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目次 1.事業不振の悩み 2.将来を悩むある俳優 3.プロ野球選手を目指す青年 4.逆立ち器の普及に命を賭けている男性 5.精神病院院長へのアドバイス 6.現代サラリーマンの持つ悩み 6.現代サラリーマンの持つ悩み (問) 私は、某外資系コンピューターメーカーに、二十五年勤務してるサラリーマンです。主としてコンピューターのメンテナンス(保守)サービスに関連するフィールドでの実務や要員の教育、指導を行なってきました。 社内では、個人の実力、実績を重視するマジメントが行なわれており、昇格、降格がストレートに表わされますが、私自身、この割り切ったやり方に好感を持って仕事をしてきました。ただ、今までは、好運にも、順調に進んできましたが、自分の能力不足からか、仕事の量、質共に不十分で、ときどき自己嫌悪に陥りそうになります。 とくに最近のこの五年のなかで、大きな疑問にぶつかりました。というのは、近代社会が古代に蓄えられたエネルギーの浪費と、エントロピーの増大の上になりたっていることを教えられ、気づかせられたとき、近代社会の発展に手を貸す企業は、人類にとって、また自然にとって、悪ではないかという疑問が起きたのです。ですから、その企業で働くことも、当然悪ではないかと考えました。しかし、私は、この企業で仕事をすることにより賃金を得て、家族を養っているわけですから、会社が存続しないと困ることになります。 とはいえ、会社は利潤追求のみに汲々(きゅうきゅう)とし、働く社員はノルマに追われ、数字に脅かされているのを見ると、これで良いのかと疑問を持ってしまいます。上司の仕事ぶりを見ていると、休日も、休み時間も無縁です。無言の圧力を感じます。私は、ここまで、仕事に打ち込むことはできません。これは、サラリーマンのプロとしての自覚がたりないからでしょうか。または、自分の生き方に自信が少ないため、圧力と感じるのでしょうか。以上の疑問に対するご指導と、サラリーマンとしての正しい心得をお教えください。 サラリーマン(男性)47歳 (答)コンピューター産業について 今日の話は、現代サラリーマンが持つ悩みということ、現代社会、産業社会の問題、また、そのなかでの仕事という問題ですね。これを考えるちょうどいい時期であろうかと思います。 個人の問題に入る前に、まず、この方が勤めているコンピューター産業に関して、私の感じたところを述べてみたいと思います。 この方も考えておられるように、コンピューター産業というものは、現代科学抜術の最先端を行なっているわけであります。そして、今では、小、中学生から大人の世界まで、コンピューターというものがだんだん必需品となり、人びとは、われもわれもとコンピューターに向かっているようであります。社会のなかでは、コンピューターが使えないと挫折感を感じたり、あるいはまた、中高年層で、コンピューターに対してノイローゼになっている人が大変多くなってきています。つまり、学生時代にそういうものをいじったこともなければ、学んだこともないためにわからないからです。 文科系、理科系は、その人の魂の傾向が決めること 基本的な話からしたいと思いますが、この方たちの世代では、文科系、理科系という話をよくするでしょう。主として高校三年から大学に入る頃に文科系統、理科系統に分れます。そして、文科系統なら、法学部、経済学部、経営学部、文学部、教育学部などへ。理科系統へは、理学部、工学部、医学部、薬学部、農学部という方面へ進みます。さて、このように文科系、理科系とに分れるのですが、その人自身の魂の問題として何か関係があるのかどうか。正直に申しますと、やはり魂の傾向に問題があるのです。 まあ、長い歴史を見てくると、どちらかというとですね、人類の指導者であった人たちは、文科系統の人が多かったわけであります。理科系統の人たちというのは、いつもだいたいまとまって出て来る傾向があるんです。たとえば、農業社会の頃には、あまり出ないのです。農業、漁業、狩猟、こういうときにも、あまり出ません。過去において、人類も、文明の盛衰が何回もありました。人類の文明というのは、まさしく循環文明でありまして、ある文明が発達していって最高度にいくと、崩壊する。そしてまた、零から始めて最高度にいくと崩壊する。こういう過程をもう何十、何百となくこの地上で演じてきております。 文明の成熟期になると、理科系の人が大量に出てくる そして、こうした理科系統の人たちというのは、どうも文明が成立した頃に主として降りて来ているようです。つまり、そうした成熟期の文明をつくるために降りて来たのだと言えます。ですから、その魂においては、進んだ人もけっこう多いのでありますが、霊的に言うと、やはり六次元神界レベルの人が多いようであります。 霊層ということで言うと、菩薩、如来で、いわゆる理科系統の人というのは、数としては非常に少なくなります。九次元でも、理科系統を心がけている人というのは、十人のうち、せいぜい二人かその程度であります。如来界に五百人弱の人がおられますが、このなかで理科系統の人というと、おそらく五十人、一割くらいであります。 こういう人たちが、たとえばエジソンのような大科学者として活躍しています。やはり理科の光というのは、神の光を七色にたとえると、このなかの銀色ですね。白銀の光ですから、まあそれだけで見ても七分の一というふうに考えてもいいかと思います。だから、教十名ですね、如来界でも。ですから、菩薩界一万数千人から二万人くらいいるとして、理科系統の菩薩というのは、数千人、まあ、二千人から三千人くらいしかいないのです。 こういう人というのは、だいたい文明の成熟期に出て行っては、そういう科学技術の進行のためにやっているという特殊な方面で才能を特っている人です。光の天使のなかでも、いわゆる宗教家たちが一番多いのですけれどね、如来界だったら九割が宗教家ですし、菩薩界でも七、八割は宗教家でしょうね、七割強です。あとは、医者であったり、教育家であったり、科学者もいれば、学者もいる。あるいは、芸術家もいるという形になっておりますが、七割以上は宗教家という感じになっています。 このように、特殊な分野の発達、発展のために、一つの分派として理科系統の人がいらっしやるのです。神界へ行くと科学者、技術者というのは多いのですけれども、それでも、神界全体で見ると、やはりせいぜい二割の人だろうと思います。ですから、全霊団で見ると、文科、理科というふうに分れるのではなくて、理科というのは、やはり数が少ないわけであります。こういう人が、そういう文明の成熟期になると、大量に地上に出て来るということです。 高度な科学技術の進展により、密度の濃い魂の経験が得られる ですから、技術的なものも、要するに、心の世界と両立しないのではないかということだと思うのです。人類の幸福を招かないのではないかという考えだと思うのですが、これは一概には、そうは言えないのであります。 こういう高度な科学技術というものも、推し進めていくことによって、地上の生活を便利にし、今までになかったような人生経験の場を提供する。こういうことで、非常に意味力あるわけであります。掘っ建て小屋のようなところに住んで、家族なかよくしなさいという考え方も、もちろんあるでしょう。しかし、高度の進化した、近代建築のなかで仕事をしながら、また、今までなかったような高度な仕事をやりながら、正法を学んでいくという場も大切なのです。 飛行機が発達し、列車も発達した現在、昔だったら、たとえば東海道五十三次、何日もかかって旅行したところが、一日のうちのほんの数時間で移動できるようになった。こういうふうになって人間は、密度の濃い世界へ、今来ているわけです。ですから、一回の人生でありながら、六十年、七十年の人生でありながら、さまざまな経験ができるようになったのは、科学技術の進展というのによるところが非常に大きいわけです。昔のように、海外へ行くのには、一ヵ月以上船旅をしなければ行けないのであれば、現代人の多くは、海外旅行などしている暇はないでしょう。ところが、飛行機というものによって、十数時間で地球の裏側まで行けるようになった。そのおかげで、若いOLや学生までもが海外旅行ができるようになったのです。 科学技術の進歩により、世界観が大きくなってきた ひと昔前、あるいは、百年、二百年前の日本人であれば、自分の住んでいる、江戸だとか、大阪だとかの都、つまり、そこだけの経験しかなかったわけです。ところが、世界観が、それだけ大きくなってきた。ですから、自分たちが、昔なら知らないような人たちとも接するようになった。こういうことは、非常にいい経験なのです。 日蓮の時代の世界観といえば、日本があって、蒙古があって、何か向うに国があるらしい、と。この程度の知識しかないわけです。ところが、現代における世界観だと、小学生でさえもが、日蓮の時代の世界観以上のものを持っております。 こういう世界観が持てるようになったのは、理科系の人たちの活躍によるところが多いのです。ですから、この質問の方に関していえば、科学技術の進歩そのものは、決して悪い方向だと思ってはいけません。それは、心と対立するものではありません。心の修行の場を提供するものなのです。そういう意味において考えたらいいと思います。 科学技術がもっと進むと、他次元の力が分ってくる ただし、科学技術の問題点というのは、これが要するに、魂とか、人間の心を否定するような方向にいくと、間違ってくるわけです。人間の脳をコンピューターのように考えて、コンピューターが故障するように人間も故障するんだと、死ねば何もかも終わるんだと、こういう考えは、間違っています。人間には魂があります。あの世の世界もあります。これは、証明の問題ではないのです。人間に魂があり、四次元以降のあの世がある。これは証明の問題ではないのです。証明される以前に、現にあるのです。 そうでしょ、コロンブスが船に乗って地球の裏側まで行って、西インド諸島か何か知りませんが、それを発見し、まあ、アメリカを発見した、と。しかし、コロンブスが発見する以前に、すでにアメリカ大陸はあったのです。西インド諸島もあったのです。現にあったのです。それと同じです。あの世の世界というのも、現にあるのです。それは、探検して初めて分るものではないのです。現にあるのです。魂の世界も、現にある。それを、証明問題によって解決しなければいけないと考えているとすれば、間違いであります。 ですから、科学技術は、決して心の世界に対峙(たいじ)するものではなくて、心の世界から見れば、まだ未熟であります。もっともっと科学技術が発達してくるようになると、心の世界が、ある意味で分ってくるようになります。他次元の力というのが、ある程度分ってきます。科学的にも、そういうものがあるということがね。 そこで、コンピューター産業がどうこういう前に、あと百年たてば、かなり科学的な方面からも、私たちの世界というのが理解できるようになってきます。それを期待したいと思っています。ですから、基本的には、そういうふうに考えてください。技術的なものも、また必要なのです。 ビジネスマンは会社生活のなかで意義ある人生追求をすること さて、もう一つ、この方にとっては、ビジネスマンとしての悩みがありますね。利潤追求、まあ、ノルマに追われ、数字に動かされるということですが、これは、この方にかぎらず、現代ビジネスマンたちすべてが持っている悩みなのです。現代ビジネスマンのすべては、こういうことで毎日悩んでおります。上司の仕事ぶりを見ていると、休日も、休み時間もない、と。そういう圧力ですね。これに関して言うと、きりがないぐらいあるのですが、まあ、時間を忘れるほど打ち込む仕事があるということは、これはありがたいことです。 しかし、他方では、つまり、心の世界を求めている人には、なかなか納得がいかないでしょう。心の世界を求めている人にずいぶん多いのですが、勤務時間以外の余暇を使って、そういうものを探究するものだと思っている。そして、仕事自体、勤務時間自体は、生活の糧を得るためだけの意味のないものだと考えている人が多いようです。 ただ、欲を言わせていただけば、やはり会社では一日のうち八時間、十時間過ごしているのです。一日二十四時間のうち、八時間寝ているとすれば、つまり、残りの時間の大半であります。これを会社で過ごしているのです。ですから、どうかこれをムダにしないでほしいのです。これをムダな時間だと、金銭を得るためだけの時間だとは考えていただきたくはないのです。 二十世紀の現代においては、たまたまこういう会社生活というのが主流となっています。昔なら、お城に勤めたこともあるかもしれません。もっと昔なら、農業をやっていたかもわからない。しかし現在では、会社勤めをするというのが主流になっているのです。であるならば、そこからいたずらに逃れようとするのではなくて、やはりそのなかに、意味のある人生の追求をやっていただきたいと思います。 仕事とは、社会への還元である この方のように、コンピューター産業に疑問が出てきて意味がないというふうに見ていけば、当然のことながら、だんだん仕事にも情熱が入ってこなくなります。ですから、どうか仕事のなかに、情熱を持っていただきたい。意義を見い出していただきたいと思います。そして、心のなかで、世の中の人びとの役に立つような仕事をしたい、仕事は何でもいいのですけれども、という気持ちを持って生きていっていただきたいのです。 人間は、他の動物たちと違って、一人前になるのに二十年かかります。二十年かかって、やっとご両親に恩返しができるようになるのです。ですから、一人前になるまでのその二十何年かの間に、どれだけ多くの世の中の人びとの恩恵を受けているか、これを考えてほしいのです。ご両親だけじゃありません。学校の先生だけじゃありません。友だちだけじゃありません。社会で働いているたくさんの人たちの恩恵を受けて、二十何年間かかって、一人前になっていくのです。 ですから、人から受けたもの、社会から受けたものに対しては、感謝しなければいけません。お返しをしていかなくてはいけません。これが仕事ということですず。要するに、自分が受けた、世の中から受けた恩恵に対して、自分が何らかの役立つことをやってお返ししていくことであります。ですから、すべての人が、何らかの仕事を持つことが、本当は望ましいのであります。そして、自分が受けた恩恵を、その一部なりとも、社会にお返ししていく。すなわち、還元していくということが、大事なのです。 職場は、人間完成の場でもある しかし、ただそれだけでは、いけません。それ以外に、個人の悟りというのがあります。人間はなぜこの地上に生まれてきて、何のために人生修行をしているのか。一体どこへ行くのか。何のために地上生活を送っているのか。これを追究していただきたいのです。ですから、この両輪です。すなわち、仕事において社会に対して還元をしていくということ、それから、仕事のなかにももちろんありますが、仕事以外にも、個人としての悟り、魂の悟りを得ていくということ。この二つを、両輪と考えてやっていただきたいと思います。 それは、ある意味での感謝行であり、ある意味での修行であります。悟りのための修行です。そして、これは、二つに両極分解するものではなくて、本当にその人が悟ってきたならば、その人の働いている職場のなかが、一つの菩薩界になってくるはずです。理想郷になってくるはずです。 個人的に悟っていながら、職場で波風ばかり立っているというのは、おかしいのであります。この人がいるから、そのおかげで、職場の人たちも幸せだというような、何とかさんに会って良かったといわれるような人生、そういうふうになってほしいのです。 ですから、現代サラリーマンに対しての私のアドバイスとしては、あなたがいるから良かったと、あなたと一緒に働けて良かったと、一人でも多くの人にそう言われるような人間になりなさいということです。そのためには、一つには、仕事のなかにおいて役立つ人間になるということであるし、また仕事以外においても、人格者として完成していくということであります。この点を考えねばなりません。 職場というのは、ある意味においては、人間完成の場であります。いくら自分を鍛えても、達磨大師(だるまたいし)のように面壁(めんぺき)九年やったからといって本当に悟ったかどうかわからないのです。ところが、実社会のなかで働いていれば、自分が向上したかどうかは、すぐにわかります。職場は、自分を試す場でもあるということです。そういうことで、特殊な宗教家は別として、その他の人は、自分の持ち場で自分を磨いていくべきであります。 職場で自分を磨くべきだ 宗教家みたいに、この世的なことをやってはいけないような人も、もちろん、おります。それは天命であります。しかし、九割までの人は、やはり人のなかにあって、サラリーマンのような仕事をしているのです。ですから、そのなかにおいて、自分というものを磨いていくべきであります。 この方も、勤めてから二十何年たって、そろそろ人生の終着駅が見えてきた頃なのでしょう。こういうときには、もう一度、自分の仕事の意味というのを考え直してみるべきなのです。そして、仕事のなかで、どれだけ自分が向上してきたか、たとえ仕事から離れても人間として向上したかどうかということを考えてみるべきです。 つまり、さきはども言いましたように、両輪なのです。車の両輪であって、片方の輪だけではないのです。ですから、コンピューターを離れた、心だけの世界ではなくて、両方を両立させていくようにやってごらんなさい。この方が言いたいことは、サラリーマン社会における立身出世ということもあるのでしょうけどもね、立身出世は、あくまでも結果だということで、考えてください。立身出世は、人が評価して決めることです。 自分が求めることではない。一生懸命やることです。人が認めてくれたらありがとうという気持ちで、認められたらさらに大きく、世の中に対して役に立っていこうという気持ちを持つことです。立身出世は求めることではなくて、結果です。目的ではなくて、結果です。ですから、結果としてそういうものが与えられたらより大きな使命が与えられたということですから、より多く頑張って、さらに社会に還元していくことです。 (1986年8月25日の霊示)
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目次 1.母星ベーター星 2.文明の実験 3.指導者の群像 4.一つの対立 5.ベーター星からの脱出 (1987年12月17日の霊示) 1.母星ベーター星 さて、いよいよ今までチラチラと匂わしながら、はっきりとは言わなかった事実。今から三億六千万年の昔に、人類がべー夕ー星、ベーエルダ星という星を脱出して地球に来たと、まあ、こういうふうに言っておるけれども、どんな状況であったのか。それは、一体何だったのか。まあ、このへんの疑問はあるわね。 まあ、みなさんは天文学はわかんないから「あの辺だよ」なんて指差したってわかんないと思いますけれどね。えー、地球からは、そうだねえ、まあ結構離れたところです。そこから来たんですね。これは科学文明としての宇宙船で来たわけです。 だから飛行時間はどのぐらいかかったかね。詳しくは覚えてませんが、えー、十年近くかかって来たような気がしますよ。ぼくの記憶ではね。地球時間でいうと、十年ぐらいの歳月で渡ってきた、地球までね。そのように思います。 それ故、大変な長旅であって、このへんが後にモーゼを指導するときに大変役にたちましてね、モーゼの出エジプトのときの指導にね、大変役にたちましたね。これには十年もかかって、何と言いますかねえ、宇宙船で船旅してきた。この間に人びとを、要するに納得させるのは大変だった。彼ら、もう「帰ろう、帰ろう」と何回言ったかね。カエルじゃあるまいし、ケローケローケローケロー言ってた。 ぼくは「必ずあるから。縁とね、縁と酸素、それから水に囲まれた美しい星があるんだ。これは調査済みなんだ」って言うけど、みんな「そんなのあるか。ケローケロー」ってね、ずいぶんうるさかったですよ。マゼランみたいなもんだね。マゼラン部隊みたいなもんで、だから指導者がよほどよくないと来れなかったね。だけどまあ、指導者が優れていたから来れたわけですね。 その母星にあったのが、まあベーター星と言われておるわけですね。この星はどういう星かっていうとね、大きさは地球の、そうだな、直径で、地球の約十倍ぐらいの星です。十倍ぐらいの星だと思っていい。 まあ、地球の十倍ぐらいで、人口でいうと別れてきたときの人ロっていうのが、どのぐらいいたかね。うーん、まあ人口自体はそう多くなかったね。えー、現在の地球ぐらいかね。五十億ぐらいだったと思いますね、人口はね。そのうちの、五十億の中の六千万人が出てきたわけですね。まあこういうふうになったわけですね。 このべーター星の特徴っていうのは何かっていうとね、地球は水が七、陸が三というようになってますが、陸がもうちょっと多かったね、ベーター星はね。陸が六ぐらいかな。陸は六で水が四。まあこのぐらいの環境です。そして、山もありますが、山も高くてせいぜい千メートルぐらいの山で、割に平坦だったんですね。平野が多かった。高くて千メートルぐらいの山である。そういうことで、平坦なものであった。 そして海はどうかっていうと、海はね、塩辛くないんですね。地球みたいに塩辛くなくて、淡水だったんですね。淡水湖です。海がね、淡水でできていました。淡水で、四割ぐらいの地表を覆っておった。 で、残りの部分はどうかっていうと、まあ平野が多かったわけだけども、ここにはやはり穀物を中心としたね、そうした農業地帯が結構ありました。そして地球にならっていうならば、主として南部の方が、南の方がそういう穀物地帯で、北のほうが工業地帯であったと。まあ、こういうことが言えると思いますね。そこではいろんな産業が発達しておった。 ベーター星で特に発達しておったのは何かっていうとね、ここで一番発達していたのはやはり交通機関です。この文明が発達しておって、非常に変わった乗り物いっぱいありましたし、その三億年以上の昔であっても、まだ現在それ程発明されてないような、何と言いますかね、自家用の小型機ね、小型飛行機みたいなの、こんなの飛び回ってました。それに乗ってね、えー、まあ長さ二メートルかそこらぐらいの小さな乗り物ですが、それに乗って自宅の屋上や窓からね、どんどん、どんどんいろんなところへ行っている。もう道路なんか走らずに、そういう小さな自家用飛行機で、みんな空中フワフワしながらあっち飛びこっち飛びしてた。こうぃう文明でございます。 交通機関はいろいろあって、リニアモーターカーなんかも今、開発中ですが、そういうふうに瞬時でもってものすごい距離を動くような交通網もありましたし、地下を打ち抜いた弾丸列車もありましたね。地下を打ち抜いて、ジェットコースターみたいな原理でね、シューンと下がってきてシューンと上がるようなね、こういう地下鉄、まあこんなものもありましたね。現実にね、あった。だから交通機関を中心とした文明であったと言えると思います。 そして農業地帯の方では、やはり農家もあったわけですね、今お百姓さんやってる人も、昔やってたかもしれませんね、そこでね。やっぱり農業もあったし、その中で動物もずいぶん飼ってましたし、いわゆる哺乳類、哺乳類が多かったね。ずいぶん哺乳類が多い。こういうふうに言えると思いますね。それで豚とか牛とかの原形になるものがおったんですね。 ただ、牛なんかは、地球の牛はちっちゃいね、ひとまわりね。もっと大きいんだよ、本物はね。本物の牛はもっと大きくて、五メートルぐらいあるんだな。大きな牛だよ。大きな牛なんだよ。五メートルあるんだ。何で五メートルかっていったら、人間も大きいからね。そのぐらいの牛じゃないと食っていけないから。あのー人間も、そうだね、標準サイズでニメートル二十から三十ぐらいはあります。だから牛も大きいわけだ。全体にちょっと大きいんだ、全部がね。ひとまわり大きい。まあこういうふうに言えますね。 あと、地球に住んでなかった生物としてどんなものがおるかというとね、水陸両用の生き物というのが大分(だいぶ)おりましたね、これが。たとえば、まあ魚に羽がはえとると思えばいいわ。水中で魚やっとって飽きたら、水からポコッと出て、空飛ぶのがおるんだな。こういう水陸両用の生き物がおった。これについては、地球ではまだちょっと発明ができてませんね、十分に。竜ぐらいだね、伝説の竜で、滝登って空飛んでいくぐらいの竜があるけれども、えー、水陸両用の生き物が、結構この星にはおりました。水の中におっては、時どき空飛ぶと、そういう生活だね。これも面白いわね。それから、水空両用の生き物がおりました。 あと陸地の中でも、特別に面白い生き物としてね、どんなのがおるかって言うとね、一番面白いのは、こういうのがいるよ。うーん、なんというかね、植物と動物の合いの子みたいなんだなあ。こんなのがおって、外見は動物で、たとえばうーん、どうなるかね、説明をすると、まあ恐竜に近いかもしれないが、テラノザウルスとかあんなのあるけども、ああいうものに似たものがおるんだけど、それの背中にね、果物がなるような動物がおるんだな。これが不思議だけど。あなたがた笑っちゃうと思うが、そういう、まあ恐竜なら恐竜みたいのがおって、まあそら卵産んだり、乳出したりするんだから、果物作るのもおってもいいわな。背中に要するにギザギザというか、植物の枝みたいなのいっぱいあって、それに果物がなるんだよ、背中にね。こんなのがおるんですよ、笑っちゃいますよ。その果物は、まあ柿とも桃ともミカンとも、何とも言いかねるような果物だけども、こんなのがなるんだよ。 これをね、非常に可愛いがっておってね、この動物をね。まあ全長二メートルから三メートルぐらいの、恐竜型の動物です。この動物の性格は温和なんですね。外見はグロテスクだけど。背中にこう何と言うかね、尾びれじゃないけど、ギザギザがいっぱいあって、ワニ皮みたいな背中なんだけど、ここに珊瑚礁(さんごしょう)みたいな技がいっぱいはっておって、この枝の先に果物がなるんだ。それで、だいたい草食が多くてね、草食って、草食ったものが背中に果物になってピュッとなるわけだ。こういうのがおったんですね。面白いのがね。これをね、家畜として飼っておった。時どきその動物を追いかけては背中から果物をもぎ取って食べたりするんだな。こういうことができたんですね。 これも地球にはないね、こういうものが。一度また創らないかんと、私は思ってるんだけど、面白いわね、そんなのできたら。ねえ、今度は背中にお米ができる動物とかなんか創っちゃったりしてね。まあそういうのもいたということですね。 2.文明の実験 さて、そういう文明であって、非常に文明は発達して爛熟期(らんじゅくき)を迎えておったわけですが、そこで彼らもね、まあ五十億人近い人が住んでおっていろいろやったけども、多少何というかね、文明の実験というのもいるんじゃないかということで、面白いこといろいろ始めたんですね。 全世界が同じ速度で進化しとるっていうのは面白くないっていうんで、違う進化速度つくってみないかという提案があって、それで大都会ではそういう素晴らしい交通網があるけども、こんなのに何というか嫌悪感を持つような人もいるからね、じゃあ全然そういう機械なしで生きろと、生きてみろって、そういう地域つくるんだな。たとえば、日本で言えば九州みたいなもんだけど、九州は要するに文明の利器一切使っちゃいかんと、まあこういう地域つくるんだ。それでも好きなのがゾロゾロ行くんだよな、そこへね。そこで石斧(いしおの)で生活するような、こういう地域もつくりました。 あるいは海中で住むっていうようなことね、こういう実験もずいぶんやりましてね、背中に、この海水、海水じゃないけども、淡水だが、水を分解してね、酸素をつくり出す装置、こういうの背中に背負っとって、それからパイプでロにつながっておってね、マスクかぶっとんだけども、それで自動的に水が酸素に変わるから、それ吸っていられるんだな。それで好き好(この)んで、水底に住んでおる人がおるんだな。水底人(すいていじん)がおって、水底基地つくっちゃって、そこで水の酸素吸いながら、生きとるんだな。魚と一緒に泳いどるのが幸せって、こんなのもおったね。こういう文明の実験も行われました。 あともうひとつは、今度はだいたいそういうのを見ると、もうひとつ出てきそうなものが何かっていうと、空中だわな。昔世界の七不思議って言って、空中庭園とかいうのがあったとか言われているけれども、現実にこのベーター星に空中庭園というのがあったんですね。 それはどういうようになるかというと、地上から見てみると、本当目に見えない幕ですね。幕でもって仕切りができておって、空中で浮かんどるんですね、街が。どういうふうにしておるかっていうと、まあ特殊性の、要するに何と言いますか、プラスチックでもガラスでもないものでできておる囲いをつくっとるんだな。これが磁石の反発力みたいな形で、ある種の反発力でもって空中に浮いとるんだ。そういうものが反発しあって。それで、空中であなた、下見たらもうまっさかさま、上見たら青空というようなとこ、ここで住むのが好きな人がおるんだな。雲の上で住んどるような生活だな。こういう、まあ天上界志望の人たちでしょうか。こんなとこで住んでるのがおったんだよ。空中で生きとるのがもう大好きという、こんなのがおった。 結局、文明が進んで、みんな倦(う)んじゃってね、退屈しちゃって、いろんなことして楽しもうと。新たな環境を何とかして楽しもうと。まあ、こういうことをしておったと言っていいでしょう。 3.指導者の群像 ではそうした文明の中において、指導者というのは一体何だったのかと、まあこういうことが言えると思いますね。指導者にも種類がございまして、このベーター星というところの指導者は、主に科学的指導者、それから教育的指導者、政治的指導者、宗数的指導者と、まあこの四種類に分かれておったんですね。 で、指導者、この四種類の指導者が、交替制でいろんな指導に当たると。今年は科学の年と、翌年は宗教の年、その翌年はまあ、また違った年と、こういうように循環があって、それぞれ一年間は科学的指導者たちが国を治めたりね、あるいは一年間は政治的指導者が国を治めたり、こういうことをしておったんだね。それぞれ毎年毎年、新しい、何というか、そういう支配というかね、統治というのを楽しむと。まあ政権交替の走りみたいなもんだな。こういうものがありました。 この中で、うーん、まあそうだね、宗教的指導者って何かって言うと、やっぱりそのベーター星の中における神の道を説いておった。こういうことが言える。政治的指導者は、まあいろんな統治能力が優れておった。人びとを統治する能力が優れておる。あるいは指導したりする力が優れておる。教育的指導者っていうのは、段階的に人びとを導いてね、引き上げてくる。学問的な教育、これが非常に優れておるんですね。こういう指導者がおる。 まあこの中で、しかし、やがて勢力のバランスが崩れてくるんですね。こうして、この四者で交替制で治めておったものが、だんだん力に差が出てくるんですね。統治能力に差が出る。一年交替でやっとったけれども、たとえば科学者指導と宗教家指導では、住民の人気が違うね。で、たとえば「科学の方は二年やれ」とかね、「宗教の方は半年でいいわ」とか言われたりする。こういうようになってきて、次第に勢力の均衡が崩れてくるということが、現実に出てきたわけですね。そういう事象が出現してきた。ここに一つの問題が出てきたわけです。 4.一つの対立 さてここで、その三億数千万年前に、大きな対立が起きてきたんだな。思想的に大きな対立が出てきた。それはこの科学と宗教をどういうふうに考えるかという面での対立ですね。これは現代にもあるんだけども、そういうふうに指導団を組んで交替制でやっとるうちに、宗教と科学とを全く別なもんだという見解が強くなってきたんだね。これは全く別なもんで、春夏秋冬があるように、順番に回ってくるだけであって、それぞれのものは独立である、別なものである。全然異質なものである。まあこういう見解があったね。 ただこの中に、科学者のグループの中にね、「そんなことはない」という人がいたわけだな。「そんなことはない。科学の中にも神理はある。宗教はあるんだ。神への道は科学の中にあるんだ。色心(しきしん)は不二(ふじ)なのだ。物理的法則は、神理と合致をしておるのだ」まあこういうことを言う偉い人がいたんですね。これは私なんですが、こういう人がいて、科学と宗教を対立させる立場に非常に反対した。で、「これは統合していくべきである」こういうことを主張したわけですね。 ところが、当時その四つの科学、宗教、政治、教育という指導者群団ていうのが、非常に専門化して、テクノラートって言いますかね、専門家集団に変わってきておったんだね。それで認めない、そういうことを。科学と宗教の仕切りを取るということを認めない。こういうことがあって、このへんで意見の対立というのが、非常に出てき始めたんですね。意見の対立というのが出てきた。それで、ただその調整をしていこうと思ったけれども、こうした四つの指導集団でこの世を指導していくことは、神から与えられた掟(おきて)であると、こういうふうに言われておった。それで「これを破ることは相ならん」まあ、こういうふうに言われたわけね。 そこで、この科学者でもあり宗教家でもあるという魂ですね、こういう意見に従う人たちが、離反運動を起こしたんでずね。離反、ストライキですね。「そんなのあり得ない。おかしい。新たなものは統合的見地からいかにゃいかん。科学も宗教もない。神と物質、神と科学は本来ひとつのもんだ」こういう意見、これを国内で説いておったんだけども、だんだん異端視されるようになってきた。異端視されて差別されるようになってきた。 それで次第に説得が進みましてね、「この国をそんなに、この星をそんなに乱す必要はないんではないか。もしやりたければね、そういう実験をやってみればいいじゃないか、自分たちで。他の星へ行ってやってみなさい。科学と宗教とが融合するような立場、創ってみなさい。そういう文明創ってみなさい。科学と宗教が融合するような文明創ってみなさい。やれるものならやってみろ」と、まあこういうわけだな。こういうように言われた。「やれるもんならやってみろ。よそへ行って。ここでやらんと、よそへ行きなさい。よその星でやってみい」って、こう挑戦状を叩きつけられた。 その時の指導者が、その時に、「うん、そこまで言うんなら、よし、ひとつやってみようか」まあこれがエル・ランテイーという指導者であったわけだけども、「ひとつやってみよう」というんで、もうバチバチ宇宙船団つくったわけですね。宇宙船をつくって、飛行計画つくってね、「よーし、ぼくたちは、神の心と科学の心を両方伝えるために、このベーター星を脱出して、未知なる緑の星、水の星に向かうぞ」こういう同志を募った。そしたら六千万人近い人が応じてきたんですね。五十億人のうちの六千万人。まあ、ちょっとした中国程度の人数でしょうか。その程度が応募してきた。その中には科学者が非常に多かったです、ね、科学者が多かった。けども、まあそういう人たちを引き連れて、大船団組んだんですね。大船団を組んで脱出してきたわけですね。そして新たな星を求めて出てきたわけです。 まあ、それは魂がわかれたと言ってもいいでしょう。その星ではある程度もう、進化というかね、魂学習が終わったんで、新たな魂の試練を求めて出てきたと。まあこういうふうに考えてもいいかもわかりませんね。 で、出たのは出たんだけども、まあコロンブスの航海、マゼランの航海と一緒でございまして、出てしばらくすると、みんな寂しがり始めましてね、ホームシックになって、「家へ帰りたい。うちへ帰りたい。どこへ行くやらわからないのに、ただあのとき妥協してね、みんなの言うこと聞いてじっとしておりゃよかった」って、「こんな清教徒革命じゃあるまいし、メイフラワー号に乗って出ていくの嫌だった。ああしまった」ってね、こう言ってる。 ただ、指導者は非常に賢い人であったから、そういうことも見越してね、大きな母船をつくって、その中にもう。土も入れたしね、湖もつくるっちゅうぐらいの大きな気持でね、つくって、そして動物、植物全部持っとったんですね。ノアの箱船の原型。すべての文明の原点ね、そういうものを持っておった。だからまあそういう大農場も船の中にあると。こういう状況で、人工照明をつけてね、大農場をつくっておった。まあそうして人びとの寂しさから、気をまぎらわそうとした。 そしていつもいつも、希望の原理を説いておったわけですね。「もうすぐ着く、必ず着く」みんな「もう五年たった」って言って、「もう信じられない。帰ろ帰ろ。あと何年かかるか分からんのに帰ったほうがいい」「しかしぼくの調査によると、あと五年で着くはずだ。それは素靖らしい星だ」「素晴らしい星って、おまえ見たことあるのか、行ったことあるのか」って、「いや、行ったことはないけれども、幽体離脱して霊視して来たことはある。飛んでいってね。霊の体で見てきたことがある。だから間違いない」そしたら「おまえの霊能力なんか当てにならない」と、まあこういう人もいたね。 まあだから、船団の中には一部は途中で引き返したのがおりました。はっきり言ってね。もう引き返す」って、引き返して、引き返してどうなったか知らないよ。迷子になったのもおるかもわかんない。私は知らないけどね、そういうのもいます。だけど、まあ一応大編隊で、一隻(いっせき)に一万人ぐらい乗る船で、六千艘(そう)ですかね、そのぐらいの大編隊組んで渡ってきましたね。その中では、旅の途中で死んだ人もいましたでしょう。まあいろんなことありました。 5.ベーター星からの脱出 以上で、べー夕ー星からの脱出の話もちょっと致しましたけども、こういう脱出の問題っていうのはね、今後の人類の未来史を考える上で非常に意義があるんですね。やがてこういう現象が、目の前に出てくるであろうと思われるんですね。おそらく地球からの脱出ということもありうるであろう。地球の中で魂がわかれてね、また他の星へ向けて、転生していくこともあるであろう。まあこういうふうに思うわけですね。新たなユートピアを目指していく。過去いろんな移民がアメリカヘ行ったように、ブラジルに行ったように、他の星へ行くこともあるであろう。こういうことが、私は言えると思いますね。 このベーター星からの脱出の時の教訓としてあげられることは何かというと、いくつかあるんですね。教訓としていくつかある。その教訓のひとつはね、結局こういうことですね。うーん、まあ大きな判断の時期っていうのがあるっていうことですね。妥協的に、とにかく現状でいいという生き方もあるけれども、大いなる挑戦の時、チャレンジの時っていうのは必ずあるんで、魂がもう一定以上進化しなくなった時には、思い切って環境を変えるということ、これも大事であるということね。そして、自分たちのところのユートピアだけじゃなくて、そのユートピアを他の世界へも広げるということが、宇宙全体の進化にもつながるんだということね。これは大事なことですね。 また魂にとっては、新しい経験ていうのがどれほど意味があるか、意義があるかね、こういうことを知らなければいけない。魂にとっては、新天地というのは非常に大事なんですね。ですから地上のみなさんも、同じ環境でね、同じような生き方だけするんじゃなくて、環境を変えてみて、新たな魂修行をいつも求めるような気持ね、こういう気持は大事ですよ。決して現状に甘んじてはいけないね。もっともっと自分の魂を磨く場があるんじゃないか、向上させる場があるんじゃないかと、まあこういうね、考え方は大事ですよ。もっと綺麗(きれい)な女の子がいるとこがあるんじゃないか。まあ、こんな話はちょっと違いますがね。まあこれ冗談ですが、もっと魂を向上させる場があるんじゃないかと、こういうように考えていいと思うんですね。 ただこの時に決意と、何というか不屈の、不撓不屈(ふとうふくつ)の心ね、これが大事ですね。みんなやっぱり気が弱くなってきますからね。このへんが指導者の信念が大事な部分だと、ぼくは思います。信念がないとね、物事は何事も成就しません。決断と実行ですね。これが大事ですね。だから指導者の条件は、決断と実行ですね。だから指導者っていうのは、我慢する時は我慢するけれども、いざ決断する時はスパッと決断してね、行くべき時はドンと行かなきゃいけない。これを忘れちゃいけないね。優柔不断ていうのはいけませんね。 だから、悩みの時に現状維持は結構ですが、それがいつもの現状になってしまうと優柔不断で、いつも「ああでもない、こうでもない」と、要するに、いつも「ああでもない、こうでもない。ああでもない、こうでもない」ねえ、「太陽もいいけど、月もいいよ。女性もいいけど男性もよくて、あの子もいいけどこの子もいいわ」ねえ、そんなことばかりやっておっては、魂っていうのは飛躍のチャンスを逸してしまうんですね。だから、ひとつ決断したときにね、思い切って飛び出してみる。こういうことが大事だと思いますよ。ひとつの星から脱出するのに比べりゃ、あなた、地上で決断することなんか簡単なもんですよ。ねえ、出家の決意なんていうのもありますが、そんなの大したことありません。簡単なもんですよね。 そういうもんで、みなさんね、やはり人類の故郷(ふるさと)、私たちの魂の故郷というものを振り返った時にね、先輩たち、人類の先輩たちはそれだけ大きな勇気を持ってね、果敢(かかん)に行動したということね。これに対して、大いなる尊敬の念を払わにゃいかんよ。彼らの勇気ある行動なければ、君たちはないんだよ。君たちの現在はないんだ。自分たちの先祖は、それだけのフロンティア精神とパイオニア精神だな、これを持って来たんだ。君たちは今、そのフロンティア精神持っとるか。そのパイオニア精神を持っとるか。小さな自分になってないか。つまらない自分になってないか。停滞の自分になってないか、ね。そんな遙(はる)かなる星から、十年の月日をかけてね、大船団組んで飛来して来た。この時の意気込みね。どんな気持だったかわかるか、ね。 そういう自分の魂の故郷、大昔っていうのを思い出してみなさい。そうすると、現在の自分て何て小さなことを言っておるか。姑の嫁いびりとかね、「あーボーナスが今月は二千円少なかった―」とかね、「あいつも俺より早く係長になったあ―」とかね、言ってるけど、じゃあこの大いなるべー夕ー星からの脱出というロマンからみたら、何だそんなもの、ねえ、つまらんじゃないか。もともと諸君らの心の奥には、そんな大きな理想とロマンがあったんだぞ。それを忘れ去って小さくなるな。ちっちゃなちっちゃな人聞になっちゃいけない、ね。現状を当然と思っちゃいけないよ。人類の歴史を二千年だと思っちゃいけないよ。もっともっと古いんだよ。もっともっと古くて、いろんなものが、いろんな経験を経てね、現在に至っておるんだ。 そういう原点に帰るということは、いつの時代でも大事なことだとぼくは思うよ。原点を知るということね。人類の原点は、結局フロンティア精神、ね、パイオニアスピリッツ、ね、こういうことだったんだ。君たちも決してそれを忘れちゃいけない。これから未知なる世界への探険に出て行くんだな。今までないような世界観、これの確立、それを広げていく。こういう仕事をしているんだけども、その時にね、パイオニアの気持と、フロンティア、フロンティアって言うのは、まあ前線だな、前線基地の開拓だな、開拓精神だよ。これを忘れちゃいけない。切り拓いていくという気持ね。大事だぞ。 かつて先祖がそうして地球に来たんだ、ねえ。大船団を率いて、初めて地球の上空に来た時の、あの感激が君たちにわかるだろうか。この青い水に包まれた星。地球がクルクルと回ってるの見たときに、バンザーイ」っていう声が、どれだけ聞こえたかわかるかね。バンザーイっていうのは忘年会の時だけにやるんじゃないんだ、ね。そういう時もあったんだよ。 その大きな感動から言やあ、小さい小さい自分であるということをね、恥ずかしく思わにゃいかんよ。ちっちゃくまとまっちゃいけない。もっと大きな理想をもって、どんどんできるだけ大きな人生を生きていく。そういう気持を大事にしてください。現状の小さな悩みの中に閉じ篭(こも)らずに、そこから大いに脱出してください。 まあ、それだけをお願いして、本章は閉じることとしましょう。
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目次 1.私は七千年前のインカ帝国の王 2.私は神の根本法を説く霊系団の一人 3.今後説かれるべき「根本法」について 4.地球最後のユートピア実現の基礎づくりに尽くせ 5.地球規模の大災害の到来とその超克について 6.天意、人為による地球上の変動には時間差がある 7.闇夜を照らす一本の蝋燭の灯たれ 8.宇宙界人の存在様態について (一九八五年五月四日の霊示) 1.私は七千年前のインカ帝国の王 ― 古代語が長々と続き意味不明 ― 善川 あなたはどなたですか。お言葉の様子では、古代インドのお方のようにお聴きするのですが―。 ― そうでないという身振りでいぜん古代語が続く ―。 善川 それでは、これはギリシャ語でお話されているのですか。 ― いやいや、そうでないという身振りで語り続ける。 善川 南インドの古代パーリー語でお話されているのでしょうか。 ― いぜん古代語が続く ―。 善川 日本語でお話ねがえませんでしょうか。私どもでは何語か判りかねますので。 ― ワ、ワタクシハ、ワタシハ……。 善川 インドの国ですか? ― イ、イインデ、イインデ、インデ……。 善川 インディオの国ですか。 ― ワタシハ、インカ、インカ、インカテイコクニ、ウマレタモノデス。 善川 今からどのくらい昔に、そのインカの国に生れた方ですか。 ― インカ、テイコク、ノ、オウデ、アリマシタ。イマカラオヨソ、七センネンマエニナリマス。 善川 なんという王様ですか―。 ― ワタクシノ、ナハ、リエント・アール・クラウド、リエント・アール・クラウド。 善川 リエント・アール・クラウドという王様でいらっしゃいますか。 クラウド そうです。 (注・この時点でO川OOの言語中枢を使用することが充分できるようになった) 善川 その方が、つまりあなた様は、いま天上界ではどの辺においでの方なのですか。 クラウド 私は、今、私の言葉を伝えているこの者とは、いわば魂の兄弟です。 善川 過去世において「神法」を説かれた方のお一人ですか、それとも政治だけをされていたお方ですか。 クラウド 私の時代には、いわゆる、祭政一致といいますか、「政(まつりごと)」は即ち宗教でもありました。 善川 その頃のインカ帝国では″太陽神″を信仰しておられたのですか。 クラウド そうです。 善川 何か教えの中心になるものがございましたか。 クラウド 人はどう生きねばならぬかというような教えが中心に説かれました。その当時の人達は、現在のあなた方に較べれば、はるかに神理を知っておりました。彼らは、生きながらにして、あの世、われわれのいまいる世界の人達と話ができるという能力を持った者が多く、私はその長として、インカの国を治めておったものです。 善川 それでインカの国が滅んだのは、最後は白人の攻撃によってなされたのですね。 クラウド わたしのインカの国は、今から七千年も前のこと、減んだインカはごく最近のインカのこと、文明としては既に衰え果てた文明であります。 善川 その頃のインカの人びとはどうなったのですか……。 クラウド インカの人びとは、その後また多く生れ変わってきております。 善川 インカの方がたは、その昔アジア大陸から、アリューシャンを渡っていったという説があるのですが、そういう経路を辿って民族が移動したのですか。 クラウド 必ずしもそうではありません。アジア民族よりも古いものです。 善川 それでは、インカ民族として独立誕生したのですか。 クラウド 古代アトランティスからもかなりの人間がインカの国へ逃れて来ました。また、ムーという国もありました。ここからも人びとが流れて来ました。それがインカ文明の源流であります。 善川 そのアトランティス、またはムーという大陸はいつごろ沈没したのですか。 クラウド アトランティスは今から約一万年前。 善川 ムーは、もっと古いのですか。 クラウド ムーは一万五千年ほど前です。 善川 その時に、そういう大陸の国々から人びとが渡って来たというわけですね。 クラウド そうです―。元からインカにいた人達もおりました。けれども、そうした文明を持った方々が、インカという国に流れ込んでくることによって、新たな文明が興きていったのです。 善川 その頃のアトランティスなり、ムーの大陸の方々の文明というのは、どの程度のものであったのでしょうか。 クラウド 非常に高度な精神文明を持っておりました。たとえば、テレパシーによる通信というものも可能となっておりました。 善川 科学文明の方はどうでしたか。 クラウド 科学文明も現代とは変わったものではありますが、非常に優れたものを持っておりましたし、海にも潜れば、空も飛ぶというような状況でありました。 善川 それは機械を使ってですね。現在でいうならば飛行獄とか、潜水艇とかいうようなものですね。 クラウド 形は違うが似たようなものです。 善川 自然科学の発達した所産として、そのようなものがあったのですか。 クラウド 自然科学というものではなくて、ムーとかアトランティスにおいては精神科学と自然科学とが一体となって進歩していたのであります。 2.私は神の根本法を説く霊系団の一人 善川 現在あなたは天上界におられるわけですね。そうすると、われわれの認識では、次元を一応十段階に分けて考えておりますが、あなたはその何段階ぐらいにおいでの方なのですか。 クラウド あなた方が九次元と呼んでいる世界です。 善川 そうですか、そんな高いところにおいでになる方ですか。それではお伺いしますけれども、私がいま一つの関心を持っていることは、本体と分身との関係ですけれども、現在肉体を持ってここにいる霊との関係はどういうことになっているのでしょうか……。 クラウド 私の魂の兄弟です。 善川 「魂の兄弟」ということは、本体と分身という概念とは違うのですね……。 クラウド 兄弟という意味と分身という意味と、あなたの頭の中では混じって、おかしな考えとなっております。兄弟という言葉は元は一つであるが、個性が違うという意味です。―分身というのは、同一個性をもった人間が、一人が何回も、何人にも分れて現世に生れてくるということであります。 善川 そうしますと、あなた様と、ここにいる霊との関係は、どうなるのでしょうか。 クラウド 同じ目的のために作られた魂の一人であります。神はさまざまな目的のために天使達を作られました。そしてたとえば「法」を説くために作った天使があります。そして同じ目的のもとに何人かが組をなして作られているのです。 たとえば、愛を説くという目的のために生れた人達もいます。たとえば知恵、知力をもって世を強化していくために生れてきた天使たちもおります。 あるいは、奇蹟を起こしていくということを目的に生れた天使たちもおります。医術を施すとか、芸術を盛んにするとか、その他さまざまな目的があるのです。それも神のいろいろな御意(みこころ)の顕れ方であります。 たまたま使っている兄弟とか、分身とかいわれる魂系団は、もちろん一般の方がたの魂の兄弟とは意味が違います。そういう魂の集団と申しますか、何人かのグループ、役割を持ったグループというのがあります。たまたま、私とか釈迦牟尼とかいう魂は、「法」を説くために何千年かに一回、法を説くという使命のために作られている魂の兄弟なのです。その目的において一つだということであります。 また、愛を説くためのグループがおります。これが、あなた方もご存知の、イエス・キリストのグループであります。彼にも魂のグルーープがあるのです。 善川 イエス様は、それ以前には何処でお生れになって、なんというお名前でありましたか。 クラウド イエスはエジプトの地に、クラリオという名で生れております。 善川 イエス様の一代前の方はクラリオという名でエジプトに―では二代前の方は何処でなんというお名前の方でしたか。 クラウド イエスの先々代はアトランティスに生れております。やはり同じような王であって、彼の名前はアガシャーと呼ばれたものでした。 善川 その方は今から何年ぐらい前のお方ですか。 クラウド 一万年を少し遡るくらい前のことです。 善川 魂の傾向としては、やはりアガシャーも神の愛を説かれていた方ですね。 クラウド 愛を説いておりました。彼のグループはいつの時代にも、愛を説いております。 3.今後説かれるべき「根本法」について 善川 今後予想される新しい時代の方向といいますか、その教えの基軸となるものはなんでしょうか。 クラウド やはり中心は心の教えであり、この三次元と他次元空間との関わり合いを解明するということが第一義となりますが、第二義、第三義として、やはりこの現代の世を解明していくための社会学なり、経済学なり、心理学なり、さまざまな幅広い学問領域を越えた教えというものが必要となってくるでありましょう。これまでのような宗教では、現代の人たちを救うことはできないのです。 現代には現代のさまざまな困難や悩みがあります。それは高度に発達した社会、文明、高度に発達した経済、こういった中において人間の悩みが生れているからです。原始時代の人間の素朴な悩みでは済まないのであります。あなた方は人間の心の悩みを解決するとともに、この文明を如何なる方向に進めていくかという、大きな指針を打ち出していかねばならないのです。 善川 個人の力だけでそのような幅広い教えというものが説けるでしょうか。 クラウド 少なくとも器自体は自分が作らなければ誰もつくってくれません。 善川 しかし、かなり専門的知識というものが必要になってくるのではないでしょうか。 クラウド そうでしょう。たとえば今日の宗教家の中で、世界経済に対して意見を言える人がおりますか。たとえば政治制度について、どれだけの意見が言えますか。法組織に対して、どれだけの意見が言えますか。株式会社制度に対して、どれだけの意見が言えますか。未来のあるべき社会の相に対して、どれだけのことが言えますか―。今の宗教家達のうちの、いったい誰が未来の。ユートピアの″相(すがた)″を説くことができますか―。 必要とされているのは、来たるべき未来社会の相であり、来たるべき未来社会の中で、人間が如何に生きていくべきかということなのです。 4.地球最後のユートピア実現の基礎づくりに尽くせ 善川 ユートピアというものは、人類の永年の夢であり、希望であり、目的であるわけでありますが、しかし、そのユートピア実現ということは、そうたやすく行われるものではなかろうと思うのでありますが―。 クラウド しかし、今その時期が来つつあるのです。高度に発達した文明、文明の利器、通信、経済、交易、こうしたものによって、いま地球は一つになろうとしています。五百年前に可能でしたか、千年前に可能でしたか、二千年前はどうですか、不可能でありましょう。宗教もまた地球的な宗教となるべき基盤はできてきているのです。このような文明の発達なしには地域宗教としての制約をまぬがれることはできないのです。いま世界は一つになり、地球は一つになり、新しい地球文明の中の一つの大きな宗教というものが、生れるべき素地ができてきたのです。 いまユートピアが出現すべき時期が来ているのです。地球自体がユートピアとなるということ、これが最終ユートピアです。地域、地域のユートピアを目指す動きは、今までもあったでありましょう。けれども、地球一つが、地球全体がユートピアになるという時期は、今のこの時期を逃がしてはあり得なかったということです。 5.地球規模の大災害の到来とその超克について 善川 ここで今一つ、裏の面で懸念されていることは、地球規模の破壊ということですが、このようなことについては、どのようなお考えを持っておられますか。 クラウド 創造の前には″破壊″があるでしょう。古いものを壊していかなければ、新しいものは建設されません。破壊という一局面だけを捉えれば、それは非常に悲惨なものとなるかも知れませんが、新しいものを生み出していくための脱皮であります。神は手荒い大工であり、作業人であります。 善川 ということは、人為的に行われることでしょうか。それとも天災として行われるのでしょうか。 クラウド すべてです。 善川 そういうことが行われるということになると、地球は致命的な大損害を受けることになるのではないでしょうか。 クラウド しかし考えてみなさい。新時代を迎える時期には、いつも共通の目的なり、危機がある時ではないでしょうか。たとえば、よくない例ではありますが、戦争という目的があれば国民が一つにまとまった、そういうこともあるでしょう。しかし、地球的な規模の災害や困難が来た時に、はじめて世界人類は手を一つに携えて、みんな共に頑張っていこうということが起こるかも知れません。それまでいがみ合っていた者達も、危機に際しては一丸となり、それに立ち向かおうとするかも知れません。 善川 天災に当たっては、そういうことも考えられるかも知れませんが― 人災ですね、人間同士のいがみ合いという、そういう形で現われる場合には、団結などということは、むずかしいのではないでしょうか。 クラウド いやそれもまた同じことです。 善川 では、相手国同士の憎しみ合いのもとに戦いが行われるということになり、それも大国間同士ということになれば、これはもう止めようもないという状況下におかれるのではないでしょうか。 クラウド しかし、それも戦争の形態としては、もう最後なのです。今までは、小さな村や小さな国の中で争いがあったでしょう。それが隣国同士の国の争いとなり、地球の裏側同士の国の争いとなり、そして、その段階が終わった時に、次は何がありますか、もうないのです。 善川 しかし、ご承知かとも思いますが、今日の戦争は、過去の戦争と違いまして、いわゆる核戦争という悲惨な戦争が行われるわけでありまして、それが現在、各国が保有している核戦力は大変なもので、一発いずれかの国が発射したら、後は交互のつるべ射ちの状態となり、その結果、地球上は、人類はもとより生き残れる生物というものは何もないという状態となるのではないでしょうか。 そのような状態の中で、そこにどのような反省が残り、どのような。ユートピア建設が夢見られるというのでしょうか? クラウド ―あなたは、本当にそういう結果を信じているのですか。皆殺しになると本当に思っていますか? 最後の一人までいなくなるまで殺し合いをすると思いますか。そこまで人間の理性を信じられませんか―。 善川 これはまあ想像の域を出ないのですけれども、いずれかが、あるいは両方の国が再起不能な状態まで行かなければ終わりにならないのではないか、その間には当事者同士は別として、第三者がそばづえを喰う被害を受けるということになると思うのですが。 クラウド そうしたらどうなるわけですか。 善川 従って、いわゆる先進国といわれる文化の発達した人類がほとんど犠牲になってしまって―。 クラウド そうしたらどうなるのですか。 善川 そうしたら残るのは、アフリカであるとか、アマゾン地帯であるとか、あるいはチベッ卜の奥であるとか、こういうふうな、民度の低い未開の地の人類だけが生き残るのではないでしょうか? クラウド そうしたらどうなるんですか。 善川 そこでどうして新しい文明が生れるというのでしょうか。 クラウド できて来ないのですか。 善川 出来てこないです。 クラウド どうして出来てこないのですか。 善川 彼らの文化水準が低いために―。 クラウド あなたの考えは、非常に単純化された考えであります。では私がさきほど申しあげましたインカの帝国の発展はどうなりますか。アトランティスは一夜に沈みました。どこが違うのですか。彼らの一部の人間だけが逃れて来ました。そしてアンデスの地にまた新たな文明が興りました。神の描かれた世界計画は、形は違っても、いつも本質は一緒なのです。アトランティスは不幸かも知れません。しかしインカの国は栄えました。インカもやがて滅びました。しかしこんどはギリシャの地に、そしてヨーロッパに、アメリカにと文明は広がっていきます。 古い文明は滅びていくのです。新しい文明が興るのです。それによってこそ人類の大いなる進化も、地球という神の創られた″磁場″の進化もあるのではないでしょうか。一つの地域に永遠に文化が栄えることが本当の進化でありましょうか。 アトランティス人であるならば、神はなぜ、この大陸を一夜にして沈めなければならないかと、天を呪ったことでありましょう。しかし、神の何百万年、何億年という眼で見た世界計画は、彼らにはとうてい分らないのです。一夜にして没した大陸の中には、善良な人達もいたのです。優れた人達もいたのです。宗教家も、神学者も、哲学者も、経済学者もいたのです。善良な家庭、家族、よき父、よき母、そしてよき子供達もいたのです。彼らはみな海の藻屑(もくず)と消えて行ったのです。 なぜでしょう、なぜそんな悲惨なことが起きたのでしょう。しかし、神の眼から見たらそれは悲惨ではないのです。大いなる進歩の前の荒療治なのです。そして、神はもっともっと大きな眼で見ておられるのです。神はこの地球の上の人間の生死というものだけに、それほど大きな配慮はしていないのです。なぜなら、人間は永遠の生命を持っているからです。 人間は何億年、何十億年と生きてきたのです。そのうちの僅か六十年、七十年という時をこの地上のある地域に住んでいるというだけのことなのです。大きな眼からみれば、そのまま七十年の寿命を完うしたことが、その人の魂の進化にとってプラスになるのか、あるいは三十年、四十年の厳しい人生を生きたことがプラスになるのか、これは分り兼ねることです。 そういう危機、あるいは戦争を経験するということも、永い眼でみれば魂のどこかの面で進歩のために役立ってはいるのです。戦争を知った次の世において、はじめて平和の大切さというものを考えることもあるのです。 もし、人間に永遠の生命というものがないならば、これは不幸であります。神は決して戦争を許してもいけないし、大陸を沈没させてもいけないのです。そうでしょう―。 6.天意、人為による地球上の変動には時間差がある 善川 そういう時期について預言者といわれるノストラダムスが予言していますが、一九九九年がその時期に当たるのでしょうか。 クラウド まあ今後、いろんなことが起きるでしょう。それは数十年のうちに起こるでしょう。 善川 それは一度に起こるのでしょうか。または、段階的に起こるのでしょうか。 クラウド それは言えません。けれども恐らくは、あなた方が生きているうちに一部それを見、それを聞くことになるでしょう。 善川 しかし私たちは、そのような事態の到来ということについての心の準備といいますか、自らを省みて神のみこころを再認識するという、そういう自覚を促す段階にあって、特別な任務につく時機ではないでしょうか。それとも、それには未だ時間が早過ぎるというのでしょうか。 クラウド 早過ぎるということはありません。任務があるのは当然です! 善川 私たちはその時期を迎えるまでの人びとの心づくりというか、心の準備を説くというのが大きな任務となるのでしょうか。 7.闇夜を照らす一本の蝋燭の灯たれ クラウド 闇夜の法燈であります。世界が闇に沈んだ時に、どこかで光が必要なのです。光が射してくれば人びとはそれに向かって歩んで行けばよいのです。光は大きな光である必要はないのです。世の中すべてを照らす程の光など、あなた方に持てるけずはないではないですか。しかし世が闇夜となった時に、たとえ一本の蝋燭の灯であったにせよ、光があるということは、人びとに進むべき道があるということです。一本の蝋燭の灯であってよいのです。 法燈を点(とも)しなさい。照らしなさい。さすれば道が見えます。世の中すべてを光らそう、照らそうとすれば無理が起きます。それはあなた方の任を超えたことです。闇夜の一燈となりなさい!真なるものがどこかに、この地上にあればよいのです。 善川 そういう方向というものは、いま新たに私たちは認識されるのですが、さて私が、どのような灯を点すかということになると、その灯の選択にまた惑うのであります。蝋燭を点すか、あるいは懐中電灯によるか、あるいは燈火にするか、あるいは百燭光の電球にするか、どういうものを点したらよいのか、今のところ定かでないのです。 われわれにどれだけの灯を点さなければならぬ任務があるのか、われわれをご指導下さっている指導霊の方々におたずねせねばならぬと思っております……。 クラウド あなた方には、あなた方のできる範囲のことをやっていきなさい。その後のことは、その後の人たちがやっていくでしょう。 あなたはいま、蝋燭の灯を点すか、懐中電灯にするか、電球にするかというようなことを言っておりますけれど、よいのです。あなたはあなたで蝋燭の灯を点ければよいのです。迷うことはないのです。あなたは、あなたがやれる灯を点せばそれでよいのです。 他の人間はまた、他の光を点すでありましょう。あなたはあなたでよいではないですか。あなたにとっての蝋燭は一体何であるか、それはあなたが一番よく知っているはずです。他の人間には分りません。あなたにとっての蝋燭を探せばいいし、あなたにとっての懐中電灯を探せばよいのです。懐中電灯をあなたが照らしたからといって誰も怒りはしません。蝋燭の方が良かったのにとは言いません。懐中電灯は懐中電灯でよろしいです。蝋燭の灯を点す人は、他に出てくるでありましょう。それはそれでよいではないですか。 あなたにとっての蝋燭、あなたにとっての懐中電灯は何かということを、自ら問い、自らみつけなさい。あなたが一番知っています。教わるのではなくて、あなたが知っています。あなたができること、あなたに不可能なことをやれといっても、できるわけはないのです。あなたに出来ることといえば、自ら限られているはずです。それを選ひとりなさい。 それ以外の方法、いくつかの方法があるでしょうが、それはあなたには縁のない方法であります。 善川 とりあえず、私にとって出来ることは、新しい時代に向かっての、新しい教えが始まるんだという、警鐘を打ち鳴らすことが、精一杯のことだろうと思いますが―。 クラウド それで結構です。 善川 その警鐘は、どのような槌で叩けぱよいかということも思案となります。 クラウド その槌は天から与えられます。あなたはその槌で、警鐘を叩けるときに叩けばよいのです。一回叩こうが、五回叩こうがよいのです。やれるだけのことをやりなさい。 善川 いま私たちは、あなた様からお教え願ったこの世の将来像なり、世の人びとに、醒めなさい、その時はもう迫っているのです、と訴える警鐘を打ち鳴らさねばならぬということにつきましては、自身非常な驚きと不安、そして悩みとも哀しみとも名状しがたい感懐が胸裡に渦巻き去来するおもいにさせられております。 クラウド それはあなたにとって、不安、悩みとなっているようにも思えますが、それはあなたの全人格にとって、永い眼でみるならば、苦しみだか楽しみだかわかりません。そのような時代に遇って、警鐘を打ち鳴らせることを、すくなくとも光栄と感謝しなければなりません。そんな大きな心を持ちなさい。蚤に噛まれたら、もう今日明日にも死ぬような、そういうふうに思う人もいるし、蚊に血を吸われたらすぐマラリヤを患って死ぬのかと思って大騒ぎする人もいるし、それはその人の自由でありますが、それは自分の永遠に続く全魂から考えてみて、よく判断することです。 8.宇宙界人の存在様態について 善川 実在界を認識する意味での勉強のため、お聴きしたいのですが、あなたが常時おいでになられる九次元というところは、どういう世界であり、またそこにおいでの方達はどういうお姿で生活されておられるのでしょうか。 クラウド 九次元の世界は、もはや地球を超えております。九次元世界の住人は、もちろん地球において肉体を持ったことのある人もいますけれども、太陽系および太陽系以外の世界にも広がっております。われらはもう星というものを超えております。 善川 そうしますと、現在のこの瞬間においてあなた様は、この三次元世界へおいでになっておられるわけですか、あるいは、そうではなく、九次元の世界からご意志を伝達されておられるのでしょうか。 クラウド 適切な言葉が見当たりませんが、というのは、あなたはまだ物体的なものの見方で、われわれの意識、魂を観ようと考えているからです。もうここに在るのは「念」だけなのです。″想念″だけがあるのです。あなた方に分りいいように三次元には肉体があり、四次元には幽体があり、人間的な形をとっているけれども、これは一つの便法であって、そうしないと、自分とか他人を認識できないから、そうした形を「神」がお与えになっただけで、われらの世界に来るならば、そうした″体″ではなくて、意識とか念だけが存在しているのです。 それを人間的に解釈し直すと、それぞれの肉体を持ったような姿に見えるだけのことであって、そのようなものはないのです。念だけがあるのです。その念が、いま九次元にあるのか、三次元にあるのかといわれてもこれは非常にむずかしいことであります。念だけがあるのです。三次元世界を思っている私があるのです。わかりますか。まだあなたは形態というものに執われているのです。 善川 われわれ三次元の人間は、一応形態を通してものごとを認識するようになっております。しかしまた高次元の世界を認識しようとすれば、それは「念」という形而上世界を直観によって把握しなければならないということも考えております。 クラウド リエソト・アール・クラウドという名称で表わされているエネルギー体があるのです。リエント・アール・クラウドという名で称ばれている、たとえば「電磁波」があるのです。″電波″があるのです。リエント・アール・クラウドという電波なのです。この電波は、三次元に向かって放送されると、お聴きになっているような意味をもった言葉となるのです。九次元の世界で放送(放射)されているのが通常の状態だということです。電波(霊磁波)だと思って下さい。 善川 あなた様のおられるその九次元世界には、イエス、モーゼ、エル・ランティー様などといわれる方がお出でになられますか。 クラウド おられます。 善川 そういう″念″が常におられるわけですね。そういう方々には何かコミュニケーションというか、互いの意志を通じ合わせるというような会話とか、あるいは意志の交換とか、そういうことはされているのですか。 クラウド しております。 善川 たとえば地球なら地球の、さきほどお話のあった戦争なり、地殻変動などに関しての人類の指導方向などについてのご協議とか……。 クラウド しております。ただあなたが認識するような人間的な形ではありません。今あなたに言っても、想念だけがあるとか、意識だけがあるといっても、恐らく分らないでしょうね。手近な分るような形をもって言うとすれば、もやもやとした″ガス体″が相手を認識するのに、たとえば、古代インドの姿で考えてみたり、古代エジプトの姿で思い描いたり、その対象者を認識しようとする主体者が、いろいろと焼き直して考えてみるだけです。だが、そうした容体というものはどこにもないのです。 在るのは意識、愛に充たされた意識、慈悲に満たされた意識、法に満たされた意識、知恵に満たされた意識、こうしたものだけがあって、この愛なり、知恵なり、法なりを、九次元から八次元へ、七次元へ、六次元へと、放射しているのです。 善川 アモンといわれる方や、天之御中主といわれる方は、如来界においでになる方ですか、この方々は私たちをご指導下さっている方々ですが。 クラウド そうです。広い意味での如来界の高級霊です。 善川 それではどうも、本日は私どもの上に壮大かつ深遠な神のご計画なり、私どもの使命なりについて、ご教示を賜りましてありがとうございました。
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目次 1.ゼウス亡きあと 2.アポロンのめざめ 3.そして悟り 4.最初の神示 5.ゼウス信仰 6.オリンポスの太陽 7.最後のメッセージ (一九八九年八月二十二日の霊示) 1.ゼウス亡きあと 全智全能の神ゼウスである。こうして、我がこの書物もついに最終章を語るにいたった。 まだ、言葉尽きず、我が教え尽きず、我が知れるところの万分の一も語ってはおらぬが、それはおまえたちが、まだまだそれを知るまでに十分にみずからが練(ね)れていないせいだと思うがよい。また、心清く修行を重ねたならば、地上を去って神界に還り、我が話を聴くことも可能ではあろう。その日をめざして日々精進することだ。 さて、最終章では、私はゼウスの復活とアポロンの使命ということを中心にお話をしていきたいと思う。前章は四十七歳にして、我が地上の生命を終えたという話をした。これに関して不思議な思いを持つ者もいるにはいるであろう。全智にして全能の主が、なにゆえに四十七歳にして、地上の生命を断たれなければならなかったのか。全智全能であるならば、流れ矢などにあたって死ぬとは、これは異なこと。しかも、病気になって、最後は死ぬというのは解(げ)せないという方もいるにちがいない。 されど、おまえたちに言っておく。地上の生命はひとときのものだ。それは一瞬の影にしかすぎないのだ。ちょうど、真夏の明るい陽射しのなか、おまえたちが道路を歩いているときに、ふと鳥の影が道路を横切ることもあるであろう。このようなつかのまの一瞬の時が地上の時であるのだ。 我のごとく、すでに神格を得、いや最大限の神格を得ている者にとって、地上の生活はまことに摩訶(まか)不思議ともいうべき不自由さをともなっている。いまこちらの世界にいて、我思うところ実現せざるはなし。そのような日々を送っているが、なんと地上の人間の不自由であることよ。むしろ、大いなる使命終わりしときは、いち早く地上を去るは最上の策とする考えもあるということを忘れてはならぬ。 もし、ゼウス生きながらえて、六十、七十の命をまっとうしたとして、それがいかばかりのことがあろうか。地上の生命はやがては失われていくこととなる。そして、本来の使命に戻るのだ。我が死も、またある意味においては次なる時代への橋渡しであったと言えなくもない。 ただ、気がかりであったことは、我が地上を去りし四十七歳のときに、まだ後継者たる者の確立がされていなかった。アテナも二十代前半の女性であったし、アポロンは二十歳(はたち)になるかならないかという青年であった。まあ、肉体的には成人ではあったが、まだ精神のなかには弱きものもあったであろう。我は地上を去ることによって、アポロンは己(おのれ)の使命を自覚するにちがいないという気持ちもあった。 2.アポロンのめざめ さて、我が死んで幾日、いや幾十日かが過ぎたであろうか。とりあえずは、国政と軍事の中心はアテナが務めることとなったが、どうしてもアテナは女性、いつまでもアテナの力によってまとめていくことはできないであろうと思われた。そこで、男性であるところのアポロンが、いち早く己の使命に気づくということが急務となった。 それゆえ、実在界に還った私は、実在界からアポロンにインスピレーションを与えることを始めた。そのインスピレーションに気づいてか、気づかぬでか、アポロンはひそかに都を離れ、オリンポスの山中深く分け入り、そうしてみずからの過去をふり返り、みずからの未来をいかにすべきかを考えることにした。過去、生まれてからのち、父と母と自分とはどのようであったのか。打ち続く戦争のなかで、自分が考えたこと、またその戦争の合間に戦争と平和の間で栄えたギリシャの姿を、芸術を、スポーツを、文化を、そうしたものにも思いを巡らせた。 そして、自分が過去思ったことや、行なったことの一つひとつを思い出していった。恵まれた環境に育ちながら愚痴を言わなかったか。不平や不満は言わなかったかどうか。また、あるときには人びとからよからぬ噂(うわさ)をたてられたこともあった。 「あの全智全能の神の子でありながら、あの弱々しく美しい女性のような外見と、柔和な性格、これはけっしてゼウス神(しん)の直系の者とは思われん。きっとちがうにちがいない。ゼウス神もあのように荒々しい神であり、またヘラ神もあのように強気の女性であるから、その嫡男(ちゃくなん)であるならば、かならずやそれらしい武勇に秀(ひい)でた子供ができるであろうに、あのように芸術に耽溺(たんでき)するような子供ができるとは、これはおかしい。」国民(くにたみ)のなかには、そうささやく者があった。 そして、我がゼウス宮殿には、もちろん女性はヘラ一人ではなく、数多くの女官たちが仕えていたのは事実。女官あるいは侍女と言ってもよいであろう。美しい侍女が数多くはべっていたことは事実。それゆえに、心なき者があらぬ噂をたてたこともあった。「あのアポロンというのは、きっとヘラの子ではなく、あのなかの侍女の子供にちがいない。とくに、侍女のなかでもとりわけ美しいレトという女性がいて、これはお后(きさき)のヘラにも劣ることのない美貌だ。ゼウスはあのレトをいたく寵愛(ちょうあい)している。あるとき、レトが里帰りしたことがあったので、あれはきっとゼウス神の子を産みに帰ったにちがいない。」という噂がたてられた。 不思議なもので、神々と直接に顔を合わせる人というものは少ないものであるから、その噂がどう巡りめぐったか、アポロンはゼウスとレトとの子供であるという噂が、まことしやかに流れた。それも、生まれたあとではなく、生まれて十数年もたってからのちに流れたのである。 そういうこともあって、妻のヘラはけっして嫉妬に身を焦がしたわけではないのだが、この美しいレトを宮中から追放した。ところがそれがまた悪い噂の種となった。「ヘラ様は嫉妬をして、ゼウス様の側室を追い出しなされた。あれは女性でもあるにもかかわらず、権力闘争しているにちがいない。」そのようなことが、いろいろ言われた。 それ以外にも美しい女官がたくさんいたので、彼女らが子供を産むと、すべてゼウスの子供であるという噂が広がった。まあ、これもやむをえないと言ってしまえば、やむをえぬことかもしれぬ。 なにしろ、真っ昼間から一糸まとわぬ姿で水浴する私たちであったのだから。そのような解放的な生活をしているのであるならば、何が行なわれても、もはや秘めごととは言われないという前提はあったにちがいない。ましてや、一般の者から見れば、王宮の生活というものは羨(うらや)ましい、嫉妬に身が焦がれるような生活であったから、さぞやご自由な生活をされているにちがいないという推測があってもおかしくはなかった。 その真偽(しんぎ)のほどはいかであったか、関心を持つ者もいるであろうが、そのようなことは、人間であるおまえたちの問うような内容ではない。つまらぬことに関心を持たぬほうがよい。真偽は、ただ我は正義と愛の人であったということを信ずれば足りるのである。 このように、アポロンの心のなかには、幼いころの秘密、また長じてよりのちのさまざまな噂、それに悩むことがあった。たしかに自分は、父ゼウスと母ヘラの子であるはずなのに、容貌もゼウスには似ていない。また、母ヘラの気性に比べても柔和である。ほんとうに噂どおりレトという人の息子なのだろうか。 あるいはもうひとつのよからぬ噂は、レトの子であるというが、それも種はゼウスの種ではなく、他(た)の種が入っているという、まことしやかな噂までまかれたことがあった。それが、他の男にはらまされた子であるのに、ゼウス神がそれを知らずに自分の子と思って育てているという、よからぬ噂を立てられた。それというのも、姉のアテナがあれほどまでに勝ち気で、軍事や政治にも才能を持っているにもかかわらず、アポロンがそういうものを持っていないということへの、あてこすりも多かったであろう。 そのようなことを、さまざまに考えるにつけても、わずか二十年の人生ではあるが、心のなかに数々のくもりをつくったということを感じた。そうして、自分自身の性格のなかで、どうしても血を見るのがいやだ、という気持ちについても深く考えねばならなかった。なるほど、人間には永遠の生命はあるかもしれないが、永遠の生命があるからといって、地上に生きている生命を、剣(つるぎ)やあるいは弓矢によって奪ってよいものか。野山の動物一匹たりとて、殺されて喜ぶものはいない。ましてや、万物の霊長たる人間においておや……。そう、アポロンは思った。流血がいやだったのである。 しかし、王家の使命として、後継者となったならば血を流さねば、ならぬこともある。これをいかにすべきか。心のなかには逃避(とうひ)の思いがあった。そして、次第しだいに内向的になり、まあ、今日的にいうならばネクラの思いもあったと言ってよいであろう。こうして、アポロンは次第しだいに人の心の奥の悪を見る性格、また人を見ては殺人鬼のように見る性格、こうぃうものが出てきて、まさしく光明思想の反対である暗黒思想の持ち主のようになったこともあった。 3.そして悟り そうしたことがあったので、アポロンはオリンポス山中にて禅定(ぜんじょう)を開始し、その一つひとつについて思いを点検してみた。そうして、たどり着いた結論が何であったかというと、すべて弱さの根源にあるものは、信ずるということを忘れたところに始まっているということだった。 自分は信ずるという力が弱いのではないか。信ずるということができないばかりか、信じないという意識が強いのではないか。そして、現実は、事実は、すべて自分に不利にはたらくのではないか、というふうに考えてきた、そういう性格があった。思えば、この性格はどんどんと自分の運命を暗くし、弱くしていくことはあっても、強くすることはあるまい。なんとかして、この考え方を改めてゆかねばならない。そう思った。 そこで、さらに禅定をくり返していたが、次第しだいに心の垢(あか)がとれてきた。ものごとには光明の側面もあるということがわかってきた。父ゼウスの生き方は豪放であり、磊落(らいらく)であり、とてもまねはできないものであるが、そのなかにも自分にとって真似(まね)のできる部分もあると思われた。 それは、あの軍事においては英雄ともいうべき父ゼウスが、ときおりかいま見せたあのやさしさ、また芸術や文学への関心、霊的な思想の普及という情熱、こうしたものは自分でもできるにちがいない。そのように思った。 要は信ずることだ。オフェアリスの神もおれば、ヘルメスの神もいる。そして、もう神になったであろうと思われる父ゼウスもいる。こうした諸霊が神々の世界におられるというなら、もし我に使命あらば、かならずや我を立たしめるであろう。そう自覚したのであった。 こうして、何日か、何十日かが過ぎていったが、ある夜、彼がいつものとおり瞑想に耽(ふけ)っているときに、突如、満月に雲がかかり、また雲が晴れ、雲がかかり、雲が晴れ、満月のまわりに雲がかかったり晴れたりするようなことが続いた。彼は、その満月を眺めていて、ふと思うことがあった。 ああ、我ら人間の心もあのようなものだな。月は煌々(こうこう)と輝いているのに、雲がかかればその明るさは消えてしまう。しかし、雲が通り過ぎれば、また元の明るさだ。雲がかかろうがかかるまいが、おそらくあの月は地球からはるかに離れたところで煌々と輝き続けているのだろう。欠けることもなく、まん丸い姿で、光を放って輝き続けているのであろう。 それを、月が欠けたと見るのも、月が陰ったと見るのも、月が消えたと見るのも、すべて、これは思いのまちがいによるのだ。雲は片々(へんべん)たるものであっても、月を隠せるように見えるが、それは我ら人間の目にそのように見えるだけであって、月そのものの実相はつねに光り輝いているのだ。 おそらく人間の神性というものも、あのようなものであろう。月のように輝き続けているが、一時期その上に雲がかかるとその光が出なくなる。そうして、悪人が出たりするように思えることもあるのだろう。善悪というものは、本来あるものではなく、心にあの月にかかった雲のように、曇りがかかったときに光が射さなくなり、そうして悪人が出るように見えるのであろう。すべての人間の根本には、善性があり、この善性を覆(おお)い隠すものとして、地上のさまざまな悩みや苦しみや、憤り、怒りというようなものがあるのであろう。 わかった、こうした心のまちがいを一つひとつ取り除いていくことが、これが真実の自分自身を知るということなのだ。あの満月のような心になることを誓おう。そして、その満月は、つねに自分のなかに輝いているということを知って、たとえ人の言葉、あるいは軍事、政治、その他のもので苦しみを受けることがあったとしても、あの雲は直接に月に届かないように、私の心の奥底にあるこの実相の輝きを隠すことはできないのだということを知ろう。 一度かかった雲はかならずや晴れるであろう。あまりにも多くの雲がかかったとしても、雨が降り、風が吹けば、やがてその雲は晴れていくであろう。どのような辱(はずかし)めや苦しみがあろうとも、非難や中傷があろうとも、それはやがて通り過ぎていくものだと思って、忍辱(にんにく)の心を持とう。そうして、みずからはつねに限りなく光を投げかける存在でありたい。そのようにアポロンは考えた。 4.最初の神示 そのときに、私は天上界からアポロンヘ声をかけた。 「アポロンよ、よくぞ悟った。おまえのこの今の悟りを忘れてはならない。人間には、それぞれ個性がある。我が悟りとおまえの悟りには違いもあるであろう。しかしながら、おまえはおまえとしての最大限の悟りを得るということが、だいじなことであるのだ。おまえは、過去二十年をふり返って、みすがらが非力(ひりき)な華奢(きゃしゃ)な弱い青年のように思っているであろうが、真実おまえ自身の魂の力は巨大なものなのだ。おまえは自分の魂の偉大性にまだ気づいてはいない。」 「おまえの魂は過去幾転生の過程で、地上に出てはいつも多くの人びとを導いてきた。そういう魂であるのだ。そうした偉大な救世の魂がおまえであるのだ。おまえは、もっと強くならねばならない。おまえを強くするものは信仰の力である。信ずる心なくば、人間はただの地上の肉片にしかすぎなくなる。しかし、信ずる力あれば、地上にありても神と同一の力を持つことはできるのだ。おまえは、その力の実在を信じなければならない。おまえはその力の臨在を信じなければならない。」 「今日よりのち、私はおまえを指導するし、いや私のみならず生前私を指導していたところのヘルメス神(がみ)や、またオフェアリス神(がみ)もおまえの指導をすることがあるであろう。また、おまえはまだ名前を知らないであろう他の神々が、おまえを指導することもあるであろう。」 「我は生前、あのハデスの反乱によって、クラリオという名のエジプトの神は邪神であると思っていたが、いま実在界に還ってきて話をしてみると、この神も偉大な神であることがわかった。そうして、その教えが単にただ、正しく伝わっていないだけであるということがわかった。こうした偉大な他国の神も現にいるのだ。そうした神々もおまえが気づこうが気づくまいが、陰になり日向(ひなた)になって、おまえを指導するであろう。そのことを信じよ。今日よりのち、おまえは百万人力だ。けっして自分一人で仕事をすると思うな。」 「また、アポロンよ、おまえは自分の軍事的能力の欠陥、流血を見ることがいやだという性格に対して、深く反省をし、またそれが自分にとって今後苦しい選択になると悩んでいることであろう。しかし、ギリシャにはおまえの使命を助ける者が大勢いる。おまえ一人の力では為すことができなくとも、他の者の力を借りるならば、かならずやおまえは、みずからの使命を果たすことができるであろう。これから都に帰りなさい。都に帰ってまずおまえの協力者を募(つの)りなさい。おまえの弟子たちを集めていくのだ。」 「そう、おまえは軍事が苦手だと考えているかもしれないが、ギリシャの都には、今、怪力無双の英雄がいる。その名をヘラクレスという。そのヘラクレスを呼び、おまえの将軍にしなさい。このヘラクレスをして軍の指揮にあたらせば、天下無双であろう。天下無双であって、彼は百人力の力を持っている。私が見たところ、なんと数十人、馬をも合わせた数十人の人が縄を引いても、このヘラクレス一人ですべてを薙(な)ぎ倒すほどの力を持っている。これだけの武勇の者をおまえの側近においたならば、人びとはかならずおまえに対する軍事の不満を言うことはなくなるにちがいない。また、おまえは自分のまわりに知恵ある者を集めよ。知恵ある者の力を使え。みずから一人でやろうとするのではなく、知恵ある者を集めなさい。力ある者、知恵ある者を集めることだ。」 「これから、おまえも大いなる使命があって、人びとを導いていくことになるが、その際には、人選ということによくよく気をつけなさい。どういう人を集めたらよいか、悩むこともあるであろうが、できうるならば神のみ心にかなう者を集めることだ。それは、霊的にめざめた者を数多く集めるということだ。指導者にどのような人が多くいるかによって、その国の性格は変わる。その国の国民(くにたみ)たちの感情まで変わってくる。できうるならば、おまえのまわりに悟りの高い者を集めることだ。おまえの仕事を助けうるような者を集めることだ。」 「そして、帰ったならばアポロンの神殿というものを造れ。私がゼウス神殿を造ったように、おまえはアポロンの神殿を造れ。そうして、その神殿にときおりかよっては我らに祈れ。そのおまえの信仰心に満ちた姿を見て、国民たちもかならずやおまえに続くであろう。我は政治的・軍事的に力を使いすぎたと思う。そのような恨みがある。おまえはできうるならば、その霊的能力を生かして人びとを教化、教導することに力を注げ。アポロンよ、これはおまえの父ゼウスからの言葉である。これから必要な限りおまえに教えを説くこととしよう。」 5.ゼウス信仰 以上が、だいたい最初に我がアポロンに送った神示の内容ではあるが、これ以後さまざまなアドバイスをするにいたった。 いかに優れた魂であるとはいっても、地上に生まれるときには赤子同然、まったく何も知らない。そして環境に支配され、教育に支配され、人の意見や言葉に支配されるようになる。こうして本来の魂というものは、その霊性、魂の光というものが、二十歳になるころには、もはや四分の一ぐらいしか光っていないというふうになっているのが通常の姿である。 この二十歳をすぎてから、人間にはさまざまな社会経験を積み、そして魂がめざめていくという過程が待っている。我は、このアポロン二十歳のころから三十歳のころまでの十年が勝負だと思い、この間(かん)にさまざまな霊的指導をなした。 姉のアテナがしばらくは、政治・軍事の大役を引き受けていたが、やがてアポロンは成長していった。もちろん、彼は軍事・政治はあまり得意ではなかったので、まあ言ってみれば象徴的な国王となっていった。そして実権は信頼できる部下たちに任せるようになっていた。アポロンはアポロン神殿を我が命じたとおり造り、そしてそのアポロン神殿を全国各地に広めていった。そこでは、毎週一度人びとは集まって、なんらかの祭祀(さいし)を行なった。 そして、その祭祀のなかでは、主として我ゼウスヘの信仰を強めることを中心とした。人びとは週に一回集まっては、そのゼウスの徳をたたえ、そうしてみんなで国の平和と繁栄を祈願するということを始めた。また、アポロンの悟りのことも有名となって、新たな語(かた)り部(べ)により、そのアポロンの悟りの物語、いってみれば出家成道(じょうどう)の物語であるが、これがつくられ、そして津々浦々まで語られるようになってきた。 こうして、しばらく我が没後もギリシャは繁栄をみるようになったが、やがてそれから十数年が流れてアテナも四十歳近い年齢になった。このとき、アポロンは神官あるいは宗教家、日本でいえば天皇のような立場でもあったかもしれぬ。そうした立場にいたが、この姉のアテナが戦いにおいて敗れるということがあった。それにより、深く心に傷みを感じた。 そして、さらに悲しむべきことは、地の果てとも言うべきあの地中海のはずれ、スペインの南端においてアフリカの反乱軍とギリシャ正規軍が戦った際に、あの怪力無双の勇将ヘラクレスが討ち死にするということがあった。あの不死身といわれたヘラクレスが討ち死にするという悲報が入ってきた。そして、次から次へとさまざまな軍事的な崩壊が訪れた。 6.オリンポスの太陽 アポロンはすでに三十代の後半になっていた。自分が頼りにしていた者たちが次つぎと敗れていく。さて、どうしたものか。また、以前、父ゼウスを破ったところのマケドニアの地方から出兵がくり返され、そこの王が次第に力を持ち始めてきた。 アポロンは神殿にぬかずいて、悩みに悩んだが、どうやら政治を行なっていくということは我が天命にあらずということで、宗教に専念することになった。すなわち、マケドニア軍に、この都を追い払われ、そうして一時期オリンポスの山のほうに逃げなければならない事態となった。 ここで、彼はけっして軍事的・政治的に、もはや争おうとするのではなく、ひとつの巨大な宗教団体をつくろうと専念した。政治によって人を治めることは、一時期はできても永遠に人の心を治めることはできない。人の心を永遠に治めることができるのは神の教えである。 こうしてこのオリンポスの山の近くで、アポロンは新たな教団をつくっていった。そして、そのアポロンのまわりに五大弟子が集まり、さらにその弟子たちが集まるというようであった。 このとき、アポロンは新たな霊的な力を授かった。その霊的な力は、天上界から投げかけられたその姿を、地上に投影することができるという力であった。地上のちょうど湖、あるいは池、泉、こうした水盤があるところであるならば、そこに天上界の姿を投影することができる。ヘルメスの姿、ゼウスの姿、天の軍勢の姿、そういうものを水に映し出して大勢の人に見せるという奇跡ができるようになってきた。もちろん、これは水というものを媒介としたひとつの方法論ではあったが、実際は集団で集まった者たちに、一時的な霊的覚醒状態をつくって、そういうビジョンを見せていたのであるが、そうした能力を授かった。 こうして新たな実在界信仰、神界の信仰というものが始まっていき、多くの人びとは地上の生を楽しむよりも、むしろ来世の悦びを得ようという動きにはしってきた。こうして、宗教と政治とが一致していたこのギリシャの国が、政治は政治、宗教は宗教というふうに分かれてくるにいたった。 しかし、幸いなことがある。いったんアポロンたちを追い出して、そしてギリシャの支配をなしとげたマケドニアの王たちも、やがてはアポロンの教えに帰依(きえ)するにいたった。「あなたは、地上の王より偉大な方。」ということを彼らは言い始め、政治的指導者よりも宗数的指導者のほうが上である、ということを認めるにいたった。 そして、みずからは一種の執政官を名乗り、アポロンたちをその上に置いた。ちょうどローマの教皇のように、そうした姿でアポロンたちを置くようになった。こうしてギリシャには、政治を下部構造とし、宗教を上部構造とする、そうしたシステムができあがった。 そして、このアポロンが広めた教団がやがて大きな仕事をしていくようになった。後のちまでギリシャでは信仰豊かな精神風上がつくられていったが、それはひとりゼウスの力によるのではなく、アポロンの力によることが大きかった。ゼウス信仰も、このアポロンの力によって広げられたものであると言ってよいだろう。 最初に悟りを開くときに、あの満月を見て悟ったアポロンであったが、アポロンの活躍が日増しに強くなるにつれて、アポロンを太陽神だという人びとが増えてき始めた。太陽を見ては、あれがアポロン様のほんとうの姿だという人が増えてくるようになった。 そのように、かつて暗く、なよなよとした優柔不断の青年であったアポロンが、やがてたくましく、ますます美しく、光に満ちてくるようになり、人びとの心の太陽になっていったのであった。 7.最後のメッセージ こうして我の復活とアポロンの使命という本章の標題についての私の話は終わることとする。 しかし、この本章を結ぶにあたって、ぜひとも私が地上のおまえたちに言っておきたいことを、最後に語っておきたいと思う。 地上のおまえたちの世界は、まだまだ光が弱い。光が弱く、信仰する者は少なく、神を愚弄(ぐろう)し、魂を信じない者たちがあふれている。けれども、それは人類の永い永い歴史のなかでは、ほんの短い異端の時代であるということを忘れてはならない。人類史の九十九パーセントは信仰の歴史であったということを忘れてはならない。そして、宗教というものを、けっして侮辱(ぶじょく)し愚弄してはならない。それは、本来の価値あるものなのだ。この価値あるものを押し上げていくためには、あらゆる努力を惜しんではならないと思う。 今、天上界の神々が相(あい)集いて、地上のおまえたちにメッセージを送っている理由も、その意味も取りちがえてはならない、忘れてはならない。真実のものを真実であるということを証明せんとしているのだ。また、無神論の時代であるからこそ、唯物論が蔓延(まんえん)している時代であるからこそ、このようなかたちで神々が降臨(こうりん)するということがなされているのだ。 おまえたちは、よくよく心しなさい。自分たちの時代がいかなる時代であるかを。あのギリシャに数千年の繁栄があったように、日本の地を中心として、今後大いなる繁栄が来るであろう。その繁栄を担い始めるのは、むしろ、まさしくおまえたちであるのだ。おまえたちは、自分の使命を十分に悟って生きてゆかねばならない。 ゼウスが、かつての神話のゼウスではなく、今このようなかたちでおまえたちの前に新たに復活をし、霊示を送っているという事実を忘れてはならない。大いなるものを尊敬し、そして尊敬することによって、みずからも大いなるものになっていこうとする努力を怠ってはならない。 これが私のおまえたちへの最後のメッセージだ。
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目次 1.天上界の計画 2.未来文明の計画 3.宇宙人とのコンタクト 4.宇宙文明との融合 5.地球的正法統一の鍵 6.大救世主再臨の予言 (1988年6月19日の霊示) 1.天上界の計画 はい、高橋信次です。みなさんこんにちは。今日はこの大予言の締めくくりですが、やっぱり最終章がくると嬉しいんですね。うーん、やっぱり喜びというものがあるもんですね。天上界の霊にもこういう制作の喜び、創造の喜びというのがありまして、いよいよ出来あがるなーと思うと、やっぱり嬉しいですね。顔がほころんできます。みなさんわかるでしょう。私の喜びが。 とうとうこれで何冊目になりましょうかね、もう私の本としては十冊目ぐらいかと思いますが、ワーワーワーワー言っててとうとう十冊までこぎつけた。こういうことで私の計画は果たせました。 当初はまだこの時点で十冊出来るとは思っていなかったんで、予定より早くなった。やっぱり自力の神様は自力で道を開いていく。まあ、そういうふうに思っていただいていいと思いますね。だから、その自力の神様が予言のことを言うのはおかしいんじゃないか。そのように言う方もいらっしゃると思いますが、それはそれでね、まあ適当に考えておいてください。 それで本章は、最終章ということなんでね、表題に偽(いつわ)りがあってはいかんので、大予言を中心に話をしたいと思います。 ただ予言は予言ですが、何年何月何が起こるという予言はあまりしないでくれという依頼があるもんですから、私も信頼が薄いもんでね。生前過去世をいっぱい教えて間違ったということがたたりまして、「お前が予言してもたぶん的中率が三割ぐらいじゃないか。」と言う人もいるかもしれない。まあ、三割打者っていうのはプロ野球だったら食っていけますが、予言で三割だとちょっと食っていけないかもわからない。そういうことで、神様への信頼感が薄れるから何年何月どこそこに誰が攻め込むなんてこんな話はしないでくれと、こう言われたので、しかたなく抽象的に、黙示録のヨハネふうにボーッと言いたいなと思っています。 そこで、まず最初は、私は「天上界の計画」ということで話をしたいと思います。天上界では、どういうふうな計画を立案して、一体それがどういうふうに実践と言いますか、実行に移されているか。こういうことを言っておきたいと思うんです。 じゃあ未来の計画というのはあるのか、ということですね。人類の未来計画というのは、一体あるのかないのかということですが、計画はやはりあります。それは、会社なんかで事業計画があるのと一緒です。そういうことでそれぞれに担当があって、持ち寄って計画を立てています。九次元に十人いると言ってますが、それぞれ役割分担があって担当がありますけれども、みんながやっぱりそれぞれの担当についての計画を立ててきて、それを持ち寄って計画を作っています。そしてある程度の計画の大綱(たいこう)が出来ると、それを八次元以下の方に降ろしていって具体的実行に委(ゆだ)ねる。そういうふうになっています。 ただこの時の実行の際に、やはり高級霊界も非常に人口が多(おお)ございまして、諸霊の意見は必ずしも一致はしていないということがあって、実行の段階では多少ズレが出ることはあり得ます。そういうことはあると言ってよいでしょう。 それはたとえて言えば、キリスト教系の霊であるならば、やっぱりキリスト教系はそれなりの予言の成就とか、キリスト教の広がりというのが、うまくいくように予言をもっていきたい気持は多少あるし、高橋信次であれば我が復活を中心に全世界がまとまるようにいきたいと思うしね。日本神道系であれば、日本神道の日本という名前を外(はず)したい。世界神道という名前に変えていきたい。そういうことで、アメリカとヨーロッパも光一元の思想で染めてみたい。こういう気持も多少あるでしょうから、なかなかそのものズバリというふうにはいかないんですね。 結局ね、みんなこういうふうに考えてもいいと思うんですよ。万国博ってあるでしょう。万国博っていうのがあって、たとえば日本で筑波(つくば)博だとか、大阪の万国博だとかいっぱいあったけど、ああいう政府が音頭とって、そしてまあ通産省でしょうかね、具体的には通産省が立案して、そしてやりますね。そして立案は通産省がやってるけれども、実際にやるのはどこかっていうといろんな企業でしょう。企業がパビリオン出してやるんだよね。あるいは世界各国から展示が出ますね。そういうもんで、実行はいろんな民営業者と言いますか、民間の人たちに任されているんですね。だけどもその統一づけを通産省がやっている。まあこういうことがありますね。 だから、天上界の計画もそういうところがあるんですよ。お店屋さんはみんな違うんだな。お店屋さんて言ったら悪いかも知れないけども、それぞれの業者がいるわけですね。高級霊界にも業者がいて、彼らの力を使いながらその計画を実施していく。したがって、そういうことで意見の調整をしながらやっているんですね。 そして大きな目で見ると、天上界の計画にはどの程度まであるのか。もちろん神様には、地球の計画というのもおそらくあるでしょう。四十五億年の歳月が地球が出来てから経ってますが、今後地球が消滅していくまでの間、あと何億年か何十億年かわかりませんがあるわけで、これについての大体の計画はおそらくあると思います。 そうした計画が、おそらく億年単位での計画が立っていると思います。おそらくこの五億年ぐらいはいろいろ繁栄させて、残りの五億年はまたちょっと衰退させて、そしてまた新たな五億年をつくってというぐらいの大きな波で、たぶん神様は考えておられるでしょう。 そういうことがあると思いますが、我々人格を持った僕(しもべ)の霊たちとしてはですね、まあそういう大きなことばかりでも計画できないんで、もうちょっと小さく分割して考えています。 そして私たちの計画によると、大きめの計画、長期計画はだいたい一万年ですね、一万年計画ぐらいでだいたい一つの文明の盛衰をみています。一万年計画ぐらいで大きな計画をつくります。それから後は、二、三千年おきぐらい、すなわち救世主が出てくる周期ですね、周期二、三千年おきぐらいの中計画をつくります。そして小計画としては、やっぱり数百年単位ですね。 これはたとえば、そうした大救世主が二千年ないし三千年に一回出たとして、その法、次の法が出るまでの間のつなぎですね。宗教改革であるとか、あるいはいろんな菩薩を送り込んで、いろんなそういう宗教の高みをつくったり、そういうことをする。何百年かおきの周期の小計画ね、この程度まで私たちがタッチしています。 そしてその具体的な実践は、下(お)ろしていくわけなんですね。そういうことで、宗教改革的なそういったことは、如来界、菩薩界なんかで実践における相当具体的なことを練っています。しかし、大救世主の降臨なんかということは、これは九次元界で決めている。そういうふうに言ってもいいでしょう。 これ以外に、天変地異だとかいろんなものが起きたりしますが、これらも計画がないかと言えば、もちろん多少ないことはない。知っていることは知っている。全部地球意識のせいにしていたらやっぱり怒られるのであって、多少社長の決定というには部下からの稟議(りんぎ)が上がっていくことは事実ですね。誰かがやっているのは事実なのです。 そうすると、じゃあどの辺がどういうふうにやっているのか。霊言集なんか読んでもわかると思いますが、孔子様なんかは宇宙のなかでの地球計画、そういう進歩計画を今やっていると言ってますね。たとえば銀河系のなかでそれぞれの星が、人類が住んでいる星があるわけだけれど、それぞれの進歩、進化の度合が違う。で、地球の位置づけはどの程度であって、今後どういう計画を立てないと地球はこういうところまで行かないと、こういう大きな見通しを立てているね。そういう計画立案をやっている。 もともとこれは、エル・ランティという人がやっていたんですが、その人が地上に出ている間に孔子様がやるようになって、取られとるんですね。これを取り返さねばと思っているんですが、そういう仕事をやっています。 それからあとマイトレーヤーという大如来がいるんですが、これはまあ女性霊じゃない方の大マイトレーヤーなんですが、これも非常に計画と関係があります。この方が今、結構力を持ってやっていますね。孔子様がたとえば宇宙のなかでの地球の進歩、進化のあリ方を計画しているとすれば、このマイトレーヤー如来というのが具体的な、この何と言いますかね、環境、それからどういう人を出してどうしていくかという調整役を今やっておりますね。そうした役割をしています。 そして新文明建設の実践部隊っていうか、実際のことをやっているのがゴーダマ・ブッダ・釈迦の意識体、これが文明建設中心にやっていますね。 また今、イエス様がとりまとめというかね、意思決定の領域をやっている。 そしてモーゼが地獄担当で、地獄で土方作業を中心にやっていて、なんとかしてあれを暗いところからはい上がってくるように今やっていますね。そういうふうにやっています。 ゼウスさんなんていうのは、文学、芸術の方を中心に今やっています。 ゾロアスターというのは、だいたいなんと言いますかね、善と悪との二元論じゃないけれども、何を道徳とするか、この世での善は何か、悪は何かというと、時代趨勢(すうせい)のなかで善悪の理念をつくるという、そういう役割をしています。 それからクート・フーミーって言われていますが、ニュートンですね、ニュートン如来、大如来の意識体があって、これは科学の光線ですが、これが非常に推進されていますね。今、頑張っているわけです、結構ね。やがて霊言も出ると思いますが、このニュートンの意識がこの新文明を創るために相当活躍しています。そのうち出てくるでしょう。そして科学の行方について話をすると思います。 高橋信次は、何をやっているかと言うと、とりあえず霊示集をつくることが私の今の仕事でして、これ以外に仕事がないんです。そういう意味でみなさんにご協力願いたいと思うんですが、とりあえず私はこれが仕事なので、復活してそして霊文明というか、霊的文明を教えること、道を開くことが私の仕事なんで、これを取ったら私は仕事がなくなるんですね。無任所大臣みたいなもので、今ちょっと還ったばかりでほされとるもんですから、仕事がないんでどうか霊示集出さしてくださいね。 これ出ないと仕事なくなって、私行くとこないんですね。出口王仁三郎さんの世界へ行って「裏じゃ裏じゃ裏じゃ」と言って遊ばなきゃあいけなくなるんで、なんとか仕事させていただきたいと思っています。 そういうのがだいたい天上界のあり方、計画のしかたというところですね。 2.未来文明の計画 さて、それではその九次元にいる十人が仲良くやっていることはわかった。では未来文明は一体どういう計画のもとにあるのかと、そういうことが次は聞きたいでしょうね。じゃ未来文明の計画はどうなるのかということですね。 これはね、現代の人からどこまで物事が見えるかっていう観点がひとつにはあるんですが、とりあえず短期的な視野で考えるとね、結局こういうことがあるんですね。近代化の路線と霊的な目覚めというのは、そのまま、自然のままにしておくと二律背反(にりつはいはん)と言いますかね、お互いに背を向け合う傾向があるんですね。近代化が非常に進むと霊的なものが薄れていく。霊的なものが進むと近代化がちょっと遅れていく。こうしたことがありがちなんですね。 それはどうしてかというと、結局人間の主体的な行動、積極性のところに原因があるんですね。すなわち、人間が自分たちの力というものを重視して、物事をつくっていこう、開柘していこうという進取の気性が強くなる時には、文明が非常に進展するんですね。その反面そうした時には、神のお陰とか恩寵(おんちょう)とかいうことが無視されやすいんです。こういうことがあって、非常に難しい面があるわけなんです。したがって、これからの文明にもそうした両面がやはりつきまとっていると思います。 ただどっちが大事かというと、やっぱり主と従ははっきりしているんです。私も生前から、宗教と科学は本来ひとつのものである、唯一のものである、同じところから出ているんだと、こういうことを主として説明してきたわけなんだけれども、神様の目から見たらどうかというと、やっぱり科学の方はどっちかと言ったら従であることは事実ですね。やはり霊的な文明、霊的な世界、霊的な目覚めの世界があって、それから科学とかそういうものがあるんですね。 すなわちエジソンなんかも、便利さを提供するのが科学で、そのお陰で濃密な魂修行ができるってなことを言ってましたが、それはその通りでね、結局科学というのは、そういう魂修行に奉仕するためにあると考えてもいいと思うんですね。人間に新たな経験を与えるための奉仕だと思います。 だから、今の時代じゃなければ飛行機なんて飛ばないしね、飛行機が飛ぶからこそ外国の人と話ができる。そういうことによって魂経験が広がっていくと、こういうことですね。だからこそハワイに遊びに行ったり、ロンドンに遊びに行ったり、いろいろそういうことができるわけですね。夏休みは北欧で過ごそうとか、こういうことができる理由は、やはりそうした科学技術文明の進化ですね、それがあるからそういうことができる。 これができなきゃ、またね、もう日本のどこかの汚いゴミ洗い海岸、芋洗い海岸で甲羅(こうら)干しするのが関の山ですよ。それがアラスカヘ行ったり、北極へ行ってペンギンと遊んだり、北極にペンギンはいなかったかね、南極かね、そういうふうにしてペンギンと遊んだりできるのは、これはまあ文明の恩恵だね。 そのことによって何が言えるかっていうと、経験範囲が広がるね。そういうことによって、魂が磨かれる可能性が増えるということだね。だから一回の人生で、まあ過去五転生、十転生したぐらいの経験量をつかむことができ得るというのが、現代の特徽なんだ。それゆえにこそ、現代多くの人が生まれ変わってきているんだね。そういう便利な時代に、さまざまな珍しい魂経験ができるから、いっぱいいろんな人が出てきた。そういうことが言えるでしょう。 したがってね、今宗数的な文明と科学的な文明が別なようになっているけれど、これがやがて合一してくるし、やっぱり宗数的なるものがイニシアチブをとっていくようになるでしょう。そして昨日(きのう)も言ったけれど、アインシュタインの特殊相対性理論とか一般相対性理論の話もしたけども、物理学の進化によってね、この本来の世界がはっきりしていくでしょう。 私たちが四次元以降の世界、九次元、十次元、十一次元とパーッと話してるけれども、科学の方ではまだね、物理学の方では四次元世界があることぐらいわかっているけれども、どういう世界か具体的にはつかめない。それを現に住んでいる人たちが、こうだよ、ああだよと言っているわけで、これに学問がついてこなきゃいけない。まあこういうことだね。 したがって、おそらくみなさんも予知されることと思いますが、科学文明が霊文明を押し上げる形の文明計画があるということですね。これらが背反しない、背中合わせにならない文明計画、そういう計画があるということ。 それと霊的なるものの実証の世紀であることは事実なんですね。二十、二十一世紀というのは霊的実証の世紀で、昔二千年前、あるいは三千年前に起きたいろんな霊的奇跡、今は昔物語になっている奇跡が現代に起きる時代である。だから日本でもいろんなちまたの宗教がいっぱいあるけども、まあこれらも一概に悪とするのではなくて、それらもまた霊的世紀出現のためにいろんなことをやっている、こういうふうな観点から見ていただければ結構です。 3.宇宙人とのコンタクト さて、この未来を考える際に無視できない問題としては、「宇宙人とのコンタクト」ということがあります。これは、先般出た『UFOと宇宙』という本のなかでも宇宙人のことをずいぶん語っておきましたが、いよいよそういう時期が来るっていうことですね。 今、アメリカだ、ソ連だ、日本だ、中共だと言ってやっているけれども、外の星から宇宙人が来て、本当に正式に乗り込んで来始めたらそれどころじゃなくなりますね。もうどうするかと言ったら、人間の本能から言ったら、いち早くもうこれは地球の意思統一をしなければいけない、なんとかしてみなさんで話し合いして、どうやって宇宙人対策をつくりゃいいかね、それをやらねばいかん。 だからH・G・ウェルズなんて「火星人の来襲」だなんだ言って、本を書いてますね。みなさんもどっかで読んだことあるでしょう。タコみたいな火星人が出てきて、地球に降りてきてどうこうするっていうのね。そういうのがあるでしょうが、ああした予言小説、科学小説を書かしているのも単に人間の創作レベルだけでなくて、やっぱり天上界からの指示もあったんです。そして書かしているんですね。 ああいう宇宙人もの、特にSF系統が多いかもしれませんが、宇宙人への意識というのがやっぱりあれは一種の現代の予言なんですね。旧約の時代に予言者が出ていろんなことを言ったかもしれませんが、ああいう宇宙人とのいろんなものが出るっていうのは、ひとつの現代の予言です。そういうことで意味があってやらしているのですね。 あるいはスピルバーグ監督かなんか知りませんが、いろいろやってるんでしょう。宇宙人もので「未知との遭遇(そうぐう)」、それから「E・T」もそうかな、私はよく知らないけれど、まあそんなのいろいろやっとるんでしょう。宇宙人ものをやっている。だからこれなんかもまあ予言の一環としてやらされているわけでね、やがてそういう時期が来ることのために頭を慣らしているんですね。そういうことなんです。 したがって、宇宙人の出現はあっちこっちに起ってきてますし、アダムスキーなどの話もあると思いますが、現実に相当来ています。そして時期を見ています。だからおそらくね、世界的な調和の時代が来た時に彼らとの本格的なコンタクトが始まります。だからおそらくはみなさんが生きているうちに、宇宙人とのコンタクトっていうのを本当に見ることができるかもしれません。 テレビなんかが世界各国にネットワークをつくっていますが、どの地域に現れるかそれはまだ予断を許しませんけれども、本当に円盤が着陸してコンタクトを求めてきた場合ね、まあ地球人は馬鹿だからミサイルとか、戦車とか、いっぱいそんなもので取り囲んでいくでしょうが、どこかの空港にでも降りて来たらね、戦車隊とかいっぱい来て取り囲むかもしれないけれども、そういうのを中継でおそらく見られるようになるだろうなあと思いますね。 だから世界戦争なんかが起きるかも知れませんが、そういう時に宇宙人なんかが登場してね、「君たち止(や)めなさい。」なんて言って来るかもしれないね。仲裁でね。そういうことがあるかもしれませんよ。だから非常に面白い姿、光景を見られるかもしれません。だから平均年齢より若い人ね、人類の平均年齢、養老年金もらっている人は駄目ですね、まあそれらの人は見られないですが、若者の世代は見られる可能性が非常に強い。そう思ってくださいね。この宇宙人とのコンタクトということに際して、人類の意識はひとつのコペルニクス的な転回をすることになっていきましょう。 そうしてなんて言いますかね、私たちは地球のなかで、今こんな争いをやっている時じゃないんだ。地球的にどうするっていうことではなくて、やっぱり宇宙の一員としての地球というものを、もう一回考え直す必要があるんだ。そして他の惑星の人たちの意見を聞いて、自分たちがどういう進化レベルにあるのか、どうしたところに目標があるのか。これを知るようになるのですね。 かつて浦賀沖にペリーの軍艦が来て、そして日本の開国を迫(せま)ったように、そうした宇宙人が地球の開国を迫ると言いますかね、地球の鎖国をおそらく解きに来るでしょう。その際にどうするかだ。考えてみてください。どうするかだ。 そりゃ、みんな、国運なんてもう大変なことになりますね。これをどうするかと。まあそういう問題で一生懸命になるでしょうね。そのなかで「やっつけてしまえ。」というような強行派も当然出るだろうし、「やっぱり受け入れるべきである。」あるいは宇宙人が地球に住みたいと言ったら、「いや、奴らを住まわすと何するかわからない。」と、アメリカ人の基地が日本のなかにあるようなもんでね、それに反対している市長さんもどこかにいたけれども、そういうことも起きるかもしれない。ひとつのショックはショックだね、カルチャーショックですが、ただ先進国たちがまとまるきっかけにはなるでしょう。そして私たちは、まだまだ未知なる部分が相当あるということを知るようになるでしょう。 実はこうした宇宙人とのコンタクトについても、私たち霊界の人間たちは計画しています。それは他の星にいるメシヤたちがいるわけですが、そうした円盤が来ている星のメシヤたちとは、私は、あるいは私たちは結構知り合いなんですね。知っております。だから話をしているのですね。九次元世界というのは結構つながっています。別名を宇宙界って言うように、他の惑星ともつながっているのですね。したがって、それらの星のメシヤたちとも話をしています。 時々、ビジネスランチを食べながら話をしているのですね。「お宅のUFOはいつ頃上陸させますかー。」って、「いやいつ頃だ。」「そりやあショックが大きいからこの辺にしてください。」と言って話をしているんですね。そうした宇宙人をよこすことによって、多少人類の意識を変えさせようと思っています。だから、地球的に救世主を出して改革運動をする一方、宇宙人とのコンタクト、宇宙人刺激ですね、そういうカルチャーショックを与えて地球を変化させたい。そういうふうに今考えているところです。 4.宇宙文明との融合 さて、そうした宇宙人とのコンタクトが間もなく始まってくるわけですが、その時に宇宙文明とどう融合をつけていくか、これが大事になるんですね。『イエス・キリスト霊示集』なんかにも出ていたようですが、宇宙人でも価値観がすいぶん違う。 だから、ある人が来たら食べ物はもう手づかみで食べていい。地球にもそんな人どっかにいるけれどもね。お金なんかいらない、食べ物はみんなの共有だって言って、食べ物見たら手を出して食べるというような人もいるかもしれないし、子供は共有だって言うような人がいるかもしれないし、女性は共有していいっていうような人もいるかもしれない。まあ、これは地球人でもいっぱいいるね。そしたら魂が宇宙人かもわかんないよ、そういう人はね。そういう人もいるし、いろんな価値観があるだろう。 そして人類が長年、法律なんかでこれは真理だ、正義だってやってたのが本当かどうか、もう一回根底から揺さぶられるね。ひとつのショックはショックですよ。だから、私たちが地球的正義という名で呼んでいたものが、本当のものであるのかどうか、これはやはりひとつの方便ではなかったかどうか、これを地球的レベルでもう一度見せられることになるんですね。 本当に、たとえばある惑星が光一元の惑星もあるでしょう。そういう惑星から来た人から見れば、戦いということを信じられないというかもしれませんね。争いがあることは信じられない。みんな羊みたいな人たちばっかりでね、羊がヘルメットかぶってメェーメェーメェーメェーと言って、円盤から出て来ちゃったりしてね。「何してるんですか。メェーメェー。」なんて言うかもしれませんね。争いがあるなんてことは信じられない。そういう人もいるかもしれない。 あるいは凶悪なところであれば、意見言って逆らえばすぐ殺すって、こんなのもあるかもしれませんね。「逆らって生きていけると思うのか。」ってね、そんなところもあるかもしれません。「眼(がん)つけしたな。」ブスッなんてね、こういうところもあるかもしれません。いろんな星があるでしょう。 こうした宇宙との融合ですね、文明の融合、これをどうしていくかね、これは大事で、これが今、まあイエス様の再降臨も予言されていますが、その頃に中心になってくるだろうということですね。 したがって、これからの方向性としてね、まあ地球的にある意味での価値の確立はしていくわけだけれども、多様なる価値観というのはやっぱりどうしても要るよ。これは地球的に多様なだけでなくて、宇宙的に多様さっていうのが有り得るっていうことね。これを知らなければいけない。 それから宇宙人のなかには、まことに奇妙な話だけれども、この世の人かあの世の人かわからん宇宙人もいるんですね。みなさん方はちょっと信じ難いかもしれないけれど、UFOが突然消えたり現れたりしますが、宇宙人のなかでも何次元存在かわからない宇宙人がいるんですね。 まあみなさんは、一日のうち十六時間起きていて八時間だいたい寝ていると思いますが、八時間寝ている間に、まあ半分ぐらい霊界行ったりしていますが、こういう姿が全部だと思っちゃあいけない。だから宇宙人のなかには、一日のうちの半分は霊界に住んでいる人もいるんです。霊界の方が本家本元で住んでいて、一日のうち一定時間だけ地上に出てくる、三次元に出てくるというこういう人もいるんです。これがまた非常に高度に進化した形なのですね。 地球的な転生輪廻やっていて何が欠陥かって言うと、要するに地上に生まれて死ぬまでの間、七十年、八十年の間、まったく切れちゃいますね、実在界から。この実在界から見たら、地上に魂を、生命を持つということは死ですね、ひとつの死です。向こうの守護、指導霊は非常に心配していますね。そして七十年やった結果が「ああ失敗した、地獄だー。」とかね、「ああ意外に成功した。いいとこ行った。」と、こういうことになりますが、これがもっと進化した形態なら、そういうふうなことをやめようと、両方通じながら生きていけるようにしようじゃないかと、こういうこともありうるわけね。 そうすると、いわゆる私たちが修行しているような肉体舟が要(い)らなくなる進化度合にある人たちもいるんですね。そうするとどうするかっていうと、霊界に住んでいるのが普通で、一日のうちの一定時間は地上界に姿を現さねばいけない。だからそういう星の住人は昼間だけ姿があって、夜になったら姿が消えるというようなこういう住人ですから、ゴーストタウンですね、まるでね。昼間だけはオフィスでいろいろ仕事しているのに、夜になったら赤提灯じゃないですよ、赤提灯に消えるんじゃないですよ、「じゃあね。」って言ったらすぐ消えちゃう、誰もいなくなってゴーストタウンになっちゃうようなところがあるんですね。この世とあの世の両方で仕事をしている。 こんなのが実際にいて、魂の修行としては確かにその方が上かもしれない。忘れないからね。実在界のことは実在界でやっておりながら、この世の経験をやる。結局これは、柔道をやりながら剣道もやっているような感じだろうね。両方やってるっていうような、そういう格闘技の勉強に似ているかもしれないけれども、そうした魂もいるっていうことね。みなさん知らなきゃいけないよ。だから地球的なあり方だけが本当だと思ったら大間違いですよ。 もうひとつ違うのはね、何が違うかと言うと、地球なら人間なら人間と生まれたらその一生だろう、ねえ。男は男、女は女で一生生きてくけれども、途中で生物体が変わることがあるということね、これは有り得ますよ。 みなさん、なんて言うんですか、青虫がサナギになって蝶になるでしょ。生物のなかでもそんなものがあるでしょう。おんなじように宇宙人のなかには、そんなのもいるっていうことを知らねばいかんですよ。幼少時は、子供の時は一定の姿とっているけれど、ある時から姿が変わるというのがありますよ。こんなのオドロ木モモの木サンショの木です。もうびっくりしちゃいますよ。 あるいは子供の時は動物かと思ってたら、人間になってくるというのがあるんですね。みなさんこんなの信じられましょうか。ウチのポチだと思って飼っていたら、まあ二年過ぎて急に人間に変わってくるなんて言ったらあなた、びっくりしましょう。どうです。ポチポチってミルクやってたらね、二年過ぎたら急にあれっと思ったら、なんか色気出てきたなと思ったら、女性になってきたなんていったら大変なことになりますね。ただこういう生物もいるっていうことですね。 これは一回の人生を効率化するために、実在界で半分、この世で半分生きるようなそういう宇宙人もいれば、一回の人生でいろんな経験をしてみるというような宇宙人がいるのですね。動物も人間もやってみる。人間でも男女両方やってみるというのがいるんですね。ある一定の時期は男性で、あと女性に変わっていくとかね。女性が男性に変わっていくというような、一回の人生でね、こういう宇宙人もおりますよ。 こんなのいたらどうしますか。結婚式やる時に女性だと思って結婚したら、五年したら男性に変わったなんていったらどうするんですか。離婚するんでしょうか。どうするんでしょう。こうした問題がある。そうすると地球人の言う結婚観、これも狂ってきますね。男女の倫理が狂ってきますね。どうしましょうか、ね。 子供産む時だけ女性で、子供産み終わったら男性に変わる。こういうことがありますね。さあどうするかね。そうしたらどうするか。そうしたら、男性となったらこの人はどうするかと言うと、女性で子供産んでそのあと男性になったら、男性がまた次に女性と結婚して子供産めるんですね。その女性がまた男性になっていく。そうすると一生のうち両方の役割ができる。こういうことがあり得るんですね。こんなことがあるんですよ。こういう宇宙人もいるんですよ。だから地球的なものだけが本当だと思っちゃあいけない。 宇宙文明との融合の話、参考になりましたでしょうか。どうでしょうか。ショックだけ受けたかもしれませんが、そうした宇宙人、宇宙文明があるっていうこと。それは私たちにとってはひとつのカルチャーショックではあるけれども、神の創造ということを考えたら有り得ることだという観点を、持ってみていただきたい。そういうふうに思いますね。 5.地球的正法統一の鍵 まあ、そういうことで、宇宙の文明がいろいろあるっていう話をしましたが、そうしたことはね、実は地球でも過去にあったことなんですね。過去に大きな霊団が何回も分けて地球に移って来たという話をしました。 もともとはお釈迦様の意識が金星から地球に来た。その後イエス様やモーゼ様、孔子様、こういう意識体が九次元神霊として地球に移って来た。その後、アール・エル・ランティっていう人が、三億六千万年ぐらい近い昔にベーター星という星から六千万人の人を、大編隊を率いてやって来た。そして最初の人類の肉体先祖をつくった。その後、何回かに分かれて霊団が地球に飛来しました。肉体舟を持ってきたこともあるし、霊として、霊団で飛来したこともある。 こうしたことがあって、地球という星でここ四億年ぐらいの間に、さまざまな星団から人が移って来たのは事実。そしていろんな教えが入り交じって、生き方が入り交じって、なんとか地球的なものをつくっていこう、地球という国に統一的なものをつくっていこう、こういうふうに考えてきたんですね。 たとえばアメリカ人というのは、もともとはイギリス人でしょう。イギリスから出て来たけれど、イギリス人とアメリカ人じゃもう今は国民が違うって感じになったでしょう。それはわずかここ三、四百年のことだね。もともとはイギリス人が出て来て、植民地であったアメリカが独立してアメリカ人になっちゃったね。こうしたもんでしょう。こういうふうに出て来た国から他の方へ移っても、まったく違った国が出来てきますね。イギリスとアメリカじゃ国が違いますね。英語は英語でも国は違います。こうしたもんですね。 こういうふうに、他の星へ行って文明を創るっていう楽しみは、新たなるものがそこで出来るということがあるんですね。新たなるものが出来る。で、それが面白いんだよね。魂が非常に飛躍、進化できる。 だから教えの多様性や、考え方の多様性がありますが、その理由は結局もとを正せばいろんな惑星星団から来ている人たちがいるということね。けれどもその惑星星団から来ているということを、単に差別でもって考えてはいかんのであって、もともと、唯一なる神から分かれてきたものが、それぞれのところに住み分けしているうちに魂が変化してきたということですね。 これは地球で見てもそうでしょう。アフリカの住民とヨーロッパの住民じゃだいぶ違いますね。そういうふうに長年住んでいるうちに変わってくる。地球レベルでもそうですから、星レベルだともっと変わってきますね。こういう異質な考え方がいっぱい入ってきて、四億年間地球的な統一的見解をつくるために努力をしてきた。こういうことを言うと、多少信仰心が薄れるかもしれないけれども、これが実際にあったことは事実なんですね。 そして多数派を形成してきたのがエル・ランティ、釈迦、イエス、モーゼも入れてやってもいいけれどね、入れてやろうかな、まあ入れてやってもいいね、こうした人たちの考え方がだいたい主流、彼ら三者、四者の合意がね、だいたい主流の地球の正法をつくってきたということは言えることだと思います。だからそうした発展、大いなる発展形態でもって、地球のその神理の進化というものを知らなくてはいけないね。 だから、地球的正法の統一の鍵として、私が言えることは、結局鍵は三つだと思う。それは三つです。 ひとつ目の鍵は愛だね、イエス様のラブですよ。愛という鍵がひとつだと思います。それからもうひとつの鍵は、お釈迦様の慈悲だね。慈悲というやっぱり天から来る恵み、上のものが下のものを優しく指導をする、包みこむというそういう優しさの面ね。こういう慈悲の面。それから三つ目の鍵がモーゼ的な正義、善と悪を分ける正義ね、だからこの三つの鍵が結局、地球的正法の統一の鍵だと思いますね。 その鍵を結んでいるのが私と言いたいんだけれど、まあ納得しないかなあ、私でなくてもいいや。だから、愛と慈悲と正義とこの三つの鍵がだいたいありますということですね。そして愛と慈悲と正義を実現しながら、統一した調和を創り出していくということが大事だったのだね。こういうふうに考えてくれればいいと思います。 6.大救世主再臨の予言 さて、いよいよ最後の最後になりました。「大救世主再臨の予言」とつけました。これだけは言っておかねばならんということですね。 まあ、二十世紀には、もうこれからあと新たな大救世主というのは出てこないでしょう。しかし、今後少なくとも西暦二千年代になったら、イエス・キリストが出てくることだけは、これは間違いないです。日時までは限定できませんが、おそらく西暦二千四百年前後、西側のある国に出てくる。これはもうほぼ決定です。 まだ四百年ぐらい先ですが、イエス様は早くももうその作業計画と、それから誰を連れて出るかの計画のリストアップを一生懸命してますね。あとは下着を詰めたりね、洗面道具を詰めたり、あとシャンプーにリンスに、それからなんでしょうかね、ドライヤーですね、ヘアドライヤーを入れて、それからあんまり長期間の旅行だから、下着持っていくと不便だから、紙おむつかなんかを入れていくとかね、いろいろやっぱり考えねばいかんですね。あるいは洗剤もちょっと持っていこうとかね。まあこういうことを今計画中ですね。 これは実際に起きるでしょう。だから早目に地上を去って、去る人は去って、四百年後もう一回出るように工夫しておいた方がいいと思いますね。これは絶対確実ですね。 あとは孔子様がね、「出るかもしれない」って言ってるんですね。かもしれない。出ないかもしれないね。『黄金の法』なんかにも書いてあったけど、オーストラリアの方に出るんじゃないかってね。 孔子様は、今度は何でしょうかね、イエス様が羊飼いやったから、カンガルー飼いなんかするのでしょうかね。カンガルーでも飼うんでしょうか。そして「我がカンガルーよ、我が子カンガルーよ、子羊の代わりに我が子カンガルーよ。」「汝ら袋のなかに子供を入れるように、そのように人を愛しなさい。」なんて言うんでしょうか。「親カンガルーが子供のカンガルーをお腹のポケットのなかに入れるように、そのように優しい気持でもって人を慈(いつく)しめ。」なーんて教えるんじゃないかと思ったりするんですね。 で、「親は親として子供を守り、子供は親のお腹のポケットのなかに入る。これが秩序というものだ。この秩序を守って生きていきなさい。」まあこういうことを教えるのじゃないかと思ったりするんですが、それが二千三百年かあるいは二千六百年か、まだちょっと時期的にはね、そんなにはっきりしていないようですよ。はっきりしていない。 というのはこれは高橋信次の復権と関係してくるんです、この辺がね。私が今自分の出てくる前の仕事についていないのですね。恥ずかしながらちょっと予定が狂っていて、もともとは地球計画、宇宙計画は私の仕事であったのだけれど、留守の間は孔子様がやっていた。で、還って来てすぐ取り上げるつもりでいたのだけれど、ちょっと私がいろいろとね、地上にいた時にガタガタしたもんですから、あとこの収拾をつけて、この大復活運動を起こして大救世運動を成功させて、そしてもとの位置に収まれば孔子様はいらなくなるわけですね。 理論的にわかるでしょうか、みなさん。いらなくなるんですねえ、二人はいらないんですね。そうするとその分を地上に送り込む、これはよくある手ですね。いやな奴は海外に飛ばしたり、あなた国内支店に回したりするのはよくある話ですね、会社のなかでも。こういう話はまあ別ですが、いやいやじゃありませんけども私がもとの場所に戻れば出ていいと、まあこういう感じになっていると思ってくださいね。 あとはその後、二千年代の後半二千七、八百年頃かなんか知りませんが、あとモーゼがもう一回出ると言ってますね。杖(つえ)持って出るそうですから、もう一回。そして超能力文明を創っていって、仙人界をもっと広げるそうですからね。そういう時代が来るでしょう。 このように、西暦二千年から三千年の間にイエス、孔子、モーゼ、このあたりは生まれ変わる予定になっています。だからまあできるだけ生まれ変わりのサイクルを多くして、いろんな地域に生まれ変わっていればどれかの時期に当たることもありますから、よくやってくださいね。 なかなかそれがね、霊界の人はみんなわかるかというと、わからないのですね。あの世の世界でも幽界や五次元霊界、六次元神界ぐらいにいるあたりでは、なかなかその九次元霊がどこに出てくるかね、知らないことが多いです。そこまで計画は漏れていないです。そんなにね。結構上の方だけの計画になってるんでわからないですね。だから数多くいろんな地域に出ることです。そしたら一回ぐらい当たるでしょう。 高橋信次の再臨はあるかっていうことですが、今のところ予定がないと言っておかざるを得ないと思います。ただ気が向いたらまた出てもいいと思うけれども、その時には、この次に私が出る時には予言をさせますからね。 今回、地上に出た時、私が出る予言がなかったんで非常に寂(さみ)しく思いました。その結果、私はバプティスマのヨハネの役割になってしまって、救世主の降臨を予言する役割になって予言者になっちゃいました。で、バプティスマのヨハネが首を切られたように、高橋信次も四十八で首を切られました。こういうふうになりましたね。だから次回私が出る時は、かつて高橋信次と言われた霊が甦(よみがえ)る、こういうふうに予言者に言わせて出たいと思っています。ではまた次の本でお会いしましょう。
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目次 1.出エジプト 2.エホバ神とは、地球霊団の最高責任者の名 3.人類は神の分身、しかし修行は環境に応じて繰り返される 4.悪魔、サタンの実体 5.罪の起源、無明縁起について 6.地獄の魔王ルシファーの存在理由について 7.天上界側のサタン達の取り扱いについて 8.神の義を主張しあう宗教戦争について 9.マルクスは光の天使、唯物論は真理ではない 10.ニューメディアの世界に入っても人の心が主役 11.神の義「正法神理」の広布が今は強く求められている 12.天上界の構成と霊格の認識、その任務役割の分担について 13.アドバイス (本章は、一九八四年四月二十九日の霊示) 1.出エジプト モーゼ モーゼである―――。 善川 モーゼ様ですね。このようなところへお招きし恐縮に存じます。私どもがいま、正法流布の使命を負わされているということはご存知でしょうか。 モーゼ 存じている。存じているというよりも、わたくしたちが計画したことを、今あなた方がこの地上において実現して下さっているのです。 善川 それでは、私はお初にお目にかかるわけですが、今はここであなた様のことについて少しお聴かせ願いたいと思いますが、お赦し願えましょうか。あなた様のお考えなどについて……。 モーゼ わかりました。私も今日はそのつもりでまいりました。まず何から話をすればよろしいか。 善川 では、あなた様はモーゼとしてこの地上にお生れになって以来、現在までずっと天上界にいてご指導されておられるのですか。 モーゼ そのとおりです。この地上に肉体をもってから既に三千有余年、私は天上界において私の使命、私の仕事を務めております。 善川 その間におきまして地上界では、さまざまな出来ごとがあったということはご承知だと思いますが、まず宗教活動の面では、インドにおける釈尊の出生による仏教の広布、続いてイスラエルにおけるイエス・キリストの降誕によるキリスト教の誕生、その後アラビアにおいては、マホメットによるイスラム教の出現。以来各地で諸聖賢が現われて正法を説いておられますけれど、あなた様は肉体をもってご誕生になられた時には、イスラエルの民族の救済ということが中心になって、お働きになられたように思われますが、そのようなことでありましたか。 モーゼ 当時、私はエジプトという地に生れました。今でいうエジプト、ナイルの畔であります。 もう既にあなたもご存知のことと思いますが、私は奴隷(どれい)の子として生れました。そして旧約にあるように、箱舟に乗せて河を流されました。やがて拾われて、王宮の中で少年時代を送りました。長ずるに従って世の中の矛盾、王宮の中の優雅な生活、虐げられた人びとの生活、このような世の中の矛盾に気がついていきました。 これは恐らく釈尊も同じであったでありましょう。私もそうでありました。私は、私が拾われた子であるということを、十八歳の時に聞いたのであります。そしていま優雅な暮らしをしている私も、かつては虐げられたこの人びとと同じもの、この人びとの間に生れたもの、そして運よく拾われて、王宮の中で育てられたものであるということ、こういうことを知ったのであります。 私は、自分で言うのも少し恐縮しますが、正義感の強い人間であります。正しいことはあくまで正しい、正しいことはこの世に実現されねばならないというのが私の考えであります。正しきもの神の義、これがこの世に実現されねばならない。これが私の考えの根本であります。 そうであるなら、正しき義、神の義がこの世に現われているかどうかを見たならば、その時代において、片や王宮生活があり、片や虐げられた被占領民族の奴隷としての生活がある。神はこのようなことを許しておかれるだろうか、許されるはずはない。私はそう思いました。時機が来たら私は起たねばならない。必ず彼らを救うために起たねばならないと深い決意を固めました。しかしそれまでの間は、書物を読み教養を身につけ、そして文武両道と申しますか、武芸にも長(た)けました。そして私は将来を期したのです。やがて時機が到来すると私は被占領民族の皆さんに、つぎつぎと申しました。 『私も皆様と同じ人間です。同じ血が流れております。たまたま王宮に育ち、私はこのような人間となっておるけれど、私は皆様の仲間であります。皆様方の解放を王に言いましょう。そして皆様方も、平和に幸福に暮らしていただきたい――』 私はこのように、つぎからつぎへと言って回り、私を支持する勢力が次第に増えていきました。そして王宮の中においても私は自分の論を吐き、周りのものを敵に回してでも議論をしました。しかし私の意見は入れられませんでした。人間というものは、いったん自分が得た利益、いったん自分が得て奴隷にした者を、なかなか手放そうとはしないものです。そして私は彼ら奴隷たちに言いました。 『よし、この地を捨てよう。この地は王の地である。彼らは彼らの生き方があるであろう。彼らを滅ぼしてまでわれらが倖せになる必要はない。われらは、われらの地を造ろう。われらはわれらの希望を持ち、われらはわれらの希望の地を求めて旅をしよう。そしてこの地上にわれらのユートピアを築こう。ユートピアは必ず出来る。この地ではない。遥か先の地ではあるけれども、そこには希望と、乳と蜜が流れる地がある。カナンの地がある――』 私は、彼らにそう説きました。彼らは眼に見ぬカナンの地というものに憧れを持ちました。 私は当時において、相当の霊的な能力を持っておりました。その希望のカナンの地があるということを、私は霊的実感として知っておりました。けれども彼らは必ずしもそれを信じません。しかし私は指導者であります。必ずカナンの地がある。われらの地がある。われらの地である天国がある。われらはユートピアを建設せんとして、いま一丸として行動を起こすべきである。そうして私は彼らを糾合しました。 そして私は、私の力を、私の意見を、私の言葉を信じさせるために、さまざまな霊的な能力を現わして見せました。王宮で見せたこともあります。しかし彼ら、やがてイスラエルの民となる人びとの彼らにも私はさまざまな奇蹟を見せました。私の奇蹟の一つは、あなたもご存知かと思いますが、私の杖が一旦私の手から放れると、龍となって天に昇って行くという奇蹟、そのようなさまざまな奇蹟を行って見せました。 それは霊的な意味における奇蹟でありますけれども、彼らの眼にありありと見えたのです。また私は未来を見ることもできました。聖霊たちと会話することもできました。恰度(ちょうど)このようなかたちで、そして当時のエホバといわれる神と対話できる者としての自由を持っておりました。 やがて私は、諸国に数十万人の奴隷を集めて、そして一大移動を開始しはじめました。王の兵達は、私たちを捨ててはおきません。彼らは、私たちを追いかけて来ました。我々は抵抗はしませんでした。一路カナンを目指して旅を続けていきました。そしてそこに紅海が現われます。ご存知のとおりであります。旧約聖書の中に書かれてある゛紅海゛であります。その時です。私は神に祈りました。『天よ裂けよ!地よ裂けよ!そしてわれらをカナンの地に行かせ給え。エホバの神よ、われを助け給え、われらを救け給え。そうして私は天に祈り、地に祈り、神に祈りました。――その時です。紅海は真っ二つに割れたのであります。紅海は割れました。海が二つに割れたのです。このような奇蹟は、未だかつてなかったことでした。 そして海が割れた道をわれわれは進んで行ったのです。そしてわれわれの後から王の軍勢がつぎつぎと追っかけてきたわけですが、そのときに、その割れた海の水がまた元通り戻り、彼らを海の中へ吸い込んでいったのです。われわれの通った後を、海がつぎつぎと閉じていったのであります。そしてわれらは紅海を渡りました。紅海というのは、それ程広い海路、水路ではありませんでした。けれどもそこの水が割れたという奇蹟が現に起きたのであります。 それは後々のために、後々のイスラエル民族をつくり、神の民をつくり、後々の正法流布のために、神がやむを得ず敷いた路線であります。神はそのようなことを予定していたのであります。そしてわれらは、「出エジプト」を果たしました。そして長途の旅にのぽり数十年にわたって、つぎつぎとカナンの地を目指して旅をしていったのであります。途中飢えに苦しんだこともあります。途中敵に攻められて苦しんだこともあります。われらは一丸となって戦いました。 そして私は、ある山の麓において啓示を受けたのであります。エホバの啓示、ヤハウェの啓示であります。私は『皆のもの、下に待て』と言い、山に登りました。そして神に祈りました。神は私に啓示を与えられました。それがあなた方ご存知のモーゼの「十戒」といわれるものであります。神の言葉がなんと現象として石の板、石板といいますか、石の板であります。この上に刻まれたわけであります。<汝、殺すなかれ><汝、汝の両親を敬え><汝、汝の隣人の物を貪るなかれ>このような訓えをつぎつぎと神は私に与えられたわけであります。私はそれを持って帰りました。しかし、人びとは私が見せたそのようなものは信じません。彼らは勝手勝手に金の彫像のようなものを造って拝んでおりました。私は怒りました。このようなことをしてはいけない、あなた方はこのようなことをしてはいけないと、そのような彫像は叩き壊しました。そしてその時、石板もまた割れてしまいました。 私はふたたび山へ登りました。山へ登って神に祈りました。神はまた同じような啓示を私に与えてくれました。 <われのみを神とせよ!われのみを神とせよ、汝らの父母を敬い、汝ら人を殺すことなかれ、他人のものを貪ることなかれ> そのような訓え、十戒という訓えをつぎつぎと神はまた顕(あらわ)したのです。そうして私はまたそれを持って帰りました。そして人びとにこれが神から与えられた訓えである「十戒」である、これを守れと教えたわけであります。 しかし、当時わたしも誤りがありました。私は神の声だけを聴いたのではありません。あなた方がこのような形で、私どもの言葉を聴いている以外に、サタンの声というものがあったでありましょう。私はサタンの声をも神の声として間違って聴いたこともあるのです。彼らは私に奨めました。『モーゼよ、神はただ祈りだけでは喜んでくれない。仔羊を屠りなさい。仔羊を殺してその血を流して神に捧げたならば、神は喜ぶであろう。お前はそうしなさい――』 そういう悪魔の囁きを聞いたのであります。しかし考えてもみなさい。神は仔羊を喜ぶでしょうか、生贄を喜ぶでしょうか、血を流す仔羊の供物を喜ぶでしょうか。そうではないはずです。本来の神であるならば、生贄など欲しくないのです。神が欲しいのは、私たちの清い心、私たちの正しい心、私たちの義にかなった心であります。神は生贄の仔羊の血など欲しくはないのです。しかしながら私は悪魔の声を神の声と聴き違え、生贅の仔羊を祭壇に祭り、そして祈るというようなことをやってしまいました。 これが私の創始した「モーゼの訓え」といわれているものの誤りの一つであります。そういうことを始めたためにそれ以降、生贄の仔羊ということが、かなり巷間に流布されるようになってきたのであります。 その後も私たちは旅を続けました。しかし私は、カナンの地までは行くことはできませんでした。私はある山の麓で亡くなりました。この地上の生活を終えました。私はその時、もう百数十歳にもなっておりました。それが私の一生です。 私は数十年にわたる長途の旅に出、イスラエル民族、イスラエル国家を創らんがために、彼らを糾合して、そして何十年もの長途の旅につき、さまざまな現象を行い、神の「十戒」を裁き、そして「一神教」というものをはじめて創り出しました。それが私の人生でありました。 2.エホバ神とは、地球霊団の最高責任者の名 善川 おたずねいたしたいと思いますが――、それからもう三千数百年という歳月が流れたのでありますが、その間の歴史の移り変わり、経過というものは、天上界におられても充分ご承知のことだと思います。けれども、当時のあなたが神として崇められていた「エホバの神」について、私たちはその後歴史の過程ではいろいろありますが、これはあるいはユダヤの民族神であられたのではなかったかと、思われる節もあるのですが、ご承知の旧約聖書の創世記におきましては、『はじめに神天地を創り給えり、地は形なく闇わだの表にあり……』という件(くだり)にあります神の御名は、アラーの神と仰せられたのではありませんか。それが第二章からはエホバ神に変わられているのでありますが、その辺はどう違いがあるのかお教え願いたいと思うのですが――。 モーゼ エホバというのは必ずしも民族神ではありません。あなた方もご存知のように、「正法」というのは、時代によって現われる地域を異にしております。東から西へ、西から東へと、移ってきているということはご存知のはずです。当時はエジプト、そしてイスラエルという地、この辺に正法の種が蒔かれ、育てられたのであります。その時にわれわれが神としていたものがエホバであり、エホバは必ずしも民族神ではありません。 たとえば中国で正法が説かれると、そこにまた゛エホバ゛に当たる神が出てくるわけです。同じであります。正法ということを機縁として神があったわけです。創造神ということはまた違ってきます。エホバは人格神であります。人格神は天地を創造した神とは別のものであります。当時の私たちは、神は神であって、神にそれだけの違いがあるということは分らなかったのです。 善川 その後に旧約聖書というものが作られて、エホバの神を讃えるかずかずの言葉を述べておられるわけですが、ある時はイそフエルの民を愛するあまりに、エホバは妬みの神であり、怒りの神であり、愛の神であるというふうに、いろんなかたちで表現されているわけでありますが、エホバと申される人格神は、一体どういう方であったかということについて、おたずねしたいのですが――。 モーゼ これは天上界での一つの大きな秘密でありますが、当時エホバといわれていた方も、必ずしも特定の方ではなかったのです。今あなたは、モーゼという私の名を知っております。キリストという名の方も知っております。釈尊という名の方も知っております。そうであるならモーゼが語った言葉、あるいはキリストが語った言葉というふうに、区別してあなた方は理解もできましょう。しかし、当時はそれ程までには分らなかったのです。私どもがこのような形で語ったなら、神の代理人として語ったならば、それはすべて「エホバ」の言葉となっているのです。 善川 イエス・キリストが現われて、神の御名は、わが父、とおっしゃっておられますが、これは即ちエホバの神を指しておられるのでしょうか……。 モーゼ エホバの神と言って語ったものが、そのエホバの神に当たっているのではないのですが、エホバ神と称せられるような一段高い神、あるいは人と言ってもよろしい、霊人と言ってもよろしい、天上界の最高責任者であります。そういう方はおられました。イエスが父と言ったのは、その方でありました。 善川 いまように申しますなら、エル・ランティーと申される方がその方に当たられるのでしょうか。 モーゼ そうかも知れないし、そうでないかも知れません。 善川 立ち入ったことをお尋ねしますが、地球霊団の最高責任者は、その時代、時代によって交替されておられるのでしょうか。 モーゼ そうではありません。 善川 いま一つお伺いしたいのですが、あなた様がエジプトにお生れになられたということは歴史的事実なのですが、それは前にも地上にお生れになっておられますか。 モーゼ 何度か生れております。しかし異った文明です。現代の文明の中には生れておりません。以前の文明、そのまた以前の文明の時に生れております。 善川 それは、現在地球上に地上として現われている部分の地にお生れになったのですか。 モーゼ 部分としては現われているかも知れないが、文明としては過去の文明です。 善川 かつて地球上にいろんな変動がありましたが、ある時代、大陸としてありましたムーとか、アトランティスとかいう地において……。 モーゼ そうです、そういう時にも生れております。 善川 そういう地において、正法を説かれたご記億はございますか。 モーゼ あります。゛正法゛はいつも一つです。 3.人類は神の分身、しかし修行は環境に応じて繰り返される 善川 人類は正法が説かれ、そしてそれを学びつつあるにもかかわらず、その正法の理解、つまり各人の悟りの段階が、向上したというような変化は見られないのではないでしょうか。 モーゼ 進化というものがあるか、ないか、むずかしい問題であります。人類は、はじめから悟った人類であります。それが現在、悟るために修行しております。これが進歩かどうか、進化かどうか、非常にむずかしいところであります。 善川 この人類、いま地上界に現われております人類は、今から何千年、あるいは何万年前に地上に現われていた人類であることが多いのでしょうか。 モーゼ そうです。 善川 なかなかそれほどの年限を輪廻転生しながらも、なお正法に帰依することができないということは、この責任は、本人にあるのか、指導者の側にあるのか、どちらなのでしょうか。 モーゼ 責任があるわけではないです。さまざまな環境によって、すべてのものがさまざまな経験を積んでいるのです。恐竜の時代には、恐竜の時代の正法があったでありましょうが、その時代に神を信じ、神に帰依するということと、現代のような科学文明の栄えた時代に、神を信じ、神に帰依するということと、神に帰依するということにおいて同じであったとしても、環境が違います。環境が違う以上、学習が違います。 学ぶことが違うのです。かつては自然、天然、動物、このようなものが人間の敵でありました。しかし、もうそのようなものも敵ではなくなってきております。現在は人間の敵は、人間の造ったものであります。公害であり、車であり、さまざまな騒音であり、いろんな人間の造ったものであります。薬害であり、人間が造ったものが人間を脅しております。こういう時代になっております。 この中で神を信じ、神理を悟るということも、これもまた一つの人生体験ではありませんか。どちらが進んでいるとも言えません。素朴な時代に神を信ずるということと、このような科学の進んだ時代に神を信ずるということ、むずかしさは違うかも知れません。やさしいテストで九〇点をとることと、むずかしいテストで五〇点をとることと、どちらの方が実力があるかといわれてもわからないのであります。 善川 お説によりますと――かつて如来界からアモンといわれる方がお出でになってお話を伺ったのですが、この方はアトランティス大陸から古代エジプ下の地へ渡られた方ですが、その頃の科学文明は非常に発達しており、現在の地球の科学水準より、百年も先の科学水準まで進歩していたと言われたのですが、そういう状況下を人類は通過して、それ以後退化したというのでしょうか。 モーゼ 何が進んでおり、何が遅れているかということは、文明の一部分をとっていうならば簡単でありますが、文明の全体をとったならば、わからないのです。現代より進んだ部分もあったでしょうが、現代が進んでいる面もあります。いろいろです。 善川 しかし、人類がかつては、いわゆるアメーバーから進化してきたという説を否定して、人類は人類として別個の存在として、他の星から転移してきたというアモン様の説は、これは正しいのでしょうか。 モーゼ 正しいことです。 善川 魂だけが他の星からの転移で、肉体は動物から段階的進化を遂げたという形ではないでしょうか。 モーゼ 間違いです。人間は人間です。人間は昔から人間なのです。「神」は、ご自分に似せた魂を持つ存在としての人間をお造りになったのです。神は、馬は馬、牛は牛として、チンパンジーはチンパンジーとしてお造りになったのです。 善川 ――わかりました。 モーゼ はっきり言っておかねばならないことは、時代がどのように変わろうとも、環境がどのように変わろうとも、われらの教えは一つ、われらの教えは心の教えであります。どのような環境の中にあっても、どのような文明の中にあっても、正しい心を持ちなさい。正しい心とは神の心である。そのような教えをわれらは説いてきたのです。現代においても然りであります。われわれの仕事は、この現象界を解明することではなくて、人間の心を解明することです。 心がすべて――この心を神の心と一つとする。これが「汝の心を神の心と同じくせよ――」これが正法であります。 4.悪魔、サタンの実体 善川 そうでありますけれど、一方において悪魔、サタソというものが存在していることは事実でしょうか。 モーゼ あなたが悪い念(おも)いを心に持った時にサタンがあり、あなたが良い念いを持った時にサタンはない。即ちサタンと見える人達は、悪い心を心として生きているからサタンであるけれども、神の心を心として生きたならば、その瞬間、その刹那に、もはやサタンはないのであります。 悪魔というものは、心の持ち方を誤っている者共であります。誤った心の持ち方をした人達が、われらの仕事を邪魔しようとしているのです。そうでしょう。心清き人の足を引っ張ることはできるのです。そうではありませんか。邪魔をすることはできるのであります。私が言いたいことは、彼らは悪魔として作られたものではないのです。彼らがこの心を゛是(よし)゛とする心が間違った心であります。本来出てきた神の心と違った心を旨として生きているということ、自らの心の状態が誤っているために、他のものを迷わしているということ、これが悪魔なのです―――。 5.罪の起源、無明縁起について 善川 仏数的に申しますなら゛無明縁起゛と申しますか、本来善性、光一元の神の子に、この無明、罪、悪というものが一体どうして現われるようになったのか。この無明の縁起は何処にたずねるべきでしょうか……。 モーゼ 「無明」「罪」というものがあるわけではないのです。本来そうあるべきであるところに、違うものが置かれていることが罪であります。そうではありませんか。神殿の中は神に対して祈りをするところであります。ところが神殿の中で魚を売ったり、果物を売ったりしたら、それは何かおかしいでしょう。魚を売ることは悪いことではないのです。果物を売ることは悪いことではないのです。しかし、神に祈る場所である神殿で魚を売り、果物を売ることは場所を間違えているということです。この場所を間違えているということが、罪であり、迷いであるのです。それぞれは悪いものではないのです。時、処、場所を間違えているということ、これがいけないのです。 お分りですか。あなたがしている行為そのものは悪いことでなくても、やはり場所、やり方を間違えばそれが悪となります。本来悪があるわけではないのです。悪というものは神殿の中で物を売っているようなものだと思って下さい。本来神に対して祈るべきところで果物を売ったり、魚を売ったりしたら、それはそうでしょう、神殿の中の人は慌てて出て来て追い出すでしょう。何をするんですかと、そういうことなんです。悪いということは、神殿の中で誤ったことをやっていることなんです。 善川 ということは、いま比喩でお話願っているのですが、聖書によりますと、人類の祖先が蛇に騙(だま)されて禁断の木の実、即ち知恵の木の実というものを食べた、そのために人間が人知をもち、神の子としての従順さから抜け出し、肉体的欲望に自由を感じ始めたのではないでしょうか。そしてそれがエスカレートしたところで迷いとなり、罪となり、悪となってきたのではないでしょうか。 モーゼ 知恵を持つということはいいことです。人間は本来知恵を身に備えております。ただ使い方を間違っているからいけないのです。人間の体は本来神の聖霊を宿すところなのです。神の聖霊を宿すところである以上、人間の体は神殿なんです。私はこの喩(たと)えを言っているのです。人間の体は神の聖霊を満たすためにあるのです。即ち人間の体は神殿であります。この神殿を穢すものを悪といい、迷いといい、罪というのです。そうでしょう。神の神殿なのです人間は――神のお働きの場、神は人間という形を通じて、自らの意志、自らの目的を実現されておるのです。そういう目的をもったものなのです。その目的をもったものを目的以外の方法に使ったならば、これは誤りとなるでしょう。 そうです、人間は神の神殿であります。神の神殿は神のことを聴き、神のために活動するためにあるのです。その中で魚を売ったり、果物を売ったりする人がいたら、これは追い出されてしまいます。これは間違っていると叱られます。それ自体は悪いことではないのですが、間違っているのです。人間が五官にとらわれていてはいけない、欲望に振り回されてはいけないことは、神の神殿の中は本来神聖であって、神と対話すべき場所であって、その中で商売をやっているようなものなのです。ほかのことをやっている、あるべきでないものが入っているから間違いなのです。 善川 その本来あるべきでないものが入ってくる間違いということも、そのこと自体、つまり、そのような間違いを犯すように本来的に備わっているのではないでしょうか? モーゼ 神から与えられた誤りではないのです。たとえば、神殿には神殿の祭司がおります。彼らは人びとに教えております。神殿は神聖な場所でありまして、ここでは神に対して祈る場所であります。また時には立札も立てるでありましょう。神殿の中では物を売ってはならない、買ってはならないという立札を立てる人もあるでしょう。けれどもその立札を見ないで入ってくる人もいるのです。そしてその人は魚を売ることを業としております。そして神殿の中で魚を売ってしまう。ある人は、立札を見ても、その意味がわからずに入り込んでくる。あるいは立札を見ないで入ってくる人もいる。あるいはそのような神殿の中は神聖なところであって、そのような生業(なりわい)をするところではないと教えられて、素直に信ずる人もあれば、何を言っているのか、どこで商売してもいいではないか、人が集まるところで商売をすれば儲かるんだ、と人の意見を無視して、あえて神殿の中で商いをする人もでてくる。 これが悪であり、罪であります。この時の祭司というのが、あなた方、光の使徒であります。光の使徒は、時代時代に現われては人びとを正しい道に善導するために、いろんな方便を使って指導している。ところがこの指導に耳を傾けずに勝手に神殿の中で商いをしてしまう人も出てくるのです。 時には立札も立っています。この立札が仏教でいえばお経であり、キリスト教でいえば聖書であります。聖書を読めば、こういうことはしてはいけない、こういうふうにするんだということが書いてあるんですが、立札があっても見ても見ないふりをする人がいる。聖書があっても読まない人がいる。経典があっても経典を読まない人がいるということです。しかし彼らもまた人間であります。正しい人達であります。場所さえわきまえれば彼らは彼らとして、善良な市民として生活をしているのです。しかし神殿の中で商いをやっているということ、これ自体が違っているのです。彼らは彼らの生活があり、妻があり子があり、市民としての生活をもっているのですが、本来あるべきでないところに、何かをしようとしているところが誤っているのです。 善川 その過ちは知って犯すものと、知らずに犯すものがあると思うのですが、知らずに過ちを犯すものは、これは修行の初歩的段階として軽度な咎で赦されるのでしょうか。 モーゼ どういうことでしょうか。知らないで過ちを犯すほうが過ちとしてはもっと大きいのです。知って過ちを犯すより、知らずに過ちを犯すもののほうが過ちとしては大きいのです。 善川 人類のこの地上に存在する期間はいつまで続くものかわからないけれども、いつの時代においてもこれが人間として修行を積むという一つの過程における問題として、この過ちが絶えることなく続いていくのでしょうか。 モーゼ たとえば、私の言うことが判らないのであれば、また譬(たとえ)を使って話しましょう。――ある人は刑法を知っております。人を殺してはいけない。人を殺せば罰せられるということを知っております。人を殺してはいけないと知っていながらも人を殺してしまった。その人と、人を殺しても悪いかどうか全く知らないで人を殺す人、どちらが人類にとって危険であるかということを、よく考えてごらんになるといいのです。人を殺すことはいけないこと、悪いこと、罰が当たるんだけれどそれでも人を殺してしまった。それと、本来人を殺すということに何らの抵抗を感じない人、悪いとも良いとも思っていない、殺したかったから殺したというだけの人、一体どちらが人類にとって危険であり、神からどれだけ離れているかということを考えていただきたい。 ――知らないで犯す罪のほうが大きいのです。知らないということ自体が更に大きな罪なのです。知って犯す罪は抵抗があり、良心の呵責が生まれてくるのです。やむを得ない事情もでてくるのです。知って犯す罪というものは本人の善良なる心と、悪なる心とが天秤に掛けられ、悶えながら彼は悪をやってしまったということです。知らないで犯す罪というものは、それさえも知らずに犯すということであります。 6.地獄の魔王ルシファーの存在理由について 善川 そうしますと、ご承知のかつては天上界における七大天使の一人とまでいわれた人であったが、今は地獄に堕ちている地獄の魔王と称ばれているルシファー一味たちサタンは、これらは悪を知りながらなおかつ、したい限りの悪を重ねて平然としているということは、何か特別な意味があるのでしょうか。 モーゼ 何とも申せません。 善川 これは天上界の機密に属することなんでしょうか。 モーゼ ――何とも申せません。 善川 彼は何もかも知りつくしてやっているということが、われわれに現われてくる時点では、そう感触されるのでありますが――。 モーゼ そうではないかも知れませんよ。 善川 あなたの時代にも、釈尊の時代にも、イエス様の時代にも、その他いろいろな預言者が現われる時には、いつも彼らが現われて、法を説く者に的を絞って介入し、惑わし、嫌がらせなど行っていますが、彼らは意識的にやっているとわれわれには感じられるのですが、そういう彼らに一部の理があるといわれるのでしょうか。 モーゼ われわれの世界をすべて知っているなら、彼らは地獄になどいないのです。やはり違うのです。知らないところもあるのです。彼らは知らないのです。光の喜び、天上の悦びというものをもう忘れてしまって久しいのです。彼らは知らないのです。自らの世界、自らが生きている世界が真理だと思っているのです。 そしてあなた方は、彼らにとっては、彼らの世界を破壊せんとする悪魔なのです。彼らは自分たちのことを考えております。自分たちの権益を守り、地位を守り、安全を守るために抵抗しているのです。これを知ってやっているか、知らないでやっているかということは非常にむずかしいことです。 善川 しかし彼らも本来は神の子であるということには間違いないのですね。 モーゼ それはそうであります。 7.天上界側のサタン達の取り扱いについて 善川 サタン達の横行ということに対する、天上界のお考えというものもおありになるのではないでしょうか――。 モーゼ あります。――たとえば、日曜日の教会で、教会の偉い人が説教しているとします。日曜日の教会であります。いろんな善男善女がその説法を聴いております。そこヘドドドドと、たとえば無頼漢(やくざ)者が流れ込んで来る。このような形であります。さああなたが教会の神父さんであったら、どうしますか。あなたがお話をしている。有難いお話をして聖書の講義をし、二百人、三百人の人、善い人がいてその話を熱心に聴いている。そこに後ろの扉を開けてドドドドと、やくざ風の男が入って来て、――何いってやがるんだい、という形で入って来て息まいているわけです。まさしくこのような姿です。さあ、あなたは神父です。あなたはどうされますか、――その時あなたはどうされますか。 これが神と悪魔、聖霊と悪魔との問題を解く一つの鍵であります。これをあなただったらどうされますか――さあ、あなたはどうされますか。 善川 もちろん人数も多いし、体力的に彼らが勝(まさ)っているという仮定のもとにですか。 モーゼ 考えてみれば判るでしょう。あなたは神父です。聖書を読みあげて人びとに説教をしているだけの人です。そして百人、二百人、三百人の人がその話を聴いている。お子さんもおれば、おばさんもおれば若い姐さんもいる、夫婦もいる。みんなあなたの話を聴いている。その時に無法者が後ろからドドこと入って来たわけであります。さあ、あなたはどうされるか。彼らは口々に言っております。――何を言っておるんだ、つまらんことを言うな、神なんかあるもんか、そんな聖書など読んだところで、何の役にも立たないぞ、銭儲けなどできないぞ、もっと楽しいことがいっぱいあるじゃないか――と。彼らは入って来て口々にそういって叫んでいるわけです。その時にどうするか、あなたはどうされますか。 善川 一応自分の言葉で、あり得る限りの知恵で彼らを納得させようと努めます。私たちは性善説をとる限り、彼らにも本来神の心が宿っているものという愛念をもって、その無法のあり方の非を説いてみるだろうと思いますけれども……。 モーゼ そうでしょう。ですから私たちもサタンというものが現にあるにもかかわらず、彼らに対しては、強制的な手段はとっていないのです。彼らに対し優しく話しかけ、正しい法を説くということに専念しているのです。彼らは邪魔をしにきています。しかし私たちは強制力を発揮していません。 いまのような場合に一つの方法があります。たとえば、警官を呼んで、彼らを強制的に引っ張って行く。あるいは彼らのような人間は生かしておく意味もない、袋叩きにしてしまう。――いろんな方法があります。あるいは、なすがままにさせておく、という方法もあります。しかしあなたが教会の神父であるならば、まず彼らの良心に語りかけることでありましょう。もし彼らを悪なりとして、悪であるから皆もやっつけろと、もし壇上において言ったならば、周りの人たちはそれに従うかも知れません。しかしながらあなたの心もまた悪として、悪魔の心になっているということは否めないのです。 その時にわれらが、悪魔を悪魔として認め、彼らが悪魔として活動し、邪魔をしていることを認めながら、なおかつ彼らを赦し、彼らの存在を赦さんとしているということは、彼らの良心に働きかけているからなのです。 われわれも、彼らと同じように、彼らを憎しとし、彼らを抹殺せんとするならば、われらの心は既に神の心ではないのです。われらの心は既に悪魔の心であります。悪魔だけが悪魔を殺すことができるのです。分っていただけますでしょうか、同じなのです。聖霊と悪魔のことを考える時にはそう考えて下さい。聖霊は神父であります。日曜日の説教をしている教会の中です。邪魔されたくないのは山々なのです。そういう時に彼らはドアを開けて入ってくるのです、ドカドカ土足で。――そういう時にどうするかということです。そういう時にもし、たとえば警官を呼んで強制的に彼らを連れて行くこともできるでしょうが、そういうことをしたならば、たとえばあなたの話を聴きに来ていた人達も、あなたの話は聴きに来なくなるでしょう。多分そうなるでしょう。そうだと思います。 あなたが彼らの良心に呼びかけ、彼らに話かけ、彼らを教化せんとして努力するならば、彼らはあなたに対して暴力を振るうかも知れません。けれどもあなたが彼らに暴力を振るわれようとも、彼らの善なる心、良心を信じて話しかけ、遂にあなたが怪我をさせられることがあったとしても、あなたの信徒たちは、あなたに対する尊敬の念を失わないでしょう。 しかし、あなたが強制力を使って彼らを排除したならば、一時的には説教は続いたとしても、やがて誰もあなたの話を聴かなくなるでしょう。イエスの例もそうなのです。そうではありませんか。イエスは最後まで彼らに語りかけたのです。そのような無法者達、彼らは手荒く彼を鞭打ち殴り蹴りしたわけでありますが、しかしイエスは抵抗せずに、最後まで神の国を信じ、神の言葉を述べ、彼らの良心に働きかけたはずであります。 どちらが偉いかということを、あなたはよく考えてほしいのです。どちらが神のみ心に適うかということを考えてほしいのです。すぐ悪魔はいけない、彼らを閉じ込めてしまう、彼らを抹殺してしまうという考えは、神聖な教会の中に、警官隊を導入して彼らを引っ張っていく、あるいは処刑してしまうということと同じことです。あなたが真の神父であり、真の神を信ずる人であるならば、たとえ殴られようとも、蹴られようとも、聴衆たちが迷惑がろうとも、彼らに一生懸命に語りかけるはずであります。それが真の姿ではありませんか。それが真の姿、それが真の慈悲ではありませんか。同じであります。 ですから、私たちが何千年にもわたって法を説いても悪魔がなくならないのはどうしてか、地獄がなくならないじゃないかと言われる向きもあるかも知れません。それはそうです、一番効率の悪いやり方をやっているのです。それはなくならないはずです。この譬をもって理解していただきたいのです。効率のいいのは強制的に彼らをなくしてまうほうがいいのです。けれどもそうではないのです。われわれは非常に遠回りな方法でありますが、悪魔たちの良心に語りかけているのです。彼らの良心が目覚めるのを待って欲しいのです。これを分かって欲しいのです。永い時、われわれも忍耐しているのです。
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目次 1.未来社会の構想 2.新文明の潮流 3.科学技術の新展開 4.愛の世紀 5.光はあふれる 6.さらば、二十世紀文明 (1988年6月2日の霊示) 1.未来社会の構想 高橋信次です。引き続いて第二章に入っていきたいと思います。本書は『高橋信次の大予言』と銘打ってますのでね、未来の話もだいぶしていこうと思ってます。そこで、まず未来社会についての考え方、こうしたものを明らかにしたい。そういうふうに思います。 未来社会というのは、どういう社会が展開するか。これをね、現代の、科学者、あるいは政治家、経済学者、社会学者、こうした人たちが、知恵を集めて、今、考えています。知恵を集めて考えているけれども、よくわからない。 確かに、次の時代への芽というのは、すでに同時代のうちから始まっているんです。したがって、現在、同じ時期にあるもののなかに、将来への布石、あるいは未来社会への種播(ま)きの部分があるのです。ところが同時代人にとっては、何が未来に残っていくものであり、何が今世限り、今回限りのものであるか、この辺がわからないんだね。 光の天使で偉大な思想を残した学者は、過去多くいますが、その当時はやはり彼らも一人の優れた学者ぐらいであって、それほど偉いとは思われなかった。ところが時代が経ってみると、その偉さが抜きん出て見える。そうしたことがいくらでもあるわけです。このように、同時代からはなかなか未来社会というのが見えない。そういうふうに言えるのだろうと思います。 そこで、地上にいるみなさんは、なかなか未来社会のビジョンが見えないと思うので、こうした私たちの世界、実相世界から見て、どうした未来社会が計画されているのか。これについて、話をしておきたい。このように私は思います。今、神様が何を考えているのか。あるいは神様に近い高級諸霊たちが、どうしたことを考えているか。こういうことです。 この地上というのは、非常に面白い世界であって、ひとつの自治権が与えられているんだね。自治権というのが与えられていて、それぞれの人間に自由意志があって、その自由意志で生きている部分があるんだね。これについては高級諸霊であっても、勝手にできないという面があるわけなんですよ。 たとえば、私も霊言、霊訓のなかで何度も何度もいろんな人に呼びかけていますが、地上の人で私の声に応えてくる人、応えてこない人、いろいろいるわけですね。これなんかを杓子定規(しゃくしじょうぎ)に一律にできないか、という考えもあると思うけれども、これこそ自由意志というものがどういうものかということを、教えていることになるわけです。 たとえば、あの世の世界であれば、霊的な世界においては、その魂の偉大性というのは一目瞭然(いちもくりょうぜん)なのです。そして人びとは自分より上位にある者の、そうした光というものに打たれて、それに従わざるを得ない。こうした自然な徳と言いますか、秩序というものがあります。この地上世界、三次元世界だけが非常に無秩序です。無秩序というのは、神に近い者が本当は秩序社会においては上にあって、そうでない者は下に置かれるべきであるにもかかわらず、そうした秩序がないということだね。 だから昔のように、地上世界は仮の世界、そしてあの世の世界が実(じつ)の世界、実相世界、本当の世界という見方もあるけれども、別の見方をすれば、この地上というのは無秩序の世界で、あの世の世界は秩序のある世界です。これだけは間違いがない。秩序がある。 どういう秩序があるかと言うと、霊的秩序、これだけは確実にあります。霊的秩序です。何がより神に近い考えであり、何がそうでないのか。どういう人が神近き人であって、どういう人がそうでないのか。こうしたことだけははっきりしています。そして神の心に合致した行為、行いということ、考え方、言葉というもの。これもはっきりしていますが、これに反する、これに遠いもの、これもはっきりしています。この地上世界だけが、それがわからないでいます。そうした独立した、非常に変わった社会が出来ているのです。 それは、魂修行という意味、特殊な意味において、そうした世界の存在が許されているのです。そして魂修行という、そうした意味、教育の目的でもって、自由意志というものが非常に尊重されている世界でもあるのです。 すなわち、高級霊たちもインスピレーションというかたちでさまざまな指導はできるけれども、直接的なかたちで人の心を変えてしまおうということまでは、許されていない。あくまでもそれは、例外的措置としてだけ許されています。そうしたことがあるわけです。 したがって、これからの未来社会、私たちがどうした社会を構想しているかと言うと、一言で言うと、この「秩序」をある程度この三次元世界に、地上世界に降ろしたいということです。地上世界にこの天上界の秩序を降ろしていきたい。これははっきりした考えとしてあります。すなわち、どうした仕事が神の心に適(かな)っている仕事なのか、あるいはどうした生き方が神の心に近いのか。どうした心情が本当に人間として学ぶべき徳目なのか。こうしたことを教えていくつもりなんです。そうした社会の実現を目指したいのです。 今の世の中にあるような、会社の格であるとか、一流企業、二流企業、いろいろあるが、そうしたものだけで縛(しば)られていく考えではなくて、やはり神の心に適った仕事をしている企業なら企業、人なら人とはどういうものか。学問領域において、神意にそったものはどういうものなのか。家庭生活において、神の心に近い家庭生活とはいかなるものなのか。こうしたことを、明らかにしていきたい。そうした計画がある。 これが、結局、未来社会の構想なのです。これをどういうふうにビジョン化するか。そして具体化していくか。このために、今、天上界でもいろんな意見が闘わされていますし、地上に次々と光の天使が送り込まれている。そうした意味が、あるいは理由があるわけです。 2.新文明の潮流 さて、そうした新文明、あるいは未来社会の到来の予想図は、いったいどうしたところに出てくるのか。どうした流れのなかに発見されるのか。これを考えてみたいと思います。 そうしてみると、私は新文明の潮流として、大きく三つぐらいの潮流があるのではないか。このように思うわけです。 それが何かと言うと、第一は、これは明らかに、新・新宗教と言うよりは超宗教で、超宗教の時代が始まるということです。今までの宗教の枠を脱皮した、超えた宗教と言いますか、これが始まっていく。そして、これは、信仰と言うものの姿が変わってくるというひとつの中身を含んでいると思います。 どう変わってくるかと言うと、今までは姿、形なき神、何を考えておられるのかがわからない、そうした神をとにかく信ずるということが、宗教の本質にあったように思いますが、これからはそれを明瞭に、思想として、理解し、体得していく、こういうことがあり得るという社会です。 すなわち、最後の一点として、目に見えぬ神というものを信ずるというところはどうしてもあるけれども、その目に見えぬ神そのものの存在と、その考えというものが非常に明確にされていく。それは特に、私たちの活動を中心として明確にされていく。こういうことがあるということです。 そして、これはただ日本だけではなくて、他の国でも多く起きていきます。おそらく、多くの国で次々と宗教改革というものが起きていきます。社会改革も同様に起きます。それが、おそらく日本の近辺にある韓国とか、中国とか、東南アジアとか、こうした国を中心に、いろんな改革というのが起きてくるのです。それがね、やはり新しい流れのひとつであると思います。そうした超宗教の流れが出てくるということが第一点。 第二点として言えることは、教育というものが変わっていくということです。教育というものが変わっていく。それは、その宗教の概念の変化にともなって、教育というものが変わってくるということです。 今まで教育というもので教えられていた、そうした内容は、学問的に集積されたもの、実証性のあるもの、こうしたものが中心になってきたわけだけれども、これからは、実証的学問を超える動きが出てくると思います。単に実験で確かめられるもの、あるいは誰が見てもそうであるもの、現に手で触れ、目で見えるものだけを学ぶという、そうした教育のやり方は、おそらく時代遅れとなっていくであろう。私はそう思います。 そして、現在、大学で教えられているような内容、こうした内容は、やがては高校レべルに下ろされていくと思います。大学の教養課程であるとか、専門課程の一部が、高校レベルまでおそらく下がっていくと思います。そして現在の大学でやっているような内容は、おそらく違ったもの、未知なるものの発見の場と変わっていくと思います。 つまり、大学というようなところは、本来の意味における研究の場となっていく。私はそう思います。三次元的なる知識は、高校で終わりというかたちにだんだんなっていく。そして大学では未知なるものを探究する。この世で常識とされているようなこと、これはあえて研究する必要はない。未知なるものを探究する。今まで発表されていないもの、今までメスが入っていないもの、こうしたことを主として探究する場、そしてそういう教育機関としての大学というのが機能してくると思います。 すなわち、従来信仰と言われた世界のなかにも、教育の領域が広がっていくということです。これなくしては、本当の研究の意味がなくなってくると思いますし、科学の領域ですね、物理や、そうした領域でもおそらく霊的世界の探究というのが徹底的に始まっていきます。それをやらなくては、未来社会の意味がなくなっていくからです。そうした社会が今後流れ出ていく、始まっていくということを、私は予言しておきたいと思います。 3.科学技術の新展開 さて、そうした新文明の潮流のなかで、科学技術というのはどういうふうになっていくのか。また、どうした方面が今後、脚光を浴びるようになっていくのか。それについて若干考察し、考えてみたいと思います。 現在の科学の領域では、たとえば、超伝導というようなことが非常にさわがれていると思います。超伝導ということをみなさんはご存知かどうかは知りませんが、ある種のセラミックスです。こうしたもののなかに物を空中に浮かせるような、そうした機能を持たせるということなんですね。空中に物が止まるような、そうした現象をつくる。こうした研究が行われていまして、これが未来の科学の非常に大切な発見になるだろう。こんなことが言われているわけです。それを使うと、ホーバークラフトの原理のように物が空中に浮くわけです。そうしたことが考えられています。 具体的な、専門的な説明は、もちろんそうした専門書によりたいと思うけれども、ただ私はね、この延長上で今後発明されるもの、どういう方面が発明されていくか、これについて考えてみたい、予言してみたいと、こういうように思います。 そうすると、今後おそらく発明される装置としては、やはり磁力線の調整機能だね、こうしたものがおそらく出るだろうなあと思います。磁力線というのはみなさんわかるでしょうか。まあたとえば磁石ですね。電磁石というようなものがあって、物をくっつけたりする機能を持ってます。こうした電磁石の出すような磁力線です。こうしたものの研究がさらに進んでいくだろう。そして、その磁力というものをさまざまに変化させ、使えるような、そういう揚が出てくるだろうということです。 したがって、そうした磁力線の開発によって、調整装置の発明ということによって、たとえばそうしたある種の機械を用いて光を当てると、たとえば遠隔地にあるものを動かしたり、宙に上げたり、降ろしたり、横に振ったり、こういう装置が出来てくるということですね。これはまだ発明されていないと思いますが、あり得るということです。これが発明されると非常に便利なことがいろいろあります。 たとえば、現在、大都市での超高層建築をどういうふうにしているか、みなさんご存知でしょうかね。クレーン車を上げて一階一階造っては上にあげ、造っては上にあげというようなことをやっている。そしていちばん頂上、屋上まで造ったら、そのクレーン車を今度は分解して小さいクレーン車で降ろす。そして、その小さいクレーン車は今度はエレべーターで降ろす。こういうことをやってますね。 こうした設計の方法をとっていると思いますが、こうした磁力線の調整装置、これが発明されると、遠隔でいろんな物を動かすことが可能になってくるわけです。そうしたクレーン車を超高層建築のいちばん上に置いて動かさなくとも、そうした遠隔操作によっていろんな物を持ちあげることが可能となってきます。そして、地上からさまざまな機械をあげたり、鉄骨をあげたり、あるいはセメントをあげたり、こうしたことが可能になってきます。空中でそれを動かしたりすることができるようになるのです。 それをするためにはどうするかと言うと、動かしたい物に対して、たとえば一定の波長の光を当てておくわけです。これはなんでもいいのですが、目に見えるように言うとすると、たとえば青なら青といった光線をいったん照射しておく。その支配下におくものに対してそれを照射すると、一種の電磁波を帯びるわけですね、その物が帯びる。これに対して次の作動用の電磁波を出すと、これが感応して自由自在に上にあがったり、左に動いたりするようになるわけです。こういうかたちになり、言ってみれば霊界世界の出現みたいなものです。 霊界の世界では、念だけで物を動かすことができます。山の岩を切り崩したり。宙に浮かしたり、空を飛んだりすることが自由自在にできますが、これに近い現象が三次元世界に起きてくる。この磁力線の発明によってそうしたことが起きます。 そうするとどうなるかと言うと、たとえば海底探検の機械なんかがあります。水中艇みたいなのがあって海底探検していますが、そしてマジック・ハンドなどで海底の岩を取ったり、力二を捕まえてみたり、いろんなことをしていますが、この磁力線装置の開発によって、海底にあるものをいろいろと切り崩したり、動かしたり、持っていったりすることが可能になります。海の外に出なくてもそうしたことができる。したがって、この発明によって、海底の鉱山の開発、鉱物の採取とかが非常に容易になっていきます。 たとえば、海底に潜(もぐ)った潜水艇のなかからレーダーで見ていって、ある種の金属の鉱脈を掘り当てたとすると、そこで艇を止めるわけですね。そして探査機械を回して調べてみる。そしてある海底のなかの山の中に、ウラン鉱ならウラン鉱の鉱脈があるとすると、そこにこの電磁波装置によってひとつの光を当てると、切り出しということが行われてくるのですね。その周波数をウラン鉱石に合わせた周波数を出すと、ウラン鉱石だけがその山のなかから取り出せる。こういうことが可能ですね。そしてそれを水中に浮かしながら引き寄せてくる。こういう採取ということが可能になってくるのです。 これによって、非常に大きな科学的発明ができます。これは飛行機の原理としてもおそらく応用できようになっていくでしょう。超伝導の先にそうしたものがあり得るということを、私は予言しておきたいと思います。 これ以外に何があるか。こうした質問をされる方もいらっしゃるでしょう。いくらでもこれはもちろんあるわけですが、もうひとつだけ言っておくとするならば、これは主として、エネルギー原理の新発明ということであると思います。今世紀末から来世紀にかけて、エネルギー革命が起きてくると思います。 それは主として何かと言うと、石油のようなもので今までやっていたものが、あるいは電力で動かしていたものが、やはりキャパシティーが満杯になってきて、新たな力を、動力源を必要とするようになってくるのです。 その新たな動力源として、私の予想では結合のエネルギー、あるいは化学反応のエネルギー、こうしたものを取り出すということが可能になると思います。現在、化学反応によっていろんな元素同士がくっつく、分子、原子がくっつくというような化学反応がありますし、またそれが離れたりするというようなことがあると思いますが、こうしたいろんな化学反応から莫大なエネルギーを取り出す。そういうことがおそらく可能になっていく。そういう時代が来る。 まもなくエネルギー革命の時代が来る。それを予言しておきたい。それも、科学技術の新展開のひとつであろうと思います。 4.愛の世紀 そうした科学の時代が来るということもひとつですが、同時に、不思議なことに、愛の世紀も来るということが言えます。愛ということは、今まで宗教の世界のなかにひっそりと眠っていたものですが、今後、この愛を科学するということが非常に大事になってきます。 イエス・キリストが、今から二千年前に、ナザレの地で愛を説いた。今までその愛というのがクリスチャンの胸のなかを流れ流れて、また、キリスト教を信じない人びとのなかにも大事なものとして流れてきました。 もともと仏教などにおいては、愛というものは執着の別名であって、それほど素晴らしいものではなかった。愛というのを非常に素晴らしいものとして、愛の価値概念が出来あがったし、これは世界的に素晴らしいものとして、今、広がっていると思います。これは、キリスト教の非常に大きな成功のひとつです。そのように私は思います。 ところが、これから先の世紀においては、愛というものがもっと科学される。そういう時代が来ると思います。今まで愛というものを無前提に、あるいは無批判に素晴らしいものというふうに受け入れ、それを信ずるということが大事である、こういうことが言われていたわけですが、これからは愛が科学される時代が来る。そうした時代の到来を、私ははっきりと実感するのです。 すなわち、愛というものがもう少し科学的観点から分析されてくる。そういう時代が来るということです。愛のエネルギーとは一体何なのか。愛を実践することによっていったいどのような効果が出るのか。それによって人間がどう発展し、社会がどう発展するのか。そうした愛の力学ですね、愛の物理学、これが真剣に検討されるようになると思います。 物理学というような、物と物を動かしたり、物と物との関係だけ考えるのではなくて、これからは人と人との関係学、人と人の間の物理学ですね、これが非常に重要になってきます。物と物とがどういう反応を示すか、どういう力学的数式のなかに納まるかという、そうした物理学の領域がありましたが、こうした領域が今度は愛の段階、人間関係論として出てきます。人間関係のなか、人間関係論のなかに物理学というものが入ってくるわけですね。 そして、愛の質量というのが測定されます。どの程度の愛か、その質量が測定され、また愛の速度、愛がどういうふうな運動速度を持っているか。その結果どうしたエネルギーがそこに生まれてくるのか。また、そうした愛の原因によってどのような結果が生まれてくるのか。この愛という目に見えぬ力、この物理法則というものが徹底的に研究されるようになります。 そして、人間が幸福になっていくためには、これだけの愛をこれだけの時間、こういうふうに使用していかなければ、本当の意味で人間が向上しない。社会が向上しない。こうしたことがわかるわけです。これは科学者の観点から見た社会変革の理論、ユートピアの理論であろうと思います。 こうした社会調査というものを、随分いろんなかたちで、サンプル調査から始まって、世論調査などとやっていますが、社会変革のための、このユートピアのための原動力というものを、もう一度科学的にとらえ直してみる必要がある。世の中が変わるにはいったいどうすればよいのかということを、科学的手法を導入して検討してみる必要がある。 たとえば、世界のなかから戦争を減らすためには、いったいどうすればよいのか。どうしたかたちでの愛が、どれだけの量あればよいのか、どうした行為が必要なのか。こうしたことを検討していくことができます。そして、世の中のユートピア度、ユートピア係数というものがはじき出せるという、そういう時代が来ると思います。 今、日本のGNPであるとか、アメリカのGNPであるとか、こんなことが言われています。あるいは国民一人あたりの所得というようなことが言われていますが、新時代においてはこの観点は違ってくる。各国別のユートピア度数、こういうものが競われていい時代になる。そしてユートピアの度数が高いほど、いい国だということになる。 また、国民一人あたりのユートピア享受(きょうじゅ)、享受量、摂取量、こうしたものが計られるようになってくるのではないか。総合的な観点からのユートピア量、これが検討されるようになるのではないか。私の目にはそうしたふうに見えます。 人びとが住みよくなるためには、それは住宅環境だけではない。食生活環境だけではない。心の環境において、人間関係において住みよくならねばならん。人間関係においっていちばん大切な要素を出していって、その度数を計っていく。そして国民総ユートピア量、こうしたものを出していくわけですね。そして一人あたりのユートピアの享受量、こうしたものをスッキリと出していく。 こうしていくと、国民間において国のユートピア度、これの検討、あるいは切磋琢磨(せっさたくま)というのが始まっていくわけですね。それによって新たな世界が展開してくる。新世紀が始まる。私はそのように思います。この愛の世紀、これが始まっていきます。 みなさん、本当に向かうべき方向はそういうところにあるのです。それをしっかりと知っていただきたいと思います。 5.光はあふれる そうした愛の世紀が訪れるわけですが、そこの世界にあふれている光、これは神の七色光線でもあるわけです。したがって、愛の世紀においては、また、光、神の光というものが徹底的に分析されていかねばならんのです。神の要素としていろんなものがあると思います。愛であるとか、慈悲であるとか、勇気であるとか、正義であるとか、創造力であるとか、さまざまな要素があると思いまずか、この神の光の性質というものの研究、これが大事です。 ニュートンの時代から、光の工学的な研究というのはあったと思います。レンズを通すことによって、光をさまざまに動かしてみたり、あるいはプリズムを通すことによって七色の虹を出したり、いろんなことをしておりましたが、これからの科学者の本当の使命は何かって言うと、神の光というもの、これを解明すること。この物理学的性質を解明するということ。これが大事だと思います。 今、霊道を開いた人たち、そうした特殊な人たちは神の光というものを実感しています。祈れば、たとえば神の光は燦燦(さんさん)と射してきます。そして手をかぎして病人の患部に当てると、神の光が入っていきます。そしてその病気が直ったり、気分がよくなったり、そうしたことがあるわけですが、この光というもの、この光の性質については、人びとは無知です。宗教家たちも、霊能者たちも無知です。この光とは一体何なのか。この神の光の性質、これを科学的に分析しようとする、そうした人が出ます。現代のエジソンみたいな人が出てくると私は思いますし、それがこれからの新しい時代の発明、発見です。 現在設けられているようなノーベル賞の対象となるようなもの、こうしたものは大した発明ではありません。私はこの神の光の性質を分析するのが、今後の科学者の使命だと思います。そして神の光の性質を徹底的に分析して、それをどういうふうに有効利用していけば世の中がよくなっていくか。これを知ってほしいと思うのです。この神の光というものを、科学的にキャッチできるようになったら、本当に病人なんか直ってしまいます。医学の非常な進歩、進化になっていくと思います。 こういうふうに、光、神の光が、どういうふうに多目的に使われていくか。この観点が非常に大事である。私はそういうふうに思います。これは現実にあるんですよ。それはね、不思議なことですが、人間の心というものを調和して、そして守護・指尊霊の光を受けようとすると、そうした光が天上界から実際に射してくる。 さて、この光そのものの性質はいったい何なのか。これは人の心をあたたかくする。人を幸福な感じにさせる。また、物理的効果として、病をある時は直してみたりすることもある。病を直したり、けがを直したりすることもあれば、その人に勇気を与えて人生を一転させることもある。 また、未来を予知させるようなことを起こしたりする。こうした不思議な性質を持っています。この光というものか一体どういうものであるのか。これを分析、研究しないでは、今後の未来科学というものは成り立ちません。 そして実は、この地上のあらゆるものも、この神の光というものの影響を受けているということです。これなしには成り立たないのです。だから物理的な研究や、科学的な研究をいろいろやっても、それが実は神の光の影響下にあるという事実があるのです。これを知らなければ意味がない。 また、霊体、霊魂とか、魂と言われるものの質量、あるいは性質、こうしたものについてもどんどん研究のメスが入っていくべきです。心霊研究家などという特殊な領域に今は任されているけれども、これは未来科学の最先端です。霊というのはいったい何なのか。これを科学的にどう分析していけばいいのか。その世界はいったいどうなっているのか。どういう性質を持って、どういう法則性のもとに生きているのか。彼らの意志はどうなっているのか。こうしたものを、研究しないではもう駄目です。これからは、目に見えない世界の探究が徹底的に始まっていくのです。 今まで目に見えない世界の探究のひとつとして、宇宙空間の探究、海底の探究、またミクロの世界、黴菌(ばいきん)の世界の探究、素粒子の世界の探究、こうしたものがあったのでしょうが、これからはその三次元世界を、その壁を、乗り越えた世界の研究、これが始まるのです。 現に、「高橋信次」という名で呼ばれているこの私の霊エネルギー体は、九次元世界から出ているものです。その九次元世界にある、私の霊エネルギーが、今、三次元世界のなかに、こうした言葉として結晶しています。言葉として降ろされています。この意味がみなさんわかるでしょうか。なぜ、九次元霊が、そうしたエネルギーがこの三次元のなかに投影されるのでしょうか。放射されるのでしょうか。これをもっともっと勉強してみる必要があります。 なぜ、如来や菩薩と言われる光の天使たちは、こうした高次元の光を地上に在りながら受け止め、それを放出することができるのでしょうか。また、心を調和すれば、あるいは反省によって心の曇りを取り除いた時に、神の光が射してくると言うけれども、それをどういうふうに科学的に説明すればよいのか。これは大きな課題としてあるのです。単に宗教家の仕事としてだけでは、これは成り立だないと思います。宗教家の世界では、これは単に信ずるということで終わってしまいます。 しかし、科学者はそれで満足してはならない。なぜそうなるのか。心をどう調和すれば、心はいったいどうなるのか。そうすることによって、なぜそうした高次元の光を受けられるのか。そういう問いかけを持たねばならない。 心はまことに不思議なものです。これをラジオセットにたとえて説明する人、テレビのチャンネルにたとえて説明する人、いろいろいらっしゃいます。ただ実際上、なぜ、六次元の悟り、七次元の悟り、八次元の悟り、九次元の悟りというものがあって、その悟りに応じた周波数の電波、高級霊の霊示というものを受け取れるのか。この原理の説明、探究、これをしなくてはならない。現時点ではそれが単に事実として教えられているけれども、なぜそうなのか。 また、如来の境地というのは、心理学的に分析してどういう境地を如来というのか。菩薩の境地というのは、心理学的に言ってどういう境地を言うのか。それを定義するとどうなるのか。そして、そうした心境でいるということが、この神の光の物理学のなかにおいて、いったいどういう法則下にあるのか。なぜそうなのか。 こうしたことを考えてみる必要があると思います。これは非常に面白い学問だと思います。先端的な学問です。大変珍しい学問ですが、いずれこの世界に、どうしても人間は入っていかざるを得ないのです。避けて通るわけにはいかないのです。そうした世界が待っている。時代が待っているということを、私は予言しておきたいと思います。 6.さらば、二十世紀文明 さて、本章を締めくくるにあたって、「さらば、二十世紀文明」と題して話をしたいと思います。 二十世紀の文明というのは一言で言うならば、機械文明であった。こういうふうに言えましょう。機械文明であると同時に、唯物(ゆいぶつ)主義の文明でもあった。また、唯物主義の文明であると同時に、神秘主義のはしりが始まった時代でもあった。そういうふうに言うことができるのではないか、このように整理することができるのではないか。そのように思います。 この二十世紀文明というものを今、私たちは総決算するために、さまざまな霊示を送っています。その総決算というのは何かと言うと、結局、霊の世界と科学の世界とが二分された、こういう時代であったと言えると思います。一時代前には、霊と肉とが二分されました。霊は霊、肉は肉、あるいは精神は精神、肉体は肉体、こうした合理主義の考えが始まったわけですが、それが今世紀になるともっと明らかになってきて、霊的世界は迷信の世界、この世の世界だけが実際の世界、そうしたウエイトづけのもとに、この世の世界の研究、探究だけが先走った、突っ走ったという結果が出ているように思います。 しかし、二十世紀文明はまもなく終わらんとしています。そしてその幕切れは、非常に劇的な展開になっていくであろう。非常にドラマチックな、ある意味において悲劇的な、また別の意味においては喜劇的な結末を迎えるであろう。そういうふうに思います。 自分の、人間の心の偉大性というものを間違って行使した人たち、それを間違って使用した人たちにとって、それだけの厳しい試練と反作用というのが起きてきます。それは大陸規模で起きてきます。間違った心を持って、間違った文明のなかに生きている人たちに対して、厳しい神の警告というものが与えられるでしょう。そうした人間たちの出した想念の曇り、スモッグが神の光をさえぎって、さまざまな天変地異というものをおそらく起こしていくでしょう。こうした時代のなかにあって、私たちはそうした古い時代を一度決算し、新たな時代を始めていかねばならんと思います。 それはね、結局のところ、向かうべき道は明らかになっているんです。それはひとつになっているんです。本章の最初で言ったように、霊天上界にある本当の秩序という、この世界を、秩序の世界を、これを現象界に降ろすということ。そして神のお心はどこにあるのかということをしっかりと学んで、その実現のために地上建設をやっていくこと、地上のユートピア建設をやっていくということです。 いろんな会社に勤めていても、そこの社員は社長の意向を汲(く)んで働いているのではないですか。社長がこうしたい、ああしたいという、社長の方針というものを社是とし、それにしたがって働いているのではないですか。それが地上世界という、この世界をとってみた時に、神という、この国の社長の意見を聞かずに、地上の人間がヒラ社員の身分にもかかわらず、いろんなことを得手勝手にやっている、そうした現状ではないですか。そういう会社が成り立つとみなさん思いますか。 ヒラ社員がそれぞれ勝手なことをして、そして社の方針、社長の方針というのをまったく気に止めないでやっている。そうしたことが成り立つとみなさん思いますか。本当にそんなことがあり得るでしょうか。成り立つでしょうか。どう思いますか。成り立たないのではないですか。 今、社長の心はこの辺にある、社の方針はここにあるということを、私たちは「霊言」、「霊示」を通して地上の人びとにメッセージを送っているのです。会社の方針がはっきりとしたならば、全社員、一丸となって働いていく。これが新しい文明のあり方ではないですか。新しい会社経営ではないですか。この三次元という会社の経営は、そこに要諦(ようてい)があるのではないでしょうか。私はそう思います。 したがって、これから二十世紀にさらばをし、未来社会を築いていくためには、神の心をまず徹底的に知るということ、学ぶということ。そしてそれをどう実践していくか。こうしたことが大事です。それをしないで、本当の素晴らしい社会というものは出来ないのです。みなさんが私の書物を学んでいる根本の理由も、そこにあるということを知ってください。
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目次 1.過去の文明を振り返る 2.三つの痕跡 3.神としての宇宙人 4.人類の堕落 5.生活環境の差異 (1987年12月17日の霊示) 1.過去の文明を振り返る さて、読者のみなさん、私の得意な領域にだんだん入ってきました。宇宙人の話をしながら、過去の文明を考えてみると、まあこういうことですね。えー、文明は種は尽きないんですね。いくらでもあるんですが、それを言っても全部はわかってもらえないし、私も全部覚えてるとも限らないんでね、えーそういうことはわかりませんが、過去の文明を振り返ってみるとね、やっぱりその中で、なーんと言うかな、地球的文明ができてくる転換点というかね、転換期というのがあるんですね。いくつかある。転換点がある。それは必ずしも地球自身に起源しているものではないものもあるということですね。 たとえば、やはり天文学的なものとかいうのは、いつの時代にもあったんですね。今時代にもあったけども、もっと昔の文明の中にも天文学のようなのがあって、やはり宇宙に対する知的探究、こういうものは行なわれておったんですね、現実に。だから過去の文明を遡(さかのぼ)ってみると、レムリアの時代とか、ムーの時代、あるいはアトランティスの時代、こうした時代を振り返ってみると、結構何と言うかな、天文学的なものではね、水準の高いものがありました。 また、さらに詳しく言うとするならば、ムーの時代というのは、まだそれほど宇宙人とのコンタクトはなかったかもしれませんが、もっと古いレムリアの時代、レムリアというか、ルミジア大陸とも言われたけどね、レムリア文明、レムリア大陸とか、ルミジアというようにも言われてたんだけども、この文明の頃には宇宙人からのコンタクトっていうのが結構あったんですね。この時にはありました。 それで、まあ地球人自身が宇宙に出ていくということはありませんでしたが、彼らの意図を何とかして理解しよう、そういう学問、動きがありましてね、そして私が現在の時点に立って、そのレムリアの時代の宇宙人への関心というのを見てみると、まあ、わかるように言えば、小高い丘のようなとこがあってね、丘のとこに宇宙人用の、やはり何と言いますかね、お立ち台じゃないんだが、その基地といいますかね、宇宙人たちが来れるような場所造ってやって、その代わりそこは来てもいいけども下のほうに降りちゃいけないってね、下に降りてきたら危ないから、そこだけ降りてきていいっていうんで、まあそういうの造って、石段造ってね、特に宇宙人と勇気もって話ができる人だけが、石段上がって、まあ神社の元みたいなもんだな。石段上がってお参りに行くわけだ。宇宙人参りにね。円盤が停(と)まったちゅうたら「ちょっと誰か行ってこい」というんで、村人のなかで一番そういう能力持っとる者が宇宙人詣(もう)でに行くと。 まあ、こういうことだったわけで、えー宇宙人の言葉が、そのレムリア人にわかるわけはないんで、結局霊能者ですね。霊能者の活躍があったわけです。テレパシー能力によって彼らの言葉を理解すると。そして、それを筆記して帰ってくる。まあ、こういうことをやっておったことがあるんだよね。 まあ基本的なメッセージから始まって、えーまあ、でも重要なメッセージも結構あったんだよね。それはひとつには何と言うかね、生きている人たちへ指針みたいなものも入っておったこともあった。そういうこともあったよ。それから、うーん、まあ高度に発達した文明があるということを見せることによってね、人びとを謙虚にするというような役割もあった。また、神ではないけど、神近き者の存在を思わせるという意味でのね、その敬虔(けいけん)な心、これを起こさせる。そういう役割があったね。 まあこうぃうふうに、過去、宇宙人とのコンタクトというのは、各文明の中にもあったんですね。えー、アトランティスの時代にも、結構円盤の飛来というのはありました。まあそういうことで、過去の文明を振り返って、必ずしも宇宙人とのコンタクトがなかったわけではありません。 2.三つの痕跡 さて、この宇宙人が地球の文明に影響を与えておるという痕跡(こんせき)、これがあるかないか。これについて話をしておこうと思うんだね、まず。 いくつかあるね、前もちょっと話したことあるんだが、南米のね、ペルーのナスカ高原ていうのかね、高原に、上空から見なければ分からんような模様があるんだよな。明らかに上空から来た者が見る以外に、地上の人にとってはその模様の意味がわからない。こういう巨大な模様があったり、着陸のための着陸踏みたいなのがあるんだね、滑走踏みたいなのがある。一体何に使っとったんかわからない、現代から見たら。こういうものがあります。 このナスカ高原のその模様、こういうの見ても、結構宇宙人を意識しておったということがわかると思うんですね。これなんかもひとつの痕跡だと思いますね。このナスカの宇宙人の飛来の痕跡というのは、まあ、そう古いもんでもないけれども、もっともっと古い、今から七千年近い昔には、リエント・アール・クラウドという王様がいた時にもね、やはり宇宙人はだいぶ来ておって、そのペルーの地を中心にね、いろいろ宇宙人が来ておって、彼らを神と間違っていろんなことが起きたり、そういうこともあったんですね。 そういうふうに、南米っていうのは昔から宇宙人がよく来るとこなんですね。やっぱり彼らにも好みがありましてね、私にも好みがあるけれども、私も好んで出てくるとこがあるけれども、彼らにも好んで出るとこあるんだね。幽霊出るところっていうのは、柳の下とかね、あるでしょう。柳の下、どじょうも出るけどね。そういうように、好んで出たがるとこっていうのがあるんだな、必ずね。そういうふうに、南米なんかも好んで出たがっておる。こういうふうに言えるんじゃないかな。 あともうひとつね、UFOとかそういうものの出没が激しいのが、いわゆるバミューダ海域っていうところですね。これは大西洋の中にあって、カナダ、それからヨーロッパ、それからバミューダ島あたりね、このへんを三角に結んだ魔の三角海域っていうんだよね。ここは事故がやたら多いんだな。船が沈んだり、飛行機が堕ちたりね、いろんな異常なことが起きる。このため何かあるんじゃないかと、まあ言われておるわけね、伝統的に。みんなよく知ってるわね。あるんだよね。そのバミューダ海域というのには、あるんですよ、何かがある。 その何かとは一体何であるか。まあそら、UFOがよく出没しておるということもあるけども、それだけでもないんだな。もうひとつはね、まあこういうことは、にわかには、あなた方は信じ難いのではないかと思うけれども、海底基地があるんですよ。そのバミューダ海域の中にね、UFOたちの海底基地があるんです、ちゃーんと。それは、海底基地の中にあってね、それでいろんな地球の鉱石の採掘をしたりね、海の中の調査をしたり、あるいはその辺の海流とか、気候とかね、大気、こんなもの調査しとるんですね、よく。 だから、空中を母船が飛んでるばかりだったら燃料使うから、海底にもおるんですね、そういうの造っとるんです。それ知らないでしょう。それで、そういう海底基地があって、結構彼らも活動しておるんですね。しておるから、活動の邪魔になるようなときにね、そういう攪乱(かくらん)をすることがあるんですね。それが、そういう基地があることがわかってしまうと困るようなときに、攪乱することあるんですね。それがたとえば、妨害電波出してみたりね、いろんな神隠しみたいなことになるんだね、よく。そういうことがあるんですね。そういうことで、まあ必ずしも敵意を持っているわけじゃないんだけども、異常なことが起きることも多い。この魔の三角地帯と言われるところには、そういうちょっと宇宙人たちの特殊な行動領域があるんですね。 そして、気の毒なことに、もちろんこれは歴史としては残っておらんけれども、宇宙人のまあ円盤だね、円盤がその魔のトライアングルのところへ出てきて、それを撃ち落とそうとしてね、逆に落とされた飛行機とかね、あるいは艦船とかね、沈められた艦船とか、こういうのもあることはある。彼らも防衛ということでね、そういうことをしたことはあるんですね。まあこのへんが人類の秘史、隠れた部分で、後世の人々にはよくわかんないけども、実際そういうことがあります。 まあこれは、にわかには信じられんかもわからんけれども、そういうとこもあると思ってくださいね。だからここではよく、いろんな事件が起きることがあります。まあ彼らがそういうふうに活動領域造っておるということで、ひとつの変わった磁場ができておるというように言ってもいいかもしれないね。 まあ一番目が南米、二番目がバミューダ海域、言いました。三番目、文明の痕跡(こんせき)として変わったところがどこにあるかっていうとね、これは実は今現在で言うと、まあ、現在ではちょっとないんだけども、うーん古代のエジプトだね、ここにやっぱりよく出てきてるんだな、この宇宙人が、円盤がね。それがピラミッドの中の壁画なんかに描かれてます。はっきりとね。宇宙人の来襲、来襲ではないけども、来訪って言いますかね、彼らが来た図をね、宇宙人の姿とか円盤とか、結構描かれてますね。こういうのがあったということですね。 だからエジプトなんかへもすいぶん来ておるし、もともと人類の発祥の地でもあったというふうな、そういうあれもあったぐらいで、歴史のある地域ですから、そこへの飛来も結構多かった、過去ね。目撃もずいぶんされました。古文書(こもんじょ)の中にもずいぶん記されました。まあそういうことがあったということですね。これを言っておくことができると思います。 3.神としての宇宙人 さて、ここでひとつの問題について検討しておきたいと思います。それは神としての宇宙人ということですね。現代でも、宇宙人を神のように言う人がいますね。あれこそ神の姿だというのがある。あるいは『旧約聖書』に「エゼキエル書」っていうのがあって、そこになんか真鍮(しんちゅう)製か銅製みたいな大きな乗り物が出てきてね、足が四本あって、窓がついているような、そんな乗り物が出てくる。それを神の姿だなんて言うとるけれども、何か宇宙船によく似とる。まあこういうことが出てきてますね。 『黄金の法』によると「これはタイムマシンである」と、まあこういうことになってますが、まあタイムマシンかもしれない。そうかもわかんないね。まあただそういうのもあったけれども、実際に過去にね、宇宙人が宇宙船で来て、それを目撃されてるっていうことも数多くあった。こういうことだね。 そして彼らの中には、うーん、まあ正法と言えば口はばったいけども、法をね、やはり説いたことはあるんだな。彼らも単なる観察者だけじゃなくて、こういう何らかの機会で人類に指導してやりたい、こういう気持があった。こういうことはあるんで、時どきそういう指導もしております。それはあるんですね。宇宙人の中には、まあ何にも考えとらんのもおるけれども、やはり人類の進化を助けたいという気持で来とる者もおるんだね。そういう人たちは、意図的にね、その人類の意識がまだ低くて、この宇宙人とかいうのがよくわからないときには、神のふりをしてね、人びとを導いたりしたことはありました。 また、地球の巨大な霊能者兼政治家みたいな人を見つけてね、それとのコンタクトを図(はか)ってきたことは結構ありましたね。そういう指導者とコンタクトを図ってきた。そして彼らと話をしながら、彼らの問題点ね、現在の問題点を指摘して「こういう方向にあなた方は行きなさい」。まあこういうことを言ったことが結構あったように思います。 このように、宇宙人を神という見方もあります。まあこれもね、ひとつの考え方でありますね。神の存在を目に見えない世界の存在とだけ見るんじゃなくて、この世の中に現われておる、その崇高なもの、ちょっと信じ難いようなもの、まあこういうふうに見る見方もあるんでね、こういう見方もあります。 だから実際、宇宙人の中には、人類から見たらはるかに進化しておる――魂において――者もおりますから、そういう意味では彼らは、地球霊団でいえば、最高指導霊ぐらいの霊格もっているわけですから、まあ神に近い人もいるし、あるいは、まあ私たちの九次元の世界の仕事というのは、だんだん明らかになってきておると思いますけれども、私たちの世界は地球だけじゃなくて、他の星団とも霊域がつながっておって、いろんな異星人とコンタクトしておるわけですね。そして銀河系の中での地球の進度とか、習熟度ね、進化度、こういうものを測っておって、どうやって高めていけるかね、これの検討をやっておる。まあ、こういうところです。 だから、実際、それは霊界でもそういうことをやっておるけれども、あの世の世界、すなわち実在界のその九次元世界にある他の惑星の霊系団の指導霊たちもいる。彼らはそれぞれの星で、また指導しておるけれども、彼らの指導を受けておる者たち、地上におって彼らの指導を受けておる肉を持った光の天使たちもおる。これらもまた宇宙を行ったり来たりしとるわけですね。そうすると、まあ霊能者でもあるだろうけども、こういう彼らの星の九次元指導霊の声を聞いて、そして円盤乗って飛び回っとるのはどうするかというと、宇宙の平和と進歩と調和のために働くわけですね。 考えられることはこういうことでしょう。今あなた方の立場では、日本というのはひとつの素晴らしい国になってね、ユートピアになって、そのユートピアを世界に広げていきたい。まあこう思うけれども、これがもっと進んだらどうなるかというと、この地球のユートピアを宇宙空間に広げたいと思うわね。このユートピアを、遅れている星があったらそこに持ち込んで、彼らも進化させてやりたい。こういう気持がある。だから宇宙人の中には、そういう神のような心でもって、日夜活動しておる者もおるっていうことですね。 それがひとつと、もうひとつは、宇宙人の中にもいろんな種類かおるから、変な悪戯(いたずら)したりしかねないね。そういうこともあるんで、パトロール隊みたいなのがあるんだな、宇宙のパトロール隊みたいのがあって、他の星に変なのが来てね、それが文明を壊したり、邪魔したりしようとしないようにね、陰になりながらね、それを守っておる、そういうのがいるんだ。人間に指導霊がおるけども、指導宇宙人というのがおってね、そういうふうに指尊霊じゃないが守護霊か、守護霊じゃないが、そういうふうに守っとる、そういう人がいるんだな。警察官みたいなもんだけども、そういう宇宙人もおるんですね。 だから、そういうものが常時、地球の成層圏内のどこかにおって、そして変なことをしないようにいつもパトロールしているわけですね。そのはるか下の方を、ソ連やアメリカのレーダーが飛んだり、偵宿機が飛んだり、いろいろしとるわけですね。まあそういうことをやってます。だから日米安保なんていって、日本の平和はアメリカが軍事力で守ってくれると、まあこういうことをいってますが、こういう安保が、宇宙安保みたいなのがあるんだね。そして、同じ魂系団の星が、やっぱり変なことされないように、守ってくれている人がいるんですよ。だから守護・指導霊たちへの感謝だけですむんじゃないんだよね。そういう宇宙人たちもおるので、それに対する感謝は、ぼくは必要だと思いますよ。 ただ、宇宙人の中には、必ずしも悪とか、悪魔の手先とはいえないけども、いまひとつね、地球人から見れば心の傾向性が違っておる宇宙人、これはおるんですね。こういうのはおる。これは、たとえば、科学技術は非常に進んでおるけども、心の方の問題について深く考えてない宇宙人ね、こんなのいっぱいいますね。それとやはり、ある程度エゴ、エゴの面が非常に強い宇宙人。こういうのがおるわけですね。えー、自己実現が行き過ぎたような宇宙人ね。もうとにかく「俺たちのためにやりゃあいいんで、地球であろうが何であろうが、彼らはぼくたちの進化のために奉仕するためにあるんだ」なんて言ってる、こんなのがおるんだな。これらは悪気はないんだけども、地球見たら、これはもう餌(えさ)が、バナナが落ちてるようなもので、チンパンジーだったらすぐバナナむいて食べちゃうね。まあ、こういうとこあるってことだね。 まあ、これが神としての宇宙人と、まあそれに対する誤解の部分があるという話であろうと。まあこういうふうに思います。 4.人類の堕落 さて、そうした宇宙人と人類の歴史というものをちょっと振り返ってみたわけですけれども、今から一億年余り前、急速に地獄ができたという話をみなさんお聞きになったと思いますね。その原因の一つに堕天使ルシフェルというのがおったと。こういうふうに言われてますね。 この人類の堕落というのが始まったのが、一億年ちょっと前ぐらいからと言われてますが、じゃあその人類の堕落の歴史と宇宙人とは何か関係があるかないか。これについても考えにゃあいかんね。 人類が堕落したのは、ひとつには霊格の低い人霊が数多く出てきたということもあるということは言われています。それはパイトロンという巨大なコピー・マシンですね。人霊の複写装置ができて、地球人霊をいっぱい創ったことによって、低い人格の霊ができて、それがそういう幼い魂でもって地上で修業することによって、転落していったと。で、低級霊域を造ったということがある。そのパイトロンを創ろうと言ったのは高橋信次である。したがって地獄のできた原因は高橋信次にあると、まあこういうふうに言う人も中にはいないわけではない。 うん、まあ言わしてみれば、まあそうかもわかんない。まあそんなこと言ってもいいかもしれないね。それはそれでいいでしょう。まあ、地獄もよいとこだから一度はおいでよ、ってね、そういう考えもあるけども、それだけじゃないんだな。そういうコピー、コピー霊による低位霊界ができたというだけじゃなくて、もうひとつは、やはり何と言うかな、まあこれを言うと問題があるが、いろんな惑星から転移をしてきた人霊の中にね、やはりレベルの低いのもおったということだね。これが肉体をもって堕落していったことも多いんだな。特に一億年あまり前頃に、大量に飛来した霊団があるんだな。霊として来ることがあるんですよ。 どういうふうに来るかと言うとね、みなさん人魂(ひとだま)っていうの知ってますか。夏の夜、ヒュルヒュルッと墓で飛び出すね、十センチか、三十センチぐらいね、ヒュルヒュルヒュルと飛び出すね。この人魂っていうのも、たとえば、集合することあるんですね。集合して、大きなもう一メートル、ニメートルぐらいに集結してね、人魂が、大きなお墓の木の上に止まっとったなんてことが、まあ聞いたことあるかもしれませんが、それがそういう大きな、ニメートルぐらいの人魂がパッと散るとねえ、十センチぐらいのがパーッと四方八方散ったと。人魂が集まっとったらしい、なんて、こういうことを言うことがありますが、まあこれと似たようなもんでね、この、惑星全体としての霊系団が移動してくる時ってあるんですよ。そういう時には、霊団がね、一気に集中するんですね。集結してバラバラで移動なんかしないんですね。 地球霊団で、まあたとえば、この中で五億人ぐらいが他の惑星に行くとするか。そうすると、それに縁のある人たち、霊たちが実在界へ集結して来るんですね。集結して来てひとつの巨大なね、霊的な身体(からだ)創っちゃうんですね。集合霊として。ものすごい巨大な霊の身体をつくるんです。まあ、あの世の葉巻型UFOの母船みたいなもんですね。こんなのつくるんですね。その葉巻型UFOの母船みたいな霊の集団、これでもって実在界の宇宙空間を飛んで行くんですね。ポーンとね。彼らの、要するに念と、そういう空間移動能力、こんなの全部集結してね、一気に集結して集合霊として、よりよい世界を求めて移動することがあるんですね。こういうことがあるということですね。こういう形で、他の惑星から地球へ来たのもおるんですね。 その中には、まだ地球の環境には不慣れな方も数多くおるんですね。これらの人たちでも地球に生まれたいと、非常に切に願うもんだから、地上に肉体を持つことは許されておるんですね。それ自体は許されておる。しかしそれらが出ることによって、初めて地上に出てね、物質に溺(おぼ)れてね、そして間違い犯していくことは数多かったんですね。これらもまた地獄の発生原因の大きな要素のひとつであると、まあこういうふうに言うことができると思います。まあ、不慣れな魂たちですね。 けれども、それを拒(こば)めるかって言ったら、拒めないとこあるんだな。たとえば現代のアメリカだなあ。まあ移民はそれほど嬉しくはないだろうけれども、なんと言うかね、人間の坩堝(るつぼ)って言うんか、坩堝みたいになっちゃって、アメリカ合衆国というとこは、もういろんな国民がなだれ込んできてるね。坩堝みたいになってきている。こういうとこあるけれども、その自由性ね、アメリカの自由さというのを求めてそういういろんなものが集まって来とるんでしょう。違うかな。だから、それはそれでいい国だと言われておるんだな。 地球自体にもそういうとこがあって、その中に寛容性があってね、他の霊系団を受け入れる素地があるんだ。地球の霊系団そのものも一種類じゃないから、他の霊系団から移ってきたいと言っても、無下(むげ)に断われないんだね。こういうことがある。 このように、いろんな霊系団からの移動を受けつけておった。これを受けつけておったのは誰であるか。まあこれについてはぼくは詳しくは語らない。ご想像にお任せしたいと思うね。「いいよいいよ、みんな、いらっしゃい、いらっしゃい」ってやったんだな。やった人がおるんだ、どっかにね。「いらっしゃい、いらっしゃい」って、結局、いっぱい地獄霊つくっちゃったことがあるんだな。まあ、そういう人もおったということですね。 こういうように人類の堕落の歴史、地獄ができ、悪魔ができてきた歴史の中には、地球で創造された魂の中に霊格の低い者がおったということと、そうした地球になじまない魂たちが、集合霊として集団で移住してきておる。そして順番に地上に肉体を持ったと。まあ、こういうことがあったということですね。 まあこれが、ある意味では人類の堕落のもとでありますが、しかし、客観的には堕落と見えてもね、決して少人数、エリート制がいいことでもないわけですね。そうした魂たち、いったん地獄に堕ちるような魂であっても、初めて地球で得られる経験というのは大きいわけですね。それはそれなりに大きな経験を得ておるわけで、これはこれでまた、何と言いますか、ひとつの魂の喜びであることは確かなんですね。この経験というのは替え難い。何でも経験するといいんですよ。経験はいいことなんですよ、皆さんね。 そういうふうに、経験の結果辛(つら)いことが起こっても、しかしその経験自体は無駄ではないんですね。それはどっかで、魂の糧(かて)になる部分がある。まあ、そういうふうに言えるんではないかと思います。 まあ、これが人類の堕落と宇宙人との関係といえば関係だね。まあこういうことが言えるだろう。 5.生活環境の差異 さて、ここでひとつ宇宙人に対する疑問というのがあると思うんだな。彼らはいろんな星に住んどったはずだ。その星の環境と、要するに生活環境と、地球とは一緒なんかと。違うんじゃないか。だから円盤飛んできてもええけど、円盤から出て地上に落ちたら、たとえば内臓とか破裂するんじゃないか。そんな気がするね。そんな感じがする。違うんだろうか、しないんだろうか。 あるいは、三億何千万年前に、エル・ランティが六千万人を率いて来たなんていうけども、じゃあその時は、地球で本当に住めたのかと。その体で。どうなんだ。その生活環境の差異についてどう説明してくれるんだ、と。まあ、こういうことを聞く人もいるでしょう。だからこのへんもまた説明しとかないかんね。 どういうことかって言うとね、まあそら宇宙人も一種類じゃないから全部は説明はできないけれども、いわゆる宇宙船乗って、今来て、宇宙人だって、地上歩いとる人は、まあ宇宙服みたいの着ている人が、多いことは多いね。多いことは多い。だからそれなりに調整はしておる。 あと、まあ昔、三億年以上昔の人類の飛来の部分の、彼らが、肉体生命として地上に本当に宿り得かのか、生きられたのかということですが、これはまた次章でも話をするつもりだけれども、うーんまあ、基本的には生きられたっていうことですね。広い宇宙の中には、似たような環境、生活環境のところはいくらでもあるんですね。移住してくるという以上は、ある程度調べてくるということですね。移住してくる以上は調べてきて、自分達が耐えられるぐらいの環境、生活環境を選んできておるということですね。これが肉体を持って移転してくる場合の条件です。 ところが、これ以外に、霊として移転してくる場合があるね。これらの時はどうしてかって言うと、結局肉体条件が合わないんだな。肉体舟として、地上に降り立って生活ができないから、環境が大分違うからね、こういうときには、その惑星の霊系団が、霊として地球に移動してくる。こういうことがある。 それ故、二種類あるんだな。霊としての移住と、肉体としての移住がある。肉体としての移住が許されるときは、ある程度環境は似かよっておる。まあ、こういうことは言えるだろう。彼らも酸素とか、やはり呼吸しながら生きとることは事実だからね。まあ似たようなとこではいれるでしょうけどね。 まあこれはね、いろいろあるよな。深海魚なんかでもそうだよな。ものすごい鉄の船だってね、あなた、海のなか何百メートル、何千メートル潜(もぐ)ったら、ペシャンコに潰れちゃうんだよ。 ところが深海魚は平気なんだよね。どうなっとるんだろうか、ねえ。一匹の蟹(かに)の背中には何トンもの水圧がかかっとるというんだよ。しかし蟹は平気だよな。蟹味噌(かにみそ)は全然潰れもしないし、蟹の肉もそんなにプレスされたほど固くはない。肉はおいしいね。どうなっとんのかなって思うね。人間だったらもう、完全に内臓破裂して死んじゃうね。ところが蟹は平気だね。あれ不思議だね。まあそういう自動的に調節する装置を何か持っとるということだね。 そうすると、そんな何トンもの水圧受けとる蟹がいて、それをたとえば網で引っ掛けて、その蟹取ってきたら、水面に出したら破裂してもよさそうなもんだな。しかし破裂しないんだな、蟹が。蟹がパカッと口開いたというの、あんまり聞かないね。そんなにギューギューに押された水圧のところで生きておったら、水圧の少ないところへ上がってきたらどうなるかといったら、内部の反発がすごくて、パカッといきそうなもんだね、膨張して。しかし、ならない。 このへんのところがね、非常に不思議な部分ですね。これはまた科学者が原因追究、探究しなきゃいけないんだけれども、まあ、生命の中にはそんな不思議な作用もあるんだな。環境に霊的な力でもって順応さしていくというね、そういうものがある。単なる物理的なものだけじゃないんだね。順応さしていく。まあ、こういうとこがあるんだな。 だから、そういうこともあるから蟹の原理と一緒でね、重力とか大気圧とかは違っても、まあ何らかの適応性を見出して、地上で生きていける者もおったことはおったと、そういうことも言えるだろうね。まあ、大体そういうことかな、本章はね。そういうとこだと思います。
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目次 1.クリスマスヘの魂の郷愁 2.雪の降る聖夜に、イエスは誕生した 3.聖霊たちは、神の子イエスの誕生を祝福した 4.日本にも救世の星が輝くことは預言されており、今、そのときが来ている 5.現代の聖地エルサレムとは、現在の東京である 6.おおいなる救世のときに、同時に生を受けられた人びとよ、誇りに思いなさい 7.今後、ヨハネの黙示録で語られたことが実現する 8.悪魔に唆(そそのか)された予言者に気をつけよ 9.今後、東京は、全世界に福音を伝える聖都となろう 10.日本は、やがて文明の中心となり、その文化が全世界へと流れてゆく 11.今、東京を中心に大きな光が輝きはじめ、人類の曙が近づいている 12.あなた方に敵が現われたときに、聖霊たちの力が守ってくれることを忘れるな 13.あなた方は、真実を述べ伝える預言者となりなさい 14.危機は、現代の物質文明にまちがいがあるために生じるのである 15.第三次大戦後、エホバの手が激しく地を打つ 16.新たな福音を信じるとき、人類の道は開ける 17.私は、神理に至る道を開くための水先案内人である (一九八六年十二月二十日の霊示) 1.クリスマスヘの魂の郷愁 内村鑑三です。私の話もすでに七日目になります。そこで、今日は、「新エルサレム」という演題でお話をしたいと思います。地上の時間では、今日は一九八六年の十二月二十日土曜日です。この季節になるとクリスチャンたちは、だんだんに胸が騒ぎはじめます。クリスマス・イヴまであと四日、クリスマスの当日まであと五日、言うまでもなく、十二月二十五日とは、イエス・キリストの生まれた日です。 私も地上を去って何十年にもなりますけれども、クリスマスの頃になると、なつかしい思いに駆られます。そして、クリスマスが近づいてくると、やはり地上の人たちの生活ぶりを雲の上から見たくなってくるのです。町にクリスマス・キャロルが流れ、サンタクロースの像が並び、長靴のようなもののなかにいろいろなお菓子を入れて飾ってあったりします。また、デコレーションケーキが街角に並びはじめたり、会社の帰りの父親がそのケーキをさげて帰っているのを見たりすると、何とも言えず、なつかしいほのぼのとしたものを感じます。 とにかく、キリスト教について勉強したことがある人というのは、このクリスマスというのを、毎年一年の区切りのように思い出すものです。新年とかお盆とかいうことではなくて、クリスマスなんです。クリスマスに魂の郷愁というものを感じるのです。 なぜそのように、郷愁を感ずるかというと、結局、どこかでイエス・キリストの教えを受けたか、教えの禄に触れたことがあるからだと思います。過去世においてナザレの地で教えを受けていなかったにしても、天上界のどこかで、そのお話を受けて聞いたり、あるいは、輪廻転生の過程のなかで、イエスの弟子たちの教えを聞いたり、あるいはまた、過生世のイエスに教えを受けたこともあったのかもしれません。 ともあれ、私は、クリスマス・キャロルの曲を聞くと、非常になつかしいし、「聖しこの夜」のメロディーが流れてくると、何とも言えない神秘的な感慨深い思い出にふけるのです。 2.雪の降る聖夜に、イエスは誕生した 今から二千年ほど昔、ベツレヘムの小さな町で、イエス・キリストは生まれました。十二月ニ十四日の夜、イエスの母のマリアが、用事があって知りあいのところへ行こうとしていたときに、急に産気づいて、旅の途中で子供を生まなくてはならなくなった。といっても、産婆がいるわけではないし、近くの農家の納屋を借りて、そこでお産をしたわけです。 貧しい農家の納屋の飼葉桶(かいばおけ)のなかに寝かされていた。それが、後に救世主と呼ばれるようになったイエス・キリストだったのです。このときの情景を、私も、天上界から見ておりました。イエス・キリスト生誕の前から、私たちキリスト教系の聖霊たちは、その誕生の瞬間というのをじっと見守っていたのです。 マリアがイエスを身篭(みごも)ったときには、大天使ガブリエルが、マリアの夢枕に立って、「マリアよ、我はガブリエルなり。汝が生む子は神の子なり。汝が子は世を救うために生まれるなり」という受胎告知をしております。そして、イエスが生まれたときには、さまざまな聖霊たちがマリアのもとに、神の御子の誕生の祝いに駆けつけました。 今、霊的な目で二千年前の風景を振り返ってみると、そのベツレヘムの小さな農家の馬小屋のなかに、聖霊の光が燦爛と輝いているのが見えます。何と清らかな、何と聖なる夜でありましたでしょうか、十二月二十四日の夜は。外には、雪が降っておりました。午前中から雪が降りはじめて、かなり大きなボタン雪となりました。そして、夕方の五時半頃まで降ったでしょうか。大きな雪だったので、地面に十センチぐらいも績りました。そうした夜にイエスは生まれたのです。寒い寒い夜でした。まさに、聖夜そのものでした。そして、天上界からは、祝福のメロディーがいろいろに奏でられたのです。私は、その情景を今でも目にありありと思い浮かべることができます。 3.聖霊たちは、神の子イエスの誕生を祝福した 私たちは、その運命の主人公、すなわち、神の子の一生を、心から祝福しました。わずか三十三歳で十宇架に掛かってこの地上から去る人。しかし、その死が全人類の罪を背負う死であり、全人類を悔悟させ、懺悔(さんげ)させ、そして、悔い改めさせ、神の国への導きとなる死であるということ。そうした運命の子イエスの安らかな寝顔を見て、私たちの胸にはさまざまな思いが去来しました。私たちは、かつて、旧約の預言者として地上に出ましたけれども、やがてイエスが出て来ることは、何人もの人たちが預言していたのです。ですから、その瞬聞がきたということです。十二月二十四日の夜、その聖なる夜は、過去二千年前から予定されていた運命の夜だったのです。 4.日本にも救世の星が輝くことは預言されており、今、そのときが来ている こうしたことは、現代にも言えるのです。つまり、現代の日本にもイエス誕生と同じことが起きるわけです。現代の日本にもこうした救世の星が輝くことは、もう二千数百年前から預言されていたのです。すなわち、インドの地において釈尊は、次回、東の国において、おおいなる救世の法が説かれるということを預言しておりましたが、今、そのときがきているのです。 その手伝いを、また私たちがすることができ、イエス誕生のときにガブリエルがその受胎告知をしたように、今、私たちが天上界から、日本の地に新たな救世の法が説かれるということを、霊言という形で、世の人びとに伝えられることを、私は嬉しく思っております。 地上の皆様は、私の言葉を聞き、私の書を読んで、これは単なるひとりの人間の考えであり、単なる物語のように感じるかもしれません。しかし、このようなことはもう二度とないことであり、このような瞬間は二度とはこないのです。一九八六年十二月二十日土曜日、五時五十分です。夕方の五時五十分です。このときに、内村鑑三が地上の皆様にこうした福音を述べ伝えることができるということ、こういう機会は、もう二度とこないでしょう。 私は、かつての預言者たちが人類救世の人が出ることを預言してきたように、今、天上界からこのような声を地上の人たちに伝えることによって、これから新たな教えが、人類への福音がはじまるということをお教えしているのです。私たちの言葉は、後の世にとっては、クリスマスソングのようなひとつの調べにしかすぎないかもしれません。しかし、たとえ調べの一部分であったとしても、それを私が、今、こうして奏でることができるということを、私は、非常に光栄なことだと思っております。 5.現代の聖地エルサレムとは、現在の東京である さて、本日の演題は、「新エルサレム」についてです。エルサレムというのは、言うまでもなく、現代でも宗数的な聖地であり、歴代イスラエルの首都だったところです。エルサレムというのは繁栄の都であり、イエス・キリストがその法を説いた場所であり、その命を断たれたところであり、また、復活した都であります。そういう聖なる地なのです。ですから、かつて、キリスト教の教えを受けた者にとっては、エルサレムという響きは、何とも言えぬ神秘的な響きがあります。エルサレムとは、聖地という意味です。マホメットにおいてメッカという地が聖地であったように、イエスにおいてはエルサレムが聖地であり、聖なる都なのです。 さて、現在、一九〇〇年代後半の日本において、このエルサレムにあたるのが東京です。日本の人びとよ、私の言葉をよく聞いていただきたい。あなた方は、現代のエルサレムに生きているのです。そして、あなた方は、エルサレムに生まれ、生き、そしてまた、奇蹟の時代に生きているのです。このことを忘れてはなりません。 今、あなた方の目の前に、さまざまな聖霊たちの霊言が繰り広げられていることと思います。こうした霊言は、これからの教千年の間、人類の心を肥やすための福音となっていくのです。魂の糧となり、また新たな新約聖書となっていくものなのです。そして、その新約聖書が、現在、同時進行形で、あなた方の都において語られているのです。そこで、こうした大きな事実ということを、どうかあなた方は忘れないでいただきたいと思います。 6.おおいなる救世のときに、同時に生を受けられた人びとよ、誇りに思いなさい 人間は、何度も転生輪廻を繰り返していきます。しかし、そのなかにあっても、こういったおおいなる救世のとき、偉大なる聖者が生まれるときに、同時に生を受け、その顔を見、その声を聞くことができるということは、めったにあり得ることではありません。よほどの縁があるか、よほどの修行を積んできたか、あるいは、よほどの計画のもとに出なければあり得ないのです。かつてのイスラエルの民たちが、選ばれたる民と呼ばれたように、選ばれた神の民イスラエルと言われたように、現代の日本も、現代の日本人も、また、選ばれたる民であることを誇りに思わねばなりません。 あなた方は、過去何千年、何万年の間、幾転生を繰り返してきたのです。その幾転生のなかで、あなた方はさまざまな時代に生まれて来た。あるときはアフリカに、あるときはギリシャに、あるときはエジプトに、あるときはアラブに、あるときはフランスに、イギリスに、アメリカに生まれて来たのです。そして今、この東の国、日本において、世紀末に生まれて来ております。 この世紀末の時代は、大変な時代です。人類の価値観が大逆転を起こすような時代であり、危機の時代だと言えます。しかし、同時に光明の時代でもある。そうした緊張感に溢れた時代なのです。 7.今後、ヨハネの黙示録で語られたことが実現する 皆さんは、聖書のなかの黙示録というのをお読みになったことがあるでしょうか。黙示録には、ヨハネが幽体離脱をして、天上界で見せられた人類の未来史が描かれています。これを聖書で読まれた方もいるでしょうし、聖書で読まなくとも、さまざまな形で知った方もいるでしょう。ともあれ、この黙示録で語られた未来史が、今、実現すべきときがくるのです。 黙示録のなかで、ヨハネは、さまざなな災いが人類に起きる、その最後のときを霊視しました。その災いのときとは、まさしく二十世紀の後半にあたるのです。これから数十年の間に、人類は、さまざまな苦難、艱難(かんなん)を味わうでしょう。いくつかの大地は沈み、いくつかの都市は津波に襲われ、また、いくつかの熱帯は寒帯に変わり、寒帯が熱帯と変わるはずです。そうした時代が訪れます。あなた方が生きているうちに、そうした現象に出会うはずです。 嵐が起こり、地響きが起こる。雷は天から落ちる。そうした末世的な時代となっていくのです。また、北極や南極の氷が熱帯や亜熱帯と言われた地域にまで流れ出した姿を見るでしょう。あるいは、文明を誇っている最先端の都市が、一夜にして崩れ去っていく姿をまのあたりにするかもしれません。この世的に見れば、悲劇と思われるかぎりの悲劇が、ここ数十年のうちに起きてくるでしょう。 黙示録のなかで、ヨハネは、人類のほとんどが絶滅するようなことを言っておりますが、全滅はしません。ただし、かなりの数の人びとが、この地上から姿を消していくことは事実です。そうした時代に、あなた方は生まれているのです。 そのような激動の時代のなかにあって、ある人は天を呪い、運命を呪うかもしれません。なぜ、このような暗き時代が到来したのかと世をうらむ人もいるかもしれません。しかし、こうした災いのときが、近い将来、必ずやってくるのです。 8.悪魔に唆(そそのか)された予言者に気をつけよ これからの時代には、さまざまな予言者が並び立ち、競い立ってくるはずです。そして、不幸を予言する人たちが、たくさん出て来る。そのなかには、聖なる預言者もいれば、悪魔に唆されて人びとを煽動する予言者もおります。まちがった予言者たちは、人びとを恐怖と混乱のなかに陥れ、この地上にますます地獄絵をもたらすでしょう。そうして、「世はもう少しで終わるのだから、人びとよ、一日一生を生きるのではなくして、一日何かを必ず楽しめ」と、そうした悪魔の囁(ささや)き、すなわち、享楽欲というものをそそるようなことをしはじめるようなことも出てくるはずです。 しかし、人びとよ、そうしたサタンの声に耳を傾けてはなりません。確かに世は混乱をし、世の中は乱れ、末法の世がきた、末世がきたように見えるかもしれません。実際、最期の審判のときがきたと騒ぎたてるクリスチャンもいるでしょう。しかし、この世はまだ滅びてはゆきません。 なぜ滅びゆかないか。すなわち、新たな救世の光が降りてきているからです。救世の光が地上に降りているということは、もちろん、この地上の人びとを救うために降りてきているのです。ですから、人びとよ、暗闇のなかにも、大きな光が降りてきているのだということを疑ってはなりません。 また、私たちは、天上界から、かつて、フランスにノストラダムスという予言者を送って、さまざまな予言をさせました。今世紀終わりまでの予言を、ノストラダムスにさせたのです。ノストラダムスは、西暦二〇〇〇年以降の予言は何もしておりません。なぜならば、今世紀末までの予言をすることが、彼の使命だったからです。 しかし、今後は、ノストラダムス以後の予言がなされていくはずです。そして、そのなかには、人類の希望の原理が、福音が、おそらく述べていかれるでしょう。 9.今後、東京は、全世界に福音を伝える聖都となろう 地上の皆さん、これからさまざまな不幸が起きるでしょうが、それをこの世の終わりだとは思わないで下さい。そのなかに、希望の光が、必ず見えてくるということです。かつて、ベツレヘムで光ったと同じ大きな光が、今、日本にも光っております。 日本の東京は、かつてのエルサレムなのです。そして日本の東京に生きている人たち、このなかで神理を学び生きている人たちのなかには、二千年の昔に、エルサレムの都において、イエスの姿を見たことがある人たちもたくさんいるのです。すなわち、あなた方は、時代というものをつくり出すために、この地上に降りて来た人たちなのです。いつの時代にも、そうした恵まれた時代に、恵まれた地域に出ることを神に感謝せねばなりません。 東京は現代のエルサレムとなり、今後、全世界に福音を述べ示えるための聖なる都となっていくのです。ですから、あなた方は、今、この聖なる都に住んで、生きているということを神に感謝しなくてはなりません。 そして、あなた方は時代の中心にあり、地球の中心にいるという自覚を強く持つべきです。なぜならば、世界を救うのは、新エルサレムにいるあなた方だからです。すなわち、あなた方のなかに起きる文明が、あなた方のなかに起きる文化が、また、あなた方のなかから発する福音が、これからの世の中を救っていくのです。日本の民はもちろんのこと、全世界の民を救っていくのです。これは新たな福音であり、あなた方は選ばれたる民なのです。 あなた方の多くは、かつて、ユダヤに生まれ、選ばれたる民イスラエルとして砂漠の地帯を彷徨(さまよ)ったことがあります。さまざまな預言者たちを送り出して来た民なのです。その優秀な民が、今、日本の国に数多く生まれて、この地でさまざまな魂修行をしているのです。あなた方は、かつて、このような瞬間に何度も立ち会ったことがあります。そして、偉大な都エルサレムは、これからあなた方が築いていくのです。 世界は、これから約百年間、日本を中心に輝いていくはすです。何度も繰り返しますが、日本の中心・東京は、新しきエルサレムとなります。ですから、このエルサレムに住んでいる人たちは、自信を持って、誇りを持って、勇気を持って、生きてゆかねばなりません。そして、あなた方は、選ばれたる民として、あなた方が受け取った福音を、あなた方だけのものとするのではなくて、世の人びとに伝えてゆかねばなりません。それが、あなた方の使命です。 10.日本は、やがて文明の中心となり、その文化が全世界へと流れてゆく 日本という国は、これからだんだんに時代の中心となり、文明の中心となっていきます。今後、日本からアメリカ、中国、ソヴィエト、アフリカ、中近東、東南アジア、あるいは、オーストラリアヘと、さまざまな文化が流れ出してゆくはずです。歴史を振り返ってみても、いつも文化は高いところから低いところへと流れております。それと同じように、あなた方の文化の高みが、やがて全世界へと流れていくようになっていくでしょう。 そのときに、あなた方に誇りあれ、あなた方に誉れあれ、あなた方に栄誉あれ、あなた方に名誉あれ、あなた方に神の光あれ、あなた方に神の栄光あれ。あなた方は、神の栄光を受けるべき民なのです。ですから、どうか勇気を持っていただきたい。そう思っております。 いつの時代にも、新しい文明が栄えるときには、一部の人の核というのがありました。まず核があって、そのまわりにさまざまなものが広まってゆく。ユダヤの地にはイエス・キリストという核があって、十二弟子がいた。そして、その核から広がった教えが、エルサレムに、そこからまた、ローマの地に、ギリシャの地に、さらには、中東の地へと伝わっていったのです。 仏教においても、同じことが言えます。つまり、二千数百年前にゴーダマ・ブッダがインドに生まれて、インドで法を説いた。その法が、やがて中近東に伝わり、山を越えて、ヒマラヤの山脈を越えて、中国へと移っていったのです。そして、またセイロンに移り、セイロンから東南アジアヘと伝わっていった。このように、いつの場合においても、ある中心があって、そこから教えが広がっていくのです。 11.今、東京を中心に大きな光が輝きはじめ、人類の曙が近づいている 今、私たちの住んでいる世界から地球というものを見てみると、地球にはかなり暗い想念の雲というものが掛かっています。いろいろなところに暗い雲が掛かっている。しかも、想念の雲は、主として大都市を中心に掛かっているのです。 しかし、一方では、今、日本の東京を中心に、大きな光が輝きはじめています。曙です。人類の曙が、今、近づいてきていると言えます。今後、この日本の東京を中心とした教え、文化、文明が、やがて、インドのときの釈尊の教えのように、ナザレの地におけるイエス・キリストの教えのように、あるいは、カナンに向かったモーゼの教えのように、全世界へと席捲(せっけん)していくのです。 同時代の人には、なかなかその高さがわからないこともあるでしょう。しかし、今、あなた方は、全地球的な時代に生きているのです。わずか十数時間あれば、地球の裏側まで行ける時代です。日本列島ならば、どこからどこまででも、その日のうちに動くことができる。こういう便利な時代なのです。 イエスの時代には、イエスがいくら健脚だったとしても、全世界を伝道して廻ることはできませんでした。パウロが、ローマヘ伝道するのでさえ、当時は大変な難事業だったと言われています。しかし、現代では、ユダヤの地とローマは、ほんの目と鼻の先の距離にすぎません。ですから、もし、パウロが現代に生まれたとするならば、おそらく現代のパウロは、日本からアメリカヘ、中国へ、ソ連へ、イギリスヘ、オーストラリアヘと布教の足を広げていったことでしょう。 このように、あなた方の教えも、あなた方が生きているうちに、あなた方の弟子たちによって、日本からアメリカヘ、ソヴィエトヘ、中国へ、東南アジアヘ、アフリカヘと必ず伝道されていくはずです。そして、こうした地球的な時代であるだけに、あなた方の目の前で、そうした大きな教えというものの広がりを見ることになるでしょう。こうしたことは、かつては、同時代には経験できなかったことです。 12.あなた方に敵が現われたときに、聖霊たちの力が守ってくれることを忘れるな あなた方の教えが、全地球的に広がっていく過程には、もちろん、さまざまな争いや軋轢(あつれき)もあるでしょう。また、まちがった新興宗教家たちが、あなた方の前に立ちはだかることがあるかもしれません。 しかし、そのときに、あなた方は思い出してほしいのです。かつて、エジプトの地において、モーゼたちが、パロ、国王たちの軍勢によって攻められようとしたときに、エホバの神が、モーゼたちを救った。そのことを思い出してほしいのです。 あなた方は、過越(すぎこし)の祭としてキリスト教国にだけ広がっている祭りのことを憶えているでしょうか。今から三千百数十年前、モーゼたちがエジプトを脱出しようと計画していたときに、王の軍勢、軍隊たちは、イスラエルの民たちのなかで、その子供たちを殺そうと計画しておりました。そのとき、エホバの神がひとつの正義の神となって、強く悪を叩く、つまり正邪を分かつ力となって、地を覆ったことがあります。 現在、儀式として、伝説として残っているのは、イスラエルの民たちの門口には仔羊の血を塗っておき、エジプトの王の家来たちの家々には、そうした印(しるし)がないということです。ですから、あの当時、エホバの神は、イスラエルの民たちの戸口を過越して、彼らを襲わなかった。王の家来たちだけを襲ったのです。そして、それらの子供たちの命を奪った。こういう話が伝説として残っております。 これが事実どおりのことであるかどうかは一考の余地があるとしても、あなた方に敵が現われたときに、かつて、エホバの神がモーゼたちを救ったように、大きな聖霊たちの力が、必ずあなた方を救ってくれる、守ってくれるということです。そのことを忘れてはなりません。 この世の人間は、自力、自力ということで、要するに、自分たちだけの力で教え広めよう広めようという気持ちがあります。しかし、教えというものは、自分たちの力だけで広まるものではありません。教えを広めていくためには、教えに共感する人たちの出現が予定されていなくてはならないのです。また、もうひとつは、教えを攻撃する者たちに対する守り、砦(とりで)というものが必要だということです。 13.あなた方は、真実を述べ伝える預言者となりなさい 今後、あなたたちに対して、さまざまな批難や攻撃をする人びとが出て来るでしょう。私が、過去世のエレミヤだったときに、偽の預言者ハナニヤという者がおりました。ハナニヤは、世の中に、まちがった教えを、預言を説いていたのです。私は、エホバの預言を伝え、つまりヤーヴェの預言を伝え、「バビロンが攻めてくる、そして、まちがった教えに帰依している人たちは連れ去られる」ということを何度も警告しました。 しかし、偽預言者であり、現実妥協主義者のハナニヤは、「そんな極端なことを言うと、民たちから攻撃を受けるから、お前はそんなことを言うもんじゃない」と私に告げた。そして、エホバの神はそんなつらいことを決して人びとにもたらすわけがない、神様は私たちを守って下さるにちがいないというようなことを言って、民の歓心(かんしん)を買いました。 しかし、あなた方は、民の歓心を買うようなそういう預言者であってはいけません。ばかの歓心を買うのではなくて、やはり真実だけを述べ伝えるべきです。ですから、危機が来ているときには、危機が来ていると言わざるを得ないと思います。危機は来ない、危機は来ないと言って、民の人気を博しておきながら、ある日、ある瞬間に舞台の上から登場人物が姿を消すようなことであってはいけないのです。 14.危機は、現代の物質文明にまちがいがあるために生じるのである 危機は来ます。では、なぜ危機が来るのか。なぜ人類の危機が来るのか。つまり、それは、現代の物質文明にゆきづまりがあるからです。人類の考えのなかに、まちがいがあるからです。人類の考えのなかにまちがいがあるから、危機が来るのです。 現在、二十世紀後半の人類の心のなかに巣くっている考えとは、一体何でしょうか。それは、ものが万能、つまり、物質が万能の世の中であり、科学がすべてを制覇したような迷妄であり、霊的なものを一笑に付すような風潮だと言えるのではないでしょうか。 日本の教育にしても、まさにそうです。正規の教育のなかに、神とか霊とかいうものを教えてはならぬような風潮があるのではないでしょうか。宗教を求める人は特殊の世界のなかの人であり、そのなかで、とくにもの好きな人たちだけが霊的なものを求める、と。そういう形になっているのではないでしょうか。 私は、そういった風潮をとても悲しんでおります。知的に優れた人たちが無神論者であり、また、唯物論者であることを自慢するような世の中を、非常に悲しいことだと思います。そして、本来の世界観、ほんとうの世の中の仕組みを知らない人たちが、日本のなかにおいて、世界のなかにおいて、高位高官、そういう位(くらい)を占めて幅をきかしている。こういう世の中を大変悲しいと思っております。 こうしたものは、こうした世界は、もう一度遣(や)り直しをしなくてはならないのです。地上の人たちをひとりひとり教えて教化するだけでは、間にあわない。ですから、やはり、もう一度洗濯をする必要があるのです。地上の生きている人たちをクリーニングし直さなくてはならないのです。 あなた方は、かつて、ノアの洪水というのがあったということを記憶しているでしょう。ノアの洪水は、何度も何度も人類を襲いました。そのたびに、古い文明が消えていったのです。そして、その代わりに、新たな文明が誕生して来ました。つまり、新たな文明が起きて来るためには、古い文明はやはり消してゆかなくてはならないということです。現代の文明は非常にまちがった方向へと来ています。ですから、まちがったものに対しては、いったん、徹底的な衝撃を与えなくてはなりません。まちがったものを強く叩いて、そして、新たなものをつくりあげていく必要があるのです。 15.第三次大戦後、エホバの手が激しく地を打つ 現在は、そうした時代の端境(はざかい)期であり、変わり目となっているのだと言えます。エホバの手は、大きく伸ばされて、激しく地を打つでしょう。そのときに、逃げまどう人がたくさん出るでしょう。しかし、それを見て恐れることはないのです。それは、新しき文明の、新しき時代の先触れなのです。そのことを忘れないでいただきたいと思います。 かつての過越しのときのように、人びとよ、自らの戸口に仔羊の血を塗りなさい。仔羊の血とは、もちろん、生ける羊の血ではありません。この仔羊の血とは、あなた方の心のなかの血なのです。すなわち、真実の教えであり、真実を信じる信仰心であり、正しき心です。つまり、ひとりひとりが住んでいる戸口に、正しき心を掲示しなさいということなのです。 そうすれば、地を打たんとするエホバの手は、それらの家々を過越していくはずです。ですから、あなた方の戸口に、正しき心を探究しているあなた方であるという表札を掲げなさい。そういう表札があれば、エホバの手は、あなた方を打つことは決してありません。 ただし、エホバの手は、地表をかなり激しく打つことになるでしょう。ですから、ノアの洪水のときのような大きな動乱が起こることになります。しかも、その動乱が起きる前に、人類は、自らの手において、大きな戦争を起こしていくでしょう。私は、はっきりと預言しておきますが、やがて、第三次世界大戦がはじまるはずです。近々、まずその前哨戦があって、そして、世界的な戦争にエスカレートしていきます。 人類がこうしたおろかな殺戮(さつりく)を繰り返したあと、エホバの手が激しく地を打つのです。人びとは、そうした天変地異を見て、おそらく、神の怒りのように感じるかもしれません。しかし、それは新たな文明が訪れるための足音でもあるのです。それを忘れてはなりません。 エホバの手は、強く地を打つでしょう。それは人間がまちがった方向へ進んで、自らの魂の兄弟たちを、核戦争などによって滅ぼそうとするような暴挙に出るからこそ、神は地を打たんとするのです。それを単なる天罰だとまちがえてはいけません。それは新たな時代が起きる前の大掃除であり、また、時代の洗礼だということです。 16.新たな福音を信じるとき、人類の道は開ける しかし、そうしたことがすべて起きても、この時代は過ぎゆきはしません。この時代に、新たな福音もまた説かれていくのです。この福音を信じなさい。この福音を信じるなかに、あなた方は永遠の生命を得る道があるのです。その福音を信じるとき、あなた方の道は開かれ、あなた方は神理の門を叩くことができるのだと言えます。神理の門を通っていくことができるのです。ですから、この神理に至る道をまっすぐに付いて行きなさい。 17.私は、神理に至る道を開くための水先案内人である 私たちは、そのための、すなわち、神理に至る道を開くための道しるべなのです。誘(いざな)いなのです。また、水先案内人なのです。私は、内村鑑三として明治、大正、昭和の日本に生きました。私は、水先案内人として、この地上に降りたのです。ですから、私は、水先案内人としての使命を、今後ともはたしていくつもりです。地上を去って、肉体を去った私ですが、天上界から、またこうした形で霊言を世に伝えることによって、ひとつの水先案内人であり続けることができると思っております。 私は水先案内人です。ですから、私の照らすカンテラに付いて来なさい。皆さんの乗っている船は、私の指す舳先(へさき)のほうへ向かって進んでいきなさい。私はまた、浜辺に、岬に立つ、灯台の光です。ですから、霧の夜には、私のこの光をごらんなさい。そして、どこにあなた方が進んでいけばいいのか、あなた方の港がどこにあるのかということを確かめなさい。これからますます霧が濃くなっていくでしょう。霧も深くなっていくでしょう。そうしたなかにあって、私の光を、私の灯台の光をどうか見失わないでいただきたいと思います。なぜならば、これは真実の光であり、愛の光であり、あなた方の導きの光だからです。 イエスの言った、「我は真理なり、道なり」ということは、今も不変です。私もまた、イエスの僕(しもべ)です。そして、イエスの僕として、真理であり、正しい道であるその方向を、あなた方に指し示そうとしているのです。 迷える仔羊たちよ、私の説く方向へと付いて来なさい。そして、新たなエルサレム、新エルサレムを築いていこうではないですか。神の都、聖なる都を築いていこうではないですか。この日本に、この東京に。私は、それを祈っています。
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目次 1.地上のひとびとに、一言でも多く、一行でも多くの神理を伝えたい 2.高橋信次の霊言を世に問う機会はいま以外にない 3.かつてモーゼに旧約聖書の『創世記』を書かせた私が、いま、「新創世記」を語る 4.アトランティス大陸の沈没を信じない現代人 5.ギリシャの哲学者プラトンがアトランティスの存在を知っていた理由 6.プラトンは幽体離脱によって如来界、菩薩界を見て「イデア説」を唱えた 7.アトランティスには生体エネルギーを使った飛行船があった 8.アトランティスの自動車はヒラメ型 9.職能制民主主義があった 10.まちがった新興宗教家のクーデターに倒れたアガシャー大王 11.アトランティスの沈没とアモンのエジプトヘの脱出 12.日本人の源流ムー文明とインド洋のレムリア文明 13.現代人よ、現代文明を最高だと思うな 1.地上のひとびとに、一言でも多く、一行でも多くの神理を伝えたい 高橋信次です。また私の霊訓集を世に問う機会を与えられたことをうれしく思います。 まあ地上にいるみなさんは、私がたて続けに世の中に霊訓集を送っていくから、高橋信次というのはなんと忙しい男だろうと思っておると思いますけれど、じっさい、私はほんとうに忙しいんです。なぜ忙しいかって言うと、地上にいる人たちを一日も早く、目覚めさせたいという気持ちが強いんですね。 また私の教えを継いでいる者たち、そしてさまざまに混乱している弟子たち、あるいは私の教えを受けなくとも、ほんとうの神理というものを求めて日夜学んでいる人たち、こういう人たちのことを考えると、私は一日もこちらでゆっくりとできないんです。ひとつでも多くの神理を世に伝えたいというのが私の気持ちなんです。 いま、日本には一億二千万人以上の人間がおりますけれども、このなかでもやはり心ある人たちっていうのは、いるんですね。それは一定の数であってそう多くはありませんけれども、心ある人たちっていうのはいます。そして彼らは、つまり心ある人たちは、神理を求めている。 けれどもほんものの神理の書というのが、生きている間なかなかこの地上では見当たらんのですよ。宣伝だけでよく売れている小説の本だとか、まあ金儲けの本だとか、こういうのは、いっぱい出ておりますけれども、神理の本のなかで、ほんとうの真実を伝えるのは少ないんですね。 霊界ブームで、最近は霊界のことを伝える本もずいぶん多くありますけれども、そのなかの大部分、私たちの目から見て九割五分以上は、おかしなものです。少なくとも霊的現象として見たら、まともじゃないのがほとんどです。 そして地獄の霊たちのそそのかしを受けながら、それを神様、仏様、あるいは高級霊だと思って、一生懸命言っている人がいっぱいいるんですね。 どっちもこっちもそういうおかしいのばかりで、こういう混乱を見るにつけても、私たちは一日も早く、一冊でも多く、真実の書というものをひとびとに伝えねばならんと思います。 まあそれは地上にいる大川隆法さんたちの活動にも、もちろん限界があるだろうし、出版社のみなさんにも、そうそう無理ばかりはお願いできないし、そういう限界はあるでしょうけれども、やはり私は一日でも早く、一冊でも多くの神理の書を世に問うて、世のひとびとを目覚めさすことこそが、私たちのほんとうの仕事だと思うし、また最近地上に肉体を持った高橋信次としてのやりうる最高の仕事だと思うのですね。 私はいま、こちらに還ってきて、もう地位とか名誉とかそんなものは、なにもこだわるものはないのです。また金儲けするわけじゃないんです。 高橋信次の霊訓集が出たところで、それでいくら売れてもね、私のふところのなかには一円もはいらないのです。そんな印税なんか一円もはいってこないし、地上で評判がいいからってこちらの世界でも、ランクが上がるわけでもないんです。そんなことぜんぜんありません。 そういうことはまったく関係ありません。地位も名誉も、金もなにもないんです。地獄の三途(さんず)の河を渡るときには、六文銭がいります。けれども、私たちのように安らぎのある世界に還ってきている人たちには、もうお金は必要ないんですね。 そういうことで、私は私利私欲のためにやっておるわけではありません。ほんとうに純粋な気持ちから、地上のみなさんに一言でも多くの、一行でも多くの神理というのをお伝えしたいと切に願っておるわけです。 そういうわけで私は霊言をして、今後もたたみかけていきたいと思います。 ほんものであるということの証明のためには、やはりあるていど数を出していかねばならぬと私は思っております。一冊だけでは創作だと思われるでしょう。 では高橋信次が、二冊、三冊、四冊、五冊、と世にその考えを問うたときに、それがにせ物だというふうに言うことができるでしょうか。たぶんできなくなってくると思います。私は霊言の真実性を疑う人が多いこともまたこの世の事実である以上、あるていどの数を出して、私の思想というものを全面に出していきたいと思います。 こうして、十年前(一九七六年)のこの地上を去ったときに私が考えていたことだけではなくて、あの世の世界、すなわちこちらの九次元世界というところに私はおりますけれども、九次元の世界に還ってきてから、私が体験したこと、そして私が悟ったことを、あるいは私が生きていたときに言い忘れたこと、また修正したいこと、こういうことをどんどん言っていきたいのですね。 2.高橋信次の霊言を世に問う機会はいま以外にない こういうふうに霊言として私の考えを、この世に伝えることができる機会というのは、もうおそらく二度とはないと思うのです。 地上のみなさんは、高橋信次の霊訓集があまり出てくるので、もう読むのに忙しく、「そんなにいっぱい出さなくてもいいから、一冊なら一冊で遠慮してくれんか。」と。「あんまり出ると、お金もかかるし、それから目も悪くなるし、勉強時間がなくなるから、もうやめてくれんか。」という声もあるかもしれませんけれども、どっこいそうはいかんのです。 大川隆法さんがあの世に還ればもうこんな霊言はできんのですから、生きているうちにもう十二分に使ってね、できるだけ多く彼を使ってがんばらにゃいかんのですね。 ですから、まあ最近の人間だから、ずいぶんでしゃばってくるなあと思われるむきもあるでしょうけれども、古い人はもういいんです。最近の人はどんどんどんどん言わないとね。言いたいことが山のようにたまっていますから。 イエス様やモーゼ様みたいな古い人は、もう言いたいことがたまっていても、もう二千年も三千年もたてば、化石みたいになって、口を開けばコロンと、化石みたいな恐竜の卵みたいのが出てくるぐらいでしょうけれども、私みたいに死んでまだ十年ぐらいの人間というのは、もう考えつけば、あの人もいるし、この人もいるしね。 あの人にもこういうことを言っておきたい。この人にもこれ言っておきたいし。著書を見るとあそこはちがっておったとかね。いっぱいあるんです。言いたいことが。 だからずいぶん、高橋信次がおしゃべりをしておると思うかもしれないけれども、やはり地上の人たちは、このおしゃべりに耐えるだけの「忍辱の心」というのを養って精進せねばならんわけです。 3.かつてモーゼに旧約聖書の『創世記』を書かせた私が、いま、「新創世記」を語る さてまあ枕詞(まくらことば)はそれぐらいにして、本日は、「新創世記」というタイトルで話すことにします。ずいぶんいきおいのいい題で、「まあがんばっとるじゃないか」という声もあるでしょうけれども、やはりね、私はほんとういうと、創世記を語るのが私のいちばん得意なところなんですね。 いまから三千百数十年前に、モーゼという人がエジプトの地に生まれて、そしてイスラエルの民を解放して、カナンの地ですね、あこがれのカナンの地、ユダヤの地に人々を導いたときに、天上界から現在と同じように私はモーゼを指導しておりました。 そのときに私がモーゼに書かした書というのが『創世記』という書物です。これはみなさん旧約聖書のなかでモーゼ五書のなかで『創世記』っていうのが最初にありますね。これがありますけれども、これをモーゼに書かしたのは当時の私だったわけです。 天上界からこういうふうに霊言という形で、モーゼにやはり通信を送っておって、モーゼがそれを聞いて書きとめたのが、モーゼの『創世記』なのです。 ですからその創世記も三千年たってちょっと古くなりましたので、ちょっと新しい創世記を書かにゃならんと思うのです。それがこの「新創世記」です。 まあ私の娘で、高橋佳子というのがおって、『真創世記 地獄編』、『天上編』、『黙示編』なんて書いておるから、またまねしとるんじゃないかというけれども、よく読んでいただければ向こうの『真創世記』は、真実の真でありまして、私の「新創世記」は新しいの新でありますから、けっして著作権侵害にはならんわけであります。新しく創世記を語るわけです。 さて地上のみなさんはね、こういう時期にどうしてそういう創世記、地上の成り立ちということを話す必要があるのかということを不思議に思われるかもしれません。まあそんなことを聞いたところでね、ひとりの人間も救われるわけではないし、興味本位にすぎるんじゃないかと、こう思う人もずいぶんいると思います。 けれどもね、やはり私は、人類の価値観、価値概念というものを転換すべきときがきておると思うのですね。 いまの日本人でもいいし、外国人でもいいけれども、経験主義的な人のものの考え方というのは、人類の歴史っていうのはやっぱり、四千年か、五千年ぐらいに思っているのですね。せいぜい四千年、五千年。日本の歴史だって二千数百年だし、まあユダヤのほうだって、イエス様がまだ生きていた人だということは知っているけれども、モーゼもまあなんとか生きていた人らしい。まあ三千年ぐらい前の人。 ギリシャ・ローマ神話のギリシャ神話の神々になってくると、もうちょっとこれはあやしいんですね。これはもう神代(かみよ)の世界、神話の世界になって、ほんとうにギリシャの神様なんていたのかどうかわからなくなってきていますね、実在の人かどうか。ゼウスさんなんていう人ほんとうにいたのかな。アポロンなんて人いたのかな。アポロ宇宙船は知っておるけれども、アポロンなんて知らないという人がいっぱいいると思います。 「それは、たぶんギリシャ・ローマ神話かなんかで、世界の名作シリーズかなにかのなかにはいっているぐらいで、ほんとうは歴史上の事実ではないんじゃないですか。」という人が多いと思いますね。 ギリシャでゼウスが法を説いたときっていうのはいまから三千七、八百年前ですから、四千年前までいかないわけです。四千年近く前になるともう、人間はそれはもう夢幻(ゆめまぼろし)、神代の時代の作り話ということになっちゃいますね。こういうことです。 4.アトランティス大陸の沈没を信じない現代人 たかだか一万年ぐらい前にアトランティスという大陸があって、それが一夜にして没してね、大西洋に沈んだということを話しただけでも、人びとは信じないんです。現代人たちはね。信じないんです、一万年も前のことまでわかんないと。 「ほんとうでしょうかね。一万年前に、ほんとうにアトランティス大陸なんてあったんでしょうかね。たしか私たちが習ったんでは、一万年前っていうと、縄文時代よりもっと昔ですから、石器時代かなんかでね。これはちょうど人類がいたとしてもね、腰のまわりに虎の皮かなにかを巻いて、そして石斧を持ってコンコンとやっておったにちがいない。」と。 「まあ火を起こすことぐらいは知っていたかもしれないけれども、それもたぶん木と木をこすり合わせて『エンヤエンヤ』とやって煙をパーツと出すとか、あるいは、トナカイの骨かなにかけずってやっていたころにちがいない。」と。 「そんなころにアトランティス文明なんて、そんな、ほんとうにあったんですか。」と。「私はとうてい信じられないですね。」と言っています。 あるいは名誉毀損(きそん)にならないようにやわらげて言いますけれども、最近はね、元東大教授の優秀な物理学者、地球物理学者なんかもね、地殻変動とかいろいろ調べた結果、アトランティス大陸というのはやっぱりなかったんだ、ムー大陸もなかったんだ、なんて言っていますね。 まあしかたありません。それは現在ある資料だけを見て、それを判断しているんだから、それはしょうがないんですね。 まあそれはしかたないことです。一夜にして地殻変動が起きればね、地上の証拠っていうのはほとんどなくなります。 5.ギリシャの哲学者プラトンがアトランティスの存在を知っていた理由 アトランティス大陸があったという証拠は、いちばん最近というのか、いちばん古いというのか、よくわからないけれども、それがでてくるのはね、ギリシャの哲学者でプラトンという人の書物のなかです。 まあソクラテスのことを、一生懸命書いた人のことですけれど、プラトンという人の本のなかにアトランティスという大陸があったということが書かれていますね。これがまあアトランティスについての最古の記録ではないかということで言われています。 じゃあ、「プラトンというのは二千四百年ぐらい前の人だから、なんで一万年も前のことがわかるんですか。」と。 「そんなのわかるわけがないじゃないですか。」と、言う人がいると思います。 「たぶんこれは想像の話じゃないでしょうかね。」と言う人がいると思いますけれども、プラトンという哲学者がアトランティスのことを知っていたのは、ふたつの理由があるのです。 ひとつはね、エジプトというところには、そのギリシャの哲学時代よりはるか以前に高度な文明というのがあったんですけれどもね。 いまもスフィンクスとかあるいはピラミッドとかがありますけれども四千年前、五千年前といわれていますね。そういうピラミッドがあるけれども、そうしたピラミッドのなかの古文書のなかには、そういうかつてのアトランティス大陸のことが書かれていたのですね。 それに関する文献というのがあったんです。プラトンという人は、その文献を読んだことがあるのです。これがひとつ。 それからもうひとつは、プラトンという人はやはり霊能者であったのです。 現代の人たちは彼をふつうの哲学者というふうに考え、哲学者でかつ霊能者である人なんかいるわけないと思いますけれども、ギリシャの哲学者たちは霊能者が多かったのです。ソクラテスもプラトンも霊能者なのです。 ですから、ちょうど大川隆法が、いま、私の言葉を受けているように、さまざまな聖霊たちの言葉を受けておったのですね。そう、ソクラテスもプラトンも霊能者だったのです。 けれどもアリストテレスは霊能者じゃなかったんですね。その結果、彼が書いた哲学の体系というのはひじょうにむずかしいものになりました。 そしてアリストテレスという哲学者は、自然科学の祖ともなったし、まあ哲学の祖とも言われておりますけれども、ひじょうに合理主義者ですね。なぜ合理主義者かっていうと、彼自身が霊体験を経験していないからです。 つまりプラトンとアリストテレスの差はそこにあるのですね。 アリストテレスは自分より何十歳か上のプラトンを、先生が生きていたときに批判したら怒られるから、先生がポックリいってからプラトンの「イデア説」を批判しているわけです。 けれども、その批判というのはじつはあたっていないんですね。プラトンという人は霊能者であって、自分自身いろんなことを体験しておったけれども、アリストテレスはそういう体験がなかったからわからなかったことが多いのです。 その結果、西洋の合理主義文明というのが出てきたんですね、アリストテレスから。 それでプラトンの思想というのがなかなかわからなくて、オカルト的に解釈されてきたということがあったわけです。そういう事実があったのですね。 6.プラトンは幽体離脱によって如来界、菩薩界を見て「イデア説」を唱えた プラトンという哲学者は、ちょうど近代のスウェーデンボルグという大霊能者と同じであったわけです。スウェーデンボルグは科学者でもあったし、さまざまな役職も兼ねた偉い人ですけれども、この人が幽体離脱といって、肉体を抜けだしてあの世を見ていたように、プラトンも見ていたのです。 つまりあの世の世界を見てきてね、「イデアの世界」、イデアという理想の世界があるということを一生懸命書いたのです。 霊界があるとか、幽界があるとか書いたら、心霊ブームのなかの現代人はハタと膝をたたくかもしれないが、プラトンはかしこいから当時の人たちの誤解を避けてそんなことは言わなかったのですね。幽界見てきた、霊界見てきた、と言わずに、イデアの世界という理想郷があるという話をしているのです。 そしてじっさいは、あの世の如来界や菩薩界を見てきて、そこにあるものをなんとかこの地上で実現させようとして一生懸命本を書いたのですね。そういう偉い人だったのです。 こういうふうに宗教上の天才というのは、いつも、時代を何千年も抜きんでているから、その同時代に真実のことを語ることができなくて、やはり比喩(ひゆ)で語るのですね。こういうことがあったわけです。 ですから、プラトンも当時やはり幽体離脱して天上界に還って「アーカーシャの記録」って言うけれど、「アガシャーの記録」とも言いますけれども、そういう霊界の記録書というのがあるのですね。歴史書があるのです。これを見てきたのです。 そしてアトランティスというのがじっさい沈んでいるということを知りました。また彼の指導霊をしていた人も、そういうことを伝えましたね。それで文章のなかに書いておるのです。 しかし、プラトンの記述あたりで、早くも信憑性(しんぴょうせい)がなくなるのが現代です。地上の人間の理解の範囲では二千年、三千年でもとても大きな話になってしまいます。 7.アトランティスには生体エネルギーを使った飛行船があった ところがじっさいは一万年前に、アトランティス大陸が大西洋の現代のバーミューダというところにあって、ほんとうに栄えとったのです。そのときにはもう飛行機があったのですね。みなさん驚くでしょうけれど。 「飛行機だなんて、あなた高橋信次さん、あなたちょっと頭がおかしいんじゃないですかね。二十世紀になって初めて飛んだのですよ。」ってね。 二十世紀の初頭にやっとプロペラの二枚羽根の飛行機が飛びました。当時は第一次大戦のころ、まだ、そんなに実力がなくてね。 敵の飛行機とすれちがってもおたがいに手をふって「ヤーヤー元気か。」なんてね。 「イヤーワシも元気でやっとるよ。お宅、偵察ですか。」なんてね。 「偵察でやっとるんですよ。」なんてね、やっとったんです。珍しくてね。 そのうち飛行機どうしでそんな偵察のあいさつばかりしていてはいかんということで、もっとまじめに戦争しろということになり、敵の戦闘機を見つけたら、ちょっと上のほうへ飛んでいってレンガ落としたりしてね。レンガ投げつけて向こうの飛行機落とそうとしたりしました。こんなことをやっていました。今世紀の初めには。 それが第二次大戦のときにはもうゼロ戦が飛んだりね、B29が飛んだりしたことはみなさんご記億のとおりです。 そしていま、みなさんコンコルドの時代です。それからスペース・シャトルの時代です。こういうふうに時代が進んできております。 ですから人類の、どこの歴史をひも解いても、千年前、二千年前に飛行機が飛んだという話はないのです。そこで、一万年前の人の力でそんな飛行機が飛ぶはずがないとみなさん思うでしょうが、じっさい飛んどったんです。これは事実なんです。 これはこちらの世界にくるとすべて明らかになるのですね。飛行機といっても現代のようなコンコルドじゃありません、もちろん。 当時の飛行機っていうのは飛行船のようなものなのですね。いわゆる飛行船です。 そしてエネルギー源として使っておったのが、生体エネルギーってやつでね。ちょうど植物が発芽する時にでるエネルギーがありますけれども、ああいうふうに細胞分裂を起こすときに熱が出ますね。熱エネルギーが出ます。 これを転化する。うまく変化させてエネルギー源とする、という方法を当時持っておったんです。 アトランティス人というのはね。こういう変化のエネルギーというのを使ってさまざまな動力を作っとったんです。 ですから石炭でもなかったし、電気でもなかったんです。そういうふうな生命エネルギー、生体エネルギーというのを抽出することに成功して、そういうエネルギーを使っていました。これを使って飛行機を飛ぱしとったのです。 8.アトランティスの自動車はヒラメ型 あるいは地上にはね、みなさんおどろくでしょうけれども、やはり自動車に近いものかあったのです。 まあかたちはぜんぜんちがいますよ。かたちはぜんぜんちがいましてね、わかりやすくいってみれば、私が見ると、ちょうどヒラメみたいなかっこうしていますね。ヒラメかエイみたいなかっこうしてて、ああいうふうな、まあスルメですな。スルメってありますけれど、ああいうかたちしているんですね。 三角形で後ろから尻尾が出ているかたちしているんですけれども、それで下にコマが出ているのですね。コマが二輪出ています。前にひとつと後ろにひとつ。前輪、後輪がありますね。 オートバイといっしょの原理ですね。そしてああいうふうなエイみたいなかたちをしています。これで後ろにちっちゃなプロペラつけていて、これをクルクルまわしながら走っとるのです。こういう自動車がありました。こういう時代なんですね。 9.職能制民主主義があった また政治の原理ってどうかというと、政治も現代の民主主義に近いような政治っていうのがもうあったんです。 まあ民主主義というのも近代の発明かなんかに思ってね、十九世紀のリンカーン以来の「人民の、人民による、人民のための政治」なんていうので、これで民主主義の概念かでてきたなんて、進歩したなんていってるけど、とんでもないんです。 もうそんなのとっくの昔からあるんですね。アトランティスの時代にも民主主義はありました。 このときの民主主義というのはね、現在のたとえば政治の制度とちがうのです。 現代のような投票制度とはちょっとちがいましてね。いねば産業別で政治家を選出するようなそういう民主主義をやっていましたね。 たとえば農民なら農民。神主なら神主。神官なら神官ね。軍人なら軍人。あるいは、技術者なら技術者。こういうふうにいろんな「職能制」っていうのか、これがありますけれども、このなかから選挙でね、代表者を選んで政治をするようなそういうしくみかあったんです。 そしてその政治の頂点だったのはだれかというと、これが宗教家だったんですね。宗教家がやっていました、政治をね。そしてそれを補佐するのが科学者だったんです。 ですから当時アとフンティスの文明では科学が発展して、科学が宗教を助けるというようなのが原則だったわけです。 10.まちがった新興宗教家のクーデターに倒れたアガシャー大王 ところがこれがね、アトランティスの末期、いまからどうですかね、一万年前ごろ、まあはっきりした年数はいえませんけれども、そのころ、末期の百年ぐらいっていうのはたいへん時代が乱れてきたのですね。 宗教家のなかにまちがったひとびとがいっぱい出てきました。 現在も二十世紀の後半に変な宗教家がいっぱい出てますね。変な新興宗教の中には、まったくおかしな宗教家がいっぱい出てますけれども、同じような宗教がアトランティスの末期も、ボコポコ出てたんです、いっぱい。 そうしていわゆる正法神理というのが失われる時代というのがあったんです。 このときに最後の光の大指導霊としてアガシャー大王ってかたが出られたのですね。アガシャー大王というかたは、イエス・キリストの生命体の一部なんですけど、こういうかたが地上に出られました。そして彼は最高の政治指導者でもあり、宗教指導者でもあって、ひとびとに心のありかたを説いておりました。しかし、現代と同じようなまちがった新興宗教の教団というのがひじょうに大きくなってきて、いま流にいうと何百万という教団になってきて、それが政治にもちょっかいを出すようになってきた。そしていわゆるクーデターみたいのを企てたのですね。 こうして当時の王宮の中では、いわゆる光の天使たち、心ある宗教家たちがずいぶん政治、経済を牛耳っとったんだけれども、彼らを捕らえてしまったんですね。 捕らえてしまって、そしてソ連の[赤の広場]じゃありませんけれども、広場にしょっぴいて、穴を掘らし、いけにえにするというような、残虐な行為の結果、ひじょうに数多くの、何十人もの光の天使たちが彼らの手にかかって死にました。 ようするに、一時期、悪魔に天使たちが負けたようなかたちがでたのですね。そしてアガシャー大王自身も囚われの身となり、やがて死んでいきます。 11.アトランティスの沈没とアモンのエジプトヘの脱出 しかし当時、アガシャーの息子、つまり長男がいました。光の指導霊として有名なアモンはアガシャーの息子なんです。 このアモンというのが、アトランティスから逃れたんですね。まあここからいわゆる飛行船で逃れて現在のエジプトのほうへと逃げていったんですね。 もちろん、このとき、何人かの文化人たちを連れていきました。 こうしてアトランティスの文明というのが、いまから九千数百年前、一万年近く前に、エジプトの地に受け継がれていったのです。 けれどもそのあと、光の天使たちがまちがった宗教家たちのクーデターによって処刑されて、しばらくののち、アトランティスの大地を不調和な想念のくもりがおおったわけです。 そうしてやがて恐るべき天変地異が来たのですね。地球というのは、前にも言ったことがあるけれど、ひとつの生命体であってね。不調和な波動というのが地上をおおうと、地殻変動(ちかくへんどう)が起こるんです。 こういうふうなしくみになっているのですね。作用・反作用の法則になっているわけです。 それで、アトランティスを黒い想念体がおおったときに地上にやはり変化が起きて、アトランティスというのが一夜にして没したことになっています。 じっさいは三段階ぐらいにわかれたんですけれどもね。最後の島の部分が一夜にして没したわけです。そうしてまったく大陸というのが、影をひそめてしまったわけです。 そしていま、何千メートルの海底に沈んどるわけですね。こういうふうにして大きな文明が潰(つい)え去ったわけだけれども、そのころの光の天使たちの教えの一部分がエジプトに流れていきました。つまり、アモンによってエジプトに継かれていきました。 そしてやがてエジプトでもさまざまな光の指導霊たちが出て来ました。クラリオという神霊が出てきたし、そののちモーゼも出てきてるしね。エジプトというところはずいふん神理の種がまかれたところです。そりゃそうです。人類は大昔地上に来たときに、最初に着陸したのがエジプトであって、エジプトの地は昔から神理伝道の地であったわけですね。 12.日本人の源流ムー文明とインド洋のレムリア文明 さてそれがアトランティスの歴史ですけれども、アトランティスのもっと前にも文明がありました。 やはりみなさん聞いておられますけれども、ムー文明というのがあったんですね。これもやはりいまから一万五、六千年前に栄えて、だんだん消えていった文明で、太平洋にあったんです。現在のポリネシアのあたりを中心としてあったんです。 そしてこの文明もやはり沈没していきました。一部の島を残してね、そのムーの文明の子孫たちのうち、優秀な者たちがいまの日本に流れてきているんですね。日本人の源流です。 日本人というのは韓国から来ただとか、ネパールから来ただとかいろいろいっておるけれども、日本人のなかでのほんとうの知識階層っていうのは、このムーの大陸から来とるのです。そしてそののちやはり朝鮮とか中国からもいろんな人が来てまざったんですけれどもね。彼らはあとがら来た民族なんです、ほんとうは一万数千年前にムーという大陸から出てきたんです。これが日本人の源流です。ですからひじょうにレベルが高いのですね。 ムーの時代にもやはりさまざまな文明がありました。飛行機はありませんでしたけれども、船ですね、大きな艦船というのはあったのです。そして太平洋をずいぶん走り回っていました。こういう文明があったんです。 またムーの前にもレムリア文明がありました。これはいまのインド洋ですね。ここにも大きい文明がありましたね。ムーよりもっと前です。 13.現代人よ、現代文明を最高だと思うな こういったふうに人類史上では、けっして現代の文明というのが最高じゃないのです。何時(いつ)の時代にもね、ちょっと前をめくってみると、高い文明があるのです。 このように人類の文明というのは、山の峰みたいなものでね。あそこが高くなったりここが低くなったり。高くなったり低くなったりして続いてきているのです。 これが文明なんです。これが正しい文明の姿なのですね。 そして私たちは、ほんとうはここ数千年というような短い期間において活動したんじゃなくて、ほんとうの文明づくりの歴史というものは、じつは百万年よりももっと古いのです。 いま、北京原人だとか、あるいは南アフリカの原人ですか、ピテカントロプス・エレクトウスというのですか、こういうのが五十万年前だとか、百万年前だとか、いわれています。 あるいはヒマラヤの雪男が人類の祖先だとか、いろいろなこといわれていますね。けれどもそうじゃないんです。もっと昔からいるんです、人類というのは。もっともっと昔からいるんです。 「じゃあ、そんな昔にいるのに、どうしてその証拠がないのか」と。 「地面掘ったら石油ぐらいしか出てこんじゃないか」と。 あるいは「貝殻集めた貝塚ぐらいしか出てこんじゃないか」と。 「そんなの信じられるか。」というけれども、ほんとうのしくみはじつに巧妙なんですね。 じっさいに文明というのは、やはり洗いざらいというかね、新しく移るときにはひじょうに巧妙に過去の姿を消し去っていくのです。痕跡(こんせき)もなく。こういう歴史なんですね。 ですから、ほんとうは石油が出てくるような深いところにいろんな過去の文明が埋まっとるのです。そんな地表のほうにあるんじゃないんです。まあそういうことなんです。 まあ以上、今日は簡単に人類史を見てきました。新創世記って題でね。 全部は語りつくせませんでしたけれども。ほんとうの人類の歴史というのは、たかだかここ三、四千年じゃあありません。もっと古いんです。 そしてそもそも人類はどこから来て、どういうふうになったかというのは、またそれは機会をあらためて話すことがあるでしょうけれども、とりあえず地上のみなさんに言いたいことは、現代の文明が最高じゃありませんよ。過去にも現代ぐらいの文明はみんな通過してきた、経過してきた偉大な魂なんですよ。 心のなかをひもとけば、心の秘密をひもとけば、そういう叡知(えいち)がみんな眠っているんですよ。それを忘れちゃいけません。そして現代の文明のなかで胡座(あぐら)をかいておごってはいけません。 過去の宗教人たち、思想家たちは、みんな古い人だから、霊だとか魂だとか信じていたけれど、この科学万能の世の中で、そんなもの通用しないなんて知識人の多くは思っておるでしょうけれども、そうじゃないんです。それがまったく知識がない証拠なんです。 ほんとうの知識というのは、人類の文明にはなんどもなんども高い頂(いただき)があったんだということを、これを知るところから出発するんです。 ノアの洪水というような現象が起き、文明が押し流されて、一部の人だけが逃れていくという事件は、過去何回となくあったんです。 まずそれを知ってください。そしてそれを知ることこそ新しい文明を、これから創っていくためにひとつのきっかけともなり、原動力ともなるのです。 まずそうした正しい歴史観を持ってください。そうしたときに、これから二十一世紀にかけて新しい文明が起きてきます。その意味が、正しい意味がはっきり地上のみなさんにもわかるようになると思います。 ま、かけ足で見てきましたけれども、まあ新創世記ということで、まずお話をしました。明日は「甦(よみがえ)る仏教」ということで話をしたいと思います。