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三時知恩寺 京都府京都市上京区、三時知恩寺門跡の御朱印「善導大師」です。 「無量寿佛」の御朱印です。 御詠歌の御朱印です。 3月14日の善導大師忌にて授与される特別な御朱印です。こちらのみ、書置きで1000円でした。 平成29年10月7日から9日まで行われた特別公開で授与された御朱印です。 平成30年秋の浄土宗寺院特別公開にて授与された御朱印です。 令和元年秋の浄土宗寺院特別公開にて授与された御朱印です。 「無量寿佛」です。さまざまな色和紙で授与されました。 「写経佛」の御朱印です。 「願往生」の御朱印です。 コラボ御朱印の「昌」です。 ★住所 京都府京都市上京区新町通今出川上る上立売町4 - 名前 コメント
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中里館(なかざとだて) 所在地喜多方市関柴町豊芦字中里 別称 築城年 築城者佐藤氏か 城主変遷佐藤氏… 廃城年 現状善導寺、宅地、耕作地 概要 中里館は福島県喜多方市に所在した城館跡である。 歴史 年代は不詳ながら、佐藤河内守某なる人物が住していたとされる。東西36間、南北44間の規模であったという。 現状・感想 集落中心にある善導寺付近が館跡らしいのですが、奥さんのお母さんのご実家辺りもなかなか怪しい雰囲気です。結構大きな家らしいので、機会があればお話しなど伺いたいものと考えておりますが、何より怪しいのは自分自身ですものでねぇ(笑) 関連項目 福島県の城館一覧
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残念ながらお名前は聞いた事がありますが、お会いした事はありません。 現役時代の記憶とスレの記憶で書き込みます。 補長先生と会長の関係 教祖⇔前の奥様との間に娘が居る 教祖⇔ 後妻の娘が二人 長女 かよ先生 次女 大悲者先生 かよ先生と大悲者先生は実の姉妹です。 補長先生は長女 かよ先生の旦那様 会長先生は次女大悲者先生の旦那様 なぜ 補長先生はいないの? 教祖が亡くなった時に退会しました!(追い出されたとの噂も有ります) 理由は教祖が亡くなった原因が「癌」でした。長女と補長先生は信者に正直に伝えようとしましたが 現会長と次女は猛反対し「霊界に帰りました」の説明で「癌による病死」を隠しました。 当時、補長先生を慕ってた信者も後を追うように退会しているようです(私はこの話を聞いた時、古参信者が少ない事に納得しました) いま 補長先生はどうしているのですか? 九支部監視下の元 福岡市内に住んでいるようです。 やっぱり追い出された? 会長、大悲者は己の欲の為に、補長先生を追い出しました。 眞實の教えだから、眞實を書込みしました。 己の欲の為なら、身内を追い出す人間に、どうして一切大衆を救えるの? 会員は食い物にされているだけです。 哀れな会員よ 早く、自分で考える心を取り戻しなさい。 三つ目の心眼は見えなくなるばかりですよ。 このような書き込みがありました。そういえば関連会社の役員を全て外されていることを思い出しました。中には乗っ取られたという人もいましたね! この辺の事情を知っている方おしえてください! 「たとえ話のはじまり!!はじまり!!」 むかしむかし、ある所に会社の社長さんがいました。この偉大な社長さんは社員からの人望が厚く、 毎月11日と24日に本社に於いて社員の勉強会を会社創立時から滞りなく行ってきました。 晩年、会社の跡継ぎに実の娘夫婦と義理の長男に協力してやっていくのが、天命だと言われ、社員に対し発表してから亡くなりました。 社長滅後、実の娘夫婦はH16.11.11に11日と24日の本社会議を取りやめる事を発表、「これからは各支店において会議をしなさい。」 と全社員に宣言 しかし、義理の長男は、「亡き社長が創立より欠かさず行ってきた本社会議を取りやめるのは、亡き社長の意志に反すると、」 実の娘夫婦に意見をしましたところ、弁護士により解雇通告が届き一方的に解雇されました。 そして、全社員には「義理の長男は都合により会社を辞めたと発表し」いずれまた戻ってくるので心配しないように伝えた。 めでたしめでたし!! ここの会社の社訓は「一切大衆(人だけでなく植物、動物その他この世に生があるもの全てという意味)を救う」という事です。 善導部と補長 以下は、主観だけで表記しています。 間違っている事もありましょうが、当時の信者達はこんな風に 見ていたとご理解ください。 以前、善導部と言うものがありました、本部職員が善導課員となり その下に各支部選抜の善導部員がおり、各支部をまわったりして 会長の変わりに説を説いたりしていました。彼らには出張費用等が 支給され、飛行機移動したりしていたり、善導部員同士の不祥事が あったり、善導部だと言うだけで偉くなったような態度をとって いたりして、当時は結構批判がありました。 その善導部の親玉が補長だったようです。 善導部がなぜ必要になったかと言えば、 以前は、支部の下に系と言うものがあり、 系長が自分の導いた人を取りまとめていたのですが 所謂権力を持った系長の弊害と言うものがまたまた出てきて、 また、前会長への忠誠厚い彼らの存在が 新会長達にとっては、非常にやり難い存在だったので、 系を解体して、地区制にしたのです しかし、これによって古参会員から新入会員への縦の流れが途絶えて 新人会員の教育や、大祭の御宝推進、仏所供養の推進が滞る状態に 陥ったと言うことに起因すると思われます 薬上菩薩と薬王菩薩 釈迦三尊(しゃかさんぞん)とは、仏教における仏像安置の形式のひとつ。 釈迦如来の両脇侍として、薬王菩薩・薬上菩薩を配することがまれにある。 薬王菩薩・薬上菩薩は兄弟の菩薩であるとされ、人々に良薬を与えて心身の病を癒したという。 教祖から補長と会長は、お互いに支え合うようにと言われた。 しかし会長は補長を追い出し信者に「補長先生が居られなくなったのは 法を広げて行く使命で旅立ちました」 と説明したが 薬王菩薩と共に釈迦如来の脇待として付き従う事が多く、単独での信仰は皆無である。この事により説明内容がお経典と合致してない事が判り 日本では偏袒右肩で衣をまとって施無畏印・与願印か説法印を結んだ釈迦如来(しゃかにょらい)を中尊として、脇侍(きょうじ、わきじ)として左に騎獅の文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、右に乗象の普賢菩薩(ふげんぼさつ)を配置するのが一般的。と言うことで 会長先生は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)に変更した訳です。 だが、平等大慧会は「本仏としての釈迦」を重視しているので日蓮宗・法華宗と同じく、多宝塔(宝塔)を中心に釈迦牟尼仏と多宝如来を左右に一塔両尊の形式で世尊を安置する。方法が正式ではないでしょうか?会長先生が文殊菩薩(もんじゅぼさつ)だとまた辻褄が合いません。 655 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2009/07/14(火) 05 53 14 ID 4M/UwWqr 補長問題は、姉妹の確執ですね 現会長が、次長といわれていた時、館長だったと思いますが 補長は、九支部 支部長を長く勤めた大川家具の大手会社の息子で、 家具デザイン会社社長をしていたと思います 先代会長と、九支部支部長の蜜月関係は誰の目にも明らかで その長男と娘さんが、鳴り物入りで結婚 この娘さんは、唯一会長夫婦と王舎城で同居していた人で、 お嬢様といわれていた方ですね。 この行動を見ても解る通り、親に対する思いは人一倍であったと推測されます 結婚してからも美術館館長夫人として支えてきたと言う自負も ところが、末娘が東京から帰ってくると先代会長に重用される 自分は福岡の地に居て段々疎遠になる そして、末娘の結婚、会として大々的なお披露目 次長が館長の上になり、館長剥奪、補長へと・・・トップページ http //www13.atwiki.jp/ousyajyo/ 合計: - 今日: - 昨日: - トップページの合計: - 大悲者先生は、株式会社ジェイエイの非常勤務をされてるようですが、確認のため電話をしたら「退職しました」とウソをつかれました。平成22年6月にて、まだ勤めてるの真実をされてるのに、嘘つきです。 -- (名無しさん) 2011-09-17 23 15 28 今も個人情報を念願文で使用されています。写真を掲載させていただきます。白い上着の人が大悲者先生です。http //www.lt.emb-japan.go.jp/japanese/jp_lt_j/stone_for_peace_jp.pdf -- (名無しさん) 2012-01-09 22 35 54 奥さんの念願文の半紙を確認しましょうね。今も、私の情報を使われてますよ。バザーにももっと積極的に来てください。会員が悪いみたいなこと言われますが、結局会が悪いですよね?改めてほしいものですね・・・ 特に大悲者先生という人は捕まえてあげてください。ひどいことばかりしてますから -- (名無しさん) 2012-01-15 01 47 45 新しい会員にたいして、きちんと基本を教えてない会です。宗教法人ならきちんとしていただきたいものです。特に梅本博予さんと娘さんですか?法があるかって、守られるわけではないですからね。私の人生、めちゃめちゃにされました。 -- (名無しさん) 2012-01-15 01 50 34 スレを信じないでください!!大ウソです -- (名無しさん) 2012-02-24 21 55 25 梅本博予という人は今も個人情報を使用しています。広島県警さん、逮捕してください。梅本博予は大嘘つきです。今も被害うけています。 -- (名無しさん) 2012-04-05 22 01 15 スレを信じないでください!!大ウソです -- (名無しさん) 2012-04-29 23 36 42 梅本博予さんは、自己中心的で犯罪者なんだから、罰せられるべきです -- (名無しさん) 2012-07-15 23 26 18 梅本周予は、ハッキリ言って頭おかしいですね。九支部の世話役連中も自己中心的で頭の悪い社会不適合者ばかりで、勧誘したとしても、良識ある人ならば違和感を感じて愛想を尽かすのは間違いないですね。いつまでもしがみ付いてるのは、大悲者と同レベルの廃人か、物事の善悪すら見抜けない未熟な人間でしょうね -- (名無しさん) 2012-08-12 08 30 08 梅本博予の姉妹は、腹違いで、名前は「ともよ」と「かつよ」といいます。ちなみに広島県東区牛田に住んでます。今も私は梅本博予に個人情報を使われてます。誰か捕まえてください -- (名無しさん) 2012-11-20 23 02 29 名前 コメント すべてのコメントを見る
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浄土真宗白鷺会 教学テキスト 仏教学6号 問23 問 我々の本当の姿を高僧方の悲痛な告白で述べなさい。 答 龍樹菩薩・・・獰弱怯劣 天親菩薩・・・普共諸衆生 曇鸞大師・・・造罪の人 道綽禅師・・・「若し悪を造ることを論ずれば何ぞ暴風駛雨に異 らん 善導大師・・・「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫」 源信僧都・・・予が如き頑魯の者 法然上人・・・愚痴の法然坊、十悪の法然 親鸞聖人・・・無慚無愧 蓮如上人・・・我が身は悪きいたづらもの 浄土真宗白鷺会 教学テキスト 仏教学6号 問24へ [get5out考察] get5out用画像フォーム 現在、paintプラグインはご利用いただけません。 【比較資料】 浄土真宗親鸞会 旧教学聖典 真宗学一号 問(18) 問 われらの実機を七高僧のお言葉で示せ。 答 ・龍樹――獰弱怯劣 ・天親――普兵諸衆生 ・曇鸞――造罪の人 ・道綽――若し悪を造ることを論ずれば、何ぞ暴風駛雨に異ならん。 ・善導――機の深信 ・源信――予が如き頑魯の者。 ・法然――愚痴の法然坊、十悪の法然。 解説 ・獰弱怯劣――心の悪い、弱い卑怯な劣っている者。 ・普兵諸衆生――普く諸々の悪人と共に同じ心。 ・造罪の人――罪を造りどおしの人。 ・駛雨――どしゃぶりの雨。 ・機の深信――真宗学2号問(41)参照。 ・頑魯の者――バカで阿呆で、ガンコな者。 ・これらの心は、阿弥陀仏の光明によって照らし出された自分の機ざまを 告白されたもの。 浄土真宗親鸞会 旧教学聖典 真宗学一号 問(23) 問 無慚無愧とは、どんなことか。 答 慚とは、自分にばずる心であるから、自分にはずる心もなく、 愧は他人にはずる心であるから、他人にはずる心もないということ。 解説 ・世間の人は、人に恥ずる心はなくとも、自分に恥ずる心位はあると思っ ている。ところが、親鸞聖人は、他人にも自分にも恥ずる心がないと仰 有った。 浄土真宗親鸞会 新教学聖典(2) 問(24) 問 我々の実機を七高僧は何と言われているか示せ。 答 龍樹菩薩――■(イ+寧)弱怯劣 天神菩薩――普共諸衆生 曇鸞大師――造罪の人 道綽禅師――若し悪を造ることを論ずれば何ぞ暴風駛雨に異ならん 善導大師――機の深信 源信和尚――予が如き頑魯の者 源空上人――愚痴の法然房・十悪の法然房 解説 ・■(イ+寧)――悪い。 ・怯――卑怯。 ・普共諸衆生――みんな同じ極悪人だ。 我々と同じ極悪人であるということ。 ・頑――かたくな。 ・魯――おろか。馬鹿。 浄土真宗親鸞会 新教学聖典(2) 問(31) 問 無慚無愧とはどんなことか。 答 ○「慚」とは自分にはずる心であるから、自分にはずる 心もなく、 ○「愧」は他人にはずる心であるから、他人にはずる心 もないということ。 浄土真宗一の会 教学テキスト 真宗学3号 問12 問 真実の自己を告白された善知識方の御言葉を書きなさい。 答 龍樹菩薩……獰弱怯劣 天親菩薩……普共諸衆生 曇鸞大師……造罪の人 道綽禅士……若し悪を造ることを論ずれば何ぞ暴風駛雨に異ならん。 善導大師……自身は現にこれ罪悪生死の凡夫 源信僧都……予が如き頑魯の者 法然上人……愚痴の法然房、十悪の法然 親鸞聖人……無慚無愧 蓮如上人……わが身は悪き徒もの ツリー型コメントフォーム 名前 現在、paint_bbsプラグインはご利用いただけません。 浄土真宗白鷺会 教学テキスト 仏教学6号 問24へ このページのトップへ サイト内を and or タグで and or 2021-12-07 03 46 00 (Tue) 合計: - 本日: - 昨日: - #blogsearch link_pdfプラグインはご利用いただけなくなりました。
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ゼンドウオショウ(善導和尚) ゼンドウの別名。
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ゼンドウダイシ(善導大師) ゼンドウの別名。
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「第二章の第三節」弟子『良心』との関係 六-55、以下七、八ともに群馬県甘楽町興巌寺蔵とする『藤田系図』による。「政行 別領武州藤田城邑 因土為藤田氏 保元元年七月源義朝與平清盛戦於京城 政行従義朝與平氏有功」 七-56、「行保、元暦元年二月六日蒲冠者源範頼攻平氏于摂州一谷 武蔵相模兵属範頼者三千余騎 行保為之先登遂戦死、下略」 八-57、「能国、建久三年六月六日源頼朝下教始割恩賜之地 遂以藤田采地及生田森賜能国 其書有藤田小三郎能国能達文武之言 承久三年鎌倉與王室有隙 五月能国従北條氏軍赴京 與官兵戦有功」 58、浄土宗全書十九巻15、6頁 59、第四節355頁 九-60「藤田善導寺縁起」「抑當山者浄土宗藤田派ノ本寺藤田道場ト唱ス、持阿上人良心大和尚開基也 正和三寅年五月五日創建上人化導盛弘ス 唱阿性真上人ヲ師トス藤田性真上人者秩父白鳥庄井戸村善導寺ニ住ス今善導寺旧跡者岩田村上郷ニ有、其後持阿上人者用土村蓮光寺、原宿村ノ常光寺ヲ草創ス持阿諱良心藤田小太郎行重之子也弱年投于性真傳授法義弘安六年謁于尊観初習宗義 同九年ニ上洛随侍記主禅師、又下鎌倉次到秩父稟于印脈譜於性真下総ノ古河ノ正定寺又小福田村開無量寿寺以土塔造蔵所傳秘訣於其中人称号土塔ノ一派正和(ママ)三年寅五月五日寂 天正十七(ママ)年五月回禄之災一掃 被致 此ニ又寛永十一年五月十五日寂譽接取上人遵道大和尚従川越来リ再建ス称号中興寂譽上人接取大和尚」この縁起は善導寺過去帳末尾に記されてあったものという。なお持阿上人の没年は浄土宗全書によると元亨三年六月五日となっているとの附記もある。これは町刊行物に提供されたもので「寛文十年」と冒頭に注記もある。 以下」は『新編武蔵風土記稿』がそれぞれの村の項に載せているものの引用である。 (一)榛澤郡 鉢形領末野村「善導寺 京都智恩院末白狐山悟真院或ハ藤田道場又ハ藤田ノ檀林トモ号ス 開山持阿ハ諱ハ良心と云 藤田ノ産ナリ 父ヲ形部行重ト云 心弱齢ノ時性真上人ニ投シテ薙染シ弘安ノ頃記主禅師ニ随侍ス道徳積テ後諸国ニ寺院ヲ開シモ少ナカラズ某年六月五日寂セリ 此持阿ハ碩学高徳ノ聞アリテ其流末ヲ今モ藤田派ト号スル程ノ事ナレバ経歴セシ所々皆旧跡トシテ語リ傳フルニヤ原宿村及秩父郡岩田村等ニ善導寺蹟ト云所アリ必シモ當寺の旧跡ト云ニハアラザルベシ児玉郡安保ノ城主某、上人ヲ帰依シ那珂郡広木大仏村ヲ寺領トシテ寄付アリシカ其後又漸ク衰微セシヲ藤田泰邦再興シ夫ヨリ北條氏邦ニ至ル迄帰依セシカ後又堂舎モ破壊ニ及ヒ僅かニ草堂ヲ結ヒ今ノ本尊ヲ安置セシカ御入国ノ後河越ヨリ僧寂譽遵道来リテ又興隆セリ此僧高徳タルニヨリ東照宮御帰依アリテ屡御懇命アリシ由寛永十年三月七日寂是ヲ中興トス本尊阿弥陀恵心作」 (二)用土村蓮光寺「浄土宗入間郡川越蓮馨寺ノ末大谷山藤田院ト号ス開山持阿本尊弥陀 按ニ持阿ハ末野村善導寺開山ト同人ナルヘシ是記主禅師ノ弟子ニテ高徳ノ人ナリ」 (三)原宿村常光寺「浄土宗入間郡川越蓮馨寺ノ末遍照山摂取院ト号ス開山持阿上人良心ト号ス境内ニ石碑アリ寂年ハ正和三年六月五日トイヘリ近村末野善導寺ニテ傳フル所トハ異リ又総系譜ニモ某年六月五日示寂トノミ記セリ 開基ハ摂取院妙政法尼ト云コレモ石碑アレド何人ナルヲシラス住僧ノ手□貞治元年三月十四日卒ストノミ見ヘタリ猶末野村ノ条ト合セミルヘシ 善導寺址 村ノ北ノ方ニアリ今ハ年貢地トナル末野村善導寺ハ古此所ヨリ移セシト云」 十-61このことはこのことは前出真島氏の『寄居町史』の文中に初見した。奇なることと少し尋ねた。「弘安九年播州に於いて門人持阿が一遍との問答を記録したもの」が『播州問答集』という。この辺を大橋俊雄支は『日本思想大系・一遍』の解説で「持阿については播州飾麿津の人、金光寺初代持阿を擬されて、当武蔵の「持阿」は眼中になされていないと察する。それに一遍の播磨化益は弘安九~十年で十年に良忠が鎌倉で死去した時持阿は際会しているのだからアリバイが疑わしい。 このように私は否定の立場にたつが時宗とのかかわりは一遍の東北布教の際や、弟子が村岡(熊谷)に留まったことなどから地理的・時間的に充分考えられる。又平成元年の『埼玉地方史』に湯山学氏が「武蔵猪俣党の新史料ー藤田・河匂・荏原三氏に関してー」の論文に「兵庫県の『吉井氏文書』に『弘安七年披露状』なるものを挙げ「「弘安七年七月二十五日」附に連署している「小野行員・地頭小野氏女」は武蔵藤田氏を含む猪俣党の系譜『小野系図』の人物と一致することを証され、のち室町期まで藤田氏との関係は続くと指摘された。これらは畠山氏の伊勢、熊谷氏の安芸とのように興味ある新課題と思う。(第二章終)
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第三章の第二・三節分 三-四(71)鈴木氏が論文中に挙げられた部分だけを註しておく。 『述聞副文「抑先師在生之昔十八之秋文永六年登比叡山東塔南谷極楽房以仙暁法師為師、次歳文永七年出家受戒 仙山三ヶ年間 玄義文句受学畢 雖不終一部為先師向顔 関東下向 即還山之由令約法師仙暁間 初於浄土宗無所学之志送一両年(中略)而予還山之旨頻雖令申 先師云 予已及老衰 無可続跡之仁 枉可随遂之由命申間 随彼命上洛思止畢 先師云 住山思止之上者 予相傳浄土法門可学之由教訓之間 七ヶ年自文永八年至建治二年間 浄土章疏並明王院相傳釈摩訶衍論十巻以慈行鈔重被授畢 爰先師上洛建治二年時 欲相伴之処 上州時遠法名行昭 頻愚身可留置之由被仰之間 不慮関東止了佐介谷悟真寺今号蓮華寺先師在京十一年自建治二年至弘安九年 弘安九年秋又先師関東下向八十八、次年弘安十年七月入滅畢』内容は本文に触れているのでここでは略すがこれも重要且つ良好な「史料」と思う (72)「法然と浄土宗教団」118頁 (73)『十六疑問答見聞』 (74)日本仏教十二「良忠の妻子について」58頁 三-五(75)鈴木氏は『浄土傳燈総系譜』では良暁は良忠の「家弟」となっている。「弟子」と解せばよいが兄弟とすると五十四歳の年齢差がでて至難『鎮流祖傳』には「石州の人」としているが京都説もあり、出生地も母も特定できない。また宝治二年(一二四八)良忠は京都にいて尼『浄意』の招請で『選擇集』を講じたが浄意が聖覚の妹で「かなり密接な関係」であったと『然阿上人傳』が伝え「良暁は浄意の子」説が出たと推論されている。 三の六(76)『浄土傳燈総系譜』には『性真』と並ぶ立場に『理真』等十五人を挙げている。そして『性真ー持阿ー持名ー唱名―教蔵―善忠ー理覚ー感誓』と続き『理覚』から『良岌ー岌傳ー岌天ー等月ー等天ー学天ー岌庵』としている。 『輪超』の『弁正返破論』の中には『然阿上人ノ次キニ藤田ノ性阿』とし「次ニ」の接続詞で『良心ー持名ー唱名ー良薫ー良岌ー良感ー良叡ー良傑ー良達ー岌善ー岌泰ー岌念』と結んでいる。『望月仏教大辞典』の「藤田流」の項には前出の名の他に『等海・源岌・岌巡・岌高ー岌秀ー岌光』等の名が見える。 三の七(77)大橋氏はその著『法然と浄土宗教団』の中に「藤田派教団寺院分布表」お作られ、弘安年間から正保年間まで二十三年代に分け、更に羽後・会津から近江・山城まで十五地域に分けて詳しい統計図表で示されている。それによると弘安から文和までに開かれた藤田派の寺院は武蔵二、上総・下野各一、であるが、以後は東北地方に、天正年代に入ると山城即ち京都に進出、総計百二十七寺院とされている。そして「藤田派の展開」として次のように解説されている。 「北下総・北武蔵の地に教団を結成した藤田派は那須野から那珂川に沿った自然的交通路を北上して郡山から会津に入った。会津では芦名一族の帰依を得て高巌寺を建立、さらに阿賀野川に沿って越後国に入り、貞治の頃「感譽」は時宗寺院を支配下におき津川の新善光寺とその末寺を改宗させ天文の頃岌譽は高田に善導寺を建立した。以来越後から能登・越前へと展開した藤田派は岌往の手により信濃にも四十余、甲斐にも二十余の寺院を建てたという。またこの門流から出た善忠は貞治五年三河に悟真寺を建て、岌長は天文三年尾張の刈安賀に鎮西寺、同九年岌清は葉刈長福寺を開創した。即ち一つは会津から越後にかけての地域に、また甲斐・信濃の地域に分布していったことが知られる。しかも越後での中心道場は糸魚川の善導寺でここが後に京都進出への足がかりになった」と要約されている。 三の八(78)この部分も典拠は主に前と同じである。藤田派の京都進出の端緒は「知恩院」「知恩寺」の対立であるとし「応仁の大乱後、知恩院は漸次再興がなったが、百万遍知恩寺の再建は思うに任せない。こうした知恩院のさまにひがみをもった知恩寺の慶秀は院とは奥の院の意であり別院のことである。したがってもと知恩院は知恩寺の奥の院であるから知恩寺こそ浄土一宗の本寺であると主張するに至った。知恩院はその非を朝廷や幕府に訴えて裁断を仰いだ。その結果(知恩院文書は略す)知恩寺も実力をそなえた寺であるが、知恩院を本寺と仰ぐできことが沙汰させ、今後朝廷への僧階などについて申請する場合、知恩院でも知恩寺でもよいこととした。もの裁可を快しとしない知恩寺は初志を貫徹しようとして、越後の上杉と結び、天文十二年、後奈良天皇の綸旨を以て糸魚川善導寺の岌翁を住持に迎えた。越後で不動の地位を固めつつあった藤田派教団を自己の側におくことによって白旗派教団における知恩院に配するに百万遍知恩寺をして藤田派本山になぞらえようとしたらしい。以来知恩寺には岌長・岌善・岌州・岌與らの僧が住した」という。又、名越や藤田派が辺境の地で実力は養えても、所詮は朝廷公家を中心とする運動でない限り、その政治的支配統一を実現できない。それには宗祖法然上人の遺跡であり、公家との深い関係お持つ本山お中心とするものでなければ各々の末寺統制を強化拡大できない。鎮西一流を支配するにはそれが前提だった。結局において白旗派が諸派を統合して支配し得た原因は早く『了譽・聖冏』のごとき偉才輩出し、その門流から本山知恩院等の住持たらしめられたことである」と述べられている 三の九(79)『良心』開山の下総無量寿寺十二代という。又この人を招請して開山した下野国安蘇郡の大庵寺では「子孫庶民よく『岌翁』に帰依念仏興行に励んだ」という。 三の十(80)、『呑龍』は天正五年正月、白旗派の血脈を『団譽』から受けた後、同十年八月武蔵国平方(現越谷市)大善寺の『岌弁』からも善導いか性阿ー持阿を経て『岌弁ー岌譽』と続く五重血脈を受けた。この『岌譽』は『呑龍』の藤田派での僧名であった。因みに大善寺は『等海』開創で、会津高巌寺、糸魚川善導寺と並ぶ藤田派本寺の一つである。『呑龍』の入寺期は不詳だが住するうちに白旗派に転じ、寺名を林西寺と改め「中興」と呼んでいる。尚「新田大光院」は埼玉県熊谷市と利根川をはさんだ対岸群馬県太田市で当地からも三十粁位で「太田の呑龍様」と親しまれている。新編埼玉県史は第十八巻にこの経緯を示す資料として次の文書を載せている。 「林西寺末寺中里村西岸寺並び開山由緒 一、総州葛飾郡庄内領中里村元致山霊山院西岸寺 一、上古開山一蓮社岌弁商人藤田流儀位牌在之 開基年数・生国・姓氏・剃髪之師・檀林附法の師不知申候 是より白旗流儀位牌在之 二世中興開山源蓮社然譽呑龍上人 天文十一年壬寅年八月二十五日誕生 剃髪師岌弁上人附法師増上寺観智国師 元和九癸亥年八月九日、於上州新田義重山大光院行年八十二歳入寂 上古開山より拙僧まで十五代位牌御座候 元禄八乙亥年十月武州崎玉郡平方村林西寺末総州中里村西岸寺 貞山」 三の十一(81)『幡随意』は始め百万遍知恩寺の『岌興』に師事し、無量寿寺や佐貫善導寺に住していた。『岌丈』自筆の本を借りだして『浄土二蔵義』『決疑抄』を書写したという。又越後高田善導寺を中興したとの説は藤田派の人であったことをしめしている。『幡随意』も白旗派への帰入年次は判らないが岌号お捨てて『智譽』と名乗っていることは白旗派へ転じた証明となる。彼が一時にせよ百万遍知恩寺に住していたことは藤田派に属していた縁故と考えられる。これらから彼は明らかに白旗派への合流帰一を意図していたと見られる。 転記畢平成二十四年三月十五日午後四時
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光明寺 東京都大田区、西山国師霊場第2番、光明寺の御朱印「善導大師御真像」です。 ★住所 東京都大田区鵜の木1-23-10 -
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賢者の助言:C(バーバ・ヤガー) 様々な局面において英雄への助言・手助けを行う賢者の見識。 他者の運命を見つめ、善導する道具・知識を与える事が出来る。 ランクが高い程、より困難な難行を乗り越えさせる可能性が上がるが、 森の悪い魔女としての側面が強いバーバ・ヤガーはランクが少し落ちている。