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{{政治家 |各国語表記 = おおくぼ としみち |画像 = Toshimichi Okubo 4.jpg |画像説明 = 大久保利通 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1830年9月26日 |出生地 = 薩摩国鹿児島城下 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 東京府麹町区 |称号・勲章 =従一位、勲一等旭日大綬章 |配偶者 = 大久保満寿子 |国旗 = 日本 |職名 = 第3代大蔵卿 |就任日 = 1871年8月13日 |退任日 = 1873年10月12日 |退任理由 = |国旗2 = 日本 |職名2 = 初代内務卿 |就任日2 = 1873年11月29日 |退任日2 = 1874年2月14日 |退任理由2 = |国旗3 = 日本 |職名3 = 第3代内務卿 |就任日3 = 1874年4月27日 |退任日3 = 1874年8月12日 |退任理由3 = |国旗4 = 日本 |職名4 = 第5代内務卿 |就任日4 = 1874年11月28日 |退任日4 = 1878年5月14日 |退任理由4 = 死去のため }} thumb|200px|[[サンフランシスコにて撮影]] 大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日(1830年9月26日) - 明治11年(1878年)5月14日)は、日本の武士、政治家。位階勲等は従一位勲一等。 維新の元勲。西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と呼ばれる。 生涯 幕末 文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳の次女・福の長男として生まれる(幼名は正袈裟:しょうけさ)。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分である下級藩士であった。本姓は藤原氏を称するが明確ではない。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住し、親友の西郷隆盛、海江田信義らと共に学問を学ぶ。 15歳の時元服し、通称を正助、諱は利済(としさだ)と名乗るが、後に改名する。 弘化3年(1846年)から藩の記録所書役助として出仕する。嘉永3年(1850年)のお由羅騒動(嘉永朋党事件)では連座して罷免され謹慎処分となるが、島津斉彬が藩主となると復職する。精忠組の領袖として活動し、安政5年(1858年)の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・忠教に友人・税所篤の助力で接近する。篤の兄・吉祥院乗願が忠教の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。文久元年(1861年)、御小納戸役に抜擢、家格も一代新番となる御小納戸役は6人扶持以上の職であるので、小姓与格が就任すると、一代小番になれる。なお、この職についた御小姓与クラスの人物に大山巌の玄祖父である大山綱栄や調所広郷がいる。。文久元年12月15日(1862年1月14日)から文久2年(1862年)3月上旬までの間に久光から一蔵の名を賜り改名する。 慶応元年(1865年)、利通と改名する。 久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らと公武合体政策を画策し、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。西郷と共に政治の中枢として活動し、慶応3年(1867年)に江戸幕府将軍徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉と共に王政復古のクーデターを計画して実行した(小御所会議)。 明治維新後 明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。明治4年(1871年)には岩倉使節団の副使として外遊する。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や江藤新平らと対立し、明治六年政変にて失脚させた。また同年、台湾出兵を行い9月14日に戦後処理のため、全権弁理大使として、清に渡り、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印した。 明治6年(1873年)、内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると地租改正や徴兵令などを実施した。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構(霞ヶ関官界)は、内務省を設置した大久保によって築かれたとも言われている。 明治10年(1877年)には、西南戦争で政府軍を指揮した。その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていたが、明治11年(1878年)5月14日、石川県士族島田一郎らにより紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)(享年49〈数え年〉、満47歳没)。墓所は東京都の港区の青山霊園。 余録 趣味は囲碁。島津久光に接近するために碁を学んだとの話も伝えられるが誤りである(19歳の頃の日記に碁を三番打って負けたとの記述がある)。大変なヘビースモーカーで、濃厚な指宿煙草(日本で初めて栽培されたたばこ)を愛用しており、子供達が朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりするほどだった(また、朝用のパイプと夜用のパイプを分けて使っていた)。茶は京都宇治の玉露を濃く淹れたものを好んだ。漬物も好きで、何種類か並んでいないと機嫌が悪かったという。 官僚的、または絶対権力者のイメージが強く、三年町に西洋風の豪邸を建てた(建築費用は恩賜金と盟友税所篤からの借金で賄ったとされる。後にこの邸はベルギー公使館となった)。しかし、金銭には潔白で私財をなすことをせず、死後は8,000円もの借金が残った。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。 口数こそ少ないが他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷徹な理論家でもあったため、面と向かって大久保に意見できる人間は少なかった。人斬り半次郎の異名で恐れられた桐野利秋も、大久保に対してまともに話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようとしたが、大久保に一喝されてすぐに引き下がったといわれる。また、若い頃から勇猛で鳴らした山本権兵衛も、大久保の前では殆ど意見出来なかったという。 また岩倉使節団の一員として欧米諸国を実際に見るまでは、維新の根幹として、旧来の人事の刷新を最も重要視しており、「国家機構の改革」に重きを置く木戸孝允や大隈重信と対立した。大木喬任や薩摩出身の吉井友実・松方正義ら倒幕に尽くした人々を重く用いて、彼らとともに能力次第では旧幕臣を登用する木戸・大隈の人事方針を「旧弊の温存」と批判して「冗官整理」を口実に幕臣出身者の追放を画策した(明治3年10月三条実美宛覚書)。 渋沢栄一が大蔵省を辞めた原因の1つには大久保が渋沢が旧幕臣というだけでその能力を全く評価しなかったことに失望したからだといわれている実際に渋沢は大蔵卿となった大久保によって明治4年7月29日から8月14日まで太政官枢密権大史に移されている。だが、渋沢ら排除した旧幕臣官僚の代わりとして大久保が推挙した人材中、財政を理解できたのは松方正義のみだったために、仕方なく呼び戻されたと言う。。 こうした大久保のやり方は「党派的行動」と見なされて、大隈重信はもちろん、井上馨・後藤象二郎・江藤新平らの抗議を呼び、岩倉具視からも自重を求められるほどであった。だが欧米視察で国家運営の実情を知って以後は、こうしたいわゆる「党派的行動」を改めるようになった。 大久保が内務省に登庁しその靴音が廊下に響くと職員たちは私語を止め、それまでざわついていた庁舎内が水を打ったように静まり返った。また大久保没後の帝国議会で板垣退助が答弁したとき、野次や怒号で騒然となったが、それを見た議員の一人は、「大久保卿であればこんなことにはならないのに」といって大久保の威厳を偲んだ。 内務省で勧商局長などを務めて大久保の部下であった河瀬秀治は、大久保の没後の内務省では、伊藤博文内務卿の部屋で西郷従道や中井弘が盛んに夕べの話をしたり、仲居が出入りするようになるなど、すべてが奢侈に流れ堕落したと嘆いている。 家庭内では優しい父親だったという。出勤前のわずか10分か15分の間を唯一の娘である芳子を抱き上げて慈しんだ。また大久保が馬車で自宅に帰ってくると、次男の牧野伸顕と三男の大久保利武が争って玄関に出迎え靴を脱がせようとして、勢いあまって後ろに転がるのを見て笑って喜んでいた。 青いガラス製の洗面器具を使い、家庭内においても洋間に滞在しながら洋服を着用する、当時としては非常に洋風な生活をしていた。また頭髪をポマードでセットしていた。 江藤新平が佐賀の乱で挙兵した際に、直ちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。大久保は江藤のことをよほど憎んでいたらしく、大久保の日記には「・・・今日、裁判所に宮に随従、江東(藤)之裁判を聴聞す」や、「江東、陳弁曖昧、実に笑止千万、人物推て知られたり」など、辛辣極まりない表現を使い、罵倒している。 かつての盟友西郷隆盛が挙兵したときは、伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と書き送った一面があった。しかし、西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が……」と言った様だ中西進監修『実はこの人こんな人』 四季社、2002年4月10日、ISBN 4-88405-126-2 C1023)。 また、暗殺された時に生前の西郷から送られた手紙を持っていたとか、暗殺の直前に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記を書くことを人に勧めたりしていたともいう。 暗殺される日の朝、福島県令山吉盛典に対し、「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進に譲り、発展を待つ時期だ。」と将来の構想を語ったという(『済世遺言』)。 大久保は、西南戦争で西郷を殺し薩摩を滅ぼそうとした張本人として、西郷贔屓の鹿児島では憎まれ嫌われ、近年まで地元への納骨すら避けられていた。現在、鹿児島市には大久保の銅像があるが、これは西南戦争百周年に際して東京から「なぜ鹿児島に大久保の銅像がないのか」と言われて、渋々作ったとされる。現在では、鹿児島でも大久保の再評価がされているが、しばらく前までは鹿児島では大久保の話も出来ないほどであった。 雅号:甲東 座右の銘:「為政清明」、「堅忍不抜」 身長:178cm、体重:65kg。血液型はO型。 家族・子孫 安政4年(1857年)に薩摩藩士早崎七郎右衛門の次女・満寿子と結婚。満寿子との間には、長男大久保利和(貴族院議員)・次男牧野伸顕(内大臣)・三男大久保利武(大阪府知事)・五男石原雄熊・長女芳子が生まれた。芳子は後の外務大臣伊集院彦吉に嫁いだ。大久保には妻の外におゆう(杉浦勇)という愛妾が居り、おゆうとの間に四男大久保利夫(海軍少尉)・六男大久保駿熊・七男大久保七熊(農学者)・八男大久保利賢(横浜正金銀行頭取)を儲けた。 孫の大久保利謙は日本近代史家で東大名誉教授。もう一人の孫大久保利春は丸紅専務で、ロッキード事件に際しては贈賄側の一人として逮捕・起訴され有罪判決を受けた。「じいさんにあわせる顔がない」が口癖だったという。 曾孫に吉田健一(作家)、大久保利晃(放射線影響研究所理事長、前産業医科大学長)、玄孫に寛仁親王妃信子、牧野力(通産事務次官)、麻生太郎(内閣総理大臣)、武見敬三(元参議院議員)。 系譜 大久保氏 明確ではないが藤原氏末流を称している。家紋は三つ藤巴。戦国時代末に京都から薩摩に移るというが、系図は貞享年間に市来郷川上に中宿(城下に籍を残したまま他郷へ移住すること)した仲兵衛より始まる。 仲兵衛━勘之丞━正左衛門━正左衛門━利辰━利政━利敬┳利建=利世━利通━┳利和==利武┳利謙━┳利泰━洋子 ┣利貞 ↑ ┣伸顕━伸通↑┣利正 ┗成子 ┗利世――┘ ┣利武―――┘┗通忠 ┣利夫 ┣雄熊 ┣駿熊 ┣七熊 ┣芳子 ┗利賢┳利春 ┣利秀 ┗利康 官位及び栄典の履歴 明治元年閏4月21日(1868年6月11日):従四位(辞退) 明治2年6月2日(1869年7月10日):従三位、永世賞典禄1,800石 明治10年(1877年)11月2日:勲一等旭日大綬章 明治11年(1878年)5月15日:贈正二位右大臣 明治17年(1884年)7月7日:継嗣利和が侯爵に叙爵される。 明治34年(1901年)5月22日:贈従一位 大久保利通が登場する作品 小説 海音寺潮五郎『西郷と大久保』 司馬遼太郎 『翔ぶが如く』 『歳月 (小説)』 漫画 武田鉄矢・小山ゆう『お~い!竜馬』 - かなり陰湿な性格の持ち主として描かれており、さらには肥溜めに落ちるなど貶めるような描写も見られる。 みなもと太郎『風雲児たち』 和月伸宏『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』 映画 竜馬暗殺(1974年 役者:田村亮) 徳川一族の崩壊(1980年 役者:梅宮辰夫) 幕末純情伝(1991年 役者:石丸謙二郎) 壬生義士伝(2003年・松竹 役者:津田寛治) ドラマ 竜馬がゆく(1968年・NHK大河ドラマ 役者:土屋嘉男) 勝海舟(1974年・NHK大河ドラマ 役者:西沢利明) 花神(1977年・NHK大河ドラマ 役者:高橋長英) 獅子の時代(1980年・NHK大河ドラマ 役者:鶴田浩二) 田原坂(1987年・日本テレビ年末時代劇スペシャル 役者:近藤正臣) 翔ぶが如く(1990年・NHK大河ドラマ 役者:鹿賀丈史) 徳川慶喜(1998年・NHK大河ドラマ 役者:池田成志) 竜馬がゆく(2004年・テレビ東京新春ワイド時代劇 役者:斎藤歩) 新選組!(2004年・NHK大河ドラマ 役者:保村大和) 白虎隊(2007年・テレビ朝日 役者:井田國彦) 篤姫(2008年・NHK大河ドラマ 役者:原田泰造) 関連項目 Template Commons? 日本史の人物一覧 幕末の人物一覧 明治の人物一覧 鹿児島県出身の人物一覧 暗殺された人物の一覧 脚注 Template reflist? 外部リンク 大久保利通 | 近代日本人の肖像 大久保利通 銅像 維新名家書簡(MF:個人蔵) | 国立国会図書館 系図でみる近現代 第6回 牧野伸顕 大久保利通 近現代・系図ワールド 近現代・系図ワールド 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月9日 (日) 17 50。
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ある日、大怪獣が死んだ。 人類存亡を賭けたあとしまつが今、始まる。 「怪獣の名前は、『希望』であります」 映画『大怪獣のあとしまつ』に登場した怪獣。きぼぜつやhumi氏は無関係。 ある日突然日本に出現し、軍の攻撃を全く寄せ付けない強靭な肉体とその巨体で人類を未曽有の恐怖に陥れた*1が、 ある日突如現れた謎の光エネルギーに包まれた後絶命しており、劇中では死体しか登場していない。 死因は不明だが、巨大な外傷が確認されたため、自然死や病死ではないようだ。 また「希望」という名前もこの怪獣の死後に付けられた物で、生物学史上に残る貴重な環境資源となることを期待されて名付けられた。 そして「高尚な権威者達わざわざ集めて命名するとかどんだけ税金無駄遣いするんだ」「死者も被害も甚大な怪獣に何を不謹慎な名前つけてんだ」と大炎上した + 邦画『大怪獣のあとしまつ』について 特撮映画であまり描かれることがない「怪獣が死んだ後の死体処理」にスポットを当てた映画。 当初は製作は松竹と東映の初の共同、元アイドルの山田涼介氏、女優の土屋太鳳氏ら気鋭の俳優らを主演に迎え、 脇を固めるのは特撮経験者でもあるオダギリジョー氏をはじめとする大物俳優や実力派の俳優陣、 怪獣「希望」の造形には特撮映画史で様々な怪獣のデザイン・造形を担当した若狭新一氏、 といった事前情報により、『シン・ゴジラ』的なSF色が強い本格志向の映画だと思われていた。 実際、この怪獣もデザイナー曰く「日本一有名な怪獣に似ないよう気をつけてデザインした」らしい。意識しまくってました ……が、その実態は、 「怪獣の死体が放つ腐臭がウ○コの匂いかゲ○の匂いかで国が紛糾、収拾のため総理が政府の公式見解として『銀杏の匂い』と発表するものの、 デモ隊がそれに激怒して『政府は嘘をついている!ウ○コとゲ○を足した匂いだろ!』と叫ぶ」 「女性がキノコに汚染された男性の股間を指差して『別の種類のキノコが生えてる!』と言う」等に代表される下ネタと、 一見すると脈絡もなく盛り込まれる三角関係や複雑な人間関係、 怪獣の死体が燃えるゴミか燃えないゴミか、死んだ場所が河川敷だから管轄はどこだと責任を押し付け合うも、 怪獣の死体が研究材料や観光資源として莫大な利益をもたらす可能性が大きいとなると、 今度は利権の奪い合いを始める私欲に満ちた政府関係者の足の引っ張り合い(更には外国政府の横やり)に翻弄される現場 ……といった政治風刺が満載の、「脱力系ナンセンスコメディ映画」である。 そのギャップから本格的なSF映画と思って観に行った特撮ファンからは、 「処理作戦がギャグで終わって次に移行するから何を以て作戦失敗扱いになったのか分からない」「令和の実写版デビルマン」 「一番面白かった場面は本編上映開始前の『シン・ウルトラマン』の予告映像」「オダギリ・ジョーの経歴に泥を塗るな」 などと炎上・酷評されるに至った。 ただし、主演陣の演技力が壊滅的で支離滅裂なデビルマソと、演技はしっかり出来ており話も一応はスジが通っている本作は雲泥の差があるとの声もある。 「とりあえず、山田君が格好良かったから良し」「土屋太鳳こんな映画出演でも美しい」と言う芸能人ファンがそれなりに居たし… 特に「特撮映画における怪獣」とは「自然災害や核兵器、戦争といったもののメタファー」と感じる特撮ファンや製作者は多く、 それを下ネタや政治風刺で味付けした結果、合体事故を起こしてギャグが盛大に滑り倒している本作は、 仮面ライダーの脚本家として知られる小林靖子女史からも、「大災害に立ち向かう素晴らしい人間の叡智に往復ビンタを喰らわせる映画」 とオブラートに何重にも包まれて酷評された。 あと、「怪獣の死体処理」を前代未聞と謳っているが、長い特撮史の中には「放射能や毒物などが死後も残留していて危険なので宇宙などに持って行く」 「細胞の一片でも残すと危険なので死体処理専門の部隊がいる」「怪獣の死体から有用な物質を採取、技術的に取り込む」 「倒された怪獣をサイボーク化したりメカ○○として復活させる」等の前例や、 死体ではないが、珍作戦の連続をコミカルに描く前例もあるため、濃い特撮オタクには新鮮味も薄かった。 ついでに『シン・ウルトラマン』にも本作ラストを彷彿とさせるシーンがあったりもした。意識してかは不明ながら、「後始末が大変」なんて台詞も 余談ではあるが、『ウルトラマンティガ』第5話「怪獣が出てきた日」は、本作同様腐敗する怪獣の死体処理に取り組むエピソードだったために (さらにこちらは件の怪獣がゾンビ化して動き回る)、「TSUBURAYA IMAGINATION」で『ティガ』が公式配信されていることもあり、 本作の公開以降に上述の『シン』の一場面と併せてにわかに注目されるという珍事が発生していた。 また、本作の「希望」を「特撮史上最大の怪獣」と紹介している記事も存在するが、実際にはこれより大きな怪獣は過去に複数存在する (そもそも昭和ウルトラシリーズの時点で「全長:無限大」な バルンガ(Q)やバキューモン(帰)、シルバーブルーメ(レオ。ただし設定変更後)等が登場している)。 つまり、「前代未聞」でも「史上最大」でも無く、この辺りのリスペクトの無さ・リサーチ不足も不興を買った一因であろう。 一応、ダムの爆破などの特撮シーンは見応えがあり、バカ映画の類として見れば面白いとする評価もあるのだが……。*2 更にはスタッフやキャストの顔ぶれからして、特撮オタク向けではなく所謂「一般層」に向けた映画である事は明白と言う擁護意見もあり (本作の脚本・監督を担当した三木聡氏からして脱力系の笑いを交えた作風が特徴の人物である)、 「特撮・SFオタク向けの視点はハナから介在していなかった」と考えればこうなったのも幾分か説明できるのではないかと思われる (後述のインタビューでも本作の肝は「政治風刺」と「コメディ」の2点としており、「SF特撮要素が本筋では無い」旨を示唆している)。 ……が、一般層が「怪獣の死体の後始末」なんてマニアックなネタに興味を持つわけもなく(前述の通り俳優目当てな観客なら居たが)、 どう考えても『空想科学読本』や『空想法律読本』みたいなネタで盛り上がるSFオタクをターゲットにした作品でない方がおかしい。 また、事前の予告を報じるマスコミに「コメディ」という言葉を禁句にするよう通達していたという話もあり、最初から騙す気満々であったとの噂も そのためか、 劇場公開後のインタビュー に応じた本作のプロデューサーらは「意図が正しく通じなかった」という旨を述べている。 ……が、「観客が自分達の意図を理解できないのが悪い」とも読み取れてしまう発言内容だったため、 反って火に油を注ぐ結果になってしまい「『大怪獣のあとしまつ』の後始末に失敗」と揶揄される羽目に。もしかして:炎上商法 最全長380m、全高155mと怪獣映画屈指のサイズが特徴。 また、キノコのような背びれをしているが、これは冬虫夏草のように生物に寄生する菌類によるものらしく、 立ち入り禁止区域にわざわざ侵入した結果希望の死骸から出た廃液に呑み込まれた迷惑系動画クリエイターの身に、 全身を覆い尽くさんばかりに体から謎のキノコが大量に生えてくる出来事が起きている。 そして、死体に腐敗による発酵が起きたことで事態はより深刻になる。 細菌による分解で生じたウ○コとゲ○を足した銀杏のような臭いの腐敗ガスや腐液が死体に溜まって隆起した「腐敗隆起」が各所に発生し、 内圧500キロパスカルに上昇すると座礁鯨の死体のように爆発を起こしかねない状態になったのである。 仮に爆発すると死体を中心に北西20km圏内がウ○コとゲ○を足した銀杏臭のガスに覆われてしまうばかりか、 腐敗ガスに含まれる菌類により、範囲内の人間はおろか土地も動物も菌類に寄生され、 キノコによる大規模なバイオハザード(生物災害)が起きかねない危険性がある。 また、軍の攻撃を全く受け付けなかった強靭な肉体は生物学的に貴重な研究材料となる以外にも、 観光資源としての価値も莫大なものになるという試算が出たため、 「なるべく元の形を残したまま腐敗ガスを処理する」という無理難題が主人公・帯刀アラタに課せられるのだが……? MUGENにおける希望 カーベィ氏の製作したキャラが公開中。何故作った…まあ故人が作られた前例は結構あるか… 映画公開後数日で製作する辺り氏のフットワークの軽さが窺える。 kMIKEj氏製作のバスタトサウルス・レックスのスプライトを改変して作られており、 ちゃんと背中にキノコが生えている他、しゃがみとダウン時のスプライトが片足を上げた姿になるのが特徴。 カーベィ氏曰く「劇中で動いてなかったので好き勝手やらせてます」とのことで、 主に「尻尾攻撃」や「とびかかり」などの近接攻撃を中心に戦う性能をしている。 超必殺技はいずれも1ゲージ消費で、「必殺噛みつき」「突撃」「ウ○コの香り」の3つ。 最後のは死んで腐ってからの武器じゃないのか、とか突っ込むな。 ていうか作中開始時点の死体で背ビレにキノコ生えてたしマジで生きてた頃から寄生されてこんな体臭だった可能性も割とある AIもデフォルトで搭載されている。 怪獣を倒したらちゃんと後始末もしてください(1 32~) 出場大会 【MUGEN大祭】特盛りシングルトーナメント *1 たった一体の怪獣「希望」との交戦で防衛軍に多数の戦死者が出たらしく、それを補うためか徴兵令が発令されており、 街中のポスターにも「兵役は国民の義務」といったものが確認できる(怪獣が死んだ事で有耶無耶になったようだが)。 また、「怪獣の接近を知らせるアラート」や「対怪獣部隊の車両は道路上ではいかなる緊急車両よりも優先」といった事も確認でき、 怪獣「希望」による被害の大きさが窺い知れる。 ただ、こうした「怪獣が現れたら政府はどう対応をするのか」という意味では、 言うまでもなく『ゴジラ』『ゴジラ('84)』『シン・ゴジラ』が都度都度時代に合わせたシュミレーションを行っており、 またコメディ作品ではあるが「怪獣が出現した日本で右往左往する一般市民」を『大怪獣東京に現わる』が、 そしてやはりコメディ作品だが「怪獣が出現し超人と戦う世界の日常」を『大日本人』がリアルに描いている事もあって、 「リアル路線を目指したにしては荒唐無稽だし、ギャグを目指したにしては(ブラックジョークとしても)笑えない」という結果になってしまっている。 *2 オチで明かされる事実を頭に入れておかないと、各キャラの行動が人によっては不可解を通り越して不愉快に思えるため、 コメディとしても人を選ぶという声も……。 + オチで明かされる事実(ネタバレ注意) 「希望」の死亡状況から察した人も居るかもしれないが、「希望」を倒したのは所謂光の巨人というべき存在である (作中の呼称は「選ばれし者」。なおその姿は影と足先しか本作では分からない)。 そしてその正体は主人公の帯刀アラタ。 ニ年前、怪獣対策の特殊部隊「特務隊」に所属していたアラタは、無茶をする恋人を庇った際にまばゆい光に包まれて失踪。 そしてその光が怪獣を撃破し、残された恋人は、その時の戦いで片足を失ったアラタの恋敵と結婚。 現在は政府の高官となった二人が大怪獣のあとしまつに奔走していた所、突如としてアラタが帰還を果たした……というのが本作の本当のあらすじなのである。 ラストは政府のあらゆる怪獣のあとしまつ政策が万策尽き、最後の上昇気流でオゾン層までガスを噴き上げ分解させる作戦も恋敵の妨害で失敗、 元恋人が見守る中、光の巨人に変身したアラタが「希望」を抱えて宇宙に飛び立って行く……という、最初からそれやれよ!なオチ。 つまり本編の内容は全て茶番でしかなかったのである。アラタを演じた山田氏も脚本を読んだ際に思わずツッコミを入れたとか。 何故すぐに変身しなかったかと言うと、希望が死んだ(光の巨人が倒した)後にアラタが数年間失踪し、 その間に恋人も別の男性と結婚するなど周囲との軋轢も生まれていた事から鑑みるに、 恐らく一度変身すると長期間戻って来られず、人間関係に支障をきたす事を恐れていたのだろう (ノベライズ版では、アラタは「選ばれし者」となってから地球外の星であらゆる事件を解決していたと思しき独白が描かれている)。 政府内閣の一部(首相等)はこれを把握しており(といっても「怪獣を包んだ超常的光が怪獣を殺した」、程度の把握だが)緊張感が無く、 一部の高官(というか他ならぬアラタの元恋人と結婚していた同僚、現首相秘書)は独自にアラタの正体を理解した後彼を積極的に挑発している他、 上記のオゾン層ガス分解作戦時もアラタが怪獣希望の上で頑張っているのにミサイル撃ち込み許可を出したりしている。 それでアラタが悪堕ちしたらどうするつもりだよ……と言うか資源利用の話は? まあぶっちゃけると「今更帰ってきて俺達の夫婦仲を邪魔するな、地球から出ていけ」という個人的本音もあるんだろうが 伏線は一応張られているのだが、人類自身の知恵で解決すると信じて待っている観客にとっては、 下らないギャグの数々によって本筋を阻害するノイズにしか見えない形で良くも悪くも丁寧に隠されていたため、初見で気付くのは難しく、 観客からすれば「本筋とどう繋がるのか謎な不倫の横行」や「痴情のもつれでアラタを攻撃しているようにしか見えない高官」といった、 しょうもない争いを延々見せられる羽目になった。 というか最後の最後にようやく事情が分かった所で別に笑えもしないしスッキリもしないので、オチとして普通に弱いとも言えるが 大怪獣の名前に関しても「人類同士の下らない争いに失望したアラタ(光の巨人)が希望(怪獣)と共に去っていってしまった」と考えれば、 実に皮肉が効いていると言えなくもない。 尤も、エンドロール後に「怪獣再出現!今度は火を吹く亀のような怪獣で名前は『メラ』!」と安直なパロディに奔ったり、更には「予算半額以下で続編決定!?」とかましたりと、「希望は無くなってしまった」という空気ではないので、深読みし過ぎだと言える ついでに言うと「第二怪獣のカメ型出現!」なんてネタは、『大怪獣東京に現る』の作中で既にやってたりもするので二番煎じ以下だったり 監督はラストについて「『なんで最初からそうしないんだ』というナレーションを入れようとしたが、観客に委ねる事にした」と、 ギャグと捉えていた事を 満員御礼舞台あいさつ にて明かしている。 前述のインタビューと合わせて考えると、 「自己犠牲を強いられるヒーローの悲哀とそれを強いる者の醜悪さ」をテーマにしようとしたと思われるプロデューサーとは齟齬が生じ、 真面目に見ようにも真面目になれず、笑おうにも妙に深刻で笑えないものになってしまった……という事なのかも知れない。 まあ「ウルトラマンになってしまった男の葛藤」「掌返しで彼に戦わせようとする人々の醜悪さ」っていう意味でも『大日本人』が既にやってるんだけどね 結局の所本作は「大怪獣のあとしまつ」という作品タイトル通りのテーマ・題材の作品ではなく、 「大怪獣のあとしまつ」を舞台にした「ウルトラマンになってしまった男を中心とした三角関係のナンセンスコメディ」と受け取るべきなのだろう。 問題はその「ウルトラマンになってしまった男」という部分が大オチのため、一切事前に告知されなかった点だが……。
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<THE PAGE 生トーク> 元経産官僚・古賀茂明に聞く『国家の暴走』 <THE PAGE 生トーク> 元経産官僚・古賀茂明に聞く『国家の暴走』 https //www.youtube.com/watch?v=AIa9I72jRIU
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在野の将を登用するイベント。 袁紹軍へ 蔡奏 衛興 太史套 鄭甫 楽怜 袁術軍へ 黄聹 黄準 朱義 石潭 巫馬統 呂布軍へ 劉導 淳于傳 関耀 張同 樊晃 王優 王範 顔閑 顔鎮 顔慶 趙岱 張勝 張廉 張純 張都 波泰 伯潜 糜祐 法良 林剽 林然
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日中歴史共同研究 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 <近現代史> 第一部 近代日中関係の発端と変遷 第一章 第1章 近代日中関係のはじまり 近代日中関係の発端 北岡 伸一<その1> 北岡 伸一:東京大学大学院法学政治学研究科・法学部教授 【座長】 http //www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 目次 近代日中関係の発端 北岡 伸一<その1>はじめに 第一節 西洋の衝撃と開国:日本と中国1.近代西洋国際秩序と東アジア国際秩序 2.中国の開国 3.日本の開国 第二節 明治維新と脱亜入欧1.幕府の崩壊と新政府の成立 2.新政府の開国 近代日中関係の発端 北岡伸一<その2>第三節 日清修好条規の成立 第四節 台湾出兵と琉球問題1.琉球帰属問題 第五節 朝鮮問題の発端 33 おわりに はじめに 19 世紀半ばに至るまで、東アジアには、当時の西洋における国際秩序とは異なる国際秩序が存在していた。西洋列強は、この国際秩序を不便として、優越した軍事力を背景として、その変更を要求した。このような西洋の挑戦によって、東アジア国際秩序は根本的な変容を迫られた。東アジアの変容を、もっぱら西洋の衝撃に対する対応と見ることは一面的に過ぎるが、西洋の衝撃なしには、東アジアの変容はありえなかった。この西洋の衝撃に対する日本と中国の対応は、著しく異なっていた。その対応の違いが、その後の日中関係に大きな影響を及ぼすことになった。日本と中国が、それぞれの歴史と伝統を背景に、どのように西洋の衝撃に対応していったか、そしてその中から、前近代においては比較的限られていた日中間の接触が、いかに形成され深まっていったかを、本章では明らかにしていきたい。それゆえこの章は、近現代史分科会論文集の大部分の章と異なり、両国関係の叙述や分析そのものではなく、比較史を通じた関係史の成立と発展という形をとることとなる。その際の重点は、執筆者の専門からして、当然、日本に置かれることとなる。 第一節 西洋の衝撃と開国:日本と中国 1.近代西洋国際秩序と東アジア国際秩序 19 世紀の前半まで、東アジアには中国を中心とする国際秩序が成立していた。周辺国の多くは中国から冊封を受け、中国に対して朝貢していた。それによって、中国の文化的政治的優位を承認し、他方で中国からそれぞれの国における支配者たることの承認と庇護を受け、あわせて朝貢による貿易上の利益を享受していた。1 その中でほぼ日本だけが、中国との対等を主張していた。古代において、あるいは中世の足利義満などが、それぞれの国内的政治的経済的利害から、王として中国に対する臣下の礼を取ったことがあったが、これはごく例外的であった。2 その結果、中国にとって日本は比較的遠い存在であった。当時の清国も、朝貢国につい 1 このような体制の名称については諸説あるが、冊封と朝貢ないし進貢を中心とし、文化的優劣関係を中核とする点で、大きな違いはない。その特色の詳細な検討として、西里喜行『清末中琉日関係の研究』(京都大学学術出版会、2005 年)、13-18 頁、が参考になる。 2 坂野正高『近代中国政治外交史』(東京大学出版会、1973 年)、第三章。なお、『万暦会典』(1587 年)には、日本は朝貢国とされているが、『嘉慶会典』(1818 年)には、互市諸国の中にあげられている。同上、84-87 頁。 2 ては比較的詳しい情報を持っていたいが、日本についての情報は乏しかった。3 他方で、日本は清国のことはもちろん良く知っていた。江戸時代にも貿易は行われていたし、その最大の輸入品のひとつは書物であった。こうした清国との限定的な接触の中で、日本は清国から強い影響を受けつつ、同時にこれに反発して、独自の文化を形成し、独自のアイデンティティを形成していった。 ところで、西洋における世界秩序は、世界史の中でユニークなものである。そこでは、世界は主権国家と植民地とからなり、主権国家はすべて形式的には対等であり、国家はその国内および植民地内の事柄すべてについて責任を負う。逆に言えば、完全な責任を負うことのできない土地に対して主権を主張することは出来ない。また、以上のコロラリーとして、すべての土地はどこか一つの国だけに所属することとなる。同時に二つ以上の国に は所属する土地はないし、またどこにも所属しない無主の土地も、原則的にはない。 このような国際関係は、世界史的に珍しい。多くの文明圏において、国家は対等ではなく、中心的な国家が存在して、他はこれとの関係で階等的に位置づけられることが多い。また、国家と領土の関係も絶対的ではなかったから、二つ以上の国家に属する土地もあれば、どこの国家にも属さない土地もあった。 伝統的な東アジア国際秩序においても、すでに述べたとおり、国家は対等ではなかった。宗属関係における属国は、西洋における主権国家ほど独立的ではなかったが、西洋における植民地ほど従属的ではなかった。琉球のように日本と清国に対し両属という国もあった。日本でも、北海道については、ロシアが進出するまでは領土の観念は希薄であった。 こうした国際関係の中に位置していた日中両国にとって、西洋との出会いは困難なものであった。しかし、とくに中国は西洋が持ち込もうとした近代国家システムにうまく適応することができず、多くを失った。これに対して日本は、相対的にこの課題を大きな失敗なしに乗り切っていった。4 2.中国の開国 清国は1661 年に遷界令を出して一種の大陸封鎖を行っていたが、1684 年、これを解除して「海禁」を解き、マカオ、寧波など4 港を開き、海関を設けて貿易を行った。しかし1757 年には、外国船との貿易はカントン(広州)だけに制限することとなった。カントン 3 たとえば『瀛環志略』(1866 年)は、古い書籍をそのまま引用し、日本の三大島は、北の対馬島、中の長崎、南の薩●〔山ヘンに司〕馬(さつま)であると述べる有様であった。佐々木揚『清末中国における日本観と西洋観』(東京大学出版会、2000 年)、ⅲ-ⅳ頁。 4 ただし、ここでいう「成功」「失敗」というのは、あくまで当時の西洋との接触と独立の維持という観点における成功と失敗である。一般的に言って、ある課題における成功の条件は、次の課題における失敗を引き起こすことが少なくない。それは東アジアの歴史を考えるときにも忘れてはならないポイントであろう。 3 貿易は18 世紀の末から19 世紀にかけて大いに繁栄し、年間150 隻の外国船が入るようになっていた。そこで最も活発だったのは、イギリスだった。しかしイギリスは一種の朝貢国として位置づけられ、限られた中国人商人(広東13 行)を媒介として、さまざまな厳重な制限の下において、貿易を許されていたのである(カントン・システム)。 ところが、18 世紀末から、中国からの茶の輸入が盛んとなり、イギリスから大量の銀が流出するようになると、イギリスはこれを阻止するため、アヘンの輸出を開始した。アヘンはたちまち中国に広がり、中毒者が激増するに至った。財政再建と国民のアヘン中毒追放のため、1839 年、林則徐がアヘンの没収、厳禁に踏み切り、アヘン戦争が始まった。イギリスにおいても、これは不正義の戦争であるとして強い反対があったが、戦費支出の件を含め、1840 年5 月、上下両院の支持を得るに至った。 戦争が始まると、清国はイギリスの敵ではなかった。その結果、1842 年、南京条約が締結され、広州に加え、廈門(アモイ)、福州、寧波(ニンポー)、上海の開港と香港島の割譲が取り決められた。翌1843 年、アメリカから同様の要求があると、一視同仁の論理によって、清国は英国以外の諸国に対しても、最恵国待遇を付与することとした。 しかしそれでも条約港での貿易は、清国からみて、朝貢関係の一環であるカントン・システムを拡大したものであった。港の数は限定されており、南方に偏っており、いずれも田舎の漁村にすぎなかった。こうした僻地に土地を与えたことによって、西洋人を懐柔しようとしたのであった。 しかし西洋列強は、条約港において清国から土地を借り上げ、都市基盤を整備し、行政制度を整備し、伝統的な中国とは異なった空間を作り出していった。これが租界である。とくに上海には西洋建築が次々に建築され、その景観は一変するに至った。そこには、キリスト教も流入していった。租界は、中国を大きく変えることとなったのである。 以上のような清国の弱体化の中で、キリスト教の影響のもと、太平天国の乱が起こり、中国を大混乱に陥れた。乱は1850 年から64 年まで続き、2000 万人以上が犠牲となったといわれる。この鎮圧の主力となったのは、清国の正規軍ではなく、曽国藩の湘勇や李鴻章の淮有など郷勇であった。また、ゴードンの常勝軍などの外国人傭兵だった。太平天国はそれ自体清国に大きな打撃を与えただけでなく、伝統的な満州族中心の体制の無力を示した点においても、重要だった。 この間、偶然もあって起こったのがアロー戦争だった。1856 年10 月、イギリス船籍を名乗る中国船アロー号に清国官憲が臨検を行い、清国船員12 名を海賊容疑で逮捕し、その際、イギリス国旗を摺り下ろしたとされる事件が起こった。実際には、この船の船籍登録は期限切れとなっており、清国側の行動は不法ではなかったが、イギリスは南京条約で獲得できなかった諸権利を獲得しようと、他の列強を誘って共同出兵を持ちかけた。仏、露、米のうち、誘いに応じたのはナポレオン三世のもとで積極的な対外政策に乗り出していたフランスで、57 年末に広州を占領した英仏連合軍は天津に向かい、太平天国で疲弊していた清国政府は譲歩して、1858 年6 月、天津条約を結んだ。 4 しかし、英仏軍が去ったあと、北京では条約に対する反対が高まり、翌年批准のためにやってきた英仏との間に衝突が起こったため、戦闘は再開され、英仏軍は1860 年10 月、北京に入り、円明園と頤和園を破壊し、多大の略奪を行った。 そして1860 年、清は英仏と北京条約を結び、天津条約の内容を確認するとともに、さらなる負担を負うこととなった。その内容は、 (1)天津、漢口、南京など11 の港を条約港とし、条約港居住外国人に旅行する権利を与える。 (2)キリスト教布教権の承認、アヘン貿易の合法化、 (3)外国使節の北京常駐、西洋人に対して「夷」の字を使うことを禁止する。 (4)イギリスに九龍半島を割譲する、 などであった。この際、調停にあたったロシアに対しても、それまで混住であった沿海州を割譲することとなった。 以上を要するに、イギリスを始めとする西洋諸国は、清国に対する野心があり、軍事的実力を背景に、さまざまな口実を設けて、これを実現していった。清国は、西洋諸国の軍事力と野心を十分警戒することなく、不用意に口実を与えていったのである。もう少し警戒すれば、被害は少なく済んだであろうという局面は少なくなかった。 3.日本の開国 これに対し、日本の開国は、比較的大きな混乱なしに行われた。 1853 年7 月、ペリーが日本に来航し、国交を求めた。ペリーは同月、いったん日本を去ったが、1854 年2 月、再び来航し、日本はペリーと日米和親条約を締結した。その結果、神奈川、函館、長崎、新潟、下田の5 港を開くこととなった。しかし、これは、まだ鎖国の例外措置という面もあり、本格的な開国ではなかった。イギリス、ロシア、フランスなどが、これにならった。しかし、1856 年にアメリカから下田領事としてハリスが来日し、通商航海条約の締結を求めると、日本はいよいよ決断を迫られるようになった。通商条約の締結は明らかに鎖国政策の放棄であり、和親条約よりはるかに重大事件であった。 当時の幕府には、緩やかな開国論と伝統的な鎖国論が対立していた。一方は、開国は不可避と考え、西洋軍事技術を導入し、外交機関を整え、大名などの意見を徴し、世論の支持を得て開国しようとしており、次の将軍には一橋慶喜(1837~1913)を擁立しようとしていた。他方、保守派は、西洋との衝突には危惧を持ちながらも、軍事外交制度の変革にも大名その他の意見を徴することにも消極的であり、次期将軍には、幼少ながら血統において将軍によりふさわしいと考えられた紀州の徳川慶福(1846~66)を推していた。 ペリー来航以来、幕府をリードしていたのは老中阿部正弘であった。阿部が1857 年に没すると、そのあとを継いだのは堀田正睦であった。彼らはいずれも西洋文明に理解をもち、開国は不可避と考えていた。問題はその方法であった。彼らは幕府の専断ではなく、多くの大名の意見を徴し、さらに朝廷の許可を得て、条約に調印することを考えた。ところが、意外にも条約勅許問題は将軍継嗣問題とからみあって複雑化し、幕府は朝廷の勅許を得る事に失敗した。ここで堀田は失脚し、南紀派の井伊直弼が大老に就任し、条約に調印し、 5 徳川慶福の将軍継嗣を決定した。そして多くの反対派が処刑された(安政の大獄)。しかるに、これに対する反動が今度は起こり、井伊直弼が暗殺される(桜田門外の変、1860 年3月)という事態となったのである。 安政の大獄そして桜田門外の変のころより、日本では攘夷運動が激しくなった。しかし西洋との軍事的衝突は、個別的な外国人襲撃を別とすれば、1863 年6 月の長州藩による外国船砲撃、1863 年8 月の薩英戦争、それに1864 年9 月の四国連合艦隊による下関攻撃程度であった。中国に比べて、相対的に混乱は少なかった。 それにはいくつかの理由があった。 第一に、西洋列強の主たる関心が中国だったことである。巨大な中国に比べれば、日本はその傍らの小さな国であった。またアヘン戦争からアロー号戦争に至るプロセスで、列強は日本に本格的に関与する余裕はなかった。それが、英仏でなくアメリカが、日本開国の先頭に立った理由の一つである。なお、後述するように、朝鮮に対する列強の圧力も、中国に対する圧力に比べれば小さかったが、それも同様の事情による。 第二に、それゆえに、日本は清国の敗北を知って、列強に対する準備をする時間的余裕があった。とくに、アヘン戦争のような不正義の戦争において、清国が敗れたことは大きな衝撃であり、西洋列強の邪悪な意図と恐るべき実力を知ることができた。日本近海や琉球には、繰り返し西洋の船が訪れており、オランダからは開国の勧告が来ていた。日本も自ら開国する決断は出来なかったが、より準備が出来ていたことは確かである。 第三に重要なのは、日本のエリートは武士であり、がんらい軍事を重視する存在だったことである。武士は、日本が西洋に勝てないことを、すぐに理解したのである。ロシアのプーチャーチンとの応接など、対外関係の処理に活躍した川路聖謨は、万里の波濤を越えてやってきたプーチャーチンは「真の豪傑」であると高く評価し、彼自身を含め、太平の世になれた武士の遠く及ぶところではないと嘆いた 5。 これに比べ、清国における価値の中心は文であり、武ではなかった。林則徐のような立派な官僚もいたが、その判断は十分北京に伝わらなかったし、尊重されなかった。 朝鮮においても、価値の中心は文であった。とくに李氏朝鮮においては、明のあと、儒教の正統を継ぐのは朝鮮であるという観念が広まっていた。アヘン戦争についての情報は、日本以上に入っていたが、強い反応はなく、1845 年の時点で、清の状況は「無事矣」と考えられていた。このとき、魏源の『海国図志』がもたらされたが、日本と違って、それも海防思想の勃興をもたらさなかった。太平天国についても、重大事件とはみなしていなかった。江南の事件には関心が低かったのである。警戒感が高まったのは、ようやくアロー戦争が華北に波及してからであるといわれる。6 5 佐藤誠三郎「川路聖謨」、佐藤『<死の跳躍>を超えて』(1992 年、都市出版社)所収、 133 頁。 6 以上、原田環「19 世紀の朝鮮における対外的危機意識」、『朝鮮史研究会論文集』21 巻(1984 年3 月)。 6 なお、日本においても、文の中心である京都の朝廷では、事態の深刻さを理解できる者は少数であり、列強に勝てるかどうかを真剣に検討する人は稀であった。 第四に指摘すべきは、日本社会が経済的に高度に統合されていた事実である。江戸時代、日本にはすでに全国単一市場が成立しており、各藩は沿岸航路を通じて大阪に物資を往来していた。したがって、黒船数隻の登場は、地域的な危機ではなく、ただちに全国的な危機になりえたのである。 これに比べれば、中国では南方の危機は全国の危機になりにくかった。朝鮮半島においても、高度な経済発展・経済統合は見られず、沿岸航路はとくに重要なものではなかったので、危機感が弱かったのであろう。 第五に、教育の普及と、民族的一体感は、日本がもっとも強かったといってよいであろう。17 世紀はじめからの長い平和の中で、識字率が向上し、日本文化への見直しが盛んとなり、原初的なナショナリズムが芽生えていた。そこでは、天皇への注目が高まり、日本は外国に敗れたことがないという不敗の伝統が強調されていた。 第六に、大前提として、日本は長年中国との交流を通じて、日本より優れた文明がありうることをよく知っていた。日本人の世界観は、自国中心主義ではなかった。一見自国中心主義と見える思想も、実は背伸びした、中国の優位に反発しての自国中心主義であった。したがって、西洋が日本よりも、少なくともいくつかの分野において優れていることを認めるのに、さほどの困難はなかった。 江戸時代における蘭学の普及も、これと関係している。福沢諭吉は、1862 年、ヨーロッパ旅行において、中国人留学生、唐学捐(土へん)と知り合いになり、清国で横文字を解するものの数を尋ねたところ、11 人という答えを得て、驚愕している。7 この数は、必ずしも信頼できる数ではないかも知れないし、福沢もそのまま信じたわけではないだろうが、それにしても、日本には500 人程度の蘭学者ないし洋学者がいるのに、西洋と長い交際のある大国清において、それほど少ないのかと驚いたのである。 おそらく、大多数の中国人は、伝統的に、自国より優れたものの存在を知らなかった。 中国の自国中心主義は、それと人に言われても分からないほど深く浸透していたのである。 第二節 明治維新と脱亜入欧 1.幕府の崩壊と新政府の成立 開国に踏み切った日本で、次の課題は、新しい政治体制の模索であった。 ペリー来航のとき、外国との応接の中心が徳川幕府であるべきことを疑うものはなかった。幕府の石高は800 万石といわれ(天領400 万石余と御家人ら300 万石余)、第二位の加賀前田家(102 万石)、薩摩島津家(77 万石)以下を圧していた。 7 石河幹明『福澤諭吉伝』第一巻(岩波書店、1932 年)、330-333 頁。 7 それに多くの藩は経済的に疲弊して、余力はなかった。また彼らは、のちに述べる薩摩や長州などを除いて、長年の徳川氏支配の中で、その家臣としての意識を持つようになり、みずからの領土を自分で支配するという観念が希薄になっていた。 しかし幕府にも弱点はあった。石高は農業収入を基礎としたもので、江戸期を通じて発展してきた商業に対する安定した課税システムを持っていなかった。農業は江戸時代後半伸び悩み、幕府財政も、各藩同様、逼迫していた。 幕府の軍事力も、長年の平和の中で陳腐なものとなっており、新しい軍事技術が導入されればたちまちゼロからの競争になる運命にあった。しかも幕府の家臣には、平和になれて特権に安住する旗本・御家人が多く、新しい技術を獲得するための厳しい訓練を受ける意欲や柔軟性に乏しかった。 また幕府の正統性は脆弱であった。幕府が全国支配者であるのは、征夷大将軍に任じられるからであって、究極は朝廷による任命に依存していた。朝廷の家臣であることにおいて、将軍も他の大名も同輩であった。すでに述べた開国をめぐる混乱も、幕府が朝廷の勅許を得ようとして失敗したことから発していた。しかも征夷大将軍である幕府が、征夷ができないとき、その正統性は大きく揺らぐこととなった。 これに対し、薩摩と長州は、17世紀初頭の徳川氏の全国制覇において敗者となり、封土を削減され、多くの家臣団を抱え、困窮を耐え抜いて、尚武の気風を維持していた。 ところで、幕府首脳は譜代大名であり、小藩の藩主であった。外様の雄藩や親藩を排除して、幕府政治はなりたっていた。しかし、こうした有力な藩をも加えた挙国一致で対外危機に臨むべきだという有力な意見が存在していた。一橋派と南紀派の対立は、この点を焦点としていた。 伝統的な幕府中心の体制を維持しようとする井伊直弼が桜田門外の変で倒れたあと、さまざまな形で挙国一致体制が模索された。それは、幕府と朝廷の協力のもとに雄藩が参加する公武合体論として展開された。1862 年には、天皇の妹の将軍との結婚(和宮降嫁)、島津久光の建議による一橋慶喜の将軍後見職就任と松平慶永(越前)の政事総裁職就任が実現され、1864 年2 月には京都に一橋慶喜、松平慶永、伊達宗城(宇和島)、松平容保(会津、京都守護職)、山内豊信(土佐)、島津久光(薩摩)8 による参預会議が置かれるに至った。雄藩の中でここから排除されたのは、当時攘夷を鮮明にしていた長州だけだった。 しかし参預会議は内部対立から十分機能しなかった。権力の独占を維持したい幕府と、これに割り込みたい雄藩の政治的対立があり、貿易の利益を独占した幕府と、これに参入したい雄藩とくに薩摩との対立があった。 そのころ、新任のフランス公使ロッシュ(64 年4 月着任)は、ナポレオン三世の積極的な対外進出の一環として、幕府に接近し、これに対し、幕府の中には親仏派官僚が形成されていった。その結果、幕府は再び独自権力強化の路線に戻っていった。なおそのころ、 8 島津久光は、藩主ではなく藩主の父であり、陪臣であった(それゆえ、任命は他より二週間ほど遅い)。それは、この会議が真に実力を持つ者の会合であったことを示す事実である。 8 イギリスは薩摩と接近していた。それは薩摩がより貿易の開放に積極的であり、また意思決定システムにおいて柔軟で果断だという判断からであった。9 幕府の親仏路線に対し、これを脅威と感じた薩摩は、幕府の二度目の長州征伐を前に、長州と接近して薩長同盟を結んだ(66 年3 月)。そして7 月から始まった戦争において、薩摩に支援された長州は幕府を撃退した。薩摩は上海から武器弾薬を密輸し、これを長州に提供した。中国がすでに開国していて、中国経由で西洋との貿易が可能であったという事実は、日本の明治維新のあり方に決定的な影響を及ぼしたのである。10 幕府の絶対主義強化路線と薩長の倒幕路線の中間に、もう一度浮上したのが、公武政体論や幕府雄藩連合体制論の流れを引く大政奉還論であった。その主唱者は土佐であって、幕府を廃止し、徳川氏は一大名となり、諸侯会議において国事を議するものとし、土佐も一定の発言権を持つことになるわけであった。 これが実現すれば、徳川家が中心となる体制が出来たであろう。徳川氏は、徳川慶喜という有能なリーダーを持ち、外国との交際の経験を持ち、実務能力を持つ官僚を持ち、フランスの援助を得ていた。67 年10 月9 日、徳川慶喜が大政奉還して、一大名となろうとしたのは、そうなっても国政をリードできる自信があったからである。また、土佐はその中で有利な地位を確保できるはずであった。 それは、薩長にとっては認められないことであった。徳川氏の存続を許すにしても、一度は軍事的に打撃を与えてからでなくてはならなかった。薩長は徳川に対する処罰を主張して、ついに王政復古に持ち込んだ。天皇の指導のもとに国政を行うという決定であった。1868 年1 月3 日のことだった。 これを不満とする徳川と薩長の間で1 月27 日、戦争が起こった。緒戦は朝廷側が有利であったが、まだ戦争の行方は知れない段階で、徳川慶喜は兵を引き、江戸に戻り、以後、抗戦を放棄した。戊辰戦争と呼ばれる戦争は、この鳥羽伏見の戦いで始まり、1869 年6 月、函館の五稜郭の陥落で終わるが、徳川を中心として組織的な戦争は起こらなかった。つまり、事実上、一日で大勢が決してしまったのである。 徳川方に軍事的勝利の展望がなかったわけではない。しかし、長年の平和になれた日本人は、戦争の継続を好まなかった。徹底抗戦すれば、日本を二分する戦いとなり、日本が植民地化される恐れがあるという危惧が、徳川方にあり、徹底抗戦をためらわせた。また、すでに降伏しているものに対し、寛大な措置をとるのが日本の文化的伝統であり、それは薩長の側にも理解されていた。 イギリスが仲介したのも大きい。イギリスの目指すのは貿易上の利益であって、安定し 9 1863 年8 月の薩英戦争において、薩摩はイギリスを相手によく戦ったのみならず、講和の交渉のさなかに、イギリスからの武器の購入とイギリスへの留学の相談を持ちかけた。この柔軟性に、イギリスは強い印象を受けた。 10 すでに1862 年、幕府は千歳丸を上海に派遣して貿易を求めている(佐藤三郎『近代日中交渉史の研究』、吉川弘文館、1984 年)。また1863 年には函館奉行所が健順丸を上海に派遣している。 9 た秩序こそ望ましいものであった。江戸城無血開城は、勝海舟と西郷隆盛の決断で決まったが、圧力をかけたのはパークス英国公使であった。 それにしても、それにしても、260 年の統治の実績を持つ徳川幕府の崩壊は驚くべきことであった。もっとも大きな違いは、薩長では伝統にとらわれない下級士族が藩政の中枢を掌握したが、幕府ではそうならなかったということであろう。その意味は、新政府のもとですぐに明らかになる。 2.新政府の開国 薩長が指導する新しい政府は、当然、攘夷路線をとると思われた。福沢諭吉などは絶望的な気分でこれを迎えた。しかし意外なことに、新政府は攘夷路線をとらず、明確な開国路線をとった。 1868 年2 月10 日、新政府は外国との和親を布告した。戊辰戦争のさなか、各地で外国人との衝突が起こっていた。薩長の首脳は攘夷を不可能と知っており、これを戒めた。しかし、多くの人は、薩長は攘夷路線をとるものと信じており、この布告を意外とした 11。さらに天皇は4 月6 日、五箇条の誓文を発したが、その第四には、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」とある。その意味は広いが、中核的な意味は鎖国の否定、陋習の否定、そして開国であった。 新政府は、さらに各藩が地方に割拠する制度を改め、中央集権化をめざした。函館の五稜郭が陥落して戊辰戦争が終わってから一ヶ月もたたないうちに、1869 年6 月、版籍奉還を行って、藩主に行政権を返還させた。ただ、原則として藩主をあらためて知藩事に任命したので、大きな違いはないように見えた。しかし1871 年8 月には廃藩置県を断行し、藩を廃止して県を置き、その行政官としては中央から知事を任命し、これまでの藩主は東京に住むことを命じた。多くの西洋人は、これを革命だと感じた。奇跡だと考えた。 それが可能となったのは、多くの藩がすでに経済的に疲弊していたからであった。また、長年の幕府の支配のもとで、多くの藩において、自らの領地とのつながりが薄くなっていた。そして中央集権でなければ外国と対抗できないことが広く理解されていた。それにしても、これは意外な展開であった。福沢諭吉は、洋学を志した仲間とともに、「この盛事を見たるうえは、死すとも悔いず」と、叫んだと回顧している 12。もちろん、これに反感を持ったものも多かった。薩摩の事実上の藩主であった島津久光は、廃藩置県を憤り、西郷や大久保を許さなかった。 1871 年11 月には、さらに、岩倉使節団が派遣された。岩倉具視、大久保利通、木戸孝 11 岡義武「維新直後における尊攘運動の余炎」、『岡義武著作集』第6 巻(岩波書店、1993年)所収。 12 福沢諭吉「福翁百余話」、慶応義塾編『福沢諭吉全集』第六巻(岩波書店、1959 年)所収、419 頁。 10 允ら、政府首脳の半ばを含む大集団が、一年半にわたって欧米旅行を断行した。革命直後の新政権が、長期に国を空けるなど、およそ常識では考えられない行動であった。それだけ彼らは欧米を見たいと考えたのであった。 そこから、彼らは西洋文明との巨大な格差を実感し、これに追いつくために全力を挙げなければならないと決意した。そして強兵よりも富国が重要であることに気づいたのである。 国内体制の整備において、注目すべきは徴兵令の制定である。政府は1872 年12 月、徴兵の告諭を発し、また73 年1 月、徴兵令を定めて、一般国民を基礎とする軍事力の整備を決定した。 新政府の指導者は武士であったにもかかわらず、またそれほど多くの兵力が必要だったわけではなかったにもかかわらず、この決定を行った。この方針を定めたのは、長州の大村益次郎であった。大村が1869 年末に暗殺されたが、その路線は長州の山県有朋によって引き継がれた。大村はがんらい村医者であり、また山県は下級の武士であって、奇兵隊に加わって戦った経験を持っていた。そして長州では、戦争のさなか、意外に武士が役に立たず、むしろ意識の高い一般庶民がよく戦うことを知っていた。 その後、政府は武士身分の廃止にまで進んだ。武士のための俸禄は、新政府の重い負担となっていた。まず、1873 年、秩禄(家禄と賞典禄)の奉還を奨励し、奉還する武士には一部を現金、一部を公債で支給した。さらに1876 年8 月、ついに金禄公債を発行して、家禄制度を廃止した。この間、廃刀令を発して帯刀を禁止した(1876 年3 月)。 これは重大な決定であった。武士層の身分的特権と経済的特権をともに廃止したのである。明治の前半、多くの反乱が起こったが、こうした急進的措置を考えれば、無理もないことであった。よく新政府の基礎が揺るがなかったと感じるほどである。 このように、江戸時代において、封建領主が割拠し、その頂点に幕府があった制度は根本的に変革された。まず薩長が幕府を打倒し、薩長の下級士族からなる官僚が、薩長を含む藩を廃止し、さらに自ら武士を廃止してしまったのである。この変革は、いずれも天皇の名において行われた。薩長官僚は、藩の威光ではなく、天皇シンボルをフルに利用して、この変革を行ったのである。13 このように、当初、尊王攘夷を掲げて出発した運動は、新政府において大きな変化を遂げた。政府は天皇の意思を尊重したりしなかったし、攘夷は開国となった。しかし、尊王というシンボルは、天皇を尊敬とするということではなく、中央集権ということであり、攘夷というのは外国人を排撃するのではなく、外国と並び立ちうる国家を作るということ 13 なお、天皇は日本の伝統においては、文の象徴であったが、ここでは軍事リーダーへとその役割を転換されることとなった。それがのちに、大元帥として、統帥権の中心に置かれたわけである。天皇シンボルの利用は、この段階では明らかな成功であったが、のちに、思慮深い元老や政治家が天皇の周囲にいなくなったとき、軍部の悪用するところとなり、大きな問題を引き起こすことになるのである。 11 だったと読み替えることができる14。そしてその二つは、近代国家の内的特徴と外的特徴である。その意味で、明治維新は何よりもナショナリズムの革命であったのである15。 ところで、清国でも1860 年に北京条約を締結したのち、変革が始まった。1861 年3 月には、総理各国事務衙門を設置され、これまでの「夷務」も「洋務」とされた。ようやく外交を統括する機構が作られたわけである。 そして1861 年11 月、同治帝が即位し、西太后や恭親王が実権を握った。その中で、改革運動が始まる。同治中興であり、洋務運動である16。 同治中興は、「中体西用」といわれるように、西洋からの近代的な技術、とくに軍事技術を導入するとともに、経世儒学的な思想を強調した。太平天国の乱が鎮圧に向かったころから、曽国藩・李鴻章ら、この乱の鎮圧に成果を上げた官僚たちによって、ヨーロッパの技術の受容が開始された。とくに機械化された軍備を自前でまかなうために、上海の江南製造局に代表される武器製造廠や造船廠を各地に設置し、その他にも、電報局・製紙廠・製鉄廠・輪船局や、陸海軍学校・西洋書籍翻訳局などが、新設された。 そのスローガンは、「中体西用」であった。伝統中国の文化や制度を本体として、西洋の機械文明を枝葉として利用するのだということが表明されている。中国の国力は日本をはるかにしのいでいたので、これらの改革は規模も大きく、時期も明治維新より早かった。たとえば日清戦争以前、中国の北洋艦隊(北洋水師)は規模や質において日本海軍を上回りアジア最大の艦隊であった。 にもかかわらず、洋務運動は十分な成果を挙げなかった。 一つは担い手の問題であろう。洋務運動の中心は北京の政府ではなく、太平天国鎮圧の中心だった地方長官、李鴻章、左宗棠らであった。全国が一体として運動ではなかった。当初、これらの企業は半官半民の官督商辨で、官が最小限度の監督をし、資金を出した商人が実権を握るというものだったが、これを支えるべき安定した銀行などがなく、恐慌が起こると官の力が強まり、徐々にこれを私物化するようになった。その結果、民間資金は集まらなくなった。 もう一つは「中体」というところにあった。中国最初の外交官としてイギリスに派遣された劉錫鴻は、西洋文明の充実に驚嘆した。しかし、帰国後、鉄道の建設に反対している。墓地の風水を破壊する、などが理由であった17。要するに中国の場合、儒教が大きな障害になったというべきだろう。 これは福沢諭吉と大きな対象をなしている。福沢は、少なくとも明治の初めまでは、儒 14 北岡伸一『日本政治史:外交と権力』(1989 年、放送大学出版協会)、32 頁。 15 この点を最初に指摘したのは、岡義武「明治維新と世界情勢」(1946 年)(『岡義武著作集』第一巻所収)であるといわれている。 16 洋務運動については、日本側でもっとも詳細な研究として、鈴木智夫『洋務運動の研究』(汲古書院、1992 年)がある。 17 菊池秀明『ラスト・エンペラーと近代中国<中国の歴史 第10 巻>』(講談社、2005 年)、68-69 頁。 12 教倫理を徹底して排撃した。それが西洋文明受容の大きな障害であることを知っていて、その排撃に努めたのである18。 18 ただし、福沢が根本的に反儒教であったとは、必ずしもいえない。『文明論之概略』あたりから、儒者に対する配慮を忘れなかったし、明治10 年ころからは、少なくとも、武士のエトスを強調するようになるが、それは儒教とも親和的であり、功利主義一辺倒ではなかった。丸山真男「福沢諭吉の儒教批判」(1942 年)、丸山『福沢諭吉の哲学』(岩波書店、2001 年)所収。また、北岡伸一『独立自尊:福沢諭吉の挑戦』(2002 年、講談社)。 近代日中関係の発端 北岡伸一<その2> 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 日中歴史共同研究
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現在大規模修正中 ユエスレオネ連邦 fankasa'd yuesleone(リパライン語)Masurnaqra fo Yuesreone(ユーゴック語)Fanqas de éhuaisélaionais(ヴェフィス語)Yuéslveynéd Tédalveté(現代標準リナエスト語)yuesleonege sip'uige dado(アイル語)y-it-lo-ne nim2 dat2(*1)(パイグ語)juecleonehomá nímaṣáná taku(バート語)ゆえしれおね族集(*2)(タカン語) (国旗) (国章) 国の標語:人民国家のあるべき姿のために。Ers fulx deliu lartassen icco molel. 国歌:国際革命活動よ、連合せよ! 公用語 ユエスレオネ連邦の公用語 首都 リーネ・ヴェ・キーネ 最大の都市 カヴィーナ 政府 連邦議会行政執行部 国家元首の称号 連邦議会行政執行部長(首相) 国家元首の名前 ユエスレオネ連邦の首相 面積 総計 --km2 水面積率 -- 人口 総計 人口密度 人/km2 建国 ピリフィアー暦2002年5月18日 国教 なし 通貨 レジュ、人民点数(XXXX年まで) ファールリューディア自決権条約によるユエスレオネ連邦(リパライン語 Fankasa'd yuesleone fon farl'liurdi'a'd calsnajltunirfenen firche) 通称ユエスレオネ連邦とは、ファイクレオネの空中要塞ユエスレオネ国民国、アレークウィのデュイン総合府、大宇宙に存在する惑星スラーンのファルトクノア共和国、クラナ大陸のクラナ大陸国家連合からなる連邦国家。 または、空中要塞そのものを指してユエスレオネと呼ぶこともある。 目次 国名 歴史ユエスレオネ成立前後の動き共和制ユエスレオネ時代 社会主義連邦の成立 再革新《ショレゼスコ》 xelken過激派との争いデュイン戦争 デュイン・アレス独立戦争 ファルトクノア共和国 政治政体 立法 軍事地方行政区分 地理 国民 文化 交通 経済 外交関係 関連項目 外部リンク 国名 yuesleoneの-leoneは、本来リパラオネ祖語の語根で「土地やその土地に結び付けられた文化風俗、慣習」を表していた(*3)(*4)。 yuesの部分は恐らくyunaと同根であり、リパラオネ人のうちでユナ・リパライン語を話す人達を指す。本来ユエスレオネはリパラオネ連邦の開発したものであり、現地の地名に由来すると思われる。 革命後の正式国名はユエスレオネ・ユエスレオネ社会主義人民シェユ連邦(Yuesdera'd Fantasa'd Iuesleone'd lartassa'd xejuss)であったが、ピリフィアー歴2011年にファールリューディア自決権条約によるユエスレオネ連邦(fankasa'd yuesleone fon farl'liurdi'a'd calsnajltunirfenen firche)に変更された。 歴史 ユエスレオネ成立前後の動き 地上を捨てた事をきっかけとして、多くの民族が入り混じる混乱の中で様々な思惑が交錯する動乱の時代だった。 共和制ユエスレオネ時代 詳しくは、共和制ユエスレオネ。 Phil.2000年にリパラオネ連邦共和国、レアディオ国、デーノ国、クワイエ国を始め大陸規模で大流行したエルフ熱によって世界の人口は大幅に減少した。これを食い止めるべくリパラオネ連邦ではワクチンの開発が急がれたが、動物実験によってモンスターが発生し、地上はモンスターに埋め尽くされていった。生き残った人々は、ついに地上で生きることを諦めて天空へと逃れた。 br/ ユエスレオネは元々リパラオネ連邦の軍事要塞であったが、非常事態につき生き残った全ての人々を収容した。これを機に地上国家の政府は崩壊し、新たにラネーメ系のアル・シェユ、リパラオネ系のフェーユ・シェユ、デーノ系のクワク・シェユの三つのシェユと呼ばれる政治的単位を設け、それぞれのシェユが協力しあう超国家主義体制を敷くことで情勢の安定化を図った。 社会主義連邦の成立 ターフ・ヴィール・イェスカが設立したユエスレオネ人民解放戦線は予てより説得による無血革命を掲げて活動していたが、FQXEがきっかけで共産主義への規制が強まり、言論活動中の人民解放戦線メンバーが逮捕される事件が発生した。イェスカは残ったメンバーを集めてユエスレオネ共産党を設立した。同党は超国家主義を掲げていた各シェユを攻撃して各シェユ政府から非合法組織に定められたものの、同党宣伝局長アレス・デュイネル・エレンが「革命抗戦・愛国統一・階級解放」を唱え、武力革命を煽動した。これによって2002年5月12日にユエスレオネ内戦が勃発。5月18日、イェスカは警察署、役所、軍事施設、空港の破壊工作を秘密裏に教唆し、全国で合計130箇所以上の破壊に成功した(*5)。しかし、フェーユで捕まった工作員によってイェスカの目的は露見する事態となり、これを受けてイェスカは「ユエスレオネ社会主義連邦暫定政府」(理:irxe dznojuli'o fon yuesdera'd fankasa'd yuesleone(*6))をフェーユ西に建国宣言した。5月21日にはユエスレオネの統一と社会主義化を目的とした各シェユの軍の一部が反乱し、シェユとしての機能は麻痺状態となった。フェーユ政府は5月28日に降伏宣言したが、アル、クワク政府との戦闘は泥沼の長期戦となり、最終的には2003年12月8日にアル、クワク政府共に降伏を宣言した。2003年12月10日、首都をフェーユ北に配置し、シェユを連邦化した「ユエスレオネ・ユエスレオネ社会主義人民シェユ連邦」の建国が宣言され、革命が達成された。初代首相にはユエスレオネ共産党の党首であるターフ・ヴィール・イェスカ自らが就任した。 この革命からイェスカ首相暗殺までの期間は「第一次社会主義ユエスレオネ時代」と呼ばれ、それ以降の「第二次社会主義ユエスレオネ時代」とは区別される。第一次の特徴として共産党による事実上の独裁、資本の国有化と計画経済及び貿易規制や関税の強化、あらゆるものに対する検閲、徴兵令の強化などが挙げられる。 再革新《ショレゼスコ》 第一次社会主義ユエスレオネ時代の方針は革命直後こそ順調に見えたものの、想定外の新たな貿易相手であるハタ王国やPMCFとの貿易摩擦や検閲による経済への影響、矛盾した制度など、いくつもの問題が浮上し始めた。2004年3月、ユエスレオネ共産党はこれに対処すべく、ショレゼスコを実施(*7)。検閲や計画経済を廃止して経済・貿易を自由化したり、共産党議会を廃止して選挙による間接民主制の連邦議会を設立するなど、大きく方向転換した。これに伴いユエスレオネ共産党は解散し、ユエスレオネ社会党として再構成された。 br / 再起の一手として行われたショレゼスコであったが、短期間の急激な経済制度の変化による疲弊や、貿易自由化と関税緩和の同時実施による安い外国商品の流入などによってユエスレオネ国内の産業は崩壊し、恐慌状態に陥った。この経済改革による大失敗は「ショレゼスコ危機」と呼ばれ、ターフ・ヴィール・イェスカ首相は支持率を大きく落とすことになった。2004年6月19日、ターフ・ヴィール・イェスカ首相暗殺事件|革命の姉誕生パレードでイェスカ首相がxelken.valtoal構成員の青年によって銃撃され、殺害される事件が起こった(*8)。イェスカ首相の死後、一部の支持者が報復と称してxelkenや対立する立場の人物を襲撃・殺害する事件などが多発した。社会党次代党首にはイェスカの実妹であるターフ・ヴィール・ユミリアが後任し、その手腕によって社会党の支持は回復した。2005年の連邦議会選挙においても社会党が過半数を上回る51.34%の票を獲得(*9)し、ユミリアは第二代首相を務めることとなった。 xelken過激派との争い 古リパライン語の権威回復という名目で拉致や武力に訴えるxelken過激派との争いは、ユエスレオネの歴史において重要な意味を持つ。 デュイン戦争 ユエスレオネ内戦の只中である2002年11月、共産党率いる革命軍の諜報部がxelken.valtoalの情報を掴んだ。確認のため該当地域へ調査員を派遣したが帰還することはなく、消息は途絶えた。ユエスレオネ社会主義連邦暫定政府は調査員が殺害されたものと判断し、報復としてデュイン・シェルケン政権に対して宣戦布告、デュイン戦争が開戦された(*10)。12月になるとアレークウィのxelken領地での戦争だけでなくユエスレオネ本土でのxelkenによるテロも過激化し、経済や安全保障にも著しい影響が出始めた。 br / 2003年1月、ハタ王国から国王のカリアホ=スカルムレイが突如来訪し、当時暫定政府の外務大臣だったアレス・シュカジューと会談した。スカルムレイによって反ハタ王国の過激派武装組織ハフリスンターリブがxelkenと協力関係にあることが示唆され、サニス条約を締約すると共に共同戦線を張る方向で合意した。こうしてハタ王国と共に戦力を本格投入したことでxelkenは弱体化し、ハフリスンターリブなどの介入も押し切って、2月にはデュイン・シェルケン政権の打倒に成功し、ユエスレオネ連邦の新たな領土となった。その後、該当地域にデュイン総合府を設置し、八県二自治区の民族自治体制が確立された。 ユエスレオネはこの戦争で新たな国土デュインを獲得したのをきっかけに、人口密度問題を解決すべくデュインへの移住制度を開始した。また、それまでファイクレオネでは伝説のような存在であったハタ王国と正式に国交樹立することとなった。2006年1月20日にはサニス第二条約が締約された。 デュイン・アレス独立戦争 デュイン戦争の後、xelken原理主義者の中でも古理語の徹底的な普及を目指すvaltoal派の思想は現実的ではないとする派閥が分離し、2008年にはxelken.alesが成立した。ales派は古理語と新理語を再編したノヨ・リネパーイネを普及させ国際語とすることを目的とし、ユエスレオネ連邦の破壊と新国家シェルケン・オミョーンの興隆を目指した(*11)。 2010年1月1日、xelken.alesとデュイン総合府側の一部の独立派勢力によってクランタル区庁占領事件|クランタル区庁が占領される事件があった。これを皮切りに、デュイン島嶼部での紛争に留まらず、デュイン全土、ユエスレオネ本土、そしてサニス第二条約を理由に参戦したハタ王国内にまでも戦火が広がるデュイン・アレス独立戦争へと発展した(*12)。 当初ユエスレオネ側は区庁の占領をあまり重く受け止めてはおらず、デュイン総合府が寝返ったのは想定外だった。こうした初動の遅れもあり、クランタルとサラスはすぐに陥落、北デイシェス海海戦では連邦側艦隊は壊滅的被害を受けた。2月1日、続けて反連邦側はシェルタズャートゥンデ攻略のため空襲をしかけた。連邦はシェルタズャートゥンデ内陸にまで及んだ航空機を戦艦では対処できず、WPミサイルでこれを処理した。しかし、WPミサイルは敵航空機だけでなく島の住民をも巻き込み、多くの犠牲が出た。被害を受けたのは旧シェルケン政権時代に拉致されたユーゲ人系の住民だった事から、同じ民族であるハタ王国の人々はxelkenだけでなく連邦に対しても不信感を募らせていった。犠牲も虚しくxelken.alesの部隊はシェルタズャートゥンデへの上陸に成功し、デュインはクランタル、サラス、シェルタズャートゥンデを挟んで内陸部と遠島部で分断される形になった。反連邦側はこの戦中にアレス・ラネーメ・リパコールによって開発されたWP不能な空間を展開するイールドの新技術を不正に入手しており、遠島部への補給を断つ事を見越してのシェルタズャートゥンデ攻略であった。この戦略は反連邦側の思惑通りになり、イールドの新技術漏洩は戦況に多大な影響を及ぼした。この時点で連邦はサニス第二条約に則り協力を仰ぎ、ハタ王国も参戦することになった。 br / 遠島部で孤立した連邦軍に対して反連邦側から投降勧告が送られ、連邦軍は選択を迫られることとなった。2月10日、リスターメの駆逐艦隊は軍規違反で決死の出撃を強行。反連邦側の巡洋艦体及び輸送規制艦隊主力を撃破、輸送経路の開放に成功した。その後シェルタズャートゥンデの連邦軍捕虜が全体で蜂起しシェルタズャーテゥンデを奪還したが、その間にパニャルが空爆を受け反連邦側に占領された。2月12日、次に反連邦側が狙ったのはWPミサイル兵器が大量に格納されていて発射設備のあるラファンカだった。連邦はすかさずこれに対応したが、既に戦力が削られて再編された連合艦隊では食い止めることができず、反連邦側のラファンカ制圧を許す結果となり、撤退を余儀なくされた。この後しばらくNZWPによる睨み合いが続き、戦闘も起こらなかった。4月1日、連邦はクランタルなどを含む一部領土を反連邦側に明け渡すとする停戦協定を持ち掛け、締結された。しかし当日午後10時頃、パニャルでの協定締結からデイシェスへ帰還中の首脳陣を乗せたフェリーを反連邦側の護衛艦と誤認して威嚇射撃した。威嚇射撃されたフェリーも反連邦側から攻撃を受けていると管制に誤報告し両政府は混乱。結局連邦側の勘違いによって停戦協定は破棄され、フェリーで立往生した首脳陣はパニャル側の国境付近に停泊して上陸したが反連邦側から銃撃を受け1人が死亡、3人が負傷する事態となった。 最終的には2011年3月3日に連邦側の勝利で終戦となった。今回の戦争を受けてサニス条約を更新し、3月から発効した(*13)。 ファルトクノア共和国 Phil.2012年 ショアン戦争、ファルトクノア共和国がショアン王国から独立し、ユエスレオネ連邦に加盟 政治 政体 ショレゼスコ以降の国家体制は連邦議会行政執行部長(首相)を国家元首とする議院内閣制である。ショレゼスコ以前はユエスレオネ共産党党首に権力集中する一党独裁共和体制であった(*14)。 立法 国家立法府たる連邦議会は一院制を採用しており、定員500人の国会(理:kali'a)が存在する。国会議員の任期は10年であり、10年ごとに全面改選される。国会議員はヘア=ニーマイヤー式単純比例代表制直接選挙によって選出される。 2005年8月に総選挙が実施され、ユエスレオネ社会党251議席(51.34%)、人民会議党104議席(20.84%)、ラネーメ民族党62議席(12.42%)、ADLP共和党60議席(11.94%)、その他17議席(3.46%)。ユエスレオネ社会党が第1党になり、ユエスレオネ社会党単独政権が樹立した。 2015年1月に総選挙が実施され、ユエスレオネ社会党255議席(50.99%)、人民会議党113議席(22.34%)、Xelken連合党77議席(15.54%)、ラネーメ民族党32議席(11.94%)、リパナス党11議席(2.28%)、その他10議席(2.43%)。ユエスレオネ社会党が第1党になり、ユエスレオネ社会党単独政権が樹立したが、社会党の得票率は低下し求心力は低下した(*15)。 軍事 地方行政区分 詳しくは、ユエスレオネ連邦の連邦構成主体 ユエスレオネ連邦は、空中要塞の本土にあるユエスレオネ国民国とデュイン総合府とファルトクノア共和国で構成される。 ユエスレオネ国民国フェーユ・シェユ アル・シェユ クワク・シェユ デュイン総合府クランタル自治区 イェテザル自治区 パニャル県 デイシェス県 サニス県 サラス県 シェルタズャートゥンデ県 シェルタズャート県 ラファンカ県 リスターメ県 ファルトクノア共和国ガンセリア県 ヘオサフィア県 レーシア県 キュニア県 フュドゥシア県 マイヌシア県 ジェリア県 パフェリア県 ヴェディア県 クラナ大陸国家連合 地理 国民 文化 交通 ユエスレオネ連邦/交通を参照。 経済 外交関係 関連項目 クラナ大陸国家連合キエラヴィ国瀛憶民主スィレフ立憲王国簾載戦争スローヴェ共和国アル―スノルメル王神国ルアンシー人民イェスカ主義共和国ヴラユヴィテール主義共和国ハレ連邦軍造兵廠ヴィテール親衛憲兵隊ヴラユヴィテール共和国憲法ヴラユヴィテール共和国現行法全ヴィテール最高尊厳保障委員会誇りし栄光と永遠の歴史上ヴラユ連邦委任直轄領クラナ大学相互発展するクラナシャリヤ内閣デュイン総合府イェテザル自治区ユエスレオネ人民解放戦線拷問官ユエスレオネ国民党ユエスレオネ国民国ユエスレオネ連邦における名誉殺人ユエスレオネ革命リパコール内閣レジュレトラ世代交通公用語共和制ユエスレオネテクタニアー計画労働者の権利勲章司法憲法裁判所特別法廷革命裁判所国家公安警察地域・都市居留区情報特務庁憲法政党Xelken系政党ユエスレオネ国民党リパラオネ民族自決党人民解放戦線系政党教育死刑法律キャスカ・シェラフ宙尉圧政機構責任刑事訴訟公共安全法禁酒・禁煙法禁酒・禁煙法違憲訴訟言語翻訳庁設置法連合地方法連邦命令内閣閣令2号「再革命」内閣閣令9号「猫探し作戦」特別警察庁特殊部隊省庁外務省社会文化的階級第三政変統一選挙ウォルツァスカイユ政権シルミヤ政権リパコール内閣警備管轄問題蜉蝣のためのレナ言語翻訳庁警察院刑事警察庁国家公安警察庁情報特務庁特別警察庁連邦統一・統治堅持庁象徴連邦国営鉄道連邦構成主体連邦議会連邦参事会連邦軍即応特殊作戦独立中隊技術開発本部県境軍第227夜間戦略爆撃中隊装備S型個人糧食軍人宣誓階級と将官一般士官の一覧上級士官の一覧政治将校の一覧総司令官・副司令官の一覧革命時犯罪追求及び真実解明委員会首相官邸府 フェンテショレー ユエスレオネ連邦の首相 ユエスレオネ連邦の勲章 ユエスレオネ連邦版政党マッチング 外部リンク ユエスレオネ連邦 - 悠里総合サイト ユエスレオネ - リパライン倉庫 ユエスレオネ主義 - リパライン倉庫 歴史年表 philerl - リパライン倉庫 リパライン語と言語行政と文化 - 第五章 エフトーン時代の言語と文化
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Template 日本の歴史? 明治維新(めいじいしん)とは、江戸幕府による幕藩体制から、明治政府による倒幕運動および天皇親政体制の転換と、それに伴う一連の戦争(戊辰戦争)・改革をいう。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・教育・外交・宗教政策など多岐に及び、日本をアジアで最初の西洋的国家体制を有する近代国家へと変貌させた。 概要 開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる1868年10月23日(旧9月8日)となる。しかし一般的にはその前年にあたる1867年(慶応3年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い(日本の歴史学界における明治維新研究では、前段階である江戸幕府崩壊期(天保の改革あるいは黒船来航以後)も研究対象とされるが、本項目では維新体制が整う以前の政治状況については「幕末」の項であつかうものとする)。終了時期についても、廃藩置県の断行(1872年)、西南戦争の終結(1877年)、内閣制度の発足(1885年)、立憲体制の確立(1889年)までとするなど諸説ある。 この期間の政府(一般的には1868年1月3日(慶応3年12月9日)の王政復古以後に成立した政権『歴史学事典 12王と国家』(弘文堂、2005年 ISBN 4335210434)「維新政権」(松尾正人)より。)を特に「明治政府(めいじせいふ)」「新政府(しんせいふ)」「維新政府(いしんせいふ)」などと呼称することが多い。主に旧薩摩藩・長州藩および一部の公家による専制政治として実行されたため「藩閥政府」と揶揄されることもあるが、中級官僚以上でも旧親藩・旧幕臣などから採用された者も少なくなく、一概に一部雄藩のみが主導したともいえない。なお、「明治維新」という語が一般に流布したのは昭和以降Template 要出典?で、当時の人々からは主に大政奉還と廃藩置県を指して「御一新」と呼ばれていた。 短期間の内に西欧列強に比肩する国家を築き上げたことは諸外国からは奇跡と見られ、とくにアジア諸国にとって近代革命の模範となった。この革命の象徴となり、アジア初の本格的立憲君主となった明治天皇について、諸外国では日本以上に高く評価されることもある。 五箇条の御誓文 Template main? 江戸幕府による大政奉還を受け、王政復古によって発足した明治新政府の方針は、天皇親政(旧来の幕府・摂関などの廃止)を基本とし、諸外国(主に欧米列強国を指す)に追いつくための改革を模索することであった。その方針は、翌1868年の五箇条の御誓文で具体的に明文化されることになる。合議体制、官民一体での国家形成、旧習の打破、世界列国と伍する実力の涵養などである。 また、この目的を達するための具体的なスローガンとして「富国強兵」「殖産興業」が頻用された。 改革の内容 中央行政 形式的には、明治維新は律令制の復活劇でもあった。幕藩体制の崩壊に伴い、中央集権国家の確立を急ぐ必要があった新政府は、律令制を範とした名称を復活させた(例:太政官、大蔵省など。ただし、当然のことながら実態は律令制のそれとはかなり異なる)。 王政復古の大号令において、幕府や摂政・関白の廃止と天皇親政が定められ、天皇の下に総裁・議定・参与の三職からなる官制が施行されたが、明治天皇はまだ年少であるため(実際天皇親政は建前であった)、それを補佐する体制がすぐに必要となった。そこで、明治元年閏4月21日、政体書が公布され(政体書体制)、さらに翌年、律令制の二官八省を模した二官六省制が発足する。具体的な行政機構としては、太政官と神祇官を置き、太政官の下に各省を置く律令制が模写されたものの、その後も民部省から工部省が分離したり、刑部省から司法省への改組など幾多の改変を必要とし、安定しなかった。また立法府である左院(のち元老院)・右院や地方官会議なども設置・廃止が繰り返された。明治中央官制の改革は明治17年(1885年)の内閣制度発足をもってようやく安定する。 また、立法府に関しては木戸孝允らが明治初年から議会開設を唱えていたが、議会制度を発足させるためには、官制改革・民度・国民教育などが未成熟であり、時期尚早であったため、大久保利通を中心に「有司専制」と呼ばれる薩長藩閥による官僚を中心とした改革体制が維持された。しかし、自由民権運動の高まりや、諸制度の整備による改革の成熟などもあり、1881年に「国会開設の詔」が出され、同時に議会制度の前提として伊藤博文らによる憲法制定の動きが本格化し、憲法審議のため枢密院が設置された。1889年に大日本帝国憲法が公布、翌年帝国議会が発足し、アジアでは初の本格的な立憲君主制・議会制民主主義国家が完成した(正確にはオスマン帝国のタンジマート改革における1876年ミドハト憲法公布がアジア初の立憲制ではあるが、同国は直後に君主専制に回帰している)。 また、首都については、当初京都では旧弊が多いとして、大阪遷都論が大久保利通を中心として唱えられた。しかし京都から都を移してしまうことには反対が多く、江戸城の開城もあり、江戸を東京とすることで落ちついた(→東京奠都の項目を参照)。明治天皇の2度の東京行幸により太政官も東京に移され、東京が事実上の首都と見なされるようになった。 地方行政 明治政府の地方行政としては、徳川家を駿府藩に移封し、京都・長崎・函館を政府直轄の「府」とした以外は、原則として以前の藩体制が維持されていた。しかし、富国強兵を目的とする近代国家建設を推進するためには、中央集権化による政府の地方支配強化は是非とも必要なことであった。 まず、明治2年の版籍奉還で旧藩主が自発的に版(土地)・籍(人民)を天皇に返上し、改めて知藩事に任命することで、藩地と領主の分離が図られ、重要地や旧幕府直轄地に置かれた府・県とともに「府藩県体制」となる。しかし、中央集権化を進め、改革を全国的に網羅する必要があることから、藩の存在は邪魔となり、また藩側でも財政の逼迫が続いたことから自発的に廃藩を申し出る藩が相次いだ。1871年8月29日(旧7月14日)に、薩摩・長州藩出身の指導者により廃藩置県が実施され、府県制度が設置され(当初は3府302県、直後に整理され3府72県)、中央政府から知事を派遣する制度が実施された。これにおいては、令制国の地名を用いなかったために、都市名が府県名となった所も少なくない。薩摩藩の島津久光が不満を述べた以外は目立った反撥はなく(すでに中央軍制が整い、個別の藩が対抗しにくくなっていたこと、藩財政が危機的状況に陥り、知藩事の手に負えなくなったこと、旧藩主が華族として身分・財産が保証されること、などが理由とされる)、国家の支配体制がこのように電撃的、かつ画期的に改変されたのは明治維新における奇跡とも言える。 なお、旧幕府時代、名目上は独立国でありながら実質上薩摩藩の支配下にあった琉球王国に関しては、廃藩置県の際に「琉球藩」が設置されて日本国家内に取り込まれることとなり、1879年(明治12年)に「沖縄県」として正式に県に編入された(この間の経緯は一般に「琉球処分」と称される。旧琉球国王の尚氏も旧藩主と同様、華族となった)。(→沖縄県の歴史) 諸制度の改革 廃藩置県と太政官制の改革を経て中央集権体制が整ったことで、ようやく旧幕府時代の制度を改革する準備が整った。ほぼ同時に宮中の改革も行われ、旧来の宮中職や女官は廃され、士族を中心とした侍従らが明治天皇を武断的な改革君主にふさわしい天皇に養育することとなった。幕末期には病弱であった明治天皇も、士族による養育のためか健康も回復し、西洋的立憲君主としての心得も学び、「明治国家」の元首としてふさわしい存在になっていく。特に憲法制定過程における枢密院審議においては、そのすべてに臨御し、また国会開設前後の立憲政治未成熟期に首相が頻繁に辞任・交代した際も、政局の調停者として重要な役割を担った。 身分制度については、江戸幕府下の「士農工商」の別を廃止し、旧武士階級を士族、それ以外を平民とし、「四民平等」を謳う一方、旧公家・大名や一部僧侶などを新たに「華族」として特権的階級とすると同時に、宮内省の支配の下に置くことになった。 また、維新政府は西洋の諸制度を研究するため岩倉具視を正使、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らを副使とする使節団を欧米へ派遣するが、「留守政府」とよばれた日本残留組の西郷隆盛・井上馨・大隈重信・板垣退助・江藤新平・大木喬任らの手によって、次々と改革は進んでいった。 主な改革としては、学制改革、地租改正、徴兵令、太陽暦の採用、司法制度の整備、断髪令、などがある。ただし、これらの改革は急激に行われたため矛盾も少なくなく、士族や農民の不満を招いたため、後の征韓論につながったとも言われる。欧米使節から帰国した岩倉や大久保が征韓論を退け、さらに大久保の下に内務省が設立されたことで諸改革の整理が行われることになる。 また、これと同時期に民間でも行われた文明開化の動き、肉食の普及や鉄道の開通などとも相まって、新時代「明治」の雰囲気が醸成されていった。 経済産業分野では、富国強兵・殖産興業のスローガンの下、富岡製糸場を初めとする官営工場が作られるなど、政府主導の産業育成が始まり、西洋式工業技術が導入された。また金融制度でも旧幕府時代の貨幣制度を改めて、通貨単位として「円」を導入(1871年。新貨条例を参照)、また国立銀行条例による国立銀行(ナショナルバンク)を経て、通貨発行権を独占する中央銀行としての日本銀行設立(1882年)など、資本主義的金融制度の整備も行われた。また流通分野では、郵便制度・電信網の整備、鉄道および船舶運輸(民間の郵便汽船三菱会社と国策会社の共同運輸会社の競合を経て日本郵船会社)などの整備が行われた。これらの資本活動には、職を失った代わりに秩禄を得た華族の資産による投資活動も背景にあった。 このような改革には積極的に西洋文明の先進制度が取り入れられ、その過程で、「お雇い外国人」と呼ばれる外国人が、技術指導、教育分野、官制・軍制整備など様々な分野で雇用され、近代国家建設を助けた。 宗教 宗教的には、祭政一致の古代に復す改革であったから、1867年(慶応3年)旧暦正月17日に制定された職制には神祇を七科の筆頭に置き、3月 (旧暦)には神仏分離令が布かれた。神仏分離令により、当時の復古的機運は仏教でさえも外来の宗教という点で廃仏毀釈として弾圧される時代であった。ただし、神仏分離令の主旨は仏教の排斥ではなく、江戸時代までの神仏習合による仏教と神道の混交から両者を分離することであった。また、キリスト教(耶蘇教)は、新政府によって引き続き厳禁された。キリスト教の指導者の総数140人は、萩(66人)、津和野(28人)、福山(20人)に分けて強制的に移住させた。 その後、明治2年(1869年)12月7日には、信者約3,000人を、金沢以下10藩に分散移住させた。しかし、明治4年(1871年)旧11月、岩倉具視特命全権大使一行が欧米各国を歴訪した折、耶蘇教禁止令が各国の非難を浴びて、条約改正の交渉上障碍になるとの報告により、明治5年(1872年)に大蔵大輔の職にあった井上馨は、長崎府庁在任時に関わった事から、明治5年正月に教徒赦免の建議をした。 神道国教化政策との絡みやキリスト教を解禁しても直ちに欧米が条約改正には応じないとする懐疑的な姿勢から来る、政府内の保守派の反対のみばかりでなく、宗教界や一般民衆からも『邪宗門』解禁に反対する声が強く紛糾したものの、明治6年(1873年)2月24日禁制の高札を除去し、その旨を各国に通告した。各藩に移住させられた教徒は帰村させ、ようやく終結した。 外交政策 新政府にとって、最大の目標は欧米列強に追いつくことであり、そのためにも旧幕府時代に締結された不平等条約の改正が急務とされた。上記の岩倉使節団は西欧諸制度の調査も目的であったが、条約改正のための下準備という面もあり、実際交渉も準備されたが、日本を近代国家と見なしていない欧米諸国からは相手にされず、まだ時期尚早であった。そのため、欧化政策など日本が西洋と対等たらんとする様々な政策が行われたが、条約改正自体は半世紀におよぶ不断の努力を必要とした(→条約改正)。 一方、不平等条約の失敗を鑑とした政府は、アジア諸国に対しては、平等以上の立場を確保することを旨とした。清との間には1871年対等条約である日清修好条規が締結される。1874年には台湾における宮古島民殺害事件をきっかけに台湾出兵が行われ、両国の間で台湾・沖縄の帰属が決定されることになった。 李氏朝鮮との間では国書受け入れを巡って紛争が起こり、1873年政府を二分する論争(いわゆる征韓論)となったが、1876年に起きた江華島事件を契機として日朝修好条規(江華島条約)を締結し、朝鮮を自主国として認め、開国させるに至る。 また、ロシア帝国との間では1875年に、千島樺太交換条約が締結され、それまで日露雑居地とされた樺太および千島列島における日露国境が確定した。 改革の影響など 明治維新の諸改革は、新たな制度で生じた矛盾をいくらか孕みながらも、おおむね成功を収め、短期間で立憲制度を達成し、富国強兵が推進された。その評価は日清戦争・日露戦争における勝利により飛躍的に高まり、諸外国からも感嘆・驚異の目で見られるようになった。特にアジア諸国では明治維新を模範として改革や独立運動を行おうとする動きが盛んになる。孫文も日本亡命時には『明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である』との言葉を犬養毅へ送っている『孫文選集(第三巻)』社会思想社、1989、 ISBN 4390602802 。ただし、その多くは明治維新が行政制度のみならず教育・産業・金融などを含めた総合的な改革であったという本質への理解には及ばず、形だけの改革や一部いいとこ取りの「上からの改革」に終始したため、成功に至った例は少ない。朝鮮における壬午事変・甲申政変や清の戊戌の変法の失敗、長続きしなかったイランのイラン立憲革命やロシア帝国のヴィッテ改革・ストルイピン改革などが典型である(朝鮮の改革運動については「金玉均」など、清の改革については「光緒帝」「黄遵憲」なども参照のこと)。一定の成功を収めた例としては、パラグアイのカルロス・アントニオ・ロペス大統領による改革、タイ王国のチャクリー改革、トルコのアタテュルク主義、エジプトのエジプト革命、メキシコのベニート・フアレス改革が挙げられる。 明治維新は欧米列強に抑圧されたアジア諸国にとって近代化革命の模範ともなったが、やがて日本自身が列強側の国家として、帝国主義的な領土・権益獲得の立場となったことから、かえって反発を呼ぶことにもなり、中国や朝鮮における反日運動の元ともなった。しかし、逆の見方をすれば、日本は明治維新によって列強と化した事により、アジア諸国では数少ない植民地にならなかった国となったのである。 一方、ほとんどのアジア諸国で挫折ないし不可能だった近代化革命が、なぜ日本においてのみ成功したのかについても近年研究が盛んとなっている。維新成功の背景として、その前段階たる江戸時代における日本人の労働生産性・教育水準・遵法意識の高さや、近世においてすでに近代的科学(合理)精神を受け入れる素地・教養が準備されていたことなども要因と考えられ、江戸時代の再評価のきっかけにもなっている。 脚注 関連項目 大政奉還 王政復古 (日本) 戊辰戦争 五箇条の御誓文 五榜の掲示 廃仏毀釈 華族 四民平等 明治六年政変 版籍奉還 廃藩置県 お雇い外国人 富国強兵 殖産興業 学制 地租改正 条約改正 新撰組 戸籍 東京奠都 太陽暦への改暦 脱亜入欧 保守革命 維新 昭和維新 外部リンク 明治維新と新政府 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月22日 (土) 19 37。
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登録日:2022/01/16 Sun 23 46 22 更新日:2024/04/30 Tue 17 48 37NEW! 所要時間:約 8 分で読めます ▽タグ一覧 Mythological Age -蘇りし魂- ジャッジ泣かせ デッキ 天変地異 永続魔法 調整中 遊戯王 遊戯王OCG 遊戯王デュエルモンスターズ 魔法 魔法カード 天変地異 永続魔法 このカードがフィールド上に存在する限り、お互いのプレイヤーはデッキを裏返しにしてデュエルを進行する。 「天変地異」とは遊戯王OCGの1枚。 初出はMythological Age -蘇りし魂-。 「互いのデッキを裏返した状態でデュエルを進行する」という非常に変わったルール介入型効果を持っている。 イラストには竜巻・噴火・大雨・地割れ・落雷・大火事と言う、文字通りの「天変地異」の様子が描かれている。 このカード単体で出来るのはそれだけだが、「デッキを裏返す」という事は即ち…… デッキの上下(所謂「デッキトップ」と「デッキボトム」)が逆転する。 互いのデッキの一番上のカードが何なのか見えている状態でゲームが進行する。またそれに付随する形で、互いの手札のカードがある程度分かる様になる。 という事であり、これらを生かすことが出来るカードにとっては「天変地異」の名のとおり、非常に強力なサポートカードになる。 まずデッキの一番上が見えるという事で、「デッキの一番上のカードを確認し、カードに応じて効果処理を行う効果」を持つカードと相性がいい。 本来裏向きで参照時にギャンブル性が絡むような状況でも天変地異を使えば100%確実な情報を持ってデッキの一番上のカードの参照が出来る。 ちなみに通常こういったカードを使う場合、「デッキの一番上のカードを確認する」という処理が行ったうえで次の処理に移るのだが、「天変地異」発動下ではデッキの一番上のカードが公開情報になっているため、その処理は省略される。 デーモンの宣告 永続魔法 (1):1ターンに1度、500LPを払い、 カード名を1つ宣言して発動できる。 自分のデッキの一番上のカードをめくり、 宣言したカードだった場合、そのカードを手札に加える。 違った場合、めくったカードを墓地へ送る。 最も有名なのはこの「デーモンの宣告」とのコンボだろう。 デッキの一番上が丸見えなので、毎ターン500ポイントのライフポイントを払って手札を1枚増やすことが出来る。 類似効果を持つ「リチュア・ディバイナー」と組み合わせて使うのが【天変地異コントロール】で、相手のデッキの一番を見つつ、デッキ構成やデッキの一番上のカードの情報から手札情報をある程度類推し、得た情報アドバンテージを持って相手の行動を牽制しながら動くというタイプの行動を取るコントロールデッキになる。 その他、「森羅」なども効果でデッキの一番上を確認した際にカードが植物族モンスターなら「デッキからめくられて墓地へ送られたカード」として扱われるため、安定性が上がる。 逆に相手のデッキの一番上を見る活用法もあり、相手のデッキの一番上のカードの種類を言い当てることで効果が使えるSPYRALでは確実に当てることが出来るため、こちらも相性がいい。 (ただし、ミラーマッチになると相手にまで効果を使わせてしまう事になるので注意。) そして、この点と非常に相性がいいのがコチラ。 墓守の罠 永続罠 (1):自分の墓地に「現世と冥界の逆転」が存在する限り、相手は墓地のカードの効果を発動できず、墓地のモンスターを特殊召喚できない。 (2):お互いのメインフェイズに、手札を1枚捨てて発動できる。 デッキから「墓守」モンスターまたは天使族・地属性モンスター1体を手札に加える。 (3):このカードが表側表示で存在する場合、相手ドローフェイズのドローの前に、カード名を1つ宣言して発動する。 通常のドローをしたカードを確認し、宣言したカードの場合、墓地へ送る。 これの3番目の効果。 ドローカードを予言できれば、引いたカードを即墓地へポイ捨てさせることができる。 つまり……「天変地異」とこの「墓守の罠」がある限り、相手は通常ドローができない。 墓地こそ増えてしまうものの、完璧かつ持続コストもないドローロックがたった2枚でできてしまう。 一度決まってしまえば、相手はこのギミックを突破するためのカードを手札に加える事すらできない。 あぁ、こんなの禁止になっちゃう……こともなく、まず、伏せた次のターンのドローは止められない上に、そもそも、インフレするにしまくったせいで1ターンか2ターンでゲーム終了するようになり、ドローロックしてるヒマがあったらその手間で相手を殺した方が手っ取り早い。 満足してる人達には効かないし。 続いて「デッキトップの情報から間接的に手札がある程度分かる様になる」点だが、これで恩恵を得られるカードと言えば…… マインドクラッシュ 通常罠 (1):カード名を1つ宣言して発動できる。 宣言したカードが相手の手札にある場合、相手は手札のそのカードを全て捨てる。 宣言したカードが相手の手札に無い場合、自分は手札をランダムに1枚選んで捨てる。 異次元の指名者 通常魔法 カード名を1つ宣言する。 相手の手札を確認し、宣言したカードが相手の手札に存在する場合、 そのカード1枚をゲームから除外する。 宣言したカードが相手の手札に存在しなかった場合、 自分の手札をランダムに1枚ゲームから除外する。 巻き戻しで有名な「マインドクラッシュ」、そして類似効果を持つ「異次元の指名者」が上がる。 これら2枚は相手の手札のカードを言い当てる必要があるため、予めピーピングなどの下準備をする必要があるが、デッキの一番上のカードは通常ドローフェイズのドローで手札に加わるので、加わったカードを宣言すれば100%当たるので能動的な発動が容易になる。 特に前者はドロー直後を襲撃すれば、擬似的な「はたき落とし」と化す上に、運がよければ同名カードも全て捨てさせることができる為、相性は特にいい。 その他では「デッキの一番上と一番下を入れ替える」効果を利用する手もある。 「デッキの一番下にカードを置く(戻す)」効果を持つカードの使用後、すぐにこのカードを使ってデッキを裏返せば戻したカードがデッキの一番上に来るため、間接的なデッキトップの操作ができる。 ゴブリンのやりくり上手 通常罠 自分の墓地に存在する「ゴブリンのやりくり上手」の枚数+1枚を 自分のデッキからドローし、自分の手札を1枚選択してデッキの一番下に戻す。 鎖龍蛇-スカルデット リンク・効果モンスター ◤ ▲ ◥ ◀ ▶ ◣ ▼ ◢ リンク4/地属性/ドラゴン族/攻2800 カード名が異なるモンスター2体以上 (1):このカードは、このカードのリンク素材としたモンスターの数によって以下の効果を得る。 ●2体以上:このカードのリンク先にモンスターが召喚・特殊召喚された場合に発動する。 そのモンスターの攻撃力・守備力は300アップする。 ●3体以上:1ターンに1度、自分メインフェイズに発動できる。 手札からモンスター1体を特殊召喚する。 ●4体:このカードがリンク召喚に成功した時に発動できる。 自分はデッキから4枚ドローし、その後手札を3枚選んで好きな順番でデッキの下に戻す。 これらのカードは手札のカードをデッキの一番下に戻す効果を持っているため、天変地異と併用すればデッキトップ操作として機能するようになる。 因みに上記とは逆に相手のデッキの一番上が操作された時に、このカードを発動もしくは破壊することでそれらのカードをデッキの一番下へと葬り去る事が出来る。 「デッキの一番下に戻す」はサーチするか、もしくはデッキシャッフルで最下部から移動させない限り、手札に加わるまでにかなりのタイムラグが生じるので単なるデッキバウンスよりも拘束力が高い。 上手く嵌められれば相手にとってかなり嫌な状況に持っていく事が出来る。 ただし上記の2つの使い方は発動時・破壊時にしか効果を使うタイミングがない為、どちらかと言えば副次的な恩恵になる点には注意。 ……さて、このカードだが、「デッキの上下を入れ替えてデュエルを進行する」という特殊な効果の関係上、処理において様々な問題が生じることがある。 例えば「天変地異」発動時、シャッフルを行う場合そのままの状態でシャッフルするとデッキの一番上がいつも相手に見えてしまう事になる為、デッキトップ自分の都合のいいカードになるまでシャッフルし続けることで都合のいいように変更できてしまう。かといって相手に任せればやはりデッキトップを相手に都合がいいように変更されてしまう。 そのため、このカードには特殊裁定として「デッキシャッフルの時のみデッキの上下を一度元に戻し、シャッフル終了後に再び裏返す。」という処理を行う必要がある。 もちろんこれは氷山の一角にすぎず、このカードにはプレイヤーやジャッジも頭を抱える様な問題がいくつもある。 ここではその一例を紹介していく。 例①:偶数枚の「天変地異」がフィールドに存在する場合、デッキは上下が通常と同じ状態になるのか? →これについてはフィールドに何枚あっても上下の入れ替わりは1枚分しか行われず、偶数枚あってもデッキの向きは上下が入れ替わった状態でデュエルを続行するようになっている。 ちなみにこれは枚数が減る場合でも同じでフィールドに「天変地異」が複数枚ある状態で破壊されても、1枚でも残っていれば上下は入れ替わらない。 例②:このカードの発動時、デッキの枚数はどのように数えるのか? →デッキのシャッフルを行うのと同様に、数える時にデッキのカードが相手に見えてしまうのと、自分がデッキを覗くのをのを防ぐため、のみデッキを一度裏に戻してデッキ枚数を数え、その後デッキの向きを元に戻す。 例③:デッキから2枚以上カードをドローする場合、いっぺんに全て手札に加えるのか、それとも1枚ずつ手札に加えるのか? →ドローするカードの内「一番上だけ」か「ドローするカード全て」のどちらの情報を確認できるのかで差が生じる。基本ルールとして遊戯王でのドローは複数枚の場合、1枚ずつ手札に加えるため、「天変地異」適用下でもこのルールにのっとって対応を行うため、この場合相手は「ドローするカード全て」を確認できる。 ただ似た処理でも「デッキを〇枚確認する」の場合は話が変わり、「お互いに確認する」と言う明記がない場合、基本的に相手は「デッキの一番上」だけしか確認できない。 ④:デッキの上から裏側表示で除外する場合、どのような処理になるのか? →「強欲で貪欲な壺」などでデッキの上からカードを裏側除外する場合だが、裏側除外は非公開情報になるので相手は本来除外されるカードを確認できない。 だが「天変地異」がある場合、デッキの上から除外されるカードは(裏向きかどうかに関わらず)当然公開情報になってしまうのが問題となる。 裁定としては「除外するカードを「見る」ことは出来るが「確認する」ことは出来ない」というものになっている。 より厳密にはカードの向きを表から裏に変える過程でカードの情報を「見る」のは可能だが、何のカードかを相手に「確認する」のは不可能となっている。 しかしここで更なる問題として「裏側除外するカードを相手が分かる様にゆっくりめくる必要があるか?」という問題が上がる。 除外する側からすれば相手に情報はなるべく開示したくないし、なるべくカードを相手に見せないようにしながら裏向きに変えて除外したくなる所だろうが、これに対する回答は…… 対戦相手の方と話し合うか、大会中の場合はジャッジの判断を確認して進める。(要約) ……となっている。 要するに「プレイする側次第」という事なので、実際にこの状況になった時には双方が納得できる形になる様に対応を行う必要がある。 その他にもこのカードの発動下では特殊な処理を行う必要があるカードもある。 他にもこのカードを使う事で予期せぬ問題が生じる可能性もある為、使用時には注意して使う必要がある。 【余談】 ゲームでこのカードが使われている時、一部のサーチカードが発動できなくなるバグがあった事がある。(例:『ワールドチャンピオンシップ2008』での「封印の黄金櫃」など。)他にもデッキをめくる処理でわざわざカードをめくって裏面を見せると言う完全に無駄なアクションを行う事もある。当然だが実際のデュエルではこういった処理は不要なので注意。 実は他TCG経験者、特に遊戯王以外のゲームを精力的にプレイする人が遊戯王のカードを評した時、「いい意味でおかしいと思うカード」としてよく名前があがる1枚。「デッキトップを見られるようにする」というカード自体は割とありふれているのだが、これを「デッキそのものをひっくり返す」という処理で表現するのが非常に珍しいのである。さらにデッキそのものをひっくり返すため、《天変地異》の効果がなくなった時にデッキトップが変化するというオマケまでついている。遊戯王プレイヤーの間ではジャッジ泣かせな調整中の宝庫なのかもしれないが、ところ変われば評価も変わるというわけだ。 追記・修正はこのカードを用いて天地がひっくり返る戦法や質問を考えながらお願いいたします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 新規とのコンボで妙な利用法が見つかったら投獄されそうな古参カードの一つ -- 名無しさん (2022-01-17 00 42 19) 天変千里眼のコンボ記事はあったのにこっちの記事なかったのか -- 名無しさん (2022-01-17 06 47 40) 初期のガバガバ時代だったからこそ産まれたカード。他所のTCGならジョークエキスパンション入りする様な効果だよなこれ… -- 名無しさん (2022-01-17 12 10 43) デッキトップを見れるという事はイメージ以上に大きい。デッキトップがダムドでも墓地闇三体じゃないから問題ないみたいな判断もできる。あと、他に相性いいカードとしてダイヤモンドガイとアカシックマジシャン、徴兵令などが存在。 -- 名無しさん (2022-01-17 18 59 19) テーマ自体で相性がいいのは森羅だろうな -- 名無しさん (2022-01-17 20 37 42) まずデッキの一番上が見えるという事で、「デッキの一番上のカードを確認し、カードに応じて効果処理を行う効果」を持つカードと相性がいい。→この例に挙げてもらえず話題にもされないグローモス… -- 名無しさん (2022-01-19 12 07 13) ↑相手にドローさせる癖にデメリットが2パターンあるからな…自分がドロー出来るティンクルモスでようやくワンチャン? -- 名無しさん (2022-01-19 18 02 19) 最後の「実は遊戯王に馴染みの薄いTCGプレイヤーには面白がられ好評だったりする」という意外な評、確かに言われてみりゃやたらゲーム中カードの扱いが風変わりになる追加ルールを付与するカードとかMTGの銀枠っぽいもんな……(あっちの銀枠は「自分の山札を4等分する。山札操作は4つのうち1つを選んで行う」「全プレイヤーは手札のカードをカードが加わる度任意の順に並べ替え、手札の中にあるカードのうち指定した順で現在一番にあるカードしか使えない」とか実在してるし) -- 名無しさん (2022-01-19 18 32 42) 面白い効果だけど実際は基本的に「お互いデッキトップのカードを常時表にするだけ」の効果で良かった件 -- 名無しさん (2022-01-20 00 17 15) ↑全く挙動が違うから良くないわ -- 名無しさん (2022-01-20 22 44 59) 事前のデッキ内のカード配置が変わる以外は同じだと思うが、どこが違うんだ? -- 名無しさん (2022-01-22 02 17 09) ↑その「事前のデッキ内のカード配置が変わる」のが重要なんだよ。デッキボトムに戻したカードを即トップに持ってこれるのは項目内にも書いてあるし、リサイクルとアレクトールで墓地の好きなカードをデッキトップにするコンボもある。↑3の効果だとみんなできなくなってしまう。 -- 名無しさん (2022-01-22 02 56 52) その程度の違いの為に大量に例外ルール作られてもな -- 名無しさん (2022-01-25 00 10 47) なにいってんだこいつ… -- 名無しさん (2022-01-25 00 44 19) このカード出たの相当昔だからそんな難しいこと考えずにノリで決めてたと思う。幸運にも今まであんまり使われなてこなかっただけで… -- 名無しさん (2022-02-11 17 09 43) 名前 コメント
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毎日新聞社「決定版昭和史 別巻1 日本植民地史」1985 p198 台湾統治五十年の歴史 衛藤俊彦 台湾統治五十年の歴史統治の理念 皇民化運動 歴代総督の事績●第一代 樺山資紀 (水野遵(じゅん)) ●第二代 桂太郎 (水野遵) ●第三代 乃木希典(まれすけ) (曽根静夫) ●第四代 児玉源太郎 (後藤新平) ●第五代 佐久間左馬太 (祝辰巳(いわいたつみ)) ●第六代 安東貞美(あんどうさだよし) (内田嘉吉(かきち)) ●第七代 明石元二郎 (下村宏) ●第八代 田健治郎(でんけんじろう) (賀来佐賀太郎(かくさがたろう)) ●第九代 内田嘉吉 (賀来佐賀太郎) ●第十代 伊沢多喜男 (後藤文夫) ●第十一代 上山満之進 (後藤文夫) ●第十二代 川村竹治 (河原田稼吉(かきち)) ●第十三代 石塚英蔵 (人見次郎) ●第十四代 太田政弘 (高橋守雄、木下信) ●第十五代 南弘 (平塚広義) ●第十六代 中川健蔵 (平塚広義) ●第十七代 小林纃造(さいぞう)(森岡二朗) ●第十八代 長谷川清 (斎藤樹(いつき)) ●第十九代 安藤利吉 (成田一郎) "南支南洋"への志 台湾銀行の果たした役割 台湾が誇る中央研究所 統治の理念 明治以来、日本が台湾に係わりを持ったのは、明治六、七年の征台の役からであり、わが沖縄県の漁民が台湾の海岸に漂着したのを原住民から殺害 れたという理由で、西郷従(つぐ)道を総帥とするわが陸・海軍の部隊が討伐に向かった。その時、この部隊にいた佐久間左馬太中尉(後の台湾総督)が、台南州石門の断崖絶壁を抜刀してよじ登って原住民集落に攻め入った話は「佐久間抜刀隊」として永く物語として残っている。 次が明治二十七、八年のいわゆる日清戦争で、その結果、日本が下関条約 により清国から割譲を受け、日本の台湾支配、台湾統治が始まる。北白川宮能久親王(よしひさしんのう)(後に台湾神社の守護神として祀られた)の苦心のことなどは多く語られているところである。樺山資紀(かばやますけのり)海軍大将を初代総督とする台湾総督府の成立、その統治の跡をたどってみよう。 一部でいわれた「北守南進論」は武張った語感を与えるが、台湾の為政者たちが考えていたのはもっと経済的、文化的なものであった。 樺山が台湾総督に就任したのは明治二十八年五月十日だが、台湾の始政記念日は六月十七日となっており、台湾神社創建の十月二十八日も祭日と定められたので、両日とも在住の日本人にとっては忘れることのできない日である。さて、その後、台湾の統治がいかにして形を整えてきたかは、歴代総督の行跡とも関違があるので、ここでは歴代総督の主なる施策を列挙してみよう。ただ、ここで特記しておきたいことは、台湾統治の根本精神は明治天皇のお考えであると伝えられる「一視同仁(いつしどうじん)」である。それが時代の状況に応じて恩威並行(おんいへいこう)主義になったり、さらに戦争中においては「内台融和(ないたいゆうわ)」の名の下に内台人の共婚が奨励されたり、台湾人家庭の祖先の廟を取り除かされたり、改姓名(台湾の姓を内地風に改める)が強要されたりした。これらはもう戦争も末期の、日本人全体が興奮気味の時であったから、これをもって日本の統治全体の精神と解することはできない。ただ、台湾の人びとの中にはこれをもって汚辱と感じ、暗い汚辱の時代と感じている人も少なくないことを否めない。 皇民化運動 ここにおいて、昭和十二年ころから台湾島内に台頭して来た皇民化運動について述べておく必要があろう。これは前述の一視同仁政策が逆手にとられて進められて行ったようなもので、真に皮肉な推移であった。台湾統治はその初期において武官総督、中期においては文官総督であったが、初期の武官総督の時代には、例えば児玉総督における後藤新平長官の如く、有能な長官がいて、総督も民政に関しては之に任せきりのような形で、多くの治績があげられてきた。 ところが昭和十二年の小林総督に始まる後期の武官総督の時代に入ると、日本全体、つまり中央政府・軍部の風潮の影響も多分にあって、初期のそれとはいささか趣を異にしてきた。それでも、十七代小林、十八代長谷川は共に海軍出身であったが、一応「予備役」の海軍大将であった。これは現役軍人では台湾島内の人心に与える影響もよくあるまいとみた中央政府、海軍の思慮によるものであった。十九代に安藤が現役の陸軍大将として総督の地位についた。以上の推移に併行して、台湾人の皇民化違動は急速に進められ、昭和十五年には改姓名、寺廟の撤去、原地語の使用禁止など、台湾の人びとの快しとしない政策が次つぎに強行され、十七年には陸軍志願兵、特別志願兵の制が敷かれ、十九年九月二十四日には徴兵令が施行され、遂に行き着く所まで行き着いたのである。もっとも、これに先立って、例えば「魁隊」といったような軍国日本の先物買にでた台湾人も、ごく少数ではあったがあるにはあった。これとても、彼らの内心はどんなものであっただろうか。それは測り知ることはできない。 十五年、長谷川総督の時代に結成の運びとなった皇民奉公会は、同じ年に内地で結成された大政翼賛会(第二次近衛内閣)と同類のものであったが、総督が総裁となり、中央本部長が長官、その他の理事、参事は官・民から簡抜(かんばつ)され、総督府の行政組織がそのまま援用された部分も少なくなかった。もちろん、これは地方にも及んだのである。大部分が台湾の人びとを対象としたものであるだけに、問題は複雑であった。 台湾人に対する皇民化運動の進展につれて、総督府の施策としては、これ と併行して「公民権」の付与拡大に可能な隈りの努力をした。勅選貴族院議員なども、そうした雰囲気の中から生まれたのである。 以上のように軍靴の音のけたたましい中で、終戦と同時に台湾総督府は終焉を告げた。終戦直後の善後措置については、当時鉱工局長で一切の処理にあたった森田俊介の『内台五十年』(昭和五十四年刊行)に詳しく書かれている。森田は引揚げ後は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣で幣原が引揚援護庁の総裁を兼務していた時に、その官房長を務めた人であるから、当時の台湾及び中央との諸々の措置については最も詳しい人である。 ただここで、台湾にいた日本人の最も心を痛めている問題は台湾人元日本軍人、軍属の補償問題で、終戦後四十年を経過した今日でもなお解決していないのは、日本民族の台湾統治における大きな忘れものであろう。 歴代総督の事績 ( )内は長官名 ●第一代 樺山資紀 (水野遵(じゅん)) 明治28年5月10日~同29年6月2日、鹿児島県出身。施政方針愛育、撫育、一視同仁、恩威並行、台湾総督府仮条例・同条例(軍政)、同民政の順次制定、武力平定、租税減免の諭告(ゆよく)、地方官官制の制定、委任立法制度の確立、明治二十九年三月三十日法律第六十三号をもって台湾に施行すべき法令に関する件を公布し四月一目より施行した――律令、台湾総督府評議会の創始、司法制度の確立、地方法院・覆審(ふくしん)法院・高等法院の三級審制、警察制度、理蕃政策、医院の設置、阿片制度の創定、教育制度、芝山巌学堂(しざんがんがくどう)で国語伝習開始、郵便電信制度の施行、定期命令航路開始、度量衡改正、財政金融制度、旧税制の改正、大阪中立銀行進出。 ●第二代 桂太郎 (水野遵) 明治29年6月2日~同29年10月14日、山口県出身。台湾総督府臨時法院条令公布施行、政治犯は臨時法院、台湾地租規則公布施行、旧慣により徴収。 ●第三代 乃木希典(まれすけ) (曽根静夫) 明治29年10月14日5同31年2月26日、山口県出身。台湾総督府特別会計の創設、三段警備法の採用、一等地として山間は憲兵・軍隊、二等地として中間は憲兵・警察、三等地としては村落・都邑は警察、護郷兵の養成、台湾阿片令の公布施行、漸禁(ざんきん)制度の断行と阿片専売実施、台湾総督府官制公布施行(これにより総督府は陸海軍の大将または中将より親任されることとなった)、新高山命名。 ●第四代 児玉源太郎 (後藤新平) 明治31年2月26日~同39年4月11日、山口県出身。警察官・司獄官養成機関の設置、高等法院を廃止し覆審法院および地方法院の二級審制となす。保甲制度の実施、土地水利事業の遂行、地籍の調査、大小租権の整理、基隆(キールン)および高雄の築港工事起工、道路鉄道の建設、府立病院十個所設置、総督府医学校の設立、台湾銀行創立、財政二十年計画と財政の独立、予定より早く三十八年度に財政は独立した。罹災救助基金規則の公布施行、祭祀公業の設定、纏足(てんそく)の廃止、糖業政策の確立、台湾神社の創建、阿片政策の確立、漸禁主義の下に特許制度実施、衛生施設、専売制度の施行(阿片、樟脳、塩、煙草)、匪徒の鎮定と理蕃事業、戸口調査(わが国国勢調査の先駆をなす)。 ●第五代 佐久間左馬太 (祝辰巳(いわいたつみ)) 明治39年4月11日~大正5年5月1日、宮城(原籍山口)県出身。理蕃事業五カ年およびその前後、農会の設立、内地人農業移民事業の開始、台北市など主な市街地水道の設置、縦貫鉄道全通、博物館の開設、中央研究所設置、化学部、衛生学部、阿里山の森林伐採および跡地造林事業の開始、図書館の設立、松山寮養所設置(肺結核) ●第六代 安東貞美(あんどうさだよし) (内田嘉吉(かきち)) 大正5年5月1日~同7年6月6日、長野県出身。同匪事件の解決、西来庵(さいらいあん)事件、新庄事件を最後として全く解決、台湾勧業共進会の開催、宗教調査、南支に対する施設、宜蘭(ぎらん)線と屏東(へいとう) 線の工事起工、商品陳列館の開設、厦門(アモイ)博愛会医院の開設、第一回対岸領事会議開催。 ●第七代 明石元二郎 (下村宏) 大正7年6月6日~同8年10月24日、福岡県出身。台湾電力株式会杜の創立と日月潭(にちげつたん)水力電気事業計画、台湾教育令公布施行、地方法院・覆審法院・高等法院の三級審制を復活、華南銀行の設立、台北高等商業学校設立、広東、福州博愛会医院設立、南洋倉庫株式会社設立、縦貫鉄道中部海岸線開通。 ●第八代 田健治郎(でんけんじろう) (賀来佐賀太郎(かくさがたろう)) 大正8年10月29日~同12年9月2日、兵庫県出身。施政方針一視同仁、同化政策、共学制の実施、嘉南大〓(たいしゅう)工事起工、地方自治制度の確立、第一回国勢調査の実施、共婚制(戸籍令の制度を待たずに不完全な手続で認めた)、笞刑の廃止、中央研究所に既設の各種試験所を統合、高等学校設立(尋常科四年、高等科三年)、民事法令の施行とその制例、酒専売の実施、業佃会(ぎょうでんかい)の設立(地主小作人の協調団体)、皇太子殿下の台湾行啓。 ※〓=「土」ヘンに「川」 ●第九代 内田嘉吉 (賀来佐賀太郎) 大正12年9月6日~同13年9月1日、東京都出身。鉄道の建設改良、メートル法の公布施行、自由港設置の調査。 ●第十代 伊沢多喜男 (後藤文夫) 大正13年9月1日~同15年7月16日、長野県出身。行政並びに財政の整理実施、台湾美術展覧会開催、台湾青果株式会社の設立、蓬來米(ほうらいまい)の奨励、東部鉄道全通。 ●第十一代 上山満之進 (後藤文夫) 大正15年7月16日~昭和3年6月16日、山口県出身。台湾銀行の救済、台北帝大の設立開学、建功(たけいさお)神杜の創建。 ●第十二代 川村竹治 (河原田稼吉(かきち)) 昭和3年6月16日~同4年7月30日、秋田県出身。桃園大〓(たいしゅう)の新設 宜蘭濁水渓の治水工事起工。 ●第十三代 石塚英蔵 (人見次郎) 昭和4年7月30日~同6年1月16日、福島県出身。嘉南大〓(たいしゅう)工事の完成、霧杜事件、軍警分離計画、議会解散予算不成立、癩病院(楽生院)の設立、台南高等工業学校設立。 ●第十四代 太田政弘 (高橋守雄、木下信) 昭和6年1月16日~同7年3月2日、山形県出身。台北放送局設置、蘇澳花蓮港(すおうかれんこう)間道路改修事業完成、花蓮港築港工事起工、新理蕃政策の決定、大台北市区計画決定。 ●第十五代 南弘 (平塚広義) 昭和7年3月2日~同7年5月27日、富山県出身。糖業試験場の設置。 ●第十六代 中川健蔵 (平塚広義) 昭和7年5月27日~同11年9月2日、新潟県出身。共婚法の実施、日月潭水力発電工事の完成 地方自治制度の改正、国租地方税の根本的税制整理調査完了、台湾地租規則公布施行、台湾始政四十年記念博覧会、内台定期航空輸送の開始、台北飛行場の建設、台湾拓殖株式会社法公布施行。 ●第十七代 小林纃造(さいぞう)(森岡二朗) 昭和11年9月2日~同15年11月27日、広島県出身。台湾拓殖株式会社設立、台湾商工会議所令公布施行、内台時差撤廃、新高港築港工事開始(十九年八月中止)、基隆ドツク建造、改姓名の奨励、義務教育を十八年度施行決定、国立公園の指定(大屯、次高太魯閣(つぎたかたろこ)、新高阿里山の三カ所)、熱帯医学研究所設立、農業試験場設立、新竹州台中州震災。 ●第十八代 長谷川清 (斎藤樹(いつき)) 昭和15年11月27日~同19年12月30日、福井県出身。皇民奉公会の結成、小学校、公学校の区別を廃して国民学校とする。台北帝大に予科を設置・工学部を新設・理農学部を理学部と農学部とする。台湾経済審議会を設置、大甲渓(だいこうけい)発電所の建設推進、産業金庫の新設。長谷川は庶民的で開放的な性格であったから人に接するのに分け隔てがなく内台人から親しまれた。 ●第十九代 安藤利吉 (成田一郎) 昭和19年12月30日~同20年10月25日、宮城県出身。徴兵検査の実施および徴集、台湾護国勤労団令の公布施行、皇民奉公会、国民義勇隊の結成、終戦処理および日本人引き揚げの完遂。 軍部は大きな力、発言権を持っていた。歴代軍司令官の名をあげると、中央軍部においても如何に台湾を重視していたかがわかる。 一代=明石元二郎、二代=柴五郎、三代=福田雅太郎、四代=鈴木壮六、五代=菅野尚一、六代=田中国重、七代=菱刈隆、八代=渡辺錠太郎、九代=真崎甚三郎、十代=阿部信行、十一代=松井石根、十二代=寺内寿一、十三代=柳川平助、十四代=畑俊六、十五代=古荘幹郎(ふるしょうもとお)、十六代=児玉友雄、十七代=牛島実常、十八代=本間雅晴、十九代=安藤利吉。 これらの名前を眺めただけで、五・一五や二・二六など、わが国の歴史を変えた事件の周辺に点在する人の名前を想起するであろう。 "南支南洋"への志 考えてみれば台湾にもいろいろな時代があった。一六二四年にはオランダが南台湾を占領していた。日本人浜田弥兵衛が活躍した時代もあった。一六五八年には目本人の田川氏を母とする明朝の遺臣鄭成功が台湾に入ってこれを占領した。成功は台南に入ってその翌年には病で死んだが、その遺子たちが数十年にわたって台湾を治めている。台南に今も残るゼーランジャ城などは、この時代を思い起こさせてくれる。台湾北部もスペインにうかがわれたこともあり、フランスも志があった。基隆海岸のクルベー浜などはクルベー提督の名から取ったもので意味のあるものである。それかあらぬか台湾の山地を歩いてキリスト教の立派な教会が建てられていることなど、ちょっと意外な感を催すものである。 台湾銀行の果たした役割 さて、いよいよ華南南洋に対する経済政策、経済発展の模様であるが、これにはまず台湾銀行の存在が大きな役割を演じたことをあげなければならない。台湾銀行は明治三十二年六月十二日免許、同年八月四日登記、九月二十六同に営業を開始している。紙幣の発行権を持つ特殊銀行で、南支南洋のみならず広く欧米各地にも支店を持つ、わが国有数の為替銀行であった。 歴代頭取は添田寿一(そえだじゅいち)、柳生一義、桜井鉄太郎、中川小十郎、森広蔵、島田茂、保田次郎、水津(すいつ)弥吉、上山英三の九代で終わっているが、その間、第一次大戦の好況時代には時の中国政府に供与したいわゆる「台銀借款」、さらには鈴木商店の没落に起因する在外店の閉鎖事件、ただしこの時、島内店は上山満之進総督が総督の権限を行使して断固として閉鎖させず、そのために島内の治安はいささかも動揺することがなかったという思い出話もある。 台湾には台銀のほかに三つの銀行があり、台湾商工銀行、台湾貯蓄銀行、彰化銀行などがあったが、これらは終戦後地歩を築き、台銀系は株式会社日貿信、三行系が協和商工信用株式会社となり、それぞれ台湾時代とは別の法人として活躍している。 さらに台銀が華南南洋方面において果たした役割も大きい。台銀の別動隊として発足した華南銀行には、台銀から名倉喜作、有田勉三郎、竹藤峰治の諸氏が入っているが、総理は林本源(りんほんげん)の林熊徴(りんゆうちょう)であった。また華南南洋の各地で動脈的な役割を果たすべく、大正九年に資本金五〇〇万円で設立された南洋倉庫株式会社には、社長に台中霧峰(たいちゅうむほう)の名望家で、各方面からの尊敬を受けていた林献堂(りんけんどう)が就任している。 台湾が誇る中央研究所 日清講和談判の時の清国全権の李鴻章が、台湾は毒蛇とマラリアと蕃害(はんがい)の巣窟で、そこに住んでいる人間は「化外の民」であるといった話は有名であるが、高地系住民対策については恩威並行(おんいへいこう)、撫育(ぶいく)政策で、これを平地並みのレベルにもってくることに歴代の理蕃当局者は懸命の努力をした。 マラリア、ペストなどの防圧は総督府政治の重要な大眼目であった。そのため総督府は内地から優秀な医学者、医官を招聘して、多くの予算も投入してその早期の完成を目指した。その点、明治三十一年から三十八年までかなり長い間長官を務めた後藤新平は自らも医者であり、内務省の衛生局長をも務めた人物であったから、視野広く人材を集めることができた。台北帝大最後の医学部長で小田内科で有名な小田俊郎著『台湾医学五十年』は好個の資料である。筆者の接したこの時代の医学者としては台北医専教授で横川吸虫(きゅうちゅう)で世界的に有名な寄生虫学者の横川定、当時はまだ中央研究所におられ、後に台北帝大教授になられた森下薫、富士貞吉、毒蛇研究の山口謹爾(きんじ)らがある。 中央研究所は、日本時代の台湾が誇り得る大きな存在である。これは後藤新平の構想に基づくもので、実際に設立されたのは、後藤が満鉄総裁となるため台湾を離任した後にできたものである。 (元台湾日日新報論説委員) 台湾の歴史・日台関係史
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