約 5,620 件
https://w.atwiki.jp/bbtouhou/pages/16.html
東方封魔録 ~ 浄土曼荼羅 -- タイトル画面 博麗 ~ Eastern Wind -- 1面テーマ She s in a temper!! -- 1面ボス・里香のテーマ1 End of Daylight -- 2面テーマ やみのちから -- 2面ボス・明羅のテーマ 幻夢界 -- 3面テーマ 死を賭して -- 3面ボス ひもろぎ、むらさきにもえ -- 4面テーマ 恋色マジック -- 4面ボス・魔理沙のテーマ 東方封魔録 ~ 幽幻乱舞 -- 最終面テーマ Complete Darkness -- 最終面ボス・魅魔のテーマ エキストララブ -- エキストラステージ 戦車むすめのみるゆめ -- エキストラボス・里香のテーマ2 遠野の森 -- エンディングテーマ 昔話わんだーらんど -- スタッフロールテーマ 博麗神社境内 -- 未使用曲(1面テーマ) 陽落ちて -- 未使用曲(2面テーマ) 封魔終演 -- 未使用曲(スタッフロールテーマ)
https://w.atwiki.jp/kyoto-database/pages/198.html
清凉寺(嵯峨釈迦堂) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 清凉寺(せいりょうじ)は、京都市右京区嵯峨にある浄土宗?の寺院。山号を五台山(ごだいさん)と称する。開基(創立者)は奝然(ちょうねん)、開山(初代住職)はその弟子の盛算(じょうさん)である。本尊は釈迦如来。嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)の名でも知られ、中世以来融通念仏?の道場としても知られている。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗?となる。 歴史 この寺の歴史には、阿弥陀如来を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺というふたつの寺院が関係する。この地には嵯峨天皇の皇子、左大臣源融の別荘、栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる寛平8年(896)に、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。棲霞寺草創から数十年後、宋に渡って五台山清凉寺で修行していた奝然(ちょうねん)という東大寺出身の僧が、宋への渡航中に台州の開元寺で、現地の仏師に命じて釈迦如来像を謹刻させた。その像は、古代優塡王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀(せんだん)の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、「インド~中国~日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦如来像」と呼ばれる。奝然は、永延元年(987)に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの像を安置する寺を建立しようとした。しかし、その願いを達しないまま長和5年(1016)に没したため、彼の遺志を継いだ弟子の盛算が棲霞寺の境内に建立したのが清凉寺である。享禄3年(1530)に円誉が清凉寺に入り、初めて十二時の念仏を勤修してより浄土宗?の寺となる。釈迦堂は、慶長7年(1602)に豊臣秀頼によって寄進・造営されたが、その後、嵯峨の大火によって釈迦堂以下の伽藍は焼失し、また地震の被害もあって伽藍は荒廃する。のちに徳川綱吉の母である桂昌院の発願で伽藍の復興が行われた。元禄13年(1700)より、江戸に始まる各地への本尊の出開帳が始まる。釈迦如来像は篤い信仰を集め、清凉寺は「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれて栄えた。一方、母体であった棲霞寺は次第に衰微したが、今に残る阿弥陀堂や阿弥陀三尊像に、その名残りをとどめている。 伽藍 境内正面に釈迦堂があり、東側には阿弥陀堂と霊宝館、西側には嵯峨薬師寺がある。本堂への参道の西側には多宝塔と法隆寺夢殿を模した聖徳太子殿、狂言堂が、参道を挟んだ東側には、堂の正面に傅大士(ふだいし)父子像が安置された一切経蔵(輪蔵)と八宗論池、弁天堂がある。他に法然上人?求道青年像、源融と奝然の墓、嵯峨天皇と檀林皇后の宝塔、豊臣秀頼首塚などが点在する。 仁王門 安永6年(1777)の再建で、入母屋造、本瓦葺。上層内部には十六羅漢像を、下層の左右には金剛力士像を安置する。 釈迦堂(本堂) 単層入母屋造、本瓦葺。正面・側面ともに七間の建築で、元禄14年(1701)の再建。本尊釈迦如来立像を江戸に出開帳して再建の資金が集められた。内陣奥の須弥壇には桂昌院の寄進という宮殿厨子を置き、本尊を安置している。本尊釈迦如来は縄目状の頭髪や同心円状の衣文の形式など、一見して日本の通例の仏像と異なる様式を示す。この様式を持つ像を「清凉寺式釈迦像」と呼び、奈良・西大寺本尊像をはじめ全国に100躯近くの模像がある。また、像の体内からは、造像にまつわる資料や奝然の遺品など多くの納入品が発見され、これらも像とともに国宝に指定されている。納入品のうち「五臓六腑(絹製の内臓の模型)」は、医学史の史料としても注目される。奝然の遺品としては、生誕書付(臍の緒書き)や手形を捺した文書なども発見された。本尊は毎月8日に御開帳される。 阿弥陀堂 本堂の東側にある、棲霞寺本尊の阿弥陀三尊像を安置していた(現在は霊宝館に安置)。通例の阿弥陀堂とは逆に、本尊が西を向く形で配置されている。寛平7年(895)建立、文久3年(1863)再建。 多宝塔 元禄13年(1700)に江戸護国寺での出開帳の際に寄進され、元禄16年(1703)に建立された。内部には多宝如来が安置されている。 狂言堂 毎年4月中旬の土・日に嵯峨大念仏狂言が行われる。これは壬生寺?の円覚上人が弘安2年(1279)に融通念仏?を広めるために創始したものといわれ、狂言面と独特の衣装をつけ、素朴な楽器に合わせて念仏を唱えながら演じられる無言劇である。「土蜘蛛」「釈迦如来」「舟弁慶」などの演目が、土地の古老たちが組織する大念仏衆によって伝承されている。重要無形民俗文化財指定。 霊宝館 棲霞寺の本尊阿弥陀三尊像をはじめ、本堂釈迦如来の両脇侍である文殊菩薩騎獅像と帝釈天(伝普賢菩薩)騎象像、釈迦十大弟子像、四天王像、毘沙門天像などの平安期の像が安置されている。本尊釈迦如来像の体内に封入されていた絹製五臓六腑のレプリカも展示される(本物は本尊の体内に戻されている)。春と秋に公開。 嵯峨薬師寺 清凉寺の境内に隣接する寺。小野篁(おののたかむら)作という生六道地蔵菩薩?像は、伝説で語られる冥土からの出口の井戸があったという福正寺が明治時代に廃寺となり、明治13年(1880)に薬師寺と合併された際に移されたもの。毎年8月24日に行う地蔵盆は生六道地蔵菩薩?のお祭として行われ、この日に限り本堂が一般公開される。 文化財 国宝 木像釈迦如来立像及び像内納入品一切 木像阿弥陀如来及び両脇侍坐像 絹本著色十六羅漢像 重要文化財(建造物) なし 重要文化財(美術工芸品) 木像文殊菩薩騎獅像 木像帝釈天(伝普賢菩薩)騎象像 木像十大弟子像 木像四天王立像 木像毘沙門天立像 木像地蔵菩薩?立像 紙本著色融通念仏?縁起 紙本著色釈迦堂縁起(伝狩野元信筆) 源空・証空自筆消息 拝観情報 住所 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46 電話番号 075-861-0343 拝観時間 9:00~16:00(4・5・10・11月は9:00~17:00) 拝観料 境内自由、本堂拝観400円(霊宝館は別途300円) アクセス 市バス・京都バス「嵯峨釈迦堂前」下車徒歩2分 駐車場 駐車場あり(800円) 主な行事 その他 京都検定出題 平成16年(2004)第1回京都検定2級出題 「室町時代に融通念仏の大道場として知られ、嵯峨釈迦堂とも呼ばれている寺院はどこか。」 平成17年(2005)第2回京都検定3級出題 「大念仏狂言の中で、台詞がはいるものはどれか。 (ア)壬生大念仏狂言 (イ)嵯峨大念仏狂言 (ウ)ゑんま堂大念仏狂言 (エ)神泉苑大念仏狂言」 平成17年(2005)第2回京都検定2級出題 「清凉寺の釈迦如来立像の胎内には、絹製の五臓六腑や経典などが収められていることで知られるが、当時宋から持ち帰ったのは誰か。」 平成17年(2005)第2回京都検定1級出題 「二尊院を東に進むと通称( )といわれている清凉寺がある(後略 )。」 リンク 嵯峨薬師寺オフィシャル http //yotsuba.saiin.net/~saga/yakusiji/ 古寺巡礼京都 21 清涼寺
https://w.atwiki.jp/nanakazari/pages/103.html
木乃花(このはな)は嫁へ行く 八千武(やちのたける)という男のもとへ 彼の国は広大ではあったが、野も山も荒れ果てた大地であった 木乃花は自分の国から持ってきた一本の花を植えた 夏に芽を出し、秋に幹を太らし、冬には枝を蓄えた そして春になったら花を咲かせ、数多の花びらが彼の国を包んだ そして幾年、彼の国は花の国として知れ渡るようになった ※※※※※※ ※※※※※※ いえ、めっさ別バージョンで!!!!!!! ある企画会議での一言 ※※※※※※ ※※※※※※ 何度もくぐった巫の門である。 ボロマールはそれを見上げていた。 荷物は、ほとんどない。ただ右手に大きな布袋を下げているだけである。 ボロマールはそれを引きづりながら、巫の門をくぐった。 巫の大通りは今日も人で賑わっていた。あちこちの店から客寄せの声が上がっている。 「よう、にいちゃん。どうだい、うちで何か買ってかないか?」 ボロマールを引き止める声、それは巫一の衣服屋「高砂屋」の呼び込みだった。 どうりで、どこかで見たことのある顔だ、ボロマールの右手にほんのわずか力がこもる。 ここは初仕事の思い出の場所でもあった。 「いや、今日はやめとくよ。またの機会に」 ボロマールは力ない笑みを浮かべて、その場を立ち去った。 しばらく歩いたボロマールの前に、大きな鳥居が姿を現した。 そう言えばここも……。 ボロマールは視線を落とし、右手の布袋を見つめる。ここでの仕事は厄介だった。いや、戦争であったと言っても過言ではない、それほどの激闘だった。 懐かしい気持ちが込み上げてきたボロマールの足は、気が付くと境内へ向かって動き出していた。 祭も終わった白浜宮神社、てっきり静かな社だろうと想像していたが、境内では神祇官服にその身を包んだ人で溢れていた。境内の中央には「かつて神輿だった木材」が一カ所に集められ、小さな櫓のように積み上げられていく最中だった。 何をしているのだろう、不思議に思ったボロマールは事情を知りたくなり、誰かに聞いてみようと、辺りを見回してみた。すると見知った顔が一人、忙しそうに指揮をとっている姿が目に入った。 「信乃さん!」 ボロマールの声に反応した男、有馬信乃は、ボロマールを見て頭を下げると、側にいた神祇官に二言三言何かを言って、ボロマールの方へ近づいてきた。 「こんにちわ、ボロマールさん。何かご用でしょうか?」 「いえ、たいした用事ではないんですがね、これ、何やってるんですか?」 ボロマールは積み上げられた木材を指差して問う。 「あぁ、これですか。これは神輿供養と言いましてね、ほら、この間祭で使った神輿あるでしょ。あれを弔う儀式ですよ。神輿を燃やして灰に変え、半分はこの境内に、残り半分を神輿用木材の植林地に撒くんです」 「ほうほう、なるほどー。何でそんなことをするんです?」 「神輿の魂と言いますか、まあそんなものを次の祭や神輿に引き継いでいく、と言った感じですかね。すべてのものには神が宿り、魂が存在する、そう言った思想から来ている式ですよ」 「すべてのものに、ですかぁ」 「ええ。生物はもちろん、神輿や社、それだけじゃなく、木や草と言った自然のものにも、衣服や剣のような人のてで作ったものにも。すべての物質には魂が存在するんですよ」 「なるほどー。いや、ありがとうございます。お仕事のお邪魔してすいませんでした。では、これで」 気難しそうな顔のボロマールは、しかし時折、くもの晴れたような笑みを浮かべつつ、腕を組みながら、立ち去っていった。 その日の夜、それは月のない朔の空。真っ暗な巫の街の片隅に、一人の男がいた。 「ふふふ、何を弱気になっていたんだろうな、俺は」 腰に巻いた赤い褌を固く締めながら、彼は呟く。 「たとえ姿はなくしても、お前達には魂があったんだな」 彼は右手に持っている布袋をさすりながら笑った。 「さあ行こうか。お前達の魂を引き継ぎに!」 「有馬様! 有馬様! 大変です、赤が現れましたっ!」 草木も眠る丑三つ時、自宅で眠りこけていた信乃のもとに、大声を上げた役人が押し掛けてきた。 「赤だと! ち、こんな夜中にぃ!」 寝癖の付き始めた頭をおさえながら、信乃は役人の前に姿を見せ怒声を上げた。 「姫さまと摂政さまにすぐに連絡を。それから越前藩国に至急連絡を入れて宇宙のデータを送ってもらえ。軍には民間人の対空避難誘導を伝達。それから……」 「あ、有馬様……、オーマではなくて。……小僧の赤です」 申し訳無さそうな声で、役人が信乃の言葉を止める。 「……」 「……」 「マルフンに連絡、至急街中に警戒網を。それから、一隊は被害のあった家へ向かわせろ。僕もすぐに着替えてそちらへ向かう」 マルフン達への指示を出した信乃は小さな咳払いその場をしめて、急ぎ足で自室へ戻る。役人の目の前にあった障子が、ぴしゃりと音をたてて閉まった。 「ふははははははーっ!!!!」 奇声のような笑い声をあげながら、屋根から屋根へと飛び移る黒い影。 時折止まっては手に持った布袋から何かを掴んで空へと投げる。 粉のようなその物体は、風に乗って巫の街の至る所へと降り注いでいた。 「いたぞ! あの屋根の上だ!」 松明を持った役人が屋根を指差して仲間に報せる。 「ふははははー。お前達のような輩に捕まるものか! これでも食らって成長するが良い!」 赤は布袋から粉を掴んで役人達に浴びせる。 「うわー! げほげほっ! な、なんだこれはー!?」 「漢の魂! 勇ましき神の権化! お前達にもしっかりと注入してやるぞ!」 そして赤はまた隣の屋根へと飛び移り、布袋の粉をばら撒きながら走った。 「お、追えー! やつを逃がすなー!」 「一体やつは何をしたかったんだ?」 翌日、信乃が被害にあった家や店をすべて回った後、首を傾げながら政庁に戻ってきた。 被害にあったのはすべて過去に褌小僧の被害にあった場所の近辺であった。そして、今回、褌は一つも盗まれてはいなかったが、家屋中が灰まみれになっていた。 どうやら昨晩現れた赤は、過去自分が盗みに入ったところへ何かを燃やした後の灰を撒いただけのようである。 まったく不可思議な事件に、この後しばらくの間、信乃は頭を悩ませることとなった。 灰まみれになった男が一人、入国管理局を訪れた。 「すいませーん、この国に移住したいのですが……」 対応口の奥からキセルをひょこひょこと上下させながら役人が姿を現した。 「あいよー、っと。おいおい、あんたも昨夜の被害にあったのかい?」 「被害? 何かあったんですか?」 灰まみれの男が首を傾げる。 「いや、あんたのその灰まみれの格好さ。昨夜褌小僧が現れて街中に灰を撒いていったって話だが、あんたもそのせいでなったんだろ?」 「はははー、そんなことないですよ。この灰はね、漢の魂の継承ですよ!」 「そ、そうなのか? まあいいや、入国だったな。そこの書類適当に埋めといてくれや」 その日、巫の国民台帳に新しく「ボロマール」という名が刻まれた。 <了>
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/470.html
陸奥国 大沼郡 高田組 境野(さかひの)村 大日本地誌大系第33巻 19コマ目 この村昔は石坂とて6町計南にあり。何れの頃にか今の地に移せり。 この地の字を境野といいし故(ゆえ)村名とす。 府城の西に当り行程2里9町。 家数68軒、東西2町17間・南北4町11間。 下野街道に住す。 四方田圃(たんぼ)なり。 東27間佐布川村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り10町20間。 西6町4間雀林村の界に至る。その村まで18町50間余。 南6町20間高田村の界に至る。その村まで17町余。 北7町32間沖中田村の界に至る。その村は亥(北北西)に当り18町。 また 戌(西北西)の方8町40間檜目村に隣りその村際を界とす。 申(西南西)の方6町30間寺崎村の界に至る。その村まで10町50間。 端村 二軒界野(にけんさかひの) 本村より2町余辰(東南東)の方にあり。 家数27軒、東西1町41間・南北52間、四方田畠なり。 出新田(でしんでん) 本村の北2町余にあり。 家数6軒、東西25間・南北1町58間。 ここより20間巳(南南東)の方に1区あり。 家数6軒、東西36間・南北1町16間。 共に四方田圃なり。 山川 宮川 端村出新田の東2町30間余にあり。 会津郡中荒井組宮袋村の境内より来り、北に流るること4町30間余檜目村の界に入る。 赤沢川 村西6町にあり。 寺崎村の境内より来り、北に流るること8町余檜目村の界に入る。 水利 牛沢堰 村より3町余丑(北北東)の方にて宮川を引き檜目村の方に注ぐ。 神社 熊野宮 祭神 熊野宮? 相殿 天王神 伊勢宮 稲荷神 幸神 勧請 不明 村の辰巳(南東)の方3町にあり。 鳥居あり。高田村渡邊伊予が司なり。 御舘神社 祭神 不明 鎮座 不明 村北にあり。 祭神及び鎮座の年月詳ならず。 鳥居あり。渡部伊予これを司る。 寺院 天宗寺 村中にあり。 平傳山と號す。 永禄元年(1558年)河原田豊前某という者草創し、永井野組松沢村松沢寺3世の僧三室が弟子誾恱を請いて住持とし、1町の田地を寄付せしという。今に松沢寺の末山曹洞宗なり。 本尊地蔵客殿に安ず。 光正寺 村中にあり。 この地昔3間四面の弥陀堂あり。荒廃して修理する者なかりしに、天正13年(1585年)下総国より教傳という僧来り村民等と力を勠(あわ)せて1宇の梵利を造立し、即弥陀を安置し境立山光正寺と號す。 浄土宗府下五之町高巖寺の末山なり。 本尊弥陀客殿に安ず。恵心作という。長9寸。 古蹟 館跡 村中にあり。 今は民居となりその形なし。 河原田豊前居りしという。 舊事雑考に豊前はもと松本氏の郎等なりしが、後伊達政宗に属せりという。 Google Map御舘神社 天宗寺 光正寺 余談。 (2020/4/8現在) GoogleMapで御舘神社の位置に古峯神社のマークが付いていますが、間違いか境内にある石塔を神社と勘違いしているのではないかと。少なくとも会津地方に古峯神社はありません。各地にある石塔は古峯講中で頂いた札を納める所です。 (2020/12/05現在) 神社名が修正されたのは良いのですが、同じ場所に2つ御舘神社(みたてじんじゃ)の登録がありました。一方は神社として、もう一方は戊辰戦争の史跡としての登録なので被っても問題ないとは思うのですが、ちょっと紛らわしいですね。 講中と代参 当神社には、講組織をもち、交替で代参を行う附属の講中がございます。その数は約二万を数え、崇敬者は二百万を越します。春秋の代参時には、こうした参拝者が全国より集まり、ひときわ社頭を賑わします。このように、当神社は、数多くの附属の講中をもつ神社として、全国でも稀にみる社の一つに数えられています。 ※講とは 古峯神社を参拝するため、崇敬する人々が集まって組織する仲間のこと。講元・世話人が中心となり、古峯神社参拝に関する費用や総ての運営をその仲間の人々達で行います。 ※代参とは 講員の中から毎年、幾人か選出(くじに依る所が多い)し、講中の代表で古峯神社に参拝し、御祈祷の御札を受けて、参拝に当らなかった講員に御札を授与する。その代表で参拝する人のこと。毎年交替で全講員が代参人となります。 参考:古峯神社の由緒・御神徳 三島町の桧原地区で行われた古峯神社講の代参の記事を見つけたので追記します。 古峯神社参拝(代参)(町民記者通信) 一部引用 古峯神社は天狗の信仰で知られ、初詣の際「歳旦祭」が行われ、例年約3万人もの参拝客が訪れているとのことでした。当地区においては、明治24年作成の「御札」の代参箱により、護符を受け取っています。 これは、およそ128年前から引き継がれている宝の木箱です。代参者の参加が、少子高齢化により運営も厳しいとの声が聞かれますが、伝統文化「世代を超えて受け継がれた精神性」を継続していきたいと思います。 古峯講中は今の時代にも受け継がれているようです。
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/1224.html
越後国 魚沼郡 小千谷組 東吉谷(ひかしよしたに)村・西吉谷(にしよしたに)村 大日本地誌大系第34巻 90コマ目 この両村はもと1村なり。應安2年(1369年)より別村となる。因て田圃(たんぼ)相交わり民家雑居す。 小千谷陣屋の西南に当り行程32町余。 東吉谷村、家数74軒。西吉谷村、家数72軒。 東西3町・南北12町20間。 西南は山に傍ふ。 東7町30間谷内村の界に至る。その村まで11町40間。 西35町、公領刈羽郡桐沢村の山に界ふ。 南1里4町、公領刈羽郡小国沢村の山に界ふ。 北9町20間小千谷村に界ふ。 また 辰(東南東)の方7町30間四子村の界に至る。その村まで10町20間。 戌(西北西)の方2町13間時水村の界に至る。その村まで10町10間。 亥(北北西)の方2町10間薮川村の界に至る。その村まで4町余。 東吉谷村 枝村 高畑(たかはたけ) 本村の東7町30間にあり。 家数8軒、東西30間・南北50間、四方田圃なり。 千谷郷(ちやかう) 本村の巳(南南東)の方5町30間にあり。 家数20軒、東西1町20間・南北2町、山間に住す。 西吉谷村 枝村 二又(ふたまた) 本村の巳(南南東)の方11町にあり。 家数39軒、東西2町・南北2町、山間に住す。 仁頃(にころ) 二又の巳(南南東)の方2町30間にあり。 家数32軒、東西2町・南北2町、山間に住す。 山川 郡池 村南20町、山中にあり。 2町四方。 昔郡代の妻蛇身となりこの池に棲しといい伝う。 下流小川となり、千谷郷川と唱え田地の養水となり、土川・小千谷・東西千谷川・千谷の村々を経て信濃川に入る。 神社 八幡宮 祭神 八幡宮 創立 ? 村中にあり。 村民の持なり。 山王神社 祭神 山王神? 勧請 不明 村中にあり。 村民の持なり。 寺院 圓満寺 村南にあり。 大雄山と號す。曹洞宗、市野宮村吉蔵寺の末寺なり。 大永中(1521年~1528年)本寺第3世大通という僧剏建(そうけん)しその後衰廃し、天正中(1573年~1593年)本寺第7世月岑という僧再興すという。 客殿 12間に8間、丑寅(北東)の方に向う。 本尊釈迦。 鐘1口あり。径2尺4寸、『寛政十二庚申年六月祥旦十三世大容榮泉代再鑄焉』と彫付けあり(寛正12年:1800年)。銘あれども煩わしければ略す。 観音堂 村中にあり。 草創の年月を伝えず。 圓満寺これを司る。 薬師堂 村中にあり。 何れの頃建立すということをしらず。 村民の持なり。 十王堂 村中にあり。 創立の年代詳ならず。 村民の持なり。 観音堂 枝村千谷郷にあり。 建立の年代しれず。 村民の持なり。 現在の住所を見ると、東吉谷を南北に挟み込むように西吉谷があります。風土記の頃の西吉谷は北側の方を指しているのではないかと思われいます。 Google Map東吉谷高畑地区 茶郷地区(千谷郷) 西吉谷二又地区 仁頃 - 地名に残らず。迯入(にぎり)辺りが該当? 郡池?郡殿の池(おいよの池とも)の事か? 宇佐八幡宮(東吉谷) 山王神社 - 不明。神社明細帳にも記載なし。白山社ならあるのですが…。 円満寺(東吉谷) 観音堂 - 不明 薬師堂 - 不明 十王堂 - 不明寺院明細帳に明治13年6月に円満寺境内へ移転との記載あり。 観音堂(千谷村) - 不明 その他寺社白山神社(茶郷。No.39) 白山社(No.40?) 白山神社(二又。No.41?) 五社宮(迯入。No.42?) 神社? 観音様(迯入) 弁財天(郡殿の池と同じ地) 余談:神社について。 神社明細帳(請求記号19-1)を見ると、東吉谷と西吉谷にはいくつかの神社の登録があります。 No. 神社名 祭神 住所 他 38 宇佐八幡宮 誉田別尊(ほむたわけのみこと) 吉谷村大字東吉谷字宮ノ下 風土記本文に記載あり 39 白山社 白山比賣命(しらやまひめのみこと) 吉谷村大字東吉谷字茶郷 40 白山神社 菊理比賣命(くくりひめのみこと)(、大山咋命(おおやまくいのみこと)) 吉谷村大字東吉谷字城ノ入 大正3年4月21日に日吉神社を合併 41 白山神社 菊理比賣命(くくりひめのみこと) 吉谷村大字西吉谷字郡又 42 五社神社 菊理比賣命(くくりひめのみこと) 吉谷村大字西吉谷字五社 43 日吉神社 大山咋命 吉谷村大字西吉谷字鍋屋敷 No.40白山神社へ合祀 余談:寺院について 寺院明細帳(請求記号52-3)よりこの地にある寺院をまとめます。 No. 寺院名 本尊 住所 他 37 観世音堂 観世音菩薩 吉谷村大字東吉谷字茶郷 38 観世音堂 観世音菩薩 吉谷村大字東吉谷字鍋屋敷 圓満寺境内へ移転 39 十王堂 閻魔王 吉谷村大字西吉谷字前田 明治13年6月に円満寺境内へ移転 40 阿弥陀堂 阿弥陀佛 吉谷村大字西吉谷字郡又 41 薬師堂 薬師如来 吉谷村大字西吉谷字鍋屋敷 42 観音堂 観世音菩薩 吉谷村大字西吉谷字二頃
https://w.atwiki.jp/trinity_kristo/pages/653.html
映画『パッション』(2004年)より ゲツセマネの祈りの後、ユダに売られたイエスが逮捕される場面である。 マルコ14 43-52 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。 居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。 マタイ26 47-56 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」 このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。 ルカ福音書では、イエスは右耳を切り落とされた大司祭の手下を癒している。 ルカ22 47-53 イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。 イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」 ヨハネ18 1-12 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/703.html
陸奥国 河沼郡 坂下組 細工名(さいくな)村 大日本地誌大系第33巻 121コマ目 府城の西北に当り行程2里12町。 南北2区に住しその間2町20間余を隔つ。 南を上細工名という。東西40間・南北1町12間、家数7軒。 北を下細工名という。東西38間・南北1町40間、家数16軒。村中に越後街道あり。 共に四方田圃(たんぼ)にて東は鶴沼川に近し。 東14間・南47間、共に塚原村の界に至る。その村は南に当り4町20間余。 西3町30間下茅津村の界に至る。その村まで9町40間。 北7町7間青津組村田村の界に至る。その村は亥(北北西)に当り7町余。 また 戌(西北西)の方7間海老沢村の界に至る。その村まで8町10間余。 山川 鶴沼川(つるぬまかわ)(大川(おほかわ)) 俗に大川という。下同。 下細工名より5町寅(東北東)の方にあり。 塚原村の境内より来り、7町10間余北に流れ村田村の境内に入る。 水利 富川堰 塚原村の方より来り田地に漑(そそ)ぎ海老沢村の方に注ぐ。 寺院 妙福寺 上細工名の村中にあり。 山號を本光山という。開基の年月を詳にせず。 法華宗府下大町實成寺の末寺なり。 地蔵堂 妙福寺の東にあり。 3間半四面、南向き。 地蔵木佛、長3尺3寸5分。座像なり。運慶作と言伝う。 も村北8町計にあり。慶長19年(1614年)閏2月29日この処に遷れり。 相伝ふ。嘉元の頃(1303年~1306年)實成寺の開山日尊出羽国に趣んとて耶麻郡熊倉村に至りし時、何くともなく小僧1人来て日尊に向い「吾村老若疫に染て病苦に堪ず。願わくは師の法力を假てその苦を濟(すく)わん」という。日尊やがてその請に応じければ小僧日尊が行李(こうり)を肩にし1庵の前に至り禮謝の體をなし忽(たちまち)そのゆく所をしらず。日尊怪て門に入り庵主を見てこれを問う。庵主いい「吾庵に小僧なし。ただ地蔵の霊像のみあり。彼化身なるも測難(しりがたし)」とて共に地蔵堂に詣見れば、果たして日尊が行李を肩にせり。日尊感涙を催し庵主の請に従い木像の背に題目を書し、また石面に妙法蓮華経の5字を題し攘災(じょうさい)の法を修しければ、1村の老若忽その病苦を免れしと(今も堂前に日尊が書しという題目を彫ける石碑あり)。またこの像天文5年(1536年)の洪水(*1)にに漂流して越後国に至りしに、童子多く集まり手車にのせ村送にしてこの村まで送還せしとぞ。その時の童謡もこの辺の兒戯(じぎ)に残れり。 古蹟 館跡 上細工名の村中にあり。 東西36間・南北24間。 葦名盛興の臣谷津土佐(諱を伝えず)という者住し、その後皆川次郎吉村という者住せしという。 Google Map妙福寺 細工名館(さくらとおしろ)
https://w.atwiki.jp/steptravel/pages/23.html
首里城祭り(沖縄) 首里城祭りのメインイベント「琉球王朝絵巻行列」は、琉球王朝時代、中国皇帝の使者である冊封使が訪れたときの行列をアレンジしたもので、豪華絢爛な行列が見物です。 琉球王朝の都であった首里の文化にふれることができる秋の一大イベントです。 唐津くんち(佐賀県) 曳山囃子の優雅な調べのなか「エンヤ、エンヤ」「オイサ、オイサ」と掛け声が響く。 漆の一閑張りという手法(木型に紙を張重ね造型する工法)で制作された14台の巨大な曳山は全国無比の芸術品です。 西条祭り(愛媛県) 木製の車が左右に付いた人の背丈ほどある屋台を30名程のかき夫連中が2本の太い梃子に体ごととりつき、巧みに操作して振り廻しては屋台ひしめく境内を暴れるように走り回る。 優雅で華麗なだんじりとは対照的に、御輿独特の激しい太鼓の囃子と非常に猛々しく豪快な迫力にあふれた屋台が幻想的。
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/287.html
陸奥国 会津郡 原組 原村 大日本地誌大系第31巻 20コマ目 この村もと9区に分る。 天正18年(1590年)野の中に聚(あつ)まりて1村となれり、因て名けりという。 府城の東に当り行程3里19町余、家数79軒。 東西1町18間・南北5町51間。 西南は山に傍(そ)ひ四方に田圃(たんぼ)あり。 白川街道駅所にて村中に本陣を置き、官より令せらるる掟条目の制札あり。 府下よりここに継ぎ、ここより1里30町24間安積郡福良組赤津村駅に継ぎ、また1里17町20間赤井村駅に継ぐ。 村西に一里塚あり。 東14町18間・南5町16間、共に東田面村の界に至る。その村は東に当り14町50間余。 西15町西田面村の山に界ふ。 北7町6間西田面村の界に至る。その村は亥(北北西)に当り14町10間。 また寅(東北東)の方14町34間、崎川村の界に至る。その村まで20町余。 小名 吉平(よしかたひら) 本村より戌(西北西)の方22町にあり。 家数4軒、東西30間・南北1町10間、山中に散居す。 この地もと葭平(よしかたひら)といへるを延寶6年(1678年)小出組桑原村の農民新田を開き今の字に改めしという。 端村 高坂 本村より辰(東南東)の方1里2町余にあり。 家数9軒、東西50間・南北1町30間、山中に散居す。 村南に白川街道あり。 田代 本村の南1里19町にあり。 家数13軒、東西50間・南北2町、両山の間にあり。 南北に田圃(たんぼ)あり。 山川 立山 村東4町にあり。 昔何人かここに館を築いて住せしという。今猶(なお)古瓦を得ることあり。 布引山(ぬのびきやま) 村より辰巳(南東)の方3里余にあり。 本村及び東田面・西田面・崎川・経沢5ヶ村入逢の山なり。 (本郡の条下に詳なり) 黒森峠 端村高坂の辰巳(南東)の方7町10間余、白川街道にあり。 左右に松樹多し。 絶頂に至て両岩相束ね狭隘(きょうあい)にして並行くべからず。 俗に咽究(のどつまり)という。 下路更に嶮しければ雪中には縄を下げ置きこれを牽て往来せり。 頂まで5町余、東は赤津村に属す。 西麓に一里塚あり。 原川 村東2町にあり。 布引山より流れ出て北に流れ山中の諸渓に合て田代川となり、2里30町計流れ東田面村の境内を経て村の東北に至り、小川を得て東に流るる事27町余崎川村の界に入る。 広7間計。 春夏の際鮠(はや)多く湖水より上がれり 小川(こかわ) 小名吉平の山中より流れ出て北に流れ五郎滝(ごらうがたき)となり、村北50間計を過ぎ3里30町余流れ原川に合す。 広3間余。 升滝 端村田代の辰巳(南東)の方1里30町計原川の上流にあり。 高10丈計。 波滝 田代の辰巳(南東)の方1里計にあり。 高15丈。断崖より瀉(そそ)ぐ。 原野 をさなかふし原 端村田代の辰巳(南東)の方29町にあり。 東西50間・南北8町。 関梁 橋3 一は東南2町東田面村に通る路にあり、長5間。 一は端村田代の北9町本村に通る路にあり、長5間。 共に土橋なり。 一は端村高坂の西白川街道にあり、長7間・幅1条、勾欄あり。 共に原川に架す。 水利 舟木橋 村より丑寅(北東)の方19町にあり。 東西30間・南北20間、崎川村の養水とす。 神社 守屋神社 祭神 守屋大連 鎮座 不明 村西3町にあり。 鳥居幣殿拝殿あり 伊勢宮 祭神 伊勢宮? 相殿 山神 鬼渡神 金沢神 境内にあり 神職 丸山主計 其の先は喜膳某と称す。 何の頃神職となりしか詳ならず。 今の主計は5世の孫なりとぞ。 麓山神社 祭神 麓山祇神? 鎮座 不明 村より辰巳(南東)の方22町余にあり。 鳥居あり。修験安楽院司なり。 伊勢宮 祭神 伊勢宮? 相殿 山神 鎮座 不明 端村高坂の北山腰にあり。 鳥居拝殿あり。丸山主計これを司る。 熊野宮 祭神 熊野神? 鎮座 不明 端村田代より4町計、丑寅(北東)の方小山の上にあり。 鳥居あり。赤津村修験真光院司なり。 諏訪神社 祭神 諏訪神? 鎮座 不明 田代より3町余丑寅(北東)の方山麓にあり。 鳥居拝殿あり。眞光院これを司る。 山神社 祭神 山神? 本社の北にあり。 寺院 観音寺 村中にあり。 山號を東海山という。耶麻郡川西組本寺村恵日寺の末山真言宗なり。 開基の始詳ならず。 もと湖浜にあり(今その地を知らず)。 観音の像を安ず。山號寺號これに因るという。 元和5年(1619年)尋音という僧ここに遷せりとぞ。 客殿に弥陀の像を安し本尊とす。 観音堂 境内にあり 古蹟 古碑 村の丑寅(北東)の方9町余、崎川村にゆく道にあり。 高4尺計の野面石に梵字を彫付、その下に許多(あまた)の文字あれども多くは見えず。 徳治三(1308年)戊申の数字ほのかに見ゆるのみ。 またここより2町余北に2基あり。極めて古代の物と見ゆれども文字を弁じ難し。 Google Map黒森峠 守屋神社 鬼渡神社
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/355.html
陸奥国 会津郡 中荒井組 中里(なかさと)村 大日本地誌大系第31巻 46コマ目 府城の西に当り行程1里12町。 家数21軒、東西2町・南北40間。 四方田圃(たんぼ)なり。 東1町58間・北4町46間、共に真渡村の界に至る。その村は寅(東北東)に当り4町20間余。 西1町8間石原村の界に至る。その村まで1町20間余。 南2町55間下荒井村の界に至る。その村まで9町。 水利 思鑿堰 下荒井村の方より来り、田地の養水とし、真渡村の方に注ぐ。 寺院 徳善院 村中にあり。 山號を延命山という。 大永5年(1525年)の建立にて開基の僧を真観という。 真言宗府下大町一桂院の末寺なり。 本尊観音客殿に安ず。 観音堂 境内にあり。 北会津村誌中里村および白山村 Google Map徳善院 村社中里稲荷神社