約 102,325 件
https://w.atwiki.jp/dangerousb/pages/58.html
学者・研究者 【キャラ名】 【性別】 【専攻】 【能力】 【キャンペーン】 【備考】 天間屋海道 男 魔人発生学 「論文1 タマゴとニワトリよりは無意味だが~ オーヴァーキル 夢幻内極萌 女 魔人学 魔人はどこから来て、どこに行くのか?~ インフレ 夢見崎マセリ 男 魔人発生学 僕が叶える君の世界 TRPG2 佐藤大翔 男 教育学 ナッシングアビリティ アブノーマル 教授 真野風火水土 男 イデアの金貨 SS 鬼屋敷凉 男 数学 ナンバーズ・オブ・デス SS2 遠野近右衛門 男 近きは遠く、遠きは近く 忍法帖 霧生カガネ 男 キメラ製造 ビーストオーダー 東西戦 人造神 アル=ダ=ノーヴァ 男 神意~プロヴィデンス~ W W フォレスト・サワタリ 男 ナムの悪夢 VS忍殺 元 シスター下呂 女 流血少女3 久我原史香 女 歴史 取り乱せし歴史 流血少女3 本田さん 自重14 小保方 女 スパイ2 筑波 博 男 モビリティロボット実験特区 DNG47 イライザ SS4 オクスタム SS4 Dr.デイドリーム SS4 晒名加覧 生物 Lite4 メテオ姉妹 女 天文 おねがいlittle my star 暁 竜宮院ぽよ 女 冥王星祭 喪乃死離 藻乃美 女 1年 青春★ララバイ♪ 暁 シタン・ウール ぷち4 フェイト 男 主よこれぞ我が信仰也 ぷち4 灰石 男 ぼくのかんがえたむてきのぼうぎょほう ぷち4 須張 男 誰が棺桶の中身を確認したのか? ぷち4 銀義羅銀 敏敏丸 男 冥王星祭 黒須賢三 流血AE 徳田博士 男 考古学 サイバーダイブ2 雪村詩織 女 桜七大兵器 SS5 ドラゴン博士 男 畸形爬虫類研究所 SSL 司書 【キャラ名】 【性別】 【学年】 【能力】 【キャンペーン】 【備考】 図書文紀 男 死の前三秒 Aマホ 本屋文 女 コニサーズ・チョイス SS4 本屋文吉 男 SS4 塾講師 【キャラ名】 【性別】 【学年】 【能力】 【キャンペーン】 【備考】 帝流如前 フレア 女 日本語でんG ルーキーズ 元 外道一 男 ホワイトライン・ブラックボード TAG 用務員 【キャラ名】 【性別】 【学年】 【能力】 【キャンペーン】 【備考】 真野兵五 男 亜空間武器庫 自重8 真野風花 女 エア・ロッカー Aマホ 暗殺者 ゴクソツ機構汎用・イの15号 無性 業火展開 流血少女 ゴクソツ猟用機構・イの15~ 無性 業火凝縮 流血少女2 藤原 男 ホリラン4 ムルムルさん 女 召喚 暁
https://w.atwiki.jp/ik-ben-wakei/pages/39.html
教育が科学であるかどうかを検討するために、教育における実験の意味を考察しておかなければならない。科学的であるためには、命題が反復可能であり、かつ事実によって検証可能であることが必要だと考えられている。事実によって検証するために、通常「実験」を行う。その場合の実験とは「何かを試しにやってみる」ということではなく、科学的な実験に必要な要素を満たしていることが不可欠である。命題Aを検証するためには、A以外の要素をすべて同じにして、Aを含む群とAを含まない群のふたつの群を設定した上で実験を行うわけである。 新しい薬の効果を調べる実験では、同じような病気の状態のふたつのグループに対して、新薬を投与するグループと、新薬と称して偽薬を与えるグループにわける。新薬を投与されたグループでのみ明確な効果が見られたときに、新薬は効果があるとされる。 教育の「実験」は様々な点を考察しなければならない。 もちろん実験は頻繁に行われている。文部科学省は昔から「実験校」や「研究指定校」と称して補助を与えながら新しい試みを実践する学校を指定してきた。そうして学習指導要領の内容を変える資料として使ったりする。 それが本当に実験としての科学性をもっているかが、まず検討される必要がある。 教育の必要性や効果は、科学的に検証することが困難である。というのは、元来人間は科学的実験の対象となりにくいだけではなく、医学研究のような限定的な分野での「実験」(人体実験は必須であると考えられている。)ではなく、教育は人格全体を対象にするために、実験が可能であったとしても、それが許されることであるかどうか、極めて疑問だからである。 以上のことを確認した上で、人間を操作するという点について考えておきたい。 いわゆるピグマリオン効果についての実験を素材にしよう。 アメリカの学校で、教師の期待が生徒に及ぼす影響を実験的に調べるために、あるクラスをふたつの群に分け、ひとつの群に対しては、1年間、常に褒めるようにし、期待している旨を伝えた。他の群に対しては、常に誇りを傷つけ、けなすようにして指導をした。もちろん、生徒たちには、その旨は一切知らせなかった。 その結果は、期待を表現し、褒めた群の生徒は、能力の上昇が認められ、けなした群の生徒は上昇しなかった、というものであった。生徒は教師の期待するように、努力するというのが、ピグマリオン効果というものであるが、この実験は、妥当なものだろうか。 以上のような文章が以前のテキストに書かれていたのであるが、人間科学科の神田先生から以下のような指摘を受けた。 先生の「教育学概論2000年度 (同時中継)」を拝見しました。なかなか魅力的で 学生の意欲や問題意識を高める授業であると感心いたしました。 ただ、第1回目の授業をピグマリオン効果のことを取り上げていらっしゃいますが、そ の際、紹介されている実験が私の知っている実験とだいぶ違っています。私の知ってい る研究は下記のような内容です。 [Rosenthal \ Jacobson (1968)の研究] [目的] 教師がある期待(よい成績を上げる子どもだと信じる)を持って子どもに接すると、教師はそれが 実現するようなやり方で子どもに関わり、その期待通りの結果を子どもに生じさせるという仮説(予言の自己成就)のもとに以下のような実験を行いました。 [方法] 1学年~6学年まで各学年3クラスの担任と子どもたちを対象に、新しい知能検査を開発したのでそれを試すための研究というふれこみで実験を行いました。 次に、各クラスからそれぞれ20%の子どもを知能検査とは無関係にランダムに抽出し、新年度の初めに、その子どもたちのリストを各学級担任に提示しました。その際、各担任の先生は「この子どもたちは、この検査によると、この学年にうちにこれまでの成績よりもずっと高い学力を上げる可能性のある子どもたちである」 という偽りの情報を与えられました。 その後、実験者は教師たちと一切関わりを持たず、その学年ののわりに、実験者は、前と同じ知能テストを児童たちに再度実施した。それと同時に、教師たちに対して、 各学級児童全員の知的好奇心の程度と彼らに対する好意度を評定させた。 結果 1学年から6学年まで全体を見てみると、実験群の児童たちの知能指数(IQ)の増加の 程度は統制群 より大きく、特に1,2学年でその傾向が顕著であった。 つまり、教師から期待を持たれた児童は、実際にその期待通り知能指数が伸びていたのである。知的好 奇心や好意度についても実験群は統制群よりもその程度が強いと評定されていた。 結論 児童に対する教師の期待は自己成就し、期待に沿った方向で児童に実現されたのである。 Rosenthal Jacobsonは、この教師期待効果を、ピグマリオン効果と名づけた。 早速インターネットでピグマリオン効果について調べたところ、意外なことがわかった。検索サイトにかけたところ、ヒットした多数(約7割という感じ)は、神田先生の指摘通りなのだが、それだけではなく、3割ほどは私が書いたのと同じ趣旨の説明があったのである。例えば一例をあげておこう。 ほめる教育(ピグマリオン効果) アメリカの教育心理学者ローゼンタール博士は「叱る教育」と「ほめる教育」の効果について次のような実験を行ないました。年齢も学力も同じレベルの30人のクラスA組とB組をつくり、同じ先生が数学、理科、社会、語学等を熱心に教えました。そして試験が終ったあと、A組はきちんと採点し、一人一人間違ったところを指摘し、注意を与えたり叱ったりしました。「こんな簡単なところを間違えるようではダメじゃないか」「君はミスが多すぎる、全て鈍感だ」等と全員を批判し非難したのです。B組は、答案を返さないし結果も発表せず「このクラスは全員よくできている。先生もじつに教えがいがある。すばらしいクラスだ」「それから〇〇君、君は前回よりはるかにいいぞ。この次もがんばれ」というようにわずかな進歩でもほめ、激励し、期待をかけたのです。このようなことを一年間続けた結果、A組の成績はみるみるうちに低下してきて、欠席や遅刻が増え、サボリも多くなったのに、B組の方は全員の成績がめざましい向上を示し、休む者も殆どでなかったというのです。このようなことから、ローゼンタール博士は「人は、ほめられ、期待されれば必ず感動する」「教師の積極的ないし肯定的期待にしたがって、生徒は自ら向上し、よりよい結果をもたらす」「人はこうなりたいなあ、という方向へ必ずいく」という結論をだし、これをピグマリオン効果と名づけました。*7)http //www.hw.kagawa-swc.or.jp/mental/dai25.html これは倉持英雄という元高校教師が書いた本から、筆者自身がホームページに部分的に掲載したものである。ふたりの指摘はふたつの重要な相違点をもっている。 神田先生の指摘によれば、心理学者たるローゼンタールは期待のもてる生徒だという指摘だけして、具体的な指示をしなかったこと、そして、期待されたグループが知能検査の結果が向上したのに対して、倉持氏の紹介では、誉めるグループとけなすグループにわけて教師は実践し、それぞれ誉めたグループは、成績が向上し、叱ったグループは低下したということになっている。 当初の紹介では、多くの学生が疑問をもつだろうと思うし、事実、いろいろと批判がおこった。しかし、このような実験は、あまり意味があるとは言えず、やらなくても長年の経験から、分かっていることを、実験で明らかにしたと言っているにすぎない面がある。だからこそ、批判も強かった。そして、半分の群に対しては、最初から向上を阻害するように、教師の指導を計画したのであるから、批判を受けても仕方なかろう。 しかし、この実験の批判者は、「けなす」ことによる成績の低下や自信の喪失に対して反対しているのだから、ローゼンタールの実験が、そもそも「期待を表明する」だけのものであれば、そうした批判は成立しないことになる。 では、なぜ、私や倉持氏のような実験理解が生じたのだろうか。そこは現時点ではわからない。国際的に広く使用されている心理学の教科書には、ローゼンタールの実験後、何人かの心理学者が更に実験・観察を行った結果、ある生徒への期待を示すと、教師が期待を持たない生徒に対しては、消極的な態度をとることがわかり、そのことが生徒への否定的な結果をもたらす可能性があることを指摘したのである。 以下参考までに英文をそのまま引用しておく。 Using IQ scores or other labels to categorize people may also have more subtle effects on how they are treated and how they behave. In a controvercial study, Robert Rosethal and Leonore Jacobson (1968) found that labels create \textit{ expectancies} that than can have dramatic effects. Teachers were told that a test could indicate which grade-school students were about to enter a "blooming" period of rapid acacemic growth, and they were given the names of students who had supposedly scored high on the test. In fact, experiments \textit{ramdomly} selected the "bloomers". But during the next year, the IQ scores of the bloomers dramatically increased; two-thirds showed an increase of at least twenty points. Only one-quater of the children in the control group showed the same increase. Apparently, the teachers' expectancies about the children influenced them in ways that showed up on IQ tests. How can expectancies become a self-fulfilling prophecy? To find out, Alan Chaiken and his colleagues (Chaiken, Sigler \ Derlega, 1974) videotaped teacher-child interactions in a classroom in which teachers had been informed (falsely) that certain pupils were particularly bright. They found that the teachers favored the "brighter" students in several ways. They smiled at these students more often than at others, make more eye contact, and generally reacted more positively to their comments. Children receiving this extra social reinforcement are not only getting more intense teaching but are also more likely to enjoy school, to have their mistakes cerrected, and to continue trying to improve. These results suggest that the "rich get richer"; those perceived to be blessed with high mental abilities are given better opportunities to improve those abilities. Is there also a "poor get poorer" effect? Clearly, it would not be ethical to conduct an experiment in which children were falsely labeled stupid. However, there is evidence that teachers tend to be less patient, less encouraging, and less likely to try teaching as much material to students whom they do not consider bright (Cooper, 1979; Luce \ Hoge, 1978; Trujillo, 1986). Thus it is not hard to imagine that being tagged with a low IQ score or some other negative label may limit a person's educational opportunities.*8)Bernstein, Roy, Srull, Wickens "International Student Edition, Psychology v2" 1991, p411-412 そして、以下の私の返事メールである。 私の原稿は昔読んだ本の記憶によって書いたもので、確かにあいまいと言えばあいまいでした。 しかし、インターネットで検索できるピグマリオン効果に関する文章を、できるだけ読んでみましたが、必ずしもすべてが神田先生ご指摘のような内容ではなく、私が書いた内容と同趣旨の文章が少なからずあることがわかりました。 そこで、以下のようなことを考えてみたのですが、どうでしょうか。ここは教育学と心理学の分野に関わる問題であるかも知れません。 ご指摘のように、ローゼンタールその他の心理学者が行った実験は、神田先生の書かれた内容だったのだと思いますし、そのような紹介をしているインターネット上の文章もたくさんありました。実験者自身の報告があるでしょうし、心理学の方たちは、その報告が源資料となって、認識が形成されているはずです。 しかし、実験でもわかるように、多数の教師が参加しており、教師によって多様な生徒への関わりがあったと考えられます。 どんなに正確に意図を説明し、行動の範囲を限定したとしても、教師がそれを厳格に守り、統一的な対応がとられたと考えることは、相当な無理があります。 神田先生の説明文によると、ローゼンタールら企画者は、教師たちに、わずかの情報しか与えていないようですが、本当にそうだったのでしょうか。 少なくとも、教師に対して、この子どもたちが期待できるという示唆を十分に与えるものでない限り、教師たちは生徒に期待的態度をとるには至らないはずですから、、教師たちが、その実験の意図を理解できる程度には、説明がなされたと考えられるのではないでしょうか。あるいは、自分で独自に実験の意図を関知した教師がいたということも考えられます。 そして、この実験は非常に有名になったわけですから、マスメディアあるいは評論家等が、教師たちに独自にインタビューして、その紹介記事を書いて行ったということがあるのではないでしょうか。 そこでは、ローゼンタールたちが意図したことを超えて、教師たちが生徒に接した部分が、独自に報告された可能性は十分にあるのだと思います。 そもそも、教育界の人たちは、心理学などにはそんなに興味をもたないものですし、知能指数に対しても、そんなに興味をもたないものです。興味をもつのは、知能指数ではなく、「学力」の方です。 ですから、教師サイドから出た情報が、教師たちの生徒への多様な接しかた、つまり、ある教師は期待する生徒への期待を表明するだけだったが、ある教師は、それ以外の生徒には冷淡に振る舞った、等々、そして、その程度、などが流れ出た可能性はとても高いと思います。 今回のインターネットによる検索でも、心理系のサイトでは、神田先生のご指摘のようなことが多く書かれ、教育系のサイトでは、私の書いたようなものに近いことが書かれていることが少なくありませんでした。 このように、ひとつの実験から、ふたつの経路で、多少異なった情報が流れて、世界に流布した、ということがあるのではないか、というのが、私のいまのところの理解です。 長々とピクマクオン効果に関する実験、そしてメールの紹介をしたが、具体的に教育あるいは人間科学の実験について考えてほしかったからである。 ピグマリオン効果に関する実験には2種類あることがわかる。「期待をもつ」「なにもない」という実験と、「期待を表明する」「期待していないことを表明する」というものである。この実験はそれほど違わないのか、あるいはかなり違う性質をもつのか。 まったく別の実験で人間はどこまで残虐になれるのかというものがある。問題意識そのものはなぜナチズムのように人を大量に殺すような「仕事」を人間はすることができたのかを調べるものだったようだ。実験の内容は有名なものであるが、被験者は「命令」によって別室の人物に電気ショックを与える、別室の人物は(実はサクラで悲鳴をあげる訓練を受けている。)悲鳴をあげるのだが、電圧をどんどんあげるように命じられると過半数の被験者が最高の電圧まであげたという実験である。このように命令されれば人間はどんうな残虐なことでもやってのけるのだということが「証明された」とする。 学生諸君はこうした実験をどのように評価するだろうか。 少なくとも、私の理解する「教育」あるいは「教育学」ではこのような「残虐性」の実験はまったく意味のない間違った実験である。歴史を見れば人間が残虐になれることは、実験をしなくてもわかる。ヨーロッパの魔女裁判や数々の拷問の形態を思い出すだけでよい。(アイヒマン実験) ではピグマリオン効果の実験はどうか。問題は後者の「期待していないこと」を明示的に表現するような実験は反教育的であるといえるだろう。期待されていないことによって人間的な発達の歪みが生じたときに、教師はどのような責任をとるのだろうか。 教育において許される実験は、教師として「このことがよい結果をもたらす」と確信をもつが、まだ実行されていないことを試みるという意味での実験だけだろう。 それでは教育の実験は科学的な意味をもちえないという批判がある。その答えは「その通りだ」といわざるをえない。つまり、教育の実験は科学的なものではないし、またその必要もないということである。 教育でも実験はたくさん行なわれているし、また、新しい教え方を試すということも、実験の一種であろう。新しい教育内容を学習指導要領に加える場合、数年間かけて実験校でその教育可能性・妥当性について調べるために、実験的に教え、その効果を確認するのが普通である。この場合多くは、これまで教えることが困難であると考えられている内容と年齢を検証することであり、もし実験的な教授で可能であると判断されたら、教えるべき内容に組み込まれるという結果になる。これはこれとして、「実験」と考えられるが、科学的な意味での実験とは異なると言わざるをえない。ただ、逆に科学的実験である必要もないと考えられている。 しかし、教育研究において実験よりも多く取られる手法は「観察」である。実際の授業を観察したり、また記録(今はほとんどがビデオ)をとったりして、後で検討する。教師の教え方の妥当性や生徒の反応を見て、よりよい教え方を探るためである。この場合、「統制群」という発想は全く取られない。ただ、そこにいる生徒たちの現状を前提として考えていくわけである。従って、そこで妥当であった方法が、他でも妥当であるかどうかはわからない。 実験に伴う「追試」という方法を追求している団体もある。現在TOSSという名称で、かつては「教育技術の法則化運動」として知られた団体が、ある教え方を有効だとして「定式化」すると、それを他の教師が別の生徒にやってみるという方法である。学校の場合、同じ教材を使用するためにこうした「実験」が可能であり、そこで再び効果的であったと考えられると、それが「法則的技術」として蓄積される。もちろん、ここでは、厳密に、効果が同じであったかどうかは、検証されないし、また、検証も不可能だろう。 しかし、それはあくまでも「ひとつの手法」であると考え、多様な手法がありうると考え、自分が実践する対象の生徒に、もっとも好ましいと考える手法を選択して実践するという立場から考えると、厳密な意味での「法則」ではないが、有用性の検証された手法として認定することはできる。おそらく、教育の手法は、そうした意味での普遍性をもつ。
https://w.atwiki.jp/2ch_otmegame/pages/80.html
教育・先生板 教育実習生 飄々としてるけど根は真面目 担任の教育学板先生や副担の独身貴族板あたりとはライバルイベントなんかもあったらいいと思うんだがどうだろう 「教育学板セ・ン・セ。そんなんじゃ、オレが彼女、奪っちゃいますよ?いいんですねー?」とか 「独身貴族板センセ…やさしすぎると、逆に自分のためになりませんよー?」みたいな 立場が上なだけに女向けは言い返せなくてそれがまた他の嫉妬を煽るという 飄々とした実習生はやや積極的に迫る 真面目で公明正大な担任は敢えて一線を引く 優しすぎるほど優しい副担は想いを隠して今まで通りに接する 三人とも、心はある特定の女生徒に向いていて… みたいな四角関係が浮かんでしまった 教育学 22歳 独身貴族 38歳 教育・先生 実習生(通常なら大学4年で22か23?)
https://w.atwiki.jp/shomen-study7/pages/1993.html
教育法規8解答 1 × 「公教育」の定義は様々であるが、最も一般的には、国家が法的に規定し、その規定によって行なわれている教育制度を指す。私立学校も法律に従って運営されているので、公教育の一部であると考えるのが通常である。イギリスの「独立学校」(多くはパブリックスクールと言われている。)のように、全く国家の補助を受けず、国家の規定にとらわれることなく運営されている学校や、サドベリバレイのように、同じく国家補助を受けず、独自の教育を行なっている学校が「公教育」であるかは、議論のあるところかも知れないが、独立学校やサドベリバレイも公教育と考えられている。そこを卒業すれば大学に進学することができると社会によって認められているから、公教育の一環を構成していると考えるのが自然だろう。 2 ○ 3 × 学習指導要領は戦後の教育改革によって定められるようになったもので、戦前は「国定教科書」であったために、存在の余地がなかった。戦後、国定教科書から検定教科書になり、その基準という意味もあって制定されたが、当初は「試案」とされ、あくまでも参考であり、各学校や教育委員会が総意工夫して、改良しながら教育内容を定めていくことが明記されていた。しかし、1950年代の教育政策(政治状況)の変化によって、国が教育内容の基準を定めるという方向が示され、1958年から「法的拘束力」をもつと宣言され、そのことから多くの教育紛争が生まれた。それまでは、一般書籍のような形で出していたものを、官報に掲載し、「告示」という形式をとった。このことによって、法的拘束力をもつと文部省は主張したが、学説は支持せず、長く争いがあったが、学校教育法施行規則52条によって規定され、現在では法的規定が明確になっている。ただ、国が教育内容の基準をどこまで詳細に決めるべきなのかについては議論がある。最高裁の判決では「大綱的基準」説が採用されている。(全国学力テスト訴訟判決) 教育法規8
https://w.atwiki.jp/ik-ben-wakei/pages/153.html
では親は自分の教育意思を子どもに貫いてよいのだろうか。 民法上は親は子どもに対して親権を有しており、親権の内容として、子どもを教育する権利を含んでいる。私立学校に行かせるか、公立学校にするかという判断は、親の判断によるものであって、行政当局がそれを決める権限はない。 親権とは何かを民法によって確認しておこう。 第二節 親権の効力 (監護及び教育の権利義務) 第八百二十条 親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。 (居所の指定) 第八百二十一条 子は、親権を行う者が指定した場所に、その居所を定めなければならない。 (懲戒) 第八百二十二条 親権を行う者は、必要な範囲内で自らその子を懲戒し、又は家庭裁判所の許可を得て、これを懲戒場に入れることができる。 2 子を懲戒場に入れる期間は、六箇月以下の範囲内で、家庭裁判所が定める。ただし、この期間は、親権を行う者の請求によって、いつでも短縮することができる。 (職業の許可) 第八百二十三条 子は、親権を行う者の許可を得なければ、職業を営むことができない。 2 親権を行う者は、第六条第二項の場合には、前項の許可を取り消し、又はこれを制限することができる。 (財産の管理及び代表) 第八百二十四条 親権を行う者は、子の財産を管理し、かつ、その財産に関する法律行為についてその子を代表する。ただし、その子の行為を目的とする債務を生ずべき場合には、本人の同意を得なければならない。 ここで重要なのは、子どもを「教育する権利」が親権の内容として規定されていることである。これは、新しい教育基本法で一層明確にされた。 (家庭教育) 第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。 2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。 これまで、「子の教育について代一義的責任を有する」という規定は、日本の法体系の中にまったくなかった。ただ、この意味するところは何だろうか。 また、親は子どもの教育を受ける権利を充足させる義務があり、子どもの教育に対しては「義務性」が主要な要素である。しかし、教育が多様であるとすれば、その多様な中からどの教育を受けるのかを決定する権限は、基本的には親以外にはないというべきだろう。しかし、問題となるのは、親は子どもを選べず、親はしばしば恣意的な選択をするという点である。オウムの親たちの選択は「恣意的」である典型的な例であろう。 日本は教育熱心であり、また公教育への信頼感が高いので、公教育を拒否して、独自の教育を受けさせようとする、あるいは義務教育としては仕方ないが、生活全体の子どもへの働きかけを、一般とはかなり異なるように組織する人は少ないが、ヤマギシ会はそうした例外的な形で子どもを教育している例である。 ヤマギシ会は三重県に本部がある、農村共同体であり、会として敷地をもっており、そこで共同生活をしている。原則として家族で入所し、その際全財産を寄付することになっている。大人は農業やその販売を中心とする「労働」に従事し、子どもたちはそこから小学校や中学校に通う。放課後は農作業などがあり、それが子どもを酷使しているという批判を生んでいる。しかし、ヤマギシ会からは、子どもはそうした労働に喜びを見いだしており、これこそ生活と結合した教育なのだと主張している。更にヤマギシ会は独自の教育をより徹底して行うために、私立の学校を設立しようとしたが、ヤマギシ会に疑問をもつ行政が認可しなかったために、学校は作られなかった。しかし、ヤマギシ会を抜けることは難しく、また高校や大学に進学することに対して消極的であったために、義務教育段階で学校教育を終えてしまう子どもがたくさんいたと言われている。 最近の状況は不明だが、脱会するときに財産を返さないことが社会問題化し、当時の大蔵省は税金問題としてヤマギシ会を追い詰めた。 さてネット上で行われた議論を紹介しよう。 <Bさん> 私は、一人っ子の大切な子どもをヤマギシズム学園に送っています。 Aさんのご質問で、真剣に自分はなぜヤマギシズム学園に子どもを送り出すのか、考えられたのです。 ヤマギシの「特別講習研鑽会」というのに行ったと言うだけで、いままで付き合ってきた友達から奇異の目でみられたりします。なのに、子どもを手元で育てず離れた所で子ども同士の暮らしをさせている、といったら、子どもが可愛そう、とか、ヤマギシの言いなりになって騙されている、とか、子どもを捨てるのか等といろいろな事をいってもらえます。私の両親からも「お前をそんなふうに育ててきた覚えはないのに、なぜあんなところ(行った事はないのですがTV、雑誌などの報道で目にしているようです)に、いつまでも子どもをおいておくんだ? あんなところにおいておいたら、普通の生活が出来なくなる。お前達は親じゃない。親なら自分の手元において育てるのが当然だ」と会う度に言ってもらいます。 幼稚園の時から、毎日お稽古事でビッシリ詰まっていて、友達と遊ぶことさえ電話予約が必要な子ども達。たまに子ども同士で集まっていると思ったら、TVのまえで一人一人がゲームに熱中していて、話し声なんて全然聞こえてもこない。公園はたくさんあるのにそこには人影すらない。小学校、中学校で一生懸命勉強して、いい高校にはいって、もっと勉強していい大学にいって、いい会社に就職して・・・いいかげん疲れたのに、就職したら、自分が少しでも早く昇進することに神経をすり減らして・・・ 何のために生きているんだろう・・・ディズニーランドにいって楽しく遊ぶため? 海外旅行するため? 何するためにこんなふうに生きてきたんだろう? なんか違う気がする・・・ でも、社会がこうなんだから、政治が悪いんだから、しかたがない・・・仕方が無いのかな? そして、次の時代を担う子ども達も、こんなことを、思いながら次代に繋いでいくのかな? どこかへんな気がする。 我が子に生き生きと輝ける環境を与えてやりたい。そんなところからヤマギシズム学園というところを考えはじめました。 私は不器用なので、自分の気持ちをうまく表現できないのですが、 <Cさん> わたしも、下記において、心配なので、ご参考まで、書かせていただきます。 いままでの、学校、御自分の子育てに、自信がないから、今回の場合---施設(この場合、ヤマギシの学園とのことですが)にあずけられたようですが、言葉は、悪いですが、Bさんの姿勢は、『他人任せ』であり、この意味ではまえむきでは、ないように思います。 子育ては、子供が、私のように、年少で片親を無くしたか、不幸にして、両親をなくしたかの場合は、年少でも、親元を離れて、しかるべき施設か、親戚に預けられることはあります。 しかし、あなたの場合、母親である、あなたがいらっしゃるではありませんか。このコーナーの親の立場の方は、如何に、御自分が子育てをするのに参考になるかを、必死に、求めて話し合われています。御自分の条件がそろっているのに、特殊な団体に預けるような人は、少ないのではないでしょうか。 わたしは、ヤマギシを批判するために書いているのではありませんが、この会は、この会なりの思想と信条に協賛されて集まられている集団であると考えます。 TVでも、その一端は、見せていただきました。これだけでは、宗教団体か生活集団かはわかりませんが、理想社会を目指している集団であることは、みんなの周知のことです。わたしには、金太郎飴のように、メンバーのどの人に聞いても、「すばらしいヤマギシ」の合唱が聞こえるように受け取れました。個人的な意見では、十人十色の人間の本性には、そぐわないように思えました。 わたしは、思いますが、現在の社会を肯定しながら、人、物、金の資産を有効に、使いながら、現状の社会を改善しようとする方法以外は、如何なる、理想社会を目指す集団も実験段階の過程だと思っています。 そのような団体は、大人が御自分の判断で取り組まれるのには、社会に害しない行為である範囲であれば、多いにされればよいと考えます。----自己責任に置いて。 しかし、判断力のまだつかない、子供さんを預けるのは、早計ではないかとおもいます。まず、子供さんには、現実の社会のオーソドックスな世間の中で成長させ、子供自身の判断で、己が道を歩ませるのが、子供への本当の愛情ではないでしょうか。 (モンスターペアレント問題を考える)
https://w.atwiki.jp/shomen-study7/pages/1466.html
社会教育法
https://w.atwiki.jp/shomen-study7/pages/957.html
教育心理学
https://w.atwiki.jp/shomen-study7/pages/1050.html
公教育制度
https://w.atwiki.jp/dpjwatcher/pages/17.html
子育て・教育に関する5つの約束事 マニフェスト内では、子育て教育に関して以下の5つを約束しています。 「子ども手当」は、子ども1人当たり年31万2000円(月額2万6000円)を中学卒業まで支給します。 公立高校生の授業料を無償化し、私立高校生には年12~24万円を助成します。 大学生、専門学校生の希望者全員が受けられる奨学金制度を創設します。 生活保護の母子加算を復活し、父子家庭にも児童扶養手当を支給します。 空き教室などの活用で保育所を増やし、待機児童解消を目指します。 09年衆院選で民主党を勝利に導いた大きな要因のひとつが、子供一人あたり31万2000円を約束した「子ども手当」などを含む子育て対策である。これら施策によって出生率を引き上げることができるかどうかが、最終的な民主党の政策評価に繋がる。
https://w.atwiki.jp/shomen-study7/pages/503.html
意図的教育