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小神あきら 年齢:14歳(元服前) 性別:女性 階級:傘下大名 白石みのると共に、諸国を放浪していたが、姉小路家に勝手に仕官してしまう。 織田家の墨俣築城を、大河ドラマの出演の経験により見切り、 3度に渡って退けるという大功を挙げた。 その後、美濃・岩村城の城主にて、姉小路家に従属する傘下大名となる。 もっとも、心服には程遠く、機を見て裏切る可能性は大。 ギリヨンからギリゼロに成長を遂げている。 統率87 武勇93 知略78 政治19 義理0 忠誠100 足S 騎S 弓B 鉄B 計D 兵D 水D 築D 内D 名前 コメント
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姉小路について 「三大変態仲間として、敬意を表する」 ~姉小路について、竹中光男320 「また即死っすかwwwwさすがっすねwwww」 ~姉小路について、unk 概要 姉小路は、古参の一人である。当初は深夜に参加しては「ネットは広大だわ(ry」という台詞と共に去っていくというまさに厨二なキャラを演出していたが、やがて本来のウザキャラ属性を表に出し始め、次第にその地位を確立していった。彼を語るに外せないのがunkとの確執である。二人は会う度に罵り合い、互いに票を入れて殺し合う仲である。しかし、譲れないポリシー的なものなのか、第三者が争いに加わることを嫌っているようだ。あくまで彼はunkと1対1の勝負を望んでいるのであろう。・・・と書くと格好良く見えるが、実際はunkの尻を狙っているホモなので注意すること。 三大変態 生まれつきJ.J.やアラスカなど並み居るホモ達が到底及ばない程の優れたホモ性を発揮していた姉小路は、やがて変態王・竹中光男320と互いの変態性を称え合い、杯を交わす。これが有名な義変態の契りである。それから数年後、後に義変態に加わるたゆーんと共に、三人で「デスノゲ三大変態」を名乗り始めた。これが今日まで続く三大変態伝説の始まりである。 それに対抗する形となって結成された「unkのunkによるunkのための組織」通称『三大汚物連盟』との戦いは日夜問わず行われ、今現在も国連を悩ませる大規模戦争である。米軍の最新鋭戦闘機配備の特殊部隊が出撃し鎮圧を試みたところ、出撃したパイロットが重度の錯乱状態・戦闘機が汚物塗れというこれは酷い状態になって帰って来るという散々な結果となり、撤退せざるを得なかったとオバマは語っている。 ホモキャラとして ホモの最先端を行く姉小路は他のホモたちの憧れの的であり、デスノートゲーム内で大量の票を集めてしまい、それが結果として即死に繋がってしまっている。姉小路はそれにめげず、今日もまたホモの伝道師として活躍し続けるのである。
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月山富田城の戦い 月山富田城の戦い(がっさんとだじょうのたたかい)は永禄10年に尼子家と姉小路家との間で起こった戦い。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・鳥取城兵43059+傷兵、此隈城兵 旗本隊 :足軽隊18500:姉小路頼綱、遠藤直経、ルーミア 第一鉄砲隊:鉄砲隊5000:斎藤利三、明智秀満、リグル・ナイトバグ 騎馬隊 :騎馬隊8289:磯野員昌、海北綱親、紅美鈴 第二鉄砲隊:鉄砲隊9000:明石全登、稲富祐秀、遊佐続光 八橋城兵14177(5月5日出撃) 後詰鉄砲隊:鉄砲隊7857:一色義道、原長頼、浦上宗景 後詰本隊 足軽隊6320:三木顕綱、江馬輝盛、別所就治 尼子・月山富田城兵33860 第一迎撃部隊:足軽隊9000:尼子晴久 第二迎撃部隊:足軽隊9000:尼子義久、山中幸盛 第三迎撃部隊:足軽隊6500:佐世清宗 姉小路軍は各軍団長が戦線を離れたものの、姉小路頼綱が陣頭に立ったため士気旺盛である。加え、美濃・北近江衆の精鋭、播磨衆がいるため、戦力としてはなかなかのものである。 対する尼子軍はいくらか不本意な戦であるためか、士気はあまり高くない。しかしそんな中でも山中幸盛配下は士気・練度共に高く侮れない存在である。 概要 この戦いの影響 尼子家は主力を完全に喪失、降伏を受け入れる他なくなる。 姉小路家は毛利との本格的な交戦状態に入る。 逸話
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越中防衛戦 越中防衛戦(えっちゅうぼうえいせん)は越中国舟橋において越後の大名長尾景虎と姉小路良頼の間で起こった戦い。 正式名称は富山合戦もしくは舟橋の戦いであるが、ここではより一般的な呼称である越中防衛戦として説明する。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・富山城兵総勢13826 (2月15日-2月25日) 迎撃部隊:騎馬隊4500 :斎藤義龍 弾幕部隊:鉄砲隊500x5:博麗霊夢・リグル・ナイトバグ・明智光秀・霧雨魔理沙・明智秀満 奇襲部隊:足軽隊3000 :竹中重治 (2月25-3月20日) 奇襲部隊:足軽隊3000:斎藤義龍 迎撃部隊:足軽隊5000:竹中重治 弾幕部隊:鉄砲隊500x4:霧雨魔理沙・博麗霊夢・明智秀満・リグル・ナイトバグ 長尾・春日山城兵 先鋒隊:騎馬隊8000:長尾景信、村上義清、大熊朝秀 柏崎港守備兵 本隊:騎馬隊8000:宇佐見定満 騎馬隊5000:チルノ、他最上義守、色部勝長、佐瀬種常が従軍。 姉小路側は対越後防備として街道沿いに櫓を設置している。 長尾側は精強で知られる騎馬隊であるが、出撃地点の違いから連携の不備が見られる。 兵力はほぼ同数であり、以上の要素が戦局を左右する。 概要 越後の大名長尾景虎は重臣である長尾景信を総大将に命じて越中に侵攻させた。先鋒として景信隊、中軍に宇佐美定満隊、後軍には新参の将であったチルノ隊として組織されていた。 しかし、突出しすぎた景信隊が、斎藤義龍の足止めをうけているうちに竹中重治の奇襲を受けて恐慌状態に陥り、鉄砲隊によって討ち減らされ宇佐美定満隊が戦場に到着する前に全滅、長尾景信は捕虜になった。 宇佐美定満隊は粘るもチルノ隊が斉藤義龍に奇襲されあっけなく壊滅、左右に櫓、前後に竹中隊と斉藤隊に挟まれ、さらに遠巻きから鉄砲隊による銃撃に襲われるという絶望的状況になり壊滅。 後、禅僧の沢彦宗恩の仲介により長尾姉小路間で停戦協定が結ばれた。 この戦いの影響 この戦いで長尾勢が敗れたが長尾家の規模から言えばこの戦いは小競り合い程度であり、さしたる損害ではなかったと言われている。 一方、姉小路家にとっては初の大規模な防衛戦であり万全を期して望んだ戦いであった。この戦いにおいて姉小路家の矢櫓は大いに威力を発揮し、その防衛力を大いに見直すこととなった。 このことは後に一国を丸ごと要塞化するという圧倒的大国に対する防衛思想に発展した。 長尾軍の敗因 景信隊が突出したために中軍および後軍との連絡が悪く、各個撃破されてしまったというのが定説である。 本来の総大将は景信であるが適切な指示を出すことが出来ず、先鋒の実質的な指揮をしていた村上義清、中軍の指揮をしていた宇佐美定満、2人が各々全軍に指示を出してしまった為指揮系統が混乱してしまい、混乱につながってしまったという説がある。 また、チルノ隊は元々は宇佐美の一部であったと言われており、チルノの独断で軍を割ってしまったという。さらに冬の積雪により行軍も困難であり、伝令を行き来させることすら困難であった。 以上のような状況から士気も低く、こういった要素が敗北につながったと言われている。 要約するならば、冬季の長距離行軍による士気の低下、各軍の連絡不備と、姉小路側による鉄砲、富山城の要塞化(或いは野戦築城)、竹中重治の知略が合わさった結果だと言える。 なお、姉小路家はこのときの戦訓を最大限に生かし、後の第二次越中防衛戦、美濃防衛戦につなげていくのである。 このことを考えれば、この戦いはまさに新時代合戦の萌芽と呼ぶべき戦いといえる。 また、長尾家の敗退理由の一つに、当時の長尾家の状況もまた挙げられる。旧守護・上杉家の支配体制をそのまま利用している長尾家においては、中央集権化が未熟であり、依然として国人衆の力が強大であった。 それを、長尾景虎という一人のカリスマ的指導者がそのカリスマ性によってまとめ上げておるにすぎず、長尾家はカリスマ指導者個人への崇拝とも言うべき忠誠心のみによって支えられているにすぎなかった。 それゆえ、そのカリスマ指導者が不在であり、総大将がやはり国人のひとりである宇佐美定満である今回の侵攻軍においては、宇佐美は本来同列である国人衆へと采配することとなるため、その軍事行動には従軍する国人衆の意向を受け入れた上で行わなければならず、大きな制約があった。 一方の姉小路家は、飛騨を統一する過程において中央集権化を推進。飛騨を統一しさらに他国を下すその強大な軍事力と、自らの手で完全に掌握した飛騨の諸金銀山の財力を以て、すでに国人を家臣として城下に集住させ、所領の武士から農民まですべてを末端まで掌握できる体制を構築することに成功していた。 その点においてこの戦いは、中世的地方分権的支配の長尾家と、近世的中央集権的支配の姉小路家という側面を持っていた。かつ、その体制的脆弱性を補い長尾家を強国へと押し上げていたカリスマ的指導者・長尾景虎が不在であったこの戦いにおいては、長尾家は体制的に先進国である姉小路家に敗北せざるを得なかったのである。 出兵の理由 長尾家の出兵の規模から言って、この戦いが越中国の制圧を目的としていたとは思われず、出兵理由としていくつかの説がある。 能登畠山家への援軍 当時、七尾城下の合戦が行われている最中であり、能登畠山家が危機に陥っているため、救うために姉小路領越中を攻めたという説である。 長尾景信の暗殺 長尾景信は越後長尾家において元々は主家であり、景虎が後の憂いとなることを恐れて姉小路家の兵を使って暗殺しようとしたという説である。 その説によれば後に捕虜返還の使者を送ったのは家中の意見が強くやむを得ずだったということになる。しかしながら景信が戦後も景虎に変わらず仕えていることからこの説は薄いとされている。 新たに仕官した武将の能力試し この戦いでは、チルノや村上義清、最上義守などの新たに長尾家に仕官した武将が主力として参加している。長尾家での彼らの働きぶりを見定めるための戦いではないかという説である。 しかし、数万の軍を起こす理由としては例のないことで考えにくい。ただ、軍の人選については、このような意図が働いたという可能性はある。 ただし、この出兵理由については必ずしも政治的理由のみならず、社会的理由も鑑みねばならない。すなわち、当時農業生産に乏しく収入の安定性を欠いた越後において、農民たちはその副収入を得る必要があった。 その一つに他国への侵攻が挙げられる。彼らは他国侵攻によって侵攻地域の集落から上納金を得ていたのである。ゆえにこの戦いの要因としては、農民たちの副収入を確保するため、ということがあげられるのである。 この戦が農閑期である冬に行われているのは、その傍証であろう。 姉小路家の対応 このときの富山城の兵は13000、対する越後軍は総勢21000であり、防御側の三倍原則に則れば、姉小路側が優勢と見られていた。しかし精強で知られる長尾騎馬軍が相手ではそれなりの損耗が覚悟された。 しかし、結果を見れば敵軍壊滅、長尾景信捕縛、自軍の損耗はごくわずかという、大勝利であった。 この戦いにおいて、各個撃破戦術を提案したのが竹中重治であることは姉小路良頼(三木嗣頼)や明智光秀らの日記からも明かであるが、驚くべきことに近衛前久などの公家、浅井朝倉を始めとする周辺大名など、この戦勝が竹中重治の知略によるものだと広く知られていた。 これは姉小路頼綱 (三木自綱)による宣伝工作であり、周辺大名に姉小路家が長尾家と抗する力を持つ認識させるのに十分な効果があった。 同時に「姉小路に今孔明あり」とすることで竹中重治がいるだけで相手を威圧できる状態を作り上げていたのである。 なお、この戦いでの評価が後の武田包囲網に、上杉が姉小路を参加させようとする動きに繋がったと思われる。 宇佐美定満の手記 この戦いに敗れた宇佐美定満は敗れた後の逃走劇について詳細な記録を残している。後に道中記としてまとめる意図があったと思われる。 味方がちりじりに散ってしまい、馬も失ってしまった宇佐美は徒歩にて逃走していた。 「戦場からやや離れたある一村にたどりついたところでチルノを発見保護し、その後は孫づれの旅人として逃走した。」「二人連れになった後の道中でチルノがあまりに目立つ上に奇抜な行動をとったので大いに難渋した。」とある。 自分が捕虜になった後のことを考えると「心を鬼にして見捨てるべきだとも思ったが、哀れではあるし、馬鹿な孫のようで本当に可愛くもあったので見捨てることが出来なかった。」と複雑な心境が切々と書き綴られている。 実際にチルノは各地で目立っていたようで、戦地から程近い村の農民の記録に「面妖ナル女童アリ。彼ノ者当家に食ヲ乞フ」という宇佐美との合流前の記録が残っているなど、彼女の逃走時の記録は多い。 それにもかかわらず彼女が捕まらなかったのは、彼女があまりに目立ちすぎて落ち武者と認識されなかったが故である。 ちなみに先程の農民もそれほど重大なことと思わずに、チルノと会った5日後に役人に問われて初めて妙な子供が居たと報告したそうである。 二人の旅の最大の難所は越中の越後口を固める宮崎城の城下町での出来事であった。多くの落ち武者を阻んだこの町であったが、定満の巧みな話術と孫連れの行商人風の外見から越後方の武将と怪しまれることはなかった。 この町でチルノは風車を買ってもらって、それを回して遊んでいた。風車を持って走り回るチルノを見て、戦さで荒んだ人々の心も和んだようである。 ところが、風車を回すのに夢中になり、よりスピードを求めてうっかり空を飛び回ってしまった。人々は驚いてあたりは騒然。 定満は急いでこの町からでて北陸道を進んだ。後に国境を守るために城につめていた兵がこの噂を聞きつけて後を追ったが、親不知にさしかかった時に突如季節はずれの雹に襲われ、城兵は追跡を断念せざるを得なくなったという。 この記録はチルノ発見からその後の道中、最後にチルノが景虎に大いに叱られたところまでを詳細に記録しており、宇佐美定満の死後公開された。 発表後、宇佐美定満の武将としての厳格な人柄に隠れた優しさとチルノのほほえましく愉快な行動が身分を問わず大いに人気となったという。 BGM おてんば恋娘 ~ the Foolish Gir dBu music「紅魔狂詩曲 Scarlet Rapsodia」
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[部分編集] 【歴戦架空tale】鍵山雛の野望【男色】 本編マイリスト 鍵山雛の野望 本編解説 鍵山雛の野望解説 テーマ 男色 テーマ提供 ダメ君主の野望 [部分編集] 簡単なあらすじ 仮想戦国1573年6月。 何者かによって作られた世界に、新たな者が招き寄せられる。 記憶を失ったその者は、姉小路家に仕官するべく、 課題として与えられた情報収集をするため、斯波家へ潜入するのだが…… [部分編集] 動画解説 東方他、多数のゲームやラノベからキャラクターが登録されているシリーズ。 斯波家がレミリア・スカーレットにより乗っ取られ東北を席捲していること、姉小路家が北陸を中心とした大勢力となっていることを把握しておくと今回の話も分かりやすいだろう。 本編は徳川家康と鍵山雛、レティ・ホワイトロックを主軸に、敵からも味方からも登録勢の固有戦法が飛び交う派手な戦闘が醍醐味となっている。 コメント欄 名前 コメント
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☆このページでは、霧雨の野望における金森長近について詳細に解説しています。 史実での金森長近について詳しく知りたい方はwikipediaなどの金森長近を調べてください 金森長近(かなもりながちか)(大永4年(1524年- ) 畠山家家臣。滅亡後は姉小路家家臣に。 ☆出生・家族構成 ☆官位・役職 ☆参加合戦 七尾城下の合戦(畠山) 革新能力 統率65 武勇67 知略54 政治61 義理47 足軽D 騎馬C 弓D 鉄砲D 計略C 兵器D 水軍D 築城C 内政D うp主解説 織田家臣。「赤母衣衆」出身の精鋭で、後には柴田勝家の軍団に所属。 史実においては秀吉の名で飛騨に侵攻、姉小路家を滅ぼした張本人である。 統率・武勇・政治が60台。バランス型なので使い勝手は悪くないが、 知名度の割に半端な評価である。せめて70台がひとつでもあれば。 緑の人解説 二代目の嫁は当動画のアイドルギリヨンの娘。主が次々と滅ぶ中強かに生き 羽柴家配下の時に飛騨討伐。後の飛騨高山藩主となる。 美濃(斉藤)→織田信長→本能寺の変の際息子死亡→柴田勝家→豊臣秀吉→姉小路征伐 東方風武将解説 「身に憶えない程度の能力」
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八上城の戦い 八上城の戦い(やかみじょう)は丹波の大名波多野晴通と姉小路家との間で起こった戦いである。 姉小路家としては二度目の二面作戦でもある。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・二条御所城兵 本隊:鉄砲隊5000:明智光秀、リグル・ナイトバグ、博麗霊夢 前衛部隊:足軽隊6692:浅井長政、富田景政、八雲藍 波多野・八上城兵総勢10852 迎撃部隊:足軽隊5500:荒木氏綱 迎撃部隊:足軽隊9000:波多野宗高(2月10日) 兵数はほぼ同数であるが、波多野側は本願寺への援軍で主力が出払っており、荒木氏綱一人では明智・浅井両将の相手をするには荷が重い。また、援軍に出ていた軍も壊滅状態であり、絶望的である。 概要 波多野晴通は本願寺と姉小路家との戦に介入して28500と主だった将を引き連れて本願寺の援軍に赴いた。 波多野軍と本願寺討伐軍との交戦の報告が早馬にて二条城にもたらされると、この方面を任されていた明智光秀と浅井長政はこの機を逃さず手薄となった八上城に攻めかかった。 留守を任されていたのは豪勇で名高い荒木氏綱であり、篭城の不利を悟ってうってでたが、兵の質と将の質が圧倒的に劣っていたためさほど時間もかからず敗走させられた。 姉小路軍は城に取り付いて攻城戦を開始、激しい攻撃によって八上城の防衛施設は徐々に破壊されていき、風前の灯となっていた。 その頃には本願寺方面に向かっていた波多野軍は敗走しており、敗残兵をまとめていた諸将よりも一歩先んじて波多野宗高が八上城に入城した。 彼は入城後すぐに迎撃隊を組織して出撃し、姉小路軍に激しく抵抗した。 しかし、いかに波多野宗高隊が奮戦しても城が落城寸前であることに変わりはなく、鉄砲隊の前に兵数が削られていくことはいかんともしがたかった。 この状況を打破するには、敵軍の大将である明智光秀を討ち取る以外の方法は残されていなかった。 宗高隊は姉小路軍の陣の薄いところを突いて決死の突撃、激戦の末多くの兵を失ったが、宗高は辛うじて明智光秀本陣にたどり着いた。 しかし本陣の守りは堅く、宗高が討ち取られ隊は全滅した(3月5日)。 赤井直正、籾井教業、波多野秀治、荒木氏綱などの諸将は未だ落城寸前の八上城を守って奮戦していたが、この時点で波多野家側の敗北は決定的であった。 博麗霊夢の交渉で姉小路側に走る者もいたが、多くの者は最後まで抵抗した。 結局同年4月30日八上城落城、当主の波多野晴通は落城のはるか以前に既に逐電していた。 波多野秀治は落城を確認後、諸将に降伏するように指示を出した上で、父を追って西国に逃れた。 残った家臣を纏めていた赤井直正が姉小路軍に降伏して、この戦いは終結した。 この戦いの結果 大名としての波多野家は滅亡し、姉小路は京へのいわば裏門であり、京洛を安定させるには不可欠な地である丹波を手に入れた。 波多野晴通と秀治は西国に逃れた。 丹波の地を治めるにあたって波多野家当主とその嫡子が妻子と共にいなくなり、宗高の子も幼少であったので、 波多野家には治める者として相応しい者がおらず、結局は赤井直正を中心とした旧波多野家家臣団が合議で治めることとなったと思われる。 逸話 宗高を討ち取った明智光秀は首実検の後、首を遺体と共に波多野家に返還した。 その際、彼がいかに勇敢に戦って散っていったかの経緯を詳細に書いた直筆の手紙を添えたという。 宗高の葬儀は波多野家本家が不在であり、その上波多野家一族に成人している者がいなかったが、他の丹波の豪族の助けもあって立派に執り行うことができた。 姉小路家からは三木顕綱が父の名代として出席している。帝の即位式で洛中警備を行った縁から朝廷の使者も参列した。 後に従三位が贈位される。墓は宗高の居城がある霧山の山頂に建てられた。 いささか不便な場所であるが、墓参りをする者は少なくない。また、遺族には霧山城及び氷上郡の一部が安堵された。 赤井直正をはじめとする家臣団は浅井長政に降伏し捕虜になったが、長政は粗略にはせず歓待した。 圧倒的不利な状況にあってなお奮戦する丹波の将士にかつての自身の状況を思い出し、敬意を表したという。 また、丹波の地は朝廷や旧幕府とつながりが深く、元幕臣や朝廷高官から波多野家家臣団の助命嘆願が多かったという。
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月山富田城の戦い 月山富田城の戦い(がっさんとだじょうのたたかい)は永禄10年に尼子家と姉小路家との間で起こった戦い。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・鳥取城兵43059+傷兵、此隈城兵 旗本隊 :足軽隊18500:姉小路頼綱、遠藤直経、ルーミア 第一鉄砲隊:鉄砲隊5000:斎藤利三、明智秀満、リグル・ナイトバグ 騎馬隊 :騎馬隊8289:磯野員昌、海北綱親、紅美鈴 第二鉄砲隊:鉄砲隊9000:明石全登、稲富祐秀、遊佐続光 八橋城兵14177(5月5日出撃) 後詰鉄砲隊:鉄砲隊7857:一色義道、原長頼、浦上宗景 後詰本隊 足軽隊6320:三木顕綱、江馬輝盛、別所就治 尼子・月山富田城兵33860 第一迎撃部隊:足軽隊9000:尼子晴久 第二迎撃部隊:足軽隊9000:尼子義久、山中幸盛 第三迎撃部隊:足軽隊6500:佐世清宗 姉小路軍は各軍団長が戦線を離れたものの、姉小路頼綱が陣頭に立ったため士気旺盛であった。 加えて、美濃・北近江衆の精鋭、播磨衆がいるため、戦力としてはなかなかのものである。 対する尼子軍はいくらか不本意な戦であるためか、士気はあまり高くない。 しかしその中でも山中幸盛配下は士気・練度共に高く侮れない存在である。 概要 姉小路頼綱は出雲侵攻の足がかりとして、別所就治に八橋城築城を命じた。 城は三月初頭完成し、これを受けて3月5日、鳥取城より頼綱は総勢4万余の軍で月山富田城へ進軍した。 この報を受けた尼子家は美保関港に最低限の守備兵を残し、ほぼ全軍を月山富田城に集結させた。 月山富田城はその城下が鉄砲櫓と弓櫓が複雑に配置されている難攻の城であり、姉小路軍も当初は城下の一部に火をかけたのみで積極的に城攻めを行わなかった。 3月30日、尼子軍はほぼ全軍をもって城下町の外まで迎撃している。 これは、尼子軍は一部を除いてな士気も低く、長期戦となれば諸将が分裂する恐れがあったので、 迎撃して勝てばよし、負けても余力を残して敵を城下に引き込み地の利を生かして篭城をするという策をたてていたと言われている。 4月10日交戦開始。尼子軍の先鋒は尼子晴久の嫡子義久を擁した山中幸盛隊9000であった。 姉小路軍磯野員昌隊は突出した山中幸盛隊と佐世清宗隊の間に割り込んで山中隊を孤立させようと試みたが、 鉄砲櫓の支援を受けた佐世隊と尼子晴久隊の連携の前に被害の拡大が予想されたため、断念せざるを得なくなった。 しかし、姉小路軍の鉄砲隊の実力は尼子方の予想以上であった。 山中隊は佐世隊、晴久隊の盾となる形でその集中砲火を受けつつ戦線を維持したが、瞬く間に撃ち減らされ、10日後敗走した。 晴久隊がこの敗走を助けたので山中隊は無事月山富田城までたどり着けたものの、 今度は晴久、佐世隊の退路を磯野隊及び姉小路頼綱本隊が断った。 尼子方は晴久が鉄砲隊の攻撃に耐えつつ、佐世隊が退路を塞いだ姉小路軍にしきりに攻撃を仕掛けていたが、 磯野、頼綱隊は鉄砲櫓の被害を受けつつも佐世隊の攻撃を受け止め、逆に反撃を加えた。 5月1日、晴久隊佐世隊共に壊滅し、晴久は僅かな近習を従えて月山富田城に敗走した。 5月10日攻城戦開始。姉小路軍は後詰も次々に着陣した。 城下の鉄砲櫓や弓櫓によって姉小路方は被害は相当な被害をうけたという。 しかし、月山富田城は攻城戦開始よりわずか1ヶ月で落城した。 これは姉小路軍が5万もの大軍だったこと、先の迎撃で尼子側の被害が尼子方の予想より遥かに大きかったので月山富田城ほどの巨城を守るほどの兵がいなかったこと、 月山富田城がやや古い城で鉄砲対策が完璧でなかった事等の理由が考えられる。 尼子晴久、義久共に捕らえられ、落城後も孤軍奮闘していた幸盛も奮戦の末に紅美鈴によって捕縛された。 この戦いの影響 尼子家は主力を完全に喪失、降伏を受け入れる他なくなる。 姉小路家は毛利との本格的な交戦状態に入る。 戦後処理について この戦いの後、立原久綱は頼綱に面会して銀の供出と兵役を条件に尼子家の存続と領土の安堵を求め、頼綱はこれを許している。 詳細は不明だが、通説によれば塩屋秋貞との間で以下のように取り決められたと言われる。 一、尼子家が出雲国内に所有する領土はこれを安堵する。家臣についても同様である。 二、石見国についても同様に安堵するが、石見国の内五万石に関してはこれを銀山経営に充てるよう命ず。 三、石見銀山の所有権は姉小路家で召し上げる。ただし、採掘権は尼子家に永久貸与する。 四、尼子家は銀の採掘量の四割を姉小路家に納める義務を負う。 五、尼子家及びその家臣は貫高に応じた兵役の義務を負う。 姉小路家に降った大名家の待遇はさまざまであり、美濃斉藤家、近江浅井家、越前朝倉家などのように大名として存続を許された家もあれば、 近江六角家、能登畠山家、越中神保家などのように大名としては取り潰された家もある。 その中でも尼子家の条件は美濃、近江、越前に次ぐかなりの好条件といえよう。 これは月山富田城が落城し、当主尼子晴久、嫡子義久親子が捕虜となってなお尼子方が激しく抵抗したことから、 単に当主及び嫡子の生命の保証のみでは抵抗がおさまらないことが明らかとなったためであろう。 尼子家残党勢力と毛利家が結ぶ危険を考えれば、いち早く尼子領を平定する必要があったため、このような好条件での降伏を認めたと推察される。 逸話 この戦いは三木顕綱の初陣である。 三好家へ人質に出されていた事もあって当時としてはかなり遅い23歳での初陣となった。 これを補佐したのは江馬輝盛、別所就治両名である。 庶子とはいえ、主君姉小路良頼の子の初陣を補佐するという大役に、一度主家を裏切った輝盛を充てる人事には疑問の声が上がったという。 結果としては三木顕綱隊が戦場に到着した頃には大勢は決まっていた事もあって、さほど大きな過ちもなく勝利に貢献している。 補佐の二人は立派に大役を務めることができたと言えるであろう。 戦後、多くの傷兵を抱える姉小路軍は温泉で傷を癒した。 月山富田城の至近には鷺ノ湯温泉が存在するが、この温泉だけでは数多くの傷兵を収容するのには不十分であったので出雲、石見の各地に温泉を求めた。 元々、玉造の湯をはじめとして出雲風土記の時代から著名な温泉が多い土地であったが、姉小路軍によってより大人数が宿泊、逗留できるように設備が整えられた。 このことがきっかけとなって後にこの地方は日本有数の温泉地として栄えるようになった。 紅美鈴は山中幸盛との戦いで重傷を負ったが、湯の川温泉につかるとみるみる回復し、傷跡も残らなかったという。 この伝説から湯の川温泉は美肌、美人の湯として知られるようになった。 海潮温泉は元々水の美しい赤川を一望できる温泉であったが、リグルが逗留してから源氏蛍の数がにわかに増えたことにより、通称「蛍の温泉」として知られるようになった。 毎年5月、6月には『光の洪水』と比喩されたその光景を一目見ようとする温泉客で賑わったという。 この戦いの直前に石見銀山において釜屋間歩(かまやまぶ)という新たな鉱脈が発見された。この発見によって石見銀山は最盛期を迎える事となった。 姉小路家への運上銀は時に数千貫にものぼり、その莫大な銀は石見銀山-温泉津-敦賀-長浜-観音寺と海路や湖路を使ってへ観音寺城へ運ばれた。
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☆このページでは、霧雨の野望における荒木村重について詳細に解説しています。 史実での荒木村重について詳しく知りたい方はwikipediaなどの荒木村重を調べてください 荒木村重(あらきむらしげ)(天文4年(1535年- ) 姉小路家家臣。浪人の身であったが姉小路家に仕官した。 どうやら松永久秀の配下になっている模様。 ☆出生・家族構成 ☆官位・役職 ☆参加合戦 革新能力 統率74 武勇70 知略42 政治65 義理25 足軽B 騎馬D 弓C 鉄砲B 計略D 兵器D 水軍D 築城B 内政D うp主解説 戦国屈指の不可解男。信長上洛時にその家臣となると以後各地で活躍。一国一城の 主にまで取り立てられながら、突如反旗を翻した。原因は諸説あり。 能力の割に戦法が充実した戦闘要員。晩年は茶人として名を成したためか、 政治力も十分使えるレベル。主力の下支えに適した良将と呼べる。 緑の人解説 当時西方最大勢力だった毛利が宇喜多の内応や海上戦闘の敗北で支援できなく なったため孤立して、逃げ出したが家族家臣皆殺しにされてしまった。 東方風武将解説 「路傍の糞と自嘲する程度の能力」 織田の一時の出世頭突如として他家と組み叛旗を翻し敗走、一族を殺される。 一人生残り茶人として余生を送った。
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尾張撤退戦 尾張撤退戦(おわりてったいせん)とは永禄9年に姉小路家と武田家の間で起こった戦いである。 参加兵力及び戦力評価 姉小路・清洲城兵52154 足止めとして9154 守将:武田信虎 残物資 馬:18237 鉄砲:30500 撤退部隊(11月25日) 鉄砲隊9500:下間頼廉、中川清秀、斎藤龍興 騎馬隊9000:博麗霊夢、霧雨魔理沙、八意永琳 鉄砲隊9500:松永久秀、鈴仙・U・イナバ、六角義治 鉄砲隊5000:赤井直正、八雲藍、橙 鉄砲隊5000:蓬莱山輝夜、小野寺輝道、前田利益 鉄砲隊5000:籾井教業、淡河定範、松倉重信 (12月10日) 騎馬隊5000:武田信虎 稲葉山城兵(増援)(11月10日) 騎馬隊9500:羽柴秀吉、滝川益重、荒木氏綱 騎馬隊8500:丹羽長秀、羽柴秀長、宮部継潤 武田・岡崎城兵163500 武田信玄 :騎馬隊22000 武田勝頼 :騎馬隊20000 武田義信 :騎馬隊14000 高坂正信 :破城槌隊14500 武田信繁 :破城槌隊14000 太田資正 :破城槌隊9500 原虎胤 :破城槌隊9500 初鹿野昌次:騎馬隊9500 成田長泰 :破城槌隊9000 秋山信友 :騎馬隊8500 木曾義康 :騎馬隊7000 長野業盛 :足軽8500 内藤昌豊 :弓隊9000 大久保忠世:弓隊8500 清洲城を中心とする尾張の防備大勢は不十分であり、武田軍の戦力は圧倒的である。撤退を決断したのも無理はないだろう。 合戦概要 8月初旬に陥落した尾張清洲城の守りが手薄と見た武田軍は、尾張奪還の好機と捉え三河岡崎城から総勢16万を越す大軍を持って攻め込んだ。 これに対し姉小路軍は稲葉山城から後詰めを要請したものの、軍監である八意永琳により撤退を決断。 武田先鋒隊が尾張領内に進入した11月25日に撤退を開始した。殿には武田信虎と兵9000がこれを務めた。 12月10日、十分に時間を稼いだと判断した信虎が騎馬隊5000と共に撤退を開始しようとした矢先、武田軍は木曽川の堤防を決壊させ清洲城を水攻め。 その様子は城が湖の上に浮かんでいるようであった。 武田軍の重囲の中、霧雨魔理沙は堤防の一部を破壊することに成功。 水が引いたことで信虎は残る僅かな動ける兵を率いて辛うじて武田軍の包囲を突破した。 清洲城に残っていたのは元々北条方の傷兵達であったため、12月20日に降伏。 清洲城に二度武田の旗が翻った。 この戦いの影響 姉小路包囲網は各地で敗戦を繰り返していたが、この戦いの勝利で武田家は盟主としての面目を保つとともに、各国の士気をあげることに成功した。 また、富裕な尾張国は武田軍を経済面で大きく支えた。 逸話 この戦いについて、太田牛一は『騨侯記』の中で「まつながじぶ、謀りごと用いて武田と通ず、と京童噂しけり」との記事を残している。 謀の存在は、先の伊勢侵攻ともども明らかではないが、まつながじぶ、則ち松永治部大丞久秀が何らかの行動を行った可能性は決して低くないと、歴史家は一致見解を見せる。 当時畿内は一大商業・農業圏として、著しい発展を遂げ、姉小路領のみならず、日本全国から見ても圧倒的な生産量を見せていた。 そして畿内を抑えることは、姉小路家の財政を支え、姉小路強大化の元でもあった。 故に、姉小路の金庫ともいえる畿内を抑える大和衆は、極めて大きな権限を持つはずであった。 しかし実際は、要所を姉小路家直轄地や、姉小路主力・美濃衆に抑えられていた。 また美濃衆がより古参であることもあって、大和衆はそれほど大きな権力を持つことができなかった。 これは、大和衆が美濃衆に反感を持つ要因となる。 さらに、永禄九年(1566年)4月の稲葉山防衛成功・6月の尾張攻略は、美濃衆がより権力を得る結果をもたらしている。 特に、肥沃な尾張を美濃衆が得ることは大和衆が最も危惧すべきことであった。 畿内にも多数の所領を持つ美濃衆は、大和衆の急所を握っている同然であり、尾張の生産力を手に入れることで大和衆を滅ぼすことも容易となったからである。 その状況を鑑みれば、大和衆がその権力を維持するため、武田による尾張侵攻を誘発し、 美濃衆をあわよくば壊滅させようとすることも、決して不思議ではないのである。 結果的に美濃衆壊滅とはならなかったものの、尾張喪失による生産力の低下、敗戦による損害によって、美濃衆の影響力は戦の前から比べると低下している。 なお、ほぼ同時期に北条家家臣某が、松田憲秀に内通の嫌疑ありとの書状を残している。 この嫌疑については一度沙汰止みとなっているが、この時期の北条家内に対し謀をしかけるような人物は松永久秀しかおらず、内通相手が松永であることはほぼ間違いない (松永・松田間の書状は現存していないが、松永ほどの謀略家が己の謀が露見するような物を残すはずがない)。 おそらくは伊勢・尾張を切り取り大和とともに姉小路家からの独立をもくろみ、 かつそれを維持するため武田家の同盟を画策していたとの推測がなされている(ただし、この説の蓋然性は低い)。 結局それは尾張侵攻とこの撤退戦により不発に終わっているが、 実際に独立するならば武田との同盟が、かつての徳川・織田同盟のように必要であるは想像に難くない。 また、伊勢・大和を武田に差し出す形での独立・同盟を目論んでいる可能性もある。 清洲城はわずか3年ほどの間に織田→武田→北条→姉小路→武田と持ち主を変えた。 持ち主を変える度に大きな戦いが行われたため、織田家が領有していた当時は繁栄を誇っていた城下町も、 姉小路家が領有する頃には軍事施設を除けば城兵のための臨時の市が月に数度立つ程度で、荒廃しきっていた。 住民の多くは津島、桑名等の伊勢方面や、交通の要衝で門前町もある熱田へ移住したという。 武田信玄が清洲水攻めを決断した背景に、元々荒廃している清洲を水攻めしても経済的にさして悪影響がないことがあったと考えられる。 清洲城は平城で標高が低く、水量の多い木曽川も近いため水攻めをする条件は揃っていた。数万の足軽に多額の金子を与え、突貫工事でまたたく間に堤防を完成させたという。 時、折りしも冬であったため、水量はさほど多くは無かったが、それでも城内の大部分を浸すには十分であった。 むしろ、冷水によって多くの兵が凍え、士気の低下が深刻となった。 姉小路軍は懸命に排水作業を行ったが、効果はあまり無く、むしろ作業をする者を凍えさせるのみであった。 この戦いでの死者には多くの凍死者が含まれていたという。