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トップページ>中国>中国学研究 『中国学研究』50、2009.12 語学 남철진「中国観光公報物『黄山精華』に見える韓国語翻訳の問題点考察」 박정원「中国語教育のための中韓統合字幕著作道具、政策方法論研究」 박애양「談話表示「那」の特徴研究:中国ドラマ「梦里花开」を中心に」 신아사「『老乞大』諺解本中の中古入声字韻尾「ㅸ」について」 吕貞男「認知意味学的観点における慣用語研究」(中) 왕례량「韓国語使動表現と中国語との対照研究」 宇仁浩「映像資料の教材化についての研究」(中) 원종민「インドネシア語の飲食関連中国語借用語に関する研究」 劉洁「中韓の感覚表現に関する言語的比較」(中) 李浚植・姜勇仲「意思疎通機能引上のための基礎中国語教授モデルの開発」 李英月「訓民正音についての中国韻書の影響関係研究:三大語文政策を中心に」 임경희「仏経の漢訳過程と漢訳仏経の中国語における影響」 崔宰荣「「有」の品詞資質考察:同等比較文「NP1+NP2+(这么/那么)+W」文型における「有」の品詞資質を中心に」 文学 고진아「「離騒」の巫俗叙事的特徴」 金鮮「現代中国女性葉嘉瑩の苦難と詩詞創作」 김용운「1949-1976年中国詩と政治の関係」 金元中「多民族文学史観の可能性問題に関する検討」 朴南用・任惠淳「日帝時期中国現代戯曲の国内翻訳とその特徴研究」 朴在淵「翻訳古小説活用を通じた辞典編纂研究:『우리말古語大辞典』編纂を中心に」 배 다니엘「中文学科英文学古典詩歌に表れた愛情描写様相比較」 서은숙「韓国読者の中国文学翻訳物についての認識と評価研究:2008年度出刊中国小説翻訳物を中心に」 宋倫美「娑羅那夢・楊林夢・調信夢故事の叙事構造考察:プロップ(V.Propp)の31個順次的機能と対比して」 안희진「蘇軾詩論の「平淡」を論じる」 呉淳邦「19世紀アメリカ宣教師ウィリアム・マーティン(William Martin)のキリスト教寓言小説『喩道伝』研究」 柳鳳九「中国現代作品の「城」イメージ研究:憂患意識を中心に」 조미원「雅会を想像する:『紅楼夢』の中の大観園共同体小考」 조혜영「梁暁声論:理想主義、英雄主義、道徳主義の考察を中心に」 최형섭「清代筆記と文人、そして知識の性格」 政治学 전병곤「中国の世界金融危機認識と対北政策:持続と変化」 経済学 金東河「中国の緑色GDP登場と公務員試験に対する影響」 史学 柳智元・金泳信「「湯山事件」後の政局と蒋介石の対応」 文化学 金順姫「中国宮中百戯の分化コンテンツへの展望」 朴美愛「中国華北地域民間故事の叙事類型に関する研究:未来予知型故事を中心に」 安栄銀「90年代文化現象「阿姐鼓」の考察」 李哲源「近代中国文化変動の原因と社会構造の対応」 李忠敏「中国映画政策の変化による韓国映画の対応方案研究」 『中国学研究』49、2009.9 박재승「「不比」文型に関する人地学的研究」 송미령「中国語修辞法分類」 정현주・이상미「認知負荷理論を適用した初級中国語作文教材設計方略研究」 두문하・임소영「「V+P+NP」構文の研究」(中) 장기「中国大学校中国語会話授業に関する教育設計」 황신애「『呂氏春秋』『史記』『世説新語』を通じて見た中国語「与える」語彙の意味研究」 서정희「『西遊記』の妖怪研究:『西遊記』妖怪の存在論的本質と特性を中心に」 유세종「魯迅『狂人日記』「絶叫」解釈の問題:遠近法と視覚を中心に」 政治学 김진환「中国政党の発生及び発展」 박종우「両岸政治実態の歴史と主権についての認識の差と統一政策」 이기현「中国民主主義の発展の制約:当局の私営企業統制と赤い資本家」 文化学 손양「朱熹と李混の「理発」に内包される意味」 김용표「中国少数民族の葬法と生死観に及ぼした自然環境の影響についての研究:シルクロードとティーロードの宗教文化移動経路を中心に」 문미진「中国と韓国の漢字表記国名についての考察」 민혜란「傘頭秧歌の地理的、歴史的背景及びその残存文化」 이경아・안종석「中国韓国投資企業駐在員の分化適応:青島地域を中心に」 法学 유예리「国際法の国内適用に関する中国法体系」 『中国学研究』48、2009.6 語学 呂貞男「中韓の「食べる」慣用句の認知学的分析」(中) 文学 兪聖濬「初唐虞世南詩の唐詩史上の地位」 이영구・박민호「ファルス(Phallus)の移動と欲望の記号政治学:蘇童「妻妾成群」と映画『大紅』に関するひとつの独法」 배 다니엘「南朝隠逸詩に表れた文人心理」 崔亨禄「中国古典詩歌に表れる水と思維の相関性研究」 政治学 김도희「中国の社会的資源:社会ネットワークを通じた考察」 経済学 崔義炫「中国先端技術製品の輸出競争力比較分析」 『中国学研究』47、2009.3 語学 박흥수「漢字に反映された人生旅程:出生、結婚、子女教育と死」 金珍我・朴正元・趙娟廷「ハイパーメディア(Hypermedia)と中国語教育:テキスト構成とコンテンツ製作、活用事例を中心に」 鄭莲実・張恩荣「中国語学習者の為の部首字中心漢字教育:第7次改正教育課程外国語と教育課程(Ⅱ) 中国語基本語彙表を対象に」 文学 柳己洙「『皇華集』の刊行と収録された明詞に関する考察」 金龍云「リアリズムから見た「知識人創作」と「民間立場」論争」 政治 李煕玉「中国民族主義発展のイデオロギー的含意:1990年代以後を中心に」 이문기「中国知識人と国家関係の変遷:体制守護勢力なのか、市民社会推動勢力なのか?」 経済学 임반석「中国社会政体仮説についての検討:ニーダム・パズル(Needham"s puzzles)に対する論争を中心に」 백권호・장수현「中国企業文化の特性と経営現地化:情・理・法パラダイムと「関係」の批判的再考察」 최병헌「レノボ(Lenovo)の社会的責任活動と利害関係者モデル分析」 정환우「世界化と追撃戦略:自動車産業を通じて見た中国(新)産業通商政策の成果と限界」 文化学 우준호「朋友有信の意味についての研究」 장범성「中国春節の辟邪文化探求:呪術的行為と言語禁忌を中心に」 宋景愛「明清時期揚州青棲文化研究:揚州痩馬を中心に」 姜秀姃「発展と変化、トーク・プログラムと中国放送」 史学 金泳信「全国経済委員会籌備処の成立背景と初期構想」 『中国学研究』46、2008.12 語学 임영택「『斉民要述』「著」小考」 崔宰荣・林弥娜「韓・中被動文対照研究(Ⅱ):『국화꽃 향기』『아홉 살 인생』の被動文を中心に」 宋和研「唐代中国語の新しい表現法と中国語標準化についての考察」 張琦「韓中文学翻訳における敬語翻訳の考察」(中) 文学 金容杓「ジェームズ・ヒルトン(James Hilton))の『シャングリラ』に投影された楽園を目指したノスタルジア:陶淵明「武陵桃園」との比較分析を通じて」 徐貞姫「『西遊記』の緊箍児研究:欲望の発散と節制の二重奏」 池世樺「中国の「華文文学」についての研究動向と認識態度の考察:華文文学研究成果の検討を中心に」 経済 구기보「中国投資銀行法の発展モデルと成長要因」 法学 강효백「WTO協定による中国環境法制の現況と問題点」 哲学 朴正根「『禅宗無門関』研究:公案と「実際」の意味」 임헌규「儒家の人間関係論:老年学についての東洋哲学的接序説」 史学 金栄煥「魏晋南北朝時期匈奴族独孤部研究:独孤部の宗族と活動地域を中心に」 金相范「東南アジア華人歴史学者王賡武の中国学研究」 文化 林大根「映画「色/戒」の文化政治学」 김정은「韓中修交以後の韓国映画のなかに再現された中国人ディアスポラ研究」 안영은・이정인「中国ポップアートの生成と発展:「政治的ポップアート(Political Pop)」を中心に」 『中国学研究』45、2008.9 語学 徐元南「『説文解字注』に引用された『史記』研究:今本『史記』との比較を中心に」 李荣奎「現代漢語形態論小考」 朴愛陽「韓・中賞賛話行の文化対照分析:儀礼性賞賛を中心に」 鄭蓮実「中国初等学校『語文』(人教版1・2学年の漢字教育)」 유재원・김윤정「韓国人中国語学習者の可能及び能力表示構文習得研究」 文学 문승용「「文賦」に表れた意・物・文の相関関係の考察」 尹銀雪「改編劇『十五貫』の成功原因分析」 金龍云「大躍進時期少数民族詩の特徴」 政治 이계희「中国の政治発展の選挙制度改革:差額選挙制度化を中心に」 곽덕환「中国の社会主義民主政治」 李煕玉「チベット自治問題の持続と変化:3・14事件分析のための試論」 李東律「東北亜多者安保協力のついての中国の認識と戦略」 経済 鄭煥禹「中国の産業通商政策の変化:変化の原因と意味」 박상수「中国の私営企業研究:経済的位相と課題:地域別企業現況及び創業パターンを中心に」 최병헌「中国内企業の社会的責任(CSR)の類型と影響に関する研究:トヨタ、フォルクスワーゲン、GMのCSR活動事例を中心に」 이은영「中国国有企業の配当と投資及び企業支配構造の相互関係」 오승렬「中国反独占法の施行が「市場性格」に及ぼす影響:景気下降期の波及効果を中心に」 박승찬「中国専門人力求人難の実体研究:中国現地投資企業アンケート調査内容を中心に」 法学 趙東済・陳志「中国反独占入法の焦点問題についての評価と分析」 人類学 양한순「中国式新自由主義と差別化された共同体成員圏:成功した郷進企業華西村の事例を中心に」 社会学 이경아「中国進出韓国企業の労働者価値観と文化的適応」 文化 柳己洙「中国と韓国の長寿アイコン{Icon}に関する小考」 史学 宋京愛「明清時期士と商の身分移動様相の考察」 哲学 황갑연「中国と韓国社会における非合理的な君臣倫理の出現と儒家哲学の役割」 『中国学研究』44、2008.6 語学 鄭潤哲「中国語の「憤・怒」の意味形態素についての比較分析」 翟英華「複合方向補語の派生用法認識」(中) 鄭明淑「感嘆文文尾に使用された「啊」字の品詞性問題」 孟柱億・権英實「韓国人学習者の中国語破裂音についての知覚様相研究:「b、d、g」を中心に」 呂貞男「中韓慣用句の比較研究」(中) 文学 石暁楓「1990年代台湾郷土小説の変化:袁哲生・童偉格を中心に」(中) 呉敏「小説から映画へ:韓・台現代化過程の中の小人物の叙述」(中) 経済学 金鍾賢「市場経済体制転換期の中の郷鎮政府の位相のジレンマ」 社会学 鄭鍾昊「「温州モデル」から「新温州モデル」へ:北京浙江村の事例を中心に」 文化学 元鐘敏「朝鮮に漂流した中国人の類型とその社会的影響」 哲学 김성동「道家哲学の対案的認識:モダニズムの対案としての『道徳経』の聖人指導」 『中国学研究』43、2008.3 語学 元鎬永「「雩、無/」を通じて見た殷商時代の希雨祭と踊り」 金恩希「『等韻図経』『音泭』普通話の音韻体系比較」 김윤정「現代中国語受動字中心性形態範疇研究:結果補語の再照明」 朴宰承「「不比」比較文の文型の意味と和用的機能に関する研究」 朴愛陽「中国語賞賛和行研究考察」 郭沂濱「グライス理論(Gricean Theory)における会話の含意と中国語聞き取り教授法への応用」(中) 李相度「中等教育課程中国語基本語彙選定試論」 文学 任元彬「『松陵集』の中の皮日休詩歌研究」 南徳鉉「猿中道文学論の性格考察」 安栄銀「前期非非主義の「反文化」傾向探索」 朴貞姫「「贫嘴张大民的幸福生活」を通じて見た北京の庶民文化」 金炅南「世俗欲望のいくつかの主題類型:劉恒の「白渦」、何頓の「生活無罪」、邱華棟の「生活之悪」朱文の「我愛美元」を中心に」 経済学 안병국「WTO加入以後中国と国際株式市場間の情報転移効果及び非干渉化要因分析」 朴壮載「中国企業所得税法改正を通じて見た外資誘致政策の変化」 조영정「韓国と中国間の水平的・垂直的産業内貿易研究:新しい測定方法の模索を中心に」 구기보・홍정륜「東アジア自由貿易協定(EAFTA)モデル研究:韓・中・日を中心に」 社会学 이중희「中国都市の消費革命:消費構造の変化を中心に」 文化学 柳己洙「閔泳翊と海上画派の交友関係考察」 강내영「中国の抗韓流現象研究:ドラマと映画を中心に」 哲学 姜真碩「中国式社会主義が帯びた伝統哲学的脈絡についての考察」 『中国学研究』42、2007.12 語学 鄭莲実「中国の漢字教育方法考察」 李鐘九「元明音と現代北京音との継承関係」 李英月「訓民正音初声体系再解釈」 柳在元「『官話指南』の中国語ハングル標音に関する考察:声母を中心に」 孟柱儀「老乞大諺解諸版本に反映された統辞規則難点の類型」 김진아「韓流文化が韓・中通翻訳に及ぼした影響と対策」 甘瑞瑗「初級中国語教育における教育三部作」(中) 趙恩梃「粤方言色彩語彙に表れた広東人の色彩観念」 文学 金世焕「『千字文』の由来と大意の考察」 林春英「永州時期柳宗元散文の楚文化」 池世樺「渤海「貞孝公主墓誌」の芸術性考察:文体的特性を中心に」 徐貞姫「『西遊記』妖怪の来源と法力研究」 鄭元祉「晩明祁彪佳の『祁忠敏公日記』に表れた戯曲公演活動とそれに対する戯曲史的評価」 政治学 이동률「中国の辺疆及び少数民族政策の東北地域含意」 政治学 백권호「中国奇瑞(Chery)自動車の国際化事例」 歴史学 金泳信「訓政時期道路建設事業上の諸問題」 社会学 金潤泰「在中国韓商の現地社会組織構築に関する研究」 『中国学研究』41、2007.9 語学 洪映煕「居延漢簡の異写字と異構字」 李荣奎「広州方言の語根形態素と漢語方言」 崔宰荣「中国語「給予」意味動詞の文法化小考:動詞「給」の2次変換説と1次変換説の比較を中心に」 張琦「「一大+量詞+NP」構造の考察」(中) 朴宰承「「有点」の意味選択制限に関する研究」 李妍周「中国の混合語と言語の混合問題についての考察」 蒋賢周「翻訳テキストの名詞化(explicitation)現象:翻訳の普遍性探索のための可能性の探索」 趙娟廷「韓国新聞テキストに表れた中国特有語彙の翻訳類型分析と翻訳原則」 崔在秀「中国語と韓国語のインターネット言語比較研究」 文学 문승용「李奎報義気論の曹丕文気論受容様相の考察」 張俊宁「杜甫の詩歌創作論管窺」 禹尚烈・林香蘭「李贄と許筠の比較論」(中) 政治学 곽덕환「非西方的中国現代化とその課題」 金中燮「WTO体制下の両岸関係:「ひとつの中国」原則と両岸対話問題を中心に」 経済学 오승렬「「中華経済圏」形成の新しい様相と特徴:中国-ASEAN経済関係を中心に」 崔義玄・孫尚范「中国式海外直接投資の特性に関する研究:国際比較を中心に」 朴壮載「最近中国海外直接投資の実態分析」 박승찬「中国技術産業化発展類型と今後技術協力方案研究」 서영인「S-C-P側面における中国電子市場低収益率決定要因分析」 歴史学 禹成旼「唐代徳音の変化と特徴に関して:唐代中後期以降を中心に」 文化学 유세종「窓と鏡としての深圳の文化政治:差異の否定と帝国の欲望」 강내영「転換期中国映画研究:2003-2006年映画政策・映画市場・作品傾向を中心に」 1-10 11-20 21-30 31-40 41-50 51-60 61-70
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前半は、義和団の乱参照 義和団の乱の影響と評価 影響 1―中国国内の影響― 改めて強調するまでも無く、義和団の乱は国内外に様々な影響を残した。まず国内的な影響について触れる。 1. 総理衙門の廃止と外務部の創設 これらは北京議定書に盛り込まれているように、列強各国の強い意向によって実現したものである。アロー戦争以後清朝の外交を担ってきた総理衙門が清朝官庁内で次第に地位低下したことに不満を覚えた諸外国が、清朝が外交を重視するよう求めた結果、総理衙門を廃止し外務部をつくらせるに至った。なお外務部は他の官庁より上位の組織であるとされた。 2. 光緒新政の開始 北京に帰った西太后は排外姿勢を改め、70歳近い年齢でありながら英語を習い始めるなど、西欧文明に寛容な態度を取り始めた。その最も典型的な方針転換はいわゆる光緒新政を開始したことである。これは立憲君主制への移行・軍の近代化・経済振興・科挙廃止を視野に入れた教育改革を目指すもので、方向性は数年前西太后が取り潰した康有為らの戊戌変法と同じものであった。これには剛毅など西欧化に対し強く反対していた保守勢力が、北京議定書によって一掃されたことも大きく影響している。 3. 聶士成の武衛前軍等の北洋軍壊滅による袁世凱台頭 義和団の乱において直隷総督配下の近代化軍隊は連合軍に敗れて大きな打撃を受けたが、袁世凱の軍だけは義和団をたたくのみで、直接列強との戦争に参加しなかったためほとんど無傷であった。そのため清朝内で隠然たる影響力を持つに至る。同時期、李鴻章や劉坤一、栄禄といった清朝の実力者が次々と死去するという「幸運」もあって、清朝一の精鋭部隊を率いる袁世凱は、それを政治資本として有効に活用していった。それはやがて袁世凱を李鴻章の後任として直隷総督へと出世させ、さらに辛亥革命後の中華民国大総統、中華帝国皇帝(洪憲帝)へと押し上げる原動力となった。付言すれば、漢民族である袁世凱が衰退した清朝にあって最強兵力を保持し続けること自体が、やがて満漢対立という民族間の軋轢を増す不安定要因となっていった。 4. 中国の半植民地化 北京議定書によって、北京や天津に外国の駐兵権を認め、また巨額の賠償金によって外国による財政支配(海関税・常関税・塩税が支払われるまでの担保として押さえられた)を受容せざるを得なくなった清朝、そして中華民国は、もはや独立国としての体裁をなさず、「半植民地」ともいうべき状態に陥った。北京における駐兵権容認はやがて盧溝橋事件の引き金ともなるのである。 5. 清朝への不信増大 最も大きな影響は、民衆の不平不満の矛先が列強よりもむしろ清朝自体に向けられるようになったことであろう。それは清朝滅亡のカウントダウンが開始されたことと同義であった。列強への「宣戦布告」の際には「現在我が中国は積弱極まった。頼るところは最早人心のみ」と述べながら、北京陥落後あっさり義和団を切り捨てた清朝・西太后の姿勢は大きな失望を一般民衆に与えた。さらに北京議定書によって定められた巨額の賠償金を支払うために、過大な負担を民衆に強いたことは、人々が清朝を見限るのに決定的な理由となりえた。孫文は中国で何度も革命を行おうとして失敗し、その度に無謀だと周囲から冷笑されていた。しかし義和団の乱以後民衆の中に傍観者的な雰囲気が減り、孫文たちを積極的に応援する風向きが俄かに増加したと述べている。すなわち義和団の乱は辛亥革命に至る重要な伏線となったといえる。 影響 2―世界・東アジアへの影響― 中国国外への、そして国外からの影響としては以下のようなものがある。 1. 日露の対立激化と日英同盟の締結 義和団の乱鎮圧のために各国それぞれが出兵したが、その中で日本とロシアの対立が顕在化していった。特にロシア軍の満洲占領とモラルを欠いた軍事行動は、各国に多大な懸念を与えるとともに、日本に朝鮮における自国の権益が脅かされるのではという危機感を与えるのに十分であった。イギリスも中国における自国の利権を守るために日本に期待を示すようになり、1902年に日英同盟を締結するに至った。これには日本軍を賞賛したモリソンの後押しもあった。 2. 領土割譲要求の沈静化 日清戦争以降、清朝は「瓜分」(中国分割)の最大危機にさらされていたが、義和団の乱によって勢いに歯止めがかけられた。戦闘において圧倒的な強さを示した連合軍であったが、その後の占領地支配には手を焼き、中国の領土支配の困難さに嫌でも気づかざるを得なかった。列強のその時の思いは連合軍司令官ワルテルゼーの「列強の力を合わせたとしても、中国人の4分の1でも治めるのは困難であろう」ということばに言い尽くされている。ただ例外的に領土支配を目指した国があった。ロシアと日本である。ロシアの満州占領は日露戦争を導き、さらに辛うじてその勝者となった日本は一層の領土的野心を滾らせ、日中戦争へと邁進していくようになる。 一方キリスト教会側も義和団以降、反感を買いやすかった倣岸な姿勢を改めるようになった。これまでむしろ積極的に関与していた裁判についても自粛するようになり、次第に教案は減少していった。 3.大逆事件の伏線 一見すると無関係のようであるが、幸徳事件(1910年)の遠因を義和団の乱の際に起きた馬蹄銀事件に求める研究がある。馬蹄銀事件とは、清国の馬蹄銀という銀塊を、派遣部隊が横領したとの嫌疑である。すなわち日本軍は自軍が綱紀正しかったことを内外に喧伝したが、実際はそうでもなかったことを『万朝報』の記者幸徳秋水らが厳しく追及した。それが馬蹄銀事件である。この一連の記事によって、幸徳秋水らは山縣有朋の恨みを買い、それが幸徳自身に処刑という厳しい処置が課される原因となったという。 評価 歴史学における評価の前に、当時如何に義和団の乱が捉えられたかについて触れる。 1. 義和団の乱当時の評価 義和団の乱当時の世界は、社会進化論が有力なイデオロギーとして機能し、文明/野蛮という二項対立でもって物事が語られることが多かった。さきの二項対立には、西欧/非西欧という本来別カテゴリーの二項対立が無理やり重ねられ、さらにこの二項には暗黙の了解として上下のランク付けがなされていた。下位から上位へと移行すること、すなわち非西欧(野蛮)から西欧(文明)へ移行することこそが「進化」・「進歩」として受け止められていた。そのような中で起きた義和団のアンチ・キリスト的、あるいは非西欧的「悪行」は、「文明」に悖る野蛮な行為としてすぐさま世界に広まり、激しい非難が中国に寄せられることになる。 しかし一方中国の実情を知る人々の中には義和団の乱に対し同情的な声や、義和団の乱の意義を正しく見抜く人もあった。たとえば北京籠城を余儀なくされた外交官は「わたしが中国人だったら、わたしも義和団になっただろう」(オーストリー・ハンガリー帝国人A.E.ロストホーン)とのべているし、R.ハートは義和団の発生を国家的意識が目覚める前触れだといっている。日本でも青柳猛(有美)は「義和団賛論」(『有美臭』文明堂、1904)という文章を書いて、義和団に共感を示している。 2. 歴史学の中の義和団の乱 中国史に、そして世界史に大きな影響を与えた点では一致するものの、義和団の乱についての評価は未だ定まっていないと言って良く、それが語られる地域-中国・日本・欧米-によって、無論中国人研究者であっても欧米的論調に近いものもあるが、論調が異なっている。大きく異なるのは義和団の性格についての評価である。中国や日本では、欧米及び日本の帝国主義に反対する愛国運動という捉え方をするのに対し、アメリカなどでは闇雲に外国人を攻撃した排外運動という捉え方をしている(エシェリックやコーエン等)。 帝国主義に関する点で、義和団はキリスト教集団(宣教師や中国人クリスチャン)との対立の中で彼等の持つ様々な特権(行政上あるいは司法上)に直面して、それらが帝国主義に由来することに自覚的となり反対運動を行ったと前者は論じる。しかし欧米の研究者たちは、義和団は帝国主義に自覚的でなく単に外国人嫌いからくる排外運動だと主張している。他方義和団が愛国主義的か否かという点でも対立する。義和団が近代的な国家概念を有していたかどうか、「扶清滅洋」や「掃清滅洋」といったスローガンにおける「清」とは具体的に何を指すのかという点で一致を見ない。すなわちそのスタンスの違いから愛国主義だったといえるのか、あるいはナショナリズムの覚醒と言えるのかという点で論者の意見が分かれている。 義和団の乱余聞 粛親王善耆と川島浪速 北京籠城において、日本軍が防衛を担当した区画にあった粛親王府は粛親王善耆の邸宅である。彼は非常に日本との関係が深く、特に川島浪速とは自分の娘(日本名川島芳子)を後に川島の養女にするなど縁があった。その川島はこの義和団の乱の際、説得によって紫禁城を無血開城させた人物である。粛親王と川島浪速は後に協力して満州独立運動に荷担していくが、二人の運命は義和団の乱以降交叉し始めたといえる。 賠償金の返却 あまりにも過酷な賠償金請求に対し、やがて国際的な批判と反省が起こり、賠償金を受け取った各国は様々な形で中国に還元することとなった。たとえばアメリカは、賠償金によって北京に清華大学(1911年~)を創設した。この大学は北京大学と並んで中国を代表する名門大学として成長し、現在でも理系分野ではトップと言われている。 日本も1922年に賠償金の一部を中国に対する文化事業に使用することを決定し、中国側に通告した。日本の外務省には、文化事業部が新設された日本外務省編『外務省の百年』原書房、1969、ISBN B000J9KFCA、日本外務省記録「各国ノ団匪賠償金処分関係雑件」。。また、東亜同文会・同仁会・日華学会・在華居留民団など日本国内で日中関係進展にかかわる団体への補助を行ったり、中国人留日学生への援助を行った。また現代まで続く成果として学術研究機関設置がある。これは北京人文科学研究所・上海自然科学研究所・東方文化学院の設立を指す。東方文化学院は、後に東京大学東洋文化研究所と 京都大学人文科学研究所東方部に改編された。東山銀閣寺の近くに建つ京都大学人文科学研究所東方部は、キリスト教会のような塔を持った美しい西洋風の建物で、塔の窓にはステンドガラスが使われている。但し塔の内部には許可なくしては立ち入れない。 国宝級文物の破損・流失と日本古美術商 八ヶ国連合軍の一年にわたる北京占領は、掠奪と詐取によって中国の国宝級文物の国外流出を促した。宮城そのものの掠奪は免れたものの、その周囲にあった天壇や王府に所蔵されていた文物はほとんどが被害に遭っている。盗難され、また欧米系占領軍から見て価値の分からない秘籍などはぞんざいに扱われ破損したものも多かった。たとえば『実録』(王朝の公的記録)や「聖訓」(皇帝勅書)等を収めた 皇史宬 も襲われたため、多大な被害を出している。他にも『歴聖図像』4軸や『今上起居注』45冊、方賓『皇宋会編』(宋版)、呉応箕『十七朝聖藻集』(明版)など貴重な秘蔵文書が消失した。また『四庫全書』や『古今図書集成』や『大蔵経』も破損・一部散逸などの憂き目にあっている。東洋史研究者市村瓉次郎は北京に赴き調査した際に「大蔵の経典、図書集成、歴代の聖訓、其他種々の書籍の綸子緞子にて表装せられたるもの、悉く欠本となりて閣中に縦横にとり乱され、狼藉を極めたる様、目もあてられず。覚えずみるものをして愴然たらしむ」と慨嘆している。 多くの国宝級美術品が中国国外に流出したが、それは皮肉にも中国美術品の価値を世界に広めることになった。ジャポニズムによって切り開かれた東洋美術への関心は、次第に中国伝統美術にも注がれはじめ、争奪の的となり、さらには多くの模造品(贋物)が作られるようになった。こうした中国美術の価値を世界に知らしめるのに大きく関係したのは、日本の古美術商たちである。その代表は山中定次郎の山中商会・繭山松太郎の龍泉堂・大倉喜八郎の大倉集古館であり、彼等は書画骨董・青銅器・磁器・書籍といったものを中国から購入し欧米に販売していった。 日本に留まり現存するものも多い。泉屋博古館にある「虎食人卣」(こしょくじんゆう)や東洋文庫が多く所蔵する『永楽大典』はその代表例である。この他王羲之「遊目帖」(唐代模本)は乾隆帝の秘蔵品であったが、やがて恭親王奕訢に下賜された後、義和団の乱の際に日本に流出した。ただ広島に落ちた原爆によって焼失している。 義和団の乱、簡易年表 1894年 大刀会、活動を開始 1897年 11月1日 山東省において大刀会がドイツ人宣教師殺害。数日後、ドイツが膠州湾占拠。 1898年 5月 義和拳、「順清滅洋」を旗印に教会・信者を積極的に襲撃。 1900年 1月27日 列強の公使団、清国に義和団鎮圧を強硬に求める。 3月14日 毓賢を更迭し、袁世凱を山東巡撫とする。 4月 袁世凱に弾圧された義和団、直隷省になだれ込む。 5月 義和団、北京へ到達。 6月9日 各国公使、自国軍の北京への援軍を要請。 6月19日 西太后、義和団を支持し西欧列強に宣戦布告することを決定。 6月20日 義和団、紫禁城の一郭にあった北京各国公使館を包囲(~8月14日) 6月21日 清国、欧米及び日本の八ヶ国に宣戦布告。 7月14日 天津、八ヶ国連合軍に占領される。 8月14日 八ヶ国連合軍、北京に到達し総攻撃を開始する。 8月15日 西太后と光緒帝、北京から逃亡。珍妃、紫禁城内の井戸にて死亡。 9月25日 義和団事件における事件の首謀者(清朝内)を発表。 10月8日 義和団事件に関する北京列国公使会議開催。 1901年 5月29日 清国、北京列国公使団の賠償金(4億5000万両)要求を受諾 7月31日 八ヶ国連合軍、北京からの撤退を開始する。 義和団の乱を扱った映画・小説 老舎「神拳」(戯曲)「神拳」とは義和拳の源流の一つ。老舎は義和団との因縁が深い。彼は下級の満洲旗人の子として北京に生を享けたが、幼くして八ヶ国連合軍に父を殺されている。そのため幼少期は非常に苦労した。この戯曲には老舎の義和団への思いが反映している。 「北京の55日 55 Days at Peking」(1963年、監督:ニコラス・レイ、主演:チャールトン・ヘストン)撮影はスペインで行われたが、数千名の中国人を出演させるため、映画会社はスペイン全土から中国人を集めたという。またチャイニーズレストランで働く中国人が多かったため、撮影期間中の数ヶ月は、スペインのチャイニーズレストランがほとんど閉店したという話が残っている。この映画は、そのテーマ性から香港では1980年代後半まで上映は禁止されていた。上で触れた柴五郎も登場し、若き日の伊丹十三が演じている。ただこの作品は欧米での受けが良くなるよう、歴史的事実がかなりデフォルメされている点は留意されねばならない。籠城戦において英米人の役割が誇張され、食料をもってくる中国人を露骨に金銭が目的としているように描写しているように、オリエンタリズム的な色合いが濃いものとなっている。 「八ヶ国連合軍 Pa kuo lien chun」(1975年)、製作:Shaw Brothers Studio(香港)、監督:張徹、主演:傅声 「神鞭」(1986年)、制作:西安電影制片廠(中国)、監督:張子恩、主演:陳宝国 「ダイヤモンド・エイジ」(1995年)、著者:ニール・スティーヴンスン(米) 「一輝まんだら」手塚治虫 浅田次郎『珍妃の井戸』 脚注 主要参考文献 この記事加筆に際し、参考にした文献は多数に上るので、以下には日本語のものを中心に挙げている。 史料 参謀本部編『明治三十三年清国事変戦史』川流堂、1904 中国史学会編『義和団-中国近代史資料叢刊』上海書店、2000(初版上海人民出版社, 1957) 蒋楷『平原匪拳紀事』などを収む。 菅原佐賀衛『北清事変史要』偕行社、1926 柴五郎述・服部宇之吉著『北京籠城他』平凡社東洋文庫53、1965、ISBN 458280053X 守田利遠『北京籠城日記』石風社、2003、ISBN 4883441016 牧田英二ほか編訳『義和団民話集』平凡社東洋文庫244、1973、ISBN 4582802443 ピエール・ロチ著・船岡末利訳『北京最後の日』東海大学出版会、1989、ISBN 4486010396 ウィール(本名バートラム・レノックス・シンプソン)著・清見陸郎訳『北京籠城』生活社、1943、ISBN B000JAOZDY 研究著作 佐藤公彦『義和団の起源とその運動』研文出版、1999、ISBN 487636172X エシェリック著・張俊義等訳『義和団運動的起源』江蘇人民出版、1994(英文原書;Joseph W.Esherick,The Originsof the Boxer Uprising,University of California Press,1987)。 ウッドハウス暎子『北京燃ゆ-義和団事変とモリソン』東洋経済新報社、1989、ISBN 4492060502 G.N.スタイガー著・藤岡喜久男訳『義和団―中国とヨーロッパ』光風社出版、1990、ISBN 4875190190 斎藤聖二『北清事変と日本軍』芙蓉書房出版、2006、ISBN 4829503785 小林一美『義和団戦争と明治国家』汲古書院、1986、ISBN 4762923346 三石善吉『中国、1900年―義和団運動の光芒』中公新書、1996、ISBN 4121012992 佐藤清彦『奇人小川定明の生涯』朝日文庫、1992、ISBN 4022607424 富田昇『流転清朝秘宝』日本放送出版会、2002、ISBN 4140807008 関連項目 {{Commons|Category Boxer Rebellion|Template PAGENAME?}} 川島芳子 小村寿太郎 田口卯吉 田岡嶺雲 月亭文都 アーネスト・サトウ 江東六十四屯 東方文化学院 拓殖大学国際教育会館 京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター 平原匪拳紀事 朱紅灯 北京の55日 外部リンク 桂太郎自伝の北清事変部分-史料に見る日本近代:国立国会図書館 北清事変概説(個人サイト) The Boxer Rebellion(英文) ピエール・ロチ(英文) 連合軍の北京進攻(簡体字) 王致中「封建蒙昧主義与義和団運動」(簡体字) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月27日 (木) 12 32。
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251 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/28(土) 12 34 57 ID xwzJOgNP0 宗沢、岳飛、完顔宗望、孟キョウ、郭侃、伯顔、カイシャン、トゥルイ、、阿朮、チャガンテムル でいいや。俺は ほんと次の時代に行こうや 252 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 12 59 34 ID 5pB+Z/Gd0 251 確かにもう先に進んだ方がいいかもね、又一から語りたいって人もいるだろうし(自分もだけど) 陳和尚は落とすには惜しい人物だがモンゴル系の名将が犇めきあっているこの時代では落選するのも仕方ないことかも 253 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 14 26 19 ID 8TdR/9M6O 251 宗沢、岳飛、完顔宗望、孟[王共]、郭侃、伯顔、カイシャン、 トゥルイ、アジュ、チャガンテムルor張弘範 なら異論はないけど。 陳和尚は仕方ない諦めるよ。 》ほんと次の時代に行こうや でも話合いをしているのをうやむやにして次の時代にいったら 次の時代でも同じことされるよ。 それでもいいの? 252 》又一から語りたいって人もいるだろうし(自分もだけど) じゃあ今まで決めたり今から決めようとしてることは無駄な作業ということ? 254 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 14 38 16 ID 5pB+Z/Gd0 253 ごめん、そういう意味じゃなくてまだ確定が決まっていない時代について語りたいということです 255 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 15 02 34 ID LNk8M4MQO 251、 253 スブタイが落ちた理由は何? 256 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 15 22 09 ID FZdoa03k0 トゥルイ入ってるからバランスで外したってくらいしか思いつかない 功績からしたら、スブタイ(征西除く)>カイシャンになりそうだけど 257 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/28(土) 17 36 17 ID 8ygMLR39O 敵対する勢力を根こそぎ倒し、フビライ家の威信を高めたカイシャンの功績が、 ここまで評価されないなら、正直、どのぐらいの実績を残したら良いのか分からない。 258 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 18 17 38 ID FZdoa03k0 257 うーん、カイシャンをここまで強烈にプッシュしてるのって、見る限りあなた以外にはいないような・・・ 他にいないならともかく、征服期の最強モンゴルと被っている分、不利になるのは仕方ない 秦を二回撃破してる信陵君も一発屋として選外になってるし、大勢に与えた影響では カイシャン以上の謝玄あたりも一発屋で選外だし、戦績が少なめな人は敬遠される傾向にある カイシャンがそこまで優れていると力説するなら、その優秀なところが他の人にも理解しやすいよう、 具体的な指揮や策略なんかのエピソードを挙げてもらえるとよいのではないかな? ・・・それはそうと、史天沢あたりも長期間活躍してるイメージがあるけど、あまり推す人いないね 259 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 19 03 14 ID 8TdR/9M6O 255 創業期のモンゴル武将は伯顔、トゥルイ、アジュの三人が入ってればいいだろ? 中期にはカイシャン、あとは残り一枠はチャガンテムルか張弘範。 てな感じでバランス取ってみたんだけど。 張弘範は南宋にとどめを刺したとこだけがクローズアップされてるけど それ以外の功績を考慮すれば落とされるほどでもないと思うけどね。 258 同意 カイシャンは確かに凄いと思うけど、確か簡単な紹介文ぐらいしか挙がってないよね? 俺も含めてみんな余りカイシャンについて知らない部分が多いと思うよ。 ここは合議制で決まる部分が大きいし、 カイシャンの功績などをしっかりアピールしたらいいと思うよ。 260 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 19 16 42 ID FZdoa03k0 259 バランス云々言うなら、なんで張弘範が残るの?矛盾してない? 261 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 19 50 41 ID FZdoa03k0 現状を整理してみます。トゥルイ、アジュ、チャガン・テムルは特に異論もなさそうなので確定入りで。 バランス考慮するならカイシャン入選で 251でok バランスこだわらないなら、カイシャンを張弘範やスブタイより上に見るかどうか?ですかね。 【確定組】 9名 宗沢、岳飛、完顔宗望、孟珙(キョウ)、郭侃、伯顔(バヤン)、拖雷(トゥルイ)、阿朮(アジュ)、察罕帖木児(チャガン・テムル) 【有力組?】 海山(カイシャン)、張弘範 速不台(スブタイ)、阿里海牙(アリハイヤ) 【有力だったが惜しくも落選?】 完顔陳和尚 【次の時代候補?】 擴廓帖木児(ココ・テムル) うーん・・・しかしココ・テムルはここで入れないなら、 徐達遠征の撃退の功績は北元での防衛戦になって、資格なしってなりません? 262 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 20 02 42 ID 8TdR/9M6O 260 ごめん、ややこしいんだけど 創業期のモンゴル武将に偏らない様にする部分と時期の部分の 両方考慮して考えてみたからまあ矛盾する部分はあるかも… 多少の矛盾は勘弁してよ。 263 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 20 38 01 ID LNk8M4MQO ここで郭侃落としてスブタイとか言ったらさらにグダグダになる? 264 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 21 04 25 ID 8TdR/9M6O そりゃなるだろうな 265 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 21 12 41 ID LLHhsbmL0 261 十区分の時代分でこれまで9人分しかだしてないところもあるんだから ここで11~13人ド~ンと確定出してもいいと思う。 自分は呉カイと張俊を推薦しておく。呉カイは陝西で、張俊は淮東・淮西で 岳飛と同等級の重要性を担った活躍をしたから。 266 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 21 28 13 ID FZdoa03k0 262 選定の論理に矛盾があると揉める元になりそうなんで確認しときたかったのです・・・ 263 個人的には 47の郭侃の東方の戦績は、この時代では即確定ってほど抜けてるわけではないのに、 推薦文上がって東方の戦績もあるってだけで勢いで確定になったように思ってるので、スブタイin郭侃outには賛成 でも郭侃押しにこだわる人は多くいそうだから揉めるかもね 265 唐のあたりで似たようなこと言い出した人がいてかなり荒れたのを思い出します・・・・ できれば過去スレ読んでください。そうすればそんな発言はできないはず。 あと抗金名将は結局大勢を覆すには至ってないので宗沢・岳飛入ったらもう十分って思いますよ。 267 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 21 31 50 ID LLHhsbmL0 266 そんなことがあたんですか・・・。 軽はずみな発言、この通り謝します。 でもまあ張俊くらいは推薦してもいい・・・よね? 268 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 21 38 47 ID 8TdR/9M6O 267 あったよ(ry でそりゃあ荒れに荒れた(ry それと張俊じゃ十傑入りは厳しいかと… 269 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 22 28 33 ID 9HSuCpNr0 261 【確定組】 9名 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、伯顔(バヤン)、トゥルイ、阿朮(アジュ)、速不台(スブタイ)、察罕帖木児(チャガン・テムル)、 【有力候補】 海山(カイシャン)、張弘範 郭侃、阿里海牙(アリハイヤ)、張俊 指摘通り、郭侃の確定入りは勢いの部分が否めないので 取り敢えず有力候補へ入れてみたよ。 一応こんな感じでおK? ココ・テムルについては言いだしっぺの◆oOLAqFKRB.さんの意見を伺いたいのだが 忙しいのか最近顔を出していませんね。 ご登場願えないかな? あとカイシャンの件もあるのだが… 270 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 02 18 10 ID vD14S6sq0 残り1名を、とりあえず置いといて次の時代に進んでみては? 271 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 03 32 46 ID XRa4Mjqz0 カイシャン(海山) 1300年8月に闊別列でカイドゥを破る。 1301年8月、モンゴル高原に大挙侵攻してきたカイドゥを大元ウルスは総力挙げて 迎撃した。カイシャンは迭怯裏古でカイドゥ軍を潰滅させた。二日後、カイドゥは全軍 を合わせて来襲し合剌合塔で交戦。戦況不利となり、カイシャンは自ら出陣して奮戦し カイドゥ軍を大破しその輜重を全て奪った。明日また戦い、カイドゥは元軍が少し後退 したのに乗じたがカイシャンは力戦して突出し敵陣の後ろに出て全軍還った。カイドゥ は優勢な元軍に大敗して目的を達せずに去り、その時の傷がもとで(もしくは病気で) 死んだ。 カイドゥとドゥアはカヤリク市より数日の距離で元軍と交戦し、カイドゥはいつものよう に勝利し大量の戦利品を獲得してそれに満足して帰途についたが、たまたま沙漠で病気に かかって死んだ。(モンゴル帝国史の注にあるワッサーフの記述を要約) カイドゥの死後、その王国はドゥア・チャパル派とオロス派に分かれて内紛が生じた。 そのような状況でカイシャンはアルタイを越えてオゴタイ家の本拠地を占領し、またこの時 アリク・ブケ一族が投降したことにより敵対勢力は消滅し北方は平穏となった。 272 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 04 27 44 ID KEDiawjZ0 明清になるのをじっと待つぜ… 273 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 05 11 10 ID NFfqariJO カイシャンってアピールするほど凄くないように感じるけど… 274 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/29(日) 15 29 05 ID IphoJY+y0 カイシャンと争ったカイドゥについて ttp //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%89%E3%82%A5 カイシャンが越えたアルタイ山脈 ttp //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%A4%E5%B1%B1%E8%84%88 凄くないって何が凄くないのよ? 275 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 15 44 48 ID IphoJY+y0 ageてたな。すまん ココテムルに関しては次の時代でいいのでは? 攻守の方向が変わっただけで金の侵攻から国を守った抗金名将たちとやってることは変わらんだろうし 徐達に勝った後も南下して中原回復をめざしたりしてるし 276 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 16 16 58 ID kd3eRFeA0 269 どうもありがとう 残りの有力候補からはアリハイヤを推したいかな 274 史料によってはカイドゥが勝利したとなってるのは、曲筆を少し疑ってしまう カイドゥ破ったのが正しいとしても、元への投降が増えて勢力瓦解の危機になり、 破れかぶれで攻めてきたのを普通に迎撃しただけってイメージを持っちゃうな 総力をあげてとなってるが、勢力比とかどんな感じだったのだろうか? カイドゥ健在のときに積極的に攻め入って破ってたなら文句なしで入選だけど・・・ 山脈越えについてはパミール越えやった高仙芝も外れたからねえ・・・ それに元々遊牧のモンゴルがそういうことやっても、それほど凄いって思えない あと元ネタがwikiでは残念ながらやや説得力弱い 275 異民族政権なので、 69の定義に従えば、元か北元かで、 統一政権の防衛戦として認めるかどうか変わってくるのですよ 277 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 18 45 24 ID NFfqariJO 276 そうだね俺もカラコラムの戦いとタミールの戦いについていろいろと調べてみたが カイシャンがカイドゥを打ち破ったとしか書いてないし、 具体的な記載が見当たらないのでイマイチどう凄いのかピンとこないのだが… 国の存亡を掛けた戦いを制したという感じないがあまりしないのがぶっちゃけた感想。 で 273の様なコメントになった。 パミール越えをやった高仙芝が落選したのはタリム河での敗戦が評価に響いた訳で 山脈越えしたのに落選という訳じゃないんだよ。 張俊はやはり十傑入りは厳しいと思うが… 278 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 22 24 57 ID xVCgEaS10 【確定組】 9名 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、伯顔(バヤン)、トゥルイ、阿朮(アジュ)、速不台(スブタイ)、察罕帖木児(チャガン・テムル)、 これまでのに慣例(?)に従って一枠を残し、 海山(カイシャン)、張弘範、郭侃、阿里海牙(アリハイヤ)を有力候補・議論中として、 もう次の時代に行く? 279 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 23 54 58 ID xVCgEaS10 明 【確定組】 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥 【候補】 朱元璋、陳友諒、方国珍、湯和、李文忠、藍玉、于謙、兪大猷、 王守仁、拡廓、呉三桂、李自成、鄭成功、馮国勝、張輔、張士徳、馬芳、 【資格あり?】 拡廓帖木児(ココテムル) 取り敢えず貼っとくよ。 280 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/30(月) 09 49 02 ID /DwM+G9u0 朱元璋が中国史どころか世界史でもナンバーワンとかいう説があるんだが。 281 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 13 54 15 ID 5evbkO/+0 280 出典は? 282 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 14 48 40 ID jSUKrpFa0 んじゃ、もう明代入ってええの? まだ元代で語り足らない方がいらっしゃるなら、もうちょっと我慢するけど。 283 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 15 32 19 ID h1ArJXGGO もういいんじゃない? 流れも止まってた気もするし。 284 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/30(月) 17 50 23 ID 0o7XXxcXO 281 出典も糞もないよ。最下層からの天下統一だからってのが理由。 名将である論拠じゃない。 285 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 18 02 10 ID 5evbkO/+0 284 なら取り上げる必要は無いねぇ。 ここ、名将スレだし。 286 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 18 14 36 ID /DwM+G9u0 朱元璋の仕事量は異常。 一日に千件の上奏文、三千件の案件を処理するなんて信じられん。 部下を殺しすぎだが、これほど働けるなら粛清も手段としては有りだな。 まあ自分の後の馬鹿息子たちにもそれを要求するのは見通しが甘いと言えるが、 当時は目先のことで手一杯だったのだろう。 徐達がいなくても自分で北伐くらいは軽く出来そうな指導力。 将之将として元祖の劉邦より上かも。 287 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 18 37 52 ID h1ArJXGGO 286 >朱元璋の仕事量は異常。 >一日に千件の上奏文、三千件の案件を処理するなんて信じられん。 つーか始皇帝は? >徐達がいなくても自分で北伐くらいは軽く出来そうな指導力。 つーか自分でやるにしても劉伯温の力が大きそうじゃない? 将の将については以前かなり揉めたのだが… 288 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 19 56 59 ID 2p2qUwGuO ハヨーコでの戦略的失敗と呉王以降は部下功績と理由で確定から落とされた朱元璋だが やはりカムバックを要請する。半生は彼の指揮がもの言ってたし、その後将の将なったからって外されるいわれはない 289 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 21 39 45 ID zq78DjSZ0 このスレは、「兵の将」の能力で選定しているのだと思ったが? 290 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 22 34 41 ID 8n8s+mbY0 紅巾時代の朱元璋は間違いなく兵の将だったわな。 291 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 22 39 05 ID h1ArJXGGO 288 だったら朱元璋の半生の指揮がもの言ってた実績をアピールしたらいいんじゃない? 曹彬なんかも用兵に巧みだったことについてエピソードなどを挙げてと頼んだけど、 結局、挙がらず落選したんだし、 確か朱棣の軍事的資質が凄いから朱元璋も凄い筈だみたいな意見が出てたが却下され、 その後、将の将なんだから評価しろみたいな話になったような希ガス。 でも別に将の将なったからって外された訳じゃなかったような記憶が・・・ 劉邦も将の将だからって落ちた訳ではないし。 292 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/30(月) 22 46 08 ID 8ybH+zNFO すでに確定してる名将の列伝を誰か書いてくれないか? 今までの推薦文だと文量やら個人差が大きかったり、わかりにくかったりする 素人の俺が見ても名将の名将たる所以がわかる文章を誰か頼む 293 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 22 47 57 ID SqQ5Twlw0 286 一日に千件の上奏文、三千件の案件を処理するなんて信じられん。 事務処理能力の凄さは皇帝としてはプラスでもこのスレでは評価対象にならないわな 徐達がいなくても自分で北伐くらいは軽く出来そうな指導力。 北伐の実績はないわけで、仮想・妄想で語られてもアピールにはなりませんよ? 推薦するなら朱元璋が自身が指揮したときの実績を挙げて、その凄さをアピールしないと。 294 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/30(月) 22 52 39 ID 0o7XXxcXO 289 それと 288の主張は矛盾してないよ。 あくまで将軍として兵を率いた時代の実績をもって、推薦してるだけだから。 将の将~は無視して良い。もし、どうしても呉王以降の業績を軍功であるとするならば、 その理由を明確にしない限り、いっさい考慮しなくて良い。 幸いこの時代は、しょせん一発屋だからと、候補止まりにできそうな人物が多いし、 下手な小細工は要らないと思うよ。 295 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 23 15 49 ID 5evbkO/+0 294 だからこそ事績をつまびらかにせよという主張を 291がしているわけで。 296 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 00 17 51 ID Ulz7nq870 朱元璋の呉国建国までの戦績 徐達、湯和ら二十四人と郭子興の元を去ったとこから始まる。 一三五四、定遠にて民兵集団の首領・驢牌寨を計略を持って倒し、配下三千人を獲得。 その後、黄カン山のビュウ大亨の配下二万を夜襲をもって服属させる。 一三五四、チョウ州を墜とす(この戦は花雲が活躍) 翌年、迎え入れた郭子興と共に和州を攻撃、和州城を攻略。 牛ショ磯・サイ石の元軍と陥落させ、退路を断ち兵を奮い立たせ太平の司令官ナガチュを捕らえる。 しかし元将マンジハイ、アルクゥイらが、朱元璋が去った後のサイ石を奪回。 陳埜先と康茂才の数万と共に二面作戦を展開。 朱元璋は防戦しつつ、奇襲部隊を持って挟み撃ちにし陳埜先を捕らえる。 陳埜先は説得を受けずに解放され、再び集慶の福寿と共に朱元璋を伺う。 朱元璋対峙しつつ、徐達を蕪湖や句容などに向かわせ、南方から集慶を牽制し、 常遇春をサイ石のマンジハイに向かわせ和州と太平の線を回復した後。 集慶を攻め、途中で陳兆先(埜先の子)を破る。降伏者は三万六千。 集慶城を猛攻し、一日で落とす。民兵五十万を摂取。 一三五九、浙東攻撃を開始し、李文忠らがブ州を守備してた石抹厚孫を抜けないので援軍を率いる。 ブ州救援に向かう処州の石抹宜孫(厚孫の兄)に大勝し、ブ州は孤立、降伏する。 陳友諒は艦隊を率い、揚子江を渡り太平を陥落(守将の花雲は殺された) 一三六〇、サイ石に進駐し、徐寿輝を殺して漢を建国した陳友諒は張士誠との朱元璋に対する挟撃作戦を持ちかけるも。 結局は単独で応天攻撃を開始。朱元璋政権は震撼し降伏論や退去論がでる有様。 朱元璋は劉基と意見を共にし、決戦を決意。胡大海を信州を牽制させ、康茂才をして偽内応をしかける。 この戦いに勝利した朱元璋は捕虜七千人、巨戦艦百余隻、戦艦数百隻を得る。 太平を奪回した朱元璋は乗して安慶、信州、浮梁、袁州を攻略する。 翌年、陳友諒が再び安慶を陥れたが、朱元璋は自ら兵を率い奪回、長駆江州を攻め、逆に陳友諒を撤退させる。 ジョウ州、建昌、竜興などと次々と攻め落とし、漢は盛時の半分以下の領土になる。 一三六三、張士誠軍に攻め立てられた小明王の救援に向かう。(劉基は陳友諒の動きを警戒し反対する) 無事、小明王を救出したが、その安豊に向かう間に陳友諒が軍備を整え再び進軍。 ハ陽湖の戦いに至る。(この戦いは有名なので省略) 297 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/01(火) 10 48 08 ID zzFkThvrO コレで落選ってこの時代、どんだけ凄いんだよw 298 ◆RQdk7scN8s sage 2007/05/01(火) 12 10 44 ID 0C9OK2/a0 ハ陽湖の戦いに至る うおお、そこへ行くまでが奮い立つじゃないですか。 つうか、まだメインイベントじゃないのか。 ところで、まったく関係ないことだけど、この頃の華南とはどんな状態だったのか ヒマがあれば教えてください。 (なにせ自分の時代は南宋の滅亡とともに終ってますので) 299 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/01(火) 14 03 14 ID Ss8ybL//0 298 ◆RQdk7scN8sさんへ、これぐらいは知っとるかしれんけど当時の概要。 元朝の支配力が弱まった14世紀半ば、苛斂誅求と自然災害によって人心が離れた時期、 人々は農民階級に強く根を張る白蓮教の教えにある救世主到来を強く心待ちにしていた。 しかし南人(旧南宋人)たちは長らく虐げられ続けていたこともあって救世主到来を待てず、 不満を爆発させて武装蜂起。モンゴル打倒を叫んで“紅巾軍”を結成、江南の各地で モンゴル軍や地主を襲い、思いを同じくする農民勢力を取り込んで勢力を拡大していった。 これによりモンゴル貴族階級対漢族農民階層の対決構図が明らかになり、 朱元璋がのちに述懐するように「人を殺すこと麻の如し」という凄惨な状況が長いこと続く。 ちなみに劉福通ら率いる穎州系紅巾賊を東系、徐寿輝ら率いる湖北系紅巾賊を西系と呼び、 朱元璋が身を投じた郭子興は東系紅巾。 (世界歴史体系・中国史・四巻、明・清より) 300 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 14 55 19 ID gKO/jiSL0 朱元璋と毛沢東はイメージがなんか同じだ 301 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/01(火) 15 15 07 ID Ss8ybL//0 292さん 10行ぐらいで簡潔にまとめりゃいいかいな? いっぺん長文書いた人物やったらつづめられると思う。 例 孟珙(字は璞玉。1195-1246) 名将孟宗政の子。若くして対金戦で非凡な才覚を発揮する。 父の死後、彼の創建した“忠順軍”二万を受け継いだ。 金の武仙と5度に渡って戦い、金兵数万を斬り宋人数十万を解放。 蔡州の戦いに参加。モンゴルの大将タチャルに兵糧二万石を届け、自身も奮戦、金を滅ぼす。 モンゴルとの戦いにおいて常勝無敗、占領された要地・襄陽、樊城を回復した。 襄陽に兵士10万を駐屯させることを乞うが認可されず。ひとまず先鋒軍を置く。 各地に転戦して奪われた版図を取り戻し、子爵とされた。 江陵に屯して四川から襄陽にわたる三層の防衛ラインを構築、各地に一千~一万の兵を駐屯させるを乞うが認められず。 襄陽に兵を募集し朝廷に北伐を進言するも、過去の宗沢同様、聞かれなかった(「三十年余中原の人心、今志あれども実現あたわず」)。 再び江陵に屯してモンゴル軍南下に備える。敵が南宋領内に入るや防衛ラインに兵を送り、事前に牽制して敵を領内に入れなかった。 1246年9月、没。死後吉国公と謚される。忠義に厚く教養があり、仏教と易学に精通し、自ら“無庵居士”と號した。 ・・・こんな感じでどーやろか? 269さん ココテムルの扱いについて。 元朝がまがりなりにも中国の北半分を擁していた時季は統一国家、元の武将として叛徒と戦った名将。 北元に退去したのち中原回復を志して南下してきた時は統一国家・明に戦争を仕掛けた異民族国家の名将、 という扱いで俺の頭ん中では処理されとるんやけど、変かいな? 302 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 15 30 39 ID +OW6jgdx0 301 269さんではないですけど、一点質問です。 北元に退去したのち中原回復を志して南下してきた時は統一国家・明に戦争を仕掛けた異民族国家の名将 の扱いだと、北へ撤退後に攻め込んで大きく領土奪った実績がない場合は、 69の定義からは完全に外れると思うのですけど、その辺はどうなんでしょうか? 303 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/01(火) 15 49 30 ID Ss8ybL//0 302さん 完全俺のミスです。死角です。 ただまぁ、 「領土を掠取」はできてなくても 「当時の中華国家の人々に恐怖意識を植えつけた」 方でなんとかならんかな~。 当時ココテムルがどれほど恐れられたかによるけども。 304 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 16 18 41 ID 8XSv3Wv+0 301 ◆oOLAqFKRB.さん、徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥についての説明文を今、作成中なんですが任せてもらえません? で自分は実は 269なんですがココテムルについてはぎりぎりセーフかなつーのが自分の意見なんですが。 それと前の時代枠でも弾かれ、明でも資格無しではココテムルが可愛そ過ぎませんか? (こんなこと言ったらみんなに怒られるかな?)〇 305 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/01(火) 16 29 51 ID Ss8ybL//0 304さん 本当やったらわざわざ断ってもらう必要ないんやけど、 毎度俺が勝手に紹介文書くケースが多いもんね。もちろん了解、任せます。 ココテムルはどーやろねぇ。「泣く子も黙る」とかそーいう記述があればなんとかなるんやけど、 せいぜいが劉基の「拡廓、未だ軽んずべからずなり」ぐらいしかないんよね。 朝敵としては恐れられたが民衆は大して怖がってなかったってことやろか。 でも才能あるのに弾くのが惜しい・・・って耶律休哥のときもそー言って結局落選したわけやが。 やっぱ定義定めた自分が曲げるのは問題あるよなぁ。誰かココテムルの凄い情報もっとらんかいな。 306 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 16 33 11 ID +OW6jgdx0 303 304 現定義で考えると、ココ・テムルは元の枠に入れるべきではないかな、と思ったりしてます。 別に前の時代枠でも、明代に入れて徐達とセットにした方がよいってことで先送りになっただけで、 実績不足で弾かれたってわけじゃあなかったですし、残り一枠をカイシャン他と争うのでもいいのでは? 307 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 16 42 10 ID hH1WBaPs0 ある酒宴の席で朱元璋が 「今の世で最も怪傑と呼ぶに相応しい武将は誰か?」 と尋ねると、満座の臣下たちはみな常遇春の名を挙げた。 しかし朱元璋ただ一人が敵であるココテムルを推し、その勇武を賞賛した───という話が野史に見える。 308 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 19 40 59 ID 1dBDNDUw0 常遇春の奥さんは食べられちゃったよね。 309 携帯からで読みづらいかも知れん sage 2007/05/01(火) 20 20 10 ID uRoWrSN0O それからの朱元璋 ハ陽湖における戦いで陳友諒は巨艦数百隻・軍勢六十万を発し、南昌を攻めました。 守備部隊のトウ愈、朱文正は小勢にもかかわらずよく守り、三ヵ月の時間を稼いだので朱元璋は救援に向かうことができました。 陳友諒は朱元璋到来を聞き、東転しハ陽湖に船団を整えました。後世名高いハ陽湖の戦いが始まります。 三日間の戦闘は陳友諒優勢に進んだ為、朱元璋は一計を案じ、近くの漁船と枯草を集め、火薬を乗せて東北からの風を待ちました。 風が吹くやいなや朱元璋は船に火をつけ風上から陳友諒軍に突っ込ませたのです。 陳友諒の戦艦は全て三階立てで、軍馬の小屋すらあり、船体には鉄の裏打ちが施された重船でした。 しかし煌々と燃える炎は船団を食らい付くし、陳友諒は弟の友仁、友貴らを失います。 大型の陳友諒の船に比べ朱元璋の軍団は小型で、燃え盛る陳友諒船団を縫って攻勢に出たのでした。 翌日、乾坤一擲、陳友諒は再び決戦を挑みますが、大敗しハ陽湖からの脱出を試みます。 しかし朱元璋は先んじて出口である湖口を押さえた為、 敗残の陳友諒軍は朱元璋軍との睨み合いを続けなければならなくなります。 数日の内に食料が欠乏し、部下の投降が相次ぐようになった陳友諒軍は 血路を開こうと囲みの突破を計り戦闘が開始されます。 午前八時から始まった戦いは日暮れても決着をみず、勝負は翌日に持ち込まれるかと思われましたが、 船頭で陣頭指揮をとる陳友諒に流れ矢が貫通、一代の梟雄はその生涯をにわかに閉ざしたのです。 勇躍、朱元璋は陳友諒軍を責め立て、総崩れにし、皇太子の陳善児を捕らえます。 明けて一三六四、朱元璋は晴れて呉王の位につくと、武昌に逃れた陳理(友諒の子)を親征、平定します。 さて、残るは朱元璋に先んじて呉王を称していた張士誠です。 彼の勢力範囲は現在の浙江省、江蘇省、山東省、にまたがる大国であり、さらに西に汝州、エン州、濠洲を加えてました。 生産力では当時の全土の租税額の三分の一、塩に至っては六割を賄う巨大国に対し 朱元璋は徐達、常遇春に二十万の軍勢をもたせ制圧させます。 張士誠の呉国を併呑した朱元璋は北伐を計画します。常遇春は一路大都を突く戦略を挙げますが 朱元璋は採用せず、周りの拠点を落とし、孤立させた後に大都を攻めるのを指針とし、 再び徐達、常遇春に兵を預け、一方で湯和らに南征を行なわせ統一を達成したのでした。 顧みるに、朱元璋の戦術は常に相手に先んじて退路や援軍、補給線を断ち 十分に疲労してから叩くという、戦術的奇才というよりはセオリー通りの戦術家と考えられます。 逆をいえば機を見るに敏、兵は拙速を尊ぶの才が高かったといえるでしょう 310 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 21 45 55 ID CvnnNoeq0 307 手元に史料がないので、確認は取れないけど、 朱元璋が王保保を天下第一奇士と評したって話は確か明史にも載っていたはず。 それと、以前、明代の名将を議論していたときにも散々述べたけど、 再び張士誠の弟である張士徳を推す。 江南三強中、最大の生産力を誇る姑蘇の地を張士誠が制し得たのは、 彼の活躍によるところが大きい。 『国初群雄事略』の「周 張士誠伝」は三巻に分かれているけど、 事実上第一巻は張士徳伝と呼んでいいのではないかと思うほど、 その活躍が全文の多くを占めていたように記憶している。 彼が指揮をした戦いで敗北したのは、俺が記憶している限り、 苗族の元将楊完者の守備する杭州を一度は陥落させるも、その後奪い返されたことと、 朱元璋軍に攻撃されていた常州の救援に向かい、 徐達、常遇春等、朱軍の名だたる名将たちと激突し、善戦の末虜になったことぐらいか。 (前述したが、現在GW帰省中で家に帰らないと史料が参照できないので、 ちょっと記憶違いがあるかもしれない。) また、常州での朱元璋と張士徳の攻防戦を『国初~』著者の銭謙益は 明建国過程の重大事と評して、作中でも最長の考証文を書き綴っている。 他にも、これまたずいぶん前にここや元末スレでも述べたことであるが、 張士徳直属の部下に史椿という武将がいて、 彼は張士徳没後、次第に綱紀が弛緩してきた張士誠軍に見切りをつけ、 チャガンテムル(暗殺された後は朱元璋)に投じようとしたという話が伝わっていて、 直接の記述は見つけられなかったものの、 張士徳の軍の綱紀を重要視する姿勢を垣間見ることができる。 また、こっちは軍事とは関係の無い話かもしれないが、 陳基をはじめ、多くの才能ある人物の発掘も行っている。 311 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 22 03 14 ID 8XSv3Wv+0 292 徐達 紅巾の乱が起こると、その朱元璋の麾下で濠州の蜂起に参加。 集慶(南京)を陥す一翼を担う。 鎮江に進撃、常州・常熟を落し、張士誠の勢力を弱体化させる。 ハ陽湖の戦いでは先鋒を務め、猛火の中を勇戦し敵を撃退。 張士誠を討って江南を平定。 北伐では征虜大将軍に任じられて山東・河南を降す。 大都を陥落させ、河北を平定。 応昌攻略ではココ=テムルに撃退されたが、 先鋒として数多く各地を転戦した彼は明朝開国の功臣の第一とされた。 常遇春 劉聚の蜂起に従う。後に和州で朱元璋に帰順。 采石・太平を奪取、総管府先鋒に任命され、後に総管都督となる。 集慶を攻略従い、最も著しい功績を挙る。 徐達に従って鎮江を責め取り取り、常州を破る。 浙東を攻め、衢州を陥落させる。ハ陽湖の戦いでも功績を挙る。平江で張士誠を滅ぼす。 北伐では徐達の副将として大都を陥落させ、太原にココ=テムルを攻め、全寧にエスを大破させ、李文忠と共に北元軍を撃破し、開平府を攻略した。 勇猛果敢で知られ、集慶攻略や陳友諒・張士誠平定では武勲第一とされた。 朱棣(永楽帝) 燕王時代に北平を鎮し、北伐の際北元の乃児不花を捕らえる。 靖難の変にて耿炳文・李景隆・を打ち破る。 明軍より兵力差などが不利な状況に有りながら(五十万対十万) 最終的には南京を陥落させ建文帝に勝利。 即位後、北元に親征を五度に渡り行いモンゴル族を打ち払い、 また安南にも遠征、これを直轄領とした。 満州も征服している。 戚継光 倭寇及びモンゴルと戦って戦果を挙げた。 浙江南部・福建方面に来襲した倭寇の大軍に連戦、兪大猷・劉顕らと共に数々の功績を挙る。 しかしその名声は他の二人に大きくうわまっていた。 戚継光の活躍により東南の倭寇の害は取り除かれた。 また薊州などを鎮め、規律ある軍制と卓越した指揮により 戚継光は北方に十六年間、侵略を防ぎ続けた。 袁崇煥 進士に及第した後、遼東の守備を志願。寧前兵備僉事に抜擢される。 後金のヌルハチが寧遠を攻撃した際、ポルトガルから輸入した大砲(紅夷砲)を駆使、 清軍を敗北させる。功績により遼東巡撫となった。 ホンタイジを寧錦で破る。 薊遼・登莱・天津の軍務を統括し、寧遠に鎮める。叛将の毛文龍を殺す。 こんな感じですが五名の名将たる所以は分かって頂けましたか? 299 >(世界歴史体系・中国史・四巻、明・清より)ですか、アジア辞典といい羨まし杉・・・〇 312 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 22 04 18 ID CvnnNoeq0 305 >「泣く子も黙る」とかそーいう記述があればなんとかなるんやけど 確か、ずいぶん昔にどっかの先生が書いた「拡廓帖木児の死について」って論文に、 北元政府はココテムル死後も外交の場においてココテムルは健在であると宣伝し、 そのネームバリューを利用していたって書かれていたから、それなりの威勢はあったんじゃないの? 313 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 22 06 47 ID 8XSv3Wv+0 連投スマン 309 徐達や劉伯温にばかり目が行っちゃうけど改めてみてみると 朱元璋自身もかなりの戦術・用兵家なんだな。 ちなみに羅貫中がハ陽湖の戦いをモチーフに三国志演義での赤壁の戦いのは描かれていて、 諸葛亮の神掛かりな奇策は劉伯温をモデルにしてるみたいな話があるんだよね。 314 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/01(火) 22 39 22 ID 3DNBoeHE0 李文忠(あざなは思本。1339-1384) 太祖朱元璋の甥。養子とされ朱姓を下賜される。読書を好み鋭敏であった。 武勇にも優れ勇は三軍に冠たり。青陽、石埭、太平、旌徳を攻め、ことごとく降す。 浦江にて苗族の反乱を平定し降伏した兵士三万を自軍に取り込む。現地で搶掠・放火を厳禁し、 現地の人々に恩沢と誠心を示した。 厳州を守る。張士誠が攻め込んでくると二度に渡ってこれを撃退、以後張士誠は あえて厳州をうかがうことをしなくなった。 呉軍十万が諸全を攻めると徐右丞、邵平章をつれて諸全へ。浮き足立つ呉軍を大いに破る。 張士誠が二十万の大軍をもって新城に攻め寄せると寡兵で迎撃、騎兵の機動力に任せて 縦横に敵軍を切り崩し、向かうところ敵なしの大活躍でついに敵軍を潰走させる。 数十里に渡って追撃し、数万を斬った。 朱元璋の呉攻めに従軍、別将として桐盧、新城、富陽を抜き、杭州まで陥とした。 兵三万と食糧二十万石を得、朱姓から李姓に戻る。建、延、汀の三州を平定。 洪武二年、常遇春の副将として元の上都を攻める。常遇春が死ぬとその軍を引き継ぎ、 大将軍徐達のもとで慶陽、太原を攻め陥とす。 翌年、徐達と別に十万余の兵を率いて北伐、元の平章・チュチェン、シャブチェン、 シャンドゥガンらを斬り、あるいは投降させた。時に元帝が崩じ、太子のアイユチリダラが 新たに立った。李文忠は間者の報告でこれを知ると応昌に走って元の新帝を襲い、 その嫡子と皇后、妃、宮人ら数百人を擒らえ、宋から元にいたる玉璽その他の宝物を奪った。 凱旋し戦利品を献上、奉天門で洪武帝の朝賀を受けて戦功一等とされた。 洪武五年、北伐。馬が流れ矢に当たり落馬するも、元兵から馬を奪い死戦、ついに敵を破り 捕虜万余を獲る。ただし曹良臣以下の名将を失ったため論考は行われなかった。 翌七年、各将道を分かって出陣し、三不刺河で平章・陳安礼を捕らえる。白登で太尉・ブカを擒らえた。 秋、大寧と高州を抜き、宗王ドドチリを斬り、承旨・百家奴を擒らえた。氈帽山で魯王を斬り、その妃 および司徒タンハイを斬った。 洪武十六年冬、病を得、翌年二月、世を去った。享年四十六歳、岐陽王に追封された。謚は武靖。 太祖の陵に倍葬され、建国の功臣第三位とされた。 315 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 22 43 13 ID wvylm5yGO 演義赤壁はハ陽湖の戦いをモデルにしたかも知れないが ハ陽湖の戦い自体は正史にある赤壁の戦いを参考にしたんでなかろうか 劉基とか頭良くて正史一通り読んでそうな奴もいただろうし 316 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/01(火) 22 45 02 ID 3DNBoeHE0 連投、つーか反省。 26行ですか・・・やっぱ長いわな、俺の紹介文。 311さんみたいにスパッと行くと気持ちいいんやろーけど上手くいかん。 317 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 22 48 28 ID wvylm5yGO 間に割ってた。済まん 318 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 23 03 43 ID 8XSv3Wv+0 314 李文忠ですか。自分も目を付けてたんですよ。 自分は鄭和と曹文詔を推します。(推薦文はまた今度ということで) ◆oOLAqFKRB.さん だいぶ前にも言いましたが、〇〇を撃破、××を攻め落とした部分などを強調し、 エピソード的部分は添え程度にしてみてはいかがでしょうか? まあ◆oOLAqFKRB.さんの推薦文を楽しみにしている人も居るかも知れないので あまり要らんこと言えませんが・・・ 〇 319 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 23 19 39 ID wvylm5yGO 王玄策がスルーされてるこのスレで鄭和の出番あるんだろうか… 詳しくないんで推薦文に期待 320 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/01(火) 23 43 05 ID zzFkThvrO 315 赤壁の戦いの記録のドコを読んだら、ハ陽湖の戦いに応用できるのか知りたい。 疫病が流行ったんで侵攻した側が火をつけて退却。防御した方は名声を得た。 という経緯じゃないの!? ハ陽湖の戦いは、戦術的には特殊なトコはなく、先行する例はよくあるけど、 赤壁の戦いと共通点があるとは知らなんだ。 ニワカの俺に分かりやすく、咬んで含むように教えてもらえるとありがたい。 321 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 23 47 43 ID 8XSv3Wv+0 319 せっかく期待してくれてるのにスマン、鄭和じゃなく湯和だった。 鄭和の功績じゃ無理だ・・・ つーか手持ちの資料じゃ詳しい記載がないんです。 322 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/01(火) 23 53 17 ID zzFkThvrO 319 このスレ的には候補すら入らないけど、軍事的には重要人物ですよって場合には、 推薦文があがることあるよ。 こんな人物だったんだぁ~ 知らなかったよ。㌧クス!!でも無しだな(プ って感じでスルーされるが、それはそれで一興かと。 323 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/01(火) 23 56 23 ID 3DNBoeHE0 これで今日は打ち止め。明で俺の一推しといえばこの人(李文忠も好きやけど)。 馬芳(字は徳馨。?-1579) 十歳のときアルタンに攫われたが隙を見て逃走、帰国。非凡な体力により兵卒に抜擢される。 嘉靖二十九年、威遠で北虜と交戦、敵の伏兵を見抜いて逆撃し、自ら首級九十を挙げた。 嘉靖三十六年、土蛮が十万騎の大軍を擁して界嶺口に迫るも、 馬芳が兜を脱いで素顔をさらすと「げぇ!! 馬大帥やんけ!!」と驚愕して退却。北賊に大いに恐れられる。 宣府の守りを任されたとき、北賊が山西に侵攻すると一夜に五百里を駆けて交戦、七戦七捷して敵を殲滅した。 嘉靖四十五年七月、辛愛率いる十万の騎兵を馬蓮堡で迎撃、謀略と敢闘をもって大いにこれを破る。 馬芳は胆力智謀に優れ、敵情を熟知してその虚実を利用することを得意とした。情報戦を得意とするが戦に臨むとむしろ猛将型であり、 常に士卒に身を先んじて突撃することを旨とした。しばしば出兵して敵の堡塁を破壊。あるときは自ら督戦し、あるときは副将を遣わして戦果を上げた。 大同がアルタンに犯され、宣府の馬芳は現地に急行、アルタンの軍を打ちのめして辺境に安寧をもたらした。 馬芳は行伍(一兵卒)から十余年で大帥となり、膳房堡、朔州、登鷹巣、鴿子堂、龍門、万全右衛、東嶺、孤山、 土木、乾荘、岔道、張家堡、得勝堡、大沙灘などの戦役で活躍、大小百戦以上を経て身に傷を受けること数十、 つねに寡をもって衆を破り、かつて大勝せざるはなし。敵の部長を擒えること数十、斬殺したもの無数、威名は辺境まで轟きわたり、 功績は当世の将帥に冠す。石州城が落ちたとき、防衛軍指揮官の副将・田成威と参将劉宝が死刑に処されるところを、自らの功績に免じて 彼らの一命を助けてくれと上奏した美談が残る。 削りに削って15行。孟珙でも10行ちょっとやったし、こんくらいが俺的ギリギリラインか? 324 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 00 09 18 ID Ilihl0BuO 323 そんなに鬱になるなよw 俺はいつも楽しみにしているし、凄く勉強になる。 程々の長さならそんなに気にしなくてもいいんじゃない? 325 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 09 34 33 ID z559dP//0 代表的な一つの出来事を丹念に書き記した方が面白い 出来事の羅列は見てる方には退屈 326 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 09 51 22 ID HBHBRtZm0 325 どこが面白いかなんて人それぞれだし、推薦文投下する側で判断することじゃない そういう類のわがまま言うなら自分で史書を読むべし 327 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 11 45 47 ID /Zu/GTxd0 325 読み物としてはそうだろうが、実績評価の材料にするぶんには 羅列のほうがわかりやすいと思うよ 史書といえばやっぱりみんな明実録とか読んでるわけか? 328 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 11 53 42 ID JjxXbAi30 自分は今まで大体あんな感じの推薦文投下してきたんだけど 不評なら投下するの止めようか? つーか自分の力量じゃ、あんな感じにしか作成出来ないし・・・ 329 ◆RQdk7scN8s sage 2007/05/02(水) 12 49 00 ID cVwz+1tH0 あんな感じってどれのこと? 309のようなのだったら、明を知らん自分にはありがたすぎるくらいなのだが。 だいたい、個人の能力を引き比べているこのスレではあれど そのときの勢いとか、世論の方向性とか、開戦にいくまでの経緯とか 知って損はないはず。 というかそこまで分析する必要が実はあるのだけどね。 まぁ、それは冗長になるから、個々の専門スレですればいいが、 ここがオレ的に一押し、みたいな付加的要素は加味すれば、なおよし。 羅列とか箇条書きでは、味気ないというか、すごいのかどうなのか、 わかりにくいところもあると思う。熟知している人にはくどく感じるだろうがね。 330 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 14 08 04 ID JjxXbAi30 329 例えば、◆RQdk7scN8sさんと五代・北宋・遼で推薦合戦しあってた時の推薦文が自分のスタイル。 (楊師厚、霍彦威、郭崇韜などや南宋・金・元の劉整) 311は 292さんが分かりやすくと言っていましたのでシンプルにまとめてみました。 味気ないと言われれば立つ瀬がないわけで・・・ 駄目なら本当に投下止めますが。 331 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/02(水) 14 47 40 ID OlVm8I7a0 324さんは擁護してくれたけども、どーも書き込んでいいんかどーか悩んでしまうな。 一つの出来事にスポットを当てる、ちゅーことやったら箇条書きやめてエピソード重視の長文に戻したほうが受けいいんやろか。 例えば大同がアルタンに襲われたときのエピソード。 大同が犯され、その害は宣府にまで及んだ。総督・陳其学は恐怖し、大同は混乱に包まれる。代わって趙岢が総兵官となった。 趙岢は紫荊関を扼守したが懐仁、山陰をほしいまま寇賊に略奪され、罪に落とされ俸禄を三級落とされた。 馬芳はその後任を任され、彼から防衛の任を引き継ぐ。アルタンは転戦して威遠に逼り、いくつかの鎮を陥とした。 ちょうど陳其学が胡鎮らを率いて馬芳の陣に合しようとしたが、馬芳は余計な兵力は自らの天才を阻害するものだとして救援を拒む。 そして将兵に告げて曰く 「大同、宣府と比べるにあらず、我との間一墻のみ。時ならず寇、到る。大創もこれをあらざるべからず!!」 (大同の重要度は宣府とは比べ物にならず、しかも彼我の距離は一墻のみ。時ならず賊が襲い来るも、大創を負ったとて退くべからず!!) ここで領軍の右衛を突出させて威寧海子で交戦、大いに敵を打ち破りアルタンを就撫し、辺境には遂に平穏が訪れた。 こーいうの入れたほうがいい? むしろこっちのほうが得意っちゃ得意やけども。 332 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/02(水) 14 59 42 ID OlVm8I7a0 あとID JjxXbAi30さん、やめるとか言わんでください。 推薦文職人は結構貴重な存在なんやから。 それに 311は推薦文じゃなくて簡潔な紹介、という前提なんやから批判されてもノーカンでしょ。 333 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 16 32 42 ID xaQW0wEP0 まとめサイト作ったほうがいいな 334 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 16 46 22 ID JjxXbAi30 332 ◆oOLAqFKRB.さん ㌧ 正直にぶっちゃけるとコテ(?)はあえて付けてませんが ID JjxXbAi30は貴方のよく知っているアイツな訳で。 丁寧語じゃないのは常時だと正直、精神的にしんどい訳で、砕けた書き方してます。 自分の力量と蔵書じゃいつも投下してる、 推薦文を書くのが限界なんですよ。 あれが受け入れられないなら消えるしか道はない訳で・・・ 335 ◆RQdk7scN8s sage 2007/05/02(水) 16 48 28 ID cVwz+1tH0 330 実は○さんですか? 自分は文句ないので、続行よろしく。 なんでそんなに悲観的になってるんでしょ。 336 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/02(水) 17 12 14 ID hUEcqCSmO 中国史素人の俺だけどまとめ作ろうか? 337 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 17 36 10 ID JjxXbAi30 335 はい。自分は〇です。(思うとこがあってコテはずしてますが) 325の>出来事の羅列は見てる方には退屈 329で◆RQdk7scN8sさんの >羅列とか箇条書きでは、味気ないというか、すごいのかどうなのか、 わかりにくいところもあると思う。 このレスにマジで凹んだんですけど・・・ あんなんでよかったら投下しますが他の皆さんいいんでしょうか? 338 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 17 55 32 ID HBHBRtZm0 337 どんな形式であっても、推薦文投下してくださるだけで感謝しますよ おいらは、自分では投下もしないのに、他の人が投下してくれる 推薦文には文句つける輩はこのスレにいる資格なしと思ってます 339 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/02(水) 18 07 35 ID cJ8fvbR10 俺もオッケー問題なしと思うよ。 受け取り方は十人十色なわけやから、書き込みの文体も千差万別でよかろ? それに、あそこで凹んだゆーたら短文にこだわって箇条書きの紹介文書き連ねた俺も同じ。 なんにせよ需要は十分にあるんやから、知識があるのにそれを隠すのは勿体無いやん? 340 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 18 10 40 ID Ilihl0BuO 338 同感。俺もそう思う。 それとクレクレ言っといてサンクスや㌧も言わない奴って せっかく親切に教えてくれた人にかなり失礼な話じゃない? 341 ◆RQdk7scN8s sage 2007/05/02(水) 19 55 27 ID cVwz+1tH0 337 それは申し訳なかった。 …でも、今までのアレで味気ないとか思っているとしたら、 ちょっと自己を過小評価気味とおもいますけどねぇ。 自分は朱元璋のくだりや、 311のことを指して、羅列や箇条書きと言ったつもりじゃなかったのだけどね。 特にこれと言ったレスを指したわけじゃなく、広義のつもりだったのだ。 曹彬のときにもあったけど、華南平定に貢献した、とかそんなんじゃどうすごいのかわからんもんね。 しかも、華南平定に功績があったのは曹彬じゃないし… 勘違い等も含め、それを訂正するためにも、多少文章は長い方がいいと思っている。 それがあの、前スレで1000いかずに終った原因なんで、申し訳ないところではありますが。 340 そうですよね、自分も礼を書くのをすっかり失念していましたよ。 299の岩城氏にはいつも感謝しております(ついでにいつも非礼で申し訳ない)。 309 鄱陽湖のくだりもおもしろかったです。こういうの書いてくれると燃えますね。 342 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 20 39 26 ID Ilihl0BuO 341 別に貴方を責めているんじゃないよw 第一、ちゃんと分かってらっしゃるみたいだし。 忘れてたなら仕方ないよ、俺もそこまでは責めるつもりないし。 でも居るよね?明らかにクレクレ言うばっかりの人って…… 343 ○ sage 2007/05/02(水) 21 01 15 ID JjxXbAi30 ID HBHBRtZm0さん ID /Zu/GTxd0さん ◆oOLAqFKRB.さん ◆RQdk7scN8sさん 支援ありがとうごさいます。浅学の自分には勿体ないレスに感謝です。 只今、曹文詔の推薦文を準備中なので仕上がり次第、投下しますね。 でちょっとチラシ裏なんですが、初代スレで◆oOLAqFKRB.さん(?)が叩き台などを投下したりして 孤軍奮闘?してるのを目の当たりにしています。 その中で◆oOLAqFKRB.さん(?)がポツリ愚痴をこぼしたのが頭に有ったのと、 春秋・戦国の時代枠の時に推薦文の件で揉めたことがあったんです。 これをきっかけに自分もちょっと推薦文挙げてみようかと思ったんですよ。 で今日に至ってます。 だから推薦文を挙げる苦労はよく分かるんです。 取り敢えず出来る範囲で頑張ってみますので皆さんお手柔らかにお願いします。 連投スマン 344 ○ sage 2007/05/02(水) 21 02 31 ID JjxXbAi30 連投スマン 341 いやいや◆RQdk7scN8sさんこちらこそ過剰反応してスマン。 話の流れ的に自分の事かなと思った訳で・・・orz で長文の事はあまり気に為さんな。 自分も大変勉強になったし、言わば糧ですよ糧。 345 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/02(水) 21 34 12 ID O6R8Ym980 俺も今までの分感謝書き込みしとこうかな。 ◆RQdk7scN8sさん、○さん、そしてその他このスレで支えてくださった 皆さんにありがとう。下手すりゃ二代目スレでキレて排除されるとこやった のを容認してくださったみなさんがいなければ今の俺はいません。 本当に感謝。 343、○さん。 確かにありましたよ、その事件。思い出したくない俺の黒歴史やけどね。 あと、後漢から清までの叩き台出したのは俺で合ってます。なんのかんの言って結構楽しんでました。 現在俺は何騰蛟の紹介文を作るべく翻訳中。 こんな名前聞いても「は?」やろーけど、結構剛毅な抗清英雄なのです。 ・・・友達に騙されて攫われたり、あんまり英雄っぽくないけど。 346 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/02(水) 22 14 25 ID Tf5leQ4PO 前スレが1,000いく前に書き込めなくなり、 スレ立てを頼んだりしたわけだ。その件に関しては、どう思ってんの? 住人以外に迷惑かけて、反省や対策も講じず、長文書いてやったんだから礼の一つもしろ!! なら、それはそれで問題では? その辺はどう思ってんの? 長文投稿者および擁護者は、ちゃんとスレ立てするか、長文を諦めるのが筋じゃないの? それを考慮したうえで結論出さない? チョット論点が違いすぎる。 347 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 22 29 02 ID HBHBRtZm0 346 前スレのスレ立てでのごたごたに関しては反省すべきなのはおっしゃるとおり でも、それは推薦文あげてくれる人だけの責任じゃないだろうに 誰か気づいた人が立てるように心がければ済む話であって、 むしろあなたの言うことの方が論点がずれている ただ、スレ立て失敗も多いんだから依頼するのは2chでは普通のことだし、 1000いかないで終わるの自体はも別に問題ない 348 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 22 29 44 ID xK4Lal9FO 346 長文・AAが多いスレでは残り容量に注意すべきって基本忘れてたのは問題だが…… 349 ◆RQdk7scN8s sage 2007/05/02(水) 22 43 20 ID cVwz+1tH0 346 申し訳ないと思っているし、今回の件で初めてそれに気づいたわけだから 今後はないようにするつもりでいる。 書き込めなくなるのは、初の経験だっただけに、新スレをたてるというところまで 気が回らなかったのは事実であり、あれでも謝罪したつもりだったのだけど 気に入らなかったのなら、もう一度謝る。 ただ、長文書くことはそれとはスタンスが違うので、そっちはできればやめないで欲しい。 個人サイトでは、これほどの人たちが集まるとは思えないし、 結局、数人の固定メンバーの牙城になるのがオチですもんね。 無意味なよくわからんコピペ長文ではない、有益な文章を排除してしまうのは あまりに排他的だと思うんだよね。もったいない。 納得いただければ、以下続行よろしく。 350 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/02(水) 22 49 18 ID xbrb3H6G0 346さん 反省してるし悪いとも重々思ってるし、謝れというなら謝ります。 けども 長文書いてやったんだから礼の一つもしろ!! なんて思ったことは一度もないしね。これはつきつめれば自己満足やし。 で、前スレの反省を踏まえた上で今スレでは出来るだけ短くなるように、 少なくとも1レスで収まるように、出来れば30行以内、と自分に 課しとるんやが、まだ足りんかな? 351 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 22 50 30 ID CVOSUQDR0 割と歴史好きな一般人だが、 12読んでも知らん人ばっかでへこんだよorz 春秋戦国~前漢までと隋・唐はだいだいわかるけど 後漢なんて特に、知らん名前ばっか 有名な劉秀班超、三国の曹操周瑜はいいとして他は全然わからん 馬援とか入ってないんだな 陳の中国の歴史をちょっと開いてみたら、岑彭くらいしか名前が出てこない 樊崇って名前も複数人に連なって書かれてるだけだった 陳は後漢初期はたいした人物がいない灰色の時代とか書いてるな まあ陳の知識がそれまでなんだろうけど 検索かけてもほとんど出てこない名ばっかだけど、みんな何で知るの? 何か、後漢の連中についてわかりやすく書かれた書籍とか教えて欲しいです あと耶律徳光ってよく知らんけど耶律楚材は入ってないのね・・・わけわからん 歴史の教科書レベルの頭じゃついていけまへーん 352 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 22 58 04 ID Ilihl0BuO 346 >住人以外に迷惑かけて、反省や対策も講じず、 いや長文派はちゃんと反省、謝罪してたぜ。 >長文書いてやったんだから礼の一つもしろ!! そんなこと誰が言ってる?そのレスを示してみてよ。 でスレ立て依頼したのは俺なんだが、スレ立ては何度トライしてもダメだった。 仕方無しに代わりにスレ立てて頂けませんか?と依頼したんだ。 つーか貴方の方が 347の指摘するように論点ずれてるし、それは今出てる話とは別問題。 第一スレ立ての件は誰もいつまでも粘着してないのだが…… 353 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/02(水) 22 59 27 ID Tf5leQ4PO 347 348にある通り、長文、AAが多いスレは、1,000いかずに書き込めなくなるのは常識だ。 それなのに対策たてません。他人に迷惑かけても問題ねぇ、んなこと知るか!! は無責任すぎるだろ。750過ぎたら次スレの準備するなりの ルールを決めようや。よくあることだから無問題。なんて非常識すぎる。 それぐらいも出来ないのか? それ以外の理由で長文をやめる必要はない。長文が嫌なら読まなきゃ良い。見なきゃ良い。 そんなの議論してどうする。馴れ合いたいのか? 〇さん凄いッスと、互いが誉めあいたいのか?キモすぎだよ。 354 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/02(水) 23 06 36 ID Tf5leQ4PO 長文書いてやったんだから~は 340を読んだから。 じゃ何か?クレクレ君には長文で返さなかったとでもヌカすのか!? 悪いが短い文で返してたとは思えないぞ。 355 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 23 08 00 ID HBHBRtZm0 353 前スレが容量増えたのは、推薦文よりも定義論争の方が影響してたんじゃないかと思ったり・・・ 早めにスレ立てするのはよいと思うのだけど、この板だと保守しないでも平気なんかね? そしたら500くらいで次スレ立ててしまってもよいのかも 前半部分は正論なんだけど、 それ以外の理由で長文をやめる必要はない。長文が嫌なら読まなきゃ良い。見なきゃ良い。 そんなの議論してどうする。馴れ合いたいのか? 〇さん凄いッスと、互いが誉めあいたいのか?キモすぎだよ。 この記述するなら、キモすぎていづらいだろうから このスレから去るか、もしくは永久にROMっててくれな 356 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/02(水) 23 21 00 ID Tf5leQ4PO 〇が叩かれたのは、特定の人物におもねり、反対意見はキレたからだろ!? それなのに馴れ合いはデフォだからROMれ!!ほう、反省もしないで居直り上等かいな。 これまた素敵な反論ですこと。人格者は違うな。 357 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 23 30 14 ID Ilihl0BuO ID Tf5leQ4POは態度最悪!! 長文派のレスちゃんと読んだか? それとクレクレ君の中にはサンクスや㌧のひとつも言わない無い奴がいるから これはどうなんだと言ったたけで長文とは関係ない。オマエは読解力ないのか? このスレが気に入らないなら無理に参加しなくていい。悪態を垂れ流すだけなら甚だ迷惑だ!! つーかID Tf5leQ4POはスルーと言う事で。 358 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 23 33 26 ID HBHBRtZm0 356 君のいう反省ってのは、君の言うことを全て認めてひれ伏さないと駄目なのか? 君の言う妥当で正しい部分はみんな認めてるでしょうに 改善すべき部分だけ書いて余計な煽り部分入れなけりゃあいいのに、なんでわざわざ煽るのか? そんなだと、いくら正しいことを言ってても大多数の人には聞く耳持ってもらえないよ・・・ 359 ◆RQdk7scN8s sage 2007/05/02(水) 23 39 51 ID cVwz+1tH0 356 つまり、何が言いたいかというと? 長文だめ、単行レスしてきちんと1000までいけ それがダメなら、さっさと次スレたてろ。 ともかく見ててキモイから長文と馴れ合いはやめろ。 ということ? 次スレ云々はすまん、君には常識でも自分にはなかった。 今度からは常識にするけど。 それと、クレクレ言ってたのは誰かは知らんが、礼を入れることはそれほどおかしなことじゃないと思うが。 自分も前に、他スレにまで礼を言われたことがあって、それは励みになった。 まぁ、自分は強要せんがね。 熱いレスを投下してくれればいいと思っている。 ○さんを持ち出す理由はわからんが、特定できる存在を特定できない存在が叩くのはフェアではないでしょ。 そこは控えたほうがいいと思うが、いかが? 351 鬼スルーされそうな勢いなので、答えてみる。 陳って、陳舜臣? たいした人物がいない、というより同一勢力に固まった、とみるべきでしょうね。 後漢初は、日本語で読めるろくな書物がないので、ツラいと思う。 陳センセは「小説・十八史略」書いているけど、あれは正史のおもしろエピソードを抜き出した いってみればオリジナル。本当の「十八史略」とはずいぶん違う。 それなりに参考にはなると思う。 360 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 23 40 30 ID Ilihl0BuO 358 ID Tf5leQ4POはわざと煽ってるんだよ。 こんな奴いちいち相手しなくていいよ。 相手にするだけ時間の無駄だ。 361 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 23 45 45 ID HBHBRtZm0 351 検索かけてもほとんど出てこない名ばっかだけど、みんな何で知るの? 推薦文上げてくれてる方々は、だいたいは正史かその他漢籍史料を読んでらっしゃいますな その他、アジア歴史事典とかも元ネタになってました 何か、後漢の連中についてわかりやすく書かれた書籍とか教えて欲しいです 書籍じゃないけど、光武帝関連のこのサイトとかどうですかね? http //www.geocities.jp/kaysak864/ あと耶律徳光ってよく知らんけど耶律楚材は入ってないのね・・・わけわからん 徳光は遼の太宗です。楚材は政治家なんで、名将スレでは対象外です。 362 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 23 46 40 ID 8Ccz95AL0 陳御大に大した知識がないなんてそんな恐ろしいこと言う人が居るわけがない きっと 351は朕って言おうとしてたんだ。自分のこと皇帝陛下みたいな一人称する人なのさ 363 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/02(水) 23 48 21 ID f1tECAra0 今の話の流れとは全然関係ないんやけど・・・ 何騰蛟の紹介文は明日ってことで。今日はそろそろ眠いのです。 しかも何騰蛟、名将なのか否かがよーわからんくなってきた。 10万余の兵を集めたり李自成を蹴倒したり清軍を斥けたり さらに清軍が立て籠もる永州城を囲んで36戦して これを抜いたりしとるんやけど、なんかパンチ力不足な気がする。 まぁあくまでこんな人もおったよ的な紹介文であって、推薦文じゃないからいいんやけど。 364 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 23 49 14 ID 6b4VDF7d0 351 最近後漢書の訳本が出てるからそれを直接読んでみたらどうだろう。 あと後漢初期の政治状況について詳しく知りたいなら狩野直禎先生の『後漢政治史の研究』の研究も結構オススメ。 365 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 23 55 54 ID Ilihl0BuO 359 >クレクレ言ってたのは誰かは知らんが 元コウの際の司令官って誰の件と 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥が名将中の名将を分かりやすくの件。 俺が言うことじゃないが、礼の一言ぐらいいうのが筋かと。 現に俺は他スレまでお礼を言いに行った。 >自分も前に、他スレにまで礼を言われたことがあって、それは励みになった。 上に書いたがそれは俺。 その節はお世話になりました。 366 ○ sage 2007/05/03(木) 00 00 09 ID 9J993NId0 345 スマンそう言うつもりでは・・・ まあ幸いこのスレの住人の皆さんは良心的な方が多いので安心して参加してますが。 さてココ=テルムについててすが 結局、明では資格有りなのかな? 307さんや310さん、 312さんのレスを考慮してらココ=テルムは 「当時の中華国家の人々に恐怖意識を植えつけた」 とみなしてよいのかな? それと>せいぜいが劉基の「拡廓、未だ軽んずべからずなり」 明の大軍師がそう言い放つと言うことは、 ココ=テルムを国全体で(民衆も含め)かなり脅威な人物と考えてたと見るのは無理がある? それとも 306さんが仰る様に元の枠に入れて残り一枠を カイシャン他と争うのがいいのかな? 367 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 00 31 40 ID uCm0lvZfO 365 わざわざ礼してないレス探してるのか。きもいな。 そうまでしてお礼が欲しいの? 368 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/03(木) 08 48 54 ID Dynep93KO 後漢にえんしょうさんを入れてあげてください。 理由は簡単 369 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/03(木) 09 10 31 ID MBdtF63r0 364 後漢書の訳本が出版されているのですか?欲しい。どこの出版社ですか? 370 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 10 42 34 ID 36k8H8Wg0 岩波 でもめちゃめちゃ高いんだよなぁ 新品で全部そろえようとすると十二万くらいするよ 371 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 10 46 25 ID bhpAzAdc0 ちくまで後漢書の文庫はでないのかなぁ 372 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 10 47 04 ID vo88tyvAO 368 袁ショウ程度の実力では候補入りが関の山。 理由は簡単て言われても、、、 373 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 11 08 01 ID 36k8H8Wg0 汲古書院からも『全訳後漢書』のシリーズが出てるね こっちも高いけど 374 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 11 24 43 ID tOUIJIwH0 県立図書館とか大学図書館なら結構置いてる所多いんじゃないかな。 375 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 11 36 58 ID Zifjisi70 366 「中華国家の人々に恐怖意識を植え付けた」っていう基準はどうなんだろう。 同じ異民族武将なのに北伐を一度阻止しただけのココテムルが入って耶律阿保機、 休哥、チンギスが入らないのは不公平だと思うが。 376 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 13 13 49 ID Culb8Wdr0 見当違いの答えだったんで自分の質問に対するレスだと気づかなかったよ。 知らんかったことなんで勉強になった。お礼遅くなってすまんな。 ありがとね 238,239 377 ○ sage 2007/05/03(木) 13 25 35 ID 9J993NId0 375 今、ちょっと時間がないので返答の方待っていただきたい。 ところで入っての意味はどの様なニュワンスで仰ってるの? 376 レスありが㌧ 見当違いの答えでしたか、それは申し訳なかった。 378 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 14 13 14 ID Zifjisi70 377 中国の武将のうちに入る、ここで議論される候補の中に入るという意味。 379 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 14 14 39 ID XXwro7qG0 362 すまんこ。いらん失言してしもたよ。 確かに朕が一番知識ないのになw レスくれた人ありが㌧ あんまり初心者向けの書籍ないみたいですなー。 361のサイトわかりやすそうなので読んでみます。 380 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 14 21 32 ID XXwro7qG0 無知ついでにもうひとつだけ。 馬賢だけ検索にも出てこないんでわからないんです。 馬援なら知ってるんですが。 381 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 14 35 49 ID Y8+ne+8r0 380 過去スレの推薦文を再掲しときます 【名前】馬賢 【時代】後漢(安帝~順帝期) 【理由】 護羌校尉、弘農太守として141年に戦死するまでの間、先零羌の叛乱平定を皮切りに 20年以上にわたって三輔地域から涼州にかけての諸羌の叛乱を討伐し続けた (皇甫規、張奐、段ケイよりも戦績は凄いと思う) 主な戦績 三輔、益州を領有し趙魏に国境を接していた、零昌(シ眞零の子)率いる先零羌の別種を 任尚の指揮下で大いに破り、三輔、益州を快復する 馬賢派遣前に、羌族鎮圧に任じられていた鄧隲、任尚率いる官軍は先零羌に手も足も出ず 河東、河内まで侵入を許してしまう体たらくであったが 馬賢派遣以降は一挙に反撃に転じ、先零羌を遂には瓦解に追い込んでいる またその任期中に、隴西、安定、北地、上など、諸郡を諸羌から快復している まあ、戦死がマイナスか 382 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/03(木) 16 48 30 ID M/QnZMNJ0 23行と長いですがご容赦を。一応、抗清名将の代表です。 何騰蛟(字は商運、?-1649) 天啓元年、郷試に通り、崇禎年間、進士に及第。南陽の知事となる。聡明で四通八達と讃えられた。賊に悩まされるも、 巡撫の将に従って安皋山で賊と戦い、首級四百余を挙げる。その後独力で土寇を平定したことから名を知られるようになった。 巡撫・劉永祚にその賢才を見込まれて引き立てられる。土寇を討ち平らげ、領地に平穏をもたらす。 左良玉の反逆が起こる。何騰蛟と左良玉は好を結んだ中であったから、あっさり騙され誘拐される。漢陽門から長江を目指す漁船に乗せられたが、 地元の漁師に救われた。そこから徒歩で寧州、瀏陽を踏破して長沙に至り、衆を募る。しかし準備万端整ったときには、左良玉は死んでいた。 順治二年五月、唐王・朱韋鍵が福州で即位した。唐王は南陽にあったときから何騰蛟の賢明なことを知っており、彼に大任を任せた。 何騰蛟は兵を率いて李自成討伐に出撃。九宮山でこれを斃し、その武将二人を擒らえて帰順させた。そのまま長沙に駐屯、賊を投降させ、 一挙に十万余の兵力を要するようになる。 李自成の甥で驍勇善戦の武将・李錦が投降、その衆数十万が李錦の寝返りでことごとく何騰蛟に帰順した。 膨大になりすぎた兵たちを部下十三人に分かち、自らは中軍、旧左良玉の部下たちを率いる。 順治三年五月、清の兵が汀州を破り、唐王を捕らえて殺すと、それを聞いた何騰蛟は兵を保全して辺境に退去した。 のち、永明王が即位すると人心はようやく落ち着いた。清軍が迫ると長沙で迎え撃ち、これを斥ける。 順治四年、春。湘陰から物資を掠取した将軍が清軍に怯え、湖北に敵前逃亡。この時期、恐慌をきたしてそのような行為に 及ぶ例が多々あった。何騰蛟は十三鎮を築いて長沙を防衛。六月、白牙に移る。八月、武岡が陥ちて守将が清に降った。 永明王は靖州に走り、また柳州まで逃げた。時に常徳、宝慶はすでに落ち、永州は清軍の手に落ちた。永明王は桂林に戻り、 城に入る。焦璉がこれを攻めたが、何騰蛟および諸侯の援兵によりこれを撃退、桂林は守られる。 十一月、清軍が全州に迫ると、何騰蛟は将軍五人を率いてこれを斥けた。 順治五年正月、桂林にて太師を授かった。清軍が全州を奪い、ほしいままに略奪を繰り返しつつ桂林に迫ると、 永福から出兵、麾下を率いて督戦し桂林の三門を扼守してこれを斥ける。さらに逆撃して全州を襲い、三十六戦。 十一月、ついにこれを抜く。まもなく諸州の将帥たちが宝慶、衡州、常徳を奪回し、失地の多くを回復した。 衡州に常駐。部下の不満や内訌を軽く考えていたため見通しが甘く、 清に寝返った部下により擒らえられる。降伏を勧められるが拒み、擒らわれ、七日七晩絶食して死んだ。 あと 366○さん、 そんなに深刻な話やないから、すまんとかいわんでいいよ。当時の俺がバカやっただけ。 383 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/03(木) 16 58 10 ID M/QnZMNJ0 連投すんすません。 「中華国家の人々に恐怖意識を植え付けた」 これは無しにしたほうがいいんやろか? 領土は取れんでも攻勢に出て人々をビビらせたら資格あり (ただし中華とは別の独自路線を歩む人物は選外)、と思ってこの一文入れたけど、 そーすると境界線が不明瞭になるし過去の確定人物たちが揺らぎかねんし。 幸いにしてここは合議制の場やから、ありかなしか民主的に決めたいなーとか思うんやが、どーか? 384 ○ sage 2007/05/03(木) 23 45 47 ID 9J993NId0 375 378 耶律阿保機、耶律休哥、チンギスは資格はあると思うよ。 チンギスは一応、推薦文挙がってたし、耶律阿保機は入れろって意見が無かった様な記憶がするし、 あと落選したのは理由が別だよ。 個人的には遼が途中で契丹を名乗っていても、 同一の王朝扱いにすればいいじゃんって思ってます。・・・でも耶律阿保機の痕徳菫可汗の配下時代は先行政権に扱いかな? 誰か詳しい人いませんか? それとにココ=テルムを特別扱いしようとして 366のレスを投下した訳ではないのを 了承してもらえるとありがたいのですが・・・ 基本的には資格ありそうな人物なら挙げてもらって、 もし微妙人物ならみんなでアレコレ議論すればいいんじゃない?と思ってます。 自分なんか自己主張が激しい部分があるので意見ぶつかる事があるかもしれませんがご勘弁を・・・ 383 >「中華国家の人々に恐怖意識を植え付けた」 >これは無しにしたほうがいいんやろか? 条文を手直しすればいいんじゃない? 例えば 「中華国家に対し深刻な状況に陥らせるほどの軍事行動を起こした人物及び 脅威の存在と捉えられた人物を資格ありとする」 (ただし中華とは別の独自路線を歩む人物は選外) こんな感じでどうでしょう? 自分の頭じゃこれくらいしか浮かばないし、 もしダメならダメと言って頂ければ幸いです。 あと民主的に決めることにはもちろん賛成します。 385 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/04(金) 00 12 34 ID TUIwjw9A0 384 前から気になっていたので一言だけ言わせて ココテルムじゃなくてココテムル チャガンテムルやボロテムルもそうだけど、テムルはティムールと一緒でしょ 386 ○ sage 2007/05/04(金) 00 42 13 ID DlaLDUyM0 385 申し訳ない。ココテルムじゃなくてココテムルだねw もし指摘されなかったらずっとココテルムって打ってたよ。 385さんご指導ありが㌧ 387 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/04(金) 01 02 43 ID XrtRsHHB0 ココテルムって通信会社みたいだな 388 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/04(金) 05 46 11 ID MqCOYZZMO 靖難の変にて活躍し、たびたび燕軍を破り、朱棣に至っては危うく彼に討ち取られそうになった。 ・・・という平安って人物がいるらしいね。 389 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/04(金) 12 42 07 ID 2flU3/aCO あ~、武道の型にその名を残す平安ね。 390 ○ sage 2007/05/04(金) 13 25 41 ID DlaLDUyM0 曹文詔(?~1635) 山西省大同の人。 当初、熊廷弼・孫承宗らに付き従い遼東で参軍し、游撃に累進していた。 袁崇煥の死後は、馬世龍に従い参将となり、崇禎三年には延綏東路副総兵に任ぜられ、陜西の農民軍と奮戦する。 四年には王嘉胤を滅ぼし、その功により臨 総兵となり、 点燈子・李老柴・一条龍・掃地王などの首領を尽く討伐。 杜三・楊老柴らを捕縛し、紅軍友を斬った。 七年に後金軍が西進し、懐仁・井坪堡・応州を包囲すると、 曹文詔は懐仁を固く守った。 後金軍の包囲が解けたのを好機として、追撃するも敗退する。 山西巡撫呉?の推挙により援剿総兵官となる。洪承疇と合流し、農民軍を追撃、山陽・鎮安から漢中に入った。 さらに商州を経て金嶺川に進撃したが高迎祥・李自成らの伏兵に遭って包囲下に陥り、 その際、重傷を負い止むなく自害して果てた。 391 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/04(金) 15 28 44 ID Bl1uckYw0 383 自分は、他の定義と比較して解釈の分岐点が非常に曖昧なので、削除した方がよいかと思います。 たしか今までの確定で、「中華国家の人々に恐怖意識を植え付けた」で資格ありになった人っていなかったような・・・ 392 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/05(土) 00 58 11 ID uifH9k0v0 390 曹文詔はその戦歴の大半が農民反乱の鎮圧で、 後金には負けてるし、最後は反乱軍相手に敗死してるから、 確定は無理なんじゃないかな。 393 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/05(土) 01 21 23 ID /59R1y8k0 ココ・テムルを北元の将軍と考えても、 元の北走以前に中国領域内で、 義父(チャガンテムル)の仇である田豊や王士誠を破ったり、 ボロテムルとの戦いに勝利したりと、 充分すぎるほどの戦績を挙げているって事実は消えるわけじゃないんだから、 69の④の規定を適用して、 別に「中華国家の人々に恐怖意識を植え付けた」って基準は無視して 候補に挙げてもいいんじゃね? 394 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/05(土) 01 23 29 ID s2xw9H2n0 恐怖意識は曖昧な言葉だって前にもあったし 395 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/05(土) 01 26 25 ID Rap+NKCH0 393 その観点で問題ないと思いますが、それだと明の枠に入れるよりは 306のように元の枠に入れるのがよい気がしますな 396 定義厨@これ以外は参加できないんです。 2007/05/05(土) 03 16 33 ID F0bILz9nO 拡廓帖木児は金・南宋、元という時代を代表する人物ではないが、 元末~明初を代表する人物だと思います。 耶律休珂もそうですが、なんか上手い定義の仕方があれば入るであろう名将が、 定義の壁のためだけに確定どころか、候補にもならないのであれば、 その定義ってなんなの!?とは思うんですが、拡廓帖木児を入れるために新たに作った定義のせいで チムールなどの、一般的に『中国』とは思えない人物にまで話がおよぶなら、 本末転倒だとは思います。 確定・候補にならなかった中国史に縁のある名将10選――みたいな、 何らかの救済処置は考慮してもらえませんか? 397 ○ sage 2007/05/05(土) 08 15 52 ID 0wm4GAZe0 396 >拡廓帖木児を入れるために新たに作った定義のせいで その定義ってどれのこと? 耶律休哥は一応、候補入り&論議してなかったかい? 確か耶律徳光か耶律休哥で迷って耶律徳光を選んでた様な希ガス。 定義に云々なら李元昊なんか参加資格すらないんだし、 別に無理に入れろとは思わないし… 398 ◆RQdk7scN8s sage 2007/05/05(土) 10 03 52 ID aIstgZzV0 遼が北宋に比べ、「劣勢」であれば、自分は耶律休哥を推したかもしれない。 劣勢な国が強大な国に勝つというのは、武将好きにはツボでもあるし…w 遼はその当時、最大勢力を誇ったし、耶律休哥の活躍で、 北宋が瓦解、崩壊あるいはそのきっかけとなってないしね。 中国史に縁のある名将10選 とくに草原系の名将、というか強い将の選抜も面白い。 唐末からテュルク、ソグドと入り乱れているし、自分的には大好きだ。 需要があるなら、新スレたててもいいけど、そっち方面に専門な人がいるのだろうか? 399 ○ sage 2007/05/05(土) 10 20 38 ID 0wm4GAZe0 398 >唐末からテュルク、ソグドと入り乱れているし >需要があるなら、新スレたててもいいけど、 ちなみに名将論議じゃないけど世界史板にその手のスレたってたような・・・ ところでココテムルはどっちの時代枠に入れるの? 資格は十分あるみたいだし。 400 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/05(土) 11 33 23 ID F0bILz9nO 399 拡廓帖木児は元末~明初の時代に活躍しましたが、北元の武将だと思うのです。 明が中華から元を一掃するまでの期間限定しないと、その後に興る北元の後継政権の扱いに矛盾が出ますよ。 もし拡廓帖木児を入れるのであれば、『新しい定義』が必要になると思うんですが。 401 393 sage 2007/05/05(土) 11 44 09 ID /59R1y8k0 400 繰り返しになるが、北元の武将に規定するからといって、 元の北走以前の戦功が全て消え去るという理屈が分からん。 北元の武将になったからといって、 中国領内で戦った事実は事実として、彼の戦跡として評価するべきだろう。 そうすれば、おのずと今の基準でも候補入りは自然なものになってくる。 402 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/05(土) 11 52 48 ID F0bILz9nO 401 ではエセン・ハーンを推薦されたらどうします? 中国領内であれば良いのであれば、大英帝国の武人たちの扱いはどうなります? これで前スレは揉めたんですよ。 で、エセンが入ると過去の武将のなかでも、確定しそうな武将がいますよ。 どうします? 403 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/05(土) 12 19 09 ID GxXnbwO40 ココテムルは北元の将軍じゃなくて「元の将軍→追われた後は北元の将軍」だから 元の将軍である時期の功績は入れても何の問題もないと思うが まあそうすると元のほうに移動しなきゃいけないわけだが 404 ○ sage 2007/05/05(土) 13 44 52 ID 0wm4GAZe0 ココテムルはもともと南宋・金・元の時代枠に入れてたのを徐達とセット扱いで 明の時代枠にいれたんだから前の時代でカイシャン達と残りの一枠を争い方が後々遺恨を残さないと思う。 ◆oOLAqFKRB. さんが当時の中華国家の人々に恐怖意識を植え付けるほどの活躍をしたものを資格保持者とする。 の定義で明で資格を与えては?みたいな話から論議が始まった訳だし。 ココテムルだけの為に新たな定義作るのはどうかと思うし、それこそ特別扱いの印象を持たれると思うが。 それにエセンも英国の武人も征服王朝の先行政権や中国統一政権の武将ではないですよね? おのずと答えはでそうですが・・・ 405 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/05(土) 15 23 25 ID F0bILz9nO そうですね。 ただ、同時にこのスレでは守備での功績は評価されづらく、また、時代の趨勢を変えたわけではないので、 南宋・金・元の時代であれば、かなり厳しいかなと思ったまでです。 406 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/05(土) 20 30 53 ID Dkw61liR0 後漢の奴らはパッとしないな 他の時代に比べて見劣りするというか… 無理に人数上げる必要あるの? 407 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/05(土) 20 38 04 ID Rap+NKCH0 406 枠の見直しをやるとしても、清まで一通り終わった後、 全体を見て議論した上で見直すようにした方がいいかと 途中で変えるのはあまりよくないと思います (自分としては後漢よりも、前漢の方が枠減らしてもよいかと思ってたり・・・) 408 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/06(日) 01 05 31 ID EUEIvizI0 記念カキコ 409 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/06(日) 13 13 12 ID llizV6hQO 早く明へ行け、明へ行けとしつこく煽ったのはただ朱元璋を推したいだけだったみたいだな。 流れ止まってるわ、ふざけたレスはあるし。 記念カキコってなにがしたいんだ? 410 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/06(日) 13 31 08 ID A61GipaM0 なんでさ 411 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/06(日) 17 36 30 ID CqL59uvvO 元のときも明のときも 漢人外武将の話で進んでるのは一緒だし つーかGWに人いないの当たり前 412 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/07(月) 18 27 28 ID CyInkGcw0 【みんなで】 戦国名将二十選 【決めよう】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1178529892/ 戦国名将百選が落ちたので、数を限定して立て直してみました。 413 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/08(火) 00 21 34 ID rn4/SGMC0 なんか最近色んな「名将~選」スレを見かけるけど、元祖はこのスレだよね? 414 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/08(火) 00 53 32 ID JRszK/G20 イエス 個人的には日本名将50選も欲しいと思ってたり 415 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/09(水) 11 21 08 ID 3H5SEvvAO つーかGWに人いないの当たり前とか偉そうに言ってたが、 GW終わっても流れ止まったままじゃんw 406みたいなカキコ見たらやる気もなくなるわな・・・ 416 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/09(水) 11 40 20 ID K/iLXsf70 たまたま書き込んだ俺が名指しされたよ・・・ すまん悪気はないんだ・・・>>415 417 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/09(水) 17 00 51 ID 3H5SEvvAO 416 そういうことなら責めたのはお門違いだった・・・ゴメン 418 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/09(水) 20 36 06 ID YdnjbMkn0 明の話を始めたのが 279なんだから ただ朱元璋の話したかっただけとか、それ以外何にもしてないとか見当違い甚だしいだろ ここ100レス以上はなんの話をしてたんだということになる 419 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/10(木) 04 23 41 ID jveUOWTtO 清に行こうぜ。そんで最初の時代に戻ろう レスが無いってことは、確定の人に文句なし 候補に挙がってる人物。新たな人物について語れる人が今はいないってことでしょ いつ書かれるかわかんないレスなんて待ってらんないだろ 420 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/10(木) 05 16 45 ID ZVVhI1hP0 419 ならいっそのこと清も飛ばせよ。 清もどうせ明とたいしてレスこないたろ?とっとと一巡したいんだろ? 421 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/10(木) 14 18 36 ID V2THeJ0b0 明清は無駄に長いし時代に魅力がないのは確かだな 繋ぎで殷周を語るか?雑談でいいから 422 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 01 05 30 ID T4WM/85i0 時代に魅力が無いかは知らないが 基本的に国難の時代だったので尚文の国である中国では珍しく名将と呼べる人が多い>明 取りあえず、徐達、常遇春、湯和、李文忠、藍玉、もちろん朱元璋も 明の建国の功臣は徐常が一頭抜けてるとはいえ、甲乙付けがたいが それだけで確定組を埋めるのは色々バランスが悪いかと思う 後漢に樊崇が入ってるのもソレに近い理由だし 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥、朱元璋、李文忠、張士徳、馬芳、李自成 でどうだろう。ココテムルが入るなら朱元璋には涙をのんで貰うしかないけど 陳友諒は負けてもあれだけの軍備整えたりしてるけど、将才とは少し別の次元だと思うし 張士誠勢力は良く知らないから、まあ推してる人も居るし士徳で 兪大猷は率いた規模で見劣りすると思うし、于謙や王守仁は加えて戦績が少ないので 423 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 05 12 47 ID JIKiL+M6O どの時代でも魅力はあると思うけどね、好みは人それぞれなんだし。 マイナー、メジャーは関係無いとも思う。 後漢は建国期は光武帝とその配下、末期は曹操がずば抜けてるからじゃない?つーのと 国策としてこじんまりと収めようとした部分もあるしので派手に見えないのでは? 明も武将の偏り方が後漢に似てる様な感じがする。 レスが無い、確定の人に文句がない、語れる人が今は居ないのはどの時代にもあったけどな 流れの止まるが早いか遅いかの違いだけで・・・ 424 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 09 05 04 ID JUPiROMy0 webより転載 陳友諒と張士誠は軍勢が多く、領土が広く、さらに隣接しており、主要な敵となります。 陳友諒と張士誠について言うなら、張士誠は塩商人の出身であり、何事かあるたびに細かく詮議し、 どっちつかずな態度を取り本拠地を守って動かないことが多く、向上しようと努力することが足らず、 遠謀深慮がなく、恐れるに足りませんが、陳友諒は同じではなく、 彼は漁師の出身であり、好戦的であり、危険を冒すのを喜びます。 もしも先に張士誠を攻めたなら、陳友諒は必ず背後から手を出します。もしも先に陳友諒を攻めたなら、 張士誠はまちがいなく山に座って虎の闘いを見るように動かない可能性が大です」 と劉基は進言している。 勢力的には陳友諒の方を脅威と見ていた様だね。 ココテムルは南宋・金~元の時代枠に入れた方がいいんじゃないかな? 425 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 09 42 50 ID YpBVcDWZO 南宋や東晋の武将は良くてなんで北元はいけないの? 426 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 12 39 51 ID JUPiROMy0 北元はモンゴル高原に追いやられた後に出来た亡命政権。 南宋は抗州を臨安と名称を変えて首都に 東晋は建業(建康)を首都とした亡命政権。 同じ亡命政権でも北元は中華王朝として扱わないんじゃねーの? 427 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 13 17 15 ID Cl0K0bWTO 426 モンゴルがモンゴル高原に亡命政権作るってのも変な話だがな 428 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 14 09 11 ID 1Ukz0QKT0 424 この文を読んでも陳友諒>張士誠とはならんなあ。単なる性格分析としか読めないが。 429 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 15 40 05 ID JIKiL+M6O 428 劉基は呉・張士誠と漢・陳友諒の間にあって苦慮していた朱元璋にたいして、 陳友諒の憂いが大きく、陳友諒が滅べば張士誠も亡ぶ と進言したりもしてる。 やはり陳友諒を張士誠より侮りがたい存在と認めていたんじゃない? 430 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 20 02 25 ID i2B/4Map0 君自身が言ってるように 朱元璋は陳と張二人に挟まれて危うかった で、陳漢が好戦的、張呉がノホホン とうぜんながら張呉を責めれば抜け目ない陳漢が責めてくる 国力や軍事能力よりも指導者の性格がそうだから危険視してたんだろ 431 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 20 14 38 ID LH60Rf2H0 北元は、本人達が自分達の国を中華王朝と思っていたかどうか、 周りから見て中華王朝としての形を備えていたかが問題になるんじゃない? 東晋、南宋は間違えなくこの二点を満たしてるけど。 432 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 22 28 38 ID D7o2NHMi0 張士誠と陳友諒の紹介文 張士誠は元は塩密売商人で弟の張士義らと挙兵し反乱を起こし泰州・興化・高郵を占領。 周を建国し誠王と名乗った。 渡河し蘇州・湖州・松江・常州などを攻め取り、江南で勢力を伸ばした。 平江に本拠を移し官制を整え、紅巾軍と対立するが朱元璋の軍に連敗を喫する。 要所を手に入れるも元のトクト率いる討伐軍に破れ、いったん元に降伏して停戦し、 元の実力者として浙江省紹興まで勢力下とした。 陳友諒と同盟して韓林児・劉福通を攻撃。劉福通は戦死。 やがて再び反逆して呉を建国。呉王を名乗った。 陳友諒の滅亡を放置し、勢力を増した朱元璋に平江を攻め破られ捕虜となるが、自殺した。 璋の軍に平江を攻め破られ、捕らえられて自殺した。 陳友諒は倪文俊の武将で漁師の息子。 反乱に失敗した主君倪文俊を殺して取って代わり、元と交戦して江西・安徽・福建の各地で勝利し、 さらに徐寿輝を殺して漢帝を称した。 安慶・竜興・瑞州・池州を占領し長江中流域を勢力に収め最大の軍事力を誇った。 張士誠と結んで朱元璋に対抗、 朱元璋の拠点である太平を攻め落とし応天府にまで進撃するもするも作戦ミスで惨敗する。 江州が朱元璋軍に破られたため、退いて武昌に遷都した。 後にハン陽湖で朱元璋との決戦に挑も敗北。戦死した。 元末、各地に群雄が割拠しましたたが、 長江流域に置いては上流に陳友諒・中流に朱元璋・下流に張士誠という感じで 三者が鼎立する情勢となっていました。 433 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 22 30 01 ID D7o2NHMi0 李自成 元の名は鴻基。陝西省米脂の人。 貧農に生まれ、幼少の頃は牧童をしていたとも富農の出身とも言われている。 二十歳のころ、銀川の駅卒となり、崇禎二年、高迎祥の叛乱軍に参加。 崇禎九年、高迎祥が亡くなると、跡を継いで闖王を称した。 十一年には、梓潼において敗れて白水に敗走し、わずか十八騎に討ち減らされて商 山に籠もった。 翌年、再起して河南に移り、ふたたび勢力を拡大。 十四年には洛陽を攻略し、福王・朱常洵を殺した。 翌年には襄陽を占拠。奉天倡義大元帥を称した。 広く人材を集め、軍紀を厳正にし、租税廃止や均田を行った。 十七年、西安で即位し、国号を大順とし、永昌と建元した。 同年三月に北京を陥落させし、明を滅ぼした。 しかし、呉三桂が清と手を結んで軍を南下させたため、敗走し、翌年に湖北省通山にて自殺した。 434 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 22 34 04 ID fPwEkZ2v0 何で当たり前のように国家を支配者視点で見るかなー 民衆視点で考えたら一目瞭然 漢民族多数治めてるのが中華王朝だろ 北元などもってのほか 435 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/12(土) 00 38 38 ID 5Af9rmIm0 明末の農民反乱と李自成について 政府の過酷な収奪と干魃による大飢饉が起こり、 飢えた農民による暴動が反政府反乱へと発展した。 反乱軍は規律が厳正で、租税の撤廃というスローガンが大きな支持を得た。 反乱の指導者:王嘉胤 →高迎祥→李自成 当時、叛乱は失業駅卒の大量参加(駅站制の縮小の為)で規模が拡大したが、 相互の連携は殆どなく、陝西・河南に進出すると官軍に各個撃破されていった。 李自成は昇進とともに駅卒を中核として組織化を進め、 高迎祥が敗死した後は闖王を継ぎ、河南・山西・陝西に転戦して十四年に洛陽を占領して福王常洵を殺した。 李軍は軍紀粛正で一切の租税撤廃や均田を標榜していたために各地で支持され、 十五年に襄陽を占拠し、十七年には西安に拠って大順国を建て、太原・大同を攻略し、北京を陥落させて明朝を滅ぼした。 官制整備と並行して山海関の呉三桂を招撫したが、 呉の降を容れた清軍の為に大敗、北京を放棄して西安に後退、 湖広地方の通城付近で土民に殺された。 北京に入城した李自成は減税には言及せずに税糧牛馬を徴発したために 人心を失い、李自成が敗走すると北京の住民は歓呼したと言われている。 李自成については 433とだぶる箇所があるが取り敢えず投下してみた。 436 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/12(土) 02 15 01 ID 5Af9rmIm0 何騰蛟の他に農民叛乱鎮圧・抗清の武将なら史可法、黄得功、 抗清ならの李錦、高一功、李定国、劉文秀、 あと義軍の中では最強と呼び名の高い陳邦彦っていうのもいるな。 437 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/13(日) 16 06 57 ID 2Dz9K71L0 ここらへんの時代ってあんま際立った名将っていうのがいない気がするな 438 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/13(日) 22 55 25 ID ms7Xj0OwO 430 苦境に陥ったとき、最強の敵にあえて戦いを挑み、状況を打開することは戦略上よくあります。 最大のピンチを乗り切ることで勢いがつき、共倒れをもくろんでた周りの相手まで飲み込むことは多々あります。 この進言も、そういったことから出たのかもしれませんよ。 439 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/14(月) 18 40 20 ID 74CpXrHaO よくあるか? 440 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/14(月) 22 56 34 ID SLq9RJOtO 希にしかない話なら、虎穴に入らずんば虎児を得ずとか、死中に活を求めるいう言葉はないだろ。 劉祐とかも、周りから反対されるような博打に打って出て、栄光を手にしてる。 困難に陥った場合、蛮勇をふるってでも勝負に出ると、案外イイ方に転ぶもの。 要は決断すべき時には決断し、勇気を持って行動に移すこと。 それが勝負の分かれ目だったりする。 441 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/14(月) 23 08 53 ID wKigvHXF0 んなこと言ってるから先の大戦で負けたりすんだよ 442 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/14(月) 23 14 03 ID 90vl9BGu0 440 「死中に活を見出すべし」と部下に言われて、 乾坤一擲の決戦を挑んだ公孫述は負けたけどな。 443 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/14(月) 23 57 13 ID 74CpXrHaO まれにしかないからこそ発言なり行動なりがクローズアップされるんじゃね? 444 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 01 26 18 ID DJDCB5Xf0 というか、結果が稀にしかないから、その途中経過の言動もクローズアップされるのだと。 445 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 04 48 55 ID sUi1kiA+O 441-442 旧日本軍も公孫述も見通しが甘いというか情報分析を無視してるから負けたんたんじゃねーの? 特に旧日本軍の場合は元から勝てる見込みなんて無かったんだし。 446 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 06 59 23 ID IFXOf2LH0 445 日本軍の勝ち目の無さは…日米戦力比1 10000だもんな orz 447 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/15(火) 07 14 57 ID Vuy4kfYbO 追いつめられて逃げ場が無くなったとき、相手に主導権を穫られた上での行動と、 自ら能動的に選択した場合を混同したら、なんら教訓も得られない。 で、日本軍はどうだったんだ?朱元璋と同じ状況だったのか? 公孫述とは? 448 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 07 46 38 ID HnaA6KJd0 442 乾坤一擲の決戦というか、あれ? すでに成都すぐそばまで敵が来ている、 王手かけられた状況から勝負に出てもな。 449 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 07 57 18 ID B7YL5lmo0 念のため言っておくが日本軍じゃなく旧日本軍な アメリカと戦うべきではないと言う主張も勝つ見込みもないという分析結果も無視して 開戦に踏み切った当時の軍部は話にならんよ。 戦うことを選択肢に入れること自体愚か。 公孫述の場合は自ら招いた部分が大きくないかい? 旧日本軍も公孫述も状況判断出来てないのに無理に開戦に踏み切った感が否めない様な気がするが・・・ 朱元璋の場合は少なくとも状況判断が出来ていて、勝てると見込みがあると考えてたはず。 勝機のあった状況と決して戦うべきでない状況を混同してないかい? 念のため言っておくが日本軍じゃなく旧日本軍な。 450 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 10 08 57 ID +yPJTAyf0 445 道を誤らせた根底にはそんな考えがあったってことだよ 今から振り返って云々するのは岡目八目としか言いようがない。 まあスレ違いだけどね 451 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 12 32 52 ID DJDCB5Xf0 一つ弁護すれば、旧日本軍は戦いたくてはじめたわけじゃあないってことだけどな。 452 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 14 19 40 ID sUi1kiA+O 450 岡目八目つーか山本五十六とかアメリカとの国力差などを ちゃんと認識してる人物はアメリカと戦うべきではないと言ってますが・・・ 451 うーんでも軍部の一部の主戦論者が自分達に都合のいいデータだけを元に、 無理矢理、開戦に踏み切ったのは事実だろ? 昭和天皇もアメリカと戦うのには反対してたんだし。 453 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 19 05 36 ID U5Unx6KUO 451 まあ始めたくもないのに戦争始めないといけない状況になっちゃうのは、もっと問題だと思うがな 454 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 21 17 14 ID DJDCB5Xf0 452 別に主戦派に押し切られて開戦になったわけでもありませんよ。反対派だった山本たちも 最終的に開戦に同意してます。なぜなら、ここで妥協して問題を先送りにしても、未来の 状況はもっと悪くなると予測したからです。 453 そうですね。でもその責任を大きく請負わなくてはならないのは軍部よりも、政府及び 政治家と国民(マスコミ含む)だと思います。戦前の日本は、一応は議会制民主主義だった のだから。 455 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 22 25 56 ID sUi1kiA+O 454 俺の記憶では山本五十六は最高司令官に任命されてしまい 半年なら暴れまわれるがそれ以降は保証出来ないと言って やむなく同意したんじゃなかったっけ? 第一、良識ある人々はギリギリまで開戦を回避しようと努力してたはずだか・・・ 議会制民主主義だったのは事実だが軍部に統制された状況に ほぼ等しくなかったかい>昭和初期 それに陸海空軍の元帥である天皇も反対の意向を御前会議にて述べたが 天皇には承認権しかないのでその意見は無視されたんじゃなかったか? それと国民である祖父もあの戦争は始めるべきではないと思ってたが そんなこと言ったら殺されてたって言ってた。 456 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 22 32 14 ID Hvu8j68L0 スレ違いの話題を延々続けてるのはわざと? 457 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/15(火) 23 02 43 ID Vuy4kfYbO 450 一か八かの勝負に出た旧日本軍と、強敵と弱敵との、いずれかと戦うべきか?を選択できた朱元璋とでは、 状況が違いすぎる。 458 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 23 03 42 ID B7YL5lmo0 というか明の武将に関するレスなんかほとんど来てないじゃん・・・ スレ違いでもなんか話あってるだけマシだと思うのは俺だけか? 459 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 23 10 09 ID B7YL5lmo0 458は 456宛ね。念のためカキコしとくよ。 460 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 23 27 41 ID gSEUkQR+0 この発端になった 438はさ、複数相手の喧嘩ではまず一番強そうな奴を倒せ みたいな事言いたかったんじゃないの 461 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/16(水) 01 01 53 ID JiwuMdv00 たしかにスレ違いなんで、これで最後にします。 455 良識かどうかはともかく、最後まで回避できるのなら望んでいました。具体的に言うと アメリカが石油制裁を解くか否かで。真珠湾を目指した南雲艦隊も、この交渉が上手く いったら引き返すという選択肢をもっていたのです。しかし対日開戦を狙うアメリカは 拒絶。制裁が解かれなければ一年後には戦うこともできずに降服するしかなくなる、 ならまだ戦う余力のあるうちに戦おうとなったのです。 それと、軍部の政治介入はたしかに強くなってましたが、それでも政府主導は残って います。東条英機は、軍人であろうと、内閣総理大臣として戦争を指導したのです。 ついでにいえば、どうして軍部が政治介入することになったのかといえば、それを 押えられなかった当時の政治化たちおよび選んだ国民の責任は大きいでしょう。 あなたの祖父については知りませんのでなんとも。 462 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/16(水) 01 39 38 ID 7AqRVc7g0 当時の人の言葉だからって鵜呑みにするような人間は、考察するコトには向かんだろうなぁ 大抵の人間は、自分だけが知ってる過去を知ってる場合、都合の良い様に語るもんだ 酷い場合には捏造するし。お隣の半島の従軍慰安婦とか。自分の証言と歳が合わねぇw 463 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/16(水) 02 15 22 ID JklBSJi40 おまえらは何言っても机上の空論だよ 464 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/16(水) 02 56 33 ID jd4vx3vR0 462 ≫当時の人の言葉だからって鵜呑みにするような人間は、考察するコトには向かんだろうなぁ じゃあおまえは何を参考にして話をしてんた?って言ってたが・・・ 465 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/16(水) 21 09 07 ID hdZpnGZi0 資料を多角的に組み合わせてだろ 466 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/16(水) 22 46 13 ID jd4vx3vR0 資料を多角的に組み合わせないで語ってる奴なんているのか? いろんな視点から検討するのは当たり前なんだし。 それに身内云々はネタだろ? 467 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/16(水) 23 28 44 ID EgeAtRErO もう駄目だな。このスレ。 まあこんな過疎板で4スレまで行ったんだから十分かな。 468 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/17(木) 01 27 55 ID vAuGlejl0 441 元凶は全てこいつのせいだと思う。 469 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/17(木) 04 53 36 ID v0yeELRw0 おまえら人のこと気にしながらじゃないと書き込めんのか 470 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/17(木) 17 50 41 ID lDEb7oEI0 良い感じの荒れ具合ですね。 471 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/17(木) 18 22 16 ID PnFIw8Jn0 433 435 流石に「〓陽大会」はスルーしてますなw まあ、このスレじゃあっても無くても評価に影響は無いか。 呉三桂に勝って新王朝建てたんなら、文句無いんだけど。>李自成 472 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/17(木) 22 48 04 ID xUFIe1Ge0 471 呉三桂だけならまだしもプラス清軍だろ、 それに李自成自身も油断してたのはあるけど、新体制を整えていた段階でもあったという、 点も考慮できないかな? 朱温だって唐を滅ぼし新王朝樹立したっていっても 軍閥に毛の生えた程度の地方政権みたいなものなんだし。 473 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 14 18 40 ID ORZHmzmhO スレが過疎ってるのかこの時代が悪いのか。どっちなんだろな。 474 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 14 47 21 ID JYvlspPJ0 スレが過疎ってるよなどう見ても… トリの人も登場しないし… マイナーな時代でも一応動きはあったんだし。 上のほうでも言ってるが終ったよなこのスレ。 475 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 15 16 50 ID 2KDrlr7Q0 スレつうか板が過疎ってるんだぜ… 476 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 19 32 58 ID AZje37ba0 過疎過疎言わずに自分が書けばいいだろ 周りを気にしなきゃ何も出来ないのか 477 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 20 24 51 ID ORZHmzmhO 歴史書もなんちゃら辞典ももってないから参加しようが無い。 はやくこの時代が終わらないかと願うばかり。 書き込みもないんだから次いこうぜ。次。 478 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 21 05 31 ID AZje37ba0 この時代が苦手なやつばかりなのか?どの時代なら得意なんだ? 479 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 23 52 14 ID RjyJDnbY0 325とか 346とか、このスレを継続していく上で 一番大事にしないといけないのが何か理解できず、 好き勝手言う輩がいるからこうなったんだろ・・・ 480 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 23 53 57 ID JYvlspPJ0 477 じゃあ清に移ればおまいはカキコするのか? 472や李自成・陳友諒や農民叛乱について投下したけど、ほとんど反応ねーじゃん。 次へ行っても事態が好転するとはとても思えんが… 481 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 23 58 46 ID JYvlspPJ0 479 それは言えるかと… 実際、トリの推薦文職人はさじを投げたと思われ。 俺も一人で語るのは虚しい… 482 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 00 30 13 ID eC5nW3XTO 477は図書館へ逝ってこい!! 483 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 00 43 23 ID xaRQX/3r0 そもそもトリが居なきゃ進まない閉鎖的なスレじゃないし、ココ アジ歴は図書館いけば読めるだろ 十人の候補案だって出てるんだから、反対なり肯定なりすればいい なんの進展も無いような捏造発言は頂けない 484 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 01 26 37 ID hj44a9pU0 483 >なんの進展も無いような捏造発言は頂けない たとえばどの発言よ? さっきも言ったがレスにほとんど反応ない様に思うが… 反応あったのは陳友諒と張士誠の話と 430の意見に対して。他の話題は一人か二人。 それ以外ほとんど動きなんてなかった様な希ガス… 確かにトリが居なきゃ進まない閉鎖的なスレじゃないとは思うが、 トリの推薦文職人が初代スレから結構テコ入れしてたのは事実じゃん。 485 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 13 13 11 ID VUk839tJ0 秦良玉 明末の女将軍。字は貞素。女なのにすごいのである。 486 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 14 23 17 ID CbkdSf7v0 とりあえず鄭成功を挙げておく。 487 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 14 52 23 ID hj44a9pU0 六王の一人である湯和を一応紹介しとくよ。 湯和 字は鼎臣。安徽省濠州の人。 謙虚でなおかつ性格は慎重であり、朱元璋からの信任は厚かった。 朱元璋と同郷で少年のころからの旧友で、 至正十二年、郭子興の濠州蜂起に参加し、 朱元璋の下で、定遠・和州などを転戦し、渡江して陳野先を捕らえ、 集慶(南京)を陥す一翼を担った。 また徐達に従い鎮江を制圧、統軍元帥・枢密院僉事に進み常州に鎮めた。 張士誠討滅にも従い、また征南将軍となり方国珍・陳友定を討った。 また北伐に従って、山西・陝西・寧夏を転戦し元の名将ココテムルを破り、 洪武十一年には(1378)、信国公に封じられた。 十八年(1385)、朱元璋が諸将の兵権を解こうとはかったので、先んじて郷里に帰り、 帰国後は中山候に封ぜられたが、 四川の夏討伐、辺境の異民族の討伐などの軍事活動に参加。 朱元璋による粛清を避ける為辞職し、のち倭寇対策のために沿海の築城にあたった。 明建国の功臣である同僚の多くが粛清される中で、二十八年に病没し、 東甌王に追封された。 あとなんちゃら辞典なんていう書籍は知らないけど アジア歴史辞典ぐらいなら図書館にあるだろ?つーか図書館すらないのか? 自分の得意な時代の武将に照らし合わせるか、推薦文を読んで感じた武将に対する 意見でも述べてもらえるだけでも助かるんだけどな。 488 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 14 57 54 ID HOyFd7cU0 湯和って基本的に南の司令官で 北伐には大将じゃなくて部将として付随しるから ちょっと厳しい気がするが 489 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 15 23 57 ID hj44a9pU0 秦良玉は歴史上、個人の功績で正史に独立した伝を立てられた唯一の女性。 まあ韓世忠の嫁さんの梁夫人なんかも結構女傑として有名だよな。 国姓爺こと鄭成功は抗清を続けたが結局は不運がたたったどちらかというと英雄って感じかな。 490 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 15 32 48 ID XvdfT6pW0 北伐は司令官が徐達で、副司令官が常遇春と途中から馮勝だっけな 491 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 15 58 51 ID KUdKxXOj0 保守 492 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/19(土) 16 17 47 ID Q+TEiCJj0 徐達と常遇春ならどっちが将帥としての能力が優れてるの? 493 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 16 54 42 ID XvdfT6pW0 戦場では常遇春 それ以外(戦略的思考や諸将の統率など)も含めると徐達 だと思う 494 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 17 06 54 ID hj44a9pU0 492 徐達>常遇春じゃないかな。 徐達が大将軍、常遇春が副将軍のコンビだし、 大体の場合、常遇春は徐達の指揮下で活躍してたりするし。 493が先に意見を述べてるけど一応投下。 495 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 17 20 48 ID Q+TEiCJj0 493, 494 なら朱元璋配下の中では徐達は確定かな 常遇春や湯和も有力な候補ではあると思うけど朱元璋配下に偏りすぎるのも問題アリかもね 496 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 17 27 42 ID XvdfT6pW0 徐達と常遇春は一巡目で確定してるけど 497 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 17 33 10 ID hj44a9pU0 495 朱元璋も含め徐達、常遇春、李文忠は確定でいいと思うけど。 実力から言ってある程度偏るのはしかたないじゃねーの?>洪武帝陣営 湯和は取り敢えず紹介しただけだよ。別に無理に確定入りさせるつもりもないし。 498 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 17 56 04 ID eC5nW3XTO 495 例えたら徐達と常遇春は李靖と李勣みたいなもんだな。 499 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 18 35 29 ID 5TW7LJps0 柔の徐達、剛の常遇春 技の徐達、力の常遇春 そんなイメージだ 500 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 18 54 13 ID BCQZK9Ge0 「三国演義」(あくまでも「演義」ね)の呂布のモデルと言われているからね。>常遇春
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◇目次 1.単純明快:中国史 2.中国文明考I:女性的感性の欠落(跛行性) 3.中国文明考II:騎士道精神(あるいは日本風に言えば武士道精神)の欠落 4.中国文明考Ⅲ:遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行 5.中国文明考IV:支配者や自分の都合によって変わる独善的な歴史認識 6.中国文明考V:誠・和の精神の欠如(欲望最大・自己中心・道徳最低)、意味不明(相手によって意味の変わる)な仁、「詐」の文化 7.中華人民共和国の歴史 8.補講1.「中国4000年の歴史」というのは真っ赤な嘘。国が連続していない。 2.「国」が始ったのは1912年。それ以前は「国」の概念もない、点の歴史のみ。 3.中国は歴史が真っ直ぐ続いていない。少数民族の歴史を乗っ取って偉そうにしているだけ。 4.乗っ取り潰して入れ替える、そしてそれを繰り返す野蛮王朝。 5.日本文化と中国文化の関係 6.残虐思想の歴史、食人文化、儒教と官僚制度、中華思想&共産党 7.中国は国家としてまとまってない。2つに分かれている。 ■ご意見、情報提供 1.単純明快:中国史 ◆「統一⇔分裂サイクル説」に沿って中国史を単純化 1. 統一期I 夏~殷~西周 2. 分裂期I 春秋~戦国時代 3. 統一期II 秦~漢 4. 分裂期II 六朝時代:三国~西晋~東晋・五胡~南北朝 5. 統一期III 隋~唐 隋・唐は本来は鮮卑系(五胡の一 モンゴル系またはトルコ系) 6. 分裂期III 五代・遼~北宋・遼~南宋・金 遼は契丹(モンゴル系)、金は女真(ツングース系=満州族) 断絶 7. 統一期IV 元 元はモンゴル族 8. 分裂期IV 明・北元(タタール) 北元(タタール、明では韃靼と蔑称した)は漠北に帰還後の元朝明は規模的に元・清の半分で北元との南北分裂期と見るのが妥当 9. 統一期V 清 清は満州族で、北元よりモンゴル族の大汗位を継承 断絶 10. 分裂期V 中華民国 実態は軍閥・革命勢力・独立派諸民族が割拠 11. 統一期VI 中華人民共和国 「5.中華人民共和国の歴史」参照 ◆要点 分裂期から次の統一期に入る時に「中華」の範囲が拡大している。 大きな断絶が2回ある。 一回目 元朝(モンゴル族)による征服(漢族王朝の完全消滅)「有徳者への禅譲、ないし放伐」という王朝変遷の建前もここで完全に消滅し、以降は"腕力[または財力]が全て(=モラル欠落)の社会"となる 二回目 王朝制度そのものの崩壊~共産主義中国の出現(文化大革命に代表される過去の文明の否定) 漢族のアイディンティティは、統一期IIの秦~漢時代にある。 しかし実際には、唐滅亡以降~清滅亡迄の千年間は、漢族は北方民族に圧迫され、また支配されていた期間が圧倒的に長い。 | ⇒唐代までに形成され、日本でも幅広く受容された古典思想が、弱体だった宋朝以降に著しく歪んでいった原因(朱子学イデオロギー:理念先行=現実から遊離した空理空論を弄する欺瞞的国家体質が形成される)。 ⇒20世紀には、これに更に共産主義イデオロギーが加味(中華思想+共産主義=欺瞞的・暴力的国家体質が形成される)。 漢族は北方民族に圧迫され、また支配されていた期間が圧倒的に長いが、元代に京劇の基になる元曲が作られたり、清代に中華料理の代表格である皇帝のための「満漢全席」やチャイナドレス(満州服)が作られるなど全てが暴虐な政治に結びつき停滞する漢族の文化は異民族頼りで発展してきた由来がある。このように自力では破壊と殺戮ばかりで停滞し外国人に頼って発展した例は数多い。イギリス領香港もその一例である。大日本帝国との関係もこのような例は枚挙をいとわない。 中国は日本の権威(天皇)と権力(首相・征夷大将軍・摂政関白など)が分離している政治形態(姓を持たない天皇の継続による万世一系)や西洋と異なり、権威・権力が一体化した独裁者皇帝による支配者の姓や民族さえ変わる「易姓革命」(易族革命)の歴史を持つ。結果、暴君が多く王朝の変わり目の戦乱などで虐殺・弾圧の歴史が繰り返される。 ◆王朝の滅亡原因 1 内乱型(貴族や宦官の専横・党争等で国が乱れ、農民が匪賊化し大乱が発生、豪族や鎮圧軍が各地で軍閥化して内部崩壊)⇒秦(陳勝呉広の乱)・漢(黄巾の乱)・隋・唐(黄巣の乱)・元(紅巾の乱…厳密には北帰で滅亡ではない)・明(李自成の乱)・清(辛亥革命) 2 異民族侵入型⇒西周(犬戎の侵入で東遷)・西晋(五胡の侵入で南遷)・北宋(金の圧迫で南遷)・・・厳密には、これらは滅亡ではない。 3 従って厳密な異民族侵入型(異民族征服型)は、次の一件のみ⇒南宋(元に征服されて滅亡)※なお清は征服王朝だが、明を直接征服した訳ではなく、明を滅ぼした李自成(農民反乱)を討伐して漢土の支配を確立。 2.中国文明考I:女性的感性の欠落(跛行性) | 日本と中国の精神文化には強い共通性があり、その殆どは中国起源だとする刷り込みが、①マスコミ、②教育を通じて頻繁に行われている。 しかし最近のチベット虐殺や毒入り餃子事件の件で分かる様に、中国の精神文化は、実は日本とは決定的に違う事を、この際しっかり認識しておこう。 | 神話の時代からそうだが、日本や欧州の文明では社会や人間の精神的発達に於いて当然ながら「女性」の貢献が極めて大きい。 特に日本は10世紀の昔から紫式部の源氏物語や清少納言の枕草子を始めとする女性文化が発達している。 そのため、「大和撫子」や「才色兼備」に相当する言葉は世界的にみても日本しか存在しない。これは西洋にもない現象で世界に誇る文化である。 (1)日本の場合 日本神話 天照大神、神功皇后など 日本文化史 額田王、紫式部、清少納言、菅原考標娘、樋口一葉、与謝野晶子など 日本政治史 卑弥呼、推古女帝、光明皇后、北条政子など (2)欧州の場合 欧州神話 ヘラ、アフォロディテ、アテナ(希)など。あるいは北欧神話のオンディーヌ、聖書のイブ・マリア 欧州文化史 エレオノール=ダキテーヌ(仏)、マリアンナ=アルカフォラド(葡)、ラ=ファイエット夫人(仏)、J.オースティン(英)、ブロンテ姉妹(英)など 欧州政治史 イザベル女王(西)、エリザベス女王(英)、ビクトリア女帝(英)、ポンパドォール夫人(仏)、エカテリーナ女帝(露)、マリア=テレサ(墺)など これに対して中国はどうか。 (3)中国の場合 中国神話 ホウジ、ダッキ(艶女・暴君タイプ) 中国文化史 無し 中国政治史 呂后、武則天(則天武后)、西大后(暴君タイプ)虞美人、楊貴妃、陳円円(艶女タイプ) | つまり、神話・実在を問わず、中国史に登場する女性は、男を凌ぐほど残虐な暴君タイプか、男の都合のままに流されて生きる艶女タイプしかない。 おそらく今に至るも男尊女卑の風習が強烈なために(それを儒教的伝統と言うのだが)、中国は自称4000年近い長い歴史を誇るにもかかわらず、日本や欧州のように女性の感性を核とする柔構造の文化をついぞ生み出し発展させることが出来ず、それゆえ弱者への優しさを欠いた跛行的な文明となってしまった、と結論づけられる。 | 20世紀初頭に至っても、魯迅「阿Q正伝」の精神世界に留まっていたのである(そしてそれは、本質的には今も変わっていない)。 残虐・好色・貪欲の3つに特徴づけられ、女性的感性を欠く跛行した文明が中国文明の本質である。 最近のチベット虐殺や四川省大地震に対する偏向報道は以上の根拠を益々強めるものである。 3.中国文明考II:騎士道精神(あるいは日本風に言えば武士道精神)の欠落 | 漢から六朝を経て隋唐へと連綿と続いた中国の古代貴族制社会は、中唐期の節度使の勢力強大・分立をもって動揺し、晩唐の黄巣の乱を期に崩壊する。 その後、五代十国の時代を経て北宋による統一を迎えるまでの約一世紀(870-980頃)を、中国史上の「武人の時代」と呼ぶ。 同時期に、日本では武士階級の興起があり、西欧でも騎士階級による封建社会の形成の動きがあった。 | しかし中国の場合は、おそらく北方民族からの圧力が強力であったために、日本や西欧のように封建諸侯が分立したまま国家を存続させることが困難で、本来は武人勢力の一角に過ぎなかった宋朝による統一が促進され、統一の達成後は、再び国を分裂させないために、唯一絶対の皇帝権の下で武人階級の抑圧が起こってしまった。 結局、中国は中世的封建制社会を形成できないまま、近世的な官僚制皇帝専制国家に移行してしまった。 | つまり、日本的な武士道精神や西欧的な騎士道精神が後の世代が頼り・誇りとする精神的遺産として形成されなかったのである。 | では、中国社会に存在する武士道(騎士道)に替わる精神的遺産とは何か? それは、私の見るところ「任侠道」である。 楚漢抗争の物語を読んでも、三国史演義を見ても、あるいは後世の水滸伝の世界を観察しても、そこにあるのは義兄弟の誓い等の「任侠道」すなわち「ヤクザの精神世界」である。 これは、武士道や騎士道を特徴づける死や犠牲を超越した精神的美学・美意識が欠落した、自己保存と利益万能を特徴とするご都合主義の精神文化といえる。 | 台湾を民主化した李登輝前総統が、中国を「土匪国家」と形容したことがあるが、まさに「任侠道」にもとづくヤクザ(匪賊)が成り上がって国家権力を掌握して出発したのが今の中国である。 しかし、中国の国家の成立を見ると、由緒ある古代王朝の系統は、B.C.2世紀の秦の滅亡で完全に絶たれ、それ以降は、 外来民族による征服国家(鮮卑系の北魏・隋・唐、モンゴル系の遼・元、満州族の金・清) もしくは 土匪の成り上がり国家(漢、五代の後梁、明、共産党支配化の現中国) ばかりである(なお、宋は五代の軍閥出身、中華民国も軍閥及び国民党の連合政権)。 | 多くの日本人が持つ疑問「中国は何故近代に乗り遅れたのか?」の答えが、I.(女性的感性の欠如)、II.(武士道精神の欠落)にある。 4.中国文明考Ⅲ:遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行 | 現代では政府の正統性は、選挙などを通して自由に表明される国民の信認によって付与される。それは国土の大小や人口の寡多や経済力・政治力などの強弱には制約されない世界共通の認識といってよいだろう。 中共政府は自国民の人権を不当に制約する言い訳として、自国が人口過剰な発展途上国であることを挙げるが、それでは「世界最大の民主主義国家」を自認するインドの発展振りはどう説明するのか。中国が直ちに民主化できない理由は一切ないのである。 中国が民主化しない理由は、今や特権階級となった共産党上層部が圧倒的多数の人民を支配する体制を維持するためであって、現在の中共政府に国家統治の正統性があるとは、とても思えない。そして、 | 政府に正統性がない所では、国民が遵法精神を持ちようがないのである。 加えて、中国の場合は、国家自体が何度も途絶しており歴代王朝の正統性が元々怪しく、日本や西欧のように長期にわたって国家と国民の信頼関係が醸成されるという発展過程が乏しかった、という背景もある (「1.単純明快:中国史」参照)。 | 中国の庶民に最も人気のある歴史上の人物といえば、南宋初期の武人"精忠報国"岳飛である。 日本で言えば楠木正成に相当する、南宋皇帝高宗に最後まで忠義を尽くした人物だが、彼の場合、実に悲劇的なのは、金朝(女真族)との戦闘自体には勝利目前だったのに、自分が忠義を尽くしている筈の南宋宮廷の謀略に嵌められて、無実の罪で一族もろとも刑死させられた事である。(ただし、中国の忠義は日本の公と異なり、皇帝や宮廷といった絶対的な権力者のためのもの。) 中国の歴史には、このような著しいモラル・ハザードが、枚挙にいとまない。 日本人にも親しみのある例で言えば、忠孝を尽くした劉備・孔明の側ではなく、権勢欲と謀略の権化であった曹操・司馬仲達の側が勝ち続けて栄華を手にするのが中国の常態であり、そのような社会では、美辞麗句を連ねる儒教などの建前とは裏腹に「正義感や信義誠実を尊ぶ精神が育ちようがない」のは当然である。 尚、中華民国・中華人民共和国時代は曹操・司馬仲達が中国人に好まれ国の元首から庶民まで生き方の手本となった。また、劉備にも戦乱の逃亡時の際、漁師の劉安の妻を食べた食人の要素や孔明にも孟獲を自称「徳」で征服した南蛮征伐、劉備が息子の劉禅(阿斗)が無能ならば孔明が政権を奪っていいと言った遺言など中国的な要素が強く日本人の考える忠孝とは大きく逸脱する残酷な話が多い。 | ※なお、岳飛については朱子学に基づく中華国粋的傾向が見られ、彼と対立した礼部尚書(文部大臣)・秦檜(皇帝高宗と南宋宮廷の謀略の側面もあり)が金に対して和平交渉を試みたのに対し、岳飛一党が軍事的に弱体でありながら無駄な局地戦を続けたために国や民衆が疲弊し、南宋の滅亡を早める結果となったとする指摘もある。秦檜の行動により両国の戦乱が治まり南宋は繁栄したのも事実である。 岳飛の上司であり局地戦の指揮官であった韓世忠などについても同様である。漢人の岳飛信仰の根底には、中華思想による異民族国家(女真(ツングース系=満州族))金朝への蔑視があり、相手と屈辱的な和平を結ぶよりも、実状を無視して徹底抗戦し敵を虐殺する岳飛を、正当化し美化・信仰してきた側面がある。 これは後に南宋を滅ぼしたモンゴル帝国こと後の元朝(モンゴル族)に対しても同様である。日本のような「死ねば神仏になる」考え(山川草木愁皆成仏)とは真逆の中国の「死者の墓を暴き、骨や遺体を徹底的に痛めつけ魂まで食らい未来永劫呪う」強烈な独善思考=鞭屍、恨み骨髄までは、岳飛に対抗して和平交渉を行った秦檜とその妻王氏(他に張俊、万俊(モチシエ)などの5奸族)の墓や像に、現在でも観光客が唾を吐きかける、小便をするなどという徹底的な侮蔑を伴っており、このため三国志などと違い、岳飛の物語が日本ではあまり受け入れられない要因となっている。秦檜と同様に扱われる者に明末の清に合流した呉三桂、岳飛と同様に扱われる南宋の史可法、明末の文天祥がそれぞれ奸族(漢奸)、英雄とされる。 また、仇敵(=異民族、外国人、またはそれと組んだ者)を未来永劫許さずその肉(屍肉)を食らう思想は岳飛を描いた「隔簾花影」でも揚州市民が漢奸(金人)を食らう描写を岳飛が賛美したものも見られる。この岳飛の「満江紅」の詞は今でも中国人の間で詠われている。 5.中国文明考IV:支配者や自分の都合によって変わる独善的な歴史認識 | 中国における歴史観は、日本人のそれとは大きく異なり、歴史人物の評価が時の権力者や時勢により大きく変貌・逆転し、突如大悪人=漢奸が大善人・英雄となったり、逆に大善人・英雄が大悪人=漢奸となる現象が度々起こる。 中共政府も鄧小平政権時代には文化大革命を礼賛する文化人が切り捨てられる結果となった。これは中華思想・事大主義に端を発する側面もあり韓国はなぜ反日か?と共通する点も多い。 | 前述の岳飛も当時は大罪人にあり秦檜の方が評価されたにも関わらず、後世になると以上のように逆転している。 暴君と詠われる秦の始皇帝(政)も文革時代は最大の名君であり、儒教の開祖・孔子(孔丘)は五四運動の際は封建主義の元凶に文革時代には「批林批孔」のスローガンと共に反動派の頭領とされた。 反動的・封建的人物と言われる西太后(慈禧太后)や曾国藩や袁世凱も改革者や愛国者に変わった。近年では共産党と対立した国民党の蒋介石や彼と対立し、死後秦檜夫婦のような弾圧を受ける汪兆銘(汪精衛)は共に売国奴と愛国者の間に見解が変動している。 彼は秦檜同様、当時の日本政府や日本軍と和平交渉や協力を行ったため、売国奴と呼ばれるようになった。 このように中国は外国人・異民族と徹底抗戦することを望む好戦的で残忍な性格が顕著である。 また、英雄と呼ばれた鄭成功は分裂主義者に変わる。このように独善的で朝令暮改で変動的なのが中国の伝統的な歴史観である。 6.中国文明考V:誠・和の精神の欠如(欲望最大・自己中心・道徳最低)、意味不明(相手によって意味の変わる)な仁、「詐」の文化 | 上に挙げる「遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行」とも共通する。孔子(孔丘)の論語の五倫(仁・義・礼・智・信)は日本に伝来した時、聖徳太子により「和・義・礼・智・信」に変更されている。 武士道の代表とされる誠も取り入れられ、「誠・義・礼・智・信」とも後世には呼ばれた。長年、仁は意味不明の徳目とされ、強盗(匪族)には強盗の仁があるとまで言われ、時代ごとにその意味は変更された。仁は日本でもヤクザ(任侠)が好んで用いる物とされる。 中国では詐術・謀略の横行や大虐殺、匪賊の跋扈などにより誠心誠意に代表される『誠』(まごごろ・いつわりのない心)やみんな仲良く手を取り合う『和』(穏やかさ・なごやかさ・のどかさ)が欠如しており、嘘をつくことや人を騙すことが当然とされ、現在でも台湾などでは「詐」の国と呼ばれる。 詐以外にも争・盗・乱・穢の性質を持つ。 7.中華人民共和国の歴史 ◆毛沢東の中国:大いなる実験 ◇1 (1950年代まで) 貧困に苦しむ農民、蒋介石の国民党政府(1928)、中産階級と農民の格差、共産党の台頭と国民党による弾圧、抗日戦争と国共合作(1937-1945)、毛沢東・共産党と農民、国共内戦(1945-1949)、国民党の敗北・台湾へ逃避、中華人民共和国の成立(1949)、プロパガンダと思想教育 ◇2 (1958年頃まで) 農地改革と農民、地主の告発集会と処刑、実業家から実質的資産没収、女性の権利拡充、教育、プロパガンダと国民総動員体制、雀撲滅運動、反革命分子告発キャンペーン ◇3 (大躍進政策1958-1960) 人民公社への統合、農工業の大増産政策、人民への厳しいノルマと水増しされた成果、無茶な粗鉄増産、飢饉による大量の餓死者、劉少奇、農民の土地私有復活、生活の正常化 ◇4 (文化大革命1 1966-1967) 毛沢東語録、長江遊泳、伝統文化の破壊、プロレタリア文化大革命、江青女史ら四人組と毛沢東への個人崇拝、原理主義的学生と紅衛兵、劉少奇ら実権派への中傷キャンペーン、 知識層・管理者層のつるしあげ・暴行、走資派レッテルと告発集会 ◇5 (文化大革命2 1967-1989) 過激化する紅衛兵、リンチを受けた女性校長、大量の処刑と自殺、内部抗争する紅衛兵、 学校・病院・工場閉鎖、無政府状態、秩序回復のため人民解放軍の投入、紅衛兵運動停止(1968)、上山下郷運動、毛沢東の死(1976)、四人組逮捕、鄧小平の経済改革 、天安門事件(1989) ◆天安門事件(第二次天安門事件、1989年6月4日) 天安門事件 2/3 天安門事件 3/3 http //www.nicovideo.jp/watch/sm7258151 http //www.nicovideo.jp/watch/sm2129074 天安門事件関係ニュースが流れると放送を止められる瞬間 六四事件(天安門事件)を忘れてはならない 毋忘六四 ※一部グロテスクな画像があります。ご注意下さい。解説⇒ぼやきくっくり様HP ※ところが、NHKクローズアップ現代は「大規模な虐殺はなかった」と中国を庇う捏造報道⇒NHKの正体 ◆中国共産党の正体(九評共産党)・・・中国共産党とは何者なのか?「大紀元」(法輪功(Falun Gong))製作 中国共産党の正体(九評共産党)① 続き⇒中国共産党の正体(九評共産党)② 続き⇒中国共産党の正体(九評共産党)③ 続き⇒中国共産党の正体(九評共産党)④ ※大紀元社説シリーズ『共産党についての九つの論評』 【第一評】共産党とは一体何ものか 暴力による恐怖によって政権を奪取し維持する 虚言を以って暴力の潤滑剤と成す 絶えず変化する立場と原則 党性(党是)が人間性に取って代わり、人間性を消滅させる 自然に反し、人間性に反する邪悪な生命体 邪悪な憑き物の特性 自己を反省し、中国共産党の憑き物から逃れる ■参考サイト 丸幸亭老人のシナにつける薬 8.補講 1.「中国4000年の歴史」というのは真っ赤な嘘。国が連続していない。 中華人民共和国は63年の歴史。(前の中華民国は100年) 国が断絶したのは、13世紀後半のモンゴル人による植民地支配(大モンゴル国時代)。中国人最大のトラウマ。 4000年というのは、中華思想によって漢民族・モンゴル・満州民族なども混ぜた上での考え方。チベットが中国というのと同じ。支那の語源・秦でも2000年ほどの歴史をブツ切りにしたものでしかない。存在すら疑わしい「夏」などの古代王朝も含めて4000年とされた。 ちなみに、パンダはチベットから無理やり盗んだもの。 日本は、皇紀2600年以上の連続した国の歴史がある、世界でもっとも歴史のある奇跡的な国。ユネスコ入りすべき。 2.「国」が始ったのは1912年。それ以前は「国」の概念もない、点の歴史のみ。 国という観念はない。広い場所に要塞で囲った町や王朝名があったのみ。 単なる王朝の歴史は古いが国全体の歴史は浅く、それらが都合良く書き換えられている。 「日本人は、自分達と同じように連続した歴史の中にある」と今でも勘違いしている。 それを現代の中国が「国」という概念に歴史を書き直している。 1907年の早稲田大学の清国留学生62人は、自分の国籍について、支那18人、清国12人、中華&中国7人、残り25人は自分が何国人かも書けなかった。 漢人の歴史トラウマ 3.中国は歴史が真っ直ぐ続いていない。少数民族の歴史を乗っ取って偉そうにしているだけ。 漢民族は、どんどん他の民族を乗っ取り搾取して成立してきた国。 「漢字を使うのは、中国のもの」という思想の元、都合の良い時には乗っ取り、いらない時は切り捨てる。毛沢東政権に以前まで使われていた繁体字を簡体字に改めた政策と同じ。 土地の6割は元少数民族。(中国の土地ではなかった) 4割の土地の持ち主の漢民族が、人口の9割をしめて乗っ取っている! どうして乗っ取るかというと、資源が欲しいから。チベット(水や空気)ウイグル(石炭石油・ガス)モンゴル(油田)東シナ海(ガス田)→これらはみんな中国のものだから、と共産党が奪う 台湾、沖縄も取りにくるだろう。 4.乗っ取り潰して入れ替える、そしてそれを繰り返す野蛮王朝。 独裁者が王朝が支配、謀反人や狂信集団がそれを潰して新しい独裁者となり、それを繰り返す。 独裁者は自分の正当性を言うために、前の独裁者に関わる物を皆殺し、文化を吐かして歴史を書き換える。 王朝が変わるために文化財を破壊するから、墓しか残らない。その墓も盗掘が多い。 王朝が変わるたびに人口が大きく減る。飢饉や大量殺戮、人を食わせて全滅させたりが日常茶飯事の国→だから中国人は、生きるために他人を信用しない。幸災楽禍=他人の不幸を喜ぶ精神を持つ。 日本は、殺し尽くさないで調和する考え方(島国だから&許し、水に流す&死者を冒涜しない) 天皇の部下としての武士達が戦う事はあっても、武士は天皇に手を出さないし、武士同士で戦っても皆殺しにはしない。 5.日本文化と中国文化の関係 中国は自分の文化を自分で潰しまくった(文化大革命では孔子孟子を否定し、本は焼かれた) 日本は、どんどん研究していく文化があり、独自の文化になった(漢字など)。 中国共産党は孔子を否定していたが、急に持ち上げ孔子学院(語学学校)を世界2000カ所に設立。 江戸時代以来、論語の本家は日本に移った(実行と解釈の深さ) 唐などの中国の歴代王朝は陸禁・海禁といった徹底した閉鎖的な世界を築いており中華思想で夷狄とみなし見下す外国から文化を取り入れたり、朝貢貿易の分以上に外に出すことはしなかった。諸外国は中国の歴代王朝から高額な金や臣下の礼を強制される屈辱的な外交でぼられたといえる。 他人や国のために生命を投げ出す「玉砕」は日本文化、中国文化は時の権力者の趨勢で他人を裏切り、新たな支配者の奴隷になる「瓦全」。(これは韓国・朝鮮人も同じ。) 日本と中国は理解しあえない 著者 日下公人,石平 6.残虐思想の歴史、食人文化、儒教と官僚制度、中華思想&共産党 中国残虐史、人肉料理文化 儒教には万人平等という思想がない。少数のエリートが多くの愚かな民衆を統治するべきという官尊民卑の思想。 7.中国は国家としてまとまってない。2つに分かれている。 支配階級(搾取する側)と搾取される階級(田舎、農民) これらはとても仲が悪い。内部をまとめるだけで大変。マスコミや中国は隠しているが、そのうちボロがでる。 当サイトは、日本人の自虐史観(東京裁判史観)からの完全脱却を応援します。 ■セットで読む中国の民族問題解説ページ■東トルキスタン侵略の正体チベット侵略の正体南モンゴル侵略の正体台湾の真実中国の歴史・中国文明辛亥革命~中国近代化運動の実際 ■ご意見、情報提供 国民が知らない~wiki避難所
https://w.atwiki.jp/nipponnokiki/pages/191.html
◇目次 1.単純明快:中国史 2.中国文明考I:女性的感性の欠落(跛行性) 3.中国文明考II:騎士道精神(あるいは日本風に言えば武士道精神)の欠落 4.中国文明考Ⅲ:遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行 5.中国文明考IV:支配者や自分の都合によって変わる独善的な歴史認識 6.中国文明考V:誠・和の精神の欠如(欲望最大・自己中心・道徳最低)、意味不明(相手によって意味の変わる)な仁、「詐」の文化 7.中華人民共和国の歴史 8.補講1.「中国4000年の歴史」というのは真っ赤な嘘。国が連続していない。 2.「国」が始ったのは1912年。それ以前は「国」の概念もない、点の歴史のみ。 3.中国は歴史が真っ直ぐ続いていない。少数民族の歴史を乗っ取って偉そうにしているだけ。 4.乗っ取り潰して入れ替える、そしてそれを繰り返す野蛮王朝。 5.日本文化と中国文化の関係 6.残虐思想の歴史、食人文化、儒教と官僚制度、中華思想&共産党 7.中国は国家としてまとまってない。2つに分かれている。 9.ご意見、情報提供 1.単純明快:中国史 ◆「統一⇔分裂サイクル説」に沿って中国史を単純化 1. 統一期I 夏~殷~西周 2. 分裂期I 春秋~戦国時代 3. 統一期II 秦~漢 4. 分裂期II 六朝時代:三国~西晋~東晋・五胡~南北朝 5. 統一期III 隋~唐 隋・唐は本来は鮮卑系(五胡の一 モンゴル系またはトルコ系) 6. 分裂期III 五代・遼~北宋・遼~南宋・金 遼は契丹(モンゴル系)、金は女真(ツングース系=満州族) 断絶 7. 統一期IV 元 元はモンゴル族 8. 分裂期IV 明・北元(タタール) 北元(タタール、明では韃靼と蔑称した)は漠北に帰還後の元朝明は規模的に元・清の半分で北元との南北分裂期と見るのが妥当 9. 統一期V 清 清は満州族で、北元よりモンゴル族の大汗位を継承 断絶 10. 分裂期V 中華民国 実態は軍閥・革命勢力・独立派諸民族が割拠 11. 統一期VI 中華人民共和国 「5.中華人民共和国の歴史」参照 ◆要点 分裂期から次の統一期に入る時に「中華」の範囲が拡大している。 大きな断絶が2回ある。 一回目 元朝(モンゴル族)による征服(漢族王朝の完全消滅)「有徳者への禅譲、ないし放伐」という王朝変遷の建前もここで完全に消滅し、以降は"腕力[または財力]が全て(=モラル欠落)の社会"となる 二回目 王朝制度そのものの崩壊~共産主義中国の出現(文化大革命に代表される過去の文明の否定) 漢族のアイディンティティは、統一期IIの秦~漢時代にある。 しかし実際には、唐滅亡以降~清滅亡迄の千年間は、漢族は北方民族に圧迫され、また支配されていた期間が圧倒的に長い。 | ⇒唐代までに形成され、日本でも幅広く受容された古典思想が、弱体だった宋朝以降に著しく歪んでいった原因(朱子学イデオロギー:理念先行=現実から遊離した空理空論を弄する欺瞞的国家体質が形成される)。 ⇒20世紀には、これに更に共産主義イデオロギーが加味(中華思想+共産主義=欺瞞的・暴力的国家体質が形成される)。 漢族は北方民族に圧迫され、また支配されていた期間が圧倒的に長いが、元代に京劇の基になる元曲が作られたり、清代に中華料理の代表格である皇帝のための「満漢全席」やチャイナドレス(満州服)が作られるなど全てが暴虐な政治に結びつき停滞する漢族の文化は異民族頼りで発展してきた由来がある。このように自力では破壊と殺戮ばかりで停滞し外国人に頼って発展した例は数多い。イギリス領香港もその一例である。大日本帝国との関係もこのような例は枚挙をいとわない。 中国は日本の権威(天皇)と権力(首相・征夷大将軍・摂政関白など)が分離している政治形態(姓を持たない天皇の継続による万世一系)や西洋と異なり、権威・権力が一体化した独裁者皇帝による支配者の姓や民族さえ変わる「易姓革命」(易族革命)の歴史を持つ。結果、暴君が多く王朝の変わり目の戦乱などで虐殺・弾圧の歴史が繰り返される。 ◆王朝の滅亡原因 1 内乱型(貴族や宦官の専横・党争等で国が乱れ、農民が匪賊化し大乱が発生、豪族や鎮圧軍が各地で軍閥化して内部崩壊)⇒秦(陳勝呉広の乱)・漢(黄巾の乱)・隋・唐(黄巣の乱)・元(紅巾の乱…厳密には北帰で滅亡ではない)・明(李自成の乱)・清(辛亥革命) 2 異民族侵入型⇒西周(犬戎の侵入で東遷)・西晋(五胡の侵入で南遷)・北宋(金の圧迫で南遷)・・・厳密には、これらは滅亡ではない。 3 従って厳密な異民族侵入型(異民族征服型)は、次の一件のみ⇒南宋(元に征服されて滅亡)※なお清は征服王朝だが、明を直接征服した訳ではなく、明を滅ぼした李自成(農民反乱)を討伐して漢土の支配を確立。 2.中国文明考I:女性的感性の欠落(跛行性) | 日本と中国の精神文化には強い共通性があり、その殆どは中国起源だとする刷り込みが、①マスコミ、②教育を通じて頻繁に行われている。 しかし最近のチベット虐殺や毒入り餃子事件の件で分かる様に、中国の精神文化は、実は日本とは決定的に違う事を、この際しっかり認識しておこう。 | 神話の時代からそうだが、日本や欧州の文明では社会や人間の精神的発達に於いて当然ながら「女性」の貢献が極めて大きい。 特に日本は10世紀の昔から紫式部の源氏物語や清少納言の枕草子を始めとする女性文化が発達している。 そのため、「大和撫子」や「才色兼備」に相当する言葉は世界的にみても日本しか存在しない。これは西洋にもない現象で世界に誇る文化である。 (1)日本の場合 日本神話 天照大神、神功皇后など 日本文化史 額田王、紫式部、清少納言、菅原考標娘、樋口一葉、与謝野晶子など 日本政治史 卑弥呼、推古女帝、光明皇后、北条政子など (2)欧州の場合 欧州神話 ヘラ、アフォロディテ、アテナ(希)など。あるいは北欧神話のオンディーヌ、聖書のイブ・マリア 欧州文化史 エレオノール=ダキテーヌ(仏)、マリアンナ=アルカフォラド(葡)、ラ=ファイエット夫人(仏)、J.オースティン(英)、ブロンテ姉妹(英)など 欧州政治史 イザベル女王(西)、エリザベス女王(英)、ビクトリア女帝(英)、ポンパドォール夫人(仏)、エカテリーナ女帝(露)、マリア=テレサ(墺)など これに対して中国はどうか。 (3)中国の場合 中国神話 ホウジ、ダッキ(艶女・暴君タイプ) 中国文化史 無し 中国政治史 呂后、武則天(則天武后)、西大后(暴君タイプ)虞美人、楊貴妃、陳円円(艶女タイプ) | つまり、神話・実在を問わず、中国史に登場する女性は、男を凌ぐほど残虐な暴君タイプか、男の都合のままに流されて生きる艶女タイプしかない。 おそらく今に至るも男尊女卑の風習が強烈なために(それを儒教的伝統と言うのだが)、中国は自称4000年近い長い歴史を誇るにもかかわらず、日本や欧州のように女性の感性を核とする柔構造の文化をついぞ生み出し発展させることが出来ず、それゆえ弱者への優しさを欠いた跛行的な文明となってしまった、と結論づけられる。 | 20世紀初頭に至っても、魯迅「阿Q正伝」の精神世界に留まっていたのである(そしてそれは、本質的には今も変わっていない)。 残虐・好色・貪欲の3つに特徴づけられ、女性的感性を欠く跛行した文明が中国文明の本質である。 最近のチベット虐殺や四川省大地震に対する偏向報道は以上の根拠を益々強めるものである。 3.中国文明考II:騎士道精神(あるいは日本風に言えば武士道精神)の欠落 | 漢から六朝を経て隋唐へと連綿と続いた中国の古代貴族制社会は、中唐期の節度使の勢力強大・分立をもって動揺し、晩唐の黄巣の乱を期に崩壊する。 その後、五代十国の時代を経て北宋による統一を迎えるまでの約一世紀(870-980頃)を、中国史上の「武人の時代」と呼ぶ。 同時期に、日本では武士階級の興起があり、西欧でも騎士階級による封建社会の形成の動きがあった。 | しかし中国の場合は、おそらく北方民族からの圧力が強力であったために、日本や西欧のように封建諸侯が分立したまま国家を存続させることが困難で、本来は武人勢力の一角に過ぎなかった宋朝による統一が促進され、統一の達成後は、再び国を分裂させないために、唯一絶対の皇帝権の下で武人階級の抑圧が起こってしまった。 結局、中国は中世的封建制社会を形成できないまま、近世的な官僚制皇帝専制国家に移行してしまった。 | つまり、日本的な武士道精神や西欧的な騎士道精神が後の世代が頼り・誇りとする精神的遺産として形成されなかったのである。 | では、中国社会に存在する武士道(騎士道)に替わる精神的遺産とは何か? それは、私の見るところ「任侠道」である。 楚漢抗争の物語を読んでも、三国史演義を見ても、あるいは後世の水滸伝の世界を観察しても、そこにあるのは義兄弟の誓い等の「任侠道」すなわち「ヤクザの精神世界」である。 これは、武士道や騎士道を特徴づける死や犠牲を超越した精神的美学・美意識が欠落した、自己保存と利益万能を特徴とするご都合主義の精神文化といえる。 | 台湾を民主化した李登輝前総統が、中国を「土匪国家」と形容したことがあるが、まさに「任侠道」にもとづくヤクザ(匪賊)が成り上がって国家権力を掌握して出発したのが今の中国である。 しかし、中国の国家の成立を見ると、由緒ある古代王朝の系統は、B.C.2世紀の秦の滅亡で完全に絶たれ、それ以降は、 外来民族による征服国家(鮮卑系の北魏・隋・唐、モンゴル系の遼・元、満州族の金・清) もしくは 土匪の成り上がり国家(漢、五代の後梁、明、共産党支配化の現中国) ばかりである(なお、宋は五代の軍閥出身、中華民国も軍閥及び国民党の連合政権)。 | 多くの日本人が持つ疑問「中国は何故近代に乗り遅れたのか?」の答えが、I.(女性的感性の欠如)、II.(武士道精神の欠落)にある。 4.中国文明考Ⅲ:遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行 | 現代では政府の正統性は、選挙などを通して自由に表明される国民の信認によって付与される。それは国土の大小や人口の寡多や経済力・政治力などの強弱には制約されない世界共通の認識といってよいだろう。 中共政府は自国民の人権を不当に制約する言い訳として、自国が人口過剰な発展途上国であることを挙げるが、それでは「世界最大の民主主義国家」を自認するインドの発展振りはどう説明するのか。中国が直ちに民主化できない理由は一切ないのである。 中国が民主化しない理由は、今や特権階級となった共産党上層部が圧倒的多数の人民を支配する体制を維持するためであって、現在の中共政府に国家統治の正統性があるとは、とても思えない。そして、 | 政府に正統性がない所では、国民が遵法精神を持ちようがないのである。 加えて、中国の場合は、国家自体が何度も途絶しており歴代王朝の正統性が元々怪しく、日本や西欧のように長期にわたって国家と国民の信頼関係が醸成されるという発展過程が乏しかった、という背景もある (「1.単純明快:中国史」参照)。 | 中国の庶民に最も人気のある歴史上の人物といえば、南宋初期の武人"精忠報国"岳飛である。 日本で言えば楠木正成に相当する、南宋皇帝高宗に最後まで忠義を尽くした人物だが、彼の場合、実に悲劇的なのは、金朝(女真族)との戦闘自体には勝利目前だったのに、自分が忠義を尽くしている筈の南宋宮廷の謀略に嵌められて、無実の罪で一族もろとも刑死させられた事である。(ただし、中国の忠義は日本の公と異なり、皇帝や宮廷といった絶対的な権力者のためのもの。) 中国の歴史には、このような著しいモラル・ハザードが、枚挙にいとまない。 日本人にも親しみのある例で言えば、忠孝を尽くした劉備・孔明の側ではなく、権勢欲と謀略の権化であった曹操・司馬仲達の側が勝ち続けて栄華を手にするのが中国の常態であり、そのような社会では、美辞麗句を連ねる儒教などの建前とは裏腹に「正義感や信義誠実を尊ぶ精神が育ちようがない」のは当然である。 尚、中華民国・中華人民共和国時代は曹操・司馬仲達が中国人に好まれ国の元首から庶民まで生き方の手本となった。また、劉備にも戦乱の逃亡時の際、漁師の劉安の妻を食べた食人の要素や孔明にも孟獲を自称「徳」で征服した南蛮征伐、劉備が息子の劉禅(阿斗)が無能ならば孔明が政権を奪っていいと言った遺言など中国的な要素が強く日本人の考える忠孝とは大きく逸脱する残酷な話が多い。 | ※なお、岳飛については朱子学に基づく中華国粋的傾向が見られ、彼と対立した礼部尚書(文部大臣)・秦檜(皇帝高宗と南宋宮廷の謀略の側面もあり)が金に対して和平交渉を試みたのに対し、岳飛一党が軍事的に弱体でありながら無駄な局地戦を続けたために国や民衆が疲弊し、南宋の滅亡を早める結果となったとする指摘もある。秦檜の行動により両国の戦乱が治まり南宋は繁栄したのも事実である。 岳飛の上司であり局地戦の指揮官であった韓世忠などについても同様である。漢人の岳飛信仰の根底には、中華思想による異民族国家(女真(ツングース系=満州族))金朝への蔑視があり、相手と屈辱的な和平を結ぶよりも、実状を無視して徹底抗戦し敵を虐殺する岳飛を、正当化し美化・信仰してきた側面がある。 これは後に南宋を滅ぼしたモンゴル帝国こと後の元朝(モンゴル族)に対しても同様である。日本のような「死ねば神仏になる」考え(山川草木愁皆成仏)とは真逆の中国の「死者の墓を暴き、骨や遺体を徹底的に痛めつけ魂まで食らい未来永劫呪う」強烈な独善思考=鞭屍、恨み骨髄までは、岳飛に対抗して和平交渉を行った秦檜とその妻王氏(他に張俊、万俊(モチシエ)などの5奸族)の墓や像に、現在でも観光客が唾を吐きかける、小便をするなどという徹底的な侮蔑を伴っており、このため三国志などと違い、岳飛の物語が日本ではあまり受け入れられない要因となっている。秦檜と同様に扱われる者に明末の清に合流した呉三桂、岳飛と同様に扱われる南宋の史可法、明末の文天祥がそれぞれ奸族(漢奸)、英雄とされる。 また、仇敵(=異民族、外国人、またはそれと組んだ者)を未来永劫許さずその肉(屍肉)を食らう思想は岳飛を描いた「隔簾花影」でも揚州市民が漢奸(金人)を食らう描写を岳飛が賛美したものも見られる。この岳飛の「満江紅」の詞は今でも中国人の間で詠われている。 5.中国文明考IV:支配者や自分の都合によって変わる独善的な歴史認識 | 中国における歴史観は、日本人のそれとは大きく異なり、歴史人物の評価が時の権力者や時勢により大きく変貌・逆転し、突如大悪人=漢奸が大善人・英雄となったり、逆に大善人・英雄が大悪人=漢奸となる現象が度々起こる。 中共政府も鄧小平政権時代には文化大革命を礼賛する文化人が切り捨てられる結果となった。これは中華思想・事大主義に端を発する側面もあり韓国はなぜ反日か?と共通する点も多い。 | 前述の岳飛も当時は大罪人にあり秦檜の方が評価されたにも関わらず、後世になると以上のように逆転している。 暴君と詠われる秦の始皇帝(政)も文革時代は最大の名君であり、儒教の開祖・孔子(孔丘)は五四運動の際は封建主義の元凶に文革時代には「批林批孔」のスローガンと共に反動派の頭領とされた。 反動的・封建的人物と言われる西太后(慈禧太后)や曾国藩や袁世凱も改革者や愛国者に変わった。近年では共産党と対立した国民党の蒋介石や彼と対立し、死後秦檜夫婦のような弾圧を受ける汪兆銘(汪精衛)は共に売国奴と愛国者の間に見解が変動している。 彼は秦檜同様、当時の日本政府や日本軍と和平交渉や協力を行ったため、売国奴と呼ばれるようになった。 このように中国は外国人・異民族と徹底抗戦することを望む好戦的で残忍な性格が顕著である。 また、英雄と呼ばれた鄭成功は分裂主義者に変わる。このように独善的で朝令暮改で変動的なのが中国の伝統的な歴史観である。 6.中国文明考V:誠・和の精神の欠如(欲望最大・自己中心・道徳最低)、意味不明(相手によって意味の変わる)な仁、「詐」の文化 | 上に挙げる「遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行」とも共通する。孔子(孔丘)の論語の五倫(仁・義・礼・智・信)は日本に伝来した時、聖徳太子により「和・義・礼・智・信」に変更されている。 武士道の代表とされる誠も取り入れられ、「誠・義・礼・智・信」とも後世には呼ばれた。長年、仁は意味不明の徳目とされ、強盗(匪族)には強盗の仁があるとまで言われ、時代ごとにその意味は変更された。仁は日本でもヤクザ(任侠)が好んで用いる物とされる。 中国では詐術・謀略の横行や大虐殺、匪賊の跋扈などにより誠心誠意に代表される『誠』(まごごろ・いつわりのない心)やみんな仲良く手を取り合う『和』(穏やかさ・なごやかさ・のどかさ)が欠如しており、嘘をつくことや人を騙すことが当然とされ、現在でも台湾などでは「詐」の国と呼ばれる。 詐以外にも争・盗・乱・穢の性質を持つ。 7.中華人民共和国の歴史 ◆毛沢東の中国:大いなる実験 ◇1 (1950年代まで) 貧困に苦しむ農民、蒋介石の国民党政府(1928)、中産階級と農民の格差、共産党の台頭と国民党による弾圧、抗日戦争と国共合作(1937-1945)、毛沢東・共産党と農民、国共内戦(1945-1949)、国民党の敗北・台湾へ逃避、中華人民共和国の成立(1949)、プロパガンダと思想教育 ◇2 (1958年頃まで) 農地改革と農民、地主の告発集会と処刑、実業家から実質的資産没収、女性の権利拡充、教育、プロパガンダと国民総動員体制、雀撲滅運動、反革命分子告発キャンペーン ◇3 (大躍進政策1958-1960) 人民公社への統合、農工業の大増産政策、人民への厳しいノルマと水増しされた成果、無茶な粗鉄増産、飢饉による大量の餓死者、劉少奇、農民の土地私有復活、生活の正常化 ◇4 (文化大革命1 1966-1967) 毛沢東語録、長江遊泳、伝統文化の破壊、プロレタリア文化大革命、江青女史ら四人組と毛沢東への個人崇拝、原理主義的学生と紅衛兵、劉少奇ら実権派への中傷キャンペーン、 知識層・管理者層のつるしあげ・暴行、走資派レッテルと告発集会 ◇5 (文化大革命2 1967-1989) 過激化する紅衛兵、リンチを受けた女性校長、大量の処刑と自殺、内部抗争する紅衛兵、 学校・病院・工場閉鎖、無政府状態、秩序回復のため人民解放軍の投入、紅衛兵運動停止(1968)、上山下郷運動、毛沢東の死(1976)、四人組逮捕、鄧小平の経済改革 、天安門事件(1989) ◆天安門事件(第二次天安門事件、1989年6月4日) 天安門事件 2/3 天安門事件 3/3 http //www.nicovideo.jp/watch/sm7258151 http //www.nicovideo.jp/watch/sm2129074 天安門事件関係ニュースが流れると放送を止められる瞬間 六四事件(天安門事件)を忘れてはならない 毋忘六四 ※一部グロテスクな画像があります。ご注意下さい。解説⇒ぼやきくっくり様HP ※ところが、NHKクローズアップ現代は「大規模な虐殺はなかった」と中国を庇う捏造報道⇒NHKの正体 ◆中国共産党の正体(九評共産党)・・・中国共産党とは何者なのか?「大紀元」(法輪功(Falun Gong))製作 中国共産党の正体(九評共産党)① 中国共産党の正体(九評共産党)② 中国共産党の正体(九評共産党)③ 中国共産党の正体(九評共産党)④ ※大紀元社説シリーズ『共産党についての九つの論評』 【第一評】共産党とは一体何ものか 暴力による恐怖によって政権を奪取し維持する 虚言を以って暴力の潤滑剤と成す 絶えず変化する立場と原則 党性(党是)が人間性に取って代わり、人間性を消滅させる 自然に反し、人間性に反する邪悪な生命体 邪悪な憑き物の特性 自己を反省し、中国共産党の憑き物から逃れる ■参考サイト 丸幸亭老人のシナにつける薬 8.補講 1.「中国4000年の歴史」というのは真っ赤な嘘。国が連続していない。 中華人民共和国は63年の歴史。(前の中華民国は100年) 国が断絶したのは、13世紀後半のモンゴル人による植民地支配(大モンゴル国時代)。中国人最大のトラウマ。 4000年というのは、中華思想によって漢民族・モンゴル・満州民族なども混ぜた上での考え方。チベットが中国というのと同じ。支那の語源・秦でも2000年ほどの歴史をブツ切りにしたものでしかない。存在すら疑わしい「夏」などの古代王朝も含めて4000年とされた。 ちなみに、パンダはチベットから無理やり盗んだもの。 日本は、皇紀2600年以上の連続した国の歴史がある、世界でもっとも歴史のある奇跡的な国。ユネスコ入りすべき。 2.「国」が始ったのは1912年。それ以前は「国」の概念もない、点の歴史のみ。 国という観念はない。広い場所に要塞で囲った町や王朝名があったのみ。 単なる王朝の歴史は古いが国全体の歴史は浅く、それらが都合良く書き換えられている。 「日本人は、自分達と同じように連続した歴史の中にある」と今でも勘違いしている。 それを現代の中国が「国」という概念に歴史を書き直している。 1907年の早稲田大学の清国留学生62人は、自分の国籍について、支那18人、清国12人、中華&中国7人、残り25人は自分が何国人かも書けなかった。 漢人の歴史トラウマ 3.中国は歴史が真っ直ぐ続いていない。少数民族の歴史を乗っ取って偉そうにしているだけ。 漢民族は、どんどん他の民族を乗っ取り搾取して成立してきた国。 「漢字を使うのは、中国のもの」という思想の元、都合の良い時には乗っ取り、いらない時は切り捨てる。毛沢東政権に以前まで使われていた繁体字を簡体字に改めた政策と同じ。 土地の6割は元少数民族。(中国の土地ではなかった) 4割の土地の持ち主の漢民族が、人口の9割をしめて乗っ取っている! どうして乗っ取るかというと、資源が欲しいから。チベット(水や空気)ウイグル(石炭石油・ガス)モンゴル(油田)東シナ海(ガス田)→これらはみんな中国のものだから、と共産党が奪う 台湾、沖縄も取りにくるだろう。 4.乗っ取り潰して入れ替える、そしてそれを繰り返す野蛮王朝。 独裁者が王朝が支配、謀反人や狂信集団がそれを潰して新しい独裁者となり、それを繰り返す。 独裁者は自分の正当性を言うために、前の独裁者に関わる物を皆殺し、文化を吐かして歴史を書き換える。 王朝が変わるために文化財を破壊するから、墓しか残らない。その墓も盗掘が多い。 王朝が変わるたびに人口が大きく減る。飢饉や大量殺戮、人を食わせて全滅させたりが日常茶飯事の国→だから中国人は、生きるために他人を信用しない。幸災楽禍=他人の不幸を喜ぶ精神を持つ。 日本は、殺し尽くさないで調和する考え方(島国だから&許し、水に流す&死者を冒涜しない) 天皇の部下としての武士達が戦う事はあっても、武士は天皇に手を出さないし、武士同士で戦っても皆殺しにはしない。 5.日本文化と中国文化の関係 中国は自分の文化を自分で潰しまくった(文化大革命では孔子孟子を否定し、本は焼かれた) 日本は、どんどん研究していく文化があり、独自の文化になった(漢字など)。 中国共産党は孔子を否定していたが、急に持ち上げ孔子学院(語学学校)を世界2000カ所に設立。 江戸時代以来、論語の本家は日本に移った(実行と解釈の深さ) 唐などの中国の歴代王朝は陸禁・海禁といった徹底した閉鎖的な世界を築いており中華思想で夷狄とみなし見下す外国から文化を取り入れたり、朝貢貿易の分以上に外に出すことはしなかった。諸外国は中国の歴代王朝から高額な金や臣下の礼を強制される屈辱的な外交でぼられたといえる。 他人や国のために生命を投げ出す「玉砕」は日本文化、中国文化は時の権力者の趨勢で他人を裏切り、新たな支配者の奴隷になる「瓦全」。(これは韓国・朝鮮人も同じ。) 日本と中国は理解しあえない 著者 日下公人,石平 6.残虐思想の歴史、食人文化、儒教と官僚制度、中華思想&共産党 中国残虐史、人肉料理文化 儒教には万人平等という思想がない。少数のエリートが多くの愚かな民衆を統治するべきという官尊民卑の思想。 7.中国は国家としてまとまってない。2つに分かれている。 支配階級(搾取する側)と搾取される階級(田舎、農民) これらはとても仲が悪い。内部をまとめるだけで大変。マスコミや中国は隠しているが、そのうちボロがでる。 9.ご意見、情報提供 http //www.youtube.com/watch?v=kt5ex3gZtRI -- 名無し (2011-11-01 15 23 00) 誹謗の発言はやめた方がいいのでは?幼稚しか思えないのです。 -- あんまりでございます (2012-01-14 23 58 19) ↑具体的に誹謗している場所を教え下さい。内容によっては訂正しますよ。 -- ある編集部員 (2012-01-15 13 33 28) 中国とはもほもと、日本のこと中共は支那 -- 大和 (2012-07-03 18 14 19) 漢族の文化は異民族頼りで発展してきた由来がある。 -- 名無しさん (2012-07-12 14 06 21) ↑の続き だから中国人は今でも「パクリ文化」が横行しているのか -- 名無しさん (2012-07-12 14 07 36) 名前 コメント 当サイトは、日本人の自虐史観(東京裁判史観)からの完全脱却を応援します。 ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 ⇒#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (人気ブログランキングへ) 当サイトは日本唯一の愛国放送・チャンネル桜を応援しています! ■セットで読む中国の民族問題解説ページ■東トルキスタン侵略の正体チベット侵略の正体南モンゴル侵略の正体台湾の真実中国の歴史・中国文明辛亥革命~中国近代化運動の実際
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十八史略卷之六資ゆるどてん(おそいじつおほいすに足れり、必ずしも許すに土田を以てせざれ、恐らくは、異日大ちうごくうれひけいたう)に中國の患をなさむと。敬塘、聽かず。表、至る。契丹主、大に喜きたうへいしんやうきつたんび、騎五萬を將ゐて來り、唐兵と音陽に戰つて大に之を敗る。契丹しゆけいたうしんがう)えいほこたく主敬塘を立てて帝となし、國を晉と號す。幽薊、濵、莫涿、だんじゆんしんじゆぶうんおうくわんさくうつさ檀、順新嫣儒.武、雲、應寰朔蔚十六州を割いて、あたきつたんろしう之に與ふ。契丹、晉主を以て南下し、又、唐兵を破つて、潞州に至かしやうかうじやうとる。契丹、北に還る。晉主、引いて南す。唐の將校、皆、狀を飛ばたうしゆ(して以て迎ふ。唐主、殂す。晉主、入つて、洛に都す。旣にして、べん汴に還る。ぢよちかうごしゆふじやうくわうちよ吳の徐知誥、帝と稱し、吳主薄を奉じて、讓皇となす。初め、徐をんちかうしようしうはんふじやうしふしや溫、知誥に命じて、昇州を治めしむ。繁富を致し、城市府舎、甚だうつくわうれうごせい盛なり。溫、自ら徒つて、之に居る。知誥、廣陵に入つて、吳政をたすをんちうしよれい輔く溫、卒す。知誥、中書令を以て、昇に鎭して、其子を留めてたすきんれうじやうだいげんすゐせいわう政を輔けしむ。金陵城を廣くす。吳、知誥に大元帥を加へ齊王にしゆれいゆづりぢよしう封じ、殊禮を加ふ。是に至つて、吳の禪を受く。知誥は、もと徐州しのちたうがうつ李氏の子なり。自ら唐の後といひ、國を唐と號し、尋いで、姓李をざべんなんたう南唐復し、名を弄と改む。之を南唐となす。きつたんたいれうがう大遼(西紀契丹、國を改めて大遼と號す。九三七)びんわうざそのしゆちやうしじりふ閩の王議、其主昶を弑して自立す。ごえつわうせんげんくわんしゆつこうさ吳越王錢元瓘卒す。子弘佐嗣ぐ。五代-晉六四九 十八史略卷之六六五〇南漢王劉襲、又名を襲と更む。尋いで、殂す。子玢、立つ。晉主在位、七歲ならずして殂す。改元するもの一、曰く天福。齊王立つ、之を出帝となす。【出帝】名は重貴、高祖の兄の子なり。高祖、終に臨んで、幼子重璿に命じ、宰相馬道を拜せしめ、其輔立を欲す。景延廣の議に以へらく、國家多難、宜しく長君を立つべしと。遂に重貴を立つ。延廣事を用ゆ。南唐主李昇、殂す。子環、立つ。聞王の弟王延政、建州に據つて、殷帝と稱す。南漢主劉玢の弟弘熙、玢を弑して自立し、名を最と改む。聞の朱文進、其主王曦を弑して自立す。殷主延政、兵を遣して、之を討つ。閩人、文進を殺して、首を殷に傳ふ。殷國號を更めて聞といふ。唐人、攻めて建州を拔く。延政、出でて降る。闘亡ぶ。唐、福州を攻む。克たず。後、吳越、兵を遣して、之を取らしむ。初め、晉の高祖、契丹に事へて、甚だ謹む。少主、位に卽くに至つて、景延廣、議を主どり、哀を告ぐるに復た臣と稱せず。契丹、大に怒る。延廣、又、其囘圖使を囚へ旣にして、歸らしめ、大言して曰く、歸つて、而の主に語れ。先帝は北朝に立てらる、故に臣れと稱して表を奉る。今上は、乃ち中國の立つる所、隣となつて、孫と稱すれば足らむ。翁怒らば來り戰へ孫に十萬、磨劍を橫へて相五代-晉六五一 十八史略卷之六六五二待つありと。桑維翰、屢ば遜辭以て契丹に謝せむを請ふ。毎に延廣に沮まる。是に於て、契丹、入寇して、河を渡る。晉主、自ら將とし、及び李守貞等を遣し、道を分つて、之を擊つ。契丹、敗走す。契丹、再び相州に至つて、引いて還る。晉主、又自ら將として、之を追ふ。契丹、兵を旋して南下す。晉人、之を擊つ。契丹、又敗走す。晉主、旣に再び勝ち、契丹は畏るるに足らずと意ふ。契丹主、大擧して入寇す。晉將杜伏威、降る。契丹、兵を遣して汁に入り、晉主を執へて、以て其國に歸る。在位五年、改元するもの一、曰く開運晉は、高祖より、是に至るまで再世、一十二年にして亡ぶ契丹主、大梁に入る。胡騎四出して剽掠す之を打草穀といふ丁壯は鋒刄に斃れ、老弱は溝壑に委し、東西兩幾より、鄭滑曹濮に及ぶまで、數百里の間、財帛殆んど盡く。契丹主、判三司劉昫に謂つて曰く、契丹の兵、優賜あるべしと。遂に都城士民の錢帛を括し、使者數十名を遣して、諸州に括し、皆迫るに嚴誅を以てす。人 生を聊んぜず。括し至るや、初めより、頒給なく、皆輦して歸らむと欲す。中外怨憤、皆之を逐はむを思ひ、所在盜起る。契丹主曰く、我、中國治め難きこと、かくの如くなるを知らずと。汴に居ること三月にして還る。晉の劉知遠、先つこと一月、位に晉陽に卽く。漢五代-音-漢六五三 十八史略卷之六六五四りうしちゑんしやだしんそけいたう【漢高祖皇帝】姓は劉氏、初名は知遠、沙陀の人なり。晉祖敬塘に、しんそかとうろわうつかへいかん之兵間に事へて、功、最も多し。晉祖、河東に在るや、唐の潞王、うつうんめいこうを移して、鄲を鎭せしむ。知遠曰く、明公、久しく兵に將として、けいしやうしばせいきやう士卒の心を得たり。今、形勝の地に據つて、士馬精强なり。若し兵あけきつたていげふないかんしせいしよ一部八を稱げ、檄を傳ふれば、帝業成るべし。奈何ぞ、一紙の制書を以てにあんて投自制ぜら書こうとうたうしやう虎口に自ら虎口に投ぜむやと。遂に命を拒む。唐,將を遣して之を攻む。んやかほろぼじえい克たず。晉祖、兵を擧げ、唐を滅して洛陽に入る。知遠、時に侍衞はぐんとしきしかんへいえいじくわん馬軍都指揮使たり。漢兵を分つて營に入れ、契丹の兵を寺に館す。そじやうちうしゆくぜん晉祖、城中肅然たり。後、晉祖、知遠を以て河東に鎭せしむ。殂るゆ茶たすしんじんこれかくす。遺命して、知遠を以て、入つて政を輔けしむ。晉人之を匿す。てにふこう知遠、之に由つて、朝廷を怨む。契丹、しきりに入寇す。晉、知遠かうえいととうたいを以て行營都統となすと雖も、知遠、行かず。契丹、晉を滅して大れうたいげん梁に入る。知遠、帝を晉陽に稱す。契丹去る。乃ち太原を發して、べんかんがうかうあらた洛に入り、遂に汴に入り、國を漢と號し、後、名を暠と更む。きつたんしゆやりつとくくわうさつこりんさしほみ契丹主耶律德光、歸つて、殺胡林に至り死す。腹を剖き、鹽を實のていはここつよく帝把兀欲たして、載せて去る。人、之を帝把といふ。子兀欲、立つ。宗之契とを丹な遼主そわうばはんきくわうすの世楚王馬希範、卒す。子希廣、立つ。ごえつわうせんこうさこうさうこうしゆく吳越王錢弘佐、卒す。弘倧、立つ。其下、之を廢して、弘俶を立つかんしゆそけんいうこしうわうたいんてい漢主殂す。在位一年、元を乾祐と改む。子周王立つ、之を隱帝と五代-漢六五五 十八史略卷之六六五六なす。【隱帝】名は承祐、年十八にして、位に卽く。之より先、漢祖、弟崇を以て、太原に尹とし、留守河東節度使となす。崇、郭威と隙あり。是に至つて、威、樞密使侍中となつて勇士を選募し、亡命を招納し、甲政を執る。崇、自全の計をなし、朝廷の詔令、兵を繕し、府庫を實たし、財賦を上供するを罷め、多くは稟承せず〓南の高從誨、卒す。子寶融、軍府に知たり。河中の李守貞、反す。郭威、諸軍を督し、討つて、之に克つ。守貞、自殺す。漢、郭威を以て、鄴都の留守となす。楚王馬希廣の兄希萼、希廣を殺して自立す。漢王、卽位より以來、同平章事楊邪、機政を總べ、樞密使郭威征伐を主り、侍衞指揮使史弘肇、宿衞を典り、三司使王章、財賦えを掌る。邪頗る公忠、弘肇、京師を察し、道、遺ちたるを拾はず。章は、遣利を招拾して、供饋乏しからず、國家相安し。弘肇、嘗て謂ふ、天下須らく長槍大劍を用ゆべし。安んぞ毛錐子を用ゐむ立ニや。章曰く、若し毛錐なくむば、財賦何に由つて取辨せむと。章、にじ文人を輕んず。嘗て曰く、この輩、算を握るも、縱橫を知らず、何둘ぞ用に益あらむと。漢主の左右嬖倖、寝く事を用ゐ、親戚政を干五代-漢六五七 十八史略卷之六甕す、邪等、毎に之を裁抑す。漢主、益す壯、大臣に制せらるるを厭ふ。楊邪、嘗て事を前に議す。曰く、陛下、惟だ聲を禁ぜよ。臣等左右因つて之を譜の在るありと。漢主、積んで平らかなる能はず、す。乾祐二年。邪弘肇、章を殺し、密詔を遣して、郭威を鄴に殺ささむと欲す。將佐、威に勸め、入朝して自ら訴へしむ。威、大軍をふ引いて至る。漢主、兵を遣して、之を拒ぐ。或は降り、或は戰はずし白して、て還り、漢主、亂兵の爲に弑せらる。威太后に武寧節度賛を迎へしむ。未だ至らず。契丹の入寇を聞き、威を遣し、兵に將として、之を擊たしむ。威、澶州に至る。將士、大に課ぎ、黄旗を裂むいて、以て威の體に被らしめ、共に之を扶抱して、萬歲を呼び、地に震ふ。威を擁して南行し、遂に漢に代る。漢二世四年にして亡ぶ。周【周太祖皇帝】姓は郭氏、名は威、太原の人なり。唐の莊宗、宮人六ら〓柴氏あり。其家に歸つて、姻を擇ぶ。一日、門に窺ひ、疾走して過ぐる者あるを見る。柴氏、大に驚いて、何人ぞと問ふ。告ぐるもの曰く、從馬軍使郭雀兒なりと。柴氏、之に嫁せむと欲す。父母、肯んぜずして曰く、汝は帝の左右の人、當に節度使に嫁すべし。奈何ぞ、此人に嫁せむやと。柴氏、堅く他人に嫁せず、竟に威に歸す。五代-周六五九 十八史略卷之六六六〇漢祖、河東に鎭するや、威、孔目官となる。契丹、汴に在り、威 漢祖に勸めて兵を擧げしめ、遂に帝業を爲す。漢の隱帝の時、威.專ら征伐を主る。隱帝、之を殺さむと欲す。克たず。威、兵を擁し立て、汴に入り、旣にして、出でて契丹を禦ぐ。軍士、擁して、汴にか、)た還る時に已に賛を徐州に迎ふ乃ち漢の太后の令を以て賛を廢して湘陰公となし、威を監國となし、尋いで位に卽き、自ら周の號叔の後なりと謂ひ、國を周と號す。贇は崇の子なり。崇、初め、隱帝が害に遇ふを聞き、兵を起して、南に向はむと欲す。贇を迎立するを聞くに及び、すなはち曰く、吾が兒、帝とならば、吾、復た何をか有求めむやと。賛、廢せられて死す。崇、乃ち帝を晉陽に稱す。つえだ所は並、汾、忻、代嵐、憲隆、蔚、沁、遼麟石、十二州の地なり。其臣に謂つて曰く、顧るに、我は是れ何の天子、汝等は是れ何の節度使かと。之を北漢となす。子承鈞を遣して、周を伐つ。きつたん克たず。使を遣して、師を契丹に乞ふ。契丹、北漢主を策名し、名を旻と更む。契丹の述軋兀欲を弑して自立す。述律、討つて述軋を殺して之に代る。楚は、希廣、希萼より以來、相攻奪して、寧歲なし。其下、又、希萼を廢して、希崇を立つ。南唐、邊鎬を遣して楚を擊たしむ。希崇、降る。南唐、馬氏の族を金陵に遷す。楚亡ぶ。五代-周〓. 十八史略卷之六六六二故の楚將劉言、朗州より潭を攻む。邊鎬走る。言、湖南を取り、命を周に請ふ。周、言を以て朗を鎭せしめ、王達に潭を鎭せしむ。げん·達、襲うて、言を朗に殺し、周行逢を以て朗を守らしむ。達、潭にか、還る。後、又、行逢を以て潭を鎭せしめ、達、自ら朗に居る。周主、在位三年にして殂す。改元するもの一、曰く廣順晉王、立つ、之を世宗皇帝となす。【世宗皇帝】名は榮、本姓は柴氏、周祖の妻の兄柴守禮の子なり。周祖、子なし、故に之を養ふ。周初、節鎭を領す。旣にして、開封に尹たり。晉王に封ぜらる。周主、終に臨んで、晉王に命じて、政を聽かしめ、尋いで、位に卽く。北漢主、周主の殂するを聞き、大に喜び、兵を契丹に請ふ。契丹、將楊衰を遣して、萬騎に將たらしめ、北漢主、自ら三萬人に將として來る。周主、自ら將として、之;を禦がむと欲す。群臣、皆、諫む。主曰く、崇、大喪を幸なりとし、朕の年少を輕んず、是れ必ず自ら來らむ。朕、往かざるべからず。吾が兵力の强を以て崇を破る、山の卵を壓するが如きのみと。馮道、力めて爭ふ。惟だ王溥勸めて行かしむ。北漢主、高平に軍す。周の前鋒、之を擊つ。北漢の兵、郤く。キ、其遁去を慮り、諸軍を趣して、亟に進む。後軍、未だ至らず、衆心、危懼す。而して、主の志氣、益す銳、合戰未だ幾ならず、周の右軍の將樊愛能、何徵、先づ遁れ、右軍潰ゆ。步軍千餘、甲を解いて降る。主、軍勢の五代-周六六三 十八史略卷之六六六四趙匡胤危きを見、自ら親兵を引いて矢石を犯して督戰す。督衞の將趙匡胤曰く、主、危きこと此の如し。吾が屬、何ぞ死を致さざるを得むと又、禁兵の將張永德に謂つて曰く、賊氣驕れり、破るべきなり。公、兵を引いて高きに乘じ、西に出でて、左翼となれ。我、右國家の安危翼となつて、以て之を擊たむ。國家の安危、この一擧に在りと。永此一擧に在德、之に從ひ、各二千人に將として、進み戰ふ。匡胤、身、士卒に先んじ、馳せて其鋒を犯す。士卒死戰、一、百に當らざるなく、北〇%漢の兵、大に敗る。楊衰、敢て救はず。北漢主、晝夜北走、わづかに晉陽に入るを得たり。周主、焚愛能、何徽、及び所部軍使以上七十餘人を收め、之を責めて曰く、汝輩、戰ふ能はざるに非ず、正にらは、とる〓朕を以て奇貨となして、劉崇に賣與せむと欲するのみと、悉く之を〓斬る。之より、驕將惰卒、初めて、懼るる所を知り、姑息の政を行;はず。張永德、盛に趙匡胤の智勇を稱し、權に殿前都虞候たり。周¥.主、侍臣に謂つて曰く、兵は精を務めて、多きを務めず、農夫百、評世用渡民ずを未めては宗養だず多精のを此血何能士夫を務 周言未だ戰士一を養ふ能はず。奈何ぞ、民の膏血を浚うて、この無用のき金政養無をぞは一百務め兵農きを3,物を養はむやと、乃ち命じて、大に諸軍を簡せしめ、又諸道に詔戰して、天下の壯士を募り、咸な闕に詣らしめ、匡胤に命じて、其尤物て膏奈ふりと志んのうのなる者を選ばしめて、殿前諸班となし、其騎步諸軍は、各、將帥に命じて、之を選ばしむ。之に由つて、士卒精强、向ふ所、克捷す。な鑑にはすすべ者周、北漢を攻む。汾、遼憲、嵐石、沁忻の州、皆、周に入五代-周六六五 十八史略卷之六大阪る。周主、晉陽を攻む。克たず。軍を引いて還る。北漢主劉旻、殂す。子鈞、立つ。か、周、蜀を伐ち、秦、階、成、鳳の州を取る。周、南唐を伐つ。唐、兵を遣し、壽州に拒いで敗る。周主、自ら將として、大に唐兵を正陽に敗る。唐將皇甫暉、姚鳳、〓流關を保つ。主、趙匡胤に命じ、道を倍して、之を襲はしめ、暉、鳳を擒にし、滁州に克つ。周師、楊泰光、舒、斬の州を取る。唐兵、周師を拒いで、復た泰州を取り、楊州を攻む。周主、匡胤に命じて六合に屯せしむ。唐兵、來り攻むるや、奮擊して、大に之を破る。將士、力を致さざる者あれば、匡胤、陽つて、督戰をなし、劍を以て、其皮笠を斫り、明日、遍ねく其笠を閱し、劍跡ある者數十人、部兵敢て死を盡?皆、之を斬る。之に由つて、さざるなし。周主、大か、と梁に還り、兵を留めて、壽州を圍む。唐兵、江北諸州を復す。周の守將、皆棄てて去る。兵を併せて、壽州を攻む。周主、復た自ら將として、壽に如く。唐人、城を以て降る。周主、大梁に還る。旣にして、復た自ら將として、濠泗を攻む。皆、降る。進んで楚州を攻황。兵を遣して、楊泰を取る。周主、楚州に克ち、還つて、楊州にと〓〓至る。唐主、使を遣して、盡く江北の地を獻ず。周主、乃ち還る。唐主、名を景と更め、帝號を去り、周の正朔を奉ず。朗州の王達、潘叔嗣の爲に殺さる。將吏、潭州の周行逢を迎へて五代-周奏若者 十八史略卷之六六六八かうはうたんらうあはたも朗に入らしむ。行逢、潭、朗を併せて、之を有つ。なんかんしゆりうせいこちやう南漢主劉晟、殂す。子銀、立つ。しうしゆしやうきつたんえいまいけい周主、自ら將として、契丹を伐ち、瀛莫、易の州を取る。京をはなくわんなんこと〓〓たひいうしうおもむ離るること四十一一日にして、關南悉く平らぐ。議して、幽州に趨ゆうしうえきしんくわん不豫に會して止む。よくわいぐわけうくわんかむとす。瓦橋關を以て雄州となし、益津關をはし)じゆかわうくわん霸州となし、成を置いて還る。往還六十日。てうきやうかんでんぜんとしわいなん趙匡胤、之より先、殿前都指揮使となり、從つて、淮南を攻む。したがきつたんてんぜんとてんけん又、從つて契丹を征す。是に至つて、殿前都點檢となるしうしゆかいげんけんとく周主、在位六年にして殂す。改元するもの一、曰く顯德。周主、はんたうくわいしゆかうへいかう藩に在つて韜晦す。位に卽くに及びて、首として、高平の寇あり。そのえいぶがうれいげんめひとあんで人、初めて其英武に服す。號令嚴明、人敢て犯すなし。城を攻め、てきしせきさ;ほかたちうごおう敵に對するや、矢石左右に落つれども、略ぼ容を動かさず、機に應きくけついへうせいじかんあばさじ、策を決する、人の意表に出づ。又、政事に勤め、姦を發き、伏評りる宗の鮮奶稀周な見世てきそうさつかんかじゆしやを摘し、聰察、神の如し。閒暇には、儒者を召して史を讀ましめ、たいぎしやうかくせいしちくちんぐわんよろこび業す惜ちらに早ず帝世か故哉大義を商権す。性絲竹珍玩の物を好まず、常に言ふ。朕、必ず喜完よしやういかりけいぶんぶさんようかくそののうに因つて人を賞し、怒に因つて人を刑せずと。文武參用、各其能をそのめいおそそのけいなつてき盡くす。人、其明を畏れて、其惠に懷く。故に能く敵を破り、地をひろところまとうかゑんきんあいぼれうわうたきよう廣め、向ふ所前なし。登遐の日、遠近哀慕す。子梁王立つ、之を恭てい帝となす。そうくん【恭帝】名は宗訓、七歲にして位に卽く。五代-周義 十八史略卷之六六七〇てうきやうかんとくせつどしていげんちんきつたん趙匡胤を以て歸德節度使となし。明年春、定言に鎭せしむ。契丹にふかうきよういんしやうふせちんけうえき入寇す。匡胤をして兵に將として、之を禦がしむ。陳橋驛に至るぐんしようか、さくりつしうしゆざいゐそうゆつしうや、軍士擁し還つて策立す。周主在位半年、遂に宋に禪る。周は、太祖より、是に至るまで、三世、二姓、十年にして亡ぶ。宋てうしなきやういんそのせんたくじんあひつた西紀九六〇【宋太祖皇帝】姓は趙氏、名は匡胤、其先は涿人なり。相傳へて、ちゝこういんらくやうきんえいしやうかうきやういんかんけいてうくわうかん匡胤を漢の京兆廣漢の後となす。父弘殷、洛陽の禁衞將校となる。せきくわうしつえいちういかうかふはたいちう人、之を甲馬營中に生む。赤光室に滿つ、營中異香あること一月、かうがいじしんぶんえつしたがまな香孩兒の營といふ。少にして、辛文悅に從つて學ぶ。文悅、嘗て駕むかゆめきやういんしうせいそうぐんせいつかさどを邀ふるを夢む、乃ち匡胤なり。周の世宗の時、軍政を掌る。凡そそのおんゐさしばしせいばつしたがたいこうせいそう六年。士卒、其恩威に服す。數ば征伐に從つて大功を立つ。世宗、にちぶんしよけふちうぼくしよてんけんな一日文書篋中に於て、一木書を得たり。曰く點檢、天子と作ると、ちやうえいとくてんけんうつかきやういん時に、張永德、點檢たり。世宗、乃ち之を遷して、易ふるに、匡胤せいそうそきやうそうそくるめ、しゆくえいりやうを以てす。世宗殂す。恭宗卽位の明年、命じて、宿衞を領せしめ、きつたんふせしゆわかくにあやふちうぐわいはじすゐたいぎ契丹を禦ぐ。時に、主少く、國危く、中外始めて推戴の議あり。大ぐんかうべうくんじつかまじつこくくわうあひうごか軍、旣に出づ。軍校苗訓、日下に復た一日あつて、黑光相盪すをゆびさてんめいちんけうえきじぐんししゆうぎ見て、指して曰く、之れ天命なりと。夕に陳橋驛に次す。軍士聚議てんけんほくせいくわんし、先づ點檢を立てて天子となし、然る後に、北征せむといひ、環カンあしたてんけんすゐぐわれいめいあして、旦を待つ。點檢、醉臥して知らざるなり。黎明、軍士甲を宋-太祖皇帝-六七一 十八史略卷之六六七二た撮し、兵を執り、直に寢門を叩いて曰く、諸將主なし、願はくは、大尉を策して、天子となさむと。點檢、驚起し、衣を披けば、相與に扶け出で、被らすに黃袍を以てし、羅拜して、萬歲を呼び、擁して、馬に上ぼせて南行す。之を拒めども可かず。乃ち轡を攬つて、諸將に誓ひ、仁和門より入る、秋毫も犯す所なし。恭帝、遂に位を禪る。領する所の節鎭、宋州の歸德軍なるを以て、故に國號を宋といふ。卽位の初、陰に群情を察せむと欲し、頗る微行をなす。或ひかろ〓〓と輕しく出づる勿れと諫む。上曰く、帝王の興る、自ら天命あり。周の世宗、諸將の方面大耳の者を見れば、皆、之を殺す。我終日しは·側に侍するも、害する能はざるなりと。微行、愈よ數す。曰く天命ある者は、自ら之を爲すに任かす、汝を禁ぜざるなりと。中外警服す。昭義節度使李筠は、故の周の宿將なり。澤に反す。上、石守信に命じて、之を討たしめ、尋いで親征す。筠、自ら焚死す。澤潞、平らぐ。淮南の節度使李重進は、周祖の甥なり。亦た反す。上、石守信に命じて、之を討たしめ、尋いで親征す。重進、自ら焚死す。淮南、平らぐ。〓南の高寶融、卒す。弟寶勗、之に代る。南唐泉州の留從效、藩と稱す。宋-太祖皇帝-六七三 十八史略卷之六六七四建隆二年南唐主李景、都を南昌に遷し、其子從嘉を以て、建康を守らしむ。從嘉立つ、名を煜と更む。趙普上、旣に筠、重進を誅し、樞密直學士趙普を召して問うて曰く、吾、天下の兵を息め、國家長久の計を爲さむとす、其道如何、普にてい、曰く、唐季以來、帝王數ば易はるは、節鎭太だ重く、君弱く、臣强きに坐するのみ。今、稍く其權を奪ふに若くはなし。其錢穀を制し其精兵を收むれば、天下自ら安からむと。又言ふ、殿前帥石守信等皆、統御の才に非ず、宜しく、他職を授くべしと。上悟る。守信等を召し、宴酣なる時、左右を屏けて謂つて、曰く、我、爾曹の力に非ずむば、是に至らず。然れども、終夕未だ嘗て枕を安くせざるなり。この位に居る者は、誰か之を爲すを欲せざらむ。守信等、頓首して曰く、陛下何すれぞ此言を出す。天命旣に定まる、誰か敢て異心あらむや。上曰く、汝曹異心なしと雖も、麾下の人の富貴を欲〓に切る點てれの砲ば身をするを如何。一旦、黃袍を以て、汝の身に加ふれば、爲すを欲せずと雖も、それ得べけむや。皆頓首して泣いて曰く、臣等、愚、是に爲すけも欲やんずつ きずしずとんそせ及ばず、惟だ陛下哀矜して、生くべきの途を指示せよ。上曰く、人生白駒の隙を過ぐるが如し。富貴を好むと爲す所のものは、多く金錢を積んで、厚く自ら娛樂し、子孫をして貧乏なからしめむと欲するに過ぎざるのみ。汝曹、何ぞ兵權を釋いて去り、出でて、大藩じ七よを守り、便好の田宅を擇んで、子孫の計を爲さざる。多く歌童舞女宋-太祖皇帝-六七五 十八史略卷之六大丈を置き、日に酒を飮んで、相安んずる、亦た善からずや。皆、拜謝して曰く、陛下臣等を念ふこと、是に至る。謂ゆる死を生かし骨に肉づくるなりと。明日、皆、疾と稱して、罷めむを請ふ。趙普は、薊人なり。上に滁州に遇ひ、用ゐて節度掌書記となす。上、卽位の後、專ら與に謀議し、之に倚信す。女眞、馬を貢す。囘體于鬪、來貢す。留從效、建隆三年。泉州の卒す。衙將陳洪進、張漢思を推して、軍務を領せしむ。定難節度使、周の西平王李彜興、馬を貢す。ヘ武平、武安の鎭帥周行逢卒す。子保權、軍府を領す。衡州の太守)張文表、亂を作し、兵を起して、潭州に據る。保權、表して救を宋に請ふ。〓南の高寶勗、卒す。兄の子繼冲、之に代る。高麗、來貢す。けんとくぐわんねん乾德元年慕容延到等に命じ、周保權に會して、張文表を討たしむ。師江陵より出づ。高繼冲、出でて降り、〓南平らぐ。延到、二湖南に至る。文表、さきに已に敗死す。保權、宋師の〓南に下るを、〓聞いて、懼れて拒守す。師進んで、之を討ち、保權を獲、湖南、平らぐ。宋-太祖皇帝六七七 十八史略卷之六発二年。宰相、范質、王溥、魏仁浦、乞うて罷む。質等は、周朝の舊相なり。唐より以來、宰相は、惟だ大政事を面奏するのみ。餘の號令刑賞除拜は、但だ熟狀を入る。質等、前朝の大臣を以て、稍こと〓〓や形跡を存し、事每に割子を具へて進呈し、退いて得る所の聖旨を批し、同列、皆、字を書して、以て之を志す。奏御の多きこと、是cに始まる。質等、旣に罷む。趙普を以て、同平章事とす。けんとぐ王全斌に命じて、蜀を伐たしむ。乾德三年、蜀相 李昊、蜀主孟す、昶に勸めて、出でて降らしむ。前蜀王氏の亡ぶるや、降表、亦た昊よ草する李家世々降表をの草する所、蜀人、夜、其門に書して曰く、世、降表を修する李家と。初め、上、宰相に命じて、前代未だ有らざる年號を擇ばしめ、以て今の元に改む。是に及びて、蜀鑑を得たり。乃ち乾德四年鑄の字あり。之を怪んで、學士竇儀を召して問ふ。曰く、むかし、僞蜀王衍に此號ありと。上歎じて曰く、宰相は、須らく、讀書の人を用ゆべしと。五年、五星奎に聚まる。之より先、周の顯德中、竇儼、楊徽之、盧多遜、同じく諫官となる。儼推歩を善くす。嘗て曰く、丁卯の歲、五星、奎に聚まり、之より、天下太平ならむ。二拾遺、之を見む、儼は預らざるなりと。是に至つて、果して然り。(Amagdala)夏州の李彝輿、;卒す。千五百八軍務を領す。宋-太祖皇帝-大元 十八史略卷之六六八〇し開寶元年北漢王劉鈞、殂す。養子繼恩、立つ。郭無爲、之を弑して、其同母弟繼元を立つ、皆、異姓の子なり。良擅に刑雷德驤大理寺に判たり。官屬、堂吏と宰相に附會し、f名を增減す。德驤、憤惋し、直に講武殿に詣つて、之を奏す、併せて言ふ、趙普、强ひて人の第宅を市ひ、財賄を聚歛すと。上、怒つ鼎鐺尙ほ耳て叱して曰く、鼎鐺、尙ほ耳あり。汝、趙普は、吾が社稷の臣たるを聞かざるかと。柱斧を引いて、其二齒を擊折し、命じて、曳き出さしめて、之を黜く。二年。曹彬等に命じて、北漢を伐たしめ、尋いで、親征し、太原を攻む。城久しく下らず。兵を百草池に頓す。暑雨に中つて、軍中疾疫す。詔して、師を班へす。び。上、位に卽いてより、或は微行して、功臣の家に幸し、測るべからず。趙普、退朝する毎に敢て衣冠を脫せず。一夕、大に雪ふる。た普、意へらく、上、復た出でずと。之を久しうして、門を叩く聲を聞く、異甚し。亟に出づれば、上、雪中に立つ。普、惶恐して、迎へ拜す。普の堂に卽き、重〓を設けて地坐し、炭を熾にし、肉を燒く。普の妻、酒を行ふ。上、嫂を以て、之を呼ぶ。普、從容として、問うて曰く、夜、久しく寒甚し。陛下何を以て出づる。上日晋く睡れども著く能はず、一榻の外、皆、他人の家なり。故に、來つて卿を見る。普曰く、陛下、天下を少とするか。南征北伐、是宋-太祖皇帝-交 十八史略卷之六六八二ねせいさんむかじやういはたいげんれ其時なり。願はくは、成算の向ふ所を聞かむ。上曰く、吾、太原もくぜんを取らむと欲す、普、默然、やや久しうして曰く、臣の知る所に非たいげんせいほくヘんあたきよへんくわん評太趙ざるなり。太原は西北二邊に當る。一擧して下らしむれば、邊患說に備え之湯 5一二大地 200よくられて富西所にら獨れて當西あたしばらとじもつしよこくさくへい以て諸國を削平するを俟たし大大むりば下る北我獨り、之に當らむ。何ぞ姑く留めて、云之邊ら一だんぐわんこくしはのがざる。かの彈丸黑子の地、將た何の逃るる所ぞ。上笑つて曰く、吾まさしかしばらけいこゝろしけいこが意、正に爾り、姑く卿を試みるのみと。是に於て、師を〓湖に用に陸べ上つせいせんほくかんてふしやほくかんしゆきんゐ、繼いで、西川を取る。嘗て、北漢の謀者に因つて、北漢主鈞にしうしよゝあだうべくつ語つて曰く、君が家、周氏と、世仇なり、宜なり、屈せざるや。われなんぢかんくるしきん今、我爾と間あるなし。何の爲にかこの一方の人を困むと。鈞、てうしやふくめいとうとちへいかうじふいちあた謀者を遣して、復命して曰く河東の土地兵甲、中國の什の一に當는まもけだかんしけつしいおそるに足らず。區區として、此を守るは、蓋し漢氏の血食せざるを懼かなしきんよをはるればなりと。上、其言を哀んで、鈞の世を終るまで、大軍を以てほくばつけいげん北伐せず。繼元の立つに及びて、始めて兵を用ゆ。としきつたんそのしゆじゆつりつぼくそうがうそのをちこつよくこめいこの歲、契丹、其主述律を弑す。穆宗と號す。其伯父兀欲の子明きげいりふけんあらた記を迎立す、名を賢と更む。はんびめいなんかんくわうしうかりうちやう三年。潘美に命じて、南漢を伐つ。四年、廣州に克つ。劉銀、降なんかんる。南漢、亡ぶ。かうしていれんないふせいかいせつど六年。交趾の丁璉、上表して內附を求む。詔して、以て靜海節度しあんなんと使安南都護となす。てうふしやうかじやうせつどしちんきくわだん評趙普は所趙普、相を罷めて、河陽三城節度使を領す。普、沈毅果斷、天下宋-太祖皇帝-六八三 十八史略卷之六六日謂宋の社稷を以て、己の任となす、嘗て、某人を除して某官となさむと欲す。の臣なり上、用ゐず。明日、又、之を奏す。上、怒つて、其奏を裂く。普、か、さ、徐に拾うて以て歸り、補綴して以て進む。上、悟つて、乃ち之を可とす。又、功を立てて、當に官を遷すべき者あり。上、素より、其き人を嫌うて與へず。普、力め請うて、下さむを謂ふ。曰く、朕、固;く與へざれば奈何。普曰く、刑賞は天下の刑賞、安んぞ、私の喜怒を以て、之を專らにするを得むと。上、聽かずして起つ。普、之に隨ふ。上、宮に入る。普、宮門に立つて去らず。上、之を可とす。普、常に大甕を闇後に設け、表疏の意可とせざる者は、其中に投じ雷德驤の子、て、之を焚く。其多く謗を得る者は、此を以てなり。又、之を許く。上、始めて、普を疑ふ。之より先、參知政事を置いさて、以て普に副すと雖も、制を宣せず、押班せず、知印せず、政事堂に升らず。是に至つて、始めて、二參政に詔して、政事堂に昇つて、同じく政を議し、更に知印押班、普と齊しからしむ。未だ幾ならずして、普、遂に罷む。薛居正、呂餘慶等其後、繼いで、相となる。七年。曹彬に命じて、江南を伐たしむ。上、屢ば使を遣し、江南國主李煜5に諭して、入朝せしむ。至らず。乃ち、彬及び播美等を以て、之を討たしめ、戒むるに、切に生民を暴略するなく、務めて、威信を廣くし、自ら歸順せしめて、須らく急に擊つべからざるを以宋-太祖皇帝-六八五 十八史略卷之六交六かうけんひんさづふくしやうしてし、匣劍を取つて、彬に授けて曰く、副將より下、命を用ゐざるいかいうぜんびんしよく者は之を斬れと。美以下、皆、色を失ふ。王全斌、蜀を平らげて、じやうつねうらひんせいじんこうせんにん多く人を殺せしより、上毎に之を恨む。彬性仁厚、故に專任すこうなんはんじやくすゐしんしあだいじやうしよ之より先、江南の焚若水、進士に擧げられて、第せず。上書して事さいせきこうじやうなはくわうけうを言ふ。報ぜず。乃ち魚を釆石江上に釣り、繩を以て、江の廣狹をはかけつさくちんいなんたい度り、闕に詣つて、策を陳ず。上、其言を用ゐ。〓南に令して、大かんつくれうしわたせきすんたが艦を造つて、浮梁となし、以て師を濟す。是に至つて、尺寸を差へずさうひんきんれうかこぢよげんにふてう八年、曹彬、金陵を圍むこと急なり。李煜、徐鉉を遣して、入朝ゆるげん5かせしめ、兵を緩うせむことを求む。鉉、言ふ。爆小を以て大に事つかそのせつすうひやくかさなんぢふる、子の父に事ふるが如しと。其說、數百を累ぬ。上曰く、爾りやうかかテ父子といふ、兩家となして可ならむやと。鉉、對ふる能はず。尋いまそうこうなんつみきますまはげで、復た至り、奏して言ふ、江南、罪なしと。辭氣益す属し。上、けんあんたげんもちこうなんま怒つて、劍を按じて曰く、多言を須ゐず、江南亦た何の罪あらむ。ぐわたふかたはらあたにんかんすゐげんくわう臥榻に佗容人のれの側ん肝豈惟だ天下は一家、臥榻の側、豈に佗人の鼾睡を容れむやと。鉉、惶きようしりぞきんれうかこみいきほひや睡をいよいきうしゆく恐して退く。金陵、圍を受けて、春より冬に徂き勢愈よ窮蹙ひんんだいくす。彬、終に之を降さむと欲し、しきりに、人をして、煜に告げしぼうじつよろところなめて曰く、某日、城必ず破れむ、宜しく早く之が所を爲すべしと、ひんやまひしようしよしやうひんやまひ一日、彬、疾と稱す。諸將、來り問ふ。彬曰く、彬の疾は、藥の能しんせいみだりく癒やす所に非ず。諸公、若し共に信誓をなして、城を破るに、妄宋-太祖皇帝-六八七 十八史略卷之六炎に一人を殺さざれば、彬の病、癒えむと。諸將、皆、許諾し、香を焚いて約誓す。翌日、城陷る。煜出でて降る。南唐亡ぶ。捷書至る。上、泣いて曰く、宇縣の分割、民、其禍を受く。城を攻むるかの際、必ず橫に鋒鏑に罹る者あらむ。哀むべきなりと。彬還る。舟中、惟だ圖籍衣衾のみ、閤門より、其榜子を通じて曰く、敕を江南に受け、事を幹して囘ると。其伐らざること、かくの如し。評九年、吳越王錢俶、來朝す。辭して歸るや、上、賜ふに黃袱を以胤人度人此を君所示た趙する匡封緘甚だのてす。固し。曰く、途中にして、宜しく密に觀るべしと。と之を啓くに及べば、皆、群臣俶を留めむを乞ふの章疏なり。俶、感懼す。上、西京に如き、宣祖の安陵に謁す。夏四月、郊す。都民の垂白なる者相謂つて曰く、我輩、少より離亂を經たり、圖らざりき、今日復た太平天子の儀衞を觀むとはと。泣下るものあり。と上、留まつて洛陽に都せむと欲す。群臣咸な諫む。上曰く、吾長安に都せむとす。晉王、叩頭して曰く、德に在つて險に在らず。上曰く、吾が將に西遷せむとするものは、山河の勝に據つて、冗兵を去らむと欲す。晉王の言、まことに善し。今、しばらく之に從はむ。百年を出でずして、天下の民力殫きむと。乃ち大梁に還る。上崩ず、在位十七年。改元するもの三、曰く建隆、乾德、開寶。宋-太祖皇帝-六八九 十八史略卷之六六九〇評壽五十。上、仁孝、豁達にして大度あり。陳橋の變、衆心に迫ら豁趙い賢朝度達匡りし仁て孝ふ英をあに胤大る京師に入るに泊びて、市、肆を易へず。嘗て、一日朝を罷め、し主じ廿通とて四の便殿に坐して樂まざるもの、之を久しくす。左右、其故を問ふ。上曰く、爾天子と爲る。容易なりと謂へるか。適ま快に乘じて、事を指揮して誤る。故に樂まざるのみと。嘗て、近臣を紫雲樓下に宴し、因つて、民事に論及し、宰相に謂つて曰く、愚下の民、菽麥を分たずと雖も、藩侯爲に撫養せず、務めて、苛虐を行ふは、朕、斷じて之を容さずと。開寶の初、京城及び大内を修め、營繕し畢る。上、寢殿に坐し、諸門を洞開せしむ。皆、端直軒豁壅蔽あるなし。因つて左右に謂つて曰く、是れ、我が心の如し、少しく邪曲あれば、人、皆、之を見むと。蜀を平らぐるの後、嘗て、其兵百餘を擇んで、川班殿直となしき郊禮して賞を行ふに、御馬直扈從を以て、特に給を增す。川班登聞鼓を擊ち、例を援いて陳べ乞ふ、上、怒つて曰く、朕の與ふる所は、卽ち恩澤たり、豈に例あらむやと其妄訴する者四十餘人を斬こと〓〓り、餘は悉く諸軍に配隷し、遂に其直を廢す。內臣、後唐に事ふるに逮ぶ者あり。上、問ふ、莊宗英武、天下を定め、國を享くること久しからざるは、何ぞやと。其人、其故を言ふ上、髀を撫して、嘆じて曰く、二十年、河を夾んで戰爭し、天宋-太祖皇帝-発 十八史略卷之六充下を取り得るも、軍法を用ゐて約束する能はず、まことに、兒戯たり朕、今士卒を撫養して、爵賞を客まず、苟くも、吾が法を犯せば、惟だ劔あるのみと。五代以來、藩鎭强盛、上、漸を以て之を削り、諸節鎭を罷めて、專ら儒臣を用ゐ、郡國を分理し、以て節鎭の橫を革む。又、諸州の通判を置き、以て刺史の權を分たしむ。之より諸侯勢輕くして禍難作らず、專ら民力を愛養するを務む。貢獻を罷め郤け、羨餘をす、進むるを禁ず。常に澣濯の衣を衣、寢殿は、靑布、葦簾を緣す。晩節、讀書を好む。嘗て、歎じて曰く、堯舜の世、四凶、投竄に止まる、何ぞ近代法網の密なるやと。諸國を削平するに必ず之を招き、至らずして後に、兵を用ゐ、其旣に降るに及びて、皆戮を加へず、禮して、之を存し、其世を終らしむ。嘗て、武成王の廟に幸し、從祀を觀るに白起あり、指して曰く、起、巳降を殺す、不武なりと。命じて之を去らしむ。評明治三十七年太祖周周の恭帝、鄭王に封ぜられ、後、房州に遷る。上、辛文悅の長者に當服装なるを以て、き前當 日房州の守たらしむ。恭帝上に先つこと二年、始めてすり例な其か、卒す。上哀を發して、朝を輟むること十日、還つて葬ること、禮の如くす。上、初め、京に入る時、周の韓通、節に死す。追贈、優厚なり。宋-太祖皇帝-六九三 十八史略卷之六六九四王彥昇命を棄てて、殺を專らにす。終身、節鉞を授けず。受禪の際倉卒、未だ恭帝の禪制あらず。學士陶穀、之を懷中より出す。上、之を薄しとす。穀久しく翰林に在つて頗る怨望す。上曰く、哥ゑ學士の草制は、樣に依つて葫蘆を畫くのみ、何の勞か之あは學樣十七を依草畫つ制くTalらむと。卒に之を政府に登さず。よっき內外の官、時望ある者姓名を籍記し、以て不次の選用を待つ。職に稱ふ者は、多く久任して遷らず。銓選法を定め、擧主連坐の法を嚴にし、贓吏の法を嚴にし、極刑に眞く者あり。五代藩鎭、苛征重歛の弊に懲りて、商征を寛うし、麴鹽酒の禁を寛うし、倉吏多く民租を入るる者は、或は棄市す。五代、多く武人を以て牧守となし、日ニ意に率つて刑を用ゆ。上、之に懲り、ことさらに入る者は、必ず罪たに抵る。大辟詳覆法を定め、折杖法を定め、新刑統を頒ち、差役法を定め、版籍、戶帖、戶鈔を作る。長吏、民田を度つて實ならざるV者あれば、或は之を杖流す。諸州、旱蝗あれば、饑を賑はし、租を§かう、獨き、惟だ及ばざるを恐る。德行孝悌を擧げ、制科を親策す。擧人進士の榜を放つ。覆試法を嚴にし、殿に御して進士を親試し、書判拔萃を試み、數ば國子監に幸し、天下に詔して遺書を求む。始めて和峴定むる所の雅樂を用ゆ。始めて、劉溫叟上つる所の開寶通禮二百卷を行ふ。宰執に命じて、日々時政を記し、史館に送つて、日曆を撰せしむ。制度典章、彬彬として條理あり。太弟晉王立つ、之を宋-太祖皇帝-六九五 十八史略卷之六六九六太宗皇帝となす。西紀九七六【太宗皇帝】初名は匡又、太祖の長弟なり。太祖の京城に入るや、1九九七匡又、首として諸將に號令し、士卒を戰めむことを請ひ、仍つて、自ら馬前に於て標掠を戒む。太祖、禪を受くるや、乃ち光義と改名し、開平に尹とし、同平章事たり。晉王に封ぜらる。建隆二年昭評博多明治君太あ后憲杜太后、崩ずるに臨み、太祖に謂つて曰く、汝、天下を得る所以〓るは長久ののものを知れりや。太祖曰く、皆、祖考と太后との餘慶なり。太后リ大途理り由とあす笑つて曰く、然らず、正に柴氏幼兒をして天下に主たらしめしに由るのみ。汝萬歲の後、當に位を管王に傳へ晉王は秦王に傳へ秦王は以て德昭に傳ふべし。國に長君あるは、社稷の福なり。太祖曰とく謹んで〓を受くと。太后、趙普を呼んで曰く、趙書記、共に吾が言を記せよ、違ふべからずと。因つて普に命じて、榻前に於て、?臣普記す誓書を爲らしむ。普、紙尾に署して曰く、臣普記すと。之を金匱に藏す。太祖、友愛篤く至る。晉王、嘗て疾に寝ねて灼支す。太祖亦た自ら灸し、以て其痛を分つ。嘗て曰く、晉王は龍行虎步、且つ生まるる時、異あり、佗日必ず太平の天子とならむ。福德は吾が能く及ぶ所に非ざるなりと。太祖、蜀に幸す。布衣張齊賢あり、十策を獻ず、召し問うて食を賜ふ。且つ陷ひ、且つ對ふ。太祖、其某策を善しとす。齊賢、固く餘策皆善なるを稱す。太祖、怒つて斥け、便ち出づ。旣に還つて、音王に語つて曰く、吾、西都に幸して、宋-太宗皇帝-六九七 十八史略卷之六六九八の張齊賢を得たり。吾、之を用ゆるを欲せず。佗日、留めて、汝に與へて、宰相と作さむと。蓋し、傳位の定まれる久し。太祖、不豫13けいおんなり。后、王繼恩をして、皇子德芳を召さしむ。繼恩、徑に晉王を召す。王、宮中に至り、左右を散遺し、言ふ所、皆、聞くを得ず。¥但、遙に見る、燭影の下、王、席を離るるの狀あるを。既にして、上、柱斧を引いて地を戮し、こう)大聲して曰く、好く之を爲せと。遂に崩ず。后、晉王を見て愕然として曰く、吾が母子の命、皆官家に託す。王曰く、共に富貴を保し、憂なきなりと。王、位に卽き、名を昊と更む。秦王廷美、開封に尹たり。改めて齊王に封ぜられ、德昭、武功郡王に封ぜらる。使を遣し、州縣を分行して、官吏を廉察し、其優劣を第せしめ、罷軟にして任に勝へず、惰慢にして事を親らせざるものは、官を免にす。贓吏の配せられし者は、赦に遇ふも敍せず。大理評事陳舜封。事を奏するや、口捷に、擧止、倡優に類す。問ふ誰が氏の子ぞと。對ふるに、父、伶官たるを以てす。上曰く、汝は眞に雜類なり、豈に〓望に任ずるを得むやと。改めて、殿直を授く。陳洪進、來朝して、漳泉二州を獻ず。吳越王錢俶、來朝して、遂に其地を獻ず。潘美に命じて、北漢を伐たしめ、尋いで、親征して太原を圍む。宋-太宗皇帝-六九九 十八史略卷之六七〇〇りうけいげん劉繼元、出でて降る。北漢、亡ぶ。詔して契丹を征す。易州、涿州、來り降る。上、幽州を攻む。旬を踰えて下らず、遂に師を班す。郡王德昭、從つて幽州を征す。軍中、夜、驚いて、上の在る所を知らず。德昭を立てむことを謀る者あり。上聞いて悅ばず。歸るに及びて、北征利あらざるを以て、北漢を平らぐるの賞を行はず。德昭、之を言ふ。上、大に怒つて曰く汝が自ら之を爲すを待つて、賞するも未だ晩からざるなりと。え德昭、退いて自刎す。後二年、岐王德芳、卒す。太祖の二子、相繼いで死せしより、齊王廷美、自ら安んぜず。佗日土、傳國の意を以て、趙普に訪ふ。普曰く、太祖、既に誤る。陛下、豈に再び誤るべけむやと。是に於て、普、復た入つて相たり。廷美、遂に罪を得て、涪陵縣公に降す。普、復た知開封府李符をして、其怨望を〓げしむ。南房州に還し、尋いで、之を殺す。普、李符が言を漏らさむことを恐れ、弭、德超、曹彬を譜するの故に因つて、符、德超を薦めしを以て、符を春州に貶して卒す。种放、終南山に隱れ、草を結んで廬となし。講習を以て務となす。後進、多く之に從つて學ぶ。上聞いて、之を召す。辭するに、母の老いたるを以てす。上、其節を高しとして、厚く錢帛を賜うて之を旌はす。呂蒙正、參政となる。朝士あり、之を指して曰く、この子も亦た宋-太宗皇帝-七〇一 七〇二十八史略卷之六どうれつなじさんせいまうせいいつは蒙蒙正、佯つて聞かず。同列、其姓名を詰らむと欲す。加上有名參政かと。評姓し正を一名しうしんわすとじ終身忘れず、知る正、之を止めて曰く、若し一たび名姓を知らば、り如知終かる身しななきに如かざるなりと。ざるきくわざんちんたんがうきいせんぜたま華山の陳摶を召し、號を希夷先生と賜ふ。つひやところおくまんでんしやくかいほうじた費す所億萬田錫、奏して曰く、開寶寺の塔、成る。前後八年、あぶらぬちきんへきけいくわうしゆうお膏を塗り、血衆以爲へらく、金碧焚煌たりと。臣、以爲へらく、ぬいかを覺ると。上、怒らず。こけいゐんおとうとけいせいやりくわうえい之より先、西夏の李光叡、らいてう卒す。子繼筠、けん嗣ぐ。そのおとうとけいせん又卒す。そむ弟繼ほう其弟繼遷、叛き去捧、嗣ぐ。繼捧、來朝して、四州の地を獻ず。しばしへんふこうり、數ば邊に入寇す。きつたんしょいそうりうちよた緒十なち律契丹主明記、四宗卽耶はり遼隆はゝせうしの聖殂す。景宗と號す。子隆〓立つ、年十二。母蕭氏、そのこくせいもつは在位九年其國政を專らにす。(無料)九り遼一自さうひんらめいきつたんう上、曹彬等に命じ、道を分つて、ひんかう八二三一)至のくわんたいはいみことのりかつ契丹を伐たしむ。きつたん彬の兵、岐溝名君な關に大敗す。詔れんねんにふこうのちぢよしんきつたんして、そのてうこう師を班さしむ。みち契丹、之より連年入寇す。後、ゆる女眞、ぢよしん契丹、其朝貢の路を隔つるを以て、きつたん之を擊たむを請ふ。許さず。女眞、遂に契丹に臣たり。りけいほうせいめいてうはうちうせつど李繼捧に姓名を趙保忠と賜ひ、たまさづ上、しめいかぎんすゐいうせい節度使を授け、命じて、夏、くわんけいせんはか銀けいせん綏、くだてうはうきつ宥、靜、五州を管し、まへん繼遷を圖らしむ。かうり繼遷、降る。姓名を趙保吉と賜ふ。けいりうはうちうい保吉、はうきつ復た邊に寇す。きうと李繼隆に命じて、之を討たしむ。保忠言ふ。旣に保吉と仇を解く、乞ふ、兵を罷めむと。上、宋-太宗皇帝-七〇三 十八史略卷之六七〇四怒つて、繼隆に命じて、先づ兵を移して、之を討せしむ。繼隆、夏州に入り、保忠を闕下に檻送す。保吉、尋いで、亦た降を請ふ。然も、復た叛く。繼隆に命じて、之を討せしむ。こと〓〓蜀、旣に平らぎしより後、府庫の物、悉く載せて内府に歸る。土た、狹く、民稠く、有司賦外の科なきにあらず。王小波、起つて盜をなす。小波、死す。李順、之に繼ぎ、成都を攻め陷れ、蜀王と僭號す。上、王繼恩に命じて、討つて、之を擒にせしむ。蜀、平らぐ。交趾の丁連卒す。大校黎桓、其宗族を囚へて、其國を專らにす。上、初め命じて、之を討たしむ。功なし。旣にして、桓、奉貢す。竟に桓を以て、交趾郡王となす。時に、霖潦、寇準班を越度に過ぐ。上曰く、朕、刑獄に於ける、心を盡す。えて言ふ安んぞ積陰の譴を得たると。寇準、班を越えて、對へて言ふ。某州の局吏、官錢を侵すこと若干、法に於て小過となす。陛下、之を殺す。王淮は、參政王汚の弟なり。錢數百萬を盜む、法に於て大怒となす。陛下、汚の故を以て、{務めて、相容れて蔽ふ。かくの如くして、刑獄に心を盡すといふ。之を如何にして、積陰の譴なからむやと。上、卽日、淮を誅し、汚を罷む。俄にして、霖、止む。上、崩ず。在位二十二年。改元するもの五、曰く太平興國、曰く雍熙、端拱、淳化、至道。15壽五十九。薛居正、沈淪、趙普、宋琪、李昉、呂蒙正、張齊賢、呂端等、相繼いで、相となる。普は、凡そ宋-太宗皇帝-七〇五 十八史略卷之六七〇六趙普の言行再び入つて再び罷めらる。尋いで薨ず。普、初め、吏道を以て聞こさゆ學術寡し。太祖、嘗て勸むるに經書を以てす。普、遂に手に評論鮮奶茶奶茶奶茶語に卷を釋かず。朝に大議ある毎に、卽ち戶を闔ぢて自ら一筐を開き、し參大·一書を取つて、之を閱す。卒するに及びて、家人、其筐を視れば、論語なり。嘗て、上に謂つて曰く、臣に論語一部あり、半部を以て太祖を佐けて天下を定め、半部を以て陛下を佐けて太平を致すと。呂蒙正蒙正、晩に出づ。嘗て、普と並び相たり。普、甚だ之を推す。蒙正、嘗て、冊子を夾袋中に置いて、四方人材の姓名を疏し、以て選張齊賢用を待つ。初め太祖、嘗て、張齊賢を以て、上に屬す。齊賢、進士に擧げらるるに至つて、上、之を上第に置かむと欲す。然も、有司、其名を第して、下に在り。と乃ち、詔して、一種、特に通判を與へ卒に大に用ゐらるるに至る。呂端糊塗す呂端、相となる。人、謂ふ、呂相、事を作して糊塗すと。上之を知つて曰く、端、小事は糊塗すれども、大事は糊塗せずと、上位に卽いて以來、小人を以て相となす者は、盧多遜一人のみ。太子立つ、之を眞宗皇帝となす。【眞宗皇帝】初名は元侃、襄王に封ぜらる。擧人楊礪といふ者あり、嘗で、夢に一大殿に至る。殿上に坐する者あり、あ之に語つて曰我は汝の主に非ず、く來和天尊は汝の主なりと。指示して、之に謁せしむ。礪後に進士第一なり。入つて、襄王府の記室たり。旣謁すれば、に、夢中見る所の如し。太宗、嘗て、相者をして、襄王宋-太宗皇帝-眞宗皇帝-七〇七 十八史略卷之六七〇八下六大きに詣らしむ。門に及んで、返つて曰く、王門は斷役も、皆將相たbo王、知るべしと。立つて、太子となる。是に至つて位に卽く、1;名を恆と更む。咸平二年、契丹、入寇す。上、親征す。大名府に至つて還る。三年。益州の卒王均反し、大蜀と僭號す。雷有終を以て州に知とし、討つて、之を擒にす。益州、平らぐ。亟に之范廷召、契丹を討ち、援を高陽關の都部署康保育に求む。力戰して之に死に赴く。廷召、ひそかに遁る。保裔、爲に圍まれ、す。靈州を李繼遷、先朝賜ふ所の姓名を奪はれ、邊に寇して已まず、攻め陷る。西凉六合の會長潘羅支、乞うて王師に會して、之を討つ。繼遷、西凉府を攻め陷る。潘羅支、要して、之を擊つ。繼遷、流矢に中り、靈州の境に於て死す。其子德明、降を請ふ。復た姓趙を賜ひ、後、封じて、西平王となす。楊嗣、楊延朗、智勇にして、善く戰ふ。團練使を加へらる。虜之を憚り、目して、楊六郞といふ。景德元年契丹主、其母蕭氏と大擧して入寇す。中外震駭す。參政陳堯叟は蜀人、蜀に幸せむことを請ふ。王欽若は江南の人、江南に幸せむことを請ふ。上、以て宰相寇準に問ふ。準、問ふ、誰か此策を畫する。上曰く、卿暫らく、其可否を斷ぜよ。問ふ勿れ。宋-眞宗皇帝-七〇九 十八史略卷之六七一〇準曰く、臣、策を獻ずるの臣を得て、斬つて以て鼓に釁り、然る後に北伐せむと欲するのみと。遂に親征の議を定む。上、蹕を韋城に澶州に至り、三面駐む。尋いで、衞南に至る。契丹、兵を擁して、弩に中つてを園合す。李繼隆等、出でて、之を禦ぐ。契丹の撻覽、す死し、大に挫けて退却し、敢て動かず。て寇準、力めて上に勸めて、猶豫の間瓊衞士河を渡らしむ。殿前帥高瓊、亦た力めて賛す。を麾いて、輦を進めて曰く、陛下、若し河を過ぎざれば、百姓考君が輩、此妣を喪ふが如しと。梁適、之を呵す。瓊怒つて曰く、遂評言痛烈骨を高瓊の一時、尙ほ人の失禮を責む、何ぞ一詩を賦して虜を退けざるやと。刺す黃旗幟に上を擁して、以て渡り、旣に澶州に至り、北城に登つて、を張る。諸軍、皆、萬歲と呼ぶ。聲數十里に聞こゆ。契丹、氣、評奪はる。ににを提の充ら利宋條必實れに帝と逸姑衰ずた的和力惑好しのをるてら件須が國誘和之より先、王繼忠といふ者虜に陷り、嘗て、和好の利を言亡遂る前好のせの故に大擧すと雖も、3.0.亦た使を遣し、繼忠の書を以て來らしむ。曹利用に命じて、上、之を報ず。利是に至つて、用、契丹の使者韓べも事至以悟せいそうと杞と共に來り、息世宗取る所の關南の故地を請ふ。上曰く、地.必ずふる大得べからず。寧ろ、金帛を與へて、いす以て和せむと。準の意、亦た與ふるを欲せず、且つ畫策して、以て進めて曰く、此の如くなれば、百年の無事を保つべし。然らざれば、數十歲の後、戎、復た心を生ぜむと。準蓋し之を擊つて、隻輪をして返らざらしめむと欲す。上曰く、數十歲の後、當に能く之を禦ぐ者あるべし。吾、生靈重ね宋-眞宗皇帝-七二一 十八史略卷之六七一二りようくるししのそのわゆるて困むに忍びず、しばらく、其和を聽せと。遂に再び利用をして往さいろきんはくすうやかしむ。利用、歲賂金帛の數を請ふ。上曰く、必ず已むを得ざれちよくじゆんば、百萬と雖も、亦た可なりと。準召して、之に語つて曰く、敕このすう旨ありと雖も、三十萬に過ぐるを得ず、じゆん若し此數を過ぐれば、つひけんまんぎん來つまんじゆんなか銀十萬て準を見る勿れ、準汝を斬らむと。利用、卒に絹二十萬、こもごせいやくなんてうけいほくてうを以て、和議を定め、南朝を兄となし、北朝を弟となし、交も誓約し、各、兵を解いて歸る。じゆんけいしはつてうしめいしよしうち準初め、でんらう京師を發するや、ち朝士に命じて、いまし出でて諸州に知たらひやくしやうみなしめ、皆、殿廊に於て、敕を受けしむ。之を戒めて曰く、百姓は皆ニみなざいみだじやうべきうしな兵、府庫は皆財なり。汝に浪りに戰ふを責めず、但だ一城一壁を失まぐんねこきんじやくしんせい當に軍法を以て事に從ふべしと。にくは、欽若が親征の議を沮むを恐そのちきんじやくてんゆうぐんれ、其智あり、きつたん且つ福あるを以て、きんじやく欽若を出して、つか天雄軍に知たら契丹、さくさいしむ。しうきやうじゆ城下に至る。欽若、せんえん門を閉ぢ、かへ手を束ねて策なく、じゆん齋を修し、きはあつ經を誦するのみ。上、澶淵より還り、うらてう準を待つこと、しりぞじやう極めて厚し。欽若、じゆん歸つて深く準を恨む。嘗て朝より退くや、上、準をもくさうきんじやくすへいかじゆんけいそのしやしよく目送す。欽若、進んで曰く、陛下、準を敬す、其社稷に功あるが爲じやうかちかひしゆんじうせうこくはかしうぜん城下の盟は、春秋の小國も、恥づる所なりと。上、愁然たり。きんじやくつねせんえんえきじゆん欽若、ちう且相となる寇準罷め王毎に曰く、や澶淵の役、うすつ準、陛下を以て孤注となすと。わうたんどうへいしやうじ上、準を待つこと。寢や薄し。尋いで、相を罷む。王旦を以て、同平章事たんわうこたいそかつこあんとす。旦は、王祐の子なり。太祖、嘗て、祐を遣して、事を按ぜし宋-眞宗皇帝-七一三 七一四十八史略卷之六か、 太祖の意に徇む。謂ふ、祐還らば、王溥の官職を與へむと。祐、はず、竟に大に用ゐられず。祐曰く、祐、做らずとも、兒子二郞、〓必ず三公となる必ず做らむと。三槐を庭に植ゑて曰く、吾が後世、者あらむと。是に至つて、旦、果して、相となる。深沈にして德望くあり、能く大事を斷ず。上、心深く之に屬す。趙德明、嘗て民の饑ゑたるを以て、表を上つて粮を乞ふ。群臣、皆、之を責めむことを請ふ。旦曰く、臣、德明に詔して云はしめんと欲す。塞上の儲粮は與ふべからず、己に京師に於て百萬を積む、自ら衆をして來り取らさいは、上、しむべしと。德明、再拜して詔を受けて曰く、朝廷人ありと。既に欽若の言を入れて、屢ば欽若に問ふ、何を以て恥を刷はむと。欽若、上の兵を用ゆるを厭ふを知り、謬つて曰く、幽薊を取れば可なりと。上、其次を思はしむ。乃ち請ふ、封禪し、以て四海を鎭伏夷狄に誇示せむと。し、又言ふ、封禪は當に天瑞を得べし、前代、人力を以て之を爲すあり、河圖、洛書、果して此あらむや。聖人神道を以て〓を設くるのみと。是に於て、太中祥符より以來、屢ば天書あつて降る。東、泰山に封じ、西、后土を汾陰に祀る。又、趙氏の祖九天司命天尊あつて降る。天下に天慶觀を立て、聖祖殿を置聖祖の名玄朗を諱み、き、玉〓昭應宮を作る。旦、其事を止むる能はず。上、在位二十六年。元年、呂端罷めてより後、張齊賢、李流、呂宋-眞宗皇帝-七一五 十八史略卷之六七六蒙正、向敏中、畢士安、寇準王旦、相繼いで、相となる。惟だ旦は位に居ること十一年。李沆の相たりし時に當つて、旦、始めて參李沈と王旦論語中政たり。沆論語を讀むを喜ぶ。嘗て曰く、宰相となつて、の「用を節して人を愛し、民を使ふに時を以てす」といふ兩句の如き、なほ行ふ能はず。聖人の言、終身之を誦するも可なりと。流評人主日に四方の水旱盜賊を取つて、之を奏す、旦謂ふ、細事、上聽をふすむ情賊し李べ名べを社て流水旱下盜を會の煩すに足らずと。流曰く、人主少年、當に人間の疾苦を知らしむし言し知ととら意を聲色犬馬に留めざれば、べし。然らざれば血氣方に剛なるや、是れ參政他見るに及ばず、土木甲兵禱祀の事作らむ。吾老いたり、封禪祠祀士木、日の憂なりと。太中祥符に至つて、並び興る。旦乃李文靖は眞に聖人なりと。ち歎じて曰く、大禮ある每に、旦、輒ち首相を以て天書を奉じて行く、常に悒悒として樂まず、13去らむと欲すれば、上、之を遇する厚し、位に薨ずるに及びて、遺令すらく、髪を削り、緇を披き、以て歛せよと。議者謂ふ、具、君を得たりしも、正を以て自ら終る能はずと。或は之を馮道に比すといふ。張詠嘗て言ふ、吾が榜中、人を得る、最も多し。謹重にして德望あ李文靖に如くはなく、るは、深沈才德、天下を鎭服するは、王公に如くはなく、面折廷爭して素より風釆あるは、寇公に如くはなく。方面の寄に當つては、詠敢て辭せずと。旦の世に當つて、王欽若旣に相たり。欽若、罷む、寇準、再び入つて相たり。參政丁謂、準宋-眞宗皇帝-七一七 七一八十八史略卷之六くわいしよく謂に事へて、甚だ謹む、嘗て、會食するや、羹準の鬚を汚す。起つて之を拂ふ準笑つて曰く、參政は國の大臣なり、乃ち官長李迪、相丁謂、罷む。の爲に鬚を拂ふかと。謂.甚だ愧恨す。準評ん謂拂爲人者に官な豈鬚長ら丁をの上一ふめ時に、となる。準、遠く貶せらる。迪罷む。謂.獨り相たり。中宮に白謂.旣に病あり、昏眩す。準が罷貶せらるるが如き、皆、在位改元するして之を行ひ、上、知らず。尋いで崩ず。年五十五、太子立もの五、曰く咸平、景德、曰く太中祥符、曰く天禧、顯興。つ、之を仁宗皇帝となす。之を子とす。【仁宗皇帝】名は禎、母は李氏。章獻明肅劉皇后、晝夜啼いて止眞宗、皇子を得ること、旣に晩し。初め生まるるや、ご、まず、道人あり、言ふ、能く兒啼を止めむと。召し入る。乃ち曰叫ぶ莫かれ、 叫ぶ莫かれ、何ぞ當初の笑ふ莫きに似かむと。啼卽ち止む。くこと、蓋し謂ふ、眞宗、嘗て上帝に顬つて嗣を祈る。群仙に問ふ、誰か當に往くべき者ぞと。皆、應ぜず。獨り、赤脚大仙一笑す。遂に、命じて、降つて、眞宗の子とならしむ。宮中に在つて、赤脚を好む、其驗なり。昇王より、太子となり、年十三にして、位に卽く。劉太后、簾を垂れて、同じく政を聽く。丁謂、事さんせいわうそうを用ゐ、寇準を讒して、雷州司戶となす。參政王曾、密に奏す。謂.禍心を包藏し、眞宗の山陵、擅に皇堂を絕地に移すと。遂に謂を罷め、貶して、崖州司戶に至る。謂.初め、學士に命じて、準宋-仁宗皇帝-七一九 十八史略卷之六七二〇謂が讒の責詞を草し、春秋無將漢法不道を用ゐしめて證事となす。以る寇ての準べも己た己らのをす謂評を貶はで謂せら詞貶丁責詞せらるるに及び、學士乃ち其語を用ゆ、人、是を快とす。準を逐ふの出所と自にるれる責返もに 詞當に眼中で謂せ時に方つて、京師語つて曰く、天下の寧を得むと欲せば、もにの丁を拔くべく、天下の好を得むと欲せば、寇老を召すに如くはなきのといへふるかしと。然れども、準竟に北に還るに及ばずして卒す。王會、相となり、王欽若、再び相たり。欽若、卒す。張知白、相たり。知白、卒す。張士遜、相たり士遜、罷む。呂夷簡、相たり。惟だ王曾、天聖の初より、相位に居り、是に至るまで七年にして罷む。曾、初め進士に擧げられ、靑州の發解、禮部の延試、皆、第一なり。人曰く狀元三場、喫著し盡きずと。曾曰く、曾、平生の志、溫飽に在らずと。眞宗の末、色を正しうして朝に立つ。朝廷、賴つて以て評重きを爲す。相と作るの日、進退する所の士、知る者あるなし。或採用王べを亦てもり得す曾る人のをひと、其故を問ふ。曾曰く、恩、己に歸せむと欲せば、ずざるれ用れ事法べき怨は誰をしららあすを然て當らしめむと。か知弊偏之交趾の黎桓景德中に卒す。子龍廷、其兄龍鉞を殺して自立し、る來貢す。名を全忠と賜ふ。太中祥符の間、全忠卒す、子幼なり。弟立つを爭ふ。大校李公蘊、遂に之を殺して自立す。是に至つて公蘊、卒す。子德政、立つ。來つて、喪を告ぐ、封じて交趾郡王となす。契丹主隆〓殂す。聖宗と號す。子宗眞立つ。宋-仁宗皇帝-七二一 七二二十八史略卷之六せいかてうとくめい げんかう西夏の趙德明、卒す。王士大學立つ。はゝりしもくもくおつもりうたいこう上の母李氏、默默とし劉太后、上を以て己の子となす。而して、一)おそをかついせんてうひんぎよ人、亦た后を畏て、先朝嬪御の中に處り、未だ嘗て自ら異とせず。しんびすさいしやうりよやまひあらたあえ宰相呂れて、敢て言はず。病革まる、れい乃ち位を宸妃に進めて薨ず。そなほうむたよろ他かんたいこうそう曰く、い以て葬るべし。夷簡、太后に奏す、宜しく、禮を備へて、しんひしゆつきたじついかんかつと一年を踰え日夷簡、嘗て說き來らずと道ふ勿れと。宸妃卒して、しようせいみづかたいこうほうせい之よりて、太后崩ず。制を稱する十一年。上、始めて政を親らす。いかんてきしやうりよいかんちやうしそんたらかしやう李迪、相たり。而先、呂夷簡、張士遜、並に相たり。夷簡、罷む。かんまはつめいししゆ復た相たそん夷簡、して、士遜、首相たり、發明する所なくして罷む。まけんいかんてきやわうそう夷簡のり迪罷む。王會、復た相たり。然も、權夷簡に在り。はじくわくくわうごう初めて罷むるや郭后の言を以てす。こう皇復た入るに及びて后せうびじんてうあらそげきくわくこうはいだいかん尙美人と寵を爭ふの隙あり遂に郭后を廢す。夷簡、力あり。臺諫こうだうほはんちうえんちうえんてうかへたいせい孔道輔、范中淹、爭ふ。得ずして出づ。仲淹、朝に還つて、待制とかいほうふちいよいきふしばしじせいなり、いかんぞのしよく開封府に知たり。うつた事を言ふこと、ぜうしうち愈よ急、數ば時政を議す。くわんかくよせいゐんしゆ夷簡其職を越ゆるを訴ふ。罷めて饒州に知たり。館閣余靖、尹洙、んんおうやうしうかんぐわんかうじやくとつ之を爭ふ。坐して貶せらる。いさ皆、歐陽修諫官高若訥の諫めざるにんげんしうちじやくとつそのしよを責む、そう謂ふ、人間羞恥の事あるを知らずと。若訥、其書を奏す、さいじやう四賢一不肖の詩を作る。けんせうけんちうえんしゆ之詩四賢一不肖亦た貶せらる。せいしう蔡襄、ふせうさわうそう四賢は、たい仲淹、洙かん靖、修を指し、い本日は、若訥を指すなり。王曾、對に因つて、夷簡ろいしりぞそうならびが賂を納れて恩を示すを斥く。やわうずゐちん夷簡、曾並に罷めらる。王隨、陳朱-仁宗皇帝-七二三 十八史略卷之六七二四ちやうしそんしやうとくけんめいげうさかは章得堯佐、之に代る。建明する所なきを以て、罷めらる。張士遜、しやう象てうげんかう之に代る。ぎんすゐいうれいえんくわいしやうかんりやうこしやしゆく趙元昊、夏、銀綏、宥、雲、鹽、會勝甘、凉瓜、沙肅こうしうがらんざんかためたいかくわうしうきよいう大夏皇州の地を據有し、せんがうせいへん興州に居り、さうぜん賀蘭山を阻して、はんようせいかけいえい固となし、げんかうえんで、元昊が將に延帝と僭號す。西邊、騷然たり。范雍、西夏を經營す。しうおそと1、州を攻めむとするを聞き、懼るること甚しく、門を閉ぢて救はず。ちうくわんくわうとくわそうりうへい兵を以て其家劉平、かこ戰ふ。そのぞく中官をさ黃德和、平、賊に降ると誣奏す。ひついくわんけいたす富弼を圍み、其族を收めむを議す。やぶのゝし富弼言ふ、平、とくわ環慶より來り援く、しのがかんしんすく人を誣ひて免れむ姦臣救はず、こひねが故に敗れ、賊を罵つて死す、えうざんはんよう德和、ときぐんおこたことを冀ふと。坐して腰斬せらる。范雍、罷む。時に軍興つて多養老場なら政事府豈に事、じ張士遜、ちやうしそん補ふ所なし。おぎな諫官韓琦、かんくわんかんき上疏して曰く、じやうそ政事府は、せいじ豈やうびやうばうんやしそんちかんに養病坊ならむやと。りよいましやうかんきはんちうえん是に於て、へんすゐ士遜致仕す。呂夷簡、復た相た韓琦、かえんしうり范仲淹を用ゐて、邊帥となす。うかじんあひいましえんしう仲淹、嘗て、兼ねて延州せうはんらうしに知たり。けうちうおのづか夏人、相戒めて曰く、かうへい延州を以て意となす勿れ、たいはんらうしあざむ小范老子、胸中 自ら數萬の甲兵あり、大范老子の欺くべきに比せざるなへんじんこれぐんちうかんせいぞくこれしんりと。邊人之が爲に語して曰く、たんさむぐんちうはん軍中一韓あり、西賊之を聞いて心膽寒し。きやうはかう軍中一范あり、たくま西賊之を聞いて膽を驚破すと。昊の大に逞けだちうえんきよたしうするを得ざるは、上蓋し、埼.仲淹の力を宣ぶること、居多なるに藉る。きつだんてうていせいかたうじようへんしせきしんさ契丹、朝廷、西夏の撓あるに乘じて泛使を遣して、石晉割く所、宗-仁宗皇帝-七二五 十八史略卷之六七二六周の世宗取る所の關南の地を求めしむ。知制詰富弼、接伴す。時に夷簡、事に任ず。人、敢て抗するなし。弼、數ば之を侵す。夷簡、事に因つて、弼を罪せむと欲し、弼を以て、報使とす、弼至る。徃返論難、力めて、其地を割くを拒む。使、還る。再び遣る。而し5て國書、ことさらに異同をなし、夷簡、以て弼を陷れむと欲す。弼疑うて啓き觀る。乃ち復た囘奏し、夷簡を面責し、書を易へて徃き、歲賂銀絹各十萬を增し、和議を定めて還る。呂夷簡、罷めむことを求む。上遂に天下の弊事を更めむと欲し、諫官の員を增し、王素、歐陽修、余靖、蔡襄に命じて、諫院の職に供せしめ、韓琦、范仲淹を以て、樞密副使となし、夏竦を召して、ミ樞密使となす。諫官、論じて竦を罷め、杜衍を以て、之に代ふ。國子直講石介、喜んで曰く、是れ盛德の事なりと。乃ち慶曆盛德の詩ニを作る曰へるあり、衆賢の進むは、茆の斯に拔くが如く、大姦のニ去るは、距の斯に脫するが如しと。大姦は、竦を指すなり。仲淹、琦.適ま陝西より來る。道中、詩を得たり。仲淹、股を拊つて琦に上謂つて曰く、此怪鬼輩の爲に事を壞ると。竦、因つて、其黨と論をう(造し、衍等を目して黨人となす。歐陽修、乃ち朋黨論を作つて、之歐陽修朋黨論を上るを上る。略に曰く、小人は朋なし、惟だ君子は之あり。小人利を同じうする時、しばらく朋を爲すものは僞なり。其利を見るに及びては、先を爭ひ、或は利盡きて情疎、反つて、相賊害す。君子、身を宋-仁宗皇帝-七二七 十八史略卷之六三八をさあひえき23修むれば、道を同じうして相益し、國に事ふれば、心を同じうしてたまさしうし共に濟ふ、終如一の如し。是れ君子の朋なり。君たる者は、但だ當ぎしんはうに小人の僞朋を退けて、君子の眞朋を進むべし、乃ち天下治まらむとちうえんさんせいうつひつすうふくぬき仲淹、參政に遷り、富弼、樞副となる、上既に仲淹等を擢んで、しんけんてんしやうかくひらせうたいさ進見する毎に、太平を以て之を責め、天章閣を開いて召對し、坐をたまひつさつきふみなくわうきやうしりぞれつさう賜ひ、筆札を給す。仲淹等、皆惶恐す。退いて、十事を列奏す。ちゆつちよくあきらげうかうおさ一に曰く、黜陟を明かにせよ。二に曰く、僥倖を抑へよ。三に曰こうきよくわんちやうえらこうようく貢擧を精しくせよ。四に曰く、官長を擇べ五に曰く、公用ひとのうさうあつぶびをさを均しくせよ。六に曰く、農桑を厚うせよ。七に曰く、武備を修めえうえきおんしんおよぼよ。八に曰く、徭役を減ぜよ。九に曰く、恩信を覃せよ。十に曰くめいれいおもじやうまきしんかうたぶび命令を重くせよと。上方に信向して、悉く其說を用ゆ。惟だ武備、いささいしやうもつかしやうとく府兵を復せむと欲するの一說は、宰相以て不可となす。時に、章得しやうあんしゆどうへいしやうじいくばくちうえんせんせいかとう象晏殊、並に同平章事たり。未だ幾ならず、仲淹、陝西、河東をせんぶひつかせんぶしようらばうちうえんらてう宣撫し、富弼、河北を宣撫す。竦等、謗を造す。故に、仲淹等、朝やすおうやうしうあんしゆとえんに安んぜず、歐陽修、亦た出でて河北に使す。晏殊、罷む。杜衍、つとげうかうさいないかうごとおほむしんかく同平章事たり。衍、務めて僥倖を裁す。內降ある每に、率ね寢格しせうしよっすなはかんて行はず、詔書を積むこと十數、輒ち上の前に納る。上、嘗て、諫ぐわんえんないかうふうくわんきうちう官に語つて曰く、外人、術が内降を封還するを知るか。朕、宮中につねふうくわん在つて毎に〓ぐべからざるを以て止むもの、封還する所よりも多き宋-仁宗皇帝-七二九 十八史略卷之六七三〇なりと。會ま、衍の婿蘇舜欽、進奏院に監とし、故紙を鬻ぐの公錢か、を用ゐ、神を祀り、客を會す。御史中丞王拱辰、素より衍等の爲ミす所を便とせず、因つて其事を攻む。獄に置いて罪を得る者數人。(一網打去し拱辰、喜んで曰く、吾、一網打去し盡せりと。行、相たること七十盡す日にして罷む。賈昌朝、平章事兼樞密使たり。韓琦、樞副を罷めて揚州の事に知たり章得象、罷む。陳執中、平章事たり。昌朝、罷む。夏竦、代つて、樞密使となる。貝州の卒王則反す。文彥博、河北を宣撫す。討つて之を平らぐ。趙元昊、慶曆の初、嘗て、范仲淹に因つて和を請ひ、反覆數歲、竟に款を納れて、復た臣と稱す。策命して、夏國王となし、曩霄と名づけ、歲に銀絹茶絲二十五萬五千を賜ふ、遂に復た邊に寇せず。卒す。子諒祚、立つ。陳執中、建明する所なきを以て罷む。夏竦、罷む。宋庠、之に代る。尋いで、同平章事たり。未だ幾ならずして罷む。張貴妃兄堯佐、一日、四使に除せらる。監察御史裏行唐介、之を論ず。聽かず。遂に効奏す、文彥博、さきに蜀に守たり。燈籠錦を以て貴妃に獻じて、執政を得たり、故に堯佐に黨すと。上、怒つて介を遠貶す。彥博、亦た罷むるを求む。龐籍、平章事たり。ニ廣源州の儂智高、廣州に寇し、連歲、諸州を陷る。邕より廣西に宋-仁宗皇帝-当 十八史略卷之六七三二至るまで、皆、其害を被る。樞副狄靑に命じて、討つて、之を平らぐ還つて、樞密使となる。龐籍、罷む。陳執中、梁適、平章事たり。適罷む。劉流、之に代る。執中、罷む。文彥博、富弼、並に同平章事たり。士大夫、人を得るを相慶す。上曰く、人情、斯くの如し。豈に夢トに賢らずやと。上、嘗てくわん〓〓王素に問ふ、孰れか相と爲すべきと。素曰く、惟だ宦官宮妾、姓名を知らざる者、其選に充つべし。上、慨然として曰く、斯くの如くなれば、富弼のみと。契丹主宗眞、殂す。興宗と號す。子洪基、立つ。交趾の李德政、卒す。子日遵、立つ。劉流、罷む。文彥博、罷む。韓琦、平章事たり。富弼、罷む。王安石王安石、知制誥たり。安石、官を遷る每に、遜避して已まず。知制誥に至つて、復た官を辭せず。ら安石、嘗て花を賞し魚を釣るの宴{に侍し、誤つて釣餌を食ふ。既に悟るも、之を食ひ旣す。上、其不情にして非を遂ぐるを以て、之を惡む。安石、重名あり。キ、爭つて之に向ふ。惟だ、蘇洵、見ず、辨姦論を著し、亦た以爲へらく、人情に近からず、必ず大姦慝ならむと。き、割司馬光進三司馬光、諫院に知たり。三箚を進む。一に君德を論ず、三あり、曰く仁、曰く明、曰く武。二に臣を御するを論ず、曰く官に任ず、宋-仁宗皇帝-七三三 十八史略卷之六書曰く賞を信にす、曰く罰を必す。三に軍を揀ぶを論ず。又、五規を進む、曰く業を保す、曰く時を惜む、曰く謀を遠くす、曰く微をこ謹む、曰く、實を務むと。い策して、科人を制す。蘇軾、蘇轍を得たり。曾公亮、平章事たり。上在位四十二年、改元するもの九、天聖、明道は垂簾の政なり。お·のれ景祐以來は、政己より出づ。寶元、康定の間は西鄙多事。慶曆更めて化し、君子朝に滿つ。皇祐、至和、嘉祐に至つて、天下承平〓無事恭儉の德、人を愛し、物を恤むの心、卽位より升退に至るまで、終始一日の如し。遺制下る時、深山窮谷と雖も、奔走せざるな大く悲號して止む能はず。壽五十四。皇子立つ、之を英宗皇帝となす。【英宗皇帝】初名は宗實、濮の安懿王允讓の子、太宗の會孫なり。仁宗、立てて皇子となし、名を曙と賜ふ。仁宗崩ず、固く避くること數囘にして後に、位に卽く。憂疑を以て、疾を致す。慈聖光獻曹太后、權に政を聽く。上の擧措、或は常度を改め、宦者を遇する、尤も恩少し。左右、多く悅ばず、乃ち共に讒開をなす。兩宮遂に隙な宰相韓琦、を成す。參政歐陽修等の調護するに賴つて、上、旣に康ふ復して政を親らす。太后、簾を撤す。琦、一日、空頭の救を出す。修、旣に僉す、趙槩、未だ僉せず。修曰く、惟だ之に書せよ。韓公宋-英宗皇帝-臺 十八史略卷之六美必ず說あらむと。琦、政事堂に坐し、內侍任守忠を召して、庭下に立たしめて曰く、汝の罪、死に當すと。責めて、〓州に安置す。蓋し、兩宮を交鬭するの人なり。又、太濮王を崇奉する典禮を議す。執政、皇考と稱せむと欲す。后の詔を以て、上をして親と稱せしむ。司馬光、范鎭、呂誨范以て不鎭は輸林を純仁、呂大防、呂公著、交も論じて、可となす。議、竟に罷め、誨純仁、大防は言職を解き、公著は侍講を罷む。決せず。契丹、大遼と改號す。上、崩ず。在位四年。改元するもの一、曰く治平。年三十八。皇太子立つ、之を神宗皇帝となす。【神宗皇帝】名は項、母は宣仁聖烈皇后高氏、曹太后の甥なり。幼ごにして、英宗と同じく后の所に鞠はる。後に英宗の配となつて、項を生む。潁王より太子となり、尋いで、位に卽く濮議あつてより以來、言者、歐陽修を攻めて已まず、遂に罷む。韓琦亦た罷む。王安石、翰林學士となり入對す。首に術を擇ぶを以て言となし、言、必ず堯舜を稱す。富弼、同平章事たり。王安石、參政たり。安石、旣に政を執る。士太夫、素より、其名を重んず。以爲へらく、太平立どころに致す宋-英宗皇帝-神宗皇帝-七三七 十八史略卷之六七三八べしと。呂誨時に御史中丞たり、將に對せむとす。學士侍讀司馬光亦た將に經筵に詣らむとし、相遇うて並び行く。光密 に問新參ふ、今日言ふ所は何事ぞ。曰く、袖中の彈文は乃ち新參なり。光、愕然として曰く、衆人を得るを喜ぶ、奈何ぞ之を論ずるや、誨曰く君實亦た此言をなすか、安石、偏見を執り、人の己に佞するを喜ぶ、天下必ず其弊を受けむと。光、退いて、之を思へども、其說を得ず。縉紳の間其疏を傳ふる者あり、往往其太だ過ぎたるを疑大姦似忠大ふ。誨言ふ、大姦は忠に似たり、大詐は信に似たり、安石、外詐似信朴野を示し、中、巧詐を藏し、驕蹇、上を慢り、陰賊、物を害す、チと其十事を疏す。上、再び手詔を降して、誨を諭す。誨、之を論じて己まず。遂に誨を罷む。安石、建議して、始めて、三司の條例5正式です。司を置き、議して新法を行ふ。言ふ周、泉府の官を置いて、天下ですねぇいの財を變通す。後世、惟桑弘羊、劉晏、粗ぼ此意に合す。今、當中心力に呂惠卿りよけい〓〓に泉府の法を修め、以て利權を收むべしと。安石多く呂惠卿と謀る人、安石を號して孔子となし、惠卿を顏子となす。之より先、評示支は政をる否氣りの來る國權ざ當地南知說もをの治平中、邵雍客と天津橋上に散歩し、杜鵑の聲を聞いて、愁然樂な實年すば人らはば人らか、まず。客其故を問ふりも今す那四紛得亦の所史千亂れ雍曰く、洛陽、もと杜鵑なし。今、始めてす至る天下、將に治まらむとすれば地氣北よりして南し、將に亂れむとすれば、南よりして北す。今、南方地氣至る。禽鳥飛類は南蔣人介な石氣の先を得たるものなり。二年ならずして、上、南士を用ゐて相と宋-神宗皇帝-臺 十八史略卷之六七四〇なし、多く南人を引いて、專ら更變を務め、天下、之より多事なら靑苗法むと。是に至つて、雍の言、果して驗ありといふ安石、靑苗法を評香蕉雞腿行はむと欲す。以爲へらく、周官の國服爲息の法なりと。蘇轍曰く刀の集合は、純米比のする金を以て民に貸せば、吏、"緣つて姦をなし、錢、民の手に入れば、良民と雖も、妄に用ゆるを免れず。其錢を納るるに及びては、富民と雖も、違限を免れず。鞭筆必ず用ゆれば、州縣、煩に勝へざらむはと參政唐介、新法を爭論す。勝たず。疽背に發して卒す。時人生老病死苦生老病死苦の喩あり。安石を謂うて生となし、曾公亮を老となし、か、介は死し、富弼は議論合はず、病と稱す、參政趙抃、安石を如何ともするなく、惟だ苦苦と稱するのみ。安石、抃を折いて曰く、君が輩、書を讀まざるに坐するのみ。抃曰く、皐夔稷契、何の書をか讀むべきと。安石、亦た對ふる能はず。使を遣して、農田水利を察せしむ。義倉を罷む。に·均輸の法均輸の法を行ふ。·せんがい臺諫劉琦、錢顫、新法を議するを以て貶せらる。諫院范純仁、檢詳文字蘇轍、新法を議するを以て罷めらる。靑苗の法を行ふ、常平官を置く富弼罷む。陳升之、同平章事たり。升之、初め、安石に附く。旣に相として、頗る異同をなす。宋-神宗皇帝-七四一 十八史略卷之六1211,よはいしよろあらかじきふちうけんくわばい預買の法預買の法を行ふ。諸路をして豫め錢を給して紬絹を和買せしむ。てうべんやひかうな趙抃罷む。抃日に爲す所の事、夜は必ず香を焚いて天に〓ぐ。きよじんしんしまいえふそかふふくわい擧人を親試す。始めて策を用ゆ。葉祖治、新法に附會するを以てぬき擢んでて第一となす。いうぜいげんそんかくぎよしりかうていかう右正言孫覺、御史裏行程顥、新法を議するを以て罷む。ちうじようりよこうちよりかうちやうせん中丞呂公著、裏行張哉、新法を議するを以て罷む。だいりんていしとうけうかうちせいかうそうびんきうそしようてい定の詞頭を繳李定、裏行となる。知制誥宋敏求、蘇頌、李大臨、するを以て罷む。しやけいをんぎよしちざつ謝景溫、御史知雜となる。ちよくしくわんそでばんげんたてまつていしきたい直史館蘇轍、嘗て、萬言の書を上り、及び廷試策に對するに擬し、さからけいをん新法を議して、安石に作ふを以て、景溫に効せられて去る。とうわんりよさひやくしやうせいべうめんえき鄧縮、上書して言ふ、陛下、伊呂の佐を得たり、百姓、靑苗免役とうかぶしよおよしようらうしよけんぜい等の法を歌舞すと。又、安石に書及び頒を與ふ。中書檢正を置き.わんきやうじんせふばわんいは評縮を以て之を爲さしむ。な豈し之す笑笑ら第とを好屁罵す爲官にはるすは從佗〓人、皆、笑罵す。縮曰く笑罵は佗の笑罵ベ我かのまかかうくわんに從す。好官は、我、之を爲すべしとそうこうりようみ者の曾公亮、罷む。やせいくわさいりうたうちやうくわいこうぶんちうつとしんはふそし制科の人を策す。劉陶、張繪、孔文仲、力めて新法を詆る。皆、報じて罷む。はんちんしばしそしよくこうぶんちうす范鎭、數ば新法を議し、及び、嘗て蘇軾、孔文仲を薦めしを以て宋-神宗皇帝-雪 十八史略卷之六七四四罷めらる。乞うて致仕す。陳升之、罷む。韓絳、王安石、同平章事たり。保甲の法保甲の法を立つ。曾布、中書檢正となる。科擧の法を更め、詩賦明經の諸科を罷め、經義論を以て進士を策試す。司馬光、さきに學士より、樞副に除せらる。力辭して拜せず。數た、三不足の說ば、新法の害を言ふ。上、安石に喩して曰く、三不足の說を聞くや否や。曰く、聞かず。上曰く外人云ふ、朝廷以爲へらく、天變畏るるに足らず。人言恤ふるに足らず、祖宗の法守るに足らずと。昨さ、6)學士院、館職の策問を進む、專ら、この三事を指すと。策問は、光(の爲る所なり。光、屢ば外を請ひ、永興を得たり、許州に移る。上臣の不才、言すらく、最も群臣の下に出づ、先見は呂誨に如かず、公直は范純仁、程顥に如かず、敢言は蘇軾、孔文仲に如かず、勇決せいけいりうしゆぎよしは范鎭に如かずと。屢ば、西京留守御史臺に判たらむことを請ふ。ひ是に至つて、請を得。後、四たび任ぜられて、嵩山崇福宮に提擧たり。歐陽修、さきに靑州に知たり。擅に靑苗錢を給散するを止むるを以て、徒つて、蔡州に知たり。是に至つて、乞うて致仕す。か、富弼、さきに毫州に知たり。靑苗の法を格するに坐して、徒つて宋-神宗皇帝-小麺屋 十八史略卷之六七四六ぢよしうち汝州に知たり。ちうじやうやうくわいかうりうし中丞楊繪、裏行劉摯、新法を議するを以て罷めらる。さえきほえき募役の法差役を罷む。募役の法を行ふ。だいがくしや15-大學三舍の大學三舍の法を立つ。法しえき市易の法市易の法を行ふ。はうば保馬の法保馬の法を行ふ。はふでんきんぜいわか方田均稅の方田均稅の法を頒つ。法かろわうせうけいりやくあんぶとうしせう熙河路を置き、王韶を以て經略安撫等の使となす。之より先、韶へいじゆうさいたてまつせいかたひきはかくわう平戎の策を上る。謂ふ、西夏を平らげむと欲せば、當に河湟を復すらんぜんかんらうせいぐんとばんかく古渭ゐべし。今、の西、熙河蘭部、皆、漢の隴西等の郡なり。吐蕃唃へいいうじんいう厮囉の一族、この間に國す。宜しく、之を併有して、以て夏人の右たあんせきぼうかえき臂を絕つべしと。安石、以て奇謀となし、始めて熙河の役を開く。せうてうびんでうたうせいとういんこう上韶河洮、岷疊、宕等の州に克ち、又、靑唐咽喉の地に據る。へんこうますまとほざかえきへい邊堠益す斥り、役兵の死亡甚だ多し。ちうしよけんせいしやうじゆんこほくさつはうなんぼくこうばんしんしう中書檢正章惇、湖北に察訪す。始めて、議して、南北江蠻辰州けいせいなんぼくこうきんしうしきんやうかせつしやうを經制す。南北江は、乃ち古しへの錦州の地、施點牂牁に接す。章じゆんそちじゆんいばいざんばんえうせうゆ惇に命じて、措置せしむ。惇言ふ、梅山の蠻搖を招諭し、令して、こ·はぶなみなくわんげいそのじつさつりつしこうおほ戶を省くを作せば、皆歡迎せむと。其實は殺截し、浮屍江を蔽ふ。ししよしうらいけいぎきよくあんせきていきよりよけいけいおよあん詩、書周禮、三經義局を置く。安石、提擧たり、呂惠卿及び安せきこはうらけんたう石の子雪等、檢討たり。宋-神宗皇帝-市営 十八史略卷之六夷かとうほくせんせいりうみんきねいねん流熙寧七年、天、久しく雨ふらず。河の東北、きみんもつと陝西の流民、かんあんじやうもんてい皆、れて京城に入る。づ而して、じやうしよ京城の外、饑民尤も多し。なんせいほくばつ監安上門鄭しやうせうゑが勝捷の15.南征北伐、皆俠、畫いて圖となし、上書して曰く、陛下、てんかいうくさいしあひほづきたたてまついきほひ天下憂苦、妻子相保勢を以て、せんい圖を作して來り上る。くわう〓きふじやう一人として、なけんこんとん獻ずる者せず、遷移困頓、遑遑給せざるの狀を以て、圖を爲して、なんだあんじやうもんひなし。安上門、日を逐うて見る所、百一に及ばず、亦た涕を流すかんちよくげんいは直言をべし。況んや、千萬里の外をやと。時に、旱を以ての故に、とがじやううたがあんげんしや安求む。言者、皆、新法を咎む。上疑うて、之を罷めむと欲す。かんかうきちこうねいふはいせきよろこ安石、韓経を薦め石、悅ばず。去るを求む。しやう知江寧府に拜せらる。りよけいけいさんせいかうがうおのれ絳を號して、己に代つて、相となし、呂惠卿を參政となす。時に、はふしやもんけいけいはふぜんしんけいけいけんぎめんえきしゆつせんて傳法沙門となし、ひと惠卿を護法善神となす。ほしよ惠卿、しゆじつ建議す、免役出手實の法錢すでいきほひ均しからざるは、ま簿書の不善に出づと。手實の法を行ふ。惠卿あらかじそのみち旣に勢を得、ししよ安石の復た入るを恐れて、遂に逆め其途を閉ぢ、安石なかおよの私書を出すに、上をして知らしむる勿れ、の語あり。凡そ、以てあんせきがいそのちもちしばしかう安石を害すべき者、さからかんじよう其智を用ゐざる所なし。はくましやう又、數ば絳と忤ふ絳、あんせき間に乘じて、やふたゝ上に白し、復た安石を相とす。じきんれう安石、罷めて一年ならず、か再び入る。命を聞いて辭せず、かうけいけいあひつ金陵より、七日にして、闕下に至る。後數月、絳惠卿と相繼いで罷む。こは戶馬の法を行ふ。はんしやうしうかんきこうきてんしちうこう判相州韓琦、だんちへいあひだ薨ず。琦、天資忠厚、能く大事を斷ず。治平の閒宋-神宗皇帝-七四九 七五〇十八史略卷之六せいじしふけんてんことうちやうとせいちやうしゆしやう文學は西廳に首相となり、政事は集賢に問ひ、ろうるけつ典故は東廳に問ひ、しやうしうにんせいべう問ひ、大事は自ら之を決す。出てで相州に判たり。初め、靑苗の不評給じる之 法法り靑をち行朝と靑韓所爲す臣散命す議す苗琦してやを而をよしたがさんきふはんしんたいまさてうてい藩臣の體、當便を言ふ。朝廷、從はず。卽ち命じて散給して曰く、之卽强も非きやうぐんをはぎよせい强行に是の如くなるべしと。〓郡に在ること、八年にして終る。御製のりやうてうこめいていさくげんくんのひ碑に曰く、兩朝顧命定策元勳之碑と。ざ人をての示藩のり得常體されうししばしかんしんかとう遼使、屢るなし韓纖に命じ、河東に如いて、とうヘン地を割かしむ。じゆうるゐぞうしう之より先、ほしやば至つて言ふ、うつおうさく河東は邊に沿うて成壘を增修し、しうかいしんにふきてつ舗舎を起して、かかいしの國の蔚應朔の州界に侵入す、乞ふ毀撤を行ひ、別に界至を立てむてうていかうらいまねかたせいざん;けだれうじん西山に楡柳を植と蓋し、遼人、朝廷の高麗を招き、熙河を建て、かほくじやうちきづとさくゐんはじきふたうしんやうはうかう弓刀の新樣をゑる、保甲を創め、河北の城地を築き、都作院を創め、かいほくえん降し、ち界北の三十七將を置くを見て、かいあらそ燕を復するの意あるを疑ひ、おううたが故に地界を爭ふを以て名となし、あんせきだん朝廷の應ずる所以を觀る。安石、しばら之を斷じて曰く、將に之を取らむと欲すれば必ず姑く之を與ふと。あたとうざいちうしな東西地を失ふこと七百里。あんせきふたゝしやうしばししや及をての安はうし郵安石再び相たること二年こす濟會法つ者じ十家は王業前り合經社新立ぶ通二大石屢ば病を謝す。子雪死す、去るを求む四と法朝し制つとますまいと尤も力む。こうねいふること、上、益す、はん其爲す所を厭ひ、出して江寧府に判之所しにまあんせきたらしめ、遂に復た用ゐられず。せんわうるな安石の事を用ゐしより、立ちるまな終わただんもつばくわんしやうせいふきやう口に先王政亦を談じて、こゝろざしそのよくな專ら管商ゆえんの政を行ひ、お上の富强の志あるを知つて、其欲を濟す所以を思ふ。きさせうじんくんし謂へらく、まも法を立つるには、當に小人を用そのこのりゐて後に、君子を以て之を守らしむべしと。さと業其是理なきを悟らざる宋-神宗皇帝-書 十八史略卷之六七五二てんかさうぜんくにいまかつへんびことしやういたづら天下騒然として、國未だ嘗て富まず。邊鄙事を生じ、徒に多馬ず雅行且最多としてをばてして權氏·と精見なり。れ德司せり專く德數人然い妙れしと精13はいつよせいひちいすゑちうがくするしうく喪敗して、國未だ嘗て强からず。西鄙は、治平の末、仲諤、綏州かじんおこはうふく以さのれ耐あ斷して權其を取りしより、夏人、卽ち兵を興して、報復せむと欲すかわうりやうそしゆつこいじやうたにふかうあんせきわうせうきか夏王諒祚卒す。子秉常立つ。大に入寇す。安石、王韶、熙河を取所壓公之忍弊獨さくいたづらうらみせいはんかまきしやうらしばしかうくわんるの策を用ゆと雖も、徒に怨を西蕃に構へて、鬼章等屢ば寇患これせいかせいをなすを致し、初めより、此を以て、西夏を制する能はず。用ゆるるに溫ちんきまたきんりた望りうい所の沈起、劉舞、又景を南方に生ず。なかうしりじつじゆんけんとくいあひつけいしう交趾の李日遵、卒す。子乾德、立つ。起舞、相繼いで、桂州に知どていあつはうかうかいひんしうしすゐたり。土丁を集めて、保甲となし、海濱に於て、舟師を集めて、水せんしうけんかうじんぼうえききんしたいきよにふかう戰を〓へ、州縣、交人と貿易するを禁止す。交人、大擧して入寇し、いうしうかニさんれんおとしいせいげんちうごくせいべうじよえき邑州を圍み、欽廉を陷る。聲言すらく、中國、靑苗助役の法を作くるしあひすくあんせきてうせつつて、以て民を困む、兵を出して、相救はむと。安石、怒り、趙高へいくわあんせき等を遣して、之を討たしむ。官軍死する者。十に六。兵禍、安石のいたごじうわうけいあんせきしやう去るに訖るまで、未だ已まず。吳充、王珪、安石に繼いで相となる。드しばしひべんあんせき充、さきに政府に在り、數ば政事の非便を言ふ。既にして、安石にさいかくとうじゆんほら代る。蔡確、鄧潤甫等、共に之を攻むるも、去らしむる能はず。げんほうぐわんねんちしうそしよくくわうしうあんちちうじようりてい蘇東坡黃州元豐元年知湖州蘇軾を黄州に安置す。之より先、、中丞李定言に安置せらしよくねいくんぷゑんばうじよだんしよく軾じるふ熙寧より以來、君父を怨謗すと。舒亶も亦た言ふ、軾時じせんほんはつたすか事を議す。陛下、錢本を發して以て貧民を業くれば、曰く羸ち得じどうごいんよねんきやうはんじやうちうめいはふもつぐんりたり兒童語音の好き、一年强半は城中に在りと。明法以て群吏を宋-神宗皇帝-七五三 十八史略卷之六七五四どくしよまんくわんりつよきみげうしゆんいた課試すれば、曰く、讀書萬卷律を讀まず、君を堯舜に致す、終じゆつすゐりおことうかいめいしゆに術なしと。水利を興せば、曰く、東海もし明主の意を知らば、さうでんんんえんきんつゝしあ斥鹵をして桑田に變ぜしむべしと。鹽禁を謹めば、曰く、豈に是れせうあちわすかいじらいつきしよくそのた詔を聞いて味を忘るるを解せむや、通來三月食に鹽なしと其他きばうしゆしよく物に觸れ、事に卽いて、譏謗を以て、主となさざるなしと。乃ち軾おぎよしミつなていちやうさうすゐちわうさいを追うて、御史の獄に繋ぎ、定と張操とに命じて推治せしむ。王珪ふしんいくわいしあきうせんきよく言ふ、軾不臣の意ありと軾の檜の詩を擧ぐ。根は九泉に到つて曲しよせけんたちつりうひりうてんぎよ處なし、世間惟だ蟄龍の知るありと。陛下、飛龍天に御す。然るにしよくかれちかちつりうふしん軾彼は之を地下の蟄龍に求む、不臣に非ずして何ぞ。上曰く、彼くわいえいちんあづかつみ自ら檜を詠ず、何ぞ朕の事に預らむと。上、もと軾を罪するに意なごじう-わうあんれいごくなし。吳充、王安禮、皆、上に勸めて、之を容るさしむ。獄成つて、このめいおとうとてつしよくざへんしあんざ是命あり。弟轍、亦た軾を救ふに坐して貶せらる。軾の詩案に坐ちゆつはつちやうはうへいしばくわういかじつして、黜罰せらるる者、張方平司馬光以下、二十二人。上實にあはれぢよしううつまさいかくちやうさうら軾を憐む。尋いで、汝州に移し、復た用ゐむとす。蔡確、張璪等のはじ爲に沮まる。ごじうや吳充、罷む。月を踰えて卒す。げんほうぐわんねんくわんめいたじへいしやうじあらた元豐元年大に官名を正し、元豊五年、官制成る。平章事を改めいうぼくやわうけいさいかくさんちせいじもんかて、左右僕射となし、王珪、蔡確を以て之となし、參知政事を門下ちうしよじらうしやうじゆんちやうさうせうしよさいうじよう中書侍郞となし、ほそう章惇、張璪を之となし、尙書左右丞を置き、蒲宗3)わうあんれいとうりやうちうしよむね孟王安禮を之となす。三省を以て、百議を統領し、中書、旨を取宋-神宗皇帝-七五五 十八史略卷之六〓もんかふくそうせうしよしかうしやうさい三旨宰相り、門下、覆奏し、尙書、施行す。珪相となる。人、之を三旨宰しやうたせいし相といふ。凡そ、事、惟だ聖旨を取るといひ、聖旨を得れば聖旨をりやうしりぞしよそう領すといひ、退いて之を書すれば聖旨を奏すといふのみ。上、之をいとかくいれいぶ厭ふ。確珪に謂つて曰く、上、久しく靈武を取らむと欲す、公、せめにんしやうゐたもけよろこ能く責に任ずれば、相位保つべきなりと。珪、喜んで、其言の如くないじけんかテうれいしうせし、內侍李憲に命じ、道を分つて、夏國を伐ち、靈州を攻むれどもかしそつしとうすいけんさいきよ克たず。士卒死し、及び凍餒する者、十に五六。憲再擧の議を上ぢよきまたしようらくしんじやうきづかじんたいきよる。徐禧、又承樂の新城を築くを議す。夏人、大擧して城を攻む。きらはんかんぐわんおよしよぐんそう城陷る。禧等、蕃漢官及び諸軍、死する者萬三千。上、奏を聞いどうこくて働哭す。富强遺表をふひつる)たてまつちうかんとぜつてんゆひしん富弼すこうり上る遺表を上る。言ふ、忠諫杜絕、諧諛日に進み、興利の臣、うらみをさまたいせいじおほいうれ國の爲に怨を歛むのぞせいねん又言ふ西事大に憂ふべし、望むらくは聖念をこひつこうほGriftいてきれうしいた留めよと。ごと弼早く公輔の望あり、名、夷狄に聞こゆ。遼使至る毎そのしゆつしよあんびちうぎいよいあつ必ず其出處安否を問ふ。かきよきしばらくに、てうてい忠義の性老いて彌よ篤くこう家居一紀、斯須も朝廷を忘れず。是に至つて薨ずさいしやうたいじやうじんさいたんほそうまういは宰相同じく對す。上、人材なきの歎あり。蒲宗孟曰く、人材、なかばしばくわうじやせつやぶみ半は司馬光の邪說に壞らると。そうまう上、語らず宗孟を視ること、之ばくわう評に久しうして曰く、とてし通司い千文鑑馬ふ載献の光べ不と著資蒲宗孟は乃ち司馬光を取らざるかと。宗孟、尋し滅し盖治しちつうかんなはじのいで罷む。司馬光の資治通鑑成る。そくゐかつぎよせい上、卽位の初、旣に嘗て御製じよげんほうねんしよたてまつくわんせいの序あり元豐七年に至つて、書始めて上る。初め、官制將に未-神宗皇帝-七五七 十八史略卷之六美ナ行はれむとす。上、新舊人を取つて、兩つながら、之を用ゐむと欲す。曰く、御史大夫は司馬光に非ざれば不可なり蔡確曰く、國是흔二方に定まる。願はくは、少しく之を遲てと。旣にして上疾あり。又曰く、來春、儲を建つれば、當に司馬光、呂公著を以て師保となすべしと。公著は、夷簡の子なり。上、在位十八年。改元するもの二、曰く、熙寧、元豐。精を勵まし。治を求め、日昃、食に暇あらず。平生、〓遊を御せず、宮室を治めず、惟れ勤、惟れ儉、將に以て大に爲すあらむとするなり。奈何せん、熙寧以來安石に誤られ、元豐以後、事を用ゆる者、終始、皆、安石の黨、竟に天下の患となる。北狄の倔强を憤つて、慨然として、幽燕を恢復するの志あり、先づ靈夏を取り、西羌を滅し、乃ち北伐を圖らむと欲す。安南律を失ふに及びて、喟然として、赤子罪なくして死するを歎じ、永樂の敗益す用兵の難を知り、初めて、征伐を念ふを息め、卒に一事意の如くなるなし。崩ず。年三十八。皇太子立つ、之を哲宗皇帝となす。宋-神宗皇帝-七五九 評譯十八史略卷之七宋えんあんぐんわうしんそうたいぜん【哲宗皇帝】名は煦、初め、延安郡王たり神宗大漸、立つて太子さいかくしやじんけいじよかうこうくわいむかとなる。之より先、蔡確舍人邢恕を遣して、高公繪を邀へ太后はくちうえうきかけんわうに白せしめむと欲す。言ふ、延安は沖幼、岐嘉、皆賢王なりと。こうくわいおそわざわひすみやか公繪、懼れて曰く、公、吾が家に禍せむと欲するが亟に去れと。じよくわしんはうぞうかいいたいこうわうけいへうりえんあん恕禍心を包藏し、反つて謂ふ、太后、王珪と表裏し、延安を捨てー)おのれおよしやうじゆんさいかくよて、子顎を立てむと欲し、己及び章惇、蔡確に賴つて變なきを得宋-哲宗皇帝-夫 十八史略卷之七基たりと。且つ其說を士大夫の間に播く。神宗、崩じて、太子位に卽太皇太后新く始めて十歲。太皇太后、同じく政を聽く。熙寧中、太后、旣法を廢止すに嘗て流涕して、神宗の爲に言ふ、安石の變法便ならずと。既に、簾を垂れて、天下厭苦すること日久しきを知り、首として、東京の戶馬を罷め、京の東西路の保馬を罷め、京の東西の物貨場を罷め、bo諸州鎭寨市易の抵當を罷め、汁河堤岸司の地課、放市易、常平免役の息錢を罷め、在京免行錢を罷め、提擧、保甲、錢粮、巡〓等の官を罷め、方田等を罷む。皆、中より出で、大臣は與らず。王珪卒す。蔡確、韓鎭、左右僕射となり、章惇、樞密院に知た50司馬光、門下侍郞たり。光、洛に居ること十五年、兒童走卒も皆司馬君實を知る。神宗升遐、闕に赴いて入つて臨むや、衞士望見し、手を以て額に加へて曰く、司馬相公なりと。爭つて、馬首を擁して呼んで曰く、公、洛に歸る勿れ。留まつて天子に相として、百姓を活かせと。所在數千人、之を聚觀す。光、懼れて洛に歸る。旣にして、召されて執政となる。か、程子卒す河南の程顎、この歳を以つて卒す。顯字は伯淳弟 頭、字は周惇頤字茂叔正叔兄弟、皆濂溪の周惇頤に從つて學を受く。惇頤、字は茂叔、博學力行、道を聞くこと早く、事に遇うて剛果、古人の風あり。政(みがを爲すこと嚴恕、務めて理を盡し、名節を以て自ら礪く。雅より高趣あり、聰前の草を除かず、曰く、自家の意思と一般なりと。黃庭宋-哲宗皇帝-七六三 十八史略卷之七大君けんそのじんびんけうちうしやらくくわうふうせいげつたいきよく光風霽月堅、稱す、其人品、甚だ高く、胸中洒落、光風霽月の如しと。太極つうしよかつちう圖、通書あり、世に行はる。顎頤初め之に從ふ。首として、仲じがんしたのしたづ尼、顏子、樂む所は、何事なるかを尋ねしむ。學成る。各、斯文をおのれにんかうめいいじやういやし以て己の任となす。題、嘗て言ふ、一命以上、苟くも心を物を愛すなねいちうしんはふあるに存すれば、人に於て、必ず濟す所あらむと、熙寧中、新法合はすゐたくさざるを以て、國を去る。神宗、嘗て人才を推擇せしむ。薦むる所、へうしゆくちやうさいおとうといしゆぶんげんはく數十人、表叔張載と弟頤とを以て首となす。其死するや、文彥博しうろんそのはかへめいだうせんせいおとうとい衆論を採り、其墓に表して明道先生といひ、而して、弟頤、之がじよ(しうこうぼつせいじんまうしし序を爲つて曰く、周公沒して、聖人の道、行はれず。孟子死して、つたひやくせいぜんちがくつた聖人の學傳はらず。道行はれざれば、百世善治なく、學傳はらさいしんじゆざれば、千載眞儒なし。善治なくとも、士、尙ほ、かの善治の道を明ひとしゆくのちしんじゆかにして之を人に淑し、以て之を後に傳ふるを得。眞儒なければ、てんかばうばうえんじんよくほしひまゝてんりめつ天下貿貿焉として之く所なく、人欲肆にして天理滅せむ先生、のちうでんから、ゐけいいたんべんじやせつ千四百年の後に生まれ、不傳の學を遺經に得、異端を辨じ、邪說をまけだまうし息め、聖人の道をして、復た世に明かならしむ。蓋し、孟子の後よみちり一人のみと。頤、嘗て、人に語る。吾の道を知らむと欲せば、こじよみかちやうさいあざなしこう張載字子厚の序を觀て可なりと。張載、字は子厚。初め、學ばざる所なし。のちていこと〓〓すかうとうめいせいめい後、二程の言を聞いて、乃ち盡く其學を棄てて講ず。東銘、西銘、せいまうりくつわうきよせんせいきよう正蒙、理窟等の書あり、世に行はる。人、之を橫渠先生といふ。共邵雍號康節じやうせうようげうふかなんていようもてあそ先生城の邵雍、字は堯夫、河南に居り、二程と友たり。雍の學心を玩宋-哲宗皇帝-七六五 十八史略卷之七奏ぶこと高明にして、天地の變化、陰陽の消長を觀、以て萬物の變に達し、物數に精しく、推して中らざるなし。顎嘗て、考試院に在り其數を以て之を推し、出でて雍に謂つて曰く、堯夫の數は、只で雍、其聰明を歎ず。雍、數學を以て二程にだ是れ加一倍の法なりと。傳へむと欲す。二程、受けず。邢恕、受けむと欲す。雍、許さずして曰く、徒に姦雄を長ずと。雍に皇極經世書十二卷、擊壞集歌あり。世に傳ふ。人、之を康節先生といふ富弼、司馬光等、皆深く之を敬重す。宋は、歐陽修、古文を以て天下に唱へしより文章大に變ずと雖も、然も、儒者義理の學は、周程出づるに至つて、然る後に明かなり。雍、惇頤、載皆、神宗の世に歿す。是に至つて、顎、又歿し、惟だ頤のみあり。學者之を宗とし、伊川先生といふ。元祐元年、蔡確、罷む、確章惇、邢恕と相交結す。恕、往來、語言を傳送し、自ら定策の功ありといふ。言官王覿惇確及び韓縝張璪の朋邪を極言し、劉摯、朱光庭蘇轍、數十疏を累ねて、論効す。確先づ黜けらる。司馬光を以て、左僕射となす。時に、王安石、旣に病む。其弟邸吏の狀を以て之に示す。安石曰く、司馬十二、相となると。悵然之を久しうす。議者、或は謂ふ、三年、父の道を改むるなし。新法、しばらく稍や、其甚しき者を損じて足らむと。光、慨然、之を爭つて曰く、先帝の法、善きものは、百世と雖も變ずべからず、安石、·惠卿等の建つる所の如き、天下の宋-哲宗皇帝-七六七 十八史略卷之七奏1害を爲し、先帝の本意に非ざるものは、當に焚を救ひ、溺を拯ふが如くなるべく、猶ほ及ばざるを恐る、況んや、太皇太后、母を以て子を改む、子、父を改むに非ざるをやと。衆議乃ち定まる。或ひと、光に謂つて曰く、章惇、呂惠卿の輩、他日、父子の議を以て、上に聞するあらば、朋黨の禍作らむと。光、起立拱手し、属聲して曰く.天、若し宋に祚すれば、必ず此事なからむと。安石、朝廷、其法を變ずるを聞く毎に、夷然として以て意となさず。助役を罷め、는差役を復するを聞くに及びて、愕然失聲して曰く、亦た罷めて此に至れるかと。良や久しうして曰く、この法、終に罷むべからず。安石、先帝と之を議する二年にして、乃ち行ふ、曲盡せざるなしと。章惇、韓鎭、罷む。王安石卒す王安石、卒す。安石、金陵に在つて、常に福建子と獨語す。惠卿を恨んでなり。惠卿、安石に叛く。唯だ章惇のみは、終始叛かず。安石、又常に曰く、新法の行はるるや、始終以て行ふべしとなす者始終以て不可となす者は曾子宣なり。は司馬君實なりと。呂公著、右僕射たり。文彥博、軍國重事たり程頤、崇政殿說書たり。蘇軾、翰林學士たり。呂惠卿鄧縮等を竄貶す。司馬光薨ず司馬光、相となつて八閱月にして薨ず太皇太后、之を哭して働す。上亦た感涕して己まず。太師溫國公を贈り、文正と證す。光、位に在るや、遼人、夏人の使來る時、必ず光の起居を問ふ。而宋-哲宗皇帝-奏 十八史略卷之七118して、遼人、其邊吏に敕して曰く、中國、司馬を相とす、切に事を生じて邊隙を開く勿れと。卒するに及びて、京師の民、市を罷め、其像を畫し、印して之を鬻ぎ、畫工富を致す者あり、葬るに及びて四方來會する者、之を哭して、其親戚を哭するが如し。光、嘗て、評支司る文公く玲其望に那馬ゝ正を眞職人家見四溫に玉となる千公は晁無各に語つて曰く、吾、人に過ぎたるなし、惟だ平生爲す所、未の年德稀りだ嘗て人に對して言ふべからざるものあらざるのみと。劉安世、光爲り溫の國如に一言以て終身之を行ふべきものを問ふ。光曰く、それ誠かと。安諸勝れにと贈ら世、其從つて入る所を問ふ。曰く、妄語せざるより入ると。諡足、勇に夫はる蘇軾程頤、同じく經筵に在り、軾諧謔を喜ぶ、而して、頤は邪智正たず嘲侮す。禮法を以て自ら持す。軾毎に之を光の薨ずるや、百官、頤かしている方に慶禮あり、事畢つて、往いて弔はむと欲す。可かずして曰を安徽義今たして能王通古克、く子、この日に於て哭すれば歌はず。或は曰く、歌へば哭せずとを安いはず。軾曰く、是れ枉死市の叔孫通、この禮を制するなりと。溫公な得るざなし宜頤、怒る。二人、遂に隙を成す。門人朱光庭賈易、言官たり、力めて軾を攻む。傅堯兪、王巖叟、呂陶等、相繼いで論列す。堯兪、巖叟は光庭を右け、陶は軾を右く。この時、元豐の大臣、散地に退さき、皆、怨を衡んで、骨に入り、陰に間隙を伺ふ。諸賢悟らず方に自ら黨を分つて相攻む。洛黨、川黨、朔黨あり。洛黨は、頤を以て領袖となし、光庭、易、羽翼たり。川黨は、軾を以て領袖となし、陶等羽翼たり。朔黨は、劉摯、王巖叟、劉安世を以て領袖と宋-哲宗皇帝-七 十八史略卷之七基おほいくばく5やまめなして、羽翼尤も衆し。未だ幾ならずして、頤罷めて復た召されしよくず。之を久しうして、軾亦た罷め、後、再び入り、三たび入り、ひさ皆、久しからずして出づ。りよこうちよしくうどうへいしやうぐんこくじりよたいばうはんじゆんじんさいうぼくや呂公著、司空同平章軍國事となり、呂大防、范純仁、左右僕射たじゆんじんちうえんっり純仁は、仲淹の子なり。公著、尋いで薨ず。ちかんやうぐんごしよこうさいかくあんしうてきかちうしや知漢陽軍吳處厚、言ふ。蔡確、安州に謫せらるるの日、夏中、車がいていのぼだいかんきせんかくしん蓋亭に登るの詩を作つて、臺諫を議訓すと。確を論じて已まず。新しうあんちりよたいばうりうしはんじゆんじんわうそんらおよろ州に安置す。呂大防、劉摯、范純仁、王存等以爲へらく、宜してれいすしちみちけいきよく嶺を過ぎて、死地に置かしむべからずと。純仁曰く、この路〓棘いかんわがさうまさまぬかおそ八十年、奈何ぞ之を開かむ。吾曹、政に免れざるを恐るるのみと。あらそだいかんかうしやうかくたう之を爭へども、得ず。臺諫、交章して、純仁の確に黨するを攻む。りうしうRTげんほう純仁、遂に罷む。劉摯、右僕射となる。大防、摯、元豐の黨人を引きうゑんてうていてつらつといて、以て舊怨を平らげむと欲す。之を調停といふ。蘇轍等、力め其不可を陳す。そのちんしやそしよううぼくやじゆんじんて、摯、罷む。蘇頌、右僕射たり。頌罷む。純仁、又、之に代る。ざんいうねんぐわつせんじんせいれつたいくわうたいごうほうのぞたい元祐八年九月宣仁聖烈太皇太后崩ず。崩ずるに臨み、上に對したいばうじゆんじんらいらうしんぼつごかならくわんかてうぎて、大防、純仁等に謂つて曰く、老身歿後、必ず官家を調戯する者よろきこうらしりぞあらむ。宜しく、之を聽くなかるべし。公等、亦た宜しく早く退くくわんかさいうべし。官家をして、別に一番の人を用ゐしめよと。左右を呼んで問しやはんたまこうらおの〓〓さふ、嘗て、社飯を賜ひ、出すや否やと。因つて曰く、公等各去つて宋-哲宗皇帝-書 十八史略卷之七七七四ししやはんきつめうねんしやはんらうしんしりやうこうまつりごと一匙の社飯を喫し、明年社飯の時、老身を思量せよと。后、政をてんかしようぢよちうげうしゆんぐわいかひしくん聽くこと九年、天下稱して女中の堯舜となし、外家に比せず。嗣君ようさうとし13を擁佐するの故を以て、二子一女、皆、疎んぜらる至公を以て、ぎよけんじやことんてうあつせいこうせいけい天下を御し、當世の賢者、畢く朝に集まる。君子の盛、後世、慶れきげんいうへいしやうしんそういときうそく曆、元祐を以て並稱す。神宗、兵を厭ふの後を承けて民と休息す。せいばんきしやうへんしやうきんけんゆるちうぞのぶぞく西蕃の鬼章、邊將の爲に擒獻せらる。釋して誅せず、以て其部屬をかミそのしゆへいじやうしゆつけんじゆんたせいみだしゆえうしばし招く。夏國、其主乗常卒し、乾順立つてより、政亂れ、主幼、屢へんかうはんしんきやうしんこれそのくんみんつみば邊に寇して、藩臣の禮を失ふ、皆、强臣之を爲し、其君民罪あるしだたうばつしのしよろに非ざるを以て、師を興して討伐するに忍びず、諸路に詔し、兵をげんそな嚴にして、自ら備ふるのみ。みづかにらうやうゐしゆりよたいぼうそむ上、始めて政を親らす。侍郞揚畏、首として、呂大防に叛き、自あとげんいうほうにふたいしやうじゆんら謂ふ。迹は元祐と雖も、心は熙豊に在りと。入對して、章惇を召章惇復活せうせいたいばうじゆんうぼくやさむことを乞ふ。明年、紹聖と改元す。大防、罷む惇右僕射たじゆんじんちんくわんあじゆんり。純仁、罷む。惇の來るや、道にして陳瓘に遇ふ惇素より、ことせいむ其名を聞く、獨り、共に載らむことを請ひ、訪ふに世務を以てす。くわんいはたとへへんちやう瓘曰く、請ふ、乘る所の舟を以て喩となさむ。偏重なれば、其れ行そのへんじゆんもくぜんるべけむや。或は左し或は右す。其偏は一なりと、惇默然たり。ひさしばくわうかんじやまさんくわん良や久しうして曰く、司馬光の姦邪、當に先づ辨すべき所なり。瓘いはしやうこうあやましうせいたひらうつ曰く、相公、誤れり。是れ猶ほ舟勢を平かにせむと欲して、左を移はたまさのぞみうしなし以て右に置くなり。果して然ちば將に天下の望を失はむとすと。宋-哲宗皇帝-七七五 十八史略卷之七美じゆんぜんことくきほうさげんいうち惇旣に至る。漸を以て、盡く熙豐の法を復し、元祐の人の罪を治きよじつしばくわうりよこうちよわうがんさうてうせんかんゐそんこはんする、虛日なし。司馬光、呂公著、王巖叟、趙瞻、韓維、孫固、范びやくろくそうゆしはかうらみなつひへんう)うば百祿、胡宗愈、司馬康等、旣に死する者は、皆追貶して贈を奪ひ、りよたいばうりうしそてつれうたうはんじゆんじんりうほうせいかんゐわうてきかんせん呂大防、劉摯、蘇轍、梁燾、范純仁、劉奉世、韓維、王覿、韓川、そんしやうりよたうはんじゆんれいてうくんしやくはちく りんはんじゆんすゐこうぶちうわうきん孫升、呂陶、范純禮、趙君錫、馬默、顧臨、范純粹、孔武仲、王欽しんりよきてつりよきじゆんえうめんごあんしわうひんちやうらいてうほしくわうてい臣、呂希哲、呂希純、姚動、吳安詩、王份、張耒晁補之、黄庭けんかえきていいしんくわんしゆくわうていそんかくてうせつしじゆんそ堅、賈易、程頤、秦觀、朱光庭、孫覺、趙高、李之純、李固、蘇しよくはんそうりうあんせいていけふらへんざんぶんげんはくひさ軾范祖禹、劉安世、鄭俠等、皆しきりに貶竄せらる。文彥博、久ちしたいしたいほせつえつくわうごうまうししく致仕す、降して、太子太保となし、節鉞を罷む。皇后孟氏は、せんへいちうぐうはいしやう太皇太后の選聘する所なり。中宮に居ること五年にして廢す。章じゆんさいべんつひはたいこうかうしにいひしゆし惇蔡卞、太皇太后を追廢せむことを請ふ。太后向氏、太妃朱氏のいきさとじゆんべんかたしかう泣いて諫むるに賴つて、上、悟る。惇〓、堅く施行を請ふ。上、けいらちんえいそうべうていそのそう怒つて曰く、卿等、朕が英宗の廟庭に入るを欲せざるかと。其奏をなげう地に抵つ。けんひりうしうぜいげんすうかうさくれいつひていめい賢妃劉氏を立てて后となす。右正言鄒浩、册禮を追停し、別に名ぞくえらかうのぞろくていしんしう族を選ばむことを乞ふ。詔して、浩は名を除き、勒停して新州に覊くわんみちそのともでんくわくすわかれのぞなみだくわく管す。浩、道に、其友田畫を過ぎ、·別に臨んで涕を出す。晝色をたゞいんもくかんしつ正しうして曰く、君をして、隱默して京師に宦たらしむるも、寒疾ああぜひとれいかいほかに遇うて、汗せざれば、五日に死せむ。豈に獨り嶺海の外のみ、能みづかはじまきく人を死せしめむや。願はくは、自ら沮む勿れ。士の當に爲すべき宋-哲宗皇帝-毛 十八史略卷之七夫所のもの、未だ此に止まらざるなりと。元符三年、上崩ず。在位十五年、改元するもの三。壽二十五。皇弟立つ。之を徽宗皇帝となす。【徽宗皇帝】名は佶、神宗の第十一子なり。初め端王に封ぜらる。哲宗、崩ず。欽聖憲肅皇太后向氏、宰執を召して、嗣を立てむことを議す。后、端王を立てむと欲す。章惇曰く、端王は浪子のみと。曾布、身長し。望み見れば、端王、旣に簾下に在り。叱して曰く章惇、太后の處分を聽けと。王、簾を出づ。惇、惶恐して措を失す。王、位に卽く、太后に請うて、權に同じく軍國の事を處分せしむ。范純仁等、二十餘人、並に收敍せらる。襲夫陳瓘、鄒浩、臺諫となる。韓忠彥、右僕射となる。琦の子なり。文彥博、司馬光等、三十三人の官を追復す。太后、簾を垂れて。半年にして、政を還す。章惇罷む。尋いで、竄せらる。韓忠彥、曾布、左右僕射たり。邢恕を貶す。蔡京、蔡下を貶す。下は、安石の婿なり。之より先、臺諫陳瓘任伯雨等、下を攻めて、其執政を罷む。京翰林承旨となる。瓘其日を視て瞬せざるを見て謂ふ、この人、必ず大に貴からむ、然れ宋-徵宗皇帝-七八九 十八史略卷之七さんそのくせいしんあへたいやうかうども、其區區たる精神を以て、敢て太陽に抗す他日志を得ば、必うれひくわんい人を射ば先ず天下の患をなさむと。瓘、人に語つて曰く、人を射ば先づ馬を射づ馬を射よぞくとりこわうとりこれんそせよ、賊を擒にせば先づ王を擒にせよと。連疏して之を攻むること、はなはつとけいぎよしちんじしやうらべん甚だ力む。京罷む。尋いで、又、御史陳次升等の言を以て、下とへん共に貶す。じやういもつほきほうせうじゆつそうふすこ上の意、專ら熙豐の政を紹述せむと欲す。而して、曾布は、微しほうげんいうりやうそんけんちうせいこくほく.熙豐、元祐を兩存するの意あり。故に建中靖國の初、嘗て、略しやうじゆんさいべんへんむねむかせいぼ章惇、蔡下の爲せし所を變ず。旣にして、布、上の旨を迎ふ。正じん·はくうこうこうばうちんくわんらてういせうじんおの〓たう人任伯雨、江公望、陳瓘等、朝に容れられず、小人各黨ありと雖かうてつしゆつにふいかうも、更迭出入、意向は同じく安石を祖とするのみ。れうしゆこうきそだうそうがうえんきてんそ殂す。道宗と號す。一〇年在遼主弘基、打女〇五西任遼紀四の至自十道一六宗孫延禧、立つ。天祚と號す。ぢよしんあだたちよしんほんみやうしゆりしんしゆくしんゐしゆぼつかい四一女眞の阿骨打立つ。女眞は、本名朱里眞、肅愼の遺種にして渤海べつぞくどしんかんいはいうろう立眞つの阿骨げんぎの別族なり。いは或は曰く、こつきつたう本姓は拏、にこくすゐまつかつ辰韓の後、三國に謂ゆる把婁元魏に謂ゆる勿吉、唐に謂ゆる黑水靺鞨なるもの、其地なりと。七ぶらくあひすたいちうしやうふた十二の部落あり。もと相統べず、太中祥符より以後、絕えて中國とせいぢよしんそのるゐなしげそのしうがんはん通ぜず。生女眞といふ者あり、其類猶ほ繁し。其曾を巖版といふ。まいやうかたいしゆうやうくわつ孫あり、楊哥太師といふ。遂に諸部に雄たり。或は曰く、楊割の先しらぎくわんがんしちよしんめあは新羅の人、完顏氏。女眞、之に妻はすに女を以てし、子二人を生らいつたやうくわつあくだむ。長を胡來といひ、三人に傳へて、楊割に至る。阿骨打は、其子ちんきたいしなりと。人と爲り、沈毅にして、大志あり。宋-徴宗皇帝-大 十八史略卷之七七八二建中靖國、一年にして、崇寧と改む。韓忠彥、罷む。再び司馬光等の官を追奪し、元祐の黨人を籍す。蔡京相とな曾布、罷む。蔡京、相となり。蔡下、政を執る。再び元祐の人をり太師とな貶竄し、姦黨の碑を立つ。京、崇寧に僕射となつてより、大觀、政 和重和を歷て、太師となる。嘗て、暫く罷められしも、輒ち復た入り、罷めらるるの日と雖も、實に國命を執る。其間、趙挺之、張商英相となり、嘗て、京と異なり。然れども位に在ること、各數月に過ぎず、或は一年にして罷む。何執中、鄭居中、劉正夫、余深の如きは、相位に在ること、或は久しく、或は淺く、居中、亦た京とけ異にして常に相排し、正夫亦た小異なりと雖も、然れども、京の權う寵に於て、損ずるなきなり。京の子攸の婦、宮禁に出入し、攸、遂に大に用ゐられ、父子權勢自ら相軋るに至る。上、攸を寵して、京の子弟親戚を尊び、滿朝、皆、其父子の黨なり。京、邪說を倡ふ、す以爲へらく、豐享豫大の運に當ると、專ら奢侈を以て、上に勸め、土木の功を窮極し、京城を廣め、大内を修め、盛に內苑を廣め、九鼎を鑄、鼎成るや、九州の水土を以て鼎中に納る。北方の寶鼎を奉安するに及びて、忽ち、水外に漏る。大最樂を作る。玉〓神霄宮き帝〓主道君皇を作り、道士林靈素を崇信し、上を策して〓主道君皇帝となし、延福宮を作り、保和殿を作り、萬歲山を作り、朱働を以て、花石綱を領せしむ。奇花異木怪石珍禽奇獸、遠く致さざるなく、民間の一花宋-徹宗皇帝-七八三 十八史略卷之七七八四めうすなはくわすうびんつひやせき一木の妙、輒ち上供せしめ、一花、數千緡を費し、一日、數萬緡をさんりんかうしんびろくぐんなこんがくかいめい費すものもあり。二十年間、山林高深、麋鹿群を成す。良嶽と改名そんきよやてんしゆしせいれんまいさいとうじとうす。又、村居野店酒肆靑帑を其聞に作り、毎歲冬至の後、卽ち燈をはなほしひまゝいんはくまげんせう放ち、縱に飮博せしめ、之を先づ元宵を賞すといふ。せいぼうしばしあらうふるけつくわいいたがひおほむ時に、星芒屢ば見はれ、地震ひ、河決し、怪異迭に出で、率ね以けいらふそうかんろくだしやううんあらひかくそらおほ·て常となす。京等誣奏す。甘露降り、祥雲現はれ、飛鶴空を蔽ひ、しくわしさうこんがくしよしうれんりさうくわふ評蔡京三臘竹に紫花を生じ、芝草良嶽に產し、及び諸州連理の木、明治三六五一起證據書籍、てが條せ稱し月月きよしやくやくぼたんらうげつらいさやゐ渠芍藥牡丹ありと。臘月の雷、三月の雪を指して、皆、瑞と稱し指趙る表瑞へうがて表賀するに至る。味噌?汁ないじどうくわんれうしせいしせいもつぱおうほうつと內侍童貫、梁師成、事を用ゆ。師成、專ら應奉を務め、以て上の한いえんくんしやくるさうち山トどうくわんヘん風吹め屋のと二し心を蠱し、勢焔熏灼し、威福を中に竊む。童貫、專ら邊を開くを務と般さいけいふあひへうりいふべしめ、事を外に生ず。皆蔡京父子と相表裏す。ぢよしんあだちようくわぐわんねんぼじゆっ女良の打帝と上野原因子女眞の阿骨打、重和元年戊戌を以て、帝と稱す。初め、遼の天同家誌けいしやうせんらんきんしよくとしごとめいようかいとうせいぢよしんもとす祚刑賞僭濫、禽色に荒み、歲毎に、名鷹海東靑を女眞に索む。女そのりんとうほくせんとうこのとりえけんその眞、其隣東北の五國と戰鬪し、乃ち能く此禽を獲て、以て獻じ、其ぜうたあそむこんどうこうとうねいこうしうおとしいれう擾に勝へず。阿骨打、遂に叛き、混同江東の寧江州を陷る。遼將ちうけいじやうけいちやうしゆんせいれうろを遣し、之を討つ。敗る。中京、上京、長春西遼、四路の兵をならびらいりうかろふかたいはい起して、並に進む。獨り漆流河の一路、深く入つて大敗し、三路、しりぞぢよしんこと〓〓れうとうかいとりこじゆくちよしんてつききすまおほ皆、退く。女眞、悉く遼の東海を虜にす。熟女眞の鐵騎益す衆し。てんそしんせいまかちじようぼつかいれうやう天祚、親征して、復た大に敗る。女眞、勝に乘じて、渤海、遼陽、宋-徽宗皇帝-七八五 十八史略卷之七七八六五十四州を〓せ、又遼西に度つて、五州を降す。阿骨打、遂に號を建てて旻と改名し、國を大金と號す。明年、遼の上京を破る。高麗、來つて、醫を求む。上、二醫を遣して、行かしむ。還つて奏す、實は醫を求むるに非ず、乃ち、彼中國將に女眞と契丹を圖らむとするを知り、謂ふ、苟くも、契丹を存すれば、猶ほ中國の爲に邊を捍ぐに足らむ、女眞は狼虎、交るべからず、宜しく、早く之が備をなすべしと。上、之を聞いて樂まず。上、嘗て都市酒肆妓館に微行す。正字曹輔、上言し、彬州に編管せらる。ぶ童貫、崇寧の間より、王韶の子と兵を領して、湟州を復し、責に邊事を措置するに任ず。旣にして、部州、廓州を復す。貫、遂に節を建てて宣撫となり、旣に志を西邊に得るや、遂に謂ふ、北邊も亦た圖るべしと。政和の初、乃ち自ら請うて、使を奉じて、遼國を覘ふ燕人馬植といふ者あり、燕を滅すの策を陳ず。貫挾んで以えて歸り、姓名を趙良嗣と改む。燕を復するの議、遂に起る。政和の末、漢人海に浮んで來るあり、具に女眞、遼を攻むる事を言ふ。重和の春、乃ち蔡京、童貫の議を用ゐて、馬政を遣し、海道より阿骨打の居る所、阿芝川、淶流河に至らしめ、與に、共に、遼を攻めむことを議す。阿骨打、遂に使を遣して來らしむ。宣和の初、京に至る京、貫に詔して、夾攻燕を取るの意を以てし、軍校呼慶を差し宋-徴宗皇帝-七八七 十八史略卷之七奏かいだうとしわうほしやうて、其使を送らしめ、海道より國に歸る。この歲、王黼相となり、つとれうさんけい力めて遼を攻むるの策を賛す。まきんし及び呼慶、復た金使と共に來る。時りやうしつかはゆやくきんに、阿骨打上京に在り。遂に良嗣を遣して往かしめ、約すらく金くれうちうけほんてうえんけいさいへいれう國は遼の中京を取り、本朝は燕京を取らむ。歲幣は遼に與ふるの數りやうしいはえんけいたいあはの如くせむと。良嗣曰く、燕京一帶は、西京を併せて是れなりと。きんしゆさつりやうしちよしん金主、へいちしようりん亦た之を許し、ほあむし札を以て良嗣に付し、なんへいはくかうけふこう期するに、女眞の兵は平地松林より古北に趣き、南兵は白溝より夾攻するを以てす。良嗣はせいましくわうこくしよちひしくげん歸る。馬政、復た子擴と共に、國書を持し、往いて、彼此の兵、關すていいくばくきんしを過ぐるを得ざるを訂す。ま未だ幾ならずして、金使、復た來る。きたこくしよそのつかひ又國書を以て、わいなん就いて、其使に付して國に歸らしむ。時に、淮南まさせうあんっ山東の宋江あひったうおこそうこう招安に就く京西、河北、江南、相繼いで、盜起る。山東の宋江、方に招安に就ぼくかうはうらふせつぐんおとしいちうとためふるどうくわんく睦寇方臘、しきりに、浙軍を陷れ、中都爲に震ふ童貫、始めはうらふたひほくじて、方臘を平らげて、北事作る。きんじんれうわたおもむせおとしい金人、師を悉くして、遼を渡り、中京に趨いて之を攻め陷る。中もとけいこくしようていくわんそうおの〓〓京は、故の奚國なり。遂に兵を引いて、松亭關に至り、宋と各くわんとじ關を過ぎざるの約あるを以て止まり、兵を引いて、其西よりして過れうしゆすでさきんぜんぼうまさ遼主、さきに已に引いて避く。或は言ふ、金の前鋒、將に至られうしゆしんきやうすみやかうんちうはしけふざんいむとすと。遼主、震驚して、亟に雲中に奔り、夾山に入る。時に、えんわうじゆんえんせうかんさいいう燕王淳、燕を守る。蕭韓、淳を立てて主となす。宋の童貫、蔡攸、ひきはくかうはんそんせうかんむか師を帥ゐて、東路は白溝に至り、西路は范村に至る。蕭韓、迎へ戰宋-徽宗皇帝-九九 十八史略卷之七七九〇甚だ力む。つて、宋師、敗れて退く。耶律淳、死す。宋師、再擧す。遼の涿州の將 郭藥師、常勝軍を領して、來り降る。宋兵五十萬、進んで、盧溝河に駐まる蕭韓、之を拒ぐ。藥師、間道より燕を襲ふ。幹、還り救うて死闘し、藥師、屢ば敗れ、わづかに身をくわん以て、免れて、遁れ還り盧溝の師、遂に潰ゆ。貫攸、功なくして、罪を獲むことを懼る。時に金主、奉聖州に在り、乃ち客を遣ほはして金主に之を圖るを禱む。金主、三道に分つて兵を進め、遂に居庸關に入る。燕金に降る。金使、來つて言ふ、燕京は、金兵を以て攻下す。其地は宋に與へ、租稅は、當に以て金に輸すべしと。宋使趙良嗣、往いて之を議し、歲幣を許すこと、契丹の如くし、奮數の外、更に百萬を以て租稅に代へて、併せて雲中の地を求む。金リい人わづかに燕京、涿、易、檀、順景、薊の六州を以て、來り歸す。貫攸、燕に入る。燕の金帛子女職官民戶は、金人席卷して東す。得る所は、空城のみ。貫、攸歸り、王安中を以て燕山府に知たらしめ、詹度、郭藥師、同知たり。ちよ!星あり、月の如く、徐徐として南行して落つ。光人物を照し、月と異なるなし。神保觀を修す。其神、都人、素より之を畏る。傾城の男女、土を負うて以て獻じ、名づけて、獻土といふ。又、鬼使を飾作し、土を納るるを催す者あり。上、亦た微服して、之を觀る。後數日、旨あ宋-徽宗皇帝-·究 十八史略卷之七七九二きんつて禁ず。り、しかとうせんせいちふるでんもんえうどうらんしう京師、河東、ぼつにふ陝西、地震ふ。さんかばくべう宮中の殿門搖動して、且つ聲あり。蘭州の草木、きんこくじやうくわくきうしつ沒入し、山下の麥苗、きつたんきうれい乃ち山上に在り。けつさいざん金國、城郭宮室なし、しやうがくとうけいげききく契丹の舊禮を用ゐ、結綵山に如いて倡樂しゆうがくをなし、擊鞠の戯、ぢよすうにん鬭雞、かぐみ中國と同じ。でんぼ但だ衆樂の後に於て、舞女數人を飾り、るゐ兩手に鏡を持たしめ、みなばつしや電母に類す。其國茫然、皆、麦まさたいをくすうけんえい舍して以て居る。是に至つて、ことんななら方に大屋數千間を營して、盡く中國の爲す所に做ふ。災異疊見すりやうけいかせつみちさいいでふけんとじやうせいくわ兩京河浙の路、はらまたほうらくろう災異疊見す。しゆほしゆし都城に靑菓を賣る男子あり、孕んで子を生む。そのつまとし又豐樂樓の酒保朱氏あり、たちましぜん其妻年五十、忽ち髭髯を生ず、えんどぢよにうし長さ六七寸、宛として一男子なり。詔して、度して女道士となす。かほくさんとうたうおこれんさいきやうくわうゆひさいきふ河北、山東、盜起る連歲凶荒、民、楡皮を食ふ、野菜給せず、あひくらきみんならびちやうせんしゆう相食ふに至る。饑民並に起つて、盜をなす。張仙といふ者あり、衆まんちやうてきかうたくざんしゆうまんじよまんものあ十萬、張迪の衆五萬、高托山の衆三十萬、自餘二三萬の者、勝げてはか計るべからず。きんしゆたいそたいせいぶげんくわうていおとうと阿骨打殂す金主、帝と稱す。六月にして殂す。太祖大聖武元皇帝と號す。弟ごきつばいせいかいめいえんざんちえきしうきんはくわん吳乞買、立つ。晟と改名す。燕山の地、易州の西北は乃ち金坡關、しやうへいきよようくわんじゆんしうこほくくわんけいしうしよう昌平の西は乃ち居庸關、順州の北は乃ち古北關、景州の北は乃ち松ていくわんゆくわんきんじんらいろ亭關、平州の東は乃ち險關、險關の東は乃ち金人の來路なり。凡そすうくわんばんかんかぎえんきやうたもこの數關は、天、蕃漢を限る。之を得れば、燕境保つべし。然れど宋-徽宗皇帝-六三 十八史略卷之七古いいも、關內の地、平、樂營の三州は、後唐、契丹阿保機に陷れられしより、營、灤を以て平に隷して、平州路となす。燕を得て、平州くわんないを得ざれば、關內の地、蕃漢雜處して、燕保ち難しとなす。遼の張穀、平州を守る。金、旣に人を遣して穀を招く。穀曰く、契丹、凡そ八路、今特だ平州存するのみ、敢て異志あらむやと。旣にして平州を以て南附す。朱、遽に之を納る。趙良嗣、力めて爭ふ、以爲必ず金兵を招かむと。へらく、金人、謀して知る。卽ち平州を襲う之を破る。て、宋の詔札を得たり。之より曲を歸し、檄を累ね、穀を取らむとす。己むを得ずして、王安中に命じて、之を縊つて、其首を國送す。未だ幾ならずして、金の太子斡離不、旣に平州路よこり 將に燕に入らむとす。宋、方に且つ人を遣し、密に天祚を誘うて來り降らしめ、童貫を以て兩河燕山路を宣撫せしめ、將に天祚を迎へむとす。金人、方に退く。天祚、陰夾山に入らむとするも得べからず。是に至つて、衆を領して南に出づ、遂に金人に敗られて、は評(雜誌時に擒に就く。契丹は、阿保機より天祚に至るまで、九世にして亡ぶ。に二立口腔炎時に宣和七年乙巳の歲なり。この冬、金の斡離不、粘罕、道を分つて南す。斡離不、燕山を陷る。郭藥師之に降る。金兵、長驅して進む。郭藥師、爲に前驅す。童貫、太原より逃れ歸る。粘罕、太原を圍む。太原の帥張孝純、1歎じて曰く、平時、童太師、多少の威重を作す、乃ち畏怯すること宋-徹宗皇帝-七九五 十八史略卷之七奏さえんなんめんぼく此の如し。身、大臣となつて、難に死する能はず、何の面目あつてかうじゆんくわん天下の士を見むと。さくねそんよくきた孝純み冀景を以て關を守らしむ。きんじんちやうかうじゆんいは知朔寧府孫翊來り救ふ。兵、二千に滿たず、金人と城下に戰ふ。張孝純曰く、賊あ、くわんさつちうつく旣に近きに在り、敢て門を開かず。觀察、忠を盡して國に報ずよくいはうらむまべし。翊曰く、但だ恨らくは兵少きのみと。乃ち復た引いて戰ふ。はじてきよく金人大に阻む。あ、くだ再び兵を益す。わうほカ、敵する能はず。翊、死す。一騎の肯て降るなし。時に、王黼、先つこと一年、旣に罷めらる。而しはくじちうりはうげんならびしやうきんへいきた李邦彥、じ白時中、ちうて、並に相たり。皆、鄙夫なり。金兵來る。時中たしゆつほん。きくたないぜん惟だ出奔の策を建つるのみ。上、內禪す。在位二十六年。改元するけんちうせいこくすうねいたいくわんせいくわちようくわせんくわもの六、曰く建中靖國、曰く崇寧、大觀、政和、重和宣和太子きんそうくわうてい立つ、之を欽宗皇帝となす。くわんとうきうしつとくさいけいどうくわんはいみ【欽宗皇帝】名は桓、東宮に在つて失德なし。蔡京、童貫の輩、咸はじかどうえうな之を憚り、動搖せむと欲するも、不可なり。是に至つて、位に卽がくせいちんとうらけつじやうしよさいけいどうくわんわうほれうしく大學生陳東等、闕に伏して上書し、蔡京、童貫、王黼、梁師せいげんしゆめんぜん成、李彥、朱動の六賊を誅して、以て天下に謝せむを乞ふ。彥は、こんくわつひやくしやうはたううらみかほくけいろ民田を根括するを以て、百姓を破蕩し、怨を河北、京の東、西三路むすめんわせきかうしよざいさうどううらみに結ぶものなり。動は、花石綱を以て、所在騒動して、怨を東南にせ、かうぐわんねんしゆほめんげんざん結ぶものなり。靖康元年、首として、鶴動彥を竄し、尋いで、皆、之を殺す。ぎよたふのぼざみことのりわうべうニ狐あり、御榻に升つて坐す。詔して、狐王廟を毀たしむ。宋-欽宗皇帝-老君 十八史略卷之七奏上皇應天府に奔る。李綱李綱を以て行營使となし、城守の策を定めしむ。元祐の黨籍を除き、范仲淹、司馬光等に官を追贈す。老麵線自由、罷む。張邦昌、相となる春正月、健康、京師に抵る。之より先、朝廷、李鄴を遣して、げ和を求む。斡離不、鄴を携へて、以て京城を攻む。克たず。乃ち王汭を遣し、鄴と偕に來らしむ。邦彥等、皆和を主とす。惟だ綱は、戰はむと欲す。上、邦彥の計を是とし、鄭望之を遣して、出でて使せしむ。未だ至らずして、王〓に遇ひ、與に倶に入つて見ゆ。又李稅を遣して、出でて使せしむ。稅、又金使と偕に來る。金人、犒師の金五百萬兩、銀五千萬兩、牛馬萬頭、表段百萬匹、中山、河間、原太三鎭の地二十餘郡を割くを求め、且つ宰相親王を質となさむと欲す。張邦昌をして、康王に副として、其營に如かしむ。金國の太子、康王と同じく射る。連發三矢、皆、筈に中る。金人謂ふ、是れ將家の子、親王に非ずと。歸らしめて、更めて、肅王を請うて質となす。种師道等、諸路の勤王の兵至る。師道、奏す、京城は、 周囘八十里、城の高さ數十丈、粟、數年を支ふ。宜しく、城內と寨を割して拒守し、困を俟つて之れ擊つべしと。綱亦た奏す、金、)5孤軍を以て、深く入る、虎の檻に投ずるが如く、共に、一旦の力を角すべからず、縱ち歸らしめて、之を擊たば、必勝の計ならむと。宋-欽宗皇帝-七九九 十八史略卷之七八〇〇評る和國之上、之を然りとす。而して、李邦彥、吳敏等、專ら和を主とす。議誤しる巳を定|魔ま汝るがの議時論論一ならず。虜をして、汝が議論定まるの時を待てば、我、旣に河むのに待議河てら渡我あをばを渡るの譏あらしむるを致す。未だ幾ならずして、統制官姚平仲、宵に金營を攻む。克たず。上、大に恐懼し、行營を廢し、李綱を罷闕に伏しめ、以て金人に謝す。大學生陳東、及び都人數萬、て、復えた綱を用ゐむことを乞ふ。旨を得て、右丞に復し、守禦使に充つ。衆乃ち散ず。金使、復た來る。乃ち三鎭を割くの詔書を以て、使を遣して、持して往かしむ。時に在京の金を括して、わづかに二十餘萬兩、銀四百餘萬兩を得たり。藏蓄、旣に空し。金人、京城を圍むこと、凡そ三十三日、地を割くの詔を得、金幣數足るを俟たずカ。して退く。种師道、河に臨んで、之を要擊せむことを請ふ。綱、亦た以爲へらく、彼の兵六萬にして、我が勤王の師は二十餘萬、其半ば渡るを縱るして、之を擊たば、必ず勝たむと。邦彥等、從はず。惟だ三鎭に詔して、尙ほ堅守して割かざらしむ。京師、圍を受くる時、梁師成、旣に誅せらる。是に至つて、蔡京死す蔡京竄所にを儋州に竄す。x潭に至つて死す。年八十。蔡攸萬安軍に竄せらる。尋いで、詔あり、所在に卽いて之を斬る。童貫、亦た遠竄せられ、追うて、南雄に斬らる。李邦彥、罷む。張邦昌、吳敏、並に相たり。邦昌、罷む。徐處七、相たり。處仁、敏、罷む。唐恪、相たり。恪、罷む。何桌、相宋-欽宗皇帝-八〇一 十八史略卷之七八〇二たり。上皇、京師に歸る。數月にして、金兵復た至る。斡離不、東路より眞定を陷れ、長驅して先づ京師に抵る。粘罕、西路より、隆德、太原府、汾澤州、平定軍、平陽府、河南府、河陽府、鄭州、懷州を陷れ、京師に抵る。張叔夜等、兵を統べて、闕に赴く。唐恪、耿南仲、專ら和議を主とす。曰く、今、百姓困匱、數十萬を城下に養へば、何を以て、之に給せむと。乃ち各道の兵を止めて動くを得るなからしむ。京師は、十一月、圍を受けしより、凡そ四十日卒郭京といふ者あり、言ふ、能く六甲の法を用ゐて、粘罕、斡離不をこと〓〓生擒せむと。盡く守禦の人をして、城を下らしめ、獨り、城樓の上に坐し、親兵數百を以て、自ら衞る。俄頃にして、金人鼓譟して進む。京、衆を給いて曰く、須らく自ら城を下つて法を作すべしと。い因つて、餘兵を引いて、南に遁る。虜兵、城に登る者、わづかに四人衆皆、披靡して大に潰ゆ。上、城の陷るを聞き、慟哭して曰く、朕、种師道の言を用ゐず、以て是に至ると。時に、師道、前一月に卒す。護駕の人、猶ほ萬餘あり、馬、亦た數千。張叔夜、連戰四日、其貴將一人を斬り、駕を護し、圍を突いて出でむと欲す。評不動熱敷設國議優遂に柔上、和議に惑うて定らず。士卒號哭して散ず。虜使劉晏、上に請うには、て城を出でしむ。都民、爭ひ入り、變して之を食ふ。何桌、都民を率ゐて、巷戰せむと欲す。聞く者、爭ひ奮ふ。金人、之に因つ宋-欽宗皇帝-八〇三 十八史略卷之七八〇四て、兵を歛めて下らず。惟だ地を割き金幣を責め和議するを以て辭ら、となし、以て戰守の計を誤らしむ。侍郞耿南仲、力めて、和を議するを主とす。上、以て然りとなし、遂に其計に墮つ。二元帥、上皇と相見むことを請ふ。上曰く、上皇、驚憂して、既に病む。朕當に自ら往くべしと。遂に靑城に如いて、之を見、二宿して返る。明年春、復た上に請うて、郊に出でしめ、續いて、逼つて、上皇を出さしむ。張叔夜、諫めて曰く、今上一たび出でて歸らず、陛下、再び往くべからず。臣、當に精兵を率勵し、駕を護して、以て出づ芝んべし。たとひ、虜騎追ひ至るも、臣決して、死戰せむ。或は僥倖すべし。若し、天、祚せざれば、封疆に死せむ。猶ほ、生きながら夷狄に陷らざらむかと。上皇、藥を飮まむと欲す。范瓊に奪はる。上皇に逼つて、宮を出でしむ。皇后太子、親王、帝姫、皇族前後三千餘人、悉く軍前に赴く。城中の子女金帛寶玩車服器用圖書百物、括索して、公私上下、共に空し。然る後に、金主の詔書を宣して(童食るのは北二異姓を選立し、遂に前太宰張 邦昌を册して、楚帝となし、宋の二に歸帝を以て、北歸す。金人、汴に在ること、凡そ七閱月にして去る。初め、至る時、張叔夜、嘗て力戰す。餘は、皆、和を主とし、以て1)吳〓、莫儔、王時雍、徐秉哲、范瓊等に至るまで、往來して、上皇i以下を逼逐して、郊に出でしめ、議して、異姓を擧ぐ。上の靑城に在るに方つて、逼つて御服を易へしむ。時に、惟だ李若水、抱持し宋-欽宗皇帝-八〇五 十八史略卷之七八〇六評て大呼奮罵す。金人、して麻刀を以て、其頤を裂き、景人を人亡國其舌を斬つて、然眼むる後に、之を梟す。相謂つて曰く、大遼破れし時、義に死する者十數。今、南朝、惟だ李侍郞一人のみと。然れども、一時憤死する者甚だ衆し。金人、知らざるなり。吳革、衆に結んで、二帝を劫還せむと欲す。范瓊に誘殺せらる。何桌、孫傳、張叔夜、秦檜、司馬朴、皆爭論して、趙氏を存立せむを乞ふ。金人、之を驅つて、上に生活〆地in從つて、北行せしむ。叔夜、粟を食はず、惟だ湯を飮み、界河を過竹篙灣產業ぎて死す。桌、燕に至り、亦た食はずして死す。京城危急の時に當とつて、四方勤王の師、至る者、皆詔して、止まつて進まざらしめ和議を妨げむことを恐る。金人の退くに訖るまで、未だ嘗て兵を交へず。上、在位二年ならずして國破る。改元して、靖康といふ。弟康王、南京に立つ、之を高宗皇帝となす。南宋【高宗皇帝】名は構、徽宗の第九子なり。母は韋氏。徽宗、吳越の武肅錢王、室に入るを夢み、旣にして構を生む。康王に封ぜらる靖康の初、嘗て出でて、斡離不の軍に使す。この冬、斡離不、再び10 來るや、詔を奉じて、再び出でて使す。耿南仲、偕に行きて、相州に至る。民、道を遮つて、往くことなきを請ひ、守臣宗澤、之を止む。相州の守、蠟書を以て言ふ、金人騎を遣して、康王の所在を宋-欽宗皇帝-南宋-高宗皇帝-八〇七 十八史略卷之七八〇八か物色すと。乃ち相州に囘り、南仲と共に榜を揭げて、兵を召して勤さ王す。詔あり、康王を以て大元帥となし、汪伯彥、宗澤を副となし兵を領して、入つて衞らしむ。王伯彥の議に從ひ北門を出でて、河を渡つて、大名に至る京師陷るを聞く。澤兵を進めて、京城に向はむを請ふ。伯彥、王に請ふ、兵を東平に移して、身を安地に措かむと。南仲、亦た以て然りとなす。遂に東に去る。知河間府黃さ、潜善、亦た兵を領して至り、進んで濟州に屯して探報す、二帝北行し、張邦昌、金に立てられ、國を楚と號すと。この日風霾、日に薄暈あり、百官慘怛、邦昌亦た憂色あり、惟だ王時雍、范瓊等、欣然得るあるが如し。邦昌、位に在ること三十三日。御史馬紳書でを邦昌に貽り、請ふ、速に行いて、正を改め、服を易へて歸省せよと遂に元祐孟太后を迎へて政を聽かしむ。太后、康王を迎立す。詔して、中外に〓ぐ、曰ふあり、漢家の厄十世、光武の中興に宜しく獻公の子九人、惟だ重耳尙ほ在りと。使を遣し、表を奉じ、及び孟后の詔を以て來る。邦昌、繼いで至り、地に伏し、慟哭して死を請ふ。使臣、河北より竄げ來り、道君の手札を進む。曰く、便ち眞に卽いて、來つて、父母を救ふべしと。王、働哭して拜受し、遂に應天府に趨いて、位に卽き、元を建炎と改む。和を主とし國を誤るを以て、耿南仲を罷竄し、李綱を召して相となし、宗澤を以て開ほ封に知として留守となす。綱至る、邊防軍政、略ぼ〓あり。而し南宋-高宗皇帝-八〇九 千八史略卷之七八一〇伯彥て、潜善、復た和を主とし、亟に祈請使を遣す。綱相たること、數十日にして罷め、潜善、伯彥、相となり、首として、上書の人、陳東、歐陽徹を殺し、策を決して、東南に幸し、復た兩河を經制するの意なし。この冬、車駕、遂に揚州に至る。金人、三道に岐れて、南に來る。二年春、金人、汴に至り、宗澤に敗らる。澤き群盜を招撫し、四方の義士を募り、百餘萬を合し、糧半歲を支ふ。表疏、數十を連ね、上に請うて、汁に還らしむ。潜善、其成功を忌〇四、〇一〇、に評南の復んで、中より之を沮む。憂憤、疽背に發して沒す。終に臨んで、3.4(4)き折なすり惜一語の家事に及ぶなく、惟だ河を過ぎむと連呼するもの三たび、都人之が爲に號働し、聞く者、皆、相弔うて、涕を出す。三年春。金人將に揚州に至らむとす。上、報を得て亟に出づ。二相方に堂に會食す。吏呼んで曰く、駕行くと。乃ち戎服して南走張浚す。揚州を囘望すれば、烟焔、既に天に漲る。呂頤浩、張浚、上に〓瓜州に追及し、小舟を得て、以て渡り、鎭江に至り、遂に杭州に如く潜善、伯彥を罷め、朱勝非を以て相となす。御營の將、苗傅、劉正彥、亂を作し、上に請うて、位を皇子專に禪らしむ、未だ三歲ならず。孟太后、政を聽く、呂頤浩、張浚、師を帥ゐて、勤王す。張俊韓世忠、前軍たり、張俊、之を冀く。劉光世、遊擊して殿となる勝非、二免に說いて、亟に反正せしめ、孟居を尊んで、隆祐皇太后となす。勝非、罷む。呂頤浩、相となる。二兒、走る。世忠、之を南宋-高宗皇帝-全 十八史略卷之七八一二え追ひ、皆誅に伏す。上、建康に如く。俊を以て、川陝宣撫處置使となす。隆祐太后南昌に如く。元朮が粘牢に請うて、將に江浙を犯さむとするが故なり。杜充、右僕射となり、建康を守る。上、杭州に如く杭を昇せて臨安府となす。臨安より浙東に如く。金人、兩道にき、分れ、一軍は、〓黄より江を渡る。劉光世江州に在り、以爲らく斬黄の小盜なりと、王德を遣して、之を興國軍に拒がしめ、始めて、金人たるを知る。金入、大冶より洪撫、建昌臨江、吉州に趨き、隆祐太后を追ひて及ばず。遂に袁潭、〓南、澧州を陷れ、乃ち石首より北に渡つて去る。一軍は、滌和より江東の馬家渡に向ひ、江をつうばんやうはうがいしたが濟つて、建康を陷る杜充及び守臣、皆、兀朮に降る。通判楊邦又從ははず、血を刺して裾に書して曰く、寧ろ趙氏の鬼となるも、他邦の臣とならずと。衆擁して、兀朮に見えしめ、誘諭累日輒ち叱罵し、卒に大に罵つて殺さる。兀朮、長驅して、杭州を陷る。上、去つて、旣に七日。兀朮、進んで、越州を陷る。四年春、明州を陷る。時に、上、旣に台州章安鎭に次す。金人、船を以て、昌國縣を犯し、追うて、上の舟を襲はむと欲す。提領海舟張公祐、大船を率いて、之を擊散す。乃ち退く。兵を囘して、秀、平江、常州を陷れ、鎭江に至る。韓世忠、之を邀へ海舟を以て與に戰ふこと數十合、俘獲多し。卒を金山龍王廟に伏せて、幾んど、兀朮を獲むとす。黄うや〓天蕩に相持す。兀朮、道を假らむことを求め、甚だ恭し。許さず。南宋-高宗皇帝-八一三 十八史略卷之七八一四建康より北歸せむと欲す。去るを得ず。或ひと〓へて、冶城西南隅の蘆場の地に於て、大渠を鑿たしめ、一夕にして成る。次早、舟を出して、建康に趨く。世忠、大に驚いて、之を尾擊す。一、、風なきに値うて、海舟動く能はず。兀朮、乃ち其舟を率ゐて、江を出でて北に去る。疾きこと、飛ぶが如く、火箭を以て海舟を射る、世忠、岳飛軍亂れて奔り還る。兀朮、乃ち北に遁るるを得たり。統制岳飛、邀へ擊つて、之を六合に敗る。初め、張浚、西行す。上、浚に命じ、三年にして後に、師を用ゐしむ。是に至つて、撻辣、兀朮、皆、淮東に在り。浚聞く、〓朮(3)躊躇するも、必ず再び東南を犯さむとすと。議して、師を出し、攻取して以て其勢を分たむとす。士大夫及び諸將、皆以て不可となす。浚、策を決し、檄を粘罕に移して、罪を問ひ、吳〓を遣して、長安に入らしむ。金人、遂に兀朮を調し、京西より星馳して、陝西に赴き、婁室と合す。浚、六路の兵を合して、富平に至る。婁室、兵を擁して、驟に至る。鐵騎、直に環慶路趙哲の軍を擊つ。佗路、援けず。哲、所部を離る。諸軍退く。金遂に勝に乘じて前む。浚、趙哲を斬る。諸路の兵、皆散じ去る。陝西大に震ふ。浚軍を興州に駐め、劉子羽を遣して、諸將の在る所を訪はしめ、各、所部を引p.いて、來會せしむ。人心粗ば安し。吳玠、走つて、大散關東の和尙た原を保つ。南宋-高宗皇帝-八一五 十八史略卷之七八一六上、海道より、囘つて越州に駐まる。呂頤浩、罷む。范宗尹、相秦檜二心となる。秦檜、南に歸つて、行在に赴く。檜、北に在り、撻辣に依つて任用せられ、撻辣の南侵するや、檜其軍に參謀たり。嘗て、爲に檄を草し、山東の州郡を下す。全家を挈へ小舟を浮べて、漣水軍に抵る。自ら逃れ歸るといふも、朝士多く之を疑ふ。檜言ふ、天下の無事を欲せば、須らく是れ、南は自ら南、北は自ら北たるべしと。上に乞うて、書を撻辣に致し、以て好を求めしむ。其言は、皆、撻辣の意なり。劉豫帝と稱この歲、劉豫、帝と稱す。豫は景州の人、建炎戊申に於て、濟南すの守を以て金に降り、之が用をなし、東平府に知たるを得、兼ねてほ上河南に節制たり。粘罕、金主に白し、邦昌の故事に循つて、豫を立てて、國を大齊と號し、後に都を汴に遷す。粘罕、旣に關中の地を得、悉く割いて以て豫に與ふ。紹興元年、張俊に命じて、江淮の盜李成を討たしむ。成、江淮上の六七州に據り、兵數萬を連ね、東南を席卷するの勢あり。尋いで江筠、臨江を陷る。後、其軍を擊つて、三郡を復す。成、遁れて齊に降る。こと〓〓ざ張浚、盡く陝西の地を失ひ、惟だ階、成、岷鳳洮の五郡、及び鳳翔府の和尙原、隴州の方山原を餘すのみ。浚退いて圓州を保す。統制曲端、威名あり。浚、さきに譜を用ゐて其兵柄を罷め、南宋-高宗皇帝-八一七 十八史略卷之七八一八ばんしうあんちたん上だへん萬州に安置す。西人、端に倚つて、重きをなす。貶せらるるに及びぐんじやうよろこきようしうミて、軍情悅ばず。是に至つて、又、恭州の獄に送つて之を殺す。みならやうこんせいじんますましゆんひ士大夫軍民、皆帳恨す。西人益す是を以て、浚を非とす。しよくごかいおとうとりんくわせうげん金人、兩道に分れて、蜀に向ふ。吳玠、弟璘と大に之を和尙原やぶえらせんくわつくわんりやうだうに敗り、又將を選んで、之を箭筈關に敗る。兩道、皆、入る能はず。はんそうゐんしんくわいしやうげんさい范宗尹、罷めらる。秦檜、昌言して曰く、我に二策あり、以て天しようどうつひいうしやうりよいかう下を聳動すべしと。遂に右相となり、呂頤浩、左相となる。こつじゆつしよだうおよちよしんふれうはうけいけんゐ兀朮、諸道及び女眞の兵を會して、浮梁を寶雞縣に造り、渭を渡かいりんつて、和尙原を攻む。玠璘三日、三十餘戰、大に之を破る。〓りうしまぬかとうえんざん朮、流矢に中り、わづかに身を以て免れ、始めて、河東より燕山に歸る。せうこうねんえつしうりんあんかへげんしやしんくわい紹興三年。上、越州より臨安に還る。言者、秦檜、專ら和議を主くわいふくゑんとそか、くわいしゆしようひとして、恢復の遠圖を沮止するを効す。檜罷む。朱勝非、右相となる。さんりかつほうしやうせいげん紹興三年。春金の撒離曷、鳳翔、長安より東に去ると聲言し、しやうおかんいんたゞちきんしやうおもむごかいきふ實は商於より漢陰に出で、直に金商に趣く。吳玠、急に兵を率ゐてげうふうれいやくかんたうめぐそのうしろかいにはか之を饒風嶺に扼す。金人、閒道より、遠つて其後に出づ。玠、遽にせんにんくわんかつこうげんおとしいちりうしうしりぞ仙人關に還る。金人、遂に進んで興元を陷る知府劉子羽、退いせんけんたんどくさんさんりかつしよくつかへごて、三泉縣、潭毒山を保つ。撒離曷、食盡く、乃ち引いて還る。吳南宋-高宗皇帝-八一九 十八史略卷之七八二〇璘粮なきを以て、塞を拔き、和尙原を棄つ。金人、之を得たり。か玠、其必ず深く入るを度り、乃ち兵を嚴にして、以て待つ兀朮果して、撒離曷と共に、來つて仙人關を犯す。玠璘、共に戰ふこのがでと七日、金人支ふる能はず、宵に遁る。玖、伏を設けて、其歸路を扼し、又之を敗る。この擧、金人、意を決して、蜀に入らむとす。卒に志を得ず。この歲、浚又、洮岷關外を失ひ、惟だ階成秦鳳を存するのみ。浚、召し還され、尋いで、劉子羽と共に、皆貶竄こと〓〓せらる。浚の是行、もと關陝より、中原を取らむと欲し、乃ち盡く關陜を喪うて歸り、賴に玠璘を得て蜀を保するのみ。13えい.齊李成を遣し、攻めて、鄧襄、隨郢唐州、信陽軍等を陷える。岳飛、隨郢を復す。成、襄陽を棄てて遁る。呂頤浩、朱勝非、相繼いで罷められ、趙鼎、右相となる。齊金兵を以て、道を分つて南侵す。上、詔して親征し、出でて平江に如く張浚を以て、樞密院に知たらしむ。之より先、浚、北方既に西顧の憂なく、必ず力を併せて東南を窺はむことを極言す。上、其言を思うて、遂に之を召す。浚、至り、請うて、岳飛を遣して、江を渡つて淮西に入らしめ、以て北兵の淮東に在る者を牽制せむとす之に從ふ。上、浚に命じて、師を江上に視しむ。將士、浚の來るを見て、勇氣皆倍す。時に、韓世忠、揚州に停まり、さきに已に大に金兵を大儀鎭に敗り、其將撻也を擒にし、解元、成閔、共南宋-高宗皇帝-〓〓 十八史略卷之七八二二しようしうたゝかせふきうよそんきじゆしゆんわうとくに承州に戰ひ、十三捷す。仇悆孫暉は之を壽春に敗り、王德は之をぢよしうがくひぎうくわうらろしうだつらつこつ滁州に敗り、岳飛は牛皐等を遣して、之を廬州に攻めしむ。撻辣元じゆつせいちうやくか朮世忠に扼せられて、江の渡るべからざるを知つて、引いて還る。せいりうりんりうげいしちようのが齊の劉麟、劉猊、輜重を棄てて遁れ去る。せうこうねんへいこうりんあんかへてうていちやうしゆんしやう紹興五年。上、平江より臨安に還る。趙鼎、張浚、左右の相たぐんはととくり。浚、兼ねて、諸所の軍馬を都督す。尋いで、復た浚に命じて、しゆんちんこうかんせいちう師を江上に視しむ。浚、鎭江に至り、韓世忠を召し、兵を擧げて、そしうたむろけんかうたいへいしう移つて楚州に屯せしむ。浚、建康に至り、張俊の軍を撫し、太平州りうくわうせいようやくふんがくひに至つて、劉光世の軍を撫す。踊躍して奮を思はざるなし。岳飛をかほくけいせいせうたうし以て、河北京西招討使となす。けんえんかうじゆつちうふれうひとしやうしやうていしう之より先、建炎庚戌中、武陵の人鍾相といふ者あり、鼎州に起せんそがうていれいたんしんがくきやうたうくり、僭して、楚と號す。鼎、澧潭、辰岳の境、皆、盜區なり。しやうやぶきんそのとやうえうどうてい上相敗れて擒に就く。其徒に揚工といふ者あり、洞庭に據り、遂にげきかうおそ劇寇をなす。官軍、陸より之を襲へば湖に入り、水より之を攻むれきしのぼがいひらいしゆんば岸に登る。曰く、能く我を害するあらば除だ是れ飛來のみと。浚じやうりうまえうふくしんがいまさ謂ふ、上流先づ去らざれば、ム、腹心の害をなし、將に以て國を立しゆんこなんがくひつるなからむとすと。請うて、自ら行く。浚、湖南に至り、岳飛のくわいきふそのすゐさいえうきうしゆくおもむ兵、至るに會し、急に其水寨を攻む、云窮蹙、水に赴いて死す。遂てんりやうわいしよしやうばうしうに平らぐ。浚、湖南より轉じて、兩淮に由り諸將を會し、防秋を議まみし、乃ち入つて見ゆ。南宋-高宗皇帝-八二三 十八史略卷之七八二四西紀一一三五金主晟、殂す。文烈と證す。初め、旻、晟と約す、兄終はれば弟立ち、然る後に、旻の子に復歸せむと。故に、最己の子宗盤を捨てて、旻の長孫易囉馬を立てて諳版字極烈となす。儲副の位なり曷囉馬、名は亶、是に至つて、遂に位に卽く。宗盤、旻の別子及び粘罕と、皆立つを爭うて得ず。粘罕、時に已に兵柄を失し、悟室と並に相たり。粘罕、食を絕ち、縱飮して死す。蒙國、金に叛く、蒙蒙國金に叛は、女眞の北に在り、唐に在つては、蒙兀部たり、亦た蒙骨斯と號す紹興六年、張浚、復た出でて、師を視る。上、臨安より平江に如せいじんく齊人、道を分つて入寇す。初め、劉豫、粘罕に因つて、立つを得、粘罕を奉ずるを知るのみ、他帥を蔑視す。是に及びて、兵を金に請ふ宗盤、之を沮み、豫が自ら行くを聽るし、然も、兀朮を遣し、兵を黎陽に提げて、以て釁を觀せしむ。劉光世、時に廬州に駐まる以爲へらく、守り難しと張俊、泗州に駐まり、亦た兵を益すを請ふ。衆情淘懼す。張浚、書を以て、俊及び光世を戒め進擊あつて退保なからしむ。趙鼎等、上に請うて、親書して、浚に付し、師を退けて南に還り、江を保たむと欲す。浚力爭す、以爲へらく、必勝を保すべし、一たび退けば大事去らむと。光世、旣に廬州を捨てて退く。浚卽ち星馳して、釆石に至り、人を遣して、其衆を喩さしめ、若し一人の江を渡るあらば、卽ち斬つて以て徇へむ南宋-高宗皇帝-八二五 十八史略卷之七会えといひ、仍つて光世を督し、復た廬州に還らしむ。光世、已むを得ず、乃ち兵を駐め、王德、酈瓊を遣し、三たび齊兵を霍丘、正陽及び前羊市に敗る。時に劉猊、淮東に至り、韓世忠の兵に阻まれてあす、敢て進まず、乃ち淮西より渡る。浚張俊の統制官楊沂中を遣して、濠州に至らしめ、俊と兵を合す。沂中、猊の前鋒を敗る。猊兵を引いて、劉麟に合肥に會して後に進まむと欲す。沂中共に藕塘ずに遇うて合戰す。猊大に敗る。麟猊の敗を聞き、風を望んで潰え去る。光世、勝に乘じて、追ひ襲うて、亦た捷つ。北方、大に恐評北悲敵虜宋し地とのむにな天終り子るて俘る。上曰く、敵に克つの功、皆、右相より出づと。趙鼎遂に罷む。し上皇、五年四月を以て殂し、七年に至つて、凶問、始めて至る。壽五十四。二帝、建炎の初より、燕山より中京に如く。古しへの奚國霤郡なり。燕山の北千里に在り。次年、又中京より韓州に移る。中京の東北千五百里に在り。後二年、又韓州より五國城に移る。金國都する所の東北千里に在り。上皇終る。 評爭ふ亡國の宿將功を岳飛、湖北京西宣撫使となる。時に淮東宣撫使韓世忠、江東宣撫兆也使張俊、皆、久しく、旣に功を立つ。而して、飛は列將を以て拔起soす。世忠、俊、不平なり。飛己を屈して、之に下る。二人皆、答けんげぎへず。飛が楊云を破るに及び、俊、益す之を忌む。是に於て、嫌隙日に深し。上、自ら平江に如き、建康に如く。飛因つて、駕に扈して、以て行き、入つて見え、疏して恢復を論ず。秦檜、時に樞密南宋-高宗皇帝-八二七 十八史略卷之七会副使たり、和議を主とし、飛の成功を忌んで、之を沮む。飛內艱てりうくわうせいを以て去る。上、力めて、之を起す。劉光世、言者、其師を退け、幾んど事を誤るを論ずるを以て、兵柄を罷む。張浚、王德を以て其를軍を統べしむ。德酈瓊と等夷にして相下らず、大に課いで、督府督府都를に詣つて、德を訴ふ。浚乃ち德を召して還らしめ、統制となし、而して、呂社を以て督府參謀となし、其軍を領せしむ。社簡倨にして、將士の情に通ぜず。瓊等の反側を聞き、密に之を罷めむを乞ふ。瓊叛き、社を執へ所部數萬を以て齊に降る。張浚、ま遂に言を以て罷む。浚の德と社とを用ゆる、岳飛、嘗て、其不可を言ふ、滲聽かず、故に破る。趙鼎、復た相たり。金人、劉豫の國を立つる能はざるを以て、之を廢す。齊、立つこと、八歲にして亡ぶ。紹興八年。上、建康より臨安に還る。秦檜復た相たり趙鼎罷む。詔して講和を議す。建炎より以來、歲として、使を遣して直に尊號を去り。其正朔を奉じ、藩臣に比するを願はざるなし。金人從はず。使者往くも、多く拘囚せらる。後、數ば南侵すれども、利あらず。江南の圖るべからざるを知り、然る後に、檜を遣して、閒を上爲さしむ。豫が廢せらるるに至つて、和議乃ち決す。金使張通古來評胡上銓(坦庵)疏措る編修官胡銓、上疏す。以爲へらく、陛下、一度膝を屈すれば、辭痛し懦む夫を記載と〓〓祖宗廟社の靈、盡く夷狄に汚され、祖宗の赤子は盡く左袵となり、南宋-高宗皇帝-八二九 十八史略卷之七八三〇てうていさいしつばいしんいじさいらうあいづく朝廷の宰執、皆、陪臣とならむ。異時豺狼厭くなき、安んぞ、我にくはぶれいりうよごと加ふるに無禮を以てする、劉豫の如くならざるを知らむ。夫れ三むちけんしふつぜん尺の童子は、無知なるも、犬豕を指して拜せしむれば、怫然としてだうてうてうあひひきけんしどうちはぢ怒らむ。堂々たる天朝、相率ゐて、犬豕を拜せば、嘗て童稚の羞なほうしわうりんほくしいうちこうなんせつゆからむや。奉使王倫、北使を誘致し、江南を招諭するを以て、名としんせふしつせいそんきんしんくわいふくわいなし、我を臣妾にせむと欲す。執政孫近、秦檜に附會す。臣、義とくわいらいたゞりんくわいきんかうべきして檜等と共に天を戴かず。乞ふ、倫檜近、三人の頭を斬り、かうがいかんせもんざいしおこ之を藁街に竿し、然る後に其使を覊し、無禮を責めて問罪の師を興おのづかばいさむ。三軍の士、戰はずして、氣、自ら倍せむ。然らざわば、臣、とうかいふいづくせうてうていをくわつ東海を蹈んで死するあらむのみ。寧んぞ、能く小朝廷に處つて活をしよたてまつへんざん求めむやと。書上る。しきりに貶竄せらる。せんせいかなんそうか、紹興九年。金人、先づ陝西、河南の地を以て、宋に歸す。朝廷、くわんれうしんえつちかかうべんけいりうしゆちよ官を遣し、陵寢に謁し、地界を交し、汁京留守を除す。せいかんじやうりせいほせいほるゐせいばんぞくとじゆんけんし靑澗城の李世輔、來り歸す。世輔の先は累世蕃族都巡檢使たり。せいつかつねあひなそう父子、嘗て、齊に仕ふと雖も、毎に相泣いて、宋に歸するを得ざるうらせいせいほどうしうらかんさんを恨む。齊、世輔を用ゐて、同州に知たらしむ。嘗て、閒を得て撒りかつせいきんてうきんへいはな離局を生擒して朝に歸せむと欲す。金兵、來り追ふ。之を縱つて、せいかはしみなりく西夏に奔らしむ。其父母及び二子一孫、皆戮せらる。是に至つて、かかせんせいそう兵を夏に乞ひ、以て復る。旣に出でて、陝西、旣に宋に還りしを知かひゐらうらいはけんちうり.乃ち夏兵を部して來る。上、慰勞して賜資を加へ、名を顯忠と南宋-高宗皇帝-八三一 十八史略卷之七八三二賜ふ。金國、謀反の者あり。事、宗盤等に連る。皆、坐して誅せらる。左副元帥撻辣は、實に楊割の長子なり、金主亶の大父行なり。粘罕の死せしより、宗戚大臣、皆懼る。撻辣、悟室と共に、尋いで亦た謀叛を以て、先後して誅せらる。金、宋と和するは、實に撻辣之を主とす。撻辣、既に死す。是に於て、右副元帥兀朮、左相たり。乃ち密に其主に奏するに。宋、未だ歲貢正朔誓表册命を議せず、然も、撻辣、擅に地を割くを許すを以てす。遂に盟を渝ふ。評秦檜の反紹興十年金兵四道に分れて、南侵す。劉錡、大に兀朮を順昌を開始ナッ人し理府に破る。檜急に上に啓して、錡を召し還さしむ。岳飛、大に之城に敗り、幾んど元朮を擒にせむとす。飛.朱仙鎭に至る。せる ふつふきを〓はをてを排切ず排商て切檜急に上に啓して、飛を召し還さしむ。韓世忠、金人を淮陽の珈む口に敗る。兀朮、汴に還り、兩河の軍と蕃部とを檢し、以て再擧を謀る。十一年。兀朮、廬州を陷れ、和州を侵す。劉錡、楊沂中、之を彙皐に敗る。檜又上に啓して、亟に師を班さしむ。沂中、瓜州渡より行在に返る。張俊、宣化より建康に歸る。劉錡、釆石より太平州に歸る。宣撫司を罷め、其兵を以て、御前に隷す。師を出す時に遇へば、臨時、旨を取る韓世忠、張俊を以て樞密使となし、岳飛、副使たり。飛世忠、尋いで罷む。兀朮、書を以て、檜に抵して曰南宋-高宗皇帝-八三三 十八史略卷之七合評第二爾朝夕和を以て請ふ、)のと行名南日詩滿試叙しも鑑言のは 然るに、岳飛方に河北の圖をなす、必ず發財)なデ飛を殺せば、乃ち可ならむと。張俊、又飛の罪を構成し、逮して獄難今頗すし、そ の きに赴かしむ。檜、奏して、飛及び張憲岳雲を誅して、和議遂に諧こと〓〓章太后及び黴宗の梓宮を宋に歸す。其所作ひ、金人惟だ盡く許す所の陝西河南の地を悔ゆるのみならず、なほ唐郵等の州を割いて金に入れしめ、淮の中流を盡して界となし、西、商秦の半を割き、和尙、眼雨歇)方山の原を棄てしむ。仰時に、宣撫使吳玠、卒して四年、胡世將、之·に代り、力めて和尙原等の地を以て棄つべからずとなす。兀朮、必了莫路土)少等雲和月ず之を欲す。遂に大散關を以て界となす。閑)年頭均空悲時に、金國、屢ば內叛あり、宗感大臣、切、靖康恥相繼いで誅夷せらる。且認定下さい臣つ、北に蒙兀あり。自ら大蒙と號し、帝と稱し、元と改む。連歲兵ヘ鹹皮發賣活長車蘭山何時を用ゆるも、卒に討つ能はずして之と和し。南侵又逞しうするを得)志飢缺壯餐胡虜肉す。而して、宋の猛將精兵、方に日に盛なり。恢復實に難からず。笑談渴拾待飲舊從匈)秦檜に沮まる。有志の士、扼腕して歎息す。奴血兀朮死せむとするや、收闕山頭河朝天曰く、南朝の軍勢、强きこと甚し、宜しく、益す和好を加へて、十數年を俟つべく、南軍衰老、然る後に、之を圖れと。張浚、趙鼎、皆、遠竄せられ、鼎、海外に卒す。當時、異議の人、貶竄殆んど盡き、復た敢て兵を言ふ者なし。金主亮立つ紹興十九年、金主亶、其下に弑せられ、共に丞相岐王亮を立つ、西紀一、一二九曼の孫なり。南宋-高宗皇帝-八三五 十八史略卷之七八三六紹興二十年。金主亮、上京一隅に僻在するを以て燕京に城づき、燕京析津府を徒つて之に居り、改めて大興府となし、中都と號し、中京會寧府を以て北京となし、汴京開封府を以て南京となし、而して、舊の遼陽府を東京となし、大同府を西京となすこと故の如く、蕃漢の地を分つて十四路となし、總管府を置く。評秦二十五年。秦檜、卒す。檜政を秉ること十八年、終に臨んでに如好泰 大阪 のににを至讀へりみ這邊猶ほ大獄を起し、己に異なる者を殺さむと欲す。張浚、李光、胡寅堪汚穢ず等五十三人。幸に檜病んで、旣に書する能はずして、免るるを得たり沈該、万俟高、湯思退、陳康伯、朱倬、相繼いで相となるM凶問至る。三十一年。欽宗の去年冬を以て、五國城に殂す、年六十。評金主亮の金主亮、汴京を修す。蓋し、南侵を經營すること幾年。嘗て、使静岡べあ絕壯詞山湖移有同里しりす大想第上兵別 )車津田五箇所の來るに因つて、密に畫工を藏し、臨安の山水城市宮室を圖繪して雄一立百提峰馬萬封)以て歸らしめ、詩を其上に題し、馬を立つ吳山の第一峯の句あり。ふ〓橫豪「吳西この秋、徒つて汴に居り、遂に盟を渝へて兵を擧ぐ。其母、諫む。いのを渾とる空之を殺して、以て衆を威す。兵百萬と號す。淮西の諸郡を陷る。江淮浙西制置使劉錡、王權を遣して、敵を迎ふ。權逗留す。旣にしか、て退き、還つて采石に奔る。報至る。中外大に震ひ、海に沈んで敵を避くるの議あり。陳康伯、可かず。葉義問に命じて師を視しむ。中書舍人虞允文、參謀軍事たり。金人、揚州を陷れて瓜州に趨く。南宋-高宗皇帝-八三七 十八史略卷之七〓劉錡、將を遣して、之を早角林に敗る。詔あり、錡をして、軍を還さしめ、專ら江上を防ぐ。金主、采石より渡らむと欲す。朝廷李顯忠を以て、權に代らしむ。然も、未だ至らず。金人の舟來る。虞允文、亟に水軍を督し、海鰍船を以て、迎へ擊つて死闘す。金人渡る能はず。時に、亮內變あるを聞き、又、舟師、海道より來る者は、旣に、李寶に焚かれ、然も、〓鄂の諸軍方に上流よりして下るを聞き、忿ること甚し。乃ち揚州に囘り、諸將を召して約す、三日必ず濟らむ、期を過ぐれば、盡く殺さむと。諸將遂に亮を弑す。亮の引いて南するに方つて、渤海の一軍、叛き去る。旣にして、葛王褒を遼陽に擁立し、亮の死を聞いて、遂に譙京に入り、亶を追諡して閔宗となし、亮を廢して海陵王となし、諡して煬といふ。褻は晟の孫なり。後に雍と改名す。之より先、數年、張浚、嘗て言ふ、金必ず盟を渝へむと。時相湯思退等、大に愕いて、以て狂となす。是に至つて、浚、起つて建康に判たり。上、臨安より建康に如く浚、迎へて謁す。衞士、其復た用ゐらるるを見て、手を以て額とに加ふ。三十二年。上、臨安に還る。金使來る。使を遣して、之に報ぜしな、め、復た和議を尋ぬ。夏、六月上、內禪し、退いて德壽宮に居る、在位三十六年。改元するもの二、曰く、建炎、紹興。皇太子立つ、之を孝宗皇帝となす。南宋-高宗皇帝-八三九 十八史略卷之七、송【孝宗皇帝】初名は伯琮、宗室追封は秀王諡は安僖、子偁の子、太祖七世の孫なり。母張氏、夢に、崔府君、一羊を擁して、來つて曰く之を以て識となせと。高宗の康王たるや、出でて使して、磁州に至る。磁人夢む、崔府君出でて迎ふと。張氏、この歲、丁未を以伯琮を秀州に生む。4て、嘉禾の瑞あり。小字は羊。高宗、太子專を喪ひ、命じて、太祖の後を選ばしむ。伯琮を得て、宮中に鞠ひ、名を瑗と賜ふ。偶ま、崔府君と同じ。音安郡王に封ぜらる。秦檜、其15英明を疾むも、害する能はざるなり。竟に立つて、皇子となり、名を瑋と賜ひ、楚王に封ぜらる。紹興の末、名を春と賜ふ。立てて、皇太子となし、尋いで、詔して位に卽かしむ。上皇を尊奉して、光堯壽聖皇帝といひ、皇后吳氏を壽聖太上皇后となす。史浩を以て右相となし、張浚、樞密使たり、師を淮に督し、遂にある北伐す。浩、其議に與らず、力め丐うて罷む。李顯忠、濠州より出でて、靈壁に趨いて、金兵を敗る。邵宏淵、泗州より出でて、虹縣n.を圍み、金將を降し、進んで宿州に克つ。金の副元帥紇石烈志寧、兵を率ゐて至る。顯忠、共に戰ひ、連日決せず。諜、報ず、金人大に河南の兵を興して、將に至り會せむとすと。宏淵、顯忠と相能くせず、然も、顯忠、又士を犒はず、士憤怨し、遂に潰えて歸る。金人、亦た解いて去る。上、恢復に銳意なるも、此役、利あらず、乃ち復た和を議す。陳康伯、罷む。湯思退、張浚、左右の相とな南宋-孝宗皇帝-〓 十八史略卷之七八四二としみいくばくる。浚、尙ほ都督を以て、師を視る。數月にして罷め、未だ幾なら張浚卒すしゆつしゆんゆるはくしゆかはしうしんわぎずして卒す。浚、國に許すの心、白首まで渝らず、終身、和議を主るめい中原を復し國ちうげんこくちさ評製作所にとせず、遺命して、其二子に付するに、耻を雪ぐ能はの風校舎のせんじんはかさう然れども局ずんぱ、先人の墓に祔葬するを得ずといふを以てす。量狭少たうしたいひそかりよあとげんしや湯思退、密に虜を召し和を議するの跡あり。言者、論じて罷む。ざんかうはくミ之を竄す、道に死す。康伯、復た相たり。和議成る。之より先、國上たいそうくんし書、大宋は大の字を去り、皇帝は皇の字を去り、書は君臣の禮を用さいはいとうきんしいたりつきよざゐ、再拜等の語あり。金使至れば、起立して金主の起居を問ひ、坐くだほうしおのづかはいしんくわんしふくを降つて書を受く。奉使の者は、自ら陪臣に同じく、館使の屬、そのらいしじやうそうくわうてい皆、其來使を拜す。是に至つて、始めて上を稱して宋皇帝となし、たしゆくてつさいこうさいへいかず止だ叔姪の國となし、歲貢を易へて歳幣となし、歳幣は十萬の數をげんちかいせうこうよれいわうつひ減じ、地界は紹興の時の如くす。然も、餘禮は、往々竟に盡く改むしうしんこれいきどほしばしかなんれうしんかたる能はず。上、終身之を憤る。この後、屢ば河南陵寢の地を還し、じゆしよきんじんつひけだふくしう受書の禮を改めむを請ふ。金人、卒に從はず。蓋し、上、復讐に志たすちんかうはくしゆつありと雖も、然も能く其志を輔くる者なし。陳康伯卒せしより後、きようくわつえふぐうきしやうふつちんしゆんけいぐいんぶんれうこくかそうくわいえふ共适葉〓、魏杞、蔣芾陳俊卿、虞允文、梁克家、曾懷、葉かうしかうてうゆうわうわいしうひつだいりうせいあひつしやう衡史浩、趙雄、王淮、周必大、留正、相繼いで相となる。惟だ、しゆんけいいんぶんならびけいえい俊卿、允文、並に相たるの時、北方を經營するの議あり。然も、俊持重して卒にぢちようそのきよたん卿允文と合はず。允文の爲す所、人、亦た其虛誕をつひかうひつ議し、竟に效あらず。浩の如きは、尤も兵を用ゆるを主とせず。必南宋-孝宗皇帝-八四三 十八史略卷之七八四四朱子大は、廟堂に從容として、善類、引進する所多し。朱熹、淳熙十五て、年を以て召さる必大、相たるの時なり。初め、程頤、徽宗の世に卒し、其徒楊時、欽宗、光堯の時に在つて、皆擢んでらる。趙鼎、頤を識るに及ばずと雖も、然も、其學を主張す。之を惡む者、楊時を以て還魂となし、鼎を尊魂となし、胡安國を强魂となす。其後、又、尹焞あり、召されて經筵に入る。焞は、蓋し頤が晩年の高弟な道學り。士大夫、理氏の學を名づけて道學といひ、時好の貴ぶ所、或は此名を冐して以て進み、時好同じからざれば、亦た多く此名を以て世に擠せらる。延平の李侗、學を楊時の門人羅從彥に受く。而しすて、熹又學を伺に受く。胡銓、嘗て、熹を光堯に薦む。熹、至らc.ず。顯道以來、屢ば召せども起たず、特旨、秩を奉祠に改め、召して館に入るれども就かず。後に、南康の守となる。浙東荒る。熹を提擧に除し、往いて之を救はしむ。闕を過ぐるや、嘗て一たび入つて事を奏す。是に至つて、召對して兵部郞に除す。侍郎林稟と合は朱熹封事をず卽ち奉祠して去るさ進む數月、復た召す。熹辭し、唯だ封事を進めて、天下の大本と今日の急務とを言ふ。大本は陛下の心に在り、急務は、太子を輔翼し、大臣を選任し、綱維を振擧し、風俗を變化民力を愛養し、し、軍政を修明す。六者是れなりと。熹の同志に廣bin漢の張栻といふ者あり、魏忠獻公浚の子なり。其學、之を胡宏に得張栻曰く-爲にする所たり。宏は安國の子なり。械の言に曰く、爲にする所あつて爲すも南宋-孝宗皇帝-八四五 十八史略卷之七〓のは利なり、爲にする所なくして爲すものは義なりと。學者、誦し믄た第は一あしすなすものだり、て名言となし、杖を稱して南軒先生といふ。呂祖謙といふ者あり、る所は義なりとて爲すもの公著の五世、希哲の四世の孫なり。亦た程氏の學を祖とす。學者呂東葉稱して東萊先生となす。皆、之に先つこと數年にして卒す。惟だ熹は、學問老いて彌よ篤く、學者、之を師宗し、稱して晦菴先生といふ、四方、其人を仰ぐこと泰山北斗の如し。南使、北に至れば、陸象山金人必ず朱先生安くに在るかを問ふ。同時に臨川の陸九淵、世に象山先生と號する者あり。熹と太極圖說を爭論し、且つ謂ふ、學に悟入ありと。熹が訓解に從事するを議つて、意見頗る異を立つといふ上、久しく子に與ふるの意あり。會ま、光堯皇帝、壽八十二に;して崩ず。乃ち詔して內禪す。上、德壽に奉ずる二十六年、孝養備に至る。旣に升遐して、哀慕尤も切、日に几筵に奉ずるを得ざるを以て、退いて、喪制を終らむと欲し、移つて重華宮に居る。在位二十八年。金の世宗雍、此歲を以て殂す。其嗣允恭、先つて卒す。雍在位二十孫環立つ雍賢明仁恕、號して、北方の小堯舜となす。故に金の九年西一紀自-六至大定三十年、宋の隆興、乾道、淳熙と相終始し、九南北、皆、休息を得、彼此乘ずべきの釁なく、上の志を齎して、大に爲すある能はざるもの、此を以てなり。太子立つ、之を光宗皇帝となす。【光宗皇帝】名は惇、年四十四、東宮より禪を受く。太上皇帝を尊南宋-孝宗皇帝-光宗皇帝-八四七 十八史略卷之七八四八んで、至尊壽皇聖帝となす。周必大、罷む。留正、葛邲、左右の相となる。改元して紹熙といふ。皇后李氏は、大將李道の女なり。悍にして妬、亟ば太子嘉王を立てて儲嗣となさむと欲し、內宴に因つさて、壽皇に請ふ。許さず。后不遜、壽皇怒語あり、后、之を街み、き)乃ち誣罔を造り、壽皇廢立の意ありといふ。上、驚恐して疑疾を得るを致す。後宮、暴死の者あるを聞くに及びて、上、震懼す。疾愈よ甚しく、復た重華宮を過ぎず、兩載に近くして、始めて、一たび至る。壽皇、彌よ懌ばず、上、亦た疾を視ること能はず、壽皇、重華に居て、五歲を踰え、壽六十八にして崩ず。上、喪を執る能はず、一日忽ち地に仆る。中外危懼す。太皇太后、嘉王を立つ、之を寧宗皇帝となす。【寧宗皇帝】名は擴、初め嘉王に封ぜらる。孝宗崩じ、光宗疾病趙汝愚なり知樞密院事趙汝愚、密に翼戴の議を建て、憲聖慈烈吳太皇太后、宗社を以て憂となすを知り、將に事を白せむとして、其人を難んず。知閣門事韓侂胄といふ者あり、鋳の會孫にして、太皇の女弟の子なり。因つて、入つて白す。太皇簾を垂れて、嘉王を引き、入つて位に卽かしめ、代つて高宗の喪を執らしむ。中外危疑する者、乃ち定まる。光宗、壽康宮に居り、後六年にして崩ず、壽五十四。上の嘉王たるや、黃裳、翊善たり、講說開導す。光宗、嘗て宣諭してす曰く、嘉王、學に進むは、皆、卿の力なり。裳曰く、若し德に進み南宋-寧宗皇帝-ニ元 十八史略卷之七八五〇業を修め古先哲王に追蹤せむと欲せば、須らく、天下第一の人を尋ねて、乃ち可なるべしと。誰となすを問ふや、朱熹を以て對ふ。彭龜年、繼いで、宮僚となり、講に因つて、毎に熹の說に及ぶ。上心を傾くること、旣に久し。烹光宗の時に在つて、漳州に守た り、後、潭州に守たり、湖南安撫となる上の登極に至つて、首として、召されて、待制兼侍講に除せらる。素、未だ至らず、旣に近習事を用ゐ御筆指揮して、皆漸あるを聞き、深く之を憂ふ留正部活鱼功あるを負んで、不罷む、汝愚、相となる。韓侂冑、自ら定策の次の賞を希ふ。汝愚、肯て驟に除せず、遂に怨む。汝愚、政を爲す、方に務めて、善類を引進し、僥倖を裁抑す、小人滋す悅ばず、相與に共に之を排す。朱熹、旣に至る。上疏して、侘冑に忤ふ、朝に在ること、四十六日にして罷む。言者、以爲へらく、熹、宮祠の命ありと遠近相弔ひ、天下の大老、之を去らば、誰か去るを欲せざらせいじんこと〓〓む、若し正人盡く去らば、何を以て國を爲めむと。汝愚、袖よりF內批を還して、且つ諫め、且つ拜すれども、聽かず。侘胄、併せにて、汝愚を逐はむと欲す。然も其名を難かる、或ひと、之に〓へて曰く、彼は宗姓、誣ふるに、社稷を危うするを以てせば、一網にして盡きむと。侘胄、之を然りとす。汝愚、相位に在ること、數月불にして罷め、しきりに貶竄せられ、藥を服して死す。侘冑、李沐、こ;何澹、劉德秀、胡紘、沈繼相等を用ゐて、鷹犬となし、善類を摶擊南宋-寧宗皇帝-八五一 十八史略卷之七八五二のこはうきねんりうくわうそしやうえいえふてきぢよぎちんいうかいごして遺すなく、彭龜年劉光祖、章穎、葉適、徐誼、沈有開、吳れふくわういうくわたとうじつふりやうろうやくていしよくりしやうやうかんりよそ獵黃由、黃度、鄧驅、陳傅良、樓鑰、鄭湜、李祥楊簡、呂祖けんそうないうちうこうこあんせいそんげんとくゑんせうちんぶわうきはんちうほ儉曾三聘、游仲鴻、項安世、孫元德、袁變、陳武、汪達、范仲黼、くわうかうせんたいじんらへんちくあたうじんせきき黃瀬、詹體仁等貶逐、勝げて紀すべからず。黨人の姓名を籍記ぎがくしゆきしゆし、目して僞學といひ、朱熹を以て首となし、籍に在る者數十人。さいげんていきるゐざだうしうへんくわんだいがくせいやうくわうちうら蔡元定、熹の累に坐して、道州に編管せられ、大學生楊宏中等六にんじやうしよたうじんりうせい人亦た上書して黨人を救ふに坐して編管せらる。留正、嘗て黨いんようちゆつざんゆたんれいけいしやしんほあひ人を引用するを以て、亦た黝竄せらる。俞端禮京鐘、謝深甫、相しやう繼いで、相となるしゆきけいげんかうしんおくたうきんげん慶元庚申を以て卒す。わい朱熹卒す朱熹、時に僞學の黨禁、嚴なりと雖も、會さうりよそたいぎがくこ葬する者、亦た數千人。呂祖泰、上書して、僞學を雪ぐを論じ、乞たくちうおよそのたうそしたんしノろんちんじきやうとひちきしうひつうて侘胄及び其黨蘇師旦、周筠を誅し、陳自强の徒を罷逐し、周必大を召用せうようまさはハせむを乞ひ、然らざれば、事、將に測られざらむとすといちうぐわいおほいおどろめんきんしうまふ書出づ。中外大に駭く。杖一百、面を刺さずして欽州に配せざたくかうき55らる。必大、亦た坐して、謫降せらる。熹沒して、年を踰えて、たうきんさみづかせうしよ黨禁稍や解く。諸人、或は官を復し、自ら便にす。然れども、消へんくわよふうごくくづ變化の餘、風俗、既に大に壞る。しやしんほちんじきやうたくちうたいしへいげんぐんわう謝深甫、罷む。陳自强、相となる。侂冑、太師平原郡王を以て、ぐんこくへいしやうけんかたむせいふくぎよじようよ軍國の事を平章し、權人主を傾け、威上下を制し、服御、乘輿土木、どきんえんおごしやおんしゆせいしやうに擬し、禁苑より修り、諛者、稱して、恩主聖相となすに至南宋-寧宗皇帝-八五三 十八史略卷之七八五四る。或は、詩九章を作り、每章、一の錫字を用ゆ。侘冑、亦た辭せず。罪惡を稔積し、事を生じ、邊を開くに至つて極まる。之より先蒙古部帝と蒙古部あり、北方に興る。金の世宗の時に在つて、既に强盛帝と稱す稱す。環の立つに至つて、蒙古の兵、來つて、便ち長驅す。金、始めて多事。侂胄、金、この釁あるを聞き、謂ふ、中原圖るべしと。と吳曦といふ者あり、前の蜀帥吳挺の子、璘の孫なり。吳氏、世、西せいしよく陲に職とし、威西蜀に行はる。其子孫を京に留む、蓋し、累朝遠慮曦、異志あること久し。蜀に歸らむと欲するも、得べからず。侘胄、歸らしむる數年、蓋し、西蜀をして兵を出さしめむと欲す。開禧二年、丙寅。金を伐つの詔を以て、四方諸路に〓げて、師を進む。曦、首として、關外四州を以て金に獻じ、封を求めて、蜀主となる。尋いで、卽ち、帝と稱す。李好義、楊巨源が安丙と密に謀るに賴つて、曦、僭號すること、月を踰えて誅せらる。を元の太祖成この歲、元の太祖、斡難河の源に卽位す。太祖、姓は奇渥溫氏、吉思OK〓紀位十番諱は鐵木眞、蒙古部の人なり。其先世、蒙古の部長たり。太祖の父リ一二。なに至つて也速該といひ、始めて、諸部落を併呑し、愈よ强大、後、追謚して烈祖神元皇帝といふ。初め、神元、塔塔兒部を征し、其部長鐵木眞を得たり。宣懿后月倫、適ま太祖を生む、手に凝血を握る、赤石の如し。神元、之を異とす。因つて、獲る所の鐵木眞を以て、之に名づく、武功を志るすなり。元年、大に諸王群臣を會し、南宋-寧宗皇帝-八五五 十八史略卷之七八五六九游の白旗を建てて位に卽く。群臣、共に尊號を上つて、成吉思汗といふ、時に金の章宗泰和六年なり。丁卯、開禧三年時に、北伐諸軍の向ふ所、潰散して、退かざるしよくかんけいじやうりやうわいしよぐんはなし。金人、大に兵を發し、しきりに蜀漢〓襄兩淮諸郡を陷る。東南、大に震ふ。亟に使を遣して、金に通謝せしむ。而して、侂胄、兵を弄するの意、猶は未だ已まず。中外之を患ひ、遂に兇を誅するの議あり。皇后楊氏、書史を知り、古今に通ず。當時、侍郞史彌遠、密策を建つ。而して、旨、中より出づる者、皆、后、實に之を爲す、一日、侘胄、入朝す。彌遠、殿帥夏震をして、兵を以て、之を塗に邀へしめ、擁して、玉津園に出で、之を推殺す。之より先、元の太祖西夏を征し、力吉里塞を拔いて還り、この秋に至つて、再び之を征す。と皮氏、嘉定元年。陳自强、竄死し、蘇師旦、斬に處し、周筠、決ほ配せらる。侘胄の首を凾して金に謝し、和議、復た成る。錢象祖、相となり史彌遠、累遷して、象祖と並び相たり。象祖、罷む。彌遠、獨り相たり。金の章宗環在位二十年にして殂す。子なし。世宗の別子允濟を立つ環に於て叔たり。己巳、嘉定二年。春、元の太祖、河西に入り、屢ば西夏の兵を破る。夏主李安全、女を納れて和を請ふ。南宋-寧宗皇帝-八五七 十八史略卷之七粂庚午、嘉定三年。金、元を討つを謀り、烏沙堡を築く。太祖、將を遣し、襲うて其衆を殺し、遂に地を略して東す。初め、太祖、歲へこ幣を金に貢す。金主、衞王允濟をして貢を靜州に受けしむ。太祖、允濟を見て禮を爲さず、允濟怒り、歸つて兵を請うて、之を攻めむと欲す。金主環の殂するに會し、允濟、位を嗣ぐ。詔あり、國に至り、傳言して拜すべしといふ。太祖、金使に問うて曰く、新君は誰とかなす。曰く、衞王なりと。太祖、遽に南に唾して曰く、我、謂ふ、中原の皇帝は、是れ天上の人と做すと。此等も亦た之を爲すか。何を以て拜するを爲さむと。卽ち馬に策つて去る。金使、還つて言ふ。允濟、益す怒り、太祖の再び入貢するを俟つて、之を害せむと欲す。太祖、之を知り、遂に金と絕つ。辛未、嘉定四年春、元の太祖南侵し、金兵を敗り、群牧監を襲ひ、其馬を驅つて還る。之より、連歲、金の州郡を攻取す。癸酉、嘉定六年。金主衞王允濟、在位五年、歲として兵を受けざきるはなく、幾んど、支ふる能はず、且つ將士の心を失ひ、大將に弑せらる。追廢して、東海郡侯となし、豐王洵を立つ、環の兄なり、之を宣宗となす。太祖、兵を三道に分つて、並び進んで燕南、山東、河北の五十餘郡を取る。甲戌、嘉定七年。元の太祖、蹕を燕北に駐む。金主、岐國公主及び童男女五百、馬三千と金帛とを、以獻して、和を乞ふ。許さるる南宋-寧宗皇帝-八五九 十八史略卷之七八六〇と雖も、燕に自立する能はざるを度り、五月、汴に遷り、丞相完た顏福興を留めて、太子守忠を輔けて、燕に居らしむ。太祖、兵を遣して、之を圍む。守忠、汴に走る。後、一年にして、燕京陷る。元兵、河東より河を渡つて南し、汁を距ること二十里にして去る。金人、之より、地勢益す蹙まり、山東、之に叛き、東は河を阻て、西は潼關を阻つるのみ。宋の川蜀淮漢を窺ひ、以て自ら廣めむと欲し、遂に盟を敗つて來侵す。宋、黄榜を以て、忠義の人を募り、進け、芝んで、京東路を討つ忠義李全、歲の戊寅を以て、衆を率ゐて來歸ぶす。全は、もと漣水縣の弓手、開禧乙丑の間に在つて、旣に、嘗て、募に應じて、其縣を焚く。木華黎丁丑、嘉定十年。元、木華黎を以て太師となし、國王に封じ、諸軍を率ゐて南征し、大名府、定、益、都溜、策等の州に克つ。戊寅、嘉定十一年。元の木華黎西京より河東に入り、太原、平た世界中陽及び忻、代、澤、溶等の州に克つ、この歲、西夏を伐つて、其王城を圍む。夏王李遵項、西京に走る。高麗王暾、元に降り、歲貢方物を請ふ。己卯、嘉定十二年。西域、元の使者を殺す。太祖、親征す。庚辰、嘉定十三年。元の木華黎、地を徇へて、眞定に至り、又河北諸郡を徇ふ。壬午、嘉定十五年。元の太子拖雷、西域の諸城に克ち、遂に太祖南宋-寧宗皇帝-八六一 十八史略卷之七八六二と會す。秋金主、復た使を遣して和を請ふ。太祖、時に囘鴨國に在り。之に謂つて曰く、我、さきに汝の主に令して、我に河朔の地を授け、汝の主をして、河南王となし、彼此兵を罷めむとす。汝のこと〓〓主、從はず。今、木華黎旣に盡く之を取る。乃ち始めて來り請ふやと。遂に許さず。癸未、嘉定十六年。春三月、元の太師魯國王木華黎卒す。五月、元、始めて、達魯花赤を置いて、郡縣を監治せしむ。金の章宗殉、在位十二年にして殂す。子守〓、立つ、之を哀宗yとなす。と甲申、嘉定十七年。元の太祖、東印度に至り、鐵門關に駐まる一獸あり、鹿形馬尾、綠色にして一角、能く人言を作す。侍衞の者耶律楚材に謂つて曰く、汝の主、宜しく早く還るべしと。太祖、以て耶律楚材に問ふ。曰く、この獸は、角端と名づけ、能く四方の語を言ふ生を好んで、殺を惡む。是れ、天、符を降し、以て陛下に〓ぐ。願はくは、天心を承けて、この數國の人命を宥せよと。太祖、卽日師を班す。歲の丁丑より以後、宋、金と戰ひ、迭に勝敗ありと雖も、然も三邊、歲として、其擾を被らざるなし。上、在位三十年、改元する者四謙恭仁儉、終始一の如し。然れども、慶元、嘉泰、開禧、凡そ十三年は侂冑の政、嘉定十七年は彌遠の政なり。壽五十七にして南宋-寧宗皇帝-八六三 十八史略卷之七八六四崩ず。彌遠、定策して嗣を立つ、之を理宗皇帝となす。【理宗皇帝】初名は與莒、宗室追封は榮王、證は文恭、希瓐の子、,太宗十世の孫なり。寧宗、子多けれども育せず、宗室の子を鞠ふ、名は詢、立てて太子となす。薨ず。初め、皇從弟沂の靖惠王柄、子なし。嘗て、宗室の子を以て、名を貴和と賜うて、之が後となす。太子詢を失ふに及び、遂に貴和を立てて皇子となし、名を竝と賜ひ濟國公に封ず。竑慧にして輕、嘗て史彌遠の權を專にするを5く美食の日異日容すべからずと謂ふ。彌遠、聞いて、之を惡む。故に陰に之が計をなす與莒、幼にして弄を好まず、群兒聚嬉、輒ち獨り高きに登り、坐して動かず。長上、見る者、指して以て群兒に語つて曰く、汝曹、この人に效はざるか、恰も一大王に相似たりと。群兒、毎に其下に羅拜す、遂に趙大王の號あり。彌遠、物色して之を得たり。嘗て、取つて、擧に應じ得たり。特旨、官に補す。竑上旣に寧宗の子となる、遂に與莒を以て沂王の後となし、名を貴誠とる)賜ひ、郡州防禦使に除せらる。寧宗大漸、乃ち中宮に白し、貴誠を以て皇子となし、昀と改名し、遺詔を宣べて、位に卽かしめ、竑を濟陽郡王に進め、出でて寧國府に判たらしむ。恭聖仁烈楊后、同じく政を聽く。事定まつて、然る後に、簾を撤す。乙酉、寶應元年時に、外議籍籍、亂を作し竑を立てむと謀る者李全、あり。事克たずして、皆死す。楚州に在り、制置許國と相失南宋-理宗皇帝-八六五 十八史略卷之七〓す。國を殺し、亦た問罪を以て辭となし、兵を擧げて南向し、揚州を圍み、幾んど陷る。丙戌、寶慶二年。元の太祖、西夏を伐つて、甘肅等の州を取り、遂に沙陀を踰えて、黄河九渡に至る。丁亥、寶慶三年。元、夏を滅し、夏主李睨を以て歸る。祖殂七月、元の太祖、六盤山に殂す。一す元二時の二に太殂するに臨んで、左右に謂つて七西紀曰く、金の精兵、潼關に在り、南は連山に據り、北は太河を限る。以て遽に破り難し。道を宋に假るに若くはなし。宋金は世讐、必ず能く我に許さむ。乃ち、兵を唐郵に下し、直に汴京を擣け汴、急なれば、必ず兵を潼關に徵さむ。然れども、數萬の衆を以て、千里赴き援くれば、人馬疲弊、至ると雖も戰ふ能はず、之を破ること必せりと。言訖つて殂す。在位二十二年。壽六十六。起輦谷に葬る。至元二年冬、追謚して、聖武皇帝といひ、廟を太祖と號す。太祖深沈にして大略あり、兵を用ゆること神の如し。故に能く國を滅すること四十。其動績甚だ衆し。史の紀載、備はらず、惜い哉。太祖旣に崩ず。皇子窩濶台、霍博の地に留まる。國事屬する所なし。皇子拖雷、國を監し、以て皇太子の至るを俟つて、之を立つ。越えて二年、皇太子、始めて立つ、之を太宗となす。己丑、紹定二年。元の太宗、名は窩濶台、太祖の第三子。母を光獻皇后弘吉刺氏といふ。是歲夏、喪に奔り、忽魯班雪不只の地に至南宋-理宗皇帝-八六七 十八史略卷之七癸る。皇弟拖雷、來り見え、大に諸王百官を會し、太祖の遺詔を以て位に卽かしむ。始めて、朝儀を立て、皇族尊屬、皆、班に就いて、以て拜す。元、始めて倉廩を置き、驛を立て、命を傳ふ。庚寅、紹定三年。元、兵を遣して、京兆を取る。七月、太宗、自ら將として金を伐つ。皇弟拖雷、姪蒙哥、師を率ゐて從ふ。辛卯、紹定四年。春、趙范、趙葵、大に李全を揚州城下に敗る。時に、上元燈を張るに屬し、全、平山堂に置酒高會す。城中謀して知り、夜、兵を遣して、其不意に出でて、之を劫す。全走つて濠た、に陷り、亂槍に斃さる。其餘は、奔走して逃げ去る。二月、元の太宗、鳳翔に克ち、洛陽、河中の諸城を攻めて、之を下す。五月、元、使を遣し、來つて、道を假る。宋、之を殺す。八月、元、始めて、中書省を立て、從官の名を改め、耶律楚材を以て、中書令となし、粘合重山、左丞相となり、鎭海、右丞相となる十二月、元の太宗、河中を取る。太弟拖雷、騎六萬を發し、兵を分つて、西、和州より興元に入り、金房より襄陽に道して唐郵に至り、金人と陽翟に鏖戰す。潼藍の戍、亦た潰え、西兵、畢く至り、汁を合圍す。壬辰、紹定五年。元の太宗、白坡より河を渡つて、鄭州に次し、南宋-理宗皇帝-八六九 十八史略卷之七八七〇釣州を攻めて、之に克ち、遂に商、號嵩汝等を取る。十四年、速不臺をして、金の汁京を圍ましむ。金主、其弟訛可をして、入とつて質たらしむ。太宗還り、速不臺を留めて、河南を守らしむ。八月、金兵、汁を救ふ。諸軍、共に戰つて、之を破る。九月、太弟拖雷、師に卒す。金主守緒、圍を突いて出で、歸德府に走る。元、再び王鐵を使とし、來つて、夾攻して金を伐つを議せしむ。京湖制置使史嵩之、以聞す。朝臣、皆、以爲へらく、復讎の擧、遂はなは、ぐべしと。趙范、喜ばずして曰く、宣和海上の盟、其初、甚だ堅し、以て禍を取るに及ぶ。鑑みざるべからずと。帝、從はず、嵩之に詔し、使に報じて、之を許す。嵩之、乃ち鄒伸之を遣して、報謝せしめ、且つ汁京を夾攻するを議す。元人、成功を俟つて、河南のか、地を以て宋に歸すを許す。룬癸己、紹定六年。金主、歸德に奔る。粮絕ゆ。乃ち蔡州に趨る。其將崔立、汴京を以て、元に降る。四月、元の速不臺、進んで靑城に至る。崔立、金の太后王氏、皇后徒單氏、〓王從恪等を以て、軍に至る。速不臺、北に送り還さしむ。元孔子五十世の孫元楷を以て、衍聖公に襲封し、孔子廟及び渾天儀を整修す。宋の丞相史彌遠、卒す。鄭〓之、相となり、史嵩之、京湖の制帥となつて、襄陽に在り。南北、蔡州を夾攻するの約あり。嵩之、南宋-理宗皇帝-仝 十八史略卷之七八七二孟洪を遣し、兵四萬人を以て、先づ至つて、其東南を圍ましむ、元び兵、其西北を圍む。甲午、端平元年正月、金主守〓、位を宗室の子承麟に傳ふ。宋の孟洪、蔡州に入る。元師、之に從ふ。守〓、自經して死す。其首を函して、宋に送り、承麟を得て、之を殺す。金は、完顏旻、帝と稱してより、是に至るまで、九世、一百一十七年にして亡ぶ。四西て十金亡七九りーぶ年世に一にし百時夏四月、金の俘を太廟に獻ず。會ま淮帥趙范、趙葵、金人の亡びな紀二三しに乘じて、恢復の計をなす。朝臣多く、以て未だ可ならずとなす。獨り、鄭〓之、力めて、其說を主とす。帝、乃ち范に命じ、移つて、黃州を司らしめ、日を熟して、兵を進む。范の參議官丘岳12曰く、方に興るの敵、新に盟つて退く。氣盛に鋒銳なり。、寧んぞ肯て得る所を捐てて、以て人に與へむや。我が師、若し往けば、彼必ず突至せむ。惟だ進退據を失ふのみならず、釁を開き、兵を致すは必ず此より始まらむ。且つ千里長驅、以て空城を爭ふ之を得れば、當に饋餉を勤むべく、後、必ず之を悔いむと、范聽かず。史嵩之、亦た言ふ〓襄方に爾く饑饉す、未だ師を興すべからずと。が故の〓湖制師趙方の子、杜杲、亦た出師の害を陳ず。范葵は、兵に習ひ、攻取に銳意に、山東の忠義を募るに、皆、響應す。伸之、未ん、だ囘らず、然も、宋師出づ。伸之等、幾んど燕に覊留せられ、詭辭して鐵と倶に來るを得たり。撒曰く、何すれぞ盟を敗るやと。之よ南宋-理宗皇帝-八七三 十八史略卷之七八七四り、淮漢の間、寧日なし。數日ならずして、汴人、城を以て、宋に附き、宋師、汴に入り、卽ち洛に趨く。元兵、洛を成る者、幾もなくして、しばらく避け去る。宋師、洛に入り、數日ならずして粮元の生兵の大に至らむとするを聞いて、絕ゆ。潰えて歸り、嵩之があ、和を主として、肯て粮を運せず、事を誤るを致すを咎む。乙未、端平二年。春、元和林に城づき、萬安宮を作る。諸王拔都太子貴由、姪蒙哥を遣して、西域を征し、太子闊端は蜀漢を侵太子曲出及び胡士虎は宋を侵し、し唐吉は高麗を征す。之を行ふ。p丙申、端平三年。元、交鈔を印造して、耶律楚材、請うて、燕京に於て編修所を立て、平陽に於て經籍所を立て、經史を編集し、儒生梁陟を召して、長官に充て、王萬慶、趙著を以て之にさ副とす。秋闊端、宋の關外の數州を取り、十月、成都に入り、秦鞏等四十餘州を取る。時に、和議旣に復た諧はず、蜀、遂に破陷し、〓襄淮甸、歲として攻哨を受けざるはなし。元、耶律楚材の言を以て、始めて、天下の賦稅を定め、上田は、毎畝に稅三升、中田は二升半、下田は二升、水田は一畝に五升、商稅は三十分の一五戶に絲一斤を出さしめ、以て諸王功臣湯沐の賜に供す。鹽は銀一兩每に四十斤、永く定額となす。朝臣、皆、甚だす輕しといふ。耶律楚材曰く、將來必ず利を以て進む者あらむ、乃南宋-理宗皇帝-八七五 十八史略卷之七〓ち、旣に重しとなすと。丁酉、嘉熙元年、經筵に詔して、朱熹の通鑑綱目を進講せしむ。八月、元、諸路の儒士を試む。選に中る者、本貫議事の官に除して、四千三十人を得たり。元兵、地を略して、黃州に至る。宋の孟洪之を敗る。嘉熙二年。戊戌、之より先、杜杲、元人の安豐の兵を却け、復た察罕八十萬の兵を盧州に敗る。後、儀眞の圍を解く。功を以て、權に刑部尙書たらしめ、復た敷文閣學士に進む。わ、呂文德呂文德、兩淮出戰の軍馬を總統し、淮西招撫使に進む。文德は安豐の人、魁梧勇悍、微時、薪を城中に鬻ぐ趙師葵、道傍に遺腰の長さ尺有咫なるを見て驚訝し、訪求して、之を得たり。之を麾下に留む後、邊功を以て、顯官に至る。元の塔思の軍北峽關に至る宋將汪統制、降る。之より先、曲しゆつて宋の孟洪出張柔等を率ゐ、郢州を攻めて之を拔く。是に至つ復た襄陽を取る。元の領中書行省楊惟中、太極書院を燕京に建て、趙復を延いて師となす。時に、〓溪周子の學、未だ河朔に至らず、惟中、師を蜀湖京漢に用ゐて、名士數十人を得、始めて、其道の粹なるを知り、乃ち伊洛の諸書を收集し、載せて、燕京に送る。師の還るに及びて、註六子は程遂に大極書院及び周子の祠を建て、二程張楊游朱の六子を以て配食南宋-理宗皇帝-八七七 十八史略卷之七八七八かさく子兄弟、せしむ。之に由つて、河朔、始めて道學を知る。載)楊時、最かうしたいしいうせいゐき游酢なり朱熹庚子、嘉熙四年。春元の太子貴由、西域の未だ下らざる諸部にちよくつぐな克つ。元、州郡に敕し、盜を失うて獲ざれば、官物を以て之を償はこくしよきよしよほんろしむ。國初、盜多し。令を下し、凡そ盜の去處を失すれば、本路のみんこばうめい民戶をして、代つて償はしむ。民、之を苦んで、多く亡命す。是にちようくわいこつかとし至つて、徵を罷む。又、官民、囘鶻の金銀を貸り、之を償ふ者、歲かはい羊羔利といふわう〓〓ち羊羔利の弊に加倍し、之を往々、家を破り、妻子を以て質となりつそざいこと〓すに至るも、終に償ふ能はず。耶律楚材、請うて、悉く官物を以てかへていよかたいとしひさ代へて還さしむ。凡そ七萬六千錠。仍つて令す、凡そ、假貸、歲久しほんあひひとしやちよしきも、惟だ子本相伴うして止むと。著して令となす。しんちうじゆんいうぐわうねんしうじゆんいぢよなんはくちやうさいびはく辛丑、淳祐元年。宋、詔して、周敦頤を汝南伯に、張載を郿伯ていかうかなんはくていいやうはくしゆきこくこうつひほうに、程顎を河南伯に、程頤を伊陽伯に、朱熹を徽國公に追封し、並べうていじうしわうあんせきじうししりぞえっに孔子の廟庭に從祀し、王安石の從祀を黜く。帝、孔子に謁し、遂のぞに大學に臨む。れふくわてつここらんき元の太宗殂十一月、元の太宗出でて獵し、銚鐵鐸胡蘭に殂す。年五十六。起すれんこくはうむつひしえいぶんくわうていべう輦谷に葬る。後、追謚して、英文皇帝といひ、廟を太宗と號す。太くわんこうりやうじんじよはかはかきよくわじ宗、寬弘の量、仁恕の心より、時を量り、物を度り、擧に過事なくわかいんふしよみんげふかうりよりやうもたらちいく華夏殷富、諸民業を樂み、行旅糧を齎さず、時に治平と稱す。くわうごうばしんしてうのぞせい元は、太宗殂してより後、皇后馬眞氏、朝に臨んで制を稱すること凡そ五年、君を立てず。南宋-理宗皇帝-発 十八史略卷之七八八〇甲辰淳祐四年。之より先、鄭〓之、相を罷め、喬行簡、李宗勉等、繼いで、政をなす、決斷する所なし。上、史嵩之の言を思ひ、督府より入らしめて、相となす。和を議せむと欲すと雖も、輒ち衆論に沮まる。嵩之、父彌遠の憂に丁る。訃を聞いて、數日にして、乃ち行く。詔して、起復して相となす。言者、目して權姦となし、力めて、之を攻む、遂に復た相たらず。范鍾、游侶、鄭〓之、射方叔吳潛、董槐、程元鳳、丁大全等、相繼いで、相となり、每歲、每歲防秋を以て常事と防秋を以て常事となす。す元の中書令耶律楚材、卒す。后嘗て儲嗣の事を以て、楚材に問ニふ、對へて曰く、是れ外臣の敢て知る所に非ず、自ら太宗遺詔の在るあり、守つて之を行はば、社稷の幸なりと。后、嘗て、御寶の空紙を以て、幸臣奧都刺合蠻に付し、自ら書塡して、之を行はしむ。楚材、天下は先帝の天下、評奏して曰く、朝廷自ら憲章あり。今、はる英文耶加備忠之を紊さむと欲す。臣敢て詔を奉ぜずと。事、遂に止む。復た旨あ眞一る貞國にり凡そ奧都刺合蠻の奏〓する所にして、令史之が爲に書せざる者の·せんていこと〓〓貫すは、其手を斷てと。楚材曰く、軍國の事、先帝悉く老臣に委す。皇后)にし祚をぜ元ふ稷る狄安きべの數仁んて令史、何ぞ與らむ。事、若し理に合はば、自ら當に奉行すべし。し臣等傑とい社若し行ふべからざれば、死、且つ避けず。況んや手を斷つをやと。后、其先朝の動舊なるを以て、曲げて、敬憚を加ふ楚材、天資英ま·邁負かに人表に出づ。案牘、前に滿つと雖も、酬答、其宜しきを南宋-理宗皇帝-스 十八史略卷之七仝失はず。色を正しうして、朝に立ち、勢の爲に屈せず。身を以て天下に徇ぜむと欲し、毎に國家の利病、生民の休戚を陳べて、辭色ミ懇切なり。太宗、嘗て曰く、汝、又、百姓の爲に哭せむと欲するかぎと。楚材、毎に言ふ、一利を興すは一害を除くに若かず、一事を生んは一若害を得を興除すずるは一事を減ずるに若かずと。平居、妄りに言笑せず、士人に接ずる一一生若をずするに及んで、溫恭の容、外に溢る。其德に感ぜざるなし。減ずるにかず元の便宜總帥汪世顯、卒す。世顯、兵を善くして、能く將たり。儒を重んじ、民を愛し、勤儉にして自ら持す、古名將の風あり。丙午、淳祐六年元の定宗、速蔑禿都に卽位す。定宗名は貴由、太宗の長子なり。母を六皇后といふ、乃ち馬眞氏。初め、太宗旨あり、皇孫失烈門を以て嗣となす。殂するに及んで后、朝に臨み、制を稱するもの五年、乃ち議して定宗を立つ。戊申、淳祐八年。元の定宗、戶位三年にして殂す。壽四十三。起輦谷に葬る。簡平皇帝と追諡す。元は、馬眞氏、朝に臨んでより以來、法制一ならず、內外心を離女主事を誤る。定宗、旣に殂し、皇后海迷失、子失烈門を抱き、簾を垂れて政後二年、を聽く。諸王大臣服せず。共に議して、太弟蒙哥を立つ。之を憲宗となす、卽位す。辛亥、淳祐十一年。元の憲宗、名は蒙哥、太祖の第四子拖雷の長子なり。之より先、諸大臣、届出の子失烈門を奉ぜむと欲す。久し南宋-理宗皇帝-八三 十八史略卷之七八八四こつらうかふたいおもうして、決せず。是に至つて、兀良哈歹、以へらく、太祖の諸孫、たけんそうけんしんくわつてうこつあらん惟だ憲宗のみ、謙愼、宜しく立つべしと。遂に大に濶帖兀阿蘭の地しつれつもんに會して、位に卽かしむ。失烈門、服せず。憲宗、因つて、諸王のいどうきびしゆばうしやちうい異同ある者を察して、並に之を覊靡し、主謀者を取つて、之を誅夷す。之に因つて、始めて定まる。よかいこうげんやぶ余玠、大に元人を興に敗る。たいていくびらいめいまうこかんちみんこそうち忽必烈元の憲宗、太弟忽必烈に命じて蒙古漢地民戶の事を總治せしめ、きんれんせんえうすうもん姚樞府を金蓮川に開く。之より先、姚樞、蘇門に陰居し、道を以て自らえんすういたそうめいふせいしゆつ任ず。太弟、之を召す。樞至る。太弟の聰明にして、オ、不世出、おのれむな己を虛しうして言を受け、將に大に爲すあらむとするを見て、乃ちそのへいじつまな(しよすう(たてまつはじめ其平日に學ぶ所を盡し、書數千言を爲つて、之を上る。首に二帝、がくなもとちじよちこくへいてんかたいけいる三王、學を爲すの本、治を爲すの序と治國平天下の大經を以て、彙るくしうしんりよくがくそんけんしんゐてんあいみんかうして八目となす。曰く修身、力學尊賢、親親畏天、愛民、好ぜんゑんねいじせいへいでうほんまつけんがいさいだい善,遠侫。次に、時政の弊に及び、條三十となし、本末兼該、細大の、たいていはなはうご遺さず。太弟太だ其才を奇とし、動けば必ず詢はる。してんたくてうへきかなんけいりやくし史天澤元、史天澤、趙壁を以て河南經略使となす。じんしていそうしつれつもんえふじやうことあら壬子、淳祐十二年。元の定宗の后及び失烈門の母、厭禮、事覺はほつだつせきれしを以て、死を賜ひ、失烈門及び其黨を沒脫赤の地に謫す。どうせいくわん六月、元の憲宗、中州の漢地を以て同姓を封ず。太弟、汴京、關ちうえらえうすういはかうつつね中に於て、自ら其一を擇ぶ。姚樞曰く、南京は、河徒つて常なく、南宋-理宗皇帝-八八五 十八史略卷之七公式つちうすみづあさしやろこれ土薄く、水淺く、潟鹵之に生ず。關中に若かず。其田、上の上、古てんふりくかいつひしへより、天府陸海と名づくと。太弟、遂に關中を請ふ。之に由つくわんちうかなんて、太弟、關中、河南の地を有す。きちうはういうぐわんねんしせんせいちしよかいよくわいしせんせん余玠卒す癸丑、寶祐元年四川の制置使余玠、卒す。余晦を以て、四川宣ゆし諭使となす。くびらいだいりこく元の忽必烈、大理國を平らぐ。かふいんよくわい世大正しこんふそう甲寅、寶祐二年。時に、余晦、四川に宣撫たり。私恨を以て誣奏りろあんぶわうゐちうだいりちんたいはうむねす、利路安撫王惟忠、ひそかに北境に通ずと。大理の陳大方、旨をたんせいゐちうまさしきいろへん承けて、之を鍛成す。惟忠、將に市に斬られむとするや、色變ぜず、たいはういうつたちぎやく大方に謂つて曰く、吾、死せば、天に訴へむと。旣に斬るや、血逆りうのぼいまいくばくたいはうにふてうくわうこつるちう流して上る。未だ幾ならずして、大方入朝し、恍惚として、惟忠とかんはうだいがしよくをさ還り、遂に卒す。之より先、朝廷、彭大雅を用ゐて蜀を理めしむ。ゐめいかさぢうけいじやうきづよかいしよくぐんへいくわう甚だ威名あり。重ねて重慶城を築く。余玠、蜀郡 平曠の地を遷しけんえうがふしうてうぎよざんるゐて、險要を分治す。合州に釣魚山を治むるの類の如し。蜀に在るこよよくわいとんべうと二十年。民、藉つて以て安し。余晦に至て、貪繆功なく、敗れてくわしうしゆりうゆうひしせんせいちこえいいんし要地を失ふ。和州の守劉雄飛を以て、四川制置となす。胡穎、淫祠ごとこぼだくわうとうけいりやく胡打鬼を見る每に、卽ち之を毀つ。人之を胡打鬼といふ。廣東に經略たくわうぶつじきよださいしり廣に佛寺あり、佛像中、巨蛇あり、時に出でて、人の祭祀を享すうびんえいぶつく。價、之に托し、疏を題して數千を得たり。頴至つて、佛をこぼだそのくわい毀ち、蛇を擊つ。其怪、遂に息む。南宋-理宗皇帝-公 十八史略卷之七父丙辰、寶祐四年。高麗王細差甫、雲南の曾長摩合羅嵯、及び素州諸國、元に朝す。元の憲宗、城市を建てて都會の所となさむと欲す。太弟、忽必烈劉乗忠言ふ、劉秉忠、天文地理の術に精しと。乃ち命じて、宅を相せしむ。秉忠、桓州の東、欒水の北の龍岡を以て、吉となす。乃ち秉忠かに命じて、之を營せしめ、名づけて、開平府といふ三年にして、功を畢る。心を元評丁巳、寶祐五年。元、囘體水精盆、珍珠傘を獻ず、銀三萬餘錠を却文帝に直すべし。憲宗曰く、方今、百姓疲弊、急なる所のものは錢の馬を相へ里似すの心ゐ。朕獨り此あるも、何ぞ用ゐむと。之を却く。仁十月、元の兀良哈歹、安南を伐つて、其城を屠る。君の志古今同軌といふ戊午、寶祐六年二月。安南王、國を長子光〓に傳へ、使を遣し、方物を以て元に獻ず。元、囘囘哈里發を討つて、之を平らぐ。九月、憲宗、親ら大軍を帥ゐて蜀に入り、苦竹隘を攻む。宋の守將楊立、張實、之に死す。ミこの時、元人、勢流に順つて東下せむと欲す。一軍は大理國斡服の南より來り、色桂の境を經、以て潭州に至り、一軍は江を渡つてか、鄂州を圍む。賈似道丁大全を罷め、吳潜を以て左相となし、軍中に卽いて、賈似道を拜して右相となす。趙葵は樞密策應使たり、杜庶は兩淮制置たり、南宋-理宗皇帝-八八九 十八史略卷之七八九〇夏貴は舟師を總領す。呂文德等、風に乘じて、戰つて勝つ。潜、向〓十士壁を以て、潭を守らしむ。適ま南來の二哥元帥、宋の候騎に遇うか〓て死す。潭の圍、先づ解く。高達等、鄂を守り、似道、漢陽に駐まつて、鄂の援となる。か、己未、開慶元年元の憲宗、合州を圍み、使を遣して、守將王堅を招諭せしむ。堅、使者を殺し、固守して、之を拒ぐ。元の憲宗殂す七月、元の憲宗、釣魚山に殂す、在位九年、壽五十二。後に追諡して、桓肅皇帝といふ。憲宗、剛明雄毅、沈斷寡言、宴飮を樂まず修靡を好まず、后妃と雖も、亦た制置に過ぎす。太宗の末年、群臣、權を擅にし、政多門より出づ。憲宗に至つて、凡そ詔旨必ず親ら起草し、更易すること數囘、然る後に、之を行ふ。群臣を御すること甚だ嚴、嘗て諭して曰く、汝輩、若し朕の奬諭を得れば、卽ち志氣驕逸して、災禍未だ隨つて至らざるものあらず。汝輩それ之を戒めよと。時に、太弟、進んで鄂州を攻む。宋の守將張堅守つて下らず、遂に之に死す。似道、漢陽より鄂に至り、師を督す。而して、太弟忽必烈、城を攻むること、益す急、城中、死傷する者、萬三千人に至る。似道、大に懼れ、密に宋京を遣して、元營に詣らしめ、臣と稱し、幣を納るるを請ふ。太弟、許さず。會ま、合州の守王堅、人を遣して、鄂に走らしめ、憲宗の訃を以て似道に聞す。似道、再び宋京を遣して南宋-理宗皇帝-八九一 十八史略卷之七八九二元營に往かしむ。太弟、亦た阿里不哥が尊號を襲がむと欲するを聞く郝經曰く、若し、彼果して遺詔と稱し、便ち位號を正し、詔を中原に下し、赦を江上に行はば、歸らむと欲するも得むや。願はか、くは大王、社稷を以て念となし、師を班して、和を議し、輜重を置き、輕騎を率ゐて歸り、直に天都に造り、二軍を遣し、大行の靈界を逆へ皇帝の璽を收め、使を遣して、旭烈、阿里不哥諸王を召し、和林に會葬し、官を諸路に差し、安輯して、王の長子眞金に命じて、燕都を鎭守し、示すに形勢を以てせば、大寶歸するあつて、社稷安からむと。太弟、之を然りとし、乃ち似道に之を許し、且つ歲幣の數を約し、遂に寨を拔いて去り、張傑、闇旺を留め、偏師を以て、湖南兀良哈歹の兵を候せしむ。元世祖卽位庚申、景定元年元の世祖、名は忽必烈、憲宗の同母弟なり。憲(西紀一二六〇)宗、旣に殂す。阿藍荅兒、渾都海等、世祖の弟阿里不を立てむを謀る。憲宗の后、之を聞き、使を遣し、馳せて鄂に至り、請うて速に還らしむ。三月、開平に至る。諸王大臣、同じく、勸進す。三讓して、乃ち位に卽く。元の元良哈歹、張傑に鄂州に會し、師を帥ゐて北に還る。宋の賈似道、夏貴に命じ、其後軍を新生磯に敗り、遂に其和を議し、臣と)稱し、幣を納るるの事を匿し、表を上つて言ふ、鄂の圍、始めて解け、江面肅〓、宗社危くして復た安し、實に萬世無疆の休なりと。南宋-理宗皇帝-八九三 十八史略卷之七八九四おもじだうさいざうはうびしやうらいはな帝、以へらく、似道、再造の功ありと。詔を下して褒美し、賞資甚あつだ厚し。あふかからこるむじやうきよくせんがう元の阿里不哥、和林の城曲に僭號す。ちうとうけんげん五月十九日、元、中統と建元す。ちうとうやうせうす中統交鈔を進む。元の世祖、自ら將として、阿里不哥を討つ。れんきけんせいぐんざうあらんたるおよこんとかい廉希憲元の廉希憲、大に西軍を姑臧に敗り、阿藍荅兒、及び渾都海を斬る。げんぼんそうはがふすはこくし元、梵僧八合思八を以て國師となす。ちかひたづか郝經元郝經を遣し、來つて盟を尋ねしめ、且つ前日和を請ふの議をちようかじだうてうかへそのかくれうえいちうふくくわへんせん徵す。賈似道、旣に朝に還り、其客廖營中をして福華編を撰して、がくこうしようしやう鄂功を稱唱せしむ。朝廷、其和を求めしことを知らざるなり。れんきげんよしみかう元の世祖、旣に立つ。廉希憲、使を遣し、以て兵を息め、好を講ほくきおんゐならびあらじ、軍に命じて北歸せしめ、恩威並に著はさしめむことを請ふ。世わうぶんとうかくけい祖、之を善しとす。然も、未だ其人を得ず。王文統、素より郝經のさいとくいけい才德を忌み、乃ち經を遣して行かしむ。或ひと、經に謂つて曰く、盍やまひけいいはかまこうわいゐれいんぞ疾を以て辭せざる。經曰く、南北難を構へてより、江淮の遺黎よふりやくさうげんやへいつらなくわむす弱き者は俘略せられ、壯なる者は原野に死し、兵連り禍結ぶこと、せいじやうしどうじんよしみつうつとび聖上一視同是れ亦た多し。聖上、一視同仁、兩國の好を通ぜむことを努む。微仁えんいやしやす軀を以て不測の淵をたい蹈むと雖も、苟くも、能く兵を强め、亂を靖ん南宋-理宗皇帝-八九五 十八史略卷之七八九六す、たじ、百萬の生靈を鋒鋼の下に活かさば、吾が學、用ありとなすと。陰に李壇に諷し、う遂に行く。王文統、宋を侵し、以て之を沮撓せしめ、手を假つて以て經を害せむと欲す。經、淮を踰ゆ。賈似道、姦謀の呈露するを懼れ、遂に李壇を以て辭となし、經を眞州の忠勇軍營に拘留し、驛吏防守、獄〓よりも嚴。介佐、或は堪ふる能はず。經之に語つて曰く、命を將つて此に至る、死生進退、其彼に在ること〓〓評いきを使なに聽かす。盡く其れ我に在り、豈に能くはしのし君里烈節を守つて屈せざるは、士て千にに不忠不義、以て中州の士大夫に耻かしめられむや。但だ、公等不幸め命ふる恥かもベ須らく死を忍び、以て待つべし。之を天命人事に揆るに、宋祚殆んど遠からずと。衆其言に感じて、皆自ら振勵す。帝、北使あるを聞き、宰執に謂つて曰く、北朝、使來らば、事體さいかる〓〓當に議すべしと。似道、奏す、和は彼の謀に出づ、豈に一切輕しく徇ふべけむや。若し、隣國に交るの道を以て來らば、當に入つて見えしむべしと。賈似道、闘臣を忌害す。兵退いて、費用を打算するの法を行ひ、此を以て之を汚さむと欲す。向士壁、趙葵、史巖之、杜庶等、皆、侵盜掩匿に坐し、官を罷めて償を徵す。而して、士壁、償ふ所、尤も多く、竟に安置されて死す。復た其妻妾を拘へ謝枋得て、之を徵す、尙ほ足る能はず。信州の謝枋得、趙葵の檄を以て、錢粟を給し、民兵を募つて守禦す。枋得曰く、以て趙宣撫を累すべからざるなりと。自ら萬緡を償ふ、餘は辨ずる能はず。乃ち似道に南宋-理宗皇帝-八九七 十八史略卷之七灸上書して云ふあり、千金を以て募つて木を徒し、信を市人に取らむとし、二卵を以て干城を棄つ。豈に隣國に聞かしむべけむやと。遂に餘を徵するを免ずるを得たり。呂文德、〓湖に制置として鄂州に知たり。辛酉、景定二年瀘州の守劉整、叛いて元に降る。之より先、遷(蹕の儀を止むる者は吳潛、守城の力を盡す者は向士壁、斷橋の功を奏する者は曹世雄、劉整。旣にして、似道、功を妬み、士壁、世雄を讚し、皆貶死す。整旣に禍を懼る。而して、蜀帥鄭興復、宿憾を以て、吏を遣して、瀘に至らしめ、軍前の錢粮を打算せしむ。適ま、北軍境を壓す、遂に叛き去る。元、軍中俘とする所の儒士に命じて、贖うて民となすを聽るす。七月、元、始めて、翰林國史院を立つ。諸路提擧學校官を立つ。元の諸將、西軍を敗る。阿里不哥、北に遁る。元、皇子眞金を封じて燕王となし、中書省事を領せしむ。さ壬戌景定三年呂文德、瀘州を復す。と、元の江淮大都督李壇、京東漣海を以て來歸す。詔して、壇を封じて、齊郡王となし、其父全の官爵を復す。元の宰臣王文統、壇と謀を通ずるに坐して誅に伏す。元の史天澤、李壇を濟南に圍む。壇、復た元に降る。元人、之を南宋-理宗皇帝-八九九 十八史略卷之七九〇〇誅す。元、董文炳を以て山東路經略使となす。元、十路宣慰司を立て、諸路轉運司を立つ。癸亥、景定四年二月。え元、王德素を以て使となし、劉公諒を副となし、書を致し、來つて、其都經を稽留するの故を詰る。三月、元、始めて太廟を建つ。五月、始めて、樞密院を立て、太子燕王眞金を以て中書令に守たらしめ、かいへいふ兼ねて、樞密院事を判す。開平府を以て上都となす。元、姚樞を以て中書左丞となす。樞曰 陛下、基業に於ては守成となし、治道に於ては創始となす。正に宜しく親族に睦まじくし、以て本を固くし、儲副を建て、以て祚を重くし、大臣を定めて、以て國に當らしめ、經筵を開いて、以て心を格し、邊備を修めて、以て虞を防ぎ、粮餉を蓄へて、以て歉をす待ち、學校を立てて、以て才を育し、農桑を勸めて以て生を厚くすべしと。世祖、之を納る。文德黑灰團呂文德、瀘州を復す。文德、黑灰〓と號す。劉整、元に獻言してと號す曰く、南人、惟だ黑灰團を恃む。然れども、利を以て誘ふべしと。乃ち、使を遣し、玉帶を文德に獻じ、権場を襄城外に置かむことを求む。文德、之を許す。使曰く、南人信なし、願はくは、土城を築いて、以て貨物を護せむと。文德、許さず。使者、復た至る。文一)德、朝に請うて、之を許し、権場を樊城外に開き、土城を麓門山南宋-理宗皇帝-九〇一 十八史略卷之七九〇二外に築き、互市を通じ、內に堡を築く。文德の弟呂文煥、欺かるるを知つて、再び制置に申す、吏に匿さる。元人、又、白鶴城に於て第二堡を築く。文煥、再び申す。文德、大に驚いて曰く、朝廷を誤る者は我なりと。卽ち請うて、自ら赴き援く、會ま病んで卒す。甲子、景定五年。七月、彗星、長さ十數丈、芒角天を燭す、四更より東より見はれ、高くして方に歛まる。月餘乃ち見えず、楊棟、上因つて指して蚩尤旗といひ、之に因つて、論に遇うて、國を去る。八月、元、燕京を以て、中都大興府となす。劉秉忠、都を燕に定めむことを請ふ。世祖、之に從ふ。元、至元と改元す。時に阿里不哥の兵、屢ば敗る。是に至つて、諸王玉龍、答失罕、速帶、音里吉合、及び其謀臣不魯花、脫忽思等と來歸す。詔す。諸王は、皆太祖の裔なりと。並に釋して問はず、其謀臣不魯花のみ誅に伏す。元、諸路行中書省を立つ。西紀一二六冬十月。上、崩ず。在位四十一年。改元するもの八、寶慶、紹定四は、彌遠十年の政、端平の初元には、善類朝に滿ち、眞德秀、魏了翁あつて、執政侍從人たり、以て慶曆、元祐に比す。嘉禧より以後淳祐に至るまでは、嵩之、數年の政あり。嵩之、旣に去り、淳祐より寶祐に至るまでは、正人、邪を指して邪となし、邪人、正を指して邪となし、互に消長をなす。而して狼狽すること、開慶丁大全の南宋-理皇宗帝-九〇三 十八史略卷之七九〇四政に如くはなし。景定と改元あるや、大全と吳潜と人品同じからずおの〓〓ざんと雖も、各竄を以て死し、似道、獨り相たり。遂に國政を執る。末年、寝や君臣相猜むの跡あり、未だ更變するに及ばずして崩ず、から、壽六十一上、臨御以來、終始、周程張氏及び朱張呂氏義理の學を1崇奬す、故に廟を理宗と號す。太子立つ、之を度宗皇帝となす。【度宗皇帝】初名は孟啓、福王與丙の子、理宗の猶子なり。理宗、rs子多けれども育せず、孟啓を宮中に鞠ひ、孜と改名し、又祺と改名し、立てて皇子となし、忠王に封ぜらる。旣にして、儲に建て、〓と改名す。歲の甲子、位に卽く。時は則ち、蒙古部、國を大元と號し、至元と紀元するの初なり。賈似道、政を專にして平章軍國重ざ事魏國公に進み、相を立てて、以て自ら副とす。臨安府の士人、葉李、蕭規等、上書して、似道が權を專にし民を害し國を誤るを譏る。似道怒り、他事を以て、罪して遠州に竄す。まちに馬延鸞、留夢炎に詔して、侍讀を兼ねしめ、表面に陳宗禮、范東叟、侍講を兼ね、何基、徐幾、宗政殿說書を兼ぬ。元、王盤を以て翰林學士承旨となす。伯顏乙丑、咸淳元年元、安童を以て右丞相となし、伯顏を左丞相となし、劉秉忠を以て太保となして、中書省事に參せしむ。丙寅、咸淳二年呂文煥、襄陽を守る。元人、互市を開いてより以來、城を築き、堡を置き、江心に萬人臺、撒星橋を起し、以て南南宋-度宗皇帝-九〇五 十八史略卷之七九〇六と兵の援を遏め、時に師を出して、襄樊城外を哨掠し、兵威漸く振ふ。似道、第を西湖の葛嶺に建てて、自ら娯む。五日に一たび湖船に乘じて入朝す。堂に赴いて事を治めず、吏、文書を抱いて、第に就いて呈署し、他相は紙尾に書するのみ、內外諸司の彈効薦辟擧削、關白關白するに非ざれば、敢て行はず、一時正人端士、斥罷殆んど盡く吏、爭つて、賂を納れ、以て美職を求め、帥聞監司郡守たるを評賈塞似道言圖る者、貢獻、勝げて計るべからず。趙滑輩、爭つて、寶玉を獻ず。路をぎ君貪風大に肆に、兵、外に喪へども、匿して以聞せず、民、下に怨主を早熟かきヒレし國を早かむむも、誅責無稽、敢て言ふ者なし。元、制國用使司を立て、阿合馬を以て使となし、世子南木合を封じて北平王となす。日本國王に書を賜ふ日本國王に書を賜ふ。始めて、官吏の俸及び職田を給す。元、太子忽哥赤を封じて雲南王となす。丁卯、咸淳三年。元、史天澤を以て左丞相となし、忽都答兒、耶5律鑄、降つて平章政事となり、伯顏は右丞に降り、廉希憲は左丞に降る。戊辰、咸淳四年。襄陽、圍を受く。文煥、急を告ぐ。高達、范文총虎をして、赴き援けしむ。道通ぜず。二將、亦た命を用ゐず。南宋-度宗皇帝-九〇七 十八史略卷之七九〇八さ三學の士人、上書して、諸道の兵を調し、力を併せて、襄を救はむを乞ふ。報ぜず。弓量を以て田畝を推排す。葉夢鼎、位を辭す。允さず。徑に去る。江萬里、馬廷鸞、相となる。しんせいまうこ元、御史臺及び諸道提刑按察司を立て、新製蒙古字を行ひ、僧八合思馬を更號して帝師となし、堡を鹿門山に築き、諸路蒙古字學を立つ。庚午、咸淳六年。江萬里、援兵を請うて襄を救ふ。議合せず。罷めて去る。上、一日、似道に問うて曰く、襄陽圍を受くる三年、奈何。對へて曰く、北兵、既に退く、陸下、何人の言を得たる。上曰く、適ま女嬪之を言ふありと。詰問し、誣ゆるに他事を以てして死を賜ふ。之より、敢て變事を以て言ふ者なし。、似道、權人主を傾け、諛者、動もすれば周公、成王を輔くるしんわうぐわいせきくわんぐわんきんじふを以て之に擬し、親王外戚宦官近習皆箝制せられて、敢て恣にせず、當世の望士も、亦た引用し、朝に登して儀羽となす。然も服心在らず、在外の監守郡司も、亦た廉介を參用し、其人に非ずして進むを得たる者は、各、蹊徑あり、最も吝賞誅貨を以て、將帥の心を失ふ。劉整、北に降り、策を獻じて、東南を取る。謂ふ、緩く南宋-度宗皇帝-九〇九 十八史略卷之七九一〇取れば、經營して蜀よりして下らむ、急なれば襄淮より直に進めと。時に、諸將、北に降り、國の虛實を知る者、相繼ぐ。似道、方ほに太平を粉飾するを以て事となし、略ぼ意を加へず。元の平章評政事廉希憲、罷む。世祖、嘗て帝師の戒を受けしむ。希皆び衡元史劉廉き言初天乗希も行の澤忠憲の傳名は及許憲、對へて曰く、臣、旣に孔子の戒を受く。世祖曰く、汝の孔子も臣其亦た戒ありや。對へて曰く、臣とならば當に忠なるべく、子となれ多ふば當に孝なるべし、是れなりと。方士あり、大丹を鍊らむを請ひ、中書に敕して、其需むる所を給す。希憲奏して曰く、前世人主、多く方士に誰惑せらる。堯舜壽を得るは靈を大丹に假らざるなりと。許衡世祖、之を善しとす。許衡を以て中書左丞となす。時に、阿合馬、權を專らにし、上を無し、國を蠧し、民を害し、嘗て其子を以て兵し 評順番多い柄を典らしめむと欲す。衡曰く、國家の事權は、兵民財の三者の權は兵民財み父、尙書省に位し、民を典り、財を典り、而して、又兵を典る、甚だ重し。世祖曰く、卿阿合馬の反を慮るか。衡、對へて曰く、是れ反道なり。古しへより、奸邪未だ此に由らざる者あらずと世祖、衡の語を以て、阿合馬に語る。阿合馬、之に由つて、衡を怨む。辛未、咸淳七年。元の劉秉忠、許衡、定むる所の朝儀を進む。司農司を立て、張文謙を以て司農卿となす。水軍七萬を〓へ、戰艦五十三を造り、環城を築き、以て襄陽に逼南宋-度宗皇帝-九一一 十八史略卷之七九一二る。許衡を以て集賢大學士國子祭酒となす。評十月、國を建てて、大元と號す。詔に曰く、誕に景命に膺り、四す深辭る大ベ遠雄の元と詔書藻文す;必ず美名あり。百王に紹いで、統を紀し朗渾々詞海を奄うて、以て尊に宅る、誦す、肇めて隆古に從ふ、獨り我が家のみに非ず。且つ、唐の言たる歩虞の言たるや樂なり、や蕩なり、堯、之を以て著稱す。舜之に因つて號となして馴致す。西、興つて湯造す、互に夏大と殷中とを以た。て名とす。世降つて以還、事殊に古しへに非ず。時に乘じて國を有つと雖も、義を以て制を稱せず。秦となし、漢となすもの蓋し初起の地名に從ひ、隋といひ、唐といふもの、又、始封の爵邑に卽く是れ皆百姓見聞の狃習に徇ひ、一時經制の權宜に要せらる。か〓するに至公を以てすれば少貶なきを得むや。我が太祖聖武皇帝、乾符を握つて、朔土より起り、神武を以て、帝圖に膺り、四に大聲を振ひ、大に土宇を恢にし、興圖の廣き、歷古無き所、頃ろ耆宿、廷に詣り、奏章伸請して謂ふ、旣に大業を成す、宜しく早く鴻名を定むべしと。古制に在つて、以て當れり。然れども、朕の心に於て何か有らむ。國號を建てて大元といふべし。蓋し、易經乾元の義にあ·た取る。是に大に治まり庶品に流形す。孰れか資始の功を名づけむ。上子一人寧を萬邦の爲に底さん。尤も仁を體するの要切なり。事、革に從ひ、道。天人に協ふ。於戯、義に稱うて名づく、素より、之南宋-度宗皇帝-九一三 十八史略卷之七九一四が溢美を爲すに非ず、孚に休し、惟れ永し。尙ほ艱に投ずるに負かあず、敷天と共に大號を隆にするを嘉す。咨、爾有衆、予の至懷を體せよと。太保劉秉忠の議に從ふなり。評壬申、咸淳八年。葉夢鼎、再び相たり。似道と意合はざるを以て年を一にく腸圍く善無呂る六去る。國家大學教育大學とにに年善而煥きな元而い古耐の戰し孤襄陽、陷る。之より先、理宗の初年、襄陽は制臣撫御を失するをし以て、王旻、亂を作して陷るを致す。謝方叔、相となり、李曾伯に將を遣して、北方も亦た苦爭せず。降もべ獨喩し、之を取らしむ。劉整の策おんまいで行はるるに及び、重兵、襄陽を圍む。呂文煥、城を守ること六年、な惜扞禦備さに至る。然も、似道、肯て調援せず、粮食未だ乏しからを事てる平もずと雖も、衣裝薪蒭、措辨する所なく、盧舍を轍して薪となし、關粉似のに亦想り援れしす太も情ばにざ救是に飾道急楮を緝めて衣となすに至る。援兵至らず、遂に城を以て降つて、元かしす掬すの致と擁情さして52人の用となる。にざ救な値一到しば賈似道、章を累ね、出でて督せむとし、陰に朝廷を諷して、之を老闆奶茶留めしめ、卒に行かず。重にらず元、尙書省を併せ、皇子忙哥剌を封じて安西王となす。文天祥直學士院文天祥、致仕す。初め、賈似道、疾と稱して致仕を乞ふおや、以て君を要すとなす。似道、張立志に諷し、効して之を罷む。な天祥、遂に錢若水の例を引いて、致仕を乞ふ。時に年三十七。癸酉、咸淳九年。平地に白毛を產す、銀線菜の如し。臨安、尤も南宋-度宗皇帝-九一五 十八史略卷之七九一六多し。元、樊城を侵す。守將張漢英及び都統制范天順、牛富、之に死す。評○○番地り元元の國子祭酒許衡罷むるを乞ふ。之を許す。衡家に居て勤儉、自治に强、公愛兼盡、嚴ならざるも整、閨門の内朝廷の若く然り。夫婦相待つこと、賓の如し。凡そ、喪葬一に古制に遵ひ、佛老を用ゐず、懷孟の閒之に化す。旁舎に僧德公といふ者あり、年百餘歲。嘗て其徒に謂つて曰く、老僧、苦行百年、亦た佛となる能はず、徒に不孝の人となり、祖宗を地下に見るを羞づ。但だ、願はくは、小僧輩、還俗以て汝が祖宗の嗣を壽せよと。之より復た弟子を度せず、蓋し之に化するなり。え甲戌、咸淳十年。賈似道、母の憂に丁る、隨つて起つて復す。陳宜中陳宜中、僉書樞密院たり。七月、上、崩ず。在位十年。咸淳と改元す。壽三十五。似道、皇子暴を立つ、年四歲、之を孝恭懿聖皇帝となす。「孝恭懿聖皇帝】名は黒、皇后全氏の出なり。太皇太后謝氏、朝に臨んで詔を稱す。德祐と改元す。兄建國公是を封じて吉王となす、弟永國公〓を信王となす。元の太保劉元の太保劉秉忠、卒す。秉忠、天下を以て己の任となし、知つて秉忠卒すさおの!言はざるなく、言つて聽かれざるなく、其人才を薦むる、各、器に稱ふ。開平に城き、燕都に城かしむるや、皆、秉忠、其地を相す。南宋-度宗皇帝-孝恭懿聖皇帝ー九一七 十八史略卷之七九一八是に至つて疾なくして、端坐して卒す。世祖、聞いて驚悼して、群臣に謂つて曰く、秉忠、朕に事ふる三十餘年、小心愼密、其陰陽術數の精は、唯だ朕のみ之を知ると。元、中書平章史天澤、中書左丞相伯顏に命じ、諸軍を帥ゐて南侵す。陛辭するや、世祖、之に諭して曰く、古しへの善く江南を取る者は、唯だ曹彬一人のみ。汝能くん、史天澤卒す不殺なれば、是れ吾が曹彬たりと。天澤、疾あつて還り、尋いで卒す。之より先、世祖、醫を遣して、馳せて視せしむ。天澤、附奏して曰く、臣、大限終あらむ、死は惜むに足らず。唯だ願はくは、天兵江を渡るとき、殺掠を以て戒となせと。言訖つて卒す。天澤、忠亮にして大節あり、將相に出入すること五十年に近く、四朝に柱石)として百辟に師表たり、社稷の臣といふべし。其富貴權勢を視るや、跡を歛めて退避し、將に之に漁されむとするものの若し。故に能く始を善くし、終を令くし、開國の元臣となる。元の伯顏丞相、大に兵を襄樊に會す。九月、降人劉整を以て騎兵を領して淮泗より出でしめ、呂文煥、舟師を領して襄陽より出でしめ、先を爭うて向導し、水陸並に進み、沙市の新城を攻む。都統邊居誼、所部三千人を帥ゐて、力戰して之に死す。策應使夏貴、力戰す。元兵、其不意に出づ。兵敗る。西南岸に沿ひ、火を縱つて、廬州に歸る。宣撫使朱機孫、重兵を提げ、戰はずして、江陵に歸る。鄂州、降る。南宋-孝恭懿聖皇帝-九一九 十八史略卷之七きつ天目山、崩る。天下に詔して、勤王せしむ。乙亥、德祐元年元の伯顏、阿里海牙を留め、兵四萬を以て、鄂を守らしめ、而して、阿朮と、大軍を率ゐて江を渡り、流に順つてず東に下る。時に沿江の諸將、呂氏の部曲多く、風を望んで降附す。江州降る、運使錢眞孫、自ら縊る。と似道、軍馬を都督し、遷延して出でず。兵、旣に建康に下ると聞き、始めて、諸軍を率ゐて、行在を發し、迂道して行き、數日、始にめて蕪湖に達し、將に安慶府に趨り、下流の師を牽制せむとす。未だ至らざること三日、安慶の帥范文虎は、呂氏の婿、旣に降り、將士復た固志なし。似道、官資を竭轉するを許す。諸軍詬つて曰く、た官資を要して甚を做さむ。巳未庚申の官資、何に在ると。似道答ふる能はず。鑼を鳴らす一聲、兵を珠金砂に退く。十三萬の衆、一時に潰散す、似道、奔つて、揚州に入る。江西提刑文天祥、兵を募つて勤王す。天祥は、吉州廬陵の人、丙辰進士の第に魁たり。殿帥韓震、劫して都を遷さむを謀る。陳宜中、計を以て之を誅す。趙〓發夫妻池州破る。通守趙〓發、將に死せむとす。其妻と訣る。妻曰く、忠死す卿能く忠臣たり、妾、顧みて忠臣の妻となる能はざらむやと。昂南宋-孝恭懿聖皇帝-九二一 十八史略卷之七九二二發、喜んで、衣冠を具し、共に倶に縊る。明日、伯顏、城に入つて之を憐み、衣棺を具へて葬る。·ア建康、破る。趙淮、之に死す。京師、戒嚴す。朝臣、踵を接して、宵に遁る。王爚、陳宜中等、似道が不忠不孝の罪を効す。宜中、もと賈の恩を受く。是に至つて亟に賣を効して以て自ら解く。評要用途無大阪府左衛門似道、貶に赴く。鄭虎臣、父の仇を以て、監押して漳州に至り、亡ぼし身亦第三十五年厠上に卽いて、其胸を拉して之を殺す。···あああああベ張世傑、兵を以て入衞す。元兵、境に在り。陳宜中等、惟だ賣の黨を攻擊するのみ、略ぼ備禦の策なし。司馬夢求、江陵の沙市鎭を監す。力戰して死す。諸帥を徵して、入衞せしむ。夏貴、省萬壽、黄萬石等、至らず。ぐわつかうしんさく六月庚申朔、日蝕晦冥、雞塒に棲み、咫尺人物を辨ぜず、巳さより午に至り、明、始めて復す。留夢炎、相たり。評文天祥器文天祥、民兵峒丁、二萬餘人に將として入衞す。夢炎と意相樂ま局狹少ず、尙書を以て、江浙制置に降し、吳門を守る。州郡、しきりに降る。元兵、臨安を距ること百里、獨松關、急張世傑を告ぐ。時に張世傑の軍五萬、諸路勤王の兵四十餘萬。天祥、世傑もと議す、兩軍堅く聞廣を守り、全城の王師血戰し、萬一捷を得ば、南宋-孝恭懿聖皇帝-九二三 十八史略卷之七九二四猶ほ爲すべきなりと。世傑、大に喜び、議して師を出す。宜中、王師を以て、務めて持重し、詔を降して、之を沮み、使を遣して、和を乞ふ。天祥等に詔して、兵を罷む。ご潭州、陷る。時に、一軍は湖南より潭州を圍む。守臣李帯、戰守屢ば捷つ。八九月を經て、城將に陷らむとし、闔門、之に死す。丙子、德祐二年。正月、秀王與睪、皇兄益王星、皇弟廣王〓等を奉じて海に航す。世傑、朝を去る。元兵、高亭山に駐まる。都城を去ること三十里。宜中、夜、遁る。文天祥、右丞相たり、辭して拜せず。賈餘慶、吳堅、相たり。天祥、出でて軍前に使す。辭氣慷慨、議論して屈せず。伯顏、之とを留む。賈餘慶三宮元兵、臨安に入る。賈餘慶等、三宮を奉じて以て降る。手詔してを奉じて元に降る諸路に諭して、內附せしむ。伯顏、宰執を遣し、先づ大都に赴かしむ。天祥、亦た舟に登つて北行し、鎭江に至り、間を得て逸し去る。三宮、北に遷る宮室、尉馬、宮人、內侍、太學生等數千人、皆南宋-孝恭懿聖皇帝-九二五 十八史略卷之七九二六遣中に在り。眞州を過ぐ。守苗再成、駕を奪はむとす。幾んど遂げむとして克たず。五月、宋帝、上都に至り、瀛國公に降封す。帝、在位二年、改元즐するもの一曰く德祐。益王、廣王、海道より溫州に至る。蘇劉義、陸秀夫、來り會し、陳宜中、張世傑、海舟を以て福州に至る。謝太后の手詔を宣し、二王を以て天下都副元帥となし諸路の忠義を召す。五月朔、陳宜中、陸秀夫、張世傑等、共に益王是を立てて帝となし、福州に卽位す。之を端宗皇帝となす。【端宗皇帝】名は是、孝恭懿聖皇帝の兄なり。位に卽いて、景炎と改元し、はるかに、帝に尊號を上つて孝恭驚聖皇帝となし、太皇太后を壽和聖福至仁太皇太后となし、皇太后を仁安皇太后となし、度宗の淑妃楊氏を皇太后となし、同じく政を聽く。廣王〓を封じて衞王となす。陳宜中、左丞相たり。張世傑、少保たり。5文天祥、至る。右丞相に除せらる。宜中、世傑と異意なるを以てあ、肯て拜せず。九月、天祥、督を南劍州に開き、兵を募つて數千を得、遂に郡武さ軍を復す。冬十月、天祥、師を帥ゐて、汀州に次す。興化軍の通判張日中等來り會す。時に、贛寇猖獗江聞廣の路を血にす。日中南宋-端宗皇帝-九二七 十八史略卷之七九二八おの?等、天祥が開督勤王するを聞き、遂に各兵を起して來り應ず。天ニ祥趙時賞、張日中、趙孟深を遣し、一軍を將ゐて〓に趨かしめ、以て寧都を取り、吳浚を遣し、一軍を將ゐて、雪都を取る。劉洙、じ.蕭明哲、陳子敬、皆、江西より兵を起して來り會す。鄒源、元人と寧都に戰つて敗績す。武崗〓授羅開禮、兵を起してえ文永豐縣を復す。亦た死す。天祥、爲に服を製して哭す。十一月、元の阿刺罕、董文炳、建寧府に入り、遂に福州を侵す。宜中、世傑、帝及び衞王、楊太后等を奉じて、海に航し、潮州より廣州に至り、富陽に趁き、謝女峽に遷る。丁丑、景炎二年阿刺罕、汀州に入る。文天祥、漳州に奔る。入衞を謀れども、道阻して通ぜず、江廣の間に往來し、戰つて勝負あり。吳浚、元に降り、因つて、漳に趁き、天祥に說いて降らしめむとす。天祥、責むるに大義を以てして、之を誅す。三月、文天祥、梅州を復す。四月、天祥、興國縣を復す。五月、張世傑、潮州を復す。天祥、梅州より江西に出で、遂に會昌縣を復す。趙時賞、張日中の兵と、皆、之に會す。元廉希憲卒す元の中書政事廉希憲、卒す。希憲、江陵に在り、遠近化に向ふ。南宋-端宗皇帝-九二九 十八史略卷之七九三〇疾あつて召し還るるに及びて、民、皆、涕を垂れて擁し送り、祠を建て、像を繪いて、以て之を祠る。世祖、歎じて曰く、復た大事え評伯顏の廉を決する廉希憲の如き者あるなし。伯顏、亦た曰く、廉公は宰相中當れの眞に希憲の眞宰相、男子中の眞男子と。世、以て名言となす。六月、天祥、元人を雪都に敗り、遂に興國縣に次す。秋七月、張ニ;日中、趙時賞等をして、師を帥ゐて、吉贛諸縣を復せしめ、遂に贛州を圍む。張世傑、師を囘し、潮州より泉州を圍む。克たず。帝の舟、潮州の淺灣に遷る。ニ)天祥元の李恆元の李恆、兵を遣し、贛を援けしめ、然も、自ら將として、を興國に襲ふ。天祥、恆の猝に至るを意はず、乃ち兵を引いて走り 鄒〓に永豐に卽く。鳳の兵、先づ潰ゆ。恆、天祥を窮追す。天祥、方石嶺に至る。恆、之に及ぶ。鞏信、拒ぎ戰ふ。箭.體に被つて死す。天祥、空院に至る。恆又之に及ぶ。張日中、奮つて力戰す。元兵、少しく卻く。恆鐵騎を麾いて、橫に之を擊たしむ。日上こと〓〓中身に十餘創を被り、猶ほ十餘騎を手刄して死す。兵、悉く潰ゆ。天祥の妻歐陽氏、男佛生、環生、及び二女、皆執へらる。趙時賞、肩興の後に坐す。元人、誰となすを問ふ。時賞曰く、我が姓は文と衆以て天祥となし、之を禽にす。天祥、之に由つて、身を挺するを得。其長子道生及び杜滸、鄒源と、騎に乘じて逸し去り、遂南宋-端宗皇帝-当三 十八史略卷之七九三二に循州に奔る。散兵、頗る集まる。乃ち寸南嶺に屯す。幕僚客將、植時賞奮罵皆、執へらる。時賞、隆興に至り、奮罵して屈せず。刑に臨み、劉して殺さる洙、頗る自ら辯ず。時賞、叱して曰く、死せむのみ、何ぞ必ずしも然らむと。是に於て、將佐幕屬、執へられて、皆死す。而して、天祥の妻子家屬、燕に送らる。二子、道に死す。廣州、陷る。十一月元の劉深、舟師を以て淺灣を襲ふ。張世傑、戰つて利あらず。帝舟を奉じて、秀山に走る。陳宜中、占城に之いて兵を求む、遂に復た還らず。十二月、帝、再び〓隩に還る。颶風作る。帝病あり。元の劉深、復た舟師を以て、來つて〓陳を襲ひ命如珪を執ふ。帝舟、謝女峡に遷る。戊寅、景炎三年。張世傑、師を遣して、雷山を討つ。克たず。三月、文天祥、兵を會して、麗江浦に次す。李恆、元の張弘範元、張弘範を以て、都元帥となし、之に副たり。師を率ゐて、聞廣に入る。帝舟、〓州に遷る。夏四月、帝、硼州に崩ず。陸秀夫、衞王を立てて帝となす。之を帝〓となす。【帝醫】端宗皇帝の弟なり。名は〓、位に卽いて祥興と改元す。皇太后楊氏同じく政を聽く。之より先、群臣多く散じ去らむと欲す。陸秀夫曰く、度宗皇帝の一子、尙ほ在り、將に焉にか之を置かむ。南宋-端宗皇帝-帝〓-九三三 十八史略卷之七九三四古人、せ、一旅一成を以て中興する者あり。今、百官有司、皆具はり、士卒數萬、天、若し未だ宋を絕やすを欲せざれば、是れ豈に國を爲すべからざらむやと。乃ち衆と共に帝を立つ、年八歲。適ま黄龍あり、海中に見ず。遂に祥興と改め、硼州を升せて翔龍縣となし、陸秀夫を以て左丞相となし、樞密使を兼ねしむ。時に、海濱に播越して、庶事疎略、時節朝會每に、獨り、秀夫、儼然として笏を正して立ち、治朝の如くす。或は行中に在つて、凄然として泣下り、朝衣いこと〓〓を以て淚を拭ふ、衣盡く濕ふ左右、悲働せざる者なし。首相に拜するに及び、張世傑と共に政を秉り、外は軍旅を籌り、內は工役を調す、すべて其手より出で、忽遽流離の中と雖も、尙ほ日に大學章句を書し、以て勸講す。六月、帝舟、新會の厓山に遷る。大星あり、南に流れて海中に墜つ。小星千餘、之に隨ふ。聲、雷の如く、數刻にして止む。な天祥、帝の卽位を聞き、上表して自ら江西に敗るるの罪を効し、入朝を乞ふ。許さずして、少保を加へ信國公に封ず。會ま、軍中大疫、士卒多く死す。天祥の子道生、復た亡し、家屬共に盡く。元、許衡を以て集賢大學士となし、太史院事を兼領せしむ。文天祥、潮陽に屯す。鄒溷、劉子俊、皆、師を集めて之に會し、遂に盜陳懿、劉興を潮に討つ。興は死し、懿は遁れ、張弘範の兵を南宋-帝昺-九三五 十八史略卷之七九三六き道いて、潮陽を濟す。天祥、カ、支へず、其麾下を帥ゐて、海豐に走る。張弘正、之を追ふ。天祥、方に五坡嶺に飯す。弘正の兵、突文天祥執へ至す。衆戰ふに及ばず、皆、頓首して草莽に伏す。天祥、執へら自動からる。腦子を呑んで死せず。鄒溷、劉子俊、自ら詭つて天祥となし、天祥を免ずべきを冀ふ。天祥を執へて至るに及びて、各眞僞を爭ふ、遂に子俊を烹る。而して、天祥を執へて、弘範に見えしらむ。左右之に命じて拜せしむ。天祥、屈せず。弘範、其縛を釋き、客禮を以て、之を見る。天祥、固く死を請ふ。弘範、許さず。或ひと弘範に謂つて曰く、敵人の相、測るべからざるなり、宜しく、之族を近づくべからず。弘範曰く、彼は忠義なり、他なきを保すと。こと〓〓か、屬の俘にせられし者を求めて、悉く之に還し、舟中に處いて、以て自ら從はしむ。端宗を厓山に葬る。元の阿里海牙、海南より還つて上都に師す。巳卯、祥興二年。正月、元の張弘範の兵、厓山に至る。張世傑、力戰して、之を禦ぐ。弘範、之を如何ともするなし。時に、世傑に甥韓あり、元師中に在り。弘範三たび、韓をして、宋師に至つて、世傑を招かしむ。世傑、從はずして曰く、吾、降れば、生きて且つ富貴なるを知る、但だ義は移すべからざるのみと。因つて、古忠臣{を歷數して以て之に答ふ。弘範、乃ち文天祥に命じ、書を爲つて、南宋-帝員-九三七 十八史略卷之七九三八評世傑を招かしむ。天祥曰く、吾、父母を扞ぐこと能はず、乃ち人にゝる信無のは謂にと眞臣末文ゝべ心は零値いに純隨天すは文忠一祥破周千年日月彼の所る公類名実〓へて、父母に叛かしめて可ならむやと。固く之に命ず。天祥、遂に過ぐる所の零丁洋の詩を書して、之に與ふ。其末に云ふあり、人ゝをて洋以丁生古しへより誰か死なからむ、丹心を留取して汗靑を照らすと。弘星戈營くるの詩山落一辛し事範笑つて、之を置く。弘範、復た人を遣して、崖山の士民に語ら河四經苦落起しめて曰く、汝の陳丞相、旣に去り、文丞相、旣に執へらる。汝、水瓶絮何をか爲さむと欲すと。士民、亦た叛く者なし。弘範、又舟師を以恐風零選打印 はて、海口に據る。宋師、樵汲の道絕ゆ。兵士、乾糧を茹ふこと、十嘆恐零丁人世餘日にして、大に渴す。乃ち下つて、海水を掬して、之を飮む。水自重車心無昭死旬の折取鹹く、飮めば乃ち嘔泄す。兵士、大に困む。世傑、蘇劉義、方興等汗靑を帥ゐて、旦夕大に戰ふ。元の李恆、廣州より師を以て會し攻む。弘範、恆に命じて、崖山の北面を守らしむ。二月戊寅朔、世傑の將陳寶、叛いて、元に降る。巳卯、都統制張達、夜、元師を襲ひ、敗れ還る。元人、進んで、世傑の舟に薄る。甲申、弘範、其軍を四分し、自ら一軍に將たり、相去ること里許。諸將に令して曰く、宋の舟、西、厓山に艤す、潮至れば必ず東に遁れむ、急に之を攻めて、去るを得せしむる勿れ。吾が樂作るを聞かば、乃ち戰へ令を違ふ者は斬らむと。先づ北面の一軍を麾き、早潮に乘じて戰ふ。世傑、之を敗る。李恆等、潮に順つて師を退く。午潮上る。元師、樂作る。宋師、以爲へらく、且く懈ると。備を設南宋-帝昺-九五九 十八史略卷之七九四〇けず。弘範、舟師を以て、其前を犯す。南師、之に繼ぐ。宋師、南北より敵を受け、兵士皆疲れて、復た戰ふ能はず俄に一舟の檣旗仆るるあり、諸舟の檣旗、皆仆る世傑、事の去るを知り、乃ち精Na兵を抽いて中軍に入る。諸軍、大に潰ゆ。元師、宋の中軍に薄る會ま日暮れて風雨、昏霧四塞、咫尺辨せず。世傑乃ち蘇劉義と維を評陸秀夫、帝舟に走る。帝舟大入低勝ちにて夫をし帝りざ見國溺同帝斷ち、十六舟を以て港を奪つて去る。じにして、且つ環結す、出走するを得ざるを度り、乃ち先づ其妻子をKELICAL FACTION COLLECTION店1)る忠に無ともあび狀後宮もに驅つて海に入らしめ、卽ち帝を負うて同じく溺る。帝、崩ず。る操忠人どの然れ諸臣、從死する者甚だ衆し、越えて七日、屍海上に浮ぶもの十餘のて側情純の至雜萬人。因つて、帝の屍及び詔書の寶を得たり。既にして、世傑、復さしつ丁氏八正をた厓山に還つて、兵を收め、楊太后に遇ひ、奉じて、以て趙氏の後しむを求めて、復た之を立てむと欲す。楊太后、始めて、帝の崩ぜしをニ聞き、膺を撫して、大働して曰く、我、死を艱關に忍んで此に至るものは、正に趙氏の一塊肉の爲のみ、今、望なしと。遂に海に赴いて死す。世傑、之を海濱に葬る。世傑、將に安南に趨かむとし、平章山下に至つて、颶風、大いに作る。舟人、岸に艤せむと欲す。世傑曰く、以て爲すなきなりと。香を焚き、天を仰いで呼んで曰く、評していますたべ自傑しのしりき滅香を焚我、趙氏の爲にすること、亦た已に至れり。一君亡びて、復た一君をすを立つ。今、又亡ぶ。我未だ死せざるものは、庶幾はくは、敵兵退る忠ふべ臣ベ鑑以かば、別に趙氏を立てて以て、祀を存せむとするのみ。今かくの若南宋-帝昺-〓 十八史略卷之七九四二豈に天意なるかc若し、天、我が復た趙の祀を存するを欲せざ宋亡ぶ西し、紀-二七溺九)れば、大風吾が舟を覆せと。舟、遂に覆り、世傑、る。宋、亡ぶ。元の張弘範等、置酒大會し、文天祥に謂つて曰評至且天地 30元厓山、旣に破る。〓り遇を範のるき文の而とす說く國亡ぶ、丞相の忠孝盡せり。能く心を改め、宋に事ふる者を以二五天祥汝然として涙とを渡しすて、今に事ふれば、宰相たるを失はざるなりと。世しれは祥りざさを出して曰く、國亡ぶるも救ふ能はず、人臣たる者、死するも餘罪)所臣以也鑑百る忠あり、況んや、敢て其死を逃れて其心を貳にせむやと。弘範、之をた義とす。燕京に送らしむ。道吉州を經、痛恨して食はず、八日尙デほ生く。十月、天祥、燕に至る。屈せず、獄に繫がれ、勵操愈よ堅宋の故臣、亦た嶺海より安南に走る者あり。安南は、其國王李乾子天祚、德紹興に卒してより子陽煥、立つ。陽煥、卒す。立つ。天祚、淳熙に卒す。子龍翰、立つ。龍輸、嘉定に卒す、子昊〓、立と;つ世、宋の正朔を奉ず。龍輸の時に當つて、聞人陳京といふ者あり、其國に入つて、政を得、國婿となる。京の子承、再世其國柄を);執る。昊〓の時に及びて、承、其國を奪ひ、子威晃に傳ふ。理宗、其貢を受けて、之を封ず。威晃、子日照に傳ふ。宋亡びて、乃ち名を日恒と改め、貢を元に奉ず。初め、邵雍、客と語つて、國祚に及ぶや、晉の出帝紀を取つて、之を示す。靖康に驗あり、德祐に至つ南宋-帝〓-九四三 十八史略卷之七九四四四廣の說一汴二杭三て益す驗あり。陳摶も、亦た、嘗て、一1、二杭、三聞、岡四廣の說あり。宋、果して聞廣に至つて盡く。太祖建隆より欽宗靖康に至るまで、一百六十七年。高宗建炎より祥興に至るまで、又一百五十三年。けんりうぐわんねんかうしん帝〓祥興乙卯に至るまで、凡右、宋の太祖建隆元年庚申より、そ三百二十年にして亡ぶ。評譯十八史略大尾結言カーライルのヒローウォーシップやフレンチレヴォリューシンを見ると、時代が英雄を作り而して英雄が時代を作るといふ樣な事が書かれて居る。支那人の書いたものにも一國一人を以て興り一人を以て亡ぶといふ樣な事がある其考へ方は東西古今其軌を一にすといふべく、英雄は皆な時代の產物であると同時に又英雄が時代を作り出す。元龜·天正の亂脈時代であつたればこそ、水呑百姓の小伜猿面冠者から一躍太閤殿下に出世した豐臣秀 吉が出て來たのであつて、其秀吉-成り上り者の秀吉が出たればこそ、絢爛たる桃山時代が出現したのであらう。奔放自在、天馬空を行く底の太閤の遣りツ放しの後ト始末をするの必要によりて、堅實無比の家康が現はれ、家康の出現によりて德川三百年の鎖國時代が生れ出たのであつて、幕政三百年の鎖國がなかつたならば、ペルリの來訪もなく、維新當時の群雄も出ては來なかつたかも知れぬ。ソレは皆ソウなる順序があつてソウなりつゝあるのであつて、這間の前後連絡、因緣成行を靜觀すれば、西洋人の經た所も東洋人の經た所も道理に於て變はる所はない。弱肉强食の結果が自由平等を喚び起し、自由平等の結果が共產無政府の傾向まで進めば、統制獨裁の風潮を復活して來る。而してソコにイツでも色々の英雄や先覺者や指導者の活躍が見られる。是れは古今東西の歷史の〓ゆる不動の哲理であつて、古人は此事を簡單に歷史は繰り返へすともいふて居る。然り歷史は繰り返へすに違ひないけれどもソノ繰り返へすのは道理であつて、いはゞ道理に二つはない-眞理は常に新しいといふ意味で、其實、實際としての事實は皆別々である故に同じく聖人といふても、時代を異にし、場合を異にするに從て各々聖人振りが異つて居り、同じく馬三 鹿とか阿呆とかいふても、各々ソノ馬鹿ブリ阿呆ブリが異つて居る堯も舜も禹も湯も文王も武王も周公も皆一樣に聖人といふけれども、堯の時には鼓腹擊壤の歌であり、舜の時には南風の詩であるのに、禹の時は一饋十起以て天下の民を勞し、湯に至りては素車白馬身を以て犧牲となして桑林の野に禱らねばならなくなつて居る。凡そ是等の變遷を抽象的に云へば、成程ソウかと點頭く程度のものに過ぎず、ソレを詳細に探究すれば正史から外史ソレからソレと所謂汗牛充棟、仲々際限がない。其兩者の中間を行く略史として、上下四千年の經過を〓觀し得るものとしては蓋し此十八史略以上のものはない。略史であり、史略であり、十八種の史書の抄略拔き書きであるといふので、漢學先生ガタは餘り十八史略を推賞せず、或は却て之を輕蔑するの風さへあるが、ソレは專門家のいふ事であつて、一般大衆としてはコレ程便利な重寳な讀物はない。日本で漢學の入門者に初歩第一の讀本として、十八史略を讀ませる事にしたのは何人か知らぬけれども、今よりして之れを評すれば非常な卓見家といふべきである。支那人は殊に此書を輕視する樣であるが、ソレは要するに淺薄であるといふ所からであらうが、四千有餘年五 以て結言として置くんで見て見られよ、中に於て政治に興味を持つ人達に讀ませようといふのである之を支那の人達に勸めようといふのではないが得らるゝかと考へて見るがよい昭和十二年三月廿七日夜年十一ノ點をヨク合點して成程と思はるゝならば、の史實をコレ丈けのものに縮寫するとして果してコレ以上のもの昭和十六年五月昭和十二年十一月三日再版昭和十二年四月昭和十二年四月月發行日讀了として繰り返して見たくなるから、所八六二必ず僕が遣つた樣に印發編日改訂版日發行日印刷東京市京橋區銀座西五丁目三番地刷行者者兼島田俊雄法律事務所W譯併し僕はソンな議論をして、導十八史略電話銀座(57)〇〇三五番渡東京市小石川區東古川町十番地島東京市京橋區銀座西五丁目三番地定 價譯年十モウ一度始めから讀邊田參一俊評日本人お互大衆の月者六郞雄識行印社會式株刷印外中日始め之をソ 301
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◇目次 1.単純明快:中国史 2.中国文明考I:女性的感性の欠落(跛行性) 3.中国文明考II:騎士道精神(あるいは日本風に言えば武士道精神)の欠落 4.中国文明考Ⅲ:遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行 5.中国文明考IV:支配者や自分の都合によって変わる独善的な歴史認識 6.中国文明考V:誠・和の精神の欠如(欲望最大・自己中心・道徳最低)、意味不明(相手によって意味の変わる)な仁、「詐」の文化 7.中華人民共和国の歴史 8.補講1.「中国4000年の歴史」というのは真っ赤な嘘。国が連続していない。 2.「国」が始ったのは1912年。それ以前は「国」の概念もない、点の歴史のみ。 3.中国は歴史が真っ直ぐ続いていない。少数民族の歴史を乗っ取って偉そうにしているだけ。 4.乗っ取り潰して入れ替る、そしてそれを繰り返す野蛮王朝。 5.日本文化と中国文化の関係 6.残虐思想の歴史、食人文化、儒教と官僚制度、中華思想&共産党 7.中国は国家としてまとまってない。2つに分かれている。 9.ご意見、情報提供 1.単純明快:中国史 ◆「統一⇔分裂サイクル説」に沿って中国史を単純化 1. 統一期I 夏~殷~西周 2. 分裂期I 春秋~戦国時代 3. 統一期II 秦~漢 4. 分裂期II 六朝時代:三国~西晋~東晋・五胡~南北朝 5. 統一期III 隋~唐 隋・唐は本来は鮮卑系(五胡の一 モンゴル系またはトルコ系) 6. 分裂期III 五代・遼~北宋・遼~南宋・金 遼は契丹(モンゴル系)、金は女真(ツングース系=満州族) 断絶 7. 統一期IV 元 元はモンゴル族 8. 分裂期IV 明・北元(タタール) 北元(タタール、明では韃靼と蔑称した)は漠北に帰還後の元朝明は規模的に元・清の半分で北元との南北分裂期と見るのが妥当 9. 統一期V 清 清は満州族で、北元よりモンゴル族の大汗位を継承 断絶 10. 分裂期V 中華民国 実態は軍閥・革命勢力・独立派諸民族が割拠 11. 統一期VI 中華人民共和国 「5.中華人民共和国の歴史」参照 ◆ 要点 分裂期から次の統一期に入る時に「中華」の範囲が拡大している。 大きな断絶が2回ある。 一回目 元朝(モンゴル族)による征服(漢族王朝の完全消滅)「有徳者への禅譲」または「有徳者による放伐」という王朝変遷の建前もここで完全に消滅し、以降は"腕力[または財力]が全て(=モラル欠落)の社会"となる 二回目 王朝制度そのものの崩壊~共産主義中国の出現(文化大革命に代表される過去の文明の否定) 漢族のアイディンティティは、統一期IIの秦~漢時代にある。 しかし実際には、唐滅亡以降~清滅亡迄の千年間は、漢族は北方民族に圧迫され、また支配されていた期間が圧倒的に長い。 | ⇒唐代までに形成され、日本でも幅広く受容された古典思想が、弱体だった宋朝以降に著しく歪んでいった原因(朱子学イデオロギー:理念先行=現実から遊離した空理空論を弄する欺瞞的国家体質が形成される)。 ⇒20世紀には、これに更に共産主義イデオロギーが加味(中華思想+共産主義=欺瞞的・暴力的国家体質が形成される)。 漢族は北方民族に圧迫され、また支配されていた期間が圧倒的に長いが、元代に京劇の基になる元曲が作られたり、清代に中華料理の代表格である皇帝のための「満漢全席」やチャイナドレス(満州服)が作られるなど全てが暴虐な政治に結びつき停滞する漢族の文化は異民族頼りで発展してきた由来がある。このように自力では破壊と殺戮ばかりで停滞し外国人に頼って発展した例は数多い。イギリス領香港もその一例である。大日本帝国との関係もこのような例は枚挙いとわない。 中国は日本の権威(天皇)と権力(首相・征夷大将軍・摂政関白など)が分離している政治形態(姓を持たない天皇の継続により万世一系)や西洋と異なり、権威・権力が一体化した独裁者皇帝による支配者の姓や民族さえ変わる「易姓革命」(易族革命)の歴史を持つ。結果、暴君が多く王朝の変わり目の戦乱などで虐殺・弾圧の歴史が繰り返される。 ◆王朝の滅亡原因 1 内乱型(貴族や宦官の専横・党争等で国が乱れ、農民が匪賊化し大乱が発生、豪族や鎮圧軍が各地で軍閥化して内部崩壊)⇒秦(陳勝呉広の乱)・漢(黄巾の乱)・隋・唐(黄巣の乱)・元(紅巾の乱…厳密には北帰で滅亡ではない)・明(李自成の乱)・清(辛亥革命) 2 異民族侵入型⇒西周(犬戎の侵入で東遷)・西晋(五胡の侵入で南遷)・北宋(金の圧迫で南遷)・・・厳密には、これらは滅亡ではない。 3 従って厳密な異民族侵入型(異民族征服型)は、次の一件のみ⇒南宋(元に征服されて滅亡)※なお清は征服王朝だが、明を直接征服した訳ではなく、明を滅ぼした李自成(農民反乱)を討伐して漢土の支配を確立。 2.中国文明考I:女性的感性の欠落(跛行性) | 日本と中国の精神文化には強い共通性があり、その殆どは中国起源だとする刷り込みが、①マスコミ、②教育を通じて頻繁に行われている。 しかし最近のチベット虐殺や毒入り餃子事件の件で分かる様に、中国の精神文化は、実は日本とは決定的に違う事を、この際しっかり認識しておこう。 | 神話の時代からそうだが、日本や欧州の文明では社会や人間の精神的発達に於いて当然ながら「女性」の貢献が極めて大きい。 特に日本は10世紀の昔から紫式部の源氏物語や清少納言の枕草子を始めとする女性文化が発達している。 そのため、「大和撫子」や「才色兼備」に相当する言葉は世界的にみても日本しか存在しない。これは西洋にもない現象で世界に誇る文化である。 (1) 日本の場合 日本神話 天照大神、神功皇后など 日本文化史 額田王、紫式部、清少納言、菅原考標娘、樋口一葉、与謝野晶子など 日本政治史 卑弥呼、推古女帝、光明皇后、北条政子など (2) 欧州の場合 欧州神話 ヘラ、アフォロディテ、アテナ(希)など。あるいは北欧神話のオンディーヌ、聖書のイブ・マリア 欧州文化史 エレオノール=ダキテーヌ(仏)、マリアンナ=アルカフォラド(葡)、ラ=ファイエット夫人(仏)、J.オースティン(英)、ブロンテ姉妹(英)など 欧州政治史 イザベル女王(西)、エリザベス女王(英)、ビクトリア女帝(英)、ポンパドォール夫人(仏)、エカテリーナ女帝(露)、マリア=テレサ(墺)など これに対して中国はどうか。 (3) 中国の場合 中国神話 ホウジ、ダッキ(艶女・暴君タイプ) 中国文化史 無し 中国政治史 呂后、武則天(則天武后)、西大后(暴君タイプ)虞美人、楊貴妃、陳円円(艶女タイプ) | つまり、神話・実在を問わず、中国史に登場する女性は、男を凌ぐほど残虐な暴君タイプか、男の都合のままに流されて生きる艶女タイプしかない。 おそらく今に至るも男尊女卑の風習が強烈なために(それを儒教的伝統と言うのだが)、中国は 自称 4000年近い長い歴史を誇るにもかかわらず、日本や欧州のように女性の感性を核とする柔構造の文化をついぞ生み出し発展させることが出来ず、それゆえ弱者への優しさを欠いた跛行的な文明となってしまった、と結論づけられる。 | 20世紀初頭に至っても、魯迅「阿Q正伝」の精神世界に留まっていたのである(そしてそれは、本質的には今も変わっていない)。 残虐・好色・貪欲の3つに特徴づけられ、女性的感性を欠く跛行した文明が中国文明の本質である。 最近のチベット虐殺や四川省大地震に対する偏向報道は以上の根拠を益々強めるものである。 3.中国文明考II:騎士道精神(あるいは日本風に言えば武士道精神)の欠落 | 漢から六朝を経て隋唐へと連綿と続いた中国の古代貴族制社会は、中唐期の節度使の勢力強大・分立をもって動揺し、晩唐の黄巣の乱を期に崩壊する。 その後、五代十国の時代を経て北宋による統一を迎えるまでの約一世紀(870-980頃)を、中国史上の「武人の時代」と呼ぶ。 同時期に、日本では武士階級の興起があり、西欧でも騎士階級による封建社会の形成の動きがあった。 | しかし中国の場合は、おそらく北方民族からの圧力が強力であったために、日本や西欧のように封建諸侯が分立したまま国家を存続させることが困難で、本来は武人勢力の一角に過ぎなかった宋朝による統一が促進され、統一の達成後は、再び国を分裂させないために、唯一絶対の皇帝権の下で武人階級の抑圧が起こってしまった。 結局、中国は中世的封建制社会を形成するに至らないまま、近世的な官僚制皇帝専制国家に移行してしまった。 | つまり、日本的な武士道精神や西欧的な騎士道精神が後の世代が頼り・誇りとする精神的遺産として形成されなかったのである。 | では、中国社会に存在する武士道(騎士道)に替わる精神的遺産とは何か? それは、私の見るところ「任侠道」である。 楚漢抗争の物語を読んでも、三国史演義を見ても、あるいは後世の水滸伝の世界を観察しても、そこにあるのは義兄弟の誓い等の「任侠道」すなわち「ヤクザの精神世界」である。 これは、武士道や騎士道を特徴づける死や犠牲を超越した精神的美学・美意識が欠落した、自己保存と利益万能を特徴とするご都合主義の精神文化といえる。 | 台湾を民主化した李登輝前総統が、中国を「土匪国家」と形容したことがあるが、まさに「任侠道」にもとづくヤクザ(匪賊)が成り上がって国家権力を掌握して出発したのが今の中国である、と言うと言い過ぎであろうか。 しかし、中国の国家の成立を見ると、由緒ある古代王朝の系統は、B.C.2世紀の秦の滅亡で完全に絶たれ、それ以降は、 外来民族による征服国家(鮮卑系の北魏・隋・唐、モンゴル系の遼・元、満州族の金・清) もしくは 土匪の成り上がり国家(漢、五代の後梁、明、共産党支配化の現中国) ばかりである(なお、宋は五代の軍閥出身、中華民国も軍閥及び国民党の連合政権)。 | 多くの日本人が持つ疑問「中国は何故近代に乗り遅れたのか?」の答えが、I.(女性的感性の欠如)、II.(武士道精神の欠落)にある。 4.中国文明考Ⅲ:遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行 | 現代では政府の正統性は、選挙などを通して自由に表明される国民の信認によって付与される。それは国土の大小や人口の寡多や経済力・政治力などの強弱には制約されない世界共通の認識といってよいだろう。 中共政府は自国民の人権を不当に制約する言い訳として、自国が人口過剰な発展途上国であることを挙げるが、それでは「世界最大の民主主義国家」を自認するインドの発展振りはどう説明するのか。中国が直ちに民主化できない理由は一切ないのである。 中国が民主化しない理由は、今や特権階級となった共産党上層部が圧倒的多数の人民を支配する体制を維持するためであって、現在の中共政府に国家統治の正統性があるとは、とても思えない。そして、 | 政府に正統性がない所では、国民が遵法精神を持ちようがないのである。 加えて、中国の場合は、国家自体が何度も途絶しており歴代王朝の正統性が元々怪しく、日本や西欧のように長期にわたって国家と国民の信頼関係が醸成されるという発展過程が乏しかった、という背景もある (「1.単純明快:中国史」参照)。 | 中国の庶民に最も人気のある歴史上の人物といえば、南宋初期の武人"精忠報国"岳飛である。 日本で言えば楠木正成に相当する、南宋皇帝高宗に最後まで忠義を尽くした人物だが、彼の場合、実に悲劇的なのは、金朝(女真族)との戦闘自体には勝利目前だったのに、自分が忠義を尽くしている筈の南宋宮廷の謀略に嵌められて、無実の罪で一族もろとも刑死させられた事である。(ただし、中国の忠義は日本の公と異なり、皇帝や宮廷といった絶対的な権力者のためのもの。) 中国の歴史には、このような著しいモラル・ハザードが、枚挙にいとまない。 日本人にも親しみのある例で言えば、忠孝を尽くした劉備・孔明の側ではなく、権勢欲と謀略の権化であった曹操・司馬仲達の側が勝ち続けて栄華を手にするのが中国の常態であり、そのような社会では、美辞麗句を連ねる儒教などの建前とは裏腹に「正義感や信義誠実を尊ぶ精神が育ちようがない」のは当然である。 尚、中華民国・中華人民共和国時代は曹操・司馬仲達が中国人に好まれ国の元首から庶民まで生き方の手本となった。また、劉備にも戦乱の逃亡時の際、漁師の劉安の妻を食べた食人の要素や孔明にも孟獲を自称「徳」で征服した南蛮征伐、劉備が息子の劉禅(阿斗)が無能ならば孔明が政権を奪っていいと言った遺言など中国的な要素が強く日本人の考える忠孝とは大きく逸脱する残酷な話が多い。 | ※なお、岳飛については朱子学に基づく中華国粋的傾向が見られ、彼と対立した礼部尚書(文部大臣)・秦檜(皇帝高宗と南宋宮廷の謀略の側面もあり)が金に対して和平交渉を試みたのに対し、岳飛一党が軍事的に弱体でありながら無駄な局地戦を続けたために国や民衆が疲弊し、南宋の滅亡を早める結果となったとする指摘もある。秦檜の行動により両国の戦乱が治まり南宋は繁栄したのも事実である。 岳飛の上司であり局地戦の指揮官であった韓世忠などについても同様である。漢人の岳飛信仰の根底には、中華思想による異民族国家(女真(ツングース系=満州族))金朝への蔑視があり、相手と屈辱的な和平を結ぶよりも、実状を無視して徹底抗戦し敵を虐殺する岳飛を、正当化し美化・信仰してきた側面がある。 これは後に南宋を滅ぼしたモンゴル帝国こと後の元朝(モンゴル族)に対しても同様である。日本のような「死ねば神仏になる」考え(山川草木愁皆成仏)とは真逆の中国の「死者の墓を暴き、骨や遺体を徹底的に痛めつけ魂まで食らい未来永劫呪う」強烈な独善思考=鞭屍、恨み骨髄までは、岳飛に対抗して和平交渉を行った秦檜とその妻王氏(他に張俊、万俊(モチシエ)などの5奸族)の墓や像に、現在でも観光客が唾を吐きかける、小便をするなどという徹底的な侮蔑を伴っており、このため三国志などと違い、岳飛の物語が日本ではあまり受け入れられない要因となっている。秦檜と同様に扱われる者に明末の清に合流した呉三桂、岳飛と同様に扱われる南宋の史可法、明末の文天祥がそれぞれ奸族(漢奸)、英雄とされる。 また、仇敵(=異民族、外国人、またはそれと組んだ者)を未来永劫許さずその肉(屍肉)を食らう思想は岳飛を描いた「隔簾花影」でも揚州市民が漢奸(金人)を食らう描写を岳飛が賛美したものも見られる。この岳飛の「満江紅」の詞は今でも中国人の間で詠われている。 5.中国文明考IV:支配者や自分の都合によって変わる独善的な歴史認識 | 中国における歴史観は、日本人のそれとは大きく異なり、歴史人物の評価が時の権力者や時勢により大きく変貌・逆転し、突如大悪人=漢奸が大善人・英雄となったり、逆に大善人・英雄が大悪人=漢奸となる現象が度々起こる。 中共政府も鄧小平政権時代には文化大革命を礼賛する文化人が切り捨てられる結果となった。これは中華思想・事大主義に端を発する側面もあり韓国はなぜ反日か?と共通する点も多い。 | 前述の岳飛も当時は大罪人にあり秦檜の方が評価されたにも関わらず、後世になると以上のように逆転している。 暴君と詠われる秦の始皇帝(政)も文革時代は最大の名君であり、儒教の開祖・孔子(孔丘)は五四運動の際は封建主義の元凶に文革時代には「批林批孔」のスローガンと共に反動派の頭領とされた。 反動的・封建的人物と言われる西太后(慈禧太后)や曾国藩や袁世凱も改革者や愛国者に変わった。近年では共産党と対立した国民党の蒋介石や彼と対立し、死後秦檜夫婦のような弾圧を受ける汪兆銘(汪精衛)は共に売国奴と愛国者の間に見解が変動している。 彼は秦檜同様、当時の日本政府や日本軍と和平交渉や協力を行ったため、売国奴と呼ばれるようになった。 このように中国は外国人・異民族と徹底抗戦することを望む好戦的で残忍な性格が顕著である。 また、英雄と呼ばれた鄭成功は分裂主義者に変わる。このように独善的で朝令暮改で変動的なのが中国の伝統的な歴史観である。 6.中国文明考V:誠・和の精神の欠如(欲望最大・自己中心・道徳最低)、意味不明(相手によって意味の変わる)な仁、「詐」の文化 | 上に挙げる「遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行」とも共通する。孔子(孔丘)の論語の五倫(仁・義・礼・智・信)は日本に伝来した時、聖徳太子により「和・義・礼・智・信」に変更されている。 武士道の代表とされる誠も取り入れられ、「誠・義・礼・智・信」とも後世には呼ばれた。長年、仁は意味不明の徳目とされ、強盗(匪族)には強盗の仁があるとまで言われ、時代ごとにその意味は変更された。仁は日本でもヤクザ(任侠)が好んで用いる物とされる。 中国では詐術・謀略の横行や大虐殺、匪賊の跋扈などにより誠心誠意に代表される『誠』(まごごろ・いつわりのない心)やみんな仲良く手を取り合う『和』(穏やかさ・なごやかさ・のどかさ)が欠如しており、嘘をつくことや人を騙すことが当然とされ、現在でも台湾などでは「詐」の国と呼ばれる。 詐以外にも争・盗・乱・穢の性質を持つ。 7.中華人民共和国の歴史 ◆毛沢東の中国:大いなる実験 ◇1 (1950年代まで) 貧困に苦しむ農民、蒋介石の国民党政府(1928)、中産階級と農民の格差、共産党の台頭と国民党による弾圧、抗日戦争と国共合作(1937-1945)、毛沢東・共産党と農民、国共内戦(1945-1949)、国民党の敗北・台湾へ逃避、中華人民共和国の成立(1949)、プロパガンダと思想教育 ◇2 (1958年頃まで) 農地改革と農民、地主の告発集会と処刑、実業家から実質的資産没収、女性の権利拡充、教育、プロパガンダと国民総動員体制、雀撲滅運動、反革命分子告発キャンペーン ◇3 (大躍進政策1958-1960) 人民公社への統合、農工業の大増産政策、人民への厳しいノルマと水増しされた成果、無茶な粗鉄増産、飢饉による大量の餓死者、劉少奇、農民の土地私有復活、生活の正常化 ◇4 (文化大革命1 1966-1967) 毛沢東語録、長江遊泳、伝統文化の破壊、プロレタリア文化大革命、江青女史ら四人組と毛沢東への個人崇拝、原理主義的学生と紅衛兵、劉少奇ら実権派への中傷キャンペーン、 知識層・管理者層のつるしあげ・暴行、走資派レッテルと告発集会 ◇5 (文化大革命2 1967-1989) 過激化する紅衛兵、リンチを受けた女性校長、大量の処刑と自殺、内部抗争する紅衛兵、 学校・病院・工場閉鎖、無政府状態、秩序回復のため人民解放軍の投入、紅衛兵運動停止(1968)、上山下郷運動、毛沢東の死(1976)、四人組逮捕、鄧小平の経済改革 、天安門事件(1989) ◆天安門事件(第二次天安門事件、1989年6月4日) 天安門事件 2/3 天安門事件 3/3 http //www.nicovideo.jp/watch/sm7258151 http //www.nicovideo.jp/watch/sm2129074 天安門事件関係ニュースが流れると放送を止められる瞬間 六四事件(天安門事件)を忘れてはならない 毋忘六四 ※一部グロテスクな画像があります。ご注意下さい。解説⇒ ぼやきくっくり様HP ※ところが、NHKクローズアップ現代は「大規模な虐殺はなかった」と中国を庇う捏造報道⇒NHKの正体 ◆中国共産党の正体(九評共産党)・・・中国共産党とは何者なのか?「大紀元」(法輪功(Falun Gong))製作 中国共産党の正体(九評共産党)① 中国共産党の正体(九評共産党)② 中国共産党の正体(九評共産党)③ 中国共産党の正体(九評共産党)④ ※大紀元社説シリーズ『共産党についての九つの論評』 【第一評】共産党とは一体何ものか 暴力による恐怖によって政権を奪取し維持する 虚言を以って暴力の潤滑剤と成す 絶えず変化する立場と原則 党性(党是)が人間性に取って代わり、人間性を消滅させる 自然に反し、人間性に反する邪悪な生命体 邪悪な憑き物の特性 自己を反省し、中国共産党の憑き物から逃れる ■参考サイト 丸幸亭老人のシナにつける薬 8.補講 1.「中国4000年の歴史」というのは真っ赤な嘘。国が連続していない。 中華人民共和国は63年の歴史。(前の中華民国は100年) 国がきれたのは、13世紀後半のモンゴル人による植民地支配(大モンゴル国時代)。 中国人最大のトラウマ 。 4000年というのは、中華思想によって漢民族・モンゴル・満州民族なども混ぜた上での考え方。チベットが中国というのと同じ。支那の語源・秦でも2000年ほどの歴史をブツ切りにしたものでしかない。存在すら疑わしい伝説上の「夏」などの古代王朝も含めて4000年とされた。 ちなみに、パンダは中国がチベットから盗んだもの。 日本は、皇紀2600年以上の連続した国の歴史がある、世界でもっとも歴史のある奇跡的な国。ユネスコ入りすべき。 2.「国」が始ったのは1912年。それ以前は「国」の概念もない、点の歴史のみ。 国という観念はなかった。広い場所に要塞で囲った町、王朝名があったのみ。 単品の王朝の歴史は古いが国全体の歴史は浅く、それらが都合良く書き換えられている。 「日本人は、自分達と同じように連続した歴史の中にある」と勘違いしている。 それを現代の中国が「国」という概念に歴史を書き直している。 1907年の早稲田大学の清国留学生62人は、自分の国籍について、支那18人、清国12人、中華&中国7人、残り25人は自分が何国人かも書けなかった。 漢人の歴史トラウマ 3.中国は歴史が真っ直ぐ続いていない。少数民族の歴史を乗っ取って偉そうにしているだけ。 漢民族は、どんどん他の民族を乗っ取り搾取して成立してきた国。 「漢字を使うのは、中国のもの」という思想の元、都合の良い時には乗っ取り、いらない時は切り捨てる。 土地の6割は元少数民族。(中国の土地ではなかった) 4割の土地の持ち主の漢民族が、人口の9割をしめて乗っ取っている! どうして乗っ取るかというと、資源が欲しいから。チベット(水や空気)ウイグル(石炭石油・ガス)モンゴル(油田)→これらはみんな中国のものだから、と共産党が奪う 台湾、沖縄も取りにくるだろう。 4.乗っ取り潰して入れ替る、そしてそれを繰り返す野蛮王朝。 独裁者が王朝が支配、謀反人や狂信集団がそれを潰して新しい独裁者となり、それを繰り返す。 独裁者は自分の正当性を言うために、前の独裁者に関わる物を皆殺し、文化を吐かして歴史を書き換える。 王朝が変わるために文化財を破壊するから、墓しか残らない。その墓も盗掘が多い。 王朝が変わるたびに人口が大きく減る。飢饉や大量殺戮、人を食わせて全滅させたりが日常茶飯事の国→だから中国人は、生きるために他人を信用しない。幸災楽禍=他人の不幸を喜ぶ精神を持つ。 日本は、殺し尽くさないで調和する考え方(島国だから&許し、水に流す&死者を冒涜しない) 天皇の部下としての武士達が戦う事はあっても、武士は天皇に手を出さないし、武士同士で戦っても皆殺しにはしない。 5.日本文化と中国文化の関係 中国は自分の文化を自分で潰しまくった(文化大革命では孔子孟子を否定し、本は焼かれた) 日本は、どんどん研究していく文化があり、独自の文化になった(漢字など)。 中国共産党は孔子を否定していたが、急に持ち上げ孔子学院(語学学校)を世界2000カ所に設立。 江戸時代以来、論語の本家は日本に移った(実行と解釈の深さ) 唐などの中国の歴代王朝は陸禁・海禁といった徹底した閉鎖的な世界を築いており中華思想で夷狄とみなし見下す外国から文化を取り入れたり、朝貢貿易の分以上に外に出すことはしなかった。諸外国は中国の歴代王朝から高額な金や臣下の礼を強制される屈辱的な外交でぼられたといえる。 他人や国のために生命を投げ出す「玉砕」は.日本文化、中国文化は時の権力者の趨勢で他人を裏切り、新たな支配者の奴隷になる「瓦全」。(これは朝鮮(韓国)人も同じ。) 日本と中国は理解しあえない 著者 日下公人,石平 6.残虐思想の歴史、食人文化、儒教と官僚制度、中華思想&共産党 中国残虐史、人肉料理文化 儒教には万人平等という思想がない。少数のエリートが多くの愚かな民衆を統治するべきという官尊民卑の思想。 7.中国は国家としてまとまってない。2つに分かれている。 支配階級(搾取する側)と搾取される階級(田舎、農民) これらはとても仲が悪い。内部をまとめるだけで大変。マスコミや中国は隠しているが、そのうちボロがでる。 9.ご意見、情報提供 http //www.youtube.com/watch?v=kt5ex3gZtRI -- 名無し (2011-11-01 15 23 00) 誹謗の発言はやめた方がいいのでは?幼稚しか思えないのです。 -- あんまりでございます (2012-01-14 23 58 19) ↑具体的に誹謗している場所を教え下さい。内容によっては訂正しますよ。 -- ある編集部員 (2012-01-15 13 33 28) 訂正の箇所無し 彼らが自国の歴史を理解しようとしない限り戦後から続く対日外交策はかわらないでしょう それをすると国が崩壊するのか? -- 日本人 (2012-11-14 22 26 00) 今ある日本の古楽器・文字も中国の恩恵です。下に見すぎているのでは? -- たか (2012-12-07 05 21 49) ↑中国の恩恵なんてない。隋、漢、唐、宋の間違いじゃないかな。 -- Ronald (2013-01-12 12 00 06) 中国4000年の歴史、すなわち迷惑4000年の歴史 -- 国際平和の為に (2013-04-30 10 35 15) 任侠はヤクザ思想という展開が論理的に弱いと感じる。私としては関羽みたいな真の意味での任侠が先にあり、ヤクザの方が勝手にそれを言い出したのではないかと疑っている所だ -- 名無しさん (2013-05-15 11 32 01) 中華ってのは国家の文化ではなく地域の文化だろ?それを -- 名無しさん (2013-09-04 05 00 05) 現中国が建国63年だから中国4000年の歴史はおかしいとかいうのはナンセンスだろ -- 名無しさん (2013-09-04 05 04 57) さらに言えば地域でなく国ごとに歴史を考えるなら、日本も時代ごとに主権者は変わっており実質的に「~時代」毎に国が変わってるようなもんなんだから最後に主権者が変わった時から数えて日本も70年弱の歴史ってことにしないとおかしいことになる -- 名無しさん (2013-09-04 05 06 30) 上の意見には全く同感で、60数年のうちに中華人民共和国民が全く0の所から漢字など中国語を考案し、万里の長城を築き、孔子が儒教を説いて・・・とした訳ではないから63年しか歴史が無いとするのは無理がある -- 名無しさん (2013-09-28 17 55 57) 陳恵運 野村旗守 共著の「中国は崩壊しない…」に、現在中国で使われている二字熟語の7割が日本からの輸入だとある。中華も人民も共和国も、日本人が考案した単語だそうだ。 -- 漢字? (2013-10-11 16 39 56) 彼らは所謂反日感情とやらで日本製品を破壊しテロを行う。ならば北京空港と浦東空港を破壊すれば良い。全額日本のお金で作られたものなのだから。 -- 日本製品 (2013-10-11 16 47 47) 「中国史の真実」に関しては、様々な本が出ているようですが、わざわざ本を購入する程の重要性を感じない、私のような人間には、手軽に読めるこのサイトは、大変助かります。漢籍から受ける中国と中国人に対する印象が如何に的はずれなものであるかを、実感させてもらいました。中国古典古代の文化を引き継いでいるのは、むしろ日本と言えるのかもしれませんね。今後、このような視点での議論も期待します。 -- 周梨槃特 (2013-10-27 19 58 08) 名前 コメント ■自虐史観から完全に目覚めるために!セットで読む歴史問題・解説ページ 中国の歴史・中国文明 辛亥革命~中国近代化運動の実際 中国はなぜ反日か? 自虐史観の正体 GHQの占領政策と影響 大東亜戦争への経緯 南京大虐殺の正体 沖縄戦集団自決命令問題 韓国はなぜ反日か? 日韓併合の真実 偏向教科書の正体 NHKの正体 靖國神社と英霊の御心 教育勅語とその精神 右翼・左翼の歴史 戦後レジームの正体 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 政治の基礎知識 歴史問題の基礎知識 ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ 当サイトは、日本人の自虐史観(東京裁判史観)からの完全脱却を応援します。 当サイトは日本唯一の愛国放送・チャンネル桜を応援しています! ■セットで読む中国の民族問題解説ページ■東トルキスタン侵略の正体チベット侵略の正体南モンゴル侵略の正体台湾の真実中国の歴史・中国文明辛亥革命~中国近代化運動の実際
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目次 1.単純明快 中国史 2.中国文明考I:女性的感性の欠落(跛行性) 3.中国文明考II:騎士道精神(あるいは日本風に言えば武士道精神)の欠落 4.中国文明考Ⅲ:遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行 5.中国文明考IV:支配者や自分の都合によって変わる独善的な歴史認識 6.中国文明考V:誠・和の精神の欠如(欲望最大・自己中心・道徳最低)、意味不明(相手によって意味の変わる)な仁、「詐」の文化 7.中華人民共和国の歴史 8.補講1.「中国4000年の歴史」というのは真っ赤な嘘。国が連続していない。 2.「国」が始ったのは1912年。それ以前は「国」の概念もない、点の歴史のみ。 3.中国は歴史が真っ直ぐ続いていない。少数民族の歴史を乗っ取って偉そうにしているだけ。 4.乗っ取り潰して入れ替る、そしてそれを繰り返す野蛮王朝。 5.日本文化と中国文化の関係 6.残虐思想の歴史、食人文化、儒教と官僚制度、中華思想 共産党 7.中国は国家としてまとまってない。2つに分かれている。 9.ご意見、情報提供 1.単純明快 中国史 ◆「統一⇔分裂サイクル説」 に沿って中国史を単純化 1. 統一期I 夏~殷~西周 2. 分裂期I 春秋~戦国時代 3. 統一期II 秦~漢 4. 分裂期II 六朝時代:三国~西晋~東晋・五胡~南北朝 5. 統一期III 隋~唐 隋・唐は本来は鮮卑系(五胡の一 モンゴル系またはトルコ系) 6. 分裂期III 五代・遼~北宋・遼~南宋・金 遼は契丹(モンゴル系)、金は女真(ツングース系=満州族) 断絶 7. 統一期IV 元 元はモンゴル族 8. 分裂期IV 明・北元(タタール) 北元(タタール、明では韃靼と蔑称した)は漠北に帰還後の元朝明は規模的に元・清の半分で北元との南北分裂期と見るのが妥当 9. 統一期V 清 清は満州族で、北元よりモンゴル族の大汗位を継承 断絶 10. 分裂期V 中華民国 実態は軍閥・革命勢力・独立派諸民族が割拠 11. 統一期VI 中華人民共和国 「5.中華人民共和国の歴史」参照 ◆要点 分裂期から次の統一期に入る時に「中華」の範囲が拡大している。 大きな断絶が2回ある。 一回目 元朝(モンゴル族)による征服(漢族王朝の完全消滅)「有徳者への禅譲」または「有徳者による放伐」という王朝変遷の建前もここで完全に消滅し、以降は"腕力[または財力]が全て(=モラル欠落)の社会"となる 二回目 王朝制度そのものの崩壊~共産主義中国の出現(文化大革命に代表される過去の文明の否定) 漢族のアイディンティティは、統一期IIの秦~漢時代にある。 しかし実際には、唐滅亡以降~清滅亡迄の千年間は、漢族は北方民族に圧迫され、また支配されていた期間が圧倒的に長い。 | ⇒唐代までに形成され、日本でも幅広く受容された古典思想が、弱体だった宋朝以降に著しく歪んでいった原因(朱子学イデオロギー:理念先行=現実から遊離した空理空論を弄する欺瞞的国家体質が形成される)。 ⇒20世紀には、これに更に共産主義イデオロギーが加味(中華思想+共産主義=欺瞞的・暴力的国家体質が形成される)。 ◆王朝の滅亡原因 1 内乱型(貴族や宦官の専横・党争等で国が乱れ、農民が匪賊化し大乱が発生、豪族や鎮圧軍が各地で軍閥化して内部崩壊)⇒秦(陳勝呉広の乱)・漢(黄巾の乱)・隋・唐(黄巣の乱)・元(紅巾の乱…厳密には北帰で滅亡ではない)・明(李自成の乱)・清(辛亥革命) 2 異民族侵入型⇒西周(犬戎の侵入で東遷)・西晋(五胡の侵入で南遷)・北宋(金の圧迫で南遷)・・・厳密には、これらは滅亡ではない。 3 従って厳密な異民族侵入型(異民族征服型)は、次の一件のみ⇒南宋(元に征服されて滅亡)※なお清は征服王朝だが、明を直接征服した訳ではなく、明を滅ぼした李自成(農民反乱)を討伐して漢土の支配を確立。 2.中国文明考I:女性的感性の欠落(跛行性) | 日本と中国の精神文化には強い共通性があり、その殆どは中国起源だとする刷り込みが、マスコミ・教育を通じて頻繁に行われている。 しかし最近のチベット虐殺や毒入り餃子事件の件で分かる様に、中国の精神文化は、実は日本とは決定的に違う事を、この際しっかり認識しておこう。 | 神話の時代からそうだが、日本や欧州の文明では社会や人間の精神的発達に於いて当然ながら「女性」の貢献が極めて大きい。 (1)日本の場合 日本神話 天照大神、神功皇后など 日本文化史 額田王、紫式部、清少納言、菅原考標娘、樋口一葉、与謝野晶子など 日本政治史 卑弥呼、推古女帝、光明皇后、北条政子など (2)欧州の場合 欧州神話 ヘラ、アフォロディテ、アテナ(希)など。あるいは北欧神話のオンディーヌ、聖書のイブ・マリア 欧州文化史 エレオノール=ダキテーヌ(仏)、マリアンナ=アルカフォラド(葡)、ラ=ファイエット夫人(仏)、J.オースティン(英)、ブロンテ姉妹(英)など 欧州政治史 イザベル女王(西)、エリザベス女王(英)、ビクトリア女帝(英)、ポンパドォール夫人(仏)、エカテリーナ女帝(露)、マリア=テレサ(墺)など これに対して中国はどうか。 (3)中国の場合 中国神話 ホウジ、ダッキ(艶女・暴君タイプ) 中国文化史 無し 中国政治史 呂后、武則天(則天武后)、西大后(暴君タイプ)虞美人、楊貴妃、陳円円(艶女タイプ) | つまり、神話・実在を問わず、中国史に登場する女性は、男を凌ぐほど残虐な暴君タイプか、男の都合のままに流されて生きる艶女タイプしかない。 おそらく今に至るも男尊女卑の風習が強烈なために(それを儒教的伝統と言うのだが)、中国は自称 4000年近い長い歴史を誇るにもかかわらず、日本や欧州のように女性の感性を核とする柔構造の文化をついぞ生み出し発展させることが出来ず、それゆえ弱者への優しさを欠いた跛行的な文明となってしまった、と結論づけられる。 | 20世紀初頭に至っても、魯迅「阿Q正伝」の精神世界に留まっていたのである(そしてそれは、本質的には今も変わっていない)。 残虐・好色・貪欲の3つに特徴づけられ、女性的感性を欠く跛行した文明が中国文明の本質である。 最近のチベット虐殺や四川省大地震に対する偏向報道は以上の根拠を益々強めるものである。 3.中国文明考II:騎士道精神(あるいは日本風に言えば武士道精神)の欠落 | 漢から六朝を経て隋唐へと連綿と続いた中国の古代貴族制社会は、中唐期の節度使の勢力強大・分立をもって動揺し、晩唐の黄巣の乱を期に崩壊する。 その後、五代十国の時代を経て北宋による統一を迎えるまでの約一世紀(870-980頃)を、中国史上の「武人の時代」と呼ぶ。 同時期に、日本では武士階級の興起があり、西欧でも騎士階級による封建社会の形成の動きがあった。 | しかし中国の場合は、おそらく北方民族からの圧力が強力であったために、日本や西欧のように封建諸侯が分立したまま国家を存続させることが困難で、本来は武人勢力の一角に過ぎなかった宋朝による統一が促進され、統一の達成後は、再び国を分裂させないために、唯一絶対の皇帝権の下で武人階級の抑圧が起こってしまった。 結局、中国は中世的封建制社会を形成するに至らないまま、近世的な官僚制皇帝専制国家に移行してしまった。 | つまり、日本的な武士道精神や西欧的な騎士道精神が後の世代が頼り・誇りとする精神的遺産として形成されなかったのである。 | では、中国社会に存在する武士道(騎士道)に替わる精神的遺産とは何か? それは、私の見るところ「任侠道」である。 楚漢抗争の物語を読んでも、三国史演義を見ても、あるいは後世の水滸伝の世界を観察しても、そこにあるのは義兄弟の誓い等の「任侠道」すなわち「ヤクザの精神世界」である。 これは、武士道や騎士道を特徴づける死や犠牲を超越した精神的美学・美意識が欠落した、自己保存と利益万能を特徴とするご都合主義の精神文化といえる。 | 台湾を民主化した李登輝前総統が、中国を「土匪国家」と形容したことがあるが、まさに「任侠道」にもとづくヤクザ(匪賊)が成り上がって国家権力を掌握して出発したのが今の中国である、と言うと言い過ぎであろうか。 しかし、中国の国家の成立を見ると、由緒ある古代王朝の系統は、B.C.2世紀の秦の滅亡で完全に絶たれ、それ以降は、 (1) 外来民族による征服国家 (鮮卑系の北魏・隋・唐、モンゴル系の遼・元、満州族の金・清)もしくは (2) 土匪の成り上がり国家 (漢、五代の後梁、明、共産党支配化の現中国) ばかりである(なお、宋は五代の軍閥出身、中華民国も軍閥及び国民党の連合政権)。 | 多くの日本人が持つ疑問「中国は何故近代に乗り遅れたのか?」の答えが、I.(女性的感性の欠如)、II.(武士道精神の欠落)にある。 4.中国文明考Ⅲ:遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行 | 現代では政府の正統性は、選挙などを通して自由に表明される国民の信認によって付与される。それは国土の大小や人口の寡多や経済力・政治力などの強弱には制約されない世界共通の認識といってよいだろう。 中共政府は自国民の人権を不当に制約する言い訳として、自国が人口過剰な発展途上国であることを挙げるが、それでは「世界最大の民主主義国家」を自認するインドの発展振りはどう説明するのか。中国が直ちに民主化できない理由は一切ないのである。 中国が民主化しない理由は、今や特権階級となった共産党上層部が圧倒的多数の人民を支配する体制を維持するためであって、現在の中共政府に国家統治の正統性があるとは、とても言えない。そして、 | 政府に正統性がない所では、国民が遵法精神を持ちようがないのである。 加えて、中国の場合は、国家自体が何度も途絶しており歴代王朝の正統性が元々怪しく、日本や西欧のように長期にわたって国家と国民の信頼関係が醸成されるという発展過程が乏しかった、という背景もある (「1.単純明快 中国史」参照)。 | 中国の庶民に最も人気のある歴史上の人物といえば、南宋初期の武人"精忠報国"岳飛である。 日本で言えば楠木正成に相当する、南宋皇帝高宗に最後まで忠義を尽くした人物だが、彼の場合、実に悲劇的なのは、金朝(女真族)との戦闘自体には勝利目前だったのに、自分が忠義を尽くしている筈の南宋宮廷の謀略に嵌められて、無実の罪で一族もろとも刑死させられた事である。(ただし、中国の忠義は日本の公と異なり、皇帝や宮廷といった絶対的な権力者のためのもの。) 中国の歴史には、このような著しいモラル・ハザードが、枚挙にいとまない。 日本人にも親しみのある例で言えば、忠孝を尽くした劉備・孔明の側ではなく、権勢欲と謀略の権化であった曹操・司馬仲達の側が勝ち続けて栄華を手にするのが中国の常態であり、そのような社会では、美辞麗句を連ねる儒教などの建前とは裏腹に「正義感や信義誠実を尊ぶ精神が育ちようがない」のは当然である。 尚、中華民国・中華人民共和国時代は曹操・司馬仲達が中国人に好まれ国の元首から庶民まで生き方の手本となった。 | ※なお、岳飛については朱子学に基づく中華国粋的傾向が見られ、彼と対立した礼部尚書(文部大臣)・秦檜(皇帝高宗と南宋宮廷の謀略の側面もあり)が金に対して和平交渉を試みたのに対し、岳飛一党が軍事的に弱体でありながら無駄な局地戦を続けたために国や民衆が疲弊し、南宋の滅亡を早める結果となったとする指摘もある。秦檜の行動により両国の戦乱が治まり南宋は繁栄したのも事実である。 岳飛の上司であり局地戦の指揮官であった韓世忠などについても同様である。漢人の岳飛信仰の根底には、中華思想による異民族国家(女真(ツングース系 満州族)金朝への蔑視があり、相手と屈辱的な和平を結ぶよりも、実状を無視して徹底抗戦し敵を虐殺する岳飛を、正当化し美化・信仰してきた側面がある。 これは後に南宋を滅ぼしたモンゴル帝国こと後の元朝(モンゴル族)に対しても同様である。日本のような「死ねば神仏になる」考え(山川草木愁皆成仏)とは真逆の中国の「死者の墓を暴き、骨や遺体を徹底的に痛めつけ魂まで食らい未来永劫呪う」強烈な独善思考=鞭屍、恨み骨髄までは、岳飛に対抗して和平交渉を行った秦檜とその妻王氏(他に張俊、万俊などの5奸族)の墓や像に、現在でも観光客が唾を吐きかける、小便をするなどという徹底的な侮蔑を伴っており、このため三国志などと違い、岳飛の物語が日本ではあまり受け入れられない要因となっている。秦檜と同様に扱われる者に明末の清に合流した呉三桂、岳飛と同様に扱われる南宋の史可法、明末の文天祥がそれぞれ奸族(漢奸)、英雄とされる。 また、仇敵(=異民族、外国人、またはそれと組んだ者)を未来永劫許さずその肉(屍肉)を食らう思想は岳飛を描いた「隔簾花影」でも揚州市民が漢奸(金人)を食らう描写を岳飛が賛美したものも見られる。この岳飛の「満江紅」の詞は今でも中国人の間で詠われている。 5.中国文明考IV:支配者や自分の都合によって変わる独善的な歴史認識 | 中国における歴史観は、日本人のそれとは大きく異なり、歴史人物の評価が時の権力者や時勢により大きく変貌・逆転し、突如大悪人=漢奸が大善人・英雄となったり、逆に大善人・英雄が大悪人=漢奸となる現象が度々起こる。 中共政府も鄧小平政権時代には文化大革命を礼賛する文化人が切り捨てられる結果となった。これは中華思想・事大主義に端を発する側面もあり韓国はなぜ反日か?と共通する点も多い。 | 前述の岳飛も当時は大罪人にあり秦檜の方が評価されたにも関わらず、後世になると以上のように逆転している。 暴君と詠われる秦の始皇帝(政)も文革時代は最大の名君であり、儒教の開祖・孔子(孔丘)は五四運動の際は封建主義の元凶に文革時代には「批林批孔」のスローガンと共に反動派の頭領とされた。 反動的・封建的人物と言われる西太后(慈禧太后)や曾国藩や袁世凱も改革者や愛国者に変わった。近年では共産党と対立した国民党の蒋介石や彼と対立し、死後秦檜夫婦のような弾圧を受ける汪兆銘(汪精衛)は共に売国奴と愛国者の間に見解が変動している。 彼は秦檜同様、当時の日本政府や日本軍と和平交渉や協力を行ったため、売国奴と呼ばれるようになった。 このように中国は外国人・異民族と徹底抗戦することを望む好戦的で残忍な性格が顕著である。 また、英雄と呼ばれた鄭成功は分裂主義者に変わる。このように独善的で朝令暮改で変動的なのが中国の伝統的な歴史観である。 6.中国文明考V:誠・和の精神の欠如(欲望最大・自己中心・道徳最低)、意味不明(相手によって意味の変わる)な仁、「詐」の文化 | 上に挙げる「遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行」とも共通する。孔子(孔丘)の論語の五倫(仁・義・礼・智・信)は日本に伝来した時、聖徳太子により「和・義・礼・智・信」に変更されている。 武士道の代表とされる誠も取り入れられ、「誠・義・礼・智・信」とも後世には呼ばれた。長年、仁は意味不明の徳目とされ、強盗(匪族)には強盗の仁があるとまで言われ、時代ごとにその意味は変更された。仁は日本でもヤクザ(任侠)が好んで用いる物とされる。 中国では詐術・謀略の横行や大虐殺、匪賊の跋扈などにより誠心誠意に代表される『誠』(まごごろ・いつわりのない心)やみんな仲良く手を取り合う『和』(穏やかさ・なごやかさ・のどかさ)が欠如しており、嘘をつくことや人を騙すことが当然とされ、現在でも台湾などでは「詐」の国と呼ばれる。 詐以外にも争・盗・乱・穢の性質を持つ。 7.中華人民共和国の歴史 ◆毛沢東の中国:大いなる実験 ◇1 (1950年代まで) 貧困に苦しむ農民、蒋介石の国民党政府(1928)、中産階級と農民の格差、共産党の台頭と国民党による弾圧、抗日戦争と国共合作(1937-1945)、毛沢東・共産党と農民、国共内戦(1945-1949)、国民党の敗北・台湾へ逃避、中華人民共和国の成立(1949)、プロパガンダと思想教育 ◇2 (1958年頃まで) 農地改革と農民、地主の告発集会と処刑、実業家から実質的資産没収、女性の権利拡充、教育、プロパガンダと国民総動員体制、雀撲滅運動、反革命分子告発キャンペーン ◇3 (大躍進政策1958-1960) 人民公社への統合、農工業の大増産政策、人民への厳しいノルマと水増しされた成果、無茶な粗鉄増産、飢饉による大量の餓死者、劉少奇、農民の土地私有復活、生活の正常化 ◇4 (文化大革命1 1966-1967) 毛沢東語録、長江遊泳、伝統文化の破壊、プロレタリア文化大革命、江青女史ら四人組と毛沢東への個人崇拝、原理主義的学生と紅衛兵、劉少奇ら実権派への中傷キャンペーン、 知識層・管理者層のつるしあげ・暴行、走資派レッテルと告発集会 ◇5 (文化大革命2 1967-1989) 過激化する紅衛兵、リンチを受けた女性校長、大量の処刑と自殺、内部抗争する紅衛兵、 学校・病院・工場閉鎖、無政府状態、秩序回復のため人民解放軍の投入、紅衛兵運動停止(1968)、上山下郷運動、毛沢東の死(1976)、四人組逮捕、鄧小平の経済改革 、天安門事件(1989) ◆天安門事件(第二次天安門事件、1989年6月4日) 天安門事件 2/3 天安門事件 3/3 http //www.nicovideo.jp/watch/sm7258151 http //www.nicovideo.jp/watch/sm2129074 天安門事件関係ニュースが流れると放送を止められる瞬間 六四事件(天安門事件)を忘れてはならない 毋忘六四 ※一部グロテスクな画像があります。ご注意下さい。解説⇒ぼやきくっくり様HP ※ところが、NHKクローズアップ現代は「大規模な虐殺はなかった」と中国を庇う捏造報道⇒NHKの正体 ◆中国共産党の正体(九評共産党)・・・中国共産党とは何者なのか?「大紀元」(法輪功製作) 中国共産党の正体(九評共産党)① 中国共産党の正体(九評共産党)② 中国共産党の正体(九評共産党)③ 中国共産党の正体(九評共産党)④ ※大紀元社説シリーズ『共産党についての九つの論評』 【第一評】共産党とは一体何ものか 暴力による恐怖によって政権を奪取し維持する 虚言を以って暴力の潤滑剤と成す 絶えず変化する立場と原則 党性(党是)が人間性に取って代わり、人間性を消滅させる 自然に反し、人間性に反する邪悪な生命体 邪悪な憑き物の特性 自己を反省し、中国共産党の憑き物から逃れる ■参考サイト 丸幸亭老人のシナにつける薬 8.補講 1.「中国4000年の歴史」というのは真っ赤な嘘。国が連続していない。 中華人民共和国は63年の歴史。(前の中華民国は100年) 国がきれたのは、13世紀後半のモンゴル人による植民地支配(大モンゴル国時代)。中国人最大のトラウマ 。 4000年というのは、中華思想によって漢民族・モンゴル・満州民族なども混ぜた上での考え方。チベットが中国というのと同じ。支那の語源・秦でも2000年ほどの歴史をブツ切りにしたものでしかない。存在すら疑わしい伝説上の「夏」などの古代王朝も含めて4000年とされた。 ちなみに、パンダは中国がチベットから盗んだもの。 一方、日本は、日本書紀による讖緯説に基づく紀元の過大な引き伸ばし があるとはいえ、考古学的にも巻向遺跡 に代表される古代ヤマト王権の祭祀が少なくとも3世紀初めには始まっており、かつそれが現在まで宮中や伊勢神宮などの大社で連綿と受け継がれている、すなわち国家祭祀が少なくとも1600年以上連続している奇跡的な国家である。 2.「国」が始ったのは1912年。それ以前は「国」の概念もない、点の歴史のみ。 国という観念はなかった。広い場所に要塞で囲った町、王朝名があったのみ。 単品の王朝の歴史は古いが国全体の歴史は浅く、それらが都合良く書き換えられている。 「日本人は、自分達と同じように連続した歴史の中にある」と勘違いしている。 それを現代の中国が「国」という概念に歴史を書き直している。 1907年の早稲田大学の清国留学生62人は、自分の国籍について、支那18人、清国12人、中華&中国7人、残り25人は自分が何国人かも書けなかった。 漢人の歴史トラウマ 3.中国は歴史が真っ直ぐ続いていない。少数民族の歴史を乗っ取って偉そうにしているだけ。 漢民族は、どんどん他の民族を乗っ取り搾取して成立してきた国。 「漢字を使うのは、中国のもの」という思想の元、都合の良い時には乗っ取り、いらない時は切り捨てる。 土地の6割は元少数民族。(中国の土地ではなかった) 4割の土地の持ち主の漢民族が、人口の9割をしめて乗っ取っている! どうして乗っ取るかというと、資源が欲しいから。チベット(水や空気)ウイグル(石炭石油・ガス)モンゴル(油田)→これらはみんな中国のものだから、と共産党が奪う 台湾、沖縄も取りにくるだろう。 4.乗っ取り潰して入れ替る、そしてそれを繰り返す野蛮王朝。 独裁者が王朝が支配、謀反人や狂信集団がそれを潰して新しい独裁者となり、それを繰り返す。 独裁者は自分の正当性を言うために、前の独裁者に関わる物を皆殺し、文化を吐かして歴史を書き換える。 王朝が変わるために文化財を破壊するから、墓しか残らない。その墓も盗掘が多い。 王朝が変わるたびに人口が大きく減る。飢饉や大量殺戮、人を食わせて全滅させたりが日常茶飯事の国→だから中国人は、生きるために他人を信用しない。幸災楽禍=他人の不幸を喜ぶ精神を持つ。 日本は、殺し尽くさないで調和する考え方(島国だから 許し、水に流す&死者を冒涜しない) 天皇の部下としての武士達が戦う事はあっても、武士は天皇に手を出さないし、武士同士で戦っても皆殺しにはしない。 5.日本文化と中国文化の関係 中国は自分の文化を自分で潰しまくった(文化大革命では孔子孟子を否定し、本は焼かれた) 日本は、どんどん研究していく文化があり、独自の文化になった(漢字など)。 中国共産党は孔子を否定していたが、急に持ち上げ孔子学院(語学学校)を世界2000カ所に設立。 江戸時代以来、論語の本家は日本に移った(実行と解釈の深さ) 唐などの中国の歴代王朝は陸禁・海禁といった徹底した閉鎖的な世界を築いており中華思想で夷狄とみなし見下す外国から文化を取り入れたり、朝貢貿易の分以上に外に出すことはしなかった。諸外国は中国の歴代王朝から高額な金や臣下の礼を強制される屈辱的な外交でぼられたといえる。 他人や国のために生命を投げ出す「玉砕」は.日本文化、中国文化は時の権力者の趨勢で他人を裏切り、新たな支配者の奴隷になる「瓦全」。(これは朝鮮/韓国人も同じ) 日本と中国は理解しあえない 著者 日下公人,石平 6.残虐思想の歴史、食人文化、儒教と官僚制度、中華思想 共産党 中国残虐史、人肉料理文化 儒教には万人平等という思想がない。少数のエリートが多くの愚かな民衆を統治するべきという官尊民卑の思想。 7.中国は国家としてまとまってない。2つに分かれている。 支配階級(搾取する側)と被搾取階級(田舎、農民) これらはとても仲が悪い。内部をまとめるだけで大変。マスコミや中国は隠しているが、そのうちボロがでる。 9.ご意見、情報提供 あと中国文化史で女性が全く登場しないような書き方していますが居ることにはいますよ(班昭など)。編集し直したほうがいいかと。 -- liu (2014-02-06 00 08 25) 該当箇所を修正。ご意見ありがとう。 -- maron (2014-02-06 19 29 01) 生物学的な意味での -- 名無しさん (2014-04-09 21 07 22) 生物学的な意味での漢民族は存在しない。中原の支配者となった民族が歴代漢民族を自称した。漢民族を自称していないのはモンゴル人と女真族だけ。従って中国〇千年の歴史なんて連続したものは存在しない。 -- 名無しさん (2014-04-09 21 10 34) 支那がおかしいのは誹謗でも何でもない事実。誹謗とする指摘が誹謗である。 -- 名無しさん (2014-06-26 02 23 33) 4000年の歴史が可笑しいというのは、王朝も文化も断続してきたのに、新たな支配者の正当性としてそれを利用しているに過ぎないから可笑しいのだといってるのでは? -- 名無しさん (2014-09-20 18 52 43) こんな勝手な歴史解釈を日本人だけでやっていてもしょうがない。世界に世界の歴史家がどう判断するかだな。 -- 名無しさん (2014-11-15 23 21 22) 日本は今、西暦で2014年、紀元前も存在するとしても日本の歴史は精々2500年ちょっと。今日本は、国として人口が減少し、国自体が存亡の危機にある。中国は日本や米国に付随し、これから発展しているってことは最近国として潰れたって事か?産業が発展していないのに4000年も国家が存在した? -- 名無しさん (2014-11-18 14 22 20) アメリカはヨーロッパの人間によって植民地にされた。それで原住民は迫害され、様々な植民地が合体してアメリカという国家が作られ経済的に進化を遂げてきた。そんな状況を中国という4000年前からあった国家が存亡を繰り返しつつ、指を銜えて眺めてたってことか?おかしくないか? -- 名無しさん (2014-11-18 14 42 06) 結局中華民族・漢民族の定義は中華文明を受け継いだ者だし、人口が激減したのも戸籍逃れ、小作人、浮浪者が増えただけだから -- 名無しさん (2014-12-10 10 26 04) いろいろ穴のある理論だが、少なくとも明が統一でなかったとする論が支持されることはないだろうな -- 名無しさん (2014-12-13 16 29 12) 2年間見ないうちに、工作員の手がここにも来ていたか・・・ -- 名無しさん (2015-01-06 19 46 59) モンゴルによって支配されてるのに中国4000年はやっぱりおかしい。 - 名無しさん 2015-06-17 00 38 23 中国(一応)4000年(笑) - 名無しさん 2015-07-30 11 31 34 中国の民族問題に満州族と雲南の少数民族が入っていない。 - 名無し 2015-08-16 22 01 26 面白いですね。 - 名無しさん 2016-03-17 21 04 06 中国は中華思想というものがあるから 小中華朝鮮は2番目で日本は3番目という事になりますが。 反日サヨクはそれを実行する為に日本が中国と同等であるとした聖徳太子などが実は居なかった、或は皇室制度を廃止して 中華共産主義を実現させ日本を特亜に組み込み 長男中国 次男朝鮮 三男日本と3国社会主義の中で日本を最も下のとする、中華思想を認めた日本人ということになりますな。それは皇室という日本が中国と同等かそれ以上である、が邪魔なので何が何でも皇室廃止を行うとする。小林よしのりもその先兵 - 中華思想と共産主義 2016-03-17 21 08 28 為になりました、今度は中華思想についてもしりたいですね。 - 名無しさん 2016-09-24 23 38 41 現代の中国共産党の残虐性について全ての原因を中国民族の思想、民族性に根拠を求める歪んだ論理。これは共産主義イデオロギーの危険性から目を逸らさせるために左翼がまいているデマですよ。すくなk - 名無しさん (2021-07-21 22 40 17) 始皇帝や曹操を美化・崇拝する政策など現代中国だけ。共産主義イデオロギー、ファシズムがそうさせているのであり元凶はそれら近現代思想。欧州やロシアでも歴史の善悪を逆転させる“文革”が行われている。左翼と戦うなら要勉強。 - 名無しさん (2021-07-21 22 43 26) 名前 ■自虐史観から完全に目覚めるために!セットで読む歴史問題・解説ページ 中国の歴史・中国文明 辛亥革命~中国近代化運動の実際 中国はなぜ反日か? 自虐史観の正体 GHQの占領政策と影響 大東亜戦争への経緯 南京大虐殺の正体 沖縄戦集団自決命令問題 韓国はなぜ反日か? 日韓併合の真実 偏向教科書の正体 NHKの正体 靖國神社と英霊の御心 教育勅語とその精神 右翼・左翼の歴史 戦後レジームの正体 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 政治の基礎知識 歴史問題の基礎知識 ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ 当サイトは、日本人の自虐史観(東京裁判史観)からの完全脱却を応援します。 ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 ⇒#ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (人気ブログランキングへ) 当サイトは日本唯一の愛国放送・チャンネル桜を応援しています! ■セットで読む中国の民族問題解説ページ■東トルキスタン侵略の正体チベット侵略の正体南モンゴル侵略の正体台湾の真実中国の歴史・中国文明辛亥革命~中国近代化運動の実際
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目次 ■1.単純明快 中国史◆「統一⇔分裂サイクル説」に沿って中国史を単純化 ◆要点 ◆王朝の滅亡原因 ■2.中国文明考I:女性的感性の欠落(跛行性) ■3.中国文明考II:騎士道精神(あるいは日本風に言えば武士道精神)の欠落 ■4.中国文明考Ⅲ:遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行 ■5.中国文明考IV:支配者や自分の都合によって変わる独善的な歴史認識 ■6.中国文明考V:誠・和の精神の欠如(欲望最大・自己中心・道徳最低)、意味不明(相手によって意味の変わる)な仁、「詐」の文化 ■7.中華人民共和国の歴史◆毛沢東の中国:大いなる実験 ◆天安門事件(第二次天安門事件、1989年6月4日) ◆中国共産党の正体(九評共産党)・・・中国共産党とは何者なのか?「大紀元」(法輪功製作) ■8.参考サイト ■9.補講1.「中国4000年の歴史」というのは真っ赤な嘘。国が連続していない。 2.「国」が始ったのは1912年。それ以前は「国」の概念もない、点の歴史のみ。 3.中国は歴史が真っ直ぐ続いていない。少数民族の歴史を乗っ取って偉そうにしているだけ。 4.乗っ取り潰して入れ替る、そしてそれを繰り返す野蛮王朝。 5.日本文化と中国文化の関係 6.残虐思想の歴史、食人文化、儒教と官僚制度、中華思想 共産党 7.中国は国家としてまとまってない。2つに分かれている。 ■10.ご意見、情報提供 ■1.単純明快 中国史 ◆「統一⇔分裂サイクル説」に沿って中国史を単純化 1. 統一期I 夏~殷~西周 2. 分裂期I 春秋~戦国時代 3. 統一期II 秦~漢 4. 分裂期II 六朝時代:三国~西晋~東晋・五胡~南北朝 5. 統一期III 隋~唐 隋・唐は本来は鮮卑系(五胡の一 モンゴル系またはトルコ系) 6. 分裂期III 五代・遼~北宋・遼~南宋・金 遼は契丹(モンゴル系)、金は女真(ツングース系=満州族) 断絶 7. 統一期IV 元 元はモンゴル族 8. 分裂期IV 明・北元(タタール) 北元(タタール、明では韃靼と蔑称した)は漠北に帰還後の元朝明は規模的に元・清の半分で北元との南北分裂期と見るのが妥当 9. 統一期V 清 清は満州族で、北元よりモンゴル族の大汗位を継承 断絶 10. 分裂期V 中華民国 実態は軍閥・革命勢力・独立派諸民族が割拠 11. 統一期VI 中華人民共和国 「5.中華人民共和国の歴史」参照 ◆要点 分裂期から次の統一期に入る時に「中華」の範囲が拡大している。 大きな断絶が2回ある。 一回目 元朝(モンゴル族)による征服(漢族王朝の完全消滅)「有徳者への禅譲」または「有徳者による放伐」という王朝変遷の建前もここで完全に消滅し、以降は"腕力[または財力]が全て(=モラル欠落)の社会"となる 二回目 王朝制度そのものの崩壊~共産主義中国の出現(文化大革命に代表される過去の文明の否定) 漢族のアイディンティティは、統一期IIの秦~漢時代にある。 しかし実際には、唐滅亡以降~清滅亡迄の千年間は、漢族は北方民族に圧迫され、また支配されていた期間が圧倒的に長い。 | ⇒唐代までに形成され、日本でも幅広く受容された古典思想が、弱体だった宋朝以降に著しく歪んでいった原因(朱子学イデオロギー:理念先行=現実から遊離した空理空論を弄する欺瞞的国家体質が形成される)。 ⇒20世紀には、これに更に共産主義イデオロギーが加味(中華思想+共産主義=欺瞞的・暴力的国家体質が形成される)。 ◆王朝の滅亡原因 1 内乱型(貴族や宦官の専横・党争等で国が乱れ、農民が匪賊化し大乱が発生、豪族や鎮圧軍が各地で軍閥化して内部崩壊)⇒秦(陳勝呉広の乱)・漢(黄巾の乱)・隋・唐(黄巣の乱)・元(紅巾の乱…厳密には北帰で滅亡ではない)・明(李自成の乱)・清(辛亥革命) 2 異民族侵入型⇒西周(犬戎の侵入で東遷)・西晋(五胡の侵入で南遷)・北宋(金の圧迫で南遷)・・・厳密には、これらは滅亡ではない。 3 従って厳密な異民族侵入型(異民族征服型)は、次の一件のみ⇒南宋(元に征服されて滅亡)※なお清は征服王朝だが、明を直接征服した訳ではなく、明を滅ぼした李自成(農民反乱)を討伐して漢土の支配を確立。 ■2.中国文明考I:女性的感性の欠落(跛行性) 日本と中国の精神文化には強い共通性があり、その殆どは中国起源だとする刷り込みが、マスコミ・教育を通じて頻繁に行われている。 しかし最近のチベット虐殺や毒入り餃子事件の件で分かる様に、中国の精神文化は、実は日本とは決定的に違う事を、この際しっかり認識しておこう。 神話の時代からそうだが、日本や欧州の文明では社会や人間の精神的発達に於いて当然ながら「女性」の貢献が極めて大きい。 (1)日本の場合 日本神話 天照大神、神功皇后など 日本文化史 額田王、紫式部、清少納言、菅原考標娘、樋口一葉、与謝野晶子など 日本政治史 卑弥呼、推古女帝、光明皇后、北条政子など (2)欧州の場合 欧州神話 ヘラ、アフォロディテ、アテナ(希)など。あるいは北欧神話のオンディーヌ、聖書のイブ・マリア 欧州文化史 エレオノール=ダキテーヌ(仏)、マリアンナ=アルカフォラド(葡)、ラ=ファイエット夫人(仏)、J.オースティン(英)、ブロンテ姉妹(英)など 欧州政治史 イザベル女王(西)、エリザベス女王(英)、ビクトリア女帝(英)、ポンパドォール夫人(仏)、エカテリーナ女帝(露)、マリア=テレサ(墺)など これに対して中国はどうか。 (3)中国の場合 中国神話 ホウジ、ダッキ(艶女・暴君タイプ) 中国文化史 無し 中国政治史 呂后、武則天(則天武后)、西大后(暴君タイプ)虞美人、楊貴妃、陳円円(艶女タイプ) つまり、神話・実在を問わず、中国史に登場する女性は、男を凌ぐほど残虐な暴君タイプか、男の都合のままに流されて生きる艶女タイプしかない。 おそらく今に至るも男尊女卑の風習が強烈なために(それを儒教的伝統と言うのだが)、中国は自称4000年近い長い歴史を誇るにもかかわらず、日本や欧州のように女性の感性を核とする柔構造の文化をついぞ生み出し発展させることが出来ず、それゆえ弱者への優しさを欠いた跛行的な文明となってしまった、と結論づけられる。 20世紀初頭に至っても、魯迅「阿Q正伝」の精神世界に留まっていたのである(そしてそれは、本質的には今も変わっていない)。 残虐・好色・貪欲の3つに特徴づけられ、女性的感性を欠く跛行した文明が中国文明の本質である。 最近のチベット虐殺や四川省大地震に対する偏向報道は以上の根拠を益々強めるものである。 ■3.中国文明考II:騎士道精神(あるいは日本風に言えば武士道精神)の欠落 漢から六朝を経て隋唐へと連綿と続いた中国の古代貴族制社会は、中唐期の節度使の勢力強大・分立をもって動揺し、晩唐の黄巣の乱を期に崩壊する。 その後、五代十国の時代を経て北宋による統一を迎えるまでの約一世紀(870-980頃)を、中国史上の「武人の時代」と呼ぶ。 同時期に、日本では武士階級の興起があり、西欧でも騎士階級による封建社会の形成の動きがあった。 しかし中国の場合は、おそらく北方民族からの圧力が強力であったために、日本や西欧のように封建諸侯が分立したまま国家を存続させることが困難で、本来は武人勢力の一角に過ぎなかった宋朝による統一が促進され、統一の達成後は、再び国を分裂させないために、唯一絶対の皇帝権の下で武人階級の抑圧が起こってしまった。 結局、中国は中世的封建制社会を形成するに至らないまま、近世的な官僚制皇帝専制国家に移行してしまった。 つまり、日本的な武士道精神や西欧的な騎士道精神が後の世代が頼り・誇りとする精神的遺産として形成されなかったのである。 では、中国社会に存在する武士道(騎士道)に替わる精神的遺産とは何か? それは、私の見るところ「任侠道」である。 楚漢抗争の物語を読んでも、三国史演義を見ても、あるいは後世の水滸伝の世界を観察しても、そこにあるのは義兄弟の誓い等の「任侠道」すなわち「ヤクザの精神世界」である。 これは、武士道や騎士道を特徴づける死や犠牲を超越した精神的美学・美意識が欠落した、自己保存と利益万能を特徴とするご都合主義の精神文化といえる。 台湾を民主化した李登輝前総統が、中国を「土匪国家」と形容したことがあるが、まさに「任侠道」にもとづくヤクザ(匪賊)が成り上がって国家権力を掌握して出発したのが今の中国である、と言うと言い過ぎであろうか。 しかし、中国の国家の成立を見ると、由緒ある古代王朝の系統は、B.C.2世紀の秦の滅亡で完全に絶たれ、それ以降は、 (1) 外来民族による征服国家 (鮮卑系の北魏・隋・唐、モンゴル系の遼・元、満州族の金・清)もしくは (2) 土匪の成り上がり国家 (漢、五代の後梁、明、共産党支配化の現中国) ばかりである(なお、宋は五代の軍閥出身、中華民国も軍閥及び国民党の連合政権)。 多くの日本人が持つ疑問「中国は何故近代に乗り遅れたのか?」の答えが、I.(女性的感性の欠如)、II.(武士道精神の欠落)にある。 ■4.中国文明考Ⅲ:遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行 現代では政府の正統性は、選挙などを通して自由に表明される国民の信認によって付与される。それは国土の大小や人口の寡多や経済力・政治力などの強弱には制約されない世界共通の認識といってよいだろう。 中共政府は自国民の人権を不当に制約する言い訳として、自国が人口過剰な発展途上国であることを挙げるが、それでは「世界最大の民主主義国家」を自認するインドの発展振りはどう説明するのか。中国が直ちに民主化できない理由は一切ないのである。 中国が民主化しない理由は、今や特権階級となった共産党上層部が圧倒的多数の人民を支配する体制を維持するためであって、現在の中共政府に国家統治の正統性があるとは、とても言えない。そして、 政府に正統性がない所では、国民が遵法精神を持ちようがないのである。 加えて、中国の場合は、国家自体が何度も途絶しており歴代王朝の正統性が元々怪しく、日本や西欧のように長期にわたって国家と国民の信頼関係が醸成されるという発展過程が乏しかった、という背景もある (「1.単純明快 中国史」参照)。 中国の庶民に最も人気のある歴史上の人物といえば、南宋初期の武人"精忠報国"岳飛である。 日本で言えば楠木正成に相当する、南宋皇帝高宗に最後まで忠義を尽くした人物だが、彼の場合、実に悲劇的なのは、金朝(女真族)との戦闘自体には勝利目前だったのに、自分が忠義を尽くしている筈の南宋宮廷の謀略に嵌められて、無実の罪で一族もろとも刑死させられた事である。(ただし、中国の忠義は日本の公と異なり、皇帝や宮廷といった絶対的な権力者のためのもの。) 中国の歴史には、このような著しいモラル・ハザードが、枚挙にいとまない。 日本人にも親しみのある例で言えば、忠孝を尽くした劉備・孔明の側ではなく、権勢欲と謀略の権化であった曹操・司馬仲達の側が勝ち続けて栄華を手にするのが中国の常態であり、そのような社会では、美辞麗句を連ねる儒教などの建前とは裏腹に「正義感や信義誠実を尊ぶ精神が育ちようがない」のは当然である。 尚、中華民国・中華人民共和国時代は曹操・司馬仲達が中国人に好まれ国の元首から庶民まで生き方の手本となった。また、劉備にも戦乱の逃亡時の際、漁師の劉安の妻を食べた食人の要素や孔明にも孟獲を自称「徳」で征服した南蛮征伐、劉備が息子の劉禅(阿斗)が無能ならば孔明が政権を奪っていいと言った遺言など中国的な要素が強く日本人の考える忠孝とは大きく逸脱する残酷な話が多い。 ※なお、岳飛については朱子学に基づく中華国粋的傾向が見られ、彼と対立した礼部尚書(文部大臣)・秦檜(皇帝高宗と南宋宮廷の謀略の側面もあり)が金に対して和平交渉を試みたのに対し、岳飛一党が軍事的に弱体でありながら無駄な局地戦を続けたために国や民衆が疲弊し、南宋の滅亡を早める結果となったとする指摘もある。秦檜の行動により両国の戦乱が治まり南宋は繁栄したのも事実である。 岳飛の上司であり局地戦の指揮官であった韓世忠などについても同様である。漢人の岳飛信仰の根底には、中華思想による異民族国家(女真(ツングース系 満州族)金朝への蔑視があり、相手と屈辱的な和平を結ぶよりも、実状を無視して徹底抗戦し敵を虐殺する岳飛を、正当化し美化・信仰してきた側面がある。 これは後に南宋を滅ぼしたモンゴル帝国こと後の元朝(モンゴル族)に対しても同様である。日本のような「死ねば神仏になる」考え(山川草木愁皆成仏)とは真逆の中国の「死者の墓を暴き、骨や遺体を徹底的に痛めつけ魂まで食らい未来永劫呪う」強烈な独善思考=鞭屍、恨み骨髄までは、岳飛に対抗して和平交渉を行った秦檜とその妻王氏(他に張俊、万俊などの5奸族)の墓や像に、現在でも観光客が唾を吐きかける、小便をするなどという徹底的な侮蔑を伴っており、このため三国志などと違い、岳飛の物語が日本ではあまり受け入れられない要因となっている。秦檜と同様に扱われる者に明末の清に合流した呉三桂、岳飛と同様に扱われる南宋の史可法、明末の文天祥がそれぞれ奸族(漢奸)、英雄とされる。 また、仇敵(=異民族、外国人、またはそれと組んだ者)を未来永劫許さずその肉(屍肉)を食らう思想は岳飛を描いた「隔簾花影」でも揚州市民が漢奸(金人)を食らう描写を岳飛が賛美したものも見られる。この岳飛の「満江紅」の詞は今でも中国人の間で詠われている。 ■5.中国文明考IV:支配者や自分の都合によって変わる独善的な歴史認識 中国における歴史観は、日本人のそれとは大きく異なり、歴史人物の評価が時の権力者や時勢により大きく変貌・逆転し、突如大悪人=漢奸が大善人・英雄となったり、逆に大善人・英雄が大悪人=漢奸となる現象が度々起こる。 中共政府も鄧小平政権時代には文化大革命を礼賛する文化人が切り捨てられる結果となった。これは中華思想・事大主義に端を発する側面もあり韓国はなぜ反日か?と共通する点も多い。 前述の岳飛も当時は大罪人にあり秦檜の方が評価されたにも関わらず、後世になると以上のように逆転している。 暴君と詠われる秦の始皇帝(政)も文革時代は最大の名君であり、儒教の開祖・孔子(孔丘)は五四運動の際は封建主義の元凶に文革時代には「批林批孔」のスローガンと共に反動派の頭領とされた。 反動的・封建的人物と言われる西太后(慈禧太后)や曾国藩や袁世凱も改革者や愛国者に変わった。近年では共産党と対立した国民党の蒋介石や彼と対立し、死後秦檜夫婦のような弾圧を受ける汪兆銘(汪精衛)は共に売国奴と愛国者の間に見解が変動している。 彼は秦檜同様、当時の日本政府や日本軍と和平交渉や協力を行ったため、売国奴と呼ばれるようになった。 このように中国は外国人・異民族と徹底抗戦することを望む好戦的で残忍な性格が顕著である。 また、英雄と呼ばれた鄭成功は分裂主義者に変わる。このように独善的で朝令暮改で変動的なのが中国の伝統的な歴史観である。 ■6.中国文明考V:誠・和の精神の欠如(欲望最大・自己中心・道徳最低)、意味不明(相手によって意味の変わる)な仁、「詐」の文化 上に挙げる「遵法精神・正義感の欠落、詐術・謀略の横行」とも共通する。孔子(孔丘)の論語の五倫(仁・義・礼・智・信)は日本に伝来した時、聖徳太子により「和・義・礼・智・信」に変更されている。 武士道の代表とされる誠も取り入れられ、「誠・義・礼・智・信」とも後世には呼ばれた。長年、仁は意味不明の徳目とされ、強盗(匪族)には強盗の仁があるとまで言われ、時代ごとにその意味は変更された。仁は日本でもヤクザ(任侠)が好んで用いる物とされる。 中国では詐術・謀略の横行や大虐殺、匪賊の跋扈などにより誠心誠意に代表される『誠』(まごごろ・いつわりのない心)やみんな仲良く手を取り合う『和』(穏やかさ・なごやかさ・のどかさ)が欠如しており、嘘をつくことや人を騙すことが当然とされ、現在でも台湾などでは「詐」の国と呼ばれる。 詐以外にも争・盗・乱・穢の性質を持つ。 ■7.中華人民共和国の歴史 ◆毛沢東の中国:大いなる実験 ◇1 (1950年代まで) 貧困に苦しむ農民、蒋介石の国民党政府(1928)、中産階級と農民の格差、共産党の台頭と国民党による弾圧、抗日戦争と国共合作(1937-1945)、毛沢東・共産党と農民、国共内戦(1945-1949)、国民党の敗北・台湾へ逃避、中華人民共和国の成立(1949)、プロパガンダと思想教育 ◇2 (1958年頃まで) 農地改革と農民、地主の告発集会と処刑、実業家から実質的資産没収、女性の権利拡充、教育、プロパガンダと国民総動員体制、雀撲滅運動、反革命分子告発キャンペーン ◇3 (大躍進政策1958-1960) 人民公社への統合、農工業の大増産政策、人民への厳しいノルマと水増しされた成果、無茶な粗鉄増産、飢饉による大量の餓死者、劉少奇、農民の土地私有復活、生活の正常化 ◇4 (文化大革命1 1966-1967) 毛沢東語録、長江遊泳、伝統文化の破壊、プロレタリア文化大革命、江青女史ら四人組と毛沢東への個人崇拝、原理主義的学生と紅衛兵、劉少奇ら実権派への中傷キャンペーン、 知識層・管理者層のつるしあげ・暴行、走資派レッテルと告発集会 ◇5 (文化大革命2 1967-1989) 過激化する紅衛兵、リンチを受けた女性校長、大量の処刑と自殺、内部抗争する紅衛兵、 学校・病院・工場閉鎖、無政府状態、秩序回復のため人民解放軍の投入、紅衛兵運動停止(1968)、上山下郷運動、毛沢東の死(1976)、四人組逮捕、鄧小平の経済改革 、天安門事件(1989) ◆天安門事件(第二次天安門事件、1989年6月4日) 天安門事件 2/3 天安門事件 3/3 http //www.nicovideo.jp/watch/sm7258151 http //www.nicovideo.jp/watch/sm2129074 天安門事件関係ニュースが流れると放送を止められる瞬間 六四事件(天安門事件)を忘れてはならない 毋忘六四 ※一部グロテスクな画像があります。ご注意下さい。解説⇒ぼやきくっくり様HP ※ところが、NHKクローズアップ現代は「大規模な虐殺はなかった」と中国を庇う捏造報道⇒NHKの正体 ◆中国共産党の正体(九評共産党)・・・中国共産党とは何者なのか?「大紀元」(法輪功製作) 中国共産党の正体(九評共産党)① 中国共産党の正体(九評共産党)② 中国共産党の正体(九評共産党)③ 中国共産党の正体(九評共産党)④ ※大紀元社説シリーズ『共産党についての九つの論評』 【第一評】共産党とは一体何ものか 暴力による恐怖によって政権を奪取し維持する 虚言を以って暴力の潤滑剤と成す 絶えず変化する立場と原則 党性(党是)が人間性に取って代わり、人間性を消滅させる 自然に反し、人間性に反する邪悪な生命体 邪悪な憑き物の特性 自己を反省し、中国共産党の憑き物から逃れる ■8.参考サイト 丸幸亭老人のシナにつける薬 ■9.補講 1.「中国4000年の歴史」というのは真っ赤な嘘。国が連続していない。 中華人民共和国は63年の歴史。(前の中華民国は100年) 国がきれたのは、13世紀後半のモンゴル人による植民地支配(大モンゴル国時代)。中国人最大のトラウマ。 4000年というのは、中華思想によって漢民族・モンゴル・満州民族なども混ぜた上での考え方。チベットが中国というのと同じ。支那の語源・秦でも2000年ほどの歴史をブツ切りにしたものでしかない。存在すら疑わしい伝説上の「夏」などの古代王朝も含めて4000年とされた。 ちなみに、パンダは中国がチベットから盗んだもの。 一方、日本は、日本書紀による讖緯説に基づく紀元の過大な引き伸ばしがあるとはいえ、考古学的にも巻向遺跡に代表される古代ヤマト王権の祭祀が少なくとも3世紀初めには始まっており、かつそれが現在まで宮中や伊勢神宮などの大社で連綿と受け継がれている、すなわち国家祭祀が少なくとも1600年以上連続している奇跡的な国家である。 2.「国」が始ったのは1912年。それ以前は「国」の概念もない、点の歴史のみ。 国という観念はなかった。広い場所に要塞で囲った町、王朝名があったのみ。 単品の王朝の歴史は古いが国全体の歴史は浅く、それらが都合良く書き換えられている。 「日本人は、自分達と同じように連続した歴史の中にある」と勘違いしている。 それを現代の中国が「国」という概念に歴史を書き直している。 1907年の早稲田大学の清国留学生62人は、自分の国籍について、支那18人、清国12人、中華&中国7人、残り25人は自分が何国人かも書けなかった。 漢人の歴史トラウマ 3.中国は歴史が真っ直ぐ続いていない。少数民族の歴史を乗っ取って偉そうにしているだけ。 漢民族は、どんどん他の民族を乗っ取り搾取して成立してきた国。 「漢字を使うのは、中国のもの」という思想の元、都合の良い時には乗っ取り、いらない時は切り捨てる。 土地の6割は元少数民族。(中国の土地ではなかった) 4割の土地の持ち主の漢民族が、人口の9割をしめて乗っ取っている! どうして乗っ取るかというと、資源が欲しいから。チベット(水や空気)ウイグル(石炭石油・ガス)モンゴル(油田)→これらはみんな中国のものだから、と共産党が奪う 台湾、沖縄も取りにくるだろう。 4.乗っ取り潰して入れ替る、そしてそれを繰り返す野蛮王朝。 独裁者が王朝が支配、謀反人や狂信集団がそれを潰して新しい独裁者となり、それを繰り返す。 独裁者は自分の正当性を言うために、前の独裁者に関わる物を皆殺し、文化を吐かして歴史を書き換える。 王朝が変わるために文化財を破壊するから、墓しか残らない。その墓も盗掘が多い。 王朝が変わるたびに人口が大きく減る。飢饉や大量殺戮、人を食わせて全滅させたりが日常茶飯事の国→だから中国人は、生きるために他人を信用しない。幸災楽禍=他人の不幸を喜ぶ精神を持つ。 日本は、殺し尽くさないで調和する考え方(島国だから 許し、水に流す&死者を冒涜しない) 天皇の部下としての武士達が戦う事はあっても、武士は天皇に手を出さないし、武士同士で戦っても皆殺しにはしない。 5.日本文化と中国文化の関係 中国は自分の文化を自分で潰しまくった(文化大革命では孔子孟子を否定し、本は焼かれた) 日本は、どんどん研究していく文化があり、独自の文化になった(漢字など)。 中国共産党は孔子を否定していたが、急に持ち上げ孔子学院(語学学校)を世界2000カ所に設立。 江戸時代以来、論語の本家は日本に移った(実行と解釈の深さ) 唐などの中国の歴代王朝は陸禁・海禁といった徹底した閉鎖的な世界を築いており中華思想で夷狄とみなし見下す外国から文化を取り入れたり、朝貢貿易の分以上に外に出すことはしなかった。諸外国は中国の歴代王朝から高額な金や臣下の礼を強制される屈辱的な外交でぼられたといえる。 他人や国のために生命を投げ出す「玉砕」は.日本文化、中国文化は時の権力者の趨勢で他人を裏切り、新たな支配者の奴隷になる「瓦全」。(これは朝鮮/韓国人も同じ) 日本と中国は理解しあえない 著者 日下公人,石平 6.残虐思想の歴史、食人文化、儒教と官僚制度、中華思想 共産党 中国残虐史、人肉料理文化 儒教には万人平等という思想がない。少数のエリートが多くの愚かな民衆を統治するべきという官尊民卑の思想。 7.中国は国家としてまとまってない。2つに分かれている。 支配階級(搾取する側)と被搾取階級(田舎、農民) これらはとても仲が悪い。内部をまとめるだけで大変。マスコミや中国は隠しているが、そのうちボロがでる。 ■10.ご意見、情報提供 日本は皇紀2600年以上とういうのは歴史学的にみてどうかと。はっきりと2600年前から続いてることを示す資料・遺跡ってありましたか? -- liiu (2014-02-05 23 46 57) あと中国文化史で女性が全く登場しないような書き方していますが居ることにはいますよ(班昭など)。編集し直したほうがいいかと。 -- liu (2014-02-06 00 08 25) 該当箇所を修正。ご意見ありがとう。 -- maron (2014-02-06 19 29 01) 生物学的な意味での -- 名無しさん (2014-04-09 21 07 22) 生物学的な意味での漢民族は存在しない。中原の支配者となった民族が歴代漢民族を自称した。漢民族を自称していないのはモンゴル人と女真族だけ。従って中国〇千年の歴史なんて連続したものは存在しない。 -- 名無しさん (2014-04-09 21 10 34) 支那がおかしいのは誹謗でも何でもない事実。誹謗とする指摘が誹謗である。 -- 名無しさん (2014-06-26 02 23 33) 4000年の歴史が可笑しいというのは、王朝も文化も断続してきたのに、新たな支配者の正当性としてそれを利用しているに過ぎないから可笑しいのだといってるのでは? -- 名無しさん (2014-09-20 18 52 43) こんな勝手な歴史解釈を日本人だけでやっていてもしょうがない。世界に世界の歴史家がどう判断するかだな。 -- 名無しさん (2014-11-15 23 21 22) 日本は今、西暦で2014年、紀元前も存在するとしても日本の歴史は精々2500年ちょっと。今日本は、国として人口が減少し、国自体が存亡の危機にある。中国は日本や米国に付随し、これから発展しているってことは最近国として潰れたって事か?産業が発展していないのに4000年も国家が存在した? -- 名無しさん (2014-11-18 14 22 20) アメリカはヨーロッパの人間によって植民地にされた。それで原住民は迫害され、様々な植民地が合体してアメリカという国家が作られ経済的に進化を遂げてきた。そんな状況を中国という4000年前からあった国家が存亡を繰り返しつつ、指を銜えて眺めてたってことか?おかしくないか? -- 名無しさん (2014-11-18 14 42 06) 結局中華民族・漢民族の定義は中華文明を受け継いだ者だし、人口が激減したのも戸籍逃れ、小作人、浮浪者が増えただけだから -- 名無しさん (2014-12-10 10 26 04) いろいろ穴のある理論だが、少なくとも明が統一でなかったとする論が支持されることはないだろうな -- 名無しさん (2014-12-13 16 29 12) 2年間見ないうちに、工作員の手がここにも来ていたか・・・ -- 名無しさん (2015-01-06 19 46 59) モンゴルによって支配されてるのに中国4000年はやっぱりおかしい。 - 名無しさん 2015-06-17 00 38 23 中国(一応)4000年(笑) - 名無しさん 2015-07-30 11 31 34 中国の民族問題に満州族と雲南の少数民族が入っていない。 - 名無し 2015-08-16 22 01 26 面白いですね。 - 名無しさん 2016-03-17 21 04 06 中国は中華思想というものがあるから 小中華朝鮮は2番目で日本は3番目という事になりますが。 反日サヨクはそれを実行する為に日本が中国と同等であるとした聖徳太子などが実は居なかった、或は皇室制度を廃止して 中華共産主義を実現させ日本を特亜に組み込み 長男中国 次男朝鮮 三男日本と3国社会主義の中で日本を最も下のとする、中華思想を認めた日本人ということになりますな。それは皇室という日本が中国と同等かそれ以上である、が邪魔なので何が何でも皇室廃止を行うとする。小林よしのりもその先兵 - 中華思想と共産主義 2016-03-17 21 08 28 為になりました、今度は中華思想についてもしりたいですね。 - 名無しさん 2016-09-24 23 38 41 香港も独立するべき - 名無しさん (2020-07-18 10 25 44) 名前 ■自虐史観から完全に目覚めるために!セットで読む歴史問題・解説ページ 中国の歴史・中国文明 辛亥革命~中国近代化運動の実際 中国はなぜ反日か? 自虐史観の正体 GHQの占領政策と影響 大東亜戦争への経緯 南京大虐殺の正体 沖縄戦集団自決命令問題 韓国はなぜ反日か? 日韓併合の真実 偏向教科書の正体 NHKの正体 靖國神社と英霊の御心 教育勅語とその精神 右翼・左翼の歴史 戦後レジームの正体 マルクス主義と天皇制ファシズム論 丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証 政治の基礎知識 歴史問題の基礎知識 ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 人気ブログランキングへ 当サイトは、日本人の自虐史観(東京裁判史観)からの完全脱却を応援します。 ブログランキング応援クリックをお願いいたします(一日一回有効)。 ⇒ 当サイトは日本唯一の愛国放送・チャンネル桜を応援しています! ■セットで読む中国の民族問題解説ページ■東トルキスタン侵略の正体チベット侵略の正体南モンゴル侵略の正体台湾の真実中国の歴史・中国文明辛亥革命~中国近代化運動の実際
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751 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 00 46 05 PHuxV8+X0 追記 田中氏の100選では唐朝から12人出てたよ。隋からはたったの3人だが都合15人。 やっぱり隋唐は2分割がいいんじゃない? 隋~唐初、太宗以降~唐末、で。 752 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 11 42 nLaV8Rh+0 田中百選は正直当てにならんけどね 特に古代期のやる気の無さは異常。 753 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 15 54 N5nnmsmF0 よく見たら神話は入れてないんだね 754 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 33 17 PHuxV8+X0 王玄策には異常に気合注いでるんだけどね。 あれは自分が小説書くからその前に紹介しときたかっただけなんだろうか。 755 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 44 58 4yrG5sGfO 752 まあ俺たちも春秋の扱いには困ったがな 756 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 45 10 CipGNRy70 隋唐厨ってしつこいなw 757 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 47 57 KuT70nJ30 もう次行きましょ。 五代十国時代。 後梁 康壊貞 岐王・李茂貞を撃破し黙らせてますね。 楊師厚 この時代最重要な魏博の精鋭、銀槍効節都の創始者として、晋軍を破ってる人。 賀懐 ……一応、胡柳陂の戦いで、勢いのある晋軍を相手取り、周徳威を討ち取るなど活躍し、痛み分けに持ち込んだ。 その直前に有力将帥である謝彦章をささいな恨みから殺しているので、その辺個人的には好きではない。 王彦章 鉄の槍を扱った猛将。 胡柳陂の戦いの後、劣勢だった後梁が打開のため攻撃目標としたある砦を、落とすのにどれだけかかるか皇帝に諮問され、「3日」と答え実行し、晋軍を震え上がらせた。後梁最後の将帥というところ。 晋~後唐 李存勗 後唐の荘宗。 異様なほどの軍事的才能をもった若造。戦術の天才といわれている。 ただし政治的手腕が皆無なうえ、項羽を入れない辛口評価なこのスレでは、候補にも入らんか? 李嗣源 のちの後唐明宗。 晋軍の一部隊、横衝隊を率い自在に戦場を駆けた。 李存勗をして「奇才」と言わしめた。 李存審 もと符存審。 李存勗の羽翼を担っているので目立たないが、単独でも契丹騎兵相手に野戦陣を構築して撃退している。 周徳威 晋の主砲。 柏郷での鮮やかな勝利は、戦史に特筆されている。 他に、燕の猛将・単廷珪を、一合も交えることなく虜にしたりと、一騎討ちでも大活躍。 郭崇韜 軍政官。郭子儀の子孫ということになっている。官僚。 鎮州成徳の節度使として、晋の支配領域の中段を治めた。 建国の勲功第一として賞賛され、前蜀討伐の事実上の総大将を任されて遠征し、わずか70日で成都を陥とした。 康延孝 後梁の降将。 名を変えて李紹?といった。郭崇韜とコンビを組んで、前蜀討伐に従軍する。 実戦指揮官として前蜀軍と戦い連破した。郭崇韜とかぶるが、実際に快進撃を続けられたのは、康延孝の功績によるところが大きい。 任圜 明宗期の硬骨漢として知られるが、?州の属官だったころから、軍事、とりわけ統率に優れた才をみせていた。胡柳陂の戦いが終わって、その指揮ぶりから李存勗に「儒者とは思えない見事な戦いぶりだった。仁者の勇というべきか」と絶賛されている。 前蜀討伐戦に従軍しており、康延孝が現地で謀反した際、董璋らと計って撃破し、なんなく捕らえたという鮮やかさ。 夏魯奇 ……燕を攻めたおり、猛将・単廷珪と元行欽二人を相手に一騎討ちし、その凄まじさは周りの兵士が戦うのをやめて見入ったほどだという。 と、これしか知らないw これじゃ単なる猛将だな。 補足よろしく。 後漢 郭威 三鎮の反乱を一瞬で鎮圧した。 後周 柴栄 言う必要もない 趙匡胤 同上 後周からは追加候補として、目立たないけど李?も。 ?州の防衛として、北漢や契丹の侵入を常に防いでいた。 彼が北で重鎮としていたからこそ、柴栄は淮南に三度も親征することができたと言える。 実際の活躍期間が短いのは、後周の寿命の短さに対応している。 彼はとりあえず郭威の子飼いということで、忠義に篤かった。 あと、鳳翔節度使の王景だけど、隴右攻略の実戦指揮官。 長期化しそうな戦線を、敵の裏をかき勝利した。 同輩に、勇猛な向訓や韓通がいたことから、功績は分割されるのであくまで候補として。 十国の方は、南唐からはとりあえず、劉仁贍を出しておこう。 ずいぶん上のほうでも書いたけど、単独で後周世宗と戦って、撃退しているのはこの人くらい。 南唐朝廷の協力が得られなかったので、というか、その暇すら与えない柴栄の速攻の前に、孤立を余儀なくされるも、2度目の親征までの1年半あまり守り通している。 負けたのは、味方の不甲斐なさを嘆いて、病に倒れたから。 758 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 02 22 26 PHuxV8+X0 趙季良や周本も忘れないであげてください。 あと、後梁の智将・郭言も。 759 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 08 49 21 cK3RRyIa0 757 ここは戦闘指揮能力だけが問題だから李存勗は問題無くはいるだろ 項羽もそれほど反対はなかったと思うが・・・ 政治的手腕まで考慮していたらほとんどが外れてしまう 後梁の劉?・・・李存勗から「一歩百計」と言われた名将 しかし自分で 挙げといてなんだがどうも負けが多いような気がする 760 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 09 41 05 KuT70nJ30 758 十国の方は任せますよ。 さすがに南唐あたりしか知らんのじゃ、ちから不足もいいところだから。 郭言……は、聞いたことしかなかったです。 朱晃に従って「略地千里」とかって、なんかすごいかっこいいこと書かれてますね。 詳細はよろしくおねがいします。 759 劉?は迷ったんですよ。 後梁の最有力将帥ですし、李存勗をして「どんな計を弄するかわからないから」と自重させたほど。 あの突撃しか知らんような李存勗を。 結果的にこの人、李存勗の引き立て役になってしまっています。 アホ皇帝からはせっつかれ、同僚の協力は得られず、兵士は敵を目の前にして血気にはやり、あげく天候にまで見放された、たぶん五代十国中最凶の人。 761 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 16 55 12 D+9zxHsQ0 劉仁贍なんてエントリーしといて力不足なんてご謙遜を。 俺も十国に詳しいわけじゃないんだけどね。ただ手元に十国春秋があってぺらぺら読んでただけで。本当に得意なのは宋、特に南宋だったりする。孟?万歳!! さておき。今日は休日(その分クリスマスに仕事だが)。三時過ぎまで寝てた分を取り戻さにゃ。 郭言・・・一応王彦章と並伝に入ってるんだけども。後梁随一の智将。でも若い頃は貧乏で力仕事をやってた人。財産は常に部下に分配し、家財はほとんどなかったそうな。 寡をもって衆を破る戦いが得意で朱温から「お前こそ我が虎候だ」と賞賛された。朱温が蔡州に入って略奪を許すと自分ひとり人民救済に奔走、 ?、潼関でも同じことをやった心根の清い人でもある。通称は「略地千里(攻めれば千里を取る)」。・・・ってほどには領土拡大できてないわけだが、 敵に当たれば向かうところ敵なし。大いに東方の軍を挫いて朱温から「排陣斬听(斬りまくって陣を陥とす)」の称号を授かる。官は宿州刺史、検校右僕射。 時溥が大挙して宿州を侵すと勇躍善戦、精兵を率いて大いに敵を破るものの、流れ矢に当たって落命。謚がないのはどーゆうことだ!! これだけだとあんまり智将ってイメージないけど、寡兵で勝ち続けたのはやはり知略に優れたから。虚報を巧みに使って自分の有利な戦況を事前に作り上げて から戦う、後漢の耿?タイプの名将だった、と思う。 あと、朱温は10傑入り確定だよね。実質五代初期をリードした名将・・・つーか姦雄だから。後半生は李存勗の引き立て役でアレだが。 と、なると。 【後梁】 朱温 王彦章 【晋→後唐】 李存勗 周徳威 郭崇韜 【後晋】 該当者なし 【後漢】 郭威 【後周】 柴栄 趙匡胤 【候補(枠2名)】 【後梁】 郭言 楊師厚 劉? 【晋→後漢】 康延孝 符存審 任圜 とりあえず五代からはこんなもんかと。次は十国いきます。でも枠二つだから、あんまり大勢出してもなって思うけど。 762 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 19 05 26 D+9zxHsQ0 【呉】 李神福・・・呉軍初期の元老格。はじめ高駢麾下の都統。その後官軍を抜けて無頼漢・楊行密のもとへ。地形を利用しての戦いが得意で群盗に恐れられた。累功により 都指揮使。大順年間、蔡・淮の兵をかき集めた孫儒を夜襲で撃破、その後も康雎を降し安景思を敗走させた。景福初年、劉威とともに孫儒と再戦、呉軍に 十倍する孫儒軍の糧道を断って大勝利。その後、後梁の後ろ盾を得た杜洪が荊南の馬殷・雷彦威とともに攻め寄せると動きの鈍い大船団に少数精鋭で対応、 火攻めをもって君山で勝利した。太祖相手に田?は必ず叛くから殺しなさいと勧めたが容れられず、結果田?は叛いた。民衆は李公の預言が当たったとそ の洞察力を称えた。その平定に参加、田?の水軍大将、王壇・汪建を逆撃して倒した(のは台濛)。王壇らが敗れたと知るや田?は水軍を率いて逃げよう としたが、李神福が遣わした台濛によって敗死に追い込まれる。累功により寧国軍節度使。顎州攻めにも参加、現地で陣没。 台濛・・・字は頂雲。太祖の廬州挙兵に従い、広陵攻略に活躍。驍勇善戦、順調に出世して泗州防御使となる。龍紀初年(唐の昭宗期)、董昌の乱が起きるや朝廷は鎮海 節度使・銭鏐を派遣、これに対して呉軍は反政府側勢力として董昌を後援、台濛が派遣された。銭鏐を牽制して帰国すると漣水節度使に昇進、田?が蜂起する と李神福麾下の将として反乱鎮圧に参与、別隊の指揮官となる。田?は台濛いたる、の報に将軍郭行?および王壇、汪建に水軍二万を授けて蕪湖で迎撃させた が、わずか二千の台濛軍に打ち破られる。台濛は逃走する田?軍を伏兵で縦横に切り裂き、黄池の戦いで大敗せしめた。宣州に軍を還すと田?は宣州城を囲み、 台濛に戦いを挑んだが台濛は余力のないふりをして田?を奢らせ、油断したところを一撃で粉砕した。台濛の用兵の真骨頂は自らを弱兵と見せかけて驕慢にな った敵を撃つところにあり、その手で幾多の猛者を屠って敗北を知らなかった。天佑元年、卒。 周本・・・周瑜の末裔。家は貧しいが膂力があり、素手で虎を殺せた。勇力をもって宣州節度使趙鍠に仕える。「勇は軍中に冠たり」と称される。趙鍠が楊行密と戦って 敗れると呉に降り、許されて牙将となる。「戦ごとに奮躍し常に士卒に先んじて堅城を上り、矢石の険を犯して矛を振り回して完膚なきまで」敵を打ち破った。 天佑六年、楚の撫州刺史危全諷が諸州の兵十万人を率いて洪州に来寇、象牙潭に駐屯して高安を囲むとこれを討伐に向かう。が、大敗、しかしまもなく七千の 精兵を率いて再び出征、知略をもって楚軍を破り、象牙潭まで退いた楚軍を追撃してさらに大破、全諷を擒らえる。功により信州刺史。数年後、?・呉越・楚 の同盟軍二万が信州を侵すと数百の手勢だけで逆撃、空城の計+伏兵(弓兵隊)で敵軍を撃滅した。唐の荘宗が入洛すると高祖はそれを祝って司農卿・廬蘋を 遣わし、廬蘋は「後唐の名将に比肩する呉の名将」として周本の名前を挙げた。その栄誉により雄武軍統軍、徳勝軍節度使、さらに安西大将軍、大尉、中書令、 西平王を授かる。周本は書を知らず学問がなく、しかしそれゆえに儒士を尊重し、かれらを幕僚に招いた。朴訥な彼は士卒・民衆を愛して善政を敷き、人々も 彼を敬愛した。のち臨川王に改封。没年は不明、享年77歳。謚は恭烈。 ・・・高祖時代の人ばっか。周本は一応紹介済みだしね。それでも読み直すのにえらい時間かかった。 南唐は 757に任せていいんかな? いいよね。いいということにしよう。そんじゃ次は前蜀やります。 763 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 20 19 02 KuT70nJ30 う~む。 まともに読めないのに、南唐を任されてしまった。 まずピックアップ。 孟堅 もと?の裨将。?国内で後継争いから乱があり、南唐がそれに介入してきた。 孟堅は南唐の将・査文徽に降った。 査文徽は降将の孟堅に兵を与え、?国の平定に使った。 孟堅は自在に兵を操り敵を連破し、出撃すれば必ず功績をたてたという。 ?国の平定間際で、呉越王・銭弘佐の軍が近づいていることを知った孟堅は、司令官に戦略を進言するも、聞き入れられず呉越軍と戦い戦死した。それは結局、銭弘佐に名を成さしめる結果となった。 張彦卿 江北楚州の防御使。 後周世宗の南征が、皇帝自ら先頭に立って連戦するという快進撃ぶりだったので、各地の刺史クラスのものは降伏するか逃げ出すかだった。 劉仁贍も病のため死んでしまい、抵抗する南唐の将帥はもはやいなかった。 しかし張彦卿は楚州に迫る後周軍本隊に対し、わずか千人で防衛戦を展開した。 士気上がる後周最精鋭を相手に、40日間足止めした。 しかし南唐では、その足止めさえも効果的に戦略に組み込むこともできないほど、ぼろぼろにされていた。 窮鼠の例で、名将というほどではないだろうけど、団練使あるいは節度使クラスにこの男がいたら、どうなっていたかと想像させる。 陸孟俊 惜しいことに伝はない。 後周の南征のとき、後周と連動した呉越の銭弘俶を1万で撃破し、そのまま長江を縦断して揚州に攻めた。 揚州には後周の騎将・韓令坤が詰めていたが、これを圧倒した。 しかし、合撃態勢をとって六合に攻めた斉王・李景達が趙匡胤のために殲滅されると、韓令坤部隊は勢いを盛り返したので、陸孟俊は結局敗北した。 このとき、趙匡胤の有名な逸話で、「揚州の味方がこの六合を通ろうとしたら、その足を折れ!」と厳命し、前門の狼・後門の虎状態になった韓令坤は、狼のほうがマシということで、前面の敵を破ったという。 結果、功績として劉仁贍以外は、候補に留めおくくらいの武将しかいない。 というのも、歴史は統一に向かっているし、一人の将が長く兵権を持つことができないような時代となっていく過程だから。 764 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 20 57 52 D+9zxHsQ0 【前蜀】 張武・・・身長七尺(当時の一尺って30センチだっけ?)、紫がかった黒い顔という異相の巨漢。勇敢であり用兵を善くし、荊南の軍を?州で大敗させ た。武勲により鎮江節度使、のち峽路応援招討使。荊南の武信王は常に三峽を欲していたが、張武の威名をおそれ敢えて近付くことがなかった。 唐の兵が?(地名?)に入ると武信王は混乱に乗じ、水軍をもって峡州の施州に入った。張武はあらかじめ河中に鉄杭を突き立て、江中に柵を 立てて「鎖峡上がるべからず」と豪語した。武信王は勇士を募り河中の鉄杭を斬らせようとしたが、たまたま台風が吹いたために荊南軍の舟は 進退窮まった。そこに張武が矢を射掛けたので荊南の兵はたまらず逃げ帰った。八十余歳になるまで前蜀の軍を統帥した元老。 こんくらい。前蜀は文化人は多いけど名将って言ったらこの人ぐらい。この人ですら「名将」のレベルではないけどね。論に「古の名将の風あり」と書かれ てはいるけども。あとは漆黒の衣装を着た「鬼兵」を率いた徐瑤ぐらいだけど、この人は格闘の達人、って他には占領した土地で略奪暴行を働いた、という 不名誉な記述しかない。この国一番の武将はやっぱ国主・太祖王建だな。 後蜀は 726、 南漢は 750に一行ずつだけど紹介しただろ、で、?と北漢(楊業は北宋)には名将不在、南唐は 763に出してもらったから・・・あと何処があるっけ? 765 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 22 20 36 KuT70nJ30 呉越を忘れてるかな。 銭弘佐 呉越王。 わずか14歳で王位を継ぎ、奸臣を粛清して綱紀を改めたのち、?の遺臣の嘆願を受け 南唐と福州を巡って抗争。 南唐軍を大破し、南唐将・楊業および蔡遇を擒え、軍事不振に陥ちいらせた。 ほどなく病死していまう。 顧全武 董昌、楊行密との戦いで一進一退を繰り広げた。台濛、周本を破り蘇州を落としたりと、向かうところ敵なしとか書かれている。 北漢 張元徽 後周太祖の死に乗じて、後周への侵攻作戦の先鋒を務める。 伏兵をもって後周軍を撃破し、澤州にまで侵入を果す。 柴栄が親征してくると、北漢軍の左翼主力を率い、後周軍の右翼軍を撃破し中軍に迫る猛撃ぶりを見せた。 この時点で、後周軍は必敗と思われた。 しかし柴栄の陣頭指揮によって、盛り返した後周軍と乱戦に陥り、落馬したところを討たれた。 相手が悪かったと言うべきか。 どうも、みなさん柴栄の引き立て役みたいで申し訳ないところねw 楚や湖南ってどうだろ? ピンとこないな。 荊南にいたっては、孫光憲あたりがいるけど、宰相だし… ここは真田昌幸ばりの高従誨を出すか? 766 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 02 14 D+9zxHsQ0 【楚】 李瓊・・・「驍勇にして胆略あり、一代に冠絶す」といわれた名将。光化元年、姚彦章の推荐で大将となり、衝州の楊師遠を斬って功があった。同年、 永州を囲む唐世旻を敗死させる。明くる年、?州の守将陳彦謙を殺し、さらに進行して連州の魯景仁を自殺に追い込み、一年にして連・邵・ ?・衡・永の六州を平定、馬殷を大いに喜ばせる。劉士政が桂州に逃げ込むと陳可潘・王建武らが武装して楚軍に抵抗、李瓊は秦彦暉とと もに七千人を率いてこれを攻めた。可潘らは交戦にあたって民から兵糧や牛を略奪、これに怒った民衆は李瓊に秦城にいたる西南の小道を 教示した。李瓊は騎・歩三百を率いて秦城に夜襲をかけ、王建武を擒え可潘を斬った。泰州に逃げ込んだ劉士政はここまで追撃されて降伏、 桂・宜・巖・柳・象の五州平定。馬殷はこの活躍を嘉し、李瓊を桂州刺史・静江軍節度使・同平章事に任じた。天佑二年、没。 お茶の国にも建国期にはこんなんがいた。これくらいで、五代十国の武将は出揃ったかな。あとはこれをどう詰めるか、だが。 767 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 28 15 kcVgRo/h0 これはひどい自演ですね いや、マジで 768 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 30 32 D+9zxHsQ0 北漢にもいたね、そんな人。すっかり見落とし。小前氏の「飛竜伝」で柴栄ピンチ!!のくだり最近読んだばっかなのに・・・。やっぱボケてるようだ、俺のブレインは。 769 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 33 03 KuT70nJ30 なんか『十国春秋』って、「驍勇にして胆略あり」に類した表現多いですよね。 それだけ、武人・軍事マンセーな時代だったのだろうけど… 大筋は 761で行くとして、たぶん確定は 【後梁】 朱温 王彦章 【晋→後唐】 李存勗 周徳威 郭崇韜 【後晋】 該当者なし 【後漢】 郭威 【後周】 柴栄 趙匡胤 以上。 10名枠だと、あと二人入る余地があるのか… 以下候補。 【後梁】 郭言 楊師厚 劉? 【晋→後唐】 康延孝 符存審 任圜 【呉】 李神福 台濛 周本 【南唐】 孟堅 張彦卿 陸孟俊 劉仁贍 【前蜀】 張武 【後蜀】 726 王環 趙季良 【南漢】 750 蘇章 潘崇徹 【呉越】 銭弘佐 顧全武 【北漢】 張元徽 【楚】 李瓊 770 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 37 55 KuT70nJ30 …なんか自演扱いされましたねぇ。 それだけ知名度のない時代だからしょうがないか。 実際には、ここまで書けるとは思ってませんでしたよ。 後漢初期のように、一瞬で通り過ぎるくらいを覚悟してましたから。 もしかして、ネットで知っている人だったりして。 771 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 42 41 D+9zxHsQ0 今日は諸兄の集まりが悪いなぁ。やっぱ十国であまりにも文量割いたから呆れられたのだろうか。 そろそろ戻ってきて欲しいな。あいつを入れろ、いやこいつだ、ってのが醍醐味の一つだし。 772 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 00 03 54 q8NYi5o10 空気読めないおっさんがいるからでしょ 773 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 00 07 17 Ub1cuTzO0 772 空気読めないオッサン・・・ってやっぱ俺だよなぁ。 悪い、すまんかった。だからみんな帰ってきて~(切実)。 774 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 00 51 51 1Jm1WEbW0 というか、ここは皇帝もOKなんだから 王建や楊行密でいいんじゃね? 775 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 00 59 53 Ub1cuTzO0 774 別に国王・皇帝でもOK。ただ、二十六史外の名将を紹介したかっただけだし。 それにしてもありがとう、ここんとこのレスは二人でパスしあってるだけだったから、 戻ってきてくれただけですごく嬉しいよ。皆から見捨てられたかも、とか思ったし。 776 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 01 33 27 Ub1cuTzO0 確定八人、残り二枠については保留、ってことで(20人以上、国主含めると更に多い中から二人に絞るのもちゃっちゃとは行かんだろうし)宋代行く? 叩き台はすでに出来てるんだが。 【宋金遼時代】 曹彬 楊業 耶律休哥 狄青 岳飛 アクダ ウジュ 完顔陳和尚 孟? バヤン 入れ替え候補として北宋では呼延賛、范仲淹、張叔夜あたり、南宋では宗沢(抗金の名将は岳飛が象徴的存在だから、宗沢を外したのはつらいが妥当だと思う) と虞允文くらい?中国国内で活躍したモンゴル武将としてはトゥルイ、スブタイのどっちかがバヤンに代わって入るかも(バヤンは元の武将だし)。あとは どいつもこいつも小粒な感があるな、岳飛や孟?の存在が大きすぎるから。抗金の名将で岳飛以上の活躍をした武将はいないし、モンゴルの南進を一人で阻ん だ孟?に比べると同時代の武将たちは影が薄くなる。魅力的な武将は多いんだけどなぁ。あ、ちなみに「魅力的な武将」に張世傑は含まれないのであしからず。 後漢、魏晋十六国、南北朝、隋唐、五代に続いて叩き台六連発。できれば今んトコ十国を討論して欲しいが。 777 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 01 44 36 q8NYi5o10 俺はこの時代知らんから口出しは出来ないが、 「考慮する武将は、中国式の王朝名・元号を用いて、 所謂中国本土に存在した政権に所属する武将とする。」 これだけは守ってくれよ。 あとID Ub1cuTzO0、せめてもっと見やすく改行してくれ 778 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 01 53 36 Ub1cuTzO0 777 OK、トゥルイ、スブタイは没ね。 で、俺のPCではちょうどいい塩梅なんだが、 どのくらいで改行すれば見やすいんだ? こうやって句読点ごとに区切るとか? 779 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 02 04 1Jm1WEbW0 岳飛と宗沢が一緒に入れられないなら宗沢じゃない? 岳飛の時代の対金戦線は韓世忠や張俊も居るわけで むしろこいつら相手にやりあった完顔宗弼テラツヨスって感じなんだが 780 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 07 58 Ub1cuTzO0 じゃあ、バヤンを元代に下げて宗沢を岳飛の前に置くか。 あと、完顔宗弼はアジュ(女真名)のことだから入れてるよ。 できればオリブも入れたかったけど。 781 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 16 08 Ub1cuTzO0 780 間違えた。アジュじゃなくてウジュね。 ちなみにオリブの漢名は完顔宗望。まぁ、どーでもいいか。 782 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 16 53 1Jm1WEbW0 知ってるがな>完顔宗弼はアジュ 俺は完願姓のほうが好きなんだよ 783 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 21 14 1Jm1WEbW0 つーか“中国”名将なんだから漢字名で後ろにその民族での名前にしたほうが見栄えはよかろう これから先、漢民族以外の武将も結構出るだろうし 完顔宗弼(兀朮) 伯顔(バヤン) みたいにね 784 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 23 31 Ub1cuTzO0 782 すまん、余計な差し出口だったな。 しかし、宋代に入ったら結構なレス来るなぁ。 十国から必死で名将探してた時とは大違いだよ。 785 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 04 10 18 czs+sA3F0 オナニー激しいし、勝手に枠を組替えてるしグダグダだな。 786 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 05 06 41 ehql7Mp20 782 ウジュじゃなかったか? 音写してるだけだからアジュと読めたりするのかな どうもアジュとくるとウリヤンハタイの息子を想像してしまうな なにげにスレのレベルあがってるなぁ 五代十国は詳しくないから参考になるわ 787 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 10 02 59 PuWbOJXI0 はや。 もう南宋いってるし。 まぁ、北宋には「名将」なんてものは皇帝以外に存在してはいけない王朝だから、妥当だろうが。 名臣なら、コレまでの王朝以上にわんさかいるけど。 五代十国が終わってしまったので、出番も終わったな。 オナニーやグダグダにならないよう、 785がきっちりと手綱を握れることを、ROMりながら見ているよ。 788 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 10 09 09 X3p/NssBO 753 神話的人物もいるけど、単純に神話と一括りにしては誤解があるから、上古とか古代の方が良いだろうね。 786 知名度が無いから、知識のある奴が語ってるだけじゃね。 789 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 11 53 52 1Jm1WEbW0 786 コピペしたから 780のまんまなだけ 790 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 13 02 31 RShMVg6LO 質問なんですが 岳飛の戦術的能力って実際より割り増しな状態で認知されているって本当ですか? 自分は普通に凄いと思うのですが・・・ 791 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 13 08 46 PuWbOJXI0 790 自分もそう思う。 割り増しの話は初耳だけど、神格化されているのは確かな事実でしょうね。 列伝自体は、読むとその戦勝ぶりに圧倒されます。 某SF作家がヨイショしまくっているので、その反動で過少に見たがる輩がいただけでは? 792 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 15 08 59 LLw4oGBn0 791 岳飛は確かにすごいけど、金史とかも読んで比較したほうがいいと思う もっとも自分も漢文をちゃんと読めるわけじゃないのであまり偉そうな ことは言えないが 金の完顔宗翰(粘没喝) 左副元帥として右副元帥の宗望とともに北宋を滅ぼす 初期の南宋侵攻の総司令官 本当は宗望のほうが良かったかもしれないが、遼・北宋・南宋と 戦った当時の金軍の代表ということで 793 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 15 31 58 JKwgF/bUO 777 つまり1271年以降(で1368年迄)のモンゴル帝国本国のみだな ってこの時代、100年も無いぞ 794 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 15 51 55 RShMVg6LO 早速のレス感謝、感謝です。 神格化されてるのは考慮して意見を述べたのですが 割り増しな状態で認知されているって言うか、 虚名が実力の何倍かに膨れてるって言われたもので・・・ 本当に得意なのは宋、特に南宋だったりするって御仁の意見もぜひ拝聴したいです。 もし即出ならご勘弁を・・・ 南宋の武将って岳飛ぐらいしか思い浮かばないヘタレな自分・・・ 795 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 16 24 37 IVux9sad0 中国本土を版図に持ってればそれでいいと思うが。 796 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 18 38 02 3Ix63xxn0 778 こちらの環境では、IDの最後辺りで改行入れると見やすいと思います。 797 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 19 35 45 oPTMez7T0 かんせいちゅうは? 798 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 21 39 33 6W7MM8tk0 776 阿骨打は外してもいいんじゃね? 遼を滅ぼす前に死んでるし 阿骨打没1123年 遼滅亡1125年 北宋滅亡1127年 799 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 22 46 29 g/ZSmkFH0 とりあえず金は僕散忠義を推薦。 ところで、五代で一時代枠なんだっけ? あと遼は 777の定義に入るのか?個人的にはかなり微妙な存在だと思うが。 800 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 23 37 13 ohxJ0+FC0 金から入れるなら、生涯不敗の宗望の方がいいんじゃね? 801 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 23 38 54 UP8ffTFO0 794 確かに南宋得意って書いたわ、俺。 岳飛は神格化されてる部分もあるけど、実際の武勲と虚構の武勲がそれほどに 違うってことはないと思う。 『岳飛伝』も岳飛の死まではあらかた正史の『宋史』に書かれてるとおり。 (虚構も確かに入り込んでるけど、岳飛の武勲は水増ししなくても十分に物語になるし) ただ、宮崎市定教授によると?城での大勝利は嘘だとか虚報だとか。 そのへん確かめる術を持たんわけだが。 あと、岳飛は酒の席で酔っ払って部下を殴り殺したことがある。 結構短気だったっぽいってのもあわせて、『岳飛伝』の清廉なイメージは少し修正して 読んだほうがいいかも。 802 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 23 43 53 UP8ffTFO0 連投。 798 しかし阿骨打の強大な統率力なしでは金そのものが成立してないだろ。 阿骨打を抜くのはヌルハチなしでドルゴン語るようなもんだと思うが。 803 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 23 57 31 PuWbOJXI0 802 金国を語るわけじゃなく、中国名将を語るから、そこは考慮にいれてもらいたい。 804 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 00 03 14 wmBoXmV30 803 ふむぅ。んじゃ、仮に阿骨打を外すとしたら 入れ替えで菩薩太子・宗望(オリブ)かな。生涯不敗ながら短命なんだが。 799 入ると思うよ。本土の本で『宋金遼三国演義』って出てるし。 中華王朝の一つとして現地の人に認知されてたってことじゃない? 805 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 00 50 47 wmBoXmV30 またも連投。 799 僕散忠義よか徒単合喜のほうがよくないか? 宋弼すら倒した呉?を破った男。 まぁ僕散忠義には南宋から講和を引き出した功績があるけど、なんかぱっとしないイメージが。 806 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 00 58 30 CJZ/Ifhh0 804 いや、現地の人の認識でなくて、我々がこのスレで定めた「中国武将の定義」に当てはまるのか?ということです。 当時の人間の認識を問題にしたら、五胡の連中のほとんどが「あんな禽獣ども、俺たちと同じ中国人なわけないだろ!」 とかなってしまうんでないかい? 逆に言えば、 777の定義だとトゥルイやスブタイは入ることになるだろうけど、この二人は当時も今も中国人は「中国 の武将」なんて認識は無いのでは? 807 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 01 07 58 0tvJC2KbO 遼は領土が微妙じゃね まあ燕が領土内ならギリギリOKだと思うが まああと「契丹」は中華的な国号なのか気になる 駄目なら遼の範囲は947~983、1066~1125ということになるな 806 777の定義を「中華地域の領土を持ち、その歴史を通して中華風の元号と国号を使った歴史がある政権に所属している」と読むか、 「中華地域の領土を持ち、中華風の元号と国号を使っている政権に所属している」と読むかで話は変わる 前者ならスブタイは有り、後者なら無しだ 808 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 01 12 23 wmBoXmV30 806 個人的には「中国本土に領土があって中国国内で活躍した武将」 が=「中国の武将」でいいと思うけど、どーだろね? 我々としては当時活躍した武将を楽しく選出できればいいと思うんだけど。 当時の人々の思惑はさておいて。 トゥルイやスブタイは入るかなぁ? 777の定義だとそれは違う気もするが、 入れていいならスブタイを入れたい。明らかに「俺は蒙古の将だ」って思ってたにしても。 ところで耶律休哥以外に遼の名将っている? 一度楊業にやられかけたとはいえ、あれほどの人傑はそういないと思うが。 809 名前:807 投稿日:2006/12/23(土) 01 19 15 0tvJC2KbO 我ながら言葉使いが変だな その政権の歴史の中で中華風の元号と国号を使った事例がある に変更 まあ777は後者のつもりで言ってると思うが 810 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 01 39 34 wmBoXmV30 794 韓世忠・・黄天蕩の英雄だが部下の呼延通が拝礼しなかったことに怒り、シカト。案外心が狭い。 張俊・・・所詮は夜盗あがり。岳飛忙殺の一翼を担った外道。 呉?・・・宗弼を和尚原で破ったのが黄金時代。その後はただの酔っ払い。 呉?・・・兄貴の副将で補佐役。岳飛死後四川に引き篭もり。 劉錡・・・戦略的撤退を敵前逃亡と看做されて激怒、そのまま病死。 虞允文・・久しぶりの一発屋。でも権力の中枢にいたから長生きすればもっと活躍したかも。 李顕忠&楊存中・・数千から一万での局地戦では修羅の強さだが、名将と呼ぶには不足か。 ・・・以上、遅くなったけど南宋初期の名将ピックアップ。 他にも王彦とか魏勝とか李宝とかいるけどとりとめがなくなるんでこんくらいで。 811 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 01 49 43 wmBoXmV30 810は 801の続きね。 宗沢入れ忘れたけどまぁ、この人は「黄河を渡れ!!」の名台詞で説明終了。 812 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 02 55 38 4KpaQjTH0 808 耶律休哥以外の遼の名将というと耶律斜軫ぐらいしか知らないが・・・ 高梁河で休哥と共に宋太宗の親征軍を破り、 宋が再び大軍を北上させたときは山西方面の指揮をとって宋軍を撃破し 楊業を捕らえた 813 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 09 11 13 omAv98Yd0 耶律休哥って、髪が白髪になる人か。 でも楊業に及ばぬ自分を感じていたっていう格下の武将だし、 これは外してOKでしょ。 惜しかったね努力賞ってイメージが救えねぇw まぁ、楊業は五代末~北宋期最強の名将だから仕方ないとも言えるけど。 814 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 20 18 51 perZ8+ssO ここらへんの時代はあんまり詳しくないけど楊業って実際そんなに凄いの? 北方小説で過大評価されてるような気がするんだけど 815 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 20 36 10 ooQwvYVw0 北方小説で過小評価されてるきらいはある>耶律休哥の方 どう考えても北宋初期最高の名将なのに、楊業の引き立て役かぁ…。 内政担当の耶律隆運と並んで聖宗期の両輪を為した人が…。 816 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 21 34 01 c2L/HJVV0 耶律休哥と耶律斜軫は普通に名将だろうよ てーか曹彬が入るなら休哥は入るだろう 817 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 23 34 29 7b9vUZzqO 801 南宋が得意な御仁よりの回答、痛み入ります。 やっぱり詳しいですな。 凄いですよ、その知識!! 818 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 00 20 26 LjEVuFai0 816 耶律休哥を外すという主張は、名将かどうか、曹彬と比べてどうかという話ではなくて、 遼という王朝の扱いの問題でしょう。 819 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 00 29 13 fXLV+qUg0 818 そうだけど、厳然たる中国内地での戦いで、宋太宗を身一つで遁走させるほどの勝利をもたらした男を、名将でないとするか? 燕雲十六州は中国の土地という認識があり、そこを取り戻すのが初期と後期の国是となったわけで、遼全体ではなく、北宋の侵攻軍と戦い勝利したなら入れても問題ないでしょう。 ま、その辺にとどめ置くべきでしょうね。 新興の女真とか、遡るがウイグルや渤海と戦って勝利した将軍などは考慮しないということで。 820 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 01 25 47 LjEVuFai0 819 話、わかってる? 耶律休哥が名将でない、なんて誰も言ってませんよ。耶律休哥は「中国の武将」扱いができるかどうか、 と言っているのです。 818に対する、何の反論にもなっていません。 >燕雲十六州は中国の土地という認識があり、そこを取り戻すのが初期と後期の国是となったわけで この理屈で言うのなら、例えば20世紀に中国の一部を支配していた日本の軍人は「中国の武将」とみなせる のですか? 燕雲十六州は確かに関内の土地だが、当時の中国からすれば北辺の彊土。それくらいを占領しただけで 中国政権になるのなら、南詔や西夏だって中国政権になります。台湾を支配した日本も。 821 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 06 29 39 wpuDOooE0 808,813 耶律休哥が楊業に負けたのっていつの戦い? 822 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 08 33 09 iPZXmf/E0 767 俺はいいとして770の名誉のために言っておくと、自演ではないよ。 まぁ、確かに二人だけで時間とスペース割いたのは悪かったけど。 なんつーか、田中某氏の「五代十国には名将が少ない」ってのを覆したかったんだよ。 とりあえず、自己満足でみんなを白けさせたことについては謝っとく。すまんかった。 ちなみに空気読めないオッサン=南宋が得意な叩き台係の俺だったりする。 誰か気付いてたかも知れんが、言っとかないと居心地悪いんで告白しとくわ。 796 遅くなったけど、改行のタイミング教えてくれてありがとう。助かる。 820 耶律休哥残すべきか他の遼の名将に交代か、の火口を切ったのは俺なわけだが、 それが遼は中華王朝たりえるか、の議論に発展するとは・・・。 個人的な意見としては中原志向を持っていたかどうかで変わると思う。 明らかに中原を狙って南侵してきた金は間違いなく中華王朝として、遼は微妙だな。 燕雲十六州だけで満足してたとしたら中華王朝ではないことになるし、どーだろ。 出来る限り耶律休哥は残す方針でいきたいんだが。 821 808だけど、耶律休哥は生涯負けなしのはず。楊業には追い詰められたけど虎口を脱してるし。 いつのどこの戦いってよく憶えてないなぁ。続資治通鑑読めば出てくるはずだけど、めんどい。 823 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 09 50 50 sDTc3uctO 820 春秋戦国時代にはすでに中華世界に入っていた燕が駄目なら何処ならいいのよ 824 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 10 29 50 fXLV+qUg0 820 日本史が中国の正史として認められるなら、中国として扱われるかもしれんね。 遼史は二十六史のうちのひとつで、過去に中原志向があり、晋あるいは後唐、後晋さらには北宋と、従属国家ならしめたのだが、それを考慮していただきたい。 南詔とか吐蕃、西夏とはわけが違うんですよね。 だが、その中で中国武将として扱うのは、あくまで中国本土で戦った事例のみとしたい。 822 自演に見えるほど、話が合ったってことでしょう。 それはすごく楽しい時間でしたよ。 五代十国の知名度のないところを埋めようとしたのだから、場の空気を問題にださなくてもいいと思うのだけどなぁ。 たしかに、「白けた」というのは悪いと思うから、そこは謝っておきましょう。 825 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 11 16 33 PioT/k3w0 遼までアウトってやりすぎだろ 826 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 11 32 39 FD88rmOM0 近代以降の軍人は含めず 中原志向があり 中国本土を領土+主戦場とした事があり 漢化された文化を持っていた王朝 ・・・とするなら遼は十分入るのでは。 二十六史にも入ってる事だし、アウトは違和感がある モンゴル帝国みたいに扱いに困るエリアの武将がぼろぼろ入る訳でもないだろうし 最大でも3人位だろう 827 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 11 30 00 vo6wlQ4q0 【宋遼金時代】 今のところは 確定・・・曹彬 楊業 狄青 宗沢 岳飛 宗弼(ウジュ) 完顔陳和尚 孟? 候補・・・耶律休哥(遼を入れるのかどうか) 阿骨打(中国の武将なのか?) 宗望(オリブ) その他・・韓世忠・張俊・呉?・呉?・劉錡・虞允文・李顕忠 楊存中・僕散忠義・徒単合喜・宗翰(ネメガ)・耶律斜軫 こんなもんか? 828 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 15 48 04 fnE0CQba0 827 完顔陳和尚は一発屋で、他の戦いでは敗北を喫したりもしているので、 できれば外して欲しい。 こんなの入れるぐらいなら、耶律休哥を入れて欲しい。 あと、宗弼は負けが多すぎるので、名将百選に加えるには微妙な気がする。 創業期の金を代表する武将としては、宗望の方がふさわしい。 829 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 22 34 38 ZvnrKvkh0 完顔陳和尚はたしかに一発屋なんだが、その一発が他ではまずお目にかかれないような 大金星というのが扱いに困る。この百選は一発屋よりは総合的な功績が重視される傾向 があるので、やはり落ちるか? 宗弼が微妙というのには賛成。変わりに入れるなら総合的にいって宗翰を推す。 あと宋のチュウ師道がいないのは何故だ。 830 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 23 08 04 xqkOF2ld0 827 その他、のところでいいから衰宋期のパワフルおじいちゃん、杜杲と ビッグマウスな釣魚城城主、余?を推薦。孟?という巨星に隠れて地味な扱いだが、 両者それなりに頑張ってる。あと張順、王堅なんかもいるけど、 このふたりはもと孟?の部下だから入れんでいいか。 829 叩き台の段階でチュウ師道を外した理由。チュウの字が漢字変換できなかったから。そんだけ。 831 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 23 30 58 PYWCrXDb0 830 釣魚城を造らせたのは余?だけど、モンケ侵攻の時の城主は王堅でしょ。 釣魚城城主というのには違和感があるなあ。 832 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 23 45 10 xqkOF2ld0 モンケって結局病死なんだっけ? どっかで王堅が放った投石器の岩に潰されて死んだって読んだ気がするんだけど記憶違いか。 833 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 23 51 18 PYWCrXDb0 832 死因については諸説あるが病死というのが一般的。 後継いだフビライがモンケの遺命に背いて釣魚城の軍民全ての生命と財産を保証してるから。 直接殺したら流石にそこまで寛大になれないだろう。 投石器の岩に当たって死んだのは武将の汪徳臣のはず。 降伏勧告中にやられた。 834 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 00 10 57 R8+iyRtD0 833 サンキューありがとう。 モンケじゃなくて汪徳臣か。完全に勘違いしてたわ。 さて、明日はいつもより速いし、そろそろ寝るか。 宋金遼には思い入れ深いんで明日帰ってきたらすでに元時代になってるなんてことがないように祈るよ。 耶律休哥の問題もあるしね。 835 名前:827 投稿日:2006/12/26(火) 03 10 34 DSE9B05z0 828 叩き台に上がっていて今まで議論になっていない人物は 異論なしとみなして確定にいれたけど、自分も完顔陳和尚 は外していいと思う 830 「その他」は単に一度名前のあがった人物をまとめて書いておいた だけで、特に意味はなかった。紛らわしくてすまん 836 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 08 20 43 42YYP3fPO 829 大金星なのは確かだけど、規模が小さいような…… 837 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 10 23 50 JbDctQgM0 常勝ではないにせよ、末期の金で孤軍奮闘した勇将とは言えるだろうけどね。 名将百選に入るほどか、と言われれば・・・ 金を代表させるなら勃興期の名将・宗望や、南征の勇将・宗弼を入れたいね。 838 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 19 10 08 V3+XH6Ij0 宗弼は敗戦が多いから外したほうが、についてだが、 実際そんなに負けてるかってーとそうでもない。和尚原では一度負けてるが翌年獲り返してるし、 岳飛と韓世忠の合同軍を破ったりもしてる。 黄天蕩での敗戦はまぁ言い訳できない負け方だが、ウジュの敗戦は ・相手も超一流の用兵家であって ・得意の騎兵戦に持ち込むことの出来ない状況に持ち込まれた ためにやむなく敗れた、というのが真相であってだらしなく負けてばっかではない。?城の大会戦が実際あったなら金史に記載されないはずはないし、 (黄天蕩や和尚原での敗戦はしっかり書き留められてるんだから、?城の場合だけカットされてるってのは明らかにおかしい) 記述がないということは?城の戦いは実際にはなかったという率が高い。 つまり野戦で騎兵の機動力を存分に使える状況では負けてないことになる。 しかも南宋政府に講和を認めさせ朝貢国たることを認めさせた功績は敗戦のマイナスを補って余りある。 ということで、ウジュは残したほうがいいと思うのだが、どうか。 完顔陳和尚はどーかなぁ。個人的には足を折られても腕を折られても変節しなかった 硬骨漢って感じで好きなんだが、モンゴル軍相手に三連勝とはいえ、どれも局地戦だし百傑入りは難しいか。 代わりに誰入れるかってーと、順当なところで韓世忠かオリブのどっちかだろうな。 自分で推しといてなんだが余?じゃ明らかに役者が不足してるし。 余?+王堅+張カクの釣魚城城主トリオをまとめて一人扱いってんならなんとか他の英雄たちに匹敵できるかもしれんが、駄目だよな? 839 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 20 14 41 xM7WPZ7d0 838 自分で推しといてなんだが余?じゃ明らかに役者が不足してるし。 余?+王堅+張カクの釣魚城城主トリオをまとめて一人扱いってんなら なんとか他の英雄たちに匹敵できるかもしれんが、駄目だよな? 孟?がいればそれでいいと思う。 840 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 20 44 01 V3+XH6Ij0 839 同感。実のところ誰かが「孟?いらないよね」とか言わないかビクビクしてた。 まぁその心配はないとして(実際武功なら岳飛より孟?のほうが上、ってぐらいだしな) 一応10人枠あるから、穴埋めの人材と、あと耶律休哥の問題があるんだった。どーしよ? 841 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 21 14 01 V3+XH6Ij0 現時点での確定組と候補、連投させていただく。 【確定組】 曹彬 楊業 狄青 宗沢 岳飛 孟? 以上、確定6名 【候補】 完顔宗弼(俺の中では確定) 完顔阿骨打(中原では戦ってないし、外すか) 耶律休哥(遼は中華国家でいいよな?) 韓世忠(完顔陳和尚の後釜候補) 完顔宗望(韓世忠に同じく) 杜杲(孟?と活躍時期がかぶったのが不幸。単独で10傑入りは無理があるか?) 余?その他(・・・頑張ってください) 842 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 02 03 40 Yn742Mqk0 五代十国宋遼金で10枠ね。 843 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 02 32 06 7T6YDn+60 841 宗弼は微妙だな。マイナスも大きいがプラスも大きい 宗望は確定でいいと思う あと、完顔陳和尚の後釜には韓世忠の他に完顔宗翰と耶律斜軫を推したい ただし、こいつら3人とも同時代のより優秀な奴とかぶってるんだよな・・・。 844 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 04 36 16 62ylHK9k0 842 うぇ!? 五代十国宋金遼で10人っていくらなんでも無理ですぜ、旦那。 現時点で五代の確定、8名。 そして宋金遼から現時点で6人。宋金遼は当然のようにまだ増えるし。 それをあわせて10人ってどんな奇術使っても無理。 叩き台の段階で五代十国と宋金遼は別々にしてるわけだし、別々でいいだろ、どう考えても。 まぁ清まで終わった段階で100人超すから、各時代の代表をさらに7,8人に絞る必要があるとはいえ、 五代十国と宋金遼を一緒には無理です。隋唐を一緒にするのとはワケが違う。どー考えても無理なんで勘弁してください。 845 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 07 06 04 G3LU4sIo0 なら別に無理に10名出さなくてもいいんじゃないかと。 どうせ後で削るんだから。 異論が多い人物は外してもいいと思う。 846 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 07 35 06 Yn742Mqk0 844 最終的に各時代で均衡が取れるように絞る予定ならいいよ別に。 ただ五代十国なんて50年程度しかないことをお忘れなく。 あと、過去ログに目を通してから参加したほうがいいよw 847 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 10 14 00 5lDL98+e0 846 年数以上に、歴史的転換期であり、政権がめまぐるしく変わったことを忘れずに。 五胡と南北朝をくっつけないのと同じこと。 なんなら、魏晋南北朝とひとくくりにする? 848 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 11 32 35 GWIUbemB0 846 過去ログっつーか、後漢からずっと見てるよ、俺。 でも宋金遼時代は名将多いから削れないだろ。 宗弼、宗望、耶律休哥。この3人入れただけで9人になる。 五代十国の8人もこれ以上は削れない、って人物で固まってるし。 849 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 12 04 03 XaYK9d7o0 1.春秋戦国 2.前漢 3.後漢 4.魏晋十六国 5.南北朝 6.隋唐 7.五代十国 8.北宋・南宋 9.元朝 10.明朝 11.清朝 全部でこの11王朝だから、一朝毎に7.8人まで削る必要ないな。 一朝から9人で99人になる。あえて五代と宋をひっつける必要はないだろ。 最後の一人はどっかの時代で確定ではない候補の人物を入れるってことで。 850 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 12 33 27 +BkRsUoPO 五代だけやけに短くない? 851 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 12 44 27 X4iTQwFd0 850 同意 たかだか五十年の五代に一枠を与える事は過分以外の何物でもない。 852 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 12 57 03 Cw0UK+Ao0 人間の能力って特定の時代に偏ることはないと思うんだよね。 有力候補がなかった周の東遷以前を省いて辛亥革命までの2681年を百等分したって 五代で2人、ちょっと調整して割増しても3人くらいの枠にしか相当しない。 853 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 13 05 55 Y6NaSUK20 そんじゃあ 【五代】 李存勗 郭威 柴栄 趙匡胤 【宋朝】 曹彬 耶律休哥 狄青 宗沢 完顔宗弼 孟? 以上10名って感じか? 両朝ともやけに人材層薄くなるが。 854 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 13 24 08 Y6NaSUK20 ↑よっか五代から3~5名出して両宋からは一枠10名(9名でもよし) にしたほうがいい気がする。なんといっても宋は300年王朝だし、 時間ごとにまんべんなく名将が出てくるならそんだけで名将輩出率が高い。 異民族の名将も差別なく入れたいしな。 855 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 13 26 27 X4iTQwFd0 改めて新しい枠の規定を提案したいんだが… 春秋戦国(秦含む) 前漢(楚漢戦争含む) 後漢(新や魏・蜀・呉以外の後漢末群雄含む) 南北朝(晋統一~隋統一) 隋唐(隋末群雄も勿論含む) 宋(五代から元の統一まで) 元(元成立後の明成立までに活躍した元末群雄含む) 明(例によって明末群雄も含む) 清(まんま、清代に活躍した人々) 異民族枠(漢化されたとおぼしき異民族は含まれない、 純粋な異民族と思われる、 ある程度中国史に影響を与えた人物のみここに含まれる) 856 名前:855 投稿日:2006/12/27(水) 13 28 42 X4iTQwFd0 元の解説の冒頭部分(元成立後の)は無視してくれ。 857 名前:855 投稿日:2006/12/27(水) 13 40 46 X4iTQwFd0 すまん、後漢と南北朝の所で大きく矛盾していたことに気付いた。 これでは、魏・蜀・呉は何処にも含まれない事になる。 で、改めて後漢枠を(新成立~晋統一まで[魏・蜀・呉も含む])に変更したい 858 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 13 41 49 7T6YDn+60 五代・北宋・遼と金・元・南宋に分けるのがいいんじゃね? 宋は全部で300年あるから、それとくっつけられるとどうしても不利になる というわけで 【五代・北宋・遼】 朱温 李存勗 郭威 柴栄 趙匡胤 曹彬 楊業 狄青 耶律休哥 以上9名 【金・元・南宋】 完顔宗望 完顔宗弼 アジュ バヤン ココ・テムル 宗沢 岳飛 孟? 以上8名 これでどうか? 個々の人物が適当かは改めて議論するとして 859 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 13 44 03 Y6NaSUK20 852 人間の能力って特定の時代に偏ることはないと思う、についてだが、 動乱期には平時とは比較にならないぐらい将才・知略に長けた人物が湧き出るもんだと思う。 (平時には将才があっても確かめる術がないから) 855 異民族枠にはモンゴル初期の将帥(トゥルイ、スブタイなど)も入るの? スブタイは完顔陳和尚を倒して金を絶望のどん底に叩き込んだから、そこそこ歴史に影響してると思うが。 860 名前:855 投稿日:2006/12/27(水) 13 48 02 X4iTQwFd0 859 俺の主観では、モンゴル帝国関係は、 元成立以前の蒙古人なら全て異民族枠に入る。 後金のヌルハチやホンタイジもまた然り。 861 名前:855 投稿日:2006/12/27(水) 13 54 22 X4iTQwFd0 859 すまん、質問の意図を少し履き違えていた。 トゥルイとスブタイに関してだが・・・ ぶっちゃけ元は元末動乱期ぐらいしか詳しくないので、何とも答えられん。 しかし、先述したヌルハチやホンタイジぐらいの影響力があれば充分この枠に入る。 862 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 02 25 Y6NaSUK20 858 概ね同意だが元の将は元時代で別にしていいんじゃなかろうか。 一緒にするとなんとなく分かりづらいというか、元は独立させて 史天沢 忽必烈(フビライ) 兀良合台(ウリャンハタイ) 阿朮(アジュ) 伯顔(バヤン) 劉整 李庭芝 張弘範 脱脱(トクト) 拡廓帖木児(ココテムル) ぐらいがよくないか? ちなみに李庭芝は南宋最後の砦ってことで入れた。呂文煥でもいいけど。 863 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 10 59 rkWscUeh0 858 隋唐は300年以上、しかも世界帝国として対外的に膨張していた時代にもかかわらず きっちり10人枠で収めたんだから、とりあえず今は我慢しようや 五代~宋は文化的には飛躍していた時代であっても、軍事的には常に劣勢であったことを 考えれば、10人枠内に入るヤツラは、自然と決まってくると思うんだが ちょっと過大評価しすぎでないかい? 855 新~晋統一までか、一番枠組みが変わるところだな 南北朝時代だけだと、非常に狭い意味合いしかない言葉になるので「両晋南北朝」と 呼称したほうが分かりやすいと思う 864 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 22 19 /wJgecFi0 859 確かめる術がないだけであって能力自体が跳ね上がるわけじゃないだろ? 各時代でバランスがとれた配分にまとめることがこのスレの住人の腕の見せ所なわけだ。 865 名前:855 投稿日:2006/12/27(水) 14 24 30 X4iTQwFd0 863 うん、確かに。 それじゃ、南北朝は両晋南北朝に変更という事で。 866 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 49 32 Y6NaSUK20 両晋~南北朝だと 祖逖 桓温 慕容垂 劉曜 石勒 劉祐 韋叡 拓跋珪 斛律光 于謹 楊素 こんなもんか? すげぇキツキツだが。 867 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 51 22 Y6NaSUK20 いかん、11人挙げてるわ。とりあえず劉曜を抜くってことで。 868 名前:858 投稿日:2006/12/27(水) 14 57 26 7T6YDn+60 863 統一秦~前漢 約230年 新・後漢 約210年 魏晋~五胡十六国 約220年 南北朝 約200年 隋唐 約330年 どちらかというと、隋唐が例外的に長いと思う もし五代・宋・遼・金にすると他の時代の倍近い約370年になってしまう 俺としては時代を短めに区分して沢山名前があがったほうが面白くていいんだが 869 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 59 16 uGKfilRi0 五代十国の混乱は中原に限っては半世紀あまりで終わったが、 北宋は統一王朝でも覇権国家でも何でもないと思う。 中原の大半を支配してるだけの史上最も栄えた南朝。 その比類ない文化と思想的、言論的、制度的先進性が過大評価を生んでるだけ。 実際の東アジアの本流の覇権は遼と金が握っていた。 870 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 15 00 54 uGKfilRi0 1:春秋戦国時代(前770~前221) 2:秦漢時代(前221~220) 3:魏晋南北朝時代(184~589) 4:隋唐時代(581~907) 5:五代十国二宋遼金時代(907~1279) 6:元代(1271~1368) 7:明代(1368~1644) 8:清代(1636~1912) 871 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 16 41 09 5lDL98+e0 言うのも野暮かと思っていたが、魏晋南北朝期の門閥主義と、最下層の農民でさえ手柄を立てれば栄達できるチャンスが多かった唐末五代とでは、「人」の層が断然に違うということ。 玉石混交ではあっても、能力のある人間が世に出る機会が多いのであって、その厚みは他の時代とはずいぶん違う。 それだけ優秀な人材が出るということにもなる。 それでも、その武人主導の期間が短かったのは、中国王朝では異常事態だったから。 872 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 17 33 34 rkWscUeh0 871 中国史上、唯一の奴隷出身者の皇帝がいる時代が、門閥主義最盛期の魏晋南北朝期なわけだが すごい奴が出るのに、身分の壁なんて実際は何の縛りにもなっていないのが中国史の醍醐味でしょ? それを実際世に示したのが、他ならぬ市民階級出身の高祖劉邦なんだし 873 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 17 40 21 +BkRsUoPO 南北朝期の皇帝も軍人出身者ばかりだしね 874 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 18 54 01 5lDL98+e0 872 身分の壁なんて実際は何の縛りにもなっていないのが だからその壁がなくなるのが乱の時代であって、壁を作るのが治の時代なわけですよ。 五胡や五代などの戦乱期は、あるいは戦国時代もそうだけど、こういう時代は特に名将といった類の人間が立身しやすいので、多く出る。 つまり、方々に同じような実力を持ったものが出て、平均化して見えてしまうわけですよ。小粒に見えるのはその辺が影響しているんじゃないですか? 873 軍人でも門閥主義からは、そう遠くないですよ。 875 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 19 09 10 5lDL98+e0 と、言ってみたものの、時代区分は 858がそれなりの出していた。 すまない、よく見てなかった。 宋は、北と南で随分違うから、分けるのは妥当。 その王朝の性格も、 869の認識で大筋当たっているわけで、王朝の支配領域が大きい=優秀というわけではない。 しばしば指摘されているけど、この時代はユーラシア規模での活性期に入っているから、そこも考慮してほしい。 それだけ、中華王朝が、以前のようにデカイ顔できない状況だった。 876 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 19 21 23 L003U+Q+0 中華王朝が圧迫されてたのは五代に限った話でもない。 877 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 19 50 51 rkWscUeh0 春秋戦国(紀元前771年~紀元前221年 550年間) 統一秦~前漢(紀元前221年~紀元前8年 213年間) 新・後漢(紀元前8年~紀元220年 228年間) 三国~両晋(220年~439年 219年間) 南北朝(439年~589年 150年間) 隋・唐(589年~907年 318年間) 五代~北宋・遼(907年~1127年 220年間) 南宋・金~元(1127年~1368年 241年間) 明(1368年~1644年 276年間) 清(1636年~1912年 276年間) 今の流れだと、こういう枠組みか? まあ、もともと元代100年ちょっとに10人枠設けていたのが、無理があったのかな 878 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 20 31 23 X4iTQwFd0 乱の時代に英雄が現れ易いというのは、皆さん納得してくれる事と思う。 やはり、ここは乱の時代に別枠を設ける事が妥当な線ではないだろうか? そこで、 春秋 戦国 楚漢戦争 新~後漢統一 後漢末~晋統一 西晋崩壊~隋統一 隋末~唐統一 五代 元末~明統一 明末~清統一 の十大戦乱期を特別枠とし、それぞれの時代から6名づつ人物を選出し、 その他の治の時代は 前漢 後漢 唐 北宋・遼 南宋・金 元 明 清 に区分し、それぞれ5名づつ名将を選出するというのは如何だろうか。 879 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 20 34 48 X4iTQwFd0 ああ、さっきと同じでまた時代区分に矛盾が出た。 後漢末~晋統一 西晋崩壊~隋統一 は 後漢末~西晋 西晋崩壊~隋統一 に変更します、すんません。 880 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 20 40 46 X4iTQwFd0 隋末~唐統一も、 隋~唐統一に変更ね。 西晋も隋も、短すぎて忘れちゃうんだよ。 881 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 23 25 16 uGKfilRi0 ≪大乱枠≫ 1春秋戦国 2魏晋南北朝 3五代十国 ≪乱世枠≫ 1秦末漢初 2新末後漢初 3隋末唐初 4宋末元初 5元末明初 6明末清初 7清末 ≪治世枠≫ 1漢 2唐 3宋 4元 5明 6清 概ね 878に賛成だが、 春秋戦国、魏晋南北朝、五代十国を重点的に評価したい。 治世の中国は国力次第で何でも出来るのだから。 882 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 23 50 26 HSzgT7Nb0 個人的に、隋は南北朝に入れていいんじゃないかと思う。 隋末の戦乱期までは入れられないというか唐枠だろうけど。 883 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 23 55 45 x7kdsMxE0 春秋と戦国は分けてほしいかな 884 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 23 59 07 4ydpZOqp0 883 春秋と戦国を分けると、五人に一人が春秋戦国の人ということになるが、 それではあまりに偏り過ぎないか? 885 名前:奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 投稿日:2006/12/28(木) 00 09 32 mlOO4O9J0 同じだからバランスが取れるということもあるさ。 886 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 01 00 30 6jrvXozE0 878 881 見かけ上治世でも全く争いがなかったわけじゃないしなぁ 自分が気持ちよくオナニー垂れ流しできないからって振り出しに戻すのもいかがなものか。 三戦とかで、この手のスレがオナニー垂れ長しのためにダメになってるの見てきてるんで落ち着いてほしい。 っていうかお前ら自演だろ? 887 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 01 40 38 4X3fe2D2O 861 トゥルイは金滅亡の最大の功労者 スブタイは……世界史に与えた影響は大きいだろうが、中国史としては微妙かな 862 元の成立が1271年だから、厳密に元の武将の活躍としてカウント出来るのは、その後の南宋戦辺りからになる そう観ると、世代が一つ前の史天沢やウリャンハタイは「元」の「名将」とは見なしにくいのでは? 888 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 01 50 42 a9G7RoU50 調整するなら 877の枠がいいかな 今更複雑に設定するわけにもいかないだろう。 隋と南北朝をくっつけると結構バランスがとれてそう。 戦争が激しかった時代を足して平時と比べてみたけど4:6~半々くらい 結局一定の年数で機械的に枠を振っていっても問題無さそうだ。 889 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 04 02 KPx3WXvZ0 886 X4iTQwFd0ですけど、自演ではないですよ。 スレが荒れるのを危惧する気持ちは分かるけど、 何でもかんでも自演と決め付ける姿勢は改めてもらいたい。 890 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 18 17 TIs7a1Ga0 今更枠組みでウダウダ言うなんて荒らしと変わらん もう一回春秋戦国からやり直せというのか?アホ お前がこのスレ出てけば丸く収まるわい 891 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 34 54 wnF4QzZ10 888 同意。隋唐は長いから隋末、あるいは唐初あたりまでを南北朝にくっつけて あとは 877の枠組みでいい 892 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 38 54 SADQNtyQ0 890のいいたいこと。 俺が多数派の主流で正義。それに異を唱える輩は嵐の自慰厨。 889はアホ。 889は出てけ。 889は自演。 ビューティフルな議論に 889は不要。少数派も傍流もみんな死ね。 893 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 40 11 SADQNtyQ0 俺のIDが凄いな。 SADでDQNかよw 894 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 44 05 KPx3WXvZ0 890 まぁ、確かに 844、 842辺りのレスみて 五代で一枠?アホかと思い、 こりゃ正さなあかんなと思って書き込んだのが始まりで、 そこそこ反応あったからつい調子に乗ってしまったのも事実だ。 分かりましたよ、そこまでいうなら俺は自粛する。 だが、これだけは言わしてくれ、 今まで議論されてきた 神話~春秋戦国 秦・前漢 新~後漢 魏晋~五胡十六国 南北朝 隋唐 五代十国宋遼金 元 明 清 の枠組みで話し合うにしても、 王朝末期に活躍した群雄は前王朝に含まれるのか、 新王朝に含まれるのか、この定義だけでもハッキリしてくれ。 何か、曖昧になってこれまで議論されていた気がする。 895 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 44 35 AwZNOsK/0 正直、隋辺りに俺の語りたい時代だから枠をたくさんよこせってのが出てきてからぶち壊しになってるよ。 平時からも隠れた名将を発掘し、決められた枠内に絞り込んでいく過程が面白かったのに。 896 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 48 52 KPx3WXvZ0 842じゃなくて 849ね 897 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 04 25 38 A41Cy64XO 隋を南北朝とくっつけると今度は南北朝時代の枠がキツくなりそうな気がするんだけど。 タダでさえ南北朝時代は候補が多いのに… 898 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 06 23 52 ecDWMsPY0 877に賛成。南北朝を三国~五胡にくっつけるとあまりに自由度低くなるし、 五代~宋朝は侵略王朝の武将がいろいろいるから南北に分けて考えたほうが望ましい。 隋唐は10人枠で収まる事が実証されてることだし、これでいいと思う。 899 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 09 42 30 n8Nr0VPf0 五代宋金遼を10人枠で収めるなら 李存勗 趙匡胤 曹彬 楊業 耶律休哥 狄青 宗沢 岳飛 完顔宗望 孟? でなんとか収まらんことはないな。 両宋を分けて元まで入れるなら 【五代・北宋】 朱温 李存勗 柴栄 趙匡胤 曹彬 楊業 耶律休哥 范仲淹 狄青 チュウ師道 【南宋・金・元】 宗沢 岳飛 完顔宗望(オリブ) 完顔宗弼(ウジュ) 孟? 李庭芝 忽必烈(フビライ) 伯顔(バヤン) 阿朮(アジュ) 張弘範 あたりが妥当だと思う。「賽存孝」劉整が入らんのが残念だが。 900 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 09 48 07 JLEugHZl0 曹彬なんかがどっちにも入って、柴栄入らん理由はなんなんだろうか。 901 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 09 59 27 n8Nr0VPf0 曹彬は十国討伐の最大功労者。対するに柴栄は英雄的君主ながら危険な目にもあってるし、 即位後たった四年で病死。結果趙匡胤に衣鉢を託すことになった。 ・・・ってのが評価基準だったんだが、お気に障ったか? 902 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 10 44 37 wnF4QzZ10 899 フビライは直接軍の指揮をとったのはモンケの死の直後とナヤアの反乱の時 だけだからここには入らないと思うが 曹彬と柴栄、どちらか一方を選ぶなら柴栄じゃね?曹彬は二度も遼に大敗しているし 903 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 11 11 47 n8Nr0VPf0 902 フビライはモンケ時代にモンケとは別ルートで蜀入りしたんじゃなかったっけ? 実際戦う前にモンケが死んだわけだが、軍を統率する器量はあったんじゃないか? まぁフビライの代わりに劉整入れられたら嬉しいがな。 曹彬は遼に負けながらも上手い具合に退却してるから「決定的敗北」はしてないだろ。 太宗を守って整然と退却する統率力と人望は並々ならぬものがあったと思うんだが。 まぁ統率力と人望なら柴栄のほうが上か。・・・悪い、そんじゃ柴栄と曹彬入れ替えで頼むわ。 904 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 11 16 28 n8Nr0VPf0 903 戦う前に→釣魚城にかかる前に、に訂正。 905 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 14 22 01 D5luvRkF0 もいっちょ連投。とりあえずこのスレで清朝まで行っときたいんで叩き台。 【明朝】 朱元璋 陳友諒 張士誠 徐達 常遇春 朱棣 王守仁 戚継光 袁崇煥 鄭成功 落とす候補は真っ先に陳友諒と張士誠。隋末唐初の群雄ほどの強烈な個性がないから 擁護したい気にならん。 かわりに入れるとしたら個人的には馬芳、兪大猷あたり。 あと鄭成功は李自成か呉三桂に代えてもいいかもしれん。 【清朝(後金含む)】 奴児哈赤(ヌルハチ) 阿巴泰(アハタイ) 多爾袞(ドルゴン) 費英東(フィヤントン) 康熙帝・玄燁 岳鐘琪 策稜(ツェリン) 僧格林沁(サンゴリンチン) 宋景詩 関天培 個人的にはこれで確定なんだが、費英東と関天培は外す候補になるかも。 特に関天培入れたのは完全に個人的な趣味だからな。 費英東は「佐命第一」の元勲だが実際どこでどう戦ったって記述が少ないんで外してもいい。 入れ替え候補としては郷勇代表・羅思挙とか。 田中某氏の推す楊遇春は内乱鎮圧専門だから入れる必要なかろう。 内乱が起こること自体民衆が国政に不満を持ってる証拠みたいなもんだし。 実のところ康熙帝以後の名将ってよく分からんので詳しい人よろしく。 906 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 16 09 09 1kdzBspu0 905 明だったらまず鄭成功を外す。軍事功績という点ではたいしたことしてない。 盛庸は、功績は十分だがやはり他の候補に比べると格が落ちるか。あと推薦は 張輔と鄭和。鄭和は指揮官としての実績は文句なしだと思う。ただこれを将と しての功績とみなせるかどうかで議論は分れるかな?他には明末の祖大寿とか 洪ショウチュウ(字が判らん)、呉三桂は清にはいるのかな?李成梁は、候補 には入れてもいいか?兪大猷はむしろ確定でいいんじゃないかと。 清は…「内乱が起こること自体民衆が国政に不満を持ってる証拠」その通りだが、 それと名将かどうかになんの関係がある?その基準でいくと、前漢の周亜夫や 隋の張須陀は外すか?楊遇春は確定だと思う。 907 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 16 10 30 1kdzBspu0 書き忘れた。 明の王守仁も外征で活躍したなんて記録あったか? 908 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 16 25 07 4JDH215a0 906 確かに。内乱が起きるのは朝廷の責任であって、将帥の才覚とは関係ないよな。 すまん。どーも名将=民衆の味方って色眼鏡で見てたが、職業軍人なんだから叛乱が起こったら討伐に赴くのは当然だったな。 909 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 16 34 24 IvVHov+w0 905 明代の名臣于謙が抜けてるね おそらく、一発屋ということで外したかもしれないが、50万の大軍を破ったエセンをして撃退せしめ 更に明側が有利な講和、軍制改革を一挙にやり遂げた手腕は、十分に名将に値すると思うよ ということで、明代の個人的十傑+α 【確定組】 拡廓帖木児(元に入っていなかったから) 朱元璋 徐達 常遇春 朱棣 戚継光 袁崇煥 【候補】 陳友諒 (元末群雄として一時期最大勢力を築いた、劉基がいなければ朱元璋も滅亡していたかも) 方国珍(経済力と元にはない海軍力とにより、徹底的に元を翻弄した手腕は尊敬する) 湯和(ココティムール、方国珍、陳友定を破り、また明朝の倭寇対策の基礎を築いた) 李文忠(徐達、常遇春と並び称される名将、北伐、征蜀に活躍した) 藍玉(西蕃、北元攻略に活躍、驕慢な振る舞いから後に大疑獄の元凶となる) 于謙(上述) 兪大猷(一生を倭寇鎮圧に捧げる、彼の時期に有力な後期倭寇の多くが討伐されている) 王守仁(他の王朝の反乱鎮圧した地方官と比べて、押しなべて功績が高いとは言えないと思う) 呉三桂(ダメ軍人の鑑、でもこいつが山海関守っている限りは、絶対に清は侵入できなかっただろうな) 李自成(明朝を滅ぼした大順皇帝、人生のキャリアハイから転落までが急転直下過ぎる) 鄭成功(正直、真っ先に候補から落ちそう、他時代の群雄は軒並み落選しているからね) やっぱ呉三桂はダメすぎる、しかしそれを補って余りあるくらい将軍としては優秀だなあ 10傑に入るとしたら、彼かも 910 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 16 59 52 4JDH215a0 909 于謙、あなどってたかもしれん。南宋の虞允文レベルの一発屋かと。 新帝即位、新朝廷での軍制改革。いろいろやってんだよなぁ。 はっきり言って所詮は文人と思って嘗めてた。そーいや南宋の宗沢だって本来なら文人だもんな。 拡廓帖木児は完全な入れ忘れ。 徐達&常遇春最強のライバルを忘れるとは度し難いな、俺は。 911 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 17 08 46 wa6RT03RO (及時雨・呼保義)宋江が最強、最高!! 912 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 17 21 22 oDoNLXsZ0 于謙といい袁崇煥といい、忠臣には徹底して冷たいのが明朝の特徴だな。 功績をあげて天寿を全うできた戚継光や李成梁や湯和は素直に褒められても良いと思う。 907 兵部尚書として寧王の反乱や農民反乱を鎮圧しているが 外征に関してはベトナム進軍に反対している。 913 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 17 28 39 6yn+hwPD0 陳友諒、張士誠、鄭成功は外していいだろう。方国珍も。 于謙に関しては、講和とか軍制の改革は名将としての評価には ならないんじゃないかな。そういった政治家としての功績を 除くとやっぱり一発屋。 明初は馮勝を入れてもいいかもしれん。 徐達がココテムルに負けたときも彼一人だけ敵を破ったし 功績も藍玉に劣るもんじゃないだろう。 戦利品着服とかしてよく朱元璋に怒られてるけど。 912 戚継光ってうしろだての張居正が死んだらクビにされて そのあと病死だから天寿をまっとうと言っていいのか悩むな。 処刑されなかっただけマシなのか。 914 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 18 28 04 nxvCkIQ60 張輔も候補に入れてくれ。 靖難の変で活躍し、ベトナムを征服した名将だ。 915 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 18 38 38 oDoNLXsZ0 永楽帝の下で働いた武将の中では割合メジャーな方だけど 英宗時に土木の変を止められなかったのがマイナスだな>張輔 自身もそれで戦死しているし。 913 戚継光と李成梁は晩年、中央の支援者が死んだので罷免・引退。 湯和は倭寇対策を任されるも、中風で半病人状態だった。 まあそのお陰で朱元璋の粛清を免れたという面もあるが。 (ちなみに湯和の叔父は土地私有で不正して朱元璋に殺されてる) 916 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 19 49 23 d8dT/wTh0 これまでの流れで行くと・・・ 拡廓帖木児 朱元璋 徐達 常遇春 馮勝 朱棣 王守仁 戚継光 兪大猷 ・・・これで残り枠一名か。 于謙には涙を呑んで諦めてもらうとして。 馬芳入れたいんだけどな。戚継光、兪大猷の時代の陸戦での無敵将軍。 兵法に通じ大小百余戦を経て負けなしの名将なんだが、残念なことに歴史の動きにはほとんど寄与してない。 歴史の動きに大きく寄与してる、って点では呉三桂のほうが絶対的に上だな。こいつが寝返らなかったら女真族が中原に現れることすらなかった。 さぁどっちだ?(諸兄に任せた) 917 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 19 52 53 d8dT/wTh0 袁崇煥忘れた!! そんじゃ兪大猷を落として、改めて馬芳vs呉三桂で。 918 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 19 58 12 KPx3WXvZ0 個人的に張士誠の弟である張士徳は候補に入れてもらいたい。 張士誠の起兵当初から付き従った名将軍だ。 比較的初期に朱元璋に倒されたので、 あまり印象に残らない方もいるとは思うが、 『国初群雄事略』の張士誠伝を見れば、 彼の活躍が張士誠政権の基盤を作る為に どれほど大きな意味を持っていたかが手に取るように分かる。 常熱、常州、湖州、杭州などの江浙の要所を陥落させ、 蘇昌齢や陳基など、多くの有能の士人を見出して自己の参謀としている点も評価していいだろう。 常州での朱元璋軍との最後の決戦では、 徐達、常遇春、湯和、廖永安、胡大海、趙徳勝等名だたる名将を相手に、 鄭という名の朱元璋軍の将を離反させるなどして善戦を続けた。 この際徐達は 「張士徳は智勇に優れた人物で、まともに当たるべきではない」 と述べているし、 張士徳を捕えたことを知った朱元璋は大いに喜んで 「張士徳は智勇に優れた人物で、張士誠の謀主である」 とその人物を評している。 善戦の末破れ、朱元璋に捕えられた張士徳は朱元璋の再三の降伏要請を跳ね除け、 兄の張士誠に密書を送り元朝と結ばせ、獄死した。 その見事な最期も名将と呼ぶに相応しいと俺は思う。 919 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 00 09 wnF4QzZ10 なんか一気に明までいってしまったな 宋は二つに分けるってことでいいのか? 以前の議論をもとにまとめると 【五代・北宋・遼】 確定 朱温 李存勗 郭威 柴栄 趙匡胤 曹彬 楊業 狄青 候補 耶律休哥・・・遼は中華王朝? 【南宋・金・元】 確定 宗沢 岳飛 完顔宗望 孟? ココ・テムル 候補 完顔宗弼・・・賛否両論なので候補にとどめる バヤン・・・・ほとんど議論されていないので アジュ・・・・同上 899とたいして変わらないんだが、李庭芝や張弘範をここに上がっている 連中と同列に並べるのは無理があると思ったので外した 范仲淹とチュウ師道についてはよく知らないので詳しい人よろしく 既に明に入っているのに邪魔して悪いが、確認ってことで 920 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 01 32 nxvCkIQ60 917 兪大猷落とさないで、そのままでいいんじゃね? 921 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 05 19 KPx3WXvZ0 916 個人的に、朱元璋は名将と呼ぶ部類の人間ではないと思う。 君主としては、間違いなく中国史上でベスト10には入るだろうけど。 朱元璋を候補に挙げている方は、その根拠を述べて欲しい。 922 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 05 45 6yn+hwPD0 916 ココテムルは元に移動させて、明の枠を確保したほうがいいかも 朱元璋 徐達 常遇春 馮勝or李文忠 朱棣 王守仁 戚継光 兪大猷 袁崇煥 馬芳or呉三桂 こんな感じで 923 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 08 12 1kdzBspu0 915 土木の変を張輔に責を負わせるのは無茶じゃないか? この時の彼には指揮統率権もなかったのだから。 例えば、宋代だと曹彬や楊業は太宗の遼遠征を止められず、結果は大敗北。 だから曹彬や楊業をマイナスにしろと? 924 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 15 42 d8dT/wTh0 両宋は本来まだ議論してていいんだよ。一枠か二枠かも含めて。 とりあえずこのスレ中に一応清朝まで顔出ししとかないとまずいかなーってことで叩き台出して、 とりあえずこいつは確定、こいつは候補、ってとりあえずの10傑を選別してる段階に過ぎないわけだし。 918 確かにそのあたり凄そうだが、明初には徐達、常遇春、馮勝がいるからなぁ。 徐達(こいつに「まともに当たるべきではない」って言わせたのは確かに凄いが)と常遇春は外れないとして、 残る一名枠は馮勝。確実に馮勝より上、って+α的なものがあればいいんだけど、馮勝は天下の「常勝将軍」だしな。 925 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 19 50 d8dT/wTh0 なんか俺のコメント「とりあえず」多いな。ちょっと文章的にヘンかも。 926 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 25 41 d8dT/wTh0 921 韓信も言ってただろ、高祖には「将に将たる才覚がある」って。朱元璋はまさにそれだよ。 まぁ、将軍達をさんざコキ使った挙句疑心暗鬼が昂じて人材大粛清を行ったのは人としてあまりにむごいけどな。 927 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 30 36 nxvCkIQ60 926 このスレで議論しているのは「兵に将たる」人物のことであって、 「将に将たる」人物のことではないと思う。 928 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 38 14 d8dT/wTh0 927 若かりし頃の朱元璋は郭子興の下で将軍として活躍してる。 呉王になって以後の戦は徐達・常遇春コンビに任せることが多くなったとはいえ、 将才が衰えたってわけでもないだろう。その軍事的才能を色濃く受け継いだのが燕王朱棣であって、 朱元璋を落とすなら朱棣も同レベルとして落としてしまえるのでは? 929 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 39 13 KPx3WXvZ0 909 陳友諒は既に候補から外れているので、 まぁこんなことは言わなくてもいいとは思うけど・・・ 元末群雄として一時期最大勢力を築いた、 劉基がいなければ朱元璋も滅亡していたかも とか、陳友諒を偉く高く評価しているけど、 陳友諒の大漢政権内部って成立当初からがたがたで、 同じ倪文俊配下で戦友であった筈の明玉珍は独立を宣言するし、 裏切りを恐れて趙普勝は殺すし、 応天攻撃の失敗後、欧普祥や祝宗・胡廷瑞には見限られるし、 配下であるはずの熊天瑞は全然命令聞かないし、 そんな感じで酷い状態だったことは知っている? 全然一大勢力を築いていないんだよ、陳友諒は。 それどころか、天完の大勢力を縮小弱体化させただけ。 930 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 41 52 6yn+hwPD0 >朱元璋を落とすなら朱棣も同レベルとして落としてしまえるのでは? これはちょっと意味がわからないな 血がつながってるから同レベルなの? それぞれの実績を別々に見てみれば、朱元璋を落として朱棣を残すという 選択肢があっても別におかしくないと思うが。 931 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 45 02 wnF4QzZ10 921 朱元璋は江南の平定までは自ら軍を率いていたんじゃなかったかな だから入れてもいいと思うが 932 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 56 24 d8dT/wTh0 930 「軍事的才能を色濃く受け継いだのが朱棣」ってちゃんと読んだ? 血が繋がってるから同レベル、というのは朱元璋>朱棣という意味。 だから朱棣より上の朱元璋を落とすなら、それ以下で同列扱いの朱棣も、ってこと。 俺としては朱棣より朱元璋のほうが将才があると思ってるんだよ。 そんくらいの才能がなきゃ乞食から皇帝まで登れるか? 933 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 58 04 1kdzBspu0 931 いや、長江を渡る頃にはすでに徐達・常遇春らが揃っている。 郭子興の勢力自体がそれほどのものではなく、朱元璋が郭子興勢力を伸張させる なにか大きな功績を樹てたこともないし、そもそも朱元璋は郭子興からそれほど 重んじられていたわけでもない。郭子興が死んで分離行動を取ってから大きく なったが、その頃にはもう軍の指揮は部下に任せるようになっている。 934 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 01 21 1kdzBspu0 932 それだと、同じく貧農出身の劉邦にはどれほどの軍才があったと? まったくないとは言わないが、彼が皇帝になれたのは彼個人の将才が凄かったからだ、 なんて主張する人はいないだろう。 935 名前:921 投稿日:2006/12/28(木) 21 01 45 KPx3WXvZ0 930 将才というより、君主としての才だろう。 実際劉邦には、将才があったとはとても言えないし。 まぁ、郭子興集団で台頭する為には多少の将才は必要だが、 郭子興配下時代の朱元璋の同僚の将軍には、 弓矢を射られて驚き、十歩も進まずに敵前逃亡した奴がいる位だから、 正直、大した才能がなくても将として取り立てられそうじゃない? 936 名前:921 投稿日:2006/12/28(木) 21 02 50 KPx3WXvZ0 930は 932ね、すまん。 937 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 05 02 6yn+hwPD0 932 >そんくらいの才能がなきゃ乞食から皇帝まで登れるか? 「出世する才能」じゃなくて「軍事的な才能」が問題なんだから 軍事の実績にしぼって話をするべきだと思うんだけどどうかな。 たとえば朱元璋の戦績と朱棣の戦績を比べるべきで、 「徐達や常遇春に任せることが多かったけど才能は朱棣以上」とか 検証不能な失われた可能性は考慮に入れないほうがいいと思う。 で、軍事的な実績に限れば朱棣>朱元璋じゃないかと思うんだが。 938 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 06 45 ocUad3ZF0 少し遅れたが、フビライについて一言。 フビライはモンケが生きてた時からウリャンハタイと一緒に雲南遠征を成功させてるし、死後の帝位継承争いでも自分で軍を率いてアリクブカを倒したりしているから、候補くらいには入れておいて欲しい 939 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 24 29 d8dT/wTh0 937 そうだな。妙に熱くなってた。 確かに俺の提言は仮説的な発現が多くて実際的じゃなかった。 すまん、 921。どうも俺のほうに非があったようだ。 ま、朱元璋落ちたら明からもう一人枠が増えるしな。悪いことばかりじゃないと自分を慰めよう。 940 名前:921 投稿日:2006/12/28(木) 21 35 32 KPx3WXvZ0 939 結構、誰が明代十傑に挙がっても名将たちも結構挙がっているしね。 慈愛に溢れる朱元璋陛下がその仁徳によって席次を一つ空けてくれたと思いましょう。 941 名前:921 投稿日:2006/12/28(木) 21 36 55 KPx3WXvZ0 何か意味不明の文章になってしまった。 結構、誰が明代十傑に挙がっても名将たちも結構挙がっているしね は 誰が明代十傑に挙がってもおかしくない名将たちも結構挙がっているしね。 に変更します。 942 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 46 41 d8dT/wTh0 ちょっと告白するけどね。 「将に将たる」を否定されたトコで半キレモード突入、なんとか論破してやろう、 って馬鹿みたいにムキになったわけさ。改めて20レスほど遡ると恥ずかしいな、俺。 この場は「将に将たる」人材を探す場所ではない、と言われてそこでああ、そうだなって引き下がればいいものを、阿呆か俺は。 と、いうわけで 921にも諸兄にもいろいろ迷惑かけたよな。すまんかった。 943 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 57 55 bha33n5H0 ところで、ハ陽湖の戦いの勝利って朱元璋の戦歴には入らないのかな? あれが入れば、十傑入りも可能なんだが 944 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 22 03 07 oDoNLXsZ0 943 個人的な意見だが対元北伐までが朱元璋の戦歴に入ると思う。 945 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 22 46 22 KPx3WXvZ0 943 確かに、?陽湖の戦いは確かに朱元璋が指揮したもの(ということになっている)だが、 ?陽湖で陳友諒と決戦に挑まざるを得なくなったのは朱元璋の失策によるもの。 朱元璋が張士誠の攻撃を受け、救援を求める韓林児のために、 劉基が止めたのにも関わらず、自ら兵を指揮して救援に向かった為、 陳友諒に対して大きな隙を与え、この隙を衝いて陳友諒が大兵を動かした。 ちなみに、ここで二つのIFが生じると、 朱元璋は自身の失策により陳友諒によって 壊滅的な打撃をこうむることになった。 一つ目のIFは、陳友諒が大艦主義に走らず、 倪文俊から奪い取った快速船を主体とする高速水軍を用いていれば、 ?陽湖の戦いの結果は変わっていたという点。 二つ目のIFは、陳友諒が洪都を無視し、 一気に応天を衝いていれば、 間違いなく朱元璋に帰る場所が無くなったという点。 そもそも、朱元璋が名将と呼べる人物であったなら、 このように戦略的にどう考えてもおかしい軍事行動は行わず、 おとなしく劉基の意見に従っていたと思うよ。 実際、韓林児を自ら助けに言ったのは完全に失策だったと 朱元璋は後から劉基に謝罪している。 946 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 22 59 11 wnF4QzZ10 938 少し前にフビライ外せって言った者だが、言われてみればフビライの戦歴は 雲南平定 アリク・ブカを破る ナヤアの反乱を鎮圧 と、これだけあるので十分ここに入る資格があると思う 呉三桂とほぼ同じ時期には洪承疇・祖大寿がいる 持久戦でホンタイジの攻撃を食い止めたが、朝廷からの命令でやむなく攻撃に 出て敗北した 947 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 23 10 55 21//h9D90 明に関しては、 徐達 常遇春 朱棣 戚継光 袁崇煥 の五人は確定でいいだろう。残りは 朱元璋 湯和 李文忠 馮勝 張輔 鄭和 王守仁 馬芳 兪大猷 呉三桂 から五人といったところか 948 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 23 31 25 KPx3WXvZ0 947 張士徳も入れてけれ。 皆、元や明以外の元末群雄を下に見すぎ。 個人的には戴寿、毛貴、張定辺、呂珍…と、 他にも推薦したい奴はいっぱいいるんだけど、 グッとこらえて、 明以外の元末群雄代表でこいつを選出したのに無視しないでくれよ。 949 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 23 34 05 bha33n5H0 947 その中だと、兪大猷、呉三桂は確定で良くない? 逆に、朱元璋を候補に落とす方向で流れているのを考えると、鄭和も候補止まりだろう 李文忠 馮勝 王守仁 兪大猷 呉三桂 の5人が十傑入りでいいと思うよ 950 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 23 48 05 21//h9D90 948 ごめんよ やっぱ最終的に負けると印象悪くなっちゃうよな 951 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 02 31 57 V9Kmb/lFO 王守仁は一発屋 それも外敵からの一大決戦じゃなくて内乱 いや神がかってるのは判るが外れるならまずこいつだろう 952 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 03 53 53 ndRE+ASzO 王守仁は思想家としてのイメージの方が強いからなぁ。 953 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 08 56 43 gBMleC/l0 王守仁の戦歴と言うと 寧王の乱鎮圧 思恩・田州の叛乱鎮圧→帰途で死去 ぐらいか? 確か、タタール対策の上奏もあったはず 于謙も外れてるし、ここは落としたほうが良いのか? でも、一発屋、一発屋って言われても、結構萎えるよ このスレ、周亜父とか周瑜も外されかけてるし 朱元璋が外れる理由が分からなくなってきたな ほぼ断続的に江南で戦い続けてるし、数々の危地を配下の献策と持ち前の強運で切り抜いてきている 運のよさは名将の条件じゃないのかねえ? 954 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 09 12 22 g2ntYcbi0 953 名将と呼ぶには運の良さだけじゃダメだろ。 戦略眼や指揮能力+運の良さでなけりゃ。 戦略の失敗を運でフォローした奴は名将とは呼べないと思う。 955 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 09 49 39 Our7SalQ0 954 戦略上のミスと言っても、このスレで名前の挙がった歴代群雄の連中見ても結構ポカは多いぜ 項羽・曹操は言わずもがな、李世民も竇建徳を処刑して河北での反発を招き、統一を遅らせている 朱元璋の場合は、上記の人間達と比較しても専門的な軍事教育を受けていないにもかかわらず 軍の指揮能力や掌握術は、この時代で群を抜いて優秀であることや 早い段階での集慶攻略や地盤固め、多くの幕僚の招聘を見ても将軍としてかなりの部類だよ 仁政家、謀略家、独裁者としての面ばかり見てると確かに軍事面は物足りないかもしれないが 相対的に将軍としての評価が下がるとは思えんのだがね あと、運の良さは朱元璋に限って言うならば、中国史最凶だろう 956 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 09 57 39 xXDa2IYVO そうだそうだ!! 武将としての朱元璋を過小評価するのは納得いかぬ。 957 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 10 10 27 g2ntYcbi0 955 じゃあ、劉邦も名将の部類に入れるのか? 対秦戦、配下の献策を受け入れたこと、戦歴、危機を強運で切り抜けたこと、 地盤固めや多くの幕僚の招聘なんかは劉邦にも言えることだが。 958 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 11 20 05 Our7SalQ0 957 当然候補には確実に入るだろうよ、秦漢を代表する不屈の将軍だぞ 冒頓単于、韓信、項羽、彭越、潅嬰あたりには劣るけどな 朱元璋は劉邦よりも軍事的失敗、敗戦が少ないからこそ名将に推しているんだよ 人の下でもよく働くし、人の上に立ってもよく将兵を使いこなせる 突き抜けてはいないけど、オールラウンダーな名将ってのが朱元璋だと思うんだが 入れる理由が弱いかもしれないが、外す理由の方がはるかに少ないでしょ 戦略うんぬん言い出すと、北伐の敢行(及び華南が華北を制圧した唯一の成功例)や 諸王の北辺配置によるモンゴル対策とか、結構時宜を得た優秀な戦略もあるよ 軍事政策は名将の条件に入らないと言うのであれば、別に評価しないでもいいけど 959 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 11 26 43 eFPCVhJ80 943 一度おかしな行動をとったからといって名将ではないと断言するのもどうかと思うが 誰にだってミスはあるわけで、自分のミスを補いつつ最終的に勝利を収めることができれば 十分名将というに値するだろ 954 敵の失敗は幸運だとしても、それを上手く利用して戦局を挽回するのは 平凡な将ではできないと思うが もし朱元璋が全ての危機を相手のへまだけで乗り切ったのなら それはそれで最凶ではあるなw 名将とはいえんだろうが 敵のへまに 960 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 11 32 20 9Ql2f9Sj0 実際に兵を率いての評価だよね? 戦略眼を評価に含めると 張良とか劉基入れないとだめになるから、あくまでも戦略の良し悪しは 補助的な項目だと思うけどな だから前線に出てもいない北伐を朱元璋の実績に含める 意見には同意できないが、 ハ陽湖の戦いを朱元璋の実績に含めるならば十人に入れてもいいと思う 今でも外すわけじゃなく候補には挙がってるわけだし、 他のメンツと比べてどうかという点だけだな 961 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 11 37 39 g2ntYcbi0 958 不屈の将軍や将に将たるってのは名将じゃないってのがこのスレでの話だと思ったが。 それに言っておくが朱元璋の10選入りに反対してるわけじゃない。 ほぼ断続的に江南で戦い続けてるし、数々の危地を配下の献策と持ち前の強運で切り抜いてきている 運のよさは名将の条件じゃないのかねえ? この考え方がおかしいんじゃないかと言ってるだけだ。 962 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 11 49 27 Our7SalQ0 961 確かに評価の論点がズレてるな、すまない 集慶攻略や応天府での逆撃、番陽湖の戦い(さらにそれ以前からの郭子興軍での戦いぶり) これらの戦績があっても、スレの上の方で十傑入りから外す意見が出てたんで 「じゃあ、運の良さや人材活用、壮大な戦略の持ち主といった+αで掩護しよう」と思ってしまった しかし、劉秀、曹操、趙匡胤あたりの人間に劣るかねえ 朱元璋 963 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 12 17 56 hz/RCBl20 劣らんと思うよ。 趙匡胤にしても、皇帝になってからは陣頭指揮なんかしてないし。 劉秀もそうだったんじゃなかったけな… 964 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 13 25 46 ndRE+ASzO 劉秀は統一するまでは自分で軍を指揮してるよ。 965 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 15 25 52 hcv+uacn0 そろそろ、次スレに備えて、 今まで決めた分について、まとめないとね。 966 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 19 24 22 BqiSUfrv0 朱元璋は戦術のみに絞った場合、劉秀はともかく曹操や趙教員には劣るんじゃない 967 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 19 48 57 fifT6twd0 966 趙教員って趙先生かw 968 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 21 24 27 hz/RCBl20 このスレでは久しぶりにネタを見たなw たまにはいい… 969 名前:まとめてみました 投稿日:2006/12/30(土) 00 27 17 i2+ksOwN0 これまでのまとめ 時代区分は 877の案を採用しました。 春秋戦国 347 【確定組】 楽毅、魏無忌(信陵君)、白起、李牧、王翦 【候補】 墨子、管仲、呂尚、孫武、伍員(子胥) 、廉頗、孫ビン、夫概、趙奢、士会、 趙奢、趙無恤、王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾 統一秦~前漢 418 【確定組】 韓信、霍去病、衛青、灌嬰 【候補】 項籍(羽)、周文、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、田横、 周亜夫 、李広、李陵、趙充国、范明友、陳湯、劉邦 新・後漢 501 劉秀、耿エン、馮異、岑彭、呉漢、廉范、班超、張奐、虞[言羽]、賈復または馬援 三国~両晋 582 【確定組】 曹操、鄧艾、石勒、祖逖、王猛 【内定組】 周瑜、劉曜、慕容垂 【論争中】 陶侃、石虎、謝艾、慕容恪、桓温、謝玄、姚萇、李雄、皇甫真 劉淵、劉聡、冉閔 南北朝 604,605,633 【確定組】 劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、 拓跋珪、高歓、宇文泰 【候補】 柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、 斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼 段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達 赫連勃勃、拓跋燾、侯景(宇宙代将軍) 蕭道成、斛律光、陳覇先 隋・唐 687,720,737 【確定組】 楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用 【候補】 韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥、徐勣 李孝恭、薛仁貴、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、黄巣、高駢 李存孝、安録山、薛礼、劉方、蘇烈、劉仁軌、李光弼、史思明、李愬00 970 名前:まとめ2 投稿日:2006/12/30(土) 00 28 09 i2+ksOwN0 まとめつづき 五代~北宋・遼 769,858,899 【確定組】 朱温、李存勗、郭威、柴栄、趙匡胤、曹彬、楊業、狄青 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉?、康延孝、符存審、 任圜、李神福、台濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 【論争中】 耶律休哥 南宋・金~元 827,899,919,862 【確定組】 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、ココ・テムル 【候補】 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、范仲淹、チュウ師道 張俊、呉?、呉リン、劉錡、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ) 劉整、張弘範、脱脱(トクト)、拡廓帖木児(ココテムル)、呂文煥 明 905,916,947 【確定組】 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥 【候補】 朱元璋、陳友諒、方国珍、湯和、李文忠、藍玉、于謙、兪大猷、王守仁 呉三桂、李自成、鄭成功、馮勝、張輔、張士徳、馬芳 清 44,905 奴児哈赤(ヌルハチ) 、阿巴泰(アハタイ) 、多爾袞(ドルゴン) 、費英東(フィヤントン) 康熙帝・玄燁、岳鐘琪、策稜(ツェリン) 、僧格林沁(サンゴリンチン) 、宋景詩 、関天培、 明亮、楊遇春、李長庚、関天培、李秀成、石達開、劉永福 971 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/30(土) 10 09 25 AbbdykaO0 970 元末群雄が明の枠に入ってんだから、 李自成は清代の名将候補に挙げるべきじゃね? 呉三桂も私的には、清代の名将という印象のほうが強い。 972 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/30(土) 13 10 15 LTr8Eucy0 970 呉三桂は清の攻撃を食い止めたことを評価されて入ってるんだから明代でいいんじゃないか 元末の群雄は「朱元璋とその他の勢力」と見なされているから明に入っても違和感ないが 李自成を清代に入れるのはおかしいような気がするが・・・。 973 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/30(土) 21 04 19 awsYTO710 919 范仲淹とチュウ師道ね、遅れてすまん。 まず范仲淹ね。 仁宗時代の官僚。進士でありながら硬骨で上に阿らず、地方官を歴任させられた。 対西夏戦において韓琦とともに活躍、厳明ながら士卒を愛す范仲淹軍は士気も高く、 西夏軍はあえて国境を侵すことがなかった。 西夏の李元昊が和議を求めるとその功績で枢密副使となり中央に返り咲き。 主に俗官を除き民を思いやる政策をかかげたが政敵の反発にあい、わずか三年でまた中央を逐われた。 人物鑑識にも長け、狄青の将才を見込んで抜擢したのもこの人。 で、チュウ師道。 対西夏、対金戦線において顕著な戦功を挙げた人。 基本的に慎重論者だが戦となればやたら強かった。 童貫らが新興の金と組んで遼を滅ぼそうとしたとき、「信義にもとる」と反論したが朝廷の意向には逆らえず従軍。 北伐は失敗したがチュウ師道のみは大敗を免れた。 金軍南侵に際しては第一線に立ってこれに抵御。数回にわたって金軍を敗走させているある意味最初の抗金名将。 しかし病にかかり、金軍再度の侵攻を前に病没(戦死説あり)した。 974 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 02 19 43 U/gHRU/H0 年末予定なくて973書き込んでからあっちゃこっちゃのサイトを除いてきた訳だが。 人がいない。これが年末進行ってやつかい? 5時間の間まったくレスなし。みんな年の瀬で忙しいのか・・・。俺はすげぇヒマだというのに。 愚痴だけで投下するってのもなんだからちょっとこのスレらしいコメントするか~。 南宋の李庭芝(with姜才)と張弘範に代わる名将っている? 地味ながら最後まで元軍に抵抗した闘将と南宋を滅ぼした功労者なのに。 まぁ岳飛やら孟?に比べると確かに、同列ではないか。 さておき、完顔宗弼(ウジュ)は確定に繰り上げていいよな、いろいろ議論されてるが騎兵戦無敵、 岳飛・韓世忠の南宋最強コンビをも破った実績があるってことで。 忽必烈は将器より大政治家としての功績が大きいから微妙。武勲的に十分だとは思うけど。 と、なると多爾袞も十傑より候補扱いかな。 武勲がないわけじゃないけど、実のところ軍を率いるってより呉三桂を徹底的に利用して明を滅ぼした人だから。 あと清朝の初期には海戦無敵の施琅なんかいたよな。すっかりわすれてたけど。 あ~、レス欲しい。孤独だぁ。 975 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 04 57 52 acbD+iobO 怒られる覚悟でレスしますが、ただ清代にもの凄く詳しい人がいないのでは? 明末清初までなら任せろって御仁なら居そうですが。 年末だろうが自分みたいな寡人もいるし・・・ 王徳禄、會国藩 を一応挙げときますよ。 976 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 05 52 17 21FEe0/y0 975 もうちょい辞書ひけや・・・ 977 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 06 28 11 dp6G3jYx0 974 宗弼は確定でいいとだろうが、誰もいないんじゃ決められないな・・・ ただ、騎兵戦無敵といっても、相手の南宋軍は歩兵が主力だったようだから その辺割り引く必要はあるが 金・元・南宋の確定は今のところ5人しかいないから、仮に宗弼・フビライ バヤン・アジュを入れても1人余るんだが、誰がいいだろう?決定的な人間 がいないんだよな。ウリャンハタイを入れていいなら確実に入ると思うけど 978 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 10 16 55 rSji0iDK0 977 元末群雄の張士徳を入れたらどうや? よくよく考えてみたら張士誠の勢力は一時的に元朝に属していたし、 元朝に帰属しろと張士誠に献策したのはこの張士徳だからな。 朱元璋、陳友諒と並んで江南の三大勢力といわれた、 大勢力の基盤をほぼ彼一人で造り上げた人物といわれているから 候補に入る資格は充分だと思う。 979 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 13 09 20 0SMqDUW/0 978 仕切り屋気取ってる奴によると元末群雄は個性がないからアウトらしいお。 980 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 14 55 52 Dki/eEXM0 そろそろ次スレ、頼みますよ。 981 名前:978 投稿日:2006/12/31(日) 19 07 53 rSji0iDK0 979 905のことか、 正直、元末群雄の何処に個性が無いのか説明して欲しいね。 朱元璋や徐達、劉基等の業績が後世称えられているのも、 陳友諒や張士誠等、個性的なライバル群雄があってのことだと俺は思うけどね。 982 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 19 15 35 Rt/n1s/90 979 おそらく仕切り屋気取ってる奴=俺のことだと思うが。 別に元末群雄全員アウトなんて言ってないぞ。 陳友諒と張士誠の二人を出したところで、隋末唐初のアクの強い連中と比べて印象薄いから擁護する気にならん、って言っただけ。 元末だろうが明末だろうが良将・名将が輩出されてれば関係ないだろう。 まぁ、俺の態度が仕切り屋臭くて鼻についたなら謝る。すまん。 あと、誰か詳しい人、スレ立て頼む。俺は立て方知らんし。 983 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 19 25 34 tiw+OcvT0 じゃあ朝鮮してくる 984 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 19 40 22 tiw+OcvT0 立てた。必要そうなのを全部貼ったせいで糞長くなってしまったスマソ 【中々】 中国名将百選 其ノ弐 【決まらんね】 http //hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1167560946/ 985 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 19 43 40 7gf30xQx0 乙 次スレは清からになるのか? 986 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 20 00 10 S9hq2M950 なあ、随唐に詳しくないから聞きたいんだが、 李勣と徐勣って別人なのか? 隋・唐 【確定組】 楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用 【候補】 韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥、徐勣 987 名前:奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 投稿日:2006/12/31(日) 20 02 26 AGK+BCTy0 竇建徳、李密、劉黒闥、徐世勣 いいんじゃないだろか。なんとなく。 988 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 20 16 23 08fwNLml0 986 随唐に詳しくない私が答えよう。 同一人物ですな。 989 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 20 18 08 7gf30xQx0 ココテムルも二人いるしな まあそのへんはしょうがないんじゃないか? まとめただけみたいだし 990 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 20 19 57 tiw+OcvT0 すまん そのあたりは 969-970をコピペしただけだから知らなかった 991 名前:奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 投稿日:2006/12/31(日) 20 21 27 AGK+BCTy0 つか「勣」が表示できるのを初めて知った。 992 名前:969 投稿日:2006/12/31(日) 23 11 27 tVZGpy6W0 ごめんよ。 いくつかミスりました。 993 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/01(月) 11 39 32 Jy54tJOt0 スレも残りわずかだが 969の南北朝時代 はたしてこれが確定で良いんだろうか? 宇文泰は政治家、組織の長としての能力は高いけど 軍事的には常に劣勢だったわけだし(まあ、もともとの兵力自体貧弱だったわけだが) 最近の群雄低評価の流れを受けると、高歓、宇文泰あたりは敗戦も結構あるので 再度吟味する必要があると思われ 群雄の評価は確かに難しいな、純軍事的行動のみで軍閥に成り上がったヤツは少数派だろ 大抵、政治的能力で勢力築いているわけだし 李密や張士誠あたりは、このスレでは不遇なのも仕方ないと言えば仕方ないな 994 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 06 14 01 QLLLMOgIO 埋め 995 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 08 17 46 WDP2bpSM0 一応告知というか・・・ 1000レス越えたら全表示できなくなることでもあるし、 現段階で次スレに移っていいんじゃない? すでに移住してる人も何人かいるみたいだし。 996 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 15 16 34 O8SaJtfJ0 じゃあ、これ以降は埋め記念カキコってことで 997 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 15 19 26 jqm9xRH00 じゃあ、俺もume 998 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 19 23 22 BOU9MbBfO 梅 999 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 19 43 05 +c0794LtO 1000なら、はたらく 1000 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 20 02 48 VPzo4uEX0 999 俺が1000取っても働けよ 1001 名前:1001 投稿日:Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。