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「アワッテ」が「アワテル」に、日本の方言は古代韓国語の「言葉の化石」~イ・ナムギョの日本語源流散歩44 渡来人らの言葉が土着化した例をさらにいくつか見てみよう。長い間待ち望んでいた誰かが、突 然船に乗って現れた時、この消息を聞いた人はあまりにもうれしく、慌ててどうすればよいか分か らないだろう。 「アワッテ」という言葉は上のような状況の中から出た言葉で、そこから生まれた言葉が「あわてる、 慌てる」という意の「アワテル(慌てる)」だ。物を保管するという「カッタドゥダ」は似た形で残って、 「カタスケル (片付ける)」であるが、その意味は机を「カタスケル」といえば「整理する」、問題を「カ タスケル」といえば「解決する」、娘を「カタスケル」といえば「嫁がせる」、邪魔者を「カタスケル」と いえば「殺す」で、その時その時の状況によって整理する方法を別にしている。 「マチァムヘ」といえばこの頃の若者たちは首をかしげるかも知れないが「とても清楚だ」という韓 国語で「真実で誠実な」ことをいう。このような「マチァムヘな花嫁」は70年代までなら、最も良い良 妻の代名詞であった。この言葉は日本語では「マジメ(真面目)」であるが、漢字表現そのままその 人の真の姿が分かる「真心、真に、誠実、着実さ」という意味を内包している。そして「モヨラ(集ま れ)」という「アツマレ(集まれ)」、「コマン」は日本語で「コバム(こばむ)」で「拒否する」という意味。 手を「展開する」という日本語で「ヒラク(開く)」、「重なる」という「カサネル(かさねる)」、「ソックチダ (ほとばしる)」という「ソビエル(そびえる)」、「ムルダ(熟して柔らかい)」という「モロイ(もろい)」で、 こういう発音を聞くと一瞬、韓国語と勘違いするほどだ。特に古代韓国語は日本の地方の方言の 中にたくさん残っている。 福岡には「ブルティ カテ(火の粉のようだ)」という言葉が変わった「フテガッテ(ふてがってぇ)」があ り、これは「びっくりすること」を現わす言葉だ。嫌いだという意味の‘嫌いだろう’という「シロシ(しろ し)」であり、言葉の後ろに「~ダイ、~マイ(~だい、~まい)」を付ける習慣は慶尚道(キョンサンド) 放言の「カンデイ, カンダイ, カンマイ」という表現と同じだ。 熊本では「ムチォク(非常に)」を「ムシャ(むしゃ)」、「カブル(ふざける)」は「カブル(かぶる)」といい、 長崎では「マルスム(お言葉)」を「マッセ(まっせ)」、「カンドガチ(強盗のように)」を「カンドグチ(が んどくち)」というが、これは「思い出した通りぷつんと吐きだして憎しみを受ける口」を示す言葉だ。 鹿児島では臭いの「ネ」が「ニエ(にえ)」、答える時の「イェ(はい)」が「イイエ(いいえ)」、「カチ(一緒 に)」が「カッスイ(がっつい)」、「ピョンジ(手紙)」は「ヘンジ(へんじ)」となった。 このような方言は日本全国に無数に多い。そしてその語源を確かめてみれば全部古代韓国語に ルーツを求めることができ、このような方言こそ古代韓国語の「言葉の化石」ということができる。 慶一大総長・イ・ナムギョ http //www.imaeil.com/news_img/2009/cul/20091103_152002000.jpg ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-44]‘アきたって’が アワテル http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=47713 yy=2009
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日本人が気分の良いとき発する「コリャコリャ、チョイナチョイナ」は古代韓国語~イ・ナムギョの日本語源流散歩40 韓国の人々、中でも特に慶尚道(キョンサンド)の人々は話の途中で二の句が告げなかったり、考 えがうまく出せない時、間をつなぐ言葉として「マ-」や「ネー」をよく使うが、演説する際に言葉を 間違う人々の特徴の一つがこの「マ-」や「ネー」が好きだということだ。例をあげれば「ところで、 マー」、「それで、ネー」等で古代にも渡来人が栽培法を熱心に教える途中、通じない時にこの「マ ー、ネー」を連発したはずで、この時よく真似れば「そうだ、あってるよ(マンネ)」といいながら称賛 兼激励もしただろう。この時の「マンネ」が日本語の「マネ(まね)」という意味に変わったが、栽培を まねるのは単なる真似ではなく、人生の貴重な知識を習う勉強だから、この「マネ」から派生した 言葉が「マナブ(学ぶ)」という言葉になったのは前に紹介した。 狩猟生活をしていた彼らが農作業を習って豊作になり、米がいっぱいなら食べ物の心配をせずに 冬には幸せな季節がくる。それで冬はゆっくり休んで遊ぼうの「ゆっくり(プク)」が「フユ(冬)」になっ た。そしてこのような豊かさに感謝するため、村の人々が一緒に集まって氏神に祭事を行い、酒と モチを作って一杯飲んで楽しむとき、昔も今も歌の調べがひとりでに出てきて興を加える。古代渡 来人もこのように気分が良ければ「チョクナ・チョクナ(良いな・良いな)」と大声を出した。 そばで聞いていた原住民は、気持ち良かったら「チョイナ・チョイナ」と言い、この時、誰かがそばで 何か話して「クリャ・クリャ」(訳注:「そうそう」「そうだそうだ」を表すクレクレの方言表現か?)といっ たのを、この言葉もそのまま「コリャ・コリャ」と聞いた。それで今でも日本人たちは興がわいて気分 が良いときは「コリャコリャ、チョイナチョイナ」と調子を合わせて楽しむ。こうした言葉は彼らの気持 ちが最高潮に達したことを表す。ところで現代日本人にその言葉がどういう意味かとたずねれば 「分からないです」という答えが帰ってくる。それもそのはず…とても古い「古代韓国語」だから。 レストランで日本人が食事するのを見れば出てくるおかずを一つずつみな食べた次に、最後にご 飯は水をかけてタクアン二切れで片づける。私たちのように食卓にキムチ、カクテキ、コチュジャン、 汁物などをいっぱいならべてあれこれ混ぜて食べる方法をよく知らない。私たちはキムチがあれ ば誰でもご飯と一緒に食べると考えるのが基本常識だが、日本人たちは「キムチ、オイシイ」とキ ムチだけ先に食べてご飯は後ほど水をかけてずるずると飲み干してしまう。私たちは「ご飯だけ食 べたらまずい」と思い、味もそっけもない人を「ご飯の味」というが、こういう日本人たちを見て日本 人たちはご飯をどういう味で食べているのかが分からない。 とにかく韓国語が日本に渡っていきさえすれば品格が高く深くなるのに、この「味(マッ)」という言 葉だけは「マズイ(不味い)」という意味になった理由が分かるようだ。 慶一大総長・イ・ナムギョ http //www.imaeil.com/news_img/2009/cul/20091006_151413000.jpg ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-40]チョイナ・チョイナ(良いな・良いな) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=43629 yy=2009
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日本語の「挑む」は韓国語の「イ・トムビダ」から、「そっくり」は「サグリ」から~イ・ナムギョの日本語源流散歩43 日本へ渡っていった最初の渡来人らによって基本的な言語が成立した後に渡っていった新渡来人らの 言葉、やはり歳月の流れにより語幹だけ残って語尾は土着語へ変わって強い意味を持つようになるの だが、そういう言葉たちは現代にどんな形態で残っているのか調べてみよう。 先に戦いを挑む時に使う言葉の「トムビダ」(挑む)は日本に渡っていって接頭語「イ」(この)という兜を受 け取って「イドム(挑む)」になって「挑戦する」で強くなるのだが、韓国語の「トムビダ」は拳での戦いを連 想し、日本語の「イドム」は刃物を抜く決戦を連想させる。これは韓国と日本の戦いの方式が違うためだ。 私たちは大概けんかをすれば悪口で始めてせいぜいげんこつが行ったり来たりする程度なのに、こう いう戦いが法廷まで続いた時も理由はどうであれ誰が先に手を出したかが処罰の軽重を左右する。し かし日本の戦いはそれこそ生と死の別れ目を行き来してそのままつまらなく終わる法はない。それこそ けりをつけることだ。それでお互いの善し悪しを分け合う。違う話になるが「合うよ」(マッタグ)も日本に渡 っていくともう少し強くなって「マッタク」(まったく)になるのだが、これは「完全に、全面的に、とても、本当 に」という意味だ。唐辛子も日本の唐辛子の方が辛いが、おそらく海を渡っていくと言葉もこのように辛く なるのだろう。 「サグリ」は慶尚道(キョンサンド)の方言で「サックリ」という言葉であり、「芽(サク)まで全部削り取って」と いう意味なのだが、今日の「サックルコ」(皆掻いて)にも相通じる言葉だ。これと似た言葉では「カングリ (すっかり)」という言葉があるのだが、こうした言葉で分かるように「クリ」というのは「全部」という意味だ。 「サクッスリ」といえば韓国の人ならば多分分からない人がないほどの大衆的俗語なのだが、この言葉は やはり「サグリ」から発展した言葉だ。 「サクッスリ」という用語は花札の賭博で使う言葉で、底に敷かれている花札を丸ごと持ってくるということ で、21世紀のハッピーな韓国人たちが英語から取ってきた新造語だ。 国民の娯楽のようになった花札の賭博!韓国人ならば誰でも老若男女関係なく楽しむ遊びなのだが、こ の花札の原産地が本来日本という事実を知る人はそんなに多くない。ところでどうしたことか日本ではこ の花札が「賭博」だと敬遠視してチンピラなどが若干するほどに種が滅びたが、どうして韓国はそのように 好むのか分かりながらも分からない。 そのように見れば日本人たちが最も好む「オチャ(お茶)とサクラ(桜)」は韓国が原産地で、韓国人が最も 好む「唐辛子と花札」は日本から渡っていったので、多分気候風土がそのように作るということだろうか? とにかくこの「サグリ」という言葉は日本に渡っていって「ソックリ」(そっくり)になるのに、その意味は「全部、 丸ごと、ことごとく」という言葉であり、「そのまま、そっくり似た」という意味でも使われる。 慶一大総長 ソース:毎日(メイル)新聞(韓国語) 2009/10/28 15 11 http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=46714 yy=2009 (編集者注) お茶の起源は中国であり、日本では唐の時代に中国からの輸入品が普及したそうです。 桜は種にもよりますが、世界各地で自生しているそうです。
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肉土(土)が 佐藤(さと, 里) で~イ・ナムギョの日本語源流散歩46(機械翻訳) 故郷があると言うことは本当に良いのだ. 遠く去る暮しても常に幼い時遊び回った故郷は思い浮かぶことだけでも心の平安と休息を与える. そして韓国の人々は遠く異国に出る肉の時呼びながら涙を流す歌がある. それはであったから少ないこともないがそれでも一度重ねて言う心情で使って見る. "〓私の住んだ故郷は華やかになる山里, 桃花杏の花赤んぼうつつじ.〓〓川辺りには糸柳踊る町内, その中で遊んだ時が懐かしいです.♪" 陰鬱な時も, 嬉しい時も, 懐かしい時も, 何か息苦しい時も, この歌を歌えば胸が暖かくなる故郷の幼かった時代が香ばしく感じられる来る. なぜだろう? それは希望多かったオリン時代住んだ所だからだ. 特に在日韓国人たちは悲しい歴史の主人公なのでそうか祖国に対する愛着は他の人々よりずっと大きい. 節日ごとに民団に集まる踊る人々の姿を見るあっていたら自然に涙が出る. 住んだ所 は 住んだ地(土) を言いながらこれは 肉土(土) なのに, この言葉が変わって日本語の 佐藤(里) すなわち, 故郷 と言う(のは)話になる. 故郷を背く遠く去る人々はすべてそれそれなりに理由があるのに, この 理由 は日本語で わするように と言う. これは慶尚道方言の わするように, ワカノ-, 瓦解 すなわち, どうしてそうだから が弁韓言葉だ. 故郷で睦まじく過ごした幼なじみはいつのまにか青春になる, 丘の上に流れる雲を眺めながら飛ぶヤマドリと谷の物価の踊った手探りして, 遠い後日を約束する 空が 私遠くで悲しい様を送るのに, ここで 空が は日本語で ハルカ(はるか) になる, 遥かに, あの遠く という意味だ. 故郷に一人きり立つことは彼女は見たい心情をなぐさめる道ないなつかしき心に 静かに 動産に登って様いらっしゃったゴゲッマルに向けて祈る日が多くなる…. ここで 静か と言う言葉は 所要(そよ) で 静かに動く姿 を言う. ボムがウルはそれほど流れるそれでもグリウォで耐える事ができないa時には一枚の手紙に心を伝えるのに, 日本では女人たちの手紙語尾に 刺する (かしこ)と書く. ここで 刺する と言う韓国語の いらっしゃる で, 今日韓国語にすれば よく行くように になる. 古代には "アラアラいらっしゃる"と言ったが, この時 アラ という言葉の よ は 大きい, 高い で, だと は 神さま, あなた で, 二言葉を合すれば 偉い神さま, 大きいあなた と言う(のは)話になって, したがって アラアラ刺する (あらあらかしこ)は 高い君だ, よく行きます または 偉い神さまがあなたというにいらっしゃるのを と言う(のは)意味になる. これは英語のグッドバイ(Good bye)や, 只今雨ウイド油(God be with you) すなわち 神さまがあなたというにするのを のような意味で使われたのだ. ところが アラ (あら)という言葉は今も日本女性たちがよく使うですね, 軽く驚いた時 アラ! と言う. この言葉は あ, お御輿司馬 という意味で, 英語の マイ冠(my god) のような用途の使い方だ. [2009/11/18] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-46]肉土(土)が 佐藤(さと, 里) で http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=49693 yy=2009 ※この記事はinfoseekの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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トップページ>韓国>歴史と現実 『歴史と現実』70、2008.12 時論 河日植「韓国歴史研究会20年と『歴史と現実』」 企画:『賦役実総』を通じて見た朝鮮王朝の財政構造 宋亮燮「[総論]朝鮮後期財政史研究と『賦役実総』」 宋亮燮「『賦役実総』に表れた財源把握方式と財政政策」 손병규「朝鮮後期国家財源の地域的分配:『賦役実総』の上下納税物を中心に」 권기중「『賦役実総』に記載された地方財政の位相」 論文 鄭東俊「百済初期官制の成立過程:左・右輔と左将・佐平制を中心に」 박미선「一然の新羅史時期区分認識:『三国遺事』紀異編を中心に」 都冕会「韓国近代歴史学の創出と通史体系の確立」 芮大烈「解放以後北韓の労働組合性格論争と労働政策の特徴」 書評 李煜「もうひとつの視点からの地方財政史研究:손병규『조선왕조 재정시스템의 재발견』歴史批評社、2008年」 김재웅「歴史危機の時期に戻る南北関係史と統一全鮮運動:李信澈『北韓民族主義運動研究』歴史批評社、2008年」 『歴史と現実』69、2008.9 時論 한홍구「李明博時代の過去清算と歴史論争」 企画:言論媒体を通じて見た親日の論理 徐栄姫「『国民新報』を通じて見た一新会の合邦論と合邦政局の動向」 임경석「3・1運動期親日の論理と心理」 박종린「『共栄』を通じて見た大東同志会の活動と親日論理」 이태훈「『時事評論』を通じて見た国民協会の近代国家認識と参政権請願論」 이지원「『三千里』を通じて見た親日の論理と情緒」 論文 박진훈「高麗時代出生者の把握と戸籍」 尹京鎮「『高麗史』地理志「大京畿」記事の批判的検討:恭愍王18年京畿度田としての再解釈」 朴京安「鮮初家代の折給に関して」 韓相権「朝鮮時代訴訟と外知部:1560年「慶州府決訟立案」分析」 鄭演植「朝鮮時代以後稲と米の相対的価値と容量」 書評 盧永九「壬辰倭乱に対する当然の再確認:정두희、이경순 編『壬辰倭乱東アジア三国戦争』휴머니스트、2007年」 『歴史と現実』68、2008.6 時論 李信澈「新政権と歴史教科書の乱れ」 特集:高麗初期政体制度の形成 김대식「高麗政治制度史の再検討」 김대식「高麗初期中央官制の成立と変化」 신수정「高麗初期宰相官府の成立と変化」 朴宰佑「高麗初期の台諫制度」 論文 이동주「瓦から見た新羅王京の空間変化」 李益柱「高麗禑王代李穡の政治的位相についての研究」 金伯哲「朝鮮後期英祖代法典整備と『続大典』の編纂」 정상우「1910-1915年朝鮮総督府嘱託の学術調査事業」 争点と討論 우대형「朝鮮伝統社会の経済的遺産:落星台経済研究所の研究成果を中心に」 『歴史と現実』67、2008.3 時論 정창현「北米関係の解氷と李明博政府の課題」 企画:20世紀初西欧思想の受容と変容 이태훈「1920年代初新知識人層の民主主義論とその性格」 허수「1920年代初『開闢』主導層の近代思想紹介様相」 박종린「1920年代初共産主義グループのマルクス主義受容と「唯物史観要領記」 論文 고현아「新羅源花制施行の背景と性格」 최종석「高麗初期の官階授与様相と光宗代文散階導入の背景」 李康漢「整治都監運営の諸様相についての再検討」 朴賢淳「16-17世紀成均館の儒罰」 金景淑「16、17世紀奴良妻並産法と奴婢訴訟」 김현숙「植民地時期合徳里の土地所有関係と旧合徳本堂の農業経営」 書評 白東鉉「アンドレ・シュミッド(Andre Schmid)『帝国のはざまで(Korea between empires 1896-1919)』を読んで韓国近代の民族、民族談論を吟味する」 『歴史と現実』66、2007.12 時論 都冕会「人文韓国プロジェクトと研究者の苦悩」 特集Ⅰ:乙未条約に対する韓中日三国の認識 都冕会「乙未条約はどのように記憶されてきたのか?」 徐栄姫「乙未条約以後大韓帝国集権勢力の情勢認識と対応方案」 呉蓮淑「乙未条約以後アメリカ韓人団体の国内情勢認識」 殷丁泰「乙未条約以後清国政府の韓国認識」 천지명「乙未条約以後日本の「保護国」認識」 特集Ⅱ:高麗時代、どのように研究するべきか 李鍾書「高麗時代研究史研究の必要性と内容」 金仁昊「高麗時代政治史の視角と方法論研究」 한정수「高麗時代儒学研究と方法論摸索」 李鍾書「高麗時代家族・親族研究の歴史と反省」 論文 南武煕「圓測唯識思想の理論体系」 박광연「義寂の『法華経集験記』編纂背景と特徴」 박종진「高麗時期海東耆老会の結成と活動」 朴宗基「李穡の当代史認識と人間観」 鄭秉峻「北韓の韓国戦争企画樹立とソ連の役割」 争点と討論 尹海東「「植民地認識の灰色地帯」のための弁証:下からの近代研究のために」 『歴史と現実』65、2007.9 時論 奇光舒「平和体制への移行のための力強い道程:南北正常階段に付けて」 特集:朝鮮時代刑律の運用と『大明律』 沈載祐「[総論]朝鮮時代刑律の運用と『大明律』」 韓相権「世宗代治盗論と『大明律』:竊盗三犯者処罰をめぐる論弁を中心に」 具徳会「大明律と朝鮮中期刑律上の身分差別」 洪順敏「朝鮮後期盗罪臟罪の構造と『大明律』」 沈載祐「朝鮮末期刑事法体系と『大明律』の位相」 企画:「木簡」と韓国古代の文字生活 尹善泰「韓国古代木簡の形態と種類」 李京燮「咸安城山山城出土題籤軸と古代東アジア世界の文書標識木簡」 全徳在「咸安城山山城木簡の内容と中古期新羅の収取体系」 이용현「雁圧池木簡と東宮周辺」 論文 이규철「朝鮮初期(太祖期~世宗代)対外情報収集活動の実相と変化」 王賢鍾「慶南昌原地域土地調査の施行過程と帳簿体系の変化」 李栄昊「朝鮮土地調査事業における国有地の調査と活用:慶南昌原地域事例を通じて」 柳承烈「韓国の日帝強占期「同化」論研究についてのメタ分析」 書評 고영진「17世紀政治史を見る新しい視角:金容欽『朝鮮後期 政治史 硏究 Ⅰ:仁祖代 政治論의 分化와 變通論』혜안、2006年」 『歴史と現実』64、2007.6 時論 鄭泰憲「不完全だが意味のある「歴史整理」の第一歩:親日派財産還収問題に関して」 特集:壬辰倭乱時期慶尚道地域の戦争対応 盧永九「[総論]戦争と日常:『狐台日録』を通じた壬辰倭乱理解」 盧永九「壬辰倭乱初期慶尚右道義兵の成立と活動領域:金沔義兵部隊を中心に」 鄭海恩「壬辰倭乱時期慶尚道士族の戦争体験:咸陽両班鄭慶雲を中心に」 권기중「壬辰倭乱時期郷吏層の動向と戦後の郷吏社会:慶尚道地域を中心に」 論文 宋容徳「高麗~朝鮮前期の白頭山認識」 정요근「高麗駅路網運営に対する元の介入とその意味」 金暻緑「恭愍王代国際情勢と対外関係の展開様相」 金容欽「朝鮮世祖代政治を見る視角と生六臣」 이항준「ロシア沿黒龍総督ウンテルベルゲル(P.F. Unterberger)の朝鮮移住民認識と政策(1905-1910)」 洪宗郁「解放を前後した経済統制論の展開:朴克采・尹行重を中心に」 書評 金昌賢「21世紀の人々が高麗開京を歩く:韓国歴史研究会開京史研究班『開京의 生活史』휴머니스트、2007年」 『歴史と現実』63、2007.3 時論 朴泰均「2・13協議の国際的意味:アメリカの対外戦略を中心に」 特集:日帝下朝鮮人エリートの社会的基盤とアイデンティティ 李基勲「[総論]従属と優越:植民地エリートの社会的基盤と意識」 장신「日帝下朝鮮人高等官僚の形成とアイデンティティ:高等文官試験行政と合格者を中心に」 이송순「日帝下朝鮮人郡守の社会的位相と現実認識:1920-30年代を中心に」 李基勲「日帝下普通学校教員の社会的位相と自己認識」 문영주「金融組合朝鮮人理事の社会的位相と存在様態」 박윤재「日帝下医師階層の成長とアイデンティティ形成」 양정필「1930年代開城地域新進エリート研究:『高麗時報』同人の社会文化運動を中心に」 論文 박윤선「5世紀中後盤百済の対外関係」 옥나영「『灌頂経』と7世紀新羅の密教」 김영수「大韓帝国を見るロシア学界の視角」 류미나「戦時体制期朝鮮総督府の儒林政策」 争点と討論 지수걸「日帝下の地方統治システムと郡単位「官僚-有志支配体制」:尹海東『支配와 自治』(歴史批評社、2006)に対する論評」 『歴史と現実』62、2006.12 時論 임기환「中国の東北工程が残したもの」 特集Ⅰ:李穡の生涯と思考 朴宗基「[総論]テキスト読解の新鮮さと難しさ」 都賢喆「李穡の書筵講義」 金仁昊「李穡の自我認識と心理的葛藤:禑王5年期を中心に」 蔡雄錫「『牧隠詩藁』を通じて見た李穡の人間関係網:禑王3年(1377)~禑王9年(1383)を中心に」 南東信「牧隠李穡と仏教僧侶の詩文交遊」 特集Ⅱ:韓国現代歴史学の成果と課題 김정인「[総論]韓国現代歴史学の成果と課題」 全徳在「民族主義史学者の『三国史記』認識」 이상국「高麗時代土地所有関係再論」 沈載祐「朝鮮後期社会変動と戸籍台帳研究の課題」 김정인「民族解放闘争を狙うふたつの尺度:独立運動史と民族解放運動史」 論文 문동석「百済泗沘時代貴族勢力の存在様態と大姓八族」 박진훈「朝鮮初期私奴婢定限法議論とその性格」 具都暎「中宗代事大認識の変化:大礼議に対する別行派遣議論を中心に」 書評 이완범「韓国戦争勃発直前の状況:冷戦説と南侵誘導説に対する批判的眺望:鄭秉峻『한국전쟁:38선 충돌과 전쟁의 형성』돌베개、2006年」 『歴史と現実』61、2006.9 時論 오종록「歴史教育が行くべき道」 特集:6-8世紀東アジア国際情勢と三国・南北国の対外関係 余昊奎「[総論]6-8世紀東アジア国際関係史研究の進展を期待して」 余昊奎「冊封号授受を通じて見た周・唐の東方政策と三国の対応」 김종복「南北国の冊封号に対する基礎的検討」 박윤선「威徳王代百済と南北朝の関係」 鄭東俊「7世紀中盤百済の対外政策」 최현화「7世紀中葉唐の韓半島支配戦略」 論文 申炳周「「五台山本」『朝鮮王朝実録』の刊行と補完」 金容欽「潛冶朴知誡の孝治論と変通論」 안승택「日本式近代農法と植民地朝鮮の農俗の差:正条植奨励と散植慣行の衝突を中心に」 김선호「解放直後朝鮮民主党の創党と変化:民族統一戦線運動を中心に」 鄭秉峻「アメリカ資料を通じて見た白凡金九暗殺の背景とアメリカの評価」 書評 김순자「「新興維新」というキーワードで高麗末社会を理解する:洪栄義『高麗末政治史研究』혜안、2005年」 1-20 21-40 41-50 51-60 61-70 71-80 81-90 91-100
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トップページ>韓国>史学研究 『史学研究』60、2000.5 鄭載潤「文周・三斤王代解氏勢力の動向と昆支系の登場」 文暻鉉「百済武寧王の出自について」 文暻鉉、李仁哲「後三国期の社会経済的変動と田柴科体制の成立」 李弘斗「朝鮮初期天観の認識と「国史」教育」 李樹煥「道東書院の人的構成と経済的基盤」 李尚根「帝政ロシアの沿海州経営と韓人移住」 崔光植「신형식『韓國의 古代史』」 『史学研究』58・59、1999.12 崔夢龍、金庚澤「韓国支石墓社会研究の理論的背景:階級社会の発生及び成長を中心に」 朴京哲「我々の伝統史学の古朝鮮史認識:その知性史的接近のための一試論」 崔光植「韓国古代の天神観」 張志勲「韓国古代の地母神信仰」 朴賢淑「三国時代祖上神観念の形成とその特徴」 鄭雲龍「『三国史記』を通じて見た三国時代の天文観」 朴仙姫「古代韓国棉の起源と発達」 崔在錫「『日本書紀』に現れた高句麗記事について」 韓鈴和「高句麗地母神信仰と母処制」 朴大在「三国史記高句麗本紀の馬韓に関する一考察」 윤명철「江華地域の海洋防禦体制研究:関弥城の位置と関連して」 崔孟植「百済平瓦の一類型に関する小考:瓦と内面縄蓆紋に関して」 池炳穆「益山王宮里遺蹟の性格についての試論:城郭遺構を中心に」 権悳永「南北国時代新羅黄海経営の基板」 朴明浩「新羅村落文書に見える内視令の性格」 崔英成「崔致遠時務策の建議背景についての考察」 孫煥一「狐雲崔致遠の書体研究」 金昌謙「新羅下代孝恭王の即位と非真骨王の王位継承」 尹載云「新羅下代鎮の再検討」 방학봉「渤海の武器について」 조법종「後百済甄萱の歴史継承認識:高句麗及び百済の馬韓継承認識を中心に」 崔壹聖「歴史的に見た烏嶺路と忠州」 박노자「義天の『新編諸宗教蔵総録』編纂「教蔵」刊行の文化史的意味」 崔恵淑「高麗時代南京設置背景についての再検討」 朴玉杰「高麗「都領」に関する再検討」 김옥엽「高麗仁宗代西京民の抗争と西京勢力の分化」 권영국「高麗時代農業生産力研究史検討」 金蘭玉「高麗時代工匠の身分」 최규성「高麗南班職の性格変化についての研究」 呉允煕「内浦地方の埋香碑」 方相鉉「朝鮮時代烽燧軍の身分と生活」 閔徳植「蔡無逸の生涯と芸術」 金慶洙「「朝報」の発行とその性格」 朴珠「朝鮮中期慶州地域の孝子・烈女:『東京雑記』を中心に」 申解淳「中宗~明宗朝の館学教育振興策」 申東珪「オランダ人朝鮮漂着に関する再考察:漂着船・漂着地・漂着年を中心に」 鄭成一「朝日間の公貿易:書契別幅(1614-99)の分析」 李元植「韓日善隣外交と朝鮮通信使」 孫承喆「17世紀耶蘇宗門に対する朝鮮の認識と対応」 李相培「1804年李達宇歌詞事件に関する研究」 李政祐「19世紀論山地方儒林の書院活動と学楔設置」 張暎淑「高宗親政初期軍令権の推移と軍制改編」 엄찬호「連米論を通じて見た高宗の均勢政策」 李東宇「乙未年慶尚道地方の義兵抗争」 권경애「近代的女性観の変遷に関する研究」 金世民「19世紀末執権層の万国公法認識と政策」 玄光浩「大韓帝国期(1897-1904)亡命者問題の政治-外交的性格」 申圭秀「日帝下独立運動の一事例研究:独立義軍府「管見」内容分析を中心に」 李炫煕「大韓民国臨時政府の左右合作運動:「連協」を中心に」 金仁徳「在日活動家金容珪の革命論についての試論」 書評 李炫煕「申載洪『抗日独立運動研究』신서원、1999年」 『史学研究』57、1999.5 李炯基「阿羅伽耶連盟体の成立とその推移」 曺凡煥「新羅末花郎勢力と王位継承:(金)孝宗と金伝の活動を中心に」 金昌賢「高麗開京の宮闕」 柳在春「14-17世紀初韓日両国平地治所城発達に関する比較研究:城郭の治所・軍事機能の分離と統合を中心に」 宋洙煥「甲子士禍の新解釈」 張賢姫「16-18世紀朝鮮人の西洋に対する認識」 金鳳烈「『寺内文庫』韓国関係文献の考察」 金周溶「日帝強占期楊州地域の農村社会実態」 천화숙「1920-30年代朝鮮女子キリスト教青年会連合会(YWCA)農村事業の展開とその性格」 車美姫「現行南北間中学校国史教科書の叙述内容比較」 『史学研究』55・56、1998.9 呉江原「古代の五穀に関する研究:歴史考古学的考察」 鄭永鎬「百済仏像の原流試論」 崔根泳「忠州薔薇山城考」 河廷龍「『三国遺事』最高本の刊行時期:鶴山趙鍾業所蔵古版本を通じた接近」 権悳永「弘覚禅師塔碑文を通じて見た新羅億聖寺址の推定」 金英美「高麗前期の阿弥陀信仰と天台宗禮懺法」 강옥엽「仁宗代西京遷都論の台頭と西京勢力の役割」 蔡守煥「高麗恭愍王代の改革と政治的支配勢力」 柳柱姫「河崙の生涯と政治活動」 権寧国「朝鮮初塩業政策と生産体制」 金松姫「朝鮮初期対明外交についての一研究:対明使臣と明使臣迎接官の性格を中心に」 金昌鉉「朝鮮初期文科の運営実態」 金大吉「朝鮮前期農牛政策に関する研究」 朴珠「朝鮮時代十二旌閭と八旌閭についての事例研究」 崔完基「朝鮮時代鍾路における生産活動とその意味」 閔悳植、李星培「李彦迪の『奉先雑儀』手筆本について」 朴翼煥「朝鮮朝慶尚道地方行政組織変遷」 金景淑「朝鮮時代流配刑の執行とその事例」 박홍갑「中宗朝忠州士林の進出と活動:己卯名賢を中心に」 方相鉉「李忠武公の丁酉再乱小考」 이순구「『葵丑日記』に現れた宮中生活像」 신동규「17世紀オランダの朝鮮貿易企図に関する考察」 崔源植「拓本で伝わる朝鮮後期僧侶の碑銘」 左恵卿「正祖の国富民安論研究:流通経済論を中心に」 文勇植「18世紀還穀運営の変化」 李昊栄、崔根泳「明成皇后の避乱処と行宮造営」 李憲柱「開港期群山港の流通圏変動と貿易構造」 具仙姫「開化期朝鮮の初期開化政策の形成と清の影響」 韓哲昊「鶏林奨業団(1896-1898)の組織と活動」 姜大徳「華西李恒老の国防認識」 李東宇「全北義兵の役割と意義」 崔恵珠「韓国における金澤栄研究現況」 박환「崔才亨と在露韓人社会:1905年以前を中心に」 権九熏「日帝韓国駐箚憲兵隊の憲兵補助員研究(1908-1910)」 지승준「1930年代社会主義陣営の「転向」と大東民友会」 韓相禱「在満韓国独立党と韓国独立軍の中国関内地域移動」 尹善子「1930年代朝鮮天主教会と教皇庁の中国儀禮許容訓令」 河元鎬「日帝末物価統制政策に関する研究」 李炫煕「大韓民国建国の正当主導階層」 김인식「安在鴻の「新民族主義の科学性」論」 정병준「1945-48年大韓民国臨時政府の中国内における組織と活動」 이상일「アメリカ議会図書館所蔵韓国近代史関連資料紹介:国史編纂委員会収集資料を中心に」 『史学研究』54、1997.12 金昌賢「高麗後期都評議使司体制の成立と発展」 최종택「麗末鮮初生員・進士」 李碩圭「朝鮮初期祭天禮と赦宥制:民心安定策と関連して」 李銀順「朝鮮時代性理学の定着と女性の信仰活動」 具仙姫「清日戦争直前朝鮮「属邦」問題と朝清関係」 呉煥一「韓末白丁に対する収奪と白丁層の動向」 咸東珠「明治初期(1868-1875)日本外務省の朝鮮侵略論とその性格」 崔根泳、李昊栄、崔夢龍、池炳穆「堤川寒水面松界里先史遺蹟調査報告」 書評 崔光植「申濚植『集安高句麗遺蹟의 調査研究』国史編纂委員会、1997年」 『史学研究』53、1997.6 池炳穆「遼東半島と鴨緑江中下流地域積石墓の関係:高句麗積石墓の起原に関する試論」 申安湜「高麗神宗代崔忠献政権の対民政策と地方社会」 金昌鉉「朝鮮初期文科及第者の初職」 金仁徳「植民地時代在日朝鮮人青年運動についての研究:在日本朝鮮青年同盟の組織と活動を中心に」 崔恵珠「1920年代金澤栄の中国における韓国史叙述」 이배용「女性史叙述についての南北韓比較研究」 유재신「韓国学の世界化」 書評 申濚植「李昊栄『新羅三国統合과 麗済敗亡原因研究』서경문화사、1997年」 『史学研究』52、1996.12 李喜寛「統一新羅時代麻田の設置と経営」 金日宇「高麗太祖代地方支配秩序の形成と国家支配」 権寧国「高麗後期軍役制の変化」 全成昊「18世紀米価推移と米価政策に関する研究」 金大吉「朝鮮後期牛禁に関する研究」 金世民「『万国公法』を通じて見た開港期朝鮮の対外認識」 琴京淑「歴史教育の授業方法考察」 『史学研究』51、1996.5 呉允煕「湖西地方の崔致遠事蹟考」 具仙姫「甲申政変直後反清政策と清の袁世凱派遣」 김지영「魚允中の経済思想」 鄭秉峻「南韓進駐を前後した駐韓米軍の対韓情報と初期占領政策の樹立」 1-20 21-40 41-60 61-80 81-100 101-120
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トップページ>韓国>韓国史学報 『韓国史学報』56、2014.8 김영하「新羅の「統一」領域問題:教科書内容の是正のための提言」 呉江原「高麗~朝鮮時代檀君伝承の変形と拡大、そして歴史化過程」 권용철「大元帝国末期政局と高麗忠恵王の即位、復位、廃位」 서금석、김병인「歴史的推移を通じてみた高麗時代「臘日」についての検証」 차미희「高等学校『東アジア』の「17世紀前後東アジア戦争」分析」 서명일「育英公院の教科書と近代知識の伝播」 桝谷祐一「甲午改革期渡日留学生派遣政策の展開と中断過程」 정욱재「20世紀初日程協力儒林の経学院活動:李大栄(1874-1950)を中心に」 史料研究 「『拙藁千百』訳註(8)」 『韓国史学報』55、2014.5 이정란「高麗王家の龍孫意識と王権の変動」 고명수「モンゴルの「服属」認識と蒙麗関係」 이미지「13世紀初高麗の国際環境変化と生涯記録:高麗墓誌を中心に」 이강한「忠烈王代の時代状況と音楽政策」 채미하「新羅の建国神話と国家提議」 김회윤「高麗顕宗代羅城築造過程に関する研究」 김난옥「高麗後期の納贖策」 홍선이「歳幣・方物を通じてみた朝清関係の特徴:仁祖代歳幣・方物の構成と財政負担を中心に」 史料研究 「『拙藁千百』訳註(7)」 『韓国史学報』54、2014.2 白巌朴殷植の上古史・古代史叙述 박준형「白巌朴殷植の古朝鮮認識:申采浩との比較を中心に」 정호섭「白巌朴殷植の高句麗史叙述に対する批判的検討」 김종복「白巌朴殷植の渤海史認識とその叙述典拠」 論壇 임기환「集安高句麗碑と広開土王碑を通じてみた高句麗守墓制の変遷」 박현숙、윤종필「モーリス・クーラン(Maurice Courant)の古代韓日関係史認識とその特徴」 崔聖銀「新羅下代実相寺鉄造如来坐像についての考察」 이욱「順天倭橋城戦闘と朝鮮民衆の動向」 홍웅호「強制移住直後中央アジア高麗人社会のスタハノフ(Stakhanov)運動」 최선웅「韓国民主党の米ソ共同委員会対応方案と活動」 許殷「「戦後」(1954-1965)韓国社会の現代性認識と生活様式の再構成」 批評論文 姜制勲「朝鮮王陵と王陵儀禮の特徴」 史料研究 「『拙藁千百』訳註(6)」 『韓国史学報』53、2013.11 崔徳寿「逝去100周年兪吉濬研究の現況と課題」 朴漢珉「兪吉濬「世界大勢論」(1883)の典拠と著述の性格」 金亨根「兪吉濬作「地制議」の構造と特徴」 劉バダ「兪吉濬の贈貢国独立論についての批判的検討」 우재병「5-6世紀百済の重層的墓制交流とその政治的相互作用」 李炳鎬「日本の渡来系寺院と百済遺民の動向Ⅰ:大阪・大津・東国・吉備の考古学成果を中心に」 윤경진「新羅中代太宗(武烈王)諡号の追上と再解釈」 이정철「『渓巌日録』を通じてみた17世紀前半禮安県の賦税状況」 車美姫「『渓巌日録』を通じてみた17世紀前半文科慶尚道郷試」 宋亮燮「18世紀比総制の適用と斉民政策の推進」 이정주「1901年作成北青戸籍と北青郡民騒擾事件」 樓正豪「高句麗遺民高牟についての考察」 史料研究 「『拙藁千百』訳註(5)」 『韓国史学報』52、2013.8 이정란「『高麗史』と『高麗史節要』の修史方式比較:睿宗代「王言」記録を中心に」 金蘭玉「恭愍王代記事の収録様式と原典資料の記事転換方式:『高麗史』と『高麗史節要』を中心に」 朴胤珍「『高麗史』叛逆伝立伝基準と高麗末朝鮮初「附元」認識」 金昌賢「文集の遊歴記録を通じて見た高麗後期地域社会の様相:李奎報の全州圏域遊歴記録を中心に」 이정호「『益斎集』の史料的価値と詩文制作時期:李斉賢の政治活動との比較検討」 김재홍「新羅王京開発過程と発展段階」 김귀한「朝鮮時代官窯の運営体系再検討:15-17世紀を中心に」 정다함「征伐という戦争/征伐という祭祀:世宗代己亥年「東征」と婆猪江「野人征伐」を中心に」 손병규「四方博の朝鮮時代「人口・家族」研究についての再検討」 史料研究 「『拙藁千百』訳註(4)」 『韓国史学報』51、2013.5 特集:中国の韓国関連歴史工程検討 趙法鍾「中国遼河文明論の展開と意味」 정호섭「中国のPOST東北工程と高句麗史関連動向分析」 윤재운「中国の渤海史歪曲論理と対応方案」 尹輝鐸「中国・南北韓の白頭山研究と帰属権論理」 論壇 朴賛興「中原高句麗碑の建立目的と新羅の位相」 정성권「太祖王建の奉業寺重創と能達:奉業寺址石仏立像と関連して」 양정필「韓末-日帝下錦山人蔘研究」 鄭昞旭「朝鮮殖産銀行と韓国産業銀行の職員採用:連続と差異」 임경석「国民代表会の院内代表院団研究」 윤상원「作られた「神話」:『高等学校韓国史』教科書「大韓独立軍団」叙述の問題点」 曺銘根「日帝時期挑戦銀行改造論争とその含意:帝国の理想と植民地現実の拮抗」 史料研究 「『拙藁千百』訳註(3)」 『韓国史学報』50、2013.2 위가야「百済温祚王代領域拡張についての再検討:沸流集団服属と「馬韓」国邑併合を中心に」 金炳坤「661-662年唐水軍の平壌直攻策の戦略と限界」 박범「朝鮮後期義州府の田政運営と防税給代」 백종오「朝鮮後期北韓山城の築城と運営体系」 이송순、鄭泰憲「韓末政府官僚及び言論の鉄道についての認識と受容」 朴銀淑「分院の最後の磁器業、分院磁器株式会社(1910-1916)の設立と運営陣」 李柱烽「1960年代政治勢力の統一議論展開と性格」 資料 「『拙藁千百』訳註(2)」 『韓国史学報』49、2012.11 特集:壬戌民乱期三政の問題と政局動向 宋亮燮「壬戌民乱期賦税問題認識と三政改革の方向」 宋讃燮「1862年三政釐整庁の構成と三政釐整策」 김경란「壬戌民乱前後全羅道の軍政運営と殖利問題」 임혜련「哲宗代政局と権力集中様相:壬戌民乱の背景と関連して」 論壇 朴宰佑「高麗前期臺諫の組織と機能」 李貞薫「高麗後期僧官の構成と役割」 韓哲昊「独島・鬱陵島「アシカ」についての認識の変化とその意味」 金憲柱「邑住民の視線から見た義兵運動(1894-1909):京畿道楊根郡分院邑で起こった義兵と官軍、日本軍の戦闘と邑の対応」 김종준「日帝時期「歴史の科学化」論争と歴史学界「官学アカデミズム」の問題」 金武勇「制憲国会の戒厳令憲法化と戒厳方案の差別化」 史料研究 李鎮漢、김보광、呉致勲「『拙藁千百』訳註(1)」 『韓国史学報』48、2012.8 特集:高麗時代「伝記類」の記載方式と時代的意味 이정란「『高麗史』「辛禑伝」の編纂方式と資料的性格」 李正浩「高麗後期文人年譜と『高麗史』列伝記事の比較検討」 金蘭玉「『高麗史節要』卒記の記載方式と性格」 金昌賢「高麗時代墓地銘に見える年代と呼称表記方式」 朴胤珍「大覚国師義天「伝記」の類型別記載方式と特徴」 論壇 Andrea De Benedittis「高句麗人の死後観念とその表現:高句麗古墳壁画を中心に」 박진「朝鮮初期王親婚王室妾子孫に対する社会的認識」 任敏赫「朝鮮後期王妃三揀擇の文化心理」 『韓国史学報』47、2012.5 論壇 韓鈴和「韓国古代社会の刑罰権の推移:「律令」頒布以前を中心に」 尹京鎮「『三国史記』地理志収録郡県の三国分属」 車美姫「17-18世紀前半期文科及第者の6品官職陞進」 이정철「丁若鏞の田制改革論の歴史的脈絡」 崔善雄「1910年日本留学前後張徳秀の行跡と民族問題の自覚」 呉美一「近代韓国人大地主層の資本蓄積経路とその様相:尹致昭一家の企業投資と農業経営」 曺銘根「日帝末(1937-45)朝鮮における戦時公債消化実態と性格」 史料研究 校監訳註『破閑集』(10) 『韓国史学報』46、2012.2 特集:朝鮮王朝地方現物財政運営方式と現状 崔妵姫「15-16世紀別進上の上納と運営:江原・慶尚地域の事例を中心に」 문광균「17世紀慶尚道地域供物受取体制と嶺南大同法の実施」 임성수「18世紀平安道鎮堡財政の運営と変化」 文勇植「18世紀後半『穀簿合録』に表れた朝鮮王朝の穀物財政現況」 論壇 呉恒寧「孤山尹善道の政治活動と経世論」 史料研究 校監訳註『破閑集』(9) 『韓国史学報』45、2011.11 論壇 趙胤宰「扶余定林寺寺名の由来と意味についての検討:南朝時期文献及び考古資料についての考察を中心に」 우재병「墓と祭祀遺跡を通じて見た5~6世紀百済と倭」 李康漢「1307年「依上国之制、定軍民」措置の内容と意味:高麗忠宣王代軍役制整備方向についての試論」 韓哲昊「外国の島嶼先占についての日本の承認過程とその論理:日本外務省編纂の『国際法先例彙集(2)』を中心に」 批評論文 劉宝全「中国学界の壬辰倭乱史研究の現況と課題」 芮大烈「ニューライトと脱近代論の矛盾的同居の解体のための提言:『解放前後史の再認識』の反北論理批判を中心に」 史料研究 校監訳註『破閑集』(8) 『韓国史学報』44、2011.8 特集:『高麗史』志の編纂体制と性格 李正浩「『高麗史』五行志の体制と内容」 金昌賢「『高麗史』礼志の構造と性格」 이정란「『高麗史』「選挙志」銓注条の体制と特徴」 金蘭玉「『高麗史』刑法志禁令編目の内容と性格」 朴胤珍「『高麗史』兵志の体制とその特徴」 論壇 주수완「三国時代年号銘金剛仏像の制作年代に関する研究」 최의광「新羅下代遺詔による王位継承研究」 이정철「金堉の改革思想の淵源と性格」 이송순「日帝末戦時体制下「国民生活」の強制とその実態」 유경순「1970年代清渓被服労働組合労働者と知識人の連体関係形成及び相互影響」 史料研究 校監訳註『破閑集』(7) 『韓国史学報』43、2011.5 論壇 백종오「韓国古代瓦当の毀棄様相の検討」 蔡美夏「新羅の賓礼:唐の使臣を中心に」 宋容徳「1107~1109年高麗の葛懶甸地域築城と「尹瓘9城」認識」 朴龍雲「『高麗史』選挙志の構成と内容及び性格」 朴晋勲「麗末鮮初江陵地域における通婚実態:江陵崔氏を中心に」 김만일「雲渓金鍾正の尚書論の特徴」 許殷「冷戦時代南北分断国家の文化アイデンティティの模索と「冷戦民族主義」」 批評論文 이종수「遼東地域燕秦漢長城調査現況及び問題点の検討」 史料研究 校監訳註『破閑集』(6) 『韓国史学報』42、2011.2 論壇 안성진「陶瓷を通じて見た4世紀初百済と東晋の交流」 朴南守「8世紀新羅の東アジア交易と法隆寺白檀香」 金盛祐「忘憂堂郭再祐に関する「不都合な真実」と壬辰義兵活動についての再評価」 권내현「丁卯胡乱義兵長鄭鳳寿の活躍と朝鮮王朝の認識」 李煜「朝鮮英祖代武臣乱と安東地方の「義兵」」 崔鎮旭「丙寅洋擾前後申櫶の対内認識と改革論」 문영주「植民地期伝統都市順天の近代化過程と地域民の対応」 윤효정「「ハルピン事件」についての『大韓毎日申報』の世論形成研究」 윤덕영「宋鎮禹・韓国民主党の過渡政府構想と大韓民国臨時政府支持論」 批評論文 정다함「「事大と交隣」と「小中華」という枠組みの超時間的且つ超空間的脈略」 崔徳寿「「韓国強制併合」100年日本歴史学の動向と展望」 史料研究 校監訳註『破閑集』(5) 『韓国史学報』41、2010.11 論壇 朴賛興「古代韓国と日本の量田制比較考察」 李康来「『三国史記』の三国認識」 박수정「『三国史記』雑志の編纂と職官志の体裁」 윤재운「日本所在渤海遺跡・遺物の総合的検討」 위은숙「高麗時代宋律受容の諸様相」 韓成周「朝鮮前期豆満江流域「女真・藩籬・藩胡」の形成と性格」 盧永九「仁祖初~丙子胡乱時期朝鮮の戦術展開」 한지희「朝鮮後期孝宗代政治論と政局動向:是非明弁論を中心に」 윤상원「シベリア内戦の勃発と沿海州韓人社会の動向」 史料研究 校監訳註『破閑集』(4) 1-20 21-40 41-60
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甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)は1894年(甲午)に朝鮮で起きた内乱である。農民に東学の信者がいたことから、日本ではかつて東学党の乱と呼んでいたが内乱の主体は農民であって、東学の信者ではないため現在ではこの呼び名が公式に使われている。 この戦争の処理を巡って、日本と清国の対立が激化し、日清戦争に発展する。 第一次蜂起 1860年代から朝鮮は変革の時代を迎えていた。これに1880年代以降、国内の動乱期を乗り越えた日本やアメリカ合衆国、西欧の列強が加わり、次の時代に向けた模索の中で混乱の時期を迎えていた。 民衆も1876年の日朝修好条規(江華島条約)以降の日本人商人との取引などによる物価の騰貴に悩まされていた。この点は日本が「開国」後に生糸の価格高騰に苦しんだことと似ている。 朝鮮の改革を巡っては、壬午軍乱や甲申事変のような政変があったが、いずれも蜂起は失敗に終わった。こうした中で政権を手にした閔氏は、自らの手で改革を行うにはあまりにも無能であった。このつけは全て民衆に振り向けられ、民衆の不満は高まり、1883年から各地で農民の蜂起(民乱)が起きていた。そんな中、1894年春に全羅道古阜郡で起きた民乱が、甲午農民戦争に発展した。 全羅道古阜郡の民乱も当初は他の民乱となんら変わるところはなく、自分達の生活を守ろうとするものでしかなかった。しかし、この民乱の指導者に成長した全琫準を含め農民の多くが東学に帰依していたことから、この東学の信者を通じて民乱が全国的な内乱に発展してゆく。 全琫準は下層の役人であった。しかし、17世紀から普及し始めた平民教育で、全琫準のような非両班知識人が、形成されていた。この全琫準が発した呼びかけ文が東学信者の手で全道に撒かれ、呼びかけに応じた農民で、数万の軍勢が形成された。瞬く間に農民軍は全道を席巻し、地方官は追放された。中央から派遣された制圧軍も敗退し、全国で全羅道の農民に呼応する蜂起が起こり始めた。 驚いた閔氏政権は、清国に援軍を要請した。侵攻の機会を狙っていた清国は、直ちに軍の派遣を決めた。それを見て、日本政府も軍の派遣を決定する。 慌てたのは閔氏政権で、農民の提案を基に全州和約を農民と締結する(要一次史料)Template Cite book?。この和約で従来の地方政府が復活したが、同時に農民側のお目付け役「執綱所」が設けられ、事実上の二重権力が形成された。 甲午改革 日清両国とも既に閔氏政権の要請に応じて軍を派遣していたが、「全州和約」を理由に閔氏は両国に撤退を要求したTemplate 要出典?。しかし、日本は戦争に向けた準備を続け、1894年8月1日、清に宣戦布告した。 前後して朝鮮国内でも閔氏政権を倒し、大院君を擁立し、「内政改革」のために金弘集を中心とする親日政権を打ち立てていた。金弘集政権は日本にとっては傀儡政権であったが、金弘集は必ずしも日本の傀儡ではなかった。金弘集が政権に就いたのは、長年構想してきた改革案を実行に移したかったからだと言われている。実際、地税銭納化は既に民衆が要求し、開化派の案でもあった。 金弘集の下で行われた改革を甲午改革という。 しかし、日清戦争等で農地が荒れたりした為に民衆は貧困にあえぎ甲午改革に反発することになる。 第二次蜂起 全琫準は日清両国が軍を派遣して間もない7月には既に第二次蜂起を起こそうとしていた。しかし、平和的な解決を望む東学の上層部の説得に時間が掛かり、蜂起したのは10月に入ってからであった。 冒頭にも述べたようにこの内乱は「東学党」という集団が起こした内乱ではない。しかし、農民に与える東学の影響を考えると、東学教団の支持は欠かせないものであった。 全琫準らが第二次蜂起を起こしたときには、日清戦争は既に大勢を決していた。11月末に忠清道公州で農民軍と日本軍が衝突するが、近代的な訓練を受けた日本軍に農民軍はあえなく敗退する。農民軍は全羅道に逃げ帰り、全琫準らは淳昌で再起の機会をうかがっていたが、1895年初頭に捕えられ、漢城(ソウル)で処刑された。 全琫準が処刑されて間もなく、全琫準を密かに偲んで次の歌が全羅道で流行ったという。 鳥よ鳥よ 青い鳥よ 緑豆の畠に降り立つな 緑豆の花がホロホロ散れば 青舗売りが泣いて行く 緑豆は全琫準のことで、青舗は緑豆で作った菓子、青舗売りは貧しい民衆を表していた。 なお、大院君は閔氏政権によって投獄されていた東学の巨魁2名を釈放し、1人を内務衙門主事に1人を議政府主事に採用し、忠清道に居る名士豪族に密使を送って東学の扇動を命じた。また密使は、忠清道の東学巨魁任箕準、徐長玉に、全羅道の東学巨魁全琫準、宋喜玉に、それぞれ会って東徒の召集を促し、慶尚道に於ては直接に東徒の糾合を呼びかけた。(それにより10、11月に相次いで蜂起)そして大院君は、東学には数十万で大挙して漢城に来るように命じ、平壌の清軍と共に南北から挟み撃ちにして日本人を駆逐する策を実行するように指示した。これらの事実が、日本の平壌攻略によって得た多数の書類から発見された。 その後も大院君と李埈鎔の扇動教唆の手紙を発見し、また後に逮捕された部下たちの供述によって発覚し、日本公使の追究によって、国王、大院君、李埈鎔が謝罪して認めた。 このように第二次蜂起は、純粋な反乱ではなく日本を放逐せんとする朝鮮政府の思惑も働いている。 脚注 関連項目 日清戦争 李氏朝鮮 開化期文学 独立協会 東学 李容九 東学農民革命参与者名誉回復審議委員会 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月30日 (日) 15 05。
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年表 BC320年ごろ ピュテアスがグリーンランド(アイスランド?)を探査* TB320a BC20年 瓠公、新羅に漂着* HB020a 157年 迎烏、日本の小島に漂着* H0157a 544年 粛慎の人、佐渡島に漂着* H0544a 570年 高麗の使人、越に漂着* H0570a 573年 高麗の使人B、越に漂着* H0573a 609年 百済の僧ら、肥後葦北に漂着* H0609a 620年 屋久島の人、伊豆諸島に漂着* H0620a 653年 遣唐使02* H0653a 654年 トカラ船漂着* H0654a 659年 遣唐使04A* H0659a 659年 遣唐使04B* H0659b 661年 大伴部博麻ら百済救援の役で唐の捕虜となる* R0661a 676年 麻續王、因幡に流される* O0676a 676年 筑紫太宰三位屋垣王、土佐に流される* O0676b 677年 新羅人朴刺破ら五島列島に漂着* H0677a 678年 百済の使人遭難* H0678a 685年 新羅人金物需、漂着新羅人とともに帰国* H0685a 686年 防人の遭難* H0686a 699年 役小角、伊豆に流される* O0699a 703年 漂着した新羅人を新羅使に付けて還す* H0703a 724年 流刑の制が定まる* O0724a 727年 渤海使01* H0727a 733-739年 遣唐使10* H0733a 735年 筑紫から新羅に漂流したものが帰国* H0735a 739年 渤海使02* H0739a 739年 石上乙麻呂、土佐へ流される* O0739a 743-753年 鑑真* H0743a 752-754年 遣唐使12* H0752a 756年 大伴古慈悲、池田親王 、土佐に流される* O0756a 756年 楊貴妃が山口県長門市に漂着(伝説)* H0756a 760年 渤海国迎使(遣唐使13)判官、渤海使05とともに対馬に漂着* H0760a 763年 板振鎌束の漂流* H0763a 769年 氷上志計志麻呂、土佐に流される* O0769a 772年 遣渤海使07+渤海使07、能登に漂着* H0772a 774年 大宰府に命じて新羅の漂流民を帰還させる H0774a 775年 紀伊国の漁師、大水で流される H0775a 776年 高麗の使者が越前に漂着 H0776b 776年 渤海使09 H0776a 777-778年 遣唐使16 H0777a 777年 遣渤海使08, 渤海使10 H0777b 779年 渤海人ら出羽国に漂着 H0779a 792年 安曇宿禰継成を佐渡国へ配流 O0792a 793年 四天王深草が隠岐国へ配流 O0793a 783年 呉原忌寸名妹丸、海部郡に漂着 H0783a 786年 渤海使12、出羽に漂着 H0786a 795年 渤海使13、出羽に漂着 H0792a 795年 久米舎人望足、讃岐国へ配流 O0795a 795年 上毛野兄国女を土佐国に配流 O0795b 795年 大伴部阿弖良らの妻子・親族66人を日向国へ配流 O0795c 796年 流人が京へ戻ることを許可 O0796a 799年 天竺人が三河に漂着 H0799a 804年 遣唐使18 H0803a 805年 唐舶能登珠洲郡に漂着 H0805a 812年 新羅人清漢波ら日本に漂着 H0812a 815年 渤海使17 H0815a 818年 金剛三昧、峨眉山を経て、中天竺に達する T0818a 820年 唐人李少貞、出羽に漂着 H0820a 828年 但馬国に渤海人が漂着(渤海国使節#23) H0828a 836年 遣唐使19 H0836a 844年 一櫃、但馬に漂着 H0844a 845年 新羅人、日本人漂流民を大宰府まで送る H0845a 853年 円珍、琉球に漂着 H0853a 860年ごろ ナドッド、アイスランドに漂着 H0860a 862年 新羅人、丹後に漂着 H0862a 862年 新羅の僧ら、因幡に漂着 H0862b 862年 真如、入唐。天竺をめざす T0862a 864年 新羅人、石見に漂着 H0864a 873年 渤海国人崔宗佐門孫宰らの船2艘、薩摩甑島郡に漂着 H0873a 874年 新羅人、対馬に漂着 H0874a 866年 応天門の変にかかる遠流 O0866a 901年 菅原道真、高視親子の左遷 O0901a 920年 唐僧長秀、燈爐島に漂着 H0920a 930年 丹後に渤海人が漂着 H0930a 935年 呉越の人100人、肥前松浦郡柏島に漂着 H0935a 950年ごろ アイスランド人の漂流者がグリーンランドを見つける H0950a 982年 赤毛のエイリーク追放される O0982a 1002年 宋建州の海賈周世昌漂着 H1002b 1002年 大宰府に高麗人が漂着 H1002a 1004年 高麗芉陵島の人、因幡に漂着 H1004a 1019年 刀伊(女真人)、対馬、壱岐、筑前に来襲 R1019a 1019年 高麗耽羅島の人、日本に漂着 H1019a 1028年 高麗耽羅島の人7人、北陸に漂着 H1028a 1036年 高麗の漂流民11人、本国に送還 H1036a 1045年 清原守武の密貿易の発覚 O1045a 1049年 高麗人20名、対馬に漂着 H1049a 1060年 高麗の漂流民4人を送還 H1060a 1066年 宋人盧範漂着 H1066a 1078年 高麗耽羅島の漂流民を送還 H1078a 1079年 高麗人40人を送還 H1079a 1156年 妙音院師長、土佐へ流される O1156a 1156年 源頼朝、伊豆に流される O1159a 1160年 源希義、土佐へ流される O1160a 1171年 伊豆国奥島に太平洋諸島民(?)漂着 H1171a 1176年 邦人100余名、宋に漂着 H1176a 1183年 邦人73名、宋に漂着 H1183a 1190年 邦人、宋の泰州に漂着 H1190a 1200年 邦人、宋の平江に漂着 H1200a 1202年 邦人、宋の定海県に漂着 H1202a 1207年 法然上人、土佐に流される O1207a 1217年 日本商船、金に漂着 H1217a 1221年 後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇の遠流 O1221a 1241年 圓爾、宋から帰国時に漂流 H1241a 1243年 高麗の漂流民を送還 H1243a 1249年 行衍房嶷浄の漂流 H1249a 1258年 日本船(?)がオアフ島に漂着 H1258a 1269年 高麗済州の漂流民を送還 H1269a 1270年 日本船(?)がマウイ島に漂着 H1270a 1293年 高麗国に漂着した日本人8人が捕らえられる H1293a 1332年 後醍醐天皇、尊良親王の遠流 O1332a 1392年 大明船、八丈島に漂着 H1392a 1397年 朝鮮蔚州の知州事李殷、倭寇に拉致される R1397a 1401年 明船、漂着する H1401a 1403年 明船、相模三崎浦に漂着 H1403a 1426年 島根県長浜に朝鮮人10人が漂着 H1426a 1455年 朝鮮人、対馬に漂着 H1455a 1457年 朝鮮人、肥前五島に漂着 H1457a 1460年 朝鮮人、豊後に漂着 H1460a 1467年 朝鮮人、筑前に漂着 H1467a 1468年 朝鮮人、周防に漂着 H1468a 1498年 ジョン・ガボット最後の航海 H1498a 1541年 明船1隻、豊後神宮浦に漂着 H1541a 1541年 ポルトガル船、豊後神宮寺浦に漂着 H1541b 1543年 鉄砲伝来 H1543a 1543年 ポルトガル船、豊後に漂着 H1543b 1553年 リチャード・チャンセラー白海に漂着 H1553a 1566年 安南船、三河渥美郡片浜浦に漂着 H1566a 1566年 明船5隻、相模三浦に漂着 H1566b 1570年 ポルトガル船1隻、肥前に漂着、長崎を視察 H1570a 1592年 山科勝成、紅村頼成、安南に漂着し殺さる H1592a 1596年 サンフェリーペ号土佐に漂着 H1596a 1600年 ウィリアム・アダムス(三浦按針)の漂着 H1600a 1601年 ポルトガルの船、上総大瀧浦に漂着 H1601a 1602年 ポルトガル船、土佐に漂着 H1602a 1605年 有馬晴信の遣い、媽港に漂着し殺される H1605a 1609年 ドン・ロドリゴ九十九里浜に漂着 H1609a 1610年 メキシコ船、東国に漂着 H1610a 1611年 ヘンリー・ハドソン、ハドソン湾に置き去りにされる H1611a 1611年 薩摩の商船、媽港に漂着 H1611b 1615年ごろ カンボジア船、筑後柳川に漂着 元和年間 H1615a 1616年 美保の漁師、朝鮮に漂着 H1616a 1617年 大屋甚吉、鬱陵島に漂着 H1617a 1634年 慶尚道の漁民の石見に漂着 H1634a 1637年 ポルトガル船、琉球に漂着 H1637b 1637年 米子の漁師、蔚山に漂着 H1637a 1643年 オランダ船、陸奥南部に漂着 H1643a 1643年 ポルトガル人、筑前大島に漂着 H1643b 1644年 越前国の廻船、韃靼に漂流 H1644a 1645年 天草耶蘇教の徒、漂流に託して朝鮮に逃れる H1644b 1645年 清国広東の船、朝鮮南桃浦に漂着 H1645a 1649年 清船、肥前五島に漂着 H1649a 1653年 対馬の漁民、朝鮮に漂着 H1653b 1653年 オランダ船、朝鮮全羅道に漂着 H1653a 1663年 肥前五島の漂流民、朝鮮から対馬に送還 H1663a 1666年 米子船、朝鮮国慶尚道に漂着 H1666a 1666年 隠岐の漁民、江原道三陟に漂着 H1666b 1667年 尾張孫左衛門船、馬丹島に漂流 H1667a 1669年 阿波国勘左衛門船、無人島に漂着 H1669a 1671年 播磨飾磨津の漁民、朝鮮巨済島に漂着 H1671a 1672年 讃岐塩飽島の漁民、朝鮮に漂着 H1672a 1673年 陸奥国相馬の船、東寧(台湾)に漂着 H1673a 1673年 清船、肥前平戸に漂着 H1673b 1676年 豊前小倉の漁民、朝鮮に漂着 H1676a 1679年 朝鮮人、薩摩甑島の内瀬に漂着 H1679a 1680年 バタン船、日向に漂着 H1680a 1681年 清国の船、天草に漂着 H1681a 1682年 清船、野間崎で破船 H1682a 1684年 朝鮮の船、対馬に漂着 H1684b 1685年 伊勢国度会郡神社村船、マカオに漂着 H1684a 1685年 清国漁船、長門に漂着 H1685a 1686年 清国泉州の商ら、対馬琴浦に漂着 H1686a 1686年 清国商船、肥後天草に漂着 H1686b 1687年 ルソン船、尾州と紀州に漂着 H1688a 1688年 薩摩の船、広東に漂着 H1688b 1688年 越前坂井郡神浦の漁船、朝鮮に漂着 H1688c 1688年 ポルトガル船、紀伊熊野に漂着 H1688d 1689年 清国商船、日向兒島郡に漂着 H1689a 1690年 朝鮮人死体が、長門阿武郡須佐浦に漂着 H1690a 1692年 薩摩の漂流民、長崎に護送される H1692a 1692年 備前岡山の漁民、朝鮮多太浦に漂着 H1692b 1693年 安龍福ら、鬱陵島で米子大谷家の船頭等に拉致される R1693a 1693年 安南国王、漂流民送還を謝す H1693a 1693年 讃岐の船、浙江定海県に漂着 H1692c 1693年 長門の船、広東陽江県に漂着 H1693b 1694年 清国船、中永良部島に漂着 H1694a 1694年 清国船、甑島に漂着 H1694b 1695年 伝兵衛、カムチャツカへ漂流 H1695a 1695年 江原道蔚珍県の漁民、出雲神門郡鷺浦に漂着 H1695b 1696年 朝鮮人、蝦夷に漂着 H1696a 1698年 寧波の商王懋功ら、肥前五島多多羅島に漂着 H1698a 1701年 ダンピア、アスンシオン島付近で難破 H1701a 1704年 アレクサンダー・セルカーク、無人島に漂着 H1704a 1708年 日本人がカムチャツカに漂着? H1708a 1708年 ローマ教皇使節シドッチ、日本に潜入 T1708a 1710年 サニマ(日本人)、カムチャツカに漂着 H1710a 1711年 久留米藩船、フィリピンに漂着 H1711a 1712年 亘理郡荒浜船、広東へ漂流 H1712a 1713年ごろ ヤコフ・マクシモフ(日本人)、カムチャツカに漂着 H1713a 1713年 キスチ(日本人?)、ポロムシリ島に漂着? H1713b 1715年 朝鮮人が宮古島に漂着 H1715a 1720年 遠州鹿丸、鳥島に漂着 H1719a 1720年 摂州大阪大津屋利三郎が八丈島へ漂着 H1720a 1727年 小笠原貞頼、小笠原渡航を目指すが帰らず H1727a 1728年 唐人が宮古島に漂着 H1728b 1728年 若潮丸、カムチャツカ半島に漂着(ゴンザ、ソウザ) H1728a 1729年 藤曲(宇部市)の船、出羽沖で難破 H1729a 1739年 江戸宮本善八船、鳥島に漂着 H1739a 1741年 ベーリング、ベーリング島へ漂着 H1741a 1744年 南部多賀丸、北千島に漂着 H1744a 1750年 唐人が宮古島に漂着 H1750a 1752年 十三夜丸、台湾に漂着 H1752b 1752年 春日丸、中国舟山に漂着 H1752c 1753年 福聚丸、フィリピンに漂着 H1752a 1756年 陸奥国津軽郡石崎村治右衛門船朝鮮に漂着 H1756a 1757年 志摩若市丸、台湾に漂着 H1757a 1764年 伊勢丸、ミンダナオ島に漂着 H1764a 1765年 トルストゥイフ、カムチャツカで暴風に遭い死亡 H1765a 1765年 常陸姫宮丸、安南(ベトナム)に漂着 H1765b 1765年ごろ 陸奥住吉丸漂流 H1765c 1768年 ベニョフスキー、カムチャツカに流刑(のち脱走) O1768a 1770年 朝鮮人駿河興津に漂着する H1770a 1773年 薩摩藩士ら舟山諸島に漂着する H1773a 1783年 伊勢神昌丸、アムチトカ島に漂着 H1783a 1786年 サポジニコフ、アムチトカ島で座礁 H1786a 1788年 ペルーズ、バニコロ島に漂着 H1788a 1790年 ラジシチェフ、シベリアに流刑 O1790a 1794年 陸奥若宮丸アリューシャン諸島に漂着 H1793a 1804年 陸奥慶祥丸、北千島に漂着 H1804a 1807年 文化魯寇 R1807a 1808年 通州の船頭ら薩摩防津に漂着 H1808a 1810年 摂津歓喜丸、カムチャツカに漂着 H1810a 1812年 高田屋嘉兵衛、ロシア兵に拉致される R1812a 1832年 宝順丸遭難。3名がアメリカへ漂着 H1831a 1841年 中浜万次郎(ジョン万次郎)、鳥島へ漂着 H1841a 2005年 津軽海峡で外国人6人漂流 H2005c 2005年 NZで漂流の邦人女性救助 ダイビング中にはぐれる H2005d 2005年 香港を出発した船沈没し乗員2名、ベトナム沖で救助される H2005e What s New 取得中です。
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トップページ>韓国>朝鮮時代史学報 『朝鮮時代史学報』20、2002.3 金慶洙「朝鮮前期実録編纂に対する史学史的考察」 이석규「朝鮮初期の応試上疏者:成宗代言論活動の変化と関連して」 車美姫「16世紀前半期文科及第者の六品職昇進」 김윤정「朝鮮中期祭祀祭祀承継と兄亡弟及の変化」 金康植「徳渓呉健の学問傾向と現実改革方案」 권내현「17世紀前半平安道の軍糧運営」 『朝鮮時代史学報』19、2001.12 崔在馥「朝鮮初期国喪における四十九斎設行と変化」 姜制勲「朝鮮初期田税制改革とその性格」 문형진「朝鮮初窃盗犯処罰実態とその負荷刑」 최윤오「朝鮮後期の量田均税論」 李圭根「朝鮮後期議薬同参研究:「議薬同参先生案」を中心に」 임민혁「朝鮮時代の廟号と士大意識」 朴性淳「李恒老の学統と学問目標」 『朝鮮時代史学報』18、2001.9 柳在春「15世紀明の東八站地域占拠と朝鮮の対応」 崔承煕「弘文館の言官化」 김현영「16世紀一両班の日常と在地士族:『黙斎日記』を中心に」 金盛祐「16世紀中盤国家の軍役動員方式と星州士族層の対応」 李政祐「朝鮮前期湖西士林の構成と性格:親姻戚集団を中心に」 呉永教「朝鮮後期郷村秩序の変化と郷所」 『朝鮮時代史学報』17、2001.6 사문경「世宗代禅教両宗都会所の設置と運営の性格」 이상배「朝鮮初期匿名書事件の類型と特徴」 박홍갑「朝鮮明宗朝忠州獄の展開と忠州士林」 鄭萬祥「朝鮮中期儒学の系譜と朋党政治の展開(1)」 신명호「朝鮮後期国王行幸時国政運営体制:『園行乙卯整理儀軌』を中心に」 이희환「朝鮮末期の旌閭と家門崇尚の風潮」 『朝鮮時代史学報』16、2001.3 姜信曄「朝鮮時代大射礼の施行とその運営:『大射礼儀軌』を中心に」 金康植「朝鮮中期南冥学派の学統強化運動と政治史的意味」 金成潤「18世紀畿湖南人の洪範理解:星湖李瀷と邵南尹東奎を中心に」 김일환「朝鮮初期月課軍器制の軍器製造」 李栄薫、朴二澤「農村米穀市場と全国的な市場統合:1713-1937」 『朝鮮時代史学報』15、2000.12 柳在春「麗末鮮初東界地域の変化と治所城の移転・改築について:江原道永同地方を中心に」 金海栄「朝鮮初期文廟享祠制について」 손승철「朝鮮王朝実録日本関係記事内容分析(朝鮮後期編)」 김선경「17-18世紀山林川沢折受に関する政策の推移と性格」 전형택「朝鮮後期一両班家の戸籍資料を通じてみた私奴婢の存在様態:光州全義李氏文義公派総家所蔵古文書の事例分析」 임혜련「純祖初盤貞純王后の垂廉聴政と政局変化」 『朝鮮時代史学報』14、2000.9 金泰永「麗末鮮初性理学王政論の展開」 조원래「16世紀順天地方の新興士族」 박소은「17・18世紀戸曹の倭館収税策の変化」 이희환「李光佐の政治活動と老・少論の対立」 김경숙「朝鮮後期親族秩序と宗山紛争」 『朝鮮時代史学報』13、2000.6 金貞信「16世紀末性理学理解と現実認識:対日外交をめぐる許筬と金誠一の葛藤を中心に」 김두헌「朝鮮後期中人の庶流と妾に対する差別:牛峯金、漢陽劉、井邑李中人家系を中心に」 林学成「朝鮮後期戸籍に登載された両班職役者の身分:1786年度丹城県県内面の事例分析」 李迎春「姜静一堂の生涯と学問」 金文植「19世紀前半京畿学人の経学論争:丁若鏞の経学研究を中心に」 『朝鮮時代史学報』12、2000.3 한춘순「明宗親政期の権力関係の変化と政局動向」 禹仁秀「朝鮮後期一士族家の生活様式:草盧李惟泰の庭訓を中心に」 趙成山「18世紀後半洛論系経世思想の心性論的基盤:小人教化論と均是赤子論を中心に」 김명호、남문현、김지인「南秉哲と朴珪寿の天文儀器製作:『儀器輯説』を中心に」 송정수「全琫準の家系と出生地についての研究」 李南姫「朝鮮時代資料の電算化:データベース構築の現段階と課題」 『朝鮮時代史学報』11、1999.12 류주희「王子乱を前後した朝鮮開国功臣の政治的動向」 金慶洙「朴彭年の生涯と現実意識」 조준호「朝鮮後期石室書院の位相と学風」 李政祐「17-18世紀初清州地方士族動向と書院郷戦」 金明淑「雲石趙寅永の政治運営論」 『朝鮮時代史学報』10、1999.9 韓嬉淑「朝鮮明宗代群盗の発生背景と活動の特徴」 鄭在薫「明宗・宣祖年間の経筵」 李憲昶「磻渓柳馨遠の経済思想に関する研究」 鄭勝振「19・20世紀前半在地地主家の土地所有と農業経営:霊光辛氏家の事例分析」 李成茂、鄭萬祥、李迎春、崔鳳永「朝鮮時代近畿地方の文蹟・遺物・遺蹟調査研究:龍仁・広州・始興を中心に」 『朝鮮時代史学報』9、1999.6 오항녕「性理学的歴史観の成立:超越から現実へ」 鄭求福「16世紀古文書を通じてみた郷校の祭儀と学令」 鄭海恩「丙子胡乱期軍功免賤人の武科及第と身分変化:『丁丑庭試文武科榜目』(1637年)を中心に」 金徳珍「16-17世紀刷馬役の増加と雇立」 文勇植「朝鮮後期守令自備穀の設置」 『朝鮮時代史学報』8、1999.3 박홍갑「朝鮮中宗朝の徙民政策変化とその問題点:自然災害との関連を中心に」 李成妊「朝鮮中期呉希文家の商行為とその性格」 朴珠「朝鮮中期慶尚道善山地域の孝子・烈女:『一善志』を中心に」 이근호「粛宗代申琓の国政運営論」 潘允洪「備辺司の外交政策議定研究」 『朝鮮時代史学報』7、1998.12 金昌鉉「朝鮮初期文科及第者の進出」 具萬玉「15世紀後半理学的宇宙論の台頭:梅月堂金時習(1435-1493)の天観を中心に」 徐鍾泰「星湖学派の陽明学と実学」 張弼基「朝鮮後期『武譜』の資料的検討」 李政祐「朝鮮後期在地士族の動向と儒林の郷村支配:全羅道錦山郡書院・郷校の治廃と古文書類の作成を中心に」 『朝鮮時代史学報』6、1998.9 崔珍玉「朝鮮時代ソウルの士族研究」 車美姫「16世紀文科及第者排出の増加」 李善娥「白湖尹鑴に対する斯文乱賊説の検討」 金義煥「17・18世紀塩税政策の変動:均役法給代財源と関連して」 朴性俊「大韓帝国期内蔵院の駅屯土経営の性格」 『朝鮮時代史学報』5、1998.6 崔承煕「世祖代の国政運営体制」 任先彬「朝鮮初期「外方使臣」についての試論:概念・種類及び派遣推移」 金慶洙「朝鮮前期兼任史官の運営とその性格」 정두영「18世紀「君民一体」思想の構造と性格:霞谷鄭斉斗の経学と政治運営論を中心に」 李迎春「茶山の礼学と服制礼説」 『朝鮮時代史学報』4、1998.3 韓基範「朝鮮中期湖西・嶺南礼家の礼説交流:『疑礼問解』の分析を中心に」 薛錫圭「活斎李榘の理気心性論弁説と政治的立場:17世紀退渓学派理気心性論の政治的変容(Ⅱ)」 김학수「葛庵李玄逸研究:政治活動を中心に」 朴仁鎬「『中国古今歴代沿革之図』に表れた権榘の歴史認識」 金澔「奎章閣所蔵「検案」の基礎的検討」 『朝鮮時代史学報』3、1997.12 이규근「朝鮮後期内医院医官研究:『内医先生案』の分析を中心に」 趙炳魯「磻溪柳馨遠の制改革論」 李成茂「星湖李瀷(1681-1763)の生涯と思想家門」 高成勲「朝鮮後期「海島起兵説」変乱の推移と性格」 金明淑「19世紀反外戚勢力の政治動向:純祖朝孝明世子の代理聴政の例を中心に」 『朝鮮時代史学報』2、1997.9 文叔子「15~17世紀 妾子女の財産相続とその特徴」 車長燮「朝鮮時代族譜の編纂と意義江陵金氏族譜を中心に」 李俊九「19世紀慶尚道知礼県邑治地域の社会構成と吏族家門:壬寅年『県内面推刷成冊』と『南平文氏世譜』を中心に」 이호철、박근필「19世紀初朝鮮の気候変動と農業危機」 全成昊「18-19世紀物価趨勢(1744-1862):全羅道霊巌場巌里南平文氏古文書分析」 『朝鮮時代史学報』1、1997.6 崔承煕「世祖代王位の脆弱性と王権強化策」 沈勝求「壬辰倭乱中武科の運営実態と機能」 高丞姫「朝鮮後期北関開市研究」 李栄薫「18世紀前半農庄経営の一様相:黄氏家扶餘農場の事例分析」 李迎春「哲宗初の辛亥祧遷礼訟」 1-20 21-40 41-60 61-80