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国立銀行(こくりつぎんこう)は、1872年(明治5年)の国立銀行条例に基づいて開設された金融機関のこと。 概要 時の大蔵少輔・伊藤博文のもとで制度が創られた。アメリカのnational bank(現在では国法銀行と訳すことが多い)の直訳で、国家が設立した銀行ではなく、渋沢栄一、三井組などの民間資本が設立したものである。金貨との交換義務を持つ兌換紙幣の発行権を持ち、当初は第一から第五の4行(当時、第三は欠番)が設立された。 1876年、不換紙幣の発行も認められるようになると急増し、1879年までに153の国立銀行が開設された(これ以降は設立許可は認められなかった)。 銀行は設立順に番号を名乗っており、これを「ナンバー銀行」と呼ぶこともある。これらのナンバー銀行は現存する物もあるが、現在存在する八十二銀行だけは第十九銀行と六十三銀行が合併し、両者の数字の和を取って名付けられた銀行(82=19+63)。 1882年(明治15年)に日本銀行が開設されると、国立銀行は民営化し普通銀行になり、紙幣発行も日本銀行のみが行うようになった(旧国立銀行の紙幣は暫くの間は流通していた)。 主な国立銀行 国立銀行の多くは今日の銀行の起源になっている。以下に例示する。 (カッコ内は普通銀行転換後の行名) 第一国立銀行(第一銀行)→帝国銀行→第一銀行→第一勧業銀行→みずほ銀行(第一勧業銀行となった時点で法人格は消滅) 第二国立銀行(第二銀行)→横浜銀行に合併 第三国立銀行(第三銀行(現存の第三銀行とは無関係))→安田銀行→富士銀行→みずほ銀行 第四国立銀行(第四銀行) 第五国立銀行(第五銀行)→1898年浪速銀行に合併され、十五銀行、帝国銀行、三井銀行、さくら銀行を経て現在の三井住友銀行 第六国立銀行(肥後銀行(現在の肥後銀行とは無関係))→1923年に当行等11行保善銀行(安田、富士銀行を経て現在のみずほ銀行)に合併 第七国立銀行(第七銀行)→1904年に任意解散(1896年、当行及び第八十国立銀行の株主協同により土佐銀行(四国銀行の前身)を設立し、業務を移管) 第八国立銀行→1886年第百三十四国立銀行に合併→第十一国立銀行と統合し愛知銀行 (東海銀行の前身)(現三菱東京UFJ銀行) 第九国立銀行(第九銀行)→1907年に肥後銀行(現在の肥後銀行とは無関係で、後の富士銀行)に合併 第十国立銀行(第十銀行)→1941年に合併し山梨中央銀行 第十一国立銀行(十一銀行)→第百三十四国立銀行と統合し愛知銀行 (東海銀行の前身)(現三菱東京UFJ銀行) 第十二国立銀行(十二銀行)→1943年に合併し北陸銀行 第十三国立銀行(鴻池銀行)→1933年三十四銀行、山口銀行(現在の山口銀行とは無関係)と合併し三和銀行となる(現・三菱東京UFJ銀行) 第十四国立銀行(第十四銀行)→1910年に長野から東京に移転した後、1918年に破産 第十五国立銀行(十五銀行)→1944年に帝国銀行に合併。現在の三井住友銀行 第十六国立銀行(十六銀行) 第十七国立銀行(十七銀行)1945年に筑邦銀行(現在の筑邦銀行とは無関係)、嘉穂銀行、福岡貯蓄銀行と合併し、福岡銀行 第十八国立銀行(十八銀行) 第十九国立銀行(第十九銀行)→六十三銀行と合併し八十二銀行(19+63=82) 第二十国立銀行(二十銀行)→1912年に第一銀行に合併 第二十一国立銀行(二十一銀行)→1929年に伊香銀行、江北銀行と合併して湖北銀行となり、その後1942年に滋賀銀行に買収 第二十二国立銀行(二十二銀行)→1923年に当行等11行保善銀行(安田、富士銀行を経て現在のみずほ銀行)に合併 第二十三国立銀行(二十三銀行)→1927年大分銀行に合併され大分合同銀行(現大分銀行) 第二十五国立銀行(二十五銀行)→1928年合併し敦賀二十五銀行(最終的には三和銀行に合併) 第二十七国立銀行(二十七銀行)→1920年に東京渡辺銀行に改称。 第二十九国立銀行(第二十九銀行)→1934年八幡浜商業銀行、大洲銀行と合併し豫州銀行(現伊予銀行) 第三十国立銀行(三十銀行)→1929年三十四銀行(三和銀行の前身の一つ)に買収される 第三十一国立銀行→1888年第百四十八国立銀行に合併(最終的には三和銀行に合併) 第三十二国立銀行(浪速銀行)→1920年に十五銀行に合併され、帝国銀行、三井銀行、さくら銀行を経て現在の三井住友銀行 第三十四国立銀行(三十四銀行)→1933年に鴻池銀行、山口銀行(現在の山口銀行とは無関係)と合併し三和銀行となる(現・三菱東京UFJ銀行) 第三十六国立銀行(第三十六銀行)→1942年に日本昼夜銀行に買収され、1943年に安田銀行(富士銀行を経て現在のみずほ銀行)に合併 第三十七国立銀行(高知銀行(現在の高知銀行とは無関係))→1923年に土佐銀行を合併し、四国銀行と改称 第三十九国立銀行(三十九銀行→(旧)群馬銀行)→1932年上州銀行とともに群馬大同銀行に吸収(現・群馬銀行) 第四十国立銀行(四十銀行)→1918年に四十一銀行と合併し八十一銀行(40+41=81)に改称後1921年に東海銀行(現在の三菱東京UFJ銀行とは無関係)に合併され、1927年に第一銀行(現在のみずほ銀行)に合併 第四十一国立銀行(四十一銀行)→1918年に四十銀行と合併し八十一銀行(40+41=81)に改称後1921年に東海銀行(現在の三菱東京UFJ銀行とは無関係)に合併され、1927年に第一銀行(現在のみずほ銀行)に合併 第四十三国立銀行(四十三銀行)→1930年田辺銀行、紀伊貯蓄銀行、紀陽銀行(以上三行は現在の紀陽銀行)、大同銀行、三十四銀行(以上二行は三和銀行を経て三菱東京UFJ銀行)、六十八銀行(南都銀行の前身の一つ)の6行に分割買収 第四十四国立銀行→1882年に第三国立銀行(保善、安田、富士銀行を経て現在のみずほ銀行)に合併 第四十八国立銀行(第四十八銀行)→1941年10月20日に、旧秋田銀行・湯沢銀行と合併し、新たな法人として秋田銀行を設立 第四十九国立銀行(第四十九銀行)→1908年に京都商工銀行に買収された後1916年に第一銀行(現在のみずほ銀行)に合併 第五十国立銀行(土浦五十銀行)→1935年に常磐銀行と統合し常陽銀行 第五十一国立銀行(五十一銀行)→1940年に和泉銀行、寺田銀行、岸和田銀行等と合併し阪南銀行と名称変更、1942年に富田林銀行、辻林銀行等と合併後、1945年に住友銀行(現在の三井住友銀行)に合併される 第五十二国立銀行(第五十二銀行)→1937年仲田銀行と合併し松山五十二銀行(現伊予銀行) 第五十七国立銀行(第五十七銀行)→1940年に中越銀行(北陸銀行の前身の一つ)に買収 第五十八国立銀行(第五十八銀行)→1898年に百三十銀行(保善、安田、富士銀行を経て現在のみずほ銀行)に合併 第五十九国立銀行(第五十九銀行)→1943年に県内4銀行と統合し青森銀行 第六十一国立銀行(六十一銀行)→1912年に住友銀行に買収 第六十三国立銀行(六十三銀行)→第十九銀行と合併し八十二銀行(19+63=82) 第六十四国立銀行(大津銀行)→1908年に近江銀行に営業譲渡し解散 第六十六国立銀行(第六十六銀行)→1920年に県内6銀行と統合し(旧)藝備銀行(広島銀行の前身) 第六十七国立銀行(六十七銀行)→1941年に合併し荘内銀行 第六十八国立銀行(六十八銀行)→1934年に合併し南都銀行 第六十九国立銀行(六十九銀行)→1942年に長岡銀行と統合し長岡六十九銀行(現・北越銀行) 第七十一国立銀行(村上銀行)→1938年に第四銀行に合併される 第七十二国立銀行(1889年営業権譲渡し、山形県から佐賀県に移転した後、佐賀銀行(現在の佐賀銀行とは無関係))→古賀銀行と改名した後1933年に解散 第七十六国立銀行(高須第七十六銀行)→1928年に大垣共立銀行に合併される 第七十七国立銀行(七十七銀行) 第七十八国立銀行(八王子第七十八銀行)→1909年に任意解散 第八十国立銀行(第八十銀行)→1897年に第七銀行(四国銀行の前身)に合併 第八十一国立銀行(両羽銀行に業務継承)→1965年に名称変更し山形銀行 第八十二国立銀行(第八十二銀行)→1897年に第三銀行(保善、安田、富士銀行を経て現在のみずほ銀行)に合併 第八十四国立銀行(八十四銀行)→1928年に昭和銀行に買収された後1944年に安田銀行(富士銀行を経て現在のみずほ銀行)に合併同行本店はその後三十四銀行(三和銀行の前身)に営業譲渡された。 第八十五国立銀行(第八十五銀行)→埼玉銀行(埼玉りそな銀行の前身の一つ) 第八十六国立銀行→第一合同銀行と合併し、後に中国銀行に改称 第八十七国立銀行(第八十七銀行)→1898年に百三十銀行(保善、安田、富士銀行を経て現在のみずほ銀行)に合併 第九十国立銀行(第九十銀行)→経営破綻し、岩手殖産銀行(現・岩手銀行)が事業を譲受。第九十銀行旧本店は、岩手銀行中の橋支店として現在利用されている。 第九十一国立銀行(第九十一銀行)→1928年に十二銀行(北陸銀行の前身の一つ)に合併される 第九十二国立銀行(第九十二銀行)→東京に移転後京和貯蓄銀行に改称後消滅 第九十五国立銀行(九十五銀行)→百三銀行、農商銀行、紀阪銀行、紀阪貯蓄銀行と改名した後1925年に山口銀行(三和銀行の前身の一つ)に合併される 第九十六国立銀行(柳川銀行)→福岡県南部18行で合併し筑邦銀行(福岡銀行の前身の一つ) 第百国立銀行(第百銀行)→1927年に川崎銀行に合併され、川崎第百銀行と改称後、1943年に三菱銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)に合併 第百三国立銀行1898年に日本商業銀行に買収され、1923年に当行等11行保善銀行(安田、富士銀行を経て現在のみずほ銀行)に合併 第百五国立銀行(百五銀行) 第百六国立銀行(佐賀百六銀行)→1941年に住友銀行(現在の三井住友銀行)に買収 第百九国立銀行(百九銀行)→1941年に大分合同銀行(現大分銀行)に買収 第百十国立銀行(百十銀行)→1944年に統合し山口銀行 第百十一国立銀行→1898年に命令により閉鎖 第百十三国立銀行(百十三銀行)→1928年に北海道銀行(後の北海道拓殖銀行)に買収 第百十四国立銀行(百十四銀行) 第百十八国立銀行→1880年に第百三十六国立銀行に合併され、その後1898年に百三十銀行(保善、安田、富士銀行を経て現在のみずほ銀行)に合併 第百十九国立銀行→1885年に第百四十九国立銀行と合併し三菱合資会社銀行部→三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行) 第百二十一国立銀行(百二十一銀行)→1897年に三十四銀行(三和銀行の前身の一つ)に合併される 第百二十七国立銀行→1881年に香川から高知に移転し、1896年に第三十七国立銀行に合併 第百二十九国立銀行→1896年に大垣共立銀行が事業継承 第百三十国立銀行(百三十銀行)→1923年に当行等11行保善銀行(安田、富士銀行を経て現在のみずほ銀行)に合併 第百三十一国立銀行→1881年第三十二国立銀行(十五銀行、帝国銀行、三井銀行、さくら銀行を経て現在の三井住友銀行)に合併 第百三十三国立銀行(百三十三銀行)→1933年に八幡銀行と統合し滋賀銀行 第百三十四国立銀行(百三十四銀行)→第十一国立銀行と統合し愛知銀行 (東海銀行の前身)(現三菱東京UFJ銀行) 第百三十六国立銀行(第百三十六銀行)→1898年に百三十銀行(保善、安田、富士銀行を経て現在のみずほ銀行)に合併 第百三十七国立銀行(第百三十七銀行)→1900年に共同貯蓄銀行を合併し、百三十七銀行と改称後1942年に神戸銀行(現在の三井住友銀行)及び丹和銀行(現在の京都銀行)に分割買収 第百四十国立銀行→1881年に第六十七国立銀行(1941年に風間銀行、鶴岡銀行、出羽銀行と合併し現在の荘内銀行)に合併 第百四十二国立銀行→1881年第三十二国立銀行(十五銀行、帝国銀行、三井銀行、さくら銀行を経て現在の三井住友銀行)に合併 第百四十三国立銀行→1880年第三十国立銀行に合併(最終的には三和銀行に合併) 第百四十六国立銀行((旧)廣島銀行)→1920年に県内6銀行と合併し(旧)藝備銀行(広島銀行の前身) 第百四十八国立銀行(山口銀行)→1933年鴻池銀行、三十四銀行と合併し三和銀行となる(現・三菱東京UFJ銀行) 第百四十九国立銀行→1885年に第百十九国立銀行と合併し三菱合資会社銀行部→三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行) 第百五十二国立銀行(沖縄→鹿児島→東京→大阪と移転した後、第百五十二銀行)→1901年に解散 第百五十三国立銀行→1886年に第百十一国立銀行に合併 脚注 関連項目 銀行 国立銀行条例 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月13日 (木) 15 59。
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登録日:2014/09/26 (金曜日) 19 40 00 更新日:2024/05/14 Tue 19 48 36NEW! 所要時間:約 ? 分で読めます ▽タグ一覧 Kay稲毛 SNK ガルフォード サムスピ サムライスピリッツ パピー モズキャン 小市慢太郎 忍者 愛すべきバカ 格闘ゲーム 正義 犬 犬キャン 稲毛一弘 間島淳司 関俊彦 駒田航 高木渉 ガルフォードとは、SNKから発売された2D対戦型格闘ゲーム、サムライスピリッツシリーズのキャラクターである。 本名は「ガルフォード・D・ウェラー」 担当声優は以下の通り。 稲毛一弘(現・Kay稲毛)(初代、真、斬紅郎無双剣、閃) 小市慢太郎(天草光臨、零、武士道烈伝、OVA) 間島淳司(天下一剣客伝) 駒田航(SAMURAI SPIRITS) 高木渉(TVアニメ) 関俊彦(ドラマCD) プロフィール 流派 : 甲賀流+ガルフォード流忍術 武器銘 : ジャスティスブレード 生年月日 : 1768年 12月22日 16 10PM 出身地 :アメリカ サンフランシスコ ヒーローシティ 身長 : 70~71インチ 血液型 : O 好きなもの : 善 (~天)、正義 (零~) 嫌いなもの : 悪 コンプレックス : 家出同然に出てきてしまったこと 尊敬する人 : 亡き父親、服部半蔵 剣の道について : ヒーローとしての条件の一つ (天) 悪と戦う正義の技 (零) 平和を感じるとき : パピーと遊んでいる時 特技 : パピーと話ができる 好みのタイプ : ヤマトナデシコ 生い立ち サンフランシスコきっての名保安官の息子として生まれる。 しかし父はガルフォードが幼い頃に無法者の銃弾から子供をかばって殉職し、以降は(愛犬含めて)女ばかりの家庭で育つ。 頑固で正義漢なところは父親譲りだが、育った環境のせいで細かいことやくだらない噂話、他人の中傷を嫌うようになった。 あまり同年代の友達と打ち解けず、船着場に入り浸っては海の男たちの冒険譚に夢中になっていたガルフォード少年は、 あるとき聞いた黄金の国・ジパングの「ニンジャ」の噂話に心を奪われ、いつか自分も忍者になることを夢見るようになる。 中でもたびたび話に登場する服部半蔵という名の忍者は、彼の憧れの的であった。 ある夜、ガルフォード少年はオランダ商船に乗り込んで日本に密入国するという計画を実行に移すが、 そこで今にも子犬が産まれそうな、弱り切った大きな雌犬に出会う。 放っておくことができなかった彼は計画を中止し、母犬の出産に付き合ってやるのだが、 全身に打撲を負っていたらしい母犬は子供を産んだ直後に死亡、産まれた子犬も一匹を除いて全て死産であった。 死んだ犬たちの墓を作ってやったガルフォードは、生き残った一匹の犬を連れ帰って育ててやることにする。 この子犬が後のパピーである(…のだが、後の設定改変により、このパピーは初代以降に登場するパピーの母犬という事になった)。 数年後、10歳になったガルフォードは初代パピーとともに再び計画を決行し、日本に密入国することに成功する。 日本に渡ったガルフォードはすぐに路頭に迷うが、行き倒れていたところを綾女(服部半蔵の師の妻)というくノ一に拾われ、 以来彼女が拠点とする出羽(現秋田・山形県)で甲賀流忍術を学ぶ。 キャラ設定 愛犬・パピーを連れた外人忍者。隠密というよりは忍術を使用する剣士という意味での忍者。 正義感に満ちた性格をしており、ぶっちゃけ言うと二代目キム・カッファン。 しかし、KOFのキムほどアレな行動はとっていないので爽やか正義忍者で収まっている。 戦う理由も「悪を成敗するため」という分かりやすいキャラ。忍者なのに しかしサムスピシリーズのラスボスは、世界を混乱に陥れようとする暗黒神・アンブロジァ(の配下)や、殺戮を繰り返す鬼・壬無月斬紅郎、妖怪の力を借りて挙兵した兇國日輪守我旺など、 揃いも揃って危険な奴ばっかりなので、正義のために戦うという動機は理解できなくもない。むしろ覇王丸より主人公らしい。 また、初代サムライスピリッツでは動物オプション繋がりから、ナコルルとはファンの間でカップリング扱いされていたが、真サムでめでたく公式化された。 しかし…… BGM 代表的なBGMは『鮪』シリーズ。半蔵のBGMである『影』をアレンジしたような曲だが、物悲しげな『影』と比べるとこちらは軽快なリズムにギター・三味線・尺八などの音がマッチした和洋折衷な物となっている。人気も高く、新世界楽曲雑技団(SNKサウンドチーム)の代表曲のひとつとされている。 零サムでは天サムにあった多くの固有専用BGMが没収されるものの、ナコルル、リムルル、蒼月のBGMと共に続投している。 サムライスピリッツ(初代)での扱い 同じく忍者である服部半蔵のコンパチキャラ。 通常技や一部必殺技のモーションなどが共通しているものの、技の威力だけが低下している。 最大の相違点が愛犬・パピーの存在であり、パピーを扱わないガルフォードは劣化半蔵でしかない。 しかし、そのパピーも相手のダッシュで技が潰される始末。 通常技をストライクヘッズでキャンセルして硬直を減らす「モズキャン」や 、パピーが定位置にいないときに犬技をキャンセルで出すと通常技が出る現象を利用した「犬キャン」といった高度なテクニックを使いこなせなければ、どうあがいても勝つことが出来ない。 逆にこの2つのテクニックさえ使いこなせれば、通常技の性能は半蔵とコンパチなのでジャンプ力・牽制技・機動力・空対空技に恵まれており、上位キャラが相手でもそれなりに戦うことが出来る・・がその命綱の「モズキャン」も半蔵よりコマンド受付時間が短くガルフォードの方が難易度が高い。爆炎龍一つで半蔵との性能差は明らかなのにこの半蔵の優遇っぷりはちょっと理不尽なほどだが、ガルフォード使いならば練習あるのみ。その半蔵に唯一と言ってもいい性能的に上回るのが怒り時の攻撃力、怒り時のジャンプ大斬りとしゃがみ大斬りは時として体力1/3を奪う上そのまま相手は気絶→昇天する事も。ただ怒りの継続時間は半蔵より短いので少ないチャンスを逃さないように。 エンディングにて、天草四郎時貞の獲物『ガダマーの宝珠』を砕き、天草の善の魂を解き放つ。 (これが切っ掛けで、天草は「善」と「悪」の2つに分かれることとなった) …ガダマーの宝珠はタムタムの村の宝である『パレンケストーン』であり、タムタムのエンディングにて必要となるものであるので、 当時のプレイヤーはパレンケストーン叩き割っていいのか、と総ツッコミした。 (一応、斬ったのは悪の部分だけなので大丈夫……らしい) 真SAMURAI SPIRITS(真サム)での扱い 真サムでは本体の性能はあまり変わらなかったものの犬技の性能が強化された結果、 「モズキャン」「犬キャン」を駆使して、半蔵以上に変則的な連続技を叩きこめるスピード&テクニカルキャラの立ち位置を獲得した。 逆に言えば、キャンセルテクニックを使いこなせないとマトモな勝負が出来ないので、上級者向けのキャラクターでもある。 本人に追加された新技が揃いも揃って使い物にならないということ、そして犬技が優秀になったということ、 さらに武器破壊技「メガストライクドッグ」がガルフォードは基本的に何もせずパピーのみが攻撃するものであることから、この頃からパピーが本体だなんて言われるようになった。 二次創作においてはほぼネタキャラと化している。 エンディングでは、自らの命と引き換えに自然を守ったナコルルの死に涙するが、彼女の「こうするしかなかったの。だから悲しまないでください」という遺言を受けて 「まだまだ悪いヤツが多すぎる」と改めて正義のために戦い続ける事を決意する。 サムライスピリッツ 斬紅郎無双剣(斬サム)での扱い 「Where do we go? Where do we go now? (これから俺たちは何処へ行くんだろう)」 純和風の世界観に合わせるため、外人が多くリストラされた中、唯一の外人として参戦。 斬紅郎の凶行を「許せない」とし、また彼が襲った村の生き残りから敵討ちを頼まれ、彼を倒すために戦う。 本作ではキャラクターごとに「修羅」「羅刹」と二種類の戦闘パターンが用意されているが、 今作のガルフォードで羅刹を選択した場合、パピーを連れずに戦うことが出来る。 修羅は犬を使って色々できるものの決定打に欠けるためやや弱めで、羅刹はコンボが強力&安定しているため強キャラとされる。 ちなみに羅刹ガルフォード新技「プラズマファクター」は素手時に限り超パワーアップする。 斬紅郎の強斬りですら攻撃力40なのに対し、素手プラズマファクターは18×3HIT=54という狂った数値。全キャラに対して体力約半分を奪う(斬紅郎無双剣にはコンボ補正は存在しない)。 しかも気絶のシステムが「攻撃力=気絶値」「短時間に気絶値が59以上蓄積する」というものなため、非常に気絶させやすい。 また、技後のスキがほとんど無くなる。 よって、「素手攻撃キャンセルプラズマファクター⇒(相手気絶)⇒プラズマファクター⇒素手攻撃キャンセルプラズマファクター」という超簡単即死コンボが可能である。 サムライスピリッツ 天草降臨(天サム)での扱い 「弱き人々の為に、大儀をこめて!」 天草の復活による邪悪な気配を感じ取って島原へ駆けつける。 ライバルキャラはパレンケストーンの件で因縁がある元祖ネタキャラのタムタム。 エンディングでは真サムのバカっぽさが反映されたのか、エンディングでタムタムと漫才を演じるなど、明るくコミカルな演出となった。 なお、またもパレンケストーンが叩き割られそうになった。 「修羅」は技をいくつか失ったもののパピー技が全体的に強化され、ガルフォード本体の技もやや強化。強キャラの一角に食い込むことが出来た。 「羅刹」は立ち回り面では修羅には及ばず弱キャラだが、「プラズマファクター」がまたも素手時に限り超強化される仕様。防御崩しから簡単に永久コンボが叩き込める。しかも斬紅郎無双剣と違い、武器捨て挑発で自ら素手になれるようになったため、より危険。このため羅刹ガルフォードのいる対戦では、武器を捨てようとするガルフォードと、素手になることを阻止しようとする相手という、奇妙な光景が見られた。 サムライスピリッツ零(零サム)での扱い その驚くべきオープニングを見よ! ヘイ! パピー! ジャパンが危ない! 日輪國のキング、キョウコクヒノワノカミ ガオーが、 ショーグン相手に戦争だ! このままでは ジャパンはめちゃくちゃだ! パピー! ここは俺たちの出番だぜ! 暗黒の野望が オレを呼んでいる! 叩きつぶせと呼んでいる! 燃えてきたぜ! 正義の風がジャスティスな オレを呼んでいる! 悪の栄えたためしなし! 行くぜパピー! …傍から見ればバカっぽいオープニングだが、 本作のラスボスである兇國日輪守我旺が黄泉ヶ原の乱を起こした理由は、天明の飢饉の際、徳川幕府が何もしなかったため……という至極まともで理解できるものである。 しかし、その為に「闇キ皇」(くらきすめらぎ)の力を得たため、結果として従来サムスピのラスボス達同様、魔界を現世に呼び出す手助けをしてしまったのである。 兇國日輪守我旺が「悪」なのかというとそうではないが、世界の存亡に関わることをしでかした事には変わりはないわけで……。 エンディングでは、パピーの子供を助けようとして死にかけるが、とっさにパピーが身代わりとなったことにより生還。 初代以降のパピーは二代目であるという設定が後付けされたことが明らかになった。 キャラ性能としては、修羅・羅刹の区分けが消滅し、概ね修羅の性能が踏襲されている。 「レプリカドッグ」を出してストライクヘッズを空振りするとガード不能になるなどのバグテクニックが多数あるが、上位キャラはもっと狂っているのでランク的には中堅どころ。 ちなみに隠しキャラとしてパピーが単体で使用可能。ガード不能なので機動力やトリッキーなレプリカドッグなどで補いたいところ。 零SP 零のバグを削除され、全体的な火力も下げられたものの、犬を使った立ち回りの多彩さと安定性、 そして、一発逆転のシステム「無の境地」の恩恵がパピーも受けれるということから、上位キャラに君臨する。 ちなみに絶命奥義『絶・ヘブンズウルフ・バッドファング』では、パピーだけが相手に攻撃し、本人が横で騒いでいるという謎すぎる演出により、またも「犬が本体」などと呼ばれるようになった。 技名の由来は言うまでもなく絶・天狼抜刀牙。 「次に出会ったときには正義のために、ともに戦おう!」(←絶命奥義使用時専用の勝ち台詞。いやもう相手死んでるから) なおサムスピの世界では黒子が蘇生技術を持ってるので死んでも黒子の気分が乗れば甦らせてくれる可能性はある模様。 サムライスピリッツ天下一剣客伝(剣サム)での扱い 零SPから殆ど変更点は無いので、従来通り使っていけるキャラ。声の変更だけが違和感 全キャラの火力が軒並み低下したことにより、元々火力の低いガルフォードはやや地位が上昇。 ランク的には中堅といったところ。 零スピリッツを選んで「無の境地」の一発逆転を狙うもよし、真スピリッツを選んでパピーによる起き攻めラッシュでハメ殺すもよし。 ただし上位陣の弓矢とか小倉とかメイドとか傘とか災炎とかが狂っていることには留意すべし。 また、家庭用版ではパピー(単体)と羅刹ガルフォード(犬無し)も復活追加された。それぞれ別々のストーリーを持つ。 さらに六番勝負版では通常・羅刹共々声をKay稲毛氏の物に切り替えることも可能になった。 パラレル扱いとはいえ、唯一まっとうにナコルルと結ばれた作品でもある。 追記・修正はモズキャン、犬キャンを極めた方がお願いします △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] タムタムの盗まれた秘法を勝手にEDで壊していたな。保安官の息子なのに。 -- 名無しさん (2014-09-26 20 04 11) とある並行世界だとナコルルから一番印象深くてお友達扱いなんだよな、あの世界だとナコルルには普通の女の子として見てくれる幼馴染という出会う前の時点でフラグが立たないからしょうがないね -- 名無しさん (2014-09-26 20 08 36) お祭り作品でやっとナコルルと結ばれるパターンがある -- 名無しさん (2014-09-26 21 06 54) ナコルルほどの人気キャラと一応とはいえ良い仲に、所謂ヘイトを集めていない希有なキャラ -- 名無しさん (2016-10-24 21 26 09) サムスピチームになぜ彼ではなくダーリィなのか未だにわからない。 -- 名無しさん (2023-07-03 20 05 41) 名前 コメント
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酒井家次(さかい いえつぐ)日本(三河国)1564~1618統率:C 武力:C 政治:C 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------徳川家臣。酒井忠次の長男。徳川家康の関東移封の際に臼井城主となる。関ヶ原の戦い後に上野国高崎に封じられ、大阪の陣の後、越後国高田藩初代藩主となる。 酒井重忠(さかい しげただ)日本(三河国酒井郡)1549~1617統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------徳川家臣。酒井正親の次男で酒井忠利の兄。幼い頃より徳川家康に仕え、遠江掛川城攻めや姉川の戦いで武功を挙げた。本能寺の変が起きると、三河本国から伊賀越えをした家康を船で迎えた。関が原の戦いにも参加し、大津城を守備した。その功で上野国厩橋藩初代藩主となる。雅楽頭系酒井家宗家初代。 酒井忠清(さかい ただきよ)日本1624~1681統率:A 武力:B 政治:A 知力:A 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------厩橋藩4代藩主。酒井忠行の長男。奏者番として殿中儀礼の諸役を務める。後に老中首座に就き、大老となる。徳川家綱に仕え、殉死禁止令や、伊達騒動・越後騒動などの諸藩お家騒動の裁定に当たった。大きな権力を持っていたため、屋敷の場所から『下馬将軍』と呼ばれた。 酒井忠利(さかい ただとし)日本(三河国酒井郡)1559~1627統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------徳川家臣。酒井正親の三男で酒井重忠の弟。徳川家康に仕え、特に小牧・長久手の戦いで武功を挙げた。関が原の戦いでは徳川秀忠軍に属していたため上田城で足止めを喰らう。後に駿河国田中藩初代藩主、武蔵国川越藩初代藩主、老中などを務める。 酒井忠行(さかい ただゆき)日本(江戸)1599~1636統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------酒井忠世の嫡男。大阪の陣に参陣する。徳川家康、家忠、家光に仕える。本丸奏者を務める。上野国板鼻藩主となり、父・忠世の死後、遺領を継いで厩橋藩3代藩主となる。 酒井忠世(さかい ただよ)日本(三河国西尾)1572~1636統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------徳川家臣。酒井重忠の長男。川越城主となり、徳川秀忠に付けられる。関が原の戦いでは秀忠軍に属して上田城攻略に手こずり遅参する。秀忠が将軍となると、筆頭老中になる。上野国那波藩主、伊勢崎藩主を経て、厩橋藩2代藩主となる。 榊原忠政(さかきばら ただまさ)日本1541~1601統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------徳川家臣。榊原忠次の子。徳川家康が今川家の人質時代より小姓として仕える。桶狭間の戦いの丸根城攻撃、姉川の合戦、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなどで戦功を挙げる。徳川秀忠が成人すると、その与力となった。家康の関東移封後に相模大住郡2千3百石を得る。 榊原康政(さかきばら やすまさ)日本(三河国)1548~1606統率:A 武力:A 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------徳川家臣。家康に仕え、姉川、三方ヶ原、長篠を歴戦し、徳川四天王として武勇を馳せる。関ヶ原の合戦では、秀忠と中山道を行軍するが、真田の上田城で足止めをくらってしまう。後に館林藩初代藩主となる。 佐久間信栄(さくま のぶひで)、佐久間正勝、佐久間不干斎日本(越中国)1556~1632統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------織田家、豊臣家、徳川家臣。佐久間信盛の長男。伊勢攻略戦、対六角氏戦で戦功を挙げる。しかし、石山合戦では天王寺城の守備に就くが、結果を出してないとして高野山に追放される。本能寺の変後、織田信雄に仕え、大坂の陣後は徳川秀忠の御伽衆として仕えた。 佐久間安政(さくま やすまさ)、保田安政日本1555~1627統率:C 武力:B 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------織田家、柴田家、北条家、蒲生家、徳川家臣。佐久間盛次の子で、佐久間盛政の弟。柴田勝家の甥に当たる。保田知宗の養子となる。賤ヶ岳の戦い後、各家を転々とし、関ヶ原の戦い、大坂の陣の活躍により、飯山藩初代藩主となった。徳川秀忠の御伽衆となる。 佐倉惣五郎(さくら そうごろう)日本(下総国印旛郡)1605~1653統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------佐倉藩領内の村の名主。佐倉藩による重税を解消してもらうため、将軍・徳川家綱に直訴した。これによって家族共々磔の刑となった。後に『地蔵堂通夜物語』や『東山桜荘子』などの芝居に取り上げられた。 佐々木小次郎(ささき こじろう)日本(豊前国田川郡)????~1612統率:D 武力:A 政治:E 知力:E 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------剣豪。毛利氏に仕えたが、武者修業のため諸国を遍歴し、秘剣『つばめ返し』を編み出し、巌流を創始した。三尺三寸もの長さの刀を持ち、物干し竿と呼ばれた。巌流島において宮本武蔵と決闘を行なって敗死した。 佐竹義重(さたけ よししげ)日本(常陸国)1547~1612統率:A 武力:A 政治:A 知力:B 文化:B 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------佐竹家17代当主。佐竹義昭の子。北条氏と戦い、『鬼義重』と呼ばれた。金山を背景に関東一の鉄砲隊を作る。結城氏や宇都宮氏と婚姻を結んで勢力下に置き、佐竹家の最盛期を築いた。しかし、摺上原の戦いで伊達氏に大敗してしまう。 佐竹義隆(さたけ よしたか)、岩城吉隆日本1609~1672統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------岩城貞隆の長男。父の遺領・信濃国中村藩を継いで2代藩主となる。その後、領土移転に伴い亀田藩初代藩主となる。しかし、佐竹義直が廃嫡されたため、久保田藩主・佐竹義宣の養子となり2代藩主となる。左少将、修理大夫。 佐竹義直(さたけ よしなお)、佐竹義継日本1612~1656統率:C 武力:C 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------佐竹義重の五男。佐竹義廉の養子となり、後に久保田藩主の佐竹義宣の養子になる。しかし、猿楽の見物中に居眠りをして義宣の怒りを買い廃嫡される。 佐竹義宣(さたけ よしのぶ)日本(常陸国)1570~1633統率:A 武力:B 政治:A 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------佐竹家19代当主。佐竹義重の嫡男。石田三成と親交があり、加藤清正らに襲われた時に三成を救出している。関ヶ原の合戦では西軍に付こうとしたが、父の反対にあい中立を守り、出羽に転封され、久保田藩の初代藩主となる。大坂の陣にも参陣する。左近衛中将、右京大夫。 佐竹義久(さたけ よしひさ)日本(常陸国)1554~1601統率:A 武力:B 政治:A 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------佐竹家臣。佐竹東家の佐竹義堅の子。本家の当主・佐竹義重に従い各地を転戦した。武田家との甲佐同盟の締結にも携わるなど、一族の重鎮として陸奥方面の軍権も任された。 佐々宗淳(さっさ むねあつ)、佐々介三郎日本(常陸国)1640~1698統率:C 武力:C 政治:C 知力:B 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------京都の臨済宗妙心寺の僧侶となり、後に黄檗宗も学んだ。後に還俗して水戸藩の徳川光圀に仕え、『大日本史』の編纂に携わり、那須国造碑の修復と調査、楠公碑の建立の実務を行なった。水戸黄門の助さんのモデル。 里見忠義(さとみ ただよし)日本(安房国)1594~1622統率:C 武力:D 政治:C 知力:D 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------里見家7代当主。里見義康の子。勝山藩、館山藩の第2代藩主。老中・大久保忠隣の孫娘を娶るが、忠隣の失脚事件に連座して伯耆国に改易させられてしまう。里見家も子孫は残るが、家は断絶した。 里見義重(さとみ よししげ)日本1596~1680統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------里見義弘の嫡男。義頼の兄だが、義頼によって強制的に出家させられた。 里見義康(さとみ よしやす)日本(安房国)1573~1603統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------里見家7代当主。里見義頼の子。小田原征伐の際に遅参したため、豊臣秀吉の不興を買って上総、下総を取り上げられてしまう。関ヶ原の戦いでは東軍に組し、上杉の軍を抑えるために結城秀康らと共に宇都宮に出陣し、常陸国鹿島郡3万石を与えられた。勝山藩、館山藩の初代藩主。 真田熊之助(さなだ くまのすけ)日本1632~1638統率:E 武力:E 政治:E 知力:E 文化:E 魅力:E--------------------------------------------------------------------------------沼田藩3代藩主。真田信吉の長男。4歳で家督を継ぐが、7歳で夭折する。 真田大助(さなだ だいすけ)、真田幸昌日本1601?~1615統率:B 武力:B 政治:D 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------豊臣家臣。真田幸村と竹林院の子。大坂夏の陣に出陣するも、父の命で大坂城の落城を見届けるため、大坂城に戻る。豊臣秀頼が自刃すると、自信も切腹した。 真田信重(さなだ のぶしげ)日本(信濃国)1599~1648統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------埴科藩2代藩主。真田信之の三男。父の松代転封に伴い、旗本に列せられる。先代である真田信政が沼田藩主になると、代わりに埴科藩主となった。しかし、後に武蔵国鴻巣にて客死し、嫡子がいなかったため埴科藩は断絶してしまった。 真田信利(さなだ のぶとし)日本1635~1688統率:D 武力:C 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------沼田藩5藩主。真田信吉の次男で真田熊之助の弟。叔父の真田信政が松代藩主となると、沼田藩主に就く。さらに、真田信政が亡くなると、次期藩主には真田幸道が幕府に届け出られたが、撤回を要求、沼田藩は支藩でなく正式に独立した。松代藩に対抗して藩の財政を圧迫したため、改易され、山形藩預かりとなった。 真田信政(さなだ のぶまさ)日本(信濃国)1597~1658統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------真田信之の次男。兄同様に大坂の陣で毛利勝永に敗走させられる。父が松代藩に転封となると、埴科藩を分地立藩して初代藩主となる。その後、甥の真田熊之助が夭逝すると、沼田藩4代藩主となり、父の隠居により松代藩2代藩主となった。内記。 真田信之(さなだ のぶゆき)、真田信幸日本(信濃国)1566~1658統率:C 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------真田昌幸の長男で、幸村の兄。父が徳川に属した時、人質として徳川家に赴く。関ヶ原の合戦では東軍に付き、父と兄が篭城する上田城へ開城勧告の使者となるが失敗する。合戦後は、父と兄の助命嘆願をする。上田藩、沼田藩を経て信州松代藩に転封される。 真田信吉(さなだ のぶよし)日本(信濃国)1595~1635統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------真田信之の長男。大坂の陣では徳川側に属した。敵将の毛利勝永と戦い、敗れて退却した。沼田藩2代藩主。 真田昌幸(さなだ まさゆき)日本(信濃国)1574~1611統率:A 武力:C 政治:A 知力:A 文化:C 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------真田幸隆の三男。才能を見出され、武田信玄の近習を務める。長篠の合戦後は、信長をはじめ主を転々と変える。関ヶ原の合戦では、息子の幸村と共に西軍に付き、徳川秀忠の軍を信濃に釘付けにしたが、息子の信幸が東軍に付いていたため助命され、上田藩初代藩主の後、紀伊に蟄居した。 真田幸村(さなだ ゆきむら)、真田信繁(さなだ のぶしげ)日本(信濃国)1567~1615{統率:統率:A 武力:A 政治:C 知力:A 文化:C 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------真田昌幸の次男で、信幸の弟。関ヶ原の合戦では徳川の行軍を阻むため上田城に篭城する。兄、信幸の嘆願で助命されるが、大阪冬の陣、夏の陣で豊臣方として戦い討ち死にする。その戦い振りは「真田日本一の兵」と賞されるほどだった。
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【鳩】系統に戻る. 鳩07 起点 経由 終点 新設・変更 廃止・変更 担当営業所 備考 (1) 鳩ヶ谷駅東口 赤井四丁目交差点・新郷農協・大竹・安行支所・安行川口青果市場 安行出羽 2001年3月28日新設 2001年10月9日廃止 川口営業所 路線解説 鳩ヶ谷駅東口から新郷農協までは鳩06(鳩ヶ谷駅東口-新郷支所-草加駅西口)と同経路を辿り、安行支所から安行出羽へ向かう。埼玉高速鉄道開業によって廃止された川22(3)(川口駅東口-有明橋-大竹-安行出羽)の代替として新設され、川口駅-鳩ヶ谷駅間が事実上短縮された形となった。埼玉高速鉄道への乗客の推移を見込んだものだったが、川22による川口駅方面へのアクセスが断たれた(川口元郷駅は経由するものの、川口駅と川口元郷駅との間は徒歩約15分と近隣とは言えない)ことで利用客が定着せず、むしろ川22の復活を望む声が多かった。このため、同年5月に急遽川22(4)(川口駅東口-末広一丁目-大竹-安行出羽)を復活させたことで鳩07の利用者は上昇せず、同年10月9日の第二次再編で廃止された。 しかし、その川22も現在では平日早朝のみ1.5往復するだけで、安行出羽からは川25(川口駅東口-末広一丁目-新郷支所-横道-安行出羽)が圧倒的な本数を確保している。
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登録日:2023/02/22 (水) 18 13 34 更新日:2023/07/28 Fri 11 06 11NEW! 所要時間:約 10 分で読めます ▽タグ一覧 おもてなし武将隊 がんばれ家康 アイドルマスターシンデレラガールズ パフォーマンス ローカルタレント 上杉謙信 伊達政宗 前田慶次 加藤清正 島津義弘 徳川家康 成田長親 戦国時代 戦国武将 斉藤道三 最上義光 武将隊 歴史 毛利元就 清原清衡 直江兼続 真田幸村 織田信長 観光 豊臣秀吉 武将隊(あるいは、おもてなし武将隊)とは、戦国武将等になりきった演者が、各種パフォーマンスを通して地域の観光をPRする集団である。 概要と定義 活動内容 中の人たち 主な武将隊、及び特徴的な武将隊 その他・余談 概要と定義 2009年に名古屋開府400年に合わせて名古屋市の「ふるさと雇用対策の一環」として、後にひと様の金メダルをかじった事でも有名になった名古屋市長・河村たかし氏の鶴の一声で「名古屋おもてなし武将隊」が結成。 その後、全国各地の自治体がこれに倣って「地域観光の活性化」や「地方の雇用創出」を目的に多くの武将隊が結成され、現在では主だった団体だけでも数十、大小含めて百近い武将隊が存在するとまで言われている。 武将隊という概念が生み出されてから既に10年を越えており、現在においては様々な隊が存在しているが、武将隊の定義とは概ね 実在の武将になりきっている。 演舞や歌、ダンス等のパフォーマンスやトークなどを行う。 昔から各地方に存在する「○○○保存会」「○○○同好会」ではない。 といったところ。 しかし逆に言えば、その程度のものでしか無く、上記の定義にすら当てはまらずとも武将隊扱いされる隊もあるため、その定義は非常に曖昧である。 ぶっちゃけ「その団体が武将隊として作られたかどうか」の方が重要かも知れない。 活動内容 武将隊の主な活動内容は以下の通りである。 歴史や観光に関するイベントへの出演。 演舞等のパフォーマンス披露。 城等の史跡での観光客へのおもてなし、施設案内。街歩き等。 テレビやラジオ等各種メディア出演。 その活動は多岐に渡るが、一般的なタレントと違い、あくまでも「観光PR」が本来の目的であるため、当人たちの人気や収益よりも活動拠点の人気が最優先であるのが特徴である。その辺りがいわゆる「ローカルタレント」と大きく違う点と言えるだろう。 主な活動場所は活動拠点としている城跡や公園などの観光施設やその周辺。特に城が現存・再建されている地の武将隊はそこを拠点に活動し、そこにやってきた観光客へのおもてなしを毎日のように行っていたりする。 他にも都市部の駅や商業施設、イベントホール等、様々な場所で活動をしている。 また、全国に武将隊が結成されて以降は、全国の武将隊を集めた武将隊イベントも各地で行われており、多いときには20以上の隊が一同に介することもあって、大勢のファンが詰め掛けるイベントとなっている。 参加する武将隊としても地元のPRを他県で出来るという利点は大きく、老舗の隊同士や地理的・歴史的関わりが深い隊同士であればいつもと違った側面や絡みが見れるとあってファンからの人気も高い。(大きなイベントでは無くとも、関わりの深い隊同士であれば複数の隊が同じイベントに出る事も多いが。) 中の人たち よく「自治体の職員がやっている」と言われる事があるが、実際には不正確である。 確かに自治体職員だけで構成された隊も存在するが、全国にはボランティアだけで運営している隊もあれば、イベント会社等の企業が運営している隊も存在しており、その運営形態は様々である。 中には甲冑、衣装、武具から小道具、移動費等に至るまで全て自腹で活動する隊もいる。らしい。 そのため、演者たる武将たちは公務員だったり一般の会社員だったりと、その素顔は様々である模様。 本職が武将隊の者がいれば、副業としてやっている者、はたまた劇団に所属している役者やタレントが武将隊にいるケースも存在する。 特に名古屋おもてなし武将隊は中の人が実名や別名義で俳優やパフォーマーとして活動している人物が多く、本家Wikipediaには演者本人のページが作られていたりするので、気になる人はチェックされたし。 中には地上波のドラマや特撮、はたまた声優までやっている人物もいる。 主な武将隊、及び特徴的な武将隊 ※所属武将等は時期によっても変わるため注意されたし。 名古屋おもてなし武将隊 前述の通り全国初の武将隊。活動拠点は愛知県名古屋市の名古屋城。 戦国三英傑(徳川家康、織田信長、豊臣秀吉)を中心に、前田利家、前田慶次、加藤清正等、歴史ファンで無くとも知っている武将が揃う正にスター軍団。 個々人のスキルの高さに裏打ちされた高品質のステージや、その活動の幅広さ、資金力等、元祖にして頂点と言っても過言ではない。 2022年では、アイドルマスター シンデレラガールズの歴女アイドル丹羽仁美 と名古屋城がコラボした際に、彼女の推しである前田慶次がAR丹羽仁美とツーショットを撮ってTwitterに投稿したばかりか、「お願い!シンデレラ」をノリノリで踊る前田慶次の動画が投稿されて話題になったりした。 なお、いわゆるモバマス内イベントにて矢口美羽が織田信長役を演じているが、こちらも信長公に捕捉されている模様。(*1) また、名古屋及び愛知県あるあるを描いた漫画作品「八十亀ちゃんかんさつにっき」にも登場した他、前田慶次主催イベントに作者が登場したり、アニメ化の際には前田慶次が声優として参加したりした。 やまがた愛の武将隊 名古屋おもてなし武将隊結成の翌年に発足した武将隊で、拠点は山形県米沢市。 幾度もの隊名変更や人員の変更・増減を繰り返し、一時は存続を危ぶまれながらも、未だに正統派武将隊として活動し続けている老舗。 戦国末期に山形で起きた「慶長出羽合戦」をコンセプトとしており、当時壮絶な戦を行った上杉家と最上家のダブル主人公スタイルが特徴的で、出番は少ないが伊達政宗も在籍している。 メンバーは流動的なため、時期によってかなり陣容は違うが、現在では直江兼続と最上義光が中心となって活動中。 また、何人か非常に似通った顔のメンバーが多いのも特徴か。(実際には全国的にも珍しいくらい兼ね役の多い武将隊なのである) 奥州・仙台おもてなし集団 伊達武将隊 上記やまがた愛の武将隊とほぼ同時期に結成された武将隊。拠点は宮城県仙台市仙台城(青葉城)。 仙台市内では様々な広告やCMに出演しているため、市内をぶらついてるだけでも目にする事がある。 メンバーはクールで時々お茶目な政宗公を中心に有名な伊達三傑、コミカル担当の支倉常長や何故か松尾芭蕉がいる。しかも演舞もする。 演舞はスタイリッシュで優美なものが多いが、たぶん一番人気は『ございん音頭』 忍城おもてなし甲冑隊 活動拠点は埼玉県行田市忍城。 映画「のぼうの城」で一躍脚光を浴びた成田長親を中心にその家臣団で構成されている。 特徴はなんと言っても映画同様コミカルで親しみやすい「のぼう様」こと成田長親自身のキャラクター性で、トークだけでもステージを沸かせる実力から一目置かれている。 グレート家康公「葵」武将隊 グレートな家康公を中心としたグレートな武将隊。拠点は愛知県岡崎市岡崎城。 名前から何となくお察し頂けるかと思うが、数ある武将隊の中でも明るくコミカルな雰囲気が特徴で、家康公がステージ入りでコケたり、家康公が家臣にイジり倒されたり、家康公がやまがたの直江兼続にビンタされたりする。 家康公ばっか扱いが雑だって?家康公は器がデカくて我慢強いお人だから…… 一方、演舞は激しく軽快なダンス調のものが多く、楽曲もヒーローもののようなアップテンポなものや純粋に歌物として優秀な楽曲が多いのも大きな特徴。 2023年には徳川家康を主人公とした大河ドラマ「どうする家康」が放映され、これまでとは違うちょっと頼りない家康像が描かれる事もあり、シナジーを期待できる。 既に大河ドラマ本編でグレートの家康公がチョイ役で出演したり、同じNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」において鶴瓶師匠と「どうする家康」で徳川家康を演じる松本潤が岡崎市を訪れた際には、岡崎城にて二人へのおもてなしを行っている。 直政「(遠くにいる自隊の家康公を指して)おや、偽者ですかな?」 康政「(松潤に対して)お帰りなさいませ殿!」 熊本城おもてなし武将隊 拠点は熊本県熊本市の熊本城。なんか小西行長がデカい。 メンバーは加藤清正を中心に、島津義弘、細川忠興、黒田官兵衛、小西行長と熊本だけでなく九州オールスターのようなメンツが揃う。 アップテンポな楽曲と勇壮で激しいダンスが多く、演舞のカッコ良さはピカイチ。 トークスキルも高く、マイペースでイケメンな小西行長の小西ワールドもなんか凄い。 名古屋城に続きアイドルマスター シンデレラガールズと熊本城とのコラボ決定しており、こちらもまた注目である。(*2) 岐阜城盛り上げ隊 拠点は岐阜県岐阜市。 こちらも結成10年を越える老舗の武将隊なのだが、一番特徴的なのは斎藤道三と帰蝶(濃姫)が兼ね役という点である。 無論美少年系マムシとかでは無く、マムシ系帰蝶様である。 安芸ひろしま武将隊 拠点は広島県広島市。 毛利元就を中心とした毛利家臣団で構成されており、歌とダンスを中心としたパフォーマンスを行っている。 広島市議会に元就公っぽい人がいるが気にするな! 清原紅蓮隊 拠点は秋田県横手市。 秋田で清原と来れば、歴史ファンならピンと来るかも知れない。 彼らは全国的にも少ない平安時代の武士をモチーフに結成された武将隊で、中核は清原(源)清衡。 こちらもベテランらしく、演舞・トーク共に安定感があり、人気は高い。 神戸・清盛隊 拠点は兵庫県神戸市。 NHK大河ドラマ「平清盛」放映を機に結成された武将隊。 上記の清原紅蓮隊同様平安時代をモチーフとしている。 歌とダンスと演舞を融合させたパフォーマンスで、10年以上も活動している老舗武将隊であるが、2022年10月以降は定期的な活動を休止し、不定期で活動していくと宣言されている。 徳川家康と服部半蔵忍者隊 拠点は愛知県名古屋市。 徳川家康を支えた忍者衆の長、服部半蔵を中心とした忍者だけの武将隊。 名前に徳川家康と入っているが、メンバー内に徳川家康はおらず、名古屋おもてなし武将隊の徳川家康が準メンバー的な形で参加している。例えるならばジャッカー電撃隊のような編成となっている。 忍者の集団という事で、演舞も刀だけでなく鎖鎌などを使ったアクロバティックなものとなっている。 PRINCESS SAMURAI of JAPAN あいち戦国姫隊 拠点は愛知県名古屋市。 戦国の世を力強く生き抜いた女性達で構成された女性だけの武将隊(武将?) 信長の妹であるお市様をはじめ、三代将軍家光の母・江、信長の側室・生駒吉乃、秀吉の正室・おね、前田利家の妻・まつ、天下人徳川家康を産んだ母・於大が現在のメンバー。 衣装が着物な事もあって、演舞も殺陣のような激しいものではなく優美な舞である。 越後上越上杉おもてなし武将隊 拠点は新潟県上越市春日山城。 軍神・上杉謙信を筆頭に、謙信公時代の家臣団や後継者である、上杉景勝などが主に在籍。 演舞は日本舞踊や剣舞の様な動きが多く、特に扇子を使った演目ではその技巧が楽しめる。 一方トークはほのぼのめ。 信州上田おもてなし武将隊 真田幸村と十勇士 活動拠点は長野県上田市上田城。 日本一の兵と謳われた真田幸村を中心とした武将隊。 歌やダンス、演舞、太鼓など様々なパフォーマンスを融合させたステージに人気は高い。 古戦場おもてなし武将隊 関ヶ原組 拠点は岐阜県関ヶ原町関ヶ原古戦場周辺。 戦国最大の戦「関ヶ原の戦い」の歴史を伝える武将隊。 左近様が激シブ。 清洲城武将隊 煌組/桜華組 拠点は愛知県清須市。 共に織田信長を中心とした数名のメンバーで構成されているが、煌組は男女混合、桜花組は女性だけで構成された武将隊である。 煌組柴田勝家の再現度(?)が高い。 おもてなし武将隊 館山里見八犬士 拠点は千葉県館山市。 名前通り「南総里見八犬伝」をモチーフとした、全国でもおそらく唯一の架空の人物だけで構成された武将隊。 ひおきPR武将隊 拠点は鹿児島県日置市 数ある武将隊でも珍しいロックバンド形式の武将隊。 演舞の中で楽器演奏をする武将隊は他にもいるし、やまがた愛の武将隊などもかつて楽器演奏できるメンバーでライブをした事があったが、基本がバンド演奏な武将隊は珍しい。 スキンヘッドで琵琶型ギターを掻き鳴らす島津忠良や、明らかに日本人では無い島津豊久などビジュアル面でも結構異質。 その他・余談 ○これだけ武将隊が乱立すれば武将被りが頻繁に発生する。特に徳川家康や織田信長、前田慶次、伊達政宗のようなビッグネームで、かつ複数の土地に所縁がある武将が被りやすいため、周囲からは「○○○(地名)の家康公」と言った呼び名で呼ばれる。 イベント等で被り武将同士が会話する際は「よぉ、わし!」「おお、わし!久しぶりじゃ!」というような会話が始まる。 ○ファンはいわゆる歴女が多いイメージを持たれるかもしれないが、いざイベントへ行ってみると、意外と男性も多く女性ばかりという訳ではない(女性が多いのは事実だが)。特に地元メディアへの出演が積極的な隊となると、老若男女問わず知名度が高いため合同イベントでは子供連れのご家族なんかも多いのが実情である。 薄い記事には文を足し、余計な事まで書き込まん!我こそはWiki篭もり追記守アニヲタ! わしの名はWiki篭もり修正守キモヲタ!間違い誇張に勘違い、不正確な記事はワシに任せよ!せぇい!はぁあ! \我ら!アニヲタ城Wiki篭もり武将隊!/ △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 売れる前の名古屋の初代武将隊を見たが、かなりのイケメン揃いで迫力があった。まさかあの後グッズや追っかけできるほど売れるとは思わなかったが納得もする。 -- 名無しさん (2023-02-23 13 32 59) 地元だとたまにテレビに出るけど、見るたび顔が違ったりするから代替わりしてるのかと思ってた -- 名無しさん (2023-03-07 17 36 27) 熊本城おもてなし武将隊は -- 名無しさん (2023-03-08 10 32 56) ↑誤送信しました -- 名無しさん (2023-03-08 10 36 41) ↑またやらかしたorz 南条元清とか大村喜前みたいなドマイナー武将まで加わってて驚いた -- 名無しさん (2023-03-08 10 38 27) 名前 コメント
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提供クレジットは絨毯の上にカラー表記ドーズ美容外科、読売新聞、株式会社三和技研、岩永工業株式会社、TANAKAYA SINCE 1877(婦人ファッション専門店) KKT/※1 提供クレジットはクレジット表記をバナー座布団に1社ごとに上乗せしてのカラー表記株式会社杉養蜂園、BEST ベスト電器(家電量販店)、modern Projet KYT/※1 提供クレジットは絨毯の上にカラー表記あらわざ桜島(本坊酒造) 後半ナショナルセールス枠 (2024.04~) 0'30"…日本管財、ニトリ、三井住友信託(三井住友信託銀行)、ISUZU(いすゞ自動車)、セブン アイHLDGS.(セブン-イレブン)、アートネイチャー、NX NIPPON EXPRESS(NIPPON EXPRESSホールディングス)、太田胃散、ミネベアミツミ、SUZUKI、アサヒビール+週替4社 (2023.10~2024.03) 0'30"…日本管財、ニトリ、三井住友信託(三井住友信託銀行)、ISUZU(いすゞ自動車)、セブン アイHLDGS.(セブン-イレブン)、アートネイチャー、FUJITEC、NX NIPPON EXPRESS(NIPPON EXPRESSホールディングス)、MAZDA、パラマウントベッド、太田胃散、ミネベアミツミ、SUZUKI (2023.07〜09) 1'00"…KDDI 0'30"…日本管財、ISUZU(いすゞ自動車)、三井住友信託(三井住友信託銀行)、NX NIPPON EXPRESS(NIPPON EXPRESSホールディングス)、Vortex、パラマウントベッド、セブン アイHLDGS.(セブン-イレブン)、FUJITEC、SUZUKI、太田胃散、アートネイチャー (2023.04~06) 0'30"…日本管財、ISUZU(いすゞ自動車)、三井住友信託(三井住友信託銀行)、NX NIPPON EXPRESS(NIPPON EXPRESSホールディングス)、Vortex、パラマウントベッド、セブン アイHLDGS.(セブン-イレブン)、FUJITEC、SUZUKI、太田胃散、アートネイチャー+週替2社 (2022.11~2023.03) 0'30"…日本管財、ISUZU(いすゞ自動車)、パラマウントベッド、損保ジャパン、FUJITEC、SUZUKI、セブン 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アイHLDGS.(セブン-イレブン)、MAZDA、太田胃散、小野薬品、アートネイチャー、ISUZU(いすゞ自動車)、日本管財 (2019.01~03) 0'30"…日本通運、三井住友信託(三井住友信託銀行)、FUJITEC、YAMADA(ヤマダ電機)、セブン アイHLDGS.(セブン-イレブン)、MAZDA、太田胃散、小野薬品、アートネイチャー、ISUZU(いすゞ自動車)、KDDI(PT) (2018.10~12) 0'30"…日本通運、三井住友信託(三井住友信託銀行)、FUJITEC、YAMADA(ヤマダ電機)、セブン アイHLDGS.(セブン-イレブン)、MAZDA、太田胃散、小野薬品、アートネイチャー、MSD製薬、ISUZU(いすゞ自動車) (2018.09) 0'30"…日本通運、三井住友信託(三井住友信託銀行)、FUJITEC、YAMADA(ヤマダ電機)、セブン アイHLDGS.(セブン-イレブン)、MAZDA、太田胃散、小野薬品、アートネイチャー、LIXIL、Audi (2018.04~08) 0'30"…日本通運、三井住友信託(三井住友信託銀行)、FUJITEC、YAMADA(ヤマダ電機)、セブン アイHLDGS.(セブン-イレブン)、MAZDA、太田胃散、小野薬品、アートネイチャー、LIXIL+不定期1社 (2017.10~2018.03) 0'30"…本格米焼酎 白岳しろ(高橋酒造)、三井住友信託(三井住友信託銀行)、FUJITEC、YAMADA(ヤマダ電機)、セブン アイHLDGS.(セブン-イレブン)、MAZDA、太田胃散、小野薬品、アートネイチャー、LIXIL、損保ジャパン日本興亜 (2016.10~2017.09) 0'30"…本格米焼酎 白岳しろ(高橋酒造)、三井住友信託(三井住友信託銀行)、SECOM、YAMADA(ヤマダ電機)、セブン アイHLDGS.(セブン-イレブン)、MAZDA、太田胃散、小野薬品、アートネイチャー、LIXIL、損保ジャパン日本興亜 (2016.04~09) 0'30"…本格米焼酎 白岳しろ(高橋酒造)、三井住友信託(三井住友信託銀行)、SECOM、YAMADA(ヤマダ電機)、セブン アイHLDGS.(セブン-イレブン)、太田胃散、MAZDA、小野薬品、アートネイチャー、Sangetsu (2015.10~2016.03) 0'30"…本格米焼酎 白岳しろ(高橋酒造)、三井住友信託銀行、SECOM、YAMADA(ヤマダ電機)、セブン アイHLDGS.(セブン-イレブン)、SoftBank、太田胃散、小野薬品、アートネイチャー、Sangetsu (2015.04~09) 0'30"…本格米焼酎 白岳しろ(高橋酒造)、三井住友信託銀行、SECOM、YAMADA(ヤマダ電機)、セブン アイHLDGS.(セブン-イレブン)、Y!mobile、スカパー!、太田胃散、小野薬品、アートネイチャー、Sangetsu (2014.04~2015.03) 0'30"…本格米焼酎 白岳しろ(高橋酒造)、三井住友信託銀行、SECOM、YAMADA(ヤマダ電機)、セブン アイHLDGS.(セブン-イレブン)、Y!mobile※3、スカパー!、太田胃散、小野薬品、アートネイチャー+週替1社 (2013.04~2014.03) 1'00"…日医工 0'30"…本格米焼酎 白岳しろ(高橋酒造)、三井住友信託銀行、SECOM、YAMADA(ヤマダ電機)、セブン アイHLDGS.(セブン-イレブン)※2、NTTファシリティーズ、清酒白鶴、太田胃散 (2012.10~2013.03) 1'00"…日医工 0'30"…本格米焼酎 白岳しろ(高橋酒造)、三井住友信託銀行、Yakult、YAMADA(ヤマダ電機)、セブン アイ(セブン-イレブン)、NTTファシリティーズ、清酒白鶴、太田胃散 (2012.04~09) 0'30"…本格米焼酎 白岳しろ(高橋酒造)、三井住友信託銀行、Yakult、YAMADA(ヤマダ電機)、McDonald's、NTTファシリティーズ、清酒白鶴、太田胃散、損保ジャパン+不定期1社 (2011.10~2012.03) 0'30"…米焼酎 白岳(高橋酒造)、中央三井信託銀行、小林製薬、Yakult、YAMADA(ヤマダ電機)、McDonald's、NTTファシリティーズ、清酒白鶴、太田胃散、損保ジャパン (2011.04~09) 0'30"…米焼酎 白岳(高橋酒造)、中央三井信託銀行、小林製薬、Yakult、YAMADA(ヤマダ電機)、McDonald's、NTTファシリティーズ、清酒白鶴、太田胃散+不定期1社 (2010.04~2011.03) 0'30"…米焼酎 白岳(高橋酒造)、大鵬薬品、小林製薬、BOAT RACE、YAMADA(ヤマダ電機)、McDonald's、NTTファシリティーズ、清酒白鶴、太田胃散+不定期1社 (2009.10~2010.03) 0'30"…米焼酎 白岳(高橋酒造)、大鵬薬品、小林製薬、BOAT RACE※1、新日本石油+不定期5社 (2009.04~09) 0'30"…米焼酎 白岳(高橋酒造)、大鵬薬品、小林製薬、リーブ21、養命酒、SUNTORY、KYOTEI、SAPPORO(サッポロビール)(PT)、FUJIFILM(PT)+週替1社 (2008.10~2009.03) 0'30"…米焼酎 白岳(高橋酒造)、大鵬薬品、小林製薬、リーブ21、NIPRO、NEC、三菱UFJ信託銀行、BRIDGESTONE、KOMATSU、養命酒+不定期1社 (2008.04~09) 0'30"…米焼酎 白岳(高橋酒造)、大鵬薬品、ソニー生命、リーブ21、NIPRO、NEC、三菱UFJ信託銀行、BRIDGESTONE、レオパレス21、再春館製薬所、KDDI (2007.10~2008.03) 0'30"…米焼酎 白岳(高橋酒造)、大鵬薬品、ソニー生命、リーブ21、NIPRO、NEC、三菱UFJ信託銀行、BRIDGESTONE、レオパレス21、KDDI、SAPPORO(サッポロビール) (2006.10~2007.09) 0'30"…米焼酎 白岳(高橋酒造)、大鵬薬品、ソニー生命、リーブ21、NIPRO、NEC、三菱UFJ信託銀行、BRIDGESTONE、レオパレス21、JACCS、KDDI (2006.04~09) 0'30"…米焼酎 白岳(高橋酒造)、大鵬薬品、ソニー生命、リーブ21、NIPRO、NEC、三菱UFJ信託銀行、BRIDGESTONE、レオパレス21、KOKUYO、旭硝子 (2005.10~2006.03) 0'30"…米焼酎 白岳(高橋酒造)、大鵬薬品、ソニー生命、リーブ21、NIPRO、IBM、三菱UFJ信託銀行、BRIDGESTONE、レオパレス21、KOKUYO、旭硝子 (2004.10~2005.09) 0'30"…米焼酎 白岳(高橋酒造)、大鵬薬品、ソニー生命、リーブ21、NIPRO、IBM、三菱証券、BRIDGESTONE、レオパレス21、KOKUYO (2004.04~09) 0'30"…米焼酎 白岳(高橋酒造)、大鵬薬品、ソニー生命、リーブ21、NIPRO、IBM、NISSAN、三菱証券、BRIDGESTONE、レオパレス21、KOKUYO ※1 2009.12まではKYOTEI名義 ※2 2013.07中盤まではセブン アイ名義 ※3 2014.07中盤まではEM EMOBILE名義 ※4 2020.05.10は提クレ表示もCMはAC JAPANに差し替え ※5 2020.10は提供休止 ※6 2021.01.10・24・31は提供自粛につきAC JAPAN(PT)に差し替え ※7 2021.12までは日本通運名義 ※8 2022.07.10は提クレ表示もCMはAC JAPANに差し替え
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https //w.atwiki.jp/amizako/pages/629.html (から、つづき) [#5字下げ][#中見出し]四 津軽平野[#中見出し終わり] 「津軽」本州の東北端日本海方面の古称。斉明天皇の御代、越《コシ》の国司、阿倍比羅夫出羽方面の蝦夷地を経略して齶田《アキタ》(今の秋田)渟代《ヌシロ》(今の能代)津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の名の初見なり。乃ち其地の酋長を以て津軽郡領とす。此際、遣唐使坂合部連|石布《イワシキ》、蝦夷を以て唐の天子に示す。随行の官人、伊吉連博徳《ユキノムラジハカトコ》、下問に応じて蝦夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを熟蝦夷《ニギエゾ》、次を麁蝦夷《アラエゾ》、遠きを都加留《ツガル》と名くと。其他の蝦夷は、おのずから別種として認められしものの如し。津軽蝦夷の称は、元慶二年出羽の夷反乱の際にも、屡々散見す。当時の将軍藤原保則、乱を平げて津軽より渡島《ワタリジマ》に至り、雑種の夷人前代未だ嘗て帰附せざるもの、悉く内属すとあり。渡島は今の北海道なり。津軽の陸奥に属せしは、源頼朝奥羽を定め、陸奥の守護の下に附せし以来の事なるべし。 「青森県沿革」本県の地は、明治の初年に到るまで岩手・宮城・福島諸県の地と共に一個国を成し、陸奥といい、明治の初年には此地に弘前・黒石・八戸・七戸《シチノヘ》および斗南《トナミ》の五藩ありしが、明治四年七月列藩を廃して悉く県となし、同年九月府県廃合の事あり。一時みな弘前県に合併せしが、同年十一月弘前県を廃し、青森県を置き、前記の各藩を以て其管下とせしも、後|二戸《ニノヘ》郡を岩手県に附し、以て今日に到れり。 「津軽氏」藤原氏より出でたる氏。鎮守府将軍秀郷より八世秀栄、康和の頃陸奥津軽郡の地を領し、後に津軽十三の湊に城きて居り、津軽を氏とす。明応年中、近衛尚通の子政信、家を継ぐ。政信の孫為信に到りて大に著わる。其子孫わかれて弘前・黒石の旧藩主たりし諸家等となる。 「津軽為信」戦国時代の武将。父は大浦甚三郎守信、母は堀越城主武田重信の女なり。天文十九年正月生る。幼名扇。永禄十年三月、十八歳の時、伯父津軽為則の養子となり、近衛前久の猶子となれり。妻は為則の女なり。元亀二年五月、南部高信と戦いこれを斬り、天正六年七月二十七日、波岡城主北畠顕村を伐ち其領を併せ、尋で近傍の諸邑を略し、十三年には凡そ津軽を一統し、十五年豊臣秀吉に謁せんとして発途せしも、秋田城介安倍実季、道を遮り果さずして還る。十七年、鷹、馬等を秀吉に贈り好を通ず。されば十八年の小田原征伐にも早く秀吉の軍に応じたりしを以て、津軽及合浦・外ヶ浜一円を安堵せり。十九年の九戸乱にも兵を出し、文禄二年四月上洛して秀吉に謁し、又近衛家に謁え、牡丹花の徽章を用うるを許さる。尋で使を肥前名護屋に遣わし、秀吉の陣を犒い、三年正月には従四位下右京大夫となり、慶長五年関ヶ原の役には、兵を出して徳川家康の軍に従い、西上して大垣に戦い、上野国大館二千石を加増す。十二年十二月五日、京都にて卒す。年五十八。 「津軽平野」陸奥国、南・中・北、三津軽郡に亘る平野。岩木川の河谷なり。東は十和田湖の西より北走する津軽半島の脊梁をなす山脈を限とし、南は羽後境の矢立峠・立石越等により分水線を劃し、西は岩木山塊と海岸一帯の砂丘(屏風山と称す)に擁蔽せらる。岩木川は其本流西方よりし、南より来る平《ヒラ》川及び東より来る浅瀬石《アサセイシ》川と弘前市の北にて会合し、正北に流れ、十三潟に注ぎて後、海に入る。平野の広袤、南北約十五里、東西の幅約五里、北するに随って幅は縮小し、木造・五所川原の線にて三里、十三潟の岸に到れば僅かに一里なり。此間土地低平、支流溝渠網の如く通じ、青森県産米は、大部分此平野より出ず。 [#地から2字上げ](以上、日本百科大辞典に拠る) 津軽の歴史は、あまり人に知られていない。陸奥も青森県も津軽と同じものだと思っている人さえあるようである。無理もない事で、私たちの学校で習った日本歴史の教科書には、津軽という名詞が、たった一箇所に、ちらと出ているだけであった。すなわち、阿倍比羅夫の蝦夷討伐のところに、「幸徳天皇が崩ぜられて、斉明天皇がお立ちになるや、中大兄皇子は、引続き皇太子として政をお輔けになり、阿倍比羅夫をして、今の秋田・津軽の地方を平げしめられた。」というような文章があって、津軽の名前も出て来るが、本当にもう、それっきり、小学校の教科書にも、また中学校の教科書にも、高等学校の講義にも、その比羅夫のところの他には津軽なんて名前は出て来ない。皇紀五百七十三年の四道将軍の派遣も、北方は今の福島県あたり迄だったようだし、それから約二百年後の日本武尊の蝦夷御平定も北は日高見国までのようで、日高見国というのは今の宮城県の北部あたりらしく、それから約五百五十年くらい経って大化改新があり、阿倍比羅夫の蝦夷征伐に依って、はじめて津軽の名前が浮び上り、また、それつ切り沈んで、奈良時代には多賀城(今の仙台市附近)秋田城(今の秋田市)を築いて蝦夷を鎮められたと伝えられているだけで津軽の名前はも早や出て来ない。平安時代になって、坂上田村麻呂が遠く北へ進んで蝦夷の根拠地をうち破り、胆沢城《いざわじょう》(今の岩手県水沢町附近)を築いて鎮所となしたとあるが、津軽まではやって来なかったようである。その後、弘仁年間には文室綿麻呂の遠征があり、また元慶二年には出羽蝦夷の叛乱があり藤原保則その平定に赴き、その叛乱には津軽蝦夷も荷担していたとかいう事であるが、専門家でもない私たちは、蝦夷征伐といえば田村麻呂、その次には約二百五十年ばかり飛んで源平時代初期の、前九年後三年の役を教えられているばかりである。この前九年後三年の役だって、舞台は今の岩手県・秋田県であって、安倍氏清原氏などの所謂|熟蝦夷《ニギエゾ》が活躍するばかりで、都加留《ツガル》などという奥地の純粋の蝦夷の動静に就いては、私たちの教科書には少しも記されていなかった。それから藤原氏三代百余年間の平泉の栄華があり、文治五年、源頼朝に依って奥州は平定せられ、もうその頃から、私たちの教科書はいよいよ東北地方から遠ざかり、明治維新にも奥州諸藩は、ただちょっと立って裾をはたいて坐り直したというだけの形で、薩長土の各藩に於けるが如き積極性は認められない。まあ、大過なく時勢に便乗した、と言われても、仕方の無いようなところがある。結局、もう、何も無い。私たちの教科書、神代の事は申すもかしこし、神武天皇以来現代まで、阿倍比羅夫ただ一個所に於いて「津軽」の名前を見つける事が出来るだけだというのは、まことに心細い。いったい、その間、津軽では何をしていたのか。ただ、裾をはたいて坐り直し、また裾をはたいて坐り直し、二千六百年間、一歩も外へ出ないで、眼をぱちくりさせていただけの事なのか。いやいやそうではないらしい。ご当人に言わせると、「こう見えても、これでなかなか忙がしくてねえ。」というようなところらしい。 「奥羽とは奥州、出羽の併称で、奥州とは陸奥《むつ》州の略称である。陸奥とは、もと白河、勿来の二関以北の総称であった。名義は『道の奥』で、略されて『みちのく』となった。その『みち』の国の名を、古い地方音によって『むつ』と発音し、『むつ』の国となった。この地方は東海東山両道の末をうけて、一番奥にある異民族住居の国であったから、漠然と道の奥と呼んだに他ならぬ。漢字『陸』は『道』の義である。 次に出羽は『いでは』で、出端《いではし》の義と解せられる。古は本州中部から東北の日本海方面地方を、漠然と越《こし》の国と呼んだ。これも奥の方は、陸奥《みちのく》と同じく、久しく異民族住居の化外の地で、これを出端《いではし》と言ったのであろう。即ち太平洋方面なる陸奥と共に、もと久しく王化の外に置かれた僻陬であったことを、その名に示している。」というのは、喜田博士の解説であるが、簡明である。解説は簡単で明瞭なるに越した事はない。出羽奥州すでに化外の僻陬と見なされていたのだから、その極北の津軽半島などに到っては熊や猿の住む土地くらいに考えられていたかも知れない。喜田博士は、さらに奥羽の沿革を説き、「頼朝の奥羽平定以後と雖も、その統治に当り自然他と同一なること能わず、『出羽陸奥に於いては夷の地たるによりて』との理由のもとに、一旦実施しかけた田制改革の処分をも中止して、すべて秀衡、泰衡の旧規に従うべきことを命ずるのやむを得ざる程であった。随って最北の津軽地方の如きは、住民まだ蝦夷の旧態を存するもの多く、直接鎌倉武士を以てしては、これを統治し難い事情があったと見えて、土豪|安東《あんどう》氏を代官に任じ、蝦夷管領としてこれを鎮撫せしめた。」というような事を記している。この安東氏の頃あたりから、まあ、少しは津軽の事情もわかって来る。その前は、何が何やら、アイヌがうろうろしていただけの事かも知れない。しかし、このアイヌは、ばかに出来ない。所謂日本の先住民族の一種であるが、いま北海道に残ってしょんぼりしているアイヌとは、根本的にたちが違っていたものらしい。その遺物遺跡を見るに、世界のあらゆる石器時代の土器に比して優位をしめている程であるとも言われ、今の北海道アイヌの祖先は、古くから北海道に住んで、本州の文化に触れること少く、土地隔絶、天恵少く、随って石器時代にも、奥羽地方の同族に見るが如き発達を遂げるに到らず、殊に近世は、松前藩以来、内地人の圧迫を被ること多く、甚しく去勢されて、堕落の極に達しているのに反し、奥羽のアイヌは、溌剌と独自の文化を誇り、或いは内地諸国に移住し、また内地人も奥羽へ盛んに入り込んで来て、次第に他の地方と区別の無い大和民族になってしまった。それに就いて理学博士小川琢治氏も、次のように論断しているようである。「続日本紀には奈良朝前後に粛慎人及び渤海人が、日本海を渡って来朝した記載がある。そのうち特に著しいのは聖武天皇の天平十八年(一四〇六年)及び光仁天皇の宝亀二年(一四三一年)の如く渤海人千余人、つぎに三百余人の多人数が、それぞれ今の秋田地方に来着した事実で、満洲地方と交通が頗る自由に行われたのは想像し難くない。秋田附近から五銖銭が出土したことがあり、東北には漢文帝武帝を祀った神社があったらしいのは、いずれも直接の交通が大陸とこの地方との間に行われたことを推測せしめる。今昔物語に、安倍頼時が満洲に渡って見聞したことを載せたのは、これらの考古学及び土俗学上の資料と併せ考えて、決して一場の説話として捨てるべきものでない。われわれは、更に一歩を進めて、当時の東北蕃族は皇化東漸以前に、大陸との直接の交通に依って得たる文華の程度が、不充分なる中央に残った史料から推定する如く、低級ではなかったことを同時に確信し得られるのである。田村麻呂、頼義、義家などの武将が、これを緩服するに頗る困難であったのも、敵手が単に無智なるがために精悍なる台湾生蕃の如き土族でなかったと考えて、はじめて氷解するのである。」 そうして、小川博士は、大和朝廷の大官たちが、しばしば蝦夷《えみし》、東人《あずまびと》、毛人《けびと》などと名乗ったのは、一つには、奥羽地方人の勇猛、またはその異国的なハイカラな情緒にあやかりたいという意味もあったのではなかろうかと考えてみるのも面白いではないか、というような事も言い添えている。こうして見ると、津軽人の祖先も、本州の北端で、決してただうろうろしていたわけでは無かったようでもあるが、けれども、中央の歴史には、どういうものか、さっぱり出て来ない。わずかに、前述の安東氏あたりから、津軽の様子が、ほのかに分明して来る。喜田博士の曰く、「安東氏は自ら安倍貞任の子|高星《たかぼし》の後と称し、その遠祖は長髄彦《ながすねひこ》の兄|安日《あび》なりと言っている。長髄彦、神武天皇に抗して誅せられ、兄安日は奥州外ヶ浜に流されて、その子孫安倍氏となったというのである。いずれにしても鎌倉時代以前よりの、北奥の大豪族であったに相違ない。津軽に於いて、口三郡は鎌倉役であり、奥三郡は御内裏様御領で、天下の御帳に載らざる無役の地だったと伝えられているのは、鎌倉幕府の威力もその奥地に及ばず、安東氏の自由に委して、謂わゆる守護不入の地となっていたことを語ったものであろう。 鎌倉時代の末、津軽に於いて安東氏一族の間に内訌あり、遂に蝦夷の騒乱となるに到って、幕府の執権北条高時、将を遣わしてこれを鎮撫せしめたが、鎌倉武士の威力を以てしてこれに勝つ能わず、結局和談の儀を以て引き上げたとある。」 さすがの喜田博士も津軽の歴史を述べるに当っては、少し自信のなさそうな口振りである。まったく、津軽の歴史は、はっきりしないらしい。ただ、この北端の国は、他国と戦い、負けた事が無いというのは本当のようだ。服従という観念に全く欠けていたらしい。他国の武将もこれには呆れて、見て見ぬ振りをして勝手に振舞わせていたらしい。昭和文壇に於ける誰かと似ている。それはともかく、他国が相手にせぬので、仲間同志で悪口を言い合い格闘をはじめる。安東氏一族の内訌に端を発した津軽蝦夷の騒擾などその一例である。津軽の人、竹内運平氏の青森県通史に拠れば、「この安東一族の騒乱は、引いて関八州の騒動となり、所謂北条九代記の『是ぞ天地の命の革むべき危機の初め』となってやがては元弘の変となり、建武の中興となった。」とあるが、或いはその御大業の遠因の一つに数えられてしかるべきものかも知れない。まことならば、津軽が、ほんの少しでも中央の政局を動かしたのは、実にこれ一つという事になって、この安東氏一族の内訌は、津軽の歴史に特筆大書すべき光栄ある記録とでも言わなければならなくなる。いまの青森県の太平洋寄りの地方は古くから糠部《ぬかのぶ》と称する蝦夷地であったが、鎌倉時代以後、ここに甲州武田氏の一族南部氏が移り住み、その勢い頗る強大となり、吉野、室町時代を経て、秀吉の全国統一に到るまで、津軽はこの南部と争い、津軽に於いては安東氏のかわりに津軽氏が立ち、どうやら津軽一国を安堵し、津軽氏は十二代つづいて、明治維新、藩主承昭は藩籍を謹んで奉還したというのが、まあ、津軽の歴史の大略である。この津軽氏の遠祖に就いては諸説がある。喜田博士もそれに触れて、「津軽に於いては、安東氏没落し、津軽氏独立して南部氏と境を接して長く相敵視するの間柄となった。津軽氏は近衛関白尚通の後裔と称している。しかし一方では南部氏の分れであるといい、或いは藤原基衡の次男|秀栄《ひでしげ》の後だとも、或いは安東氏の一族であるかの如くにも伝え、諸説紛々適従するところを知らぬ。」と言っている。また、竹内運平氏もその事に就いて次のように述べている。「南部家と津軽家とは江戸時代を通じ、著しく感情の疎隔を有しつつ終始した。右の原因は、南部氏が津軽家を以て祖先の敵であり旧領を押領せるものと見做す事、及び津軽家はもと南部の一族であり、被官の地位にあったのに其主に背いたと称し、また一方、津軽家にては、わが遠祖は藤原氏であり、中世に於いても近衛家の血統の加われるものである、と主張する事等から起って居るらしい。勿論、事実に於いて南部高信は津軽為信のために亡ぼされ、津軽郡中の南部方の諸城は奪取せられて居るのみならず、為信数代の祖大浦光信の母は、南部久慈備前守の女であり、以後数代南部信濃守と称して居る家柄であったから、南部氏の津軽家に対し一族の裏切者として深怨を含んで居る事も無理のない事と思う。なお、津軽家はその遠祖を藤原、近衛家などに求めているが、現在より見ては、必ずしも吾等を首肯せしむる根本証拠を伴うて居るものではない。南部氏に非ず、との弁護の立場を取って居る可足記の如きも、甚だ力弱い論旨を示して居る。古くは津軽に於いても高屋家記の如きは、大浦氏を以て南部家の支族とし、木立日記にも『南部様津軽様御家は御一体なり』と云い、近来出版になった読史備要等も為信を久慈氏(南部氏一族)として居る事に対し、それを否定すべき確実なる資料は、今のところ無いように思う。しかし津軽には過去にこそ南部の血統もあり、また被官ではあっても、血統の他の一面にはどんな由緒のものもないとは云えない。」と喜田博士同様、断乎たる結論は避けている。それを簡明直截に疑わず規定しているのは、日本百科大辞典だけであったから、一つの参考としてこの章のはじめに載せて置いた。 以上くだくだしく述べて来たが、考えてみると、津軽というのは、日本全国から見てまことに渺たる存在である。芭蕉の「奥の細道」には、その出発に当り、「前途三千里のおもい胸にふさがりて」と書いてあるが、それだって北は平泉、いまの岩手県の南端に過ぎない。青森県に到達するには、その二倍歩かなければならぬ。そうして、その青森県の日本海寄りの半島たった一つが津軽なのである。昔の津軽は、全流程二十二里八町の岩木川に沿うてひらけた津軽平野を中心に、東は青森、浅虫あたり迄、西は日本海々岸を北から下ってせいぜい深浦あたり迄、そうして南は、まあ弘前迄といっていいだろう。分家の黒石藩が南にあるが、この辺にはまた黒石藩としての独自の伝統もあり、津軽藩とちがった所謂文化的な気風も育成せられているようだから、これは除いて、そうして、北端は竜飛である。まことに心細いくらいに狭い。これでは、中央の歴史に相手にされなかったのも無理はないと思われて来る。私は、その「道の奥」の奥の極点の宿で一夜を明し、翌る日、やっぱりまだ船が出そうにも無いので、前日歩いて来た路をまた歩いて三厩まで来て、三厩で昼食をとり、それからバスでまっすぐに蟹田のN君の家へ帰って来た。歩いてみると、しかし、津軽もそんなに小さくはない。その翌々日の昼頃、私は定期船でひとり蟹田を発ち、青森の港に着いたのは午後の三時、それから奥羽線で川部まで行き、川部で五能線に乗りかえて五時頃五所川原に着き、それからすぐ津軽鉄道で津軽平野を北上し、私の生れた土地の金木町に着いた時には、もう薄暗くなっていた。蟹田と金木と相隔たる事、四角形の一辺に過ぎないのだが、その間に梵珠山脈があって山中には路らしい路も無いような有様らしいので、仕方なく四角形の他の三辺を大迂回して行かなければならぬのである。金木の生家に着いて、まず仏間へ行き、嫂がついて来て仏間の扉を一ぱいに開いてくれて、私は仏壇の中の父母の写真をしばらく眺め、ていねいにお辞儀をした。それから、常居《じょい》という家族の居間にさがって、改めて嫂に挨拶した。 「いつ、東京を?」と嫂は聞いた。 私は東京を出発する数日前、こんど津軽地方を一周してみたいと思っていますが、ついでに金木にも立寄り、父母の墓参をさせていただきたいと思っていますから、その折にはよろしくお願いします、というような葉書を嫂に差上げていたのである。 「一週間ほど前です。東海岸で、手間どってしまいました。蟹田のN君には、ずいぶんお世話になりました。」N君の事は、嫂も知っている筈だった。 「そう。こちらではまた、お葉書が来ても、なかなかご本人がお見えにならないので、どうしたのかと心配していました。陽子や光《みっ》ちゃんなどは、とても待って、毎日交代に停車場へ出張していたのですよ。おしまいには、怒って、もう来たって知らない、と言っていた人もありました。」 陽子というのは長兄の長女で、半年ほど前に弘前の近くの地主の家へお嫁に行き、その新郎と一緒にちょいちょい金木へ遊びに来るらしく、その時も、お二人でやって来ていたのである。光ちゃんというのは、私たちの一ばん上の姉の末娘で、まだ嫁がず金木の家へいつも手伝いに来ている素直な子である。その二人の姪が、からみ合いながら、えへへ、なんておどけた笑い方をして出て来て、酒飲みのだらしない叔父さんに挨拶した。陽子は女学生みたいで、まだ少しも奥さんらしくない。 「おかしい恰好。」と私の服装をすぐに笑った。 「ばか。これが、東京のはやりさ。」 嫂に手をひかれて、祖母も出て来た。八十八歳である。 「よく来た。ああ、よく来た。」と大声で言う。元気な人だったが、でも、さすがに少し弱って来ているようにも見えた。 「どうしますか。」と嫂は私に向って、「ごはんは、ここで食べますか。二階に、みんないるんですけど。」 陽子のお婿さんを中心に、長兄や次兄が二階で飲みはじめている様子である。 兄弟の間では、どの程度に礼儀を保ち、またどれくらい打ち解けて無遠慮にしたらいいものか、私にはまだよくわかっていない。 「お差支えなかったら、二階へ行きましょうか。」ここでひとりで、ビールなど飲んでいるのも、いじけているみたいで、いやらしい事だと思った。 「どちらだって、かまいませんよ。」嫂は笑いながら、「それじゃ、二階へお膳を。」と光ちゃんたちに言いつけた。 私はジャンパー姿のままで二階に上って行った。金襖の一ばんいい日本間《にほんま》で、兄たちは、ひっそりお酒を飲んでいた。私はどたばたとはいり、 「修治です。はじめて。」と言って、まずお婿さんに挨拶して、それから長兄と次兄に、ごぶさたのお詫びをした。長兄も次兄も、あ、と言って、ちょっと首肯いたきりだった。わが家の流儀である。いや、津軽の流儀と言っていいかも知れない。私は慣れているので平気でお膳について、光ちゃんと嫂のお酌で、黙ってお酒を飲んでいた。お婿さんは、床柱をうしろにして坐って、もうだいぶお顔が赤くなっている。兄たちも、昔はお酒に強かったようだが、このごろは、めっきり弱くなったようで、さ、どうぞ、もうひとつ、いいえ、いけません、そちらさんこそ、どうぞ、などと上品にお互いゆずり合っている。外ヶ浜で荒っぽく飲んで来た私には、まるで竜宮か何か別天地のようで、兄たちと私の生活の雰囲気の差異に今更のごとく愕然とし、緊張した。 「蟹は、どうしましょう。あとで?」と嫂は小声で私に言った。私は蟹田の蟹を少しお土産に持って来たのだ。 「さあ。」蟹というものは、どうも野趣がありすぎて上品のお膳をいやしくする傾きがあるので私はちょっと躊躇した。嫂も同じ気持だったのかも知れない。 「蟹?」と長兄は聞きとがめて、「かまいませんよ。持って来なさい。ナプキンも一緒に。」 今夜は、長兄もお婿さんがいるせいか、機嫌がいいようだ。 蟹が出た。 「おあがり、なさいませんか。」と長兄はお婿さんにもすすめて、自身まっさきに蟹の甲羅をむいた。 私は、ほっとした。 「失礼ですが、どなたです。」お婿さんは、無邪気そうな笑顔で私に言った。はっと思った。無理もないとすぐに思い直して、 「はあ、あのう、英治さん(次兄の名)の弟です。」と笑いながら答えたが、しょげてしまって、これあ、英治さんの名前を出してもいけなかったかしら、と卑屈に気を使って、次兄の顔色を伺ったが、次兄は知らん顔をしているので、取りつく島も無かった。ま、いいや、と私は膝を崩して、光ちゃんに、こんどはビールをお酌させた。 金木の生家では、気疲れがする。また、私は後で、こうして書くからいけないのだ。肉親を書いて、そうしてその原稿を売らなければ生きて行けないという悪い宿業を背負っている男は、神様から、そのふるさとを取りあげられる。所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て慕い、あちこちうろつき、そうして死ぬのかも知れない。 翌る日は、雨であった。起きて二階の長兄の応接間へ行ってみたら、長兄はお婿さんに絵を見せていた。金屏風が二つあって、一つには山桜、一つには田園の山水とでもいった閑雅な風景が画かれている。私は落款を見た。が、読めなかった。 「誰です。」と顔を赤らめ、おどおどしながら聞いた。 「スイアン。」と兄は答えた。 「スイアン。」まだわからなかった。 「知らないのか。」兄は別に叱りもせず、おだやかにそう言って、「百穂のお父さんです。」 「へえ?」百穂のお父さんもやっぱり画家だったという事は聞いて知っていたが、そのお父さんが穂庵《すいあん》という人で、こんないい絵をかくとは知らなかった。私だって、絵はきらいではないし、いや、きらいどころか、かなり通《つう》のつもりでいたのだが、穂庵を知らなかったとは、大失態であった。屏風をひとめ見て、おや? 穂庵、と軽く言ったなら、長兄も少しは私を見直したかも知れなかったのに、間抜けた声で、誰です、は情ない。取返しのつかぬ事になってしまった、と身悶えしたが、兄は、そんな私を問題にせず、 「秋田には、偉い人がいます。」とお婿さんに向って低く言った。 「津軽の綾足《あやたり》はどうでしょう。」名誉恢復と、それから、お世辞のつもりもあって、私は、おっかなびっくり出しゃばってみた。津軽の画家といえば、まあ、綾足くらいのものらしいが、実はこれも、この前に金木へ来た時、兄の持っている綾足の画を見せてもらって、はじめて、津軽にもこんな偉い画家がいたという事を知った次第なのである。 「あれは、また、べつのもので。」と兄は全く気乗りのしないような口調で呟いて、椅子に腰をおろした。私たちは皆、立って屏風の絵を眺めていたのだが、兄が坐ったので、お婿さんもそれと向い合った椅子に腰をかけ、私は少し離れて、入口の傍のソフアに腰をおろした。 「この人などは、まあ、これで、ほんすじでしょうから。」とやはりお婿さんのほうを向いて言った。兄は前から、私には、あまり直接話をしない。 そう言えば、綾足のぼってりした重量感には、もう少しどうかするとゲテモノに落ちそうな不安もある。 「文化の伝統、といいますか、」兄は背中を丸めてお婿さんの顔を見つめ、「やっぱり、秋田には、根強いものがあると思います。」 「津軽は、だめか。」何を言っても、ぶざまな結果になるので、私はあきらめて、笑いながらひとりごとを言った。 「こんど、津軽の事を何か書くんだって?」と兄は、突然、私に向って話しかけた。 「ええ、でも、何も、津軽の事なんか知らないので、」と私はしどろもどろになり、「何か、いい参考書でも無いでしょうか。」 「さあ、」と兄は笑い、「わたしも、どうも、郷土史にはあまり興味が無いので。」 「津軽名所案内といったような極く大衆的な本でも無いでしょうか。まるで、もう、何も知らないのですから。」 「無い、無い。」と兄は私のずぼらに呆れたように苦笑しながら首を振って、それから立ち上ってお婿さんに、 「それじゃあ、わたしは農会へちょっと行って来ますから、そこらにある本でも御覧になって、どうも、きょうはお天気がわるくて。」と言って出かけて行った。 「農会も、いま、いそがしいのでしょうね。」と私はお婿さんに尋ねた。 「ええ、いま、ちょうど米の供出割当の決定があるので、たいへんなのです。」とお婿さんは若くても、地主だから、その方面の事はよく知っている。いろいろこまかい数字を挙げて説明してくれたが、私には、半分もわからなかった。 「僕などは、いままで米の事などむきになって考えた事は無かったようなものなのですが、でも、こんな時代になって来ると、やはり汽車の窓から水田をそれこそ、わが事のように一喜一憂して眺めているのですね。ことしは、いつまでも、こんなにうすら寒くて、田植えもおくれるんじゃないでしょうか。」私は、れいに依って専門家に向い、半可通を振りまわした。 「大丈夫でしょう。このごろは寒ければ寒いで、対策も考えて居りますから。苗の発育も、まあ、普通のようです。」 「そうですか。」と私は、もっともらしい顔をして首肯き、「僕の知識は、きのう汽車の窓からこの津軽平野を眺めて得ただけのものなのですが、馬耕というんですか、あの馬に挽かせて田を打ちかえすあれを、牛に挽かせてやっているのがずいぶん多いようですね。僕たちの子供の頃には、馬耕に限らず、荷車を挽かせるのでも何でも、全部、馬で、牛を使役するという事は、ほとんど無かったんですがね。僕なんか、はじめて東京へ行った時、牛が荷車を挽いているのを見て、奇怪に感じた程です。」 「そうでしょう。馬はめっきり少くなりました。たいてい、出征したのです。それから、牛は飼養するのに手数がかからないという関係もあるでしょうね。でも、仕事の能率の点では、牛は馬の半分、いや、もっともっと駄目かも知れません。」 「出征といえば、もう、——」 「僕ですか? もう、二度も令状をいただきましたが、二度とも途中でかえされて、面目ないんです。」健康な青年の、くったくない笑顔はいいものだ。「こんどは、かえされたくないと思っているんですが。」自然な口調で、軽く言った。 「この地方に、これは偉い、としんから敬服出来るような、隠れた大人物がいないものでしょうか。」 「さあ、僕なんかには、よくわかりませんけど、篤農家などと言われている人の中に、ひょっとしたら、あるんじゃないでしょうか。」 「そうでしょうね。」私は大いに同感だった。「僕なんかも、理窟は下手だし、まあ篤文家とでもいったような痴《こけ》の一念で生きて行きたいと思っているのですが、どうも、つまらぬ虚栄などもあって、常識的な、きざったらしい事になってしまって、ものになりません。しかし、篤農家も、篤農家としてあまり大きいレッテルをはられると、だめになりはしませんか。」 「そう。そうです。新聞社などが無責任に矢鱈に騒ぎ立て、ひっぱり出して講演をさせたり何かするので、せっかくの篤農家も妙な男になってしまうのです。有名になってしまうと、駄目になります。」 「まったくですね。」私はそれにも同感だった。「男って、あわれなものですからね。名声には、もろいものです。ジャアナリズムなんて、もとをただせば、アメリカあたりの資本家の発明したもので、いい加減なものですからね。毒薬ですよ。有名になったとたんに、たいてい腑抜けになっていますからね。」私は、へんなところで自分の一身上の鬱憤をはらした。こんな不平家は、しかし、そうは言っても、内心では有名になりたがっているというような傾向があるから、注意を要する。 ひるすぎ、私は傘さして、雨の庭をひとりで眺めて歩いた。一木一草も変っていない感じであった。こうして、古い家をそのまま保持している兄の努力も並たいていではなかろうと察した。池のほとりに立っていたら、チャボリと小さい音がした。見ると、蛙が飛び込んだのである。つまらない、あさはかな音である。とたんに私は、あの、芭蕉翁の古池の句を理解できた。私には、あの句がわからなかった。どこがいいのか、さっぱり見当もつかなかった。名物にうまいものなし、と断じていたが、それは私の受けた教育が悪かったせいであった。あの古池の句に就いて、私たちは学校で、どんな説明を与えられていたか。森閑たる昼なお暗きところに蒼然たる古池があって、そこに、どぶうんと(大川へ身投げじゃあるまいし)蛙が飛び込み、ああ、余韻嫋々、一鳥蹄きて山さらに静かなりとはこの事だ、と教えられていたのである。なんという、思わせぶりたっぷりの、月並《つきなみ》な駄句であろう。いやみったらしくて、ぞくぞくするわい。鼻持ちならん、と永い間、私はこの句を敬遠していたのだが、いま、いや、そうじゃないと思い直した。どぶうん、なんて説明をするから、わからなくなってしまうのだ。余韻も何も無い。ただの、チャボリだ。謂わば世の中のほんの片隅の、実にまずしい音なのだ。貧弱な音なのだ。芭蕉はそれを聞き、わが身につまされるものがあったのだ。古池や蛙飛び込む水の音。そう思ってこの句を見直すと、わるくない。いい句だ。当時の檀林派のにやけたマンネリズムを見事に蹴飛ばしている。謂わば破格の着想である。月も雪も花も無い。風流もない。ただ、まずしいものの、まずしい命だけだ。当時の風流宗匠たちが、この句に愕然としたわけも、それでよくわかる。在来の風流の概念の破壊である。革新である。いい芸術家は、こう来なくっちゃ嘘だ、とひとりで興奮して、その夜、旅の手帖にこう書いた。 「山吹や蛙飛び込む水の音。其角、ものかは。なんにも知らない。われと来て遊べや親の無い雀。すこし近い。でも、あけすけでいや味《み》。古池や、無類なり。」 翌る日は、上天気だった。姪の陽子と、そのお婿さんと、私と、それからアヤが皆のお弁当を背負って、四人で、金木町から一里ほど東の高流《たかながれ》と称する二百メートル足らずの、なだらかな小山に遊びに行った。アヤ、と言っても、女の名前ではない。じいや、という程の意味である。お父さん、という意味にも使われる。アヤに対する Femme は、アパである。アバとも言う。どういうところから、これらの言葉が起って来たのか、私には、わからない。オヤ、オバの訛りか、などと当てずっぽうしてみたってはじまらない。諸家の諸説がある事であろう。高流という山の名前も、姪の説に依ると、高長根《たかながね》というのが正しい呼び方で、なだらかに裾のひろがっているさまが、さながら長根の感じとか何とかという事であったが、これにもまた諸家の諸説があるのであろう。諸家の諸説が紛々として帰趨の定まらぬところに、郷土学の妙味がある様子である。姪とアヤは、お弁当や何かで手間取っているので、お婿さんと私とだけ、一足さきに家を出た。よい天気である。津軽の旅行は、五、六月に限る。れいの「東遊記」にも、「昔より北地に遊ぶ人は皆夏ばかりなれば、草木も青み渡り、風も南風に変り、海づらものどかなれば、恐ろしき名にも立ざる事と覚ゆ。我北地に到りしは、九月より三月の頃なれば、途中にて旅人には絶えて逢う事なかりし。我旅行は医術修行の為なれば、格別の事なり。只名所をのみ探らんとの心にて行く人は必ず四月以後に行くべき国なり。」としてあるが、旅行の達人の言として、読者もこれだけは信じて、覚えて置くがよい。津軽では、梅、桃、桜、林檎、梨、すもも、一度にこの頃、花が咲くのである。自信ありげに、私が先に立って町はずれまで歩いて来たが、高流へ行く路がわからない。小学校の頃に二、三度行った事があるきりなのだから、忘れるのも無理はないとも思ったが、しかし、その辺の様子が、幼い頃の記憶とまるで違っている。私は当惑して、 「停車場や何か出来て、この辺は、すっかり変って、高流には、どう行けばいいのか、わからなくなりました。あの山なんですがね。」と私は、前方に見える、への字形に盛りあがった薄みどり色の丘陵を指差して言った。「この辺で、少しぶらぶらして、アヤたちを待つ事にしましょう。」とお婿さんに笑いながら提案した。 「そうしましょう。」とお婿さんも笑いながら、「この辺に、青森県の修錬農場があるとか聞きましたけど。」私よりも、よく知っている。 「そうですか。捜してみましょう。」 修錬農場は、その路から半丁ほど右にはいった小高い丘の上にあった。農村中堅人物の養成と拓士訓練の為に設立せられたもののようであるが、この本州の北端の原野に、もったいないくらいの堂々たる設備である。秩父の宮様が弘前の八師団に御勤務あそばされていらっしゃった折に、かしこくも、この農場にひとかたならず御助勢下されたとか、講堂もその御蔭で、地方稀に見る荘厳の建物になって、その他、作業場あり、家畜小屋あり、肥料蓄積所、寄宿舎、私は、ただ、眼を丸くして驚くばかりであった。 「へえ? ちっとも、知らなかった。金木には過ぎたるものじゃないですか。」そう言いながら、私は、へんに嬉しくて仕方が無かった。やっぱり自分の生れた土地には、ひそかに、力こぶをいれているものらしい。 農場の入口に、大きい石碑が立っていて、それには、昭和十年八月、朝香宮様の御成、同年九月、高松宮様の御成、同年十月、秩父宮様ならびに同妃宮様の御成、昭和十三年八月に秩父宮様ふたたび御成、という幾重もの光栄を謹んで記しているのである。金木町の人たちは、この農場を、もっともっと誇ってよい。金木だけではない、これは、津軽平野の永遠の誇りであろう。実習地とでもいうのか、津軽の各部落から選ばれた模範農村青年たちの作った畑や果樹園、水田などが、それらの建築物の背後に、実に美しく展開していた。お婿さんはあちこち歩いて耕地をつくづく眺め、 「たいしたものだなあ。」と溜息をついて言った。お婿さんは地主だから、私などより、ずいぶんいろいろ、わかるところがあるのであろう。 「や! 富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではなかった。津軽富士と呼ばれている一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふわりと浮んでいる。実際、軽く浮んでいる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもっと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏《いちょう》の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮んでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとおるくらいに嬋娟たる美女ではある。 「金木も、どうも、わるくないじゃないか。」私は、あわてたような口調で言った。「わるくないよ。」口をとがらせて言っている。 「いいですな。」お婿さんは落ちついて言った。 私はこの旅行で、さまざまの方面からこの津軽富士を眺めたが、弘前から見るといかにも重くどっしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思う一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかった。西海岸から見た山容は、まるで駄目である。崩れてしまって、もはや美人の面影は無い。岩木山の美しく見える土地には、米もよくみのり、美人も多いという伝説もあるそうだが、米のほうはともかく、この北津軽地方は、こんなにお山が綺麗に見えながら、美人のほうは、どうも、心細いように、私には見受けられたが、これは或いは私の観察の浅薄なせいかも知れない。 「アヤたちは、どうしたでしょうね。」ふっと私は、その事が心配になり出した。「どんどんさきに行ってしまったんじゃないかしら。」アヤたちの事を、つい忘却しているほど、私たちは、修錬農場の設備や風景に感心してしまっていたのである。私たちは、もとの路に引返して、あちこち見廻していると、アヤが、思いがけない傍系の野路からひょっこり出て来て、わしたちは、いままであなたたちを手わけしてさがしていた、と笑いながら言う。アヤは、この辺の野原を捜し廻り、姪は、高流へ行く路をまっすぐにどんどん後を追っかけるようにして行ったという。 「そいつあ気の毒だったな。陽ちゃんは、それじゃあ、ずいぶん遠くまで行ってしまったろうね。おうい。」と前方に向って大声で呼んだが、何の返辞も無い。 「まいりましょう。」とアヤは背中の荷物をゆすり上げて、「どうせ、一本道ですから。」 空には雲雀がせはしく囀っている。こうして、故郷の春の野路を歩くのも、二十年振りくらいであろうか。一面の芝生で、ところどころに低い灌木の繁みがあったり、小さい沼があったり、土地の起伏もゆるやかで、一昔前だったら都会の人たちは、絶好のゴルフ場とでも言ってほめたであろう。しかも、見よ、いまはこの原野にも着々と開墾の鍬が入れられ、人家の屋根も美しく光り、あれが更生部落、あれが隣村の分村、とアヤの説明を聞きながら、金木も発展して、賑やかになったものだと、しみじみ思った。そろそろ、山の登り坂にさしかかっても、まだ姪の姿が見えない。 「どうしたのでしょうね。」私は、母親ゆずりの苦労性である。 「いやあ、どこかにいるでしょう。」新郎は、てれながらも余裕を見せた。 「とにかく、聞いてみましょう。」私は路傍の畑で働いているお百姓さんに、スフの帽子をとってお辞儀をして、「この路を、洋服を着た若いアネサマがとおりませんでしたか。」と尋ねた。とおった、という答えである。何だか、走るように、ひどくいそいでとおったという。春の野路を、走るようにいそいで新郎の後を追って行く姪の姿を想像して、わるくないと思った。しばらく山を登って行くと、並木の落葉松の蔭に姪が笑いながら立っていた。ここまで追っかけて来てもいないから、あとから来るのだろうと思って、ここでワラビを取っていたという。別に疲れた様子も見えない。この辺は、ワラビ、ウド、アザミ、タケノコなど山菜の宝庫らしい。秋には、初茸《はつたけ》、土かぶり、なめこなどのキノコ類が、アヤの形容に依れば「敷《し》かさっているほど」一ぱい生えて、五所川原、木造あたりの遠方から取りに来る人もあるという。 「陽ちゃまは、きのこ取りの名人です。」と言い添えた。また、山を登りながら、 「金木へ、宮様がおいでになったそうだね。」と私が言うと、アヤは、改まった口調で、はい、と答えた。 「ありがたい事だな。」 「はい。」と緊張している。 「よく、金木みたいなところに、おいで下さったものだな。」 「はい。」 「自動車で、おいでになったか。」 「はい。自動車でおいでになりました。」 「アヤも、拝んだか。」 「はい。拝ませていただきました。」 「アヤは、仕合せだな。」 「はい。」と答えて、首筋に巻いているタオルで顔の汗を拭いた。 鶯が鳴いている。スミレ、タンポポ、野菊、ツツジ、白ウツギ、アケビ、野バラ、それから、私の知らない花が、山路の両側の芝生に明るく咲いている。背の低い柳、カシハも新芽を出して、そうして山を登って行くにつれて、笹がたいへん多くなった。二百メートルにも足りない小山であるが、見晴しはなかなかよい。津軽平野全部、隅から隅まで見渡す事が出来ると言いたいくらいのものであった。私たちは立ちどまって、平野を見下し、アヤから説明を聞いて、また少し歩いて立ちどまり、津軽富士を眺めてほめて、いつのまにやら、小山の頂上に到達した。 「これが頂上か。」私はちょっと気抜けして、アヤに尋ねた。 「はい、そうです。」 「なあんだ。」とは言ったものの、眼前に展開している春の津軽平野の風景には、うっとりしてしまった。岩木川が細い銀線みたいに、キラキラ光って見える。その銀線の尽きるあたりに、古代の鏡のように鈍く光っているのは、田光《たっぴ》沼であろうか。さらにその遠方に模糊と煙るが如く白くひろがっているのは、十三湖らしい。十三湖あるいは十三|潟《がた》と呼ばれて、「津軽大小の河水凡そ十有三の派流、この地に落合いて大湖となる。しかも各河川固有の色を失わず。」と「十三往来」に記され、津軽平野北端の湖で、岩木川をはじめ津軽平野を流れる大小十三の河川がここに集り、周囲は約八里、しかし、河川の運び来る土砂の為に、湖底は浅く、最も深いところでも三メートルくらいのものだという。水は、海水の流入によって鹹水であるが、岩木川からそそぎ這入る河水も少くないので、その河口のあたりは淡水で、魚類も淡水魚と鹹水魚と両方宿り住んでいるという。湖が日本海に開いている南口に、十三という小さい部落がある。この辺は、いまから七、八百年も前からひらけて、津軽の豪族、安東氏の本拠であったという説もあり、また江戸時代には、その北方の小泊港と共に、津軽の木材、米穀を積出し、殷盛を極めたとかいう話であるが、いまはその一片の面影も無いようである。その十三湖の北に権現崎が見える。しかし、この辺から、国防上重要の地域にはいる。私たちは眼を転じて、前方の岩木川のさらに遠方の青くさっと引かれた爽やかな一線を眺めよう。日本海である。七里長浜、一眸の内である。北は権現崎より、南は大戸瀬崎まで、眼界を遮ぎる何物も無い。 「これはいい。僕だったら、ここへお城を築いて、」と言いかけたら、 「冬はどうします?」と陽子につっ込まれて、ぐっとつまった。 「これで、雪が降らなければなあ。」と私は、幽かな憂鬱を感じて歎息した。 山の陰の谷川に降りて、河原で弁当をひらいた。渓流にひやしたビールは、わるくなかった。姪とアヤは、リンゴ液を飲んだ。そのうちに、ふと私は見つけた。 「蛇!」 お婿さんは脱ぎ捨てた上衣をかかえて腰をうかした。 「大丈夫、大丈夫。」と私は谷川の対岸の岩壁を指差して言った。「あの岩壁に這い上ろうとしているのです。」奔湍から首をぬっと出して、見る見る一尺ばかり岩壁によじ登りかけては、はらりと落ちる。また、するすると登りかけては、落ちる。執念深く二十回ほどそれを試みて、さすがに疲れてあきらめたか、流れに押流されるようにして長々と水面にからだを浮かせたままこちらの岸に近づいて来た。アヤは、この時、立ち上った。一間ばかりの木の枝を持ち、黙って走って行って、ざんぶと渓流に突入し、ずぶりとやった。私たちは眼をそむけ、 「死んだか、死んだか。」私は、あわれな声を出した。 「片附けました。」アヤは、木の枝も一緒に渓流にほうり投げた。 「まむしじゃないか。」私は、それでも、まだ恐怖していた。 「まむしなら、生捕りにしますが、いまのは、青大将でした。まむしの生胆は薬になります。」 「まむしも、この山にいるのかね。」 「はい。」 私は、浮かぬ気持で、ビールを飲んだ。 アヤは、誰よりも早くごはんをすまして、それから大きい丸太を引ずって来て、それを渓流に投げ入れ、足がかりにして、ひょいと対岸に飛び移った。そうして、対岸の山の絶壁によじ登り、ウドやアザミなど、山菜を取り集めている様子である。 「あぶないなあ。わざわざ、あんな危いところへ行かなくったって、他のところにもたくさん生えているのに。」私は、はらはらしながらアヤの冒険を批評した。「あれはきっと、アヤは興奮して、わざとあんな危いところへ行き、僕たちにアヤの勇敢なところを大いに見せびらかそうという魂胆に違いない。」 「そうよ、そうよ。」と姪も大笑いしながら、賛成した。 「アヤあ!」と私は大声で呼びかけた。「もう、いい。あぶないから、もう、いい。」 「はい。」とアヤは答えて、するすると崖から降りた。私は、ほっとした。 帰りは、アヤの取り集めた山菜を、陽子が背負った。この姪は、もとから、なりも振りも、あまりかまわない子であった。帰途は、外ヶ浜に於ける「いまだ老いざる健脚家」も、さすがに疲れて、めっきり無口になってしまった。山から降りたら、郭公が鳴いている。町はずれの製材所には、材木がおびただしく積まれていて、トロッコがたえず右往左往している。ゆたかな里の風景である。 「金木も、しかし、活気を呈して来ました。」と、私はぽつんと言った。 「そうですか。」お婿さんも、少し疲れたらしい。もの憂そうに、そう言った。 私は急にてれて、 「いやあ、僕なんかには、何もわかりゃしませんけど、でも、十年前の金木は、こうじゃなかったような気がします。だんだん、さびれて行くばかりの町のように見えました。いまのようじゃなかった。いまは何か、もりかえしたような感じがします。」 家へ帰って兄に、金木の景色もなかなかいい、思いをあらたにしました、と言ったら、兄は、としをとると自分の生れて育った土地の景色が、京都よりも奈良よりも、佳くはないか、と思われて来るものです、と答えた。 翌る日は前日の一行に、兄夫婦も加はって、金木の東南方一里半くらいの、鹿の子川溜池というところへ出かけた。出発真際に、兄のところへお客さんが見えたので、私たちだけ一足さきに出かけた。モンペに白足袋に草履といういでたちであった。二里ちかくも遠くへ出歩くなどは、嫂にとって、金木へお嫁に来てはじめての事かも知れない。その日も上天気で、前日よりさらに暖かかった。私たちは、アヤに案内されて金木川に沿うて森林鉄道の軌道をてくてく歩いた。軌道の枕木の間隔が、一歩には狭く、半歩には広く、ひどく意地悪く出来ていて、甚だ歩きにくかった。私は疲れて、早くも無口になり、汗ばかり拭いていた。お天気がよすぎると、旅人はぐったりなって、かえって意気があがらぬもののようである。 「この辺が、大水の跡です。」アヤは、立ちどまって説明した。川の附近の田畑数町歩一面に、激戦地の跡もかくやと思わせるほど、巨大の根株や、丸太が散乱している。その前のとし、私の家の八十八歳の祖母も、とんと経験が無い、と言っているほどの大洪水がこの金木町を襲ったのである。 「この木が、みんな山から流されて来たのです。」と言って、アヤは悲しそうな顔をした。 「ひどいなあ。」私は汗を拭きながら、「まるで、海のようだったろうね。」 「海のようでした。」 金木川にわかれて、こんどは鹿《か》の子川に沿うてしばらくのぼり、やっと森林鉄道の軌道から解放されて、ちょっと右へはいったところに、周囲半里以上もあるかと思われる大きい溜池が、それこそ一鳥啼いて更に静かな面持ちで、蒼々満々と水を湛えている。この辺は、荘右衛門沢という深い谷間だったそうであるが、谷間の底の鹿の子川をせきとめて、この大きい溜池を作ったのは、昭和十六年、つい最近の事である。溜池のほとりの大きい石碑には、兄の名前も彫り込まれていた。溜池の周囲に工事の跡の絶壁の赤土が、まだ生々しく露出しているので、所謂天然の荘厳を欠いてはいるが、しかし、金木という一部落の力が感ぜられ、このような人為の成果というものも、また、快適な風景とせざるを得ない、などと、おっちょこちょいの旅の批評家は、立ちどまって煙草をふかし、四方八方を眺めながら、いい加減の感想をまとめていた。私は自信ありげに、一同を引率し、溜池のほとりを歩いて、 「ここがいい。この辺がいい。」と言って池の岬の木蔭に腰をおろした。「アヤ、ちょっと調べてくれ。これは、ウルシの木じゃないだろうな。」ウルシにかぶれては、私はこのさき旅をつづけるのに、憂鬱でたまらないだろう。ウルシの木ではないと言う。 「じゃあ、その木は。なんだか、あやしい木だ。調べてくれ。」みんなは笑っていたが、私は真面目であった。それも、ウルシの木ではないと言う。私は全く安心して、この場所で弁当をひらく事にきめた。ビールを飲みながら、私はいい機嫌で少しおしゃべりをした。私は小学校二、三年の時、遠足で金木から三里半ばかり離れた西海岸の高山というところへ行って、はじめて海を見た時の興奮を話した。その時には引率の先生がまっさきに興奮して、私たちを海に向けて二列横隊にならばせ、「われは海の子」という唱歌を合唱させたが、生れてはじめて海を見たくせに、われは海の子白波の騒ぐ磯辺の松原に、とかいう海岸生れの子供の歌をうたうのは、いかにも不自然で、私は子供心にも恥かしく落ちつかない気持であった。そうして、私はその遠足の時には、奇妙に服装に凝って、鍔のひろい麦藁帽に兄が富士登山の時に使った神社の焼印の綺麗に幾つも押されてある白木の杖、先生から出来るだけ身軽にして草鞋、と言われたのに私だけ不要の袴を着け、長い靴下に編上の靴をはいて、なよなよと媚を含んで出かけたのだが、一里も歩かぬうちに、もうへたばって、まず袴と靴をぬがせられ、草履、といっても片方は赤い緒の草履、片方は藁の緒の草履という、片ちんばの、すり切れたみじめな草履をあてがわれ、やがて帽子も取り上げられ、杖もおあずけ、とうとう病人用として学校で傭って行った荷車に載せられ、家へ帰った時の恰好ったら、出て行く時の輝かしさの片影も無く、靴を片手にぶらさげ、杖にすがり、などと私は調子づいて話して皆を笑わせていると、 「おうい。」と呼ぶ声。兄だ。 「おうい。」と私たちも口々に呼んだ。アヤは走って迎えに行った。やがて、兄は、ピッケルをさげて現われた。私はありったけのビールをみな飲んでしまっていたので、甚だ具合がわるかった。兄は、すぐにごはんを食べ、それから皆で、溜池の奥の方へ歩いて行った。バサッと大きい音がして、水鳥が池から飛び立った。私とお婿さんとは顔を見合せ、意味も無く、うなづき合った。雁だか鴨だか、口に出して言えるほどには、お互い自信がなかったようなふうなのだ。とにかく、野生の水鳥には違いなかった。深山幽谷の精気が、ふっと感ぜられた。兄は、背中を丸くして黙って歩いている。兄とこうして、一緒に外を歩くのも何年振りであろうか。十年ほど前、東京の郊外の或る野道を、兄はやはりこのように背中を丸くして黙って歩いて、それから数歩はなれて私は兄のそのうしろ姿を眺めては、ひとりでめそめそ泣きながら歩いた事があったけれど、あれ以来はじめての事かも知れない。私は兄から、あの事件に就いてまだ許されているとは思わない。一生、だめかも知れない。ひびのはいった茶碗は、どう仕様も無い。どうしたって、もとのとおりにはならない。津軽人は特に、心のひびを忘れない種族である。この後、もう、これっきりで、ふたたび兄と一緒に外を歩く機会は、無いのかも知れないとも思った。水の落ちる音が、次第に高く聞えて来た。溜池の端に、鹿の子滝という、この地方の名所がある。ほどなく、その五丈ばかりの細い滝が、私たちの脚下に見えた。つまり私たちは、荘右衛門沢の縁《へり》に沿うた幅一尺くらいの心細い小路を歩いているのであって、右手はすぐ屏風を立てたような山、左手は足もとから断崖になっていて、その谷底に滝壺がいかにも深そうな青い色でとぐろを巻いているのである。 「これは、どうも、目まいの気味です。」と嫂は、冗談めかして言って、陽子の手にすがりついて、おっかなそうに歩いている。 右手の山腹には、ツツジが美しく咲いている。兄はピッケルを肩にかついで、ツツジの見事に咲き誇っている箇所に来るたんびに、少し歩調をゆるめる。藤の花も、そろそろ咲きかけている。路は次第に下り坂になって、私たちは滝口に降りた。一間ほどの幅の小さい谷川で、流れのまんなかあたりに、木の根株が置かれてあり、それを足がかりにして、ひょいひょいと二歩で飛び越せるようになっている。ひとりひとり、ひょいひょいと飛び越した。嫂が、ひとり残った。 「だめです。」空言って笑うばかりで飛び越そうとしない。足がすくんで、前に出ない様子である。 「おぶってやりなさい。」と兄は、アヤに言いつけた。アヤが傍へ寄っても、嫂は、ただ笑って、だめだめと手を振るばかりだ。この時、アヤは怪力を発揮し、巨大の根っこを抱きかかえて来て、ざんぶとばかり滝口に投じた。まあ、どうやら、橋が出来た。嫂は、ちょっと渡りかけたが、やはり足が前にすすまないらしい。アヤの肩に手を置いて、やっと半分くらい渡りかけて、あとは川も浅いので、即席の橋から川へ飛び降りて、じゃぶじゃぶと水の中を歩いて渡ってしまった。モンペの裾も白足袋も草履も、びしょ濡れになった様子である。 「まるで、もう、高山帰りの姿です。」嫂は、私のさっきの高山へ遠足してみじめな姿で帰った話をふと思い出したらしく、笑いながらそう言って、陽子もお婿さんも、どっと笑ったら、兄は振りかえって、 「え? 何?」と聞いた。みんな笑うのをやめた。兄がへんな顔をしているので、説明してあげようかな、とも思ったが、あまり馬鹿々々しい話なので、あらたまって「高山帰り」の由来を説き起す勇気は私にも無かった。兄は黙って歩き出した。兄は、いつでも孤独である。 [#5字下げ][#中見出し]五 西海岸[#中見出し終わり] 前にも幾度となく述べて来たが、私は津軽に生れ、津軽に育ちながら、今日まで、ほとんど津軽の土地を知っていなかった。津軽の日本海方面の西海岸には、それこそ小学校二、三年の頃の「高山行き」以外、いちども行った事がない。高山というのは、金木からまっすぐ西に三里半ばかり行き車力《しゃりき》という人口五千くらいのかなり大きい村をすぎて、すぐ到達できる海浜の小山で、そこのお稲荷さんは有名なものだそうであるが、何せ少年の頃の記憶であるから、あの服装の失敗だけが色濃く胸中に残っているくらいのもので、あとはすべて、とりとめも無くぼんやりしてしまっている。この機会に、津軽の西海岸を廻ってみようという計画も前から私にあったのである。鹿の子川溜池へ遊びに行ったその翌日、私は金木を出発して五所川原に着いたのは、午前十一時頃、五所川原駅で五能線に乗りかえ、十分経つか経たぬかのうちに、木造《きづくり》駅に着いた。ここは、まだ津軽平野の内である。私は、この町もちょっと見て置きたいと思っていたのだ。降りて見ると、古びた閑散な町である。人口四千余りで、金木町より少いようだが、町の歴史は古いらしい。精米所の機械の音が、どっどっと、だるげに聞えて来る。どこかの軒下で、鳩が鳴いている。ここは、私の父が生れた土地なのである。金木の私の家では代々、女ばかりで、たいてい婿養子を迎えている。父はこの町のMという旧家の三男かであったのを、私の家から迎えられて何代目かの当主になったのである。この父は、私の十四の時に死んだのであるから、私はこの父の「人間」に就いては、ほとんど知らないと言わざるを得ない。また自作の「思い出」の中の一節を借りるが、「私の父は非常に忙しい人で、うちにいることがあまりなかった。うちにいても子供らと一緒には居らなかった。私は此の父を恐れていた。父の万年筆をほしがっていながらそれを言い出せないで、ひとり色々と思い悩んだ末、或る晩に床の中で眼をつぶったまま寝言のふりして、まんねんひつ、まんねんひつ、と隣部屋で客と対談中の父へ低く呼びかけた事があったけれど、勿論それは父の耳にも心にもはいらなかったらしい。私と弟とが米俵のぎっしり積まれたひろい米蔵に入って面白く遊んでいると、父が入口に立ちはだかって、坊主、出ろ、出ろ、と叱った。光を背から受けているので父の大きい姿がまっくろに見えた。私は、あの時の恐怖を惟うと今でも、いやな気がする。(中略)その翌春、雪のまだ深く積っていた頃、私の父は東京の病院で血を吐いて死んだ。ちかくの新聞社は父の訃を号外で報じた。私は父の死よりも、こういうセンセイションの方に興奮を感じた。遺族の名にまじって私の名も新聞に出ていた。父の死骸は大きい寝棺に横たはり橇に乗って故郷へ帰って来た。私は大勢のまちの人たちと一緒に隣村近くまで迎えに行った。やがて森の蔭から幾台となく続いた橇の幌が月光を受けつつ滑って出て来たのを眺めて私は美しいと思った。つぎの日、私のうちの人たちは父の寝棺の置かれてある仏間に集った。棺の蓋が取りはらわれるとみんな声をたてて泣いた。父は眠っているようであった。高い鼻筋がすっと青白くなっていた。私は皆の泣声を聞き、さそわれて涙を流した。」まあ、だいたいこんな事だけが父に関する記憶と言っていいくらいのもので、父が死んでからは、私は現在の長兄に対して父と同様のおっかなさを感じ、またそれゆえ安心して寄りかかってもいたし、父がいないから淋しいなどと思った事はいちども無かったのである。しかし、だんだんとしを取るにつれて、いったい父は、どんな性格の男だったのだろう、などと無礼な忖度をしてみるようになって、東京の草屋に於ける私の仮寝の夢にも、父があらわれ、実は死んだのではなくて或る政治上の意味で姿をかくしていたのだという事がわかり、思い出の父の面影よりは少し老い疲れていて、私はその姿をひどくなつかしく思ったり、夢の話はつまらないが、とにかく、父に対する関心は最近非常に強くなって来たのは事実である。父の兄弟は皆、肺がわるくて、父も肺結核ではないが、やはり何か呼吸器の障りで吐血などして死んだのである。五十三で死んで、私は子供心には、そのとしがたいへんな老齢のように感ぜられ、まず大往生と思っていたのだが、いまは五十三の死歿を頽齢の大往生どころか、ひどい若死にと考えるようになった。も少し父を生かして置いたら、津軽のためにも、もっともっと偉い事業をしたのかも知れん、などと生意気な事など考えている。その父が、どんな家に生れて、どんな町に育ったか、私はそれを一度見て置きたいと思っていたのだ。木造の町は、一本路の両側に家が立ち並んでいるだけだ。そうして、家々の背後には、見事に打返された水田が展開している。水田のところどころにポプラの並木が立っている。こんど津軽へ来て、私は、ここではじめてポプラを見た。他でもたくさん見たに違いないのであるが、木造《きづくり》のポプラほど、あざやかに記憶に残ってはいない。薄みどり色のポプラの若葉が可憐に微風にそよいでいた。ここから見た津軽富士も、金木から見た姿と少しも違わず、華奢で頗る美人である。このように山容が美しく見えるところからは、お米と美人が産出するという伝説があるとか。この地方は、お米はたしかに豊富らしいが、もう一方の、美人の件は、どうであろう。これも、金木地方と同様にちょっと心細いのではあるまいか。その件に関してだけは、あの伝説は、むしろ逆じゃないかとさえ私には疑われた。岩木山の美しく見える土地には、いや、もう言うまい。こんな話は、えてして差しさわりの多いものだから、ただ町を一巡しただけの、ひやかしの旅人のにわかに断定を下すべき筋合のものではないかも知れない。その日も、ひどくいい天気で、停車場からただまっすぐの一本街のコンクリート路の上には薄い春霞のようなものが、もやもや煙っていて、ゴム底の靴で猫のように足音も無くのこのこ歩いているうちに春の温気《うんき》にあてられ、何だか頭がぼんやりして来て、木造警察署の看板を、木造《もくぞう》警察署と読んで、なるほど木造《もくぞう》の建築物、と首肯き、はっと気附いて苦笑したりなどした。 木造《きづくり》は、また、コモヒの町である。コモヒというのは、むかし銀座で午後の日差しが強くなれば、各商店がこぞって店先に日よけの天幕を張ったろう、そうして、読者諸君は、その天幕の下を涼しそうな顔をして歩いたろう、そうして、これはまるで即席の長い廊下みたいだと思ったろう、つまり、あの長い廊下を、天幕なんかでなく、家々の軒を一間ほど前に延長させて頑丈に永久的に作ってあるのが、北国のコモヒだと思えば、たいして間違いは無い。しかも之は、日ざしをよけるために作ったのではない。そんな、しゃれたものではない。冬、雪が深く積った時に、家と家との聯絡に便利なように、各々の軒をくっつけ、長い廊下を作って置くのである。吹雪の時などには、風雪にさらされる恐れもなく、気楽に買い物に出掛けられるので、最も重宝だし、子供の遊び場としても東京の歩道のような危険はなし、雨の日もこの長い廊下は通行人にとって大助かりだろうし、また、私のように、春の温気にまいった旅人も、ここへ飛び込むと、ひやりと涼しく、店に坐っている人達からじろじろ見られるのは少し閉口だが、まあ、とにかく有難い廊下である。コモヒというのは、小店《こみせ》の訛りであると一般に信じられているようだが、私は、隠瀬《このせ》あるいは隠日《こもひ》とでもいう漢字をあてはめたほうが、早わかりではなかろうか、などと考えてひとりで悦にいっている次第である。そのコモヒを歩いていたら、M薬品問屋の前に来た。私の父の生れた家だ。立ち寄らず、そのままとおり過ぎて、やはりコモヒをまっすぐに歩いて行きながら、どうしようかなあ、と考えた。この町のコモヒは、実に長い。津軽の古い町には、たいていこのコモヒというものがあるらしいけれども、この木造町みたいに、町全部がコモヒに依って貫通せられているといったようなところは少いのではあるまいか。いよいよ木造は、コモヒの町にきまった。しばらく歩いて、ようやくコモヒも尽きたところで私は廻れ右して、溜息ついて引返した。私は今まで、Mの家に行った事は、いちども無い。木造町へ来た事も無い。或いは私の幼年時代に、誰かに連れられて遊びに来た事はあったかも知れないが、いまの私の記憶には何も残っていない。Mの家の当主は、私よりも四つ五つ年上の、にぎやかな人で、昔からちょいちょい金木へも遊びに来て私とは顔馴染である。私がいま、たずねて行っても、まさか、いやな顔はなさるまいが、どうも、しかし、私の訪ね方が唐突である。こんな薄汚いなりをして、Mさんしばらく、などと何の用も無いのに卑屈に笑って声をかけたら、Mさんはぎょっとして、こいついよいよ東京を食いつめて、金でも借りに来たんじゃないか、などと思やすまいか。死ぬまえにいちど、父の生れた家を見たくて、というのも、おそろしいくらいに気障《きざ》だ。男が、いいとしをして、そんな事はとても言えたもんじゃない。いっそこのまま帰ろうか、などと悶えて歩いているうちに、またもとのM薬品問屋の前に来た。もう二度と、来る機会はないのだ。恥をかいてもかまわない。はいろう。私は、とっさに覚悟をきめて、ごめん下さい、と店の奥のほうに声をかけた。Mさんが出て来て、やあ、ほう、これは、さあさあ、とたいへんな勢いで私には何も言わせず、引っぱり上げるように座敷へ上げて、床の間の前に無理矢理坐らせてしまった。ああ、これ、お酒、とお家の人たちに言いつけて、二、三分も経たぬうちに、もうお酒が出た。実に、素早かった。 「久し振り。久し振り。」とMさんはご自分でもぐいぐい飲んで、「木造は何年振りくらいです。」 「さあ、もし子供の時に来た事があるとすれば、三十年振りくらいでしょう。」 「そうだろうとも、そうだろうとも。さあさ、飲みなさい。木造へ来て遠慮する事はない。よく来た。実に、よく来た。」 この家の間取りは、金木の家の間取りとたいへん似ている。金木のいまの家は、私の父が金木へ養子に来て間もなく自身の設計で大改築したものだという話を聞いているが、何の事は無い、父は金木へ来て自分の木造の生家と同じ間取りに作り直しただけの事なのだ。私には養子の父の心理が何かわかるような気がして、微笑ましかった。そう思って見ると、お庭の木石の配置なども、どこやら似ている。私はそんなつまらぬ一事を発見しただけでも、死んだ父の「人間」に触れたような気がして、このMさんのお家へ立寄った甲斐があったと思った。Mさんは、何かと私をもてなそうとする。 「いや、もういいんだ。一時の汽車で、深浦へ行かなければいけないのです。」 「深浦へ? 何しに?」 「べつに、どうってわけも無いけど、いちど見て置きたいのです。」 「書くのか?」 「ええ、それもあるんだけど、」いつ死ぬかわからんし、などと相手に興覚めさせるような事は言えなかった。 「じゃあ、木造の事も書くんだな。木造の事を書くんだったらね、」とMさんは、少しもこだわるところがなく、「まず第一に、米の供出高を書いてもらいたいね。警察署管内の比較では、この木造署管内は、全国一だ。どうです、日本一ですよ。これは、僕たちの努力の結晶と言っても、差支え無いと思う。この辺一帯の田の、水が枯れた時に、僕は隣村へ水をもらいに行って、ついに大成功して、大トラ変じて水虎大明神という事になったのです。僕たちも、地主だからって、遊んでは居られない。僕は脊髄がわるいんだけど、でも、田の草取りをしましたよ。まあ、こんどは東京のあんた達にも、おいしいごはんがどっさり配給されるでしょう。」たのもしい限りである。Mさんは、小さい頃から、闊達な気性のひとであった。子供っぽいくりくりした丸い眼に魅力があって、この地方の人たち皆に敬愛せられているようだ。私は、心の中でMさんの仕合せを祈り、なおも引きとめられるのを汗を流して辞去し、午後一時の深浦行きの汽車にやっと間に合う事が出来た。 木造から、五能線に依って約三十分くらいで鳴沢、鰺ヶ沢を過ぎ、その辺で津軽平野もおしまいになって、それから列車は日本海岸に沿うて走り、右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の余波の山々を見ながら一時間ほど経つと、右の窓に大戸瀬の奇勝が展開する。この辺の岩石は、すべて角稜質凝灰岩とかいうものだそうで、その海蝕を受けて平坦になった斑緑色の岩盤が江戸時代の末期にお化けみたいに海上に露出して、数百人の宴会を海浜に於いて催す事が出来るほどのお座敷になったので、これを千畳敷と名附け、またその岩盤のところどころが丸く窪んで海水を湛え、あたかもお酒をなみなみと注いだ大盃みたいな形なので、これを盃沼《さかづきぬま》と称するのだそうだけれど、直径一尺から二尺くらいのたくさんの大穴をことごとく盃と見たてるなど、よっぽどの大酒飲みが名附けたものに違いない。この辺の海岸には奇岩削立し、怒濤にその脚を絶えず洗われている、と、まあ、名所案内記ふうに書けば、そうもなるのだろうが、外ヶ浜北端の海浜のような異様な物凄さは無く、謂わば全国到るところにある普通の「風景」になってしまっていて、津軽独得の佶屈とでもいうような他国の者にとって特に難解の雰囲気は無い。つまり、ひらけているのである。人の眼に、舐められて、明るく馴れてしまっているのである。れいの竹内運平氏は「青森県通史」に於いて、この辺以南は、昔からの津軽領ではなく、秋田領であったのを、慶長八年に隣藩佐竹氏と談合の上、これを津軽領に編入したというような記録もあると言っている。私などただ旅の風来坊の無責任な直感だけで言うのだが、やはり、もうこの辺から、何だか、津軽ではないような気がするのである。津軽の不幸な宿命は、ここには無い。あの、津軽特有の「要領の悪さ」は、もはやこの辺には無い。山水を眺めただけでも、わかるような気がする。すべて、充分に聡明である。所謂、文化的である。ばかな傲慢な心は持っていない。大戸瀬から約四十分で、深浦へ着くのだが、この港町も、千葉の海岸あたりの漁村によく見受けられるような、決して出しゃばろうとせぬつつましい温和な表情、悪く言えばお利巧なちゃっかりした表情をして、旅人を無言で送迎している。つまり、旅人に対しては全く無関心のふうを示しているのである。私は、深浦のこのような雰囲気を深浦の欠点として挙げて言っているのでは決してない。そんな表情でもしなければ、人はこの世に生きて行き切れないのではないかとも思っている。これは、成長してしまった大人の表情なのかも知れない。何やら自信が、奥深く沈潜している。津軽の北部に見受けられるような、子供っぽい悪あがきは無い。津軽の北部は、生煮えの野菜みたいだが、ここはもう透明に煮え切っている。ああ、そうだ。こうして較べてみるとよくわかる。津軽の奥の人たちには、本当のところは、歴史の自信というものがないのだ。まるっきりないのだ。だから、矢鱈に肩をいからして、「かれは賤しきものなるぞ。」などと人の悪口ばかり言って、傲慢な姿勢を執らざるを得なくなるのだ。あれが、津軽人の反骨となり、剛情となり、佶屈となり、そうして悲しい孤独の宿命を形成するという事になったのかも知れない。津軽の人よ、顔を挙げて笑えよ。ルネッサンス直前の鬱勃たる擡頭力をこの地に認めると断言してはばからぬ人さえあったではないか。日本の文華が小さく完成して行きづまっている時、この津軽地方の大きい未完成が、どれだけ日本の希望になっているか、一夜しずかに考えて、などというとすぐ、それそれそんなに不自然に肩を張る。人からおだてられて得た自信なんてなんにもならない。知らん振りして、信じて、しばらく努力を続けて行こうではないか。 深浦町は、現在人口五千くらい、旧津軽領西海岸の南端の港である。江戸時代、青森、鯵ヶ沢、十三などと共に四浦の町奉行の置かれたところで、津軽藩の最も重要な港の一つであった。丘間に一小湾をなし、水深く波穏やか、吾妻浜の奇巌、弁天嶋、行合岬など一とおり海岸の名勝がそろっている。しずかな町だ。漁師の家の庭には、大きい立派な潜水服が、さかさに吊されて干されている。何かあきらめた、底落ちつきに落ちついている感じがする。駅からまっすぐに一本路をとおって、町のはずれに、円覚寺の仁王門がある。この寺の薬師堂は、国宝に指定せられているという。私は、それにおまいりして、もうこれで、この深浦から引上げようかと思った。完成されている町は、また旅人に、わびしい感じを与えるものだ。私は海浜に降りて、岩に腰をかけ、どうしようかと大いに迷った。まだ日は高い。東京の草屋の子供の事など、ふと思った。なるべく思い出さないようにしているのだが、心の空虚の隙《すき》をねらって、ひょいと子供の面影が胸に飛び込む。私は立ち上って町の郵便局へ行き、葉書を一枚買って、東京の留守宅へ短いたよりを認めた。子供は百日咳をやっているのである。そうして、その母は、二番目の子供を近く生むのである。たまらない気持がして私は行きあたりばったりの宿屋へ這入り、汚い部屋に案内され、ゲートルを解きながら、お酒を、と言った。すぐにお膳とお酒が出た。意外なほど早かった。私はその早さに、少し救われた。部屋は汚いが、お膳の上には鯛と鮑の二種類の材料でいろいろに料理されたものが豊富に載せられてある。鯛と鮑がこの港の特産物のようである。お酒を二本飲んだが、まだ寝るには早い。津軽へやってきて以来、人のごちそうにばかりなっていたが、きょうは一つ、自力で、うんとお酒を飲んで見ようかしら、とつまらぬ考えを起し、さっきお膳を持って来た十二、三歳の娘さんを廊下でつかまえ、お酒はもう無いか、と聞くと、ございません、という。どこか他に飲むところは無いかと聞くと、ございます、と言下に答えた。ほっとして、その飲ませる家はどこだ、と聞いて、その家を教わり、行って見ると、意外に小綺麗な料亭であった。二階の十畳くらいの、海の見える部屋に案内され、津軽塗の食卓に向って大あぐらをかき、酒、酒、と言った。お酒だけ、すぐに持って来た。これも有難かった。たいてい料理で手間取って、客をぽつんと待たせるものだが、四十年配の前歯の欠けたおばさんが、お銚子だけ持ってすぐに来た。私は、そのおばさんから深浦の伝説か何か聞こうかと思った。 「深浦の名所は何です。」 「観音さんへおまいりなさいましたか。」 「観音さん? あ、円覚寺の事を、観音さんと言うのか。そう。」このおばさんから、何か古めかしい話を聞く事が出来るかも知れないと思った。しかるに、その座敷に、ぶってり太った若い女があらわれて、妙にきざな洒落など飛ばし、私は、いやで仕様が無かったので、男子すべからく率直たるべしと思い、 「君、お願いだから下へ行ってくれないか。」と言った。私は読者に忠告する。男子は料理屋へ行って率直な言い方をしてはいけない。私は、ひどいめに逢った。その若い女中が、ふくれて立ち上ると、おばさんも一緒に立ち上り、二人ともいなくなってしまった。ひとりが部屋から追い出されたのに、もうひとりが黙って坐っているなどは、朋輩の仁義からいっても義理が悪くて出来ないものらしい。私はその広い部屋でひとりでお酒を飲み、深浦港の燈台の灯を眺め、さらに大いに旅愁を深めたばかりで宿へ帰った。翌る朝、私がわびしい気持で朝ごはんを食べていたら、主人がお銚子と、小さいお皿を持って来て、 「あなたは、津島さんでしょう。」と言った。 「ええ。」私は宿帳に、筆名の太宰を書いて置いたのだ。 「そうでしょう。どうも似ていると思った。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになったからわかりませんでしたが、どうも、あんまりよく似ているので。」 「でも、あれは、偽名でもないのです。」 「ええ、ええ、それも存じて居ります、お名前を変えて小説を書いている弟さんがあるという事は聞いていました。どうも、ゆうべは失礼しました。さあ、お酒を、めし上れ。この小皿のものは、鮑のはらわたの塩辛ですが、酒の肴にはいいものです。」 私はごはんをすまして、それから、塩辛を肴にしてその一本をごちそうになった。塩辛は、おいしいものだった。実に、いいものだった。こうして、津軽の端まで来ても、やっぱり兄たちの力の余波のおかげをこうむっている。結局、私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して、珍味もひとしほ腹綿にしみるものがあった。要するに、私がこの津軽領の南端の港で得たものは、自分の兄たちの勢力の範囲を知ったという事だけで、私は、ぼんやりまた汽車に乗った。 鰺ヶ沢。私は、深浦からの帰りに、この古い港町に立寄った。この町あたりが、津軽の西海岸の中心で、江戸時代には、ずいぶん栄えた港らしく、津軽の米の大部分はここから積出され、また大阪廻りの和船の発着所でもあったようだし、水産物も豊富で、ここの浜にあがったさかなは、御城下をはじめ、ひろく津軽平野の各地方に於ける家々の食膳を賑はしたものらしい。けれども、いまは、人口も四千五百くらい、木造、深浦よりも少いような具合で、往年の隆々たる勢力を失いかけているようだ。鰺ヶ沢というからには、きっと昔の或る時期に、見事な鰺がたくさんとれたところかとも思われるが、私たちの幼年時代には、ここの鰺の話はちっとも聞かず、ただ、ハタハタだけが有名であった。ハタハタは、このごろ東京にも時たま配給されるようであるから、読者もご存じの事と思うが、鰰、または鱩などという字を書いて、鱗の無い五、六寸くらいのさかなで、まあ、海の鮎とでも思っていただいたら大過ないのではあるまいか。西海岸の特産で、秋田地方がむしろ本場のようである。東京の人たちは、あれを油っこくていやだと言っているようだけれど、私たちには非常に淡泊な味のものに感ぜられる。津軽では、あたらしいハタハタを、そのまま薄醤油で煮て片端から食べて、二十匹三十匹を平気でたひらげる人は決して珍らしくない。ハタハタの会などがあって、一ばん多く食べた人には賞品、などという話もしばしば聞いた。東京へ来るハタハタは古くなっているし、それに料理法も知らないだろうから、ことさらまずいものに感ぜられるのであろう。俳句の歳時記などにも、ハタハタが出ているようだし、また、ハタハタの味は淡いという意味の江戸時代の俳人の句を一つ読んだ記憶もあるし、あるいは江戸の通人には、珍味とされていたものかも知れない。いずれにもせよ、このハタハタを食べる事は、津軽の冬の炉辺のたのしみの一つであるという事には間違いない。私は、そのハタハタに依って、幼年時代から鰺ヶ沢の名を知ってはいたのだが、その町を見るのは、いまがはじめてであった。山を背負い、片方はすぐ海の、おそろしくひょろ長い町である。市中はものの匂いや、とかいう凡兆の句を思い出させるような、妙によどんだ甘酸っぱい匂いのする町である。川の水も、どろりと濁っている。どこか、疲れている。木造町のように、ここにも長い「コモヒ」があるけれども、少し崩れかかっている、木造町のコモヒのような涼しさが無い。その日も、ひどくいい天気だったが、日ざしを避けて、コモヒを歩いていても、へんに息づまるような気持がする。飲食店が多いようである。昔は、ここは所謂銘酒屋のようなものが、ずいぶん発達したところではあるまいかと思われる。今でも、そのなごりか、おそばやが四、五軒、軒をつらねて、今の時代には珍らしく「やすんで行きせえ。」などと言って道を通る人に呼びかけている。ちょうどお昼だったので、私は、そのおそばやの一軒にはいって、休ませてもらった。おそばに、焼ざかなが二皿ついて、四十銭であった。おそばのおつゆも、まずくなかった。それにしても、この町は長い。海岸に沿うた一本街で、どこ迄行っても、同じような家並が何の変化もなく、だらだらと続いているのである。私は、一里歩いたような気がした。やっと町のはずれに出て、また引返した。町の中心というものが無いのである。たいていの町には、その町の中心勢力が、ある箇所にかたまり、町の重《おもし》になっていて、その町を素通りする旅人にも、ああ、この辺がクライマックスだな、と感じさせるように出来ているものだが、鰺ヶ沢にはそれが無い。扇のかなめがこわれて、ばらばらに、ほどけている感じだ。これでは町の勢力あらそひなど、ごたごたあるのではなかろうかと、れいのドガ式政談さえ胸中に往来したほど、どこか、かなめの心細い町であった。こう書きながら、私は幽かに苦笑しているのであるが、深浦といい鰺ヶ沢といい、これでも私の好きな友人なんかがいて、ああよく来てくれた、と言ってよろこんで迎えてくれて、あちこち案内し説明などしてくれたならば、私はまた、たわいなく、自分の直感を捨て、深浦、鰺ヶ沢こそ、津軽の粋である、と感激の筆致でもって書きかねまいものでもないのだから、実際、旅の印象記などあてにならないものである。深浦、鰺ヶ沢の人は、もしこの私の本を読んでも、だから軽く笑って見のがしてほしい。私の印象記は、決して本質的に、君たちの故土を汚すほどの権威も何も持っていないのだから。 鰺ヶ沢の町を引上げて、また五能線に乗って五所川原町に帰り着いたのは、その日の午後二時。私は駅から、まっすぐに、中畑さんのお宅へ伺った。中畑さんの事は、私も最近、「帰去来」「故郷」など一聯の作品によく書いて置いた筈であるから、ここにはくどく繰り返さないが、私の二十代に於けるかずかずの不仕鱈の後仕末を、少しもいやな顔をせず引受けてくれた恩人である。しばらく振りの中畑さんは、いたましいくらいに、ひどくふけていた。昨年、病気をなさって、それから、こんなに痩せたのだそうである。 「時代だじゃあ。あんたが、こんな姿で東京からやって来るようになったもののう。」と、それでも嬉しそうに、私の乞食にも似たる姿をつくづく眺め、「や、靴下が切れているな。」と言って、自分で立って箪笥から上等の靴下を一つ出して私に寄こした。 「これから、ハイカラ町《ちょう》へ行きたいと思ってるんだけど。」 「あ、それはいい。行っていらっしゃい。それ、けい子、御案内。」と中畑さんは、めっきり痩せても、気早やな性格は、やはり往年のままである。五所川原の私の叔母の家族が、そのハイカラ町に住んでいるのである。私の幼年の頃に、その街がハイカラ町という名前であったのだけれども、いまは大町とか何とか、別な名前のようである。五所川原町に就いては、序編に於いて述べたが、ここには私の幼年時代の思い出がたくさんある。四、五年前、私は五所川原の或る新聞に次のような随筆を発表した。 「叔母が五所川原にいるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。旭座の舞台開きも見に行きました。小学校の三、四年の頃だったと思います。たしか、左右衛門だった筈です。梅の由兵衛に泣かされました。廻舞台を、その時、生れてはじめて見て、思わず立ち上ってしまった程に驚きました。あの旭座は、その後間もなく火事を起し、全焼しました。その時の火焔が、金木から、はっきり見えました。映写室から発火したという話でした。そうして、映画見物の小学生が十人ほど焼死しました。映写の技師が、罪に問われました。過失傷害致死とかいう罪名でした。子供心にも、どういうわけだか、その技師の罪名と、運命を忘れる事が出来ませんでした。旭《あさひ》座という名前が『火《ひ》』の字に関係があるから焼けたのだという噂も聞きました。二十年も前の事です。 七つか、八つの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水が顎のあたりまでありました。三尺ちかくあったのかも知れません。夜でした。上から男の人が手を差し出してくれたので、それにつかまりました。ひき上げられて衆人環視の中で裸にされたので、実に困りました。ちょうど古着屋のまえでしたので、その店の古着を早速着せられました。女の子の浴衣でした。帯も、緑色の兵児帯でした。ひどく恥かしく思いました。叔母が顔色を変えて走って来ました。私は叔母に可愛がられて育ちました。私は、男ぶりが悪いので、何かと人にからかわれて、ひとりでひがんでいましたが、叔母だけは、私を、いい男だと言ってくれました。他の人が、私の器量の悪口を言うと、叔母は、本気に怒りました。みんな、遠い思い出になりました。」 中畑さんのひとり娘のけいちゃんと一緒に中畑さんの家を出て、 「僕は岩木川を、ちょっと見たいんだけどな。ここから遠いか。」 すぐそこだという。 「それじゃ、連れて行って。」 けいちゃんの案内で町を五分も歩いたかと思うと、もう大川である。子供の頃、叔母に連れられて、この河原に何度も来た記憶があるが、もっと町から遠かったように覚えている。子供の足には、これくらいの道のりでも、ひどく遠く感ぜられたのであろう。それに私は、家の中にばかりいて、外へ出るのがおっかなくて、外出の時には目まいするほど緊張していたものだから、なおさら遠く思われたのだろう。橋がある。これは、記憶とそんなに違わず、いま見てもやっぱり同じ様に、長い橋だ。 「いぬいばし、と言ったかしら。」 「ええ、そう。」 「いぬい、って、どんな字だったかしら。方角の乾《いぬい》だったかな?」 「さあ、そうでしょう。」笑っている。 「自信無し、か。どうでもいいや。渡ってみよう。」 私は片手で欄干を撫でながらゆっくり橋を渡って行った。いい景色だ。東京近郊の川では、荒川放水路が一ばん似ている。河原一面の緑の草から陽炎がのぼって、何だか眼がくるめくようだ。そうして岩木川が、両岸のその緑の草を舐めながら、白く光って流れている。 「夏には、ここへみんな夕涼みにまいります。他に行くところもないし。」 五所川原の人たちは遊び好きだから、それはずいぶん賑わう事だろうと思った。 「あれが、こんど出来た招魂堂です。」けいちゃんは、川の上流のほうを指差して教えて、「父の自慢の招魂堂。」と笑いながら小声で言い添えた。 なかなか立派な建築物のように見えた。中畑さんは在郷軍人の幹部なのである。この招魂堂改築に就いても、れいの侠気を発揮して大いに奔走したに違いない。橋を渡りつくしたので、私たちは橋の袂に立って、しばらく話をした。 「林檎はもう、間伐《かんばつ》というのか、少しずつ伐って、伐ったあとに馬鈴薯だか何だか植えるって話を聞いたけど。」 「土地によるのじゃないんですか。この辺では、まだ、そんな話は。」 大川の土手の陰に、林檎畑があって、白い粉っぽい花が満開である。私は林檎の花を見ると、おしろいの匂いを感ずる。 「けいちゃんからも、ずいぶん林檎を送っていただいたね。こんど、おむこさんをもらうんだって?」 「ええ。」少しもわるびれず、真面目に首肯いた。 「いつ? もう近いの?」 「あさってよ。」 「へえ?」私は驚いた。けれども、けいちゃんは、まるでひと事のように、けろりとしている。「帰ろう。いそがしいんだろう?」 「いいえ、ちっとも。」ひどく落ちついている。ひとり娘で、そうして養子を迎え、家系を嗣ごうとしているひとは、十九や二十の若さでも、やっぱりどこか違っている、と私はひそかに感心した。 「あした小泊へ行って、」引返して、また長い橋を渡りながら、私は他の事を言った。「たけに逢おうと思っているんだ。」 「たけ。あの、小説に出て来るたけですか。」 「うん。そう。」 「よろこぶでしょうねえ。」 「どうだか。逢えるといいけど。」 このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢ってみたいひとがいた。私はその人を、自分の母だと思っているのだ。三十年ちかくも逢わないでいるのだが、私は、そのひとの顔を忘れない。私の一生は、その人に依って確定されたといっていいかも知れない。以下は、自作「思い出」の中の文章である。 「六つ七つになると思い出もはっきりしている。私がたけという女中から本を読むことを教えられ二人で様々の本を読み合った。たけは私の教育に夢中であった。私は病身だったので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなれば、たけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えていたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけは又、私に道徳を教えた。お寺へ屡々連れて行って、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を放《つ》けた人は赤い火のめらめら燃えている籠を背負わされ、めかけ持った人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながっていた。血の池や、針の山や、無間奈落という白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでいた。嘘を吐けば地獄へ行ってこのように鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。 そのお寺の裏は小高い墓地になっていて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒塔婆が林のように立っていた。卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のような黒い鉄の輪のついているのがあって、その輪をからから廻して、やがて、そのまま止ってじっと動かないならその廻した人は極楽へ行き、一旦とまりそうになってから、又からんと逆に廻れば地獄へ落ちる、とたけは言った。たけが廻すと、いい音をたててひとしきり廻って、かならずひっそりと止るのだけれど、私が廻すと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行ってその金輪のどれを廻して見ても皆言い合せたようにからんからんと逆廻りした日があったのである。私は破れかけるかんしゃくだまを抑えつつ何十回となく執拗に廻しつづけた。日が暮れかけて来たので、私は絶望してその墓地から立ち去った。(中略)やがて私は故郷の小学校へ入ったが、追憶もそれと共に一変する。たけは、いつの間にかいなくなっていた。或漁村へ嫁に行ったのであるが、私がそのあとを追ふだろうという懸念からか、私には何も言わずに突然いなくなった。その翌年だかのお盆のとき、たけは私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよそしくしていた。私に学校の成績を聞いた。私は答えなかった。ほかの誰かが代って知らせたようだ。たけは、油断大敵でせえ、と言っただけで格別ほめもしなかった。」 私の母は病身だったので、私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐ乳母に抱かれ、三つになってふらふら立って歩けるようになった頃、乳母にわかれて、その乳母の代りに子守としてやとわれたのが、たけである。私は夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、たけと一緒に暮したのである。三つから八つまで、私はたけに教育された。そうして、或る朝、ふと眼をさまして、たけを呼んだが、たけは来ない。はっと思った。何か、直感で察したのだ。私は大声挙げて泣いた。たけいない、たけいない、と断腸の思いで泣いて、それから、二、三日、私はしゃくり上げてばかりいた。いまでも、その折の苦しさを、忘れてはいない。それから、一年ほど経って、ひょっくりたけと逢ったが、たけは、へんによそよそしくしているので、私にはひどく怨めしかった。それっきり、たけと逢っていない。四、五年前、私は「故郷に寄せる言葉」のラジオ放送を依頼されて、その時、あの「思い出」の中のたけの箇所を朗読した。故郷といえば、たけを思い出すのである。たけは、あの時の私の朗読放送を聞かなかったのであろう。何のたよりも無かった。そのまま今日に到っているのであるが、こんどの津軽旅行に出発する当初から、私は、たけにひとめ逢いたいと切に念願をしていたのだ。いいところは後廻しという、自制をひそかにたのしむ趣味が私にある。私はたけのいる小泊の港へ行くのを、私のこんどの旅行の最後に残して置いたのである。いや、小泊へ行く前に、五所川原からすぐ弘前へ行き、弘前の街を歩いてそれから大鰐温泉へでも行って一泊して、そうして、それから最後に小泊へ行こうと思っていたのだが、東京からわずかしか持って来ない私の旅費も、そろそろ心細くなっていたし、それに、さすがに旅の疲れも出て来たのか、これからまたあちこち廻って歩くのも大儀になって来て、大鰐温泉はあきらめ、弘前市には、いよいよ東京へ帰る時に途中でちょっと立寄ろうという具合に予定を変更して、きょうは五所川原の叔母の家に一泊させてもらって、あす、五所川原からまっすぐに、小泊へ行ってしまおうと思い立ったのである。けいちゃんと一緒にハイカラ町の叔母の家へ行ってみると、叔母は不在であった。叔母のお孫さんが病気で弘前の病院に入院しているので、それの附添に行っているというのである。 「あなたが、こっちへ来ているという事を、母はもう知って、ぜひ逢いたいから弘前へ寄こしてくれって電話がありましたよ。」と従姉《いとこ》が笑いながら言った。叔母はこの従姉にお医者さんの養子をとって家を嗣がせているのである。 「あ、弘前には、東京へ帰る時に、ちょっと立ち寄ろうと思っていますから、病院にもきっと行きます。」 「あすは小泊の、たけに逢いに行くんだそうです。」けいちゃんは、何かとご自分の支度でいそがしいだろうに、家へ帰らず、のんきに私たちと遊んでいる。 「たけに。」従姉は、真面目な顔になり、「それは、いい事です。たけも、なんぼう、よろこぶか、わかりません。」従姉は、私がたけを、どんなにいままで慕っていたか知っているようであった。 「でも、逢えるかどうか。」私には、それが心配であった。もちろん打合せも何もしているわけではない。小泊の越野たけ。ただそれだけをたよりに、私はたずねて行くのである。 「小泊行きのバスは、一日に一回とか聞いていましたけど、」とけいちゃんは立って、台所に貼りつけられてある時間表を調べ、「あしたの一番の汽車でここをお立ちにならないと、中里からのバスに間に合いませんよ。大事な日に、朝寝坊をなさらないように。」ご自分の大事な日をまるで忘れているみたいであった。一番の八時の汽車で五所川原を立って、津軽鉄道を北上し、金木を素通りして、津軽鉄道の終点の中里に九時に着いて、それから小泊行きのバスに乗って約二時間。あすのお昼頃までには小泊へ着けるという見込みがついた。日が暮れて、けいちゃんがやっとお家へ帰ったのと入違いに、先生(お医者さんの養子を、私たちは昔から固有名詞みたいに、そう呼んでいた)が病院を引上げて来られ、それからお酒を飲んで、私は何だかたわいない話ばかりして夜を更かした。 翌る朝、従姉に起こされ、大急ぎでごはんを食べて停車場に駈けつけ、やっと一番の汽車に間に合った。きょうもまた、よいお天気である。私の頭は朦朧としている。二日酔いの気味である。ハイカラ町の家には、こわい人もいないので、前夜、少し飲みすぎたのである。脂汗が、じっとりと額に涌いて出る。爽かな朝日が汽車の中に射込んで、私ひとりが濁って汚れて腐敗しているようで、どうにも、かなわない気持である。このような自己嫌悪を、お酒を飲みすぎた後には必ず、おそらくは数千回、繰り返して経験しながら、未だに酒を断然廃す気持にはなれないのである。この酒飲みという弱点のゆえに、私はとかく人から軽んぜられる。世の中に、酒というものさえなかったら、私は或いは聖人にでもなれたのではなかろうか、と馬鹿らしい事を大真面目で考えて、ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園という踏切番の小屋くらいの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言われ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言い、駅員に三十分も調べさせ、とうとう芦野公園の切符をせしめたという昔の逸事を思い出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥えたまま改札口に走って来て、眼を軽くつぶって改札の美少年の駅員に顔をそっと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。少女も美少年も、ちっとも笑わぬ。当り前の事のように平然としている。少女が汽車に乗ったとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待っていたように思われた。こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違いない。金木町長は、こんどまた上野駅で、もっと大声で、芦野公園と叫んでもいいと思った。汽車は、落葉松の林の中を走る。この辺は、金木の公園になっている。沼が見える。芦の湖という名前である。この沼に兄は、むかし遊覧のボートを一艘寄贈した筈である。すぐに、中里に着く。人口、四千くらいの小邑である。この辺から津軽平野も狭小になり、この北の内潟《うちがた》、相内《あいうち》、脇元《わきもと》などの部落に到ると水田もめっきり少くなるので、まあ、ここは津軽平野の北門と言っていいかも知れない。私は幼年時代に、ここの金丸《かなまる》という親戚の呉服屋さんへ遊びに来た事があるが、四つくらいの時であろうか、村のはずれの滝の他には、何も記憶に残っていない。 「修っちゃあ。」と呼ばれて、振り向くと、その金丸の娘さんが笑いながら立っている。私より一つ二つ年上だった筈であるが、あまり老けていない。 「久し振りだのう。どこへ。」 「いや、小泊だ。」私はもう、早くたけに逢いたくて、他の事はみな上の空である。「このバスで行くんだ。それじゃあ、失敬。」 「そう。帰りには、うちへも寄って下さいよ。こんどあの山の上に、あたらしい家を建てましたから。」 指差された方角を見ると、駅から右手の緑の小山の上に新しい家が一軒立っている。たけの事さえ無かったら、私はこの幼馴染との奇遇をよろこび、あの新宅にもきっと立寄らせていただき、ゆっくり中里の話でも伺ったのに違いないが、何せ一刻を争うみたいに意味も無く気がせいていたので、 「じゃ、また。」などと、いい加減なわかれかたをして、さっさとバスに乗ってしまった。バスは、かなり込んでいた。私は小泊まで約二時間、立ったままであった。中里から以北は、全く私の生れてはじめて見る土地だ。津軽の遠祖と言われる安東氏一族は、この辺に住んでいて、十三港の繁栄などに就いては前にも述べたが、津軽平野の歴史の中心は、この中里から小泊までの間に在ったものらしい。バスは山路をのぼって北に進む。路が悪いと見えて、かなり激しくゆれる。私は網棚の横の棒にしっかりつかまり、背中を丸めてバスの窓から外の風景を覗き見る。やっぱり、北津軽だ。深浦などの風景に較べて、どこやら荒い。人の肌の匂いが無いのである。山の樹木も、いばらも、笹も、人間と全く無関係に生きている。東海岸の竜飛などに較べると、ずっと優しいけれど、でも、この辺の草木も、やはり「風景」の一歩手前のもので、少しも旅人と会話をしない。やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでいない。ひっそりしていて、そうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬというような感じだ。十三湖を過ぎると、まもなく日本海の海岸に出る。この辺からそろそろ国防上たいせつな箇所になるので、れいに依って以後は、こまかい描写を避けよう。お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。ここは、本州の西海岸の最北端の港である。この北は、山を越えてすぐ東海岸の竜飛である。西海岸の部落は、ここでおしまいになっているのだ。つまり私は、五所川原あたりを中心にして、柱時計の振子のように、旧津軽領の西海岸南端の深浦港からふらりと舞いもどってこんどは一気に同じ海岸の北端の小泊港まで来てしまったというわけなのである。ここは人口二千五百くらいのささやかな漁村であるが、中古の頃から既に他国の船舶の出入があり、殊に蝦夷通いの船が、強い東風を避ける時には必ずこの港にはいって仮泊する事になっていたという。江戸時代には、近くの十三港と共に米や木材の積出しがさかんに行われた事など、前にもしばしば書いて置いたつもりだ。いまでも、この村の築港だけは、村に不似合いなくらい立派である。水田は、村のはずれに、ほんの少しあるだけだが、水産物は相当豊富なようで、ソイ、アブラメ、イカ、イワシなどの魚類の他に、コンブ、ワカメの類の海草もたくさんとれるらしい。 「越野たけ、という人を知りませんか。」私はバスから降りて、その辺を歩いている人をつかまえ、すぐに聞いた。 「こしの、たけ、ですか。」国民服を着た、役場の人か何かではなかろうかと思われるような中年の男が、首をかしげ、「この村には、越野という苗字の家がたくさんあるので。」 「前に金木にいた事があるんです。そうして、いまは、五十くらいのひとなんです。」私は懸命である。 「ああ、わかりました。その人なら居ります。」 「いますか。どこにいます。家はどの辺です。」 私は教えられたとおりに歩いて、たけの家を見つけた。間口三間くらいの小ぢんまりした金物屋である。東京の私の草屋よりも十倍も立派だ。店先にカアテンがおろされてある。いけない、と思って入口のガラス戸に走り寄ったら、果して、その戸に小さい南京錠が、ぴちりとかかっているのである。他のガラス戸にも手をかけてみたが、いずれも固くしまっている。留守だ。私は途方にくれて、汗を拭った。引越した、なんて事は無かろう。どこかへ、ちょっと外出したのか。いや、東京と違って、田舎ではちょっとの外出に、店にカアテンをおろし、戸じまりをするなどという事は無い。二、三日あるいはもっと永い他出か。こいつあ、だめだ。たけは、どこか他の部落へ出かけたのだ。あり得る事だ。家さえわかったら、もう大丈夫と思っていた僕は馬鹿であった。私は、ガラス戸をたたき、越野さん、越野さん、と呼んでみたが、もとより返事のある筈は無かった。溜息をついてその家から離れ、少し歩いて筋向いの煙草屋にはいり、越野さんの家には誰もいないようですが、行先きをご存じないかと尋ねた。そこの痩せこけたおばあさんは、運動会へ行ったんだろう、と事もなげに答えた。私は勢い込んで、 「それで、その運動会は、どこでやっているのです。この近くですか、それとも。」 すぐそこだという。この路をまっすぐに行くと田圃に出て、それから学校があって、運動会はその学校の裏でやっているという。 「けさ、重箱をさげて、子供と一緒に行きましたよ。」 「そうですか。ありがとう。」 教えられたとおりに行くと、なるほど田圃があって、その畦道を伝って行くと砂丘があり、その砂丘の上に国民学校が立っている。その学校の裏に廻ってみて、私は、呆然とした。こんな気持をこそ、夢見るような気持というのであろう。本州の北端の漁村で、昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼が、いま目の前で行われているのだ。まず、万国旗。着飾った娘たち。あちこちに白昼の酔っぱらい。そうして運動場の周囲には、百に近い掛小屋がぎっしりと立ちならび、いや、運動場の周囲だけでは場所が足りなくなったと見えて、運動場を見下せる小高い丘の上にまで筵《むしろ》で一つ一つきちんとかこんだ小屋を立て、そうしていまはお昼の休憩時間らしく、その百軒の小さい家のお座敷に、それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は酒を飲み、子供と女は、ごはん食べながら、大陽気で語り笑っているのである。日本は、ありがたい国だと、つくづく思った。たしかに、日出ずる国だと思った。国運を賭しての大戦争のさいちゅうでも、本州の北端の寒村で、このように明るい不思議な大宴会が催されて居る。古代の神々の豪放な笑いと闊達な舞踏をこの本州の僻陬に於いて直接に見聞する思いであった。海を越え山を越え、母を捜して三千里歩いて、行き着いた国の果の砂丘の上に、華麗なお神楽が催されていたというようなお伽噺の主人公に私はなったような気がした。さて、私は、この陽気なお神楽の群集の中から、私の育ての親を捜し出さなければならぬ。わかれてから、もはや三十年近くなるのである。眼の大きい頬ぺたの赤いひとであった。右か、左の眼蓋の上に、小さい赤いほくろがあった。私はそれだけしか覚えていないのである。逢えば、わかる。その自信はあったが、この群集の中から捜し出す事は、むずかしいなあ、と私は運動場を見廻してべそをかいた。どうにも、手の下しようが無いのである。私はただ、運動場のまわりを、うろうろ歩くばかりである。 「越野たけというひと、どこにいるか、ご存じじゃありませんか。」私は勇気を出して、ひとりの青年にたずねた。「五十くらいのひとで、金物屋の越野ですが。」それが私のたけに就いての知識の全部なのだ。 「金物屋の越野。」青年は考えて、「あ、向うのあのへんの小屋にいたような気がするな。」 「そうですか。あのへんですか?」 「さあ、はっきりは、わからない。何だか、見かけたような気がするんだが、まあ、捜してごらん。」 その捜すのが大仕事なのだ。まさか、三十年振りで云々と、青年にきざったらしく打明け話をするわけにも行かぬ。私は青年にお礼を言い、その漠然と指差された方角へ行ってまごまごしてみたが、そんな事でわかる筈は無かった。とうとう私は、昼食さいちゅうの団欒の掛小屋の中に、ぬっと顔を突き入れ、 「おそれいります。あの、失礼ですが、越野たけ、あの、金物屋の越野さんは、こちらじゃございませんか。」 「ちがいますよ。」ふとったおかみさんは不機嫌そうに眉をひそめて言う。 「そうですか。失礼しました。どこか、この辺で見かけなかったでしょうか。」 「さあ、わかりませんねえ。何せ、おおぜいの人ですから。」 私は更にまた別の小屋を覗いて聞いた。わからない。更にまた別の小屋。まるで何かに憑かれたみたいに、たけはいませんか、金物屋のたけはいませんか、と尋ね歩いて、運動場を二度もまわったが、わからなかった。二日酔いの気味なので、のどがかわいてたまらなくなり、学校の井戸へ行って水を飲み、それからまた運動場へ引返して、砂の上に腰をおろし、ジャンパーを脱いで汗を拭き、老若男女の幸福そうな賑わいを、ぼんやり眺めた。この中に、いるのだ。たしかに、いるのだ。いまごろは、私のこんな苦労も何も知らず、重箱をひろげて子供たちに食べさせているのであろう。いっそ、学校の先生にたのんで、メガホンで「越野たけさん、御面会。」とでも叫んでもらおうかしら、とも思ったが、そんな暴力的な手段は何としてもイヤだった。そんな大袈裟な悪ふざけみたいな事までして無理に自分の喜びをでっち上げるのはイヤだった。縁が無いのだ。神様が逢うなとおっしゃっているのだ。帰ろう。私は、ジャンパーを着て立ち上った。また畦道を伝って歩き、村へ出た。運動会のすむのは四時頃か。もう四時間、その辺の宿屋で寝ころんで、たけの帰宅を待っていたっていいじゃないか。そうも思ったが、その四時間、宿屋の汚い一室でしょんぼり待っているうちに、もう、たけなんかどうでもいいような、腹立たしい気持になりゃしないだろうか。私は、いまのこの気持のままでたけに逢いたいのだ。しかし、どうしても逢う事が出来ない。つまり、縁が無いのだ。はるばるここまでたずねて来て、すぐそこに、いまいるという事がちゃんとわかっていながら、逢えずに帰るというのも、私のこれまでの要領の悪かった生涯にふさわしい出来事なのかも知れない。私が有頂天で立てた計画は、いつでもこのように、かならず、ちぐはぐな結果になるのだ。私には、そんな具合のわるい宿命があるのだ。帰ろう。考えてみると、いかに育ての親とはいっても、露骨に言えば使用人だ。女中じゃないか。お前は、女中の子か。男が、いいとしをして、昔の女中を慕って、ひとめ逢いたいだのなんだの、それだからお前はだめだというのだ。兄たちがお前を、下品なめめしい奴と情無く思うのも無理がないのだ。お前は兄弟中でも、ひとり違って、どうしてこんなにだらしなく、きたならしく、いやしいのだろう。しっかりせんかい。私はバスの発着所へ行き、バスの出発する時間を聞いた。一時三十分に中里行きが出る。もう、それっきりで、あとは無いという事であった。一時三十分のバスで帰る事にきめた。もう三十分くらいあいだがある。少しおなかもすいて来ている。私は発着所の近くの薄暗い宿屋へ這入って、「大急ぎでひるめしを食べたいのですが。」と言い、また内心は、やっぱり未練のようなものがあって、もしこの宿が感じがよかったら、ここで四時頃まで休ませてもらって、などと考えてもいたのであるが、断られた。きょうは内の者がみな運動会へ行っているので、何も出来ませんと病人らしいおかみさんが、奥の方からちらと顔をのぞかせて冷い返辞をしたのである。いよいよ帰ることにきめて、バスの発着所のベンチに腰をおろし、十分くらい休んでまた立ち上り、ぶらぶらその辺を歩いて、それじゃあ、もういちど、たけの留守宅の前まで行って、ひと知れず今生《こんじょう》のいとま乞いでもして来ようと苦笑しながら、金物屋の前まで行き、ふと見ると、入口の南京錠がはずれている。そうして戸が二、三寸あいている。天のたすけ! と勇気百倍、グヮラリという品の悪い形容でも使わなければ間に合わないほど勢い込んでガラス戸を押しあげ、 「ごめん下さい、ごめん下さい。」 「はい。」と奥から返事があって、十四、五の水兵服を着た女の子が顔を出した。私は、その子の顔によって、たけの顔をはっきり思い出した。もはや遠慮をせず、土間の奥のその子のそばまで寄って行って、 「金木の津島です。」と名乗った。 少女は、あ、と言って笑った。津島の子供を育てたという事を、たけは、自分の子供たちにもかねがね言って聞かせていたのかも知れない。もうそれだけで、私とその少女の間に、一切の他人行儀が無くなった。ありがたいものだと思った。私は、たけの子だ。女中の子だって何だってかまわない。私は大声で言える。私は、たけの子だ。兄たちに軽蔑されたっていい。私は、この少女ときょうだいだ。 「ああ、よかった。」私は思わずそう口走って、「たけは? まだ、運動会?」 「そう。」少女も私に対しては毫末の警戒も含羞もなく、落ちついて首肯き、「私は腹がいたくて、いま、薬をとりに帰ったの。」気の毒だが、その腹いたが、よかったのだ。腹いたに感謝だ。この子をつかまえたからには、もう安心。大丈夫たけに逢える。もう何が何でもこの子に縋って、離れなけれやいいのだ。 「ずいぶん運動場を捜し廻ったんだが、見つからなかった。」 「そう。」と言ってかすかに首肯き、おなかをおさえた。 「まだ痛いか。」 「すこし。」と言った。 「薬を飲んだか。」 黙って首肯く。 「ひどく痛いか。」 笑って、かぶりを振った。 「それじゃあ、たのむ。僕を、これから、たけのところへ連れて行ってくれよ。お前もおなかが痛いだろうが、僕だって、遠くから来たんだ。歩けるか。」 「うん。」と大きく首肯いた。 「偉い、偉い。じゃあ一つたのむよ。」 うん、うんと二度続けて首肯き、すぐ土間へ降りて下駄をつっかけ、おなかをおさえて、からだをくの字に曲げながら家を出た。 「運動会で走ったか。」 「走った。」 「賞品をもらったか。」 「もらわない。」 おなかをおさえながら、とっとと私の先に立って歩く。また畦道をとおり、砂丘に出て、学校の裏へまわり、運動場のまんなかを横切って、それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へはいり、すぐそれと入違いに、たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。 「修治だ。」私は笑って帽子をとった。 「あらあ。」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないような、へんに、あきらめたような弱い口調で、「さ、はいって運動会を。」と言って、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言わず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思う事が無かった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言うのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。先年なくなった私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であったが、このような不思議な安堵感を私に与えてはくれなかった。世の中の母というものは、皆、その子にこのような甘い放心の憩いを与えてやっているものなのだろうか。そうだったら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまっている。そんな有難い母というものがありながら、病気になったり、なまけたりしているやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかった。 たけの頬は、やっぱり赤くて、そうして、右の眼蓋の上には、小さい罌粟粒ほどの赤いほくろが、ちゃんとある。髪には白髪もまじっているが、でも、いま私のわきにきちんと坐っているたけは、私の幼い頃の思い出のたけと、少しも変っていない。あとで聞いたが、たけが私の家へ奉公に来て、私をおぶったのは、私が三つで、たけが十四の時だったという。それから六年間ばかり私は、たけに育てられ教えられたのであるが、けれども、私の思い出の中のたけは、決してそんな、若い娘ではなく、いま眼の前に見るこのたけと寸分もちがわない老成した人であった。これもあとで、たけから聞いた事だが、その日、たけの締めていたアヤメの模様の紺色の帯は、私の家に奉公していた頃にも締めていたもので、また、薄い紫色の半襟も、やはり同じ頃、私の家からもらったものだという事である。そのせいもあったのかも知れないが、たけは、私の思い出とそっくり同じ匂いで坐っている。だぶん贔屓目であろうが、たけはこの漁村の他のアバ(アヤの Femme)たちとは、まるで違った気位を持っているように感ぜられた。着物は、縞の新しい手織木綿であるが、それと同じ布地のモンペをはき、その縞柄は、まさか、いきではないが、でも、選択がしっかりしている。おろかしくない。全体に、何か、強い雰囲気を持っている。私も、いつまでも黙っていたら、しばらく経ってたけは、まっすぐ運動会を見ながら、肩に波を打たせて深い長い溜息をもらした。たけも平気ではないのだな、と私にはその時はじめてわかった。でも、やはり黙っていた。 たけは、ふと気がついたようにして、 「何か、たべないか。」と私に言った。 「要らない。」と答えた。本当に、何もたべたくなかった。 「餅があるよ。」たけは、小屋の隅に片づけられてある重箱に手をかけた。 「いいんだ。食いたくないんだ。」 たけは軽く首肯いてそれ以上すすめようともせず、 「餅のほうでないんだものな。」と小声で言って微笑んだ。三十年ちかく互いに消息が無くても、私の酒飲みをちゃんと察しているようである。不思議なものだ。私がにやにやしていたら、たけは眉をひそめ、 「たばこも飲むのう。さっきから、立てつづけにふかしている。たけは、お前に本を読む事だば教えたけれども、たばこだの酒だのは、教えねきゃのう。」と言った。油断大敵のれいである。私は笑いを収めた。 私が真面目な顔になってしまったら、こんどは、たけのほうで笑い、立ち上って、 「竜神様《りゅうじんさま》の桜でも見に行くか。どう?」と私を誘った。 「ああ、行こう。」 私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登った。砂山には、スミレが咲いていた。背の低い藤の蔓も、這い拡がっている。たけは黙ってのぼって行く。私も何も言わず、ぶらぶら歩いてついて行った。砂山を登り切って、だらだら降りると竜神様の森があって、その森の小路のところどころに八重桜が咲いている。たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取って、歩きながらその枝の花をむしって地べたに投げ捨て、それから立ちどまって、勢いよく私のほうに向き直り、にわかに、堰を切ったみたいに能弁になった。 「久し振りだなあ。はじめは、わからなかった。金木の津島と、うちの子供は言ったが、まさかと思った。まさか、来てくれるとは思わなかった。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかった。修治だ、と言われて、あれ、と思ったら、それから、口がきけなくなった。運動会も何も見えなくなった。三十年ちかく、たけはお前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮していたのを、こんなにちゃんと大人になって、たけを見たくて、はるばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいじゃ、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行った時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持ってあちこち歩きまわって、庫《くら》の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺《むがしこ》語らせて、たけの顔をとっくと見ながら一匙ずつ養わせて、手かずもかかったが、愛《め》ごくてのう、それがこんなにおとなになって、みな夢のようだ。金木へも、たまに行ったが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでいないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言うたびごとに、手にしている桜の小枝の花を夢中で、むしり取っては捨て、むしり取っては捨てている。 「子供は?」とうとうその小枝もへし折って捨て、両肘を張ってモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人。」 私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかって、ひとりだ、と答えた。 「男? 女?」 「女だ。」 「いくつ?」 次から次と矢継早に質問を発する。私はたけの、そのように強くて不遠慮な愛情のあらわし方に接して、ああ、私は、たけに似ているのだと思った。きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だったという事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはっきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。どうりで、金持ちの子供らしくないところがあった。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、そうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕えているが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にいた事がある人だ。私は、これらの人と友である。 さて、古聖人の獲麟を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白を以て、ひとまずペンをとどめて大過ないかと思われる。まだまだ書きたい事が、あれこれとあったのだが、津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽したようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。 底本:「太宰治全集第六巻」筑摩書房 1990(平成2)年4月27日初版第1刷発行 初出:「新風土記叢書7 津輕」小山書店 1944(昭和19)年11月15日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:八巻美惠 1999年5月21日公開 2018年7月24日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https //www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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三美スーパースターズ 最後のファンクラブ ミンギュ けあし 深読み日本文学 島田 だこ (新書) 『縄文の思想』 縄文は生きている 瀬川 神話・伝説ではアイヌと古代日本の海民(古事記、日本書紀、風土記)と共通する 県立 7FS210.2セ 大学210.25Se16j 公 『子どもの貧困対策と教育支援』 より良い政策・連携・協働のために 末富(阿部) 県立 8F371.3ス 大学371.3Su19k 『サルは大西洋を渡った──奇跡的な航海が生んだ進化史』 大海原という障壁を越えて進出する生物たち デケイロス (長谷川) 県立 8F462テ 市立462デ 大学462D62s 『なぜ中国人は財布を持たないのか』 中島 県立 スマホ決済 『転げ落ちない社会』 困窮と孤立をふせぐ制度戦略 宮本 県立 大学364.04Mi77k 公 (あとがき)はやく老人になりたいと彼女はいう 伊藤たかみ けあしろ (広告) 『ドローンで迫る伊豆半島の衝突』 岩波科学ライブラリー 県立 市立454コ 大学454.91Ko97 2017.12.10 (朝日新聞) (ひもとく)行動経済学 大竹文雄 行動経済学の逆襲 セイラー 行動経済学への伝統的経済学からの批判 あだ (現実的な人間の特徴:損失回避、現在バイアス、社会的選考) 『ファスト スロー』 カーネマン 『シンプルな政府』 “規制"をいかにデザインするか サンスティーン 県立 市立317サ 大学317.95Su74s 公 過剰な規制をチェックする。代わりに行動経済学を応用。 (売れてる本)『SHOE DOG』 ナイト(佐々木俊尚) 県立 8F589.7ナ 市立589ナ 大学589.75Ku3s 経済成長の日本史 高島(山室) けだ 老愛小説 古屋(佐伯) あ 『日本人の源流』 斎藤(宮田) 縄文人と弥生人以外に海の民が移住 県立 8F469.9サ 市立469サ 大学469.91Sa25n 六469サ 『レッド・プラトーン』 ロメシャ(市田) 県立 8F933ロ エッジィな男 けんぞう(細野) 我々は人間なのか? 頃ミーナ(佐倉) だ 日銀と政治 鯨岡(加藤) けあだこ (著者)肉弾 河崎 けあし (ビジネス)『「富士そば」は、なぜアルバイトにボーナスを出すのか』 丹(小林) 県立 青森 市立 (新書) 『名画で読み解くイギリス王家12の物語』 中野 天皇家のお葬式 大角 あ 戦争と農業 (古典百名山 桜庭一樹) (毎日新聞) 『中原中也』 佐々木(張) 岩波新書 『ボーリンゲン』 過去を集める冒険 マガイアー(若島) 人類の文化遺産を後世に伝える 県立 大学061Ma15b ユングに傾倒したアメリカン人夫妻によるボーリンゲン基金。資金援助。 (この3冊)チベット 星泉選 チベット聖地の路地裏 村上 チベット学問僧として生きた日本人 け チベットの娘 タリン けあ (読売新聞) (空想工房)加藤徹 『なぜ中国人は財布を持たないのか』 中島 県立 スマホ決済 五輪書 講談社学術文庫 七都市物語 田中 あ 李徳全 日本国交正常化の「黄金のクラビ」を打ち込んだ中国人女性 け (大河内直彦) 『ネアンデルタールは私たちと交配した』 (著者)相撲見物 伊藤 けあ 『だから、居場所が欲しかった』 水谷(稲泉) 書物の宮殿 グルニエ(土方) \ けあし つらいと言えない人がマインドフルネスとスキーマ療法をやってみた。 伊藤(伊藤) 大学146.81I89tsu 現代日本の批評 東(安藤) 光の犬 松家仁之(朝井) 『カラヴァッジョの秘密』 ドラッツィオ(出口) 県立 8F723.3カ 市立723ド 『兼好法師』 徒然草に記されなかった真実 小川(清水) 7FS910.2ヨ 大学 これまで広く知られる出自や経歴は捏造。角川ソフィア文庫『新版 徒然草 現代語訳付き』 中公新書 登録有形文化財 佐滝(奈良岡) けあ 世界を変える美しい本 け (日経新聞)12.9 (今を読み解く)ロシア革命100年強権はやまず 下斗米伸夫 ロシア革命とソ連の世紀 岩波 大学238.07R72 ロシア革命100年の謎 亀山 だ 最後のソ連世代 半谷 け ロシア近現代と国際関係 小田 け (この1冊)『SHOE DOG』 ナイト(小関)ナイキの創業者自伝 『ギリシャ語の時間』 ハン・ガン(吉川) 県立 7F929ハ 市立929ハ 『踊る裸体生活』 ドイツ健康身体論とナチスの文化史 森(長谷川) 県立 大学498.3Mo45o 『うしろめたさの人類学』 松村 県立 8F389マ 大学389Ma82u 新哲学対話 飯田 あ 『日本の15歳はなぜ学力が高いのか?』 5つの教育大国に学ぶ成功の秘密 クレハン(広田) 県立 8F372ク 市立372ク 『出口なお・王仁三郎』 川村(中島) 県立 『抗生物質と人間』 マイクロバイオームの危機 山本 岩波新書 県立 7FS491.7ヤ 大学1679 公 ガバナンス改革 『山を動かす』研究会編 (あとがき)ドレス 藤野 けあしろ (広告) 『小さな大世界史』 ブレイニー 市立209ブ 教養のための西洋史入門 けあしだ、~の現代史入門 けあし 教養のフランス近現代史 しだ、×~のドイツ現代史、×~のイタリア近現代史 『ジョブ理論』 イノベーションを予測可能にする消費のメカニズム クレイトン・M・クリステンセン 県立 青森 公 『超「姿勢」力』 gym 県立 2017.12.3 (朝日新聞) (ひもとく)辞書の編纂 サンキュータツオ 『広辞苑はなぜ生まれたか』 新村出の生きた軌跡 新村恭 県立 8F289.1シ 市立289シ 『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか?』 ワードハンティングの現場から 飯間 大学814I27 『辞書になった男』 (売れてる本)ふたご 藤崎(阿部) けあろ ハーフ・ブリード 今福(椹木) だ 『異次元緩和の終焉』 野口悠紀雄(諸富) 県立 8F332.1ノ 熱帯雨林コネクション 主トラウマン(山室) け 『PANA通信社と戦後日本』 岩間(立野) 県立 市立070イ 田舎暮らしと哲学 木原(横尾) けあ 世代問題の再燃 森一郎(斎藤) けだ 学童集団疎開 一條(保坂) けあだ 『日本神話はいかに描かれてきたか』 近代国家が求めたイメージ 及川智早(蜂飼耳) 県立 8F164.1オ 市立164オ 大学164.1O32n 新潮選書 (著者)遺言。 養老孟司 あ (情報フォルダー) 世界<宇宙誌>大図鑑 あ (ビジネス)『人生を変えるクローゼットの作り方』 ホール無頼主(清野) 市立2891ホ (新書) 日本の人類学 ちくま けだ 『出羽三山 山岳信仰の歴史を歩く』 岩鼻 岩波新書 県立 7FS188.5イ 大学1681 公 いのちと味覚 NHK 『隠れ疲労』 朝日 市立498.3カ 大学498.3Ka22k (毎日新聞) 『欲望論』 「意味」の原理論、「価値」の原理論 竹田(橋爪) 大学104Ta59y イギリス現代史 長谷川(伊東) けあだこ (この3冊) 神楽 三上敏視 日本の民俗 祭りと芸能 芳賀 あ 日本藝能史六講 折口信夫 大学 椎葉神楽発掘 渡辺 け 『時代を「写した」男ナダール』 石井(本村) 県立 森へ行きましょう 川上(小島) けあし ロシア革命とソ連の世紀 5巻 岩波書店 だ 『杉山城の時代』 西股 市立213ニ (読売新聞) (著者)能 安田登 こ 『清張鉄道1万3500キロ』 赤塚(宮部) 市立910.268マ イタリアの鼻 レック(出口) し 『SHOE DOG』 靴にすべてを。 ナイト(柳川) 『生と死と祈りの美術』 日本と西洋の信仰のかたち 細田(苅部) 県立 大学702.09H93s 『鳥獣戯画』 磯崎(青山) 県立 7Fイソ 市立913.6イソ 『震美術論』 椹木(伊藤) 県立 8F704サ 大学704Sa97s 公 『ドーピングの哲学』 タブー視からの脱却 ミサ(納富) 県立 大学780.19Mi53d 思想としての近代仏教 末木(安藤) し (記者が選ぶ) はじめての暗渠散歩 本田 ちくま文庫 (著者)呉漢 宮城谷 けあしろ 『のこった』 もう、相撲ファンを引退しない 星野(中島) 7FX788.1ホ 市立788ホ (昨日読んだ文庫)小佐田定雄 ボッコちゃん(おーい、でてこーい) (日経新聞)12.2 (リーダーの本棚)日本機械学会会長 大島まり (座右の書) 竜馬がゆく 金子みすゞ名詩集 (その他) 深夜特急 さぶ 山本周五郎 回転木馬のデッド・ヒート 蔵 宮尾 探偵ガリレオ、予知夢 東の 火車 (この1冊)『CRISPR』 ダウドナ(横山) 県立 8F467.2タ 市立467ダ 大学467.25D89c (半歩遅れの読書術) 鹿島田真希 少年の日の思い出 へっせ けあ ぼくらが漁師だったころ 帯オマ(管) けあろ 貧困と自己責任の近世日本史 木下(井上) だこ 秋田實 笑いの変遷 藤田 だ 登録有形文化財 佐滝 けあ (新書) 『不死身の特攻兵』 7FS210.7コ 市立210.7コ 『ヒトは「いじめ」をやめられない』 中野 7FS210.7コ 市立210.7コ 大学361.4N39h 小学館新書 カテゴリーキング ラマダン(藤原) だ 『マフィア国家』 工藤(星野) 県立 8F368.8ク 市立368ク 大学368.83Ku17m ロシア近現代と国際関係 小田 けだ 『シンプルな政府』 “規制"をいかにデザインするか サンスティーン 県立 市立317サ 大学317.95Su74s 公 過剰な規制をチェックする。代わりに行動経済学を応用。 (あとがき)噺家の卵 煮ても焼いても 柳家さん喬 あ (広告) バテレンの世紀 渡辺 けあしだろ 『ノーラ・ウェブスター』 トビーン 県立 7F933ト 市立933ト バースデイ・ガール 村上春樹 けあ 『巨乳の誕生』 大きなおっぱいはどう呼ばれてきたのか 安田理央 県立 共食いの博物誌 け ナショナルジオグラフィック 12月号 本当のイエス 中学生までに読んでおきたい 日本文学 10巻 あすなろ書房 けあし 『うつも肥満も腸内細菌に訊け!』 県立 8F491.7オ 大学491.34O97u 『お金2.0』 佐藤航陽 県立 8F330.4サ 市立330サ 大学330.4Sa85o 『こわいもの知らずの病理学講義』 仲野徹 県立 8F491.6ナ 市立491ナ 大学491.6N39k 公 『超、思考法』 ダガン 市立 2017.11.26 (朝日新聞) (ひもとく)本屋さんへ行こう 南阿陀楼綾繁 『まちの本屋』 田口 スリップの技法 け 『すごい古書店 変な図書館』 井上理津子 県立 7FS024.8イ 公 (売れてる本)『人工知能と経済の未来』 井上 文春新書(市川) 7FS007.1イ 大学007.13I57j 名婦列伝 ボッカッチョ(原武史) けだ 『きものとジャポニズム』 西洋の眼が見た日本の美意識 深井(斎藤) 県立 青森 大学383.15F71k 『舞台の上のジャポニスム』 演じられた幻想の 日本女性 馬渕(斎藤) 県立 市立772マ 大学772.35Ma12b 『ナチの子どもたち』 クラスニアンスキ(保坂) 県立 8F283.4ク アーダ ナボコフ(円城) けあ どうしても欲しい! トンプソン(サンキュータツオ) けあだ 『だから、居場所が欲しかった。』 水谷(市田) 県立 8F334.4ミ 市立334ミ 遅れ時計の詩人 涸さわ(はちかい) だ 巨大なる空転 中澤(さくら) だ (著者)西郷隆盛 維新150年目の真実 家近 あ (毎日新聞) 『シンプルな政府』 “規制"をいかにデザインするか サンスティーン(大竹) 県立 市立317サ 大学317.95Su74s 公 過剰な規制をチェックする。代わりに行動経済学を応用。 『編集ども集まれ!』 藤野(朝井) 県立 7Fフシ 市立フジ (この3冊)チェ・ゲバラ 井高浩昭編 チェ・ゲバラ ふたたび旅へ こ チェ・ゲバラと歩んだ人生 ガデア けあ チェ・ゲバラの声 け 『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』 ヴァール(中村) 県立 8F481.7ハ 大学481.78W36d 公 無辺光 片山(渡辺) 江戸の瓦版 森田 戦争育ちの放埓病 色川(荒川) (著者)『銀河鉄道の父』 門井 県立 7Fカト 市立カド 大学913.6Ka14g 六913カ 『不都合な真実2』 アル・ゴア (昨日読んだ文庫)二階堂 デーミアン (読売新聞) (文庫新書) チョムスキー言語学講義 あだ (著者)東北おんば駅 新井 マッドジャーマンズ ドイツ移民物語 (旦) だ 内乱の政治哲学 神崎(納富) けあだ 失踪の社会学 中森(尾崎) だこ 『出羽三山 山岳信仰の歴史を歩く』 岩鼻(土方) 岩波新書 県立 7FS188.5イ 大学1681 公 嘘の木 ハーディングズ(宮部) 最後のソ連世代 ゆるちゃく(苅部) けだ 『東芝の悲劇』 大鹿(三浦) 県立 8F540.6オ 市立540オ 大学540.67O76t 公 模倣の西室、無能の岡村、野望の西田、無謀の佐々木 『トラクターの世界史』 藤原(稲泉) 県立 7FS614.8フ パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学 内藤 け (日経新聞)11.25 (この1冊)ブレグジット秘録 オリヴァー(吉田) けだ (活字の海で)出版ブームの統計学 統計学が最強の学問である、実践編、ビジネス編、数学編 統計学の日本史 宮川 けこ (半歩遅れの読書術)和田竜 『渋カジが、わたしを作った。』 県立 市立589マ テルリア ソローキン(亀山) あ 光の犬 松家仁之 いわさきちひろ 松本 『だから、居場所が欲しかった。』 水谷 海の地政学 すたヴりでぃす(塚本) けだ 『擬』 松岡(山本) 県立 7Fマツ ESG投資 水口 軍人が政治家になってはいけない本当の理由 廣中 けだ (あとがき)ゲイ・カルチャーの未来へ 田亀 (広告) ニュースのなぜは世界史に学べ あ 『城の科学』 県立 7FS521.8ハ 市立521ハ 2017.11.19 (朝日新聞) (ひもとく)非核世界への挑戦 吉田文彦 核兵器をめぐる5つの神話 ウィルソン ゴルバチョフが語る冷戦終結の真実と21世紀の危機 山内 核なき世界を求めて ペリー こ (売れてる本)東大ナゾトレ (山口) あ ゴッホの耳 マーフィー(横尾) けあし 森へ行きましょう 川上弘美(野矢) けあしだろ 『あるノルウェーの大工の日記』 トシュテンセン(佐伯) 県立 8F525.5ト 市立525ト 大学525.54Th8a ダーティ・シークレット マーフィー(諸富)タックス・平文関連 あだ ブラックボックス 伊藤詩織(斎藤) あ 『重力波 発見!』 新しい天文学の扉を開く黄金のカギ 高橋(サンキュータツオ) 県立 市立441タ 大学440.12Ta33j 六441タ 公 アインシュタインの一般相対性理論の証明 金木○と彼女の時間 彩坂美月(末國) ループもの 他人の始まり 因果の終わり ECD(椹木) (著者)熊野木遣節 宇江 (ビジネス)『革命のファンファーレ』 西野(勝見) 8F779.1ニ 市立 大学(医5)159.4N85k (古典百名山 大澤真幸)ハイデガー 存在と時間 岩波文庫 熊野純訳 「死」から人生をとらえ返す (毎日新聞) チョムスキー言語学講義 チョムスキー(三浦) 『言語の起源』 人類の最も偉大な発明 県立 大学802E89g 石川信雄著作集 昭和短歌史の遺産(堀江) (この3冊)ハリウッド 井上一馬選 ハリウッド帝国の興亡 フリードリック あ ロバート・アルトマン わが映画、わが人生 ジェームズ・キャメロン キーガン あ 共依存の倫理 小西(内田) けだ キリスト教史 藤代(佐藤優) だあ 日本史年表、世界史年表 岩波書店 荒木陽子全愛情集 荒木陽子(池澤) あ (著者)『鳥獣戯画』 磯崎憲一郎 県立 7Fイソ 市立913.6イソ (昨日読んだ文庫)下川裕治 唯識の思想 横山 だ (読売新聞) (著者)いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて 松本 けあし 忘れる女、忘れられる女 酒井(長島) けあしろ スター女優の文化社会学 北村(安藤) け 光明皇后 瀧波(出口) けだ 独立自尊を生きて 福澤(橋元) 『新しい分かり方』 佐藤雅彦(伊藤) 県立 8F757サ 市立757サ ケンブリッジ大学図書館と近代日本研究の歩み 小山(奈良岡) けだ 『杉山城の時代』 西股(清水) 『モチベーション革命』 稼ぐために働きたくない世代の解体書 尾原(柳川) 県立 市立159オ 大学159.4O11m 世界<宇宙誌>大図鑑 ベンソン けあ (日経新聞)11.18 (リーダーの本棚)デンソー会長 加藤宣明 (座右の書) ローマ人の物語 競争の戦略 ポーター だこ おもしろおかしく 堀場 け (その他) 高熱隧道 吉村昭 あこ 深海の使者 吉村 けあ 八甲田死の彷徨 新田 砂の器 松本 (この1冊)『プロフェッショナルの未来 AI、IoT時代に専門家が生き残る方法』 リチャード&ダニエル・サスカンインド(中野) 8F007.3サ (半歩遅れの読書術)和田竜 豪傑組 海音寺 あ 13・67 陳(東山) けあし ガレノス まターン(本村) けだ 森へ行きましょう 川上 ザ・ガールズ クライン けあ (新書) 『ニッポンの奇祭』 『「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす』 市立367.2サ 粉飾決算vs会計基準 細野(鹿野) あだろこ ハーフ・ブリード 今福(越川) 変貌する法科大学院と弁護士過剰社会 森山 け イスラーム思想を読みとく 松山 ちくま新書 だ (あとがき)大阪弁の犬 山上たつひこ 2017.11.12 (朝日新聞) (ひもとく)リベラルとは何か 犬塚元 美しい国へ 安倍晋三 け 自由論 ミル 光文社 権力からの自由 けこ ロールズ 政治哲学史講義 フリーマン 岩波 権力による自由 けこ バーク読本 中澤 けこ 自由のこれから 平野 (売れてる本)いのち愛しむ、人生キッチン 桧山(小川) あ メタヒストリー ホワイト(柄谷) 歴史を言語から見直す だこ(関連)言語の牢獄 ジェイムソン こ 憲法と世論 境家(斎藤) だこ 転生の魔 笠井潔 私立探偵飛鳥井の事件簿(末國) けあ シンパサイザー ウェン(市田) けあし 『小さな大世界史』 ブレイニー(山室) 人類の歴史 市立209ブ 『消費大陸アジア』 巨大市場を読みとく 川端(加藤)ちくま新書 県立 市立672カ 大学1277 公 『擬』 松岡正剛(蜂飼耳) 県立 7Fマツ 機龍警察 狼眼殺手 月村(円城) けあ (著者)街と山のあいだ 若菜 けあだ (悩んで 荻上チキ)LIFE 麻生 (ビジネス)琥珀の夢 伊集院(梶山) けあろ (古典百名山 桜庭一樹)ボヴァリー夫人 新潮文庫 (新書) 『素晴らしき洞窟探検の世界』 吉田 ちくま新書 大学1282 漂流女子 中島 こ 『抗生物質と人間』 マイクロバイオームの危機 山本 岩波新書 県立 7FS491.7ヤ 大学1679 公 核に縛られる日本 田井中 (オススメ)日本のZINEについて知ってることすべて 野中 け (毎日新聞) カシス川 荻野アンナ(持田) 母と娘 けあし アーダ 新訳版 ナボコフ 早川書房(沼野) け (この3冊)吉本せい 相羽秋夫選 花のれん 山崎豊子 あろ 新版 女興行師 吉本せい 矢野 吉本せい お笑い帝国を築いた女 青山 詩人なんて呼ばれて 谷川俊太郎(湯川) けあしろ デザイナー・ベイビー ノフラー(養老) 完訳 天球回転論 コペルニクス みすず書房(村上) け 岩波文庫の矢島訳は全6巻の第1巻の訳で重大な難点を含む。 (著者)千の扉 柴崎 け れきはく日本の歴史 3 近世 (昨日読んだ文庫)平松サリー モモ (読売新聞) (空想工房)清水 メノン プラトン 光文社 けあ 思考と動き ベルクソン け ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む け 芸術作品の根源 ハイデッガー けあだ (大河内直彦)電子立国日本の自叙伝 けあだ (著者)双子 藤崎彩織 Fukaseは幼なじみ 坂口安吾論 柄谷(苅部) けだ 『舞台の上のジャポニスム』 演じられた幻想の 日本女性 馬渕(安藤) 県立 市立772マ 大学772.35Ma12b 文学とアダプテーション 小川(尾崎) だこ アンチクリストの誕生 ペルッソ(土方) 森へ行きましょう 川上(青山) 『大学病院の奈落』 高梨(稲泉) 県立 8F498.1タ 市立498.1タ 大学498.12Ta46d チリ夜想曲 ボラーニョ(旦) けあ 東の果て、夜へ ビバリー(服部) あ 『全国棚田ガイド TANADAS』(清水) 県立 市立616ゼ 六616ゼ (日経新聞)11.11 (今を読み解く)中国「強国化」に潜むリスク 中国はなぜ軍拡を続けるのか 川島 あ ルポ 隠された中国 金 東アジアの社会大変動 けこ (この1冊)歴史としての大衆消費社会 寺西 だ (半歩遅れの読書術)和田竜 黒田家譜 『秀吉と海賊大名』 『震美術論』 椹木(大竹) 県立 8F704サ 大学704Sa97s 公 『ケルト 再生の思想』 鶴岡真弓 県立 大学1286 『雑草が教えてくれた日本文化史』 稲垣 県立 市立410イ 江戸川乱歩と横溝正史 けあ 『大学病院の奈落』 高梨(堀川) 2084年世界の終わり サンサル(小野) けあ 学童集団疎開 一じょう けあだ 『デジタル・エコノミーはいかにして道を誤るか』 エイヴェント 県立 8F331.8エ 大学366.04A96d 公 (あとがき)能 安田登 (広告) 『カランポーのオオカミ王』 県立 7FJEクリ 市立 六Eグ 『シャクルトンの大漂流』 県立 市立Eグリ 凍てつく海のむこうに 2017年カーネギー賞 し 『日本の地下で何が起きているのか』 鎌田 岩波科学ライブラリー ウイルス細菌真菌図鑑 3巻 けあだ 微生物大図鑑 3巻 けあし 世界を変える美しい本 け 『悪魔とのおしゃべり』 正しさなんて、ただの多数決 さとうみつろう 8F159サ 市立 『京大式DEEP THINKING』 川上 市立141カ 大学141.5Ka94k 己を奮い立たせる言葉。 岸 『週イチ・30分の習慣でよみがえる職場』 重光 市立336シ ☆ミンツバーグのマネジメントハプニングス:日常で気になることをいつもと違う角度で振り返る。仲間の視点で見つめ直す。そこからの気づきを実際の職場で生かしていく。 2017.11.5 (朝日新聞) (ひもとく)「女性の活躍」って 水無田気流 『LEAN IN』 『OPTION B』 8F159サ 大学 『仕事と家庭は両立できない?』 仕事と家族 筒井 けあだ (売れてる本)『月たった2万円のふたりごはん』 奥田(辛酸) 青森 六596オ 『新しい分かり方』 佐藤(野矢) 『高倉健』 七つの顔を隠し続けた男 森(横尾) 県立 8F778.2タ 市立 『トラクターの世界史』 藤原(佐倉) 県立 7FS614.8フ 都市は人なり CHIM(椹木) 政治経済の生態学 スタインも(諸富)高福祉・高競争力 だ 経験をリセットする 河本(宮田) だこ 高架線 滝口(原武史)小説 けあ ティンパニストかく語りき 近藤(佐伯) 県立 (著者)大家さんと僕 矢部 あろ (ビジネス)『ユニクロ潜入一年』 増田(森) 県立 8FN673.7ヨ 市立673ヨ 大学673.78Y78y 六673ヨ 公 (新書) 『日本の歴史を旅する』 五味 岩波新書 県立 7FS210.0コ 大学1676 『ねじ曲げられた「イタリア料理」』 グラッセッリ 県立 (毎日新聞) 新しい小説のために 佐々木(○巣) 文学理論史 けあしだ 『物語フィンランドの歴史』 石野(岩間)中公新書 7FS238.9イ (この3冊)ショパン 小坂裕子 ショパン 遠山 不朽の名著 あ 決定版 ショパンの生涯 バルバラ けあし ショパンを読む時間 高場 もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために 加藤(橋爪大三郎) 革命思想 け 経済成長という呪い コーエン(松原) けあ (著者)光の犬 松家 『日本のすごい味 おいしさは進化する』 『同 土地の記憶を食べる』 平松(池内) 県立 7FP596.0ヒ 市立596ヒ 大学596.04H65nO 知って得する相続 揉めて損する相続 (読売新聞) (著者)琥珀の夢 伊集院 鳥井信治郎の物語 けあし 『銀河鉄道の父』 門井(三浦) 天皇のダイニングホール 山崎(奈良岡)明治記念館 けだ 背教者の肖像 添えや(納富)(関連)ユリアヌスの信仰世界、ローマ帝政の歴史1 だ 湖の男 インドリダソン(宮部)アイスランド犯罪捜査官 シリーズ第4弾 けあし (『湿地』、『緑衣の女』、『声』) 『編集ども集まれ!』 藤野(角田) 県立 7Fフシ 市立フジ 戦国おもてなし時代 金子(清水) けあしdさ シンパサイザー ウェン(土方) スパイ小説(優れたスパイ小説 寒い国から帰ってきたスパイ、ヒューマン・ファクター あ)けあし オスマン帝国の崩壊 ローガン(出口)中東の近現代史を学ぶのに最適 け (日経新聞)11.4 (リーダーの本棚)日本レコード協会会長 重村博文 (座右の書) ローマ人の物語 (その他) 坂の上の雲 子規の音 戦艦大和 吉村 『収容所から来た遺書』 県立 7F916ヘ 市立 『誰が音楽をタダにした?』 上を向いて歩こう 佐藤 けあs (この1冊)『生産性を上昇させる社会 スティグリッツのラーニング・ソサイエティ』(福田) 8F333ス (半歩遅れの読書術)和田竜 我が名は、カモン 犬童監督 あ (文庫・新書) テロと陰謀の昭和史 文春文庫 60歳からの外国語修行 かだこ ライティングクラブ かん(吉川) けあ 千の扉 柴崎(佐々木) けあしろ 琥珀の夢 伊集院 けあしろ 文化大革命 明治大学現代中国研究所 『PANA通信社と戦後日本』 岩間(佐藤)(関連 南ヴェトナム戦争従軍記) 県立 市立070イ 写真家 三木淳と「ライフ」の時代 須田(今橋) け デザイナー・ベイビー ノフラー 優生思想 け 『ライフ・プロジェクト』 ピアソン コホート研究 県立 8F334.2ヒ 市立334ピ (あとがき)双子は騾馬に跨って 金子 稲盛和夫の実践アメーバ経営 あだこ (広告) 『アフター・ビットコイン』 中島 『日本神話はいかに描かれてきたか』 近代国家が求めたイメージ 及川智早 県立 8F164.1オ 市立164オ 大学164.1O32n 新潮選書 文豪とアルケミスト文学全集 し ナボコフ・コレクション 全5巻 けあし 現代世界における意思決定と合理性 スタのヴィッチ 『徹底検証 「森友・加計事件」』 朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪 小川 青森 市立070オ メディアを含め印象操作はありうること。1次資料に当たるべし。 『身の丈にあった勉強法』 食事の科学
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前田玄以(まえだ げんい)日本(美濃国)1539~1602統率:D 武力:E 政治:A 知力:B 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------織田家、豊臣家臣。元延暦寺の僧侶。本能寺の変で二条城に居たが脱出し、秀吉に仕える。京都奉行、寺社奉行を務め、豊臣政権の五奉行に列せられる。関ヶ原の戦いの後は、丹波亀山5万石の本領を安堵された。 前田利常(まえだ としつね)日本1594~1658統率:C 武力:C 政治:A 知力:B 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------加賀藩第2代藩主。前田利家の四男で、前田利常の弟。徳川秀忠の娘・珠姫を妻とした。大坂冬の陣で徳川方として参戦し、真田丸の戦いで真田幸村の軍と戦った。大坂夏の陣では先方として大野治房の軍と戦った。徳川家から謀反の疑いをかけられつつも120万石の所領を守り、治水や農業改革、美術・工芸の奨励や保護を行った。 前田利長(まえだ としなが)日本(尾張国)1562~1614統率:C 武力:C 政治:B 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------織田家、豊臣家臣。前田利家と芳春院の嫡男。本能寺の変後、父の利家と共に柴田勝家に付くが、後に豊臣秀吉に従う。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、徳川の臣下として最大の外様大名である加賀藩の初代藩主となり、礎を築いた。 前田利益(まえだ とします)、前田慶次郎、穀蔵院飄戸斎日本1533~1612統率:A 武力:A 政治:E 知力:C 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------織田家、前田家、上杉家臣。滝川一益の従兄弟(または甥)の子で、前田利久の養子となる。文武に優れ、茶や和歌にも長けた。後に関ヶ原の戦いの裏で行なわれた長谷堂城の戦いで先陣、殿として活躍した。 前田摩阿(まえだ まあ)日本1572~1605統率:D 武力:E 政治:D 知力:B 文化:A 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------前田利家と芳春院の三女。柴田勝家の家臣、佐久間十蔵と婚約していたが、賤ヶ岳の戦いの後、豊臣秀吉の側室となり、加賀殿と呼ばれた。後に病弱を理由に側室を辞して万里小路充房と結婚した。前田利忠を産むが、充房とは離婚して金沢に帰った。 槙島昭光(まきしま あきみつ)、槇木島昭光日本????~????(17世紀)統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------室町幕府幕臣、豊臣家、細川家臣。幕府奉行衆。槙島城主。将軍・足利義昭が織田信長に対して挙兵した際に、義昭を迎え入れて篭城戦を行なった。後に豊臣秀吉の奏者番となり、豊臣秀頼にも仕えた。大坂の陣後は、細川家に仕え、中津留守居役を務めた。 牧野忠清(まきの ただきよ)日本1620~1683統率:C 武力:C 政治:B 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------初代長岡藩主・牧野忠成の五男。徳川家綱の小姓として、西城書院番士、本城書院番士、書院番頭を歴任。旗本として三根山領の2代目領主となる。 牧野忠成(まきの ただなり)日本(越後国)1635~1674統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------長岡藩2代藩主。牧野光成の長男。父が若くして亡くなったため、祖父である同名の牧野忠成の後嗣となった。しかし、叔父たちの政治への介入があり、お家騒動が起こり、将軍の裁定を仰ぐ事態まで発展した。飛騨守。 牧野光成(まきの みつなり)日本(越後国)1614~1637統率:D 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------初代長岡藩主・牧野忠成の長男で、2代藩主・牧野忠成の父。将軍・徳川家光から偏諱を賜って光成と改名する。大和守。24歳の若さで没する。 牧野康成(まきの やすしげ)日本(三河国)1555~1610統率:C 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------徳川家臣。牧野成定の子。父が没すると、一族との間に遺領争いが起こるが、徳川家康の支援で相続を成功させる。長篠の戦いをはじめ、多くの戦いに参陣し、東海道平定に貢献する。関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍に属した。後に上野国大胡藩の初代藩主となる。 増田長盛(ました ながもり)日本(尾張国)1545~1615統率:C 武力:D 政治:A 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------豊臣家臣。信長の時代から秀吉の古参の家臣。外交や検地で活躍し、大和郡山城主となり、五奉行に数えられる。朝鮮出兵にも参加した。関ヶ原の戦いでは西軍だが、徳川家康に内通し、大坂城の留守役となった。大坂の陣の際、息子の増田盛次が豊臣方に与したため、切腹を命じられた。 増田盛次(ました もりつぐ)日本????~1615統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------豊臣家臣。増田長盛の子。関ヶ原の戦いの後、徳川義直に仕え、大坂冬の陣で戦功を挙げた。しかし、夏の陣では、出奔して豊臣方に付く。長宗我部盛親の部隊に属して戦うが、藤堂高虎の部隊に討ち取られる。 松井康之(まつい やすゆき)日本1550~1612統率:B 武力:C 政治:C 知力:B 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------室町幕府幕臣、織田家、細川家臣。松井正之の次男。豊臣秀吉の鳥取城攻めの際に水軍衆を率いた。本能寺の変後は、細川忠興に従い、小田原征伐、朝鮮出兵に従軍した。関ヶ原の戦いでは、豊後国杵築城を守備し、大友吉統の攻撃を防いだ。 松尾芭蕉(まつお ばしょう)日本(伊賀国)1644~1694統率:C 武力:C 政治:B 知力:A 文化:A 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------俳諧師。『俳聖』。『野ざらし紀行』、『鹿島紀行』、『更科紀行』など多くの紀行文を残し、東北を巡る旅で『奥の細道』を残す。異説では、幕府の隠密であったとも考えられている。 松田康郷(まつだ やすさと)日本(相模国)1540~1609統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------北条家、徳川家臣。松田康定の次男。松田憲秀の甥。肥後守。上杉謙信が臼井城を攻めた際に援軍として駆け付け、これを撃退した。北条家滅亡後は、結城秀康に仕えた。 松平忠輝(まつだいら ただてる)日本1592~1683統率:B 武力:C 政治:C 知力:B 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------徳川家康の六男。越後高田藩初代藩主となる。武術だけでなく、茶道、絵画、薬学にも通じ、キリスト教の洗礼も受けた。しかし、母の出自の低さなどから父からは疎まれており、大阪冬の陣では留守役、夏の陣では不手際があったとして、諏訪に配流された。 松平忠直(まつだいら ただなお)日本1595~1650統率:B 武力:B 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------北ノ庄藩2代藩主。結城秀康の長男。参議。大坂冬の陣では兵の損失が多かったため徳川家康に叱咤される。大坂夏の陣では真田幸村を討ち取った。後に一国御前を寵愛し、女性を惨殺させるなど乱交が目立った。病などを理由に参勤を拒み、豊後国府内藩に配流となった。 松平忠吉(まつだいら ただよし)日本(尾張国)1580~1607統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------徳川家康の四男。武蔵国忍城主。関ヶ原の戦いで初陣を飾る。その功により尾張国52万石の清洲藩の藩主、忍藩2代藩主となる。しかし、嫡子がいなかったため、藩主は弟の徳川義直が継いだ。 松平忠昌(まつだいら ただまさ)日本(摂津国)1598~1645統率:B 武力:A 政治:C 知力:B 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------北ノ庄藩3代藩主。結城秀康の次男で、松平忠直の弟。大坂夏の陣で活躍する。姉ヶ崎藩、下妻藩、松代藩、高田藩の藩主を歴任し、幕命で北ノ庄藩の藩主となる。北という字は敗北に繋がるとして同藩を「福井」と改名し、改めて福井藩初代藩主となった。剣術家、砲術師、軍学者など多数召抱えた。 松平綱隆(まつだいら つなたか)日本(出雲国)1631~1675統率:D 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------松江藩2代藩主。松江松平家当主。松平直政の長男。松平近栄、松平隆政の兄。信濃守、出羽守、侍従。藩財政悪化の対策に藩札を発効するが、効果を成さなかった。 松平綱昌(まつだいら つなまさ)日本(越前国)1557~1620統率:E 武力:C 政治:E 知力:E 文化:E 魅力:E--------------------------------------------------------------------------------織田家、豊臣家、徳川家臣。美濃の豪族・市橋長利の子。九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵にも参戦し、関ヶ原の戦い、大坂の陣でも武功を挙げる。美濃今尾藩主、伯耆矢橋藩主、越後三条藩主。 松平直基(まつだいら なおもと)日本1604~1648統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------結城秀康の五男で、結城家を相続する。越前勝山藩主から大野藩、山形藩と加増・移封されたが、姫路藩に国替えの際に途上で亡くなった。 松平直矩(まつだいら なおのり)日本1642~1695統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------大野藩主・松平直基の長男。父が姫路藩に国替えの際に亡くなったため家督を継ぐ。しかし幼かったためすぐに越後村上藩主となる。その後、再び姫路藩、日田藩、山形藩、白河藩と国替えを命じられ、『引越し大名』と呼ばれた。 松平直政(まつだいら なおまさ)日本(近江国伊香郡河内)1601~1666統率:B 武力:B 政治:B 知力:B 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------結城秀康の三男。松江松平家当主。大坂の陣に参陣し、真田幸村の軍と戦い、その軍功で国持大名として、上総国姉崎藩主、越前国大野藩主、信濃国松本藩主を経て出雲国松江藩初代藩主となった。文武の奨励や産業の興隆を図り、ホーランエンヤを創始する一方で、領内の切支丹を厳しく取り締まった。出羽守。 松平光通(まつだいら みつみち)日本(越前国)1636~1674統率:C 武力:C 政治:A 知力:A 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------福井藩2代藩主。越前松平家。松平忠昌の次男。幼くして家督を継ぎ、本多富正ら宿老の補佐を受けた。政治に明るく、税制、家中の武具に関して、山に関する法など改善し、儒学の教育を奨励した。妻の自殺や息子の出奔が続き自殺する。 松の丸殿(まつのまるどの)、京極竜子、京極殿日本(近江国)????~1634統率:D 武力:E 政治:D 知力:C 文化:C 魅力:A--------------------------------------------------------------------------------豊臣秀吉の側室。京極高吉と京極マリアの娘で、京極高次、高知の兄妹。浅井長政の姪で、淀殿、常高院の従姉妹。はじめは武田元明に嫁ぐが、本能寺の変後、豊臣秀吉の側室となる。小田原城や、朝鮮出兵の際、名護屋城に秀吉に伴われた。 松前氏広(まつまえ うじひろ)日本(蝦夷国)1622~1648統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------松前藩3代藩主。松前公広の次男。アイヌのへナウケによる反乱が起こるが、一族の蛎崎利広が鎮圧する。 松前公広(まつまえ きんひろ)日本(蝦夷国)1598~1641統率:D 武力:D 政治:D 知力:C 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------松前藩2代藩主。志摩守。松前盛広の長男で、父が早く亡くなったため家督を継ぐ。火事のために福山城が焼失し、自信も火傷を負う。幕府のキリスト教取り締まり令により、大勢のキリスト教徒を処刑する。 松前高広(まつまえ たかひろ)日本(蝦夷国)1643~1665統率:D 武力:D 政治:D 知力:D 文化:D 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------松前藩4代藩主。松前氏広の長男。若くして藩主となったため、藩政は家臣団が取り仕切り、高広自身も23歳の若さで亡くなった。 松前盛広(まつまえ もりひろ)日本(蝦夷国)1571~1608統率:D 武力:E 政治:E 知力:D 文化:E 魅力:D--------------------------------------------------------------------------------松前慶広の長男。若狭守。松前藩2代藩主となるはずだったが、父よりも先に死んでしまう。 松前慶広(まつまえ よしひろ)、蠣崎慶広日本(蝦夷国)1548~1616統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------蠣崎家6代当主。蠣崎季広の三男。民部大輔、志摩守、伊豆守。豊臣秀吉に従い、九戸政実の反乱の征伐、朝鮮出兵に参加し、全蝦夷地(樺太・北海道)の支配権を与えられた。後に、徳川家康に従い、姓を松前に改め、松前藩初代藩主となった。 松浦鎮信(まつら しずのぶ)日本(肥前国)1549~1614統率:C 武力:C 政治:B 知力:B 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------松浦家26代当主。松浦隆信の子。肥前の豪族。平戸城主。関ヶ原の合戦では東軍に付き、所領を守り、平戸藩初代藩主となった。茶道の鎮信流の流祖であり、また、英、蘭の商館を建設して平戸貿易に尽力する。 松浦隆信(まつら たかのぶ)、宗陽日本(肥前国)1592~1637統率:D 武力:C 政治:E 知力:E 文化:E 魅力:E--------------------------------------------------------------------------------松浦家29代当主、平戸藩3代藩主。松浦久信の子。壱岐守。イギリス商館やオランダ商館に無理やり介入して莫大な損害を与えてしまった。 松浦久信(まつら ひさのぶ)日本(肥前国)1571~1602統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------松浦家28代当主、平戸藩2代藩主。松浦鎮信。肥前守。関ヶ原の戦いでは、西軍に与し、伏見城攻めと安濃津城攻めに参陣した。しかし、父・鎮信のお陰で処罰を免れたが、帰国を許されず、悲観して没した。 万里小路充房(までのこうじ あつふさ)日本(山城国)1562~1626統率:C 武力:D 政治:C 知力:C 文化:C 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------公家。万里小路家13代当主。勧修寺晴秀の子で、里小路輔房の養子となる。参議、権大納言。正妻は織田信長の娘で、側室に前田摩阿。後水尾天皇の典侍・四辻与津子が文智女王を産んだことで、宮中の風紀が乱れたとされ(およつ御寮人事件)、徳川秀忠によって丹波篠山に流罪に処された。 満天姫(まてひめ)、葉縦院日本1589~1638統率:D 武力:C 政治:B 知力:B 文化:B 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------関宿藩主・松平康元の娘。伯父の徳川家康の養女。福島正則の養子・福島正之に嫁ぎ、大道寺直秀を出産する。後に津軽弘前藩主・津軽信牧に再嫁し、津軽信英を産んだ。大道寺直秀が福島家の再興を目論むと、津軽家の障害になると考え、毒を盛ったといわれる。 真理姫(まりひめ)、真竜院日本(甲斐国)1550~1647統率:D 武力:D 政治:D 知力:C 文化:C 魅力:B--------------------------------------------------------------------------------木曾義昌の正室。武田信玄の三女で武田義信、勝頼の妹。信濃・美濃・飛騨の国境が接する要地を支配する木曾氏を取り込むため、木曾義昌に嫁いだ。しかし、織田信長が甲州への侵攻を始めると、夫の義昌は織田家に寝返ったため、離縁して山中に隠遁した。 曼珠院覚恕(まんじゅいん かくじょ)日本1521~1674統率:C 武力:C 政治:C 知力:C 文化:A 魅力:C--------------------------------------------------------------------------------比叡山第166世天台座主。後奈良天皇の第一皇子で、正親町天皇の異母兄。織田信長の比叡山焼き討ちの時の座主だったが、当時、比叡山を留守にしていたため難を逃れた。しかし、責任を問われて座主の座を追われた。和歌にも堪能で多くの歌集を残した。
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←グッズに戻る。 西日本地域(関西・中国・四国・九州・沖縄)の一般グッズは、グッズ・一般グッズ(西日本)を参照。 北海道・東北北海道 青森県 岩手県 宮城県 秋田県 山形県 福島県 関東茨城県 栃木県 群馬県 埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県 北陸新潟県 富山県 石川県 福井県 中部山梨県 長野県 岐阜県 静岡県 愛知県 ★印は販売期間限定グッズ。 冬の〜:毎年12月上旬から翌3月31日中まで。 夏の〜:毎年4月下旬から8月31日中まで。 クリスマスの〜:毎年12月上旬から12月25日中まで。 →2013年11月13日:新規追加 全国236個(未反映) →2012年12月13日:新規追加 全国78個(未反映) →2012年12月01日:新規追加 全国5個(未反映) →2012年11月14日:新規追加 全国130個(未反映) →2012年10月11日:新規追加 全国142個(未反映) →2012年09月12日:新規追加 全国106個(未反映) →2012年08月09日:新規追加 全国243個(未反映) →2012年07月12日:新規追加 全国92個 →2012年06月13日:新規追加 全国134個 →2012年05月15日:新規追加 全国100個 →2012年04月28日:新規追加 全国17個 北海道・東北 北海道 ・北海道の象徴(SP) ・阿寒湖 ・旭川ラーメン ・石狩鍋 ・枝幸カニ ・大通り公園 ・オホーツク北見塩やきそば ・海鮮丼 ・競走馬育成施設(日高) ・釧路産毛ガニ ・釧路湿原 ・釧路ラーメン ・釧路和商市場 ・クラーク ・競馬場(帯広) ・競馬場(札幌) ・競馬場(函館) ・競馬場(紋別) ・五稜郭 ・サッカーチーム(札幌) ・札幌大球キャベツ ・札幌市中央卸売市場 ・札幌市時計台 ・さっぽろテレビ塔 ・札幌ラーメン ・ジャンプ競技場(大倉山) ・ジンギスカン ・スキー場(ニセコ) ・大学(札幌) ・ちゃんちゃん焼き ・動物園(旭川) ・動物園(帯広) ・動物園(釧路) ・動物園(円山公園) ・トウモロコシ ・洞爺湖 ・ドーム球場(札幌) ・中島れんばい市場 ・生キャラメル ・二条市場 ・はこだて自由市場 ・函館のイカ ・函館ラーメン ・ハスカップ ・冬のイベント(札幌) ★冬の札幌市時計台(SP) ・ホッキョクグマ ・摩周湖 ・マリモ ・室蘭やきとり 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