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ウランバートルから東へ約120kmの位置に所在。 紀元前3~紀元1世紀頃の遊牧民族の遺跡。 2013年、この遺跡で製鉄炉跡5基が発見される。 炭素14法年代測定の結果、紀元前1世紀~紀元1世紀頃のものと判明。 幅数十センチ~2メートル、深さ30~40センチほどの穴や細いトンネルが見られ、 内部には鉄と分離した不純物(スラグ)や炭が詰まっていたという。 地上に炉を作る秦・漢のものより、地下に炉を作る黒海周辺・中央アジアの型に近い。 この発見から、匈奴が独自に製鉄技術を持っていた可能性が浮上すると云々。 参考文献 朝日新聞デジタル2013年12月17日記事
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陶璜は再登場してほしい… -- (名無しさん) 2011-06-05 10 54 29 たしかに。弟みたいな顔で出られたら育成するしかない。 -- (名無しさん) 2011-06-05 12 30 21 はんまーかんまーw(*・ω・)→ http //nn7.biz/oppai/top.html -- (sonin) 2011-09-24 03 33 01 華佗が使え無いのが… -- (鴛さん) 2012-03-06 02 09 23 十常侍も欲しい! 12人だけど… -- (劉弁) 2012-03-06 04 15 24 張機のところ。 長沙太守なんだから、「張長沙」と称されるのは当たり前だと思うのだが。 原文もってないから訂正はしないが。 -- (名無しさん) 2012-05-11 18 34 10 張機が長沙太守になったことは唐以降の通説として定着しているが、否定する説もある。 でも、明の頃に「医聖」と呼ばれるようになるまで「張長沙」の尊称で長らく呼ばれたのも事実。 -- (名無しさん) 2012-05-13 17 51 25 劉禅の兄弟とかはどこにも書いてないのか? -- (名無しさん) 2012-10-30 22 40 05 鄧良の能力値が間違ってるよ。 正しくはⅨで統率6武力12知力39政治64。 -- (名無しさん) 2012-12-15 16 28 23 ↑修正しました。 鄧茂(IX登場武将の五十音順で鄧良の一つ上)の能力値になっていたようですね。 -- (名無しさん) 2012-12-15 18 45 09 劉備の娘二人いないですかね? -- (名無しさん) 2013-01-23 13 08 57 呼廚泉と於夫羅の特技と能力はどのぐらいがいいとおもいますか? 詳しい人教えてください。 -- (名無しさん) 2013-03-19 20 49 47 ↑統・武は60~70台、知・政・魅は低めあたり。 特技は遊牧民族系のイメージで「長駆」「白馬」「射手」「繁殖」とかが無難かな。 南匈奴は鮮卑や烏丸とも戦ってるので「親烏」は付けにくい気が。 個人的独断で特技にひねりを入れるなら、於夫羅に「強奪」、呼廚泉に「猛者」。 他の南匈奴の武将だったら、去卑に「護衛」を付けるかも。 (呼廚泉は三国志大戦のイメージです、すいません…) -- (名無しさん) 2013-03-20 19 15 14 統率,武力60台だと弱いから呼廚泉は郭援と高幹と親愛にしとけば -- (名無しさん) 2013-03-21 19 12 37 参考までにXでの能力値 於夫羅は統率72・武力68・知力8・政治34・魅力64 呼廚泉は統率69・武力65・知力16・政治26・魅力66 -- (名無しさん) 2013-03-21 20 36 24 於夫羅はWikipediaのデータから鑑みるに 義理1の野心4位が妥当かと 呼廚泉は義理3の野心4位が妥当かと 没年は於夫羅195年 呼廚泉 不明ただし277年まで生存の記述有り(Wikipedia情報) -- (名無しさん) 2013-03-22 10 23 29 Wikipediaの記述はなぁ… 晋書武帝紀は277年に匈奴を含む異民族の帥が来朝したことが書かれているだけ。 呼廚泉と同時代の劉豹が長命だったと考えられるから、 最後の単于だった呼廚泉も晋代まで存命していて匈奴帥の地位にあったんじゃないかという推測だと思う。 -- (名無しさん) 2013-03-22 14 47 00 それはどうもすいません Wikipedia書いてあるまま書いたもので… 次は裏しっかり取ってから書きます -- (名無しさん) 2013-03-23 13 58 53 ↑書いた者ですが何も情報を書かないのはアレなんで 三国志Ⅹ特技 於夫羅 「突撃」「奇襲」「回復」 呼廚泉 「徴兵」「突撃」「弾返」 です -- (名無しさん) 2013-03-23 14 09 12 張魯軍の李休(李勝の父)と劉璋軍の王商はいつ出るのか -- (名無しさん) 2013-08-05 01 30 57 取り敢えず、『Ⅲ』『Ⅵ』『Ⅷ』の重要人物の概要UPしてみた。能力は次回。 後、誰か整理して… -- (ワンダー) 2013-10-27 23 01 28 あれ?卑弥呼の能力値が変わってる?特技も変更されてる。 -- (名無し) 2013-12-13 19 55 37 李旻は群雄扱いでいいのかね?反董卓連合の本拠地許昌・配下なしと結構辛い立ち位置になるけど。 孫堅が徐栄に負けた時に捕まってるから、相性的には孫家よりになるのかな。許昌は魏の武将が多いからその点でも辛いかな。 -- (名無しさん) 2013-12-17 14 37 41 卑弥呼の特技の祈祷ってなんだよw 祈願の間違いか? -- (名無しさん) 2014-01-22 22 37 14 Ⅸ持ってないからどうなってるのか分からないけど、馬隆が弩Cなのはあんまりだ -- (名無しさん) 2014-05-26 23 06 55 左霊の知力531ってなんだよ。打ち間違いか? -- (名無し) 2014-07-31 21 06 42 李旻は群雄にもできるが、どちらかというと豫州刺史孫堅に従った豫州の軍勢の一人・・・ってことで、孫堅配下だと思うなあ。 あと親愛関係のありそうな張安がいるから一人じゃないぞ。一緒に処刑されただけだから能力的には役に立たないだろうけど・・・ -- (名無しさん) 2014-08-02 14 06 46 ↑3突破・騎射・走射・斉射を持ってた(PSP版ⅨPKで確認) Ⅸで弓騎・弩兵兵法持ってた奴は今作でも弩B以上になってる事が多いから、馬隆も弩Bでいいんじゃないか -- (名無しさん) 2014-10-30 11 38 48 「三国志Ⅸに登場した武将」の項目の武将の能力が弄られてたので復元 この能力はⅨに登場した際の能力を記載してるので弄らないでください -- (名無しさん) 2015-11-17 13 39 44 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2758.html 武将数が増えてきたので「異民族・賊徒・群雄」をこちらへ移動させました -- (名無しさん) 2016-02-15 01 08 07 能力変更されていたので差し戻し -- (名無しさん) 2016-02-27 14 55 47 蔡邕の生年補足が113年になっていたので、修正。 13PKでの生年も133年とWikiにあったので、「不明」を削除 -- (名無しさん) 2018-04-22 01 09 34 三國志11pkに未登場の三國志13pkに登場した武将一覧でも誰か作ってくれないかな~ 他力本願ですいません -- (名無しさん) 2018-05-02 19 09 52
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精鋭三次 管理者 武烈 令名 在庫数 精鋭大刀兵 1 精鋭錬鎚兵 1 精鋭長槍兵 1 精鋭戟兵 3 精鋭鉄騎兵 0 精鋭匈奴兵 0 精鋭長弓兵 9 精鋭弩兵 0 精鋭長剣兵 16 精鋭剣士 17 精鋭藤甲兵 14 精鋭猛獣兵 0 精鋭近衛兵 0 精鋭刺客 0 精鋭遊騎兵 0 精鋭弓騎兵 0 精鋭舞姫 12 精鋭歌姫 14 四次 管理者 武烈 令名 在庫数 神刀兵 2 戦鎚兵 3 神槍兵 26 鉄戟兵 2 斧騎兵 0 虎豹騎 0 虎豹騎 0 強弩兵 0 重剣兵 0 剣豪 3 蛮甲兵 2 象兵 0 親衛兵 4 暗殺者 24 狼騎兵 0 神弓騎 0 戦姫 0 伶人 0
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名稱:高幹 伺服器及顏色:5服綠 類型:武 性別:男 生命值:646 武力:42 智力:10 防禦:15 敏捷:27 運勢:22 敘述:高幹,袁紹之甥,曾與荀諶遊說韓馥,使袁紹領冀州牧。河北平定,袁紹以高幹為並州牧,並其三子各領一州。官渡之戰,高幹在西線配合,因曹軍早有準備 而無進展。袁紹病死,袁譚、袁尚與曹操大戰黎陽,遣高幹、郭援略取平陽,被鐘繇率關中諸將所敗,郭援被斬。袁尚敗走中山,高幹不能迎袁尚並力觀變,而降於 曹操,被命為並州刺史。後復反叛,固守壺關,曹操親征,高幹留別將守城,自詣匈奴求救,不得而亡奔荊州,途經上洛被捕殺。
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張遼(ちょうりょう) 字は文遠(ぶんえん) (165-221) 本来の姓は「聶」。 これは、漢時代に匈奴との交易を利用して匈奴を騙し陥れようとした、聶壱(じょういつ)の子孫だからだ。 しかし、復讐を恐れて姓を変えたという。 若い頃、郡の役人になったが、丁原に召し出され都に赴いた。 その後は何進・董卓の配下を経て、呂布配下となった。 曹操が呂布を破ると、軍勢を率いて降伏。爵位を授かり、役職に就く。 その後もたびたび戦功を上げ昇進。 ある時、夏侯淵と共に攻めた先で、敵の将にうまく利害を説いて、単身その将の妻子に挨拶へ行き、彼を帰伏させた。 しかし、曹操は「これは大将のやり方ではない」と咎められ謝罪している。 袁譚・袁尚討伐、荊州の江夏攻略など、たびたび戦功を上げている。 張遼はいつも冷静沈着かつ勇猛で、駐屯していた先で反乱を企てた者が火を放って騒いだが、「反乱に加わっていない者は動くな」と騒ぎを鎮めて、首謀者を斬った。 また、曹操の命を受け楽進・李典と共に7000の兵を率いて合肥の地に駐屯した時、孫権は10万の兵で合肥を囲んだ。 この時、曹操が残していった「もし孫権がきたら、張遼と李典は城を出て戦い、楽進は城を守れ」という命令書に従い、僅か800の兵で敵に斬り込み、孫権を窮地に追い込むほどであった。 この戦いで、孫権軍は戦意を失い、城に引き返して守備を固めたが、10日以上合肥を囲んでも落とすことはできず、遂に引き揚げた。 張遼はすかさずこれを追撃。孫権を捕らえる寸前にまで追い詰めたのだった。 その後も呉に対する押さえとして働き、221年に参内した際には呉を破った話を聞いて感動した文帝(曹丕。曹操の息子)は、彼の為に邸宅を建て母親にも御殿を建ててやった。 その後、任地に戻ったが病気にかかると文帝は太医を派遣し、自らその手を取り御衣を下賜し、同じ食事を与えた。 病気が少し回復すると任地に戻り、魏に対して臣下の礼をとっていたが背いた孫権に睨みをきかせた。 孫権は諸将に「病んでいても敵は張遼だ。注意せよ」と命じている。 この年、呉の将を破るが、病気が重くなり死去。 文帝はその死に涙を流したという。 『遼来来』 孫権を追い詰めた戦いは呉の領民にとって余りにも恐ろしかったらしく、張遼の名前を聞くだけで子供の夜鳴きがおさまるほどだったという。 何故、張遼が『山田』なのか 肥のアクションゲーム『真・三國無双2』における叫びが、「邪魔だー!」が「山田ー!」に聞こえたことから。
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現在地:トップページ>漢詩大会の漢詩全文>漢詩大会の漢詩全文/曹植>今ココ 原文 訳「白馬篇」 コメント 原文 出典:《文選》《古詩源》《楽府詩集》 白馬飾金羈,連翩西北馳。借問誰家子,幽並游俠兒。 少小去鄉邑,揚聲沙漠垂。宿昔秉良弓,楛矢何參差。 控弦破左的,右發摧月支。仰手接飛猱,俯身散馬蹄。 狡捷過猴猿,勇剽若豹螭。邊城多警急,胡瞄數遷移。 羽檄從北來,厲馬登高堤。長驅蹈匈奴,左顧陵鮮卑。 棄身鋒刃端,性命安可懷。父母且不顧,何言子與妻。 名在壯士籍,不得中顧私。捐軀赴國難,視死忽如歸。 訳「白馬篇」 古詩源版序「白馬は言う。人まさに功を立てて国のためにすべし。私をおもうべからずと。」 白馬を金羈で飾り 連綿と翻し西北へ馳せる 問いかけよう「あれは誰の家の子か」「幽并出身の遊侠児!」 年若く郷里を去り 名を砂漠の果てまでも轟かせた その昔は良弓を取り 荒削りの矢を差し構え 弦を引けば左的を破り 右に射れば月支を砕き 仰げば飛的を貫き 身を伏せては馬蹄を散らす 敏捷なること山猿にまさり 勇敢なること聖獣のごとし 辺地の城は火急が多く 胡兵が平野を埋め尽くす 檄文が北から来れば 馬を励まし長城に登る 遠く匈奴を踏みならし 左に返しては鮮卑をしのぐ 身を鋭い刃の端に捨てよう 生命など惜しくもない 父母もかつ顧りみず まして妻子に未練があるものか 壮士の籍に名を連ねれば 私情にかまけておれやせぬ 身を賭し国難に赴けば 死を視ること帰るが如し! 【揚聲沙漠垂】 《三国志魏志-任城陳蕭王傳》『丈夫一為衛、霍,將十萬騎馳「沙漠」,驅戎狄,立功建號耳,何能作博士邪?』 (曹彰の台詞。「男子たるもの一に衛(青)、霍(去病)となり、十萬騎を率いて沙漠を馳せ,異民族を追い払い,功を立て名をとどろかせるべし~」) 【羽檄】 (緊急の触れ文に鳥の羽を挟んだところから)急を要する檄文 【視死忽如歸】 出典:大戴礼記/上曾子制言上(維基)」「及其不可避也、君子視死如帰」 大戴礼記は大戴礼とも言う中国の経書。前漢の戴徳撰。周・秦・漢代の礼説を集めたもの。 コメント 古典の名句をうまく生かした上で、現代を見事に表した名作。 宋代、袁淑によりこの作品をもとにした「傚曹子建楽府白馬篇(傚白馬篇)」が作られている。 ちなみに、「この作品の游侠児が、誰をさすか」については、諸説ある。 ただ明確になっていないというだけで想像する分には自由だし、想像の余地があるということも、この作品の魅力ではある。 #「美女篇」など他の作品と同じ曲で演じるという話もあるので、もしそっちの訳が終わったら、別に区分けするかもしれません。 漢詩大会の漢詩全文/曹植インデックスに戻る
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蛮族討伐 ある程度兵力も揃い、任務ではなかなか名声が上がらなくなって さて、どうしよう?と悩んでいる、あなた!! 城の外には凶暴な蛮族どもが手薬煉をひいて待っていますよ。 そこで、蛮族狩りを行うに当たり、一応、目安になる兵数と 装備レベルについて、纏めてみましたので参考にして下さい。 蛮族 . 兵数 装備(目安) 倭国 5,000 Lv20以上 鮮卑 8,000 Lv20以上 烏桓 10,000 Lv25以上 山越 50,000 Lv25以上 羌氏 100,000 Lv30以上 南蛮 200,000以上 Lv30以上(未確認) . 匈奴 400,000以上 Lv30以上(未確認) あくまで目安です、特に兵数については蛮族の部隊数で変わりますから 気を付けて下さいね。 また、蛮族討伐時に蛮族武将が落として行く戦利品には任務討伐で必要なアイテムを落とす場合があります。 蛮族武将捕獲 蛮族討伐では、稀に歴史系蛮族武将が登場する場合があり、捕獲し、自軍の武将として雇い入れる事が出来ます。 登場する蛮族武将には、それぞれ名称が付いていて、名称部分がキラキラと明滅しているので、すぐに分かると思います。 蛮族名 名 称 読み仮名 倭国 卑弥呼 ひみこ 月読 つくよみ 須佐之男 すさのお 大物主 おおものぬし 建御雷 たけみかづち 鮮卑 軻比能 かびのう 歩度根 ぶどこん 慕容垂 ぼようすい 慕容俊 ぼようしゅん 慕容皝 ぼようこう 慕容恪 ぼようかく 烏桓 火瓊瓊杵(実際は蹋頓) とうとつ 丘力居 きゅうりききょ 楼班 ろうはん 王同 おうどう 烏延 うえん 骨進 こつしん 山越 費棧 ひせん 尤突 ゆうとつ 常倶 じょうぐ 厳白虎 げんはくこ 呉巨 ごきょ 祖郎 そろう 羌氐 迷当大王 めいとうだいおう 北宮伯玉 ほくきゅうはくぎょく 柯吾 かご 徹里吉 てつりきつ 越吉 えつきつ 蛾遮塞 がしゃさい 俄何焼戈 がかしょうか 南蛮 孟獲 もうかく 兀突骨 ごつとつこつ 孟優 もうゆう 祝融 しゅくゆう 帯来洞主 たいらいどうしゅ 木鹿大王 ぼくろくだいおう 朶思大王 だしだいおう 阿会喃 あかいなん 金環三結 きんかんさんけつ 匈奴 去卑 くひ 呼廚泉 こちゅうせん 劉聡 りゅうそう 劉豹 りゅうひょう 於夫羅 おふら 1-13 右賢王 うけんおう 左賢王 さけんおう 劉曜 りゅうよう 張賓 ちょうひん 歴史系蛮族武将を捕獲する方法 歴史系蛮族武将の捕獲には、 ①捕獲対象武将の士気を下げる。 ②5元宝で捕獲する権利を得る。 ③捕獲コマンドの実行。(機械的に行われます) (捕獲は100%成功ではありませんので気を付けて下さい。) ※登用確率は、捕獲経験が無い場合、最大で25%まで上げる事が可能。 ※情報を募集してます。 捕獲対象の蛮族武将の士気はどのくらい下げれば良いのでしょうか? ご存知の方は、編集部までご連絡を、よろしくお願いしますo(_ _*)o それでは、頑張って下さい!! .
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十八史略 武帝崩ず 2011-12-24 08 46 00 | 十八史略 羊車留まるところ酣宴す 晉代魏十有六年、至太康元年而滅呉、又十年帝崩。帝初即位、嘗焚雉頭裘於太極殿前、以示儉。既而侈緃。後宮數千。常乘羊車。宮人挿竹葉干門、洒鹽以待之。羊車所至、即留酣宴。與羣臣語、未嘗有經國遠謀。自呉既平、謂天下無事、盡去州郡武備。山濤獨憂之。漢魏以來、羌胡・鮮卑降者、多處塞内諸郡。郭欽嘗上疏謂、宜及平呉之威、漸徙内郡雜胡於邊地、峻四夷出入之防、明先王荒服之制。帝不聽。卒爲天下患。帝在位改元者三、曰泰始・咸寧・太康。太子立。是爲孝惠皇帝。 晋、魏に代って十有六年、太康元年に至って呉を滅ぼし、又十年にして帝崩ず。帝初め位に即き、嘗て雉頭裘(ちとうきゅう)を太極殿の前に焚(や)いて、以って倹を示す。既にして侈縦(ししょう)なり。後宮数千あり。常に羊車に乗る。宮人、竹葉を門に挿しはさみ、塩を洒(そそ)いで以って之を待つ。羊車の至る所、即ち留まって酣宴(かんえん)す。群臣と語るに、未だ嘗て経国の遠謀有らず。呉既に平らぎしより、天下無事なりと謂いて、尽く州郡の武備を去る。山濤独り之を憂う。漢魏以来、羌胡(きょうこ)・鮮卑(せんぴ)の降る者、多く塞内の諸郡に処(お)る。郭欽(かくきん)嘗て上疏(じょうそ)して謂う「宜しく呉を平らぐるの威に及んで、漸(ようや)く内郡の雑胡を辺地に徙(うつ)し、四夷(しい)出入の防ぎを峻(たか)くし、先王荒服(こうふく)の制を明らかにすべし」と。帝聴かず。卒(つい)に天下の患(うれ)いを為す。帝、位に在って改元すること三、泰始・咸寧(かんねい)・太康と曰う。太子立つ。是を孝惠皇帝と為す。 雉頭裘 雉の頭の毛でつくった防寒衣。 侈縦 ぜいたくをほしいままにする。 酣宴 酒宴。 経国 国を治めること。 荒服の制 都から最も遠い地域、異民族の居住地区分、五服。 晋、魏に代って十六年、太康元年に呉を滅ぼし、又十年にして帝崩じた。(290年)帝は当初、雉の頭の羽で織った外套を太極殿の前で焚いて節倹の範を示したこともあったが、次第に奢侈にふけるようになった。後宮には宮女数千人を置き、羊に引かせた車で往来していた。宮女たちは竹の葉を門に挿し、塩を振って帝を待った。羊が立ち止まるとそこで酒宴を開くのである。群臣との間で国の経営の遠謀を語ることもなくなり、呉を平定してからは、もはや天下泰平であるからと、州郡の備えを去ってしまった。山濤独りがこれを憂慮した。漢魏以来羌族や鮮卑族の降伏した者が国内に多く住みついていた。郭欽は嘗て上疏して「呉を平定した威光が衰えないうちに、内地に住む異民族を辺地に移し、四方の夷狄の出入りを厳重に防ぎ、先王の定められた五服の区分を明確にすべきであります」と申し上げたが、帝は耳をかさなかった。これが後々天下の禍根となった。武帝は在位中改元すること三回、泰始・咸寧・太康といった。太子が即位した。これが孝恵皇帝である。 十八史略 恵帝 2011-12-27 08 42 17 | 十八史略 この座惜しむ可し 孝惠皇帝名衷、性不慧。爲太子時、納妃賈氏。充之女也。多權詐。衞瓘嘗侍武帝、陽醉跪于前、以手撫床曰、此座可惜。武帝悟、密封尚書疑事、令太子決之。賈氏大懼、倩外人具草代對、令太子自寫。武帝悦得不廢。至是即位。賈氏爲皇后預政。皇太后楊氏、乃帝母楊后之從妹。父駿爲太傅。賈后殺駿而廢太后、殺太宰汝南王亮、殺太保衞瓘、殺楚王瑋、以衆望用張華・裴頠・王戎、管機要。華盡忠帝室。后雖凶險、猶知敬重、與頠同心輔政。數年之、雖暗主在上、而朝野安靜。 孝惠皇帝、名は衷(ちゅう)、性不慧(ふけい)なり。太子たりし時、妃賈氏(かし)を納(い)る。充の女(むすめ)なり。権詐(けんさ)多し。衞瓘(えいかん)、嘗て武帝に侍し、陽(いつわ)り酔うて前に跪(ひざまづ)き、手を以って床(しょう)を撫(ぶ)して曰く「この座、惜しむ可し」と。武帝悟り、尚書の疑事(ぎじ)を密封し、太子をして、之を決せしむ。賈氏大いに懼れ、外人を倩(やと)い、草(そう)を具して代って対(こた)えしめ、太子をして自ら写さしむ。武帝悦(よろこ)び、廃せざるを得たり。是(ここ)に至って即位す。賈氏、皇后と為って政(まつりごと)に預かる。皇太后楊氏は乃ち帝の母楊后(ようこう)の従妹なり。父の駿は太傅(たいふ)たり。賈后、駿を殺して、太后を廃し、太宰(たいさい)汝南王亮を殺し、太保(たいほ)衞瓘(えいかん)を殺し、楚王瑋(い)を殺し、衆望を以って張華・裴頠(はいき)・王戎を用いて、機要(きよう)を管せしむ。華、忠を帝室に尽す。后、凶険なりと雖も、猶敬重(けいちょう)することを知り、頠と心を同じうして政を輔(たす)く。数年の間、暗主上(かみ)に在りと雖も、而も朝野(ちょうや)安静なり。 不慧 慧はさとい事。 権詐 いつわり。 陽 うわべ。 床 牀、寝台。 疑事 判断しがたい事。 外人 部外の人。 草を具し 草稿を用意する。 太傅 三公の一、天子の補佐役太師の次位。太宰 百官の長、総理大臣。 太保 三公の一、天子や皇太子の教育係、太傅の次位。 機要 枢機。 孝惠皇帝、名は衷で生来愚鈍であった。皇太子だった時、賈充の娘を妃としたが、いつわりの多い女だった。ある時、衞瓘が武帝と酒のお相手をしていた時、酔った振りをしてへたれこみ、帝の寝台を擦りながら「もったいないことですなあ、この座を」とつぶやいた。武帝はそれと悟って、尚書から上奏された事案を密封して、太子にこれを裁決させてみる事にした。妃の賈氏はおおいに懼れて外部の者に手をまわして、決裁の草稿を作らせ、太子の自筆で写しとらせた。武帝はそれを見て出来栄えに満足して、廃嫡を免れた。 太子が即位すると、賈妃は皇后となり、政治に参画するようになった。 恵帝の生母楊后は早世したため、いとこを次の皇后にした(皇太后)。その父の楊駿が太傅となっていたが、賈后は楊駿を殺し、皇太后を廃して庶人にした。又太宰の汝南王司馬亮を殺し、太保の衞瓘を殺し、楚王司馬瑋をもつぎつぎに殺した。そして衆望をあつめる張華・裴頠・王戎を用いて枢機にあずからせた。とりわけ張華は帝室に忠誠をつくした。賈皇后は凶悪陰険であったが、それでも人をうやまい尊重することは心得ていた。張華と裴頠は心をあわせて政治を補佐したから、数年間は暗君を戴いているとはいえ、朝廷も世間も安穏な日がつづいた。 十八史略 晋朝混乱す 2011-12-29 08 51 41 | 十八史略 太子遹非賈后所生。后廢殺之。征西大將軍趙王倫、矯詔勒兵入宮、廢后殺之、殺張華・裴頠。倫爲相國。淮南王允、率兵討倫、不克死。倫殺衞尉石崇。崇有愛妾緑珠。倫嬖人孫秀求之。不與。秀誣崇、奉允爲亂。収之。崇曰、奴輩利吾財耳。収者曰、知財爲禍、何不早散之。遂被殺。倫自加九錫、逼帝禪位。黨與皆爲卿相、奴卒亦加爵位。毎朝會、貂蝉盈坐。時人語曰、貂不足、狗尾續。齊王冏鎭許昌、成都王頴鎭鄴、河王顒、鎭關中。各擧兵討倫。倫伏誅。 太子遹(いつ) 賈后の生む所に非らず。后、廃して之を殺す。征西大将軍趙王倫(りん)、詔を矯(いつわ)り、兵を勒(ろく)して宮に入り、后を廃して之を殺し、張華・裴頠(はいき)を殺す。倫、相国と為る。淮南王允いん)、兵を率いて倫を討つ。克たずして死す。倫、衞尉石崇(せきすう)を殺す。崇に愛妾緑珠あり。倫の嬖人(へいじん)孫秀、之を求む。与えず。秀、崇を誣(し)う、「允を奉じて乱をなさんとす」と。之を収(とら)う。崇曰く、「奴輩、吾が財を利するのみ」と。収うる者曰く、「財の禍たるを知らば、何ぞ早く之を散ぜざる」と。遂に殺さる。倫、自ら九錫を加え、帝に逼(せま)って位を禅(ゆず)らしむ。党与(とうよ)皆卿相(けいしょう)と為り、奴卒(どそつ)も亦爵位を加う。朝会(ちょうかい)する毎に、貂蝉(ちょうせん)坐に盈(み)つ。時人(じじん)語して曰く、「貂足らず、狗尾(こうび)続(つ)ぐ」と。斉王冏(けい)、許昌に鎮(ちん)し、成都王頴(えい) 鄴(ぎょう)に鎮し、河間王顒(ぎょう)、関中に鎮す。各々兵を挙げて倫を討つ。倫、誅に伏す。 衞尉 九卿の一、宮城防衛を司った。 嬖人 気に入りの家来。 誣う 誣告、事実を偽って、告訴する。 吾が財 愛妾緑珠のこと。 貂蝉 てんの尾と蝉の翅で飾った冠、高位高官。 十八史略 三語の掾 2011-12-29 08 51 41 | 十八史略 三語の掾 戎與時浮沈、無所匡救。性復貪吝。田園遍天下。執牙籌晝夜會計。家有好李。恐人得其種、常鑚其核。凡所賞抜、專事虡名。阮咸之子瞻見戎。戎問曰、聖人貴名教、老莊明自然。其旨異同。瞻曰、將無同。戎咨嗟良久。遂辟之。時號三語掾。是時王衍・樂廣、皆善清談。衍神情明秀。少時山濤見之曰、何物老嫗、生寧馨兒。然誤天下蒼生者、未必非此人也。衍弟澄、及阮咸・咸從子脩・胡毋輔之・謝鯤・畢卓等、皆以任放爲達、醉裸不以爲非。比舎郎釀熟。卓夜至甕盜飮、爲守者所縛。旦視之畢吏部也。樂廣聞而笑之曰、名教中自有樂地。何必乃爾。初魏時、何晏等立論。以天地萬物、皆以無爲本。衍等愛重之。裴頠著崇有論、不能救。 戎(じゅう)、時と与(とも)に浮沈し、匡救(きょうきゅう)する所無し。性、復貪吝(たんりん)なり。田園天下に遍(あまね)し。牙籌(がちゅう)を執(と)って昼夜会計す。家に好李有り。人の其の種を得んことを恐れて、常に其の核を鑚(き)る。凡そ賞抜(しょうばつ)する所、専(もっぱ)ら虚名を事とす。阮咸(げんかん)の子瞻(せん)戎に見(まみ)ゆ。戎問うて曰く、「聖人は名教を貴び、老荘は自然を明らかにす。其の旨異なるか、同じきか」と。瞻曰く、「将(はた)同じこと無からんや」と。戎、咨嗟(しさ)すること良(やや)久し。遂に之を辟(め)す。時に三語の掾(えん)と号す。是(こ)の時、王衍(おうえん)・樂廣(がくこう)、皆清談を善くす。衍、神情(しんじょう)明秀なり。少(わか)き時、山濤之を見て曰く、「何物の老嫗(ろうう)か寧馨兒(ねいけいじ)を生める。然れども天下の蒼生(そうせい)を誤る者は、未だ必ずしも此の人に非らずんばあらざるなり」と。衍の弟澄(ちょう)、及び阮咸・咸の従子脩・胡毋輔之(こぶほし)・謝鯤(しゃこん)・畢卓(ひったく)等、皆任放を以って達(たつ)と為し、酔裸(すいら)して以って非と為さず。舎を比(なら)ぶる郎が醸熟す。卓、夜、甕の間に至って盗み飲み、守者の縛する所と為る。旦(あした)に之を視れば畢吏部なり、樂廣聞いて之を笑って曰く、「名教(めいきょう)の中自(おのずか)ら楽地有り。何ぞ必ずしも乃(すなわ)ち爾(しか)るや」と。初め魏の時、何晏(かあん)等論を立つ。以(おも)えらく、天地万物、皆無を以って本と為すと。衍等之を愛重(あいちょう)す。裴頠(はいき)、崇有論(すうゆうろん)を著(あら)わせども、救うこと能わず。 匡救 悪いところをただし救う。 貪吝 むさぼり、出し惜しみ。 田園 田畑。 牙籌 象牙で作ったそろばん。 鑚る 穴を開ける。 賞抜 賞誉抜擢すること。 名教 人として守るべき道を明らかにする教え、儒教。 咨嗟 ためいきをつく。 辟す 官吏に取り立てる。 掾 三等官、した役。 神情 顔色容姿。 寧馨兒 寧馨はこのような、神童。 蒼生 人民。 比舎 隣家。 王戎は時勢と共に移り変わる人物で、悪政をただし世を救うことをせず、利を貪り、施すことをしなかった。至る所に田畑を持ち、昼夜を分かたず、象牙のそろばんを弾いていた。家に良い実をつけるすももの木があったが、その種が人の手に渡るのを恐れて、いつも種に穴をあけていた。人を抜擢するときも虚名を重んじた。阮咸の子の阮瞻と会ったとき、王戎が「聖人は人として守るべき道を教え、老荘は無為自然を教えたが、その本質は異なるのか、はた同じであるのか」と問うた。阮瞻は「どうして同じでないといえましょうか」と答えた。王戎はしばし、ためいきをついていたが、遂に瞻を取り立てた。世間では{三語の役人}と呼んだ。 この頃、王衍・楽広らが清談にかぶれていた。王衍は顔つきが端正で、若い頃山濤がこれを見て「どんな母親だろうかこのような子をうんだのは。しかし後々天下の人々を誤らせるのはきっとこの人に違いない」と言った。 王衍の弟王澄、及び阮咸・咸の甥の阮脩・胡毋輔之・謝鯤・畢卓等は皆気ままな振るまいを闊達であるとして、酔って裸になることも平気だった。隣の家の酒がちょうど飲み頃になったのを知り、夜更けに忍び込んで盗み飲みをしていて、番人に見つかり縛りあげられてしまった。朝になって視ると吏部郎の畢卓であった。楽広がこれを聞いて「聖人の説く名教の中にだって、自ずと楽しい境地があるというのに、何もこんなことまでしなくて良いのに」と笑って言った。 嘗て魏の時代に何晏等が天地万物すべて 無 を根本であるという論を立てた。王衍らはこの節を信奉していた。そこで裴頠が崇有論を著したが、世の風潮を変えることはできなかった。 十八史略 八王の乱 2012-01-05 16 22 49 | 十八史略 冏輔政。驕奢擅權。顒使長沙王乂殺之。頴亦恃功驕奢。已而與顒擧兵反。乂奉帝及頴戰。頴將陸機戰敗被収。歎曰、華亭鶴唳可復聞乎。與弟雲、皆爲頴所殺。機・雲皆陸抗子也。頴進兵入京師、爲丞相。已而還鄴。顒表頴爲皇太弟。東海王越、奉帝命征頴。頴遣兵拒戰于蕩陰。乘輿敗績。侍中嵆紹、以身衞帝。被殺、血濺帝衣。頴迎帝入鄴。左右欲浣帝衣。帝曰、嵆侍中血、勿浣也。頴奉帝還洛。顒將張方在洛、遷帝於長安。顒廢太弟頴、更立豫章王熾爲太弟。東海王越發兵、西入長安、奉帝還洛、以越輔政。成都王頴、先據洛陽。已而奔長安、又自武關奔新野、遂北濟河、収故將士、爲頓丘太守所執。時范陽王虓據鄴。送頴於虓。未幾被殺。 冏(けい)、政(まつりごと)を輔(たす)く。驕奢(きょうしゃ)にして権を擅(ほしいまま)にす。顒(ぎょう)、長沙王乂(かい)をして之を殺さしむ。頴(えい)も亦驕奢なり。已(すで)にして顒と兵を挙げて反す。乂、帝を奉じて頴と戦う。頴の将陸機、戦い敗れて収(とら)えらる。歎じて曰く、「華亭の鶴唳(かくれい)復た聞く可(べ)けんや」と。弟雲と皆頴の殺す所と為る。機・雲は皆陸抗(りくこう)の子なり。頴、兵を進めて京師に入り、丞相と為る。已にして鄴(ぎょう)に還る。顒、頴を表して皇太弟と為す。東海王越、帝の命を奉じて頴を征す。頴、兵を遣わして蕩陰に拒(ふせ)ぎ戦う。乗輿(じょうよ)敗績(はいせき)す。侍中嵆紹(けいしょう)、身を以って帝を衛(まも)る。殺さる。血、帝の衣に濺(そそ)ぐ。頴、帝を迎えて鄴に入る。左右、帝の衣を浣(あら)わんと欲す。帝曰く「嵆侍中の血なり、浣うこと勿れ」と。頴、帝を奉じて洛に還る。顒の将張方、洛に在り、帝を長安に遷(うつ)す。顒、太弟頴を廃して、更に予章王熾(し)を立てて太弟と為す。東海王越、兵を発して西のかた長安に入り、帝を奉じて洛に還り、越を以って政を輔けしむ。成都王頴、先に洛陽に拠(よ)る。已にして長安に奔(はし)り、又、武関より新野に奔り、遂に北のかた河を済(わた)り、故(もと)の将士を収め、頓丘(とんきゅう)太守の執(とら)うる所と為る。時に、范陽王虓(こう)鄴に拠る。頴を虓(こう)に送る。未だ幾(いくばく)ならずして殺さる。 華亭 江蘇省松江県、陸機の領内。 鶴唳 鶴の鳴き声。 乗輿 天子の乗物、転じて天子。 敗績 大敗して過去の功績を失うこと。 侍中 天子の顧問官。 斉王司馬冏(しばけい)が朝政の補佐にあたったが、驕りたかぶって権勢をほしいままにした。司馬顒(しばぎょう)は長沙王司馬乂(しばかい)に冏を殺させた。司馬頴(しばえい)もまた、司馬倫討伐の功をたのんで驕奢になり、やがて司馬顒と共に兵を挙げて恵帝に謀叛した。司馬乂は帝を奉じて司馬頴らと戦ったがこの時、頴の部将の陸機は、敗戦の罪に問われ「華亭の鶴の鳴き声を聞くことができなくなった」と歎息して弟の陸雲とともに、頴に殺された。二人は嘗ての呉将陸抗の子である。その後、頴は兵を進めて京師に入り、丞相となったが、やがて鄴に還った。司馬顒は帝に上奏して頴を皇太弟にした。東海王の越は、恵帝の詔を奉じて頴を征伐した。頴は兵を遣わして蕩陰で防戦した。この戦いに帝の軍が惨敗した。侍中の嵆紹が身体を張って帝を庇って殺された。血しぶきが帝の衣にかかった。司馬頴は恵帝を迎え、鄴に入らせた。左右の者が衣を洗おうとしたところ、恵帝はそれをおしとどめて、「嵆侍中の血なり洗ってはならぬ」と命じた。やがて司馬頴は恵帝を奉じて洛陽に還った。洛陽にた司馬顒の部将の張方が恵帝を長安に遷した。そして司馬頴を太弟を廃し、代わりに予章王司馬熾を立てて皇太弟とした。東海王の司馬越は再び兵を挙げて西に向かい長安に入り、恵帝を奉じて洛陽に還った。そして司馬越が政治を補佐した。それまで洛陽を占拠していた司馬頴は長安へ逃れ、さらに武関から新野へ逃れた後、北上して黄河を渡り、もとの部下の将士を糾合して倦土重来を期したが、頓丘太守に捕えられてしまった。当時范陽王の司馬虓が鄴に拠っていた。頴は司馬虓のもとに送られ、間もなく殺された。 十八史略 恵帝、華林園に蛙鳴を聞く 2012-01-07 08 46 41 | 十八史略 天下大いに乱る 帝食麺中毒而崩。或曰、東海王越鴆之也。帝昏愚。天下大饑。帝曰、何不食肉糜。華林園聞蛙鳴。帝曰、彼鳴者糜、爲官乎、爲私乎。左右戲之曰、在官地者爲官、在私地者爲私。方賈氏專政、時人知將亂。索靖指洛陽宮門銅駝、歎曰、會見汝在荊棘中耳。趙王倫亂後、諸王迭相殘滅、天下大亂。 帝、麺を食らい、毒に中(あた)って崩ず。或ひと曰く、「東海王越、之を鴆(ちん)するなり」と。帝昏愚なり。天下大いに餞(う)う。帝曰く、「何ぞ肉糜(にくび)を食らわざる」と。 華林園に蛙鳴(あめい)を聞く。帝曰く、「彼(か)の鳴く者は、官の為にするか、私の為にするか」と。左右、之に戯れて曰く、「官地に在る者は官の為にし、私地に在る者は私の為にす」と。 賈氏の政を専らにするに方(あた)って、時人、将(まさ)に乱れんとするを知る。索靖(さくせい)洛陽宮門の銅駝(どうだ)を指さして歎じて曰く、「会(かなら)ず、汝が荊棘(けいきょく)の中に在るを見んのみ」と。 趙王倫の乱後、諸王、迭(たが)いに相残滅し、天下大いに乱る 鴆 鴆毒。 肉糜 肉入りの粥。 銅駝 銅製の駱駝像。 恵帝は麺を食べて中毒を起こして死んだ(307年)。東海王司馬越が鴆毒を盛って殺したという人もいた。 恵帝は暗愚の性質と思われていた。天下が飢饉にあえいでいた年、帝は「米が無いのならどうして肉粥を食べないのか」と言われた。また華林園に遊んだとき、蛙の声を聞き、左右の者にこう言った。「あの蛙は役目と心得て鳴いているのか、それとも勝手に鳴いているのか」と。側近の者はあきれて「官の土地にいる蛙は 官の為に鳴いています。私有地にいる蛙は自分の為に鳴いております」と半ばあなどって答えた。 賈后が朝政を左右するようになって、当時の人々は世が乱れはじめたことを知った。索靖という者が、洛陽宮の門前の駱駝の銅像を指さし、「きっと廃墟の草むらにお前だけが立っていることだろうよ」と歎息した。果たして趙王司馬倫の乱の後、諸王が互いに攻め合い滅ぼし合って、天下は大いに乱れた。 十八史略 匈奴国を興す 2012-01-10 08 39 49 | 十八史略 劉淵興于左國城。淵故南匈奴之後。匈奴由漢魏以來臣中國。其先世自以漢甥冒漢姓。父豹爲左部帥。生淵。幼而雋異、博習經史。嘗曰、吾恥随陸無武、遇高帝而不能建封侯業、絳灌無文、遇文帝而不能興庠序之教。豈不惜哉。於是兼學武事。姿貌魁偉。初爲侍子在洛。豹死。武帝以淵代爲五部帥。既而爲北部都尉。五部豪傑多歸之。及帝世、以爲五部大都督。成都王頴、表爲左賢王。嘗使將兵在鄴。 劉淵、左国城に興る。淵は故(もと)の南匈奴の後(のち)なり。匈奴は漢魏より以来、中国に臣たり。其の先世、自ら漢の甥(そう)なるを以って漢の姓を冒(おか)す。父豹、左部の帥(すい)たり。淵を生む。幼にして雋異(しゅんい)、博く経史を習う。嘗て曰く、「吾、随陸(ずいりく)、武無く、高帝に遇えども封侯の業を建つる能(あた)わず絳灌(こうかん)、文無く、文帝に遇えども庠序(しょうじょ)の教えを興す能わざるを恥ず。豈惜しからずや」と。是(ここ)に於いて、武事を兼ね学ぶ。姿貌(しぼう)魁偉(かいい)。初め、侍子(じし)と為り、洛に在り。豹死す。武帝、淵を以って代わって、五部の帥と為す。既にして北部都尉と為る。五部の豪傑、多く之に帰す。帝の世に及んで、以って五部の大都督と為す。成都王頴(えい)、表して左賢王と為す。嘗て兵に将として鄴(ぎょう)に在らしむ。 左国城 山東省の地名。 漢の甥 漢の外孫(匈奴の祖冒頓単于が漢の高祖から娘?をもらったから)。 雋異 雋はすぐれる、秀才。随陸 漢の随何と陸賈、学問を以って高祖に仕えた。 絳灌 漢の降侯周勃と灌嬰 共に文帝に仕えて武功があった。 庠序 学校、周で庠といい、殷では序といった。 姿貌魁偉 姿容貌が大きく立派なさま。 侍子 諸侯や匈奴の王が天子の側に差し出した人質。 五部の帥 嘗て曹操が匈奴を左右前後中に分けたが、そのすべてのかしら。 都尉 軍司令官。 大都督 総司令官。 左賢王 匈奴の貴族の称号。 劉淵が左国城に国を興した(304年、後に前趙となる)。劉淵は南匈奴の単于の後裔である。漢魏時代より臣として仕えていた。その昔、漢の外孫となったことから、劉の姓を名乗り漢王と称していた。父の劉豹は匈奴左部の統領であった。その子として生まれた劉淵は幼少の頃から人にすぐれ、経書、史書を博く学んだ。嘗てこう言ったことがある。「あの漢の随何と陸賈は武勇に欠け、高帝の時代に遇いながら、諸侯となることができず、降侯周勃と灌嬰は学問が無かったばかりに、文帝の世に遇いながら教育を振興することが出来なかったことが気がかりで、惜しまれて仕方ない」と言って、武の道もおろそかにしなかった。淵は姿顔立ちが大きく立派だった。初めは人質として洛陽にいたが、父の劉豹が亡くなったので、武帝は淵を匈奴五部の統帥とした。やがて北部の都尉となったが、多くのおもだった者は淵に心服した。恵帝の世になって、五部大都督に任じ、さらに司馬頴の上表によって左賢王に封じた。嘗ては兵を率いて鄴に駐在したこともあった。 十八史略 劉淵・劉聡・劉曜 2012-01-12 09 13 45 | 十八史略 淵子聰、亦驍勇絶人、博渉經史善屬文、彎弓三百斤。淵從祖宣曰、漢亡以來、我單于徒有虡號、無復尺土。自餘王侯、降同編戸。今吾衆雖衰、猶二萬。奈何斂手受役、奄過百年。司馬氏骨肉相殘、四海鼎沸。左賢王英武超世。復呼韓邪之業、此其時也。乃相與謀推之。淵説頴。請帥五部來助。既至左國城、宣等推爲大單于。二旬衆五萬、都離石。胡晉歸之者愈衆。乃建國號曰漢、稱漢王。淵有族子曜、生而眉白、目有赤光。幼聰慧、有膽量。亦好讀書屬文。射能洞鐵七寸。至是爲淵將。 淵の子聡、亦驍勇(ぎょうゆう)人に絶す。博く経史に渉(わた)り、善く文を属(しょく)し、弓三百斤なるを彎(ひ)く。淵の従祖(じゅうそ)宣曰く、「漢亡んでより以来、我が単于、徒(いたずら)に虚号あって、復尺土(せきど)無し。自余(じよ)の王侯、降って編戸(へんこ)に同じ。今、吾が衆、衰えたりと雖も、猶二万あり。奈何(なん)ぞ、手を斂(おさ)めて役を受け、奄として百年を過ごさんや。司馬氏、骨肉相残(そこな)い、四海鼎沸(ていふつ)す。左賢王、英武世に超ゆ。呼韓邪の業を復せんは、此れその時なり」と。乃(すなわ)ち相与に謀って之を推す。淵、頴に説く、「請う帰って五部を帥(ひき)いて来り助けん」と。既に左国城に至れば、宣等推して大単于と為す。二旬の間に衆五万、離石に都(みやこ)す。胡・晋の之に帰する者愈々衆(おお)し。乃ち国号を建てて漢と曰い、漢王と称す。淵、族子曜有り、生まれながらにして眉白く、目に赤光あり。幼にして聡慧、胆量あり。亦た好んで書を読み文を属(しょく)す。射は能く鉄を洞(どう)すること七寸。是に至って淵の将となる。 驍勇 勇ましく強い。 属 つづる。 弓三百斤 弓の強さ、常人の2倍にあたる。 従祖 祖父母の兄弟。 自余 その外。 編戸 戸籍に編入すること、平民。 斂め ちじこめる、こまねく。 奄 塞がる、絶え入る。 鼎沸 かなえの湯が沸騰する。 呼韓邪 呼韓邪単于、漢の宣帝の時、匈奴を統一した。 族子 従弟の子。 洞 穴をあける。 劉淵の子劉聡もまた人にすぐれて勇猛であり、経書、史書にも通暁し、文章を綴ることもたくみで、さらに三百斤の弓を引く膂力をもっていた。 劉淵の祖父の兄弟の宣が言うことには「漢が亡んでよりこの方、単于とはただ名ばかりで、一尺の土地も無い。他の王侯にいたっては落ちぶれて平民になった者もいる。いまわが部族は衰えたりとえどもまだ二万を擁している。手をこまねいて使役を甘んじて受け、このまま空しく一生を送ってよいものか。司馬氏は骨肉の争いに明け暮れて、天下は乱れ沸きかえっている。わが左賢王は英明武勇世に並ぶべき者がない。古の呼韓邪単于の偉業を再び達成するのは今をおいてない」と。匈奴の主だった者が相談して淵を統領に推した。劉淵は司馬頴に説いて「一旦国に帰って、五部の兵を率いて戻り助力いたしましょう」と申し出た。こうして劉淵が左国城に帰ると、宣等は劉淵を推して大単于とした。二十日ほどで五万人が集結した。淵は離石に都を開いた。匈奴、晋の別なく淵に帰服する者がますます多くなった。そこで国号を漢と定め、漢王と称した。 淵の兄弟の子に曜という者がいたが、生まれつき眉が白く、眼に赤い光を宿していた。幼少の頃から利発な上に、胆力度量があり、また読書を好み、文章もよくした。弓を取れば七寸の鉄板を射ぬくほどの力を持っていた。曜もこの時淵の部将になった。 十八史略 氐姜の李氏・鮮卑の慕容氏の勃興 2012-01-14 17 37 14 | 十八史略 巴西氐李特、初以流民入蜀。旬月衆二萬。據廣漢、進攻成都、爲刺史羅尚所敗、斬其首。弟流代領其衆。勢復盛。流死。弟雄代、攻走羅尚、入成都。至是自稱成都王。 鮮卑慕容廆、自武帝時已爲寇。既而降。以爲鮮卑都督。廆生皝。自遼東徙居徒河、又徙大棘城。及帝世、慕容部愈盛。 巴西(はせい)の氐(てい)李特(りとく)、初め流民を以(ひき)いて蜀に入る。旬月にして衆二万。広漢に拠(よ)り、進んで成都を攻め、刺史羅尚(らしょう)の敗る所と為り、其の首を斬らる。弟流、代って其の衆を領す。勢い復盛んなり。流死す。弟雄代り、攻めて羅尚を走らせ、成都に入る。是に至って自ら成都王と称す。 鮮卑(せんぴ)の慕容、廆(ぼようかい)、武帝の時より已に寇(あだ)を為す。既にして降る。以って鮮卑の都督と為す。廆、皝(こう)を生む。遼東より徙(うつ)って徒河に居り、又大棘城(だいきょくじょう)に徙る。帝の世に及び、慕容の部愈々盛んなり。 巴西 四川省中部。 氐 氐姜、チベット系遊牧民族。 広漢 四川省遂寧県。 刺史 地方監察官。 鮮卑 モンゴル系遊牧民三国時代に慕容・宇文・拓跋などの部族に分裂した。 巴西郡の氐族の李特は初め流民を率いて、蜀に入ってきた。十ヶ月ほどの間に二万人にもふくれあがった。広漢郡を根城にして、成都を攻めたが刺史の羅尚に破れて首を斬られた。弟の李流が後を継いで勢力をもりかえした。李流が死ぬとまた弟の李雄が後をつぎ、羅尚を破って逃走させて成都を占拠して自ら成都王と称した(304年)。 鮮卑族の慕容、廆は武帝の時から辺境を侵していたが、すでに晋に帰順して鮮卑の都督となっていた。慕容廆の子が皝である。遼東から徒河に、さらに大棘城に移った(294年)。恵帝の時代に慕容氏の部族は大いに盛んになった。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/c/42f06b7a51abc13bbb90975593b736b8/63
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【元ネタ】史実 【CLASS】アーチャー 【マスター】 【真名】赫連勃勃 【性別】男性 【身長・体重】216cm・104kg 【属性】混沌・悪 【ステータス】筋力C++ 耐久C 敏捷B 魔力D 幸運D 宝具D+ 【クラス別スキル】 対魔力:E 魔術に対する守り。 無効化は出来ず、ダメージ数値を多少削減する。 単独行動:A マスター不在でも行動できる。 ただし宝具の使用などの膨大な魔力を必要とする場合はマスターのバックアップが必要。 【固有スキル】 加虐体質:A 戦闘において、自己の攻撃性にプラス補正がかかるスキル。 これを持つ者は戦闘が長引けば長引くほど加虐性を増し、普段の冷静さを失ってしまう。 攻めれば攻めるほど強くなるが、反面、防御力が低下してしまう。 それだけに、バーサーカー一歩手前の暴走スキルと言える。 皇帝特権:B 本来持ち得ないスキルも、本人が主張する事で短期間だけ獲得できるだが、 アーチャーの苛烈過ぎる性格ゆえに得られるスキルが若干歪んでいる。 該当するスキルは騎乗、早駆けの乗法、拷問技術、カリスマ(偽)、畏怖、等。 【宝具】 『大夏龍雀・湛盧剣(たいかりゅうじゃく・たんろけん)』 ランク:D+ 種別:対軍宝具 レンジ:1~30 最大捕捉:444人 春秋時代の呉楚で造られた古の名剣……を目指して造られた数多ある黄金製の贋作剣。 その意匠は、異様なまでにゴチャゴチャしている。 製造者は、勃勃の右腕である臣・叱干阿利。この剣を造るまでに刀工は何人も、彼の手で殺された。 古の名剣“湛盧”とは無論その性質は全く違い、その刀身を形成するのは、総て赫連勃勃らに向けられる民草の怨嗟である。 それだけに、斬られるのはもちろん、触れるだけでもその怨嗟が対象を襲い相手を侵食する。 赫連勃勃は、この宝具の数の多さを利用した投刀戦術を取ることが多い。 ……湛盧には、持ち主となる者が邪な心を持っていた場合は、 自分の意志で、自分を振るうに相応しい者のもとへ飛んでゆくという逸話がある。 この逸話から、贋作とはいえ「飛ばす」用途に向いている剣と言える。 【Weapon】 『無銘・弓矢』 弓矢は、匈奴の用いた騎馬民族の複合弓。 【解説】 五胡十六国時代、胡夏帝国を建国した武列皇帝。赫連勃勃。 南匈奴の去卑の末裔で、鉄弗部の生まれ。 背が高く恰幅も良く、尚且つ顔立ちも整っており、父が死んで間もないころから頭角を現し、 同時にそのころから不仁を極める大姦物であることを、一部の者には気付かれていた。 その性格は冷酷にして残虐非道。覇道も多くの血に塗れており、 常に傍らに武器を携えて気に入らなければ人を殺すという具合であった。 皇帝を称するまで彼に殺された人々は数知れず。 26歳で周辺部族をまとめる大単于に、37歳で皇帝になったものの、その最期もまた呆気なく、 皇帝を称してから僅か7年で崩御。一説には雷に打たれて死んだとも。
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編集 金禕(或いは金褘)(*1)は、後漢後期の人物。 吉本・韋晃・耿紀らと共に許都で曹操に叛乱した。敗れて夷三族となった。 情報 金禕 姓氏 金 諱 禕(褘) 字 徳禕(德禕) 本貫地 京兆尹 家柄 匈奴金氏 父 金旋 死去 建安二十三年(218年)春正月、起兵し曹操を誅すが、克せず、夷三族。 事跡 祖先の金日磾が莽何羅を討って以来、忠誠は顯著で名節は累葉(累代)であり、金禕自身も自らが世々漢臣の家系であることをおもっていた。 漢の祚がまさに魏氏へ移ろうとしているのを観て、季興(衰退からの再興)させねばならぬとおもい、喟然(きぜん)(*2)発憤して 耿紀・韋晃・吉本、吉本の子の吉邈、その弟の吉穆らと結謀した。彼らは金禕を慷慨(不正に憤り意気盛んな性質)にして金日磾の風が有るとし、また丞相長史の王必と親善していたことから、これに因って間隙を突くことにした。 建安二十三年(218年)、時に荊州では関羽が強盛であり、魏王曹操は魏の国都である魏郡鄴県に在って、王必を留めて兵を典(つかさど)らせ許中事を督させていた。もし王必を殺せば、天子を挾んで魏(鄴県)を攻め、劉備に南援を欲する予定だった。 春正月、金禕らは遂に反した。 吉邈らが雑人、及び家僮千余人を率い、夜、門を焼いて王必の営を攻めた。金禕は人を遣して内応とし、王必を射させて肩に中てた。王必は攻めた者が誰か知らず、素から金禕と善くしていたことから、走って金禕のもとに投じた。夜に「德禕!」と喚(よ)ぶと、金禕の家はこれが王必であると知らず、吉邈らとおもい、錯(あやま)って応じて曰く、 「王長史はすでに死んだか? 卿曹の事は立ったぞ!」 王必は他の路に更めて奔走した。 別の一説に曰く、王必は金禕に身を投じることを欲したが、その帳下督が王必に謂うには、 「今日の事では、つまるところ、誰の門に投入する(のが良い)のか、知れるのでしょうか?」 こううして王必は帳下督に扶けられて南城へ奔り、潁川典農中郎将の厳匡と共に戦った。天が明るくなり、王必はなお健在だったが、吉邈らの衆は散り散りとなり、故に敗れた。 金禕ら首謀者は捕えられ、夷三族となった。 その後十余日して、王必はついに創(きず)によって死んだ。 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 人物 後漢末 出身 京兆尹 匈奴金氏 関連項目・人物 「金禕」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -