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当サイトへのリンクについて 当サイトへのリンクはフリーです。ただし、相互リンクは「加盟会社」「RailSimによるコミュニティサイト」のみ受け付けます。 バナーはこちらをご使用ください。 リンク imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 ・インターネット停留所 我々が架空鉄道を形成している「RailSim」という箱庭ゲームソフトの配信先です。 ・RailSim新wiki railsimの1から100まで書いてあります。 RailSim架空鉄道 ネットワーク・同盟様 ・そよかぜネットワーク ・Rn.jp ・あかぎ乗合鉄道連合会 加盟会社 ・両都りんかいホールディングス ・両都鉄道 ・東城湾臨海高速鉄道 ・都市高速鉄道(遠い空の向こうに) ・東桜電鉄・大坂地下鉄(ギントキのRailSimブログ) ・川渕急行電鉄(川急車輌製作所) ・RSR東日本・武田市営地下鉄(Aluminium Train) ・松平電鉄・木嶋鉄道) ・東西高速鉄道(つばめ号の車庫) ・関東秩父高速鉄道 ・Ryoumo Tec(雨の日のとある駅) ・北日本鉄道・雪山鉄道・雪北北海道電鉄(Yuupo`s RailSim Diary season Spring) ・鏡坂りんかい鉄道・陵桜鉄道(篠ノ之隼のRailSim日記) ・六波急行電鉄(RS-itUpper!) ・梅ノ森電鉄 ・北海鉄道 ・干島鉄道・山辺高速鉄道(蒲鉾のメモ帳) ・大都鉄道 ・北川急行電鉄 ・上沢電鉄 ・青平鉄道 リンクをするときには、こちらのバナーをご利用ください。 <重要>sonicaraiance非加盟の方で、リンクを張る場合は、コメントに書いてください。承諾が出てから貼ってください。 初めまして、そよかぜネット管理者の亀山と申します。相互リンクをお願いしたいのですが、よろしいでしょうか? -- 亀山茂則 (2011-09-23 21 35 20) 亀山様 返信が遅くなって申し訳ございません。相互リンクの件了解いたしました。 -- 常磐特快 (2011-10-23 23 35 12) 名前 コメント sonicaraianceは東北・関東大震災で被災している皆さんを心から応援します。 jyouban?cmd=upload act=open pageid=100 file=%E3%81%8C%E3%82%93%E3%81%B0%E3%82%8C%EF%BC%81%E6%9D%B1%E5%8C%97%E3%83%BB%E9%96%A2%E6%9D%B1%E3%83%90%E3%83%8A%E3%83%BC.PNG
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武将名 さなだのぶよし UC真田信吉 真田信之の長男。病身の父に代わって、徳川家臣として大阪の陣に出陣。冬の陣では敗れ豊臣方で活躍する叔父・幸村との内通を疑われるも、夏の陣では毛利勝永の部隊と激戦を繰り広げ、潔白を証明したという。「成長した俺の姿、見てくれよな!!」 出身地 上野国(群馬県) コスト 1.5 兵種 槍足軽 能力 武力6 統率3 特技 戦旗 計略 戦旗の勇戦 【戦旗】(戦旗ゲージの量に応じて計略の効果が変わる)武力が上がる。戦旗1以上:さらに兵力が最大兵力を超えて回復する 必要士気3 Illustration オンダカツキ 計略効果 カテゴリ 士気 戦旗 武力 統率 速度 兵力 効果時間 その他 3 - +3 - - - c(統率依存c) - 1以上 - - - +約30% - (以上3.10B) (最終修正3.10B) 解説 戦旗系デッキの1.5コスト武力槍枠。 とても便利な采配持ちの家光が同枠にいるが、主力の護衛として武力6が活きるだろう。 計略は戦旗1から兵力回復が付くの単体強化。 兵力は上限超えするので士気溢れにも対応するが、戦旗ゲージを廻すほうに士気を割いたほうが良いかも。 備考 幸村(信繁)の兄・信之の長男。信「幸」は徳川の下につくのを機に信「之」に改名している。 母親は小松殿ではなく、側室で祖父昌幸の兄・信綱の娘にあたる人。 真田家初の徳川所属。真田家は徳川家に吸収されたわけではないのだが、 豊臣家に降伏したのち徳川の与力大名(豊臣からみて家臣(徳川)の組下)となっていたこともあり、 独立大名とは言い切れない立場の弱さがある。 カードテキストの通り、父の信之が病気のため弟の信政と共に大坂の陣に参陣して活躍するが、 戦後、信吉と信政、さらに三男の信重も信之より早くに亡くなってしまい、 隠居後も93歳まで信之が真田家の指揮をとることになるのだった。ここからさらに43年先である。 台詞 \ 台詞 開幕 父上の分まで、俺が必ず天下を分けてみせる! 計略 - 戦旗設置 着実な手柄を! タッチアクション - 撤退 まずい、逃げるぞ! 復活 負けてられねえ! 伏兵 - 虎口攻め やってみるしかないかぁ! └成功 騙し合いじゃない!自分に正直に選んだ結果だ! 攻城 さあ見てくれ! この攻めを! 落城 真田の血を受け継ぐのは……この俺だ! 熟練度上昇 俺の成長を見てくれ!
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ア行 カ行 サ行 タ行 ナ行 ハ行 マ行 ヤ行 ラ行 ワ行 その他・記号 (※投稿者の敬称略) 完=完結 単=単発 停=更新停止中 ア行 ゲームタイトル 動画タイトル 投稿者 マイリスト 最終更新日 個別 備考 カ行 ゲームタイトル 動画タイトル 投稿者 マイリスト 最終更新日 個別 備考 サ行 ゲームタイトル 動画タイトル 投稿者 マイリスト 最終更新日 個別 備考 サナエチャレンジ!FUSION 【面白い】サナエチャレンジ!FUSION【東方二次創作ゲーム】 アボット ■ 2010年12月12日 完 SEX QUEST暗黒の呪いと神への祈り 【R-18】セックスで世界を救う『SEX QUEST』をゆっくり実況 すのまん ■ 2011年07月06日 R18 タ行 ゲームタイトル 動画タイトル 投稿者 マイリスト 最終更新日 個別 備考 東方紅魔郷 東方紅魔郷Extra初クリアに挑戦(+ゆっくり) unkoyarou 2009年02月08日 単 東方妖々夢 大丈夫!ゼロから始める 東方妖々夢 Ph 魔符 DAIBO 2009年01月19日 完 東方妖々夢Phantasm睡眠縛り初クリアに挑戦(+ゆっくり) unkoyarou 2009年02月15日 完 東方妖々夢Extraノーミス&11億クリアに挑戦(+ゆっくり) unkoyarou 2009年03月07日 完 東方永夜抄 東方永夜抄Extraクリア(+ゆっくり) unkoyarou 2009年01月11日 完 東方風神録 東方風神録Extraノーミスクリアに挑戦(+ゆっくり) unkoyarou 2009年01月25日 完 東方地霊殿 EASYクリアした俺が東方地霊殿【LUNATIC】実況プレイ ユウ 2009年01月24日 単 東方地霊殿Extra初クリアに挑戦(+ゆっくり) unkoyarou 2009年03月15日 完 東方大運動会 東方ゆっくり 大運動会 ARS(さ技師) ■ 2011年08月29日 単 ナ行 ゲームタイトル 動画タイトル 投稿者 マイリスト 最終更新日 個別 備考 ハ行 ゲームタイトル 動画タイトル 投稿者 マイリスト 最終更新日 個別 備考 ひぐらしデイブレイク ゆっくりとひぐらしデイブレイク実況 きいろい子 ■ 2008年11月22日 完 マ行 ゲームタイトル 動画タイトル 投稿者 マイリスト 最終更新日 個別 備考 MegaMari魔理沙の野望 MegaMariゆっくり実況したっていいよね? アオ 2009年01月25日 停 【ゆっくり実況】MegaMari 大坂 ■ 2009年09月18日 完 ヤ行 ゲームタイトル 動画タイトル 投稿者 マイリスト 最終更新日 個別 備考 ラ行 ゲームタイトル 動画タイトル 投稿者 マイリスト 最終更新日 個別 備考 ワ行 ゲームタイトル 動画タイトル 投稿者 マイリスト 最終更新日 個別 備考 その他・記号 ゲームタイトル 動画タイトル 投稿者 マイリスト 最終更新日 個別 備考
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概要(II)4-IIでの変更点 (S)真田丸での変更点 無双武将一覧通常版 4-II一覧表 真田丸一覧表 一般武将一覧 コメント欄 概要 新たな無双武将は真田信之、大谷吉継、松永久秀、上杉景勝、片倉小十郎、小早川隆景、小少将、島津豊久、早川殿の計9名。 戦国無双Chronicle 2ndより藤堂高虎、井伊直虎、柳生宗矩の3名がナンバリング初参加。 加えて、石川五右衛門、宮本武蔵、佐々木小次郎が久々の復活となった。(よって本作はリストラ無しとなった。) 上記により無双武将は計55名となった。 (II)4-IIでの変更点 4-IIでは井伊直政が新たに参加・昇格し、計56名となった。 (S)真田丸での変更点 真田丸では真田昌幸、茶々、佐助、武田勝頼、徳川秀忠の5名が新たに参加・昇格し、計61名となった。 また、一部無双武将に加齢の概念が加わり、シナリオの年代ごとにそのモデルの姿を変えるようになった。 但し、あくまで同一人物なので能力値や装備は共有され、別世代の同名の無双武将を一度に参戦させることは出来ない。 無双武将一覧 通常版 4-II一覧表 模擬演武の条件は、原則としてその武将が選択可能となっているステージをクリアすることとなる。そのため、最速で解放可能な条件を記述している。 流浪演武で友好度を上げる事でも使用条件は満たされる。 (II)4-IIでは、DLCの引継ぎ内容次第では全員最初から選択可能。 番号 武将名 アクションタイプ 模擬演武加入条件 (II)4-II模擬演武加入条件 1 真田幸村 チャージ攻撃 最初から操作可 最初から操作可 2 前田慶次 チャージ攻撃 最初から操作可 主従の章:「郡山合戦(主従の章)」クリア 3 織田信長 特殊技 最初から使用可能 反逆の章:「長篠の戦い(反逆の章)」クリア 4 明智光秀 神速攻撃 織田の章:「信長上洛戦」クリア 最初から使用可能 5 石川五右衛門 チャージ攻撃 流浪演武:「阿国救出戦」クリア 無限城・別館「黄金の間」クリア 6 上杉謙信 通常攻撃 上杉の章:「関東出兵」クリア 大樹の章:「大坂の陣(大樹の章)」クリア 7 お市 チャージ攻撃 最初から使用可能 忠節の章:「小谷城の戦い(忠節の章)クリア」 8 阿国 チャージ攻撃 流浪演武:「阿国救出戦」クリア 百花繚乱の章:「ガラシャ救出戦(百花繚乱の章)」クリア 9 くのいち 神速攻撃 最初から使用可能 最初から使用可能 10 雑賀孫市 チャージ攻撃 織田の章:「信長上洛戦」クリア 最初から使用可能 11 武田信玄 特殊技 最初から使用可能 絆の章:「大坂の陣(絆の章)」クリア 12 伊達政宗 神速攻撃 東北の章:「人取橋の戦い」クリア 絆の章:「大坂の陣(絆の章)」クリア 13 濃姫 特殊技 最初から使用可能 最初から使用可能 14 服部半蔵 神速攻撃 徳川の章:「桶狭間の戦い」クリア 最初から使用可能 15 森蘭丸 チャージ攻撃 織田の章:「金ヶ崎撤退戦」クリア 反逆の章:「金ヶ崎撤退戦(反逆の章)」クリア 16 豊臣秀吉 通常攻撃 最初から使用可能 最初から使用可能 17 今川義元 チャージ攻撃 徳川の章:「桶狭間の戦い」クリア 無限城・本館5階クリア 18 本多忠勝 チャージ攻撃 徳川の章:「桶狭間の戦い」クリア 最初から使用可能 19 稲姫 特殊技 徳川の章:「掛川城の戦い」クリア 絆の章:「小田原征伐(絆の章)」クリア 20 徳川家康 通常攻撃 徳川の章:「桶狭間の戦い」クリア 最初から使用可能 21 石田三成 特殊技 天下統一の章:「山崎の戦い」クリア 最初から使用可能 22 浅井長政 通常攻撃 織田の章:「信長上洛戦」クリア 忠節の章:「関ヶ原の戦い(忠節の章)クリア」 23 島左近 特殊技 最初から使用可能 最初から使用可能 24 島津義弘 通常攻撃 九州の章:「耳川の戦い」クリア 好敵手の章:「岩屋城・立花山城の戦い(好敵手の章)」クリア 25 立花誾千代 神速攻撃 天下統一の章:「九州征伐」クリア 理想の章:「九州征伐(理想の章)」クリア 26 直江兼続 特殊技 上杉の章:「関東出兵」クリア 最初から使用可能 27 ねね 神速攻撃 織田の章:「信長上洛戦」クリア 最初から使用可能 28 風魔小太郎 神速攻撃 最初から使用可能 約束の章:「関東防衛戦(約束の章)」クリア 29 宮本武蔵 チャージ攻撃 流浪演武:「仕合」クリア 無限城・別館「猛将の間」クリア 30 前田利家 通常攻撃 最初から使用可能 反逆の章:「長篠の戦い(反逆の章)」クリア 31 長宗我部元親 チャージ攻撃 四国の章:「四万十川の戦い」クリア 情愛の章:「伊予侵攻(情愛の章)」クリア 32 ガラシャ 特殊技 四国の章:「四万十川の戦い」クリア 情愛の章:「伊予侵攻(情愛の章)」クリア 33 佐々木小次郎 通常攻撃 流浪演武:「仕合」クリア 無限城・別館「疾風の間」クリア 34 柴田勝家 チャージ攻撃 最初から使用可能 反逆の章:「金ヶ崎撤退戦(反逆の章)」クリア 35 加藤清正 神速攻撃 天下統一の章:「山崎の戦い」クリア 最初から使用可能 36 黒田官兵衛 特殊技 織田の章:「金ヶ崎撤退戦」クリア 最初から使用可能 37 立花宗茂 通常攻撃 天下統一の章:「九州征伐」クリア 理想の章:「九州征伐(理想の章)」クリア 38 甲斐姫 通常攻撃 最初から使用可能 約束の章:「関東防衛戦(約束の章)」クリア 39 北条氏康 通常攻撃 最初から使用可能 約束の章:「関東防衛戦(約束の章)」クリア 40 竹中半兵衛 神速攻撃 織田の章:「六条合戦」クリア 反逆の章:「金ヶ崎撤退戦(反逆の章)」クリア 41 毛利元就 特殊技 最初から使用可能 反逆の章:「真説・本能寺の変」クリア 42 綾御前 通常攻撃 上杉の章:「関東出兵」クリア 大樹の章:「天正壬午の乱(大樹の章)」クリア 43 福島正則 チャージ攻撃 天下統一の章:「山崎の戦い」クリア 最初から使用可能 44 藤堂高虎 通常攻撃 近畿の章:「観音寺城の戦い」クリア 最初から使用可能 45 井伊直虎 神速攻撃 関東の章:「遠江防衛戦」クリア 最初から使用可能 46 柳生宗矩 チャージ攻撃 織田の章:「六条合戦」クリア 最初から使用可能 47 真田信之 神速攻撃 最初から使用可能 最初から使用可能 48 大谷吉継 神速攻撃 近畿の章:「観音寺城の戦い」クリア 最初から使用可能 49 松永久秀 特殊技 織田の章:「六条合戦」クリア 最初から使用可能 50 片倉小十郎 特殊技 東北の章:「人取橋の戦い」クリア 絆の章:「大坂の陣(絆の章)」クリア 51 上杉景勝 チャージ攻撃 上杉の章:「関東出兵」クリア 最初から使用可能 52 小早川隆景 通常攻撃 最初から使用可能 理想の章:「九州征伐(理想の章)」クリア 53 小少将 神速攻撃 四国の章:「伊予侵攻」クリア 最初から使用可能 54 島津豊久 チャージ攻撃 九州の章:「耳川の戦い」クリア 好敵手の章:「岩屋城・立花山城の戦い(好敵手の章)」クリア 55 早川殿 特殊技 最初から使用可能 絆の章:「第二次上田城の戦い(絆の章)」クリア 56 (II)井伊直政 神速攻撃 - 最初から使用可能 新武将(刀) チャージ攻撃 新武将作成を参照 新武将(槍) チャージ攻撃 新武将(薙刀) チャージ攻撃 新武将(大太刀) チャージ攻撃 新武将(双剣) 通常攻撃 真田丸一覧表 長期合戦回想における使用可能条件は、従来通り原則としてその武将が選択可能となっているステージをクリアすることとなる。選択可能なステージが存在しない武将は、来福寺宅でほら貝を渡すことで開放が可能となる。 探索における使用可能条件は、友好度を最大まで上げること。一度通してクリアした後は、全武将を茶屋に呼べるようになるので、これを活用すること。 両者の条件が異なるため、クリア前は回想にしか使えない武将(武田信玄など)や、探索にしか使えない武将(ガラシャなど)が存在する。 番号 武将名 アクションタイプ 長期合戦回想使用可能条件 1 真田幸村(少年期) チャージ攻撃 来福寺宅でほら貝を渡す 真田幸村(青年期) 第七章以降 真田幸村(壮年期) チャージ攻撃(改) 第十四章以降 2 前田慶次 チャージ攻撃 第十章:「松井田城の戦い」クリア 3 織田信長 特殊技 来福寺宅でほら貝を渡す 4 明智光秀 神速攻撃 来福寺宅でほら貝を渡す 5 石川五右衛門 チャージ攻撃 来福寺宅でほら貝を渡す 6 上杉謙信 通常攻撃 第四章:「手取川の戦い(真田丸)」クリア 7 お市 チャージ攻撃 第三章:「野田福島の戦い(真田丸)」クリア 8 阿国 チャージ攻撃 来福寺宅でほら貝を渡す 9 くのいち 神速攻撃 第三章:「三方ヶ原の戦い(真田丸)」をクリア 10 雑賀孫市 チャージ攻撃 第三章:「野田福島の戦い(真田丸)」クリア 11 武田信玄 特殊技 第一章:「善光寺追撃戦」クリア 12 伊達政宗 神速攻撃 来福寺宅でほら貝を渡す 13 濃姫 特殊技 来福寺宅でほら貝を渡す 14 服部半蔵 神速攻撃 第六章:「伊賀越え」をクリア 15 森蘭丸 チャージ攻撃 来福寺宅でほら貝を渡す 16 豊臣秀吉 通常攻撃 第六章:「山崎の戦い(真田丸)」クリア 17 今川義元 チャージ攻撃 来福寺宅でほら貝を渡す 18 本多忠勝 チャージ攻撃 第六章:「伊賀越え」をクリア 19 稲姫 特殊技 第七章:「黒駒合戦」クリア 20 徳川家康(青年期) 通常攻撃 第十章:「伊豆箱根越え」をクリア 徳川家康(壮年期) 来福寺宅でほら貝を渡す 21 石田三成 特殊技 第六章:「山崎の戦い(真田丸)」クリア 22 浅井長政 通常攻撃 第三章:「野田福島の戦い(真田丸)」クリア 23 島左近 特殊技 第二章:「三増峠の戦い(真田丸)」をクリア 24 島津義弘 通常攻撃 第十二章:「関ヶ原の戦い(真田丸)」をクリア 25 立花誾千代 神速攻撃 来福寺宅でほら貝を渡す 26 直江兼続 特殊技 第四章:「手取川の戦い(真田丸)」クリア 27 ねね 神速攻撃 第六章:「山崎の戦い(真田丸)」クリア 28 風魔小太郎 神速攻撃 第七章:「上杉調略」クリア 29 宮本武蔵 チャージ攻撃 来福寺宅でほら貝を渡す 30 前田利家 通常攻撃 第七章:「小牧長久手の戦い(真田丸)」クリア 31 長宗我部元親 チャージ攻撃 第六章:「伊豆上陸戦」をクリア 32 ガラシャ 特殊技 来福寺宅でほら貝を渡す 33 佐々木小次郎 通常攻撃 来福寺宅でほら貝を渡す 34 柴田勝家 チャージ攻撃 来福寺宅でほら貝を渡す 35 加藤清正 神速攻撃 第六章:「山崎の戦い(真田丸)」クリア 36 黒田官兵衛 特殊技 第六章:「山崎の戦い(真田丸)」クリア 37 立花宗茂 通常攻撃 来福寺宅でほら貝を渡す 38 甲斐姫 通常攻撃 第十四章:「今福の戦い」クリア 39 北条氏康 通常攻撃 来福寺宅でほら貝を渡す 40 竹中半兵衛 神速攻撃 来福寺宅でほら貝を渡す 41 毛利元就 特殊技 来福寺宅でほら貝を渡す 42 綾御前 通常攻撃 第四章:「手取川の戦い(真田丸)」クリア 43 福島正則 チャージ攻撃 第六章:「山崎の戦い(真田丸)」クリア 44 藤堂高虎 通常攻撃 第三章:「野田福島の戦い(真田丸)」クリア 45 井伊直虎 神速攻撃 来福寺宅でほら貝を渡す 46 柳生宗矩 チャージ攻撃 来福寺宅でほら貝を渡す 47 真田信之(少年期) なし なし 真田信之(青年期) 神速攻撃 第七章以降 真田信之(壮年期) 来福寺宅でほら貝を渡す 48 大谷吉継 神速攻撃 第三章:「野田福島の戦い(真田丸)」クリア 49 松永久秀 特殊技 第四章:「石山合戦」クリア 50 片倉小十郎 特殊技 来福寺宅でほら貝を渡す 51 上杉景勝 チャージ攻撃 第四章:「手取川の戦い(真田丸)」クリア 52 小早川隆景 通常攻撃 第四章:「石山合戦」クリア 53 小少将 神速攻撃 第六章:「伊豆上陸戦」をクリア 54 島津豊久 チャージ攻撃 第十二章:「関ヶ原の戦い(真田丸)」をクリア 55 早川殿 特殊技 第七章:「若神子合戦」クリア 56 (II)井伊直政 神速攻撃 第六章:「伊賀越え」をクリア 57 (S)真田昌幸(青年期) 通常攻撃 最初から使用可能 (S)真田昌幸(壮年期) 第七章以降 58 (S)茶々(幼年期) なし なし (S)茶々(青年期) チャージ攻撃 第七章:「四国征伐(真田丸)」をクリア 59 (S)佐助 神速攻撃 第六章:「安土脱出」をクリア 60 (S)武田勝頼 チャージ攻撃 第二章:「三増峠の戦い(真田丸)」をクリア (S)村松殿(幼年期) なし なし (S)村松殿(青年期) 61 (S)徳川秀忠(青年期) チャージ攻撃 来福寺宅でほら貝を渡す (S)徳川秀忠(壮年期) 来福寺宅でほら貝を渡す 真田信之(少年期)、茶々(幼年期)、村松殿は城下町およびイベント限定の非戦闘員無双武将となる。 一般武将一覧 武将列伝を参照のこと。 (E)Empires版は、武将列伝(Empires)を同様に参照のこと。 コメント欄 4-Ⅱの義元は無限城5階クリアで出ましたよ。 - 名無しさん 2015-02-18 22 32 30 特殊型は4-IIで一気に躍進した、後は一番手抜きが酷くて微妙な神速組か・・・ - 名無しさん 2015-09-22 11 27 49 とりあえずC5-2がほしい - 名無しさん 2017-11-12 20 49 11 カンスト - 名無しさん 2016-04-28 21 28 44 死線の間Aランククリアで阿国出ました〜 - 名無しさん 2016-07-17 13 44 02 bgbdgsjbでぇじぇうdhdhdhdk - 名無しさん (2018-09-22 10 12 51) 名前 全てのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/hikoushiki/pages/54.html
+はじめに はじめに 日本における中央統一政権の成立過程を述べ、家康がそれをいかにして握るに至ったかがこの巻の主たる内容であると述べている。 (Jiyu) +六十年の忍耐 六十年の忍耐 徳川家康の生涯は「忍」の字がこれを表しているという。 彼の人生は松平氏と織田氏が争っている時に始まりを告げた。竹千代(家康)は1541年(天文十)三河刈谷の城主水野忠政の娘お大と、松平広忠の間に生まれる。翌十一年、水野忠政が死ぬと、お大の兄信元は小田川についてしまった。お大の機転によりなんとか危機を乗り越えるが、このような事情があって家康は家族との縁が薄かった。母とは竹千代三歳の時に別れ、父はのちに人質に取られている最中に失った。しかし母であるお大は長生きし、家康の天下一統を見届けて七十五で死んだ。 水野氏と縁を切った松平氏は、織田氏に勢力を奪われ、今川氏への従属を進めていく。その際竹千代は今川氏に人質に出されることとなった。1547(天文十六)のことである。が、駿府へ向かう途中に欺かれ、尾張の織田氏のもとへ送られてしまう。そしてその間広忠が二十四歳の短い生を終える。側近に殺されたという。松平氏は当主が二代続いて不慮の死を遂げている。竹千代は八歳で孤児となった。 同年、今川義元が織田軍を攻め圧倒する。織田軍は竹千代と交換で織田信広(信長の兄)を引渡してもらい、安祥の城を放棄した。竹千代は二年半ぶりに岡崎に戻ることができたが、それもわずか半月ほどのことだった。今度は駿府へ今川氏の人質として行かなければならなかった。 竹千代は実の祖母源応尼に養育され、禅僧太原雪斎から学問を教授された。太原雪斎は儒学・軍学・指揮官として非常に優れていた。家康の知識・見識の基礎はこのころ養われたと言われている。 竹千代は弘治元年、十四歳で元服し、今川義元の名を一文字もらって松平元信と名乗った。同三年、今川義元の甥関口義広の娘・瀬名を娶った。後に 築山殿 と呼ばれる人である。すぐに元信は名を改めて元康とした。祖父清康を慕ってのことだろう。 松平氏は悲惨な生活をしていた。領地からあがる年貢はことごとく今川氏に奪われてしまうので、家臣たちは百姓同然に鎌や鍬を取り、田畑を自作した。今川の将兵には期限をとって、主君竹千代にもしものことがないようにはからった。その上年に何度かある織田軍との戦いには、松平の家臣はいつも最前線に立たされた。親や子は一人、また一人傷つき倒れていった。東西二大勢力に挟まれて、自立しえない国の悲劇がそこにあった。その中でも家臣は志を失わず、主君の帰国と独立の夢を抱き続けた。 1556年(弘治二)十五歳となった家康ははじめて義元に許されて、墓参りのために岡崎に帰ってきた。家臣である伊賀守忠吉は密かに家康を蔵に案内し、今川氏に隠れて蓄えた金銭や糧米を見せた。彼らは主従手を取り合って泣いたという。 1560年(永禄三)今川義元が尾張に攻める際、家康はその先鋒となった。このとき敵方であるお大の方を家康はわざわざ訪問している。よほど肉親の情に飢えていたのだろう。家康は十九歳であった。この戦い――桶狭間の戦いで今川義元は倒され、家康はようやく今川氏の束縛から逃れ岡崎に戻ることができた。 その後しばらくして、織田氏との間に和平の機運が起こってきた。松平氏はここで今川氏に見切りを付ける。1561年(永禄四)春頃から松平氏は東三河の今川氏の部将を攻撃するようになった。翌年、松平元康は名を家康と改めた。今川義元から譲り受けた名を削り、その縁故をすっかり断ち切ったのである。 ようやく発展の途を歩み始めたと思ったその時、一向一揆が台頭し始めた。1563年(永禄六)一揆が勃発する。家康が軍事力強化のため、農民や社寺に多大な負担をかけたのが一大原因である。反松平勢力も背後についていて、容易ならざる敵となった。家康は奮闘し、一揆側に和解を持ちかけた。寺僧はもとのまま、敵対者は赦免、本領安堵、張本人の助命といった内容である。一揆は収まった。 ところが家康は一向宗の改宗をその後命じた。僧徒は契約違反を訴えたが、家康は聞き入れず、激しい弾圧を加えた。反抗のエネルギーが高いときには宥和策でそれを鎮め、その後急に態度を変えて敵を叩き潰す。このやり方は五十年後、難攻不落の大阪城を攻め豊臣氏を滅ぼしたときの方法とそっくりである。家康が「狸親父」と呼ばれる由来となった狡猾さは、このころから遺憾なく発揮されていた。 一向一揆も鎮め、松平氏の三河統一の基盤が固まった。やがて1566年(永禄九)には松平氏を改めて徳川氏を称するとともに、朝廷から従五位下三河守の官位を与えられた。公家は前例を重んじるので、はじめは先祖に国守に命じられた者がいない家康に官位を与えることを渋った。しかし貧乏を極めていた公家は金の力に弱かった。胡散臭い系図を持ち出して、徳川ははじめ源氏で、途中から藤原氏に変わったという証拠とした。神祇官吉田兼右が鼻紙に写したというそれを、鳥の子紙に清書させて天皇に上奏し、勅許を得た。こうして松平家康は源氏―藤原氏を経て、徳川氏を名乗ることとなり、官位を賜った。 当時は偽系図作りが流行っていた。成り上がり者が権威を欲したというのと、支配の正統性を求めたのがその原因である。家康はその後、源氏と藤原氏を適当に使い分けた。戦国大名にとって系図や氏姓などは、それらの持つ伝統的権威を利用するための便宜でしかなかった。 (Jiyu) +江戸の内大臣 江戸の内大臣 家康は東海および甲信五ヵ国を領し、日本有数の大名に成長した。そして明智光秀を破り、信長継承者の優位にもたった。全国制覇に邁進するもう一人の雄、豊臣秀吉とは一度は対決せねばならぬ運命にあった。 1584年(天正十二)の小牧長久手の戦いは、家康がこれまで体験してきた戦争とは別次元のものであった。この戦いは軍事・外交を含めた広義の政治力の戦いであった。 家康は信長の次男・信雄を取り込み、秀吉と戦う大義名分を作る。小牧で戦闘が行われることはなかった。小牧に軍を置いて牽制し、長久手に秀吉軍を誘い出して奇襲をかけたのである。長久手の戦闘は家康の快勝であった。この他にも各地で戦闘は行われた。 対決はこれで終わらず、その後も臣下の裏切りや財政問題に家康は悩まされた。戦闘での死傷者の多くは馬も甲冑もない百姓であるので、戦闘が続けば続くほど農村は荒れてしまう。長久手では勝利したが、戦争は家康の敗北であった。家康は敗北を敗北とせず、有利な講和をする必要があった。秀吉は家康と戦い、無駄な損害を発生させることは避けたかった。両者の利害は一致し、両者の対決は終わった。 家康がその後、領国統治の体制を固めているときに、1590年(天正十八)秀吉の小田原征伐が始まった。このとき北条氏が滅ぶ。秀吉は家康に対し、北条氏の旧領である伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総の六カ国に移るよう命じた。家康はこれを受け、江戸に入った。これを関東入国という。 入国後の家康の最初の仕事は、北条氏と武田氏の遺臣を懐柔することであった。家康は無理な圧迫を避け、徐々に支配力を浸透させていった。 秀吉の下についた家康は、領国内で徐々に大きな力をつけていく一方、中央では秀吉の従順な家臣を演じた。家康はわざと愚かしく振る舞い、そのためあらぬ疑いをかけられることはなかった。 家康は各大名と秀吉の仲介役をして、大名たちの信頼も得ていった。それは親切心からではなく、豊臣政権の中央集権化を防ぎ、徳川の影響力を相対的に高めておく利己心からであった。 秀吉の死後、豊臣政権は大名五人の合議制となった。しかし、家康の実力が時とともに群を抜いて大きくなり、徳川家康対前田利家・石田三成という対立関係が形成された。のちに利家は死に、三成は殺されそうになり家康に助けを求めたので、家康に対抗できる力はなくなった。 家康は着々と領国経営をして力をつけてきた。それが秀吉の死後に実り、強大な勢力となることができたのである。 (Jiyu) +関ヶ原の戦い 関ヶ原の戦い 1599年3月13日、徳川家康は伏見の自邸を出て伏見城に入り、いよいよ中央政権を意のままにするべく本格的な権力強化を図りはじめた。有力な諸大名を帰国させてしまったのもそのための政略である。諸大名が国に帰れば、家康にとって攻撃の口実は作りやすい。検地などの実施は土豪層の反乱を招きやすく、その鎮圧のために軍隊を出動させれば、謀叛の口実を設けられる。多くの大名から信望を得ている家康にとって、そこに何らかの口実さえあれば、中央政権の名を借りて特定の大名討伐のため諸大名の軍隊を動員することは可能だったのである。 1600年5月3日、度重なる上京の催促を上杉景勝が強く拒否したことを受けて、家康は会津出兵を決定した。伊達政宗をはじめ諸大名に中央政府軍の統率者として会津出兵を指令、自らも6月16日には大阪城を発して遠征の途についた。 7月2日、家康の命に応じて会津遠征に参加した大谷吉継は、美濃垂井で旧友石田三成の招きを受け、家康打倒の陰謀を打ち明けられた。協力を求められた吉継は覚悟を決めてこれに従い、兵を近江に返して佐和山城に入った。三成の同志増田長盛は、三成と吉継の計画をいちはやく家康の側近に報じるなど、ひそかに家康側にも通じる一方、同日には毛利輝元と通じ、その他の諸大名にも家康弾劾文を送っている。 家康は三成挙兵の報を得て、7月21日、江戸を出発して下野小山に到着、諸武将を集めて会議を行い、西軍と戦うべく西上を決定した。一方、大阪には近畿・中国・四国・九州の諸大名が集まった。その兵力は九万三千余という。7月19日、西軍の諸将は伏見城に至り、守将鳥居元忠を攻撃して8月1日、ついにこれを陥落させた。 石田三成らは自分たちこそ中央政権の正統派と主張し、故太閤と秀頼への忠節を旗印に自陣への参加を呼びかけた。そうして家康を、故太閤の遺言に背き秀頼を見捨てた異端者であるとして攻撃した。しかし東軍に与した秀吉恩顧の諸大名は、これまでの家康の行動を、豊臣政権の樹立した中央集権における責任者としての正当なものとして認め、むしろ三成の行動を反逆と認めたのである。またやむを得ず西軍に加わったものの、戦意のない大名も少なくなかった。こうした内外の事情に、三成の最大の誤算があった。 9月15日、東西軍の戦端は関ヶ原に開かれた。西軍ははじめ大垣城にこもって戦い、後に大阪から毛利輝元を総大将とする援軍を呼び寄せ、東西から家康を挟み撃ちにする作戦をとった。しかし家康の急遽大阪城を攻めるかという巧みな陽動作戦により、三成らは大垣城を誘き出され、関ヶ原盆地に押し込められた。西軍はこれを見下ろす桃配山に本陣を構えた。 このとき、ちょうど家康の背後にある南宮山に毛利らの部隊が陣していたが、最前線の吉川広家はあらかじめ家康に内通しており、出撃すべきときになっても動かなかった。このため毛利秀元、安国寺恵瓊、長宗我部元親の諸隊もとうとう戦闘に参加することができなかった。 また昼ごろ、突如として盆地の西南松尾山に陣していた小早川秀秋の軍が、同じ西軍である大谷吉継の陣を攻撃した。かねて家康側に通じていたものの様子を見ていたところが、家康軍の催促によって裏切りを決意したものであった。これを機に西軍は総崩れとなり、諸将敗走の完敗となった。六時間の激闘の末、家康は完全勝利を収めたのである。 関ヶ原の戦いの勝利した家康は、9月27日、大阪城に入った。中央政府軍統帥者としての家康の立場はここに確立したといってよい。つづいて家康は、諸大名の所領処分を徹底的に行った。没収地の合計は六百万石を越しており、かなり思い切った大名の配置換えが可能である。その土地再配分は、主に豊臣系の大名を加増しながらもその地を中国・四国・九州へ移し、近江から関東までを一門・譜代で固めるというものであった。江戸から京都・大阪への道をしっかりと押さえたのである。 このように家康が、まだ征夷大将軍に任じられる以前から、多くの大名の所領を没収し、再配分し、大幅な配置換えを行ったことは、彼が単に中央政権の軍事統帥権のみを握っているのではなく、既に中央政権の主権者の地位に登ったことを意味するものであった。また1602年に、備前岡山に封じられていた小早川秀秋が死去したとき、家康は秀秋に後嗣のいないことを理由にこれを没収した。江戸時代において、大名が戦争以外の理由で取り潰されたのはこれが初めてである。明らかに日本全国の土地が中央政権の所有であることを主張する権力行使であり、注目すべき出来事である。 (Shiraha) +覇府の建設 覇府の建設 1603年、前年末迄に島津氏に至るまで悉く他大名を主従関係の内においた家康は、征夷大将軍に任じられた。之によって源頼朝以来の全国の武士の棟梁、全国支配者としての地位の裏づけ、また朝廷の権威と切り離された全国支配の権力を確立するための肩書きとした。 というのも、秀吉は天皇の代理施政者である関白に留まったが、家康は政治権力者ではない、元来は軍事統率者である征夷大将軍となった。征夷大将軍は頼朝以来の武家の伝統として政治的にも権力を持つようになったものである。 また、1590年に入城した東国江戸を政権の所在地としたのも、朝廷と政権を切り離そうとしたのではないかと思われる。 さて、この江戸城だが、1590年に家康が入城した当時は、知ってのとおり荒れ放題であった。そこで本多正信が玄関周りだけでも綺麗にしては、と進言したが、先に領国支配を固めるため相手にしなかったというあたり、実質的な家康の精神が見受けられる。 とまれ、1592年に入って西の丸を建設したのだが、そこから10年以上空いて征夷大将軍任命後の1604年になって大拡張工事を開始した。3千艘の船を28家の外様大名に用意させて伊豆から石を運んで石垣をなすなど、大きな負担を課しつつ1607年までに大天守閣を含む大部分の工事を終えたが、1657年の大火により焼失、以後天守閣は築かれなかった。 また家康は城下町形成のために、当時低湿地が多く、海岸線も現在よりはるか西まで入り込んでいた江戸の埋め立てを始め、運河造営、上水道、船着場などを建設し、江戸-上方を結ぶ東海道を始めとして幹線道路たる街道を整備した。街道には伝馬・宿場が整備され、年々需要が高まるので、近隣農民から人馬を徴発して不足を補った。これらの道路については日本を訪れた西欧人が良くほめている。 家康はこうして造営した江戸の地に家臣の邸宅を配置、町人を呼び集めて城下町を形成していった。城の西部の平野には城の防備も兼ねて家臣団の邸宅をおいた。また武家諸法度で明文化されるより前に諸大名は江戸に証人として妻子などを住まわせ、江戸に参勤していたので、これに対し家康は邸地を諸大名に与えた。こうして諸大名は江戸に邸宅を持ったが、何れも豪華絢爛に造ってあった。対して江戸初期の武士の食事は質素なものであって、そういう逸話が多く残っている。 町人は関東・小田原や徳川氏の旧領東海諸国等から呼び集めた。町人には年貢が免除される代わりにその技術や労力の提供が課された。近世の大名は城下町に住まわせた家臣団から発生する需要を補うために、町人の技術や労力の提供が必須だったのである。 また江戸城築城、城下町形成と同時に彦根・駿府・名古屋城の造営を各大名に命じ、これまた大きな負担となっていた。そこで名古屋城築城の際、福島正則が不平を言ったところ、加藤清正が「せっせと仕事をして早く休むことにしようや」と答え、福島を始め諸大名も之にならったという。加藤・福島などの猛将ですら既に反抗する気を失っていたのである。 (NINN) +大御所と将軍 大御所と将軍 1605年、家康は三男秀忠に将軍職を譲り、自身は大御所と称されるようになった。 京都で行われた秀忠将軍宣下の儀式は、家康将軍宣下の儀式が関が原合戦後のあわただしい中に行われたものと違い、外様大名に至るまで多数の大名が参列した。彼らは秀忠に忠誠をあらわし、大阪に豊臣秀頼がいたが、此方に出向くものは一人もいなかった。 これまでの将軍と諸大名の関係は、家康への畏服という面が大きかったが、それが今後は個人を超えて徳川将軍家に臣従する関係に進めようとしていた。故に家康は2年にして秀忠に将軍職を譲ったのであった。 さて、此処で政治上の実力者大御所家康と、中央政権の法的な権力者将軍秀忠の間に、二元政治が行われる心配は無かったのか。家康は、秀吉が関白職を甥の秀次に継がせ、秀吉自身は前関白として権力を持ち二元政治を行い、結果として秀次が秀吉にそむこうとしたとの疑いで秀次と縁者30余名が斬られるという事件を目の当たりにしていた筈である。 だが家康は二元政治と成りうる大御所と将軍の体制を築いた。これについて、先ず秀忠が過度なほどに律儀であることが家康に安心感を与えていたこと、そして家康が自らの側近を通じて将軍をリモートコントロールすることで、大御所と将軍の二元政治を円滑に進めることを目論んでいたのである。 1606年こんな事件があった。家康は鷹狩りが好きであったので、江戸近郊に鷹場を設けていた。ところがこの鷹場に野鳥が多く、麦の芽を食べてしまって困っているとの百姓からの訴えがあり、町奉行・関東総奉行を兼ねていた青山忠成・内藤清成が命じて鷹場に野鳥を獲る為の罠をはった。これを聞いた家康は、自らの猟場で勝手なことをする、と大いに怒り、秀忠はさっそく忠成・清成に切腹させようと命じた。 それを本多正信が止めて、家康に2人の罪を免じてやって欲しいと述べた。家康はこれを聞き入れ、二人にしばらくの謹慎を命じたのである。 こう見ると、家康は大分わがままを言ったように見られるが、実はそうではない。 家康にも、2人は百姓が困っているからそれを助けようとしたという道理は分かっていた。彼が2人について許さなかったのは、2人が道理によって家康の権威を犯したことであった。 もし道理によって大御所の権威を犯すことを認めるとどうなるか、おそらく今後家康の命に対して、江戸の老中や奉行が、各々考える道理によってこれを拒否したり修正したりすることが発生したであろう。 将軍や老中、奉行達は大御所家康にとって、家康のリモートコントロールで忠実に動く機械でなくてはならなかった。 今度の事件で将軍以下が自身の権威に忠実に動くことをチェックした家康は、駿府に隠居し、主にここから江戸へ指令を送っていた。 家康が江戸をリモートコントロールするに活躍したのは彼の側近達である。彼が最も信頼する、手腕家の本多正信を二代将軍秀忠の幕閣に送り込んだのを始め、隠居先の駿府に正信の子正純を置き、その下に成瀬正成・安藤直次・竹腰正信らをおいて手元で政治家として養育し、後々徳川御三家の家の家老として送り込んだ。家康のリモートコントロールが江戸のみならず、子供たちの藩の政治にも行き届かせるようにしたのである。 他にも僧侶の金地院崇伝や儒学者林羅山、財務官僚としての大久保長安、貿易関係者やウィリアム=アダムスらが家康の側近グループとして活躍した。 本多正信は三河の貧しい鷹匠の出身であった。1563年の三河一向一揆の際には一気に加わり家康と戦った。一揆が鎮圧されてからは各地を転々とし、後に大久保忠世のとりなしで家康に帰参した。そして伊賀越えの難で功を立てて家康から絶大の信任を得、1590年家康の関東入国後は関東総奉行として領国経営、江戸市街の建設に活躍し、家康からの信任はいよいよ厚くなった。こうして武勲ではなく内政で功をあげた正信は、命を懸けて家康に尽くしてきた譜代の大名から厭われる存在であった。 この様に頭で活躍した正信は色々と陰謀を巡らしたと言われているが、それは個人的な欲から発したものではないようである。家康からの絶大の割には2万2千石の領主でしかなかったという点からも、彼は自身の能力を私欲に使っていた訳ではないように思われる。 仮に、先の青山忠成・内藤清成の事件が正信の謀略だったとしても、それは同僚を失脚させようとした訳ではなく、大御所によるリモートコントロールが機能するか、家康の引いた路線に沿って将軍秀忠以下が忠実に働くかをテストしたのではないか、と筆者は述べている。 大久保長安は甲州で武田氏に取り立てられ、甲州が家康領になると大久保忠隣に使える事となり、ここで忠隣に気に入られて大久保姓を与えられたものである。 長安は民政・財政・治水・土木等内政面で大いに活躍したが、特に鉱山経営に於いて彼の活躍は目覚しいものだった。武田氏の下で甲州金の採掘の経験を積んでいた長安は、1601年家康の直轄領石見銀山の奉行となった。長安が石見銀山に赴任すると採鉱の成績は飛躍的に上昇し、ついで佐渡の鉱山の奉行も兼ねる事となった。此処でも採掘量を飛躍的に伸ばし、更に伊豆諸鉱山の経営も任された。 彼がこの様に採鉱量を飛躍的に伸ばしえたのは、従来坑道を地上から掘り下げていく竪穴掘ではなく横穴掘の技術を用いたからであった。ヨーロッパの技師からもたらされたであろうこの技術は、竪穴掘では直ぐに湧き水によって坑道が使い物にならなくなっていたところを、横から掘る事で湧き水の排水を容易にした。 ところがこの技術も程なく限界に達した。1607年、家康の命で金銀の産出量が落ちてきたことに対する調査をしてみると、坑道が海面より低い位置に達したため湧き水の排水が行えず、採掘できなくなり始めていた。こうして近世初頭の鉱山の盛況は短くして終ってしまったのである。 他にも近世初頭には、六本槍の政商と呼ばれた御用商人、職人頭らが将軍の下で活躍した。 ところが彼らは身分制度が整ってくると将軍に近づくことは出来なくなり、その特権性を失っていき、代わって京・大阪・江戸三都の問屋層などの豪商に経済界における立場を奪われていった。 とまれ、家康は鉱山、また御用商人を介した貿易により多大の富を築き上げた。 慶長十二年、伏見城に蓄えてあった金銀資材を駿府城に運び出しているが、筆者の計算によるとこれが凡そ78万両、米の金額に換算して約265億円、そしてこれは当時100万人以上の軍隊を動員できる金額であり、さらに1616年時の家康の遺産を、江戸・駿府両方の蓄えを合わせて600万両と見積もっているが、その富が如何に莫大なものであったかをうかがい知ることが出来よう。 (NINN) +ここにタイトルを入れる ここにタイトルを入れる () +「強き御政務」 「強き御政務」 1605年、秀忠が征夷大将軍となったころから家康は強硬に幕府内外へ服従を求めていった。秀頼に対しても新将軍への参賀を求めて一時戦争寸前までいっている。またこのころより諸大名の改易も行われるようになっている。 このころ、女官と公家との不祥事があった。このことに激怒した後陽成天皇は極刑を望んだが、幕府の意向から下手人は流罪となっている。このことが気に入らぬ後陽成天皇は譲位の意を幕府に告げた。しかし丁度家康の娘が亡くなった時期と重なったために幕府が譲位の時期を延期しようとし、ますます機嫌を損ねたようである。 結果、後陽成天皇は後水尾天皇に譲位することとなった。そしてこの譲位の儀の翌日、家康と豊臣秀頼は二条城で会見する。以前上京を拒否しえた豊臣氏もこの時点では拒否すること能わず、そのことから徳川と豊臣の主従関係を強めた物ということができよう。 このころから武家や公家、寺社に禁令の発布も始めている。 このような強権発動のなかで幕府内部に対しても統制を強めている。大久保忠隣の失脚はこの中でも最たるものである。これはキリシタンや幕吏の不正絡まる複雑な事件であるが、背景には秀忠の幕閣内での本多正信・大久保忠隣の対立が広がっていたことを背景とするのだろう。 忠隣失脚の少し前、有馬晴信の旧領復帰運動に伴う岡本大八の問題が明らかとなっている。これは本多正純の家臣・大八が賄賂を得て偽の朱印状を晴信に渡していた問題である。結果は大八が火炙り、晴信も改易であったが、この二人がキリシタンであったことからキリシタン禁制へとつながる。 また、対立する忠隣の臣・大久保長安がこの事件を処理したことは正純にとって大きな失点だったと考えられる。忠隣失脚事件は、このまき返しだったと言える。 長安が死ぬと、突如として生前の不正が明らかとされ子は切腹。一族も罰せられた。そしてそれからまもなく忠隣も失脚する。忠隣は幕臣に人気があったというが、これはもしかすると幕臣の援助を彼が行っていたからかもしれず、とすれば幕府財政に権限を持つ長安とのつながりが資金源となっていたのかもしれない。 とまれ忠隣の失脚によって本多正信・正純父子が力を持つ。この結果、家康は幕府をより動かしやすくなったといえる。 またこのような幕府の態度こそが、豊臣氏が滅ぼされることとなった理由であったと言えるだろう。(Spheniscidae) +大坂落城 大坂落城 家康の上京要求を拒否した当の豊臣氏は、しかし行く末に不安を覚えていたようで神仏に幾度も頼っている。そしてそれから6年後、後陽成天皇の譲位の儀にあわせて二条城にて家康と面会している。この結果は平穏であり、平和な雰囲気が広がったようである。 しかしこれからまもなく、豊臣氏が建立していた方広寺大仏殿の落慶間際になって、幕府は様々な難題を掛けてこれを妨害しようとしている。なかでもここにある鐘の銘に難題を付け、混乱を大きくしている。しかし鐘銘を家康が前から知らぬはずはなく、この時点では既に戦争の準備をしていた点からも、家康は混乱を大きくすることを目的としているようである。この鐘銘問題については五山僧の阿諛追従がよく見られる問題でもあった。 また、このころより豊臣恩顧の大名が次々と亡くなっている。そのことも豊臣家の立場を悪化させている。 この時点で豊臣氏がとるべき方法と言えば、史実の如く抵抗するか、大坂を出るかしか存在しなかった。しかしこの意見はついぞ取り上げられていない。 片桐且元は専ら豊臣氏と家康との間の取り持ちを行っていたが、却って且元は裏切り者として扱われてしまい、結果として且元は失脚してしまう。結果、大坂城内では強硬派が実権を握ったのである。 この結果大坂城では幕府と戦することがほぼ決まるが、諸大名は全く豊臣に味方することはなかった。すでに大名たちが御恩を受けているのは江戸幕府であり、故に奉公すべきも江戸幕府であったのだ。 家康が豊臣征伐を決めると、諸大名は悉く家康に従って大坂へと近づいた。恩顧の大名は特別に免除されていはいたが、その息子は従軍しておりまた島津・佐竹・上杉といった関ヶ原西軍の大名も従軍させられている。 大坂城包囲陣が完成すると、じわじわと攻撃を行いつつ講和交渉を行っている。これを飲ませるため、家康は大坂城中心部への砲撃や地下道作戦、堀からの水抜き等を行っている。 朝廷からの講和斡旋については、朝廷からの政治介入の否定、幕府内問題としての豊臣氏の処理といった事情から、これを拒否している。それからまもなく講和は成り、二の丸・三の丸を破壊し堀を埋めることで合意している。これが、大坂夏の陣である。 しかし、まず豊臣氏が10万の浪人を抱えることが不可能であり、それゆえ浪人たちはむしろ抵抗を主張していたということ。そして内堀までも埋められてしまったことから、大坂城での不満は増大していた。それに目を付けた家康は浪人の追放か大坂退去を要求、結果として豊臣氏は再び抵抗することとなる。 この抵抗派多勢に無勢であり、一時は善戦しながらもとうとう全滅することとなった。秀頼・淀殿も結局切腹することとなり、そうして大坂の役は終わった。 大坂の残党については厳しく追及されており、これは関ヶ原の際と大きく異なる。これは徳川氏の権力が浸透しており、厳しい追及を行っても解決可能であるという状況をよく示している。(Spheniscidae) 後編 へ
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石田さんの連続水彩講座、最終回です。 難しい内容ですが、色とバランスとを感じて描く練習です。 参加費:1000円。(材料費込み)
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武将名 おかべながもり R岡部長盛 岡部正綱の長男。父の死後、家督を継ぎ徳川家康のもとで小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いに参戦する。「岡部の黒鬼」と称される武勇の持ち主で、大坂夏の陣にも徳川方として出陣し、戦功を挙げた。「父上と伯父上の誇り…… 岡部の名を守り抜く!!」 出身地 駿河国 コスト 2.0 兵種 騎馬隊 能力 武力8 統率4 特技 計略 積重の奮攻? 武力が上がる。今川家の味方の計略効果を受けている場合、さらに武力が上がり、兵力が徐々に回復する。 必要士気4 Illustration 前河悠一 戦国大戦初期に暴れた岡部兄弟の後継ぎがようやく登場、父親は笑顔満載の兄の方である。が、 風貌はどう見てもその異名通り、悪魔の様な異形で父親の血を受け継いでいない様に見える。 異名に恥じぬ武力寄りスペックで、今川家初の2コス騎馬武力8。 計略の積重の奮攻は、通常は武力+3追加効果は更に武力+4され兵力が3割ほど回復する強化計略、効果時間は約7C。 この計略の特徴として追加効果はテキスト通りに効果を受けてる時だけ発動する物であり、効果時間が切れたり陣から出ると追加効果が切れるのが特徴。 後、他家の計略の受けても追加効果が発動しないので注意。また、あくまで味方の今川家の計略が対象である為、敵方に回った今川家の計略を受けても追加効果は発動しない事にも注意。 今川家には武力強化する采配や陣形、単体強化計略が豊富にある為、最低でも武力15の騎馬兵が暫く戦場を蹂躙する事もあって中々に強力。 但し、士気が4とは言えど、そこまでの武力にするにはコンボを前提として士気を更に払わねばならない為、実質はそれ以上の士気を費やす事になる。 また、統率が低い為、相手の伏兵や妨害計略には要注意。 なお後に江戸時代の大名岡部家の藩祖(嫡男の岡部宣勝の代に和泉岸和田藩に定着)であり、テキストの通り生涯徳川家に仕えた人物である。 今川家に関係する事は父親が仕えてた事ぐらいしかない、何故か今川家で出るというSSQ。 また、テキストフレーバーの台詞に「伯父上」(父親の兄に当たる)と書かれているが、恐らくは正綱の弟である岡部元信の事と思われ、 その場合だと「叔父上」(父親の弟に当たる)の方が正しい事になる。
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武将名 やまのてどの 信頼の赤糸 C山手殿 真田昌幸の正室。信玄の養女として嫁ぎ、村松殿・信幸・幸村を産み育てる。昌幸が武田家臣であった間は甲府で人質の身となっており、武田家滅亡後にかろうじて上田へと逃れた。関ヶ原の戦いの際にも人質とされたが、河原綱家の機転により、大坂から救出された。「いついかなる時も、 あなたの雄飛を支えます。 たとえ冥府に行っても……」 出身地 不明 コスト 1.0 兵種 砲兵 能力 武力2 統率2 特技 魅力 寡烈 計略 赤糸の道標 撤退している真田家の最も統率力の高い味方を復活させ、武力を上げる。 必要士気4 Illustration むなぁげ 計略効果 カテゴリ 士気 武力 統率 速度 兵力 効果時間 その他 復活 4 +3 - - 80% 7.1c(統率依存0.2c) 統率が最も高い味方が即時復活 真田家限定。 (以上3.20A) (最終修正3.20A) 解説 復活計略持ちの1コスト砲兵。 魅力/寡烈とスペックは上々。寡烈持ち対象の計略の効果を受けられる中では手頃な武将。 砲兵なのが特徴であり、開幕では端攻めに向いている。 計略は同勢力の最高統率が即時復活で武力+3されるが兵力が80%での復活となる。 復活させるのは高コストの中でも幸村/昌幸ネームが基本となるが幸村の場合はそこまで統率が高くないので兼ね合いに注意。 撤退している中での選択なので低統率武将でも投げ捨てで恩恵を受ける事は可能。 メインにはなり得ないが悪くはない計略と言える。裏書の台詞通り、旦那や息子が冥府に行っても存分にコキ使って雄飛を支えてやろう。 備考 何気に同ネームの多い昌幸正室。スペック要員としては今までで最も入れやすい。 台詞 \ 台詞 開幕 いついかなる時も、あなたの雄飛を支えます 計略 巡り巡って、必ずあなたの元へたどりつきます タッチアクション 息を合わせて! 撤退 糸が…切れる 復活 どこへなりと 伏兵 - 虎口攻め 一刻も早く… └成功 ここから真田は雄飛します 攻城 このような壁では阻めません 落城 冥府に行っても、あなたを支えますから… 熟練度上昇
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上杉景勝(うえすぎ かげかつ)、長尾顕景(ながお あきかげ)日本(越後国)1555~1623統率:A 武力:C 政治:B 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------越後の戦国大名。長尾政景の子で、上杉謙信の養子となる。謙信死後、家督争い(御館の乱)に勝利して国内を平定する。小早川隆景の死後、五大老となる。関ヶ原の合戦では西軍に付き、出羽米沢30万石に減封、出羽米沢城主となる。 上杉定勝(うえすぎ さだかつ)日本1604~1645統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------米沢藩2代藩主。上杉景勝と桂岩院の子。直江兼続夫妻に養育される。左近衛権少将、弾正大弼、侍従。 上杉綱勝(うえすぎ つなかつ)日本1639~1664統率:E 武力:E 政治:E 知力:E 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------米沢藩3代藩主。上杉定勝の次男。播磨守、侍従。父の死によって家督を継ぐが、嗣子なく死んだため、上杉家断絶の危機を迎えた。 上田重安(うえだ しげやす)、上田宗箇日本(尾張国愛知郡)1563~1650統率:C 武力:B 政治:C 知力:C 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------丹羽家、豊臣家臣。九州征伐や小田原征伐、朝鮮出兵にも従軍する。戦で活躍する一方で、古田重然に茶道を学び、茶人、造園家としても成功する。茶道の上田宗箇流の流祖。 植村家政(うえむら いえまさ)日本1589~1650統率:C 武力:C 政治:B 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------徳川家臣。植村家次の長男。旗本。徳川秀忠付の小姓を務める。御徒頭、志摩守に任官し、大阪の陣では斥候を務め、出羽守に遷任された。後に徳川家光付となり、大番頭に任じられ、大和国高取藩の初代藩主となる。 宇喜多秀家(うきた ひでいえ)日本(備前国)1572~1655統率:C 武力:C 政治:B 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------豊臣家臣。備前の戦国大名。宇喜多直家の子。父の死と共に家督を継ぐ。秀吉の後見下で成人し、四国、九州、小田原攻め、朝鮮出兵と従い、豊臣政権の五大老にまで列せられた。関ヶ原の合戦では、西軍に付き、助命されたものの、八丈島へ島流しにされた。『備前宰相』と呼ばれた。 氏家行広(うじいえ ゆきひろ)、荻野道喜(おぎの どうき)日本(美濃国)1546~1615統率:C 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------斎藤家、織田家、豊臣家臣。氏家卜全の次男。豊臣秀吉に仕えて小田原征伐などで軍功を挙げた。関ヶ原の戦いでは西軍に与することになり、浪人となった。大坂冬の陣では、荻野道喜の名前で活躍したが、夏の陣で落城と共に自刃した。 碓氷姫(うすいひめ)日本(三河国)????~1612統率:D 武力:D 政治:D 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------酒井忠次の正室。松平弘忠の異母妹で、徳川家康の叔母に当たる。酒井家次の母。 宇都宮国綱(うつのみや くにつな)日本(下野国)1568~1608統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------宇都宮家22代当主。戦国大名としては最後の当主。宇都宮広綱の嫡男。北条氏の侵攻が激化する中、豊臣秀吉と同盟を結ぶ。小田原征伐にも参陣し、下野18万石を安堵される。しかし、後に改易され、備前の宇喜多秀家預かりとなった。 鵜殿氏長(うどの うじなが)日本(三河国)1549~1624統率:C 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------今川家、徳川家臣。鵜殿長照の子。今川義元に従っていたが、桶狭間の戦いの後、徳川家との戦いに敗れて捕虜となり、松井宗恒を頼った。後に徳川家康の家臣となり、姉川の戦い、長篠の戦いにも参加し、小田原征伐の後の関東移封で徳川家の旗本となった。 雲光院(うんこういん)、須和、阿茶局日本1555~1637統率:C 武力:C 政治:B 知力:B 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------徳川家康の側室。武田家の家臣・飯田直政の娘で、神尾忠重に嫁ぐが夫に先立たれた。家康に奥向きの諸事一切を任されており、大坂冬の陣の際も、常高院らと交渉して和議をまとめた。 英勝院(えいしょういん)、お梶、お勝の方日本1578~1672統率:C 武力:C 政治:C 知力:A 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------徳川家康の側室。父は、太田康資と遠山直景とする説がある。関東移封となった家康が関東の名門を集める策の一環として結婚したともされる。非常に聡明で家康の寵愛も篤かった。 遠藤慶隆(えんどう よしたか)日本(美濃国)1550~1632統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------斉藤家、織田家、徳川家臣。遠藤盛数の長男で、見性院の兄。郡上八幡城主。飛騨や美濃に置かれた。森可成や金森長近などの与力を務めた。本能寺の変後は織田信孝に従い、関ヶ原の戦いでは東軍に与し、郡上八幡藩初代藩主となった。郡上おどりを奨励した。
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Ver3.02H情報←前? 稼動日:2015年6月18日 システム面階級・位 戦闘関連 戦闘システム修正 演出面 バグ、その他不明な点など 各勢力追加カード 排出停止カード 追加家宝 カード表記変更スペック変更 計略変更 計略修正 家宝修正 システム面 サブタイトルが「1615 大坂燃ゆ、世は夢の如く」へ変更。 新規カード130枚以上追加 新システム『傾奇ボーナス』の追加 群雄伝に「大坂の陣」の豊臣の章、徳川の章追加 初心の章に新指南を追加 階級・位 Ver3.0x時の階級はリセットされ、各地点から再スタートに 戦闘関連 新兵種「砲兵」(ほうへい)追加 新特技「戦旗」(せんき)追加 新計略カテゴリ【傑集】(けっしゅう)追加 新計略カテゴリ【真田丸】(さなだまる)追加 戦闘システム修正 【全体】 部隊の復活時間を短縮 2勢力、3勢力時の最大士気量増加(2勢力の最大士気9→10、3勢力の最大士気は7→8) 士気上昇速度増加 部隊の接触及び乱戦によるダメージの武力依存減少 兵種の相性による乱戦ダメージの変化を削除 攻城にかかる時間を延長 1コストの部隊の攻城ダメージ減少 2コスト以上の部隊の攻城ダメージ増加 【騎馬隊】 突撃のダメージ増加 突撃時の乱戦速度上昇 【鉄砲隊】 ヒット数による鉄砲のダメージ増加 部隊をタッチしてから鉄砲が発射されるまでの時間を短縮 精密射撃時の1発ごとの発射間隔を延長 【弓足軽】 弓攻撃のダメージ減少 【槍足軽】 移動速度上昇 槍撃を当てた騎馬隊への移動速度低下率減少 迎撃時の速度低下時間を短縮 【足軽】 動きはじめてから基本の移動速度になるまでの時間を短縮 【竜騎馬隊】 突撃のダメージ増加 射撃時のダメージ減少 攻城ダメージ減少 突撃時の乱戦速度上昇 【軽騎馬隊】 突撃のダメージ増加 突撃時の乱戦速度上昇 【一領】 民兵時の復活時間低下値減少 【三葵計略】 三葵計略使用時の追加点灯時間を短縮 【普請】 各兵種の普請速度、敵拠点の制圧速度調整 演出面 バグ、その他不明な点など 各勢力追加カード 織田家 武田家 上杉家 今川家 浅井朝倉家 本願寺 北条家 毛利家 島津家 豊臣家 伊達家 徳川家 長宗我部家 真田家 他家・東 他家・西 戦国数奇 排出停止カード Ver.2.2(1477 破府、六十六州の欠片へ)の武将カード Ver.3.0(1600 関ヶ原 序の布石、葵打つ)のSS(戦国数寄)、SSR武将カード 追加家宝 無し カード表記変更 スペック変更 武家 名前 計略名 変更点 豊臣063 織田有楽斎 有楽の小呪縛 特技【魅力】削除 豊臣088 細川幽斎 幽趣佳境 特技【魅力】削除 宴095 真田幸隆 攻弾正の手並 特技【伏兵】削除、特技【攻城】追加 計略変更 無し 計略修正 武将名 計略名 内容 織田家 武田家 今川家 浅井朝倉家 北条家 毛利家 島津家 伊達家 豊臣家 徳川家 長宗我部家 他家・東 他家・西 家宝修正 奥義効果 分類 家宝名 修正内容詳細 装備効果 分類 効果名 内容 編集が苦手な方はこちらへ訂正指摘・情報提供をお願いします。 ※感想、雑談、予想、質問はお控えください。 雑談・質問等はこちらをご利用ください →雑談・質問ページ 名前