約 59,759 件
https://w.atwiki.jp/armyfaq/pages/53.html
大戦中の日本の正規空母の速力が34ノットくらいあるのはどういう要求によるものなのでしょうか? 太平洋戦争で日本海軍の潜水艦隊が通商破壊戦を行っていましたが、連合軍の戦略に何らかの影響を与えたのでしょうか? 第二次世界大戦時の米海軍はやたら対空砲を乗せてますが、トップヘビーで問題にならなかったんですか? 大戦中の日本の正規空母の速力が34ノットくらいあるのはどういう要求によるものなのでしょうか? 巡洋艦と遭遇した際に逃げられる足と合成風力を作るための高速性が要求されました。 日本はどの空母でも同じように発艦できるよう、合成風力が同じ値になるように速力を調整します。 向かい風が強いときは速力を落し、弱いときは速力を上げます。 零戦は向かい風12m/秒=43.2km/時、つまり合成風力23ノット強での離陸距離70mを要求されています。 九九艦爆は同10m/秒で離陸距離100m(ただし爆弾搭載せず)。 実際には機動部隊所属艦中最も低速な艦の「最大戦速」、つまり過負荷でない戦隊レベルの最高速度での運用が通常。 これ、正規空母なら30ノット。つまり最大34ノットの「4ノット」は余裕分とみていい。 (466 264,268) 太平洋戦争で日本海軍の潜水艦隊が通商破壊戦を行っていましたが、連合軍の戦略に何らかの影響を与えたのでしょうか? また影響を与えなかったとすれば、何が日本軍の間違いだったのでしょうか? 開戦から1年弱ほど仮装巡洋艦まで投入してインド洋でそれなりの成果を上げている。 そんでもって、インド洋に1個潜水艦隊規模を投入しての大々的な通商破壊作戦を行おうとして 準備中にガタルカナルでの戦いが起こり潜水艦がほとんどソロモン海に投入されたがそれでも細々と 1個潜水戦隊規模で通商破壊を行ってたのだが、連合軍の戦略に影響を与える程度の損害を与える ことが出来なかった。 結局のところ、通商破壊を行うにしろ、太平洋には通商路がほとんど存在せず、前線の兵站への攻撃が 関の山だが、日本軍の方針として、商船よりも軍艦、それも大物狙いを優先した戦略方針にまちがいが あったとしか。 まあインド洋で大規模な通商破壊をやれればまた違った展開になるだろうけど、その際でも潜水艦の損害が 激増して、先細りになったであろうけどね。 (474 415) 第二次世界大戦時の米海軍はやたら対空砲を乗せてますが、トップヘビーで問題にならなかったんですか? もちろん問題になっている。 トップヘビー問題は日本は友鶴事件を契機に収束したがアメリカはまだその怖さを知らなかった。 台風で3隻もの駆逐艦が沈没したのは燃料切れによる重心上昇とあいまってのトップヘビー問題が原因だし、 あまりにも大量に積み込まれた対空火器は、艦そのものの設計まで変更させることになった。 ボルチモア級重巡洋艦に対するオレゴン・シティ級 クリーブランド級軽巡洋艦に対するファーゴ級 アトランタ級防空巡洋艦に対するジュノー級 これらは皆、対空火器の積みすぎによるトップヘビー問題を根本的になんとかしようと 艦級そのものを変えてしまった例。 (477 450)
https://w.atwiki.jp/1942_fhsw/pages/228.html
名称 M5A1スチュアート 略称 M5 弱点 車体側面、背面、上面 座席 1番席 M6 53.5口径37mm戦車砲、M1919A4 7.62mm機銃 (装甲貫徹力) AP → 60.6mm 2番席 戦車長席(砲撃要請) 3番席 M1919A4 7.62mm機銃, 砲撃要請 4番席 M1919A4 7.62mm機銃 5番席 デザント席 6番席 デザント席 関連 M2A1軽戦車 M2A4軽戦車 M3スチュアートM3スチュアート ハニー M5A1スチュアート M3サタン 火炎放射戦車 M8 スコットM8A1GMC 概要 アメリカ軍の軽戦車。欧州戦線では偵察車両として終戦まで使用されたが、太平洋戦線では装甲の薄い日本の戦車相手にM4中戦車が配備されるまで活躍した。傾斜次第で新砲塔チハの47mm砲弾を弾くことができる。 土嚢搭載型も用意されており、敵歩兵の放つHEAT弾を高い割合で無効化することができる。 コメント M3と違い車体機銃が1門のみになっているため、弾幕の鬼ではなくなっている。しかし相変らず歩兵には強く、傾斜装甲部も多くなったので実質強化部分の方が多い。 -- 名無しさん (2013-05-09 19 42 08) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/army2ch/pages/58.html
W.W.2の頃の航空機の風防の材質ってなんですか? アクリル樹脂? ガラス? 国によっても違うのでしょうか? 故坂井三郎氏の撃墜記録を教えてください。 ラバウル等の南方で、B-17は何しに来てたんでしょうか? エーリヒ・ハルトマンの場合は二機一組で僚機被撃墜がなかったそうですが、坂井三郎の場合はどうなんでしょう? 太平洋戦争時、ボルネオで山尾戦隊って戦闘機隊が大活躍したって話で、その中の金沢というパイロットがB-24を10機も隼で落としたって話を聞いたのですが、 木の葉落としってWWⅡで実際行われてたんですか?また日本航空機の特徴を生かした機動なのでしょうか? 民間航空の人間でありながら、戦時中には戦闘機にも乗っていたケースは、日本では実際にありえたのでしょうか。 太平洋戦争中の日本軍パイロットは、日本刀を持ち込んでたって記述が俺の持ってる本に書いてあるんだけど、ホントか? 台湾沖航空戦に投入された日本軍機はどれくらいだったのでしょうか? ブッシュ前大統領の親父が第二時大戦の時、ゼロ戦に撃墜されて死にかけたって本当ですか? 太平洋戦争後半で日本軍機が米軍機を撃墜したようなケースでは、いったいどうやって撃墜したのでしょうか。 ミッドウェーで日本側の3隻の空母が大被害を受けた後、無傷で残った空母・飛龍が護衛戦闘機 オレゴン空爆した2人はどうなった、そして、その潜水艦はどうなった? 先の大戦中、日本上空で撃墜され、脱出したものの日本軍に捕まった米軍兵はどのような待遇を受けていたのでしょうか? もし山本五十六が死ななかったら戦況に影響したのだろうか。 坂井三郎さんが硫黄島から帰ってきた後の戦闘について 少飛13期は何年ごろに入隊して、どんな活躍をされたのでしょうか? B-29が近づいているってのは誰が探知してたんですか? 太平洋戦争の頃、洋上の空母を発進した航空機はどうやて戻ってきたのでしょうか? B-29を迎撃に上がった飛燕のパイロットが、敵機の腹の下にもぐりこんで、下から日本刀で切りつけたというのは・・・本当の話? フライングタイガースと日本軍機どちらが優勢だったのでしょう? 久我山の高射砲陣地跡は往時を偲ばせる何かが今も残っているのでしょうか? 「ワレニ追イツクぐらまんナシ」の電文はどの偵察機上から打電されたのでしょうか? ジパングで輸送船の護衛にゼロ戦を飛ばすエピソードがあるのですが、これって史実でも行われたのでしょうか? 艦攻などは他の飛行機が敵を攻撃する際にも陣形を乱さずに(綺麗な形で飛びながら)攻撃したのでしょうか。 防空監視委員って誰がやってたんでしょうか。 第二次世界大戦で飛行機乗りは、訓練でどのくらいの時間乗ってたか教えてください 零戦の初戦は、漢口での中国空軍との対戦だったということですが陸軍航空隊の搭乗員が乗っていたということでしょうか? 飛燕はニューギニアで戦っていますが海軍航空隊の搭乗員が乗っていたということでしょうか? 本土空襲に飛来して、撃墜されたB-29は全部で何機くらいですか? 日本には高々度用の邀撃機ってほとんどなかった? 台湾沖航空戦の戦果と損害が資料によってまちまちなんですが、どれがもっとも信頼できるのでしょう? 戦時中に長野県南部には空襲はないもの思っておりましたが、祖母の話だと 太平洋戦争で飛行中の戦闘機が撃破され、搭乗員が海に投げ出されたらその後どうなるんですか? 海軍航空兵力がソロモンですり潰されて回復できなかったことは有名ですが、 ジョージ・H・W・ブッシュは日本の捕虜になりました? ミッドウェー海戦の時は雷装待機の命令がうまく伝わらなかったみたいだけど、雷装にするとどんなメリットがあるんですか? 太平洋戦争末期に久我山というところに高性能な高射砲が据え付けられて、 フライングタイガースが実際に日本軍機と交戦したのは日米開戦後だと パールハーバーを見ていますが、あの時代ゼロ戦と優位な空戦をしている米軍機はなんという機種ですか? 大戦中のB-29撃墜数を調べているのですが、資料により150機から300機程度とかなり開きがあるので 第二次大戦中、キスカへ空襲に来て撃ち落された米軍パイロットを帝国陸軍が英文の墓標を立てて弔ったそうだけど 芙蓉部隊があげた戦果というのはいかほどのものだったのでしょうか? 山本五十六は銃弾が額に直撃して即死したんですか? 海軍甲事件で山本長官を護衛していて守りきれなかったパイロットはどうなったのですか 連合軍側で「零戦を見たら逃げろ」という命令が下されていたのでしょうか? ソ連参戦時、日本軍機とソ連軍機の空中戦とかあったのでしょうか? 第2次大戦中のタイ軍航空部隊に実戦経験はあるのでしょうか? 第二次大戦の時ドイツやアメリカには「空軍」があったのに日本に無かったのはなぜ?日本にも空軍を創設しようという議論はなかったの? 航空機の主要損失要因は? 日本に「フリッツX」のような誘導爆弾は存在したのでしょうか?また、それは実用可能な性能を持っていたのでしょうか? なぜ日本軍戦闘機隊は挌闘戦にこだわったの? 日本の13ミリ機銃は悲惨だったと聞くけど,どう悲惨だったの? 戦時中の戦闘機乗りはヒロポンとかやってたそうですが? なんで日本もVT信管作って対抗しなかったの?発想自体がなかった?それとも技術不足? 戦争の末期に機体全てが竹で出来た戦闘機があったと思うのですが 橘花はネ-20エンジンを始めMe262のコピーといった性格が強いのですが、ネ-20以前の日本独自開発のジェットエンジン、ネ-10その他は搭載する機体のデザインも出来ていたのでしょうか? B-29がいる飛行場に対する攻撃の計画や実行は有ったのでしょうか? 日本海軍航空隊はなんで急激に、航空隊の練度が低下したんですか? 風船爆弾によってピクニック中の6人が犠牲になったのは公開されたの? 山本五十六の乗った一式を撃墜したP-38のパイロット達は、裁判までして自分が墜としたって揉めたそうですが事実ですか? 芙蓉部隊の戦術や戦果は、あくまでイレギュラーな小部隊だからこそできた事なのでしょうか? 第二次大戦末期に日本に艦砲射撃を行った連合国軍艦船には上空に護衛戦闘機が付いていたんでしょうか? サイパン爆撃が大きな戦果を挙げたのは米軍側の油断と怠慢だったの? 太平洋戦争で、トラック島が艦載機の奇襲を受けて、300機近い航空機を失ったと読みました。 アメリカ映画などに出てくる戦闘機のパイロットって、階級は大尉とか少佐とかが多いですが、上等兵とか軍曹とかのパイロットって少ないのですか? 米軍が完全な零戦を鹵獲してテストしてますけど、日本も完動米機ないの? 大戦末期、日本軍の航空機による反撃が少なかったのはなぜ? 日本にも「撃墜王」と呼ばれた空の戦士はいましたか? フィリピン戦のさい、紫電が出てきたって聞いたが、戦果は 沖縄戦で落とされた爆弾はどんなやつ? 東洋戦線では、ウェリントンやランカスターなど英軍の爆撃機はどの程度投入されたのでしょうか。 聴音哨ってのがWW2当時に無かった? 竹槍でB29を撃墜するって話は、どこの誰がどんな経緯で言い出したことなんですか? 日本は米軍が捕獲ゼロ戦でやった様に、捕獲したF6FやP-51を調べて、弱点を検証しなかったんですか? 日米両軍は飛行場を設営するのにどれぐらいの期間を要したのか? マウザー砲の量産化に成功して全ての機体をマウザーに更新できていたら、戦局は有利になったんでしょうか? アメリカ艦隊の激しい対空砲火は、シュトルモビクなら突破できたんでしょうか? 編隊を組んでいる雷撃機や艦爆が後方から戦闘機の急襲を受けた場合、バラバラに逃げるより、編隊を崩さずに後方機銃で応戦した方が良いのですか? 台湾沖航空戦で戦死した有馬正文は、指令官なのに攻撃機に乗って出撃しましたが責任ある立場の人間が、上官の命令とか許可なく勝手に出撃できたんでしょうか? 岩本徹三の「零戦撃墜王―空戦八年の記録」という本は読んでおいて損はないですか ガダルカナル攻防戦で遠距離飛行を強いられた日本パイロットはヒロポンを供給することで、パイロットの消耗を抑えられなかったの ミッドウェー海戦後の日本基地航空隊って、どうして アメリカ機動部隊の奇襲があんなにも面白いほど簡単に成功して壊滅するの? 343航空隊に触発されて、陸軍もベテランパイロットと4式戦を集結させた エリート部隊をつくる計画とかなかったんですか? 日本の熟練搭乗員が消耗していなければF6Fとも対等に戦えましたか? W.W.2の頃の航空機の風防の材質ってなんですか? アクリル樹脂? ガラス? 国によっても違うのでしょうか? 零戦も一式陸攻も電動慣性機動機です。(もしかしたら九六艦戦も) 風防は防弾ガラス(正面の平面部)以外はプレキシガラスです。プレキシガラスでは透明度や歪に問題があったのは事実のようです。 欧米のように枠無しのバブルキヤノピーも無理でした。それでも疾風のキャノピーなどはなかなかの出来と思っています。 (5 303) 故坂井三郎氏の撃墜記録を教えてください。 大小64機の撃墜と言われています もっとも本人は撃墜記録よりも列機を一度も失わなかったことの方が、誇りで有ったようです。 (6 215) 参考までに エース・パイロット http //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88 ラバウル等の南方で、B-17は何しに来てたんでしょうか? B-17については、航続力が大きく防御力の強固な爆撃機が太平洋戦線では、 B-17しかなかったので(後にはB-24、B-29も出現しますが)、 南洋諸島に築いた航空基地などの目標を破壊しに来たのが目的です。 別に重爆撃機=戦略爆撃専門というわけではないので。 (44 眠い人 ◆ikaJHtf2) エーリヒ・ハルトマンの場合は二機一組で僚機被撃墜がなかったそうですが、坂井三郎の場合はどうなんでしょう? 坂井も同様だけど、頼まれて太田を他所に貸し出したら撃墜された。でも自分が編隊を組んだ時にはやられてない。 (526 575) 日本海軍の空戦編隊は3機1組が主流でした。 1944年末頃から、2機編隊、あるいは4機編隊を導入しています。 坂井さんの場合は時期的に3機編隊でしょうね。 なお、日本陸軍ではドイツの影響が強かったため、海軍よりも早く2機編隊へと移行しています。 (526 582 ◆yoOjLET6cE) 太平洋戦争時、ボルネオで山尾戦隊って戦闘機隊が大活躍したって話で、その中の金沢というパイロットがB-24を10機も隼で落としたって話を聞いたのですが、 当時の戦況とかと照らし合わせて、これって信憑性のある話なんでしょうか? 一応、伝聞だけど。 B-17よりもB-24の方が落としやすかったらしい。 針鼠のように銃座を設けているB-17(E型以降の話ね)よりも、B-24は 死角が多く狙いやすかったようだ。 特にデービス翼の部分は強度が低く、翼を狙って撃てば、隼程度の機関銃 でもポッキリ折れることがあったとか。 なので、10機撃墜というのはある程度信憑性があると思います。 警戒網に引っかかって、先に日本側が戦闘機を挙げておくという状態であ ればね。 ラバウルでも、B-17は悩みの種だったそうだけど、B-24の話は聞いたこと 無かったなぁ(祖父談)。 (10 名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2) 木の葉落としってWWⅡで実際行われてたんですか?また日本航空機の特徴を生かした機動なのでしょうか? 「木の葉落とし」が実在したとしたら、それは失速(ストール)を伴う機動ですが、 失速を伴う機動としては、「ストール・ターン」というのがあります。 もっとも、現代の格闘戦では運動エネルギー(あるいは位置エネルギー)を重視するので、 エネルギーを失う失速のような機動は無用のものになったのではないかと… (11 113) 民間航空の人間でありながら、戦時中には戦闘機にも乗っていたケースは、日本では実際にありえたのでしょうか。 ドイツ何かだと、爆撃機パイロットの乗る機体が無くなって、 戦闘機に乗せる事があったと思いますけど、日本もそうだったかなぁ。 もし、民間航空の設定なら、新聞社のパイロットにするしかないでしょう。 新聞社の連絡機には(失敗作の)戦闘機も使われているので。 本当の民間航空なら、水上機(飛行艇)か爆撃機で戦闘機パイロットになることは余り無いと思われ。 (25 眠い人 ◆ikaJHtf2) 太平洋戦争中の日本軍パイロットは、日本刀を持ち込んでたって記述が俺の持ってる本に書いてあるんだけど、ホントか? 精神的な支えとか、そんな感じ。 (日本刀には魂が宿っていると信じていたから) 別に持ち込めという規定があったわけじゃないよ。 当たり前だが、持ち込まないほうがいいに決まってるんだけどね。 コンパスが狂うから。 (33 158) 護身用に短刀を持ちこむ事はあっても、日本刀を持って行くと いう事は殆ど無かったそうです。 あんな長い物を機内に持ちこむと邪魔になるからだったとか。 (33 名無し四等陸士) 台湾沖航空戦に投入された日本軍機はどれくらいだったのでしょうか? 10月12日、1式陸攻、銀河、天山、飛龍の計99機 13日、1式陸攻、銀河の計28機 14日、300機、その他40機が夜間攻撃 15日、177機 16日、165機 (37 851) ブッシュ前大統領の親父が第二時大戦の時、ゼロ戦に撃墜されて死にかけたって本当ですか? ブッシュ中尉のアベンジャーは44年に父島空襲に参加。 零戦ではなく、対空砲火を受けて撃墜。 乗員3人のなかで唯一脱出に成功し、潜水艦に救助されました。 なお、父島は食料はあるにもかかわらず米軍捕虜を処刑後、食するという異常行為が行われていて、 戦後に大問題となりました。 (39 98) 太平洋戦争後半で日本軍機が米軍機を撃墜したようなケースでは、いったいどうやって撃墜したのでしょうか。 空中戦は何よりも奇襲で決まります。 (43 595) 大戦中盤より日本陸・海軍でもロッテ戦法が普及し始めました。 対米軍機戦法として、敵機よりやや高い高度で待ち受け、長機が目標にした敵機に 襲い掛かり、僚機はそのままの高度で待機します。 敵機は当然高度を上げて振り切ろうとしますが僚機が頭を押さえているので高度が取れません。 こうしてそのまますり鉢の底に押さえ込むようにして撃墜まで持っていったそうです。 これは302空の赤松中尉が得意とした戦術ですが、彼は驚くべきことに単機で数十機の敵編隊に突入し、 そのうちの一機を撃墜して帰還したこともあるとか。 (43 597) 振り子戦法というのはローヨーヨーなどという空戦機動ではなく、相手が 巡行速度まで機速を落すまであとをついて行くものだと思います。あとを つけている間、後下方に位置して先行している敵が振り向くたびに振り返 る逆方向に機体を持って行くのが時計の振り子のようだから振り子戦法と いったはずです。飛行第六四戦隊時代の黒江大尉が考案して、隼より優速 のライトニングやモスキートを撃墜しています。 (43 眠い人 ◆ikaJHtf2) ミッドウェーで日本側の3隻の空母が大被害を受けた後、無傷で残った空母・飛龍が護衛戦闘機 13機(うち、少なくとも8機は零戦)が飛龍上空にいたのに米空母艦載のドーントレス急降下 爆撃機編隊を全く防げれなかったのはなぜですか? その8機は低空で雷撃機を追いまわすのに忙しくて 上空には1機もいなかったこと (45 594) 「飛龍」が第二次攻撃を終えた時点での残存機は、零戦10機、97式艦攻4機 99艦爆5機の合計19機に過ぎなかった。その内、零戦6機は第三次攻撃用に準備中だったので、 直衛は4機であったと推定できる。だから、8機も上空には居なかったのでは。 対する米軍側は、「エンタープライズ」隊が24機、その30分遅れで「ホーネット」 隊が15機発進。「エンタープライズ」隊が17時03分に最初の突撃で「飛龍」に 命中弾を与えているので、24:4では只単に直衛機の数が足りなかった為でしょう。 (45 625) オレゴン空爆した2人はどうなった、そして、その潜水艦はどうなった? オレゴン空襲に参加した零式小型水上偵察機の乗員藤田信夫飛曹長と奥田二飛曹のふたりのうち、 奥田二飛曹は戦死されましたが、藤田飛曹長は戦争を生き抜き戦後に爆撃したオレゴンを 表敬訪問しています。1997年9月30日死去。 伊25潜水艦は昭和18年9月3日?フィージー諸島スバへ航行中、消息不明との事です。 (47 名無し軍曹) 先の大戦中、日本上空で撃墜され、脱出したものの日本軍に捕まった米軍兵はどのような待遇を受けていたのでしょうか? 基本的には、犯罪行為があれば、刑法にしたがって処断されていました。 ただし、個別の行為の立証は必要とされており、単にB-29から脱出したからといった理由での有罪判決ではありません。 ドーリットル隊の乗員が中学生を射殺した容疑で死刑執行されております。 (79 712) 遠藤周作の『海と毒薬』には九州大学医学部での生体実験の事実が描かれています。 (79 737) もし山本五十六が死ななかったら戦況に影響したのだろうか。 山本五十六自身が認識していた通り、大日本帝国の敗北は運命であり 変えることは不可能です (82 106) つか、山本五十六が立案、実施した「い号作戦」あたりが、敗戦 を確定したとも言えるしね。 (82 107) 坂井三郎さんが硫黄島から帰ってきた後の戦闘について 坂井三郎少尉は硫黄島より帰還後、横須賀空で教育任務にあたり、昭和19年の12月に 343空付きとなっています。 しかし、343空ではほとんど出撃しなかったようで、20年6月には武藤金義飛曹長と 入れ替わる形で横須賀空に戻りました。 終戦後の8月17日と18日に、写真撮影のため進入してきたB-32ドーミネーターに対して 坂井少尉と小町定飛曹長・大原亮治飛曹長らが迎撃を行い、一機を不時着水させています。 ttp //www.warbirds.jp/ansq/1/A2000660.html (82 名無し軍曹) それは徹底抗戦の一貫としてやったんですか? 坂井三郎空戦記録だと、厚木空は徹底抗戦に加わらなかったようですが 坂井三郎氏は徹底抗戦を主張したのでしょうか? 徹底交戦とは関係なく、坂井氏はあくまでも自衛戦闘であるとしています。 また、この攻撃は国際法上合法であると氏は主張しておられました。 もっとも、一緒に出撃した小町氏は米軍の報復を恐れてしばらく隠れていたとか。 (82 名無し軍曹) 少飛13期は何年ごろに入隊して、どんな活躍をされたのでしょうか? 少飛第13期生は昭和15年の初夏から秋にかけて少飛第12期生と同時に募集されています。 募集定員は各1300名。 まず東京陸軍航空学校第8期生として陸軍軍人としての基礎教育を受けた後、 少飛第13期生として熊谷・太刀洗・宇都宮の各飛行学校で基本操縦訓練を受けました。 昭和19年3月飛行学校卒業後兵長に進級し教育飛行隊に配属、その後錬成飛行隊に配属され、 錬成が終わったのが12月。そして伍長に進級し各飛行戦隊に配属されていきます。 少年飛行兵の中では実戦に参加したほとんど最後のクラスになるとおもいます。 (82 名無し軍曹) B-29が近づいているってのは誰が探知してたんですか? 空襲警報は誰が出してたんですか? 海軍が特設哨戒艇(要は漁船)を太平洋上に広く展開させ、編隊を確認しています。 但し、損耗率はかなりのものだったそうです。 陸上に於いては、陸軍並びに海軍の電波探知機(レーダー)を用いて大まかな方向を 掴みます。 更に聴音機(らっぱの大きなもので、集音のために使います)を用いて、敵機の方向を 探知します。 また、各地には標高の高い山などで、人が住んでいるところに、防空監視哨があります。 これは、哨舎と聴音壕から構成されており、哨舎で空を監視し、聴音壕内で、飛行機の機種、 方向を確認し、各軍管区に電話で報告します。 各地の軍管区がそれらの情報を元に、空襲警報を発令します。 「頭巾をかぶって防空壕へ」ってのは法律で決まってたんでしょうか? 灯火管制に関しては、1938年4月4日に灯火管制規則を定めています。 また、1944年12月29日に灯火管制強化要綱が閣議決定されています。 「頭巾をかぶって防空壕へ」ってのは法律で決まってたんでしょうか? の部分は、1937年5月に東部防衛司令部、東京市連合防護団、東京市の 三者により決定された、「家庭防火群組織要項」がその萌芽です。 また、1937年4月5日公布、10月1日施行の防空法も根拠になります。 (85 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 太平洋戦争の頃、洋上の空母を発進した航空機はどうやて戻ってきたのでしょうか? ラジオとコンパス (85 155) 大戦中の日本海軍機にはクルシー帰投装置(一式空三号無線帰投装置)という装置が装備されていました。 これは、母艦から出した電波を探知してその方向に飛行して帰るための装置でした。 もっとも、母艦から出した電波を敵に探知される危険もありましたが。 真珠湾攻撃の時に、母艦の位置を敵に悟られないよう帰路を失しても母艦に対し 電波輻射を要求せずに自爆していった機もあったそうです。 やはり単発機の長距離洋上航法は至難の技だったようです。 (85 名無し軍曹) B-29を迎撃に上がった飛燕のパイロットが、敵機の腹の下にもぐりこんで、下から日本刀で切りつけたというのは・・・本当の話? 嘘です。どうやって飛行中の機体から切りつけるのでしょうか? 貴方が騙されているかその友人の思い込みだと思います。 ただし飛燕がB29の下にもぐりこんでプロペラで切り刻んだ事ならあります。 震天制空隊が体当たりを失敗して行いました。 尚、この後馬乗りになってもプロペラで攻撃し続け新聞に載っています。 (87 330) 垂直尾翼やプロペラが敵機の機体に触れず、コクピットから伸ばした腕で 敵機を斬り付ける事が可能か、いくら軍事に疎くても判りそうなものだが。 (87 331) 軍刀も標準的な日本刀も刃渡り60~70cmですが。 大体、届いても斬れるわけなかろう。 (87 335) なんでそう簡単に言い切るのかな?軽金属製の機体に時速何百キロで鋼の刀身がぶち当たるんだぜ! プロペラ回転圏外に手を伸ばしてか? 肘がもげるよ。 (87 339) 相対速度しか関係ないよ。 (87 342) 対面で? B-29が切れるより、刀が折れるより、腕が吹っ飛んで終わり。 衝撃は与えるが、破壊する様なエネルギーは与えきれない。そこまで、腕もたないよ。 真正面からぶつければ(弾かれない様に)まだ破壊できるだろうけど、 はじかれる様な使い方をしたら(斬りつけるとかね)、まぁ、B-29にとってなんてことないな。 あぁ、当然だけど、B-29が受ける力と同等の力が、腕にもかかるんだよ。 (87 351) それ以前に、全力飛行中の飛行機から刀や腕出せるわけねえだろ!! 風圧で刀が吹き飛んで終了 (87 352) フライングタイガースと日本軍機どちらが優勢だったのでしょう? 周知のとおり、「フライング・タイガース」はクレア・L・シェンノート少佐が 宋美麗(蒋介石夫人)の資金提供を受けて米人パイロットで編成した AVG(アメリカン・ヴォランティア・グループ)の別名なわけですが、 この部隊のパイロットは日本機を撃墜するたびに報奨金が(一機あたり500ドル)出たそうで、 非常に過大な戦果報告をしていました。 AVGは日本との戦闘で21人のパイロットを失っており、うち7人は事故死、9人が地上攻撃中に 撃墜されて戦死もしくは捕虜となり、戦闘中行方不明が1人、空戦による被撃墜死が 4名とのことです。 AVGの編成時のパイロットは90名程度だったようで、損害率は低くないと思います。 日本側の実際の損害等は他の詳しい方解説きぼんぬ。 (96 930) 久我山の高射砲陣地跡は往時を偲ばせる何かが今も残っているのでしょうか? 残念ながら何も残っていないようです。 もし、残っていれば杉並区教育委員会に記録があると思いますが…。 (98 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 久我山の高射砲と関係あるのかは知りませんが、 調布飛行場を守っていた高射砲の台座は残ってます。 調布市のケーブルテレビでそのような番組をやってました。 幼稚園の敷地内に円形のコンクリートの台座がありました。 高射砲跡地の石碑もありました。 (98 840) それは大沢高射砲座ですね。 三鷹市大沢5丁目にあるもので、調布飛行場と、中島飛行機三鷹工場を防衛するもの です。 高射砲座が四基、椎の実保育園と言うところに保存されているとか。 あと、東京都内の高射砲座としては、葛飾区白鳥三丁目に九九式八糎高射砲6門を 一個中隊とする三個中隊18門が北東に向けて扇形に配置されていた青砥高射砲陣地 のうち三基の砲座が現存しています。 (98 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 砲座の残っている場所の地番ですが、大沢4丁目8になるようです。 調布飛行場の周辺の戦跡は、他に掩体壕が四基残ってますね。 (98 846) 「ワレニ追イツクぐらまんナシ」の電文はどの偵察機上から打電されたのでしょうか? 諸説色々ありまして、「我に追いつく敵戦闘機ナシ」だった。とかいう話も。 ただ、一般的には「彩雲」と言う戦闘機がサイパン方面に偵察に出た際に。 と言う話が有力です。 (99 9) ジパングで輸送船の護衛にゼロ戦を飛ばすエピソードがあるのですが、これって史実でも行われたのでしょうか? 近くに空母がいたとか。 (100 467) 史実でも細々とはやってる。 上空で円を描きながら飛行すれば速度の差はほぼ問題なし。 燃料がなくなれば、他の飛行機が引き継ぐ。 (100 468) 菊水作戦とかね (100 469) 艦攻などは他の飛行機が敵を攻撃する際にも陣形を乱さずに(綺麗な形で飛びながら)攻撃したのでしょうか。 確かに艦攻も編隊を組むのですが、それは防御が目的です。 (101 798) 水平爆撃にせよ、雷撃にせよ、艦攻が敵を攻撃するときには編隊を組んでやります。 雷撃なんかは各機がバラバラに魚雷を落とすよりも編隊を組んで、複数の魚雷の 進路と敵艦の進路がうまく重なるようにした方が命中率も上がりますし。 (101 813) 攻撃には有利であり、それを最優先するのはイメージし易いのですが防御はどうなのでしょうか。 (どうしても敵からみて綺麗にならんで飛ぶ姿は狙われやすいと考えてしまうのですが) 防御時にも有利になります。 編隊を組んだときは、その中の一機の防御機銃がカバーする範囲が、バラバラに 飛んでいるときの範囲よりも小さくなるため、密度の濃い段幕を張ることができます。 それによって敵機を撃墜することまでは行かなくても、容易に接近することを防げ、 結果的に編隊各機の生存率が上昇します。 (101 833) 艦攻、艦爆はもちろん、双発や四発の爆撃機も密集編隊を組んで飛行するのが普通でした。 その理由は、敵戦闘機におそわれたときに火力を集中使用できるから。 たとえば7.7ミリ4丁積んだ爆撃機を考えると、一機一機バラバラに飛行していると、 4丁分の防御力しか発揮できない。 でも、10機固まって飛行すれば、40丁になるでしょ? 逆に言うと、編隊のはじっこにいる機はその分危険なわけ。カモ番機、なんて言い方もあった。 水平爆撃のさいは編隊は崩さず、密集したまま目標上空を航過して爆撃するが、 雷撃の場合はちょっと編隊を崩し、3,4機ごとに横に並んで雷撃した。 そうして命中率を稼ぐ。 急降下爆撃は目標の大きさによるけど、1機か2機程度にばらけ、 順々に攻撃するのが普通。でないと目標上空で味方機同士衝突のおそれがある。 何十機も同時に襲いかかるわけじゃない。 ちなみに、密集編隊を組むのも、順次攻撃のタイミングを計るのも高い技量が要求され、 下手がやると空中衝突というのも珍しいことじゃなかった。 (101 835) 防空監視委員って誰がやってたんでしょうか。 防空監視員は、1941年の防空監視隊令に基づいて設置されたもので、 群馬の場合だと、哨長1名、哨員20名が対空監視哨の構成員で、これで、 昼は4名、夜は2名の24時間勤務で、1時間交替で監視を行なっていたそうです。 沖縄の場合は、哨長、副哨長が地方公共団体(市町村)の委嘱を受けた在郷軍人、 哨員は最初は役場の職員が兼任していましたが、後に青年学校生徒、または女子学徒が動員されたようです。 全国の傾向を見ますと、長クラスは沖縄のように在郷軍人が、員は1943年に文部省が出した、 「学校防空指針」に基づき、中学三年以上の学生が任ぜられた様です。 (103 眠い人 ◆gQikaJHtf2) その手の資料は、どのような題名、著者でしょうか Webでぐぐる…というのもありますが、光人社NF文庫の「戦時用語の基礎知識」、 柏書房の「しらべる戦争遺跡の事典」「続・しらべる戦争遺跡の事典」という本が あります。 柏書房のは、ちょっと癖(軍板的に)がありますが、戦争遺跡の資料としては 纏まっていると言えるでしょうね。 巻末資料なども参考になります。 しっかり裏付けを取るのであれば、と言う注釈は付きますが。 (103 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 第二次世界大戦で飛行機乗りは、訓練でどのくらいの時間乗ってたか教えてください 旧日本軍を例にして挙げれば、パイロットになる場合、海軍では士官から養成する場合は、 飛行学生の教程は1年3ヶ月、飛行時間では150時間程度で修了です。 下士官搭乗員養成の場合は、基礎教育(予科)3年、その後、飛行技術を学ぶ本科を1年、 計4年のカリキュラムでした。 しかし、各養成過程を修了したからと言って、すぐ空母に着艦出来る訳では無く、空母へ 着艦が許可されるようになるまでは、さらに2、3年後、飛行時間が300時間を越えるぐらいに 成ってから、横須賀航空隊に配属になってからでした。 その後、戦局の悪化に伴い、どんどん短縮されていきました。マリアナ沖海戦の頃は、飛行時間 100時間程度のヒヨコに発着艦訓練を行わせるぐらいまでにひっ迫していました。 (103 742) 零戦の初戦は、漢口での中国空軍との対戦だったということですが陸軍航空隊の搭乗員が乗っていたということでしょうか? 重慶に対する戦略爆撃の護衛が任務です。漢口は出発基地。 勿論、海軍の作戦です。 (104 457) 零戦は海軍の飛行機 飛燕は陸軍の飛行機 それぞれ所属の違う機体は使わない。 (104 460) 飛燕はニューギニアで戦っていますが海軍航空隊の搭乗員が乗っていたということでしょうか? なぜ、海軍がニューギニアで戦うんですか? オーエンスタンレー山脈越えでポートモレスビーを攻略しようとしたのは陸軍ですよ。 (104 457) 中国本土でも、海軍航空隊は活動していたし(上海を中心として)、 ニューギニアには陸軍の部隊が展開していた (スタンレー山脈越えのポートモレスビー攻略作戦とか)。 ただ、陸軍飛行隊の洋上航法能力は稚拙の一語で、部隊ごと行方不明になっていたりします。 (104 458) 本土空襲に飛来して、撃墜されたB-29は全部で何機くらいですか? 帰還後に破棄された機体を含めて300機~400機弱 少ないように思えるでしょうが硫黄島に不時着した機体ののべ数を調べると 結構頑張っていたと言えると思います。 (109 375) 日本には高々度用の邀撃機ってほとんどなかった? ぶっちゃけ高高度専用のの迎撃機なんてありませんでした。 高空性能が日本機の中で高かった飛燕ですら武装外して戦ったりしています。 (109 378) 途中から米軍が(効果の薄い)高々度からの精密爆撃を止めて、 低空からの無差別爆撃に切り替えたので、 日本機や対空砲弾が届くようになったのです。 (109 393) 台湾沖航空戦の戦果と損害が資料によってまちまちなんですが、どれがもっとも信頼できるのでしょう? 損害は300機となっているものと600機となっているものがあります。 戦果は巡洋艦2隻大破となっているものと、空母1隻と護衛の水上艦3隻小破となっているものがあります。 空母一隻と護衛の水上艦3隻小破 これは14日のみの米側被害。 12日~16日の間の戦闘でそれ以外に空母1、重巡1、駆逐艦1が小中破。 航空機の損害については、T部隊のみの損害なのか フィリピンに展開していて投入された戦力を含むのか 台湾沖航空戦直前の台湾・沖縄への米機動部隊空襲による 損害を含むのか等により幅が出ていると思われ。 (110 150) 戦時中に長野県南部には空襲はないもの思っておりましたが、祖母の話だと 飯田市の多摩川精機の敷地内に何か落とされたみたいだそうです。 米軍の飛行機が銀色のひらひらした紙のようなもの、5mぐらいはあったらしいんですが これってなんでしょう? 欺瞞紙・・・かなぁ (110 762) チャフとすれば、5mが半波長として、波長10m台のデカメートル・レーダー妨害用か? (110 775) 自機が防空網にかからないよう自衛のために使った と考えたほうが自然 (110 843) たんなる誤爆だと思うよ 富山付近に落とすつもりが航法を間違えた可能性大 (110 848) 太平洋戦争で飛行中の戦闘機が撃破され、搭乗員が海に投げ出されたらその後どうなるんですか? 日本軍ならそのままフカの餌か土佐衛門。きわめて運が良ければ近くの島に泳ぎ着ける。 米軍なら(余裕があれば救命ボートを出して)救助を待つ。 すると潜水艦が迎えにきてくれる。専用の救難機もあったし。 (112 76) 味方が救助に来てくれるの? 運がよければ。 日本軍ならそのままフカの餌か土佐衛門。 一応は飛行機救難船って艦種もあるよ。 もっとも、無線自体が利かないんだから落ちたところの分かる 沿岸部でしか役に立たないだろうけど。 (112 77) 海軍航空兵力がソロモンですり潰されて回復できなかったことは有名ですが、 陸軍航空兵力はそのような明白な原因なく壊滅したように思えます。なぜでしょうか? 光人社「JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告-日本空軍の興亡-」 で関係者への事情聴取を含む突っ込んだ調査報告が出てるが 今思い出せる範囲では フェリー輸送中の事故損失率が洒落に成らないほど高い 米陸軍の予想外の長距離爆撃による地上撃破 整備部品の不足。整備体制の不備 あたりがニューギニアでの航空戦力消耗の原因として挙げられていた(はず) フィリピン戦になると整備関係の不備はさらに厳しくなり 大量の鹵獲機を出すようになる。 (112 927) ジョージ・H・W・ブッシュは日本の捕虜になりました? 小笠原近海で撃墜されましたが、潜水艦に救助されています。 捕虜にはなっていません。 (117 203) ミッドウェー海戦の時は雷装待機の命令がうまく伝わらなかったみたいだけど、雷装にするとどんなメリットがあるんですか? 当時の艦載攻撃機には急降下爆撃機と雷撃機があります。 雷装に換装できるのは雷撃機のほう。 雷撃機に爆弾積むのは水平爆撃で陸上目標を攻撃するためで、 海上を機動中の敵艦に命中させるのはまず無理。 (118 317) 爆装は爆弾、雷装は魚雷を積む 差があるのは攻撃機で、急降下爆撃機は常に爆装となる。 攻撃機が魚雷を装備して攻撃した場合、魚雷の破壊力は高く 水上艦の水線下を破壊するため、浸水させて沈没させ、もしくは速度を低下させて さらなる攻撃を容易にする。 しかしデメリットはあり、魚雷を投下するために速度に制限があり撃墜されやすい また雷撃侵入時は直線行動しか取れず、これも撃墜されやすい。 (118 318) 太平洋戦争末期に久我山というところに高性能な高射砲が据え付けられて、 たった一発の射撃でB-29を2機撃墜したと聞くのですがどのような砲だったんでしょうか。 地上設置型レーダーでB-29の位置と高度を測定したのち砲撃した でも、この撃墜ってここでは誤認説が優勢なんだよ (118 824) フライングタイガースが実際に日本軍機と交戦したのは日米開戦後だと マーチン・ケイディン著『零戦~日本海軍の栄光』と言う本で読んだのですが事実ですか? 事実みたいですね。 本としては、 「中国的天空」中山雅洋 「シエンノートとフライング・タイガース」吉田一彦 をお勧めしてみます。 (118 ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0E) フライングタイガーズに関するサイト、 https //www.danfordbooks.com/ によれば、 1941年12月20日が初交戦のようです。このサイトがお役に立つと思います。 補足 ところで、古い戦争にはまったく無知な私が上記サイトを拾うためにやったことは、 "flying tigers" first japanese でググって、3つほどのぞくことでした。所要時間2分ほど。 それ以上かかったらやめてたと思います。ごきげんよう。 (118 system) パールハーバーを見ていますが、あの時代ゼロ戦と優位な空戦をしている米軍機はなんという機種ですか? ハワイに駐留していた米陸軍航空隊の主力戦闘機はカーチスP-40でした。 ホイーラー基地に15PG(45・47PS)、18PG(6/19/44/73/78PS)合わせて87機 (うちC型12機・残りはB型)が配備されていました。 しかし、日本海軍の空襲により攻撃後に残った機体はわずか25機だけになってしまいました。 その中でも少数が迎撃に発進しており、テーラー、ウェルチ両中尉は 日本機を撃墜した功により殊勲十字章が授与されました。 (122 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 真珠湾攻撃時に唯一空戦で零戦を撃墜する大金星をあげたP-36をお忘れか? (122 126) 手元にP-36の資料がなかったものでm(_ _)m P-36は15PG(46・47PS)と18PG(78PS)に配備されてたようです。 (122 名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) 大戦中のB-29撃墜数を調べているのですが、資料により150機から300機程度とかなり開きがあるので 実際の撃墜数はどの程度だったのか、もしよければ教えてください。 ちょっと探してみたら371機という数字が出てきました。別のところでは450機という数字も。 で、これが純粋な戦闘損耗のみなのか、事故等で失われた機体も含めている数字なのかは よくわかりません。おっと、492機という数字もあります。 さて、どうします?(w 「米軍資料 日本空襲の全容」(東方出版)という本があるようです。これに当たられてみては? (123 967) 高々度精密爆撃をするだけなら日本の対空砲火、戦闘機の相手ではなかったのですが、 低空絨毯爆撃をするようになると被害が結構増すようになります。 高々度でも、戦闘機の護衛が無いので、 創意工夫によっては迎撃機の餌食になる場合もありましたが。 また、低空絨毯爆撃、特に白昼爆撃では、迎撃機も、 硫黄島陥落後に戦闘機の護衛が付くまでは結構活躍していました。 また、サイパンから長躯出撃するので、損傷を与えただけでも、 基地に帰り着けない場合も多々あったようです。 (123 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 何を仰りたいのか今ひとつ掴みかねますが、当時の高射砲の砲弾や 戦闘機の搭載機銃の威力は、いくら巨大とはいえペラペラのアルミ製の 精密機械の塊であるB-29を壊すのに十分です。 しかも太平洋戦線のB-29は海の上をはるばる飛ばないといけないので、 エンジンを1-2発停止させたり燃料タンクに穴を開けただけで洋上不時着 に追い込める可能性があり、この分も撃墜カウントに入ります。 (123 971) 爆撃機は、戦闘機の性能じゃなくてシステムで落とすんです。零戦でも高度1万mを飛んでくる B-29を落とすことは可能ですし、B-29は高高度爆撃をそれほど行っていないですし。 それに、日本の高射砲部隊は一般に思われてるよりずっと優秀でした。損害の過半数は 高射砲によるものです。 あとですね、体当たり攻撃は思っているほど実行されてないらしいですよ。 (123 977) 第二次大戦中、キスカへ空襲に来て撃ち落された米軍パイロットを帝国陸軍が英文の墓標を立てて弔ったそうだけど 英語の使用を禁止されていた当時の日本の、しかも軍がこんな事したら軍法会議ものじゃないの? 当時の日本が英語を禁止されていたというその認識がまず間違いです。 海軍兵学校などは、井上成美校長の意向もありましたが、最後まで入試に英語を残していました。 陸軍は英語を使用しない方向で行っていたようですが、ロシア語は重視されていました。 海軍の英語も同様ですが、敵が用いている言語を聞き取れないようでは戦争になりませんからね。 また、当時の文部官僚は今と同じようなリベラル系(良くも悪くも)で、英語の教科書もちゃんと存在してます。 後に英語教育は消えましたが、要するに戦況の悪化や学徒動員などで英語を含む全ての学業が吹っ飛んだというだけの話。 基本的に英語の規制というのは民間などでの話です。 今も昔も、民間の過剰な自主規制という日本人の性癖にさしたる差はなかったわけで。 (112 143) 昭和19年(1944年)の文部省の中等学校英語教科書二年用に 「ADMIRAL YAMAMOTO AND HIS HOUSE」という文章がある。 (1) Isoroku Yamamoto was one of the greatest admirals that the world has ever seen. Under his command, our navy won great victories in Pearl Harbour, off Malaya, off the Solomons, and at many other places. He will be remembered for ever. (2) Although he was a man of high position, he lived in rather a small house, for he loved a simple life. One day one of his friend said to the admiral, "I am afraid your house is too small for you. What do you say to moving to a lager one?" The admiralanswered with a smile, "This house is indeed very small, but I have another one, large enough for me. It is the Pacific Ocean." 内容は分かるよね? 当時のとはいえ中学二年向けだし。 本当に英語が禁止されていたなら、昭和19年に文部省がこんな教科書作るわけないわな。 (112 145) 実際、陸軍士官学校が入試から英語を取っ払ったので、 優秀な生徒をそちらに取られることを危惧した海軍兵学校も入試から 英語を撤廃しようかという話はあったようだが、井上成美が校長権限で却下した。 曰く、 「英語一つマスターする気の無い奴は海軍には必要ない。 どこの国に自国の言葉しか話せない海軍士官がいるのか? よって自分が校長である間は絶対に許可しない。」 (112 150) 芙蓉部隊があげた戦果というのはいかほどのものだったのでしょうか? 昭和17年以降の日本海軍の主張した戦果には、ほとんど実態がありません 戦果確認という基本動作をせず、帰還隊員の報告のみで戦況判断をすると いう信じられない姿勢が敗戦を招いたのです (112 514) 山本五十六は銃弾が額に直撃して即死したんですか? 顔に弾の跡があったらしいので、間違いないでしょう。 (113 855) 弾片が当たったのならともかく、12.7㎜や20㎜が直撃したら顔は原形を留めないんじゃないの? 一応、公式の記録でも、背中と顔面に機銃弾のあとがあった。となってたはず。 俺も多分、破片なり掠った傷くらいなんじゃないかと思うけど。 もしくは、綺麗な遺体じゃなかったとかね。 (113 858) 飛行機が墜落した時点では生きていたという話も見たことがあります (ソース思い出せず ごめんなさい) (113 865) 海軍甲事件で山本長官を護衛していて守りきれなかったパイロットはどうなったのですか 「六機の護衛戦闘機,」高城 肇, 光人社NF文庫 をお読み下され。 6人のうち、柳谷飛曹長を除く5人のパイロットがまもなく戦死し、柳谷飛曹長も 生還しましたが、片足を失っています。 彼らには『名誉の戦死』を遂げさせるべく、過酷な出撃が強要されたといわれています。 (115 713) 連合軍側で「零戦を見たら逃げろ」という命令が下されていたのでしょうか? まあさすがに逃げてばかりもいられなかったでしょうが。 戦争初期のゼロ戦は文字通り無敵でしたから、そういう強敵とは 意図的に交戦しないように、という指示もあったかもしれないですね。 ゼロ戦は、当時として型破りの機動性能を持っていたため、この戦闘機に 格闘戦を挑んで勝てる飛行機は、グラマンF6Fが登場するまで、存在しませんでした。 オーストラリア軍のパイロット、グレゴリー・ゴールはこういう言葉を残しています。 「ゼロ戦と接戦したら、結果は明らかだ。たちまち、死人になってしまう」 有名なフライング・タイガースの指揮官クレア・シェンノートも、ゼロ戦と 格闘戦はさせず、自軍の機体の頑強さと重さを活かした、急降下による 一撃離脱戦法をとらせていました。 つまり、「格闘戦に持ち込まれないうちに逃げろ」、という意味の事ならば、 ゼロ戦が猛威を振るったあらゆる戦場で言われていたことでしょう。 (117 467) 文書としての「命令」が発せられたという記録は私も見ていません。 ただし、 467さんがおっしゃっておられるように、そのような指示は出ていたようです。 内容は「1対1では格闘戦を行わずに離脱せよ」というものだったと思います。 「ゼロを見たら逃げろ」ということではないと思います。 467 F6Fもゼロに対して単機での格闘戦では不利でした。 高速、効果性能、維持旋回能力を活かして速度を落とさずに戦うことで、 常に高度の優位を維持していたようです。 (117 470) ソ連参戦時、日本軍機とソ連軍機の空中戦とかあったのでしょうか? 満州に居た飛行隊がソ連地上軍に攻撃をした事はある。 空中戦は他の人に聞いてくれ。 (124 280) 第2次大戦中のタイ軍航空部隊に実戦経験はあるのでしょうか? 1941年に、タイとフランス領インドシナとの紛争が発生します。 この時タイ空軍は6機のマーチンModel139と4機のHawk75Nをもってハノイを空襲、 フランス側も4機のMS406をもって迎撃、戦果のほどは分かりませんが、タイ側は2機 のMS406を撃墜したと主張しています。 その他、フランス側のポテーズ542やファルマン221のタイ側に対する夜間爆撃や タイの97軽爆がフランスの戦闘機とドッグファイトが生起するなど、 空中戦がそれなりに発生しています ttp //en.wikipedia.org/wiki/French-Thai_War 英語版Wikiがわりと詳しいので。ここを見ると、フランス側はタイ空軍のパイロッ トについて、特に急降下爆撃について優秀と評価しているようですね。 損害はフランス側は1機のファルマンF221と2機のMS406を地上で喪失したことを 認めているが、タイ側は5機の撃墜と17機の地上撃破を主張する一方、3機を空中戦 で、5~10機を地上で喪失した、と主張しているとされてます。 ただフランス側の損害は実際には30%に達していたとも書かれていますが。 (455 726,727) 第二次大戦の時ドイツやアメリカには「空軍」があったのに日本に無かったのはなぜ?日本にも空軍を創設しようという議論はなかったの? そういう議論もあるにはあったけれど、 大日本帝国憲法に「陸海軍」と明記されているので、空軍創設には憲法改正が必要(これが最大の障害になった) 陸軍航空隊と海軍航空隊のどちらが主導権を握るのかで、縄張り争いが起きる 空母艦載機は海軍と空軍、どちらのものになるのか? など、様々な問題があって、結局空軍独立論は幻のまま。 あと、アメリカが空軍を陸軍から独立させたのは、第2次大戦後だよ。 当時、独立空軍を持っていたイギリスやドイツでは、空軍と陸海軍の関係は必ずしも良好ではなく、 協同作戦の際に、少なからぬ問題が生じている。 アメリカだって独立空軍は持っておらず、日本が特に遅れていたわけではない。 (466 642,645) 航空機の主要損失要因は? 主として非戦闘要因. 以下引用. 太平洋戦争の特徴の一つは、非戦闘要因で破壊された航空機が多いことだ。 戦争全体を通して見ると、敵前の行動で失われた航空機は、たったの25%にすぎない。 残りの原因は天候不順、空母からの発着艦ミス、急造滑空路による事故と、熱帯性気候による航空機の損傷だった。こうした太平洋独特の状況のため、航空機のロスは欧州戦線などよりはるかに高かった。 アリューシャン作戦では、なんと87%が非戦闘要因による損害だった。 たしかにアラスカには熱帯性の気候はなかったが、北極の悪天候が航空機の寿命を大幅に短縮したのである。 「第二次世界大戦 あんな話こんな話」 ジェイムズ・F・ダニガン アルバート・A・ノーフィ 大貫昇=訳 文春文庫,P295 また,ダニガンは、 「日本軍は航空機輸送での損失が不可解なほど多い」 とも書いている(ソースは失念). 日本陸軍機損失23,835機中、輸送中の損失は2,015機。 日本海軍は輸送中の損失は区別されて無いが、でもまあ常識的に考えて陸軍より比率が高いだろう。 海軍機の統計は、損失27,120機中、作戦消耗10,370機、自然消耗16,750機。 ちなみに、彼がデザインしたゲーム「WarInThePacific」 SPI/HJ では10機単位で航空機を管理しており、4週間ごとに作戦配備してある航空機の10%、輸送を行った航空機の20%を損耗する。 比率はなぜか?日米共通となっている。 (軍事板) 日本に「フリッツX」のような誘導爆弾は存在したのでしょうか?また、それは実用可能な性能を持っていたのでしょうか? 大戦末期陸海軍ではいくつかの誘導弾の開発が行われていた。 B29を撃墜することを目的とし、地上から敵機に照射されたレーダービームを感知し自ら進路を修正しながら飛ぶ地対空誘導弾「奮竜」 飛行機から投下され、赤外線感知機で進路を修正して海上の熱源(敵艦)に向かって無動力で落下する誘導弾ケ(○にケと書く) 飛行機から発射され、ロケット推進で母機の無線誘導で敵艦に突入する空対地誘導弾三菱イ号一型甲および川崎イ号一型乙。 うちイ号一型乙は熱海沖で行われた試験中に誘導不能となり、よりによって温泉旅館の女湯に突入するという事故をおこした。 このためエロ爆弾などというあだ名がついたとも。 いずれも当時の世界水準で見ても非常に性能の高いものであったが、 奮竜は実用型の発射試験前日に終戦。 イ号は戦局の悪化で生産中止。 などの事情で、実用化されたものは存在しなかった。 なお誘導弾ケの開発には当時中島飛行機の設計室にいた糸川英夫も関わっている。 (148 700) なぜ日本軍戦闘機隊は挌闘戦にこだわったの? 渡辺洋二によれば, 「数も無線機の性能も劣った日本機では,米側と同じ編隊による一撃離脱を真似しても不利は明白である. とる戦法はロッテ式格闘戦であった. 運動性の良さで敵をとらえ,敵から逃げるのだ. ・・・ 軽快性に乏しい4式戦にはこの戦法はむつかしい. ・・・ 最適な機体がキ100だった」 (軍事板) その評価,明野で隼を使ってロッテ戦の研究やった時にも同じ結論が出たようですね. ただ,それが出来るのってベテランだけなんですよ. 大多数の新米搭乗員には,運動性を武器に単機戦闘で生き残るのは難しいです. 結局はベテランなんかは隼三型は信頼性があるけどもう少し火力と速度のある機体が欲しい・・・・そこに5式戦が出てきてあれがベストに思えたんでしょうね. 新米はもうわけも分かんないうちに撃墜されて評価もへったくれもなかったでしょう. 疾風に関しては信頼性と出力低下で,後半は「ただ重いだけ」の戦闘機になってしまったか. (素質がいい戦闘機なのは間違いないんだけど) (名無し飛行兵曹 in 軍事板) 日本の13ミリ機銃は悲惨だったと聞くけど,どう悲惨だったの? パワーが悲惨。陸軍の機載13×63mmは、13×99mmの6割程度のエネルギーしかない。 初速も8割しかなく、弾重6割。直進性の悪い弾道で、当たっても効かない弾を撃ってたわけで。 で、13.2×99mm(ブローニング)機載は銃身長が短いし、13.2×99mm(ホチキス)対空は発射速度が遅い。 まあ、20×72mm(エリコン)の初速の悲惨さに比べられるものは少ないが。 で「日本の13mm機銃」に当てはまりそうなものとして、私が知る範囲では、 13×63mm(海軍機、MG-131の雷管発火バージョン。13mm2式?) 13×99mm(海軍対空火器。ホッチキス製。93式?) 13×99mm(海軍機、ブローニング。13mm3式?) があるわけで、それぞれ前述の通りです。 (377 484) 戦時中の戦闘機乗りはヒロポンとかやってたそうですが? 使われていた。 明治41年に薬理学者長井義博博士が麻黄からエフェドリンを分離。 その後エフェドリンからメタンフェタミンの合成に成功。 昭和16年に大日本製薬から商品名「ヒロポン」として販売開始。 同じく昭和16年、日本国第7陸軍研究所に1日100キロの行軍に耐える体力、 夜間に周囲を見通す視力、3時間の睡眠で事足りる回復力、 寒冷地においても防寒着を必要としない順応力を持たせうる薬品を開発せよ、との任務が授けられる。 研究の結果は「ヒロポンに勝る物無し」との事。 アンフェタミンはアメリカで合成され、ベンゼドリンやデキセドリンなどの商品名で市販された。 メタンフェタミンを軍用として使用した国には他にドイツなどが挙げられる。 単純作業以外にも、例えば余り認められては居ないが意外にも創作や学習などの効率も上げる。 頭の回転が速くなる=スピード、という俗称もこの辺りから来ている。 そして、副作用も主にこの回転が速くなる事から発生する。 減速機がうまく働かなくなってしまう場合も多い。 坂口安吾など、戦後一時期の作家の作品には、 (結果として)ヒロポンによって生み出されたと言えるものも少なくない。 副作用も主に、この思考が速くなる事から発生する。 減速機がうまく働かなくなってしまう場合も多い。 ヒロポンは作用と副作用を比較すれば副作用が大きく、また、耐性の形成も非常に早い。 薬局で売っていたと言う話も、昭和20年の敗戦から昭和25年の覚せい剤取締法の施行まで、 いわゆる「マトモ」な薬局で販売される事は余り無かった。 戦後の大日本製薬製でないヒロポンやそれ以外の覚せい剤はほぼ闇ルートで捌かれている。 (今に至るまで闇で流通する覚せい剤に半島製が多いのは、 寒冷な気候が製造に向いている事に目を付けた日本の製造者によってもたらされた遺産) 「普通」の人は何となくヒロポンのヤバさに気付いていた。 主に不眠から来る錯乱(薬自体の副作用ではない)などを知れば当然ですわな。 (198 337-355) なんで日本もVT信管作って対抗しなかったの?発想自体がなかった?それとも技術不足? 数万Gの加速に耐える真空管と電波技術があって、初めてできるのがVT信管. 技術・発想共に日本は不足していただけ. 日本でも光学的な近接信管なら開発されました。 ただ、これは爆撃に使用するもので、アメリカのように対空砲火に近接信管を使用する発想は無かったようです。 それと、発想や技術力があっても開発できない場合もあります。 NHK取材班編「電子兵器『カミカゼ』を制す」なんかを読むと分かりやすいんじゃないでしょうか。 戦争の末期に機体全てが竹で出来た戦闘機があったと思うのですが 沖縄の中(嘉手納)飛行場などに、米軍機の襲撃をそらすために竹製のダミー戦闘機が数多く置かれていました。 占領した米兵の中にはこれを本物と思ってあきれた者もいたという話ですから、おそらくその事だと思います。 あるいはジョーク混じりの話なのかもしれません。 竹製オトリ戦闘機は沖縄県平和祈念資料館に写真があったと思います。 オンラインに公開されていました。 http //www.peace-museum.pref.okinawa.jp/SpoolBase/SPL000000001/IMG000012965.JPG http //www.peace-museum.pref.okinawa.jp/SpoolBase/SPL000000001/IMG000014483.JPG (357 135,136) 橘花はネ-20エンジンを始めMe262のコピーといった性格が強いのですが、ネ-20以前の日本独自開発のジェットエンジン、ネ-10その他は搭載する機体のデザインも出来ていたのでしょうか? 海軍は昭和16年12月からジェットエンジンの開発を始め、昭和19年にはTR-10(ネ-10)の 完成にこぎつけましたが、この段階まではエンジン単体の開発でした。 ジェットエンジンを搭載する機体は、昭和19年8月に海軍が提示した「興国二号」計画 によって開発が始まりました。 この機体はネ-10二基を胴体に並べて収納する形式や両翼下のナセルに装備する方法などが 検討されています。 また、暫定案として「初風」発動機を使用したモータージェットを二基ないし四基搭載する ことも検討されたようです。 しかし、エンジンが決まらなかったこともあって機体の具体的な形状は定まらず、 昭和19年12月に試製「橘花」の計画要求案が中島飛行機に提示されたことでようやく 本格的な機体の開発が始まりました。 (531 608,名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE) B-29がいる飛行場に対する攻撃の計画や実行は有ったのでしょうか? 1944年11月27日に第一御楯特別攻撃隊が12機の零戦でサイパンのアスリート飛行場を銃撃しました。 4機を破壊、6機を大破させたとか あと陸からの攻撃ですが第一号作戦(大陸打通作戦)や老河口作戦の主目的の一つに B29を運用する飛行場の奪取というのがあります (353 622,624) 日本海軍航空隊はなんで急激に、航空隊の練度が低下したんですか? 真珠湾やマレー沖の時は、神の技量を持った搭乗員が敵艦を次々あぼーん マリアナや台湾沖では、まっすぐ飛ぶのがやっとの搭乗員ばかりで、味方の航空機が次々あぼーん パイロットを訓練するシステムが働いていなかったんですか? ソロモンの戦いでざっと1万機を失ってるのが原因。 また日本のパイロット教育が、少数精鋭主義だったのと、予算が少なく、年中晴れてる教育適地がなかったから。 ぎりぎりの数の第一線搭乗員を職人的に育てるシステムになっていたので、予備が無かった。 そのため、航空部隊の増設や消耗に対応できず、最初から搭乗員不足だった。 真珠湾攻撃の頃は教育部隊から引き抜いた教官を実戦部隊に送ったりしてごまかしたが、 珊瑚海海戦の頃にはすでに部隊増設で大幅不足で、空母の搭載定数が削減されてたくらい。 その後、ガダルカナル方面で搭乗員の消耗が激しくなる一方、 搭乗員の大量養成システムが十分に整備できず、どんどん練度が落ちた。 特に開戦前からの搭乗員が職人的に優秀だったので、相対的に落差が激しい。 急に教育課程を拡大しようとしても、教育用機材や教官、飛行場設備など間に合うわけも無く。 目標としては第一線部隊の1.5直分を用意しようとしていたみたいだが、達成できず。 それでも消耗はどんどん激しくなるので、やむなく訓練期間を短縮して教育の量が低下、 燃料不足・教官の実戦投入などで教育の質が低下、卒業時点での錬度が低くなり、 卒業後もすぐに最前線に投入されて経験不十分なまま戦死となる悪循環。 マリアナの時は作戦直前に潜水艦の脅威から訓練が出来ず錬度がさらに低下、 台湾沖のときは悪天候下での夜間攻撃という状況で錬度低下の影響が増幅、 そういう特殊事情もある。 (540 885,886) 風船爆弾によってピクニック中の6人が犠牲になったのは公開されたの? 戦果があったことが日本に知られると、もっと送り込まれてくるし、細菌兵器とか搭載されたら困るので、 厳重な情報統制をしいた。そのため日本側は効果無しかと思って、風船爆弾を送るのをやめた。 (566 200) 山本五十六の乗った一式を撃墜したP-38のパイロット達は、裁判までして自分が墜としたって揉めたそうですが事実ですか? 事実だよ。ランフィアとバーバーね。 英語ソースですまんが。 http //en.wikipedia.org/wiki/Death_of_Isoroku_Yamamoto#Controversy (572 45,46) 芙蓉部隊の戦術や戦果は、あくまでイレギュラーな小部隊だからこそできた事なのでしょうか? 小規模であるがゆえに、また指揮系統として特攻部隊と独立していた故に、横槍を排除 しつつ指揮官の意図を搭乗員から整備員に至るまで徹底させることができた。 それともその他の部隊が特攻に固執していただけで、美濃部少佐のような指揮官がいれば より大規模に実行できたのでしょうか? 美濃部少佐のような指揮官がいっぱいいるだけでなく、美濃部少佐の理論思想を理解 する上層部、兵站、作戦指導がなければ、全軍への波及は無理。練習機を出撃させて 戦果が挙がったと強弁するような官僚化した軍隊を戦時に改革できるくらいなら、そもそ も戦争なんてやってない。 旧軍自体の構造的な問題ということでよろしいのですか? 日露戦争の勝利から35年、国家予算をがぶ飲みして作り上げ、挙句に維持だけで 手一杯になるまでに肥大化した組織は、国家の利害衝突において「アメリカに勝て ません」という事実が自己否定に繋がるが故に、あらゆる現実を無視して戦争に突 入することを選んだ。それは当事者たちも認めていることだった。 http //www.nhk.or.jp/special/onair/090809.html (607 ふみ) 彗星による夜襲という戦法自体には問題がなくて、旧軍の構造的(ソフト面の)欠陥のためにそういった方針が大規模に実施されなかったのか。 夜襲を大々的に行わなかったのは以下のように考えられます。 搭乗員の錬度不足 1944年以降燃料不足が絶望的になりまともな訓練が行えなくなっていました。 夜間に飛行機を飛ばすには計器飛行や航法がしっかりできないと攻撃しても帰って くることはできません。 海軍の方針との不整合 当時海軍は少しでも連合軍の進撃を遅らせるために空母への攻撃を望んでいました。 夜間攻撃だとレーダーでもない限り、空母は見つけることすら難しいでしょう。 (607 836) 第二次大戦末期に日本に艦砲射撃を行った連合国軍艦船には上空に護衛戦闘機が付いていたんでしょうか? 釜石を砲撃した第34.8.1任務部隊は3隻の高速戦艦、2隻の重巡洋艦、9隻の駆逐艦から 成りますが、その後方には第3空母戦隊と第4駆逐戦隊が控えていました。 また、その目標偵察の為に艦載機を出しています。 (609 眠い人 ◆gQikaJHtf2) サイパン爆撃が大きな戦果を挙げたのは米軍側の油断と怠慢だったの? http //www.iwojima.jp/data/b_story.html 「油断と怠慢」というよりも、元は敵の領土であった狭隘な島嶼上に B29のような超重爆を数百機も集中配備して、大編隊による運用を 行っていた事からくる、半ば不可避の損害であったと思われ。 飛行場の詳細な位置情報が日本側に最初から暴露してしまっている。 島嶼上ゆえに他の飛行場適地は極めて限られており、それらも当然尽く 日本側に把握されていて、整備しても囮や退避の目的には利用しづらい。 B-29をフルに運用できる滑走路がマリアナ諸島全体でも、そう多くなかった。 隣接するテニアンやグアムのB-29用滑走路の整備が遅れたため、 サイパン島南部のイスリイ及びコブラ、両飛行場に集中配備している期間が長かった。 擬装と分散は、確かに敵から受ける被害を減ずる役に立つが、その反面、 手間の煩雑さから効率的な編隊運用を妨げ、それは数が増えるほど深刻になる。 (だからどこの国の空軍も平時は列線で運用している。) (対ソ戦に全力を挙げるべきだった 444) 太平洋戦争で、トラック島が艦載機の奇襲を受けて、300機近い航空機を失ったと読みました。 ちゃんと哨戒機を飛ばして哨戒してたら、艦載機の攻撃圏内に入る前に、機動部隊を発見出来ると思うのですが? そして万が一来るかも知れない敵歓待を発見するために哨戒機を飛ばそうという発想は 当時の日本海軍のエライサンにはなかったのです (って、おそらく世界中どこ探してもないだろうけど。普通は漁船改造の哨戒船とか潜水艦の役目だ) (42 647) 大戦中、対潜哨戒以外の意味で航空機を常時飛ばした国はないでしょう (42 654) とすると、トラック島にも漁船や潜水艦による哨戒線があったって事ですか? 記憶なので不確かだが、当時は漁船改造哨戒船が3~4隻と ロ号潜水艦が2隻ほど哨戒に当たっていたはず 米艦隊は海上の天候を伝える無線情報を分析して日本側哨戒船の 位置をつかんでいて、その間をなんなくすり抜けたというのを 何かで読んだ(暗号なんとか、て本だったと思うが (42 661) アメリカ映画などに出てくる戦闘機のパイロットって、階級は大尉とか少佐とかが多いですが、上等兵とか軍曹とかのパイロットって少ないのですか? アメリカはパイロットオフィサー制なので、みんな士官です。 爆撃機なんかの乗員、機銃手とかには下士官もいる。 ちなみに飛行機に載りこむ要員で兵卒はいない。 日本の場合は「叩き上げ以外は士官学校出てない奴は士官にはしない」 に拘ったのでパイロットはほとんどが下士官で、結果指揮を取る将校が 編隊内で一番経験が浅い(士官学校出てからパイロットになるのでその分 部下と差がつく)ので、空戦が始まると誰も指揮官の言うことを聞かず 戦闘指揮が成り立たない、という事態が頻出した。 アメリカの場合はパイロット資格を取った段階で全員士官に任官するので、 そういった問題は起きてない。 この辺もアメリカに日本が勝てなかった原因の一つ。 空戦中に戦闘指揮ができるのですか? できるよそりゃ。 そもそも、先に敵編隊を発見したときにどの方角からどのタイミングで攻撃をかけるか、 とかだって指揮官のセンス次第でその後の戦闘の有利不利が全然違ってくる。 アメリカの場合は指揮官機はちょっと離れたところから空戦全体を見回して、 どの敵機にどの編隊を割り振るか、ということもやっていた。 決して先頭に立って「攻撃開始! 俺に続け!」とやるのが指揮官の役目ではない。 日本の場合はよほどの人以外指揮官が一番編隊で下手だったりしたので、 敵編隊を発見すると即座に全機がてんでバラバラに自分勝手に攻撃をしかける、と いう事がよく起こり結果指揮官による戦況の把握どころではなくなった。 時には 「**12より編隊指揮官機へ、3時下方に敵編隊を発見」 「編隊指揮官機より**12へ、……どこだ? 俺には見えんぞ」 「3時やや下方です」 「・・・だからどこだ? 俺には見えんが・・・」 「だから3時の方向ですってば。**12、無線不調。指揮官機の支持見えず。 我独自の判断で行動す」「**11続く」「**10続きます」「編隊各機、**12に続け」 「ちょっと待てお前等、俺を無視するな!」 というような事も結構頻繁に起こった。 日本軍の飛行機は無線の調子が悪かったこともあるので尚更。 (297 367-371) 米軍が完全な零戦を鹵獲してテストしてますけど、日本も完動米機ないの? 沢山あるよ。 B-17C/E、P-51、P-40あたりは有名だ。 B-17Eは連山の参考にしたし、対重爆戦のアグレッサーにもなってる。 P-40は実用に使おうとした。 P-51Bは審査部が各飛行隊に出向いて模擬空戦を行ってる。 (662 544) 米機は緒戦においてカーチスP-40を複数機(フィリピン及びジャワにて) 捕獲しており、またシンガポールで英空軍仕様のブルースターバッファローⅠを 捕獲しています。 さらにはB-17Eをも捕獲して、日本に持ち帰ってテストしています。 完動鹵獲機の最後のものは、昭和20年2月に中国湖北省で不時着したP-51Cです。 この機も日本に持ち帰られ、陸軍審査部戦闘機隊により故障で動かなくなるまで 性能テストと戦技訓練に用いられています。 (662 ◆YH9/Upkk/2) 大戦末期、日本軍の航空機による反撃が少なかったのはなぜ? その前に台湾とPhilippinesで多くの航空機を失い、更に本土への艦載機 空襲で、基地の航空機も結構やられているので、夜間攻撃か特攻が精々でした。 (292 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本にも「撃墜王」と呼ばれた空の戦士はいましたか? 居るには居たんだが,各人とも正確な撃墜スコアは不明 海軍航空隊の岩本徹三中尉の例だと,80機~202機説まで幅広い。 (47 635) 陸軍の空中勤務者も 穴吹智軍曹 :ビルマの桃太郎 桧輿平大尉 :片足の撃墜王 黒江保彦少佐:飛行第64戦隊の隊歌を作った人 みなさん著書があります。 (47 638) フィリピン戦のさい、紫電が出てきたって聞いたが、戦果は 紫電は比島決戦に於いて、第252、341、601、634、762航空隊などに配備されていました。 基地防空、レイテ進攻作戦、船団援護、魚雷艇攻撃、強行偵察などに使用しています。 但し、少数機ずつの投入で、稼働率も良くなく戦果のほどは不明です。 (48 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 沖縄戦で落とされた爆弾はどんなやつ? 色々あります。 250lb(113kg)GP爆弾、500lb(227kg)GP爆弾、1000lb(454kg)GP爆弾。 30lb(13.6kg)クラスター爆弾、5inHVARロケット弾。 後、増槽を改造したナパーム弾がありました。 (101 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 東洋戦線では、ウェリントンやランカスターなど英軍の爆撃機はどの程度投入されたのでしょうか。 また、英軍機の中でアジアで爆撃任務に就いたのは、重爆よりモスキートやブレニムなど軽爆の方が圧倒的多数だったのでしょうか。 大戦初期には、Blenheim爆撃機などの軽爆撃機の方が機数的には勝っています。 例えば、Blenheim Mk.IVは、第11/34/39/45/60/84/113/211の各スコードロンに配備されていましたが、 Wellington爆撃機は、第99/215の2個スコードロンにしか配備されていません。 中期以降ですと、援英機が充当されてきます。 但し、インドなど東南アジア戦線では、運用環境が過酷なため、Mosquitoは偵察機 バージョンが1個スコードロンだけ配備されたに過ぎません。 (豪州空軍配備機は除く) また、英国空軍機は航続距離が短く、軽爆撃機では奥地までの爆撃が出来ないため、 軽爆撃機は一部を除いて姿を消し、代わってThunderbolt戦闘機やMustang戦闘機と 言った戦闘爆撃機型が投入されています。 一方、純然たる爆撃任務については、これまた英国の重爆撃機では航続距離が短いため、 Lancaster爆撃機の長距離型が開発されていましたが、大戦に間に合いませんでした。 これをカバーしたのが、B-24の英国型Liberatorで、第8/99/159/160/203/215/231/321/354/ 355/356/357/358の各スコードロンに配備されています。 (167 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 聴音哨ってのがWW2当時に無かった? 日本の大戦末期では、聴音機等という高級なものはなく、飛行機が来そうな 方向に穴を掘っておいて、その前に人を立たせ、横に電話を置く。 音が聞こえたら、大体の方向を検討付けて、電話で上部機関に連絡する、と 後、日中戦争期の中国では、事前情報が必要ですけど、爆撃機が飛行している 方向に目をこらし、爆撃機が見えたら狼煙を上げて次の監視哨に連絡すると言う ものもありました。 (187 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 竹槍でB29を撃墜するって話は、どこの誰がどんな経緯で言い出したことなんですか? 竹槍事件の原因になった記事は「敵が海を越えて襲来しようとしてる時に、(本土決戦に備えて)竹槍で訓練してるようじゃだめだ、 航空戦力で敵を洋上で撃破せよ」という内容。 執筆者は竹槍で飛行機を落とす訓練をしていると陸軍を批判しているわけではなく、陸軍も本土決戦への備えとして民間人に竹槍で 訓練させていた。 実際の訓練で教官が「飛行機を落とすくらいの気構えでやれ」と言ったか、陸軍の精神主義を揶揄するものとして戦前もしくは 戦後に作られた話ってところだろう。 (375 153) 1942年3月7日付の朝日新聞に以下の記事が掲載されています。 「一億は全て武装せよ。今日の決戦は要求する。前線の将兵のみに戦いを任せて安閑としている時ではない。 銃後も武装せよ、一億国民は一人残らず「撃ちてし止まむ」突撃に参加しなければならぬ。子らも起、女も武装せよ、 父よ、夫を戦場へ、職場へ送った後、家庭は、郷土は婦女の手によって護られる。 昨年の夏、村で体育錬成の運動会が催された時、千葉県夷隅郡中根村、五百名のお婆ちゃん、お母さんたちが、竹槍 を握って、体操をして見せた。やんやの喝采であった。 それが切っ掛けとなって、銃後の固めはこれで行きましょうとなった。他の女たちも率先して猛練習を開始した。村長さん が慌てた。郷軍分隊長が眼を回した。あちらの字から、こちらの里から指導員の分会は引っ張りだことなった。体操では もの足りぬと、竹槍を振るっての銃剣術である。 昨年の暮れには女子竹槍部隊が立派に編成された。女子青年学校の生徒が「えいっ」と呼べば、七十のお婆さんも、炬燵 から飛び出して「サあっ」と応じる。もんぺに鉢巻、きりっと襷を掛けたのが、この部隊の制服、武装の竹槍は、いずれも背後 の山から伐り出したお手製である。集合、行進、散会、突撃、全て実戦場を経験した帰還勇士に依って軍隊式にたたき込まれる。 おなごどもが余りに熱心じゃ、ついつり込まれ男たちも働くわ、働くわ、近頃では田畑の増産目標もぐんぐん上がっとります。 喧嘩も酒飲みも一ぺんに消えてしまった。と村長さんは髭をしごきながら、おなごたちの突撃に眼を細くするのである。」 千葉から始まった竹槍部隊の編成は、大日本婦人会の提唱で、1943年2月から各支部で竹槍部隊の編成が始まっています。 どちらかというと鍛錬のためで、どうしようもないからせめてもの武器として竹槍で自衛しようと言う考えではないか、と思います。 精神的なものが大きいのではないかと思いますね。 後、さる陸軍大将は、「竹槍3000本あれば、ソ連軍をやっつけて見せる」と豪語したそうです。 ちなみに、竹は安価で日本各地で手に入ります。 真竹の場合は、弾力があって粘性があり、槍の代用に適していました。 英国のバヨネットと良い勝負ではありますが。 (222 眠い人 ◆gQikaJHtf2) 日本は米軍が捕獲ゼロ戦でやった様に、捕獲したF6FやP-51を調べて、弱点を検証しなかったんですか? 鹵獲したP51は福生の陸軍航空審査部で性能調査してるし 同部戦闘機隊の黒江少佐がP51Cを用いての巡回戦技指導を行っている。 対P51の実戦指導を受けた部隊は関東の飛行第244、18、70、51、52戦隊。 さらに中部の明野教導飛行師団、関西の飛行第56、246戦隊と本州各地で指導してるぞ (716 568) 日米両軍は飛行場を設営するのにどれぐらいの期間を要したのか? 太平洋戦争中期以降、日本軍の飛行場設営能力は可成り改善され、 小型機が離発着する飛行場だけを整備する期間は大体1ヶ月、中攻が 滑走路を飛べる程度に造成し、指揮所などを整備するのに大体2~3ヶ月 もあれば出来るようになった。 とは言え、米軍のConstruction Battalions(通称See-bees)の場合、1943年 11月に行ったギルバート作戦での第一次揚陸部隊の上陸後に機材を揚陸し、 戦闘続行中にも拘らず、工事を続け4日後に滑走路を使用可能にしたり、 ニューギニアのジャングルを切り開いて、13日間で長さ3000ft、幅150ftの滑走路 を完成させた上、5日後には更に1500ft、滑走路長を伸ばしたりしている。 (しょうもない知識を披露するスレ11 眠い人 ◆gQikaJHtf2) マウザー砲の量産化に成功して全ての機体をマウザーに更新できていたら、戦局は有利になったんでしょうか? 日本機の性能がもともと米軍と比べて優れてない。優れてたのはパイロットの腕だ 強いパイロットが戦死していなくなれば、マウザーを積んでても負ける (俺初質スレ2049 105) マウザー20ミリ2門や4門よりも、ブローニング.50を8門備えた アメリカ軍機には敵わない。 (俺初質スレ2049 107) アメリカ艦隊の激しい対空砲火は、シュトルモビクなら突破できたんでしょうか? マジレスすると、どんな機種でも撃墜されるのもあれば、突破できるのもある 艦隊を視認できる距離まで接近して、護衛戦闘機がないなら、零戦でも普通に多くが突破できるだろう ほとんどの機体は対空砲火でなく、護衛戦闘機にやられている (俺初質スレ2049 236) 何機かは撃ち落されるだろうがそれより多くの機数でかかれば突破可能 (俺初質スレ2049 239) 編隊を組んでいる雷撃機や艦爆が後方から戦闘機の急襲を受けた場合、バラバラに逃げるより、編隊を崩さずに後方機銃で応戦した方が良いのですか? 機動力を生かさないと単発機は戦闘機の餌食 編隊で対応できるのは重爆とかでこちらは機動性が劣るので火力をあげるためにも編隊はくずさない 単発機とかの後方機銃は射撃できる範囲が狭いし機銃を撃つために後方のキャノピーを開放すると 抵抗が増して速度が落ちるという問題もある ので フルカバー動力銃座とか後下方機銃とか色々思考錯誤されたが 結局はけん制に弾をばら撒ければいい程度のもの (俺初質スレ2050 319) 台湾沖航空戦で戦死した有馬正文は、指令官なのに攻撃機に乗って出撃しましたが責任ある立場の人間が、上官の命令とか許可なく勝手に出撃できたんでしょうか? もちろん、勝手に「攻撃」はできないが、有馬に命ぜられていた命令は 「台湾沖に来寇する敵を撃破せよ」なのであって、その攻撃に誰が乗って 行くかは有馬自身の権限で決められる。 もちろん、参謀長は有馬自身が出撃することに絶対反対していたが、 有馬は参謀長がいない日にちゃっかり乗って行ってしまったんだとさ。 (俺初質スレ2050 622) 指揮官先頭が日本海軍の原則だから統率上は別に問題ないよ。 ただ海軍航空隊は戦闘単位が飛行隊で、その指揮は飛行隊長が トップだから、戦隊司令自らの出撃は求められていないだけでさ。 逆に艦艇だと、ルンガ沖夜戦での二水戦の田中頼三少将が、米側からは その指揮ぶり絶賛されたものの、座乗艦長波が先頭に立っていなかったことから 日本海軍内部ではかなり批判されてるね。 (俺初質スレ2050 623) 岩本徹三の「零戦撃墜王―空戦八年の記録」という本は読んでおいて損はないですか 岩本さん本人の回想録だから、興味があるなら必読 ただ、内容はかなり誇張が多いので、信じるな (俺初質スレ50505 558) とても面白い本だが、信頼性にはやや難がある (ゴーストが余計な脚色をした可能性がある)ことは念頭に置いて読むといい (俺初質スレ50505 559) 零戦撃墜王は、話としては大変面白いんだが 回想記の形はとっているけど、岩本さんの死後、遺品の中にあったノートを、ライターが再構成した物なんだよね 元々のノートが岩本さんの記憶だけをソースに書かれたものなので、記憶違いなどが入り込んでいる 再構成したライターが話を盛ったり、元の記述を誤読した可能性がある というわけで、鵜呑みにするのは危険 (俺初質スレ50505 560) ガダルカナル攻防戦で遠距離飛行を強いられた日本パイロットはヒロポンを供給することで、パイロットの消耗を抑えられなかったの ヒロポンの量産が可能になったのはガ島攻防戦が終わってからだったんだ 使えるなら使っていただろう (俺初質スレ50505 701) 仮にそれで遠距離飛行を起因とする消耗を抑えても、結局他の要因による 消耗は抑えられないし、そうなると補充がどのみち追いつかない。 どっちが先に消耗し尽くすかというチキンレースの時点で、勝ち目は無い。 (俺初質スレ50505 702) ヒロポンは魔法の薬ではない 疲労を感じなくなるだけで疲労そのものはしてる (俺初質スレ50505 703) ミッドウェー海戦後の日本基地航空隊って、どうして アメリカ機動部隊の奇襲があんなにも面白いほど簡単に成功して壊滅するの? レーダーが未熟だから奇襲効果をもろにくらうせい あと当時の米海軍の物量攻撃食らったら、迎え撃つのが仮に米海軍でも被害甚大 (俺初質スレ50505 768) 日本に限らず基地航空隊は受けに回ると脆い。 ハワイ作戦でもミッドウェー作戦でも航空基地は早々にやられてただろう? (俺初質スレ50505 769) 343航空隊に触発されて、陸軍もベテランパイロットと4式戦を集結させた エリート部隊をつくる計画とかなかったんですか? つ 明野教導飛行師団 ttp //ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E9%87%8E%E9%99%B8%E8%BB%8D%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%AD%A6%E6%A0%A1#.E6.98.8E.E9.87.8E.E6.95.99.E5.B0.8E.E9.A3.9B.E8.A1.8C.E5.B8.AB.E5.9B.A3.E3.83.BB.E5.B8.B8.E9.99.B8.E6.95.99.E5.B0.8E.E9.A3.9B.E8.A1.8C.E5.B8.AB.E5.9B.A3 太平洋戦争の戦況が悪化した1944年(昭和19年)3月、参謀本部では連合軍機の本土襲来に備えて、教官、助教[* 15]などに練度の高い要員を多く有する教育機関等(陸軍航空審査部を含む)を随時防空戦闘体制に移行させる「東二号作戦」が起案された。 >陸軍の学校、官衙[* 16]の初めての戦力化であり、士気高揚策でもあった 中略 >同戦隊は通常の倍の規模の6個中隊編制であり、操縦者には熟練の教官、助教を含み四式戦闘機約80機を保有していた。 (俺初質スレ434 480) 日本の熟練搭乗員が消耗していなければF6Fとも対等に戦えましたか? 搭乗員が消耗しないって状況が想像しにくいが、結局燃料不足や稼働率低下で数で圧倒されそう 局地的には一部で対等に戦える場面もあるだろうけど、全体的には押されると思うぞ 燃料やエンジンの質、機体性能や機銃や照準器の性能、無線機を活用した編隊戦術や地上からの支援など 搭乗員の練度だけでは補えない要素も多い (俺初質スレ436 573)
https://w.atwiki.jp/wadaisenryaku2/pages/612.html
概要 産業力なら間違いなくトップクラス。序盤こそ日本海軍に苦しめられるが、そこさえ乗り切ってしまえばマス・プロダクト(量産品)からなる「物量作戦」の強みを存分に堪能できる。友軍と共に共同戦線を張ることも多くキャンペーン難易度は初心者向けだが、真面目にやらないで勝てるほど甘くもない。安定した数を出せるぶん個々の性能はどうしても日独と比べて落ちるので、陸海空の連携が大事な勢力とも言える。 ユニットの特徴 陸軍 歩兵ユニットは日本のそれと比べて厳しいが海兵隊は司令部攻略、歩兵(米)は都市上で輸送車に変形できるなどの特徴を把握し、状況に応じて使い分けるべし 牽引砲の155mmL.トムの射程はトップクラス。ほとんどの地上ユニットを一方的に釣瓶打ちする 戦車は日本軍相手なら蹂躙できるが、ドイツ相手だと流石に厳しいので数を揃えて対抗したい 転ばぬ先の杖、自走高射砲系は空軍の良いお友達。忘れるべからず 海軍 序盤は名前つきの戦艦がなく寂しいが、北部ニューギニア上陸作戦辺りから名前つきが出てくる 空母の数は問題なく、性能も申し分なし(どれも4機海軍機を搭載できる)。失わないように 太平洋戦線ではご活躍だが、逆にヨーロッパ戦線では出番がなくなるのが寂しい 空軍 序盤が兎に角厳しい。零戦と戦う際はワイルドキャットの数を揃える必要あり 逆に北部ニューギニア上陸作戦からは逆転し、マスタングやヘルキャットなど充実する 主力ユニットはヨーロッパルートではマスタング、太平洋ルートではヘルキャットで 最終マップではドイツと日本が再び逆転するのでユニットの数を揃えて、対空車両との連携を 兵器データ 陸上兵器(米) 海上兵器(米) 航空兵器(米)
https://w.atwiki.jp/seedvs/pages/168.html
南太平洋 ステージ詳細 南太平洋とは言っても、作戦エリア内に海は存在しない。 ステージ中央奥に大きめの山があるが、主に戦場となるのは平坦な海側であろう。 また、作戦エリア外には劇中で登場した孤児院が存在する。余裕があるなら平地の作戦ラインの近くを探してみよう。 作中詳細 オーブ領内に存在する、南太平洋上の小島。 ここでアークエンジェルvsザラ隊の激戦が繰り広げられる。 ソードストライクからイージスを庇ってニコルが戦死。 また、覚醒したアスランのシールド投擲によりトールが、イージスの自爆によりキラが戦闘行動中行方不明となる。 この時、爆風によりアスラン自身も行方不明になった。また、ムウの攻撃を受け戦闘不能となったディアッカは連合軍に捕らえられる。 キラたちを失い、失意の内にアラスカに向かうアークエンジェル一同だったが…!?
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2619.html
http //www.nids.go.jp/dissemination/kiyo/pdf/bulletin_j4-3_4.pdf 『防衛研究所紀要』第4巻第3号(2002 年2月)100 ~ 119 頁。 戦後日本における歴史認識―太平洋戦争を中心として―(1) 庄 司 潤一郎 →http //www.nids.go.jp/profile/senshi/02-syouji.html 戦後日本における歴史認識―太平洋戦争を中心として―(1)はじめに 1 戦後日本における歴史認識の変遷-学界、言論界を中心として- 2 「太平洋戦争」の呼称をめぐる諸問題1)「太平洋戦争」 2)「大東亜戦争」 3)「第二次世界大戦」 4)「15 年戦争」 5)「アジア・太平洋戦争」 6)「今次の大戦」、「先の大戦」、「過ぐる大戦」、「あの不幸な戦争」など 7)その他 3 歴史認識における論点 4 歴代内閣の歴史認識と「不戦決議」 戦後日本における歴史認識―太平洋戦争を中心として―(2) はじめに 終戦50 年を記念して衆議院において採択された「不戦決議」、さらには近年の新しい歴史教科書をめぐる議論に象徴されるように、日本において太平洋戦争に関する歴史認識は常に論争の的となっている。 ところで、歴史認識は大きく3分類することが可能であろう1 。第1に、個人の体験を通して得られた回想・思い出であり、それは戦場、抑留、空襲等、人や地域によって大きく異なっている。近年しばしば言及される「記憶」や「証言」もこの範疇に属している。第2に、教育、メディアや家庭などによって形成された国家・社会に共有されている「パブリック・メモリー」である。第3に、歴史家が史料の分析通して導いた学問としての歴史認識である。 この3者は必ずしも一致するとは限らず、個人の記憶は検証・淘汰されて初めて「パブリック・メモリー」、又は歴史学の対象足り得るし、歴史教育と歴史学における目的の相違もしばしば指摘されるところである。例えばアメリカにおいては、戦後50 年を記念して企画されたスミソニアン博物館における原爆に関する展示は大きな論争を生んだ。多くの米兵の命が救われたと原爆投下を正当化する「パブリック・メモリー」と、その使用は不必要であったという一部研究者の説が対立し、最終的には後者が屈したのである。 一方日本では、個人としての体験・記憶は存在するが、「不戦決議」をめぐる激しい議論が物語るように、諸外国と異なり太平洋戦争の歴史解釈に関する一定のコンセンサス-「パブリック・メモリー」-がいまだ形成されていないというのが実状である。 そこで本稿では、戦後日本における太平洋戦争に関する歴史認識を、学会、言論界での議論の変遷、太平洋戦争の呼称をめぐる諸問題、歴史認識をめぐる論争の主要な論点、歴代内閣の立場、閣僚の「失言」、「不戦決議」など政治の場における歴史認識、そして以上を踏まえた日本人の複雑な歴史認識の背景について分析を行う。 1 分類は、入江昭による。入江昭「太平洋戦争とは何だったのか」『防衛研究所戦史部年報』第2号(1999年3 月)1~3頁。 101 1 戦後日本における歴史認識の変遷-学界、言論界を中心として- (「付図」参照) 終戦後の日本に現われた太平洋戦争に関する歴史認識は、大きく2つに分類することができる。先ず、いわゆる「東京裁判史観」であり、昭和21 年から23 年にかけて開かれた極東国際軍事裁判の判決をもとにした歴史認識である。特色としては、満州事変から太平洋戦争にいたる日本の行動を、「一部軍国主義者」による「共同謀議」にもとづいた侵略と理解する点にある。従来この史観は、「勝者の裁き」に由来する押しつけられた歴史認識であり、戦後日本における歪んだ歴史認識のシンボルとして、保守派から批判を受けていたが2 、近年、東京裁判において昭和天皇や731部隊などの戦争責任が免責された点に関して、進歩派からも問題点を指摘されている3 。 この「東京裁判史観」は、連合国軍総司令部民間情報部により昭和20 年年末から新聞各紙に連載され、のち単行本にもなった特集「太平洋戦争史-奉天事件より無条件降伏まで-」(中屋健弐訳『太平洋戦争史』高山書院、1946 年)によって広く一般に普及することになる。 次に、戦後解放された共産主義者を担い手に、1949年の中華人民共和国の成立、翌年の朝鮮戦争の勃発、さらには国論を二分した昭和26 年のサンフランシスコ講和条約及び日米安保条約の調印といった国内外の情勢を契機として台頭した「マルクス主義史観」をあげることができる。この史観は、戦争責任が、東京裁判が認定した「一部軍国主義者」というよりは、明治維新以来の近代日本の資本主義に内在する問題であり、むしろ天皇制の中核をなしている諸勢力にあるという見方である。したがって、太平洋戦争を、帝国主義相互の戦い、ファシズム対反ファシズムの戦い、そして被支配民族による解放戦争という3つの枠組で把握しようとするものであった4 。 昭和28 年から翌年にかけて刊行された歴史学研究会編『太平洋戦争史』(東洋経済新報社、全5巻)、及び遠山茂樹を中心に編纂され岩波新書として刊行された『昭和史』などが代表的著作である。 特に後者は、資本主義対社会主義という冷戦の影響を強く受け、太平洋戦争を資本主義体制の矛盾に由来する帝国主義諸国間の戦いであると強調するとともに、大多数の国民を「被害者」 2 東京裁判に関する議論の一定の総括は、昭和58 年に開催された「『東京裁判』国際シンポジウム」においてなされた。詳細は、細谷千博・安藤仁介・大沼保昭編『国際シンポジウム 東京裁判を問う』講談社、1984 年を参照。 3 大江志乃夫「克服されなければならない『東京裁判史観』とは?」『東京タイムズ』1989 年1 月9 日付。荒井信一『戦争責任論-現代史からの問い-』岩波書店、1995 年、163 ~ 175 頁。又、全く別の視点から、「東京裁判史観」を日米合作と見なす考えもある。保阪正康「だから『東京裁判史観』を超えられない」『諸君』1998 年1 月号、142 ~ 150 頁。 4 波多野澄雄「対米開戦史研究の諸段階」『軍事史学』第17 巻第3号(1981 年12 月)2~5頁。 102 として描写する点が特色であり、イデオロギー色が濃いものであった5 。そのため、亀井勝一郎などの批判を浴び、「昭和史論争」という国民的な議論を惹起するにいたった6 。 亀井は、唯物史観が戦前の皇国史観と同様に一定の党派性を有しており、又過去の人間よりも現在の自分の方が進歩しているという考えは、歴史家が陥りやすい「傲慢な迷信」であると指摘しつつ、1)階級闘争中心の描写で「国民」という人間が不在である、2)共産主義者はすべて正しかったのか、3)単に支配階級によって煽動されたのではない、戦死者の真の声が全く響いてこない、4)参戦や満州における暴虐などソ連の行為に対する批判が避けられているといった批判がなされた7 。 一方、こうした「マルクス主義史観」は、戦後思想の底流にある「治安維持法への復讐」であり、『怨念史観』の一種であるとの指摘もある8。 「昭和史論争」はまさに、「戦後のマルクス主義史学全体にたいする批判としての意味をもち、現代史のあり方をめぐる論争、『現代史論争』の発端ともいうべき役割」9 を果たし、ほかにも竹山道雄(『昭和の精神史』新潮社、1956 年)、上山春平(『大東亜戦争の意味』中央公論社、1964年)らによって、亀井と同趣旨の議論がなされたが、保守派以外からも批判がなされた10。 その後昭和30 年代にかけて、独立を達成すると同時に経済復興の始まりにより自信を回復したことを背景として、左右両者においてアメリカへの嫌悪感が散見され始めた。保守派の代表は、林房雄の『大東亜戦争肯定論』(昭和38 年9月より『中央公論』に連載、昭和39 年に番町書房より刊行)であり、林はマルクス主義から転向した文芸評論家であったが、太平洋戦争を、ペリー来航以来の日本によるアジア解放の戦いの集大成であるとして積極的に肯定していた。こういった主張は、保守派の典型的な議論のひとつとして、継承されていくことになる。又、進歩派においても、日米安保条約といった対米従属を打破するとともに、アメリカにより占領期になされた「偽りの民主化」を克服しなければならないといった、反米色を基調とする戦後批判の色彩を濃くしていった11。 こうした進歩派に決定的な影響を与えたのが、ベトナム戦争であり、日本の加害に着目する 5 遠山茂樹は以下のように述べている。 「基本的には27 年テーゼ、32 年テーゼの上に、歴史批判の立場を求めたい。軍部を先頭にたてた支配者の戦争政策に対して、平和を守る戦線は、共産党を核とする以外にはありえなかった」「現代史研究の問題点」『中央公論』1956 年6 月、60 頁。 6「昭和史論争」全般については、堀米庸三『歴史と人間』日本放送協会、1965 年、及び犬丸義一「『昭和史』論争」『現代と思想』第13 号(1973 年9 月)、223 ~ 257 頁、同「『昭和史』論争(続)」『現代と思想』第19 号(1975 年3 月)、177 ~ 201 頁を参照。 7 亀井勝一郎『現代史の課題』中央公論社、1957 年、11 ~ 27 頁。 8 清水幾太郎『戦後を疑う』講談社、1980 年10 ~ 11、59 頁。清水はすでに、「自虐症患者、日本悪玉論者」との言葉を使用している(261 頁)。秦郁彦『昭和史を縦走する』グラフ社、1984 年、146 ~ 147頁。 9 前掲「『昭和史』論争」232 頁。 10 代表的なものとして、ねずまさし『「現代史」への疑問』三一書房、1974 年。 11 有泉貞夫「太平洋戦争史観の変遷」『季刊 アステイオン』第9 号(1988 年夏)72 ~ 74 頁。 103 「15 年戦争論」が生まれる契機となった12。「15 年戦争論」は、鶴見俊輔の評論をへて、家永三郎の著作『太平洋戦争』(岩波書店、昭和43 年)により初めて具体的にその内容が提示されたが、満州事変から太平洋戦争にいたる15 年間(実際は13 年11ヵ月)に及ぶ、中国を中心とするアジアに対する侵略戦争と見なし、アジアに対する種々の残虐行為を糾弾するとともに、治安維持法などの戦前・戦中における日本の国家体制をも問題視していた。したがって、太平洋戦争は、日本のアジアへの加害と、それに対する中国をはじめとするアジア人民の勝利として理解され、そのことに対する認識・反省の欠如が、日米安保条約のもと、ベトナム戦争において再び「アジアの侵略」に加担したと批判されたのである。すなわち、太平洋戦争とともに、日米安保条約、自衛隊といった戦後史(戦後体制)そのものにも、批判の矛先が向けられ、むしろその論拠として太平洋戦争に関する歴史認識が使われていた。又、こうした文脈のなかで、太平洋戦争における戦没者などの日本人犠牲者は、「英霊」ではなく、侵略戦争に奉仕した「犬死」として切り捨てられたのであった13 。 この家永の見解に対して池田清は、「昭和史論争」の流れを受け「歴史的客観性」の欠如を批判しつつ、「自ら安全な立場に依拠して、安易に史上の人物の思想や行動をその安全な立場から裁くことにどれ程の意義があるのだろうか」と述べ、当時の価値基準に自分を置いてみる「追体験」が必要であると指摘したのである14 。 いずれにせよ、『昭和史』、そしてそれを発展させた家永の『太平洋戦争』に示された歴史観は、その後の日本における歴史認識に多大な影響を与え、ひとつの原型となった。 昭和40 年代から50 年にかけて、各国における史料公開と研究手法が精緻化したことを背景としつつ、ベトナム戦争の終結、文化大革命、ソ連軍によるアフガニスタン侵攻など、米中ソといったかつての戦勝国の「正義」の行き詰まりは、日本においても、左右両翼のイデオロギーから距離を置いた冷静な「実証主義」研究の台頭をもたらした15 。しかし、当然のことながら、こうした研究は、マルクス主義陣営からは、侵略・加害といった問題意識が稀薄であり、歴史理論も欠如しているとの批判がなされた。さらに、戦前の日本がファシズムであったのか、ファシズムの明確な定義が存在するのかなどの点をめぐって、歴史家の伊藤隆とマルクス主義陣営の間で「ファシズム論争」が行われた16 。さらに伊藤は、敗戦という結末から、夢や理想を「偽り」、現実的な利害を「悪」として断罪しすぎるのは問題であり、「善玉と悪玉の葛藤というき 12 マルクス主義自体にも、支配層ではなく、国民一般の加害-戦後責任-を問題にし得ない欠点を内在していた点が指摘されていた。荒井信一『現代史におけるアジア』青木書店、1977 年、5 ~ 13 頁、吉田裕「一五年戦争史研究と戦争責任問題」『一橋論叢』第97 巻第2号(1987 年2月)202 ~ 205 頁。 13 前掲『昭和史を縦走する』143 ~ 145 頁。 14 池田清「同時代史研究のむずかしさ」『社会科学の方法』第4 巻第4 号(1971 年4 月)1~ 7 頁。 15 前掲「太平洋戦争史観の変遷」77 頁。 16 伊藤隆『昭和期の政治(続)』山川出版社、1993 年、9 ~ 25 頁。 104 わめて単純でイデオロギー的な歴史観からの脱却」を主張していた17。 その後も、日中戦争での日本軍の「残虐行為」をリポートした本多勝一『中国の旅』(朝日新聞社、1972 年)、731 部隊を扱った森村誠一『悪魔の飽食』(光文社、1981 年)など、日本による加害が取り上げられていった。 こうした見方をより促進するとともに「国際化」させたのが、昭和57 年のいわゆる「教科書事件」である。検定中の歴史教科書において、「侵略」が「進出」に修正させられたとの「報道」(のちに誤報と判明)をもとに、中国・韓国による抗議を受けて、国内においても、その修正を批判する声があがったのである18 。以降、歴史認識の問題は、近隣諸国との外交問題の大きなイシューとなっていった。 天皇の戦争責任についても、特に昭和46年の訪欧と同50年の訪米において脚光を浴び、様々な議論がなされるとともに、その責任を追及する著作も現れ19、昭和天皇崩御を機にピークを迎えた。 昭和天皇崩御と冷戦の終結(すなわちある意味における「社会主義」の崩壊)は、歴史認識に新たな局面をもたらすにいたった。従来の「マルクス主義史観」の人々が、「戦前日本の侵略性」、特に日本による残虐行為の発掘・糾弾、戦争犯罪の追及、戦後補償、そして昭和天皇の戦争責任究明へと特化していったのである20。例えば、1990 年代に入って、戦争責任に関する著作の刊行が、それ以前に比べ激増するとともに、分野も多様化しつつある点が指摘されている21 。 こうした現象を、伊藤隆は、「マルクス主義の有効性が崩壊したため、『正邪弁別』による日本近現代史批判へと転換した」22 と指摘し、評論家の保阪正康は、反戦・平和といった戦後日本のイデオロギーが、社会主義が幻想に終わったため立脚点を失い、新たに「従軍慰安婦」などの歴史認識と環境問題に活路を見出したと指摘している23 。 こうした動向は、あまりに「自虐的」であるとの、広範な国民的反発を生み、平成8年以降「自由主義史観研究会」、「新しい教科書をつくる会」などが結成された。歴史家の林健太郎は、こうした動きを「強い左翼史観への反発」24 であるとしていたが、その結果、「従軍慰安婦」問 17 伊藤隆『日本の歴史第 30 巻十五年戦争』小学館、1976 年、16 ~ 20 頁。 18 「教科書事件」の詳細については、渡部昇一『万犬虚に吠える』文芸春秋,1985 年、及び後藤文康『誤報-新聞報道の死角-』岩波新書、1996 年、93 ~ 97 頁を参照。 19 井上清『天皇の戦争責任』現代評論社、1975 年、D・バーガミニ・いいだもも訳『天皇の陰謀』れおぽーる書房、1973 年。 20 黒沢文貴「戦後日本の近代史認識」『法学研究』第73 巻第1号(2000 年1月)521 ~ 522 頁。 21 石田雄「戦争責任論再考」『年報現代史 第2 号 現代史と民主主義』東出版、1996 年、30 ~ 31 頁。 22 伊藤隆『日本近代史の再構築』山川出版社、1993 年、「はじめに」ⅰ~ⅲ。 23 保阪正康「大東亜戦争・太平洋戦争はいかに語られてきたか」前掲『防衛研究所戦史部年報』第2号、15 ~ 16 頁。同『オモテの言論 ウラの言論』秀明出版会、1999 年、8 ~ 76 頁。 24 林健太郎「戦争をめぐる閣僚たちの歴史認識」『朝日新聞』1994 年5 月25 日付。 105 題、歴史教科書の記述、「平和博物館」における展示、さらには映画『プライド』、『ムルデカ』や小林よしのりの漫画『戦争論』といった大衆文化においても、歴史認識をめぐる活発な論争がなされている。 確かに、「昭和史論争」以来の国民的規模の歴史認識をめぐる活発な論争であることは否定し得ないが、その担い手は両者とも、歴史家というよりそれ以外の「素人」であり、なかには市民運動家や弁護士も含まれ、それ故に安易に「政治化」し易い側面をもっていることは否定できない。多くの「実証主義」といわれる歴史家が、一定の距離を置かざるを得ないところに25、こうした論争の問題点と同時に、戦後日本におけるイデオロギー過剰の歴史学界の現状をも物語っていると言えよう。さらに、こうした歴史学の大衆化は、お粗末な議論に終始しており参入する気にもなれないと、冷ややかな反応もみられる26。 いずれにしても、近年のこういった議論をいかに解釈すべきであろうか。「自虐史観」と批判された人々は、相手方の歴史認識を、ヨーロッパにおいてネオナチに顕著に見られる「歴史修正主義(レヴィジョニズム)」の一類型に過ぎないと批判している27。「歴史修正主義」とは、既に実証された「歴史事実」を、一部史料・証言の矛盾を繰り返し突くことにより、その「歴史事実」全体を否定する手法のことであり、アウシュヴィッツのガス室やアンネの日記の真贋問題がその代表的なものである。 そういった傾向が、特に手法を中心として散見されるのは事実であるが、社会主義の終焉による「歴史の見直し」の一環としても理解することができるとの指摘28 もあり、両者が同時に進行していると見るべきであろう。「歴史の見直し」とは、イデオロギーなど政治的に歪曲・誇張された「虚像」を修正して、「歴史事実」を確定することで、カティンの森事件(かつてドイツ軍の仕業とされていた、ソ連軍によるポーランド軍将校虐殺)やナチスの犯罪をより誇張するために利用されていたアウシュヴィッツ強制収容所犠牲者数の下方修正などがそれである。 社会主義の崩壊をはじめとする世紀末の価値観の混乱のなかで、かつてイデオロギーの影響を強く受けた日本の歴史認識において、「歴史の見直し」と「歴史修正主義」の両者がともに展開されていると見るのが適当ではないだろうか。 25 秦郁彦は、こうした傾向を、「禁欲主義にこだわって、歴史家としての任務を放棄」と批判している。秦郁彦『現代史の争点』文芸春秋、1998 年、256 ~ 257 頁。 26 蓮實重彦・山内昌之『20 世紀との訣別』岩波書店、1999 年、16 ~ 17、267 ~ 268 頁。 27 議論を総括したものに、高橋哲哉『歴史/修正主義』岩波書店、2001 年を参照。 28 山崎正和「歴史の真実と政治の正義」『季刊 アステイオン』第52 号、1999 年11 月、9 ~ 33 頁。 106 2 「太平洋戦争」の呼称をめぐる諸問題 日本における太平洋戦争に関する歴史認識の難しさを物語っているのが、その呼称をめぐる議論である。世界史的に見て、一般的に戦争の呼称は、交戦国名、交戦地域、戦争の期間、戦争勃発の日時、戦争の当事者、戦争の規模、戦争の原因・目的などの基準によりなされている。又、第二次世界大戦については、社会主義諸国において、中国では「反ファシズム抗日戦争」、ソ連は「大祖国戦争」というように、その歴史的意義を強調する呼称が使用されている29。 他方、現在日本において太平洋戦争を呼ぶ場合、主なものとして以下のような呼称がある。 1)「太平洋戦争」 昭和20 年12 月8日からGHQにより新聞に連載された特集「太平洋戦争史」に由来し、現在でも最もポピュラーなもののひとつである。しかし、「Pacific War」はアメリカでは一般に、1879年から1883年にかけてのペルー・ボリビア連合軍とチリの戦争を指し、「the Pacific Theater in the Second World War」が太平洋戦争を意味するとの説もある30 。 2)「大東亜戦争」 「大東亜新秩序」というアジア解放の戦いであったとの趣旨で使用されるとともに、法的正当性も主張されている。すなわち、昭和16 年12 月10 日大本営政府連絡会議、12 日の閣議において、「支那事変ヲ含メテ大東亜戦争」と正式に決定された呼称であり、終戦後一時期GHQの指令により使用を禁止され、政府は暫定的に「今次の戦争」を使うこととした。しかし、独立回復後の昭和27 年4月11 日に発せられた法律第81 号により、GHQの指令はすべて無効になり、その後政府は「大東亜戦争」という呼称を一度も否定していないというのである。一方、アジア解放といった戦争目的を肯定する恐れがあるとの理由で、その使用を批判する声も根強い。 3)「第二次世界大戦」 「太平洋戦争」と「大東亜戦争」の対立を踏まえて、イデオロギー的に無価値なものとして使用されている。歴史家の斎藤孝がこの呼称を提唱したが、同じ信夫清三郎は、戦争目的を肯定するとか否定するとかの問題ではなく、当時の日本人は「大東亜戦争」を戦ったのであり、最も実体がともなっていると主張し、両者の間で論争が行われた31 。 又、一般に「第二次世界大戦」は、1939年のドイツによるポーランド攻撃により始まった 29 戦争の呼称に関しては、木坂順一郎「アジア・太平洋戦争の呼称と性格」『龍谷法学』第25 巻第4号(1993 年3月)、386 ~ 434 頁を参照。 30 前掲『昭和史を縦走する』149 頁。 31 信夫清三郎「『太平洋戦争』と『大東亜戦争』」『世界』1983 年8 月、222 ~ 231 頁、同『聖断の歴史学』勁草書房、1992年、ⅰ~ⅱ、斉藤孝「『大東亜戦争』と『太平洋戦争』-歴史認識と戦争の呼称」『世界』1983 年11 月、280 ~ 284 頁。 107 というのが通説であり、それ以前の満州事変、日中戦争などをいかに扱うかとの疑問の声もある。 4)「15 年戦争」 昭和31 年評論家の鶴見俊輔が初めて使用したが、一般に普及する契機となったのは、昭和43 年刊行の家永三郎の『太平洋戦争』であり、その後現在にいたるまで進歩派を中心に頻繁に使用されている。満州事変以降を連続した不可分の戦争ととらえ、主戦場は中国大陸であり、勝者は中国人民である点に力点が置かれている。戦後体制への否定的解釈も含意されており、反米主義と同時に、中国への贖罪意識さらには「劣等感」があるとの指摘もある32 。 5)「アジア・太平洋戦争」 「15年戦争」の流れを受け、昭和60年木坂順一郎により提唱され、近年急速に普及しつつある。実際には13 年11ヵ月といった「15 年戦争」に対する批判を受け、より発展させたもので、「東アジアと東南アジア及び太平洋を戦場とした日本の侵略戦争」を意味する。趣旨は、太平洋を主戦場にアメリカの物的国力に敗けたとのイメージがある「太平洋戦争」に代って、アジアに対する侵略を強調する点にある33 。 6)「今次の大戦」、「先の大戦」、「過ぐる大戦」、「あの不幸な戦争」など 政府が占領期、暫定的な呼称として「今次の戦争」と定めたことは前述したが、その後も内閣や天皇は公的な場においては、価値判断を回避して、こうした呼称を使用している。 7)その他 ・「東亜100 年戦争」 林房雄の『大東亜戦争肯定論』で展開された呼称で、ペリーの来航以降終戦までの、アジアに侵攻してきた白人勢力に対する日本の抵抗と反撃を意味する。 ・「70 年戦争」、「50 年戦争」など いずれも、台湾出兵、もしくは日清戦争から終戦までの日本のアジアへの侵略を趣旨とし ている。さらに、日清戦争から現在の自衛隊のPKO派遣までを日本による一貫したアジア 侵略と見なす「100 年戦争」といった呼称も近年現れている。 ・「昭和大戦」 太平洋戦争の持つ侵略と解放の両義性を踏まえつつ、朝鮮・ヴェトナム両戦争も包含したものとして、藤村道生が提唱した34。 以上のように、日本においては、前節で考察したようなイデオロギーの影響により戦争の 32 前掲『昭和史を縦走する』143 ~ 145、148 ~ 151 頁。 33 木坂順一郎「『大日本帝国』の崩壊」歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本歴史 10 近代4』東京大学出版会、1985 年、338 ~ 339 頁。 34 藤村道生「『昭和大戦』という呼称の提案」『軍事史学』第32 巻第3号(1996 年12 月)4 ~ 13 頁。 108 呼称は多岐にわたり、いかなる呼称を使用するかは、歴史認識はもちろんその政治的立場をも示すリトマス試験紙、さらには「踏絵」として機能していると言っても過言ではない。 3 歴史認識における論点 これまで歴史認識の変遷、及び歴史認識を象徴的に示す太平洋戦争の呼称について述べてきたが、本節ではその具体的な論点を整理する。 第一に、日本の近現代史における「侵略」の有無、そしてその始点・連続性の問題である。始点については、幕末の海防論にまで遡及するものもあり、一方、戦後アジアへの「経済侵略」をへて、PKOなど現在にまでその連続性を指摘する意見もある。日本の行動を、世界史全体、特に帝国主義時代の流れのなかでいかに位置付けるべきか、又20 世紀の日本そして世界を考える際に無視できない社会主義をいかに判断すべきかとも密接に関係しており、さらに戦後体制の解釈を通して現在の政治上の争点とも関連しているといえよう。 第二に、日本の対外膨張、もしくは「侵略」の要因に関してである。「マルクス主義史観」は、「侵略」の要因として政治・社会・経済体制としての天皇制を指摘し、「侵略」の必然性を強調する。又、アジア蔑視、島国といった日本人の国民性に原因を求める説も散見されるが、いずれの場合もこうした決定論に対しては、それ程短絡的に因果関係を導き出せるかなど、疑問が呈せられている。 第三に、「戦争責任」といった場合、誰の、誰に対する、いかなる行為を対象とするのかといった問題である35。例えば、法的、政治的なものか道義的なものか、開戦責任か敗戦責任か、さらには戦争犯罪に対する責任か、明確に定義されず曖昧なまま結論のみが先行している。特に、昭和天皇の「戦争責任」について、平和主義者であったか否か、さらに「戦争責任」の有無について議論がなされている。 第四に、「侵略」の有無と関連する問題であるが、太平洋戦争がアジア解放の戦いであったか否か、換言すれば「大東亜戦争」か否かをめぐっては、現在にいたるまで活発な論争がなされている。独立には一定の役割を果たしたとしても、当初より「目的」としていたのか、単なる「結果」に過ぎないのかも議論の分かれるところである。 その亜流として、「自存自衛」の戦いであった、英米なども植民地を有しており同罪である、さらには戦争を戦った結果として戦後繁栄の礎となったといった議論があるが、それらの是非 35 丸山真男によりすでに指摘されている。「戦争責任について」『思想の科学会報』第17号(1957年3月)1~3頁。 109 をめぐっても論争がなされている36。 第五に、こうした太平洋戦争の位置付けと関連して、戦没者をはじめとする日本人犠牲者の取り扱いの問題である。一方に、戦没者に対する遺族等の私的かつ自然な追悼の感情、「平和の礎」としての慰霊、さらには「英霊」として顕彰することにより、国家のために殉じた公的な死として見なすべきであるといった遺族を中心に広く日本に受け入れられている認識がある。 他方、加害の側面を強調する人々は、戦没者は国家に服従を強いられた「被害者」であるとともに、侵略戦争においては「加害者」であり、したがってその死は「犬死」であると主張するのである37 。 近年、戦没者の問題に関して、二種の新たな論争がなされた。思想家の加藤典洋を中心に展開された「歴史主体論争」は、アジアの犠牲者の前に、先ず日本人300万人の犠牲者に思いを寄せるべきであり、それを通してこそ初めてアジアの犠牲者に対する真の追悼が可能であるとした加藤の主張に対して、それは日本のアジアに対する加害を曖昧にするものであるとの批判がなされた38 。 又、漫画家の小林よしのりは、漫画『戦争論』のなかで、「公」と「個」を対比しつつ、「公」のために「個」を犠牲にすることの尊さを主張し、太平洋戦争における犠牲者の意義を積極的に肯定したのであった39 。 第六に、南京事件、「従軍慰安婦」などのいわゆる「残虐行為」の問題である。南京事件の犠牲者数、「強制」か否かといった「従軍慰安婦」の実態など「歴史事実」の認定をめぐって現在でも議論が続いている。さらに、こうした出来事の日本近現代史のなかでの意義、国際比較、国際法的に犯罪か否かといった点でも、意見が対立しており、その歴史教科書への記載が焦点となっている40 。 第七に、過去を踏まえたうえで戦後50 年以上経過した今、積極的に未来に向けて建設的な議論を行なう方が生産的であるといった「未来志向」と、これまで回避してきただけに、より一層過去の歴史と向き合わねばならず、さもなければ将来にも盲目になるとの「過去の直視」との対立である。 この対立は、「不戦決議」に際しても見られたが、近年建設ブームを迎えている「平和博物館」の展示をめぐる議論が象徴的である。多くの「平和博物館」において、太平洋戦争中の日本による惨たらしい「残虐行為」が写真や映像によって展示されたが、「平和博物館」には戦争 36 江口圭一『日本の侵略と日本人の戦争観』岩波書店、1995 年を参照。 37 荒井信一編『戦争博物館』岩波書店、1994 年、10 及び33 ~ 34 頁。 38 加藤典洋『敗戦後論』講談社、1997 年、高橋哲哉『戦争責任論』講談社1999 年。論争を総括したものとして、安彦一恵・魚住洋一・中岡成文編『戦争責任と「われわれ」』ナカニシヤ出版、1999 年がある。 39 小林よしのり『新・ゴーマニズム宣言』小学館,1999 年。 40 前掲『現代史の争点』254 ~ 268 ページ。 110 の残酷な展示は不要であり、いかに平和を築くかといった将来の問題を積極的に取り扱うべきであるとの批判がなされた41 。 4 歴代内閣の歴史認識と「不戦決議」 歴代内閣の歴史認識を概観42 すると、第1次中曽根康弘内閣を転機に大きく変化している。それまでの内閣では、遺族会の影響、戦後補償問題との関係で、明確に「侵略」には言及しなかった。例えば、昭和48 年2 月田中角栄首相は、「侵略であったかなかったかという端的なお答えは、後世史家が評価するものであること以外にはお答えできません」と述べていたが、この発言はほとんど問題視されなかったのである。 中曽根首相は昭和57 年12 月、「国際的に侵略であるという厳しい批判を受けている事実は、政府としても十分認識する必要がある」と答弁しているが、「国際的に……」は、同年に生起した「教科書事件」を指しており、すなわち、本事件を契機として内閣にとって「侵略」の問題が強く問われるようになっていったのである。 同首相は、第2次内閣においても昭和60 年10 月、「太平洋戦争、大東亜戦争ともいっておりますが、これはやるべからざる戦争であり間違った戦争である、そういうことを申しております。中国に対しては侵略の事実もあったということも言うております」と、初めて日中戦争を侵略戦争と認めるにいたったのである。 その後は内閣として、「侵略」を否定することはできなくなり、例えば昭和64 年2 月竹下登首相が前述した田中首相と同様の発言を行なったところ問題化し、「わが国が過去の戦争を通じて近隣諸国などの国民に対し重大な損害を与えたことは事実だ。かかる行為について、侵略的事実を否定することはできない」との釈明を行なわざるを得なかったのである。 こうした潮流の典型は細川護熙首相で、平成5年8月、「私自身は侵略行為であったと、間違った戦争であったと認識している。過去のわが国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたことに改めて深い反省とおわびの気持ちを申し述べる」と述べたが、のち与党内からも批判が出たため、細川首相はその後は同種の発言を控えるようになった。 このように、内閣としては「侵略」を認めるようになっていたが、細川首相への批判が物語るように、十分なコンセンサスを得たものではなかった。それを象徴しているのが、歴史認識 41 庄司潤一郎「『平和博物館』から見た歴史認識」『諸君』2000 年10 月、158 ~ 169 頁。 42 首相及び閣僚等の発言については、当時の新聞より引用。引用の注は省略。 111 に関する閣僚の「問題発言」(「失言」)43である。戦後政治史上、数多くの閣僚が「問題発言」により陳謝、さらには罷免・辞任に追い込まれているが、内容別にみた場合、歴史認識に関するものがトップであると言っても過言ではない。最近でも昨年2月、野呂田芳成衆院予算委員長が、「大東亜戦争のおかげで植民地支配が終わり、アジア諸国は独立した」と発言して、問題となったばかりである。 その内訳は大別すると、「侵略(戦争)」の否定、朝鮮半島に対する植民地支配の正当化、そして南京事件、「従軍慰安婦」など論争となっている問題の「否定・又は過小評価」である。 島村宣伸文相(平成7年8月)による「侵略戦争か否かは、考え方の問題だ。侵略のしっこが戦争だ、一方的に日本だけがやったならば突き詰める必要があるが、世界中にはいろいろな事例がある」との発言をはじめ、「侵略」の有無に関する発言は、藤尾正行文相(昭和61 年9月)、永野茂門法相(平成6年5月)、桜井新環境庁長官(平成6年8月)、橋本龍太郎通産相(平成6年10 月)などが行なっている。 植民地支配については、平成7年10 月江藤隆美総務庁長官による「日韓併合条約を無効と言い始めたら、国際協定は成り立たない。植民地支配のなかで日本はいいこともした」といった発言で、ほかにも藤尾正行文相(昭和61 年9月)などの発言である。 又、中国との関係では、南京事件に関して、中国側が言う「大虐殺」は捏造であるといった発言は、永野法相(平成6年5月)、石原慎太郎衆議院議員(平成2年9月)が代表であろう。 近年の「従軍慰安婦」問題においても、平成10 年7月中川昭一農水相が、「歴史的事実として教科書に載せることに疑問を感じている」と発言を行っている。 こうした状況のもとで、平成7年6月の「不戦決議」を迎えることになる。本決議は、自民・社会・さきがけの連立政権成立時の3党合意を受けて、検討してきたものである。相反する歴史認識を有する自民党と社会党の対立は、「侵略」の定義、世界史上における位置付け、戦後補償に結びつく「謝罪」の文言の挿入の是非、「戦争責任」などをめぐって表面化し、最終的には、下記のような折衷案として誕生することになる。 『歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議』(「不戦決議」) 「本院は、戦後50 年にあたり、全世界の戦没者及び戦争等による犠牲者に対し、追悼の誠を捧げる。また、世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。我々は、過去の戦争についての歴史観の相違を超え、歴史の教訓を謙虚に学び、平和な国際社 43 閣僚等の「失言」については、失言王認定委員会『大失言』情報センター出版局、2000年、土屋繁『日本を決めた政治家の名言・妄言・失言』角川書店、2001 年、及び加藤典洋「失言と病言-『タテマエとホンネ』と戦後の起源」『思想の科学』第29 号(1995 年6 月)4 ~ 29 頁を参照。 112 会を築いていかなければならない」 この折衷案は、英米も同罪であるといった観点から、世界近代史の背景に言及するとともに、「侵略」、「謝罪」の文言を、それぞれ「侵略的行為」、「深い反省」に置き換えるとともに、冒頭に日本を含めた全戦没者に対する哀悼を表することにより、最終的に決着したのである44 。 しかし、衆議院本会議における本決議の採決には、新進党と共産党が欠席し、さらに連立3党からも約70 名の欠席者が続出したため、全会一致を旨とする国会決議であるにもかかわらず、半数をわずかに上回る賛成を得たに過ぎなかった。 同年8月村山富市首相は、終戦50 周年談話として、「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くのアジア諸国の人々に苦痛を与えました」と一歩踏み込んだ発言を行ったが、外国には、「不戦決議」とのニュアンスの相違故、どちらが日本の真意かといった誤解を与えかねないものであった。 一方、侵略戦争を美化・合理化するものであると決議を批判するとともに、採決を欠席していた共産党は以下のような決議(案)を発表していた。 「政府にたいし、侵略戦争への深い反省と関係諸国への真摯な謝罪、誠意ある国家補償、日本国憲法の恒久平和の原則をまもり、戦争を二度と繰り返さない決意をあきらかにすることを求める」45 さらに社会民主党は、党の「政策の基本理念と政策の基本課題」の第3項に、「過去の植民地支配と侵略戦争の反省と謝罪をおこない、その過ちを繰りかえさないことを諸国民に誓い……」との歴史認識に関する文言を挿入したが46 、『読売新聞』はそれを「これ以上なにをするのか。社会党綱領案の自虐史観」と批判していた47 。 海外を含めた本決議に対する反応も、「明確な謝罪が欠如している」、「曖昧な内容で真意が理解できない」、「より未来を志向すべき」といった多様なものであった。 44 「不戦決議」をめぐる動向については、安村廉『歴史を裁いた政治家たち-戦後50 年、国会の狂騒-』展転社,1995 年、「『戦後50 年決議』問題と日本のアジア・太平洋侵略」『前衛 臨時増刊 1996 政治経済総覧』日本共産党中央委員会、1996 年6 月、27 ~ 47 頁、「不戦決議は必要だったか」文芸春秋編『日本の論点 96』文芸春秋、1996 年、130 ~ 139 頁を参照。 45 前掲「『戦後50 年決議』問題と日本のアジア・太平洋侵略」34 頁。 46 『月刊 社会民主』1996 年2 月、46 頁。又、同党は、『植民地支配の謝罪・侵略への反省 未来の平和への決意 国会決議実現に向けて』と題したパンフレットを作成している。 47 朝倉敏夫「とれんど」『読売新聞』1995 年12 月28 日付。 113 本決議は、「歴史観の相違を超え、歴史の教訓を謙虚に学び」と述べていたが、上記の動向は問題の困難さ・複雑さを物語っている。 つづく →戦後日本における歴史認識―太平洋戦争を中心として―(2) 日中歴史共同研究
https://w.atwiki.jp/wadaisenryaku/pages/359.html
概要 産業力なら間違いなくトップクラス。序盤こそ日本海軍に苦しめられるが、そこさえ乗り切ってしまえばマス・プロダクト(量産品)からなる「物量作戦」の強みを存分に堪能できる。友軍と共に共同戦線を張ることも多くキャンペーン難易度は初心者向けだが、真面目にやらないで勝てるほど甘くもない。安定した数を出せるぶん個々の性能はどうしても日独と比べて落ちるので、陸海空の連携が大事な勢力とも言える。 ユニットの特徴 陸軍 歩兵ユニットは日本のそれと比べて厳しいが海兵隊は司令部攻略、歩兵(米)は都市上で輸送車に変形できるなどの特徴を把握し、状況に応じて使い分けるべし 牽引砲の155mmL.トムの射程はトップクラス。ほとんどの地上ユニットを一方的に釣瓶打ちする 戦車は日本軍相手なら蹂躙できるが、ドイツ相手だと流石に厳しいので数を揃えて対抗したい 転ばぬ先の杖、自走高射砲系は空軍の良いお友達。忘れるべからず 海軍 序盤は名前つきの戦艦がなく寂しいが、北部ニューギニア上陸作戦辺りから名前つきが出てくる 空母の数は問題なく、性能も申し分なし(どれも4機海軍機を搭載できる)。失わないように 太平洋戦線ではご活躍だが、逆にヨーロッパ戦線では出番がなくなるのが寂しい 空軍 序盤が兎に角厳しい。零戦と戦う際はワイルドキャットの数を揃える必要あり 逆に北部ニューギニア上陸作戦からは逆転し、マスタングやヘルキャットなど充実する 主力ユニットはヨーロッパルートではマスタング、太平洋ルートではヘルキャットで 最終マップではドイツと日本が再び逆転するのでユニットの数を揃えて、対空車両との連携を 兵器データ 陸上兵器(米) 海上兵器(米) 航空兵器(米)
https://w.atwiki.jp/1942_fhsw/pages/287.html
名称 M3スチュアート ハニー 略称 M3 弱点 車体側面、背面、上面 座席 1番席 M6 53.5口径37mm戦車砲、M1919A4 7.62mm機銃 (装甲貫徹力) AP → 60.6mm 2番席 M1919A4 7.62mm機銃 3番席 M1919A4 7.62mm機銃, 砲撃要請 4番席 デザント席 5番席 デザント席 関連 M2A1軽戦車 M2A4軽戦車 M3スチュアートM3スチュアート ハニー M5A1スチュアート M3サタン 火炎放射戦車 M8 スコットM8A1GMC 概要 イギリス軍に供給されたアメリカ軍の軽戦車。攻守共に標準的だが軽戦車としては装甲が分厚い。 しかし背が高めなので被弾率は高め。強力な戦車が登場するヨーロッパ戦線ではただの棺桶だが、 対戦車兵器の脅威が乏しい太平洋戦線では心強い。北アフリカでは英兵から「ハニー」と呼ばれていた。 コメント 欧州やアフリカではアレだがアジア戦線では非常に頼りになる車両。基本的には米軍装備の際と同じ感覚で良い。但し米軍ほど歩兵が火器の関係で押し難いので、歩兵を置いての突出のし過ぎには注意しよう。 -- 名無しさん (2013-05-09 18 19 47) そういやこれ、何で米軍項にあるんだろ・・・いや、確かに米国製ではありますけどね。 -- 名無しさん (2013-08-16 11 19 25) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/irarchive/pages/1529.html
サイト ホームページ(太平洋セメ) IRサイト(太平洋セメ) CSRサイト(太平洋セメ) 各種ツール 事業報告書(太平洋セメ) アニュアルレポート(太平洋セメ) CSRレポート(太平洋セメ) 総会通知(太平洋セメ) 有価証券報告書(太平洋セメ) 決算短信(太平洋セメ) 中期経営計画(太平洋セメ) その他資料(太平洋セメ) 戻る
https://w.atwiki.jp/seed-destiny-rvsz2/pages/213.html
南太平洋 ステージ詳細 南太平洋とは言っても、作戦エリア内に海は存在しない。 ステージ中央奥に大きめの山があるが、主に戦場となるのは平坦な海側であろう。 また、作戦エリア外には劇中で登場した孤児院が存在する。余裕があるなら平地の作戦ラインの近くを探してみよう。 作中詳細 オーブ領内に存在する、南太平洋上の小島。 ここでアークエンジェルvsザラ隊の激戦が繰り広げられる。 ソードストライクからイージスを庇ってニコルが戦死。 また、覚醒したアスランのシールド投擲によりトールが、イージスの自爆によりキラが戦闘行動中行方不明となる。 この時、爆風によりアスラン自身も行方不明になった。また、ムウの攻撃を受け戦闘不能となったディアッカは連合軍に捕らえられる。 キラたちを失い、失意の内にアラスカに向かうアークエンジェル一同だったが…!?