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―1953年 横浜 私たちは本当ならここに居ないはずの存在。私は、8年前の夏に、あの子は5年前の夏に、この世から居なくなってしまった。 戦没艦。だけれど、色々あってまたこの世界に生み出され、こうして生きている。 終戦後、英国政府も日本政府も対応にこまねいていた。居ないはずのものが居るのだから。 結局、両政府の諜報機関の協力によって、居ないはずの人間としての戸籍を与えられ、私たちは日本へ"帰って"きた。 いつの間にやら"保安庁広報課"の人間になっていた後野さんには大変な迷惑をかけてしまった。 彼女からは、兄弟姉妹にわざわざ会いに行くような真似はやめてほしいと釘を差されている。 もちろん、私たちは居ないはずだからだ。もし知られようものなら、大騒ぎになる。 私達自身、お互いが一緒に過ごせればそれ以上は望まないと思っていた。 ……思っていた、のだけど。世の中そうは、上手く行かないみたいだ。 私たちは後野さんの紹介で、横浜中華街の中華飯店"麒麟"というお店で働き、生活費を稼ぐことになった。 このお店のオーナーは、中華民国海軍戦艦だったイェンチュイという女性だった。 軍から失踪した後、中国の国共内戦で何か言えないようなことをしていて、それが終わったからこうして趣味の店を開いているそうだ。 相当滅茶苦茶なことをしてそうだけど、後野さんには詳しいことを聞くことはできなかったし、本人に訊いて機嫌を損ねるのも恐ろしいので気にしないことにしている。 数日間仕事を仕込んでもらったけど、ちょっと口調が荒くて短気なのを気にしなければ信頼はできそうな人だと思う。 ある日の朝。私たちはイェンチュイと一緒に開店準備をしていた。 すると、裏口から来客があった。 私は対応するために裏口の扉を開けると、そこには背の高い、色白で長い黒髪の少女が微笑んで立っていた。 「あーえっと……おはようございます、何か御用ですか?」 私は声をかけるが、少女は返事をしないし、表情も変わらない。代わりに、彼女の足元に置いてある、何か重たげな木箱を指差す。 「えっと……?」 私が対応に困っていると、店の奥から声が近付いてくる。 「姉さん、どうかしたの………うぇっ!?」 声の主は毒雨だった。そして、何か妙に驚いている。 「どうしたのよ?」 「いや……ソイツは……」 「この子は?」 「臘雪(ろうせつ)…だよ」 「うん?」 「……あぁ、姉さんは知らないのか。雨氷型の、59番艦の、臘雪なんだ」 「へぇ~この子が……は?」 唐突な姉妹艦の来訪に私たちは慌ててしまう。どうしよう。 いや、でも、大丈夫なはずだ。私の事を彼女は知らないはずだし、毒雨は当時と違って女の子なのだ。 そんなやりとりをしていると、目の前の少女……臘雪は、メモ帳を取り出し何かを書きはじめる。 書き終わると、丸く可愛らしい文字で"毒雨"と書かれたメモをこちらに見せ、もう片方の手は毒雨を指差し、首を傾げている。 ……完全にバレている。 「察しの良い妹は困るねェ」 「女の子だからセーフと思ったのは慢心だったわね」 「まぁ姉さんにも一発でバレたし……きゃっ!?」 いつの間にか臘雪は毒雨の後ろに立っており、毒雨を嬉しそうにハグする。 「あーあーうんうんそうだな久しぶりだな……あの日はお前も一緒に出撃してたんだっけ………お前そんなんだったっけ……?」 「あなたには言われたくないんじゃない?」 「それもそっかー」 気が済んだのかハグをやめた臘雪は私を指差し首を傾げている。 「そうね、自己紹介がまだだったわね。私は雨打。雨氷型の26番艦……だったわ。初めまして」 言い終えると、臘雪は私に向かって深々とお辞儀をする。 「えっとね。私たちがここでこうしていることは……」 言い終えないうちに、臘雪は口に指を立てるジェスチャーをしながら首を傾げる。 「そう、ね。それでお願い。……随分出来の良い妹じゃない?」 「まぁ、そう、だな……」 臘雪は嬉しそうにニコニコしている。 「おいィ、開店前だっつーのになんだか騒がしいじゃねえか、どうしたんだ?」 オーナーだ。 「なんだ魚屋のネーちゃんじゃねえか、オッス。売りに来たのか?」 「魚屋?」 「そうだぞ?アタシは前にコイツが港で魚を釣ってるのを見かけて取引を始めたんだ。その魚をウチで使わせてくれってな」 「へぇーそうなんすね」 「お前ら随分仲良さそうだが何だ?知り合いなのか?」 「彼女は臘雪、私たちの姉妹艦なの。尤も、私は初めて会ったんだけど……」 「はーん、ソイツは奇妙な縁もあったもんだな。ってかローセツって名前なんだな、初めて知ったぜ!」 相変わらず臘雪はニコニコしているが、思い出したように木箱を運び入れてきて、開けてオーナーに見せる。中には氷と新鮮な魚が詰まっていた。 「おうおう上等じゃねえか。お代持ってくるから待ってろよ」 一度カウンターに潜り、再び戻ってきたオーナーは臘雪に小袋を渡す。臘雪は受け取るとニコッと笑い、オーナーに軽く会釈をする。 「ウチの魚料理は評判がいいんだぜ?ローセツサマサマよ。もちろんアタシの腕あってこそだけどな!ギャハハ!」 オーナーのちょっと下品な笑いが炸裂する。 「そういやお前らはまだアタシの魚料理食ったこと無かったっけな?良い機会だからアタシの腕前にひれ伏せよ。二度と立ち上がれなくしてやるぜ」 「マジで?やった!」 「二人は待ってる間に開店準備進めとけ!ローセツは今から客人だ、客席で待ってろ」 「はいはーい」 中華飯店"麒麟"の朝はまだ、始まったばかりだ。 (おわり)
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{{大統領 | 人名=毛沢東 | 各国語表記= | 画像=Mao1946.jpg | キャプション= | 代数= | 職名=中央人民政府主席 | 国名=中華人民共和国 | 就任日=1949年10月1日 | 退任日=1954年9月27日 | 代数2=初 | 職名2=主席 | 国名2=中華人民共和国 | 就任日2=1954年9月27日 | 退任日2=1959年4月27日 | 出生日=1893年12月26日 | 生地=Template QIN1890? 湖南省湘潭県韶山村 | 死亡日=1976年9月9日 | 没地=北京(廟:毛主席紀念堂) | 配偶者=羅一秀、楊開慧、賀子珍、江青 | 政党= 中国共産党 | サイン= }} {{中華圏の人物 | 名前=毛沢東 | 画像= | 画像の説明= | 出生= | 死去= | 出身地= | 職業= | 簡体字=毛泽东 | 繁体字=毛澤東 | ピン音=Template Audio? | 注音= | 和名=もう たくとう | 発音=マオ ツォートン | ラテン字=Mao Tse-tung | 英語名= }} Template 中華人民共和国? 毛 沢東(もう たくとう、1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、軍人、思想家。字は詠芝、潤芝、潤之、筆名は子任。中国共産党の創立党員であり、中華人民共和国の建国の父とされている。死去に至るまで、同国の最高権力者の地位を保った。 毛沢東思想として知られる彼の共産主義思想は、海外、特にインド以東のアジアとラテンアメリカの共産主義者にも影響を与えた。内政においては、大躍進政策の失敗や文化大革命を引き起こしたことにより数千万とも言われる大多数の死者を出し、国力を低下させたが、「中華人民共和国を建国した貢献は大きい」として、その影響力はいまだ根強く残っている。しかし文化大革命で失脚した上に迫害された鄧小平らの旧「実権派」が党と政府を掌握した状況下で、大躍進政策や文化大革命は「功績第一、誤り第二」である毛沢東の失敗とされ、歴史の教科書からも彼を過度に賛美する記述はなくなり、毛沢東の神格化は次第にされなくなった。 プロフィル 生い立ち thumb|left|200px|[[1919年 家族とともに]] 1893年に清国湖南省湘潭県韶山村の地主の家庭に生まれる。3人兄弟。生家は地主といっても小規模なものであり、毛沢東は厳格な父によって子どものうちから労働に従事させられる。小学校を卒業後、長沙の中学に通い、14歳で最初の結婚をするが数年で妻は死去した。 その後、従兄から贈られた中国近代化を説く本に刺激をうけて16歳で故郷を離れ、いくつかの学校や地方軍などを転々とし、アダム・スミスやモンテスキューなどの社会科学系の書物に触れる。1918年、湖南省立第一師範学校を卒業し、恩師・楊昌済を頼って中華民国北京政府の首都である北京に上京。大学図書館に勤めるかたわら『新青年』の熱心な寄稿者となる。 教師時代 翌1919年、帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。このころ新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大釗と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。同年恩師の娘・楊開慧と結婚。 中国共産党創立 1921年に、上海で中国共産党の創立党員として第一回大会(中共一大会議)に出席し、以後その指導者の地位を生かして労働組合のオルグに力を注ぐ。コミンテルンの指導に従って国共合作に重要な役割を果たすが、1927年の上海クーデターで国共合作が崩壊すると、毛沢東は江西省で蜂起(秋収起義)したが失敗、配下の農民兵とともに孤立し、家族とも離れて湖南省と江西省の境にある井崗山に立てこもることになった。 この根拠地に潜伏中に地元の名家の娘賀子珍と関係を持ち、1929年には長女が誕生している。1930年妻の楊開慧が、蒋介石率いる中国国民党軍に捕らえられて処刑される。同年、毛沢東は井崗山を去り、江西ソヴィエトを建設。主席となるが、以後四年間国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。 日中戦争時代 国民党軍に追われて1934年10月18日に根拠地を放棄し敗走、いわゆる「長征」を開始するが、この最中の1935年1月15日に、貴州省遵義で開かれた会議(遵義会議)で党の実権をほぼ掌握する。1937年に始まった日本との間の日中戦争においては、第二次国共合作を行い、宿敵である蒋介石と手を結び共同戦線を構築。1936年秋には陝西省延安に根拠を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示。消耗を防ぎながら抗日活動を続ける。 1938年には長征時代の妻である賀子珍と離婚し、不倫の上で上海の元女優、江青と結婚した。1940年には『新民主主義論』を著し、のちの「人民中国」の先見の明を示した。 その後は、国共合作の相手である国民党軍とともに、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。 国共内戦 1945年8月の中華民国を含む連合国に対する日本の降伏と、満州国を含む中国大陸からの日本軍の撤退後は、蒋介石率いる中国国民党軍との国共内戦となり、中国人民解放軍を率いて戦うこととなる。 中国人民解放軍はソ連からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗により、アメリカ政府からの軍事支援を削減された国民党軍に勝利を重ね、徐州を中心とする大規模な准海戦役に勝利し、1949年1月には北平(北京)に入城する。同年4月23日には国民党政府の根拠地首都の南京を制圧した。 中華人民共和国建国 1949年10月1日に天安門で中華人民共和国の建国を宣言した。なお、蒋介石率いる国民党政府は台湾島に移った。同年には、建国後も軍事援助を続けていたソビエト連邦を訪れ、ヨシフ・スターリンと会見している。 その後に勃発した朝鮮戦争では、ソビエト連邦とともに北朝鮮を支持して中国人民志願軍を派遣。この戦争で、長男の毛岸英を国連軍の一国であるアメリカ空軍の爆撃で失っている。 独裁化 thumb|200px|right|スターリンと毛沢東との友好関係を描くソ連の[[プロパガンダポスター]] 建国後は国家主席として階級を撤廃した共産主義社会の建設に力を注ぐが、1956年の「百花斉放百家争鳴」運動で、多くの知識人から硬直した政策を批判されたため、これを弾圧するために1957年6月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。 さらに「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標とし、1958年に大躍進政策を発動。大量の鉄増産のため、農村での人海戦術に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。農村では「人民公社」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、結果的に無謀な生産目標に対し実際よりも水増しされた報告書が中央に回るだけの結果になった。こういったことから大躍進は大失敗し、発動されてから数年で2000万人から5000万人以上の餓死者を出した。 このことで「世界三大大量殺戮者」として、ドイツのヒトラーやソ連のスターリンと共に揶揄されることとなった。この失敗以降毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない独裁的な傾向が強くなっていく。 中ソ対立 また、スターリン批判や対米政策をめぐり、ソ連のニキータ・フルシチョフ首相とも不仲となった。1950年代中旬からは中ソ対立が深刻化し、1960年には中華人民共和国に派遣されていたソ連の技術者全員が引き上げたほか、キューバ危機におけるソビエト政府の対応を公式に非難するなど、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込むこととなった。 文化大革命 こうした大躍進の失敗は主席である毛沢東の権威を傷つけ、1959年に国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなり、さらには1962年1月に開催された七千人大会において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれた。この大会を機に政治の実権は劉少奇-鄧小平ラインに移ることとなり、毛沢東の実権は大きく低下した。しかし大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東はひそかに奪権の機会をうかがっていた。 1965年11月、北京市副市長でもあった呉晗の『海瑞罷官』を「大毒草」であるとした姚文元の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」の論文が上海の新聞『文匯報(ぶんわいほう)』に掲載、これが端緒となり、1966年5月北京大学に反革命批判の壁新聞が貼り出され、事実上文化大革命が始まった。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為に対し「造反有理(謀反には理由がある)」として積極的に支持、自ら天安門広場に赴き、百万名の紅衛兵を煽動し「四旧打破」のスローガンを打ちたて、運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。 これらにより、江青や林彪らを中心とし、実権派(経済政策の柔軟化を唱える党員は「走資派」という蔑称のレッテルを貼られた)・修正主義者(「スターリン批判」をきっかけに個人崇拝を厳しく戒め始めた当時のソ連共産党・フルシチョフ路線に倣い、毛沢東個人崇拝見直しと代替権力として党官僚強化を唱えた党員をこう呼称した)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動である「プロレタリア文化大革命(文革)」への流れが決定付けられた。この頃個人崇拝の対象に祭り上げられた毛は「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手、万歳、万歳、万万歳」と称えられていた。 文化大革命では、紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇(1968年に失脚)ら中央指導部にまでおよび、教師ら「知識人」や、中国国民党と少しでも関わりのあったものを徹底的に迫害、文化財を破壊する等の極端な「左」傾偏向主義運動に発展し、その犠牲者の合計数は数百万数千万とも言われている。この流れの中、毛沢東の奪権目標であった劉少奇・鄧小平らの「実権派」は次々と打倒されたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥った。これを受け1968年毛沢東は学生たちの農村への下放を指示した。1971年の林彪事件以後、人材難から鄧小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えた。 米中接近と日中国交締結 毛沢東が世界に注目された最後の事件は1972年2月18日、北京における毛沢東=ニクソン会談である。この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していたにもかかわらず、毛沢東はニクソン大統領と握手し、同盟各国の頭越しに首脳会談による関係改善を成し遂げた。これに先立つニクソンの訪中予告は全世界の驚愕を呼び起こし、金ドル交換停止とともにニクソン・ショックとも呼ばれる。ただし、米中が国交を樹立するのは毛沢東の死後、1979年になってからである。 なお、この米中接近は冷戦下でソ連を牽制する必要があるアメリカと、同じく1960年代以降ソ連との関係が珍宝島事件(ダマンスキー島事件)などで悪化していた中華人民共和国双方の思惑が一致したものであった。「将来的に、資本主義国のアメリカは衰退し、社会主義体制によって発展するソ連こそが最大の脅威となるであろう」と毛沢東は予測していた。 その後、1972年アメリカの同盟国である日本の田中角栄首相もニクソンの後を追うように訪中して首脳会談を行い、国交を樹立(「正常化」)する。毛沢東が田中と面会したのはわずかな時間であったが、毛沢東は単に訪中しただけでなく、一気に国交を結ぶまでに進めた田中の決断力を「ニクソン以上のもの」と評価していた、といわれる。なお中華人民共和国も中華民国も二重承認を認めないため、日本はこれまで国交を結んでいた中華民国との国交を断絶した。 死去 ニクソンとの会見後に毛沢東が筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが発見された。医師らが懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていった。 その後も医師らによる懸命な治療は続けられたものの、1976年9月9日0時10分、北京の自宅で側近と主治医に見守られる中、毛沢東は82歳で死去した。 毛沢東の死の直後に腹心の張春橋、江青、姚文元、王洪文の四人組は逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結した。遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存、一般公開されている。 死後 毛沢東の死去後、江青ら四人組を逮捕失脚させて党主席に就任した華国鋒は「二つのすべて」(毛沢東の指示は全て守る)の方針を打ち出した。これは文革路線を継続させ、毛沢東の指示によって地位剥奪された人々を復権させないことを意味した。 これに対して鄧小平は「毛主席の言葉を一言一句墨守することは、毛沢東思想の根幹である“実事求是”に反する」との論法で真っ向から反駁した。党と軍の大勢は鄧小平を支持し、その後鄧小平が党と軍を掌握した。華国鋒は失脚して実権を失い「二つのすべて」は否定され、毛沢東の言葉が絶対化された時代は終わった。また党主席のポストが廃止され、存命指導者への崇敬も抑制され、毛沢東のような絶対的個人指導者を戴くシステムの否定が印象付けられた。 Template 共産主義? その後の評価 毛沢東の存命中は、国歌義勇軍進行曲の歌詞が毛沢東の偉大さを讃えるものに改変された時期もあったが、死後間もなくもともとの歌詞に回復され、国歌での毛沢東への言及はなくなった。 しかし、毛沢東の尊厳を冒すような行為は許されないというのが、現在の中国国内における一般認識である。たとえば六四天安門事件直前の天安門前広場での民主化デモのさなかに、一参加学生が毛沢東の肖像画に向かってペンキを投げつけたところ、ただちに周囲の民主派学生らに取り押さえられ、「毛主席万歳!」の声がわき起こったと報道された。 一般に文革を経験した世代は毛沢東を手放しで賞賛することは少ないが、直接文革を経験していない若い世代はそれほど警戒的ではないとされる。六四天安門事件の後、生誕100周年に当たる1993年前後に毛沢東ブームが起こったのをはじめ、関連商品などが何度か流行したこともある。 毛沢東の言葉・思想 日中戦争時代の有名な毛沢東の言葉: 「戦争という巨大な力の最深の根元は、人民の中に存在する。日帝がわれわれを迫害し得る大きな原因は、中国人民の側が無秩序・無統制であったからだ。この弱点を解消したならば、日帝侵略者は、われら数億の目覚めた人民群の目前にて、一匹の野牛が火陣の中に放られた如く、われらの恫喝により彼らは飛び上がらん如く脅かされるであろう。この野牛は必ず焼き殺さねばならぬ」 その他、毛沢東の思想詳細については毛沢東思想、毛沢東語録を参照のこと。 著作 新民主主義論 矛盾論 実践論 中華人民共和国の紙幣 1999年から発行が始まった現行の中華人民共和国の紙幣中国人民銀行券第五版では、すべての券種に毛沢東の肖像が描かれ、ほかの人物は描かれていない。また1988年に発行された第4版では、100元札に周恩来・劉少奇・朱徳と共に横顔が描かれていた。 参考文献 毛沢東『毛沢東選集』(中華人民共和国・人民出版社) 産経新聞「毛沢東秘録」取材班『毛沢東秘録』上下(産経新聞社・扶桑社文庫) 師哲『毛沢東側近回想録』(新潮社) 李志綏『毛沢東の私生活』(文藝春秋) ジャスパー・ベッカー『餓鬼』(中央公論新社) 補足 ドラマ「延安頌」で毛沢東の延安時代が描かれている。2007年11月から12月にかけて、日本でもCCTV大富で放送された。 関連項目 日中平和友好条約 中国共産党 孫文 蒋介石 周恩来 張学良 康生 西安事件 中華民国の歴史 中華人民共和国の歴史 日中戦争 ヘンリー・キッシンジャー 第二次世界大戦 毛主席紀念堂 毛沢東思想 マオ 誰も知らなかった毛沢東 東方紅 ジャン=リュック・ゴダール センデロ・ルミノソ ヨシフ・スターリン ネパール共産党毛沢東主義派 エンヴェル・ホッジャ 共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派(日本マルクス・レーニン主義者同盟=ML同盟) 日本労働党 立襟(マオカラー) 外部リンク Template commons? Template commonscat? 中国語の歌 日中愛好協会(正統) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月23日 (木) 14 35。
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エドガー・スノー(Edgar Snow、1905年7月17日 - 1972年2月15日)はアメリカのジャーナリスト。中国大陸の近代事情、特に親しかった中国共産党に関する作品により著名である。 来歴 250px|thumb|right|左からスノー、[[周恩来、鄧穎超]] エドガー・スノーはミズーリ州カンザスシティで生まれた。ミズーリ大学コロンビア校でジャーナリズムを専攻したが、父の学費負担を苦痛に感じて1年で退学、ニューヨークの兄のもとに移り、コロンビア大学に入学した。その後、広告代理店勤務を経てルーズベルト汽船(セオドア・ルーズベルトの息子が経営)の船のデッキボーイになり、1928年から世界一周の旅に出かけ、日本に密航したりした。同年、世界恐慌前の中華民国へ渡り、蒋介石ら国民党幹部らに会って記事を書く。 1929年には「コンソリデーティッド・プレス・アソシエーション (Consolidated Press Association) 」の上海記者となってアジア各国を精力的に取材して回った。1932年にはジャーナリスト志望のアメリカ人女性ヘレン・フォスターと東京のアメリカ大使館で結婚した。彼女はのちに、スノーが考えたニム・ウェールズというペンネームで『アリランの歌』を著している。アジアへの進行旅行の最中にH・G・ウェルズやバーナード・ショーらのフェビアン主義に触れ、欧米の帝国主義および日本の帝国主義・軍国主義に反感を抱く。 1933年には北京に行き、パール・バックやジョン・フェアバンクと交流。1935年の日本による中華民国北部侵攻に反感を抱き、「抗日戦線の鍵は中国共産党にあり」、と考えて党本部への取材を求める。1936年にスノーは宋慶齢から紹介状をもらい、長征後の共産党が本拠としていた保安に向かった。長征により兵力の大半を失い、抗日戦線のための中国人の団結を訴えたかった毛沢東との利害とが一致し、スノーはついに毛沢東ら幹部と出会う。 1941年に中華民国を離れるまで、ジャーナリストとして数多くの記事を書き、本を執筆している。この間、北京の中華民国政府にも仕え、燕京大学(後に北京大学に吸収)で教鞭を執ったりした。1937年に彼は後に有名となる作品『中国の赤い星 (Red Star Over China) 』を出版した。これは毛沢東を中心とした中国共産党を好意的に取り上げ、将来の共産党の隆盛を予見するものであった。 日中戦争が激しさを増した1941年にスノーはアメリカへ帰国し、『アジアの戦争 (The Battle for Asia) 』を出版。『赤い星』の愛読者だったフランクリン・ルーズベルトは、1942年に面会した後にスノーを非公式な情報提供者に任命。しかし、『赤い星』はソ連・コミンテルン、中華民国にいた共産党シンパの欧米人やスターリニストだった宋慶齢らから非難を浴びた。 戦後になり、1949年に離婚して女優ロイス・ウィーラーと再婚。マッカーシズムが盛んな1950年代には、ロイスの女優業が挫折したこともありアメリカを出国し、スイスに移り住んだ。その後1960年に、国共内戦の結果1949年に中国共産党により設立された中華人民共和国へと渡り毛沢東、周恩来と会談した。そのときの記録『今日の赤い中国 (Red China Today) 』では、大躍進による大飢饉を否定するなど、毛沢東の言うがままを書いたに過ぎないと批判され、スノー自身も自らの無知を認めている。 その後1964年から1965年にも訪中したが、そのとき毛沢東は「ベトナム戦争へのアメリカ介入を国内の団結に役立っている」と評価し、中国大陸における中国共産党による赤化革命成功には、「(彼らの敵であった)蒋介石だけでなく、日本の8年にわたる侵略が必要だった」と語っている。 1970年から1971年、妻を伴った最後の中国大陸への旅では、リチャード・ニクソン大統領は公私どちらの訪問であっても歓迎されるだろう、と述べている。しかしこの時、毛沢東の個人崇拝の強制(毛沢東は、スノーに「個人崇拝は政治的に必要であり、中国には皇帝崇拝の伝統がある」と言った)や、革命に参加した友人の息子が中華人民共和国で逮捕・拷問された(周恩来の介入で彼は生還できた)ことなどにより、中国共産党率いる中華人民共和国に対して幻滅の感を持つにいたる。 一方で、唐聞生(ナンシー・タン)を通訳とした毛沢東との会談で、毛沢東が自分のことを「和尚打傘(=無髪無天wú fā wú tiān≒無法無天wú fǎ wú tiān=「やりたい放題」というシャレ)」と言ったのを、文字通りの「傘を手に歩む孤独な行脚僧」と誤解して、毛沢東の意外な一面としてアメリカの雑誌ライフに紹介している高島俊男 『お言葉ですが・・・7』、2006年、文春文庫、ISBN 4-16-759808-6。 スノーは1972年にジュネーヴで癌で死亡した。その62時間後にリチャード・ニクソン大統領の中華人民共和国訪問が行われている。遺灰の一部はアメリカ、そしてかつて教鞭を執った北京大学に埋葬された。 評価 当時中国における小勢力にすぎなかった共産党に注目し、その詳細なレポートを行ったスノーの著作は現代中国史における古典的な作品とされている。 スノーは共産主義者ではなかったが、中国共産党を紹介する彼の著作物は、彼の死後も中国政府によってプロパガンダとして利用されている。中国では「スメドレー・ストロング・スノー協会」が組織されており、プロパガンダ映画も作られている。また、共産党に都合よく改竄した『赤い星』が出版されている。ロイス夫人は2006年のインタビューで、「彼は今日の中国の姿を決して是認しなかったでしょう」と語り、中国政府のやり方を批判している。 スノーは中国共産党に出合う前から、満州事変などに直面して日本に反感を持っており、1934年の処女作『極東戦線 (Far Eastern Front) 』では、田中上奏文に触れて、日本政府や犬養毅が田中上奏文を偽造したことを紹介したのち、次のように満州事変頃の日本の侵略性について述べている。 「もしにせものづくりがこの覚書をデッチあげたのだとすれば、彼はすべてを知りつくしていたことになる。この文書がはじめて世界に出たのは一九二八年だったが、それは最近数年間の日本帝国主義の進出にとってまちがいない手引き書となったのである。」(『エドガー・スノー著作集1』筑摩書房、p.36) その後、『アジアの戦争』において日中戦争における日本を批判的に取り上げたが、南京安全区国際委員会の委員長であったジョン・ラーベが示した算定として南京大虐殺において「日本軍は南京だけで少なくとも4万2千人を虐殺した」、「10歳から70歳までのものはすべて強姦された」と記し(『エドガー・スノー著作集3』筑摩書房、pp.53~57)、成都で会ったL・C・スマイスが編纂した『南京地区における戦争による損害』を引用して日本軍による暴行を告発していた。「南京大虐殺」の元ネタはこの本ではないか、と鈴木明は主張している(『新「南京大虐殺」のまぼろし』、飛鳥新社、1999年)。 参考資料 『夫、エドガー・スノーは毛沢東に騙されていた スノー未亡人の告白』(『諸君!』2006年6月号、池原麻里子著) 著作 (松岡洋子訳)『中国の赤い星上下』(ちくま学芸文庫、1995年)ISBN 4480081925、ISBN 4480081933 (松岡洋子訳)『目ざめへの旅—エドガー・スノー自伝』(筑摩叢書、1988年 絶版)ISBN 4480013229 他に 『アジアの戦争』 『極東戦線 一九三一~三四 満州事変・上海事変から満州国まで』 各(筑摩叢書、絶版) なお筑摩書房では著作集7巻が出されていた。 ロイス・ホイーラー・スノー編 『抗日解放の中国 エドガー・スノーの革命アルバム 』 (サイマル出版会、絶版) 注釈、出典 外部リンク カンザス州立大学内のスノー関連文書アーカイブ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年12月4日 (木) 03 23。
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212 :ナイ神父MK-2:2016/03/06(日) 21 06 04 日蘭世界 44年ゲート編 その9 国共内戦 1946年6月停戦から約半年ほど経ったこの月、戦中に棚上げされていた国民党と共産党の間で内戦が 再開された。この戦いはお互いに中華の市場を失いたくないアメリカとソ連の積極的な介入によって 2国による代理戦争と言う側面も持ち合わせていく。 アメリカから義勇兵と武器の支援を受けた国民党は共産党への大規模な攻勢を開始し、共産党でも 中国軍に対するソ連の武器供与が行われ内戦が激化していく。しかし、史実よりも国力の低下した ソ連軍は未だにT-44を運用しアメリカもM4の改修型の機体を主力として運用している。そして、米ソ から支援を受けている国共両政府もその煽りを受け、未だに極少数のM4装甲師団や在庫処分に近い 初期型T-34による戦車大隊が存在する程度であり、主力は歩兵等が中心となって行っている状態であった。 一方で枢軸陣営として独立を承認されていた満州と南京政府は戦後日本から輸出され始めたT-34やIS-3の他、 大陸日本側の烈風などの主力化によって行き場を失った四式戦闘機のライセンス生産が開始されるなど 何れも高性能といってよいレベルの兵器が輸入や生産によって揃えられ、更に日本軍が駐留することによって その戦力を格段に高めていた。 同年7月満州の首都である新京では他の中華内勢力への威圧も兼ねた軍事パレードが皇帝である溥儀皇帝出席の 元執り行われ、晴れ空の中を日本から輸入した史実側の疾風が編隊を作り飛行していた。また、下に目をやれば 戦車大体や歩兵が軍楽隊の音楽の元理路整然と行進し、国民を沸かせている。 「日本からの機体の提供があったとは言え、見事な物ですな」 「はい、ライセンス生産で購入できたあの疾風は実際に使った兵士や性能を見た将軍からも好評です。 此れ程の機体を頂けるとはありがたいことです。」 「いえ、これも満州国が我々の良き友人に成って貰えればと思っての事です。」 「日本やドイツほどの豊かな国に成るのはまだ先ですが、此れからもご指導の程頼みますよ。」 (我が国の技術力や国力では未だに日本から離れることは出来ない。増して他の二勢力ではどう扱われるか解からない、 日本の紐付きとは言え独立が出来た事は幸いだな・・・そして、此方の日本もまさか向こうの日本の傀儡に成る訳には行かない以上独自に 食糧の供給源等は必要な筈だ、何としてでも日本には此方を重要視させて支援を受け国力を上げねばな、私の代では無理でも 何れは完全な独立を・・・) 日本や南京、ドイツからの来賓を笑顔で迎えながらもその内心ではISA内での地位向上に向けられ、その方法を考えながら 満州は日本からの支援を受け続けいく。 戦力増強と技術協力 戦後の日本では未だに戦中に大陸日本やオランダから受けた支援の莫大な債務を抱えていたが、戦中に導入した工作機械や 民間での交流が可能になってから始った日蘭企業参入による市場の活性化と領土開発によって賄われている状況であった。 しかし、冷戦が始ったことによって日本は再び軍備増強を国内開発と平行して行う事となる。 軍備増強の際に大陸側へ研修や交流によって影響を受けた将校からは前大戦での反省を生かし、補給線維持の為の護衛能力の 向上や潜水艦対策が提示されるが、此方は大陸日本への朝霧型や丙型黒部建造注文で対処療法を行いそうした面への装備が 国産で充実するのは1970年以降の事である。 一方で正面戦力となる空母や戦艦は既存の物は金剛、扶桑、日向が終戦後直ぐに退役し、大和型と松島型そして長門を主軸に 置いている。空母に関してはレシプロ機では限界が来ることとジェット機運用可能な空母が必要と考えられ、既存の空母の改造と 信濃へのジェット機運用能力の試験的な付与、そしてジェット機対応型の新型空母の開発を日蘭の技術者を招いて行うことと成る。 陸軍では大陸日本の新型車両の配備が進んだことと、国内のインフラ整備が進み始めている事からT-55の供与が以前より多く進められている。 しかし、T-55の巨大な車体は島国である日本では不利に成ると考えられ大陸側の技術者から指導を受ける形で最新技術を導入、諸島防衛に 適した国産戦車の開発が進められていく。同時に航空隊では試験的に導入していた桜花が非常に優秀であった事から陸軍航空隊にて本格的な ヘリ部隊が運用されていく事となる。 213 :ナイ神父MK-2:2016/03/06(日) 21 06 36 その頃、アメリカでは日本及びISA、OCUを見据えて更なる海空での軍事力増強の真っ最中であった。当初、艦隊決戦で 歴史的な大敗北を喫したアメリカであったが、最大の仮想敵国はやはり日本とその背後に存在するOCUで海軍の再建は 急務であった。また、両日本が何れも46cm砲を持つ大型艦を持つことから打撃力を持つ41cm砲艦以上の18in砲の搭載の 新型艦を建造していく事となる。 海軍が新型艦や建造待ちの艦を次々と収益させている頃、ルメイ肝いりの戦略空軍も戦力を充実させ始めていた、 しかし、艦隊の再建やハワイ復興、新型戦艦の開発費の分新型機が遅れることとなり、当面はB-29とB-50相当の 改修機で暫くは任務に挑むこととなる。また、戦後のレッドパージに間に合わずマンハッタン計画で製作された 核兵器の設計図がソ連に奪われたことからアメリカ空軍はソ連が核を使用した際の報復核攻撃の役割も兼ねることとなり 徐々に核兵器の量産へとアメリカを傾かせていく。 アメリカの動き アメリカでは現在対OCUへ向けての戦略を練っている途中であったが、条約締結時はあくまで日本が向こうでの戦勝国であった事と 国土が本来の日本より広く核を保有している。といった大まかな情報しか掴む事が出来ていなかった、核を保有している以上安易な 戦争再開は前回同様に甚大な被害が予想される為、慎重論が唱えられ国務省と大統領によって意見が固められていた。 「つまりは枢軸に対しては外交で圧力を掛け、ソ連や共産主義には武力で当ると?」 「現状、最も弱っているのはソ連だ、ソ連の市場や中国の覇権を国民党に握らせることが出来れば東西から日本に対して圧力を掛けられる そうすれば奴等の下に居るアジアの連中も我々に靡くからな」 「しかし、仮に日本への圧力を掛けるとなると向こうの日本が出てくるのではないですか?」 「仮に向こうの日本が領土を拡大していたとしても、限界があるだろう?前回の大戦にしても日本は早期の 講和を望んでいた節がある、ならば国力にもかなり余裕が無い中戦っていたはずだ。どれ位無理をしたかはわからないが 向こうも相当苦しい筈だ其処を突こう。」 「解かりました。国民党との寄り密接な協力を向こうに打診してみます。」 「頼んだぞ、それと東南アジア諸国に対する切り崩し工作も同時に行ってくれインドネシアやフィリピンで 影響力が高まれば日本の海上輸送ルートに一定の制限を設ける事が出来るからな。」 その後アメリカは日本とその背後に居るOCUへと経済や外交による攻勢を仕掛けるが、予想を超える両日本の経済力に 圧倒され、更には大陸側の日本が次々に出してくる兵器に対して逆にアメリカや西側諸国が圧力を掛けられる事となり 焦ったイギリスによるフォークランド戦争やインド内戦の切欠が出来ていく事になる。 ソ連の動き アメリカが少しづつ国力を回復させているとは対照的にソ連は兵器開発と食糧生産に再建で残り少ないリソースを 振り分けて回復を図っていた。しかし、現状の範囲では既に限界が近くなりその為ソ連ではインドやベトナムにも 手を伸ばし、赤化を促していく。 その頃のインドではイギリスによる苛烈な搾取により、国力が一層減退していた。そんな中、国内ではインド共産党 が順調に勢力を拡大し、各地でソ連製の兵器を使用して反乱を開始した。それによってイギリスは少なくない犠牲を 払いながら、戦闘を続けていくが既に衰退が始ったイギリスは徐々に支配域を後退させ、アメリカの介入を招いている。
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88 :ひゅうが:2014/09/15(月) 12 49 01 戦後夢幻会ネタ―ー―「戦後夢幻会世界のHoI」 冷戦の足音 第2次世界大戦は多大な犠牲を払って終結した。 しかし極東太平洋では、日本の敗戦後に強引に進駐を開始したソ連により満州の大半が占領されてしまう。しかもスターリンは日本の分割すら主張していた。 ソ連の暴虐に日本人たちは怒り狂い、かつての敵である我々アメリカに全面的な協力を申し入れている。 強力な日本海軍の生き残りや高い錬度の兵士たち、そして極東アジア随一の工業力を持つ日本の復活は合衆国の国益に適うところ大だろう。 だが、極東をおさえつつあるソ連を追認することで連合国の団結を維持することも新世界秩序の建設にとっては有益だ。さてどうするべきか… A:日本人に慈悲を、我らに友軍を。(イベント 「マッカーサー離日」発生) B:ソ連は盟友だ。(イベント 「赤いアジア」発生) マッカーサー離日 1945年、初代GHQ長官として日本に赴任したマッカーサー元帥はその鋭い舌鋒で数々の問題を起こしていた。 とりわけ「敗者である日本は五等国に転落しもはや復活することはない」という言葉は日本人たちの反感を買い、「バターンで、レイテで負けたものが何を言うか」と返した日本人が翌日不審な死体で発見される、また戦勝国を自称する中国・朝鮮籍住人による深刻な社会騒擾を発生させた。 日本軍がおとなしくGHQにより武装解除されているからよいものの、マッカーサーによる報復的な戦犯指定など目に余る行為も多い。 ここはマッカーサーを彼が希望するようにドイツ軍政の担当者へと転出させるべきではないだろうか? 後任には、軍政に一家言あるパットン元帥をあてるのが有力だろう。 A:マッカーサーを欧州へ。(イベント「日本の友」発生) B:懲罰も少しは必要だ。(イベント「日本の友」発生せず) C:日本人を直接統治しよう。(イベント「赤い日本」発生) 日本の友 1945年8月、日本に赴任したパットン元帥は、硬軟織り交ぜた対応で騒擾状態を収拾。 エンペラーとの会見や旧日本軍将校への扱いで瞬く間に日本人の心を掴んだ。 同時に、旧日本軍の下士官兵を用いた警察予備隊を設立、アメリカの方針である将来の再軍備にも道筋をつけている。 まず満足すべき成果だ。 合衆国はこれを受けてパットン元帥の赴任長期化を決定。以後の日本占領政策は彼により主導されることとなった。 しかし、ソ連や中華民国などの反発は日増しに強まっている。 パットン元帥への統制を強化すべきだろうか? A:パットン元帥はよくやっている。(イベント「吉田機関の助言」「再軍備への胎動」発生) B:少し問題があるだろうか?警告しよう。(イベント「再軍備への胎動」発生) 89 :ひゅうが:2014/09/15(月) 12 49 38 吉田機関の助言 新生日本のリーダーとなった吉田茂首相はバランス感覚に優れた元外交官だった。 そんな彼のもとには、第2次世界大戦中から有能な官僚や軍人たちが集結し、彼への助言を行う人々が存在する。 人呼んで吉田機関。日本の将来のために徹底抗戦派を説得しエンペラーを動かすなどその影響力と状況分析力は極めて大きい。 そんな彼らがパットン元帥に助言をしたという。 大戦後の極東アジアにおいて不慣れな我々にはその情報収集・分析能力は大きな助けとなるだろう。 A:話だけは聞いておこう。(イベント「クレムリンの枢機卿」発生) B:日本人の情報網を我々が使おう。(イベント「クレムリンの枢機卿」発生せず) 再軍備の胎動 1946年、軍備の不保持を明記した新憲法が誕生。 日本は表向き平和国家として再出発を果たした。 だが、風雲急を告げる極東情勢からいつでも再軍備が可能な組織として警察予備隊、そして日本海軍の後継者である海上警備隊が設けられており北のソ連に睨みをきかせている。 彼らはその優れた錬度を保っており、演習相手となったわれわれアメリカ軍を大いに驚かせた。 とりわけ海上警備隊は誇り高い日本海軍の遺伝子を受け継ぎ、周辺を跳梁するソ連船相手にも引くことなく取締りを続けていた。 この様子なら、再軍備の予定を少し早めてもよいのではないだろうか? A:海軍に限ってだが予定を早めよう。(イベント「日本海軍の復活」発生) B:少し慎重になるべきでは? クレムリンの枢機卿 1947年、日本の吉田機関から驚くべき情報が入った。 友邦大英帝国の情報機関に極めて大物なスパイがいるというのだ。さらには開発中であった新型の原子爆弾の情報が設計図ごとソ連に漏れているという。 調査を行ったところ、それは事実だった。 驚く我々に、吉田首相は日本側の大物情報提供者の存在を明かしてくれた。 人呼んで「クレムリンの枢機卿」。ソ連のごく上層部に存在しているようで、その情報は極めて正確だった。 吉田機関は、引き続き情報を提供してくれるという。 A:ありがたい!(イベント「アメリカの団結」発生) B:吉田機関にはもったいない(これ以後「クレムリンの枢機卿」イベントは発生しません) 90 :ひゅうが:2014/09/15(月) 12 50 32 日本海軍の復活 1947年、朝鮮半島の統一協議は決裂し、ドイツにおいてもソ連軍占領地との境界線でも緊張が走りつつあった。 ソ連軍は建造中の新型戦艦の就役を待たずに大艦隊をウラジオストクと大連に配備。 露骨に極東への野心をにじませている。 そんな状況にあって、パットン元帥は本国に海上警備隊の質的強化の前倒しと、日本陸軍の再整備準備を要請。 大統領もこれを許可した。 結果、モスボール状態で保管していた戦艦「長門」を筆頭にした艦艇群が海上警備隊に復帰。とりわけ、装甲空母「信濃」の存在は極東において非常に大きなものになるだろう。 かつての最大の敵は、今や頼もしい味方へと変わったのだ。 A:戦友よ、よろしく頼む!(イベント「第二次日本海海戦」が発生します。) B:大丈夫だろうか? 朝鮮半島分断 1947年12月、ついに南北朝鮮半島は分断された。 南側の大韓民国(RK)と北側の朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)である。 中国大陸の国共内戦が共産党の優位で進行しつつある中、北東アジアの大半は赤く染まることが確実だろう。 さらには、南側の指導者はかつての支配者である日本人への敵意をむき出しにして領土の割譲を要求している。 日本人たちはもとより、パットン元帥も今こそ日本再軍備の時だと主張しているがどうするべきだろうか? A:再軍備だ!(イベント「友軍」発生) B:今はまだ早い(イベント「釜山殲滅」発生) 友軍 1950年8月、釜山橋頭保は陥落しつつあった。 南側の戦力は瓦解し、緊急展開した米軍も孤立しつつある。 まさに殲滅される寸前、釜山の海上に砲火が光った。 日本国海上警備隊の「長門」による支援砲撃だった。 こちらへ向かいつつある戦艦「モンタナ」による支援砲撃まであと2時間。 壊滅寸前でわが軍は救われたのだ。 A:ビッグN! 【以下未完成w】
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大東亞帝國(だいとうあ ていこく)とは、1932年に満洲に於いて建国され、今日に至るまで中華及びその周縁地域である東亞一帯を支配している統一国家。 首都は大京(ハルビン) 満州事変に於いて、旧日本軍の満洲駐留部隊である関東軍が旧清王朝の皇帝である溥儀を元首として擁立し建設された満洲國、後の満洲帝國を始祖とし、日本降伏後、関東軍が指揮下から外れると、満州国は日本とは異なるものとし、引き揚げ令を拒否。満洲帝國を統治する関東軍は、その後1945年のソ連侵攻から満洲を防衛し、国共内戦に於ける国民党側を支援し、中華一帯を支配するまでに発展。 ソ連への逆侵攻によって沿海州を獲得する(アムール講和条約)。50年代以降になると、余力を以て東亜に於ける覇権主義を唱えると越南侵攻、西蔵侵攻など侵略を繰り返し、かつて清王朝が最盛期に権勢を振るった国土領域を回復した。此の一連の動きの中で、蒋介石率いる国民党は関東軍による大東亜新秩序建設に協力する形となり、政府を南京から大京(ハルビン)へと遷した。 1963年には、中国奥地に潜む中共工作員完全駆逐を名目とし、討伐軍を派遣し、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、トルクメニスタンなど中央アジア諸国を屈服させ、朝貢関係を締結する。 1975年、蒋介石が死去し、国民党は解体。関東軍の首謀たる東条英機大元帥が元首に就任し、対外声明に於ける「大東亞共榮の精神」を発表した。米英との講和、中共工作員の完全駆逐により、国家体制を揺るぎ無いものにすると、1979年(箱庭暦6期)に建国を正式に宣言し、国際連盟への加盟申請を行った。 ※国民党は1989年に再結成するも、翌年のソ連崩壊に伴い、満州國立憲帝政党と合体し、大東亞立憲帝政党に組み込まれることとなった。 国家情報 国名 (漢字):大東亞帝國 (英字):Chinese empire 略称:東亞 国旗:180px-China_Qing_Dynasty_Flag_1889.svg.png (龍は中国古来より崇められる架空の動物) 元首:東条英機大元帥 政体:軍国主義,帝国主義,ファシズム 経済:封建社会経済 人口:13億4千万人 首都:大京(ハルビン) 首都人口:503万人 国土面積:約1500万平方㎞ 領域:満洲,蒙古,沿海州,中華大陸(華北,華中,華南,西蔵,青梅,ウイグル),仏印半島(越南,泰,ビルマ) 主要民族:中華民族(漢民族,満州族,その他),日本民族,朝鮮民族,蒙古民族,白色ロシア系民族,蝦夷人,泰・ビルマ系人,越南人 宗教:神教,儒教,ロシア正教,キリスト教(カトリック,プロテスタント),ユダヤ教,大乗仏教,イスラム教,ヒンズー教,その他土着宗教 公用語:中国語,日本語 公式通貨:元 政権 軍人の最高責任者たる東条英機大元帥を内閣(行政府)の長とする内閣。また其れを構成する閣僚全てに現役軍人が任命されている。 東条英機大元帥は、絶大なる軍の統帥権(また軍人からの人望も厚い)を有していた為、軍大臣への兼任が望ましいとのことで兼任している。 軍事政権と揶揄される様な軍人のみの入閣に限った東条内閣だが、救貧法の提出、採決など貧民層にも救済の手を差し伸べているなど、社会福祉充実にも意欲がある。 閣僚一覧 内閣総理大臣:東条英機(大元帥) 陸軍大臣:上の者による兼任 海軍大臣:同上 空軍大臣:同上 外務大臣:陸奥宗光(陸軍大将) 逓信大臣:榎本武揚(海軍中将) 内務大臣:山県有朋(陸軍大将) 文部大臣:森有礼(陸軍中将) 農水商大臣:土方三造(陸軍少将) 司法大臣:来栖茂昌(空軍大佐) 大蔵大臣:田端辰郎(空軍中佐) 警視庁警視総監:高橋是清(陸軍大将) 帝國統治評議会 民主主義の実践と称して議会の設立が行われた。これを帝國統治評議会と称する。また衆議院、貴族院の二院制であり、衆議院決議が貴族院決議を優越する。 中国国民党と満州國立憲帝政党が合体し結党されたのが、大東亞立憲帝政党である。 大東亞立憲帝政党は立憲帝政党と改称し、議会の第一党与党に成長すると、他党を排除する一党優位制による議会支配体制を確立し、以来、立憲帝政党の議席の寡占状態が続いている。 また選挙も制限選挙の為、貴族、富裕市民や有力地権者以外は投票できない他、性差による差別も相俟って成年25歳以上の男子且つ一万元納税しなければ投票できない。 一般市民からの意見反映は不可能に近い。 地方行政区分 東北省:大京(ハルビン)、大連、旅順 華北省:北京、天津 華中省:南京、上海 華東省:青島、済南 華西省:西京、ウルムチ、成都 華南省:香港、澳門、海口 越南省:トンキン、ホーチミン 沿海州:ウラジオストック 南部省:バンコク、ヤンゴン 外交 我が国は隣国日本との対等条約を締結した。(日亜友好に関する条約) だが、中華大陸周縁諸国に対する卑下する見方は不変で、インド、インドネシア、マレーシア、パプアニューギニア地方を南蛮、北方ロシアを匈奴、朝鮮、日本を東夷、アイヌを蝦夷などという蔑称を付けている。 経済産業 我が国の産業は主に重工業偏向型。 造船を筆頭とし、自動車、鉄鋼、石油化学などが発展している。 大東亞重工、広東造船、澳門貿易、満州銀行、北京石油の五つの財閥が経済を牛耳っている。 資源も豊富で、整備された鉄道等のインフラを通じて供給される。 主な資源は原油、鉄鉱石、石炭、天然ガス、希少金属、パーム油など。 軍隊 我が帝國では徴兵制を確立し、18歳から5年間、入隊し訓練を重ねる。 更に成績優秀のものには軍人退役後、軍需産業企業への優先的就職や、官僚入りも約束される。 総兵力:208万 各兵力 (陸軍兵力):100万 (海軍兵力):80万 (空軍兵力):28万 潜在的に予備隊が存在するが具体的兵力は機密。 陸軍編成表 大東亞総軍 ∟満州軍団(第一) ∟華北軍団(第二) ∟華中軍団(第三) ∟華南軍団(第四) ∟西蔵軍団(第五) ∟南越軍団(第六) ∟南部軍団(第七) 海軍編成表 大東亞艦隊 戦艦大建造計画により、軍備は充実する。 大東亞共榮憲章 憲法に相当し、国家の標を示す最重要の法である。1982年に制定された此の憲章には、未だ封建的側面が色濃く残る。 前文 我ら東亞の国民は、共に集ゐて、共に手を取り、共に繁榮を齎さうと決意し、確固たる結束の下に東亜諸国は一つの国と成ることを此処に宣言する。また我らは東亞共榮の精神に基づき、相互平等を勝ちとり、相互協力を行ひ、そして圧殺を試みやうとする国家からの侵略から防衛しやうとするものであつて、怠らぬやうに努めるものであり、連携によつて、解決を図ることを誓ふ。我らはいにしえの国家として威厳を深め、名誉ある国際社会一員として師範を示すべきであり、平和社会の到来を確信し、その実践を行ふことを決し、此処に国際連盟への参加と常任理事への立候補を行ふ。かうした努力はきっと実を結び還元さると信じ、恒久的努力を惜しまぬことを誓ふ。
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上海クーデター(しゃんはいクーデター)は、1927年4月12日、中国国民党右派の蒋介石の指示により、上海で中国共産党を弾圧した事件のことを指す。四・一二事件とも言う。中国国民党は清党と称する一方、中国共産党は四・一二反革命政変、四・一二惨案と称す。 日本語版では中国国民党、中国共産党のどちらの立場にも立たず、日本でよく使われる用語として上海クーデターを用いる。 背景 1923年、孫文はソ連が中国革命の最大の支持者であると認めた。そして、コミンテルンと中国共産党の李大釗らの援助の下、孫文は国民党を改組し、広州で国民政府を樹立し、連ソ容共政策を提出し、翌1924年には黄埔軍官学校を開校した。大量の共産党員が身分をそのまま保持したまま、国民党に加入し、幾人かは要職を得た(周恩来など)。 しかし、1925年孫文没後、汪精衛が政治的指導者となる一方で、黄埔軍官学校校長の蒋介石は軍権を掌握した。7月になると群衆運動が最高峰に対し、土豪たちと争うようになった。 1926年政治顧問のミハイル・ボロディン(鮑羅廷)の影響により、国民政府と国民党内における共産党の勢力は日増しに強くなり、新たに農林部(譚平山)と労工部(蘇兆徴)が成立し、共産党員が部長を担当した。また、別に武漢総工会は向忠発、劉少奇、李立三を指導者とし、武装蜂起した。 3月、蒋介石は武力を用い中山艦事件を収拾させたので、共産党員との間に齟齬が生まれた。7月、国民革命軍は北伐を開始し、蒋介石を総司令に任命した。11月になると北伐軍は既に長江流域を抑え、国民政府は武漢遷都を決定したが、蒋介石は彼が勢力下に収めた南昌遷都を主張した。11月22日コミンテルンはモスクワで第7回大会を開催し、中共代表の譚平山は、北伐は農民革命の契機であると示し、北伐の後に共産革命と国民革命を起こす策略が採択された。12月9日、国民政府は武漢に遷都し、一ヵ月後、南昌国民党中央政治会議は、党中央が南昌に留まることを議決した。 1927年国民党三全大会(国民党第3回全体会議)の後、スターリンは羅亦を派遣し、ミハイル・ボロディンが組織した織農工階層展開群衆運動、農民協会や土地委員会を、武装した権力組織に改組するよう援助した。東路軍を率いる白崇禧の上海入城直前の3月22日には、上海の労働者は、共産党の周恩来などの指導の下、2700人からなる工人糾察隊を組織し、警察や守備隊に対して攻撃を行い、上海に自治政府を成立させたのであった。 蒋介石など国民党右派は共産党員が国民党内部で日増しに膨張し、「党内党」になっており、早いうちに災いの芽を摘まないと後々、コントロールできなくなると認識していた。加えて、北伐軍が攻撃した地方で「土豪を打倒し、田地を分ける」という共産党の政策を国民党右派は反対していた。 また、中国共産党の台頭に不安を抱く外国人菊池[2005]p.263 1927年1月に湖北の漢口では、イギリス租界で中国人が殺害された事件をきっかけに大規模な反イギリス運動が起こり、成立したばかりの武漢国民政府は漢口に続いて、九江の租界も回収してしまった。菊池[2005]p.263 3月24日には、南京を占領した北伐軍兵士が敵軍の捜索と称して、領事館内になだれこみ、発砲しながら一部の市民と略奪を始めた。すると同じく領事館の略奪を受けたイギリス、アメリカの軍艦は南京市内を砲撃して2000名の死傷者を出した(南京事件)。や資本家の団体である上海総商会中核が浙江財閥である。は、3月26日に上海に入った蒋介石に対し、中国共産党を排除して早期の治安回復を要求した。 そこで、蒋介石は「清党」を発動の為、租界における外国の支配は現状のままである事を保証しその見返りに、諸外国の援助を受けたのであった。 事件の経過 1927年4月2日、蒋介石は李宗仁、白崇禧、黄紹竑、李済深、張静江、呉稚暉、李石曾等を招き、上海で中国国民党中央監察委員会会議を招集し、会議の中で「共産党が国民党内部で共産党員と連結して、謀反する証拠がある」ことで検挙する案を会議で提出し、広州政治分会主席の李済深はその意見に賛同した。そして会議で「清党原則」及び「清党委員会」を定め、反共清党準備工作が進行した。 4月6日、蒋介石は軍楽隊を派遣し、「共同で戦闘に備えよう(共同備闘)」という錦の旗を掲げ、上海総工会工人糾察隊に送り、油断させる一方、同時に蒋介石は青幇、洪門の頭目である黄金栄、張嘯林、杜月笙等のところに顔を出し、右派団体「中華共進会」と「上海工界連合会」を組織し、上海総工会に対抗した。 4月9日、蒋介石は淞滬戒厳司令部の成立を命令し、白崇禧に、周鳳岐を副司令にするよう任命させ、合わせて戦時戒厳条例12条を頒布した。同日、中央監察委員の鄧沢如、呉稚輝、黄紹竑、張静江、陳果夫等と連名で『護党救国通電』を発表し、武漢国民政府の容共政策を非難した。4月11日、蒋介石は各省に「一致して清党を実行せよ」と密令を出した。 4月12日夜明け、蒋介石の指揮を受けた「中華共進会」と「上海工界連合会」は上海の租界から出撃し、上海総工会糾察隊の駐屯する、閘北、南市、浦東、呉淞等を攻撃した。その後、蒋介石は淞滬戒厳司令部に国民革命軍第26軍に所属するよう命令を下し、「労働者が内輪もめしている」ということを口実に工人糾察隊に対して武装解除を強行し、300人余を殺傷した。 翌4月13日、上海総工会は労働者大会を開催し、蒋介石討伐を言明した。大会の後に10万人余の労働者や学生が宝山路に行き、国民等第26軍第二師団の周鳳岐に請願したが、軍隊は群衆に掃射し、その場で100人余りが死に負傷者は数知れなかった。そして、蒋介石は上海特別市臨時政府、上海総工会及び共産党の組織一切全ての解散を命令し、共産党員及びその支持者を捜索し、1000人余を逮捕し、主要なメンバーは処刑された。15日には、300人余が殺され、500人余が逮捕され、5000人余が失踪した。著名な共産党員の汪寿華、陳延年、趙世炎らが害を受けた。 これより後に、地方で清党が開始された。4月14日、李済深は広州の陸海軍の将校を主宰しており、会議を開き共産党員の粛清(「清共」)を決め、二日目には、広州全域に大捜索を行った。厦門、福州、寧波、南京、杭州、長沙等でも共産党員が殺害された。共産党員は「白色テロ」と称した。4月28日、北京では蒋介石とは戦争状態にあったはずの張作霖が李大釗ら20人の共産党員を殺害した。 この事件の後、武漢にて中国共産党と中国国民党左派は蒋介石討伐運動を発動した。4月20日、中共中央は「蒋介石は既に国民革命の敵へと変化した」と発表し、群衆に、「新しい軍閥から寝返り、軍事専制を打倒する」号令をかけ、戦闘準備に入った。4月22日、宋慶齢、鄧演達、何香凝、譚平山、呉玉章、林祖涵、毛沢東ら39人は国民党中央執監委員、候補執監委名義で連名で蒋介石打倒を通電し、全国の民衆及び革命同志に、「(孫文)総理の叛徒、国民党の腐敗分子(敗類)、民衆に対し有害な人物(蟊賊)である蒋介石の打倒」を呼びかけた。 結果 4月18日、蒋介石は南京にて国民政府を樹立し(南京国民政府)、共産党を受け入れている汪精衛(武漢国民政府)と対立した(寧漢分裂)。 だが、1927年7月、汪精衛率いる武漢国民政府は、ソ連からの顧問であるミハイル・ボロディンが国民政府を分裂させることにより中国共産党が武漢政府の権力を奪取することが分かり、共産党の言論取り締まりを決定し、「共産取締議案」を通過させ、ミハイル・ボロディン等ソ連から来た顧問を罷免した。その後、武漢では7月15日に清党が開始され、第一次国共合作は7月中旬に完全に崩壊した。 また、上海クーデターは中国共産党に大きなダメージを与えた。そして、中国共産党は蒋介石の武力による清党に対して全くの準備がないということを認識させられた。上海クーデターの後、8月7日、漢口で会議が開催され、共産党内部から陳独秀らが排斥され、新たに瞿秋白らが指導者となり、中国国民党への武力闘争が決議された(八七会議)。会議に前後して、8月1日、朱徳が率いる中国共産党と中国国民党左派は南昌で暴動を起こした(南昌起義)が失敗に終わった。また、毛沢東は1927年9月、湖南省と江西省の境界で少数の農民を率いて蜂起した(秋収起義)が失敗に終わり、その後井岡山を拠点に抵抗する端緒となった。 一方、蒋介石の軍功が武漢・南京の両政府の合流への障壁となり、また北伐軍が徐州で敗戦したことも相俟って、1927年8月蒋介石は一旦権力の座から退き、翌9月、武漢国民政府は南京国民政府に合流した。 その後、同年11月17日国民党内部の政変である広州張黄事変(広州張黄事変)が勃発した。これにより蒋介石は政権に復帰し大権を掌握、そして、翌1928年には北伐を完成させ数十年に渡る中国の統治を開始したのであったが、この過程で李宗仁、白崇禧率いる新広西派(新桂系)の勢力が国民党内で拡大した為、蒋介石はかつての味方と政治闘争を繰り広げることになった。 尚、上海クーデターで蒋介石を助けた杜月笙の事業は順調に発展し、日中戦争収束後には上海市長になる直前にまでになったが、1949年国共内戦で中国国民党が敗北し台湾に逃亡すると、上海クーデターにおいて中国共産党を迫害したことによる訴追を避ける為、杜月笙は香港に逃亡したのであった。 脚注 参考文献 菊池秀明[2005] 『中国の歴史 10 ラストエンペラーと近代中国』講談社 ISBN 4-06-274060-5 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月21日 (火) 19 30。
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Template 中華圏の事物? 満州(満洲、まんしゅう、アルファベットによる満州語表記:Manju)は、中国東北部およびロシア沿海州を含めた北東アジアの特定地域を指す地域名。曾ては、高句麗や渤海国、遼(契丹)、そして金国があった地域であり、後金・清朝を建国した満州民族の故地である。 満洲の範囲 日本で満洲と呼ばれる地域は、満州国の建てられた地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲とする。 この地域は、北と東はアムール川(黒竜江)、ウスリー川を隔ててロシアの東シベリア地方に接し、南は鴨緑江を隔てて朝鮮半島と接し、西は大興安嶺山脈を隔ててモンゴル高原(内モンゴル自治区)と接している。南西では万里の長城の東端にあたる山海関が、華北との間を隔てている。 広義の満洲としては、モンゴル民族の居住地域であるが満洲国に属していた内モンゴル自治区の東部、「東四盟」と呼ばれる赤峰市(旧ジョーウダ盟)、通遼市(旧ジェリム盟)、ホロンバイル市(旧ホロンバイル盟)、興安盟が含まれることが多い。 また、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南・黒竜江以北・ウスリー川以東のロシア領の地域を外満州と呼び、場合によってはこの地域をも含むことがある。外満洲は満洲と同様に、ネルチンスク条約(1689年)で清朝領とされたが、その後のアイグン条約(1858年)・北京条約(1860年)で締結した不平等条約によりロシアに割譲された。外満洲を含めた面積は、約1,550,000km²に及ぶ。 満洲の呼称 満州の本来の表記は滿洲である(満州という表記が行われるのは、日本の戦後の漢字制限により「洲」の字が当用漢字表から外れたため。なお、「洲」と「州」はいわゆる旧字・新字の関係ではなく、同音類字である)。また満洲は本来、地名ではなく民族名である。したがって、満州の「州」は世界各国に見られる地域行政区分としての「州」ではないことに注意を要する。漢字表記では五行説の「水」徳を意識して、民族名および王朝名である「満」「洲」「清」いずれもさんずいの字が選ばれた。 民族名の「マンジュ」(Manchu、満州民族)は、それまでの呼称ジュシェン族(女真・女直)を改め、清朝の創始者であるホンタイジ時代に自称し、国名をマンジュ・グルン(満洲国)としたことによる。由来については諸説あり、一般には民族信仰であった仏教のマンジュシリ(文殊菩薩。曼殊、満殊などとも書く)によるといわれることが多い。しかし近年この通説に対し、ヌルハチの勢力圏がすでに「マンジュ・グルン」と呼称されていたことや、史料ではどれも「マンジュ」と「マンジュシリ」を明確に区別していること等の理由をもって、チベット仏教由来説を否定する説も提出されている。 「満洲」が地名の意味を持ったきっかけは、この地域が清の支配民族の満州民族の居住地域であったことから、西欧語で「マンチュリア」(Manchuria)と呼ばれるようになったからである。これに対応して漢字文化圏でもこの地域を「満洲」と呼ぶようになった。なお、「満洲」の語を地名としても使用するようになったのは、江戸期の日本であるという説もある。その説では高橋景保の「日本辺疆略図」(1809年)、「新訂万国全図」(1810年)が初出とされる。この地図ではネルチンスク条約で定められた国境線の清朝側を「満洲」と表記している。それがヨーロッパに伝わったという。 現在の中華人民共和国では地域名称として「満洲」を使うことは避けられ、かわりに「中国東北部」が使われる。これは中国における歴史に対する公式見解で、満洲国の存在を認めていないため、また満洲の地を太古から不可分の中国民族固有の地と主張するためである。そのため今日の中国では、20世紀の満洲国を清朝の前身である満洲国を詐称していると看做して、「偽満洲国」の呼び方以外は認めていない。ただし現在でも、満洲里のように一部の地域名で使われている。民族名としては旧来から「満族」と呼称している。また、曾ては中国共産党は、中国共産党満洲省委員会をハルピンに設置するなど、「偽」という言葉を用いないで満洲という言葉を使用した例はあった。 満洲語 満洲語(まんしゅうご)は類型論的に膠着語に分類される満洲族が話す言語。清朝では公用語。満洲語の話者は中国政府の教化政策により満洲族の間でも現在では極めて少なくなり、消滅の危機に瀕する言語の一つである。詳しくは満州語を参照。 満洲をめぐる略史 歴史的にこの地域はモンゴル系・ツングース系の北方諸民族の興亡の場であった。紀元前1世紀から紀元7世紀まで高句麗が存在した。 古代の中国ではこの地域は中華文化圏とは認めず、東夷・北狄の侵入を防ぐために万里の長城を築いて遮断されたことにより「封禁の地」、明代に山海関と名付けられることになった長城最東端の関よりも外の土地という意味で「関外の地」、あるいは、関よりも東の土地という意味で「関東」とも呼ばれた。 中世に入ると、唐や遼の支配を受けて一時中華圏内に入るものの、12世紀には土着の女真族(満洲族)が金を建国、遼・北宋を滅ぼして中国北半分をも支配するに至る。金はモンゴル民族のモンゴル帝国(元)に滅ぼされ、この地は元の支配下に入る。次いで元は漢民族の王朝明に倒され、一時は明の支配下となったが、後に女真族への冊封による間接統治に改められた。満洲族(17世紀に女真族から名称変更)が後金を起こして同地を統一支配した後、国号を改めた清朝が明に代わり、満洲地域及び中国本土全体が満洲民族の支配下に入る。清朝は建国の故地で後金時代の皇居がある満洲地域を特別扱いし、奉天府を置いて治め、漢民族が移入することを禁じた。後には奉天府を改めて東三省総督を置き、東省または東三省(奉天、吉林及び黒竜江の3省)と呼んだ。 近代の17世紀になると、ロシア帝国の南下の動きが激しくなり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が頻発したため、国境を定める必要が生じた。1689年にネルチンスク条約が締結され、国際的にも正式に清朝の国土と定められた。その後、清王朝はロシアの脅威に対抗するため、兵士を駐屯させる。そして兵糧確保のため漢民族の移入を黙認し、農地開発を進めて次々と荒野を農地に変えていった。しかし王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出を抑えきれず、1858年の北京条約、1860年のアイグン条約の2つの不平等条約によって、満洲地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満州地域は、ロシアに割譲されることとなった。 さらに、西欧列強の進出などで中国国土が荒廃すると、漢民族の民衆の間にも広く民族的自覚が芽生え、19世紀半ばに起こった太平天国の乱では「滅満興漢」(満洲族を滅ぼして漢民族を興す)のスローガンが強く叫ばれた。満州族の風習である辮髪を切って、清朝支配に抵抗を示す者も現れるようになった。 この動きは19世紀末に日清戦争で清朝が敗北して、中国への列強の進出がさらに激化すると、逆に「扶清滅洋」(清を助けて西洋を滅ぼす)に変わり、義和団事件が起こり、排外運動がさらに激しくなった。しかし弱体化した清朝は延命できず、1911年の辛亥革命で倒された。翌年成立した中華民国は清朝の領土を継承を宣言するが、実態は各地域の軍閥による群雄割拠の状態であり、満洲は張作霖の軍閥の支配下となる。清朝崩壊後、満洲へは社会不安から流民となった漢民族の移入が急増する。 1931年に大日本帝国の関東軍は独走して満州事変を起こし、満洲全域を占領して、翌1932年に満洲国を建国した。満洲国は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政、のち皇帝)とした。この時期の満洲は大日本帝国の支配下となる。大日本帝国は満州鉄道や満州重工業開発を通じて多額の産業投資を行い、農地や荒野に工場を建設した。結果、満洲はこの時期に急速に近代化が進んだ。一方では満蒙開拓移民が入植する農地を確保するため、既存の農地から地元農民を強制移住させる等、元々住んでいた住民の反日感情を煽るような政策を実施し、このことが反日組織の拡大へと繋がっていった。 1945年8月、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻、満洲国は崩壊した。1946年、ソ連は中華民国に対して外満洲を除く地域を返還した。国共内戦で中国共産党が勝利した後侵攻し、満洲は中華人民共和国の支配下となる。大日本帝国が満洲に残した産業インフラは、経済基盤が脆弱であった建国初期の中華人民共和国を大きく支える力となった。 1990年代以降の中国の開放政策により、上海や深センなど華東、華南の経済特区の経済成長が著しくなる一方、満洲は古いインフラ設備により、逆に経済的には立ち遅れた地域となっていった。現在中国政府はインフラ設備の更新や古い工場の立替、外資の導入、遼東半島を含む環渤海経済圏を設定するなどして積極的に経済振興を行っており、大都市では経済の活性化がみられる。 満洲に存在した日本の国策会社 南満州鉄道 満州重工業開発 満州航空 満洲映画協会 満州拓殖公社 満洲電信電話株式会社 鞍山製鉄所(後の昭和製鋼所) 関連項目 李成梁 朝鮮族 関東州 渤海 (国) 渤海 (海域) 満洲善後条約 露清密約 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月13日 (金) 03 39。
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南京大虐殺の研究 晩聲社1992 もくじ 上海戦と南京進撃戦-南京大虐殺の序章 江口圭 一、日中戦争の開始 二、上海戦と南京戦 三、南京進撃 四、大虐殺の序章 五、『南京戦史』批判 脚注 上海戦と南京進撃戦-南京大虐殺の序章 江口圭 一、日中戦争の開始 南京戦と南京大虐殺は上海戦(第二次上海事変)と密接に関連している。上海戦の問題を抜きにして、南京戦・南京大虐殺を論ずることはできない。そして上海戦を考察するためには、まず日中戦争そのものがどのようにして起こされたかを明らかにする必要がある。 日中戦争は一九三七(昭和一ニ)年七月七日の蘆溝橋事件を発端として発生した。盧溝橋事件そのものは偶発的な衝突であって、満州事変の発端となった柳条湖事件のように意図的.計画的に仕組まれたものではない(1)。現地では七月一一日になって一応の停戦協定が結ばれた。ところが同じ一一日に、近衛文麿内閣は「重大決意」のもとに華北への派兵を決定し、事態を「北支事変」と命名した。事変とは宣戦布告をともなわない戦争状態のことである。 柳条湖事件の際は現地軍が謀略によって強引に戦争を仕掛けたのにたいして、中央政府は一応なりと事態不拡大の方針をとったのであるが、蘆溝橋事件では現地での停戦にもかかわらず、中央 12 政府が事態の拡大を招かざるをえないような積極的な対応をしたのである。これは、日本の戦争指導者が盧溝橋事件を好機として中国を一撃のもとに屈服させ、かねて追求してきた華北五省―河北・山東・山西・チャハル・綏遠―を日本の支配下に取り込むという目的を達成しようとしたからである。 一九三三(昭和八)年五月の塘沽(タンクー)停戦協定によって、柳条湖事件以来の軍事行動は一応停止されたが、それは日本の膨張政策の停止を意味したのではなかった。塘沽停戦協定は華北分離工作という新たな膨張政策の第一歩でもあった(2)。日本は満州事変と国際連盟脱退によって列強との緊張を強め、「一九三五、六年の危機」が声高く叫ばれるようになったが、これに対処するためには「満州国」の育成とともに、華北を国民政府の支配下から分離し、日本の支配下に編入して、いわば「華北国」「蒙古国」化することが必要であるとされた。 華北分離・支配の目的は、軍事的・政治的には「満州国」の西側の安全を確保するとともに対ソ戦争に有利な地歩を築き、またソ連・外モンゴル・中国共産党――中共軍(紅軍)は三三年一〇月以降の第五次掃共戦によって華中の根拠地を失ない、三四年一〇月長征をはじめ、三五年一〇月陝西省北部に到達し、新根拠地とした――の連携を分断することにあり、これは「赤化防止」とか「防共」とかと称された。経済的には国家総力戦を遂行するうえで不可欠な鉄・石炭などについて、「満州国」のみでは充足させることができず、またアメリカ・イギリスからの輸入を成り立たせるべき日本の輸出がブロック経済の壁に阻まれだしたため、華北の豊富な資源と人口欄密な市場を独占的に確保しようというのが華北分離・支配の目的であった。 13 すでに三三年九月参謀本部は華北要域の軍事占領に備えて『支那占領地統治綱領案」と題する詳細な文書をまとめ・支那駐屯軍も三四年三月「北支那占領地統治計画」を作成していた(3)。陸軍の依頼で満鉄は華北の経済調査・経済計画を推進した。そして三五年六月、支那駐屯軍と関東軍はあいついで行動をおこし、梅津-何応欽協定、土肥原-秦徳純協定によって、河北省東部とチャハル省東辺部を事実上「満州国」に編入してしまった。冀東特殊貿易と称する密貿易によって、日本商品が華北から華中にまで氾濫した。さらに三六年一一月、関東軍は内モンゴルの傀儡部隊をけしかけて、綏遠省に侵攻させる綏遠事件をおこした。 しかし、このような日本の膨張政策は中国に深刻な民族的危機感を呼びおこさずにはおかなかった。紅軍が長征途上にあった三五年八月、中共は「抗日救国のために全同胞に告げる書(4)」いわゆる八一宣言を発表し「国家・民族の滅亡とい大過が目前に迫つている」として、内戦停止・一致抗日を呼びかけた。三五年末の一二九運動は抗日救国運動の出発点となり三六年綏遠事件をへて、一二月の西安事件によって、国共内戦から第二次国共合作=抗日民族統一戦線結成への大転換が進行した。 こうした中国の民族的低抗に直面して、日本の華北分離工作が行き詰り状態になっていたときに、蘆溝橋事件が突発したのである。事件は、日本の戦争指導者にとって、中国の抗日を粉砕し、年来の華北分離・支配の目的を達成する絶好の機会とされた。 日本の戦争指導者の一部には、中国での武力発動に慎重な者もいた。その代表は参謀本部第一(作戦)部長石原莞爾少将である。石原は満州事変の首謀者であるが、三五年八月参謀本部作戦課長 14 に就任してからは、対ソ戦争準備を完成することが最急務であるとし、また中国の抗日の成長をそれなりに認識する立場から、当面は中国との戦争を回避しなげればならないと判断していた。このような石原の判断もあって、三七年四月林銑十郎内閣が決定した「北支指導方策」は、従来の「北支分治」という方針を取り下げ、「経済工作の遂行に主力を注ぐものとす」としていた(5)。盧溝橋事件をめぐって、石原を中心とする軍中央のいわゆる不拡大派は最初は武力発動に消極的な態度を示した。 しかし、その石原も華北を防共・資源・市場のために日本の支配下に取り込むこと自体に反対していたのではない。林内閣の「北支指導方策」にしても、華北を「実質上確固たる防共親日満の地帯たらしめ併せて国防資源の獲得並に交通施設の拡充に資」すという華北にたいする根本目的そのものはなんら変更しておらず、露骨な「北支分治」方策を「経済工作」にかえることで、国民政府に「実質上北支の特殊的地位を確認」させるというものであった。石原が第一部長心得であった三七年一月の参謀本部「陸軍省に対し対支政策に関する意志表示」は、中国にたいして「互助共栄を目的とする経済的文化的工作に主力をそそぎ、其の統一運動に対しては公正なる態度を以て臨み北支分治工作は行わず」としつつ、これでも「日支関係調整せられず更に悪化し真に己むを得ざるに立到るが如き場合は、十分隠忍したる後、徹底的痛撃を与ふる」としていた(6)。 また不拡大派の参謀本部戦争指導課長河辺虎四郎大佐は、「やる以上は南京をとる考でやらなくちゃならぬ」として拡大派の姑息な用兵を批判し(7)、戦争指導課の案として一五個師団同時動員・作戦期間約半年・戦費五五億円という大用兵を構想していた。 15 不拡大派といっても、武力発動に原理的に反対していたわけではなく、単に相対的に慎重であったというのにすぎない。したがって、現地から国民政府直系の中央軍が大挙して北上中であるという誇大な情報が伝えられ、また皮肉にも石原莞爾自身が助長してきた下剋上の風潮によって、血気盛んな下からの突きあげをくらうと、たまたま参謀総長が皇族(閑院宮載仁親王元帥)で、しかも参謀次長今井清中将・第二(情報)部長渡久雄中将がいずれも病床にあったため、事実上の統帥の最高責任者の立場におかれていた石原は、持論を維持することができず、不拡大派の慎重論は拡大派の一撃論によってたちまち押し切られてしまった。 偶発的衝突を全面戦争へ導いた日本陸軍の軍事思想は、中国の抗日の力量をみくびった一撃論であった。華北を日本の支配下に編入しようという欲望をつのらせていたからといって、それにふさわしい戦争計画が準備されていたわけではない。陸軍は、前述したような華北占領地統治計画に対応する華北での局地限定的な作戦計画は準備していたが、「華北でひとたび軍事力を行使すれぼ、戦争を局地限定にとどめることは不可能であり、全面戦争を必然化するものであるという戦略的認識が決定的に不足していた。その欠陥が何に由来するかといえば、それは中国抗日ナシヨナリズムの真の力にたいするまったくの認識不足にほかならない(8)」。 河辺虎四郎はのちに回想して、「交渉が纏まらぬとなっても三箇師団か四箇師団を現地に出して一撃を喰はして手を挙げさせる、そうしてぱっと戈を収めて北支を我が意の如くする…多少長びくとしても一部の兵力を北支に留めて置けぽ大体北支から内蒙は我が思うようになり、他へ飛火しないで済む」という判断のもとに、華北への派兵が決定されたと述べている。また参謀本部作戦班 16 員であった西村敏雄(当時少佐)は、「当時参謀本部の誰人と難も今日(昭和)十二、十三年の如き大作戦を導く事を希望した者はなく、又斯様な大作戦になる事を怖れ予想した人もなかった---多くの人は斯様な大作戦迄進展しない以前にある限界に達すれば支那側が屈服するものであらうと漠然たる想像に支配されて居った」と回想している(10)。 しかし大作戦が予定されておらず、大戦争が予期されていなかったからといって、この戦争の侵略性がなんら薄められるわけではない。華北を分離・支配したいという欲望をつのらせながら、中国を軽悔していたことから、せいぜい華北での局地限定戦争でけりをつけることができると、たかをくくり、安易に武力を発動し、予想外に強固な中国の低抗に直面して、ずるずると深みにはまっていったのである。 日中戦争は、本来は防共・資源・市場のために華北制圧をめざして遂行された武力侵略戦争であった。その戦争相手が満州事変段階とは隔絶して、断固として民族的低抗に起ちあがった中国であったこと、それにもかかわらず一撃で片をつけることができると思いあがり、安直に武力を行使したことが、戦争の全面化をもたらしたのであった。 17
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thumb|250px|国民政府が使用した[[中華民国の国旗。1928年12月17日に、「青天白日滿地紅旗」が中国の正式な国旗として制定された。]] 国民政府(こくみんせいふ)とは、中華民国における中国国民党による政府のことである。略称は国府(こくふ)。国家元首は主席(しゅせき)。ただし日本と中国では、一般的な「国民政府」の定義にそれぞれ差異がある。 日本:1925年以降に国民党が樹立した政府。中華人民共和国の意向を反映し、1925年から1949年までの間に国民党が中国大陸で樹立した政府とする場合もある。いずれにせよ、1971年に中華民国が国際連合から脱退し、その後日本との国交が断絶してからは、国民政府という呼び方は用いられなくなった。 中国:1925年の広州国民政府樹立から、1948年に中華民国憲法に基づく政府が樹立(憲政の開始)されるまでの間、「訓政時期約法」に基いて国民党が運営していた中央政府の機構及びに最高行政機関を指す。 国民政府の変遷 国民政府という呼び名は、政府のあった場所の地名を冠して使われることが多い。したがって、国民政府と呼ばれるものは複数あるが、主たるものは、以下のとおりである。最も、1950年までの中華民国は常に政治的に混乱しており、その事を反映して一時的に2つの国民政府が並立することもあった。 正統な国民政府 今日の中華民国政府を基準に考えると、中華民国の歴史において、以下の5つの国民政府が正統な国民政府ということになる。 広東(広州)国民政府 1925年~1926年 (主席 汪兆銘) 武漢国民政府 1926年~1927年 (主席 汪兆銘。ただし、正統であるのは、1927年に次項の南京国民政府が成立するまで。) 南京国民政府 1927年~1928年 (最初、武漢と並立、1927年9月に武漢政府は南京政府に統合) 南京国民政府 1928年~1932年 (北伐完了を受けて。成立時の主席 蒋介石) 新南京国民政府 1932年~(1948年)1949年 (広州南京合作。成立時の主席 林森) 台湾国民政府 1950年~1996年 (1949年に台湾に移転してきた南京国民政府を再編成して成立) 注記 新南京国民政府の別称 武漢国民政府 1937年~1938年 (日中戦争時に、南京政府が武漢へと遷都していた時期の呼称) 重慶国民政府 1938年~1946年 (日中戦争時に、南京政府が重慶へと遷都していた時期の呼称) ※南京国民政府と新南京国民政府は、特に区別しない場合もある。 ※新南京国民政府の蒋介石政権は、中華民国憲法に基づいて政府組織を1948年5月20日に改編し、国民政府を中華民国総統府とした。そのため、中国ではこれ以降の国民政府を、憲法に基いた正統な政府として、「中華民国政府」と呼称している。なお、中華民国支持者は、1949年以降も今日に至るまで「中華民国政府」が存続していると主張している。 ※台湾における中華民国の存在を認めない中華人民共和国は、中華民国政府を「台湾当局」と呼んでいる。 ※1932年1月、南京に新国民政府が成立し(南京・広州合流。主席は林森)、行政院長に汪精衛が就任した直後(1月のうち)に、洛陽への遷都を宣言し、以降、4期2中全会などを洛陽で行った。同年12月には、南京へ遷都(還都)。洛陽に政府が存在したのが一時的であったこともあり、「洛陽国民政府」という呼び方は通常なされない。 その他の国民政府 中華民国の歴史において、「その他の国民政府」とは、上記の「正統な国民政府」以外の国民政府を指す。これらは、当時の政治的な混乱を背景として、正統な国民政府と並立しながら一時的に存在していた。 1927年 武漢国民政府(1927年の南京国民政府分裂後) 1930年 北平国民政府(主席 閻錫山) 1931年 広州国民政府(主席 汪兆銘) 1940年 南京国民政府(主席 汪兆銘) 国民政府主席一覧 ここに挙げる国民政府主席一覧は、今日の中華民国政府を基準として、「正統な国民政府」とされる国民政府の主席を挙げている。その他の国民政府については、それぞれの項目を参照のこと。なお、国民政府の主席は、全員が中国国民党の党員である。 国民政府主席一覧表 氏名 政党 就任 辞任 備考 広州国民政府 汪兆銘 中国国民党 1925年7月1日 1926年3月21日 中山艦事件を契機として、26年3月21日に休暇を取得し、5月11日に広東を離れる。 譚延闓(代理) 中国国民党 1926年3月21日 1927年4月10日 汪兆銘去職後、代理主席職權、7月6日選任真除 南京国民政府1927年4月10日-1927年9月20日寧漢分裂、武漢南京均設立國民政府。1927年3月10日、武漢國民政府廢除主席、1927年4月28日南京國民政府仍設主席一職。(張朋園、沈懷玉、《國民政府職官年表》 胡漢民 中国国民党 1927年4月18日 1927年9月16日 不設主席 1927年9月16日 1928年2月 譚延闓 中国国民党 1928年2月 1928年10月8日 蒋介石 中国国民党 1928年10月8日 1931年12月15日 林森 中国国民党 1931年12月15日 1943年8月1日 蒋介石 中国国民党 1943年8月1日 1948年5月20日 前置の機関:中華民国大総統 中華民国の国家元首1928年 - 1948年 後続の機関:中華民国総統 太平天国天王府跡 太平天国天王府跡は、中華民国臨時政府の総統府、及びに南京国民政府の総統府が置かれていた地でもある。同地には更に、明朝の歸徳侯府と漢王府、清朝の両江総督府、及び江寧織造署が置かれていた。現在の住所は、南京市長江路292号である。 1853年3月に太平天国の乱で洪秀全が南京を天京と改称し、天王府を置く。清軍により南京が陥落した後に曽国藩により天王府は焼き払われ、同治9年(1870年)に再び両江総督府が置かれる。林則徐、曽国藩、李鴻章、劉坤一、沈葆楨、左宗棠、張之洞、端方らは両江総督を務めている。 1911年に辛亥革命が勃発して清朝が打倒され、1912年1月1日に孫中山が総統府にて中華民国臨時政府の臨時大総統に就任する。袁世凱の臨時大総統就任により1912年4月に、中華民国臨時政府は北京へ移り(北京政府)、黄興により総統府は南京留守府に変わり、1913年の第二革命により袁世凱討伐軍の総司令部が置かれる。1913年から1927年の間には、江蘇都督府、江蘇督軍署、江蘇将軍府、江蘇督弁公署、副総統府などが置かれる。1927年に蒋介石により南京国民政府が置かれる。日中戦争下の1937年12月、日本軍により南京が陥落すると、傀儡政権である汪兆銘の中華民国維新政府(後の汪兆銘政権)が発足し行政院、立法院、監察院、考試院、交通部、鉄道部、日本陸軍第16師団司令部などが置かれる。1945年に日本が連合国に対し降伏したことにより、汪兆銘政権も崩壊する。1946年5月に重慶国民政府が南京に戻り、社会部、地政部、水利部、僑務委員会、主計処、軍令部、総統府軍務局、首都衛戍総司令部などが置かれる。1948年5月20日に蒋介石が総統、李宗仁が副総統を務めてからは、国民政府から総統府の名称に変わる。国共内戦勃発後の1949年4月23日に人民解放軍が南京を占領すると、総統府は同月24日に人民解放軍によって占拠される。中国共産党による南京「解放」後も、総統府には中華人民共和国の政府機関がおかれたが、1980年代には他の場所に移っていった。 1998年に総統府旧址に南京中国近代史遺址博物館の建設が計画され5年の歳月がかけられ2003年に完成する。総統府HPにて「南京中国近代史遺址博物館」が総統府の正式名称と確認できるが、入場券には「南京中国近代史遺址博物館」の文字は見当たらない。一般的な名称は「総統府」であり、最寄のバス停も「総統府」である。博物館の総面積は約9万平方メートルあり、東区、中区、西区の3つの見学区域に分けられ中区が蒋介石、李宗仁の執務室、文官長執務室、政務局がある弁公楼、中華民国に関する資料陳列館など、西区には孫中山の臨時大総統弁公室、秘書処、総参謀本部、総統府図書館、南京に現存する2つの古典園林の一つ煦園など、東区には行政院、馬厩舎、防空壕、太平天国に関する資料陳列館がある。孫中山の執務室等は見学者で混雑している。場所によっては空いているところもあるので混んでいるところは後回しにするのも良い。見学時間は少なくても2時間は欲しいところである。総統府図書館など一部区域は軍事管理区域になっており立ち入り禁止であり注意が必要である。南京城内では夫子廟と並ぶ主要観光地である。 入場料・開館時間 (2004年現在の情報) 40元*閉館1時間半前に入場券の販売終了 4月15日~10月15日 7 30~18 30 10月16日~4月14日 8 00~17 30 ギャラリー 関連項目 北京政府 清 外部リンク 総統府 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月23日 (火) 14 12。