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目次 1.エデンからの脱走者 2.地獄界の発生 3.大天使ルシフェルの反乱 4.ミカエルと魔王サタンとの戦い 5.勝利は光の戦士の手にある 1.エデンからの脱走者 思想というものは、いろいろなかたちがあります。そして、そのなかに一元論二元論の両面があります。しかし、私の世界から見るかぎり、本来もともと私たちが最初のエデンの園を始めた時に、悪霊もサタンもなかったことは事実ですが、三億年以上の歴史が流れ来たった現在においては、悪霊とか、サタンとか称される者たちもいることは事実です。この事実につして、私の口から説明をしておきたいと思います。まず、最初のエデンの園と悪霊の発生について、語っておきたいと思います。 当初、ベータ星から来た六千万人の人たちは、理想に燃え、希望に燃えて、楽園を築いていたわけですから、当初、こうした人たちが地上を去ってもそこに地獄ができるというようなことはありませんでした。けれども、エデンの園も次第しだいに時代が下るにつれて、そのなかにおける掟を破る者が出てき始めました。そして、アダムとイブで象徴されているように、追放される者も出てきたということなのです。最初の団体から隔離され、追放される者が出てくるに至って、初めて地上にて憎しみの波動、怒りの波動というものが存在するようになりました。当初、価値観を共有していたものどうしが住んでいたのに、地球に住むにつれて価値観の相違が生まれてき始めたということです。 この価値観の相違は、何に起因しているかというと、結局、地上的な物質的な思いにとらわれることが多くて、霊的な見方を忘れる人が出てき始めたということに起因するのです。当初の人間は、霊肉不二一体であることをじゅうぶんに知っていたのですが、やがて時代が下るにつれて、「肉体こそすべて、これが自分自身だ。」と思う人が出てき始めて、肉体中心の生活を送り始めたのです。 そして肉体が喜ぶような方向にと毎日を生きていって、霊的なことをなおざりにする人びとが後を絶たなくなってきたのです。これは、魂的にはある意味での退化でもあったし、堕落でもあったでしょうが、やむをえない面もあったかもしれません。というのは、この地上で地球という星で生きてゆくということ自体が、この地上生活に新たな経験としての価値を認めているわけですから、この地上生活からさまざまな経験を学ぶこと自体は、たいせつなことであると思われていたからです。また、もといた星から移ってきた理由も、もとの星が高度に発達した文明の星であったために、魂の成長が停滞し始めて、もう一度ゼロからやり始めてみたいという人びとが移って来たからなのです。この意味において、マイナスからスタートになることも、多少やむをえないこととして判断されていたのです。しかしながら、この物質的な吸引力というのは、ひじょうに大きかったと言えましょう。 2.地獄界の発生 3.大天使ルシフェルの反乱 4.ミカエルと魔王サタンとの戦い 5.勝利は光の戦士の手にある
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目次 1.神道も仏教も本源なる神より発した教え 2.新たな霊文明「宇宙船地球号」の船長、日本 3.偉大な政治的指導者を日本の国へ送り出す 4.最初の小さな歯車を廻す力は小さくてよい 5.悪天候の日にこそ灯台の灯が必要、法燈をこそ護れ 6.日本国憲法は抜本的に改正される 7.私の十七条憲法は神から授かった゛法゛であった 8.今後は仁徳高き者が政治的指導者に選ばれる 9.ユートピアの実現は日本から始まる 10.今後偉大な神霊が指導しよう 11.明治維新は私らの計画、光の指導霊を降下させた 〈天上界では、如来界高位に居られ、シュバン・ツェルと称ばれている。シュバン・ツェルというその名で知れるように、ミカ・エル、ガブリ・エル、ラファ・エル、ウリ・エル、パヌ・エル、といった方がたと並ぶ方の一人で、日本の国創りが肇まる以前には他の役割に従いておられました。〉 (1985年8月18日の霊示) 1.神道も仏教も本源なる神より発した教え 善川 聖徳太子様であられますか。 太子 そうです。 善川 かねがね、一度お招きし、お教えを賜わりたいと存じておりましたが、本日、ご多忙中にもかかわりませず、わざわざ私どもの中へお出で願いましたことを、ありがたくお礼申し上げます。 太子 あなたの前に現われるのはこれが初めてでありますが、実は、もう今から三年ないし四年前に、ここに居ります〇〇〇〇とは既に話をしたことがあります。このような機会のもとに私をお呼び頂いたことを感謝いたします。 善川 太子様には今を去ること千数百年前、この日本の国で政治を司って居られたということを史書により学んでおりましたが、現在天上界におかれましては、どういうお立場で、どのようなお仕事を主としてなさっておられますか。 太子 あなたも既にご存知のことと思いますが、さまざまの霊の中には、たとえばあなた方のように、いろいろの国に転生輪廻を重ねて゛正法゛を受け継いでいる方がたも居れば、たとえば、日本という国において国創りという使命を与えられて、国造りのために奔走している霊もあるのです。 私もこの日本の国に降りて国造りのために、布石を敷いた人間の一人であって、その後もこの日本という国を興隆発展させるために、陰になり日向になって、あなた方日本の国民の皆様を指導しております。これもこの、日本という国に、やがては――やがてというのは、私が生まれた時からみてやがてということでありますが、やがてこの国が世界の仏法の中心になる日が来るということを私は知っておりましたから、まずこの国を栄えさせねばならない。そのような使命のもとに千年余に亘って活動してまいりました。 善川 現在天上界におかれては、どのようなお方がたとご一緒にお仕事をされておられますか。 太子 天之御中主之神、この方は主として日本の国の宗数的指導を担当して居りますが、同じく如来界において私は、この日本という国の基礎となる政治、経済、文化の面を主として担当しております。私と天之御中主、それ以外にあなたのご存知ない方も居られますけれども、そうした数名の方が主に、日本という国の国造りのための桂となっておられます。 善川 天照大神もご一緒であられますか。 太子 少し違うところに住んでおられます。 善川 この方は、女神様であられるために、女神様の地域においでになるということですね。 太子 そうですが、しかし私たちの仲間であることは変わりありません。 善川 この方もやはり日本の国造りにお働きになられた方ですね。 太子 そうです。今からおよそ三千年程前のことになりましょうか、神のご計画のもとに、われわれ諸霊が、諸神霊集まりまして東の国日本において新たな神国を創らんとする計画が立てられました。その時に最初の中心として集まったのが私たちでありました。 善川 太子は日本の国造りということに力を尽くされたということでありますが、しかし、日本神道糸とは若干違ったお働きをされたように思いますが。 太子 もちろんそうです。私は生前、仏法の移入と申しますか、仏法をわが国に伝えるために努力いたしました。本来ご存知のように、仏教といい神道といっても根は一つでありますから、例えば私の前にもちろん日本の神々の信仰というのはあったのですが、大きな意味において、日本という国にどのような宗教を根づかせるかということが、私たちの使命であったということです。 善川 そこで天之御中主之神が指導されている日水神道糸の惟神(かんながら)の道という教えと、仏教の教えとでは相容れないものがあったのではないですか。 太子 そうでもありません。日本の今の宗教というものをよく見てごらんなさい。仏教と、神道とが混和一体となって、さまざまな文化が作り出されているはずです。神道だけでもありません。仏教だけでもありません。そうしたものが集合した神社といい、仏閣といい、日本の文化というものを作り出してきたのではないでしょうか。私たちはそのどちらもが必要なものとして思われたのです。 よくよく考えてごらんなさい、いま日本という国は文化的には発展しておりますが、その基礎となったのは一体何でありましょうか。その基礎となったのは、われわれの先祖を大切にするという敬畏の念、敬いの念、これを中心とする日本神道の流れと、或は外国から、印度、中国、日本へと渡って来た、いわば先端的な学問でもあり、宗教でもある仏教という流れ、この二つが底流となって日本の文化を作っているのであって、どちらか一つでは成り立ってはいないのです。 仏教は、日本の国においては宗教というよりも、ここ数百年、千数百年の間、主として学問という意味あいをもっていたと思われます。ですからあなた方は、いまご自分たちの立場に立って仏教もまた神の教えであり、神道もまた神の教えであるということをご存知ですが、主として仏教は、日本においては一つの儀礼であると共に学問としての流れでもあったと思うのですが、神道糸の方は主として先祖の霊、先祖の神々を敬うということに力を注ぎましたが、学問的な発展ということは余りなかったのであります。 ですから、日本の国を造った指導的な理念は、神道糸における「敬」、敬うという理念ですね。先祖、神々、これを敬うという「敬」の理念と、仏法によってつくられた「慈悲」の理念、「敬の理念」と「慈悲の理念」、この二つの理念が綾をなして日本の国を造って来たのです。これに、近代キリスト教の「愛」の考えが流れ込んで来ております。これはまだ日本の国においてはそれ程大きな力を持っては居りませんけれども、「敬の理念」 「慈悲の理念」「愛の理念」この三つの理念が一つとなって、本当の意味での「正法」というものが成りたっていくのです。 2.新たな霊文明「宇宙船地球号」の船長、日本 善川 特に太子様は、日本の国の今後の政治、文化、こういった方面についてのご経綸と申しますか、指標というものについてのお考えを何かお持ちになっておられますか。 太子 もちろんです。現在までの日本を造るために、ずいぶん苦労をして来ました。さまざまの戦乱もありました。その間に多くの人達の血が流れて来ました。これは私たちにとっては、好ましいことではありませんでしたが、けれども来たるべき新しい現代社会を造るためには、やむを得ない外科手術であったということであります。いま、私たちは、日本という国をこの次元にまで持ってくることができました。そして私たちがいま考えていることは、日本はいま科学において、経済において、世界の一流国となりました。そしていまあなた方数名、数十名、まとまって日本という国に出られて、日本という国に新たな霊文明の夜明けと申しますか、黎明を告げんとしています。これからの日本に新たな霊文明ができていくでしょう。その霊文明を基礎として、今度は日本という国が、世界の政治、経済、文化において、この宇宙船「地球号」の舵とりをする役割を担っていくのです。霊文明ができて、はじめてその後、世界文明の中心として舵とりをしていくのです。 3.偉大な政治的指導者を日本の国へ送り出す 太子 そのために私は、あなた方の後に出す人達もいま計画しております。あなた方が霊文明をつくっていきます。宗教を創っていきます。その後に私たちの世界から偉大な政治的な指導者を送り込むつもりであります。 善川 現在の日本の経済はかなりの発展をみるに至りましたが、政治におきましては、ご承知とは思いますが、まだ精神的な大きな進歩というものは、いまの為政者にはそうみうけられないように思いますが、近々に政治の理念の改革ということについて何かお考えでしょうか。 太子 考えております。私たちの考えていることは、まずこの科学文明、物質文明の上に、あなた方の雪文明というものを重ね合わせて、この霊文明と、科学文明との融合した一つの世界、一つの文明を作った上で新たな指導者は、本来私たちの世界で指導者であるべきものが、三次元世界でも指導者となるような、そういった世界を創るつもりなのです。いまあなた方の三次元世界での指導者といわれる人はどうでしょうか。実在界においても指導者といわれる方がたでしょうか。断じてそうではありません。彼らは死後地獄に堕ちたり、或は幽界や、霊界に止まっている霊たちであります。そのような者が国というものを引っ張って行こうとしているのですから、これはどうしても正しい方向にいくわけではありません。ですからそうしたものたちの跳梁を許さないためにも、文化の基礎として霊文明というのを確固たるものにしなければいけないのです。そして霊的に優れたものが、政治的にも経済的にも、指導者となっていけるような基礎を私たちは造りたいと思うのです。 ですから今後また、神代の時代とは違った意味における祭政一致の指導者が出てまいります。昔は占いをしたり、或は祈祷をするような人が政治の中心であった時代がありました。それとは時代が変わっています。科学的霊文明の中において、最高に霊的に優れた人が、最高の政治的、経済的指導をするというような、そういった時代が訪れます。 霊的に優れていることが、指導者の条件であるというような世界が出来てきます。そのために、そのためにもあなた方が基礎づくりをしているということ、その時にはじめてこの池上も、仏国土、ユートピアになるということです。そうではありませんか。天上界において人びとを指導している人達が、この三次元においても人びとを指導していく体制こそが、本当の意味での仏国土ではないでしょうか――。 善川 現在、ご承知のように同じ宗教団体におきましてもわが国では、神道系宗教団体、或は仏教系宗教団体でありましても、それぞれかなりの地力を持っておりますが、こういう中から政治の部面へ進出して活動しておりますが……。 太子 そうではないのです。そういうものでなくてですね、あなた方もそうですが、これから数十年かかって新たな精神文明を造っていくのですが、その中から政治家達が出てくるということであって、既存の宗団の中から出てくるというわけではないのです。ですから、いまあなた方は、自分たちだけの小さな仕事をしているかも知れないけれども、これだけ壮大な計画が出来上がっているということなのです。大いに勇気と自信を持って頂きたいと思います。 4.最初の小さな歯車を廻す力は小さくてよい 善川 私たちもみな様方のご指導によって、そういうわれわれの任務というものが明らかになりつつあると自覚するものでありますけれども、この三次元世界にあってはいろいろな制約がありまして、これが実行の緒にはなかなかつかないというような状態でありますが、近々のうちに何らかの方法で踏み出すということができましょうか。 太子 あなたは、歯車というものを知っているでしょう。歯車は、同じ大きさだけではないのです。ここに小さな歯車があるとします。その横にもっと大きな歯車があります。その隣にもっと、もっと大きな歯車があります。その隣には、もっと大きな歯車があります。最初の歯車は小さいのです。これを廻すのはそれ程困難なことではありません。この最初の歯車が廻ると、更に次の中くらいの歯車が廻ることになり、さらに大きな歯車が廻り、さらにもっと大きな歯車が廻る。最初の歯車を廻す力は小さくともよいのです。この力がやがて数十倍、数百倍にと動いていくのです。 善川 そういう意味で私どもも、その小さな歯車の、いうなれば刻まれた歯の二齣(こま)となって何とか努力したいと思ってやっておりますが、これは今後のわれわれの努力と、皆様方のと支援とによってこの歯車が動き出すかどうかということにかかっておりますが、さて、そこで私がいま案じますのは、果たして歯車は廻転するとして、その後日本という国が一応世界の精神面での指導的な役割を持つであろうと、皆様が申されているのでありますが、これは建設的な面での希望的な観測でありますけれども、ここに一方、裏面から見ますと゛破壊゛的な現象が同時に併存している大変な時代の到来を迎えるということについて、人類はこれらを切り抜けていけるでしょうか。 5.悪天候の日にこそ灯台の灯が必要、法燈をこそ護れ 太子 私はあなたに申しあげます。灯台の灯が必要なときはどんなときでしょうか。海が凪ぎ、景色が明るい時に灯台の灯は必要でしょうか。必要ではないのです。灯台の灯が必要な時は、闇夜であります。悪天候の日にこそ灯台の灯は要るのではないでしょうか。晴れてよく見晴らしのよくきくような海の凪いだ時に、灯台などはあろうがなかろうが意味はないのであります。それは景色の一つでしかありません。けれども、悪天候、荒天の時にこそ、涛が逆巻く時にこそ、真っ暗な時にこそ、月も出ず星も出ない時こそ、舟は、漁師たちの舟は、大きな船も灯台の光を頼りにして進むのではないでしょうか。 あなた方、その混乱というのが理不尽に思える時があるかも知れないけれど、大時化(おおしけ)の時こそ、灯台の光は必要であるということを肝に銘じて頂きたいのであります。 晴れた日には、灯台はいりません。平和な時が流れていくならば、あなた方の仕事もないのです。 善川 過般出られました、イスラエルの旧約聖書中の予言者、エリヤ様のお話によりますと、大体「七つの予言」として述べられたのですが、この時期に人類は進化を目指して、大きな地球的規模の変動を体験すると申されましたが、その中で日本という国が、どのような関わり方と経験を経なければならぬのか、まあその時代と時期には、日本においては正法神理の理解も根づき広まっていようとは思いますが、私たち自身がその間、どのような心づもりで進まねばならぬかということであります。 太子 どうか、もうそんなことはお考え頂かないようにお願いいたしたいと思うのです。そのような現象的なことばかりの恐怖心を世の人々に伝え、あなた自身もまたそのような恐妬心に陥るような人間であってはならないはずです。そんなことは関係ないのです! どんな条件があろうとも、灯台の灯を守るということが大事なのです! 法燈を絶やさないということです。大時化があったところで、地球に穴が空くわけでも、空がなくなるわけでもないのです。時化はやがて止むのです。海はやがては凪ぐのです。けれども、海が荒れたといっても、島が流れてしまうわけではないのです。あるべきものはちゃんとあるのです。そのような弱い心でどうしますか!たとえ現象として日本の国が災害の中に入ろうとも、どんなことがあろうとも、法燈を絶やすことなく、点すということがあなた方の使命なのです。 起こるべきことは起こるのです。それを止めることも、どうすることもできないのです。ただ、その中であなた方が、どのように生きるかという方向を、人びとに示さなければいけないということなのです。凡百の予言書などを読んでいるようなつもりで、私達の説を聴いては相成りませんぞ! よろしいですか! 善川 はい。そのことにつきましては、今までいろんな方からお話を伺っておりますが、私ども、それだけのこころづもりをして世の人びとに語り伝えていかねばならぬと思っております。いま、太子様から力強いお言葉を賜わって、私どもは心新たにいたした次第です。 太子 要するに不動心を持ちなさい。正法伝道の基礎にあるべきものは、゛不動心゛であります。鉄壁の不動心であります。金剛不壊のあなた方の力というものを、存在というものを、信じなさい。ささやかな現象に左右され、不動心をもって事に当たらないと、何事も成就いたしません。不動心を持って行きなさい。たとえ槍が降ろうとも、鉄砲の弾丸が飛ぼうとも、核ミサイルが飛び交おうとも、その中において、あえて、正法を説き続けるというような、不動心を持ち続けていきなさい。この勇気、不動心こそが、後世を照らす光となるのです。己れ一人の、僅か五尺、六尺の身体を惜しいと思うな、そのような生命を守ろうと思うな! 6.日本国憲法は抜本的に改正される 善川 ところで、日本という国の問題ですが、日本は外国と違いまして、独特な国体をもっておりますけれども、このような形が永続していくのでありましょうか。 太子 国体とは如何なる意味であるか。 善川 たとえば、日本においては、かつては万世一系の天皇の親政が行なわれてきたという経過がございます。現在は新憲法において、天皇は一応国の象徴的な元首というかたちになっておりますけれど、しかしその内容におきましては、人びとはやはり天皇というものを崇拝して、そして国を固め守っているというかたちでありますが、こういう形態が今後も好ましいすがたでありましょうか。 太子 日本国憲法は、いずれは抜本的に改正されます。ただし、天皇に関しては、今のような象徴的な形となりましょう。日本国憲法の特殊性は何かといえば、政治の上に、象徴的な意味で宗教があるということであります。神的なものがあるということであります。これは、日本国憲法の中に唯物的な志向が相当流れているにもかかわらず、折中的な形として、精神的な支柱が必要だというすがたをとっているのであります。しかしながら起草者たちは、本来の意味において、どのようなありかたが正しいかということを知らずに作っております。これは現行の憲法です。しかし、やがて日本国憲法は改正されるでありましょう。そしてその中に、支柱として出てくるものは、正しい゛法゛というもの、これを敬うような国体というものを作っていくでありましょう。 善川 現在問題になっています第九条につきましては、これはどうなるのでありましょうか。 太子 そのような小さなことを私は言っているのではないのです。第九条自体は、もう既に実質的改変失条されております。もう戦争やる気でおります。 善川 これもみなあなた方のご指導によるのでしょうか。 太子 このような小さなことは、私たちの指導ではないのです。そのような浅はかな人間知によって作られたものがどうかとか、その解釈がどうかとか、このようなことは関係ないのです。 善川 まあしかし、いま仰られたように、いずれはあなたが最も理想とされるような日本国憲法ができるわけでしょうか。 太子 本来、憲法の場にあるべきものは、これは変な契約説などではないはずです。そんなものを採って、人聞知で作っているのです。人間が作った法、人間が作った最高法であります。そうではないはずであります。 「法」はもともと神から与えられるべきものであります。今の憲法は神から与えられていますか。人聞知を寄せ集めて作ったものであります。その中には勿論よくできている部分もあります。けれども、根本的に神の法ではないということであります。 7.私の十七条憲法は神から授かった゛法゛であった 太子 「法」の源は、何でしょうか。ユダヤのモーゼの律法が法の源になっております。あれは神から授かった゛法゛であります。その後さまざまな契約がでてきました。西洋においてもさまざまな法規範がでてきました。それを日本でも移入して作っておりますが、日本の憲法自体は学者が集まって、政治家が集まって、作ったようなものでありますし、西洋のそれも同じであります。神から与えられたものは現在何一つ残っておりません。 私の十七条憲法は、どうだったでありましょう。これは私が作ったと思われますか。そうではないのです。私もあなた方と同じように霊的能力を持っており、私は生存中に天上界の方がたの、諸如来、諸菩薩の方がたと交流しておったのです。そして私の十七条憲法も、もちろん当時の時世に合った作り方をしておりますが、けれどもこれは、神仏、神から与えられた法なのです。神というよりは、神の使いですね。諸如来、諸菩薩から与えられた諸規範なのです。内容的には古くなっているかも知れませんけれども、その中に流れている精神は、現在日本国憲法など足元にも及ばないようなものがあるはずです。それは、私の法は神から与えられたものであるからです。 現在の法律はそうではありません。法律学者や、政治家が決めたものであります。十七条憲法は古くなりました。しかしながらこのような正法に沿った、神法に沿った、憲法というものがやがて作られていきます。そのためにはあなた方の霊的な文明ができていかなければいけないということです。あなた方の文化の中に霊的生活というものが進んでいかなければいけない。霊的生活というものが浸透していかなければいけないということです。そうしてはじめて素地が出来あがってくるのです。 今後出来上がる憲法は、「正法」に基づく憲法であり、神より与えられた憲法になっていくはずであります。そうでなければならないでしょう。そうではありませんか。現在の憲法は素晴らしいことを書いているかも知れません。文章としては素晴らしいことを言いているかも知れません。しかし心がないのです。人間は何を守らなければいけないか、それは神より与えられた法を守らなければいけない。そうですね。その法とは何かということが、現世の方がたには分からなくなっているのです。 私は例えば十七条憲法の中に『和をもって尊しとせよ』ということを言いました。これは人間が守るべき法であります。このような条項が、日本国憲法に現在ありますか。ありません。憲法とは、本来はそうした正しい心と行ないの法でなければならないのです。 私は、また言いました、『自分のみが正しいのではない。他の者の意見も正しいものである。お互いに゛議論(あげつら)゛っても、他人の非を゛論(あげつら)゛ってはならない。よくよく相談して物事を決めていきなさい……』と。そういう合議制というものを、私は述べました。人間はともすれば、自分だけは正しくて他人は間違っているということになってしまいます。ところが他人にはまた一分の理があるのです。向こうからみればこちらも完全に悪いわけではなく一分の理があるのです。同じことが相手にも言えるのです。こういう根本の法ですね。人間生活における根本の法を私は十七条憲法の中に盛っているのです。しかしながら私の十七条憲法そのものは、その成立後、千数百年に亘って正しく理解されていることはありません。なぜならばそれを研究している人達が宗教家でないからであります。歴史学者がいくら私の十七条憲法を説明したところで、理解しようとしたところで、分かるわけはないのです。その十七条憲法の裏にあるのは、神の法であり、これは本来の意味における宗教家でなければこの意味がわからないのであります。ですから今後、日本の国の憲法というものも、正しい神の法を具現したものとなっていかねばなりません。そのために、私は最初に申しあげたはずです。あなた方の霊的指導、活動、行動、宗数的な物事、これの成就した後に、政治的な、経済的なリーダーを私たちの世界から送り込むつもりであると、私は申しあげました。こういうことであります。 8.今後は仁徳高き者が政治的指導者に選ばれる 善川 それは複数の方がお出になるのですか。 太子 もちろんそうです。やがて宗教をも体験し、政治をも体験したような人が出てくるでありましょう。本来ならば一国の大臣となり、首相となるような人達は、政治的にも才覚が優れていることは勿諭でありますし、知識も秀れていることは勿諭でありますが、人間として人びとの範となるような人でなければならいなはずであります。ところが、日本の今の政界をみてどうでしょう。あなた方、政治家の何方(どなた)をみて、人間の範として足る人が居るでしょうか。彼らは大きな力を持っています。器もあるかも知れません。行動力もあるかも知れません。発言力もあるかも知れません。しかし、一歩ひき退って、人間としての゛器゛を眺めたならば、彼らのうちのどこに、人間として手本とすべき範がありましょうか。今後期待される政治家は、政治に関与する人達は、人間として生きても超一流であって、あなた方が範としたいような人達であります。そうした人達が「政(まつりごと)」をやってはじめて国は治まるのであります。 本来上位にあるべきものが下位にあり、下位にあるべきものが頂点に立って支配しようとするからこそ経済も、政治も、国も乱れるのであります。本来上に行くべき人達、霊的にも優れた人達が範となって、模範となって、政治をする時代がくるのです。来なければいけません。けれどもその前の段階において、宗数的な大革新をやっておかなければ、今のような政治状態においては、徳ある人が居ても政治家となって、一国の長となっていくことは非常に困難であります。 善川 政治的な分野においては今のところ、そういう方がおいでになるようには見渡せないのですが、一方経済界においては、ある程度と申し上げては失礼ですけれども、進んだ考えを持っておられる方が出ておられると思うのですが。 太子 出ております。 善川 かなり複数の方が出ておられますか。 太子 出ております。今後も出てまいります。 9.ユートピアの実現は日本から始まる 善川 しかしこういう方の中から政治家が出られるというのではないのですか。 太子 そうではありません。天来の指導者が出てまいります。いわば「哲人政治家」のような方が出てくるということであります。人びとから、国民から尊敬をうけるような、神仏の法を知り、この世のことも知った偉大な人がやがて出てくるでありましょう。あなた方は、その前段階として主として宗数的な面を整備するために出ている霊です。 わたしたちの目的は、この日本という国を、最高の仏国土、ユートピアにするということであります。そして私たちの計画もいま最終段階に近づいているということであります。私は二千有余年前からこの日本という国を見てきました。そして自らもこの間、肉体を持って生まれたこともあります。その後も日本を指導しておりました。そうして二千年の歴史をふり返ってみる時に、どうやら日本という国も、最終段階の完成期に近づいているということです。 善川 その完成期の作業が了ったその後はどうなるのでしょう。それが永遠に続くのでしょうか。 太子 ハハハ――またまたそのようなことを考えるけれども、言っておきますが、過去の歴史がそうであったように、日本が成熟し、゛正法゛がそこで栄えた後は、また、正法は他の地域へと移っていくのです。それはやむを得ないことです。そしてあなた方もまた、他の地域へと転生していくのです。 そうではないですか。その方が楽しいでしょう。その方が素晴らしくはありませんか。日本という国に降りて、日本という国に正法を栄えさせ、神の国を造り、そして成功した。また「正法」が他の国に流れて行く。そこへまた生まれて行って、新たな仏国土をそこに造っていく。これは素晴らしいことではないですか。同じ日本という国に五回も、十回も生まれてやったところで、あなた方の魂の進化もないし、民族集団としての進化もありません。ですから、すくなくともこの日本という国は、いま最終段階に入りつつあるということです。 善川 ということは、そういう段階においては、天上界にある皆様方も、やはり新たな世界で、新たな計画を始められるということになりますか……。 太子 もちろんそうですが、とりあえず、現在やることは、日本の国において、新しい建設をやるということです。ただこの正法の運動も、四十年、五十年、六十年と続いていきます。後半においては、政財界の立て直しのために活動する人たちも加わってまいります。ですから当初においてはもちろん宗数的な運動であります。けれども後半においては、政財界の浄化、革新というようなこともその中に入ってくるでありましょう。 善川 その時にはそういう人達が集まって来られるというわけですね。 太子 そうです。つまりあなた方の弟子筋の人達の中から、そういう偉大な人達が出てくるということです。 10.今後偉大な神霊が指導しよう 善川 お聞きするところによると、天之御中主之命は、私たちをご指導して頂けるようなお立場にあるようですが、そうでしょうか。 太子 そうです。 善川 これは宗数的な方面でのご指導でしょうか。 太子 そうです。やがてまた他の神霊があなた方を指導していくようになっていきます。 善川 他とは、日本神道糸の方がたでしょうか。 太子 まだあなた方が接していない神霊で、偉大な使命を持っておられる方がたがおられます。 善川 そちらの方(ほう)にですか――。 太子 そうです。それらの方がたもやがてあなた方を指導されるようになるでしょう。物事には順序があり、あなた方の学習にも進度があります。ただ私は、外部から一言申しあげておきますが、あなた方は、あなた方の守護指導霊の方がたに対する感謝の念が足りないように思います。彼らがどのように苦労されておられるかということを、もっと、もっとよく考えなさい。あなたが彼らの立場に立ったなら、彼らと同じだけの指導ができるかどうかを、よく考えてみなさい。どれだけの苦労をしておられるか、あなた方は、肉体を持っているというハンデは承知の上ですが、それにしてもあなた方の不甲斐なさ、学習の遅れ、これは非常なものであります。彼らは大変苦労をしております。 善川 いや、それはつくづく感じているわけでありますが、いかんせんこの三次元の世界で、しかも神代の時代でなく高度に発達した近代物質文明社会に生活しなければならないという身にとっては…… 太子 すくなくとも私が、彼らの言葉を代弁するならば、守護指導霊は言わないでしょうが、私が代弁するならば、彼らはこう思っているのです。彼らがどれだけいい教えをあなた方に説いてそれを他の人達に伝えようとしても、あなた方が救われていなければ、一体どれだけの力がありましょう。何年もにわたってあなた方に教えを説いて、それを他の人に伝播しようと思ってもあなた方が素直に受け入れなければどうしようもありません。守護、指尊霊達の苦しみ、悲しみが、どれだけのものかということを、よく考え反省してみなさい。すくなくとも毎日一度は感謝の念を持ちなさい。すくなくとも日一日と進歩するあなた方でありなさい。すくなくとも年毎に進歩するあなた方でありなさい。今年のあなたは、去年のあなたより進歩したあなたでありなさい。今日のあなたは、昨日のあなたより、今月のあなたは、先月のあなたより進歩しているあなたでありなさい。もちろん事業という面において、着実に成果を収めていくことも大事でありますが、あなた方ご自身の心の状態、精神の状態が一歩々々前進する状態でありなさい。 あなた方の歩むべき道は、神への道であり、目標ははっきりしているのであります。その階梯(きざはし)を一歩々々確実に登って行きなさい。ですから心の中に、悪い心や、迷いや戸惑いが出た時には、今のあなたは、昨日のあなたに比べて進歩しているか、一年前のあなたに比べて進歩しているかどうか、立ち止まってよく反省をしなさい――。 11.明治維新は私らの計画、光の指導霊を降下させた 善川 太子様は明治の維新時におきましても当時の人々をご指導されたのでありましょうか。 太子 そうです。明治維新の時にもまた私たちは、毎日忙しい日日を送りました。私たちの世界から多数、何十人もの光の天使達をこの地上、日本の国に送り込みました。そしていろんな計画を立て、いろんな事業を成してきました。それもまた主として、私が中心でやったことであります。あなた方の知っている人では、たとえば、勝海舟という人がおります。坂本竜馬という人がおります。或は、岩倉具視という人がおります。その他さまざまな人々がおります。いずれも私達の世界から派遣していった人達です。径済界にも基礎を作るために大いなる人を送り込んでおります。 善川 木戸孝允という方もそうですか。 太子 もちろんそうであります。 善川 それから明治天皇もそうであられたのですか。 太子 少し違いますが、彼も彼なりの使命を果たしました。ただ私達の仲間ではありません、諸如来、諧菩薩の中にはおられる方ではありません。 善川 そうでありますか。坂本竜馬という方は、最後は非業の最期を遂げられたのですが、ああいう方でも高級霊であられたのですか。 太子 イエス・キリストの最後と比べてごらんなさい。 善川 私たちは、あの時代の先輩の方がたの行動、労苦に較べればまるでぬるま湯につかっているような状態で過ごしているような気がして反省させられてなりません。 太子 ですから、私達の計画をよく見て頂きたいのです。千八百年代中頃から後半にかけて、開港という状況を踏まえて、まず、政治的な運動が起きました。その次に経済的な交流ということが起きてきました。その次に、こんどは宗教というか、精神的交流がいまあなた方の時代ですよ。第三段階ですよ。近代における、政治における解放、次は経済における解放、最後は精神における解放、精神の段階にいま来ているわけです。その後に、政、財、宗教、文化、すべてが統合した世界が出来上がっていくわけです。このような大きな計画があるわけです。ですからまず宗教者たちを出す前に、明治維新の頃に改革家達を次つぎと日本の国に送り込んでいったのです。これからあなた方の事業がはじまり、その後は先に申しあげた通りの展開で時代が発展して行くのです。 善川 本日は、太子様にはお忙しいところ私たちのためにご高説をたまわりまして、まことにありがとうございました。特にこれ以上のご指導はなかろうかと思いますので… 太子 もう一人だけあなた方と、お話をしたいという方が来ておられますが、話をされますか、どうします。 善川 ああそうですか、どういう方でしょう。 太子 イエス・キリストと言われる方です。 善川 ああそれは是非、お待ちいたしておりました。 太子 それでは、私の出番はこれで終わりのようですから、私はこれで還らせて頂きます。 善川 ありがとうございました、どうも――。
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目次 1.人間の本性は真、善、美の三位一体 2.真、善、美の魂の本質確認が基本要件 3.地獄霊は生まれ変わって来ない 4.堕落は無知と悪魔の誘惑 5.地獄に堕ちる宗教家の大借金 6.ユートピア観と、私の王道国家論 7.新時代には文明観が二分、三分と岐れる 8.とりあえずは宇宙時代のユートピアを考えて行け 9.エデンの桃源郷論者を迫害してはならない 10.健全な霊知識に立脚したユートピア論を築くべきである 11.神題伝道計画の中には既に伝達経路が織り込まれている 12.今後二十年以内に中国に文化大革命が起きる 13.「孔子の霊言」が「毛沢東語録」に代わって読まれよう (一九八六年二月八日の霊) 1.人間の本性は真、善、美の三位一体 ―― 孟子の招霊を行う ―― ―― ――孟子様ですか――。 孟子 ――マオシデス ―― この様なところにお招きして恐縮ですが、いま私どもは、これからの新しい時代の精神革命ということを考えておりますが、あなたが説かれたかつての法についていま一度お伺いして、現代の人間あるいは将来の人類に対する一つの光の言葉として述べ伝えたいという希望を持っております。つきましては、この辺について何かご指教を願えましょうか。 孟子 もう大分前からあなた方から私がお招きをうけるということは、わかっておりましたから、心待ちにしておりました。私からばかり教えることもないかも知れませんが、こうした機会にあなた方と話ができて、そのことが私への学びとなることも嬉しいことだと思っております。 さきごろは孔子様や、老子様も出られたそうで、また私をお呼び下さって、孔、孟、老、荘ですか、それでまた書物を出されるということ、これはこの世を去って何千年も経っている私どもにとっては、非常に嬉しいことでもありますし、こういう機会を与えられましたことを神に感謝いたします。 ―― そこで聖賢の方々から徐々にお教え賜わっているわけですけれども、各聖賢方にはそれぞれのご意見がございましてそれはそれとしてうけたまわっておりますが、私どもは大きくは万教は一つで、その時代、時代、場所、場所に応じた光の指導霊が、神から発せられている教えを広められたのである、という立場をとっております。ために、どのような方がお説をどのように説かれようとも、全てこれ神から出されたお教えであるというように、私どもは受けとめておりますので、いささかの矛盾も感じずに拝聴いたしておるものであります。従いまして孟子様におかれましては、既に今から二千数百年昔にお説きになられたお教えでございますけれども、今にあなた様のお教えが受け継がれておるということは重要なことでございます。けれども当時のお教えは、現代におきましてはいささか難しく、現代人の頭では中々消化できないような高度なものであるというように考えられますが、私たちは、日本語の現代語で当時の先生のお考えなり、また将来のお見通しというふうなことにつきまして、うけたまわることができましたなら非常に勉強になると思いまして、お招きいたした次第です。どうか一つあなた様の、人の生きるべき踏むべき道についての本来的と思われるお考えをご教授頂きたいと存じます。 孟子 今日は何もかも語るわけにはいきませんが、主として、三本ぐらいの柱を立ててみようかと思います。 最初の柱は、人間性の根底にあるものは何か、人間の本性について、語ってみたいと思います。次にあなた方は、ユートピア論を考えておられますけれども、私なりのユートピア論を語ってみたいと思います。三番目には、あなた方へのアドバイス、あるいはあなた方との質疑応答のようなものをやってみたいと思います。 まず最初にあらゆる宗教や、あらゆる哲学の基礎にあるものは、人間をいかなるものとして捉えるかということです。この視点だと思うのです。人間はいかなるものであるか、その捉え方によって各宗教やいろんな教え方は異なる色彩をもったものとなったでありましょう。人間を罪の子のように捉える捉え方もあるし、人間を不浄なものというふうに捉える捉え方もあるし、あるいは人間を光の子だとか、火の子だとか、そういった捉え方をする人もいるし、ま、いろんな捉え方があると思うのです。 まず、その中で、私の基本的な考え方というのを明らかにしておきたいと思うのです。私は、人間の本性は善であり、真であり、美であると、言葉を換えるならば、真、善、美こそ人間性の根底にあるものだと、このように考えます。そして人生というのは、この内在の真、善、美を、いかにしてその数十年の人生の中において輝かすかということです。これにかかっていると思うのです。人間の本質は真、善、美であります。この三つのものが、渾然一体となって人間の本性を創っていると思うのです。この真、善、美、これを阻害するものが、様々の悪であり迷いであると思うのです。ただ人間の本質そのものは、真理であり、善であり、美であるということです。 あなた方は今、様々な神霊たちとの交霊を通していろいろと学んでおられると思いますけれども、まだ真、善、美、これをキリスト数的だと間違われてはいけませんが、真、善、美の三位一体、これが人間の本性にあるということ、ここまで考えが至っていないように思います。 『真』ということは何か、それは神の法則の下に生きているということですね。これが真理にのっとった生き方です。これが真であります。 『善』というのは一体何であろうか。善というものは自己と他者との関わり合いを決めるものです。つまり、善というのは、大調和を創り出すための原動力です。人間は人のことを思い、人を助けようと思い、人を愛し、生かし、赦していく、育(はぐく)んでいく中に、善というものを発揮してゆきます。その善というものは、一体何のための働きであるかといえば、これは大調和です。宇宙の大調和、これを創り出していく、霊の世界の中に創り出していく、この原動力になるものが善であります。さきほどいいました真、真理というものは宇宙の法則ですね。宇宙の法則に人間は左右される。人間は宇宙の法則によって統(す)べられる存在である。そしてそういった法則の中において、人間は次なる行動基準として善をなしてゆかねばならないのです。善とは愛他であります。利他であります。他人との関係の調整であります。また善とは、人間の本性が善きものであると信ずることであります。なぜ愛他の念が起きるのでありましようか。何故他人のことを一生懸命に考えてあげるのでありましょうか。何故親切をするのでありましょうか。何故人のために尽すのでしょうか。それは他人もまた善きものであるからです。善きものと善きもの同志であるからこそ愛し合うことが必要なのであり、導きあうことが必要なのではないでしょうか。善はこのように宇宙の大調和を創り出すための原動力でありますが、また善の一側面においては、自らも善なるもの、他人も善なるもの、いわゆる、善きもの、存在を善きものとして観る気根と申しますか、心根(こころね)があるわけであります。これが『善』であります。最後に、『美』ということがあります。いまだ、あなた方のところに出てきている神雲たちは、美ということについて語り得ていないように私は思います。人生にはやはり美は大切です。なぜあなた方の目には美しいものと醜いものが見えるのでしょうか。美醜はまた善悪と並び対称される言葉です。何故あなた方は善悪があるのかということを考え、よく議論されると思います。ではなぜ美醜があるのかということは、あまり議論されたことがないと思うのです。なぜ或るものは美しくて、或るものは美しくないのでしょうか。それを今一度考えて頂きたいのです。何故あるものは美しくて、あるものは美しくないのかということです。 美しさというものは一体何でしょうか。美しさの中にはなにか魂に響くものがあるはずです。その魂に響くものとは一体何でしょうか。神の、神仏の心の中に人々を導く方便として美しさということがあるということですね。本当は形の上に表れた美しさが、神仏の美しさではないのです。ただ、この地上的にはそのような美しさでもって説明しなければ説明がつかないようなものがあるということですね。それをたとえば形あるものでいえば美しいという言い方をするわけです。鳥が翔(と)ぶ姿を見て美しいと感じます。なぜ美しいと感じるのか。それは一言では言い切れません。けれども、あなた方は皆美しい何かを感じています。白鳥が翔(と)ぶ姿をみて美しいと思う。けれども鳥(からす)が飛ぶ姿をみてもなかなか美しいとは感じない。何かが違うわけですね。 このょうな美醜という概念があなた方に与えられています。けれどもその美醜というのは単に外部的にあるものだけではなくて、人間の中においても、美というものが、埋まっていると思うのです。美というものは、単に形だけではなくて、動きの中にも、時間の連続の中にも、美というものはあると思うのです。つまり「美しい人生を生きる」という言葉がありますが、美しく生きることはできるのです。その人生の中において、善として、善き人生を生きる。あるいは、真として、真理に生きる。こういう人生もありますが、美しい人生を生きる、こういう生き方もあるのです。では美しい人生とは一体何でしょうか。それを皆さん方は真剣に考えたことがあるでしょうか。美しい人生って一体何んでしょう。美しい人生というものは、やはりその人生の時間の連続の中において煌(きらめ)きが、輝きが、あるということだと思うのです。 そのような煌き、輝きがあるかどうかということですね。この煌き、輝きというものは一体何でしょうか。煌き、輝きというのは、あなた方の人生の一断面において真理の光がほとばしった時、これを煌き、あるいは輝きというのではないでしょうか。たとえばあなた方一人一人は、結構平々凡々とした人生を生きてこられたはずです。それがある時、出合いがありました。神仏との出合いがあり、聖霊たちとの出合いがありました。その時あなた方の人生は、光を放ったのではないでしょうか。輝きを放ったのではないでしょうか。これが光であり、煌きであり、輝きであります。これを称して『美』といいます。 以上を総合して考えてみると、人間の心性の中に真、善、美というものが埋まっています。『真』というのは神の創られた法則、これを仏教的にもキリスト数的にも、いろいろ言われています。あるときはそれはカルマの法則のように言われています。蒔いた種は刈り取らねばならぬというようなことです。あるいは中庸(ちゅうよう)、中道の法則、作用、反作用の法則、あるいは達磨のように、だるまの法則といわれているのですか ―― 人生は起き上がり小法師(こぼし)―― のようなものであるというような考え方、こういう考え方もあるのですね。そういった様な神の法則というものを、いろんな人がみてきているわけですけれども、そういった真理ですね。法則が人間の本性(ほんせい)の中にあるということ、これが一つだし、善なるもの、善きものそのものが、人間そのものの中に善きものが埋まって居り、それぞれの人がまた善きものであり、善きもの同志が共鳴しあわねばならないということ、こういった人間観が二番目にあり、最後において、美というもの、形において美しさがあるように、人生もまた美しくなればいけない。人の魂も美しくなければいけない。こういった観方があると思うのです。 この真、善、美すべてが満たされて、はじめて人間として完成された人間になってくるのではないでしょうか。私はそういうふうに人間というものをみております。ですから私があなた方に、人間として生きていく道で何が大切かということを、問われたとするならば。まず一人一人の人に言いたいのです。真善美というものを心に描きなさい。今、自分の生き方は″真″まことがあるかどうか、神の法則にのっとった生き方であるかどうか。まずこれを心に問いなさい。 二番目には自分の今の生き方は、善なる生き方であるかどうか、神の子としての善なる自我の発露が出ているのかどうか、善であるかどうかを問いなさい。最後は美であるかどうか。自分の人生は美しい人生であるかどうか。これを考えていただきたいと思うのです。美しい人生というものは、最初から最後までが輝いているような人生ではありません。輝きというものは薄汚れているものの中から輝いてきたり、曇った空の中から光が差してくるようなものです。お釈迦様は、蓮の池に、あの泥沼の中から咲いてくる蓮の華というものを人生に喩えられました。同じようなものであります。蓮の華であります。そうした人生というものは美しくなければいけない。ですから生きていく途次において、時折立ち止まって、私の人生は果たして美しいだろうかどうか、こうしたことを踏み止まって考えてみて頂きたいのです。この真善美ということを、人間として生きていく上での反省の材料として頂きたいのです。釈迦は八正道ということを言いました。正しく見る、正しく語る、そういったことを順番に言っていきましたね。けれども八正道は少し難しいかも知れない。もっと簡単に真、善、美でいいのじゃないか、自分は真実の生き方をしているかどうか、法則にのっとった生き方をしているかどうか、自分は善き生き方をしているかどうか、人間として善く生きていくということ。三番目は、人生は、自分の人生は美しいかどうか、穢れた生き方はしていないか、醜くはないか、こういった真善美という、いわゆる三つの言葉を反省の材料として十分に使って頂きたいと思うのです。あなた自身に対しても、これは当てはまることなのです。あなたは、真なる生き方をしているかどうか、真実の生き方をしてきたか、これはまずまずあなたをとれば、まずまずの合格でありましょう。あなたは善なる生き方をしてきたかどうか。ま、これもまずまず善なる生き方、悪なるものに心負けたことも何度かあったけれど、まずまず善なる生き方をされたはずです。 あなたは『美』なる生き方をしてきたかどうか。これは今一つあなたにとっては課題の残るところだと思います。ただその美しい生き方として光が煌きが、近年に至って後半になってから初めて現れてきております。あとこれ、死ぬまでの間に、どれだけの煌きを出していくかということでしょうけれども、こういった真、善、美という立場、これを守っていかれることが大切なことだと思います。 ここまでで質問があればお聞きします。 2.真、善、美の魂の本質確認が基本要件 ―― 私への訓えの内容につきましては全くその通りでありまして、これが人の生きる道の規範となるものであろうと思います。そうではありますけれども、人間というものは、本来、この現象世界に出る限りにおいては肉を持つということ、大きな、いうなれば十字架を負うわけでございまして、その意味でこれがその通り万人が万人実践できないというのが、課題ともなっておるように思うのですが、人びとが少しでもこの方向に人生を打ち込んでいけるというためには、如何なる努力が必要かということ、ここらが問題の核心になろうかと思いますが。 孟子 確かに努力ということではおっしゃるとおりでありましょうが、基本的な人生観を誤ってはいけないということです。ですから、キリスト教でいうならば、罪の子という思想がずい分害を流していますね。それはキリスト教以外の方からみればよく分かるはずなのですけれども、人間罪の子、原罪ありと、いうようなことで、不当に人間に悪い暗示を与えているのです。こういった考え方はとってはいけないということです。人間は、確かに肉体という肉の衣を被っているかも知れませんけれども、その中にあるものは真なる魂であり、善なる魂であり、美なる魂であるということです。まずこれを信ずることから出発しなければ、その後に構築されるものは違ったものとなってしまいます。 真であり、善であり、美であるということを信ずることによって、はじめてそこからプラスの人生、素晴しい人生というのが拓けてくるのです。もともと本質そのものを、悪いもの、汚れたものと考えてしまうと、なかなか人間というものはプラス・マイナス零以上にはなってこないものなのです。それを私は言っているのです。 ―― まあこれは、人間の性善説と申しますか、本来人間は神の子としての、善性をもって生まれておるのであるけれども、そういう自覚がないと現象界におけるいろんな誘惑とか、いろんな迷いとか、悩み、苦しみというものに囚われて己れを見失って、己れを暗いものに、みすぼらしいものにすると、悪なるものへ、ズルズル引きずられていくというかたちになるのではないかと思います。けれども、その善なるものであるという自覚を強めるという方法が第一に大事なことであると思います。 3.地獄霊は生まれ変わって来ない 孟子 少なくとも、まずその前提になるのが、正しい知識なのです。あなた方はこういった様々な霊達と話しあって、また、宗数的人生観を持っているために、かなり汚れていない魂というものを知っております。けれども、普通一般の人たちはどうでしょうか。世の中には善人も悪人も居ると思っているのです。というよりも、悪人がはびこっている世の中だと思っている人の方が数においては多いのです。善人、悪人という両方の種類があると思っているのです。現象界において二種類の人間がいると思っている人がいます。それともう一つは初期段階です。霊的興味をもっている方々、霊的な生まれ変わりとか、転生輪廻ですね、或いは魂ということを信じていても、この世に生まれてきている人間の、或る人たちは天国から生まれてくるけれども、残りの人たちは地獄から生まれてくると、まっ暗な世界から生まれてくると、こういうふうに思っている人は、どちらかというと宗数的なプロの中にも多いのです。だから、ある人達は威(おど)しています。よく周(まわ)りを見なさいと。あるいは悪魔の手先かもしれない。そういう人として生まれ代わってきているとみている人もいるかもしれません。こういう観方は結構多いだろうと思うのです。それはキリスト教の中にもあります。天から来た人とか、地から出てきた人という言い方をしているために、あたかも人間が地獄から生まれてくるかのように、思われているのです。 けれども今私は、はっきり言っておきます。地獄からこの世に生まれては来ません。少なくとも最低限度としての人間としての最低限の悟りを経ていなければ生まれてくることはないのです。最低限自分が霊的な実在であるということ、この辺が気がつかなければ地上に生まれ代わってくることはないのです。ですから、世の宗教家たちがよく間違っていることは、あるいは世の霊的信仰を持っている人が間違っていることの中には、地獄から生まれてきたから悪い人であると。ああいう人間というのはきっと、ひどいところから生まれてきているに違いないと、思うかもしれないけれど、本来はそうでないということです。美しい魂をもって、美しさの程度はちがうのだけれど、そういった人が生まれてきて何十年か育っていくうちに、色々に分かれてくるだろうということなのです。魂の傾向ということは勿論あります。カルマということもあります。ただ、本来的な悪人とか、そういうものがいると、思っちゃいけないということです。これは正しい霊的知識として知っておく必要があります。 ―― ある程度、霊的存在であるという自覚を持っていない者は生まれてこないということでございましたけれど、しかしながら、現象界に生まれてくると、やはりそれを忘れてしまっておるということですね。そして、かえって、たとえば出てくる以前より以下の生活をして、以下の成績でまた還っていくという者があるということについては、いかがなものでしょうか。 孟子 確かに、おっしゃる通りです。それは人間として生きていった何十年かの間で、そういった借金をつくってしまうわけです。けれども、私がいっているのは、借金を背負って生まれてきているのではないのですよ。借金はない人なんですよ。むしろね、天にいるお父様から、お小遣いをもらって、旅費をもらって生まれてきている人ですよ。しっかりやってこいよと、言って小遣いをもらって出ているんですよ。旅費は持ってきているのです。ところが、旅をしている途中でですね、いろいろと、あちこちで買物をしたり、物事に使ったり、食べたりしてですね、そして大きな借金をつくって、そして還ってくるんですね。それが地獄です。ですから、生まれてきた時に、借金をもって生まれてきているんじゃないということです。みんな善なるもの、まあ旅費ですね、旅費を頂いて生まれてきているんです。ただ、それを旅の途中で使っていく中において、大きな財産にしていく人もあれば、借金をつくってしまう人もいるということなんです。 ―― 要するにまあ、自由であるということなのですね。 孟子 まあ、自由とまで言い切れるかどうか分かりませんけども少なくとも、借金した状態で生まれてきた人間ではないということ、これは知っておく必要があるということです。 ―― ということは、カルマを持って生まれてきたものではないということですか。 孟子 カルマはあります。カルマはありますが、その修正をある程度終わって生まれてきているということなんですね。いいですか。一万円の借金はあるかも知れないけれど、二万円のね、貸金(かしきん)は作って、はじめて生まれ代わってきているということなのです。差し引きすれば、プラス、マイナス差し引きすればプラスになっていなければ、人間は生まれ代わってはこないということなのです。 ―― ああ、そうですか。にもかかわらず、財産を増やしていく人もあれば、却って負債を増やしていく人もあるということですね。 孟子 そうです。ですからね、前世においては、たとえば、五十万円の借金をつくりました。そして地獄へおちました。地獄で修行をしてね、そして五十万円以上返済しました。五十万円の負債を六十万円返すことによって、六十万円を生み出すことによって十万円の、要するに資産をつくって、はじめて人間は、また生まれ代わってくるのですね。ところが今世においては、その元手の資産は十万円なのだけれど、それがまた今度は、一千万円の借金をこしらえてしまうかも知れないのです。そうすると来世に還ってくると今度は一千万円以上働いて返さねばならないのです。 こういうふうに借金をつくる体質、借金をつくる傾向というのがカルマなのです。が、その額がね、悪くなっていく人もいるわけです。しかし、生まれてきた時十万円持っていて、それを死ぬ時には百万円にしたり、一千万円にして還っていく人もいるということです。しかし、生まれてきた時十万円持っていて、それを死ぬ時には百万円にしたり、一千万円にして還っていく人もいるということです。ですからカルマはあるんです。そういう借金をつくるような体質ということですね。あるいはお金を貯蓄していくような体質の人がいます。これもカルマです。しかし借金をつくっていくようなカルマの人もいます。そういうことたんです。そういうふうにカルマは残っています。けれどもその負債は一たんは帳消しにされてから人間というものは生まれ代わってきているんですよ、ということを言っているのです。 4.堕落は無知と悪魔の誘惑 ―― まあしかし、そういう生まれ方をしているにも拘らずそれを、負債を残すということは、そういう原理を元もと知らないか、自分の努力の欠如による勉強不足ということになるのか、それとも第三者の悪魔の誘惑でそういうことになるのか、どちらかですね。 孟子 それは両方です。たとえば、ある人は五十万円借金して返すのが大変だったから、もう借金は金輪際すまいと思う人もいるんですね。一方では、五十万円借金したぐらいではね、何も学ばずに、もっともっと借金しなきゃ気がつかない。そういう借金ということがいけないことだということが分からない人もいるんです。五百万、一千万借金、あるいは一億円の借金をこしらえて、はじめてこれは大変なことになると、こういうことをしてたんでは私は間違ったことをしてしまうと、人生を駄目にしてしまうと、こういうふうに思う人がいるんですね。 それとまた、借金をすると、あなた方の世界でサラ金とか、高利貸がいますね。そういうもんです。借金をしている人に金を貸そうという甘い声をかける人がいるんです。これが地獄の悪魔たちです。実際困っているんですね。五十万円の借金があると。――じゃあ、私が百万円を貸してあげましょうと、百万円貸してくれるんです。が、使っているうちにいつの間にか利息がかさんできて、二百万、三百万の借金になったとする。それを埋めるためにまた、借金をする。また増える。こういったことなんです。そういう意味において、地獄の悪魔たちも決してね、その生きている人間に対しては、彼らとしては悪いことをしているつもりはないかも知れないのです。また生きている人達も、地獄の悪魔たちがやっていることを悪いことと思っていないかもしれないのです。それはそうです。借金している時に、お金を貸してくれるというのですから。それはいいんです。ありがたいんですが、増々それが自分の墓穴を掘っていくんです。こういうことになってはじめて気がつく、ですから第三者としてもかかわりはあるんですね。 5.地獄に堕ちる宗教家の大借金 ―― たとえばいま一つの例ですが、人の道を教える立場にある宗教家ですね、宗教家においてこれまた、莫大な借金をつくってしまうおそれがあるわけですね。 孟子 そうです。 ―― こういう場合には本人は気がつかない。生前においては少なくとも自分は正しいことをやっていると、人のために世のために尽くしておるんだと、そして一生懸命やったにもかかわらず、それが実は、大きな借金であったと、負債であったということですか。 孟子 というのはね、宗教家というのは、普通の人は自分の借金、自分の負債だけを考えればいいんだけれども、宗教家は違うんです。宗教家というのは人の負債まで抱えこんでしまうのですね。人の負債まで返済できる能力があればいいけれども、それがないと大変なことになってしまうんです。つまり自分の負債、自分の多少の過ちというものはあるかも知れません。これがいろんな人、何万人、何百万人に伝わっていくと、その人たちの負債をまたまた増大させてしまう。結局、自分が原因になってつくり出した他人の負債までも、背負いこんでしまう。つまり、宗教家というのは、いわば連帯保証している人なんです。自分の教えを聴く人たちに対して、連帯保証ですね、これをしているのと同じなんです。だからまた借金を返すのが大変になってくるんです。 ですからその宗教を信じている人というのは、その宗教を信ずれば天国に行けるとか、信じているわけですね。つまり教祖さんたちというのは保証人になっているんです。ですから、保証人ですから、彼らが借金をこしらえた場合には払わなければいけなくなるということです。自分が、つまり他人が苦しんでいる分、他人が地獄に随ちた分まで苦しまなければならんということになるのです。だから逆の場合は素晴しいのです。 ―― しかし、仮に同じ教祖にしましても、その信者なり弟子なりは、借金つくらずに資産をつくって還る人もあるが、教祖は借金をつくってしまうと、いう場合もありますわね。 孟子 あります。 ―― そういう場合にはどういうことですか。 孟子 ですから教祖というのは、まあ保証人の親元ですね。弟子たちというのは逆にやはりまだ保証されている仲間なんです。ですから、弟子が十万円の借金をこしらえて、それを保証されていたとしてもね、ただ弟子が五十万円以上の資産をつくっていた場合、その人にとってはもう関係のないことですね。ですから先ほどもいいましたけれども、教祖が保証している人たちの、たとえば全負債額が一億円だったとしましょう。教祖さんに資産が一億円以上あれば全部払えるんです。ところが一億円の資産がないために、払えなくなってしまうのです。 どのような宗教家であってもね、誤った宗教家であっても、その教えの中に一片の真理がないというような宗教家というものはないんです。彼らに信者がつくという以上は、そのどの教えの中にあってもですよ、何らかの真実なるものはあるんです。心の糧になるものは確かにあるんです。それがその教祖の資産でありましょう。ところが資産より負債の方が多い場合には、それは破産してしまうんです。結局はそういうことなんです。ただそれを小じんまりと説いとればいいけれども、大規模にやればやる程、負債が大きくなってしまうということです。 ―― たとえば信者なり、弟子なりはその教祖の資産の部だけを吸収して、負債の部はあまり吸収しなかったと……、 孟子 しなければ勿論大丈夫です。 ―― ということでその人は救われるということですね。 孟子 そういうことです。 ―― 負債で破産した教祖が、立ち直るというのは、自力以外にはないのでしょうか。 孟子 これが難しいところなのです。自分一人だと何とか立ち直れるのですけれども、要するに他の人達の保証をしたために、彼らの借金が返されてしまわないと、自分は自由になれないということですね。自分の借金を返す前に、自分が保証した人達の借金が一つ一つ返されていかないとですね、自分の借金を返すところまでいかないということです。そういう意味で宗教家達が間違った場合には、地獄で苦しむ時期が長いということです。まあ人間の「本性」については、そういったところです。 ―― そうですね。 6.ユートピア観と、私の王道国家論 孟子 二番目に私が考えているユートピア論、私は昔、「王道政治」ということを説いておりましたけれども、王道、王様の道ですね。まあこれは、神の道といってもいいです。現代でいうなら「神道政治」でも結構です。王道政治―王道国家はいかにあるぺきか。つまり、黄金郷ですね、理想郷というのをどのようにつくろうか。このことについて多少考えねばならないと思うのです。たとえばあなたは、そういった理想郷というようなものは、一体どういう世界だと思われますか。 ―― 少なくとも、三次元の世界における理想郷というものは、やはり物心両面にわたる恵まれた幸せな世界が実現するということではなかろうかと思いますけれど。ま、心の世界だけで、その心の王国だけでは本当のユートピアとはいえないのではないかということですね。 孟子 たとえば狩猟生活と、現代の交通網の発達した世界と比べて、その物心の物だけをとった場合、あなた方は現代がやはりより理想郷に近いと思われますか。 ―― それは比較の問題ですし、また心の問題とも関連しますけれども、理想に生きる者にとっては、狩猟時代に生きているものの幸せというものは分からないわけで、また狩猟時代に生きていたものは、現代の社会の幸せというものがどうかということは全く分からないはずですが。我々は現代に生きているものであるわけでして、現代に生きているものの幸せというものは、より多元多様に発達した文化の中に生きておりますから、その日常の時間も非常に濃密に生きておるわけで、また空間も複雑な空間を毎日生きているわけです。ここに酒でいうならば、ただ一品だけの酒を飲むというだけで是しとするのではなく、清酒、ビールにウイスキー、さらにカクテルですね、色んな酒を混ぜ合わせにして、それぞれの酒の芳醇(ほうじゅん)な香りと味のある、美酒を飲んでおるということになってくると思うのです。そういう意味では狩猟時代の地酒を酌んでいるよりは、現代の人たちの幸せというものは、時間的にも、空間的にも、より濃密になっているのではないかと思うのですが、そして将来においては、その本来の質を更に高めて幸せというものをよりふくよかにすべきではないかと思うのですが―。 7.新時代には文明観が二分、三分と岐れる 孟子 ただ私はあなたに言っておきますけれども、この後もうそう遠い将来ではございません。ここ百年から三百年のうちに起きることですけれども、人類の中にもう一度原始に還れというような運動が起きるということを、私は予言しておきます。そういった機械万能の世界、そういったものを打ち壊してですね、やはり自然な生活に帰ろうという動きが、段々本格化して参ります。いまの時代においてはあなた方は、神に帰れという宗教運動をしていますが、この次の時代においても、ある意味での中世というものが、もう一度戻ってきます。゛中世運動゛゛中世への復興゛こういった運動というものがやがて出てきます。それはやはりね、人間というのは、物心両面が発達するのがすぱらしいのであるけれども、物の面が異常に発達すると、どうしても心がそれに奪われてしまう。そういう傾向があるんです。三次元世界では心は一面それだけの弱さを持っているからです。ですから、まあいわば、その時代に出てくる人たちは、形式主義者なのですけれども、形式主義者としてね、物質が溢れた世界においては、真実の理想郷はつくれないという形式主義者が出てきます。 やがて出ます。今から百年か二百年以内に出てきます。そういう人達は率先して言うでしょう。「文明社会を捨てましょう」と、おそらく言ってきます。脱文明社会ということで、率先してその文明を捨てる人たちが出てきます。そうした方々が文明を捨てて集まって、また自然の生活をしようというような、運動(うごき)が出てきます。自分の手で飲むものも、食べるものも作れるような、そういった生活をしよう、そして素朴な心を取り返そうと、そういった動きが出てきます。 それは、あなた方、これからは大変な教えを残していかれるのですけれど、あなた方の教えをくむ、流れの中の一派として、そういう分派がやがて出て参ります。あなた方の弟子筋の中から出てくるのです。自然復興運動が、中世へ還れ、という運動が出てきます。そういうことも起きるということを、私は予言しておきます。 ―― お訊ねしたいのですが、一つには現代の文明社会が頂点まで発展しまして、それと同時併行的に自然科学も進んでいくにつれ、いい方向に進むばかりであればよいのですが、悪い方向へ、はっきり言って科学兵器が進んでいってですね、そしてまあ人類のある意味での淘汰といいますか、そういう試練の道具に使われた時点で、その原因であるこの現代の科学文明なり、それを母体とする近代文明というものに対する人々の嫌悪感、愛想づかしということから、そういう自然文化というか、大自然に還れというような望郷的思想がまた復古してくるのではないでしょうか。 孟子 そうです。 ―― それの契機といりものが今日の……。 孟子 現在そういうことの契機が出ているのではなくて、これはもっと時代を下りますが、やがてそういう分派が出てきます。やはりもう一回始めから、零(ゼロ)からやり直してみようと、自分たちで農園を作るところからやってみようと、そういう人達が出てきます。それとは別に、これから宇宙船時代の「正法」を創るというような人たちも出てきます。宇宙船時代における正しい宗教をつくろうと、宇宙的宗教を考える人も出てきますが、一方においてはエデンに帰れというような運動をする人たちが出てきます。今からこういうことを説くのは……あなた方は今、お弟子さんも居ません。――そういう状態において私がこういうことを予言するのは問題があるかも知れませんが、あなた方のお弟子さんの中には、そういった「宇宙的宗教」を求めていく人たちと、「エデンに帰れ」という運動をする人たちと、そういうふうに二分、三分とやがてまたあなた方の教えも岐かれていくことになります。 ―― そうですか、これは日本の国だけに起きる問題なのですか。 孟子 そうではありません。文明というのは日本だけではなくて、他のところへも拡(ひろ)がっていきます。あなた方の宗教もやがていろんなところへ、東南アジアの人びとへ、アフリカヘ、そしてオセアニアヘ、いろんなところへと拡がって行きます。いいですか。かつてはユダヤの地に起きた宗教が、イギリスやフランスやアメリカに渡って行ったように、今回日本の国に起きる宗教が、こんどは東南アジアを通り、アフリカに伝わり、またオーストラリアとかその他の島々にも伝わっていくのです。 ―― その段階で、宇宙規模的な文化圏を築こうとするのと、一方、地球上で自然に帰ろうとする二つの派が分かれるということですか。 孟子 そうです。たとえばアフリカという国があります。彼らは時代としては遅れた時代を生きているわけでありますけれど、彼らは彼らが今、先進国に追いつく途中において、先進国がとんでもない失敗を犯すことを、彼らは眼のあたりに見るでありましよう。そして彼らは、文明の怖ろしさということに気がついていくでしょう。それでもやはり文明社会に突入していくべきだという人と、やはりエデンに帰ろうとする人達とが出てきます。あなた方の教えはアフリカにも伝わっていきます。そしてその中に文明社会を築いてやっていこうという人と、もうああいう過ちは我々の中では二度と犯したくないという、そういったエデンに帰れという動きが、アフリカにも起きてくるでしょう。それはまた、東南アジアにおいても同じです。文明圈を目指すか、エデンを目指すか、こういった二つの動きが出てきます。 ―― それについての私たちの責任というものはないのですね、現在において。 孟子 やむを得ないんです。あらゆる宗教はその最初に説かれたものが、やがていくつかに分かれていくというのはもう歴史の必然であります。そしてその両方ともが必要なものなんです。
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目次 1.現代日本への天使の再来 2.九次元の地球儀 3.いかにして地上の時刻を知るか 4.意識を集中しただけで地球のどの地点でなにが起きているかわかる 5.私の仕事は日本各地に散らばった光の天使を目覚めさせること 6.天上界に還(かえ)っても、いまだに救世の熱意は冷(さ)めない 7.三名の如来、五十名の菩薩、百数十名の諸天善神たち 8.全国の光の天使よ、集結せよ 9.救世運動は、タイ、インドネシア、オーストラリアヘと広がる 10.GLAでの過去世認定の誤り 11.如来や菩薩の条件 12.過去世の名に執われず、もう一度原点に立ち返れ (1987年2月3日の霊示) 1.現代日本への天使の再来 きょうは、「天使の再来」という題がつきました。天使の再来ってなんなのでしょうね。 きょうはね、まあそんなに長く話をするつもりはないのですけれども、三つほど重点をしぼって話をしていきたいと思います。 第一点はね、いま日本という地に出ている天使軍団の話、第二点は、これから未来世の話をちょっとしましょうね。 それから三番目に、また申しわけないけれどもGLAの話をちょっとだけしようかなと思っています。まあ許していただけましょうかね。 印刷屋さんのおかげで、大量出版屋さんのおかげで活字組んでいただいて、高橋信次の個人的なことをいっぱい言うと申しわけないんだけれども、まあ売れますからいいでしょう。 自信を持って話を進めていこうと思います。 そういうことで、まずきょうは「天使の再来」という題ですけれども最初に私はいま、現代の日本に降(お)りている光の天使たちについてお話をしたいと思います。 もう霊言集の固定読者になっているかたがたは、いろんな光の天使たちが、過去幾転生繰り返して、さまざまな文明の地に生まれ、そしてまたいま、数多く日本の地にも生まれてきておるということを、すでに知っておられると思います。 たしかに日本という国はね、いま、私たちの世界から見てみるとひじょうに霊的なバイブレーションといいますかね、それが高まってきています。 2.九次元の地球儀 さて、ちょうど九次元にある私の近代的な家屋のなかには、理科系の人向きの設計技士みたいな人が使うようなスチール製のきれいな机があります。 まあそこで回転椅子に座ってギコギコやりながら、こう思索にふけったり、ものを書いたり、私はやっとるわけです。 そのスチール製の上品な、定価が少なくとも四、五万円以上するような、安いか高いかは判断をまかせますけれども、その机の左のはしっこには地球儀を置いています。 そして窓際にね、この地球儀を置いて窓から射してくる、南のほうから射してくる九次元の、ちょっとまぶしすぎるぐらいの明るい太陽の光をまともに受けながら、私の目はつぶれることなく、外の景色を眺めておるわけです。 そしてときどきですね、仕事の手を休めて左手を伸ばして、その地球儀をちょっとたぐり寄せてクルクルクルクルと、こうまわすわけですね。 人差指でクルクルクルクルまわすと日本が見えたり、アフリカが見えたり、ソ連が見えたり、アメリカが見えたり、いろんな国が見えます。 そしてね、この地球儀っていうのがみなさんね、旺文社とか学研とか、そういうところの付録の地球儀とは、ちょっとちがうのです。 そういうのじゃなくてね、私の地球儀はひじょうに性能のいい地球儀で、まあ直系三十センチぐらいの地球儀なんですけれども、それがね実物の地球そっくりなんですよ。 まさしく、もう手を突込めば太平洋にポシヤツと手がはいるような、そういう生々しい地球儀なんです。 だから水があり、エペレスト山があり、いろんなそういう姿がまざまざと見えて、水があるんじゃ下に漏って困るんじゃないかという人もいるかもしれませんが、その水が、どっこい落ちないのですね。 地球儀のなかに引力が働いていますから、水が落ちないように一生懸命くい止めているのですね。 まあそういう地球儀が水晶の玉の代わりに私の机の上にあります。 そしてそれをクルクルクルとまわしますね。そうすると、たとえばヒマラヤ山脈があってエベレストなんて山がありますね。 ああこのエベレスト山は、ちょっと前に出た『日蓮聖人霊示集』のカバーデザインに使われたエベレストだな。フーン、フーン、フンこういうところにあったんだなあなんてね。こういうのが見えます。 あるいは対馬海峡あたりで波が起きているなってね。竜巻ではないけれども、ちょっと風がきつくてパシャパシャと波が立っている。 これは、もしかすると『谷口雅春霊言集』のカバーデザインに使った、あの波かしらってね。 こういうむずかしいことを私は瞑想しながら、その地球儀を眺めておるわけであります。 3.いかにして地上の時刻を知るか そして地球が一日、二十四時間かけてクルクルまわっておるように、私の目の前の地球儀もね、ゆっくり、ゆっくりとクルクルとまわっておるのですね。 そうして、ちょうど、どこの時間がね、いま、何時かっていうのがすぐわかるようになっているのですね。便利なんですよ、みなさんね。 その地球儀の上にね、なんといいますかね、カーソルみたいのがあってね。それが動いていくんですよ。 ちょうど私が合わせてやれば、そのカーソルが動いたところが、ちょうど昼飯の時間に合うようになるんです。 どこで、お昼御飯食べているかわかるように、ちょうど、お昼御飯食べているところに、そのカーソルが動いていってピターッと止まるんです。 あ、いま、アフリカがお昼御飯の時間で、アフリカの人たちが手でね御飯食べているなあとかね。しばらく動いていくと、お、インドだ、インドだってね。こりゃカレーの匂いがしてきたなんてね。カレーを手で混ぜて食べているなって。こういうのが見えるんです。 中国のほうへ行くと、お昼から中華料理食っとるなってね。そりゃそうだろう。 そうしていろんな地球儀がだんだん動いていってね、カーソルがいろんなところを指して、いろんなところの、お昼御飯がわかるのです。 私は食道楽ですから、いろんなところで、お昼御飯食べているものをジィーッと見ているんですね。 まあ、こういうふうにして目の前で地球儀が、やっぱり地球の二十四時間に合わしてゆっくりまわっておるのです。 4.意識を集中しただけで地球のどの地点でなにが起きているかわかる だからあの世に時間がないから、あなたなら高橋信次がね、なんで私たちのやっていることがわかるのかと思うでしょうけれども、どっこいわかるのです。 そういうふうに私の机の上には地球儀があって、その地球儀がゆっくり回転していて、どこが何時かピタッとわかるのです。だから三時の時もわかるのですよ。 あの世には時間がないけれども、地上の時間がピタッとわかるようなしくみがちゃんとあるんですね。 そうして、そういう地球儀を眺めておると、ちょうどね、ジィーッと見つめておるとね、拡大鏡で見るようにね、だんだんその世界が見えてくるのですね。 だから太平洋にあるタヒチの島なんかポツンとこの地球儀に点があるけれども、高橋信次が意識を集中してタヒチではいま、可愛い子いるかなあと思ってジィーッと見ていると、その島がね目の前にドーンと大きくなってきて見えてくるんですね。 そしてじっさいにタヒチの上空で私がヘリコプターに乗って飛んでいるような気持ちになって、わかるのですね。 そしたら、あそこの子がミス・タヒチじゃないかなんてね。そういうふうに一発でわかります。 そしてまたタヒチに興味がなくなると、またズーッと視界が小さくなってきてタヒチの島っていうのは、地球儀のなかの一点になってポンと止まります。こんなもんなんです。 で地球儀のなかの日本を見てて、ああ日本はどうやっておるのかなーと思うとズーッとこう見ていくと、ガンガンガンガン目に近づいてきてね、大きくなってくるわけです。 そしたらゼロ戦に乗ったような感じでね、高橋信次がブーンってね、ブーンっていうとカナブンかハチみたいですけれども、まあハチでもいいですよ。 ハチになったみたいな感じで地球に近づいてくると、地球がドンドンドンドン大きくなってくる。そして見えてくるわけですね、上空から。 すると、おっ、九州が見えてきたな。 GLAの会員ちょっと減っとるかな、とかね。まあこういうのがわかります。 九州の佐賀県のお寺の坊さんが一生懸命、手紙書いておるなとかね。 あるいはジーッと見ていると上野にある印刷屋のおじさんが一生懸命、いま『正心法語』読んでいるなとかね、こんなのが見えるんですね。 こういうのが拡大鏡みたいに見えてきます。 おもしろい世界なんです。みなさんね、こういうふうに自由自在の世界なんで、こんなのありがたいですよ。 みなさんなんてビデオなんか買って一生懸命見ておるんでしょうけれども、そんなもん見なくても意識集中しただけで、地球のどの地点でなにが起きているか一発でわかるんですね。 そして拡大鏡で見るように、その世界が大きくなって、ズーッと目を通していくとなかで動いている人の心のなかまでわかっちゃうんですね。 きょうの晩御飯なんにしようかと思ってウロウロしている女性の心のなかなんて一発でわかっちゃうのですね。 そして高橋信次の霊言を収録するときのお茶が、これがコーヒーになるか、紅茶になるか、日本茶になるか。 あるいはアシタバ茶になるか、ほうじ茶になるか、あるいは玄米茶になるかね。 こういうのを、たとえば女性が考えているのが一発でわかります。 私は玄米茶よりも、むしろアシタバ茶のほうが飲みたかったのに、きょうは残念ながら玄米茶であるとかね。 こういうことを思いながら私は、はるかなる九次元世界から地上に降りてきて、この霊言を語っておるわけです。 5.私の仕事は日本各地に散らばった光の天使を目覚めさせること さて前置きが長くなりましたが、そういう私の世界の地球儀を眺めてみると、地球上のいくつかの世界に光が出ておるのですね。ポッポッポッと光が出ています。 ですから日本を見ていると、日本というのをジィーッと見ていると、日本のやっぱり東京のあたりを中心にしてね、ポッポッと光が出ているのですね。 ちょうどホタルのお尻が光っておるように光がポッポッと出て点滅しているのですね。 こういう光が出ているということはなにかというとね、正法神理が説かれているという意味なんですね。 正法神理が説かれているところというのはポッポッと光が出ているのです。 ちょうど、だからいま、日本ですね。日本の東京でポッポッポッと光がついてます。 まだね日本各地にも、そういうなんといいますかね、ホタルさんがいっぱい各地に散らばっておるのですね。 ホタルちゅうのはね、お尻が煌々(こうこう)と光りますが、これが光の天使なんですね。 ホタルでも昼間は光らないでしょう。夜になって、お日様が沈んでいくと、こっちの水は甘いぞって飛んできてポッポッと光るのがホタルですね。 こっいうふうに光の天使たちがいま、日本の地に多数生まれておるんだけれども、昼間のホタルのように、まだ灯がついていない人がおるのですね。 そして東京とか、大阪とか、名古屋とか、あるいは九州、北海道、中国地方、四国、こういうところに私たちの世界から送り込んだホタルがいっぱいおると思うんだけれども、まだ、お尻に灯がついていないのが多いんですね。 ただ東京のなかではポッポッポッ、いま、灯がついてきて見えてきます。 あと四国のホタル、あるいは九州のホタル、北海道の小樽のホタル、こういうのがどうしておるのかね。 私はちょっと気になって毎日見てます。 やがてこうした送り込まれているホタルたちの、お尻から灯が出てくるでしょう。ポッポッポッと光が出てくるでしょう。これを見ているんですね。 こういうのが主として私の一日の日課なんですよ、みなさん。高橋信次がなにをしているか心配でしょうけれども、これが日課なんですよ。 地球儀をクルクルまわしながらね、どこでホタルがいま、点滅しているのか、これを見ているのです。 そしてホタルの火のつきかたが悪いと、ちょっと、ちょっくら行ってくるよ、てなもんで、外出着に着替えて、飛行服に着替えて、ブーンと飛んでいくのです。 三次元のほうへ降りてきて、あっちこっち棒でつっつくんです。 ちょうどね、ニメートルぐらいの棒を持っててね、みなさんがた、見えないでしょうけれども、羽はやして、ハチみたいに飛んできてね、ブーンと飛んできて、この人、ちょっと眠っているなというところにくると、指導霊が居眠りしていますから、「カーカー。」と居眠りしていますから、その精神棒、持ってきてパシーッと叩くんですね。 頭をパシーッと叩くと、昼寝していた指導霊や守護霊がパッと目を開いて「アレ!なにをするんだ。」ってね。そしたら「なにすんだって、おまえ、居眠りしているじゃないか。」 ってね。 そしたら守護霊が「居眠りしてなにが悪いのだ。したっていいじやないか。」ってね。 「いま、太平の世の中なんだから、わしゃ寝ているのが好きなのに。」ってね。 「あんた、なに寝ているのかね。寝るのは夜だけにしなさい。昼間から寝ちゃあダメなんですよ。」 ってね。 「あんたなんのために守護霊やっているの。」ってね。 「お宅のホタル灯がついてないじゃないの。」 ってね。 「ウーン厳しいこというね。そういえば、あんたさんはホタルさんの親分さんでいらっしゃいますか。」 ってね。 なにか、ずいぶん大きめの太めのホタルさんで、なんか体長百六十三センチメートルね、体重七十五キロぐらいあるような大きめのホタルさんが飛んできて、なにかポッポッ光っておるようだからね。 守護霊も驚いちゃって、こんな大きいホタル見たことがない。こんなホタルが精神棒人れるんじゃ、こらあたいへんだっちゅうんでね。 「わかりました。ただいま、点火いたします。」 ってね。 火打ち石でね、なんというか火を起こす石でね、パシッパシッパシツと、こう叩いてね、ホタルのお尻に灯をつけるわけです。 まあ、こういうことをやるのが私の仕事で、いま、日本各地に飛んでいっては眠っている守護霊を精神棒でパシーツと叩きながらね、火つけ石でね、灯をつけさしとるのです。カチカチカチってね、やらしとるんです。 日本中の眠っているホタルたちに「目を覚ましなさい。」これを言ってまわってます。 6.天上界に還(かえ)っても、いまだに救世の熱意は冷(さ)めない だけどもじっさい、空を飛んでひとりひとりに言ってまわっているとたいへん疲れるんですね。 エネルギーが切れて、私もお腹(なか)が空いてきますから、そればかりでは困るんですね。 だから、いま、『高橋信次霊言集』だとか『高橋信次霊示集』だとか、いろいろ使いわけしながら、こうして本を出しとるわけです。 こうして日本各地の何万、何十万の読者にね、読まそうとしているのですね。 そうすると私が飛んでいって精神棒で殴っていかなくても、本を読んだら、「おーっ、これは高橋先生じゃないか。」ってね。 「まちがいない。いやあ懐かしいねえー、十年ぶりだね。」なんて、「いやあ、出てきましたねえ、ついに出るべきもんが、出るべきものが出ましたねえ。」なんてね。 こういうふうに、あっちこっちで、いっています。つぶやいている声が、みんな聞こえてきます。 えーそういうことで、私の本を読んでね、いろんな人が反応しているのが見えます。 反応しているけど、まだ灯がついていないのでね、これは、ちょっと守護霊集めてね、教育したりしなきゃあいかん。 まあ、こういうことでね、みなさん、やらなきゃならないことが、やたらあってたいへん忙しいんですよ。 高橋信次が暇かと思ったって、そんなことないんです。もう一日のうち大部分は地球の上に出てきて飛びまわっておるのです。 私にはUFOなんてありませんから、もうこの身、このままで出てきて、つつきまわっとるんです。 でまあ、私の霊言集をね、まあ、できるだけ早く、できるだけ多くの人に、できるだけ大量に読んでいただきたいというのが私の願いなんです。 そのために私みずからが、出版社の開拓をしたり、あるいは宣伝の方法を言ったり、一生懸命尻を叩いておるのです。 まあ、これがね、私たちの救世の願いなのですね。 まあ、この前、『幸福瞑想法』(土屋書店刊)という本のなかで、ブッダ意識というのは、「私にはまだ執着がある、それは世のひとびとを救いたいという意識じゃ。この世のひとびとを救済したいという意識が若干残っています。」なんてかっこういいこと言っていましたけれども、私の執着も、まさしく同じであって、世のひとびとを救済したいと、こういう執着が残ってるわけです。 こういう清い執着が残っとるんです。どうかみなさん、この執着を取ってください、私のね。 私の、この清い執着さえなくなってしまえば、つまりみなさんのしかるべき人たちのお尻に灯がともってね、ホタルみたいに光ってくれれば、私は、もう安心して執着を断って成仏できるのです。 そして地球圏外から出て、どこか隕石(いんせき)かなにかに宿りながら生きていけるのです。 まあ、私はそういうふうに成仏できることを願っておるんですけど、なかなか、そうはいかんのですね。そういう執着がなくなりません。 そういうことで仕事をしています。 7.三名の如来、五十名の菩薩、百数十名の諸天善神たち でね、いま、私が見ていると、日本には、光の指導霊が、けっこう出ておるんです。 そうだね、いわゆる如来っていうのが出ているか、出ていないかまあ、これは、ちょっと秘密もあるからね、まあ言えないんですね。 けれども、ウン、もしかしたら如来になるかならないか。はいるかはいらないか。ややこしい微妙だなというような人というのはいるんですね。 いま、1歳の赤ん坊から、まあ0歳でもいいけれど、0歳の赤ん坊から、九十歳のおじいちゃん、おばあちゃんまで入れてみると、そういうふうになるかならないかというスレスレの人っていうのは、まあ、三人ぐらいは、いるのです。じつはね。 菩薩になるか、如来になるか、わからないっていうような境涯の人というのは三人ぐらい出ているのですね。 こういう人たちにね、ほんとうに灯がつくかどうかね、これがひじょうに私たち心配なんですよ。いるんです三人ぐらいね。 そうすると、ここまでいうと、かつてGLAで私の教えを受けた人たちは、「おれじゃないか。」と言い寄る人がおると思います。 けれども、まあ、それは話をよーく最後まで聞いてから判断してくださいね。そういうことなんです。 そういうことでね、まあ三人ぐらいね、七次元から八次元の、その境目ぐらいの人たちがいます。 こういう人たちに灯がつくのを私は待っています。 それから、いわゆる七次元の菩薩というような人たち、日本に、けっこういま、多いんですね。 まあ、どうでしょうかね、私の目に映るかぎり、まあ、そうだね、いわゆる光の天使としての菩薩の人っていうのは、まあ、五十人はいるかな。 生きている人で、五十人ぐらいいると思いますよ。もともと菩薩の人というのは五十人ぐらい出ているでしょう。 ただ五十人のなかで、まあ現在、菩薩の自覚を持って生きている人は何人おるかっていうと、これは心もとないね。ひじょうに心もとないです。 まあ菩薩の悟りを開いている人っていうと、そうだね五十人のうち、まあ、これを聞いてガッカリする人がいっぱいいて困るだろうけどね。 そうだね、菩薩の意識がある人が六人ぐらいかなあ、いま、見ててね。五十人出ているうちの六人ぐらいが、なんとか菩薩っぽい悟りを持っておるようです。 まあ、これも、かつての私の弟子たちがいろいろ聞きたいでしょうから、これは、またのちほど話します。こういうことで、まだ四十数名、目覚めておらんのです。 これ以外にも、もちろん神界上段階の諸天善神たち、いっぱい出ていますね。こういう人たちも今世、まあブッダの法に触れて悟る機会が与えられています。 そうすれば、やがて菩薩としての悟りに至って活躍する機会も、もちろんあるのですね。こういう諸天善神たちもそうとう出ていますよ。 まあ、将来、予定されている、そういう人たちも、そうだね、やっぱり数十人いるようですね。いるみたいですね。こういう人たちがいます。 まあ、こういうふうにね、全体としたら、そういうふうに菩薩、あるいは諸天善神のかたがた、こういう光の天使といわれるかたがたが、日本には、まあ、そうだねぜんぶかき集めたら、そらあ百人越えます、もっといます。百人から二百人近く出ておるでしょう。 けれども消え込んでおるホタルもおるんでね、正確な数がつかみにくいですけども、百から二百は、おるのです。少なくともね。 こういう人たちが、まだ目覚めずに産業界にいたり、あるいは教育界にいたり、政治家やってたり、まあ、いろいろしておるわけです。 まあ目覚めて宗教界にはいってきておる人もおります。まあ、百か二百ぐらいおるのです。そういう諸如来、諸菩薩がね。 8.全国の光の天使よ、集結せよ こういう人たちがまちがいなく私たちの教えにたどりついて、まあひとつの大きな中心をなしていくことを私たちは願っとるわけです。 そのためにね、日夜ハッパをかけてね。ドンドンドンドン本を出せといって、昼御飯も食べられないぐらいまで仕事が山積みになっているわけです。こうやって本を出さしとるわけですね。 そして多くの人たちに気づいてほしい、目覚めてほしいと思うわけなんです。そういうことでね。 いま、私たちが願っておること、希望しておることは、いまから二千数百年前のインドの釈迦教団のように、そうした光の天使たちが、やはり百名、二百名集まってくることをいま、祈っとるのです。 日本各地に散らばった光の勢力たちが、やっぱり結集してこないとほんとうの意味での文明創り、宗教改革、あるいは救世の事業っていうのは成せないのです。 それぞれがバラバラでね、あっち、こっちで飛んだり、跳ねたりしているようではダメなんです。 菩薩どうしでね、「俺のほうが偉い。」、「いや、おまえのほうが偉くない。」とかね、いろんなことをやっているとぜんぜんダメなんです。 それぞれ一宗一派を起こしてなんとか会とかいっぱい創っちゃってやっているようではダメなんです。 早く結集してこなければいかんのです。ほんとうの力が出るためにはね。 そういうことで、なんとか、ここ数年のうちに、そうした散りばめられた光の勢力たちを一点に集めたいと思っておるのです。 そのために私たちはね、まあ過剰サービスとも言えるような霊言を、仏教系もキリスト教系も神道系も、あるいは古代ユダヤ教、儒教、道教、あるいはGLA教、こういうものまで提示してすべての勢力をいま、集めようとしています。 こうやって光の壁を創っておかないとね、これからの厳しい魔界の試練に耐えていけないのです。 みなさんは、ぼんやりしておりますけれども、だんだんに全世界というのが、いろんな暗い事件に見舞われていくんです。一時期ね。ですから闇の勢力が地上を覆(おお)うように見えるのです。 したがって、この時期にね、いま、日本にポコポコ光がついてますけれども、光の勢力を結集してね、光のドームを創らなきゃいけないのです。そのためには早く全国津々浦々からひとびとを集めにゃいかんのです。 まあ、こういうことで私たちはやっとるのです。 どうか私の言葉を読んでもね、「自分こそ、そうじゃないか。」ってね。この勘違い、けっこう多いんですけれどもね。 来ておる人で、ちょっとまちがっちゃってね、求職運動かなんかしちゃって、「自分こそ、そのきたるべき光の天使じゃありませんか。」とかね、一生懸命ゆうとる人もいます。 まあ、これも誤解も多いですから気をつけてください。まあ、たいてい七、八割は誤解ですから。 光の天使ならみずから、お尻を光らせてみなさいってことですね。誤解がずいぶん多いでしょうけれどもね。 まあ、そういう誤解を除けば、ほんとうに光の天使たちも、きっと寄ってくるはずです。それを私も期待してます。まあ、それがねきょうの「天使の再来」の第一点です。 9.救世運動は、タイ、インドネシア、オーストラリアヘと広がる 第二点はね、これからも、この救世運動というのは地上に広がっていきます。日本を中心に、これから五十年間、ひじょうに大きな盛り上がりが出てきます。 そして、これから東南アジアのほうにもね、光の指導霊が数多く出ることが予定されています。 西暦二千数百年には、タイとか、あるいはインドネシアのジャカルタとか、こういうところにも如来界から偉大な光の天使を送り込む予定になっています。 あるいは、やがてね、オーストラリアのほうにも偉大な光の大指導霊が出るでしょう。 オーストラリアは、その昔、イギリスからのようするに罪人の流刑の地であって、人材に恵まれておりませんでしたけれども、いま、ひじょうにいい土地になってきておりますね。ひじょうにすばらしい国になってきつつあります。 人口は、まだ二千万人か、三千万人ぐらいでしょうけど広大な土地です。日本の二十数倍の広大な土地で、すばらしいきれいな景色があります。 こうしたところにいま、心清い人たちがだんだん集まってきてますね。 やがてね、オーストラリアからも大きな光が出てくるでしょう。私たちには、それがはっきりわかります。 そしてまもなく、まず海外の支部なんかも、オーストラリアにできると思いますけれども、そういうのがひとつのきっかけとなってね、やがてオーストラリアにも神理が広がっていくでしょう。 そして、そこに、また偉大な光の指導霊が出ます。 ですから、タイのバンコック、そしてインドネシアのジャカルタ、それからシンガポールにも出ますよ。シンガポールにも偉大な光の指導霊が出ます。 それからオーストラリア、ここにも、ここ百年ぐらいのうちに光の天使が出ます。みな、如来界の人です。 まあ、九次元の人はいまのところの、予定はまだされておりませんけれどもね、ここ五百年ぐらいは。八次元からはね、上段階の偉大な光の大指導霊が出ることになっておりますから。 日本のみなさん、あなたがたの現在の神理の復興運動というのは、そんなに、ちっちゃいもんじゃないんですよ。 これからインドネシアに、東南アジアに、そしてオーストラリアにと広がっていくんです。もう予定されておるんですよ。つぎつぎと段階がもう予定されておるのです。 タスキかけてね、もう五十年走って、「もう、くたびれた。あー困った。暑い。あー水が飲みたい。レモンがほしい。」なんていって毛布にくるまれて倒れかかってくるときにはね、つぎの走者が走り始めるのです。 もう、それは決まっておるのです。 だからみなさん、その最初のスタートなんです。いまがね。第一走者なんですからがんばらにゃいかんのです。まあ、そういうことであります。 10.GLAでの過去世認定の誤り まあGLAの人たちにたいしても、ちょっとだけ天使の再来について意見をいっておきましょう。 まあ私が出たときに、ずいぶん偉いかたがたがまわりに、いっぱい出たことになっておるのですね。まあ、ずいぶん如来や菩薩がボコボコ出ちゃって、すごい人材が豊富だったんですね。 それだけの人材がいたのに、なんか高橋信次がいなくなると、急になんか消えちゃってね。「あれっ、あの人たち、どこへ行ったのかなあ。知らないけど、どこへ行っちゃったのかなあ。おかしいなあ。」なんてね、思っている人がいっぱいいるでしょう。 この前も、ちょっと言いましたけれども、たしかにね、過去、現在、未来を見通すという、三世を見通す力をいちおう持っとるということになっておるわけであります。 けれども、いかんせん、やっぱりね、露払い、あるいはパイオニアというのはね、ひじょうにむずかしいのです。初めてやるとね、やっぱりテキストがないもんですからまちがいも多いのですね。 そういうことで、いろいろちょっと誤解もあったし、それから私自身の知識量の不足っていうのもありました。 私が電気屋のオヤジでね、「電気のことはわかります。宗教のことはわかりません。」で胸張っていばってね、宗教のことはわからないし、本なんか読んだことないけれどもね、「これは仏教の仏典のなかの第何巻、第何章に出てくる現象で、あるいは聖書のなかで、ここに出てくる現象です。」なんていうことを、一生懸命、偉そうに言ってました。 「読んだことないのに、わかるなんて偉そうに言わずに、ちゃんと読んでから言いなさい。」と親切に、あの世で言ってくださる人もいます。 そのとおりなんですね。一生懸命、勉強してから言えばよかったんです。 聖書読んだことない人が、おまえ、過去世でイエスの弟子のなんだった、かんだったいったら、そりゃ、まあ混乱が起きるんですよ、当然ながらね。 仏典読んでいない人が、おまえ、釈迦弟子のなんだった。そのときになにかを寄進したなんとかだったね。そのときに便所掃除をしたのは、あなただった。そのときにミルクを差しだしたのはあなただった。そのときに絹を持ってきたのはあなた。そのときにお粥(かゆ)をだしたのは、あなた。 こういうことを一生懸命いって歩いたのだけれども、やっぱり知識がないっていうのはね、いかんせん悲しいことでしてね、誤解もずいぶん多かったのです。 ですから私の現象のなかで、インド時代の過去世というのを、ひもといた人がいっぱい出てきましたけれども、まあ当たっているのもあるし、当たっていないのもあるのです。 「おまえ、これだろう。」っていったら「うん、そうだ。」という人がいてね。 「じやあ、そうなんだろう。」という人がいてね、けっこうあるんですよね、そういう誤解が。 ですから、まあ、これはほんとうは正誤表作ってね、一冊の本にしなければいかんのですけれども。 11.如来や菩薩の条件 生きている人のなかで、私に言われたことを後生だいじに思って、私は過去世に、こうだったっていうんで、生きている人がいっぱいいます。 そのわりには現状があまりひどいもんで、悩みの種になっている人がいます。ほんとうのことを言うと、過去世で偉くなかったとしたら、もう安心しちゃってね。 「やっぱりそうでしたか。ああ、楽になったね。ああ、これで肩のコリが取れちゃった。一気にもう治りました。」とね、こういう人もいると思いますけれども。 具体的な名前を出せないのがひじょうに残念でしょうがないのですが、まあ私の弟子たちでね、いま、一派を起こしている人たちは、まあ誤解をしている人たちがずいぶん多いようです。 九州のかたでもひじょうに誤解をして、まあ「宇宙即我」を悟ったと思っておるかたですけれども、やっぱり、ちょっと、これも誤解の口であったようです。 本人は、私に言われたということでね、後生だいじに思っておるようだけれども、やっぱり宇宙即我というのは、そうかんたんには悟れんのです。 そう悟ったような気がしただけであってね、それがほんとうの宇宙即我じゃあないんですね。 宇宙即我は、やっぱり本物の如来じゃないと悟れないんですね。 もし如来が、私の弟子におれば、もうちゃんとした教団をひき継いでやっております。それができないということはね、やはり、その人は如来ではないということなのですよ。 如来の条件というのはみなさんね、自分で新たに一宗一派を起こしていける人、新しい時代を築いていけるような人、このぐらいの人が如来なのですよ。 単なる宗教の復興運動をやっておるだけじゃ、これは菩薩なんですね。中興の祖ぐらいでは菩薩なんです。 GLAの高橋信次の教えの中興さえ、できんようではね、菩薩といえるかどうかも怪(あや)しいんです。 あるいは、あるところにもいるでしょう。 モーゼのような気持ちで一生懸命、法を説いてやっている人がいますね。こういう人なんかも、おそらく自分が、もう八次元というよりは、九次元の存在だと思っとるかもしれませんけれども、どっこい九次元のモーゼは、こっちにちゃんとおりますし、彼はモーゼの分身でもありません。 モーゼの分身が出とるというなら、あなた、そりゃ東京湾ぐらいまっぶたつにしてごらんなさい。 できますか、できんでしょう。たぶんできないと思いますよ。できないのです。そんな力、ありゃしないのです。 そういうことでみなさん如来というのをひじょうに誤解しておるけども、如来というのはね、独自で新しい文明の基礎になるような法を説ける人なんです。ひとりでやるんです。 私の弟子になって、クモの子散らすように散らばって、あっちこっちでガァーガァー言っているのが如来じゃないのです。そんな如来など、おらんのです。 菩薩であるのならば、正しい教えで、ちゃんとひとびとを導けるはずなんです。それであってこその菩薩です。 菩薩であるならばね、二代目の教祖や、三代目の教祖ぐらい、ちゃんとできるんです。まあ、もとが菩薩だっていうことじゃなくてね――。 現在、菩薩の境地であればということですよ。当然のことです。 12.過去世の名に執われず、もう一度原点に立ち返れ まあ、そういうことでほんとうは私も、はっきりと言いたいことがいっぱいあるんですけれども、それを言うとね、傷つく人もおるし、恥をかく人もいるからね。 講演会でみなさんの前でね、「私は過去世、なにだったんですよ。」なんて言っている人がいますから、それがかわいそうだから言えないんです。 私だって講演会で言ったことありますね。 私をつかまえて、会場の人が出てきて、「ゼウス様、お久しうございます。」「ウンウン、まあ。」まあ、ゼウス様って言われたら、そう悪い気がしないので、私だって、うなずいたこともあります。 「ブッダ様」と言われたら、それももちろん悪い気はしないから「そりゃそうだ、いや懐かしい。」と言ったことあるし、いや「私は天台智覬です。」と言ったことだって、もちろんあります。 私は悲しいことにね、私のまちがいが、ちょっと霊的な自覚がたりなかったために、私の体のなかにはいってきたもの、私を支配して語ったことがある者は、ぜんぶ、私自身だと思ったことがあるんですね。ところがじっさいは、そうじゃないんです。 もちろん高橋信次の生命体というのは、個性を持った高橋信次以外にもありましたけれども、それはエル・ランティという巨大な生命体であってね。 その意識が、ちょこちょこ出てきているようなことはないのです。反省的瞑想というようなことを、それが出てきていうことはないんです。 まあ、そういうのは過去世の仏法者たちであってね、もちろん私の、ある意味では、弟子筋にあたるけれども、そういう人が私を通じて語っておったんです。それを勘違いしたことがありましたね。 そういうことで、ひじょうにみなさん、私にも原因がありますけれども、まちがいが多かったと思います。 ですから如来の条件はね、ひとり立って正しい法を起こしていけるぐらいの人、これが如来であり、菩薩というのはね、正しい法灯を継いでいけるような人、これが菩薩なんですよ。 だから、いま、諸宗でわかれて足の引っぱり合いだけしておるようじゃ菩薩でもないっていうことです。 これをはっきりしなければいけません。自覚してください私の言葉をね、自覚をしてみてください。 まあ、これは私にも原因があるから、あまりみなさんに、厳しいことはいえないけれどもね。そういうつもりで生きてください。 ですから過去世で自分は偉かったなんて思ってね、ふんぞり返っているような人は、もう一回ね、それを取り去ったときに自分自身が偉いかどうかをね、もういっぺん、考えてください。 GLAの教えのなかでいちばんいけないのは、過去世で、その人が偉かったから、いまも偉いといって、えばっておるのがいちばんいけないのです。 過去世、偉くなくてもよいのです。無名でもよいのです。今世でいいことを言っているのが偉いのです。 そういうことでね、過去世のことを、いろんなこと、みんな意識しすぎるけれども、過去世で偉い人か、どうかということを気にしないで、今世で偉くなるようにがんばんなさいね。 それがとくに私はGLA系統の人たちに、言わねばならんことだと思う。 過去世、自分がシャーリープトラであっただとか、モーゼの弟子のアロンであったとか、まあいってみれば親鸞(しんらん)であったとかね、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)であったとか、いろいろ言われたかたもいるでしょう。 けれども、そうしたことが事実かどうか別として、それらに関係なく、あなた自身が、現在、如来の境地に達しているか、菩薩の心を持って修行しているかどうか、これをもう一回ね、原点に立ち返って考えてみてください。 私は、これをとくにね、みなさんがたにお願いしたいと思います。 まだみなさん、亡くなるまでには、五年や十年の人生はあるでしょう。その間にじゅうぶん反省していただければね、あの世で、私が一生懸命、あなたがたを説教する手聞か、省けるから助かるんです。 どうか努力してみてください。 まあ長くなってもいけませんから、きょうは天使の再来という話をね、そういう話でしめくくりたいと思います。ありがとうございました。
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目次 1.一年以内にわが復活に気がつかない弟子は破門である 2.目の鱗(うろこ)に気づけ 3.モーゼ、イエス、高橋信次はひとびとを目覚めさせるために現象をおこした 4.「第三回講演会の霊指導は高橋信次」と聞いてかつての弟子たちが飛んできた 5.その道では一端(いっぱし)の人と言われる人は、心の底ではほんものの厳しい師を求めている 6.神から来た権威には意味があるが、人間から来た権威は過ぎゆくものである 7.元総理の転落 8.この世の権威に服さず、神の権威を感じなさい 9.高橋信次の復活を認めている読者は、九割超えている 10.イエスの復活を信ぜず、後世汚名を残したトマス 11.高橋信次の復活を信じないかつての弟子たちよ、歴史に汚名を残すな 12.最近の人が霊言するのは、あの世の証明のためである (1987年7月30日の霊示) 1.一年以内にわが復活に気がつかない弟子は破門である さて、みなさん。幸いにして、本シリーズはみなさんに好評でもって迎えられて、私もたいへんうれしく思います。 まあ、本来ならば、著者っていうのはね、一年に一冊ずつぐらい出していくのが筋なんだけども、私の読者たちはたいへん熱心で、もう毎月でも出してくれっていうんで、まあ、私はそれほどね、出したくてしょうがないほど、節操がないわけではないんだけども、読者の多くが、ぜひにと、毎月でもと言われるんでね、やむをえず、とりあえず次の本を世に送りたいと、まあ、こういうわけなんですね。 えーですから、けっしてね、私がでしゃばりだとか、そういうふうに考えてはいけない。これはあくまでも、全国の読者の強い強い要請の賜物(たまもの)なわけですね。 それと、幸いなことにね、えー、『高橋信次の新復活』という本が土屋書店で出たあたりを境にしてね、かつてのGLAの私の弟子たち、かつてGLAで学んだ者たちがね、いま、全国各地からね、続々、集結して来ているんですよ。うれしいですね。ほんとう私はうれしいね。 えーまあ、たとえば、昭和四十三年やね、四十四年ころの、GLAの初期のころから私が教えていた、ほんの最初のメンバー、こういう人たちがね、いま、続々と来ているんです。うれしいですね。 そして同窓会みたいに懐かしのメンバーがね、「あ、おまえも来たか。おまえも来たか。」なんてね、やり始めてるんですね。私はひじょうにうれしいです。 まあ、最初のころのね、私にワン・ツー・スリーが出てきたころのことから知っている人とかね。私の、まあ秘書役やってた男性とかね。こういう人がいっぱい、いま、集まってきてるんですね。 それから、GLAの元支部長、高橋信次亡くなってすぐやめた支部長ばっかりですが、私がやってたころ、四十年代の後半から五十年代の始めぐらいに、GLAの支部長やってた人たち、もう何人も集結して来てるんですね。まあ、これ見てほんとうにうれしいです。 まあ、そりゃそうですね。えー、先生が復活して飛んでこないのは、こんなの弟子としては外道であってね、ほんとうは先生が復活したら一番に飛んでこなきゃいけないね。 先陣争いじゃありませんがね、早いほどやっぱり優秀だと言われることになるんですね。目が利(き)く。鼻が利(き)く。耳が利(き)くわけでね。 先生が復活してね、あんた四年も五年もしないと気がつかないような人は、これはぜんぜんダメですからね。もう問題外ですからね。 私はこういう人、破門しますから。 まあ最低ね、復活して一年以内にはせ参じてこなければクビですからね。もうかつての弟子としては認めませんから。 私は一九八六年の十二月ですね。去年の十二月に、初めて潮文社から『高橋信次霊言集』出して、えーまあ、まだ一年たちませんが、まもなくね、あと数ヵ月で一年になろうとします。 私が復活して一年以内に気がつかんような者はね、弟子として認めんから。そういうつもりで厳しくね、みずからを反省しなさいよ。そんなね、夏休みボケしているような頭のね、弟子っていうのは私は絶対認めませんからね。 まあとくに初期のころの私の弟子たちが、数多く集まってきておるのはええが、まあ、私が亡くなるころに、幹部やっておった連中がね、いまだに、ああでもない、こうでもないと言っておる。 まあ、こういうのを見て、私はたいへんね、ま、かわいそうというのを通り越して、気の毒なような感じがしてるんですね。 まあ、みんな自己保存になっちゃって、自分中心に判断して、ようするに「自分の値打ちが上がるならいいけど、値打ちが下がるなら断じて許せない。」っていう感じでやっとるんですねえ、こういうものはこれから後、どれほど厳しい反省の日々が待っておるかね、よくよく考えねばならん。 「高橋信次先生なら復活したら弟子の私にあやまるはずだ。」とかね。 こんなことを言うのもおれば、「高橋信次先生だったら、まっさきに私のところに『なんとか君、よくやったね。なんとかさん、ほんとうによくやったね』ってほめてくれるはずだ。」なんて、「ほめないからにせ物だ。」なんてね。 こんな馬鹿なことを言ってるのが、あっちにもこっちにもおりますが、まあ、こういう人たちはね、一年以内に気がつかなければ、もう私の弟子としては破門ですから。ま、そのつもりで厳しくね、自分をふり返ってみてくださいね。 2.目の鱗(うろこ)に気づけ まあ、そういうことを前置きにして、本日はね、第三章の標題を「目覚めへの道」と、いうことで決めました。まあ「目覚めへの道」言う前にもう弟子たちに目覚めてほしくてしょうがないんでねえ。 「あんまり、高橋さん、これで本四冊目なんだから、四冊目でまだ弟子のことばかり言っておったらみっともないぞ。」って、まあ注意してくれている人もいるけれども。 だって出来の悪い弟子ばっかりいるんだからもうしょうがないんでねえ。何回でも言わないとしょうがないんで、まあいわざるをえないんですが、まあ「目覚めへの道」ということで、なるべくこの本の読者の多くを目覚めさせるために、その方法論、まあまた、その教えの中身というものをね、これから語っていきたいと思います。 まずね、人間というのは、ひじょうにね、なんと言いますか、目にね、鱗がはいったような目で、世の中を見ておるということをね、世界を見ておるということをね、これをまず知らなきゃいけない。 自分が真実の世界を見ておると思ってはいかん。これを知らねばいかんということですね。 ともすれば毎日毎日の惰性に流されておると、自分が見、聞き、感じたものだけが、世界の真相だと思うことがあるけれども、ほんとうはそんなものじゃないんだな、世界っていうのは。 それはたぶんに、惰性と慣性とかいうものでつかんでおるのであって、ほんとうの世界っていうのはそんなものじゃないんですね、もっともっと心を開いて見なければわがらんことが数多くあります。 それはそうでしてね。たとえば、霊道を開いた人と、開いてない人とじゃあ、ぜんぜん世界観がちがいますわね。これはもう事実です。歴然とした事実です。この距離はね、埋めがたいものがありますね。 えー、こうした霊訓集を読んで、霊的世界があるということをいくら頭では学んでおってもね、実際にそれをわが身で体験した者と、していない者とでは、かなりの距離があるんだな。 体験しておらん者っていうのは、やはり最終的には、自分自身にたいして不安感が残る。不信感が残る。こういうものがあるね。 九分九里は、まあ、そうだろうと思うけど、やっぱりほんとうかなっていう気持ちがある。目に見えないものを信じるということに対する、最後の一線ですね。最後の抵抗というのが、やっぱりあるわけですね。えー、これを乗り越えられない。こういうことがあるね。 3.モーゼ、イエス、高橋信次はひとびとを目覚めさせるために現象をおこした こういうこともあって、私たち、ま、宗教的指導者っていうのは、まあ何千年に一回とか、あるいはそういう周期でね、何百年に一回とか、いろいろ地上に出てきては、そうした霊的現象というのをおこしてね、世のひとびとの目ん玉くり抜くために、いろんな奇跡おこしたり、現象おこしたりしますね。 そらモーゼみたいに、紅海真二つに割れたりしたらみんなひっくり返っちゃいますね。目の玉、くり抜いちゃうけど、ただ、そのときにいた人たちはそれ信じるけれども、後の世の人たちはなかなか信じない。神話になっちゃいます。 クリスチャン、敬虔(けいけん)なクリスチャンといったって、イエス様が水瓶の水をブドウ酒に変えたって言ってもやっぱり信じない。 「だれかがそれ入れ替えたんじゃないか。」とかね。こういうふうに言う。 あるいは「これはたとえであってね、イエス様の言葉によってひとびとは酔いがまわったんだ。」と。ま、こういうふうに感じる人がいるんだな。 それはそうでね、イエス様が喉がかわいたときに、乙女かなんかが井戸端でね、水をくれたんだな一杯。で、イエス様はかっこいいこと言うんですね。 「乙女よ、よく聞きなさい。汝が私にくれたこの一杯の水は、飲んでもまた喉がかわいてくるが、私の言葉という生命の水を飲んだ者は、永遠にかわくことはないのだぞ、わかったかな。」なんて言って、こういうふうにかっこいいこと言うわけですね。 そしたら、もう十八、九の乙女はクラクラクラッときて、「イエス様。」って言ってもう足元に平伏(ひれふ)すぐらいの感激を受けるわけですが。 まあ、こういうふうに、イエス様っていうのは自分の言葉を水にたとえてね、なぞらえて、そして自分の言葉、生命の言葉を聞く者は、永遠にかわくことがない。こういうふうに、えー、言っとるわけですね。 ですから、これをまあ、たとえに出してね、水瓶の水がブドウ酒になるわけがないから、水飲んどって、たまたまイエス様の言葉聞いたら酔っぱらっちゃったと。そういう意味じゃないかなんてね。興奮したって意味じゃないかなんてね。こういう現象主義者もいます。 あるいは最近の有名なキリスト教の小説家なんかでもね、言っとるそうですね。 「イエスの復活なんていうのは、あれは実際に生き返るわけがないんであって、イエスの思想というのがひとびとの心のなかに、生きつづけておるんだ。」と、ね。 「あのちりぢりバラバラになったお弟子さんたちが、また結集しました。ということは、弟子のなかで、イエスの生命というのが甦(よみがえ)ったんだ。復活したんだ。」ま、こういうふうにこじつけて、解釈をしておる人もいます。ま、これもわかっとらんわけですね。 ま、GLAのときも私がもう悪霊の現象やってやりまくって、そしてまあ信じておった人もおるけども、ま、どうしてもそういうふうに、多少の霊現象を見せねば、えー、なかなか納得しないことがある。こういうことですね。 4.「第三回講演会の霊指導は高橋信次」と聞いてかつての弟子たちが飛んできた たとえば、一九八七年七月二十六日に、小金井公会堂というところで、第三回の講演会があったけれども、このときの講演会で「心の原理」という演題で講演したけれども、これを高橋信次が霊指導するっていう噂が事前にもれておったんで、もう当日暑いさなか、たいへんな人が押し寄せて来ましたね。 小金井公会堂は座席八百十人、えー、立聴きいれて八百十人しかはいらんところをなんと千人を越す聴衆が押しかけてきて、そして、もう押しかけてきた人を断るのにたいへんであった。 そして、なかももう人があふれて、もう通路からなにから人は立つわもう、座りこむわ、もうたいへんな騒ぎで、小金井公会堂の人たちは、「こんなの防災上困るからこんなに入れてもらったら困る。」と言うし、「いやいやこれは九百人です。多く千人以上に見えるけれど、九百人しかおらんのです。それは目の錯覚、九百人ですよ。暑いから多くいるように見えるだけで、千人なんか絶対いません。九百人ですから。」って、一生懸命やっておったようですねえ。 そして、わざわざもう当日、高橋信次の声が聞けるっていうんで、すっ飛んできた人たちがはいれないっていうんで、ブーブ言いながら押し返されておる。そういうのを私は見ておりましたね。 で、実際「心の原理」のなかで、私も指導して、生前の声そのままで話をしたわけですが、かつての私の弟子たちは、ほんとうに喜んでくれましたね。 もう「高橋先生の教えそっくりだ。」っていうんでね。「ああうれしい。懐かしい。もう十年ぶりだ。」っていうんでね。 もう涙流して聞いてくれました。ああうれしいですね。懐かしいですね。わからにゃうそです。 ほんとう、もっとGLAの幹部連中が、がん首そろえて一列目に座ってくれたら、私はもう演壇からおりていってバシバシって頭なぐって歩くんだけども、まあ、ぼんやりして来んからねえ。暑いからクーラーかかって昼寝しとるから自宅で。 まあ、どうしようもないんですけどまあそういうことで、話をしました。 5.その道では一端(いっぱし)の人と言われる人は、心の底ではほんものの厳しい師を求めている だからねえ、えー、とくにGLA系統で昔、私の話を聞いた人っていうのはね、まあ、ちょっとマゾっ気があるんでしょうかね、よく知りませんが、私が厳しい話をするとみんな喜ぶんですね。 「うれしいー。」っちゅうてね。「ああ、もっと厳しくして。」ってね。「先生もっとムチ打ってください。」って、「ああうれしい。」ってね。 だから小金井公会堂の講演を聞いても、「ずいぶん叱られたような気がする。厳しかったー。ああ、叱られた。」なんて、「ああ、うれしい。」なんて帰ったのがいっぱいおるようですね。 まあ、世の中はね、そうかもしれませんね。厳しさというのを求めておるかもしれませんね。 それはそうでしょうね。 えー、みなさん、たとえば会社の社長さんやったり、大学の先生やったり、まあ俳優やったり、作家やったりね、学生さんやったり、医者やったり、いろんなことやって、その道では一端(いっぱし)の人と言われておるけれども、そしてその道ではね、人に頭下げるのはいやだと言っておる人であってもね、やはり心の底では先生が欲しいんですね。どこかで先生を求めている。教えてほしいんですね。 だけどこの世的にはなかなか頭を下げたくない。自分が社会的地位があったりね、肩書があるから下げたくない。だからそういう肩書がある人が、頭を下げられるときというのは、もうそれはこういうほんとうに真実の神の使者ですね。 そういう真実の宗教指導者が出たとき、こういうときには平伏(ひれふ)すことができる。まあこういうことが言えると思うんですね。 それで厳しい言葉を言われて、「ありがたい」なんてね、言う。ま、おもしろいですね。 会社で上司から厳しく言われたら、ありがたいどころか、「なにをこのやろう。」ってね。「いまに足引張ってやるぞ。」ってね。 「仕事でチョンボして、おまえも同罪で両方左遷されるようにしてやるからなあ。」なんて思ってみたりね。 え、部長からおこられたら後輩誘ってね、焼鳥屋いって、「あいつさ、上役にゴマばっかりすっちゃって、偉くなってね、ほんとうは実力なんかありゃしねえんだ。あいつのこの前の手柄なんかありゃじっさいはおれがぜんぶ進言したんだぞ。それを自分のことのように手柄にしてね。それでやっとるんだ。」なんてね。 そういうことで、まあ上役におこられて喜ぶ人っていませんね。会社ではね。 なかには部下呼びつけて、一時間も二時間も説教して、部下がひっくり返るところまでやるような阿修羅霊が憑いているような、そういう部長さんもいますが、会社なんかでおこられていい気持ちじゃありません。 6.神から来た権威には意味があるが、人間から来た権威は過ぎゆくものである ところが、宗教的世界においては先生にバシバシ、ビシビシ厳しく言われると涙ふりしぽって「うれしいー。」って言うのがいるんですね。まあありがたいことです。 まあそれはそうでね。えー、その厳しさというものもね、ほんとうにその権威が、神から来ているから、神から来ている権威であるから、その厳しさにね、意味があるわけなんです。 人間から来た権威なんてたいしたことないんだ。総理大臣だって、あなた、選挙で選ばれただけでしょ。ねえ。まあ投票みたいなもんだ。ぜんぜん世のなかのことわからん人間ばかりが投票してね。 そして、それで選出された国会議員のなかからまた投票されてえらばれとるんでしょ。べつに神様全然認証もなにもしてないわね。天皇陛下の認証があるだけですね。 まあ天皇陛下が神さんだって言っとる人もおるから、それはけっこうでございますが、まあ私たちはまだ神さんだと思ってないもんですから、あのー、カイザルのほうでございましてね。 地上の神さんでしょうがあの世の神さんじゃございませんと、いうふうに思っておるんですが、まあ、そういうふうに、この世にいくら偉い人っていってもね、それはやはり過ぎゆくはかないもんなんですよね。 7.元総理の転落 元総理大臣がねえ、有罪、懲役の実刑出たことありましたね。私たちも知っていますよ、そのぐらい。ロツキード事件。ねえ、懲役ですよ、総理大臣が。あああわれですね。人間の人生ってどっちころんじゃうかわかんない。まったくわかんないですね。 そのように、この世ではそのずっと偉いと言われてた人が、いきなり転落するようなことがあるね。 僕はあの総理大臣が総理になったころの、あのブームっていうのが、ちょうど僕のGLAの最盛期だね。もう亡くなる前のころで、まあいっしょだったわけだけれども、GLAもふくれにふくれとったけども、向こうもねえ、日本列島改造なんて言っちゃって、ものすごく突走(つっぱし)っとったね。もう「コンピューター付きブルドーザー」なんて言われてがんばってやっとった。 そして、総理大臣になったときなんて、国民の支持率なんてすごかったよ。ねえ。六十数パーセントとか、七十パーセントとかいう、ものすごい支持率でねえ。今太閤とかね。すごい人気だったと思うよ。庶民宰相とか言われて。 それがしばらくしたら、五億円かなにかもらっちゃったちゅうたら、みんなでマスコミで踏(ふ)んだり蹴(け)ったり、袋だたきだよね。たかが五億円ぐらいね。 まあ僕はね、まああれもあの世から見ておってね、まあ気の毒だと思うとこもあるんだよなあ。総理大臣が五億円ぐらい欲しくてねえ。やりゃあしねえよな、はっきり言って。 だって五億円ぐらいの金いくらでもあるもん、総理大臣。どっからでも調達できるから。ねえ。まあだから、そういう気の毒な面はあると思うんですよね。 自分の懐(ふところ)こやすためにやったわけじゃないだろうし、まあ五億円もらったってその金はどうせ自民党のね、代議士の懐(ふところ)の中へ百万円ずつ分かれてはいったのまちがいないんだからね。わかってるんだよ。 だからまあ、そういう人たちが選良(せんりょう)とか言ってね、国会の政治やって、自分らは知らん顔しとるんだけどね。みんな懐へはいっとるんだよ、ほんとうはね。まあそういうのがある。だからまあ、あれ見ててもまあ、若干、気の毒だなあっていう気もしないでもないんだけどねえ。 えー、まあジェット機だかなんだか知らんが、なにを持ってきたところでどうってことはないんでね。 えー、そのジェット機だか、航空機だか知らんが、それを日本の政府が買いつけることによって日本が国防で失敗するならね、そら総理大臣としちゃあ廃止印でしょうけども、まあべつにそうでもないので、五億円もらったって、まあ気の毒な気もちょっとしないでもないんだけどね。まあ一国の最終責任があるものとしてそういう判断をしたこともあったんだろうなー、と思って。 まああの人も、お金にたいしてちょっとね、感覚がマヒしとったから、まあなにげなくやったんだろうなーと思ってね。気の毒だなあと思ってね。 まあそういう気もあるんだけど、日本人というのはようするにそういうもんでね。ちょっと前には庶民宰相とか、もう政治家の救世主みたいな感じでね。それで日本中がよくなるとかやったが、これがもう悪の権化になってその後十年たたかれる。こんなもんなんですねえ。 8.この世の権威に服さず、神の権威を感じなさい それほど、世論というか、ひとびとの、世間のひとびとの評価なんていうのはね、浮き沈みがあるんです。わかりゃしないんですね。 そして、あの世へ来たら地獄の一番底でウンウン言ってるような人が、この世では勲章もらったりね。もう尊敬されたり、もう天才なんちゅうてあの「世界の名著」のなかはいっちゃたり、いっぱいしとるんですね。 まあはずかしい話でね。それほどわからんのですね。いわゆる知名度とか、そんな力の強さだけで判断しちゃう。まあこういうことがあるわけですね。 ま、ですからみなさんね、この世の評価ばかりを求めてはいかんし、この世の権威にやっぱり服してはいかん。 だから、みなさんがやはり直接に感じなければならんのは、あの世の権威ですね。すなわち、神の権威、これを感じなきゃいかんと思うんですね。 だから、やはりこの世ならざるものを感じるためにはね、きょうなんていうのはひじょうに暑い暑い、もう三十何度か、四十度か知らんが、もう湯タンポかかえて歩いてるような暑さですが、こんなときにはね、もう上からタライの水バシャーッとかけてやるとね、目がパチーッと開(あ)いちゃうんですね。そういうことがあるわけです。 ですから、私もそういうね、暑い暑い夏の日にタライの水ぶちまけたようなショックをね、与えるためにこうやってね、みなさん、性懲(しょうこ)りもなくとは自分で言いたくないが、もう続々続々とね、だれがなにを言おうがね、出版社が悲鳴を上げようがね、みなさんがヒーヒー言おうがね、私は続々と霊訓集を出し続けとるんですね。 それは、こんなにゆだるようなね、暑さのなかで、みんなボケーッとしてね。昼寝もできんで、夕涼みもできず、散歩もできず、フラフラフラフラしておるから、もうこりゃジョウロの水なんかじゃとてもじゃないけどダメだ。 もうね、タライをぶちまけてね、頭から冷水ぶちかけないとね、目が覚めん。ね、おまえらちょっとしっかりしろ、まあこういう意味ですよ。これをやらないかんていうんでね、ガンガンぶちつけとるわけですね。これでもか、というわけです。 9.高橋信次の復活を認めている読者は、九割超えている だから、まあ高橋信次の復活、読者として見てみると、認めている読者っていうのは九割超えてます。平均してね。欲目じゃなくて公平に見て、霊訓集読んで、高橋信次の復活を認めている人は九割超えてます。 認めておらんのは、なんとほかならぬ、わが最愛の弟子たち。昔最愛、いま最悪の弟子たちなんですね。この連中らがガンみたいになってがんばっとる。ガン細胞みたいになって巣くっとるんですね。 だからこういう人たち、目覚めさせるためにはね、もう私は機関銃のようにね、霊訓集出すつもりなんですね。いっぱいありますね。 それはGLAだ、ほうゆうだ、正法会だ、小金井だ、もういっぱいあっちにもこっちにも私の系統の団体あるけれども、私は、もう徹底的に五冊でも、十冊でも、二十冊でも、三十冊でも、五十冊でも、もう彼らが全面降伏するまで、霊訓集出し続けます。 だからGLAの人たちね、幹部の人たち、四冊本もう出したけど、これでまだわからんなら、私は十冊でも二十冊でも三十冊でもね、君たちが認めるまで出します。 君たちはもう頭が熱湯のなか歩いてるようにボワボワでね、もう夏の日ざかりクラクラしながら目まいして歩いとるんだから、これわからすためにはね、もうジョウロの水じゃわからんのだ。 タライぶちまけてね、タライの水を丸ごと頭の上からね、ぶっ飛ばさないと、君たちはわからんから、僕はわかるまでね、毎月でも毎年、霊訓集出すからね。それで認めるか、認めんか。 日本国中、高橋信次の霊訓集があふれるまで出すからね。もう五十冊でも百冊でも出すから。 で、頑固になればなるほどどれだけみっともないかをね、そんなみっともないことをね、師にたいしてね、やってて君たちはそれではずかしくないのかどうかをね、徹底的にね、わかっていただきたい。 先生が復活して一年以内にわからないなんてこんなの恥(はじ)ですよ。ほんとうに、ねえ。 10.イエスの復活を信ぜず、後世汚名を残したトマス イエス様が復活したときに、弟子たちは全部集まったんだからね、いちおう。 トマスというのがおってね、トマスっていう弟子がおって、これ十二弟子の一人ですけれども、これがひじょうにね、懐疑論者で理性派だったんですね。だからイエスが復活したってなかなか信じなかった。 で、イエス様は、そのトマスがあまり疑い深いからとうとう出てきたんだな、まあ、弟子たちが晩餐やっとるときに出てきてね、トマスのうしろにね、うしろのドアがあったわけだ、入口のドアが。閉まっとったんだな、そのドア。 そして、そこからすっとイエス様がはいってくる。で、トマスは背中向いてね。ご飯食っとったんで「おめえ、だってなあ、イエス様復活したなんて、おまえ信じられるかあ。人間死んで復活した人なんてひとりもいままでいたことねえぞ。」なんてね。 こういうことをトマスが言うとったんです。哲学者気取りしてね。 そのときに彼の左肩をポンポンとたたくものがあった。 「なんだよう。人がせっかく議論してるのに。だれだ、いまごろ。」なんて、ぱっとうしろ向くと、なんと髭生やして髪伸ばしたあのイエス様立っとるわけですね。イエス様の姿したのが。 トマスの目は一瞬、ろんぱっちゃいますね。パーッと、目がつっぱっちゃって、えっ。」ビクッ。 まさしくイエス様が復活したっていう話は聞いたが、もしかしてこの人が、と思う。 しかし、トマスはまた疑うわけですね。 「そんなバカな。死んだ人間帰って来たなんてそんなもん聞いたことない。」ね。 「確かにイエス様は墓場のなかに入れられて、そして石で封じ込められたの僕は見た。」ね、「十字架にかかって、槍を突きさされて血をほとばしらして死んだの見た。」「だからそのイエス様出てくるはずがない。」ってまた否定にかかるね。 そしたらイエス様トマスに言います。 「トマスよ。汝、信仰うすき者よ。わが手を見よ。」そして両手をイエス様は手のひらを見せます。 そうすると、右手にも左手の甲にもね、釘、五寸釘を、もっと大きかったかな、よく知らんが、釘を打ちつけた穴があるんだな。そして血痕、血のあとがある。 トマスはギクッとします。まだわからん。でも本当かなと心のなかに思う。 イエス様もそのトマスの心情見抜きます。 「トマスよ。まだ信じられぬか。ではわが脇腹に触れてみよ。] そして脇腹を出します。 でトマスはね、これほんとう唯物論者みたいな、合理主義者でねえ、脇腹の傷見てもまだ信用しないねえ。で、自分の指もっていってね、イエス様の脇腹なでるんですよ。脇腹の傷をね。傷口ほんとうにあるんだな。 「あら、これイエス様じゃないの。」ってね。「先生じゃありませんか。」ってね。びっくりしちゃう。 そこまでいってね、その不信仰さ、というのを聖書のなかに残してますね、トマスっていう人は。 で、ほかの弟子たちはもっと早く信じとるのに、これが信じなかったね。みっともない名前を後世に残したわけですね。 11.高橋信次の復活を信じないかつての弟子たちよ、歴史に汚名を残すな まあ、こういうトマスのように、どうかならんようにね。私のかつての弟子たちもね、いまGLAの幹部なんてやっとる連中もね、歴史に汚名を残さんように、どうかよくよく考えねばいかん。 高橋信次霊言したってね、「そんなもの信じない。目に見えん霊信じられない。」なんて言ったら、唯物論者ですよ。あんたがた、ほんとうに。笑っちゃいますよ。もうつぎに肉体で復活してみろってね。 そして復活して肉体出してきたら、レントゲンあててみて、たしか高橋信次なら腎臓病で死んだはずだ。腎臓が悪いかどうかよーく見てね。腎臓が、うん、たしかに腎臓のとこが傷(いた)んどる。 頭の髪の毛調べてみて毛がよく抜けておる。そして頭の、ねえ、デコボコがいっぱいある。昔お灸(きゅう)すえたり針でつついたりした、クレーターみたいな月面クレーターみたいなデコボコがいっぱいあると。 ここまで自分の手でさわって確認しなきゃ信じられんっていったらもうトマスといっしょ。唯物論者ですよ。もう笑われちゃいますよ。後世にね、汚名を残さんことね。 まあ、ほんとう、かわいそうな人たちね、早く目覚めなさいよ。みっともないですよ。もうどうせあなたがた、一年か二年か、三年か五年か十年かしたらどこかで認めにゃいかんようになる。 ね、私が霊訓集五十冊も出してから認めたなんて言ったら、もう世の中からもう認められなくて再起不能になりますよ。ね、早目にみっともなくないように、神理の使徒であるなら、早くね、気づきなさい。目覚めなさい。それがだいじですよ。 12.最近の人が霊言するのは、あの世の証明のためである まあ、これはね、けっしてGLA系統の人だけじゃなくてね、世の一般の人もそうだ。魂があるとか、霊魂があるとか言ったら、「そんなものがあるもんか。」って言うのが、だいたい八割です。 しかしまあ、お墓の前で手合わしたり、まあときどき初詣でしたりして、ぼんやり、ぼんやりとね、雰囲気だけ味わっとるのが、まあ五、六十パーセントだな。 こういう人たちもね、どうかね、霊がなくって霊言ができるかどうかをね、よく考えてほしいんです。 ねえ。霊がなくって霊言ができるかどうか。霊がなきゃ「霊言(れいげん)」じゃなくて「言(げん)」だけですよ。ね、霊言というには霊があるんです。 現にあの世があるからあると言っているんです。現にあの世の霊だから霊だって言うとるんです、ね。肉体は私は焼かれたんです。 昭和五十一年の六月二十五日に地上を去ったんです。そのあとね、あの大きなね、写真かけて、花輪かけられてね、棺桶に入れられてね、私も葬式やられたんです。でもちゃんと生きとるんですね。生きとるちゅうのは生命として生きとるんですよ。 これがわがらんから、わからんならわかるまで霊言送ってやる。ねえ、どこまで君たちの頭が悪いかね、気づかしてやるから。 ほんとうね、世の人たちもほんとう目覚めなさい。 私たちが出ておるのはね、最近の人が出ておるのは、ようするに古い人だったらその個性がわがらんから、高橋信次ならその個性がわかるだろう。谷口雅春ならその個性がわかるだろう。内村鑑三もわかるだろう。 だからその個性の証明のためにね、最近の私たちは出ておるんだ。 これはGLAの復興のためでもなんでもない。そういう大いなる神理の証明のために出ておるんです。これを知っていただきたい。証明のために出とるんです。 高橋信次を知ってる人は全国に五十万人くらいいるんです。もっといるんです。だから、そういう人たちは気づかなければいけない。 まあ、私の復活というのを早くね、認める人たちがいっぱい出ることを僕は祈ってますよ。まあこれからも、楽しみながら、続々しゃべっていきます。
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目次 1.私は人の心を通し理想国家(ユートピア)の実現を唱えた 2.私の愛弟子は、子路(しろ)、子貢(しこう) 3.私が再誕するときは新文明を創る時 4.中国の現代思潮は一つの波 5.地球圈人口の増加は異星人、新人類転入による 6.人種相違の原理 7.日本を中心とした最終ユートピア建設の基礎づくりに励め 8.後輩の異星霊団に遺(のこ)すユートピア、エデンの園 9.天変地異は十次元以上のハイスピリットの作業 10.新霊文明は日本からオセアニアを経て東南アジア大陸へ逆流移動する 11.高次元霊には本体(本流)あり各分身意識はこれに付随する 12.男女はエネルギー体の陰陽別、肉体器管の発達は環境による 8.後輩の異星霊団に遺(のこ)すユートピア、エデンの園 ―― ユートピアと申しましても、これはそう簡単に出来るものではありませんので、まずこの世界の仕組みと申しますか、こういうことがまず第一番に人々の認識の上にのぼって、人間は肉体だけではなく、本来霊的存在であるということを知ることが第一なのですが、先程のお話にもありますように、この現在の地上に生まれている人類というものがすべてが、たとえばあなたがおいでになられたC霊団ならC霊団から来られた方ばかりでないということからして、私共が百万言を費やして「神法」を説いても頑として肯(がえん)じないという方々も居られるということも確かだろうし、百パーセントそれが短時間に理解されるということは、むずかしかろうと思いますけれども、長い時間を通して全人類が「神法」に目覚めていくのではなかろうかと思いますが、その過程の一点を私達は歩んでいるものと心得ております。 そこで私が先般、天上界より゛エリヤ゛様という方がお越しになられた際、お話を承ったのですが、地球人類の将来の寿命というものは、たかだか二千年ぐらいまでの歴史しかないようなお話を伺って、私はちょっと意外に感じたのですが、地球それ自体の星としての寿命は、今少し永いものではなかろうかと思うのでありますが、それにもかかわらず、人類のこの地球での寿命が、近々僅か二千年程で終わるのかということに矛盾を感じたのですが、これはどういうことでしょうか。 孔子 いま私は譬え話で、今の地球霊団にはA霊団、B霊団、或いは私達のC霊団が居ると話しましたが、このC霊団の使命はもう終わりつつあるのです。私達の霊団、私達三億年前にこの地球に降りて、この地上にユートピアを創って来ました。そして最終ュートピアというのは、私達霊団としての最終ユートピアなんです。私達は、もうこの地上での修行が終わりつつあるのです。そしてエリヤも申しましたかも知れませんけれども、我々はもうそう遠くない将来に、この地球を離れていくのです。そしてまた他の惑星へと、他の天体へと移っていく予定であります。であるからこそ我々はこの地上にユートピア建設をしようとしているのです。 意味は分かりますか、というのは今たとえば、アフリカとか、インド、中国に大量の人間が生まれて来ていると言いました。これは霊的な意味において他の霊団ですね、たとえばD霊団、D霊団が今霊として地球に集まってですね、また未熟な魂が生まれて来ているということです。大量に、というのは彼らはこれからですね、この地球を磁場として修行を重ねていくのです。何万年もまた重ねていくわけです。彼らはまだ霊的には未熟なのです。そういった後輩たちのために、私達が最終ユートピアを築いておくのです。 ですから、あなた方が築くこのユートピアが、彼らにとってのエデンの園になるのです。いいですか、彼らが始めて地球に出て来たときに、当初エデンがありました。こういった神話になるのが私達のユートピアなのです。私達はまた他の星へと移って行きます。エリヤが言いましたように、ここ、もう千年、二千年のうちに私達は移って行くでありましょう。しかし私達が遺した文明というものが、また彼らにとっての理想となるわけです。彼らはここで、また修行していくでしょう。そのためにこそ、仕上げとしての最終ユートピアであり、彼らに対する手本であるわけなのです。 そういうふうにいつも宇宙というものも、星の中での人類というものも、新陳代謝が行われているのです。そういう意味では私達は、私達の霊団としてはもうそう永くはこの地球には居ないのです。新たな者達が、だから今地球に生まれ変わって来ているということです。彼らの時代がやってくるのです。 ―― そういう意味では、地球それ自体の生命というのはまだあるわけですね。 孔子 地球の生命自体はまだまだあります。C霊団としての使命が今終わりつつあるというわけです。だから我々としては、われわれのできるだけのことをして、後輩達に、良いものを造して去って行きたいと思っているのです。ですからこうして我々は総力を挙げて今努力しているのです。 ―― そうでしたか、それではじめてエリヤ様がわれわれに予言されていることが合理的に理解されました。あの方のあの折りのお言葉だけでは、今後二千年以内に人類の転出、そして地球の寿命の終焉(しゅうえん)、というように理解されたのですが、それにしては地球もまだ生成以来五十億年という壮年期にあると聴くし、まだ消滅するには早過ぎると考えておりましたが、われわれの霊団がこの地球での修行の課程が終えるということで納得がいき非常に参考とさせて頂きました。ありがとうございました。 孔子 このような形で一つの星を中心として幾つかの星の霊団が混じるということによって、また星と星との間、要するに宇宙意識ですね、宇宙としての霊団が雑(まざ)りあうということによって、宇宙全体が進化していくということなのです。進化した霊団というのは、劣った霊団の処へ行ってそれ自体を引き上げる。或いは進化した霊団が住んでいる所へ、劣った霊団が来て、その後をうけ継いでいく。こういった形での教育というものが行われているのです。 ―― 今後、それも近々数年、或いは十数年の間に人類が受けねばならぬ゛試練゛ということ、人為的災害、戦争、或いは天災、空前の天変地異が起きるであろうということにつきましては、これはやはり、神の ゛人間教育゛のご意志にもとづくものでありましょうか。それは未発達の魂にも、また優れた魂にも一様同時に行われるということでしょうか。 孔子 私達が当初この地球に来て、それから様々な文明を築いていきましたが、その途中においてあなた方がノアの洪水として知っているような大洪水が何回もあったわけですね。そういう試練に文明は遭って来たわけです。ですから新たな地球人類達、新たな後進の者達もまたまたそうしたノアの洪水の洗礼を受けていくということです。 ―― まあそういった災害を受ける人達の間には、優れた魂の雲団の人類群も入っているということですね。 孔子 勿論そうです。私達は肉体ではないのです。私達は肉体である時期というのはほんの一瞬なのです。よくお考え下さい。 ―― あなた様は二千数百年前に中国にお生まれになって居られますが、それ以前にも何処かでお生まれになっておられましょうか。 孔子 勿論生まれたことはあります。ただ現代の文明の中には生まれておりません。それ以前の文明に生まれたことはあります。あなた方がムーと称んでいる「ムー大陸」或いはムー文明といわれていた時代に私は生まれております。 9.天変地異は十次元以上のハイスピリットの作業 ―― あのムー大陸は全体が沈んで行ったのでしょうか。 孔子 ムーに関しては、たとえば一夜にして没したというようなわけではありません。何段階かに別れて沈んで行きましたし、その一部分は今でも太平洋の中での島として残っているわけです。 ―― やがて天変地界が起こるということをエリヤ様も申されておりましたけれども、そういうことの直接の原因であるマグマの対流、地殻変動というものの方向、激弱のセットは天上界の最高霊域に居られる方々のご意志によって行われるのでしょうか。 孔子 そういう場合もありますが、どちらかというとそれは、地球の意識そのものによって動いているのです。 ―― その地球の意識そのものを司って居られるのは十次元の ―― 孔子 九次元、九次元以上と言うべきでしょうが、というよりも具体的に言えば、地球というものも、これはまあ地殻もあり、マグマもあり、いろいろのものがありますけれども、これも一つの人体なのです。地球というものも生きているのです。これも細胞なのです。大きな、でこれに地球意識というものがあるわけです。細胞である以上勿論生命体としての動きがあるわけです。息を吐いたらそれが火山の爆発になったり、地殻変動なり様々な現象になっているわけです。けれども地球としての意識があります。私達の意識も勿論ありますけれども、私達は地球という大きな生きものの上で、今こうやって人生修行をさせて頂いているわけです。彼自身、地球自身の考えというのもあるのです。神は決して人間のようなものだけを生きものとして造ったのではなくて、地球のような天体もまた生き物なのです。 10.新霊文明は日本からオセアニアを経て東南アジア大陸へ逆流移動する ―― 二十一世紀を迎え、日本は東西文化の結節点となり、新たな霊文明建設の主導的役割を担っていくことになると思いますが、やがてその新たな霊文明が繁栄と、一国ユートピアが実現したならば、日本の国土の寿命も終わり、新たな大陸の出現と交替に沈没していくようになるのでしょうか。 孔子 日本列島もやがては沈下陥没していきましょう。しかし、今地上に生存している人間がそういう時期を経験することはまずありません。全世界的な範囲において地殻変動はいくつかありましょう。しかし日本がここ数十年の間に沈没し無くなってしまうようなことはありません。しかしやがては勿論無くなっていきます。そして、あなた方が説かれて興ってきた文化文明は、やがて海を渡ってオセアニアの世界へ、そしてまた遅れてきた東南アジア大陸へと逆流移動していくことになりましょう。 ―― 非常にスケールの大きなお話で私共としては、その新文明の様相まで、直(じか)に肌に感得することはできませんが、いずれにいたしましても設定された新時代の構想実現に向かって、私共の上にも今までかず多くの諸聖賢のご指導が与えられているものと存じます。が、更にあなた様の他に何人(どなた)か ― 人間の歩むべき道、特に時代を主導する日本人の役割 ― ということについて、角度を変えたお話を頂けるようなお方はございましょうか……。 孔子 それはみんな出てくるでしょう。出てきて語る予定になっています。ただ私は先程も霊的な指導というものは、経験が無いということを申しました。というのは、私の仕事というものは、この地球計画、地球の計画というものを樹てるということが私の今の仕事なのです。私の世界(宇宙界)に住んでいる、たとえばイエス様。或いはモーゼ様、それから今は居りませんけれどもお釈迦様というものも居ります。こういった方は同じ次元に居りますが、この方たちは、主としてこの地上に「法」を広めるためにいま、日夜努力しておりますが、私は今はたとえて言えば、無任所大臣ですね、そういった役目から離れて、地球の計画を司る、そういったことをやっているわけです。それで私がいろんな計画を樹てて、それをまた下の階の者へと伝えていく。下の者はそれを実行に移していく。そういった仕事をしているのですね。そういうことで私は地球計画そのものを司っているために、いまあなた方を直接に霊的な指導をする、ということはないわけです――。 11.高次元霊には本体(本流)あり各分身意識はこれに付随する ―― あなた方の九次元界には、リエント・アール・クラウドという方も居られるわけですね。 孔子 勿論居ります。 ―― この方もやはり根本法を説かれる方のお一人ですね。 孔子 そうです。 ―― この方には先般お教えをうけたまわったのですが。 孔子 釈迦の意識体のまあ一部ですね、私達はただ、人間というような、一人一人の人物としているわけではなくて、意識体しかないのです。はっきり言って意識体しかなくて私、今語っていますが前半語った私と、後半の私とでは違うと思うのです。というのは、私が前半語ったのは私、孔子としてのエネルギー体の一部ですね。昔中国に降りた時の肉体を持った時の意識体、これを使っていたというのが前半ですね、で、後半においては、私の「孔子」としてのエネルギー体の本流が今語っているというわけです。 ―― 言語の分離ということがはっきり出来るようになっているわけですか。 孔子 そういうことです。今はいわゆる本体、本流が語っているわけですね、前半は私のうちの一部分の意識、孔子という名前で、地上で肉体修行をしたことのある意識の部分が語ったわけです。 ―― そうしますと、私が未だ解明できないことですが、魂の間ですけれどこの本体というものの一つの魂があってそのうちの或る時点、時点で一子、二子、三子、四子、五子というふうに交替で出てきてまた元の本体(魂塊)の中に帰って行くというような形でしょうか。 孔子 これはですね、今のあなたにどれだけ分かって貰えるかは困難ですが、たとえば私達の次元、九次元においては、アール・クラウドも言ったかも知れませんけれども、一つの意識体でしかないわけです。この意識体は一万にも、一億にも、幾つにでも分かれることができるのですね。私の意識の一部分を使って肉体修行をすることもできれば ―― ですから本体分身が五人とか六人とかいうわけではなくて、もう一億にでも一千億にでも分けられるのです。このように巨大な意識体がありまして、この意識体をその目的に合わせて様々な作用として分光していくのです。このエネルギー体が分光していくのです。ですから本体分身というものは有って無きが如しです。様々な役割ができるのです。意識なんです。一つの巨大な、これがですね、この九次元からだんだんこの意識が下がってくるとだんだん固まってくるのです。この意識、融通無碍なこの意識というのがだんだんに固まってくるのです。ですから九次元から八次元に降りていくと、もう少しこれが固まったものになって来ます。意識としても幾つかの分かれた意識になってくるのです。で、八次元の人も、勿論哲学でいう一即多、多即一でありますが、幾つかの役割を果たせるわけですね。同時に霊界で修行しながら地上界へ出たり、様々なことを如来界の方もできるわけです。けれども彼らができる範囲というものは、かなり限られてくるわけです。限定されてくるわけです。というのはその意識体としての役割がかなり物体化してきているんです。ですから五つとか六つの分かれ方しかできなくなってくるのです。作用の仕方として、その如来界に在る霊体の動きが五つ六つに分かれるのですがこれは人によって違いますが、こういった分かれ方でしか作用ができなくなってくるのです。 ですから如来界に在る或る人の意識が地上で修行するといっても、これはその人のうちの、たとえば本体分身の様な考えでいくなら、五分の一なり、六分の一の意識、個別性の意識があるわけですね。それぞれ、親指、人差指、中指、薬指、小指と、こういった意識の差、個性の差があるわけですね。 ところが私らになれば、九次元の霊の意識というのは、ここに手があれと念えば手になり、足あれと念えば足になり、胴体あれと念えば胴体となる。頭あれと念えば頭になってしまうような、こういう形の無いものなのです。想念どおり顕われる意識体なのです。ところが、如来界になると、たとえば親指として現れる。人差指として現れる。中指として現れる。こういったふうに或る程度個性化が進んでくるのです。 そういう意味において意識が或る程度物体化してくるのですね。いいですか。いま言った如来界というのはどちらかというと、菩薩界に近いものです。如来界であるとも少し違いますね。如来界ではもう少しいろんな分かれ方ができます。ところがこれがだんだん固定化してくるわけです。菩薩界ぐらいになってくると、この魂のグループというのがはっきりしてきて、或る意味では人間として個性が出て来ているわけです。人間としての個性の差です。霊的な役割の分担というよりは、菩薩界ぐらいでは人間としての個性の差が出て来て、個人というのがだんだんと独立してくるわけです。それから下の世界になるとだんだん個人主義になってくるんですね。元は一つであったものがもうバラバラになってきて、個体として単独に行動しはじめるわけです。こういったことなのです。 私らとしてはもう一人であるか、一万人であろうか分らないというような、こういう意識です。意識としていろんな形で現れているのです。これがもうだんだんそういう自由がきかなくなって岐れてくるんですね。だからたとえば私たちとしては孔子 ―― 一億人分に分かれることができる孔子があるとすると、下へ来るとだんだんその人数は減ってくるわけです。如来としては、まあ薬師如来だか何如来だかそれはわかりませんけれども、一万人の人を救えるような作用を持っている。それがだんだん普通の人間となっていくわけです。 こういうふうに本体分身というものも一つの考えではなくて、次元に相応した概念なのです。次元によって概念が変わってくるのです。ですから霊界とか幽界の人達になってくると元々は同じ魂が岐かれた人達が沢山居るのですけれど、もう繋(つなが)りがなくなってそれぞれ個人個人で生きているわけです。 ―― そうしますと九次元に生きて居られるあなた様とか、アール・クラウドとか、イエス様とかいわれる方の個性というものは別なのでしょうか。 孔子 個性は別です。たとえば意識体として色があるわけですね。また、色が幾つかあるわけです。イエス様としての色、イエス様の意識体としての色、まあ白なら白という意識体の色ですね。これがあってこの意識体のうちのイエス・キリストの部分というのが地上に出て、ナザレに出て、ナザレのイエス様として還って来た。で、あなた方と話する時は、そのままでは分からないからナザレのイエスの個性でもって、これを出してきて話をしているわけです。これ以外の部分ではあなた方認識ができないから ―― そういうことなのです。 ―― では先般アガシヤーという方が……。 孔子 ですからそのイエスとして、白色なら白色のエネルギー体の中にアガシヤーの部分があって、そのアガシヤーという部分が出て来られます。これは魂の兄弟でもなんでも本当はないのです。意識体の一部なのです。 ―― ではイエス様とは同じ意識体ですね。 孔子 同じ意識体です。ただナザレのイエスとしての経験を意識化する場合、アガシヤーとしての ―― アガシヤーもかつて肉体を持った人間です、アトランティスにおいて ― ですからその経験を意識化する場合と違ってくるわけですね。記憶の領域が違っているわけです。ですから私は今本流の意識で話をしていますが、当初、「孔子」という者の意識を使って語ったということですね。 ―― アール・クラウドという方と釈迦とは同じ意識体でしょうか……。 孔子 意識体としては一緒です。そしてその意政体の中の一部分がクラウドとして残っているというわけですね。今釈迦の一部の意識体が現象界のこの日本に出て、いま魂修行をやっているということです。ですからこれもすべてではないのです。意識体の一部分なのです。本流の一つが今地上に降りているということであるから、私達とこうやって話ができるということです。しかしすべてが来ているわけではないのです。クラウドとか、他の部分が残っているわけです。意識体としてはね。そうしたクラウドとか、他の残っている意識体がですね、たとえば「高橋信次」という方が地上で修行した時に、様々な力を与えたりしているわけですね。彼は自分自身を「釈迦」と思っていた時があったはずです。彼自身は釈迦ではありませんでした。しかし、釈迦の意識体の残っている部分が彼を指導したりしていたわけです。こういうことができるのです。これが九次元世界です。もう人間というような一つの個性あるものではないのです。 ―― では゛高橋信次゛という意識体の本流というものも別にあるわけですね。 孔子 別にこれはあるのです。しかし彼も人間として生まれた以上、その意識体をくっつけて還ったようなものですね。こういっては失礼ではありますが、あなた方のように人間として生まれてくると、その意識の部分、個性ある、経験ある人間の意識の部分というのは、それに付随した一部です。この部分を掴(と)らえて゛子路゛と言ったり゛釈迦゛と言ったり゛高橋信次゛と言ったりしているのです。 ―― ゛孔子゛という名を持ったお方もそうなのですね。 孔子 そうです。 ―― 現在では天上界におけるお仕事が重要だから、それ以外の名前では出て居られないということですね。 孔子 そうです。出ていないということです。 ―― わかりました。釈迦の意識体の部分は、今自己の魂修行のためだけでこの現象世界に下りて来ているのでしょうか。 孔子 自己修行のためではありません。やはり天上界の計画をこの地上で実現するためです。 ―― 天上界の計画を実現する手段として、特にこの日本に派遣されているということですね。 孔子 そうです。その意識体を地上に出してこないと、私達の居る高次元のものとの意志の交流ということはできないのです。ですからもうあなた方、人間としてね、同じ人間が生まれ変わるとかどうとかいいますけれども、確かにあなたの魂は生まれ変わるたびに、或る程度同一人物としての個性を持っているのです。多少は違う面も持っていますけれど、同一人物としてのアイデンティティといいますかね、自己確認ができるようになっているのです。けれどもそれ以上になってくると、だんだん自己確認ができなくなるのです。ま、いわば人体でいうと、あなた方は自由自在に身体を動かせますが ―― 行動していますね。 例えば右手が鉛筆を持つと、これは右手であるというふうに意識し、足が何かを踏むと、またそういう意識をもちながら動かしている。゛融通無碍(ゆうずうむげ)゛にね、私というものがいろんなことをしているのだというふうに認識している段階と、右手が今動いている。左足が動いていると、こういうふうに個別に認識している段階とがある、こういった認識の段階差なのです。ですからあなたならあなたというのは、あなたの意識体の中の右腕なら右腕がね ―― いつもやっているということを、あなたは意識しながらやっているわけなのです。こういうことなのです。 12.男女はエネルギー体の陰陽別、肉体器管の発達は環境による ―― いま一つお伺いしたいのですが、人間には男女の別がありますが、まあ肉体的には当然理解できることですが、問題は魂についてですが、この魂の傾向にも男女の差があるように思われるのですが、これはやはり神が、初原から別のものとしてお作りになられたのでしょうか……。 孔子 そうです。というよりは、本当はエネルギー体の中にプラスのエネルギー体、マイナスのエネルギー休、正と負がありますね、或いは陰極、陽極、エネルギーというのは必ず両極あるのです。これを神が作ったものといえば恐らくそのとおりです。私達もやはりエネルギー休である以上必ず陽の部分と、陰の部分を持っているのですね、これを個性化し、人霊化していくと、陽の部分が出ると男となり、陰の部分が出ると女になるんです。こういうことなのです。ですからそういう意味では菩薩(七次元)から下の部分にいくと男と女というのがはっきり別れているわけですね、或る程度、ところがもう如来(八次元)宇宙界(九次元)になってくると、もう男も女もないんです。いわば中性です。無くなっているんです。 ―― 人類の人種別による肉体器管の相違というものは先天的なものでしょうが、或いは後天的な要素によるものでしょうか。 孔子 あなた方はあくまでもこの地上に降りている肉体舟に乗って旅行しているのです。こんな肉体の条件というのは、あなた方にとってはほんの一部分の被服に過ぎないんです。一部以下です。たとえばその時に驢馬(ろば)に乗ったとか、騾馬(らば)に乗ったとか、サラブレットに乗ったとか、ヤクに乗ったとか、こういった違いでしかないのです。人体は元々人間が地上での修行をしやすいように、神はお造りになったわけですが、この地上生活に適用するような形で人体は勿論変わって来ております。それはそうでしょう、あなた方生きている時でも、力仕事をすれば力瘤(ちからこぶ)ができるでしょう。掌も大きくなるでしょう。ピアノを弾いていると指も長くなるでしょう。生きている人間一代の間でもこういったことがあるのです。そうであるなら地球という生活環境の中で、何代も人類が生きているならそれに適した肉体になってくるはずです。 ―― いろいろと、まだ私の理解の届かぬ高度な問題についてのお教えを賜わり天上界の地球計画につき全く認識を新たに致しました。恐らく全日本人はもとより世界人類の方々も、孔子様に対する認識を新たにすることであろうと思います。本日はまことに高いところから態々ご降下賜わりありがとうございました。
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目次 1.私は人の心を通し理想国家(ユートピア)の実現を唱えた 2.私の愛弟子は、子路(しろ)、子貢(しこう) 3.私が再誕するときは新文明を創る時 4.中国の現代思潮は一つの波 5.地球圈人口の増加は異星人、新人類転入による 6.人種相違の原理 7.日本を中心とした最終ユートピア建設の基礎づくりに励め 8.後輩の異星霊団に遺(のこ)すユートピア、エデンの園 9.天変地異は十次元以上のハイスピリットの作業 10.新霊文明は日本からオセアニアを経て東南アジア大陸へ逆流移動する 11.高次元霊には本体(本流)あり各分身意識はこれに付随する 12.男女はエネルギー体の陰陽別、肉体器管の発達は環境による (一九八六年一月三日の霊示) 1.私は人の心を通し理想国家(ユートピア)の実現を唱えた ―― 孔子の招霊を行う ―― 孔子 ―― ツワソ・テイソ・コウスイーツ……早口で中国語で語り出される、この間約四分間 ―― お話中でございますが、あなた様は孔子先生であられますか…。 孔子 ソウシヤ・ピイシイ……… ―― 残念ながら私は中国語を解しませんので、お話して頂いておりますが、どういう内容か判りませんので、できますことなら日本語でお話できませんでしょうか。 孔子 中国語で、――よく聴き分けなさいと言いたげに手振りでカを込めて話す――。 ―― まことに申し訳ありませんが、今のお言葉の概要だけでも日本語でお願いできませんでしょうか。 孔子 ―― ―― 今のお言葉は現代の中国語ではなく、今から二千数百年前に使われていた中国語でありますか。 孔子 チュイ・ツイイーアイウイ・ティウーツーヮ ―― それではボツボツでも結構ですが、少しずつでもお話願えませんでしょうか、あなた様のお名前を先ず日本語でお願い出来ませんでしょうか。 孔子 ウイテイ、ウイテイ、ア、ウイテイ、ア、ツツイテア、ツウ、ツツウ、ツツイウイ、コーツイア、クウ、クイクイテア、ツーオン、ツーテイアン、ツーテイアンソ…… (訳) お前も中国語を話せるではないか……と言っている。私と一緒に中国語で話さないか、お前も中国語が話せるじゃないか……。 ―― 私は現在日本人として肉体を持って生まれて来ておりますために、かつては中国語を話せたんでしょうけど、現在では中国語を忘却してしまい語ることができないことをまことに残念に思います。孔子様は今から二千数百年前に中国にお生まれになられて教えを説かれた孔子先生ですね。 孔子 イイウン、テイ、アーウーテイ、トウアンチイ、ウイアンテイ、トウアン…… (訳) 私は確かに、今から二千数百年前に中国に生まれた孔子というものです。 ―― 孔子先生は中国におきまして儒学、儒教を説かれてその後、全世界にそのお教えが広まった偉大な思想家、導師であられたということを承知いたしておりますが、残念ながら私は、今世におきまして日本人として生をうけましたために、当時先生のお教えを受けた一人であるということでありますが、そのことは残念乍ら忘却してしまっている現在でありますため、願わくば今一度、現在の日本人なり或いは世界の人々に先生のご思想を再認識させて頂いて、新しい時代を創る上に大きな指針となりますような、そういう活力を得たいと存じますのでお願いいたします。 孔子 テイーカンツウ、アウエンツエー、アリンテイ…… (訳) 私は中国語でしか今のところ話できませんが、あなたが言われる日本語はよくわかりますし、あなたの考えておられること、あなたの意図しておられることは、十分理解することができます。暫くの間はこのような形で、この者の通訳によって話いたしますけれども、暫く話して慣れて来たら段々に日本語話せるようになると思います。 ―― そうしますと今お話願っている中国語というのは中国の現代語ではないのですね。 孔子 チュウアンテイ、カンテイー………以下中国語 (訳) 中国語も勿論、二千数百年の間にずいぶん変わっておりますので、私の言っているのは現代語ではありません。その当時私が使っていた言葉です。 ―― 先生は偉大な思想家であられたのですが、周の時代に政治を改革するということで大臣にもなられ、国の゛政(まつりごと)゛に参画されたということでございますけれども、その当時のあなた様のお考えなり、どのように改革されようとなさったのか、その辺の思想的背景について、われわれが学び得る点がございましたならお教え願います。 孔子 ― 中国語 ― (訳) 当時私は、やはり理想というものが国の政治には大切だということを常に説いておりました。国が政治をしていくうえにおいては何らかの理想がなければいけないし、古代の、まあ「尭舜(ぎょうしゅん)」の時代とですね、そういった時代にも理想国家というものが、中国にもあったといわれておりますが、そうした意味での懐古的な動きではありますが、そうした理想国家建設ということを説きました。これはまあ今、あなた方が考えておられる「理想世界(ユートピア)」建設なんかと同じものです。そしてですね、その理想に至るための方法論としては、私が説いたのは先ず、人々の心の中に、一人々々の心の中にユートピアを築かねばならない。理想国家はね。先ず人の心の中に説かなければいけない。で、私の中に、心の中に理想の国ができ、あなたの中にその国ができ、そして社会の中に理想の国が出来、そして国がですね、全体がやがて理想国家ユートピアになっていくという、こういったことを私は常に説いておりました。 ―― ところが先生が当時政治の府に参画せられまして、お教えを説いておられたが、現実の問題として人々は、或いは社会は、或いは国家は、あなたのご理想を理解し、お教えに従うことができましたか。 孔子 ― 中国語 ― (訳) あなたは今ですね、私が当時、私が考えていたその理想の国が、人々に理解されてそのようになりましたかということをご質問されましたけれども、天上から、私は当時「天」と言っておりましたが、天からこの地にですね、この理想、これは天といいますか、今あなた方がいっていますのは、神仏とか神とか言っておられますけれども、こういったものからこのインスピレーションですね、このインスピレーションが地上に降りてくるときというのは、いつもそのインスピレーションの原形になるものがですね、この地上から表われている時なのです。その意味において今のあなた方も、非常に似たような環境にあるわけです。 私達の時代というものも、本来あるべきそういった理想の国ですね、神から来た理想が地上に実現されていないような時でした。ですから私が説いてもですね、そのままそういう国になるわけではありませんでしたが、まさしくあなた方の時代も同じであって、当時も同じような思想家達が輩出いたしまして、そしてそれぞれの理想論を説いていたわけですね。そういった雰囲気というものを醸し出してやがて天の国がこの地上に出来てくるようになってくるわけです。 ―― あなたはその後政治の府から離れて諸国を回って教えを説かれ、弟子の育成に専念されたということになっておりますが、有名な『論語』の元になるような教えを説かれていたようでございますが、時の政府にはあなたのご理想が採用(もちい)られなかったのでしょうか。 孔子 ― 中国語 ― (訳) 今ですね、あなたは私が諸国を巡回してですね、いろんな政治のことを説いたと思うけれども、それが採用されてうまくいかなかったのではないかというようなことを仰しゃいましたけれども、私の時代というのは春秋、それからやがて戦国の時代に到る国でしたけれども、また国造り、群雄割拠ですね、こういった時代であったわけです。で、後には「秦(しん)」とか「漢(かん)」とかいうそういった大帝国も、出てくるんですけれども、そういう大帝国が出て来る前の群雄割拠のようなそういった時代であったわけです。 で、それぞれ諸国を説いて歩きましたけれども、政治家達の理想としていた゛法゛、法といいますか、まああなた方は仏法を今説いていますけれども、彼らが求めていたものは、思想としての仏法伝道というようなことではなくて、ま、戦ですね、戦なり政治なりそういったものを如何にうまくやるか、というようなことを求めていたわけです。だから戦いに勝つ方法であるとかね、民をよく支配するような方法、こういったものを求めていたわけですね。ですから私もそういったことに対しても或る程度は説いてきました。けれども、まああなたがご存知のように、私が本来意図していたものは、そういうものではなかったのですね。私は当時、霊とか神とかいうようなことは説きませんでした。しかし、私が本当に理想にしていたものは、そういったやはり神の国なのですね。神の国の地上実現ということであったわけです。ところがやっぱり『鬼神乱神を説かず』というような時代であったために、そういったことを直接言えなかったわけですね。ですから世に受けるような法、こういったことを言いながら、その中に何らかの理想国家が出来ればそれでよいのではないかと、ということで、方便として国造りというか民の治め方ね、それから戦争の仕方とまではいかないけれども、今でいやあ軍略ですか、そういったものに対しての助言をしていたわけです。 ところが私は、本来神の世界のことを説きたい人間ですから、地上の国のことは、本当はどうでもいいんです。ですからそういった気持ちが一部あったために、いろんな教えを説いて廻ったにも拘らず、必ずしもそれが彼らの要求するものではなかったわけです。私としては或る程度の妥協をして教えていたのですけれども、そういった法ではなかったわけです。そういうことで余り受け入れられなかったということですね。その意味では現世的には大成したとは言い兼ねるところはあります。 2.私の愛弟子は、子路(しろ)、子貢(しこう) ―― あなたは当時、直接ご著書の中であなたのご思想を著わしておくと、後世に残すということはなさらなかったのですか。 孔子 ― 中国語 ― (訳) で、今あなたはですね、私が自身でですね、著書をなぜ書かなかったのかと言われましたけれども、今あなた方、こういった書物を出しておられますけれども、これで天上界の諸霊の言葉ということで伝えていますが、まあこういったことが出せるということは、今がそういったものを出せるような時代であるからであります。 当時私の悟りというものははっきり言えば、もう時代を、遙かに超えておったわけです。現代あなた方が知っているようなこと、こういったことまで或る程度、まだここまでは行っていませんけれども、或る程度のことはもう分かっていたわけです。ところが、私の弟子、まあいろいろ何人か居りましたけれども、゛子路゛だとか、゛子貢゛だとか居りましたけれども、彼らも私の本当の考えを、これは到底理解できなかったことなんですね、言葉も今のような言葉はなかったということでね、私も天帝とかいう言葉を使っていますけれども、天帝ですね、天に在る帝(みかど)、ですね、こういうことを言っていますが、ま、そういうことを言っても、彼らは地上の帝ですね、地上の帝王と同じようなことで想像して考えるだけであって。私がやはり神とか、或いは高級神霊のことを言っているということは、到底わからなかったわけです。ですからあえて私は道学者として当時生きていたわけですけれども、その中においてね、私の本当の考えというものは、書物に著わせるようなものではなかったのです。 それで、弟子達に合わせたいわば対機説法を私はやって来たということで、それを集大成して『論語』というような本が出来たわけですね。『論語』というのは私の思想のほんの一部分しか、数分の一しか現れていないものだと思って頂きたいのであります。そういう意味において弟子が理解し得た私の思想ということです。 ―― そういう意味では釈迦もそうでありましたし、またイエスもそうであったし、弟子達に語ったことを弟子達が後世に師の教えを、かくあったのではなかったのかと寄り集まって、語りあって聖書なり、仏典なりを残したものでありますが、まあ当時の方々にはそういうケースが多かったようでありますが、それでは最もあなたのご思想を受け継がれたという方は、なんという方が一番近かったのでしょうか。 孔子 子路、であろうと思います。私が一番愛していた弟子であります。この「子路」という人は、あなたとも関係のある方です。あなたにも関係のある方なのです。 ―― しかし時代は大分前ですね。 孔子 そうです。大分前です。あなたの魂と関係のある方です。 ―― たとえば分身とか、兄弟子とか?子路といわれた方は、私の前身であったということでしょうか。 孔子 そうです、そういう方です。子路という方もやはりあなたと非常に性格は似ていますし、あなた日蓮のお弟子であったと伺っていますが、その弟子の日朗ですね、子路が丁度、日朗的な役割を果たしたのです。 ―― あなたに対してですか。 孔子 そうです。 ―― そうですか。―― そしてこの方はどういう形でどういう地方であなたのお教えを説かれた方なのでしょうか。 孔子 まあ私は当時ずいぶん諸国を歩いておりましたけれど、その伝道といいますか、授教と申しますか、各地で説いているうちに、いろんな弟子達が寄って来たわけですね。弟子達というのも何時も、いつも私のとこに居たわけではなくて、私は自分の弟子達をつぎつぎと、時の政府の、今の言葉で言えば悪いですけれども、御用学者というか、ブレーンですね、ブレーソとして送っていたわけです。ですから子路も、当時様々なところヘブレーンとして出したことはありますが、彼は情の、情愛の深い方でありますから、直ぐ私のところへ帰ってくるんですね、何時も私のまわりについて離れないような、そういった人でありました。 3.私が再誕するときは新文明を創る時 ―― そうですか。まあ中国は四千年の歴史があるわけですが、あなた様は孔子、として出られて以来、現世には何処にもお生まれになって居られないのでしょうか。 孔子 おりません。 ―― これは何かの意味があるのでしょうか。 孔子 意味といいますと? ―― そちらの方の任務が大きかったのか ―― 孔子 というか、私達は、時代が変わって、百八十度転換して新たな思想を陳べ伝える時が来るまでは、そう簡単には出ていかないということです。私とか、ソクラテスさん、あなた方も本を出されるそうですが、ソクラテスさん。或いはキリスト、釈迦、こういったいわゆる宗教的、まあ宗教でなくても結構です、思想でも結構ですけど、始祖となるべき人というのは、やはり役割が決まっておりまして、いつの時代でも始祖として出てくるんです。それはその時代の文明の源流となる、役割を持っている人というのが居るわけです。私もそうです。ですから古代中国の文明の源流を創ったのは私です。そして現代までそれが延々として続いてきています。これは恐らくはキリスト教や、仏教の流れと同じであろうと思われます。それでまた新しい時代、私を必要とする新しい時代にはまた、もう一度生まれるつもりだということです。 ―― ただその場合には、その当時のあなたのお考えから更に時代の流れに沿った新たなお教えという形で説かれるわけですか。 孔子 そうです。たとえば、今の中国というものを見てみますと、今の私が生まれてきて、新たな法が説けるような状態にあるかというと、ないわけです。まだ政治的に非常に問題があります。私のときの春秋時代ですね、春秋から戦国に入るような時代と較べても、今の中国というのは非常に活気がないわけです。人口は多いですが、思想的に活気がない、私達の時は、それぞれ諸子百家、いろいろ出ましてですね、いろんな説を説いたわけですね。百家争鳴と申しますかね、諸子百家の時代であったわけです。思想家もずいぶん出たんです。ところが今の中国の状況においてはそうした思想家が出て来れるような状況ではないわけです。彼らもよく時代を見ております。ただね、私は言って置きます。これから日本を中心として新たな文化の興隆があるわけですけれども、その影響をうけて中国も、あと百年もすれば新生中国となっていきます。新たな中国となってどちらかというと、自由主義体制に入っていくような時代になって来ます。そういった中で、中国にもあれだけの力がある国でありますから、優秀な方々が今後出てくる。続々と出てくるということを私はいまのうちから言っておきます。 4.中国の現代思潮は一つの波 ―― 中国における現代の政治状況なり、思想の傾向というのは、これはあるべくしてある天意によるものでしょうか、それとも天意に反する単なる人間知によって成り、また現れているものでありましょうか。 孔子 まあ波というものは、たとえば浜辺に押し寄せて来るときもあり、退いていくときもあるのです。波が退くことを知らずに、押すことだけを知っていたら、これは波ではないですね。そうでしょう、ですから私も一つの波であります。波として岸辺に押し寄せました。岸辺というのはこの地上ということですね、岸辺に押し寄せたその波はまた退いていくのです。そしてまた新たな波が押し寄せてくるのです。そして退いていく。ですから今あなたは波が退いていくすがたを見て、これは天意によるのでしょうか、人為に因るのでしょうかと言っているんですね。波というものの性質を考えれば、それ自体に備わったものなのです。 ―― 現在の中国の民衆は、現在の思想、現在の政治体制という波を必要とするような条件があるのでしょうか。 孔子 彼らは、魂としてはまだまだ幼い魂が沢山生まれています。十億もの人口を持つ国です。こういった国にはですね、現世に生まれ変わりたいと、人間として生まれ変わりたいという或る意味では未発達の魂が多く生まれてきているわけですね。ですから時代としては、たとえばあなた方と同じ時代に生きているわけですけれども、魂としてはそういった未熟な魂がかなり数多く生まれてきているのです。 あなた方は今、たとえば地上に四十億、五十億の人間が居ます。ところが私達の時代、今から二千数百年前というのは、地上に生きていた人間というのは今の、恐らく十分の一も居なかっただろうと思います。これだけ二千数百年の間に十倍以上の人口が、この世界に出て来ているわけですね。それは一体どういうことかというと、この地上生活に慣れていない方々が大量に生まれて来ているということなのですね。では地上生活に慣れていない方々は、どういったところに生まれてくるでしょうか。それは、たとえば今あなた方、日本という国に最終ュートピアという言葉でいってもいいですが、そういったものを創ろうとしておられますね。これは科学技術的にも高度に発展し、経済的にも発展した国に、また精神革命を起こしてですね、非常に素晴しい文明文化を創ろうとしています。こういった世界に生まれて来る人には、魂的にも最後の仕上げにかかった方々が続々と生まれて来ているのですね。今までの農耕社会や、武士の社会の中では、十分自分の魂の修行ができないような人がですね、もう十分そういうところを卒業した人が、最後の仕上げのために生まれて来ているんですね、この地上において、天上界、天国を経験するという目的のために生まれ変わっている人が大量に居るわけです。ところが、同じ時代においても中国の大部分がそうであるように、或いはロシヤの大部分がそうであるように、アフリカの大部分がそうであるように、まだまだ未開の地に物凄い数の人間が生まれているわけです。 これらは、時代としてはあなた方と同じ時代に居ますけれども、魂としては未だ幼い魂なのです。人間としての経験が少ない魂なのです。彼らはそうした後進地域に生まれて、まずこの地上生活に慣れるという初歩の経験を積むために、大量に生まれて来ているんです。そうするとそういった目的のために造られている国土、或いは現状においては光の指導霊達は、そう好んではこういう地には生まれて来ないんですね。或る程度、その地の人間達の知が進み、知恵が進み、文明文化が育って来たときにはじめて出て来るんですね。そういうことなのです。ですから時代としては、あなた方同じ時代に生きているから人間としては同じかと思うと、そうではないのです。魂としてはいろいろあるんです。それはたとえば学校というものの中にも、上級学校もあれば下級学校もあるように、或いは学校以外でも、ご承知のように塾というものの中にも進学塾と、そうでない学習塾とがあるように、いろいろと学力により、実力により分けていると思うのです。゛神゛はこの地上においてもやはり進度別にいろいろな、あるいは実力、学力別にいろいろな地域を用意しておられるのです。 ですから世界全体が、同じレベルになるということは何時の時代にもなかったのです。で、私達の時代にも古代中国には、百家争鳴しまして、様々なレペルの高い魂が出ました。では同じ時期に他の所に出たかというと、他の地域にはなかったわけですね。こういったようなものなのです。時代に或る時期、千年、二千年に一回、非常に高い文化の高みを神は造られるのです。そしてまた波が退いていきます。そしてまた暫くすると波が押し寄せて来るんです。 ま、これは地球という球の上に、神が偉大な芸術を創っているということですね。これは゛神゛の芸術なのです。いろんな地域、いろんな時代に様々な文明文化、これを正しい法というものを通して創っていくというのは神の偉大な芸術なのです。ここまで分かってほしいということですね。ここまでわかれば人間はもう地上に居る必要はないのです。地上での修行はおわりということです。 5.地球圈人口の増加は異星人、新人類転入による ―― そこでお尋ねしたいのですが、現在、お話のような中国、或いはアフリカ、ロシヤの地域に生まれている人の中には魂の若い人達が多く居るということでありますが、こういう人達も人類としての起源は、あなた方や私達と同時期にこの地球霊団の一員となった方々ではないのでしょうか。 孔子 そうではないのです。あなた方いろいろと、いろんな方々から教わっているように私は聴いております。そしてこの地球へ船団を率いて来た。最初の魂が肉体として降りて修行したと教わったはずです。ところが、時代はだんだんと降ってくるのですね、そしてこの地球という磁場に肉体修行の場ができて人間が住んでいる。いま私は地上に生まれたい人々が人口の多い国に生まれていると申しましたが、同じことがあるのです。肉体としては少数の人間がこの地球という磁場に、魂を育(はぐく)む場を設けると、これはまた霊界の中でもだんだん有名になってくるのですね。霊界というのは何も地球だけではないのです。地球以外の天体もあります。それで宇宙の中でいろいろな霊的な磁場が幾つもあるわけですね。ABCDEと、いろいろあるわけです。それでその中で魂の修行をしていくのですが、いま地球という磁場、ここを中心にして、たとえば霊団Aというのがあってここでやっているわけですが、他にもBという霊団、Cという霊団、他にもD、Eといろんな霊団があるんですね。それぞれでやっているんですが、それぞれ、BならBの霊団で修行していて、もう飽きてきた魂達が沢山居るんです。或いはBという霊団が非常に進んでいると、これに従いていけない魂達が居るのです。こういった者たちが、新たに自分らに合った修行の場を探さねばならない。そういうことで、程度の高いBという霊団に従いていけない一部の者が、たとえばA霊団という地球の霊団に入ってくる。 或いはCという霊団があります。この国もひじょうに発展した霊団とします。ところが、この霊団の中では、もうこれ以上魂の発展がみられないというような段階にまで来たとします。そうすると先程のB霊団のように魂が発達していないために、地球でもう一回やり直すという人も居ますが、このC霊団のようなところでは、もう行くところまでいってしまった人達というのは、もう新たな進歩はないわけです。そうすると、もう一度一から出直してみたいという意味で生まれ変わってくる人達がいるわけですね。高度に発達した自分らであるにもかかわらず、もう一回原始時代から始めてみたいという意味で、生まれてくる人達が居るわけですね。こういう人達がまた魂が分かれてくるのです。 ですから地球の人口ということを、今あなたは考えておられるはずです。なぜ四十億、五十億の人間が地上に居るのか、これだけの人間が地上に居るなら天上界、霊界では、恐らくは数百億の霊があるはずである。それだけの霊がどうしてこの地球に出来たのか、と考えておられると思います。が、これは最初肉体を持って地上に生まれた人は、少数であったのです。ところが地上という、地球という霊団ができたということが分かると、他の霊団からも、霊としても移ってくるということです。発達していなかった霊団が、発達していなかった人達がもう従いていけなくなって、この地球というところに引かれて移って来る場合、或いは高度に発達した人達が、もう修行ができなくなって、もう一回一からやり直そうとして地球に生まれてくる場合、こういうふうに、肉体としても来ていますけれど霊としても、地球という磁場に相当引き寄せられて人口が増えて来ているのです。ですから地球霊団の霊人口は当初に人類が住みついた頃に比べると、数十倍、数百倍に増えて来ているのです。 それはそうでしょう。あなた方日本という国でも、たとえば鹿児島とか、或いは北海道の釧路とか、根室とか、こういったところに住んでいる人もいますが、東京というところがありますね。大都会、ここはどんどん人口が増えて来たでしょう。ここ百年ぐらいで十倍以上になって来たでしょう。なぜかというと、北は北海道から、南は九州から、人がどんどん東京にはいってくる。なぜ東京にはいってくるか、そこに来ると様々な出合いがあり、様々な勉強ができ、様々な楽しいことがあり、様々な経験ができると思うから東京に来るわけですね。そうでしょう。そういう形で人口というのは増えてくるんです。霊的人口も同じであって他の霊系団から岐(わか)れてくるのです。 地球というのはどうも面白そうだぞというと、やはり徒党を組んで、霊としても渡ってくるのです。こういうこともあるのです。当然ながらそれが霊人口の増えている理由です。ですから比較的新しい時代に、他の霊系団から地球に移って来た方々が居るのです。こういった未熟な方々が今発展途上国において、人口問題が生じていますが、どんどんと地上に生まれているんです。ですから地球霊団というけれども、これは本来一つの霊系団でできているのではないのです。 進歩した星から当初肉体として渡って来た霊団、これは非常に優れた人達です。この霊団とそれ以外の星、いろんな星団から移って来た霊系団があるのです。進歩の度合いは様々だったのです。その進歩の度合の様々がこの地上においても様々な進歩度合い、人種、或いは文化文明の違いを生んでいるのです。それで地球の歴史、人類が来てから約三億年が経って居りますが、この三億年の歴史というのは一体何かというと、一番進歩した文明を持って来た星団ですね、その星団が地球を支配しようとする歴史であったわけです。私もそうですし、あなた方もそうです。遙かな昔、或る星団から移って来たわけです。そしてその文化をこの地球に持ち込んだわけです。 ところがこの地球に他の霊団、他の霊団から様々な劣った霊、未熟な霊が相当数移転して来ているわけです。それで問題が起きてきたわけなのです。当初渡って来た私達だけならば、高度に進化した霊意識を持ってこの地球で゛楽園゛を営んでいたのですが、こういった他の霊系団から様々な人が来たために、このレベルに混濁が起きたわけです。わかりますでしょう。たとえば私達がCならCという霊団から来たとしましょう。それは非常に高度に進歩した人類です。そういう人達がこの地球という新たなあこがれの地を目指して移って来ました。そこで理想郷をつくろうと、理想郷エデンの園を築いたわけです。 6.人種相違の原理 ―― そこでちょっとお尋ねしたいのですが、たとえばあなたが来られた霊団をCならC霊団としますならば、新たにその後、異星から来た未発達のB、A霊団ならBA霊団というものがありますが、この霊団の方々を、地球というあなた方の進んだ霊団の下で修行させようとして引率して来た引率者というものは霊的にはかなり高い意識を持って来られたのではないでしょうか。 孔子 まあ、霊的な力としては高い。―― しかし考えにおいては、我々とは合わない考えの人達も居たわけです。 ―― しかしその引率してきた人達は土着したのでしょうか、それとも元きたところへ帰っていったのでしょうか。 孔子 土着もしています。 ―― そうしてその人達が、当時の優れた人類との間に交じって修行をして行こうと思い、またそうしてきたわけですね。 孔子 そうです。 ―― そこで一つ分かりかねるところがあるんですが、それは人種的な違いということではどういうことになっているでしょうか。 孔子 先程は最初の人間が肉体を持って来たと申しましたが、それだけではなくて、他の星から肉体を持って来たものも居るわけです。そういった末裔(まつえい)としての違いもあるんですが、住んでいる地域によって変わって来たということももちろん大きくて、様々な複合原因が絢い交ぜになって現在の人種というものが出来てきております。 ―― たとえば、赤道直下の熱帯あたりの地域に住んで居る人は肌の色が黒いとか、或いは北半球、いわゆる北方居住民族が肌の色が白いとか、或いは中国、朝鮮、日本というような温帯地域に居るものの肌の色は黄色いとか、いう現象が顕著ですが、これは気候、風土という自然環境によって、つまり外部要因によって変化を来たしているように思われるのですが。 孔子 それもあります。しかし、魂として少し違った面もあるのです。たとえばAという人種は、他のB、Cと違うところがあると思います。これは肉体としても当初違う肉体が来ていたことは確かなのです。ただ魂としてはね、やはり八割位は元来た魂たちが主としてA人種として生まれ変わっているのですが、そのA人種の肉体の中にもまた今の時代においては光の天使なども生まれて行っているのです。それはA人社会を進歩させていくためにですね。 ―― まあ霊として霊団として異星から地球へ移勤してくるということは分かるのですが、肉体を持ってくるということになると、これは高度な科学技術をもっているという状況下であったろうと思うのですが、ここで優れた魂を持つ人類が優れた科学技術を持って移住して来たというのは理解できるのですが、未発達の魂を持つ人種の人間が優れた科学技術を持って肉体を運んで来たというのは、ちょっと納得し難いのですが。 孔子 そうではないのです。科学技術そのものの進化と、霊的な進化とはまた別なものなのです。霊的には未熟であっても、科学技術が進んでいる惑星というのは、この宇宙には沢山あるのです。技術だけが進んでいて、魂自体は進んでいない、そういったものはいくらでもあるのです。願わくば、霊的なものも、科学技術も進化したのが望ましいのですが、霊的だけに進化して科学技術の進んでいない星もあれば、科学技術が進んでいて霊的に進んでいない星もあるんです。両方進んでいる星もあるんです。我々が来た星が後者なのです。ですからわれわれは、それを理想としているわけですね。文明、文化としても開けながら、霊的にも進歩する。こういったものを理想としているわけですが、技術だけが進んでいた星から来た人達というのは、まだなかなかわからないのですね、霊的な進化という意味が充分に分かっていない。また霊的には進んでいても科学技術が進んでいなかった星から来た人達ね、これは霊として移って来ているのです。肉体ではなくてね。円盤などによる飛行物体によってではなくて霊的に地球に移って来ているわけですが、彼らは霊的なことには非常に興味を持ちながら科学技術文明的なことには余り興味を持たない、そういう霊が居るわけです。 ―― 非常に壮大な宇宙観と申しますか、地球観と申しますか、実は、孔子先生からはこのようなお話を伺えるとは思いもよりませんでしたが、それだけに一層感銘を深く拝聴いたしました。ありがとうございました。私達もこれをお教えの一つとして、これからの伝道に役立たせたいと考えております。 本来、孔子様という個性霊のお話としては、今から二千五百年前、今の中国当時の春秋時代にお説きになられた「儒学」の教えが中心となった人の生きるべき道というものを重点とした再教示がなされるものと考えておりましたが、更に間口を広げた大変なお説で非常な感銘を受けました。 孔子 私は今まで、二千数百年前に中国に肉体を持って以来、こういった霊的な指導ということは、殆どやって来なかったのです。ですから私自身は、ベールの彼方に隠されていたわけで、三次元の皆さんにこのような話をしたのは、これがはじめてです。生まれて始めてと言っては変ですが、霊的には始めてです。他の方々はいろいろ指導されておられましたけれども、私としては始めて出て来たわけです。 7.日本を中心とした最終ユートピア建設の基礎づくりに励め ―― それで、特に孔子先生としてかってお教えになられましたことに関連しまして現在の人類に対する「徳性」と申しますか人の生き方ということについてのご教示が頂けたらと思うのですが何かお願いできましょうか。 孔子 漠然としたご質間ではありますが、ま、幾つかに分けてお答えしようと思いますが、まず第一点としましては、今時代が進歩して来まして私の時代には説けなかったようなことを、たとえば霊的なことを、ある程度常識として説けるような世の中になってきました。それであなた方へのアドバイスになりますけれども、この機会に、人間は霊であると、肉ではなく霊であるということだけではなくて、私達の住んでいる本来の次元、九次元から三次元まで、これすべてを説き明かすという作業、それからまた私達が何処から来て何処へ行くのかと、地球の歴史というものもありますけれど、地球を超えた歴史というようなものも或る程度知って頂きたいと思います。私は先程少々申し上げましたけれど、あなた方の使命というものは、今、知りうるすべてを明らかにするという使命なのです。今まででしたらベールの彼方に隠されていたことをですね、これがまず第一点です。 第二点としては、やはりこの地上に、今あなた方の魂としては、日本を中心にして霊的な王国、神の王国を地上に創るという目的で生まれてきているわけです。ですからこの地上を如何にして最終ユートピアにするかということ、これに努力して欲しいと思うのです。これをつくっておけば、― 人類の歴史はまだ勿諭続くわけですけれども、この日本という国を中心とした。ユートピアが理想の国として残るわけです。― その後、これを理想として様々な生き方を、或いは様々の国の経営というものがなされていきますから、そういうことを考えて、この日本という国で最終ユートピア、霊と物質とが融合した、融和した「理念世界」を築くということ。これをやって頂きたいと思うのです。
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目次 ・男女が地位の上下ではなく性質の違いである ・ボーボヮールの考えは間違っている ・男女共学、競争の論理は間違い ・霊的には女性の方が優れている ・非行、いじめの問題は母性に対する子供の反乱 ・愛の発生と発展のプロセス ・女を男に育てている今の教育 ・猫に鎖をつけて歩かせているようなもの、男女の天性を間違うな ・女性は霊的文明の担手となる仕事がある ・男女は競争主義に陥ってはならない ・私達は、美なるものの優れた指導者 ・男女の産み分け遺伝子工学は、バべルの塔にみた神の怒りにふれよう ・新たな孔、孟の教えが必要 ・聖書仏典にない女性済度の教義を発現すべきである ・女性の悩みに留意せよ 男女が地位の上下ではなく性質の違いである いま日本の女性達は、本来の自分達のあるべき姿というものか分らなくなっていると思うのです。どういうふうに生きるのが女性としての本来の姿なのか、或は、アメリカの女性のように、男女同権を克ち取っていくのが本来のすがたなのかどうか、それとも古い男尊女卑の世界に生きるのが本当なのか、この辺が分らなくなって来ていると思うのです。非常に時代はむつかしくなって来ていると思います。ただ私は思います。女性はやはり陰と陽なら陰であり、光と陰なら陰の部分であることはいなめません。積極と消極なら消極です。能動と受動なら受動だと思います。受身だと思います。それは真実だと思います。そのように造られているからです。あくまでもその性質の違いというものは、弁(わきま)えなければいけません。ただそれは性質の違いであって、地位の上下ではないのです。そういう意味において女性はしもべ或は下女、或は卑女(はしため)、のようなものではありません。地位の上下ではなくて性質の違いはあります。これは認めねばいけません。これを認めないで男女は平等だと主張するなら、これは大変間違っています。生物学的に男女が違っている、それゆえに差別をされているのではないのです。霊としてもやはり男の霊と、女の霊とは区別がついているのです。 これは神が、そういうふうに異ったものを造ることがお互の進歩のためになるだろうと思って造っておられるということです。ですから、これを垣根をなくして男女を一律に扱い同じにするということは、これは神の本来の趣旨にも反しているのです。そうでなければ神は男ばかりを造ればよかったのです。そうではなくて、神は男女を造られました。これは神は、男女を競いあうものとして造られたものではないのです。神は、男女が扶け合うように造られたのです。よいですか、ですから今後様々な世の中で、男と女の立場というのがいろいろと云われるでしょうけれども、男女同権の思想の中には決して競争の原理を持ち込んではいけないということです。これを私は言っておきます。女は地位的に男より下ではありません。けれども男と競うためにあるのではありません。男と女とは互に相扶け合うために造られている魂だということです。 ボーボヮールの考えは間違っている フランスのボーボワールという哲学者が居て『女は造られたものではなく、そういうふうに育てられたのだ――、生まれつき男女の差があるんではなくて、女は女として作られていくんだと――、人間社会の中で女らしく躾(しつけ)られて女になっていくんだと』言っておられますが、これは間違っています。 女性は、生まれる前にやはり女性であったのです。そして赤ん坊の時には、女性としての機能は勿論何もありませんが、成熟するにつれて種が発芽していくように、発芽して花が咲いていくように女になっていくのです。女性になっていくのです。そういう意味において男女の差は肉体器管の差だけではなくて、霊的にも異いがあります。それは明らかなことです。 ですから、これから女性が益々盛んに活動される世の中になってくるでしょうけれども、決して男女は競い合うという意味での平等意識は間違っております。そういうものは間違っております。男女は相扶け合うという方向において平等に立つべきです。互に扶け合う立場において平等です。その点を忘れてはいけないと思います。ただね、私は陰と陽なら女性は陰であり、受身であると申しましたけれども、これは必ずしもそうでなければいけないというわけではないのです。 花の中にも大きなユリの花みたいなのがあると思います。そのように女性の中にもひと際目立つような大きな大振りな花が咲くこと自体はかまわないと思うのですね、すべての花に菫(すみれ)の花のような可憐さだけを要求してはなりません。或時は鬼百合のような大きな大振りな花を咲かせてもおかしくはないのです。ですからそうしたものを必ずしも排除してはいけません。けれども数においてですよ、例えば男女が同じ仕事を同じような比率でやらなければいけないとか、いったようなことが、社会の規範として、或は法律として決めていかれるならばこれは間違っています。明らかに間違っています。よろしいですか――。あなた方が仕事をしていかれる中で、女性が主導権をとられる場合もあります。花にも大振りの花もあり、菫の花もあるように、それはあるのです。けれども、男女が同じようにやらねばならないということではないのです。同じ職場で働くにしても、決して男女が同じ仕事をしなければいけないというわけではないのです。そういうことだけははっきりして置かなければなりません。男女は競わしてはなりません。 男女共学、競争の論理は間違い たとえば今の社会において問題になっている一つは、OL、結婚していないOLですね、ハイ・ミスとか嫌な言葉でいろいろと云われております。実際に、この職業社会になって結婚しない女性が多くなって来ました。その理由は何でしょうか、その根源にあるのは何でしょうか。それは結局、男女は競わしてはならないという原則に反しているということです。いいですか、学生時代に男と机を並べて、成績を争いました。点数を争いました。大学へ入ってもそうです。そしてたまたま就職するとまたそこでも争いの気持があるから結婚できなくなってくるのです。会社において結婚できていないOL達を見てみなさい。争いの心があるのです。男と競い合う気持があります。だから縁遠くなっているのです。男女は扶(たす)け合うべきなんんです。男と女は扶け合うという気持ちを持っている人は縁遠くはなっていません。結局競いあうという心があるからなのです。不縁な人は。 それは、今の学校教育の誤りでもあります。例えば女子に家庭科があって、男子に体育の時間が多いのはこんなのはおかしい、こんなことを平気で言っていますね、そして平等にしなければいけないとか、これが差別だなんていっていますが、そうではないのです。どうして男女が同じ教育を受けねばいけないのですか。別なものでもいいのです。女性はむしろ感性を中心にした教育の方が、情操を中心にした教育の方が適しているでありましょう。 霊的には女性の方が優れている また霊的な方面においては、男性よりも女性の方が優れている場合が多いはずです。ですから女性には情操的な、或は霊的な教育というものをもっと考えてもよいのではないでしょうか。男性には知的な、理知的な教育というものを考えてもよいと思います。ですからそういう向(むき)、不向(ふむき)というものも考えていかねばなりません。 そして、これからの霊文明を担っていく中心になる方は、女性かも知れないということです。女性らの方が信ずる力が強いのです。男には行動する力があります。しかし女性には信ずる力があるんです。この信ずる力の大きさこそ女性の本当の恵まれた特質なんです。よろしいですか。女性は知性で争ってはいけないのです。信ずる力です。ですから、これから宗教の時代がまた復活していくのでしょうけれど、その宗教の復活の中においては、女性の信ずる力というものが大きな力となっていくでありましょう。 先般、天照大神様がお出ましになられた時にも、日本の家庭の崩壊ということを強くご指摘になられましたがそれはそうです、男女が競い合ったら崩壊してしまいます。当然のことです。扶け合わねばならないのです。 非行、いじめの問題は母性に対する子供の反乱 非行の問題とかいじめの問題とかは、結局のところ社会における母性の欠如だと私は思うのです。母性的なるもの、母なるものが今の社会において欠けて来ているのです。ですからあぁいう″いじめ″の問題、″非行″の問題というのは、むしろ女性に対する警告なんです。社会に出て、実社会に出て男と競いあうと、男と平等になりたいというようなうねりが起きているとき、あぁいう非行とか、いじめ、とかいうものが多くなってくるのです。それは天の摂理なんです。母性に対する警告なんです。あなた方には、もっと他にすべき仕事があるのではないか―そういうことに対する警告なのです。 そういった非行がはやり、また、いじめがはやる背景には、社会が男女の平等化が進み。女性が共働化する時代、女性が自由になる時代、権利を主張する時代、それと軌を一にするように起っているのです。つまり子供達を本当の意味においてはぐくみ育てるということを怠ってしるということなんです。女性にとってはやはり子供を育てるということが、人生の大事業なんです。育てる子供の中にはどんな偉大な人が出て来るかも分らないのです。そんな偉大な仕事ですよ、どんな偉大な人が自分の子供から出てくるかも分らないのです。そういった人をですよ、護り育てるということと、会社に行って伝票の枚数を数えることと、どちらが大切かということを考えて頂きたいのです。 子供に母乳を与え、子供に愛情を注ぐという仕事は、決して会社で計算器を叩く仕事より落ちる仕事ではないのです。コンピューターの事務をすることよりも、値打ちが落ちる仕事ではないのです。質においてはもっと誇るべき仕事なんです。それは創造的仕事だからです。ですからそれを忘れてはなりません。 私はいたずらに女性は働くなと言っているわけではありません。ただ、その非行とかいじめとかいうものの背景には、母性が影を潜めているという社会現象があるのです。これはやがて分って来ます。子供達の反乱なんです―。それが分らないんです。 ですから私は世の母親達に中しあげたいのです。あなた方、自分の本来の仕事の手を抜いて他の仕事をしたところで評価はされませんよ。あなた方が仕事をしようとしていることは、夫の収入を補おうという気持からやっているかも知れません。けれどもほとんどの人は贅沢をするために仕事をしたいとおもっているんではないですか。いい物を着たいとか、美味しいものを食べたいとか。旅行をしたいとか、自動車を購いたいとか、そんなことのためにあなた方は働きたいと思っているのではないですか。 愛の発生と発展のプロセス 神は男と女を造られました。なぜ男と女をつくられたか、それは互いに扶け合うことを知らせるためです。つまり、「愛」、人を愛するということを神はいっておられますけれども、愛の原形にあるのは、神が男と女とを分けられた時にそこに既に愛の原形があるのです。男が女を愛し、女が男を愛するように、人々よ、他人を愛しなさいと、こういうことなのです。 神は、そうした人間を造るというその過程において″愛″というものを埋め込んで置かれたのです。これが男女です。これがもし男だけの世界であったならば、愛というものはなかなかわかってこないと思うのです。隣人を愛せよといっても判りません。けれども人間の中に、人類の中に男女というものはあるのです。どんな人でも、どんな薄情な人、非情な人でも、男は或る時期に女を恋い焦れ、女も男を慕うのです。そういうふうに出来ているんです。これが愛の基(もとい)です。 この愛の基があってはじめて人間は、はじめて他人への愛を考えることができるのです。ですから人を愛したことがない人間なんて一人もないんです。必ず人間は人を愛したことがあるんです。それは男の女に対しての愛であり、女の男に対する愛であります。これを経験しない人は居ません。 南海の孤島に一人だけ育った人はどうか判りません。けれども人間として普通に育った人であるならば、その人の善悪はさておき、その人の知識の多寡(たか)はさておき、愛というものを経験しておられるのです。それはそうした愛と、男女の愛を契機として更に大きな隣人愛なり、いいですか、同胞愛なり、社会愛なり、地球愛というような大きな愛に育てていって欲しいからなのです。 神はそういうふうに男女を造ったのです。男女が相競う中には愛はないのです。よいですか。ですから私は世の女性達にも言って置きたい、確かに男女を同じくあつかうという意味においては、女性は著しく不利になっているかも知れない。けれども男女は相扶け合うものだという観点から考えた時に、あなた方にも足りないものがあるのではないですか。あなた方にも何か欠けてはいませんか。それをよく反省して頂きたいと思います。 それは男性が悪いのではなくてあなた方自身の意識の中に問題があるのです。同じように男性の中には男性的なものが喪れて来つつある時代であると思います。それは男性自らが反省すべきことではありましょう。けれどもむしろ今の時代にこそ、女性が強くなって来ている今の時代にこそ、女性は女性なるものの復権ということを考えて頂きたいと思います。 女を男に育てている今の教育 今の時代、女性で特にいけないことは、子育てを嫌がる女性が増えているということです。そうではないでしょうか、子育てを嫌がる女性が増えているということです。これは女性に課せられた足枷か何かのように思ってこれを嫌がる女性が増えている。特に社会的に地位にも恵まれ、知性にも恵まれた女性ほど、子供の数は少なくなっております。ほとんどが一人っ子です。或いは子供を産みません。ですから困ってしまうのです。本当は、知能の高い教養のある女性こそ子供を沢山生んでもらわねばいけないんです。にもかかわらず、そういう女性が自分ひとりの人生を生きようとするために、そういう考えを捨ててしまおうとし、無駄なこととして手を省こうとしてしまっているのです。優れた女性ほど沢山の子供を生んで貰わねば困るんです。 むしろ、大学を卒業した女性こそ、五人、十人の子供を生んで頂きたいくらいです。ところが、高学歴の女性ほど、結婚しないのです。まず会社勤めなんかしてハイミスとなるのは大抵高学歴の女性です。そして結婚しても子供はほとんど作りません。一人作ればいい方です。こうしたことになってしまうのです。それは男と競おうという心があるからです。もっと男女別の教育というものも考え直した方がいいと思います。男女共学というものも大事ですけど、女性だけの教え方というものもあると思うのです。 決して学校を卒業してですよ、会社に勤めながらお茶やお花をするのが、本来のあり方ではないのです。お茶やお花はどうでもよろしいのですが、そうした伝統的な文化、美に対する感覚、或いは情操教育ということは、もっと若い時からやって置かねばならないのです。男顔負けの生き方を二十何才までしてそれから結婚前にですよ、お茶やお花を一年ぐらいやったぐらいで、それで変わるもんではないのです。お茶やお花をやらせるのであるならば、もっと若い時から始めるべきです。それでこそはじめてその人の魂の糧になってくるのです。 ですから私は、男女の教育の中で基礎として重なる部分があることは認めますけれども、違った部分をもっと強調されてもいいはずです。なぜ同じ教育を受けるんですか。おかしいと思います。教育が間違っているんです。だから男女一緒になろうとしても平等になって行くんです。同じ教育を受けているのに社会に出て差別があるのはおかしいと言っているんです。それは受けた教育が一緒だからです。同じ教育を受けながら、肉体的な器管の相違だけで差別を受けていると思っているのです。錯覚しているのです。だから間違っているんです。肉体的にも違っているように霊的にも違っているんです。霊的にも違っている以上霊的に違ったような育て方がいるんです。そういう育て方が大事です。―要するに女が男として育てられているから社会に出て問題が起きるんです。 ですから払は、むしろ社会において活躍する女性斗士なんかよりも、もっと女性らしさを武器にして活躍される方がどんどん出てくることを願いたいと思います。 猫に鎖をつけて歩かせているようなもの、男女の天性を間違うな 学校の教育もそうですし、勿論家庭においてもそうですありますけれども、やはり違いがね、違いが分らないようじゃあいけないと思うのです。画一化しちゃあいけない、あなた、犬の子と猫の子を育てるのに同じ育て方をしないでしょう。男女というのは犬と猫とぐらいの違いがあるんです。犬というのは荒々しいでしょう、穢いですね、汚れています。けれど行動的です、陽気です。積極的です。猫というのはしなやかです。繊細です。綺麗(きれい)好きです。そうですね。男女の魂の差というのは犬と猫のような、喩えて云えばですよ、そういった違いがあるわけです。四つ足であることは一緒です。目も鼻も口もあります。けども性格の違いがあるのです。あなた方で犬と猫と同じような育て方をしようと思う方はいらっしゃらないでしょう。けれど、男と女ならなぜ同じ育て方をしようとするんですか。同じ家の中に飼っても犬と猫なら違う育て方をされるんでしょう。なぜ男と女を一緒にしていまうのです、違うんです。猫は女性的なものです。犬は男性的なものです。逆にいうならば女性は猫的なものであり、男性は犬的なものであります。その性格の相違に気が付いてほしいのです。 犬はたとえば一日中家に飼って置くと、欲求不満を起こしてしまいます。外を駈け巡ってみたいと思っているんですね、そうですね。散歩もしたいし、或は犬同士でケンカもしてみたいと、そう思っています。犬は荒々しさ、自分の荒々しさを試してみたいと思っております。 猫はどうでしょうか、猫は一日中家の中に居ても結構平気なのです。そして物思いに耽ったり、繊細に物事を考えたりしているんです。優美さがあります。 じゃあ、猫の優美さと、犬の荒々しさと、どっちが優れて、どっちが優れていないかということ、それは競い様がないのです。別のものだからです。魂の輝きとして別のものなのです。全く、そうでしょう。犬と猫と競わしてどっちが優れているってあなた決められますか。決めようがないでしょう。決めようがないんです。性質が違っています。犬と犬ならね、どっちの犬が優れているとかね、いろいろやり方はあるんです。けど犬と猫なら競いようがありません。それを犬と猫と同じように競わせようとしているから間違っているのです。 病に陥っているのです。社会全体がね、お金というような魔物ね、お金という魔物のために、眼が眩(くら)んでいるのです。お金があれば何んでも買えると思っている。何んでも手に入ると思っている。この魔物に憑かれちゃっているんです。男も女もね。もっと大切なものがあるはずなんです。お金ではなくしてね、ところが、時代はそういうお金という魔物の跳梁(ちょうりょう)を許しているのです。お金です。すべてお金で換算しようとしています。これは間違っているのです。 女性にはね、お金の使い方は余り教えてはいけないのです。お金を稼がせてはいけないのです。もっとそういう金銭には関りないような、もっと魂の奥深いものがあるということを知らしめる必要があるのです。 人間には動的な素晴しさもあるけれども、静的な素晴しさもあるのです。動と静、この二つの対照的な価値があるのです。外で稼いでくるのは昔から一緒です。男の仕事です。女性はやはり子供を育てながら、その中で自分の内面を見詰めていくのです。 ですからあなた方、猫の首に総をつけて散歩はさせないでしょう。一緒なのです。ですから女性にね、働きに出てお金を稼がすというのは猫の首にね、首輪を巻きつけてそして鎖を引っ張って散歩させているのと同じなんです。猫にね、一生懸命教育して、―あなたと犬とは兄弟なんですよと、犬さんがしているようにあなたもしなければいけないんですよ――と、教え込んだために、猫も散歩をしなければいけないと思って首輪を付けてもらいたがっているのです。間違っているんです。世の中狂っているのです。 女性は霊的文明の担手となる仕事がある それともう一つね、私は言って置きます。男性は何時の時代においても経済的な主体とならねばならないでしょう。で、女性はその後、どんな優れた女性でもね家庭に入らなければいけないと言って不満が多いわけです。ただ私はね、日本の女性達に今この機会を借りて言っておきます。―女性の方々よ、あなた方のする仕事は他にもありますよ、あなた方こそ霊的文明の担手となるべきではないでしょうか。男性達は忙しいんです。お金を稼ぐために忙しいんです。あなた方までがお金を稼ぐために忙しくなってはいけません。あなた方はこうした霊的文化の滲透伝播(しんとうでんぱん)のための一翼を担いなさい。あなた方は家庭に居てね、自由に働けるんです。ですからあなた達でね、女性同士で横の連帯をつくって、勉強をしなさい。ご主人達を教育しなさい。ご主人達は戦場で、職場という戦場で戦うのが忙しくて、雲的文化の担手(にないて)に中々なり得ないのです。ですからあなた方は子供を守り育てるということも大切、それ以外にも霊的文化の担手としての役割を今後果たしていかねばならないということです―。 ですから、男の人が言うと封建的だと言われるでしょうが、女性である私が女性達に言って置きます。男女は競うべきでないし、また生活の基礎は男が作るべきであります。そして女性が働くべき時は、男をどうしても補(おぎな)わねばならぬ時があります。病弱である場合や、或いはたまたま社会的地位を何かで失うとか、或いは様々な事故がある。倒産がある。様々なことがあってどうしても家計を守れないことがある。そうした時はもちろん男女は扶け合わねばなりません。男ができない場合は女性が助けるべきであります。そうしたことは当然です。 けれどもあくまでも男は、狩りができない現代においても、やはり経済的主体になるべきです。女性はその不足だけを補えばいいし、それ以外の方面において自らの優れたものを伸ばしていくべきです。女性の中の猫的なものを決して忘れてはなりません。 男女は競争主義に陥ってはならない 知性だけを伸ばして男と競っていると、たまたま自分がいい女学校や大学を出たために、あの男性は自分より知的に劣るなんて思って見下したりするから何時まで経っても結婚できなくて、ハイミスになっていくのです。ですから男女が共学であるということ自体は別に悪いことではありません、ただ試験の点数で競わしてしまうようなことは、私は間違っていると思います。 男女の別という以外に、今の教育自体が正しいかどうかということはまた別なのですよ、競争主義が原理になります。点数を競わすということが原理になります。こういったものがまず前提にあって、これ自体の当否が争われなければなりません。その次にまた、男女を点数で競わすということですね、この問題があります。 今の点数制というのもこれは普辺的な真理でも何でもないのです。たまたま二十世紀の時代は今そうなっているということです。 女性は本来社会の第一線に立って行くとか、或いは政治家になるとかいうようなことは不向であるというと、どちらかというと不向です。しかし、それだけなら、女性は、生まれてくる必要はないのです。社会の構成比も、男二にして女一にしてもいいんです。男を多くすればいいんです。しかしそういうふうには生まれていません、で一対一で生まれてきています。 私達は、美なるものの優れた指導者 すくなくとも私達は、優れた立場にはありましたが、競争原理における勝者ではなかったということです。よろしいですか―。 ですからね、先程、あなた方のところに「孟子」さんという方が出られたはずです。その方は、真、善、弟ということを言っておられました。よろしいですか、そうして、まあ人間の魂の中には真実の真、真なるものもあるし、善なるものもあるし、美なるものもあるということを言いましたね。 先程、あなた方のところに「孟子」さんという方が出られたはずです。その方は、真、善、弟ということを言っておられました。よろしいですか、そうして、まあ人間の魂の中には真実の真、真なるものもあるし、善なるものもあるし、美なるものもあるということを言いましたね。 たとえばですよ、或る人間が、指導者に立つというときに、真なるものが一番優れていて指導者にな場合、善なるものが優れていて指導者になる場合、美なるものが優れていて指導者になる場合、いろんな魂の輝きがあっていいと思うんです。私達が指導者になったのは、決して政治力が優れていたからではないのです。神の、神の光を、神のお言葉を受けるという《神子(みこ)》 《巫子(みこ)》的な役割でありますが、感情が優れていたという点で、人々の指導者になり得たのです。それは私達が独自の個性として、それを伸ばして、人を押し分けて出ていったものではないのです。それは、神のお言葉を伝えるという役割において中心的になったということです。そういう意味において受身です。受身の中でも最大の受身であったということです。 ですから、猫的なものの女王ですね、猫の中にも素晴しい猫が居ます。世の中には素晴しい犬が居ます。猫の中にも素晴しい猫が居るならば、それは猫としてね、犬から見ても素晴しい猫として敬まわれてもおかしいことではありません。 ですから私は、地位の上下とか仕事とかいうことを言いましたけれども、女性が尊敬されてはいけないと言っているのではないのです。いいですか、そこをあなたに誤解してほしくないのです。女性が尊敬されてはいけないということではないのです。画一的にものごとを計ってはいけないということを言っているのです。男も尊いし、女も尊いんです。 ですから女性は家庭に入れとか言っていることを、男尊女卑と捉えてはいけないのです。そうではないんです。それぞれが尊いことなんです。けれども女性は生まれもった創造という任務が担わされているということなんです。女性は肉体生命の創造という使命が担わされています。ではそうしたことのできない男性はなんでしょうか、男性は生活環境の創造という使命を与えられているのです。そうではないでしょうか。 本当に神が、女性を男女平等ということで社会の中で、仕事の中で均等に扱おうとしておられるとしたならば、神は、人間の子供というものを今のようには造られなかったでしょう。たとえば、女性が卵でも産むようにですよ、鶏が卵でも産むように、一日で子供を生むことができたら――卵でも、鶏が産むように、一日でお腹が大きくなって卵を産んでしまい、すぐ雛がかえって一ケ月も経てば大人になるのであったならば、女性は社会生活をすることに何ら支障がないはずです。ところが実際にはそうではありません。子供はお腹の中で十月、十日かかります。そして生まれて来ます。生まれて大人になるのに二十年もかかります。何ででしょうか、これだけの間庇護が必要だということです。そうであるならば、そういったことをする方がいらっしゃるはずです。ですから神は、女性を家庭的なものにし、子供の成育に二十年もの時間をかけるようにしているんです。もしそうしたことに使命がないとするならば、子供は卵を落とすように産み落とせば、後は自然に育つようにしておけばいいんです。そうはされなかったということなのです。 それは、神は人間を創っていくということがどれだけ楽しいかということをお教えになりたかったのです。これは女性の特権であるのです。男性は社会を、時代を主として作って行きなさい、女性は内なる生命を育んでいきなさい。主としてそういった二つの流れがあるのです。その中で勿論いろんな方が居られますよ、女性で政治家も出てもいいです。教育者が出てもいいです。それはそれで結構です。ただ同じようでなければならないという考えは誤っているということです。 女性は女性で尊いのです。男性は男性で尊いのです。ですからむしろ男女平等に扱うという意味ではなくて、共に尊いものとして扱うということが大切なのです。いいですか、平等主義の中にも三次元的な、物質的な平等主義が、余りにもはやり過ぎているのではないですか。お金の多寡(たか)が、お金の入りがね、平等であるとか、こんなことばかりに眼が行っているのです。これは余りにも物質的三次元的です。そうではなくて、尊さにおいて平等であるべきなんです。女は女として尊いんです。男は男として尊いんです。それでいいんです。そうしたことを分らすために天照とか、私とかが時折は地上に降りたりしているんです。 試験管で子供が出来るようになって来たら、もう女性は要らないではないですか。でも男女が居るのと、男だけ居るのとじゃあやはり男女が居る方が世の中素晴しいし、楽しいんじゃあないでしょうか。 違いを楽しむというような楽しみ方を人々にもしてほしいものだと思います。 男女の産み分け遺伝子工学は、バべルの塔にみた神の怒りにふれよう こんどは父なるもの、母なるものとは一体何かということが問われるようになります。誰が父であり母であるかも分らなくなってくるんです。それは或る意味においては人間がトカゲや蛇と一緒になろうとしているのです。 いろんな経験を積んで人間は賢くなっていくのです。これはいまあなたは、バイオ・テクノロジーといいました。また生命遺伝子工学ということを仰いましたけれど、これはかつて人間が、バベルの塔を築いて神に至ろうとしてお怒りにふれたことがあります。これも現代における。バペルの塔なのです。自分達によって生命を造り出せると思い上がりはじめているのです。やがて神の試練を受けることになるでしょう。でも神は、その極限までは自由になさるのです。人間が生命を生み出せると自惚れはじめると大きな試練がやがてやってまいりましょう。 そういう自惚れを持った人間も出て来ていることは確かです。ですからそれはそれで、その方向に進んでも仕方ないのです。人類はやはり行くところまで行くのです。 単に信ずるというだけでは駄目なのです。様々な経験を通じて、やっぱり信ずるというところにまでいかないと、納得しないということです。まあそれほど人間の業も深いものだということかも知れません。 あやまっている言い切るつもりはありませんが、私は今、男女の倫理規範について申し上げました。ですからそうした遺伝子工学、親と子ですね、親子の倫理規範を問うようになってくるんです。親子なるものは一体何か、けれどもね、これをもっと大きな眼で見て頂きたいのです。もっと大きな限で見ると、この親子の絆が断たれるということは、神と人間の絆についても同じということです。人間は神の子です、神が造られたものなのです。その子でありながら親を忘れた子供ばかりが、一杯になっているわけです。世の中そうではないですか、この三次元の世の中、神を信じている人が少なくなって来ました。親を忘れているということなのです。神を信じるなんて思っているからおかしいのです。親を信じる、親を忘れているんです。そうでしょう。ですから神と人間という親子関係で、親子の断絶が起きている。そして人間の世界でまた親子の断絶が起きようとしています。これは縮図なんです。 新たな孔、孟の教えが必要 孔子様、孟子様達が亡くなられて既に二千数百年になります。今様の人倫の道ということが説かれなければいけないのかも知れません。現代の儒教が今いるかもしれません。人倫の道です。それが説かれなくなって久しいんではないですか。本当の親子の道、男女の道、人間として生きる道、これが説かれてないからなのです。 今は孔子様を信ずる人も居なくなりました。キリスト様を信ずる人も少なくなって来ました。ですから本来の倫理を説かねばならないということですね。人間が霊的なものであるということを教えることが大事です。けれども肉体を持って生きていく以上、男女の倫理規範、親子の倫理規範、師弟の規範、こうしたものも教えることも大切なことではないでしょうか。 聖書仏典にない女性済度の教義を発現(あらわ)すべきである。 あなた方教えを説かれようとしていますけれど、やはり女性に対する考え方、問題意識が欠如しています。もっと女性というものを……、人類の半分は女性なのです。お釈迦様も女性のことは余り考えられなかったのです。イエス様もそうです。他の方々もそうです。偉大な宗教家達が男性であったために、女性というものは、或る意味では置去りにされて来ました。 ですからもっと女性というものを研究して頂きたいのです。女性がなぜ、迷い、悩み、苦しむか。また女性だって地獄に堕ちていっているのです。沢山ね、じゃあなぜ彼女達は地獄に堕ちて行ったのだろうか、男性のように強盗をやったり、強姦をしたり、人殺しをしたりは中々できません。女性にはできません。けれども地獄に堕ちている女性の数は男性に劣らず多いのです。 なぜ彼女らが地獄に堕ちているのかということを、あなた方ももっと考えて頂きたいのです。心の中に地獄的なものを次ぎつぎと刻んでいるということなのです。では女性がなぜ、心の中にいろんな地獄的なものを刻むのかということ、これをしっかり研究して欲しいのです。あなたも、もっと女性の方とも話をして頂きたいのです。そして彼女らの悩みがどこにあるのかということを、しっかりと見届けて欲しいのです。男の眼ではなくて、神仏の使徒としての眼で観て頂きたいのです ですから経典はいろいろありますけれども、女性成仏に関する経典がないのです。女性の悟りに関する経典がないのです。分らないから男の真似をして尼さんになったりですね、修道女になったりしているのです。女性は如何にして家庭において悟るべきかという教えがないのです ですからあなた方も、いたずらに男性のためだけの″法″を残すのではなくて、女性のためにも残して頂きたい。そういう意味においてその勉強のためには女性の方々が、何を悩んでおられるかをしっかりと酌みとって頂きたいということです。愛の問題の重点はむしろ女性の方に主としてあるかも知れないのです。 女性の方で地獄に堕ちているといわれる方々の責任は、女性自身にもあります。男性をどのように受けとめ理解し、対応したかということですね、彼女ら自身の心の中にあるのです。むしろ女性の方が心理的葛藤は大きいために、また悩みも苫しみも地獄的なものも多いのです。男性は或る意味において鈍感であります。男性というのはすぐ忘れてしまいます。しかし女性は一つのことを十年二十年も、くよくよといつまでも思っているものなのです。女性は牛のように何度も何度も反芻(はんすう)しているのです。後悔するというのは女性も多いのです。女性の方がむしろ多いのです。男性は忘れていくのです。でも女性はいつまでもくよくよとしているのです。ですからそうした女性のための″法″というものも大切です。 女性が何を悩んでおり、その悩みをつき技けて悟るためには何が一体必要であるのか、ということを、これをもっと研究せねばなりません。この機会にそれもやっておいて下さい。何時の時代にも男も居れば女も居るんです。女性も生きているんです。 あなた方にはその視点が欠けていたはずです。お釈迦様は妻を捨て た方です。そうですね、イエス様は結婚をしませんでした。また孔子様は、男女七才にして席を同じくせず、と言われました。或る意味においては、女性は人類の中から消されているのです。どうやって悟ればいいのですか、女性の中にもね、今まで仏教を信じ、仏の道を歩みたいと思っている女性は沢山居るのです。彼女達は心の中で叫んでいるのです。―お釈迦様、もし今生きていらっしゃるなら一体私たちはどうしたらよいのでしょうか、どうしたら悟れるのでしょうか、教えて下さい。――と、こういった願いを持っているのです。二千五百年も前のお釈迦様は、妻を捨て、子を捨て出家をされてしまいました。それでは女性達はどうしてよいか分らないんです。ただ単に捨てられたらいいのかどうか分らないのです。 女性の悩みに留意せよ お釈迦様は男であったから、生、老、病、死という苦しみを考えられたのです。お釈迦様が女であったならば、生老病死以外に、醜(みにく)くなる″醜(しゅう)″というような苦しみもあったはずなのです。女性であったならばですよ、美しいものが醜くなっていきます。女性の中にはこの苦しみも女性にはあるのです。ただ男性はこれには気付きません。男性は気がつかないのです。この醜、みにくくなっていくということに関しての、苦しみや悩みも多いのです。それはあなた方は分りません。若い、うら若い女性として結婚した人が中年になってブクブクと太っております。あなた方は彼女らの心がどのようなものかは分りません。その辛さというものが分らないのです。女性というものは、美に対する感覚は非常に強いんです。その醜くなっていくというのもこれも苦しみなのです。 生まれる苦しみ、老いていく苦しみ、病気になる苦しみ、死んでいく苦しみがありますが、これ以外に醜くなっていく苦しみというものもあるのです。お釈迦様も男性であっためにそのことには気がつかなかったのです。 私はいま一つのヒントを与えたのです。そういう醜くなっていくという苦しみもあるんですよと、男には分らない、そういうことを説いた仏法者は居ないのです。 女性の中には、もっと美しくておられたら私は幸せだったのにと思う方は一杯居るのですよ。早や三十になった。四十になった。そのうちに自分の容貌の翳というものが心の陰りになっている方も多いのです。このしみさえなければ―よろしいですか、この肌のキメさえもっと良ければ、こんなことが苦しみになっているのです。もっと脚首が細ければ、こんなことで悩むんです。あなた方男性には信じられたいことです。もっと指がしなやかだったら、こんなことで悩むんです。指に皺が増えたとか、こんなことで悩んでしまうんです。 それと、女性に関することにおいて言えば、言葉ということの重要さをあなた方はもっと大切にしなければなりません。男性というものは言葉というものに対する感覚が鈍いのです。女性は言葉ですよ。女性が不幸になるのは大抵は不用意に発せられた人の言葉です。ことばによって不幸になることが多いのです。他人の言葉に傷ついてしまう、同性であることもあるし、男性であることもあります。言葉に傷つくということは、あなた方とは遥かに違ったものなのです。その一言が、人生を変えるということが女性には非常に多いのです。人の言葉です。言葉に対する感じ方、男女にはそういった相違があるのです。ですから女性に対する″法″であるならば、その言葉をどのように受け止めるかというようなこと、その言葉の受け止め方というような指導もあるべきです。ただそうしたことは、男の人達には中々分らないことなのです。人にこう言われたということを、何年も、何年ももじもじと考えているのです。それが女性なのです。
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目次 1.私は古代アトランティス時代の霊 2.アトランティス時代の″正法流布″の困苦について 3.サタンの行動も意識化してきた 4.現在も悪しき想念が積もり天変地異の危機が迫っている 5.正法流布の急務を理解せよ 6.大災害は地球上に溜った悪想念の自壊作用 7.宇宙界と如来界人との立場の相違 8.地球霊団の起源について 9.宇宙神の根源意識は生成育化発展繁栄そのものにある (一九八二年八月七日の雲示) 1.私は古代アトランティス時代の霊 ―古代エジプト語らしい自己紹介が長々と続く―。 富山 あなた様はどなた様ですか、日本語でおねがいできましょうか、なんというお方ですか―。 (たどたどしい日本語で語りはじめる―) ワタクシハ……コダイ、エジプト、ニイタモノデアリマス―。 富山 すると、今の言葉は、エジプトの言葉ですか。 ソウデス、エジプトノコトバデス。 富山 少し古代インド語に似た感じがしますが……。 アルカモシレマセンガ、パラオ、ノジダイノコトバデス。 富山 かなり前ですね―、モーゼ様ですか。 チガイマス。 善川 なんとおっしゃるお方ですか。 アモン アモンと称ばれておりました。 (注・この時点でO川OOの言語機能に同通するようになった) 富山 イエス様ですか、そうしますと? アモンとおっしゃる方は、イエス様の過去世のお名前と聴いておりましたが―。 アモン いいえ、アモンという個性霊です。 善川 天上界におられるわけですね―、それで光の指導霊としてお働きですか。 アモン そうです。 富山 あなた様は、アトランティスから移られた方ですね、元はアトランティスにおられて、エジプトに移られた方ではないでしょうか……。 アモン そうです。そのとおりです。アトランティスからエジプトに移ったものです。 富山 そこにおられたのは「正法」流布のためですね。 アモン そうです、そのとおりです。 富山 そうすると今から七、八千年前ですね。 アモン 今から一万一千年近く前のことです。 富山 そうするとアトランティスの…… アモン 末期です。 富山 では、ピラミッドより少し前になりますか。 アモン 前になります。 富山 アトランティスは大陸であったわけですね。 アモン そうです。 富山 それが地殻変動で沈没したということですが、それは急激に沈んだのでしょうか、それとも徐々に沈んだのでしょうか。 アモン ある部分は徐々に沈みました。しかし私たちの住んでいた部分は、一夜にして没しました。 善川 それで人びとは、どのようにしてエジプトヘ逃れたのですか。 アモン 乗り物に乗って逃れました。 善川 その当事の乗り物といえば、舟ですね。 アモン 違います。 善川 どんなものに乗って逃れたのですか。 アモン あなた方が、飛行船とよんでいるようなものです。 善川 そうすると、アトランティスには、文明というよりも、自然科学もかなり発達していたのですね。 アモン そうです。かなり発達しておりました。 善川 現代の文明程度に―。 アモン もっと発達しておりました。現代の文明をもっと遥かに凌いでおりました。今からおよそ一世紀程さきの科学文明があったと考えていただいてよろしいと思います。 善川 それはアトランティスだけですか。それとも他の地域にも……。 アモン どういうことでしょうか。 富山 つまり、正法流布が地上界では充分になされなかったという……。 アモン そうではありません。私たちは努力しました。正法を説きました。しかし悪の力のほうが勝っていたのです。私たちの仲間は、つぎつぎと処刑されていきました。光の天使達はつぎつぎと処刑されていきました。私たちは逃れました。エジプトの地へ逃れて行ったのです。その後、アトランティスは一夜にして沈んで行ったのです。悪ければそこまでいくのです。 富山 エジプトだけではなく、今の中南米の地にも逃れていったのですね。 アモン 行った人もいるでしょう。 富山 失礼ですが、アモン・ラーといえば″太陽神信仰″をされていた……。 アモン わたくしです。 富山 それは、あなたに対する信仰ですか。 アモン 私が元であります。 富山 あなたご自身が、太陽信仰を唱えられたのですか。 アモン 私がアモンです。私が太陽神の象徴的存在だったのです。 富山 アモン・ラーとは太陽と同一視されておりますが、あなたご自身が太陽神信仰を唱えていたのですか。 アモン そうです。″光″です。私は″光″です。光に対する信仰です。光が法を説いたのです。光が説く「法」を信仰したのです。 善川 仏教でいう大日如来に相当するのですか。 アモン 仏教―をあまり存じませんが、私は当時、神の心はあの天空に輝く太陽のようなものだという説を中心に説きました。 富山 太陽の恵みをもって、その光の象徴とされたのですね。 アモン そうです。譬を用いなければ、人びとは理解できません。眼に見えない光は分りません。太陽という現にある光を比喩にして私は法を説いたのです。神の心はあの太陽のようなものであり、すべての人を平等に照らしている。すべての人に恵みをもたらしている。そういう法を説いていったのです。 善川 その当時の、いわゆるアトランティスで反逆を行ったサタンという連中は、現在いるサタンとは継続して同じなのでしょうか。 アモン 同じです。彼らに敗れたときもあったのです。しかし彼らが天下を取って、私達を駆逐したように見えて、その実、彼らの天下は一日にして没してしまったのです。神の力の偉大さが分るでしょう。神は悪をいつまでも置いてはおかないのです。 2.アトランティス時代の″正法流布″の困苦について 富山 あなた方のアトランティス時代の″正法流布″の仕事はどのようでありましたか。悪の勢力が非常に強かった時代にあっては、むずかしかったのでしょうね。 アモン むずかしいなどいうものではありませんでした。迫害の日々でありました。毎日が迫害の連続でした。悪魔狩り、魔女狩りを想い出されたらよろしいでしょう。日々迫害です。科学文明万能の時代です。 私たちのように神を説き、霊を説く人間は、本当に頭がおかしい、時代遅れのおかしい人間として迫害され、現に処刑されはじめたのです。そのような法律さえあったのです。魂を説き、神を説き、そのような淫(みだ)らなものを説く者を処刑するというような法律までも出来てしまって、私たちの仲間は、つぎつぎと殺されていったのです。わかりますでしょう。ナチスのユダヤ人狩りのようなものです。あのようなものが起きたのです。 富山 唯物論的な考え方が主流だったのですね。 アモン そうです。そのとおりです。 富山 そうすると、文明の発達が自然科学のみに偏向し、精神科学の面が遅れていたというか、欠けていたわけですね。 アモン 欠けていたと申しますか、なんと申しますか、否定する方向に行っていたわけですね。科学と宗教、科学と心とが不二一体であるということが分らないで、否定する方向に行ってしまったわけです。共存するものであり、支え合うものであり、補完するものであり、実は同一のものであるということ、これに気がつかなければいけないのに、これに気がつかず、遂に否定するもの、対立するものとして、考えていったわけです。 富山 いま非常にその危険がありますね。 アモン あります、非常にあります。 富山 従ってそういう中で「正法」というものを人びとの中へ広めていき、価値意識の革新を、精力的に推し進めていかねばならないですね……。 3.サタンの行動も意識化してきた 善川 ついさきほどまでサタンどもが私に接近して離れず、彼らのその目的をただしても、彼らはぬらり、くらりと言を左右にしてまともなことは何も語らず、しつこく憑きまとうのですが、これはどういうことでしょうか。 アモン 目的は最初から分っております。混乱と妨害であります。彼らは、自分らの力と私たちの力とを、いま秤にかけているのです。あわよくばアトランティスの時代のように、法を語る人たちをつぎつぎと犠牲者にしていきたいのです。彼らも準備態勢の中にあるのです。そのような態勢の整うのを準備しているのです。 善川 これにつきましては先般、フワン・シン・フワイ・シンフォーという方がお見えになられて、彼らの棲む地獄界の仕組みについてお教え下さったのですが、それによると彼らは譬えて言うなら、″地獄界″という病院で心の病いを治療している病人だと言われたのですが、しかし彼らは普通の病人ではなく、非常に悪辣な考えを持った病人であるように思われるのですが。 アモン それは、こういうことなのです。病人という一般概念において捕捉する場合はいいのですが、このような混乱の時代、世紀末の時代に起きているのは、ただの病気ではなく、これは伝染病なのです。伝染病の患者を放置しておけばつぎつぎと感染していくわけです。それで健全な人びとがつぎつぎと倒れていくわけです。 このような特別な病気がいま流行っているのです。しかし、永い眼で見れば大した問題ではありません。いま科学万能というウイルスが蔓延しているわけです。 善川 一方においては神秘の世界、霊の世界を唱えるもの、探究するものもあるわけですが、その方法なり目的なりが、必ずしも正法に則ったものばかりではないと思うのですが―。 アモン 悪魔狩りをさそうための下準備なのです。霊についておかしなことを述べたりする人びとを出すことによって、やがて正しい人たちも一蓮托生と申しますか、同じようにさせてしまう、そのための策略であります。 善川 ああそうですか、人間の心を自我我欲という方向へさそっていっているわけですね……。 アモン この世的な自我我欲というようなものだけではないのです。少し違うのですが、心を痛む方向に連れていこうとしていることは確かです。 富山 神に対する挑戦的な考えを持っているわけですね。 アモン 挑戦などというものにはなっておりません。 富山 彼ら自身は挑戦だと思っているかも知れませんね。 アモン そう思っているかも知れません。 善川 現在出ているルシファーもその当時からのサタンの頭だったわけですね。 アモン おりました。 4.現在も悪しき想念が積もり天変地異の危機が迫っている 善川 現在、また天変地異や、人災があると、世評にのぼっておりますが……。 アモン 起こるでしょう。それもここ数十年のうちに起こるでしょう。 善川 その天変他異というものは……。 アモン 起きるでしょう。かなりの大陸が沈んでいくでしょう。地殻変動が起きるでしょう。人類のうちのかなりの部分の人は、海に沈んでいきます。 富山 そういう状況において「正法」を説くということは、非常に重要なことになりますね。何も知らずにそういう状況に接した場合は―。 アモン 説かなければいけないような状況がもう来ているのです。私たちというよりも、あなた方を含めて″正法″を説いて世の人びとを救わなければ、もうどうにもならないところまできているのです。 富山 その地殻変動なり、天変地異という災害をとり除くなり、遅らせるなりするということはできないのでしょうか。 アモン 出来ません。もう既にそれは起こっているのです。もう私たちの世界においては、既にそれは事実として起こっているのです。それが現象界においては遅れておるのです。もう変えられないのです。まず意識のほうで起こっておるのです。心の世界で現象化するのです。その次にあなた方の世界で起こるのです。 善川 しかし最近、ペンジャミン・クレーム氏が説く「大救世主(マイトレイヤー)」という方が現われて、それを緩和する方向へ向いているということですが……。 5.正法流布の急務を理解せよ アモン もちろんそうです。私たちの力というのは、それを緩和し、その中で人の心を救うという方向に進んでいるのです。しかし現象は現象として起こるでしょう。だから私たちはこうして、あなた方を通して語っているわけです。 善川 では私たちに、特別の任務というものがこれからあるというのですか。 アモン もちろんあります。 善川 だが今のところまだ、そのような任務を実感として受けとれないのですが。 アモン 大分わかってきております。 善川 では、具体的にどうすれぱよいかということになると、全く五里霧中というところなのですが―。 富山 お伺いしたいのですが、地上界において、正法を流布するということの一つの意味に、地獄界のエネルギーは地上界の悪想念が彼らの活動源となっているということですから、地上界の浄化ということに大きな意味があるわけですね。 アモン その通りです。 富山 そうすると、いいエネルギーで地上を満たすということですね。 アモン そうです。そういう善なるエネルギーで、この地上を満たしなさい。それがあなた方の役割です。 善川 その方法はいろいろあるでしょうけれども、これは私たちだけでは……。 アモン あなたも、私たちの仲間なのです。 善川 が、私たちという範囲は、こんな狭い範囲ではなくて―。 アモン もっともっと多数の人がおられます。 善川 覚者といわれる方々が―。 アモン やがて出てきます。その日のために力を磨いておきなさい。やがて出てきます。だんだんに出てきます。しかし、事が起こる前にそれらの勢力はできてくるでしょう。天が曇り、地が動く前に、それらの勢力は出来てくるでしょう―。 富山 いま、ファティマなどで予言がたくさん出ていますが、それらのことは天上界からの地上界への一つの知らせと受け取ってよろしいでしょうか。 アモン 私たちは、さまざまな形ですでに警告を発しております。 富山 なおお伺いしたいのですが、たとえば、いま世界で終末観というのがありまして、ここまでいけば、確実に世界は破滅するんだという心で世界の人が充たされた場合に、その方向へ行くんでしょうか。 アモン 行くでしょう。 富山 逆の場合、つまり善念が地上に満ちてきた場合に、そんな悲惨な状況からはまぬがれるということになりますね。 アモン 神は全員が滅びるとは言っておりません。人間は、いわゆる自然淘汰というものがないのです。こういう災害ということを通して神は人間に反省を求め、同時に魂の飛躍的な進化を求められておられるのです。 善川 たとえば、核による世界大戦、このような危機はなくなりつつあるのではないですか。過去の経験を土台として、人間の理性の覚めが高まれば―。 アモン 出来ないのです。なくならないのです。これも既に公害のうちに入っています。 6.大災害は地球上に溜った悪想念の自壊作用 アモン エネルギーの法則において、起こるべきものは起こっていくのです。たとえば、いま悪の想念がかなりこの地上に溜ってきているわけです。このような悪の想念がたまってくると、必ずそれに対する反作用というのが起きてきます。そういうことの、法則性の問題です。 富山 それは地球の意識の問題なのでしょうか、一種の拒否反応的な―。 アモン そうです。法則性の問題なのです。 善川 一種の″自壊作用″的なものなのではないでしょうか、いわゆる悪想念の―。 アモン そのとおりです。 善川 この場合、これらの災害地の地域設定というものは、もうそちらで行われているのでしょうか。 アモン 設定されているのではなく、既に起こっているということが、私たちの眼には見えるのです。 善川 とにかく、非常な事態が切迫してきているというふうに感じられますし、またいろいろの書物などに語られているわけなのですけれど、その時期はいつ頃でしょうか……。 アモン ―数十年です―。 善川 それは現象界での時間ですね。 アモン ―そうです。ただ複数の時期にわたって起こります。 善川 それは徐々に行われるのでしょうか。 アモン 何回かにわたって、地域を違えて起こります。 善川 それは規模的に後になるほど大きくなるのですか、それとも最初が大きいのですか。 アモン それぞれ大きいです。 富山 今の世で「正法、神理」を唱える覚者という方々は世界の各地に出ておられるのでしょうか。 アモン 各地域、各地域において、本来一つのものを信ずるようになって来つつあるのです。 富山 当然統一的な指導がなされておると思うのですが、環境とか、地域差による習慣とかいうものがありますので、多少のズレというものも考えられるのですが―。 アモン 日本であるならば、神道、あるいは仏数的な色彩のある″法″が説かれるでしょう。アメリカやヨーロッパであるならば、キリスト教的な色彩のある″法″が説かれるでしょう。そのような違いはあるはずです。 7.宇宙界と如来界人との立場の相違 善川 失礼ですが、あなた様は天上界ではどういうお立場で、どのようなお仕事をされておられますか。 アモン 天上界では、さまざまな計画を樹てるという役割です。 善川 そういうお役目の中で、たとえば責任者というお立場で……。 アモン 私は、私たちの世界で指導的な立場にはありません。 善川 しかし如来様であられることは確かですね。 アモン そうです。 善川 いま天上界で如来として、それぞれの任務を持っておられる方は何人くらいおられるのですか。 アモン 数百人おります。私はそのうちの一人です。 富山 たとえばあなた様は、エル・ランティー様を通じて神の意志を伺うことになるのですか。 アモン 私は直接、神の意志を確認することができます。如来は、神の意識と同通することができます。 富山 宇宙界という概念と如来界という概念とは違うように思うのですが、如来界においても神の意識に同通するということは同じなのでしょうか。 アモン 如来も、神の意識と同通することはできますが、しかし、その程度が違うのです。私たちはまだこの地球という、この場にかなりの執(とら)われをもっているのですが、宇宙界の霊というのは、もはやこの地球という場に執われがなくなっているのです。 私たちは、未だ地球という場に執われがあるわけです。 善川 宇宙界の霊と、如来界の霊との霊域と申しますか、「界」あるいは次元の相違というものはあるのでしょうか。 アモン いや、いつでも会うことができます。 善川 それは宇宙界の霊の方は、宇宙的な進化ということを司っているのでしょうか。 アモン 彼らは全宇宙における地球のあり方ということを、主に考えておられるわけです。 善川 太陽系の中の地球という観点において……。 アモン そうです。 善川 太陽系の地球だけに生物がいて、他の星にはいないということは、どういうことなのでしょう。 アモン 地球にだけ生物がいていけないという理由がありますか。全宇宙には数え切れないほど無数の星があります。その中にまた無数の人たちが住んでいるのです。たまたま太陽系という幾つかの惑星の中の一つに地球が当たっているというだけで、別に意味はないのです。人間が住みよい環境が地球であったということで、他に意味はありません。 善川 他の太陽系の惑星に生物はいないのですか。 アモン 一部います。ただしそれは人間のような形をとっているというものではありません。 善川 低級なものなのですね。 アモン 低級といってよいかどうか。なんとも言えませんが、人間のようなものではありません。 8.地球霊団の起源について 富山 ただ私達の霊団というのは地球以外にもいたこともあるのですね。 アモン あります。 富山 あなた様は、私たちの地球霊団が移ってくる以前の状態ということはおわかりになりますか。 アモン 大体わかります。 富山 それが何億年か私は知りませんが、以来の人類の動きというものは記録されているのでしょうか。 アモン されています。 善川 現在の進化論からすれば、結局人間は、最初はアメーバから進化したものとなっていますが、そういうことについては如何ですか。 アモン 進化論は地球の歴史を越えることはできないのです。私達の生命を遡れば地球よりも古いのです。進化論は地球ができてから後の法則でありましょう。しかし私達の生命は地球ができる以前からあるということ、これを忘れては困るということです。 善川 一説によればその昔、円盤に乗って地球に来たというのですが、それは霊魂として来たのではなくて、肉体を持った形で来たのですか。 アモン そうです。 善川 それでその子孫が増えたのですか。 アモン 違う面もあります。 富山 途中から合流した面もあるのですね、肉体的には―。 アモン そうです。 善川 たとえばそれは、猿が進化したというのではないのですね。 アモン 猿からではありません、人間は人間です。 善川 たとえば、他の星から来た人類とか―。 アモン あります。一部あります。 富山 つまり地球霊団の長、エル・ランティー様のもとに修行するために合流したという面もあるのでしょうか。 アモン 最初は、約六千万人ぐらいです。 富山 それは霊として数えられる六千万人ですか……。 アモン 円盤で来たのが六千万人です。 善川 それは相当大きな飛行物体でなければ輸送できなかったのではないですか。 アモン そうです。 富山 一種の集団移動みたいな形ですね。 アモン そうです。 善川 しかし、それが三億年以上も前にですか。現在の地球より進んだ科学を持つ科学力で、その星団から来たとするなら、その人達の魂というか、霊的な水準の高さというものは、非常なものであったと思うのですが、今日の人間界を見渡すかぎりでは、それほどの高度な魂を持った人間ばかりでないということは、これは堕落したことになるのでしょうか。どうしてこういうことになっているのでしょうか。 アモン 科学水準だけでいうのであれば、来た段階より今は劣っております。というよりも、元の星から魂が分れた理由というのは、そもそも新しく、も一度やり直してみたいというところから出発しております。もとの段階を、さらに進めるために来たのではないのです。もう一度、元からやり直してみたいということからはじまっているのです。 富山 そうすると、元の星から全員が来たのではなく、分れたのですね。 アモン 魂が分れたのです。もうこの星でこれ以上修行ができないと思った魂が分れて、この地球という星へ来たのです。 富山 それは、エル・ランティー様のご指導の元に来られたのですね。 アモン そうです。 富山 そうすると残られた方というのはどなたかの指導で―。 アモン 他にも指導者はおりました。 善川 その星はもう消滅したのですか。 アモン まだ在ります。 富山 現在、この円盤とか飛行物体が来ておりますが、これは地球上だけの問題ではなく、もっと広い意味で、何か大きな変化があるのではないかとの予感をさせられるのですが―。 アモン というよりも、地球上に起こる変化を彼らは観察しに来ているのです。 善川 今の地球の科学水準では三次元の物体が、数千数万光年という遠隔地からは来れないというのが常識ですね、それがどうして? アモン それは、いまのあなたに説明することは″無理″です。 富山 これからわれわれの正法流布をするという意味の一つに―これからいろんなエネルギー革命が起こると思うのですが、強大な宇宙エネルギーを、もしそのエネルギーの使い方を誤ったなら危険な状況になると思うので、その前に心の改革というか、それを図る意味で精神面での改革が必要だというふうに考えてよろしいでしょうか。 アモン はい―。 善川 あなた方がその昔、アトランティスからエジプトヘ渡られた時の、その時代のエジプトの文化といいますか、科学というものは……。 アモン 低かったです。 善川 アトランティスから渡られた方が、飛躍的に発展させたのですか。 アモン そうです、発展させたのです。 善川 たとえば、アトランティスから科学者とか、あるいはそれに必要な材料とか工具とか、そういうものを持って行かれたのですか。 アモン 道具はなかったのです。しかし、人間という思考をするもととなる知能が渡っていったわけです。だから道具がないからエジプトの文化は違ったものになっているわけです。文明の基礎が異ってきていますから、しかし高度に進んだ考え方そのものは伝わっていっているのです。 9.宇宙神の根源意識は生成育化発展繁栄そのものにある 富山 おたずねしますが、あなた様は神と語り合うことができると言われたのですが、あなたが仰しゃっている神という方は、エル・ランティー様よりも高次な方を指しておられるのですか。 アモン 人格的存在ではありません。神の意識の働きを私たちはキャッチできるといっているのです。逢うことができるようなものではないのです。神の意識を私たちは直接キャッチできるといっているのです。 富山 それが会うことですね。 アモン とも言えるが、私たち自身が神の一部であり、神の分身という自覚が普通一般より高い立場にあるということを忘れられては困るのです。 善川 それはやはり太陽系の神と、銀河系の神と、その他の星雲の神、全宇宙の神、というふうに神の意識というものも次第に広く、高く、深まりを持っていくのではないでしょうか。 アモン よいことに気づかれました。地球を超えて銀河系には銀河系意識がまたあるのです。もっと大きな意識もあるのです。しかし、私たちの立場から言えば、銀河系といえばもう全宇宙の神の意識として感じとられるのですね。まださらに高次な意識もあるでしょうが、そこまでは分らないのです。それは無理です―。 善川 神の意識に次元はありましょうが、究極的な宇宙の理想というものは、「生成発展」という意識で一貫されているのではないでしょうか。 アモン そうです。「生成発展」繁栄であります。宇宙の意志は、生成育化発展、繁栄であります。たとえ途中でどのような苦しい破壊的なことが起きようとも、再びそこから立ち直り繁栄していく、繁栄のための破壊、破壊が許されるとしても繁栄のための破壊、それが宇宙の意識であります。 古い細胞が消えて新しい細胞が生れてくるように、破壊的現象が生れても、それは決して破壊のための破壊ではなく、次により良く、より新しいものが生れ出るための産みの苦しみであります。これらの神理は、あなた方の日常の周辺の、たとえいと小さきものの中にも、そしていと大きなものと感じられるような事態の中にも、一貫して存在する論理として納得されるはずのものであります。 善川 いまのあなた様のお話で私どもは、宇宙の偉大なる意志と、深遠なる叡智を垣間見た感がいたします。 本日は大変有意義なお話をいただきまして、まことにありがとうございました。
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目次 1.宇宙人と宇宙協定 2.銀河的正法と科学の進歩 3.大宇宙の仕組みを知った上での宇宙旅行 4.平和を求める宇宙人の目的 5.人類の真の歴史に目覚める意義 6.宇宙旅行のルートとシステム 7.三次元と四次元を自由にくぐり抜ける霊的科学技術 8.力場の創造によるタイム・マシン (一九八九年三月十二日の霊示) 1.宇宙人と宇宙協定 ニュートンです。 本章では、私は宇宙の秘密について語りたいと思います。この広大な大宇宙を、これを統(す)べるものはいったい何であるのか。この宇宙に隠された秘密とは何であるのか。人類は今後どの程度まで宇宙を知ることができるのか。この宇宙の秘密は、今どこまで明らかにされたのだろうか。そして、今後どこまで明らかにされていくのだろうか。それは本書の読者が生きているうちに、どこまで明らかになるのだろうか。あるいは、死んだ後、百年後、二百年後、三百年後の、いったいどの時期に宇宙についての秘密が明らかになるのだろうか。そのようなことを考えるにつけても、興味は尽きず、関心は尽きず、無限の可能性が開けていることに気づく人が多いことだろう。 さて、私もこの限られた時間のなかで、限られたスペースのなかで、宇宙の秘密について語ってみたいと思います。 宇宙の秘密を語るにさいして、どうしても語っておかねばならないことは、宇宙人の存在ということであろう。宇宙人がはたして、ほんとうに存在するのか。生存しているとして、地球に来ているという可能性があるのか。また、彼らと話をする余地があるのか。このようなことが、地球人には大きな関心となっているだろう。ほんとうのことを言うならば、宇宙人はすでに地球には来ているし、宇宙人とすでにコンタクトしている人は、かなりの数にのぼっている。しかし、これを公開してもなかなか信じられず、公開しないままに、秘密主義で隠されていることも数多いということです。 宇宙人に関する情報を、いちばんたくさん持っているのはアメリカ合衆国です。彼らは、数多くの宇宙人情報と、宇宙人の乗り物であるUFO情報を持っていますし、それは秘密裏に軍部を使って、宇宙人の生態および目的、彼らの出身の星についての研究が進められています。それは、外に対してはオープンになっていないだけで、政府自らが力を入れて研究しています。彼らは、宇宙人の実在を突きとめています。 この地球に来ている宇宙人は、実に十数種類おります。単に一種類、二種類ではないのです。かなりの数が来ているのです。そして、彼らのなかには、ずいぶんと意識における違いがあります。きわめて人間に近い意識を持っているものもあれば、人間とはそうとう違った考え方を持っているものもおります。 ただ、彼らが地球に来るにさいしては、一定の宇宙協定がなされていて、その協定の範囲のなかで活動が許されているという現実があるのです。その協定があるということは地球人にとっては幸いです。それが宇宙人たちが地球人に対して積極的行動や、攻撃的行為をとれない理由なのです。この宇宙協定を、これを実効あらしめている宇宙における国際連合のような組織があるのです。そして、その連合に加盟している星は、その協定に従わざるをえないのです。 この宇宙協定、別名宇宙憲章とも言いますが、この内容は各宇宙人は、もし他の星に自由に行き来することができ、そこに現われることができるとしても、彼ら固有の文明・文化を破壊してはならないし、それを変化させてはならない。そういうことを明確にうたっているのです。それゆえに、地球に飛来するにしても、明確に彼らの目的を告げ、彼らの文化を告げ、地球人を変革するということは、なかなか許されないでいるのです。 この意味において、宇宙人の存在は、霊界の霊人たちの存在によく似ているというふうにも言うことができるかもしれません。 2.銀河的正法と科学の進歩 地球によく来ている宇宙人は、もちろん太陽系のなかの惑星人を名乗っていることもあります。金星人というのを名乗って来ているものもおります。ただ、彼らは、科学技術的にひじょうに高度なものを持っていて、地球人に似せて、自分たちの姿を変化させることが可能なのです。それゆえに、ほんとうに彼らの姿を見ているというようには言えないでしょう。 また、現在いちばん多く地球に来ているのはプレアデス星団からです。ここから来ているものがきわめて多く、現在目撃されているUFOたちの大部分は、この星団から来ているものです。そして、これは人類にとってもひじょうに懐かしい星たちであるのです。このプレアデスの方向には、人類の祖先たちが住んでいた星もあります。そうした星から来ている人もいますが、それ以外の星からもずいぶん来ています。 しかし、地球に来ている者たちであっても、文明の進化レベルはそうとうに違いがあります。その間、千年、二千年、三千年ぐらいの文明の落差がありましょう。ただ現在地球に飛来できるということは、少なくとも人類の文明が三十世紀近くなって到達できる点までは彼らは進んでいるということです。これを最低限として、そこまでは科学技術が進んでいるということが言えましょう。しかし、なかにはもっともっと進んでいる者たちもいるということです。 だから、地球に来ている者たちのなかでもレベル差があり、いわば後進国と先進国とがあるのです。私たちの元いた母星といわれる、そこの星の人たちの文明・文化に現在の地上のレベルで追いつくとするならば、まだ二千年や三千年はかかるでしょう。ただ、その母星よりもさらに進んだ文化を持っている星からも、来ている人たちがいます。宇宙は一種の連邦制になっていて、より高度な国のまわりに分権国はさまざまにあり、そしてそれらのなかで、その星団の星人たちが生活しているのです。 私は、今、霊実在界にあって、こうした他の宇宙空間の、惑星人たちの生活を見聞きし、そして彼らと時折、話すこともありますが、その意識はひじょうに高く、彼らと対等に話をし、彼らの思想を理解し、彼らの行動を理解するためには、人類はまだまだ科学的向上を経験しなければならない、と考えています。 私が出たのは、一千六百年代の後半ですが、それ以後、科学文明という名の近代化がきわめて強力に押し進められてきました。これらは、本来宇宙にあるこうした先達たちと地球人とが話し合える、そういう立場に、そういう土俵に立つためには、どうしても地球の科学技術をもっともっと高度にしなければならないという要請があってのことなのです。 現在ただ今において、ORらは地球レベルにおける根本法を説いておりますが、こうした時代もやがて過ぎ去り、やがて宇宙人たちとの交流のなかで、真の銀河的正法とは何なのかということが模索される時代がやがてまいります。そうしたときに、この銀河的正法、銀河的神理というものを学ぶための基礎条件として、彼らと似た科学レベルを持つということが急務になっていくのです。こうした前提条件を満たさないでは、けっしてほんとうの意味での大宇宙の秘密と、神の秘密とを知ることはできないのです。 私はいま、読者のみなさんにほんとうに申し上げたいのです。どうかもっともっと目を開いていただきたい。もっと、眼(まなこ)を開いていただきたい。小さな地球のなかで、小さな国どうしでいがみ合い、小さな国のなかで派閥をつくり、セクトをつくって争い合い、小さな会社のなかで長を争い合い、そんなことをいつまでもしている場合ではないということです。 過去、釈迦が来り、イエスが来った理由も、いちはやく地球全人類の意識を引き上げて、次なる世界へと人類を誘(いざな)うためであったのです。そして、現代という時代は、次なる時代への過渡期に当たっているのです。この過渡期において、よりいっそうの努力・精進ということが必要であると思います。 3.大宇宙の仕組みを知った上での宇宙旅行 まず、私たちはこの宇宙人たちの思想を理解するために、どうしても宇宙飛行というものを、もっと簡単なものとして体験する必要があると思います。少なくともジェット機によって、地球の裏側まで行けるようになったわれらでありますから、宇宙飛行そのものは、想像を絶するものではありません。それは想像されうるものです。 ただ、その内容たるや、格段の差があります。彼らは、地上のみなさんが、今オートマチックの自動車を運転するような、そのような気軽な気持ちで、みなさんから言えば気の遠くなるような距離を、飛行船、宇宙船に乗って渡って来ているのです。これはまったく、不思議な技術であります。彼らの円盤というものは、たとえば銀河系にあるこの星団地図というものを、レーダーの上に乗せて、今A点にいる自分が、B点に移りたい、この星座の地図のなかで、B点というものを指し示し、そしてその位置が決められたときに、そこ行きのボタンを押すというだけで、一瞬にして、その宇宙船が移動するというような、そのような装置を持っているのです。 こういう装置について、もっともっと適切なアドバイスをし、その構造について、つくり方について、みなさんに教えたいという気持ちは私にもあります。ひじょうに大いなる情熱が私のなかにあります。しかし、私はその前に、もっともっとみなさんに、真実の世界への目を開いていただきたい。こう思うのです。この大宇宙の仕組みを知るということはきわめて大切なことなのです。 この宇宙の仕組みを知るということは、すなわち神を知ると言うことでもあります。神というものは、確かにおられるのです。人間は偶然の産物として、地上に発生したものではありません。その証拠に、私たちの地球からは、何億光年もの距離を離れた、そういう星に住んでいる星人たちと会っても、地球人と同じような考え方ができ、同じような生活をしている者もいるのです。これが偶然としてありえることでしょうか。そうではないのです。 そこには、一つの大きな宇宙の計画があると、そう考えるのが正直なところではないのか、私はそういうふうに思います。 4.平和を求める宇宙人の目的 さて、この宇宙人との遭遇がすでに始まっているということを、私は述べましたが、今後、この宇宙人との交流が、どのようなかたちで展開していくか、みなさんはご存じでしょうか。すでに、人類のなかに入り込んでいる宇宙人、彼らの今後の活動はいったいどのようになっていくのでしょうか。 私は、ここに人類の未来があると感じられるのです。現在、経済国、貿易国は世界的規模において、さまざまな産品を輸入し、そして、輸出するということをくり返しているわけでありますが、この宇宙時代にはいったいどうなるかというと、地球人どうし以上に、意思の疎通の難しい宇宙人を相手に、いろいろな取引をしていくということであります。このときに、知恵の弱い地球人であっては、とうてい彼らの本心を見抜くことはできないのです。彼らはひじょうに高度な認識を持っており、高度な知能を持っていて、そして地球人の考え以上のことを考えているのです。 そして、地球人は甘く見ているかもしれないけれども、彼らは地球人についての情報はそうとう正確なところまで集めているのです。そして、必要とあれば複製人間として、地球人をつくり出すところまで、技術は発展してきています。それは、時折、空飛ぶ円盤によって、人類が誘拐されるというような事件が報告されていますが、誘拐された人たちがどうなっているかというと、彼らの生物としての基礎データをつくって、まったく同じようなものを複製するということにも、宇宙人たちはすでに成功しているのです。これほどまでに、地球人というものに対して研究を怠っていないのです。 では、彼らはいったい何のために来て、今後どうするつもりであるのか、これをお話ししたいと思います。 まず、彼らの目的は二つあります。第一は、宇宙規模での商業、あるいは経済、こういうものをつくっていきたいという気持ちがあります。この貿易の考え方はいつの時代も、どこの国でも同じです。地球にしかないものを持って帰り、彼らの星にしかないものを地球にもたらす。こういう仕事がしたいのです。そして、それは彼らにとって、ひじょうに興味のあることである、というふうに言われています。彼らの星においては、地球には、まったくいないような動植物もおりますし、この地球には彼らの星にいないような動植物もおります。それはきわめて珍しいものなのです。こうした珍しいものを、もっともっと研究してみたい、という気持ちが彼らにはあります。 それと、彼らがもう一つ、どうしても知っておきたいということがあります。それは、地球人はどれだけ精神的に目覚めることができるのだろうか、ということなのです。彼らにとって、いちばん怖いのは野蛮な地球人の存在なのです。心を開き、交流をするときに、野蛮人たちがいっぱいいたらどうなるか。かつて、白人が乗り込んで来たときのインディアンたちのように、積極果敢に彼らを攻撃してくるだけであるならば、それは大変なことになってしまいます。そうではなくて、もっともっと高度な次元において、付き合ってみたい、という気持ちがあるのです。 彼らが今、いちばんいやがっているものは何であるかというと、地球がすぐに戦争状態になりそうな、そういう雰囲気にあるということです。これに対して、たいへん悲観的な思いを持っているようです。過去の人類の歴史のなかで、宇宙人が介入して、その戦いを止めさせたことも何度かあったようです。地上人たちはわからないでしょうが、過去の大陸のなかにおいては、現在の原水爆実験のようなもの、こういう原水爆戦争のようなものもあったことはあるのです。過去、そういうものがありました。 そうした時代に、宇宙人たちはメッセンジャーとして警告を与えに、地球に降りてきたことがあります。そして、自ら悪役を買って出た。すなわち、人類の共通の敵として現われる姿をとって、彼らの争いを止めさせよう、そういうことを試みたことさえありました。そういう勇気ある宇宙人もいたのです。新たな脅威が外から出ることによって、地上の争いを止めさせようとした、そういう努力をした者もおります。 こうした者に対して、いま地球人は感謝を忘れ去っているように思います。光の天使と言われるような存在は、地球にだけ存在するのではなく、この光の天使と言われるものも、宇宙的規模における光の天使もいるということを知らねばなりません。彼らは単に一国の、あるいは一つの星の幸福だけを考えているわけではありません。宇宙全体の、銀河全体の幸福というものを考えているのです。そうした大きな心を持って生きている人たちが現にいるのです。 たとえ、地球規模でどれほど偉大な人が今いるとしても、肉体を持った悟りにおいては、地球そのものを抜けていくことはかなり困難に近いというふうに思われます。ところが、実際、この大宇宙のなかにも、銀河全体の成功、幸福、繁栄ということを希望して活動している人たちがいるのです。そうしたすばらしい人たちがいるのです。こうした人たちと、話し合いができるようになるということは、きわめてだいじなことだと思います。 この宇宙人との交信はどのように行なわれるかということですが、彼らは精神的エネルギー、マインドコントロールがかなりできるようになっておりますので、たいていの場合、テレパシーで話をするようになります。すなわち、地球人にわかるような言葉でテレパシーで訴えかけてくるようになります。それゆえに、今後、宇宙人との交流においては、テレパシー能力ということがきわめてだいじになってくるでありましょう。彼らのメッセージを素直に受け止めることができるか、そして、それに対して答えを出すことができるだろうか、こうぃうことです。これがだいじなことになるのです。 5.人類の真の歴史に目覚める意義 そして、この宇宙人たちが、地球人に最も知ってほしいと思っていることは、いったい何であるかというと、過去何億年かの人類の歴史のなかにおいて、いま地球人という名で一つに表わされているこの人類は、実はいろいろな星から移転してきた人たちの集まりであるという事実なのです。彼らはそれを知ってほしいと願っています。その魂の事実を、魂の歴史を、人類は忘れ去っているということをきわめて遺憾に思っています。もし、自分たちが、「かつてはいろいろな星から来た人間たちである」ということを悟ることができるならば、おそらく地球人と宇宙人とは手を取り合って、なかよく生きていくことができるはずなのです。 その歴史を忘れているということは、彼らのいちばん残念なことで、彼らが地球人を、万一軽んじるというふうに見えるところがあるとしたならば、それは人類が自らの歴史をわずか三千年、あるいは四千年しかないと思っていることでしょう。それは彼らにとっては、ひじょうに悲しくもあり、おかしくもある事実なのです。地球には、長く連綿とした文明・文化が続いておりましたが、わずか現代文明、この二千年、三千年の間しか文明というものがなかったかのように思っている地球人、これを宇宙人たちは哀れに思っております。 そして、ほんとうの自分の姿、自分の歴史について忘れ去っている地球人に対して、これからは新たな道を開き、そのような旧態依然とした生き方だけをしていたのでは駄目だ。これからはもっと力強く、ほんとうにすばらしい道を開いていかなければならない、ということを教えているのです。 さて、最初にみなさんが宇宙人の登場を見る日は、そう先のことではないと思います。おそらくは、今後十年以内にそういうチャンスがあるであろうと思いますし、地球に飛来している彼らは、何とかしてその姿を地球人に見せ、そして地球に今後、襲いくる危機から救いたい、地球を救いたいというふうに考えています。今のままの雲行きであれば、やがて第三次世界大戦や、そして第四次世界大戦が起きていくであろうというのが、宇宙人たちの一致した意見です。 そのさいに、彼らは何とか一役買って、地球人に無駄な血を流す行動を止めさせたいと思っています。それがまだ地上の人間にはなかなかわからないのです。その気持ちがわからないでいるのです。 この宇宙人たちが、いまどういう考え方で接近してきて、地上人たちに接しているか、接しようとしているか、ということを知ったときに、あなた方もほんとうにありがたい気持ちが湧いてくることだと思います。地球規模のことを考えるというよりも、自分の国のことを考えるというよりも、たかだか自分が勤めている会社であり、自分の家庭のことしか考えられなくなった現代人よ、あなた方はその視野の狭さの責任を、いったいどこで取るつもりか、どういうふうなかたちで取るつもりでいるのか。それはまったく言いわけにはならないのです。ほんとうのことを知らないというのは、知らない人自身に責任があるということを知らねばなりません。私はそう思います。 6.宇宙旅行のルートとシステム さて、この宇宙の秘密について、さらに話をしていくとするならば、新たな宇宙空間へ飛んでいくための機械は、おそらくこの宇宙人たちによって伝授されることになる、と思います。その結果人類は、通常人類がそのままの進化の速度を保つとするならば、まだまだ数百年かかるであろうと思えることを、わずか数十年のうちに成し遂げていくであろうと思います。宇宙人たちは、宇宙を推進するシステムと異次元の世界を通っての旅行を可能とするシステムについて、おそらく地球人に教えてくれるでありましょう。これは、ひじょうに貴重なニュースです。彼らは、そうしたことを今考えています。やがて、これは明らかになってくる時代がくるであろうと思います。 この異次元を通るというシステムを取らないかぎり宇宙旅行というものは、ほんとうにはできません。この異次元を通過するということは、いったいどういうことであるか、みなさんにわかるでしょうか。 四次元以降の世界は、心の世界というふうに理解されているはずですが、実際は四次元以降の世界であっても、地球系団とは違った四次元以降の世界は、宇宙のあちこちにあるのです。その地球人とは違った四次元空間というものは、単に霊界とだけ規定するのは不十分なのです。単に霊界とだけ規定するのではなく、この霊界ともいわれる四次元空間のなかには、きわめて三次元空間の延長上と思われる空間があるのです。 みなさんは、一概に四次元、五次元、六次元という霊界があるというふうに考えているかもしれませんが、それらの次元のなかには、また神の自己実現の揚があるのであって、そのなかにそれなりにすばらしい、新しい世界が展開しています。どうしても地球系霊団の四次元しか考えない、あるいは五次元しか考えないでしょうが、それ以外の宇宙空間の四次元、五次元というのがあって、ここを結ぶルートというものは開発されているのです。これは並々ならぬ努力によって開発されたものなのです。惑星間を結ぶルート、こうぃうものがあるのです。 それは、地球系の四次元空間のなかでも、そういうルートヘ通じる道かおり、五次元空間にもあります。これはちょうど、いうならば霊的に見た運河のようなものです。山を切り拓き、丘を切り崩して運河を開いている。このように大宇宙空間に目に見えない、実在世界の運河が張り巡らされており、その運河の中を通ることによって、まったく違った世界の中に登場することができるのです。 それはちょうど、地下水のように、伏流水のように潜って突如地上に出てくる様(さま)に似ているともいえましょうか。そのチャンネルのなかに入ったときに、他のところに忽然(こつぜん)として現われる、そういう装置が、あるいは通路ができ上がっているのです。これは、その通路を知っている人は、そう多くはありませんし、通路を知ったとしても、それをどのような方法で航行するか、通り越すかということを知るには、それだけの科学的霊作用、科学的霊能力、科学的霊認識というものが必要です。単に霊能力があるだけでは無理であって、科学的霊能力、すなわち科学と霊能力というものが十分に研究され、理解されていないと、そういう航行方法がわからないのです。 この部分が地球人に理解されるには、まだもう少し時聞がかかるように思います。しかし、現時点において、どうしてもやっておかねばならないことは、科学の進展は進展としてさらに進めねばならないし、この宗教的方面からの霊的世界の探究は探究として、進めていかねばならない。この両者がどこかで融合して、大きな一つのものを生み出さねばならない。 弁証法的に「正・反・合」という考えもあるが、この科学と宗教という、「正」と「反」、あるいは「反」と「合」が次なるものを見出していかねばならない。私はそのように思います。ですから、いま、地上にあって科学に打ち込んでいる者、地上にあって霊的世界の神秘を解明せんとする者、宗教の世界をつくっていこうとする者が、もっともっと意欲を出さねばならない。意欲を出して、すべてのものを一つにしていく道を開いてゆかねばならない。 単に霊界ということだけでは努まらない、その霊界のなかには大宇宙空間につながっていく通路があるということ、これを発見し、この通路を通る道をつくり出さねばならない。私はそのように、強く思うのです。 7.三次元と四次元を自由にくぐり抜ける霊的科学技術 さて、宇宙ということでもう一つ考えてみるならば、この宇宙人たちの一番の特徴は、この物質化現象というものを科学的に解明し尽くしているということだと思います。物質化現象というものは、今、霊的世界、宗教の世界のみに時たま起きる現象とされています。それは、物品引き寄せというような言葉で言われるように、霊界から、あるいは他の世界からいろいろな物を引き寄せて現わしたりすることがありますし、霊体が肉体を持って、肉体として現われる、というようなことがたまにあるということが報告されていますが、この宇宙人たちが、霊即肉体、肉体即霊、肉即霊、霊即肉というこの法則を十分に体得しているのです。 それはどういうことかというと、本来肉体をつくり、物質をつくっている元素の部分、この原子よりもっともっと小さい霊子の部分、この霊子による構造で実はすべてのものが成り立っているということを彼らは知っており、この霊子によるものは、もとの状態に分解され、そしてもう一度、一なる理念のもとに再統合されると、物質は現われたり消えたりするようになる、ということを彼らは知っておりますし、それを霊的能力としてだけ発現するのではなくて、科学的技術としてその方法を開発しているのです。ある種の機械を使って、地上の物体を分解し、そしてまったく違うところに出現させる。物体を霊体と変え、霊体を物体と変えるという方法を知っているのです。 実は地球に何億年か前に飛来した人たちも、そうしたことをよく知っていた人たちでした。彼らは肉体を持ちながら霊であり、霊でありながら肉体を持っているという、そういう存在でありましたが、実に宇宙人は、そういうことをよく知っています。地上の人間にとっては三次元世界の物体はひじょうに確固としたもの、揺るぎなきものと見えるが、宇宙人たちは、これらはいわゆる想念によってできあがっているものであり、ちょうどビデオの画面を見るように、あるものの理念によって、こういうものが三次元的形をとっているということを知っているのです。 したがってビデオであるならば、ビデオの電源およびフィルムによって映っているということを彼らは知っており、このフィルムを変えることによって、他の映像を映すことができるということも知っているのです。これにはかなりの霊的認識と科学能力の増進が必要ですが、この壁を乗り越えないかぎり、宇宙空間を移動するということは不可能なのです。この霊的世界を通って移動するためには、瞬時に三次元から四次元に、四次元から三次元にという翻訳能力を持っていなければなりません。 人類はこの部分に、まだまだ努力をしていかねばならないし、そのためには数多くのこのような霊的指導書を地上に送っていかねばならないと思います。もはや、人類の常識は常識ではなく、非常識と思われたものが、常識であるという現実を知っていただきたいし、スペース・ブラザーズ、宇宙の隣人たちはこのようなことは当然のこととして知っているのだ、ということを知ってください。 8.力場の創造によるタイム・マシン また、この宇宙の隣人たちが、もっと恐るべき科学技術として持っているものは、時間そのものを行き来する機械、まあ言ってみればタイム・マシンとでも言ってもいいでしよう、そうしたものを明らかに彼らは持っているということです。飛行船、あるいは宇宙船で地球に来る場合も、地球の年代を選んで来ているという事実があるのです。彼らは、地球の好きな時代に現われているのです。だから、千年前、二千年前あるいは七千年前に地上に円盤が現われたと言われていても、それらはほんとうに七千年前の円盤や宇宙人であったかどうか、定かでないのです。それはいつの時代が来ているのかはわからないのです。彼らは宇宙空間を移動するのみならず、時間の流れのなかをも移動することも可能なのです。 それがゆえに、彼らは人類の文明に手を加えないように、極力努力をしているのであって、その時間の流れのなかを遡(さかのぼ)ることも、また下ることも可能な、そういう情況にあるということを知らねばなりません。人類は、これからは時間との戦いということが大きな目標になるでしょう。この時間の壁を乗り越えるということができないかぎり、さらなる科学的発展はないのです。 この同一時間に生きておりながら、同一時間を脱するという方法、この方法をぜひとも確立しなければなりません。その方法は、実は一つのインスピレーションによって、なされることと思います。この時間の流れを変えるものがあるのです。 それは、一種の重力場の創造ということになっていくでしょう。巨大な重力、あるいは引力と言ってもよいですが、こうした巨大な重力というものは、宇宙空間を歪めることが明らかになっていますが、それと同じように巨大な重力場は、実は時間をも変化させる、そういう力を持っているということが、やがて明らかにされるでしょう。 空間を変形させるのみならず、時間を変化させる。そして、時間の流れを変えることができる、そういう力が開発されるようになるでしょう。それは光速を超える速度で移動するものによって時間の壁を越えるのではなくて、この重力装置、この巨大な電磁波装置、これをつくり出すことによって、時間と空間を歪ませ、そしてそれを乗り越える、そういう装置がやがて発明されるようになるでしょう。 これのひな形はすでに実在界において、私が開発しております。これをやがて地上に降ろしてゆくつもりです。必ず地上に降ろして開発させるつもりです。巨大な重力によって、時間も空間も変えてしまうのです。 たとえば、巨大なエネルギー磁場があれば、この直径一万キロメートル以上もある地球でさえ、ほんのそら豆ぐらいの大きさに縮めてしまうことも可能ですが、こうした空間を支配する能力は、同時に時間をも変えてしまいます。 地球の二十四時間というのは、地球上の、この地球大の大きさにおける二十四時間であって、地球そのものが、そら豆ぐらいの大きさになってしまったときに、この地球の二十四時間はもはや二十四時間ではなくなっているのです。この二十四時間はもはや数秒になってしまっています。こういう時間単位へと変わっていくのです。 すなわち、巨大な重力の下には、時間も空間も変わってしまって曲がっていくのです。これがやがて発見されるようになるでしょう。そして、この力によって、時間の壁は破られていくでしょう。私はそれを、予言して本章を終えたいと思います。