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728:睡蓮2006/03/20(月)13 28 04 ID y5uMaE9LO 復縁したい相手に今カノがいる …復縁とライバル退散の術を間をあけて併用。例えば、月が欠けてゆく期間にライバル退散、満ちてゆく期間に復縁や恋愛成就の術をかける 幾つも術があるのでどれを行うか迷う …やはり相性があるので、これだ!と直感的に思ったものを行うのが良いです。2、3種類選んでおくと便利です。 おまじないや魔術はどの位で効いてくるものなの? …すぐ効いてしまう場合もあれば一週間後〜3ヶ月位かかる場合もあります。 高いところからとばす場合…四、五階ほどの高さがあればおK。 3ヶ月経っても効かない …手順を確かめて再度トライして下さい、それでもダメなら他の術に切り替えてみて下さい。 それでもダメな場合は縁がなかった、貴方の幸せは別にあるという事なので 新しい恋を運んでくる魔術に切り替えた方が良いと思います。 174:本当にあった怖い名無し 07/10/1320 44 019 ID eRO8RxP0 人に見られたり、他人知られると、効果がなくなったり 弱くなったりする件ですが、二つの意味があります。 一つは自分の意識の問題です。 多分質問をされているので、その問題に対して不安を懐かれていると思います。 その状態で魔術を行っても成功率は低くなるでしょう。 なぜなら、その不安で願いの意識が定まらないからです。 魔術は意識が重要です。 成功すると思って行うことが必要です。 二つ目は、実際に妨害される場合です。 魔術を行うのを強く見られたり、魔術を行うことを強く思われたすると、その意識が魔術に影響します。 その想いのエネルギーが願いの意識に余分なエネルギーを入れたり、妨害したりします。 その結果、潜在意識に余計な情報が入り効果がなくなったり、弱くなったりするのです。 実際、これらは日常で行われています。 他人に対してネガティブな思いや目線を送れば、その影響は相手に届きます。 目に見えない変化かも知れませんが、相手に確実のダメージを与えるものです。 言ってしまえば呪いですね。 見る、思う、というのはそれだけ影響を与えるものです。 なので、魔術では魔術を行っているところを見られないように知られないようにするのです。
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第251回 意識の高低差の意識低い病 もう病気なんてないんじゃないかなと思うときもあるけど、わんさか出てきます。 出るわ出るわですね 自分のこと嫌いになったんで(トクマス 日本太郎さん 幸せなら態度で示そうよというところの圧が半端ない。 良いメールを送ってきますね(じょうでん そういう文化がないのに、幸せなら手をたたこうって言われたら「えっ」てなりますよね。 僕は強要に対して抵抗ないです。尾崎豊的な発想はない。(トクマス 僕もどっちかというと、そこまでは・・・体制に対しての反骨精神とかない。反骨精神がかっこいいと思うだけ。要するにファッションですね。革命家ってかっこいいじゃないですか(じょうでん 一時期体制に立ち向かい時期があった。今全然ない。どこいっちゃったのかな(トクマス 僕と一緒なんじゃないですか(じょうでん 今日の晩御飯も大切ですよ。原発とはベクトルが違うだけ。 沖縄にいた頃、25~6の頃、そっち向いてましたよね 限りなく広がる嘉手納基地。嘆いてました。今でも、嘆いてますし、大切な問題ですけど晩御飯も気になる。どうなっちゃんだろう。僕のベクトル(トクマス ファッションなんだって(じょうでん とりつかれたように、たかじんのそこまで言って委員会を観てた時、とりつかれたようにタケダツネヤスに怒りを投じてた時(トクマス 80%くらいはファッションでしょうね。幽体離脱してて、俯瞰して「嘉手納基地を見てる俺」を見てたはずなんですよ。その構図の写真を俯瞰で撮って楽しんでたのよ。80%はね。残り20%は思ってた。何が言いたいかというと意識が低いんですよ。意識が低い系(じょうでん 僕もほぼファッションですから(じょうでん 100%超えたら革命家になってますって(じょうでん 血を見ることになる(トクマス 知らん間になってたなって感じです(トクマス 僕もですが、漫画とか映画の読みすぎです。漫画を読まなくなったからじゃないですか(じょうでん 解明やめろ 80%のファッション部分も無いというか(じょうでん きっかけは、「俺を押さえつけるな」みたいな思いがどこいっちゃったのかですよ(トクマス 漫画読んでないからですよ。ワンピースがめっちゃ面白かったときとかさ、もっとすんなり出てきたはずだよ( カクがCP9だったとき震えたもん。ルッチとカクがCP9だと知った時(トクマス 寄生獣だってそうだけど 最近ハマってるマンがあるんですけどね。左利きのエレン(トクマス 面白いの?ファイアーパンチとどっちが面白いの?(じょうでん ファイアーパンチは2巻以降クソみたいな漫画になった。全巻揃えましたけど。あ~あエヴァンゲリオン見りゃよかったって思いました(トクマス タロジャパさんに覆いかぶさりたかったんですけど、意識が低くて。テーマがでかすぎて。僕の意識でついてけなかった(トクマス タロジャパさんが20%より多かったということで。僕の場合は5%で(じょうでん 小室さんの問題とか終始5%。でも、興味が無いわけじゃなくて、5%はあるんで。5%をバカにすんなってことがいいたい(トクマス 0%だとちょっと怖い(じょうでん 生まれつきのアナーキー数字があるんですよ。 いるんだ、0%の人 だって、僕もトクマスくんも低めだと思う(じょうでん たまに、服装とか0%の人いますね。まじで服に興味ねえんだこの人 アナーキー姿勢が100%かもしれない 100のうち本気部分が20%で、トクマスくんの場合、残りのうち60%が晩御飯に行っちゃった(じょうでん 60%も? 僕の場合はYoutubeとか。カジサックとか・・・ Youtubeとか見ちゃうんだ。プライベートな部分出してきたね。なんだそのカジサックって。知らないんだけど。はじめしゃちょーしか。Youtubeに対して5%だから(トクマス ツネヒロとか聴くと上がりますね 5%しか聴けないアーティストなのね 評論家 大して変わらねえじゃねえか。片方だけシャツ出したりしろよ 最近、近所の猫がすごい気になってる そっちに持ってかれてるじゃん 嘉手納で嘆いていた俺どこ行っちゃたんだ ファッションだって。まじで。 嘉手納基地見てたときって頭悪いはずなんですよ。何も知識ないのになんで憂いることができるんだって(じょうでん 憂いている人への批判ではないですから。僕ら個人の話。勉強している人はちゃんと80%とかなってる。 僕の服への興味の低下と一致してるかもしれません。今見たら全部もらったやつだった(トクマス 革命家みたいじゃない なんで、一周回って100%になってる 僕が、「全身もらった服です」つったときの優越感気づいてもらってありがとうございます(トクマス なめたら感じる(じょうでん 最近、すかしてると思われるのがすごい嫌。30%とかでこられると引いちゃう なん%の自分が言ってるの? 手を叩こうに関しては0%です。0%の僕が叫んでる(トクマス 嘆かないと それがファッションだとしてもね 江川達也さんにそっくりのお客さんがいたんですよ。そのときにどれくらいのテンションで話しかけようかと思った。考えているうちによく見たらただのおっさんだった(トクマス 熱い漫画とか見たらいい 全部が漫画というのがちょっと。となると、エヴァンゲリオン新劇場版Qが上映されるのを待つしかない。 そうかもしれない これ見ればファッション意識が上がるというものがあれば楽ですよね。バイブルってやつです そういう意味ではゴールデンボーイです 読み返すにはパワーが要る なぜなら、しょうもないエロ漫画だからね もともと、ファッションパワーがあればいいけど、今晩御飯とかに持ってかれてるから億劫でしか無い 晩御飯という対比失敗したかもしれない 女の人ってそうかもしれない(じょうでん 嘉手納でデモした後、「晩御飯作らなきゃ」って行ける。素晴らしい(トクマス スーパーで買った今晩のご飯を持って嘉手納基地の前を走って、その時嘉手納基地を見ないもん(じょうでん それ、近所の人だよ 自分のことを考えてないなぁって思いますね。あらゆる多くの男ね(じょうでん 女性の方が嘘ついてない感じがしますね(トクマス 僕も似たようなもんです もうちょっと憂いたり嘆いたりしないとだめだと思いました(トクマス ファッションだって。 もうちょっとファッションに気を使わないといけない 気を使わないといかん。ファッションに気を使わなさすぎる。もてんよ意識の高い人に 女子に言われた感じです 小奇麗にしなきゃ ボロボロのリュックやめよかな イケてるよそれは 今回の病名は意識の高低差の意識低い病ですよ デストロイラジオってファッション性高い時あるよね。パリコレにも負けないじゃないですか 真逆のことやってるけど ファッション意識高いなぁって思う時ありますよ 偏ったペンタゴングラフ嫌いなんで 録音前にいい話できたんで 番組 第251回 意識の高低差の意識低い病 なんであの時放送局
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すうがく徒の本棚(2) 書名 鯖田豊之『肉食の思想 ヨーロッパ精神の再発見』(中公文庫) 評者 小泉ふゅーりー 小麦については1.7倍。大麦では1.6倍。ライ麦にいたっては1.0倍。 何の数字かといいますと、これらは中世ヨーロッパの穀物生産における、播種量に対する収穫量の割合を表しています。小麦を100粒まくと収穫できるのは170粒、といった具合です。 水稲の豊富な収穫量に親しんだ我々日本人からしますと、この数字はまるで悪い冗談のように思われます。とくにライ麦など、収穫した分をそのまま来年に回さねばならないというのですから。これが平年のデータだというのはとても信じがたい話で、本書『肉食の思想』の中でも次のようなフォロー が入っています。 (本書p.52) もちろん、第7表の数字(小泉注:冒頭に挙げた数字のことです)は低すぎる感じがする。凶作のときの特殊例かもしれない。事実、平年作ならふつう播種量の二倍の収穫はある、と主張する学者もある。 しかし、それにしても「とくに条件のめぐまれた場合を別にすると、収穫量の平均は播種量の三倍から四倍ていどにすぎない」(p.53)とのこと。この数字は十三、四世紀ごろのものですが、「十九世紀はじめでも、たいていのところでは、五、六倍のままである」(同)のだそうです。 ひるがえって日本。中世ヨーロッパとはやや時代がずれますが、「徳川時代の農業書を総合すると、平均値にあたる中田の収穫量は、大体、播種量の 三十倍から四十倍である」(同)と、文字通りの意味で桁が違います。 本書『肉食の思想 ヨーロッパ精神の再発見』は、上記のような衝撃的データと、それに基づいた大胆な考察からなる、知的刺激に富んだ「西洋史学研究の問題作」(文庫版裏表紙より引用)です。初版の発行は1,966年、重ねた版は数え切れず。いまだ褪せぬ輝きを放つ名著であります。 ~I ヨーロッパ人の肉食~ 表題の通り、本書は日本とヨーロッパにおける「肉食」意識の差を明らかにするところから始まります。たとえば次の挿話。栄養調査に表れる数字に も随分と差がありますが、この体験談からはそれ以上の隔たりが感じられます。(以下、竹山道雄『ヨーロッパの旅』より本書に引用された文章) ………こういう家庭料理は、日本のレストランのフランス料理とは大分ちがう。あるときは頸で切った雄鶏の頭がそのまま出た。まるで首実検のようだった。トサカがゼラチンで滋養があるのだそうである。あるときは犢(こうし)の面皮が出た。青黒くすきとおった皮に、目があいて鼻がついてい た。これもゼラチン。兎の丸煮はしきりに出たが、頭が崩れて細い尖った歯がむきだしていた。いくつもの管がついて人工衛星のような形をした羊の心 臓もおいしかったし、原子雲のような脳髄もわるくはなかった。……… あるとき大勢の会食で、血だらけの豚の頭がでたが、さすがにフォークをすすめかねて、私はいった。 「どうもこういうものは残酷だなあ――」 一人のお嬢さんが答えた。 「あら、だって、牛や豚は人間に食べられるために神様がつくってくださったのだわ」 幾人かの御婦人たちが、その豚の頭をナイフで切りフォークでつついていた。彼女たちはこういう点での心的抑制はまったくもっていず、私が手もとを躊躇するのをきゃっきゃっと笑っていた。 「日本人はむかしから生物を憐みました。小鳥くらいなら、頭からかじることはあるけれども」 こういうと、今度は一せいに怖れといかりの叫びがあがった。 「まあ、小鳥を! あんなにやさしい可愛らしいものを食べるなんて、なんという残酷な国民でしょう!」 私は弁解の言葉に窮した。これは、比較宗教思想史の材料になるかもしれない。 頭からかじられることりさんはかわいそうですね。 それはさておき、この挿話には色々と気づかされることがあります。日本とヨーロッパにおける「肉食」の差は、単に量的なものというより、むしろ質的な差があるといえそうです。日本で食肉といえばふつうすでに切り身に加工されているものを指しますし、牛や豚の肉と小鳥の肉――鶏以外の鳥の肉がどれだけ出回っているものか分かりませんが――をことさらに区別するということもないでしょう。さすがに犬や猫となれば拒否反応を起こす人が多そうですが。 ~II 牧畜的ヨーロッパ~ 日欧間での意識の差を印象づけておいて、筆者は次なるキータームを持ち出します。いわく、「ヨーロッパには雑草がない」。誤解を避けるため、これについて説明している部分を引用しましょう。 (本書p.46) ヨーロッパには、日本の雑草のような、徒長して家畜の歯にあわないほど茎のかたくなる、何の役にもたたない草は存在しない。そこでは、ひとりでに生える草すら、十分に牧草として利用できる。 ゆえに、「極端ないい方をすれば、家畜はほうっておいても大きくなる」(p.50)。つまりヨーロッパは非常に牧畜に適した環境であるということです。 このような牧畜への適正を生み出すヨーロッパの気候条件は、当然穀物生産にも影響を与えます。要するに水稲が栽培できません。ゆえに栽培される穀物は水稲以外ということになるわけですが、その結果が冒頭に挙げた数字です。ちょっと穀物主体ではやっていけない数字ですね。 本書の筋からは少々ずれますが、このヨーロッパで水稲は栽培できない――正確には栽培に適した土地が極めて少ない――という事実、これはいくら強調しても強調し過ぎるということはないでしょう。 我々がヨーロッパの歴史について学ぶとき、そこにはいくつかの障壁があります。たとえば環境の差などは一言で語りつくせず、また長々語ったとしてもイメージが定着しづらいものですが、上の事実を意識することは、この障壁を越えるための重要な鍵になると思っています。 たとえば、日本には「先祖伝来の土地」という概念があります。脈々と続いてきた先祖の苦労があってこその収穫。一度土地を放棄してしまったら持ち直すのに大変な苦労が必要。そうした考え方が日本人の農地意識の根底にあります。しかし、これは世界的には非常に特殊な事情なのです。 まずは連作障害というもの。世界史を学んでいるとき、その存在は多くの日本人の頭からすっぽ抜けているのではないかと思います(お恥ずかしいことに、私は大学生になってもしばらくその存在を忘れていました)。 水稲の場合とは違って、ふつうの穀物は同じ土地で毎年続けて栽培すると収量がどんどん落ちてゆきます。これを気にしなくてもよいのは、水稲栽培地域を除けばナイル川の流域くらいなものではないでしょうか。メソポタミア文明は塩害によって滅んだといわれますし、高校世界史でおなじみの三圃制(土地を三つに分け、それぞれを「秋まき穀物→春まき穀物→家畜放牧地」の順に一巡りずつずらして三年で一巡させる農法)が現れたのも連作による収量減退を抑えるためです。 余談ですが、高校生の時分、私は前段で述べたようなことをまったく理解できておらず、三圃制なんてものは名前だけ暗記する対象以上の何者でもありませんでした。「農業といえば水田でお米を作るもの」という環境で育った人間に前文の()内のような説明を行ったとき、その様式にどういった意味があるのか、ひとりで理解できる人間がどれだけいるのでしょうか。 また、これは『肉食の思想』では触れられていないことですが、三圃制やそれ以前から行われていた二圃制の普及には、人口の増加やかつて耕してい た土地の劣化などにより耕作適地――土地に休眠期間を設けず毎年収穫物を得ることが可能であるような――ではない土地でも生産を行う必要が生じた という面もあります。 しかし、そのような土地の薄い土壌は何年も耕作を続けるうちに雨や風によって剥がされ、そう遠くない未来にはほとんど耕作不可能な土地に成り果 ててしまいます(詳しくは『土の文明史』(デイビッド・モントゴメリー/片岡夏実訳、築地書館)などをご参照ください)。こうした事情も世界史の流れに深く関わってくるものですが、水田に囲まれて育った我々にはなかなか思い至らないことではないでしょうか。 ~III 人間中心のキリスト教~ さて、中世ヨーロッパ人は我々が想像するよりもはるかにかつかつな暮らしをしていたようですが、そういった事情は彼らの思想形成にどのような影響を与えたのでしょうか。 先に述べたように、ヨーロッパは「家畜はほうっておいても大きくなる」牧畜適地であり、そして穀物生産はあのざまです。必然、家畜との結びつきが強くなります。 筆者は「日本人の肉食はままごとのようなものである」と書きましたが、その言葉を借りるならば、日本人の動物との付き合いもまた「ままごとのようなもの」でしょう。ヨーロッパの人々は、牛や豚などの飼い慣らせば多少の意思疎通すら可能な生物と同じ屋根の下で暮らしつつ、しかもそれらを食用に殺さなければ生きてゆけなかったのですから。 こうした事情にヨーロッパの人々はどう適応したのでしょうか。先に引用した文中のお嬢さんは、「あら、だって、牛や豚は人間に食べられるために神様がつくってくださったのだわ」と言っています。このように人間と動物の間に絶対的な一線を引くことで、動物愛護と動物屠畜を矛盾なく同居させ ることが可能になります。筆者はこれを「断絶論理」と呼び、そこからヨーロッパにおける様々な事情を説明してみせます。 たとえばヨーロッパの人々には輪廻転生や進化論といったものに対する強烈な拒否感があるようですが、これらは断絶論理から最も直接的に導かれるものでしょう。彼らにとって、人間と動物は絶対的に分離されていなければならないものなのです。 次に、キリスト教の結婚観。幼いころから身近で家畜の交尾が見られるような環境では、性を秘めごととして触れないようにすることは不可能です。 人間の性生活と動物のそれが結局同じものであるということを認識したとき、断絶論理はどのように働くのか。 理想的なのは一切の性生活を拒否することですが、まあ無茶です。次善の策として、教会は「男女の結びつきを「結婚」という鋳型のなかに押し込め」ました(p.93)。カトリックが離婚を禁じていることも、こうした事情の延長線上にあるものとして説明されます。 最後に宮廷愛。若い独身の騎士と主君の奥方がギリギリの線で――あくまで精神的に――愛し合う、というあれです。そうした恋愛作法(といってよいのか分かりませんが)も断絶論理の表れとして説明できます。決して肉体関係をもたず、精神的に高めあうことに終始するあたりが動物性を払拭していてよろしいのだそうです。 ~IV ヨーロッパの階層意識~ 続いて筆者はヨーロッパ人と動物の間の断絶から一歩進め、「ヨーロッパ人とそうでないもの」の間の断絶を探ります。 まずは日本とヨーロッパにかつてあった身分制の比較。日本の士農工商においては「大阪の富豪一たび怒れば、天下の諸侯皆慄え上る」(蒲生君平) とまでいわれた大商人でも名目上は身分制の最下位におかれるなど、身分制による上下と実社会における上下には大きなずれがありました。 それに較べると、ヨーロッパの身分制はまさに現実における上下関係そのものです。次の引用文はとくに印象的です。 (以下、鮫島志芽太『日本人の考え方』より引用された文章) パリをひとまわりして、コンコルド広場に立ったとき、私はうなった。なるほど、フランスの人民革命は、起こるのが当然だったろうと。その壮大豪華な宮殿や公邸、庭園、寺院を展望すれば、貧しい市民がその中で行われていたであろうぜいたくをいつまでも許してはおくまい。本当にそういう感じのわく、りっぱさである。…… そこで筆者はこのように記します。 (本書p.125-6) いずれにせよ、人間と動物の断絶が、なすがままの形で、身分制のなかに投影されていることになる。……そこには、「ほんとうの人間」を求めての断絶論理が一貫している。 後半の一文、すなわち「階層間の断絶が前章において語られた断絶論理に根をもつ」という点に関しては、私にはどうも根拠が不足しているように感じられましたが、とにかく断絶論理はより広い領域に拡張されました。 さて、日本における身分の概念が制度の解体とともに消滅した(これは士農工商でなく華族制度のことですが)のに対し、ヨーロッパにおける階層意 識は身分制の解体後も根強く残ります。 筆者はその例証として、公侯伯子男が存続するイギリスのみならず、公式には貴族の存在しないフランスにおいてすらいまだに爵位への執着が見られること――系図の偽装などによる偽貴族は当時(1,966年頃)で一万五千家もあったそうです。百年も前に貴族階級は消滅し、制度上はわずかの特権すらないにも関わらず!――などを挙げます。欧米型の労働組合(同職の労働者らによる企業横断型の労働組合)についても、「ヨーロッパの伝統的な階層意識が、形を変えて、組合意識を支えている」(p.134)という考察がなされています。 続いて、本書は基本的に日本とヨーロッパの比較からなるものですが、ここでは例外的にインドのカースト制とヨーロッパの身分制の比較が行われます。どちらも横割り的な階層社会だからですね。 筆者はここでも肉食に注目します。初めに「人口一人当りの家畜頭数にかんするかぎり、インドは完全に欧米諸国なみである」(p.140)ことを注意し、続いてカーストが下がるほど肉食が自由になることを述べます。最高カーストのバラモンは一切の肉を口にせず、上層カーストは羊のみ、最下層ではほとんど制限なし、といった具合です。 (本書p.141) けれども、いかなる面であれ、動物(家畜)に接触する機会の少ないほど上層カーストで、肉食を絶対にしないのが最高であるとの立場は、あきらかに、一種の断絶論理の産物である。動物からの距離のちがいが、カースト差別の基準になっている。 これはヨーロッパと同じく家畜が身近であるという環境から生じたものと考えられますが、では何故同じ「人間と動物の間に一線を画す」という原理 から、ヨーロッパとインドで異なる論理が導かれたのか、という点が問題になります。 この問題を考える上で重要なのは、やはり気候条件の違いです。日本と違って水産資源が得難いために家畜を飼ってはいますが、インドはヨーロッパ のような牧畜適地ではなく、むしろ穀物栽培に適しています。このあたりの話が次章のテーマとなります。 ~V ヨーロッパの社会意識~ ヨーロッパは牧畜に適した土地柄であり、一方穀物の収穫に関してはあのざまですが、それでもヨーロッパの人々がパン食を止めることはありませんでし た。この穀物栽培がヨーロッパの人々の意識にどういった影響を与えたのか、というのがこの章の主題です。 筆者はまず、農民が各人の家で麦類をパンに加工して食す、というのは技術的に不可能に近かったと指摘します。ちなみにパン食にこだわるのは栄養吸収率などの事情からですね。とにかくヨーロッパにおいては「個々の農家の独立性は、日本よりはるかによわい」(p.154)のです。 こうした事情は時代が下っても食品工業の巨大さ――パンと米の加工・流通について較べてみましょう――などといった形で残ります。こうして時代を通じ、ヨーロッパ人は「社会の存在をいやおうなしに強く意識しなければならない」(p.156)。そして「こうした社会意識こそ、実は、肉食を補完する穀物摂取が、高い肉食率の産物である人間中心主義や断絶論理に影響する原動力なのではあるまいか」(同)。 続けて筆者は、そもそも休耕地に家畜を放牧する――ゆえにまとまった面積が必要になる――三圃制自体が複数の農家間の協力を要請するものであることを指摘し、自説をさらに補強します。 こうして農村の事情について説明したのち、筆者は都市の形成に目を向けます。集住者たちは最初期には野盗、繁栄し出してからはさらに封建領主の圧力に対抗するため共同体意識を高め、やがて独自の自治組織をもつ中世都市を生み出します。しかし都市内での貧富の差が拡大するにつれて、次第に 上層市民の間で都市の枠を超えたつながりが育ち始めます。 こうして「市民意識は、個々の都市を単位とすることをやめ」ます(p.168)。この発展が先に挙げた村落意識との大きな差ですね。これに対抗し て、封建領主らも横のつながりを深めてゆきます。ヨーロッパの身分制議会――そしてその前提条件である僧侶、貴族、市民といった身分の統一―― は単に断絶論理のみからきたものではなく、こうした社会意識の拡大にも多くを因っています。 筆者はここで「第三身分を支える階層意識と社会意識のバランスがくずれ、社会意識の方に重心がかかったところに、一七八九年の革命の特徴がある」 (p.172)とも記しています。 さて、ヨーロッパ史を勉強したことのある方には重々承知のことかと思われますが、ヨーロッパの人々、というかキリスト教徒は異端というものが大嫌いです。三度に渡り行われたアルビジョワ派根絶のための十字軍、魔女狩りで有名な教皇庁の異端審問官、極めつけがカトリックとプロテスタントの対立に由来する十六、七世紀の諸戦争。こうしたヨーロッパ史上の諸々の事件は、ヨーロッパに特有の強い社会意識と断絶論理が結びついた結果として説明できます。つまり彼らには「他人が自分と同じでないことに我慢できない」(p.181)ところがあるようです。 このような意識が階層意識と同様現代まで生き続けていることの例証として、筆者は「信仰の自由」が名目上かかげられていても実際のところその国その国で税制上優遇される宗派があること、婚姻に際してあらかじめ役場に「結婚広告」を一定期間掲示しておく義務があることなどを挙げています。後者については、公共意識というものの悪い側面が、こうした「のぞき趣味」として現れるということだそうです。 ~VI ヨーロッパ近代化の背景~ ここまで他の地域と比較しつつヨーロッパの思想について考察を行ってきましたが、現代を生きる我々にとってみれば、ヨーロッパの思想といえばまず「自由と平等」、いまやヨーロッパの枠を越え世界中に輸出された民主主義の理念がそれでしょう。こうした近代ヨーロッパ思想の出現を、筆者は主にふたつの要素から説明します。 まずひとつには、時代が下るにつれてこれまで説明してきたようなヨーロッパの特殊事情が緩和され、伝統思想が後退したという点です。 総人口に占める都市人口の割合が急増し、都市民の農業――ヨーロッパの「農業」は牧畜とまったくもって不可分なものであることに注意してください――からの分離はだんだんと完成されてゆきます。 一方農村においても農業革命(土壌への窒素固定作用をもつクローバーなどのマメ科飼料作物その他の導入により、ヨーロッパの農業生産が飛躍的に向上した)以降農家のおかれた状況は一変し、それぞれの農業経営の独立性が高まりました。 このようにして旧来ヨーロッパの階層意識(断絶論理)と社会意識を育んできた土壌は乾きつつあったのですが、それだけではより普遍的な新思想の到来を予感させるのみで、なぜそれが「自由と平等」だったのかは説明できません。 そこで第二の点ですが、旧いヨーロッパの階層意識と社会意識の中での生活は、我々が想像する以上に辛く抑圧されたものだったらしいということです。 厳しい重圧に耐えかねた個人意識は、ちょっとしたきっかけに出会って盛大にはじけ、「自由」と「平等」の要求が全ヨーロッパを席巻したのでした。 本書においては噴出した個人意識のすさまじさが語られるばかりで、たとえばアンシャン・レジーム下に生きた人々の抑圧された様子などには触れられないのですが、以前エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を読んだときにも――内容は半分も理解できなかったのでまさに「読んだ」だけなのですが――そういった厳しい抑圧の気配を感じた覚えがあります。 ところで、民主主義とか自由や平等の権利といったものは単なる理念ではなく、現代の国家において実際に運用されているわけですが、そこには以下 のよ うな懸念が生じます。 これまでの章でも触れられてきたように、ヨーロッパにおける伝統意識はいまだ堅固です。表向きは「自由と平等」、個人主義をうたいつつも、実際の法律の運用においては宗派間の格差が残っていますし、個々人の意識の中にもいまだ伝統思想が息づいていると思われます。すなわちヨーロッパの民主主義は伝統思想(階級意識と社会意識)と近代思想(個人意識)の微妙なバランスの上になるものであって、「自由と平等」というのは強烈な個人意識を一応満足させるための大義名分、フィクションということになります。 しかしこの「自由と平等」がヨーロッパ外にも輸出可能なものであるのに対して、強烈な個人意識や伝統思想――とくにヨーロッパ特有の諸事情に根 づく後者――は輸出不可能なものです。こうした思想から切り離された「自由と平等」が輸出されるとき、重石を失った大義名分は暴走し、最悪無政府状態を生み出す危険があります。実際日本は無政府状態とはいかないまでも一度そうした事態に陥っており、その結果が太平洋戦争の悲劇である、と筆者は記します。 著者である鯖田豊之氏は2,001年にご逝去なさっており、今となっては望むべくもありませんが、現代日本の民主主義を氏はどのように捉えているのか、読めるものならば是非読んでみたいものでした。 ご感想などあれば以下のフォームにお願いします。 名前 コメント
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教育心理 人格理論基本用語1 ( )・・・パーソナリティ「ペルソナ 仮面」 ( )・・・キャラクター「刻み込まれたもの」 ●類型論 ( )・・・分裂気質、躁うつ気質、粘着気質 ( )・・・・内胚葉型、中胚葉型、外胚葉型 内臓緊張型、身体緊張型、頭脳緊張型 ( )・・・・・・リビドーの方向から外向型―内向型、思考―感情、感覚―直感 *内性検査 ( )・・どの領域に価値をおき、興味をもちながら生活しているか 理論型、経済型、審美型、宗教型、政治型、社会型 ( )・・・精神病質を10種類に分けた。 ●特性論 ( )・・・心誌(サイコ・グラム)の作成 ( )・・・・因子分析法によって35の表面特性を得た。根源特性の見出。 ( )・・・YG性格検査の原案 ●類型論と特性論を統合 *特性の組み合わせを類型化して全体的な理解が図られるように工夫を!! ( )・・・・因子分析によって特性よりも基本的な次元として類型をおき、その下に特性、 その下に習慣的反応、さらにその下に個別的反応があるとする段階構造を考えた。 MPI(モーズレイ性格検査)内向―外向、神経症的傾向 ( )・・・外向性、情緒不安定性、誠実性、調和性、開放性 *主要人格特性 ●力動論( の理論) ( )・・・無意識的側面(無意識は幼児期における概念が抑圧されている領域)、 リビドーの貯蔵庫、( 原則)に従って機能する ( )・・・意識的、知的側面、( 原則)に従って機能する、自我防衛機制をつかさどる領域 ( )・・・意識から無意識にまたがる存在、道徳性や良心、価値観 ( 原則)に従って機能する、エスの衝動を抑制 ●( )(レヴィンの理論)・・・行動は人と環境の相互作用 教育心理 人格理論基本用語1 解答
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ルネサンスの「世界」の発見とは何か ルネサンスの「人間」の発見とは何か ロックのいう「意識」を生み出した背景は何か 大衆の出現 進歩史観としての帝国主義 近代の次の時代は何か 文明の進歩に終わりがくるのかという問題意識 今日の歴史の状況とは ポストモダンの基本的要因とは何か ルネサンスの「世界」の発見とは何か それぞれの文化では、自分たちを中心とする地域を世界と捉え、その辺境では自分たちの持っている自然や論理とは異なるものがあり、その先にはカオスや砂漠、滝などの世界の終わりがあると考えられてきた。 ルネサンスにおいて発見された「世界」はどこにも同じ論理の自然があり、その世界のそれぞれの地域に多様な文化があるという認識であり、均一で一様な空間認識であった。 ルネサンスの「人間」の発見とは何か 自由で平等な個人、理性的主体のことを指す。この考えを明確にしたのがロックであり、ロックは人間というものの同一性をその人格の同一性に求めた。この人格の同一性を支えるのが意識である。 ロックのいう「意識」を生み出した背景は何か 時計の発明である。時計の発明によって機械によって規定される客観的時間という基準ができ、個人が経験している時間間隔は主観的で偏った物であると認識されるようになった。これが、孤立した主観としての「個人」であることの経験であり、これが「意識」を生み出した。 大衆の出現 「主観的意識としての個人」と「客観的なひとつの世界」という考え方が浸透し近代が完成し、現代のもとができた。そこに「大衆」が出現する。 進歩史観としての帝国主義 世界は一つであり、同一の論理でなりたっているならば、一つの哲学と科学の知識をもてば、世界中のどこまでも進んでいけるということになる。 近代の次の時代は何か ない。「時代」そのものが近代に属するので。近代とは異なったポストモダン状況に入っているかどうかという問題はある。 文明の進歩に終わりがくるのかという問題意識 ちょっとした制度の変革で理想社会が到来すると考えたサン-シモンやフーリエといった「空想的社会主義者」達、ヘーゲルの影響を受け、そこにある有神論や目的論を否定して唯物論的な歴史を論じ、理想社会の実現のための共産主義革命を予言したマルクス、すでに「歴史は終わっている」と論じたコジューヴ等の知識人がいた。 今日の歴史の状況とは 歴史が過剰に存在する。広大なデータとして残されているので、いつでもタイムマシンにのるかのようにして過去の出来事を参照できる。このことによって、何か出来事が起こりそうになると過去同様の出来事がおこっていないか参照できることになり、未来が「いまだ存在しないもの」から「いつかどこかで起こった出来事」(既視感)へと変わってしまっているいわば反歴史的な状況である。 ポストモダンの基本的要因とは何か 普遍的登記簿がいたるところに準備されるようになり、過去が常に参照されることによって現在の各瞬間がすでに起こった出来事と同じようにみなされる結果、新しい事が何も起こっていないと思われる状況になっていることが要因である。
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※本ページは、旧ルールによる記載であるため、近日中に更新します。 プレイヤーレベルによって、6つのクラスへ配属させていただいきます。 クラス名と対象プレイヤーレベルは、下記となります。 スタンダードが安定して楽しめるようになれば、イントロが凄く楽しくなってきますので、まずは目指してください。 ▼エンジョイ イントロ初心者向け。アニメOPなど、簡単な曲のみがメイン。難易度:初級-~初級 ▼スタンダード イントロに慣れてきて、各種大会の参加を意識した方向け。アニメED程度がメイン。難易度:初級-~初級+ ▼レギュラー 各種大会の予選突破を意識した方向け。難易度:初級-~中級- ▼エキスパート 各種大会の決勝進出を意識した方向け。難易度:初級-~中級+ ▼チャレンジ 各種大会の優勝を意識した方向け。難易度:初級-~上級+ ▼フリー クラス関係なく全員が参加できるお祭り。難易度:初級-~上級+ 配属クラスのみ参加権利があります。 基本的にそのクラスで成績優秀な方は、昇格(一つ上のクラスへ移動)してもらいます。 逆に成績が振るわなかった方は、降格(一つ下のクラスへ移動)へ移動してもらいます。 なお、特定条件を満たした場合、観戦者も含めての配信とするケースがあります。 昇格・降格・観戦者参加ルール(暫定版)
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ストーリー展開 一応主人公たちは学校に行ってるわけだから、授業中の場面で先生がヴェルキアの歴史について話してる間に主人公たちは雑談という感じで読者に話の世界がどのようなものかを伝えるってのはどう? ちょっとハリポを無意識的にパクってるかもしれないけど、たとえハリポでやってたとしてもそもそもユニークな考えじゃないからいいかと。 ↑作中で全設定の説明を網羅する必要はないと思う。むしろ、多少読者置いてけぼりくらいが「中二的」って趣旨には合致するんじゃないかと。もちろん最低限度は台詞なりナレーションなりで説明するとして。 作中での世界観説明っていうのはどうしても不自然になり易い。unless 主人公が世界観について何も知らない状態。e.g. Harry Potty, ゼロの使い魔、十二国記、Fate…ある意味ひぐらしとかも。 登場人物「ルイザ」 「ユーミスが自分のことを女として見ていないことを不満に思っている」 むしろ、序盤は普通に接しているが、話が進むにつれてお互いを意識し始めえる、またはルイザだけが他の二人を意識し始めるという展開の方が面白いかも。 ↑個人的なツボ:無意識に魅かれてるのに、意識的に「ただの幼馴染」って思い込もうとしている。
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ご自由に改変・再利用して下さい。 目の前にある、何か見やすいものを目印にして下さい。 その目印を、じーっと見つめて下さい。 今から、10から0まで数を数えます。 数が小さくなるごとに、あなたの意識は深いイメージの世界へ近づいていきます。 10、9…… 同じところを見つめていると、だんだん目が疲れてきます。 8、7…… 目が疲れてくると、見えているものがぼやけたり、かすんだりしてきます。 6、5…… 視界がぼやけると、意識もまた、ぼんやりとしてきます。 4、3…… まばたきが多くなっていることに気づきます。 2、1…… まぶたがだんだん下がってきます。 つぎに数をかぞえて、「はい」というと、目が閉じます。目が閉じると、意識が深いイメージの世界に落ちていきます。 0、はい。 目が閉じます。意識が深いイメージの世界へ落ちていきます。目の前が暗くなると、想像力が豊かになって、イメージの世界を、よりリアルに体験できるようになります。
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【検索用 くかつせみ 登録タグ 2013年 GUMI VOCALOID yuu*(意識不明P) く 曲 曲か】 + 目次 目次 曲紹介 歌詞 コメント 作詞:yuu*(意識不明P) 作曲:yuu*(意識不明P) 編曲:yuu*(意識不明P) 唄:GUMI V3(Whisper) 曲紹介 それでも私は、叫び続ける。 曲名:『九月蝉』(くがつぜみ) yuu*(意識不明P) の7作目。 やさしい音楽になりました。(作者コメ転載) 歌詞 日差しは和らぎ 肌寒い秋のこと あなたは とうに消えた夏の風に浚われていった 羽を撃たれても あなたを思うよ 届け 声よ 今 秋風に乗せてく あまりにも澄み切った 空気振るわせ 叫ぶ とめどなく 時よ 進め 今 夏の風を起こす 大地に溶けてしまう前に もう一歩 籠めて 届け 声よ 今 秋風に乗せてく あまりにも澄み切った 空気振るわせ 叫ぶ とめどなく コメント 追加乙! -- 名無しさん (2013-09-26 20 10 17) 名前 コメント コメントを書き込む際の注意 コメント欄は匿名で使用できる性質上、荒れやすいので、 以下の条件に該当するようなコメントは削除されることがあります。 コメントする際は、絶対に目を通してください。 暴力的、または卑猥な表現・差別用語(Wiki利用者に著しく不快感を与えるような表現) 特定の個人・団体の宣伝または批判 (曲紹介ページにおいて)歌詞の独自解釈を展開するコメント、いわゆる“解釈コメ” 長すぎるコメント 『歌ってみた』系動画や、歌い手に関する話題 「カラオケで歌えた」「学校で流れた」などの曲に直接関係しない、本来日記に書くようなコメント カラオケ化、カラオケ配信等の話題 同一人物によると判断される連続・大量コメント Wikiの保守管理は有志によって行われています。 Wikiを気持ちよく利用するためにも、上記の注意事項は守って頂くようにお願いします。
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2011/4/24 社会人リーグ第6戦 vsテラモト 反省会メモ 反省会メモ一覧へ 【悪かった点】 <攻撃面> ・貧打。 →練習する。土曜の貝塚G練習やバッティングセンターで。 <守備面> ・エラーが多い(3失策)。 →まず、しっかり捕球。落下点に早く。投げるのはそのあと。 【良かった点】 <攻撃面> ・2回までは攻撃の形ができていた。 <守備面> 特になし ◆次戦以降意識する点 ・練習する ・ゴロを打つ意識(継続) ・守備の基本の意識(すばやく捕球位置に。送球は相手の胸に。)