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唐書巻一百六十八 列伝第九十三 韋執誼 王叔文 王伾 韓曄 陳諌 凌準 韓泰 陸質 劉禹錫 柳宗元 程异 韋執誼は、京兆の旧族である。幼い頃から才能があった。進士に及第し、成績優秀で、右拾遺を授けられた。加冠の年齢を超えると、翰林に入って学士となり、そこで聡くも側近に媚びへつらい、徳宗の厚遇を得た。詩歌の唱和に預かり、詔によって称えられた。裴延齢と韋渠牟らが互いに寵を競っていたから、彼らに出入りして顧問に備えた。帝の降誕日のときに、皇太子(後の順宗)が仏画を描いて献上したから、帝は韋執誼を派遣して称賛し、太子から韋執誼に帛を賜り、韋執誼に詔して東宮に謝礼に行った。太子はついに会うのに別の理由に託けることはなくなった。そこで「君は王叔文を知っているか。素晴らしい才能だぞ」と言い、韋執誼はこれによって王叔文と親しくなった。母の喪によって辞職した。喪があけると、吏部郎中となり、しばしば召されて禁中に到った。補闕の張正一が上書によって召見され、王仲舒・韋成季・劉伯芻・裴茝・常仲孺・呂洞と親しかったから行ってお祝いとしたが、ある者が韋執誼に向かって、「彼らは君と王叔文が党派を結んでいることについて議論しようとしている」と言ったから、韋執誼は、韋成季たちの集団が広く伺いのぞんでいると申し上げた。帝は金吾に詔して、何度も飲食していることを調査し、全員を追放した。 順宗が即位すると、病のため親政せず、王叔文を用いたが、そこで韋執誼を抜擢して尚書左丞・同中書門下平章事(宰相)とした。王叔文と王伾が宮中にあって命令を伺い、韋執誼によって執行させようとし、そこで朝廷を専権して惑わし乱した。韋執誼は王叔文に引き立てられたが、しかし公の場での議論の際に迫って、天下に自分は王叔文の与党ではないことを示そうとし、そこで度々異論を述べた。しかし密かに王叔文のもとで謝して「あえて盟約に背いて異論を述べるのは、共に国家の事を救おうとするからだ」と言ったが、王叔文はしばしば異論を遮ったから、かえって仇怨となった。憲宗に譲位されると、王叔文・王伾を配流とし、その与党をバラバラに左遷し、韋執誼を貶して崖州司戸参軍とした。帝は韋執誼が宰相の杜黄裳の婿であったから、一番最後に貶した。 韋執誼はすでに形勢は傾き、禍いが自分にも及ぶだろうとわかっていて、なおも宰相の地位にいたとはいえ、息も絶え絶えになって無気力となり、人の足音を聞くだけでたちまち動悸がするようになり、失脚に到った。それより以前、顕官となる以前、人がよく貶地として用いられる嶺南の州県について言うのを嫌った。郎中となり、かつて「職方観図」のもとに行った際に、嶺南になるとたちまち目を瞑り、近くの者に命じて撤去させた。宰相となると、座していた堂に地図があり、かえりみることはなかった。すでに数十日がたち、試しに見てみると崖州の地図であった。不祥だと思い憎んだが、果して崖州に貶されて死んだ。 王叔文は、越州山陰の人である。棋待詔となった。よく読書をし、明確に政治の道を申した。徳宗は詔して東宮に仕えさせ、太子は引き立てて侍読とし、そこで政治および宮市の弊害を論じた。太子は、「あなたはお上に見えて、まさに極言すべきである」と言い、列座していた者は皆褒め称えたが、王叔文だけは黙り込んでいた。去る間際に太子は「君は無言だったがどうしてか」と聞くと、王叔文は「太子がお上に仕えるのは、お上の膳を視て健康を尋ねるくらいで、政治に参与しているわけではありません。また陛下の在位は長く、私のような小人が太子とお上の関係を悪化させてしまえば、殿下が世情を汲み取ったところで、どうして自ら弁解できましょうか」と答え、太子は謝して「先生でなければこの発言は聞けなかった」といい、これより重んじられ、宮中の事はすべて参与に預かった。 王叔文は心が狭く軽率で、遂に気まま勝手に発言して自身の才能を疑わず、「私は宰相となるべきである。私は将軍となるべきである。後日に厚遇されて用いられるだろう」と言った。密かに天下の有名の士と交遊を結んで、士で速やかに昇進したいと願う者は、王叔文に付き従った。韋執誼・陸質・呂温・李景倹・韓曄・韓泰・陳諌・柳宗元・劉禹錫のような者は死を約した友となり、凌準・程异もまたそこでその党派に仕え、こっそりと出入りし、その他は末席に連なることもできなかった。藩鎮や将帥も、ある者は密かに賄賂を送って結びつきを得た。 順宗が即位すると、病のため聴政することができず、宮中奥深く幄を設けてそこにおり、牛昭容・宦人の李忠言を側に侍らせ、群臣が奏上すると、幄の中より奏上の内容を聞いた。王伾は密かに宦官たちに「陛下は普段から王叔文を厚遇していた」と語ったから、蘇州司功参軍から起居郎・翰林学士を拝命した。大抵、王叔文は王伾に、王伾は李忠言に、李忠言は牛昭容にと、互いの権勢をたよった。王伾は主に順宗の意思を伝受し、王叔文は主に裁可し、そしてこれを中書省に授け、韋執誼は詔書を作成して施行した。当時、李景倹は親の喪にあい、呂温は吐蕃に使者として派遣されていたから、ただ陸質・韓泰・陳諌・凌準・韓曄・柳宗元・劉禹錫らが共にこの名誉に預かり、自身らを伊尹・周公旦・管仲・諸葛亮の再来とし、傲慢にも天下に人なしと言っていた。王叔文はなにかあるたびに「銭や穀物は、国家の大本であり、その相場を操作するには、士に市場を管理させるべきである」と述べ、そこで杜佑を用いて度支・塩鉄使を領させ、自身はその副使にするよう奏上し、その内実は自身が実権を掌握した。しばらくもしないうちに戸部侍郎に遷った。 宦官の倶文珍はその権勢を嫌い、王叔文の翰林学士を罷免した。詔が出されると、非常に驚いて「私はしばしばこの職によって事を議論しなければならない。そうでなければ、禁中に入ってよることはない」と言い、王伾もまた尽力して願い出たから、そこで三・五日に一度、翰林に入って政務を見たが、しかしもとの職に戻ることはなかった。省にあっては職するところに仕えず、日々その党派を引き連れ、神策兵を取って、天下の命を制しようと謀った。そこで宿将の范希朝を西北諸鎮行営兵馬使とし、韓泰を司馬として副使にした。ここに諸将は書を中尉に送って、別れを告げて去ろうとしたから、宦官ははじめて兵権を奪われようとしていることを悟り、大いに怒って「我が部下は必ずその手に死ぬだろう」と言い、そこで諸鎮に諭して、慎んで兵を他人に所属させないようにした。范希朝と韓泰は奉天に到着したが、諸将は到着しなかったから、帰還せざるを得なかった。 王叔文の母が死んだが、隠蔽して発覚させず、酒を翰林に置いて、李忠言・倶文珍らも皆出席して、金を集めて宴会をし、そこで声をあげて「天子は重病ではなく、この前、兎を苑中で射られたが、その様は鞍に跨って飛ぶかのようであった。あえて異議を申す者があれば斬る」と言い、また自ら「私の親は病にかかっているが、身をもって国の大事に任せているから、朝も夕もと侍ることができない。今はまさに急であるから、許されよ。しかし政務に心や力を尽くし、人を好き嫌いや扱いの難しさや易しさで避けることはしない。天子のみ心に報いるのみである。今一度ここを去ってしまえば、百の謗りがあったとき、誰が私を助けてくれようか」と述べ、また、「羊士諤は私をけなしたから、私は羊士諤を杖殺しようとしたが、韋執誼は怯んだから果たせなかった。劉闢がやって来て韋皋のために三川の地を求めたが、私は普段から劉闢を知っていたわけではなかったから、そこで我が手をとろうとしたが、こんなことをするのは悪人ではないのか。木場を掃除してそこで斬ろうとしたが、韋執誼が不可とした。この二賊の誅殺する機会を失ったことを思うたびに、人をして恨み嘆くことになるだろう」と言った。度支を領掌したことによる利害を述べて自身の功績としたが、その言葉のたびに倶文珍が詰問したから、王叔文は答えることができなかった。近くの者が密かに「母親が死んでもう腐っているというのに、まさにここに留まろうとして、一体何をするつもりなのか」と語ったから、翌日喪を発表した。韋執誼はますます王叔文の言葉を用いなくなり、そこで再起しようと謀って、韋執誼と自分に従わない者を斬ろうとしたから、聞く者は恐れおののいた。 広陵王(後の憲宗)が太子となると、群臣は皆喜んだが、ただ一人王叔文は心配し、杜甫の「諸葛祠詩」を詠んで自らの状況を述べ、悲泣して涙を流した。太子がすでに監国になると、渝州司戸参軍に貶された。翌年、誅殺された。 王伾は、杭州の人である。始め書待詔によって翰林に入り、太子宮で侍書となった。順宗が即位すると、左散騎常侍・待詔に遷った。王伾はもともと卑しく穢れた身分であり、容貌は風采が上がらず、楚語を話し、他に大志はなかったが、帝は馴れ馴れしく可愛がり、王叔文の男だてや優美な言葉には及ばず、帝は王叔文に礼をつくした。しかし出入りするところにいたっては、また王伾の絶え間なさには及ばず、王叔文は入っても翰林までであり、しかも王伾は柿林院に到って牛昭容らに会っていた。その党派が盛んとなると、門前には羹が沸くように人が集まったが、王伾は最も天下で賄賂を受け取り、日夜止むことがなかった。巨額を貯め込み、穴をあけて珍品を受け取り、出すことができなかったから、その上で寝ていた。 王叔文が親の喪にあい、王伾は日々宦官および杜佑に王叔文を起用して宰相とするように要請し、また北軍を総べさせるよう要請したが許されなかった。また威遠軍使によって同中書門下平章事(宰相)とするよう要請したが、また不可とされた。そこで一日に三度上表したがすべて返答がなかった。心配のあまり、行ってはまた臥せた。夜になると大声で「私は病気となった」と叫び、輿に乗って邸宅に帰った。開州司馬に貶され、そこで死んだ。支党は全員追放され、ただ陸質だけその以前に死んでいたから免れた。 韓曄は、韓滉の族子で、俊才であった。司封郎中の職によって饒州司馬に貶された。永州刺史の官で終わった。 陳諌は聡明で聡く、かつて染署(染色を行う役所)の帳簿を見て、すべて尺寸の寸法を言い当てた。一度書籍をみると、死ぬまで忘れなかった。河中少尹から台州司馬に貶され、循州刺史で終わった。 凌準は、字は宗一で、史学を得意とした。翰林学士から連州司馬に貶され、貶所で死んだ。 韓泰は、字は安平で、策謀を得意とし、王伾・王叔文に頼られ重んじられ、よく大事を決した。戸部郎中・神策行営節度司馬によって虔州司馬に貶された。湖州刺史の官で終わった。 陸質は、字は伯沖である。七代の祖である陸澄は、梁に仕えて名儒となった。代々呉に住んだ。『春秋』に明るく、趙匡および趙匡の師である啖助に師事し、陸質はことごとく二家の学問を伝えられた。陳少游が淮南の藩鎮となると、上表して陸質を幕府に置き、朝廷に推薦されて、左拾遺を授けられた。累進して左司郎中に遷り、信州・台州二州刺史を歴任した。 陸質は普段より韋執誼と親しく、韋執誼が王叔文に従って密かに権勢を得ようとすると、その力によって召されて給事中となった。憲宗が太子となると、詔して侍読となった。陸質の本名は陸淳であったが、太子の名を避けて改名した。当時韋執誼は、太子は自分が専断していることを怒っているのを恐れており、そのため陸質を東宮に侍らせ、密かに太子の意を伺ってあれこれ釈明しようとした。陸質は合間を見てそのことについて発言してみたが、太子がたちまち怒って「陛下は先生に命じて私に学問を講じさせようとされているが、どうして他のことに口を出してくるのか」と言い、陸質は恐れ畏まって退出した。 韋執誼が失脚する前、陸質の病は重くなり、太子が即位すると、見舞いされて礼を加えられた。卒すると、門人は陸質がよく聖人の書をよくしていたから、後世に広めようと、私に文通先生と諡した。著書するところは非常に多く、世間に通行した。 劉禹錫は、字は夢得で、自らを中山靖王の系統から出たと称した。代々儒者であった。進士に及第し、博学宏辞科に合格し、文章を巧みにした。淮南の杜佑が上表して書記とし、京師に入って監察御史となった。もとより韋執誼と親しかった。当時、王叔文は太子(順宗)の厚遇を得て、劉禹錫も名声によって世の中に重んじられ、これと交わり、王叔文は事あるごとに劉禹錫を宰相の器があると称えた。太子が即位すると、朝廷の大議・秘策の多くは王叔文から出て、劉禹錫および柳宗元とともに禁中で議論し、申し述べたところは必ずその通りに従われた。屯田員外郎、判度支・塩鉄案に抜擢され、いささか権力を笠に着て、多くの士を中傷した。武元衡は柳宗元からこころよからずと思われており、御史中丞から太子右庶子に左遷されてしまった。御史の竇群は劉禹錫が邪心を抱いて政治を乱していると弾劾し、竇群は即日罷免されてしまった。韓皋はもとから高貴の出身であったから、王叔文らと親しくするのをよしとせず、斥けられて湖南観察使となった。だいたい進退するところは、好き嫌いのままに人をあれこれしたから、人は王叔文一派の名を口にするのをはばかり、「二王・劉・柳」と号したのだった。 憲宗が即位すると、王叔文らは失脚し、劉禹錫は連州刺史に左遷され、まだ到着する前にさらに朗州司馬に左遷された。朗州は夜郎といった諸夷と接し、風俗は非常に田舎じみていて、家々では巫鬼を好み、何かあるたびに祠るから、「竹枝」を歌い、演奏しながら徘徊し、その歌声は粗野であった。劉禹錫は屈原が沅・湘の間にいて「九歌」をつくって楚人に神を迎え送らせたから、そこでその歌声によって「竹枝辞」十篇あまりをつくった。ここに武陵の村々では大半がこれを歌った。 それより以前、王叔文に連座して左遷された者は八人で、憲宗はずっと排斥して復職させないようにしたいと思い、そこで詔して後に恩赦があっても赦さないとした。しかし宰相がその才能や困窮ぶりを悲しみ、過去の過ちを忘れて用いようとしていたが、ちょうどその時、程异が呼び戻されて転運の任務にあたっており、そこで劉禹錫らに詔してすべて遠州の刺史に補任しようとした。しかし武元衡が執政となっており、諌官も言葉厳しく用いてはならないとしたため、ついに沙汰止みとなった。 劉禹錫は長い間塞ぎ込んで、鬱々として無聊であり、その詩文に吐露し、多くを風刺して深遠に託し、「問大鈞」・「謫九年」等の賦数篇をつくった。そこに以下のように述べた。「張九齢が宰相になると、放逐された臣下はよい地におくべきではなく、すべて五渓のような不毛な地に移すべきであると建言した。しかし張九齢は京内の職から始安郡に移されると、風土病について嘆き、宰相を罷免されて荊州の長官になると、囚人になったような思いを持ったのだ。張九齢は自身が僻地の出身でありながら、一たび失意を味わうとそれに堪えることできず、ましてや中華の地に生まれた人や士族を何としても僻地に追いやらないと気がすまないということがあってよいのだろうか。世の論者は張九齢を開元の良臣であると思っているが、しかし死んで跡継ぎがなく、彼に人を忌み嫌う性質があって他人に寛大になれず、何か大きな目に見えぬ罪科があって、そのためほかの美点長所でもつぐなえなかったのだ」詩文に感じさせて権力に接近したが、恨みを解けなかった。しばらくして召還された。宰相は尚書省の役人に任命しようとしたが、劉禹錫が「玄都観に花を看る君子」の詩をつくり、語句に謗るものがあり、当局者が喜ばず、京師を出さえて播州刺史となった。詔が下され、御史中丞の裴度が、「播州はとても遠うございます。猿どもの住処で、劉禹錫の母は八十歳あまりになり、住むことができません。その子とは死出の別れとなっていまいます。陛下の孝道の治世が傷つくことを恐れています。今しばらく近い土地に遷されますように」と述べたが、帝は「人の子たる者は慎まなければならず、親に心配かけないものだ。劉禹錫は他人よりも罪は重い。最も赦すことができない」と言うと裴度は答えられなかった。帝は居ずまいをただして「朕が言ったことは、人の子たる態度を責めたものであって、親を傷づけたいとは思っていない」と述べ、そこで連州に変えて、また夔州刺史に移した。 劉禹錫はかつて天下の学校が廃せられることを嘆き、そこで宰相に奏記した。以下に述べた。 「もの言う人とは天下の少士のことをいいますが、人材を養う方法を知らず、心が塞がって高揚しませんが、決して天が人材を生んでいないわけではありません。これは耕作をしないのに食料庫に余剰がないと嘆いているのと同じで、そうではないのでしょうか。貞観年間(627-649)、学舎は千二百、生徒は三千人あまりで、外夷も子弟を遣わして入附する者は五箇国におよびました。今建物は壊れて生徒は減少し、学官でなければ振わず、病んでも贖って給付されることもないのです。 だいたい学官というのは、春秋の二度、先師を釈奠するのであるから、このように天子の大学の辟雍、諸侯の大学の頖宮を廃止するのは天下に及ぼすことができないのです。今州県ではすべて春秋の上丁日によって孔子廟を祀っていますが、その礼は古通りではなく、非常に孔子の意にそむいているのです。漢の初期の群臣は屠殺業から身をおこし、そのため孝恵帝から高后(呂后)にかけての時代に原廟を郡国に設置したのです。元帝の時になると、韋玄成が議論して廃止となりました。子孫というのはなおもあえて違礼してその先祖を饗応することはありません。ましてや後学が先聖の道を師としているのにこれに違おうとするでしょうか。『伝』(『礼記』祭儀の誤り)に「祭礼は何度も執り行うものではなく」とあり、また「神を祭るときは、実際に神がそこにおられるように敬虔に祭る」とあり、祭献を煩多にしてしまえば、どうやってその教えを行えるのでしょうか。今教化は衰退し、非礼の祭りを行ってこれに媚びたところで、儒者は病んでしまうでしょう。歴代のお祭りを見てみるとこの事は行われなかったのです。 武徳年間(618-626)初頭、詔して国学に周公・孔子廟を建立し、四時祭(定例の礼祭)とした。貞観年間(627-649)、詔して孔子廟を兗州に修造しました。後に許敬宗らが奏上して、天下の州県に三人の献官を設置し、その他は社を建立しました。玄宗は儒臣と協議し、釈奠での牲牢(犠牲)をやめ、酒と肉をすすめることとしました。当時、王孫の李林甫が宰相となりましたが、学問に精通していなかったので、御史中丞の王敬従に、明衣を着て牲牢させて著して法としたから、ついにあって無いようなものになってしまいました。今夔の四県の毎年の釈奠の費用は十六万、天下の州県となると毎年だいたいの費用は四千万にもなり、たまたま三献官をたすけて衣裳で身を飾るようになると、妻子を遣わすから、学問は補えなくなるでしょう。 礼官・博士に議論を下し、天下州県の牲牢・衣幣をやめ、春秋の祭は開元の時のようにし、その資材を記録して半分を所属の州に賜い、学校を増設させ、推挙は半分は太学に帰させ、それでも万計を下らないようであれば、学室を造営すべきであり、器などの道具を揃え、供え物を豊かにし、掌握の人員を増やすことによって備えさせ、儒官はそれぞれ月給を加え、州県の進士は皆監督にさせれば、貞観の風は粲然として復活するでしょう。」 当時その建言は用いられなかった。 和州刺史から呼び戻されて主客郎中に任じられ、また「玄都観に遊ぶ」の詩をつくり、また述べた。「流されてから十年たって、都に戻ってきた。道士は桃を植えて、そのいっぱいなことは霞のようである。また十四年すぎて、また戻ってくることができたが、ただ兔葵(いえにれ)と燕麦(からすむぎ)が春風にそよいでいるばかりである」と述べ、権力に近い者を謗り、聞く者はますますその行いを苦々しく思った。しばらくして東都(洛陽)の分司となった。宰相の裴度は集賢殿大学士を兼任し、劉禹錫を推薦して礼部郎中・集賢直学士とした。裴度が罷免されると、出されて蘇州刺史となった。政務が優秀であったため、金紫服を賜った。汝州・同州の二州に異動した。太子賓客となり、また東都の分司に戻った。 劉禹錫は最後まで自身の才能をたのみ、狭量で人を恨まずにはおれず、年をとるとだんだん落ち着いてきて、盛んに少ないところをあわせて文章で悠々自適となった。普段より詩をよくし、晩年にはさらに磨きがかかり、白居易を詩文の唱和は非常に多かった。白居易は詩によって自ら名をなした者で、かつて高く評価して「詩豪」としたが、また「その詩があるところは、まさに神があって護持しているようだな」と言った。 会昌年間(841-846)、検校礼部尚書となった。卒し、年七十二歳であった。戸部尚書を贈られた。それより以前、病となると自ら「子劉子伝」を作った。以下に述べる。「漢の景帝の子の劉勝は、中山に封ぜられ、子孫は中山の人となった。七代の祖の劉亮は、元魏のときの冀州刺史で、洛陽に遷って、北部都昌人となり、墳墓は洛北山にあり、後にその地が狭くていられないから、滎陽の檀山原に葬った。徳宗が天下をすてると、太子が即位し、当時、王叔文が囲碁をよくして書籍に通じており、閑暇のことによって奏上し、長い間蓄積していったが、多く者は知らなかった。蘇州掾から官歴がはじまり、超えて起居舎人・翰林学士を拝命し、丞相の杜佑の推薦のお陰で度支・塩鉄使となった。翌日、自ら副使となり、貴くなったことは世間を震撼させた。王叔文は、北海の人で、自身をかの王猛の後裔であると言っていたが、たしかに遠祖の風があり、東平の呂温・隴西の李景倹・河東の柳宗元もそうだと信じていた。三人は皆私ととても親しく、昼も夜も一緒に過ごし、その能力を語り合った。王叔文は本当に巧みに治道をとなえ、よく口弁で人をうつし、用いられることになっても、人のために施すところは自分のためにはしなかった。太上皇帝が長らく病まれ、宰臣および用いられた者は答えることができず、宮中の事は秘され、功績は尊大な臣下のものに帰され、これによって貶められたのである」 その自ら弁解することはだいたいこのようであった。 柳宗元は、字は子厚で、その先祖は思うに河東の人であろう。従曽祖父の柳奭は中書令となったが、武后のため罪を得て、高宗の時に死んだ。父の柳鎮は、天宝年間(742-756)末の乱に遇い、母とともに王屋山に隠れ、何かあるごとに常に行って孝養を行なおうとし、後に呉に移った。粛宗が賊を平定すると、柳鎮は上書して言上したから、左衛率府兵曹参軍に抜擢された。郭子儀の朔方府を助け、三度殿中侍御史に遷った。竇参と衝突したため、夔州司馬に左遷された。戻って侍御史で官を終えた。 柳宗元は若くして聡明で周囲の者たちより秀でており、文章をつくると高尚で俗離れしていて精緻であったから、当時の同輩は敬服した。進士と博学宏辞科に及第し、校書郎を授けられ、藍田県の尉に任命された。貞元十九年(803)、監察御史裏行となった。王叔文・韋執誼と親しく、二人は柳宗元の才能を優れたものとした。王叔文らが政権を得ると、引き入れられて宮中のことに近侍し、国家の経営を共にし、礼部員外郎に抜擢され、大いに用いられようと願った。 しばらくして王叔文が失脚すると、邵州刺史に貶され、道中の半ばにさらに永州司馬に貶された。排斥され、永州の地もまた荒れ果てており、そこで自ら山や沢を歩き回り、その鬱々とした感情を防ぎ、すべて諸文にあわせ、「離騒」数十篇に倣って、読む者をすべて感傷にふけさせた。常に蕭俛と親しく、書を送って心の内を述べた。 「僕は不幸にして、先年仕官して危うく不安な状態に当面してから、平素門を閉じてはいるが、他人の口舌が無数にうるさく、その上久しく交際していた者もあって、それで危ないところを我が家に来る場合にはいうまでもない。うるさい人々の中でも仕官を求めながら不採用の者どもは、皆集まって僕の仇敵となって、僕の罪を造り出し大げさに飾り立て、それがはびこり拡がって益々勝手な評判をしている。これでは明白に事態を見わけて、自分で心中に判断するのでなければ、誰が僕の善悪を暗く定かでない中で知ることができるであろうか。けれども僕は当時年三十三で、監察御史裏行から礼部員外郎の官を得て、順序を越えて顕官美職を取得したのである。世の仕官を望む者たちが怪しみ怒り、ねたみそねむのを免れたいと思っても、一体できるであろうか。罪人王叔文と交わること十年、官もこの人のせいで進んだのであるから、僕の辱めのもとは彼らとの結合にあったのである。聖王の朝廷はお心弘く寛大で、貶め退けられることも軽くて、それでは衆の怒りを塞ぐことができなかった。誇りは次から次へと移って、口やかましく声高く、次第に奇怪な人民のようになった。智を飾り立てて仕官を求める者は、更に僕のことを言って、敵人の心や目を悦ばせ、新たに変わった事をして、務めて互いに喜び許して、それで以て出世の手引きの路を求めるのである。そうして僕たちは何の手出しもできずに益々困しみ辱められ、さまざまの罪がやたらに生じ、その糸口もわからないのである。何と悲しいことよ。人と生まれて六、七十年の生命を得るものは少ないのである。今僕はすで三十七である。長じてこのかた、日月が益々短くなるのを覚え、歳々にそれが一層甚しくなった。おおよそ数十回の寒さ暑さを過ごさないで、この身は無くなるであろう。そうだとすれば善悪や名誉恥辱も、この上どうして言うに足ろう。あれこれ言ってやまなければ、それこそ益々罪を犯すだけであろう。 僕は南方異民族の中にいて、久しく炎熱や風土病の毒にも慣れて、眼がぼんやり昏く脚が重い病気も、いつものことと考えるようになり、ふと北風が朝早く吹いて、かすかな寒さが体にあたると、肌にぞっとしみわたり、毛髪もさびしく衰えを覚え、驚いて見つめ、はっとおそれて、変な気候だと思う。この心持ちはほとんど中国の人でないようである。楚や越の地方の言葉の音声はことにちがっていて、もず鳥のような悪い声のけたたましいのも、今ではこれを聴いても、平気で気にもかけず、もはや同類になってしまっている。家に生まれた小童も、皆自然にやかましくしゃべっているのが、昼夜耳に満ちて、北方中国の人の言語を聞くと、啼きさけんで逃げかくれ、病人の私でも、おそれて駭くのである。門を出て町の盛り場に行く者が、その十中八九が杖をついてやっと立ち上がるのを見ると、自分でもここに生きているのもあと幾何であろうかと考える。どうしてこの上、止まることを知らずに自分の長短優劣を論じたりして、この上にまた重ねて一世の人々からそしり笑われたりしようか。そんなことはしたくないのである。『周易』の困の卦を読んで、「言っても信ぜられない、と卦辞にあるのは、口を主として弁解しようとすれば、反って窮して困しむと」という文句までくると、僕は繰り返し読んでいよいよ喜んでいう、「ああ、私が家々に一つの口を置いて、それで自分のことを言いわけをしたとて、悪口は益々蒸しくなるだけであろう」と。そこでいっそう啞のように黙ることを好み、木や石の仲間になろうと思い、二度と弁解しようとは考えないのである。 今天子は教化を盛んにし、邪正を定められ、天下の人はよろこび楽しんでいる。それなのに僕と仲間の四、五人と共に不幸に沈み陥っていることがこのようである。どうしてそれが運命ではないのだろうか。運命は天の定めである。かれこれ論する者が左右できるものではない。私はまた何を恨もうか。しかし治平の世に住んで、終身物の分からぬ人の仲間でいるのは、やはり少し恥ずかしい気もあって、まだ世事に対して忘れ切ることができないのである。もし今の乱賊が平定して喜びの恩賞がある際のついでに、僕の罪名が清められ、天子のお恵みの余りの潤いを受けさせられることができれば、朽ちた切り株の形を崩れ腐って、生い植つことはできなくても、やはり霊芝の事を蒸し出して、それで以てめでたいしるしの物となすには十分であろう。一たび廃官禁錮の罰を赦して、数県でも都近くに移していただければ、世間の人は必ず罪がやや解けたというであろう。このようにして後、憂いのために散消しつつある僕の魂魄を召し収めて、宅地一脚を設定して農耕の民となり、朝な夕な歌謡して、文章を作らせてくださるならば、木鐸を振り鳴らして人民を集めて政事を通達教示する官の者が、その歌謡文章を採取して、これを天子の御所の寝殿に献上して、それで聖徳ある唐王朝の雅楽の歌篇を補い増されることを、こいねがうのである。その際僕は官位を得なくても、また何もしないでただ太平の民となるだけではないのである。」 また京兆尹の許孟容に書簡を送って、次のように述べた。 「宗元は若いころ、罪を負った者王叔文と親しく仲善くしていましたが、始めは彼の才能をすぐれたものと思い、共に仁義の行いを確立し、世の教化を補い助けることができると思いました。そして過って私自身の力を計らず、まじめに勉めはげみ、ただ中正信義を志とし、堯舜、孔子の道を盛んにし、人民を利し安んずることをもって努めとし、愚かで見識の低い身の努力してもできないことに気がつかなかったのです。私のもとよりの考えはこの通りであったのです。ところが終わりころには行きづまり不安になって、仕事の道は壅がりさまたげられ、貴人や近侍の臣にもとりさからい、無謀疎略で理にもとり、底知れぬ罪に蹈みこんでしまいました。ところが今その仲間の者が、幸いにも寛大なお赦しを得て、各々善い土地を得て任官し、何ら国家の仕事もなくて坐したまま俸禄を食んでいます。これは聖天子の御恵みがこの上なく厚いことである。この上どうして更に役に立たぬ長い病人のような今の境遇を除き棄てられるのを待って、政府に用いられるというような望みの外なるお恵みをこいねがいましょうか。私は当時年も若く気が鋭く、物事の目に見えぬかすかな動きを見分けられず、道理に当たるか否かを知らずに、ただ一心に直ちに成し遂げようと思ったので、結果として刑法におちいってしまったのは、皆自分で求め取ってこれを得たものであるから、またどうして怪しみましょう。当然のことと思っています。 宗元は多くの仲間の人々の中で、罪の情状は最も基しい。神が罰を下して、また直ちに死ぬこともできないで、いまでもやはり人に対して物を言い、食を求めて自分で活き、迷って恥を知らずに、ただ一日また一日と暮らしているのです。しかしまた母の不幸があって、自分で思うに、わが柳氏の姓を得て家を創立してこのかた二千五百年、代々長子相続で継承して来たが、今私は非常の罪を抱いて、遠く異人種の原族の国に住み、低地の湿気の多い暗い霧の立ちこめる中で、ある時死んで溝や谷にうずまり捨てられ、先祖から伝わる系統をむなしく地に落としてしまうかも知れないと心配しています。それゆえ、心を痛め悲しみ、心も骨も熱く沸き返る思いです。ただひとりさびしく後つぎの子もなく、国のはての片田舎では士人の娘も少ないので、結婚の相手もないのです。世間もまた罪人と親戚となり近づくことを承知しない。それゆえ大切な後嗣ぎも、絶えないこと細い糸のようで、いつも春秋の定時の祭りの供物を捧げるときにひとりさびしく立って、振り返りみても後嗣ぎの者がいないので、心を痛めてすすり泣き恐れ憂え、この祖先の祭りの仕事もやがてしまいになるかもしれぬと心配になるのであります。心を痛めて骨を傷めること、刀の切っ先を受けるようであります。これは誠に貴下も共にあわれみ惜しんで下さることと存じます。 祖先の墓は城南にあります。他の子弟のこれを守る者がないので、ただ村の近所のものに頼んでおきました。私がお上のお叱りで追われてから、様子も存亡も、何一つ郷里に知らせていないので、墓を守る者も、もとよりそれでますます怠っているでしょう。これを思って昼夜常に哀しみいきどおり、そのたびに、墓地の松や椎の木を斬り折りし、草刈や牛羊の放牧を取り締まらず、祖先に対して大きな罪を犯していることを慣れています。近世は礼法では墓参とその清掃を重くみています。ところが今私はその礼を欠くこと四年になります。毎年の寒食の節句にあうたびに、北方故郷に向かって声を長く引いて叫び泣き、頭で地を叩いて拝し詫びています。想うに、その日は田野道路に、男も女もあまねく満ち、身分の低い者たちや傭い人乞食の類も、皆その父母の墓所に診ることができ、馬の医者や夏の草切りのようなしがない者の亡魂でも、子孫の追善供養を受けないものはないでしょう。そうではありますが、この墓参りのことは、もはや望みをやめました。この上何を申しましょう。城西に数頃の田があって、数百株の果樹を植えてありますが、中には亡父の手で自ら土盛りをし植えたものが多いのです。今はもはや草荒れてしまい、その都度切り倒して、また惜しいと思うものもないだろうと心配です。家に朝廷から賜った書類が三千巻あって、今でも善和里の旧宅にあります。その宅は今はもはや三たび主人が代わって、その書類の有る無しも知ることができません。これらのことは皆先祖からの授受の主なもので、常に心にかかっているのでありますが、それでもどうにもしようがなくて、わが身を立てることが一たび失敗してからは、万事瓦が破れ裂けるように崩れ去って、身は地方官に埋もれ、家は破滅し、世の最も大きな辱めとなりました。二度とどうして思い切って、この上にも大君子の貴下が撫で慰め、救い憐んで、まだ私を人数の中に置いてくださるように望みましょうか。とてもお願いできることではありません。そこで食事の時も物の辛さ塩からさ、適度の味もわからず、湯浴み髪洗い、洗面うがいなども、どうかすると歳の四時、三月を越えることがあり、一たび皮膚を掻くと、埃や垢が爪に満ちるのであります。誠に憂い恐れ悲しみ傷み、それを告げうったえる相手がなくて、この有様になったのであります。 昔から徳のすぐれた人、才能のある者で、わが志を取り守り、本分に従いながらも、他人の譲りや論議を被って、自分で弁明することのできなかったものは、殆んど百をもって数えるほどであります。故に兄もないのに兄嫁を盗んだとされ、父を亡くした娘を娶ったのに、妻の父を打ったという、無実の罪を得た者がありました。それでも、その時世のすぐれた人物の力で、事情が明白に判別されて、ついにはその賢人才子であることが歴史書の上に輝いています。斉の管仲は盗賊に遭ったが、その二人を採用して斉の功臣にし、匡章という者は、国中で不孝の名を被ったけれども、孟子はこれを尊んで礼遇したのでありました。今はもはや古人のような実行為がなくて、誤りがあるのであるから、世人が自分の真実を明らかに認めてくれることを望みたくても、得られないのであります。漢の直不疑は金を盗まれた同舎の郎官から疑われて無実を弁明できなかったので、金を買って弁償し、また後漢の劉寛は自分の乗車の牛を、盗まれた牛だといいはる者のために、車を下りて、牛をその村人に帰してやりました。これは似て疑わしいことが弁明できず、口や舌で勝てることでないのを知ったので、このようにしたのでありました。鄭の詹師は晋に捕らえられ、縛られていたが、ついには死ななかったし、鄭から晋に献じた楚の囚人鍾儀は琴を与えられ、南方の音曲を奏したが、終わりには国に返ることができました。また春秋の晋の大夫羊舌肸、字は叔向は、囚人となっていたが、自分で必ずまぬがれることを予期し、魏の范痤は屋根にのがれて危うく高い所にまたがり、生をもって死に易えることができました。漢の蒯通は自分を煮ようとする鼎の耳に取りつかまって弁じ、斉の上級の食客となり、張蒼や韓信は、斧や押し切りの刑具に伏して殺されようとしたのに、ついに将軍・宰相の位を手に入れました。鄒陽は獄中から書をたてまつり、それでもって自分で活きることができ、賈誼は退けられ追放されたが、また文帝に宮中の宣室に召されて用いられました。倪寛はしりぞけられ殺されるところを、許されて後に御史大夫まで栄達し、董仲舒と劉向とは、獄に下されて誅せられるところを、まぬがれて漢の儒学者の尚び仰ぐ師となりました。これらは皆秀ですぐれた、博識能弁、世にまれな元気ある人物であって、自分で危機をまぬがれることができたのでありました。今私は、恐れいじけて、穢れ濁り、下等な才能、つまらぬ技術をもって、また恐懼の長いやまいにかかっているのですから、憤りなげいて、臂を振りあげ、自分も昔の人々のように、この難儀をまぬがれて、身分を回復したいと思っても、いよいよ遠ざかり隔たってしまうのであります。 賢ある者は、今の時代に志を通することができなければ、必ず後の世に貴い地位を取るものであります。古人で書物を著した者は、皆これであります。私も近頃このことを努力したいと思っています。しかしながら私は力が薄弱で才能は劣っていて、人にすぐれた知能もないので、筆を取って詳細に述べたいと思っても、精神も意志もみだれ疲れて、前後を忘れ、ついには文章を作り上げることができません。昔は読書をしても、自分でつかえて滞るまでにはならなかったのですが、今はすっかりかたくなに、記憶力がなくなって、古人の伝記を一つ読むことに、数枚から後は、再三巻子を伸べてまた前文の姓氏を調べて見るのですが、たちまちまたすっかり忘れてしまうのです。たとえ万が一にも、刑部省の囚人の名簿から私を除いて、また士人の列とされたとしても、また世の役に立つに構えないでありましょう。」 しかし、多くの者は柳宗元の才能が優れているのを恐れ、再度こらしめて心を改めさせようとしたから、柳宗元の才能を用いようとする者はいなかった。 柳宗元は長い間没落しており、そこで文章をつくり、思索はますます深まった。かつて書一篇を著し、「貞符」と名付けた。以下の通りである。 「臣が貶された永州の流人である呉武陵が臣に向かって、「董仲舒が三代の受命の符についての文章を書いたが、正しいか、それとも正しくないか」と尋ねた。臣は「正しくない。そのことはどうして一人董仲舒だけのことであろうか。司馬相如・劉向・揚雄・班彪・班彪の子の班固は無知のように踏襲し、古代の祥瑞の事物を受命としてきたのだ。その述べるところは邪教の占い師や歌手のようなもので、後の時代を惑わしたのだ。これによって聖人の皇位の本質を知り、至徳を顕彰して大功を称揚するようなことには到らないのだ。非常に趣旨を逸脱しているのだ」と答えた。臣は尚書郎であった時、かつて「貞符」を著したが、唐王朝の正徳は、天命を生きている人々の思いから受け、積み重なること長く、終わりや果てはないであろうという意味を述べた。内容は広遠であった。たまたま貶されて中央から左遷されたから、充分な研究はできなかった。呉武陵は叩頭して臣を迎え、「これは重要な事です。批判されるからといって途中でやめたりして、そのため聖王の法がたてられないようなことがあってはなりません。邪説謬論がはびこるのを阻止して、邪説謬論が正しい教えを抜き去って、後世の規範とさせるようなことがあってはならないのです」と述べ、臣は感激にたえず、そこで「貞符」を完成させようとした。思うに蛮夷の地である永州に埋没して、世の中に聞かれるようなことがないのは、なおさらあってはならないようなものである。仮に一度大いなる道を明らかにして、世の中に施したら、たとえ死んだとしても心残りに思うところはない。そのように考えて「貞符」を完成させることを自ら決心した。臣宗元、稽首拝手して以下のように述べます。 誰が古えの初めのことを讃えたのだろうか、つまり古えは素朴かつ無知蒙昧で争いがなかったが、時代が変遷するにつれて変化し、奮って奪い合い、攻撃的に戦って激しく揺れ動き、もっぱら好き勝手に暴威を振うようになったのだ、と。これは道の知らない者の言いである。思うに、人代の初め、生じては多くてあふれ、木々が林立するように多く群がった。外には雪や霜や風雨・雷や雹が猛威を振るったから、そこで空いている巣穴に屋根を架け、草木を引き抜き、皮革を取り、飢えや渇きといった食欲や雄雌の性欲をその中で満たし、禽獣を食らって、果実や穀物を囓ったのである。たまたま住むところがかち合えば、交りの中に入ると争い、相反の中に入ると戦い、力が強い者は手で捕まえ、歯が丈夫な者は噛り、爪が強い者は引っかいて抉り、群衆を率いる者はわめき散らし、兵法に優れた者は敵を殺したから、混乱の様相をきたし、草や野は血に塗れた。その後、強い有力者が出るとその下に治まり、しばしば要害の地に役所を置き、号令を用いて指令し、君臣は什伍の制を法として立てた。君は徳が優れた者が継ぎ、道を怠った者は奪われた。そこで聖人が生まれてその名を黄帝といい、その戦車を行かせて、その天下の中を貫いて、国を治める法を一つに統べ合わせ、度量を等しくするが、それでもなお極めて公平な道をたてることができなかった。そこで聖人が生まれてその名を堯といい、州の長官や四方の諸侯を治める官を置き、守り支えてこれを統べ、徳があり功績があり能力がある者を立てて、一緒にこの天下を支え、腕をまわし指を導き、かがんだり伸ばしたりして把握し、統率しないものはなかった。堯が年を取って老いると、聖人舜を挙げて天位を譲り与え、大いに公平な国がようやく建った。以上のことからみてみると、当初は嘘つきどもがかなりかき乱しても、その後に徐々に落ち着いてくるのである。非徳は樹立されないのである。だから孔子は『尚書』を著して、堯については「克く俊徳を明らかにす」と述べ、舜については「濬哲・文明ない」と述べ、禹については「文命はつつしんで帝に承く」と述べ、湯王については「克く寛く克く仁あり、信を兆民にあらわす」と述べ、武王については「有道の曽孫」と述べたのである。「典誓」(『尚書』諸篇)を調べ考えるに、正しいことであろう。この徳こそは本当に受命の符であって、それによって王朝の長い存続の年月が定められる根源だったのである。後の妖淫・囂昏・好怪の連中は、そこで始めて大電・大虹・玄鳥・巨跡・白狼・白魚・流火の烏を述べて符とした。これはすべて珍しくて怪しげなことで、恥づべきことである。根本が正しくないことがわからないのである。 漢は統治には寛仁を用い、よく民衆を懐かせ、愚か者や賢人を登用し、傷ついた者を洗って治療したり、寒がっている者には駆けつけて温めてやり、病気を治して楽しませ、ここにそれを符としたのである。そのよこしまな臣下は地上ではまむしを取り上げ、上では天に輝く光を引っ張り出して、類によって推し量り、めでたいことだと叫び、無知の民を欺いた。葬式用の馬車や祀りで使う鼎を増やしては、馬具を使うよう唆し、東の泰山・石閭山に大号をつくってこれを「封禅」といったのだが、すべて『尚書』に記載されたものではなかった。王莽や公孫述は漢の功績を受け継ごうと、ついに奢り背いてしまったのである。その後賢帝が現れ光武帝といったが、よく天下を平定して、再び旧物を受け継いだが、それでも赤伏を崇めて、それによってその徳に傷をつけてしまった。魏・晋でも、乱れ分裂したから、その符は正しくない。国家が用いるのにはよくなく、用いたら国家が長らえることはないのだ。非難するのに建議して行う必要はないのである。 大戦乱の時代は過ぎて隋の時代になると、四海をめぐって食べ物を煮る鼎となり、天地に跨って炉となり、天下の竈は烈火の炎をあげ、煽られて凶暴な炎となり、そこの人々は湧き上がって赤く焼き爛れ、名付けて「騰蹈」と呼び、救い止めることはなかった。ここに高祖の大聖の遺業がおこり、灼熱の炎を消し止める長雨が大いに降り、深い流れとなってゆらぎそそぎ、炎にあたって蒸発しては清らかになり、洗われてそよ風となり、人々はそこで水の流れに休まり、乾いては生じ、保っては成り、広く行き渡っては安らかとなったのである。叩いたり斬ったりして殺戮されたり、血脂を流し手足の節が離れるような禍いがならず、人々はそこでよく完全に平定された世の中を楽しみ、その肌膚をかたしろとし、平坦な道へと達したのである。燃やしたり割いたりするような攻撃的な排斥のため死に陥るような害は起こらず、人々はそこでよく同類や一族が集まり、歌い舞って喜びにひたり、用いるのに大いなる徳にあたったのである。徒党は奮って加担するよう呼びかけ、義軍を労い迎え、喜びの声は天地を動かし、義軍の麾下に到ったのである。大盗賊や軍閥が立て籠もって、天命を阻んで徳を遮ったとしても、義軍の威信により殺戮され、すべて大いなる始祖の道の手に堕ちたのである。漢の劉氏は暴虐ではなかったから、人々はそこで大いなる嘉祥を受けたのだが、隋王朝が去ると、よく唐に帰し、足踏みして謳歌し、どこまでも広大に広がって和み安らかとなったのである。帝が武威を用いるのは、思うに人の為なのであろう。敬しんで税を定め、積んで下に納め、これを「豊国」というのである。郷には義倉を設け、納めて謹慎の意を示し、毎年一定の割合で救荒に用い、人々を豊かな年とするのである。刑罰を選ぶのに、残忍ではないよう罪を懲らしめ、これを「厳威」というのである。罪が小さければ罰金とし、罪が大きければ奴婢とし、和らぎ楽しんで自らの身を慎み、そのことを用いれば治めるのにいたりとどまるのである。だいたいその欲するところは、求めなくても得られ、だいたいその悪とするところは、祈らずとも消え失せる。四夷は拝服し、軍事はおこらず、財貨も使い尽くさない。大いに後嗣を宣揚し、後代まで唐室が続いたのである。十聖祖はその治世をすくい、孝仁・平寬なのは、わが祖法なのである。恩沢は長くそしてますます深く、仁は増してますます高く、人々が唐を推戴し、長々無窮となるのである。 この為に天命を受けるのは天からではなく、その人の徳の有無によるのである、よい符はめでたい現象において現れるのではなく、その人の仁において現出するのである。重要なのは人間の仁であって、天からめでたいしるしが出現するのではない。天からめでたいしるしが出現するのではないことは、これはただ貞符のみであるのだ。まだ仁を失って長く続いた者はいないし、まだめでたいしるしをたのんで命が長かった者などいなかったのだ。商の王は桑と楮によって栄え、鳴いている雉によって大きくなり、宋の君主は法星によって命が長かったが、鄭は龍によって衰え、魯は麒麟によって弱まり、白い雉は漢を亡ぼし、黄色い犀は王莽を殺した、などと言うが、どうしてそれらが符であると言えようか。唐の徳が代々施され、光り輝きよく治まって、甚だ盛んで甚だ大きく、人々を安らかにすることに限りが無いことには、これらの現象は及ばないのだ。郊廟をお祀りし、この事を雅詩で記錄し、謹んで徳を美しく輝かせることを告げるのである。帝は真実なのだろう。そこで吉祥に関する奏上を却け、貞符の秘奥を究明し、徳のまだ大きくないところを思い、仁のまだ備わっていないところを求め、それによって国家の統治を極め、人事を慎んで行うのである。その詩に言う。 ああ、素晴らしき徳を敬う人よ。百姓は王者とする。正しい符は広大にして擁護する。仁は広大な地域を包み込み、敵を破って武器を新しくする。恩沢の潤いは竈を乾かし、悲惨な民を洗い流す。その道徳的に悪い人を亡ぼし、駆除平定させる。素晴らしいかな、その和風よ、暖かい風が吹いている。父子は和楽し、互いに安んじて喜び合う。賦税が納まって我らが糧食は厚く増えていく。刑罰は軽くて清明で、我らは全うして傷つかない。我が子孫に賜う、百代の幸福を。十聖治世を継承するのは、仁君の子に。子は父に親孝行しようと思い、災いが起これば自分に変えようと願う。唐朝を擁護し、神よそのようにあれ。雅詩を称揚し、天の大いなる福をうける。天の誠実な神意は、人間の仁の中に見るべきなのである。神は何に現れるのだろうか。仁に帰着するのである。四極の北の濮鉛、四極の南の祝栗、疆域は西に東に、ただ心を一つにする。唐の世の中を祝えば、天を後回しにしても失敗することはない。皇帝の長寿を祝おう、地と同じく長く久しいのだ。どうして僅かばかりに祝おうか、心から本当に敬愛するのだ。神と人は互いに心力を合わせ、道を互いに告げる。唐朝は億万年になり、揺らぐことなく危うきこともない。我が世代よりも長く延び、永々と助けよう。仁が増えれば崇く、どうして唐朝を思わないことがあろうか。天に向かって叫ぶ、皆がああというのだ。素晴らしいことかな、唐朝の皇霊よ、符によって変わることなんてないのだ。」 柳宗元は召還されず、心の内に思い悩み悲しみ、行き詰まって困窮することになった過ちを後悔し、賦をつくって自らの戒めとした。以下にいう。 「あやまちに懲りて今になって昔の事に思いをはせると、誰がわたしの心の求めるところを非としようか。しかも卑賎の位にいて世の中を憂えるのは、まことに昔の記錄のあやまちとするところである。私ははじめ古人の道を学んだ。古今では人が策謀を異にするのを不思議がった。さて古人の聡明さを考えて師とすべきだと思い、全力を尽くして聡明の士に追い抜こうと遥か遠く尋ね廻った。清誠なる私は信直である上、仁愛の友が群がり集まっている。日々に正道を施しのべて絶やさず、堯舜を迎えて仁愛の友に加えてその道を師とした。貴族たちは自分勝手に漠然としてとりとめなく広い。群民たちは正しからずして私心をいだく。凡人たちは皆並び立ち互いに交わり合う。私は一人大中のよろしきところを求めようと苦辛する。 みずから言うことに、道には現象があるが形はない。機に臨んで変に応じ志に従うがよい。力が及ばないときは危険だし過ぎれば正しさを失う。謹んで自らの中道を守って時に応じて行え、と。万物は盛んに茂りこの道に従って安んじる。剛柔・弛張して出入にも経綸の方策がある。能者を登用し邪曲な者をおさえる、それで始めて白黒や濁清が分明となる。私はこの正道を踏んで害されることはない。 聖賢の大いなる教えを奉じてわが心を修め、わが志に得たことを心からよろこぶ。そこで再びわが信ずるところを策書に記したが、物事が明白で迷いはないと思った。愚かな私は自分の意見に固執して行った。さて己の誠一でないだろうことを恐れる。深謀遠慮して広く図ることもなく、専ら古人の道をよく守り行った。讒妬の輩が陰謀を企てても戒めとしないで、己れのとるところをしっかり守って専念する。わが党の不善を悲しんで、仕官するも進退窮する目に遭遇した。形勢は危ぶみ疑い詐謀ばかりが行われ、天地が隔絶するような時に出逢ってしまった。されば退いて己れの身を全うしようとすると、昔の誓約にそむくであろうことを恐れる。そこで道をしっかり守って忠を尽くそうとすると、讒妬の輩が口を大きく開いて荒々しくおどすのである。進むも退くも自分は寄りどころなし。だから刑具の鼎で烹られようとも甘んじて受けよう。幸いに天子のご鑑識により赦され、郡の長官の印綬を帯びて南方に行く。さてわが罪は大なのに恩寵厚く、もっともであろう。初め永州に流され後に柳州に遷された。すでに天の明罰をおそれ、その上鬼神の幽責をおそれる。心身ともに落ち着かず夜も眠れず昼もおどろく。我が身の不安さはくじかが猛獣に逐われるのを恐れて休む時がないのに同じだ。 広々と水流盛んな洞庭を越えて、渦巻き流れる湘水を遡る。つむじ風が突然吹いて高波をあげ、舟はくしき押さえられてぐるぐるめぐる。日は土けむりに覆われてうす暗く、青黒い雲が湧き上空に集まる。夕暮れには砕け散りいやな雨が降り出した。やかましく悲しげな猿の啼き声を聞く。衆鳥が集まって啼きさけぶ。渚を湧き出るように山容をつらね、漂うように遥かを追う、いずこに留めようか。言ってわが形魂を寄属することなし。郡山おどりあがって左右に曲がりくねる。さかまく波のくずれくだける早瀬が一処に集まる。背き離れて尺ほど進み尋ほど退く。さざ波はゆれ動きめぐり流れる。私は年の瀬に柳州にとどまり、ほだしは乱れて身にまつわる。 わが艱難の非常なるを悲しみ、『凱風』の悲しい詩のように私もなった。我が罪は天にとどき天は私を極刑に降した。恥を忍んですみやかに死なずに生きることを選んだ。二年の間柳州に暮らしたが、それでも頭を垂れて落胆しつつもわが身を守る。はたまた身を渕に投じて命を絶ってしまおうか。誰が罪を明らかに定め禍いを塞いでくれようか。さて身を亡ぼして後来の回復が望めないのは、先聖の業績を顧みてもそれでも不可である。進もうとすると前路は空しく東西に切断して進めない。退いてかくれようとすれば、またそれもできない。孤囚となって一生を終わり、長く拘禁されて失意のままに生きる外はない。 以前の我が志は立派だったのに、今どうしてこんな罪過にかかってしまったのか。私は俸禄をむさぼり名声を盗んで、世俗から浮き出てしまったのか。はたまた正直をもって身を顕わして、民衆に嫉まれたのか。言葉を選ばずとことん正義を貫くのは、まことに群禍を招く要因であった。 私は長轅の車に乗って、つづら折りの高く険しい道を行く。急流に棹をこいで大江を渡り、高くおどりあがる波に遡る。幸いに死を免れて、身体を完全に保ち得た。仮にも前日の行ないに懲りた余命には、先聖賢の事業を踏んで不公平にはすまい。蛮夷の永州に死するは勿論我が分とする所である。たとえ顕栄恩寵を蒙る身になっても何の益があろうぞ。至上中正の道をもって我が則とし、まことに天命に任せることにしよう。」 元和十年(815)、柳州刺史に遷った。当時、劉禹錫は播州刺史に任じられたが、柳宗元は、「播州は人の住むようなところではありません。私は劉禹錫が今苦しい立場に追い詰められて、その親に言うべき言葉がないのを見るに堪えないのです。もし親が行かなければ、それは母子の永縁の決別になるのです」と述べ、そこで詳細に奏上して自身が赴任する予定の柳州を劉禹錫に授けて、自らは播州に往くことを申し出た。当時、大臣もまた劉禹錫のために請願したから、そこで連州刺史に改められた。 柳州の人は男女が子供を質草に借金をし、返済時期を過ぎて返済できなかった場合、利子と元金が同等ならば、子供を没収して奴婢としていた。柳宗元は方策を設け、ことごとく金を返して子供たちを帰らせた。特に貧しい者は、毎日の労賃を書かせて、その合計が借金と利子相当に充分であれば、その質草を帰らせるようにした。すでに奴婢の身に陥った者は、柳宗元が自身の銭を出して返済の助けとした。南方で進士となる者は、数千里を走って柳宗元に従って文章を学び、直接の講義や指をもって画き示すような直接の指導を受けて文章をつくる者は、全員が有名となった。世の人は「柳柳州」と号した。元和十四年(819)卒した。年四十七歳。 柳宗元の若い時は無頼で、「功績をあげてやる」と言っていたが。罪とされて失脚すると、遂に振るわなかった。しかしその才能は本当に高く、名声は時代を覆った。韓愈はその文章を評して、「雄渾で深淵、かつ上品で勢いがあることは、司馬子長(司馬遷)に似ている。崔寔・蔡邕は格段優れているというほどでもない」と言った。没後、柳州の人は柳宗元を懐かしみ、人に托して柳州の堂に降ったといい、人で馬鹿にする者はたちまち死んだ。羅池を廟とし、韓愈は碑に事蹟を書いたのだという。 程异は、字は師挙で、京兆長安の人である。郷里にあっては孝行で称えられた。明経科に及第し、鄭県の尉に補任された。役人の事務仕事に精通し、王叔文に引き立てられ、監察御史の官をもって塩鉄揚子院留後となった。王叔文が失脚すると、郴州司馬に貶された。 李巽が塩鉄のことを領すると、程异を計算の才能があるから任用すべきであると推薦し、抜擢して任用することを願い出て、そこで侍御史を授けられ、再び揚子留後となった。しばらくして淮南等道両税使に任じられた。程异は廃れているところを復活させ、自身を励まして忠節を尽くし、旧弊を改変したり、よいところは残したりした。入京して衛尉卿・塩鉄転運副使に遷った。蔡の呉元済の討伐するにあたって、程异は江表に派遣されて財物を整え、そこで諸帥府に行って諭し、羨余を貢納させた。そのため程异が至ったところは、下々からの収奪はせず、苛斂誅求を加えず、必要な物のみを豊かにさせた。遂に御史大夫を兼任して塩鉄使となった。元和十三年(818)、工部侍郎同中書門下平章事(宰相)となり、それでも塩鉄を領した。程异は銭や穀といった徴税財務に辣腕を振るって宰相となったため、自らに人望がないことから、しばらくあえて宰相の印綬を用いて執筆しなかった。翌年、西北の軍政は治まらず、朝議の結果巡辺使を設置することとなり、憲宗は誰が任命されるか尋ねたから、そこで自ら行くことを願った。卒すると、尚書左僕射を追贈され、恭と諡された。自身は官舎にあって、財貨を貯めることはなく、世間ではその清廉さを重んじられたという。 賛にいわく、王叔文は小人であることを自認しながらも、密かに天下の権勢を伺い、陽虎が魯宗室の宝の大弓を奪って『春秋』に盗賊と異なることがないと書かれたようなのと同じになった。柳宗元らは節を曲げて王叔文に従い、短い期間の厚遇を得たが、帝が病気で昏迷状態にあるのを貪り、明敏な太子を抑え込み、権力を私にしたのである。そのため賢者もその方向へと病んでいき、不肖の者に媚びたのだから、一度失脚すると復活することなかったのは、当然のことではないか。彼がもし悪人に従わず、自らその才能に邁進していれば、すぐれた卿や優秀な大夫となっていたのと失わずにすんだのである。何と惜しいことであろうか。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百六十七 列伝第九十二 『新唐書』巻一百六十八 列伝第九十三 巻一百六十九 列伝第九十三四
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唐書巻二百一十六上 列伝第一百四十一上 吐蕃上 吐蕃はもと西羌の系統であり、およそ百五十種あって、黄河・湟水・長江・岷江の間に散らばって住んでいた。その種族には発羌・唐旄などがあるけれど、まだ中国とは交通しておらず、折支水の西にいた。先祖は鶻提勃悉野(オデプゥギェル)といい、強力で智慧があり、だんだん諸羌族を併合してその地に拠った。蕃と発とは音が近いので、その子孫は吐蕃というのである。そして姓は勃率野(プゥギェル)である。ある人はつぎのように言う。「南涼の禿髪利鹿孤の系統に二人の子があり、樊尼と傉檀といった。傉檀が後をついだが、西秦の乞仏熾盤のために滅ぼされた。樊尼は残党をひきつれて、北涼の沮渠蒙遜に臣となり、臨松(甘粛省張掖県の東南)の太守となった。蒙遜が滅んで、樊尼は兵をひきつれて西の方黄河を渡り、積石山を越えてついに多くの羌族を手なずけ支配するようになった」と。 その民族の習慣では、勢力のあるものを賛といい、男を普というので、君長を賛普(ツェンポ)といい、賛普の妻は末蒙という。その官吏には大相があり、論茝(ロンツェ)いい、副将は論茝扈莽(ロンツェゴマン)といって、おのおの一人である。また大論・小論とも号する。都護は一人で悉遍掣逋(チェンチェポ)という。また内大相があり、曩論掣逋(ナンロンチェポ)といい、また論莽熱ともいう。その副相を曩論掣逋(ナンロンチェポ)といい、その小相を曩論覓零逋(ナンロンリンポ)、その小相を曩論充(ナンロンチュン)といい、おのおの一人である。また整事大相があり、喩寒波掣逋(ユルゲンパチェポ)といい、副整事は喩寒覓零逋(ユルゲンリンポ)、小整事は喩寒波充(ユルゲンパチュン)という。これらはみな国事を担当し、総称して尚論掣逋突瞿(シャンロンチェポグウ)という。 その土地は京師(長安)の西八千里にあたり、鄯善からは五百里である。強力な兵士は数十万で、国には雷電、風まじりの雹、積雪が多く、盛夏でも中国の春のようである。山谷はいつも地が凍結し、寒さは厳しく、その気に当てられるとたちまち息切れがして苦しいが、身体を害というほどではない。その賛普は跋布川のほとりにいるが、その川はまた邏娑(ラサ)川ともいう。城郭や住宅はあるが、これにはあえて住まず、毛織のテントを並べてそれに居住する。これを大払廬(プル)と称するが、数百人を容れることができ、そのまもりは厳重で、本陣はひじょうにせまい。部の人たちは小さな払廬に住まう。長生きするものが多く、百余歳になるものがいる。衣服はだいたい毛皮である。赤土を顔に塗ったのを綺麗だとする。婦人は弁髪してまといつけている。その器は木をまげてに皮を張り、あるいは毛織物をもって大皿を作る。麦粉を蒸し固めて腕を作り、羹や酪を満たして、器もろともこれを食う。また手で酒などを受けて飲む。その官吏の章は瑟瑟(宝珠)が最上で、金がこれにつぐ。金塗銀がそのつぎで、銀がこれにつぎ、最下は銅までいって終わる。大小の差があり、臂の前に付けて貴賤の区別をつける。家屋は屋根がみな平らで、高さが数丈にいたるものがある。その穀物には小麦・裸麦・蕎麦・治豆があり、獣類にはヤク・優秀な馬・犬・羊・豚がある。天鼠の皮は裘(かわごろも)とすることができる。独峯駝があるが、これは日に千里を走るという。その宝物は金・銀・錫・銅である。人が死んで葬うときには塚を作り、これを塗りこめる。 その行政には文字を用いず、縄を結び、木に刻みをいれて約束をする。その刑罰は、たとい小罪であってもかならず目を抉り、あるいは足きり・鼻そぎを行なう。また皮で鞭を作って笞うつ。感情のままに喜び怒り、定まった考えというものをもたない。その牢獄は、地を掘って深さ数丈あり、中に二、三年囚えてはじめて出す。その重要な客を迎えてするときには、かならずヤクを駆りたてて客にみずからこれを射させてのち、これを食料として贈る。その風俗としては、死者の魂をおもんじ、巫をすぐれたものとしている。山羊や羊に仕えて大神とし、仏教を喜び、呪詛に習熟している。国の政事はかならず僧侶が相談にあずかり、参加を待って決定する。多くの人々は弓刀を身につけて飲酒するが、乱れることは許されない。婦人は政治に関係することはない。元気のよいのを尊び、弱々しいのを賎しむ。母は子に礼し、子は父に対して傲慢である。出入りするには若いものを前にし、老人は後につづく。戦死することをおもんじ、代々戦死した家をもってすぐれた家柄とする。戦闘に敗けただらしのないものは、狐の尾を首にかけその恥を示し、かれは人中に並ぶことができなくなる。礼をするのには、かならず手を地面につけて犬の鳴くまねをし、二度身をまげて終わる。父母の喪に服するときは、髪を断り、顔をくろずみで塗り、黒い衣を着る。そして埋葬がすめば忌み明けとなる。 その兵を挙げるときは、七寸の金の箭をもってしるしとする。百里ごとに一駅あり、急に兵を動員するときは、駅の人は胸に銀鶻を付加し、それがはなはだ急なときには鶻の数を多くする。敵の侵入を知らせるには狼烽をあげる。その牧畜のやり方は、水や草を逐うてゆき、定まった場所には居つかない。その鎧は精で、これを着て身をつつみ、両眼のところだけ穴があけてある。したがって強力な弓や鋭い刃でも深傷を負わせることはできない。その兵法は厳格で、軍隊には輸送の食糧はなく、ぶんどり品を資材に使う。戦闘には、かならず前隊がぜんぶ死んでから後隊が進撃する。その四季は麦の熟する時をもって年のはじめとする。その遊びごとは棊・六博で、その音楽は螺貝を吹いたり、鼓をたたいたりすることである。その君は、臣下五、六人と友人になり、共命と称し、君が死ねばみな自殺して殉う。身につけたもの、玩弄物・乗馬はみないっしょに埋める。大きな冢を作り、冢の上に多くの木を植えて祭の場所とする。賛普は、その臣下と年に一回小盟をし、羊・犬猿を犠牲に献げる。三年に一回大盟をし、夜、いろいろの壇に供物をおき、人・馬・牛・驢を犠牲に献げる。だいたい犠牲はかならず足を折り腸を裂いて前に並べ、巫をして神に告げさせて、「盟にそむくものあればこの犠牲のようになるであろう」と言う。 さて、そののち君長が出て瘕悉董摩(ギェルトンマ)といい、佗土度(ラトド)を生んだ。佗土生は掲利失若(チニヤ)を生み、掲利生は勃弄若(ロニエン)を生み、勃弄生は詎素若(タグウニヤ)を生み、詎素生は論賛索(ロンツェン)を生み、論賛生は棄宗弄賛(チソンツェン)を生んだが、またの名を棄蘇農(チソン)、とも、また弗夜氏(プゥギェル)とも号した。その人がらは、意気盛んで才能あり、雄健で、つねに野馬や牛を駆り、走ってこれを刺殺するのを楽しみにしていた。西域の諸国はともにこれに臣として仕えた。 貞観八年(635)、吐蕃ははじめて使者を遣わして来朝した。天子は行人の馮徳遐をやって書を与え、いたわった。弄讃は、突厥・吐谷渾がともに唐の公主と婚姻していることを聞き、そこで使いをよこし、物をもたらして婚を求めたのである。しかし帝は許可を与えなかった。使者は、還って賛普にでたらめを言った。「天子は私を厚く待遇し、ほとんど公主を戴きかけたのですが、ちょうど吐谷渾王が入朝したところで、ついに不許可になりました。おそらく反間の策動を行なったからでありましょう」と。弄讃は怒り、羊同をひきつれてともに吐谷渾を攻撃した。吐谷渾は抵抗することができず、青海の北側の方に逃れ、吐蕃はその財産、家畜をぜんぶ取った。また党項・白蘭羌を攻めてこれを破り、兵二十万を統率して松州(四川省松藩県)に入寇した。そして使者に命じて金の鎧を献上させ、かつ公主を迎えたいと言った。また側近に言った。「公主が来なければ、わしは、よりいっそう深く侵入しよう」。都督の韓威は軽装して出城し敵をうかがったが、かえって破られてしまった。唐に服属している羌族は大いに乱れ、みな背いて敵側に応じた。そこで吏部尚書の侯君集を行軍大認管とし、達弥道に出動させ、右領軍大将軍の執失思力を白蘭道に、右武衛大将軍の牛進達を闊水道(四川省松藩県付近)に、右領軍将軍の劉蘭を洮河道に出動させ、ともに行軍管として歩兵騎兵五万をひきつれて討伐に赴かせた。牛進達は、松州からでて夜その屯営をみなごろしにし、首千級を斬った。 吐蕃でははじめ東方に侵入したときは、年々戦がつづいてその動員を解除できなかった。その大臣は帰国することを願ったが聴きいれられず、自殺するものが八人も出た。そこで弄讃ははじめて前途に不安をいだいて退却した。そして使者をよこして謝罪し、熱心に婚姻を願った。天子はようやくこれを許した。弄讃は大論の薛禄東賛(ガルトンツェン)をよこし、黄金五千両を献上し、他にもこれに適当する贈り物をつけ結納とした。 貞観十五年(641)、天子は弄讃に一族の女文成公主を妻した。江夏王李道宗に詔を下し、節を持して護送させ、館を河源王の国に建てさせた。弄讃は兵をひきいて栢海に屯して親迎の礼を行なった。そして李道宗に会い、ひじょうにうやうやしく婿としての礼をとった。また中国の服飾の美しいのを見て、小さくなって恥じいっていた。帰国して、その先祖にいまだ皇帝の女と結婚したものがないのを思い、公主のために一城を築いて後世に誇示しようと考えた。そして宮殿を建ててこれに公主を住まわせた。公主は国人が顔に赤土を塗るのをいやがったので、弄讃は命令を下して国中にこのことをするのを禁止した。またみずから毛織の衣服を脱いで白絹・薄絹を着、中国風にした。そして諸豪族の子弟をよこして国学に入学させ、『詩経』『書経』を習わせた。また、儒者で往復文書を司るものを派遣されんことを願った。 帝が遼東を征伐して帰ったとき、弄識は禄東賛を使いによこし、書を上った。「陛下は四方を平定され、日月の照らすところはみな臣としてこれを治めておられます。高麗は遠方にあるのを恃んで礼に従わず、天子はみずから司令官となって遼河を渡り敵の城を降し、陣を陥れられ、前に定めた期日に凱旋されました。鷹が空を飛ぶのが早いといっても、この速さには及びません。いったいは鵝のようなものであります。臣は謹んで黄金を練って鵝を作りこれを献上いたします」と。その金鵝の高さは七尺で、中に酒三斛を満たしうるものであった。貞観二十二年(648)、右衛率府長史の王玄策は西域に使となってゆき、中天竺のものに掠奪された。弄讃は精兵を出して王玄策に従わせ、これを打ち破り、捕虜を献上してきた。 高宗が即位し弄識を駙馬都尉西海郡王に抜擢した。弄識は書を長孫无忌に送って言った。「天子があらたに即位せられましたが、臣下に不忠なものがあれば、兵を指揮して唐国に赴き、ともにこれを討伐いたしましょう」と。それといっしょに金・琲を十五種献上し、それを昭陵にお供えした。それで賓王に進封せられ、厚く贈り物を賜わった。また蚕種や酒造りの人、碾磑などを作る工人を送られんことを願ったが、詔を下して許可された。 永徽の初め(650)に弄讃は死んだので、使者をやって弔わせた。あとは子がなく、その孫が立ったが、幼年で政治はとれなかったから禄東賛が宰相となった。 顕慶三年(658)に金の盆と金頗羅などを献上し、また婚姻を願った。まもなく吐谷渾が唐に内付したので、禄東賛は怨み怒り、精鋭の軍をひきつれてこれを攻撃した。そして吐谷渾の大臣素和貴は吐蕃に逃走し、その長所短所を教えたので、その国を破ることができた。慕容諾曷鉢は弘化公主と残った部落をひきつれて涼州(甘粛省武城県)に走った。天子は涼州都督の鄭仁泰に詔を下し、青海道行軍大招管とし将軍の独孤卿雲らをひきつれて涼州・鄯州(西寧)の地方に屯させた。また左武候大将軍の蘇定方を安集大使とし、諸将の指揮をさせて、その乱をしずめさせた。そこへ吐蕃の使者論仲琮(ロンチュンサン)が入朝して、吐谷渾の罪を書いて奏上した。帝は使者を吐蕃にやりその行為を責めた。そこで吐蕃から使者が来て吐谷渾と仲なおりをすることを願い、赤水の地で馬を牧することを求めた。しかし朝廷ではこれを許さなかった。 ちょうどそのころ禄東賛が死んだ。東賛は、文字のことはしらなかったが、天性毅く、軍隊を把握してよく統率し、吐蕃はこれに信頼してついに強国となったのである。はじめ入朝したとき応待がりっぱであったので、太宗は抜擢して右衛大将軍に任じ、琅邪公主の外孫を妻せようとした。禄東賛はみずから言った。「臣はすでに妻を娶っておりますので、あえて詔に従うことはいたしません。かつ賛普はまだ公主にお目にかかっていないのですから、陪臣の私は、はっきりご辞退申し上げます」と。天子はその言をすぐれたものだと考えたが、恩をもって懐柔しようとし、その辞退を許さなかった。禄東賛には子があり、欽陵(チンリン)・賛婆(ツェンワ)・悉多于(タダウ)・勃論(ロン)といった。禄東賛が死んでこの兄弟たちはみな国政を担当した。これより年々辺境に侵入し、諸羌族ならびに羈縻の十二州をみな破り支配した。 総章年間(668-669)、朝廷では会議の結果、吐谷渾を涼州の旁の南山に徙すことにした。帝は吐蕃の入寇を鎮めようとし、宰相の姜恪・閻立本、将軍の契苾何力たちと議して、まず吐蕃を討とうとした。閻立本は言った。「民は飢えていますから、まだ軍隊を動かすことはできません」と。契苾何力は言った。「吐蕃は西の果てに小さく存在しております。臣が恐れるのは、軍隊が引きますと獣のようにかくれひそみ、山に伏しかくれ、捕え討っても、なにも得るところがないことです。春になればまた吐谷渾を侵すでありましょうが、臣はこのさい救援しないことをお願いいたします。わが方の力が弱っているのを疑わせ、これを驕りたかぶらせて、いっきょに滅ぼすべきであります」と。姜恪が言った。「そうではありません。吐谷渾はただいま衰弱しており、吐蕃は勝利に気負うております。衰弱した精神で強力な軍隊を拒ぐのです。戦えば、ぜったい対抗できるはずがありません。いま救わなければ吐谷渾は滅びるでしょう。臣は、天子の軍隊が速やかにこれを助けて、吐谷渾をうまく存続させ、あとでおもむろに処置を考えるのがよいと思います」と。論議は決せず、また吐谷渾を徙すこともできなかった。 咸亨元年(670)は入寇して羈縻の十八州に損害を与えた。于闐(コータン)を従え、亀茲撥換(クチャバルカン)城を占領し、ここに安西四鎮はみな存在を失った。そこで右威衛大将軍の薛仁貴を羅裟道行軍大総管とし、左衛員外大将軍の阿史那道真と左衛将軍の郭待封とを副にし、吐蕃の討伐に向かわせ、同時に吐谷渾が国へ帰るのを守護させた。軍隊はおよそ十余万で、大非川にいたったが、吐蕃の欽陵がこれを防ぎ、天子の軍隊は敗戦した。ついに吐蕃は吐谷渾を滅ぼしてその土地をぜんぶ保有した。そこで朝廷では司戎太常伯・同東西台三品の姜恪を涼州道行軍大総管とし討伐に向かわせた。ところがちょうどそのとき姜恪が死んだので、軍隊を還した。 吐蕃は大臣の仲琮を入朝させた。仲琮は若いときに大学に遊学して、よく文字を知っていた。帝は召し出して問うた。「賛普とその先祖は、どちらが賢明であるか」と。答えて言った。「勇敢で果断、すみやかに事を処置するのは、いまの賛普は、ご先祖には及びません。しかし、ねっしんに国政をとり、けっして人民を欺くようなことをされないのが現賛普でいられます。かつ吐蕃は寒冷な曝された野に住み、生産物はわずかで、鳥海の北では真夏でも雪が積もり、暑いときはそまつな毛織を、冬には裘を着て、水や草を求めて遊牧しております。寒冷のころは城郭に住み、テントを張ります。道具は中国の万分の一にも当たりません。ただ上下力を一にし、事を論議するときは、下から意見をのべ、多くの人が利益とするところに従って実行します。これが長い間を経てなお勢い盛んなわけでありましょう」と。帝は言った。「吐谷渾は、吐蕃ともとは舅甥の間がらの国である。素和貴はその君主に背き、吐蕃はこれを用いて吐谷渾の地を奪いとった。薛仁貴たちは出動して吐谷渾王慕容氏を安定させようとしたが、また吐蕃はこれをまちかまえて攻撃し、そしてわが涼州へ入寇したのは、いかなるわけであるか」と。仲琮は頭を下げて言った。「臣は命を奉じて朝貢にまいりましたが、他にはなにも聞いておりません」と。帝はその答をよしとしたが、しかし仲琮は政治に直接あたる臣ではないというので、その礼遇を薄くした。 上元二年(675)、吐蕃は大臣の論吐渾弥をよこして和平を願わせ、かつ吐谷渾と好しみを修めることを求めた。しかし帝は許さなかった。翌年(673)、鄯(青海省西寧市)・廓(青海省貴徳県東)・河(甘粛省臨夏県)・芳(甘粛省臨県南)四州を攻撃し、官吏および馬牛を万をもって数えるほど殺し、あるいは略奪した。そこで周王顕(後の中宗)に詔を下して洮州道行軍元帥とし、工部尚書の劉審礼ら十二の総管をひきつれさせ、相王輪(後の睿宗)を涼州道行軍元帥とし、左衛大将軍の契苾何力、鴻臚卿の蕭嗣業らの軍をひきつれさせ、これを討伐させた。ところが二王は行くことができないでいるうちに、吐蕃は進んで畳州(甘粛省臨潭県南)を攻め、密恭・丹嶺の二県を破った。また扶州(甘粛省文県西北百六十里)を攻撃して守将の乃高選を破った。いっぽう尚書左僕射の劉仁軌は洮河鎮守使となったが、長い間これと戦って戦功はなかった。 そこへ吐蕃が西突厥と連合して安西を攻撃した。そこでまた中書令の李敬玄に命じて洮河道行軍大総管・西河鎮撫大使・鄯州都督として劉仁軌に代らせた。詔を下して勇士を募集し、籍役痕負のものにも制限をつけず採用し、帝はみずから軍の出発に臨席激励した。また益州長史の李孝逸・巂州都督(西康西昌)の拓王奉に勅を下し、剣南・山南の兵を増発して、まず竜支(青海省西寧県東南八十里)に戦い、吐蕃は敗戦した。いっぽう、李敬玄は劉審礼をひきいて吐蕃を青海のほとりに攻撃したが、劉審礼は戦死した。李敬玄は承風嶺に兵をしたが、険しくて思うように行動できず、吐蕃は天子の軍を圧迫した。都左領軍将軍の黒歯常之は、五百人の決死隊をつれて、夜その陣営に斬りこんだ。蛮族は驚いてみずから互いに踏みにじりあい、死ぬものがひじょうに多かった。そして退却し、李敬玄はやっと脱れることができた。 帝はもともと温和で、遠い将来の策などをもたなかったので、諸将がしばしば敗れるのを見、ひろく近臣にはかって、防禦の方法を求めた。帝は言った。「朕はいまだ鎧を着たり、行軍したりしたことはない。さきに高麗・百済を滅ぼすとき、毎年軍隊を動かし、中国は騒然となった。朕は、今にいたるまでこのことを恨んでいる。いま吐蕃は国内に侵入してきている。どのようにわれわれの謀をなすべきであろうか」と。中書舎人の劉禕之たちは、詳しく答えた。「まず、おのおのの家が潤い、人手がたりるようになるのを待ってから討伐すべきであります」。ある人は言った。「敵はわるがしこいですから、講和するべきではありません。ある人は言った。「屯田をして厳重に守るのが、つごうよいと思います」と。ただ中書侍郎の薛元超は言った。「敵を自由にして問題を起こさせ、作戦を充分にしてこれを討伐するにしくはありません」と。帝は、黄門侍郎の来恒をかえりみて言った。「李勣が死んでからは、りっぱな将軍はいなくなってしまった」。来恒はただちに言った。「さきに洮河の軍隊は、敵を制圧するに充分な力あるものでありました。ただ諸将が命令を聞かないので勝利することがなかったのです」と。帝はぜんぜん悟らず、そこで論議するのをやめてしまった。 儀鳳四年(679)、賛普は死に、子の器弩悉弄(チドウソン)が立ち、欽陵はまた国政を思いのままにした。吐蕃では大臣をよこして不幸を唐に告げたので、帝は使いをやって会葬させた。 翌年、賛婆と素和貴は兵三万をひきいて河源を攻め、良非川に屯した。李敬玄は湟川に戦って敗戦した。左武衛将軍の黒歯常之は、精鋭の騎兵三千をもって、夜その陣営を攻撃し、賛婆は懼れて退却した。ついに黒歯常之を抜擢して河源(西寧市西百二十里)経略大使とし、烽火台と巡邏を厳重にし、屯田を開いた。それで蛮族の作戦はすこし停頓した。 はじめ剣南の茂州(四川省茂県)の西を経営しようとし、安戎城を築き、その辺境に迫った。突如として生羌に導かれて蛮族はこれを取ってみずから守り、それによって西江河の諸蛮族を併合し、羊同・党項の諸羌をみな臣下とした。その土地は東は松・茂・巂の諸州と接し、南は婆羅門(インド)にいたり、西は安西四鎮を取り、北は突厥まで及んで、その広さは万里に余るものであり、漢魏いらい西戎諸族の比べもののないところであった。 永隆元年(680)、文成公主が死んだので、使者をやって弔わせた。またわが方の陳行焉の遺骸を帰してよこした。さきに陳行焉は吐蕃に使いにゆき、そのとき論欽陵は自分を拝させようとし、武器をもってせまった。しかしかれは屈しなかったので、十年間吐蕃に止められたままであった。ここに遺骸が帰ったのでかれに陛州刺史が贈られた。賛婆はまた良非川に入寇したか、黒歯常之は攻撃してこれを退けた。武后の時には、吐蕃は他の蛮族たちと同様に入朝し、賀詞をのべた。永昌元年(689)、文昌石相の韋待価に詔を下して安息道大総管とし、安西大都護の閻温古をこれに副として吐蕃を討たせた。軍は止まって動かないので責任を問い、将軍たちを死刑や流刑に処した。翌年(690)、また文昌右相の岑長倩に詔を下して、武威道行軍大総管として吐蕃を討った。途のなかばまで行軍して中止した。 また翌年(691)、吐蕃の大首領の曷蘇は貴川部と党項の種族三十万をひきつれて降服した。武后は右玉鈴衛将軍の張玄遇を安撫使とし、兵二万をひきいてこれを迎え、大度水に屯した。吐蕃は曷蘇をとらえて去った。他の首領の昝插がまた羌蛮八千をつれてみずからやって来て降服した。張玄遇はただちにその部をもって葉州を置き、昝插を刺史にした。そして石碑を大度山に建て、その戦功をきざみこんだ。 この年、また右鷹揚将軍の王孝傑に詔を下して武威道行軍総管とし、西州(高昌)都督の唐休璟と左武衛大将軍の阿史那忠節をひきいて吐蕃を討たせた。そして大いにその衆を破り、ふたたび安西四鎮を奪取した。さらに安西都護府を亀茲に置き、軍隊をもってこれを鎮守した。あるものが論議して、四鎮を廃止して保有しないことをねがった。右史の崔融は献議して言った。「夷狄が中国の悩みとなってから久しいものがあります。これは三皇五帝も臣下としなかったものであります。漢は百万の衆をもって攻めて、かえって平城に苦しめられました。その後武帝はひじょうな憤りをかれらに向け、四夷に復讐して心中満足いたしました。張騫がはじめて西城に交通を開いてから河西四郡を並べ両関(玉門関・陽関)を置いて匈奴の右腕を断ち切りました。それより漸次、黄河・湟水を渡り、令居(西寧市東北)に城を築いて南の羌族と匈奴の連絡を絶ったのであります。ここに、鄣・候・亭・燧は長城より数千里も出たところに設けられ、そのためには朝廷の財政を傾け、兵馬をみな動員し、行人や使者は年々月々絶えることなく、財政は窮迫してついに皮の貨幣を用いるまでになりました。緡法を算したり、舟や車に税をかけたり、酒造りを専売にしたりするのも、どうして長期計画を考えないで、そのようにするものでしょうか。匈奴はここに孤立して、とくに遠くまで逃走し、漢はついに西城に道を開いて、使者もおいて監督するようになりました。後漢の光武帝が漢室を中興してから、みなふたたび内属しましたが、延光時代(122-125)になるまでに、交わりは三たび絶たれ三たび通じるというぐあいになりました。わが太宗文皇帝が漢の旧領土を支配されるようになり、南山にそうてパミールにいたり、府や鎮をずたずたにし、戦火は互いに見え、それゆえ吐蕃もあえて侮ることはありませんでした。高宗のとき、官吏たちは成績悪く、安西四鎮を棄てて、これを保有することができず、吐蕃はついに焉耆(カラシャール)の西に勢力を張り、兵鼓を盛んに打って東方で作戦し、西城を駆けめぐり、高昌(トルファン)を越え、車師(ヤルホト)を経て、常楽州を掠奪し、莫賀延磧の交通を絶って燉煌に臨むようになりました。いま王孝傑はいっきょに四鎮を取り、先帝のもとの領土にかえしました。もしまたこれを棄てるならば、それはみずから成功したものを打ちこわし、完遂された方略を破るものであります。いったい、四鎮が守備がなければ、蛮族の軍はかならず西域に臨み、西域が動揺すれば、南方の羌族を動かし、南方の羌族が東西に連合すれば、河西はかならず危険になります。かつ莫賀延磧はひろびろとして二千里にわたり、水や草はなく、もし南辺が蛮族(吐蕃)に直接すれば、唐兵はこれを渡ることができません。そしてかれらがさらに北方に向かえば、伊西北廷、安西方面の諸蛮族はみな亡びます」と。この論議は中止された。 さて吐蕃の首領の勃論賛(ロンツェン)は、突厥の偽可汗の阿史那俀子と南の方に侵略し、王孝傑と冷泉に戦って敗走し、砕葉鎮守使の韓思忠は泥熟没斯城を破った。 証聖元年(695)、論欽陵と賛婆は臨を攻撃した。王孝傑は粛辺道大総管として素羅江山に戦った。蛮族は敗れて退却したが、また涼州を攻め都督を殺した。そして使者をよこし、講和を願い、安西四鎮の守備をやめることを約束し、西突厥十姓の土地を分割することを求めた。武后は通泉尉の郭元振に詔して使者にゆかせたが、かれは途中で飲陵に出会った。郭元振は言った。「昔、禄東賛は朝廷に仕え、親交を誓ってきわまりなく誠実であったのに、いまはかってにみずから親交を絶って、年々辺境を乱している。父は朝廷に通じ、その子は朝廷と絶つのは、親に孝と言えようか。父は朝廷に仕え、子は朝廷に背くのは、国に忠と言えようか」と。欽陵は言った。「まことに、そのとおりである。天子が和平を許され、二国の防備をやめることができ、西突厥四鎮におのおの君長を立てさせ、その国にみずから守るようにさせたらどうであろう」と。郭元振は言った。「唐が、西突厥と四鎮をもって西方の土地をいたわっているのは、列国への大道となっているからであって、他意はないのである。かつこれらの諸部は吐蕃とちがって、かなり昔から唐の領域に編入せられている」と。欽陵は言った。「使者は、わが方が諸部を犯して唐の辺境に不安を起こすと考えていられるのか。わが方がもし土地や財賦を貪ろうとするならば、かの青海や湟川の地方が近くに存在するのである。いま、それを捨てて争わないのは、何故か。突厥の諸部は、砂漠がひろびろと存在し、中国からはひじょうに遠い。どうして土地を万里のかなたに争うことをしよう。かつ唐は四方の蛮族をみな併せて、これを臣下としている。海の外の地のはてといえども滅ぼされないものはない。吐蕃だけがたまたま残っているのは、ただ兄弟の関係によって心をこまかにくばって、互いに存在を認めあっているからである。西突厥の五咄陸は、安西都護府に近く、吐蕃からは遠い。俟斤はわが方と砂漠一つを隔てるだけである。騎兵がひと走りすれば十日を越えないでここに到達するので、これを憂えるのである。烏海や黄河の地帯は、源が閉ざされ、奥は阻まれており、病毒がひどい。唐はけっして入りこむことはできない。入りこめば、この自然条件があるから劣悪な兵士やよわよわしい将軍でも吐蕃の患をなしやすい。それゆえ、わが方はこれを獲得することを欲しているので、それによって諸部をうかがおうとしているのではない。甘州・涼州は積石道から二千里も隔たり、その広いところで数百里にならず、狭いところはわずか百里である。わが方がもし張掖(甘粛省張掖県)・玉門関(甘粛省敦煌県西方)に出たならば、貴国に春は耕作させず、秋は収穫させず、五、六年たたずにその西方領域を斬り落とすことができよう。それをいま棄てて為さないのであるから、わが方を恐れることは何もない。青海の戦闘には、黄仁素が和平を約束したため、辺境の守備隊は警戒していなかった。崔知弁は俟斤方面を経て、わが方の牛・羊を万をもって数えるほど掠奪した。このゆえにこの要求をなすのである」と。それから使者をよこして、ねっしんにねがった。郭元振は固く許可すべきでないことを言い、武后はこれに従った。 欽陵は国政を思いのままにし、長い間いつも中央にいて、政事を支配していた。その弟たちはみな方面軍を管轄しており、賛婆は東部国境にほとんど三十年の間かかりきりであり、辺境の患をなした。兄弟はみな才略があり、沈雄で、衆人はこれを恐れていた。賛普の器弩悉弄(チドゥソン)はすでに成人し、みずから国政をとろうとして、漸次不満に堪えきれなくなった。そこで大臣の論巌たちと、欽陵たちを退けることを図った。欽陵はちょうど兵をひきいて外にでており、賛普は猟をするといって、兵を指揮して、その親しいものたち二千余人を捕え、これを殺した。そして使者を出し、欽陵と賛婆を召還した。欽陵は命令をきかないので、賛普はみずからこれを討伐したが、まだ戦わないうちに欽陵の軍は崩壊した。そこでかれは自殺し、側近の殉死するものは百余人あった。賛婆は部下と兄の子莽布支(マンポジェ)たちをつれてに塞に来、好しみを通じた。朝廷では羽林飛騎をやって歓迎し、賛婆を抜擢して特進・軸国大将軍・帰徳郡王にし、莽布支は左羽林大将軍・安国公にし、みな鉄券を賜い、はなはだ厚く礼遇し慰労した。賛婆は部下の兵を領有し、河源の地方を守り、死んだときには安西大都護を贈られた。 また左粛政台・御史大夫の魏元忠をやって隴右諸軍大総管とし、隴右諸軍大使の唐休璟をひきつれて討伐に出した。ちょうどそのとき、蛮族は涼州を攻撃したので、唐休璟はこれを討って、首二千級を斬った。そこで論弥薩が来朝し講和を請うた。いっぽう音はみずから万騎をひきいて悉州(四川省松県西南)を攻めたが、都督の陳大慈は四たび戦って、みな勝利を収めた。明くる年(703)、そこで吐蕃は馬や黄金を献上して婚姻を求めてきた。ところが蛮族の南方の諸部族がこのころみな叛いたので、賛普はみずから討伐に赴き、軍中で死んだ。 そして諸子が争い立ったが、国人は棄隷蹜賛(チデツクツェン)を立てて賛普とした。年は七歳であった。使者が来て喪を告げ、かつ会盟することを求めた。また大臣の悉董熱(トンシェル)をよこしてねっしんに婚姻を結ぶことを求めたが、まだ返事は与えなかった。ちょうどそのとき、監察御史の李知古は、姚州蛮を討伐してこの蛮が吐蕃の道案内するのを牽制することを建議した。そこで詔を下して剣南の徴募兵を出してこれを攻撃した。蛮の首領は吐蕃に通じ、李知古を殺し、その屍体をもって天を祭り、蜀漢に進攻した。朝廷では遊武監軍・右台御史の唐九徴に詔を下して姚巂道討撃使とし、兵をひきいてこれを撃たせた。吐蕃は鉄の縄橋を漾水・濞水にかけ、西洱蛮に通じ城を築いてこれを守った。唐九徴は鉄の縄橋を破壊し、城中を誅滅し、鉄柱を滇池に立てて、その功業を刻みこんだ。 中宗の景竜二年(708)、その求婚の使者を還した。あるものが言った。「かれは公主を迎えに来、かつ中国の言葉をよく習い覚えました。帰すべきではないと思います」と。帝は、中国は誠意をもって夷狄と結ぶべきであるとして、その願いは許さなかった。翌年(709)、吐蕃はさらに使いをよこして貢ぎ物を納めた。祖母の可敦はまた宗俄をよこして婚姻をねがった。帝は雍王李守礼の女を金城公主として、これに妻すことにした。吐蕃は、尚賛吐(シャンツェント)・名悉臘(ニェレブ)たちを、公主を迎えるためによこした。帝は公主が幼いのを思い、錦や細をおのおの数万賜い、諸種の芸能人、もろもろの工人たちをみなつけてやり、亀茲楽の楽団を与えた。そして左衛大将軍の楊矩に詔を下し、節を持して送らせた。帝はそのために始平に行幸し、幕を張って宴を開いた。群臣と吐蕃の使者をよんで会場で宴し、帝は悲しみすすり泣いた。そして始平県に大赦を行ない、死罪に決せられたものをみな許し、人民の賦役は一年間免除した。県名を改めて金城とし、郷は鳳池とし、里は愴別とした。 公主は、吐蕃にいたって、みずから城を築いて居住した。朝廷では、楊矩を鄯州都督に任じた。吐蕃は表面はおだやかであったが、内心は怒りを蔵していたので、厚く楊矩に賄賂を贈って、河西九曲の地を金城公主の化粧料として与えられるよう願った。楊矩は表文を奉って許可を得、その地を吐蕃に与えた。九曲は水草ともに良質で、牧畜に適当したところであり、唐にも近接している。これより吐蕃はますます発展して中国に入寇しやすくなったのである。 玄宗の開元二年(714)に吐蕃の大臣坌達延(ポンタギェル)は宰相に書を上って、盟約の文を作り、国境を河源に定めることをねがい、左散騎常侍の解琬が盟約に出席することを乞うた。帝は宰相の姚崇たちに返事を出させ、解琬に命じて神竜の時の誓約書を持ってゆかせた。吐蕃もまた尚欽蔵(シャンチサン)と御史の名悉臘(ニェレブ)をよこして盟約の文を献上させたが、いまだ決定するまでにはいたらなかった。そのとき坌達延の将兵十万は、臨洮(甘粛省臨洮県西南)に入寇し、蘭州・渭州(甘粛省隴西県東南五里)に攻め入って監牧の馬を掠奪した。楊矩は疑獄が起こるのを恐れて自殺した。詔が下されて、薛訥は隴右防禦使となり、王晙らと力を井せて敵を迎え撃った。帝は吐蕃の背信行為を怒って、みずから軍を率いてこれを討とうとした。ちょうど王晙たちは、武階で戦って、一万七千の首を斬り、馬・羊は二十万の大量を鹵獲した。また長子で豊安軍使の王海賓と戦ったが、王海賓は戦死した。しかしこの勢いに乗じ王晙の軍は進撃したので、蛮族は大敗し、その衆は互いに衝突しあって逃げ去ることができず、ともに枕を並べて討ち死にした。洮水はこのために流れがとまったほどである。帝はそこで親征を取り止め、紫微舎人の倪若水に詔を下して軍の実情や戦闘の功績を直接調査させ、同時に戦死した将士たちを弔わせた。また州県に勅を下して、吐蕃の抛棄した死体を埋葬させた。 このとき宰相が建言した。「吐蕃はもとは黄河をもって国境としておりました。金城公主の関係で黄河に橋をかけ、城を築いて独山・九曲の二軍を置きましたが、そこは積石からは二百里の距離であります。いますでに盟約に背いたのでありますから、橋はとりこわし、また、まえまえからの盟約どおり、黄河の線を守ることにするのをお願いします」と。詔が下って許可された。左驍衛郎将の尉遅瓌は、吐蕃に使者となってゆき、金城公主を慰めた。しかし吐蕃が少々国境を犯すのは、毎年のことであった。ことに郭知運と王君㚟は、つぎつぎと隴右・河西の節度使となり、専心敵を防ぐことになった。吐蕃は、宗俄因子を洮水にやって、戦死した将士を弔い、また講和をねがった。しかしみずからの強勢なのをよいことにして、天子と対等であることを求め、その述べるところは傲慢であった。使者は臨洮まで来たが、天子は詔を下して国内に入れなかった。金城公主は書を奉って、和親するのを許されるよう願い、かつ賛普の方では、君臣ともに天子と盟約に署名することを欲していることを述べてきた。吐蕃はまた使者を出して書を上って言った。「孝和皇帝(中宗)は、かつて盟約を許されました。そのとき唐の宰相の盧欽望・魏元忠・李嶠・紀処訥らおよそ二十二人と吐蕃の君臣は、ともに誓約いたしました。孝和皇帝がなくなられ、太上皇が位を嗣がれても、親善はもとのようにつづけられました。しかし唐の宰相で誓約に署名したものは、みな亡くなりました。したがっていまの宰相は前の誓約には関係ないのですから、ここにふたたび盟約していただきたいと思います。ちかごろ論乞力(ロンチリグ)たちと前後して七人ほど使いに出しましたが、まだ許可を与えられておりません。それに張玄表・李知古の将兵は甥(わたし)の国を侵掠しました。ゆえにわたしの方でも盟約にそむいて戦ったのであります。いま舅上(ちちうえ)は、従来のよくない関係を棄てて平和な状態に復帰することを許されました。甥はすでに堅く決心しております。しかし盟をかさねて行なわないため、まだ信をおくことができないでおります。あたらしい盟約の締結を待ち望むしだいであります。甥は、みずから国の政事を統べ、下のものには牽制されないで、人民たちを長く安穏にしようと思っております。舅上は和平のことを考えておられても、気持がそれに集中されていないならば、たとい言葉のうえでそれを言っても、なんの利益がありましょう」と。 またつぎのように述べた。「上は乞力徐(チカウ)が軍を集結したことを責められましたが、これはちょうど新旧の軍隊を交替させたのでありまして、集結したのではありません。昔は、国境は白水より向こうはみな放置された土地でありました。ところがちかごろ、郭知運将軍は兵をして城塞を築いております。それで甥の方でもまた城塞を築いたのであります。それでたとい二国が講和して使者を送り迎えするようになっても、もしそれが通じない時には、国境を守備するのにとどめましょう。また突厥の骨咄禄と親しいのを疑っておられますが、吐蕃と唐とは旧く親善の使者を交換し、互いに舅・甥と呼びあっておりました。それでその関係が初めのとおりになれば、突厥とはともに交わらないでありましょう」と。よって、貴重な瓶と杯を献上した。帝は、「昔、すでに和親して、盟約の成文が存在している。さきの盟約を調べるがよい」と言って、ふたたび盟約するのを許可しなかった。そしてその使者を待遇して送りかえし、かつ賛普にたくさん贈り物を賜わった。吐蕃はこれより年々朝貢して来、国境を犯すことがなくなった。 開元十年(722)に吐蕃は小勃律国を攻撃した。その国の王没謹忙は手紙を北廷節度使の張孝嵩に送って言った。「勃律は唐の西の門であります。これが失われれば、西方の諸国はみな吐蕃の手に落ちます。都護はよく考えて処置していただきたい」と。張孝暠は願いを許して、疏勒副使の張思礼に歩騎四千の兵を率いさせ、昼夜通しで走って没謹忙の兵と吐蕃を挟撃した。吐蕃の死者は数万にのぼり、味方は鎧・武器・馬・羊をたくさん鹵獲し、九城のもとの土地を回復した。さきに勃律の王は、来朝したときは帝に父として事え、帰国しては綏遠軍をおいて吐蕃を拒いでいた。それに、不断に吐蕃と戦っていたが、吐蕃はいつも言った。「わが方は、なんじの国を占領するのを利益としているのではない。わが方は、ただなんじの国に道を借りて、安西四鎮を攻めようとするだけである」と。このころ吐蕃との関係で出兵するということは、数年の間なかった。 そこで隴右節度使の王君㚟は、敵地に深く入って損害を償うことを願い、開元十二年(724)に吐蕃を破ってその捕虜を献上した。のち二年して(726)、悉諾邏(タグラ)の兵が大斗抜谷に入り、ついに甘州(甘粛省張掖県)の火郷聚を攻撃した。王君㚟は軍を整備し、その鋭鋒を避けて出戦しなかった。ちょうど大雪が降り、吐蕃の軍は凍傷にかかり死ぬものが続出したので、かれらは積石軍を越えてその西道によって退却した。王君㚟はあらかじめ間諜をやって、国境を出、原野を焼きはらわせたので、草はみななくなってしまった。それで悉諾邏は大非川に屯したが、馬を牧するところがなく、その大半が死んだ。王君㚟は秦州(甘粛省天水県)都督の張景順をひきい、装備をかんたんにし、苦しい道を通って青海の西方に出た。ちょうど湖面は氷結したので、軍隊はこれによって渡った。そのとき蛮族はすでに大非山を越え、輜重と落伍者を湖岸に留めていた。王君㚟は兵をやってこれらをとりこにして帰ってきた。そのころ、中書令の張説は、吐蕃が国境に出入することはすでに数十年で、勝敗はだいたい同じであり、甘・涼(甘粛省武威県)・河(甘粛省臨夏県)・鄯の諸州の人民は徴発を負担してはなはだ苦しんでいるから、講和を許されるよう願った。しかし帝は王君㚟を寵愛していたから、張説の言は聴かなかった。 まもなく悉諾邏恭禄(タグラコンロェ)と燭竜莽布支(ツォグロマンポジェ)は侵入して瓜州(甘粛省敦煌県の東二百八十里)を陥れ、その城を破壊し、刺史の田元献と王君㚟の父を執えた。そしてついに玉門軍(甘粛省酒泉県の西二百里)を攻撃し、常楽(甘粛省安西県の西)を囲んだが、これは抜くことができず、退いて安西(クチャ)に入寇した。副都護の趙頤貞はこれを撃って退けたが、ちょうどそのとき王君㚟は回紇に殺されて作戦は不成功に終わった。帝はそこで蕭嵩を河西節度使とし、左金吾将軍の張守珪を瓜州刺史とし、城塞を再建した。蕭嵩は反間の工作者をやって悉諾邏恭禄を殺させた。明くる年(728)、吐蕃の大将の悉末朗(ラン)は瓜州を攻撃したが、張守珪はこれを撃退した。鄯州都督の張志亮はまた青海の西に戦い、大莫門城を破り、橐它橋を焼き払った。隴右節度使の杜賓客は、強力な四千で賊を射て、これを祁連城下(甘粛省張掖県西北百九十里)に破り、副将一人を斬り、五千の首を挙げ、敵は敗戦して哭きながら山に逃げかえった。またあくる(729)、張守珪は、伊(ハミ)・沙(甘粛省敦煌県)などの州の兵をひきつれて蛮族の大同軍(甘粛省敦煌県西南)を破った。また信安王李禕は隴西に出撃して石堡城を抜き、ここに振武軍を置いて、捕虜を太廟に献上した。帝は書を将軍の裴旻に賜わって言った。「わざと戦功を隠して賞を与えないことがあった場合には、兵士みずからそのことを述べよ。そのようなことをした将校官吏はみな斬れ。戦いの際に猶予して動かないものは、隊ぜんたいを軍律のとおりに処断せよ。敵の王を捕えたものには、大将軍を授けるであろう」と。ここに将士の気勢は、ますますあがった。 吐蕃の令の曩骨が書を国境の関所に出して言った。「論莽熱(ロンマルシェル)と論泣熱(ロンチシェル)は、みな万人に将たるものであります。賛普の命によって都督・刺史に挨拶をいたします。二国にはもと舅・甥の親交がありました。さきごろ、弥不弄羌・党項が抗争をはじめ、そのため二国は親しみを失い、こちら方からも通ぜず、唐の方もまた通じなくなりました。都督は、なにとぞ腹心の役人を曩骨とともにこちらへよこして、盟約のことを商議させていただきたい」と。曩骨というのは、中国の千牛官(宮中宿衛官)のようなものである。そこで忠王(後の粛宗)の諸王友の皇甫惟明は、「和平を約束するのがつごうがよい」と上奏した。帝は言った。「さきに書を上ったが、内容は傲慢無礼であった。朕はかならずこれを滅ぼすつもりであるから、和平を議することはしないでもらいたい」と。皇甫惟明は言った。「そのころは、賛普は幼かったのですから、これはかならず、辺境の軍人で功績を立てたいと思うものがその書を作って陛下を激怒させたのです。それに、二国が憎しみあうと、かならず戦争が起こり、戦争が起これば、裏では財物を盗んだり、功績の程度を詐ったりして、陛下の過分な賞を望み、もって満足しております。いま河西・隴右の地方は、蓄えがなくなり、力も尽きてております。陛下が、幸いにして、金城公主に詔を下し、賛普からの盟約を許し国境の悩みを緩めてくだされば、それは民を安らかにするすぐれた方策でございます」と。帝はその上言を採用し、皇甫惟明と中人の張元方に勅を下して挨拶に往かせ、書を公主に賜わった。皇甫惟明は賛普に会い、天子の考えを述べたところ、賛普はひじょうに喜んで、貞観いらいの手紙や詔勅をみな出してきて皇甫惟明に見せ、たくさんの献上品を贈って来た。 また使者の名悉臘(ニェレブ)を唐の使者に同伴して入朝させ、表を奉って言った。「甥(わたくし)は先帝舅上の有力な親戚であります。さきに張玄表・李知古のために闘いを交え、ついに大きな戦争となりました。しかし甥は文成・金城公主の関係からして、どうして礼を失することがありましょう。あのときはとくに幼少であったため辺境の軍人の讒言にまどわされたのであります。もし明確な理解をいただけるのでしたら、死しても満足いたします。このたびは千年万年あえてさきに盟約に背くようなことはいたしません」と。かつこれとともにめずらしい宝物を献上した。使者が到着すると、帝は前殿に出御し、羽林杖を列べて使者を内に引き入れた。名悉臘はだいたい中国の語文がわかるので、宴会になると帝はともに談話し、かれをひじょうに厚く礼遇して、紫服・金帯・魚袋を賜わった。悉臘は、服は受け取ったが、魚袋は辞退して言った。「わが国が正しくなかったのですから、このようなものをいただくわけにはまいりません」と。帝は御史大夫の崔琳をやって、吐蕃に返礼させた。 吐蕃はまた馬を赤嶺で交換し、甘松嶺(四川省松潘県西北三百里)で互市することを願った。宰相の裴光庭は言った。「甘松嶺は中国内の険要の地である。赤嶺を許した方がよい」と。そこで赤嶺を境界とすることを許し、大きな碑を立ててそれを表わし、その面に盟約を書くことにした。また五経を賜わることを願ってきたので、秘書に勅を下して写させて与えた。それとともに工部尚書の李暠をやって挨拶させ、万をもって数えるほどの賜わり物を与えた。吐蕃は使いをよこして感謝し、かつ言った。「唐・吐蕃はみな大国であります。いま和平を約束して長い将来の計をなすわけでありますが、辺境の官吏でいかがわしい考えのものが出るのを恐れます。そこで使いの者をよこして互いによく勅令を暁らせ、明瞭にくわしくわからせるようお願いします」と。帝はそこでまた金吾将軍の李佺に赤嶺で碑を立てるのを監督させ、詔を下して張守珪と将軍の李行禕、吐蕃の使者の莽布支(マンポジェ)とに、剣南・河西の州県に分かれて行って諭させた。「こんにちより、二国は和親して、互いに侵略してはならない」と。そこで悉諾勃海を使者として貢ぎ物を納めさせ、それとともに絹と器物をあまねく政治の衝にあたるものに贈った。明くる(730)、吐蕃は宝器数百個を献上した。その意匠や作り方が変わっていたので、詔を下して提象門に置いて多くの臣下に展示した。 そのご吐蕃は西方勃律国を攻撃し、勃律は唐に急を告げてきた。帝は諭して戦争をやめさせようとしたが、吐蕃は聴かず、ついにその国を破った。そのとき、崔希逸は河西節度使となり涼州に鎮した。さきには、国境方面はみな壁を立てて守捉がおかれていたが、崔希逸は蛮族の守備の将軍を乞力徐(チスゥ)に言った。「両国は和親を約束したが、守備をやめないのはいかがなものであろうか。みな守備をやめて、人民に便利なようにすることに願いたい」と。乞力徐は言った。「あなたは誠実な人であるから、ぐあい悪いということはない。しかしおそらく朝廷は、まったく信用するということはないであろう。もしこちらの守備のないところを襲撃すれば、われわれは後悔するであろう」と。崔希逸は固く願ったので、すなわち承認し、いっしょに白犬を犠牲に用いて盟約をした。そのご防備の障壁をぜんぶ取り払ったので、蛮族の家畜は原野一面に拡がるようになった。 明くる年(731)、崔希逸の書記の孫誨が政事を奏上したが、かってに、「蛮族は備えをしておりませんから、取るべきでありましょう」と述べた。帝はこの言を採用して、詔を下してかれを内豎の趙恵琮といっしょにやって状勢を調べさせた。この小人たちは、天子の寵愛を得ようと思い、涼州に行ってから、いっしょに詔勅をかってに曲げ、崔希逸にその詔を与え軍を出して吐蕃を青海のほとりに撃破させた。斬首・鹵獲などはひじょうに多く、乞力徐は逃れ、吐蕃は怒って入朝しなくなった。 開元二十六年(738)、吐蕃は河西に大規模に侵入した。崔希逸はこれを拒いで破り、鄯州都督の杜希望は新城を抜いて威戎軍と名を改めた。崔希逸は、信頼をなくしたのを反省し、遺憾に思って心が晴れない状態であった。召し返されて河南尹に任ぜられたが、まもなく、趙恵琮といっしょに犬が祟りをするのをみて、不安になって死んだ。孫誨もまた他の罪で誅殺せられた。 それより蕭炅を河西節度使とし、留後の杜希望は隴右節度使、留後の王昱は剣南節度使として、方面を分けて経略させた。赤嶺の碑はこのとき砕かれた。杜希望は鄯州の兵を出して、蛮族のかけた黄河の橋を奪取し、河岸に塩泉城を築いて鎮西軍と名づけ、吐蕃の兵三万を破った。王昱は剣南の軍をつれて安戎城(四川省茂県西南の塞外)に攻め入り、二つの小さな要塞を築いた。そしてその左右の兵は蓬婆嶺に駐して、剣南の食糧を運んで軍に送った。吐蕃は精鋭を挙げて救援に来、王昱は大敗して、小要塞はみな敵方の手に陥ち、数万の兵士が死んだ。王昱は、貪欲で将軍の器ではないので、敗戦したのである。かれはのち高要(広東省高要県)に左遷されて死んだ。明くる年(739)、吐蕃は白草・安人などの軍を攻撃した。そこで臨洮朔方の軍に詔を下して方面を分けて救援せしめた。蛮族は臨洮道を絶ったが、白水軍使の高柬于は防戦し、蛮族は退却した。王昱は将をやって追跡させたが、雲が軍隊の上に出、白兎が舞うという瑞祥があり、大いに吐蕃を破った。王昱の敗戦したのちは、張宥を代りとして剣南に節度させ、章仇兼瓊を益州(四川省成都市)司馬とした。張宥は文官で軍事のことは知らなかったので、その方面のことは章仇兼瓊に任せた。章仇兼瓊はそこで宮廷に入って自分の計画を奏上することができた。天子はその議を真実であるとして、章仇兼瓊を抜擢し、張宥に代って剣南を節度させた。章仇兼瓊は間諜をやって吐蕃の安戎城の頭目を誘い、内応させて官軍をひき入れ、ことごとく蛮族の守備兵を殺した。そして監察御史の許遠にこの城を守備させた。吐蕃は安戎城を囲み、水道を絶ったが、ちょうど石が裂け、泉が湧き出したので、驚愕して退却した。またかれらは維州(四川省理蕃県東南の故威州の北三十里)を攻撃したが、目的を達成しなかった。帝は詔を下して安戎城を改めて平戎城となしたといわれている。 この年(739)、金城公主がなくなった。明くる年(740)、そのために喪を発した。吐蕃の使者が来朝し、和平を願ったが帝は許さなかった。そこで蛮族は四十万の衆をみな出して承風堡を攻撃し、河源軍(青海省西寧市西南)にいたり、西方長寧橋・安仁軍の渾崖烽に侵入した。騎兵の将の臧希液は精鋭の士五千を率いてこれを破った。吐蕃はまた廓州を襲撃し、ある県を破って官吏や人民を殺した。また振武軍の石堡城を攻撃したが、守備の将の蓋嘉運はこれを守ることができなかった。 天宝元年(742)、隴右節度使の皇甫惟明は蛮族を大嶺軍に破り、青海のほとりに戦って莽布支を破って、三万の首を斬った。明くる年(743)、敵の洪済城(青海省西寧市西南)を破り、石堡に戦ったが勝たず、副将の諸葛謝はこの戦闘で戦死した。また明くる年(744)、皇甫惟明は夷狄を破って、捕虜を首都に献上した。帝は哥舒翰を隴右に節度させた。哥舒翰は石堡を攻陥し、これを神武軍と名を改め、またその大臣の兀論様郭を捕虜とした。 天宝十載(751)、安西節度使の高仙芝は大酋長を捕虜にして献上した。このとき吐蕃は、蛮(南詔)の閣羅鳳と軍を連合して瀘南を攻撃した。剣南節度使の楊国忠は、そのころ悪がしこいことではこのうえない人物であった。みずから「蛮の衆六万を雲南に破り、洪州など三城を抜いた」と言い、捕虜を献上した。哥舒翰は洪済・大莫門などの諸城を破り、九曲の故の地を回復し、郡県なみの内容のあるものにした。天宝十二載(753)、そこで神策軍を臨洮の西に置き、澆河郡を積石の西に置き、宛秀軍を置いて河曲の地を充実させた。 のち二年(755)、蘇毘(ソチ)の子悉諾邏(タグラ)が降服してきたので、懐義王に封じ、姓を李と賜わった。蘇毘は強力な部族である。この年、賛普の乞黎蘇籠臘賛(チソンデツェン)が死に、子の挲悉籠臘賛(サソンデツェン)がつぎ、使者をよこして親好を求めて来た。そこで、詔を下して京兆少尹の崔光遠に、節を持し、冊文をもって弔いに行かせた。かれが帰って来たときには、安禄山が乱を起こし、哥舒翰は河西・隴右の兵をみな動員して、東の方潼関を守っていた。そして諸将はおのおの鎮守するところの兵をひきいて国難の平定に赴いた。これをはじめて行営と称したのである。しかしこのため辺境の防備は空になったので、吐蕃はその隙に乗じて掠奪暴行ができるようになった。 至徳のはじめ(756)、吐蕃は巂州(四川省西昌県)・威武(四川省茂県西北)などの諸城を取り、侵入して石堡城に駐屯した。その翌年(757)、使者をよこして賊(安禄山など)を討伐し、かつ親交を修めることを願った。粛宗は給事中の南巨川をやって返礼にゆかせた。ところがその年のうちに廓・覇(四川省松潘県西南二百五十里)・岷(甘粛省岷県)などの諸州と河源・莫門などの軍を占領した。そして使者はしばしば来て和平を願った。帝はその偽りなのをよく知っていたが、しばらくの間、できるだけ災いをゆるくしようと思い、宰相の郭子儀・蕭華・裴遵慶らに詔を下して吐蕃と盟約させた。 宝応元年(762)、吐蕃は臨洮を陥れ、秦・成(甘粛省成県)・渭などの州を取った。明くる年(763)、散輪常侍の李之芳と太子左庶子の崔倫を挨拶に行かせた。吐蕃はこれを押えて送らず、いっぽう西山の合水城を破った。明くる年(764)には、吐蕃は大震関(甘粛省清水県東五十里)に侵入し、蘭・河・鄯・洮などの州を取った。ここにおいて、隴右の地はぜんぶ失われた。それから進んで涇州(甘粛省涇川県)を囲んでこれに入城し、刺史の高暉を降服させた。また邠州(陝西省が県)を破り、奉天(陝西省乾県西)に侵入した。副元帥の郭子儀はこれを防いだが、吐蕃は吐谷渾・党項の兵二十万をひきいて、東の方武功(陝西省武功県)を占領した。渭北行営の将の呂日将は、盩厔(陝西省盩厔県)の西に戦って、これを破った。また終南に戦ったが、呂日将は敗走した。代宗は陝州(河南省陝県)に行幸し、郭子儀は商州(陝西省商県)に退却した。高暉は蛮族を長安に導き入れ、広武王李承宏を立てて皇帝とし、改元し、かってに大赦を行ない、官吏を任命した。都の上層階級の人々は、みな南の荊・襄の地方に逃れ去り、あるいは山谷に逃げ込んだ。そこで乱兵は互いに戦闘をしたり、掠奪したりして、交通は途絶してしまった。光禄卿の殷仲卿は、千人を率いて藍田(陝西省藍田県)に防壁を作り、二百騎を選んで滻水を渡河させた。ある人が夷狄を欺いて、「郭子儀公の軍隊が、いま来ようとしている」と言ったので、吐蕃は大いに動揺した。ちょうど、少将の王甫は無頼の少年たちと太鼓を打って御苑のなかで喊声を挙げたので、夷狄は驚いて、夜退却し、郭子儀は長安に入った。高暉は東方に逃げて潼関にいたったが、そこの守備の将の李日越はこれを殺した。吐蕃は首都に留まること十五日で逃げ、天子は都に還ったのである。 吐蕃は退却して鳳翔(陝西省鳳翔県)を囲んだが、節度使の孫志直はこれを防ぎ守った。そこへ鎮西節度使の馬璘は千騎をひきいて戦い、これを退けた。吐蕃は原(甘粛省鎮原県西二里)・会(甘粛省靖遠県)・成・渭などの州の間に屯し、腰を落ち着けて動かなかった。この年、吐蕃は南の方では松・維(四川省理番県東南の故威州北三十里)・保などの州と雲山の新城に侵入した。明くる年(765)、吐蕃は使者の李之芳たちを帰してよこした。剣南の厳武は吐蕃南鄙の兵七万を破り、当狗城(故の威州の西)を抜いた。ちょうどそのころ僕固懐恩が反乱を起こし、霊武(寧夏省寧夏県南)からその将范志誠・任敷をやって、吐蕃・吐谷渾の兵と連合して邠州(甘粛省寧夏県南)を攻撃した。白孝徳・郭晞は城塞を守りとおしたため、敵の軍は奉天の西へ侵入した。郭子儀は奉天に入ったが、軍を抑えて戦闘しなかった。郭晞は精鋭の兵に夜その軍営を攻撃させ、首数千を斬り、五百を奪い、四人の将軍を捕虜にした。そこでは退却した。このとき厳武は塩州を抜き、また西山に戦ってその衆八万を捕虜にした。蛮族は涼州を囲み、河西節度使の楊志烈は守備することができず、逃れて甘州を保持し、涼州は失われてしまった。 永泰元年(765)、吐蕃は和平を願って来た。宰相の元載・杜鴻漸に詔を下して、蛮族の使者と盟約をさせた。僕固懐恩は、思うようにゆかないので、蛮族を導き、回紇・党項・羌渾・奴刺と辺境を犯した。吐蕃の大酋長の尚結息賛摩(シャンギェルシグツェンマ)・尚悉東賛(シャントンツェン)らの衆二十万は、醴泉(陝西省醴泉県)・奉天・邠州にいたった。将の白孝徳は抵抗することができず、任敷は兵をひきいて鳳翔・盩厔をとった。そこで首都は戒厳令下におかれ、朔方兵馬使の渾日進・孫守亮は奉天に屯した。詔を下して、郭子儀に河中(蒲州)の軍をひいて涇陽陽 (陝西省涇陽県)に駐屯させ、李忠臣を東渭橋に、李光進を雲陽(陝西省涇陽県北)に、馬璘・郝廷玉を便橋に、駱奉先・李日越を盩厔に、李抱玉を鳳翔に、周智光を同州(陝西省大茘県)に、杜冕を坊州(陝西省黄陵県)に屯せしめた。そして天子はみずから六軍をひきいて御苑に屯した。吐蕃は奉天に迫ってきた。渾日進は、ひとりでこれに馳せ向かい、兵士二百がこれについて進み、 左右の敵を槍で刺し、弓で射、弓は弦を引くたびにみな当たって斃れた。蛮族は大いに驚愕して退避した。渾日進は蛮族の一将校を捉えて飛び出し、全軍これを見て声をあげた。味方の兵士は引き上げたが、身に一矢も当たっているものはなかった。翌日、蛮族は城にせまった。渾日進は機械仕掛けの大石や強力な弩を発したために、敵兵は多く死んだ。およそ三日して、蛮族は軍を収めて防壁に入った。渾日進は蛮族の実情を詳しく知って、その夜敵の軍営に斬り込み、千余の首を斬り、五百人を捕虜にした。また馬嵬(陝西省興平県の南)で、およそ七日間戦って一万の賊を破り、首五千を斬り、馬・駱駝・幟・武器などひじょうに多くを鹵獲した。帝はみずから軍をひきいて賊を討伐しようと思い、詔を下して盛んに馬を捜させた。またはじめて首都に義勇兵を置いたので、都の人々はひじょうに動揺して、城壁に穴をあけて、十人のうち八人までは逃亡してしまった。中人に詔を下して首都の城門を閉じさせたが、なお止めることはできなかった。吐蕃の遊撃兵四百は武功(陝西省武功県)を占領し、鎮西節度使の馬璘は強力な兵士五十人にこれを攻撃させた。そして敵を殲滅したので、唐側の士気はますますあがった。蛮族は軍営を九ソウ山の北に移し、醴泉を掠奪した。醴泉の住民の数万のものが家屋を焼きはらわれ、田畑はみな赤肌にされてしまった。周智光は蛮族と澄城(陝西省澄城県)に戦ってこれを破り、吐蕃は邠北にいたり、また回紇と連合して還ってきて奉天を攻撃し、馬嵬にやって来た。任敷は兵五千で白水を掠奪し、同州に打撃を与え、それから中渭橋と鄠(陝西省鄂県)に城塞を築いて軍を駐屯した。 ちょうどそのとき僕固懐恩が死んで、蛮族には作戦するのに中心人物がいなくなった。ついに回紇と指導権を争い、回紇は怒って郭子儀のところにゆき、吐蕃を討ってみずから忠誠をいたすことを願った。郭子儀はこれを許し、白元光とともに軍を合わせて吐蕃を霊台(陝西省長安県西四十里)の西に攻撃し、大いにこれを破り、僕固名臣を降服させた。そこで帝は軍をひき上げた。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百一十五下 列伝第一百四十下 『新唐書』巻二百一十六上 列伝第一百四十一上 巻二百一十六下 列伝第一百四十一下
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1 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 43 46 ID sOfSQEo90 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [] 投稿日:2006/11/14(火) 13 26 14 ID cwVjzMAO0 中国の長い歴史の中で登場した数多くの武将たちの中から、特筆に値するであろう名将百名を選ぼうというスレです。 要は作家の田中某氏の著作「中国武将列伝」と同じ企画ですが、田中某氏の評価に従う必要はなく、各人それぞれの 評価によって、百選に入れるべき武将を推挙して下さい。 ・推挙する武将については、その理由を述べること。 ・対象となる武将は、近世以前の武将とし、近代以降の軍人は含めない。 ・対象となる武将は、特定の時代に偏らないように配慮する。 以上の三点に留意して、中国名将百選を決めましょう。 前々スレ 【みんなで】 中国名将百選 【決めよう】 http //hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1163478374/ 前スレ 【中々】 中国名将百選 其ノ弐 【決まらんね】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1167560946/ 2 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 44 28 ID sOfSQEo90 時代区分 春秋戦国(紀元前771年~紀元前221年 550年間) 統一秦~前漢(紀元前221年~紀元前8年 213年間) 新・後漢(紀元前8年~紀元220年 228年間) 三国~両晋(220年~439年 219年間) 南北朝(439年~589年 150年間) 隋・唐(589年~907年 318年間) 五代~北宋・遼(907年~1127年 220年間) 南宋・金~元(1127年~1368年 241年間) 明(1368年~1644年 276年間) 清(1636年~1912年 276年間) 3 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 45 31 ID sOfSQEo90 これまでのまとめ 春秋戦国 【確定】 楽毅、楚の荘王(熊侶)、白起、李牧、王翦、呉起、廉頗、孫武、樗里疾 【候補】 士会、魏無忌(信陵君)、趙の武霊王 統一秦~前漢 【確定組】 韓信、項羽、霍去病、衛青、趙充国、陳湯、周亜父、章邯、灌嬰 【候補】 劉邦、曹参、彭越、鄭吉 新・後漢 【確定組】 劉秀、馮異、耿エン、呉漢、班超、段ケイ、曹操、皇甫嵩 【候補】 岑彭、樊崇、馬賢、周瑜 三国~両晋 【確定組】 鄧艾、石勒、祖逖、王猛 【内定組】 劉曜、慕容垂 【論争中】 陶侃、石虎、謝艾、慕容恪、桓温、謝玄、姚萇、李雄 劉淵、劉聡、冉閔 南北朝 【確定組】 劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、 拓跋珪、高歓、宇文泰 【候補】 柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、 斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼 段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達 赫連勃勃、拓跋燾、侯景(宇宙代将軍) 蕭道成、斛律光、陳覇先 隋・唐 【確定組】 楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用 【候補】 韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥 李孝恭、薛仁貴、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、黄巣、高駢 李存孝、安録山、薛礼、劉方、蘇烈、劉仁軌、李光弼、史思明、李愬 4 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 46 36 ID sOfSQEo90 まとめつづき 漢字が?になっている奴は誰か補完頼む 五代~北宋・遼 【確定組】 朱温、李存勗、郭威、柴栄、趙匡胤、曹彬、楊業、狄青 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉?、康延孝、符存審、 任圜、李神福、台濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 【論争中】 耶律休哥 南宋・金~元 【確定組】 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、 拡廓帖木児(ココテムル)、 【候補】 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、范仲淹、チュウ師道 張俊、呉?、呉リン、劉錡、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ) 劉整、張弘範、脱脱(トクト)、呂文煥 明 【確定組】 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥 【候補】 朱元璋、陳友諒、方国珍、湯和、李文忠、藍玉、于謙、兪大猷、王守仁 呉三桂、李自成、鄭成功、馮国勝、張輔、張士徳、馬芳 清 奴児哈赤(ヌルハチ) 、阿巴泰(アハタイ) 、多爾袞(ドルゴン) 、費英東(フィヤントン) 康熙帝・玄燁、岳鐘琪、策稜(ツェリン) 、僧格林沁(サンゴリンチン)、宋景詩 、関天培、 明亮、楊遇春、李長庚、関天培、李秀成、石達開、劉永福 5 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 48 06 ID sOfSQEo90 前々スレより、考慮する武将について 7 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 18 47 07 ID 1kk6Cs2h0 5 いい加減その電波をはねかえせよ。 いつまで引っかかってんだ。 それはともかくとして… 中国というものの範囲だけど、土地的なもので言えば「中華本土」と呼ばれる範囲とするが、 中華王朝という枠組みで、漢化政権あるいは中国風の国号を用い、なおかつ中華本土内に領土のある政権、とすればよくはないか? 南詔とか西夏はどうなるんだろ… 詳しい人がいれば入ってもよさそうだけどね。 その規範でいけば、チンギス・ハーンの蒙古は除外するけど、中国風の国号となったフビライ・ハーンの「元」は含む。 また、女真は含まないが、「金」は含む。 あるいはキタイはだめでも「遼」はいい、と。 でないと、北魏はおろか隋や唐まで含まないなんてことになりそうだから。 漢民族だけが中国人ではない! で、国籍は出身国というより所属国で判断すればよろしいかと。 高仙之や李光弼は「中国の名将」としてランキングされるが、郭侃などは紹介はされてもランキング除外、とか。 そんなところでどうかな? 田中ヨッシが先鞭をつけているだけに、そうそう違う武将が出てくるとも思えないけど、どういう判断で紹介するのか興味深い。 6 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 49 05 ID sOfSQEo90 8 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 18 57 59 ID yxgR08jb0 とりあえずみんなで何人かづつランクイン入りすると思われる人物の名前を上げていくか? いきなり100人づつ上げていくわけんもいかんしw 9 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 00 31 ID jchs3O4hO 中原指向を持つかどうかで分けた方がよい 渤海や遼、西夏などは広義における中国文化圏と言えるけど 支那の地に入って中華帝国になろうとしなかったから中国じゃない 金や清は歴とした中華王朝 要は支那兵を率いれば中国の武将扱いでいいだろ 契丹人やモンゴル人を率いた武将が中国武将とはいえん 逆に異民族出身でも漢人を率いてれば中国の武将だ 10 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 12 30 ID 1kk6Cs2h0 9 でもなぁ、遼は間違いなく中国兵を率いているぞ? 趙延寿や楊袞(名将とは言えにくいが)などは燕雲十六州に鎮した将だし、遼はキタイと漢人とを住み分けしてもいたし。 二十六史にある以上、中国としても問題ないと思うけどなぁ。 7 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 50 03 ID sOfSQEo90 11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 28 22 ID 2mD79BmXO 9 でもさ、中華戦線のモンゴル軍の中には漢人も多いんじゃなかったか? (モンゴルは現地の兵をよく使うし) 12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 35 28 ID yxgR08jb0 10 二十六史にある以上、中国としても問題ないと思うけどなぁ。 それも一理あるが、やはり遼や金を中国にいれるのは抵抗あるなあ 13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 37 28 ID 1kk6Cs2h0 12 名前に抵抗あるわなw 耶律とか述律とか完顔とか… それはわかるが、それだと漢人マンセーな田中ヨッシ風味満載になって、おれは構わないが、アンチが沸きまくると思うけどな… 14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 19 43 36 ID yxgR08jb0 13 ただ抗金というジャンルがあるからね。 他の時代なら異民族の王朝だってほとんど違和感ないんだけど。 先入観かな? とりあえず境界は曖昧にして名前を上げつつ論じていった方がいいんじゃないか? 15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 20 31 35 ID jchs3O4hO 中国戦線における元の将はもちろん中国武将ですよ でも漢人でも西域で西域の兵で戦ったら、その戦績を中国武将としてカウントするのはアウト 郭侃は中国戦線の功績だけ評価 16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日:2006/11/14(火) 21 39 04 ID yQpFrdGM0 所属国家というか王朝で判定するという手もある。 まず基本二十六史の大部分はそのまま認める。 で、遼とか金とか元とかは部分的に認める。中原進出を果たして以降を認める、 とか(これだと遼は除外だな)。 さすがに南詔とか西夏は外国でしょ。 8 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 12 13 36 ID K6Fq4ny8O 前スレで◆RQdk7scN8sが周瑜を無理に入れようとしてないのなら別にそれには文句は言わないよ。 なんかバランス重視を理由に周瑜を無理矢理ねじ込もうとしてる様に、 個人的に感じたから、意見を述べただけだ。 9 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 12 38 48 ID Q6XBSgl40 1 乙 10 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 12 54 20 ID 1WdYJG3r0 1 乙 宇宙代将軍ワロタw 11 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 13 24 13 ID 3XMnymf40 1 乙っす このシリーズは盛り上がりますねえ、もう3スレ目ですか。 12 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 13 49 16 ID 4IdRe7Ru0 このスレって最終的に100人決めたら終了? それとも100人決めてからが本番でそっから入れ替え議論していくの? 13 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 13 55 06 ID Q6XBSgl40 過疎化したら終了でいいんじゃね? 入れ替えしないと枠多すぎ少なすぎな年代もあるだろうし。 14 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 14 13 47 ID R2QbPteI0 1スレ立て、乙 新・後漢 【確定組】 劉秀、馮異、耿エン、呉漢、班超、段ケイ、曹操、皇甫嵩 【候補】 岑彭、樊崇、馬賢、周瑜 となっていますが大軍を率いていたなどの異議が出ている皇甫嵩を落し、 岑彭、馬賢を確定入りとすべきかと思います。 樊崇は無理に外す理由が無いので確定入りでいいと思いますが、 諸兄いかがですかね? 15 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 14 33 48 ID TF77q+PQ0 一つ提案がある。 戦史において重要な会戦から逆算して名将を選出するのはどうだろう? 確かに決戦を回避して数と勢いで押しまくるのが最善ではあるが、誰もが万全の条件で戦える訳ではない。 一戦一勝でも賭けられた覇権次第で百戦百勝に匹敵すると考える。 「一発屋」を無条件に軽視する傾向があるようだが、一発で片付けられない実力だから連戦をする羽目になる面も考えた方がいい。 前漢については、灌嬰。 劉邦配下の部将で最も優秀なのは否定しないけど、彼の仕事は周勃や曹参で替えが利いてしまう。 戦略的には劉邦、項羽、韓信の三人以外に楚漢戦争では百選入りの候補はいないだろう。 何故馬上で天下を取った将の将、劉邦が候補止まりなのか? 負けが多いといっても相手は項羽で立ち直りは怪物じみてる。 劉邦の本隊が正面対決で膠着状態にまで持ち込んだことをもっと評価するべき。 もちろん単に韓信の兵を奪っただけとも言える。そんな無茶が出来ること自体凄い。 そして、そんな舐めたことをやられても勝ち続ける韓信は神としか言いようが無い。 後漢については、新末後漢初に多すぎと言われるが、実際何の面白みも無いほど異常に厚い層で圧勝した陣営なのだからそれも已む無し。 周瑜は赤壁を何度も行われる南北戦争の先駆けとして重視するなら入れるべきだろう。 皇甫嵩は確定でいい。黄巾の乱は後漢に事実上のトドメを刺した戦役。 後漢末は序盤の序盤を皇甫嵩、序盤から終盤まで曹操、終盤の終盤を周瑜で。 16 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 15 31 15 ID DSPHlkDY0 戦略的に考えたら彭越の替えはいないけどな 劉邦の怪物じみた立ち直りは韓信の精兵を大量にかっぱらったから 17 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 15 42 11 ID 3XMnymf40 12 まあ、百人を決めること自体より、こうやって議論して盛り上がるために、 やっているようなものですから。 とりあえず百人が決まったとして、まだ議論の需要があるなら、 続ければいいかと。 18 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 15 46 49 ID jhdIx4wjO 百選を決めた後は、その中からさらに十選を選抜したり、最強を決めたりと議論出来ることは色々あると思うよ 19 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/07(水) 16 54 53 ID Ou6gNASC0 1 乙です。 8 特に文句を言われたとは捉えてないよ。 まぁ、軍事勝利はそのときの状況でいくらでもかわるので、勝利の多い人間は追い風に乗っているなんて、そういう捉え方も一方でできたりする。 そのへんの判断はかなり難しいし、政治思想から立地条件、経済状況、政治的背景にその勢力の団結力相互協力など、いろいろな要素が絡んでくる。 そこまでつっこんで考えると気が狂いそうになるから、大体の時代から選出すれば、「時代に則した名将」というのが選ばれるかな? というのが、持論みたいなもん。 楚漢の時代に活躍したからといって、じゃあそれが隋唐期にも活躍できるか? と言えば、ここの人なら、それは一概に言えないという程度の識見は持ち合わせているはずだから…(最強スレではそれでもできると言ったお方がいらっしゃいましたが) できたら区分時代ごとに選出するのがベターであると思うわけです(光武陣営贔屓にしていたくせによく言うよな)。 20 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 19 35 56 ID maUver7h0 春秋に小白入れるのは駄目か? 21 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 19 49 29 ID 6H+B1Mzh0 前回散々に議論していながら最後が曖昧に流されてしまった「中国の武将」の定義。 ①清滅亡(1912)以前の武将であること (いわゆる制式軍隊の軍人は不可) ②現中華人民共和国の領域内に都を置き、 支那風の国号を持つ王朝に所属して、活躍した経歴であること (王朝の樹立に貢献した場合は可、先行政権治下のみの活躍は不可) ③実際に軍隊を率い、軍略に優れ、多くの戦功があること (配下の兵卒に慕われていればなお望ましい) 個人的には、この②から「中華人民共和国」の範囲を変えてくれれば問題なく 大賛成なんだが。 22 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 21 00 50 ID PJ9fL7Jm0 19 ◆RQdk7scN8s さんは適度に改行してくれないかな 前スレから見づらくて仕方ない 23 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 21 42 05 ID sKd+eUbE0 20 なら、とうに晋文が入ってる 24 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 22 52 18 ID K6Fq4ny8O 15 >劉邦配下の部将で最も優秀なのは否定しないけど、 灌嬰の仕事は周勃や曹参で替えが利いてしまう。 そうかな?じゃあなぜ途中参加の灌嬰を重用したんだ? 灌嬰は元は商人であったが軍事的才能があり、別働隊となったり、 秦以来の騎馬隊を任されたり、匈奴も打ち破っている。 また、一人で多くの山賊を討ち取ったという話もあり、洛川の灌嬰と呼ばれたていたんだぜ。 曹参はどちらかと言えば猛将タイプだし、周勃は実直型だしな、 灌嬰とは明らかにレベルが違うじゃないか。 それに周瑜の替えには魯粛がいるじゃないか。 劉邦は人を使いこなすのは超一流だが武将としては凡将だろうな。 劉秀・李世民・趙匡胤 みたいに自身が戦も上手なら話もわかるけど、 膠着状態にまで持ち込んだと言っても、 韓信、彭越の活躍が有ればこその話だろ、違うかな? 農民から皇帝に上り詰めた偉人としては高く評価するけどな。 「一発屋」についてだが俺はここでそう扱いを受けてる武将って一発屋とは思わない。 実力が有るから抜擢され、きちんと結果をだしたんだし、 その功績により高い地位に就いた為、 戦線に復帰出来ない、もしくは早死にしたりした人物が多くないか? むしろ過少評価されてる気がする。 一発屋って実力が無いのにマグレ当りした奴を言うんだろ。 でも周瑜の確定入りには反対。 25 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 22 59 27 ID CCE2+zas0 24 一発屋は一度や二度の勝利以外は、 大して戦歴の振るわない武将のことだと思う。 26 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 23 12 00 ID K6Fq4ny8O 大して戦歴の振るわないのでは無く早死になどの諸事情では振るうに振るえないと思うが・・・ 第一、実力の無い武将を抜擢するのもおかしな話だし。 27 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 23 17 19 ID C7omL+dn0 灌嬰が重用された理由は、絹商人時代に西域へ騎行した経験が あり、そのため騎馬部隊の将として起用されたのが契機ではな いかと推測されるな。 それとは別に、周勃や曹参より長く前線の将を務めたのは、こ の両名が灌嬰より戦功を挙げすぎていたために、前線で戦闘に 従事することが無くなっていたことと、灌嬰は前線指揮官に留 めておく程度の戦功と評価されていたとの見方も出来る。 26 実力の無い武将を抜擢して大失敗してるケースは割と多いじゃ ないですか。 28 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 23 22 40 ID PidaTmUO0 ここでいう「一発屋」の多くは、天下の趨勢をひっくり返しているにもかかわらず なぜか過小評価されているんだよねえ(周亜夫、周瑜、謝玄、于謙、王守仁等々) 何度も言っているが彼らが存在したからこそ、討呉戦役や北宋滅亡、永楽帝による簒奪のような一方的な事態を 防ぐことができているのに、曰く「実績が足りない」と その実績を、スマッシュヒットかミリオンヒットか見間違えていないかい? 周瑜を擁護させてもらえれば、 六朝時代に、華北政権によって荊州(長江上流)を押さえられていた建康政府が、南征されたケースで唯一 華北政権の天下統一を頓挫させている武将なんだがな (ほかのケースは、杜預による討呉戦役、江陵陥落を受けての北周~隋の平陳の役) 実は謝玄(東晋)あたりは荊州をある程度抑えていたから、華北政権に牽制が効いたが 周瑜以下のケースでは、選択肢が絶望的に限定されている 曹操の拙速も、杜預のケースを考えれば下策とは言えまい これをひっくり返した周瑜は六朝屈指の名将と言っても過言ではないんだが 29 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 23 28 50 ID 6lZjpVDb0 岑彭、樊崇、馬賢、皇甫嵩、周瑜から三人を選べということだね。 論点は①時代ごとのバランス ②実績、功績 ③卓越した指揮力、戦術 ④果たした歴史的意義 の大きく分けて4つだ。こうなれば満たしている数で比べるのもよい 岑彭②③ 樊崇②③④ 馬賢①② 皇甫嵩①② 周瑜①④ この選定にも、異論はあるだろうが、やはり樊崇は確定に戻すべきだと思う。 また、馬賢は③④もかなり満たしている。馬賢を推すことにしたい 岑彭、皇甫嵩、周瑜の残り一人は難しいが、史書の評価から(歴史者の評価などあてにならない というむきもあるだろうが当時の人々が直接、その人物に接して感じたことを反映していること が多いので無視はできない)絶賛されている岑彭を推す。(逆に皇甫嵩はそれほど誉められていない ので落とす) 結論 劉秀、馮異、耿エン、呉漢、岑彭、樊崇、班超、馬賢、段ケイ、曹操 でどうだ?周瑜は張遼、劉備、孫策、呂蒙などと比べられ、少し見劣りがすると思う 歴史的意義は認めるが、曹操が赤壁に勝ったからと言って、統一政権を長期間に渡り 維持できたとは限らず、光武帝と並ぶ名声を得たかといえばかなり疑問。 (さらにいえば、赤壁に勝てたとしても、孫権軍閥や劉備軍閥が城塞や地形を利用し、 少しずつ押していきながらも、何回も撃退されるという南北朝状態になったことも否定できない) また、不利な水戦を挑んだのは曹操の減点で周瑜の加点にはなるかは微妙 歴史的意義をいったら、劉備などは蜀地方に独立政権をつくる先駆者ともいえるし、きりがない 面もあると思う。確かに惜しいし、バランスも悪いが以上の点で周瑜を外したい 30 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 23 33 32 ID jhdIx4wjO 赤壁の勝利は、曹操軍の間で疫病が流行ったという一因もあるし、 曹操軍の損害はそれほど大きなものでも無かったらしい。 まあそれでも周瑜は充分名将だとは思う。 31 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 23 48 03 ID tHcWFBrg0 西晋vs呉や隋vs陳ほどの絶望的な国力差は曹操vs孫権のときにはまだなかったろう 32 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 00 01 30 ID VZb5pAHF0 29 公孫述のことを少しでもいいから、思い出してあげてください…… 蜀地方独立政権 まあ、岑彭は公孫述に対しては、終始圧倒していたけどさ(暗殺される直前までは) 31 当主暗殺されるわ、未だ異民族問題を抱えて揚州すら押さえてないわ 当時の孫呉は末期や陳と比べてそんなに良い状態とはいえない 曹操は華北をほぼ制圧して、荊州を無傷で(劉備と言う小骨が喉に引っかかっていたが)奪取し どう考えても「詰み」の状態 勢いを考慮すると、統一前夜を絵で書いたような状態 これに決戦をふっかけて、一気に三国鼎立に持っていった(頓挫した)手腕は紛れも無く名将 公孫述が光武帝政権に正面決戦挑んで、涼・益・関隴を確保して 東西並立する体制に持っていくようなもんなんだがね 結果を知っている後世の人間から見れば、荒唐無稽なif歴史でしかないけれど 33 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 00 14 04 ID jKfMQl0l0 華北の生産力自体が、曹操のときと鼎立を経てある程度安定した 晋や隋とでは大違いじゃないかな といっても周瑜が名将というのに異を唱えるわけではないんだが 34 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 00 20 07 ID IOy77Z+U0 そもそも周瑜の戦法自体が先に地の利、戦機を制して戦略戦術的に詰みに入った後に力押しで勝つ っていうパターンで、赤壁でも江陵でもこの軍事運用で勝ってる 戦だけ見たら確かにパッとしないあたりはここら辺に起因すると思う 35 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 00 35 07 ID 39XMAbZw0 33 江南は開発が始まったばかりで相対的に見て、江南の方が悪かったのかもしれない 別に周瑜を擁護しているわけではないが。 36 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 00 50 15 ID wgMBPAB90 35 荒れる中原を避けて(気候変動説も聞いたことある)南部に流入してる時期だから、それ以前に比べると相対的に上、 まだまだ南部開発の走りの時期だから、後年に比べると下って感じかな?…改めて言うまでもないことならスマン。 37 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 01 32 49 ID IOy77Z+U0 流入っていってもどれほどのもんか怪しい気がするが 淮南は袁術に荒らされ、その後は曹操に獲られてるし 人口激減つったって、戸籍調査出来なくなっただけな面が強いし 華北の動員実数が激減したわけじゃない 38 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 02 41 36 ID r95naShF0 曹操陣営が、赤壁で崩壊してれば 周瑜の評価ももっと上がってたのかな? 赤壁の敗戦でも、多大な被害をださなかった 曹操が凄いのだろうけど 赤壁が曹操の勝利で終わっていれば 曹操の代で天下統一されただろうし 歴史を変えた周瑜は10選に入ると思うけど 39 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 02 55 09 ID GPHfUq1S0 37 戸籍調査が出来なければ動員はできない。人口統計ってなんのためにするか判ってる? 38 謝玄のヒ水の戦いのように、その勝利(敗北)によって政権崩壊のきっかけを与えたって ほどでもないしねえ。 40 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 03 25 23 ID IOy77Z+U0 戸籍調査で居なくなった人はどこへ行ったか? 豪族の私物になったに決まってるじゃん で、軍隊って豪族の私兵の集まりだよな?後漢末 41 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 06 16 52 ID f972XC3qO 29の言ってるのが一番妥当な答えかと・・・ 俺も周瑜を外し岑彭、樊崇、馬賢を確定入りでいいと思う。 確かに周瑜は赤壁で勝ったが別に曹操が衰退、滅亡させるほどでもなかったし、 逆に曹操が衰退、滅亡していれば文句無く確定入りに出来るのにな。 29の言ってるのが一番妥当な答えかと・・・ 俺も周瑜を外し岑彭、樊崇、馬賢を確定入りでいいと思う。 確かに周瑜は赤壁で勝ったが別に曹操が衰退、滅亡させるほどでもなかったし、 逆に曹操が衰退、滅亡してれば確定入りに出来るのにな。 昨日言ったが赤壁で功績を周瑜だけに還元し過ぎな感もするし・・・ 42 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 06 19 35 ID f972XC3qO ↑スマン変な書き込みになってるな・・・orz 43 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 13 49 55 ID wgMBPAB90 周瑜は「実績・功績が不足し、卓越した指揮・戦術力があるとは言えない」レベルなのか… 44 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 16 07 15 ID HUKYyGrD0 43 他の候補と比べれば、明らかに見劣りする。 45 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/08(木) 16 43 01 ID 5R+sEqky0 41 「相手を衰退、滅亡させるほどでもなかった」って、それ防衛戦で活躍した連中の大半が落ちそうだな。 春秋戦国や南北朝期、五代などの分裂期の特徴である勝ったり負けたりは、あんまり評価できないということかな? 46 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 17 22 09 ID t57X4TwOO 曹操じたいが弱いイメージがあるなあ 47 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 17 23 23 ID JH64p7KFO 46 どこまで話を戻す気だよw 48 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 17 26 26 ID t57X4TwOO 47 スマンねw いや抗金名将の金や元と比べるとって意味ですた 説明短かすぎたね 49 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 17 32 11 ID IOy77Z+U0 その理屈だと賊征伐とかの武将や内乱征伐なんかの武将は 軒並み自軍の方が質の良い武装、練兵をしてる訳で評価出来ないと言えないか? 50 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 17 39 28 ID t57X4TwOO そんなつもりはないよ 天下とった人だって昔は賊からや内乱から、反乱軍からのしあがったりするし 質のよい武装や錬兵をいくら頑張っても率いる武将がだめなら意味ないし 51 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 18 26 35 ID f972XC3qO ◆RQdk7scN8sさん 38の曹操陣営が、赤壁で崩壊してれば 周瑜の評価ももっと上がってたのかな? 及び 39の意見が俺の考えと被る訳で、周瑜の功績自体はちゃんと認めているし、 春秋戦国や南北朝期、五代などの分裂期の特徴である勝ったり負けたりは、 あんまり評価できないとは、別に言ってない。 つ 俺の拙い日本語に過剰反応しないでくれると助かる。 52 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 18 39 42 ID wgMBPAB90 周瑜の活躍は如何せん範囲が狭くて期間が短いのがネックだよなぁ… あれで蜀占領まで成功させてたら文句は出ないだろうけど、あそこで死んだ以上落とされて已む無しかと。 53 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 18 51 31 ID GPHfUq1S0 ただ、死んだのは負けて戦死とかではないから、そうそうマイナス材料とするのも酷では? 活動期間が短いといっても、孫策挙兵以来の十年以上の実績はあります。 一発屋という評価もあるが、それは有名な戦いが少ないからで、少なくとも若くして司令官 を任じられるだけのそれまでの功績があってのことでしょう。 54 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 18 58 17 ID lPV6jmJG0 赤壁で曹操を撃退して、その後1年かけて曹仁守る要地江陵を攻略し孫権の勢力下に置いたことは評価してもいいと思うけどね。 正確には外交の問題から劉備に貸与してはいるが。 55 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/08(木) 19 12 26 ID 5R+sEqky0 51 いやぁ、過剰反応したつもりはないから、きつく言ったように聞こえたらすまなかった。 ただ、どうも政治背景を無視というか軽視して、表面上顕れた戦績だけで語ってるような気がしてね。 ま、前からも言ってるように周瑜は候補待機でいいとして、そろそろ次に行きましょうか。 三国以降を待ちかねている人もいるだろうし。 56 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 19 45 27 ID f972XC3qO 55 別に政治背景を無視というか軽視して、表面上顕れた戦績だけでなんかで語っていませんが。 俺は俺なりに総合的に分析をした上で語っているつもりだけど・・・ まあ拙い日本語で語っているんで上手く伝わらないのかもしれないな・・・orz 57 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 19 49 00 ID IOy77Z+U0 拙い拙い煩いなぁ…… 本当にそう思うならもうカキコしなければいいじゃん 58 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 20 01 49 ID GPHfUq1S0 29 少なくとも周瑜には②と③もあるとおもうが? 赤壁までの実績・功績があったからこそ若年の周瑜が総司令官となることに先代からの 旧臣たちも認めたのだろう。③については人によって評価はかわるだろうが、曹操軍の 弱点を正確に認識して対応したのは戦術眼のなせるところでしょう。 で、現状は 【確定】 劉秀、馮異、耿弇、呉漢、樊崇、班超、段熲、曹操 【候補・議論中】 岑彭、馬賢、皇甫嵩、周瑜 でいいのかね? 個人的な推薦は、功績で岑彭と周瑜、バランスを考えたら馬賢と周瑜かなあ。 59 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 20 17 53 ID wgMBPAB90 53 「落とす」は評価を下げろっていう意味じゃ無くて、百人から落ちるってことね。紛らわしくてすまない。 その10年の実績、全部丹念に洗っても、 孫策の部下として6年、一応この転戦の最中、地位からして軍中の主力だったと思われる。 孫策死後になり、指揮官として砦二つ落として一万人捕虜、後に黄祖の部下を迎撃して生け捕り。 黄祖討伐について前部大督だった周瑜が実質的な指揮を取った可能性もないわけじゃない。 そして赤壁で曹操、江陵で曹仁・徐晃らから勝利。 これで精一杯なんだよね。この前半だけでも孫策死後当時の呉将では司令官に選ばれるのには十分だし。 44に言われたように、歴代の名将と比べてみるとどうしても見劣りするのは否めないかなと。 せめて最初の六年間にも周瑜の采配の冴が見れれば大分印象も違ってくるんだろうけど、残念ながら見当たらない。 60 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 20 34 20 ID HeLRo5Eo0 とりあえず、新末~後漢はこれでひと段落つけてもいいでしょ まだ、春秋戦国、秦漢も確定したわけじゃないし 個人的には、 58と同意見 明確かつ画期的な功績を残している馬賢、周瑜を推す と言うか、岑彭って堅実な用兵と大胆な奇略を併せ持った良将ではあるが 決定打が無いんだよね、秦豊を討伐したぐらいか(隗囂・公孫述戦では結局勝負ついてないしね) 劉邦でもできそうじゃねえ?と思うよ、実際 活躍期間の短さも、周瑜とどっこいどっこいなのは誰も突っ込まねえし(正味十年ぐらいか) あと、一軍の将としては軽率すぎる 兵の人気取りも重要だが、やっぱ暗殺される伏線は彼自身に起因していたとしか思えない (結局、公孫述討伐を遂げられなかったんだからマイナス評価にしないとアンフェア) 61 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 20 35 05 ID DBIxn+vG0 赤壁の戦いって、曹操軍は、疫病や兵糧不足に悩まされたことも あり許都に引き返した。 曹操配下の武将の戦死・戦傷が皆無で、その後の曹操が莫大な 費用のかかる銅雀台を建設をしいることから、実は大きな損害を受 けていないとも言われるのは、どこまで信憑性があるんだろ。 取り方によっては、曹操の自爆にも見えるのだがな。 62 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 20 51 34 ID /kTa3KNXO 61 疫病に悩まされたという時点で十分被害は受けているわけだからそれは妄言でしかないがな 曹操は赤壁後軍事的には丸一年以上動いておらず、孫権・劉備が荊州を切り取るのを放置している 後の事を考えたら、赤壁で大した被害も無かったのに孫・劉を放置したのだとしたら赤壁以上の戦略的な大失策 動きたくても簡単には動けないくらい打撃を受けたと見るべきだろう 63 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 21 09 47 ID DBIxn+vG0 62 その書き方だと、曹操軍にで損害を与えたのが周瑜なわけでは ないし、赤壁後に曹操軍にが病の影響から脱するために1年以 上かかったとし読みとれます。 あくまで、周瑜が挙げた戦果が問題なのだと思いますよ。 64 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/08(木) 21 19 15 ID 5R+sEqky0 62 戦勝というと、とかく誰それを撃破したとか、何万人大破したとかにとらわれがちだけど 思うに、その戦いで後に相手に軍事侵略を許さず、外に対しては強固な構え、内に対しては結束の強化など そういった、戦術だけでなく戦略、政略で大きな効果をもたらした戦い、そのときの将帥というのが、名将の解釈のひとつでもあると思う。 もちろん、鬼のような戦績を残している、陳慶之や岳飛のようなのも、また違ったかたちの名将でもある。 曹操が仮に打撃をいうほど受けていないにしても、容易に南征できない印象は与えたはず。 そのとき、孫権軍閥を代表した将帥はというと… となるかな、とは思う。 あと 60 岑彭も戦歴は短いとはいうけど、光武陣営は総じて短いし、もっと短いのがカオスな分裂期には多い。 分裂抗争のときは、味方陣営での足の引っ張りあいが多いから、戦功たててもすぐ讒言受けたりするし。 65 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 21 35 56 ID HUKYyGrD0 60 前線に出て戦死したというわけでもなし、 暗殺されたというのは、将才や武勲とは関係ないと思う。 66 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 21 59 58 ID 39XMAbZw0 65 岑彭応援派の自分でもそれは違うと思う。事故ではなく、公孫述の計略として暗殺が 計られたのであって、やはり暗殺されたのはマイナスだと思う。 (前任者も暗殺されているし、無防備すぎる) 暗殺により、せっかくの任務を果たせずにいるし、部隊を全滅の危機においやった。 これは減点になると思う。 ところで、馬賢は確定、皇甫嵩は落選でいいかね とすると現状は 【確定】 劉秀、馮異、耿弇、呉漢、樊崇、班超、馬賢、段熲、曹操 【候補・議論中】 岑彭、周瑜 かな? 十人目を空席にして、この二人の論議をおいて、先に進んでいいかも知れない 67 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 22 00 02 ID U8QfliXG0 暗殺は相当マイナスでしょ。戦死よりはましだけど。 68 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 22 05 29 ID wgMBPAB90 61 63 じゃあ何で曹操は疫病に悩まされるハメになったのか?といえば真冬に湿地帯で大軍が身動き取れなくなったからで、 じゃあなんで身動きとれなくなった?といえば渡るより先に対岸を押さえられ、 先鋒を送り込んだら水上戦でボコボコにされたため。大軍は危なくて動かせない(致命的な大敗に繋がる) 周瑜は戦前から「真冬に湿地帯に長く布陣するようになれば、絶対病気が流行る」と予想した上での行動だった。 赤壁に関してはまさしく「周瑜にハメられた」と言って良いと思う。 ちなみに「じゃあなんでそれでも曹操は留まったのか?」というと、 実は呉は重臣が軒並み降伏派だったり、司令官の周瑜と程普が不和だったりと、かなり不安定な状態。 大軍で圧力をかけ続ければ内部から崩壊するんじゃないか?っと思ったんじゃないかと推測。 黄蓋の偽装投降はそういう意味で「待ってました」だったのかもしれない。 60 単純な長さというより具体的な量の差じゃないかな?周瑜はそれがイマイチ。 転戦の経緯が細かく判れば評価しやすいし、規模や範囲が大きければ客観的な目安・良いアピールになる。 69 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 22 07 50 ID HeLRo5Eo0 65 岑彭が敵を降すために、単身説得とかしようとした故事や 兵隊達からの信頼が非常に厚かった話を考慮すれば その大胆さ、下々に対する大らかさは名将候補の中でも屈指のもの しかしながら、暗殺の前科がある?(来歙の件ね)公孫述攻略に際して あの脇の甘さは致命的(大胆さと大らかさが、ともに仇になっている) 「万が一」を考えれなくて、公孫述を延命させてしまったのは武将として致命的ミス 友達にはなりたいし、上司として仰ぎたい人物ではあるが、将軍・軍司令官として評価すれば 「無駄死に」「犬死」だと思う 70 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 22 43 48 ID kCQcGJGzO 暗殺されるまでは快進撃を続けていただけに、あっさり命を奪われたのは惜しいね。 公孫述も岑彭を生かしておけば、呉漢から一族皆殺しにされずに済んでただろうに。 71 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 22 46 08 ID grX51/GL0 新・後漢 【確定組】 劉秀、馮異、樊崇、耿エン、呉漢、班超、段ケイ、馬賢、曹操 【候補・議論中】 岑彭、周瑜 で取り敢えずいいですか? 三国~両晋に移るということいいですかね。 72 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 22 47 31 ID grX51/GL0 取り敢えず貼っときます。 三国~両晋 【確定組】 艾、石勒、祖逖、王猛 【内定組】 劉曜、慕容垂 【論争中】 陶侃、石虎、謝艾、慕容恪、桓温、謝玄、姚萇、李雄 劉淵、劉聡、冉閔 73 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 23 01 08 ID HUKYyGrD0 67 それを言うなら、確定の馬賢だって戦死してるじゃないか。 最期をまっとうできなかったからといって、 生前の将才や実績を否定するのは良くない。 69 それは個人の性格の問題であり、 将としての実績とは関係ないと思う。 71 まだ次に移るのは早いんじゃないのか? 後腐れないように、今のうちに後漢は議論を詰めておいたほうがいいと思う。 74 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 23 04 45 ID /kTa3KNXO … 75 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 23 09 44 ID /kTa3KNXO 73 横からだけど、暗殺されたこと自体が問題なんじゃなく、 ・来歙も殺られてたのだからより配慮すべき ・暗殺によってその後の漢の軍事行動に悪影響が出たんだから、暗殺にはもっと慎重であるべきだった といった点を、時に臆病なほど慎重であるべき将としてはマイナスだと言ってるんじゃないかな 76 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 23 11 13 ID /kTa3KNXO 74は間違えて送信した ごめん 77 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 23 18 22 ID HeLRo5Eo0 73 多分後腐れるだけだと思うよ うん、性格の問題といった理由で作戦行動の頓挫をスルーされたら、議論にならないからね で、やっと三国~両晋か 曹操がいなくなった今となっては、石勒の一強になってしまった観がある 候補勢の再議論必要だな 78 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 23 22 44 ID f/F+9QoJ0 司馬懿は候補に入ってないの? 79 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 23 29 49 ID U8QfliXG0 75 そのとおりです。 80 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/08(木) 23 32 25 ID L+cjmUG30 ぶっちゃけ、正史の知識は全く無いけど、陸遜はだめなん? 81 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 00 17 00 ID cAm3cVvu0 鄧艾、石勒、祖逖、王猛、劉曜、慕容垂、慕容恪の七名はそのまま確定でいい気がするな>三国両晋 つか慕容垂が未だ内定で慕容恪が論争にしか居ないのはどうかと思った ただ、燕から二人って言うのがバランス悪く感じるのも判らなくはない 82 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 00 21 13 ID bSJ7SzSmO 桓温も確定でいいんじゃないかな? 83 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 00 31 10 ID Pq+tYknw0 皇甫嵩はあまり本人の議論をなされないうちに確定組に入り、そして落選した感があるな。 擁護したいんだが、俺のごときはマンセーな後漢書の伝をネット上でよんだことがあるだけだしな・・・ 84 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 01 53 58 ID cAm3cVvu0 劉曜←石勒←祖逖←石虎←慕容恪→冉閔 桓温←慕容垂→拓跋珪 ↓ 姚萇←慕容泓 慕容兄弟は十六国の食物連鎖の頂点に居るw 粗探しをしても粗がないのは慕容兄弟と王猛かな?この3人は不動 劉曜、石勒、劉曜、石勒、祖逖、石虎、冉閔、桓温、姚萇はそれぞれ負けてる相手がいる 鄧艾は国力差、陶侃は北伐成績が無い、謝艾は相手がヘタレ麻秋、謝玄は一発屋(北伐が失敗) 李雄は将軍というより政治家(というか成漢って宗教色強いし、一慨に戦強さで成立した国じゃないので比較しづらい) 劉親子はどこまでを本人達の軍功に当てるか この辺りが各人のスネになるだろう 85 名無しさん@お腹いっぱい。 age 2007/02/09(金) 04 37 12 ID lZUOEAd20 80 密かに軍歴は長いけど前半が山越討伐で 後半は対魏戦で目立った戦績が無いので大々的に名将扱いするには抵抗がある。 86 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 07 47 01 ID 0s53FtN50 81 慕容恪も慕容垂に劣らず優れた将だよね。 知勇兼備で政治力に優れた名宰相でもあるし。 78 あのさー何度も指摘されてるけど推薦文なり戦績なり挙げればいいじゃん。 入る、入らないはまずそれからだ。 87 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 11 22 11 ID OSleyQaN0 >仲達 孟達、公孫淵といった凡夫には異常に強いけど、 孔明や陸遜のような半名将には大した手出しが出来ないというのが何とも… 彼が凄いのは局地戦で勝ちきれないと見るや、兵站を整備して戦略の次元で自軍が負ける要素をゼロにした点。 まあ、大軍になるほどキレが鈍る曹操とは正反対のタイプだろう。 追撃が下手なのもなw 88 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 14 22 58 ID igvrdi3iQ 周瑜一票 彼がいなければ三国志が無かった 89 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 14 58 17 ID 1uiJCajv0 林彪一票。 90 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 18 46 19 ID ZgSZDhZVO 88 魯粛が十分代わりを果たすと思うけど。 91 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 19 03 02 ID eCqI0NxI0 90 魯粛は将軍としては呂岱あたりにも劣る感じですが… 92 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 19 05 21 ID hywcihSb0 中国兵法ってサイトは既出? 自選の武将百選もあるみたいだけど。 93 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 19 14 36 ID NQChl9IG0 92 アレは自選じゃなくて『中国古代百将図説』っていう本を訳したもの 図もそのまんま使ってる 94 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 19 36 37 ID Cycs++gc0 周瑜がはいらないのなら 謝安も入らないのかな 95 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 21 10 40 ID 0s53FtN50 劉曜、慕容垂、慕容恪の確定入りに俺は賛成。 それと桓温も確定でいいじゃないって意見も出てる。。 論争中の慕容恪、桓温を確定入りさせる事にみんなは異論はないのかな? 96 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/09(金) 22 14 29 ID Epk7T0gJ0 俺は慕容垂、慕容恪、陶侃、謝玄を推したいな。 劉曜は功績すごいけど、死んですぐに前趙が滅びたからなぁ。。。 97 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/10(土) 00 09 05 ID ZDGrm4b1O 謝玄はヒ水の戦い以外になんか具体的な戦功ってあるの? 98 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/10(土) 02 15 56 ID d1AL/BOVO 91 別に将軍として劣っていても周瑜の代わりを果たす分には問題無いと思うけどね。 他の才能はピカ一なんだし。 謝玄はヒ水の戦いしか思い浮かばないね 99 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/10(土) 09 21 31 ID dqBV37+RO 将軍としての才能なんかなくたって魯粛に赤壁その他の指揮が同様に出来たと言いたいのか、 それとも影響力その他将としての資質以外を含めた名将スレと関係なさげな話しなのかは知らないが、 どっちにしても代わりは無理だろう。 100 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/10(土) 09 56 11 ID JW+7VL+i0 周瑜は、新・後漢で議論中なのに、三国~両晋でも 議論するのか? どちらかの時代に絞ってから議論した方がよくないか。 101 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/10(土) 12 14 47 ID nSGVJ4+m0 99 建安20年の荊州侵攻の時も実際に攻め入ったのは呂蒙で魯粛は関羽とにらみ合って外交してたしね。 102 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/10(土) 13 03 42 ID ZDGrm4b1O どうやらこのスレでは周瑜は新~後漢末に区分されるらしいので 三国~両晋の対象にはならないだろう 103 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/10(土) 14 11 14 ID hZlRKqDj0 そろそろ周瑜ヲタうざい 104 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/10(土) 15 05 36 ID 0DolzXKO0 慕容垂・慕容恪・桓温の確定入りに賛成 ところで、劉裕即位以降が南北朝ということは拓跋珪はこの時代になるのか? 105 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/10(土) 15 17 29 ID R+5ku6yt0 拓跋珪は南北朝の確定組に入ってるんだけどな一応 106 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/10(土) 15 22 12 ID ZDGrm4b1O あれ?南北朝時代って北魏の統一からじゃなかったっけ? 107 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/10(土) 19 48 41 ID gAvCiJ4B0 84 慕容恪はジリ貧の冉閔に何度も撃退されていたわけだが 冉閔を推す声が強いのも、滅亡寸前にもかかわらず慕容部を寄せ付けなかったところが評価されてじゃない? (でも、名将百選には入るほどではないか) 108 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/10(土) 22 58 15 ID M2mR8P9+O 十一戦十敗一勝だな>恪と閔の対戦成績 最後にキッカリトドメ刺してる以上、慕容恪の戦略勝ちだと思うのは贔屓倒しかね? 109 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/11(日) 00 03 15 ID zimrvkQk0 しかし慕容部最高の傑物だしな慕容恪は 俺は強力に後押ししたいぞ慕容恪 110 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/11(日) 00 08 57 ID t6cka/Jg0 慕容兄弟と石勒・虎・閔の血で血を洗う継承者達は俺も推したい だが、これをすると10名中5名が燕と趙になってしまうという諸刃の剣 素人にはお勧めで(ry 111 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/11(日) 00 20 44 ID zxHX4yrr0 108 いや、慕容恪の十傑入りは確定だと思っている上で、 84の認識の誤りを正しただけ 慕容恪>冉閔って評価は動かないと思うけど、そこまで力量に差がついているわけでもあるまい 慕容垂は苻丕相手に、ひたすら手こずっていたイメージのせいで、評価落ちるんだよね (しかも、苻丕を滅ぼしたのは西燕の攻撃と東晋のトドメによるもの) 燕の領土拡大への貢献度も含めれば、慕容恪>慕容垂な感じになるかな? 【確定】 鄧艾、石勒、祖逖、劉曜、慕容恪、桓温、慕容垂、王猛 これに加えるとしたら、やっぱ陶侃、謝玄を推したいな 特に謝玄はヒ水以前から徐州方面で前秦の侵攻を撃退していたし 劉牢之による北伐は失敗だったとは言え、黄河以南の地域を少し回復しているし 一発屋って評価は当てはまらない人物だと思うんだが 112 84 sage 2007/02/11(日) 00 43 12 ID t6cka/Jg0 元々ネタにソコまで突っ込まれても困るし、慕容恪と冉閔の戦いを知らないと言うことも無い 慕容垂が符丕とやり合ってるとき、東晋から劉牢之が援軍に来て他と思うが? 劉牢之と言えば東晋きっての猛将だし、そんなにマイナス査定かねぇ? 個人的には 石勒、祖逖、石虎、冉閔、慕容恪、桓温、慕容垂、王猛 が確定ライン、劉曜もまずOKで鄧艾と陶侃どっちにしようかな?って気分 113 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/11(日) 01 14 20 ID VT1qa0zoO 苻堅はやっぱ入んないかな… 114 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/11(日) 01 39 43 ID tbOoreXg0 五胡十六国って実に狂った時代だな。 115 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/11(日) 06 21 38 ID GsUzwaR6O 113 ココに挙がってる連中と張り合うのはかなりきついな…… 116 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/11(日) 14 55 14 ID /fuPV5TF0 陶侃は五十年にわたって地方長官、軍司令官などを務めた東晋の柱石 石虎は傍若無人な殺戮マシーン(あくまで個人的なイメージなんだけどね) 戦の上手さは石勒に引けを取らないと思う 謝玄は有能なのだがヒ水の功績をどう評価するかが焦点 劉曜、桓温は確定入りでいいと思う 個人的には陶侃、石虎に各一票ずつ入れたい 117 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/11(日) 21 56 09 ID m9FT3T8S0 ところで王猛の具体的な戦功ってなんだ? 名宰相・名軍師なのは分かるが、名将と言われてもピンとこない。 誰か具体的に教えてくれないか。 118 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/11(日) 22 32 48 ID t6cka/Jg0 慕容垂が抜けた後の前燕を滅ぼした 119 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/12(月) 00 09 21 ID XLJvockR0 118 それだけじゃ、時代を代表する十人に入れるには、 実績不足じゃないか? 慕容垂のいる前燕を滅ぼしたならともかく。 120 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/12(月) 00 15 10 ID VSgQqZ36O 118が示したのは功績の一例だろ 121 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/12(月) 00 19 19 ID 410mDf1L0 蜀征伐とか、転戦してた筈 122 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/12(月) 14 59 49 ID Vsejoll10 林則徐は入るだろ。 123 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/12(月) 20 55 17 ID Kez+90Og0 【確定は】 中国名将百選 其ノ参 【誰だ!?】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1170812626/ 【みんなで】 戦国名将百選 【決めよう】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1166806707/ 【ヨーロッパ】西洋名将百選【西洋】 http //academy5.2ch.net/test/read.cgi/whis/1168117287/ 【みんなで】日本名将百選【決めよう】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1169589425/ 【みんなで】 世界名将百選 【決めよう】 http //etc6.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1171011992/ 【みんなで】 中国猛将百選 【決めよう】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1167189069/ 【みんなで】 中国名相百選 【決めよう】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1167909324/ 【みんなで】中国愚将百選【決めよう】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1165592836/ 124 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/12(月) 21 08 22 ID 410mDf1L0 マルチうざいよ 125 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/12(月) 21 10 38 ID T7SiANKl0 122 半年ログれ 126 120 sage 2007/02/12(月) 22 52 09 ID VSgQqZ36O 符柳が挙兵した際、王猛はこれを鎮圧している。 陝城を落し、符[庚]を捕えて長安に送り内乱を平定。 前涼が前秦に侵攻した際、姚萇と共に涼軍を撃退。 李儼が救援を符堅に請うた際、王猛は各地に兵を派遣して守備を固めさせた上で 楊安と共に枹罕救援に向かい、 迎撃してきた前涼の張天錫を大いに破り、 前涼軍に、戦死者・降伏した兵を合わせて一万七千の打撃を受えた。 これにより絶縁していた前涼は再び前秦に藩属した。 これで少しは王猛の名誉回復できたはず。 127 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/12(月) 23 02 36 ID 410mDf1L0 そっか蜀じゃなくて涼だったな ただ姚萇だって頑張ったんだよと、ヤツは面白い生き方してるんだよなぁ 百選入りは厳しいと思うが 128 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/13(火) 21 16 35 ID bHog/2AB0 前秦の怒涛の征服を指揮していた将軍って誰? 王猛?苻融?それとも苻堅? 129 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/13(火) 22 46 55 ID Rx2jG3G0O 王猛あっての前秦だね 130 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/13(火) 22 56 02 ID ihkBeGfrO 129 同意 符堅は王猛の死後は冴えなよな。 王猛の遺言を守らず東晋を攻めてヒ水で惨敗してるし… 131 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/13(火) 22 58 19 ID bHog/2AB0 いや、だから前秦の征服戦争を指揮した将軍を教えて欲しいんだが。 132 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/13(火) 23 22 02 ID ihkBeGfrO 131 王猛、楊安、符融、符丕 符丕は王猛の後釜的存在 で関東を鎮めている。 まあ符堅も親征してることはしてるけどな。 つ これで満足した? 133 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/13(火) 23 32 14 ID ihkBeGfrO スマン 王猛の後釜的存在は符丕じゃなく符融だった。 134 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/13(火) 23 36 01 ID bHog/2AB0 132 サンクス。質問ばかりで申し訳ないが、 その中で武勲が最大といえるのは誰? 135 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/13(火) 23 45 20 ID ihkBeGfrO 王猛 前秦の政策、戦略など殆どが彼の力により、 前秦が勢力を拡大出来たのは彼がいたからと言っても過言ではないはず。 符堅の信頼が厚く、劉備にとっての諸葛亮の様な存在と評された。 つ これで十分に満足した? 136 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/13(火) 23 54 52 ID bHog/2AB0 135 いや、それ軍師や宰相としての功績じゃん。 純粋に戦場での武勲が最も多い前秦の将軍を知りたいんだが。 137 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/14(水) 00 31 54 ID SIXMw3/l0 王猛だろ 前燕を滅ぼしてるんだし 138 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/14(水) 01 33 40 ID rMwASHSNO つ まず最初王猛とに答えてる。 >前秦の政策、戦略など殆どが彼の力により と補足入れただけだけど何かおかしいか? 139 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/14(水) 15 47 38 ID c87tDxIqO じゃあ王猛は文句なく確定ということでいいかな? 140 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/14(水) 21 55 36 ID hfbVFxXy0 >じゃあ王猛は文句なく確定ということでいいかな? あれ?王猛っていつ確定から外れたの? 119 が早とちりした以外は別に異論が出てないなかったよね? まあ王猛の確定入りに問題無いと思うよ 141 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/14(水) 22 08 01 ID 3K5sckN+0 前秦から王猛ひとりなのは仕方ないかもしれないけど、 国としては3人ぐらい入ってもいい実績だと思う。 142 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/14(水) 22 38 00 ID rMwASHSNO 141 符堅、符融、符丕と候補が無いことも無いが 他の面々と張り合うのはかなり厳しいだろうな 143 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/15(木) 20 37 44 ID gxItVOPf0 確定 慕容垂 慕容恪 王猛 桓温 石勒 祖逖 候補 石虎 冉閔 陶侃 謝艾 謝玄 姚萇 拓跋珪 こんなところでいいかな? さあ、議論を続けよう。 144 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 21 06 31 ID z9vhyC8R0 いいんじゃない? じゃ次は隋唐時代か。 やはり李世民は外せないな。 145 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 21 09 26 ID RmTPz1FG0 南北朝は? 146 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 21 10 53 ID wouTLgWt0 鄧艾、劉曜がいつ確定から外れたんだ? 147 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 21 27 54 ID YE3VGJ3DO 確かに 艾、劉曜が外れてる それと拓跋珪は南北朝で確定入りしてるけど 拓跋珪はこっちに入れるのか? それにまだ残り枠決めてないけど次の時代に移るのか? 148 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 21 45 30 ID gxItVOPf0 146 劉曜・鄧艾を入れ忘れてた。スマソ 147 拓跋珪の没年はこのスレの時代区分では、 三国・両晋に入るんだよ。 149 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 21 52 19 ID OTyjqmfq0 隋には名将っていないの? 150 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 21 53 26 ID RmTPz1FG0 拓跋珪、確定じゃないの? 納得いかない 151 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 22 02 00 ID Y11ZyAOl0 拓跋珪をこっちに入れるとなると 鄧艾 劉曜 慕容垂 慕容恪 王猛 桓温 石勒 祖逖 拓跋珪 で九人になるけどここから確定落ちになる人はいるかな 149 楊素、韓擒虎、賀若弼、史万歳あたりがいるが 152 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/15(木) 22 29 05 ID yqZEfS88O 謝玄はやっぱ落選か… 153 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 22 37 23 ID YE3VGJ3DO 148 拓跋珪は三国・両晋じゃないの?と前々から疑問に思ってたんだけど それについて誰も言わないし、 南北朝に入れるのかと思っていたから一応聞いてみただけ… 151 この九人は確定でいいんじゃない そうなると残り一枠を誰にするか迷うよな 154 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 22 43 06 ID wouTLgWt0 あと一人、難しいね。 候補にあげるなら、戦術の巧みさなら冉閔か謝艾、果した功績の大きさなら陶侃か謝玄。 155 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/15(木) 22 45 41 ID gxItVOPf0 153 陶侃を推す。他の名将と対戦してないのが痛いが、 戦歴は豊富だし、陶侃がいなければ、 おそらく東晋は地盤を固められずに短期政権で終わっただろうから。 156 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 23 21 24 ID 20phuMvF0 155 俺も陶侃に一票 陶侃は五十年にわたって地方長官、軍司令官などを務めた東晋の柱石だしな。 平時でも戦に備えて瓦を庭に出し入れして、 体を鍛えたというエピソードが残っているぐらいの根っからの武人だしね。 個人的には殺戮マシーン石虎も推したいのだが・・・ 157 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 23 35 07 ID dEMkXELF0 負けた祖逖が入ってて 勝った石虎が脱落ってのもなぁ・・・ 陶侃も捨てがたいし、この時代は迷うな 158 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/15(木) 23 54 21 ID YE3VGJ3DO 157 そうだよな。 石虎の暴れっぷりは評価したいし、 確かに陶侃も捨てがたいね。 今回も残りの一枠は持ち越しになるのかな? 159 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/16(金) 15 00 18 ID M0NJi0+u0 157 石虎は天王になってからの戦績が振るわないのが減点材料かと。 160 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/16(金) 17 15 53 ID 9kljjt400 思ったんだけどさー なんで田単が候補にすら入ってないの? 161 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/16(金) 17 16 27 ID 9kljjt400 楽毅入るなら田単も入るだろ 162 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/16(金) 21 10 50 ID bVTmxrvn0 理由がわからん。別に田単は樂毅に戦場で勝ったわけではないしなあ。 まあ城を落せなかったのと諜報戦でしてやられたってのはあるが。 田単が候補に挙げられないのは、おそらく究極の一発屋だったからだろう。 城の防衛の指揮を任されるようになる前は一介の市場の役人で、勝った後は 栄達はしたがこれという功績もない。 即墨戦の後の軍事的行動というと狄を討とうとして失敗したこと(後に成功) と趙の兵を率いて燕の城を落としたことくらいしかない。 163 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/16(金) 21 19 49 ID f/WwVciP0 スレの流れ これ読める? 164 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/16(金) 21 27 45 ID yYY6neoF0 とりあえず151に異論がなければ南北朝に進んでもいいと思うがどうか 165 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/16(金) 22 31 53 ID bVTmxrvn0 いいんじゃないですかね。 残り一枠の候補には冉閔と陶侃を推薦しておきます。 166 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/16(金) 22 50 41 ID TLQAXSzqO 159 劉曜も後年、石虎と石生に惨敗してし、 石虎も天王になってから破れた相手って慕容恪だろ。 減点するには厳し過ぎないかと言ったら贔屓し過ぎかな? 167 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/16(金) 22 53 32 ID f/WwVciP0 冉閔だって慕容恪に十勝してるし この時代、アホみたいに戦争しまくってるので、単純には決めづらいだろう 168 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/16(金) 23 29 54 ID bVTmxrvn0 いまさらだが、戦術の巧みさだけで推薦するのなら八王の乱時の司馬乂とかも 凄いんだよな。圧倒的劣勢下で、戦場では不敗だった。 さすがに十傑入りは無理だろうけど。そう考えると、やはり冉閔も外れるかなあ。 169 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 19 14 06 ID Ynh5F5kWO 現在の状況はこんな感じか? 三国~両晋 【確定組】 艾、石勒、祖逖、王猛劉曜 慕容垂、慕容恪、桓温、拓跋珪 【候補】 陶侃、石虎、謝艾、謝玄、冉閔 陶侃が一歩リードってとこかな。 どうするまだ論議を続ける? それとも南北朝に移る? 170 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 20 25 05 ID rMl3f1A40 いいかんじに次にいってもいいかな 171 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 20 29 09 ID hHgYTn5T0 まぁ、これまでも十人確定を出してきたわけでもないんだし、 また、改めて議論もするだろうから、取り敢えず次に移ってもいいんじゃない? 172 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 20 35 12 ID oHGca7Iw0 じゃあ南北朝時代に行く? 【確定組】 劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、 高歓、宇文泰 【候補】 柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、 斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼 段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達 赫連勃勃、拓跋燾、侯景(宇宙代将軍) 蕭道成、斛律光、陳覇先 173 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 20 45 22 ID Ynh5F5kWO じゃあ南北朝へと移りますか。 俺は韋叡の好敵手である楊大眼を推しとくよ。 174 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 21 25 43 ID pClLuuW80 宇宙大将軍を推したい 175 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 21 32 53 ID 2AFKOlEu0 斛律光は確定でいいと思う あとネタ枠として宇宙大将軍を推したい 俺達の永遠のヒーローだろw 176 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 21 38 44 ID y65Q0nPv0 侯景は君らの胸の中にしまっておけ 177 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/17(土) 21 55 26 ID h95p/GHrO 素人でいつもロムってる俺に宇宙大将軍について教えてくれ 何がネタなのか 178 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 22 15 42 ID Ynh5F5kWO 177 侯景 宇宙大将軍でググってみなよ ちなみに宇宙大将軍は2ちゃんの偉大なるヒーローさw 179 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/17(土) 22 42 52 ID h95p/GHrO 178 ごめん、ググってみたけどどのへんが2ちゃん的なのかよくわからない 180 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 22 47 36 ID cj4xFKaH0 wikiからの引用だけど、この辺のことでしょ。 武帝の没後、侯景は簡文帝を立て、相国・宇宙大将軍・都督六合諸軍事を 自称した。 181 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/17(土) 22 53 30 ID hHgYTn5T0 ぶっちゃけると、宇宙大将軍って自称が面白いだけ。 182 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 23 05 02 ID 2AFKOlEu0 高歓の元で転戦する軍団長 ↓ 高歓が死にそうになると 「HEYHEY!おいらは高歓のアニキにはついてくが、そのガキの事まではしらねぇぜwwww」 と公言する ↓ 高澄(高歓の息子)、政権を引く継ぐと真っ先に不穏分子である侯景を謀殺しようと、高歓の名で招集の手紙を出す ↓ その手紙を見て 「アニキは俺に書状出すときは穴を開けてた筈……こいつはヤベェ!!(←自業自得)」 ↓ 梁と組んで独立する ↓ 高澄、高歓の遺訓に従い慕容紹宗を起用する ↓ 「慕容紹宗?あの青二才に何が出来るってんだよ!俺は百戦錬磨の侯景サマだぜ!!」 ↓ ボコボコにされる ↓ 「何で援軍よこさねぇんだよ!」と八つ当たり気味に建康に進軍 ↓ 梁の一軍団長になる。その性格その他から危険視される。ついでに梁と東魏の国交が回復し始める ↓ やられる前にやったると建康進軍、権勢を誇った朱イをヌッコロス!と進軍したはいいが、すでに朱イが病死してた ↓ 出した刃は引っ込められず、建康で梁武帝を人質に面白籠城劇を繰り広げる ↓ 軟禁されてる梁武帝を前に気圧されて汗を流す(自分が軟禁してるのに) ↓ 相国・宇宙大将軍・都督六合諸軍事という喜劇的な将軍位を開発、名乗る ↓ 和睦、梁武帝の娘を娶る。この公主に溺れる ↓ 結局拗れて皇帝を名乗るも、陳覇先と王荘辯に破れシボンヌ 一時代の梟雄にして、ネタに溢れ、強勢を誇った梁を一人でぶっ壊したという そのお人柄とネーミングセンスが今尚愛されてるのです 183 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 23 07 46 ID m3yniq2v0 まあ百人には入らないだろ 184 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 23 55 46 ID rMl3f1A40 楊大眼よりは元英の方がいいと思う。あとは韋叔裕、斛律光、爾朱栄あたりか。 しかし北に偏ったな。 そういや候補に蔚遅ケイがいないな。まあいても候補どまりな気はするが。 185 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/17(土) 23 57 12 ID 96WZcXqg0 宇宙大将軍こと侯景には負けるが南北朝には個性派ぞろいだな 三十六の戦術を持つ、逃げの檀道済 馬に乗るのが下手なとぼけた天才、陳慶之 虚弱体質の名将、韋叡 文盲で愛妻家(戦場でもラブラブ)泣く子も黙る、楊大眼 仮面の貴公子、高長恭(しかもオリジナルミュージック付き) など全く真面目なんだか不真面目なんだかw 186 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/18(日) 00 12 34 ID uwADlhPn0 哭泣した重臣のヅラがとれて、葬儀中大笑いしたのは、南朝の太子だっけ? 187 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/18(日) 00 21 08 ID E0w974GCO 186 東昏侯こと蕭宝巻 188 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/18(日) 00 32 11 ID uwADlhPn0 187 それそれ。 ヅラじゃなくて頭巾だったかな。 そうか、あの東昏侯だったか。 斉梁革命期近辺だと、義陽で元英との名勝負を謳われる蔡道恭や鍾離を堅守した昌義之とか 防衛線で手腕を発揮したのもいるなぁ。 189 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/18(日) 01 09 43 ID E0w974GCO 184 【名前】元英 【時代】南北朝 (北魏) 【推薦理由】中山王こと元英は北魏でも屈指の教養人として知られ、玉笛の名手でもあった。 南斉・梁と戦っただけではなく、北方の騎馬民族とも戦っている。 また漢中ではたった三千の兵で二万もの南斉軍を破るなどの武功を重ね、この時代北魏随一の用兵家であった。 楊大眼は副将だし、やっぱ元英の方が上だよな・・・ あと斛律光が確定なら、仮面の貴公子、蘭陵王こと高長恭も確定でいいんじゃないか? 188 頭巾だよ。 ちなみに太中大夫の羊闡はみごとな禿頭だったw 190 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/18(日) 02 27 03 ID iJs60l6O0 182 おいおい、どこから突っ込んだらいいんだw 我らが宇宙大将軍は、他の武将が来たときは強気だったのに、慕容紹宗が来ると聞いてビビったはずだぞ 侯景は高歓の下の時の功績だけなら確定に入れてもいいんだが 高長恭あたりが候補に入ってるのに、高敖曹、賀抜兄弟とかが入ってないのが不思議だ 尉遅ケイも入ってもいいんじゃないか。隋文帝の最後のライバルだし 191 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/18(日) 07 21 40 ID dY9oFs7C0 宇文泰が戦闘の才能を絶賛した高洋は候補に入ってないね。 あと尉遅ケイについて誰か詳しく教えてくれませんか? 192 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/02/18(日) 07 49 47 ID XjmOOEaw0 数週間ぶりの登場です。ようやく南北朝ですか。 ログなど見て思ったのですが、確定を決めずに先に行くのですか? 春秋戦国であれだけ話し合って確定を決めたのに 確定を決定させず候補を残したまま議論されてるのは少し残念です。 話を戻すようなことを言ってすまんね。 193 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/18(日) 09 21 27 ID LNILSB950 192 春秋戦国 【確定】 楽毅、楚の荘王(熊侶)、白起、李牧、王翦、呉起、廉頗、孫武、樗里疾 【候補】 士会、魏無忌(信陵君)、趙の武霊王 ご覧の通り、春秋戦国は散々話し合っても十人確定までは至らなかったし、 ど~せ、一通り各時代を語り尽くしたら、また最初から議論しなおすんだから、 別に、そう確定にこだわらなくてもいいと思うよ。 194 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/18(日) 09 48 18 ID OPjVxuI80 ○○は候補に入っていないね?という人は、○○の人を 推薦するなり、候補に入って無くてもいいけどとか意思表 示してくださいな。 195 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/18(日) 10 51 13 ID uwADlhPn0 192 春秋戦国のときみたいに嵐のような討論が少なくなったから、妥協で進んでいるような気もするかもしれないが 恒例的に最後の一枠は空席にするやり方になってる。 現時点ではそれがベターだと思うな。 (それぞれの時代で、特に詳しい人がここにどれだけいるか、調査してみるのも面白そう) 196 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/18(日) 12 04 21 ID E0w974GCO 納得するまで討論はしたいよ、みんなも思ってるはずだ。 でも最後の一枠って決めるのってかなり難しいんだよね。 195の言う様に最後の一枠は空席にするやり方が現時点ではベターだと俺も思う。 納得するまで討論はしたいよ、みんなも思ってるはずだ。 でも最後の一枠って決めるのってかなり難しいんだよね。 195の言う様に最後の一枠は空席にするやり方が現時点ではベターだと俺も思う。 197 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/18(日) 13 15 34 ID ShNq57gT0 「必ず最後は一枠を残しておかなければならない」ってもんでもないけどね。 すんなり決まるのなら十人決めてもいいのだろうけど。 あと、確定から高歓はずして高洋を入れるべきだと思う。君主としては文句なし に親父だが、個人の将としての才はこちらが上だと思う。 198 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/19(月) 14 48 23 ID jEimL0780 神武・文襄・文宣の三王に仕え、 二十歳頃から戦に出て数々の功績を挙げた段韶を俺は推したい。 戦績としては西魏の宇文泰と高歡が芒山で戦ったとき、高歡の命が危ういところを救い、 高帰彦の乱を婁叡とともに鎮圧、突厥と北周が晋陽を攻めてくるとこれを撃った。 侯景の乱の際には晋陽を守るなど功績を挙げ、 また陳覇先が攻めてきた際には水上戦ながらこれを撃退し、 北周軍に包囲された洛陽をなかなか救出出来ずにいた斛律光と高長恭のもとへ駆けつけ、 彼らと共にに芒山で北周軍を撃ち破り、洛陽を救い、 国境の定陽郡周辺をめぐっての北周との攻防戦では、病をおして出陣し、定陽城を落としている。 199 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 00 29 44 ID RVq+iqA20 172の候補者の詳しい解説などみたかったのだが…とまっちゃってるなあ 200 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/21(水) 04 09 12 ID Typ7OUhy0 とりあえず南朝からももうひとりぐらい、ってことで。 蘭欽(らんきん。?~西魏の初めあたりまで)《梁書》33巻 字は休明。剛毅果断にして超人的敏捷性を備える。 大通元年(527)、魏の蕭城を攻めてこれを抜く。さらに彭城の別将郊仲を破り、擬山城まで進行、 大都督・劉属率いる20万の魏軍を寡兵で潰滅させ、返す刀で籠城を陥とす。 また魏の大将・柴集および襄城太守・高宣、さらにその別将范思年、鄭承宗らの連合軍を撃破する。 彭城の主将・楊目がその子楊孝邕を派遣して蘭欽を攻めると逆撃してこれを破る。 また譙州刺史・劉海游を破り、その帰途で厥固城を抜いた。 楊目は都督・范思年と別将・曹龍牙に数万の兵を与えて援軍としたが、 蘭欽の巧緻な作戦の前に魏軍は潰滅、蘭欽は曹龍牙を斬って京師に戻った。 假節を与えられ、都督衡州三郡兵を拝して桂陽、陽山、始興の異民族 叛乱をたちまち平定。また天漆に盤踞する蛮族の首領・晩時得を攻め破った。 衡州刺史・元慶和が桂陽の厳容に包囲されるとこれの救援に向かい、 羅渓で厳容を打ち破った。ついで密勅により襄陽に急行、北魏の正将・托跋勝の進行を撃退。 持節を拝し、督南梁、南秦、北秦、沙四州諸軍事、光烈将軍、平西校尉、梁、南秦二州刺史を授かる。 通生行台・元子礼を破り、大将・薛儁、張菩薩を捕らえ、梁州刺史・元羅を投降させて 梁、漢中を平定した。昇進して智武将軍とされた。 まもなく改めて持節を授かり、都督衡・桂二州諸軍事、衡州刺史に任命される。 直後、魏が都督の董紹、張献を遣わして南鄭を囲むと、梁州刺史・杜懐瑶の救援要請により駆けつけ、 高橋城の戦いで魏の二将を大破、斬首3000を数える。追撃に移り斜谷に入って董紹らを追い立てるも、 西魏の相・宇文黒泰より軍馬2000を送られて追撃を中止、互いに友好を結ぶ。 帰国した蘭欽は詔により散騎常侍を加増され、仁威将軍に昇進した。 広州を治めていたとき俚の陳文達兄弟が叛いたので、これを攻めて二人をともにとらえた。 功績により平南将軍とされ、改めて曲江県公に封ぜられた。為政者としても有能で仁政を敷き、 民衆は石碑を建てて彼の功徳を称えた。散騎常侍、左衛将軍から改めて散騎常侍、平南将軍、 広州刺史とされるも、前任刺史の南安候に妬まれて毒殺される。 陳慶之とともに廉頗、李牧、衛青、霍去病らに匹敵する名将と称えられるが、 併伝の陳にインパクトがありすぎるため漢中取りの大功を立てているにもかかわらず影が薄い。 ・・・先日バカは黙れと言われて以来ROMっとった者ですが、これを手土産ってことで 戻ってきちゃいかんでしょうか。 201 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 05 06 02 ID d/gc4DIi0 200 >・・・先日バカは黙れ >これを手土産ってことで戻ってきちゃいかんでしょうか。 だからそんな事は気にするな、2ちゃんなら日常茶飯事だw 出来れば功績をもう少し簡潔に纏めてもらえるといいのだが・・・ 202 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 11 09 39 ID kkS6C0xQ0 何か最近過疎ってるよな。 他のスレなら過疎っても別に問題ないんだけど、 このスレの場合は後がつかえているんだから、 出きるだけ盛況に話し合って、 出きるだけ速く結果を出してもらいたい。 とにかく頑張ってくれ!南北朝時代に詳しい住人の方々!! 203 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/21(水) 13 37 31 ID uVbiGNaW0 やったら復帰した俺がリストに挙げ忘れた北周の于謹を。 俺の紹介文は正史からの直訳をまんま載せて 毎度やたらと長くなる癖があるけんが、今回はアジ歴から抜粋。 【名前】于謹 【時代】西魏~北周 【功績というか紹介文】 493-568。字は思敬。鮮卑系貴族の名門の出。六鎮の乱のとき大行台・ 元纂の鎧曹参軍に召され、爾朱天光が高歓に破られると宇文泰の麾下に 投じた。沙苑・河橋・邙山の戦いに高歓の大軍を防いで功があり、尚書 左僕射から司空となった。梁の岳陽王・蕭詧を補佐して江陵の元帝を滅 ぼし、西魏の官制改革(この改革制度は隋から唐まで受け継がれた)で 大司寇となり、丞相・宇文泰が死ぬと宇文護とともに宇文氏政権を守り、 西魏から宇文覚への禅譲を実現させた。功績により燕国公、太傳、大宗 伯にのぼり、三老の礼を受けた。 孫子の兵法に通じ将軍として正攻法・奇策ともに優れ、政治家として も国家の官制制度を一新させるほどの才覚を見せるオールラウンダー。 梁を滅ぼしたときも民に危害を加えることなく、劉宋以来の珍宝を私せ ずすべて宇文泰に献上した清廉の人。梁討滅から凱旋した彼の家に宇文 泰が家までおしかけ、宴を開いて談笑したという君主と臣下を越えた間 柄。軍事に戦略の韋叔裕に対して軍事に政略の于謹。双璧、ということで一票。 204 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/21(水) 14 26 00 ID uVbiGNaW0 200から余分な要素を削ってみました。 【名前】蘭欽(梁書33巻陳慶之蘭欽伝) 【時代】?~候景の乱以前 【紹介文】 字は休明。剛毅果断にして敏捷。 大通元年(527)、北伐して擬山城 まで進行、大都督・劉属率いる20万の兵を潰滅させた。同年、魏の太 守・ 柴集らの連合軍を破る。彭城城主・楊目がその子楊孝邕を派遣、 蘭欽を攻めると逆撃してこれを破った。ついでに譙州刺史・劉海游を破 り、その帰途で厥固城を抜いた。楊目が派遣した数万の援軍も蘭欽はた やすく破り、別将・曹龍牙を斬って京師に凱旋した。桂陽、陽山、始興 の異民族叛乱もたちまち平定、天漆に盤踞する蛮族の首領・晩時得を攻 め破り、衡州刺史・元慶和が叛将厳容に包囲されるとこれの救援に向か い、羅渓で厳容を打ち破った。ついで密勅により襄陽に急行、北魏の正 将・托跋勝の侵攻を撃退する。假節を授かり光烈将軍を拝し、通生行台・ 元子礼を破る。魏の大将・薛儁らと交戦、勝利して彼らを擒らえ、梁、 漢中を平定。智武将軍とされた。改めて持節を授かる。魏の都督・董紹、 張献が南鄭を囲むと梁州刺史・杜懐瑶の救援要請に応じ、高橋城の戦い で魏の二将を大破、斬首3000を数える。追撃に移り斜谷に入って董 紹らを追い立てるも、西魏の相、 宇文黒泰より軍馬2000を送られ て追撃を中止、互いに友好を結ぶ。凱旋して仁威将軍に昇進した。広州・ 俚の陳文達兄弟が叛いたので、これを攻めて二人を共に擒らえた。功績 により平南将軍、曲江県公。為政者としても有能で仁政を敷き、民衆は 石碑を建てて彼の功徳を称えた。散騎常侍、平南将軍、広州刺史とされ るも、前任刺史の南安候に妬まれて毒殺された。 陳慶之とともに廉頗、李牧、衛青、霍去病らに匹敵する名将と称えら れるが、併伝の陳にインパクトがありすぎるため漢中取りの大功を立て ているにもかかわらず影が薄い。とりあえず梁には韋叡と陳慶之の他に もこんな人もおるよ、ということで一票。 ・・・これでちっとは読みやすくなったかいな? 205 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 15 50 11 ID cxroJRbA0 ぱっぱと100人決めちゃって 後から入れ替え議論したほうがいいと思うんだけど 206 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/21(水) 16 52 09 ID F0BoUhF+0 その百人がな… 特定の時代に詳しい人とそうでない人の、人口比率が違いすぎる。 今の過疎っぷりは、そういうことだろうと予想するのだが… 自分は南北朝はわからないので、候補決定にまで参与できない。 すると、候補説明のところにツッコミいれるくらいしか策がないなw 204 于謹というのは征梁戦のときの総大将? このスレ的には(今までの流れから)、より戦功が顕著な蘭欽のほうがランクインしそうだ。 重鎮とか戦略家とかいうのは、歓迎されていないように思う、残念ながら。 207 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 17 24 45 ID 4pXxYmxa0 何せ南北朝(特に北朝)は日本語で手軽に読める史料が皆無な上に メジャーな人物も少ない(と言うか皆無に近い)からな。 原語の正史でも読めないと人名が出て来ない。 208 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 17 26 21 ID d/gc4DIi0 では少しでも過疎化打破する為に投下。 ◆RQdk7scN8sさんお手柔らかに頼みますよw 【名前】拓跋トオ (太武帝) 【時代】南北朝(北魏) 【推薦理由】明元帝(拓跋嗣)の長男。十六歳のとき、父が崩じて即位。 はじめは宋と修交し、華北の統一に意を注いだ。 北方の柔然がしばしば侵犯したので迎撃してこれを破る。 また親征して高車族三十余万を帰服させた。夏・北燕・北涼を滅ぼして華北を統一した。 劉宋を討つために百万と称した大軍を率いて親征、劉宋を散々に打ち破った。 戦死者は万単位に上ったと伝えられる。 なおこの南征のときに行われた殺戮はすさまじく、北魏軍の通過した郡県は荒涼を極めた。 北魏軍は瓜歩まで進軍したが、結局、長江を渡ることはなく都の平城に凱旋し、 捕虜となった宋民5万余戸は、畿内に分配した。 東西両方面への八面六臂の活躍により、華北の統一に成功し、 五胡十六国時代の終焉させた拓跋トオを強く推したい。 209 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 17 27 28 ID d/gc4DIi0 ◆oOLAqFKRBさん別にダメ出ししたわけではないんだよ・・・ 余計なお世話かも知れんが字とか為政者としてとか、尚書、左僕射から司空となったとか 生い立ちや戦績以外の武将として余り関係ないような部分を省くのがよかでなかとですか。 210 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 19 04 56 ID EBujPzTb0 自分も拓跋燾を推すよ 小競り合いレベルの戦は省略して戦歴を書き出すと 423年 帝位に即位 424年秋 雲中に侵入した柔然を討つ (資治通鑑では拓跋燾が自ら率いて討ったと書かれているが 魏書では配下の手柄 いずれにしても親征) 424年冬 柔然戦(柔然北遁 諸軍追之 大獲而還) 425年冬 柔然戦(柔然北走) 426年冬 夏戦(夏主出戦而敗 退走入城) 長安占拠(赫連乙升棄城西走) 427年夏 夏戦 赫連昌に逃げられるが統万城占拠 430年冬 夏戦 平涼陥落 439年秋 北涼戦、北涼降伏 446年春 蓋呉の乱、平定 449年春 柔然戦、大勝 (蠕蠕渠帥綿他拔等率其部落千餘家來降 蠕蠕吐賀真恐懼遠遁) 450年春 北伐 450年冬~451年春 南征 452年3月 逝去 上記の戦は全部親征(主語が魏書では「車駕」資治通鑑では「魏主」) 426年夏戦、439年北涼戦では少数意見を選び勝利している 親征ではない戦に 428年春 夏戦 奚斤の指揮下にある丘堆が敗戦 監軍侍御史の安頡が夏主・赫連昌を捕らえた (拓跋燾は平城に帰還していた、敗戦を聞いて激怒) 448年 亀茲戦、亀茲撃破 損害が大きくなりそうだと思えばあっさり引き返す 叩くべき時には諸将の反対を押し切っても叩く(結果的に正しい) 効率が良く判断ミスがないのが売り 211 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/21(水) 19 28 21 ID F0BoUhF+0 208 いや、前言撤回w。 知らない時代なんで、ツッコミも無理です。。 拓跋燾といえば、テュルク語でいうところの「狼」を意味した名前の人ですね。 ちょうど崔浩の補佐を得て、勇躍した時代でしたっけね。 しかも、柴栄を含む「三武一宗の法難」の先駆け。名将ということ以上に興味ある人物です。 以上、チラ裏。 212 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 21 36 04 ID ukcPhd3tO 207 >メジャーな人物も少ない(と言うか皆無に近い)からな。 宇宙大将軍こと侯景は別として、 南朝には劉裕、蕭道成(この人は君主としての方が有名だな) 檀道済、韋叡、楊大眼、陳慶之、陳覇先が 北朝なら高長恭、斛律光、、慕容紹宗、爾朱栄、尉遅迥や 高歓、高洋、宇文泰、宇文護(この四人も君主としての方が有名だな) とかはメジャーじゃないの? それとも上記の人物以外の話してるのか? 213 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 21 46 13 ID RLcmIEVH0 宇文ユウも君主として有名だと思う ただ、部下の功績か皇帝の功績かの線引きの関係で残れないケド 214 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/21(水) 22 14 52 ID PPUrb9Aa0 【名前】韋孝寛 【時代】北周 【推薦理由】高歓に包囲されたが、五十日の篭城戦の末にこれを撃退。 淮南を経略。尉遅迴の反乱を鎮圧。 そのほかの軍功は数え切れず。 斛律光に敗れているが、その武勲が損なわれることはないだろう。 215 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 22 15 56 ID CkUyX/4Z0 楊大眼が南朝に間違えられてしまうほどだからやっぱりメジャーじゃないんだろう 216 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 22 29 05 ID ukcPhd3tO スマン 楊大眼は北朝だったな 217 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 22 42 01 ID PPUrb9Aa0 189 決して名将とは言えない陳顕達に敗れているのが痛いな。 鐘離でも敗れているし、時代を代表する名将というには足りないかも。 218 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 23 12 57 ID RLcmIEVH0 良く北斉の将軍として 斛律光と蘭陵王は並び称されるが 王猛と張賓ぐらい差があるというのが実態 219 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/21(水) 23 16 13 ID 4u8xHEFA0 推薦で分けてみましたよ 宇宙大将軍はネタなんでしょ? 【候補1】 蘭欽、斛律光、慕容紹宗、高長恭、爾朱栄、拓跋燾、段韶、于謹 【候補2】 柳元景、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、韋孝寛、宇文護、韋叔裕、李弼、 王勇、沈慶之、陳顕達、赫連勃勃、蕭道成、陳覇先 220 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 00 21 30 ID dV2RuS5z0 いや、宇宙大将軍だってそれなりに優秀なんだが 221 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 01 10 05 ID 1FYEvWnU0 高長恭は 218のいうとおり。候補にあがるほどの戦功もない 219 韋孝寛と韋叔裕は同一人物。前者のほうが通称なので、前者を残しておけばいいと思う 韋孝寛は 214に追加して、噂を流布させて斛律光を死に至らしめたこと、 北斉の平定の際に武帝に建策したことも挙げられる 尉遅迴の反乱の鎮圧は楊堅が隋を立てる障害を取り除いた点でも大きい 222 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 01 26 50 ID 4aTkK6Dm0 220 優秀だが名将と呼ぶにはネタ臭が強すぎると思うのですよ。 223 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 01 50 23 ID dV2RuS5z0 梁に降った後が奮わないんだけど 梁は相当弱兵だったからなぁ・・・ 224 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 02 40 20 ID 56tfdA8U0 叔裕が名で孝寛が字だよな確か 見た限りでは逆な感じがするけど 225 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 02 49 35 ID UKmb0iwJ0 それではこれで 【候補1】 蘭欽、斛律光、慕容紹宗、爾朱栄、拓跋燾、段韶、于謹 【候補2】 柳元景、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、宇文護、韋叔裕、李弼、 王勇、沈慶之、陳顕達、赫連勃勃、蕭道成、陳覇先、高長恭、 宇宙大将軍(侯景) 226 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 05 04 18 ID dV2RuS5z0 本名の方が括弧かよw 227 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 07 44 57 ID lL5Covtv0 211 ID変わってるだろうけど210です そうです。崔浩の補佐が大きいです。 ただ、崔浩が献策する策はほとんど崔浩一人説で 他のめぼしい将(長孫嵩、長孫翰、奚斤ら)は皆反対 読んでいて「またか」と 拓跋燾の字「佛釐」がテュルク語の「狼」だったはず 228 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 12 50 50 ID VwslXJjYO 拓跋 と蘭欽、韋叔裕は確定でいいんじゃないかな あと斛律光か段韶のどちらかを確定にしてもいいと思けど。 斛律光は敵の策略で死を賜った悲運の名将。 段韶の場合は病死だしこの人も悲運の名将と思う。 229 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/22(木) 17 34 23 ID oPmrojV20 228 >斛律光は敵の策略で死を賜った悲運の名将。 違うぞ斛律光は後主に粛正されたんだぞ 230 国 sage 2007/02/22(木) 19 34 03 ID 4ql0L8Sq0 【名前】昭奚恤 【時代】戦国 【推薦理由】楚の宣王の下で大軍を率い、 北方諸国ににらみを利かせた。 「虎の威を借る狐」の元祖。 231 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/23(金) 16 16 22 ID Xt8IyYYe0 アジ歴からの引用だけやと落とされそうやし、 えらい過疎状態で書き込んでも邪魔やなかろうし。やっぱ正史からも。 【名前】于謹 【時代】北魏末・西魏~北周初期 【推薦というか紹介文】 ものしずかで冷静、見識・度量があり、読書を好み孫子の兵法に通じた。六鎮の乱を避けて隠棲していたが 太宰の元穆から「彼こそ王佐の才である」と見込まれて仕官する。 辺塞で破六汗抜陵が造反し柔然と手を組むとわずか2000人で鎮圧にあたり、寡兵と侮った柔然と郁対原で17戦、 ことごとく勝利を得た。正光4年、破六汗抜陵との対陣においても敵の動きを読み、伏兵をもって大勝、その才を帝に嘉された。 魏の孝昌2年、梁の曹義宗が国境を侵すと行台尚書・辛纂とともに出陣、数十戦を経るも決着はつかずに終わる。孝荘帝が 即位すると鎮遠将軍とされた。太宰・元天穆に従って葛榮を討ち、刑杲を平定。征虜将軍を拝し爾朱天光について万俟丑奴を 打ち敗った。普泰元年、征北大将軍を拝す。再び爾朱天光に従って勤明達を平定し、夏州の賊・賀遂有伐らを討つも、韓陵山 の戦いで爾朱天光が敗死すると宇文泰に投じた。 宇文泰に帝位につけと勧めるもこれは実現せず、ただし大統元年に于謹が驃騎大将軍、開府儀同三司に任命されたのは宇文泰 の野心の表れとも見える。同年、東魏に出征、先鋒を務めて盤豆で東魏の将軍・高叔礼を破り、俘虜一千を獲る。さらに弘農に 攻め入って陝州刺史・李徽伯を捕らえた。沙苑で高歓の本軍と戦い、諸将らとともに奮戦してこれを破る。 また河橋の戦いでは丞相府長史兼大行台尚書として作戦に参与、自らは出陣せず後方を固める。夏州刺史劉平が叛くとこれを 平定した。大統9年、再び宇文泰の東征に従軍、邙山の戦いで西魏軍は大敗を喫すも、部下に偽装投降させてその隙に背後から 攻撃を仕掛けるという于禁の策により東魏軍を混乱に陥とし、結果敗戦ながら大軍を失うことを免れた。 候景が西魏に従属を求めるとこれを受け入れようとする宇文泰を諌め、候景はともに大事をなす相手ではないと説いたが、宇 文泰は聞き入れず、李弼に兵を与えて候景につけた。まもなく兵を率いて潼関に鎮守した。この年三回昇進して司空となる。 大統15年には柱国大将軍を拝した。 梁の元帝が候景を倒して即位すると秘密裏に岳陽王・蕭詧を支援、元帝が蕭詧の兄を殺すよう仕向け、蕭詧が西魏に援軍を求め ると中山公・宇文護、大将軍・楊忠らとともに出撃、長江を渡り、16日の篭城戦を経て京師を陥落させた。梁の皇族は悉く殺した ものの民衆を害することなく、10余万の俘虜と劉宋以来の珍宝を得て、蕭詧を仮の梁主につけた上で部隊を整頓、凱旋した。珍宝 は私せずすべて宇文泰に献上した。宇文泰は自ら親しく于謹の家まで出迎え、ともに盃を交わし談笑した。 六官制度を制定、大司徒となる。 世を去るに当たって世子の幼いことを心配した宇文泰から、宇文護とともに後事を托された。宇文泰死後宇文護とともに野心的な 王侯・大臣らを抑え、宇文氏の政権を揺るがせにしなかった。禅譲により孝閔帝が即位すると燕国公とされ、食邑10000戸を下 賜された。李弼、侯漠陳崇らとともに朝政に参与、賀蘭祥が吐谷渾討伐にてこずると自ら兵を率いて出陣、策略を授けて勝利に導いた。 周の保定2年、于謹は老齢を理由に致仕を願い出たが、晋国公宇文護、楚国公豆廬寧も現役で国に尽くしているのに于謹だけを引退 させることは出来ない、という理由で却下された。晋国公宇文護の東伐にあたって、病床の于謹は若輩の士卒たちに兵略を教示し、そ のおかげで周軍は勝利を得た。天和3年没。享年76歳。 ・・・かなり削ったんやけど、それでも長い。推薦理由は 203の下半分。 そーいえば豆廬寧とかもおったね。宇文護とあわせて“三老”といわれたの美形のお人。この人も名将やし、訳そうかいな。 232 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/23(金) 16 25 36 ID aI1KYwKR0 女はバカって決め付ける男って最低だと思う。 女だって読書するし、知性と感性は男とは比べ物にならないぐらい輝いてる。 今の愛読書は吉川英治の三国志、あと月刊同心クオリティ。 三国志は関羽が麦城で籠城して最後死んじゃう所が切なくて泣けちゃう。 つい三国時代の英雄と自分の心情とを重ねちゃうんだよね。 こうして様々な英雄が散っていったと思うとすごく悲しくなる。 やっぱりEIJIは天才だよね。 233 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/23(金) 17 00 08 ID DPdQ5A5i0 231 もう、ほんっっっと、しょうもない指摘で悪いですが 「豆廬寧」の廬は「盧」だと思います! 淮南廬州の廬と、見た目ほとんど一緒なんで間違いやすいですが… 苻堅の苻もよく、符に間違えられるし、暗黙の了解でなんとでもなるけどね。 (…少し前まで自分が廬と盧を間違えていて、最近気がついたからだと言うのは内緒にしておこう) 234 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/23(金) 18 14 22 ID tS6v123eO 231 于謹は戦上手けど、どちらか言えば策士、政治家としての色合いが濃くないですかね? それに韋叔裕はともかく段韶、斛律光の戦績の方が上だと思う。 235 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/23(金) 20 15 24 ID i2hUONey0 【名前】豆盧寧(233氏ありがとう。10年来ずっと間違えとったよ) 【時代】北魏末~西魏・周 【功績と推薦理由】 字は永安。本姓は慕容氏。前燕の傍流の末裔。若くして勇猛果敢、志と気節があり、身の丈8尺、 容姿は端麗で、騎射をよくした。永安年間、爾朱天光とともに入関し、万俟丑奴を討つのに功績が あった。弓技に長け、100歩離れた所で落ちる木の葉に向けて一瞬で7本の矢を射掛け、5本を 命中させるという神業をこなす。爾朱天光敗死後は李弼らとともに宇文泰についた。 北魏の孝武帝が西遷するとこれをむかえて功があり、伯爵に。大統元年、宇文泰の下で竇泰を捕 らえ、弘農を回復し、沙苑で東魏軍を大破して車騎大将軍とされた。七年には于謹に従い稽胡の総 帥・劉平伏を上郡で打ち破る。友人の梁仚定が叛くと平定を命じられ、内心はともあれ非情に徹し て友を撃つ。大統九年、邙山の戦いに参加、西魏大敗の中ひとり気を吐き、局地的ながら勝利を得 て、戦後左衛将軍、范陽郡公に昇進する。十六年、大将軍となり、羌族の主帥・傍乞鉄忽と鄭五醜 らの叛乱を平定。恭帝の二年、梁の王琳が候方児、潘純陁らを派遣して江陵を侵すと蔡祐、鄭永ら を率いてこれを撃破。三年、武興・固道の氐族らが叛乱を起こすと征討、平定する。孝閔帝が即位 すると柱国大将軍を拝し、武成元年、同州の稽胡、郝阿保、劉桑徳らの反乱を伐ってこれを平定す る。凱旋すると楚国公に封ぜられ、食邑10000戸を下賜される。保定四年、宇文護らの東伐に 病を押して従軍するも、行軍中に没した。 推薦理由は・・・とりあえず顔、やろーか(笑)。同じ美男将軍でも高長恭よりこっちのほうが 長生きしたぶん武勲多そうやし。宇文護、于謹とあわせて“三老”と呼ばれるからには《周書》に 記載されとー以上の功績がありそうやが、そのへんの記述はないけんよーわからん。 236 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/23(金) 20 37 44 ID i2hUONey0 于謹の武功の半分くらいは豆盧寧の手柄かもしれん。 参加した戦争がやたら被るし于謹に従っての戦いが多いし。 とすると于謹は帷幕の謀臣・作戦立案者で、 現場で実戦を経験するのは豆盧寧やったりするんやろーか。 となるとこのスレ的には豆盧寧の株が上がって、于謹の株がダウン? 237 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/23(金) 23 06 25 ID B/R6vXIV0 236 江陵攻略の総督していた時、長孫倹も于謹に策略を尋ねたてたりするし、 宇文護と楊忠へ精騎を与えて江津を占領させて、 東からの援軍を遮断させたたりしているし、 推測だけど例えたら、于謹は孫呉の周瑜みたいな立場じゃないのかな。 238 237 sage 2007/02/24(土) 22 18 39 ID gRAaQU8u0 豆盧寧の功績は宇文泰や于謹の指揮下での戦績や反乱を鎮圧したのが多いよね、 于謹と同様に各地を展戦し功績を挙げている李弼が 有力候補にすら入ってないのを見ると、于謹、豆盧寧の十傑入りは厳しいんじゃないかな。 206が言うように重鎮とか戦略家、あと〇〇の指揮下や反乱鎮圧で功績を挙げた武将も このスレでは歓迎されていないように思う。 于謹、豆盧寧より数人が名前を挙げてる高洋の方が良いような気がするけど如何ですかね。 よかったら高洋の推薦文書こうか?(これ以上北朝の武将を増やすのは躊躇いがあるが) 今日も進展ないんだろうな・・・ 239 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/24(土) 22 39 53 ID lZI7/8Cw0 とりあえず 【確定組】 劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、 高歓、宇文泰 【候補】 柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、 斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼 段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達 赫連勃勃、拓跋燾、侯景(宇宙代将軍) 蕭道成、斛律光、陳覇先 ・・・というのが現状。暫定の高歓を高洋に代えて、 同じく暫定の宇文泰を拓跋燾に代えてみてはどーやろ。 あと斛律光、韋叔裕、蘭欽(←個人的嗜好が多分に混ざってます)を推す。 豆盧寧は顔と“三老”の一人って肩書きに惹かれてとりあえず訳しただけやから無視してOK。 于謹はどーやろ? まぁ意地でも執着するってつもりもないし候補落ちでも問題ないです。 ・・・本当に、なんでこう過疎なんやろね。 240 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/24(土) 22 40 30 ID L9vFa+ZB0 お願いします。 私はこの時代は手を出せないので、詳しい人頼みですよ。 無知な私を啓蒙するようなマンセーをお願いしますよ。 241 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/24(土) 22 56 51 ID Q2fDkW120 239 ほんと、ゴメン。 唐、五代過ぎたらまた黙りますけどw 242 237 sage 2007/02/24(土) 23 19 51 ID gRAaQU8u0 239 于謹は先程意見を述べさせて貰ったのが漏れの見解です。 韋叔裕、蘭欽、拓跋 の三名は確定入りでいいと思いますし、 残り枠は斛律光、段韶、高洋から選べばいいかなと思っています。 高歓と宇文泰も無理に外さなくてもいいと思いますよ。 高歓と宇文泰は因縁のライバルだし功績は高洋に決して負けて無いと思いますけど。 (宇文泰は高洋に打ち負かされているけどね) 如何ですかね? ここ数日の間、殆ど◆oOLAqFKRBさんと◆RQdk7scN8sさんと漏れだけで語り合ってるような希ガス(ry 過疎化なのはやっぱ南北朝がマイナーな時代だからなのかな・・・ 243 237 sage 2007/02/24(土) 23 28 06 ID gRAaQU8u0 追伸 ◆RQdk7scN8sさんの客観的な意見またはツッコミをぜひお願いしますよ。 つーか大歓迎しますよw 244 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/24(土) 23 53 56 ID D6caCvtpO 242 おいおい俺も結構話に参加してるんだけど…( `Д´) 245 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 00 09 20 ID sMWZRMju0 自分もーときどきね 拓跋燾が入ってればいいよ と言うか宇文泰が確定で拓跋燾が確定じゃなかったんだ どうしてなのか…理解できない 246 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/25(日) 00 29 56 ID oP5k2IGQ0 245 叩きの時点で「あ、この人功績凄いけど宦官に殺されとるんやが。除外」 って意識が働いたもんで外したんです。すんません。 そのくせ部下に殺された拓跋珪は入れたという・・・我ながら変な選考基準やね。 247 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 02 44 14 ID KdE3R6CP0 北朝でまだ推したい人がいるんだが、偏ってしまうので書きにくい 誰か南朝プリーズ 248 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/25(日) 03 50 51 ID VB/ku5FD0 李靖 戰神、昆沙門天の下世 249 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/25(日) 07 54 52 ID YcJrJNnrO 曾国藩は如何です?元は文官だけど。 250 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/25(日) 08 30 12 ID VB/ku5FD0 曾国藩 李秀成 251 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/25(日) 10 22 22 ID uTBiPFEPO 247 南朝は厳しいっしょ!? 陳覇先は王僧弁の遺臣に悩まされてるから候補どまりだと思う。 王琳は時代や王朝が違えば変わると思うが、やはり厳しいし、 その王琳を破った呉明徹も候補に入れるのは躊躇する。 陳朝の章昭達は、こうやって名前が出るだけで充分だし。 簫摩か(漢字が出ない)にしても名将かと言われれば否だし。 252 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 10 49 24 ID m7lRrmYZO 247 南朝プリーズって言われても推薦したいのいないんだよなぁ~ 取り敢えず挙げるなら曹景宗、王茂、呉明徹ら辺りだな。 でも 251の言う通り呉明徹は推薦するほどではないし、曹景宗、王茂も俺は推薦しない。 それと北朝に偏るから俺は高洋を推薦するのに躊躇があるな。 これ以上候補者を増やすのはどうなんだろうね。 つーか一応名前挙げてみなよ。 253 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 13 27 32 ID EPr/dfx90 陳覇先は敵だった人物をどんどん配下に入れていく度量は好きなんだけど この時代十選に入る名将かと言われると微妙なところだ 蕭摩訶は隋の誰かが言ったように「一夫の用のみ」だしな しかし南朝の人物は確定に四人もいるから別に無理して搾り出さなくてもいいんじゃないか 254 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 14 25 23 ID v6A3yq7p0 251 呉明徹 秦郡・寿春を陥落させ、王琳を滅ぼし、淮南を獲得。 北周に攻め入るも王軌の計略に填まり大敗。 捕われて長安に連行され、そこで病死。 蕭摩訶 呉明徹の下で北伐に従い、その後も呉明徹の下で転戦し、 明毅将軍、武毅将軍・右衛将軍へ累進しているが 呉明徹の死後たびたび北伐を起すも功績を挙げてないし、 隋の南下に抵抗するも隋の賀若弼に捕われている。 晩年は楊諒の謀反に従い処刑されている。 章昭達 陳の文帝から四帝に仕えた。侍中、車騎大将軍となり、さらには司空までなった。 義勇兵を募って建康にはいり、侯景軍を相手に奮戦。 王僧弁の残党、杜龕との呉興を巡る戦いでは第一等の武功を上げ、 陳のみならず陳覇先の信任も得る。 陳の即位後は、皇帝の股肱として重用され、これに応えるように次々に武功を上げてゆく。 王琳を北斉に駆逐した柵口の戦いでは、蕪湖での水戦で王琳軍を大破、勲第一とされた。 周迪の反乱では呉明徹に代わり討伐軍を指揮。 陳宝応が周迪を保護し一挙に叛乱すると、討伐軍の司令官として周迪、陳宝応を相次いで撃破。 ビン中を平定して陳宝応、留異を捕らえる。 これらの武功をもって鎮前将軍、開府儀同三司に任じられている。 しかし安蜀城を攻めた際、李遷哲と陸騰に撃退されてる。 江陵を水攻めにしようとするも、陸騰が出てきて戦うが章昭達は分が悪くなり、退却している。 王琳 湘東王に属して侯景討伐に功を挙げるなど軍功によって累進。 滅梁の後は湖南に大勢力をなし、斉と結んで陳と対立し、文帝のとき滅ぼされた。 以上いろんな所から抜粋。 253の意見に漏れも同意。 まあどっちみち候補入りは厳しいだろう・・・ 255 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 16 36 27 ID sMWZRMju0 246 謝られるとかえって恐縮です うるさいこと言って本当にごめん(北魏好きなので) 拓跋珪を殺したのは拓跋紹(拓跋珪の次子、当時16歳) 札付き少年で、怒った拓跋珪が井戸に逆さ吊りにしたこともある 彼が拓跋珪を殺したのは、拓跋珪に殺されそうになった生母(賀夫人)を助ける為 247 書かないことには始まらないよ 256 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/25(日) 17 45 29 ID uTBiPFEPO 253 おそらく、南朝の劉宋、梁と出てるから、 陳からも候補を出したかったんじゃないのかな? 陳覇先、呉明徹、簫摩訶、章昭達に絞られると思うんだけど、 仮に北朝側に使えても高名を得られるのは、陳覇先のみかな? もはや名前を出す段階じゃなくて、あとは決めるだけでしょ。 257 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 18 32 16 ID v6A3yq7p0 265 いや多分、北朝に偏り過ぎるのを考慮して南朝側からも 候補者を挙げて欲しかったんだろうな。きっと。 漏れもバランスを取る為に南朝側から誰か推薦しようかと思ったが諦めたぐらいだし。 まあ 247が推したい武将がいるみたいだし、挙げてもらうぐらいはいいんじゃない。 258 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 18 36 09 ID v6A3yq7p0 256とアンカー打ち間違えた。スマン 259 247 sage 2007/02/25(日) 19 46 20 ID KdE3R6CP0 257の言うとおり、北朝、それも後期に偏るので南朝に詳しい人にもっと出して欲しかった もう決める段階ということなので、名前だけ投下して消える 宇文憲(斉王憲)、王琳、賀抜勝、高敖曹 260 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/25(日) 21 27 43 ID pqSt5D8y0 【劉宋】 臧貭、魯宗之、沈攸之、柳元景、薛安都(?)、沈慶之、劉誕、劉秀之、 宗越、譚金、呉喜、王宜興、殷孝祖、沈文秀、杜彗度、陳憲。 【南斉】 柳世隆、垣崇祖、張敬児、陳顕達、王玄載、呂安国、周山図、周盤龍、 王広之、載僧静、焦度、曹虎、蕭景先、王融、張沖、裴叔業、王洪範。 ・・・南朝初期の名将・・・というには不足かもしれんがまぁそんな感じの 人たち。梁、陳はあらかた既出なので調べません。つーか余力ないです。まぁ どいつもこいつも10選に入る器とは違うやろーけど、一応名前だけ紹介。 261 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 22 36 00 ID v6A3yq7p0 260 そうなんだよね。 漏れが南朝側から誰か推薦しようかと思ったが諦めた理由は 既に候補に挙がっている人物以外は名将と呼べる程の人物がいないからなんだよな。 それよりもう確定の残り枠を決めていこうか。 262 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/25(日) 23 00 38 ID v6A3yq7p0 【名前】高洋 【時代】南北朝 【推薦理由】侯景の乱に乗じて梁に出兵し、淮南を奪い、郢州で勝利した。 また西魏と争って江陵を奪った。北伐して、契丹・突厥・柔然など諸民族を破り、宇文泰を撃退してるし、その宇文泰に戦闘の才を褒めそやされた位の人物 また楊[小音]ら学者を任用するなど内外に対して国制を整えた。 酒を好んで奇行が多く淫虐を好み、 非常に才能のある人で、戦闘に強く、落ち着き払って大度ある君主で 『資治通鑑』には、高洋のころ周人つねに斉兵の西出を恐れて冬に河を守って氷を砕いたが、 高湛のとき却って斉人氷を砕いて周兵に備うる」と記される。 高洋の推薦文を挙げてなかったので念のため挙げておくよ。 263 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/26(月) 18 53 15 ID PsqbDDaI0 蘭欽、拓跋 、韋叔裕は確定でいいんじゃないかな 俺は高洋と段ショウに一票 264 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/26(月) 23 29 15 ID ABU0aJ6b0 259 宇文憲(斉王憲) 564年北周の尉遅迥と共に洛陽に迫ったが、斛律光に打ち破られている。 570年宇文憲の軍は斛律光に潰滅させられている。 賀抜勝 懐朔鎮を守り、葛栄討伐や北海王元 の平定に従い、 また都督三荊二郢南襄南雍七州諸軍事として梁軍を破っているが 高歓が爾朱氏討伐した時に爾朱仲遠に従って参戦するも高歓に敗れているし 北魏の孝武帝が関中に逃れた際、高歓に対抗しようとして侯景に敗れているし、 後に北還の兵を挙げるも侯景に迎撃され敗退している。 高敖曹 高歓に帰順して爾朱兆を滅ぼした時と 侯景と共に荊州を攻撃、独弧信を敗走させた以外戦績がイマイチ 538年に北周の達奚武に討ち取られているし。 王琳を含め十傑入りは厳しいと思う。 265 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/27(火) 22 05 58 ID q1p5m1xyO 263 韋叔裕は斛律光が確定でないなら、候補以下だろ。 266 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/27(火) 23 01 44 ID bMMRctAy0 265 斛律光は確定でいいんじゃないのか? 韋叔裕を破っているし。 267 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/27(火) 23 03 30 ID M+mKbIQiO 劉裕、 檀道済 韋叡 陳慶之 拓跋 高歓 宇文泰 蘭欽 段韶 高洋 個人的にはこんなかんじかな 段韶を斛律光に代えてもいいけど 268 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/27(火) 23 12 43 ID q21jvMQF0 それを言ったら高歓は韋孝寛に勝てていないし 韋孝寛は策謀で斛律光を殺させている 269 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 02 23 59 ID 04g/9RR60 268 >策謀で斛律光を殺させている これは戦績にカウントするの? 270 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 02 25 09 ID fKtxzfX60 普通はされない 斛律光が外れる要因もさっぱり判らない 彼こそ南北朝時代の代表的名将なのに 271 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 02 56 06 ID 04g/9RR60 策謀により殺されたのがノーカウントなら 斛律光の確定入りには問題無く決定ということで まあ 270の指摘どうり外される要因も見当たらない訳だし 劉裕 檀道済 韋叡 陳慶之 拓跋 高歓 宇文泰 蘭欽 斛律光 高洋 確定は以上の十人でいいかな? 272 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 15 01 21 ID +3uepBVG0 271 高歓の代わりに韋孝寛を入れたらどうか。 高歓、結構負け多いし。 韋孝寛にも負けてる。 273 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/28(水) 20 26 30 ID 3fcOmC6GO 俺も高歓は外したいと思う。 ただ、この時代を象徴する――ということを考えたら入るのかな?とは思った。 274 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 21 13 12 ID 01zQ5ORz0 象徴するというのは、その意味によっては宇宙大償軍が欠かせなくなるので、 深く気にしない方がよいのではないでしょうか。 275 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 22 25 01 ID KzlNdH0r0 これは冗談で言うのだが、いっそ選外というか番外で宇宙大将軍枠というのを作って そこに侯景を入れてしまいましょう。 真面目な話しをすると、 271だったら高歓と宇文泰は外しません?この二人、君主と してはともかく将帥としては配下の方が上のヤツらが揃っているでしょう。 推薦は、宇文泰の代わりに韋叔裕、高歓の代わりに慕容紹宗か段韶で。 ところで、拓跋って拓跋燾のことでいいのよね? 276 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 22 40 27 ID xbugPRMBO 275 じゃあ高歓と宇文泰を外し空いた枠は韋叔裕と段韶がいいと思う 慕容紹宗は韋叔裕、段韶より戦績が劣ると思うし あと俺の場合拓跋 のトウの漢字が変換できないんだ 277 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 23 43 32 ID 04g/9RR60 275 では宇文泰の代わりに韋叔裕、高歓の代わりに段韶で 漏れも慕容紹宗より段韶の方がいいかと思いますし >ところで、拓跋って拓跋籌のことでいいのよね? その通りで漏れはさっき調べるまで字が分からなかったのでそのままコピペしましたw その上変換も出来ませんでした だから当て字でご勘弁を・・・ 278 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/28(水) 23 56 43 ID KzlNdH0r0 276 277 えー、別に責めたりしてるわけでなく単に確認のつもりでした。 御気に触ったらすいません。 では現状で 【確定】 劉裕 檀道済 韋叡 陳慶之 拓跋燾 蘭欽 斛律光 高洋 で候補というか確定入りの案として 「高歓・宇文泰」か「韋叔裕・段韶」のどちらか。現在後者が一歩リード ということでよろし? 279 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/01(木) 00 21 52 ID QUoF+NEA0 拓跋燾→燾。 &を半角 にしてコピペ。 280 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/01(木) 00 26 16 ID gn/agLaYO 宇文泰よりか息子の宇文ヨウの方が名将じゃない? 281 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/01(木) 15 26 31 ID dw40jr3C0 太武帝でいいじゃないか 282 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/01(木) 16 52 12 ID pAyLpTYCO 281 そりゃそうなんだけどそんなこと言うんだったら 劉裕、高歓、宇文泰、高洋も帝号で書いてないじゃん 拓跋燾も名前で書いてあげてもいいだろ? まあ別に識別付くならどっちでもいいけど 283 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/01(木) 21 30 14 ID f45QL7ME0 278さん逆に気を使わせて仕舞い恐縮です ◆RQdk7scN8sさん親切にお教えていただきありがとう 280 宇文泰と宇文ヨウの置かれた状況が違うので どちらが将として優っているかは安易に判断出来ないと思う 284 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/02(金) 22 46 26 ID 6uCi8qQb0 また動きが停まった? だいたい二日たって反論異論がほぼ無いということは、 278で 【確定】 劉裕 檀道済 韋叡 陳慶之 拓跋燾 蘭欽 斛律光 高洋 韋叔裕 段韶 でよろしいということで、次の時代へいってよしということでしょうか? 285 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/02(金) 23 08 00 ID 4DSUpOV5O 284 俺は異論ないよ たぶん明日まで待ってても反論異論はないと思うし、次の時代に移ってもいいんと思うよ 286 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/02(金) 23 18 23 ID scz/XHN9O 難民板の百選スレでも結構中国史の人物について語られてるね 287 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/02(金) 23 20 20 ID 4PzOFmBl0 284 いいよ 288 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/02(金) 23 20 46 ID burmEGiJ0 とうとう唐ですか。 あ、しょうもないこと言ったw とりあえず今日は寝るです。おやすみ。 289 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/02(金) 23 24 37 ID 24u7bz1/0 南北朝は珍しく十人決まったな 隋・唐 【確定組】 楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用 【候補】 韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥 李孝恭、薛仁貴、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、黄巣、高駢 李存孝、安録山、薛礼、劉方、蘇烈、劉仁軌、李光弼、史思明、李愬 ここは大体決まってて、あと二人 290 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/02(金) 23 27 49 ID Db5pa5BL0 玄奘を推すぞ。 孫悟空等、人外の妖怪どもを見事に束ねる統率力は相当なものw 291 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/02(金) 23 34 54 ID wQSlDchu0 李孝恭が二人いる件 292 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/02(金) 23 48 04 ID 4DSUpOV5O 唐の時代を二分割にするのはどうだと今更言ったらやっぱ怒られる? 例えば安禄山の乱までを前半、安禄山の乱以後を後半とかこの案ってどうだろ 290とっとと消えな 293 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/02(金) 23 58 08 ID 24u7bz1/0 291 貼ったあとで気づいた 薛仁貴も二人いるな 294 290 sage 2007/03/03(土) 00 02 38 ID Q30jS8ho0 292 290は軽い冗談。 これぐらいのネタが容認できんようじゃ2ch向きじゃないよ。 それと、君の提案は受け入れられないと思うよ。 今更時代区分を話し合おうとか言うのは、荒らし扱いを受けるだけだろうし。 それと、隋唐は318年間と確かに他に比べて期間は長めではあるけど、 これを2分割するとなると、他に比べて極端に短い期間になるし、 その分のツケが他の時代に回ってくるから、今のままが無難だね。 295 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/03(土) 00 20 07 ID FZddzMuM0 しかしつまらん冗談だ 296 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/03(土) 00 29 17 ID wXoh3GKrO 294 冗談なら別にいいんだけどw いやー南北朝があまりに過疎ってたから思わずキツイ言い方になっちゃった 気を悪くしたらゴメンね 俺の提案は別に却下されてもいいんだけどね ちょっと聞いてみただけだし 297 nekoman 2007/03/03(土) 00 30 27 ID aXgCKWnA0 裏情報アリ http //www.geocities.jp/ijyuuin3/ 298 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/03(土) 04 04 13 ID QqeTWAqp0 279 そういう文字をまとめて辞書に入れられるファイルってどこかにありますか? 299 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/03(土) 15 52 07 ID Fcn9qi5g0 あれ? すると李孝恭は確定、候補どっちなんだろう… 彼の軍歴は今更言うまでもないと思うけど、簡略にまとめてみようか。 唐国公李淵が長安で即位してより、第一線を二子李世民に政治中枢である中原(河南~河北)の平定を委ねた。 その一方で、甥である李孝恭を山南道招慰大使として山南道(おおまかに言って蜀の地方)平定に向かわせた。 李孝恭は巴蜀30余州を平定し、次は江陵に拠った南朝梁の末裔を名乗る蕭銑の討伐を上奏し容れられると 趙郡王として水陸12軍を統率してこれを討滅した。 輔公祐の乱が起きると、李靖、李勣らを指揮下に置き討伐に向かった。 後、揚州大都督となり貞観年間に入って礼部尚書、河間王に封じられた。 禁欲的な従兄弟である李世民に比べ、豪奢で派手好み、性格は磊落、女好きで屋敷には100人ほどの歌姫を囲ったとか。 それでいて功績を誇らず、李世民に深く信頼された。 つまり、李世民が北で暴れていた頃、南の経略に走っていたという感じ。 300 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/03(土) 17 18 57 ID 82O9Tjv20 江南の蕭銑平定は実質李靖がやったようなもんじゃないのかな 李靖のいうこと聞かずに大敗したりしてるし 隋が陳平定したとき楊広が総司令官だったような感じとは違うの?
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登録日:2021/03/08 Mon 21 30 23 更新日:2024/04/23 Tue 16 01 51NEW! 所要時間:約 50 分で読めます ▽タグ一覧 Imperial examination ×科拳 エリート カンニング コメント欄ログ化項目 テスト 中国 中国史 儒教 元 勉強になる項目 南北朝 名士 君子 唐 四書五経 地獄 士大夫 学歴 宋 官僚 実力主義 役人 所要時間30分以上の項目 文化 文治主義 明 暗記 李徴 歴史 気合いの入った項目 状元 秀逸な項目 科挙 試験 詩 資格 資格試験 追記修正のハードルが高すぎる項目 進士 隋 難関 麻雀の役? 富 家 不 用 買 良 田 書 中 自 有 千 鍾 粟 ~「金持ちになりたい?なら田畑を買わなくていいよ、勉強しなさい」~ 安 居 不 用 架 高 堂 書 中 自 有 黄 金 屋 ~「いい家に住みたい?なら一等地を探さなくていいよ、勉強しなさい」~ 出 門 莫 恨 無 人 随 書 中 車 馬 多 如 簇 ~「たくさんの使用人が欲しい?なら求人を出さなくていいよ、勉強しなさい」~ 娶 妻 莫 恨 無 良 媒 書 中 有 女 顔 如 玉 ~「美人の奥さんが欲しい?なら婚活をしなくていいよ、勉強しなさい」~ 男 児 欲 遂 平 生 志 六 経 勤 向 窓 前 読 ~「要するにだ。男が何か願いを叶えたいのなら、勉強して科挙に合格しなさい」~ ※よくある誤解※ Q.「要するに暗記が全てなんでしょ?」 A.違います。 「膨大な量の文書を暗記して、初めてスタートラインに立てる」といった所です。 Q.「詩や文学の試験ばかりだったの?」 A.違います。 作詩は確かに重要な試験の一つでしたが、それが全部ではありません。 Q.「例えて言えば、東大入試や司法試験とかぐらい難しいんだよね?」 A.違います。 そういう次元じゃないぐらいの超高難易度です。 + 目次 【概要】 【試験の内容】1.「経書(けいしょ)」 2.「韻文(いんぶん)」 3.「散文(さんぶん)」 【科挙の流れ】1.「郷試」(地方試験) 2.「省試/会試」(中央試験) 3.「殿試」(御前試験) 【科挙の会場と日程】 【不正行為】<会場内での不正行為>「カンペ類持ち込み」 「他人の答案を見る」 「替え玉受験」 「答案交換」 <会場外での不正行為>「多重受験」 「関節」 「問題漏洩」 【受験資格】 【倍率ってどれぐらい?】 【なんでそこまで科挙に合格したがったの?】 【科挙の功罪】<評価点>「中央集権化に便利」 「地方の現状が中央に伝わりやすい」 「優秀な人物が要職につける」 「エリート意識が強い(いい意味で)」 「野心的な人物を国家に吸収できる」 「文民統制に有利」 「教育事業、また文化が発展する」 「平等な政治的権利がある」 「年功序列による弊害が抑えられる」 「試験が公正かつ正確」 <失敗点>「勉強がデキる人=官僚に向いた人」ではない 「エリート意識が強い(悪い意味で)」 「文民統制の弊害」 「人材の吸収にも限度がある」 「実務力に欠けがち」 「試験のための学問になっている」 「自然科学の発展を妨げた?」 「実際は貧乏人の合格は難しい」 「そもそも試験で人材の質を判断するってどうなの?」 【科挙のおおざっぱな歴史】<創設以前> <初期科挙> <中期科挙> <後期科挙> <終焉> 【文化としての科挙】 【概要】 科挙(かきょ)(英語 Imperial examination)とは、中国王朝における「身分を問わず、試験によって役人を登用する制度」の事。 ただしこの場合の「役人」とは、現代で言う町役場のお姉さんとか交番のお巡りさんの様な「公務員全般」の事ではない。 そういう「普通の公務員」に相当するのは「胥吏」と呼ばれる(非正規の)地方事務員で、科挙合格者が登用されるのはその上に立つ「官僚」である高級ゼネラリストなのである。 あえて現代で例えるなら、一般的なノンキャリア公務員に対するキャリア官僚に当たるだろうか。 また「登用する」という表現も実は正確ではなく、厳密に言うと「役人になれる身分を与える制度」とするのが正しい。 科挙に合格した人は「進士(貢士)」等と呼ばれる一種の特権身分となり、各種免税・減税措置を受けたり一般刑法の適用外になったりする等の多くの優遇措置の対象となるが、この身分が同時に官僚就任の資格でもあるのだ。 よって必ずしも「役人=科挙合格者」というわけではない。 世襲や推薦等で科挙を通らず役人になった人もいるし、また逆に科挙に合格したが役人にはならず地方に戻って学者等になった人もいる。 そして科挙とは単なる人材登用システムというだけではなく、 知的エリート層に登用という「見返り」を示す事で、自発的な国家への忠誠心・順法精神を育てる 中国全土から人員を採用する事で地方の実情を中央へ伝えさせ、政治に反映させる 各地方に対して同じテクストを使わせて同じ試験を目指させる事で、広大な国土と多くの民族の文化的同一性を維持する 等といった具合に地方と中央、社会の下と上とをつなぐ「統治システム」としての側面も持っていた。 【試験の内容】 大原則として、科挙の試験では「君子であるか否か」が問われる。 「君子」とは中国で古くから「人間としての理想像」と考えれられていた人物像の事で、 高い倫理学(主に儒教の教え)を身につけている 歴史を学んでおり、そこから教訓を得ている 文章力がある 人格円満で、正義感が強い といった、所謂「徳がある」人の事を指す。 特に倫理学を持つ事は最優先項目とされているが、これは中国の歴代王朝に受け継がれてきた「徳化(徳治主義)」という施政方針によるもの。 徳化というのは、簡単に言うと 「法を厳密に適用したり犯罪者を取り締まったりするのも大事だが、それは対症療法に過ぎない。 それより人としての”正しい在り方”を広め、国民の道徳的な質を上げる事こそが根本療法なのだ」 ……という考え方。 この考えに基づくと、国家の要職にある者には「倫理を身につけ、それを行動や文書、裁判などによって模範として国民に示せるかどうか」 つまり「優れた君子であるか否か」が何よりも重要になってくるのである。 なので君子の資格の有無を見極める為に、具体的には以下の3科目が課される。 1.「経書(けいしょ)」 「儒教の経典に精通しているか」を問う試験。率直に言えば穴埋め問題。 帖経、墨義、経義など時代によって様々なバリエーションがある。 基本的にはどの時代でも「経書(儒教や歴史のテクスト)の一節が一部隠された状態で示されるので、その部分を埋める」という感じの暗記問題である。 選択肢などといった親切なものはなく、誤字脱字も無論減点されるため、一字一句違えない完全暗記が要求される。 また試験によっては単なる穴埋めだけではなく、「その部分の意味や歴史的背景を解説する小論文」も求められる事がある。 それも「ここはこういう意味。ソースは俺(キリッ」という様な俺流スタイルはNG。歴史上の儒学者達が残した権威ある注釈本に根拠を求めつつ書かねばならない。 使用されるテクストも時代によって異なる。 初期~中期の科挙では儒教の基礎テクスト5冊、通称「五経」の中から1つ選ぶ選択制で、暗記量もせいぜい数万字程度だった。 だが制度が煮詰まった後期科挙ではどんどん増えていき、最終的に清後期に至っては「五経」+「四書」を全部になった。 これは40~60万字で、当wikiなら冒頭の所要時間が「800分~1200分で読めます」となる位の量。最低でも半日以上、最悪一日がかりじゃないか! 更に注釈本も膨大な量になって加わるため、最終的な暗記量は軽く倍以上になってしまう。 科挙に対する「暗記地獄」というイメージの主因は間違いなくこれのせい。 2.「韻文(いんぶん)」 文章力や詩才を問う試験。漢詩や賦(漢詩よりも長めの韻文)、銘文等を作る問題。 慣用句や古典等からお題が与えられ、それを詠った詩や賦を作る事が多いが、加えて音韻に対する指定等が入る事もある。 役人と詩に何の関係があるの?と思われるだろうが、「詩→文学→芸術→遊び」という様な現代的な連想を持ってくるのはちょっと違う。 中国では古来、思想や道徳を文章によって表し、またそれによって人民を教化し導く事は、君子にとって最も望ましい行いとされていた。 曹魏の文帝が「文章は国家の最重要事項である」と述べたのは有名である。 そして文章の中でも最高位にあたるのが詩とされ、「優れた君子ならば必ずその資質が、教養が、詩へと反映されるものだ」と考えられていたのである。 とはいっても現実問題として「詩を作るのが上手い人=政治が上手い人」なんて事はそうそうない。 そのため実践派の科挙官僚や皇帝からは「君子と関係ないだろこんなの」と廃止される事もあった。 が、その度に揺り戻しがあっては復活し、結局科挙の終わりまで試験項目の一つであり続けた。 3.「散文(さんぶん)」 歴史や経書から教訓を得ているか、また実際の政治にそれを活かせる見識があるかを問う論文試験。 科挙のルーツは「在野の高名な君子に、現在の政治的課題に対する意見(策)を書かせる」というシステムにあるので、まさにこれこそが科挙の基本にして極意と言える問題かも。 論、策、策問など詳細に分けると幾つか種類はあるが、 「政府内で派閥抗争が激化しているが、どう対処すればよいと思うか?」 「古典にこういう一節があるが、これに対して思う所を述べよ」 等といった時事や古典、政治理論に関する課題が出され、それについて書いた論文を作成するというもの。 当然この場合も「ソースは俺」式では駄目。 「かつて○○の時代、△△が××をした事があり、それを踏まえますと私としてはかように思うものであります」といった感じで、故事や古人の言などを根拠としつつ書かねばならない。 ……とまあ、これら3点セットがどの試験でも基本となる。 見ての通り、どの試験でも「各種儒教・文学・歴史の、深遠かつ巨細な知識」が要求される。 そのため科挙合格を目指すのならまずひたすらに膨大な書物を読み、理解し、覚える事が大前提になる。 また科目が多かった初期科挙では、これら3科目に加え 「法」……法律の試験 「算」……数学(計算)力を試す試験 「書」……書道の試験 等の科目が設けられた事もあった。 現代的な感覚からするとむしろこっちの方が役人として重要なんじゃね?と思われるかもしれないが、前述の通り科挙官僚は半ば管理職専門の高級官僚なので、現場実務力が問われる訳ではない。 また儒教の祖である孔子が「君子不器(*1)」と言った様に、君子とは特定の分野に特化するのではなく、必要に応じて何でもこなせる完璧超人である事が要求される。 つまり軍官になれば軍務と軍人を使いこなす知識を、行政官になれば政務と胥吏を使いこなす知識を、裁判官になれば法知識と法廷の運営を…… といった具合に、「今の自身の仕事に必要なものを、高い職業倫理と高遠な知識を活かして、速やかに身につけられる(つけろ)」とされていたのである。 あえて現代的に言うなら、科挙は「基礎スペックが高い人」を求める試験であり、つまり「基礎スペックが高いなら、何の仕事やったって十分にこなせるでしょ?」という様な若干モヤる感覚に近いかもしれない。 【科挙の流れ】 科挙は基本的に1回の試験ではなく、複数の段階に分かれた多段階試験である。 細部は時代によって変わるが、中期の科挙を例にとると 1.「郷試」(地方試験) 現代日本で言うと都道府県レベルで行われる地方試験。 各地方の首府に設けられた会場で試験が行われ、これに合格した者だけが次の段階に進める。 ちなみに後期科挙では、これに合格した時点で「挙人」という準官僚資格が与えられる様になり、その資格で役人になる者も増えた。 2.「省試/会試」(中央試験) 首都の中央官庁で行われる試験。いわば科挙の「本番」にあたる。 この次の試験では基本不合格が出ないので、ここが事実上の最終試験に当たる。 3.「殿試」(御前試験) 会試を突破した者だけに課される最後の試験。なんと宮殿内にて皇帝の御前で皇帝自身が試験官となり行われる。 とは言え学力は圧倒的に皇帝<<<受験生なので、実際の採点は皇帝側近の先輩官僚達が行うのが基本。 これを終えると前述した科挙受験生のアルティメットフォームこと「進士(しんし)」の身分が与えられる。 導入当初はきっちりと合否を出す文字通りの最終テストだったが、1057年に様々な理由から落第者を原則出さず順位だけを決める試験となった。 ……以上の3段階で構成されており、試験内容はどの段階でも先述の3点セットが課されていた。(殿試のみ、散文か韻文のどちらか1問) 試験の間隔は初期は不定期だったが、中期科挙からは3年に1度が基本になる。 【科挙の会場と日程】 法律により子年、卯年、午年、酉年、つまり3年ごとに行われることが定められている。ただし天子の即位など国内で大きな慶事が行われた時に「恩科」と呼ばれる臨時の試験も存在した。 試験に用いられる施設は「貢院(こういん)」と呼ばれる。 初期の頃は期間中どこかの官舎を借り切る様な事もあり、それなりに優雅でのどかな試験風景だったとか。 暗記科目以外は資料の持ち込みも許されていたし、受験生同士の接触についてもさして問題視されなかったらしい。 しかし中期以降は受験者数が増えまくった為に、専門の貢院が使われる事が増える。 この貢院、現在では観光地となっているものも多い……が、現代人が見ると「留置場かな?」「刑務所じゃん?」「いやいや公衆トイレっしょ?」「独房」等といった素敵な感想が出てくること請け合いなシロモノがほとんど。 例えば有名な南京の郷試用会場は、受験生1人に与えられる部屋は面積わずか1.1㎡。 数字で言われてもピンと来ない方も多いだろうから身近なものを挙げると、 シングルベッドが約1.9㎡ 「起きて半畳寝て一畳」なんて言われる畳一畳が約1.8㎡ 2015年以降のホームエレベーターの基準面積が1.3㎡ といった具合。閉所恐怖症だと普通に発狂しそうなレベルで狭い。 このような環境では熱中症の心配もあるため、この時代の科挙は受験生に配慮し秋が深まった9月14日頃に行われ、試験最終日には受験生が中秋の名月を眺める光景も恒例行事であった。 日程は基本的に各科目1日ずつ、合計3日間かけて行われるのが普通。だが不正防止のため受験中は外部へ出る事が許されない。 つまり食事や睡眠(*2)は、3日間全てこの貢院の小部屋内で済ませる事になる。よって布団や着替えは勿論、食料や自炊用具なども持ち込む必要がある。 部屋(?)の中には机・椅子・ベッドの様な気の利いたものは勿論なく、両側の壁の間にぴったりに収まる板が3枚程あるだけ。 これを椅子の高さに1枚、机の高さに1枚張り渡してそれぞれの代わりにするという訳だ。(寝る時は床板代わりにもなる) 現代なら確実に人権侵害で訴えられそうな会場であり、科挙は学力以前に体力や精神力も要求される試験であった。 【不正行為】 google先生に「科挙」と打ち込めば即「カンニング」とサジェストされるぐらい「科挙=カンニング」なイメージは固い。 実際、科挙の歴史はそのまま不正との戦いの歴史といっても良く、ありとあらゆる手段による不正が試みられてきた。 <会場内での不正行為> 「カンペ類持ち込み」 定番中の定番。教科書で「カンニング肌着」等を見た事がある人も多いかも。 無論それ以外にも 服や私物に紛れ込ませるカンペ 様々な所に隠せる様にしたカンニング専用の豆本 何かに偽装した本そのもの などなど、バリエーションは多彩である。 会場に入る前には「饅頭を割って中身まで調べる」と言われた程のチェックが入るが、やる側もありとあらゆる手段でこれを潜り抜けた。 具体的な手段も 工夫と根性で隠し抜く 番兵(貢院内の不正監視は兵士が行っていた)を買収する プロの「持ち込み屋」を雇う などこちらも様々。 番兵は受験生の不正を見つけると多額の報奨金が出たので全力で監視していたが、つまり報奨金以上の額を出せば買収も不可能ではないという事になる。 ただこうした番兵抱き込みの対策として、番兵には科挙官僚と対立関係にある宦官指揮下の兵士が使われる事が多かった。 「他人の答案を見る」 これまた定番。 ただしそれぞれが個室で解答している性質上、壁で阻まれた他人の回答を見るのはかなり難しい。 最大の機会はトイレに立つ時だが、この際にも「トイレに行く前と後に答案を確認される」「行った回数や時間が記録され、疑わしい事があると回答と照合される」などの多重チェックがあり、これをかいくぐるのもかなり難しかった。 ちなみにこれらのチェックは全受験生に平等に適用される為、疑いがかかるのを避けるべく最初からボトラーになってしまう受験生も多かったという。 汚ぇ!! 「替え玉受験」 この手の不正行為としては大規模なものだが、写真がなく戸籍の管理もあいまいな当時ではかなり有効な手段だった。 防止策として、 本人確認の為の身元保証人(*3) 受験票作成時に身体的特徴を記録する 回答文の最初数文字を書かせる疑似パスワード 筆跡鑑定 などがある。 またそもそも「自分で科挙は目指さないが、科挙に合格できるぐらいの学力があり、かつ犯罪も平気」な人間など当時でも極めて希少。 プロに依頼するには凄まじい金が必要であった。 「答案交換」 替え玉の変化形。模範答案を作るプロ受験者を潜り込ませ、隙を見て回答用紙を入れ替えて貰うというもの。 前述の通り受験生に対する番兵の監視は厳しいが、この場合は交換するだけなのでリスクやコストが少なくて済むのが利点。 ただし人材の確保が難しい点は替え玉と同様。 <会場外での不正行為> 「多重受験」 基本的に科挙は1度の開催につき1回、つまり一か所(一般には本籍地)でしか受験できない。 が、前述した様に当時は厳密な本人確認が難しいので戸籍をごまかす事もできなくはなかった。 「関節」 ここでは身体の節目の事ではなく、科挙の用語で「試験官を買収し不正に合格させてもらう事」を指す。 不正行為としては最強クラスの有効性を持つ必殺技で、会場外不正の代表的存在。 科挙の最初期から見られるが、その分様々な対策がとられており、 回答用紙冒頭の記名部分を糊で封印した上で切り離し、別に保管する「封彌法」 その回答用紙を更に書記が別の用紙に書き写し、コピー側を審査官に渡す事で受験者の筆跡をわからなくする「謄録法」 などで、不正合格させようにもその相手を特定できない様にされていた。 ……のだが、不正者側も「文章の冒頭に必ず特定の字を使う」とか、「詩の○行目に▽▽という字を入れる」等といった特定法を試験官と示し合わせる事で回避できた。 この為本気でやられてしまうと防ぐ方法はほぼ無かったが、その代わりこの方法はやるまでが大変だった。 試験官の任につくのは科挙官僚の中でも地位も金もある中堅クラス以上の人員が主。 更に実際にはその個人補佐官達も審査に加わるため彼ら全てを抱き込むには莫大な金、また強力なコネが要求された。 また発覚すれば当然厳罰が待っているためリスクも非常に高く、金とコネがあっても引き受けてくれるとは限らなかったのだ。 「問題漏洩」 関節のソフト版で、事前に試験官などから試験の内容を教えてもらうという不正。 入手した内容を元に、儒学者や詩人等に回答の作成を依頼しておくとなおベネ(*4)。 関節ほど強力な手段ではないが、その代わり相応にバレるリスクも低い。 対策としては、 任命直後から審査完了まで試験官を会場にカンヅメにし、外部との接触を一切断つシステム『即日入院』 試験にあたる試験官はギリギリまで発表しない 等があった。 ……などなど、多彩な不正行為&不正対策が存在していたが、実はどの不正行為も「これがあれば合格確実」と言える程の効力はなかったりする。 カンペ類の持ち込みはそれ自体では暗記の補助にしか使えない為、経書試験にしか効果がない。 関節は非常に強力だが、試験官はそれぞれの段階で別なので、全ての試験官を抱き込むというのは不可能に近い。 またインチキだけで上がっていくと、皇帝の御前で行われる公開試験で素の学力がバレてしまう。 それなりの実力がなければあまりにもリスキーと言わざるを得ない。 初期の科挙では貴族のゴリ押しがまかり通っていた時代もあったが、中期以降の科挙では「全く実力がないままに進士になる」事はほぼ不可能になった。 後期科挙にもなると3代以上続けて進士を出せた家は存在しなくなった。 ちなみにカンニング行為に対する罰則だが、時代や段階によって結構違うものの、基本現代の入試や資格試験とは比較にならない程に厳しかった。 一応受験者は「エリート予備群」として扱われる為、本来庶民向けとされる肉刑(*5)などは少なく、 一定期間(場合によっては残り一生)の科挙受験禁止 身分(場合によっては親族も)はく奪 など、割とソフト?な刑が実は一般的。まあぶっちゃけどちらも士大夫にとって死刑も同然の刑ではあるのだが…… ただしこれらの刑罰は、カンペ類持ち込みや他人との接触等の、いわば「個人的な」カンニングに関するもの。 関節など複数の人数がからむ不正だと一気に罪が重くなり、カンニングした者とカンニング関係者がまとめてごっそり死刑の上に財産没収とかも珍しく無くなってくる。 そして中期以降の科挙の場合、刑罰以前に発覚した時点で周りの受験生から私的リンチを受けてヤバい事になる可能性が割とある 現代中国でも、大学入試等で特に組織的なカンニングをした者は7年以下の実刑判決を受けることがある。 【受験資格】 一般に科挙には「誰でも受験できる平等な制度!」というイメージがある。 これはまあ間違いではないが、この場合の「誰でも」というのはあくまでも昔の常識における「誰でも」で、現代的な意味での「誰でも」ではない。 具体的に言うと試験の資格を持つのは「良民」の「男子」に限られている。 女子は当然ダメで、加えて 前科者 芸能人 商人 職人 奴隷 召使い 警察の下働き関係者 などに引っかかる者も受験禁止、またその家族や子孫何代目かまでの者も受験を禁止されていた。 ただしこの禁止規定には時代や地方によって結構差があり、色々と「裏技」による抜け道もあった為、必ずしも守られていたとは言いがたかったりする。 更にこれとは別方向の禁止規定として、良民であっても 服喪中(父母などが死んでから3年以内)の者 僧侶 などの受験も禁止されていた。 服喪中の受験が禁止なのは、儒教では両親への服喪を極めて重視しているので、その期間中はひたすら身を慎んで悲しむ事が要求されていたため。 要するに「服喪中に堂々と表に出て受験に来る様なやつは君子じゃねえ!」ということ。 僧侶に関しては、当時彼らも国家認定を受けた者であったため。 いってみれば彼らも(科挙官僚とは別の分野の)役人だったので、二足の草鞋はダメ!という観点から禁止されていた。 なお年齢は一切問わない為、70歳の老人であろうが10代前半の子供であろうが受験できたし、実際に合格例もあった。 合格時の平均年齢は36歳ほどとされ、70歳を超えたあたりから採点が甘くなり、いわば努力賞として名誉合格した老人も多かったとされるが、この場合役人の定年が70歳であるため役人にはなれない。だがそれでも進士の称号を得られるのは大変魅力的なことであった。 また外国人の受験も別に禁止されてはいなかったが、外国籍の留学生等の場合は基本的に「外国籍者向けコース」の特別な科挙があった。 どちらも受けられるなら人数が少なく競争率が低いこちらを受ける事が多く、普通の科挙に挑戦する事はあまりなかったようだ。 【倍率ってどれぐらい?】 時代や状況などによってだいぶ違う。 隋~唐辺りの初期科挙では受験の為のハードルが高かった事から、合格率も10%とか20%、低くても1%とか2%といったまぁ超難関大学の合格率くらいと言えるだろう。 だが宋代になって制度が完成すると受験者数も激烈なカーブで上がり続け、南宋の最盛期では0.01%とか0.02%等の凄まじいまでの低合格率をたたき出している。 更にこれが明~清の後期科挙になると、プレ試験過程の合格率が1~2%で、本試験の合格率が0.2%という想像を絶する世界に突入。 合計すると合格率はまさかの0.004%。10万人が受けて合格できるのが4人だけ、というありえないレベルの超絶狭き門に。 ちなみに参考までに言うと、「日本で一番難しい試験」として有名だった試験制度改革前の司法試験が合格率2%、世界有数の難関として知られるハーバード大学の合格倍率が5%前後といった所。(*6) 【なんでそこまで科挙に合格したがったの?】 中国文明においては、根本的に「人間なら徳を高めるべきで、徳の高い人間なら周囲の人に徳を及ぼすべきで、周囲に徳を及ぼせる人なら政治に関わって国全体に徳を及ぼすべき」とされている。 このため「政治家は全ての人間が目指すべき最高の職業である」と考えられており、「知性と教養がある人間ならば当然科挙合格を目的とすべきだ」というのはエリート層に共通する認識だった。 ……とはいえ、そんなイキり使命感のみで地獄の受験勉強を戦い続けられる人は当然ながら少数派。 莫大な数の人間が数十年に渡る勉強漬けに耐えていたのは、その努力に相応の「見返り」があったからなのだ。 まず一つは、当然というべきか「金」。 正規官僚の給料は(時代にもよるが)新人でも兵士の数倍~十数倍の額になったし、更にはそこに家族を含めた税金上の特権が加わる。え?兵士の給料が安すぎるだけだって? 更に地方官や中央高官といった統治権をもつ役職に就けた場合、当然の様にその権力に金が群がってくる。ストレートな意味での「賄賂」は勿論、御機嫌伺いの為の「ご挨拶」ですら莫大な額になった。 また各地方の実権を一手に握る地方官は財政上の独立性も高く、任期中は自分の財布と地方の財布が区別できなくなるのがデフォで、賄賂を一切拒否する様なマジメな地方官ですら「3年務めれば大金持ちになっている」とされるほどだった。 そしてもう一つの理由が、金と同じぐらい重要な「名誉」である。 金持ちと言うなら大商人だって同じだが、儒教、特に朱子学的価値観の下での商人は「生産者と消費者の間に割って入り、不当にマージンを得る者」と軽蔑される存在だった(*7)。別に転売ヤーの事を言ってる訳ではないぞ!本当さ! 富裕な大商人となれば当然高級官僚との付き合いも増えるが、それはつまり彼らにマウントを取られる機会が増えるという事でもあるのだ。 これに対し、科挙官僚は最も名誉ある職業とみなされており、閑職にある最下級の役人(地方の教職とか)ですら、民衆の敬意を受ける事ができた。 またその2つに劣らず重要なのが「コネ」だろう。 科挙に合格するという事はつまり「君子」となった事であり、つまりそのまま君子で構成される上流社会へのパスポートにもなった。 現代ですら「結局社会に出てものを言うのは人脈」とよく言われるが、当時にあっては尚更である。 科挙合格者という時点で「どこの誰にでも通用する万能紹介状」を持っているに等しく、粗略な扱いを受けるという事はまずない。官界だろうが経済界だろうが、人脈を築いたり「口利き」をする際などには果てしなく有利な資格となった。 【科挙の功罪】 <評価点> 「中央集権化に便利」 科挙というのは本来、西晋~南北朝にかけて発展した世襲貴族に対する対抗策として発展したもの。 試験によって選抜された官僚は、 地位を世襲できず、無制限に大きくなる心配がない 試験によってのみ選ばれるため、一族によって要職を独占する事ができない 私有地を統治する訳ではないため、地域と結びつきにくい 利害関係が国家中枢(皇帝)と概ね一致する などといった特徴を持ち、常に割拠したがる貴族を抑制して皇帝の下に権力を集中するには極めて都合のいい存在だった。 「地方の現状が中央に伝わりやすい」 科挙は中国全土で行われ、しかも各地方ごとに定員が割り振られていた為、合格者は「中央政界における、出身地の代弁者」という側面も持っていた。 科挙官僚は出身地への赴任こそ禁じられていたが、しかし生まれ育った土地とは様々な形で生涯つながりを持ち続けるのが普通だった。 よって彼らには地方の生の声が伝わりやすく、それを中央での政治に活かす事ができた。 これは現代民主国家の代議士にも通じる部分である。 「優秀な人物が要職につける」 生まれつきの身分で職が決まってしまう貴族制に比べ、人材の質が当然高くなる。 まあ必ずしも「科挙官僚=有能」とは限らないが、少なくとも「9歳の地方長官」とか「読み書きすらできない宰相」なんて人事が生まれる可能性はなくなる。 「エリート意識が強い(いい意味で)」 科挙合格者は頭脳と知識、努力によってその座をつかみ取った人であり、また儒教は「個人にとって、人間同士にとって、国家にとって正しい方法とは何か」を説いた学問である。 これらの要素が組み合わさった結果、科挙合格者は、強い問題意識と使命感を持ち、自信とプライドによってそれを支えるという、典型的なエリートタイプが多くなった。 そしてこうしたエリート意識の強さがいい方向に作用した時、優れた政治家や将軍が生まれる事になった。 「野心的な人物を国家に吸収できる」 古今東西、優れた能力と、それにふさわしい野心を持っている人物というのはあらゆる社会に常にいる。 そうした人は社会に活力を与えるが、インセンティブに乏しい(例えば身分制が厳格とか)仕組みの国家の場合、その仕組みそのものを敵とする「挑戦者」になってしまう事もよくある。 しかし合法的に国家の最上層を目指せる科挙という制度によって、そうした優れた人材を国家に吸収しつつ、同時に彼らが秩序への挑戦者となる可能性を未然に防ぐ事ができた。 「文民統制に有利」 中期以降の科挙制度では、高級軍人も「背広組」である科挙官僚の統制下に置かれ、強力な文民統制が実現していた。 中央集権体制の弱点の一つに「クーデターに弱い」というものがあるが、その解決手段としても有効だった。 「教育事業、また文化が発展する」 科挙の隆盛は、同時に塾や家庭教師、テキストや受験書の出版・流通・販売といった民間の教育ビジネスを大いに発展させた。 また膨大な数の科挙受験者は、そのまま「教養のある消費者」でもあり、彼らを支持層とした文芸の発展も促す事になる。 あと、科挙をやる過程で価値観が統一されるので、教材や創作物が売りやすくなる。 「平等な政治的権利がある」 もちろん現代の民主主義社会に比べれば不完全だが、時代を考えれば「貧乏農家の息子であっても、合法的に一国の宰相にもなれる」というのは驚異的に平等なシステムと言え、中国の歴代王朝が広大な領土を長く治める事ができた要因の一つともされる。 「年功序列による弊害が抑えられる」 儒教は本来「長幼の序」、つまり「年長者を敬わねばならない」という鉄則があり、それを素直に解釈すると極端な年功序列が生まれ、業務上様々な問題を引き起こす事がある。くそっまた儒教か!? しかし科挙とは完全に学力だけで優劣を決める制度で、合格年齢も完全にバラバラだった為、それを勝ち抜いてきた科挙官僚達は必然的に実力主義的なルールで動く事になった。 この為「個人としては年長者に敬意を欠かすべきではないが、しかし職務上ではまた別」というスタンスが科挙官僚の基本となり、年功序列がもたらす弊害を抑えていた。 「試験が公正かつ正確」 筆記試験であり、点数という公正明白な試験に身分、人格、容姿に関係なく人物を試験することができる。もちろんこの利点は現代の教育にも生きている先進的な考えである。 欧州でも、中国で布教活動をした宣教師によって科挙が伝わり、科挙をモデルとした筆記試験が行われた。 <失敗点> 「勉強がデキる人=官僚に向いた人」ではない 現代でもよく言われる事だが、「勉強がデキる人=頭がいい人」とは限らないし、「頭がいい人=仕事がデキる人」という訳でもなく、「仕事がデキる人=官僚に向いた人」と言い切るのも無理がある。 だが科挙で選ばれるのは基本「勉強がデキる人」に過ぎないため、必ずしも官僚に向いた人材が登用される訳ではなかった。 「エリート意識が強い(悪い意味で)」 エリート意識とは決して良い方向にばかり働く訳ではない。 悪い方に転じれば「強い自己確信性」「特権意識の強さ」「過剰なプライド」「協調性のなさ」「逆境に弱い」等といった欠点も当然現れてくる。 よって 汚職を働いても当然と思っている 胥吏を低学歴と馬鹿にして軽んじ、ますます実務に疎くなる プライドが高すぎて建設的な議論ができず、全否定の応酬になる といったダメ官僚も多数生んできた。 「文民統制の弊害」 文民統制は国家の安定にとって有効だが、行き過ぎると軍事力の弱体化にもつながってしまう。 古くから「入りては相、出でては将(宮廷にいる時は行政官、宮廷を出たら将軍)」と言われる通り、士たる者は文武の能力を兼ね備えていて当然とされていた。 しかし実際にそうそう上手くいく訳もなく、科挙官僚が指揮する正規軍は、叩き上げに指揮されるそれに比べてどうにも劣る事が少なくなかった。 このため異民族や反乱軍との戦闘が激化すると、結局士気の高い義勇兵や地元有力者の私兵等に頼る羽目になり、彼らが軍閥化して国家の安定を脅かす事も少なくなかった。 「人材の吸収にも限度がある」 特に後期の科挙に顕著だが、野心のある人間を吸収できるといっても、無制限に官僚を増やせる訳ではない以上、そこには物理的限界が出てくる。 倍率が上がっていくにつれて当然この傾向は強くなり、後期科挙になるともはや合格は運ゲーだった為、野心的な人間をあらかじめ飼い殺しにするという目的はもはや果たせなくなっていった。 「実務力に欠けがち」 先述の通り科挙官僚は管理&重大な決裁を専門とした職で、大型の裁判などを除けば細かな実務はほぼ胥吏の担当だった。 つまり現場実務を経験しないまま管理職に直行という事になるが、自分でやった事のない仕事を管理するのは難しいし、ましてや胥吏は長年経験を積んできた専門家である。 このため地方統治においては「官僚が胥吏を制御できてない」「官僚が胥吏と結託して、あるいは抱き込まれて汚職をやっている」等の事態が多発する事になった。 「試験のための学問になっている」 科挙の目的は本来「儒教を学んだ人材を、高い地位につける」為の物だったが、制度の発展と共に逆転し「高い地位につく為に、儒教を学ぶ」様に変わっていく。 孔子が「先行其言而後従之(*8)」と戒めた様に儒教は本来実践(徳行)をこそ重んじる学問なのだが、熾烈な受験競争の中では「実践なんかより勉強!暗記!」とならざるを得なかった。 当然真面目な官僚や儒学者からは「あの連中って受験対策やってるだけで、儒教を学んでいる訳じゃないよね」と非難されたがその流れは止まらず、ついには「勉強だけが尊い行為で、それ以外は卑しい俗事」とか本末転倒な事まで言われる程になってしまった。 「自然科学の発展を妨げた?」 所謂「世界三大発明」が全部中国生まれである事からもわかる様に、中国における科学技術の発展は13~14世紀頃までヨーロッパやイスラム世界を上回っており、世界最先端の国家であった。だが、明代に入ると急速に停滞し、以後は完全に後塵を拝する様になってしまう。 この理由に関しては様々な説が唱えられているが、その一つに「科挙に関する学問が実利に直結する様になった為、他の学問が軽んじられる様になったから」という説がある。 実際、古い時代ではどちらかというと「士大夫なら儒教以外のジャンルにも精通していて当然」と考えられていたし、数学者や科学者などを兼ねた科挙官僚も少なくなかったが、後期科挙が完成した明以降はそうした傾向が無くなり、むしろ科挙に関連しない学問全てを馬鹿にする風潮が強まっていった。 また優秀な人が科挙に吸収された結果近代的な武器や優れた戦術を開発・考案できなかったために、アヘン戦争に敗戦する遠因にもなったという説もある。 「実際は貧乏人の合格は難しい」 「親が貧乏→子供の教育に金がかけられない→子供もいい仕事に就けなくて貧乏に→その子供の教育に(ry」という「貧困の連鎖」は現代でも社会問題になっているが、同様の問題が科挙にもあった。 科挙に合格するには 膨大な量の書物 優れた教師の指導 長年勉強に集中できる環境 など様々なものが必要で、必然的にかなりの金を要した。 また受験自体は無料だったが、各種手数料や試験会場までの旅費・滞在費(この時点で明後半の場合現在日本円換算で大体600万円かかったらしい)、合格時の関係者各位へのご祝儀などは自己負担だったため、この辺りにも相当な金がかかった。 とまあそんな訳で、「誰でも」受けられる制度である事が謳われてはいても、実際の合格者はある程度の上流家庭に偏りがちだった。 とはいえ、科挙合格(予定)者は投資対象としては最優良物件で、合格が望める程デキる子だったら一族や知人等からこぞって出資を受けられるのが普通だったので、貧乏な家庭から苦学して合格した人も結構いる。 「そもそも試験で人材の質を判断するってどうなの?」 それを言っちゃあ……って感じではあるが、「テストではなく、実際の勤務態度や実績を元に人材を判定すべきでは?」とは現代の学歴社会でもよく議論される所。 実はこの問題は古くから認識されており、科挙官僚の中には「学校制度を充実させて、そこで勉強させながら時間をかけて資質を判定し、優れた者を官僚とすべきだ」と主張した人も多く、実際に何度か政策にも反映されたが、結局定着はしなかった。 【科挙のおおざっぱな歴史】 <創設以前> 中国語では平民を「庶」と呼び貴族を「士」と呼ぶが、士とは同時に「(身分は低くても)優れた人」の事も指す言葉だった。 つまり「例え王侯貴族でも、才ある人間に対しては敬意を示さねばならない」というのが、中国文明に古くから存在する「きまり」だったのである。 例えば『三国志』に登場する劉備が、職歴も官位もない在野の若者諸葛亮を三度も訪問して敬意を示した例は有名だが、他にも 春秋時代の桓公 戦国時代の信陵君 果ては儒教の祖である孔子 など、似た様な話がたくさんある。 この為中国では古くから「在野の有能な人材を登用して、官職についてもらう」という慣習があり、漢代になるとこれが整備されて「選挙」と呼ばれる人材登用システムとして完成する。 しかし当時の選挙は有力者による推薦制だった為、間もなく「位は低いが優秀な人物を世に出す」よりも「有力者の子弟がコネを使って出世する」為の手段となってしまう。 その結果、選挙による人材の質があまりにも低くなりすぎ、ついには推薦された人に対してテストを行い、本当に能力があるのか確かめるという回りくどい事が行われる様になった。 このテストつき選挙は徐々に整備されていき、南北朝時代になると推薦なしのテストのみで人材を採用するというものまで出てくる様になる。 これを「科(テストの「科」目)」による「選挙」という意味で「科挙」と呼んだのが、実質的な科挙の始まりである。 <初期科挙> 西晋以来300年ぶりに中国を統一した隋の文帝は、貴族制を支えてきた選挙専門の官僚「中正官」を廃止する。 一方で「テストつき選挙」の方は継承したため、これをして教科書などでは「隋代に科挙が始まった」とする事が多い。 この時代、つまり隋~唐にかけての初期の科挙は貴族制と同居していたという点が最大の特徴で、 科挙は就職ルートの一つに過ぎず、親の地位で任官される「資蔭(しいん)」、個人的なコネで任官される「辟召(へきしょう)」など、より強力なルートが幾つも併存していた 受験には地方長官(ほぼ貴族)の推薦が必須で、コネがない平民の受験はほぼ不可能 試験の成績だけではなく、名声や評判などでも判定される(=コネがある貴族有利) 試験以外に、売り込みや推薦などの事前工作運動が認められていた(=金とコネが〃) あくまで科挙は資格試験であり、合格後に具体的な任官を決める「吏部試(りぶし)」が課された(=吏部、つまり人事部を握る貴族達の意向に左右された) などと言った感じにまだまだ発展途上で、総じて言えば「出世の目がない下級貴族の子弟が、低くてもいいから官職を得ようと使う制度」という感じだった。 但し実際問題として、能力的には当然「単に世襲しただけの大貴族<選抜された科挙官僚」だったので、隋~唐の間に科挙官僚の地位は徐々に上昇していく。 更に唐中期に至ってかの則天武后(武側天)が台頭すると、貴族層と対立関係にあった彼女が対抗として多数の科挙官僚を引き立てた事で更なる地位を確保した。 トドメに唐末の動乱で門閥階級が一気に滅んだ事により、これ以降は「高級官僚=科挙官僚」という図式が完全に確定した。 ちなみに先にもちょっと触れたが、この時代の科挙は科目が多彩で、 経書試験を課される「明経科」 韻文の「進士科」 数学試験の「明算科」 法律試験の「明法科」 など、好きなコースで受験できた。 ちなみに一番格が上とされたのは散文試験の「秀才科」だが、これはあまりにも合格基準が厳しすぎて合格者(というか受験者)0の状態が続き、途中で廃止となってしまった。 + 初期科挙関連の有名人 「文帝(隋)」 隋の皇帝。科挙の創設者として知られる。 元は魏晋南北朝時代の北周の将軍で、国家掌握→禅譲強要→前皇帝一族皆殺しという必殺五胡十六国コンボにより隋の開祖となったが、それ故に貴族制の恐ろしさ、厄介さが身に染みていたらしい。 中国史において科挙が果たした役割の大きさを考えれば、その後の中国史を決定づけた人間の一人であると言っても大げさではないかも。 「房玄齢」 隋・唐の人。578年生まれで、595年に進士科及第。 隋代で進士科に合格し、それを簒奪した唐において本格的に活躍した怖い奥さん持ちの科挙出身者。 二代太宗の右腕として知られた人物で、彼が起こしたクーデター(玄武門の変)においても参謀として活躍している。 政治家としても優れた能力を持ち、権力奪取後は尚書左僕射(宰相的な地位)となって後世「中国史上最良の時代」と讃えられた「貞観の治」の立役者となった。 しかし「秦王府十八学士・筆頭」というキングダムにでも出てきそうな肩書を持っていた割に、彼の手がけた史書はかの「晋書」を筆頭に評価がアレなものが多い。 漢字文化圏全域で「帝王学の必須テクスト」として知られた『貞観政要』に登場するため、かつては日本での知名度も非常に高かったが、現代日本では間違いなく彼の子孫の方が有名だろう。 「武則天(則天武后)」 唐の三代高宗の皇后にして、武周の初代皇帝。 貧乏貴族の出だが、その類まれな美貌と頭脳をフル活用し、ハーレムのモブキャラから女帝にまで成り上がった中国史随一の女傑。 その特異なキャラクターから現代に至っても毀誉褒貶が入り乱れる女性だが、科挙制度について語る際には決して外せない人物である。 というのも、彼女はその権力奪取の過程から貴族層主流派と思いっきり対立しており、それ以外の層から出てきた科挙官僚を政治の中枢へと引き上げてこれに対抗したからである。 よって彼女の治世では下記の狄仁傑の他、宋璟、張説など優れた科挙出身者が国家の中枢で活躍する様になり、以後の時代における科挙の隆盛の基盤となった。 「狄仁傑」 唐の人。630年生まれで、658年に明経科及第。 武則天に重用された科挙出身者の筆頭的存在で、文と武、剛と柔、儒と法を兼ね備えてあとついでに若干自信過剰でかつ空気が読めなかった、科挙官僚の理想とでも言うべき人物。 駆け出しの頃は地方の軍事官僚として務めていたが、その有能さを評価されて中央へ召喚された……までよかったが、大貴族に正論で楯突いた事で再び地方に飛ばされる。 しかし後に彼の才能を評価していた武則天が帝位を奪うと再び中央に呼び戻され、一気に同平章事(臨時宰相)にまで引き上げられたというローエングラム朝にいそうな経歴の持ち主。 その後政治家、また将軍として国の安定に大いに貢献したが、同時にKYな正論の為に陥れられたり煙たがられたりもした。 しかし武則天からの信頼は常に篤く、謀反の疑いで収監された際も彼女の命令で助命されているほどで、後には「国老(国家の父)」とまで呼ばれて敬愛された。 現代ではオランダ人の小説家ヒューリックによる、ミステリ小説『ディー判事シリーズ』の主人公としても割と有名。 <中期科挙> そんな訳で、宋代以降の中期科挙からは科挙官僚が完全に国家の枢要を占める様になった。 他の手段で官僚になる道も閉ざされた訳ではなかったが、「国家の重職につけるのは進士のみ」というルールがこの時期に確立される。 それまでは割と区別があいまいだった胥吏と官僚もはっきりと別物として分けられる様になり、胥吏が経験や功績によって官僚に自動クラスチェンジする、という事もなくなる。 必然的に金やコネがモノを言っていた試験内容も大きく改められ、番外戦術の一切が禁止、純粋に実力のみを問う試験となった。 また貴族ではなく、皇帝のみに直属する官僚である事を強調するため、それまでは「科挙自体は礼部(文科・教育部)が行い、採用試験や配属自体は吏部が行う」というシステムだったものも、一括して礼部が担当する様に改められた。 そして科挙官僚が完全な高級官僚となった事で、試験項目もそれまでの様なスペシャリストではなくゼネラリストを求める方向に変わっていき、最終的には「君子」としての総合的な教養を試すテスト、つまり前述の3科目へと項目が絞られた。 まあまとめると、一般に言う「科挙」のイメージはおおむねこの時期に完成した感じである。 完成された制度から優れた科挙官僚が多数輩出されたのがこの時代だが、同時に前述した様な科挙の弊害も顕れ始めた。特に 試験内容がますます先鋭化し、「ふるい落とすための試験」になってきた 競争の激化で、合格者が「君子」というより「勉強が上手な人」になってきた 胥吏と高級官僚が切り離された事で、現場実務能力の低下が目立ってきた 科挙官僚の地位が上がった事で、主導権を争う派閥争いが激化してきた などといった問題は深刻で、北宋中期にはこれを憂えた王安石らによって多岐にわたる改革が進められた。 しかしそうした改革も派閥争いによって上手く進まず、一部の要素を除いて定着する事はできなかった。 + 中期科挙関連の有名人 「范仲淹」 北宋の人。989年生まれで、1015年に進士及第。 実家(母の再婚先)は裕福だったが、連れ子である彼は他の兄弟と折り合いが悪く、結局は親元を離れて無料の学校である応天府書院で苦学し、進士となった。 徐々に北宋の社会不安が表に出始めた4代仁宗の下で活躍し、率直で潔癖な人柄を度々彼から疎まれながらも、地方統治や辺境防衛で大いに功績を上げた。 名文家でもあり、彼が残した「士先二天下之憂一而憂、後二天下之楽一而楽」(士たるものは、誰よりも先に社会の問題を見つけて対策し、しかしその結果として利益を得るのは誰よりも後でなければならない)という言葉は科挙官僚の使命を顕すスローガンとなった。実行できてる人がどれだけいたかは別として。 「包拯」 北宋の人。999年生まれで、1027年に進士及第。 科挙に合格したにも関わらず、老いた両親の世話を優先して官職につかなかったという引きこもり気質親孝行な経歴の持ち主。後に仕官して以後は順調に出世コースを進み、最終的には枢密院副使(国防省次官)にまで出世した。 極めて厳格かつ道徳に厳正な人物であり、一切の賄賂を拒否して清貧を貫き、相手が高官や宦官であろうと一切法を曲げなかったため、庶民から非常に人気が高かった。 ……とまあここまでは割と一般的な科挙官僚なのだが、その真価は死後に発揮される。一言で言えば、日本の「大岡越前」とか「遠山の金さん」の様なポジションになったのである。 中国では関羽や岳飛にもならぶ庶民のヒーロー「包公」として様々な小説や演劇に登場しており、史上最も有名な科挙官僚と言ってもいいほど。 「王安石」 北宋の人。1021年生まれで、1042年に進士及第。 世界史の教科書にも確実に登場する科挙官僚きっての有名人で、国力の折り返し地点を過ぎた6代神宗の下で「王安石の改革」と呼ばれる大規模な政治改革を行った。 しかし彼の改革は法律・政治・経済・軍事などあらゆる分野に及び、ほとんど国家を根本から改造する様なレベルであったため、様々な方面から反発を受けて最終的には半端な形で終わる事となった。 その業績の詳細についてはここで語ると長くなりすぎるため、詳しくはWikipediaなりなんなりをご参照いただきたい。 「司馬光」 北宋の人。1019年生まれで、1038年に進士及第。 王安石と同時代の人で、彼を代表とする改革推進派「新法派」に対し、それの対抗勢力である「旧法派」のボスとなった。 科挙官僚のテンプレ通りに優れた歴史学者であり、その著書『資治通鑑』は長らく中国史の最高傑作として尊重されたが、同時に「学者としては優秀だが、政治家としてはアレ」というダメな方のテンプレでもあった。 新法派の失脚の後に権力を握るが、15年間に渡って少しづつ進められて来た新法を全否定し一斉に旧法に戻した事で、現場に凄まじい混乱をもたらした。 またその感情的な処置は新法派の反動的な抵抗を招き、以後の北宋では「新法・旧法の争い」と呼ばれる両者の派閥抗争がエスカレートしていき、国力を更に衰微させる結果となった。 「秦檜」 南宋の人。1091年生まれで、1115年に進士及第。 創設間もない南宋において、金との和平策を主張し、北宋領の奪還を主張する岳飛ら軍閥層と対立。 最終的に岳飛らを処刑、軍閥層を弾圧して弱体化させると共に金との和平を推進し、金に対する臣下の礼やみかじめ料の支払いを盛り込んだ和約を成立させた。 「救国の英雄」岳飛を殺して中原奪回の機会を逸し、異民族に頭を下げ屈辱的な条件によって平和を買い、自分の保身の為に忠臣を弾圧した奸臣として、死後から現代にいたるまでボロクソにののしられている。 だが見方を変えれば、強力な軍閥を解体して内乱や簒奪を未然に防止し、経済力で勝る南宋の力を活かして名より実を取り、不安定な亡命政権を安定させて南宋150年の歴史の礎を築いた名臣、との言い方もできなくはない。 「文天祥」 南宋の人。1236年生まれで、1256年に進士及第。 珍しく有名な状元(トップ成績)合格者。 モンゴル帝国の圧力で滅亡寸前の南宋に仕えるが、絶望的な戦力差を無視した主戦論を唱え続けたため、各所でウザがられ免官された。 その後復職するが、モンゴルとの和平交渉の席で華夷思想丸出しの差別的発言をして相手側を激怒させ和平はお流れ、自身も捕虜となってしまった。 とまあ政治家としての能力は正直アレだが、その不屈の忠誠心と愛国心は各地で抵抗運動を続ける宋の遺臣達の精神的支柱となった。 これに手を焼いたモンゴルは獄中の文天祥に転向を迫ったが、「生き死になど問題ではない、忠を尽くす事こそが重要なのだ」という内容の『正気歌』を詠んでこれを拒否、最終的には処刑された。 中国でもその忠誠心を評価されて人気が高かったが、後に幕末の日本でも尊王攘夷運動が活発化する中で大いに人気が集まり、藤田東湖や吉田松陰などがカバー曲を作っている。 <後期科挙> 宋の後の王朝である元(モンゴル帝国)は割とストレートな貴族制国家でありあまり科挙に熱心ではなかった(但し元後期には科挙が一部復活し、後期科挙の原型となった)が、「漢民族国家復活ッッッ!漢民族国家復活ッッッ!」を謳った明では科挙が大々的に復活する。 明もできたての頃はカンニング騒ぎや定員割れ、大規模な不正など問題が続出し、一次停止されたり推薦制に移行してみたりと混乱が続いた。 だが草創期に多数の問題を起こした事で、逆にそれを防止するためのシステムがうまく構築され、最終的には宋代のそれをしのぐほどの安定した科挙体制を作り上げる事ができた。 ただこうして完成度が高まった一方で、中期に見られた弊害もますます悪化しつつあった。 受験人口の増大によって、それまで以上にふるい落とす事が重要視される様になり、試験の内容も形式化が進んでケアレスミスによる減点をとにかく狙う傾向が強くなる。 こうした傾向を問題視する声はかなり上がっており、実際にいくらか改革も試みられた。 特に国立学校制度の改革には力が入れられ、「学校で優秀な成績を認められれば、科挙官僚よりも出世が有利」「在学していなければ、科挙を受けられない」など、一時は科挙よりも上位におかれるほどだった。 だがそれも最初だけで、結局の所は宋の様な科挙絶対制に回帰してしまう。 国立学校の学生しか受験ができないというきまり自体は残されたが、学校の授業は完全に形骸化し、単に「科挙の3段階試験の前に、国立学校の入試が3段階追加されただけ」とみなされる様になった。 つまり明朝では、科挙は入学試験3つ+本試験3つという極端な多重試験体制になり、「ミスを犯した受験者を各段階でひたすら振り落とし、数を減らす」という方向に進化?していく事になった。 こうした傾向は明の科挙制度をほぼそのまま温存した清にもバッチリ引き継がれ、更にエスカレートして国立学校での定期テスト、また「覆試」という再テストがあちこちに挟まれる様になった。 これらはぶっちゃけ人数を減らす以外のなんの目的も持っておらず、「テストのためのテストじゃねーか!」と非難を受けたが、実際そうでもしないと人数を絞り切れなかったのである。 しかしここまで倍率が上がってくると、合格者も本来望まれているはずの「儒教の天才」とか「政治の天才」とかよりも、テストでの得点力に特化した様な「受験の天才」に偏りがちになってしまう。 また試験自体の硬直化に加えて、人事面でも「合格時の成績による序列」がより重んじられる様になって、トップ合格者層とそれ以外がほぼ切り離されてしまうなど、やっぱり明らかな硬直化がみられた。 なので科挙の厳格化・高度化が進む一方、そこから上がってくる人材の質はむしろ低下の傾向もみられた。 特に高級官僚として重要な資質である倫理観の低下はひどいもので、科挙においても大臣クラスが絡んだ大規模不正が摘発されたりといった深刻な不祥事も発生している。 加えて明・清朝ともに中期以降は財政難が深刻だったため、「捐納(えんのう)」(※)で地位を金で買った官僚も混ざりまくり、全体の質の低下に拍車がかかった。 更に官僚への実質的な罰金制度(*9)である「捐復(えんぷく)」などが整備された事で拝金主義も蔓延し、いよいよもって退廃が進んだ。 ※「捐納」って何? 率直に言えば買官、つまり「金で官職などを買う事」を指す。 そんなんアリか!と思われるだろうが、理屈的にはあくまで「国家の危機なので私財を提供します!」と自主的にお金を差し出した人に対して、国が「国を想うその態度はすばらしい!徳がある!徳がある人には高い地位についてもらおう!」と感心して官職に任ずる、という形式をとっているのでセーフ…セーフ? 常時受け付けている訳ではなく、基本的に大規模災害や戦争などに際して臨時で行われる制度だが、明でも清でも財政が悪化するとほぼ常態化した。 但しこの方法で官僚になっても出世には制限がつき、どうがんばっても正規進士の様な大臣クラスまでは昇る事ができない。 + 後期科挙関連の有名人 「劉基」 元・明の人。1311年生まれで、1333年に進士及第。 明を建国した朱元璋に「我が張良」と呼ばれた希代の名軍師で、字の伯温の名で知られている。 元末の科挙に合格して官職についたが、上司と衝突して故郷に戻っていた所を朱元璋に招聘された。 朱元璋の軍師として外交から軍政、戦略戦術まで幅広い指導を行い、また時には自身で部隊も指揮して、ついに彼を皇帝の座まで登らせた。 その絶大な功績にも関わらず、謙虚で公正無私な人物であり、明の建国後は数年間王朝の基礎固めに奔走したのち、宰相職を何度も打診されながらこれを断り隠棲した。 死後も明建国のヒーローとして人気を集め、当時から現代にいたるまで小説や演劇の主人公として親しまれている。 かの三国志演義が成立したのは明の時代だが、その主要人物である諸葛孔明のキャラ造形は明らかにこの劉基を元ネタにしていると言われており、いわば孔明の「中の人」でもあったりする。 「王守仁」 明の人。1472年生まれで、1499年に進士及第。 儒教の異端ともいえる「陽明学」の創始者で、一般には王陽明として知られる。 父も科挙合格者(しかも状元)というエリートofエリートな生まれだったが、彼自身は父ほど科挙向けのタイプではなく、合格は少し遅れた上に成績も低かったので地方官からの出発となった。 その代わり、「国防問題に対処するには軍事学も必要」と武術や兵法も極めており、兵隊を集めての勉強会が趣味だった。 現場においては大いに功績をあげ、特に軍事面では科挙官僚にも拘らず明時代を通しても最強クラスの実力を有した「哲人将軍」。 1519年に勃発した10万の兵を擁した大規模反乱(寧王の乱)で少数の手勢と寄せ集めの寡兵をもって驚異的な機動戦を展開し、わずか3か月で鎮圧するなど特筆すべき戦果を挙げている。 民政面でも優秀で、反乱鎮圧後の復興や失業対策等も見事に処理している。 剛直だが誠実な人物であり、当時の朱子学が「机上の儒学」となっている事を憂いて、実践を重んじた陽明学を唱えた。 中国では邪学扱いされたが、比較的自由に学問が出来た日本では「知と行動は不可分である」「真摯に実生活を生きる事で人間が生来秘めている善性を発展させよう」という教えは大名から庶民まで受け入れられ、人気のある学者だった。 「張居正」 明の人。1525年生まれで、1547年に進士及第。 13代隆慶帝時代の末期に権謀術数を尽くして派閥抗争を制すると、自身が守役となっている14代万暦帝を即位させ、主席大学士(宰相)として実権を掌握する。 その強引な手法と露骨な権力者指向は各方面から反感を買ったが、政治家・財政家としては卓越した手腕を発揮し、多方面にわたる政治改革によって内憂外患に苦しむ明朝を見事に立て直した。 但しあまりに出来過ぎた人物であったためか、その元で育った皇帝は見事にニート化した。 「袁崇煥」 明の人。1584年生まれで、1619年に進士及第。 明代末期、17代崇禎帝の時代に国防の要となった名将。「この時代の諸葛孔明」と言われたと言えば、どんだけ高評価された人物か分かるだろう。 同じく明末期の名将孫承宗の下で経験を積み、明の北から絶えず攻撃をかけてくる後金(後の清)との戦いで活躍した。 大砲の運用や要塞防御といった大規模な戦術を得意とし、寧遠城の戦いでは清の太祖ヌルハチに生涯唯一の敗戦を味わわせた。 だが彼に手を焼いた後金が朝廷へ離間の計をしかけたため、あっさり引っかかった崇禎帝によって謀反人として処刑されるという悲劇的最期を迎えてしまう。 「畢ゲン」(ゲンは機種依存文字で、本来の表記は沅) やっぱりホモじゃないか(憤怒) 「林則徐」 清代の人。1785年生まれで、1811年に及第。 アヘン戦争の関係者として、世界史の教科書にも必ず登場する有名人。 この時代では珍しい潔癖・有能な官僚で、地方官時代にアヘンの流行を問題視して根絶に取り組み、それが評価されてアヘン密輸入を取り締まる大臣とされた。 着任後はそれまでの総督と違って商人からの賄賂を一切拒絶し、外国商人の密輸アヘンの強制処分を断行。更には外国商人に対して禁輸法の遵守、及びその誓約書の提出を命じた。 しかし鬼畜ブリカスイギリス商人だけはこの命令に従わず、マカオへ籠城して軍事力によって措置を覆そうとする。 こうして始まったアヘン戦争では、初戦の海戦で完敗を喫したものの、衰えぬ戦意で香港の戦力を増強して本格的な戦いに備えた。 だがこれを見たイギリスが優勢な海軍力を活かして首都近郊の港湾を直接制圧する手段に出たため、ビビった政府によって解任されてしまった。 「傅善祥」 清代の人。1833年生まれで、1853年に及第。 科挙の歴史において初めての女性の状元。ここまで真面目に記事を読んできた方なら「え?科挙って受けられるの男だけじゃなかった?」と思ったかもしれないが、ごあんしんください。彼女は正規政府ではなく、反乱勢力「太平天国」によって行われた「新時代の科挙」の合格者なのだ。 太平天国はキリスト教をはじめとした西欧の文化・制度に強い影響を受けた集団であり、その一環として女性にも科挙の道を開いたのである。 彼女自身は学者の家系に生まれ。高度な教育を受けたインテリであり、状元にふさわしい学識の持ち主ではあったが、同時にものすごい美人でもあったので、太平天国の裏ボスこと楊秀清が愛人として傍におくためにトップ合格させたのでは?と不名誉なうわさが立ったという。 「李鴻章」 清代の人。1823年生まれで、1840年に及第。 父を含めた親戚・縁戚に科挙合格者がずらりと並ぶエリート&お金持ちな家庭の出身。 清後期の大反乱「太平天国の乱」において師匠・曽国藩の下で民兵軍を率いて活躍し、官僚としての出世ルートに乗る。 その後は曽国藩の地位を引き継ぐ形で清の中枢を担う高官となり、西太后の信任を得て外交、軍事、政治と様々な分野で辣腕を振るった。 郷紳の出で科挙合格者という「中国的システム」の粋とも呼べる人物だが、同時にそのシステムの時代遅れっぷりも理解しており、西洋の制度や技術の取り込みを図る「洋務運動」を強力に推進した。 日本では『蒼穹の昴』に登場する超カッコイイ李鴻章が有名だが、実は現代中国では「反革命派の売国奴」という評価が長く定着していた(最近は現実的な政治家として再評価も進んでいる)。 <終焉> とまあそんな感じで長きに渡り受け継がれてきた科挙も、清末にもなると明らかに寿命が近づきつつあった。 そして西欧諸国との力の差が痛感される様になると、その文化や技術を導入しようとする「洋務運動」が活発化。 この時期に「科挙の内容を根本的に変え、西学(西欧の科学や工学)を導入しよう」という一大変革も試みられたが、周辺からの大反対で結局頓挫してしまう。 隋から数えて1300年の時間の中で科挙は中国王朝の統治システムと深く一体化していて、大規模な方向転換や廃止はあまりに難しかったのである。 結局科挙は清の末期も末期、立憲君主制に移行した1905年まで続く事になる。 前年に最後の科挙が行われ、同年9月2日に廃止が決議された。 そして科挙の代わりとして諸外国のそれを模した学校制度が導入されたが、最早そこから上がってくる人材を待つほどの体力は清にはなかった。 それどころか、科挙が廃止された事で、 科挙を目指して勉強していた各地方の受験生、つまりエリート達が将来を失い、職を求めて各地の軍閥へ合流 地方の実情が中央に伝わりにくくなって、地方の窮乏&過疎化が進行 科挙合格という中央からの「飴」が無くなった事で、地方が中央のコントロールを受け付けにくくなる などといった弊害が続々と現れ、むしろ清の寿命を更に縮める事にすらなった。 【文化としての科挙】 1300年にも渡って中国人の生活に大きく関わり続けた科挙は、中国の社会や文化に大きな影響を残している。 宋代以降の中国で、ある程度の教養がある人なら一度は科挙合格を目指すか、何らかの形でその業界に関わるのが普通だったので、「科挙合格を目指したがダメだった人」や「地方試験まで合格したけど、中央試験に合格できなかった人」はそこら中にゴロゴロしていた。 具体的には 「家庭教師・私塾経営者」 受験者人口が数十万人~数百万にも及ぶという事は、つまりそれに見合う数の教師が常に必要とされているという事で、教師の需要は常に大きかった。 「受験参考書ライター」 同様に科挙のための参考書もまた広く流通していて、これの編纂にあたるのもまた彼らである事が多かった。 「作家」 徹底した文章試験である科挙を目指していた彼らは、当然それなりの文章力を持っていた。 これを活かして小説や脚本を書く作家になる人も多く、中国における文芸史は彼らの存在抜きには語れないほど。 「医者」 意外な事に、医者というのもまたメジャーな進路の一つだった。 教養があって古書に通じているという事は、つまり医学書や薬学書なども読めるという事であり、識字率が決して高くない時代にあってはそれだけでアドバンテージとなった。 「学者」 この場合の学者とは基本的には儒学者or史学者の事だが、数学者や天文学者、暦学者や科学者などといった特殊なルートに進むものもいた。 また在野の儒学者になると、その学識がすっっごい有名になった場合国から逆指名で招聘される事もあったので、そういう意味では人生の一発逆転を賭けたルートでもあった。 「胥吏(しょり)」 下級役人である胥吏だが、性質上読み書きの能力は必須であったため、勉強で得たその技能を活かして胥吏へと転向する者も多くいた。 「官僚や軍人の私設スタッフ」 幕職、幕僚、幕友などと呼ばれる職で、地方官や軍官僚の下について、実務の補佐や下部組織との折衝にあたる「私設秘書」のお仕事もまたメジャー。 収入は時代や赴任先、また雇い主との関係などによって様々だが、運が良ければかなりの収入と名声が得られる事もあり、コネがあればこれを望む人も結構いたらしい。 「マフィア」 更にあまり大きな声では言えないが、中国における裏社会……つまり「社」「会」「幇」の様なヤクz……特殊な団体もまた有力な就職先だった。 民衆に対して公権力とはまた別の次元で大きな影響力を持っていた彼らだが、公権力とも裏で接する関係上、その身内に官僚に近いキャラを持つ者がいると色々と便利なのである。 「地方の名士」 科挙においてそれなりの所まで進めたという事自体、地方社会においては一種のステータスだった。 それだけ学識のある人物という事で市民からも尊敬を受けられたし、地元有力者にとっても後進の教育や地方官との折衝を担ってくれる貴重な人材とみなされていたのである。 また科挙官僚である地方官にとっても「輿論(よろん)」、つまり地方での評判は自身の考課に思いっきり関わってくるため、それを主導できる彼らは決して無視できない存在だった。 それに官僚予備軍だった彼らは、庶民に比べればまだ「支配者側の論理」に理解があるため、団体交渉役の相手としてはむしろ望ましい存在でもあった。 結果、彼らは各地方において「郷紳(きょうしん)」と呼ばれる階層を形成し、官と民の中間に位置する折衝役として独自の地位を占める様になっていった。 ……などなど、要するに社会のどこにでも元関係者がいたといって良い程である。 そう、科挙とは中国人にとって単なる人材登用システムではなく、立身出世の手段で、地域と中央・上と下をつなげるネットワークで、出版・受験ビジネスの中核で、学術教養の中心で、文学のフロントラインで……つまりは一つの「文化」そのものだった。 受験に縁のない様な階層の人々であっても、地元のまとめ役である郷紳やマフィア、役所手続きや裁判などを通じて、その存在は常に意識されるものだったのである。 一番身近な例としては、麻雀の役の名前とかをみると、今にまで残るその影響力がわかりやすいかも。 あえてこの存在の大きさを現代的に例えるなら、ニュースサイトのメニューに「政治」「経済」「エンタメ」「科挙」「スポーツ」の順で並ぶのが定番になるぐらい、とでも言えばいいだろうか。 ※ 追記:修正は「五経」+「四書」を全文暗記したのちにお願い致します。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 コメントログ なるほど伝説の92とかブレンパワードの時みたいなかんじなのね -- (名無しさん) 2022-07-22 23 51 58 学問の大切さを知っていながら、自然科学が発達せず西洋文明に大きく遅れをとったのは、やはりこの制度に一因があるんだろうか -- (名無しさん) 2022-07-23 15 39 44 ↑7 李徴は典型的な「エリートの中の半端者で、上見て絶望して、大人物ぶろうとして失敗した」慶応三田辺りの意識高い系みたいなもんだからな。 -- (名無しさん) 2022-07-23 15 39 46 マギの錬紅玉のお付きのアイツも独白見る限りコレ突破したらしいし本当にバケモン級のエリートだったのか…… -- (名無しさん) 2022-07-23 16 08 57 後期科挙の合格率0.004%って現代日本の宝くじで三等以上が当たる確率に相当する。要するに「無い」とほぼ同義の倍率な訳でよく受験者数自体の減少が起きなかったなとは思う。 -- (名無しさん) 2022-07-25 11 56 19 記事にも書いてあるけど途中まででも地元のちょっとした役人になるくらいは出来るから -- (名無しさん) 2022-07-25 13 20 18 んーなんか前半部分がだいぶいじられたけど、なんかトゲトゲしくなったのと削られまくったのでこれ戻してもいいかな・・・・?やっぱwikiの性質的に「予備知識がない人でも楽しく・読みやすく」しときたいんだが・・・ -- (名無しさん) 2022-07-25 21 41 00 ホモの人はその説明だけで足りるんか? -- (名無しさん) 2022-07-26 16 23 28 なんか前半部分の記述が変な削られ方して文の繋がりが不自然になってるな 前の文の方がボリューム多くて読みやすかった… -- (名無しさん) 2022-07-26 21 41 54 個人的な見解やけど前のがええと思う -- (名無しさん) 2022-07-26 21 57 10 総合相談所含め特に反対意見もなかったので、編集された方には申し訳ありませんが記事の差し戻しを行いました。今後は大きな改定を行いたい場合には掲示板やコメント欄などで相談していただけますと幸いです。 -- (名無しさん) 2022-07-27 20 00 28 「珍しく」有名な状元として挙げられる文天祥も有能だから歴史に残った訳じゃないのが無情。 -- (名無しさん) 2022-08-24 19 38 33 有名人の部分に鍾馗は…はいれない人か? -- (名無しさん) 2022-09-12 20 59 27 ↑10 -- (名無しさん) 2022-09-26 14 39 54 ↑11紅玉のお付きが受けた科挙もいつの時代の科挙がモデルなのかはわからんからな、案外唐初期くらいの簡単だった頃の科挙の可能性もある↑2鍾馗は半分伝説の人物みたいなもんだからなあ -- (名無しさん) 2022-09-26 14 44 11 なんか冒頭の難易度の例えにハーバードが入ってるけど、アメリカの一流私立大学への入学ははかなりの割合でコネか寄付金かスポーツ推薦だぞ... -- (名無しさん) 2022-12-25 20 17 58 大学共通テストで何故か科拳と誤植された -- (名無しさん) 2023-01-14 16 53 11 倫理を身に付けて云々、は素晴らしいけれどもその試験がカンニングとの戦いの歴史か…試験ってなんなんだろうか、と考えてしまう内容だった -- (名無しさん) 2023-01-16 08 43 49 ↑2そこから武科挙なるものの実在を知り民明書房感溢れる語感に圧倒された… -- (名無しさん) 2023-01-22 21 09 12 ↑「科拳」それは科挙の進士たちが自衛のために生み出した拳法が始まりと言われる中国武術であるby民明書房 -- (名無しさん) 2023-02-06 22 28 49 今でも中国の高考(大学受験共通試験)での省トップ合格者は「状元」と呼ばれるくらいには根付いた文化 -- (名無しさん) 2023-04-17 14 37 43 科挙がこれだけ詳しく書かれてると武挙の方も気になるな -- (名無しさん) 2023-05-11 16 31 20 めちゃくちゃ言いおる<追記:修正は「五経」+「四書」を全文暗記したのちにお願い致します -- (名無しさん) 2023-05-11 20 53 52 韻文で詩のセンスが問われるってのは説得力あるよう文章をまとめる力ってとこかね -- (名無しさん) 2023-05-23 20 06 41 ちなみに、今日は科挙が廃止された日 -- (名無しさん) 2023-09-02 13 42 21 試験を評価の基準にする都合上、どうしても合格者が富裕層に偏ってしまいがちだし、なんなら実務能力との剥離も起こってしまうし、不正が多発するリスクもある。とはいえ、どんなに頭が良くて学問に通じていようが家柄を理由に政治の世界から門前払いを食らってしまう、そんな中近世の封建社会的システムから脱却しようとする努力は確かに感じられたりもする。例えばうちの国だと、ご存じあの二宮尊徳(金次郎)も小田原藩の幕臣として動く際、百姓の生まれという自身の家柄に何かと足を引っ張られてたって話だし、そう言った類のしがらみを払拭するにはこういった物が必要だったんだろうなと思ったり -- (名無しさん) 2023-09-28 11 14 11 貢院ググってみたら狭過ぎて笑った。頭も体も超人じゃなきゃ無理な試験だなあ -- (名無しさん) 2023-10-31 21 05 20 唐代(奈良時代)の阿倍仲麻呂は科挙を受けたのだろうか、日本人としては何となく気になるところ -- (名無しさん) 2023-11-30 01 39 54 ↑科挙に合格した記録が残っている、唯一の日本人だったと思う 阿倍仲麻呂 -- (名無しさん) 2023-11-30 22 12 42 今回の騒動を機に久しぶりに読みに来ちゃった。SNSでバズったことがあるのも納得の面白さ。この項目に限らず中国史関連の話は良項目が多いので、何らかの形で残ってくれるといいなあ。 -- (名無しさん) 2024-03-16 15 31 22 名前 コメント すべてのコメントを見る
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266 :名無しさん@ピンキー 2010/05/05(水) 20 22 58 ID iDoJvzz5 偶然見かけたエロゲのキャラと設定だけで妄想爆発した。 原作は触手ものエロゲとしかしらないし、途中までしか書いてないけど反省はしてない。 女装・スカ注意。 (……誰かいる?) 右彦は学校からの帰り道、奇妙な気配を感じた。いつもは登下校も左子と一緒だが、 今日は偶然にも補習と家の用事でバラバラに帰らねばならなかったのだ。 (うう…ま、まさかホームルームで言ってた変質者じゃあ…) なぜ今日に限って左子と一緒ではないのか。右彦は半泣きで後悔する。 特に最近はラヴクラフトの戦いに巻き込まれたこともある。用心しなくてはならない。 右彦は注意深く様子を伺う。どうやら相手は後方すぐにいるようだ。しかしそれがどんな人物かまではわからない。 このまま駆け出して、逃げ切ってしまえば――そうも考えるが、背中から攻撃を受けてしまえばひとたまりもない。 (怖いけど…誰か確かめなきゃ……) 意を決して右彦は振り返り、声をあげる。 「だっ、誰ですかっ!」 振り返ったその先には黒いコートを着た怪しげな人物が佇んでいた。 そしてその人物からは明らかに人ではない気配が漂ってきている。 危ないと思った時には、既に遅かった。 267 :名無しさん@ピンキー 2010/05/05(水) 20 25 39 ID iDoJvzz5 しゅるるるるるるるるるるるっ!! 「ええっ!!?」 稲妻のようなスピードでコートの人物から何かが這い出した。 そしてそれはあっというまに右彦の手足を絡めとり、空中に大の字になるようその体を持ち上げた。 「やっ…痛いっ…!」 ギリギリと締め上げられる四肢。たまらず右彦は悲鳴を漏らす。 しかしそんなことには構わず、新たな触手が右彦の前に姿を現す。 それはぬらぬらと滑る液体を纏っているが、形状は明らかに鋭い大鎌である。 (こ、殺されるっ!!) 身をよじりもがく右彦だが、触手はびくともしない。 「誰かあっ!助けてぇっ!!」 声の限り叫んでも人一人出てこない。それどころか辺りには靄のようなものが立ち込めはじめた。 異様な光景の中、虚しい抵抗を繰り返す右彦だが、ついに大鎌は彼に向かって降り下ろされる! 268 :名無しさん@ピンキー 2010/05/05(水) 20 28 59 ID iDoJvzz5 「やだああああああああぁぁぁぁぁぁ!!!」 ザクゥウウッ!!! 次の瞬間大鎌は右彦の服を切り裂いていた。制服は真ん中のあたりで無惨に切り捨てられ、 漸く腕に引っ掛かっているような有り様だ。 下着も愛らしいショーツこそ何とか無事だが、ブラジャーはブリッジが真っ二つに断たれていた。 「あ…あぁっ…あああっ……」 じょろろろろろろろろおおお… 無様な水音がすると同時に、右彦のショーツが黄色く染まる。 そしてすぐに滑らかな太ももに黄色い水が流れはじめる。 そう。右彦の身体は竦み上がり、放尿をはじめてしまったのだ。 (あうう…ぼ、僕お漏らししちゃった…パンツはいたまま、おしっこお漏らししちゃったよぉ………) 恐怖からとはいえ、下着を着けたままの失禁に右彦は涙した。 尿独特のむわっとした臭いと、ショーツを濡らす尿の重みや生ぬるさが更に羞恥を煽る。 またたっぷりおしっこを含んだショーツは、いまだ放尿を続ける右彦のチンポの姿をくっきりと 浮かび上がらせてしまっていた。黄金の水は長い間チョロチョロと股間から溢れ続け、 触手を濡らし、地面に水溜まりを作った。 269 :名無しさん@ピンキー 2010/05/05(水) 20 34 27 ID iDoJvzz5 (恥ずかしいよぅ…赤ちゃんみたいにおしっこお漏らしだなんて……) 何故こんな酷い目に遭わなくてはならないのか。右彦はしくしくと声をあげながら泣き始めた。 しかしこの失禁は、残酷な少年陵辱の始まりに過ぎなかったのだ。 『フ~…フ~…』 荒い吐息に右彦が顔をあげると、コートの人物から再び妖しげな触手が三本伸びてきた。 半透明なそれは 漏斗のような形をし、中にはウネウネと細い糸のようなものがのたうっている。 右彦にはそれが何か検討もつかなかったが、触手は明らかにある目標に向かっていた。それは… 「ふぇっ!?だ、だめっ!そこはだめええぇえっ!!!」 ぐちゅうううぅぅぅぅ!!「あひいいいいいいいいぃぃぃ~~!!!」 三本の触手はそれぞれ右彦の乳首と未成熟なペニスをいっきに吸いたてる! 特にペニスは下着ごと吸われ、じゅぼぼっと派手な音をたてた。 「あっ!あっ!あぁぁっ~!い、いやだよぉっ!おちんちんっ、おちんちんいやあぁっ! 強く擦らないでっ!まだ僕皮っ、皮っ剥けてなっ…!うひぃいぃぃぃぃ~! !む、剥けっ、剥けてるうぅぅ!!おちんちん皮剥けちゃったあああっ!!? 先っぽだめっ、だめっ…おちんちん皮剥けてぇんぁあああぁぁ~っ!!!」 包茎だったペニスは無理矢理皮を剥がれ、敏感な粘膜がショーツに擦りつけられる。 270 :名無しさん@ピンキー 2010/05/05(水) 20 36 59 ID iDoJvzz5 グッチョ!グッチョ!グッチョ!グッチョ! いつの間にか堅く勃起したチンポはガマン汁を垂れ流し、 下着の中をたっぷり濡らしていた。そしてそれが潤滑油の役目を果たし、右彦の未使用ペニスは 触手による乱暴な愛撫からでも十分過ぎるほどの快楽を得ていた。 また右彦は同時にそのピンク色の可愛い乳首もまるで搾乳器のような触手に容赦なく吸いたてられてしまう。 強烈な吸引と、触手内部の細かい繊毛が乳首を責める。 チンポと乳首への刺激で、右彦はあっというまに追い詰められてしまった。 「あっ、あっ、あぁんっ!イくっ!イっちゃう!僕射精してイっちゃうのぉおお~~!!」 ドピュドピュドピュゥウ~!ブュルルッ!ビュッ! 右彦は信じられほどのザーメンを放った。今まで感じたことのないレベルの快感に、 右彦の性器は完全に翻弄されてしまったのだ。どろりとした大量の白濁が、黄色に染まったショーツの中に放たれる。 身体をピンと緊張させ、極まる右彦の様子を触手は見逃さない。 ショーツ越しに右彦の尿とガマン汁、そして精子のミックスジュースを思い切り吸い上げる。 じゅるるっ!じゅるっ!じゅるるるううぅぅぅ!! 「ふあああああぁぁぁっ!ひいっ、はひいっ、ひいぃ~っ!!」 異様な感覚に、もはや抗う術などなかった。 なされるがまま、右彦はガクガクと触手に弄ばれてしまう。 271 :名無しさん@ピンキー 2010/05/05(水) 20 40 44 ID iDoJvzz5 触手はようやくチンポ吸いをやめると、右彦の股間を隠していた小さな布切れを足から抜き取る。 そして汚液にまみれたショーツを右彦の口へと捩じ込もうとした。 「んぶぅっ…!汚っ…じゅるるぅ…!ゲホゲホっ!き気持ち悪、ぐむっ…」 自身の排泄物を口に含むなど、右彦には考えられなかった。 しかしその当たり前過ぎる意に反し、不気味な生物は右彦を辱しめる。 塩からい体液を滴らせる下着をぐいぐいと口に押し込める。 あまりにも執拗な変態行為に、次第に感覚も狂いだしてしまう。 (じゅぷっ…あうぅ…おしっこと精液…甘い…?) 酸欠の頭で右彦はぼんやりと考えた。 (お姉ちゃんっ…玲壱、さんっ…) 誰でもいい。とにかく助けて欲しかった。右彦は強く強く念じ、助けを求めた。「コフ…フゥウ~…」 散々右彦の口を汚れたショーツでいじくりまわした男は、急に何かを思案するように動きを緩慢にさせた。 そして先端が光る細い触手を右彦の眼前でちらちら動かすと、いきなり呻き、身をよじりだす。 「クホ~!オォ~!オオオ゛~~!」 (じゅるるう…ごくんっ!こ、今度は何っ…!?) クチャクチャと自身が粗相し、尿と精子にまみれた下着を咀嚼しながら、右彦は男を見た。 男の動きが一際激しくなったと思った次の瞬間、男の被っていたフードがぱさりと脱げた! 「ふぇ…?れー、いち、さん…?」 口から汚らわしい布切れがべちゃりと落ちた。 そして右彦の、にちゃにちゃと粘液が糸を引く可憐な唇がある名前を呟く。そう。 右彦の目に飛び込んできた男の顔。それは紛れもなく右彦が想いを寄せる青年、玲壱だった。 272 :名無しさん@ピンキー 2010/05/05(水) 20 44 18 ID iDoJvzz5 (――玲壱さん!!) 相手の正体を知った瞬間、右彦の肛門がきゅんと疼いた。 右彦は毎晩のオナニーで玲壱に犯される様を夢想していた。 ある時はエネマグラをアヌスに挿入しながら、優しい玲壱に処女を捧げる夢を見た。 またある時は小振りのアナルバイブをくわえこみ、玲壱のチンポで乱暴に菊門を蹂躙される妄想に耽った。 時に行為はエスカレートしていまい、一昨日など、幻影の玲壱が下したサディスティックな命令に従い、 女子制服のまま大人の玩具屋で購入させられた貫通型オナホールを、公衆便所の小便器前で使用してしまった。 用を足すように便器に向かって射精を繰り返し、絶頂を何度も味わったのだ。 (途中見知らぬ小学生に女装自慰行為を目撃されたが、小学生は右彦とそのチンポを見ると、 膨らんだ股間を押さえてどこかに消えてしまった。その時はさすがに右彦も我に帰り、 精液まみれの手も洗わず、オナホールを公衆便所に放置して逃げ出したが。) 酷く屈折した、変態的な想いだが、右彦は確かに玲壱に恋をしていた。 その愛しい玲壱が、今自分を拘束し、凌辱している――。 「玲壱さんが…玲壱さんが僕を……!!」 恐らくは先程の体液と共に、毒を盛られたのだろう。何らかの作用で、右彦の脳はあり得ない妄想を瞬時に現実と受け止め、狂気の恋心とともに 一気に幸福のどん底に突き落とされた。 「あはぁ~♪玲壱さんっ!好きっ♪好きなんですぅ~! だから右彦のアナル処女奪ってぇえ~!触手ペニスでお尻の穴ズコズコしてえぇ~~♪」
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唐書巻二百二十五上 列伝第一百五十上 逆臣上 安禄山 慶緒 高尚 孫孝哲 史思明 朝義 安禄山は、営州柳城(熱河省朝陽県)出身のトルコ人とソグド人のあいのこである。本姓を康といった。母は突厥の阿史徳族の出で、巫(みこ)となり、突厥の中にいた。子種にめぐまれず、軋犖山に祈った。これは、突厥の軍神といわれているものである。やがてみごもり、出産するに至ったとき、光がさし込み、テントを照らし、獣が一斉にほえた。占(うらない)をする者が、これを瑞祥といった。范陽節度使の張仁愿は、これを異変の兆候と感じ、テントの中をさがさせ、一人残らず殺そうとしたが、かくまわれて、のがれることができた。母は、神のお告げに従って、姫山と名付けた。幼いとき孤児となり、母が突厥の将軍安延偃に再婚するのについて行った。開元年間(713-741)初頭、安延偃が彼をつれて国に帰った。安延偃の一族の安道買のわすれがたみらも、みな彼の家に頼ってきた。だから安道買の子の季節、貞節は、安延偃を徳とし、約束して両家の子を義兄弟とした。そこで姓を安とし、名を禄山と改めた。成長するにつれ、忍耐強く、賢く、よく人の心を読みとるようになった。六か国語に通じ、貿易ブローカーとなった。 張守珪が節度使となって幽州(河北省大興県)に来たとき、安禄山は羊を盗んで捕えられた。張守珪がこれを殺そうとすると、彼は、「公は、奚・契丹の両蕃を滅ぼしたいと思われないのか。それなのに、なぜ私のような役に立つ者を殺そうとなされるのか」と叫んだ。張守珪は、その言葉を壮とし、また体堂々として明哲なのをみ、これを釈(ゆる)した。同郷の史思明とともに、捕虜を率いる捉生将となった。彼は、山川の状況や水のある所を熟知しており、あるとき、たった五騎で契丹数十人を捕えてきた。張守珪は、不思議な男だと思い、少しその部下を増した。討伐があると必ず勝ち、そこで一万の大将に抜擢した。彼は大変ふとっていたが、張守珪がそれを醜いと嫌がっていたので、減食し、その気に入るようにつとめた。それによって張守珪は、彼を養子とした。 開元二十八 (740)年、平盧兵馬使となり、翌二十九年、特進幽州節度副使に抜擢された。このとき御史中丞の張利貞が、河北採訪使となって平盧にやって来た。安禄山は、さまざまな手を使ってへつらい、左右の者に銭を遣って私恩を売った。張利貞は朝廷に帰ると、さかんに安禄山をほめ、それによって安禄山は、営州都督・平盧軍使を授った。使者が往来するたびに、ひそかに賄賂を遣って機嫌をとり、それぞれに自分のことを朝廷に推称するようにしむけた。かくして玄宗は、彼を材能のある者と思うようになった。 天宝元年(742)、范陽節度使を分け、平盧節度を新設した。安禄山はその節度使となり、柳城太守・押両蕃・渤海・黒水四府経略使を兼ねた。翌二年に入朝し、奏対が天子の御心にかない、驃騎大将軍に進み、また翌年、裴寛に代って范陽節度・河北採訪使となり、平盧節度使を兼任した。安禄山が鎮に帰るにあたり、帝は中書・門下・尚書三省の正員の長官と御史中丞に命じ、鴻臚亭で送別の会を開かせた。 天宝四載(745)、奚と契丹が唐から降嫁した公主を殺し、離反した。安禄山は、手柄をたてる絶好の機会と考え、彼らの侵掠をのばなしにし、対中国関係を悪化させ、そのうえで兵を出し、契丹を討って帰った。そのとき彼は上奏し、「臣が契丹を討つため北平郡にさしかかったとき、突厥遠征で知られた国初の名将李靖と李勣が臣に食を求めたのを夢みたので、廟を建てて祭ったところ、神座の梁に芝が生え、一本が十茎に分かれ、珊瑚盤が重なったようになりました。これは臣の忠誠心が、神霊に通じたからに違いありません」と言った。帝は史館に付して、その功績を顕彰させたが、帝がこのようなデタラメを信じて疑わなかったことは、かくの如くであった。席豫が河北黜陟使になって来ると、またこれに贈賄し、席豫は都に帰ると安禄山をほめそやした。当時、宰相李林甫は、儒臣が軍功で出世し、帝の寵愛が薄れるのを恐れ、専ら蕃人の将軍を採用するよう、帝にすすめた。だから帝は、ますます安禄山を寵愛された。しかし群臣たちは、李林甫の権力を恐れ、反対することができなかった。それから間もなく安禄山が反乱を起こしたが、それは李林甫が原因を作ったようなものである。 安禄山は表面愚鈍をよそおい、よこしまな心をかくしていた。帝の下問があると、「臣は蕃戎の生れにもかかわらず、恩寵を受けて栄進すること、身に余るものがあります。臣には特別陛下のお役に立つような才能があるわけではありませんから、身をもって陛下のために死にたいと存じます」と奏上した。帝はそれをまことと信じ、憐れまれた。あるとき、皇太子に謁見させたところ、拝礼しなかった。左右の者がつついて注意すると、彼は、「臣は朝廷の儀礼を知りません。皇太子とは一体どのような官でしょうか」と言った。 そこで帝が、「朕が百歳ののち、天子の位を譲るべき者だ」と言うと、「臣は愚なため、陛下を知るだけで、皇太子を知りませんでした。この罪は万死にあたりましょう」と謝り、再拝した。 当時、帝は楊貴妃を盲愛されていた。そこで安禄山は、貴妃の養子になりたいと願いで、帝はそれを許可された。いつも入認するとき、貴妃を先に拝し、帝を後にした。帝が不可解に思われ、尋ねると、「蕃人は母を先にし、父を後にします」と答えた。帝は大変愉快がられ、楊貴妃の兄の楊銛と姉の韓国夫人・虢国夫人・秦国夫人の三夫人と、兄弟とされた。帝の彼に対する盲信がそのような状態であったため、やがて彼は天下を奪う野心を持ちはじめた。そして部下の劉駱谷に命じ、都に居て朝廷の隙をうかがわせた。 天宝六載(747)、御史大夫に進み、妻の段氏は国夫人に封じられた。当時、李林甫が宰相の位にあり、権勢並ぶ者なく、群臣中敢えて対等の礼をする者がなかった。ただ安禄山は、帝の恩寵をたのんで、謁見の仕方が傲慢であった。李林甫は、これをそれとなく悟らせようとし、王鉷にいいつけ、いつも安禄山と一緒に居させた。王鉷も彼と同じ大夫の位にあったが、李林甫が王鉷をみると、王鉷は身をちぢめて拝した。それをみて安禄山も、その権勢にうたれ、思わず襟を正した。李林甫は、一緒に話をすると、いつも安禄山の心の内をみぬいてしまった。そのため安禄山は大層おどろき、神わざだと思い、謁見するときは真冬でも冷汗を流した。李林甫は、このようにしておいて、次第に安禄山に彼を厚遇し、中書に引きたて、自分の支配下においた。そのため安禄山は李林甫を徳とし、彼を「十郎さま」と呼んだ。劉駱谷が上奏して都から帰ってくると、彼はまず、「十郎さまの御機嫌はどうだったか」と問い、李林甫がほめていたと聞くと喜び、「安大夫はよい検校だ」と言っていたとでも言おうものなら、手をかえし、椅子にそりかえり、「ああ、俺は死にそうだ」と言って大喜びした。宮廷役者の李亀年がその仕草をまねると、帝はころがって笑われた。 年をとるに従い、ますます肥り、腹が緩んで膝まで垂れてきた。そのため両肩を振るい、車を引くような格好をして、ようやく歩くことができる有様となった。しかしそれにもかかわらず、サマルカンドの胡旋舞が得意で、疾風のようにくるくると舞った。帝はその腹をみて、「胡の腹中には何が入っていて、そんなに大きいのか」とからかうと、彼は「ただ誠心だけです」と答えた。いつも駅馬に乗って入するときには、半道ごとに必ず馬を取り換え、人々はこれを「大夫の換馬台」と言った。そのようにしないと、馬が仆れてしまうからである。彼の馬は、五石のものを載せて走るものでなければ、役に立たなかった。 帝は安禄山のため、親仁坊に第宅を造らせた。宦官に命じて工事を監督させ、これにいましめて、「みんなよく部署をつくせ、安禄山の目玉は大きいから、へたなことをして朕を笑い者にさせないように注意してくれ」と言った。くさりの形をきざんだ宮門、いろいろに組み合わせたすかしぼり、台観や池沼を造り、華やかでおごったとばりをめぐらし、あかね色のぬいとりと金銀を使ってみのや籠やまがきをつくり、衣服や車馬も、天子のものより贅沢であった。 ある日、勤政楼で祝宴を開き、安禄山の座席を玉座の左にしつらえ、金鶏をあしらった障子を設け、前に特製のこしかけを置き、詔して簾をまきあげさせ、その寵愛ぶりを群臣に示した。皇太子が、「昔から幡坐は、人臣の坐るべきところではありません。陛下が余りに安禄山を寵愛されると、必ずや驕りたかぶった気持ちを起こしましょう」と諌めると、「あの胡人には、異相がある。朕はこれを抑えつけておこうとしているのだ」と答えられた。 その頃は太平が続き、人々は戦を忘れていた。帝は高齢のうえ、楊貴妃に首ったけで、李林甫と楊国忠がかわるがわる政権を握り、政治の大綱は乱れに乱れていた。そのようなわけで、安禄山は、天下を奪おうとする野心をますますはげしくもやしていた。いつも朝堂に昇る竜尾道を通るときには、南北をにらみすえ、しばらくして立ち去った。范陽の北に城砦を築き、雄武城と号した。兵を集め、穀物を積み、同羅(トンラ)や降ってきた奚や契丹やアラブの奴隷八千人を養って仮子とし、家奴の中から弓矢の上手なものを選んで厚遇し、戦馬三万・牛羊五万匹をたくわえた。張通儒・李廷堅・平洌・李史魚・独孤問俗を引きたてて幕府に入れ、高尚に書記をつかさどらせ、厳荘に財物の出納を管理させ、阿史那承慶・安太清・安守忠・李帰仁・孫孝哲・蔡希徳・牛廷玠・向潤客・高邈・李欽湊・李立節・崔乾祐・尹子奇・何千年・武令珣・能元晧・田承嗣・田乾真を兵卒から引き抜いて大将とした。たくみに胡人の商人を諸道につかわし、毎歳百万を輸納させた。大会のときには、大きな椅子に腰掛け、香をたき、珍奇な品を並べ、胡人数百を左右にはべらせ、商人たちを引見した。犠牲を並べ、坐前で女巫を舞わせ、自分を神になぞらえさせた。また多くの商人に 命じ、錦・綵・朱や紫の衣服数万を買い、謀反の資金とした。一方、毎月、牛やラクダや臓や犬や珍らしい鳥や変った物を進献し、帝の心を毒した。そのようなやり方をみて、人々は、安禄山が何かをしでかすのではないかと不安がった。 彼は、さしたる功労がないのに出世したので、何か手柄を立てたいと思っていたが、帝がさかんに国外経略をしているのをみて、契丹の酋長たちを欺いて招待し、酒に毒を盛り、酔ったところで首をはね、前後数千人を殺し、それらの首を献上した。帝はその真相を知らず、武動を賞する鉄券を賜わり、柳城郡公に封じた。ときに天宝七載(748)のことである。また故安延偃に范陽大都督の位を追贈し、安禄山に爵を賜わり、東平郡王に封じた。唐の将帥で王になったのは、彼がはじめてである。 この年、河北道採訪処置を兼ね、永寧園を賜わり、使院とした。その秋入朝したときには、楊国忠兄弟や虢国夫人の姉妹が新豊まで出迎え、御馳走を賜わった。途中温泉があると、将校たちはみな浴を許された。帝は望春宮に行幸して彼を待ち、彼は捕虜八千人を献じた。詔により、永穆公主の庭園を賜わり、燕遊地とした。新第に移ったとき、彼は墨勅を請い、宰相をよんで宴会したいと願い出た。丁度そのとき、帝は撃毬の会を催されていたが、会を止め、宰相に命じてみな行かせた。帝は苑中で狩をされ、新しい獲物をとられると、必ず馬を馳せて安禄山に下賜された。 天宝十載(751)、彼は河東節度使を兼任したいと願い出、ついに雲中太守・河東節度使を拝した。かくして彼は三道(平盧・范陽・河東)節度使を兼ね、ますます矯慢になった。男子が全部で十一人いたが、帝は安慶宗に太僕卿、安慶緒に鴻臚卿、安慶長に秘書監を授けられた。 この年八月、河東の兵を率いて契丹を討った。奚に告げ、「彼が盟約に背いたから、討とうとしているのである。汝らは我が軍に協力をしないか」と言った。奚は、歩兵二千を出して先導となった。土護真河(奚王の牙帳)に至ったとき、安禄山は、「道は遠いが、疾駆して敵陣に至り、その不備を襲えば、勝利は確実であろう」と計り、人々に網を持たせ、契丹をことごとく生りにしようとした。昼夜兼行して 行くこと三百里(百七十キロ)。天門嶺まで来たとき、大雨に遭い、弓が弛み、矢羽が脱け、使うことができなくなってしまった。それでも安禄山は、はげしく督戦した。大将何思徳が、「兵士は非常に疲れているから、少し休むべきだ。そして使者を遣わし、有利な降服条件を並べたて、敵を動じさせれば、敵は必ず降ってくるでしょう」と言うと、安禄山は非常に怒り、彼を斬って軍に命令しようとした。それで何思徳はやむなく先陣をかって出た。彼は顔立ちが安禄山に似ていたので、戦闘になると、敵は矛をそろえ、矢を集中してこれを迎え撃ち、擒にし、口々に「安禄山をつかまえたぞ」と言った。それを聞いた奚は、急に寝返り、安禄山を鋏み討ちにした。護衛兵はことごとく逃れ、安禄山は流れ矢にあたった。奚の少年兵数十をひきつれ、衆兵を棄てて山に逃げ、馬から落ちた。安慶緒と孫孝哲がかかえおこし、夜陰に乗じて平盧に走った。部将の史定方が兵を指揮して大奮闘したので、敵はようやく囲みを解いて去った。 安禄山はうらみをはらすため、兵を総動員し、二十万と号し契丹を討とうとした。帝はこれを聞き、朔方節度使の阿布思に詔し、軍を率いて安禄山と会させようとした。この阿布思という者は、九姓鉄勒の首領で、 堂々たる容貌をもち、策略に富んでいた。開元年間初頭、東突厥の黙啜可汗のために苦しめられ、唐に内属した。帝は彼を寵愛されたが、安禄山は常に彼の才を忌み、敵意を抱いており、隙があればこれを襲奪しようとしていた。だからこのとき、わざわざ上奏し、阿布思に援助させるように求めたのである。阿布思はそれを懼れ、離反して漠北に入ってしまった。安禄山は進軍せず、兵を分けてとどまった。ところが阿布思は、回紇に侵寇され、彼は葛邏禄(カルルク)に奔った。そこで安禄山は、九姓鉄部に対し、厚遇する条件で部民を募ったので、彼らの多くは安禄山に降った。一方葛邏禄は、唐の意向を懼れ、逃げてきた阿布思を捕え、北庭都護府に送り、これを長安に献じた。かくして安禄山は、阿布思の軍を手に入れ、天下無双となりいよいよ専横となった。 皇太子と宰相は、しばしば安禄山が謀反をしそうだと上言した。しかし帝はそれを信じなかった。 このとき楊国忠は、安禄山との溝が深くなっていたのを心配し、「安禄山を朝廷に呼び帰し、 彼の様子をしらべよう」と建言した。安禄山はその謀を察知し、先手を採って急遽入謁したので、帝はついに安心された。それから以後、帝は楊国忠の言うことを、全くとりあげられなくなってしまった。 天宝十三載(754)、入朝し、驪山山麓の華清宮で帝に拝謁し、「臣は蕃人で文字も解せぬのに、陛下は破格のおひき立てをしてくださいました。ですから楊国忠は、臣を殺し、自分の思いのままにしようとするに違いありません」と言って泣いた。帝は慰め安心させ、尚書左僕射にし、実封千戸を賜わり、それに相応した奴婢・第宅等を下された。また帝に請うて閑厩隴右群等使となり、吉温を推薦して副使とし、更に部下のために恩賞を求め、功によって将軍となったもの五百人、中郎将となったもの二千人に及んだ。三月、詔により范陽に帰ったが、そのとき帝は、望春亭に御して送別され、御衣を脱いで賜わった。彼は驚懼感激したが、また引きとめられるのではないかと不安になり、疾駆して去った。淇門に至り、軽舟に乗り、流れに従って黄河を下った。大勢の水夫が、綱を持ち、舟につないでこれを引き、一日三百里(百七十キロ)下った。彼はすでに閑牧を総監していたので、良馬を選んで范陽に入れ、また張文儼の馬を奪い、軍馬を蓄えた。反状はすでに明白となったが、帝だけは信じられず、告げる者があると、これを縛って安禄山に与えた。 翌年、楊国忠が計略を立て、安禄山に宰相職たる同中書門下平章事を授けると言って、彼を長安に召し帰らせようとした。その任官の詔書がまだ下りないうち、帝は宦官輔璆琳に賜わりものの大柑(みかん)を持たせ、彼の様子を探らせにやった。安禄山は、これに多額の賄賂を贈った。それで輔璆琳が「安禄山には二心がありません」と報告したため、帝は遂に安禄山を召されるのをやめられた。輔璆琳の収賄は、しばらくして発覚し、帝は別な罪状に託してこれを殺した。ここに至り、帝ははじめて安禄山を疑われた。 しかし安禄山の方でも、朝廷が自分を暗殺しようとしているのではないかと疑い懼れ、使者が来るたびに、病気と称して出なかった。そして、護衛を厳重にしたのち、はじめてこれに謁見した。黜陟使の裴士淹が郡県を視察して范陽に行ったとき、二十日間も会おうとせず、武士が左右からはさむ様にして面会し、臣下の礼をとらなかった。裴士淹は、詔を伝えて帰ったが、後難を懼れ、敢えてそのことを言わなかった。 帝は、安禄山の息子の安慶宗に宗室の娘を妻わせ、御自分で詔を書き、安禄山に婚礼に参加するようさそわれたが、病気が重いからと言って上京しなかった。彼は、馬三千匹を献上すると称し、手綱をひく者六千人、車三百両、各車ごとに兵三人を配し、それによって京師を襲おうとした。 河南尹の達奚珣が、「馬をつれて来る兵士たちを、入れてはいけません」と、はげしく反対したので、帝は詔してそれに従った。帝は、安禄山に書を賜い、「卿のために一湯を造ったから、十月に上京して来るように。朕は卿を華清宮に待とう」と伝えた。使者が至っても、安禄山は椅子によりかかったまま、「天子様は安穏でいらせられますか」と言っただけで、使者を別館に送り、閉じ込めてしまった。数日後、そこから脱出して帰った使者は、「すんでのことで殺されるところでした」と報告した。 冬十一月、范陽で起兵した。「密詔を奉じて奸臣楊国忠を討つ」と語り、高札を県にかかげた。高尚と厳荘を主とし、孫孝哲・高邈・張通儒・張通晤を腹心とし、総勢十五万で、二十万と号し、一日六十里(約三十四キロ)進軍した。それより三日前、安禄山は大将たちを集め、酒を出し、絵図を見させた。それには范陽から洛陽に至る間の山川の険易や攻守のやり方が細かく書いてあった。人々に金帛とともにその絵図を与え、会合の期日を打ち合わせ、「違背する者は斬る」と命じた。かくしてここに至り、はじめの打ち合わせの如くなったわけである。 安禄山は、旗本百余騎を従え、城北に行き、祖先の墓を祭って出発した。賈循に留守をまかせ、呂知誨に平盧を守らせ、 高秀巌に大同を守らせた。燕(北京地方)の老人が、馬を叩いて諌めたが、安禄山は厳荘に命じてなだめさせ、「私は国家の危機を憂いて起兵したのであり、私心のためではない」と言い、礼を厚くして帰らせた。そこで命令を下し、「軍を阻げる者は、父母兄弟妻子を死罪にする」とふれた。 七日目に、安禄山謀反の報せが玄宗の耳に達した。帝は丁度そのとき華清宮におられたが、内外の者たちは、その報せに接し、色を失った。帝の御車が長安に帰り、安慶宗を斬り、妻の康氏と慶宗の妻の栄義郡主に死を賜った。詔を下し、安禄山をきびしく非難するとともに、帰順するようよびかけた。しかし彼の答書は傲慢で、とても我慢できるものではなかった。彼は高邈と臧均を遣わし、騎射の兵二十人を率い、馬を馳せて太原に入らせ、太原尹の楊光翽を捕えて、これを殺し、張献誠に定州を守らせた。 安禄山は、反逆を計画してから十余年間、降服してきた蕃夷にはすべて恩義をもって接し、服従しない者があれば兵を用いて脅し従わせた。捕虜の縛を解き、湯浴みや衣服を支給し、何人もの通訳を使って自分の意のあるところを知らせた。だから蕃夷の心のうちをことごとく知ることができた。彼自身蕃夷の言葉に通じていたから、みずから親しく彼らを慰撫した。このようにして釈放した捕虜を、みな戦士にしたてた。それ故、部下の者は彼のためなら死をいとわず、戦うところ、敵する者がなかった。彼の部下のうち、高邈が一番戦略にとんでいた。彼は、安禄山に薦め、李光弼を味方にいれ、左司馬にしようとしたが、聞き入れられなかった。彼はこのときすでに謀反に加担したことを後悔し、暗い顔をしていたが、しばらくして、「史思明を左司馬にしたらよろしかろう」と進言した。反乱に先立ち、高邈は、「捕虜を進献すると言って、直ちに洛陽を取るべきだ。楊光翽は殺すべきでない。天下広しといえども、彼ほどの知者はいないからだ」と計略を薦めたが、彼は従わなかった。また何千年が賊にすすめ、「高秀巌に命じ、兵三万をもって振武に出、朔方軍を降し、諸蕃をさそい、塩州・夏州・鄜州・坊州をとらせ、李帰仁・張通儒をして兵二万をもって雲中に通って太原を取り、弩兵一万五千を集めて蒲関に入り、関中を動揺させ、安禄山みずからは、兵五万を率いて河陽から黄河を渡り、洛陽を取り、蔡希徳・賈循に命じ、兵二万をもって山東海岸に出、淄州・青州を収め、江淮地方を揺りうごかさせば、天下の形勢は、再びくつがえすことができなくなるであろう」と献策した。しかし、安禄山はその策を用いなかった。 反乱が暴発的に起こったため、州県では、官の甲冑や剣仗が、みなぼろぼろに腐り、錆びたり折れたりしていて用をなさず、やむなく棒をもって戦ったが、とうていかなうものではなかった。役人は、みな城を棄てて隠れ、あるいは自殺し、そうでない者は捕虜となり、そんなことが毎日となく続いた。禁衛の兵は、みな市井の徒で、甲冑をうけても、弓の腰衣、剣の紐を解くことすらできなかった。そこで左蔵庫の絹布を出して兵士を大募集した。また封常清を范場・平盧節度使に、郭子儀を朔方節度使・関内支度副大使に、右羽林大将軍王承業を太原尹に、衛尉の張介然を汴州刺史に、金吾将軍の程千里を潞州長史にし、栄王を元帥とし、高仙芝を副使とし、駅を馳せて賊を討たせた。 安禄山は鉅鹿に至ったとき、急に止まり、「鹿は私の名だ」と驚いて言い、そこ去って沙河に行った。ある者が、「これは漢の高祖が、柏人は人に迫るに通じると言って、柏人に宿らなかったのと同じです」と、賊に諂った。賊は黄河に草を投げ、木を倒し、長縄で舟や筏をつなぎ、流氷を結ばせた。一夜にして河が凍り、河を渡った。霊昌をおとし、また三日で陳留・滎陽をくだし、甖子谷に達した。将軍の荔非守瑜がこれを迎え討ち、数百人を殺した。流れ矢が安禄山の輿にあたり、そのため賊は敢えて進まず、改めて谷の南に出た。荔非守瑜は、矢尽き、河で死んだ。安禄山はまた封常清を破り、東都洛陽を占領した。封常清は陝州に逃げ、留守の李憕・御史中丞盧奕は殺され、河南尹の達奚珣は賊に臣従した。 このとき、高仙芝は陝州に駐屯していたが、封常清が破れたのを聞き、甲冑を棄てて潼関にたてこもった。太守の竇廷芝は河東に逃げた。しかし常山太守の顔杲卿は、賊将の李欽湊を殺し、高邈と何千年を捕虜にした。ここに至り、趙郡・鉅鹿・広平・清河・河間・景城の六郡は、みな国家のために守備した。だから、安禄山が支配したところは、わずかに盧竜(范陽)・盧龍・密雲・漁陽・汲・鄴・陳留・滎陽・陝郡・臨汝だけであった。 賊は東都に入ると、その宮殿の尊厳雄大なのを見て、帝位を僭称しようとする野心を、ますます強くした。だから久しく西進しなかった。そのため政府軍は、やや諸道の兵を集めることができた。賊将の尹子奇は、陳留に屯し、東方を経略しようとした。しかし丁度そのころ、済南太守の李随、単父尉の賈賁・濮陽の人の尚衡・東平太守の嗣呉王李祗・真源令の張巡が相ついで起兵し、十日にして衆数万を集めたので、尹子奇は襄邑まで来て引きあげた。 翌年(756)正月、雄武皇帝と僭称し、国号を燕とし、聖武と建元した。子の安慶緒を晋王とし、安慶和を鄭王とし、達奚珣を左相とし、張通儒を右相とし、厳荘を御史大夫とし、百官を拝署した。 また常山を取り、顔杲卿を殺し、安思義を真定に駐屯させた。しかし李光弼が土門に出て常山を救援したので、安思義は降服した。李光弼は博陵も降した。そのため賊は、藁城と九門二県を守るだけとなった。史思明・李立節・蔡希徳は、饒陽を攻めたが勝てず、軍を引いて石邑を攻めた。しかし張奉璋が固守し、朔方節度使郭子儀が雲中から兵を引いて李光弼と合し、史思明を九門で破った。李立節はここで戦死し、蔡希徳は鉅鹿に奔り、史思明は趙郡に行き、鼓城から博陵を襲い、またこれに拠った。そこで李光弼は趙郡を抜き、引き返して博陵を囲み、恒陽に布陣した。蔡希徳は援軍を求め、それに応じて賊は二万騎をもって河を渡り、博陵に入り、牛廷玠が媯州・檀州等の兵一万人を動して来援した。それによって史思明軍は強化されたが、李光弼と戦い、嘉山で破れた。李光弼は十三郡を奪回し、河南の諸郡もみな兵を厳にして守り、潼関は固く閉ざされた。 安禄山は懼れをなし、范陽に帰ろうと言いだした。そして厳荘と高尚を呼び出し、「私が挙兵しようとしたとき、君達は絶対に大丈夫だと言ったではないか。しかるに今や我を囲む四方の敵は、日々ますます盛んになり、潼関以西は牛の歩みのように遅々として軍を進めることができないでいる。君達はどんな作戦があって、私に会わす顔があるのか」と責め、高尚らを追い出してしまった。それから数日後、田乾真が潼関攻撃から帰ってきて、安禄山をはげまし、「昔からいやしくも王朝を興す戦いは、勝ったり負けたりしたのち、ようやくにして大業を成すもので、一挙に天下を取った者はおりません。いま四方の敵が多いと言っても、烏合の衆で、我が軍の敵ではありません。不幸にして事が成就しないようなことがあっても、我々は数万の兵を擁し、天下横行して十年の計をなすことができます。しかも、高尚と厳荘は、陛下が帝位につかれたのを援けた元勲です。それなのに陛下は、何で急に二人を遠ざけ、みずから禍いの種をまこうとされるのですか」といさめた。それを聞いた安禄山は、大層喜び、田乾真を幼名で呼んで、「阿浩よ。君でなければ誰が私を悟してくれたであろうか。それなら一体どうしたらよいのか」と言った。田乾真は「彼らを召され、慰安なさればよいでしょう」と答えた。安禄山は、高尚らを呼び、一緒に酒を飲んだ。安禄山はみずから歌い、君臣は初めのように睦まじくなった。 そこで直ちに孫孝哲・安神威を遣わし、西進して長安を攻めさせた。たまたま副元帥の高仙芝らが死に、哥舒翰が潼関を守っていたが、崔乾祐がこれを破り、捕虜にした。しかし賊は、天子がよもや急遽都を去るとは思わず、兵を潼関にとどめ、十日ののち、はじめて西に向った。そのとき、天子は既に扶風に至っていた。かくして汧水、隴山以東は、みな賊の手に没した。安禄山は、張通儒に長安を守らせ、田乾真を京兆尹とし、安守忠を宮城内に駐屯させた。 安禄山が長安につくまえ、士大夫たちはみな山谷に逃げ、東西二百里(約十一キロ)の間、避難者の往来がたえず、女官たちはちりぢりに匿れ、奔りながら泣いた。将軍大臣の第宅では、宝物を道に棄て、その数たるや、計りきれない程であった。不逞の輩が争ってこれを取り、数日たってもなお尽きなかった。彼らは、政府の倉や天子の倉や役所の倉を略奪し、残ったものに火をつけて焼いた。長安についた安禄山は、大いに怒り、三日に渡って探しまわり、民間の財物をことごとく奪った。 府県は根こそぎに税物を徴発し、そのため人々はいよいよ騒いだ。安禄山は、息子の安慶宗が殺されたのを怨み、帝の親族の霍国長公主以下諸王妃妾の子孫、姻戚ら百余人を殺し、安慶宗の霊を祭った。また群臣で天子に従って西行した者は、その宗族を誅滅した。およそ夷というものは、生来、欲するものを得ると、残虐をほしいままにするもので、そのため人々はますます離反した。安禄山は、部下を統禦するのに、恩情がなく、腹心、故知も、仇敵の如くあつかった。配下の将軍が作戦の決定を求めてきても、直接には会わず、みな厳荘を通して裁定を下した。そのようなやり方であったので、彼の支配下の郡県では、こぞって守将を殺し、官軍を迎えた。かくして、十数度も取ったり取られたりしたため、城邑は廃墟と化してしまった。 粛宗が霊武で即位して軍を治められると、天下の人々は、首を長くして長安が奪回されるのを待ち望んだ。しかし都の人々は、「太子が西方から来られた」と聞くと、再び戦闘になるのを懼れ、一斉に東走した。そのため、長安市内は空になってしまった。一方、畿内の豪傑で賊の官吏を殺し、官軍に附帰してくる者が毎日続いた。賊は、これらを斬ってこらしめたが、止めることができなかった。また賊将たちは、慓敢勇猛であるが、遠謀がなく、日々酒に酔い、女性や財物に浮かれていた。だから、その隙に帝は四川に入ることができ、ついに追跡されることがなかった。 側近の李猪児なる者は、もとは捕虜として捕えられてきた小姓であった。幼いときから安禄山に仕え、甚だ謹ましかった。安禄山はこれを宦官とし、ますます信用した。安禄山は腹が大きく、膝まで垂れさがっており、衣裳をかえるときは、いつも左右の者がこれを持ちあげ、猪児が帯をむすんだ。安禄山が華清宮に浴を賜わったときも、お伴を許された。 安禄山は年をとるとますます肥え太り、腋の下や内股に、いつもおできができていた。反乱を起こしてから、心の不安をおさえきれず、わけもなく怒ったり、懼れたりした。しかも盲目になってしまい、また急に悪性のはれものができて、非常にイライラしていた。左右給侍の者は、罪もないのに殺され、あるいは鞭うたれ、しかりはずかしめられた。李猪児が最も多かった。厳荘のような腹心でも、時々鞭うたれ、はずかしめられた。だから二人は、非常に安禄山を怨んでいた。安慶緒は、幼少から射が巧みで、成年に達する以前に鴻臚卿を拝し、周囲から嘱望されていた。ところが、安禄山が帝位を僭称すると、段夫人を寵愛し、その生んだ安慶恩を愛して皇太子にしようとした。安慶緒は、自分がなれなくなるのではないかと疑い、厳荘もまた難問題が起これば、自分が不利になるのを懼れていた。そこで厳荘は、ひそかに安慶緒にささやき、「あなたは「大義、親(しん)を滅す」という言葉をお聞きになったことがありませんか。昔から、まことに止むを得ずしてなすことがあります」と言った。安慶は、暗にこれを承知し、「はい、はい」と答えた。また李猪児に語り、「おまえは、お上に仕えて以来、受けた罰を数えることができるか。大事を決行しなければ、殺される日も間近いであろう」と言った。かくして三人は、陰謀を定めた。 至徳二載(757)正月元日、安禄山は群臣を朝見しようとしたが、できものが悪化したのでとりやめた。その夜、厳荘と安慶緒が、兵を率いて門に待ち、李猪児が帳下に入り、大刀をもって安禄山の腹に切りつけた。安禄山は盲目になっていたので、佩刀を探したがわからず、帷幄の柱を振るい、「家中の者の裏切りだな」と呼んだ。しかし急に腸がつぶれ、床の上にて即死した。ときに年五十余。死体を毛布で包み、床の下に埋めた。そして病状が非常に悪化したといいふらし、偽の詔物を作り、安慶緒を立てて皇太子とした。ついで、安禄山が慶緒に位を譲ったといつわり、安禄山に太上皇の尊号をたてまつった。 すでに安慶緒が偽帝位を継ぐと、載初元年と改元し、そこでほしいままに飲酒を楽しみ、政務を厳荘に委ねてこれ兄として敬い、張通儒・安守忠らを長安に駐屯させ、史思明に范陽を領有させ、恒陽軍を鎮めて、牛廷玠を安陽に駐屯させ、張忠志に井陘を守らせ、それぞれ兵士を募集させた。 ここに広平王(後の代宗)は軍を率いて東に討伐し、李嗣業を前軍の将とし、郭子儀を中軍の将とし、王思礼を後軍の将とし、回紇の葉護も兵を率いて従った。張通儒らは兵十万を集め長安中に陣どったが、賊はすべて奚であったから、もとより回紇を恐れており、回紇が合流すると、驚きかつ騒いだ。広平王は精兵を分けて李嗣業とともに合せてこれを攻撃し、安守忠らは大敗し、東に撤退し、張通儒は妻子を棄てて陝郡に逃げた。王師は長安に入り、王思礼は宮殿を清めた。僕固懐恩は回紇・南蛮・大食の兵を先鋒とし、広平王は全軍で賊を追撃したが、厳荘は自ら兵十万を率いて張通儒と合流し、鉦鼓は百里あまりも響かせた。尹子奇はすでに張巡を殺し、全軍十万でやってきて、厳荘と合流して陝西に駐屯し、曲沃に至った。これより以前、回紇は南山の傍らに伏兵し、軍を嶺北に駐屯させて待機した。厳荘は大いに新店で戦い、騎兵で戦いを挑んできて、六たび戦ったがたちまち敗北した。王師は追撃して賊の堡塁に入ったが、賊は両翼よりこれを攻撃し、追撃してきた兵は壊滅し、王師は混乱し、しばらく指揮が困難であった。李嗣業は馳せ参じ、ことさらに死闘し、回紇が南山より回り込んでその背後を攻撃し、賊は驚き、遂に混乱し、王師は再び勢いを取り戻し、合流して攻撃し、殺害すること数え切れず、賊は大敗し、五十里あまりを追撃し、死体は累々と穴や溝に満ち溢れ、鎧や剣は散乱し、陝より洛陽に至るまでその有様であった。厳荘は飛んで逃げ帰り、慶緒・安守忠・張通儒らは残軍をかすめて鄴郡に敗走した。 広平王が洛陽に入ると、大いに兵を天津橋に列べ、偽侍中の陳希烈ら三百人は素服で叩頭して罪を待ったが、広平王は労って、「公らは汚らわしい奴らに脅やかされただけで、叛いたわけではない。天子は詔があって罪を赦されるだろうから、皆はまた官に戻られよ」と言い、衆は大いに喜んだ。ここに陳留は賊将尹子奇を殺して降伏した。厳荘の妻の薛氏は獲嘉に家があり、 永王の娘を騙して、軍営にいたり、広平王に謁見すると、「厳荘は降伏したいと思っています。願わくば信じるに値する証をください」と述べたから、広平王と郭子儀は謀って、厳荘がもし来たならば余党を諭させて降伏させようと、そこで厳荘に約束して鉄券を賜った。厳荘はそこで降伏し、駱駝に乗って京師に到り、粛宗に引見し、死を赦され、司農卿を授けられた。阿史那承慶はその軍三万を率いて恒州・趙州に逃げ、または范陽に逃げた。慶緒に従う者は、傷病兵がわずかに千人あまりであった。 その時、蔡希徳が上党より、田承嗣が潁川より、武令珣が南陽より、それぞれ軍を引き連れて来て、邢州・衛州・洺州・魏州より兵を募ると少しづつ集まり、軍勢六万となり、賊はまた復活した。相州を成安府とし、太守を尹とし、天和と改元し、高尚・平洌を宰相とし、崔乾祐・孫孝哲・牛廷玠を将とし、阿史那承慶を献城郡王とし、安守忠を左威衛大将軍、阿史那従礼を左羽林大将軍とした。しかし部党はますます離反していき、そこで能元晧を偽淄青節度使とし、高秀巌を河東節度使として従わせた。徳州刺史の王暕・貝州刺史の宇文寛は皆賊に叛いて唐に帰順し、河北の諸軍はそれぞれ城を取り巻いて守らせたが、賊は蔡希徳・安雄俊・安太清らに兵で攻撃させて陥落させ、市で殺戮してその肉を膾にした。 慶緒は人が己に二心あるのを恐れて、壇を設けて誓約文を加え、群臣と血盟した。しかし阿史那承慶ら十人あまりに密書を送り、詔して阿史那承慶を太保・定襄郡王とし、安守忠を左羽林軍大将軍・帰徳郡王とし、阿史那従礼を太傅・順義郡王とし、蔡希徳を徳州刺史とし、李廷訓を邢州刺史とし、苻敬超を洺州刺史とし、楊宗を太子左諭徳とし、任瑗を明州刺史とし、独孤允を陳州刺史とし、楊日休を洋州刺史とし、薛栄光を岐陽令とした。将兵らはしばしば国のために賊の間諜となった。しかし慶緒は宮室・庭園・池沼を治めるだけで、楼船を浮かべて水上で遊び、長夜痛飲した。張通儒らは権力を争って一つにまとまっていなかったから、だいたい建白があっても、衆は共に欺いてこれを阻んだ。蔡希徳は最も謀があり、剛直かつ狷介で、慶緒を謀殺して内応しようとしたが、張通儒は他の理由によってこれを惨殺したから、麾下数千人は皆逃れ去った。蔡希徳はもとより兵士の心をつかんでいたから、全軍が恨み歎いた。慶緒は崔乾祐を天下兵馬使とし、権力は内外に震い、傲慢で恩を与えることが少なく、兵士は靡かなかった。 乾元元年(758)秋九月、帝は郭子儀に詔して九節度使の兵およそ二十万を率いて慶緒を討伐させ、衛州を攻め、遂に黄河を渡り、軍を背水の陣をしいて待ち受けた。慶緒は安太清を派遣して防戦させ、衛州がすでに包囲されたことを聞くと、そこで鼓を打って南に向け、三軍を編成して、崔乾祐を上軍の将とし、安雄俊・王福徳に補佐させた。田承嗣を下軍の将とし、栄敬を補佐とした。慶緒は自ら中軍を率い、孫孝哲・薛嵩を補佐とした。戦いが始まると、唐軍は偽って退却し、慶緒はこれを追撃したが、伏兵に遭遇して壊滅し、慶緒は逃走し、その弟の安慶和を捕虜とし、京師で斬刑に処した。郭子儀は軍を率いて賊を蹂躙し、愁思崗で戦い、賊はまた敗北し、これより精兵は消耗してしまった。鄴が包囲されると自ら守りを固め、薛嵩を派遣して財物によって史思明に救援を求めた。史思明は李帰仁と将兵一万三千を派遣して滏陽を守らせようとしたが、出発する前に、王師にすでに包囲網を固められ、城を築いて三重の堀を掘削し、安陽の水を決壊させて城に流し込んだ。城中は筏が居場所となってしまい、兵糧はつき、口にできる物は食べ、米は一斗あたり銭七万あまり、鼠一匹で銭数千にもなり、松を砕いて馬に飼料として与え、垣根を破壊して藁を取り、糞を洗って藁を取り出した。城中は降伏しようにも出来なかった。賊はさらに安太清を崔乾祐の代将とした。 ここに史思明が軍十三万を有しており、その軍を三分して鄴に急行した。翌年三月、安陽に駐屯した。慶緒は急行し、そこで太清を派遣して皇帝の璽綬を奉って史思明に譲り、史思明は書で軍中に示したから、皆万歳を叫び、そこで史思明は慶緒と盟約して兄弟となり、その書を返却したから、慶緒は大いに喜んだ。王師は不利となり、九節度使は逃げ帰り、郭子儀は河陽の橋を断って、穀水を守った。史思明は進撃して鄴の南に駐屯した。慶緒は官軍の遺棄した兵糧を収容すると十万石あまりにもなった。孫孝哲らを呼び寄せて史思明を排除する謀略を行ったが、諸将は皆、「今日どうしてまた史王(史思明)に背くことができましょうか?」と言い、張通儒・高尚・平洌は皆、自ら行って史思明に謝罪することを願い、慶緒は許諾した。史思明は謁見すると、涙を流し、厚礼して帰された。三日、慶緒が出かける前に、史思明は慶緒が血をすすって盟約を結ぶことを願ったので、やむをえず五百騎で史思明の軍に詣でた。それより以前、史思明は軍中に甲冑を着させて待機させていた。慶緒は到着すると、再拝して地に伏して謝して、「臣は重荷を担うのにたえられず、両都(長安・洛陽)を棄て、重囲に陥り、不意に大王は太上皇(安禄山)との縁故のために、にわかに軍を遠くから遣わされてお助けくださいました。臣の罪はただ王がおはかりください」と言ったが、史思明は怒って、「兵の有利不利はどうもいったことではない。だが人の子でありながら、父を殺して即位するのは、大逆ではないのか?私はだから太上皇のために賊を討とう」と言い、左右を顧みて引き出させて慶緒を斬った。慶緒は何度か周万志を見たが、周万志は進み出て、「安慶緒を君主とした者には死を賜うべきです」と言い、そこで四人の弟を絞殺した。また高尚・孫孝哲・崔乾祐を誅殺し、とくに死体を晒した。史思明は安禄山を改葬して王の礼を以て葬り、慶緒に燕剌王と偽謚した。安禄山父子が帝位を僭称してから三年で滅亡した。 それより以前、安禄山は東京(洛陽)を陥落させると、張万頃を河南尹としたが、士人や宗室は頼んで、生き残った者が多く、粛宗はその仁を嘉しとし、濮陽太守を拝命した。帝は賊が国難を招いたことから、その姓を聞くことを嫌がり、京師の坊里で「安」字があるものは、すべて変えてしまった。 高尚は、雍奴の人である。母は老い、乞食となって生計を立て、尚は河朔の客となって帰るのをよしとしなかった。令狐潮と親しく、その婢と通じて一女を産ませ、ついに定住した。しかし学にあつく文辞をよくし、かつて嘆息して汝南の周銑に、「私は賊となって死んだとしても、草の根を食べてまで生きることはできない」と言った。李斉物が新平郡の太守となると、朝廷に仕えることを勧められ、銭三万を餞に贈られ、これを仲立ちに高力士にまみえると、高力士は才能があるとして門下に加え、家の事をすべて相談し、近臣にその才能があるのをほのめかして、左領軍倉曹参軍に抜擢された。 高力士が尚のことを安禄山に語り、上表して平盧節度使の書記となり、そのため安禄山の寝室に出入りした。安禄山は寝てばかりいて、尚はかつて筆を持って侍り、夜通し眠らなかったから、これに従って親愛の情を得た。ついに厳荘と図讖を語って安禄山を謀反に導いた。東都(洛陽)が陥落すると、偽の中書侍郎に任命された。大抵、安禄山が赦令を下したものは、すべて尚が行ったものである。厳荘が降伏してからは、尚は一人で政事を司り、偽の侍中に任じられた。 孫孝哲は、契丹部の人である。母は色香があり、安禄山と密通し、そのため孝哲も慣れ親しかった。身長は七尺(約207センチ)、強健で知謀があった。安禄山は側門で帝のお召しを待ったが、衣や帯が破れてしまうと、どうすることもできなかったが、孝哲は針や糸を用いて次第にほつれを結び直したから、安禄山は大いに喜んだ。最も安禄山に行動に先んじてその気持ちを読み取ることができた。安禄山の身体は大きかったから、孝哲でなければ衣を縫うことができなかった。天宝年間(742-756)末、官職は大将軍となった。 賊(安禄山)が帝位を僭称すると、偽の殿中監・閑厩使に任命され、爵位は王となり、厳荘と寵を争って不和となった。革の衣服や馬は派手で奢侈となり、食は珍味ばかりを好んだ。賊は張通儒らを監として長安を守らせ、人々は皆注目した。妃・主・宗室の子百人あまりを殺し、楊国忠・高力士の郎党および賊(安禄山)に逆らう者を殺すこと数え切れないほどで、首をえぐり四肢を裂き、街道に散乱した。安禄山が死ぬと、厳荘は閑厩使の職を剥奪して鄧季陽に与えた。安慶緒が逃走すると、厳荘は恐れて計略し、そこで投降した。 胡の商人の康謙なる者がいて、天宝年間(742-756)に安南都護となり、楊国忠に付属して将軍となった。上元年間(760-761)、家財を出して山南の駅の米庫の助けとしたから、粛宗はその助けを喜び、これを許し、鴻臚卿に累進した。しかし婿が賊中にいたから、その謀反を告げる者があり、連座して誅殺された。事件は厳荘に連座し、獄に繋がれ、難江尉に左遷された。京兆尹の劉晏が官吏を動かして厳荘の家を捜索したから、厳荘は恨んだ。にわかに詔があって罪が許されると、厳荘は入朝して代宗に謁見し、劉晏が常に功績を誇ってお上を恨み、禁中の事を外部に漏らしていると誣告したから、劉晏は遂に左遷されたという。 史思明は、寧夷州の突厥の種族で、初名を窣于といい、玄宗にその名を賜った。姿は極度に痩せ、いかり肩でせむし、目はつりあがり横鼻、髭や髪は少なく、気が強くて狡猾であった。安禄山と郷里が一緒で、安禄山より一日前に生まれ、そのため成長してからも互いに仲良かった。若くして特進の烏知義に仕え、軽騎兵で敵を探り、多く捕虜や首級をあげた。六蕃もの言葉に通じ、また互市郎となった。しばらくして官銭を借財し、返済することができず、まさに奚に逃走しようとし、まだ奚に到着する前に巡邏の騎兵に捕らえられ、殺されようとしている時に欺いて、「私は使人である。もし天子の使者を殺せば、その国に不幸があるだろう。私を王に見えさせるにこしたことはない。王が私を生かせば、功績は自然とお前のものになるだろう」といい、巡邏はそうだと思い、護送して王の所に至った。王に拝礼せずに、「天子の使者が小国の君主にまみえるのには拝礼しない。これは礼である」と言う、王は怒り、しかし本当の使者であるかと疑い、ついに館を授け、接待するのに礼をもってした。まさに帰還しようとすると、百人をして入朝に従わせた。奚に部将の瑣高なる者があり、名は国中に知られていた。思明は捕らえて罪を贖いたいと思い、王に「私に従う者は多いが、ともに天子に謁見するのに足る者はいない。思うに瑣高は優れた人材であるから、ともに中国に来るべきであろう」とを誘うと、王は喜び、瑣高に命じて帳下三百倶を率いさせた。平盧に来ると、衛戍隊長に、「奚の兵が数百、表向きは入朝と言っているが、本当の実態は盗賊だ。備えられよ」と言い、衛戍隊長は軍を潜ませて迎えて宴会し、その衆を殺し、瑣高を捕らえて献じた。幽州節度使の張守珪はその功績を特に優れたものとし、上表して折衝に任じ、安禄山とともに捉生となった。 天宝年間(742-756)初頭、功績を重ねて将軍・知平盧軍事となった。入朝して上奏すると、帝は席とお言葉を賜ったが、思明を特に優れた者と思い、年を聞くと、「四十です」と答えたから、その背中を撫でて、「お前が貴くなるのは晩年であろう。よく勉めなさい」と言い、大将軍・北平太守に任じた。安禄山に従い契丹を攻撃したが、安禄山は敗れ、単騎で師州に逃げ、その配下の左賢の哥解と魚承仙を殺して自ら釈明した。思明は山中に逃げ、十日ほどして散り散りとなった兵を褒めて七百人となり、追って安禄山と平盧で見え、安禄山は喜んで、手を握って、「計略では死んでいた。今ここにいるのだから、私はなんの心配することがあろうか!」と言ったが、思明は親密に語って、「私は進退の状況を聞いてましたが、早めに来ていたら、哥解と一緒にあの世行きでしたね」と言った。契丹は師州を奪取し、守捉使の劉客奴は逃亡したが、安禄山は思明に攻撃させて敗走させ、上表して平盧兵馬使に任じた。 思明は若い時は卑賎で、郷里から移り住んだ。大豪族の辛氏に娘があり、婿を求めていて思明を狙い、その親に、「必ず私は思明に嫁ぎます」と告げ、宗属は許可しなかったが、娘の決意は固く思明のもとに行った。思明はまた自負して、「私に嫁が来れば、官は休まず、男子を多く産み、皆貴くなるんだ!」と言った。 安禄山が叛乱すると、思明をして河北を攻略・平定させ、たまたま賈循が死ぬと、思明を留めて范陽を守らせた。常山の顔杲卿らが檄文を伝えて賊を拒んだから、安禄山は向潤客らに交代し、思明を遣わして常山を攻撃させ、九日で顔杲卿を捕らえた。進撃して饒陽にせまったが、盧全誠は守って防ぎ、河間・景城・平原・楽安・清河・博平の六郡をしばらく募兵して自ら守った。河間の李奐が兵七千で饒陽に救援し、景城の李暐が兵八千で河間を助け、平原の顔真卿が兵六千で清河を助けたが、すべて思明のために敗北し、李暐の子の李杞は戦死し、饒陽はますます固く守った。その時李光弼が常山を回収したから、思明はにわかに饒陽の包囲を解き、迎撃すべく昼夜兼行で二百里を急行したが、持久戦となり勝敗は決しなかった。郭子儀が趙郡を奪取すると、兵を合流させて賊を攻撃した。数戦したがすべて大敗し、敗走して博陵に入った。李光弼は追撃して城に布陣し、何城かを陥落させた。たまたま潼関が壊滅したから、粛宗は朔方・河東の兵を召喚し、李光弼は引き還し、王俌に常山を守らせた。賊は李光弼を井陘に追撃したが、敗れて帰還した。平盧を攻撃したが、劉正臣は軽視して備えを怠っており、敗れて北平を保ったが、兵の財貨二千乗はすべて奪われてしまった。思明はその精兵を得て、非常に勢いが盛んとなり、謀って常山を攻撃した。王俌は降伏しようとしたから、諸将は王俌を殺し、使者を派遣して信都に到り、刺史の烏承恩を迎えて守将としようとしたが、許されなかった。思明は土門を攻め、城中では甲兵を伏兵して降伏を偽り、賊が城にやってくると、伏兵が攻撃し、賊は殲滅され、思明も戟で刺され、扶けられて免れた。再度攻撃して陥落させ、家屋を焼き払い、戟で刺した人とその種族を誅殺した。藁城を奪取すると、守将の白嘉祐は趙郡に逃げ、思明は趙郡を包囲すること五日で入城し、白嘉祐はさらに太原に逃げ、思明は再度常山を陥落させた。賊の別帥尹子奇は河間を包囲し、顔真卿は和琳に将兵一万人あまりを遣わして救援させた。この時北風が強く吹き、鼓が聞こえないほどで、兵士は進まなかった。賊はほしいままに攻撃し、大いに破り、和琳を捕らえ、軍を率いて城を攻め、李奐を捕虜とした。また景城を陥落させ、李暐は黄河に飛び込んで死んだ。楽安に降伏を勧め、楽安は降伏した。遂に平原を攻撃し、まだ到着する前に顔真卿は郡を放棄して逃れた。進んで清河を破り、太守の王懐忠を捕らえ、博平に入って、遂に信都を包囲した。それより以前、賊は烏承恩の母・妻および子を捕らえたから、そのため烏承恩は降伏して、兵は五万、騎兵三千になんなんとした。饒陽を攻撃し、李系は焼身自殺した。 思明の兵が向かう所は、その配下はほしいままに人を撃ち殺して略奪し、人の妻女を奪って姦淫し、そのため兵士は最も奮った。この当時、河北をあげてことごとく賊が侵入し、生きる人や財産は地を掃くように消え失せ、勇壮な者はかえって敗北をもたらし、老人や嬰児は殺し、戯れに人を殺した。安禄山は偽の范陽節度使に任じた。当初、麾下の騎兵はわずか二千で、同羅(トンラ)の歩兵の曳落河(同羅の徴発兵)三千を留め、すでに数勝をあげ、兵は最強で、狂心で江や漢に食らいつく心があった。精兵五万を尹子奇に与え、黄河を渡って北海を略奪して淮州・徐州を震撼させた。たまたま回紇が范陽を襲い、范陽は閉ざして出ず、尹子奇がそこで救援のため帰還するも、遂に勝てなかった。至徳二載(757)、蔡希徳・高秀巌とともに兵を合わせて十万で太原を攻撃した。この時、李光弼は部将の張奉璋に兵で故関を守らせたが、思明は攻めて陥落させ、張奉璋は楽平に逃走した。思明は攻め取って山東を掌握し、張奉璋は兵士を広陽に匿い、服を改め欺いて賊の使者となり、その後機会を捉えて攻め、数人を斬り、軍を率いて太原に帰還させた。李光弼は固守すること十ヶ月になり、陥落させることができなかった。安慶緒は位を継ぎ、史思明に安姓、名を栄国を賜い、媯川郡王に封じた。 賊が両京(長安・洛陽)を陥落させると、常に駱駝で禁府の珍宝を移送して范陽に積み、小山のようになっていた。思明が富強となり、怒りっぽく傲慢となり、これを自分の物にしたいと思った。そのうちに安慶緒は相州に敗走し、敗残兵三万は北に帰還したが、所属するところがなく、思明は数千人を撃ち殺して降伏させた。安慶緒は思明の二心があるのを知って、阿史那承慶・安守忠・李立節に思明のところに赴かせてこの事を議させ、かつ共にこれを謀った。判官の耿仁智は大義で賊を動かそうと思い、手隙のうちに、「公は高貴かつ賢者で、御麾下にはこの謀を行う者はいません。ですから一言いわせてください」と願い出ると、思明は、「私のためなら言ってみよ」と言い、答えて、「安禄山は強かったので、誰も敢えて心服してはいませんでした。大夫(史思明)はこれに仕えてましたが、もとより罪はありません。今の天子は聡明かつ勇気と知恵があり、古の帝王の少康・宣王の風格があります。公は誠心から使を遣わして誠心をつくせば、受け入れられないなんてことはありません。この災い転じて福となす好機です」と言い、思明は「よし」と言った。阿史那承慶らはそのことを知らず、五千騎でやって来た。思明は付き添って労ったが、その前に、「公らが来たから、兵士は喜びにあふれている。だが辺兵はもとより使者の威を憚って、不安な気持ちになっている。弓を弛めてから入ってくれ」と言ったから従った。思明が阿史那承慶らと飲むと、ただちに拘束し、その兵を収容し、財貨を給付して派遣し、安守忠・李立節を斬って全軍に布告した。 李光弼は思明が安慶緒との関係を絶ったと聞いて、人をして思明を招かせた。その前に烏承恩はすでに帰国していたから、帝は告誡のため派遣して説諭させ、思明は牙門の金如意に十三郡、兵八万を奉って朝廷に帰順し、ここに高秀巌も河東で自ら帰順した。詔して思明を帰義郡王・范陽長史・河北節度使とし、諸子を列卿とし、高秀巌を雲中太守とし、またその子らに官位を授けた。烏承恩と中人の李思敬を遣わして慰撫し、賊の残党の討伐を促した。思明はそこで張忠志を遣わして幽州を守らせ、薛㟧を任じて恒州刺史とし、趙州刺史の陸済を招いて降伏させ、史朝義に兵五千を授けて冀州を守らせ、令狐彰を博州刺史に任じ、滑州を守らせた。 しかし思明は、表向きは朝廷の命に従い、心内では本当は賊と通じており、さらに兵を募っていた。帝はこれを知って、思明が烏承恩の父烏知義に仕えていたから、嫌がることはないと願い、そこで烏承恩を抜擢して河北節度副大使に任じ、思明の意図をはからせた。烏承恩は范陽に到り、粗末な服で夜に諸将を過ぎ、密かに謀を告げた。諸将はかえって思明に報告したが、疑ったものの未だに証拠はなかった。たまたま烏承恩と李思敬が奏事のため帰還することになると、思明はこれを館に留め、帷幄を寝床とし、二人をその下に伏せさせた。烏承恩の子が入見し、そのため留って眠った。夜半にその子に語って、「私はこの逆胡を除く命を受けている」と言ったから、二人は思明に報告し、そこで烏承恩を捉え、衣袋を探ると阿史那承慶に賜う鉄券と李光弼の牒を得て、また書かれた数枚の薄紙があり、すべて誅殺すべき将兵の姓名が書かれていた。賊は大いに怒り、「私がお前に何をしてこのようなことになったのか!」と言い、そこで答えて、「これは太尉李光弼の謀で、お上はご存知ではありません」と言った。思明は官吏を官衙に召して、西に向かって、「私の真心は国に認められず、どうして私を殺そうとするのですか?」と哭泣して、そこで烏承恩父子および支党二百人あまりを杖殺し、李思敬を捕らえて上奏した。帝は使者を派遣して、「この事は烏承恩から出たことであって、朕と李光弼の意から出たものではない」と説諭した。また三司議の陳希烈ら死刑になったことを聞き、思明は恐れて、「陳希烈らは皆大臣で、上皇(玄宗)は彼らを棄てて西行してしまった。すでに復位したから、本来なら彼らを労われるべきなのに、かえって殺した。ましてや私はもとから安禄山に従って叛いていたのだからなおさらだ」と言い、諸将は皆、思明に対して天子に上表して李光弼を誅殺するよう勧め、思明は耿仁智・張不矜に上疏して李光弼を斬るよう願い、そうでなければ太原を攻撃するとした。上疏は箱に入れられたが、耿仁智はただちに撤去して別のに換えたから、左右の者が思明に密告し、二人を捕らえて、「お前は私を裏切ったのか!」と言い、斬るよう命じた。死罪を免れようと願っていると思い、また召して、「耿仁智は私に仕えること三十年、今日で私はお前を忘れたとでもいうのか?」と責めると、耿仁智は怒って、「人にはもともと死ぬものだ。大夫は邪説を受け入れて、再び叛こうとしている。私は生きていたとしても死ぬにこしたことはない!」と言ったから、思明は怒り、撲殺した。九節度使が相州を激しく包囲し、安慶緒は間道より救援を求めたが、思明は王師を恐れて、出発することができなかった。にわかに蕭華が魏州を挙げて天子に帰順し、崔光遠を代わりの守将としたが、思明はそこで兵を率いて魏州を攻撃し、陥落させて数万人を殺した。 乾元二年(758)正月朔日、壇を築いて大聖周王と僭称し、応天と建元し、周贄を司馬とした。相州を救援し、王師を迎え撃ち、安慶緒を殺し、その軍を併呑し、西へ攻略しようとしたが、根本が未だに固まっていないことを恐れ、そこで史朝義を留めて相州を守らせ、自らは引き還した。夏四月、さらに国号を大燕とし、順天と建元し、応天皇帝と自称した。妻の辛氏を皇后とし、史朝義を懐王とし、周贄を宰相とし、李帰仁を将とした。范陽を燕京と号し、洛陽を周京、長安を秦京とした。さらに州を郡とし、「順天得一」の銭を鋳造した。郊祀や藉田の祭祀をしたいと思い、儒生を招いて制度を講義させたが、ある者が上書して、「北に両蕃があり、西には二都があり、勝負はまだわかりません。太平の事がなるのは難しいのです」と言ったから、思明は喜ばず、ついに上帝を祀った。この日大風が吹き、郊祀することができなかった。 子の史朝清を留めて幽州を守らせ、阿史那玉・向貢・張通儒・高如震・高久仁・王東武らにこれを補佐させた。兵は四たび出撃して河南に侵入し、自らは濮陽に出撃して、令狐彰に黎陽を遮断させ、史朝義は白高に出撃し、周万志は胡良より黄河を渡って汴州を包囲した。ここに節度使の許叔冀、濮州刺史の董秦、梁浦・田神功は皆賊につき、そこで許叔冀と李祥に命じて汴州を守らせ、董秦らの家を平盧に移して、梁浦・田神功を江州・淮州に下し、「地を得たら、一人あたり財宝を舟二艘分取らせる」と約束し、思明は勝ちに乗じて軍鼓を打ち鳴らして行軍し、西は洛陽を陥落させ、汝州・鄭州・滑州の三州を破り、李光弼を河陽で包囲したが陥落させることはできなかった。安太清に懐州を奪取・防備させたが、李光弼が攻撃したため、安太清は降伏した。思明はまた田承嗣を派遣して申州・光州などの州を攻撃させ、王同芝に陳州を攻撃させ、敬釭に兗州・鄆州を攻撃させ、薛㟧に曹州を攻撃させた。上元二年(761)二月、思明は李光弼の兵を北邙に破ろうと図り、王師は河陽・懐州を放棄し、京師は震撼し、ますなす兵は陝州に駐屯した。思明は遂に西行し、史朝義を先鋒とし、自らは宜陽より続いて進発した。 史朝義は陝州を攻撃し、姜子坂で敗れ、退却して永寧に立て籠もった。思明は大いに怒り、史朝義および駱悦・蔡文景・許季常を召喚し、まさに誅殺して釈明しようとし、詫びて、「史朝義は臆病で、私の事業を行うことはできない!」と言い、史朝清を自らの副官にしようとした。また史朝義に勅して三角城を築城して兵糧を運ばせ、一日を終わらせてしまったが、まだ壁に土を塗る前に思明がやって来て、約束のようにしなかったことを怒ったから、「兵士が疲れているから少し休息させているだけです」と弁解したが、思明は、「お前は兵士を惜しんで私の命令に背くのか?」と言い、馬上から指図して壁に土を塗り終わって去り、振り返って、「朝に陝州を下さなかったら、夕に此奴を斬ってやる」と言ったから、史朝義は恐れた。思明は客舎にいたが、寵愛する曹将軍に鍋や銅鑼を打たせて守らせた。駱悦らも打たれていたから、そこで共に史朝義に説いて、「行って兵が敗れば、駱悦と王が死ぬのも遠くありません。曹将軍を招いてともに大事を謀るのにこしたことはありません」と説いたが、史朝義は表立って答えなかったから、駱悦は、「王が本当に忍びないというのでしたら、私らは唐に帰順しましょう。王に仕えることはできません」と言ったから、史朝義は許し、許季常に曹将軍を説得させた。曹将軍は諸将を恐れてあえて拒まなかった。思明は道化を愛し、寝食は常に側にあったが、道化の方は耐え忍んでいて恨んでいた。この夜、思明は驚き、寝床で叱りつけ、道化はその理由を聞くと、「私は夢で群鹿が水を渡り、鹿が死んで水が乾いていた。どういうことか?」と答え、にわかにうわ言のように、人相見が、「どうして命が尽きましょうか!」と言い、しばらくして駱悦が兵を率いて侵入し、思明の所在を聞き、未だ答えがないと、たちまち数人を殺したから、みなが溝を指さした。思明は乱がおこったのを知り、垣を超えて出て、厩下に到り、馬に乗って逃げようとしたが、駱悦の麾下の周子俊がその臂を射たからら落馬した。乱がおこったところを聞くと、「懐王(史朝義)である」と言われた。思明は、「明朝の失言の結果はここにあるのだろう。だが私を殺すのが早ければ、私に長安を取らせることはできなくなるぞ」と言い、大声で懐王(史朝義)を呼ぶこと三度、「私を捕らえてもいいが、父殺しの名を取ってはならん!」と言い、また曹将軍を罵って、「どうして私を誤らせたのか!」と言い、左右はかえって史思明を縛り、柳泉の客舎に送った。駱悦は戻って報告すると、史朝義は、「聖人を驚かせないか?聖人を傷つけないか?」と言ったが、駱悦は、「そんなことはないでしょう」と言った。その時周贄と許叔冀は後軍で福昌に駐屯しており、許季常は許叔冀の子であり、史朝義は許季常に報告させた。周贄は聞いて驚いて卒倒した。史朝義が兵を率いて帰還すると、周贄らは出迎えたが、駱悦はその二心を憎んで、そこで周贄を殺した。柳泉に行き、駱悦は軍衆が思明を嫌っていないのをみて恐れ、思明を扼殺し、毛布で死体を包んで、駱駝に乗せて東京に戻った。史朝義はそこで即位し、顕聖と建元した。 それより以前、思明の諸子には嫡庶の区別はなく、年少の者を尊んでいた。朝義は、庶長子で、心は寛く情に厚く、部下の多くは付き従った。兵乱が起こると、密かに向貢・阿史那玉らに史朝清のことを謀らせた。史朝清は狩猟を好み、人を傷つけたりすることは思明に似ていて、下品でみだらなことは度を過ぎており、帳下に三千人を養い、皆追い剥ぎをして命を軽んじた。向貢は謀って、「お上(史思明)は王(史朝清)を太子にしたいと思っていると聞いています。しかし車駕(史思明)は遠くにいますから、王が入侍なさるべきです」とあざむき、史朝清はそうだと思い、帳下に赴き旅支度をして出で、向貢は高久仁・高如震をして壮士を率いて牙城に入った。史朝清はその理由を聞くと、ある者が、「軍の叛乱です」といったから、そこで甲冑を着用して楼に登り、向貢らを責めて、兵士は楼の下に陣取り、史朝清は自ら数人を射殺したが、阿史那玉の軍が敗北を偽り、史朝清が楼下に降りてきたから、捕らえて、母の辛氏とともに死んだ。張通儒はそのことを知らず、兵を率いて城中で戦ったが、数日したが勝てず、同じく死んだ。向貢は軍事を司ったが、しばらくもしないうちに、阿史那玉は襲撃して向貢を殺し、自らは長史となり、史朝清を殺した罪をおさめようとし、そこで高久仁を梟首し、全軍に布告した。高如震は恐れ、兵を擁して守った。五日して、阿史那玉は武清に敗走し、史朝義は人をして招いたが、東都に到ると、たいていの胡面の者は、老幼の区別なくすべて誅殺した。李懐仙を幽州節度使とし、高如震を斬り、幽州は平定された。 朝義は軽んじられて配下にへりくだり、事はすべて大臣が決したが、しかし経略の才がなかった。この時になって、洛陽の諸郡の人は互いに人食する有様で、城邑は荒野となった。また諸将は皆安禄山の旧臣で、史思明と同僚であったから、朝義に屈するのを恥じ、兵を召喚されても簡単には来ず、幽州に戻りたいと願っていた。 その雍王(後の徳宗)は河東・朔方・回紇の兵十万あまりで賊を討伐し、僕固懐恩と回紇は左殺を先鋒とし、魚朝恩・郭英乂は殿(しんがり)となり、黽池より侵入して、李抱玉は河陽に迫り、李光弼は陳留を経て兵を合流させた。それより以前、代宗は南北軍の諸将を召喚してどうやって賊を討伐するか作戦を聞いた。開府儀同三司の管崇嗣は、「我らは回紇を得たのだから、勝てないということはありません」と言ったが、帝は、「まだそうなっていない」と言った。右金吾大将軍の薛景仙は、「我らがもし勝てなかったら、勇士二万を先鋒にして突撃して賊を殺しましょう」と言った。帝は、「壮絶だ!」と言った。右金吾大将軍の長孫全緒は、「賊はもし城を背にして戦ったのなら、必ず破ることができます。もし城を閉ざして死を賭して留まったのなら、奪取することができません。また回紇に短期間の攻城をさせれば、持久の勢いはまた阻まれるでしょう。我らがもし兵士を休ませて勢いを保って賊を膠着させ、李光弼に陳留を取らせ、李抱玉に河北を叩かせ、まずその手足を裁ち、その後に賊の軍中を蹂躙すれば、彼は従う者を脅して互いに疑心暗鬼となり、そこで滅ぶのを待つべきです」と言うと、帝は「よし」と言い、潼関・陝州に命じて警備を厳とした。軍は洛陽に行き、兵を馳せて懐州に下り、王師の部隊は粛然としたから、賊の顔色に恐れが浮かんだ。 朝義は軍十万を横水に隔てたが、戦ったが大敗し、捕虜・斬首はおよそ六万、鹵獲された牛・馬・兵器・甲冑は数えられないほどであった。朝義は明堂を焼き、東は汴州に逃げたが、偽節度使の張献誠が受け入れなかったから、濮より逃げて幽州に行った。東都は再び混乱し、郭英乂・魚朝恩らは軍をおさめることができず、回紇と略奪をほしいままにし、鄭州・汝州にまで拡大し、村里は炊事の煙がおこらない有様となった。まさに寒くなろうとし、人は皆紙を連ねて書を剥いで衣服とした。賊は逃げて下博に到ると、僕固瑒は追撃し、朝義はまた敗れた。河東の守将の李竭誠、成徳の李令崇は皆賊に叛いて前後呼応して戦った。漳水に到るも、舟がなく、諸将は降伏を勧めたが、朝義は喜ばなかった。田承嗣は車で円陣を組んで本営とすることを願い、女や子供を車中に入れ、輜重はその次とし、伏兵で待ち伏せた。戦っては退き、王師が追撃すると財貨に群がり、賊は奇兵を率いて囲みを出て、また伏兵を発して、王師は退いて数十里で停止した。朝義は遂に莫州に逃走し、僕固瑒は追撃して包囲した。四十日を過ぎ、賊は八戦するも八戦とも敗れた。翌年(763)正月、精兵を閲兵し、死を決しようと思った。田承嗣は朝義に、「ご自身で精鋭を率いて幽州に戻るにこしたことはなく、李懐仙に全兵力五万で戦いに戻らせ、勢力を伸長すれば、勝利は万全となるでしょう。臣には防備を固めさせてください。僕固瑒が強いといっても、にわかに下すことはできません」と言い、朝義はそうだと思い受け入れ、騎兵五千で夜に出て、出発する頃おいに、田承嗣の手を握って、存亡を託し、田承嗣は頓首して涙を流した。出発しようとして、また、「行く先々の関門は百もあって、母は老いて子は幼い。今公に委ねよう」と言い、田承嗣は拝命した。しばらくして諸将を集めて、「私と公らは燕に仕え、河北の百五十城あまりを降し、人の墳墓をあばき、人の家々を焼き払い、人の玉帛を奪い、壮年の者は刃で殺し、弱き者は溝に生き埋めにして殺した。公は名門につらなって私に従い、斉の姜氏・宋の子氏といった古代以来の名族は私のために一掃されてしまった。今天が降って鑑みたならば、我らはどうして命を帰するところなぞあろうか。古代より禍福はまた常ならざるものであるが、よく改めて今を修正するなら、危きを転じて即ち安全となる。夜明けに出て降伏しようと思うが、公らはどうするか?」と言い、諸将は皆、「よいことです」と言った。夜が明けると、人に城上の上で、「史朝義は夜半に逃走した。どうして賊を追跡しないのか?」と叫ばせた。僕固瑒はいまだに信じられなかったが、田承嗣が朝義の母および妻子を率いて僕固瑒の陣に行ったから、ここに諸軍は軽騎兵を率いて追跡した。 朝義が范陽に到ると、李懐仙の部将の李抱忠は壁を閉ざして受け入れず、「この頃すでに天子の命を受け、一年のうち、降伏したり叛いたりしたが、二度も三度もどちらが深刻だというのか!」と言った。朝義は飢えを訴えたから、李抱忠は野に糧食を贈った。朝義は食事し、軍もまた食事したが、食事が終わると、軍の子弟は少しづつ去っていった。朝義は涙を流して田承嗣を罵って、「老いぼれが私を誤ったのだ!」と言い、去って梁郷に到り、史思明の墓を拝し、東は広陽に逃走したが、受け入れられなかった。謀って両蕃に走り、李懐仙はこれを招いたが、漁陽より回って幽州で止まり、医巫の里祠の下で縊死した。李懐仙はその首を斬って長安に伝え、もと将軍を召してその死体を収容した。李懐仙は服を改めて哭礼し、士は皆慟哭した。葬られたが、その場所は不明となっている。偽恒州刺史の張忠志・趙州刺史の盧俶・定州刺史の程元勝・徐州刺史の劉如伶・相州節度使の薛嵩および李懐仙・田承嗣らは皆その地を挙げて帰順した。史思明父子が帝号を僭称することおよそ四年にして滅んだ。史朝義が死ぬと、部送将士の妻百人あまりを分けて官に送り、役人は司農に隷属させることを願った。帝は、「これは皆良家の子であって、脅されて掠われてここに至ったのだ」と言い、食を給付することを命じてその親元に帰し、帰るところがない者は、官が費用を出して遣した。 賛にいわく、安禄山・史思明は夷奴餓俘でありながら、天子から恩幸をかりて遂に天下を乱した。彼は臣でありながら君に叛いたから、その子もまた賊となってその父を殺したのだ。事はよく巡るもので、天道はもとよりこの通りだったのである。しかし民は災いにあい、必ず手を人に仮りる者は、そのため二賊はにわかに興ってしばらくして滅んだのである。張謂は劉裕を批判して、「近くは曹氏(曹魏)・司馬氏(晋)になろうとして、遠くは斉の桓公・晋の文公を棄てたから、禍は両朝に及び、福はいまだ三年にも満たなかった。血族は世嗣を伝え、六君は天寿を全うしなかったが、天の報施することは、それは明らかなことだ!」と述べた。杜牧は、「人相見は隋の文帝を称して帝となるべき者としたが、後に帝位を簒奪したから果たしてその予言を得たのである。北周の末期、楊氏は八柱国となり、公侯は相続して久しかった。一旦男子が帝位を奪おうと窺うと、二・三十年もしないうちに、壮年・老人・嬰児は皆死に方がよくなかった。彼が人相見を知っていれば、まさにこれを必ず楊氏の禍というべきなのであり、そこで優れた人相見であるとした」と述べた。張謂・杜牧が論を確定すると、今に到るまで多くがこれを自説とした。安禄山・史思明のように、劉裕・楊堅となることを願って至らなかった者は、これをもってその論を著すのである。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百二十四下 列伝第一百四十九下 『新唐書』巻二百二十五上 列伝第一百五十上 巻二百二十五中 列伝第一百五十中
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唐書巻二百二十一上 列伝第一百四十六上 西域上 泥婆羅 党項 東女 高昌 吐谷渾 焉耆 亀茲 跋禄迦 疏勒 于闐 天竺 摩掲陀 罽賓 泥婆羅(ネパール)は、吐蕃の西にある楽陵川からすぐのところにある。国土は赤銅とヤクを多く産出した。国人の風俗は翦髪で、前髪が眉にまで達している。耳には穴を穿っていた。アーチ状になった竹筒で楕円形の枠をつくり、ゆるやかに肩に至るのがよいとされた。さじと箸がないので、国人は手づかみで食べた。その国の器はみな銅製である。その家屋の板囲いに模様を描いた。牛を使用した耕作方法を知らないため、田畑が少ない。それゆえ、国人は生業として商業に習熟している。一枚の布で体を覆い、一日に数回、沐浴する。博戯を重んじ、天文学と暦術に通じていた。天神を祀るのに石を刻んで像をつくり、この像に毎日、水を浴びせ、煮た羊肉をそなえて天神を祀る。銅を鋳造して貨幣をつくる。貨幣のおもてに人のかたちを描き、裏側に牛や馬のかたちを描いた。この国の君主は、真珠、瑠璃、車渠(貝殻)、珊瑚、琥珀を身につけ、纓絡(ネックレス)をたらし、耳には金鉤・玉の耳飾りをつけ、宝剣を腰に帯びて、獅子の足の格好をした四脚寝台に座り、香を焚いて花を堂にしいた。大臣は地べたに座って敷物をしかない。左右に武器を持った兵士数百が待っている。宮中には七重の楼閣があり、その屋根は銅製の瓦で覆われていた。柱と梁はみな様々な宝石で飾られており、宮殿の四隅には銅製の水槽が置かれていた。その下には黄金の龍がおり、龍の口からは激しく水が流れ出て槽の中に注ぎ込んでいた。 初め王の那陵提婆(ナーレンドラ・デーヴァ)の父親が、叔父によって殺されたため、提婆は吐蕃に亡命した。吐蕃が提婆を受け入れたので、提婆は吐蕃に臣従した。貞観中、太宗は李義表を天竺に派遣した。李義表が泥婆羅を通過したので、提婆はたいそう喜び、使者を案内して阿耆婆池(アジーヴァ)を一緒に見学した。池の広さは数十丈、その水はいつも沸騰していた。その水は、日照りの時も大雨の時も、涸れることも溢れることもなかったと伝えられている。池の中に物を投げ込むと、たちまち煙が生じ、その上に釜をかけると、すぐに煮あがってくる。 貞観二十一年(647)、泥婆羅の使者が入朝し、波稜(ホウレン草)、酢菜、渾提葱を献上した。永徽の時(650-656)、王の尸利那連陀羅がまた使いを派遣して入貢した。 党項(タングート)は漢代の西羌の別種で、魏晋の後、次第に甚だしく衰微した。北周が宕昌、鄧至を滅ぼしたので、党項は初めて強くなりはじめた。その地は昔の析支であり、東は松州、西は葉護(西突厥)、南は春桑・迷桑などの羌、北は吐谷渾に隣接していた。険しい山谷に居住し、その長さは三千里にわたる。姓のちがいによって部落をなし、その一つの姓がまたさらに分かれて小部落をなし、大きいものでは万騎、小さいものでは数千の兵力を持っており、互いに相手を服属させることができないでいる。そのため、細封氏、費聴氏、往利氏、頗超氏、野辞氏、房当氏、米禽氏、拓拔氏があり、拓拔氏が最強で、定住し、家屋があり、ヤクの尾、羊毛を織って家を覆い、一年に一度、その毛織物を交換した。党項は武を尊び、法令も賦役もない。人々の寿命は長く、多くのものが百歳を越えた。盗みを好み、互いに略奪しあった。彼らは、復讐することを最も重んじた。復讐をいまだに果たせていないものは、蓬のように髪をふり乱し垢まみれの顔で、裸足のまま過ごし、草を食べる。復讐を遂げた後に、ようやく普通の生活に戻る。男女は、皮衣と粗い繊維の衣服を着用し、毛織物をまとった。ヤク、ウシ、ウマ、ロバ、ヒツジを牧畜して食べ、耕作はしなかった。その地は寒く、五月に草が生え八月に霜がおりた。文字はなく、草木の様子をうかがって歳時を識別した。三年に一度、互いに集まり、牛と羊を殺して天を祀った。他国から麦を得て酒を醸造した。父親の妾、伯母・叔母、兄嫁、息子や弟の妻を妻としたが、ただ同姓の女性は娶らなかった。年老いて亡くなった場合、子孫達は泣かなかった。しかし、幼くして亡くなると、天柱と称して、家族は悲しんだ。 貞観三年(629)、南会州都督の鄭元疇は使者を派遣して降服するように説得したので、党項の酋長・細封歩頼が部落を挙げて降服した。太宗が璽を押した詔を下して彼らを慰撫したので、細封歩頼はこれより入朝し、太宗から与えられる宴や賜わりものは、他とは違って別格であった。太宗は細封歩頼の領地を軌州となし、細封歩頼に刺史を授与した。細封歩頼は、兵を率いて吐谷渾を討伐したいと請願した。その後、酋長達がことごとく内属したので、その地を州、奉州、厳州、遠州の四つの州となし、首領たちを刺史に任じた。拓赤辞というものがおり、初めは吐谷渾に臣従していた。谷津の慕容伏允が、赤辞を厚遇して通婚したので、諸々の羌族はすでに唐に帰順していたにもかかわらず、赤辞だけがひとり唐に帰順してこなかった。李靖が吐谷渾を討伐した時、赤辞は狼道峡に駐屯して唐軍に抵抗した。廓州刺史の久且洛生が、赤辞を説得して降伏させようとしたが、赤辞は「吐谷渾王は私のことを腹心として遇してくれている。他のものなど知らぬ。もし速やかにこの場から立ち去らないのなら、おまえを斬り殺して私の刀を穢すことになるぞ。」と言い返してきたので、久且洛生は怒り、軽騎兵を率いて粛遠山で赤辞を撃破し、数百級を斬首して雑畜六千を捕獲した。太宗は、この勝利によって、降服すれば生命の保障をしたので、赤辞の従子・思頭は、ひそかに唐に帰順し、その部下の拓拔細豆もまた降伏した。赤辞は宗族が離反してしまったので次第に自らも帰順することを望み、岷州都督の劉師立も帰順を勧誘したので、赤辞は思頭とともに唐に内属した。そこで、太宗はこの地を懿州・嵯州・麟州・可州など三十二の州となし、松州を都督府となして、赤辞を西戎州都督に抜擢し、李姓を賜わった。それ以後、党項からの朝貢が絶えることはなかった。これによって、黄河の源流にある積石山から東の地はすべて中国の領地となった。この後、吐蕃が次第に隆盛したので、拓抜は恐れて内地への移住を請願した。そこで初めて慶州に静辺などの州を設置して党項をここに住まわせた。この地が吐蕃の領土と化すと、この地に住んでいるものはみな吐蕃に従属する事となり、さらに弭薬(ミーニャク)と号するようになった。 また黒党項という部族もいた。黒党項は、赤水の西に住んでいた。その部族長は、敦善王と号し、吐谷渾の王・慕容伏が李靖の軍に敗北してこの地に逃走してきた時には、伏允は敦善王を頼ってきた。吐谷渾が唐に服従するようになると、敦善王もまた朝貢してきた。雪山に住んでいるものたちを破氏といった。 白蘭羌という部族がいた。吐蕃はこれを丁零と呼んでいた。白蘭羌は、その左の部族が党項に属し、右の部族は多弥と隣接していた。勝兵を一万人擁し、戦闘において勇敢に戦い、用兵を善くするところは、民族的に党項と同じであった。武徳六年(623)、使者が入朝した。翌年、高祖はこの地を維州と恭州の二州となした。貞観六年(632)、数十万とともに内属した。永徽年間(650-656)には、特浪の生羌の楼と大首領・凍就が部衆を率いて到来し、内属したので、その地を剣州となした。 龍朔年間(661-663)以後、白蘭、春桑、白狗羌が吐蕃の臣下となり、吐蕃に兵士を提供してその先鋒になった。白狗と東会州は隣接し、勝兵はわずかに千人であった。西北にいるもので天授年間(690-692)の間に内附したものは、戸数にして約二十万だった。唐は、その地を朝州・呉州・浮州・帰州などの十州となし、霊州と夏州の間に散居させた。至徳年間の末(757)、党項は吐蕃に誘われ、吐蕃の間諜となって辺境地帯を略奪した。しかし、彼らは急に後悔して来朝し、霊州の軍糧運送を援助したいと請願した。乾元年間(758-760)、安史の乱が原因で中国がしばしば乱れたので、党項は邠州と寧州に入寇した。粛宗は、郭子儀に詔して朔方・邠寧・鄜坊の三節度使の任務を統括させて、鄜州刺史の杜冕と邠州刺史の桑如珪に二部隊に分けて出撃させた。郭子儀が邠州・寧州に到着すると、党項は潰走した。 上元元年(760)、涇州・隴州の部落十万人が、鳳翔節度使の崔光遠のもとに来て降伏した。上元二年(761)、党項は渾・奴刺と連合して、宝鶏を襲撃し、吏民を殺害して財物を掠め取った。大散関(宝鶏の南)を焼き、鳳州に入寇して、刺史の蕭槐、節度使の李鼎がこれを追撃した。翌年、党項がまた梁州を攻撃したので、刺史の李勉は逃走した。このため党項は奉天まで進撃し、華原・同官を大いに略奪して去った。詔して、蔵希譲を李勉に代えて刺史とした。これによって、帰順・乾封・帰義・順化・和寧・和義・保善・寧定・羅雲・朝鳳のおよそ十州の部落が蔵希譲を訪れ、よしみを通じて節と印を乞うたので、詔してこれを認めた。 僕固懐恩が叛いた時(764)、懐恩は党項・渾・奴刺を誘って入寇した。僕固懐恩は数万の兵を率いて鳳翔と盩厔を略奪した。党項の大酋長の鄭廷と郝徳は同州に入寇したので、同州刺史の韋勝は逃走した。節度使の周智光は、鄭廷らを澄城で撃破した。一ヵ月後、鄭廷らがまた同州に入寇し、官庁および民間の家屋を焼き、馬蘭山に塞を築いた。郭子儀は軍勢を派遣してこれを襲撃し、退却して三堡を保った。それから、郭子儀は慕容休明を派遣して、鄭廷と郝徳を諭させて降伏させた。 郭子儀は、党項と吐谷渾の部落を塩州・慶州などの州に分散させて住まわせた。それらの地と吐蕃が非常に近く、互いに連合して脅威になりやすかったので、上表して、静辺州都督、夏州・楽容などの六つの府の党項を銀州の北、夏州の東に移動させ、寧朔州の吐谷渾を夏州の西に住まわせて、引き離して唐の脅威にならないよう防いだ。静辺州の大首領、左羽林大将軍の拓拔朝光ら五人の刺史を召して入朝させ、厚く賜わりものを与えて帰還させ、各々の部族を安んじさせた。これより以前、慶州には、破丑氏族が三部族、野利氏族が五部族、把利氏族が一部族おり、おのおの吐蕃と婚姻して互いに援助しあっていたので、吐蕃の賛普は、これらを王とした。このため辺境地帯が乱れること十年餘に及んだ。郭子儀は上表し、工部尚書の路嗣恭を朔方留後、将作少監の梁進用を押党項部落使とし、行慶州を設置させた。さらに郭子儀は「党項は、ひそかに吐蕃と結んで事変を起こそうとしております。ですから党項に使者を派遣し、これを招慰して謀叛の機会を取り除くべきです。また梁進用を慶州刺史に任命し、厳しく警邏させて、党項と吐蕃との交通路を遮断すべきです」と進言した。代宗は、郭子儀の意見をもっともであるとした。また、郭子儀は上表して、静辺、芳池、相興の三州に都督と長史を置き、永平、旭定、清寧、寧保、忠順、静塞、万吉などの七つの州に都督府をそれぞれ置くよう進言した。ここに至り、破丑、野利、把利の三部族と、思楽州の刺史・拓拔乞梅らは、みな入朝し、宜定州刺史の折磨布落、芳池州の野利部は、並びに綏州、延州に移された。 大暦の末、野利禿羅都と吐蕃が結んで叛き、他の部族にも謀叛をけしかけたが、他部族はこれに呼応しなかった。郭子儀が、野利禿羅都を撃って、禿羅都を斬ったので、野利景庭、野利剛は、部族数千人を率いて雞子川において帰順した。六州の部落というのは、野利越詩、野利龍児、野利厥律、児黄、野海、野塞などで、慶州に住んでいるものを東山部と号し、夏州のものを平夏部と号した。永泰年間(765-766)の後、党項は次第に石州に移動したが、その後、永安の将・阿史那思昧による税の取立てが際限なかったので、ついに耐え切れず、党項は河西に逃走した。 元和(806-820)の時、宥州を復置して党項を護ったが、大和年間の中頃になると党項は次第に強盛になり、しばしば国境地帯を略奪した。党項は、武器や防具が鈍くて粗末なので、唐兵の武器の精強さを恐れ、良馬を売っては鎧を買い、良い羊を売っては弓矢を購入した。そこで、党項を危険視した鄜坊道軍糧使の李石が上表し、商人が、軍旗、甲冑、種々の武器を持って党項の部落に入ることを禁止した。もし密告したものがいたら、その密告者に罪人の財産を没収し、褒美として与えた。開成年間(836-840)の末になると、党項部族はいよいよ盛んになり、富裕な商人が絹織物を持ち込み、党項からヒツジ・ウマを買い入れた。藩鎮の役人はそれに便乗して、ヒツジ・ウマを無理やり売らせて代価を与えない事があった。このため党項の部族民は怒り、互いに誘いあって反乱を起こし、霊州、塩州に攻め込んだので道が不通になった。武宗は侍御史を使招定に任じ、三印に分け、邠州、寧州、延州を崔彦曽に属させ、塩州、夏州、長澤を李鄂に属させ、霊武、麟州、勝州を鄭賀に属させて、みなに緋衣と銀魚の印を賜わったが、功を奏さなかった。 宣宗の大中四年(850)、党項が邠州と寧州を略奪したので、鳳翔節度使の李業、河東節度使の李拭に詔して節度している軍勢を併せて、これを討伐するよう命令し、宰相の白敏中を都統となした。宣宗が近苑に出向いたところ、あるものが一本の竹を屋外に植えていた。見ると、その竹は、わずか一尺の高さで、宣宗から百歩ばかり遠ざかっていた。宣宗は矢の命中の成否にことよせて言った。「党羌は、いまや追いつめられた敵だが、窮地に陥りながらも、なお年ごとに唐の辺境を荒らしている。いま私は約束しよう。もし竹まん中に命中することができれば、党項はまさに、おのずから滅びるであろう。命中しなければ、私は天下の兵を求めて党項を殲滅しよう。この賊に子孫を残させないぞ」と。近臣たちが注目するなか、宣宗がひとたび矢を放つと、竹が割れ、矢が貫通したので、近臣らは万歳と叫んだ。一ヶ月もたたないうちに羌は果たして破れ滅び、残党は南山に逃亡した。 初め天宝年間(742-756)の末に、平夏部の族長、拓跋思恭が戦功を上げたので、容州刺史、天柱軍使に抜擢した。拓跋思寂の子孫の拓跋思恭が、咸通年間(860-874)の末に、ひそかに宥州を占領して刺史を自称した。黄巣が長安に侵入したので、拓跋思恭は鄜州刺史の李孝昌とともに壇を築いて犠牲を供え、賊を討伐する事を誓った。僖宗はこれを賢明な行為とし、拓跋思恭を左武衛将軍、権知夏綏銀節度事に任命した。拓跋思恭が、王橋に留まった時に黄巣に打ち破られたが、鄭畋ら四人の節度使とともに盟約して渭橋に駐屯した。中和二年(882)詔して拓跋思恭を京城西面都統、検校司空、同中書門下平章事に任命した。にわかに拓跋思恭を昇進させて、四面都統、権知京兆尹となした。黄巣が平定されると、拓跋思恭に太子太傅を兼ねさせ、夏国公に封じて、李姓を賜わった。嗣襄王李熅の乱が勃発すると、拓跋思恭に詔を下して賊を討伐させたが、軍勢が出撃する前に、拓跋思恭は亡くなった。そこで、思恭の弟の思諫を代わりに定難節度使に任じ、もう一人の弟の思考を保大節度使鄜・坊・丹・翟などの州の観察使、ならびに検校司徒、同中書門下平章事に任命した。王行瑜が抜くと、拓跋思孝を北面招討使に任命し、拓跋思諫を東北面招討使に任じた。拓跋思孝もまた、この反乱によって鄜州を取り、ついに節度使となり、累進して侍中も兼ねたが、年老いたために弟の思敬を推薦して保大軍兵馬留後となし、にわかに節度使となした。 東女国は、蘇伐刺拏瞿咀羅(スヴァルナゴトラ)ともいい、羌族の別種である。西海(インド洋)にも、女の王を戴く国があるので、区別するために「東」をつける。東は吐蕃、党項、茂州(四川省)に接し、西は三波訶国に属し、北には于闐、東南は雅州の羅女蛮、白狼夷に属していた。この国の面積は、東西に九日、南北に二十日行程の広さであった。八十の城を有し、女を君主に戴いている。延川に住み、険しい土地が四方を取り囲んでいた。弱水が南に流れている。人々は革を縫いあわせて船を造った。戸数は四万戸で、勝兵は一万人であった。王のことを「賓就」といい、官のことを「高霸黎」といったが、これは宰相に相当した。外にいる役人は、男子をこれにあてた。およそ号令は女官が内廷から伝え、男の役人がこれを受け取って実行に移した。王の侍女は数百人おり、王は五日に一度、政務をとり行った。王が亡くなると、国人は金銭数万を王族に納め、王族の中から淑女二人を求めて、そのうちの年長者を大王とし、年少者を小王となした。大王が死ぬと、小王を後継ぎに立てた。あるいは、姑が死ぬと嫁がその後を継いだ。王位の簒奪はなかった。住まいはみな重屋で、王は九層、国人は六層であった。王は、青毛の綾のスカート、青色の袍を着用したが、服の袖は地面に引きずった。冬は子羊の皮衣を着用し、文錦で飾った。小さな髪をつくり、耳にはイヤリングをたらした。足には皮靴を履いた。皮靴とは履き物のことである。この国の習俗では、男子を軽んじた。身分の高い女性はみな男を従者として有していた。侍男は、被髪で、顔面を青く塗り、ただ戦争と耕作にのみ努めた。子供は母親の姓に従った。その地は寒く、麦をよく産し、羊馬を牧畜し、黄金を産出した。風俗はだいたい天竺と同じであった。十一月を年始とした。巫者は十月に山中に詣で、酒かすと麦を敷き、まじないを言って鳥の群れを呼ぶ。にわかにやって来る鳥があって、その姿は鶏のようである。その腹を割いて腹の中を見、腹の中に穀物があれば、その年は豊作であるが、そうでなければ災厄が訪れる。それで、この占いの名を鳥といった。三年間喪に服し、衣服を変えず、くしけずる事も沐浴もしなかった。貴人が亡くなると、その皮膚を剥ぎ取り、骨を甕の中に収め、金粉を塗って、墓に埋める。王を葬る際には、殉死するものは数十人に及んだ。 武徳年間(618-626)に、王の湯滂氏が初めて遺使して入貢した。高祖はこれに対して厚く報いたが、西突厥が略奪するので通じることができなくなった。貞観年間中、使者がまたやって来たので、太宗は璽制して使者を慰撫した。顕慶の初め、遣使して、高覇黎の文と王子の三盧を来朝させたので、高宗は彼らに右監門中郎将を授与した。王の歛臂が、大臣を遣わして官号が欲しいと請願したので、則天武后は歛臂を冊立して左玉鈐衛員外将軍を授与し、瑞錦の服を下賜した。天授と開元の間、王と王子が再び来朝したので、玄宗は詔して宰相とともに長安の曲江池で宴をし、王の曳夫を封じて、帰昌王、左金吾衛大将軍となした。後には男子を王となした。 貞元九年(793)、王の湯立悉は、白狗君、及び、哥隣君の董臥庭、浦租君の鄧吉知、南水君の薛尚悉曩、弱水君の董避和、悉董君の湯息賛、清遠君の蘇唐磨、咄覇君の董藐蓬とともに、みなで剣南節度使の韋皋のもとに赴き、唐への内附を希望した。その種族は、西山、弱水に散居し、自ら王を称していたけれども、けだし小さな部落ばかりであった。吐蕃に河西隴右を奪われた後、これらの部落は尽く吐蕃の下に従属した。その部落は数千戸であったが、県令を置き、年ごとに絲(絹と綿)を吐蕃に輸出した。しかし、ここに至り、天宝の時に天子から賜わった詔勅を取り出して、韋皋に献上した。韋皋は、東女の民人を維州、覇州などに住まわせ、牛や糧食を与え、なりわいを治めさせた。湯立悉らが入朝すると、官禄を賜わったが、それには差があった。ここにおいて松州の二万口も踵を接して内附してきた。湯立悉らは刺史を与えられ、みな代々官職を世襲したが、しかし、ひそかに吐蕃に内附したので、これを両面羌と称した。 高昌(トルファン)は長安の西四千余里の所にあり、国土の面積は東西八百里、南北五百里で、およそ二十一の城を有していた。首都の交河城は、漢の車師前王国の王庭があったところである。田地城は戊己校尉の治所である。勝兵は一万いた。土壌は肥沃で、麦、稲は、二毛作であった。高昌には白畳(綿花)という名前の草があった。人々は白畳の花を摘んで織り、布を作った。この国の風俗では、弁髪にし、髪の毛をうしろに垂らした。 高昌の王麴伯雅は、隋の時、皇帝の親族字文氏の娘を妻にした。宇文氏は華容公主と号した。唐の武徳の初め、麴伯雅が亡くなり、息子の文泰が即位し、遣使して伯雅の死を告げたので、高祖は使者に命じて弔問させた。五年後の武徳七年、高昌は、身長が六寸、体長が一尺余の犬を献上した。この犬は、馬の手綱を口にくわえて先導することができ、また燭台を口にくわえることもできた。犬は払菻が原産であると言われ、中国はこれによって初めて払菻狗を有する事になった。 太宗が即位すると、黒狐の皮衣を献上したので、太宗もそのお返しに、妻の宇文氏にかんざしを一つ下賜した。これに対し、宇文氏も太宗に玉盤を献上した。およそ西域諸国の動静は、高昌が、すぐにこれを唐に奏上した。貞観四年(630)、麹文泰が来朝したので、太宗は礼賜を甚だ篤く与えた。また文泰の妻の宇文氏が李王室の皇族になりたいと申し出たので、太宗は詔して宇文氏に姓を賜わり、常楽公主に封じた。 これよりしばらくして麴文泰と西突厥が通好した。西域諸国は朝貢する際に高昌を通過したが、これ以後、使者達はみな麴文泰によって朝貢路を遮られ、唐への献上品を奪い取られた。伊吾(ハミ)は、以前西突厥に臣従していたが、唐に内属したため麴文泰と西突厥の葉護は共謀して伊吾を攻撃した。太宗は詔を下して麴文泰の背信行為を訪問し、高昌の大臣冠軍・阿史那矩を召し寄せて相談しようとしたが、麴文泰は太宗の命令にそむき、阿史那矩を唐には派遣せず、代わりに長史の麴雍を派遣して謝罪した。初め、隋の大業年間の末、中国の多くの民が東突厥に亡命したが、東突厥の頡利可汗が敗北すると、高昌に亡命するものがあった。太宗は詔を下して、中国から高昌に逃亡したものを中国に護送するように命じたが、麴文泰は彼らを高昌に拘留して中国に帰さなかった。また麴文泰は西突厥の乙毘設とともに焉耆の三つの城を撃破し、焉耆の民を捕虜にしたので、焉耆王は太宗に高昌の所業を訴えた。 太宗は、虞部郎中の李道裕を派遣して麴文泰の行状を詰問させた。麴文泰がまた遣使して太宗に謝罪したので、太宗はその使者を引見し叱責して言った。「おまえのあるじ麴文泰は、数年来、朝貢をしてこない。麴文泰には臣下としての礼がない。勝手に官職を設け、中国の百僚を僭称し、まねている。正月には万国の使者達がことごとく来朝したが、麴文泰は来なかった。かつて唐の使節が高昌を訪れたが、麴文泰は唐使に向かって横柄に言った。〝鷹が天に舞えば雉は草むらに隠れる。猫が堂で遊べば鼠は穴の中に逃げて安んじる。おのおの、その適所を得て、どうして心を楽しませないことがあろうか?〟西域の使者達が入貢しようとすると、高昌は、ことごとくこれを拘束する。また麴文泰は薛延陀に遣使して、こう言ったそうだな。〝あなたはすでに自ら可汗になった。唐の天子と同等である。なんで唐の使節に拝謁する必要があろうか?〟朕は来年、軍隊をおこして、なんじの国を虜にする。帰って、なんじのあるじに言うがよい。よく自ら図れ、とな」と。この時、薛延陀の可汗が、唐軍のために教導をしたいと請願してきた。そこで民部尚書の唐倹が薛延陀に行き、可汗とかたく約した。 太宗はまた璽書を下して麴文泰に禍福を示し、入朝を促させたが、麴文泰はついに病気を理由に入朝しなかった。そこで太宗は、侯君集を拝して交河道大総管となし、左屯衛大将軍の薛萬均、薩孤の呉仁をその副官に任命し、契苾何力を葱山道副大総管となし、武術将軍の牛進達を行軍総管に任じて、突厥と契の騎兵数万騎を率いさせて、高昌を討伐させた。群臣は太宗を諫めた。「万里も行軍しては、兵士の志気を得るのは難しい。それに、天界の絶域を得たとしても、これを守りきることはできない」と言って群臣は太宗に諫言したが、太宗は聞き入れなかった。一方、麴文泰は近臣に言った。「昔、私が隋に入朝した時、秦隴の北にある城邑を見たが、荒れていた。隋の時代の比ではない。唐は、いま高昌を討とうとしているが、兵が多ければ兵糧は及ばない。もし唐軍の兵力が三万以下ならば、私はよくこれを制圧する事ができよう。砂漠を渡れば唐軍は疲労し、動きも鈍くなる。気楽に唐軍の疲弊を待ち、横になって敵の疲弊を収めればよいだけだ」と。しかし貞観十四年(640)、麴文泰は唐軍が磧口に達したという事を聞いたとたん、動悸がし、驚きふるえあがって、はかりごとも思い浮かばなくなった。麴文泰は病を発して死んでしまった。息子の麴智盛が即位した。 侯君集は田地城を襲撃し、契苾何力が先鋒部隊となって死に物狂いで戦った。その夜、流れ星が城中に墜ちた。翌日、田地城は陥落し、唐軍は七千余人を捕虜にした。中郎将の辛獠児が軽騎兵を率いて夜間に高昌の都に迫ったので、麴智盛は侯君集に手紙を送って言った。「天子に対して罪を犯したのは先王の文泰です。先王の咎は深く、罪は堆積しています。智盛は位を継いでまだ日が浅い。公よ、どうか私を赦してください」と。しかし、侯君集は答えていった。「よく過ちを悔いるものは、後ろ手に縛って軍門に下るべきだ」と。智盛は答えなかった。唐軍は出撃し、濠を埋め衝車を引き、投石器から飛ばされた石が飛ぶさまは雨のようであった。城内の人々は大いに震撼した。麴智盛は、大将の麴士義に都に留まって町を守護するよう命令した上で、自身は綰曹の麴徳俊とともに唐の軍門を訪れ、改めて天子に仕えたいと懇願した。君集は、麴智盛を降伏させようと考え説得したが、麴智盛の言葉遣いが傲慢だったので、薛万均が急に顔色を変えて立ち上がり、「先に城を奪い取るべきである。小僧と話しても話しにならん」と言って、指揮旗をふるって唐兵に進撃を命令したので、麴智盛は汗を流し地に伏し、「ただ、公の命令に従います」と言い、すぐに降伏した。侯君集は軍を分け、高昌をほぼ平定した。およそ、州の数は三、県の数は五、城は二十二、戸は八千、人口は三万、馬は四千であった。これより前、高昌の人々は童謡をうたっていた。「高昌の兵は霜や雪のようなもの。唐軍は日月のようだ。日月が照れば、霜と雪はほどなく自ら溶けて消滅する」と。麴文泰は戯れ歌を歌い始めたものを捕らえようとしたが、結局、捕まえる事はできなかった。 戦勝報告が長安に届けられると、太宗はたいそう喜び群臣を宴に招いて論功行賞を行った。高昌国の支配下にあった諸都市をゆるし、高昌の地に州県制を設置して、西昌州と号した。しかし、特進の魏徴は太宗を諌めて言った。「陛下が即位なされたとき、高昌は真っ先に朝謁しました。しかしその後、高昌は商胡を劫略し、貢献を遮ったために高昌王は誅殺を加えられました。麴文泰が亡くなり、罪も止まりました。高昌の民を慰撫し、その子を高昌の王に立て、罪を討伐して民を慰める。これが道であります。いま、高昌の地を利して、常時その地に千人の兵を駐屯させ、数年に一度、駐屯兵を変えるならば、辺境に派遣される兵士は、装備や旅費を自弁で用意せねばならず、親戚と離別しなければなりません。十年もたたぬうちに隴西(甘粛省)が空虚になりましょう。陛下は結局、高昌の一粒の穀物、一尺の絹も得ることなく、中国の軍事費の助けとすることもできないでしょう。これこそまさに、有用を捨て無用に力を費やすということです」と。しかし、太宗は魏徴の意見を採用しなかった。西昌州を西州と改め、さらに安西都護府を設置した。一年に千人の兵を徴発し、罪人を送って守備兵にあてたので、黄門侍郎の褚遂良は太宗を諌めていった。「昔は中華を優先して夷狄を後回しにし、徳化を広めるように務めて、遠方のことは争いませんでした。いま高昌は誅滅され、中国の威光は四方の夷狄を動かしました。皇帝の軍隊が初めて征伐してから、河西は労役に駆り出されて、急いで米を運び、まぐさを転送して出撃の準備を整えるので、十軒のうち九軒がそうした仕事に駆り出されて貧困になり、五年たってもいまだに回復しません。いままた年に駐屯兵を送るなら、荷物は万里を行き、辺防のために去るものは、そのための費用と衣装を自分で調達するために、自分の食べ物を売り、はたを売ってまで費用を調達しなければならず、旅の途上で死亡するものも多く、その数は計り知れません。罪人は、法を犯すことに始まり、なりわいを捨てることに終わり、行いに益がありません。派遣した兵士も逃亡し、役人が逮捕して、逮捕者は芋づる式に相次いで牽かれていきます。張掖や酒泉のように、敵襲を知らせる土煙があがり、烽火があがった時に、どうして、それより更に遠い高昌の一車両一兵卒を得て救援を得られましょうか。隴右、河西から微発するだけです。たとえば、中国内地の河西を自分の腹心であるとするならば、外地の高昌は他人の手足のようなものです。どうして中華を消耗させて役に立たない事につかえるのですか。むかし陛下は東突厥の頡利可汗や吐谷渾を平定なされましたが、みな、その故地に君主を推戴しました。罪を犯せばこれを誅し、降伏すればこれを存続させる。これが、多くの蛮族が陛下の御威光を畏れ、陛下の徳を慕う理由です。いま、高昌を治めるべきものを選んで推戴し、首領達を召し出して、ことごとく故国に帰還させ、長く中国の垣根と柱になすべきです。そうすれば中国に乱れはありません」と。褚遂良はこのように言って太宗を諦めたが、この書聞は太宗によって省みられることはなかった。 初め麴文泰は黄金をもって西突厥の欲谷設に篤く贈物をし、危急の際にはお互いに表裏をなして助け合おうと約束していた。そこで、欲谷設は葉護を可汗浮図城に駐屯させた。しかし、君集の軍勢が襲来すると欲谷設は恐れて援軍を出撃させず、ついに降伏した。そこで、太宗は可汗浮図城を庭州とした。焉耆は太宗に高昌に奪われた五つの城を返し、駐屯軍を留まらせて守ってほしいと要請した。 侯君集は石に刻んで功を記させ、長安に凱旋した。麴智盛ら高昌の君臣たちは捕虜として観徳殿に献上された。皇帝による礼をつくした酒宴がとり行われ、三日間宴が開かれた。高昌の豪傑たちを中国に移し、麴智盛に左武衛将軍、金城郡公、弟の麴智湛に右武衛中郎将、天山郡公を拝した。麴氏は、国を伝えること九世代、百三十四年にして滅亡した。 麴智湛は、麟徳年間中に左驍衛大将軍から西州刺史に任じられ、亡くなった。死後、涼州都督を贈られた。麴智湛には、麴昭という息子がいた。麴昭が勉強好きなので、珍しい書物があると、母親は息子のために箱の中からお金を持ち出し、「珍しい本があれば、どうして息子のためにお金を惜しもうか」と言って、書物をことごとく買い求めてやった。麴昭は司膳卿を歴任したが、文章が非常にうまかった。その弟の麴崇裕は武芸にすぐれていたので、永徽年間中に右武衛翊府中郎将に任じられ、交河郡王に封じられた。邑は三千戸に至り鎮軍大将軍で亡くなった。武后は麴崇裕の死を悼んで美しい錦で織った衣服を贈り、弔いのための賜わりものは甚だ篤かった。麴氏の封爵は、麴崇裕の死によって断絶した。 吐谷渾は甘松山の南、洮水の西にあり、南は白蘭を隔てること数千里である。城郭はあるが、国人はその中には住まず、水と草に従って移動する。テントに住み、肉食をする。その国の官職には、長史・司馬・将軍・王・公・僕射・尚書・郎中がある。おそらく中国王朝の官職の制度をまねて、このような行政組織をつくったのであろう。この国の人々は、文字を知っている。王は、椎髷(髪を後ろにたれ、ひとたばねにしたまげ)にして黒い帽子をかぶり、王の妻は錦の袍を着、織り上げたスカートをはき、黄金の花を首に飾った。この国の男性は、裾の長い服を着用し、絹の帽子か、羃羅(べきら)を頭にかぶった。女性は弁髪にし、うしろにたらして珠や貝殻を綴って髪を飾った。この国の婚礼では、裕福な家は盛大な結婚式を行って嫁を娶るが、貧者は婚礼を挙げられないので妻を盗んだ。父親が亡くなると母親以外の父の妻を娶り、兄が死ぬと兄嫁を妻とした。喪服には規定があり、葬礼が終わるとすぐに解除した。民に対して恒常的に課される税金はなく、不足があれば、富裕商人から税を集めとり、不足分が足りれば微税をやめた。およそ、殺人と馬泥棒は死罪になった。その他の罪は、商品を献上させて贖罪させた。その地は非常に寒く、麦、菽(マメ)、栗、蕪菁(カブラ)を産し、仔馬、ヤク、銅、鉄、丹砂を産出した。青海という湖がある。青海湖の周囲は、八、九百里であった。湖の中に山があり、湖が凍結するのを待って、その上に雌馬を放牧する。翌年、仔馬を産む。この仔馬は龍種であった。吐谷渾は、むかし波斯馬を得たが、これを青海のほとりで放牧しておいたところ、驄(青白色の馬)の仔馬を産んだ。この馬は、一日に千里を歩いた。それで、人々は「青海驄」と称した。西北には、流砂が数百里も続いており、夏には熱風が吹き、旅人を傷つけた。熱風が押し寄せてくると、老いた駱駝が首をひいていななき、鼻を砂中にうずめる。人はそれによって砂嵐の到来を察知し、絨毯で鼻と口をおおって、熱風の害から免れた。 隋の時、王の慕容伏允は歩薩鉢をしていた。かつて慕容伏允が中国の辺境地帯に入寇した時、煬帝は鉄を派遣して慕容伏允を撃破した。煬帝は西平に城壁を築き、また観王雄に命じて吐谷渾を破らせた。吐谷渾の王慕容伏允は数十騎を率いて泥嶺に逃亡したが、仙頭王は男女十余万を率いて隋の軍隊に降伏した。煬帝は、吐谷渾の地に郡県と鎮戍を設置した。それから、慕容伏允の長男で、人質として長安に滞在させておいた慕容順を、逃亡した慕容伏允の代わりに王として推戴した。そして吐谷渾の余衆を治めさせるために、にわかに慕容順を故国に帰還させた。一方、慕容伏允は党項に亡命し、客人として滞在していたが、隋末の乱の折、隋の混乱に乗じて故地を回復した。 唐の高祖李淵が受命したとき、慕容順は江都から長安に帰還した。このとき李軌が涼州に拠っていたが、高祖は慕容伏允と和睦を約し、慕容伏允が李軌を撃って唐のために戦ったならば、息子の慕容順を慕容伏允のもとに護送しようと約束した。慕容伏允は喜び、兵を率いて李軌と庫門で戦い、その後、両軍は退却した。それから遣使して慕容順を帰国させてくれるよう請願した。高祖は約束どおり慕容順を吐谷渾に使わした。慕容順が帰国すると、慕容伏允はこれを大寧王となした。 太宗の時、慕容伏允は使者を遣わして入朝させたが、その使者が帰還しないうちに吐谷渾は州に入寇した。太宗は使者を派遣して慕容伏允の非を責め、慕容伏允を召し出そうとしたが、慕容伏允は病を理由に行けないと言い訳した。その上、息子の尊王のために公主の降嫁を請願し、太宗の心を試した。太宗は慕容伏允の子尊王を召して自ら歓迎したが、尊王もまた病気を口実に入朝しなかったので、太宗は詔を下して、尊王への公主の降嫁を中止にした。太宗は、中郎将の康処真を派遣して慕容伏允の説得に向かわせた。また、慕容伏允が岷州を略奪したので、太宗は都督の李道彦を派遣して吐谷渾軍を撃破し、敗走させた。唐軍は名王二人を捕虜とし、首級七百を斬った。慕容伏允は、この後、毎年名王を派遣して入貢した。しかし、にわかに吐谷渾が涼州に入寇してきたので、鄯州刺史の李玄運は「吐谷渾は青海で放牧しています。軽装の兵で、これを襲って取り囲めば、すべてを捕獲できます」と上表した。そこで、太宗は、左驍衛大将軍の段志玄、左驍衛将軍の梁洛仁に命じて、契苾・党項の兵を率いて吐谷渾を征伐させた。しかし、三十里も行かないうちに、戦いたくなかった段志玄らは陣営を築いて駐屯したので、軍の到来に気づいた吐谷渾は、放牧していた馬を駆って逃走してしまった。副将の李君は、騎兵の精鋭部隊を率いてこれを追撃し、懸水のほとりで後方から襲撃して、吐谷渾の牛羊二万を捕獲して帰還した。 この時、慕容伏允は年老いて政務を取る事ができなかったので、大臣の天柱王が政治を掌握し、太宗の使者、鴻臚丞・趙徳楷を拘束した。太宗は使者を派遣して勅命を与えること十回に及んだが、吐谷渾からは改悛の言葉は返ってこなかった。貞観九年(635)、太宗は詔し、李靖を西海道行軍大総管に、侯君集を積石道、任城王の李道宗を鄯善道、李道彦を赤水道、李大亮を且末道、高甑生を塩澤道の各々行軍総管に任命し、突厥、契芯の兵を率いて吐谷渾を討伐させた。党項に内属する羌族と、洮州羌は、みな刺史を殺害して慕容伏允に帰順した。夏四月、李道宗が慕容伏允を庫山で撃破し、捕虜・斬首は四百に及んだ。慕容伏允は、砂漠に唐軍を誘き寄せようと謀り、野草を焼いたので、李靖の軍馬は食糧がなくなって多くが飢餓に苦しんだ。そのため対策を講じて李道宗は言った。「柏海は河源に近いので、昔からここに至ったものはいまだいない。慕容伏允は西に逃走したというが、その所在は今もって不明である。我が軍の馬は痩せ衰え、食糧も欠乏している。遠方に軍を進めることは難しい。鄯州に駐屯して、馬が元気になってから、再度、吐谷渾征伐を図った方がよい」と。しかし侯君集は、「それはいけない。かつて段志玄が鄯州に至った時、吐谷渾の兵は即座に城に拠った。吐谷渾の力はまだ健在であり、むしろ民衆は命令に従った。しかしいま吐谷渾は大敗し、斥候もいない。君臣も失われた。我らは吐谷渾の難に乗じ、吐谷渾討滅という志を全うすべきである。柏海は遠いが、将兵を鼓舞して到達すべきである」と。李靖は「よし」と言うと、唐軍を二分し、李靖が李大亮、薛万均とともに一軍を率いて北に赴き、その右から出、侯君集と李道宗が一軍を率いて南に赴いて、左から出ることになった。李靖の将、薩孤呉仁は、軽騎兵を率いて曼都山で戦い、名王を斬り殺して、斬首五百級を得た。諸将は、牛心堆、赤水源で戦い、敵将の南昌王の慕容孝を捕縛して、雑畜数万を捕獲した。侯君集と李道宗は、漢哭山に登り、烏海で戦って名王の梁屈葱を捕縛した。李靖は、天柱部落を赤海で破り、雑畜二十万を捕獲した。李大亮は、名王二十人を捕虜とし、雑畜五万を捕獲して、且末の西に軍を宿営した。慕容伏允は図倫磧に逃走し、于闐に逃亡しようと図ったが、薛万均は騎兵の精鋭を率いて逃げる慕容伏允を数百里にわたって追跡し、慕容伏允を打ち破った。唐軍の将兵は水が乏しくなったので、馬を刺して、その血を水の代わりに飲んだ。侯君集と李道宗は、空しく荒野二千里を進軍した。盛夏にもかかわらず霜が降り、水草は乏しく、兵士は氷をかゆ(食糧)として食べ、馬は雪をまぐさにして食べた。一ヶ月を経て星宿川に達し、柏梅の上に到達し、積石山を展望し、河源を観望できた。執失思力は、馬を馳せて、吐谷渾の輜重部隊を打ち破った。両軍は、大非川、破邏真谷で遭遇した。 慕容伏允の息子慕容順は隋に人質に出され、金紫光禄大夫に任命されていた。長男の順が人質として中国にいたので、慕容伏允は、慕容順の弟を太子にした。慕容順は帰国したが、弟に太子の位を奪われたために常に快々として楽しまなかった。慕容順は位を失ったので、功績を上げて皇帝と結びたいと希望していた。そこで、天柱王を斬り、国を挙げて唐に降伏した。慕容伏允は恐れ、千余騎を率いて磧(ゴビ砂漠)中を遁走した。しかし従う兵士達が慕容伏允を見限って次第に逃亡していったので、付き従う従者はわずか百騎だけとなり、慕容伏允の無聊は極まり、遂に自ら縊れて死んだ。国人達は慕容順を立てて吐谷渾王となし、臣を称して唐に帰順した。太宗は詔して、慕容順を西平郡王に封じ、趙胡呂烏甘豆可汗と号した。太宗は、吐谷渾がまだ十分に安定していない事を恐れ、李大亮に精鋭部隊を率いさせて、かの国に駐屯して守らせた。 慕容順が長い間、人質として中国に滞在していたために、国人達は慕容順になつかず、慕容順は臣下によって殺されてしまった。国人は、慕容順の息子、燕王の慕容諾曷鉢を擁立した。慕容諾曷鉢はまだ幼く、大臣達は権力闘争をした。太宗は侯君集に詔し、吐谷渾王のそばに付いて国を統治させたので、慕容諾曷鉢は、初めて太宗に向かって、唐の暦を分けて欲しいこと、子弟を唐に入侍させたいことを請願した。また、詔して慕容諾曷鉢を河源郡王に封じ、烏地也抜勒豆可汗とさせた。また、淮陽郡王の李道明を派遣し、節を持たせ詔書を下して、慕容諾曷鉢に鼓纛(太鼓と旗)を賜わった。慕容諾曷鉢は自ら入朝して感謝し、公主の降嫁を懇願して、馬牛羊を万匹献上した。慕容諾曷鉢が毎年入朝したので、太宗は宗室の女を弘化公主となして慕容諾曷鉢の妻とし、李道明と右武衛将軍の慕容宝に詔して、節を持って公主を吐谷渾まで送らせた。しかし吐谷渾では大臣の宣王が跋扈しており、反乱を謀って、公主を襲撃し、慕容諾曷鉢を掠め取って吐蕃に出奔しようと画策した。慕容諾曷鉢はこれを察知し、軽騎兵を率いて城に逃走した。威信王は兵を率いて慕容諾曷鉢を迎え、果毅都尉の席君買が兵を率いて威信王とともに、宣王を討伐し、兄弟三人を斬ったので、吐谷渾は大いに乱れた。太宗はまた、民部尚書の唐倹と中書舎人の馬周に詔し、節を持して吐谷渾人を慰撫した。 高宗が即位すると、公主が嫁いでいる縁故で慕容諾曷鉢は駙馬都尉を拝した。吐谷渾が名馬を献上したので、高宗が馬の種性をたずねたところ、使者はこたえて「吐谷渾で最良の馬です」と言った。高宗は「良馬は人々の惜しむものである」と言い、その馬を吐谷渾に返すよう詔を下した。弘化公主が表して入朝したいと請願したので、高宗は左驍衛将軍の鮮于匡済を派遣して公主を迎えに行かせた。十一月、慕容諾曷鉢が長安に到着したので、高宗は宗室の女、金城公主を、慕容諾曷鉢の長男の慕容蘇度摸末の妻とし、慕容蘇度摸末に左領軍衛大将軍を拝した。しかし、しばらくして慕容蘇度摸末が亡くなった。そこで弘化公主は、次男の右武衛大将軍・梁漢王・慕容闥盧摸末とともに来朝して、婚姻を請願した。高宗は、宗室の女金明公主を慕容闥盧摸末の妻とした。すでに吐谷渾と吐蕃は互いに攻めあい、高宗に上書して、お互いの善悪を訴えて唐に援軍を要請したが、高宗は双方に対して援軍派遣を許さなかった。吐谷渾の大臣・素和貴が吐蕃に亡命し、吐谷渾の内情を告げたので、吐蕃は出兵し、不意を衝いて吐谷渾の軍勢を黄河のほとりで打ち破った。慕容諾曷鉢は国を保ちきれず、弘化公主とともに数千帳を率いて涼州に逃走した。高宗は、左武衛大将軍の蘇定方を安集大使に任命して派遣し、両国の怨みを静めさせようとした。しかし吐蕃はついに吐谷渾の地を領有した。 慕容諾曷鉢は、唐の国内に移住したいと請願した。乾封初め(666年頃)、高宗は改めて慕容諾曷鉢を青海国王に封じた。高宗は、慕容諾曷鉢の率いる吐谷暉の部衆を涼州の南山に移住させたいと考えたが、群臣の議論は意見が一致せず、高宗も南山への移住は難しいと考えた。咸亨元年(670)、高宗は右威衛大将軍の薛仁貴を邏娑道行軍大総管、左衛員外大将軍の阿史那道真と、左衛将軍の郭待封を副将となし、五万の兵を統率して吐蕃を征伐させ、あわせて慕容諾曷鉢を吐谷渾の故地に帰らせようとした。しかし唐軍は大非川で敗北し、吐谷暉の地はすべて吐蕃に掌握される事となった。慕容諾曷鉢は、親近のもの数千帳とともに辛うじて逃れた。咸亨三年(672)、慕容諾曷鉢は浩亹水の南に移動した。慕容諾曷鉢は、吐蕃が強盛である事、自力では吐蕃に抵抗できない事、鄯州の土地が狭い事などが理由で、また霊州に移動した。高宗は慕容諾曷鉢のために安楽州を設置し、慕容諾曷鉢に刺史を拝して、安らかに、かつ楽しく暮らせるようにと願った。 慕容諾曷鉢が亡くなると息子の慕容忠が立ち、慕容忠が亡くなると子供の慕容宣超が立った。聖暦三年(663)、慕容宣超に左豹韜員外大将軍を拝し、かつての可汗号を襲名させた。吐谷渾の、慕容諾曷鉢が統率する以外の部族は、涼州、甘州、粛州、瓜州、沙州などの州に行って投降した。宰相の張錫と、右武衛大将軍の唐休璟が議論して、これらの吐谷渾人を秦州、隴州、豊州、霊州の間に移住させるようにと言った。この地から吐谷渾を離れさせることはできなかった。涼州都督の郭元振は、次のように言った。「吐谷渾が、秦州、隴州に近づけば、監牧と雑居してしまい問題である。彼らを豊州や霊州に置いても、また突厥の勢力に近くなり、それに取り込まれやすい。仮に、彼らを中華の地に住まわせても、その習性を変えることはできないだろう。かつて王孝傑は、河源軍から耽爾乙句貴を霊州に移住させたが、耽爾乙句貴は抜いて牧坊に侵入し、群馬を略奪して州県を痛めつけた。これすなわち、異民族を中国の地に移して利益のなかったことの証拠である。また、かつて吐谷渾の大臣・素和貴が謀反して去ったが、これは唐にとって損害ではなかった。ただ吐谷暉の数十の部落が失われただけであった。どうして、耽爾乙句貴の場合と比較しないのか。いま降伏している異民族は、無理やり服従させたのではない。みな吐蕃の弓矢や刃をかいくぐり、吐蕃を捨てて来朝した。その事情に従って、これを制するべきである。甘州、粛州、瓜州、沙州に降伏したものは、その場所に置き、投降したところに住まわせれば、彼らの気持ちも安心しやすい。数州を割けば、力はおのずから分散する。彼らの気持ちに順じて、その勢力を分散すれば、人民を乱すことはない。よく夷狄の心を掌握するものと言うべきである。毎年しずめとどめるための使者を派遣して、慕容宣超の兄弟と撫護すれば、互いに侵攻略奪する事もなく、なりわいがしっかり安定する。もし叛き去るものが仮にあったとしても、中国に損害はない」と。高宗は郭元振の意見を採用した。慕容宣超が亡くなると、息子の慕容曦皓が後を継いで立った。慕容曦皓が死ぬと、息子の慕容兆が立った。吐蕃がまた安楽州を奪い取ったので、吐谷渾の残りの部族は朔方と河東に移住した。吐谷渾の名称を訛って「退渾」とした。 貞元十四年(798)、朔方節度副使、左金吾衛大将軍の慕容復を長楽都督、青海国王となし、可汗号を襲名させた。慕容復が亡くなると、後を継承するものが途絶えた。吐谷渾は、西晋の永嘉年間(307-313)から国があったが、龍朔三年(663)に吐蕃によってその地を奪われるに至って、およそ三五〇年、ここに及んで、封じる後継者が断絶した。 焉耆(カラシャール)国は、長安の西七千餘里の所にあり、東西六百里、南北四百里であった。東は高昌、西は亀茲、南は尉犂、北は烏孫であった。水路を造って田に水を注いで灌漑した。その土地は、黍、葡萄をよく産し、魚と塩の利もあった。この国の風俗は、髪を切り落とし、毛織物を着た。戸数は四千、勝兵の数は二千で、常に西突厥に役属していた。この国の風俗は娯楽を好んだ。二月には三日間、野に出て祀った。四月十五日、林で遊んだ。七月七日には祖先を祀った。十月十五日には焉耆王が初めて出遊した。一年が終わると祀りも全て終わった。 太宗の貞観六年(632)、焉耆の王、龍突騎支が初めて遺使来朝した。隋末の乱以来、磧路が塞がったので、西域諸国の朝貢はみな高昌を経由した。龍突騎支は、大磧道(大砂漠の道)を開通して旅人のために交通の便をよくしたいと請願したので、太宗はこれを許した。高昌は怒り、焉耆の周辺を大々的に略奪した。西突厥の莫賀設は、咄陸・弩失畢と仲が悪く、焉耆に逃亡してきたので、咄陸と弩失畢もまた焉耆を攻めた。そこで、龍突騎支は遺使して太宗に状況を告げ、あわせて名馬を献上した。莫賀設の次男が咥利失可汗として即位すると、焉耆とはもともと仲が良かったので、頼りとなって支援した。貞観十二年(638)、処月・処密が高昌とともに焉耆の五つの城を攻め落とし、千五百人を略奪して家を焼いた。侯君集が高昌を討伐しようとし、焉耆に使者を派遣して、焉耆と連合して高昌討伐を行ないたいと言ったので、龍突騎支は喜び、兵を率いて唐軍を支援した。高昌が唐軍に敗北すると、高昌に捕えていた焉耆の捕虜と城を焉耆に返した。焉耆は改めて唐に使者を派遣して謝恩した。 西突厥の重臣屈利啜は、弟のために龍突騎支の娘を娶った。そのため、屈利啜と龍突騎支は互いに約束して持ちつ持たれつの関係となり、龍突騎支は朝貢しなくなった。そこで安西都護の郭孝恪は太宗に焉耆討伐を請願した。たまたま焉耆王の弟の頡鼻・栗婆準・葉護ら三人が来降したので、太宗は、郭孝恪を西州道総管に任命し、軍勢を率いて銀山道から出撃して栗婆準らを道案内として焉耆を攻めるよう命令した。もともと焉耆は都にした場所の周囲三十里が四面すべて大きな山に囲まれ、海水もその外をめぐっていたので、焉耆はこの自然の要害を頼んで恐れることがなかった。郭孝格は、焉耆に向かって倍速で進軍すると、海水を船で渡り、夜のうちに、城壁の物見垣に近づき、夜明け方、大騒音とともに城壁を登った。唐軍の太鼓と角笛が轟き渡り、兵士が攻撃をしかけたので焉耆の人々は混乱して敗北し、千余人の首級が斬られて、龍突騎支は捕らえられた。唐は、栗婆準に政務を取らせた。初め、太宗は近臣に語っていった。「郭孝恪は八月十一日に焉耆に行った。二旬(二十日)で焉耆に到着し、二十二日目に焉耆を落城させるであろう。まもなく焉耆からの使者がやって来よう」と太宗が近臣に推測を語っていたところ、にわかに焉耆からの飛脚が駆け込んできて、戦勝報告を届けた。龍突騎支と、その妻子は捕らえられて洛陽に護送された。太宗の詔があって、彼らの罪は赦された。 屈利啜は軍勢を派遣して焉耆を救おうとしたが、屈利啜が焉耆に着いた時には、郭孝恪が帰還してすでに三日たっていた。屈利啜は栗婆準を捕らえ、さらに吐屯を派遣して王の代行をさせた。焉耆は唐に遺使して、この状況を告げた。太宗が「焉耆は我々が降伏させた。なんじがどうして王になったのか」と言ったので、吐屯は恐れ、焉耆の王になることができなかった。焉耆は、唐の立てた栗婆準を再び推戴したが、従兄の薛婆阿那支は自ら王となって瞎干と号し、栗婆準を捕らえて亀茲に献上した。亀茲は栗婆準を殺害した。阿史那社尓が亀茲を攻撃すると薛婆阿那支は亀茲に逃走し、東の国境地帯に城壁を築いて唐軍に抵抗した。しかし、阿史那社尓に捕らえられた。阿史那社尓は薛婆阿那支の罪を数え上げると、斬り殺して示しをつけた。龍突騎支の弟婆伽利を王となし、焉耆の地を焉耆都督府となした。 婆伽利が亡くなると、国人は前王の龍突騎支を返して欲しいと請願したので、高宗はこれを許し、龍突騎支に左衛大将軍を拝して帰国させた。龍突騎支が死ぬと、龍嬾突が即位した。武后の長安年間、焉耆の国が小さく人口も少ないので、焉耆は、この国を通過する使者や客人をもてなす労力に耐えられなかった。そこで武后は四鎮経略使に詔し、私馬を無料で微発すること、無品官のものが焉耆で肉食することを禁止した。開元七年(719)、龍嬾突が亡くなり、焉吐払延が即位した。ここにおいて、十姓可汗は砕葉に住むことを請願した。安西節度使の湯嘉恵は上表し、焉耆に四鎮を備えさせようとした。そこで玄宗は、焉耆、亀茲、疏勒、于闐に詔して、西域の商人に課税させた。諸国はそれぞれ通行税を徴収した北道を経由していた商人に対しては輪台で税をとった。焉耆は天宝年間まで常に朝貢した。 亀茲(クチャ)は、丘茲とも、屈茲ともいう。東に長安をへだてること七千余里であった。焉耆より西南に徒歩で二百里の距離であり、小山を越え大河二つを経て、さらに徒歩七百余里行って亀茲に到着する。東西の幅は千里、南北は六百里であった。その土地は、麻、麦、秔稲、葡萄をよく産し、黄金も産出した。その国の風俗は、歌と音楽、横書きの書をよくし、仏教を尊んだ。子供が生まれると、木で首をしめつけた。その国の風俗は断髪で、首のところでそろえた。ただ君主だけは髪を切らなかった。王の姓は白氏で、伊邏盧城に住んでいた。北は阿羯田山に守られていた。この山はまた白山ともいった。常に火を有していた。王は錦の帽子を頭にかぶり、錦の袍と宝石をちりばめた帯を着用した。新年の初めに羊と馬と駱駝を七日間戦わせる儀式があった。その勝負を観戦して家畜の繁殖を占った。パミール高原以東の風俗は淫行を喜んだので、亀茲と于闐は娼館を置き、売り上げ金を税として政府に納めていた。 高祖が隋から禅譲された時、亀茲王の蘇伐勃駃(スワルナプスパ)は使者を派遣して入させた。蘇伐勃駃が死ぬと、息子の蘇伐畳(スワルナデーヴァ)が即位し、時健莫賀俟利発と号した。貞観四年(630)、蘇伐畳が馬を献上したので、太宗は璽書を賜い、慰撫して等級を加えた。この後、亀茲は西突厥に臣従した。郭孝恪が焉耆を討伐した時、亀茲は軍勢を派遣して焉耆を支援したので、これ以後、亀茲は朝貢しなくなった。 蘇伐畳が死ぬと、弟の訶黎布失畢(ハリプスパ)が即位した。貞観二十一年(647)、亀茲は二度、遣使朝貢したが、太宗は亀茲が焉耆の反乱を支援した事に怒り、亀茲討伐を議した。この夜、月が昴を食したので、太宗は詔していった。「月は陰の気であるから、これは刑罰を用いる兆しである。星は胡の運命を決める。胡(亀茲)の命運は、いままさに終わろうとしている」と。そこで太宗は阿史那社尓を崑丘道行軍大総管に任命し、契苾何力を副官となして、安西都護の郭孝恪、司農卿の楊弘礼、左武衛将軍の李海岸らを統率させて、鉄勒十三部族の兵十万を出動させて亀茲を討たせた。阿史那社尓は軍勢を五つに分け、亀茲の北方を略奪して、焉耆王の龍阿那支を捕らえたので、亀茲は非常に恐れ、酋長達はみな城を捨てて逃走した。阿史那社尓は磧石に至った。ここは亀茲の王城から三百里の場所であった。先に伊州刺史の韓威を派遣して、騎兵一千先鋒とした。右驍衛将軍の曹継叔がこれに次いだ。多褐に至り、亀茲王と遭遇し、亀茲の将軍の羯獵顛の兵五万と合戦した。韓威が偽って敗走した。亀茲王は、韓威の兵力が少ないのを見ると、指図旗で合図して軍を進め、韓威を追跡した。韓威は退却すると曹継叔と合流し、戻ってきて亀茲の軍勢と戦った。唐軍は亀茲軍を大破すると、逃げる亀茲兵を八十里も追撃した。亀茲王は城壁をめぐらして守ったが、阿史那社尓が城を取り囲もうとしたため、突騎を率いて西へ逃走した。亀茲城はついに陥落した。その後、郭孝恪が亀茲城に守備隊として残った。 沙州刺史の蘇海政、行軍長史の薛万備は、騎兵の精鋭を率いて亀茲王を追いつめること六百里に及んだ。亀茲王の計画は窮まり、撥換城を保とうとした。そこで阿史那社尓は撥換城を包囲した。一ヶ月が経過して亀茲王と将軍の羯獵顛は唐軍に捕らえられた。大臣の那利は夜間に逃亡すると、西突厥と亀茲の国人万余を率いて唐軍と戦った。この戦いで郭孝恪とその息子が戦死した。唐軍は混乱した。倉部郎中の崔義起は募兵して城中で戦い、曹継叔と韓威もこれを支援し、西突厥と亀茲の軍勢を撃破して、三千もの首級を斬った。那利は敗北したが、逃亡したり離散していた者たちを集めて次第に勢力を盛り返し、亀茲に戻って唐軍を襲撃した。しかし曹継叔はこれに乗じて八千もの首級を斬った。那利は逃走したが、その後、亀茲人によって捕らえられ、唐軍に献上された。阿史那社尓は、亀茲の五つの大城を破り、男女数万人を捕虜にした。そして、使者を派遣して小城七百余を諭して降伏させた。西域諸国は震撼し、西突厥と安国の両国は、降伏のしるしに唐軍に兵糧を献上した。阿史那社尓は、亀茲王の弟の葉護を推戴して亀茲の王となし、石に刻んで功績を記した。 戦勝報告が届けられると、太宗は喜び、群臣に向かって、ゆったりとして言った。「そもそも楽しみというものは幾つかの種類がある。朕はむかし、こう言った事がある。土の城や竹馬を得る事は童子の楽しみである。金翠羅を身に飾る事は婦人の楽しみである。その土地にあるものないものを交易することが商人の楽しみである。高官が高い秩を得る事は士大夫の楽しみである。戦って前に敵がいない事は将帥にとっての楽しみである。四海が安寧で統一されている事は、帝王にとっての楽しみである。だから朕はいま楽しいかな」と。そう言うと太宗は群臣にあまねく酒をすすめた。初め郭孝恪が焉耆を討伐した時、亀茲にいた仏教徒で、よく未来を予言できる人が嘆息して言った。「唐はついに西域を領有した。数年もたたないうちに、わが国もまた滅ぼされるであろう」と。阿史那社尓は、訶黎布失畢・那利・羯獵顛を捕らえて、太廟に献上した。太宗は捕虜達を紫微殿で受け取った。太宗が彼らを責めて言うと、亀茲の君臣はみな頭を地面に打ち付けて身を伏せた。太宗は詔して彼らの罪を赦し、捕虜の身から客人に扱いを改めて鴻臚寺に宿らせ、訶黎布失畢に左武衛中郎将を拝した。初めて亀茲の首都に安西都護を移動し、于闐、砕葉、疏勒を統させて四鎮と号した。 高宗はまた訶黎布失畢を封じて亀茲王となし、那利・羯獵顛とともに帰国させた。これからしばらくして亀茲王が来朝した。那利は、王の妻阿史那と密通したが、王はこれを禁じることができなかった。左右の近臣が王に向かって那利を殺すよう請願したので、これ以後、王は猜疑心を抱くようになった。王と那利の使者がそれぞれ遣使して高宗に状況を報告した。高宗は那利を召してこれを投獄し、王を護衛して亀茲に帰国させた。しかし羯獵顛は王の入国を拒み、使者を西突厥に派遣して阿史那賀魯に降伏した。王はあえて進まず怏々として死去した。高宗は左屯衛大将軍の楊冑に詔して兵を出動させ、羯獵顛を捕らえ、その部党を誅した。そして亀茲の地をもって亀茲都督府となした。さらに訶黎布失畢の息子素稽を王となして、右驍衛大将軍を授け、都督に任じた。この年、安西都護府を亀茲に移動させ、かつて安西都護府があった高昌を西州都督府となした。そして左驍衛大将軍・安西都護の麴智盛を都督に任じた。こうして西域諸国は平定した。高宗は使者を諸国に分散して派遣し、各国の風俗や物産を調査させ、許敬宗と史官に詔して『西域図誌』を撰文させた。 上元年間(674-676)、素稽が銀・頗羅(ガラス)・名馬を献上した。天授三年(692)、亀茲王の延田跌が来朝した。初め、儀風年間(676-679)、吐蕃が焉耆以西を攻撃したので四鎮はみな陥落した。長寿元年(692)、武威道総管の王孝傑が吐蕃を破って四鎮を回復したので、唐は安西都護府を亀茲に置き、三万の駐屯兵を置いて守備を固めた。ここに至り沙磧は荒廃し、民が資金と食糧を供給する事が甚だ苦しくなった。議者は安西の地を放棄するよう請願したが、武后はこれを認めなかった。安西都護には、政務の実績が中国と夷狄の双方において称賛されているものを選んで任命した。武后の時には田揚名、中宗の時には郭元振、開元の時には張孝嵩と杜暹が、各々安西都護を務めた。開元七年(719)、王の白莫苾が死去し、息子の多市が即位して孝節と改名した。開元十八年(730)、孝節は弟の孝義を派遣して来朝させた。 亀茲から六百余里、小さな沙漠を越えると、跋禄迦(バールカー)という小さな国があった。またの名を亟墨といった。漢代の姑墨(アクス)国である。国土は東西六百里、南北三百里であった。風俗と文字は亀茲と同じであったが、言語は少し異なった。目の細かい毛織物を産出した。西に三百里進んで石磧を越えると、凌山(ハン・テングリ)に至る。これはパミールの北の高原である。水は東に流れ、春・夏も山谷には雪が積もっていた。西北に五百里行くと素葉水(スーヤーブ)城に至る。近隣諸国の比国(ソグド)商人が商売のために来て雑居していた。素葉水以西の数十城は、みな君長を立て、西突厥に従属していた。素葉水城より羯霜那国(キシュ)に至る国は、毛織物、皮ごろも、皮や厚地の毛布を着用し、絹布で額を縛っていた。素葉水城の西に四百里進むと千泉に至る。その地はおよそ二百里四方で、南は雪山に面し、三方向には平地が広がっていた。泉や池が多いので千泉と命名した。西突厥の可汗が毎年千泉に避暑にやって来た。そこには鹿の群れが鈴や金属の環を付けられており、人によくなついていた。西におよそ百里進むと呾邏私(タラス)城があり、ここにも近隣諸国の比国(ソグド)商人が雑居していた。小さな城があり、三百余戸あった。この地の人々は、もともとは中国に住んでいたが、突厥に略奪されてきて、この地に住んでいた。彼らはいまでも中国語を話した。西南に二百余里行くと、白水(アクス)城に至る。平原湿潤で、地味は肥えていた。南に五十里進むと笯赤建(ヌージカンド)国があった。国土の広さは千里で肥沃だったので、作物がよく稔り、葡萄をたくさん産した。また二百里行くと石国であった。 疏勒(カシュガル)は佉沙とも言った。国の周囲は五千里で、長安から九千里余離れていた。砂漠が多く土壌は少なかった。疏勒の風俗は詭詐を尊び、子供が生まれると頭を両側から固定して扁平にした。この国の人々は刺青をし、瞳は青色であった。王の姓は裴氏で「阿摩」と自称し、迦師城に住んでいた。西突厥可汗は、娘を疏勒王の妻にしていた。疏勒の勝兵は二千人であった。この国は祆神(ゾロアスター教)を祀っていた。 貞観九年(635)、疏勒王は使者を派遣して名馬を献上し、四年後(639)にもまた朱倶波・甘棠とともに方物を貢いだ。太宗は房玄齡らに言った。「むかし天下を統一して四方の夷狄にも打ち勝ったのは、ただ秦の始皇帝と漢の武帝だけである。朕は三尺の剣を手に四海を定めたので、遠方の狄はおおむね服属した。二君(始皇帝と武帝)に劣らない功績である。しかし二君の末路は自らを保つことができなかった。公らは、よろしく互いに補弼しあって、へつらいの言葉を進めて危機存亡の状態に置かないでくれ」と。儀鳳年間(676-678)に吐蕃が疏勒を打ち破った。開元十六年(728)、初めて大理正の喬夢松に鴻臚少卿を兼務させて疏勒に派遣し、疏勒の君主安定を冊立して疏勒王となした。天宝十二載(753)、首領の裴国良が来朝したので折衝都尉を授け、紫袍と金魚を下賜した。 朱倶波(カルガリク)は、またの名を朱倶槃といい、漢の時の子合国であった。西夜・蒲犂・依耐・得若の四つの種族を併合していた。于闐の西千里、パミールの北三百里、西は喝盤陀、北に九百里行くと疏勒、南に三千里進むと女国であった。勝兵の数は二千人であった。浮層の法(仏教)を尊び、文字は婆羅門と同じであった。 甘棠は、海の南にあり、崑崙人であった。 喝盤陀(タシュクルガン)は、漢陀とも渇館檀とも言い、また渇羅陀とも言った。疏勒の西南より剣末谷に入り、不忍領を六百里進めばその国に至る。瓜州を隔てること四千五百里であり、朱倶波の西に隣接し、南は懸度山で隔てられ、北は疏勒、西は護密(ワハン)、西北は判汗国(フェルガナ)と境を接していた。王の治所はパミール高原の山中に存在した。都城の背後には徒多河(ヤルカンド川)が流れていた。勝兵の数は千人であった。その国の王はもともと疏勒人であり、代々王位を継承して王となった。西南には頭痛山があった。パミールはこの国の人々によって極嶷山と呼ばれ、喝盤陀の周囲を取り囲んでいた。この国の人々は強くて荒々しく、容貌と言語は于闐と同じであった。喝盤陀の法律においては、殺人と盗みを犯した者は死刑であり、それ以外の犯罪者は罪を金銭で贖った。租税として必ず服飾を納めた。王は金の長椅子に座った。北魏の太武帝の太延年間(435-439)に初めて中国に通好した。貞観九年(635)、使者を派遣して来朝させた。開元中に唐は喝盤陀を打ち破り、その地に葱嶺守捉を設置した。これが安西都護府の最果ての辺境守備隊であった。 于闐(ホータン)は、瞿薩旦那とも言い、また渙那とも屈丹とも言った。于闐の事を北狄は于遁と呼び、諸胡(ソグド人)は豁旦と呼んだ。長安を隔てること九千七百里、瓜州から四千余里離れていた。漢の戎盧・杆彌・渠勒・皮山の五国の故地を併合していた。王の居城を西山城と言い、勝兵四千人であった。この国には玉河があり、国人は夜、月の光がひときわ明るく反射するところを見て、必ず美玉を探し当てることができた。王は絵の描かれた部屋に住んでいた。人々は習性として、策略に長け、大言壮語を好んだ。また祅神(ゾロアスター教)や仏法に喜んでつかえた。しかし態度は恭しく謹直で、面会する時はみな跪いた。この国では木で筆を作り、玉で印鑑を作った。国人は書簡を得るとまず首に戴き、それから書を開封した。漢の武帝の時以来の中国の詔書や符節は、于闐の王が代々伝授して受け継いでいた。人々は歌舞を喜び、紡績に巧みであった。西には砂漠があり、その砂漠に住む鼠の大きさは蝟(ハリネズミ)と同じで、色は黄金であった。鼠の群れの長が穴から出入りする時、鼠の群れが従った。初め于闐には桑や蚕がなかったので、隣国にこれを乞うたが、隣国は桑蚕を于闐に輸出してくれなかった。そこで于闐王は隣国に求婚した。隣国が結婚を許したので、于闐王は花嫁を迎える際、花嫁に告げて言った。「わが国には絹がないので、自国から蚕を持ってきて自ら衣服を作るように」と。花嫁はこれを聞くと、綿の帽子の中に蚕を入れて関所を越えたので、関所役人もあえてこれを調べなかった。これ以後、于闐は初めて蚕を有することになった。花嫁は石の上に「蚕を殺してはならない。蚕が蛾となり、飛び去って初めてを処理してよい」という約定を刻ませた。 于闐王の姓は尉遅氏で、名は屋密と言った。もともとは西突厥の臣下であったが、貞観六年(622)、使者を派遣して入献させた。その後三年たって(635)、王は息子を派遣して入侍させた。阿史那社尓が亀茲を平定したので、于闐王の伏闍信は唐を非常に恐れ、息子を派遣して駱駝三百頭を献上した。長史の薛万備は阿史那社尓に向かって「公が亀茲を破ったので西域諸国はみな震え恐れています。願わくば軽装騎兵をお借りして于闐王を拘束し、京師に献上いたしましょう」と言ったので、阿史那社尓はこれを許した。唐の軽騎兵が于闐に到来し、唐の威霊を連ねて天子のもとに入見するよう勧めると、王の伏闍信は使者に従って長安にやって来た。たまたま高宗が即位したので、伏闍信に右衛大将軍を授け、息子の葉護玷に右驍衛将軍を授けて、袍帯と布帛六千段を下賜し、邸宅一区もあわせて授けた。高宗は于闐王をこの邸宅に数ヶ月留まらせてから于聞に帰らせてやった。王は、子弟を留めて宿衛にしてくれるよう高宗に請願した。上元年間(674-676)の初め、于闐王は自ら子弟の酋長や領主七十人を率いて来朝した。伏闍信に吐蕃討伐の功績があったので、高宗は于闐の地に毘沙都督府を設置して十州に分割し、伏闍雄に都督を授けた。伏闍雄が死去すると、武后は、その息子の璥を王に立てた。開元の時、于闐は馬・駱駝・豹を献上した。璥が死ぬと、また尉遅伏師を立てて王となした。尉伏師が死ぬと伏闇達が後を継いだので、唐はその妻の執失を冊立して妃となした。伏闍達が亡くなると尉遅珪が王位を継承したので、妻の馬を妃とした。尉遅珪が死ぬと息子の勝が即位した。至徳年間(756-758)初めは軍を率いて国を救うために赴こうと考え、宿衛として留まりたいと請願した。乾元三年(760)、勝は弟の左監門衛率葉護の曜を大僕員外卿、同四鎮節度副使、権知本国事となした。詳細は、勝の伝に記されている。 于闐の東三百里の所に建徳力河があり、七百里の所に精絶国があった。建徳力河の東には汗弥があった。汗弥の王は、達徳力城(ダンダン・ウィリク)に住んでいた。達徳力城はまた拘弥城と言った。達徳力城というのは即ち寧弥の故城である。みな小国であった。 初め徳宗が即位した時、内給事の朱如玉を安西に派遣して于闐の玉を求めさせた。朱如玉は、圭一つ、珂佩五つ、枕一つ、帯胯三百、簪四十、奩三十、釧十、杵三、瑟瑟百斤、その他の珍宝などを得た。しかし朱如玉は帰国するに当たり、回紇人の領地を通過した時に回紇人に玉を奪われたと嘘を言った。久しくして事は露見し、市場で売られていた玉が得られたので、朱如玉は恩州に流刑となり、死んだ。 天竺(インド)国は漢の身毒国のことである。あるいは摩伽陀(マガダ)とも婆羅門ともいった。長安を去ること九千六百里で西域都護の治所からは二千八百里離れていた。パミールの南に位置し、その周囲は三万里であった。東・西・南・北・中の五つの天竺に分かれていた。各国は数百の城邑を有していた。南天竺は海(インド洋)にせまり、師子(ライオン)・豹(ヒョウ)・駱駝・犀・象・火斉・琅玕・氷砂糖・黒塩を産した。北天竺は雪山(ヒマラヤ山脈)によって隔てられており、山が壁のように取り巻いており、ただ南には出口があり、その谷あいを国の門戸となした。東天竺は海のほとりにあり、扶南・林邑に隣接していた。西天竺は罽賓(カピーシー)・波斯(ペルシア)と隣接していた。中天竺は四つの天竺国が会するところに位置した。都城は茶鎛和羅城(パータリプトラ)といい、迦毘黎(ガンジス)河の河岸にあった。都城以外の城が数百もあり、みな長を置いていた。また別の独立国が数十あり、そこには王を置いていた。舎衛(シュラーヴァスティー)といい、迦没路(カーマルーパ)といい、その国の戸口はみな東に向いていた。迦尸国(カーシー)というのはまた波羅奈ともいい、波羅那斯(ヴァーラーナシー)ともいった。中天竺の家畜に、稍割牛という動物がいた。黒色で角は細く、角の長は四尺あまりであった。十日に一度、角を切ってやらないと稍割牛は苦しんで死んでしまう。ある人は、この牛の血を飲むと五百歳まで寿命が延びると言っている。この牛の年も、これくらいであった。 中天竺王の姓は乞利咥(クシャトリヤ)氏で、または刹利ともいった。王は代々中天竺を支配し、簒奪や弑殺はなかった。中天竺の土地は湿気が多くて熱い。稲は一年に四度熟し、長いものは駱駝の体が没するくらいの高さであった。貝歯(子安貝)を貨幣とした。金剛石(ダイヤモンド)・栴檀・鬱金(サフラン)を産し、大秦(ローマ)・扶南・交趾と貿易した。人は裕福に暮らし、戸籍簿と地籍簿がなく、王の領地を耕作するものは税金を納めた。最高の礼としては足をねぶり踵をさすった。家ごとに奇楽を催す伎がいた。王や大臣はみな錦や毛織物を着用した。螺髻(もとどり)を頭のてっぺんで作り、あまった髪の毛は切って巻き髪にした。男性は耳を穿ってイヤリングをたらした。耳に黄金をかけるものもいた。耳たぶの垂れているものを上類とした。素足で過ごし、衣装は白を尊んだ。婦人は首に金・銀・真珠の首飾を飾った。死者は、その亡骸を焼き遺灰をとって卒塔婆を建てた。あるいは遺体は野原や河に遺棄し、鳥獣や魚・亀の餌にした。服喪の期間は定まっていない。謀反を起こしたものは幽閉して殺された。小さな犯罪を犯したものは金銭で罪を贖った。親不孝者は手足を斬り落とし、耳鼻を削ぎ、辺境地帯に移された。文字があり、歩暦(天文測算術)を善くし、「悉曇十二章」を学んだ。貝多羅に筆記して出来事をしるした。これをみだりに梵天法と言った。仏法を尊び、殺生や飲酒をしなかった。国中の所々を指し示して仏の古跡であると言っている。盟誓を信じ、禁呪を伝え、祈って龍を呼び起こすと雲がわき雨が降ると言っている。 隋の煬帝の時、裴矩を派遣して西域諸国と通好させたが、ただ天竺と払菻(ビザンツ)だけが来朝しなかったので煬帝はこれを恨みに思っていた。武徳年間(618-626)に天竺に大乱が起こった。王の尸羅逸多(シーラーディトヤ=ハルシャ・ヴァルダナ)が軍隊を統率して戦うと向かうところ敵なしの状態であった。戦象は鞍をはずさず兵士も甲冑を脱がず、四天竺を討ったので王達はみな北面して臣従した。たまたま唐の仏教僧の玄奘がその国を訪問した時、尸羅逸多はこれを召し謁見して言った。「なんじの国には聖人が出現し、秦王破陣楽という音楽を作ったというが、試みに私のために秦王(太宗)の人となりを話してくれ」と。そこで玄奘は太宗の神の如き武勇について大まかに説明し、太宗が世の乱れを平定し、四方の諸民族がして物を献上している状況を話して聞かせた。尸羅逸多は喜び、「私は東面して唐に朝貢しよう」と言った。貞観十五年(641)、尸羅逸多は自ら摩伽陀王を称して使節を派遣し、太宗に上書した。太宗は雲騎尉の梁懐璥に命じ節を持たせて派遣し、天竺を慰撫せしめた。尸羅逸多は驚き、国人に問うて言った。「いにしえより摩訶震旦(=中国)からの使いが、わが国に来た事があったか」と。みな、こたえて言った。「摩訶震旦からの使者が来た事はありません」と。夷狄は中国の事を摩訶震旦と呼んだのである。尸羅逸多は拝して太宗の詔書を受け、頭の上に勅書を戴いた。そこでまた尸羅逸多は中国使節の帰国に随行させて使者を答礼使として派遣し、唐に朝貢した。これに対し、太宗は衛尉丞の李義表を報使として天竺に遣わした。尸羅逸多は大臣を派遣して李義表を迎えさせ、都から隅まで李義表一行に自由に見学させて、道中で香を焚いて歓迎した。尸羅逸多は群臣を引き連れ、東に顔を向けて太宗からの勅書を受けた。尸羅逸多はまた使者を唐に遣わして、火珠・鬱金・菩提樹を献上した。 貞観二十二年(648)、太宗は右衛率府長史の王玄策を天竺に派遣し、蒋師仁を副使となした。しかし王玄策が天竺に到着する前に尸羅逸多は死去し、天竺国内は乱れて、大臣の帝那伏帝阿羅那順(ティラブクティ・アルジュナ)が自ら即位し、軍隊を発動して王玄策の入国を拒んだ。このとき王玄策に従う騎兵は僅かに数十だったため、唐軍は阿羅那順に勝つことができず、兵士はみな死没し、諸国からの貢物は阿羅那順に略奪されてしまった。王玄策は遁走し、吐蕃の西の辺境地帯に奔走した。王玄策は周辺諸国に檄を飛ばして兵を徴発した。吐蕃は一千の兵を率いて王玄策のもとに至り、泥婆羅(ネパール)は七千騎を率いてやってきた。王玄策は部隊を分けて進軍し、茶鎛和羅城で阿羅那順の軍勢と戦い、三日間の戦いの後に阿羅那順の軍を打ち破って三千の首級を斬った。この戦いでの溺死者は一万人であった。阿羅那順は国を棄てて逃走し、散兵を合わせて再び陣地を築こうとしたが、蒋師仁がこれを生け捕りにした。捕虜にしたもの斬首したものは一千を数えた。阿羅那順の余衆が、王の妻と息子を奉じて乾陀衛江(ガンダキ)で抵抗したが、蒋師仁がこれを撃ち大破した。蒋師仁は王妃・王子を捕らえ、男女一万二千人を捕虜とし、雑畜三万を獲得し、五百八十の城を降した。東天竺の王の尸鳩摩は牛馬三万、兵糧として唐軍に送り、弓・刀・宝の纓絡もともに贈った。また迦没路国は珍奇なものを献上し、地図も献上して、それから太宗に向かって老子の像と道徳経を賜りたいと願した。王は、阿羅那順を捕らえて長安城に連行し太宗に献上した。役人達は王玄策の宗廟に報告した。太宗は「いったい人というものは、耳と目が(音楽と女色)を愛で、口と鼻が匂いと味を愛でる事にばかり耽るようになるのは、敗徳の源である。もしバラモン(=阿羅那順)が、わが使節を略しなければ、捕虜になることがあろうか」と。と言った。太宗は王玄策を抜擢して朝散大夫にした。 王玄策は天竺において道士の那邏邇娑婆寐(ナーラーヤナスヴァーミン)を得た。那邏邇娑婆寐は自ら年齢が二百歳であると言い、不死の術を持っていると称していた。そこで太宗は改めて住まわせ錬金術を治めさせ、兵部尚書の崔教礼に命じてあつく保護監視させた。太宗はまた中国全土に使者を派遣して、もろもろの奇薬や異石を集めさせ、使節を婆羅門の諸国にも派遣して異を収集させた。いわゆる畔茶法水という薬は、石臼の中から生じる。石人の像があり、これを守っている。水には七種類の色があり、熱くなったり冷たくなったりして、金をよく溶かすことができる。人がそれを手にのせると、たちまち爛れてしまう。そこで駱駝の髑髏を使って瓢の中に注ぐ。咀賴羅という名樹があった。その葉に似ており、奥深い山の中に崖にはえていた。その樹の前には巨大な穴を蝮が守っているため、樹のそばに近づくことができない。しかし咀賴羅の業を採取したいものが四角い鏃の矢を放つと、枝はすぐに落ち、鳥の群れがこの枝を運び去ってくれる。枝を銜えたこの鳥を射落とすと、咀賴羅の枝を入手することができた。奇怪なさまは、このようであった。この後、那邏邇娑婆寐の術に効力がなかったため、太宗は詔を出して天竺への帰国を許したが、帰ることができずに長安で亡くなった。高宗の時代、盧伽逸多というものがいた。東天竺の烏茶(ウドラ)の人で、また方術をもって昇進し、懐化大将軍を拝した。 乾封三年(668)、五天竺の使節がすべて来朝した。開元の時、中天竺は使者を三度派遣した。南天竺は一度使節を派遣し、人の言葉をよく語る五色のオウムを献上した。南天竺の王はそれから玄宗に対し、軍隊の応援を求めて大食と吐蕃を討伐したいといい、その軍隊に名をつけて欲しいと請願した。そこで玄宗は詔して懐徳軍の名を賜った。南天竺の使者が「蕃夷はただと帯をもって寵愛のしるしとなします」と言ったので、玄宗は、錦の袍、金で装飾された革帯、魚袋、七事(佩刀・刀子・火石など軍に必須の七つのもの)を賜った。北天竺の使者は一度だけ来朝した。 摩掲它(マガダ)は摩伽陀ともいう。もともと中天竺に属する国であった。周囲は五千里で、その土地は肥沃で農業をよくし、異稲巨粒(異常なイネと巨大な米つぶ)を有した。これを供大人米(大臣にのみ供給する米)といった。王は拘闍掲羅布羅城に住んだ。あるいは倶蘇摩補羅(クスマプラ)といい、波吒釐子城(パタリプトラ)ともいった。その北には伽河(ガンジス)がせまっていた。貞観二十一年(647)、初めて唐に使節を派遣して自ら太宗に通好し、波羅樹(菩提樹)を献上した。この樹は白楊と似ていた。太宗は摩伽陀に使者を派遣し、その国の熬糖法を学ばせた。それから揚州に詔して諸蔗(もろもろのサトウキビ)を献上させ、汁を圧搾して剤のようにさせた。色と味は西域産の砂糖よりも数段まさった。高宗はまた王玄策を派遣して摩訶菩提祠(マハーボディ)に行かせ碑を立てさせた。その後、徳宗は自らの銘をしるして那爛陀祠(ナーランダ寺院)に賜った。 また、那掲(ナガラハーラ)という国があった。これは摩掲它の属国であった。貞観二十年(646)、那揭は使者を派遣して万物を献上した。 烏茶(ウディヤーナ)という国は、烏伏那とも烏萇ともいい、天竺のすぐ南(正しくは西北)にあった。土地の広さは五千里で、東は勃律を隔てること六百里、西は罽賓の四百里のところにあった。山谷が互いに連なり、金・鉄・葡萄・鬱金を産した。稲は毎年熟した。人は物腰が柔らかで媚びへつらい、禁架術(方士の呪術)を善くした。この国には死刑はなく、死罪に相当するものは奥深い山に放置した。疑いのあるものには薬を飲ませ、尿の清濁を見て罪の軽重を決定した。五つの城があり、王は術曹蘖利城に住んだ。この城は瞢掲釐城(ミンゴーラ)ともいい、その東北に達麗羅(ダレル)川があった。この川はかつて烏萇の土地であった。貞観十六年(642)、王の達摩因陀訶斯が使者を派遣して龍涎香を献上したので、太宗は璽書を下して優答した。大食がこの国の東の辺境地帯に接していた。開元中に、大食がしばしば誘ったが、烏萇王と骨咄・倶位の二王は大食の臣下になることを承知しなかった。玄宗は使者を派遣し、王を冊立した。 章求抜国は章掲抜ともいい、もともとは西羌の種族であった。悉立の西南の四山の山中に住み、後に山の西に移住して東天竺と隣接するようになった。その国の衣服は東天竺と似ており、東天竺に属するようになった。そのは八、九百里あまりで兵は二千人、城郭がなく、掠奪を好んだので商旅はこれに悩まされた。貞観二十年(646)、王の羅利多菩伽が悉立国によって使者を派遣して入朝した。王玄策が中天竺を討伐した時、章求抜国の王は援軍を派遣して王玄策を支援し、功績を立てた。それ以来、朝貢は絶えなかった。 悉立国は、ちょうど吐の西南に位置した。戸数は五万戸で、城邑の多くが渓流のそばにあった。男子は絹帯で頭髪を結び、氈褐(毛織物)を着用した。婦人は短いスカートを着た。婚姻に結納がなかった。穀物・豆をよく産した。死者に葬られ、盛り土をし、木を植えて墓をつくることがなかった。この国では人々は黒衣を着用し、丸一年が過ぎると服喪の期間が終わり、黒衣を脱いだ。刑罰には刖(あしきり)と劓(はなそぎ)があった。常に吐蕃に従属した。 罽賓(カピーシー)は、隋の漕国である。罽賓はパミールの南にあり、長安をへだてること一万二千里余であった。罽賓の南三千里のところに舎衛(シュラーヴァスティー)があった。王は修鮮城で統治し、常に大月氏に属していた。その地は暑くて湿気が多く、人々は象に乗り、仏法に従って支配していた。 武徳二年(619)、使者を派遣して朝貢し、宝石で象嵌された玉帯、金の鎖、水晶製の小さな杯、小さな棗のような形をしたガラスを献上した。貞観中には名馬を献上したので、太宗は大臣に詔して言った。「朕が初めて即位した時、あるものが天子というものは兵を輝かして四方の夷狄を屈服させるものであると申したが、ただ魏徴だけは朕に向かって、文徳を修めて中華を安んじるようにと勧めたものである。中華が安んじれば、遠方の異民族も威服するであろう、と。いま天下は大いに安んじ、四方の君主達はみな来献した。これは魏徴の力によるものだ」と。そこで太宗は、果毅の何処羅抜らを派遣して篤く罽賓国に賜わりものを下し、あわせて天竺も慰撫させた。何処羅抜が罽賓に到着すると、罽賓王は東に向き、頭を地につけて再拝した。また部下を遣わして唐の使節一行を天竺まで護衛して道案内させた。貞観十六年(642)、褥特鼠(マングース)を献上してきた。この鼠は鼻がとがっていて尻尾が赤く、ヘビを取って食べた。毒に刺されたものがいると、褥特鼠はこれを嗅いで尿をかけた。すると傷がたちまち治った。 国人はみな罽賓王の始祖は馨孽(ヒンギラ)といい、曷擷支に至るまで十二代にわたって王位が継承されてきたと伝えている。顕慶三年(658)、罽賓の地を修鮮都督府となした。龍朔の初め、罽賓王を修鮮城等十一州諸軍事および脩鮮都督に任命した。開元七年(719)、罽賓は使者を派遣して天文学の書と秘法の奇薬を献上したので、玄宗は罽賓王を葛邏達支特勒に冊立した。のち烏散特勒灑が年老いて息子の払菻婆に後を継がせたいと請願してきたので玄宗はこれを許可した。天宝四載(745)、玄宗は罽賓王の息子の勃匐準を冊立し、罽賓王と烏萇王を継承させた。乾元の初め(758)、罽賓の使者が朝貢してきた。
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太祖武皇帝,沛國譙人也,姓曹,諱操,字孟德,漢相國參之後。〈嵩生太祖。 太祖武皇帝は、沛國譙人なり。姓は曹、諱は操、字は孟德、漢の相國參の後なり。 太祖少機警,有權數,而任俠放蕩,不治行業,故世人未之奇也 〉惟梁國橋玄、南陽何顒異焉。玄謂太祖曰:「天下將亂,非命世之才不能濟也,能安之者,其在君乎!」〈 年二十,舉孝廉爲郎,除洛陽北部尉,遷頓丘令,〈 〉徵拜議郎。〈〉 光和末,黃巾起。拜騎都尉,討潁川賊。遷爲濟南相,國有十餘縣,長吏多阿附貴戚,贓污狼藉,於是奏免其八;禁斷淫祀,姦宄逃竄,郡界肅然。 久之,徵還爲東郡太守;不就,稱疾歸鄉里。〉 頃之,冀州刺史王芬、南陽許攸、沛國周旌等連結豪傑,謀廢靈帝,立合肥侯,以告太祖,太祖拒之。芬等遂敗。〈〉 金城邊章、韓遂殺刺史郡守以叛,衆十餘萬,天下騷動。徵太祖爲典軍校尉。會靈帝崩,太子即位,太后臨朝。大將軍何進與袁紹謀誅宦官,太后不聽。進乃召董卓,欲以脅太后 〉卓未至而進見殺。卓到,廢帝爲弘農王而立獻帝,京都大亂。卓表太祖爲驍騎校尉,欲與計事。太祖乃變易姓名,間行東歸。〈 〉出關,過中牟,爲亭長所疑,執詣縣,邑中或竊識之,爲請得解。〈《世語》曰:中牟疑是亡人,見拘於縣。時掾亦已被卓書;唯功曹心知是太祖,以世方亂,不宜拘天下雄儁,因白令釋之。〉卓遂殺太后及弘農王。太祖至陳留,散家財,合義兵,將以誅卓。冬十二月,始起兵於己吾,〈《世語》曰:陳留孝廉衞茲以家財資太祖,使起兵,衆有五千人。〉是歲中平六年也。 初平元年春正月,後將軍袁術、冀州牧韓馥、〈《英雄記》曰:馥字文節,潁川人。爲御史中丞。董卓舉爲冀州牧。于時冀州民人殷盛,兵糧優足。袁紹之在勃海,馥恐其興兵,遣數部從事守之,不得動搖。東郡太守橋瑁詐作京師三公移書與州郡,陳卓罪惡,云「見逼迫,無以自救,企望義兵,解國患難。」馥得移,請諸從事問曰:「今當助袁氏邪,助董卓邪?」治中從事劉子惠曰:「今興兵爲國,何謂袁、董!」馥自知言短而有慙色。子惠復言:「兵者凶事,不可爲首;今宜往視他州,有發動者,然後和之。冀州於他州不爲弱也,他人功未有在冀州之右者也。」馥然之。馥乃作書與紹,道卓之惡,聽其舉兵。〉豫州刺史孔伷、〈《英雄記》曰:伷字公緒,陳留人。張璠《漢紀》,載鄭泰說卓云:「孔公緒能清談高論,噓枯吹生。」〉兖州刺史劉岱、〈岱,劉繇之兄,事見《吳志》。〉河內太守王匡、〈《英雄記》曰:匡字公節,泰山人。輕財好施,以任俠聞。辟大將軍何進府進符使,匡於徐州發彊弩五百西詣京師。會進敗,匡還鄉里。起家,拜河內太守。謝承《後漢書》曰:匡少與蔡邕善。其年爲卓軍所敗,走還泰山,收集勁勇得數千人,欲與張邈合。匡先殺執金吾胡母班。班親屬不勝憤怒,與太祖并勢,共殺匡。〉勃海太守袁紹、陳留太守張邈、東郡太守橋瑁、〈《英雄記》曰:瑁字元偉,玄族子。先爲兖州刺史,甚有威惠。〉山陽太守袁遺、〈遺字伯業,紹從兄。爲長安令。河間張超甞薦遺于太尉朱儁,稱遺「有冠世之懿,幹時之量。其忠允亮直,固天所縱;若乃包羅載籍,管綜百氏,登高能賦,覩物知名,求之今日,邈焉靡儔。」事在超集。《英雄記》曰:紹後用遺爲揚州刺史,爲袁術所敗。太祖稱「長大而能勤學者,惟吾與袁伯業耳。」語在文帝《典論》。〉濟北相鮑信〈信事見子《勛傳》。〉同時俱起兵,衆各數萬,推紹爲盟主。太祖行奮武將軍。 二月,卓聞兵起,乃徙天子都長安。卓留屯洛陽,遂焚宮室。是時紹屯河內,邈、岱、瑁、遺屯酸棗,術屯南陽,伷屯潁川,馥在鄴。卓兵彊,紹等莫敢先進。太祖曰:「舉義兵以誅暴亂,大衆已合,諸君何疑?向使董卓聞山東兵起,倚王室之重,據二周之險,東向以臨天下;雖以無道行之,猶足爲患。今焚燒宮室,劫遷天子,海內震動,不知所歸,此天亡之時也。一戰而天下定矣,不可失也。」遂引兵西,將據成臯。邈遣將衞茲分兵隨太祖。到熒陽汴水,遇卓將徐榮,與戰不利,士卒死傷甚多。太祖爲流矢所中,所乘馬被創,從弟洪以馬與太祖,得夜遁去。榮見太祖所將兵少,力戰盡日,謂酸棗未易攻也,亦引兵還。 太祖到酸棗,諸軍兵十餘萬,日置酒高會,不圖進取。太祖責讓之,因爲謀曰:「諸君聽吾計,使勃海引河內之衆臨孟津,酸棗諸將守成臯,據敖倉,塞轘轅、太谷,全制其險;使袁將軍率南陽之軍軍丹、析,入武關,以震三輔:皆高壘深壁,勿與戰,益爲疑兵,示天下形勢,以順誅逆,可立定也。今兵以義動,持疑而不進,失天下之望,竊爲諸君耻之!」邈等不能用。 太祖兵少,乃與夏侯惇等詣揚州募兵,刺史陳溫、丹楊太守周昕與兵四千餘人。還到龍亢,士卒多叛。〈《魏書》曰:兵謀叛,夜燒太祖帳,太祖手劔殺數十人,餘皆披靡,乃得出營;其不叛者五百餘人。〉至銍、建平,復收兵得千餘人,進屯河內。 劉岱與橋瑁相惡,岱殺瑁,以王肱領東郡太守。 袁紹與韓馥謀立幽州牧劉虞爲帝,太祖拒之。〈《魏書》載太祖荅紹曰:「董卓之罪,暴於四海,吾等合大衆興義兵,遠近莫不響應,此以義動故也。今幼主微弱,制於姦臣,未有昌邑亡國之釁,而一旦改易,天下其孰安之?諸君北面,我自西向。」〉紹又甞得一玉印,於太祖坐中舉向其肘,太祖由是笑而惡焉。〈《魏書》曰:太祖大笑曰:「吾不聽汝也。」紹復使人說太祖曰:「今袁公勢盛兵彊,二子已長,天下羣英,孰踰於此?」太祖不應。由是益不直紹,圖誅滅之。〉 二年春,紹、馥遂立虞爲帝,虞終不敢當。 夏四月,卓還長安。 秋七月,袁紹脅韓馥,取冀州。 黑山賊于毒、白繞、眭固等〈眭,申隨反。〉十餘萬衆略魏郡、東郡,王肱不能禦,太祖引兵入東郡,擊白繞於濮陽,破之。袁紹因表太祖爲東郡太守,治東武陽。 三年春,太祖軍頓丘,毒等攻東武陽。太祖乃引兵西入山,攻毒等本屯。〈《魏書》曰:諸將皆以爲當還自救。太祖曰:「孫臏救趙而攻魏,耿弇欲走西安攻臨菑。使賊聞我西而還,武陽自解也;不還,我能敗其本屯,虜不能拔武陽必矣。」遂乃行。〉毒聞之,棄武陽還。太祖要擊眭固,又擊匈奴於夫羅於內黃,皆大破之。〈《魏書》曰:於夫羅者,南單于子也。中平中,發匈奴兵,於夫羅率以助漢。會本國反,殺南單于,於夫羅遂將其衆留中國。因天下撓亂,與西河白波賊合,破太原、河內,抄略諸郡爲寇。〉 夏四月,司徒王允與呂布共殺卓。卓將李傕、郭汜等殺允攻布,布敗,東出武關。傕等擅朝政。 青州黃巾衆百萬入兖州,殺任城相鄭遂,轉入東平。劉岱欲擊之,鮑信諫曰:「今賊衆百萬,百姓皆震恐,士卒無鬬志,不可敵也。觀賊衆羣輩相隨,軍無輜重,唯以鈔略爲資,今不若畜士衆之力,先爲固守。彼欲戰不得,攻又不能,其勢必離散,後選精銳,據其要害,擊之可破也。」岱不從,遂與戰,果爲所殺。〈《世語》曰:岱旣死,陳宮謂太祖曰:「州今無主,而王命斷絕,宮請說州中,明府尋往牧之,資之以收天下,此霸王之業也。」宮說別駕、治中曰:「今天下分裂而州無主;曹東郡,命世之才也,若迎以牧州,必寧生民。」〉鮑信等亦謂之然。信乃與州吏萬潛等至東郡迎太祖領兖州牧。遂進兵擊黃巾於壽張東。信力戰鬬死,僅而破之。〈《魏書》曰:太祖將步騎千餘人,行視戰地,卒抵賊營,戰不利,死者數百人,引還。賊尋前進。黃巾爲賊久,數乘勝,兵皆精悍。太祖舊兵少,新兵不習練,舉軍皆懼。太祖被甲嬰冑,親巡將士,明勸賞罰,衆乃復奮,承間討擊,賊稍折退。賊乃移書太祖曰:「昔在濟南,毀壞神壇,其道乃與中黃太一同,似若知道,今更迷惑。漢行已盡,黃家當立。天之大運,非君才力所能存也。」太祖見檄書,呵之罪,數開示降路;遂設奇伏,晝夜會戰,戰輙禽獲,賊乃退走。〉購求信喪不得,衆乃刻木如信形狀,祭而哭焉。追黃巾至濟北。乞降。冬,受降卒三十餘萬,男女百餘萬口,收其精銳者,號爲青州兵。 袁術與紹有隙,術求援於公孫瓚,瓚使劉備屯高唐,單經屯平原,陶謙屯發干,以逼紹。太祖與紹會擊,皆破之。 四年春,軍鄄城。荊州牧劉表斷術糧道,術引軍入陳留,屯封丘,黑山餘賊及於夫羅等佐之。術使將劉詳屯匡亭。太祖擊詳,術救之,與戰,大破之。術退保封丘,遂圍之,未合,術走襄邑,追到太壽,決渠水灌城。走寧陵,又追之,走九江。夏,太祖還軍定陶。 下邳闕宣聚衆數千人,自稱天子;徐州牧陶謙與共舉兵,取泰山華、費,略任城。秋,太祖征陶謙,下十餘城,謙守城不敢出。 是歲,孫策受袁術使渡江,數年閒遂有江東。 興平元年春,太祖自徐州還,初,太祖父嵩去官後還譙,董卓之亂,避難琅邪,爲陶謙所害,故太祖志在復讎東伐。〈《世語》曰:嵩在泰山華縣。太祖令泰山太守應劭送家詣兖州,劭兵未至,陶謙密遣數千騎掩捕。嵩家以爲劭迎,不設備。謙兵至,殺太祖弟德於門中。嵩懼,穿後垣,先出其妾,妾肥,不時得出;嵩逃于厠,與妾俱被害,闔門皆死。劭懼,棄官赴袁紹。後太祖定冀州,劭時已死。韋曜《吳書》曰:太祖迎嵩,輜重百餘兩。陶謙遣都尉張闓將騎二百衞送,闓於泰山華、費間殺嵩,取財物,因奔淮南。太祖歸咎於陶謙,故伐之。〉夏,使荀彧、程昱守鄄城,復征陶謙,拔五城,遂略地至東海。還過郯,謙將曹豹與劉備屯郯東,要太祖。太祖擊破之,遂攻拔襄賁,所過多所殘戮。〈孫盛曰:夫伐罪弔民,古之令軌;罪謙之由,而殘其屬部,過矣。〉 會張邈與陳宮叛迎呂布,郡縣皆應。荀彧、程昱保鄄城,范、東阿二縣固守,太祖乃引軍還。布到,攻鄄城不能下,西屯濮陽。太祖曰:「布一旦得一州,不能據東平,斷亢父、泰山之道,乘險要我,而乃屯濮陽,吾知其無能爲也。」遂進軍攻之。布出兵戰,先以騎犯青州兵。青州兵奔,太祖陳亂馳突火出,墜馬,燒左手掌。司馬樓異扶太祖上馬,遂引去。〈袁暐《獻帝春秋》曰:太祖圍濮陽,濮陽大姓田氏爲反閒,太祖得入城。燒其東門,示無反意。及戰,軍敗。布騎得太祖而不知是,問曰:「曹操何在?」太祖曰:「乘黃馬走者是也。」布騎乃釋太祖而追黃馬者。門火猶盛,太祖突火而出。〉未至營止,諸將未與太祖相見,皆怖。太祖乃自力勞軍,令軍中促爲攻具,進復攻之,與布相守百餘日。蝗蟲起,百姓大餓,布糧食亦盡,各引去。 秋九月,太祖還鄄城。布到乘氏,爲其縣人李進所破,東屯山陽。於是紹使人說太祖,欲連和。太祖新失兖州,軍食盡,將許之。程昱止太祖,太祖從之。冬十月,太祖至東阿。 是歲穀一斛五十餘萬錢,人相食,乃罷吏兵新募者。陶謙死,劉備代之。 二年春,襲定陶。濟陰太守吳資保南城,未拔。會呂布至,又擊破之。夏,布將薛蘭、李封屯鉅野,太祖攻之,布救蘭,蘭敗,布走,遂斬蘭等。布復從東緍與陳宮將萬餘人來戰,時太祖兵少,設伏,縱奇兵擊,大破之。〈《魏書》曰:於是兵皆出取麥,在者不能千人,屯營不固。太祖乃令婦人守陴,悉兵拒之。屯西有大隄,其南樹木幽深。布疑有伏,乃相謂曰:「曹操多譎,勿入伏中。」引軍屯南十餘里。明日復來,太祖隱兵隄裏,出半兵隄外。布益進,乃令輕兵挑戰,旣合,伏兵乃悉乘隄,步騎並進,大破之,獲其龍車,追至其營而還。〉布夜走,太祖復攻,拔定陶,分兵平諸縣。布東奔劉備,張邈從布,使其弟超將家屬保雍丘。秋八月,圍雍丘。冬十月,天子拜太祖兖州牧。十二月,雍丘潰,超自殺。夷邈三族。邈詣袁術請救,爲其衆所殺,兖州平,遂東略陳地。 是歲,長安亂,天子東遷,敗于曹陽,渡河幸安邑。 建安元年春正月,太祖軍臨武平,袁術所置陳相袁嗣降。 太祖將迎天子,諸將或疑,荀彧、程昱勸之,乃遣曹洪將兵西迎,衞將軍董承與袁術將萇奴拒險,洪不得進。 汝南、潁川黃巾何儀、劉辟、黃邵、何曼等,衆各數萬,初應袁術,又附孫堅。二月,太祖進軍討破之,斬辟、邵等,儀及其衆皆降。天子拜太祖建德將軍,夏六月,遷鎮東將軍,封費亭侯。秋七月,楊奉、韓暹以天子還洛陽,〈《獻帝春秋》曰:天子初至洛陽,幸城西故中常侍趙忠宅。使張楊繕治宮室,名殿曰揚安殿,八月,帝乃遷居。〉奉別屯梁。太祖遂至洛陽,衞京都,暹遁走。天子假太祖節鉞,錄尚書事。〈《獻帝紀》曰:又領司隷校尉。〉洛陽殘破,董昭等勸太祖都許。九月,車駕出轘轅而東,以太祖爲大將軍,封武平侯。自天子西遷,朝廷日亂,至是宗廟社稷制度始立。〈張璠《漢紀》曰:初,天子敗於曹陽,欲浮河東下。侍中太史令王立曰:「自去春太白犯鎮星於牛斗,過天津,熒惑又逆行守北河,不可犯也。」由是天子遂不北渡河,將自軹關東出。立又謂宗正劉艾曰:「前太白守天關,與熒惑會;金火交會,革命之象也。漢祚終矣,晉、魏必有興者。」立後數言於帝曰:「天命有去就,五行不常盛,代火者土也,承漢者魏也,能安天下者,曹姓也,唯委任曹氏而已。」公聞之,使人語立曰:「知公忠於朝廷,然天道深遠,幸勿多言。」〉 天子之東也,奉自梁欲要之,不及。冬十月,公征奉,奉南奔袁術,遂攻其梁屯,拔之。於是以袁紹爲太尉,紹恥班在公下,不肯受。公乃固辭,以大將軍讓紹。天子拜公司空,行車騎將軍。是歲用棗祗、韓浩等議,始興屯田。〈《魏書》曰:自遭荒亂,率乏糧穀。諸軍並起,無終歲之計,饑則寇略,飽則棄餘,瓦解流離,無敵自破者不可勝數。袁紹之在河北,軍人仰食桑椹。袁術在江、淮,取給蒲蠃。民人相食,州里蕭條。公曰:「夫定國之術,在於彊兵足食,秦人以急農兼天下,孝武以屯田定西域,此先代之良式也。」是歲乃募民屯田許下,得穀百萬斛。於是州郡例置田官,所在積穀。征伐四方,無運糧之勞,遂兼滅羣賊,克平天下。〉 呂布襲劉備,取下邳。備來奔。程昱說公曰:「觀劉備有雄才而甚得衆心,終不爲人下,不如早圖之。」公曰:「方今收英雄時也,殺一人而失天下之心,不可。」 張濟自關中走南陽。濟死,從子繡領其衆。 二年春正月,公到宛。張繡降,旣而悔之,復反。公與戰,軍敗,爲流矢所中,長子昂、弟子安民遇害。〈《魏書》曰:公所乘馬名絕影,爲流矢所中,傷頰及足,并中公右臂。《世語》曰:昂不能騎,進馬於公,公故免,而昂遇害。〉公乃引兵還舞陰,繡將騎來鈔,公擊破之。繡奔穰,與劉表合。公謂諸將曰:「吾降張繡等,失不便取其質,以至于此。吾知所以敗。諸卿觀之,自今已後不復敗矣。」遂還許。〈《世語》曰:舊制,三公領兵入見,皆交戟叉頸而前。初,公將討張繡,入覲天子,時始復此制。公自此不復朝見。〉 袁術欲稱帝於淮南,使人告呂布。布收其使,上其書。術怒,攻布,爲布所破。秋九月,術侵陳,公東征之。術聞公自來,棄軍走,留其將橋蕤、李豐、梁綱、樂就;公到,擊破蕤等,皆斬之。術走渡淮。公還許。 公之自舞陰還也,南陽、章陵諸縣復叛爲繡,公遣曹洪擊之,不利,還屯葉,數爲繡、表所侵。冬十一月,公自南征,至宛。〈《魏書》曰:臨淯水,祠亡將士,歔欷流涕,衆皆感慟。〉表將鄧濟據湖陽。攻拔之,生禽濟,湖陽降。攻舞陰,下之。 三年春正月,公還許,初置軍師祭酒。三月,公圍張繡於穰。夏五月,劉表遣兵救繡,以絕軍後。〈《獻帝春秋》曰:袁紹叛卒詣公云:「田豐使紹早襲許,若挾天子以令諸侯,四海可指麾而定。」公乃解繡圍。〉公將引還,繡兵來,公軍不得進,連營稍前。公與荀彧書曰:「賊來追吾,雖日行數里,吾策之,到安衆,破繡必矣。」到安衆,繡與表兵合守險,公軍前後受敵。公乃夜鑿險爲地道,悉過輜重,設奇兵。會明,賊謂公爲遁也,悉軍來追。乃縱奇兵步騎夾攻,大破之。秋七月,公還許。荀彧問公:「前以策賊必破,何也?」公曰:「虜遏吾歸師,而與吾死地戰,吾是以知勝矣。」 呂布復爲袁術使高順攻劉備,公遣夏侯惇救之,不利。備爲順所敗。九月,公東征布。冬十月,屠彭城,獲其相侯諧。進至下邳,布自將騎逆擊。大破之,獲其驍將成廉。追至城下,布恐,欲降。陳宮等沮其計,求救於術,勸布出戰,戰又敗,乃還固守,攻之不下。時公連戰,士卒罷,欲還,用荀攸、郭嘉計,遂決泗、沂水以灌城。月餘,布將宋憲、魏續等執陳宮,舉城降,生禽布、宮,皆殺之。太山臧霸、孫觀、吳敦、尹禮、昌狶各聚衆。布之破劉備也,霸等悉從布。布敗,獲霸等,公厚納待,遂割青、徐二州附于海以委焉,分琅邪、東海、北海爲城陽、利城、昌慮郡。 初,公爲兖州,以東平畢諶爲別駕。張邈之叛也,邈劫諶母弟妻子;公謝遣之,曰:「卿老母在彼,可去。」諶頓首無二心,公嘉之,爲之流涕。旣出,遂亡歸。及布破,諶生得,衆爲諶懼,公曰:「夫人孝於其親者,豈不亦忠於君乎!吾所求也。」以爲魯相。〈《魏書》曰:袁紹宿與故太尉楊彪、大長秋梁紹、少府孔融有隙,欲使公以他過誅之。公曰:「當今天下土崩瓦解,雄豪並起,輔相君長,人懷怏怏,各有自爲之心,此上下相疑之秋也,雖以無嫌待之,猶懼未信;如有所除,則誰不自危?且夫起布衣,在塵垢之間,爲庸人之所陵陷,可勝怨乎!高祖赦雍齒之讎而羣情以安,如何忘之?」紹以爲公外託公義,內實離異,深懷怨望。臣松之以爲楊彪亦曾爲魏武所困,幾至於死,孔融竟不免於誅滅,豈所謂先行其言而後從之哉!非知之難,其在行之,信矣。〉 四年春二月,公還至昌邑。張楊將楊醜殺楊,眭固又殺醜,以其衆屬袁紹,屯射犬。夏四月,進軍臨河,使史渙、曹仁渡河擊之。固使楊故長史薛洪、河內太守繆尚留守,自將兵北迎紹求救,與渙、仁相遇犬城。交戰,大破之,斬固。公遂濟河,圍射犬。洪、尚率衆降,封爲列侯,還軍敖倉。以魏种爲河內太守,屬以河北事。 初,公舉种孝廉。兖州叛,公曰:「唯魏种且不棄孤也。」及聞种走,公怒曰:「种不南走越、北走胡,不置汝也!」旣下射犬,生禽种,公曰:「唯其才也!」釋其縛而用之。 是時袁紹旣并公孫瓚,兼四州之地,衆十餘萬,將進軍攻許,諸將以爲不可敵,公曰:「吾知紹之爲人,志大而智小,色厲而膽薄,忌克而少威,兵多而分畫不明,將驕而政令不一,土地雖廣,糧食雖豐,適足以爲吾奉也。」秋八月,公進軍黎陽,使臧霸等入青州破齊、北海、東安,留于禁屯河上。九月,公還許,分兵守官渡。冬十一月,張繡率衆降,封列侯。十二月,公軍官渡。 袁術自敗於陳,稍困,袁譚自青州遣迎之。術欲從下邳北過,公遣劉備、朱靈要之。會術病死。程昱、郭嘉聞公遣備,言於公曰:「劉備不可縱。」公悔,追之不及。備之未東也,陰與董承等謀反,至下邳,遂殺徐州刺史車冑,舉兵屯沛。遣劉岱、王忠擊之,不克。〈《獻帝春秋》曰:備謂岱等曰:「使汝百人來,其無如我何;曹公自來,未可知耳!」《魏武故事》曰:岱字公山,沛國人。以司空長史從征伐有功,封列侯。《魏略》曰:王忠,扶風人,少爲亭長。三輔亂,忠饑乏噉人,隨輩南向武關。值婁子伯爲荊州遣迎北方客人;忠不欲去,因率等仵逆擊之,奪其兵,聚衆千餘人以歸公。拜忠中郎將,從征討。五官將知忠甞噉人,因從駕出行,令俳取冢間髑髏繫著忠馬鞍,以爲歡笑。〉 廬江太守劉勳率衆降,封爲列侯。 五年春正月,董承等謀泄,皆伏誅。公將自東征備,諸將皆曰:「與公爭天下者,袁紹也。今紹方來而棄之東,紹乘人後,若何?」公曰:「夫劉備,人傑也,今不擊,必爲後患。〈孫盛《魏氏春秋》云:荅諸將曰:「劉備,人傑也,將生憂寡人。」臣松之以爲史之記言,旣多潤色,故前載所述有非實者矣,後之作者又生意改之,於失實也,不亦彌遠乎!凡孫盛製書,多用左氏以易舊文,如此者非一。嗟乎,後之學者將何取信哉?且魏武方以天下勵志,而用夫差分死之言,尤非其類。〉袁紹雖有大志,而見事遟,必不動也。」郭嘉亦勸公,遂東擊備,破之,生禽其將夏侯博。備走奔紹,獲其妻子。備將關羽屯下邳,復進攻之,羽降。昌狶叛爲備,又攻破之。公還官渡,紹卒不出。 二月,紹遣郭圖、淳于瓊、顏良攻東郡太守劉延於白馬,紹引兵至黎陽,將渡河。夏四月,公北救延。荀攸說公曰:「今兵少不敵,分其勢乃可。公到延津,若將渡兵向其後者,紹必西應之,然後輕兵襲白馬,掩其不備,顏良可禽也。」公從之。紹聞兵渡,即分兵西應之。公乃引軍兼行趣白馬,未至十餘里,良大驚,來逆戰。使張遼、關羽前登,擊破,斬良。遂解白馬圍,徙其民,循河而西。紹於是渡河追公軍,至延津南。公勒兵駐營南阪下,使登壘望之,曰:「可五六百騎。」有頃,復白:「騎稍多,步兵不可勝數。」公曰:「勿復白。」乃令騎解鞍放馬。是時,白馬輜重就道。諸將以爲敵騎多,不如還保營。荀攸曰:「此所以餌敵,如何去之!」紹騎將文醜與劉備將五六千騎前後至。諸將復白:「可上馬。」公曰:「未也。」有頃,騎至稍多,或分趣輜重。公曰:「可矣。」乃皆上馬。時騎不滿六百,遂縱兵擊,大破之,斬醜、良。醜、良皆紹名將也,再戰,悉禽,紹軍大震。公還軍官渡。紹進保陽武。關羽亡歸劉備。 八月,紹連營稍前,依沙塠爲屯,東西數十里。公亦分營與相當,合戰不利。〈習鑿齒《漢晉春秋》曰:許攸說紹曰:「公無與操相攻也。急分諸軍持之,而徑從他道迎天子,則事立濟矣。」紹不從,曰:「吾要當先圍取之。」攸怒。〉時公兵不滿萬,傷者十二三。〈臣松之以爲魏武初起兵,已有衆五千,自後百戰百勝,敗者十二三而已矣。但一破黃巾,受降卒三十餘萬,餘所吞并,不可悉紀;雖征戰損傷,未應如此之少也。夫結營相守,異於摧鋒決戰。本紀云:「紹衆十餘萬,屯營東西數十里。」魏太祖雖機變無方,略不世出,安有以數千之兵,而得逾時相抗者哉?以理而言,竊謂不然。紹爲屯數十里,公能分營與相當,此兵不得甚少,一也。紹若有十倍之衆,理應當悉力圍守,使出入斷絕,而公使徐晃等擊其運車,公又自出擊淳于瓊等,揚旌往還,曾無抵閡,明紹力不能制,是不得甚少,二也。諸書皆云公坑紹衆八萬,或云七萬。夫八萬人奔散,非八千人所能縛,而紹之大衆皆拱手就戮,何緣力能制之?是不得甚少,三也。將記述者欲以少見奇,非其實錄也。按《鍾繇傳》云:「公與紹相持,繇爲司隷,送馬二千餘匹以給軍。」本紀及《世語》並云公時有騎六百餘匹,繇馬爲安在哉?〉紹復進臨官渡,起土山地道。公亦於內作之,以相應。紹射營中,矢如雨下,行者皆蒙楯,衆大懼。時公糧少,與荀彧書,議欲還許。彧以爲「紹悉衆聚官渡,欲與公決勝敗。公以至弱當至彊,若不能制,必爲所乘,是天下之大機也。且紹,布衣之雄耳,能聚人而不能用。夫以公之神武明哲而輔以大順,何向而不濟!」公從之。 孫策聞公與紹相持,乃謀襲許,未發,爲刺客所殺。 汝南降賊劉辟等叛應紹,略許下。紹使劉備助辟,公使曹仁擊破之。備走,遂破辟屯。 袁紹運穀車數千乘至,公用荀攸計,遣徐晃、史渙邀擊,大破之,盡燒其車。公與紹相拒連月,雖比戰斬將,然衆少糧盡,士卒疲乏。公謂運者曰:「却十五日爲汝破紹,不復勞汝矣。」冬十月,紹遣車運穀,使淳于瓊等五人將兵萬餘人送之,宿紹營北四十里。紹謀臣許攸貪財,紹不能足,來奔,因說公擊瓊等。左右疑之,荀攸、賈詡勸公。公乃留曹洪守,自將步騎五千人夜往,會明至。瓊等望見公兵少,出陳門外。公急擊之,瓊退保營,遂攻之。紹遣騎救瓊。左右或言「賊騎稍近,請分兵拒之」。公怒曰:「賊在背後,乃白!」士卒皆殊死戰,大破瓊等,皆斬之。〈《曹瞞傳》曰:公聞攸來,跣出迎之,撫掌笑曰:「子卿遠來,吾事濟矣!」旣入坐,謂公曰:「袁氏軍盛,何以待之?今有幾糧乎?」公曰:「尚可支一歲。」攸曰:「無是,更言之!」又曰:「可支半歲。」攸曰:「足下不欲破袁氏邪,何言之不實也!」公曰:「向言戲之耳。其實可一月,爲之柰何?」攸曰:「公孤軍獨守,外無救援而糧穀已盡,此危急之日也。今袁氏輜重有萬餘乘,在故市、烏巢,屯軍無嚴備;今以輕兵襲之,不意而至,燔其積聚,不過三日,袁氏自敗也。」公大喜,乃選精銳步騎,皆用袁軍旗幟,銜枚縛馬口,夜從間道出,人抱束薪,所歷道有問者,語之曰:「袁公恐曹操鈔略後軍,遣兵以益備。」聞者信以爲然,皆自若。旣至,圍屯,大放火,營中驚亂。大破之,盡燔其糧穀寶貨,斬督將眭元進、騎督韓莒子、呂威璜、趙叡等首,割得將軍淳于仲簡鼻,未死,殺士卒千餘人,皆取鼻,牛馬割脣舌,以示紹軍。將士皆怛懼。時有夜得仲簡,將以詣麾下,公謂曰:「何爲如是?」仲簡曰:「勝負自天,何用爲問乎!」公意欲不殺。許攸曰:「明且鑒於鏡,此益不忘人。」乃殺之。〉紹初聞公之擊瓊,謂長子譚曰:「就彼攻瓊等,吾攻拔其營,彼固無所歸矣!」乃使張郃、高覽攻曹洪。郃等聞瓊破,遂來降。紹衆大潰,紹及譚棄軍走,渡河。追之不及,盡收其輜重圖書珎寶,虜其衆。〈《獻帝起居注》曰:公上言「大將軍鄴侯袁紹前與冀州牧韓馥立故大司馬劉虞,刻作金璽,遣故任長畢瑜詣虞,爲說命錄之數。又紹與臣書云:『可都鄄城,當有所立。』擅鑄金銀印,孝廉計吏,皆往詣紹。從弟濟陰太守敘與紹書云:『今海內喪敗,天意實在我家,神應有徵,當在尊兄。南兄臣下欲使即位,南兄言,以年則北兄長,以位則北兄重。便欲送璽,會曹操斷道。』紹宗族累世受國重恩,而凶逆無道,乃至於此。輙勒兵馬,與戰官渡,乘聖朝之威,得斬紹大將淳于瓊等八人首,遂大破潰。紹與子譚輕身迸走。凡斬首七萬餘級,輜重財物巨億。」〉公收紹書中,得許下及軍中人書,皆焚之。〈《魏氏春秋》曰:公云:「當紹之彊,孤猶不能自保,而況衆人乎!」〉冀州諸郡多舉城邑降者。 初,桓帝時有黃星見於楚、宋之分,遼東殷馗〈馗,古逵字,見三蒼。〉善天文,言後五十歲當有真人起於梁、沛之閒,其鋒不可當。至是凡五十年,而公破紹,天下莫敵矣。 六年夏四月,揚兵河上,擊紹倉亭軍,破之。紹歸,復收散卒,攻定諸叛郡縣。九月,公還許。紹之未破也,使劉備略汝南,汝南賊共都等應之。遣蔡揚擊都,不利,爲都所破。公南征備。備聞公自行,走奔劉表,都等皆散。 七年春正月,公軍譙,令曰:「吾起義兵,爲天下除暴亂。舊土人民,死喪略盡,國中終日行,不見所識,使吾悽愴傷懷。其舉義兵已來,將士絕無後者,求其親戚以後之,授上田,官給耕牛,置學師以教之。爲存者立廟,使祀其先人,魂而有靈,吾百年之後何恨哉!」遂至浚儀,治睢陽渠,遣使以太牢祀橋玄。〈襃賞令載公祀文曰:「故太尉橋公,誕敷明德,汎愛博容。國念明訓,士思令謨。靈幽體翳,邈哉晞矣!吾以幼年,逮并堂室,特以頑鄙之姿,爲大君子所納。增榮益觀,皆由獎助,猶仲尼稱不如顏淵,李生之厚歎賈復。士死知己,懷此無忘。又承從容約誓之言:『殂逝之後,路有經由,不以斗酒隻雞過相沃酹,車過三步,腹痛勿怪!』雖臨時戲笑之言,非至親之篤好,胡肯爲此辭乎?匪謂靈忿,能詒己疾,懷舊惟顧,念之悽愴。奉命東征,屯次鄉里,北望貴土,乃心陵墓。裁致薄奠,公其尚饗!」〉進軍官渡。 紹自軍破後,發病歐血,夏五月死。小子尚代,譚自號車騎將軍,屯黎陽。秋九月,公征之,連戰。譚、尚數敗退,固守。 八年春三月,攻其郭,乃出戰,擊,大破之,譚、尚夜遁。夏四月,進軍鄴。五月還許,留賈信屯黎陽。 己酉,令曰:「《司馬法》『將軍死綏』,〈《魏書》云:綏,却也。有前一尺,無却一寸。〉故趙括之母,乞不坐括。是古之將者,軍破於外,而家受罪於內也。自命將征行,但賞功而不罰罪,非國典也。其令諸將出征,敗軍者抵罪,失利者免官爵。」〈《魏書》載庚申令曰:「議者或以軍吏雖有功能,德行不足堪任郡國之選,所謂『可與適道,未可與權』。管仲曰:『使賢者食於能則上尊,鬬士食於功則卒輕於死,二者設於國則天下治。』未聞無能之人,不鬬之士,並受祿賞,而可以立功興國者也。故明君不官無功之臣,不賞不戰之士;治平尚德行,有事賞功能。論者之言,一似管窺虎歟!」〉 秋七月,令曰:「喪亂已來,十有五年,後生者不見仁義禮讓之風,吾甚傷之。其令郡國各修文學,縣滿五百戶置校官,選其鄉之俊造而教學之,庶幾先王之道不廢,而有以益於天下。」 八月,公征劉表,軍西平。公之去鄴而南也,譚、尚爭冀州,譚爲尚所敗,走保平原。尚攻之急,譚遣辛毗乞降請救。諸將皆疑,荀攸勸公許之,〈《魏書》曰:公云:「我攻呂布,表不爲寇,官渡之役,不救袁紹,此自守之賊也,宜爲後圖。譚、尚狡猾,當乘其亂。縱譚挾詐,不終束手,使我破尚,徧收其地,利自多矣。」乃許之。〉公乃引軍還。冬十月,到黎陽,爲子整與譚結婚。〈臣松之案:紹死至此,過周五月耳。譚雖出後其伯,不爲紹服三年,而於再朞之內以行吉禮,悖矣。魏武或以權宜與之約言;今云結婚,未必便以此年成禮。〉尚聞公北,乃釋平原還鄴。東平呂曠、呂翔叛尚,屯陽平,率其衆降,封爲列侯。〈《魏書》曰:譚之圍解,陰以將軍印綬假曠。曠受印送之,公曰:「我固知譚之有小計也。欲使我攻尚,得以其閒略民聚衆,比尚之破,可得自彊以乘我弊也。尚破我盛,何弊之乘乎?」〉 九年春正月,濟河,遏淇水入白溝以通糧道。二月,尚復攻譚,留蘇由、審配守鄴。公進軍到洹水,由降。旣至,攻鄴,爲土山、地道。武安長尹楷屯毛城,通上黨糧道。夏四月,留曹洪攻鄴,公自將擊楷,破之而還。尚將沮鵠守邯鄲,〈沮音菹,河朔閒今猶有此姓。鵠,沮授子也。〉又擊拔之。易陽令韓範、涉長梁岐舉縣降,賜爵關內侯。五月,毀土山、地道,作圍壍,決漳水灌城;城中餓死者過半。秋七月,尚還救鄴,諸將皆以爲「此歸師,人自爲戰,不如避之」。公曰:「尚從大道來,當避之;若循西山來者,此成禽耳。」尚果循西山來,臨滏水爲營。〈《曹瞞傳》曰:遣候者數部前後參之,皆曰「定從西道,已在邯鄲」。公大喜,會諸將曰:「孤已得冀州,諸君知之乎?」皆曰:「不知。」公曰:「諸君方見不久也。」〉夜遣兵犯圍,公逆擊破走之,遂圍其營。未合,尚懼。故豫州刺史陰夔及陳琳乞降,公不許,爲圍益急。尚夜遁,保祁山,追擊之。其將馬延、張顗等臨陣降,衆大潰,尚走中山。盡獲其輜重,得尚印綬節鉞,使尚降人示其家,城中崩沮。八月,審配兄子榮夜開所守城東門內兵。配逆戰,敗,生禽配,斬之,鄴定。公臨祀紹墓,哭之流涕;慰勞紹妻,還其家人寶物,賜雜繒絮,廩食之。〈孫盛云:昔者先王之爲誅賞也,將以懲惡勸善,永彰鑒戒。紹因世艱危,遂懷逆謀,上議神器,下干國紀。荐社汙宅,古之制也。而乃盡哀於逆臣之冢,加恩於饕餮之室,爲政之道,於斯躓矣。夫匿怨友人,前哲所恥,稅驂舊館,義無虛涕,苟道乖好絕,何哭之有!昔漢高失之於項氏,魏武遵謬於此舉,豈非百慮之一失也。〉 初,紹與公共起兵,紹問公曰:「若事不輯,則方面何所可據?」公曰:「足下意以爲何如?」紹曰:「吾南據河,北阻燕、代,兼戎狄之衆,南向以爭天下,庶可以濟乎?」公曰:「吾任天下之智力,以道御之,無所不可。」〈《傅子》曰:太祖又云:「湯、武之王,豈同上哉?若以險固爲資,則不能應機而變化也。」〉 九月,令曰:「河北罹袁氏之難,其令無出今年租賦!」重豪彊兼并之法,百姓喜恱。〈《魏書》載公令曰:「有國有家者,不患寡而患不均,不患貧而患不安。袁氏之治也,使豪彊擅恣,親戚兼并;下民貧弱,代出租賦,衒鬻家財,不足應命;審配宗族,至乃藏匿罪人,爲逋逃主。欲望百姓親附,甲兵彊盛,豈可得邪!其收田租畝四升,戶出絹二匹、緜二斤而已,他不得擅興發。郡國守相明檢察之,無令彊民有所隱藏,而弱民兼賦也。」〉天子以公領冀州牧,公讓還兖州。 公之圍鄴也,譚略取甘陵、安平、勃海、河閒。尚敗,還中山。譚攻之,尚奔故安,遂并其衆。公遺譚書,責以負約,與之絕婚,女還,然後進軍。譚懼,拔平原,走保南皮。十二月,公入平原,略定諸縣。 十年春正月,攻譚,破之,斬譚,誅其妻子,冀州平。〈《魏書》曰:公攻譚,旦及日中不決;公乃自執桴鼓,士卒咸奮,應時破陷。〉下令曰:「其與袁氏同惡者,與之更始。」令民不得復私讎,禁厚葬,皆一之於法。是月,袁熙大將焦觸、張南等叛攻熙、尚,熙、尚奔三郡烏丸。觸等舉其縣降,封爲列侯。初討譚時,民亡椎冰,〈臣松之以爲討譚時,川渠水凍,使民椎冰以通舩,民憚役而亡。〉令不得降。頃之,亡民有詣門首者,公謂曰:「聽汝則違令,殺汝則誅首,歸深自藏,無爲吏所獲。」民垂泣而去;後竟捕得。 夏四月,黑山賊張燕率其衆十餘萬降,封爲列侯。故安趙犢、霍奴等殺幽州刺史、涿郡太守。三郡烏丸攻鮮于輔於獷平。〈《續漢書》郡國志曰:獷平,縣名,屬漁陽郡。〉秋八月,公征之,斬犢等,乃渡潞河救獷平,烏丸奔走出塞。 九月,令曰:「阿黨比周,先聖所疾也。聞冀州俗,父子異部,更相毀譽。昔直不疑無兄,世人謂之盜嫂;第五伯魚三娶孤女,謂之撾婦翁;王鳳擅權,谷永比之申伯;王商忠議,張匡謂之左道:此皆以白爲黑,欺天罔君者也。吾欲整齊風俗,四者不除,吾以爲羞。」冬十月,公還鄴。 初,袁紹以甥高幹領并州牧,公之拔鄴,幹降,遂以爲刺史。幹聞公討烏丸,乃以州叛,執上黨太守,舉兵守壺關口。遣樂進、李典擊之,幹還守壺關城。十一年春正月,公征幹。幹聞之,乃留其別將守城,走入匈奴,求救於單于,單于不受。公圍壺關三月,拔之。幹遂走荊州,上洛都尉王琰捕斬之。 秋八月,公東征海賊管承,至淳于,遣樂進、李典擊破之,承走入海島。割東海之襄賁、郯、戚以益琅邪,省昌慮郡。〈《魏書》載十月乙亥令曰:「夫治世御衆,建立輔弼,誡在面從,詩稱『聽用我謀,庶無大悔』,斯實君臣懇懇之求也。吾充重任,每懼失中,頻年已來,不聞嘉謀,豈吾開延不勤之咎邪?自今已後,諸掾屬治中、別駕,常以月旦各言其失,吾將覽焉。」〉 三郡烏丸承天下亂,破幽州,略有漢民合十餘萬戶。袁紹皆立其酋豪爲單于,以家人子爲己女,妻焉。遼西單于蹋頓尤彊,爲紹所厚,故尚兄弟歸之,數入塞爲害。公將征之,鑿渠,自呼沲入泒水,〈泒音孤。〉名平虜渠;又從泃河口〈泃音句。〉鑿入潞河,名泉州渠,以通海。 十二月春二月,公自淳于還鄴。丁酋,令曰:「吾起義兵誅暴亂,於今十九年,所征必克,豈吾功哉?乃賢士大夫之力也。天下雖未悉定,吾當要與賢士大夫共定之;而專饗其勞,吾何以安焉!其促定功行封。」於是大封功臣二十餘人,皆爲列侯,其餘各以次受封,及復死事之孤,輕重各有差。〈《魏書》載公令曰:「昔趙奢、竇嬰之爲將也,受賜千金,一朝散之,故能濟成大功,永世流聲。吾讀其文,未甞不慕其爲人也。與諸將士大夫共從戎事,幸賴賢人不愛其謀,羣士不遺其力,是以夷險平亂,而吾得竊大賞,戶邑三萬。追思竇嬰散金之義,今分所受租與諸將掾屬及故戍於陳、蔡者,庶以疇荅衆勞,不擅大惠也。宜差死事之孤,以租穀及之。若年殷用足,租奉畢入,將大與衆人悉共饗之。」〉 將北征三郡烏丸,諸將皆曰:「袁尚,亡虜耳,夷狄貪而無親,豈能爲尚用?今深入征之,劉備必說劉表以襲許。萬一爲變,事不可悔。」惟郭嘉策表必不能任備,勸公行。夏五月,至無終。秋七月,大水,傍海道不通,田疇請爲鄉導,公從之。引軍出盧龍塞,塞外道絕不通,乃壍山堙谷五百餘里,經白檀,歷平岡,涉鮮卑庭,東指柳城。未至二百里,虜乃知之。尚、熙與蹋頓、遼西單于樓班、右北平單于能臣抵之等,將數萬騎逆軍。八月,登白狼山,卒與虜遇,衆甚盛。公車重在後,被甲者少,左右皆懼。公登高,望虜陳不整,乃縱兵擊之,使張遼爲先鋒,虜衆大崩,斬蹋頓及名王已下,胡、漢降者二十餘萬口。遼東單于速僕丸及遼西、北平諸豪,棄其種人,與尚、熙奔遼東,衆尚有數千騎。初,遼東太守公孫康恃遠不服。及公破烏丸,或說公遂征之,尚兄弟可禽也。公曰:「吾方使康斬送尚、熙首,不煩兵矣。」九月,公引兵自柳城還,〈《曹瞞傳》曰:時寒且旱,二百里無復水,軍又乏食,殺馬數千匹以爲糧,鑿地入三十餘丈乃得水。旣還,利問前諫者,衆莫知其故,人人皆懼。公皆厚賞之,曰:「孤前行,乘危以徼倖,雖得之,天所佐也,顧不可以爲常。諸君之諫,萬安之計,是以相賞,後勿難言之。」〉康即斬尚、熙及速僕丸等,傳其首。諸將或問:「公還而康斬送尚、熙,何也?」公曰:「彼素畏尚等,吾急之則并力,緩之則自相圖,其勢然也。」十一月至易水,代郡烏丸行單于普富盧、上郡烏丸行單于那樓將其名王來賀。 十三年春正月,公還鄴,作玄武池以肄舟師。〈肄,以四反。三蒼曰:「肄,習也。」〉漢罷三公官,置丞相、御史大夫。夏六月,以公爲丞相。〈《獻帝起居注》曰:使太常徐璆即授印綬。御史大夫不領中丞,置長史一人。《先賢行狀》曰:璆字孟平,廣陵人。少履清爽,立朝正色。歷任城、汝南、東海三郡,所在化行。被徵當還,爲袁術所劫。術僭號,欲授以上公之位,璆終不爲屈。術死後,璆得術璽,致之漢朝,拜衞尉太常;公爲丞相,以位讓璆焉。〉 秋七月,公南征劉表。八月,表卒,其子琮代,屯襄陽,劉備屯樊。九月,公到新野,琮遂降,備走夏口。公進軍江陵,下令荊州吏民,與之更始。乃論荊州服從之功,侯者十五人,以劉表大將文聘爲江夏太守,使統本兵,引用荊州名士韓嵩、鄧義等。〈衞恒《四體書勢序》曰:上谷王次仲善隷書,始爲楷法。至靈帝好書,世多能者。而師宜官爲最,甚矜其能,每書,輙削焚其札。梁鵠乃益爲版而飲之酒,候其醉而竊其札,鵠卒以攻書至選部尚書。於是公欲爲洛陽令,鵠以爲北部尉。鵠後依劉表。及荊州平,公募求鵠,鵠懼,自縛詣門,署軍假司馬,使在祕書,以勤書自効。公甞懸著帳中,及以釘壁玩之,謂勝宜官。鵠字孟皇,安定人。魏宮殿題署,皆鵠書也。皇甫謐《逸士傳》曰:汝南王儁,字子文,少爲范滂、許章所識,與南陽岑晊善。公之爲布衣,特愛儁;儁亦稱公有治世之具。及袁紹與弟術喪母,歸葬汝南,儁與公會之,會者三萬人。公於外密語儁曰:「天下將亂,爲亂魁者必此二人也。欲濟天下,爲百姓請命,不先誅此二子,亂今作矣。」儁曰:「如卿之言,濟天下者,舍卿復誰?」相對而笑。儁爲人外靜而內明,不應州郡三府之命。公車徵,不到,避地居武陵,歸儁者一百餘家。帝之都許,復徵爲尚書,又不就。劉表見紹彊,陰與紹通,儁謂表曰:「曹公,天下之雄也,必能興霸道,繼桓、文之功者也。今乃釋近而就遠,如有一朝之急,遙望漠北之救,不亦難乎!」表不從。儁年六十四,以壽終于武陵,公聞而哀傷。及平荊州,自臨江迎喪,改葬于江陵,表爲先賢也。〉益州牧劉璋始受徵役,遣兵給軍。十二月,孫權爲備攻合肥。公自江陵征備,至巴丘,遣張憙救合肥。權聞憙至,乃走。公至赤壁,與備戰,不利。於是大疫,吏士多死者,乃引軍還。備遂有荊州、江南諸郡。〈《山陽公載記》曰:公船艦爲備所燒,引軍從華容道步歸,遇泥濘,道不通,天又大風,悉使羸兵負草填之,騎乃得過。羸兵爲人馬所蹈藉,陷泥中,死者甚衆。軍旣得出,公大喜,諸將問之,公曰:「劉備,吾儔也。但得計少晚;向使早放火,吾徒無類矣。」備尋亦放火而無所及。孫盛異同評曰:案吳志,劉備先破公軍,然後權攻合肥,而此記云權先攻合肥,後有赤壁之事。二者不同,吳志爲是。〉 十四年春三月,軍至譙,作輕舟,治水軍。秋七月,自渦入淮,出肥水,軍合肥。辛未,令曰:「自頃已來,軍數征行,或遇疫氣,吏士死亡不歸,家室怨曠,百姓流離,而仁者豈樂之哉?不得已也。其令死者家無基業不能自存者,縣官勿絕廩,長吏存卹撫循,以稱吾意。」置揚州郡縣長吏,開芍陂屯田。十二月,軍還譙。 十五年春,下令曰:「自古受命及中興之君,曷甞不得賢人君子與之共治天下者乎!及其得賢也,曾不出閭巷,豈幸相遇哉?上之人不求之耳。今天下尚未定,此特求賢之急時也。『孟公綽爲趙、魏老則優,不可以爲滕、薛大夫』。若必廉士而後可用,則齊桓其何以霸世!今天下得無有被褐懷玉而釣於渭濵者乎?又得無盜嫂受金而未遇無知者乎?二三子其佐我明揚仄陋,唯才是舉,吾得而用之。」冬,作銅爵臺。〈《魏武故事》載公十二月己亥令曰:「孤始舉孝廉,年少,自以本非巖穴知名之士,恐爲海內人之所見凡愚,欲爲一郡守,好作政教,以建立名譽,使世士明知之;故在濟南,始除殘去穢,平心選舉,違迕諸常侍。以爲彊豪所忿,恐致家禍,故以病還。去官之後,年紀尚少,顧視同歲中,年有五十,未名爲老,內自圖之,從此却去二十年,待天下清,乃與同歲中始舉者等耳。故以四時歸鄉里,於譙東五十里築精舍,欲秋夏讀書,冬春射獵,求底下之地,欲以泥水自蔽,絕賔客往來之望,然不能得如意。後徵爲都尉,遷典軍校尉,意遂更欲爲國家討賊立功,欲望封侯作征西將軍,然後題墓道言『漢故征西將軍曹侯之墓』,此其志也。而遭值董卓之難,興舉義兵。是時合兵能多得耳,然常自損,不欲多之;所以然者,多兵意盛,與彊敵爭,儻更爲禍始。故汴水之戰數千,後還到揚州更募,亦復不過三千人,此其本志有限也。後領兖州,破降黃巾三十萬衆。又袁術僭號於九江,下皆稱臣,名門曰建號門,衣被皆爲天子之制,兩婦預爭爲皇后。志計已定,人有勸術使遂即帝位,露布天下,荅言『曹公尚在,未可也』。後孤討禽其四將,獲其人衆,遂使術窮亡解沮,發病而死。及至袁紹據河北,兵勢彊盛,孤自度勢,實不敵之,但計投死爲國,以義滅身,足垂於後。幸而破紹,梟其二子。又劉表自以爲宗室,包藏姧心,乍前乍却,以觀世事,據有當州,孤復定之,遂平天下。身爲宰相,人臣之貴已極,意望已過矣。今孤言此,若爲自大,欲人言盡,故無諱耳。設使國家無有孤,不知當幾人稱帝,幾人稱王。或者人見孤彊盛,又性不信天命之事,恐私心相評,言有不遜之志,妄相忖度,每用耿耿。齊桓、晉文所以垂稱至今日者,以其兵勢廣大,猶能奉事周室也。論語云『三分天下有其二,以服事殷,周之德可謂至德矣』,夫能以大事小也。昔樂毅走趙,趙王欲與之圖燕,樂毅伏而垂泣,對曰:『臣事昭王,猶事大王;臣若獲戾,放在他國,沒世然後已,不忍謀趙之徒隷,況燕後嗣乎!』胡亥之殺蒙恬也,恬曰:『自吾先人及至子孫,積信於秦三世矣;今臣將兵三十餘萬,其勢足以背叛,然自知必死而守義者,不敢辱先人之教以忘先王也。』孤每讀此二人書,未曾不愴然流涕也。孤祖父以至孤身,皆當親重之任,可謂見信者矣,以及子桓兄弟,過於三世矣。孤非徒對諸君說此,也常以語妻妾,皆令深知此意。孤謂之言:『顧我萬年之後,汝曹皆當出嫁,欲令傳道我心,使他人皆知之。』孤此言皆肝鬲之要也。所以勤勤懇懇敘心腹者,見周公有金縢之書以自明,恐人不信之故。然欲孤便爾委捐所典兵衆以還執事,歸就武平侯國,實不可也。何者?誠恐己離兵爲人所禍也。旣爲子孫計,又己敗則國家傾危,是以不得慕虛名而處實禍,此所不得爲也。前朝恩封三子爲侯,固辭不受,今更欲受之,非欲復以爲榮,欲以爲外援,爲萬安計。孤聞介推之避晉封。申胥之逃楚賞,未甞不捨書而歎,有以自省也。奉國威靈,仗鉞征伐,推弱以克彊,處小而禽大,意之所圖,動無違事,心之所慮,何向不濟,遂蕩平天下,不辱主命,可謂天助漢室,非人力也。然封兼四縣,食戶三萬,何德堪之!江湖未靜,不可讓位;至於邑土,可得而辭。今上還陽夏、柘、苦三縣戶二萬,但食武平萬戶,且以分損謗議,少減孤之責也。」〉 十六年春正月,〈《魏書》曰:庚辰,天子報:減戶五千,分所讓三縣萬五千封三子,植爲平原侯,據爲范陽侯,豹爲饒陽侯,食邑各五千戶。〉天子命公世子丕爲五官中郎將,置官屬,爲丞相副。太原商曜等以大陵叛,遣夏侯淵、徐晃圍破之。張魯據漢中,三月,遣鍾繇討之。公使淵等出河東與繇會。 是時關中諸將疑繇欲自襲,馬超遂與韓遂、楊秋、李堪、成宜等叛。遣曹仁討之。超等屯潼關,公勑諸將:「關西兵精悍,堅壁勿與戰。」秋七月,公西征,〈《魏書》曰:議者多言「關西兵彊,習長矛,非精選前鋒,則不可以當也」。公謂諸將曰:「戰在我,非在賊也。賊雖習長矛,將使不得以刺,諸君但觀之耳。」〉與超等夾關而軍。公急持之,而潛遣徐晃、朱靈等夜渡蒲阪津,據河西爲營。公自潼關北渡,未濟,超赴船急戰。校尉丁斐因放牛馬以餌賊,賊亂取牛馬,公乃得渡,〈《曹瞞傳》曰:公將過河,前隊適渡,超等奄至,公猶坐胡牀不起。張郃等見事急,共引公入船。河水急,北渡,流四五里,超等騎追射之,矢下如雨。諸將見軍敗,不知公所在,皆惶懼,至見,乃悲喜,或流涕。公大笑曰:「今日幾爲小賊所困乎!」〉循河爲甬道而南。賊退,拒渭口,公乃多設疑兵,潛以舟載兵入渭,爲浮橋,夜,分兵結營於渭南。賊夜攻營,伏兵擊破之。超等屯渭南,遣信求割河以西請和,公不許。九月,進軍渡渭。〈《曹瞞傳》曰:時公軍每渡渭,輒爲超騎所衝突,營不得立,地又多沙,不可築壘。婁子伯說公曰:「今天寒,可起沙爲城,以水灌之,可一夜而成。」公從之,乃多作縑囊以運水,夜渡兵作城,比明,城立,由是公軍盡得渡渭。或疑于時九月,水未應凍。臣松之案《魏書》:公軍八月至潼關,閏月北渡河,則其年閏八月也,至此容可大寒邪!〉超等數挑戰,又不許;固請割地,求送任子,公用賈詡計,偽許之。韓遂請與公相見,公與遂父同歲孝廉,又與遂同時儕輩,於是交馬語移時,不及軍事,但說京都舊故,拊手歡笑。旣罷,超等問遂:「公何言?」遂曰:「無所言也。」超等疑之。〈《魏書》曰:公後日復與遂等會語,諸將曰:「公與虜交語,不宜輕脫,可爲木行馬以爲防遏。」公然之。賊將見公,悉於馬上拜,秦、胡觀者,前後重沓,公笑謂賊曰:「爾欲觀曹公邪?亦猶人也,非有四目兩口,但多智耳!」胡前後大觀。又列鐵騎五千爲十重陣,精光耀日,賊益震懼。〉他日,公又與遂書,多所點竄,如遂改定者;超等愈疑遂。公乃與克日會戰,先以輕兵挑之,戰良久,乃縱虎騎夾擊,大破之,斬成宜、李堪等。遂、超等走涼州,楊秋奔安定,關中平。諸將或問公曰:「初,賊守潼關,渭北道缺,不從河東擊馮翊而反守潼關,引日而後北渡,何也?」公曰:「賊守潼關,若吾入河東,賊必引守諸津,則西河未可渡,吾故盛兵向潼關;賊悉衆南守,西河之備虛,故二將得擅取西河;然後引軍北渡,賊不能與吾爭西河者,以有二將之軍也。連車樹柵,爲甬道而南,〈臣松之案:漢高祖二年,與楚戰滎陽京、索之間,築甬道屬河以取敖倉粟。應劭曰:「恐敵鈔輜重,故築垣牆如街巷也。」今魏武不築垣牆,但連車樹柵以扞兩面。〉旣爲不可勝,且以示弱。渡渭爲堅壘,虜至不出,所以驕之也;故賊不爲營壘而求割地。吾順言許之,所以從其意,使自安而不爲備,因畜士卒之力,一旦擊之,所謂疾雷不及掩耳,兵之變化,固非一道也。」始,賊每一部到,公輒有喜色。賊破之後,諸將問其故。公荅曰:「關中長遠,若賊各依險阻,征之,不一二年不可定也。今皆來集,其衆雖多,莫相歸服,軍無適主,一舉可滅,爲功差易,吾是以喜。」 冬十月,軍自長安北征楊秋,圍安定。秋降,復其爵位,使留撫其民人。〈《魏略》曰:楊秋,黃初中遷討寇將軍,位特進,封臨涇侯,以壽終。〉十二月,自安定還,留夏侯淵屯長安。 十七年春正月,公還鄴。天子命公贊拜不名,入朝不趨,劔履上殿,如蕭何故事。馬超餘衆梁興等屯藍田,使夏侯淵擊平之。割河內之蕩陰、朝歌、林慮,東郡之衞國、頓丘、東武陽、發干,鉅鹿之廮陶、曲周、南和,廣平之任城,趙之襄國、邯鄲、易陽以益魏郡。 冬十月,公征孫權。 十八年春正月,進軍濡須口,攻破權江西營,獲權都督公孫陽,乃引軍還。詔書并十四州,復爲九州。夏四月,至鄴。 五月丙申,天子使御史大夫郗慮持節策命公爲魏公〈《續漢書》曰:慮字鴻豫,山陽高平人。少受業於鄭玄,建安初爲侍中。虞溥《江表傳》曰:獻帝甞特見慮及少府孔融,問融曰:「鴻豫何所優長?」融曰:「可與適道,未可與權。」慮舉笏曰:「融昔宰北海,政散民流,其權安在也!」遂與融互相長短,以至不睦。公以書和解之。慮從光祿勳遷爲大夫。〉曰: 朕以不德,少遭愍凶,越在西土,遷于唐、衞。當此之時,若綴旒然,〈《公羊傳》曰:「君若贅旒然。贅猶綴也。」何休云:「旒,旂旒也。以旒譬者,言爲下所執持東西也。」〉宗廟乏祀,社稷無位;羣凶覬覦,分裂諸夏,率土之民,朕無獲焉,即我高祖之命將墜于地。朕用夙興假寐,震悼于厥心,曰「惟祖惟父,股肱先正,〈文侯之命曰:「亦惟先正。」鄭玄云:「先正,先臣。謂公卿大夫也。」〉其孰能恤朕躬」?乃誘天衷,誕育丞相,保乂我皇家,弘濟于艱難,朕實賴之。今將授君典禮,其敬聽朕命。 昔者董卓初興國難,羣后釋位以謀王室,〈《左氏傳》曰:「諸侯釋位以間王政。」服虔曰:「言諸侯釋其私政而佐王室。」〉君則攝進,首啟戎行,此君之忠于本朝也。後及黃巾反易天常,侵我三州,延及平民,君又翦之,以寧東夏,此又君之功也。韓暹、楊奉專用威命,君則致討,克黜其難,遂遷許都,造我京畿,設官兆祀,不失舊物,天地鬼神於是獲乂,此又君之功也。袁術僭逆,肆於淮南,懾憚君靈,用丕顯謀,蘄陽之役,橋蕤授首,稜威南邁,術以隕潰,此又君之功也。迴戈東征,呂布就戮,乘轅將返,張楊殂斃,眭固伏罪,張繡稽服,此又君之功也。袁紹逆亂天常,謀危社稷,憑恃其衆,稱兵內侮,當此之時,王師寡弱,天下寒心,莫有固志,君執大節,精貫白日,奮其武怒,運其神策,致屆官渡,大殲醜類,〈詩曰:「致天之屆,于牧之野。」鄭玄云:「屆,極也。」鴻範曰:「鯀則殛死。」〉俾我國家拯於危墜,此又君之功也。濟師洪河,拓定四州,袁譚、高幹,咸梟其首,海盜奔迸,黑山順軌,此又君之功也。烏丸三種,崇亂二世,袁尚因之,逼據塞北,束馬縣車,一征而滅,此又君之功也。劉表背誕,不供貢職,王師首路,威風先逝,百城八郡,交臂屈膝,此又君之功也。馬超、成宜,同惡相濟,濵據河、潼,求逞所欲,殄之渭南,獻馘萬計,遂定邊境,撫和戎狄,此又君之功也。鮮卑、丁零,重譯而至,箄于、白屋,請吏率職,此又君之功也。君有定天下之功,重之以明德,班敘海內,宣美風俗,旁施勤教,恤慎刑獄,吏無苛政,民無懷慝;敦崇帝族,表繼絕世,舊德前功,罔不咸秩;雖伊尹格于皇天,周公光于四海,方之蔑如也。 朕聞先王並建明德,胙之以土,分之以民,崇其寵章,備其禮物,所以藩衞王室,左右厥世也。其在周成,管、蔡不靜,懲難念功,乃使邵康公賜齊太公履,東至于海,西至于河,南至于穆陵,北至于無棣,五侯九伯,實得征之,世祚太師,以表東海;爰及襄王,亦有楚人不供王職,又命晉文登爲侯伯,錫以二輅、虎賁、鈇鉞、秬鬯、弓矢,大啟南陽,世作盟主。故周室之不壞,繄二國是賴。今君稱丕顯德,明保朕躬,奉荅天命,導揚弘烈,緩爰九域,莫不率俾,〈盤庚曰:「綏爰有衆。」鄭玄曰:「爰,於也,安隱於其衆也。」君奭曰:「海隅出日,罔不率俾。」率,循也。俾,使也。四海之隅,日出所照,無不循度而可使也。〉功高于伊、周,而賞卑於齊、晉,朕甚恧焉。朕以眇眇之身,託于兆民之上,永思厥艱,若涉淵冰,非君攸濟,朕無任焉。今以冀州之河東、河內、魏郡、趙國、中山、常山、鉅鹿、安平、甘陵、平原凡十郡,封君爲魏公。錫君玄土,苴以白茅;爰契爾龜,用建冢社。昔在周室,畢公、毛公入爲卿佐,周、邵師保出爲二伯,外內之任,君實宜之,其以丞相領冀州牧如故。又加君九錫,其敬聽朕命。 以君經緯禮律,爲民軌儀,使安職業,無或遷志,是用錫君大輅、戎輅各一,玄牡二駟。君勸分務本,穡人昏作,〈盤庚曰:「墮農自安,不昏作勞。」鄭玄云:「昏,勉也。」〉粟帛滯積,大業惟興,是用錫君衮冕之服,赤舄副焉。君敦尚謙讓,俾民興行,少長有禮,上下咸和,是用錫君軒縣之樂,六佾之舞。君翼宣風化,爰發四方,遠人革面,華夏充實,是用錫君朱戶以居。君研其明哲,思帝所難,官才任賢,羣善必舉,是用錫君納陛以登。君秉國之鈞,正色處中,纖豪之惡,靡不抑退,是用錫君虎賁之士三百人。君糾虔天刑,章厥有罪,〈「糾虔天刑」語出《國語》,韋昭注曰:「糾,察也。虔,敬也。刑,法也。」〉犯關干紀,莫不誅殛,是用錫君鈇鉞各一。君龍驤虎視,旁眺八維,掩討逆節,折衝四海,是用錫君彤弓一,彤矢百,玈弓十,玈矢千。君以溫恭爲基,孝友爲德,明允篤誠,感于朕思,是用錫君秬鬯一卣,珪瓚副焉。魏國置丞相已下羣卿百寮,皆如漢初諸侯王之制。往欽哉,敬服朕命!簡恤爾衆,時亮庶功,用終爾顯德,對揚我高祖之休命!〈後漢尚書左丞潘勗之辭也。勗字元茂,陳留中牟人。《魏書》載公令曰:「夫受九錫,廣開土宇,周公其人也。漢之異姓八王者,與高祖俱起布衣,刱定王業,其功至大,吾何可比之?」前後三讓。於是中軍師王凌、謝亭侯荀攸、前軍師東武亭侯鍾繇、左軍師涼茂、右軍師毛玠、平虜將軍華鄉侯劉勳、建武將軍清苑亭侯劉若、伏波將軍高安侯夏侯惇、揚武將軍都亭侯王忠、奮威將軍樂鄉侯劉展、建忠將軍昌鄉亭侯鮮于輔、奮武將軍安國亭侯程昱、太中大夫都鄉侯賈詡、軍師祭酒千秋亭侯董昭、都亭侯薛洪、南鄉亭侯董蒙、關內侯王粲、傅巽、祭酒王選、袁奐、王朗、張承、任藩、杜襲、中護軍國明亭侯曹洪、中領軍萬歲亭侯韓浩、行驍騎將軍安平亭侯曹仁、領護軍將軍王圖、長史萬潛、謝奐、袁霸等勸進曰:「自古三代,胙臣以土,受命中興,封秩輔佐,皆所以襃功賞德,爲國藩衞也。徃者天下崩亂,羣凶豪起,顛越跋扈之險,不可忍言。明公奮身出命以徇其難,誅二袁篡盜之逆,滅黃巾賊亂之類,殄夷首逆,芟撥荒穢,沐浴霜露二十餘年,書契已來,未有若此功者。昔周公承文、武之迹,受已成之業,高枕墨筆,拱揖羣后,商、奄之勤,不過二年,呂望因三分有二之形,據八百諸侯之勢,暫把旄鉞,一時指麾,然皆大啟土宇,跨州兼國。周公八子,並爲侯伯,白牡騂剛,郊祀天地,典策備物,擬則王室,榮章寵盛如此之弘也。逮至漢興,佐命之臣,張耳、吳芮,其功至薄,亦連城開地,南面稱孤。此皆明君達主行之於上,賢臣聖宰受之於下,三代令典,漢帝明制。今比勞則周、呂逸,計功則張、吳微,論制則齊、魯重,言地則長沙多;然則魏國之封,九錫之榮,況於舊賞,猶懷玉而被褐也。且列侯諸將,幸攀龍驥,得竊微勞,佩紫懷黃,蓋以百數,亦將因此傳之萬世,而明公獨辭賞於上,將使其下懷不自安,上違聖朝歡心,下失冠帶至望,忘輔弼之大業,信匹夫之細行,攸等所大懼也。」於是公勑外爲章,但受魏郡。攸等復曰:「伏見魏國初封,聖朝發慮,稽謀羣寮,然後策命;而明公久違上指,不即大禮。今旣虔奉詔命,副順衆望,又欲辭多當少,讓九受一,是猶漢朝之賞不行,而攸等之請未許也。昔齊、魯之封,奄有東海,疆域井賦,四百萬家,基隆業廣,易以立功,故能成翼戴之勳,立一匡之績。今魏國雖有十郡之名,猶減於曲阜,計其戶數,不能參半,以藩衞王室,立垣樹屏,猶未足也。且聖上覽亡秦無輔之禍,懲曩日震蕩之艱,託建忠賢,廢墜是爲,願明公恭承帝命,無或拒違。」公乃受命。《魏略》載公上書謝曰:「臣蒙先帝厚恩,致位郎署,受性疲怠,意望畢足,非敢希望高位,庶幾顯達。會董卓作亂,義當死難,故敢奮身出命,摧鋒率衆,遂值千載之運,奉役目下。當二袁炎沸侵侮之際,陛下與臣寒心同憂,顧瞻京師,進受猛敵,常恐君臣俱陷虎口,誠不自意能全首領。賴祖宗靈祐,醜類夷滅,得使微臣竊名其間。陛下加恩,授以上相,封爵寵祿,豐大弘厚,生平之願,實不望也。口與心計,幸且待罪,保持列侯,遺付子孫,自託聖世,永無憂責。不意陛下乃發盛意,開國備錫,以貺愚臣,地比齊、魯,禮同藩王,非臣無功所宜膺據。歸情上聞,不蒙聽許,嚴詔切至,誠使臣心俯仰偪迫。伏自惟省,列在大臣,命制王室,身非己有,豈敢自私,遂其愚意,亦將黜退,令就初服。今奉疆土,備數藩翰,非敢遠期,慮有後世;至於父子相誓終身,灰軀盡命,報塞厚恩。天威在顏,悚懼受詔。」〉 秋七月,始建魏社稷宗廟。天子娉公三女爲貴人,少者待年於國。〈《獻帝起居注》曰:使使持節行太常大司農安陽亭侯王邑,齎璧、帛、玄纁、絹五萬匹之鄴納娉,介者五人,皆以議郎行大夫事,副介一人。〉九月,作金虎臺,鑿渠引漳水入白溝以通河。冬十月,分魏郡爲東西部,置都尉。十一月,初置尚書、侍中、六卿。〈《魏氏春秋》曰:以荀攸爲尚書令,涼茂爲僕射,毛玠、崔琰、常林、徐奕、何夔爲尚書,王粲、杜襲、衞覬、和洽爲侍中。〉 馬超在漢陽,復因羌、胡爲害,氐王千萬叛應超,屯興國。使夏侯淵討之。 十九年春正月,始耕籍田。南安趙衢、漢陽尹奉等討超,梟其妻子,超奔漢中。韓遂徙金城,入氐王千萬部,率羌、胡萬餘騎與夏侯淵戰,擊,大破之,遂走西平。淵與諸將攻興國,屠之。省安東、永陽郡。 安定太守毌丘興將之官,公戒之曰:「羌,胡欲與中國通,自當遣人來,慎勿遣人徃。善人難得,必將教羌、胡妄有所請求,因欲以自利;不從便爲失異俗意,從之則無益事。」興至,遣校尉范陵至羌中,陵果教羌,使自請爲屬國都尉。公曰:「吾預知當爾,非聖也,但更事多耳。」〈《獻帝起居注》曰:使行太常事大司農安陽亭侯王邑與宗正劉艾,皆持節,介者五人,齎束帛駟馬,及給事黃門侍郎、掖庭丞、中常侍二人,迎二貴人于魏公國。二月癸亥,又於魏公宗廟授二貴人印綬。甲子,詣魏公宮延秋門,迎貴人升車。魏遣郎中令、少府、博士、御府乘黃廄令、丞相掾屬侍送貴人。癸酉,二貴人至洧倉中,遣侍中丹將宂從虎賁前後駱驛往迎之。乙亥,二貴人入宮,御史大夫、中二千石將大夫、議郎會殿中,魏國二卿及侍中、中郎二人,與漢公卿並升殿宴。〉 三月,天子使魏公位在諸侯王上,改授金璽,赤紱、遠遊冠。〈《獻帝起居注》曰:使左中郎將楊宣、亭侯裴茂持節、印授之。〉 秋七月,公征孫權。〈《九州春秋》曰:參軍傅幹諫曰:「治天下之大具有二,文與武也;用武則先威,用文則先德,威德足以相濟,而後王道備矣。往者天下大亂,上下失序,明公用武攘之,十平其九。今未承王命者,吳與蜀也,吳有長江之險,蜀有崇山之阻,難以威服,易以德懷。愚以爲可且按甲寢兵,息軍養士,分土定封,論功行賞,若此則內外之心固,有功者勸,而天下知制矣。然後漸興學校,以導其善性而長其義節。公神武震於四海,若修文以濟之,則普天之下,無思不服矣。今舉十萬之衆,頓之長江之濵,若賊負固深藏,則士馬不能逞其能,奇變無所用其權,則大威有屈而敵心未能服矣。唯明公思虞舜舞干戚之義,全威養德,以道制勝。」公不從,軍遂無功。幹字彥材,北地人,終於丞相倉曹屬。有子曰玄。〉 初,隴西宋建自稱河首平漢王,聚衆枹罕,改元,置百官,三十餘年。遣夏侯淵自興國討之。冬十月,屠枹罕,斬建,涼州平。 公自合肥還。 十一月,漢皇后伏氏坐昔與父故屯騎校尉完書,云帝以董承被誅怨恨公,辭甚醜惡,發聞,后廢黜死,兄弟皆伏法。〈《曹瞞傳》曰:公遣華歆勒兵入宮收后,后閉戶匿壁中。歆壞戶發壁,牽后出。帝時與御史大夫郗慮坐,后被髮徒跣過,執帝手曰:「不能復相活邪?」帝曰:「我亦不自知命在何時也。」帝謂慮曰:「郗公,天下寧有是乎!」遂將后殺之,完及宗族死者數百人。〉 十二月,公至孟津。天子命公置旄頭,宮殿設鍾虡。乙未,令曰:「夫有行之士未必能進取,進取之士未必能有行也。陳平豈篤行,蘇秦豈守信邪?而陳平定漢業,蘇秦濟弱燕。由此言之,士有偏短,庸可廢乎!有司明思此義,則士無遺滯,官無廢業矣。」又曰:「夫刑,百姓之命也,而軍中典獄者或非其人,而任以三軍死生之事,吾甚懼之。其選明達法理者,使持典刑。」於是置理曹掾屬。 二十年春正月,天子立公中女爲皇后。省雲中、定襄、五原、朔方郡,郡置一縣領其民,合以爲新興郡。 三月,公西征張魯,至陳倉,將自武都入氐;氐人塞道,先遣張郃、朱靈等攻破之。夏四月,公自陳倉以出散關,至河池。氐王竇茂衆萬餘人,恃險不服,五月,公攻屠之。西平、金城諸將麴演、蔣石等共斬送韓遂首。〈《典略》曰:遂字文約,始與同郡邊章俱著名西州。章爲督軍從事。遂奉計詣京師,何進宿聞其名,特與相見,遂說進使誅諸閹人,進不從,乃求歸。會涼州宋揚、北宮玉等反,舉章、遂爲主,章尋病卒,遂爲揚等所劫,不得已,遂阻兵爲亂,積三十二年,至是乃死,年七十餘矣。劉艾《靈帝紀》曰:章,一名元。〉秋七月,公至陽平。張魯使弟衞與將楊昂等據陽平關,橫山築城十餘里,攻之不能拔,乃引軍還。賊見大軍退,其守備解散。公乃密遣解𢢼、高祚等乘險夜襲,大破之,斬其將楊任,進攻衞,衞等夜遁,魯潰奔巴中。公軍入南鄭,盡得魯府庫珍寶。〈《魏書》曰:軍自武都山行千里,升降險阻,軍人勞苦;公於是大饗,莫不忘其勞。〉巴、漢皆降。復漢寧郡爲漢中;分漢中之安陽、西城爲西城郡,置太守;分錫、上庸郡,置都尉。 八月,孫權圍合肥,張遼、李典擊破之。 九月,巴七姓夷王朴胡、賨邑侯杜濩舉巴夷、賨民來附,〈孫盛曰:朴音浮。濩音戶。〉於是分巴郡,以胡爲巴東太守,濩爲巴西太守,皆封列侯。天子命公承制封拜諸侯守相。〈孔衍《漢魏春秋》曰:天子以公典任于外,臨事之賞,或宜速疾,乃命公得承制封拜諸侯守相,詔曰:「夫軍之大事,在茲賞罰,勸善懲惡,宜不旋時,故《司馬法》曰『賞不逾日』者,欲民速覩爲善之利也。昔在中興,鄧禹入關,承制拜軍祭酒李文爲河東太守,來歙又承制拜高峻爲通路將軍,察其本傳,皆非先請,明臨事刻印也,斯則世祖神明,權達損益,蓋所用速示威懷而著鴻勳也。其春秋之義,大夫出疆,有專命之事,苟所以利社稷安國家而已。況君秉任二伯,師尹九有,實征夷夏,軍行蕃甸之外,失得在於斯須之間,停賞俟詔以滯世務,固非朕之所圖也。自今已後,臨事所甄,當加寵號者,其便刻印章假授,咸使忠義得相獎勵,勿有疑焉。」〉 冬十月,始置名號侯至五大夫,與舊列侯、關內侯凡六等,以賞軍功。〈《魏書》曰:置名號侯爵十八級,關中侯爵十七級,皆金印紫綬;又置關內外侯十六級,銅印龜紐墨綬;五大夫十五級,銅印環紐,亦墨綬,皆不食租,與舊列侯關內侯凡六等。臣松之以爲今之虛封蓋自此始。〉 十一月,魯自巴中將其餘衆降。封魯及五子皆爲列侯。劉備襲劉璋,取益州,遂據巴中;遣張郃擊之。 十二月,公自南鄭還,留夏侯淵屯漢中。〈是行也,侍中王粲作五言詩以美其事,曰:「從軍有苦樂,但問所從誰。所從神且武,安得久勞師?相公征關右,赫怒振天威,一舉滅獯虜,再舉服羌夷,西牧邊地賊,忽若俯拾遺。陳賞越山嶽,酒肉踰川坻,軍中多饒飫,人馬皆溢肥,徒行兼乘還,空出有餘資。拓土三千里,往反速如飛,歌舞入鄴城,所願獲無違。」〉 二十一年春二月,公還鄴。〈《魏書》曰:辛未,有司以太牢告至,策勳于廟,甲午始春祠,令曰:「議者以爲祠廟上殿當解履。吾受錫命,帶劔不解履上殿。今有事于廟而解履,是尊先公而替王命,敬父祖而簡君主,故吾不敢解履上殿也。又臨祭就洗,以手擬水而不盥。夫盥以絜爲敬,未聞擬向不盥之禮,且『祭神如神在』,故吾親受水而盥也。又降神禮訖,下階就幕而立,須奏樂畢竟,似若不愆,烈祖遲祭,不速訖也。故吾坐俟樂闋送神乃起也。受胙納神以授侍中,此爲敬恭不終實也,古者親執祭事,故吾親納于神,終抱而歸也。仲尼曰『雖違衆,吾從下』,誠哉斯言也。」〉三月壬寅,公親耕籍田。〈《魏書》曰:有司奏:「四時講武於農隙。漢承秦制,三時不講,唯十月都試車馬,幸長水南門,會五營士爲八陣進退,名曰乘之。今金革未偃,士民素習,自今已後,可無四時講武,但以立秋擇吉日大朝車騎,號曰治兵,上合禮名,下承漢制。」奏可。〉夏五月,天子進公爵爲魏王。〈《獻帝傳》載詔曰:「自古帝王,雖號稱相變,爵等不同,至乎襃崇元勳,建立功德,光啟氏姓,延于子孫,庶姓之與親,豈有殊焉。昔我聖祖受命,刱業肇基,造我區夏,鑒古今之制,通爵等之差,盡封山川以立藩屏,使異姓親戚,並列土地,據國而王,所以保乂天命,安固萬嗣。歷世承平,臣主無事。世祖中興而時有難易,是以曠年數百,無異姓諸侯王之位。朕以不德,繼序弘業,遭率土分崩,羣兇縱毒,自西徂東,辛苦卑約。當此之際,唯恐溺入于難,以羞先帝之聖德。賴皇天之靈,俾君秉義奮身,震迅神武,捍朕于艱難,獲保宗廟,華夏遺民,含氣之倫,莫不蒙焉。君勤過稷、禹,忠侔伊、周,而掩之以謙讓,守之以彌恭,是以往者初開魏國,錫君土宇,懼君之違命,慮君之固辭,故且懷志屈意,封君爲上公,欲以欽順高義,須俟勳績。韓遂、宋建,南結巴、蜀,羣逆合從,圖危社稷,君復命將,龍驤虎奮,梟其元首,屠其窟栖。曁至西征,陽平之役,親擐甲冑,深入險阻,芟夷蝥賊,殄其兇醜,盪定西陲,懸旌萬里,聲教遠振,寧我區宇。蓋唐、虞之盛,三后樹功,文、武之興,旦、奭作輔,二祖成業,英豪佐命;夫以聖哲之君,事爲己任,猶錫士班瑞以報功臣,豈有如朕寡德,仗君以濟,而賞典不豐,將何以荅神祇慰萬方哉?今進君爵爲魏王,使使持節行御史大夫、宗正劉艾奉策璽玄土之社,苴以白茅,金虎符第一至第五,竹使符第一至十。君其正王位,以丞相領冀州牧如故。其上魏公璽綬符冊。敬服朕命,簡恤爾衆,克綏庶績,以揚我祖宗之休命。」魏王上書三辭,詔三報不許。又手詔曰:「大聖以功德爲高美,以忠和爲典訓,故刱業垂名,使百世可希,行道制義,使力行可效,是以勳烈無窮,休光茂著。稷、契載元首之聦明,周、邵因文、武之智用,雖經營庶官,仰歎俯思,其對豈有若君者哉?朕惟古人之功,美之如彼,思君忠勤之績,茂之如此,是以每將鏤符析瑞,陳禮命冊,寤寐慨然,自忘守文之不德焉。今君重違朕命,固辭懇切,非所以稱朕心,而訓後世也。其抑志撙節,勿復固辭。」《四體書勢序》曰:梁鵠以公爲北部尉。《曹瞞傳》曰:爲尚書右丞司馬建公所舉。及公爲王,召建公到鄴,與歡飲,謂建公曰:「孤今日可復作尉否?」建公曰:「昔舉大王時,適可作尉耳。」王大笑。建公名防,司馬宣王之父。臣松之案《司馬彪序傳》,建公不爲右丞,疑此不然,而王隱《晉書》云趙王篡位,欲尊祖爲帝,博士馬平議稱京兆府君昔舉魏武帝爲北部尉,賊不犯界,如此則爲有徵。〉代郡烏丸行單于普富盧與其侯王來朝。天子命王女爲公主,食湯沐邑。秋七月,匈奴南單于呼廚泉將其名王來朝,待以客禮,遂留魏,使右賢王去卑監其國。八月,以大理鍾繇爲相國。〈《魏書》曰:始置奉常宗正官。〉 冬十月,治兵,〈《魏書》曰:王親執金鼔以令進退。〉遂征孫權,十一月至譙。 二十二年春正月,王軍居巢,二月,進軍屯江西郝谿。權在濡須口築城拒守,遂逼攻之,權退走。三月,王引軍還,留夏侯惇、曹仁、張遼等屯居巢。 夏四月,天子命王設天子旌旗,出入稱警蹕。五月,作泮宮。六月,以軍師華歆爲御史大夫。〈《魏書》曰:初置衞尉官。秋八月,令曰:「昔伊摯、傅說出於賤人,管仲,桓公賊也,皆用之以興。蕭何、曹參,縣吏也,韓信、陳平負汙辱之名,有見笑之恥,卒能成就王業,聲著千載。吳起貪將,殺妻自信,散金求官,母死不歸,然在魏,奏人不敢東向,在楚則三晉不敢南謀。今天下得無有至德之人放在民間,及果勇不顧,臨敵力戰;若文俗之吏,高才異質,或堪爲將守;負汙辱之名,見笑之行,或不仁不孝而有治國用兵之術:其各舉所知,勿有所遺。」〉冬十月,天子命王冕十有二旒,乘金根車,駕六馬,設五時副車,以五官中郎將丕爲魏太子。 劉備遣張飛、馬超、吳蘭等屯下辯;遣曹洪拒之。 二十三年春正月,漢太醫令吉本與少府耿紀、司直韋晃等反,攻許,燒丞相長史王必營,〈《魏武故事》載令曰:「領長史王必,是吾披荊棘時吏也。忠能勤事,心如鐵石,國之良吏也。蹉跌久未辟之,捨騏驥而弗乘,焉遑遑而更求哉?故教辟之,已署所宜,便以領長史統事如故。」〉必與潁川典農中郎將嚴匡討斬之。〈《三輔決錄注》曰:時有京兆金禕字德禕,自以世爲漢臣,自日磾討莽何羅,忠誠顯著,名節累葉。覩漢祚將移,謂可季興,乃喟然發憤,遂與耿紀、韋晃、吉本、本子邈、邈弟穆等結謀。紀字季行,少有美名,爲丞相掾,王甚敬異之,遷侍中,守少府。邈字文然,穆字思然,以禕慷慨有日磾之風,又與王必善,因以閒之,若殺必,欲挾天子以攻魏,南援劉備。時關羽彊盛,而王在鄴,留必典兵督許中事。文然等率雜人及家僮千餘人夜燒門攻必,禕遣人爲內應,射必中肩。必不知攻者爲誰,以素與禕善,走投禕,夜喚德禕,禕家不知是必,謂爲文然等,錯應曰:「王長史已死乎?卿曹事立矣!」必乃更他路奔。一曰:必欲投禕,其帳下督謂必曰:「今日事竟知誰門而投入乎?」扶必奔南城。會天明,必猶在,文然等衆散,故敗。後十餘日,必竟以創死。《獻帝春秋》曰:收紀、晃等,將斬之,紀呼魏王名曰:「恨吾不自生意,竟爲羣兒所誤耳!」晃頓首搏頰,以至於死。《山陽公載記》曰:王聞王必死,盛怒,召漢百官詣鄴,令救火者左,不救火者右。衆人以爲救火者必無罪,皆附左;王以爲「不救火者非助亂,救火乃實賊也」。皆殺之。〉 曹洪破吳蘭,斬其將任夔等。三月,張飛、馬超走漢中,陰平氐強端斬吳蘭,傳其首。 夏四月,代郡、上谷烏丸無臣氐等叛,遣鄢陵侯彰討破之。〈《魏書》載王令曰:「去冬天降疫癘,民有凋傷,軍興于外,墾田損少,吾甚憂之。其令吏民男女:女年七十已上無夫子,若年十二已下無父母兄弟,及目無所見,手不能作,足不能行,而無妻子父兄產業者,廩食終身。幼者至十二止,貧窮不能自贍者,隨口給貸。老耄須待養者,年九十已上,復不事,家一人。」〉 六月,令曰:「古之葬者,必居瘠薄之地。其規西門豹祠西原上爲壽陵,因高爲基,不封不樹。周禮冢人掌公墓之地,凡諸侯居左右以前,卿大夫居後,漢制亦謂之陪陵。其公卿大臣列將有功者,宜陪壽陵,其廣爲兆域,使足相容。」 秋七月,治兵,遂西征劉備,九月,至長安。 冬十月,宛守將侯音等反,執南陽太守,劫略吏民,保宛。初,曹仁討關羽,屯樊城,是月使仁圍宛。 二十四年春正月,仁屠宛,斬音。〈《曹瞞傳》曰:是時南陽間苦繇役,音於是執太守東里襃,與吏民共反,與關羽連和。南陽功曹宗子卿往說音曰:「足下順民心,舉大事,遠近莫不望風;然執郡將,逆而無益,何不遣之。吾與子共戮力,比曹公軍來,關羽兵亦至矣。」音從之,即釋遣太守。子卿因夜踰城亡出,遂與太守收餘民圍音,會曹仁軍至,共滅之。〉 夏侯淵與劉備戰於陽平,爲備所殺。三月,王自長安出斜谷,軍遮要以臨漢中,遂至陽平。備因險拒守。〈《九州春秋》曰:時王欲還,出令曰「雞肋」,官屬不知所謂。主簿楊脩便自嚴裝,人驚問脩:「何以知之?」脩曰:「夫雞肋,棄之如可惜,食之無所得,以比漢中,知王欲還也。」〉 夏五月,引軍還長安。 秋七月,以夫人卞氏爲王后。遣于禁助曹仁擊關羽。八月,漢水溢,灌禁軍,軍沒,羽獲禁,遂圍仁。使徐晃救之。 九月,相國鍾繇坐西曹掾魏諷反免。〈《世語》曰:諷字子京,沛人,有惑衆才,傾動鄴都,鍾繇由是辟焉。大軍未反,諷潛結徒黨,又與長樂衞尉陳禕謀襲鄴。未及期,禕懼,告之太子,誅諷,坐死者數十人。王昶家誡曰「濟陰魏諷」,而此云沛人,未詳。〉 冬十月,軍還洛陽。〈《曹瞞傳》曰:王更脩治北部尉廨,令過於舊。〉孫權遣使上書,以討關羽自效。王自洛陽南征羽,未至,晃攻羽,破之,羽走,仁圍解。王軍摩陂。〈《魏略》曰:孫權上書稱臣,稱說天命。王以權書示外曰:「是兒欲踞吾著爐火上邪!」侍中陳羣、尚書桓階奏曰:「漢自安帝已來,政去公室,國統數絕,至於今者,唯有名號,尺土一民,皆非漢有,期運久已盡,歷數久已終,非適今日也。是以桓、靈之閒,諸明圖緯者,皆言『漢行氣盡,黃家當興』。殿下應期,十分天下而有其九,以服事漢,羣生注望,遐邇怨歎,是故孫權在遠稱臣,此天人之應,異氣齊聲。臣愚以爲虞、夏不以謙辭,殷、周不吝誅放,畏天知命,無所與讓也。」《魏氏春秋》曰:夏侯惇謂王曰:「天下咸知漢祚已盡,異代方起。自古已來,能除民害爲百姓所歸者,即民主也。今殿下即戎三十餘年,功德著於黎庶,爲天下所依歸,應天順民,復何疑哉!」王曰:「『施於有政,是亦爲政』。若天命在吾,吾爲周文王矣。」《曹瞞傳》及《世語》並云桓階勸王正位,夏侯惇以爲宜先滅蜀,蜀亡則吳服,二方旣定,然後遵舜、禹之軌,王從之。及至王薨,惇追恨前言,發病卒。孫盛評曰:夏侯惇恥爲漢官,求受魏印,桓階方惇,有義直之節;考其傳記,《世語》爲妄矣。〉 二十五年春正月,至洛陽。權擊斬羽,傳其首。 庚子,王崩于洛陽,年六十六。〈《世語》曰:太祖自漢中至洛陽,起建始殿,伐濯龍祠而樹血出。《曹瞞傳》曰:王使工蘇越徙美棃,掘之,根傷盡出血。越白狀,王躬自視而惡之,以爲不祥,還遂寑疾。〉遺令曰:「天下尚未安定,未得遵古也。葬畢,皆除服。其將兵屯戍者,皆不得離屯部。有司各率乃職。斂以時服,無藏金玉珍寶。」謚曰武王。二月丁卯,葬高陵。 〈《魏書》曰:太祖自統御海內,芟夷羣醜,其行軍用師,大較依孫、吳之法,而因事設奇,譎敵制勝,變化如神。自作兵書十萬餘言,諸將征伐,皆以新書從事。臨事又手爲節度,從令者克捷,違教者負敗。與虜對陣,意思安閑,如不欲戰,然及至決機乘勝,氣勢盈溢,故每戰必克,軍無幸勝。知人善察,難眩以偽,拔于禁、樂進於行陣之間,取張遼、徐晃於亡虜之內,皆佐命立功,列爲名將;其餘拔出細微,登爲牧守者,不可勝數。是以刱造大業,文武並施,御軍三十餘年,手不捨書,晝則講武策,夜則思經傳,登高必賦,及造新詩,被之管絃,皆成樂章。才力絕人,手射飛鳥,躬禽猛獸,甞於南皮一日射雉獲六十三頭。及造作宮室,繕治器械,無不爲之法則,皆盡其意。雅性節儉,不好華麗,後宮衣不錦繡,侍御履不二采,帷帳屏風,壞則補納,茵蓐取溫,無有緣飾。攻城拔邑,得靡麗之物,則悉以賜有功,勳勞宜賞,不吝千金,無功望施,分豪不與,四方獻御,與羣下共之。常以送終之制,襲稱之數,繁而無益,俗又過之,故預自制終亡衣服,四篋而已。〉 〈《傅子》曰:太祖愍嫁娶之奢僭,公女適人,皆以皁帳,從婢不過十人。〉 〈張華《博物志》曰:漢世,安平崔瑗、瑗子寔、弘農張芝、芝弟昶並善草書,而太祖亞之。桓譚、蔡邕善音樂,馮翊山子道、王九真、郭凱等善圍棊,太祖皆與埒能。又好養性法,亦解方藥,招引方術之士,廬江左慈、譙郡華他、甘陵甘始、陽城郄儉無不畢至,又習啖野葛至一尺,亦得少多飲鴆酒。〉 〈《傅子》曰:漢末王公,多委王服,以幅巾爲雅,是以袁紹、崔豹之徒,雖爲將帥,皆著縑巾。魏太祖以天下凶荒,資財乏匱,擬古皮弁,裁縑帛以爲帢,合于簡易隨時之義,以色別其貴賤,于今施行,可謂軍容,非國容也。〉 〈《曹瞞傳》曰:太祖爲人佻易無威重,好音樂,倡優在側,常以日達夕。被服輕綃,身自佩小鞶囊,以盛手巾細物,時或冠帢帽以見賔客。每與人談論,戲弄言誦,盡無所隱,及歡恱大笑,至以頭沒柸案中,肴膳皆沾洿巾幘,其輕易如此。然持法峻刻,諸將有計畫勝出己者,隨以法誅之,及故人舊怨,亦皆無餘。其所刑殺,輒對之垂涕嗟痛之,終無所活。初,袁忠爲沛相,甞欲以法治太祖,沛國桓邵亦輕之,及在兖州,陳留邊讓言議頗侵太祖,太祖殺讓,族其家。忠、邵俱避難交州,太祖遣使就太守士燮盡族之。桓邵得出首,拜謝於庭中,太祖謂曰:「跪可解死邪!」遂殺之。甞出軍,行經麥中,令「士卒無敗麥,犯者死」。騎士皆下馬,付麥以相付,於是太祖馬騰入麥中,勑主簿議罪;主簿對以春秋之義,罰不加於尊。太祖曰:「制法而自犯之,何以帥下?然孤爲軍帥,不可自殺,請自刑。」因援劔割髮以置地。又有幸姬常從晝寢,枕之卧,告之曰:「須臾覺我。」姬見太祖卧安,未即寤,及自覺,棒殺之。常討賊,廩穀不足,私謂主者曰:「如何?」主者曰:「可以小斛以足之。」太祖曰:「善。」後軍中言太祖欺衆,太祖謂主者曰:「特當借君死以猒衆,不然事不解。」乃斬之,取首題徇曰:「行小斛,盜官穀,斬之軍門。」其酷虐變詐,皆此之類也。〉 評曰:漢末,天下大亂,雄豪並起,而袁紹虎眎四州,彊盛莫敵。太祖運籌演謀,鞭撻宇內,擥申、商之法術,該韓、白之奇策,官方授材,各因其器,矯情任筭,不念舊惡,終能總御皇機,克成洪業者,惟其明略最優也。抑可謂非常之人,超世之傑矣。
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上自西漢-太祖高皇帝-一八五 十八史略卷之二〓大風之歌ら歌うて曰く、大風起分雲飛揚。威加海內兮歸故〓。安得猛士はいちうしふかたう分守四方。と。沛中の子弟をして、之を習歌せしめ、沛を以て湯もいふ沐の邑となす。せききてうてうわうによいりよこううと始め、戚姫寵あり。趙王如意を生む。呂后、疏んぜらる。太子、じんじやくじやうおのれはい仁弱なり。上、如意が己に類するを以て、太子を廢して、之を立てぐんしんあらそみなうあたりよこうむと欲す。群臣、之を爭へども、皆得る能はず。呂后、人をして、ちやうりやうきやうえうわくけいこうぜつ張良を彊要して、畫計せしむ。良曰く、是れ口舌を以て爭ひ難きいたとうゑんこうきなり。忖ふに、上の致す能はざる所の者四人、曰く、東園公、綺里かくわうこうかくりせんせいまんぶことさらのが季、夏黃公、角里先生。上の士を嫚侮するを以て、故に、山中に逃かんたかれ匿れ、義として、漢の臣とならず。上、この四人を高しとす。今しよつくことばひくあんしやかたよろ太子をして、書を爲り、詞を卑うし、安車、固く請はしむれば、宜きたかくときしたがにふてうしく來るべし。至らば、以て客となし、時に從へて入朝し、上をしじよて之を見せしむれば則ち一助なりと。呂后、人をして、太子の書をまねうかついよい奉じて、之を招かしむ。四人至る。帝、布を擊つて還り、愈よ太子かのちちしゆたいしヒまいを易へむと欲す。後に置酒するや、太子侍す。良の招く所の四人のものしたがしゆびこうはくい7わんはなはるじやうあやし者從ふ。年皆八十餘、鬚眉皓白、衣冠甚だ偉なり。上、怪んで之をすゝこたおってせいめいいおどろ問ふ。四人前んで對へ各姓名を言ふ。上、大に驚いて曰く、吾、すうさいひとうよこしたが公を求むる數歲、公、我を避逃す。今、何に自つて、吾が兒に從つあそへいかかろよのゝして遊ぶや。四人曰く、陛下、士を輕んじ、善く罵る。臣等、義としにづかじんかうきようけいて、辱しめられず。今、太子の仁孝恭敬にして、士を愛し、天下、西漢-太祖高皇帝-一八七 十八史略卷之二天頸を延べて太子の爲に死を願はざる者なきを聞き、故に臣等來るのみ。上曰く、公を煩はさむ、幸に卒に調護せよと。四人出づ。上、戚夫人を召し、之を指示して曰く、我之を易へむと欲するも彼の四人の者、之を輔く。羽翼旣に成る、動かし難しと。蕭何、長安地陋く、上林中に空地の棄てられしもの多きを以て、評具護膚、明明人民をして、入つて田するを得せしめむを請ふ。上、大に怒つて、何上海市药物学院を廷尉に下して之を械繫す。數日にして之を赦す。く布を擊ちし時、)上流矢に中り、病甚し。呂后問ふ。陛下百歲の後蕭相國死せば誰か之に代るべき。曰く、曹參。其次は。べあ創曰く、いる下しりめたと王陵。然れども、少しく戇なり、陳平以て之を助くべし。平智餘あるも獨り任じ難し。周勃重厚にして文少し、大尉たらしむべし。14劉氏を安んずる者は、必ず勃ならむと。復た其次を問ふ。上曰く、其後は、亦た乃の知る所に非ざるなりと。上崩ず。長陵に葬る。漢王たりしこと四年、帝たりしこと八年、凡そ十二年。太子盈立つ、之を孝惠皇帝となす。評女呂人の歷朝一【孝惠皇帝】名は盈、母は呂太后。卽位の元年、ゐ呂后、趙王如意を者な·唯鴆殺し、戚夫人の手足を斷ち、眼を去り耳を燻べ、痞藥を飮ましめ、だ色手机取る〓中に居らしむ。命づけて人〓といひ、べき帝を召して之を觀せしむ。帝、驚いて大に哭し、因つて病み、歲餘起つ能はず。二年、蕭何卒す。齊相曹參、舍人をして、趣に裝を爲さしめ、西漢-太祖高皇帝-孝惠皇帝-一八九 十八史略卷之二一九〇吾、入つて相たらむといふ。使者果して參を召し、何に代つて相國となす。一に何の約束に遵ふ。百姓、之を歌うて曰く、蕭何爲相。較若畫一。曹參代之。守而勿失。載其〓淨。民以寧一と。五年。曹参卒す。六年。王陵、右丞相となり、陳平、左丞相となる。張良卒す。周勃、大尉となる。帝、在位七年にして崩ず。子なし、呂后、他人の子を取り、以て太子となし、是に至つて、卽位す。太后、朝に臨んで、制を稱す。元年。太后、諸呂を立てて王となさむことを議す。王陵曰く、高帝、白馬を刑して、盟つて曰く、劉氏に非ずして王たらば、天下之〓を擊てと。平、勃以て可となす。陵相を罷む。遂に呂氏を王とす。四年。太后、少帝を廢して、之を幽殺し、恆山王義を立てて帝となし、名を弘と改む。亦た佗人の子を名づけて、惠帝の子となせしものなり八年、太后崩ず。諸呂、亂を爲さむと欲す。時に、呂祿、北軍に將たり、呂產、南軍に將たり。大尉勃、兵を主る能はず。平、勃酈寄をして祿に說き、印を解き、兵を以て勃に授けしむ。勃、軍門右祖左祖し入り、令して曰く、呂氏の爲にする者は右袒せよ、劉氏の爲にす西漢-孝惠皇帝-九九 十八史略卷之二一九二る者は左袒せよと。軍中、皆、左袒す。朱虛侯劉章を召して、卒千こと〓餘人を與へ呂產を擊つて之を殺し、分部して悉く諸呂を捕へ少長となく、皆、之を斬る。諸大臣、代王恆を迎へ立つ王、西郷して讓るもの三たび、南〓して讓るもの再び、遂に位に卽く。子弘等を殺し、天下に赦す。之を太宗孝文皇帝となす。【孝文皇帝】名は恆、母は薄氏。龍.胸に據るを夢み、遂に帝を生む。尊んで皇太后となす。元年。陳平、左丞相たり、周勃、右丞相たり。時に千里の馬を獻ずる者あり、帝曰く、鸞旗前に在り、屬車後に評言天干干し千嵐んでくの帝在り。吉行には日に五十里、師行には日に三十里。朕千里の馬に名 にりにか、乘りて、獨り先づ、安くにか之かんと。是に於て、其馬を還し、道のれ之づ言眞か安に君是か先里の費を與ふ。而して、詔を下して曰く、朕、獻を受けざるなり。其れ、四方をして來り獻ずるなからしめよと。評帝、益す國家の事に明習す。朝して、右丞相勃に問うて曰く、と平文と周り示の格式陳B3 bo第十七天下一歲の決獄幾何ぞと。勃知らずと謝す。又問ふ、一歳の錢穀を所唆す3人生出入幾何ぞと。勃、又知らずと謝す。惶愧して汗出でて背を沾す。上、左丞相平に問ふ。平曰く、主者あり。若し決獄を問へば、廷尉を責めよ。錢穀を問へば、治粟内史を責めよ。上曰く、君の主る所のものは何事ぞ。平謝して曰く、陛下、臣を宰相に待たしむ。宰相西漢-孝文皇帝-一九三 十八史略卷之二一番は、上、天子を佐け、陰陽を理め、四時を順にし、下、萬物の宜し、きを遂げ、外、四夷を鎭撫し、内、百姓を親附し、卿大夫をして、大各其職を得しむと。童、善と稱す。勃大に慙ぢ、病を謝して免ず。;)い河南の守吳公、治平、天下第一たり。召して廷尉となす。吳公、賈誼洛陽の人賈誼を薦む。年二十餘。一歲中超遷して大中大夫となる。陳平卒す。二年。天下に今年の田租の半を賜ふ。三年。張釋之、廷尉となる上中渭橋を行く。一人あり、橋下に走る。乘輿の馬驚く。捕へて廷尉に屬す。釋之、奏す。蹕を犯すは、罰金に當すと。上怒る。釋之曰く、法、此の如し。更に之を重言の延張平價多様下くすれば、是れ、法、民に信ならず。廷尉は、天下の平なり。一たび傾かば、天下法を用ゆる、皆之が爲に輕重せむ。民安んぞ手足を措く所あらむやと。上、良や久しうして曰く、廷尉の當、是なりと。其後、人、高廟の玉環を盗む者あり。得たり。廷尉に下して、治せしむ。釋之、奏す、棄市に當すと。上、大に怒つて曰く、人、先帝に·の器を盜む、吾之を族に致さむと欲す。然るを、廷尉、法を以て、之を奏す。吾が宗廟に共奉する所以の意に非ざるなり。釋之曰く、宗廟の器を盜んで、之を族せば、假りに、愚民長陵一抔の土を取らば、何を以て、其れに法を加へむやと。帝、之を許す。六年。淮南の属王長謀反す。廢徒せられて死す。民、之を歌ふ者西漢-孝文皇帝-一九五 十八史略卷之二〓あり。曰く、一尺布尙可縫一斗粟尙可春。兄弟二人不相容。と。帝、聞いて、之を病み、後、其四子を封じて候となす。匈奴の冒頓死す。是より先、上、議して、賈誼を以て、公卿に位せむとす。大臣、多く之を短る。上、以て長沙王の大傅となし、梁王の大傅に徒る。せ、買誼上疏上疏して曰く、方今の事勢、爲に痛哭すべきもの一、爲に流涕すべきもの二、爲に長太息すべきもの六と。十年。帝の舅薄昭、漢の使者を殺す。童、誅するに忍びず。公卿群臣をして、往いて之を哭せしむ。昭.自殺す。十二年。民に今年の田租の半を賜ふ。ほ十三年。大倉の令淳于意。罪あり、刑に當す。少女緹榮上書して曰く、死者は復た生くべからず、刑者は復た屬ぐべからず。願はくは、沒入して官婢となり、以て父の刑を贖はむと。上其意を憐み、詔して、肉刑を除く。び此の歲、田の租稅を免ず。方士用ゐら十六年。方士新垣平、上大夫となる。ぞ後元年。平、詐を以て誅に伏す。六年。匈奴、上郡雲中に寇す。將軍周亞夫に詔して細柳に屯せしむ。劉禮は霸上に次し、徐厲は棘門に次し、以て胡に備ふ上、自ら軍を勞して、霸上及び棘門の軍に至る。直に馳せ入る。大將以下、西漢-孝文皇帝一九七 十八史略卷之二天は騎して。送迎す。旣にして、細柳に之く。入るを得ず。先驅曰く、評國家大臣天子、軍門に至らむとす。都尉曰く、軍中には、將軍の令を聞く、武人の典型天子の詔を聞かずと。上、乃ち使を使し、節を持し、將軍亞夫に詔し、乃ち言を傳へて、門を開かしむ。門士、車騎に請うて曰く、將軍約すらく、軍中驅馳するを得ずと。上、乃ち轡を按じて徐行し、營に至り、禮を成して去る。群臣、皆、驚く。上曰く、嗟乎、是れ眞の將軍なり。さきの霸上棘門の軍は、兒戯のみと。七年。帝崩ず。在位二十三年。宮室苑囿、車騎服御、增益する所なし。嘗て、露臺を作らむと欲し、匠を召して、之を計らしむ。直百金上曰く、中人十家の產なり、何ぞ臺を以て爲さむと。身に弋評君なり漢祚孝文は仁綿を衣、ご幸する所の愼夫人、衣、地を曳かず、朴を示して、天下のす文大せ四を克べの本る百し德蓋も年〓先となる。吳王、朝せず、賜ふに凡杖を以てす。張武、賂の金錢をの其とにし歸孝受く。更に賞賜を加へ、以て其心を愧ぢしむ。專ら德を以て民を化す。當時の公卿大夫、風流篤厚にして、人の過を言ふを恥ぢ、上下俗を成す。之を以て海內安寧、家給し、人足り、後世及ぶなし。霸陵に葬る。太子卽位す、之を孝景皇帝となす。【孝景皇帝】名は啓。卽位の元年、丞相申屠嘉、奏す。功は、高皇帝より大なるはなし、宜しく、帝者太祖の廟となすべし。德は、孝文皇帝より盛なるはなし、宜しく、帝者太宗の廟となすべしと。制して曰く、可と。西漢-孝文皇帝-孝景皇帝一九九 十八史略卷之二二〇〇p.帝、太子たりし時、量錯、家令たり。幸を得たり。太子の家、號して智囊といふ。帝卽位するや、錯、內史となり、數ば閒を請うて事を言ひ、輒ち聽かる。寵.九卿を傾け、法令、更定する所多し。初め、孝文の時、吳王溥の太子、入つて見え、皇太子に侍して飮評產品酒今をするを得たり。博して道を爭ひ、不恭なり。皇太子、博局を引いて時にはい軌を一にす之を提殺す。澳、疾と稱して朝せず。錯數ば吳の過、削るべきを言ふ。文帝、忍びず、帝位に卽くに及び、錯曰く、吳王、天下の亡부人を誘ひ、亂を作さむことを謀る。今、之を削るも亦た反し、削らわざはひせうざるも亦た反せむ。之を削れば、反すること亟。にして、禍小ならむ。削らざれば、反すること遲くして禍大ならむと。上、公卿列侯宗室をして、雜議せしむ。敢て難ずるなし。量錯、又言ふ、楚趙罪あり、一郡を削らむ。膠西姦あり、六郡を削らむと。吳の會稽豫章七國叛すを削るに及び書至る。吳王、遂に反す。膠西、膠東、菑川、濟南、楚、趙、皆、先に吳の約あり。是に至つて、同じく反す。齊王、先に諾して、後に悔ゆ。初め、文帝旦に崩ぜむとするや、太子を戒めて曰く、若し緩急あらば、周亞天、眞に將に任ずべしと。七國の反するに及び、亞夫を大尉に拜し、三十六將軍に將として、往いて吳楚を擊たしむ。量錯、え素より袁盎と善からず。盎言ふ、獨り、錯を斬つて諸侯の故地を復〓するあれば、兵、刄に血ぬることなくして罷むべしと。錯是に於西漢-孝景皇帝-二〇一 十八史略卷之二二〇二て、東市に腰斬せられ、父母妻子同產少長となく、皆棄市せらる。周亞父、大に吳楚を破り、諸反、皆平らぐ。亞父、後に相となり、是れ鞅評上の意に忤ひ、罷む。上曰く、第周いうもに父終し軍功し全か一亞條侯に封ぜらる。諫を以て、inて惜を而ずり哉せ鞅として、少主の臣に非ずと、卒に人に誣告せられ、獄に下り、血を嘔いて死す。漢興つてより、繁苛を掃除し、民と休息す。孝文、加ふるに、恭俗を儉を以てす。帝の業を遵ぐに至り、五六十載の間、風を移し、易ふ。黎民醇厚、國家無事。人給し、家足る。都鄙の廩庾皆滿ち、府庫は貲財を餘す。京師の錢、鉅萬を累ね、貫朽ちて、校すべから〓あひよす。太倉の粟陳陳相因り、充溢して、外に露積し、紅腐勝げて食ふべからず。吏たる者は、子孫を長じ、官に居る者は、以て姓號となひと〓〓じはす。故に倉氏、庫氏あり、人人自愛して、法を犯すを重かる。而〓も、罔疏にして民富み、或は驕溢に至り、兼〓の徒〓曲を武斷し、宗室有土公卿以下、奢侈度なし。物盛にして衰ふるは、素より、其變なり。帝崩ず、在位十七年。中元、後元あり。太子立つ、之を世宗孝武皇帝となす。【孝武皇帝】名は徹。卽位の元年、始めて、改元して建元といふ。年號の始年に號あるは、是に始まる。評董仲舒の賢良方正直言極諫の士を擧げて、親ら之を策問す。廣川の董仲明治三十七年料金免除の舒對して曰く、事は强勉に在るのみ。强勉して學問すれば、聞見博漢-孝景皇帝-孝武皇帝二〇三 十八史略卷之二二〇四くして、智益す明かに、强勉して道を行へば、德日に起つて大に功ありと。又曰く、人君は心を正し、以て朝廷を正し、朝廷を正し、以て百官を正し、百官を正し、以て萬民を正し、萬民を正し、以て四方を正し、四方正しくして、遠近正に一ならざるなく、而かも、邪氣の其間に奸するなし。之を以て、陰陽調ひ、風雨時あり、群生和し、萬民殖し、諸福の物之を致すべく、祥畢く至らざるなし、而して、王道畢る。陛下、行高くして恩厚く、知明かにして意美、民を愛して士を好む。然り而して、〓化立たず、萬民正しからず。例へば、琴瑟調はざる甚しき者は、必ず解いて之を更張し、乃ち鼓すべきなり。政を爲して行はれざること、甚しき者は、必ず變じて之を更化し、乃ち理むべきなり。漢天下を得てより以來、常に治を欲す。而して、今に至つて善く治すべからざるものは、當に更化すべくして、而かも更化せざればなりと。又曰く、士を養ふは、太學より大なるはなし。太學は賢士の關る所なり、〓化の本原なり。願はくは、太學を興し、明師を置き、以て天下の士を食はむと。又曰く、郡守縣令は、民の師帥、承流して、宣化せしむる所なり。宜しく、列侯郡守をして、各、其吏民の賢なる者を擇んで、歲毎に各三人を貢せしむべしと。又曰く、春秋は一統を大にするもの、天地の常經、古今の通誼なり。今、師毎に道を異にし、人每に論を異にす。臣愚、以爲へらく、諸の六藝の科、孔子の術に非ざるもの西漢-孝武皇帝-二〇五 十八史略卷之二二〇六は、皆其道を絕ち、然る後に、統紀一にすべく、法度明かにすべく、而して、民、從ふ所を知らむと。上、其對を善とし、以て江都の相となす。上使者を使し、安車蒲輪、束帛加壁を奉じて、魯の申公を迎へ正しむ。旣に至るや、治亂の事を問ふ公、年八十餘、對へて曰く、申公進言治を爲すは、多言に在らず、力行如何を顧みるのみと。三年闘越東〓を擊つ使を遣し、兵を發して、之を救ひ、其衆を江淮の間に徒す。だ帝、始めて微行をなし、上林苑を起す。五年五經博士を置くびん三つ六年。聞越、南越を擊つ。王恢等を遣して、之を擊たしむ。げんくわうぐわんねん元光元年始めて、郡國に令して、孝廉各一人を擧ぐ。上方士李少君十二年。方士李少君、上に見ゆ善く巧發奇中をなす。言ふ、竈を祠れば、物を致し、丹砂化して黄金となすべく、蓬萊の仙者、見るべし、之を見て以て封禪すれば、死せずと。上、之を信じ、始めて、;親ら竈を祠り、方士を遣し、海に入つて、蓬萊、安期生の屬を求めしむ。海上、燕齊、迂怪の士多く更る來つて神事を言ふ上大行王恢の議を用ゐ、恢等を遣し、兵に將として、馬邑の旁谷中に匿れ、聶壹をして匈奴を誘うて、塞に入れて之を擊たしむ。き單于、覺つて去る。是より、和親を絕ち、當路の塞を攻む。西漢-孝武皇帝-二〇七 十八史略卷之二二〇八唐蒙、上書して、南夷に通ぜむことを請ふ。蒙を中郞將に拜し、千人に將として、夜郞に入る。夜郞侯、約を聽く。以て犍爲郡となす。又、司馬相如を拜して中郞將となし、西夷に通ず。印筰、冉馳に郡縣を置く。西は沫若水に至り、南は特牁に至つて、微となす。吏民の、當世の務に明かに、先聖の術を習ふものを徴し、縣次とに續食して、計と偕にせしむ。菑川の公孫弘、對策して曰く、人生、上に和德あれば、百姓下に和合す。故に、心和すれば氣和し、氣和すれば形 和し、形 和すれば聲和し、聲和すれば天地の和應ずと策奏す。擢んでて第一となし、金馬門に待詔せしむ。齊人轅固、年九十餘、亦た賢良を以て徵さる。弘、目を仄てて之に事ふ。曲學阿世固曰く、公孫子、正學を務めよと。以て曲學以て世に阿るなきを云ふなり。六年。始めて、商車を算す。匈奴、上谷に寇す。將軍衞靑等を遣し、擊つて、之を卻く。元朔元年主父偃、上書して、匈奴を伐つを諫む。嚴安、亦た上書す。及び徐樂、亦た上書して云ふ、陛下、何を威してか成らざらぞむ、何を征してか服せざらむと。書奏す。上召し見て曰く、公等皆安くに在りしか、何ぞ相見るの晩きやと。皆、郞中に拜す。此の秋匈奴入寇し、二年、又入寇す。衞靑等を遣して、之を擊ち、遂西漢-孝武皇帝-二〇九 十八史略卷之二二一〇に河南の地を取り、朔方郡を置く。五年。公孫弘、丞相となり、平津候に封ぜらる。上、方に功業を興す。弘、是に於て、東閣を開いて、以て賢人を延く。匈奴、朔方に寇す。衞靑を遣し、六將軍を率ゐて之を擊たしむ。還る。靑を以て大將軍となす。匈奴、代に入る。六年。春、衞靑等六將軍を遣して、匈奴を擊たしむ。夏、再び遣るはくばうこうちやうけん元狩元年博望候張騫を遣して、西域に使し、滇國に通ず。二年。霍去病を以て、驃騎將軍となし、擊つて、匈奴を敗り、焉支祁連山を過ぎて還る。匈奴の渾邪王降る。五屬國を置いて、以て其衆を處らしむ。三年匈奴、右北平、定襄に入る。四年衞靑、霍去病を遣して、匈奴を擊たしむ。去病、狼居胥山を封じて還る元鼎二年方士文成將軍李少翁、詐を以て誅せらる。西域、始めて通ず。酒泉、武威の郡を置く五年。將軍路博德等を遣して、南越を擊たしむ。方士五利將軍欒大、詐を以て誅せらる。六年。西羌を討つて、之を平らぐ。西漢-孝武皇帝-二一一 十八史略卷之二二一二南越平らぐ、九郡を置く。E元封元年帝、長城を出でて、單于臺に上り、使を遣して、單于に〓げしめて曰く、南越王の頭、旣に漢の北關の下に懸れり。今、單于能く戰はば、天子自ら將として、邊に待たむと。帝、縦氏に如き、中嶽に登り、遂に東、海上を巡り、泰山に封じか、肅然に禪し、復た東北して、碣石に至つて還る。えきしうぐん一滇王降る、益州郡を置く。三年樓蘭を擊つて、其王を虜にし、車師を擊つて、之を敗る。朝鮮降る。樂浪、臨屯、玄菟、眞番の郡を置く。匈奴、邊に寇す。兵を遣して、朔方に屯す。五年。南、江漢を巡り、泰山に至り、封を增す。六年。昆明を擊つ太初元年帝、泰山に如く。十一月甲子朔旦、冬至、太初層をり正月を以て歲首となす。李廣利を遣して、大宛を伐つ。克たず。趙破奴を遣して、匈奴を擊たしむ。三年。匈奴大に入つて、塞外の城障を破る。大に兵を發し、李廣利に從つて、宛を伐たしむ。宛、降る。善馬數十匹を得たり。四年。匈奴の單于、使を使して來り獻ず。西漢-孝武皇帝-二一三 十八史略卷之二二一四蘇武天漢元年中郎將蘇武を遣はし匈奴に使せしむ。單于、之を降さむと欲し、大窖の中に置き、絕えて飮食せしめず、武、雪と旃毛とを齧んで、〓せて之を咽み、數日死せず、匈奴以て神となす。武を北海上、無人の處に徒し、抵を牧はしめ、曰く、抵乳せば、乃ち歸るを得せしめむと。二年李廣利を遣して、匈奴を擊たしむ。別將李陵、敗れて虜に降る上法制を以て下を御し、好んで、酷吏を尊用す。東方、盜賊、÷滋、起る。使者を遣し、繡衣を衣、斧を持して、督捕せしめ、二千石以下を斬るを得せしむ。四年。李廣利、匈奴を擊つて利あらず。太始三年帝、東瑯琊を巡り、海に浮んで還る四年。東巡して、明堂を祀り、封禪を修す。征和二年巫蠱の事作る。帝、甘泉に如き、江充を以て使者となし、巫蠱の獄を治めしむ。太子の宮を掘つて云ふ、木人を得ること尤も多しと。太子據、懼れ、客をして、佯つて使者たらしめ、充を母衞皇后に白し、收捕して、之を斬り、中厩の車を發し、射士を載せ、武庫の兵を出し、長樂宮の衞卒を發す。上、甘泉より來り、詔して、三輔の兵を發す。丞相劉屈釐、是に將たり。太子も亦制を矯めて兵を發し、丞相の軍に逢ひ、兵、合戰すること五日、死西漢-孝武皇帝-二一五 十八史略卷之二二二六くわうごうじさつたいしにこじけいする者數萬。皇后自殺す。太子亡げて、湖に至つて、自經して死かうべうしんらうでんせんしうはくとうをうす。後に、高廟の寢郞田千秋といふ者あり。上書して言ふ白頭翁しんをしろうむちうあり、臣に〓へて云ふ、子、父の兵を弄す、當に答つべしと。上、さとしんれい悟つて曰く、是れ、高廟の神靈、我に告ぐるなり、太子の罪なきをきらいばうしだいかなし望思之臺知ると。歸來望思の臺を廟に作る。天下、聞いて、之を悲む。けうどごげんしゆせんあだりくわうり三年。匈奴、五原、酒泉に寇す。李廣利を遣して、之を擊つ。廣くだ利匈奴に降る。はうししんじんこう四年。方士の神人を候する者を罷む。でんせんしうしやうふみんこうりんだいとんでんや輪臺之詔田千秋を以て相となし、富民侯に封ず。輪臺の屯田を議するを罷みことのりきわうくわいのめ詔を下して、深く旣往の悔を陳ぶ。こうげん二年2じやうさくきうみゆきやまひあつくわくくわうだいしばだいしやう孝た絕武を後九上、五柞宮に幸す。病篤し、霍光を以て、大司馬大將櫛皇どた亦且む其英大略主ゝのぐんゐせうたすかい軍となし、遺詔を受けて、太子を輔けしむ。上、在位五十四年、改風帝もり歷つる版沐に世 朝大の圖憐し放經のてのれ冠るく廣げんけんげんげんさくげんしゆげんてい元するもの十有一。曰く、建元、元光、元朔、元狩、元鼎、元封、ゆうざいたいりやくぶんけいほう太初、天漢、太始、征和、後元。上、雄材大略、文景豐富の後を受きうきよくかうていへいじやううれひのこせいじやうこうけ、武事を窮極す。嘗て謂ふ、高帝、平城の憂を遺す、齊の襄公訓鍊あだえしばしけうどせいかん九世の讐を復するが如くならむを思ふと。數ば匈奴を征し、漢の兵を世ず情恣故·ずりのて察て縱端漢せ下自せい3のがばくなんわうていうひら勢を盡す。匈奴、遠く遁れ、幕南に王庭なし。地を斥き、郡縣を立け運却じゆかうじやうせいゐきせいなんいてうせん啓衰て、受降城を置く西域に通じ、西南夷に通じ、東朝鮮を擊ち、えつきづうぐんりよとしごと內は土木どことじやうふん南粤を伐ち、軍旅歲毎に起る。を事とし、上苑を築いて南しよくはくれうだいしようろどうばん山に屬し、柏梁臺を建て、承露銅盤を作る、高さ二十丈、大さ七西漢-孝武皇帝-二一七 十八史略卷之二二一八ゐぜんにんしやうはうしこうそんけいろうきよ圍、上に仙人掌あり。方士公孫卿、神仙は樓居を好むと言ひしを以ひれんけいくわんつうてんけいだいしゆざんけんしやうきうて、蜚廉桂館、通天莖臺を作り、首山の宮を作り、建章宮を作るほうかくこけんたいえきちぜんだいほうらいはう千門萬戶。東は鳳閣、西は虎圈、北は太液池。中に漸臺、蓬萊、方ぎよくだうしんめいだい丈?えいしうれうへきもんめいくわうきう瀛洲、壺梁あり。南は玉堂、壁門、神明臺を立つ。明光宮を作しびきはしばしじゆんかうししたつとほうぜんしうこくる皆、修靡を極む數ば巡幸して、祠祀を崇び封禪を修す。國ないきふしやくきふうろくひへいはくきんつくさうこうやうこうきん內給せず、武功の爵級を賣り、鹿皮幣白金を造る。桑弘羊、孔僅のときんゆへいじゆんはふつくおこたすえんくわんおしう徒、均輸平準法を作り、利を興し、以て費を佐く。鹽官を置き、舟しやさんびんせんせうぜんたうおこりんだい車を算し、緡錢を造る。天下、蕭然たり。末年、盜起る輪臺の一せうなかかんはとしんじようしやう詔微つせば、漢幾んど秦たるを免れず。用ゆる所の丞相惟だでんふんもつばじやうけいぢよ蚜に謂つてり田蚡のみ、稍や專らにす。上、嘗て、曰く、卿吏を除っする、盡くるや未だしや、吾も亦た吏を除せむと欲すと。後は皆位みこうそんこうちうに充つるのみ。公孫弘の後、國家多事、丞相、しきりに、誅を以てこうそんがていきうあ、死す。公孫賀、相に拜せられ、涕泣して、肯て拜せざるに至る、亦こくりちやうたうてううとしうぎしようわうおんじよとた罪を以て死す。酷吏、張湯、趙禹、杜周、義縱、王溫舒の徒、皆けいはふしゆんようたうら嘗て刑法を峻用す。然れども、湯等、罪あれば亦た貸さざるなり。ぼくしきげいくわんぞくきふあんげん汲點嚴を以其閒、ト式兒寬の屬、亦た長者を以て用ゐらる。汲黯、獨り嚴をて憚らるはゞかせつかんしゆせいじやう以て憚らる。切諌して內に留まるを得ず、東海の守となり、〓淨をかふないぐわけい好み、閤內に臥して出でず、然かも、郡中大に治まる。入つて九卿ぶんがくあんとなる。上、方に文學を招く。嘗て曰く、吾、云々せむと欲す。黯いはたよくじんぎほどこいかんたうぐう曰く、陛下、内、多欲にして、外、仁義を施す、奈何ぞ唐虞の治に西漢-孝武皇帝-二一九 十八史略卷之二〓三〇效はむと欲するかと。上、怒つて朝を罷む。曰く、甚しい哉、汲黯の態なるやと。他日、又曰く、古しへ社稷の臣あり。黯之に近しと。淮南王安、反を謀る。曰く、漢廷の大臣、獨り、汲黯、直諫を好む、節を守り、義に死せむ。丞相弘の如きは、之を說くこと、蒙を發くが如きのみと。黯嘗て、淮陽の守に拜せらる。曰く、臣病む、郡事に任ずる能はず。願はくは郞中となり、禁闔に出入し、過 を補ひ、遺ちたるを拾はむ。上曰く、君、淮陽を薄しとするか。吾、今、君を召す。おもふに、淮陽の吏民、相得ず、惟だ君の重きを得て、臥して之を治めよと。淮陽に至り、十歲、竟に卒す。黯甚だ上に重んぜらる大將軍衞靑、貴と雖も、上、或は厠に踞して之を見る。黯の如きは冠せざれば見ざるなり。上、天下材智の士、吾俊異の者を招選して、之を寵用す。莊助、朱買臣、丘、壽王、司馬ばいくわうしうぐんら相如、東方朔、枚皐、終軍等、左右に在り。相如、特に詞賦を以て幸を得たり。朔皐は、持論を根とせず、該諧を好む。上、俳優を以てま、之を畜ふ。朔嘗て、上の前の侏儒に語る。以爲へらく、上之を殺さむと欲すと。侏儒、泣いて命を請ふ。上、朔に問ふ。朔曰く、侏儒飽いて死なむと欲す、臣朔饑ゑて死なむと欲すと。伏日に肉を賜ふこと晏し。朔先づ肉を斫つて持して歸る。上、召して問ひ、自ら責めしむ。朔曰く、賜を受くるに詔を待たず、何ぞ無禮なるや。劍を拔いて、肉を斫る、何ぞ壯なるや。之を斫つて多からず、何ぞ西漢-孝武皇帝- 十八史略卷之二さいくんおくじんれん朔、亦廉なるや。歸つて細君に遣る、何ぞ仁なるやと。然れども、ちよくかんりせうくんしんせんた時に直諫して補益する所あり。李少君より以來、神仙を求めて已ぶんせいちうりいた上まず、文成誅せられて、五利至る。五利、文成を以て言となす。はかんくら曰く、文成、馬肝を食うて死するのみと、五利、又誅せらるるに及こうそんけいらもつとちやうしんまつねんすなはさとてんかび、公孫卿等、尤も聽信せらる末年、帝、乃ち悟つて曰く、天下せついくふあえうはうやや病評天下豈仙豈に仙人あらむや、盡く妖妄のみ、食を節し、藥を服せば、人あらんやかんおこけいていけうしよえのぞ少かるべきのみと。漢興つて、惠帝、旣に挾書の禁を除き、文帝、いうがくひろじゆがくつひと〓〓さかん旣に遊學の路を廣むと雖も、然れども、儒學、終に未だ盡く盛なとうちうじよこうそんこうしゆんじうげいらず。帝の世に至つて、董仲舒、公孫弘、皆、春秋を以て進み、兒けいじゆつりかざまたこうあんこくらくわん六寛.亦た經術を以て吏事を飾る。後、又孔安國等、出づるあり。けいへうしやうじつていはじしばしずゐしやう經を表章すること、はくりんしゆがんしはうはうてい實に帝より始まる。がくしやうつく數ば瑞祥を得たり。かうべう白麟、芝房、すぶんしやう朱鴈、寶鼎、皆、樂章を爲り、之を郊廟に薦む文章も、亦だいぶじゆた帝の世に至つて始めて盛なり。ほうれうはふむ人以て三代の風ありとなす。かうせうくわうてい帝、壽七十にして崩ず。茂陵に葬る。太子立つ、之を孝昭皇帝となす。ふつれううよく六じんてうしはら【孝昭皇帝】名は弗陵、母は釣弋夫人趙氏、うま娠んで十四月にして生ぶていなげうぼもん武帝、さうだいる。たち其門に命づけて、堯母門といふ。年七歲、體壯大にぐんしん多知なり。武帝、たくわくくわうして、ちうこうたいじにん之を立てむと欲す。群臣を察するに、唯だ霍光忠厚くわうもんしうこうせいわう霍光、忠厚、大事に任ずべし。お黃門をして、周公、成王を負う評武帝鈎弋てうゑがくわうたまて、諸侯に朝せしむるを畫いて、こうよくふじんけん以て光に賜はしむ。鈎七夫人を譴理賜夫たら人に辯死非一をせきたまいにこくかみだゆゑん死を賜うて曰く、しゆせう責し、はゝさう古しへ、國家の亂るる所以、主少、母壯に西漢-孝武皇帝-孝昭皇帝-二二三 二二四十八史略卷之二遂に卽驕淫自ら恣にするに由るなりと。明年、武帝崩ず。人之あ然情をるれして、ずはに之でに殺がど非す故も反を謀る。赦して治位す。燕王旦、長にして立つを得ざるを以て、せず。黨與誅に伏す。野始元六年、蘇武、匈奴より還る。武、初め、北海の上に徒り、ら李陵、武臥起、漢の節を持す。鼠を掘り、草實を去へて、之を食ふ。に謂つて曰く、人生は朝露の如し、何ぞ自ら苦むこと此の如きと。亦た屢ば武に降を陵、衞律と與に匈奴に降つて、皆、富貴。律も、す、匈奴、詭つて、武、勸む。終に肯んぜず。漢の使者、匈奴に至る。旣に死したりといふ。漢使、之を知り、言ふ、天子、上林中に射て匈奴、膓を得たり、足に帛書あり、云ふ、武、大澤の中に在りと。か.隱す能はず、乃ち武をして還らしむ。武、匈奴に留まること十九年、しゆはつこと〓〓初め强壯を以て出で、還るに及びて、須髮盡く白し。拜して典屬ミ國となす。左將軍上官桀の子安、電光の婿たり。女を生む。立ちて皇后となる。桀と安と、自ら后の祖父たるを以て、乃ち光が外祖を以て朝事を專制するに若はず。桀と光と權を爭ふ。時に鄂國蓋長公主、愛する所の丁外人の爲に封侯を求め、許されず、光を怨む。燕王旦、自ら帝の兄を以て、常に怨望す。御史大夫桑弘羊、子弟の爲、に官を求めしが得ず、亦た怨望す。是に於て、皆、旦と謀を通じ、詐つて、人をして、旦の爲に上書せしむ。言ふ。光出でて郞羽林を西漢ー孝昭皇帝ー二三五 十八史略卷之二三六都肆し、道上に蹕と稱し、擅 に莫府の校尉を調益し、權を專にして、自ら恣にす。疑ふらくは、非常あらむと。光の出沐の日を候うて之を奏し、桀中より其事を下し、弘羊、當に大臣と共に執つあ、て光を退かしめんと欲す。書奏す。帝、肯て下さず。明旦、光評明治三十七年四月二日發行霍名光之を聞き、畫室中に止まつて入らず。上問ふ、大將軍、安くに在然燕王、其罪を告ぐるを以て、敢て入らずと。詔し成むふぞらのれる桀曰く、の得完何あ帝て、大將軍を召す。光入り、冠を免いで、頓首して謝す。上曰く、將軍、廣明に之いて、郞を都するは、屬のみ。校尉を調して以來、以王未だ十日なる能はず。燕王、何を以て之を知るを得む。且つ將軍、正式見る公とかつ所に以如非を爲せば、尉校を須ゐずと。この時、元鳳元年、帝、年十四。尙し)昭帝年僅か書、左右、皆驚く。而して、上書せし者、果して亡ぐ。之を捕ふる十ばく父若のをに克な皇し明鑑しら帝在あ別てにる邪四上に白す、忠こと甚だ急桀等懼れ、小事なり、遂ぐるに足らずと。しの位りす去、聽かず。後に、桀の黨、光を譖する者あり。上、輙ち怒つて曰せた祚め如乃く大將軍は忠臣、先帝の屬する所、以て朕の身を輔く、敢て毀るく漢りり中し興必主者あれば、之を坐せむと。是より、敢て復た言ふなし。桀等、謀り長公主をして、置酒して、光を請はしめ、兵を伏せて、之を格殺し、因つて、帝を廢して旦を立てむと欲す。安、又謀つて、旦を誘うて至らしめて、之を誅し、帝を廢して、桀を立てむとす。會ま、其謀を知る者あり、以聞す。桀.安、弘羊等を捕へ宗族を〓せミて、盡く之を誅す。蓋主旦と皆自殺す。西漢-孝昭皇帝-二二七 十八史略卷之二元四年、傅介子、西域に使し、樓蘭主を誘うて、之を刺殺し、傳を馳せて、闕に詣る。其匈奴の爲に反閒するを以てなり。元平元年帝、二十一にして崩ず。在位十四年。元を改むる三。曰く、始元、元鳳、元平。電光、政を爲し、民と休息し、天下無事。昌邑王賀は、哀王博の子、武帝の孫なり。光、賀を迎へて、入つて位に卽かしめ、皇后を尊んで皇太后となす。賀、淫戯度なし。光、奏して、之を廢し、武帝の會孫を迎立す、之を中宗孝宣皇帝となす。【孝宣皇帝】初名は病己。後改めて詢と名づく。武帝の曾孫なり。初め、戾太子據、史良娣を納れて、史皇孫進を生み、進病己を生む。數月にして、巫蠱の事に遭ひ、皆、獄に繫がる。氣を望む者言こと〓〓ふ長安獄中に天子の氣ありと武帝、使を遣し、盡く獄中の人を殺さしむ。丙吉、時に獄を治す。拒んで納れず。曰く、佗人の無辜も尙ほ不可なり。況んや、皇曾孫をやと。使者還つて報ず。武帝曰く、天なりと。長ずるに及びて、高材にして學を好み、亦た游俠を得失を知る。喜び、具さに間里の姦邪、吏治の昭帝の元鳳中、泰山に大石あり、自ら起立す。上林に僵樹あり、復た起つ。蠶其葉を食うて曰く、公孫病己、立たむと。賀の廢せらるるに及び、病己年十八。光等奏す、病己、躬、節儉慈仁にして、人を愛す、以て孝昭の後を嗣ぐべしと。迎へ入れて位に卽かしむ。旣に立つて六年、霍光西漢-孝宣皇帝-二二九 十八史略卷之二二三〇卒す。始めて政を親らす。評酸更地節三年路溫舒、上書して言ふ、秦に十失あり。其一、尙ほ存を蹂躙す人 /治獄の吏、inミの弊古る今易す。是なり。俗語に曰く、地を畫して獄となすも、入ららず恐ベミき哉ざらむを議し、木に刻して吏となすも、對せざらむを期すと。是れ悲痛の辭なり。願はくは、法制を省いて、刑罪を寛にせよ、則ち太ハ平興すべしと。上、爲に廷尉平を置き獄刑號して平となす。膠東の相王成、勞來怠らず。治に異績あり。爵、關內侯を賜ふ。魏相、丞相となり、丙吉、御史太夫となる。;四年。霍氏、謀反し、誅に伏す。其族を夷し、告ぐる者、皆、列侯に封ぜらる。初め、霍氏奢縱なり。茂陵の人徐福上疏して言ふ、宜しく、時を以て、抑制して、亡に至らしむる無かれと。書三たび 評ふ直る徐 明る所福しのの上說曲疏上る、聽かず。是に至り、人徐生の爲に上書して曰く、客、主味突す人に過るあり。其竈の直突にして、傍に積薪あるを見、主人に謂ふ、更めて、曲突となし、速に其新を徒せと。主人、應ぜず。俄に失火まあり。〓里共に之を救ひ、幸にして、息むを得たり。牛を殺し、酒を置いて、其〓人に謝す。人主人に謂つて曰く、さきに客の言を聽かしめば、牛酒を費さず、終に火患なからむと。今、功を論じて賞するに、曲突にして薪を徒せとする者には恩澤なく、頭を焦し額をさ爛す者を上客となすかと。上乃ち、福に帛を賜ひ、以て郞となす。帝の初めて立つて、高廟に謁するや、霍光、驂乘す。上、之を嚴西漢-孝宣皇帝-二三一 十八史略卷之二三憚して、芒刺の背に在るが如し。後に張安世、光に代つて驂乘するや、上、從容肆體、甚だ安近す。故に俗に傳ふ、霍氏の禍は驂乘に萌すと。たいしゆ〓〓いふ北海の太守朱邑、治行第一を以て、入つて、大司農となる。渤海の太守襲遂、入つて、水衡都尉となる。是より先、渤海歲饑ゑ、盜評の說用意周龔遂治邊起る。遂を選んで、太守となす。召し見て問ふ、何を以て、盜を治到といふ可むと。遂、對へて曰く、海濱遐遠、聖化に活はず。其民飢寒、然も吏恤まず。陛下の赤子をして、兵を潰池の中に盜弄せしむるのみ今、臣をして之に勝たしめむと欲するか將た之を安んぜしむるか。上曰く、賢良を選用す。素より、之を安んぜむと欲す。遂曰く、亂民を治むるは、亂繩を治むるが如し。急にすべからざるなり。願はくは、臣を拘するに文法を以てする勿れ、便宜を得て事に從はむと。上、許す。傳に乘じて、渤海の界に至るや、郡兵を發して迎ふ。遂、皆遣し還し、書を移して、捕を罷め、諸の田器を持する者を良民となし、兵を持する者を盜となす。遂、單車にして府に至る。盜聞いて、卽時に解散す。民、刀劍を持する者あれば、劍を賣つて牛を買ひ、刀を賣つて犢を買はしむ。曰く、何すれぞ。牛を帶び犢を佩ぶるやと。勞來巡行す。郡中、皆、蓄積あり。獄訟止息す。是に至り、召されて入る。評宣帝の時け、てう良吏輩出す元康元年京兆の尹趙廣漢を殺す。初め、廣漢、頴川の太守とな西漢-孝宣皇帝-二三三 十八史略卷之二三四廣漢は其一る。潁川の俗、豪傑相朋黨す。廣漢、飾項筩を爲り、吏民の投書人なりを受け、相告評せしむ。姦黨散落し、盜賊發するを得ず。之に由り、入つて、京兆の尹となる。尤も善く鉤距を爲し以て其情を得。さ閭里銖兩の奸も皆知る。姦を發し、伏を摘する。神の如し。京兆、政、〓し。長老傳ふ。漢興つてより、京兆を治むる者、能く及ぶなしと。是に至つて、人、上書して言ふ、廣漢、私怨を以て、人を論殺すと。廷尉に下す。吏民、闕を守つて、號泣する者數萬人。竟に坐して要斬せらる。廣漢、廉明にして、豪强を威制し、小民職を得たり。百姓追思して之を歌ふ。す尹翁歸を以て、右扶風となす。翁歸、初め、東海の太守となり、法過ぎて、廷尉于定國に辭す。定國、邑子を託せむと欲す。語ることあ、終日竟に敢て見せしめず。曰く、是れ賢將なり。汝、事に任へざるなり又子すに私を以てすべからずと。治郡の高第を以て、遂に入つて治す。常に三輔の最となる。評魏相名言二年。上匈奴の衰弱に因り、兵を出して、其右地を擊ち、復た義兵、應兵、忿兵、貪兵驕兵の別、西域を擾さざらしめむと欲す。魏相、諫めて曰く、亂を救ひ暴をすな三り思誅する、之を義兵といふ。兵義なるものは王たり。敵己に加へ、已むを得ずして起つもの、之を應兵といふ兵應ずるものは勝つ。小故を爭ひ恨み、憤怒に忍びざるもの、之を忿兵といふ。兵忿るものは敗る。人の土地貨寶を利するもの、之を貪兵といふ兵貪るも西漢-孝宣皇帝-二三五 十八史略卷之二二三六たのしゆうほこるしのは破る。國家の大を恃み、人民の衆を矜つて、威を敵に見めさむけうへいへいおごつつけうどんんと欲するもの、之を驕兵といふ。兵驕るものは滅す。匈奴、未だ邊きやうをかだしんぐ境を犯せしことあらず。今、兵を興して其地に入らむと欲す。臣愚にして此兵、何の名たるを知らざるなり。今年、計るに、子弟、父ぜうへんさ兄を殺し、妻、夫を殺せし者、二百二十二人。是れ小變に非ず。左いううれすなはせんかいいかりゑんい右憂へず、乃ち兵を發して、纎芥の忿を遠夷に報いむと欲す。殆んこうしいはゆるそんうれひせんゆせうしやうど孔子の所謂、吾恐る、季孫の憂は、顳史に在らずして、蕭牆の內じやうしやうに在るものなりと。上相の言に從ふ。がいたいしたいふそくわう兄の子太子少傅疏受と共に、たいしせうふそじゆじやうそ三年。太子太傅疏廣、上疏して、骸こつゆるかしこうけいこじん÷だうまうとうもん祖道宴骨を乞ふ。之を許し、黄金を加賜し、公卿故人、祖道を設け、東門ぐわいきようちやうくるますうひやくりやうだうろみけん外に供張す。送る者、車數百兩道路觀る者、皆曰く、賢なるきようぐぞくじんこきうひんかく哉、二大夫と。旣に蹄るや、日に金を賣つて共具し、族人故舊賓客をあひともごらくさんげふ請うて、相與に娛樂し、子孫の爲に產業を立てず。曰く、賢にして財そのこゝろざしそんそのあやまちまか多ければ、其志を損し、愚にして財多ければ、其過を益す。且つそとみしゆううらみそのあやまちま夫れ、富は衆の怨なり。吾、其過を益して怨を生ずるを欲せずと。しんしやくぐわんねんせんれいしよきやうそむじやうこうしやうぐんてうじうこく神爵元年先零、諸美と與に畔く。上後將軍趙充國に問はしたれこたらうしんむ、誰か將たるべき者ぞと充國、年七十餘、對へて曰く、老臣にまきやうりよはかまさいくにん踰ゆるなしと。復た問ふ、將軍、羌虜を度ること如何。當に幾人をはるかはかきんじやう用ゆべき。充國曰く、兵は遙に度り難し。願はくは、金城に至り趙充國屯田はうりやくたてまついたとんでんそうたてまつ三計圖して、方略を上らむと。乃ち金城に詣り、屯田の奏を上る。西漢-孝宣皇帝-二三七 十八史略卷之二二三八いと願はくは、騎兵を罷め、歩兵萬餘を留め、分つて要害の處に屯し、田せむと。條して兵を出さず、留まつて便宜十二事。奏、上る毎に、輒ち公卿に下して議せしむ。初めは其計を是とする者什に三、中ごろは什に五、最後には什に八。魏相、其計に任じ、必ず用ゆべ、しといふ。上、之に從ふ。二年。史隸校尉蓋寛饒、封事を上る。上、以て怨謗となし、吏に下す。寬饒、自到す。三年。丞相魏相、薨ず。故事に、上書する者、皆、二封を爲り、其一に署して副といふ尙書を領する者、先づ副封を發き、言ふ所善からざれば、屏去して奏せず霍光の薨ぜしより、相卽ち白二して、副封を去り、以て雍蔽を防ぐ、相となるに及びて、好んで、漢の故事及び便宜章奏するところを觀、數漢興つてより以來、便宜の行事、及び賢臣、賈誼、晁錯、董仲舒等の言ふ所を條し、請うて之を施行す。掾史に敕して、事を郡國に案ぜしむ。及び休〓ほして、家より還つて府に至れば、輒ち四方の異聞を白し、或は逆賊風雨の災異にして、郡、上らざるあれば、相、輒ち之を奏言す。わ御史大夫丙吉と共に、心を同じうして、政を輔く。上、皆之を重くわんだい評魏相丙吉んず。是に至つて、吉、代つて丞相となる。吉、寛大を尙び、禮讓漢代の名相はあ、を好む。嘗て、出で、群鬭死傷に逢ふも問はず。牛の喘ぐに逢うて、牛を逐ふこと幾里なるかを問はしむ。或ひと、吉の問を失するを西漢-孝宣皇帝-二三九 十八史略卷之二二四〇譏る吉曰く、民の鬭ふは、京兆の當に禁ずべき所なり。宰相は、細事を親らせず。當に問ふべき所に非ざるなり。春に方つて、未だあ、熱すべからず。恐らくは、牛、暑きが故に喘ぐならむ。是れ時氣節を失するなり。三公は、陰陽を調ふ職として、當に憂ふべしと。人、以て大體を知るとなす。五鳳元年左馮翊韓延壽を殺す。延壽、吏となり、古しへの〓化を好む。潁川の太守より入つて、馮翊となる。民に昆弟相訟ふるあ〓〓り、延壽、閤を閉ぢて、過を思ふ。訟ふる者、各 悔い復た爭はず。郡中翕然として、相敕厲す。恩信周偏にして、復た詞訟あるなし。吏民、其至誠を推して、欺給するに忍びず。是に至つて、事に坐して、棄市せらる。百姓、流涕せざるなし。評吏道の極意黃霸の言大三年。丙吉、薨ず。黃霸丞相となる霸、嘗て、頴川の太守となり、吏民、神明欺くべからずと稱す。〓化を力め誅罰を後にす。長史許丞、老いて、聾を病む。督郵白して、之を遂はむと欲す。霸曰く、許丞は廉吏、老いたりと雖も、尙ほ能く拜起す、重聽するも 何ぞ傷まむ。數ば長吏を易ふれば、故を送り、新を迎ふるの費、及び姦吏因緣して簿書を絕ち、財物を盜み公私の費耗、甚だ多からむ。易ふる所の新吏、又未だ必ずしも賢ならず。或は其故に如かず、徒に相益して、亂を爲さんのみ。凡そ治道は、其太甚しき者を去るのみと。霸外寬內明を以て、吏民の心を得たり。治、天下第西漢-孝宣皇帝-一四、 十八史略卷之二三評地方長官一となす。是に至りて、吉に代る。霸の材、治民に長ず。相たるに大阪市立大学中学校及びて、功名、郡を治むる時より損す。處に般才人な考のなとミず四年。大史農耿壽昌、白す。邊郡をして、皆、倉を築かしめ、穀"大盛大賤しければ、價を增して耀し、穀貴ければ、價を減じて糶し、以て常平倉民を利せむと。名づけて常平倉といふ。前の光祿勳楊憚を殺す憚廉潔にして私なし。人、上書して、憚妖惡の言を爲すと告ぐ。免じて庶人となす。憚、家居し、產を治めて、自ら娯む。其友、孫會宗、之を戒む。憚、報じて曰く、過大にして行虧く。當に農夫となつて、以て世を沒すべし。田家作苦、歲時伏臘、羊を烹、羔を無し、斗酒自ら勞す。酒後に耳熱し、天を仰ぎ、缶を拊つて鳴鳴と呼ぶ。其詩に曰く、田 彼南山。蕪穢不治。種一頃豆。落而爲 其。人生行樂耳。須富貴何時。と淫荒度なきも、其不可を知らずと。人、上書して〓ぐ、憚、驕奢にして悔いずと。廷尉に下して案ず。會宗に與へし所の書を得たり。帝、見て之を惡む。大逆無道を以て要斬す。評甘露元年公卿奏す、京兆尹張敞は、憚の黨友なり。宜しく、位ざ亦惜完以ひ人ど兆張る止むふて易のもな敵所むべし終し怨其りはかをき得り是を職然名得もずをを買司れ京なに處らしむべからずと。上、敞の材を惜んで、其奏を寢む。敞、掾、をき得り是を職絮舜をして案驗する所あらしむ。舜、私に歸つて曰く、五日の京兆のみ、安んぞ能く復た事を案ぜむやと。敞舜の語を聞き、卽ち收めて、獄に繋ぎ、竟に、それを死に致す。後、舜の家に〓げらる。西漢-孝宣皇帝-三 十八史略卷之二一四、敞上書し、闕下より亡命すること歲餘。京師枹鼓、數ば警む。上、敞の能を思ひ、復た之を召し用ゆ。黃霸、卒す。于定國、丞相となる。定國の父于公、初め獄吏となる。東海に孝婦あり。寡居して嫁せず以て其姑を養ふ。姑年老い、婦の嫁を妨ぐるを以て、自經して死す。姑の女、婦迫つて其母を死させしむと告ぐ。婦辯ずる能はず。自ら誣伏す。于公、之を爭へども得る能はず。孝婦死す。東海枯旱すること三年後の太守來る。ミ公其故を言ふ。太守、孝婦の家を祭る。遂に雨降る。于公、獄を5治めて、陰德あり。門間を高大にし、駟馬の車を容るべからしむ。曰く、吾が後世、必ず興る者あらむと。子定國、地節元年を以て、廷尉となる。朝廷、是を稱して曰く、張釋之、廷尉となつて、天下評ら民鏡をて寃民なし。于定國、廷尉となつて、民自ら寃とせずと。是に至り御自ら獄るせんの味噌らし史大夫より霸に代る。匈奴亂る。五單于立つを爭ふ。呼韓邪單于、上書す、願はくは、た塞を欵いて、藩臣と稱せむと甘露三年、來朝す。詔して、客禮を以て之を待ち、諸侯王の上に位せしむ。国;只上、戎狄の賓服せしを以て、肱股の美を思ひ、乃ち其人を麒麟閣に圖畫す。惟だ霍光のみは名いはず、大司馬大將軍博陸候姓霍氏といふ。其次は、張安世、韓增、趙充國、魏 相、丙吉、杜延年、劉德、梁丘賀、蕭望之、蘇武、凡て十一人。皆、功德あつて、名を西漢-孝宣皇帝-二四五 十八史略卷之二二四六たうせい當世に知らる。かいげんほんしちせつげんかうしんしやくほう評宣帝中宗帝、在位、改元するもの七、曰く本始、地節、元康、神爵、五鳳、名に背かれうはふむりよえんおこずのかんろくわうりう、ほうと甘露、黄龍、凡そ二十五年崩ず。杜陵に葬る。帝、閭閻より起り、かんなんれいせいちすうきしうみつひんしきび民事の艱難を知り、属精治を爲す樞機周密にして、品式備具すしししゆしやうすなはそのでんり刺史守相を拜するに、輒ち親ら見問す。常に曰く、民の、其田里にたんそくしうこんニミルゑんうつたへをさ安んじ歎息愁恨の聲なき所以のものは、政平かに、訟理まればなりやうおた千石かと。り我と此を共にする者は、其れ惟だ良二以爲へらく、評二千宣考石帝と論のす大良しばしへんえきたみやすちべにし參太守は吏民の本、すなは數ば變易すれば、ヒしよべんれい民安からず。ちつ故に、きん二千石、たまこうけい治理の效あれば、輒ち重書を以て勉勵し、秩を增し、金を賜ふ公卿かもろへうえらかんせいりやうり缺くれば、諸の表する所を選び、次を以て用ゆ漢世の良吏、是にさかんしんしやうひつぱつめいじつそうかく於て盛なりとなす。信賞必罰、名實を綜核し、政事文學法理の士、みそののうくはそのしよくかなそのげふやすけうど咸な其能を精しくし、吏、其職に稱ひ、民、其業に安んず。匈奴のすゐらんさうちばうおそんかたるほくいのぜんう衰亂に遭値し、亡を推し、存を固くし、威を北夷に信ぶ。單于、義したけいしゆはんこうそそうひかこうえいたちうを慕ひ、稽首して藩と稱す。功、祖宗に光り、業、後裔に垂る中こうかうそうしうせんひとかう興德を高宗、周宣に伴しうすといぶべし。太子、位に卽く。之を孝げんくわうてい元皇帝となす。せきじうじんじゆせん評漢祚衰ふ元帝文弱【孝元皇帝】名は奭。初め太子たりし時、柔仁にして儒を好む。宣ていぶんばふけいはふたゞ帝の用ゆる所、多く文法の吏にして、刑法を以て下を繩すを見。嘗えんしようよういへいかけい七..はなはふかよろて燕する時、從容として謂ふ、陛下刑を持すること太だ深し。宜しじゆせいなかんかおのづかせいどく儒生を用ゆべしと。宣帝、色を作して曰く、漢家自ら制度あり。本西漢-孝宣皇帝-孝元皇帝-三四 十八史略卷之二受評時と併家と霸、とをすに法宣い知蓋在覇帝ふるしり王漢王の道を以て之を雜ゆ。奈何ぞ、純ら德〓に任して、周政をのに法用用ゐむや。且つ、俗儒は、時宜に達せず。好んで、古しへを是とし、し言務な務を今を非とし、人をして、名實に眩して、守る所を知らざらしむ。何ぞ委任するに足らむやと。乃ち歎じて白く、我が家を亂る者は太子なりと。宣帝、少にして、太子の母家許氏に依る。許后、霍氏の毒を以て死す。故に、太子を廢するに忍びず。是に至りて位に卽く初元元年皇后王氏を立つ二年。蕭望之、周堪及び宗正、劉更生を獄に下し、皆免じて庶人と評政ら内容ら内茶とな專なす。時に、史高外屬を以て、尙書の事を領し、望之、堪、之に漠さ中帝言れ適宜すの豫副たり。二人は、帝の師傅。數ば治亂を言ひ、正事を陳す。更生を給事中に選し、侍中金敞と竝に左右に拾遺たり。四人、心を同じうして謀議す。史高は、位に充つるのみ。之に由つて望之と隙あり。中書令弘恭、僕射石顯、宣帝の時より、久しく樞機を典る。帝の位に卽くに及びて、多疾なり。顯の中人にして外黨なきを以て、遂に宦官事を用ふるの始委するに政事を以てし、事、大小となく、顯に因つて白決す。貴幸朝を傾け、百僚、皆、顯に敬事す。顯巧慧にして、事に習ひ、能く 深く人主の微指を得。内、深賊にして、詭辯を持し、以て人を中傷し、高と表裏す。望之等、外戚、許、史の放縱なるを患ひ、又恭顯の權を專らにするを疾んで建白す、以爲へらく、中書は政の本、國家の樞機、宜しく通明公正を以て之を處すべし。武帝、後庭に遊宴す、西漢-孝元皇帝-二四九 十八史略卷之二二五〇くわん〓〓故に宦者を用ゆ、古制に非ざるなり。宜しく、中書の宦官を罷め、古しへの刑人を近づけざるの義に應ずべしと。上從ふ能はず。恭顯、奏す。望之、堪、更生、朋黨相稱譽し、數ば大臣を譖詐し、親戚を毀離し、以て專ら權勢を擅にして、不忠を爲さむと欲し、上を誣ひて不道なり。請ふ、謁者をして、召して、廷尉に致さしめミむと。時に、上始めて位に卽き、召して、廷尉に致すとは、獄に送ることなるを省せず、其奏を可とす。後に。上、堪更生を召テす。曰く、獄に榮けりら。上、大に驚いて曰く、惟だ廷尉の問ふのみに非ざるかと。出でて、事を視せしむ。恭顯、高をして上に說かしめ竟に罷免す。後、上、復た堪、更生を徵して中郎となし、且つ望之を以て相となさむと欲す。恭、顯許、史、皆目を側つ。望之が素より高節にして、詘辱せられざるを知り建白す。望之、過を悔いた罪に服せず。深く怨望を懷き、自ら以へらく、師傅に託して、終に坐せられず、頗る望之を獄に屈せしめ、其快快の心を塞ぐに非ざれば、聖朝以て恩厚を施すなからむと。上曰く、太傅、素より剛あ、安んぞ、肯て吏に就かむ。顯等曰く、人命は至重、望之の坐する所は語言の薄過なり。必ず憂ふる所なしと。謁者をして、望之を召さしめ、因つて、急に執金吾の軍騎を發し、馳せて、其第を圍む。望之、鴆を飮んで自殺す石〓顯え弘恭、死す。中書令となる。西漢-孝元皇帝-二五一 十八史略卷之二111.けうどしつしぜんうかうきよ五年。匈奴の郅支單于、漢の使者を殺して、西、康居に走る。えいくわうぐわんねんけうどかんやぜんうてい永光元年匈奴の呼韓邪單于、北より庭に歸す。けんせうぐんたいしゆけいばうばうえきせうえんじゆ建昭二年。魏郡の太守京房を殺す。房、易を焦延壽に學ぶ。延壽けいせいらう嘗て曰く、我が道を得て、以て身を亡ぼす者は、京生ならむと。郞さいいけんえんけんこといとなり、屢ば災異を言うて驗あり嘗て、宴見して事を言ひ、意せきけんさそういだめミ石顯を指す。顯、奏して、之を出し、尋いで、徵して、獄に下してきし棄市す。我ちいけんゐけんひゞさかんちうしよぼくやらうれうせうふごろくじうそうたういう評帝家傾く內官橫暴顯威權日に盛なり。中書僕射牢梁、少府五鹿充宗と結んで黨友もろ〓〓ふてうゐとなる諸の附倚する者、寵位を得たり。民、之を歌うて曰く、牢邪石邪。五鹿客邪。印何纍纍。綬若若邪。と。せいゐきふくかうゐちんたうせいつはかんえんじゆ三年。西域の副校尉陳湯、とコしつしぜんうかうきよしふげき制を矯つて兵を發し、都護甘延壽と共くび郅支單于を康居に襲撃して、つたに、かうがいか之を斬る。四年春、首を傳へて、京に至る藁街に懸くること十日。きやうねいぐわんねんこかんやぜんうらいてうねがかんせい王嫡字昭君竟寧元年呼韓邪單于、來朝す。願はくは、漢に婿たらむと。こうきうわうしやうあざなせうくんたま後宮の王嬌、字は昭君を以て之に賜ふ。かいげんしよげんえいくわうけんせう帝在位十六年。きやうねい改元するもの四。初元、永光、建昭、竟寧帝じゆじゆつよろこるげんせいきやうかうしやういへどしやうげふ儒術を喜び、てい韋玄成、匡衡を得て相となすと雖も、相業なし。帝、いたづらいだんかんげふおとろかうせいくわうてい徒に優遊不斷、漢業衰ふ太子位に卽く。之を孝成皇帝となす。がうかふくわん【孝成皇帝】名は驚けいしよ母は王氏。帝を甲觀に生む。少にして、經書しゆがくかうえんらくげんていときを好み、其後、酒樂を幸して燕樂すほと元帝の時、太子となつて、幾西漢-孝元皇帝-孝成皇帝-二五三 十八史略卷之二二五四はいしたんせいほていきふかんしんど廢せられむとす。史丹、靑蒲に伏して、涕泣して諫止す。是にくらゐくわうたいごうげんきうわうほう至つて、位に卽く。王氏を尊んで、皇太后となし、元舅、王鳳を以評る治禍武王人氏す政之にをはせうしよりやう因專すにて大司馬大將軍となし、けんしぐわんねんせきけん尙書の事を領せしむ。めん建始元年。石顯、罪を以て免じ歸る道にして死す。きうわうすうあんせいこうたんしやうりつこんほうじしやくくわん舅王崇を封じて、安成侯となし、譚商立根逢、時に爵關だいこうくわうむよもふさ内侯を賜ふ。黄霧四に塞がる。ハンねんしよきう河平二年悉く諸舅を封じて、列侯となす。やうさくねんわうほうわういんわうたん陽朔三年。王鳳、卒す。王音、大司馬となり、王譚、城門の兵をりやう領す。こうかねんわうたんわうしやうじやうもんりやう鴻嘉四年。王譚、卒す。王商、城門の兵を領す。えいしぐわんねんたいこうまうしんと王莽こう永始元年太后の弟の子莽を封じて、新都侯となす。くわうごうてうしひえんぢよていがふとくせふよ皇后趙氏を立つ。名は飛燕、女弟合德を婕好となす。わういんわうしやう二年。王音、卒す。王商、大司馬となるもとなんしやうゐばいふくはうこんくんめいをかしゆゐ故の南昌の尉梅福、上書して曰く、うばぐわいせき方今、へいか君命犯されて、そのかたちさつ主威奪はれ、外戚の權、そのかげ日に益す以て盛なり。けんしいらいにつしよくぢしん陛下、しゆんじう其形を察せず、願は其景を察せよ。すゐさいくはひすういんさかん建始以來、やうび日食地震、きんてつため春秋に三倍し、と水災ともに比數するなし。けいたてまつ陰盛にはう陽微に、金鐵爲に飛ぶ。是れ何の景ぞやと。書、上れども、報ぜず。わうしやうわうこん四年。王商、卒す。王根、大司馬となる。評腐儒張禹あんしやうこうちやううしごとていぎあづか漢の事を誤安昌侯張禹、帝の師傅を以て、大政ある每に必ず定議に與る。西漢-孝成皇帝-〓 十八史略卷之二〓朱雲時に吏民多く上書して言ふ、災異は王氏專政の致す所なりと。上の所謂尙方エリーノ斬馬の劍をるに禹の第に至り、左右を辟け、親ら以て禹に示す。禹自ら、年老い、(おつけつ者な子孫の弱きを見、王氏に怨まれむことを恐れ、上に謂つて曰く、春秋の日食地震は、或は諸侯相殺し、夷秋中國を侵せしが爲ならむ。災變の意、深遠にして見がたし。故に、聖人、命を言ふこと罕に、怪神を語らず。性と天道とは、子貢の屬より聞くを得ず。何ぞ況んや淺見鄙儒の言ふ所をや。新學小生、道を亂し、人を誤る、宜しく信用なかるべしと。上、雅に禹を信愛す。之に由つて王氏を疑はず故の槐里の令朱雲、上書して見るを求め、願はくは、尙方斬ほ馬の劍を以て、侫臣一人の頭を斷て以て其餘を厲まさむと。上問ふ。誰ぞや。對へて曰く、安昌侯張禹と。上、大に怒つて曰く、小臣、下に居り、師傅を廷辱す。罪、死すとも赦さずと。御史雲を率ゐて下らむとす。雲、殿檻を攀ぢ檻折る。雲、呼んで曰く、臣、T、龍逢。比干に從つて遊ぶを得ば、足れり。未だ聖朝如何を知らざるのさしやうぐんしんけいきたみと。左將軍辛慶忌、頭を叩き、血を流して之を爭ふ上の意、乃ち解く檻を治むべきに及びて、上曰く、易ふる勿れ。因つて、之を輯めて、以て直臣を旌せと。綏和元年王根、病んで免ず。王莽、大司馬となる。二年帶、崩ず。在位二十六年。改元するもの七。曰く、建始河平陽朔、鴻嘉、永始、元延、綏和帝威儀あり、朝に臨んで西漢-孝成皇帝-毫 十八史略卷之二〓神の如し。然れども、酒色に荒み、政、外家に在り。張禹、薛宣、翟方進、相となり、漢業愈よ衰ふ。太子、位に卽く。之を孝哀皇帝となす。【孝哀皇帝】名は欣、定陶恭王康の子、元帝の孫なり。祖母は傅氏。母は丁氏。成帝、子なし。故に立てて太子となす。是に至つて、卽位す。丁傅、事を用ゆ。大司馬莽を罷めて第に就かしむ。建平元年夏賀良の言を用ゆ。漢歷、中頃衰ふ當に天命を更め受くべく、宜しく、急に元を改め號を易ふべしと。乃ち太初と改元し、陳聖劉太平皇帝と更め號す。尋いで、改元更號の事を罷め、夏賀良等を誅ず。帝、董賢を幸す。元壽元年賢を以て大司馬となす。二年、帝崩ず。賢自殺す。帝、在位七年。改元するもの二。曰く建平、元壽。太皇太后、王ちうざんわう莽を以て大司馬となし、尙書の事を領せしむ。中山王を迎へて、位に卽かしむ。之を孝平皇帝となす。【孝平皇帝】名は箕子。後、名を布と更む。中山孝王興の子、元帝の孫なり。哀帝崩じ、立つて嗣となる。太皇太后、朝に臨み、大司馬莽、政を乗る。百官、己を總べて、以て聽く。元始元年、莽を安漢公と爲す。四年。莽の女を聘して皇后となし、安漢公に號宰衡を加へ、諸侯西漢-孝哀皇帝-孝平皇帝ー堯 十八史略卷之二총う王の上に位す。たいしこうくわうせいあいいらいわざはひ五年。太師孔光、卒す。成哀以來、光等、三公となり、漢の禍をやうせいてんねいふうまうしよう養成し、證侫風を成し、上書して莽を顔する者四十八萬人に至る。しやく莽に九錫を加ふらふじつせうしゆたてまつどくお臘日、莽、椒酒を帝に上り、毒を置く、帝、崩ず、在位六年改げんしげんそんえいめ元するもの一、曰く、元始。太皇太后、詔して、宣帝の玄孫嬰を徵じゆしキうせつゐして、皇太子となし、號して、孺子嬰といふ莽、攝に居て、祚をふさんかくわうていせつくわうてい踐み、贊して假皇帝といひ、民臣は、之を攝皇帝といふ。きよせつぐわんねんりうそう【孺子嬰】嗣たるの初、之を王莽の居攝元年となす。劉崇、兵を起まうがして、莽を討つ。克たずして死す。たいしゆてきぎもとじようしやうはうしん二年。東郡の太守翟義、故の丞相方進の子なり。兵を起して、莽を討つ。克たずして死す。recordentまうしんてんししん王莽集位明治三十七莽、眞天子の位に卽き、國を新と號す。漢の太皇太后あらたしんしつぶんぽたかくわうたいごうわうまうわうまんを更め號して、新室文母太皇太后といふ王莽は、王曼の子なり。1)評孝元皇后の兄弟八人。獨り、曼、公に自早く死して侯たらず。くん莽、幼にし周詩しやうぐんしび言日)王莽て孤なり。群兄弟、皆將軍たり。五侯の子時の修靡に乘じて恭謙下士上はせかしよくいついうあひたかせつきようけんきんしん時、若使當輿馬聲色を以て佚游相高ぶる。莽、節を折つて、恭儉をなし、勤身無形電話はくがとひさじゆせいえいしゆんしよふつかつぶさ新鮮鐵道博學被服、儒生の如く、外は英俊に交り、内は諸父に事へ曲に誰知れいいしんとこうしやくゐますまたつとせつさういよいけんきよよりう禮意あり。新都侯に封ぜらる。爵位益す尊く、節操愈よ謙虛譽隆からそのしよふかたむかんせいあいていほうへいていげいりつ治、其諸父を傾け、遂に漢政を得たり。哀帝崩じて平帝を迎立し、西漢-攝子嬰-六 十八史略卷之二云五年にして、帝を弑し、位を攝する三年。竟に位を簒し、國を新と號す。始建國元年孺子嬰を廢して、定安公となす。二年漢の太皇太后王氏崩ず。だp天鳳四年。〓州、盜起る新市の人王匡之が帥たり。馬武、王綠林の賊常·成丹、往いて之に從ひ、綠林山中に藏る。五年。莽の大夫揚雄、死す。雄字は子雲、成帝の世、賦を奏するを以て、郞となり、黄門に給事たり。三世、官を徒さず。莽の簒するに及び、耆老久次を以て、轉じて、大夫となる。嘗て、太玄、x法言を作る。卒章に莽の功德を稱して、伊周に比し、又劇秦美新の文を作り以て莽を頌す。劉棻、嘗て、雄に從つて奇字を學ぶ。藁事に坐して、誅せらる辭雄に連及す。時に、雄、書を天祿閣上に校す。使者、來つて、之を收めむと欲す。雄、閣上より投下す。莽詔して、問ふなからしむ。是に至つて死す。瑯邪の樊崇、東海の〓子都等の兵起る。地皇三年崇の兵、自ら赤眉と號す。綠林の兵、分れて、下江、新市の兵となる。〓州、平林の兵起るび弟秀劉續劉秀漢の宗室、劉續及共に春陵に起る。新市、平林の兵、皆之に附く。明年、諸將共に、劉玄を立てて、皇帝となす。玄は春陵西漢-焉子嬰-云 十八史略卷之二云の戴侯買の後、續秀と高祖を同じうす。時に平林の軍中に在り、更始將軍と號す諸將、其懦弱を貪つて、之を立つ南面して立ち、群臣を朝せしむるに、手を以て席を刮し、羞愧して汗を流し、言ふ能はず大赦して、更始と改元し、宛に都す。更始元年劉秀、大に莽の兵を昆陽に破る。隗囂成紀の隗囂の兵起る。公孫述公孫述、兵を成都に起す。更始、將を遣して、武關を破る。析人鄧曄、兵を起して、長安にrn迎へ入る。衆兵莽を誅し、首を傳へて更始に詣る。莽、未だ簒せざる時、官名、及び十二州の界を更定し、罷置改易し、天下多事なな3り錯刀契刀大錢等の貨を更造す。旣に、位を簒するや、劉の字、卯金刀なるを以て、剛卯金刀の利を禁じ、錯月、契刀、五銖錢等を罷む。天下の田を更名して、王田といひ、買賣するを得ず。男口八に盈たずして、田一井に過ぐれば、餘田を分つて、九族、〓里に予ふ故に田なき者、田を受く。五均、司市、錢府の官を立て、民を)ノして、各業とする所を以つて、貢となさしめ、寶貨を更作し、金銀龜貝、錢布、五物、六名、二十八品あり。百姓潰亂寶貨行はれず。乃ち小錢大錢を行ふ。數ば更變して、信ならず盜鑄し、及び私に五銖錢を挾む者は、罪に抵る。是に於て、農商業を失ひ、食貨共に廢し、民、市道に涕泣するに至る。後、又、貨布貨泉を改西漢-孺子嬰-二六五 十八史略卷之二二六六む。一度、錢を易ふる每に、民、又、大に鑄錢法を陷犯し、檻車鎖頸傳へて長安に詣るもの、十萬を以て數ふ。死什に六七。制度を改易し、政令煩多、四方囂然として謳吟し、漢を思ふこと久し。歲旱して蝗あり。人相食み、遠近兵起る。莽五石の銅を以て、威斗を鑄、北斗の狀の如くし、以て衆兵を厭勝せむと欲し、出入に、人をして之を負うて行かしむ。漢兵の宮に入るに及び、猶ほ席を旋いらし、斗柄に隨つて坐して曰く、天、德を予に生ず。漢兵、其れ予を如何と。首を漸臺に斬る。軍人、其身を分ち、節解して、之を變す。簒より亡に至るまで、改元するもの三。曰く、始建國天鳳地皇、凡そ十五年。莽、首を傳へて、宛に至る。更始宛より都を洛陽に遷す。父老、司隸校尉の官屬を見、或は涕を垂れて曰く、圖らざりき。今日、復た漢官の威儀を見むとはと。更始元年。都を長安に遷す。赤眉、長安を攻む。明年、赤眉入る。更始、出奔す。旣にして、赤眉に降り、爲に殺さる。立つてより亡ぶるに至るまで凡そ三年。前數月、大司馬秀、旣に河北に卽位す。之を世祖光武皇帝となす。西漢-孺子嬰-二六七 譯新十八史略卷之三西紀自二五至二二〇東漢【世祖光武皇帝】名は秀、字は文 叔、長沙の定王發の後なり。景帝、發を生み、發、春陵の節侯買を生む。侯たること再三世、封を徙し、南陽の白水〓を以て春陵となし、宗族、往いて家す買の少子外、外、囘を生み、囘、南頓の令欽を生み、欽.秀を南頓に生む嘉禾一莖九穂の瑞あり、故に名づく。是より先、望氣の者あり、春陵を望んで曰く、氣佳なる哉、鬱鬱葱葱然たりと。王莽、貨を改東漢-世祖光武皇帝-二六九 十八史略卷之三三·三はくすゐしん〓〓めて、貨泉といふ。人其字を以て、白水眞人といふ。秀、竟に白評高帝は隆水より起り、隆準にして日角あり、尙書を受けて、大義に通ず。嘗準龍顏光武は隆準日て、蔡少公を過ぐ、少公、圖識を學ぶ言ふ、劉秀、當に天子たる相角ある兩り似者貌頗たべしと。或ひと曰く、國師公劉秀か秀、戯れて曰く、何に由つて、る處Bi僕に非ざるを知らむやと。新市、平林の兵起るに及び南陽騒動す。宛人李通、秀を迎へて、兵を起す。秀の兄續、字は伯升、慷慨大節〓あり常に憤憤として、社稷を復せむと欲す。平居、家人の生業を事とせず。身を傾け、產を破り、天下の雄俊に交結す。是に於て、親客を分遣して、諸縣の兵を發せしめ、續自ら春陵の子弟を發す。皆恐懼して亡げ匿る。曰く、伯升、我を殺すと。秀が絳衣大冠するを見るに及んで、驚いて曰く、謹厚なる者も亦た復た之を爲すと。乃ち自ら安んず。賓客を部署し、諸帥を招說す。新市、平林、下江の兵、皆、來り會す。兵、統一するところなく、劉氏を立てて、人望に從はむと欲す。下江の將王常、續を立てむと欲す。新市、平林の將帥、其威明を憚つて、遂に更始を立て、續を以て大司徒と秀を將軍となす。なし、秀、昆陽、定陵、〓を徇へて、皆、之を下莽、す。王邑、王尋を遣し、大に兵を發して、山東を平げしむ。長巨無霸を以て壘となし、人虎豹犀象の屬を驅り、以て兵勢を助け、百餘萬と號す。旌旗、千里絕えず。諸將、兵の盛なるを見て、皆、走つて昆陽に入り、散じ去らむと欲す。秀、郵定陵に至り盡東漢-世祖光武皇帝-モ 十八史略卷之三三しよえいぜんほうじんいく諸營の兵を發し、自ら步騎千餘に將として前鋒となる。尋、邑こしざんしゆすうきふ兵數千を遣して合戰せしむ。秀、之を奔らしむ。斬首數十級。諸將おそいさ曰く、劉將軍、平生、小敵を見るも怯る。今大敵を見て勇む。甚だ敵敵評大てれ秀勇勇大小謂見怯劉あやししりぞしよぶり所ををなむ怪むべきなりと。尋、邑の兵、却く諸部、共に之に乘じ、かんししきりすしに勝つて遂に前む。一、百に當らざるなし。秀、敢死の者三千人とくづ其中堅を衝く、尋、邑の陣、亂る。漢兵、銳に乘じて、之を崩し、こさうちうぐわいいきほひ遂に尋を昆陽に殺す。城中の守者、まう亦た鼓譟して出で、つひ中外勢をあひふさ合し、呼聲、天地を動かす。莽の兵、大に潰え、走る者相踐み、伏あめふしひやくよだいらいふううをくぐわと虎戸百餘里。みなこせん大雷風雨に遇ひ、しせんできし屋瓦飛び、雨下ること注ぐが如し。くわんちうしんきよう豹皆股戰す。滍川に溺死する者數萬關中、之を聞いて震恐す。きやうおうぼくしゆ海內の豪傑響應し、皆、莽の牧守を殺し、自ら將軍と稱し、漢のじゆんげつえんけいてい年號を用ゐ、旬月にして天下に遍し。續の兄弟、威名日に盛なりかうししうiiたちんせき更始、續を殺す。てい秀敢て喪に服せず、飮食言笑す。惟だ枕席に涕きかうしはぶしんこう泣する處あるのみ。更始慙ぢ、秀を大將軍に拜し、武信侯に封ずいくばくだいしは未だとな幾ならずして、秀を以て大司馬の事を行はしめ、河北を徇へ莽の苛政を除くまうしむ。とううさく鄧禹過ぐる所、南陽の鄧禹、策を杖いて秀を追げふほうはいもつぱ牛仔干頭ひ鄴に及ぶ。秀曰く、我、封拜を專らにするを得たり。生、遠く來ういはねがたる、寧ろ、仕へむと欲するか禹曰く、願はざるなり。但だ願はくめいこうゐうそのせきすんいたは明公の威德、四海に加はり、再、其尺寸を效すを得て、功名をちくはくたかうしじやうさいたいげふた竹帛に垂れむのみ。更始は常才、帝王は大業、任ふる所に非ず。明東漢-世祖光武皇帝-二七三 十八史略卷之三二七四公、英雄を延攬し、務めて民心を悅ばすに如くはなし。高祖の業を立て、萬民の命を救はば、天下は定むるに足らざるなりと。秀、大に悅び、禹をして、常に中に宿止せしめ、共に計議を定む。邯鄲の詐つて成帝の子子與と稱し、ト者王郞ト者王郞、邯鄲に入つて、帝と稱し、幽冀を徇下し、州郡響應す。秀、北、薊を徇ふ。上谷の太守耿況の子弇、馳せて盧奴に至つで上謁す。秀曰く、是れ我が北道の主人なりと。薊城反して、王郞に應ず。秀趣に城を出で、晨夜、南に馳て、馮異せ、蕪畫亭に至る。馮異、豆粥を上る饒陽に至つて食に乏し。下曲陽に至り、王郞の兵、後に在りと聞き、滹沱河に至る。候吏還白す、つて河水流漸す、船なければ濟るべからずと。秀王霸をして之を視せしむ。霸、衆を驚かさむことを恐れ、還つて、卽ち詭つすて曰く、氷堅くして渡るべしと。遂に前んで河に至る。氷、亦た合す。卽ち渡る。未だ畢らず、數騎にして氷解く。南宮に至り、大風雨に遇ひ、道傍の空舍に入る。馮異、薪を抱き、鄧禹、火を蒸く。秀、竈に對して衣を燎る異、復た麥飯を進む。下博城の西に至り、惶惑して、之く所を知らず。白衣の老人あり、指して曰く、努力せよ。信都は長安の爲に城守す、此を去ること八十里と。秀、卽ち馳せて、之に赴く。時に、郡縣皆旣に王郞に降る。獨り信都の太守任光、和戎の太守邳形肯んぜず。光、出でて、秀の至るを聞き、大に喜ぶ形も、亦た來り會す。旁縣を發し、精兵を得、檄を移し東漢-世祖光武皇帝-二七五 十八史略卷之三〓〓て、王郞を討つ。郡縣亦た響應す。秀、兵を引いて、廣阿を拔く。上興地の圖を披き、鄧禹に指示して曰く、天下の郡縣、斯くの如し。今、始めて其一を得たり。子、前に定むるに足らずと言ひしは何ぞや。禹曰く、方今、海內殺亂、人、明君を思ふこと、猶ほ赤子の慈母を慕ふが如し。古しへの興るものは、德の厚薄に在つて、大小に評鄧馬銘る國は在在謂漁陽の兵を以て、右すをと不者所在らざるなりと。耿弇、上谷、行く郡縣を定め、宇文明な者家蓋大德りのにし小厚座存志也薄秀に廣阿に會し、進んで、部鄲を拔いて、王郞を斬る。吏民の郞と交るの書數千章を得たり。秀諸將を會して、之を燒いて曰く、反側子をして自ら安んぜしむと。秀、吏卒を部分するや、皆言ぶ、けんたい大樹將軍願はくは、大樹將軍に屬せむと。馮異を謂ふなり。人と爲り、謙退にして伐らず。諸將、功を論ずる毎に、異、常に樹下に屏く、故に此號あり。更始、使を遣して、秀を立てて蕭王となし、兵を罷めしむ耿弇、王に說き、辭するに河北未だ平がざるを以てして、徵に就かざらしむ。王、銅馬諸賊を擊ち、悉く破つて之を降す。諸將、未だ降者を信ぜず。降者、亦た自ら安んぜず王、敕して、各營にる、歸つて、兵を勒せしめ、自ら輕騎に乘じて、諸部を案行す。降者、相語つて曰く、蕭王、赤心を推して、人の腹中に置く。安んぞ、死評輕す諸光る部武はをのた騎悉く以て諸將に分配し、行に術も雄謂案を效さざるを得むやと。南、河内を徇ふ。ふ所心英收攬赤眉、西、長安を攻む。王、將軍鄧禹等の兵をして關に入らしむ。なてり人す民にし術衆、寇恂を薦め、文武備具して、民を牧し衆を御するの才ありとい東漢-世祖光武皇帝-三七 十八史略卷之三天| -英のみふ。河內を守らしむ。王、自ら兵を引いて、燕趙を徇へ尤來、大的〓。 〓〓。 大正術た槍等の諸賊を擊つて、盡く之を破る。王、還つて、中山に至る。諸らず將、尊號を上る。許さず。南平棘に至つて固く請ふ。又許さず。耿純曰く、士大夫、親戚を捐て、土壤を棄てて、大王に矢石の間に從ふは、素より龍鱗を攀ぢ、風翼に附いて其志す所を成さむと欲するのみ。今、時を留めて、衆に逆ふ、恐らくは、望絕え、計窮まらば去歸の思あらむ。大衆一度散ずれば、復た合すべきこと難しと。馮異、亦た言ふ、宜しく衆議に從ふべしと。會ま、儒生强華、關中より赤伏符を奉じて來る。曰く、劉秀、兵を發して、不道を捕ふ。四夷雲集龍、野に鬭ふ。四七の際、火を主となすと。群臣、因つて復た請ふ。乃ち皇帝の位に部南に卽き、建武と改元す。선이赤眉の樊崇等宗室劉盆子を立てて帝となす。時に軍中に在りて、羊を牧するを主り、被髮徒跣、敝衣〓汗、衆の拜するを見れば、恐畏して、啼かむと欲す。賊長安に入る。更始、走る。帝、詔を下し、封じて淮陽王となす。宛人卓茂、嘗て、密の令となる。〓化大に行はれ、道遺ちたるを拾はず。卽位、上、先づ茂を訪求し、以て太傅となして褒德侯に封ず車駕、洛陽に入る。遂に之に都す。東漢-世祖光武皇帝-二七九 十八史略卷之三二八〇關中、未だ定まらず。鄧禹、衆を引いて西す。百萬と號す。至る處、車を停め、節を駐め、百姓を勞來す。垂髫戴白、車下に滿つ。名、關西に震ふ枸邑に至る。久しく、兵を進めず。赤眉、大に掠めて出づ。再、乃ち長安に入る。赤眉、復た入る。再.戰つて利あからずして走る。徵されて京師に還る。馮異をして、關に入らしむ。功無きを慚ぢ、再、異を要して、共に赤眉を攻めて、大に囘溪に戰つて敗績す。散卒を收めて、壁を堅うす。既にして、大に赤眉を崤底に破る。重書、異を勞して曰く、初め、翅を囘溪に垂るると雖も上可謂失之東終に能く翼を瀧池に奮ふ、之を東隅に失して、之を桑楡に收むとい隅、收之桑る、楡ふべしと。赤眉の餘衆、東宜陽に向ふ。上軍を勒して、之を待つ。樊崇、劉盆子、丞相徐宣等を以て、肉袒して降る。上、軍馬を陳し、盆子の君臣をして、之を觀しめ、謂つて曰く、降を悔ゆる;無きを得むや。眞叩頭して曰く、虎口を去つて慈母に歸す誠歡かう··鐵中之錚錚庸中之佼佼誠喜、限なし。上曰く、卿は、謂ゆる鐵中の錚錚、庸中の佼佼たるものなりと。各、田宅を賜ふ。唯陽の人、劉永を斬つて降る。劉永、更始の時に在つて、立つて梁王となる。更始亡ぶるや、永、帝と稱す。是に至つて敗る5M漁陽の太守彭寵の奴、寵を斬つて以て降る。初め、上、王郎を討つ時、寵.突騎を發し、粮を轉じて絕たず、自ら其功を負んで、意評遼東の家望甚だ高く、滿つる能はず。幽州の牧朱浮、書を與へて曰く、遼東東漢-世祖光武皇帝-元 十八史略卷之三二八二ゐのこきさけんに豕あり、子を生む、白頭なり。將に之を獻ぜむとす。道にして、たちを 失に謂覺せず、所ぐんしみなしろしえつれうとうし野して着て師 192しを大群豕に遇ふ、皆白し。子の功を以て、朝廷に謁せば、遼東の豕ならふ者てうめうたがむと。上、寵を徴す。寵自ら疑ひ、遂に反す。是に至つて敗る。りうえいたせいわうちやうほくだとうらいたいしゆ劉永立てし所の齊王張歩降る。上、初め、步を以て東萊太守となしやうぐんかうかんしばしす。旣にして、永の命を受けて、齊に王たり。將軍耿弇、屢ば戰つしゆくあせいなんりんして大に之を破る。祝阿、齊南、臨舊を拔く。車駕、臨舊に至つて、ねぎらなんやうたいさく軍を勞ふ。弇に謂つて曰く、將軍、前に南陽に在り大策を建つ。お(あがたつひ嘗て以爲へらく、落落合ひ難しと。志在るものは、事、竟に成るなせいちことんりと。歩、敗る齊地悉く平らぐしやうぐんごかんらうかいせいわうとうけんおよはんしやうほうら將軍吳漢等、擊つて、劉永立つる所の海西王董憲及び叛將龐萠等こうわいさんとうたくわいがうこうそんじゆつを斬る。江淮山東、悉く平らぐ。時に惟だ隗囂、公孫述、未だ平がまさず。上、苦を兵間に積む。諸將に謂つて曰く、しばらく、當に此兩どぐわいお子を度外に置くべきのみと。へういちやうあんにふてう馮異、長安より入朝す。上、公卿に謂つて曰く、是れ我が兵を起しゆぼけいぎよくみことのりせし時の主簿なり、吾が爲に荊棘を披いて、關中を定むと。詔しいらうさうそつぶるていとうしゆくこだかばくはんこういて、異を勞して曰く、倉卒、蕪〓亭の豆粥、濾沱河の麥飯、厚意、はう久しく報ぜずと。けんぶねんくわいがう建武八年。上、自ら將として、隗囂を征す。えいせんか、しつきんごかうじゆん寇恂潁川、盜起る。上、還つて、執金吾寇恂に謂つて曰く、頴川は京はくきんま師に迫近す。獨り卿、能く之を平げむのみ。九卿より復た出づる東漢-世祖光武皇帝-二八三 十八史略卷之三二八四さこと〓〓可ならむかと。恂上に勸めて、親征せしむ。賊悉く降る。恂竟に郡に拜せず。百姓道を遮つて曰く、願はくは、寇君を借ること一年ならむと。乃ち恂を留めて、鎭撫せしむ。大軍戰はずして還る。建武九年。隗囂、死す。囂、更始の初年、兵を起してより、建武評應述援隗とか再最描心る亂の冪公復孫馬興をのけ答間往の初めに至るまで、天水に據り、自ら西州上將軍と號す。後、嘗台灣獨家居委て、馬援を遣して、成都に往いて、公孫述を觀せしむ。援述と舊あり、當に手を握つて歡、平生の如くなるべしと謂へり。時に、述、すざ三る讀のみし所飽旣に帝と稱する四年。援旣に至る。盛に陸衞を陳して、以て援を延く。援、其屬に謂つて曰く、天下雌雄未だ定まらず公孫、哺を吐いて國士を迎へず、反つて、邊幅を修飾す、偶人の形の如し。是れと何ぞ久しく天下の士を稽むるに足らむやと。因つて辭して歸る。囂井底の蛙に謂つて曰く、子陽は井底の蛙のみ然も、妄りに自ら尊大にす。如かず、意を東方に專らにせむにはと。置、乃ち援をして、書を洛陽に奉ぜしむ初め到るや、良や久しうして引き入る。上、殿庶の下より岸情して迎へ、笑て曰く、卿二帝の間に敖遊す。今、卿を見るに、人をして、大に慚ぢしむ。援頓首して曰く、當今但だ、君、臣を擇ぶのみに非ず、臣、亦た君を擇ぶ臣、公孫述と同縣、少にして相善し。臣、前に蜀に至る。述陛戟して後に臣を進む。臣今、遠く來る。陛下、何ぞ刺客姦人に非ざるを知つて、然も簡易なること、是の如き。帝笑つて曰く、卿は刺客に非ずおもふに說客東漢-世祖光武皇帝-二八五 十八史略卷之三云云ならむのみ。援曰く、天下反覆、名字を盜む者、勝げて數ふべからず。今、陛下を見るに、恢廓大度、符を高祖に同じうす。乃ち帝王自ら眞あるを知るなりと。援歸る。書東方の事を問ふ。援曰く上、才明勇略、人の敵に非ざるなり。且つ心を開き、誠を見はして、隱伏する所なく、闇達にして大節多く、略ば高祖と同じく、評祖と馬可祖の味と高經學博覽にして、政事文辯、前世比なし。囂曰く、卿高帝に如何不可もなし。と謂ふか。援曰く、如かざるなり高帝は可もなく、と名を人しをる上手圓の上多者のみ知今上、吏事を好み、動くこと法度の如くし、又飮酒を喜ばずと。囂懌ばずして曰く、卿の言の如くなれば、反つて、復た勝れるかと。子をして入つて侍せしむ。未だ幾ならずして反す。復た、嘗て班彪に問ふに、戰國從橫の事を以てす。彪、王命論を作つて之を諷す。囂聽かず。馬援、行在に詣る。上、復た游說せしめ、仍つて、自ら囂に書を賜ふ。費、竟に公孫述に臣たり。述囂を立てて、朔寧王となす。上、囂を征す。馬援、上の前に在り、米を聚めて山谷と上なし、形勢を指畫し、軍の從る所の徑道を開示す。上曰く、虜吾が目中に在りと。遂に軍を進む。囂西城に走り、餓を病み恚憤こと〓〓して卒す。子純、降る。隴右悉く平らぐふも十二年。公孫述、亡ぶ。述は、茂陵の人、更始の時より、蜀に據つて、帝と稱し、國を成と號す。上、旣に隴右を平らぐ。曰く、人隴を得て蜀を望むは自ら足らざるに苦む。旣に隴を得て復た蜀を望むと。大司馬吳漢東漢-世祖光武皇帝-二八七 十八史略卷之三六八等をして、兵に將として、征南大將軍零彭に會して蜀を伐たしむ彭、〓門に在つて、戰艦を裝ふ。漢、之を罷めむと欲す。彭可かず上·彭に報じて曰く、大司馬、步騎を用ゆるに習うて、水戰をおせん!曉らず、〓門の事、一に惟だ征南公を重しとなすのみと。彭の戰船並に進み、向ふ所前なし。述盜をして、彭を刺さしむ。吳漢、繼いで進み、成都に至つて、撃つて、述を殺す。蜀地、悉く平らぐ。凉州の牧竇融河西、武威、張掖、酒泉、燉煌、金城、五郡の太守を以て入朝す。融建武の初より、河西に據り後、使をして、書を奉ぜしむ。上、以て牧と爲し、重書を賜うて曰く、議者、必ず任囂が尉化に〓へて七郡を制するの計あらむと。書至る河西、皆驚き、以爲へらく、天子、明、萬里の外を見ると。上、隗囂を征するや融、五郡の兵を率ゐて、大軍と會す。蜀、平らぐ。詔を奉じて朝に歸す冀州の牧に拜せらる。大将軍の印を賜坦む。に十八年代王盧芳、匈奴に死す。芳は安定の人。詐つて、武帝の曾孫劉文伯と稱す。建武の初より、安定に據る。匈奴、之を迎へ、立てて漢帝となす。數は邊郡の寇患をなす。後、來り降り、代に王たり。復た反して、匈奴に奔り、病を以て死す。二十二年匈奴、和親を求む。上使を遣して、之を許す。呼韓邪單于、成帝の時に死せしより、其後、累世、貴、漢に仕ふ。平帝の時、王莽、條を匈奴に頒つて中國に二名なしと謂ひ、單于に諷し東漢-世祖光武皇帝-二八九 十八史略卷之三二九〇て名を改めしむ。莽、漢を簒し、漢の賜ひし所の單子の重を易へて章といふ。單于、怨恨して、數ば邊に寇す。建武以來、匈奴、盧芳を助けて漢に寇す。後、又、數ば烏桓、鮮卑と兵を連ねて入寇す。是に至つて、始めて、和を請ふ。西域、都護を請ふ、許さず。遂に匈奴に附く。是より先、莎車王けんぜん〓〓賢都善王安、皆使を遣して奉獻す。賢の使、再び至る。上賢に都護の印綬を賜ふ邊郡の守、上言す、假すに、大權を以てすべからずと。詔して、收め還し、更めて大將軍の印を賜ふ。賢、恨む。猶は詐つて大都護と稱す。諸國悉く賢に服屬す。質、驕橫。西域を兼併せむと欲す。諸國懼る。凡そ十八國、子を遣して入侍せしめ願はくば、漢の都護を得むといふ。上厚く賜うて、其侍子を還さしむ。是に至つて、復た請ふ。上、復た之を却く二十四年匈奴、南邊の八部、日逐王比を立てて南單子となす。た漢塞を欵いて內附す。是に於て、分れて、南北匈奴となる。二二五五。貊人鮮卑、烏桓並に入朝す。3)二十六年南單于の庭を立て、使匈奴中郞將を置き、以て之を領せしめ、南單于を徒して、西河の美稷に居らしむ。二十七年。北匈奴、亦た使を遣して和親を求む。明年、又請ふ、之を許す。評高祖立國精神、王中元二年。上、崩ず。上兵を起せし時、年二十八、卽位の年三東漢-世祖光武皇帝-二九一 十八史略卷之三二九二上がにに紀ど,5,る進すのをとてを本代と治柔は而霸道な國道主し道を以し光混と十一。第五倫、詔書を讀む毎に、歎じて曰く、是れ聖主なり、一見てて武ゆして決せむと手書、方國に賜ふに、一札十行、細書文を成す。政體を明愼し、權綱を總攬し、時を量り、力を度る。大ゝるるれしは東しのに時本擧として過事なし。嘗て、南陽に幸し、置酒して宗室を會す。諸母相與に語つて曰通 有 べ べ た た 文 亦 法 と 館 )く,文叔、平日、人と欵曲せず、惟だ直だ柔なるのみ乃ち能く此の如しと。上、之を聞いて笑つて曰く、吾、天下を理むる、亦た柔道を以て之を行はむと欲すと。上、兵間に在つて、久しく武事を厭ふ。蜀、平らいで後、警急に非ざれば、未だ嘗て軍旅を言はず。)の恪北匈奴、衰困す。减宮、馬武、上書して、攻めて之を滅さむことを柔能じ 333に勝ち)つ能請ひ、劍を鳴らし、掌を抵つて、志を伊吾の北に馳す。よ書を報くぬさうじ、告ぐるに黄石公の包桑記を以てす。曰く、柔、能く剛に勝ち弱能く强に勝つと。之より、諸將、敢て兵を言ふなし。玉門關を閉ぢて、西域を謝絕し、功臣を保全し、復た任ずるに兵事を以てせ列侯を以て第に就かしむ。す。皆、吏事を以て三公を責め、亦た功臣を以て吏事に任ぜず。諸將、皆、功名を以て自ら終る。祭遵先つて死す。上、之を念うて己まず、來歙、要求、鋒鏑に死す。之をさ郞むこと甚だ厚し。吳漢、賈復、帝の世に終る。漢、軍に在つて、評當世世祖戰、或は利あらざるも、意氣自若たり。上、歎じて曰く、吳公、差も敵の所謂やてき一國內的や人意を强うす、隱として一敵國の如しと。師を出す毎に朝に詔機人間のでのを受けて、夕に道に就く。卒するに及び、上、臨んで言はむと欲す東漢-世祖光武皇帝-二九三 十八史略卷之三二九四る所を問ふ。漢曰く、臣愚、願はくは、陛下、愼んで赦すことなかざをらむのみと。復は、兵を起せし時より督たり。上曰く、賈督、千里を折衝するの威ありと。嘗て、戰つて傷を被る。上、驚いて曰く、吾、嘗て、其敵を輕んずるを戒む。果して然り。吾が名將を失ふ。聞く、其婦孕むるありと。子を生まむか、我が女之に嫁せしめむ。女を生まむか、我が子、之を娶らむと。其群臣を撫する、毎に此の如し。惟だ馬援死するの日、恩意頗る終へず援、嘗て曰く、大丈上夫當に馬革を以て屍を裏むべし。安んぞ、能く兒女の手に死なむやと。交趾反す。援伏波將軍を以て、之を討平す。武陵蠻反す。援、又行くを請ふ帝、其老ひたるを愍む。援甲を被り、馬に上上り、鞍に據つて顧眄し、以て用ゆべきを示す。上、笑つて曰く、矍鑠たる哉此翁やと。卽ち之を遣る。之より先、上の婿梁松、嘗て、援を候して牀下に拜す。援自ら父の友なるを以て答へず。松不ひ平なり。援、交趾に在り、嘗て、書を遣つて、其兄の子を戒めて曰く吾、汝曹、人の過を聞くこと、父母の名を聞くが如くならむことを欲す。耳には聞くべく口には言ふべからず。好んで人の長短を議論し、政法を是非する、子孫に此行在るを願はざるなり。龍伯高は、敦厚周愼、謙約節儉、吾、之を愛し、之を重んず。願はくは、汝曹、之に效へ。杜季良は、豪俠にして義を好み、人の憂を憂ひ人の樂を樂み、父の喪に客を致すや、數郡 畢く至る、吾、之東漢-世祖光武皇帝-二九五 十八史略卷之三二九六を愛し、之を重んず。汝曹の之に效ふを願はざるなり。伯高に效う鵠を刻して成らざるて得ざるも猶ほ謹敕の士とならむ、謂ゆる、大竹成線 電車 大阪すつらをにるして成てざ畫類も季良に效うて得ざれば、陷つて天下の輕狗れいす尙も、尙ほ鶩に類するなり。ら反つて狗に類するなりにばて類反成薄子とならむ。謂ゆる、虎を畫いて成らず、保を告し、と季良は杜保。保の仇人、上書して、援の書を以て證となす。保、坐して、官を免ず。松、保と遊ぶに坐して、幾んど罪を得むとし、愈よ援を恨む。是に至つて、援の軍、壺頭に至つて利あらず、軍中に卒す。松、構へて、之を陷れ、新息侯の印綬を收む。援、前に交趾に在つて、常に薏苡を餌す。身を輕くして瘴氣に勝つを以てなり。軍還る時、之を一車に載す。後に之を追讚する者あり、以爲へらく、明珠文犀なりと。上、益す怒る。朱勃、上書して、其寃を訟ふるを得て、乃ち稍や解く。上贓罪に於て貸す所なし。大司徒歐陽歙、嘗て、贓を犯す。歙の受くる所の尙書の弟子千餘人、闕を守つて求哀す。竟に免れず、獄に死す。用ゆる所の群臣、宋弘等の如き、皆、重厚正直。上の姉、湖陽公主、嘗て寡居す。意、弘に在り。弘、入つて見ゆ。主屏後に坐す。上曰く諺富んでは交を易へ、に言ふ、貴くしては妻を易ふと。人情か弘曰貧賤の交は忘るべ貧賤の交は忘るべからず、糟糠の妻は堂より下さずと。上、主ず、ず登精のを顧みて曰く、事諧はずと。主、蒼頭、人を殺して主の家に匿る下妻るあり。吏、得ること能はず。洛陽の令董宣、主の出行を候ふ。奴東漢-世祖光武皇帝-二九七 十八史略卷之三〓驂乘す。叱して、車より下して之を格殺す。主、入つて訴ふ。上大に怒り、宣を召して、之を捶殺せむと欲す。宣曰く、奴の人を殺すを縱さば、何を以て天下を治めむ。臣、捶を須たず。請ふ、自殺たせむと。卽ち頭を以て楹を叩き、血を流して面に被る。上小黃門をして、頭を叩へて、主に謝せしむ。宣兩手、地に據つて、終に肯んぜず。上、敕す、强項令出でよと。錢三十萬を賜ふ。當時州牧郡守縣州牧郡守縣令、皆、良吏たり郭仮、潁川に守たり。帝城に近し、令皆良吏上、之を勞して曰く、河、九里を潤す。京師福を蒙ると。杜詩、南陽に守たり、郡人之が爲に語して曰く、前に召父在り、後に杜母在りと。張堪漁陽に守たり。人之が爲に語して曰く、桑に附枝なく麥穗兩岐、樂支るべからずと。劉昆、江陵に令となる。火あ評劉の一叩頭して之に向へば、風を反して火を滅す。に條之個民 、のり。後に、弘農に守た語〓を然み」今り虎、北、河を渡る。上、問ふ、何の德政を行うて是に至る。昆の旨の座右進む曰く、偶然のみ。上曰く、長者の言なりと。命じて之を策に書せしむ。尤も高節を重んず。處士周黨を召す。至る。屈せず、伏して謁四重五十五せず、或ひと奏して、之を詆る。上曰く、古しへより、明王聖主は、西武士山必ず不賓の士ありと。帛を賜うて之を罷む。處士嚴光、上と共に、嘗て游學す。物色して、之を齊國に得たり。羊裘を披いて澤中に釣る。徵されて至る。亦た屈せず。上、光と臥す。足を以て、帝の腹に加ふ。明日、太史奏す、客星、御座を犯すこと甚だ急なりと。上東漢-世祖光武皇帝-二九九 十八史略卷之三三〇〇曰く、朕、故人嚴子陵と共に臥するのみと。諫議大夫に拜せらる。肯て受けず。去つて畊釣し、富春山中に隱れて終る。漢世、〓節の士多きこと、之より始まる。天下、未だ平ならざるに方つて、上既に文治に志あり。首として、大學を起し、古典を稽式し、禮樂を修明す。晩歲、明堂、靈臺、辟雍を起つ燦然たる文物述ぶべし。毎旦、朝を視、日昃いて、乃ち罷む。公卿郞將を引いて經理を講論し、夜分に乃ち寐ぬ。皇太子、聞に乘じて諫めて曰く、陛下禹湯の明あるも、黃老養性の道を失ふ。上曰く、我自ら此を樂む、疲るとなさざるなりと。在位三十三年、身、太平を致す。改元するもの二、曰く、建武、中元。書、六十二。太子立つ。之を顯宗孝明皇帝となす。【孝明皇帝】初名は陽、母は陰氏、光武、微なりし時、嘗て曰く、仕宦すれば、當に執金吾となるべし。妻を娶らば、當に陰麗華を得べしと。後、竟に之を得たり。陽を生む。幼にして、穎悟。光武、州郡に詔して、墾田戶口を檢覈す。諸郡、各、人を遣して、事を奏す。陳留の吏牘を見るに、上に書あり。之を視るに云ふ穎川弘農は、問ふべし、河南、南陽は、問ふべからずと。光武、吏に由を詰る。惟だ街上に於て、之を得たりと言ふのみ。光武、怒る。陽年十二、幄後に在り。曰く、吏、郡敕を受け、墾田を以て、相方べむと欲するのみ。河南は帝城、近臣多し。南陽は帝〓、近親多し。東漢-孝明皇帝-三〇一 十八史略卷之三三〇二せいじゆんなじ田宅、制に踰ゆ、準となすべからずと。以て、吏を詰る。吏首じざくわくくわうごうはいいんきじんめて服す。光武、大に之を奇とす。郭皇后、廢せられ、陰貴人、さう立つて后となる。陽を皇太子となし莊と改名す。是に至て卽位す。へきようのぞやうらうれいきう永平二年。辟雍に臨んで、養老の禮を行ふ。李躬を以て三老となくわんえいらうかうたんし、桓榮を五更となし、三老は東面し、五更は南面す。上、親ら袒せいさしやうとしやくいんして、牲を割き、醬を執つて饋し、爵を執つて醋す。禮畢つて、榮のぼくわんたい及び弟子を引いて、堂に升らしむ。諸儒、經を執つて問難す。冠帶しんめぐくわんちやうおくまんけい縉紳の人、橋門を圓りて觀聽する者、億萬計。うんだいおう三年。中興の功臣二十八將を南宮の雲臺に圖畫し、二十八宿に應とうはせいごかんわうれうかさちんしゆんかうかんず。鄧禹を首となし、次は馬成、吳漢、王梁、賈復、陳俊、耿弇、ともかうじゆんふしゆんしんはうけんじんへういわうは杜茂、しゆいうじんくわうさいじゆん寇恂、傅俊、岑彭、堅鐔、馮異、王霸、朱祐、任光祭遵ちうけいたんばんしうがいえんひ李忠、からてうきりうしよくかうじゆん景丹、ざうきうはぶ萬修、盖延、形邳、銚期、劉植、耿純減宮、馬武、はえん劉隆。あづ惟だ、馬援のみは、皇后の父たるを以て與からず。とうへいわうさう十一年。東平王蒼、へうきしやうぐん來朝す。蒼、上の卽位の初より、驃騎將軍と1なり、五年にして、國に歸る。是に至つて、入朝す。上、問ふ、家をきういはに處つて、何を以て樂となす。蒼曰く、善を爲すこと最も樂しと。ませいゐきとぼきかうゐ十七年。かうへい復た西域都護、けうど戊己校尉を置く。初め、耿秉、匈奴を伐たむことを請ふ。ひ謂ふ、う宜しく、武帝が西域に通じて匈奴の右臂を斷ちしが如くなるべしと。とうこ上、之に從ひ、乗と竇固とを以て都尉とりやうしうたむろかははんてうなし、凉州に屯す。固、假司馬班超を西域に使せしむ。超、部善に東漢-孝明皇帝-三〇三 十八史略卷之三三〇四至る。王、之を禮すること、甚だ備はれり。匈奴の使來るや、頓かか虎穴に入らに、疎僻なり。超、吏士三十六人を會して曰く、虎穴に入らざればざれば虎子を得ず虎子を得ずと。虜營に走つて、其使及び從士三十餘級を斬る。都善の一國、震怖す。超告ぐるに、威德を以てし、復た虜と通ずるなからしむ。超、復た于寅に使す。其王、亦た虜使を斬つて、以て降る。是に於て、諸國、皆、子をして入侍せしめ、西域復た通ず。是に至つて、竇固等、車師を擊つて還り、陳睦を以て都護となし、及び耿恭を以て戊校尉となし。關龕を己校尉となし、分つて西域に屯せしむ。十八年。北匈奴、戊校尉耿恭を攻む、初め、上卽位の明年、南單于比死す。弟莫立つ。上、使をして、重緩を授けしむ。北匈奴、邊に寇す。南單于、擊つて、之を卻く。漢、北匈奴と交使す。南單干、怨んで、畔かむと欲し、密に人をして與に交通せしむ。漢度遼將軍を五京に置いて、以て之を防ぐ。旣にして、漢北匈奴を擊つ北匈奴、亦た邊に寇す。是に至つて、恭を金蒲城に攻む。恭、毒藥を以て、矢に傅け、匈奴に語つて曰く、漢家の箭は神なり、中事る者は異ありと。虜創を視れば、皆沸く。大に驚く。恭、暴風雨に乘じて、之を擊つ。殺傷甚だ衆し。匈奴、震怖して曰く、漢兵は神なり、眞に畏るべしと。乃ち解いて去る。上崩ず。在位十八年。改元するもの一曰く永平。壽四十八。上東漢-孝明皇帝-三〇五 十八史略卷之三三〇六評孝明偏察性偏察、好んで耳目を以て、隱發して、明となす。公卿大臣、數ば小慧隱發以爲す名て得たりと君に詆毀せられ、近臣尙書以下提曳せらるるに至る。嘗て、郞藥崧を怒あらずり、杖を以て、之を撞く。崧、走つて、床下に入る。上、怒ること天子穆穆諸甚しく、疾く言つて曰く、郞出でよ、郞出でよ。崧曰く、天子穆穆侯皇皇たり、諸侯皇皇たり、未だ人君自ら立つて郞を撞くを聞かずと。乃ち之を赦す。上、建武の制度を遵奉して更變するなし。后妃の家、侯に封ぜられ、政に預るを得ず。館陶公主、子の爲に郞を求む。上曰く、郞官は、上、列宿に應じ、出でては百里に宰たり苟くも其人に非ざれば、民、其 殃を受けむと。許さず當時、吏、其人を得て、民、其業を樂み、遠近畏服し、戶口滋殖す。太子立つ、是を肅宗孝章皇帝となす。【孝章皇帝】名は恒、母は賈氏。馬皇后、之を養ひ、立つてい太子となる。是に至つて卽位す。西域、都護を攻沒す北匈奴、己校尉を圍み、又、耿恭を圍む。詔して、兵を遣り都護及び戊己校の尉官を罷む。惟だ、班超上疏して、兵を請ひ、遂に西域を平げむと欲す。上、功の成るべきを知つて、之に從ふ。北匈奴の五十八部、來り降る。時に、北匈奴、衰耗し、黨衆離畔す。南部、其前を攻め、丁零、其後に寇し、鮮卑、其左を擊ち、西域其右を攻め、復た自立する能はず。乃ち、遠く引いて去る。鮮東漢-孝章皇帝-三〇七 十八史略卷之三三〇八卑、北單于を斬る。故に、部衆、來り降る者あり。上崩ず。在位十三年。改元するもの三、曰く建初、元和、章和壽三十一。上、明帝察察の後を繼で、人の苛切を厭ふを知り、事寛厚に從ひ、之に交ゆるに禮樂を以てす。嘗て、貢擧法を議す。韋彪、議して曰く、國、賢を簡ぶを以て務となす。賢は、孝行を以て忠臣氏求む首となす。忠臣を求むるは、必ず孝子の門に於てすと。上、之を然認證ず孝子の門に於りとす。廬江の毛義、行義を以て稱せらる。張奉之を候す。府檄孝て子すき毛義適ま至り、義を以て安陽の令に守たらしむ。義、檄を捧げて入り、喜顏色に動く奉、心に之を賤む。後に、義の母死するや、徵辟皆、至らず。奉、乃ち歎じて曰く、往日の喜は、親の爲に届す評元孝前漢は四孝るなりと。上、詔を下して、之を褒寵す。州郡、人を得たり。廉范十明漢太年孝は平の蜀郡に在るが如き、禁を弛めて、以て民に便す。民、之を歌うて章光あ武七孝東約曰く、廉叔度、來何暮、不禁火、民安作、昔無襦、今五袴、と。漢の祚太以長平あしり所玆に當時、皆以て、徭を平かにし、賦を簡にす。忠恕の長者、政を爲し、上の世を終るまで、民、其慶に賴る。太子立つ、是を孝和皇帝となす。【孝和皇帝】名は肇、母は梁氏、竇太后之を子とし、年十歲にして卽位す。竇后、朝に臨み、竇憲、外戚を以て侍中たり、事を用ゆ。罪あり、出でて北匈奴を擊つて、以て自ら贖はむことを求む。后石にしし之に從ひ、大に匈奴を破り、燕然山に登り功を勒して東漢-孝章皇帝-孝和皇帝ー三〇九 十八史略卷之三三一〇還る。入つて、大將軍となる。四年、父子兄弟、並に卿校となり、朝廷に充滿す。逆謀あり。上、之を知り、遂に宦者鄭衆と議を定め、兵を勒し、憲の印綬を收め、迫つて自殺せしむ。衆を以て、大宦官權を用ゆるの始長秋となし、常に與に政を議す。宦官、權を用ゆる之より始まる是より先、漢兵、北單于を擊つ。走つて死す。漢其弟を立つ。後に叛す。追うて斬つて、之を滅す。鮮卑徙つて、北匈奴の地に據る。之より、漸く盛なり。評將の典型班超は武班超を徵して、京師に還らしむ。卒す。超、書生より起り、筆を投じて、萬里外に封侯たるの志あり。相者あり謂つて曰く、生、燕頷虎頭、飛んで肉を食ふ、萬里侯の相なりと。假司馬より、西域に入り、章帝の時、西域の將兵の長史となる。上、超を以て西域の都護となす。諸國を平定す。西域に在ること三十年。功を以て、定遠侯に封ぜらる。是に至つて、年老いたるを以て、歸るを乞ひ、願はくは、生きて玉門關に入らむといふ。上之を許す任尙、代つて都護となる。〓を請ふ。超曰く、君、性嚴急なり。水〓けれ「評言東起こ)け訓ば、大魚なし。宜しく、蕩佚簡易なるべしと。尙、私に人に謂つて水れば大魚な-宜しく曰く、我班君、當に奇策あるべしと。今、言ふ所は平平たるのみ蕩迭簡易な)と尙、後、果して、邊和を失ふ。超の言の如し。後人味ふべ上在位十八年、崩ず。改元するもの二、曰く、永元、元興。太子立つ是を孝殤皇帝となす。東漢-孝和皇帝- 孝殤皇帝ー三二 十八史略卷之三三一二【孝殤皇帝】名は隆、生れて百餘日にして卽位す。延平と改元す。在位八閱月にして崩ず。時に、皇太后鄧氏、朝に臨み、郵隱と共に策を定め、嗣を立つ、是を孝安皇帝となす。【孝安皇帝】名は祐、〓河王慶の子、章帝の孫なり。未だ冠せず、迎へられて位に卽く。鄧后、尙ほ朝に臨む。鄧隱、大將軍となる。時に、邊軍多事。鄧隱、凉州を棄てて力を北邊に併さむと欲す。郞中虞調、以て不可となす。曰く、關西將を出し、關東相を出す。烈士武夫、多く凉州より出づと。衆皆、調の議に從ふ。隨謝を惡んで、之を陷れむと欲す。朝歌の賊、長吏を攻め殺して、州郡制する能はざるに會し、詡を以て、朝歌の長となす。故舊之を弔ふ(電話本局二四〇九)翻曰く、盤根錯節に遇はざれば、以て利器を別つなしと。官に至る順番地下ば傷け、其後の為に及び、壯士を募る。攻劫するものを上となし、人を偸盜するもの之に次ぐ。百餘人を收め得て、賊中に入らしめ、誘うて、劫掠せしめ、兵を伏せて、數百人を殺す。又、ひそかに、貧人の能く縫ふ者を遣して、賊衣を傭作せしめ、絲線を以て其裾を縫ひ、市里に出づる者あれば、卽ち之を禽にす。賊駭き散ず。縣境、皆平らぐ。太后、謝が將帥の略あるを知り、以て武都の太守となす。叛羌數千、謝を遮る。認.停まつて進まず。兵を請ひ、到るを須つて、乃ち發せむと宣言す。美、之を聞いて、旁縣に分鈔す。認、其散ずるに因つて、道を進む。軍士をして、各、兩竈を作らしめ、日東漢-孝殤皇帝-孝安皇帝-三一三 十八史略卷之三三一四に之を增倍す。或ひと曰く、孫牘は竈を減ず。然るに、君之を增す。兵法に、日に行くこと三十里に過ぎず。然るに、今、日に二百里ならむとするは何ぞや。翻曰く、虜の衆は多く、吾が兵は少し徐に行けば、及ばれ易く、速に進めば、彼測らず。虜吾が竈の日に增すを見れば、郡兵來り迎へしと謂はむ衆多くして、行くこと速評なれば、必ず我を追ふに憚らむ。孫臏は、弱を示す、吾、今强を示示孫るる論用す示虞し廣べこにに兵し謝ては成きとああ法ては成〓は成强功運功をしああ法てはす、勢同じからざるなりと。旣に到る。郡兵三千にして美は萬餘。赤亭を攻圍すること數十日。調、命ず、强弩を發する勿れ、ひそからりり知ざ理に小弩を發せよと羌、力弱くして到る能はずと謂ひ、兵を并せてをな急に攻む。是に於て、二十の强弩をして、共に一人を射らしむ。發すれば、中らざるなし。美、大に驚く。認、因つて、城を出でて奮擊す。明日、悉く其兵を陳し、東郭門より出でて、北郭門に入らしめ、衣服を貿易して、囘轉すること數周美、其數を知らず相さ恐動す。認、ひそかに淺水に於て、伏を設け、其走路を候ふ。美、果して大に奔る。因つて、掩擊して、大に之を破る。賊之に由つて敗散す。太后、崩ず。鄧隱、罷められて自殺す。汝南の太守王襲、才を好み、士を愛す。袁聞を以て功曹となし、黃憲陳蕃等を引進す。憲の父は牛醫、憲、年十四。潁川の荀淑く逆旅に遇ひ、竦然之を異として曰く、子は吾の師表なりと。聞を見東漢-孝安皇帝-三一五 十八史略卷之三三一六て曰く、子の國に顏子あり。聞曰く、吾が叔度を見たるかと。戴良才高し。憲を見て歸る毎に、惘然自失するが若し。其母曰く、汝、復た牛醫の兒より來るかと。陳蕃等、相謂つて曰く、時月の間も、太原の廓泰黄生を見ざれば、鄙吝の萌、復た心に存すと。太原の郭泰、闘を過ぐるに宿せず。憲に從つて、日を累ぬ。曰く、奉高の器は、之を沈5hわ?濫に譬ふ。〓しと雖も、挹み易し。叔度は、汪汪として、千頃の波のむねに、之を〓ませども〓まず、之を撓せども濁らず、量るべからざるなりと。憲初め孝廉に擧げられ又公府に辟さる。人、其仕を勸む。しばらく、京師に至つて卽ち還り、年四十八にして終る。太尉楊震自殺す太尉楊震、自殺す。震は關西の人、時人之を稱して曰く、關西の孔子は楊伯起と。生徒に〓授す。堂下に三〓を得たり。都講以爲へらく、三公の象ありと。取つて、以て進めて曰く、先生、之より升らむと。後、嘗て、郡守となる。屬邑の令、金を懷にして、之に遣天知る者あり。曰く、暮夜知る者なし。天知る、とぞ我知震曰く、子知る子ター何る地地知る、知る)我知る、る、何ぞ知るなしといはむと。令、慚ぢて退く三公とない知はるんなるに及びて、時に宦者及び上の乳母王聖事を用ゐ、皆、請託あり。震、從はず。又數ば近習を以て言となし、共に之を構へ、策して、印綬を收む。遂に死す。葬るの日、名士皆來り會す。大鳥あり、高さ丈餘、墓前に至つて俯仰し、流涕して去る。上、少にして聰明と號す。旣に位に卽いて、失政多し。在位十九東漢-孝安皇帝-三一七 十八史略卷之三三一八年にして崩ず。改元するもの五、曰く、永初、元初、永寧、建光、延光。太子、前に近習に譜せられ、坐して廢して濟陰王となる。閣皇后、朝に臨み、閻顯と共に、章帝の孫北〓侯懿を迎へて位を嗣がしむ。宦者孫程等、顯を誅し、闇后を遷して、濟陰王を迎立す、之を孝順皇帝となす。【孝順皇帝】名は保、孫程等の立つる所となる。宦官、功を以て侯に封ぜられし者十九人。尙書令左雄、奏して、郡國に令して孝廉を擧げしめ、年四十以上を限る。諸生、章句に通じ、文吏賤奏を能くすれば、乃ち選に應6 iずるを得。其茂材異等ある、顏淵、子奇の若きは、年齒に拘らざらしむ。雄公直精明にして、能く眞僞を審覈し、志を決して、之を行ふ。少年を擧げて至る者あり。雄之を詰つて曰く、顏囘は、一を聞いて十を知る。孝廉は一を聞いて幾を知るかと。之を頃くして、中外、謬擧に坐して黜免せらるる者、十餘人。惟だ、汝南の陳蕃、潁川の李膺、下邳の陳球等三十餘人、郞中に拜せらるるを得たり皇后の父梁商を以て大將軍となす。商、死す、其子冀を以て大將軍となし、不疑を河南の尹となし、使者八人を遣して、州郡を分行豺狼道に當安せしむ。張綱、獨り、其車輪を洛陽の都亭に埋めて曰く、豺狼、道問んはぞ·銀座社んに當る。安んぞ狐狸を問はむと。冀と不疑とが君を無みするの心を東漢-孝順皇帝-三一九 十八史略卷之三100効奏すること十五事。上、綱の言直なるを知れども用ゆる能はず、冀、之を中傷せむと欲す。廣陵の賊張嬰、揚徐の間を寇亂すること十餘年。乃ち、綱を以て、廣陵の太守となす。綱單車にして、徑に嬰の壘門に至り、請うて、與に相見て、之を譬曉す。嬰等、萬餘人降る。綱、壘に入つて宴し、散遣して、之く所に任かす。南州、ぶ晏然たり。郡に在つて卒す。嬰等、之が爲に服を制し、喪を行ふ。良吏蘇章時に二千石、長吏、政を能くする者あり。冀州の刺史蘇章、故人、〓河太守となるあり。章、部を行り、爲に酒を設けて、甚だ歡ぶ。守、喜んで曰く、人、皆、一天あり。我獨り二天ありと。章曰く、今日、蘇孺文、故人と飮する者は、私恩なり。明日、冀州刺史として、事を案ずるは、公法なりと。遂に、其姦贓の罪を擧正す。上在位二十年。崩ず。改元するもの五、曰く永建、陽嘉、永和、漢安、建康太子立つ、之を孝冲皇帝となす。【孝冲皇帝】名は炳、年二歲にして卽位す。三閱月にして崩ず。改元するもの一、曰く承嘉梁太后、渤海孝王の子を迎へ立つ、是を孝質皇帝となす。【孝質皇帝】名は繼、章帝の曾孫なり。年八歲にして卽位す。少にして、聰慧なり。嘗て、朝會に因つて、梁冀を目して曰く、是れ跋跋扈將軍扈將軍なりと。冀深く之を惡み、左右をして、餅中に於て毒を進めしむ。遂に崩ず。在位一年。改元するもの一、曰く、本初。冀東漢-孝順皇帝-孝冲皇帝-孝質皇帝-三 十八史略卷之三三二二蠡吾侯を迎立す、之を孝桓皇帝となす。【孝桓皇帝】名は志、章帝の曾孫なり。年十五にして卽位す。梁冀定策の功を以て、封を益す。又、其子弟を封じて皆侯とす。李固、杜喬、〓河王蒜を立てむと欲す。是に至つて、蒜、貶せられて候となり、自殺す。固、喬、獄に下つて死す。前の朗陵侯の相穎川の荀淑、少くして博學、高行あり。李固李膺等之を師宗とす。朗陵に相たるや、治、神君と稱す。子八人、時人、稱して八龍となす。其六を爽といふ、字は慈明。人言ふ。荀氏の八龍、慈明、無雙なりと。縣令、其里を命づけて陽里といふ爽、嘗て、李膺に謁し、因つて、之が爲に御す。旣に還つて、喜んで曰く、今日、乃ち李君に御するを得たりと。同郡の陳寔、淑と名を齊しうす。嘗て、淑に詣る。長子紀、字は元方、車を御し、次子諶、字は季方、驂乘し、孫群、字は長 文、尙ほ幼、車中に抱淑の家に至るや、八龍更迭して、左右に侍し、淑の孫或、字は文若、尙ほ幼、膝上に抱置す。太史奏す、德星見はる、五百里内、賢人の聚まるあらむと、寔嘗て、大丘の長となり、德を修めて〓淨なり吏民是を追思す。紀諶の子、其父の優劣を其祖に問ふ。寔難爲兄難曰く、元方は兄たり難し、季方は弟たり難しと。爲弟評一崔寔の政詔して、獨行の士を擧ぐ。涿郡の崔寔、公車に至り、對策せず以て殘を練かんとするして、退いて政論を著す。略に曰く、聖人は、能く世と推移す。俗東漢-孝桓皇帝-三二三 三二四十八史略卷之三んおけつじようやくらんしんしよざは、苦んで變を知らず、以爲へらく、結繩の約は、亂秦の〓を治をる治刑もめ以はををにと疾梁以しすを肉をててる治し大とる以は平罰のんてけいばつううまひへいじやうむべく、于羽の舞は平城の圍を解くべしと。夫れ、刑罰は亂を治むとくけうれうにくざんやくせき殘を除くむるの藥石なり、德〓は平を興すの梁肉なり。德〓を以て、味るの供藥求ふのな養石は、是れ梁肉を以て疾を治むるなり。刑罰を以て、平を治むるは、にすもておんたいおほぎよべ所りすきようやう是れ藥石を以て供養するなり。そのくつわ數世より以來、ぼとはし政くわうろけんけい恩貸多く、まさ馭は3そのたづな方に勤其轡を委て、馬は其衝を駘ぎ、けん四牡橫に犇り、あ皇路險傾すくわらんなせつそうけんしう節奏を拑し、軸を韃し、以て之を救はむとす、豈に和鸞を鳴らし、いうしいとま右趾をを〓むるに暇あらむや。むかし、文帝、肉刑を除くと雖も、きしうたわうしたう文帝、斬るに當するを棄市し、答るる者は、往往死に至る。是れ、ちうちやうとうげん其嚴を以て平を致す、寛を以つ平を致すに非ざるなりと。仲長統、つううつ書を見て曰く、凡そ、人主たらん者、宜しく、一通を寫して、之をざそくお座側に置くべしと。しゆぼくしうししいんと朱穆、冀州の刺史となる。令長、風を望み、印を解いて去る者數いたとんをそうがいくわんじやきさうぎよくかふ十人到るに及びて、貪汚を奏効す。宦者父を歸葬するに、玉匣もちあんけんそのくわんひらを用ゆる者あり。穆案驗し、其棺を剖いて、之を出す。上、聞いめていゐいただいがくせいりうたうらて、大に怒り、穆を徵して、廷尉に詣らしむ。大學生劉陶等、數千うつたちうくわんこくへいせつぢ人上書して、穆を訟ふ、謂ふ、中官、國柄を竊持し、手に玉爵をにぎてんけんさかうぜんかへりつく握り、口に天憲を街む。穆、獨り、亢然として顧みず、心を竭し、いだぼく憂を懷いて、上の爲に深く計る。臣、願はくは穆の罪に代らむと。またじやうそりよう上之を赦す。陶、又上疏して、穆及び李膺を以て、王室を輔けむ東漢-孝桓皇帝-三二五 十八史略卷之三三二六ことを乞ふ。書、奏すれども、省せず。梁冀、凶恣日に積む。外戚を以て、事を用ゆるもの二十年。威內外に行はれ、天子、手を拱するのみ。上、宦者單超等と謀り、兵を勤して、冀の印綬を收む。冀自殺す。梁氏、少長となく、皆棄市せらる。超等五人、皆、侯たり。冀の誅せられしより、天下、異政を想望す。黃瑀、首として大尉となる。陳蕃、處士徐穉、姜肱等を薦む。穉字は孺子、豫章の人。陳蕃守たりし時、特に一榻を設けて、穉を待ち、去れば之を縣く。稱、対諸公の辟に應ぜず。然れども、其死を聞けば、輙ち笈を負うて、赴ついて弔ひ、豫め一雞を炙り、酒を以て綿に漬し、暴乾して、之を裏み、家隧の外に至り、水を以て綿に漬し、白茆、飯を藉き、雞を以て前に置き、祭り畢れば、謁を留め、喪主を見ずして行く。肱は彭城の人、二弟、仲海、季江と倶に孝友なり。常に被を共にす。嘗て主盜に遇ふ。兄弟死を爭ふ。盜兩つながら之を釋す。稱肱徵さる。皆、至らず。黃瑀、卒す。四方の名士、葬に會する者七千人。穉、至る。爵を進めて哀哭し、生芻を墓前に置いて去る。諸名士曰く是れ必ず南州の高士徐孺子ならむと。陳留の茆容をして、之を追はしめ、國事を問ふ。答へず。太原の郭泰曰く、孺子、國事を答評當世其愚及ぶべへず。是れ其愚及ぶべからざるなりと。泰初め、洛陽に游ぶ。李者保して在贋與に友たり。膺、嘗て、郷里に歸る。送車數千兩贋、惟り泰東漢-孝桓皇帝-三二七 十八史略卷之三三八と舟を同じうして濟る。衆賓、之を望む者神仙の如しといふ容、年四十餘、野に畊す。雨に遇うて、樹下に避く。衆皆、箕踞す5す容、獨り、危坐して、愈よ恭し。泰見て之を異とし、遂に、勸め鉅鹿の孟敏て學ばしむ。鉅鹿の孟〓、甑を荷うて地に墜す。顧みずして去る。泰、見て之を問ふ、曰く、甑。旣に破る、之を視るも、何の益あらさ、上むと。泰亦た勸めて學ばしむ。自餘、泰の奬進に因つて、名を成す者、甚だ衆し。泰、有道に擧げらる。就かず。曰く、吾、夜は乾天の廢する所。支ふべか象を觀、晝は人事を察す、らざるなりと陳留の仇香、名は覽、年四十にして、蒲亭の長となる民に陳元といふ者あり、母元の不孝を告ぐ。香、親ら其家に至り、爲に人倫れいわうくわんを陳ぶるや、感悟して、卒に孝子となる。孝城の令王奐香を署して主籍となす。謂つて曰く、陳元、罰せずして、之を化す、鷹鶴の志を少くなきを得むや。香曰く、以爲へらく、鷹鶴は鸞鳳に若かずと奐曰く、根棘は鸞風の種む所に非ず、百里は大實の路に非ずと。乃ち、香に資して太學に入らしむ。常に自ら守る。泰房に就て、之を見るや、起つて床下に拜して曰く、君は泰の師なりと。徵辟に應ぜずして卒す。黃瑀より以來、三公、楊秉、劉寵の如き、皆人望あり。寵、嘗て會稽に守たり。郡大に治まる。徵さる。五六の老叟あり。山谷の間より出で、人每に百錢を賣して曰く、明府車を下つて以來、狗東漢-孝桓皇帝-三二九 十八史略卷之三三三〇夜吠えず、民、吏を見ず。今、當に棄て去らるべしと聞く。故に自何ぞ能く公の言に及ばむや、ら扶けて奉送す。寵曰く、吾が政、父老を勤苦すと。人每に、一大錢を選んで、之を受く。後、入つて、司空となる。秉、朝に立つて正直。河南の尹となる。時に嘗て宦官に忤ふを以て罪を得たり。後、大尉となつて、以て卒す。陳蕃、秉に繼いで大尉となる。數ば李膺を言ひ、以て司隷校尉となす。宦官之を畏れ、皆、鞠躬、氣を屏け、敢て宮省を出でず。時に、朝廷、綱紀頽弛す。麿獨り、風裁を持し、聲名を以て自ら尙ぶ。士、其登龍門容接を被る者あれば、名づけて、登龍門といふ劉寛を以て、尙書令となす。寛.嘗て三郡に歷典し、仁恕多し。吏民、過あれば、蒲鞭を以て之を罰す。初め、上、候たりし時、學を甘陵の周福に受く。位に卽くに及びて、擢でて、尙書となす。時に、同郡の房植、名あり。〓人、謠うて曰く、天下の規矩は房伯武、師に因つて印を獲たるは周仲進と二家の賓客、互に相譏揣して、隙を成す。之に由つて、甘陵に南北黨人の議部あり。黨人の議、是に始まる。汝南の太守宗資、范滂を以て功曹となし、南陽の太守成増、岑旺を以て功曹となし、皆、善を褒して惡を疾むこと讐の如し。違を糾す。滂、尤も剛勁、二郡、謠うて曰く汝南の太守は范孟博、南陽の宗資、畫諾を主る。南陽の太守は岑公孝。弘農の成増は但だ坐嘯すと。太學の諸生三萬餘人、郭泰東漢-孝桓皇帝-풀 十八史略卷之三三三二)賈彪、之が冠となり、陳蕃、李膺と更る相推重す。學中、語つて曰 天下の摸階は李元禮、强禦を畏れざるは陳仲擧と。是に於て、中外風を承け、競うて、臧否を以て相尙ぶ。會ま、成増、太原の守くわん〓〓劉項と與に、赦後に於て、宦官の黨を案殺す。徵して獄に下し、將に棄市せられむとす。山陽の守翟超張儉を以て、督郵となす。宦官の制を踰えたる家宅を破る。東海の相黃浮、亦た宦官の家屬、法を犯せる者を收めて、之を殺す。宦官、寃を訴ふ。皆、罪を得たり。蕃、屢ば之を爭ふ。上、聽かず。宦官、人をして上書せしめ、李膺が太學の遊ををひ、與に部黨をなし、朝廷を誹訓し、風俗を疑亂するを告ぐ。上、震怒し、郡國に下して、黨人を逮捕す。案、ら、三府を經。蕃、郤けて肯て署せず。上、愈よ怒り、膺等を北寺の獄に下す。辭杜密、陳寔、范滂等、二百餘人に連る。使者、追捕四出、蕃又極諫す。上、策して、之を免ず朝廷震慄、敢て復た黨人の爲に言ふ者なし。賈彪曰く、吾、西行せずむば、大難解けずと。乃ち洛陽に入り、皇后の父竇武に說き、上疏して、之を解く。膺等の獄辭、又多く宦官の子弟を引く。宦官、乃ち懼れ、上に白して、黨人二百餘人を赦して、貨、田里に歸らしめ、名を三府に書して、終身禁錮す。上、在位二十一年、改元するもの七、曰く建和、和平、元嘉、永興、永壽、延熹、永康。崩ず。竇皇后、解瀆亭侯を迎立す。之を孝靈皇帝となす。東漢-孝桓皇帝-三三三 十八史略卷之三三三評【孝靈皇帝】名は宏、章帝の玄孫なり。年十二にして卽位す。竇太る亡位冲帝所をすに以東以早是し後漢なめれて皆はりた衰卽幼和一一冲に后、朝に臨む。竇武、大將軍となり、陳蕃、太傅となる。天下の名賢を徴し、李膺、杜密等、皆、朝に列し、天下太平を想望す。蕃、ミ武、與に議し、宦官、國柄を操弄して、海內を濁亂するを以て、奏して、曹節、主甫等を誅せむとす。謀、泄る。宦者、夜、所親を召さし、血を〓つて、共に盟ひ、帝を請うて、前殿に御せしめ、詔板を作り、王甫を黄門令に拜し、其黨をして、節を持して、武等を收めしめ、誣ゆるに、大逆を以てし、先づ陳蕃を執へて之を殺す。武自殺す。首を都亭に梟す。太后を南宮に遷す。李膺、初め、廢錮すと雖も、士大夫、皆、其道を高しとして、朝廷を汚穢とし、更る相標榜して、稱號を爲り、竇武、陳蕃、劉淑を以て三君となす、言ふは、一世の宗とする所なり。李膺、荀昱、杜密、王暢、劉祐、魏朗.趙典、朱寓を八俊となす。言ふは人英なり。郭泰、范滂、尹勳、巴肅、宗慈、夏馥、蔡衍、羊陟を八顧となす、言ふは、能く德行を以て人を引くなり。張儉、翟超、岑晊、菀康、劉表、陳翔、孔昱1檀敷を八及となす、言ふは、能く人を導いて追宗せらるるなり。度尙、張邈、王孝、劉儒、胡母班、秦周、蕃嚮、王章を八厨となす、言ふは、能く利を以て人を救ふなり。陳蕃、竇武が事を用ゆるに及び、復た膺等を擧拔す。陳竇死し、膺等、復た廢鋼す。曹節、有司に諷して、諸の鈎黨を奏せしむ。膺.詔獄に詣つて考死す。滂、捕東漢-孝靈皇帝- IIIII 十八史略卷之三三三六にに就くや、母、與に訣れて曰く、汝、今李杜と名を齊しうするを得たり、死すとも、何ぞ憾みむと。滂、跪いて〓を受け、再拜して辭し、其子に謂つて曰く、汝をして、惡を爲さしめむとすれば、惡は爲すべからず。汝をして、善を爲さしめむとすれば、我、惡を爲さずと。聞く者、之が爲に流涕す。黨人死する者百人、其死徒廢鋼せ註て然と保は郭難し殄は世れい身所泰を邦濟もべ名明如人の云をた瘁ずをどふの謂のられし者、又六七百人。郭泰私に痛んで曰く、詩に云ふ、哲に亡ぶる。邦國殄瘁すと。漢室滅せむ。但だ、未だ鳥を瞻るに、爰に以し手止まる。誰の屋に子てするかを知らざるのみと。泰好んで、減否すふ能げんかくろん國の坐視と雖も、然も、危言覈論を爲さず、故に濁世に處して、禍 及ばず。ず批免諸儒に詔して、五經の文字を正さしむ。蔡邕に命じて古文、篆、(隸の三體を爲り、之を書して、石に刻し、太學門外に立つ。上、文學を好み、諸生の文武を能くする者を引き、並に鴻都門下に待制せしめ、太學を置立す。諸生、皆、斗管の小人なり、君子、之を恥づ。評買ふ番長18.7中人其を西邸を開いて、官を賣る。各、賈あり。崔烈、五百萬を以て、司銅が肉飯 200云々さんの徒を得たり。其子に問ふに、外議如何を以てす。子曰く、人、其銅さが肉臭を嫌ふのみと。張角鉅鹿の張角、妖術を以て〓授し、太平道と號し、符水、病を療す。弟子を遣して、四方に遊ばしめ、轉た相証誘す。十餘年間、徒衆數十萬。三十六方を置く、大方は萬餘、小方は六七千、各、渠帥を立東漢-孝靈皇帝-三三七 十八史略卷之三三三八黃巾て、一時與に起り、皆、黃巾を著け、所在燔劫す。旬月の間、天下曹操響應す。皇甫嵩等をして、黃巾を討たしむ。〓、沛國の曹操と軍を合せて、賊を破る。操の父嵩。宦者曹騰の養子となる。或は云ふ、じ夏侯氏の子なりと。操少にして機警、權數あり。任使放蕩にして、行業を治めず。汝南の許劭、從兄靖と共に、高名あり。共に〓月且評黨人物を覈論す。毎月、輙ち其題品を更む。故に汝南の俗月旦評あり。操往いて、劭に問うて曰く、我は如何なる人ぞと。劭、答評獨立派能人よす。之を劫す。乃ち曰く、子は治世の能臣、亂世の姦雄なりと。にい世世ふののし雄臣と亂べ姦操喜んで去る。是に至つて、賊を討つを以て起る。皇甫嵩、張角を討つ。角死す。嵩其弟と戰ひ、破つて之を斬る。上崩ず、在位二十二年。改元するもの四、曰く、建寧、熹平、光和中平。子辨立つ何太后、朝に臨む。后の兄大將軍何進、尙書くわん〓〓の事を錄す。袁紹、進に勸めて宦官を誅せしむ。太后、未だ肯んぜず。紹等、畫策し、四方の猛將を召し、兵を引いて、京に向はし董卓め、太后を脅し、遂に將軍董卓の兵を召す。卓、未だ至らず。進ん)室官に殺さる。紹兵を勤して、諸宦官を捕へ少長となく、皆之を殺す。凡そ二千餘人。鬚なくして、誤つて、死する者あり。卓、至る。亂の由を問ふ。辨年十四、語.了すべからず。陳留王、答へて、遺すなし。卓、廢立を欲す。紹、可かず。卓、怒る。紹出奔す。卓、遂に辨を廢す。陳留王立つ之を孝獻皇帝となす。東漢-孝靈皇帝-三元 十八史略卷之三三時○【孝獻皇帝】名は協、九歳にして董卓に立てらる。關東の州郡、兵を起して、卓を討ち、袁紹を推して、盟主となす。卓、洛陽の宮廟う)孫堅を燒いて、都を長安に遷す。長沙の太守、富春の孫堅、兵を起して、卓を討ち、南陽に至る。衆數萬。袁術と兵を合す。術、紹と同祖、皆、故の大尉袁安の玄孫なり。袁氏、四世五公、富貴、佗の公族に異なり。紹、壯健にして、威容あり。士を愛す。士輻輳す。術、亦た俠氣あり。是に至つて、皆起る。堅擊つて、卓の兵を敗荊州をる。術堅をして、圖らしむ。劉表の將黃祖の步兵に射られて死す。呂布司徒王允等、密に謀つて、卓を誅せむとす。中郞將呂布、膂力人흔に過ぐ。卓、之を信愛す。嘗て、少しく卓の意を失ふ。卓、手づから戟を布に擲つ布、避けて、免るるを得たり。允、布に結んで、內應を爲さしめ、卓の入朝するとき、勇士を北抜門に伏せて、之を刺す。卓、車より墮ち、大に呂布を呼ぶ。布曰く、詔あり、賊臣を誅すと。聲に應じて、矛を持して卓を刺し、趣に之を斬る。是よりきん〓〓き先、卓、塲を郿に築き、穀を積んで、三十年の儲をなし、金銀綺錦上奇玩、積んで丘山の如し。自ら云ふ、事成らば、天下に據らむ。成以て老いむと。らざれば、此を守つて是に至つて、屍を市に暴す。吏、"卓、素より肥えたり。大性を作つて、臍中に置いて之を燒く。光、曙に達するもの數日。卓の黨、兵を擧げて、闕を犯し、王允を東漢-孝獻皇帝-〓 十八史略卷之三三四二殺す。呂布去る。ちうざんせいわうしよう劉備涿郡の劉備、字は玄德。其先は、景帝より出づ。中山靖王勝の後關羽なり。大志あり、語言少く、喜怒色に形はれず。河東の關羽、涿郡張飛の張飛、備と相善し。備の起るや、二人、之に從ふ。孫策、孫權孫堅の子策、弟權と富春に留まり、舒に遷る。堅死する時、策年十七、往いて袁術に見え、其父の餘兵を得たり。策十餘歳の時、周瑜旣に交結して、名を知らる。舒人周瑜、策と同年、亦た英達夙成是に至つて、策に從つて起る。策東江を渡つて、轉鬪するや向ふ所、敢て其鋒に當る者なし。百姓、孫郞の至るを聞いて、皆魂魄を失ふ。至る所、一も犯す所なし、民、皆大に悅ぶ。初め、曹操、卓を討つ時より、榮陽に戰ひ、還つて河內を領し、尋いで、東郡の太守を領し、東武陽を治す。既にして、衰州に入つて、之に據り、自ら刺史を領し、使を遣して上書す。以て衰州の牧となす。上、洛陽に還る。操入朝し、上を許に遷す。操擊つて、呂布を殺す。初め、布、關中より袁術に出奔す。旣にして、又、操に攻められ、走つて劉備に歸し、旣にして、又、備はを襲うて、下邳に據る。備走つて、操に歸す。操備をして、沛に屯せしむ。布、陳登をして、操に見えしめ、徐州の牧たらむことを求む。得ず。登、還つて、布に謂つて曰く、登、曹公に見えて言ふ、將軍を養ふは、虎を養ふが如く、當に其肉に飽かしむべし、飽東漢-孝獻皇帝-三四三 十八史略卷之三三四四かざれば、人を噬まむと。公曰く、然らず、譬へば、鷹を養ふが如く饑うれば人に附き、飽けば屬り去らむと。布、復た備を攻む。備、走つて、復た操に歸す。操、布を擊つて、下邳に至る。布、屢ば戰つて皆敗れ、困迫して降る。操之を縛して曰く、虎を縛するは、急ならざるを得ずと。卒に之を縊殺す。備操に從つて、許に還る。袁術、初め、南陽に據る。旣にして、壽春に據る。識言に、漢に代るものは塗に當つて高しといへるを以て、自ら名字之に應ずといひ、遂に帝と稱す。淫侈甚し。旣にして、資實空虛、自立する能はす。袁紹に奔らむと欲す。操劉備をして、之を邀へしむ。術、走り還り、血を歐いて死す。孫策、旣に江東を定め、許を襲はむと欲す。未だ發せず。もと殺す所の吳郡の守許貢の奴、其出獵に因つて、伏して、之を射る。創評べる互孫兄江東の衆しとに氏甚し弟權を呼んで、代つて其衆を領せしめて曰く、相ふ識弟いじを擧げて、機を兩陣の間に決し、天下と衡を爭ふは、卿我に如かず。賢に任じ、能を使ひ、各其心を盡し、以て江東を保つは、我、卿に如かずと。卒す。年二十六。袁紹、冀州に據り、精兵十萬、騎一萬を簡んで、許を攻めむと欲す。沮授、諫めて曰く、曹操、天子を奉じ、以て天下に令す。今、兵を擧げて、南に向はば、義に於て違はむ。ひそかに、公の爲に、東漢-孝獻皇帝-三四五 十八史略卷之三三四六之を懼ると。紹、聽かず。操紹と官渡に相拒ぎ、襲うて、紹の輜重を破る。紹の軍、大に潰え、慚憤血を歐いて死す。車騎將軍董承密詔を受くと稱し、劉備と共に曹操を誅せむと大下の英雄す。操一日、從容として、備に謂つて曰く、今、天下の英雄、惟使君と操とみだ使君と操とのみと。備方に食し、七筋を失ふ。雷震に値ひ、詭つて曰く、聖人云ふ、迅雷風烈、必ず變ずと。まことに、以あるなりと。備旣に遺されて、袁術を邀ふ。因つて、徐州に之き、兵を起して、操を討つ。操之を擊つ。備先づ冀州に走り、兵を領して汝南に至り、汝南より〓州に奔り、劉表に歸す。嘗て、表の坐に於て、起つて〓に至り、慨然として、涕を流す。表、怪んで之を問iふ備曰く、當時、身、鞍を離れず、髀肉、皆消ゆ。今、復た騎せ髀裡肉生ずず、髀裏肉生ず。日月流るるが如く、老、將に至らむとして、功業諸葛亮建たず、之を以て悲しむのみと。瑯琊の諸葛亮襄陽の隆中に寓居し、毎に自ら管仲、樂毅に比す。備、士を司馬徽に問ふ。徽曰く伏龍鳳雛時務を識るは、俊傑に在り。此間、伏龍、鳳雛あり、諸葛孔明、龐士元なりと。徐庶、亦た備に謂つて曰く、諸葛孔明は臥龍なりと。き備、三度往いて、乃ち亮を見るを得たり。策を問ふ。亮曰く、操te百萬の衆を擁し、天子を挾み諸侯に令す、是れ誠に與に鋒を爭ふべからず。孫權、江東に據有し、國險にして民附く、與に援となすべくして圖るべからず。〓州は武を用ゆるの國、益州は險塞、沃野千東漢-孝獻皇帝-三四七 十八史略卷之三憂里、天府の土なり。若し〓益を跨有し、其巖阻を保てば、天下變ある時、〓州の軍は宛洛に向ひ、益州の衆は秦川に出でん。孰れか、上簞食壺漿、以て將軍を迎へざらむや。備曰く、善しと。亮と情好日る孤はの如のに密なり。曰く、孤の孔明あるは、猶ほ魚の水あるが如きなりと。あるが士元、名は統、龐德公の從子なり。德公、素より重名あり。亮其家に至る每に、獨り、床下に拜す。曹操、劉表を擊つ。表、卒す。子琮、〓州を擧げて操に降る。劉備.江陵に走る。操之を追ふ。備夏口に走る。操軍を江陵に進め、遂に東に下る。亮備に謂つて曰く、請ふ、救を孫將軍に求めむと。亮權を見て之に說く權大に悅ぶ。操權に書を遺つて曰く、今、水軍八十萬の衆を治す。將軍と吳に會獵せむと。權、以て群下に示す。色を失はざるなし。張昭、之を迎へむを請ふ。魯魯肅肅以て不可となし、權に勸めて周瑜を召さしむ。瑜至る。曰く、請ふ、數萬の精兵を得て、進んで夏口に往き、保して、將軍の爲に之を破らむと。權、刀を拔き、前の奏案を斬つて曰く、諸將吏、敢て操を迎へよといふ者は、此案に同じからむと。遂に瑜を以て、三と萬人を督せしめ、備と力を併せて操を逆へ進んで、赤壁に遇ふ。評定天赤ま下壁り三のし分戰まは瑜の部將黃蓋曰く、操の軍、方に進む、船艦首尾相接す。燒いて走所古古沈く詩あ戟日人らすべきなりと。乃ち蒙衝鬪艦十艘を取つて、燥荻枯紫を載せ、油折そ沙鐵半銷を其中に灌ぎ、帷幔に裏み、上に旌旗を建て、豫め走舸を備へて、東漢-孝獻皇帝-三四九 十八史略卷之三三五〇用雜誌其尾に繋ぎ、先づ書を以て操に遣り、詐つて降らむと欲すとなす。自郞東焼 肉 大 190前雀與朝銅不春周深鎖時に東南風急なり。蓋、十艘を以て、最も前に著け、中江に帆を擧牧)依二然喬杜形 村げ、餘船次を以て倶に進む。操の軍、皆、指して、蓋降るといふ。10月)此萬一浪明巳場片三郞江無長壁扼山荊前襄南故去ること二里餘。同時に火を發す。火烈しくして風猛、船往くこと東魏烏日河國秋去地鵲えん〓〓箭の如く、北船を焚き盡し、烟焔天に漲る。人馬溺燒して死するも人有大に壞陳今山分千の甚だ衆し。瑜等、輕銳を率ゐ、〓鼓して大に進む。北軍、)經百る。操走り還る。後に屢ば兵を權に加ふれども、志を得ず。操跡邊人歎息して曰く、子を生まば、孫仲謀の如くなるべし。前の劉景升の(趙翼)圓貳人三當國學 (電話軍)兒子は、豚犬のみと。薄皮終劉備、〓州、江南の諸郡を徇ふ。周瑜、權に上疏して曰く、備〓賊池上梟雄の姿あり、而して、關羽、張飛あり、熊虎の將なり。此三人を龍水竟得夜烏不紛漁流雲蛟秋江·自聚めて、疆場に在らしむれば、恐らくは、蛟龍、雲雨を得て、終に猶猶聲蕭我照渺客來〓聞鵠共紛燈池中の物に非ざるなり。宜しく、備を徒して吳に置くべしと。權寒吹靜從はず。瑜、方に北方を圖らむと議す。會ま病んで卒す。魯肅、代袁枚)さ、つて其衆を領す。肅、權に勸め、〓州を以て、劉備に借さしむ。呂あ下らの家賃た蒙に吳權之に從ふ。權の將呂蒙、初め學ばず。權蒙に勸めて、書を讀ましむ魯肅、後、蒙と論議す。大に驚いて曰く、卿は復た吳下の 阿蒙に非ず。蒙曰く、士別れて三日なれば、卽ち當に目を刮つて待つべしと。寵統劉備、初め、龐統を用ゐて、耒陽の令となす。治まらず。魯肅、東漢-孝獻皇帝-三五一 十八史略卷之三三五二備に書を遣つて曰く、士元は百里の才に非ず、治中別駕たらしむれば、乃ち驥足を展ぶるを得べきのみと。備之を用ゆ。益州を取るを勸む。備關羽を留めて、〓州を守らしめ、兵を引いて流を泝り、巴より蜀に入り、劉璋を襲ひ、成都に入る。備既に益州を得たり。孫權、人をして、備に從つて、〓州を求めしむ。備肯て還さず。旣にして、〓州を分つ。備蜀より漢中を取り、自立して、漢中王となる。漢中の將關羽、江陵より出でて、樊城を攻む。許より以南、徃徃司馬懿はるかに羽に應じ、威、華夏に震ふ。曹操、許都を徒して、以て其鋒を避けむと議するに至る。司馬懿曰く、備と權と、外親しくして內疎なり。關羽志を得る、權必ず願はざるなり。人をして、權に勸めて、其後を躡ましめ、江南を割いて、以て權に封ずるを許さしむべしと。操之に從ふ。時に、魯肅、既に死し、呂蒙、之に代樊をり、亦た權に勸めて、羽を圖る。操の師、救ひ、權の將陸遜、大又羽の後を襲ふ。羽、狼狽して走り還る。權の軍、羽を獲て、之を斬り、遂に〓州を定む。初め、曹操、兗州の牧より、入つて丞相となり、冀州の牧を領,し、魏公に封ぜらる。銅雀臺を鄴に作る。旣にして、爵を進めて王子丕を以て、となり、天子の車服を用ゐ、出入に警蹕す。王太子となす。操、卒す。丕、立つ。自ら丞相冀州の牧となる。魏の群臣、言東漢-孝獻皇帝-三五三 十八史略卷之三三五四ふ、魏當に漢に代るべしと。조、遂に帝に迫つて位を禪らしめ、評難波の2帝を以て、山陽公となす。帝、在位改元するもの三、曰く、初平、其ぶる在根相帝り本文明に興平、建安。元年より二十五年に至るまで、皆、曹操政を爲すの時以而鉄レート纖ぎ宦官進なり。共に三十一年。位を禪つて、又十四年にして卒す。漢は、高出權臣橫暴快餐で祖、元年、王となり、五年、帝となりしより、是に至つて、二十四最大誘因減たの世、四百二十六年。西紀自二二〇漢至二六五附魏吳二僭國按ずるに、曾氏云ふ。天下一統に非ざるものは、もと各自一·國に編集すべし。又初學の讀者、其時代の先後に迷はむことを恐る。今、但だ、一國の源流相接するものを以て、提頭となし、同時の國を其間に附すと。然れども、曾氏は、陳壽の舊に仍り、た魏を以て帝と稱して、漢吳を附す。刻旣に朱子綱目の義例に遵つて、少微通鑑を改正す。今、復た此書を正し、漢を以て、統を接すといふ。【昭烈皇帝】諱は備、字は玄德、漢の景帝の子、中山靖王勝の後。大志あり、言語少く、喜怒形はれず。身の丈七尺五寸、手を垂るれば、膝を下り、顧みて自ら其耳を見る。蜀中、傳へて言ふ、曹丕簒立し、帝、旣に害に遭ふと。是に於て、三國-漢-昭烈皇帝-三五五 十八史略卷之三三五六ぐ漢中王、喪を發し、服を制し、諡して孝愍皇帝といふ。夏四月、帝、位に武擔の南に卽き、大赦し、章武と改元す。諸葛亮を以て丞相となし、許靖を司徒となす。宗廟を立て、高皇帝以下を袷祭す。夫人吳氏を立てて皇后となし、子禪を皇太子と爲す。魏王、名は丕、姓は曹氏、沛國譙の人なり。父操、魏王たり。丕位を嗣ぐ。始めて、九品、人を官にするの法を立て、州郡、皆、九品の中正を置き、人物を區別し其高下を第す。조、旣に漢を簒し、自立して帝となり、操を追尊して太祖武皇帝となし黃初と改元す。帝、關羽の歿せしを恥ぢ、自ら將として孫權を伐つ。權和を求むれども許さず。權使を魏に遣す。魏權を封じて、吳王となす。かっ、魏王、吳使趙咨に問うて曰く、吳王、頗る學を知れりや。咨曰く、評趙に春て謂如眞し所ん外我が出て使吳王、賢に任じ、能を使ひ、志、經略に存し、餘閒あつて書史を博者辱也しはあ···覽すと雖も、書生の尋章摘句に效はず。魏王曰く、呉、魏を難かるじか咨曰く、帶甲百萬江漢を池となす、何の難ることか之あらむ。曰く、吳、大夫の如き者幾人。咨曰く、聰明特達の者、八九十人。臣の比の如きは、車に載せ、斗にて量るも、勝げて算ふべからずと。帝、巫峡より夷陵に至るまで、數十屯を立て、吳軍と相拒ぐこと累月、吳の將陸遜、其四十餘營を連破す、帝、夜、遁る。三國-漢-昭烈皇帝-三五七 十八史略卷之三〓魏王、吳の侍子を責む。至らず。怒つて之を伐つ。吳王、黃武と改元し、江に臨んで拒守す。三年。夏四月、帝崩ず。在位三年、改元するもの一、曰く章武。證して、昭烈皇帝といふ太子禪、卽位し、亮を封じて武〓侯となす。太子、旣に立つ、是を後皇帝となす。【後皇帝】名は禪、字は公嗣、昭烈皇帝の子なり。年十七にして卽評情義昭烈客廳中遺詔位し、建興と改元す。丞相諸葛亮、遺詔を受けて政を輔く。昭烈、人製作品川終に臨んで、亮に謂つて曰く、君の才、曹丕に十倍す。必ず能く國家を安んじ、終に大事を定めむ。嗣子、輔くべくむば之を輔けよ。若し其れ不可なれば、君、自ら取るべし。亮.涕泣して曰く、臣、い敢て股肱の力を竭し、忠貞の節を效し、其れに繼ぐに死を以てせざらむやと。亮、乃ち官職を約し、法制を修め、〓を下して曰く、夫れ參署は、衆思を集め、忠益を廣むるなり。若し小嫌を遠ざけ、相さ違覆するを難からば、曠しくして闕損せむと。亮、乃ち鄧芝を遣し吳に使して好を修めしむ。芝、吳王に見えて曰く、蜀に重險の固あり、吳に三江の阻あり、共に屑齒をなさば、進んでは、天下を兼〓鼎足の計すべく、退いては、鼎足して立つべしと。吳、遂に魏に絕つて、專ら漢と和す。魏主、舟師を以て吳を擊つ。吳、艦を江に列ね、江水盛長す。魏主臨望して、歎じて曰く、我、武夫千群ありと雖も、施す所なきな三國-漢-後皇帝-三五九 十八史略卷之三三六〇りと。是に於て、師を還す。南夷、漢に畔く。丞相亮、徃いて、之を平らぐ。孟獲といふ者あり、素より、夷漢の服する所たり。亮、生き乍ら、獲を致し、營七縱七禽陣を觀しめ、縱して更に戰はしむ。七縱七禽、猶は獲を遣る。獲去らずして曰く、公は天威なり、南人復た反せずと。魏主、又舟師を以て吳に臨み、波濤の淘湧するを見て、歎じて曰く、暖房、まことに、天、南北を限る所以なりと。魏主丕、殂す。僭位七年改元するもの一、曰く黃初。證して文皇帝といふ子叡立つ。是を明帝となす。叡の母、誅せらる。조、嘗て叡と共に出でて獵し、子母の鹿を見、既に其母を射、叡をして其子を射らしむ。叡、泣いて曰く、陛下、旣に、其母を殺す、臣、其子を殺すに忍びずと。조、惻然たり。是に及びて、嗣となつて卽位す。處士管寧、字は幼安。東漢の末より、地を遼東に避くること三十七年。魏之を徵す。乃ち海に浮んで、西に歸る。官に拜すれども受けず。漢の丞相亮、諸軍を率ゐて、北、魏を伐つ。發するに臨んで、前出師表上疏して曰く、今、天下三分、益州疲弊せり。是れ危急存亡の秋なり宜しく、聖聽を開張して、忠諫の路を塞ぐべからず。宮中府中は、倶に一體たり。陟罰、减否、宜しく異同あるべからず。若し、三國-漢-後皇帝- 1/21 十八史略卷之三三六二姦を作し、科を犯し、及び忠善の者あれば、宜しく、有司に付し、其刑賞を論じて、以て平明の治を昭にすべし。賢臣を親しみ、小人を遠ざくるは、是れ先漢の興隆せし所以なり。小人を親しみ、賢臣を遠ざくるは、是れ後漢の傾頽せし所以なり。臣、もと布衣、南陽に躬耕し、性命を亂世に苟全し、·聞達を諸侯に求めず。先帝、臣の卑鄙を以てせず、猥りに自ら枉屈して、臣を草廬の中に三顧し、臣に諮ふに當世の事を以てす。之に由つて感激し、先帝に許すに、驅馳を以てす。先帝、臣の謹愼を知り、崩ずるに臨み、寄するに大事を以てせり命を受けてより以來夙夜に憂懼し、付託の效あらず、以て先帝の明を傷けむことを恐る。故に、五月、濾を渡り、深く不毛に入る。今、南方、旣に定まり、兵用既に足る。當に三軍を奬率し評上海市建材工程有限公司出て、北、中原を定め、漢室を興復して、舊都に還すべし。是れ、臣が孔明先帝に報じて、陛下に忠なる所以の職分なりと。遂に漢中に屯す。初め、國民大學明年、大軍を率ゐて、祁山を攻む。戎陣整齊、號令明肅魏昭烈旣に崩じ、數歲寂然として聞く無きを以て、略ぼ備ふる所なし。猝に亮の出づるを聞き、朝野恐懼す。是に於て、天水、安定等の郡、皆、亮に應じ、關 中響震す。魏主、長安に如き、張部をして、之を拒がしむ。亮、馬駸をして、諸軍を督せしめ、街亭に戰ふ。嚴亮の節度に違ふ。部大いに之を破る。亮、乃ち漢中に還後出師表る。旣にして、復た漢帝に言つて曰く、漢と賊とは兩立せず、王業三國-漢-後皇帝-三六三 十八史略卷之三三六四偏安せず。臣、鞠躬、力を盡し、死して後に已まむ。成敗利鈍に至つては、臣の能く逆め観る所に非ざるなりと。兵を引いて、散關より出で、陳倉を圍みしが克たず。吳王孫權、自ら武昌に皇帝と稱し、父堅を追尊して武烈皇帝となし、兄策を長沙桓王となす。既にして、都を建業に遷す。蜀漢の丞相亮、又、魏を伐つて祁山を圍む。魏司馬懿をして、あ、諸軍を督して、亮を拒がしむ。懿、肯て戰はず、賈翻曰く、公、蜀を畏るること虎の如し、天下の笑を如何と。懿乃ち張郃をして亮に向はしむ。亮、逆へ戰ふ。魏兵、大に敗る。亮、糧盡くるを以て軍を退く。郃之を追ひ、亮と戰ひ、伏弩に中つて死す。亮還つさて農を勸め、武を講じ、木牛流馬を作り、邸閣を治め、民を息ひ、士を休め、三年にして後に、之を用ゆ。衆十萬を悉くして、又斜谷ニ口より魏を伐ち、進んで、渭南に軍す。魏の大將軍司馬懿、兵を引いて拒守す。亮前に、數ば出でしが、皆、運糧繼がず、己が志を伸びざらしめしを以て、乃ち兵を分ちて屯田し、耕者は渭濱居民の間に雜り、然も百姓安堵し、軍に私なし。亮數ば懿に戰を挑む。巾幗婦人の懿、出でず。乃ち遺るに巾幗、婦人の服を以てす。亮の使者、懿の服を〓る軍に至る。懿其寢食及び事の煩簡を問うて、戎事に及ばず。使者曰く、諸葛公、夙に興き、夜に寢ね、罪二十以上は、皆親ら覽る。瞰食する所は、數升に至らずと。懿人に〓げて曰く、食少く事煩三國-漢-三國漢-三六五 十八史略卷之三三六六孔明秋風五し、其れ能く久しからむやと。亮、病篤し。大星あり、赤くして芒丈忠孔原千亮、長史楊儀、評最而臣明卒す。雄先出あもしのはあり、亮の營中に墜つ。未だ幾ならずして、師り悲て典を生死滿長未日壯其型古奔〓軍を整へて還る。百姓、て、懿に〓ぐ。懿之を追ふ。姜維、死詩かへ儀をして、旗を反し、鼓を鳴らし、將に懿に向はむとするが若くせ走けせ襟使捷く英身淚死しむ。懿敢て逼らず。百姓之が爲に諺して曰く、死せる諸葛、生せらるるす仲諸葛達ける仲達を走らすと。懿笑つて曰く、吾、能く生を料るも、死を料る能はずと。亮、嘗て兵法を推演して、八陣の圖を作る。是に至つて、懿其營壘を案行し、歎じて曰く、天下の奇材なりと。亮政を爲すに私なし。馬騣、素より亮に知らる。敗軍に及びて、流涕ひして之を斬り、然も其後を郞む。李平廖立、皆、亮に廢せらる。亮の喪を聞くに及びて、皆、歎息流涕し、卒に病を發して死するに至る。史に稱す、亮、誠心を開き、公道を布き、刑法峻と雖も、然も、怨む者なし。眞に治を識るの良材なりと。然れども、其材、國を治むるに長じて、將略は所長に非ずといふは非なり。初め、丞ヘ相亮、嘗て、帝に表して曰く、臣、成都に桑八百株、薄田十五頃あり、子弟の衣食、自ら餘あり、別に生を治めて以て尺寸を長ぜず。評忠武公眞に純忠眞武臣死するの日、內に餘帛あり、外に贏財あり。以て陛下に負むかしめずと。是に至つて卒するや、其言の如し。忠武と諡す。국魏主、性、土功を好む。之より先、旣に許昌宮を治す。後、又洛陽宮を作り、長安の鐘篇、彙駝、銅人、承露盤を洛陽に徒す。盤三國-漢-後皇帝-三六七 十八史略卷之三奏折れ、聲數十里に聞こゆ。銅人、重くして、致すべからず。乃ち、大に銅を發して、銅人二を鑄て、司馬門外に列坐せしめ、號して、翁仲といひ、土山を芳林園に起し、雅木善草を植る、禽獸を捕へて、其中に致す。諫むる者、皆、納れず。魏主、疾あり。司馬懿を召して、入朝せしめ、曹爽を以て大將軍となす。魏主叡、殂す。在位十四年。改元するもの三、曰く太和、靑龍、景初。子芳立つ之を、廢帝邵陵の属公となす。芳、八歲にして、位に卽く。司馬懿、曹爽、遺詔を受けて、政を輔く。懿太赤傅となる。漢は、丞相亮既に亡せしより、蔣琬政を爲す。楊敏、琬を毀つて曰く、事を作すこと憤憤たり、前人に及ばずと。或ひと敏を推評蔣治せむを請ふ。琬曰く、吾、實に前人に如かず、すらがれ學いにて琬もざ前却ぶふ如自淡のる人てべ所から然推すべきなしと。り示劣れ是にと人しら前とか琬卒す。費褘、董允、政を爲し、公亮にして、忠を盡す。允、卒す。なをに彼し大ず姜維、費禕と並に政を爲す。魏の曹爽、驕奢にして度なし。司馬懿、之を殺す。懿魏の丞相となる。九錫を加ふれども、受けず。爽の黨夏侯霸、蜀に奔る。姜維、之に問うて曰く、懿政を得たり、復た征伐の志ありや否や。霸曰く、彼家門を營立す、未だ外事に遑らず。鍾士季といふ者あり、少と雖も、若し朝政を管すれば、吳蜀の憂なりと。魏の司馬懿卒す。其子師を以て撫軍大將軍となし、尙書の事を錄三國-漢-後皇帝-三六九 十八史略卷之三三七〇せしむ。吳王、殂す。證して、大皇帝といふ。子亮立つ。漢の費禕、汎愛にして疑はず。降人之を刺し殺す。姜維、事を用ゐ、數ば兵を出して魏を攻む。魏の李豐、數ば魏主に召さる。司馬師、其己を議するを知つて、之を殺す。魏主、不平なり。左右、師を誅するを勸む。魏主、敢て發せず。師魏主を廢す。僭位十六年、改元するもの二、曰く、正始嘉平。師高貴郷公を迎立す、之を廢帝となす。名は髦、文帝の孫、明帝の姪、年十四にして卽位す。楊州の都督母丘儉、刺吏文欽、兵を起して、司馬師を討つ。師擊つて之を敗る。師卒す。弟昭、大將となり、尙書の事を錄す。既にして、大都督となり、黃鉞を假る。揚州の都督諸葛誕、兵を起して、昭を討つ。昭、之を攻め殺す。昭、相國となり、晉公に封ぜらる。九錫を加ふれども、受けず。吳主亮、政を親らす。數ば中書に出でて、大帝の時の舊事を視る嘗て、生梅を食うて、蜜を索む。蜜中に鼠矢あり。藏吏を召して問うて曰く、黃門、爾より蜜を求めたるか。吏曰く、さきに求むぐれども、敢て與へずと。黃門、服せず。鼠矢を破らしむ。矢、中燥く、因つて、大に笑つて曰く、若し、矢、先より蜜中に在らば、中外共に濕はむ。今、外濕うて內燥く、必ず黃門の所爲ならむと。之三國-漢-後皇帝-三七一 十八史略卷之三三七二を詰れば、果して服す。左右驚慄す。大將軍孫綝、其難問する所多きを以て、疾と稱して朝せず。兵を以て、宮を圍み、亮を廢して會稽王となし、瑯琊王休を迎へ立つ。休、立つ。絲を以て、丞相となす。継又新君に無禮なり、遂に誅せらる。魏主髦、威權日に去るを見て、其怒に勝へず。曰く司馬昭の心、路人も知司馬昭の心路人も知る所なりと。殿中の宿衞、蒼頭、官僮を率ゐ、鼓譟して出せい、所なりでて昭を誅せむと欲す。昭の黨、賈充、入つて魏主と戰ふ成濟、戈を抽いて、魏主を刺して、車下に殞つ。追廢して、庶人となす。僭位七年。改元するもの二、曰く、正元、甘露。司馬昭、常道〓公璜を迎へ立つ、之を魏の元皇帝と爲す。常道〓公元皇帝、初名は璜、燕王宇の子、操の孫なり。年十五にして位に卽く。奐と改名す。姜維屢ば魏を伐つ漢の姜維、屢ば魏を伐つ。司馬昭、之を患ひ、鄧支、鍾會を遣鄧艾鍾會ミし、兵に將として、入つて寇せしむ。會は、斜谷、駱谷、子午谷より、漢中に趨き、艾は、狄道より、甘松、沓中に趨き、以て姜維を綴す。維會既に漢中に入りしと聞き、兵を引いて、沓中より還る。艾、追躡して、大に戰ふ。維、敗走し、還つて、劍閣を守り、以て會を拒ぐ。艾、進んで、陰平に至り、無人の地を行くこと七百里、山を鑿つて道を通じ、橋閣を造作す。山高く谷深し。艾、氈を以て、自ら裏み、推轉して下る。將士、皆、木を攀ぢ、崖に緣り、魚貫して進む。江油に至る。書を以て、漢將諸葛瞻を誘ふ。瞻其國-漢-後皇帝-三七三 十八史略卷之三三七四使を斬り、陣を綿竹に列して、以て待つ。敗績す。漢の將軍諸葛瞻評諸葛氏後之に死す。瞻の子尙曰く、父子、國の重恩を荷ふ、早く黃皓を斬らありといふべしず、國を敗り、民を殄せしむ。用つて生くるも、何をか爲さむと。馬に策ち、陳を冒して死す。評後主は凡漢人、魏兵の卒に至るを意はずして、城守を爲さず。乃ち使を遣庸懦弱國を失ふ故あるし、璽綬を奉じて、艾に詣つて降る。皇子北地王諶、怒つて曰く、かな若し、理窮まり、力屈して、禍敗將に及ばむとすれば、便ち父子君臣城を枕にして一戰し、同じく社稷に死し、以て先帝に見えて可なテるべきなり。奈何ぞ降らむやと。帝聽かず。護、昭烈の廟に哭し、先づ妻子を殺し、然る後に自殺す。艾、成都に至る。帝、出でて降る。魏封じて、安樂公となす。帝、在位四十一年、改元するもの四、曰く、建興、延熙、景耀、炎興右、高帝の元年乙未より、後帝禪の炎興癸未に至るまで、凡そ二十六帝、通じて、四百六十九年にして漢亡ぶ。吳主休殂す。證して、景皇帝といふ。兄の子鳥程侯皓立つ。魏の司馬昭、之より先、旣に九錫を受く。旣にして、爵を進めて晉王となる。昭、卒す。子炎、嗣ぐ。魏主奐、僭位六年、改元するもの二、曰く、景元、咸熙。炎、魏主に迫つて、位を禪らしめ、封じて、陳留王となす。後、卒す。晉人、之を證して元といふ。魏は、曹丕より是に至るまで、凡そ五世四十六年にして亡ぶ。三國-漢-後皇帝-三七五 十八史略卷之三云漢亡びてより後、又、。甲申を歷、正統を闕くこと一年。西紀自二六西晉五至三一六だ【西晉世祖武皇帝】姓は司馬、名は炎。河內の人、昭の子、懿の孫なり。昭、晉王となり、議して、世子を立つ。議者、炎の髪立つて地に委し、手垂るれば膝を過ぎ、人臣の相に非ざるを以て、遂に立つ。旣にして、嗣いで王となり、帝位に卽くや、懿を追尊して宣皇帝となし、師を景皇帝となし、昭を文皇帝となし、大いに宗室を封そ、羊祐ず。晉、吳を滅するの志あり、羊祐を以て〓州の事を都督せしむ。陸抗吳、陸抗を以て、諸軍を都督せしむ。祐、抗と境を對し、使命常にP通ず。抗祐に酒を遺る。祐、之を飮んで疑はず。抗疾む。祐、之に成藥を與ふ。抗卽ち之を服して曰く、豈に人を鴆する羊叔子あらむやと。祐務めて、德政を修め、以て吳人を懷け、兵を交ふる毎に、日を刻して、方に戰ひ、掩襲せず、抗亦た、其邊戌に〓げて、各、分界を保するのみ、細利を求むるなからしむ。時に、吳主皓、德政を修めずして、兼井せむと欲し、術士をして、天下を取青蓋管 に;たべ洛し陽じつるるを筮せしむ。對へて曰く、庚子の歲、靑蓋、當に洛陽に入るべしすと蓋し、璧を衝むを謂ふ。然れども、皓、悟らず。諸將の謀を用ゐて數ば晉の邊を侵盜す。抗諫むれども聽かず。抗卒す。祐吳を伐つを請ふ。議者、多くは同せず。祐歎じて曰く、天下、意西晉-世祖武皇帝-三七七 十八史略卷之三三七八の如くならざる事、十常に七八と。惟だ杜預、張華其計を賛す。祐病む。入朝して、面陳せむことを求む。晉帝、祐をして、臥しながら諸將を護せしめむと欲す。祐曰く、吳を取るは、臣の行を必せず。但だ吳を平らぐるの後、當に聖慮を勞すべきのみと。祐、卒上す。杜預を以て鎭南大將軍となし、〓州の軍事を督せしむ。吳主皓淫虐、日に甚し。預表して、速に之を征せむことを請ふ表、至(る。張華適ま帝と基す。秤を推し、手を歛めて其決を賛す。帝、山濤之を許す。山濤、人に〓げて曰く、聖人に非ざるよりは、外、寧ければ、必ず内憂あり。吳を釋して、外懼となす、豈に算に非ざらむやと。時に、濤、吏部尙書たり。濤むかし、魏晉の間に在り、嵇 康、阮籍、籍の兄の子咸、向秀、王戎、劉伶と相友たり。竹林の七竹林七賢賢と號し、皆老莊虛無の學を崇尙し、禮法を輕蔑し、縱酒昏酣、世事を遺落す。士大夫、皆、之を慕效し、之を放達といふ。惟だ、濤は仍ほ意を世事に留め、是に至つて、選を典り、人物を頸拔し、(各、題目を爲つて、之を奏す。時人、之を稱して、山公の啓事となす上晉大擧して、吳を伐つ。杜預、江陵より出で、王澹、巴蜀を下る。吳人、江磧要害の處に於て、並に鐵鎻を以て、江を橫つて、之を截り、又、鐵錐を作り、長さ丈餘、暗に江中に置き、丹艦を逆拒す。濟大筏を作り、水に善き者をして、筏を以て先づ行かしめ、西晉-世祖武皇帝-三七九 十八史略卷之三三八〇錐に遇へば、輒ち筏を著けて去る。又、大炬を作り、灌ぐに麻油を以てし、鎻に遇へば之を燒く。須史に融液して斷絕す。是に於て船い礙る所なし、遂に先づ上流諸郡に克つ。預人を遣し、奇兵を率ゐて、夜、渡らしむ。吳將、懼れて曰く、北來諸軍、乃ち之を飛渡するなりと。預兵を分つて、濬と合し、武昌を攻めて、之を降す。預謂ふ、兵威、旣に振ふ、たとへば、破竹の如し、數節の後は、刄を迎へて解け、復た手を著くる所なきなりと。遂に群師に方略を指授し、徑に建業に詣る。濬の戎卒八萬、舟を方ぶること百里、帆を擧げて、直に建業を指し、鼓譟して、石頭城に入る。吳主皓、面縛し、輿襯して降る。歸命侯に封じ、遂に庚子入洛の識に符す。大帝より、是に至るまで四世、帝と稱するもの、凡そ五十二年にして亡ぶ。先に、孫策、江東を定めてより以來、通じて八十餘年。晉魏に代つて十有六年、太康元年に至つて、吳を滅し、又十年にして、帝崩ず。帝、初めて、卽位するや、嘗て、雉頭裘を太極殿前に焚き、以て儉を示す。旣にして修縱、後宮數千、常に羊車に乘こる。宮人、竹葉を門に挿み、鹽を酒いで、以て之を待ち、羊車の至とる所、卽ち留まつて酣宴す。群臣と語るに、未だ嘗て經國の遠謀あこと〓らず。吳、旣に平らいでより、天下無事なりと謂ひ、盡く州郡の武備を去る。山濤、獨り、之を憂ふ。漢魏以來、羌胡鮮卑の降る者、多く塞內諸郡に處る。郭欽、嘗て上疏して謂ふ、宜しく、吳を平ら西晉-世祖武皇帝-気 十八史略卷之三三八二評天詐漸く内郡の雜胡を邊地に徒し、四夷出入の防を以曹亦りて操に司下術ぐるの威を及ぼし、を をせんわうくわうふ、取馬氏峻にして、先王荒服の制を明かにすべしと。帝、聽かず、卒に天下傚ふりも祖而之薄帝としの患となる。帝在位、改元するもの三、曰く、泰始、咸寧、太康。稱てす炎よる世德固太子立つ、之を孝惠皇帝となす。し所安全の山集結稷る所なせりざ【孝惠皇帝】名は衷。太子たりし時、妃賈氏を納る。充の女なり。權詐多し。衞瓘、嘗て武帝に侍し、陽つて醉うて、前に跪き、手を以て床を撫して曰く、此座、惜むべしと。武帝悟り、尙書か〓しの疑事を密封し、太子をして、之を決せしむ。賈氏大に懼れ、外人を倩ひ、草を具して代つて對へ、太子をして自ら寫さしむ。武帝悅び、廢せられざるを得たり。是に至つて卽位す。賈氏、皇后となつて、政に預る。皇太后楊氏は、乃ち帝の母楊后の從妹なり。父駿、太傅たり、賈氏、駿を殺して、太后を廢し、太宰汝南王亮を殺し、太保衞瓘を殺し、楚王緯を殺し、衆望を以て張華裴頒、王戎を用ゐて機要を管せしむ。華、忠を帝室に盡す。后、凶險なりと雖も、猶ほ敬重するを知る。領と心を同じうして、政を輔く。數年の間、暗主上に在りと雖も、然も、朝野安靜なり。戎は、時と浮沈して、匡救する所なく、性、復た貪吝。田園、天下に遍く牙籌を執つて晝夜會計す。家に好李あり、人の其種を得むことを恐れ、常に其核に鑽す。凡そ賞拔する所、專ら虛名を事とす。阮咸の子瞻、嘗て、戎に見ゆ。戎曰く、聖人は名〓を貴び、老莊は自然を明かにす、其西晉-孝惠皇帝-三八三 十八史略卷之三三八四旨異同あるか。瞻曰く、將た同じきなからむやと。戎、咨嗟稍や久し、遂に之を辟す。時に三語掾と號す。此時、王衍、樂廣、皆〓評其正直著機種ときん談を善くす。衍、神情明秀。少時、山濤、之を見て曰く、何物の老嫗か、寧馨兒を生む。然れども、天下の蒼生を誤る者は、未だ必ず寧馨兒しも此人に非ずむばあらざるなりと。衍の弟澄及び阮咸、咸の從子修、胡母輔之、謝〓、畢卓等、皆、任放を以て達となし、醉裸、以て非となさず。比舍の郞の釀、熟す。卓、夜、甕間に至つて盜飮し、守者に縛せらる。旦に之を視れば、畢吏部なり。樂廣、聞いて笑つて曰く、名〓の中、自ら樂地あり、何ぞ必ずしも、乃ち爾らむと。初め、魏の時、何晏等、論を立て、以へらく、天地萬物、無をに評を毒す〓談社會以て本となすと。衍等、之を愛重す。裴顧、崇有論を著せども、救ふ能はず。太子適は賈后の生む所に非ず。后、廢して之を殺す。征西大將軍八王の亂趙王倫、詔を矯つて、兵を勒して宮に入り、后を廢して之を殺し、張華、裴顧を殺す。倫、相國となる。淮南王允、兵を率ゐて、倫を討つ。克たずして死す。倫、衞尉石崇を殺す。崇、愛妾綠珠あり。倫の嬖人孫秀、之を求むれども與へず。秀、崇を誣ひ、允を奉じて亂を爲すといひ、之を收む。崇曰く、奴輩、吾が財を利するのみ。收むる者曰く、財の禍たるを知れば、何ぞ早く之を散せざると。遂に殺さる。倫自ら九錫を加へ、帝に逼つて位を讓らしむ。黨與、西晉-孝惠皇帝-三八五 十八史略卷之三三八六皆、卿相となり、奴卒も亦た爵位を加ふ。朝會する每に、貂蟬貂足らず狗尾續く座に盈つ。時人語して曰く、貂足らず狗尾續ぐと。齊王間、許昌を鎭し、成都王頴、鄴を鎭し、河間王顒、關中を鎭す。各、兵を擧げて、倫を討つ。倫、誅に伏す。岡、政を輔く。驕奢にして、政を擅にす。〓長沙王又をして、之を殺さしむ。頴亦た功を恃んで驕奢。旣にして、〓と兵を擧げて反す。父、帝を奉じて、頴と戰ふ頴の將陸機、戰敗れて收めらる。歎じて曰く、華帝の鶴唳、復た聞くべけむやと。弟雲と共に、皆頴に殺さる。機雲は、皆、陸抗の子なり。頴兵を進めて、京師に入り、丞相となる。旣にして、鄴に還る。〓頴を表して、皇太弟となす。東海王越、帝命を奉じてに侍中〓絡頴を征す。頴、兵を遣して、蕩陰に拒戰す。乘興、敗績す。侍中嵇紹身を以て帝を衞つて殺され、血、帝衣に濺ぐ。頴帝を迎へて鄴に入る。左右、帝衣を浣はむと欲す。帝曰く、稀侍中の血、浣ふ勿れと。頴帝を奉じて、洛に歸る。願の將張方、洛に在り。帝を長安に遷す。〓太弟頴を廢し、更めて豫章王熾を立てて太弟となす。東海王越、兵を發して、西、長安に入り、帝を奉じて、洛に還る。越を以て、政を輔けしむ。成都王頴、先に洛陽に據る。旣にして、長安に走り、又、武關より新野に走り、遂に、北、河を濟り、故の將士を收む。頓丘の太守の執ふる所となる。時に、范陽王虓、鄴に據る。頴を城に送る。未だ幾な西晉-孝惠皇帝-三八七 十八史略卷之三三八八らずして殺さる。帝、麵を食ひ、毒に中つて崩ず。或は曰く、東海王越、之を鴆す評主昏國亂るなりと。帝、昏愚。天下大に饑ゆるや、帝曰く、何ぞ肉麋を食はざると。華林園に蛙鳴を聞く。帝曰く、かの鳴く者は、官の爲にするか私の爲にするか。左右、之に戯れて曰く、官地に在る者は官の爲にし、私地に在る者は私の爲にすと。賈氏の政を專らにするに方つて、時人、將に亂れむとするを知る。索靖、洛陽宮門の銅駝を必ず汝が荊指して、歎じて曰く、必ず、汝が〓棘の中に在るを見むのみと、趙棘の中に在るを見ん王倫の亂後、諸王、迭に相殘滅し、天下大に亂る。劉淵劉淵、左國城に興る。淵は、故の南匈奴の後なり。匈奴は、漢魏より以來、中國に臣たり。其先世、自ら漢の甥なるを以て、漢姓を冐す父豹、左部の帥たり、淵を產む。幼にして雋異。博く經史を習ふ。嘗て曰く、吾、隨陸が武なくして高帝に遇へども封侯の業を建つる能はず、終灌が文なくして文帝に過へども座序の〓を興す能はざるを恥づ、豈に惜からずやと。是に於て武事を兼學す。姿貌魁偉。初め、侍子となつて、洛に在り。豹、死す。武帝、淵を以て、代つて、五部の帥となし、旣にして、北部都尉となる。五部の豪傑多く之に歸す。帝の世に及びて、以て五部の大都督となす。成都王穎、表して、左賢王となす。嘗て、兵に將として、鄴に在らしむ。劉聰淵の子聰、亦た驍勇人に絕え、博く經史に渉る。善く文を屬し、弓西晉-孝惠皇帝-三八九 十八史略卷之三〓三百斤を彎く。淵の從祖宣曰く、漢亡びてより以來、我が單于、徒に虛號あつて、復た尺土なし。自餘の王侯、降つて、編戶に同じ。今、吾が衆、衰へたりと雖も、猶ほ二萬あり、奈何ぞ、手を歛めてご役を受け、奄として百年を過ごさむや。司馬氏、骨肉相殘ひ、四海ざ鼎沸。左賢王、英武世に超ゆ、呼韓邪の業を復する、是れ其時なりと。乃ち相與に謀つて、之を推す。淵、頴に說き、歸つて、五部を帥ゐて來り助けむことを請ふ。旣に、左國城に至るや、宣等、推して、大單于となす。二旬の間、衆五萬、離石に都す。胡晉の之に歸する者、愈よ衆し。乃ち國號を建てて漢といひ、漢王と稱す。淵劉曜族子曜あり。生まれて、眉白く、目に赤光あり。幼にして聰慧、膽量あり。亦た好んで書を讀み、文を屬し、射は能く鐵七寸を洞す。是に至つて淵の將となる。ミ巴西の氏李特、初め、流民を以て蜀に入る。旬月、衆二萬、廣漢つ折に據り、進んで成都を攻め、刺史羅尙の敗る所となる。其首を斬らる。弟流、代つて其衆を領し、勢、復た盛なり。流死す。弟雄代り、攻めて羅尙を走らして、成都に入る。是に至つて、成都王と稱す。鮮卑の慕容廆、武帝の時より、旣に寇を爲す。旣にして降る。以て鮮卑の都督となす。魔皝を生む。遼東より徒つて、徒河に居り、又た大棘城に徒る。帝の世に及んで、慕容部、愈よ盛なり。西晉-孝惠皇帝-元 十八史略卷之三三九二鮮卑の索頭拓跋氏、之より先、質子、晉に在るものあり。武帝、遣歸す。旣にして、拓跋力微、又、其子をして入貢せしむ。力微、死して、子悉祿官、立つ。帝の世に及びて、索頭、國を分つて三部となし、一は上谷の北に居り、祿官自ら之を統べ、一は代郡參合陂の北に居り、兄の子猗色をして之を統べしめ、一は定襄の盛樂故城に居る、猗也の弟 〓虛虛をして之を統べしむ。晉人の附く者稍や衆し、猗缶、漠を度つて北巡し、西、諸國を略す。降附するもの、三に十餘國。拓跋氏の盛なる、是に始まる。夷狄、華を亂るの禍、皆、藁を漢魏晉の間に萠し、帝の世に至つて、中國の大亂に乘じて、始よbめて四に起る。帝在位十七年、改元するもの五、曰く元康、永康、太安、永興、光熙。太弟立つ、之を孝懷皇帝となす。【孝懷皇帝】名は熾。惠帝の十五年に當り、武帝の子二十五人、兄弟相屠るの餘、存する者三人のみ。熾は其一なり。素より學を好む。故に立つて太弟となり、是に至つて卽位す。成都王李雄、帝と稱し、國を成と號す。石勒漢主劉淵、帝と稱し、徒つて平陽に都す。其子聰及び石勒等を遣ろ、して、晉の内郡を攻めしめ、以て洛陽に至る。勒は、武郷の羯人なり。之より先、嘗て、洛陽に至り、上東門に倚つて長嘯す。王衍、其異あるを識る、後、寇を爲し、旣にして漢に從ふ。西晉-孝惠皇帝-孝懷皇帝-三九三 十八史略卷之三三九四漢主淵卒す。子和立つ。聰弑して、之に代る。太傅東海王越、兵を遣して、入つて宿衞し、仍つて使を遣し、羽檄を以て、天下の兵を徵して、入つて援けしむ。越自ら兵を帥ゐて、石勒を討ち、軍に卒す。勒の兵、越の軍を敗り、太尉王衍等を執ふ。衍、自ら言ふ、少より宦情なく、世事に預らずと。勒曰く吾、天下を行ること多し、未だ此輩の人を見ず、尙ほ存すべきbか或ひと曰く、彼は皆、晉の王公、終に吾が用を爲さず。勒曰く、然りと雖も、必ず、加ふるに、鋒刄を以てすべからずと、夜、人をして、墻を排して、之を殺さしむ。漢主聰、呼延晏を遣し、兵に將として、洛陽を攻めしむ。劉曜、王彌、石勒、皆會す。遂に洛陽を陷れ、帝を執へて、平陽に送る。尋いで殺さる。帝在位六年、改元するもの一、曰く、永嘉。秦王、長安に立つ、之を孝愍皇帝となす。I【孝愍皇帝】名は業、吳王晏の子、武帝の孫なり。秦王に封ぜらる。洛陽、旣に陷るや、荀藩、王を奉じて、許昌に趨る。時に年十二。旣にして、索絲、迎へて、雍州に入る。刺史賈疋等、奉じて、皇太子となし、行臺を建つ。盜疋を殺す。麴允、雍州を領す。懷帝の凶問至る、王長安に卽位す。石勒、石虎を遣して、鄴を攻め、陷れて之に據る。西晉-孝懷皇帝-孝愍皇帝ー三九五 十八史略卷之三三九六大衣服務管理評西漢、屢ば長安に寇す。麴允、索絲、屢ば之を敗る。未だ幾ならず帝の王の)して、漢兵、しきりに諸郡を陷れて長安に逼り、先づ外城を陷る。胡十麴允、索絲、退いて小城を守り、內外斷絕、城中饑ゆること甚し。我收不能とな帝、出でて降る。漢將劉曜、平陽に送る。聰群臣を享し、帝に命じ、靑衣を著けて、酒を行ひ、爵を洗はしめ、又、蓋を執らしむ。後、害に遇ふ。帝、在位四年、改元するもの一、曰く、建興。西晉は、武帝より、是に至るまで、凡そ四世、五十二年。瑯琊王、建業に立つ、之を中宗元皇帝となす。評譯十八史略卷之四正西紀自三一六至四二〇東晉【中宗元皇帝】名は睿、瑯琊王仙の孫なり宣帝懿、仙を生み、仙觀を生む。或は曰く、睿の母、實は瑯琊の小吏牛金と通じて、睿を生むと。觀に嗣いで王となる。惠懷に於いては、再從兄弟たり。懷帝の時、睿、安東將軍となり、揚州軍事に都督たり建業に鎭す王導睿、王導を以て謀主となし、事每に咨ふ。睿、名論素より輕し。呉人初め附かず導勸めて、諸名勝を用ひしむ。顧榮、賀循、紀瞻東督-中宗元學帝-三九七 十八史略卷之四灵等、掾屬となり、新舊を撫綏す。江東心を歸す。後、又、庾亮、卡壺等百餘人を得たり、之を百六掾といふ桓彜亂を避け、江を過ぎ周顗て、睿の微弱なるを見て、之を憂ふ旣にして導を見、退いて周顫に謂つて曰く、江左に管夷吾あり、吾憂なしと。諸名士、新亭に遊宴するや、顫中坐にして歎じて曰く、風景殊ならず、目を擧ぐれば、江河の異ありと。因つて、相視て、涕を流す。導曰く、當に力を王室に戮せ、共に神州を復すべし、何ぞ楚囚と作つて、對泣す祖逖るに至らむやと。愍帝睿を以て、左丞相となす。洛陽の祖逖、少よ劉琨り大志あり。嘗て、劉現と同じく寢ぬ。中夜、鷄聲を聞き、現を蹴つて、起して曰く、是れ惡聲に非ざるなりと。因つて起つて舞ふ。是に及びて、南に渡り、兵を睿に請ふ。賓、素より北伐の志なし、逃を以て豫州の刺史となし、兵千人を與へ鎧仗を給せず。逃江を渡り、中流にして、楫を擊つて誓つて曰く、祖逖、中原を〓むる能はずして、復た濟らば、此江の如きあらむと。愍帝、又、睿を以て、丞相となし、中外の諸軍事を都督せしむ。長安、陷る。睿師を出して露次し、檄を移して北征す。實は、行かず。群臣、勸めて晉王の位に卽かしめ、明年、遂に皇帝の位に卽く。太尉劉現、死す。初め、琨祖逖と名を齊しうす。琨人に謂つ著先鞭て曰く、常に恐らくは、祖生が、吾に先つて鞭を著けむことをと。懷愍の時、〓州刺史となる。琨軍を出す。長史、叛いて、石勒に東晉-中宗元皇帝-三九九 十八史略卷之四四〇〇降る。幽州の刺史段匹彈、時に薊城に在り、人をして、現を邀へしむ。琨衆を率ゐて、薊に奔り、匹彈と血を歌つて同盟し、晉室を翼戴す。薊を襲ひ取らむと欲する者あり。書を遺つて、現に請うて內應を爲さむとす。書、邏騎に獲らる。然も、張實は知らざるなり竟に匹彈に縊らる。漢主劉聰、卒す。子粲、立つ。其臣、〓準、弑して、之に代る。石勒、準を討つ。劉曜、自立し、勒を封じて、趙公となす。曜、疑ふ勤自ら趙王と稱す。曜、亦た號を改めて趙となす。勒を後趙となす。略陽臨渭の氏會蒲洪、驍勇にして、權略あり。群氏畏れて、之に服す。劉聰、嘗て、拜して將軍となす。受けず。懷帝の世に在つて、自ら略陽公と稱す。是に至つて、趙主曜に降る。上晉の豫州の刺史祖逖、卒す、初め、逖譙城を取り、進んで、雍丘に屯す。後趙の鎭戍、逖に歸する者、甚だ多し。逖將士と甘苦すハを同じうし、勸めて、農桑を課し、新附を撫納す。帝、戴淵を以てと、將軍となし、來つて、諸軍事を督せしむ。巡、己〓棘を剪つて、河南の地を收む、而るに、淵、雍容として、一旦來つて之を統ぶるあう〓を以て、意.甚だ快快たり。又、王敦が朝廷と隙を構へて、將に內難あらむとするを聞き、大功の遂げざるを知り、感激して、病を發して卒す。豫州の士女、父母を喪ふが如し。東晉-中宗元皇帝-四〇一 十八史略卷之四四〇二鮮卑の慕容廆、之より先、嘗て使を晉に遣して、帝命を受けて、平州刺史となる。是に至つて、以て平州の牧、遼東公となす。初め、拓跋祿官死す。猗盧、三部を總攝す。劉現、猗盧と結んで兄弟となる。懷帝の時、表して、大單于となし、代公に封ぜられ、部落を帥ゐて、雲中より雁門に入る。琨與ふる」に、陛北の地を以てす。之に由つて、益す盛なり。嘗て、現の援となつて、大に劉曜の兵を晉陽に破る。猗盧、成樂に城いて、北都となし、平城を南都となす。愍帝、猗盧の爵を進めて王となし、官職を置き、代、常山の二郡を食ましむ。猗盧、少子を愛し、立てゝ嗣となさむと欲して其長子六修を出し、六修をして其弟を拜せしむ、從はずして去る。大に怒つて、之を討つ。兵、敗れて、弑に遇ふ。猗也の子普根、六修を討滅して自立す。尋いで卒す。國人猗虚が弟の子欝律を立つ是に至つて、猗色の妻、欝律を殺して、其子賀偏を立つ。欝律の子什翼犍、襁褓に在り、母、之を袴下に匿して殺されざるを得たり反王教反す晉の〓州の刺史王敦、す。初め、帝の江東に鎭するや、敦從弟導と共に、心を同じうして翼戴し、心を推して之に任じ、敦は征討を總べ、導は機政を專にして、群從子弟顯要に布列す。時人、語して曰く、王と馬と、共に天下を共にすと。敦先に揚州の刺史諸軍を都督し、を領し、征討進んで、鎭東大將軍都督江揚〓湘交廣六州諸軍事江州刺史となり、尋いで〓州を領し、功を恃んで驕恣東晉-中宗元皇帝-四〇三 十八史略卷之四四〇四なり。帝、畏れて之を惡む。乃ち劉隗、刁協を引いて腹心となし、漸く王氏の權を抑損す。導も亦た漸く疎外せらる。敦の參軍錢鳳等敦の異志あ凶狡なり。るを知つて、陰に爲に畫策す。是に至つて、敦遂に兵を武昌に擧げ、劉隗、刁協を誅するを以て名となす。隗、協、帝に勸めて、盡く王氏を誅せむとす。帝許さず。導宗評族を率ゐて、毎旦、臺に至つて罪を待つ。周顫、將に入らむとす能德は王周ず導額し勝人知のむ手間る陰じの得手導、是を呼んで曰く、伯仁、百口を以て、卿を累はさむと。顫顧のた百所みず、入つて帝に見え、導の忠誠を言ひ、申救甚だ至る。帝、其言を納る。顫、醉うて出づ導又呼ぶ。顫與に言はず、左右を顧みて曰く、今年諸賊奴を殺し、金印、斗の如く大なるを取つて、肘後に懸けむと。旣にして、出で、又表を上つて、導の罪なきを明惣かにす。導、知らずして、之を恨む。帝、召して導を見る。導、稽山のだ首して曰く、亂臣賊子、何の代か之なからむ。意はざりき、今、近く臣の族に出でむとはと。帝、跣して其手を執つて曰く、茂弘、方上やに卿に寄するに百里の命を以てすと。以て前鋒大都督となす。敦石頭城に至つて、之に據る。曰く、吾、復た盛德の事を爲すを得ずか、と協、隗等、道を分つて、出でて戰ひ、大に敗れて還る。帝、百官をして、石頭に詣つて敦を見せしむ。敦、周顫を殺す。導、救は吾と七ヘこやまたは由も殺ず。後、中書の故事を料檢し、顎の表を見、之を執つて流涕して日て死すく吾、伯仁を殺さずと雖も、伯仁、我に由つて死す。幽冥の間、東晉-中宗元皇帝-四〇五 十八史略卷之四四〇六この良友に負くと。敦、朝せずして去り、武昌に還る。帝、憂憤して疾を成して崩ず。在位六年。改元するもの三、曰く建武、大興、永昌太子立つ、之を肅宗明皇帝となす。【肅宗明皇帝】名は紹、幼にして聰慧、嘗て、使者あり、長安より長安近きか日近きか來る。元帝、紹に問うて曰く、長安、近きか、日近きか。紹曰く、長安近し。但だ人の長安より來るを聞く、人の日邊より來るを聞かずと。元帝、其對を奇とす。一日、群臣と語つて、之に及ぶ。復た以て紹に問ふ紹曰く、日近し。元帝愕然として曰く、何ぞ間者の言に異なるか紹曰く、頭を擧ぐれば日を見る、長安を見ずと元帝、益す之を奇とす。長ずるに及びて仁孝、文辭を喜び武藝を善くす。賢を好み、士を禮し、規諫を受く。庾亮、溫嶠等と布衣の交をなす。敦石頭に在り、其勇略あるを以て、誣ゆるに不孝を以てして、之を廢せむと欲す。嶠等の衆論に賴つて、其謀を沮む。是に至つて位に卽く。敦、位を簒せむことを謀り、屯を姑熟に移し、自ら揚州の牧を領す。王導を以て司徒となし、大都督を加へ諸軍を督して敦を討つ。復た反し、敦、兵を發して病む。郭璞をして、之を筮せしむ。璞曰く明公事を起せば、禍必ず久しからず。敦大に怒つて曰く、加拿大利害けぞ)卿の壽幾何ぞ。璞曰く、命、今日の日中に盡きむと。敦之を斬る。日、命今日と中に盡きむ帝、自ら出でて、敦の軍を覘ふ。敦、書日、其營を環るを夢む。東晉-肅宗明皇帝-四〇七 十八史略卷之四四〇八驚悟して曰く、黃鬚鮮卑の兒來るかと。帝の母は鮮卑の出なり。亟に、人をして、之を追はしむ、及ばず。帝、諸軍を帥ゐて、出でてつ南皇堂に屯し、夜、壯士を募つて、水を渡り、敦の兄王含の軍を掩うて大に之を破る。敦含の敗を聞いて曰く、我が兄は老婢のみ、門戶衰へ世事去ると。因つて、勢を作し、起つて自ら行かむと欲す。困乏して、復た臥す。尋いで卒す。敦の黨、悉く平らぐ。敦のau評王丼屍を發いて之を斬る。有司、王氏の兄弟を罪せむことを奏す詔を と事人親大を義滅す間して曰く、司徒導、大義を以て親を滅す、將に十世まで之を宥さむ最難のたと欲すと。悉く問ふ所なし陶侃陶侃を以て剃湘等の州の諸軍事を都督せしむ。侃少にして、孤貧なり。孝廉范達、之を過ぐ。侃の母湛氏、髪を截つて、賣つて酒食を爲る。達、侃を薦め、遂に名を知らる。初め、〓州都督劉弘に用ゐられ、義陽の叛蠻張昌を討ち、又江東の叛將陳敏を討ち破り又湘州の劇賊杜發を擊ち破る。江夏の太守より〓州の刺史とな之を疾んり、王敦、で、廣州刺史に左遷す。侃州に在つて、朝に百甓を齋外に運び、暮に齋内に運ぶ。人其故を問ふ。答へて曰く吾、方に力を中原に致さむとす、故に勞を習ふのみと。是に至つて復た〓州に鎭す。士女相慶す。侃性聰敏恭勤嘗て曰く、大禹は聖人なり、乃ち寸陰を惜む。衆人は當に分陰を惜むべしと。諸參佐こと〓〓の酒器、蒲博の具を取つて、悉く江に投じて曰く、樗蒲は牧猪奴の東營-肅宗明皇帝-四〇九 十八史略卷之四四一〇戯のみと。嘗て、船を造るや、竹頭木屑を籍して、之を掌らしむ。後、正會に雪霽れて地濕ふや、木屑を以て地に布く。後、征蜀六の師あるに及び、侃の竹頭を得て、釘を作つて船を裝す。其綜理微密なること、之に類す。帝崩ず、在位三年。改元するもの一、曰く太寧。太子立つ、之を顯宗成皇帝といふ。【顯宗成皇帝】名は衍、母は庾氏、五歲にして卽位す。司徒導、帝の舅中書令庾亮と共に政を輔く、太后、朝に臨む歷陽の內史蘇峻、反す。峻さきに臨淮に守たり。王敦、再び闕を犯せし時に、入衞して功あり。威望漸く著はる。歷陽に在るに及びて、卒銳に、器精なり。志、朝廷を輕んじて、亡命を招納す。庾亮石頭城を修め、以て之に備へ建請して、峻を徴して大司農となす。峻、兵を擧げて、姑孰を陷る。尙書令卡壺、軍を督して、峻と力戰して死す。二子之に隨ひ、亦た敵に赴いて死す。母、其屍性能力を示す。を撫して曰く、父は忠臣たり、子は孝子たり、何ぞ恨まむやと。庾獨立大學亮出奔す。峻の兵、闕を犯す。陶侃、溫嶠、入つて、峻を討つて之を斬る。後趙主石勒、大に趙兵を破り、趙主劉曜を獲たり。曜勒と、しきりに攻戰し、互に勝負あり。曜、後趙の金塘城を攻む。勤、自ら1/將として、之を救ひ、大に洛陽に戰ふ。趙兵、大に潰ゆ。曜、醉う東晉-顯宗成皇帝-四一一 十八史略卷之四四三る)、て、馬より墮ち、勒に獲られ、歸つて之を殺す。前趙亡ぶ溫嶠音の驃騎將軍溫嶠、卒す。嶠、始め、劉現に遣はされて、江東に使す。母、欲せず。嶠、裾を絕つて去る。旣に至つて、復た北に歸るを得ず、終身以て恨となす。嶠.心を晉室に盡し、敦峻の平らぐ皆嶠の力なり。後趙の石勒、天王と稱し、尋いで、帝と稱す。嘗て、大に群臣を問うて曰く、朕は古しへの何の王に方ぶべきか評或ひと曰る人 大阪石物な見胡人中人傑には饗するや、る?く漢高よりも過ぎたり。勤笑つて曰く、人、豈に自ら知らざらき月り多味其所且むや卿の言、太だ過ぎたり。若し高帝に遇はば、當に北面して之に事ふべく、韓、彭と肩を比べむのみ。若し光武に遇はば、中原に並驅すべく、未だ鹿の誰の手に死するを知らず。大丈夫、事を行ふ、5.當に〓碼落落、日月の皎然たるが如くなるべく、終に曹孟德、司馬仲達が人の孤兒、寡婦を欺いて、狐媚以て天下を取るに效はざるなりと。勤學ばずと雖も、好んで、人に書を讀ましめて之を聽き、時に其意を以て得失を論ず、聞く者悅服す。嘗て、漢書を讀むを聽き、鄙食其が勸めて、六國の後を立つるに至り、驚いて曰く、この大法當に失すべし。何を以て、遂に天下を得たると。張良の諫めしを聞くに及びて、乃ち曰く、賴に此あるのみと。後、使を遣して好を晉に修む。晉、其幣を焚く。勤卒す。子、弘立つ。自音の大尉陶侃卒す。'保八州に都督たり。威名赫然。或は謂ふ。東晉-顯宗成皇帝-四一三
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751 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 00 46 05 PHuxV8+X0 追記 田中氏の100選では唐朝から12人出てたよ。隋からはたったの3人だが都合15人。 やっぱり隋唐は2分割がいいんじゃない? 隋~唐初、太宗以降~唐末、で。 752 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 11 42 nLaV8Rh+0 田中百選は正直当てにならんけどね 特に古代期のやる気の無さは異常。 753 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 15 54 N5nnmsmF0 よく見たら神話は入れてないんだね 754 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 33 17 PHuxV8+X0 王玄策には異常に気合注いでるんだけどね。 あれは自分が小説書くからその前に紹介しときたかっただけなんだろうか。 755 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 44 58 4yrG5sGfO 752 まあ俺たちも春秋の扱いには困ったがな 756 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 45 10 CipGNRy70 隋唐厨ってしつこいなw 757 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 01 47 57 KuT70nJ30 もう次行きましょ。 五代十国時代。 後梁 康壊貞 岐王・李茂貞を撃破し黙らせてますね。 楊師厚 この時代最重要な魏博の精鋭、銀槍効節都の創始者として、晋軍を破ってる人。 賀懐 ……一応、胡柳陂の戦いで、勢いのある晋軍を相手取り、周徳威を討ち取るなど活躍し、痛み分けに持ち込んだ。 その直前に有力将帥である謝彦章をささいな恨みから殺しているので、その辺個人的には好きではない。 王彦章 鉄の槍を扱った猛将。 胡柳陂の戦いの後、劣勢だった後梁が打開のため攻撃目標としたある砦を、落とすのにどれだけかかるか皇帝に諮問され、「3日」と答え実行し、晋軍を震え上がらせた。後梁最後の将帥というところ。 晋~後唐 李存勗 後唐の荘宗。 異様なほどの軍事的才能をもった若造。戦術の天才といわれている。 ただし政治的手腕が皆無なうえ、項羽を入れない辛口評価なこのスレでは、候補にも入らんか? 李嗣源 のちの後唐明宗。 晋軍の一部隊、横衝隊を率い自在に戦場を駆けた。 李存勗をして「奇才」と言わしめた。 李存審 もと符存審。 李存勗の羽翼を担っているので目立たないが、単独でも契丹騎兵相手に野戦陣を構築して撃退している。 周徳威 晋の主砲。 柏郷での鮮やかな勝利は、戦史に特筆されている。 他に、燕の猛将・単廷珪を、一合も交えることなく虜にしたりと、一騎討ちでも大活躍。 郭崇韜 軍政官。郭子儀の子孫ということになっている。官僚。 鎮州成徳の節度使として、晋の支配領域の中段を治めた。 建国の勲功第一として賞賛され、前蜀討伐の事実上の総大将を任されて遠征し、わずか70日で成都を陥とした。 康延孝 後梁の降将。 名を変えて李紹?といった。郭崇韜とコンビを組んで、前蜀討伐に従軍する。 実戦指揮官として前蜀軍と戦い連破した。郭崇韜とかぶるが、実際に快進撃を続けられたのは、康延孝の功績によるところが大きい。 任圜 明宗期の硬骨漢として知られるが、?州の属官だったころから、軍事、とりわけ統率に優れた才をみせていた。胡柳陂の戦いが終わって、その指揮ぶりから李存勗に「儒者とは思えない見事な戦いぶりだった。仁者の勇というべきか」と絶賛されている。 前蜀討伐戦に従軍しており、康延孝が現地で謀反した際、董璋らと計って撃破し、なんなく捕らえたという鮮やかさ。 夏魯奇 ……燕を攻めたおり、猛将・単廷珪と元行欽二人を相手に一騎討ちし、その凄まじさは周りの兵士が戦うのをやめて見入ったほどだという。 と、これしか知らないw これじゃ単なる猛将だな。 補足よろしく。 後漢 郭威 三鎮の反乱を一瞬で鎮圧した。 後周 柴栄 言う必要もない 趙匡胤 同上 後周からは追加候補として、目立たないけど李?も。 ?州の防衛として、北漢や契丹の侵入を常に防いでいた。 彼が北で重鎮としていたからこそ、柴栄は淮南に三度も親征することができたと言える。 実際の活躍期間が短いのは、後周の寿命の短さに対応している。 彼はとりあえず郭威の子飼いということで、忠義に篤かった。 あと、鳳翔節度使の王景だけど、隴右攻略の実戦指揮官。 長期化しそうな戦線を、敵の裏をかき勝利した。 同輩に、勇猛な向訓や韓通がいたことから、功績は分割されるのであくまで候補として。 十国の方は、南唐からはとりあえず、劉仁贍を出しておこう。 ずいぶん上のほうでも書いたけど、単独で後周世宗と戦って、撃退しているのはこの人くらい。 南唐朝廷の協力が得られなかったので、というか、その暇すら与えない柴栄の速攻の前に、孤立を余儀なくされるも、2度目の親征までの1年半あまり守り通している。 負けたのは、味方の不甲斐なさを嘆いて、病に倒れたから。 758 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 02 22 26 PHuxV8+X0 趙季良や周本も忘れないであげてください。 あと、後梁の智将・郭言も。 759 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 08 49 21 cK3RRyIa0 757 ここは戦闘指揮能力だけが問題だから李存勗は問題無くはいるだろ 項羽もそれほど反対はなかったと思うが・・・ 政治的手腕まで考慮していたらほとんどが外れてしまう 後梁の劉?・・・李存勗から「一歩百計」と言われた名将 しかし自分で 挙げといてなんだがどうも負けが多いような気がする 760 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 09 41 05 KuT70nJ30 758 十国の方は任せますよ。 さすがに南唐あたりしか知らんのじゃ、ちから不足もいいところだから。 郭言……は、聞いたことしかなかったです。 朱晃に従って「略地千里」とかって、なんかすごいかっこいいこと書かれてますね。 詳細はよろしくおねがいします。 759 劉?は迷ったんですよ。 後梁の最有力将帥ですし、李存勗をして「どんな計を弄するかわからないから」と自重させたほど。 あの突撃しか知らんような李存勗を。 結果的にこの人、李存勗の引き立て役になってしまっています。 アホ皇帝からはせっつかれ、同僚の協力は得られず、兵士は敵を目の前にして血気にはやり、あげく天候にまで見放された、たぶん五代十国中最凶の人。 761 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 16 55 12 D+9zxHsQ0 劉仁贍なんてエントリーしといて力不足なんてご謙遜を。 俺も十国に詳しいわけじゃないんだけどね。ただ手元に十国春秋があってぺらぺら読んでただけで。本当に得意なのは宋、特に南宋だったりする。孟?万歳!! さておき。今日は休日(その分クリスマスに仕事だが)。三時過ぎまで寝てた分を取り戻さにゃ。 郭言・・・一応王彦章と並伝に入ってるんだけども。後梁随一の智将。でも若い頃は貧乏で力仕事をやってた人。財産は常に部下に分配し、家財はほとんどなかったそうな。 寡をもって衆を破る戦いが得意で朱温から「お前こそ我が虎候だ」と賞賛された。朱温が蔡州に入って略奪を許すと自分ひとり人民救済に奔走、 ?、潼関でも同じことをやった心根の清い人でもある。通称は「略地千里(攻めれば千里を取る)」。・・・ってほどには領土拡大できてないわけだが、 敵に当たれば向かうところ敵なし。大いに東方の軍を挫いて朱温から「排陣斬听(斬りまくって陣を陥とす)」の称号を授かる。官は宿州刺史、検校右僕射。 時溥が大挙して宿州を侵すと勇躍善戦、精兵を率いて大いに敵を破るものの、流れ矢に当たって落命。謚がないのはどーゆうことだ!! これだけだとあんまり智将ってイメージないけど、寡兵で勝ち続けたのはやはり知略に優れたから。虚報を巧みに使って自分の有利な戦況を事前に作り上げて から戦う、後漢の耿?タイプの名将だった、と思う。 あと、朱温は10傑入り確定だよね。実質五代初期をリードした名将・・・つーか姦雄だから。後半生は李存勗の引き立て役でアレだが。 と、なると。 【後梁】 朱温 王彦章 【晋→後唐】 李存勗 周徳威 郭崇韜 【後晋】 該当者なし 【後漢】 郭威 【後周】 柴栄 趙匡胤 【候補(枠2名)】 【後梁】 郭言 楊師厚 劉? 【晋→後漢】 康延孝 符存審 任圜 とりあえず五代からはこんなもんかと。次は十国いきます。でも枠二つだから、あんまり大勢出してもなって思うけど。 762 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 19 05 26 D+9zxHsQ0 【呉】 李神福・・・呉軍初期の元老格。はじめ高駢麾下の都統。その後官軍を抜けて無頼漢・楊行密のもとへ。地形を利用しての戦いが得意で群盗に恐れられた。累功により 都指揮使。大順年間、蔡・淮の兵をかき集めた孫儒を夜襲で撃破、その後も康雎を降し安景思を敗走させた。景福初年、劉威とともに孫儒と再戦、呉軍に 十倍する孫儒軍の糧道を断って大勝利。その後、後梁の後ろ盾を得た杜洪が荊南の馬殷・雷彦威とともに攻め寄せると動きの鈍い大船団に少数精鋭で対応、 火攻めをもって君山で勝利した。太祖相手に田?は必ず叛くから殺しなさいと勧めたが容れられず、結果田?は叛いた。民衆は李公の預言が当たったとそ の洞察力を称えた。その平定に参加、田?の水軍大将、王壇・汪建を逆撃して倒した(のは台濛)。王壇らが敗れたと知るや田?は水軍を率いて逃げよう としたが、李神福が遣わした台濛によって敗死に追い込まれる。累功により寧国軍節度使。顎州攻めにも参加、現地で陣没。 台濛・・・字は頂雲。太祖の廬州挙兵に従い、広陵攻略に活躍。驍勇善戦、順調に出世して泗州防御使となる。龍紀初年(唐の昭宗期)、董昌の乱が起きるや朝廷は鎮海 節度使・銭鏐を派遣、これに対して呉軍は反政府側勢力として董昌を後援、台濛が派遣された。銭鏐を牽制して帰国すると漣水節度使に昇進、田?が蜂起する と李神福麾下の将として反乱鎮圧に参与、別隊の指揮官となる。田?は台濛いたる、の報に将軍郭行?および王壇、汪建に水軍二万を授けて蕪湖で迎撃させた が、わずか二千の台濛軍に打ち破られる。台濛は逃走する田?軍を伏兵で縦横に切り裂き、黄池の戦いで大敗せしめた。宣州に軍を還すと田?は宣州城を囲み、 台濛に戦いを挑んだが台濛は余力のないふりをして田?を奢らせ、油断したところを一撃で粉砕した。台濛の用兵の真骨頂は自らを弱兵と見せかけて驕慢にな った敵を撃つところにあり、その手で幾多の猛者を屠って敗北を知らなかった。天佑元年、卒。 周本・・・周瑜の末裔。家は貧しいが膂力があり、素手で虎を殺せた。勇力をもって宣州節度使趙鍠に仕える。「勇は軍中に冠たり」と称される。趙鍠が楊行密と戦って 敗れると呉に降り、許されて牙将となる。「戦ごとに奮躍し常に士卒に先んじて堅城を上り、矢石の険を犯して矛を振り回して完膚なきまで」敵を打ち破った。 天佑六年、楚の撫州刺史危全諷が諸州の兵十万人を率いて洪州に来寇、象牙潭に駐屯して高安を囲むとこれを討伐に向かう。が、大敗、しかしまもなく七千の 精兵を率いて再び出征、知略をもって楚軍を破り、象牙潭まで退いた楚軍を追撃してさらに大破、全諷を擒らえる。功により信州刺史。数年後、?・呉越・楚 の同盟軍二万が信州を侵すと数百の手勢だけで逆撃、空城の計+伏兵(弓兵隊)で敵軍を撃滅した。唐の荘宗が入洛すると高祖はそれを祝って司農卿・廬蘋を 遣わし、廬蘋は「後唐の名将に比肩する呉の名将」として周本の名前を挙げた。その栄誉により雄武軍統軍、徳勝軍節度使、さらに安西大将軍、大尉、中書令、 西平王を授かる。周本は書を知らず学問がなく、しかしそれゆえに儒士を尊重し、かれらを幕僚に招いた。朴訥な彼は士卒・民衆を愛して善政を敷き、人々も 彼を敬愛した。のち臨川王に改封。没年は不明、享年77歳。謚は恭烈。 ・・・高祖時代の人ばっか。周本は一応紹介済みだしね。それでも読み直すのにえらい時間かかった。 南唐は 757に任せていいんかな? いいよね。いいということにしよう。そんじゃ次は前蜀やります。 763 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 20 19 02 KuT70nJ30 う~む。 まともに読めないのに、南唐を任されてしまった。 まずピックアップ。 孟堅 もと?の裨将。?国内で後継争いから乱があり、南唐がそれに介入してきた。 孟堅は南唐の将・査文徽に降った。 査文徽は降将の孟堅に兵を与え、?国の平定に使った。 孟堅は自在に兵を操り敵を連破し、出撃すれば必ず功績をたてたという。 ?国の平定間際で、呉越王・銭弘佐の軍が近づいていることを知った孟堅は、司令官に戦略を進言するも、聞き入れられず呉越軍と戦い戦死した。それは結局、銭弘佐に名を成さしめる結果となった。 張彦卿 江北楚州の防御使。 後周世宗の南征が、皇帝自ら先頭に立って連戦するという快進撃ぶりだったので、各地の刺史クラスのものは降伏するか逃げ出すかだった。 劉仁贍も病のため死んでしまい、抵抗する南唐の将帥はもはやいなかった。 しかし張彦卿は楚州に迫る後周軍本隊に対し、わずか千人で防衛戦を展開した。 士気上がる後周最精鋭を相手に、40日間足止めした。 しかし南唐では、その足止めさえも効果的に戦略に組み込むこともできないほど、ぼろぼろにされていた。 窮鼠の例で、名将というほどではないだろうけど、団練使あるいは節度使クラスにこの男がいたら、どうなっていたかと想像させる。 陸孟俊 惜しいことに伝はない。 後周の南征のとき、後周と連動した呉越の銭弘俶を1万で撃破し、そのまま長江を縦断して揚州に攻めた。 揚州には後周の騎将・韓令坤が詰めていたが、これを圧倒した。 しかし、合撃態勢をとって六合に攻めた斉王・李景達が趙匡胤のために殲滅されると、韓令坤部隊は勢いを盛り返したので、陸孟俊は結局敗北した。 このとき、趙匡胤の有名な逸話で、「揚州の味方がこの六合を通ろうとしたら、その足を折れ!」と厳命し、前門の狼・後門の虎状態になった韓令坤は、狼のほうがマシということで、前面の敵を破ったという。 結果、功績として劉仁贍以外は、候補に留めおくくらいの武将しかいない。 というのも、歴史は統一に向かっているし、一人の将が長く兵権を持つことができないような時代となっていく過程だから。 764 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 20 57 52 D+9zxHsQ0 【前蜀】 張武・・・身長七尺(当時の一尺って30センチだっけ?)、紫がかった黒い顔という異相の巨漢。勇敢であり用兵を善くし、荊南の軍を?州で大敗させ た。武勲により鎮江節度使、のち峽路応援招討使。荊南の武信王は常に三峽を欲していたが、張武の威名をおそれ敢えて近付くことがなかった。 唐の兵が?(地名?)に入ると武信王は混乱に乗じ、水軍をもって峡州の施州に入った。張武はあらかじめ河中に鉄杭を突き立て、江中に柵を 立てて「鎖峡上がるべからず」と豪語した。武信王は勇士を募り河中の鉄杭を斬らせようとしたが、たまたま台風が吹いたために荊南軍の舟は 進退窮まった。そこに張武が矢を射掛けたので荊南の兵はたまらず逃げ帰った。八十余歳になるまで前蜀の軍を統帥した元老。 こんくらい。前蜀は文化人は多いけど名将って言ったらこの人ぐらい。この人ですら「名将」のレベルではないけどね。論に「古の名将の風あり」と書かれ てはいるけども。あとは漆黒の衣装を着た「鬼兵」を率いた徐瑤ぐらいだけど、この人は格闘の達人、って他には占領した土地で略奪暴行を働いた、という 不名誉な記述しかない。この国一番の武将はやっぱ国主・太祖王建だな。 後蜀は 726、 南漢は 750に一行ずつだけど紹介しただろ、で、?と北漢(楊業は北宋)には名将不在、南唐は 763に出してもらったから・・・あと何処があるっけ? 765 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 22 20 36 KuT70nJ30 呉越を忘れてるかな。 銭弘佐 呉越王。 わずか14歳で王位を継ぎ、奸臣を粛清して綱紀を改めたのち、?の遺臣の嘆願を受け 南唐と福州を巡って抗争。 南唐軍を大破し、南唐将・楊業および蔡遇を擒え、軍事不振に陥ちいらせた。 ほどなく病死していまう。 顧全武 董昌、楊行密との戦いで一進一退を繰り広げた。台濛、周本を破り蘇州を落としたりと、向かうところ敵なしとか書かれている。 北漢 張元徽 後周太祖の死に乗じて、後周への侵攻作戦の先鋒を務める。 伏兵をもって後周軍を撃破し、澤州にまで侵入を果す。 柴栄が親征してくると、北漢軍の左翼主力を率い、後周軍の右翼軍を撃破し中軍に迫る猛撃ぶりを見せた。 この時点で、後周軍は必敗と思われた。 しかし柴栄の陣頭指揮によって、盛り返した後周軍と乱戦に陥り、落馬したところを討たれた。 相手が悪かったと言うべきか。 どうも、みなさん柴栄の引き立て役みたいで申し訳ないところねw 楚や湖南ってどうだろ? ピンとこないな。 荊南にいたっては、孫光憲あたりがいるけど、宰相だし… ここは真田昌幸ばりの高従誨を出すか? 766 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 02 14 D+9zxHsQ0 【楚】 李瓊・・・「驍勇にして胆略あり、一代に冠絶す」といわれた名将。光化元年、姚彦章の推荐で大将となり、衝州の楊師遠を斬って功があった。同年、 永州を囲む唐世旻を敗死させる。明くる年、?州の守将陳彦謙を殺し、さらに進行して連州の魯景仁を自殺に追い込み、一年にして連・邵・ ?・衡・永の六州を平定、馬殷を大いに喜ばせる。劉士政が桂州に逃げ込むと陳可潘・王建武らが武装して楚軍に抵抗、李瓊は秦彦暉とと もに七千人を率いてこれを攻めた。可潘らは交戦にあたって民から兵糧や牛を略奪、これに怒った民衆は李瓊に秦城にいたる西南の小道を 教示した。李瓊は騎・歩三百を率いて秦城に夜襲をかけ、王建武を擒え可潘を斬った。泰州に逃げ込んだ劉士政はここまで追撃されて降伏、 桂・宜・巖・柳・象の五州平定。馬殷はこの活躍を嘉し、李瓊を桂州刺史・静江軍節度使・同平章事に任じた。天佑二年、没。 お茶の国にも建国期にはこんなんがいた。これくらいで、五代十国の武将は出揃ったかな。あとはこれをどう詰めるか、だが。 767 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 28 15 kcVgRo/h0 これはひどい自演ですね いや、マジで 768 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 30 32 D+9zxHsQ0 北漢にもいたね、そんな人。すっかり見落とし。小前氏の「飛竜伝」で柴栄ピンチ!!のくだり最近読んだばっかなのに・・・。やっぱボケてるようだ、俺のブレインは。 769 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 33 03 KuT70nJ30 なんか『十国春秋』って、「驍勇にして胆略あり」に類した表現多いですよね。 それだけ、武人・軍事マンセーな時代だったのだろうけど… 大筋は 761で行くとして、たぶん確定は 【後梁】 朱温 王彦章 【晋→後唐】 李存勗 周徳威 郭崇韜 【後晋】 該当者なし 【後漢】 郭威 【後周】 柴栄 趙匡胤 以上。 10名枠だと、あと二人入る余地があるのか… 以下候補。 【後梁】 郭言 楊師厚 劉? 【晋→後唐】 康延孝 符存審 任圜 【呉】 李神福 台濛 周本 【南唐】 孟堅 張彦卿 陸孟俊 劉仁贍 【前蜀】 張武 【後蜀】 726 王環 趙季良 【南漢】 750 蘇章 潘崇徹 【呉越】 銭弘佐 顧全武 【北漢】 張元徽 【楚】 李瓊 770 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 37 55 KuT70nJ30 …なんか自演扱いされましたねぇ。 それだけ知名度のない時代だからしょうがないか。 実際には、ここまで書けるとは思ってませんでしたよ。 後漢初期のように、一瞬で通り過ぎるくらいを覚悟してましたから。 もしかして、ネットで知っている人だったりして。 771 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/21(木) 23 42 41 D+9zxHsQ0 今日は諸兄の集まりが悪いなぁ。やっぱ十国であまりにも文量割いたから呆れられたのだろうか。 そろそろ戻ってきて欲しいな。あいつを入れろ、いやこいつだ、ってのが醍醐味の一つだし。 772 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 00 03 54 q8NYi5o10 空気読めないおっさんがいるからでしょ 773 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 00 07 17 Ub1cuTzO0 772 空気読めないオッサン・・・ってやっぱ俺だよなぁ。 悪い、すまんかった。だからみんな帰ってきて~(切実)。 774 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 00 51 51 1Jm1WEbW0 というか、ここは皇帝もOKなんだから 王建や楊行密でいいんじゃね? 775 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 00 59 53 Ub1cuTzO0 774 別に国王・皇帝でもOK。ただ、二十六史外の名将を紹介したかっただけだし。 それにしてもありがとう、ここんとこのレスは二人でパスしあってるだけだったから、 戻ってきてくれただけですごく嬉しいよ。皆から見捨てられたかも、とか思ったし。 776 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 01 33 27 Ub1cuTzO0 確定八人、残り二枠については保留、ってことで(20人以上、国主含めると更に多い中から二人に絞るのもちゃっちゃとは行かんだろうし)宋代行く? 叩き台はすでに出来てるんだが。 【宋金遼時代】 曹彬 楊業 耶律休哥 狄青 岳飛 アクダ ウジュ 完顔陳和尚 孟? バヤン 入れ替え候補として北宋では呼延賛、范仲淹、張叔夜あたり、南宋では宗沢(抗金の名将は岳飛が象徴的存在だから、宗沢を外したのはつらいが妥当だと思う) と虞允文くらい?中国国内で活躍したモンゴル武将としてはトゥルイ、スブタイのどっちかがバヤンに代わって入るかも(バヤンは元の武将だし)。あとは どいつもこいつも小粒な感があるな、岳飛や孟?の存在が大きすぎるから。抗金の名将で岳飛以上の活躍をした武将はいないし、モンゴルの南進を一人で阻ん だ孟?に比べると同時代の武将たちは影が薄くなる。魅力的な武将は多いんだけどなぁ。あ、ちなみに「魅力的な武将」に張世傑は含まれないのであしからず。 後漢、魏晋十六国、南北朝、隋唐、五代に続いて叩き台六連発。できれば今んトコ十国を討論して欲しいが。 777 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 01 44 36 q8NYi5o10 俺はこの時代知らんから口出しは出来ないが、 「考慮する武将は、中国式の王朝名・元号を用いて、 所謂中国本土に存在した政権に所属する武将とする。」 これだけは守ってくれよ。 あとID Ub1cuTzO0、せめてもっと見やすく改行してくれ 778 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 01 53 36 Ub1cuTzO0 777 OK、トゥルイ、スブタイは没ね。 で、俺のPCではちょうどいい塩梅なんだが、 どのくらいで改行すれば見やすいんだ? こうやって句読点ごとに区切るとか? 779 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 02 04 1Jm1WEbW0 岳飛と宗沢が一緒に入れられないなら宗沢じゃない? 岳飛の時代の対金戦線は韓世忠や張俊も居るわけで むしろこいつら相手にやりあった完顔宗弼テラツヨスって感じなんだが 780 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 07 58 Ub1cuTzO0 じゃあ、バヤンを元代に下げて宗沢を岳飛の前に置くか。 あと、完顔宗弼はアジュ(女真名)のことだから入れてるよ。 できればオリブも入れたかったけど。 781 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 16 08 Ub1cuTzO0 780 間違えた。アジュじゃなくてウジュね。 ちなみにオリブの漢名は完顔宗望。まぁ、どーでもいいか。 782 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 16 53 1Jm1WEbW0 知ってるがな>完顔宗弼はアジュ 俺は完願姓のほうが好きなんだよ 783 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 21 14 1Jm1WEbW0 つーか“中国”名将なんだから漢字名で後ろにその民族での名前にしたほうが見栄えはよかろう これから先、漢民族以外の武将も結構出るだろうし 完顔宗弼(兀朮) 伯顔(バヤン) みたいにね 784 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 02 23 31 Ub1cuTzO0 782 すまん、余計な差し出口だったな。 しかし、宋代に入ったら結構なレス来るなぁ。 十国から必死で名将探してた時とは大違いだよ。 785 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 04 10 18 czs+sA3F0 オナニー激しいし、勝手に枠を組替えてるしグダグダだな。 786 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 05 06 41 ehql7Mp20 782 ウジュじゃなかったか? 音写してるだけだからアジュと読めたりするのかな どうもアジュとくるとウリヤンハタイの息子を想像してしまうな なにげにスレのレベルあがってるなぁ 五代十国は詳しくないから参考になるわ 787 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 10 02 59 PuWbOJXI0 はや。 もう南宋いってるし。 まぁ、北宋には「名将」なんてものは皇帝以外に存在してはいけない王朝だから、妥当だろうが。 名臣なら、コレまでの王朝以上にわんさかいるけど。 五代十国が終わってしまったので、出番も終わったな。 オナニーやグダグダにならないよう、 785がきっちりと手綱を握れることを、ROMりながら見ているよ。 788 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 10 09 09 X3p/NssBO 753 神話的人物もいるけど、単純に神話と一括りにしては誤解があるから、上古とか古代の方が良いだろうね。 786 知名度が無いから、知識のある奴が語ってるだけじゃね。 789 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 11 53 52 1Jm1WEbW0 786 コピペしたから 780のまんまなだけ 790 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 13 02 31 RShMVg6LO 質問なんですが 岳飛の戦術的能力って実際より割り増しな状態で認知されているって本当ですか? 自分は普通に凄いと思うのですが・・・ 791 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 13 08 46 PuWbOJXI0 790 自分もそう思う。 割り増しの話は初耳だけど、神格化されているのは確かな事実でしょうね。 列伝自体は、読むとその戦勝ぶりに圧倒されます。 某SF作家がヨイショしまくっているので、その反動で過少に見たがる輩がいただけでは? 792 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 15 08 59 LLw4oGBn0 791 岳飛は確かにすごいけど、金史とかも読んで比較したほうがいいと思う もっとも自分も漢文をちゃんと読めるわけじゃないのであまり偉そうな ことは言えないが 金の完顔宗翰(粘没喝) 左副元帥として右副元帥の宗望とともに北宋を滅ぼす 初期の南宋侵攻の総司令官 本当は宗望のほうが良かったかもしれないが、遼・北宋・南宋と 戦った当時の金軍の代表ということで 793 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 15 31 58 JKwgF/bUO 777 つまり1271年以降(で1368年迄)のモンゴル帝国本国のみだな ってこの時代、100年も無いぞ 794 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 15 51 55 RShMVg6LO 早速のレス感謝、感謝です。 神格化されてるのは考慮して意見を述べたのですが 割り増しな状態で認知されているって言うか、 虚名が実力の何倍かに膨れてるって言われたもので・・・ 本当に得意なのは宋、特に南宋だったりするって御仁の意見もぜひ拝聴したいです。 もし即出ならご勘弁を・・・ 南宋の武将って岳飛ぐらいしか思い浮かばないヘタレな自分・・・ 795 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 16 24 37 IVux9sad0 中国本土を版図に持ってればそれでいいと思うが。 796 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 18 38 02 3Ix63xxn0 778 こちらの環境では、IDの最後辺りで改行入れると見やすいと思います。 797 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 19 35 45 oPTMez7T0 かんせいちゅうは? 798 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 21 39 33 6W7MM8tk0 776 阿骨打は外してもいいんじゃね? 遼を滅ぼす前に死んでるし 阿骨打没1123年 遼滅亡1125年 北宋滅亡1127年 799 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 22 46 29 g/ZSmkFH0 とりあえず金は僕散忠義を推薦。 ところで、五代で一時代枠なんだっけ? あと遼は 777の定義に入るのか?個人的にはかなり微妙な存在だと思うが。 800 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 23 37 13 ohxJ0+FC0 金から入れるなら、生涯不敗の宗望の方がいいんじゃね? 801 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 23 38 54 UP8ffTFO0 794 確かに南宋得意って書いたわ、俺。 岳飛は神格化されてる部分もあるけど、実際の武勲と虚構の武勲がそれほどに 違うってことはないと思う。 『岳飛伝』も岳飛の死まではあらかた正史の『宋史』に書かれてるとおり。 (虚構も確かに入り込んでるけど、岳飛の武勲は水増ししなくても十分に物語になるし) ただ、宮崎市定教授によると?城での大勝利は嘘だとか虚報だとか。 そのへん確かめる術を持たんわけだが。 あと、岳飛は酒の席で酔っ払って部下を殴り殺したことがある。 結構短気だったっぽいってのもあわせて、『岳飛伝』の清廉なイメージは少し修正して 読んだほうがいいかも。 802 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 23 43 53 UP8ffTFO0 連投。 798 しかし阿骨打の強大な統率力なしでは金そのものが成立してないだろ。 阿骨打を抜くのはヌルハチなしでドルゴン語るようなもんだと思うが。 803 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/22(金) 23 57 31 PuWbOJXI0 802 金国を語るわけじゃなく、中国名将を語るから、そこは考慮にいれてもらいたい。 804 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 00 03 14 wmBoXmV30 803 ふむぅ。んじゃ、仮に阿骨打を外すとしたら 入れ替えで菩薩太子・宗望(オリブ)かな。生涯不敗ながら短命なんだが。 799 入ると思うよ。本土の本で『宋金遼三国演義』って出てるし。 中華王朝の一つとして現地の人に認知されてたってことじゃない? 805 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 00 50 47 wmBoXmV30 またも連投。 799 僕散忠義よか徒単合喜のほうがよくないか? 宋弼すら倒した呉?を破った男。 まぁ僕散忠義には南宋から講和を引き出した功績があるけど、なんかぱっとしないイメージが。 806 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 00 58 30 CJZ/Ifhh0 804 いや、現地の人の認識でなくて、我々がこのスレで定めた「中国武将の定義」に当てはまるのか?ということです。 当時の人間の認識を問題にしたら、五胡の連中のほとんどが「あんな禽獣ども、俺たちと同じ中国人なわけないだろ!」 とかなってしまうんでないかい? 逆に言えば、 777の定義だとトゥルイやスブタイは入ることになるだろうけど、この二人は当時も今も中国人は「中国 の武将」なんて認識は無いのでは? 807 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 01 07 58 0tvJC2KbO 遼は領土が微妙じゃね まあ燕が領土内ならギリギリOKだと思うが まああと「契丹」は中華的な国号なのか気になる 駄目なら遼の範囲は947~983、1066~1125ということになるな 806 777の定義を「中華地域の領土を持ち、その歴史を通して中華風の元号と国号を使った歴史がある政権に所属している」と読むか、 「中華地域の領土を持ち、中華風の元号と国号を使っている政権に所属している」と読むかで話は変わる 前者ならスブタイは有り、後者なら無しだ 808 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 01 12 23 wmBoXmV30 806 個人的には「中国本土に領土があって中国国内で活躍した武将」 が=「中国の武将」でいいと思うけど、どーだろね? 我々としては当時活躍した武将を楽しく選出できればいいと思うんだけど。 当時の人々の思惑はさておいて。 トゥルイやスブタイは入るかなぁ? 777の定義だとそれは違う気もするが、 入れていいならスブタイを入れたい。明らかに「俺は蒙古の将だ」って思ってたにしても。 ところで耶律休哥以外に遼の名将っている? 一度楊業にやられかけたとはいえ、あれほどの人傑はそういないと思うが。 809 名前:807 投稿日:2006/12/23(土) 01 19 15 0tvJC2KbO 我ながら言葉使いが変だな その政権の歴史の中で中華風の元号と国号を使った事例がある に変更 まあ777は後者のつもりで言ってると思うが 810 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 01 39 34 wmBoXmV30 794 韓世忠・・黄天蕩の英雄だが部下の呼延通が拝礼しなかったことに怒り、シカト。案外心が狭い。 張俊・・・所詮は夜盗あがり。岳飛忙殺の一翼を担った外道。 呉?・・・宗弼を和尚原で破ったのが黄金時代。その後はただの酔っ払い。 呉?・・・兄貴の副将で補佐役。岳飛死後四川に引き篭もり。 劉錡・・・戦略的撤退を敵前逃亡と看做されて激怒、そのまま病死。 虞允文・・久しぶりの一発屋。でも権力の中枢にいたから長生きすればもっと活躍したかも。 李顕忠&楊存中・・数千から一万での局地戦では修羅の強さだが、名将と呼ぶには不足か。 ・・・以上、遅くなったけど南宋初期の名将ピックアップ。 他にも王彦とか魏勝とか李宝とかいるけどとりとめがなくなるんでこんくらいで。 811 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 01 49 43 wmBoXmV30 810は 801の続きね。 宗沢入れ忘れたけどまぁ、この人は「黄河を渡れ!!」の名台詞で説明終了。 812 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 02 55 38 4KpaQjTH0 808 耶律休哥以外の遼の名将というと耶律斜軫ぐらいしか知らないが・・・ 高梁河で休哥と共に宋太宗の親征軍を破り、 宋が再び大軍を北上させたときは山西方面の指揮をとって宋軍を撃破し 楊業を捕らえた 813 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 09 11 13 omAv98Yd0 耶律休哥って、髪が白髪になる人か。 でも楊業に及ばぬ自分を感じていたっていう格下の武将だし、 これは外してOKでしょ。 惜しかったね努力賞ってイメージが救えねぇw まぁ、楊業は五代末~北宋期最強の名将だから仕方ないとも言えるけど。 814 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 20 18 51 perZ8+ssO ここらへんの時代はあんまり詳しくないけど楊業って実際そんなに凄いの? 北方小説で過大評価されてるような気がするんだけど 815 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 20 36 10 ooQwvYVw0 北方小説で過小評価されてるきらいはある>耶律休哥の方 どう考えても北宋初期最高の名将なのに、楊業の引き立て役かぁ…。 内政担当の耶律隆運と並んで聖宗期の両輪を為した人が…。 816 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 21 34 01 c2L/HJVV0 耶律休哥と耶律斜軫は普通に名将だろうよ てーか曹彬が入るなら休哥は入るだろう 817 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/23(土) 23 34 29 7b9vUZzqO 801 南宋が得意な御仁よりの回答、痛み入ります。 やっぱり詳しいですな。 凄いですよ、その知識!! 818 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 00 20 26 LjEVuFai0 816 耶律休哥を外すという主張は、名将かどうか、曹彬と比べてどうかという話ではなくて、 遼という王朝の扱いの問題でしょう。 819 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 00 29 13 fXLV+qUg0 818 そうだけど、厳然たる中国内地での戦いで、宋太宗を身一つで遁走させるほどの勝利をもたらした男を、名将でないとするか? 燕雲十六州は中国の土地という認識があり、そこを取り戻すのが初期と後期の国是となったわけで、遼全体ではなく、北宋の侵攻軍と戦い勝利したなら入れても問題ないでしょう。 ま、その辺にとどめ置くべきでしょうね。 新興の女真とか、遡るがウイグルや渤海と戦って勝利した将軍などは考慮しないということで。 820 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 01 25 47 LjEVuFai0 819 話、わかってる? 耶律休哥が名将でない、なんて誰も言ってませんよ。耶律休哥は「中国の武将」扱いができるかどうか、 と言っているのです。 818に対する、何の反論にもなっていません。 >燕雲十六州は中国の土地という認識があり、そこを取り戻すのが初期と後期の国是となったわけで この理屈で言うのなら、例えば20世紀に中国の一部を支配していた日本の軍人は「中国の武将」とみなせる のですか? 燕雲十六州は確かに関内の土地だが、当時の中国からすれば北辺の彊土。それくらいを占領しただけで 中国政権になるのなら、南詔や西夏だって中国政権になります。台湾を支配した日本も。 821 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 06 29 39 wpuDOooE0 808,813 耶律休哥が楊業に負けたのっていつの戦い? 822 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 08 33 09 iPZXmf/E0 767 俺はいいとして770の名誉のために言っておくと、自演ではないよ。 まぁ、確かに二人だけで時間とスペース割いたのは悪かったけど。 なんつーか、田中某氏の「五代十国には名将が少ない」ってのを覆したかったんだよ。 とりあえず、自己満足でみんなを白けさせたことについては謝っとく。すまんかった。 ちなみに空気読めないオッサン=南宋が得意な叩き台係の俺だったりする。 誰か気付いてたかも知れんが、言っとかないと居心地悪いんで告白しとくわ。 796 遅くなったけど、改行のタイミング教えてくれてありがとう。助かる。 820 耶律休哥残すべきか他の遼の名将に交代か、の火口を切ったのは俺なわけだが、 それが遼は中華王朝たりえるか、の議論に発展するとは・・・。 個人的な意見としては中原志向を持っていたかどうかで変わると思う。 明らかに中原を狙って南侵してきた金は間違いなく中華王朝として、遼は微妙だな。 燕雲十六州だけで満足してたとしたら中華王朝ではないことになるし、どーだろ。 出来る限り耶律休哥は残す方針でいきたいんだが。 821 808だけど、耶律休哥は生涯負けなしのはず。楊業には追い詰められたけど虎口を脱してるし。 いつのどこの戦いってよく憶えてないなぁ。続資治通鑑読めば出てくるはずだけど、めんどい。 823 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 09 50 50 sDTc3uctO 820 春秋戦国時代にはすでに中華世界に入っていた燕が駄目なら何処ならいいのよ 824 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 10 29 50 fXLV+qUg0 820 日本史が中国の正史として認められるなら、中国として扱われるかもしれんね。 遼史は二十六史のうちのひとつで、過去に中原志向があり、晋あるいは後唐、後晋さらには北宋と、従属国家ならしめたのだが、それを考慮していただきたい。 南詔とか吐蕃、西夏とはわけが違うんですよね。 だが、その中で中国武将として扱うのは、あくまで中国本土で戦った事例のみとしたい。 822 自演に見えるほど、話が合ったってことでしょう。 それはすごく楽しい時間でしたよ。 五代十国の知名度のないところを埋めようとしたのだから、場の空気を問題にださなくてもいいと思うのだけどなぁ。 たしかに、「白けた」というのは悪いと思うから、そこは謝っておきましょう。 825 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 11 16 33 PioT/k3w0 遼までアウトってやりすぎだろ 826 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/24(日) 11 32 39 FD88rmOM0 近代以降の軍人は含めず 中原志向があり 中国本土を領土+主戦場とした事があり 漢化された文化を持っていた王朝 ・・・とするなら遼は十分入るのでは。 二十六史にも入ってる事だし、アウトは違和感がある モンゴル帝国みたいに扱いに困るエリアの武将がぼろぼろ入る訳でもないだろうし 最大でも3人位だろう 827 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 11 30 00 vo6wlQ4q0 【宋遼金時代】 今のところは 確定・・・曹彬 楊業 狄青 宗沢 岳飛 宗弼(ウジュ) 完顔陳和尚 孟? 候補・・・耶律休哥(遼を入れるのかどうか) 阿骨打(中国の武将なのか?) 宗望(オリブ) その他・・韓世忠・張俊・呉?・呉?・劉錡・虞允文・李顕忠 楊存中・僕散忠義・徒単合喜・宗翰(ネメガ)・耶律斜軫 こんなもんか? 828 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 15 48 04 fnE0CQba0 827 完顔陳和尚は一発屋で、他の戦いでは敗北を喫したりもしているので、 できれば外して欲しい。 こんなの入れるぐらいなら、耶律休哥を入れて欲しい。 あと、宗弼は負けが多すぎるので、名将百選に加えるには微妙な気がする。 創業期の金を代表する武将としては、宗望の方がふさわしい。 829 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 22 34 38 ZvnrKvkh0 完顔陳和尚はたしかに一発屋なんだが、その一発が他ではまずお目にかかれないような 大金星というのが扱いに困る。この百選は一発屋よりは総合的な功績が重視される傾向 があるので、やはり落ちるか? 宗弼が微妙というのには賛成。変わりに入れるなら総合的にいって宗翰を推す。 あと宋のチュウ師道がいないのは何故だ。 830 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 23 08 04 xqkOF2ld0 827 その他、のところでいいから衰宋期のパワフルおじいちゃん、杜杲と ビッグマウスな釣魚城城主、余?を推薦。孟?という巨星に隠れて地味な扱いだが、 両者それなりに頑張ってる。あと張順、王堅なんかもいるけど、 このふたりはもと孟?の部下だから入れんでいいか。 829 叩き台の段階でチュウ師道を外した理由。チュウの字が漢字変換できなかったから。そんだけ。 831 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 23 30 58 PYWCrXDb0 830 釣魚城を造らせたのは余?だけど、モンケ侵攻の時の城主は王堅でしょ。 釣魚城城主というのには違和感があるなあ。 832 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 23 45 10 xqkOF2ld0 モンケって結局病死なんだっけ? どっかで王堅が放った投石器の岩に潰されて死んだって読んだ気がするんだけど記憶違いか。 833 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/25(月) 23 51 18 PYWCrXDb0 832 死因については諸説あるが病死というのが一般的。 後継いだフビライがモンケの遺命に背いて釣魚城の軍民全ての生命と財産を保証してるから。 直接殺したら流石にそこまで寛大になれないだろう。 投石器の岩に当たって死んだのは武将の汪徳臣のはず。 降伏勧告中にやられた。 834 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 00 10 57 R8+iyRtD0 833 サンキューありがとう。 モンケじゃなくて汪徳臣か。完全に勘違いしてたわ。 さて、明日はいつもより速いし、そろそろ寝るか。 宋金遼には思い入れ深いんで明日帰ってきたらすでに元時代になってるなんてことがないように祈るよ。 耶律休哥の問題もあるしね。 835 名前:827 投稿日:2006/12/26(火) 03 10 34 DSE9B05z0 828 叩き台に上がっていて今まで議論になっていない人物は 異論なしとみなして確定にいれたけど、自分も完顔陳和尚 は外していいと思う 830 「その他」は単に一度名前のあがった人物をまとめて書いておいた だけで、特に意味はなかった。紛らわしくてすまん 836 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 08 20 43 42YYP3fPO 829 大金星なのは確かだけど、規模が小さいような…… 837 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 10 23 50 JbDctQgM0 常勝ではないにせよ、末期の金で孤軍奮闘した勇将とは言えるだろうけどね。 名将百選に入るほどか、と言われれば・・・ 金を代表させるなら勃興期の名将・宗望や、南征の勇将・宗弼を入れたいね。 838 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 19 10 08 V3+XH6Ij0 宗弼は敗戦が多いから外したほうが、についてだが、 実際そんなに負けてるかってーとそうでもない。和尚原では一度負けてるが翌年獲り返してるし、 岳飛と韓世忠の合同軍を破ったりもしてる。 黄天蕩での敗戦はまぁ言い訳できない負け方だが、ウジュの敗戦は ・相手も超一流の用兵家であって ・得意の騎兵戦に持ち込むことの出来ない状況に持ち込まれた ためにやむなく敗れた、というのが真相であってだらしなく負けてばっかではない。?城の大会戦が実際あったなら金史に記載されないはずはないし、 (黄天蕩や和尚原での敗戦はしっかり書き留められてるんだから、?城の場合だけカットされてるってのは明らかにおかしい) 記述がないということは?城の戦いは実際にはなかったという率が高い。 つまり野戦で騎兵の機動力を存分に使える状況では負けてないことになる。 しかも南宋政府に講和を認めさせ朝貢国たることを認めさせた功績は敗戦のマイナスを補って余りある。 ということで、ウジュは残したほうがいいと思うのだが、どうか。 完顔陳和尚はどーかなぁ。個人的には足を折られても腕を折られても変節しなかった 硬骨漢って感じで好きなんだが、モンゴル軍相手に三連勝とはいえ、どれも局地戦だし百傑入りは難しいか。 代わりに誰入れるかってーと、順当なところで韓世忠かオリブのどっちかだろうな。 自分で推しといてなんだが余?じゃ明らかに役者が不足してるし。 余?+王堅+張カクの釣魚城城主トリオをまとめて一人扱いってんならなんとか他の英雄たちに匹敵できるかもしれんが、駄目だよな? 839 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 20 14 41 xM7WPZ7d0 838 自分で推しといてなんだが余?じゃ明らかに役者が不足してるし。 余?+王堅+張カクの釣魚城城主トリオをまとめて一人扱いってんなら なんとか他の英雄たちに匹敵できるかもしれんが、駄目だよな? 孟?がいればそれでいいと思う。 840 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 20 44 01 V3+XH6Ij0 839 同感。実のところ誰かが「孟?いらないよね」とか言わないかビクビクしてた。 まぁその心配はないとして(実際武功なら岳飛より孟?のほうが上、ってぐらいだしな) 一応10人枠あるから、穴埋めの人材と、あと耶律休哥の問題があるんだった。どーしよ? 841 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/26(火) 21 14 01 V3+XH6Ij0 現時点での確定組と候補、連投させていただく。 【確定組】 曹彬 楊業 狄青 宗沢 岳飛 孟? 以上、確定6名 【候補】 完顔宗弼(俺の中では確定) 完顔阿骨打(中原では戦ってないし、外すか) 耶律休哥(遼は中華国家でいいよな?) 韓世忠(完顔陳和尚の後釜候補) 完顔宗望(韓世忠に同じく) 杜杲(孟?と活躍時期がかぶったのが不幸。単独で10傑入りは無理があるか?) 余?その他(・・・頑張ってください) 842 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 02 03 40 Yn742Mqk0 五代十国宋遼金で10枠ね。 843 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 02 32 06 7T6YDn+60 841 宗弼は微妙だな。マイナスも大きいがプラスも大きい 宗望は確定でいいと思う あと、完顔陳和尚の後釜には韓世忠の他に完顔宗翰と耶律斜軫を推したい ただし、こいつら3人とも同時代のより優秀な奴とかぶってるんだよな・・・。 844 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 04 36 16 62ylHK9k0 842 うぇ!? 五代十国宋金遼で10人っていくらなんでも無理ですぜ、旦那。 現時点で五代の確定、8名。 そして宋金遼から現時点で6人。宋金遼は当然のようにまだ増えるし。 それをあわせて10人ってどんな奇術使っても無理。 叩き台の段階で五代十国と宋金遼は別々にしてるわけだし、別々でいいだろ、どう考えても。 まぁ清まで終わった段階で100人超すから、各時代の代表をさらに7,8人に絞る必要があるとはいえ、 五代十国と宋金遼を一緒には無理です。隋唐を一緒にするのとはワケが違う。どー考えても無理なんで勘弁してください。 845 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 07 06 04 G3LU4sIo0 なら別に無理に10名出さなくてもいいんじゃないかと。 どうせ後で削るんだから。 異論が多い人物は外してもいいと思う。 846 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 07 35 06 Yn742Mqk0 844 最終的に各時代で均衡が取れるように絞る予定ならいいよ別に。 ただ五代十国なんて50年程度しかないことをお忘れなく。 あと、過去ログに目を通してから参加したほうがいいよw 847 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 10 14 00 5lDL98+e0 846 年数以上に、歴史的転換期であり、政権がめまぐるしく変わったことを忘れずに。 五胡と南北朝をくっつけないのと同じこと。 なんなら、魏晋南北朝とひとくくりにする? 848 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 11 32 35 GWIUbemB0 846 過去ログっつーか、後漢からずっと見てるよ、俺。 でも宋金遼時代は名将多いから削れないだろ。 宗弼、宗望、耶律休哥。この3人入れただけで9人になる。 五代十国の8人もこれ以上は削れない、って人物で固まってるし。 849 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 12 04 03 XaYK9d7o0 1.春秋戦国 2.前漢 3.後漢 4.魏晋十六国 5.南北朝 6.隋唐 7.五代十国 8.北宋・南宋 9.元朝 10.明朝 11.清朝 全部でこの11王朝だから、一朝毎に7.8人まで削る必要ないな。 一朝から9人で99人になる。あえて五代と宋をひっつける必要はないだろ。 最後の一人はどっかの時代で確定ではない候補の人物を入れるってことで。 850 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 12 33 27 +BkRsUoPO 五代だけやけに短くない? 851 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 12 44 27 X4iTQwFd0 850 同意 たかだか五十年の五代に一枠を与える事は過分以外の何物でもない。 852 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 12 57 03 Cw0UK+Ao0 人間の能力って特定の時代に偏ることはないと思うんだよね。 有力候補がなかった周の東遷以前を省いて辛亥革命までの2681年を百等分したって 五代で2人、ちょっと調整して割増しても3人くらいの枠にしか相当しない。 853 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 13 05 55 Y6NaSUK20 そんじゃあ 【五代】 李存勗 郭威 柴栄 趙匡胤 【宋朝】 曹彬 耶律休哥 狄青 宗沢 完顔宗弼 孟? 以上10名って感じか? 両朝ともやけに人材層薄くなるが。 854 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 13 24 08 Y6NaSUK20 ↑よっか五代から3~5名出して両宋からは一枠10名(9名でもよし) にしたほうがいい気がする。なんといっても宋は300年王朝だし、 時間ごとにまんべんなく名将が出てくるならそんだけで名将輩出率が高い。 異民族の名将も差別なく入れたいしな。 855 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 13 26 27 X4iTQwFd0 改めて新しい枠の規定を提案したいんだが… 春秋戦国(秦含む) 前漢(楚漢戦争含む) 後漢(新や魏・蜀・呉以外の後漢末群雄含む) 南北朝(晋統一~隋統一) 隋唐(隋末群雄も勿論含む) 宋(五代から元の統一まで) 元(元成立後の明成立までに活躍した元末群雄含む) 明(例によって明末群雄も含む) 清(まんま、清代に活躍した人々) 異民族枠(漢化されたとおぼしき異民族は含まれない、 純粋な異民族と思われる、 ある程度中国史に影響を与えた人物のみここに含まれる) 856 名前:855 投稿日:2006/12/27(水) 13 28 42 X4iTQwFd0 元の解説の冒頭部分(元成立後の)は無視してくれ。 857 名前:855 投稿日:2006/12/27(水) 13 40 46 X4iTQwFd0 すまん、後漢と南北朝の所で大きく矛盾していたことに気付いた。 これでは、魏・蜀・呉は何処にも含まれない事になる。 で、改めて後漢枠を(新成立~晋統一まで[魏・蜀・呉も含む])に変更したい 858 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 13 41 49 7T6YDn+60 五代・北宋・遼と金・元・南宋に分けるのがいいんじゃね? 宋は全部で300年あるから、それとくっつけられるとどうしても不利になる というわけで 【五代・北宋・遼】 朱温 李存勗 郭威 柴栄 趙匡胤 曹彬 楊業 狄青 耶律休哥 以上9名 【金・元・南宋】 完顔宗望 完顔宗弼 アジュ バヤン ココ・テムル 宗沢 岳飛 孟? 以上8名 これでどうか? 個々の人物が適当かは改めて議論するとして 859 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 13 44 03 Y6NaSUK20 852 人間の能力って特定の時代に偏ることはないと思う、についてだが、 動乱期には平時とは比較にならないぐらい将才・知略に長けた人物が湧き出るもんだと思う。 (平時には将才があっても確かめる術がないから) 855 異民族枠にはモンゴル初期の将帥(トゥルイ、スブタイなど)も入るの? スブタイは完顔陳和尚を倒して金を絶望のどん底に叩き込んだから、そこそこ歴史に影響してると思うが。 860 名前:855 投稿日:2006/12/27(水) 13 48 02 X4iTQwFd0 859 俺の主観では、モンゴル帝国関係は、 元成立以前の蒙古人なら全て異民族枠に入る。 後金のヌルハチやホンタイジもまた然り。 861 名前:855 投稿日:2006/12/27(水) 13 54 22 X4iTQwFd0 859 すまん、質問の意図を少し履き違えていた。 トゥルイとスブタイに関してだが・・・ ぶっちゃけ元は元末動乱期ぐらいしか詳しくないので、何とも答えられん。 しかし、先述したヌルハチやホンタイジぐらいの影響力があれば充分この枠に入る。 862 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 02 25 Y6NaSUK20 858 概ね同意だが元の将は元時代で別にしていいんじゃなかろうか。 一緒にするとなんとなく分かりづらいというか、元は独立させて 史天沢 忽必烈(フビライ) 兀良合台(ウリャンハタイ) 阿朮(アジュ) 伯顔(バヤン) 劉整 李庭芝 張弘範 脱脱(トクト) 拡廓帖木児(ココテムル) ぐらいがよくないか? ちなみに李庭芝は南宋最後の砦ってことで入れた。呂文煥でもいいけど。 863 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 10 59 rkWscUeh0 858 隋唐は300年以上、しかも世界帝国として対外的に膨張していた時代にもかかわらず きっちり10人枠で収めたんだから、とりあえず今は我慢しようや 五代~宋は文化的には飛躍していた時代であっても、軍事的には常に劣勢であったことを 考えれば、10人枠内に入るヤツラは、自然と決まってくると思うんだが ちょっと過大評価しすぎでないかい? 855 新~晋統一までか、一番枠組みが変わるところだな 南北朝時代だけだと、非常に狭い意味合いしかない言葉になるので「両晋南北朝」と 呼称したほうが分かりやすいと思う 864 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 22 19 /wJgecFi0 859 確かめる術がないだけであって能力自体が跳ね上がるわけじゃないだろ? 各時代でバランスがとれた配分にまとめることがこのスレの住人の腕の見せ所なわけだ。 865 名前:855 投稿日:2006/12/27(水) 14 24 30 X4iTQwFd0 863 うん、確かに。 それじゃ、南北朝は両晋南北朝に変更という事で。 866 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 49 32 Y6NaSUK20 両晋~南北朝だと 祖逖 桓温 慕容垂 劉曜 石勒 劉祐 韋叡 拓跋珪 斛律光 于謹 楊素 こんなもんか? すげぇキツキツだが。 867 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 51 22 Y6NaSUK20 いかん、11人挙げてるわ。とりあえず劉曜を抜くってことで。 868 名前:858 投稿日:2006/12/27(水) 14 57 26 7T6YDn+60 863 統一秦~前漢 約230年 新・後漢 約210年 魏晋~五胡十六国 約220年 南北朝 約200年 隋唐 約330年 どちらかというと、隋唐が例外的に長いと思う もし五代・宋・遼・金にすると他の時代の倍近い約370年になってしまう 俺としては時代を短めに区分して沢山名前があがったほうが面白くていいんだが 869 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 14 59 16 uGKfilRi0 五代十国の混乱は中原に限っては半世紀あまりで終わったが、 北宋は統一王朝でも覇権国家でも何でもないと思う。 中原の大半を支配してるだけの史上最も栄えた南朝。 その比類ない文化と思想的、言論的、制度的先進性が過大評価を生んでるだけ。 実際の東アジアの本流の覇権は遼と金が握っていた。 870 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 15 00 54 uGKfilRi0 1:春秋戦国時代(前770~前221) 2:秦漢時代(前221~220) 3:魏晋南北朝時代(184~589) 4:隋唐時代(581~907) 5:五代十国二宋遼金時代(907~1279) 6:元代(1271~1368) 7:明代(1368~1644) 8:清代(1636~1912) 871 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 16 41 09 5lDL98+e0 言うのも野暮かと思っていたが、魏晋南北朝期の門閥主義と、最下層の農民でさえ手柄を立てれば栄達できるチャンスが多かった唐末五代とでは、「人」の層が断然に違うということ。 玉石混交ではあっても、能力のある人間が世に出る機会が多いのであって、その厚みは他の時代とはずいぶん違う。 それだけ優秀な人材が出るということにもなる。 それでも、その武人主導の期間が短かったのは、中国王朝では異常事態だったから。 872 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 17 33 34 rkWscUeh0 871 中国史上、唯一の奴隷出身者の皇帝がいる時代が、門閥主義最盛期の魏晋南北朝期なわけだが すごい奴が出るのに、身分の壁なんて実際は何の縛りにもなっていないのが中国史の醍醐味でしょ? それを実際世に示したのが、他ならぬ市民階級出身の高祖劉邦なんだし 873 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 17 40 21 +BkRsUoPO 南北朝期の皇帝も軍人出身者ばかりだしね 874 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 18 54 01 5lDL98+e0 872 身分の壁なんて実際は何の縛りにもなっていないのが だからその壁がなくなるのが乱の時代であって、壁を作るのが治の時代なわけですよ。 五胡や五代などの戦乱期は、あるいは戦国時代もそうだけど、こういう時代は特に名将といった類の人間が立身しやすいので、多く出る。 つまり、方々に同じような実力を持ったものが出て、平均化して見えてしまうわけですよ。小粒に見えるのはその辺が影響しているんじゃないですか? 873 軍人でも門閥主義からは、そう遠くないですよ。 875 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 19 09 10 5lDL98+e0 と、言ってみたものの、時代区分は 858がそれなりの出していた。 すまない、よく見てなかった。 宋は、北と南で随分違うから、分けるのは妥当。 その王朝の性格も、 869の認識で大筋当たっているわけで、王朝の支配領域が大きい=優秀というわけではない。 しばしば指摘されているけど、この時代はユーラシア規模での活性期に入っているから、そこも考慮してほしい。 それだけ、中華王朝が、以前のようにデカイ顔できない状況だった。 876 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 19 21 23 L003U+Q+0 中華王朝が圧迫されてたのは五代に限った話でもない。 877 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 19 50 51 rkWscUeh0 春秋戦国(紀元前771年~紀元前221年 550年間) 統一秦~前漢(紀元前221年~紀元前8年 213年間) 新・後漢(紀元前8年~紀元220年 228年間) 三国~両晋(220年~439年 219年間) 南北朝(439年~589年 150年間) 隋・唐(589年~907年 318年間) 五代~北宋・遼(907年~1127年 220年間) 南宋・金~元(1127年~1368年 241年間) 明(1368年~1644年 276年間) 清(1636年~1912年 276年間) 今の流れだと、こういう枠組みか? まあ、もともと元代100年ちょっとに10人枠設けていたのが、無理があったのかな 878 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 20 31 23 X4iTQwFd0 乱の時代に英雄が現れ易いというのは、皆さん納得してくれる事と思う。 やはり、ここは乱の時代に別枠を設ける事が妥当な線ではないだろうか? そこで、 春秋 戦国 楚漢戦争 新~後漢統一 後漢末~晋統一 西晋崩壊~隋統一 隋末~唐統一 五代 元末~明統一 明末~清統一 の十大戦乱期を特別枠とし、それぞれの時代から6名づつ人物を選出し、 その他の治の時代は 前漢 後漢 唐 北宋・遼 南宋・金 元 明 清 に区分し、それぞれ5名づつ名将を選出するというのは如何だろうか。 879 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 20 34 48 X4iTQwFd0 ああ、さっきと同じでまた時代区分に矛盾が出た。 後漢末~晋統一 西晋崩壊~隋統一 は 後漢末~西晋 西晋崩壊~隋統一 に変更します、すんません。 880 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 20 40 46 X4iTQwFd0 隋末~唐統一も、 隋~唐統一に変更ね。 西晋も隋も、短すぎて忘れちゃうんだよ。 881 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 23 25 16 uGKfilRi0 ≪大乱枠≫ 1春秋戦国 2魏晋南北朝 3五代十国 ≪乱世枠≫ 1秦末漢初 2新末後漢初 3隋末唐初 4宋末元初 5元末明初 6明末清初 7清末 ≪治世枠≫ 1漢 2唐 3宋 4元 5明 6清 概ね 878に賛成だが、 春秋戦国、魏晋南北朝、五代十国を重点的に評価したい。 治世の中国は国力次第で何でも出来るのだから。 882 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 23 50 26 HSzgT7Nb0 個人的に、隋は南北朝に入れていいんじゃないかと思う。 隋末の戦乱期までは入れられないというか唐枠だろうけど。 883 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 23 55 45 x7kdsMxE0 春秋と戦国は分けてほしいかな 884 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/27(水) 23 59 07 4ydpZOqp0 883 春秋と戦国を分けると、五人に一人が春秋戦国の人ということになるが、 それではあまりに偏り過ぎないか? 885 名前:奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 投稿日:2006/12/28(木) 00 09 32 mlOO4O9J0 同じだからバランスが取れるということもあるさ。 886 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 01 00 30 6jrvXozE0 878 881 見かけ上治世でも全く争いがなかったわけじゃないしなぁ 自分が気持ちよくオナニー垂れ流しできないからって振り出しに戻すのもいかがなものか。 三戦とかで、この手のスレがオナニー垂れ長しのためにダメになってるの見てきてるんで落ち着いてほしい。 っていうかお前ら自演だろ? 887 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 01 40 38 4X3fe2D2O 861 トゥルイは金滅亡の最大の功労者 スブタイは……世界史に与えた影響は大きいだろうが、中国史としては微妙かな 862 元の成立が1271年だから、厳密に元の武将の活躍としてカウント出来るのは、その後の南宋戦辺りからになる そう観ると、世代が一つ前の史天沢やウリャンハタイは「元」の「名将」とは見なしにくいのでは? 888 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 01 50 42 a9G7RoU50 調整するなら 877の枠がいいかな 今更複雑に設定するわけにもいかないだろう。 隋と南北朝をくっつけると結構バランスがとれてそう。 戦争が激しかった時代を足して平時と比べてみたけど4:6~半々くらい 結局一定の年数で機械的に枠を振っていっても問題無さそうだ。 889 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 04 02 KPx3WXvZ0 886 X4iTQwFd0ですけど、自演ではないですよ。 スレが荒れるのを危惧する気持ちは分かるけど、 何でもかんでも自演と決め付ける姿勢は改めてもらいたい。 890 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 18 17 TIs7a1Ga0 今更枠組みでウダウダ言うなんて荒らしと変わらん もう一回春秋戦国からやり直せというのか?アホ お前がこのスレ出てけば丸く収まるわい 891 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 34 54 wnF4QzZ10 888 同意。隋唐は長いから隋末、あるいは唐初あたりまでを南北朝にくっつけて あとは 877の枠組みでいい 892 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 38 54 SADQNtyQ0 890のいいたいこと。 俺が多数派の主流で正義。それに異を唱える輩は嵐の自慰厨。 889はアホ。 889は出てけ。 889は自演。 ビューティフルな議論に 889は不要。少数派も傍流もみんな死ね。 893 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 40 11 SADQNtyQ0 俺のIDが凄いな。 SADでDQNかよw 894 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 44 05 KPx3WXvZ0 890 まぁ、確かに 844、 842辺りのレスみて 五代で一枠?アホかと思い、 こりゃ正さなあかんなと思って書き込んだのが始まりで、 そこそこ反応あったからつい調子に乗ってしまったのも事実だ。 分かりましたよ、そこまでいうなら俺は自粛する。 だが、これだけは言わしてくれ、 今まで議論されてきた 神話~春秋戦国 秦・前漢 新~後漢 魏晋~五胡十六国 南北朝 隋唐 五代十国宋遼金 元 明 清 の枠組みで話し合うにしても、 王朝末期に活躍した群雄は前王朝に含まれるのか、 新王朝に含まれるのか、この定義だけでもハッキリしてくれ。 何か、曖昧になってこれまで議論されていた気がする。 895 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 44 35 AwZNOsK/0 正直、隋辺りに俺の語りたい時代だから枠をたくさんよこせってのが出てきてからぶち壊しになってるよ。 平時からも隠れた名将を発掘し、決められた枠内に絞り込んでいく過程が面白かったのに。 896 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 02 48 52 KPx3WXvZ0 842じゃなくて 849ね 897 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 04 25 38 A41Cy64XO 隋を南北朝とくっつけると今度は南北朝時代の枠がキツくなりそうな気がするんだけど。 タダでさえ南北朝時代は候補が多いのに… 898 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 06 23 52 ecDWMsPY0 877に賛成。南北朝を三国~五胡にくっつけるとあまりに自由度低くなるし、 五代~宋朝は侵略王朝の武将がいろいろいるから南北に分けて考えたほうが望ましい。 隋唐は10人枠で収まる事が実証されてることだし、これでいいと思う。 899 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 09 42 30 n8Nr0VPf0 五代宋金遼を10人枠で収めるなら 李存勗 趙匡胤 曹彬 楊業 耶律休哥 狄青 宗沢 岳飛 完顔宗望 孟? でなんとか収まらんことはないな。 両宋を分けて元まで入れるなら 【五代・北宋】 朱温 李存勗 柴栄 趙匡胤 曹彬 楊業 耶律休哥 范仲淹 狄青 チュウ師道 【南宋・金・元】 宗沢 岳飛 完顔宗望(オリブ) 完顔宗弼(ウジュ) 孟? 李庭芝 忽必烈(フビライ) 伯顔(バヤン) 阿朮(アジュ) 張弘範 あたりが妥当だと思う。「賽存孝」劉整が入らんのが残念だが。 900 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 09 48 07 JLEugHZl0 曹彬なんかがどっちにも入って、柴栄入らん理由はなんなんだろうか。 901 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 09 59 27 n8Nr0VPf0 曹彬は十国討伐の最大功労者。対するに柴栄は英雄的君主ながら危険な目にもあってるし、 即位後たった四年で病死。結果趙匡胤に衣鉢を託すことになった。 ・・・ってのが評価基準だったんだが、お気に障ったか? 902 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 10 44 37 wnF4QzZ10 899 フビライは直接軍の指揮をとったのはモンケの死の直後とナヤアの反乱の時 だけだからここには入らないと思うが 曹彬と柴栄、どちらか一方を選ぶなら柴栄じゃね?曹彬は二度も遼に大敗しているし 903 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 11 11 47 n8Nr0VPf0 902 フビライはモンケ時代にモンケとは別ルートで蜀入りしたんじゃなかったっけ? 実際戦う前にモンケが死んだわけだが、軍を統率する器量はあったんじゃないか? まぁフビライの代わりに劉整入れられたら嬉しいがな。 曹彬は遼に負けながらも上手い具合に退却してるから「決定的敗北」はしてないだろ。 太宗を守って整然と退却する統率力と人望は並々ならぬものがあったと思うんだが。 まぁ統率力と人望なら柴栄のほうが上か。・・・悪い、そんじゃ柴栄と曹彬入れ替えで頼むわ。 904 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 11 16 28 n8Nr0VPf0 903 戦う前に→釣魚城にかかる前に、に訂正。 905 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 14 22 01 D5luvRkF0 もいっちょ連投。とりあえずこのスレで清朝まで行っときたいんで叩き台。 【明朝】 朱元璋 陳友諒 張士誠 徐達 常遇春 朱棣 王守仁 戚継光 袁崇煥 鄭成功 落とす候補は真っ先に陳友諒と張士誠。隋末唐初の群雄ほどの強烈な個性がないから 擁護したい気にならん。 かわりに入れるとしたら個人的には馬芳、兪大猷あたり。 あと鄭成功は李自成か呉三桂に代えてもいいかもしれん。 【清朝(後金含む)】 奴児哈赤(ヌルハチ) 阿巴泰(アハタイ) 多爾袞(ドルゴン) 費英東(フィヤントン) 康熙帝・玄燁 岳鐘琪 策稜(ツェリン) 僧格林沁(サンゴリンチン) 宋景詩 関天培 個人的にはこれで確定なんだが、費英東と関天培は外す候補になるかも。 特に関天培入れたのは完全に個人的な趣味だからな。 費英東は「佐命第一」の元勲だが実際どこでどう戦ったって記述が少ないんで外してもいい。 入れ替え候補としては郷勇代表・羅思挙とか。 田中某氏の推す楊遇春は内乱鎮圧専門だから入れる必要なかろう。 内乱が起こること自体民衆が国政に不満を持ってる証拠みたいなもんだし。 実のところ康熙帝以後の名将ってよく分からんので詳しい人よろしく。 906 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 16 09 09 1kdzBspu0 905 明だったらまず鄭成功を外す。軍事功績という点ではたいしたことしてない。 盛庸は、功績は十分だがやはり他の候補に比べると格が落ちるか。あと推薦は 張輔と鄭和。鄭和は指揮官としての実績は文句なしだと思う。ただこれを将と しての功績とみなせるかどうかで議論は分れるかな?他には明末の祖大寿とか 洪ショウチュウ(字が判らん)、呉三桂は清にはいるのかな?李成梁は、候補 には入れてもいいか?兪大猷はむしろ確定でいいんじゃないかと。 清は…「内乱が起こること自体民衆が国政に不満を持ってる証拠」その通りだが、 それと名将かどうかになんの関係がある?その基準でいくと、前漢の周亜夫や 隋の張須陀は外すか?楊遇春は確定だと思う。 907 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 16 10 30 1kdzBspu0 書き忘れた。 明の王守仁も外征で活躍したなんて記録あったか? 908 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 16 25 07 4JDH215a0 906 確かに。内乱が起きるのは朝廷の責任であって、将帥の才覚とは関係ないよな。 すまん。どーも名将=民衆の味方って色眼鏡で見てたが、職業軍人なんだから叛乱が起こったら討伐に赴くのは当然だったな。 909 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 16 34 24 IvVHov+w0 905 明代の名臣于謙が抜けてるね おそらく、一発屋ということで外したかもしれないが、50万の大軍を破ったエセンをして撃退せしめ 更に明側が有利な講和、軍制改革を一挙にやり遂げた手腕は、十分に名将に値すると思うよ ということで、明代の個人的十傑+α 【確定組】 拡廓帖木児(元に入っていなかったから) 朱元璋 徐達 常遇春 朱棣 戚継光 袁崇煥 【候補】 陳友諒 (元末群雄として一時期最大勢力を築いた、劉基がいなければ朱元璋も滅亡していたかも) 方国珍(経済力と元にはない海軍力とにより、徹底的に元を翻弄した手腕は尊敬する) 湯和(ココティムール、方国珍、陳友定を破り、また明朝の倭寇対策の基礎を築いた) 李文忠(徐達、常遇春と並び称される名将、北伐、征蜀に活躍した) 藍玉(西蕃、北元攻略に活躍、驕慢な振る舞いから後に大疑獄の元凶となる) 于謙(上述) 兪大猷(一生を倭寇鎮圧に捧げる、彼の時期に有力な後期倭寇の多くが討伐されている) 王守仁(他の王朝の反乱鎮圧した地方官と比べて、押しなべて功績が高いとは言えないと思う) 呉三桂(ダメ軍人の鑑、でもこいつが山海関守っている限りは、絶対に清は侵入できなかっただろうな) 李自成(明朝を滅ぼした大順皇帝、人生のキャリアハイから転落までが急転直下過ぎる) 鄭成功(正直、真っ先に候補から落ちそう、他時代の群雄は軒並み落選しているからね) やっぱ呉三桂はダメすぎる、しかしそれを補って余りあるくらい将軍としては優秀だなあ 10傑に入るとしたら、彼かも 910 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 16 59 52 4JDH215a0 909 于謙、あなどってたかもしれん。南宋の虞允文レベルの一発屋かと。 新帝即位、新朝廷での軍制改革。いろいろやってんだよなぁ。 はっきり言って所詮は文人と思って嘗めてた。そーいや南宋の宗沢だって本来なら文人だもんな。 拡廓帖木児は完全な入れ忘れ。 徐達&常遇春最強のライバルを忘れるとは度し難いな、俺は。 911 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 17 08 46 wa6RT03RO (及時雨・呼保義)宋江が最強、最高!! 912 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 17 21 22 oDoNLXsZ0 于謙といい袁崇煥といい、忠臣には徹底して冷たいのが明朝の特徴だな。 功績をあげて天寿を全うできた戚継光や李成梁や湯和は素直に褒められても良いと思う。 907 兵部尚書として寧王の反乱や農民反乱を鎮圧しているが 外征に関してはベトナム進軍に反対している。 913 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 17 28 39 6yn+hwPD0 陳友諒、張士誠、鄭成功は外していいだろう。方国珍も。 于謙に関しては、講和とか軍制の改革は名将としての評価には ならないんじゃないかな。そういった政治家としての功績を 除くとやっぱり一発屋。 明初は馮勝を入れてもいいかもしれん。 徐達がココテムルに負けたときも彼一人だけ敵を破ったし 功績も藍玉に劣るもんじゃないだろう。 戦利品着服とかしてよく朱元璋に怒られてるけど。 912 戚継光ってうしろだての張居正が死んだらクビにされて そのあと病死だから天寿をまっとうと言っていいのか悩むな。 処刑されなかっただけマシなのか。 914 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 18 28 04 nxvCkIQ60 張輔も候補に入れてくれ。 靖難の変で活躍し、ベトナムを征服した名将だ。 915 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 18 38 38 oDoNLXsZ0 永楽帝の下で働いた武将の中では割合メジャーな方だけど 英宗時に土木の変を止められなかったのがマイナスだな>張輔 自身もそれで戦死しているし。 913 戚継光と李成梁は晩年、中央の支援者が死んだので罷免・引退。 湯和は倭寇対策を任されるも、中風で半病人状態だった。 まあそのお陰で朱元璋の粛清を免れたという面もあるが。 (ちなみに湯和の叔父は土地私有で不正して朱元璋に殺されてる) 916 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 19 49 23 d8dT/wTh0 これまでの流れで行くと・・・ 拡廓帖木児 朱元璋 徐達 常遇春 馮勝 朱棣 王守仁 戚継光 兪大猷 ・・・これで残り枠一名か。 于謙には涙を呑んで諦めてもらうとして。 馬芳入れたいんだけどな。戚継光、兪大猷の時代の陸戦での無敵将軍。 兵法に通じ大小百余戦を経て負けなしの名将なんだが、残念なことに歴史の動きにはほとんど寄与してない。 歴史の動きに大きく寄与してる、って点では呉三桂のほうが絶対的に上だな。こいつが寝返らなかったら女真族が中原に現れることすらなかった。 さぁどっちだ?(諸兄に任せた) 917 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 19 52 53 d8dT/wTh0 袁崇煥忘れた!! そんじゃ兪大猷を落として、改めて馬芳vs呉三桂で。 918 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 19 58 12 KPx3WXvZ0 個人的に張士誠の弟である張士徳は候補に入れてもらいたい。 張士誠の起兵当初から付き従った名将軍だ。 比較的初期に朱元璋に倒されたので、 あまり印象に残らない方もいるとは思うが、 『国初群雄事略』の張士誠伝を見れば、 彼の活躍が張士誠政権の基盤を作る為に どれほど大きな意味を持っていたかが手に取るように分かる。 常熱、常州、湖州、杭州などの江浙の要所を陥落させ、 蘇昌齢や陳基など、多くの有能の士人を見出して自己の参謀としている点も評価していいだろう。 常州での朱元璋軍との最後の決戦では、 徐達、常遇春、湯和、廖永安、胡大海、趙徳勝等名だたる名将を相手に、 鄭という名の朱元璋軍の将を離反させるなどして善戦を続けた。 この際徐達は 「張士徳は智勇に優れた人物で、まともに当たるべきではない」 と述べているし、 張士徳を捕えたことを知った朱元璋は大いに喜んで 「張士徳は智勇に優れた人物で、張士誠の謀主である」 とその人物を評している。 善戦の末破れ、朱元璋に捕えられた張士徳は朱元璋の再三の降伏要請を跳ね除け、 兄の張士誠に密書を送り元朝と結ばせ、獄死した。 その見事な最期も名将と呼ぶに相応しいと俺は思う。 919 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 00 09 wnF4QzZ10 なんか一気に明までいってしまったな 宋は二つに分けるってことでいいのか? 以前の議論をもとにまとめると 【五代・北宋・遼】 確定 朱温 李存勗 郭威 柴栄 趙匡胤 曹彬 楊業 狄青 候補 耶律休哥・・・遼は中華王朝? 【南宋・金・元】 確定 宗沢 岳飛 完顔宗望 孟? ココ・テムル 候補 完顔宗弼・・・賛否両論なので候補にとどめる バヤン・・・・ほとんど議論されていないので アジュ・・・・同上 899とたいして変わらないんだが、李庭芝や張弘範をここに上がっている 連中と同列に並べるのは無理があると思ったので外した 范仲淹とチュウ師道についてはよく知らないので詳しい人よろしく 既に明に入っているのに邪魔して悪いが、確認ってことで 920 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 01 32 nxvCkIQ60 917 兪大猷落とさないで、そのままでいいんじゃね? 921 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 05 19 KPx3WXvZ0 916 個人的に、朱元璋は名将と呼ぶ部類の人間ではないと思う。 君主としては、間違いなく中国史上でベスト10には入るだろうけど。 朱元璋を候補に挙げている方は、その根拠を述べて欲しい。 922 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 05 45 6yn+hwPD0 916 ココテムルは元に移動させて、明の枠を確保したほうがいいかも 朱元璋 徐達 常遇春 馮勝or李文忠 朱棣 王守仁 戚継光 兪大猷 袁崇煥 馬芳or呉三桂 こんな感じで 923 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 08 12 1kdzBspu0 915 土木の変を張輔に責を負わせるのは無茶じゃないか? この時の彼には指揮統率権もなかったのだから。 例えば、宋代だと曹彬や楊業は太宗の遼遠征を止められず、結果は大敗北。 だから曹彬や楊業をマイナスにしろと? 924 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 15 42 d8dT/wTh0 両宋は本来まだ議論してていいんだよ。一枠か二枠かも含めて。 とりあえずこのスレ中に一応清朝まで顔出ししとかないとまずいかなーってことで叩き台出して、 とりあえずこいつは確定、こいつは候補、ってとりあえずの10傑を選別してる段階に過ぎないわけだし。 918 確かにそのあたり凄そうだが、明初には徐達、常遇春、馮勝がいるからなぁ。 徐達(こいつに「まともに当たるべきではない」って言わせたのは確かに凄いが)と常遇春は外れないとして、 残る一名枠は馮勝。確実に馮勝より上、って+α的なものがあればいいんだけど、馮勝は天下の「常勝将軍」だしな。 925 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 19 50 d8dT/wTh0 なんか俺のコメント「とりあえず」多いな。ちょっと文章的にヘンかも。 926 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 25 41 d8dT/wTh0 921 韓信も言ってただろ、高祖には「将に将たる才覚がある」って。朱元璋はまさにそれだよ。 まぁ、将軍達をさんざコキ使った挙句疑心暗鬼が昂じて人材大粛清を行ったのは人としてあまりにむごいけどな。 927 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 30 36 nxvCkIQ60 926 このスレで議論しているのは「兵に将たる」人物のことであって、 「将に将たる」人物のことではないと思う。 928 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 38 14 d8dT/wTh0 927 若かりし頃の朱元璋は郭子興の下で将軍として活躍してる。 呉王になって以後の戦は徐達・常遇春コンビに任せることが多くなったとはいえ、 将才が衰えたってわけでもないだろう。その軍事的才能を色濃く受け継いだのが燕王朱棣であって、 朱元璋を落とすなら朱棣も同レベルとして落としてしまえるのでは? 929 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 39 13 KPx3WXvZ0 909 陳友諒は既に候補から外れているので、 まぁこんなことは言わなくてもいいとは思うけど・・・ 元末群雄として一時期最大勢力を築いた、 劉基がいなければ朱元璋も滅亡していたかも とか、陳友諒を偉く高く評価しているけど、 陳友諒の大漢政権内部って成立当初からがたがたで、 同じ倪文俊配下で戦友であった筈の明玉珍は独立を宣言するし、 裏切りを恐れて趙普勝は殺すし、 応天攻撃の失敗後、欧普祥や祝宗・胡廷瑞には見限られるし、 配下であるはずの熊天瑞は全然命令聞かないし、 そんな感じで酷い状態だったことは知っている? 全然一大勢力を築いていないんだよ、陳友諒は。 それどころか、天完の大勢力を縮小弱体化させただけ。 930 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 41 52 6yn+hwPD0 >朱元璋を落とすなら朱棣も同レベルとして落としてしまえるのでは? これはちょっと意味がわからないな 血がつながってるから同レベルなの? それぞれの実績を別々に見てみれば、朱元璋を落として朱棣を残すという 選択肢があっても別におかしくないと思うが。 931 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 45 02 wnF4QzZ10 921 朱元璋は江南の平定までは自ら軍を率いていたんじゃなかったかな だから入れてもいいと思うが 932 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 56 24 d8dT/wTh0 930 「軍事的才能を色濃く受け継いだのが朱棣」ってちゃんと読んだ? 血が繋がってるから同レベル、というのは朱元璋>朱棣という意味。 だから朱棣より上の朱元璋を落とすなら、それ以下で同列扱いの朱棣も、ってこと。 俺としては朱棣より朱元璋のほうが将才があると思ってるんだよ。 そんくらいの才能がなきゃ乞食から皇帝まで登れるか? 933 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 20 58 04 1kdzBspu0 931 いや、長江を渡る頃にはすでに徐達・常遇春らが揃っている。 郭子興の勢力自体がそれほどのものではなく、朱元璋が郭子興勢力を伸張させる なにか大きな功績を樹てたこともないし、そもそも朱元璋は郭子興からそれほど 重んじられていたわけでもない。郭子興が死んで分離行動を取ってから大きく なったが、その頃にはもう軍の指揮は部下に任せるようになっている。 934 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 01 21 1kdzBspu0 932 それだと、同じく貧農出身の劉邦にはどれほどの軍才があったと? まったくないとは言わないが、彼が皇帝になれたのは彼個人の将才が凄かったからだ、 なんて主張する人はいないだろう。 935 名前:921 投稿日:2006/12/28(木) 21 01 45 KPx3WXvZ0 930 将才というより、君主としての才だろう。 実際劉邦には、将才があったとはとても言えないし。 まぁ、郭子興集団で台頭する為には多少の将才は必要だが、 郭子興配下時代の朱元璋の同僚の将軍には、 弓矢を射られて驚き、十歩も進まずに敵前逃亡した奴がいる位だから、 正直、大した才能がなくても将として取り立てられそうじゃない? 936 名前:921 投稿日:2006/12/28(木) 21 02 50 KPx3WXvZ0 930は 932ね、すまん。 937 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 05 02 6yn+hwPD0 932 >そんくらいの才能がなきゃ乞食から皇帝まで登れるか? 「出世する才能」じゃなくて「軍事的な才能」が問題なんだから 軍事の実績にしぼって話をするべきだと思うんだけどどうかな。 たとえば朱元璋の戦績と朱棣の戦績を比べるべきで、 「徐達や常遇春に任せることが多かったけど才能は朱棣以上」とか 検証不能な失われた可能性は考慮に入れないほうがいいと思う。 で、軍事的な実績に限れば朱棣>朱元璋じゃないかと思うんだが。 938 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 06 45 ocUad3ZF0 少し遅れたが、フビライについて一言。 フビライはモンケが生きてた時からウリャンハタイと一緒に雲南遠征を成功させてるし、死後の帝位継承争いでも自分で軍を率いてアリクブカを倒したりしているから、候補くらいには入れておいて欲しい 939 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 24 29 d8dT/wTh0 937 そうだな。妙に熱くなってた。 確かに俺の提言は仮説的な発現が多くて実際的じゃなかった。 すまん、 921。どうも俺のほうに非があったようだ。 ま、朱元璋落ちたら明からもう一人枠が増えるしな。悪いことばかりじゃないと自分を慰めよう。 940 名前:921 投稿日:2006/12/28(木) 21 35 32 KPx3WXvZ0 939 結構、誰が明代十傑に挙がっても名将たちも結構挙がっているしね。 慈愛に溢れる朱元璋陛下がその仁徳によって席次を一つ空けてくれたと思いましょう。 941 名前:921 投稿日:2006/12/28(木) 21 36 55 KPx3WXvZ0 何か意味不明の文章になってしまった。 結構、誰が明代十傑に挙がっても名将たちも結構挙がっているしね は 誰が明代十傑に挙がってもおかしくない名将たちも結構挙がっているしね。 に変更します。 942 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 46 41 d8dT/wTh0 ちょっと告白するけどね。 「将に将たる」を否定されたトコで半キレモード突入、なんとか論破してやろう、 って馬鹿みたいにムキになったわけさ。改めて20レスほど遡ると恥ずかしいな、俺。 この場は「将に将たる」人材を探す場所ではない、と言われてそこでああ、そうだなって引き下がればいいものを、阿呆か俺は。 と、いうわけで 921にも諸兄にもいろいろ迷惑かけたよな。すまんかった。 943 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 21 57 55 bha33n5H0 ところで、ハ陽湖の戦いの勝利って朱元璋の戦歴には入らないのかな? あれが入れば、十傑入りも可能なんだが 944 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 22 03 07 oDoNLXsZ0 943 個人的な意見だが対元北伐までが朱元璋の戦歴に入ると思う。 945 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 22 46 22 KPx3WXvZ0 943 確かに、?陽湖の戦いは確かに朱元璋が指揮したもの(ということになっている)だが、 ?陽湖で陳友諒と決戦に挑まざるを得なくなったのは朱元璋の失策によるもの。 朱元璋が張士誠の攻撃を受け、救援を求める韓林児のために、 劉基が止めたのにも関わらず、自ら兵を指揮して救援に向かった為、 陳友諒に対して大きな隙を与え、この隙を衝いて陳友諒が大兵を動かした。 ちなみに、ここで二つのIFが生じると、 朱元璋は自身の失策により陳友諒によって 壊滅的な打撃をこうむることになった。 一つ目のIFは、陳友諒が大艦主義に走らず、 倪文俊から奪い取った快速船を主体とする高速水軍を用いていれば、 ?陽湖の戦いの結果は変わっていたという点。 二つ目のIFは、陳友諒が洪都を無視し、 一気に応天を衝いていれば、 間違いなく朱元璋に帰る場所が無くなったという点。 そもそも、朱元璋が名将と呼べる人物であったなら、 このように戦略的にどう考えてもおかしい軍事行動は行わず、 おとなしく劉基の意見に従っていたと思うよ。 実際、韓林児を自ら助けに言ったのは完全に失策だったと 朱元璋は後から劉基に謝罪している。 946 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 22 59 11 wnF4QzZ10 938 少し前にフビライ外せって言った者だが、言われてみればフビライの戦歴は 雲南平定 アリク・ブカを破る ナヤアの反乱を鎮圧 と、これだけあるので十分ここに入る資格があると思う 呉三桂とほぼ同じ時期には洪承疇・祖大寿がいる 持久戦でホンタイジの攻撃を食い止めたが、朝廷からの命令でやむなく攻撃に 出て敗北した 947 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 23 10 55 21//h9D90 明に関しては、 徐達 常遇春 朱棣 戚継光 袁崇煥 の五人は確定でいいだろう。残りは 朱元璋 湯和 李文忠 馮勝 張輔 鄭和 王守仁 馬芳 兪大猷 呉三桂 から五人といったところか 948 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 23 31 25 KPx3WXvZ0 947 張士徳も入れてけれ。 皆、元や明以外の元末群雄を下に見すぎ。 個人的には戴寿、毛貴、張定辺、呂珍…と、 他にも推薦したい奴はいっぱいいるんだけど、 グッとこらえて、 明以外の元末群雄代表でこいつを選出したのに無視しないでくれよ。 949 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 23 34 05 bha33n5H0 947 その中だと、兪大猷、呉三桂は確定で良くない? 逆に、朱元璋を候補に落とす方向で流れているのを考えると、鄭和も候補止まりだろう 李文忠 馮勝 王守仁 兪大猷 呉三桂 の5人が十傑入りでいいと思うよ 950 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/28(木) 23 48 05 21//h9D90 948 ごめんよ やっぱ最終的に負けると印象悪くなっちゃうよな 951 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 02 31 57 V9Kmb/lFO 王守仁は一発屋 それも外敵からの一大決戦じゃなくて内乱 いや神がかってるのは判るが外れるならまずこいつだろう 952 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 03 53 53 ndRE+ASzO 王守仁は思想家としてのイメージの方が強いからなぁ。 953 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 08 56 43 gBMleC/l0 王守仁の戦歴と言うと 寧王の乱鎮圧 思恩・田州の叛乱鎮圧→帰途で死去 ぐらいか? 確か、タタール対策の上奏もあったはず 于謙も外れてるし、ここは落としたほうが良いのか? でも、一発屋、一発屋って言われても、結構萎えるよ このスレ、周亜父とか周瑜も外されかけてるし 朱元璋が外れる理由が分からなくなってきたな ほぼ断続的に江南で戦い続けてるし、数々の危地を配下の献策と持ち前の強運で切り抜いてきている 運のよさは名将の条件じゃないのかねえ? 954 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 09 12 22 g2ntYcbi0 953 名将と呼ぶには運の良さだけじゃダメだろ。 戦略眼や指揮能力+運の良さでなけりゃ。 戦略の失敗を運でフォローした奴は名将とは呼べないと思う。 955 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 09 49 39 Our7SalQ0 954 戦略上のミスと言っても、このスレで名前の挙がった歴代群雄の連中見ても結構ポカは多いぜ 項羽・曹操は言わずもがな、李世民も竇建徳を処刑して河北での反発を招き、統一を遅らせている 朱元璋の場合は、上記の人間達と比較しても専門的な軍事教育を受けていないにもかかわらず 軍の指揮能力や掌握術は、この時代で群を抜いて優秀であることや 早い段階での集慶攻略や地盤固め、多くの幕僚の招聘を見ても将軍としてかなりの部類だよ 仁政家、謀略家、独裁者としての面ばかり見てると確かに軍事面は物足りないかもしれないが 相対的に将軍としての評価が下がるとは思えんのだがね あと、運の良さは朱元璋に限って言うならば、中国史最凶だろう 956 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 09 57 39 xXDa2IYVO そうだそうだ!! 武将としての朱元璋を過小評価するのは納得いかぬ。 957 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 10 10 27 g2ntYcbi0 955 じゃあ、劉邦も名将の部類に入れるのか? 対秦戦、配下の献策を受け入れたこと、戦歴、危機を強運で切り抜けたこと、 地盤固めや多くの幕僚の招聘なんかは劉邦にも言えることだが。 958 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 11 20 05 Our7SalQ0 957 当然候補には確実に入るだろうよ、秦漢を代表する不屈の将軍だぞ 冒頓単于、韓信、項羽、彭越、潅嬰あたりには劣るけどな 朱元璋は劉邦よりも軍事的失敗、敗戦が少ないからこそ名将に推しているんだよ 人の下でもよく働くし、人の上に立ってもよく将兵を使いこなせる 突き抜けてはいないけど、オールラウンダーな名将ってのが朱元璋だと思うんだが 入れる理由が弱いかもしれないが、外す理由の方がはるかに少ないでしょ 戦略うんぬん言い出すと、北伐の敢行(及び華南が華北を制圧した唯一の成功例)や 諸王の北辺配置によるモンゴル対策とか、結構時宜を得た優秀な戦略もあるよ 軍事政策は名将の条件に入らないと言うのであれば、別に評価しないでもいいけど 959 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 11 26 43 eFPCVhJ80 943 一度おかしな行動をとったからといって名将ではないと断言するのもどうかと思うが 誰にだってミスはあるわけで、自分のミスを補いつつ最終的に勝利を収めることができれば 十分名将というに値するだろ 954 敵の失敗は幸運だとしても、それを上手く利用して戦局を挽回するのは 平凡な将ではできないと思うが もし朱元璋が全ての危機を相手のへまだけで乗り切ったのなら それはそれで最凶ではあるなw 名将とはいえんだろうが 敵のへまに 960 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 11 32 20 9Ql2f9Sj0 実際に兵を率いての評価だよね? 戦略眼を評価に含めると 張良とか劉基入れないとだめになるから、あくまでも戦略の良し悪しは 補助的な項目だと思うけどな だから前線に出てもいない北伐を朱元璋の実績に含める 意見には同意できないが、 ハ陽湖の戦いを朱元璋の実績に含めるならば十人に入れてもいいと思う 今でも外すわけじゃなく候補には挙がってるわけだし、 他のメンツと比べてどうかという点だけだな 961 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 11 37 39 g2ntYcbi0 958 不屈の将軍や将に将たるってのは名将じゃないってのがこのスレでの話だと思ったが。 それに言っておくが朱元璋の10選入りに反対してるわけじゃない。 ほぼ断続的に江南で戦い続けてるし、数々の危地を配下の献策と持ち前の強運で切り抜いてきている 運のよさは名将の条件じゃないのかねえ? この考え方がおかしいんじゃないかと言ってるだけだ。 962 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 11 49 27 Our7SalQ0 961 確かに評価の論点がズレてるな、すまない 集慶攻略や応天府での逆撃、番陽湖の戦い(さらにそれ以前からの郭子興軍での戦いぶり) これらの戦績があっても、スレの上の方で十傑入りから外す意見が出てたんで 「じゃあ、運の良さや人材活用、壮大な戦略の持ち主といった+αで掩護しよう」と思ってしまった しかし、劉秀、曹操、趙匡胤あたりの人間に劣るかねえ 朱元璋 963 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 12 17 56 hz/RCBl20 劣らんと思うよ。 趙匡胤にしても、皇帝になってからは陣頭指揮なんかしてないし。 劉秀もそうだったんじゃなかったけな… 964 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 13 25 46 ndRE+ASzO 劉秀は統一するまでは自分で軍を指揮してるよ。 965 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 15 25 52 hcv+uacn0 そろそろ、次スレに備えて、 今まで決めた分について、まとめないとね。 966 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 19 24 22 BqiSUfrv0 朱元璋は戦術のみに絞った場合、劉秀はともかく曹操や趙教員には劣るんじゃない 967 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 19 48 57 fifT6twd0 966 趙教員って趙先生かw 968 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/29(金) 21 24 27 hz/RCBl20 このスレでは久しぶりにネタを見たなw たまにはいい… 969 名前:まとめてみました 投稿日:2006/12/30(土) 00 27 17 i2+ksOwN0 これまでのまとめ 時代区分は 877の案を採用しました。 春秋戦国 347 【確定組】 楽毅、魏無忌(信陵君)、白起、李牧、王翦 【候補】 墨子、管仲、呂尚、孫武、伍員(子胥) 、廉頗、孫ビン、夫概、趙奢、士会、 趙奢、趙無恤、王子成父、先軫、楚の荘王(熊侶)、蒙ゴウ、司馬錯、樗里疾 統一秦~前漢 418 【確定組】 韓信、霍去病、衛青、灌嬰 【候補】 項籍(羽)、周文、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、田横、 周亜夫 、李広、李陵、趙充国、范明友、陳湯、劉邦 新・後漢 501 劉秀、耿エン、馮異、岑彭、呉漢、廉范、班超、張奐、虞[言羽]、賈復または馬援 三国~両晋 582 【確定組】 曹操、鄧艾、石勒、祖逖、王猛 【内定組】 周瑜、劉曜、慕容垂 【論争中】 陶侃、石虎、謝艾、慕容恪、桓温、謝玄、姚萇、李雄、皇甫真 劉淵、劉聡、冉閔 南北朝 604,605,633 【確定組】 劉裕、檀道済、韋叡、陳慶之、 拓跋珪、高歓、宇文泰 【候補】 柳元景、蘭欽、奚斤、楊大眼、元英、周盤龍、 斛律光、慕容紹宗、宇文護、韋叔裕、李弼 段韶、高長恭、爾朱栄、王勇、沈慶之、陳顕達 赫連勃勃、拓跋燾、侯景(宇宙代将軍) 蕭道成、斛律光、陳覇先 隋・唐 687,720,737 【確定組】 楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用 【候補】 韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥、徐勣 李孝恭、薛仁貴、高仙芝、顔真卿、張巡、王式、黄巣、高駢 李存孝、安録山、薛礼、劉方、蘇烈、劉仁軌、李光弼、史思明、李愬00 970 名前:まとめ2 投稿日:2006/12/30(土) 00 28 09 i2+ksOwN0 まとめつづき 五代~北宋・遼 769,858,899 【確定組】 朱温、李存勗、郭威、柴栄、趙匡胤、曹彬、楊業、狄青 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉?、康延孝、符存審、 任圜、李神福、台濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 【論争中】 耶律休哥 南宋・金~元 827,899,919,862 【確定組】 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、ココ・テムル 【候補】 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、范仲淹、チュウ師道 張俊、呉?、呉リン、劉錡、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ) 劉整、張弘範、脱脱(トクト)、拡廓帖木児(ココテムル)、呂文煥 明 905,916,947 【確定組】 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥 【候補】 朱元璋、陳友諒、方国珍、湯和、李文忠、藍玉、于謙、兪大猷、王守仁 呉三桂、李自成、鄭成功、馮勝、張輔、張士徳、馬芳 清 44,905 奴児哈赤(ヌルハチ) 、阿巴泰(アハタイ) 、多爾袞(ドルゴン) 、費英東(フィヤントン) 康熙帝・玄燁、岳鐘琪、策稜(ツェリン) 、僧格林沁(サンゴリンチン) 、宋景詩 、関天培、 明亮、楊遇春、李長庚、関天培、李秀成、石達開、劉永福 971 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/30(土) 10 09 25 AbbdykaO0 970 元末群雄が明の枠に入ってんだから、 李自成は清代の名将候補に挙げるべきじゃね? 呉三桂も私的には、清代の名将という印象のほうが強い。 972 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/30(土) 13 10 15 LTr8Eucy0 970 呉三桂は清の攻撃を食い止めたことを評価されて入ってるんだから明代でいいんじゃないか 元末の群雄は「朱元璋とその他の勢力」と見なされているから明に入っても違和感ないが 李自成を清代に入れるのはおかしいような気がするが・・・。 973 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/30(土) 21 04 19 awsYTO710 919 范仲淹とチュウ師道ね、遅れてすまん。 まず范仲淹ね。 仁宗時代の官僚。進士でありながら硬骨で上に阿らず、地方官を歴任させられた。 対西夏戦において韓琦とともに活躍、厳明ながら士卒を愛す范仲淹軍は士気も高く、 西夏軍はあえて国境を侵すことがなかった。 西夏の李元昊が和議を求めるとその功績で枢密副使となり中央に返り咲き。 主に俗官を除き民を思いやる政策をかかげたが政敵の反発にあい、わずか三年でまた中央を逐われた。 人物鑑識にも長け、狄青の将才を見込んで抜擢したのもこの人。 で、チュウ師道。 対西夏、対金戦線において顕著な戦功を挙げた人。 基本的に慎重論者だが戦となればやたら強かった。 童貫らが新興の金と組んで遼を滅ぼそうとしたとき、「信義にもとる」と反論したが朝廷の意向には逆らえず従軍。 北伐は失敗したがチュウ師道のみは大敗を免れた。 金軍南侵に際しては第一線に立ってこれに抵御。数回にわたって金軍を敗走させているある意味最初の抗金名将。 しかし病にかかり、金軍再度の侵攻を前に病没(戦死説あり)した。 974 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 02 19 43 U/gHRU/H0 年末予定なくて973書き込んでからあっちゃこっちゃのサイトを除いてきた訳だが。 人がいない。これが年末進行ってやつかい? 5時間の間まったくレスなし。みんな年の瀬で忙しいのか・・・。俺はすげぇヒマだというのに。 愚痴だけで投下するってのもなんだからちょっとこのスレらしいコメントするか~。 南宋の李庭芝(with姜才)と張弘範に代わる名将っている? 地味ながら最後まで元軍に抵抗した闘将と南宋を滅ぼした功労者なのに。 まぁ岳飛やら孟?に比べると確かに、同列ではないか。 さておき、完顔宗弼(ウジュ)は確定に繰り上げていいよな、いろいろ議論されてるが騎兵戦無敵、 岳飛・韓世忠の南宋最強コンビをも破った実績があるってことで。 忽必烈は将器より大政治家としての功績が大きいから微妙。武勲的に十分だとは思うけど。 と、なると多爾袞も十傑より候補扱いかな。 武勲がないわけじゃないけど、実のところ軍を率いるってより呉三桂を徹底的に利用して明を滅ぼした人だから。 あと清朝の初期には海戦無敵の施琅なんかいたよな。すっかりわすれてたけど。 あ~、レス欲しい。孤独だぁ。 975 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 04 57 52 acbD+iobO 怒られる覚悟でレスしますが、ただ清代にもの凄く詳しい人がいないのでは? 明末清初までなら任せろって御仁なら居そうですが。 年末だろうが自分みたいな寡人もいるし・・・ 王徳禄、會国藩 を一応挙げときますよ。 976 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 05 52 17 21FEe0/y0 975 もうちょい辞書ひけや・・・ 977 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 06 28 11 dp6G3jYx0 974 宗弼は確定でいいとだろうが、誰もいないんじゃ決められないな・・・ ただ、騎兵戦無敵といっても、相手の南宋軍は歩兵が主力だったようだから その辺割り引く必要はあるが 金・元・南宋の確定は今のところ5人しかいないから、仮に宗弼・フビライ バヤン・アジュを入れても1人余るんだが、誰がいいだろう?決定的な人間 がいないんだよな。ウリャンハタイを入れていいなら確実に入ると思うけど 978 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 10 16 55 rSji0iDK0 977 元末群雄の張士徳を入れたらどうや? よくよく考えてみたら張士誠の勢力は一時的に元朝に属していたし、 元朝に帰属しろと張士誠に献策したのはこの張士徳だからな。 朱元璋、陳友諒と並んで江南の三大勢力といわれた、 大勢力の基盤をほぼ彼一人で造り上げた人物といわれているから 候補に入る資格は充分だと思う。 979 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 13 09 20 0SMqDUW/0 978 仕切り屋気取ってる奴によると元末群雄は個性がないからアウトらしいお。 980 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 14 55 52 Dki/eEXM0 そろそろ次スレ、頼みますよ。 981 名前:978 投稿日:2006/12/31(日) 19 07 53 rSji0iDK0 979 905のことか、 正直、元末群雄の何処に個性が無いのか説明して欲しいね。 朱元璋や徐達、劉基等の業績が後世称えられているのも、 陳友諒や張士誠等、個性的なライバル群雄があってのことだと俺は思うけどね。 982 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 19 15 35 Rt/n1s/90 979 おそらく仕切り屋気取ってる奴=俺のことだと思うが。 別に元末群雄全員アウトなんて言ってないぞ。 陳友諒と張士誠の二人を出したところで、隋末唐初のアクの強い連中と比べて印象薄いから擁護する気にならん、って言っただけ。 元末だろうが明末だろうが良将・名将が輩出されてれば関係ないだろう。 まぁ、俺の態度が仕切り屋臭くて鼻についたなら謝る。すまん。 あと、誰か詳しい人、スレ立て頼む。俺は立て方知らんし。 983 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 19 25 34 tiw+OcvT0 じゃあ朝鮮してくる 984 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 19 40 22 tiw+OcvT0 立てた。必要そうなのを全部貼ったせいで糞長くなってしまったスマソ 【中々】 中国名将百選 其ノ弐 【決まらんね】 http //hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1167560946/ 985 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 19 43 40 7gf30xQx0 乙 次スレは清からになるのか? 986 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 20 00 10 S9hq2M950 なあ、随唐に詳しくないから聞きたいんだが、 李勣と徐勣って別人なのか? 隋・唐 【確定組】 楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、李克用 【候補】 韓擒虎、賀若弼、張須陀、竇建徳、楊義臣、李密、劉黒闥、徐勣 987 名前:奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 投稿日:2006/12/31(日) 20 02 26 AGK+BCTy0 竇建徳、李密、劉黒闥、徐世勣 いいんじゃないだろか。なんとなく。 988 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 20 16 23 08fwNLml0 986 随唐に詳しくない私が答えよう。 同一人物ですな。 989 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 20 18 08 7gf30xQx0 ココテムルも二人いるしな まあそのへんはしょうがないんじゃないか? まとめただけみたいだし 990 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/31(日) 20 19 57 tiw+OcvT0 すまん そのあたりは 969-970をコピペしただけだから知らなかった 991 名前:奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 投稿日:2006/12/31(日) 20 21 27 AGK+BCTy0 つか「勣」が表示できるのを初めて知った。 992 名前:969 投稿日:2006/12/31(日) 23 11 27 tVZGpy6W0 ごめんよ。 いくつかミスりました。 993 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/01(月) 11 39 32 Jy54tJOt0 スレも残りわずかだが 969の南北朝時代 はたしてこれが確定で良いんだろうか? 宇文泰は政治家、組織の長としての能力は高いけど 軍事的には常に劣勢だったわけだし(まあ、もともとの兵力自体貧弱だったわけだが) 最近の群雄低評価の流れを受けると、高歓、宇文泰あたりは敗戦も結構あるので 再度吟味する必要があると思われ 群雄の評価は確かに難しいな、純軍事的行動のみで軍閥に成り上がったヤツは少数派だろ 大抵、政治的能力で勢力築いているわけだし 李密や張士誠あたりは、このスレでは不遇なのも仕方ないと言えば仕方ないな 994 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 06 14 01 QLLLMOgIO 埋め 995 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 08 17 46 WDP2bpSM0 一応告知というか・・・ 1000レス越えたら全表示できなくなることでもあるし、 現段階で次スレに移っていいんじゃない? すでに移住してる人も何人かいるみたいだし。 996 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 15 16 34 O8SaJtfJ0 じゃあ、これ以降は埋め記念カキコってことで 997 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 15 19 26 jqm9xRH00 じゃあ、俺もume 998 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 19 23 22 BOU9MbBfO 梅 999 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 19 43 05 +c0794LtO 1000なら、はたらく 1000 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/02(火) 20 02 48 VPzo4uEX0 999 俺が1000取っても働けよ 1001 名前:1001 投稿日:Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。