省)。1975年、文部省編・帝国地方行政学会発行より載録。。 昭和21年(1946年)2月12日 - 文部省、修身・国史・地理教科書の回収について通達 ref name= 通達 / 。 昭和21年(1946年)4月9日 - 文部省、国史教科書の代用教材として『太平洋戦争史』を購入、利用するよう通達 ref name= 提要 文部省編『終戦教育事務処理提要 第3集』(1949年/復刻版は国書刊行会、1997年、ISBN 9784336039002) ref name= 木村 木村泰夫編『埼玉終戦教育資料 公文書集録』(1967年)。 昭和20年(1945年)12月9日から、『眞相はかうだ』をラジオで放送させた。 『眞相はかうだ』は番組名を変えながら、昭和23年(1948年)1月まで続けられた ref name= 江藤 / ref name= 櫻井 櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「眞相箱」の呪縛を解く ―戦後日本人の歴史観はこうして歪められた―』小学館。 極東国際軍事裁判 ref name= 江藤 / 昭和24年(1949年)2月、長崎の鐘にマニラの悲劇を特別附録として挿入させる。 論評など 『産経新聞』は次のように論じている。 占領期に連合国軍総司令部 (GHQ) が実施した「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)は、今も形を変えて教育現場に生き続けている。~(中略)~文芸評論家の江藤淳は著書『閉された言語空間』の中で次のように書いている。 ~「いったんこの(GHQの)検閲と宣伝計画の構造が、日本の言論機関と教育体制に定着され、維持されるようになれば、(中略)日本人のアイデンティティと歴史への信頼は、いつまでも内部崩壊を続け、また同時にいつ何時でも国際的検閲の脅威に曝され得る」~ 6年前に自死した江藤の「予言」は、不幸にも現実のものとなろうとしている ref name= 自縛4 「戦後六十年 歴史の自縛(4)」『産経新聞』2005年8月5日付Template 出典無効。 高橋史朗明星大教授は、「東京裁判が倫理的に正当であることを示すとともに、侵略戦争を行った日本国民の責任を明確にし戦争贖罪意識を植えつけることであり、いわば日本人への『マインドコントロール計画』だった」と論じている ref name= 自縛3 「戦後六十年 歴史の自縛(3)」『産経新聞』2005年8月4日付Template 出典無効。一方、有山輝雄は『閉された言語空間』の新刊紹介で、第一次資料によって占領軍の検閲を明らかにした先駆的研究であるとしながらも「著者の主張に結びつけるための強引な資料解釈も随所に見受けられる。また、占領軍の検閲に様々な悪の根源を押しつける悪玉善玉史観になっているが、これは現在の政治状況・思想状況への著者の戦術なのであろう」と評した ref name= 有山90 有山輝雄「江藤淳著『閉ざされた言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』 」『史學雜誌』99巻3号(平成2年(1990年)3月)Template 出典無効。 シカゴ・サン紙の特派員だったマーク・ゲインは、「眞相はかうだ」のリハーサルをNHKのスタジオで見学した際、ラジオ放送や新聞の続き物について「私が困惑するのは、その政治性である」と批判した産経新聞平成17年(2005年)12月22日Template 出典無効。 山本武利早稲田大学教授は江藤の占領研究について、占領軍の検閲方針を示した第一次資料をGHQ関係資料によって検証した先駆的な仕事であると評価した『諸君!』平成16年1月号Template 出典無効。 日本基督教団の手束正昭牧師は、2007年 - 2009年のキリスト教系月刊誌『ハーザー』の連載記事で、大東亜戦争における日本悪玉論はウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの洗脳によるものであるとの見解を発表し、日本悪玉論が日本の宣教を妨げると主張している。 脚注 Template 脚注ヘルプ Template Reflist 参考文献 江藤淳『閉された言語空間-占領軍の検閲と戦後日本』文藝春秋 、平成元年(1989年)ISBN 9784163435206(初出『諸君!』1982-1986年。後に文春文庫、平成6年(1994年)ISBN 9784167366087) 櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「眞相箱」の呪縛を解く-戦後日本人の歴史観はこうして歪められた-』小学館文庫、平成14年(2002年)ISBN 4094028862 勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争―米軍占領下の検閲が歪めたもの』明成社、平成17年(2005年)ISBN 4944219377 関連項目 陰謀論 洗脳 情報操作 心理戦 東京裁判史観 極東国際軍事裁判 プロパガンダ 民間検閲支隊 プレスコード 言論統制 自己検閲 日本における検閲 3S政策 焼け跡世代 連合国軍占領下の日本 大東亜戦争 タブー 外部リンク 坪内隆彦「占領期の言論統制関連文献」 統合参謀本部「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期基本的指令」(JCS1380/15=SWNCC52/7) - 国立国会図書館 GHQ/SCAP Records, Civil Information and Education Section (CIE), 国立国会図書館 Template デフォルトソート うおきるといんふおめえしよんふろくらむ 中見出し
https://w.atwiki.jp/horror_vip/pages/434.html
ブラインドネス ■概要 2008年制作の日本/カナダ/ブラジルの合作映画。 ■あらすじ ある日、車を運転していた日本人の男が突然視力を失い、 目の前が真っ白になる事態に見舞われる。 しかし、彼を診た医者によれば、眼球に異常はなく原因は不明だった。 その後、同様の患者が各地で続出、混乱が広がっていく。 感染症の疑いが濃厚となり、政府は緊急隔離政策を発動し、 発症者を片っ端からかつて精神病院だった隔離病棟へと強制収容していく。 最初の患者を診た医者もやはり失明し、隔離病棟送りとなるが、 その際、医者の妻は自分も失明したフリをして夫に付き添うのだった。 彼女だけは、なぜか失明を免れていたのだ。 こうしてただ一人、目が見えていながら隔離病棟内に入り込んだ医者の妻は、 やがて想像を絶する惨状を目の当たりにするのだが…。
https://w.atwiki.jp/mainichi-matome/pages/1401.html
基礎データ ブランド名 ランドネクサス 会社名 株式会社ランドネクサス 電話番号 0120-75-1165 Fax番号 メール https //www.landnexus.co.jp/contact/index.html 企業分類 不動産 現在の問合せ結果 × 現在のコメント 今後検討→広告再開 最終更新日 2010/01/15 特記事項 基礎データ特記事項 ランドネクサス2008年9月04日の毎日朝刊に広告あり 9/5 ○(今後検討) 2009年11月26日の毎日朝刊に広告あり 関連ページ 特に新聞に広告を出している企業は毎日新聞にとって泣き所となるようです 問合せ 問合せ先一覧 / 毎日新聞に広告を出していた企業(日付別) / 毎日jpに広告を出していた企業 / 電話問合せのコツ 結果別一覧 ◎◎-◎-○ / △ / ×(記号、数字、ローマ字) / ×(ひらがな) / ×(カタカナ・ア行~ナ行) / ×(カタカナ・ハ行~ワ行) / ×(漢字・あ行~か行) / ×(漢字・さ行~た行) / ×(漢字・な行~は行) / ×(漢字・ま行~わ行) 分野別一覧 製造業 / 製造業その他 / 小売、卸売 / サービス業、娯楽 / 医療、医薬 / 建設、不動産 / 金融、運輸、IT、その他 / マスコミ、出版 行政等一覧 行政、各種団体等 / 教育機関等 / 政治家、著名人 毎日新聞系列 【その1】 【その2】 【その3】 【その4】 【その5】 【その6】 【その7】 【その8】 【その9】 問合せ報告 毎日新聞関係の凸結果を淡々と張り続けるスレ7 ※「電凸」とは「電話問合せ」のインターネットスラング(俗語)です。(詳細は用語集) 対応評価の大まかな目安 ◎◎ 広告打ち切り・今後広告を出さない・今後広告を出す予定はない ◎ 良対応・厳重な抗議 ○ 普通、中立対応・対応検討中、今後注視 △ 保留・問合せの返答結果待ち(3日以内に回答なければ×) × 悪対応・無回答・処分は十分毎日の姿勢を容認・広告続行 このテンプレを編集 ランドネクサス 2008年9月04日の毎日朝刊に広告あり 9/5 ○(今後検討) 日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事129 http //changi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1219845246/926 926 名前:可愛い奥様[] 投稿日:2008/09/05(金) 15 37 40 ID gvTS3vdJ0 株式会社ランドネクサス(有料老人ホーム)に電話問い合わせ(今後検討します) 有料代表電話から広告担当者に直接つないでもらう。 対応者は広告担当のS氏という40代ぐらいの男性。 waiwai問題については漠然と知っていた程度だったというが、具体的な記事の内容を話すと (老人売春記事など)「そうですか、それじゃこちらでも検討しないといけないですね」とのこと。 私が送ったメールをその場で開いて読んで確認してくれていました。 情報集積wikiからニュースサイトにも接続できるので、ニュースを読んでご検討くださいとお 願いして終了。 2009年11月26日の毎日朝刊に広告あり 関連ページ 検索 2008年9月04日の毎日朝刊 広告一覧 2009年11月26日の毎日朝刊 広告一覧 問合せ結果分野別一覧その4 問合せ結果別一覧 ×対応の企業(カタカナで始まる企業名・ハ行~ワ行)
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/19820.html
登録日:2011/09/11 Sun 17 15 50 更新日:2024/07/13 Sat 11 02 40 所要時間:約 5 分で読めます ▽タグ一覧 JR東日本 インドネシア ジャカルタ 中古車センター 企業 会社 日本車の余生 東京メトロ 東京都交通局 東急電鉄 東葉高速鉄道 海外 現実の企業 鉄道 鉄道会社 KRLジャボタベックとはインドネシアのジャカルタ近郊を輸送する鉄道会社の事である。 〇概要 現在はインドネシアの鉄道公社を民営化した (PT. KAI) Commuter Jabodetabekが運営していて、インドネシア国鉄の線路を借りて運行している(日本でいうとJR貨物がそれにあたる)名前の由来は、KRLとはインドネシア語で電車を表し、ジャボタベックとはジャカルタ首都圏の都市であるジャカルタ、ボゴール、デポック、タンゲラン、ブカシの頭文字を組み合わせたものである。 元々、インドネシアには戦前のオランダが線路を既に建設していたが、電化はもとより、あまり延進もされなかった。東京23区に迫る人口を抱えているのに他のインフラ共々整備が全く進んでいなかったのだ。 そこでインドネシア政府は日本等に対して援助を要請し、日本の技術を元にして鉄道施設を整備した。ちなみに建設過程としては、JICA(国際協力機構)が、「ジャカルタ大都市圏鉄道輸送計画」を提案して、それに基づいて日本のODAの援助のを基に整備された。 〇路線・運行形態 中央線(ボゴール線)、東線、西線、ブカシ線、セルポン線、タンゲラン線、タンジュンプリオク線があるが、運行形態はは路線別ではなく列車別に細かく分かれている(ある程度のパターンはある)。 中核となる駅はJakarta-Kota(ジャカルタ・コタ)という駅で駅構内は殆どがヨーロッパタイプの低いホームとなっている 運行種別は各停のみ。かつては急行もあったが、ダイヤ改正によって廃止となった。なお、各停はエアコンの有無によって更に区別され値段にも影響する。 〇車両 会社の概要とか路線形態とか説明してきたが、ぶっちゃけこれが今項目のメインディッシュ。KRLジャボタベックは現地向けの車両と共に、何と日本で使われた中古車両を使っているのだ。 他にもミャンマーやタイ、アルゼンチンでも同じような例があるが、特にインドネシアはその導入にも積極的である。 もちろんインドネシアとしては自国の産業を優先したいのだが、路線の拡大に対して国産電車の大量配備にめどがつかず、2014年で中古車導入を打ち切る予定が2019年まで延長されている。 以下、日本から導入された車両を紹介する。 ◆東京都交通局6000形 最初に導入された車両。元の所属は都営三田線。現在は全面の改造によって顔が凄いことになっている車両がある。しかし後述の205系の導入に伴い2016年に全編成引退。最後まで残っていた編成の内6181号車はデポック電車区で静態保存されている。 日本では秩父鉄道や熊本電鉄に譲渡された車両が現役。 ◆JR東日本103系 武蔵野線や京葉線の余りを導入。四両編成を二つ組み合わせて運行されていて、何故かJR東海風に塗装された車両まである。 流石に引退したらしいが、JR西日本では2022年現在未だ現役である() ◆東京急行電鉄8000系/8500系 同時期に導入された。一時期は8000系は伊豆の夏号塗装のままで走ったこともある。秩父鉄道の新車(中古)もこれと同じ車両。東急時代を上回る12両編成での運用が確認されている。 8000系は伊豆急で現役。8500系は秩父鉄道・長野電鉄・伊豆急に譲渡されたのみならず、2022年現在も東急で運用されている。オリンピックまでに置き換えられなかった…が、2023年1月の引退が決定した。 ◆東京地下鉄5000系 東西線から5000系が完全に置き換えられると同時に一部が導入された。 国内では引退済みだが、千代田線綾瀬支線で運用されていた編成が動態保存中。 ◆東葉高速鉄道1000系 こちらも置き換え時に(ry。ちなみに東葉1000系はメトロ5000系を改造した車両である。(ぶっちゃけ兄弟車)一時期は東葉高速鉄道時代のままで走行されていた。 国内に残存車はいない。 ◆東京地下鉄 7000系 1000系の後、立て続けに投入された車両。元の所属はメトロ有楽町線。この車両から前面が真っ赤になり黄色いラインが付かれた。(通称:魔赤色)ちなみに副都心線に対応していない車両(通称:Y車)が対象だった。 過半数がメトロに残留し、更新工事を受け運用を続けたが2022年4月に引退。 ◆東京地下鉄 05系 更に立て続けに投入。元の所属はメトロ東西線。やはり7000系と同じ魔赤色に。初期車のみが導入されている 日本から渡った中古電車の中で一番新しい電車。 こちらも過半数がメトロに残っており、その多くは更新済み。2022年時点では3本だけ未更新で残っているとか。 ◆東京地下鉄 6000系 更に(ry。元の所属はメトロ千代田線。同じく魔赤色に塗装された。7000系の兄貴分であるためか、一見すると見分けがつかない 一応見分けるポイントは運転席横の非常用貫通扉の上の窓が無い方が6000系である。 国内では引退済みだが、第2編成が動態保存されている。 ◆JR東日本203系 久々のJR車。元の所属は常磐緩行線。やはり魔赤色になった。 ちなみにフィリピン国鉄にも導入された。 但しフィリピン国鉄は全線非電化なので機関車に牽引させるための客車として運用されている。 国内には個人に売却されたクハ203-103の一両のみ現存する。 ◆JR東日本205系 埼京線、横浜線、南武線の廃車を大量に導入することが決定した。やはり魔赤色そして、初の12両編成での運用がなされている。VVVFへの更新済みの武蔵野線からも転用された。 日本の中古車両を含めて多数を置き換えて主力車種となる予定である。 かつては、インドネシア政府が205系の導入を要求していたが、何故かJR側が千葉地区の113系と共に買うようにと命じた。113系は3ドア車の為、インドネシア政府がそれを断り、205系は一旦インドネシアへの切符を失った。 千葉地区の113系の一部は信州の民宿に保存される事が決まった。 最終的に製造された約1400両中のうち800両強がインドネシアに渡っており、名実ともに主力と言ってよいだろう。国内に残存する車両は経年が進み状態が悪化したこと、編成が短すぎてインドネシア側の要望に合致しないなどの理由でこれ以上の譲渡はないとみられる。 JR東日本の地方線区及び西日本の奈良線、富士急行線(*1)において現役続行中。 はるばる日本からやって来た車両は、現地向けに改造するために塗装変更の他に、ステップの設置や投石により被害の防止の為に前面のガラスに網(*2)、さらに強化型スカート(連結機付近にある覆う為の板)を設置される。(理由としては線路内に人が立ち入ったりする他、まだ整備が不十分な為) 更に試運転の後は10両の車両は8両に減らされて(2両は予備車扱い)から営業運転に導入されるらしい。 こうした現地向けの改造がされていても、方向幕が弄られていない事があるため、103系の中には「東所沢」や東京の幕を表示しながらジャカルタ近郊を走るものもある。 あと、とにかく塗装が派手 日本では絶対にやらなさそうな細かな塗装は勿論、また前面スタイリッシュ改造によって顔が凄いことになっている車両もある。 ラッピング車両もあるが編成の中の一部車両だけラッピングしていることも。 興味のある方は画像を検索してみるといい。 ちなみに、日本の中古車は全て冷房付き各停(かつては急行もあった)として運行される。 現地の利用者からも冷房付きとあって好評らしい。 そんなジャボタベックだが、国産車も僅かながら存在している。本音では自国の産業育成の為に国産主体でやりたいのだが、技術やら様々な面で後れを取ってしまっており、道のりは困難である。 KRL-I インドネシアの会社であるPT INKA社が生産した、インドネシア初の国産電車。技術支援として日本車輌が参加、電装品は東芝製のIGBT素子VVVFインバータ制御で、前面・側面・車内扉上部にLEDによる行先表示機が採用されるなど新機軸多数用いられた軽量ステンレス製20m3扉車4両編成2編成が2001年に製造されて2003年に導入された。インドネシア初の国産電車として非常に力の入ったものだったが、導入してから故障頻発して信用性は皆無。一時離脱後に改修されて2007年に復帰したものの…。 KfW I-9000形 PT INKA社製で、ドイツ復興金融公庫からの支援で2010年に生産される。電装品はドイツののボンバルディア・トランスポーテーション製でVVVFインバータ制御。4両10編成が在籍。性能自体はかなりのものらしいが、KRL-I同様に機器の不具合(それは時として、スピードメーターが表示されないというものも)等で工場に送り返されたりしたこともある。 そしてジャボタベックにおいて、かつて使われていた中にも日本製の物も多く存在した。 HITACHI(KL3-97) 1997年に4両6編成が導入されたステンレス製VVVF車。なんと日立製作所製作の日本製で、愛称もそこから。2013年の非冷房車全廃まで活躍していた。 HOLEC(KL3-94/96/97/98/99/2000/2001) 1994年から2001年にかけてベルギーのボンバルディアで生産されたステンレス製VVVF車。電装品生産元のオランダHOLEC車から愛称がとられている。 非冷房車であるが、極一部がPT INKAにて韓国・宇進産業の電装品を使って冷房改造してHOLEC ACとして生まれ変わったが、全車引退の憂き目に。 Hyundai(KL3-92/93) 1992年から1993年にかけて、韓国・ヒュンダイで生産されたステンレス製VVVF車。愛称も生産者から。 Rheostatik(KL3-76/78/83/84/86/87) 1976年から1987年にかけて導入された、日本車輌、川崎重工、日立によって生産された日本産の非冷房抵抗制御車。 年度によって普通鋼製だったりステンレスだったり、二扉だったり三扉だったりする。 愛称は抵抗制御を意味する"Rheostatik"から。 前述したVVVF制御車が故障する中、元気にコレが走っている光景もあったという…。 2013年の非冷房車全廃まで活躍した。 余談 ジャボタベック幹部がテレビ東京の『未来世紀ジパング』の取材を受けた際、「(205系のような)状態のいい中古車両をあと600両欲しい」と発言した画像が、鉄道模型ファンの間でネットミームと化している。2021年現在インドネシアに渡った205系は812両であり、ジャボタベックの要求は叶ったといえる。なお、2021年現在Nゲージで205系を600両揃えようとすると、消費税10%込み定価で'1800万円強'が必要になる…実現する人はいるのだろうか(*3) ジャボタベック関係者からは、上記以外にも「E231系以降の車両はハイテク過ぎてメンテナンスできない」「新造された205系が欲しい」と言った発言が確認でき、鉄オタの笑いと愛着を買っている。なお、205系は国内では94年に製造が終了し、首都圏の通勤型電車は既に4回もモデルチェンジされている。(*4) 首都圏では2020年からE217系の大量廃車が始まったが、ジャボタベックに譲渡される気配はない。VVVFを扱いきれないわけではない(武蔵野線から譲渡された205系5000番台はVVVF化されていた)ので、2階建てグリーン車を嫌った、鉄道車両の国産化を進めたい政府によって中古車両の導入が制限された、などの見方がある。 追記・修正お願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] インドネシア国産初の冷房車両のKRL-1の事も思い出してやってください。故障が多くて不遇だけど。 -- 名無しさん (2013-07-26 10 08 28) 需要があるかどうか知らないが、過去車両とかも追記しておいてみた。コチラ向け日本製も何気に多かったみたいだし。あと、VVVF車に故障が頻発するのは技術力の低さや気候の高温多湿ぶり、電圧不安定や路面がアレだったりが重なって、繊細なVVVFが故障してしまうからだとか。 -- 名無しさん (2016-01-30 19 35 41) 現地の日本人ブロガーの情報や、国内での残存車の動向に基づいて追記 -- 名無しさん (2021-08-23 18 56 01) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/2011311/pages/76.html
2007年5月 ビルマ・ミッチナの従軍慰安婦の尋問調書(その1-3) ビルマ・ミッチナの従軍慰安婦の尋問調書(その1-2)のつづき 文書A ATIS Research Reports No. 120 Amenities in the Japanese Armed Force, Nov. 15, 1945, 連合軍通訳翻訳部(ATIS)調査報告第120号 日本軍における各種アメニティー 1945年11月15日 の b. BURMA の項 のさらにつづきです。小見出しは私がつけたものです。 【メイヨーでの規則】 “In MAYMYO similar regulations were in force, but owing to the large number of units stationed there, some of the houses had definite scheduled days for specific units. For example, a house of Japanese girls, the DAI ICHI FURUSA, had the following schedule -- Sunday -- 18 Division Headquarters Staff Monday -- 18 Division Cavalry Regiment Tuesday -- 18 Engineer Regiment Wednesday -- Day-time medical inspection then free. Evenings, officers only Thursday -- 18 Division Medical Unit Friday -- 18 Maintenance Artillery Regiment Saturday -- 18 Division Transport Regiment メイミョーでも、同じような規則が実施されていたが、多くの部隊が駐留していたため、部隊ごとに日を決めていた慰安所もあった。例えば、日本人慰安婦がいる慰安所、ダイイチ フルサのスケジュールは以下の通りであった。 日曜日 第18師団 司令部スタッフ 月曜日 第18師団 騎兵連隊 火曜日 第18師団 工兵連隊 水曜日 昼間-検査、後自由時間 夜間-将校のみ 木曜日 第18師団 衛生隊 金曜日 第18師団 山砲兵連隊 土曜日 第18師団 輜重兵連隊 “Another brothel, the SUIKO EN, was reserved for officers only. もうひとつの日本人女性の売春宿、スイコエンは将校専用であった。 【避妊具と性病】 “There was a strict order for the use of contraceptives; so that according to prisoner of war, cases of venereal diseases were due only to the carelessness of the solders themselves. During the one and one-half years prisoner of war was running the house in MYITKYINA, there were only six cases of venereal disease, who were sent to the Medical Officer of 2 Field Hospital, 18 Division for treatment. There were some cases of venereal disease among the soldiers of 114 Infantry Regiment, but prisoner of war never had any trouble with regimental headquarters on this score. 避妊具の使用については厳重な命令があった。そのため、捕虜(楼主)の言によれば、性病は兵士自身の不注意によるもののみであった。一年半に渡り、捕虜はミッチナで慰安所を経営していたが、性病は6例しかなく、患者は、治療のため、第18軍の第2野戦病院の軍医将校のもとに送られた。歩兵第114連隊の兵士の中にも性病は数例みられたが、この点に関して捕虜(楼主)と連隊司令部との間にいかなるトラブルも起きなかった。 【機密保持】 “During their visits to the brothels, troops rarely discussed military subjects, preferring to escape from their normal military surroundings. Prisoner of war said he never had a chance to overhear any interesting military “secrets”, and considered this was due to the presence of the military police, and that the men were afraid to talk freely, even if they had anything to say. The usual subjects of complaint among the men were criticisms of their officers, lack of supplies and homesickness. 慰安所にいる間、兵士たちは軍隊について話をすることは稀で、自分たちが置かれている日々の軍隊生活からむしろ逃避したいようであった。捕虜(楼主)は、興味を引くような軍事機密を偶然耳にすることもなかった供述し、それは憲兵の存在によるものだそうだ。また、兵士たちはたとえ言うべきことがあったとしても、自由に話すことを恐れていたとも供述している。兵士たちの間でよく口にのぼる愚痴の内容は、将校に対する批判、補給物資の不足、それに、郷愁の想いであった。 【連合国側宣伝の受け止め】 “The girls had seen some Allied propaganda leaflets but had not read them, except that one girl remembered one about the hopeless situation in MYITKYINA, which at the time she did not believe. They had not heard any Forward Broadcasts, but remembered the men openly discussing a ‘radio broadcast’. 女性たちは連合国側の宣伝ビラを幾枚かは見た事はあるが、読んだことはない。ただし、ひとりがミッチナの絶望的な状況についてのビラは覚えていたが、彼女は、当時その内容を信じることができなかったそうだ。女性たちはForward Broadcastsも一度も聞いたことはなかったが、兵士たちが「ラジオ放送」についておおっぴらに話し合っていたことを覚えていた。 ※ この尋問そのものが、日本軍への今後の宣伝戦略を研究するためのものであったようだ。 【戦闘と避難】 “On 31 July, about midnight a party of 63 girls from the three brothels in MYITKYINA, and the brothel owners, etc., began their evacuation from MYITKYINA. The girls wore dark green Army clothing on top of their civilian clothes. They crossed the IRRAWADDY in ten small boats. The majority of the remaining troops had already departed from MYITKYINA, but the sick and wounded were left behind. The girls remarked on this point. ‘ It was no use to get them across, because once across these soldiers couldn’t walk. It was better to float them down the river with the hope that they might get through.’ They landed north of Waingmaw where they remained in the jungle until 4 August. The party then began to trek in the wake of the retreating troops. On 7 August, they became involved in a skirmish and in the confusion the party split up. 7月31日、真夜中ごろ、ミッチナにある3軒の売春宿から63名の女性たち、売春宿の経営者たちなどから成る一団が、ミッチナからの避難を開始した。女性たちは、民間人の服の上に深緑色の陸軍の衣服をまとっていた。一団は、小船10艘でイラワジ河を渡った。残っていた軍隊の大部分はすでにミッチナから退去していたが、傷病兵たちは置き去りにされた。 この点について女性たちは次のように言っている。「傷病兵に川を渡らせても無駄でした。渡れたとしても歩くことができなかったんですから。生き残るかもしれないという望みを託して、傷病兵を川に流したほうがマシだった。」 一団はワイモウの北に着岸し、8月4日までジャングルの中に留まっていたが、その後、撤退した軍隊の跡を追って何とか歩き始めた。8月7日、一団は小戦闘に巻き込まれ、混乱の中、バラバラになってしまった。 “The 20 Chinese girls remained behind in the jungle, and gave themselves up to Chinese troops. One party of about 30 Korean girls followed on in the wake of the Japanese troops, and were seen by another prisoner of war on 19 August, a small disconsolate group still following on. Prisoner of war’s party took shelter in an abandoned native house where they remained for two days while prisoner of war tried to construct a raft with them was a wounded Japanese soldier. On 10 August, the house was surrounded by a number of Kachins under the command of an English officer, and they were captured. Of the original party of 63 girls, four had died during the journey and two had been shot, mistaken for Japanese soldiers.” SEATIC Interrogation Bulletin No. 2, dated 30 November 1944, pages 10-13 中国人女性20名はジャングルに留まり、その後中国軍に保護された。30名ほどから成る朝鮮人女性の一団は、日本軍の跡を追い続けた。8月19日に、さらに後を追っていた絶望に打ちひしがれた小集団(彼らも捕虜となった)に目撃された。捕虜(楼主)がいる一団は現地住民がうち捨てた家に避難し、そこに2日間とどまった。その間に、かれらはいかだを組もうとした。また、日本軍傷病兵が1名一緒にいた。8月10日、その家は、イギリス人将校指揮下の多数のカチン族に取り囲まれ、一団は捕獲された。もとの女性63名のうち、移動中に4名が死亡し、2名が日本軍兵士と誤認されて射殺された。 (SEATIC Interrogation Bulletin No.2, dated 30 November 1944, page 10-13) 【丸山大佐の評判】 (2) Extract from letter written by prisoner of war, a well-educated man of 23 years, nominally a sergeant wireless operator, who had spent the greater part of five years in service either in the cookhouse or under training “Brothers-in-arms “While the fighting was still going on at MYITKYINA, Colonel MARUYAMA was having a good time with the comfort girls in the shelter-trench almost every day. Later he arranged that the girls should cross the river ahead of the wounded soldiers. This is the truth.” Source available on request (2)(教養のある23歳男性、公称は通信軍曹、5年間の大半を調理場と訓練に費やした、という捕虜の手紙からの抜粋 「戦友たちへ ミッチナではいまだ戦闘が続いていたというのに、丸山大佐は避難豪でほぼ毎日、慰安婦たちといちゃついていた。 その後、丸山大佐は傷病兵より先に慰安婦たちが渡河するよう段取りしたのだ。 これは嘘ではない。」 (以上、文書Aの引用終わり) (3)~(5)は別の部隊の捕虜の尋問です 2007年5月 .
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/523.html
「慰安婦」問題 調査報告・1999 雲南・ビルマ最前線におけ慰安婦たち一死者は語る 浅野豊美 ソース:http //www.awf.or.jp/program/pdf/p061_088.pdf 3 拉孟近郊の松山陣地 雲南・ビルマ最前線におけ慰安婦たち一死者は語る3 拉孟近郊の松山陣地 注《浅野論文》 まず、写真Aをご覧頂きたい。これは、既によく紹介されている写真であるが、「松山」という場所で、1944年9月3日に撮影されたものである。松山とは、日本側で拉孟(中国語の表記は、「臘猛」)と呼び習わした街の近郊にある山の名で、日本側が強靭な陣地を構築して最後まで立てこもった場所である。 写真A 1944年9月3日松山にて アメリカ写真部隊撮影 この写真のキャプションには、「ビルマロード上の松山という地点の村で、中国第8軍の兵士によって捕虜にされた4人の日本女性」3)と記されている。一見して目に付くのは、汚れた着衣、1人の妊娠したお腹、左脇に笑顔で屈んでいる男性、その横に転がっている捕獲されたとみられる銃、などであろう。松山陣地と拉孟市街、ビルマルートとの関係については、図2を参照されたい。 図2防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書 イラワジ会戦-ビルマ防衛の破綻』朝雲新聞社、1969年、284頁より引用。 この写真史料に映像として刻まれている松山の慰安婦については、2つの対応資料を米国と台湾で見つけることができた。最初に紹介したいのは、ワシントンのナショナルアーカイブに保存されている「ラウンドアップ」というビルマにいた米軍兵士の間で読まれていた新聞である4)。「ラウンドアップ」の同年11月の記事によると、松山で捕虜となった慰安婦は、朝鮮人が4人で日本人が1人とされており、写真に出てくる慰安婦4人と同じである。また合計で5人という数字は、中国側でビルマ遠征軍司令長官から蒋介石に送られた9月7日の記録5)に、「敵婦五名」を「俘虜」にしたとあることからも裏付けられる。 「ラウンドアップ」のタイトルは、「日本の慰安婦」(原文:"JAP COMFORT GIRLS")で、ウォルター・ランドルという記者によって執筆された。ビルマと雲南の国境地帯を北から南に流れている怒江(別名:サルウィン河)前線から寄せられたものと但し書きがついている。また、ランドル記者が慰安婦にインタビューをした際に通訳を務めたのは、「満州から脱出してきた日本語を話す中国人学生」で、恐らく写真の左端に笑顔で写っている青年がそれだと考えられる。 写真から一見してわかるのは、過酷な環境に長期間置かれてきたことである。写真に写っている汚れた着衣は、船がシンガポールに寄港した際に買った綿製の洋服であったという。2年間にかくも汚れてしまったわけだが、特に6月7日から3ヶ月間に及んだ孤立無援の戦いの中で、着の身着のままの状態が長く続いたのであろう。それは衣服のみならず、髪の毛の様子からも窺われる。7月中旬に第1貯水槽が破壊されると、水道施設の機能は停止し、守備兵は夜間に水袋を背負って川まで降りて給水を続けたという6)。水が欠乏していたのである。 インタビューをもとにまとめられたこの記事によると、慰安婦達の年齢は、24歳から27歳で、捕虜となるまでの経緯は以下のようであった。 1942年の4月初め、日本の官憲が朝鮮の平壌近くの村に来た。彼らは、ポスターを貼ったり大会を開くなどして、シンガポールの後方基地勤務で基地内の世話をしたり病院の手伝いをする挺身隊(原文では、"WAC" organizations )の募集を始めた。4人はどうしてもお金が必要だったのでそれに応じたという。ある女の子は、父親が農民で、ひざを怪我してしまったので、応募の際に貰った1,500円(米ドルで12ドル:原文)で、治療代を工面したという。そのような形で集められた18人の女の子の集団は、同年6月にいよいよ朝鮮から南へと出港することとなった。道すがら彼女たちは、日本の大勝利と南方で新しく生まれようとしている共栄圏についての話をたくさん聞かされた。しかし、船が約束のシンガポールに立ち寄っただけで、そのまま通過してしまってからは心配な気持ちが広がり始めた。ビルマのラングーンから北へと向かう列車に積み込まれたときには、もはや逃れられないと運命を悟ったという。 行き先が、シンガポールのはずであったのに、ビルマの北の果て、最前線に実際は送られたことに対して、彼女たちには何の説明もなかったことが分かる。況や、そこがどのような場所で、いかに危険な場所であるかに対しても、何の説明も行われなかったのは明確であろう。 一団が、怒江最前線にある松山陣地に到着すると、4人はある1人の年上の日本人女性によって監督されることとなった。この日本人女性は35歳で、それまで職業として売春を行ってきた人物である。彼女も松山の包囲掃討作戦の最中に同じように捕虜となった。この女性の写真と考えられるのが、写真Bであり、写真Aと同じ場所で同じ9月3日に撮影されたものである7)。写真から丁度35歳ぐらいの日本人女性であることが分かるであろう。松山で捕虜になった日本人女性は9月7日にもさらに1人いたことが、写真C8)からもわかるが、写真Bの日本人女性と4人の朝鮮人慰安婦の写真が、松山で9月3日に時間と場所を同じくして撮影されていること、先に紹介したように、9月7日付の中国軍記録でも5人の「敵婦」が捕虜となったとされていること、以上の2つから考えて、この監督をしていた35歳でプロの売春婦上がりの日本人女性というのは、この写真Bの女性に間違いはなかろう。すると、写真Cの女性のことが気になるが、『ラウンドアップ』の当該記事の冒頭では、合計で10人の日本と朝鮮の女性が捕虜になったと記されていることから、写真Cの女性を含め、9月3日以後徐々に、慰安婦の数が増えて、『ラウンドアップ』のいう10人に達したものと考えられる。 写真B1944年9月3日、松山にてアメリカ写真部隊撮影 写真C 1944年9月7日、松山にてアメリカ写真部隊撮影 更に記事は続く。松山には全部で24人の女の子がいて、「慰安」以外にも兵士の衣服の洗濯や料理、洞窟の清掃などの義務があったという。しかし給料は全く支給されず、故郷からの便りも届かなかった。中国軍が松山を攻撃した際に、女の子たちは地下壕に避難したが、元々いた24人のうち、14人は砲撃によって殺害された。日本軍兵士からは、もし中国軍に捉えられたら、ひどい暴行を受けることとなると教え込まれ、皆その話を信じきっていたという。彼女たちは国元の家族を守るため本当の名前は口にしたがらないが、この2年間に強いられた生活で、日本人の指導者達に対するかつての無邪気な信頼はすっかりひっくり返ってしまったと異口同音に語っていた。 以上紹介した記事の中で、第1に印象深いのは、手紙が届けられず、報酬も貰えなかった点である。末端の兵士にとって何より元気付けられる故郷からの手紙は、慰安婦達にとっても同様であったはずである。身寄りの少ない貧しい女性を中心に慰安婦を選んだとしても、故郷に全く音信を伝える必要がないわけがなかろう。記事に出てきたような怪我をした父親と、何らの連絡も取れなかったというのはいかなるわけであろう。精神的な支えもなく、給料という現実の報酬もなく、「慰安」と兵士の身の回りの世話に追われる彼女たちの実態は、「奴隷」とさして変わらなかったのではなかろうか。慰安婦の生活を戦況の中で考察してこそ、こうした位置づけが意味を持ってくると考える。実際に彼女たちを拉孟に連れて行った女衒である「K」について、以下のような会話が記録されている9)。 「悔しい思いをしとります…」それは、1943年のことだ。彼の慰安所にいた「慰安婦」達も各地を転々と移動したが、拉孟の部隊に行った頃から戦況は悪化の一途をたどり、とうとう中国軍に包囲され、身動きできなくなった。その頃K氏は軍御用商人の仕事に移り、彼の手から離れた「慰安婦」達は、実質的には部隊付きになっていた。「私の友人の下士官に女の行方を聞いたんですよ。そしたら、慰安婦を壕に入れろという命令が下り、その直後に手榴弾を投げ込んで殺したというんですわ」 この回想の中の1943年は、実際は、1944年の誤りであろう。手榴弾を投げ込んだことに関しては、中国軍の9月6日の記録の中に、松山の「黄家水井」に日本軍の死体が106体、遺棄されており、その中に中佐の死体1体、「女屍」6体があったことを付け加える10)。もしかしたら、これが「壕に入れろという命令」により、手榴弾を投げ込んで殺した慰安婦だったのかもしれない。 最後に象徴的なのは、船で南方へと出港する際に、吹き込まれた共栄圏の理想が、最前線での生活の中で恐ろしいまでに裏切られていったことであろう。それは、慰安婦を連れていった「女衒」達にとっては、最前線に送り込まれる女性達の不安を鎮めるためにした物語のようなものに成り果てていた。アメリカのランドル記者の取材が、そうした日本人や朝鮮人のモラルや動機に向けられていたことが、『ラウンドアップ』の記事から読みとることが出来る。この点は、後述するミチナのケースで、心理情報作戦を遂行するための材料収集を目的として、慰安婦の尋問記録が残されたことと考え合わせ、資料として残される記録自体の性格や歴史的価値を吟味する上で興味深い。 注《浅野論文》 雲南・ビルマ最前線における慰安婦達index
https://w.atwiki.jp/b_heroes/pages/285.html
WBCオランダ オランダ 選手名 POS 投 打 球 変 コ ス 守 計 球種 スキル ピ 左 強 ラ キ ノ ク 疲 安 速 カードNo 投 打 P M 走 送 守 計 守備適性 スキル チ 左 バ 盗 弾 エ 走 送 安 捕 W09R154 デニス ニューマン 中継ぎ 右 右 15 10 14 13 15 67 スライダー1 カーブ2 チェンジアップ1 3 3 3 3 2 2 3 3 3 4 W09R155 レオン ボイド 抑え 右 右 13 11 14 12 15 65 スライダー1 チェンジアップ1 シンカー2 3 3 3 3 3 1 3 2 3 3 W09R156 シドニー ポンソン 先発 右 右 17 13 14 17 12 73 スライダー3 カーブ3 チェンジアップ2 勝負運 3 2 3 3 3 4 2 4 3 4 W09R157 リック バンデンハーク 先発 右 右 17 14 14 13 12 70 スライダー1 Sカーブ4 チェンジアップ1 Hシンカー2 3 3 3 3 4 4 3 3 3 4 W09R158 シドニー デジョング 捕手 右 右 12 17 11 17 13 70 捕C 選球眼 3 3 3 3 2 3 3 3 3 2 W09R159 シャルロン シュープ 捕手 右 右 11 15 14 14 13 67 二遊C 捕D 一三E 3 3 3 3 2 3 3 4 3 2 W09R160 ケンリー ヤンセン 捕手 右 両 11 11 10 19 13 64 捕C 3 3 3 3 2 3 3 3 3 3 W09R161 ユレンデル デキャスター 三塁 右 右 13 12 13 15 13 66 一三D 三遊外全E 3 3 3 3 4 2 3 3 3 1 W09R162 VINCE ROOI 三塁 右 右 12 11 13 14 11 61 三D 一二遊左中右E 3 3 3 3 2 2 3 3 3 2 W09R163 ジーン キングセール 中堅 右 両 10 16 13 12 14 65 左中右C 3 3 3 3 2 2 3 3 3 1 W09R164 ダニー ロンブリー 右翼 右 右 10 10 15 15 14 64 左中右C 3 3 3 3 1 3 3 3 3 1 W09R165 ブライアン エンゲルハート 左翼 左 左 12 15 14 12 12 65 左D 一二三遊中右E 3 3 3 3 2 2 3 3 3 1 トップページへ戻る
https://w.atwiki.jp/nicorap_lyric/pages/120.html
18 38~ [ verse1 / 野崎りこん ] Clipにマギー fripSide did it おれのバースには無い一切意味 白線の内側ウジが湧いた 狭いコミュニティで五月蝿いなあ 振るサイが裁断 人生ゲーム マックダディ閣僚 天下り政権 甘くない世間 もみくちゃに喰われ 夢の成れの果て アンタは誰? 頭でっかちん デッカチャンだよー 調子こいちゃった裸の王様 頭がサマータイム年中な 連中が目下で配列する ネガすぎるブーム根が腐る なぜモノサシで計りたがる もっとWorld Wideな目で見てみ なら結局己のみがエネミー [ verse2 / 赤目 ] アーメン神に祈れMr.イエスマン 縋れば少しは傷が癒えるか? 井の中のピエロ ギミック塗れ 黄ばんだスマイルはプライスレスか ファック バッツ吸ってぶん殴る 化け猫は名を名乗れフーアーユー みんなシリアス 耳だけダンボ 心がちっこい ところがbadboy 俺が好きなのなんだ?なんだ? 笑うビッチに顔射 顔射 人生ってなんですかテリーさん カッチコッチ頭にはテキーラ はいドードー 落ち着けぼっちゃん 器が狭くて小池にポッチャン ちょっと 最近 どーなの?お前 俺ならバッチリ ちゃんとついて来い 赤目のフーリガンが一匹 ジャポネーゼ・ダ・ファンタジスタ [ verse3 / FUNKY髭HANK ] 3年前から不安定スタイルで 安全牌切らないジャーニーマイク 完全ノーマーク 管制塔 未体験ゾーンに着陸 勝手な裁量 気まま裁くジャッジメント気取り 振り切る リーリー カテゴライズ中毒者さんが判定 誤解する 僕ちゃんのほんとの姿はいつになったらーラーラーラー見えるかな? 億千万のシナプス演算処理エンチャントシニカル念願のヒール シーンが動きだす ジーザス とにかく韻が黒びかるラッパーですです リリックご参照 機軸の誕生 泥ならかぶろう チビ黒サンボ ノーランドマリガン仕切り直し 好感度キャリア仕切り直し イメージ壊してなんぼ [ verse4 / 番犬 ] ニコニコ動画 オタクだらけ 日本語ラップに 金落とせ 三十路を過ぎたヘッズの証言 小遣いはたいて買えよ音源 CDが売れなくなる将来像 すれ違う人 片手にi-phone 気軽にクリミナル デジタルハスラー アルバムの曲名 忘れちゃった なんて言う話もよくありがち 分らなくなるアルバムの価値 膨大な曲をシャッフルで再生 まさかの選曲にブチあがってる その後の選曲でズッコけた スキップボタンに指準備してた あいつのヴァースは飛ばしてブラッ i-pod聴きながらフリースタイル 自分の中ではラッパー気取り はたからみればあの人キモーイ 貧乏人のB-BOYの自慰行為だ 俺がなりたいのはシドヴィシャス