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登録日:2019/05/24 fri 21 27 25 更新日:2024/02/06 Tue 17 20 24NEW! 所要時間:約 5 分で読めます ▽タグ一覧 人物 宇喜多直家 宇喜多秀家 島根県 戦国サイコパス 戦国大名 戦国時代 戦国武将 日本史 武将項目 概要 坂崎直盛(さかざき なおもり、1563?~1616)は戦国時代の武将、大名である。 一般的には千姫事件の首謀者として知られる。 実父は宇喜多忠家で、坂崎姓になる前は宇喜多詮家(あきいえ)と名乗っていた。 そう、あの暗殺大好き大名の甥であり、八丈島から泳いで来る人の従兄弟なのである。 忠家の嫡男として家を継いだ詮家は、当然ながら一門衆であり宇喜多家中においても大きな影響力があった。 直家と忠家はなんだかんだ言われていたが仲が良いとされている。 その関係は息子たちの世代においても・・・ 続くことはなかった。 宇喜多騒動 秀家は一部の家臣を重用していたため、他の重臣からは不満を持たれていた。 そのため不満が爆発、秀家の重用していた中村次郎兵衛への襲撃事件を発端としたお家騒動が起きる。 詮家も不満を持つ側であったためそちらの主導格であり、大坂の宇喜多屋敷に立て籠もって要求も中村次郎兵衛を出せの一点張り。 一方中村次郎兵衛は襲撃の際に古巣の加賀前田家に逃げ込んでおり、はいそうですかと出せるような状況でもない。事態は膠着した。 このお家騒動は徳川家康の介入により、詮家ら不満を持つ家臣らを家康が預かることで決着した。 その後関ヶ原が勃発。東軍側で戦功を挙げた詮家は戦後2万石と、宇喜多の名を嫌った家康から新たな姓「坂崎」を貰い、以降、坂崎直盛と名乗った。 この時はまだ家康も気づいていなかった。 直盛がイカレているということに… 異常な執念 石見国津和野藩主3万石となっていた直盛は、罪があったとしてある者の処断を命じた。 だがその者の尻愛知り合いであった甥の宇喜多左門は仇を取ろうとし、処断した者を殺害し出奔した。 左門はまだ存命であった忠家(*1)の下へと逃走、忠家は左門を助けようと富田信高に嫁いでいる直盛の妹に渡りをつけた。 直盛の妹は信高に左門を匿うことを懇願、信高は関ヶ原の前哨戦において直盛の妹のおかげで虎口を脱したこともあり断れない。 左門を匿うこととし、直盛に対し「来たけどどっか行った」と答えた。 だがそれが逆に信高の嫁の兄の逆鱗に触れた! 激怒した直盛は伊勢は津にある信高の居城にまで押し入り捜索するも空振りに終わり、更に伏見にいた信高と一戦交えようとした。が、流石に周囲に止められた。 そこで今度は家康に訴え出たものの「天下のことは秀忠に言ってくれ」と言われ、秀忠にも「証拠がない」と突っぱねられた。 直盛は一旦矛先を収めた。収めざるを得なかった。だがやり場のない怒りはますます昂るばかりであった。 数年後、転機が訪れた。 信高が加増され伊予宇和島へ移封されることとなり、信高に匿われていた左門はまず加藤清正へ、次に高橋元種の下へと送り出された。 直盛の妹は左門に仕送りをしていたのだが、左門が人夫を手討ちにしたせいで人夫の父に直盛へチクられてしまう。 確たる証拠を得た直盛は狂喜した。 「当然!『訴訟』だッ!天下を受け継ぐ男への『訴訟』ッ!それが流儀ィィッ!!」 この判決で左門は処刑。更に富田信高と高橋元種、信高の弟の佐野政綱の3名もの大名が改易という直盛大勝利と言える結果となった。 これには佐野政綱が大久保長安の親戚だったため、そちらを処罰したかったという幕府の意向もある。 直盛は大満足したろうが、これが更なる増長と破滅に繋がったのかもしれない… 狂気の果て 坂崎直盛は大坂の陣の功により更に加増され4万石の藩主となっていた。 理由は諸説あるが、とにかく直盛は戦後処理の一端として豊臣秀頼を失い未亡人となった2代将軍秀忠の娘千姫のことを任された、と思っていた。 公家との婚約にこぎつけうまくまとめようとしていたらしいが、千姫は直盛の知らぬところで本多忠勝の孫にあたる本多忠刻と婚約すると決められてしまう。 だがそれがまたも坂崎直盛の逆鱗に触れた! 直盛は面目を潰されているので、ここはまず抗議をするのが筋だろう。 だが直盛はイカレていた。 「秀忠に娘をさし出してもらう 『強奪』だ!」 流儀はどこへ行った しかしこんな無謀な行動は当然チクられ、直盛のいる江戸の屋敷はたちまち大軍に包囲された。直盛は立て籠り徹底抗戦の構えを取った。 この後柳生宗炬に説得され切腹したとか、説得に全く応じず籠城中に自分の嫡男をぶっ殺したとか、その後籠城中に寝首をかかれたとか… 諸説あって定かではないがとにかく直盛は家臣に首を落とされて死亡、坂崎家も改易となった。 宇喜多は改名しても結局徳川に牙を剥いたのだった。 墓はしばらくなかったようだが、直盛の元で厚遇されていた小野寺義道が13回忌の時にひっそりと建てた。 評価 こういったストーカー気質の他、DQN四天王以上にすぐに血を見せようとする凶暴さや行動の意味のわからなさからDQNどころかサイコパスとまで言われている。 DQNとしての性質は陰湿さと沸点の低さからいって細川忠興が近いのだが、教養や社交性を欠いているのかあちら以上に分別がなく同時代からの人間からも冷めた目で見られている。 また敬虔なキリシタンでもあったが、宗旨替えした当初公言しないで欲しいと言われたのに大っぴらに勧誘を始めたりここでも分別のなさを見せている。 ちなみに宇喜多家中には何人かキリシタン武将がいるが、大坂の陣で活躍した明石全登はこの誘いに乗ってキリシタンとなったという。 一方で武功を挙げて大名となり内政で藩政の基礎を築いたとあって、藩主としては見事と言える。仕えたくはないが 創作における坂崎直盛 千姫を扱う作品が少ないためか、どう見ても敵にふさわしい性格してる割には案外出て来ない。 百花繚乱 サムライガールズ(アニメ版)では、千姫事件の逸話である「家康が千姫を救った者に与えると言った」「救出の際についた火傷跡を醜いと嫌悪された」を元にデザインされ登場している。 余談 坂崎直盛の蜂起に対しての幕府の対応は「直盛の重臣に『直盛を殺せば世継ぎを立てる』という嘘の手紙を送って殺させた後に取り潰す」という割とあんまりな内容だったらしい。 これでは幕府にとって都合が良くないものが書面として残ってしまうため、直盛の最期がうやむやにされてしまい後世でもはっきりと定かな説がないのも頷ける。 ちなみにこれが協議で決まりかけた際には本多正純が「直盛の不忠にその臣の不忠をぶつける書面を出すなんて天下国家の信義が成り立たない、すぐ軍を出して直盛を殺すべきだ!こんな内容絶対賛同しないからな!」とブチ切れているが、正純が既に浮いた立場だったため結局スルーされてしまった。 後でこれを伝え聞いた柳生宗矩は「正純ってクソだけどここではめっちゃいいこと言ってるな」と称賛しており、新井白石も「天下の名言」とまで褒め称えている。 「直盛殿、我が主が朝飯を食べようとお呼びにございます。」 「じゃあ自分の記事追記・修正した後に行くわ」 「あの・・・もう正午なのですが」 「あとで言い訳はしてやるから帰っていいよ」 「お前朝飯を食おうと使者を送ったのに夕方に来てどういうつもりだ!」 「そんな事、知らん。そんな奴、知らん。抜いて斬れ。」(*2) △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 恐ろしい兄貴と贅沢好きな甥だけじゃなく、こんなトンデモ息子までいたんだな宇喜多忠家・・・ -- 名無しさん (2019-05-26 08 30 16) 50才こえたいい年超えたじいちゃんが(このころは人生50年)国のトップの一族の娘を求めるってなぁ・・・ -- 名無しさん (2019-07-28 10 47 33) 小説伊達政宗では、この件で政宗が柳生を挑発してたな。「解決した褒美に加増してもらうと目をつけられて失脚するから、これを断って家紋と槍をもらったな」と。柳生が冷静に公家と向き合えるかを見極めるためだったけど。あのときの爺はすごい激昂ぶりだった -- 名無しさん (2019-07-28 12 51 04) ↑2 自分が娶るわけじゃなく直盛の斡旋で公家かどっかに嫁がせる予定でやってたらしい -- 名無しさん (2020-02-20 06 30 34) 自分が仲介して千姫と公家を結婚させて、自分の地位向上を狙ってたわけよ。婚約間近まで言ってたわけだしメンツ丸つぶれではある -- 名無しさん (2020-04-08 13 31 10) 忠興と違って2回とも激怒の理由自体は真っ当なんだよね。むしろ悪質さだけなら上司の部下殺して逃走した挙句人夫を手打ちにして処刑されてる左門の方がだいぶアレ -- 名無しさん (2020-05-05 11 38 17) 宇喜多の美点利点である知恵・恩情・義理堅さが感じられないんだよなこの人。ちゃんと内政できてるあたり無い訳じゃなかろうに。 -- 名無しさん (2020-11-21 22 31 19) 昔の大河ドラマ「春の坂道」(柳生宗矩が主役のドラマ)では、坂崎直盛は高橋英樹が演じていたそうで。 けれども本編の映像自体がほとんど現存しないので確認のしようがないが・・・ -- 名無しさん (2021-03-12 14 37 56) キリシタン日本人には大甘な人物評価をする宣教師にすら残虐だとドン引きされてた人 -- 名無しさん (2021-06-12 12 41 44) 名前 コメント
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索引PDF 項目のあるもの(pp.47-56) 契沖(俗姓、下川。字、空心。法名、契沖、契冲。) 新井白石(名、君美。字、在中。号、白石。) 荷田春満(姓、荷田、羽倉。名、東丸、東万侶、東満、春満。) 賀茂真淵(氏、岡部。名、春栖、政躬、政藤。通称、荘助、参四、衛士。号、県居。) 富士谷成章(通称、千右衛門。字、仲達。号、咸章、層城、北辺。) 本居宣長(幼名、小津富之助。名、栄貞。字、健蔵。俗称、春庵、舜庵、中衛。) 平田篤胤(旧姓、大和田。幼名、正吉。元服して胤行、のち篤胤。) 橘守部(本姓、飯田。幼名、旭敬、吉弥。通称、蓬壺、地庵、椎本。) 東条義門(法名、霊伝。号、白雪楼。) 狩谷棭齋(名、望之。幼名、真末。字、卿雲、求古。別名、蝉翁、常閑堂、六漢老人。) 大槻文彦(本名、清復。号、復軒。) 上田万年 保科孝一 山田孝雄 松下大三郎 橋本進吉 金田一京助 東条操 時枝誠記 佐藤喜代治 (N.A.) 索引 1 アーネスト・サトウ 会沢正志斎 愛雀軒 アイソーポス 相田二郎 相原少 饗庭篁村 青江秀 青木昆陽 青木輔清 青木捨夫 青木千代吉 青木文蔵 青田節 青野季吉 青柳秋生 青柳毅 青山霞村 青山茂春 赤城毅彦 赤染衛門 赤羽学 赤堀又次郎 赤松青龍軒 赤松梅龍 赤松法印 秋篠安人 秋田雨雀 穐田定樹 秋田喜男 秋永一枝 秋庭清嘯 秋葉安太郎 秋元不死男 秋元守英 秋山清 秋山虔 秋山正次 秋山洋一 芥川龍之介 アグロン 朱楽菅江 浅井了意 朝川善庵 朝倉治彦 朝倉尚 朝寝坊夢楽 朝野鹿取 浅野健二 浅野三平 浅野信 朝日奈知泉 朝日文左衛門重章 浅見和彦 浅見絅斎 足利衍述 足利光氏 足利義稙 足利義輝 足利義晴 足利義尚 足利義政 足利義満 足利義持 飛鳥井雅章 アストン 安住敦 麻生磯次 愛宕八郎康隆 足立梅景 足立鉞蔵 阿直岐 アットウッド 渥美かをる 敦慶親王 姉小路基綱 姉崎正治 阿仏尼 阿部秋生 阿部次郎 阿部清哉 阿部漸 阿部俊子 阿部知二 阿部友之進 安部貞任 安部宗任 阿部正弘 阿部みどり女 安部元雄 安倍能成 阿部隆一 アポロニオス・デュスコロス 雨海博洋 天中原長常南山 天野清 天野俊也 天野義廣 雨森芳洲 綾小路俊資 荒井郁 荒井源司 新井小枝子 新井守村 新井白蛾 新井白石 新井無二郎 荒川惣兵衛 荒川秀高 荒川文平 荒川義泰 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羽栗洋斎 ハケット 箱田保顕 パジェス 橋爪貫一 橋本朝生 橋本貴一 橋本四郎 橋本進吉 橋本多佳子 橋本不美男 橋本万太郎 橋本好春 橋本義彦 長谷川かな女 長谷川素逝 長谷川端 長谷川辰之助 長谷川天渓 長谷川零余子 支倉常長 畠山健 秦宗巴 波多野秋子 波多野完治 波多野義重 パタンジャリ バチェラー 馬致遠 蜂谷清人 峰矢真郷 白居易 パットナム 服部宇之吉 服部誾照 服部畊石 服部四郎 服部誠一(撫松) 服部中庸 服部南郭 服部武喬 服部撫松 服部幸雄 波照間永吉 花園天皇 花田清輝 塙忠詔 塙保己一 馬場孤蝶 馬場佐十郎 馬場辰猪 馬場為三郎 馬場為八郎 馬場信武 馬場宏 馬場良雄: パヴロフ 浜田敦 浜田啓介 浜田彦蔵 浜西正人 浜野知三郎 葉室時長 早川厚一 林大 林巨樹 林鵞峰 林圀雄 林重雄 林述斎 林四郎 林正十郎 林田明 林道春 林芙美子 →続き 索引PDF
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吉宗直轄の西洋研究と天文暦算 みたいな人たちの経歴 年表 享保 元 1716 二月、寺内平八郎「垜疊招差新術」 享保 二 1717 参府和蘭商館長にAstrolabium の用法に就いて質問に来た人がある。【岩崎克己「前野蘭化」p93-p106】【明治前日本天文史】 長崎奉行、アストロラビウムを出嶋に送り、その使用法を問う(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 「括要算法第三難角法演段図抄」に「関流末学葆真斎松永良弼」とある 享保 三 1718 参府和蘭商館長、天上の質問を受く(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 建部賢弘(1664-1739)、この頃、天文の事について下問ある。 荒木村英(1640-1718)、没する 享保 四 1719 建部賢弘、日本国総図の不備を正すことを命じられる。 中根元圭(1662-1733)、『新撰古暦便覧』刊行 西川如見(1648-1724)、天文御用として江戸に召さる(先民伝、徳川実記)【明治前日本天文史】 参府和蘭商館長(ワーヘマンス)、天文学者二名の訪問を受け、質疑あり【岩崎克己「前野蘭化」p93-p106】【明治前日本天文史】 また、新井白石が商館長を訪れる。 享保 五 1720 建部賢弘、妙見山などの測量を行う 禁書の令が緩められる。 渋川敬尹、暦作を停め天文の学精研するよう命ぜられる(徳川実紀 第5編) 「〇廿四日天文方澁川右門敬尹に。飼豊次郎久一と相はかりて。暦を進呈すべしと命ぜらる。これ去年つくる事を停められて。もはら天文の精研すべしとありしを。こたびからは命ぜらるゝなり。」 西川如見、「書暦象俗解」刊行【明治前日本天文史】 享保 六 1721 中根元圭、吉宗に召され江戸に来る。 七月二四日、渋川右門敬尹と猪飼豊次郎久一に暦を進呈すべしと命ぜられる(徳川実紀 第5編) 享保 七 1722 建部賢弘、『辰刻愚考』 建部賢弘、『綴術算経』 (arc sin x)^2の展開式 一二月六日、猪飼豊次郎、北本所御貯御材木方会所付近に二百坪の屋敷を拝領。寺社奉行支配とある。(東京市史稿20) 幕府、和蘭商館に望遠鏡を注文す(出嶋蘭館日誌) 享保 九 1724 正月二八日、山路主住、松前主馬組御徒へ召し出される。(21) 建部賢弘、『目力分量愚考』 西川如見歿、年七七(九月)(先民伝)【明治前日本天文史】 享保一〇 1725 建部賢弘、『歳周考』 享保一一 1726 建部賢弘、『暦算全書』の訳述を申し渡される。 中根元圭、暦算全書の訓訳を命じられる 享保一二 1727 中根元圭、『没滅俗解』 六月一二日、渋川六蔵、天文方になる 建部賢弘、カピタンを訪問。深見久太夫が天文・暦法に就いて質問した。【「前野蘭化」】 建部賢弘、江戸近郊測量の事により賞を賜う(徳川実記)【明治前日本天文史】 徳川吉宗、参府和蘭商館長の時計を見ん事を求む(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 享保一三 1728 五月、中根元圭、舶来之暦算全書點訓并八線表著述を仰付られる 十一月十日、褒美、白銀三枚を賜る【[[『日本財政経済史料 第二訂』】 享保一四 1729 山路之徽,生まれる 享保一五 1730 建部賢弘、御留守番 久留島喜内、内藤氏に仕える 享保一七 1732 中根元圭、出府被二仰付一 【『日本財政経済史料 第二訂』】 五月 十日 豆州下田太陽高低測量御用被二仰付一候旨、御側衆有馬兵庫頭(氏倫)、加納遠江守(久通)、巨勢縫殿頭被二申渡一(三人共、吉宗側近) 【『日本財政経済史料』】 五月十五日 御手大工両人御傳馬被二下置一、彼地罷越御用相勤 五月 晦日 帰府 一二月一一日、中根元圭『日月高測』を吉宗に提出 建部賢弘、御広敷の用人 幸田親盈(1692-1758)、「八線儀術意」 千葉歳胤(1713-1789)、江戸に出る? 松永安右衛門、内藤氏に仕える。 大島喜侍、「演段数品述」 享保十八 1733 二月 太陽高低測量算術之書献上仕 【『日本財政経済史料』】 二月二日、山路主住、支配勘定になる 二月七日 右爲二御褒美一金貳枚被二下置一候旨御小姓田沼主殿頭申渡頂戴仕 【『日本財政経済史料』】 三月五日 御暇被二下置一上京仕 【『日本財政経済史料』】 九月二日 中根元圭、病死仕候 【『日本財政経済史料』】 建部賢弘、勤めを辞す この頃の、天文方及び西洋研究グループ(暦班)??? 渋川則休 天文方 猪飼豊次郎 後、天文方 深見久太夫 暦、博物担当 はじめ儒者、後に書物奉行 建部賢弘(-1739) 松永良弼(-1744)、久留島義太(1690頃-1757) 中根元圭(-1733) 中根彦循、山路主住(*1724-)、山路之徽(*1748-) 幸田親盈(*1713-)、今井兼庭(*1739-)、幸田親平(*1731-)、千葉歳胤(*1732-) 西川如見(-1724) 盧草拙(-1729)、西川正休(後に天文方) 佐々木文次郎(*1750-) 磯永孫四郎 (*1747-) 浅井村右衛門(*1748-) 享保一九年 1734 和蘭時計工渡来(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 幸田親盈『推積年日法術及類法』 享保二〇年 1735 書物奉行深見久太夫、参府和蘭人を訪い、天文に関して質疑す【「前野蘭化」】【明治前日本天文史】 元文 元 1736 猪飼豊次郎、天文方になる。百俵十人扶持 深見久太夫が参府蘭人に、和蘭暦法・月の運行・講星の排列・日蝕月蝕の理由等に就いて質問した。【「前野蘭化」】【明治前日本天文史】 暦を作る和蘭人一名の派遣を蘭本国に求む(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 和蘭時計工アントニー、クロイト渡来す(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 通詞今村元右衛門、和蘭商館に至り将軍に提出すべき四分儀を求む(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 在府長崎奉行、その所有する四分儀の用法を参府蘭人に質す(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 松永良弼「割円十分標」 元文 二 1737 深見久太夫、参府蘭人に天文の事を質問す(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 元文 三 1738 深見久太夫、参府蘭人に暦法・新月満月の理・潮の満干等に就いて質問した。【「前野蘭化」】【明治前日本天文史】 元文 四 1739 建部賢弘、没する 八月十三日、山路主住、御留守居瀧川播磨守組小普請入りを命ぜられる 中根元圭、天文図解発揮刊行 入江脩敬「探玄算法」 松永良弼「方円算経」 sinx、cosx などの展開式 元文の頃 徳川吉宗、長崎の工人に命じ、自鳴鐘を製せしむ(徳川実記) 寛保 元 1741 西川忠次郎、江戸城内で暦術測量御用【近世日本天文学史】 西川正休、吹上御苑に召され観測に従事す(徳川実記) 一二月二四日、猪飼豊次郎、没する 入江脩敬、江戸から大阪に移る 山路、松永の「垜疊招差新術」訂写 寛保 三 1743 渋川六蔵と猪飼豊次郎、彗星出現に対して天文占を出す(※松山市史料集 第7巻 (近世編 6)、※岩邑年代記 3、※南魚沼 (新潟県文化財調査年報 ; 第15)){猪飼は元年に亡くなっている??} 深見久太夫外一名、参府蘭人に彗星その他の天體に就いて質問した。(出島蘭館日誌)【明治前日本天文史】 延享 元 1744 長崎奉行、人をして出嶋蘭館に天文暦法の事を問わしむ(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 徳川吉宗、天文台を江戸神田に建て、自ら製する所の簡天儀を以って之に備う(徳川実記) 八月 九日 西川忠次郎「暦算全書・割円八線之表」を借りる(書物方年代記(1) 廷享三年~宝暦十年) 八月廿三日、西川忠次郎「西洋暦経」を借りる(書物方年代記(1)) 松永良弼、没する 延享 二 1745 北島見信、長崎奉行所天文方となる(長崎年表)【明治前日本天文史】 西川正休、参府蘭人に天文の事を質す(出島藺館日誌)【明治前日本天文史】 【前野蘭化】 延享 三 1746 八月二九日 西川忠次郎「西洋暦経」を返却(書物方年代記(1)) 九月 二日 西川忠次郎、「暦算全書・内二冊割円八線之表」を返却(書物方年代記(1)) 九月二八日 渋川六蔵、改暦について尋ねられるが、独力では難しい旨を回答 一〇月 朔日 西川忠次郎、渋川六蔵、改暦について尋ねられる 一〇月 六日 渋川六蔵、改暦について返答 一〇月十四日 西川忠次郎に貞享補暦ノ命アリ。同日、渋川六蔵に改暦の命あり。七人扶持 神田佐久間町に司天臺を築く。簡天儀その他の測器を移し、西川、渋川に掌らしむ 延享 四 1747 西川忠次郎、卯年正月二十日天文方被仰付新規御切米二百俵被下 磯永孫四郎、西川の門人として改暦に従事することになる。 「乾隆十三年の時憲暦」【117暦方諸向往来日記 86】 寛延 元 1748 八月二九日、山路弥左衛門、浅井村右衛門、正休の補佐する。山路ははじめ猪飼の門人 山路主住、渋川六蔵、西川忠次郎の補暦之御用手伝 三人扶持(45) 山路主住、山路之徽、この頃、阿蘭陀人に会う(和蘭緒言) 五月十二日、渋川六蔵・西川忠次郎が「暦算全書、西洋暦経、明史稿」を借りる。(書物方年代記(1)) 閏十月二四日、左之御書物土佐守殿より只今差出候様被仰下即刻差出之「割円八線之表、割円八線互求法、割円勾股八線之表」(書物方年代記(1)) 「寛延元年の紅毛暦」【117暦方諸向往来日記 86】 「乾隆十三年の時憲暦」【117暦方諸向往来日記 86】 寛延 ニ 1749 山路主住、五人扶持 二月二〇日 西川忠次郎が借りた書物のうち「明史稿」を二一日に返却したいと申し出る 七月二七日 伝奏と土御門泰邦が対談。改暦の先例について、関東に書状を送ることになる。 十一月 五日 今度改暦被仰出候ニ付渋川六蔵同様上京仕測量御用相勤可申旨松平宮内少輔殿御書付ヲ以被仰渡 一一月二一日 新暦のことについて、渋川、西川より問い合わせがあると、所司代からの申し出あり 和蘭通詞、和蘭暦本を出嶋蘭館に持参、日月食の事を質す(出島蘭館日誌)【明治前日本天文史】 入江脩敬、有馬頼僮に召し抱えられ、山鹿流の軍学,天学算術師範を勤める。 「寛延ニ年の紅毛暦」【117暦方諸向往来日記 宝暦八年六月廿七日、土御門泰邦から渋川・山路への書状】 「乾隆十四年の時憲暦」
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問題文 解答 Q1・江戸幕府の将軍に専属した旗本や御家人の総称 「直参」 じきさん Q2・「人は○○のみにて生きるものにあらず」? 「麺麭」 パン Q3・「恥じ入る」という意味の言葉は「○○に堪えない」? 「慙愧」 ざんき Q4・富士山に観測所を建てた野中至の生涯を描いた新田次郎の小説 「芙蓉の人」 ふようのひと Q5・直接関係ない事と無理に結びつけ都合のよい口実にします 「託ける」 かこつける Q6・額が地につくほど丁寧にお辞儀する様子です 「叩頭く」 ぬかずく Q7・芭蕉の死後、その作品を編纂して『笈の小文』として出した門人 「川井乙州」 かわいおとくに Q8・「怪しく疑わしい」ことを意味する言葉です 「胡乱」 うろん Q9・文筆を得意とした古代の渡来系氏族 「西文氏」 かわちのふみうじ Q10・禅宗の僧侶を描いた肖像画のことです 「頂相」 ちんぞう、ちんそう、ちょうそう Q11・幕末の志士に影響を与えた著者『靖献遺言』で有名な儒学者 「浅見絅斎」 あさみけいさい Q12・戦国時代の分国法の一つです 「塵芥集」 じんかいしゅう Q13・平安時代中期の僧源信の別名 「恵心僧都」 えしんそうず Q14・「Frame of Reference」という英語の読解法を考案しました 「薬袋善郎」 みないよしろう Q15・芥川賞受賞・森敦のデビュー作です 「酩酊船」 よいどれぶね Q16・「必ず」「絶対に」という意味の副詞です 「急度」 きっと Q17・戦国時代の紀伊で活躍した鉄砲による武装集団です 「雑賀衆」 さいかしゅう Q18・大正時代に俳誌『鹿火屋』を発行し、主宰した俳人です 「原石鼎」 はらせきてい Q19・司馬遼太郎の『街道を行く』の挿絵を19年間書いた画家です 「須田剋太」 すだこくた Q20・氏姓制度の「姓」のひとつ 「首」 おびと Q21・とんぼ返りをすることを「‘何’を打つ」という? 「翻筋斗」 もんどり Q22・古代の日本で宮廷に仕えた女官 「采女」 うねめ Q23・謀反を疑われて処刑された孝徳天皇の皇子 「有間皇子」 ありまのみこ Q24・小説『太陽のない街』で知られる大正・昭和期のプロレタリア作家 「徳永直」 とくながすなお Q25・何も考えずひたすら座禅する曹洞宗の修行法 「只管打坐」 しかんたざ Q26・平安時代に十二単と共に礼装とされた貴族女性の髪型 「大垂髪」 おすべらかし・おおすべらかし Q27・武士が額から頭の中ほどにかけて髪を剃り落としたこと 「月代」 さかやき Q28・石原喜久三の芥川受賞作は『○○の頃』? 「纏足」 チャンズウ Q29・『鞍馬天狗』『パリ燃ゆ』などの小説を書いた作家 「大仏次郎」 おさらぎじろう Q30・人の行動を厳しく制限して自由を束縛するもの 「桎梏」 しっこく Q31・古代中国で北方の遊牧民族を指した言葉 「北狄」 ほくてき Q32・魔除けや守護神として知られるひげが濃い中国の神様 「鍾馗」 しょうき Q33・かな5文字で読んでください 「政」 まつりごと Q34・新井白石と共に「正徳の治」をおこなった江戸時代の側用人 「間部詮房」 まなべあきふさ Q35・「仮にそうだったとしても」という意味の副詞です 「縦んば」 よしんば Q36・江戸時代末期に公武合体制作を推進した幕府の老中です 「久世広周」 くぜひろちか Q37・第二次世界大戦中におきた璽宇教の教祖です 「長岡良子」 ながおかながこ Q38・日本初の女医・萩野吟子の生涯を描いた渡辺淳一の小説 「花埋み」 はなうずみ Q39・1860年に勝海舟が渡欧した際に咸臨丸の司令官を務めた軍艦奉行 「木村芥舟」 きむらかいしゅう Q40・鶴岡八幡宮で源実朝を暗殺 「公暁」 くぎょう Q41・『寒山拾得図』『群仙図』などの代表作がある江戸時代の画家です 「曾我蕭白」 そがしょうはく Q42・松尾芭蕉の遺書を代筆した蕉門の十哲のひとりです 「志太野坡」 しだやば Q43・1938年に描かれた日本画家川合玉堂の代表作です 「朝靄」 あさもや Q44・秦の時代に匈奴を攻撃した将軍 「蒙恬」 もうてん Q45・明治生まれの女流作家佐多稲子の代表作です 「時に佇つ」 ときにたつ Q46・大阪城や駿府城に置かれた江戸幕府の役職です 「城代」 じょうだい Q47・武田信玄の影武者も務めた信玄の弟・信廉(のぶかど)の通称 「逍遙軒」 しょうようけん Q48・泉鏡花の小説『高野聖』の舞台となった峠です 「天生峠」 あもうとうげ Q49・相手を敬って、自分を低くすることです 「謙る」 へりくだる Q50・『松川裁判』『神経病時代』で有名な明治生まれの作家です 「広津和郎」 ひろつかずお Q51・「一晩中」という意味の副詞です 「終夜」 よもすがら Q52・第一次伊藤博文内閣で初代文部大臣になりました 「森有礼」 もりありのり Q53・台湾の先住民族です 「高砂族」 たかさごぞく Q54・他のものよりも際立ってすぐれています 「出色」 しゅっしょく Q55・江戸時代の儒学者室鳩巣(むろきゅうそう)の著書です 「駿台雑話」 すんだいざつわ Q56・江戸時代の国学者平田篤胤(ひらたあつたね)の著書です 「霊能真柱」 たまのみはしら Q57・弟・森蘭丸と共に織田信長に仕えた、安土桃山時代の武将 「森長可」 もりながよし Q58・「文章を飾ること」を意味する四字熟語です 「雕文刻鏤」 ちょうぶんこくる Q59・『滑稽新聞』『面白半分』などの雑誌を発行したジャーナリスト 「宮武外骨」 みやたけがいこつ Q60・文章を添削することを指す表現は「○○を加える」? 「斧鉞」 ふえつ Q61・幕末に軍艦奉行、外国奉行を務め日本の近代化に貢献した人物です 「小栗忠順」 おぐりただまさ Q62・「多くの人ににらまれること」を意味する四字熟語です 「万目睚眥」 まんもくがいさい・ばんもくがいさい Q63・2007年に国内最古の木製仮面が出土した奈良県桜井市の遺跡 「纏向遺跡」 まきむくいせき Q64・「安和の変(あんなのへん)」で源高明を失脚させた藤原○○? 「師尹」 もろただ Q65・後唐、後晋、遼、後漢、後周で高位についた「五代の宰相」 「馮道」 ふうどう Q66・中国、金・元の時代に使われた紙幣 「交鈔」 こうしょう Q67・901年に右大臣の菅原道真が太宰府に左遷された事件 「昌泰の変」 しょうたいのへん Q68・作家・半村良の代表作は『○○○秘録』? 「産霊山」 むすびのやま Q69・匈奴を討ったことで知られる中国・前漢の武帝時代の名将 「霍去病」 かくきょへい Q70・戦前にヨーロッパで活躍した日本の劇作家 「郡虎彦」 こおりとらひこ Q71・戦国から江戸時代にかけて「直轄領」を指した言葉です 「蔵入地」 くらいりち Q72・代表作『眼のある風景』で知られる日本の画家です 「靉光」 あいみつ Q73・人を通して話をきくことです 「仄聞」 そくぶん Q74・宮本武蔵が霊厳洞で執筆したとされる兵法書 「五輪書」 ごりんのしょ Q75・漢字ではこのように書く世界文学史上にも名を残す作家 「沙翁」 シェイクスピア 功労のない者を退け、功労のある者を採用することです“黜陟” ちっちょく 「怪しく疑わしい」ことを意味する言葉です“胡乱” うろん まったく頼りにならないたとえは「餓鬼に○○」?“苧殻” おがら 「決して」「少しも」といった意味の副詞です“努努” ゆめゆめ 「息も絶え絶え」という意味“気息奄奄” きそくえんえん イタリア・カンパニア州の州都です“那不児” ナポリ 宇治川の先陣争いで有名な鎌倉時代の武将です“梶原景季” かじわらかげすえ 山下猛造を主人公とした花登筺の小説は?“どてらい男” どてらいやつ さぐりさぐり見る様子のことです“覘る” うかがいみる 国立民族学博物館の初代館長も務めた2010年に死去した民族学者“梅棹忠夫” うめさおただお 機転がきき、動作が素早い様子を言います“捷い” はしこい 「フィロソフィー」という英語を「哲学」と訳した日本の哲学者“西周” にしあまね 室町幕府の第2代将軍は足利○○?“義詮” よしあきら 寛政の三博士の一人です“柴野栗山” しばのりつざん 江戸時代の思想家・安藤昌益を再発見した教育家です“狩野亨吉” かのうこうきち 将軍・徳川家斉の息子である第12代尾張藩主です“徳川斉荘” とくがわなりたか 後に三世雪中庵となった江戸中期・後期の俳人です“大島蓼太” おおしまりょうた 1715年に周防国で起きた徳山藩が改易された事件は○○○事件?“万役山” まんにゃくやま 女性が色っぽく見えることです“婀娜めく” あだめく 「蕉門十哲」に数えられる江戸時代の俳人です“榎本其角” えのもときかく 東大寺の正倉院が所蔵する国宝の香木です“蘭奢待” らんじゃたい 2010年に日本最古の色付きの絵が出土したのは愛知県の「?遺跡」“一色青海” いっしきあおかい 清原夏野らが編集した養老令の汗せん注釈書”令義解” りょうのぎげ 芭蕉の死後、其の作品を編纂して「笈の小文」として出した門人“川井乙州” かわいおとくに 「炎舞」「名樹散椿」などの作品がある大正・昭和の画家“速水御舟” はやみぎょしゅう 栂尾山に高山寺を創建した華厳宗の中興の祖“明恵” みょうえ 小説「坂の上の雲」で知られる秋山真之の兄にあたる陸軍大将“秋山好古” あきやまよしふる 宇治川の先陣争いで佐々木高綱が乗った名馬“生食” いけずき 米を蒸すために用いられた弥生土器の一種“甑” こしき 戦国時代に栄えた剣の流派柳生新陰流の開祖です“柳生宗厳” やぎゅうむねよし 作家・長谷川時雨を妻に持った明治生まれの作家です“三上於菟吉” みかみおときち 「文章を飾ること」を意味する四字熟語です“雕文刻鏤” ちょうぶんこくる 古代中国の殷・周時代の青銅器に見られる獣画の文様“饕餮文” とうてつもん 職人を主人公とした舟橋聖一の小説は「○○○康吉」?“悉皆屋” しっかいや 「日本外史」を著しました“頼山陽” らいさんよう 満州事変の処理条約といえば○○停戦協定?“塘沽” タンクー 戦国時代に活躍した越中富山城主“神保長職” じんぼうながもと Q76・神様のご利益が明らかであることです 「灼たか」 あらたか Q77・人から命令されることです 「吩咐かる」 いいつかる 芭蕉の門下生として知られる江戸時代の女流俳人です“斯波園女” しばのそめ
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登録日:2016/09/12 Mon 11 20 36 更新日:2024/06/18 Tue 12 33 22NEW! 所要時間:約 12 分で読めます ▽タグ一覧 一覧項目 将軍 将軍かよォォォォォォ!! 幕府 征夷大将軍 徳川 徳川家 徳川家康 日本史 歴史 江戸城 江戸幕府 江戸時代 征夷大将軍とは、奈良時代に制定され、鎌倉時代以降は「武家の総大将」として位置づけられるようになった官職。 この項目では、江戸時代徳川家康が初代となり15代続いた徳川家の将軍について説明する。 なお家康が拓いた幕府は彼が城を置き息子秀忠に託した街から、後世では「江戸幕府」と呼ばれている。 ◆概要 徳川家の将軍は日本の実質的代表として、また関東各所や大阪・佐渡等ざっと約400万石と言われる領土を治める日本最大の大名としてその権力を振るっていた。 ちなみにこの時期の将軍は「公方様」、「大樹公」の尊称で呼ばれていたという。 前時代の足利家の将軍との最も大きな違いは、継承権順位が厳密に定められていたため致命的な争いが起こらなかったことである。 家康・秀忠の時代に「徳川宗家(秀忠直系の家系)が絶えた場合、家康の子らが初代となった御三家の尾張藩か紀州藩出身者が継ぐ」と制定され、 実際に直系が絶え紀州徳川家の吉宗が8代将軍となった後、更なる後継者対策として江戸に吉宗・家重の子が初代の「御三卿」(屋敷の所在地から俗に一橋・田安・清水家と呼ばれた)が制定された。 …まあ14代将軍決定時のごたごたなど「後継者候補および周りの連中による争い」はあったし、江戸時代後半では徳川一族同士で養子の出し合いになっていたようだが。 それでも室町時代の「応仁の乱」クラスの争いが起こらなかっただけ、十分平和であったと思う。 余談だが、徳川宗家現当主である徳川恒孝氏は会津松平家の分家出身(ただし、血筋は水戸系)のため江戸期の継承ルールに従えば、宗家の継承権は無い。 最高権力者である徳川家の将軍の「諱の漢字」は「偏諱」・「賜諱」とも言われる慣例の一環として(*1)、徳川・松平一門や「松平」の名誉姓を授けられた一部大名(および世継ぎ)に授けられていた。 このため寿命が長かった家斉の時代には「斉~」が付く大名が多数現れたり(島津家・鳥取池田家では3代続けて「斉~」な藩主が続いた)、家茂から「茂」の字を授かった者の中で官軍側となった島津・鍋島両当主が「茂」の字を維新後取りやめたりした。 また家康や吉宗といった「絶対的権力者」として振舞う将軍がいた一方、家治や家定のように老中達やその時々の寵臣に政治のメインを任せていた(ないし歳の若さや病弱さにより任せざるを得なかった)将軍もいた。 ●目次 ◆概要 ◆将軍総覧・初代将軍:徳川 家康(いえやす) ・2代将軍:徳川 秀忠(ひでただ) ・3代将軍:徳川 家光(いえみつ) ・4代将軍:徳川 家綱(いえつな) ・5代将軍:徳川 綱吉(つなよし) ・6代将軍:徳川 家宣(いえのぶ) ・7代将軍:徳川 家継(いえつぐ) ・8代将軍:徳川 吉宗(よしむね) ・9代将軍:徳川 家重(いえしげ) ・10代将軍:徳川 家治(いえはる) ・11代将軍:徳川 家斉(いえなり) ・12代将軍:徳川 家慶(いえよし) ・13代将軍:徳川 家定(いえさだ) ・14代将軍:徳川 家茂(いえもち) ・15代将軍:徳川 慶喜(よしのぶ) 明治維新後16代当主:徳川 家達(いえさと) 17代当主:徳川 家正(いえまさ) 18代当主:徳川 恒孝(つねなり) 19代当主:徳川 家広(いえひろ) ◆余談メディアへの登場 ◆将軍総覧 ・初代将軍:徳川 家康(いえやす) 在位:1603年~1605年 詳細は該当項目を参照。 言わずと知れた江戸幕府開祖にして、豊臣を滅ぼし日本を制した狸親父。1600年の関ヶ原での勝利により天下人となり、3年後朝廷から将軍に任じられた(*2)のだが、わずか2年後に徳川家による将軍位の世襲化を世に示すため、三男の秀忠に地位を譲り、以降は「大御所」として幕府の指揮を執っていた。 そのため歴代徳川将軍の中で在任期間の短さ(それと寿命の長さ)は末代将軍となる慶喜に次いでいる。 ・2代将軍:徳川 秀忠(ひでただ) 在位:1605年~1623年 長兄・信康が粛清され、次兄・秀康が秀吉の所に追いやられた(?)ため後継者となり、幕府創始から2年後に父から将軍位を譲られて将軍となった家康の3男。 父親が偉大すぎて影に隠れたり、真田家絡みだとかませ犬になったりと良い話が少ないが、彼の治世で「幕府制度」の土台が確定したことは確か。 家康も武勇に優れ血気に逸る他の息子ではなく、治世の安定のために比較的温厚な人柄の秀忠を選んだとも言われる。 ただし、旧豊臣家サイド等の「外様大名」に対しては厳格に接し、身内や功臣でも駄目な時は容赦なく改易する等、決して手緩い真似はしなかった。 ちなみに恐妻家だったらしく、正室の「江(お江与の方、崇源院)」に隠して唯一浮気して生まれたのが後の会津松平家開祖「保科正之」だったという。 ただし、さすがに最高位の武士である将軍程の人物が側室を置かなかったというのは考えにくく(本人達が嫌がっても周囲が認めないだろう)、後世の創作ではないかとも言われる。 遺骨が調査されている将軍の一人であり、背は高くないが筋肉質で複数箇所の銃創の痕跡が見つかっている事から自ら最前線に出て指揮を執る勇敢な一面を持っていたと推測されている。 ・3代将軍:徳川 家光(いえみつ) 在位:1623年~1651年 江戸幕府で唯一「将軍の正妻」から生まれ、乳母「春日局」(稲葉家夫人)に可愛がられた3代将軍。 そのため家康と春日局の間に出来た子供だ、などと言われることもあるが俗説に過ぎない。 また「両親は弟・忠長のほうを次期将軍にしようとしていたため、春日局が家康に直談判して家光を後継者に定めてもらった」という有名な逸話があるが、これはあくまで後世の創作である(まあ忠長は成人後の素行があまりにもアレなのだが)。 両親からは次期将軍には厳しいと思われていたのは確かだが、これは生まれつき体が病弱だったため。 この頃までは「長男が家督を継ぐ」という概念がまだ確立していなかったのも原因である。 彼の代で「鎖国」「参勤交代」など江戸時代の大きなルールが制定された。 また彼の代から「京の貴族から正室を貰う」と言う慣習が作られ、大奥に多くの側室が置かれるようになった。 どうも本人は正室と不仲だったらしく、そもそも若い頃は女性にあまり関心を示さなかったためか「家光ショタコン説」なるトンでも話もあったりする。 なお、お忍びで市中を徘徊することも結構あったらしい。はじめは刃傷沙汰や辻斬りもやらかしたことがあり、柳生宗矩が兵法と剣術の指南役となり家光を指導。柳生新陰流を開いた宗矩は自ら提唱した「活人剣」を教え、むやみに人を殺さず人を活かすよう覚えさせた。 そのため、彼を主役として扱った時代劇として『将軍家光忍び旅』がある。 ・4代将軍:徳川 家綱(いえつな) 在位:1651年~1680年 父が早くに死んだため、わずか11歳で将軍となった家光の嫡子。 他人を気遣ったり、細かい事に気配りをしたりと心優しい人物であったらしい。また、釣りや絵画が趣味であった。 浪人の増加による治安悪化をきっかけとして先代までの武断政治から文治政治への政策切り替え、 「寛永の大飢饉」と呼ばれる大不作が起こった反省から、農業の興隆政策や海運の興隆政策等が取られていた。 しかし大奥があっても男子が出来ず、最晩年に後継者争いが勃発。 中には鎌倉幕府に倣って「徳川家の血が入っている皇族を後継者に」なんて話も出たが、 結局は弟の綱吉が継ぐことになった。 ・5代将軍:徳川 綱吉(つなよし) 在位:1680年~1709年 春日局の養子「堀田正俊」(*3)に薦められ将軍となった家綱の弟(家光の四男)。 学問が好きで母親孝行で…とここまでは良かったのだが、「松之廊下刃傷事件の裁定(*4)」・「側用人柳沢吉保に対する極端な寵愛(*5)」など駄目話が目立ち、 行き過ぎたトンでも動物愛護法「生類憐みの令」のせいで「犬公方」等と後世で謗られるようになった。 更にフィクションでも『水戸黄門』のモデルと成った従叔父徳川光圀との対比や忠臣蔵絡みから、あまり良い扱いになっていなかった。 一方で彼の治世である『元禄時代』は文化・経済が興隆した時でもあり(同時代人は松尾芭蕉など)、近年では「学問好きなぶん平和的な政治をしたんじゃね?」等と褒める声も存在する。 実際に元禄4年と同5年に江戸で綱吉に謁見したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルは自著『日本誌』にて「非常に英邁な君主であるという印象を受けた」と評価している。 また悪法と言われる生類憐みの令だが、戦国期以来のヒャッハーな風潮を糺すためだったという評価もある。 しばしば動物のためだけの狂った政策のように強調されて描かれて叩かれるが、その実は病人や子ども・老人といった弱い立場の人間の保護が含まれている。 生類憐みの令について「徳川実記」「折たく柴の記」によれば、家宣が廃止すると宣言し、吉保も廃止に賛同したとあるのだが、『楽只堂年録』によれば、家宣は「いずれもあひ守り、断絶なきやうにすべし」としながらも、罰則を無くして罪人が出たり経済的負担が増えたりしないようにしたとある。どちらも事実上は廃止であるが、前者と後者では家宣および幕府のとった行動の意味が異なるものになる。 なお殺生である鷹狩りは、徳川吉宗が8代将軍になったのちまで復活することはなかった。 余談であるが綱吉の治世の評価が低いことについては、晩年期に頻発した不幸な偶然もあるという指摘がある。 具体的には、 元禄8年頃から始まる奥州の飢饉 元禄11年の勅額大火 元禄16年の元禄地震・火事 宝永元年前後の浅間山噴火・諸国の洪水 宝永4年の宝永地震・富士山噴火 宝永5年の京都大火 などである。 当時はこういった天変地異を「天罰(=主君の徳が無いために起こった)」と捉える風潮が残っており、 次政権の新井白石は、元禄8年以来始まった貨幣改鋳は、近年の奢侈流行による幕府の出費拡大の穴埋めのために金銀の如き天地から生まれた大宝に混ぜ物をした結果、天災地変を招いたのであって、これよりひどい悪政は前後にその類を見ないと酷評している。 これは白石の儒教的思想に基づくもので、家康の時代より続いた慶長の幣制は変えてはならず、金銀は「天地の骨」とする陰陽五行説から来る信仰のためである。 実際には先述のように元禄期は文化・経済が栄えており、貨幣改鋳は当時の貨幣不足な社会状況の中で必要とされていた政策だったと見直す意見が出ている。 実際、当時の名目インフレ率は3%であり、商人の投資傾向の増加により貨幣流通量が増えたことから景気拡大政策としては成功していたと言える。(*6) 彼もまた子宝に恵まれず、生まれた男児も夭逝したため、甥(兄の綱重の息子)の家宣が後継者となった。 その死については異論があり、女絡みで刺殺されたと書く資料も存在するが、近年の研究では麻疹とも、餅を喉に詰まらせたことが原因の窒息死であるとも言われている。 なお、身長124cmだったという説も存在し、当時の成人男性の平均身長は155㎝で、これが事実なら笑い事にならないレベルのちっさいおっさんだったという事になる。 理由としては、愛知県岡崎市にある大樹寺に慶喜を除く将軍14人の位牌があり、家宣・家重・家慶・家茂の4人については位牌の大きさと東京都港区の増上寺にある遺体の実測身長が概ね一致していたため、他の10人も位牌の大きさ=身長ではないか? と推測したというものである。 だがこれも上記のケンペルが直接会ってるにもかかわらず立派な体格だったとしか書いてない(当然ケンペルが嘘を書かなきゃいけない理由もない)ことや、 当時これでもかと巷に溢れていた綱吉の各種悪口の中に身長の話が全く出ていないことからも、綱吉幼女説以上の話にはならないとされる。 そもそもこの説は後述の家継や吉宗の身長に関してもツッコミどころのあるトンデモ説である ・6代将軍:徳川 家宣(いえのぶ) 在位:1709年~1712年 元甲府藩藩主で、綱豊と名乗っていた。かつて家綱の後継者争いの時に、綱吉とともに将軍候補に挙がるも敗れたという過去を持つ。 家綱の弟で綱吉の兄である徳川綱重の子であり、先代の綱吉及び先々代の家綱どちらから見ても甥にあたる。 学者「新井白石」や、甲府時代の家臣から譜代大名に出世させ老中にした「間部詮房」を腹心として堅実な外交政策(朝鮮との交流など)や経済政策を行った。 しかしわずか3年で他界。幼子が後を継いだ。 ・7代将軍:徳川 家継(いえつぐ) 在位:1712年~1716年 わずか5歳(現代の年齢では3歳と8ヶ月)で将軍となった家宣の嫡子。新井白石を始めとした、父の遺臣が引き続き補佐をしていた。 しかし、彼もわずか3年で儚く命を落とした。 ここに徳川宗家は絶え(一応家宣の弟の清武が存命だったが、こちらも息子の代で断絶している)、いよいよ「御三家」から後継者が選ばれる事になった。 ちなみに前述の綱吉の身長124cm説によれば、彼の身長は135cmだそうである。記録の残る明治35年の日本全国の身長測定結果では、彼と同じ6歳の男子平均身長は106.9cm。 この説を本気にするなら明治35年の12歳男子の平均身長133.7cmすら超えており、小学一年生にして中学一年生よりも身長が高いことになるのだが、彼がそんな巨人症だったなどという記録は残念ながらない。 ・8代将軍:徳川 吉宗(よしむね) 在位:1716年~1745年 元々は紀州家の4男に生まれ、分家して松平頼方の名で越前国葛野藩主を務めていた。 しかし、親兄弟が「なぜか」次々に急死した事で急遽紀州家を継承、(親兄弟の葬儀代で)借金塗れの上、地震や津波の被害でガタガタだった紀州藩の財政を見事立て直す。 このときに5代将軍綱吉から「吉」の字を授かり「吉宗」と改名。その後将軍家が絶えた事で宗家の継承者となった幸運児(*7)。 農政を重視し質素・節約生活を奨励した『享保の改革』、それに伴ってのサツマイモの全国普及方針、「目安箱」「御庭番」の設立など(家宣時代の政策否定でもあったが)、さまざまな行動から「米将軍」「(幕府の)中興の祖」と敬われた。 幕府三大改革のうちの唯一の成功例とも言われる。というのも年貢が米(「兵糧攻め」のリスクや慣習上、銭による税は定着していない)である以上、「世間の景気が良くなるとコメの価値が下がり、逆に武士は不景気になる」という事情から、三大改革はいずれもコメ対策・景気対策で頭を悩まされていたのだが(世間が少し不景気なことが武士の好景気を意味するため)。 また、刑法ともいえる『公事方御定書』の制定や『町火消し』の整備、異学と呼ばれる西洋の学術書を宗教分野以外は緩和するなどの政策を行った。なお国防にもつながるはずの西洋学の取り扱いについては松平定信は正反対の方針をやらかしたため停滞し幕末の対応で大きく後れを取ることになる。 時代劇『暴れん坊将軍』のモデルな他、『大岡越前』もこの時代の話。 上の倹約の一環として、大奥から美女をクビにした(美女は再雇用先も多いという理由らしい)ということから、醜女マニア(*8)だったとも言われる。 6代将軍徳川家宣の定めた(実際には新井白石が改訂し、7代将軍家継が短命だった事もありそのまま用いられ続けた)「正徳令」を破棄して、綱吉が定めた「天和令」を永く伝えていく事を宣言し、以後武家諸法度の改訂は行われなくなった。 それらのことから、吉宗の施政には綱吉前期の治世を範とした政策が多いという指摘もある。 ちなみに彼の身長は6尺(180cm)の大男という当時の記録があるのだが、前述の綱吉124cm説によれば吉宗は155cmのはずであり、当時の記録は吉宗政権のプロバガンダによる捏造だと訴えている。身長は高い方が箔が付く!のためだけにわざわざ吉宗の太刀や鎧や履き物に至るまで身長6尺に合わせて作られ、本来の身長の記録はいかなる庶民の記録からも抹消されたとのことである。 ・9代将軍:徳川 家重(いえしげ) 在位:1745年~1760年 吉宗の嫡子で、治世前半では父が「大御所」として君臨していた。 史料などの表現を割引いても「滑舌が極端に悪く」その上「遊びすぎで病気がちだった」ため、「(御三卿の田安家開祖となった)弟・宗武を将軍にしたら」なんて案もあったとか… 滑舌の悪さや遺骨の研究から(*9)幼少期から脳性マヒを患っていた、という説もあるが、少なくとも将棋はできたため知性は健常だったとも言われている。 しかしながら大岡忠光(*10)など良い部下に恵まれたおかげか治世は安定しており(『享保の改革』の反作用としての事件も多かったが)、それなりに長生きし子供を残している。 ちなみにコント『志村けんのバカ殿さま』のモデルでもあるほか、何故か女性説が存在する。 ・10代将軍:徳川 家治(いえはる) 在位:1760年~1786年 家重の嫡子。父親を差し置いて祖父から教えを授かった期待の子。しかし、就任後は部下に政治を任せ、趣味に生きていたという。 一代で譜代大名となった側用人「田沼意次」を引き立て老中にし、彼の代では田沼の政策から経済面・海外対策を大きくした政策が行われた(頓挫したが大規模干拓という農地拡充政策も行い、後に水野忠邦が再開するもまた頓挫した)。 しかし、経済面を重視し過ぎた反作用で贈収賄が多くなったりするなど、負の面も現れ出していた。 彼も子に恵まれず(1歳を迎えられたのは家基という息子のみであり、彼も18歳で怪しげな急死を遂げた)、再び御三家・御三卿から継承者が選ばれた。 政治以外の面では書画に優れ、前述の趣味として父と同じく将棋を嗜んだ。 将棋に関しては、彼の物とされる棋譜集(碁・将棋の対局での手順を記録したもの)「御差将棋」が現存している。 その棋譜集には、彼自らが新たに考案した「いろは棋譜記号」が使用されている。 また、晩年には詰将棋の図式集「象棋考格」を記している。 ・11代将軍:徳川 家斉(いえなり) 在位:1787年~1837年 御三卿一橋家からの養子で、家治の従兄弟甥にあたる。 稀代のハーレム将軍。将軍在籍年も「征夷大将軍」として最長の50年だった。 大奥を最大限に活用して子作りに励み、生まれただけで計53人、成人人数で28人という将軍家史上最大の子供数を誇った絶倫将軍。家治の子供事情を見ていたらわからなくもないが…… あまりの子供の多さに養育費や持参金で幕府の財政が大幅に悪化した。 そして子供たちを片っ端から嫁や養子として各大名家に配った結果、家斉直系が絶えた現在でも「津山松平家」(家康の次男秀康の系譜)として子孫が残っている。 なお正室は一橋時代からの婚約者だった島津家の「茂姫(篤姫、寧姫、寔子、広大院)」を近衛家経由で娶っており、この前例が後の13代将軍と「篤姫」の婚姻に繋がった。 治世の前半では田沼失脚後に従兄弟伯父でもある老中「松平定信」(*11)が吉宗時代及び白河藩統治経験を生かして農政重視の「寛政の改革」を敷くも(この時期が『鬼平犯科帳』の背景)、 行政のみならず政治面・対蘭学面でも極端な統制を行い、かつその割にメリットが少なかったことで遊び人の家斉に疎まれ、家斉が実父に「大御所」称号をプレゼントしようとするのを拒否された事等もあり定信は失脚。 その後は先代や定信時代の家臣が次々にいなくなったことから、緩いその場しのぎな政策(*12)が多くなり、 文化面では「化政時代」と称される華やかで芸術の発達した時代になったが、海外船の度重なる来訪、「大塩平八郎の乱」等で政治・経済共に傾きが始まってしまった。 ちなみに、大奥に籠り遊びまくっていたという印象が強いが、馬術に優れ、鷹狩りを熱心に行うなど、曾祖父である吉宗に似た一面もあり、将軍としてはそれなりの素質は持っていた人間であった。 ・12代将軍:徳川 家慶(いえよし) 在位:1837年~1853年 家斉の嫡子。治世序盤では父が大御所として君臨していたが、父の死後父親が遊んでいたせいで緩んでいた政治を引き締めるべく、老中として「水野忠邦」を取り立て、水野の考える「天保の改革」を薦める事で綱紀粛清・農政復興・収賄政治の廃止を目論んだ。ちなみにこの時期が「遠山の金さん」こと遠山景元の活躍した時代。 だが蓋を開けると「寛政の改革」がぬるく見えるくらいの言論統制・監視・密告時代と化し、家斉の時代多少は楽になりつつあった蘭学者等が被害を蒙った。 また「享保」「寛政」時にはまだ効果があった節制政治も、田沼時代・化政時代を経て経済重視の流れが進んでくると意味が薄くなり、 最終的に「上知令」なる大規模「幕府直轄地一元化計画」で幕府の力を強めようとしたら「土地を獲るな」という大名たちの反発で失敗し、水野は失脚(一応海外問題発生時に少しだけ戻ってきたが)。 その後は落ち着いた政治が戻るも、アメリカからの「黒船来航」によって一気に海外問題が深刻化。そのショックか、同時期に急死してしまった。 ちなみに14代将軍家茂の紀州藩主時代の名「慶福」、15代将軍「慶喜」の名はいずれも彼から「慶」の字を「賜諱」としてもらっている(*13)。 なお、父にはさすがに及ばないが彼にも27人の子供がいる。ただし、その中で20歳を超えたのは次代の家定ただ一人。 これは、当時の大奥の女達の化粧には白粉が多量に使われており、更にその白粉に鉛が含まれていた事から赤ん坊の身体に鉛中毒の影響を与えてしまい命を縮めてしまったためらしい。 また、慶喜を実の子以上に気に入っていたらしく、一橋家との繋がりも薄いただの水戸家の七男坊だった慶喜が一橋家当主になれたのは家慶の力によるもの。 ・13代将軍:徳川 家定(いえさだ) 在位:1853年~1858年 黒船来航による鎖国制度の危機の時に将軍となった家慶の嫡子。 ものすごく病弱だったため、ほぼ飾り状態であり、黒船対策は父の代からの老中「阿部正弘」や「堀田正睦」が行っていた。 障害を持っていた可能性も示唆されており、上記の大奥の白粉の鉛の影響が少なからず彼の身体にも影響を与えていたと思われる。 また2度正室に先立たれ、「日米和親条約」が締結された後に島津家から近衛家経由で「敬子(篤姫、天璋院)」を娶るも、それでも子供は出来ず、 晩年には後継者として「(一橋家の)徳川慶喜」を推す島津家や水戸家と、「(紀伊家の)徳川慶福」を推す大老「井伊直弼」(*14)らの間で権力争いが勃発。 最終的に家定は「徳川慶福」を後継者として指名。その直後に他界した。 なおハリスが残した謁見時の記録に、不随意運動と思しき「急に横を向いたり足を踏みならしたり」といった記述があり、彼も脳性マヒが疑われている。また天然痘の後遺症で顔にあざが残っていたとも言われる。 趣味が料理という、当時としては珍しい料理男子。特にカステラなどのお菓子や煮豆・ふかし芋をよく作っていた。 「ガチョウが好きで城の庭でよく追い回していた」というのは創作である。 NHK大河ドラマ『篤姫』においては、キーキャラクターとして活躍する。 ・14代将軍:徳川 家茂(いえもち) 在位:1858年~1866年 紀伊家当主(家斉の実子)の子で幼くして父の跡を継ぎ、13歳で将軍就任後に「慶福」から改名した若き将軍。 とても良い人で、勝海舟ら家臣たちに敬われ、政略結婚で結ばれた孝明天皇の妹「和宮親子内親王」とも仲睦まじかったという。 また和宮との結婚後朝廷へと挨拶するため家光以来となる京への「上洛」を敢行。新選組・新徴組の原型となった浪士組結成理由となった。 しかし大老井伊直弼が討たれた「桜田門外の変」などの乱が絶えず(上洛も長期化から京での人質化を懸念して家臣が出兵する騒ぎに)、和宮との結婚後天皇に誓った「攘夷」も、大規模開港を延期させるくらいがやっとだった。 結局は「第2次長州征伐」(*15)のため、大坂まで向かった後に病に倒れ、わずか20歳で他界した。 遺言では後継者に田安家の亀之助(後の徳川家達)を指名したが、幼君を許すような情勢ではなく、一橋家の慶喜が継いだ。 大の甘党でもあり、遺体を研究した結果、虫歯が30本という、ある意味歴代将軍の中でも特に凄い記録を残している。 ・15代将軍:徳川 慶喜(よしのぶ) 在位:1866年~1867年 水戸家の正室から生まれた子の一人で(*16)、12代将軍家慶に気に入られ一橋家の養子となり継承権上位になるも、家定死去後の「安政の大獄」に巻き込まれ逼塞。 地位回復後はまだ若い家茂の「将軍後見職」等として扱われ、彼の死後、京に居ながら15代目として選ばれた歴史上最後の征夷大将軍。 その活力・血筋(母が皇族「有栖川宮」の娘)などから期待されていた人材だったが、なぜか「徳川宗家」相続と「将軍就任」の間が空いていた。 孝明天皇が他界し跡を継いだ明治天皇の周囲を薩摩藩などが固めるなど、討幕の勢いが高まる中、土佐藩等から勧められた「大政奉還」を決意。実行することで幕府を解散させた。 これについては 戦争を避けたかった 幕府を解散させても新政府が徳川家を重用すると思っていた(*17) 尊皇を重んじる水戸学を学んでいたため、天皇への反逆を良しとしなかった 水戸出身ゆえに幕府での政治基盤が弱いため、そもそも慶喜自体が幕府を一度壊し、新政府で新しい基盤を作ろうとしていた などという説があり、「徳川家の政治力」温存を考えていたのは確かだろうが、いずれにしても、その後の 王政復古の大号令 徳川家のみに対する辞官納地(大名辞めて朝廷に領地を返せ) 等と朝廷(というか後の新政府勢)の無茶ぶりが続き、結局「鳥羽・伏見の戦い」が勃発。 敗北するや会津藩・桑名藩主(*18)や老中達を連れ、速攻で江戸へ帰還(この時既に元将軍だったため、将軍として江戸にいなかった唯一の将軍となった)。 最終的に「徳川宗家」当主の座も家茂の最も近い血縁者である田安家の「徳川家達」(当時6歳)に譲り、謹慎・隠居の道を選んだ。 この時、天璋院なんかは「慶喜どうなってもいい(≒死んでもいい)(*19)から徳川家を残してくれ(意訳)」という手紙を残しているので、一歩間違えれば死んでいたかもしれない。 出身地水戸で起きた「天狗党の乱」を収める時実行者達にまったく温情を掛けず、会津藩等「戊辰戦争」で酷い目に遭った連中に対して何のフォローもせず、江戸開城時あてにした(?)幕臣の勝海舟もそれまでは邪険に扱っていたなど、無責任さが目立つなどと言われることもある。 もっとも大政奉還により倒幕の口実を奪ったり、二条城から大坂城に移り、経済的・軍事的に重要な拠点である大坂を押さえつつ、新政府に圧力をかけたりと、慶喜自身は少なくとも当初は戦争ではなく政治で薩長を倒したがっていたように見える。 特に王政復古の大号令に関しては、実際のところ新政府内でも土佐や越前など穏健派の反対が強く、辞官納地は骨抜き、資金が危うくなった朝廷が幕府に献金を求め、終いには慶喜の議定就任が確定するなど、政治的にはほぼ薩長を完封しており「家康の再来」の名に恥じない高度な政治手腕を見ることができる。(*20) また「鳥羽・伏見の戦い」が勃発した一番の要因は攘夷討幕派浪人を薩摩藩邸が匿っていたために発生した江戸薩摩藩邸の焼討事件を切っ掛けに、勢いづく会津藩ら慶喜の周囲の諸藩兵を抑えきれなくなったためとされている。 現代では、「戦うことを恐れた臆病者(幕臣の小栗忠順の案が採用されていれば戊辰戦争で旧幕府側が勝利できたとも言われる)」や「天下を考えて平和的な手段を模索した智者」といった評など、再評価の流れもあっておそらく江戸幕府の歴代将軍で最も評価が分かれる人物であると思われる。 また、大政奉還と鳥羽・伏見の戦いばかり語られがちだが、政治面では事実上の内閣制度の導入、近代軍備の整備、横須賀製鉄所の設置などやや急進的ながら時流に合った政策を実施しており、これらは『慶応の改革』と言われている。 特に横須賀製鉄所は明治維新後も数多くの軍艦を製造し戦争の勝利に貢献しており、慶喜の大きな功績の一つと言える。 後半生は徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」を創設し、隠居先の静岡で趣味に生きる生活を過ごし(晩年は公爵となり東京に再移住)、将軍になる前に生まれた正室の子はすぐ他界したものの、維新後側室2人との間に21人もの子をもうけている。 旧幕臣との交流はあえて絶ったとされているが、渋沢栄一を始め一部の心を許した家臣とは深い関係を保ち続けたという。『海舟言行録』によると勝海舟(明治時代に慶喜の10男を養子にした)は、明治31年に慶喜が元江戸城だった皇居へ初めて参内した翌日、慶喜がわざわざ訪ねて来て礼を言われたため、生きていた甲斐があったとうれし涙をこぼしたという。 また、公爵となり貴族院議員に就任、伊藤博文や大正天皇とも交友を深めるなど、敗軍の将としては破格の待遇を受けている。 幕末からの趣味の一つに当時日本に来たばかりだった「写真」があり(明治時代には自ら撮影に挑戦していたという)、歴代将軍の中で唯一写真が現存し、また複数バリエーション(若いころの写真と老後の写真)が存在する。 明治維新後 この後は当然ながら将軍ではないので、徳川家当主に当たる人物をおまけ程度に記載する。 16代当主:徳川 家達(いえさと) 在位:1868年~1940年 田安徳川家に養子入りした家斉の弟の孫。慶喜から当主の座を譲られ、新政府から徳川家70万石の相続を許可された。 維新後の徳川氏は他の元大名と同様に華族となったが、高等教育を受けられる華族は貴族院議員や学者を多数輩出。 家達も帝国議会成立後は貴族院議員となり、31年にわたって議長を務めるなど政界の大物であった。 ただし徳川氏という立場故の遠慮もあり、総理大臣候補に挙がったにもかかわらず固辞している。 最晩年には、東京五輪の組織委員会の委員長を努めた。(*21) 17代当主:徳川 家正(いえまさ) 在位:1940年~1963年 家達の長男。 現在の東大法学部を卒業すると外交官としての道を歩み、オーストラリアやトルコなどの公使となった。 当主を引き継ぐと父同様貴族院の議長を務め、憲法改正に伴い最後の貴族院議長となった。 18代当主:徳川 恒孝(つねなり) 在位:1963年~2022年 家正の子が早世したため、長女の次男を嫁ぎ先の会津松平家から養子として取られた。 日本郵船の副社長を務め、また徳川氏の保有する美術品や文書などを管理する記念財団を創設した実業界の大物。 実業方面で十分多忙なのに徳川家関連の式典に欠かさず出席。元華族も楽じゃない。 19代当主:徳川 家広(いえひろ) 在位:2023年〜現在 恒孝の一人息子。恒孝が高齢になったため、2023年1月1日に当主を継いだ。 政治学や経済学の学位を有するインテリで、経済関係の著作もある。立憲民主党から選挙に出馬したことも(結果は落選)。 ベトナム人女性を妻に迎えたことで親ともめたりもした。 ◆余談 メディアへの登場 各種創作作品に徳川家の将軍は無数に登場しているが、 善悪いずれに捉えても使いやすい家康 家康の付録なのが多めな秀忠 春日局や活劇系の話によく出てくる家光 忠臣蔵や水戸黄門絡みで出番の多い綱吉 『暴れん坊将軍』と大河で主演だった吉宗 幕末を舞台にすると必ず出てくる家茂・慶喜 がメインで登場する機会が多く、4・6・7・9~13代は空気や背景キャラになりやすい。また家斉は時代劇自体への出番は多いものの大河と全く縁が無かったりする。 通史として江戸時代を扱う作品なら全員出番があるが、それでも家継・家重・家治の出番は少ない。 追記、修正は継承権順位を厳密に定められている方がお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] よく聞く名前もあるが、名前しか知らない人もいるんだよな。皆それなりに(良くも悪くも)結果を残しているはずなのだが…… -- 名無しさん (2016-09-12 13 17 01) Co.慶応のラップで覚えたわ。 -- 名無しさん (2016-09-12 14 11 55) 慶喜が無責任って言っても近年の調査では『政治的に薩長を圧倒してたのに会津藩ら武断派が挑発に乗って開戦』『質も数も圧倒してたのに指揮官の大ポカ連続で負け』だそうだし、そりゃ付き合ってられんと思うわ。 -- 名無しさん (2016-09-12 14 33 13) スケベ親父ばっか -- 名無しさん (2016-09-12 15 19 24) 男系は家継で途絶えたけど女系だと家光の娘の子孫が唯一残ってるんだっけ? -- 名無しさん (2016-09-12 15 20 58) 同じ時代の欧州で子沢山だった貴族の子供でも半分くらいは5歳満たずに他界してるの多いし今日みたいに医療が発展するまでは数産んでなんぼだったんだな本当 -- 名無しさん (2016-09-12 15 31 39) 吉宗は醜女マニアというか、子供確実に作るために嫁さんを選ぶ上で顔よりも体が頑丈かを重視してたから結果的に醜女が多かったそうな -- 名無しさん (2016-09-12 15 56 26) ↑5 海からの砲撃で薩摩・長州軍を一掃できる作戦を立案したような人もいて、西郷さんはあとから聞いて震えたなんて話もある。慶喜は頭は良かったろうけど良すぎて胆力がなかったのは事実だろうとは思う -- 名無しさん (2016-09-12 16 26 05) 本人も生物...もとい人間である以上、種馬と化しても楽しんでいたはず... -- 名無しさん (2016-09-12 17 18 12) 狸親父、ショタコン、ちっさいおっさん、女性説、絶倫、虫歯30本・・・・イロモノ多いなwww -- 名無しさん (2016-09-12 17 28 32) 家茂は虫歯が原因で死んだんだろうな -- 名無しさん (2016-09-12 17 38 58) ↑甘いもの食べすぎで病気になったみたいだけど当時の医学ではそれが分からなくてお見舞いで貰った団子とか大福も「貰った物は食べないとくれた人に悪い」って言ってしっかり全部たいらげてたとか -- 名無しさん (2016-09-12 18 09 56) いしいひさいちの4コマ「十五将軍漂流記」で、とりあえず十五人いたということだけは覚えている -- 名無しさん (2016-09-12 19 30 35) どうする? 処す? 処す? -- 名無しさん (2016-09-12 19 56 52) 生類憐みの令が捨て子捨て病人を救う令でもあったのは最近になって知ったよ。しかし当時は子供は近隣で育てる風習だったとはいえ「捨て子は拾った人が育てる」のは現代だとキツイな -- 名無しさん (2016-09-12 20 27 55) ↑ まぁ、育児給付金みたいな発想なんて、江戸時代にないだろうしね... -- 名無しさん (2016-09-12 20 50 17) 慶喜の評価は毎度のことながら左右に極端に振れるなあ。建て主さんはおもいっきり否定派だね。 -- 名無しさん (2016-09-12 20 53 43) 慶喜って古い世代の大将が無責任を振舞う事で偽悪者になって新政府を正しく見せて時代の移り変わりを促進させたんじゃなかったっけ? -- 名無しさん (2016-09-12 21 38 32) 生類憐みの令ってのは本来間違いで生類憐みの政策ってのが正しい表記らしい。一回だけじゃなくて何度も何度も出されたからだとか。江戸時代前期はかなり野蛮な風習が残っててそれを是正するために出された法令群だとか。特に犬関連で法令を守らない江戸の民に振り回されてるのを皮肉ったのが犬公方の名の由来だそうな。これ関連で何万人も罰せられたとかの逸話は当然創作 -- 名無しさん (2016-09-12 21 56 45) それはそれで一方的な牽強付会というもの。そもそもこういった仏教ライクな殺生禁止令というのは日本に限らず仏教影響下の東アジアで普遍的にみられるもので、毎回出すには出すけど基本民がアホくさくて守らない→お上が切れて厳罰→でも結局守られなくて自然消滅……というのもおおむね共通してる。 -- 名無しさん (2016-09-12 22 26 52) ローマの貫通罪もそんな感じだったような -- 名無しさん (2016-09-12 22 34 09) 子供死にすぎ。いくら昔でもおかしいだろ!?何でだ? -- 名無しさん (2016-09-13 01 53 29) ↑大奥の化粧の白粉に鉛が使われてたからその影響ではないかといわれている -- 名無しさん (2016-09-13 07 08 34) ↑↑毒殺説もあるな -- 名無しさん (2016-09-13 07 29 38) 賛否両論あるが参勤交代と人質で地方の連中押さえ込んで謀反を抑制する手腕は凄いと思うわ。まぁ結局倒幕の主たる原因は西(ヨーロッパ)ではなく東(アメリカ)から来たが。 -- 名無しさん (2016-09-13 08 08 31) ↑×4現在の先進国の視点で見ちゃダメ 今でもアフリカでは赤ん坊の1,2割は5歳になる前に死んでるし、衛生という概念が無い時代なんてそんなもんだよ -- 名無しさん (2016-09-13 12 36 28) マブラヴオルタ世界はこの役職が現代まで引き継がれてるのか(字が違うけど) -- 名無しさん (2016-09-13 16 26 54) ↑あれは天皇のほうが立ち位置近くね?そのまま天皇にしたら右翼とか色々問題になるから将軍って表現を使ったんだと思う -- 名無しさん (2016-09-13 17 54 14) ↑いや、設定上「皇帝」が別にいるじゃん?登場しないだけで。それが天皇の代わりと思っていたんだが。 -- 名無しさん (2016-09-13 21 22 09) みなもと太郎の「風雲児たち」で将軍全員を覚えたなあ。あれは(その時代をカットしたせいもあるけど)綱吉あたりの評価が大昔のままだったが。 -- 名無しさん (2016-09-14 05 31 36) なんで正妻とは子供出来ないパターン多いんだろ? -- 名無しさん (2017-01-26 09 05 56) ↑2衛生面とか考えたら食べ物ほぼ関係無しに江戸時代の生活水準ってアフリカと似たようなもんやろ。むしろ虫歯30本がいい例でぶち抜けた贅沢三昧が原因で早死にする人がいる始末だし。 -- 名無しさん (2017-03-01 00 50 03) ムシブギョーの9代将軍がああなのはこの記事読んで納得した。 -- 名無しさん (2017-03-19 03 57 29) 報告にあったコメントを削除 -- 名無しさん (2017-03-19 23 17 55) 虫歯だらけだったって大変だろうなぁ; 当時は今みたいに歯科技術発展してないだろうし、歯医者で有名なドリルなんてないわけで。 -- 名無しさん (2017-03-20 12 19 36) ↑めっちゃ口臭かったんちゃうかな。それに耐えられる嫁はきっと蓄膿。 -- 名無しさん (2017-06-02 17 15 49) 鎌倉時代からそうだけど実質的な日本のトップ、天皇や公家勢力は一定の影響力はありながらも、その時々に都合よく利用されていた -- 名無しさん (2017-09-20 10 57 24) 「とくがわあつめ」という同人カードゲームがある。歴代将軍のカード15種×2枚と、ひっかけとして徳川光圀のカード1枚(=ペアにならない)の合計31枚入り。これで神経衰弱をする。 -- 名無しさん (2017-10-26 14 47 56) ↑黄門様はジョーカー扱い? -- 名無しさん (2017-10-26 15 55 58) こうして見るとやっぱり運動してたり食べ物に気を使う人は長生きなんだなあ -- 名無しさん (2019-09-21 08 11 54) 本文にもあるけど、生類憐れみの令は「捨て子や病人、老人は保護しろ」「無闇に動物を食べたり虐待するな」「病気の原因になるから無闇に捨てたり餌をやるな」等々、現代人から見たらごく当たり前のこと言ってるんだよね。これがなかったら現代日本でも犬や猫の肉が食卓に上がってた可能性もあるらしいし -- 名無しさん (2020-08-31 21 09 24) ↑色々言われる綱吉公だけどよくよく考えたら凄く正しい事言ってた? -- 名無しさん (2020-08-31 21 31 00) 高杉晋作の「いよォォォォォ‼せいいだいしょうぐゥんンンンン‼」の掛け声で決定的に失墜したらしい。 -- 名無しさん (2020-08-31 21 32 36) ↑2まぁ当時の人々には「なんで弱者にそんな気を使わなきゃならんねん!」と大不評だったらしいが。あと「最近良くないことが多いから、生き物大切にして徳を上げよう!」って目論見もあったとかなかったとか -- 名無しさん (2020-08-31 22 07 59) 一番治世の長かった家斉が歴代将軍で唯一大河ドラマに出てないのは、やはり劇的な事件が無いからか…。 -- 名無しさん (2020-11-08 23 51 33) 吉宗の改革が成功した理由は、倹約と「増税」 -- 名無しさん (2021-02-03 17 16 44) そのうち、維新後の三当主を題材にした大河が出たりして -- 名無しさん (2021-02-03 18 48 49) 綱吉と慶喜ってどっちが風評被害凄いんだろう?うろ覚えでしか知らん自分では、徳川の力カッスカスになってたから慶喜の幕府潰す判断もしゃーないって感じ -- 名無しさん (2021-03-03 23 09 14) 実は江戸市民は家康自体知らないとか -- 名無しさん (2021-10-24 22 44 58) 慶喜は自業自得でしょ。結果的に日本の利になったってだけで、ふらふらとどっちつかずなことして「自分の保身しか考えてないんじゃないか?」って勘繰りたくなるんやもん。あれじゃ身を粉にして働いた下の者が浮かばれん。力足らずは仕方ないにしても、せめてやることに背骨はちゃんと通さんとね -- 名無しさん (2022-02-24 00 13 21) 言われる小栗の策なら勝てたとか机上の空論にしか見えんのよね。もはや旧幕府の実態はボロボロで新政府とは勢いが違ったのが緒戦の大惨敗に出てたし、最初からそれ見抜いてた勝が正しく、慶喜がそこに土壇場で気付き転向したのも徳川を残すため格好良くないが賢かったと言えると思う -- 名無しさん (2022-02-24 01 23 08) 慶喜はマジで徳川の家臣に嫌われてたし本人にしてみれば何で俺がお前らの身代わりで死ななきゃいけないんだよ。って気分だったんだろうな。ただ容保さんと会津藩の方々は慶喜に怒っていいと思う -- 名無しさん (2022-02-24 07 47 45) 慶喜は日本資本主義の父渋沢を重用して、快く送り出したのは近年の再評価ポイントじゃないか。渋沢は慶喜を生涯慕って擁護本書いてる -- 名無しさん (2022-02-24 12 35 56) 手代木とか言うベリアみてーなのが暴れてたしな、慶喜 -- 名無しさん (2022-05-14 11 34 50) 慶喜にキレる前に自分たちの藩を私兵にしてた手代木様を切るべきだった気がしないでもないな容保と会津藩の方々 -- 名無しさん (2022-08-19 22 48 52) 大樹時の位牌=身長説は誰が唱えたのか知らんけども、トンデモ説の類なのになんでか定着してるよね。発掘調査でも普通に5cm~6cmレベルで差が確認されてるのに。 -- 名無しさん (2022-08-20 00 58 30) 明治維新なかったら、家康公ってそのまま存在がなかったことにされてたってマジか -- 名無しさん (2022-08-20 23 05 28) 三代幕府で北条時行や鞆の浦幕府みたいな再興運動が起きてない幕府…奥羽同盟は手代木の私兵だし -- 名無しさん (2023-06-09 12 14 26) 家重をガッツリめに描いた創作って、よしながふみの逆転版大奥くらいしか知らないけど、障害に苦悩しつつも天下を納めたってもっと題材にされてもいい気がするんだが -- 名無しさん (2023-09-12 06 49 56) ↑面白そうではあるが同時に凄く扱いづらそう… 「脳性麻痺患者への誤解を云々」とか絶対来そうだもん -- 名無しさん (2023-09-12 12 28 32) 大奥の白粉だけど、顔や首に塗った白粉から鉛が母親や乳母の身体に蓄積された体内の毒が血や乳を通して若様姫様に…なんてゆったりした経由じゃなくて、将軍の若様姫様の前だから赤ん坊と言えど身なりをきっちり整えねばと乳母は乳房にガッツリ白粉をして乳を飲ませてたため御子様方は口から直に鉛を摂取していたそうな。 -- 名無しさん (2023-09-12 13 11 08) 慶喜の立場はマジクソゲーと言うか、血統的に遠いから保守派の幕臣は当てにならないし、一橋自体に固有の戦力はないし、頼りの天皇は酷いタイミングで死んじゃうし、周りは勝手に能力に期待してくるしその癖あんまり言うこと聞かないしで、手持ちカードがピーキーなのしかない。護衛に連れてったのが任侠の親分みたいな環境で勝利条件が「内乱を可能な限り起こさず秩序回復」なんだから、結果に文句言っていいのは会津ぐらいだよ。 -- 名無しさん (2023-10-19 12 38 01) ただ少なくとも俺は慶喜みたいなタイプの政治家を総理大臣にしたいかと聴かれたら否と答える -- 名無しさん (2024-02-11 20 50 48) 2025年の大河では家治も出るか? -- 名無しさん (2024-02-11 21 14 42) 当時の国際法上は家茂政権は島津久光のクーデターで倒されて、大奥が暫定政府を作ったことになってるとか -- 名無しさん (2024-05-24 15 48 34) 名前 コメント
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みなさん、こんにちは!白石ユネスコ協会青年部です。 子どもキャンプinみやぎ 子ども&スタッフ 参加申込受付中! 8月1~4日、南蔵王青少年旅行村にて! 詳しくは子どもキャンプのページでどうぞ。 平和の鳥de募金運動 for 世界寺子屋運動インド・ゴカックプロジェクト 全国で動いてます♪ ☆活動報告☆ * 『~いま こころの輪を大きく!~みやぎ国際協力のつどいin白石』大盛況のうちに終了しました! 12/3(金)AM10時~PM3時30分 白石市中央公民館 姉妹・友好都市交流の輪紹介、在住外国人によるワールドカフェ、 外国人相談、音楽やことば、衣裳、グッズなどのブース、 ワークショップ(わたしにもできる国際協力)、体験談発表などが行われました。 白石ユネスコ協会青年部は、インドスタディーツアーの写真をはがきにして販売しました。 幼稚園児からお年寄りまで、一日中大勢のお客様でにぎわいました! 詳しいパンフレットはこちら 第62回日本ユネスコ運動全国大会in花巻 盛況のうちに終了しました! 6月3日(土)4日(日)於 花巻温泉 800人が花巻温泉に集いました。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (全国大会しし踊り2.JPG) 全国大会レセプションでの「春日流湯本鹿踊」(花巻市指定無形文化財) 白石ユネスコ協会青年部+気仙沼ユネスコ協会青年部は 3日夜 「おでんせ ユネスキャン」(青年と大人の交流会) 4日午前 第4分科会(青年分科会) の企画を、花巻の青年たちとともにがんばりました! はるばるお越しいただいたみなさん、本当にありがとうございました! 交流会「おでんせユネスキャン」 世代を超えてたくさんの方々においでいただき、楽しい交流の時を過ごせました。 宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」の詩の朗読と寸劇にはじまり、ゲームで交流を深め、インドスタディツアー報告と今年のユネスコ子どもキャンプin神戸の宣伝をしてもらいました。 最後に、今回の大会テーマ「『考えていますか となりのひとを』 ~平和と共生の明日に向かって~」にちなんで、左隣のひとと自分に、賢治の絵はがきでお手紙を書いてもらいました。 第4分科会「伸びようユネスキャン」 第4分科会の目的は、活発な活動を行い、また青年を活動に巻き込んでいる協会には、どのような地域的な特徴があったり、どのような活動を行っているのかということを探ること、そして、自らの協会の活動にはどのようなことを取り入れていけばよいか、ということをそれぞれ探ることでした。 北は岩手から南は山口・萩まで、9グループ12名の方々にパネラーになっていただき、活発な活動を行っている秘訣や悩み、工夫などを伺いました。 そのあと、参加者のみなさんと9グループに分かれてグループディスカッションを行いました。最後に必要なものは何か、と問われたときに、様々な答えが出てきましたが、なかでも「キーマン」が必要だという答えがすべてを物語っているのではないかと感じました。 ************************************************* ☆活動予定☆ ただいま準備中ですm(__)m 子どもたちにユネスコを伝えるイベントも思案中。 いつもは大人と一緒に活動しています。 お問い合わせは白石市中央公民館(0224-26-2453)までどうぞ。 <会員紹介> 部長 ユミちゃん 子どもキャンプ実行委員長として、中央でも地元でも日夜がんばってます! にゃろ HPや掲示板の管理してます! あべちゃん 何でもできる働き者です! よいと 山形で大学ユネスコサークルがんばってます! これまでの活動 1999年に地元七ヶ宿で開催した「ユネスコ国際子どもキャンプ」をきっかけに、地元で活動できるようにがんばってます! 東北ブロック研究大会では、2001年から分科会を1つ任せていただいて、東北の青年たちと一緒に「青年と大人が一緒にできる活動」について追求してきました。 2004年に白石で開催されたブロック研究大会では、その活動の一例として、「フィールドワーク」を、地元白石の街を使って行いました。 その他、日ユ協連主催の「ユースセミナー」や「全国大会」の企画・参加を積極的に行ってきました。 2005年12月に「宮城野高校土曜ゼミナール」で、ユネスコと寺子屋運動についての講座を持ちました。ユミがサリーを着て奮闘しました!チャイを飲みながら楽しく講座を進めることができました。 2月5日(日)は、大人と一緒の新春パーティーでした。 日本語学校の生徒さんもまじえて、にぎやかに楽しく過ごしました。 杉並ユネスコ協会青年部長のあずちゃんも「旅する旗」とともに来てくれました!(写真真ん中です) 2月に、「宮城野高校土曜ゼミナール」で、こころを伝えるために必要なことについての講座を、会員の海ちゃん(「ワンダフル仙台」http //www.wonderfull-sendai.com/)と一緒に持ちました。生徒たちの表情が見る見る変わっていくのがとても楽しい2時間でした。 2月11・12日の東京でのユースセミナーにさっちが参加しました。報告はもう少しお待ちください。 3月11日、全国大会実行委員会(in岩手・花巻)ににゃろが参加してきました! 3月21日は花巻温泉で下見を兼ねて青年の初?顔合わせを行いました。地元花巻の青年たちと着々と準備を進めています。 6月3・4日、岩手・花巻での全国大会。無事終了しました! ご協力ありがとうございました。 9月9日、全国大会の反省会もかねて、花巻で「花巻まつり」を見学しました。山車も神輿もたくさん出る、勇壮で見ごたえのあるお祭りでした。 8月7~10日、日ユ協連主催の「ユネスコ子どもキャンプ」、神戸にて、無事終了しました!
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■江戸幕府の成立 年表 1600 関ケ原の戦い 1603 家康、征夷大将軍となる。 1604 家康、江戸幕府を開く。 1615 大阪夏の陣で、豊臣家が滅亡した。 ↓ ポイント:関ケ原の戦いで、家康が勝利した後に、家康中心の時代になった。 →①征夷大将軍の意味が変わること(家系図を使った説明が妥当)。 ②各身分の人々をどのように支配していったのか。 豊臣政権、農民、武士、商人、宗教勢力、朝廷など。 ①関ケ原の戦い 1598年に秀吉が死んだあと、徳川家康と石田三成(ともに部下)が戦いを起こした戦いのこと。 →戦争の結果、徳川家康が勝利した。 ②征夷大将軍 従来の意味は 「蝦夷(東北にいる、朝廷に従わない連中)を征伐するリーダー」 「武士をまとめるリーダー的存在(鎌倉以降)」 征夷大将軍になるための条件 1)源氏の血を引き継いでいること 2)天皇が将軍を任命すること →天皇に認められなければ、将軍になれないということ。 そのため、朝廷と良好になる必要があった。 ちなみに、武士が将軍の言うことを聞いているのは、天皇が任命した(将軍だと認めた)からである。 幕末に起きた公武合体が起きた理由は、朝廷との関係を改善するためである。 では、天皇と将軍、どちらが政治を行うべきなのか? →これには、2通りの解釈が存在する。 1)将軍を任命した天皇が主君(水戸藩、『大日本史』) 天皇―将軍―武士 2)天皇が偉いのは認めるが、政治を行うことを将軍に任せた(統治委任論) 天皇→将軍―武士 (「→」は「政治を任せる」 →幕府は2)で解釈し、支配の正当性を強めた。 いっそう強めた思想が朱子学! 徳川家の将軍の特徴とは何か 徳川家康は、息子の秀忠に将軍職を継承した。この歴史的意義は、将軍とは、徳川家にしかなれないことを意味している(徳川家ではないものを将軍に任命すると、徳川家中心の時代が終わる、ということをアピール)。反対の言い方をすれば、徳川家ではないものが将軍にはなれないことを表している。その危険性が起こる理由は、基本的に、徳川家に子供がいないことである。 →ここまで説明しておくと、明治以降、天皇中心の時代が訪れることも理解できる。理由説明にもつながる。皇帝=天皇とみなして明治時代は天皇中心の国家体制が確立した(近代国家という概念は皇帝(王様、統治者)がいないと、成立しないから)。 ③大阪夏の陣 大阪夏の陣によって、豊臣家が滅亡した。 これ以降、江戸時代は平和の時代が誕生したということである。(パクス・トクガワーナ) その後戦わなくなった武士はどうなったのか? →学問を勉強したり、肉体の強さを活かして土木工事をしたりした。 収入は百姓から取った年貢で生活していました。 江戸幕府の支配体制 幕府が、①武士 ②農民(えた・ひにん含む) ③町人 ④仏教勢力をどのように支配していったのかを確認しよう。 ①武士の支配 →(A)石高制と(B)法支配!(基本的には豊臣家の政策を引き継ぐ) (A)石高制 支配者、権力者の立場に立てば理解しやすい! 流れ:全国統一(全国の土地が一旦幕府のものに) →それを各地域の有力な武士=大名に分配 & その大名がもつ土地を「藩」とする ※藩の例:薩摩藩、長州藩、肥前藩、土佐藩、水戸藩など ※大名は「藩主」「領主」とも言う →では、誰にどのぐらい分配しようかなあ… →そのときの基準となったのが「石高制」 石高制とは、ポイント制! →1万石以上の石高があれば大名になれる ※石高=面積×収穫高。 ※「大名」という言い方の起源は平安時代の「大名田堵(たと)」にさかのぼる →大名田堵=名(10世紀~太閤検地までの土地の単位)を多く持った有力農民。 →つまり「大名」とはもともと「土地を多く持った」という意味 石高はみんな平等というわけではなかった →徳川家と徳川家に信頼されている藩は石高の数が大きく、そうでない藩は石高の量が少なかった →信頼度順に、親藩、譜代、外様大名に分かれた 種類意味 主な配置先 親藩徳川家一門の大名 紀伊・水戸・尾張 譜代関ケ原以前から徳川家の家臣近い~普通 外様〃 以後 〃 遠い →定期テストでは、①親藩の具体例、②主な配置先の特徴が記述問題で頻出 石高制は、都合のいい人を優遇し、都合の悪い人を排除するものである。 1)言うことを聞かない大名に関しては、土地を没収してクビにした。(家康~家光まで) (※) (没収すれば、面積=0になるので、石高も0になる) →しかし、土地を没収された後の武士は「浪人」となり、浪人が団結して反乱を起こすこともあった →そのため、幕府は、土地の没収ではなく、儒教(=偉い人には逆らうな!)を浸透させて支配していこうとした →これが綱吉の文治政治につながる (※)例:広島藩の藩主・福島正則は、幕府の許可なく無断で広島城を立て直した。 →武家諸法度に違反していたので、処罰され、土地を没収された 2)収穫高の少ない地域には、交易で賄わせる 例:松前藩(面積は広いが、もともと米がそんなに取れなかった) 3)能力のない大名の石高は減らし、能力のある大名に分配する(足高の制by徳川吉宗) 大名とは、①領地を支配し、②年貢をもらうことができる →もらった年貢は、配下の武士たちに「俸禄」(給料)として分配 →大名も、幕府の役人に「俸禄」を支給される(米や領地) →もらった俸禄(米など)は、札差(金融業)に換金してもらう →もらえるお金は、米の供給量によって変化する →飢饉などに米があまりとれないと、米が少ないので価値・価格は高くなる。(米が少ないので結局儲からない) 一方、豊作で米が多く取れるときは、米の価値・価格は低くなる。(当然、儲からない) →武士は基本的に貧乏である →だからこそ、その後さまざまな改革が行われる (B)法支配 →武家諸法度を制定した(将軍ごとに更新される。3代目のときに参勤交代が追加される) →目的は、 ①武士のあり方を意識してもらう ②武士の勢力削減(武士が儲けすぎると、軍事力を強めて、幕府に反発する可能性があり、それを防ぐ) ※鎖国の目的も②と一緒。 →第一目的はキリスト教の禁止だが、大名の勢力削減という目的もあった。 (貿易を幕府が主導で行うことで、大名が貿易によって儲けることを阻止することが可能) ②農民支配 基本的には、年貢を払わせることで支配した 前提:農民の家族構成は、基本的に主&妻&子ども →なぜ子どもを産むのか →主が死んだ後、子ども(長男)に後を継がせるため ※後継ぎがいないと、その土地は農民の共有地(幕領)となり、土地をめぐった争いが起こってしまう ※長男が早死にするリスクを防ぐため、子どもは2人以上産むんでいた ※女子が産まれた場合→武士の家庭に嫁がせることが多い 石高の公式上の問題 1石高の公式は、面積×収穫高である。 つまり、税額は、面積or収穫高が少ないならば、その分税額も少なくなるということを意味している。 2主が死ぬと、何人かの子供に遺産相続させる(土地の細分化)。その結果、主が持っていた面積よりも子供の面積の方が少なくなるのである(ケーキを何人かに分けると、ケーキの分量が少なくなる感じ)。 →時代を経れば、経るほど、農民一人当たりの面積が少なくなる。 ⇨幕府の収入も農民の収穫高も少なくなる(収穫高の多寡は面積の大きさに左右する)。 ここでの問題点は、幕府の税収入が減ってしまうことと、農民の生活苦に陥ることである。 さらに、収穫高に依存しているため、悪天候に見舞われると、収穫高が激減するケースもあるため、リスクは大きい。 ③問題点の解決策 1商品作物を作成する(農民)(17C) 米の栽培が少なくなる場合、米以外の作物を都市に売ることで、お金を稼いでいた。そのような作物を商品作物という。主な具体例として、干鰯、金肥、たばこ、みかんなどが具体例である。しかし、幕府としては農民には、米作りに専念してもらいたい。そのため、商品作物の栽培を法律で禁止していた(※)。 2面積を増やす(土地の細分化をなくす)(17C後半~18C) そもそも面積が少なくないから、年貢量が少なくなるわけである。ならば、何らかの手段で面積を増やせば問題はない。増やした方法は以下のとおりである。 稲作が出来るような土地(新田)の開発 新田開発にも、お金がかかるわけです。そこで、幕府はそのお金をお金持ちである町人や武士に出資させたのである。ちなみに、一部の地域では、農民自らが新田開発をすることもあった。 土地の細分化をなくすこと そもそも土地の細分化をしてしまうことが問題である。そこで幕府は、ある土地の面積以下になったら、土地の細分化を禁止する法律を制定した(※)。 3少ない土地でも効率よくたくさん栽培できる工夫をした。 農具の改良や商品作物を用いた肥料を使った(『コンプリート』参照)。 4土地を地主に売る(農民側のアクション)+都市の出稼ぎにでる(18世紀)。 1や2を行っても、土地が少ないため、農民の生活が困窮するケースがあった。農民は生活費を稼ぐために、土地をお金持ちの農民に売った(※)。 土地を売った農民の人は職を失う。その結果、豪農の下で働くようになった。その働いている様子は、一方的にコキ使って安い給料で働かしていたのである(明治時代の寄生地主制と同じである)。その豪農の名称は、明治時代になると、寄生地主という名前である。 それで農民は、都市に出稼ぎに行っていたのである。 その結果、年貢を払わない人が続出した(武士の収入が減った)。土地を売ったら、耕す人が減ってしまうためである。それに対して幕府は、農村に帰れ!と命じた。 明治時代になると、地租改正によって、より多くの小作人を生み出して、寄生地主が大金持ちとなって、間接的に軍国主義を助長させたのは、地租改正を参照してください、。 ■改革期 徳川綱吉 1 勉強熱心で学問奨励 2 貿易を通じて国内の金・銀が少なくなったこと、元禄文化発展による経済活動の活発化により貨幣の需要が高まったことなどにより、 貨幣を増やそうとしたが、金の量に限りがあるので、貨幣の質を落として金を増やした →下げた分の金は幕府の収入とし、保管する。そうすると幕府の権力=国力(国の信用度)を高めることができる。 →民衆の手持ちの貨幣が増える分、物価は高騰。 新井白石 →学者。理想主義。 →貨幣価値をもとに戻した。(金の比率を高くした。残った部分には何を入れたか?→食塩、硝酸カリウムなど) 田沼のイメージ 年貢だけに頼りたくない →株仲間 蝦夷地調査(ビジネスチャンス!海産物とれる!) ↓ ・海産物を輸出するため、 長崎貿易奨励→(国内に不足していた)金銀をもらって補う! ・金銀が少なくなったので、銅を輸出 ※もちろん、年貢に頼ることもする。印旛沼の開拓など ※印旛沼の開拓理由は、水野の場合と違う。 水野は、アヘン戦争による列強(イギリスなど)の脅威に対抗するために、印旛沼からすぐに太平洋に出れるようにという意味で開拓した。 松平のイメージ ①米 ②思想統制 理由:国内で幕府への反発があり、改めて支配のために思想を統制する必要が生じたから (当時も中国とは貿易をしていたので、そのなかで陽明学など他の思想が流入してきた。そのため、儒学への反発が高まりそうになったのを防ごうとしたから) 外国からの脅威(ロシア船がやってくるなど)→民衆の混乱→秩序のしきり直しが必要だった 田沼で政治が乱れたから ■米商人 → 集めた年貢をそのまま売っている 年貢は大阪の蔵屋敷などに集まる ■貨幣経済の広まり 貨幣経済自体は奈良時代からやっていた それが江戸時代のこの時期になって一気に発展 (朝廷がつくった和同開珎が貴族たちに広まったが、だんだんみんな朝廷に従わなくなり、使わなくなった。そして室町ぐらいからまた徐々に貨幣が発展、江戸時代でもっと発展した。)
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登録日:2010/07/14(水) 00 28 47 更新日:2024/04/20 Sat 08 05 10NEW! 所要時間:約 7 分で読めます ▽タグ一覧 おばちゃん声 さいたま市 むふふな大奥 コードギアス ヌギタテダーー!! フリー声優 ミスジャスコ 埼玉県 声優 声優項目 天の声 新井里美 独特のインパクト 白井黒子 複数の意味で黒子役 生年月日/1980年7月4日 血液型/AB型 出身地/埼玉県さいたま市(旧与野市) かなり独特な声を持つ人気女性声優。 声優になるべくしてなった声優である。 恐らく一度聞いたら忘れないと思う。 出身高校はおおきく振りかぶってやエースをねらえ!のモデルになった埼玉県立浦和西高等学校。 卒業後に専門学校東京アナウンス学院放送声優科に入り、ゆーりんプロに入社。 2001年海外ドラマの「私はケイトリン」の吹き替えで主演でデビューしたという珍しい経歴の持ち主。 2012年元旦、CD発売イベントでゆーりんプロを退社しフリー化したことを発表。 2016年には個人事務所として新井声作所を立ち上げ、現在に至る。 既婚で子持ちである事を2013年3月のブログで公表している。旦那は同じく声優の下山吉光。 『FAIRY TAIL』では公表前から夫婦共演しており、後にお互いが演じたキャラクターも結婚している。 《エピソード》 ◇劇場版 機動戦士Zガンダム 新井は劇場版のファ・ユイリィの役に抜擢された。 当時それなりにキャリアを積んでいた新井がいざ収録に取り掛かってみると監督の富野由悠季から 「お前、一体いくつだ?今まで何やって生きてきたんだ!?」 と演技について厳しく指摘されてしまう。 当然新井は相当なショックを受け、「電車に飛び込んでやろうか」と思ったくらい悩んだという。 それでもファ役を演じ切り、以降のゲームなどでも同役を継承した。 なお監督の富野からは後に謝罪を受けて和解したとのこと。 ◇容姿 Googleなどで画像を検索してみるとわかるが、新井はなかなかの美人でモデル体型である。 しかし、ラジオなどを聴くとわかるが一度がトークとなるとカオスの一言である。 それこそ金田朋子を彷彿させる喋りである。 あまりのカオスっぷりからか生天目仁美からは 「喋らない方が良いんじゃない?」 と言われる始末である。 ◇まほらば この作品においてはメインヒロインである、蒼葉梢、赤坂早紀、金沢魚子、緑川千百合、紺野棗の5役(正確に言うと同一人物の別人格)を演じている。 よく演技が全部同じじゃね?と言われてしまう新井だが、そんな風に思ってしまうアニヲタ諸兄はは是非この作品を見ていただき、演技の違いをわかって欲しい。 ◇J.C.STAFF 新井は釘宮理恵と同じくJ.C.STAFFの作品によく出演する。 中でも釘宮と共演したシャナシリーズでは燐子と巨大キューピーを。 更に、ゼロの使い魔シリーズではヴェルダンデとフレイムなどをやってる。 やたらと人外役が多いのは何故だろうか。 また『オオカミさんと七人の仲間たち』では天の声を担当している。 誰かを彷彿させるようなナレーションを行っており、見ていて面白いが、他キャラを食ってる気がしなくもない。 そのあたりは賛否両論か。 まあ、そのとある淑女もJ.C.STAFFだったりするが(下記参照)。 ◇ヘボット! 2016年9月18日、ニチアサキッズタイムに爆誕した子供向け販促アニメの皮をかぶったパロディ満載のマジキチギャグアニメ…の皮を被ったシリアスなSFアニメ、なんていう怪作(個人的には褒め言葉)。 新井は主人公その1のヘボットに一方的に想いを寄せ、もう一方の主人公ネジル・ネジールには邪険な態度をとり続ける美少女…のオーバーボディーを被ったボキャボットキャラ・ボキャ美をはじめとし、土星の異形な悪質クレーマー・土星ババア…のオーバーボディーを着た善悪を超越した(としか言えない)美少女の姿をしたサートゥルヌス、他数種類のキャラクターを見事に演じ分けている(ネジル役の田村奈央女史、ヘボット役の井澤詩織女史も一応は固定だがネジル・ヘボットだけでもいろんな役を演じ分けをしている等、一人で兼ね役が多いアニメである)。 コミカルだが邪悪なクレーマーの土星ババアと可憐な美少女だが本性が土星ババアその物、しかしそれ以上に善悪を超越した調停者・観測者的なサートゥルヌスだけでなく各種ボキャボットの演じ分けでも相当だが、ボキャ美の演じ分けも相当な物で、コミカルで抜けてる所があるが暴走気味な独善的な想いをヘボットに寄せているボキャ美と記憶を失って見た目(オーバーボディーだが)通りの可憐な美少女なボキャ美、さらにはそれに良く似た滅びた文明の姫君・ボキャテリーヌを見事に演じ分け、このマジキチアニメの皮を被ったSFアニメに多大な貢献をなされている一人となっているキャミ。 《主な役柄》 少年声タイプの声優もいる中、新井は少しカオスな背景を持った女性を演じることが多い。 特に声質が声質なので丁寧な口調の淑女やメイドキャラも非常に似合うだろう。 前述したが、女性声優の中では一番人外キャラが似合うかもしれない。 一方で「おばさんの声」にも適正があると言われているのだが、意外に思うかもしれないが老女役は一回もやったことがない。 やったらやったで絶対に似合うと思うのだが… 《代表的・特徴的な役》 ◇要咲良(蒼穹のファフナー) ファザコンで姐御キャラ。 新井が演じた役の中では比較的初期の役柄である。 大半の人が新井が演じていたと気付かなかったのではないだろうか。 ちなみに咲良の気になる相手役の剣司を演じていたのは白石稔だったりする。 この役以降やたらとロボットアニメに出演する機会が増えた。 ◇篠崎咲世子(コードギアス 反逆のルルーシュ/コードギアス 反逆のルルーシュR2) 主人公ルルーシュ・ランペルージに仕えているメイド。 瀟洒だが天然が入っているというどこぞのメイドのようなキャラであり、R2では中華連邦から戻ってきたルルーシュを苦しめた。 また、彼女はただのメイドではなくくの一でもあった。 新井本人も述べていたが、もう少し出番があってもよかったのではないだろうか? コードギアス はんぎゃく日記 このラジオはミレイ役の大原さやかと一緒に組んだ番組で、コードギアス 反逆の山々とは対になっている。 有名なエピソードとしては 大原の「名塚佳織の太もも」という発言に対して 「私はチェックしてた!!!」 と返答したことは一生忘れません。 全く関係ないが、ゲーム『コープス パーティー ブラッドカバー リピーティッドフィアー』では篠原世以子という似たような名前の役をやってたりする。 ◇エトセトラガール(キルミーベイベー) 幼女からお婆さんまで、脇役の女性キャラの声を全て一人でやってのける。 ヘリウムガスを吸った新井ボイスを聞けるのは(多分)キルミーベイベーだけ! ◇畑ランコ(生徒会役員共) 新聞部部長。 カメラを常に持ち歩いており、ネタを見つけるやいなやすぐさま撮影に移る。 自身もカメラは体の一部と豪語している。具体的に指すと(ピー)の部分。 死んでいる目、独特な動き、平然と繰り出される下ネタ、新井里美の演技… これらが合わさってサブキャラでありながら異様な存在感を漂わせている。 見事に声優がキャラを食った一例。 原作者に「自分の畑さんのイメージが変わった」と言わせる程に。 ちなみに、本編では一度だけランコそっくりの新入生が登場した(勿論新井ボイス)。 ランコとは意気投合していたが、それ以降出番が来る事は無かった。なぜだ… ◇白井黒子(とある魔術の禁書目録/とある科学の超電磁砲) ジャッジメントですの! 変態さんだって? いえいえ、淑女ですの。 御坂美琴を愛する少女役を見事に演じている。 あくまで性的に 放送当初は黒子がババア声とかマジ似合わねぇなどと某巨大掲示板などで書き込みされたりした。 だが、今となっては黒子は新井里美以外ありえないと呼ばれる不動の人気キャラになった。 実際、出演者の中でもかなりの人気を誇り、物真似する人も多い。 初春役の豊崎愛生も彼女の物真似を習得、けいおん!!の11話で披露してたりしてた。 ちなみに新井本人はこのキャラには気品が欲しいと述べていた。 また、迷い猫オーバーラン!では美琴と黒子(中の人的な意味で)が佐藤と鈴木を演じていた。 そして、GジェネWORLDでは新井演じるフローレンス・キリシマ姐さんがデモで原作で美琴(中の人的に)を喰い殺した、 ケルベロスバクゥハウンドに乗っていた。 おいスタッフ狙っただろ。 余談だが、仮装大賞では黒子役として出演していた。 新井にとっては黒歴史だろうか…。 死去した井上瑤や白石冬美から持ち役の一部を引き継いだ。 《その他出演作》 ◇ツグヨ(ポケットモンスター アドバンスジェネレーション) ◇菅野純子(地獄少女) ◇蒼葉梢(まほらば~Heartful days) ◇花田煌(咲-Saki-) ◇ベアトリス(Re ゼロから始める異世界生活) ◇イバレラ(ベルセルク) ◇矢口なみえ(ハイスコアガール) ◇ファ・ユイリィ(劇場版 機動戦士Ζガンダム) ◇魔法の水晶/キャシー(魔法つかいプリキュア!) ◇ビシン(HUGっと!プリキュア) ◇白瀬真澄/シラーセ(通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?) お~ね~え~さま。 追記修正のお時間ですの △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 何気にルパンガールに選ばれてるんだよね -- 松永さん (2013-06-20 15 27 14) 老女役ならキルミーベイベーでやってたのを見たことあるような・・・ちょい役だったけど -- 名無しさん (2013-08-01 10 47 41) マジで声がすごいwwww -- 名無しさん (2013-08-01 13 10 17) 黒子の演技が半端無さ過ぎるwww新井さんじゃないとアレは無理だわwww -- 名無しさん (2013-08-04 00 18 08) 個人的には生徒会役員共の畑さんがツボ -- 名無しさん (2013-08-08 03 24 38) お禿さまは相変わらずスパルタンである -- 名無しさん (2013-08-08 23 42 50) コナンのゲームに二度くらい出演 -- 名無しさん (2013-12-18 01 39 26) 初見はヒゲぴよだった。禁書に出てるのは後で知った -- 名無しさん (2013-12-21 19 33 45) 禿の洗礼を受けて生き残ってるとはすごいな -- 名無しさん (2013-12-22 00 35 19) ↑何だかんだハゲが指導するとすごく上手くなりますし -- 名無しさん (2013-12-22 00 44 45) ↑耐えきれず潰された声優の数もその倍以上いるらしいけどな -- 名無しさん (2014-01-18 02 32 00) ↑上手くならなかったら劇中で殺して主役を変えるなんて言うのが御大だからなぁ…。 -- 名無しさん (2014-01-18 02 38 51) 黒子って言われると舞台の陰でお仕事をする黒子なんだけど、あ~この人ポケモンに出てるよ~、印象深いのは格闘道場の回、いやあの人めちゃ強かったから「お前が継げよ」って思った。 -- 名無しさん (2014-05-28 23 09 29) 地味にシャッタッ君も凄いと思う -- 名無しさん (2014-05-28 23 22 13) シドニアの熊いいわ -- 名無しさん (2014-06-02 00 13 39) この人、そんなに特徴的な声してるかなぁ? -- 名無しさん (2014-09-18 19 24 40) 黒子役のおかげで、某ゾンビゲームのボスの名前がjudgmentってだけで「汚ねえ新井さんだな」と某男性声優に言われる始末。(すぐに新井さんは関係ないと訂正したけど) -- 名無しさん (2014-09-18 20 35 11) シャンタッ君っていや、アニメで声優ネタもあったな。クー子が黒子って言った時に何故か騒ぎ出すやつ。 -- 名無しさん (2014-10-13 22 07 17) 子供向けアニメな「王さまシリーズ」のナレーターもやってたね。たまたま、見てびっくりしたが。ちなみに、王さまの声はキルミーで共演してたチョーさんだった。 -- 名無しさん (2015-02-16 20 34 20) 同期はあの宮野真守 子役時代に吹き替えで共演して以来の仲だとか…濃すぎるだろ -- 名無しさん (2016-01-07 19 45 56) (ぴちぴちピッチ)ココ -- 名無しさん (2016-05-22 16 47 18) ボキャ美はどうよ? -- 名無しさん (2016-11-13 13 17 18) ボキャ美と土星ババァを同時に…ってこの人すげぇな -- 名無しさん (2017-01-15 11 34 42) 『ヘボット!』でもボキャ美、土星ババァとかいろんな役やってたな、しかもうまく。 -- 名無しさん (2017-02-25 20 33 52) ビシンとか最近の牙 -- 名無しさん (2020-10-20 03 03 46) 最近のが載ってるのにリゼロのベアトリス(ベア子)がいないのなんで? -- 名無しさん (2020-10-20 03 04 25) 若い女の子もできればおばさんもできる幅広い人 -- 名無しさん (2021-01-08 20 44 01) 3代目モノクマの中の人はこの人がいいな。 -- 名無しさん (2024-04-19 19 35 26) 名前 コメント
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問題 表示 解答 補足 1600年にオランダ船・リーフデ号が漂着しました 臼杵湾 うすきわん 1606年に陸奥国の戦国武将 安蘇国重が築いた城です 人首城 ひとかべじょう 1609年に豊臣方への備えとして徳川家康が兵庫県に築城した城 篠山城 ささやまじょう 1629年に即位した、称徳天皇以来の女性天皇は○○天皇? 明正 めいしょう 1653年に日光山輪王寺に造営された徳川家光の廟所です 大猷院 たいゆういん 1837年に乱を起こした越後国の国学者 生田万 いくたよろず 1865年に江戸幕府の最後の大老となった姫路藩主 酒井忠積 さかいただしげ 2010年に礎石の遺構が発見された小堀遠州が設けた「空中の茶室」 閑雲軒 かんうんけん 「赤城の山も今宵限り」の名文句で有名な江戸時代の侠客 国定忠治 くにさだちゅうじ 『赤蝦夷風説考』の著者・工藤平助の娘である江戸時代の随筆家 只野真葛 ただのまくず 『江戸新道』『都曲』などの作品がある江戸時代の俳人 池西言水 いけにしごんすい 「寛政の三博士」の一人です 古賀精里 こがせいり 「寛政の三博士」の一人です 尾藤二洲 びとうじしゅう 「元禄の四俳女」と呼ばれた江戸時代の女流俳人の一人 度会園女 わたらいそのめ 「元禄の四俳女」と呼ばれた江戸時代の女流俳人の一人 秋色女 しゅうしきじょ 『酒井銀鵝公俳句集』などの句集も残した江戸時代中期の姫路藩主 酒井忠以 さかいただざね 「定信」の字を分解して題名をつけた松平定信の自叙伝 宇下人言 うげのひとこと 「蕉門十哲」に数えられる江戸時代の俳人です 榎本其角 えのもときかく 「蕉門十哲」に数えられる江戸時代の俳人です 各務支考 かがみしこう 「蕉門十哲」の一人に数えられる江戸時代の俳人です 越智越人 おちえつじん 「不夜庵」「水語」などの別号でも活躍した江戸時代の俳人です 炭太祇 たんたいぎ 『見返り美人』で有名な江戸時代の浮世絵師です 菱川師宣 ひしかわもろのぶ 「雪の朝 ニの字ニの字の 下駄の跡」と詠んだ江戸時代の女流歌人 田捨女 でんすてじょでんすてめ 「妖怪」とあだ名された天保の改革の推進者 鳥居耀蔵 とりいようぞう 愛宕山を馬で駆け上ったエピソードが有名です 曲垣平九郎 まがきへいくろう 兄に画家の光琳を持つ江戸時代の陶工 画家です 尾形乾山 おがたけんざん アメリカ公使館通訳ヒュースケンを暗殺した薩摩藩の藩士です 伊牟田尚平 いむたしょうへい 安政の大獄によって処刑された水戸藩の家老 安島帯刀 あじまたてわき 安政の大獄における逮捕者第1号となった儒学者 梅田雲浜 うめだうんぴん 家綱から吉宗まで5代の将軍に仕えた江戸時代の儒学者 林鳳岡 はやしほうこう 伊東氏が藩主を務めた宮崎県日南市にあった藩 飫肥藩 おびはん 上田秋成の師匠である、近世読本作家の祖とされる江戸時代の作家 都賀庭鐘 つがていしょう 上野寛永寺を拠点に江戸の警備にあたりました 彰義隊 しょうぎたい 江戸、天明の狂歌三大家とは唐衣橘洲、大田南畝と誰? 朱楽菅江 あけらかんこう 江戸時代、旗本・御家人の代理で蔵米の取り引きをしました 札差 ふださし 江戸時代から作られている東京の名産品です 佃煮 つくだに 江戸時代後期に長州藩の藩主 毛利敬親の侍医を務めた医者 青木周弼 あおきしゅうすけ 江戸時代初期に加納藩主安藤信友が興した茶道の流派 御家流 おいえりゅう 江戸時代初期に対馬と朝鮮が結んだ通商条約 己酉約条 きゆうやくじょう 江戸時代前期に南村梅軒と祖とする南学を大成した土佐の儒学者 谷時中 たにじちゅう 江戸時代前期の儒学者伊藤仁斎の著書です 童子問 どうじもん 江戸時代中期から明治時代にかけて使われた女性用の被り物 御高祖頭巾 おこそずきん 江戸時代中期に伊予吉田藩の藩医を務めた医学者です 平住専安 ひらずみせんあん 江戸時代中期に活躍した、現在の兵庫県出身の俳人「上島○○」? 鬼貫 おにつら 江戸時代に罪人を入れ運んだ籠 唐丸籠 とうまるかご 江戸時代に、大槻玄沢が江戸に開いた蘭学塾 芝蘭堂 しらんどう 江戸時代に、人足が川を渡る人を乗せて対岸へ渡った台のこと 輦台 れんだい 江戸時代に岡山藩にあった庶民のための学校です 閑谷学校 しずたにがっこう 江戸時代に書かれた日本最古の釣りの解説書 河羨録 かせんろく 何羨録 江戸時代に籠を担いで町を売り歩いた商人のこと 棒手振り ぼてふり 江戸時代に魚市場や水産業者をこう呼びました 五十集 いさば 江戸時代に薩摩藩で行われた子弟の教育法は○○教育? 郷中 ごじゅう 江戸時代に多数の参拝者でにぎわった向島の神社です 三囲稲荷 みめぐりいなり 江戸時代に使われ始めた屋根の瓦の種類です 桟瓦 さんがわら 江戸時代に造られた細長く屋根のない舟 猪牙舟 ちょきぶね 江戸時代に博物書『庶物類纂』を編纂した加賀金沢藩の医者 稲生若水 いのうじゃくすい 江戸時代に発明された消防ポンプの一種です 龍吐水 りゅうどすい 江戸時代に広瀬淡窓が豊後国日田に開いた私塾 咸宜園 かんぎえん 江戸時代に広まった、鰯を干して乾燥させたものを固めて作る肥料 干鰯 ほしか 江戸時代に武士が領地を治めたことをこう言います 知行 ちぎょう 江戸時代によく見かけました 丁髷 ちょんまげ 江戸時代に離婚するときに書かれた離縁状のことです 三行半 みくだりはん 江戸時代の「三大和算家」とは関孝和、久留島喜内と誰? 建部賢弘 たけべかたひろ 江戸時代の医師・華岡青洲が乳癌手術に用いた麻酔薬 通仙散 つうせんさん 江戸時代の街道の一里塚に植えられました 榎 えのき 江戸時代の画家・尾形光琳の代表作は『○○○図屏風』? 燕子花 かきつばた 江戸時代の画家・尾形光琳の代表作は『○○○○図屏風』? 風神雷神 ふうじんらいじん 江戸時代の画家・尾形光琳の代表作は『○○○図屏風』? 紅白梅 こうはくばい 江戸時代の画家・司馬江漢が残した銅版画です 三囲景図 みめぐりけいずみめぐりのけいず 江戸時代の思想家 石田梅岩の著書 都鄙問答 とひもんどう 江戸時代の儒学者室鳩巣の著書です 駿台雑話 すんだいざつわ 江戸時代の政治家・新井白石が政権の変遷を論じた歴史書 読史余論 とくしよろん 江戸時代の奉行所で法廷にあたる場所 白洲 しらす 江戸時代の武士が持っていた特権のひとつ 切捨御免 きりすてごめん 江戸時代末期に公武合体政策を推進した幕府の老中です 久世広周 くぜひろちか 江戸時代を舞台にした小説やドラマでおなじみです 渡世人 とせいにん 江戸城開城の際に新政府軍の勅使を務めた人物です 橋本実梁 はしもとさねやな 江戸中期に幕府の命で木曽三川の治水工事を指揮した薩摩藩の家老 平田靱負 ひらたゆきえ 江戸幕府が全国の諸大名に命令してお城などを作らせた土木工事 天下普請 てんかぶしん 江戸幕府最後の大老である播磨姫路藩の第8代藩主 酒井忠績 さかいただしげ 江戸幕府の直轄地に置かれた奉行 遠国奉行 おんごくぶぎょう 江戸幕府最後の老中首座 板倉勝静 いたくらかつきよ 江戸幕府の将軍に直属した旗本や御家人の総称 直参 じきさん 江戸幕府の第9代将軍 徳川家重の幼名です 長福丸 ながとみまる 江戸幕府の直轄領のこと 天領 てんりょう 大坂城や駿府城に置かれた江戸幕府の役職です 城代 じょうだい 大坂の陣にも従軍している広島市の庭園・縮景園の作者 上田宗箇 うえだそうこ 大阪冬の陣の激戦地の一つ 博労淵 ばくろうぶち 大阪冬の陣では豊臣軍を打ち破るも、その後夜襲を受けました 蜂須賀至鎮 はちすかよししげ 火事とともに「江戸の華」と呼ばれました 喧嘩 けんか 歌舞伎俳優の初代・市川団十郎が狂言本を書くときに使った筆名 三升屋兵庫 みますやひょうご 株のチャート解析法・酒田五法を考案した天才相場師です 本間宗久 ほんまそうきゅう 喜多川歌麿の美人画にも描かれた寛政三美人の一人 富本豊雛 とみもととよひな 岐阜県大垣市に記念館がある江戸時代後期の詩人です 梁川星巌 やながわせいがん 現在の均一ショップにあたる江戸時代の価格が一律のお店 四文屋 しもんや 相模小田原藩の初代藩主を務めた江戸初期の老中です 大久保忠隣 おおくぼただちか 渋川春海が編纂した暦です 貞享暦 じょうきょうれき 将棋の世界でも有名だった江戸時代の数学者です 久留島喜内 くるしまきない 将軍・徳川家斉の息子である第11代尾張藩主です 徳川斉温 とくがわなりはる 将軍・徳川家斉の息子である第12代尾張藩主です 徳川斉荘 とくがわなりたか 随筆集『甲子夜話』で有名な江戸時代の平戸藩主です 松浦静山 まつらせいざん 戦国時代から江戸時代にかけて大名の直轄地のことを指した言葉 蔵入地 くらいりち 全国を遊行して仏像を作った江戸時代後期の彫刻家です 木喰 もくじき その私塾の名前にもなった国学者・平田篤胤の号 気吹舎 いぶきのや 第5代将軍・徳川綱吉の侍医も務めた江戸時代の医者です 安倍瑞屯 あべずいじゅん 代表作に『三十六歌仙図屏風』がある江戸時代の画家です 土佐光起 とさみつおき 代表作に『十便十宜図』がある江戸時代の画家です 池大雅 いけのたいが 代表作に『動植綵絵』がある江戸時代の画家は伊藤○○? 若冲 じゃくちゅう 代表作に『亦復一楽帖』がある江戸時代後期の画家です 田能村竹田 たのむらちくでん 代表作に国語辞典『和訓栞』がある江戸時代の国学者 谷川士清 たにかわことすが 高橋泥舟・山岡鉄舟とともに「幕末三舟」と呼ばれました 勝海舟 かつかいしゅう 長州征伐の責任を取って自害した幕末の長州藩家老 周布政之助 すふまさのすけ 著書『靖献遺言』で知られる山崎闇斎門下の江戸時代の儒学者 浅見絅斎 あさみけいさい 著書に『聖教要録』がある江戸時代の儒学者です 山鹿素行 やまがそこう 著書に『民間備荒録』がある江戸時代中期の医者です 建部清庵 たけべせいあん 月のクレーターに名を残す江戸時代の和算学者 安島直円 あじまなおのぶ 天保の改革をした水野忠邦の長男で老中を務めたのは水野○○? 忠清 ただきよ 天文観測機器を多く改良した江戸時代の暦学者 間重富 はざましげとみ 動植物を描いた、江戸時代の画家・伊藤若冲の代表作です 動植綵絵 どうしょくさいえ 徳川秀忠、家光に「新陰流」を伝授した剣術家 柳生宗矩 やぎゅうむねのり 徳川吉宗の側近として活躍した江戸時代の数学者です 山路主住 やまじぬしずみ 徳川吉宗の玄孫にあたる幕末に老中首座を務めた人物です 板倉勝静 いたくらかつきよ 徳川吉宗の時に定められた江戸幕府の職俸制度 足高 たしだか 特定の商人が生糸を一括購入する江戸時代の制度 糸割符 いとわっぷ ドラマ『水戸黄門』でもおなじみの江戸時代に薬を入れた道具 印籠 いんろう 中山道の追分と北陸道の高田を結んだ江戸時代の街道です 北国街道 ほっこくかいどう 日本初の天体望遠鏡を独学で製作した江戸時代の職人です 岩橋善兵衛 いわはしぜんべえ 後に三世雪中庵となった江戸中期・後期の俳人です 大島蓼太 おおしまりょうた 幕府天文方の翻訳掛を務めた江戸時代の蘭学者 箕作阮甫 みつくりげんぽ 幕末に軍艦奉行、外国奉行を務め日本の近代化に貢献した人物です 小栗忠順 おぐりただまさ 芭蕉が「東三十三国の俳諧奉行」と呼んだ、「蕉門十哲」の一人 杉山杉風 すぎやまさんぷう 林羅山によって江戸幕府の官学になりました 朱子学 しゅしがく 藩校・明徳館を設立した18世紀後半の秋田藩の名君 佐竹義和 さたけよしまさ 病弱のため30歳の若さで死去した伊勢長島藩の初代藩主 菅沼定仍 すがぬまさだより 広瀬淡窓や稲村三伯の師匠である江戸時代の儒学者 亀井南冥 かめいなんめい フランス式訓練を受けた江戸幕府直属の近代歩兵部隊 撤兵隊 さっぺいたい 閉門よりも重く、改易より軽い江戸時代の刑罰 蟄居 ちっきょ 別名「四方赤良」という江戸時代の狂言師 大田南畝 おおたなんぽ 戊辰戦争の際の会津藩の家老 西郷頼母 さいごうたのも 松尾芭蕉の死後に門人の河合乙州がまとめた、芭蕉の俳諧紀行です 笈の小文 おいのこぶみ 松平定信に重用された江戸時代の国学者です 村田春海 むらたはるみ 丸橋忠弥とともに慶安の変を起こしました 由井正雪 ゆいしょうせつ 三重県の名産品、萬古焼を創始した江戸時代の陶芸家 沼波弄山 ぬなみろうざん 山本常朝が口述した武士の心得『葉隠』を筆記した鍋島藩士 田代陣基 たしろつらもと 雪の観察結果を『雪華図説』としてまとめた古河藩の藩主 土井利位 どいとしつら ライト兄弟より120年も前に初めて空を飛んだ日本人 浮田幸吉 うきたこうきち 和算家・建部賢弘が著した算木を用いた代数学に関する書 円理綴術 えんりてつじゅつ 渡辺崋山による肖像画でも有名な古河藩の蘭学者 鷹見泉石 たかみせんせき
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新井駅 妥当性 新井地区にある駅であり「新井」で問題無いが、広域地名の「但馬山口」でも良い。 所在地 但馬国朝来郡 列車の行き先 寺前方面 和田山方面