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概説 心の哲学の用語 自然主義 根本問題 概説 心の哲学(英 Philosophy of mind)とは哲学の一分科で、現象的意識やクオリアなど心的なものと、物質的な脳や身体との関係、そしてそれらの存在論的な位置づけを研究する学問である。 心の哲学の基本的なテーマは心身問題と心的因果であるが、心身問題は科学の領域では心脳問題として研究の対象となっている。歴史的には心身問題は心脳問題の前史としてあったということになる。 デイヴィッド・チャーマーズは、心的現象と脳の活動の対応関係を研究する神経科学の問題を「イージー・プロブレム」と呼び、その脳の活動からどのようにしてクオリアなどの心的現象が生まれるのか、またその心的なものは物理的な脳とどのような因果関係(心的因果)があるのかという問題を「ハード・プロブレム」と呼んでいる。近年の心の哲学ではその意識のハード・プロブレムが最も活発に議論されている。 心の哲学についての立場を大別すると一元論と二元論に分けられる。またクオリアを物理的な性質に還元可能か否かを巡って、還元可能とする物理主義的立場と、還元不可能とする立場(実体二元論、性質二元論、中立一元論)に大別されることもある。 心の哲学の主要な説を分類すると以下のようになる。 ■二元論 ├実体二元論 | ├相互作用二元論 | ├予定調和説 | └機会原因論 ├性質二元論 | ├心身並行説 | ├自然主義的二元論 | └トロープ説 ├随伴現象説 └新神秘主義 └認知的閉鎖 ■一元論 ├物理主義 | ├行動主義 | ├心脳同一説 | ├機能主義 | ├表象主義 | ├非法則一元論 | └消去主義的唯物論 ├観念論 |└唯心論 ├現象主義 | └重ね描き ├中立一元論 └汎神論・汎心論 一元論対二元論の概念図(英Wikipediaより引用) 図の Cartesian Duality はデカルトの実体二元論を意味する。Physicalism は物理主義的一元論(物的一元論とも呼ばれる)、Idealism は観念論的一元論(心的一元論とも呼ばれる)、Neutral Monism は中立一元論の意味である。なお現代では「二元論」という場合、デカルトの二元論でなく性質二元論を意味することが多く、これは中立一元論とほぼ同じ立場である。現代の心の哲学では、物理主義VS中立一元論(性質二元論)という構図で論争が行われていると考えても間違いではない。 現代では心的一元論の立場を取る哲学者はほとんどいない。 ※なお上の図は一元論対二元論という構図で分類されているが、心の哲学にはさまざまな議論領域があり、どの問題に着目するかで異なった分類の仕方もありうる。心の哲学者の金杉武司は各議論領域を以下のように分類して紹介している。 http //www.keisoshobo.co.jp/files/bookguide/philosophyofmindmap.pdf 心の哲学の用語 心の哲学においては用語が多少混乱しているので注意が必要である。現在最も活発に議論されているのはクオリアの問題であるが、歴史的にはクオリアと同様の意味で「表象」という言葉がよく使われてきた。「知覚」や「感覚与件(センスデータ)」や「直接経験」も類似の意味であり、心の哲学においてそれらは厳密に区別されている訳ではなく、しばしば互換的に用いられている。なおジョン・サールや茂木健一郎は、クオリアを「意識」そのものと同一視し、意識と同じ意味で用いている。クオリアという用語は論者によって用いられ方が異なるので注意が必要である。 「現象的意識」という言葉は、客観的に観察可能な意識の機能的側面と対比させて、意識の主観的、私秘的な側面を指す場合に用いられる。 「唯物論」と「物理主義」はほぼ同じ立場の思想を指す。「性質二元論」と「特性二元論」は同じ意味である。 クオリアを物理現象に還元できるという立場の「還元主義」と、自己や自我というものは個別の意識現象に還元できるという人格の同一性問題における「還元主義」は全く意味が異なるので注意が必要である。 心的性質と物理的性質は一つの実体の両面であると考える立場の「中立一元論」は、「二面説」や「二相理論」、時に「同一本体相貌説」とも呼ばれるが、ほとんど同じ意味である。なお「性質二元論」とは、世界には物理的性質と心的性質の二つがあるという立場であるが、その二つはあくまで「実体」ではなく「性質」としているのであり、存在論的には中立一元論を前提としており、同じ二元論であっても「実体二元論」とは全く異なるので注意が必要である。 自然主義 心の哲学には様々な立場の学者がいるものの、どの学者も心を科学的に扱おうとする「自然主義(naturalism)」を前提にしている点ではほぼ共通している。心を自然科学の対象にしようとする学者たちの会議がツーソン会議や国際意識科学会である。 自然主義は実用的実在論を前提にしているため、心の哲学では認識に関する「基礎付け主義(foundationalism)」はほぼ否定されている。従って現代の心の哲学の議論では現象主義や観念論はほとんど対象にならず、心身問題の歴史について解説する脈絡で、ルネ・デカルトやジョージ・バークリーの説が紹介される程度である。ただし日本の哲学者には、大森荘蔵の現象主義的な「重ね描き」という心身関係論に言及する者が少なくない。 心の哲学は自然主義を前提としているため、認知科学や神経科学と親和的である。ツーソン会議や国際意識科学会には哲学者だけではなく、神経科学者や認知科学者も多数参加している。 心の科学的研究は19世紀に心理学として始まっている。初期の心理学は行動主義を前提として、観察可能な人の言動に研究対象が限定されていた。しかし行動主義は多くの難点が指摘され、機能主義が主流となった。機能主義を前提とした心の科学が認知科学である。認知科学では「表象(Representation)」と「計算(Computation)」の概念を核とし、人の心とは表象の計算的な処理と考える。これは表象主義とも呼ばれる。 なお神経科学者や物理学者には、現象的意識やクオリアは科学の対象にできないとする立場の者も少なくない。科学とは数量化できる事物だけが研究可能であるという前提から、「懐かしい」とか「美しい」といった数量化できないクオリアは科学の対象にならない、ということである。 根本問題 (以下は管理者の見解) 心の哲学には、本来「哲学」そのものの歴史的課題でもある二つの重要な根本的問題が潜在しており、それらの問題に対してどのような立場を取るかによって、心身問題へのアプローチは全く異なってくる。 ひとつは実在についての問題であり、この問題に対しては実在論と非実在論の立場に分かれる。現代の心の哲学において最も活発に議論されているのはクオリアの存在論的な位置づけと心的因果の問題であるが、それらは自然主義の立場から、実用的実在論を前提に行われているものである。しかし現象主義や観念論などのように実在論に反対する立場もある。なお非実在論の中には、時間や空間の実在性を懐疑するラディカルな立場もある(時間と空間の哲学)。物質や時間・空間が実在しないという立場からすると、現在心の哲学で議論されている問題の多くは錯覚問題であるということになる。 もうひとつは自己や自我についての問題である。デレク・パーフィットはこの問題に対する立場を、人格の同一性についての還元主義と、非還元主義に分ける。還元主義の立場では自己は実体ではなく、そのつど生起し消滅するクオリアなど個別的現象に過ぎないとするが、非還元主義では魂のような絶対的な主体を想定し、それが通時的に「私」の同一性を成り立たせている根拠とする。 ちなみに一般の人が抱いている素朴な世界観は、素朴実在論、および素朴心理学と呼ばれる。この素朴な立場では「私」という主体がいて、それが空間的に広がる世界に実在しているさまざまな物事――客体を時間的、つまり持続的に認識していると考える。 イマヌエル・カントは、人間は時間と空間という形式によってしか物事を認識できないと論じた。したがって物質的なものの実在を否定し、さらに時間や空間の実在も否定し、なおかつ「私」という主体の存在も否定する極端な立場の思想では、世界の在り方を具体的に理解し、イメージすることは困難になる。
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[言語の問題] 言語とは非常に不思議な性質を持つものです。 実体が見えないにも限らず現に情報を伝達し、例えば小説などでは見たことのない風景を想像の中に作り上げてくれます。 この不思議な性質について哲学的に思惟する営みを言語の哲学といいます。 言語の哲学、言語哲学には歴史上、様々な哲学者が携わってきました。 その中にはアリストテレス、ライプニッツ、ハイデッガーなど著名な哲学者も多くいます。 それほどに言語は哲学において重要な問題だったのです。 さて、なぜ言語は哲学上で重要な問題となるのでしょうか? 一つの思考実験として、言語のない世界を考えてみましょう。 風景や人の顔などの画像的、映像的な情報、あるいは何かの音などが思い浮かべることができると思います。 しかしそれを説明するためには必ず言語が必要になります。 説明の説という字にも言偏が使われている通り、我々は言語を介さずには意思疎通を図れません。 「いやいや、non-verbal(非言語的)なコミニケーションや以心伝心のような非言語的な意思疎通もあるだろう」 と意義を唱える人もいるかもしれません。 しかし、非言語的な意思疎通には必ずそれ以前に言語的な意思疎通が存在したはずです。 特定の人物を指す名称なしに、どのように人を区別するのでしょう? また、例えば机と椅子などの区別は初めからそれらが分けられているのではなく、異なる名称がついているという背景を他者から与えられるか、自分自身で言語(記号体系)という背景の中から差異を見出し、初めて区別ができるようになるのです。 つまり、その記号体系という言語についてその全貌を把握し、その基礎を確立せずには、あらゆる問題は根本的な解決ができないのです。 [古代ギリシアに見出す言語哲学] 歴史上の哲学者がどのように言語に取り組んできたのかについて遡ってみましょう。 まず、西洋諸学問の基礎として紀元前古代ギリシアの哲学思想があります。 かの有名なソクラテス、ソクラテスの弟子のプラトン、プラトンの弟子のアリストテレスが有名です。 プラトンの有名な学説として、イデア論と想起説があります。 例えば幾何学において図形を描いて証明を行う場合、現実の図形では点は面積をもち線は幅をもっていますが、 こうした現実の図形によって幾何学者が証明しようとしているのは、頭の中にある幅のない線で書かれた純粋な二次元上の図形です。 現実の図形では虫眼鏡などで見れば必ず幅がありますが、純粋な頭の中の数学的な空間では幅を持たないとすることができるわけです。 この様に、想像の中の抽象的な概念(イデア)は現実の純粋ではない存在とは異なるというのがイデア論、抽象的な概念を現実の仮の姿から想起するというのが想起説です。 [普遍論争] それから長い年月が経ち、中世の西洋では普遍論争という論争が盛んでした。 この論争では実在論(realism)と唯名論(nominalism)という立場の哲学者や神学者が主に対立し、議論を交わしていました。 普遍論争における実在論はキリスト教の神話と紀元前ギリシアのイデア論が組み合わさったものです。 楽園にいたアダムとイヴは原罪を背負い楽園を追放され、その子孫である人類はその罪を背負うこととなりますが、 実在論は人類という抽象概念をイデア、現実の仮の姿を我々やアダムとします。 一方、唯名論は人類という抽象概念は実在物というよりかは単なる名称に過ぎす、実在するのはむしろその人類という名称にくくり付けられる我々の様な個々の存在であると考えます。それゆえに唯、名前がある論説という唯名論なのです。 さて、この普遍論争の出来事が西洋諸国には中世の記憶として根付いていました。 近世、近代、現代と爆発的な勢いで学問が発展することになりますが、 この問題はそこで活躍した様々な学者に精神的に引き継がれていったと言えます。 [比較言語学] ここからは西洋における言語の哲学の関心が神学から言語学の系譜へと写ります。 古典的な言語学といえば西洋において公用語や学術言語として機能していたラテン語の規範文法というものがありました。 この時点では素朴に言語学と言われたら思いつくような、”個別の言語の正しい文法について記述する”ような研究がなされていたので、まだ哲学とは関係がありません。 しかし、西洋諸学問の発展に伴い、18世紀には文献学という学問の中で比較言語学という手法が確立されて行きます。 そうして絶対的に正しいラテン語の文法という観点から、相対的な異なる言語間の比較や異なる文法などを記述するという観点に言語学の関心が映る事となりました。 ところで言語というものは、世代を超えて長い年月をかけていけば必ず変化するものです。 言語の起源というのも言語の哲学では盛んな議論でありいまだに解決されていませんが、言語が変化するというのは言語学的には確実な事実です。 例えば、日本の古典と現代日本語、古英語と現代英語、漢文と中国語などでは文法も発音も語彙も全く異なります。 これは、例えば「チョーヤバイウケるヮラ」だとか、”ら抜き言葉”だとかのような新しい言葉遣いが過去に言語使用者全体に取捨選択され、変化した結果と言えます。 実際、戦前の人に携帯だとかパソコンという単語を使ってもそれらが時代に沿って新しい概念に対応して造語された単語である以上、意思疎通ができないわけです。 この様に言語というのはいわば生物の進化の様に環境に適応して柔軟に変化します。 その変化の法則などをわかる範囲でまとめた学問が比較言語学だったわけです。 [近代言語学] 比較言語学が発展してきた19世紀、さらに近代言語学はソシュールという一人の学者によって飛躍的発展を遂げることとなります。 ソシュールはここで一つの哲学的とも言える提起を始め、その後の西洋哲学全体にも影響を与えます。 まず、彼が提起したのはこれまでの歴史上の動的な変化に対応して言語を記録していく(通時)言語学ではなく、 言語一般についての普遍性と構造を言及する(共時)言語学の必要性でした。 彼は普遍的な言語の性質として様々な概念を提案しましたが、その中でも重要な概念としてシニフィアンとシニフィエという概念があります。 例えば犬という語彙があるとして、そこには犬という語彙から想起されたり指示されるイメージと、inuというそのイメージとなんの関係も持たない音声があります。 人間の全ての言語はこの様になんの関係も持たない音声(シニフィアン)と意味(シニフィエ)をくくり付ける性質を持つわけです。 連続的なシニフィエのシニフィアンによる区切り方は言語によって異なるので、そこから言語によって認識の仕方が異なるという言語相対説や言語によって認識の仕方がある程度決定されるという言語決定論という仮説も生まれました。 近代言語学の人間の言語一般に対して言える法則の発見は西洋のあらゆる学問に対して非常に示唆に富むものでした。 音韻論的(イーミック)と音声学的(エティック)という対立も重要です(同化と異化とも言います) これは音素と音韻だとか若干専門的な話になるので別のページに分割しますが、 この場で至極簡単に言えば、 我々は恣意的な判断に基づいて同じであるだとか異なるだとかを判断しているということであり、言語を使うものは誰一人としてその恣意性から逃れることができないということです。 [現代思想] ソシュールの言語においての発見の数々は、 それまで記号とそれにくくり付けられていた意味との解離を意味しました。 普遍論争の例で言えば、実在論者はこの恣意的な記号と意味との対応を説明しなければなりません。 また、論理的思考と言われるものについても、論理的に証明された述語や形式体系と現実との対応付け(写像)をさせる場合には恣意性があるのではないかという批判を免れなくなったわけです。 これにより”証明的”な諸学問や哲学はソシュールの構造言語学に則り、その”構造”を探求する体制へと移行していくこととなります。 それが現代思想における構造主義でした。 構造主義の哲学者において有名なのは例えば精神分析家医のラカンがいます。 ラカンはフロイトを継承し、ヘーゲルやソシュールの理論とを組み合わせ、独自の理論を言語哲学的に編み出して行きました。 ラカンは無意識は言語のように構造化されていると提唱し、厳密な論理によっては近くことのできない深層意識に、比喩的な変域を持った代数構造を用いることで近づこうと試み、部分的な成功をおさめます(彼は理論の難解さから、文脈や歴史的背景の理解を持たない人々からの批判をよくされます) 言語哲学は英米では分析哲学とも言われ発展していますが、多くの分析哲学の理論はこの構造言語学的な文脈を正確に継承しているとは言えません。 また構造を把握することはどこまでが可能なのかというポスト構造主義などの批判的継承もあり、ますます言語全体の構造を把握するという試みは難しくなってきています。
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管理者の連絡先 Contact address Twitter 日本語 Twitter English English papers Structural realism and eternalism can solve the mind-brain problem Kant's Antinomy proves Eternalism and Structural Realism true ↓以下は日本語書籍と論文 Below is a collection of Japanese books and papers 『形而上学のエッセンス』 google books(Google playで購入後Google booksに戻ればpdfがダウンロードできます) Amazon (kindle版は文字検索できません) 『存在と時間と〈私〉』 google books(pdfがダウンロードできます) Amazon (kindle版は文字検索できません) ※kindle版は文字検索できないのでgoogleのpdf版をお勧めします。 『反実在論の極限』(未熟な部分があるので販売停止にしました) 以下は個別の問題についての論考 亀でもわかるアンチノミー 猫でもわかるデカルト哲学 映画『シックスデイ』で考える〈自己〉の問題 ゾンビでもわかる心脳問題 静的宇宙論の確実性 カラシニコフの哲学 心脳問題の解消 時間の哲学の未解決問題 〈私〉の持続という問題 映画『マトリックス』で考える現実と真実 存在と時間と「私」 無内包の現実性 書評1 書評2
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古代ギリシア哲学 ◆ギリシア哲学の先駆者の時代 ホメロス(前8世紀) 詩人 ヘシオドス(前700頃) 詩人 アルクマン(前630頃) 詩人 レロスのペレキュデス(前6世紀) 神話学者 ◆初期ギリシア哲学(ソクラテス以前) 【時期】前6世紀初め(前585年、タレスの日蝕予測)~前5世紀後半(ピュタゴラス派や原子論者の活動は前4世紀前半まで) 【場所】イオニア、イタリア タレス(前625頃~前548頃) ミレトス派(イオニア派) アナクシマンドロス(前610頃~前546頃) ミレトス派(イオニア派) アナクシメネス(前587頃~前527頃) ミレトス派(イオニア派) ピュタゴラス(前572頃~前494頃) ピュタゴラス派(イタリア派) クセノファネス(前570頃~前470頃) エレア派(イタリア派) シュロスのペレキュデス(前6世紀) ヘラクレイトス(前540頃~前480頃) イオニア派 パルメニデス(前520頃~前450頃) エレア派(イタリア派) アルクマイオン(前6世紀末~前5世紀) ピュタゴラス派(イタリア派) アナクサゴラス(前500頃~前428頃) イオニア派 エレアのゼノン(前494頃~前430頃) エレア派(イタリア派) エンペドクレス(前490頃~前430頃) イタリア派 アルケラオス(前5世紀) イオニア派 プロタゴラス(前490頃~前415頃) ソフィスト メリッソス(前484~?) エレア派(イタリア派) アテナイのアンティフォン(前480頃~前411) ソフィスト フィロラオス(前470頃~前385頃) ピュタゴラス派(イタリア派) レウキッポス(前5世紀後半) 原子論者 デモクリトス(前460頃~前370頃) 原子論者 アポロニアのディオゲネス(前460頃~?) アルキュタス(前430頃~前350頃) ピュタゴラス派(イタリア派) ◆古典期ギリシア哲学 【時期】前5世紀半ば~前4世紀後半(前322年、アリストテレス死去) 【場所】アテナイ、前4世紀の学校 ゴルギアス(前485頃~前380頃) ソフィスト ソクラテス(前469頃~前399) プロディコス(前465頃~前395頃) ソフィスト ヒッピアス(前460頃~前384) ソフィスト アンティステネス(前445頃~前365頃) 小ソクラテス派のキュニコス派(犬儒派) メガラのエウクレイデス(前445頃~前365頃) 小ソクラテス派のメガラ派 パイドン(前5~前4世紀) 小ソクラテス派のエリス派 アリスティッポス(前4世紀) 小ソクラテス派のキュレネ派 クセノフォン(前430頃~前355頃) ソクラテスの弟子 イソクラテス(前436~前338) ソフィスト プラトン(前427~前347) アカデメイア派 シノペのディオゲネス(前413/403頃~前323) 小ソクラテス派のキュニコス派(犬儒派) スペウシッポス(前410頃~前339) アカデメイア派 クセノクラテス(前396~前314) アカデメイア派 ヘラクレイデス(前390頃~前310頃) アリストテレス(前384~前322) 逍遙学派(ペリパトス派) テオフラストス(前371頃~前286頃) 逍遙学派(ペリパトス派) テーバイのクラテス(前360頃~前280頃)と妻ヒッパルキア(前350頃~前280頃) 小ソクラテス派のキュニコス派(犬儒派) ◆ヘレニズム哲学 【時期】前4世紀末~前1世紀(前31年、プトレマイオス朝滅) 【場所】ヘレニズム世界 ピュロン(前341~前270) 古懐疑派 エピクロス(前341~前270) エピクロス派 キティオンのゼノン(前334頃~前262頃) 古ストア派(初期ストア派) クレアンティス(前304頃~前233頃) 古ストア派(初期ストア派) アルケシラオス(前315頃~前240頃) アカデメイア懐疑派(中期アカデメイア) クリュシッポス(前279頃~前206頃) 古ストア派(初期ストア派) カルネアデス(前214~前129) アカデメイア懐疑派(中期アカデメイア) パナイティオス(前185頃~前110頃) 中ストア派(中期ストア派) ポセイドニオス(前135頃~前51頃) 中ストア派(中期ストア派) ◆古代後期哲学 【時期】前1世紀~後6世紀前半(529年、ユスティニアヌス帝の異教徒学校閉鎖令) 【場所】ローマ帝国 フィロデモス(前110頃~前40) エピクロス派 キケロ(前106~前43) ルクレティウス(前95頃~前55頃) エピクロス派 セネカ(前1頃~65年) 新ストア派(後期ストア派) プルタルコス(46頃~127頃) 中期プラトン主義 エピクテトス(55頃~135頃) 新ストア派(後期ストア派) マルクス・アウレリウス(121~180) 新ストア派(後期ストア派) アプレイウス(124頃~170頃) 中期プラトン主義 セクストス・エンペイリコス(160頃~210頃) 懐疑主義 アフロディシアスのアレクサンドロス(200頃) アリストテレス派 プロティノス(205頃~270) 新プラトン主義 ディオゲネス・ラエルティオス(2世紀後半) 哲学史家 プロクロス(412~485) 新プラトン主義 ダマスキオス(480頃~550頃) 新プラトン主義 シンプリキオス(490頃~560頃) 新プラトン主義
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「ポストモダン」という言葉を最初に使いだしたのは誰か 絵画 様式からスタイルへ、スタイルからポストモダンへ 思想におけるポストモダン思想 リオタール 大きな物語の消滅 ダニエル・ベル 情報化社会 ポストモダン思想の背後に新しい哲学はあるか 差異の形而上学がそれではないのか 哲学でないのならポストモダンにおいて哲学と言われている物はなんなのか 「ポストモダン」という言葉を最初に使いだしたのは誰か 建築家。建築物は時代によって様式が異なる。20世紀前半に「モダニズム」という目的に即した機能的な建築様式が生まれた。20世紀なかばを過ぎたときに様式を否定する様式として過去の古い様式のパッチワークのような建築法が生まれた。 絵画 様式からスタイルへ、スタイルからポストモダンへ 時代や文化に応じた様式が存在していたが、19世紀になると写真の発明によって写実的に描くという画家の仕事がなくなる。そこで画家は自分たちのスタイルを前面にだし、それによって画家のオリジナリティを主張するようになる。しかし、それも20世紀になると個人がそれぞれのスタイルを作るということの不可能性に気付き、オリジナリティの価値が否定され、ポストモダン状況へと遷移する。 思想におけるポストモダン思想 思想においても、ポストモダンという言葉が使われ始めた。その口火を切ったのが リオタールの『ポストモダンの条件』(1979)である。 リオタール 大きな物語の消滅 「大きな物語」が終焉した。例えば人間は理性があり、教育などにやり合理的な考え方ができるようになるという「啓蒙」の物語である。知識はもはやそのような啓蒙のためにあるのではなく、情報として交換するものとなる。 ダニエル・ベル 情報化社会 リオタール以前に、ポストモダンが何を意味するのかを捉えた議論として1960年代にアメリカや日本でとりざたされた「情報化社会」の到来についての議論がある。 ダニエル・ベルは『イデオロギーの終焉』(1960)において東西冷戦というイデオロギーの対立はすでに終わっており、知識産業中心の新しい社会が生まれつつあると指摘した。リオタールの議論はベルの議論の焼き直しに過ぎない。 情報化社会という捉え方には情報化によって人類の未来はますます豊かになるという楽観的なものだったが、1970年代になると環境破壊等の問題により悲観的な見方がされるようになった。 ポストモダン思想の背後に新しい哲学はあるか ない。デリダの「脱構築」などの「ポスト構造主義」それであるという考えは間違っている。「ポスト構造主義」という名前は構造主義の思考を理解できなかったアメリカ知識人が構造主義批判をしたデリダの思想に与えられた名前である。 差異の形而上学がそれではないのか スローガンに過ぎない。差異という概念は確かに20世紀になって重大な意味を持ち始めた。ベルクソン、構造主義、ハイデガーの「存在論的差異」、デリダの「差延」etc.しかし、思想家によって差異の概念は明らかに異なっており、かみあわせることすら困難にみえる。このスローガンはポストモダンを近代の概念に従って一つの時代と捉えてその時代の背後にも新しい哲学があるはずという希望を書いているに過ぎない。 哲学でないのならポストモダンにおいて哲学と言われている物はなんなのか 文化批評である。さまざまな哲学書を文学作品のようにして読み、そのパッチワークで面白い話を仕立てあげてくれる業界のことである。 例えばデリダの脱構築はアメリカのイウェール学派によって文芸批評の一手法として捉えられた。
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Stanford Encyclopedia of Philosophy スタンフォード哲学百科事典 とっても役に立ちます。 Philosophy Guides - 哲学ガイドブログ 哲学ガイドブログ プラトン、ルソー、カント、ヘーゲル、ニーチェなど、有名な哲学者の作品と思想を分かりやすく解説しています。 学術書・哲学書・専門書の高価買取(全国対応) 哲学堂書店 教科書や資料探しに最適。自分の哲学関係の本を高く買取ってもらいたいときもここぐらいしかない。 Portal 哲学 http //ja.wikipedia.org/wiki/Portal 哲学 日本哲学史研究のための基本文献案内-概説書・入門書- 日本哲学史研究のための基本文献案内 西洋古代哲学案内 SKK 自然哲学研究会 哲学サークルサイト 倫理哲学入門講座 かなりの情報量で、内容もやさいい。 研幾堂 哲学文庫 ディープな情報満載。研究に役立つこと間違いなし。
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○ ソシュール小事典(丸山 圭三郎) ソシュール小事典 現代言語学のみならず20世紀の思想に多大な影響を与えたフェルディナン・ド・ソシュール。 その謎の多い生涯、同時代の様々な思潮、彼の言語理論の基本概念や用語、 死後出版された名著『一般言語学講義』の読み方と後世への影響、 記号学の先駆といわれるアナグラム研究等多岐にわたるその著作の紹介・・・。 巨人の全貌を明らかにした待望の事典。。 ○ ウィトゲンシュタイン小事典 (山本 信,黒崎 宏) 20世紀が生んだ天才哲学者ウィトゲンシュタイン。 本事典は、ヴィトゲンシュタインの哲学を時代順(前期、過渡期、後期、晩年)に整理するとともに、 主要な著作からの哲学抄やキーワード解説を中心に、その全貌を捉える。 また彼の生涯や、交流のあった人々との影響関係をも射程に入れた、初のウィトゲンシュタイン・ハンドブック。 ○ チョムスキー小辞典(今井 邦彦) チョムスキー小事典 チョムスキー理論は言語学に革命を引き起こしたのにとどまらず、心理学、哲学等々に多大なインパクトを与えた。 本書では、こうしたチョムスキー理論の深化発展の跡をたどり、基本概念を整理し、反戦家としての一面など、 その人間像も探った。第一線の研究者を動員して、20世紀の知的巨人の全貌を浮き彫りにしたハンドブック。
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概説 歴史マクタガートの時間論 科学における「絶対説」と「関係説」 相対性理論の時間・空間論「時間の流れ」の問題 哲学者の相対性理論解釈 存在論的派生問題 補足 空間論 心の哲学との関連 概説 時間と空間の哲学(philosophy of space and time)とは、時間と空間――時空についての哲学的な考察である。現代では哲学と物理学との学際領域である。分析哲学ではジョン・マクタガートの時間論を巡って活発に議論が行われている。 時空の哲学では以下のような問題が考察されている。 時間や空間はその中にある物体と独立に実在するのか、それとも物体と物体の関係としてしか存在しないのか? 独立に存在すると考えるのがニュートンの絶対時間・絶対空間の立場であり、物質たちの関係としてしか存在しないと考えるのがライプニッツやマッハの関係説の立場である。アインシュタインの相対性理論は、時間と空間はそれぞれ相対的なものとみなすが、両者を合わせた「四次元時空」は絶対的なものとみなしている。 時間の矢は何によって決まるのか? 時間は過去から未来にむけての一方向にしか進むことはできない(非対称性)。この時間の矢の問題はエントロピーの法則と密接に関係していると考えられているが、しかしエントロピーによって厳密に時間の非対称性を論証することはできない(*1)(*2)そして時間の矢が物理法則で決定されていないということであれば、時間が「過去から未来へ」でなく、「未来から過去へ」進むこと、つまり逆向き因果とタイムトラベルが論理的に可能になる。タイムトラベルの可能性を巡っても議論が行われている。なお後述するブロック宇宙説では時間の矢の問題は存在しなくなる。(*3) 時間は人間の感覚から独立して実在するのか、それとも実在しないのか? ヒュー・プライスは時間についての形而上学的立場を二分類している。一つは時間を人間の意識とは独立な世界の客観的事実とし、現在過去未来という時制の対象、つまり世界の変化も客観的に存在しているとする立場。もう一つは、現在過去未来という時制を主観的な概念として捉え、客観的な世界における時間の流れを否定する立場であり、これは「ブロック宇宙観」と呼ばれる(*4)。 ※なお、時間は世界の客観的事実としても、人間の主観的意識としても実在していない、という主張もある。これは「無時間論」として定義してこのページで紹介する。 時間はわれわれ人間の実存や歴史とどのように関わっているのか? 時間の実在性についての判断を停止した上での議論であり、ハイデガーなどの実存主義的な時間解釈がこれに相当する(このページでは詳述しない)。 人が知覚する現象世界は常に変化している。その現象変化から見出された秩序から時間の単位が定められる。しかし時間の非実在を主張する立場では人の時間知覚を錯覚のようなものだとしてその明証性を否定する。逆に時間の実在を認める立場でも、後述する永久主義と呼ばれる立場に対しては、人が認識する時間の感覚が説明できないという批判がある。つまり時間の哲学とは認識論と存在論が融合した問題でもある。 歴史 時空の哲学の起源は古代ギリシャのエレア派まで遡る。エレア派は「変化」の概念が矛盾を含むものであることを指摘し、変化の実在性を否定することによって、時間と空間の実在性を否定した。 エレア派のパルメニデスは以下のようにいう。(断片8より抜粋、平易な表現にしてある)。 あるものは不生にして不滅であること。 なぜならば、それは(ひとつの)総体としてあり、不動で終わりなきものであるから。 それはあったことなく、あるだろうこともない。それは全体としてあるもの、一つのもの、連続するものとして今あるのだから。 それのいかなる生まれを汝は求めるのか。またどこからそれは成長したのか。あらぬものからと言うことも、考えることも、私は汝に許さぬであろう。あらぬということは言うことも考えることもできないからだ。 いったい、いかなる必要がそれを、始原のあらぬものから――以前よりもむしろより後に無から出て生じるように促したのか。 かくしてそれは全くあるか、全くあらぬかのどちらかでなければならぬ。 それにまたあるものの他に、なお何かが無から生じて来るなどとは確証の力がけっしてこれを許さぬであろう。 あるものが後になって滅ぶなどということがどうして可能であろうか。また生じるということがどうして可能であろうか。 かくて「生成」は消し去られ、「消滅」はその声が聞けないことになった。 さらにまた、あるものは分割されない。すべてが一様であるから。 すべてはあるもので充ちているのだ。それゆえすべては連続的である。あるものが、あるものに密着しているのだから。 それは大いなる縛めの制限のなかで動くことなく、始めも終わりももたない。 この断片では「ある」は「ない」から生じないこと、その背面の論理として「ある」は「ない」に転化しないこと――つまり「なる」が否定されること。そして、あるものは分割ができず全一的であることが主張されている。 なお「それは全体としてあるもの、一つのもの、連続するものとして今あるのだから」という一文は、過去・現在・未来という時間様相を否定しており、無時間論および永久主義の主張である。この永久主義は後のアウグスティヌスら、また現代物理学における相対性理論の一つの解釈としても主張されることになる。 パルメニデスの弟子であるゼノンは、「一つのもの」だけがあるとする師の主張をいくつかの背理法によって論証した。ゼノンの主張の核心は、物質・時間・空間というものがそれぞれ実在し、世界が「多」であるならば無限分割が可能であり、運動が不可能となるということである。従って多様に見える世界の個別の存在は、唯一の実体の、(可能無限の一部としての)分割概念としての存在だということである。換言すると、初めに「多」があってそこから「一」が導出されるのでなく、初めに実体である「一」があって、「多」は人により分割されて導出されるのである。 ちなみに大森荘蔵はゼノンについて、「アキレスの逆理に挑んだ哲学者や数学者の数はおびただしいが、ついぞ今日までそれの解明に公認の成功を得た人はいない」と書いている(*5)。また青山拓央もゼノンの論証を限定的に認め、以下のように書いている。 アキレスが亀に追いつくときが存在しないことに矛盾を感じるのは、永遠の長さを持った時間軸があらかじめ用意されていることを暗黙の前提にしているからである。物理学者ホーキングの比喩を借りれば、アキレスと亀の世界に「アキレスが亀に追いつくときが存在しない」と文句を言うのは、「地球に北緯九一度が存在しない」と文句を言うようなものだ。(*6) このエレア派の主張に対する応答として、西洋における時間論は発展してきた。 ※エレア派に関する議論はパルメニデスのページを参照のこと。 アリストテレスは、パルメニデスの「ある」を実体とし、その実体の述語となる属性としてのカテゴリーで生成と変化を肯定する。そしてアリストテレスは、 ① 時間は変化なしにありえない ② 時間とは運動の数である という重要なテーゼを示した。これは時間の本性は運動であり、時間とは人間が連続的な運動の規則から読み取るものだ、という含意がある。つまりアリストテレスによれば、実在するものは時間ではなく運動なのである。このアリストテレスのテーゼは、彼以降のほとんどの哲学者にも受け入れられている。またアリストテレスは「今」の問題について、「今は、過ぎ去った時間の終わりであり、来らんとする時間の始めである」という。ここに時間的幅のない、数学的概念の「点」としての「今」と、その点の連続体としての「線形時間」が登場することになる。 アウグスティヌスは「点」としての「今」と線形時間を想定したアリストテレスに反して、「過去」と「未来」の実在性を否定する「現在主義」を明確に主張する。未来であるものは存在していない。また過去であるものも存在していない。「それゆえ、存在する全てのものは、どこに存在しようとただ現在としてのみ存在する(『告白』18章)」という。ただし彼の主張は、過去が存在したこと、未来が存在するであろうことを肯定する「ここ今主義(here-now-ism)」とはニュアンスが異なっており、むしろ、時間のうちのどの瞬間も平等に「現在」であるという立場である。アウグスティヌスは『告白』20章で以下のように述べている。 未来も過去も存在せず、また三つの時間、すなわち、過去、現在、未来が存在するということも正しくない。それよりはむしろ、三つの時間、すなわち、過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在が存在するという方がおそらく正しいであろう。実際これらは心のうちに三つのものとして存在し、心以外に私はそれらのものを認めないのである。即ち過去のものの現在は記憶であり、現在のものの現在は直感であり、未来のものの現在は期待である。 過去・現在・未来という時間様相の実在性に対する懐疑は、インドの仏教哲学者ナーガールジュナにも見られる。『中論』でのナーガールジュナの論法を要約すると以下のようなものになる。 1 既に去ったもの(過去)は去らない。 2 未だ去らないもの(未来)は去らない。 3 いま去りつつあるもの(現在)も去らない。 いずれの時も去ることが出来ない。これはアウグスティヌスに極めて近い論考である。 イマヌエル・カントはデイヴィッド・ヒュームの徹底した懐疑主義を受け、時間と空間は直感に与えられた形式だと考えた。つまり時空によって直感される一切のものはわれわれに経験される「現象」であって、実在としての「物自体」ではないということである。現象としての世界を実在するものと見立て、無限大や無限小を想定することからアンチノミーの難問に陥るとしたカントの認識論を拡張すれば、ジョン・ロックが物質に属するとした一次性質――延長・形状・運動・数なども、実は彼のいう二次性質――我々の知覚の性質だと考えることもできる。短い、長い、広い、という抽象観念があり、人間はそこからさらに空間という抽象観念を導き出す。空間が実体としてあるのでなく、あるのは人間の個別の観念と概念だけかもしれない。時間についても同じことである。 このカントの時間・空間論の核心は、時空が実在する世界に属するものでなく、人間の主観によって構成されるものだということである。これは「主観主義」とも呼ばれる。カントの哲学はマクタガートをはじめ、後の哲学者や科学者に多大な影響を与えることになる。 マクタガートの時間論 20世紀に入り、英国のジョン・マクタガートが時間の実在性を否定する議論を展開した。このマクタガートの時間論は、我々の時間概念が矛盾を含むことを指摘し、時間が実在しないことを論理的に証明しようとするエポックメイキングなものであり、これ以降の時間の哲学に甚大な影響を与えることになる。 マクタガートの主張を簡略に説明すると、われわれが理解する時間は二種類ある。一つは「過去・現在・未来」という時制述語によって理解される「A系列」の時間であり、もう一つは「~より前、~より後」という順序を表す関係語によって理解される「B系列」の時間である。例えば「第二次大戦は今や過去のことである」という表現はA系列であり、「第二次大戦は湾岸戦争より前のことである」という表現はB系列である。しかし「変化」の概念を伴っているA系列こそが時間の本質であり、B系列とはそこから派生した時間概念だということである ※変化がなければ時間はないというテーゼはアリストテレスの時間論に準拠したものである。 その上でマクタガートは「過去・現在・未来」という時制概念で理解されるA系列は矛盾しているという。つまりあらゆる出来事は、「過去である」「現在である」「未来である」という三つの特性を持たなければならないが、それらは互いに排他的なものであり、従ってA系列は矛盾している、ゆえに時間は実在しない、というものである。 このマクタガートの議論において留意すべき点は、彼が時間特有の変化に晒されるものを、「人」や「物」ではなく「出来事」としたことである。われわれは「彼は変わった」とは言うが「ナポレオンの死は変わった」とは言わない。つまり出来事は変化しないものであり、それ自身すでに変化・発生・消滅といった概念を含んでいるからだ。したがってB系列上の各出来事は、その出来事であることをやめることはできない。そしてその出来事たちは、B系列中の他の出来事たちに前後を挟まれて位置を変えることもできない(*7)。したがって、出来事に到来する変化とは、過去・現在・未来という、時制変化のみということになる。これがマクタガートがB系列には変化がなく、A系列こそ時間にとって本質的だとした理由である。 しかしブロードによれば、このマクタガートの着想はメタレベルの出来事を想定すれば崩壊する可能性がある。たとえば「ナポレオンの死」という出来事は現在から過去へという時間変化に晒されるように思われるが、「〈ナポレオンの死という出来事〉が現在である」というメタ出来事Aと「〈ナポレオンの死という出来事〉が過去である」というメタ出来事Bを想定するなら、そのメタレベルの出来事Aと出来事Bは別の出来事なので変化しないということになる(*8)。 マクタガートの主張に対して常識的観点からは、「過去・現在・未来」という三つの特性は「同時に」でなく「時制を異にして」、または「順序を異にして」あるものだから矛盾していない、と反論しうる。しかしその反論には「時制(A系列)」や「順序(B系列)」というような、証明すべきはずの当の概念が用いられており、循環論法になっている。つまり論点先取的に時制や順序の概念を用いなければ、時間と変化は説明できないということである。 このように時間概念の矛盾を論じたマクタガートは、A系列とB系列の実在性を却下し、かつ時間と変化の実在性を却下する。我々が知覚する時間とは実在に属するものではないということである。このマクタガートの時間論は明らかにカントの影響を受けており、実際マクタガートは時間の非実在を論じた人物として、スピノザ、カント、ヘーゲルを挙げている。 入不二基義は、マクタガートの想定する「実在」には「変化」が一切含まれておらず、全体が一挙に永久に存在している「全体としての実在」という実在観が読み取れるとし、「実在」とは「being や is」の両方を含んだ全体であり、その部分集合として「存在(existence、exist)」が位置づけられていると見ている。(*9) マクタガートは我々が体験する一定の幅のある「現在」の知覚を、ウィリアム・ジェイムズの用語を借りて「見かけの現在(specious present)」と呼んでいる。つまりマクタガートが論じているのは、「実在する時間」は存在しないということであって、私たちの経験する時間が幻想や誤謬ということではない。そして経験される主観的な時間も、無時間的な実在を何らかの仕方で反映している、ということである。(*10) 時間の実在を否定した上で、マクタガートは「C系列」を提唱する。C系列とは時間的な系列ではなく、出来事が無秩序に存在している状態である。たとえば数字が「4,2,5,7,1,6,9……」と何の規則性も並んでいるような状態はB系列ではなく、もちろん「変化」を表していないのでA系列でもない。マクタガートによれば、C系列上のある位置が現在であり、それは過去でも未来でもない。変化とは、C系列上の現在というポジションが他のポジションに移ることである。ポジションが移動すれば、その現在から見て一方の側にある全てのポジションは、かつて現在であったということになる。他方、もう一方の側にある全てのポジションはこれから現在になるということである。つまりC系列において、かつて現在であったのが過去であり、これから現在になるのが未来である、そうマクタガートは主張する。 なお青山拓央の見方では、C系列とは、B系列から時間の向きを取り去った、時間対称的な系列である(*11)。つまりB系列は時間非対称であり、時間の矢を認めるのに対し、C系列では認めないということである。 時間の非実在を主張するマクタガートの論法には不明瞭な点がある。入不二は、マクタガートが「全体としての実在」と「主観的な時間」を分けていることについて、以下のように論じている。 実在(reality)=Being 全体は、主観的なものも客観的なものも、すべてを含んでこそ「全体」となりうるのだし、主観的なものと客観的なもの両方を合わせてこそ、「完全なるもの」のはずだからである。つまり、「実在的(real)」であることと「客観的」であることとは、イコールではない。あるいは、「主観的である」ということは、必ずしも「実在的(real)でない」ことを意味しない。 従って、「全体としての実在」を考慮に入れるならば、「時間は非実在的である」という結論は、「時間は主観的なものであって、客観的には実在しない」以上のことを表していなければならない。(*12) ※私見であるが、マクタガートの主張にカント哲学の影響が明らかなことから、マクタガートが実在(物自体)の世界と、精神(現象)の世界を分けていた二元論者であったことは斟酌されるべきである。また「時間」とは「変化」の従属概念であり、アリストテレスが論じたように「時間とは運動の数」であるから、無秩序な変化(C系列)では運動が数量化できないゆえに時間は実在しないと言える。したがってC系列とは「変化」の実在を認めるものだが「時間」の実在を認めないものだと解釈すれば、マクタガートの主張に不整合はないと考えることもできる。 マクタガート以降の哲学者は、マクタガートの時間論を批判しながらも、A系列とB系列という時間概念は継承することになり、さまざまな議論が現在も継続中であるが、それぞれの立場を大別すると、実在世界の変化を認めない「永久主義(相対性理論から導出されたブロック宇宙説を前提とし、過去・現在・未来の事物が全てこの宇宙に実在しているという立場)」と、実在世界の変化を認める「現在主義(現在の事物だけが実在し、過去は既に無く、未来はまだ無いとする立場)」に分けられ、さらにそれらの立場は以下のように分類される。 A論者 現在主義者であり、マクタガートに反し、A系列は矛盾しておらず、従って時間は実在する、という立場である。またA系列が矛盾を含むものであることを承認しながら、時間とは矛盾を本質とする、という主張もある。代表的な論者はG.Schlesinger、Q.smithなどである。(*13) B論者 永久主義者であり、B系列こそ時間にとって本質的だという立場である。マクタガートは「変化」を含むA系列こそが時間にとって本質的であり、B系列は派生概念であると論じたが、B論者はそれを認めず、A論者が「過去・現在・未来」という時制述語で表現する「変化」は、全て「~より前、~より後」といった関係語に置き換えて表現することが可能だと主張する(時制の還元主義)。永久主義は相対性理論から導出された「ブロック宇宙(block universe)」という形而上学を前提にしている。マクタガート同様に実在世界の永久性を認めるが、しかし我々の体験する主観的時間は、その実在世界の因果系列、つまり順序(B系列)を反映していると考える。代表的な論者はJ.J.C.スマート、D.H.メラー、W.V.O.クワイン、セオドア・サイダーである。(*14) 現在・過去論者 過去と現在の実在を認めるが、未来の実在は認めない立場である。歴史上の出来事の総数は時間と共に増大していくと考え、到来していない未来は全くの「無」であると考える。「成長するブロック宇宙(growing block universe)」という形而上学を前提にしている。C.D.ブロードに代表される。 移動スポットライト説(moving spotlight theory) 実在については永久主義の立場を取るものの、時制述語を関係語に還元することを拒否し、「現在」というポジションに形而上学的特権を認め、その特権的な現在が不変の実在を次々照らし出すように移動していく、と考える立場である。(*15) C論者 永久主義者であり、実在世界の変化を否定する。永久主義を前提としたB論者との違いは、実在世界の因果系列を認めず、因果関係とは人の精神によって見出されるとする点である。また特定のポジションに特権的な「現在」の地位を認めている。マクタガート、橋元淳一郎(*16)に代表される。 無時間論者 永久主義者である。C論者やB論者との違いは、時間や変化は主観的にも客観的にも実在しないとし、因果関係も実在しないとする点である。パルメニデスらエレア派の立場である。特定のポジションに特権的な「現在」の地位を認めず、時間様相の変化を含め、人が感じる変化は錯覚のようなものだと考える。 ※なお永井均の用語である「独今論」は、アウグスティヌスの現在主義とほぼ同じ意味と考えられる。しかし永井は独今論を、自身の哲学である独在論とパラレルの問題とみなしており(*17)、永井独自のバイアスが感じられる。 ※参考までに、マクタガートが論文「時間の非実在性」を発表したのは1908年で、アインシュタインが特殊相対性理論を発表した1905年から僅か三年後であり、マクタガートに相対性理論の影響を指摘する声もあるが、中山康雄は「マクタガートは、アインシュタインの視点を彼の考察に取り入れることはしなかったし、その後も、そうすることはなかった」と分析している。(*18) 科学における「絶対説」と「関係説」 科学における時間空間論の歴史においては、ニュートンが想定した「絶対時間」と「絶対空間」に対して、ライプニッツが「時空の関係説」を主張したことが大きな転機となる。ニュートン力学は時間と空間を一種の「実体」として見るものだったが、ライプニッツによれば、空間とは存在しているものたちの関係あるいは秩序であり、時間とは存在しているものたちの変化とその順序である。このライプニッツの論理からすると、もし宇宙に存在するものが一切なくなれば、時間も空間もないということになる。 ニュートンによれば空間は「神が事物を知覚するための感覚器官」であった。しかしライプニッツによれば、空間も時間も創造された事物に依存して生まれることになる。つまり、まず空間と時間があって、そこで宇宙が作られるのか、それとも宇宙が作られると同時に時空が生じるのか、という宇宙論の根本問題が両者の論争から生じている。 ライプニッツからすれば、何事もなぜそうであって他のありようではないのかという、充分な理由がなくては生じない(充足理由律)。もし物質と独立に存在する絶対時間や絶対空間があるとしたら、神はその中に宇宙を創造する際、物質宇宙をどこに置くか困るというわけである。 ライプニッツのいう物質宇宙を人は知覚によって認識している。そこから、19世紀の科学者であるエルンスト・マッハは、時空の関係説をより経験主義的に分析し、時間と空間は知覚と他の知覚との関係として存在している、と考えた。マッハは精神と物質という二元性、そして因果関係さえも排除し、ただ確実に経験に与えられる「感覚要素」の、その相互間の法則的連関の記述だけが科学的認識の目的であるべきだとした。このマッハの思想はウィーン学団によって論理実証主義として展開され、マッハの科学哲学はルドルフ・カルナップによって「道具主義(instrumentalism)」と呼ばれることになる。道具主義とは、科学理論とは観察可能な現象を予測するための形式的な道具であり、現象の背後にあって観察不可能な実在は知りえないとする実証主義的な立場である。またマッハと同時代の科学者アンリ・ポアンカレも、時空が相対的なものであることを主張し、科学哲学においては道具主義と類似の「規約主義(conventionalism)」という立場を取る。 相対性理論の時間・空間論 現代物理学の時間・空間論は、アインシュタインの特殊相対性理論と一般相対性理論を基礎としている。相対性理論によれば時間と空間は単独では実在ではない。時間が膨張する一方では空間が縮む。もはや純粋な空間的側面と純粋な時間的側面に解きほぐすことのできない統合された「時空連続体」を形成することをミンコフスキーは強調している。(*19) ニュートン力学が時間と空間を一つの座標系の中に描くのは便宜的なものである。しかし相対性理論は、時間と空間は独立したものでなく結合したものであることを証明した。従って時間と空間をミンコフスキー時空によって等しく表示することは必然的なものであり、座標中の二点間の間隔は、時間成分と空間成分が入り交じった形となる。相対性理論によれば空間と時間は統一的な実体の二つの側面であり、かつ伸縮したり曲がったりする。絶対時間と絶対空間を仮定したニュートンに対し、相対性理論は「絶対時空」という新しい絶対性を持ち込む。従ってアインシュタインは「相対性理論」という名を気に入っていたわけでなく、「普遍性理論」という名称を提案したこともある。(*20) 特殊相対性理論によれば、他者と共通の「現在」は存在しない。 地球にいる人と宇宙船にいる人は異なる時間の中におり、異なる「現在」の中にいる。 相対性理論による時間と空間の関係をミンコフスキー時空という形で表現することによって、空間を風景(ランドスケープ)として見渡せるように、時間を、無時間的に繰り広げられている時間の風景(タイムスケープ)として見渡すことが出来るようになる。このタイムスケープの観点から、「ブロック時間(block time)」または「ブロック宇宙(block universe)」という自然観が提唱された(*21)。これは時空連続体を「一つの不変のかたまり」と考えるものであり、永久主義の立場を取る哲学者が前提する宇宙観である。 ブロック宇宙説では過去へのタイムトラベルの論理的可能性を認めることになる。素朴な世界観では「過去」とは既に過ぎ去って消えたものだから、タイムトラベルは論理的に不可能である。存在しない場所に行くことはできないからだ。しかしブロック宇宙説では、過去はブロック状の四次元時空のどこかに現実に存在していると考えるから、タイムトラベルは論理的に可能になる。そして一般相対性理論の最も重要な方程式であるアインシュタイン方程式を解くと、ある場合には時間が「ループ」になっているような答えが存在する。つまり未来へどんどん進んでいくといつの間にか過去につながっていて、最後には現在に戻ってくることができるという(*22)。このことからタイムトラベルの理論的可能性を主張する物理学者がいる。 ブロック宇宙を示唆した最初の物理学者はアインシュタインの教師だったヘルマン・ミンコフスキーである。彼は相対性理論を主題にした講演を1908年ケルンで行い、「これ以降、空間それ自体、時間それ自体は単なる影の中に消えていく運命にあり、この両者のある種の統合だけが独立した実在として保持されるでありましょう」と述べている(*23)。彼は、時空はひとつの巨大な塊(ブロック)のような物理的実体だと考えたのである。 アダム・フランクはミンコフスキーによってもたらせた宇宙観の変貌を以下のように書いている。 アインシュタインの初期の論文を詳しく吟味したミンコフスキーは、相対論を強力な幾何学的言語で表現しなおすこと方法を見つけ、その後の宇宙論の記述を一変させることとなる。相対論は単に空間内に広がる物体(従来の幾何学)を扱っているのでなく、一体として捉えた空間と時間のなかでの「事象」の構造を記述していることを、ミンコフスキーは見出した。 相対論において真に関心を持つべき対象は事象だった。宇宙船から光信号が発せられるのは、一つの事象だ。離れた惑星でその光信号を受け取るのは、第二の事象をなす。万物全体は、空間と時間のなかに位置する事象のネットワークにすぎない。ミンコフスキーは、重要なのは三次元空間のみにおけるそれらの事象の位置ではないと認識した。相対論は、もっと大きい枠組みにおける事象の宇宙的ネットワークの関係を与える。ミンコフスキーは相対論を、時空の幾何学、新たな四次元の現実へと変えた。時空は、その物理の劇が上演される新たな舞台だった。 「ミンコフスキーは『空間』と『時間』の古い物理学のなかで、科学者たちは見た目にだまされていたと主張した」とピーター・ガリソンは書いている。新たな全体像の持つ哲学的意味合いは、驚くべきものだった。パルメニデスの亡霊が再び、理論物理学の新たな発展の背後に付きまとうこととなった。時空のいわばブロック宇宙において、未来と過去はそれまでと異なる性質を帯びるようになった。この相対論の描像では、私たちが未来と認識する次の火曜日は、すでに存在している。過去と未来は、時間と無縁な永遠のブロック宇宙のなかでともに存在する。個々の事象へと還元されるのだ。(*24) ミンコフスキー時空のブロックをスライスすれば、その断面にどんな出来事があるか特定できる。これをブライアン・グリーンは食パンのかたまりにたとえて説明している。 パン屋で焼きあがった時点の食パンは、さまざまな角度でスライスできる。時空のブロックもそれと同じく、相対運動する観測者ごとに、さまざまな角度の時間断面でスライスされる。(*25) そしてグリーンは、ブロック宇宙の解釈から「時間の流れ」を否定する。 一般相対性理論によれば、時空は「実体性」をもつ「もの」なのである。(*26) 時間は流れるという直感を裏付ける証拠は物理法則には見当たらない。逆に相対性理論により時間は流れないという証拠が得られる。(*27) アインシュタインの仕事からの帰結としてあまり知られてないものに、「特殊相対性理論によれば、宇宙はあらゆる時刻を平等に扱う」というものがある。「今」は私たちの世界観のなかで格別の役割を演じているけれども、相対性理論はまたしても私たちの直感を覆し、私たちの宇宙は平等主義の宇宙であって、この宇宙の中ではすべての時刻が対等に実在していると断言するのである。(*28) アインシュタインが述べたように、「合理的な判断をする私たち物理学者にとって、過去、現在、未来の区別は、それがいかに執拗なものであれ、幻影にすぎない」のである。実在しているのは、全体としての時空だけなのだ。 このように考えれば、出来事は、どの視点から見ていつ起こったものでも、ただそこに存在している。出来事はすべて存在しているのである。それらは永遠の時空内の決まった場所を占め続け、流れるものは何もない。あなたが1999年の大晦日に、真夜中の鐘を聞きながら楽しいひとときを過ごしたのなら、あなたは今もそのひとときを過ごしている。なぜならその出来事は、変化しようのない時空内の場所だからである。(中略)昔ながらの時間概念が逃げ込める場所は、人間の頭の中しかなさそうなのである。(*29) アインシュタインの協力者だったヘルマン・ワイルも、ミンコフスキーやグリーンと同様に、宇宙は空間と時間が分かちがたく結びついた四次元連続体だと捉えていた。ワイルはこう言った。「世界は生起しない、ただあるだけだ」(*30) ポール・デイヴィスは以下のように書いている。 生起、生成、時間の流れ、出来事の展開――ワイルを信じるなら、これらは全て虚構である。アインシュタインはそう信じた。(*31) ゼノンの論法を現代風にいえば、飛んでいる矢は空間の「ブロック」を一つづつ占めているだけであり、いかなる変化もない。世界は凍り付いている。(*32) マサチューセッツのウィリアムズ・カレッジの物理学者、哲学者のデイヴィッド・パークも、時間は経過しないと考える。時間の経過は幻想というより神話であるとする。「なぜなら、それは感覚のごまかしを含んでいないからである……時間が経過しているか否かを、曖昧さなしに告げてくれる実験を行うことはできない」(*33) 現代のマッハ主義者として関係主義の立場を取る物理学者ジュリアン・バーバーが提唱する「プラトニア」という宇宙観も、時間についてはブロック宇宙説と同じである。バーバーは「時間は存在しない。力学は、古典力学、一般相対性理論も量子力学も時間なしでできる」と主張している(*34)。彼と同様に関係主義的なアプローチを試みているカルロ・ロベッリもまた時間は実在しないという立場である。(*35) クルト・ゲーデルは、タイムトラベルが科学的に可能であることを相対性理論の方程式を用いて証明した。ゲーデルの哲学を研究したパレ・ユアグローは以下のように書いている。 ゲーデルは直ちに、もしわれわれが過去を再訪できるなら、その過去は実際には「経過していない」ことを指摘した。だが経過しない時間は少しも時間ではない。(*36) Aシリーズが「今」の流れを含んでいるとしても、特殊相対性理論において客観的な世界に広がった「今」が欠けていることはその存在を排除する。しかしAシリーズが欠如しているということはそこには直感的な時間がないということだ。残されたのはアインシュタイン=ミンコフスキー時空の小文字の " t " で表現される形式的時間であり、日常経験の直観的時間と同一視することはできない。ゲーデルにとって結論は避けようもなかった。もし相対性理論が正しければ、直観的時間は消え去るのだ。(*37) 一般相対性理論の方程式では二つの解のうちから一つを選ぶことになるが、(中略)ゲーデルはただちに相対性理論的に可能な(実際には一組の)宇宙――今ではゲーデル宇宙として知られる――を発見した。(中略)このようなゲーデル宇宙には閉じた時間曲線があって、もし十分速く旅をすればつねに局所的な未来の先を行き、過去に到達できることが証明可能なのだ。これらの閉じたループあるいは円軌道にはもっとなじみ深い名前がある。タイムトラベルだ。しかしもしこのような世界で過去に帰ることが可能ならば、過去というものは全然過ぎ去ってはいないのだ。そして真に過ぎ去らない時間は、決して実在の直観的な時間とは認められないのである。ゲーデル宇宙におけるタイムトラベルの実在性は、時間の非実在を意味するのだ。(*38) ゲーデルの考えによれば、時間そのものが――ひいては速さと運動が――幻想にすぎないことを証明するものだった。というのは、もし過去を再訪することができれば、それはまだ存在しているからだ。(*39) 日本では、物理教育者の橋元淳一郎が時間の非実在を主張し、以下のようにマクタガートのC系列を支持している。 A系列の時間も、B系列の時間も、実在しない。しかし、C系列は実在する可能性がある。(中略)C系列は我々が時間と呼ぶものではないから、マクタガートの結論は「時間は実在しない」ということなのである。(中略)時間が実在しない、などというのはとんでもない詭弁に聞こえるかもしれないが、現代の物理学者の中には、そういう考え方に立つ人がけっこういるのである(たとえば、ジョン・ホイーラー)。というのも、現代物理学が明らかにしたこの宇宙の仕組みというものを突き詰めていくと、どうしてもそのような結論にならざるをえなくなるからである。(*40) われわれの宇宙(時空)がC系列であるとすれば、宇宙はただ存在するだけである。そこには空間的広がりや時間的経過というものはない。(*41) この宇宙は、ただ存在するだけの相対論的C系列(一覧表)である。ミンコフスキー空間という時空に描かれた一枚の絵といってもよいだろう。(*42) 橋元はタイムトラベルの問題については以下のように述べている。 われわれの宇宙の構造が相対論的C系列であるとすれば、あらゆる事象は「在るがままに在る」のだから、すでに存在した過去を改変することはありえない。 もしタイムマシンで過去に遡り、何か行動したらどうなるのか。C系列宇宙であるかぎり、その行動は時空の中に「絵」として存在しているのだから、それは「歴史的事実」として(人に知られているかどうかは無関係に)、現に存在している事象のはずである。(*43) 以上のように、時間は実在しないと形而上学的な主張をする物理学者は少なくないものの、決して多数派というわけではない。ポール・デイヴィスは以下のように述べている。 時間は実在しないというマクタガートの結論に対し、多くの物理学者はもう少し穏当な解釈をとっている。「時間の流れは現実ではないが、時間そのものは空間と同様に存在する」という見方だ。(*44) またブロック宇宙を食パンのように静的な塊として理解することにも異論がある。ヒュー・プライスは以下のように述べる。 ひとはときどき、ブロック宇宙は " 静的 " であるという。だが、これはややもすると誤解をまねきやすい。ある時間的枠組みがあって、そのなかに四次元のブロック宇宙が終始同じ状態で存在する、というような言い方だからだ。もちろん、そんな枠組みなどありはしない。時間はブロックのなかに含まれているわけだから、ブロック宇宙を静的というのは、それを動的ないし可変というのと同程度に間違っている。ブロック宇宙はそんなものではない。なぜなら、それはふつうの意味での存在物といえるようなものではない。(*45) マクタガートの時間論をめぐるA論者(現在主義者)とB論者(永久主義者)の議論においては、A論者は相対性理論が正しいとしても、ブロック宇宙とは理論を記述するための規約的なものであり、実在とみなす必要はないとして現在主義を擁護している。(*46) 相対性理論によって説明できない時間の流れを量子力学で説明しようとする試みもある。カリフォルニア大学の科学哲学者、C.カレンダーは以下のように述べている。 量子力学における時間というのは、基本的にニュートン力学の時間に先祖返りしている。物理学者たちは相対性理論における時間の不在に居心地の悪さを感じているが、おそらくより困った問題は、量子力学において時間が中心的な役割を担っていることだ。相対性理論と量子力学が統合できないのは、そこに本質的な理由がある。 量子力学の方がより確かな土台となると考える物理学者、たとえば超弦理論の研究者は、正真正銘の時間が存在するとの仮定から出発している。一方、一般相対性理論の方が良い出発点になると考える物理学者は、すでに時間の役割が縮小された理論から統一理論を発展させようとしているので、「時間というものがない現実」というアイデアを受け入れやすい。(*47) ロジャー・ペンローズは脳の量子力学的過程に時間を流れさせる物理的過程があると考えている。ペンローズは現在の物理学における時間の不在を以下のように述べる。 時間の流れについてわれわれが意識している感じと、(驚くほど正確な)理論が物理的世界の現実について主張していることとの間には、深刻な食い違いがあるように私には思える。(*48) 時間は空間と切り離して考えられません。そのため「現在」についての絶対的な概念も存在しません。現在という概念をはなれた場所で起きる出来事の全てに例外なく適用することはできないのです(中略)私たちは時空を(3次元の空間と1次元の時間を合わせた)4次元多様体としてとらえなくてはいけません。(中略)しかしながら時空全体を「そこに置かれたもの」あるいは「不変のもの」とみなす「固定された宇宙(ブロック宇宙)」について語るとき、そこには依然として深い謎が存在します。私たちはみな、「時間は過ぎ行くもの」という印象を持っていますが、このことを現代物理学が示す時空の見方に関連付けることは非常に難しいのです。(*49) ※時間の非実在を主張する物理学者は少なくないものの、多くの物理法則にある時間変数 " t " を否定する学者はいない。つまり時間はこの宇宙の諸々の出来事を計測する「尺度」としては存在しているということである。このことからC.カレンダーは、「時間は、お金と同様、自然が本質的に持っているものだとは言えない」と述べている。(*50) 「時間の流れ」の問題 われわれの知覚する現象は変化する。その継起的な現象変化の感覚が「時間の流れ」という概念を構成する。しかし前述のように、相対性理論を中心とした現代の物理学でその時間の流れの感覚を説明することは難しい。従って「時間の流れ」の問題は哲学や心理学の問題だと考え、哲学者と意見交換する物理学者もいる(*51)。なお日本には山口大学に日本時間学会があり、哲学者や科学者たちによる学際的なシンポジウムが定期的に行われている。 しかしポール・デイヴィスやブライアン・グリーンは、相対性理論だけで「時間の流れ」の説明が出来ると考えているようである。デイヴィスは物理学の理論に「今」や「時間の流れ」が存在しないことを理由に「時間が流れているという感覚」は幻想だと主張し(*52)、「時間の流れ」の問題を以下のように説明している。 日常生活では時間の経過を考えると便利だが、だからといって、それなしでは表現できない新しい情報を与えてくれるわけではない。(中略)次のような、どうにも見栄えのしない、事実だけを提示した箇条書きでも事足りる。 12月24日 アリス、ホワイトクリスマスを希望 12月25日 雨。アリス、失望 12月26日 雪。アリス、喜ぶ この記述では何も起こらず、何も変化しない。単に世界の状態とそのときのアリスの心理状態を日ごとに述べているだけだ。同様の議論はパルメニデスやゼノンなど古代ギリシャの哲学者まで遡ることができる。(*53) デイヴィスは以下のように説明している。 結局のところ私たちは時間の経過を観測しているわけではない。実際に観測しているのは、この世界の状態が、私たちがいまだ記憶に留めている以前の状態とは異なるということだ。(*54) またデイヴィスは、直感的な時間の流れの感覚と、物理学的に説明できる時間の感覚の違いを、以下の図で説明している。(『別冊日経サイエンス 時間とは何か?』p.16より引用) ブライアン・グリーンもデイヴィスと同様の主張している。 壊れたDVDプレイヤーで『風と共に去りぬ』を見ているものと想像しよう。そのDVDプレイヤーは、前後にランダムにジャンプする。ある画像が一瞬スクリーンに現れたと思ったら、すぐまた別のシーンの画像が現れるのだ。コマが前後にジャンプするのを見て、ストーリーを理解するのは難しい。しかしスカーレットとレット(*55)にとっては何の問題もない。どのコマでも、二人はそのコマでいつもすることをするだけだ。(中略)二人はそれぞれのコマで、前にそのコマで考えたのと同じことを考え、同じ記憶をもつのである。とくに重要なのは、二人がそうして考える内容と記憶とが、時間は常に未来に向かって均一に流れるという感覚を二人に与えていることだ。 時空の中のどの時刻も(つまり、どの時刻でスライスした時空の断面も)、一本のフィルムのなかの一コマのようなものである。光線に照らし出されようが、照らし出されまいが、そのコマが存在していることに変わりはない。スカーレットとレットと同じく、ある瞬間に存在しているあなたにとっては、その瞬間こそ「今」であり、「今」であり続ける。しかも、個々の断面のなかにいるあなたの思考と記憶は、時間はその瞬間に向かってよどみなく流れてきたと感じさせるのに十分なぐらい豊富かつ鮮明だ。「時間は流れる」というこの感覚をもつためには、それまでの各時間のコマが次々と照らし出されていく必要はないのである。(中略) 変化という概念は、時間のある一瞬については何の意味もない。変化は、時間の経過のなかで起こり、時間の経過を意味する。しかし、いったいどんな時間概念ならば、経過することが可能なのだろうか? 当然ながら、瞬間には時間の経過は含まれない。(少なくとも、私たちが知覚しているこの時間の場合には)。なぜなら、瞬間とは時間の素材であり、ただそこに存在するだけで変化しないからである。どれかの瞬間が時間のなかで変化できないのは、どれかの場所が空間のなかで移動できないのと同じことだ。ある場所が空間のなかで移動すれば、別の場所になるだけのことだし、時間のなかである瞬間を移動したとすれば、別の瞬間になるだけのことだろう。このように、映写機の光が次々と新しい「今」に生命を与えていくという直感的なイメージは、詳しい吟味には耐えないのである。どの瞬間も、今このときに照らし出されており、いつまでも照らし出されたままだ。どの瞬間も、今このときに実在しているのである。こうして詳しく吟味してみれば、時間は流れていく川というよりもむしろ、永遠に凍りついたまま今ある場所に存在し続ける、大きな氷の塊に似ている。(*56) ジュリアン・バーバーは「プラトニア」という独自の理論によって時間の流れを幻想だと考える。アダム・フランクはバーバーの時間論を以下のように説明している。 パルメニデスの霊魂と交信するかのようなバーバーは、全ての瞬間がそれ自体完全な形で存在していると見る。そしてそれらの瞬間を、「諸処の現在(Nows)」と呼ぶ。 「わたしたちは生きながら、諸処の現在の連なりのなかを動いているように思われる。問題はそれらの諸処の現在が何なのかだ」バーバーにとって、それぞれの現在は、宇宙の万物の配置にほかならない。(中略)バーバーのいう諸処の現在は、小説本をバラバラにして床にランダムにばらまいたページとしてイメージできる。それぞれのページは、時間に関係なく時間の外に存在する個別の実体だ。それらのページをある特別な順序に並べ、そのなかを一段ずつ進んでいけば、物語が展開する。しかしどのようにページを並べようが、それぞれのページは完全で互いに独立している。(*57) バーバーにとって、ビッグバンは遠い過去の爆発ではない。それはプラトニアという、互いに独立した諸処の現在が作り出す地形の中の、一つの特別な場所に過ぎない。 わたしたちが過去という幻想を抱くのは、プラトニアのなかのそれぞれの現在に含まれる物体が、バーバーのいう「記録」としての姿を見せるためだ。(*58) 哲学者の相対性理論解釈 相対性理論から導出されたブロック宇宙説という自然観は、哲学における時間論にも大きな影響を与えている。現代の「永久主義(eternalism)」はブロック宇宙説を理論的背景にしている。永久主義の立場では、過去も現在も未来も全ての事物が完全に対等に存在していると考える。様相論理においては「様相可能主義」といわれる。このブロック状の四次元時空のどこかに、古代ギリシャの哲学者であるソクラテスや、白亜紀の恐竜が「生きている」と考え、また西暦 2300年の人々が(人類が滅亡していないなら)既に「存在している」と考える。つまり遠くの土地が空間的に離れているから存在しないということにはならないように、過去や未来の事物は時間的に離れていても現在の事物と全く同じ現実性を有して、四次元時空において存在すると考える。(*59) 永久主義と対立する立場は「現在主義(presentism)」である。現在主義では、存在するのは「現在」だけだと考える。様相論理においては「様相現実主義」といわれる。素朴心理学的な立場である。過去は記録であり、未来は可能性に過ぎない。たとえば古代ギリシャの哲学者であるソクラテスは、既に死んでおり現在は存在していない。かつてソクラテスが生きていたという「事実」だけが存在していると考える。そして「現在」というものは特権的な地位をもつ。過去や未来というものは現在に依存して規定されるが、「現在」であるということは他の何ものにも依存しないからだ。 ブロック宇宙説を前提に、永久主義の立場から「変化・時間・同一性」という問題を説明しようとする立場が「四次元主義(Four-Dimensionalism)」であり、代表的な論者はW.V.O.クワイン、デイヴィッド・ルイス、セオドア・サイダーである。 なおJ.J.C.スマート、D.H.メラーなど一部のB論者も永久主義という存在論を前提に時間を論じている。日本では三浦俊彦が、ブロック宇宙や永久主義という言葉は用いていないが、アインシュタインを引用して同様の主張をしている(*60)。 物理学者のデイヴィスやグリーンの場合、ブロック宇宙説を前提に変化や時間の流れを否定し、無時間論の立場を取るのだが、四次元主義者や永久主義を前提としたB論者は、ブロック宇宙説を前提に変化と時間の流れを肯定する点が大きく異なっている。サイダーは以下のように述べる。 この火かき棒は、二〇〇〇年六月二十九日の木曜日には熱い。 この火かき棒は、二〇〇〇年六月三十日の金曜日には冷たい。 この二つの判断の真理値は変化しない。にも関わらず、時制の還元主義者は、この一組の文が真であることによって、この火かき棒は変化するというのである。(*61) ※「時制の還元主義者」とはB論者のことである。 メラーなどB論者は、マクタガートと同様に実在世界の永久性を認める。しかし我々の体験する主観的時間は、その実在世界の因果系列を正確に反映していると考える。特殊相対性理論では因果的順序が保存されるからであり、同時性の相対性という理論があっても、出来事 e0が出来事 e1の原因であるなら、どんな観測者にとってのB系列においても、e0が e1よりも先に起こったことになるからである(*62)。ただし相対性理論においても、因果的に関連しない出来事の順序に関しては、観測系に依存するものが出てくる。中山康雄はこのことを理由にメラーのB理論を批判している。(*63) サイダーは特殊相対論と矛盾することを理由に現在主義とA論者を否定している。「現在」の概念はミンコフスキー時空では意味をなさない、というのが理由である。(*64) 現在主義者は永久主義者に対し、個別の時点に個別の感覚が永久的に存在しているのならば、人は「変化」を感じることは出来ないと批判する。上の火かき棒の例のような箇条書きの説明では、人が現に感じている「この時間の流れ」の感覚が現せていない。かつてアンリ・ベルクソンは、「描かれた運動」は、「運動そのもの」ではないと、両者を峻別する議論を行った。しかしベルクソンの主張は、「痛み」という語は「痛みの感覚」そのものではないと言うのに等しい。言語によって感覚そのものが現せないのは事実であるが、言語は感覚の存在自体を現すことが出来る。従って「時間の流れ」の感覚も以下のように現すことができる。 11 15分 道で転ぶ。足に激痛があって歩道で休む。 11 20分 五分ほど続いた痛みが治まった。再び歩き始める。 以上のように、主観的な時間の流れの感覚さえもミンコフスキー時空上の事象として描くことが可能である。上の例では 11 15分から 5分間痛みが続いたことになっている。ベルクソンは運動を「純粋な持続」であると主張していたが、感覚や運動は時間的存在であり、時間的幅があるからこそ、全てミンコフスキー時空上に描くことが可能であり、そしてミンコフスキー時空上に描くことが可能であるならば、永久的であることも可能だと考えることが出来るのである。 ※現在主義と永久主義の論争は進行中の問題であり、高度に専門的かつ細分化されたものになっている。ここで紹介したものは議論の入り口程度の分量である。 存在論的派生問題 ブロック宇宙説と、それを前提にした永久主義という存在論では、時間は流れず、世界では何も運動変化せず、何も生起しないことになる。既述のようにワイル、デイヴィス、グリーンといった物理学者は生起や変化を否定し、宇宙の全歴史の事物は「ただ存在しているだけ」という主張をしている(現在・過去・未来の区別は幻想であるとしたアインシュタインの哲学的立場も同様であるとする意見も少なくない)。 グリーンは以下のような図で永久的な宇宙の在り方を説明している。これは既述したデイヴィスの図と同型のものである。(グリーン 2005(邦訳 2009a 221)) ブロック宇宙説では、宇宙の全歴史を含めた四次元時空がただ永久に存在するだけである。「ビッグバン」も「人類の誕生」も、その四次元時空の一つのポジションを占める出来事にすぎない。さらに、過去から未来へという非対称的な時間の流れ、つまり「時間の矢」を否定することになる。つまり因果関係でさえ実在性が否定され、仮象のものになる。仮にある人が足を捻挫して病院に行ったとしても、「足の捻挫」と「病院に行く」という二つの出来事には真の因果関係はなく、主観的に捉えられる「みかけ」の関係があるに過ぎないということになる。それどころか、「宇宙はビッグバンによって生まれた」という主張も正しくはないということになる。進化論も否定されることになるかもしれない。 物理学では一般的に時間の矢(時間の流れの方向)はエントロピーの法則と密接に関わっているとされるが、エントロピーだけでは時間の矢を説明することはできない。アダム・フランクは以下のように述べている。 熱力学では、エントロピーが増大する方向が時間の進む方向だとされているが、その議論は多数の物体が関係したときの確率論に基づいており、もっとも基本的な、個々の物体を扱う理論はすべて時間的に対称で、時間の進む方向は指定されていない。(*65) カリフォルニア工科大学の理論物理学者ショーン・キャロルは言う。「本当の問題は時間の始まりではなく、時間の矢だ」と、ビッグバンの前に何が起こったかではなく、「以前」と「以降」という概念そのものだという。「私たち本当に理解しなければならないのは、なぜ宇宙の時間には向きがあるのかだ」とキャロルはいう。(*66) 渡辺慧は、エントロピー増大の法則は時間の向きを決めているものではなく、既知のエントロピーが与えられたとき、未知のエントロピーがいかなる期待値を持つかということを述べているに過ぎないと結論した。そしてエントロピーは未来へと同様、過去へも増大するはずだと考え、このことから時間の流れの原因は、自然の側でなく人間の側に求めなければならないと結論している。(*67) ボルツマンとホーキングは、生物はエントロピーの勾配に依存しているので、知覚をもつ生物はエントロピーの低い方向を過去とみなさざるをえないという見方をしている。(*68) エントロピー増大則によってこの宇宙に時間の矢が存在することを説明するには、ビッグバン以前の宇宙にまで遡って考える必要がある。(*69) 結局、現代の物理学では時間の矢と因果系列を説明することは困難である。そもそも、あらゆる生成と変化を否定するブロック宇宙説では、ジュリアン・バーバーがいうように「以前」と「以降」というものは決して存在しないのだから、時間の矢も因果系列も考える必要がなく、それらはブライアン・グリーンがいうように、四次元時空の特定のポジションを占める人の感覚として説明できてしまう。 しかし、時間の実在性を否定するブロック宇宙や永久主義という主張は、「過去は過ぎ去って無いもの」、「未来はまだ到来してないもの」という素朴な世界観を完全に転倒させた形而上学であり、存在論的派生問題は計り知れないほど甚大になる。青山拓央はマクタガートの時間論についての時制論者(A論者)と無時制論者(B論者)の対立に言及し、相対性理論と整合的なのは無時制論であることを認めた上で、日常的直感に沿うのは時制的思考であるとし、特権的な「今」という素朴な直感を捨てたときの影響を次のように述べている。 この影響の連鎖ははてしなく、もし本気でそれを追っていくと、狂気とも言うべき世界に近づきます。そこでは、自由、責任、生死といった現実世界でのごく基本的な概念が、常識から著しく乖離する恐れがあります。あるいは、原因の後に結果が生じるという常識も、そこに時間の流れが前提されているなら、やはり修正を迫られることになります。(*70) デイヴィッド・ルイスは反事実条件文によって因果律を分析している(*71)。ルイスの論証は以下のようなものである。 ① もし私の両親が1940年代に出会っていなければ私の本は出版されていなかっただろう。 ② もし私の本が出版されていなかったら私の両親は1940年代に出会わなかっただろう。 ①では出来事と出来事の依存関係が明らかなのに対し、②には依存関係が見当たらない。 ※ただしルイスは、自身の主張が因果の非対称性を直接説明するものではないことを認めている。 デイヴィッド・ヒュームは因果関係というものを考究し、因果関係があるとされる出来事と出来事の間には必然的結合と言えるようなものは見出せず、連接(conjoined)しているように見えるが、結合(connected)しているようには見えないとして、原因と結果の関係の必然性は、人の心の中に存在しているだけの蓋然的なものでしかないと結論した。バートランド・ラッセルもまた科学の基礎的な原理に因果律が見当たらないことを理由に、ヒュームと同様の主張をしている(*72)。 しかしヒュームでさえも、自身の懐疑主義を世界観全てに敷衍した場合に帰結する途方もない不条理を理解していたようであり、人が生きるための方便としての「程々の懐疑(modest skepticism)」を提案することになった。 なおB論者であるメラーは、ブロック宇宙説を前提にしながらも、マクタガートの「A系列なしに変化はありえない」という理論を否定し(*73)、因果関係が客観世界に存在していることを前提にB系列の時間を肯定している(*74)。他の永久主義を前提としたB論者も同様であると思われる。客観世界に因果系列、つまり時間の矢が存在しているという前提でなければ、B系列を主張することはできないからだ。以下、サイダーの文を再掲する。 この火かき棒は、二〇〇〇年六月二十九日の木曜日には熱い。 この火かき棒は、二〇〇〇年六月三十日の金曜日には冷たい。 この二つの判断の真理値は変化しない。にも関わらず、時制の還元主義者は、この一組の文が真であることによって、この火かき棒は変化するというのである。 しかしこの主張はブロック宇宙説と矛盾している可能性がある。アウグスティヌスのように「全体が一挙にある」というのがブロック宇宙説であり、この立場では変化や因果系列を云々するのは無意味である。前述のようにブロック宇宙説を支持する物理学者たちは時間・運動・変化・生起といったものの実在を否定している。青山拓央も無時制論が因果関係というものの否定に繋がることを指摘している。またブロック宇宙説を擁護するヒュー・プライスは以下のように述べている。 大ざっぱに言って因果関係の非対称性は、この世界のなかにいる "エージェント(行為の主体、行為者)" としてのわれわれの、時間的に非対称なものの見方の反映である(*75) 全ての出来事が永久に存在しているという永久主義を前提とした場合、「転んで足を挫いたのが原因で足が痛い」という文は偽になる。「足の痛み」は永久に存在しており、「転んだ」ことを原因として「生じた」わけではないからだ。「永久」と「因果」は存在論的に並存しえない概念である。 結局、永久主義を前提としたB論者はマクタガートや無時間論者との差異が紙一重となる。マクタガートの時間論では、実在世界は不変で永久的なものとし、時間とは人の主観によって見出されるというものであった。メラーやサイダーらのB理論はマクタガートを批判しながらも、マクタガート同様に実在世界は永久的なものと考える。マクタガートとの差異は、主観的に捉えられる「時間の流れ」と、実在世界との関係という点のみになる。高村友也はブロック宇宙説を取るヒュー・プライスを批判する論文で以下のように書いている。 時間自体に向きがないブロック宇宙の世界では,私たちが過去や未来と呼んでいる方向の区別は,因果関係において特に意味を為さない. 時間の流れというものを,意識がそのように見せているだけの主観的なものとして退けるということは,残された物理的な時間にはもはや,流れる方向であったところの未来や,その逆である過去といった区別も存在しなくなることを意味する,(*76) メラーが実在世界に属するとした因果系列・時間の向きが、結局は主観的に見出されたものに過ぎないなら、永久主義を前提としたB論者はマクタガートと本質的な差異がないということになる。 補足 (以下は管理者の見解) 入不二基義は、A論者とB論者の議論について、過去・現在・未来という時間様相が排他的なのは、概念的・静的な理由でないとして、以下のように時間特有の「変化」を論じている。 時間経過(推移)においては、「現在のことも過去になる」。この「なる」という時間特有の動性によって、「現にある」ことと「もうすでにない」こと、「まだそもそもない」こととが、まさに動的に排他的なのである。それは「ある」ものどうしの相互排他性ではない。「ある」ことと「ない」ことの間の動的な排他性である。(*77) 時間的変化とは、固定的で不変のものとして取り出される一者に対してこそ(対してさえ)さらに生じるはずの変化であり、その変化を逸れるものなどなかった。すなわち、時間的変化の特異点とは、その「高階性」や「汎浸透性」にあった。(中略)すなわち、同一不変の「もの」や「出来事」に定位しておいて、「それ(と指示できる何か)」が過ぎ去るのでなく、端的な現在の現実性(これ)こそが、過ぎ去るのでなければならない。(*78) 入不二の議論は特権的な「現在」の存在論的地位を「現実性」として認めるものであり、現在主義およびA理論の一種であると思える。類似の主張は永井均(*79)や青山拓央(*80)にも見られる。 しかし私は、入不二の議論は永久主義の論駁としては成功していないと考える。それは彼の主張が既述したポール・デイヴィスやブライアン・グリーンの論証の「掌の内」にあると思えるからである。デイヴィスの論法を敷衍して入不二の主張を表現すると以下のようになる。 11 15分 端的な現在の現実性(これ)こそが、過ぎ去ることを時間的変化の本質だと思う。 11 16分 その現在の現実性が過ぎ去った。この現実性(これ)もまた過ぎ去りつつあると感じる。 11 17分 絶えず過ぎ去り続ける現実性こそが、時間の本質だと思う。 以上のように、「現実性が過ぎ去る感覚」も箇条書きで事足りてしまう。 壊れたDVDプレーヤーで『風とともに去りぬ』を見ることで、時間の感覚を説明したグリーンの文を再掲する。 コマが前後にジャンプするのを見て、ストーリーを理解するのは難しい。しかしスカーレットとレットにとっては何の問題もない。どのコマでも、二人はそのコマでいつもすることをするだけだ。(中略)二人はそれぞれのコマで、前にそのコマで考えたのと同じことを考え、同じ記憶をもつのである。とくに重要なのは、二人がそうして考える内容と記憶とが、時間は常に未来に向かって均一に流れるという感覚を二人に与えていることだ。 デイヴィスやグリーンのブロック宇宙解釈、および永久主義の立場では、入不二が主張した「ある」ことと「ない」ことの間の動的な排他性、つまり「変化」の問題は存在せず、また「端的な現在の現実性(これ)こそが、過ぎ去る」という感覚がいかに特権的であるかのように主張しても、それは四次元時空のあるポジションに位置づけられ、「凍結」されたものとして説明可能であるように思える。ブロック宇宙説は、知覚を純粋な持続的存在としたベルクソンと、個別の知覚たちは全て別個の存在者だと考えたデイヴィッド・ヒュームのニヒリズムを統合したような世界観だと思える。ヒュームのニヒリズムが論理的に成り立つことは、バートランド・ラッセルの「世界五分前創造説」や「瞬間的独我論」によって間接的に論証されている。ラッセルの主張を要約していえば、「想起」という経験と、想起の対象である「過去の経験」は論理的に独立しているということである。 デイヴィスやグリーンの論証は論理的に整合的であり、時間の流れを感じる人間の感覚も包括できており、何の矛盾もない。しかし、何の問題もないというわけではない。青山拓央が論じたように、時間の非実在を認めた場合は、あらゆる日常的信念が崩壊し、「狂気とも言うべき世界」を認めることになるかもしれない。 しかし私は青山の主張し反して、ブロック宇宙説が形而上学的観点から特別に不可解な宇宙論とは思わない。確かに素朴実在論・素朴心理学的には受け入れ難い世界観ではある。しかし哲学の世界においては、「究極の問い」という伝統的問題があったことを想起すべきである。そもそもこの宇宙は「なぜ何もないのではなく何かがあるのか?」合理的に答えるのは不可能な問題である。解答がないのがわかっているのなら、「究極の問い」ではなく「究極の神秘」というべきだろう。 ブロック宇宙が事実ならば、変化や生成、因果関係の実在は否定するしかなく、「全てはありのまま、ただ存在している」と考えざるをえない(B論者は因果関係を認めるのだが)。確かに存在論的に途方もない主張であるかもしれないが、変化や生成、因果関係の実在を認め、「ビッグバンによって宇宙が誕生し、さまざま変化を経て、138億年後、現在の多様な世界が出来上がった」と言ったとしても、それは結局「究極の問い」の神秘が、より後方へとスライドされるだけであり、現在の世界が存在していることの神秘は何も解消していないのである。 私は、常識が転倒した狂気の世界が真の世界の姿であることを認めても、哲学的にも社会学的にも問題がないと考える。たとえば伝統的な哲学的課題であった「自由意志」の問題は、既に物理学と神経科学の発展によって葬られる寸前である。心の哲学では物理主義と二元論の対立があるが、いずれの立場も自然主義を前提としており、決定論的な振る舞いをする脳の生理学的な過程に、意識とクオリアが対応関係にあることを認めている。今日、自由意志の存在を認める立場は極めて旗色が悪い状況である。にも関わらず、形而上学的な自由意志が存在しなかったからという理由で、裁判において無罪を主張した被告人はいない。「私が殺人を犯したのは私の意志でなく脳の生理学的過程によって決定されていたからだ」といっても無駄な理由は、問題のカテゴリーが異なるからである。 物自体の世界と現象世界を峻別したカントの哲学が想起されるべきであろう。物自体――実在世界がどうであろうと、人間は現象の世界に生きるのである。自由意志も因果関係も法律も現象の世界には確かに存在している。これで決定論を認めても問題はない。 空間論 現代の哲学では、時間の実在性をめぐる議論と比べると、空間の実在性をめぐる議論はほとんど行われていない。哲学史における空間の哲学は、空間と時間をともに直観の形式としたカントの哲学から前進していない。 物理学では、時間と空間を一塊の「四次元時空」として扱う相対性理論によって、時間と空間は単独では実在ではないとされる(*81)。橋元淳一郎は「空間と時間は実在ではない」と明言している(*82)。橋元によると、ローレンツ変換により時間と空間は「入り乱れる」。それは時間と空間が等価なものだからである。つまり本質的に同じであるが具現しているものは違うという意味である。たとえば、同じく相対論が導く結論に、質量とエネルギーの等価(E=mc^2)という有名な関係がある。これは、質量とエネルギーは本質的に同じものであるが、その現われ方が違っているのである。そして橋元は、われわれは日々空間を感じ、明快に実在するものと思っているが、それは「大いなる錯覚」であるという(*83)。ちなみにブラックホールにおける事象の地平線の向こうでは、「時間と空間が逆転する」といわれる。(*84) ただし空間の非実在を主張する物理学者は、時間の非実在を主張する学者に比べると遥かに少ない。これはミンコフスキー時空というものが、基本的には時間を座標によって、つまり空間化して考えるからだと思われる。既述したようにブライアン・グリーンは時空を一塊の食パンにたとえ、その食パンのスライスの仕方で事象と事象の位置と関係を説明している。リチャード・ゴットもまた「時空とは、巨大な4つの次元をもつ食パンのかたまりのようなもの(*85)」と、グリーン同様の説明をしている。 なお量子力学の問題によって、空間の実在性を懐疑する意見が僅かではあるが存在する。量子力学では二重スリット実験やEPR相関など、素朴実在論的な世界観からは理解不可能な現象が実験で確かめられている。 量子論によると、少なくとも電子のようなミクロの物質の場合は、私たちが見ていない時には「どこか一箇所にいる」のでなく、「さまざまな場所にいる」状態になっている。そしてこの考えを突き詰めると、ミクロの物質の集合体である月についても、誰も見ていない時には「どこか一箇所にいる」と断言できなくなる。(*86) ある場所で粒子が見つかる確率を確率波という。たとえば電子の場合、確率波が大きい場所ということは電子が見つかりそうな場所、確率波が小さい場所は電子が見つかりそうにない場所、ということである。そして量子力学によれば、確率波は全空間、つまり全宇宙に広がっている、とされる(*87)。観測が行われれば電子の位置は確定する。これを確率波が「収縮」したと言う。標準的な考え方によれば、宇宙全体に広がっていた波が、一瞬にして一点に収縮するのだ。(*88) 粒子は測定された瞬間にあれこれの性質をランダムに獲得するが、そのランダムさは空間的に離れたところのものと結びつくことができる。そのような結びつきをもつよう調整された二つの粒子は「絡み合った(エンタングルした)粒子」という。エンタングルした粒子は空間的に、たとえ何百億光年離れていようと同じ振る舞いをする。長距離相関が生じるのは、二つの粒子があらかじめ確定した性質を持っていたからだという説は実験データが否定する。このことから宇宙は非局所的だという結論が得られる。(*89) EPR相関の問題によって、あらゆるものはビッグバンのときに同じ場所で生まれたのだから、私たちが別々の場所だと思っている地点も、もとをただせばみな同じ場所だったのだ、と解釈する人もいる。(*90) 三浦俊彦はEPR相関について、以下のように論じている。 実在全体がどの一片の中にも宿っている。部分はすなわち全体であるというパルメニデス的、ヘーゲル的な全体論を思わせます。すべては連関(シンクロナイズ)しているのです。(*91) 心の哲学との関連 (以下は管理者の見解) 時間と空間の哲学は、心の哲学のメタレベルの問題であり、時間と空間を実在とみなすか否かで、心の哲学の諸問題に対するアプローチの仕方は全く変わってくる。 心の哲学の最大の難問は心身問題(心脳問題)であり、クオリアなど心的なものと脳という物理的なものの関係の内実である。両者が対応関係にあることは明白であるにも関わらず、その関係を二元論の立場から究明しようとすると、物理領域の因果的閉包性によって、心的因果が排除され、現象判断のパラドクスという問題が生じてしまう。そして物質的な脳からいかにクオリアが生じるのかという意識のハードプロブレムも解決困難な難問として残存したままの状態である。 しかし、時間・生成・変化といったものの非実在を主張するブロック宇宙説では、それら心の哲学の難問が一挙に解決する可能性がある。ブロック宇宙説では因果関係や時間の矢を問うことは無意味なので、心身関係や心的因果を云々する意味がない。橋元淳一郎がいうように「あらゆる事象は在るがままに在る」のだから、脳の状態と対応関係にあるように見えるクオリアが、ただ存在しているだけということになり、物質的な脳からいかにクオリアが生じるのかというハードプロブレムも消滅することになる。 時間の実在性を否定した場合、青山拓央がいうように「狂気」としか表現できないような、あらゆる常識が崩壊した世界観が帰結することになる。しかし仮に常識が転倒しようが、時間の実在性を否定することによって、さまざまな現象が合理的に説明できるならば、時間の実在に拘泥する理由はないように思われる。 そのことは空間の実在性についてもいえる。空間の実在性を否定することによって、さまざまな現象が合理的に説明できるなら、空間の実在に拘る必要はないはずである。物的なものと違ってクオリアは空間的に位置を規定できない。空間が実在的でないとすればクオリアの位置を問うことは無意味だということになる。クオリアに対し物的なものは空間的なパラメーターを持っていることが異なるだけだということになる。 ブロック宇宙説では時間や空間が個別的に実在することを否定するが、両者を合わせた「四次元時空」は絶対的な実在とみなす。しかし物理学者が物質や時空に対して用いる「実在」という言葉は、「科学理論内部の存在論(*92)」としての用語であり、形而上学的にメタレベルの観点から、カントが想定した「物自体」についての実在を主張しているのではないということである。物自体とは人間の経験に先立つ存在である。しかし、そもそも「存在」するという意味は何だろう。大森荘蔵は先行存在(物自体)について以下のように書いている。 存在の原型としての知覚存在にせよ、数学的対象を典型とする普遍や物理学の理論的概念の語り存在にせよ、いずれも日常経験の中で制作されているということである。知覚存在は知覚経験の中に与えられており、語り存在はその経験を語る思いの中で形成されている。その点で以上に登場した存在概念は経験論的な存在意味であったといえる。(*93) 要するに、経験に先立つ(アプリオリ)存在ということに意味がない、と結論せざるを得ないのである。(中略)歴史的にそういう意味が形成されたり制作されたことがない、という事実報告をしているのである。意味の歴史的不在を言っているのである。そしていわゆる(素朴)実在論者がこの報告に反駁する仕方はただ一つしかない。 先行存在の意味を了解可能な形で自ら制作してみせることである。(*94) 大森に習っていうならば、四次元時空でさえ経験的に制作された「意味」である。ならばメタレベルの形而上学的観点から、四次元時空の非実在さえも主張すること、つまり「意味」の改変は可能なはずである。既述した量子力学の観測問題は、四次元時空の実在性を懐疑させる根拠の一つになると私は考える。 メタレベルの形而上学として四次元時空の実在性を否定するなら、それは現象主義、あるいは観念論という立場に他ならない。このタイプの思考型は、歴史的には古代エレア派から始まる。ジョージ・バークリーも同様の立場を取った。バークリーは『人知原理論』において、「延長や運動は対象のない抽象観念」だとしている。エルンスト・マッハは物質的実在を否定し、感覚要素が世界を構成する究極の単位であると考えた。そして因果関係という概念や、精神や物質という区別さえも排除し、ただ一つ経験に与えられる基本的事実である〈感覚要素〉の、その相互間の法則的連関の記述だけが科学的認識の目的であるべきだとした。このようなマッハの現象主義は、今日の科学的方法論とはかけ離れているが、科学哲学における社会構成主義や存在論的構造実在論といった立場は、マッハの現象主義に再接近しているよう思う。 現象主義の最大の利点は、素朴実在論的な観点からは理解不可能な量子力学の問題も無理なく受容できるということである。物質や空間というものを実在するものと考える限り、二重スリットの実験やEPR相関は、時間・空間といったパラメーターと整合的に説明することは困難である。「量子的ミクロの世界では因果律は成立しない(*95)」、「ボーア主導のコペンハーゲン解釈によれば、位置が観測されるその瞬間まで、電子はどこに存在するのかと問うことには意味がない(*96)」、「あなたから見れば1カ所に局在しているものが、あなたの友人には広がって見える。粒子の位置が人の見方によるだけでなく、粒子が「ある位置を持つ」という事実そのものが、それを眺める人に依存するのである(*97)」といった量子力学についての説明は、素朴実在論的には理解不可能なものである。確かなのは、世界にはわれわれに「現象」をもたらしている数学的構造が存在しているということのみだろう。 時間と空間の実在性をともに否定するなら、果たしてどのような世界観に到達するだろうか? 時間の実在性の否定によって、生成・変化・因果関係の実在性が否定され、心身関係と心的因果の問題が解消する可能性が示された。さらに空間の実在性を否定するならば、伝統的な哲学上の難問であった「他我」の問題もまた解消する可能性がある。他者とは「空間」を異にして存在する者のことだからである。他我問題の難解さについて大森は、「二〇世紀哲学に深い影響を与えた二人の巨人、フッサールとウィトゲンシュタインがともに立ち向かったが、ともに解決できなかった問題である(*98)」と述べている。空間を非実在的なものとするなら、他我の定義が一つ消えることになる。 参考文献 青山拓央「時制的変化は定義可能か」科学哲学37-2 2004年 青山拓夫『新版 タイムトラベルの哲学』ちくま文庫 2011年 青山拓央『分析哲学講義』ちくま新書 2012年 伊佐敷隆弘『時間様相の形而上学』勁草書房 2010年 井上忠『パルメニデス』青土社 1996年 入不二基義『時間は実在するか』講談社現代新書 2002年 入不二基義『時間と絶対と相対と』勁草書房 2007年 入不二基義「無についての問い方・語り方」Heidegger-Forum Vol.6 2012年 植村恒一郎『時間の本性』勁草書房 2002年 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哲学者の快感ってなんだろう 頭がぐらっと変わる感覚 そういうときはもう、なんとも言えない そういわれてみればそうだ なんて感覚がもうたまらない ひとつの解決案が出たとき 自分で導き出されたとき あっそうだ!なんて思ったとき そういうときは最高の感覚 たとえ、それが自慰の域を出なかったとしても すでにどこかの誰かが言っていたことだとしても そのときの快感はもうたまらない 自分が不思議に思っていたこと そういうことが他人も思っていたんだって気づくとき そして、自分が出した解決案を他の誰かも出していたことに気づくとき それが一番の快感だと思う そうなんだよ、わからないんだよ、不思議なんだよ なんだ、お前もか! そう思えるとき、僕は至福な一時を過ごせる ぷかぷか、なんて感覚 たまらねぇ 名前 コメント
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最近は、「無知の知」ってのがわかるようになってきて、ああ、これが哲学なんだなぁと思いました。 なにもわからないんですよ、僕は。 もうわからなくてわからなくて涙が出てくる、そういう感覚だと思います。 どうして話せるかもわからない。 僕は誰だ!とか。 死んでしまうとか。 世界とか。 日常だとか。 存在だとか。 もう迷って迷って崖から落っこちるようなそういう感覚。 そこから脱するためか、何のためかわからないけど、どうしてもそれに引っかかって考える。 考えて考えて考えぬく。 これが哲学ではないかと僕は思います。(決して読書ではないのです!) 文学者とか実存主義者とか神学者や芸術学者、そういう人達とはそれなりのシンパシーは感じますが、根本的になにかが違うんだな、と思います。 結局、哲学というと、知らないことを知ること、知を愛することだと結論付けたいと思います 古臭くてマンネリな回答になってしまいましたが、僕自身、この言葉の持つ重みがわかるまでそれなりの時間がかかりました だからもっと月日を重ねれば、もっと多くの見方になるのかな、うーん (゜ー゜)哲学者向けの哲学なんて言葉を聞いたことがありますが、なるほど、うまいこというなぁ 名前 コメント