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唐書巻二百一十六下 列伝第一百四十一下 吐蕃下 永泰(765-766)・大暦(766-779)年間に、吐蕃はふたたび使者を来させた。そこで戸部尚書の薛景仙が答礼に行った。宰相に詔を下して吐蕃の使者と会盟させたが、まもなく霊州(甘粛省霊台県)に入寇し、宜禄(陝西省長武県東南)を掠奪した。郭子儀は精兵三万を率いて涇陽を守ったが、敵は侵入して奉天にした。霊州の兵は蛮族二万を破り、首五百を挙げた。景仙は倫泣陵(ロンチリン)とともに帰り、鳳林関(甘粛省臨夏県西)国境とすることを請うた。そして路悉ら十五人がまた使者としてやってきた。大暦三年(768)、蛮族は衆十万を率いてまた霊州を攻め、邠州を略奪した。これよりさき、尚悉結(シャンギェルシグ)は宝応よりのちにしばしば辺境に入寇し功績が高かったので、辞職を願い、そして尚賛磨(シャンツェンワ)がこれに代って東面節度使となり、河西・隴右地帯を扱うことになっていた。邠寧節度使の馬璘、朔方軍の白元光は、ふたたびその衆を破り、馬・羊数千を鹵獲した。剣南の方もまた蛮族一万人を破った。尚悉摩なるものがまた来朝した。天子は、蛮族がたびたび塞に侵入するので、詔を下し、守備の施設をととのえさせ、当(四川省松潘県塁渓営西北)・悉(四川省松潘県西南)・柘(四川省恭州東一百里)・静(四川省松潘県西南)・恭(四川省茂県西北三百五十里)の五州を遷して、みな険要の地によって守らせた。 大暦八年(773)、蛮族の六万騎が霊州を侵し、人民の作物に損害を与え、進んで涇・邠に入寇した。渾瑊はこれと戦って勝たず、副将は死し、数千戸が略取された。城は、兵をととのえ、夜その営を涇原に襲い、馬璘は軍をもってこれを原(甘粛省平涼県東四十里)に攻撃した。そして豹皮を着た将を射殺したが敵は軍中悲しみ泣いて逃げ去った。馬璘は捕虜にされたわが方の兵士および男女を収容して帰還した。郭子儀はまたその衆十万を破った。 大暦九年(774)、帝は諫議大夫の呉損を遣わして和親を脩めさせ、蛮族もまた使者を送って入朝させた。いっぽう郭子儀を邠州に、李抱玉を高壁嶺(山西省霊石県東南二十五里)に、馬璘を原州に、李忠臣を涇州に、李忠誠を鳳翔に、臧希譲を渭北に屯させ、蛮族の侵入に備えた。明くる年(775)、西川節度使の崔寧は蛮族を西山に破った。蛮族は臨涇(甘粛省鎮原県)・隴州(陝西省隴県)を攻撃し、普潤(陝西省麟遊県西百二十里)に屯し、人や家畜を焚いたり掠奪したりした。そして李抱玉と義寧(甘粛省華亭県)に戦って敗れ、涇州を通過したが、馬璘はこれを追跡して百里(甘粛省霊台県東)に破った。また明くる年(776)、崔寧は、蛮族の故の洪州(四川省洪雅県)などの節度および氐・蛮・党項などの兵を破り、首一万を斬り、頭目千人を捕え、牛・羊・食糧・鎧などを非常に多量に得て、これを朝廷に献上した。吐蕃は目的を達することができなかったので、黎州(四川省清渓県)・雅州(四川省雅安県)に侵入し、掠奪した。そこで剣南の軍は南詔と合同し、ともに戦ってこれを破り、大籠官の論器然を捕虜にした。また坊州を犯し、党項の牧馬を掠奪した。崔寧は望漢城(四川省理番県東南)を攻撃してこれを破り、山南西道節度使の張献恭は岷州(甘粛省岷県)で戦い、吐蕃は逃走した。崔寧は西山の三路および邛南(邛は四川省越県)の兵を破り、首八千を斬った。大暦十三年(778)、蛮族の大頭目の馬重英は四万騎を率いて霊州に入寇し、塡漢・御史・尚書の三渠の水口を塞ぎ、屯田に損害を与えた。そして朔方留後の常謙光に追い払われたが、重英は塩州(寧夏省霊武県東南)・慶州(甘粛省慶陽県)を荒らして去った。それから南して南詔の衆二十万を合わせ、茂州を攻め、扶州(甘粛省文県西北百六十里)・文州(同じく文県)を掠奪し、ついに黎・雅の地方に侵入した。そのとき天子はすでに幽州の軍を出し、かけつけて防戦させたので、蛮族は大いに敗れ逃走した。 さきに蛮族の使者はたびたび来ていたがこれらを留めて帰さず、捕虜としたものはすべて江南地方に統率者をつけて送っていた。徳宗が即位して、まず内政では節度使たちを鎮め、年ごとに蛮族と対抗し、失ったものと得たものと相償うのを考えて、徳をもってかれらを懐柔しようと思った。そこで太常少卿の韋倫に節を持して使いとならせて、その捕虜五百人に綿衣を厚く給して帰らせ、辺境の官吏には厳しく勅して見張りの設備を守らせ、蛮族の土地を侵すことのないようにさせた。吐蕃は、捕虜の返還をはじめ聞いて信ぜず、使者が領城に入ってこれが事実なのを理解し、みな感激し畏敬した。 このとき乞立賛(チソンデツェン)が賛普となっていたが、その姓は戸盧提(オデ)氏である。かれは言った。「わたしには三つの恨みがある。天子(代宗)の喪を知らず、弔うことができなかったことが第一、山陵に供養のものを供えることができなかったことが第二、舅上の即位を知らず、兵を出して霊州を攻め、扶文に入り、灌口(四川省灌県西北二十六里にある山)を侵したことが第三である」と。そこで使者を出し、倫に従って入朝させた。帝はまた倫を遣わし、蜀の捕虜を帰らせた。蛮族は倫がふたたび来たのでひじょうに喜び、宿舎を与え、音楽を奏して慰めた。九日間留まったが、その帰りには論欽明思ら五十人を従わせ、方物を献上した。 明くる年(779)、殿中少監の崔漢衡が使いに行った。賛普はとつぜん言い出した。「わが方と唐とは舅甥の間からの国であるのに、詔書には臣礼をもってわが方をしめている」と。また、雲州の西山までを吐の境域とすることを願い、崔漢衡が天子に上奏することを求めた。そこで崔漢衡は入蛮使判官の常魯を遣わし、論悉諾邏(ロンタグラ)とともに入朝させ、賛普の言葉を述べさせた。論悉諾邏は景竜のときの詔書を引いて言った。「詔書は唐の使者が来れば、甥がまず盟し、吐蕃の使者が行けば、舅上がまた親ら盟するとあります。したがって賛普はその礼はもともと対等であると言っております」と。帝はこれを許し、「献」を「進」とし、「賜」を「寄」とし、「領取」を「領之」と訂正した。以前の宰相の楊炎が古い事実に通じなかったことをもって弁解し、同時に土地は賀蘭山までを約束した。その大相の尚悉結(シャンギェルシグ)は、人を殺すことを好み、剣南の敗戦の報復がまだできていないといって和識をすすめなかった。次相の尚結賛(シャンギェルツェン)は、智謀があり、辺境の人々を休養させることを固く願い、賛普はついに結賛を大相として和平を講ずることになった。 崔漢衡はその使の区頰賛(クゥギャツェン)とともに帰って国境で会盟することを約束した。崔漢衡を鴻臚卿に任じ、都官員外郎の樊沢を計会使とし、結賛と約束させ、かつ隴右節度使の張鎰を盟に加えることを告げた。樊沢は結賛と清水(甘粛省清水県)で会盟し、牛馬をもって犠牲とすることを約束した。張縊はその儀礼を卑いものとしようとし、結賛を欺いて言った。「唐は牛がなければ耕作することができず、吐蕃は馬がなければ戦うことはできない。牛馬ともにもったいないから犬・豚・羊を用いることを願いたい」と。結賛は承諾した。盟するときには地をはらい清めて壇をつくり、二国がおのおの二千の兵を壇垣外の窪地に列べ、従者は壇下に立つことを約束した。張鎰は幕僚の斉映・斉抗、鴻臚卿の崔漢衡、計会使の于衆・沢・魯とみな朝服を着た。結賛は論悉頰蔵(ロンギェサン)・論臧熱(ロンツェンシェル)・論利陀(ロンチデー)・論力徐(ロンチスゥ)とともに、相対して壇の上に登った。犠牲を壇の北側で殺し、その血を混ぜて会盟者にさし出した。そしてつぎのことを約束した。「唐の土地は、涇州の西は弾箏峡まで、隴州の西は清水まで、鳳州の西は同谷(成州の同谷県)まで、剣南では西山・大度水までである。吐蕃は蘭・渭・原・会に鎮守し、西は臨洮、東は成州まで、剣南の西では磨些(モソ)の諸蛮まで、大度水の西南は、大河(黄河の支流雅江)までである。北は新泉軍(会州の西北二百里)から大磧(タクラマカン砂漠)の南にいたり、賀蘭山の橐它嶺まで、その間では田を耕作しない。二国が棄てた守備の地は、兵を増すことなく、城堡を作ることもせず、辺境の田地を耕作することもしない」と。盟を終わって吐蕃は張縊に、壇の西南隅の仏を祀る帳幕に詣って誓いをすることを請うた。それから壇に上って大いに酒盃のやりとりを行ない、終わって帰還した。 帝は宰相・尚書に命じ、蛮族の使者とかさねて長安に会盟させた。清水の盟約ではその場所を決定することができなかったので、ふたたび崔漢衡を遣わし、賛普のところで決定し、盟の約束に成功したそこで宰相の李忠臣・盧𣏌・関播・崔寧、工部尚書の喬琳、御史大夫の于頎・太府卿の張献恭・司農卿の段秀実・少府監の李昌夔・京兆尹の王翃・金吾衛大将軍の渾瑊と区頰賛(クゥギャツェン)らを、首都の西郊で会盟させた。儀式次第は清水と同様であったが、二月前に太廟に告げ、祀りを行なった。三日目に関播は跪いて盟約の文書を読み、盟を終わって盛大な宴を開いて接待した。左僕射の李揆に詔を下し、入蕃会盟使と、区頰賛らを帰した。 朱泚の乱に、吐蕃は応援して賊を討伐することを願い、朝廷では左散騎常侍の于頎に詔を下し、節を持して慰撫させた。太常少卿の沈房は安西北廷宣慰使となって答礼に行った。渾瑊は論莽羅(ロンマンラ)の兵を用いて朱泚の将の韓旻を武亭川に破った。さきに蛮族は、長安を回復したならば、涇・霊など四州を与えることを約束した。ちょうど伝染病が流行し、蛮族は引き揚げていったが、朱泚の乱が平らぐと、先約によって土地を求めてきた。天子はその労苦はたいしたものでないとし、ただ詔書を賜わり、結賛と莽羅らに絹一万匹を贈った。これで蛮族は怨みを抱いたのである。 貞元二年(786)、倉部郎中の趙建に使いに行かせた。蛮族はすでに涇・隴・邠・寧を犯し、人畜を掠奪し、作物に損害を与えた。内地の州はみな城門を閉じ、敵の遊撃の兵は好畤(陝西省乾県東南四十里)まで来た。左金吾将軍の張献甫、神策の将の李昇曇らは咸陽に屯し、河中の渾瑊・華州の駱元光がこれを援助した。左監門将軍の康成を使いにやったが、尚結賛は上砦原に屯し、また論乞陀(ロンチデー)を使者としてよこし、盟を請わせた。鳳翔の李晟は部将の王佖を遣わし、鋭兵三千を率いて、夜、汧陽に入らせた。翌日その中軍に迫ったので蛮族は驚いて潰走し、結賛はやっとのことで脱れた。いっぽう蛮族の軍二万が鳳翔に侵入したので、李晟は撃ってこれを退け、摧沙堡を襲ってその蓄積した物資・馬糧を焼き払い、守備の兵を斬った。吐蕃は塩州・夏州を攻め、刺史の杜彦光、拓抜乾暉は守ることができず、その衆をぜんぶ率いて南方に逃げ、蛮族はついにその土地を取った。天子は、辺境の人々が敵手に殺傷せられたので、詔を下して正殿に出るのをやめ、みずからを責めた。また駱元光に詔を下して、塩州・夏州を経略させた。 貞元三年(787)、左庶子の崔澣・李銛に命じて、あいついで吐蕃に使いさせた。結賛は、塩州・夏州を獲得してみな兵をもってこれを守らせ、自分は鳴沙(寧夏省中衛県東南百五十里)に屯していたが、食糧を送ることにはたびたび苦しんでいた。そこで駱元光・韓游瓌は、国境の塞の側に屯し、馬燧は石州(山西省離石県)に屯し、黄河を挟んで互いに連絡させた。結賛は大いに恐れて、しばしば盟を請うたが、天子は許さなかった。そこで貴将の論頰熱(ロンギェルシェル)に、馬燧に対して厚く賄賂を送らせ、和平を乞うた。馬燧は心動かされて、みずから天子に謁見した。諸将は馬燧の入朝を見て、みな城壁を守って出戦せず、結賛はたちまちのうちに逃げ帰ることができた。馬は多く死に、兵士は歩くことができないで飢えた顔色をしていた。崔澣ははじめ鳴沙に行き、詔を伝えて、結賛が約束を破って塩州・夏州を陥れたのを責めた。結賛は答えて言った。「もともと武亭川の功績(朱泚を破った功)はまだ酬いられていないのでやってきた。また検べてみると、境界の石碑は仆れて風化しており、国境が明らかでなくなっている。ゆえに国境の上に行ったのである。涇州は城によって自衛し、鳳翔の李令(李晟)はわが使者を迎え入れなかった。康成らが来たことは来たが、みな詳しく語ることができなかった。わが方は大臣の来るのを望むと言ったが、ついに来るものがなかったので、わが方は引き返した。塩州・夏州を守備している将は、わが衆を恐れ、城をわが方に明け渡したのであり、わが方がむりに攻撃したのではない。もし天子がまた盟を許すならば、それは蛮族の願うところである。そのときは命ずるところに従い、塩州・夏州を唐に還すであろう」と。また言った。「清水の会盟には大臣が少なく、ゆえに約束は破られやすかった。こんどは宰相・元帥二十一人みな遣わして会盟することを願いたい」と。同時に言った。「雪塩節度使の杜希全、涇原節度使の李観は外蕃に信用されているので、会盟を司ることを願いたい」と。帝はまた崔澣をやって、特に答えさせて言った。「杜希全は霊州を守備して責任範囲が定まっており、境域を越えることはできない。李観はすでに他の官職にうつっているから、渾瑊を盟会使とし、五月に清水で会盟することを約束しよう。そしてまず二州を還してもらい、それで蛮族の信のほどを験そう」と。結賛は言った。「清水はめでたい土地ではない。原州の土梨樹で会盟することを願いたい。そうすれば二州を還そう」と。天子はこれに従った。 渾瑊は来朝して命を受け、崔漢衡は兵部尚書に任ぜられて渾瑊に副として付いた。渾瑊は兵二万を率いて期日を待ち、天子は駱元光に詔を下してこれを助けさせた。宰相は会盟の場所を論議したが、左神策の将の馬有鄰が建言した。「土梨樹は林が茂っており、岩が邪魔して、伏兵に欺されやすいところです。平涼は平らでまっすぐであり、この方がよいと思います。かつ涇州に近く、大事が起こっても支えることができましょう」と。そこで会盟を平涼で行なうことに定めた。渾瑊は結賛と、主客ひとしく兵三千を壇外におき、非公式の従者四百人が壇にぬかずき、游兵を互いのうちに巡邏させることを約束した。盟しようとするとき、結賛は精鋭の騎三万を西方に伏せさせ、巡邏の騎兵を放って渾瑊の軍に出入りさせた。渾瑊の将の梁奉貞もまた馬を走らせて蛮族の軍営に入った。吐蕃はひそかにこれを捕えたが、渾瑊はそのことを知らないでいた。客は渾瑊らに冠・剣をつけることを願ったので、みなは張幕に入って更衣し、ゆっくりと休息していた。たちまち蛮族は三たび太鼓を打ち、衆は喊声をあげて起ち上がった。渾瑊はどこへ出てよいかわからず、張幕のうしろに馬を見つけ、銜(はみ)をつけずに十里走り、ようやくそれをつけることができた。蛮族の追撃の矢は雨のごとく降りそそいだが、傷は受けず、駱元光の営に到着してようやく逃れることができた。部将の辛栄の兵数百は北の岡に拠り、蛮族と戦い、矢尽きて降服した。判官の韓弇と監軍の宋鳳朝は戦死した。崔漢衡と判官の鄭叔矩・路泌、掌書記の袁同直、列将の扶余準・馬寧・孟日華・李至言・楽演明・范澄・馬弇、中人の劉延邕・倶文珍・李朝清ら六十人はみな捕えられ、兵士の死するもの五百、捕虜となったもの千余人であった。崔漢衡は蛮族に言った。「私は崔尚書である。結賛は私と親しい。もし私を殺すならば、結賛もまたおまえを殺すだろう」と。これによって、殺されないですんだ。捕えられた人は、一本の木を背負い、縄で三ヵ所でこれに結わえられ、その髪を互いにつないで駆りたてられた。夜は地に枕を立て、それにつないで臥させ、上に毛織物をかけ、見張りのものはその上に寝た。はじめ結賛は杜希全・李観を掠取し、たちまちのうちに鋭兵を率いてただちに京師に赴こうとしたのであるが、うまくゆかなかった。また渾瑊らを捕え、虚を突いて入寇しようとしたが、その謀略はかれの本性そのものである。すでに引き揚げて故の原州にいたり、帳中に坐って崔漢衡らに会い、いいかげんなことを言った。「渾瑊が武功で戦えたのは、我が方の力によってである。地を割いて我が方にいることを許し、みずからその言に背いたことをした。私はすでに金の枷を作り、かならず渾瑊を捕えて賛普に見せようと思っていた。しかし、いまかれを捕えられなかったいたずらに公らをつれてきても得することはない。誰かを帰してやって報告させよう」と。さきに崔漢衡が乱に遇ったとき、従史の呂温は身をもって兵を防ぎ、そのため呂温は傷つき崔漢衡は免れた。蛮族はその義行に感嘆し、厚くこれに給与した。結賛は石門に屯し、倶文珍・馬寧・馬弇を唐に帰して、崔漢衡・鄭叔矩は河州に、辛栄は廓州に、扶余準は鄯州に囚禁した。帝はなお中人をやって詔書を持ち行かせ結賛に賜わったが、拒んで受け取らなかった。蛮族は塩州・夏州を守備し、春になって伝染病が大いに起こり、みな帰国することを考えるようになった。結賛は騎兵三千をもってこれを迎えさせ、二州の住宅を焼き払い、城の垣を壊して去った。杜希全は兵を分派してこれを保持することにした。帝は崔漢衡らが恥辱を受けるようになったのを憐れみ、詔を下して、その子に七品官を、鄭叔矩・路泌・馬弇・孟日華・辛栄・志信(李至言)・范澄・良賁・楽演明の一子に八品官を、袁同直より以下のものの一子には九品官を賜わった。唐朝では決勝軍使の唐良臣に潘原(甘粛省平涼県東四十里)に屯させ、神策の将の蘇太平に隴州に屯させた。結賛は崔漢衡・孟日華・劉延邕を呼び出して石門にいたり、五騎をつけて国境上に送った。そして使者を遣わし、表文を奉じて来させた。李観は「詔が下って、吐蕃の使者は入れないことになっている」と言って、崔漢衡らを受け取り、その使者を放還した。 結賛は、羌渾の衆を率いて潘口の傍の青石嶺(甘粛省涇川県西北七十里)に屯し、その軍を三分して、隴州・汧腸の間に赴かせた。数十里にわたって営を連ね、中軍は鳳翔を去ること一日旅程(約三十里)のところにいた。そして中国の服を着て邢君牙の軍であると欺き、呉山(陝西省隴県東南)・宝鶏(陝西省宝鶏県)に侵入して部落を焼き、牧養している家畜や青壮年を略奪し、老幼を殺し、手を切り、目を剔って去った。李晟は試みに大木を倒して安化峡(甘粛省清水県東百里)の隘処を塞いだが、蛮族はここを通過し、すべてこれを焼き払った。詔を下して神策の将の石季章に武功で防壁を作らせ、唐良臣に軍を百里城(甘粛省霊台県)に移させた。蛮族はまた汧陽・華亭(甘粛省華亭県)の男女一万人を掠取し、羌渾に奴隷として与えた。国境を出ようとするとき、東に向かって故国に別れを告げさせたが、衆は悲しみ泣いて、渓谷に身を投げて死ぬものが千をもって数えるほど出た。吐蕃はまた豊義(甘粛省鎮原県西)に侵入し、華亭を包囲し、給水の道を絶った。守将の王仙鶴は救いを隴州に求め、隴州刺史の蘇清沔は、蘇太平の兵を合わせてこれに赴いた。蛮族は迎え討ち、蘇太平は勝つことができずに引き返した。蛮族は毎日千騎を出して四方を掠奪したが、隴州の兵はあえて出て戦うことはなかった。蛮族は華亭城に薪を積んで、まさに焼き払おうとしたので、王仙鶴はやむをえず衆を率いて降服した。蘇清沔は兵を大きな象龕の中に潜ませ、夜中に城中と約束して火をあげて空を照らさせた。蛮族の衆は驚愕したので、そのとき営を襲い、これを去らせた。さらに吐蕃は連雲堡(甘粛省涇川県西)を攻めたが、飛ばした石が井戸に入り、水が溢れて井戸は空となった。そして深い谷に橋をかけて登ったので、守将の張明遠はついに蛮族に降服した。蛮族は山間に逃げた人および牛・羊およそ万をもって数えるほどを手分けして捕え、このために涇・隴・邠の地の民はまったく尽きてた。諸将は、一人の捕虜も得ることなく、ただ賊が国境の塞を出てゆくと祝詞をのべるだけであった。連雲堡は涇州の要地であり、三方が切り立って険しく、北方は高くなっていた。蛮族の動向は、狼火をあげることによって連絡しやすかった。すでにこれを失い、城下はすなわち蛮族の境域となり、収穫のたびごとにかならず兵を田野に布いたから、その時期を失することが多かった。この年(787)、三州は年越しの麦を持つことができなかった。蛮族の数千騎は長武城(陝西省長武県)を犯し、城使の韓全義はこれを防いだが、韓游瓌の兵は出て戦わず、それで蛮族は安心して邠州・涇州の間を往来した。諸屯営の西門はみな閉じ、蛮族は故の原州を支配してこれを保持した。帝は捕虜にした吐蕃の人間二百人たらずを諸市であまねく示して京師の人心を安定させた。 貞元四年(788)五月、蛮族の三万騎が涇・邠・寧(甘粛省寧県)・慶(甘粛省慶陽県)・鄜(陝西省鄜県)五州の辺邑を略奪し、役人の家や民人の家を焼き、数万人を捕えた。韓全義は陳許の兵を率いて長武で戦ったが、成功しなかった。はじめ吐蕃が国境の塞を掠奪するときは、春・夏の病気の流行をおそれてつねに盛秋にやってきたが、そのころには、唐人の捕虜を得ると、多く厚く財物を与え、その家族を人質とした。そしてそれらを使ったがゆえに盛夏でも辺境に入寇することができるようになったのである。尚悉薫星(シャントンセン)・論莽羅(ロンマンラ)らはまた寧州に侵入し、張献甫は防戦して首百級を斬った。かれらは転じて鄜坊を略奪して去った。 貞元五年(789)、韋皋は剣南の兵を率いて台登に戦い、蛮族の将の乞臧遮遮・悉多楊朱を殺し、西方面は少しく安穏になり、三年たらずでことごとく巂州の地を獲得した。しばらくして北廷の沙陀別部が吐蕃に叛き、吐蕃はこのために北廷都護府を陥れ、安西への道は途絶した。ただ西州(高昌)の人だけは、まだ唐のため守備をつづけていた。 貞元八年(792)、吐蕃は霊州に侵入し、水口を陥れて営田の渠を塞いでしまった。朝廷では河東(山西省南部)・振武(陝西省楡林地方)の兵を発し神策軍を加えてこれを撃ったので、蛮族は引還した。また涇州に入寇し屯田兵千人を掠取し、守捉使の唐朝臣は戦ったが不成功であった。山南西道節度使の厳震は、蛮族を芳州に破り、黒水壁を取り、集積した軍需品を焼いた。蛮族が塩州を取ってから、国境の防備には敵をおさえるものがなく、霊武はひとり裸のままであり、鄜坊は圧迫され、敵は日に日に驕慢となり、しばしば入寇して辺境を悩ました。そこで帝はふたたびここに城を築くことを詔し、涇原・剣南・山南の軍に、敵地に深入して徹底討伐させ、敵が兵を分遣してもっぱら東方に向かうことのないようにした。それで朔方河中晋絳邠寧兵馬副元帥の渾瑊、朔方霊塩豊夏綏銀節度都統の杜希全、邠寧節度使の張献甫、右神策軍行営節度使の邢君牙、夏綏銀節度使の韓潭、鄜坊丹延節度使の王栖曜、振武麟勝節度使の范希朝に詔を下し、その兵を合わせて三万、それに左神策将軍の胡堅、右神策将軍の張昌を塩州行営節度使とし、城を築く人夫六千人余、みな城下に陣を張った。貞元九年(793)、版築を始めてからわずかに二旬を過ぎて作業を終わったが、蛮族の兵は出てこなかった。ついに兼御史大夫の紇干遂と兼御史中丞の杜彦光にこれを守備させた。このとき韋皐の功績がもっとも大きく、堡や防壁五十余所を破り、その南道元帥の論莽熱没籠乞蓖(ロンマンシェルロンチ)を破り、また南詔とともに吐蕃を神川(金沙江上流)と鉄橋(雲南省江県西北、故巨津州北百三十里)において破った。韋皐は三万の捕虜・首級をあげ、首領の論乞髯湯没藏悉諾硉(ロンチツェンタンサンタダシェル)を降服させた。 貞元十二年(796)、慶州および華池に入寇し、官吏・人民を殺したり掠取したりした。この年、尚結賛が死んだ。明くる年(797)、賛普が死に、その子の足之煎(ムネツェンポ)が立った。邢君牙は隴州に永信城を築いて蛮族に備えた。蛮族の使者の農桑昔が来て、和親を修めることを請うた。朝廷は信頼することができないので、受けつけなかった。韋皐は新城を取った。蛮族は剣山馬嶺を支配し、進んで台登に入寇した。巂州刺史の曹高仕は撃ってこれを退け、籠官を擒にし、首三百を斬り、馬・食糧・武器数千をいけどり捕獲した。 貞元十四年(798)、韓全義は蛮族を塩州に破った。貞元十六年(800)、霊州は蛮族を烏蘭橋に破り、韋皐は末恭・顒の二城を抜いた。貞元十七年(801)、吐蕃は塩州に入寇し、麟州を陥れ、刺史の郭鋒を殺した。また城の堀をつぶし、陴(ひめがき)を落とし、居民をつなぎ、党項の諸部を掠奪して横槽烽に屯した。蛮族の将に徐舎人なるものがあり、俘虜にした仏僧の延素に語った。「私は司空英公(李勣)の子孫である。武后のときに家祖(徐敬業)が兵を挙げて王室のために働いたが、勝つことができず、子孫は遠い地方に逃げて、いまは三代を経ている。私は吐蕃の兵権を握っているとはいえ、まだいちども祖国へ帰ることを忘れてはいない。あとのことを思うてみずから抜け出せないでいるだけである」と。そしてひそかに延素を夜、逃亡させた。また言った。「私は辺境を調べ、物資食糧を求めて麟州にいたったのだが、守るものは備えがしてなかったので、ついにこれに進入したのである。郭使君(郭鋒)は勲臣の家の出であり、これを完全に保護しようと思っていたのに、不幸にして乱兵に殺されてしまった」と、話がまさに終わったとき、飛鳥使が到着し、その軍を召還したので、ついに引き去っていった。飛鳥というのは、駅伝の騎のようなものである。 韋皋は、西山に出て、蛮族と戦ってこれを破った。雅州の籠官の馬定徳は、もと蛮族のうちでは作戦を知り慮りのあるもので、山川の形勢をよく知っていた。兵を用いるごとに、つねに駅伝を使って計略をめぐらし、諸将に授けていた。毎年黎州・巂州に入寇していたが、韋皋はいつもその作戦を挫折させた。馬定徳は賛普に罰せられるのを恐れて、ついに来降し、これによって昆明の諸蛮は安定した。吐蕃その他は、しばしば叛いて大いに霊州に侵入した。このとき韋皋は維州を包囲した。論莽熱没籠乞悉蓖に松州五道節度兵馬都統群牧大使を兼ねさせ、兵十万を率いて維州を応援させた。韋皋は南詔の兵を率いて険要の地にせまり、伏兵を設定して待ち、わずか千人だけで敵を攻撃させた。乞悉蓖は兵が少ないのを見て、衆をつくしてこれを追い、伏兵の中に陥った。唐兵は四たび急攻撃をかけ、ついにかれを捕え、京師に献上し、帰還した。明くる年(802)、吐蕃の使者の論頰熱がまた来た。右竜武大将軍の薛伾が答礼に行った。 貞元二十年(804)、賛普が死んだ。工部侍郎の張薦を遣わして弔わせた。その弟が嗣いで立ち、ふたたび使者をよこして入朝させた。 順宗が立ち、左金吾衛将軍の田景度、庫部員外郎の熊執易に節を持して使者に行かせた。永貞元年(805)、論乞縷勃蔵(ロンルサン)が来て、金幣・馬・牛を献げて崇陵(徳宗陵)の祭りを助けた。詔を下して、太極殿の中で並べて展示させた。 憲宗の即位のはじめ、唐では使者を遣わして和親を修め、かつその捕虜を帰し、また順宗の喪を知らせた。吐蕃もまた論勃蔵を使としてよこし、のち毎年のように来朝した。しかし五万騎で振武の払鵜泉に侵入し、万騎は豊州の大石谷にいたり、回鶻の帰国するものを略奪した。 元和五年(810)、祠部郎中の徐復を使いに行かせ、同時に鉢闡布(ベルチェポ)に書信を賜わった。鉢闡布というのは、蛮族の仏僧で、国政に与るものであり、またの名は鉢掣逋という。徐復は鄯州まで行ってかってに帰ったが、その間の李逢は使命を賛普に伝えた。しかしまた責任を問われて左遷された。これに対して蛮族は、論思邪熱(ロンギェシェル)を入朝させて謝礼し、かつ鄭叔矩・路泌の柩を帰し、秦・原・安楽州を返還することを述べた。詔を宰相の杜佑らに下して、中書省でこのことを論議させた。論思邪熱は庭で拝し、杜佑は堂上から答礼した。また鴻臚少卿の李銛、丹王府長史の呉暈に答礼のため吐蕃に行かせたが、これより朝貢には年々やってきた。また隴州の塞に好しみを通じ、物資交換の市を請うてきたが、詔を下して許可した。 元和十二年(817)、賛普が死んだ。使者の論乞髯(ロンチチェン)が来たので、右衛将軍の烏重玘、殿中侍御史の段鈞に弔祭に行かせた。可黎可足(チツクデツェン)が立って賛普となった。烏重玘は、扶余準・李驂といっしょに帰ってきた。扶余準は東明(河北省大名県)の人で、もとは朔方の騎将であり、李驂は隴西の人で、貞元のはじめに蛮族の手に陥ったものであった。使者はかれらがいまだ死んでいないことを知り、これを探して帰ることができたのであった。詔を下して扶余準を澧王府司馬とし、李驂を喜王友とした。 吐蕃は論矩立蔵(ロンルサン)を来させた。かれがいまだ国境を出ないうちに、吐蕃は宥州(霊州城)に入寇し、霊州の兵と定遠城(寧夏省寧夏県東北六十里)に戦った。蛮族は勝たず、首二千級が斬られた。平涼鎮遏使の郝玼はまた蛮族の兵二万を破り、夏州節度使の田縉はその衆三千を破った。詔を下して矩立蔵らを留めて帰さなかった。剣南の兵は峨和城(四川省松潘県西南)・樫雞城(四川省鯀陽県の近傍)を抜いた。元和十四年(819)、矩立蔵らを帰国させた。吐蕃の節度論二摩、宰相の尚塔蔵(シャンラサン)、中書令の尚綺心児(シャンチスムジェ)は兵十五万を指揮して塩州を囲み、飛梯・鵞車を作って城を攻撃した。刺史の李文悦は防戦し、城が壊れればすぐに補修し、夜はその屯営を襲い、昼は出て蛮族一万人と戦い、三旬をすぎても抜くことはできなかった。朔方の将の史敬奉は、奇襲部隊を蛮族の背後に迫らせ大いに破ったので、敵は包囲を解いて去った。 さきに沙州(甘粛省敦煌県)刺史の周鼎は、唐のために沙州を固守していた。賛普は張幕を南山(甘粛・青海両省の間の山脈)にうつし、尚綺心児にこれを攻めさせた。周鼎は救援を回鶻に請うたが、年を越えても援兵は来なかった。ついに城を焼いて衆を率いて東に逃げることを論議したが、みなこれを不可能とした。周鼎は都知兵馬使の閻朝に壮士を率いて水草の調査に行かせた。閻朝は朝がた周鼎に謁し、挨拶して出かけ、周鼎の親しい役人の周沙奴とともに弓を引きしぼって射た。謙虚に礼をしてから沙奴を射てただちに殺し、こんどは周鼎を捕えてこれを絞殺した。そしてみずから州の政事を支配し、八年間城を守備した。綾絹の一端を出して麦一斗と代えるものを募ったところ、応ずるものはひじょうに多かった。閻朝は喜んで言った。「民にはまだ食糧がある。死守せねばならない」と。二年経って、食糧・武器はみな尽きてしまった。そこで城壁に登り、大声で叫んで言った。「かりそめにも他の土地へ作るつもりはない。城をあげて降服することを願う」と。尚綺心児は承諾したので、ここで、出て降服した。城の攻撃がはじまってからこれまで、およそ十一年であった。賛普は綺心児に城を守らせたが、のち閻朝が叛をはかっているのを疑い、毒を革靴の中に入れて殺した。州の人たちはみな夷狄の服を着て蛮族の臣となったが、毎年その時期が来ると、父祖を祀り、中国の服を着て声をあげて泣き、またこれをしまった。 穆宗が即位し、秘書少監の田洎を遣わして、このことを告げさせた。吐蕃からも使者がまた来た。蛮族は兵を率いて霊武に入って屯し、霊州の兵は撃ってこれを退けた。また青塞烽を犯し、進んで州に入寇した。川の岸に屯営し、その列は五十里もずっと続いていた。はじめ田洎は吐蕃の牙帳に行ったところが、蛮族は長武で会盟することを求めた。田洎はあいまいな態度でこれに応じたが、ここにいたって吐蕃は、「田洎はわが方に会盟を許した。そのゆえにわが方はここに来たのである」と、はっきり言った。涇州まで一宿ていどのところに迫って来たのである。詔を下して、右軍中尉の梁守謙を左右神策軍京西北行営都監とし、兵を発し、八鎮の兵を合わせて涇州を援助させた。いっぽう田洎を郴州(湖南省桂陽県東)司戸参軍に左遷した。太府少卿の邵同に節を持せしめ、和好使とした。はじめ夏州の田縉は利を貪るので、党項はこれを怨んで、蛮族を導き入れて掠奪させた。郝玼はこれと戦ってその衆を多く殺し、李光顔はまた邠州の兵を率いて到着したので、敵は引き揚げた。そしてまた使者を遣わして来、南の方では雅州を略奪した。詔を方鎮に下して、蛮族と接するものは心して辺境に備えさせた。 長慶元年(821)、回鶻が唐に和親したのを聞き、青塞堡を犯し、李文悦に逐われた。そこで使者の尚綺力陀思(シャンチデー)を遣わして来朝させ、会盟を乞うた。朝廷では詔を下してこれを許可した。当時崔植・杜元穎・王播が政事を輔けていたが、太廟に告げることを考えた。しかし礼官は言った。「粛宗・代宗は、みな、かつて吐蕃と盟しましたが、太廟には告げませんでした。徳宗の建中の盟は、その盟約を価値あるものにするために、はじめて詔を下して廟に告げたのです。平涼の会にいたっては、これを告げなかったのですが、それはその価値を殺ぐためでした」と。そこで告廟のことはやめ、大理卿の劉元鼎を盟会使とし、右司郎中の劉師老がこれに副となった。宰相に詔を下し、尚書右僕射の韓皋・御史中丞の牛僧孺・吏部尚書の李絳・兵部尚書の蕭俛・戸部尚書の楊於陵・礼部尚書の韋綬・太常卿の趙宗儒・司農卿の裴武・京兆尹の柳公綽・右金吾将軍の郭鏦ともに、吐蕃の使者論訥羅と京師の西郊に会盟させた。賛普は盟いの言葉をもって、二国が互いに仇となることなく、国境で人を捕えることがあれば、事情を聞いて衣服・食糧を与えて帰すことを約束した。天子も詔を下してこれでよいとし、大臣の盟に与ったものはみな名を文書の上に書いた。盟を行なったときに、吐蕃は精壮の騎兵で魯州に屯し、霊州節度使の李進誠は大石山に戦ってこれを破った。蛮族は使者の趙国章を遣わして来たり、宰相に書信と幣物を呈した。 明くる年(822)、国境や物見台を定めることを願い、劉元鼎と論訥羅とが、その国(吐蕃)で盟を行なうことになった。勅を出して、蛮族の大臣もまた名を文書に連ねることにした。劉元鼎は成紀(甘粛省天水県)・武川を越えて黄河の広武梁にいたったが、昔の城郭はまだ崩れないで残っていた。蘭州の地はみな秔稲・桃李・楡柳が山の峯に茂り、住民はみな唐の人で、使者の麾蓋を見て、道の両側にならんで見物した。竜支城(青海省西寧市東南八十里)に到着すると、老人たち千人が挨拶をして泣き、天子の安否を問うて言った。「しばらく前に従軍して、ここで敵手に陥ってしまいました。いま子孫はまだ唐の服装を忘れることはできないでおります。朝廷では、なおこのことを思ってくださっているでしょうか。唐の軍隊は、いつやって来ますか」と。言いおわってみな泣いた。ひそかに聞くと、豊州の人であった。石堡城を通過したが、崖は険しくきり立ち、道はうねっていて、蛮族はこれを鉄刀城(カルチェグツェ)と呼んでいた。それから西の方へ数十里行くと、土石はみな赤く、蛮族はこれを赤嶺という。かつて信安王李禕、張守珪が建てた国境の碑はみな倒れ、ただ蛮族のたてた石碑だけがそのまま残っていた。赤嶺は長安から三千里余であり、思うに隴右の故の土地である。悶怛盧(メルロ)川というのがあり、邏娑川の南の百里のところにあたり、そこは臧河(ツァンポ)の流れているところである。臧河の西南の地は砥石のように平らで、肥沃な原野がひろがり、河をはさんで檉柳(かわらやなぎ)が多く、山には柏が多い。岸はみな丘墓になっており、その傍に家屋があり、赤土を塗って白虎が描いてある。みな蛮族の貴族で戦功のあるものの墓であり、生前はその(白虎の)皮を着、死んではその勇猛を表わしているのである。殉死したものは、その傍に埋葬されている。それから悉結羅識を越えるが、岩をけずって車を通しており、これが金城公主を迎えた道である。 麋谷にいたって宿舎に入ったが、ここは臧河の北方の川であり、普賛の夏の牙帳があるところである。そこは、木槍の柵をめぐらし、おおよそ十歩ごとに多くの長い槊(ほこ)を立て、中に大きな幟を置いている。三つの門を作り、その相互の距離はみな百歩で、武装の兵士が門を守っている。またそこでは鳥の冠をかぶり、虎の皮の帯をした巫祝(シャーマン)が太鼓をたたいている。入るものは身体を検査してから進む。中に高い台があり、宝楯がめぐらしてある。賛普は帳幕の中に坐し、その張幕は黄金で、蛟螭(みずち)・虎豹のかたちが縫い取りされている。賛普は身に白い褐(けごろも)を着、頭には朝霞帽をかぶり、首には金を鏤めた剣を吊っていた。鉢掣逋(ペルチェポ)はその右に立ち、宰相は台の下に並んでいた。はじめに唐の使者が到着したとき、給事中の論悉答熱(ロンタグシェル)が来て盟いのことを議定し、牙帳の西で盛大な宴を張ったが、酒飯のはこびは中国の習慣とほぼ同じであった。音楽は「秦王破陣曲」を奏し、また涼州・胡渭・録要の雑曲を奏し、多くの芸人は、みな中国人であった。 会盟の壇は、広さ十歩、高さ二尺で、使者は蛮族の大臣十余人と相対し、酋長百余人は壇下に坐った。壇上には大きな榻を設け、鉢掣逋が登って盟いを告げた。一人が傍から下のものに訳して聞かせた。みな血を啜ったが、鉢掣逋だけは啜らなかった。盟いが終わって仏像の前にかさねて誓いをし、鬱金水をとって飲み、使者と喜びの挨拶をして壇を下った。 劉元鼎が帰るとき、蛮族の元帥の尚塔蔵(シャンラサン)は、客を大夏川に宿泊させ、東方節度の諸将百余人を集めた。会盟の文書を台の上におき、ひろくこのことを諭し、かつおのおの国境を保持して互いに犯すことないように戒めた。文書には「彝泰七年」と書いてあった。尚塔蔵は劉元鼎に語った。「回鶻は小国である。私はかつてこれを討伐し、国都(カラバルガスン)から三日のところにまでいたり、回鶻はあやうく破滅するところであった。ちょうどそのとき、本国に不幸(賛普の死)があり、帰国したが、かれはわが方の敵ではないのに、唐はなにを畏れてこれを厚く遇するのか」と。劉元鼎は言った。「回鶻は国に功績(安史の乱の援軍)があり、かつ約束を守り、いまだみだりに兵をもって尺寸の土地を取るようなことはしていない。それゆえにこれを厚く遇するのである」と。尚塔蔵は沈黙してしまった。劉元鼎は湟水を越えて竜泉谷にいたったが、西北に殺胡川を望見した。ここには哥舒翰の時代の大防壁がなお多く存在していた。湟水の源は蒙谷に出て、竜泉にいたって黄河と会する。黄河上流は、洪済梁(橋)より西南に二千里行くと、河はますます狭くなり、春は徒歩で渡ることができ、夏秋には舟で行くことができる。その南三百里に三山があり、中に高くて四方に低くなっている山があって、紫山と呼ばれている。ここが大羊同国で、昔のいわゆる崑崙なるものである。蛮族は悶摩黎山と呼んでおり、東方は長安から五千里距たっている。黄河の源はその間にあり、水流は澄んでゆっくりと流れている。漸次多くの川を合わせて赤色となり、流水がますます長くなると他の川がみなそそいで濁ってくる。この湟水と黄河の存在によって、世間では西戎の土地を河湟というのである。河源の東北に莫賀延磧尾があり、長さはおおよそ五百里で、磧の幅は五十里である。北は沙州の西南から吐谷渾に入り、狭くなって終わっている。ゆえに磧尾というのである。ひそかにその地を測ってあると、だいたい剣南の西にあたるであろう。劉元鼎が見てきたところは、おおよそ以上のようなものであった。 蛮族は論悉諾息(ロンタグシグ)らを遣わして入朝して謝辞を述べた。天子は左衛大将軍の令狐通、太僕少卿の杜載に命じて答礼に行かせた。この年(822)、尚綺心児(シャンチスムジェ)は兵を出して回鶻・党項を攻撃し、小相の尚設塔は三万の衆を率いて木蘭(橋)付近に馬を放牧した。毎年使者が来、金の盆、銀細工の犀川や鹿を献上し、ヤクを貢ぎ物とした。 宝暦(825-827)から大和(827-835)年間にいたるまで、ふたたび使者を遣わして入朝させた。大和五年(831)に維州の守将の悉怛謀が城をあげて降服し、剣南西川節度使の李徳裕はこれを受け入れ、符章・武器・鎧を収納した。さらに将の虞蔵倹を遣わしてこれに拠らせた。州は、南は江陽(四川省澁県)・岷山にいたり、西北は隴山を望見し、一方は崖に面し三方は江に囲まれている。蛮族はこれを無憂城と呼び、西南地方の要害の地としていた。ちょうどそのころ牛僧孺が国政を担当していたので、論議して悉怛謀を吐蕃に遷し、その城も帰した。吐蕃は、かれの一族を誅してひとりも残さず、もろもろの蛮族を恐怖させた。これより五年間、蛮族の使いが来れば、かならず答礼使を出した。貢献したものは、玉帯・金皿・獺褐(カワウソの皮で作ったかわごろも)・ヤクの尾・霞・緋毛氈・馬・羊・駱駝である。 賛普は、立ってから三十年ちかく、病気のため政事をとらず、大臣に委せきりであり、そのゆえに中国に対抗することができず、辺境の塞は安穏であった。賛普が死んで弟の達磨(ダルマ)が嗣いだが、達磨は酒飲みで、狩猟を好み、好色であった。かつ性格があらあらしくて恩政を施すことが少なく、政治はますます乱れた。 開成四年(839)、太子詹事の李景儒を吐蕃に使いさせたが、吐蕃は、論集熱を来させ、玉器・羊・馬を貢献した。これより吐蕃国内では地震が多く、川が裂け、水が吹き出し、岷山は崩れ、洮水は三日間逆流した。また鼠が作物を食い荒らし、人は飢えて、病気で死ぬものが相つぎ、鄯・廓二州の間では、夜、陣太鼓の音が聞こえ、人々は互いに驚愕した。 会昌二年(842)、賛普が死に、論賛熱(ロンツェンシェル)らが来てこのことを告げた。天子は将作監の李璟に命じて弔いに行かせた。達磨には子がなかったので、妃の綝(チム)氏の兄尚延力(シャンギェルリグ)の子の乞離胡(チウ)を賛普とした。まだ三歳であり、妃はともにその国を治めた。大相の結都那(ギェルトレ)は乞離胡を見て、あえて拝礼しないで言った。「賛普の支族はまだ多いのに、どうして綝氏の子を立てるようになったのか」と、泣いて出ていったが、政事に当たっているものは、いっしょになってかれを殺した。 別将の尚恐熱(ロンコンシェル)は落門川(甘粛省隴西県)討撃使であったが、姓は末(バー)、名は農力熱(ナンリグシェル)で、中国で郎と称するようなものである。かれは詭りが多く、よく人をたぶらかし、三部をまとめて万騎を得、鄯州節度使の尚婢婢を討った。それから土地をとり、渭州に行って、宰相の尚与思羅と薄寒山(甘粛省隴西県西南)に戦った。尚与思羅は敗けて松州にいたり、蘇毘・吐渾・羊同の兵八万を合わせ、洮河を保持してみずから守った。尚恐熱は蘇毘たちに言った。「宰相兄弟は賛普を殺したので、天神がわれに義兵を挙げて無道のものを誅殺させるのである。なんじらは、逆賊を助けて国に背くのか」と。そこで蘇毘たちは宰相の行動を疑って戦わなかった。尚恐熱は軽装の騎兵を指揮して洮河を渡らせたところ、諸部はまず降り、その衆は合わせて十余万になり、尚与思羅を捕えてこれを絞殺した。 尚婢婢は姓は没盧(ロ)、名は賛心牙、羊同国の人である。代々吐蕃の大臣となる家柄で、かれは寛大で、おおよそ文字に通じていた。賛普に直接仕えるのを好まず、国境方面に三年間官吏として勤めていた。吐蕃の国民は新賛普の立ったのを正しいものとはせず、みな叛き去ったので、尚恐熱はみずから宰相と号し、兵二十万を率いて尚婢婢を攻撃したのである。軍隊・牛・馬・駱駝は千余里に連なり、鎮西軍(河州の西百八十里)にいたったが、大風が起こり、雷電がはためいて、部将の震え死ぬものが十余人、羊・馬・駱駝もまた数百が死んだ。尚恐熱はこれを見て恐怖にとらわれ、軍を抑えて進まなかった。尚婢婢はこのことを聞いて、物を厚くし、手紙を送って和親を約束した。尚恐熱は大いに喜んで言った。「尚婢婢は書生である。どうして軍隊のことがわかろうか。わしが賛普になれば、出仕不要の宰相としてかれ処遇しよう」と。そこで退いて大夏川に営した。尚婢婢は将の厖結心、莽羅薛呂(マンラシェル)を遣わして、尚恐熱を河州の南に攻撃した。兵四万を伏せさせ、厖結心は山に拠り、手紙を射てやり、さんざん尚恐熱を罵倒した。尚恐熱はひじょうに怒り、兵をもりたて出撃させた。厖結心は偽って逃げたところ、尚恐熱は数十里これを追撃し、莽羅薛呂は伏兵を発して集中攻撃した。おりしも大風があり、河は出していたので、溺死するものがはなはだ多く、尚恐熱は単騎で逃走した。すでに目的を達しなかったので、すこぶる残忍となり、人を多く殺した。その部将の岌蔵(チソン)、豊賛はみな尚婢婢に降服し、尚婢婢は厚くこれを待遇した。 明くる年(848)、尚恐熱はまた鄯州を攻撃し、尚婢婢は兵を五道に分けて防戦した。尚恐熱は東谷山(甘粛省臨夏県東南十五里)を保持し、防壁を固めて出戦しなかったが、岌蔵は柵をいく重にもめぐらし、給水の道を断った。そこで十日ほどで尚恐熱は薄寒山に逃走し、散兵を集めてようやく数千人を得た。そして鶡鶏山に戦い、ふたたび南谷(甘粛省渭源県西二十五里)に戦ったが、みな大敗し、戦いは長びいて、年を過ぎても終わらなかった。 大中三年(849)、尚婢婢は軍を河源に屯し、尚恐熱が黄河を渡ることを企んでいるのを聞き、急にこれを攻撃し、尚恐熱に敗れた。尚婢婢は精鋭の兵を率い、橋を抑えたがまた勝たず、橋を焼いて還った。尚恐熱は間道伝いに鶏頂嶺に出、関馮硤に橋をかけ、婢婢を攻めて白土嶺(青海省西寧市南)にいたった。そしてその将の尚鐸羅榻蔵(シャンタグララサン)を破り、進んで犛牛硤(ムルウス)に戦った。尚婢婢の将の燭盧鞏力(チョグロクンリグ)は、硤を背にしてみずから固守し、尚恐熱を苦しめようとしたが、大将の磨離羆子は従わず、力は病気であると称してさきに帰ってしまった。燭盧鞏力は急に尚恐熱を攻撃したが、一戦して死んだ。尚婢婢は糧食が尽きたので、衆を率いて甘州の西の境に赴き、拓抜懐光に守備させたが、尚恐熱の配下は多くこれに降服した。 尚恐熱は鄯・廓・瓜・粛・伊・西などの州を大いに略奪したが、通過するところ、捕えたり殺したり、屍は積みかさなり、広く散乱するありさまであった。部下たちは内心これを怨み、みなかれをかたづけようと考えた。そこで唐の兵五十万に出てもらい、ともにその乱を鎮めたいと宣言した。尚恐熱は渭州を保持し賛普に冊立されることを願い、表文を奉って唐に帰服した。宣宗は太僕卿の陸躭に詔を下し、節を持して使いとなって尚恐熱を慰労し、涇原・霊武・鳳翔・那寧・振武などの軍に命じて、尚恐熱を援け迎えさせた。かれが到着したので、尚書左丞の李景譲に詔し、その希望するところを問わせたが、尚恐熱は傲慢で大きくかまえ、かつ河渭節度使とすることを求めた。帝は許可を与えず、かれは帰途咸陽橋を通って嘆じて言った。「我は大事をなしつつある。望むところは、この河を軍とともに渡って、唐と天下の境域を分け合うことだ」と。ふたたび落門川に赴き、散兵を集めて、まさに辺境に入寇しようとした。ちょうどそのとき長雨があり、食糧が途絶したので、尚恐熱は廓州に逃げ帰った。 そこで鳳翔節度使の李玭は清水を回復し、涇原節度使の康季栄は原州を回復し、石門などの六つの関を取り、数万の人畜を得た。霊武節度使の李欽は安楽州を取ったので、詔を下して威州とした。邠寧節度使の張欽緒は、蕭関・鳳翔を回復し、秦州を収めた。山南西道節度使の鄭涯は、扶州を得た。鳳翔の兵は、吐蕃と隴州に戦い、首五百級を斬った。この年(849)、河西隴右の老齢者千余人が宮殿に現われ、天子は延喜楼に出御して冠帯を賜わった。みな争って弁髪を解き、衣服をとりかえた。よって詔を下して賜わり物を与えた。四道の兵については、功労のあるものは録して官を与えた。三州七関の土地で肥沃なところは民が開墾することを許し、五年の賦役を免除した。温池は度支に委ね、その塩を専売にし、辺境に供給させた。四道の兵で田作りができるものには、耕牛や種子を給し、なお守備につくものにはその兵を倍にして与え、二年で交代させた。商人の辺境に往来するものは、関鎮がそれを留めることのないように兵で開墾しようとするものは民と同様に許した。 昔、太宗は薛仁杲を平らげて隴上(隴西)の地を得、李軌を捕虜にして涼州を得、吐谷渾・高昌を破って安西四鎮を置いた。玄宗はついで黄河・磧石・宛秀などの軍を収めたが、中国は辺境に斥候や警備のものをほとんど四十年も置かなかった。輪台・伊吾は屯田が行なわれ、穀物・豆類の田畑はますます遠く拡がった。開遠門に掲げられた送迎の額に、「西の方、道のはてまで九千九百里」と書かれたのは、辺境防備の人が万里まで行く必要のないことを示していたのである。乾元以後は、隴右・剣南・西山・三州・七関・軍・鎮・監牧などの三百ヵ所がみな失われた。憲宗は、いつも天下の地図を見、河湟のもとの領域を見ては憤り、これを経略しようと考えたが、その機会はなかった。ここにいたって群臣は宣宗に上奏した。「王者は、功を建て、業を成して、かならず世にひかり輝くものがあります。いま一兵も刃に血をぬることをせずに、河湟はおのずから帰服しました。天子に尊号を上りたいと存じます」と。帝は言った。「憲宗はかつて河湟のことを思い、その業が成就しないうちに亡くなられた。いま祖宗の功業を払めるにあたり、順宗・憲宗の二廟に謚号を奉り、後世にその名を顕示するよう議してもらいたい」と。また詔を下して言った。「朕はしばらく人民を休息させたいと思うので、その山外(西山の外側)の諸州はのちにこれを経営したい」と。 明くる年(851)、沙州の首領の張義潮は、瓜・沙・伊・粛・甘など十一州の地図を奉じて献上した。さきに張義潮はひそかに豪傑たちと結び、唐に心を帰していた。ある日、衆は武装して州城の門に喚声を挙げ、漢人はみなこれを助けた。蛮族の守備のものは驚いて逃げたので、かれはついに仮に州の政事をとり、鎧・武器を整備し、耕作しかつ戦って、ことごとく他の州を回復した。そして部将十組ほどで、みな矛をもって表文をその中に入れ、かれらは東北に向かって走って天徳城に到着した。防禦使の李丕が上聞したので、帝はその忠誠を賞讃し、使者に詔を持たせてやり、収容し慰労した。そして張義潮を沙州防禦使に抜擢したが、まもなく帰義軍と称し、ついに節度使となった。そののち、河州・渭州の蛮族の将の尚延心は、自国が亡んだのを見て、また好しみを通じ、秦州刺史の高駢は尚延心および渾末部の一万帳を誘って降服させ、ついに二州を収穫した。尚延心を武衛将軍に任じたが、高駢は鳳林関を収めたので、尚延心を河渭等州都游奕使とした。 咸通二年(861)、張義潮は涼州を奉じて来帰した。咸通七年(866)、北廷の回鶻の僕固俊は、西州(高昌)を攻撃して取り、諸部を収め、鄯州城使の張季顒は尚恐熱と戦ってこれを破り、武器・鎧を収めて献上した。吐蕃の余衆は邠・寧を犯し、節度使の薛弘宗はこれを退けた。ちょうどそのとき、僕固俊は、吐蕃と大いに戦い、尚恐熱の首を斬って京師に送ってきた。 咸通八年(867)、張義潮は入朝して右神武統軍となり、京師に邸宅と地を賜わった。族子の深に命じて帰義軍を守らせた。咸通十三年(872)、張義潮は死んだ。沙州については、長史の曹義金に州務を扱わせ、ついにかれに帰義軍節度使を授けた。のち中原には事件が多くなり、王命は甘州に及ばなくなり、回鶻に併呑されて、帰義の諸城も多くその手中に陥った。 渾末というのは、また嗢末といい、吐蕃の奴隷部落である。蛮族の規則では、軍を出すにはかならず豪族を発し、みな奴隷を従わせる。平常のときは、あちこちに散って耕作や牧畜を行なっている。尚恐熱が乱を起こしたとき、向かうべきところがなく、ともに呼びあって数千人となり、みずから嗢末と号し、甘粛・瓜・沙・河・渭・岷・廓・畳・宕諸州の間に居た。その吐蕃の牙帳に近いものがもっとも勇猛で、馬も良いといわれている。 賛にいう、唐が興ってから、四夷で従わないものがあった。みな尖鋭な部隊なので、これを他地方に移し、その牙をそぎ、その王庭をすいて田畑とするまで徹底的に征服した。ただ吐蕃と回鶻は強勢を誇り、もっとも長く中国の悩みとなった。賛普はすべて河湟を奪取し、畿内に迫ってその東の国境をおいた。京師を犯し、その近郊を掠奪し、中国人を傷つけ、首を斬った。唐はあの勇猛な軍隊を動員し、目をよくみはって作戦を計らせたが、ついに根本的解決はできなかった。晩期になって二民族はおのずから滅亡し、唐もまた衰頽した。いったい外民族を慰撫し、同時に国内を安寧にするということは、ただ聖人だけが辞退せずにやれることであろう。玄宗はすぐれた徳の持主で、領域をはなはだ大きく拡げたが、遠方の地に功績をあげることにつとめて、身の近くにある危険を見逃していた。逆賊がひとたび奮いたつと、中原は分裂し、二百年を終えるまでもとの完璧な組織にもどることができず、衰頽するにいたった。そうであるならば、すなわち、内でまずみずからを治め、そののちに四夷が外部から脅威をなすのを解決してゆくのが、国を保持発展させる良い方策であろう。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百一十六上 列伝第一百四十一上 『新唐書』巻二百一十六下 列伝第一百四十一下 巻二百一十七上 列伝第一百四十二上
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唐書巻二百一十七上 列伝第一百四十二上 回鶻上 回紇。その先祖は匈奴である。その風習として、高輪の車に乗るものが多い。かれらは元魏の時代には高車部とも号し、あるいは敕勒ともいい、訛って鉄勒ともいった。その部落を袁紇・薛延陀・契苾羽・都播・骨利幹・多覧葛・僕骨・抜野古・同羅・渾・思結・斛薛・奚結・阿跌・白霫といい、およそ十五種があって、みな砂漠の北方に散居している。というのは、また烏護・烏彩ともいい、隋の時代になると韋紇と呼ばれた。その人々は強くて勇ましい。かれらには最初は酋長がおらず、水草を追って転々として移動し、騎射が上手で、掠奪を好んだ。 鉄勒は突厥に臣属したが、突厥はかれらの財力を利用して、北方の荒野において強大となった。大業年間(605-616)に、突厥の処羅可汗は鉄部を攻め脅やかし、かれらの財物を奪い集めた。そのうちに処羅可汗はまた、かれら鉄勒部の怨みを恐れ、鉄勒部の数百人の頭目を集めて、これをことごとく穴に埋めて殺した。そこで韋紇の首長は僕骨、同羅、抜野古を併合して離叛し、みずから俟斤となり、部族名を回紇と称した。回紇の姓は薬羅葛氏という。回紇は薛延陀部族の北、娑陵水のほとりに居住した。この地は京師から七千里距てたところであって、人口は十万人を算し、兵力はその半ばを数えた。土地は砂漠性の荒地であって、家畜は大足羊(短足の大羊の意)が多い。回紇に時健俟斤という者がいて、大衆ははじめてかれを推挙して君長となした。その子を菩薩といった。菩薩は勇敢な人物で、謀りごとにすぐれ、狩猟と騎射を好み、戦いがあると必ずみずから先頭に立ち、向かうところの敵をみな打ち砕いて破った。それゆえ、部下はみな畏れて菩薩に服従したので、これを嫉んだ父の時健俟斤に逐われてしまった。時健が死ぬと、部人は菩薩が賢いと見てとって、主君として立てた。菩薩の母を烏羅渾といい、その性格は厳格公明であって、よく部内の事件をとり戴いた。回紇はこれよりようやく盛んとなり、薛延陀とともに突厥の北辺を攻めた。突厥の頡利可汗は欲谷設を派遣し、十万の騎兵をもって、これを討たせた。菩薩はみずから五千騎を率いてこれ(欲谷設)を馬鬣山で破り、逃げるのを追うて天山にいたり、大いにその部人をとりことした。その評判は北方を震わした。これより回紇は薛延陀に付き従い、お互いに親密な間柄となった。菩薩は活頡利発という称号をとり、本営を独楽水のほとりに設けた。 貞観三年(629)に回紇はじめて唐に来朝して貢ぎ物を献上した。突厥はもうすでに滅んでいたので、回紇と薛延陀だけがもっとも強力となった。菩薩が死んだのち、回紇の酋長の胡禄俟利発吐迷度は、諸部族とともに薛延陀を攻めてこれを滅ぼし、その領地を併合し、ついに南の方、賀蘭山を越えて、黄河に臨んだ。吐迷度は使者を派遣し、唐に帰順したいという誠意を申しいれた。太宗はそのために霊州に行幸し、涇腸にいたって、その功をうけた。ここにおいて鉄勒の十一部はみな来朝して、「薛延陀は大国に仕えず、みずから滅びました。その支配下にあったノロはおどろき、鳥は散じて、どこへ行けばよいかわかりません。いま、われわれはそれぞれ分地を持っておりますが、願わくば天子に帰順し、唐の官吏をわれわれの地方に置いてくださるよう請いたてまつります」と言った。そこで太宗は詔をくだし、盛大な酒宴を開き、おもな酋長たちを引見して、これらの者に唐の官職を授けたが、その数はすべて数千人にのぼった。 明くる年(647)に、回紇および鉄勒諸部がふたたび入朝した。そこで回紇部を瀚海となし、多覧葛部を燕然となし、僕骨部を金微となし、抜野古部を幽陵となし、同羅部を亀林となし、思結部を盧山となし、それぞれを都督府ととなえさせた。また渾を皋蘭となし、斛薛を高闕州となし、阿跌を雞田州となし、契苾羽を楡渓州となし、奚結を雞鹿州となし、思結別部を蹛林州となし、白霫を窴顔州となし、その西北の結骨部を堅昆府となし、北の骨利幹を玄闕州となし、東北の倶羅勃を燭龍州、それぞれの酋長をもって都督・刺史・長史・司馬となし、もとの単于台の場所(帰化城の南)に燕然都護府を置いて、これらすべてを統治させた。六都督と七州はみな、熊然都護府に隷属し、李素立をもって燕然都護となし、その都督・刺史には玄金の魚符を下付し、黄金で文字を銘した。 天子は遠方の人を招いていつくしむに際し、絳黄色の瑞錦の文袍、宝刀、珍器を作って、かれらに賜わった。帝は奥深い宮殿のなかに坐し、十部楽を陳ね、御殿の前に高い坫(土製の高台)を設け、朱色の提瓶をその上に置いた。また潜泉に満たされた酒は左の閤(小門)より坫のあしもとに通じていて、この酒を瓶に注ぎ、これから転じて百斛を銀の盎(はち)に受けるのである。数千人の回紇は飲みおわってなお、半分も平らげることができなかった。また帝は文武の五品官以上の者に詔して、尚書省のなかで送別の酒宴をおこなわせた。大頭目たちはこぞって帝に申しあげて、「われわれは荒涼たる汚ない土地に生まれましたが、いま身は聖化に帰しました。天の至尊はわれわれに官爵を賜わりました。われわれはともに百姓となり、唐を父母のように頼っております。そこで回紇、突厥部に大きな道路を造り、天至尊への参道と号し、世々われわれは唐の臣となるよう御願いします」と言った。そこで帝は詔して南の鷿鵜泉の南に六十八ヵ所の駅亭を置き、多くの馬と乳、肉を備えて、使者を待った。また回紇らは毎年、貂の皮を納めて貢賦とした。そこで唐は吐迷度を拝して懐化大将軍・瀚海都督にしたが、しかし吐迷度はひそかにみずから可汗と号し、自国の官吏を任命したことは、まったく、突厥の場合と似ていた。すなわち吐迷度の官吏として外宰相が六人、内宰相が三人おり、また都督・将軍・司馬の称号もあった。帝はさらに詔し、時健俟斤の別部を祁連州となし、霊州都督に隷属させ、白霫の別部を居延州となした。 吐迷度の兄の子である烏紇は、吐迷度の妻と私通し、ついに俱陸莫賀達干の倶羅勃とともに反乱を謀って、車鼻可汗のもとへ走って従属した。この二人はともに車鼻可汗の婿であった。そこで烏紇は、騎兵を従え、夜中に吐迷度を襲撃して、これを殺した。燕然副都護の元礼臣は烏紇へ使者を派遣して、「烏紇が都督になりたいと奏上することを許す」とあざむいて言った。烏紇はこれを疑わず、そこでさっそく出むいていって御礼を言上した。そこで元礼臣は烏紇を斬って、見せしめにした。帝は諸部が離反することを心配し、兵部尚書の崔敦礼に命じて、節を持ってその地方に赴かせ、なだめすかした。唐は吐迷度に左衛大将軍の官号を贈り、その弔祭はひじょうにていねいで手厚かった。唐はその子の婆閏を左驍衛大将軍に抜擢し、父の所領を継承させた。倶羅勃もすでに入したが、帝はかれを捕えたまま、送り帰さなかった。阿史那賀魯が北庭に侵入するや、婆閏は五万騎を率いて、契苾何力らを助けて、阿史那賀魯を破り、北廷を占領し、また伊麗道行軍総管任雅相らに従って、ふたたび阿史那賀魯を金山において破った。婆閏右衛大将軍の地位にうつり、唐の高麗征伐に従って功績をたてた。 婆閏が死んで、その子の比栗が嗣いだ。竜朔の年間(661-663)に、唐は燕然都督府をもって回紇を統治し、さらに瀚海都護府と号し、砂漠をもって境界となし、砂漠の北にいる諸族はことごとくこれ(瀚海都護府)に隷属した。比栗(比粟毒)が死んで、その子の独解支が嗣いだ。武后(690-705)の時代に、突厥の黙啜はまさに強力となり、鉄勒のもといた地方を取ったので、回紇は契苾・思結・渾の三部とともに砂漠を渡って甘州と涼州との間に移動した。しかし、唐はつねにその回紇の強い騎兵を徴発して、赤水軍を助けさせたという。独解支が死んで、その子の伏帝匐が立った。明くる年に、伏帝匐は唐を助けて黙啜を攻め殺した。ここにおいて別部の移植頡利発は、同羅・霫などとともにみな来降したので、帝は詔してその部を大武軍の北に置いた。伏帝匐が死んで、その子の承宗が立った。涼州都督の王君㚟は無実のことを皇帝に奏上して承宗の罪をあばき、承宗を瀼州に流して死なせた。この時期に際して回紇はいくらか従わなくなった。承宗の一族の子で瀚海府司馬であった護輸は、部衆の怨みに乗じて、ともに王君㚟を殺し、安西諸国が唐に朝貢する道路を絶ちふさいだが、それから久しくたって、護輸は突厥に逃走して死んだ。 子の骨力裴羅が立った。たまたま突厥が乱れたが、天宝(742-755)の初めに、骨力裴羅は葛邏禄とともにみずから左右葉護と称し、抜悉蜜を助けて突厥の烏蘇可汗を襲って逃走せしめた。三年ののち骨力裴羅は抜悉蜜を襲って破り、頡跌伊施可汗を斬り、使者を唐に遣し、書をたてまつり、みずから骨咄禄毘伽闕可汗と称した。天子はかれを奉義王となした。骨力裴羅は南の方、突厥のもといた地方にいたが、ついで本営を烏徳韃山と昆河との間に移した。ここは南の方、西城から千七百里はなれたところであって、西城とは漢代の高闕塞で、北の磧口の三百里のはてにある。骨力裴羅は九姓の地をことごとく支配するにいたった。九姓回紇とは薬羅葛・胡咄葛咄葛・啒羅勿・貊歌息訖・阿忽嘀・葛薩・斛嗢素・薬勿葛・奚邪勿をいう。薬羅葛は回紇可汗家の姓である。僕骨・渾・抜野古・同羅・思結・契苾の六種族は回紇と同輩の蕃族であって、これらは九姓回紇のなかには数えられない。のちに回紇は抜悉蜜・葛邏禄を破ってこれを併合し、ぜんぶで十一姓となり、みなそれぞれに都督を置いて十一部落と称した。こののち戦争の場合には回紇はつねに抜悉蜜・葛邏禄の二隷属部族をもって先鋒にあてた。さて帝は詔をくだし、骨力裴羅を拝して骨咄禄毘伽闕懐仁可汗となし、殿の前に儀仗兵を整列させ、中書令が先導役となり、使者に冊を授けた。ついで、使者は門を出て輅(天子の車)に乗り、皇城の門のところへ来て降り、そこで馬に乗ったが、幡節(のぼり)が一行を導いた。およそ唐が可汗を冊する際には、だいたいこの儀式をおこなった。明くる年(745)、骨力裴羅はまた、突厥の白眉可汗を攻めて殺し、頓啜羅達干を派遣してきて、功名を奏上した。そこで唐は骨力裴羅を拝して左驍衛員外大将軍とした。骨力裴羅は領土をますます広く開拓し、東は室韋、西は金山(アルタイ)に達し、南は大砂漠を控え、このようにして古代の匈奴の領地をことごとく獲た。骨力裴羅が死んで、その子の磨延啜が立ち、葛勒可汗と号した。かれはすばしこく、あらあらしい人物で、兵を用いることが巧みであった。かれは毎年使者を派遣して入朝した。 粛宗が即位すると、回紇の使者が来て、唐を援助して安禄山を討ちたいと請うた。帝は燉煌郡王李承寀に詔して、ともに約束させ、僕固懐恩をして王を回紇へ派遣させ、そのようにして回紇の軍隊を招くことにした。可汗は喜んで、可敦の妹を王女として、李承寀の妻とし、ついで頭目を派遣してきて、和親を請うた。帝はその回紇の心を固めようと欲し、虜(回紇)の王女を封じ毘伽公主となした。ここにおいて可汗はみずから将となり、朔方節度使郭子儀と合流して、叛軍の同羅などの諸蕃を討ち、これを黄河のほとりに破り、郭子儀と呼延谷において会見した。可汗は自分が強力であることをたのみ、武器を陳ねて、郭子儀を面前へ呼びつけ、狼の飾を頭につけた纛(旗の意)を拝礼させてから会見した。帝は彭原に駐屯したが、回紇の使者の葛羅支は、帝に謁見した際に末席に列なったのを恥じた。帝は使者が不平な様子であるのを放置できず、殿に升らせ慰めて送り帰した。にわかに回紇の大将軍多攬らが入朝し、また回紇太子の葉護がみずから四千騎を率いてきて、帝の命ずるところに従ったので、帝はよって毘伽公主を冊して燉煌王妃となし、承寀を宗正卿に抜擢した。そこで可汗もまた承寀を封じて葉護となし、四つの節を給し、かれを葉護太子とともに将軍とした。帝は広平王(後の代宗)に命じて葉護に会わせ、約して兄弟とさせた。葉護は大いに喜び、首領の達干らをして、まず扶風に赴いて郭子儀に会わせた。郭子儀はねぎらいの酒宴を三日間開こうとしたが、葉護はこれを辞退して、「国家に危難が多いというので、私は逆賊の討伐をお助けするのです。どうして宴を開いておれましょうか」と言った。郭子儀は固く命じて「葉護をひきとめた。そのうちに葉護は出発したが、唐は毎日、半四十角、羊八百蹄、米四十を葉護に賜わった。 香積寺の戦いにおいて、唐軍は灃上のほとりに陣どった。賊軍は策略をめぐらし、王師の左方に伏兵を配置して、まさにわが軍を襲撃しようとしたので、僕固懐恩は回紇軍をさしまねき、伏兵に対して馳せ向かわせ、これをことごとく倒した。そこで唐軍は賊の背後に出て、鎮西北廷節度使李嗣業とともに、夾み撃ちして、これを包囲した。賊は大敗したので、唐軍は進んで長安を占領した。懐恩は回紇・南蛮・大食の部隊を率いて都をとりまき、南して滻水の東に砦を築き、さらに進んで陝州の西にいたり新店で戦った。最初、回紇は山西の曲沃にいたり、葉護は将軍の鼻施吐撥裴羅をして南山に沿うて東に出て、賊が谷の中に伏しているのを探してこれを全滅させて、山の北側に駐営した。郭子儀らは賊と戦い、全軍を挙げて敵軍の逃げるのを逐うたが、しかし乱戦となって退却した。回紇はこれを望見して、西嶺を越えて旗をなびかせ、賊軍の方へ進みより、その背後に出た。賊軍はその背後を攻められて、ついに大敗を喫した。回紇軍は数十里も追撃したが、賊軍の人馬はあいかさなり、ふみにじりあい、そのため死者の数は覚えきれなかった。回紇軍の獲得した武器は、小山のように積みあげられた。厳荘は安慶緒を小脇に抱えるようにして逃げ、東京(洛陽)を棄てて、北の方、黄河を渡った。回紇は三日間、東都(洛陽)を大いに掠奪した。姦悪な人々が回紇を府庫(宮廷の財物庫)に案内したので、府庫の財物は尽きて、空になった。広平王(後の代宗)がこれを制止しようとしたが効果がなかったので、長老たちが繒錦万匹を賄賂として回紇に贈った。そこで回紇はやめて、掠奪しなかった。葉護は京師に還った。帝はもろもろの臣下を派遣してかれを長楽駅でねぎらった。帝は前殿に坐し、葉護を召して階を升らせ、他の頭目たちを階下にすわらせ、宴を開いてねぎらった。また帝は一同の者に錦繍繒器を賜わった。葉護は頭をさげぬかずいて、「兵を沙苑に留め、臣は霊夏に帰って馬を数え、そのうえで范陽を占領し、残盗を除きはらいます」と奏上した。帝は、「朕のために義勇をつくし、大事を成就したのは、自らの力である」と言った。ついで帝は詔して、「葉護を司空に進め、忠義王の位を授け、さらに毎年、絹二万匹を給することとし、朔方軍へ来て賜わり物を受けとらせることとした。 乾元元年(758)に、回紇の使者の多彦阿波は黒衣大食の使者である閣之らとともに入朝し、参内の先頭順位を争ったが、役人はべつべつの門から並んで進ませた。また使者は唐と回紇との婚姻を請うたので、帝はこれを許し、幼女の寧国公主を降嫁させることにした。すなわち帝は、磨延啜を冊して英武威遠毘伽可汗となし、詔をくだして漢中郡王李瑀に御史大夫を兼ねさせて冊命使にあて、宗子の右司郎中巽を御史中丞に兼ねて礼会使にあて、あわせて瑀の副使とした。尚書右射裴冕は、これを国境まで見送ることになった。帝は公主の別れを送るため、咸陽に行幸し、いくどもかさねて公主を慰め励ました。公主は泣いて「国家はまさに多事です。死んでも恨ません」と言った。さて瑀は虜(回紇)のところへ到着した。可汗は胡帽と赭色のを身につけ、帳幕のなかに坐し、その儀礼や護衛のありさまはおごそかであった。可汗はを引きつれて来て、帳幕の外に立たせて、問うて「王は天可汗のどういう親戚か」と言った。瑀は「従兄弟であります」と言った。そのときに、中人の雷霊俊は瑀の上手に立っていた。そこで可汗は「王の上手に立っている者は誰か」と、また問うたので瑀は「中人であります」と答えた。可汗は「中人は召使いである。なんじは逆に主人の上手に立つのか」と言った。雷霊俊は下手に引きさがった。ここにおいて可汗は瑀を引いて帳内へはいらせたが、瑀は可汗に拝礼しなかった。可汗は「国の主君にみえるのに、礼儀として拝礼しないということはあるまい」と言った。瑀はこれに対して、「唐の天子は、可汗が功績を樹てたことを顧みて、愛女を降させて誼みを結ぶのです。このごろ中国は夷狄と通婚しますが、降嫁するのはみな、宗室の女であります。しかるに、いま寧国公主はすなわち帝の生んだ女でありまして、徳と容貌を備えており、万里の遠い地方へ来て降嫁するのです。可汗は天子の婿にあたるのであるから、まさに礼儀をもっておめにかかるべきであります。どうして腰をおろしたまま詔を受けてよいでしょうか」と言った。可汗は恥じて、そこで立ちあがって詔を受け、冊を拝受した。可汗は翌日、公主を尊んで可敦となした。瑀がもたらした賜わり物を可汗はことごとく宮廷内の頭目たちに与えた。瑀が帰国するに際して可汗は馬五百匹、貂の裘、白い毛氈などを唐に献上した。そこで回紇の可汗は王子の骨啜特勒、宰相の帝徳らをして三千の騎兵を率いて賊を討つのを助けさせた。帝はよって僕固懐恩に命じ、この軍隊を指揮させた。また回紇は大首領の蓋将軍と三人婦人を派遣し、降嫁の御礼を言上し、ならびに回紇が堅昆を破った手柄を報告した。 明くる年、骨啜特勒は九人の節度使とともに、相川の城下で戦ったが、王師は戦いに敗れて潰え、帝徳らは京師に逃げこんだので、帝は厚く賜わり物をしてその心を慰めた。そこでかれらは帰った。にわかに可汗が死んだ。回紇国人は寧国公主を殉死させようと欲した。公主は、「中国では婿が死ぬと、妻は朝晩、喪に服し、三年を期間として服をつとめて終えるのです。回紇が万里もはなれている遠国唐と婚姻関係を結ぶのは、もとより、中国を慕うからです。わたしは殉死すべきではありません」と言った。そこで公主は殉死することはやめたが、しかし、その習俗に従って顔に切傷をつけて泣いたという。その後、公主は子がなかったという理由で、唐に帰ることができた。 ところで、葉護太子は、以前に罪があって殺されていたので、前可汗の次子の移地健が即位して牟羽可汗と号した。その妻は僕固懐恩の娘であった。はじめ、前可汗は少子(移地健)のために、唐に対して婚姻を請うたので、帝は僕固懐思の娘をこれに妻せたのであったが、こうなってきて、彼女は可敦となったのである。明くる年に牟羽可汗は大臣の倶録莫賀達干らをして入朝させ、ならびに寧国公主の御機嫌伺いをした。使者たちは、延英殿において謁見した。 代宗が即位したが、史朝義がまだ滅んでいなかったので、代宗は中人の劉清潭を回紇へ派遣して、好みを結び、かつ、その兵を出動するよう、ふたたび頼んだ。その使者が回紇へ到達するころ、回紇はすでに史朝義から、「唐にはしきりに大喪があり、国には主君がなく、かつ乱れているから、回紇が侵入して府庫を掠奪するようお勧めする。その富は莫大である」と言われて、誘惑されていたので、可汗はすなわち兵を率いて南方へ出発していたのである。これは宝応元年(762)八月のことであった。さて劉清潭はこのことを知らないで、詔をもたらして、その回紇可汗の帳営に到着した。可汗は「人々は唐がすでに滅んだと言っている。どうして天子の使者などがありえようか」と言った。劉清潭はこれに対して、「先帝(粛宗)は天下を棄てたけれども、広平王(代宗)はすでに天子の位に即きました。その仁聖英式な人柄は先帝に似ております。ゆえに広平王は葉護とともに二京(長安と洛陽)を奪回し安慶緒を破ったのです。このように広平王は可汗とは平素より、親密な間柄です。また、他方では、毎年、回紇に繒絹を給しています。どうしてこのことを忘れているのですか」と言った。しかしこの時には、回紇の軍隊はすでに三城を越えており、唐の州県が荒れてて、烽障に守備兵がいないのを見て、唐を軽視する様子があった。そこで回紇は使者を派遣して、北の方の単于府兵の倉庫を占領し、またしばしば劉清潭を侮辱する言葉を吐いた。劉清潭は内密に帝に「回紇の十万の兵が塞に向かって進軍しております」と奏上した。朝廷はふるえ驚き、殿中監の薬子昂を派遣して、回紇の兵を出迎えて、ねぎらわせ、一方ではその軍を視察させた。薬子昂は太原で回紇の軍と遭遇したが、かれはその兵が四千人、非戦闘員が一万人余、馬が四万匹と見つもることができ、また回紇の可汗が可敦とともに来ていることをひそかに知った。帝は僕固懐思に命令して、回紇と会わせた。回紇はよって使者を派遣し、書を奉り、天子を助けて賊を討ちたいと請うた。回紇は関にはいって沙苑を経由して東へ進軍しようと欲した。これに対して薬子昂は説いて、逆賊が叛乱してから、州県は荒廃して空虚となり、物資を供給する見込みがない。一方では賊は東京を占拠している。もしわが軍が井陘に入って邢・洺・衛・懐の諸州を占取し、賊の財物を奪取し、そこで大いに奮起して南へ進むのがよい方策である」と言ったが、回紇は聴きいれなかった。そこで薬子昂は「それなら、懐、太行道におもむき、南の方、河陽を占領して賊の要地を抑えよう」と言ったが、回紇はまた聴きいれなかった。薬子昂は、「太原倉の穀物を食糧とし、右へ進んで陝州に駐屯し、沢・潞・河南・懐・鄭の兵と合流しよう」と言った。回紇はこの言に従った。 そこで帝は詔して、雍王(後の徳宗)を天下兵馬元帥となし、薬子昂を昇進させて御史中丞を兼ねさせ、右羽林衛将軍魏琚とともに、左右廂兵馬使となし、中書舎人の韋少華を元帥判官となし、御史中丞の李進を行軍司馬となし、東方へ赴いて回紇と会わせることにした。帝は元帥雍王に勅して諸軍の先鋒となし、節度使と陝州で会合させた。そのころ可汗は陝州の北に砦を築いていたので、雍王はそこへ赴いて、これに会見した。可汗は雍王が蹈舞の礼(足をふんで喜び舞う礼)をしないことを責めた。薬子昂は弁解して、「王は嫡皇孫であり、二帝の遺骸は殯殿に祭られていますから、蹈舞するわけにはいりません」と言った。回紇はこれをなじって「可汗は唐の天子の弟にあたり、王にとっては叔父の関係となる。蹈舞の礼をしないのを容認できようか」と言った。薬子昂は固く拒んで「元帥は唐の太子です。まさに中国の君主となろうとする人が、蹈舞の礼をして可汗に会うことができようか」と言った。回紇の君主と臣下たちは、これを屈服させることができないと推察し、薬子昂を引きつれてきて、韋少華・魏琚を前に出して、百回棒で打ったところ、韋少華と魏琚は一晩たって死んだ。雍王は軍営に還ったが、官軍は雍王が辱しめられたため、まさに合して回紇を誅討しようとした。しかし雍王は賊がまだ滅んでいないからと言って、これをひきとめた。 ここにおいて、僕固懐恩は、すなわち回紇の左殺とともに先鋒となった。史朝義は間諜を使ったが、左殺はこれを捕えて献上し、諸将とともに賊を攻撃し、横水において戦って、これを逃走させ、さらに進軍して東都を占領した。可汗は抜賀那をして天子に慶賀の言葉を言上させ、史朝義の旗や財物を献上した。雍王は霊宝に還り、可汗は河陽に駐屯し、三ヵ月間在留した。駐屯地の近傍の人は、掠奪や凌辱に遭って苦しんだ。僕固瑒は回紇兵を率いて史朝義と格闘して戦い、二千里も血を踏み歩き、その首を斬って梟し、このようにして河北はことごとく平定した。僕固懐恩は、相州の西山の崞口に道をとり、還って駐屯し、可汗は沢州・潞州より出て、僕固懐恩と会い、太原へ道を取って去った。 これより以前の事件であるが、回紇が東京に来た時に、回紇は兵を放って盗みや掠奪をおこない、人々はみな逃げて、聖善寺と白馬寺にたてこもってこれを避けた。回紇は怒って仏寺に火をつけ、一万余人をほふり殺した。現在になって回紇はますます横暴となり、官吏をののしり、いためつけ、そのあげくは夜中に兵をもって、皇城の含光門を切り崩して、鴻臚寺に侵入した。この時にあたって、陝州節度使郭英乂は東都を留守していたが、魚朝恩および朔方軍とともに、おごりたかぶり、かって気ままにふるまった。そのため回紇は横暴となり、またも汝州・鄭州の間を掠奪し、郷村には完全な家屋はなく、人々はみな紙をからだに蔽って衣服とするありさまであった。実にこのように人々は賊にしいたげられたのである。 代宗は、韋少華らの死を悼み、韋少華に左散騎常侍の官を、魏琚には揚州大都督の官をそれぞれ追贈し、その一子に六品の官を賜わった。ここにおいて帝は、牟羽可汗を冊して、頡咄登里骨啜蜜施合倶録英義建功毘伽可汗と称した。また可敦を娑墨光親麗華毘伽可敦と称した。帝は左散騎常侍の王翊を派遣し、回紇可汗の本営に赴いて冊命を行なわせ、可汗より宰相にいたるまでみな、実封二万戸を賜わった。また唐は左殺を雄朔王となし、右殺を寧朔王となし、胡禄都督を金河王となし、抜覧将軍を静漠王となし、都督をみな、国公となした。 永泰のはじめ(765)に、僕固懐恩が叛き、回紇と吐蕃を誘って侵入してきたが、にわかに僕固懐恩が死に、二つの虜(回紇と吐蕃)は指導権を争った。回紇の首領はひそかに涇陽を訪れて、郭子儀に会見し、あやまちを改めたいと請うた。郭子儀は、麾下の兵士を率いて回紇の幕営を訪れた。回紇は「願わくば令公に会いたい」と言ったので、郭子儀は旗をかかげた門を出た。回紇は「甲(よろい)をはずしていただきたい」と言ったので、郭子儀は服をとりかえた。頭目らはたがいに目をくぼらせて「これはほんとうに令公である」と言った。その時、李光進と路嗣恭は馬に軍装してかたわらにいたが、郭子儀は頭目たちに示して、「これは渭北節度使の某であり、これは朔方軍糧使の某である」と紹介した。頭目たちは馬からおりて拝礼し、郭子儀もまた馬からおりると、頭目たちとまみえた。数百人の虜(回紇)は、これをとりまいて見守った。郭子儀の麾下もまたちかづいてきた。郭子儀は、左右の者をなびかせて退かせ、他方で酒の用意を命じ、回紇とともに飲み、纒頭の綵(いろぎぬ)を三千疋贈った。郭子儀は可汗の弟の合胡禄らを召し、その手を握り、そこで責めて、「帝は回紇の功績を強く念頭に思い、なんじにはまことに厚く報いているのに、どうして背いてきたのか。いま、こうなっては、なんじと一戦交えるしかない。どうしてすぐ、なんじに降伏するものか。わたしはただひとりでなんじの陣営に突入しよう。なんじがわたしを殺しても、わが将士は必ずやなんじを討つことができるのだ」と言った。頭目たちはおそれいって、「僕固懐恩がわれわれをだまして「唐の天子は南方に逃げ、令公も罷免された」と言ったので、われわれはやってきたのである。いま、天可汗は帝位についており、令公もつつがないことがわかった。われわれは、願わくば、吐蕃を攻撃して、もって唐の厚い恩に報いたい。しかし、僕固懐恩の子は可敦の弟であるから、願わくば死を赦免していただきたい」と言った。ここにおいて、郭子儀は酒杯を持ち、合胡禄は誓盟することを請うて酒を飲んだ。郭子儀は、「唐の天子は万歳、回紇可汗もまた万歳、両国の将軍と宰相も然りである。もし、われわれが誓盟に背くことがあれば、その人の身は戦場で死し、その家族はほふり殺されるであろう」と言った。この時にあたり、回紇の宰相の磨咄、莫賀達干頓らは、その言を聞いて、みな肝を奪われた。酒杯がかれらのところに廻ってくると、すぐ「公の誓約に背くことはしません」と言った。これより以前のことであるが、虜(回紇)に二人の巫術師がいて、「こんどの出征では、回紇はかならず戦わないであろう。まさに大人に会って還るであろう」と予言したが、いま、こうなって見ると、回紇はたがいに顧みて笑って「あの巫術師はわれわれをだまさなかったのだ」と言った。 朔方先鋒兵馬使の白元光は、回紇の兵と霊において合流したが、折しも雪と雰がきびしく降り、暗くなった。そこで吐蕃は、幕営を閉じ、備えを撤したので、唐軍は思うままにこれを攻撃して、首五万級を斬り、一万人を生けどりにし、馬、駱駝、牛、羊を捕獲し、唐戸五千を捕虜とし、また、僕固名臣は降服した。ついで合胡禄都督ら二百人はみな来朝したが、唐が与えた賜わり物は数えきれぬほどであった郭子儀は僕固名臣を帝にまみえさせた。僕固名臣は、僕固懐恩の兄の子であって、武勇の将であった。 大暦三年(768)に、光親可敦が死んだので、帝は右散騎常侍蕭昕を派遣し、節を持って祠を弔わせた。明くる年、帝は僕固懐恩の幼女を崇徽公主となし、英義建功可汗の後妻とした。兵部侍郎李涵は節を持ち、可敦を冊拝し、繒綵二万疋を賜わった。この時唐の財政が窮乏し、公卿の馬や駱駝に税を課して降嫁の費用をまかなった。宰相は渭水の中溝橋まで出かけていって餞した。 京師に留まっていた回紇は、徒党を組んで、市内で女子を掠め、馬に乗って皇城の含光門を侵犯したので、皇城の諸門はみな閉じられた。帝は劉清潭に詔し、これらの回紇をなだめてやめさせたが、回紇はふたたび、市場の物品を掠奪し、長安令の邵説の馬を奪う行動に出たが、役人は敢えてなにも詰問しなかった。乾元(758)の後より、回紇はますます功名をたのみ、馬一匹を唐に納入するごとにその代価として四十疋の絹を受けとり、その結果毎年、数万匹の馬で絹を買うことを求め、使者はあいついで来て、鴻臚寺に宿泊して滞在した。回紇の劣悪で弱い馬は使用に堪えなかったが、帝は手厚い賜わり物をして、このことを恥じいらせようとした。しかし、回紇はこのことを理解せず、またも一万匹の馬をもたらしてきたが、帝はかさねて民を煩わすに忍びず、賞として六千疋を与えた。大暦十年(775)に在京の回紇は人を殺して横暴を働いた。京兆尹の黎幹はこの回紇を逮捕したが、帝は詔して「見逃して、これを難詰するな」と言った。回紇はまた、東市で人を刺したので、役人はこれを縛って万年獄に送ったが、回紇の首領は囚人を奪い返し、獄をいたみつけて去った。このように都の人は、回紇のために苦しみ悩まされたのであった。 大暦十三年(778)に、回紇は振武軍を襲い、東陘を攻め、太原に入寇し、河東節度使の鮑防と陽曲において戦ったが、鮑防は敗戦し、その部下の一万人が殺された。代州都督の張光晟はまた、羊虎谷において戦い、これを破ったので、そこで虜(回紇)は去った。 徳宗が即位すると、中人をして先帝の喪を回紇可汗に告げさせ、一方で好みを修めようとした。そのとき、九姓胡は可汗に、唐への侵入を勧めた。可汗は、軍隊を総動員して塞に進軍しようと欲したので、唐の使節と会見しても礼儀をつくさなかった。宰相の頓莫賀達干は、「唐は大国であり、わが国に背くことはなかった。以前にわれわれは太原に侵入して数万の羊馬を奪った。本国へ引きあげるころになって、損傷と疲弊がはなはだしかったのであります。いまわれわれが国をあげて遠征して、もし勝たなければ、どんな結果になりましょうか」と言った。しかし可汗はこれを聴きいれなかったので、頓莫賀達干は怒って、そこで可汗を撃って殺し、同時にその徒党および九姓胡を二千人ばかり、ほふり殺した。そこで頓莫賀達干は、みずから即位して、合骨咄禄毘伽可汗となり、頭目の建達干に命じて、唐の使者に随行して入朝させた。建中元年(780)に、帝は京兆少尹の源休に詔して、節を持って、頓真賀を押して武義成功可汗となした。 これより以前から、回紇が中国に来たときには、かれらは、つねに九姓胡を一行のなかにまじえ、これまで京師に留まる者は千人に達し、商売を営み、財貨を積んで、莫大な資産をふやしていた。たまたま酋長の突董翳蜜施、大小の梅録らが自国に帰るに際して袋をしつらえて、莫大な輜重をもって出発し、振武軍に三ヵ月間、滞留した。その食事は、皇帝の御馳走になぞらい、費用ははかり知れなかった。振武軍使の張光晟がひそかにその様子を窺うと、かれらはみな、袋に女子をいれていたので、張光晟は駅吏をして長い錐でこれを刺させ、しかるのちにこの事実を曝露した。そのうちに九姓胡は、頓莫賀が新たに即位して、多くの九姓胡人を殺したことを聞き、これを恐れて、あえて帰国しようとせず、しばしば逃亡した。突董はこれをひじょうに厳しく監視した。多くの胡人は張光晟に計略をたてまつり、回紇をことごとく斬ることを請うた。張光晟はこれを許し、そこで上奏して、「回紇は、がんらい強いのではありません。これを助ける者は九姓胡のみです。いまその国は乱れたがいに戦争しあおうとしています。しかして(回紇)は、利があれば往き、財があれば集合します。財と利とが無ければ、かれらはひとたび乱れると振いません。この時をもってこれに乗じなければ、かれらの手中に落ちた人と財幣をとり返すことができるでしょうか。これは兵の力を借りて糧を盗むことに役立たせることを意味します」と言った。そこで張光晟は、裨校(副将)をして、わざと無礼なことをさせた。突董は、はたして怒ってこれに鞭打った。張光晟はそこで兵を整え、回紇と多くの胡人をことごとく殺し、数千頭の駱駝と馬、十万疋の絹と錦を没収し、一方で告げて「回紇は大将に鞭打ち、かつ振武軍を取ることを謀った。謹んで、まずこれを誅したのである」と言い、女子を長安に送り還した。帝は張光晟を召還し、彭令芳をもってこれに代え、中人を派遣し、回紇の使者の聿達干とともに回紇へ行かせて、事のしだいを告げた。そこで帝は虜(回紇)と絶交しようと欲し、源休に勅して、太原において命令を待たせた。明くる年、源休は出発し、突董らの四つの枢を送り届けた。突董は可汗の諸父(おじ)であった。源休が来ると、可汗は大臣に命令して車馬を用意して出迎えさせた。その大相である頡干迦斯は、腰をかけたままで、源休らが突董を殺したことを責めた。源休は「かれ自身が張光晟と格闘して死んだのであって、天子の命令で殺したのではありません」と言った。可汗はまた「使者はみな死罪を負うているのに唐朝がみずからの手でこれを殺さず、どうしてわれわれに手を借りるのか」と言って、ひじょうに長い間、責めたのち、やめて立ち去った。源休らはほとんど死にそうになった。源休は五十日間も留められたが、ついに可汗に謁見できなかった。可汗は源休に伝言して、「わが国人はみな、なんじの死を欲しているが、わたしだけはそうでない。突董らはすでに死んだが、いままた、なんじを殺すことは、血で血を洗うようなもので、いたずらに自分を汚すだけのこととなる。水をもって血を洗うのもまた、よいことではないか。わたしに代って、唐の役人にこう言え。「負債たる馬の値段として、百八十万疋の絹を、速やかにわれわれに償うべし」と」と言った。可汗は散支将軍康赤心らを派遣し、源休に随行して来させた。帝は隠忍自重して、黄金と繒を賜わった。 その三年後(787)に、回紇は使者を派遣して方物を献上し、和親を請うた。帝(さきの雍王)は、以前の怒りを心に残していて、心中平らかではなく、宰相の李泌に、「和親のことは、子孫の時代を待って計れ。朕はできないのだ」と言った。李泌は、「陛下は、どうして陜州の事件のことを遺憾に思っておられるのですか」と言った。帝は、「然り。朕は天下の多難に際し、いまだ報いることができない。しばらく和睦を議するなかれ」と言った。李泌は言うに、「韋少華らを辱しめたのは、牟羽可汗であります。牟羽可汗は、陛下が即位すると、陛下が必ず怨みを晴らすであろうことを知り、そこでまず、辺境を苦しめようと謀ったのでありましたが、しかし、かれは兵を出さぬうちに現在の可汗に殺されたのであります。いま可汗ははじめて即位して、使者を派遣し、「髪を垂れて切らず、天子の命を待ちます」と告げました。しかして張光晟は、突董らを殺しました。可汗は使者を捕えましたが、しかし使者はついに無事で、帰国すると無罪となりました」と。帝は「卿の言葉はもっともである。朕は、顧るに、韋少華らに背くことはできぬ。どうしたらよいか」と言った。李泌は言うに、「臣は、陛下が韋少華には背いていませんが、韋少章が陛下に背いた、と申し上げます。一方では、北虜の君長は自分自身で戦争に赴いたのですが、陛下は藩邸に住んでいる身分で、年がなおまだ壮年でないのに、軽々しく黄河を渡って、その回紇営にはいられました。これはいわゆる虎のいる危険な場所にふみいることを意味します。韋少華らが計略をたてるには、まさにまず会見の礼を定むべきでありました。臣はそれでもなお、このことを危ぶんでおりましたのに、陛下はどうして独りぼっちで赴かれたのですか。臣はむかし先帝(代宗)の行軍司馬でありました。葉護が援兵として来た際に、先帝は府において宴会を開かせただけであって、征討のことを議するにあたっては、会見しなかったのであります。葉護は臣を迎えて、その営に来させようとしましたが、先帝は許さず、「主は客をいたわるべきであるのに、客がかえって主をいたわることはありますまい」とていねいに返答させました。唐軍が東の方京師を奪還して、そこで回紇と約束して、「土地と人衆はわが唐のものであり、玉帛子女は回紇に与える」と言いました。戦いに勝った葉護は、大いに掠奪しようと欲しました。代宗は馬をおりてこれ(葉護)に拝礼したので、回紇は東の方、洛陽にむかいました。臣は代宗皇帝が元帥の身をもって葉護を馬前で拝したことをなお恨みと思い、これを左右ののあやまちと考えました。しかし先帝は、雍王は仁孝であって、朕の事を弁理するに十分である」と言い、詔をくだして、慰め励ましました。葉護はすなわち牟羽可汗の諸父であります。牟羽可汗が来たとき、陛下は天子の嫡子であるという理由でもって、帳のほとりで拝礼しませんでした。しかも牟羽可汗はあえて陛下に少しの過失があるとは考えなかったのです。すなわち陛下はいまだかつて屈服したのではなかったのです。先帝は葉護に拝礼して京城を保全しましたが、陛下は拝礼しておりません。可汗はがんらい、舅(回紇)のあいだにおいて威光を示しております。どうして恨むことがありましょうか。しかし、香積と陝州のことを計りますに、おのれを屈するのをもって是としますか、それとも、威を伸ばすのをもって是としますか。もし韋少華らをして陛下を可汗に会見させたとしますと、五日間、塁壁を閉ざして陛下と宴飲したでありましょう。天下の人々が、どうして心配しないことがありましょうか。しかして天の神は、豺狼(回紇)をして馴服させました。牟羽可汗の母は、陛下に貂の皮ごろもを捧呈しましたが、左右の者を叱り促して騎兵に命じ、身みずから送って営を出させました。これは韋少華らが陛下に背いたことになります。たとい牟羽可汗に罪ありとしましても、すなわち、いまの可汗はすでにこれを殺しました。即位した者はすなわち牟羽可汗の従父兄であります。これは功があるといえます。どうしてこれを忘れることができましょうか。また一方では、回紇可汗は石に銘し、国の門のところに石碑を立てて、「唐の使者が来れば、まさにわが前後の功を知らしむべし云々」と言っております。いま回紇は和平を請うていますが、かれらは部をあげて南方に期待の念をかけていると思います。陛下がこれに答えなければ、その怨みは必ず深いと存じます。願わくば婚姻を許可して、開元時代の先例を用いるように約束してください。突厥の可汗のごときは、臣を称しましたが、その使者の来た数は二百人にすぎず、交易した馬は千匹にすぎませんでした。唐の人をして塞より出させねば、不可ということはないと存じます。」帝は「よし」と言い、そこで公主を降嫁させることを許した。回紇もまた約のごとくすることを請うたので、咸安公主に詔して降嫁させ、また、使者の合闕達干に詔して麟徳殿で公主に謁見させた。帝はまた、中謁者をして公主の画図をもたらせしめ、可汗に賜わった。 明年(788)、可汗は宰相の𨁂跌都督ら千余人の部衆を派遣し、ならびにその妹の骨咄禄毘伽公主を派遣し、大頭目の妻五十人を率いて、公主を迎えさせ、かつ結納を贈った。𨁂跌は振武軍にいたったが、室韋族に襲われて戦死した。帝は詔してその部下の七百人にみな、入朝を許し、鴻臚寺に宿泊させた。帝は延喜門に出御して使者に謁見した。この時の可汗の奉った国書はひじょうに丁重であって、「唐と回紇との間柄はむかしは兄弟であったが、いまは婿すなわち半子である。もし、陛下が西戎に悩まされているなら、子のわたしは兵をもってこれを除くことを申し出たい」と述べてあった。また、可汗は回紇という字を変えて回鶻としたいと請うたが、この字義は鶻(はやぶさ)のようなすばやい猛禽という意である。帝は回鶻の公主のために宴を催そうとしたので、帝は李泌に礼法を問うた。李泌は答えて、「粛宗は燉煌王李承寀にとって従祖兄でありました。回鶻は女をこれに妻せました。この女は彭原において帝にまみえましたが、ひとりで廷下で拝礼しました。帝は彼女を婦と呼び、嫂(あによめ)とは呼びませんでした。国家の艱難な時期に際して、粛宗は回鶻の力を借りねばならず、あたかも臣としてこれに仕えるような態度をとりました。ましてやこんにちにおいては、われわれは当然、そのように振舞うべきであります」と言った。ここにおいて李泌は回鶻の公主を案内して銀台門にはいった。長公主三人が内部でこれに侍った。訳史(つうやく)が公主を導き、拝礼を受ければ必ずこれに答礼し、ともに進んだ。帝は奥深い宮殿に出御し、長公主がまず入侍し、回鶻の公主はなかにはいって帝に拝謁した。すでに内司が案内して長公主のところへ行かせた。また訳史は伝問し、ともにはいって宴席へいたった。女官は階をおりて、回鶻の公主が賢妃を拝礼するのを待って答礼した。公主はまた拝礼して、召された。すでに西の階より昇り、そこで腰をおろし、賜わり物があれば、階を降りて拝礼した。帝の賜わり物でなければ、席を避けて、妃を拝した。公主はみな答拝して、おわってから帰った。そして、ふたたび宴が催された。帝はまた咸安公主の官属をことごとく設け、これを王府に準ずるものとし、嗣滕王李湛然を昏礼使となし、右僕射の関播が一行を護送し、一方では冊書を持って行かせ、可汗を拝して汨咄禄長寿天親毘伽可汗となし、公主を智恵端正長寿孝順可敦とした。 貞元五年(789)に汨咄禄長寿天親毘伽可汗が死んで、子の多邏斯が即位したが、回鶻国人はこれを泮官特勒と呼んだ。唐朝は鴻臚卿の郭鋒に命令して節を持って派遣し、多邏斯を愛登里邏汨没蜜施倶録毘伽忠貞可汗として冊拝した。 これより先、安西と北廷は、天宝(742-756)の末年に関隴が失陥してより、唐への朝貢の通路が隔てられ、伊西北廷節度使の李元忠、四鎮節度留後の郭昕はしばしば唐朝へ使者を派遣して表を奉ったが、みな唐朝へ到達することができなかった。しかし、貞元二年(786)に、李元忠の派遣した使者は道を回鶻の領域に借りたので、そこで長安に到達することができた。帝は李元忠を昇進させて北廷大都護となし、郭昕を安西大都護となした。こののち、道路は通じたけれども、回鶻は徴発を要求して限りがなかった。沙陀別部の六千帳は、北廷とたがいに依存し、また、虜(回鶻)の苛酷な搾取を嫌った。平素から回鶻に臣属していた三葛邏禄、白眼突厥はもっとも怨み苦しみ、みなひそかに吐蕃に附従した。ゆえに吐蕃は沙陀に頼って、ともに北廷に侵入し、頡于迦斯はこれと戦ったが勝てず、北廷は陥落した。ここにおいて北廷都護の楊襲古は、兵を引いて西州に逃走した。回鶻は壮卒数万をもって楊襲古を召還し、まさに北廷を取りかえそうとしたが、吐蕃に攻撃されて大敗し、その士卒の大半は死んだ。頡于迦斯はあわてて逃げ帰った。楊襲古は残余の衆を率いて、まさに西州に入城しようとした。頡于迦斯はあざむいて、「ただ、わたしといっしょに帰ってくださったら、あなたを唐へ御帰してします」と言った。楊襲古がかれの帳舎に赴いて来ると、頡于迦斯はこれを殺した。また、浮図川を占領したので、回鶻は大いに恐れ、その部落を南へ移動させて、これを避けた。 この年(790)、忠貞可汗は少可敦の葉公主によって毒殺された。少可敦もまた、僕固懐恩の孫であって、僕固懐恩の子は回鶻の葉護であったから、彼女は葉公主と号したといわれる。前の可汗の弟がそこでみずから即位した。この時に頡于迦斯はまさに吐蕃を攻めていたが、その大臣は、国人を率いて、ともに簒奪者を殺し、前の可汗の幼子の阿啜を後嗣となした。頡于迦斯が出征から帰還すると、可汗たちは出迎えて頡于伽斯をいたわり、みな眼を伏せて可汗廃立の実状を述べ、「ただ大相(頡于伽斯)がわれわれの生死を御きめください」と言い、郭鋒が賜わったところの器幣をことごとくさし出して、頡于迦斯に贈った。可汗は拝礼し、泣いて「いま幸いに、絶えた位を継ぐことができました。食を父から仰ぎたいと存じます」と言った。頡于迦斯は、かれが謙譲であるのを見て、そこで抱きあって泣き、ついにこれ(可汗)に臣として仕えることになり、器幣をことごとく将士に与え、まったく私物としなかった。このようにしてその国はついに安らかとなった。回鶻可汗は達北特勒、梅録将軍を派遣し、唐へ来て可汗の即位を報告し、一方では命令に従った。唐は鴻臚少卿の庾鋋に詔して、阿啜をして奉誠可汗となした。にわかに回鶻は律支達干をして来させ、少寧国公主の喪を報告した。この公主は栄王の娘である。これよりさき、寧国公主が降嫁したとき、唐朝はこれに侍女を付き添わせた。寧国公主はのちに唐に帰ったので、その侍女は回鶻のなかに留まって可敦となり、少寧国公主と号し、英武・英義の両可汗にあい継いで配偶者となった。天親可汗の時代になって、少寧国公主ははじめて宮廷の外に住み、彼女が英義可汗の配偶者として生んだ二子は、ともに天親可汗に殺された。この年(790)、回鶻は吐蕃・葛邏禄を北廷に攻撃して、これに勝ち、一方で俘虜を唐に献上した。明くる(791)に、回鶻は薬羅葛炅を来朝させた。薬羅葛炅は、がんらい唐の人で呂氏といい、可汗の養子となり、ついに可汗の姓、薬羅葛を名のったのである。帝は、かれが事に役立つと考えて、賜わり物をとくに厚くしてもてなし、検校尚書右僕射に拝した。 貞元十一年(795)に奉誠可汗は死んだが、子がいなかったので、国人は、その相の骨咄禄を立てて可汗となし、使者を唐へ派遣した。唐朝は秘書監の張薦に詔して、節を持って行かせ、骨咄禄を愛縢里邏羽録没蜜施合胡禄毘伽懐信可汗に冊拝した。骨咄禄はがんらい𨁂跌氏の出身であって、かれは幼時に親に死別し、大首領の手もとで養育された。かれは弁舌に巧みで、さとく、武勇な人材であった。天親可汗の時代に、しばしば軍隊を指揮したので、もろもろの頭目たちはかれを尊敬したのであった。このようにして、可汗となった骨咄禄は薬羅葛氏が代々の功績があったことにかんがみて、あえて自分自身の姓を名のらず、薬羅葛氏を名のり、そして天親可汗以前の子孫をことごとく召し取って、これらを唐の朝廷に奉納した。 永貞元年(805)に、懐信可汗は死んだので、唐朝は鴻臚少卿の孫杲に詔して回鶻の宮廷に臨んで、後嗣を冊拝させ、滕里野合倶録毘伽可汗となした。 元和のはじめ(806)に、回鶻はふたたび入朝して貢ぎ物を献じた。回鶻は最初摩尼を派遣した。その戒律として、摩尼は晩になると食事し、水を飲み、臭味のある菜をゆで、湩酪をしりぞける。摩尼は可汗がつねにこれと協力して国を維持した人々である。摩尼は京師に来て、毎年往来しており、西市の商人はかれらとともに、ひそかに姦悪・不正をおこなっている。元和三年(808)に、回鶻の使者が来て、咸安公主の喪を報告した。咸安公主は、四代の可汗にあいついで配偶者となり、およそ二十一年の間、回鶻のなかにいたのである。まもなくして可汗もまもなく死んだ。憲宗は宗正少卿の李孝誠をして後嗣の愛登里羅汩没蜜施合毘伽保義可汗を冊拝させた。三年を経て、回鶻の使者がふたたび入朝し、伊難珠を派遣して、ふたたび唐朝との婚姻を請うた。唐朝がまだ返事をしないうちに、可汗は三千騎を率いて鷿鵜泉に到着した。 ここにおいて振武軍は兵を黒山に駐屯させ、天徳城を根拠地として虜に備えた。礼部尚書の李絳が奏してつぎのように言った。「回鶻は盛んで強力です。わが北辺の守りは空っぽであり、ひとたび風塵がおきますと、弱卒は敵に対抗できるますらおではなく、孤城は守りえない地であります。もし、陛下がこのことを念頭におかれて、武装兵を増し城塁を警備されれば、中国にとって良い方策であり、生きている人々にとって大きな幸福であります。臣はこんにちの処置を観察しますのに、その処置はまだ要を得ておりません。辺境の不安な点が五つありますので、これを一つずつ述べさせていただきたく存じます。北狄は貪慾でありまして、利のみを見ます。しかし北狄が馬をもたらして来て、その代価を手にいれれば、一歳に二度とはやってまいりません。こういうわけですからどうして繒帛を用いるという利点をいとうことがありましょうか。そうしないと、風高く馬肥える時になって、北狄はほしいままに侵入しようとするにちがいありません。ゆえに外敵を撃退し、国内に備えることは、必ず朝廷を煩わすことになります。第一に憂うべきことは、兵力がまだ完全でなく、斥候がまだ明らかではなく、兵器がまだ備わらず、城がまだ堅固でないことであります。唐が天徳城の守備を固めれば、虜は必ず疑い、西城を空にすれば、砂漠の道路は頼るものがありません。第二に憂うべきことは、城は要害を保ち、攻守の険易はまさに辺将に謀るべきであるのに、唐朝はいまはすなわち河塞の外のことを計るにあたって、朝廷のなかで裁いております。虜がにわかに塞に侵入しましても、唐朝はその応接に便宜を失しています。第三に憂うべきことは、唐朝と回鶻とが好みを修めてより以来、虜は唐朝の山川の形勝、兵備の厚薄をことごとくくわしく知っております。賊が侵略しますと、諸州からの兵員微発は、十日間を必要とします。辺塞の外は人畜がつながっていて、かれらは一日にして侵入できます。王師が到着したころには、虜はすでに引きあげています。侵寇が能く久しければ、民が役に留まることもまた転じて広いのです。第四に憂うべきことは、北狄と西戎とは平素より攻めあっており、ゆえに辺境に不安はないのですが、回鶻が唐に馬を売れなくなって、そこで吐蕃と手を結んで和解することになりますと、唐将と臣はとりでにとじこもり、戦うことをはばかり、したがって辺境の人々は手をこまねいたまま、禍いをうけることになるということです。第五に憂うべきことは、また淮西の呉少陽は死にかけておりますが、その変に乗じて諸道で反乱がおきると、ほとんど十倍になるかもしれません。臣はよろしく回鶻との婚姻をゆるし、族の礼を守らせるべきであると申し上げます。これにはいわゆる三つの利点があります。和親すれば、のろし台はもはや侵入に驚くことはなくなります。またわれわれは城堞を治めることができ、兵を盛んにし、これによって力を蓄え、粟を積み、もって軍を堅固にできることが第一の利点であります。このようにして北方を警戒するという憂いがなくなりますから、われわれは南方の右地方の処理にあたり、ほとんど滅びようとしている寇敵に命令を伸ばすことができます。これが第二の利点であります。北虜(回鶻)は唐と親戚であることを頼みにしますから、西戎の怨みはいよいよ深くなり、内では自分の国家を安んずることができません。そこで唐は坐して安心でき、侵略は永久にやむのであります。これが第三の利点であります。いま、三つの利点を捨てて五つの憂いを取ることは、甚だまずい方法であります。公主を降嫁させる費用は多いと言う者もあるでしょう。しかし臣はそのようには思いません。わたしは、天下の賦を三分し、一をもって辺境にあてます。いま東南の大県の賦は毎年二十万緡であります。一県の賦をもって婚資にあてることは、損少なく利益は大ではありませんか。いまわれわれが婚資を惜しんで与えず、かりにもし王師が北征すれば、その兵は三万、騎兵は五千ではすみますまい。しかもこの兵力をもってしても敵を防ぎ、また逃走させることもできません。また、かりにわれわれが十全の勝利を保つことができても、一年にしてその兵糧はなくなります。いわんや、食糧と給与は一県の賦の額にとどまるでしょうか。」 しかし、帝はこの言を聴きいれなかった。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百一十六下 列伝第一百四十一下 『新唐書』巻二百一十七上 列伝第一百四十二上 巻巻二百一十七下 列伝第一百四十二下
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唐書巻一百六 列伝第三十一 杜正倫 求仁 咸 崔知温 知悌 高智周 石仲覧 郭正一 趙弘智 来章 崔敦礼 楊弘礼 弘武 元禧 纂 盧承慶 斉卿 劉祥道 斉賢 従一 李敬玄 元素 劉徳威 審礼 延景 昇 延嗣 孫処約 佺 邢文偉 高子貢 杜正倫、相州洹水人。隋世重挙秀才、天下不十人、而正倫一門三秀才、皆高第、為世歆美。調武騎尉。太宗素知名、表直秦王府文学館。貞観元年、魏徴薦其才、擢兵部員外郎。帝勞曰:「朕挙賢者、非朕獨私、以能益百姓也。我於宗婭故人、苟無能、終不得任。卿宜思有以稱吾挙者。」俄遷給事中、知起居注。帝嘗曰:「朕坐朝、不敢多言、必待有利于民、乃出諸口。」正倫曰:「臣職左史、陛下一言失、非止損百姓、且筆之書、千載累徳。」帝悅、賜綵段二百。進累中書侍郎。與韋挺・虞世南・姚思廉論事稱旨、帝為設宴具、召四人者、謂曰:「我聞神龍可擾以馴、然頷有逆鱗、嬰者死、人君亦有之。卿屬遂犯吾鱗、裨闕失、朕其慮危亡哉!思卿至意、故挙酒以相楽也。」各賜帛有差。 太子監国、詔正倫行左庶子、兼崇賢館学士。帝謂正倫:「吾兒幼、未有就徳、我常物物戒之。今當監国、不得朝夕見、故輟卿於朝以佐太子。慎之勗之。」它日又言:「朕年十八、猶在人間、情偽無不嘗。及即位、処置有失、必待諫、乃釋然悟、況太子生深宮不及知邪?且人主不可自驕、今若詔天下、敢諫者死、将無復發言矣。故朕孜孜延進直言。卿其以是曉太子、冀裨益之。」擢中書侍郎、封南陽県侯、仍兼太子左庶子。出入兩宮、典機密、以辦治稱。後太子稍失道、帝語正倫:「太子数私小人、卿可審喩之、教而不徙、其語我来。」故正倫顕諫無所避。太子不従、輒道帝語督切、太子即表聞。帝責曰:「何漏洩我語?」對曰:「開示不入、故以陛下語怖之、冀當反善。」帝怒、出為穀州刺史、再貶交州都督。太子廢、坐受金帶、流驩州。久之、授郢・石二州刺史。 顕慶元年、擢黄門侍郎、兼崇賢館学士、進同中書門下三品。又兼度支尚書、仍知政事。遷中書令、封襄陽県公。初、正倫已通貴、李義府官尚微、及同執政、不能下。中書侍郎李友益、義府族也、晩附正倫、同摭義府釁缺。義府使人告正倫・友益交通罔上、有異計。高宗惡之、出正倫為橫州刺史、流友益峯州。正倫卒于貶。 正倫與城南諸杜昭穆素遠、求同譜、不許、銜之。諸杜所居號杜固、世伝其地有壯氣、故世衣冠。正倫既執政、建言鑿杜固通水以利人。既鑿、川流如血、閲十日止、自是南杜稍不振。正倫工屬文、嘗與中書舎人董思恭夜直、論文章。思恭歸、謂人曰:「與杜公評文、今日覺吾文頓進。」無子、以兄子志靜為嗣。 従子求仁・従孫咸皆顕名。 求仁有雅才。永淳中、授監察御史、坐事為黝令。與徐敬業挙兵、為興復府左長史、死于難。 咸擢進士第。累遷右臺監察御史。牂柯反、咸監軍出討。賊保壘自固、道荒漫、師不能進。咸乃息士、示不欲戦、陰伺之。時旱暑風熾、咸縱火、譟而前、賊眩怖相失、自騰踐死、擒其酋、遂平之。遷侍御史、出為汾州長史。開元中、為河北按察使。坐用法深、貶睦州司馬。 崔知温字礼仁、許州鄢陵人。仕為左千牛、稍遷靈州司馬。境有渾・斛薩万帳、数擾斉民、農皆釋耒習騎射以扞賊。知温表徙河北、虜不楽遷、将軍契苾何力為言、乃止。知温固請、疏十五報、卒徙河北、自是人得就耕。渾・斛薩至徙地、顧善水草、亦忘遷。後入朝、過州、謝曰:「初徙且怨公、今地膏腴、衆孳夥、更荷公恩。」皆再拜。 四遷蘭州刺史。党項羌三万入寇、州兵寡、衆懼、莫知所出。知温披闔不設備、羌怪之、不敢進。俄會将軍權善才率兵至、大破其衆。善才欲遂窮追取之、知温曰:「古善戦弗逆奔、且谿谷複深、草木荒延、万分一有變、不可悔。」善才曰:「善。」分降口五百贈知温、辭曰:「我議公事、圖私利邪?」 累遷尚書左丞、轉黄門侍郎、脩国史。永隆初、以秩卑、特詔同門下三品、兼脩国史。遷中書令。卒、年五十七、贈幽州大都督、謚曰忠。子泰之、開元時、為工部尚書。諤之、為将作少匠、與誅二張功、封博陵県侯、實封戸二百、終少府監。 兄知悌、亦至中書侍郎。與戴至徳・郝処俊・李敬玄等同賜飛白書賛、而知悌・敬玄以忠勤見表。遷尚書左丞。裴行倹之破突厥、斬泥孰匐、殘落保狼山、詔知悌馳往定襄慰将士、佐行倹平遺寇、有功。終戸部尚書。 高智周、常州晋陵人。第進士、補越王府参軍。遷費令、與丞・尉均取俸、民安其化、刻石頌美。入擢秘書郎・弘文館直学士。嘗覆弈・誦碑、無謬者。三遷蘭臺大夫。孝敬在東宮、與司文郎中賀敳・司経大夫王真儒並為侍讀、得告還卿里、嘆曰:「進不知退、取禍之道也。」即移病去。 俄拜寿州刺史、其治尚文雅、行部、先見諸生、質経義及政得失、既乃録獄訟、考耕餉勤墮、以為常。遷正諫大夫・黄門侍郎。儀鳳初、進同中書門下三品。遷太子左庶子。是時崔知温・劉景先脩国史、故智周與郝処俊監。久之、罷為御史大夫、與薛元超・裴炎同治章懐太子獄、無所同異、固表去位。高宗美其、授右散騎常侍。請致仕、聽之。卒、年八十二、贈越州都督、謚曰定。 智周始與郝処俊・来済・孫処約共依江都石仲覧。仲覧傾産結四人驩、因請各語所期。処俊曰:「丈夫惟無仕、仕至宰相乃可。」智周・済如之。処約曰:「得為舎人、在殿中周旋吐納可也。」仲覧使相工視之、工語仲覧曰:「高之貴、君不及見之。来早顕而末躓、高晩顕而寿。吾聞速登者易顛、徐進者少患、天道也。」後済居吏部、処約以瀛州参軍入調、済曰:「如志。」擬通事舎人。畢、降階勞問平生。既仲覧卒、而済等益顕。 智周所善義興蒋子慎、有客嘗視兩人、曰:「高公位極人臣、而嗣少弱。蒋侯宦不達、後且興。」子慎終達安尉。其子繒往見智周、智周方貴、以女妻之。生子挺、歴湖・延二州刺史。生子洌・渙、皆擢進士。洌為尚書左丞。渙、永泰初歴鴻臚卿、日本使嘗遺金帛、不納、唯取牋一番、為書以貽其副云。挺之卒、洌兄弟廬墓側、植松柏千餘。渙終礼部尚書、封汝南公。洌子錬、渙子銖、又有清白名。而高氏後無聞。 郭正一、定州鼓城人。貞観時、由進士署第、歴中書舎人・弘文館学士。永隆中、遷秘書少監、検校中書侍郎、詔與郭待挙・岑長倩・魏玄同並同中書門下承受進止平章事。平章事自正一等始。永淳中、真遷中書侍郎。執政久、明習故事、文辭詔敕多出其手。 劉審礼與吐蕃戦青海、大敗。高宗召群臣問所以制戎、正一曰:「吐蕃曠年梗寇、師数出、坐費糧貲。近討則喪威、深入則不能得其巣穴。今上策莫如少募兵、且明烽候、勿事侵擾、須数年之遅、力有餘、人思戦、一挙可破矣。」劉斉賢・皇甫文亮等議、亦與正一合、帝納之。 武后專国、罷為国子祭酒、出検校陝州刺史。與張楚金・元万頃皆為周興所誣構、殺之、籍入其家、妻息流放。文章無存者。 趙弘智、河南新安人、元魏車騎大将軍肅之孫。蚤喪母、事父篤孝。通書伝、仕隋為司隸従事。武徳初、大理卿郎楚之白為詹事府主簿。太宗時、豫論譔、録勤、繇太子舎人進黄門侍郎、兼弘文館学士。移病出為莱州刺史、稍遷太子右庶子。父事兄弘安、俸禄歸之、不敢私。弘安卒、哀慟過期、奉嫂謹甚、撫兄子慈均所生。會太子廢、免官。俄拜光州刺史。永徽初、入為陳王師。講孝経百福殿、於是宰相・弘文館学士・太学生皆在、弘智挙五孝、諸儒更詰辨、隨問酬悉、舌無留語。高宗喜曰:「試為我陳経之要、以輔不逮。」對曰:「『天子有爭臣七人、雖無道、不失天下。』願以此獻。」帝悅、賜絹二百・名馬一。四年、進国子祭酒、仍為学士。卒、年八十二、謚曰宣。弘安亦終国子祭酒。 曾孫矜、挙明経、調舞陽主簿、呉少誠反、以県歸、徙襄城主簿、賜牙緋。歴襄陽丞。客死柳州、官為斂葬。後十七年、子来章始壯、自襄陽往求其喪、不得、野哭。再閲旬、卜人秦為筮曰:「金食其墨、而火以貴、其墓直丑、在道之右、南有貴神、土是守。宜遇西人、深目而髯、乃其得實。」明日、有老人過其所、問之、得矜墓、直社北、遂歸葬弘安墓次。時人哀来章孝、皆為出涕云。 崔敦礼字安上。祖仲方、在隋為礼部尚書。其先、博陵著姓、魏末、徙為雍州咸陽人。敦礼渉書伝、以節義自将。武徳中、官通事舎人。善辭令進止、観者皆竦。嘗持節幽州召廬江王瑗、瑗已挙兵、執之、脅問朝廷事、敦礼不為言、太宗壯之。還、除左衛郎将、賜金幣良馬。擢中書舎人、四遷兵部侍郎。出為靈州都督。召還、拜兵部尚書。詔撫輯回紇・鐵勒部姓、會薛延陀寇邊、與李勣合兵破之、置祁連州処其餘衆。瀚海都督回紇吐迷度為下所殺、詔往綏定、立其嗣而還。敦礼通知四夷情偽、其少、慕蘇武為人、故屢使突厥、前後建明、允會事機。 永徽四年、拜侍中、監脩国史。累封固安県公。進中書令兼検校太子詹事。以久疾、自言不任事奉兩宮。更拜太子少師・同中書門下三品。弟餘慶、時為定襄都督府司馬、召使侍疾。卒、年六十一。高宗為挙哀東雲龍門、賻布・秘器尤厚、贈開府儀同三司・并州大都督、謚曰昭、陪葬昭陵。餘慶位亦至兵部尚書。 楊弘礼字履莊、隋尚書令素弟之子。雅與玄感不咸、表其必亂。玄感誅、父岳繋長安獄、煬帝使赦之、比至、岳已死。高祖即位、以素有功于隋、詔弘礼襲清河郡公、除太子通事舎人。貞観中、累遷中書舎人。 太宗征遼東、拜兵部侍郎。駐蹕之役、領歩騎二十四軍跳出賊背、所向摧靡。帝自山下望其衆、袍仗精整、人人盡力、壯之、謂許敬宗曰:「越公兒郎、故有家風。」時宰相悉留定州輔皇太子、唯褚遂良・敬宗・弘礼掌行在機務。還、拜中書侍郎。遷司農卿。為崑丘道副大総管、破処密、殺焉耆王、降馺支部、獲亀茲・于闐王、凱旋。會帝崩、大臣疾之、下遷涇州刺史。永徽初、追論其功、遷勝州都督、改太府卿。卒、贈蘭州都督、謚曰質。 弟弘武。 弘武少脩謹。永徽中、累為吏部郎中・太子中舎人。高宗東封泰山、自荊州司馬擢司戎少常伯、従帝。還、詔補授吏部五品官、遷西臺侍郎。帝嘗讓曰:「爾在戎司、授官多非其才、何邪?」弘武曰:「臣妻剛悍、此其所屬、不敢違。」以諷帝用后言也。帝笑不罪。乾封二年、同東西臺三品。弘武無它才、特謙慎自守、然居職以清簡稱。卒、贈汴州刺史、謚曰恭。 三子:元亨・元禧・元禕。 元禧為尚舎奉御、善醫、武后所信愛。嘗忤張易之、易之奏「素在隋有逆節、子孫不可供奉」。后乃詔「素及兄弟有子若孫、不得任京官及侍衛」。貶元亨睦州刺史、元禧資州刺史、元禕梓州司馬。易之誅、復任京官、並至刺史。 纂字續卿、弘礼族父。大業時、第進士、為朔方郡司法書佐。坐玄感近屬、廢居蒲城。高祖度河、上謁長春宮。遷累侍御史。数上書言事、稱旨、除考功郎中。貞観初、為長安令、賜爵長安県男。有告女子袁妖逆者、纂按之、情不得。袁敗、太宗惡其不忠、将殺之、中書令温彦博以過誤當宥、乃免。後為吏部侍郎、有俗才、抑文雅、進黠吏、度時舞数以自進。終戸部尚書、贈幽州都督、謚曰恭。 纂従子昉、武后時為肅機。宇文化及子訴治先蔭、昉方食、未即判、遽曰:「肅機、而未食、庸知天下有冤而求食乎?」昉怒、取牒署曰:「父弑隋主、子訴隋資、可乎?」人服其敏。終工部尚書。 盧承慶字子餘、幽州涿人、隋散騎侍郎思道之孫。父赤松、為河東令、與高祖雅故、聞兵興、迎見霍邑、拜行臺兵部郎中、終率更令・范陽郡公。 承慶美儀矩、博学而才。少襲爵。貞観初、為秦州参軍、入奏軍事、太宗偉其辯、擢考功員外郎。累遷民部侍郎。帝問歴代戸版、承慶夏・商至周・隋增損曲折、引據該詳、帝嗟賞。俄兼検校兵部侍郎、知五品選。辭曰:「選事在尚書、臣掌之為出位。」帝不許、曰:「朕信卿、卿何不自信?」歴雍州別駕・尚書左丞。 高宗永徽時、坐事貶簡州司馬。閲歳、改洪州長史。帝将幸汝湯泉、故拜汝州刺史。顕慶四年、以度支尚書同中書門下三品、坐調非法、免。俄拜潤州刺史。拜刑部尚書。以金紫光禄大夫致仕、卒。臨終、誡其子曰:「死生至理、猶朝有暮。吾死、斂以常服、晦朔無薦牲、葬勿卜日、器用陶漆、棺而不、墳高可識、碑志著官號年月、無用虚文。」贈幽州都督、謚曰定。 初、承慶典選、校百官考、有坐漕舟溺者、承慶以「失所載、考中下」。以示其人、無慍也。更曰「非力所及、考中中」。亦不喜。承慶嘉之曰:「寵辱不驚、考中上。」其能著人善類此。 弟承業・承泰。承業繼為雍州長史・尚書左丞、有能名。 承泰子斉卿、長安初、為雍州参軍。武后詔長史薛季昶擇僚吏堪御史者、季昶訪於斉卿。斉卿白長安尉盧懐慎・李休光、万年尉李乂・崔湜、咸陽丞倪若水、盩厔尉田崇璧、新豊尉崔日用。季昶用其言、後皆為通顕巨人。及拜幽州刺史、而張守珪隸果毅、斉卿厚遇、曰:「君十年至節度使。」已而果然。喜飲酒、踰斗不亂。寬厚楽易、士友以此親之。終太子詹事・廣陽県公。 承慶従孫藏用別有伝。 劉祥道字同寿、魏州観城人。父林甫、武徳時為内史舎人、典機密、以才稱。與蕭瑀等撰定律令、著律議万餘言。歴中書・吏部二侍郎、賜爵楽平県男。唐沿隋制、十一月選集、至春停、日薄事叢、有司不及研諦。林甫建請四時聽選、隨到輒擬、於是官無滯人。始、天下初定、州府及詔使以赤牒授官、至是罷、悉集吏部調、至万員、林甫隨才銓録、咸以為宜、論者方隋高孝基。 祥道少襲爵、歴御史中丞。顕慶中、遷吏部黄門侍郎、知選事。既世職、乃釐補敝闕、上疏陳六事: 一曰:今取士多且濫。入流歳千四百、多也。雜色入流、未始銓汰、濫也。故共務者、善人少、惡人多。臣謂應雜色進者、切責有司試判為四等、第一付吏部、二付兵部、三付主爵、四付司勳。若坐負當責、雖経赦、仍配三司、不者還本貫、則官不雜矣。 二曰:内外官、一品至九品万三千四百六十五員。大抵三十而仕、六十而退、取其中数、不三十年、存者略盡。若歳入流五百人、則三十年自相充補。況三十年外、在官猶多、不慮其少。今入流歳千四百、其倍兩之、又停選六七千人、復年別新加、其類寖廣、殆非経久之制。古者為官擇人、不聞取人多而官少也。 三曰:永徽以来、在官者或以善政擢、論事者或以單言進、而庠序諸生未聞甄異、是勸之道未周也。 四曰:唐有天下四十年、未有挙秀才者、請自六品以下至草野、審加搜訪、無令赫赫之辰、斯学遂絶。 五曰:唐・虞三載考績、黜陟幽明。二漢用人、亦久其職。今任官率四考罷、官知秩滿、則懐去就。民知遷徙、則苟且。以去就之官、臨苟且之民、欲移風振俗、烏可得乎?請四考進階、八考聽選、以息迎新送故之弊。 六曰:三省都事・主事・主書、比選補、皆取流外有刀筆者、雖欲参用士流、率以儔類為恥。前後相沿、遂成故事。且掖省崇峻、王言秘密、尚書政本、人物所歸、專責曹史、理有未盡、宜稍革之、以清其選。 會中書令杜正倫亦言入流者衆、為官人敝、乃詔與祥道参議、而執政憚改作、又以勳戚子進取無他門、遂格。 稍遷司刑太常伯。毎覆大獄、必歔欷累歎。奏決日、為再不食。詔巡察關内道、多振冤滯。兼沛王府長史。麟徳元年、拜右相。祥道性審謹、居宰相、憂畏不自堪、数陳老病丐解。坐與上官儀善、罷為司礼太常伯。高宗封泰山、有司請太常卿亞獻、光禄卿終獻。祥道建言:「三代六卿重、故得佐祠。漢・魏以来、權歸臺省、九卿為常伯屬官。今封岱大礼不以八坐、用九卿、無乃徇古名忘實事乎?」帝可其議、以司徒徐王元礼亞獻、祥道終獻。礼成、進爵廣平郡公。乾封元年、以金紫光禄大夫致仕。卒、年七十一、贈幽州都督、謚曰宣。 子斉賢、襲爵、繇侍御史出為晋州司馬。帝以其方直、尊憚之。時将軍史興宗従獵苑中、言晋州出佳鷂、可捕取。帝曰:「斉賢豈捕鷂人邪?卿安得以此待之?」累遷黄門侍郎、脩国史。永淳元年、進同中書門下平章事。武后時、代裴炎為侍中、辨炎不反、后怒、左遷普州刺史、道貶吉州長史。永昌中、為酷吏所陷、繋州獄、自経死、沒其家。建中三年、贈太子太保。 斉賢三世至兩省侍郎、典選。従父應道吏部郎中、従父弟令植礼部侍郎、凡八人前後歴吏部郎中・員外、世以為罕。 令植孫従一、擢進士宏詞第、調渭南尉。雅為常・盧所厚、薦授監察御史。普王討李希烈、表為元帥判官。徳宗居奉天、超拜刑部侍郎・同中書門下平章事。従幸梁州、改中書侍郎、帝遇之善。然無它材能、容身遠罪而已。貞元初、以疾自乞、罷為戸部尚書。卒、贈太子太傅。 李敬玄、亳州譙人。該覧群籍、尤善於礼。高宗在東宮、馬周薦其材、召入崇賢館侍讀、假中秘書讀之。為人峻整、然造請不憚寒暑。許敬宗頗薦延之。歴西臺舎人・弘文館学士。遷右肅機、検校太子右中護。拜西臺侍郎・同東西臺三品、兼検校司列少常伯。時員外郎張仁褘有敏才、敬玄委以曹事、仁褘為造姓歴・状式・銓簿、鉗鍵周密、病心太勞死。敬玄因其法、衡綜有序。自永徽後、選員寖多、惟敬玄居職有能稱。性彊記、雖官万員、遇諸道、未嘗忘姓氏。有来訴者、口諭書判参舛及殿累本末無少繆、天下伏其明。杭州参軍徐太玄哀其僚張惠以贓抵死、而惠母老、乃詣獄自言與惠偕受、薄其罪、惠得不死、太玄坐免官十年。敬玄廉知之、擢為鄭州司功参軍、後至秘書少監・申王師、以徳行聞。其鑒拔率若此。 咸亨二年、轉中書侍郎。又改吏部、兼太子右庶子・同中書門下三品。監脩国史。進吏部尚書。居選部久、人多附嚮。凡三娶皆山東舊族、又與趙李氏合譜、故臺省要職多族屬姻家。高宗知之、不能善也。儀鳳元年、拜中書令、封趙国公。 劉仁軌西討吐蕃、有所建請、敬玄数持異、由是有隙、因奏河西鎮守非敬玄不可。敬玄辭以非将帥才、且仁軌逞憾、故彊臣以不能。帝厭之、因曰:「仁軌若須朕、朕且行、卿安得辭?」乃拜洮河道大総管、兼鎮撫大使、検校鄯州都督、統兵十八万、代仁軌。與吐蕃将論欽陵戦青海、使劉審礼為先鋒、鏖虜、敬玄按軍自如、審礼戦歿、尚首鼠不進、乃頓承風嶺、又阻溝淖、莫能前、賊屯高壓其營。偏将黒歯常之率死士夜撃賊、敬玄始得至鄯州。又戦湟川、遂大敗。数稱疾求罷歸、許之。既入見、不引謝、即還府視事。帝察實不病、貶衡州刺史。久之、遷揚州長史。卒官、贈兗州都督、謚曰文憲。撰次礼論及它書数十百篇。二子:思沖・守一。 思沖、神龍初、歴工部侍郎・左羽林軍将軍、従節愍太子誅武三思、見殺、籍其家。守一郫令。孫紳別伝。 敬玄弟元素、為武徳令。刺史李文暕橫調民黄金造常滿尊以獻、官屬無敢諫、元素固爭、文暕為少損、更以私財助之。延載初、繇文昌左丞遷鳳閣侍郎・同鳳閣鸞臺平章事。為武懿宗所構、與綦連耀等同誅。神龍中、追洗其辜。 劉徳威、徐州彭城人。姿魁秀、有幹略。隋大業末、従裴仁基討淮賊、手劍賊酋、伝行在。後歸李密、密分麾下兵使守懐州。密降、倶入朝、授左武候将軍、封滕県公。詔将兵撃劉武周、因判并州総管府司馬。裴寂失律、斉王元吉棄州遁、徳威総留府事。賊薄城、民皆叛附賊、遂為武周所獲、使率本部徇地浩州、得自拔歸、盡上賊中虚實、高祖嘉納、改彭城県公。未幾、検校大理少卿、従平洛陽、有功、轉刑部侍郎、加散騎常侍、妻以平寿県主。 貞観初、歴大理卿・綿州刺史。政號廉平、百姓立石頌徳。尋検校益州大都督府長史。入為大理卿。太宗問曰:「比刑網寖密、咎安在?」徳威曰:「在君不在臣。下之寬猛、視主之好。律:失入者減三、失出者減五。今坐入者無辜、坐出者有罪、所以吏務深文、為自營計、非有教使然也。」帝然其言。後遷刑部尚書、検校雍州別駕。詔至斉州按斉王祐獄、還、半道聞祐反、入據済州。詔徳威就發河南兵経略之、會母喪免。既除、為同州刺史。永徽三年、卒官、年七十一、贈礼部尚書・幽州都督、謚曰襄、陪葬獻陵。 徳威於閨門友睦、為人寬平、生平所得奉禄、以分宗親、無留藏。子審礼。 審礼少喪母、為祖母元所養。隋末大亂、道不通、審礼尚少、自郷里負祖母度江、轉側避地。及天下平、西入長安。元毎疾病、必親薬、嘗而進。元曰:「兒孝通幽顕、吾一顧念、疾輒閒。」貞観中、歴左驍衛郎将。父喪免。比葬、徒跣血流、行路咨嘆。服除、當襲爵、讓其弟、不聽。見父執必感泗滂沱。事繼母尤謹、與弟延景為聞友、得禄多資之、而妻子執寒苦、晏如也。再従皆同居、合二百口、内外無間言。遷工部尚書、検校左衛大将軍。 儀鳳三年、吐蕃寇涼州、副中書令李敬玄討之。遇虜青海上、與戦、敬玄逗撓不前、審礼敗、為虜執。其子尚乘直長殆庶及延景詣闕待罪、請入賊以贖。有詔審礼徇忠以沒、非有罪、宜各還職。特詔殆庶弟易従省之。既至、而審礼卒、易従晝夜哭不止、吐蕃哀其志、乃還父尸、徒跣万里、扶護以歸、見者流涕。審礼贈工部尚書、謚曰僖。 延景字冬日、終陝州刺史。睿宗初、以后父追贈尚書右僕射、陪葬乾陵。 易従累遷彭州長史・任城県男。永昌中、為酷吏周興誣構、坐死。将刑、百姓奔走、爭解衣投地、曰:「為長史祈福。」有司平直、乃十餘万。當時號「孝義劉家」。及易従以非禍死、天下冤之。 子昇、年十餘歳流嶺表、六道使誅流人、昇以信愛為首領所庇免。後易姓温、北歸洛。景雲中、特授右武衛騎曹参軍。開元中、累遷中書舎人・太子右庶子。昇能文、善草隸。 審礼従弟延嗣、為潤州司馬。徐敬業攻潤州、延嗣與刺史固守。俄而城陷、敬業邀以降、延嗣曰:「吾世蒙恩、今城不守、所負多矣、詎能苟生為宗族羞?」敬業怒、将斬之、其黨魏思温救止、繋江都獄。敬業敗、録忠當、以裴炎近親、裁遷梓州長史。轉汾州刺史。宗族至刺史者二十餘人。 孫処約、始名道茂、汝州郟城人。貞観中、為斉王祐記室。祐多過失、数上書切諫。王誅、帝得其書、咨嘆之、擢中書舎人。高宗即位、令杜正倫請增舎人員。帝曰:「処約一人、足辦我事。」止不除。以論譔勞、数賜段物。再遷司礼少常伯。麟徳元年、以西臺侍郎同東西臺三品。為少司成、以老致仕、卒。 子佺、延和初、為羽林将軍・幽州都督、率兵十二万討奚李大酺、分三屯、以副将李楷洛・周以悌領之。次冷硎、楷洛與大酺戦、不勝、壯校多沒。佺氣褫、乃紿言:「天子詔我招慰奚、楷洛違詔妄戦、當斬。」遣人謝大酺。大酺曰:「審爾、願出天子賜、明不欺。」佺揪聚軍中幣万餘匹、悉袍・帶并與之。大酺知佺詐、好語勸引還、而佺部伍離沮、奚逼之、大敗、死者数万。佺・以悌同見獲、送默啜所殺之。 邢文偉、滁州全椒人。與歴陽高子貢・寿春裴懐貴倶以博学聞。咸亨中、歴太子典膳丞。時孝敬罕見宮臣、文偉即減膳、上書曰:「古者太子既冠、則有司過之史・虧膳之宰。史不書過、死之。宰不徹膳、死之。皇帝簡料英俊、自庶子至司議・舎人・学士・侍讀、使佐殿下、成就聖徳。比者不甚廷議、謁對稀簡、三朝之後、與内人獨居、何繇發揮天資、使濬哲文明哉?今史既闕官、宰得奉職、謹守礼経以聞。」太子答曰:「幼嗜墳典、欲研精極意、而未閑将衛、耽誦致勞。比苦風虚、奉陛下恩旨、不許彊勉、加以趨侍朝夕、無自專之道、屢闕坐朝、乖廢学緒。観尋来請、良符宿志。自非義均弼諧、渠能進此薬石?」文偉由是益知名。後右史缺、高宗謂侍臣曰:「文偉切諫吾兒、此直臣也。」遂授之。 武后時、累遷鳳閣侍郎、兼弘文館学士。載初元年、為内史。后御明堂、詔文偉發孝経。后問:「天與帝異稱云何?」文偉曰:「天・帝一也。」制曰:「郊后稷以配天、祀文王于明堂以配上帝、奈何而一?」對曰:「先儒執論不同、昊天及五方総六天帝。」后曰:「帝有六、則天不同稱、固矣。」文偉不得對。后曰:「移風易俗、莫善於楽。伯牙鼓琴、鍾期聽之、知意在山水、是人能移風易俗矣。何取楽邪?」文偉曰:「聖人作楽、平人心、變風俗。末世楽壞、則為人所移。」后喜、賜帛。宗秦客以姦贓抵罪、文偉坐所善、貶珍州刺史。會它使者至、文偉内悸、自経死。 高子貢、善太史書、與朱敬則善、擢明経。歴秘書省正字・弘文館直学士。不得志、因棄官去。徐敬業起兵、弟敬猷統兵五千逼和州、子貢率郷人数百拒之、賊引去。以功擢朝散大夫、為成均助教。東莞公融嘗為和州刺史、従子貢受業。及融謀挙兵、令黄公譔見子貢、推為謀主、書疏往返、因結諸王内應。謀泄、坐死。
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唐書巻九十八 列伝第二十三 王珪 燾 薛收 元超 元敬 稷 伯陽 馬周 載 韋挺 待價 武 万石 王珪字叔玠。祖僧辯、梁太尉・尚書令。父顗、北斉楽陵郡太守。世居郿。性沈澹、志量隠正、恬於所遇、交不苟合。隋開皇十三年、召入祕書内省、讎定書、為太常治礼郎。季父頗、通儒有鑒裁、尤所器許。頗坐漢王諒反、誅、珪亡命南山十餘年。 高祖入関、李綱薦署世子府諮議參軍事。建成為皇太子、授中舎人、遷中允、礼遇良厚。太子與秦王有隙、帝責珪不能輔導、流巂州。太子已誅、太宗召為諫議大夫。帝嘗曰:「正主御邪臣、不可以致治。正臣事邪主、亦不可以致治。唯君臣同徳、則海内安。朕雖不明、幸諸公数相諫正、庶致天下於平。」珪進曰:「古者、天子有爭臣七人、諫不用、則相繼以死。今陛下開聖徳、收采芻言、臣願竭狂瞽、佐万分一。」帝可、乃詔諫官隨中書・門下及三品官入閤。珪推誠納善、毎存規益、帝益任之。封永寧県男・黄門侍郎、遷侍中。 它日進見、有美人侍帝側、本廬江王瑗姫也。帝指之曰:「廬江不道、賊其夫而納其室、何有不亡乎?」珪避席曰:「陛下以廬江為是邪?非邪?」帝曰:「殺人而取妻、乃問朕是非、何也?」對曰:「臣聞斉桓公之郭、問父老曰:『郭何故亡?』曰:『以其善善而惡惡也。』公曰:『若子之言、乃賢君也、何至於亡?』父老曰:『不然、郭君善善不能用、惡惡不能去、所以亡。』今陛下知廬江之亡、其姫尚在、竊謂陛下以為是。審知其非、所謂知惡而不去也。」帝嗟美其言。 帝使太常少卿祖孝孫以楽律授宮中音家、伎不進、数被讓。珪與温彦博同進曰:「孝孫、脩謹士、陛下使教女楽、又責譙之、天下其以士為輕乎!」帝怒曰:「卿皆我腹心、乃附下罔上、為人游説邪?」彦博懼、謝罪、珪不謝、曰:「臣本事前宮、罪當死、陛下矜其性命、引置樞密、責以忠。今疑臣以私、是陛下負臣、臣不負陛下。」帝默然、遂罷。明日、語房玄齡曰:「昔武王不用夷・斉、宣王殺杜伯、自古帝王納諫固難矣。朕夙夜庶幾于前聖、昨責珪等、痛自悔、公等勿懲是不進諫也!」 時珪與玄齡・李靖・温彦博・戴冑・魏徴同輔政。帝以珪善人物、且知言、因謂曰:「卿標鑒通晤、為朕言玄齡等材、且自謂孰與諸子賢?」對曰:「孜孜奉国、知無不為、臣不如玄齡。兼資文武、出将入相、臣不如靖。敷奏詳明、出納惟允、臣不如彦博。濟繁治劇、衆務必挙、臣不如冑。以諫諍為心、恥君不及堯・舜、臣不如徴。至潔濁揚清、疾惡好善、臣於数子有一日之長。」帝稱善。而玄齡等亦以為盡己所長、謂之確論。 進封郡公。坐漏禁近語、左除同州刺史。帝念名臣、俄召拜礼部尚書兼魏王泰師。王見之、為先拜、珪亦以師自居。王問珪何以為忠孝、珪曰:「陛下、王之君、事思盡忠。陛下、王之父、事思盡孝。忠孝可以立身、可以成名。」王曰:「忠孝既聞命矣、願聞所習。」珪曰:「漢東平王蒼稱『為善最楽』、願王志之。」帝聞、喜曰:「兒可以無過矣!」 子敬直、尚南平公主。是時、諸主下嫁、以帝女貴、未嘗行見舅姑礼。珪曰:「主上循法度、吾當受公主謁見、豈為身榮、将以成国家之美。」於是、與夫人坐堂上、主執笲盥饋乃退。其後公主降、有舅姑者備礼、本於珪。 十三年、病、帝遣公主就第省視、復遣民部尚書唐儉增損薬膳。卒、年六十九。帝素服哭別次。詔魏王率百官臨哭、贈吏部尚書、謚曰懿。 珪少孤且貧、人或饋遺、初無讓。及貴、厚報之、雖已亡、必酬贍其家。性不苛察、臨官務挙綱維、去甚不可者、至僕妾亦不見喜慍。奉寡嫂、家事咨而後行。教撫孤姪、雖其子不過也。宗族匱乏、周卹之、薄於自奉。獨不作家廟、四時祭于寢、為有司所劾、帝為立廟媿之、不罪也。世以珪儉不中礼、少之。 始、隠居時、與房玄齡・杜如晦善、母李嘗曰:「而必貴、然未知所與游者何如人、而試與偕來。」會玄齡等過其家、李闚大驚、敕具酒食、歡盡日、喜曰:「二客公輔才、汝貴不疑。」 敬直封南城県男、後坐交皇太子承乾、徙嶺外。 珪孫燾・旭。 燾、性至孝、為徐州司馬。母有疾、彌年不廢帶、視絮湯劑。数從高醫游、遂窮其術、因以所学作書、號外臺祕要、討繹精明、世寶焉。歴給事中・鄴郡太守、治聞於時。旭、見酷吏伝。 薛收字伯褒、蒲州汾陰人。隋内史侍郎道衡子也、出繼從父孺。年十二、能屬文。以父不得死於隋、不肯仕、郡挙秀才、不應。聞高祖興、遁入首陽山、将應義挙。通守堯君素覺之、迎置其母城中、收不得去。及君素東連王世充、遂挺身歸国。房玄齡亟言之秦王、王召見、問方略、所對合旨、授府主簿、判陝東大行臺金部郎中。是時方討世充、軍事繁綜、收為書檄露布、或馬上占辭、該敏如素構、初不竄定。 竇建徳來援、諸将爭言斂軍以観賊形勢、收獨曰:「不然。世充據東都、府庫盈衍、其兵皆江淮選卒、正苦乏食爾、是以求戦不得、為我所持。今建徳身總衆以來、必飛轂轉糧、更相資哺。兩賊連固、則伊・洛間勝負未可歳月定也。不若勒諸将嚴兵締壘、浚其溝防、戒毋出兵。大王親督精鋭據成皋、厲兵按甲、邀建徳路。彼以疾老、當吾堂堂之鋒、一戦必挙。不旬日、二賊可縛致麾下矣。」王曰:「善。」遂禽建徳、降世充。 王入観隋宮室、且嘆煬帝無道、殫人力以事夸侈。收進曰:「峻宇彫牆、殷辛以亡。土階茅茨、唐堯以昌。始皇興阿房而秦禍速、文帝罷露臺而漢祚永。後主曾不是察、奢虐是矜、死一夫之手、為後世笑、何此之能保哉?」王重其言。俄授天策府記室參軍。從平劉黑闥、封汾陰県男。嘗上書諫王止畋獵、王答曰:「覽所陳、知成我者卿也。明珠兼乘、未若一言、今賜黄金四十挺。」 武徳七年、寢疾、王遣使臨問、相望於道。命輿疾至府、親挙袂撫之、論敍生平、感激涕泗。卒、年三十三。王哭之慟、與其從兄子元敬書曰:「吾與伯褒共軍旅間、何嘗不驅馳經略、款曲襟抱、豈期一朝成千古也。且家素貧而子幼、善撫安之、以慰吾懐。」因遣使弔祭、贈帛三百段。其後圖学士像、歎其早死不得與。既即位、語房玄齡曰:「收若在、朕當以中書令處之。」又嘗夢收如平生、賜其家粟・帛。貞観七年、贈定州刺史。永徽中、又贈太常卿、陪葬昭陵。 子元超、九歳襲爵。及長、好学、善屬文。尚巣王女和靜県主、累授太子舎人。高宗即位、遷給事中、数上書陳當世得失、帝嘉納。轉中書舎人・弘文館学士。省中有盤石、道衡為侍郎時、常據以草制、元超毎見輒泫然流涕。以母喪解、奪服授黄門侍郎・検校太子左庶子。所薦豪俊士、若任希古・高智周・郭正一・王義方・孟利貞・鄭祖玄・鄧玄挺・崔融等、皆以才自名於時。 累拜東臺侍郎。李義府流巂州、旧制、流人不得乘馬、元超為請、坐貶簡州刺史。歳餘、又坐與上官儀文章款密、流巂州。上元初、赦還、拜正諫大夫。三年、遷中書侍郎・同中書門下三品。 帝校獵温泉、諸蕃酋長得持弓矢從。元超奏:「夷狄野心、而使挾兵在圍中、非所宜。」帝納可。嘗宴諸王、召元超與、從容謂曰:「任卿中書、寧藉多人哉!」俄拜中書令兼左庶子。帝幸東都、留輔太子監国、手敕曰:「朕留卿、若失一臂。顧太子未習庶務、関中事、卿悉專之。」時太子射獵、詔得入禁、故太子稍怠政事。元超諫曰:「内苑之地、繚叢薄、冒翳薈、絶磴險塗。殿下截輕禽、逐狡兔、銜橛之變、詎無可虞?又戸奴多反逆餘族、或夷狄遺醜、使兇謀竊發、将何以禦哉?夫為人子者、不登高、不臨深、謂其近危辱也。天皇所賜書戒丁寧、惟殿下罷馳射之勞、留情墳典、豈不美歟!」帝知之、遣使厚賜慰其意、召太子還東都。 帝疾劇、政出武后。因陽喑、乞骸骨。加金紫光禄大夫。卒、年六十二、贈光禄大夫・秦州都督、陪葬乾陵。 子曜、聖暦中、附會張易之、官正諫大夫。 元敬、隋選部郎邁之子、與收及收族兄徳音斉名、世稱「河東三鳳」。收為長離、徳音為鸑鷟、元敬年最少、為鵷鶵。武徳中、為祕書郎・天策府參軍、直記室・文学館学士。是時、收與房・杜處心腹之寄、更相結附。元敬謹畏、未嘗申款曲。如晦嘆曰:「小記室不可得而親、不可得而疏!」秦王為皇太子、除舎人。於是軍国之務總於東宮、而元敬掌文翰、號稱職。卒于官。 稷字嗣通、道衡曾孫。擢進士第。累遷礼部郎中・中書舎人、與從祖兄曜更踐兩省、倶以辭章自名。景龍末、為諫議大夫・昭文館学士。初、貞観・永徽間、虞世南・褚遂良以書顓家、後莫能繼。稷外祖魏徴家多藏虞・褚書、故鋭精臨倣、結體遒麗、遂以書名天下。畫又絶品。 睿宗在藩、喜之、以其子伯陽尚仙源公主。及踐阼、遷太常少卿、封晋国公、實封三百戸。會鍾紹京為中書令、稷諷使讓、因入言於帝曰:「紹京本胥史、無素才望、今特以勳進、師長百僚、恐非朝廷具瞻之美。」帝然之、遂許紹京讓、改戸部尚書。翌日、遷稷黄門侍郎、參知機務。與崔日用数爭事帝前、罷為左散騎常侍。歴太子少保・礼部尚書。帝以翊賛功、毎召入宮中與決事、恩絶臣。竇懐貞誅、稷以知本謀、賜死万年獄、年六十五。 伯陽為駙馬都尉・安邑郡公、別食實封四百戸。稷死、坐貶晋州員外別駕、又流嶺表、自殺。 伯陽子談、尚玄宗恆山公主、拜駙馬都尉・光禄員外卿。 馬周字賓王、博州茌平人。少孤、家窶狹。嗜学、善詩・春秋。資曠邁、郷人以無細謹、薄之。武徳中、補州助教、不治事。刺史達奚恕数咎讓、周乃去、客密州。趙仁本高其才、厚以裝、使入関。留客汴、為浚儀令崔賢所辱、遂感激而西、舎新豐、逆旅主人不之顧、周命酒一斗八升、悠然獨酌、衆異之。至長安、舎中郎将常何家。 貞観五年、詔百官言得失。何、武人、不渉学、周為條二十餘事、皆當世所切。太宗怪問何、何曰:「此非臣所能、家客馬周教臣言之。客、忠孝人也。」帝即召之、間未至、遣使者四輩敦趣。及謁見、與語、帝大悅、詔直門下省。明年、拜監察御史、奉使稱職。帝以何得人、賜帛三百段。周上疏曰: 臣毎讀前史、見賢者忠孝事、未嘗不廢巻長想、思履其迹。臣不幸早失父母、犬馬之養、已無所施。顧來事可為者、惟忠義而已。是以徒歩二千里、歸于陛下。陛下不以臣愚、擢臣不次。竊自惟念無以論報、輒竭區區、惟陛下所擇。 臣伏見大安宮在宮城右、牆宇門闕方紫極為卑小。東宮、皇太子居之、而在内。大安、至尊居之、反在外。太上皇雖志清儉、愛惜人力、陛下不敢違、而蕃夷朝見、四方観聽、有不足焉。臣願営雉堞門観、務從高顯、以稱万方之望、則大孝昭矣。 臣伏讀明詔、以二月幸九成宮。竊惟太上皇春秋高、陛下宜朝夕視膳。今所幸宮去京三百里而遠、非能旦發暮至也。万有一太上皇思感、欲即見陛下、何以逮之?今茲本為避暑行也、太上皇留熱處、而陛下走涼處、温凊之道、臣所未安。然詔書既下、業不中止、願示還期、以開衆惑。 臣伏見詔宗室功臣悉就藩国、遂貽子孫、世守其政。竊惟陛下之意、誠愛之重之、欲其裔緒承守、與国無疆也。臣謂必如詔書者、陛下宜思所以安存之、富貴之、何必使世官也?且堯・舜之父、有朱・均之子。若令有不肖子襲封嗣職、兆庶被殃、国家蒙患。正欲絶之、則子文之治猶在也。正欲存之、則欒黶之惡已暴也。必曰與其毒害於見存之人、寧割恩於已亡之臣、則向所謂愛之重之者、適所以傷之也。臣謂宜賦以茅土、疇以戸邑、必有材行、隨器而授。雖幹翮非彊、亦可以免累。漢光武不任功臣以吏事、所以終全其世者、良得其術也。願陛下深思其事、使得奉大恩、而子孫終其福禄也。 臣聞聖人之化天下、莫不以孝為本、故曰「孝莫大於嚴父、嚴父莫大於配天」、「国之大事、在祀與戎」、孔子亦言「吾不與祭如不祭」、是聖人之重祭祀也。自陛下踐祚、宗廟之享、未嘗親事。竊惟聖情、以乘輿一出、所費無蓺、故忍孝思、以便百姓。而一代史官、不書皇帝入廟、将何以貽厥孫謀・示來葉邪?臣知大孝誠不在俎豆之間、然聖人訓人、必以己先之、示不忘本也。 臣聞致化之道、在求賢審官。孔子曰:「惟名與器、不可以假人。」是言慎挙之為重也。臣伏見王長通・白明達本楽工輿皁雜類。韋槃提・斛斯正無他材、獨解調馬。雖術踰等夷、可厚賜金帛以富其家。今超授高爵、與外廷朝會、騶豎倡子、鳴玉曳履、臣竊恥之。若朝命不可追改、尚宜不使在列、與士大夫為伍。 帝善其言、除侍御史。又言: 臣歴観夏・商・周・漢之有天下、伝祚相繼、多者八百餘年、少者猶四五百年、皆積徳累業、恩結於人、豈無僻王、賴先哲以免。自魏・晋逮周・隋、多者五六十年、少者三二十年而亡。良由創業之君不務仁化、當時僅能自守、後無遺徳可思、故伝嗣之主、其政少衰、一夫大呼、天下土崩矣。今陛下雖以大功定天下、而積徳日淺、固當隆禹・湯・文・武之道、使恩有餘地、為子孫立万世之基、豈特持當年而已。然自古明王聖主、雖因人設教、而大要節儉於身、恩加於人、故其下愛之如父母、仰之如日月、畏之如雷霆、卜祚遐長、而禍乱不作也。今百姓承喪乱之後、比於隋時纔十分一、而徭役相望、兄去弟還、往來遠者五六千里、春秋冬夏、略無休時。陛下雖詔減省、而有司不得廢作、徒行文書、役之如故。四五年來、百姓頗嗟怨、以為陛下不存養之。堯之茅茨土階、禹之惡衣菲食、臣知不可復行於今。漢文帝惜百金之費而罷露臺、集上書囊以為殿帷、所幸慎夫人衣不曳地。景帝亦以錦繡纂組妨害女功、特詔除之、所以百姓安楽。至孝武帝雖窮奢極侈、承文・景遺徳、故人心不搖。向使高祖之後即値武帝、天下必不能全。此時代差近、事迹可見。今京師及益州諸處、営造供奉器物、諸王妃主服飾、皆過靡麗。臣聞昧旦丕顯、後世猶怠、作法於治、其弊猶乱。陛下少處人間、知百姓辛苦、前代成敗、目所親見、尚猶如此、而皇太子生長深宮、不更外事、即万歳後、聖慮之所當憂也。 臣竊尋自古黎庶怨叛、聚為盜賊、其国無不即滅、人主雖悔、未有重能安全者。凡脩政教、當脩之於可脩之時。若事變一起而後悔之、無益也。故人主毎見前代之亡、則知其政教之所由喪、而不知其身之失。故紂笑桀之亡、而幽・厲笑紂之亡、隋煬帝又笑斉・魏之失国也。今之視煬帝、猶煬帝之視斉・魏也。 往貞観初、率土霜儉、一匹絹纔易斗米、而天下帖然者、百姓知陛下憂憐之、故人人自安無謗讟也。五六年來、頻歳豐稔、一匹絹易粟十餘斛、而百姓咸怨、以為陛下不憂憐之。何則?今営為者、多不急之務故也。自古以來、国之興亡、不由積畜多少、在百姓苦楽也。且以近事驗之、隋貯洛口倉而李密因之、積布帛東都而王世充據之、西京府庫亦為国家之用。向使洛口・東都無粟帛、王世充・李密未能必聚大衆。但貯積者、固有国之常、要當人有餘力而後收之、豈人勞而強斂之以資寇邪? 夫儉以息人、貞観初、陛下己躬為之、今行之不難也。為之一日、則天下知之、式歌且舞矣。若人既勞、而用之不息、万一中国水旱、而邊方有風塵之警、狂狡竊發、非徒旰食晏寢而已。古語云:「動人以行不以言、應天以實不以文。」以陛下之明、誠欲厲精為政、不煩遠采上古、但及貞観初、則天下幸甚。 昔賈誼謂漢文帝云「可痛哭及長歎息者」、言:當韓信王楚・彭越王梁・英布王淮南之時、使文帝即天子位、必不能安。又言:賴諸王年少、傅相制之、長大之後、必生禍乱。後世皆以誼言為是。臣竊観今諸将功臣、陛下所與定天下、無威略振主如韓・彭者。而諸王年並幼少、縱其長大、陛下之日、必無他心、然則万代之後、不可不慮。漢・晋以來、乱天下者、何嘗不在諸王。皆由樹置失宜、不豫為節制、以至滅亡。人主豈不知其然、溺於私愛爾。故前車既覆、而後車不改轍也。今天下百姓尚少、而諸王已多、其寵遇過厚者、臣愚慮之、非特恃恩驕矜也。昔魏武帝寵陳思王、文帝即位、防守禁閉同獄囚焉。何則?先帝加恩太多、故嗣王疑而畏之也。此武帝寵陳思王、適所以苦之也。且帝子身食大国、何患不富、而歳別優賜、曾無限極。里語曰:「貧不学儉、富不学奢。」言自然也。今大聖創業、豈唯處置見子弟而已、當制長久之法、使万代奉行。 臣聞天下者以人為本。必也使百姓安楽、在刺史・県令爾。県令既衆、不可皆賢、但州得良刺史可矣。天下刺史得人、陛下端拱巖廊之上、夫復何為?古者郡守・県令皆選賢徳、欲有所用、必先試以臨人、或由二千石高第入為宰相。今獨重内官、県令・刺史頗輕其選。又刺史多武夫勳人、或京官不稱職始出補外。折衝果毅身力彊者入為中郎将、其次乃補邊州。而以徳行才術擢者、十不能一。所以百姓未安、殆在于此。 疏奏、帝稱善。擢拜給事中、轉中書舎人。 周善敷奏、機辯明鋭、動中事會、裁處周密、時譽歸之。帝毎曰:「我蹔不見周即思之。」岑文本謂所親曰:「馬君論事、會文切理、無一言可損益、聽之纚纚、令人忘倦。蘇・張・終・賈正應此耳。然鳶肩火色、騰上必速、恐不能久。」俄遷治書侍御史、兼知諫議大夫、検校晋王府長史。王為皇太子、拜中書侍郎、兼太子右庶子。十八年、遷中書令、猶兼庶子。時置太子司議郎、帝高其除。周歎曰:「恨吾資品妄高、不得歴此官。」帝征遼、留輔太子定州。及還、攝吏部尚書、進銀青光禄大夫。帝嘗以飛白書賜周曰:「鸞鳳沖霄、必假羽翼。股肱之寄、要在忠力。」 周病消渇連年、帝幸翠微宮、求勝地為構第、毎詔尚食具膳、上醫使者視護、躬為調薬、太子問疾。疾甚、周取所上章奏悉焚之、曰:「管・晏暴君之過、取身後名、吾不為也!」二十二年卒、年四十八、贈幽州都督、陪葬昭陵。 初、帝遇周厚、周頗自負。為御史時、遣人以圖購宅、衆以其興書生、素無貲、皆竊笑。它日、白有佳宅、直二百万、周遽以聞、詔有司給直、賜奴婢什物、由是人乃悟。周毎行郡県、食必進雞、小吏訟之。帝曰:「我禁御史食肉、恐州県廣費、食雞尚何與?」榜吏斥之。及領選、猶廢浚儀令。 先是、京師晨暮伝呼以警衆、後置鼓代之、俗曰「鼕鼕鼓」。品官旧服止黄紫、於是三品服紫、四品五品朱、六品七品綠、八品九品青。城門入由左、出由右。飛驛以達警急。納居人地租。宿衛大小番直。截驛馬尾。城門・衛舎・守捉士、月散配諸県、各取一、以防其過:皆周建白。自周亡、帝思之甚、将假方士術求見其儀形。高宗即位、追贈尚書右僕射・高唐県公。垂拱中、配享高宗廟庭。 子載、咸亨中為司列少常伯、與裴行儉分掌選事、言吏部者稱裴・馬焉。終雍州長史。 賛曰:周之遇太宗、顧不異哉!由一介草茅言天下事、若素宦于朝・明習憲章者、非王佐才、疇以及茲?其自視與築巖・釣渭亦何以異!迹夫帝鋭于立事、而周所建皆切一時、以明佐聖、故君宰間不膠漆而固、恨相得晩、宜矣。然周才不逮傅説・呂望、使後世未有述焉、惜乎! 韋挺、京兆万年人。父沖、仕隋為民部尚書。挺少與隠太子善、高祖平京師、署隴西公府祭酒。累遷太子左衛驃騎、検校左衛率。太子遇之厚、宮臣無與比。武徳七年、帝避暑仁智宮。或言太子與宮臣謀逆、又慶州刺史楊文幹坐大逆誅、辭連東宮、帝專責宮臣、由是挺與杜淹・王珪等皆流越巂。未幾、召拜主爵郎中。貞観初、王珪数薦之、遷尚書右丞。歴吏部・黄門侍郎、拜御史大夫・扶陽県男。太宗謂挺曰:「卿之任大夫、獨朕意、左右無為卿地者!」挺曰:「臣駑下、不足以辱高位、且非勳非旧、而在藩邸故僚上、願後臣以勸立功者。」不聽。 是時承隋大乱、風俗薄惡、人不知教。挺上疏曰:「父母之恩、昊天罔極。創巨之痛、終身何已。今衣冠士族、辰日不哭、謂為重喪。親賓來弔、輒不臨挙。又閭里細人、毎有重喪、不即發問、先造邑社、待営辦具、乃始發哀。至假車乘、雇棺槨、以榮送葬。既葬、伍會集、相與酣醉、名曰出孝。夫婦之道、王化所基、故有三日不息燭・不挙楽之感。今昏嫁之初、雜奏絲竹、以窮宴歡。官司習俗、弗為條禁。望一切懲革、申明礼憲。」俄復為黄門侍郎、兼魏王泰府事。時泰有寵、太子多過失、帝密欲廢立、語杜正倫、正倫以漏言貶。帝謂挺曰:「不忍復置卿于法。」改太常卿。 初、挺為大夫時、馬周為監察御史、挺不甚礼。及周為中書令、帝欲湔拭用之、周言挺佷于自用、非宰相器、遂止。帝将討遼東、擇主餉運者。周言挺才任粗使、帝謂然。挺父故為営州總管、嘗經略高麗、故札藏家、挺上之。帝悅曰:「自幽距遼二千里無州県、吾軍靡所仰食、卿為朕圖之。苟吾軍用不乏、是公之功。其自擇文武官四品十人為子使、取幽・易・平三州鋭士若馬各二百以從。」即詔河北列州皆取挺節度、許以便宜。帝親解貂裘及中廄馬賜之。挺遣燕州司馬王安徳行渠、作漕艫轉糧、自桑乾水抵盧思臺、行八百里、渠塞不可通。挺以方苦寒、未可進、遂下米臺側、廥之、待凍泮乃運以為解。即上言:「度王師至、食且足。」帝不悅曰:「兵寧拙速、無工遲。我明年師出、挺乃度它歳運、何哉?」即詔繁畤令韋懐質馳按。懐質還劾:「挺在幽州、日置酒、弗憂職、不前視渠長利、即造船行粟、八百里、乃悟非是、欲進則不得、還且水涸。六師所須、恐不如陛下之素。」帝怒、遣将作少監李道裕代之。敕治書侍御史唐臨馳伝、械挺赴洛陽、廢為民、使白衣從。 帝破蓋牟城、詔挺将兵鎮守、示復用。城與賊新城接、日夜轉闘無休時。挺以失職、内不平、作書謝所善公孫常。常、善数者也、以他事繫、投繯死。索橐中得挺書、言所屯危蹙、意怨望、貶象州刺史。歳餘卒、年五十八。 子待價・万石。 待價、初為左千牛備身、永徽中、江夏王道宗得罪、待價以婿貶盧龍府果毅。時将軍辛文陵招慰高麗、次吐護真水、為虜所襲、待價與中郎将薛仁貴率所部兵殺之、文陵亦苦戦、遂免。待價重創、矢著左足、隠不言、卒以疾免。起為蘭州刺史。吐蕃盜邊、高宗以沛王賢為涼州大都督、而待價為司馬。俄遷肅州刺史、以功召拜右武衛将軍。儀鳳三年、吐蕃復入寇、以待價検校涼州都督、兼知鎮守兵馬事。召還、封扶陽侯。 武后臨朝、攝司空、護営乾陵、改天官尚書・同鳳閣鸞臺三品。待價起武力、典選無銓總才、故朝野共蚩薄之。俄為燕然道行軍大總管、禦突厥。踰年還、拜文昌右相・同鳳閣鸞臺三品。不自安、累表辭職、不聽。且請盡力行陣、許之、於是拜安息道行軍大總管、督三十六總管以討吐蕃、進爵公。軍至寅識迦河、與吐蕃合戦、勝負略相當。會其副閻温古逗留、又天大寒、待價不善撫御、師人多死、餉道乏、乃旋師頓高昌。后大怒、斬温古、流待價繡州、卒。 曾孫武。 武、少孤。年十一、廕補右千牛、累遷長安丞。徳宗幸梁州、委妻子奔行在、除殿中侍御史。戸部侍郎元琇為水陸轉運使、表武以倉部員外郎充判官。謀不用、杜門数月而琇敗。轉刑部員外郎。是時、帝以反正告郊廟、大兵後、典章苟完、執事者時時咨武。武酌宜約用、得礼之衷、司奉焉。 後為絳州刺史、鑿汾水灌田万三千餘頃、璽書勞勉。憲宗時、入為京兆尹、護治豐陵、未成、卒、贈吏部尚書。 万石、頗渉学、善音律。上元中、遷累太常少卿。當時郊廟燕會楽曲、皆万石與太史令姚元辯增損之、號任職。始、万石奏「太楽博士弟子遭喪者、先無它業、請以卒哭追集」。侍御史劉思立劾奏万石曰:「移風易俗、莫善於楽。睦親化人、莫善於孝。所以三年之礼、天下通喪。今遣音聲人釋服為楽、帶絰治音、豈以小人不能執礼、遂欲約為非法?万石官太常、首紊風化、請付吏論罪。」高宗方委任万石、罷其奏。後知吏部選事、卒于官。 賛曰:王者用人非難、盡其才之為難。観太宗之責任也、謀斯從、言斯聽、才斯奮、洞然不疑、故人臣未始遺力、天子高拱操成功、致太平矣。始皆奮亡命布衣、嬪然列置上。薛收雖蚤夭、帝本以中書令待之。御臣之方、顧不善哉!挺晩節流落、蓋有致而然。
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501 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 15 41 02 ID dl3IeqrE0 とりあえず後漢~後漢末のまとめ 劉秀 耿弇 馮異 岑彭 呉漢 賈復または馬援 廉范 班超 張奐 虞詡 で、名将の定義から外れる賈復をはずして馬援を入れるかそれとも祭遵かはたまた皇甫崇か、ってトコか。 まぁ10人にこだわらないなら現時点で12名、あとで削るということで、次は三国~東西両晋に本腰入れよう。 502 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 15 51 23 ID FEMw5NZl0 三国から両晋だと曹丕による魏建国から桓温による楚建国まで? 北も含まれるんだよな? 503 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 15 54 41 ID FEMw5NZl0 すまん、桓玄と桓温間違いだ それとも劉裕が宋を立てるまでのが妥当かな? 504 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 16 00 53 ID 4rQjalG+0 502 曹丕からなら曹操は後漢末に入れる必要があると思うが。 505 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 16 04 46 ID dl3IeqrE0 三国の定義間違えた。俺が言いたい三国は黄巾の乱以降、劉裕の登極まで。だから曹操以後の人物もこっちでやろうということ。 北はもちろん積極的に採用するべきだと思う。劉淵とか石勒とか符堅とか有名人がいっぱいいるし。その部下はなぜかスポットライト浴びてないが。 506 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 16 05 13 ID biOxFEel0 個人的な三国~東西両晋の名将 賈[言羽] 呂蒙 陸遜 鄧艾 杜預 王導 祖逖 陶侃 桓温 謝安 諸葛亮や曹操といった超メジャーなのは除外しました。 こうして見ると東晋に偏って蜀漢からは一人も出ていないのもアレだが 507 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 16 13 32 ID dl3IeqrE0 賈詡と謝安は直接実戦指揮したことないんでは? まぁ祖逖入ってるのは嬉しいが。 508 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 16 26 56 ID biOxFEel0 賈[言羽] は曹操を負かした事と計略・処世術の巧みさで入れました。 謝安は東晋を語るのに不可欠の人名なので。 蜀漢から出さなかったのは関羽・張飛・趙雲はイマイチ 軍団長としての功績が少ないのと 演義での過大評価に反発しての事です。 509 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 16 37 59 ID FEMw5NZl0 506 とりあえず 賈ク・呂蒙・陸遜・王導・杜預・謝安はいらんと思う で、見事に華北の諸政権が抜けているんだが・・・ 505の時代区分に従うと 曹操 鄧艾 陶侃 祖逖 劉淵or劉聡 石勒 王猛 謝艾 慕容恪 慕容垂 なんてどうかな? 桓温は個人的には入れたかったが・・・ 俗に言う五胡の人物が多いのは当時の軍事バランス的にこうなってしまった 叩き台にでもしてください 510 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 16 41 45 ID dl3IeqrE0 とりあえず10人挙げるとしたら・・・ 曹操 鄧艾 王濬 陳騫 陶侃 祖逖 謝玄 符堅 王猛 姚萇 って感じか。最初の一回で10人ピタリ、とはなかなかいかんな。あと5人ぐらい枠が欲しい。 511 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 17 03 03 ID biOxFEel0 509 三国~東西両晋なので五胡は除外してました。 やはり五胡だと石勒・王猛・符堅は外せませんな。 (王猛は漢人なので五胡に入るのかという疑問もあるだろうが) 512 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 17 17 44 ID FEMw5NZl0 王猛の功績をどこまで符堅に還元するかで・・・ 513 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 17 37 07 ID WAbQww+dO 後漢時代の選定作業はもう終了? 514 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 18 13 39 ID biOxFEel0 次は隋唐時代かな。 とは言え唐初の李世民とその配下だけで終わりそうな予感。 515 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 18 19 43 ID y4u+z/tU0 周瑜は赤壁だけでなく江東の平定や対曹仁戦の 自勢力の圧倒的不利さを覆して勝利してる点と作戦立案能力の高さを考えるに 入れてもいいような気がするが 石虎と冉閔は画竜点睛を欠いてるから駄目なのかな? あと慕容恪と慕容垂の兄弟は? 516 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 18 22 48 ID y4u+z/tU0 あと劉曜も・・・とかキリが無くなっちゃうんだけどな>魏晋南北朝 国が多すぎるし、メチャクチャ戦争多いし 517 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 18 49 30 ID ecjL7l990 なんかごちゃごちゃしてきたな 518 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 19 14 44 ID conRNdMT0 なんか皆勝手に話し始めたな 519 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 21 37 21 ID ecjL7l990 まずは、この近辺の時代区分をはっきりさせておかない? 520 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 21 49 23 ID slDBWaKb0 510 陳騫ってどんな功績があるの? 西晋から入れるなら、馬隆を入れたほうが良いと思う。 五胡の武将たちには及ばないと思うが。 521 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 22 23 50 ID wk2tD9hP0 冒頓単于 522 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 22 54 50 ID am/47zc60 陳騫は西晋初期の将軍。鄧艾と一緒でもとは内政で評価されてたんだけど、蜀漢軍の侵攻への対処、 諸葛瞻らの叛乱(彼等にとっては義起)平定に将軍代行として功績を立て、その後も各地の都督を歴任した。 で、曹魏を廃して司馬炎を擁立、佐命の勲により大司馬に任命された・・・けど西晋成立後は確かにあんまり活躍してないね。外して劉淵入れたほうがいいかも。 あと時代区分だけど、この次は南朝、北朝で別々に十選するのがいいと思う。北朝なんて随の成立まで続くわけだし。 で、その後は隋、隋末唐初、盛唐、晩唐、でいいんじゃないかな? 523 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 08 41 ID slDBWaKb0 東晋初期に江南平定で活躍した周訪は? 「中興名将」と謳われたほどの武勲を立てているんだが。 あと、劉宋の檀道済。智勇兼備の名将。 北伐で三十連勝という凄まじい勝ちっぷり。 524 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 15 05 ID p7UzE4K40 西晋と五胡を混ぜるのは反対。 五胡十六国時代は中国史で異質なくらい国が分裂して、戦争に明け暮れた時代であるし 永嘉の乱によって、一度漢族主体の歴史が途絶えてる。 極端な言い方をすれば、それ以降は文明が違う。(異民族もだんだんに漢族化しては行くが・・・) 同一で語るべきでは無いと思う。 525 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 19 16 ID /yzWTkFN0 西晋を古代の、つまり漢民族主体の国家の時代、の終わりと見るか。 魏から、呉による江南の開発を含めて、新たなる混乱の時代の始まりと見るか。 526 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 22 29 ID WAbQww+dO 時代区分で言うと三国時代からが中世だよね? 527 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 42 46 ID rrmLpBOP0 523 魏晋南北朝期の江南の名将は、陸遜、祖逖、桓温、劉裕で決まりじゃない? 檀道済や陳慶之には悪いが(檀道済には本当に悪いとは思うが)、さすがにこの4名は 武勲戦功、各種エピソードで他の追随を許さないと思う。 陸抗や陶侃、謝玄も惜しいんだけどね・・・・。 524 魏晋南北朝ひとまとめでいいよ、別に。 あの閉塞感やごった煮感がいいんじゃないか。 528 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 44 27 ID y4u+z/tU0 陸遜はどうかな? 魏の領土を切り取ったとかがあったら陸遜を推すんだけど 529 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 46 44 ID slDBWaKb0 陸遜は対魏戦線では今ひとつだったので、 加えなくてもいいように思う。 530 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/08(金) 00 14 45 ID moC68kyeO 陸遜が入って陳慶之入らんってネタかよw 531 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/08(金) 00 58 11 ID DVmHNlgl0 530 陸遜の功績って思いっきり時代の分水嶺を決していないか? 三国鼎立の趨勢を決した人物が、北魏皇族の露払い如きと比べられるか? と言うのは冗談だが、 陸遜のときの魏と、陳慶之のときの北魏じゃ国内問題に雲泥の差が 陳慶之と同じ条件だったら、一体どれほどの武将が北伐を成功させられたか…… 派手な戦功の割りに領土を保持し切れなかったのは大きな減点対象だよ。 劉裕>檀道済>陳慶之って感じかな。 532 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/08(金) 01 00 42 ID c3npL07W0 531 もともと領土を保持するだけの兵力持ってなかったし。 533 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/08(金) 01 26 15 ID iFfrKRC9O 劉裕もすぐに赫連勃勃に華北の領土を奪われてるけどね。 534 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/08(金) 22 36 28 ID jAIpQJnD0 陳慶之って本当に名将かな? 田中芳樹ですら、名将百選の時知らなかった人物なのに 535 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/08(金) 22 54 51 ID C9QZrGM80 534 その時代の梁では屈指の名将。 大敗もしているが、それを補って余りあるほどの武勲を立てている。 田中芳樹の中国史の知識は偏ってるので、 あまり気にしないほうがいい。 536 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/08(金) 23 22 12 ID x0jhMPbL0 531 五胡襲来のときに、そういうチャンスはあったろうけど、北伐して功績あげたのって数えるほどでしょ。 陳慶之は戦術上での無謀な戦いを制しているので、その点での名将。 能動的に戦略条件を決定できる劉裕とでは、比べるのは酷じゃないか? 537 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 12 41 39 ID CRZmokf7O 桓温は劉裕と比べると一歩劣る感じがするんだよね。 やっぱり慕容垂に大敗したのが痛い所。 538 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 19 39 27 ID UBuf8yZo0 先日曹操の台頭から劉裕の登極までを一時代と区切ったものだがその時代区分での十選。 曹操 周瑜 鄧艾 王濬 祖逖 謝玄 石勒 符堅 王猛 劉曜 あたりで確定していいんじゃない? 陶侃は対外戦してないので泣く泣く外して周瑜に代えた。 あと符堅の用兵は半分方王猛の功績って感じするから外してもいいかも。 そろそろ確定して南北朝に入ろうや。すでに檀道済とか陳慶之とか名前がて出来てることだし。 539 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 20 00 50 ID B0SeOPZF0 新・後漢は名将0人ってこと? 540 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 20 02 28 ID UBuf8yZo0 新・後漢は暫定で10人出したよ? 耿弇やら呉漢やら。 541 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 21 15 22 ID 1LqH3oVt0 慕容垂は? 542 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 21 21 50 ID /VGOq0ss0 538 周瑜は戦績不足、符堅の用兵は王猛の功績が半分はあると思う。 戦績の多さで陶侃を入れた方がいいんじゃないだろうか。 543 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 21 24 37 ID Z9l2ZeQa0 538 苻堅は君主的側面が強いから、あえて外しても構わないと思う。 代わりに慕容垂をランクインさせた方が良くない? 544 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 21 27 08 ID tRmOzWCH0 542 戦績不足といっても10年くらいはあるし、三国鼎立がなった一番の立役者。 三国時代から引っ張るなら曹操と周瑜は確定でいいと思う。 545 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 21 27 29 ID /VGOq0ss0 あと、西晋からは馬隆を入れてはどうだろうか。 546 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 21 49 13 ID TMdkxF+G0 符堅を慕容垂に代えるのはOKとして、馬隆入れるとしたら誰かな? 一発屋感の強い謝玄か? でも6万で100万に勝っちゃってるしなぁ。状況に助けられたとはいえ。 547 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 22 05 19 ID 1LqH3oVt0 でもさ、慕容恪も入ってもいいよね・・・ 548 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 22 07 30 ID Z9l2ZeQa0 馬隆あたりが入るんなら、もっと他にふさわしい武将がいるけど 陶侃(江南平定戦における戦歴は文句なし、対後趙戦に参加できなかったのが残念) 慕容恪(寡兵で大軍を破る名将、段遼、麻秋、桓温等常に劣勢の戦をひっくり返した) 謝艾(東晋十六国時代最高の逆境武将、中原を制していた後趙を幾度と無く撃退した) しかし、このあたりの武将も10傑選ぶとなると間違いなく選外だからなあ 劉曜を落として、桓温入れないか? 謝玄よか実績、実力とも確実に上のはずなんだが 549 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 22 33 24 ID TMdkxF+G0 当時の慕容氏は名将揃いだから全部入れるわけにもいかんしな、 慕容氏代表・慕容垂に絞っていいと思う。 あと桓温で劉曜落とせるかなぁ。劉曜は当時最強クラスの用兵家だと思うんだが。 慕容氏と同じで劉淵、劉聡から続く劉氏代表だし。 ・・・符堅を慕容垂に、謝玄を桓温に代えるってのはどうか? 550 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 22 43 50 ID 1LqH3oVt0 桓温って慕容垂に負けてなかったか? 551 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 22 51 20 ID l/nppOi20 この時代は無理に10人に絞らなくても良いんじゃないか? 552 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 22 54 25 ID TMdkxF+G0 それ言うと謝玄が慕容垂に勝てたかってことでまた議論に・・・。 553 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 22 56 37 ID KEDMqu3x0 このスレは伸びるなあ。 554 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 02 56 ID CRZmokf7O 今の日本でもよく使われる「断腸」と「竹馬の友」のエピソードは桓温に関するものなんだよね。 555 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 16 18 ID TMdkxF+G0 確かに桓温は魅力的なエピソードが多いんだよな。「芳を百世に流すことあたわずば、また臭を万年に遺すべし」とか。 王猛には鼻も引っ掛けられなかったが、偏屈者の謝安が腰を上げたぐらいだからそれなりに人間的魅力もあったんだと思う。 とりあえず前述のリストから謝玄→桓温、符堅→慕容垂に代えて、あとは陶侃、謝艾あたりを候補に残す、でどうかな? 556 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 24 25 ID Z9l2ZeQa0 550 枋頭の戦いは、前秦、前燕、北府軍、桓温等各勢力の思惑が複雑に絡み合った戦だからなあ 慕容垂の軍事手腕が一枚上だったってことだろう 日の出の勢いの北魏拓跋珪ですら、老齢の慕容垂には戦意喪失していたし (前年、参合陂で壊滅した後燕軍で北魏の平城を抜いている) 桓温の名言と言ったら、「臭を万年に遺すべし」 十分芳名遺してるけどね 557 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 29 28 ID TMdkxF+G0 と、言うわけでこの書き込みから10分間意見が出なかったら有無も言わさず南北朝に移行。諸兄OK? 558 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 36 59 ID /VGOq0ss0 曹操 鄧艾 祖逖 謝玄 陶侃 石勒 謝艾 王猛 劉曜 慕容垂 こんな感じでどうだろうか? 559 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 40 34 ID CRZmokf7O 558 自分もそこらへんが妥当な人選だと思う。 560 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 42 30 ID l/nppOi20 石虎 冉閔 も入れたいなあ。 最強にDQNだけど、軍事功績はある。 燕には弱いけど・・・ 561 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 44 36 ID TMdkxF+G0 周瑜が落ちるか。まぁ短命だから仕方ない。 では、いよいよ南北朝といこうか。 とりあえず劉裕、檀道済、陳慶之あたりは確実と思うので、個人的に南斉の周盤龍、梁の蘭欽を推す。 562 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 49 43 ID Z9l2ZeQa0 陶侃、謝艾、謝玄あたりは保留しといた方がいいかも 周瑜落とすのは反対、魏の天下統一を挫いて三国時代の可能性を開いた 功績は、間違いなく100傑に載るよ 孫策時代に小部隊の指揮官も経験しているし、万対万の大規模会戦の司令官も やってのけてるし、軍事的才能は文句なしじゃないか? 563 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 52 18 ID TMdkxF+G0 まだ議論が続くか。南北朝突入は控えたほうがいいかな。 564 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 58 42 ID 1LqH3oVt0 俺も周瑜賛成 南朝軍事ルートの走りだと思うし 565 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 58 42 ID zQF517ay0 意外に後漢・三国は淡白だったな。 そこで… よければ陶侃、謝艾がどういう人物か教えてくれまいか? 566 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 00 11 23 ID 8O4+hPsk0 韋叡も入れたらいいんじゃないか? 合肥攻略と鍾離の戦いでの功績は大きい。 ところで王僧弁と陳覇先はどっちが上なんだろうか。 567 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 00 12 02 ID 8O4+hPsk0 あ、まだ終わってなかったのか。失敬。 568 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 00 12 15 ID skKZj6Kv0 最後に勝った分、陳覇先? 569 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 00 18 45 ID nF6R36+K0 565 謝艾は前涼の主簿であったが、大抜擢を受けて中塁将軍にのぼり 後趙の涼州侵攻を幾度と無く撃退した名将 書生風の格好で戦場指揮を取っていたため、敵将から過分に罵られることもあった (田中芳樹が好みそうな人物だが、どうやら眼中に入らなかったらしい) 345年 対麻秋(後趙?:謝艾5000)で快勝、5000の首級を挙げる活躍を見せる 346年 対麻秋(後趙80000+20000:謝艾30000)、奇策を用いて撃破、捕虜13000を収める 346年 対石寧(後趙120000:謝艾20000)、戦線膠着 346年 対麻秋(後趙120000+20000:謝艾20000)、後趙軍を壊走させる 石虎を「中原の総力を注いで、謝艾のいる一城を落とせないとはッ!」と歎息させた 570 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 00 20 46 ID 0wcqgl3O0 王僧辦も陳覇先も100傑には届かんだろ。 凡将が運よく宇宙大将軍を倒して、チョーシこいて梁を簒奪、ついでにライバルを殺した、程度。 陳の名将っつったら呉明徹と魯広達ぐらいしか思い浮かばんが、この二人とも当世ベスト10には入らんわな。 571 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 01 40 57 ID x0XvmRVNO 陳覇先は有力な候補だと思うんだけど… 572 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 02 10 02 ID J3AyhBvq0 これまでの時代も、確定と候補で10人越えていたから、そのあたりもノミネートに 入れておいていいと思うけどね。 573 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 02 56 08 ID zoAucpa8O 572 まあ、各時代で10人選んでくっつけて終わりというのはそれはそれで手抜きですので…… ある程度は自由度がないと困ります(まあ確定枠もある程度ないと困るが) 574 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 12 18 18 ID 2q8ivaO30 南北朝時代に入ってもそろそろ好いでしょ? 【東魏(北斉)】 高歓 慕容紹宗 宇宙大将軍 斛律光 【西魏(北周)】 宇文泰 趙貴 侯莫陳崇 宇文ヨウ うーん、南朝勢を入れるとすると、もっと絞られそうだな まあ、高歓と宇文泰と宇宙大将軍は確定だろう 575 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 12 20 17 ID KoP8pIyD0 祖逖を破った石虎は入れてもいいんじゃないか?あと桓温。 候補にはしてもいいと思う 576 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 12 29 18 ID skKZj6Kv0 574 異論なし 個人的には慕容紹宗・斛律光も確定選手 575 だが石虎は劉曜に敗れてる。いや、最終的に劉曜を破ったのも石虎だが 慕容恪にも負けてるんだよねー。この時代、勝って負けてを繰り返しすぎ 577 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 14 02 01 ID zvymb6hp0 間羽は入らないの? 578 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 14 07 08 ID ROzl+g7W0 574 もうちょっと魏晋十六国煮詰めようぜ さすがにセッカチすぎるだろ 後、宇宙大将軍は入らないだろう 579 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 14 09 01 ID x0XvmRVNO 宇宙大将軍は百選に入るかなぁ… 梟雄百選とかだったら入りそうだけど。 580 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 15 18 07 ID vxB1Eo470 宇宙大将軍のテーマ 空を見ろ 星を見ろ 宇宙を見ろ 聞こえるか聞こえるだろおお あの声が 進め 進め 朱忌を倒せ(「ブラインド ラァーイズ!」) 戦え 戦え 目指すは建康(「インペリアル ニルヴァーナ!」) ああ どこへ行くのか 大将軍 侯景 宇宙大将軍 侯万景 581 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 15 30 02 ID skKZj6Kv0 宇宙大将軍は戦績は悪くないぞ 582 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 15 51 12 ID EDwqZGqS0 魏晋~五胡十六国 【確定組】 曹操 鄧艾 石勒 祖逖 王猛 【内定組】 周瑜 劉曜 慕容垂 【論争中】 陶侃 (内乱鎮圧戦がメインで、対外戦の戦歴が少ない) 石虎 (天王に就いてからの戦歴が振るわない) 謝艾 (純粋に知名度が低い) 慕容恪(弟慕容垂と票の喰い合いを演じている、活躍期間が短い) 桓温 (論争中組の中では、内定組昇格が一番近いんじゃなかろうか?) 謝玄 (一発屋感が強すぎる、実際は北府軍の司令官としては優秀な戦績を収めている) 14名、とりあえず論争中ってことで保留にした方が良くないか? しかし、三国志の時代にもかかわらず、3名しかノミネートしないとは 結構、両晋~五胡十六国好きって多いんだな 583 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 16 56 53 ID BrtLRGfA0 569 さ~んくす! カコイイねぇ謝艾。 戦乱群雄割拠期には、そういうヤツラが増殖するからおもしろい。 現実にその時代に行けと言われたら躊躇するけど… でもこのスレは張遼あたりも削る競争率の高さだから、選抜がかなり難しいね。 戦乱初期~中期って、得てしてドングリの乱立となるから、甲乙つけがたくなるし。 584 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 19 09 54 ID m7tQMEuP0 ところで、赫連勃勃はこの時代区分? それとも南北朝? 585 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 19 12 44 ID x0XvmRVNO 南北朝時代は北魏による華北統一からだと思うから、 赫連勃勃は五胡の人物になるんじゃないかな? 586 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 21 28 58 ID EDwqZGqS0 584 赫連勃勃は各種エピソードが豊富な匈奴系君主だが、名将とは絶対違うと思うぞ 1 劉義真が居座る長安を奇襲し、東晋から関中奪取 2 長安に遷都すれば、匈奴の精悍さが失われる上、北魏への対応が遅れることから統万城に都を置く 3 統万城建設時の残酷かつ余りにも軍事独裁的エピソード 4 匈奴としての民族的アイデンテティを保持するために、漢人風の劉姓を捨て、赫連姓を名乗る ……うーん、有能な暴君とも言うべき人物だな 587 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 21 48 09 ID Eu0OEe370 石虎は石勒とセットでいいでしょ。あと冉閔も。 588 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 22 50 33 ID skKZj6Kv0 エー…… 589 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 02 57 11 ID GHO+KWdG0 謝玄て淝水の活躍以外知らない・・・。他に功績あったら教えてくれ 590 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 06 14 43 ID JzubPJv/0 589 その後北伐を行ったが中央政界との連携がうまくいかず全然成果あげれないんじゃなかったかな 581 確かに有能な将軍ではあるけど慕容紹宗に惨敗してるし最後もあまりよくないな 百選には入らないだろう おれには 574は宇宙大将軍と書きたかっただけじゃないのかと疑ってしまうんだが穿ちすぎかな? 後、慕容垂を慕容氏代表として慕容恪を外すって意見出てたがそりゃないだろ 苻堅の功績の半ばは王猛によるってことで苻堅外すのは納得いくが 慕容垂と慕容恪では活躍した時期も別なんだから別々に評価すべきじゃないか? 純粋に軍事能力重視のこのスレではむしろ両雄ランクインに値すると思うが 591 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 10 49 16 ID GHO+KWdG0 590 やはり謝玄は他に功績はないのか・・・。まあ淝水だけでも十分たいしたものでは あるんだが。 同じように中央の支援を得られない状況で石勒を破るなど ある程度北伐を成功させた祖逖と同格にしてはまずいか? 慕容恪はおれも入れたい。 王猛や桓温すら憚ったというから、相当なもんだと思う 592 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 12 53 54 ID ooB6+IbLO 宇宙大将軍は迷将として不動の2ch枠を確保してる 593 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/11(月) 13 02 36 ID XL7bbA22O 三国志・楚漢以外で宇宙大将軍ほど人気のある人物も珍しい 594 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 14 07 15 ID LYoVT4/r0 591 赤壁だけの功績で周瑜が入るんなら、 謝玄が入ってもいいような。 前秦の天下討伐を防ぎ、その勢力を瓦解させ、 国難を救った功績は極めて大きい。 595 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 14 28 21 ID JzubPJv/0 594 俺としてはどちらも外していいと思うよ やっぱ戦歴を重視すべきじゃないか? それに前秦の南征は内部にかなりの問題を内包していた 功の全てを謝玄に還元するのはどうもなぁ 後、天下討伐はおかしいと思う・・・揚げ足取りスマソ 596 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 16 41 08 ID 6+SyKkMX0 謝玄って北府軍の都督でしたっけ? その偉名だけでも十分名将なんだけど、ここでは入れてもらえませんか。 597 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 01 01 ID JzubPJv/0 596 謝玄が名将ではないとは言わないがここは「百選」するスレ 功績が候補の十人に満たなければ外れる で北府軍の都督の偉名で名将? 当時の政界の実力者は誰だかわかってるか? 別に才覚だけでその地位を得たものではないよ 598 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 03 48 ID 6+SyKkMX0 ああ、そうか謝安の親戚だっけか。 それにしても選抜が難しいなぁ。 今のうちに候補絞っとくかね… 599 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 12 25 ID XL7bbA22O 596 それだと殷浩も名将だということに… 600 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 12 41 ID JzubPJv/0 598 甥だね まあ、北府の兵ってのは中原からの流れもので編成された軍で扱いにくい軍隊だった その統括者はやはり優れた人物を当てたって背景はあるから優秀であったのは疑いない でも候補が多すぎるから外すのも止むを得ないかなってのが俺の意見 601 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 20 13 ID 4L0h5FLQ0 淝水の戦いは前秦軍が自滅したようなものだから、 謝玄の果たした役割はそれほど大きくなかったと思われ。 ちなみに経過 謝玄が符堅に使者を送って、 「渡河してから決戦したいので後退してくれ」と要請した。 ↓ 符堅は渡河の途中に攻撃しようと考え、謝玄の要求を受諾。 ↓ 前秦軍後退 ↓ 後方にいた秦将朱序が裏切って、 「秦軍の負けだ!退却だ!」と叫んで、 浮き足立った前秦軍総崩れ。 ↓ 符堅、事態を収拾できず敗北。 602 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 26 19 ID 6+SyKkMX0 いろいろ気持ちよくこの時代の選抜を眺めていたけど 自分は、東晋って謝玄と桓温くらいしか軍事功績のある人って知らなかったもんだから… 教えてくれてありがとう。 ああ、それと 601さん、符堅ではなく、苻堅。 頭でわかっていても変換で間違えることはよくあること。 603 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/11(月) 22 11 29 ID W9j958WR0 忘れてた人物が何人か。 姚萇(後秦の太祖。知略に富み用兵に優れ、為政者としても優れていた) 李雄(成都を取って独立、成漢を建てる。名将というよりは政治家か?) 皇甫真(石勒の将麻秋を破り、のち苻堅に仕えて王猛にその才覚を認められた) ・・・皇甫真は謝艾にかぶるかな。あと俺、苻堅のことずっと符堅だと思ってた。602さんありがとう。 604 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/12(火) 01 00 47 ID 0zMD3Oil0 あんまりレスがなくてヒマなんで、 時代すっ飛ばして南北朝10選(趣味的偏りあり)をやってみる。 劉宋 劉裕 檀道済 南斉 周盤龍 梁 韋叡 陳慶之 北魏 拓跋珪 元英 東魏→北斉 高歓 西魏→北周 宇文泰 10人目は微妙。他の時代なら楽々10選入りする名将がごろごろいるから。 劉宋の柳元景、梁の蘭欽、北魏の奚斤に楊大眼、 北斉の斛律光に慕容紹宗、北周の宇文護、韋叔裕、李弼あたりが有力候補か。 しかし田中氏はどうして蕭摩訶なんぞ入れたのだろう? 武芸だけなら確かにすごいが、 所詮は一介の匹夫だぞ。まぁこいつと喧嘩しろって言われたら速攻逃げるが。 605 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 06 18 40 ID vFglOZY90 603 姚萇は優秀な一族・配下に支えられた感が強いんだがどうだろう? 西燕討伐も失敗して逃げてるし、特に苻登には相当押されてる もし後秦から一人ならむしろ尹緯のほうがこのスレには相応しく思う とりあえずレスも停滞気味だし 582のまとめてくれたのに 603を足して候補としておいて次いくか? 604が叩き台出してくれてるしな 604 意義ありなのは北魏の元英かな ちょっと敗戦が多いのが気になる 慕容紹宗はぜひランクインさせたいが最後がやや問題か? 斛律光・韋叔裕はランクイン確定じゃないかと思う 浅学にて南斉の周盤龍とはどういう人物か知らなかった よければ教えて頂けない? 俺もこの時代の候補者候補を少々 段韶 (斛律光とともに北斉の軍事を支えた名将) 高長恭 (名将てか猛将・勇将の類か?) 爾朱栄 (六鎮の乱を平定した立役者。宇文泰・高歓らを配下に持った) 王勇 (気は衆軍を覆い、当たるところ必ず破ったと称えられた名将) とりあえずこんなとこで 感想として北周はほんと名将・豪傑ぞろいだなw 606 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 06 27 44 ID rX0WVB7w0 蘭陵王は名前先行のような気がするなぁ 北斉からは斛律光で充分じゃないかな? 607 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 06 29 02 ID rX0WVB7w0 あと宇文ヨウは? 608 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/12(火) 08 58 40 ID PyiTXq1P0 周盤龍(415-483) 名将というより猛将タイプだが、一応。 内乱平定にはじまり常に劉宋軍の先鋒をつとめる。 袁粲の乱、沈攸之の乱を平定。 蕭道成が即位すると右将軍に任命された。 建元二年、北魏の軍が寿春を犯すと豫州刺史垣崇之を助け、 淝水を決壊させて魏軍を水攻め、勢いに乗って自ら数万人を殲滅した。 翌年魏軍が今度は淮陽の角城を侵すと水軍を率いて鐘離に急行、 守将成賈とともに奮戦して首級を挙げること無数。 建元~永明間にまた北魏の軍と戦い、息子奉叔とともに数百の兵を率いて 北魏の陣を陥とし、数万の魏軍を壊走させた。 で、いろいろと官職を歴任し大司馬にまでなって没。安北将軍・兗州刺史を追贈された。 ・・・この人の一番の幸運は東昏侯の時代になる前に死んだことだと思う。 609 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 09 00 26 ID egH895fJ0 北魏の太武帝 華北を統一し、北では柔然を大破して南では宋軍を破って 建康の対岸まで達した ところで、謝玄は結局外すのか? 610 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 12 06 42 ID hcVR21sn0 一応候補に残しておいてもいいんじゃない? 後日選定するときに、周瑜が外れるなら謝玄も外してもいい。 611 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 19 43 15 ID oWh11wKW0 関羽 612 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 14 19 45 ID 86gaI/hsO 劉宋の沈慶之とかどうかな? よく陳慶之と間違えそうになるけど… 613 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 17 33 21 ID 32jItVt50 マイナーな時代に差し掛かるとやはりレスが止まってくるな 614 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 19 08 53 ID Y6cnPBap0 無理やりメジャー級を外してマイナー級の香具師をランク入りさせる流れもあるしね。 615 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 20 35 47 ID LhA0cvse0 田中叔父貴のを叩き台にすればいいんじゃない 616 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 20 40 06 ID dMv/OWJiO 流れ止まってないとおもうが? 617 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 20 59 14 ID t0ZKyM3l0 613 喧嘩売ってんのか? 618 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 21 07 30 ID zWYaredh0 617 買うほどの懐もないのと違う? 619 L sage 2006/12/13(水) 21 48 38 ID tPaF27TZ0 彭德懷 620 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 22 20 10 ID LhA0cvse0 [皇帝]康熙帝 [丞相]文天昇 [大将軍]関羽 [武将]郭去病 樂木 劉其 陳慶子 岳飛 趙普 戚継光 李靖 将蚊 郭子儀 621 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 22 29 03 ID zWYaredh0 さぁ誤爆と言え 622 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 22 42 37 ID FeAJWbz70 田中氏のヤツだと南北朝からは 檀道済 韋叡 楊大眼 斛律光 蘭陵王 蕭摩訶 の6人。君主・皇帝を含まないからかなり余りが出来るけど、このスレではそうもいかんでしょ。 623 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 23 38 39 ID lWzXBBiD0 芳樹は「沈光とか入れたいんですけど彼はドッチかっていうと豪傑ですから」と言いつつ 楊大眼や蕭摩訶みたいな明らかな豪傑型を(殆ど無意識のうちに)入れる辺り そういうタイプが好きで好きでしょうがないんだろう 後は極度にエピソード重視のきらいがあって、名将っぽい面白エピソードがあるとランクインしやすい 624 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 23 42 25 ID 86gaI/hsO このスレでは一言も触れられなかったトウ禹を、何故かランクインさせたぐらいだからね 625 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 23 47 15 ID HcPmIKUo0 楊大眼はまぁわかる。10万人単位の指揮統率をこなしてるから。 でも蕭摩訶はなぁ。どっちかっつーとPRIDEとかK―1とかに出た方がよさそうな。 まぁ猛将タイプの周盤龍をランクインさせた俺が言うのもなんだが。 626 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 00 10 51 ID vl/vrafc0 沈光は兵を統率したことがないから外したと書いてる。 鄧禹は、絶対ミーハー根性でランキングさせている。 20代で大司徒だっけ? それと二十八将の筆頭だからに違いない。 627 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 00 30 33 ID aF5NXM0W0 周盤龍に代えて陳顕達にしてもいいかも知れん。 しばしば北伐して元英相手に連戦連勝。威名は北魏の将兵の間に轟いた。 ただ、無名の匹夫に殺されて死んだってのがマイナスか。 628 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 00 35 03 ID aF5NXM0W0 訂正 殺されて死んだ→殺された。 629 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 20 13 46 ID pFIeQLXuO もう十人出てないか?>南北朝 630 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 20 27 49 ID hmZQXnui0 いい加減、南北朝終えて隋唐時代に話題変えないか? 631 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 21 29 26 ID csIEmg5a0 じゃあ隋唐 隋初 韓擒虎 賀若弼 達奚長儒 隋末 張須陀 李密 竇建徳 唐初 劉文静 李孝恭 李靖 李勣 とりあえずこんなもんで。 後漢からずっとおれが叩き台だしてるわけだが、たまには誰か代わってくれ 632 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 21 35 45 ID csIEmg5a0 李世民入れるの忘れた。劉文静と入れ替えってことで。 633 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 21 49 01 ID csIEmg5a0 南北朝については 劉宋 劉裕 檀道済 南斉 周盤龍or陳顕達 梁 韋叡 陳慶之 北魏 拓跋珪 で、元英を削って 北斉 高歓 斛律光 北周 宇文泰 韋叔裕 で確定OK? 634 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 22 53 15 ID BH8sXoL40 うーむ、南北朝時代はもうちょっと吟味した方がいいと思う 何しろ、陳慶之の北伐は、東晋時代の祖逖、桓温、劉裕の北伐と比較すれば 祖逖:河南の諸郡県を東晋側に寝返らせる、乞活集団を自軍団に取り込み強大化 桓温:姚襄を破り洛陽奪回、およそ10年間にわたって河南を東晋の領土として維持した 劉裕:山東半島、河南、関中を攻略、六朝最大の版図を築いた やはり、北伐としての質が一段下がると思うけどね 寡兵の北伐では祖逖に劣るし(何より祖逖は東晋政権中枢からの掩護がほとんどなかった) 戦果では桓温、劉裕には及ばないわけだから 南朝の武将を削ってでも、北斉、北周の武将は拡充させるべきだと思うけどなあ 慕容紹宗(北斉)と于謹(北周)は是非ランクインさせたい 特に于謹の江陵攻略がその後の南北朝情勢に与えた影響は計り知れないぞ 635 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 23 16 29 ID vl/vrafc0 631 いつも乙です。 唐中期 郭子儀 李光弼 顔真卿 張巡 あと、異例ながら 安録山 史思明 憲宗・李純 636 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 23 36 58 ID csIEmg5a0 南朝の武将を削るとしたらやっぱ、真っ先に周盤龍か? 個人的に大好きなんだけどな、周盤龍。 でものちの隋唐帝国の基礎を築いた名将とは比較できんか。 周盤龍削って于謹入れるとして、慕容紹宗と陳慶之はどうだろう? 陳のほうが武勲多いと思うが。 宇宙大将軍を南に追い立てて南朝を潰滅させたっていうのも 慕容の計算どおりだったら空恐ろしいけどな。 637 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 23 49 01 ID 6X7OckRB0 まとめ 神話~春秋戦国 347 秦・前漢 418 新~後漢 501 魏晋~五胡十六国 582(候補者に+ 603) (ここまでは決定or保留) 南北朝(議論終盤) 隋唐(叩き台は 631) 五代十国宋遼金 元 明 清(後金含む) 尚、考慮する武将は、 中国式の王朝名・元号を用いて、所謂中国本土に存在した政権に所属する武将とする。 638 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 00 09 52 ID ElXf7rNg0 周亞夫イラネと思うが、取り敢えず一巡してからにしよう 慕容紹宗と陳慶之は取り敢えず両方入れておいたら? 639 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 02 29 03 ID HBapRhcR0 __ /;;;;;;;;;;;;;\ /;; \ ∈=━/,,;; .;ヽ━=∋ L ;;,__ .. ゝ //;;;; .. ̄ ̄ ̄ ̄.. ;;;ヽ / ;;;;;;;; ;;;;;;;;;;;;; ;;;;; ヽ /j/三三三三三三三三三三ヾ l || |l / ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′|| r┤ ト \___/ || / \_/ ヽ . \/ ,ノ | _( ̄ l―---oo-―― "ヽ__ | _)_ノヽ\ ハ // / ヽ ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ 朕の活躍した時代から以下の十名を推薦する。 諸君ら、よく議論をするように。 元朝 脱脱 元朝 拡廓帖木児 大宋 毛貴 大明 徐達 大明 常遇春 偽漢 趙普勝 偽漢 張定辺 偽呉 張士徳 偽呉 呂珍 偽夏 戴寿 640 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 02 50 44 ID 2AsaXJ4u0 元末明初か。 だったら朱元璋自身も入るんじゃないかな? ついでに唐の太宗以降~五代初期を出してみる。 薛仁貴 劉仁軌 裴行倹 高仙芝 郭子儀 李光弼 顔真卿 張巡 王式 黄巣 朱温 李克用 あと候補として李晟、安録山とか。薛仁貴の息子の薛訥なんかも結構活躍してる。 安録山は結構用兵上手いんだよね、意外にもって感じだが。 黄巣は朝廷にとっては死神だったが民衆からは結構支持されてるから入れた。竇建徳と並ぶ中国二大義賊って感じか。 641 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 02 57 03 ID /cSZNafN0 史思明もいれてくれ。 河朔三鎮の割拠を決定的にした、安陽の大勝利をもたらしたから。 唐軍は郭子儀が率いていたにも関わらず大敗し、権威の失墜と軍団の瓦解とで、息の根止められる寸前だった。 史思明が安録山と同じ末路を辿らなければ、憲宗の中興も本来ありえなかったわけで。 さらに唐末なら、高駢、諸葛爽も候補としよう。 華麗な戦術はないけど、兵士に慕われた楊復光もいけると思う。 642 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 03 07 38 ID kvazzbFB0 47戦全勝、32城を落とし、洛陽を陥落させる 普通にすげーと思うけどな…陳慶之 宇宙大将軍も撃破してるし 643 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 03 10 36 ID 2AsaXJ4u0 じゃあ朱温と李克用を五代にまわして、余った二枠に入る候補をそれぞれ挙げてみるか? でも五代って結構名将多いんだよなぁ。最後の最後で郭威とか柴栄とか出てくるし。 ところで王彦章は名将だろうか? なんか個人的には猛将然としたイメージが強いんだが。 644 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 03 53 01 ID 2AsaXJ4u0 連投。 隋末唐初ってまさか俺の叩き台で確定? みんなもっと議論しようぜ。そのためのスレなんだから。 645 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 04 05 23 ID LmEchPU60 南北朝で太武帝は入らないかのか?華北を統一した実績では曹操や王猛に 匹敵すると思うが。 646 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 05 12 44 ID 2AsaXJ4u0 道武帝は建国者だから別格扱いだろ。 確かに太武帝は北魏の黄金時代を築いたが、おじいちゃんがいなけりゃまず国そのものがまだ出来てないだろうし。 まぁ、慕容紹宗と一緒に候補として入れとくってことでまぁ我慢してくれ。 647 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 07 35 36 ID vkeQVhwr0 アンカーってどうやってつけんの? ここまできといていまさら聞くのもなんだが。 646 とかやればいいのか? 648 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 07 39 40 ID vkeQVhwr0 自己解決。 なんだ簡単なことだったんだな。 649 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 10 16 48 ID /cSZNafN0 643 朱温、李克用はこの際五代まわしがいいと思う。実際五朝期最初の好敵手なわけだから。 はっきりいって、十人枠で足らないのは五胡も南北朝も五代も一緒ですよ。 どう叩くかが問題ですな。 王彦章は後でも言及するけど、随一の猛将にして戦術にも長けた名将と言えると思う。 呂布が冷静さと遠謀をもった感じ。 644 自分は概ねそれでいいと思う。 隋唐初は認知度高い時期だから、議論がないのはそれでいいってことでは。 ま、李世民を破った薛仁杲とかもいいかなと思うけど、どうも人望がなかったようだし。 ああ、李密を滅ぼした王世充がないけど……いらんか(w 650 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 13 17 10 ID LmEchPU60 李密や竇建徳って百人のなかに入るほどとは思えんが・・・ この二人が入るなら三国の劉備や孫策あたりもってことにならんか? 651 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 14 40 28 ID PbUFYvYc0 いつの間には時代が進んでいるな 652 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 18 05 10 ID njmxgfsr0 650 同意 項羽が「猛将」というくくりで、「名将」に選ばれない基準って、いったいどんな評価基準だよ? 個人武勇ばかりに目が行ってて、肝心の戦歴、勢力の強大さ等、見落としすぎじゃないか まあ、あとでじっくり煮詰めればいいだけだろうけど 653 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 19 49 23 ID r0Tdw8/l0 631 隋初に楊素がいないのは納得できん。 あと、李密と竇建徳は外していいのでは? 654 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 19 58 57 ID 1gq8m8gw0 650 じゃあ竇建徳に代えて代理人の楊義臣を入れるってのはどう? 李密に代える人材は今んトコわからん。保留。 655 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 20 29 42 ID r0Tdw8/l0 654 劉黒闥はどうだろう?唐軍をさんざん苦戦させた闘将。 656 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 20 53 15 ID 1gq8m8gw0 655 「兄貴を殺しやがって」の義憤に燃えて唐の天下統一を三年遅らせたど根性将軍ですな。 しかし兄貴分の竇建徳外すのに劉黒闥はどうだろ? とりあえずこれまでの流れをまとめると、 隋初 韓擒虎 賀若弼 達奚長儒→楊素(ほぼ確定) 隋末 張須陀 竇建徳→楊義臣(?) 李密→劉黒闥(?) 唐初 劉文静 李孝恭 李靖 李勣 こうか。さすがに唐初は不動かな。 657 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 20 58 52 ID 1gq8m8gw0 656 また間違えた。 劉文静→李世民で 658 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 21 58 29 ID /cSZNafN0 李密を下げる必要はないと思うけどな。 自身は八柱国の貴族階級でも、それを背景にせず、無数にある群盗勢力のひとつに身を置き、それこそ曹操を凌ぐ才覚でもって隋朝の動脈を得る位置に割拠し得たわけだから。 当時最強だった張須陀に勝ったという点でもかなり高いレベルの将だったと言えると考える。 ただ、マイナス面があるとすれば、王世充に敗れたこと。 ここは、自身の力量を野心・矜持が上回っていたことが根本にありそうで、ナンバー2として一歩下がっていれば大成もしたかもしれない。 659 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 23 44 39 ID r0Tdw8/l0 656 純軍事的には竇建徳より、 劉黒闥の方が有能なんじゃないか? 竇建徳は用兵より、政策で衆望を集めたイメージがある。 660 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 23 47 51 ID kvazzbFB0 658 李密は武将というより軍師という気が 配下に徐世勣(李勣)とかいたからその分は差し引いてもいいのでは 戦術では張須陀を討ち取ったりしたけど 戦略では長安取り損ねたり、興洛倉にこだわり過ぎたりして失敗している もし楊玄感が李密の策を採っていれば別の歴史があったかも 661 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 00 00 11 ID /cSZNafN0 660 もし楊玄感が李密の策を 一流になり損ねた陳宮みたいなもんか。 それで終わらなかったからすごいわけだけど。 たしかに軍師。 というか、官僚として軍事権を掌握する最高位にいる、という図式がすごく似合う。 李世民のように先陣に身を置くのではなく、帷幄(本陣)にいる感じか… それにしても、自分はあまり李勣を評価してないので(重要なときに負けている。李密敗退のときも逃げ出したっけ) その分、李密をヨイショするのかもしれん。 662 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 00 04 26 ID LNtR5yVA0 660 李密は策が多いわりに陣頭指揮を好む武将だったので、 配下に徐世勣が居た分は差し引かなくても良いかと。 徐世勣とは途中から別行動をとっているし。 663 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 11 00 05 ID kz89ZwRj0 李密は混乱期に良く出る梟雄タイプの人間で、名将って感じでは無いような・・・。 664 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 11 15 48 ID dy0wg8hL0 すまん、高句麗(満州地方)は隋唐時代に入るんかね? 入るとしたら、淵蓋蘇文もノミニーしたいなあ 李世民に屈辱を味わわせた数少ないひとりだと思うんだが 665 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 12 03 25 ID lrR0tlsm0 663 たしかに梟雄だね。 そいつがいたから、次に統一できるヤツが出る。 というのがセオリーというかデフォというかだもんね。 唐時代を前後に分割するのであれば入るだろうし、分割しないのであれば残念だけど外すか。 666 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 15 25 35 ID dy0wg8hL0 隋末~中唐までの枠は15人くらいに広げないと納まらんかもね 世界帝国突厥との覇権争い、高句麗征伐とかなり戦争地域が拡大しているし まあ、100選だから最終選考で振るえば良いだけのような気もするけど 賀若弼(隋) 楊素(隋) 楊義臣(隋) 李世民(初唐) 李孝恭(初唐) 李靖(隋~初唐) 李勣(魏~初唐) 薛仁貴(初唐) 郭子儀(盛唐) 10傑漏れ? 韓擒虎(隋)→匹夫の勇? 戦略面での才覚が不明 張須陀(隋)→敗死がやはりマイナスか 叛乱軍相手には無敵だったが、正規軍相手には? 李密(魏) →器用貧乏 隋末最大勢力を築くも崩壊が早すぎた 竇建徳(夏)→名将と言うよりも、仁政家? 劉黒闥(夏)→突厥と結び山東勢力を結集して、徒手空拳の身で唐への対抗勢力を築いたのには驚嘆に値する 安禄山(盛唐)→弱体化していた平時の唐軍相手の快進撃だから、若干マイナス評価 史思明(盛唐)→同上 ただし、軍事的手腕ではやや上か 李光弼(盛唐)→郭子儀入れると、落とさざるを得んな 他にも、劉仁軌、裴行倹、蘇定方、高仙芝、顔真卿、顔杲卿・・・・こりゃあまとめるの無理じゃないか? 667 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 16 27 22 ID lrR0tlsm0 こう並べられると目が覚める思いがするな。 郭子儀の対抗馬という意味合いでも、安録山は入れるとして(こやつは突厥や新興の契丹、高句麗系渤海の前身などなどとさんざん戦いまくっている歴戦の勇者。隋・唐初の府兵兵士ならいざ知らず、単なる募兵によって集った、にわか混成部隊の唐軍など足元にも及ばなかった) どうしても削るなら史思明の方を… 賀若弼と韓擒虎はセット的な気もするな。 両方はずしで…w 張須陀は隋末期の群盗隆盛乱舞状態を、ある程度篩いにかけた意味合いが大きいので、入れて欲しいところ。 顔真卿もいろいろ見ていると、たしかに硬骨漢でいいんだけど、彼の幕下に無名ながら清河から来た官吏で、李萼というのがいて軍師的な役割を果し、顔真卿の平原と清河のラインで強硬な防衛戦が展開できたそうな。 その後の身の振り方、平原の政策も李萼によるところが大きく、しかも顔真卿が李萼を見出したわけでなく、李萼が顔真卿に目をつけた感じ。 かっこいいコンビだけど、人数制限なら外すしかないかも。 ちなみに、中華政権が対外戦争したとき、それを撃退した外国の武将は入れたほうがよいかと。 さらに、李克用を五代に入れろとかぬかした張本人ですが、よくよく見ると五代期突入して1年目で死んでるんですよね… 唐末に入れてあげてください。 668 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 16 33 14 ID lrR0tlsm0 667 すまん。 外国の武将は入れたほうがよいかと やっぱり訂正。 横文字入られるとNGもいいところと気づいた。 もう少し慎重にならなければ… 669 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 16 45 19 ID JKDF8Iag0 張須陀は、国が破綻寸前で戦略面の制約があって、 戦功の割に、物資・人員面での援助が少なかったこと から考えれば名将に入れても良いのでは? 670 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 20 38 48 ID 8MR3EGxR0 669 敗死と大局を動かせなかったことが減点材料だな。 確定とまではいかない、候補止まりだと思うが。 671 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 20 52 13 ID 0e4QL0l50 張須陀は、厳しいことを言うと、その軍事活動によって歴史にほとんど影響を与えていないことだな。 672 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 20 59 04 ID YE4PqiX80 薛仁貴(唐初)までで一区切りしたほうがよくない? 隋から一気に郭子儀の時代までカバーすると、人数的に相当無理せにゃならんと思うが。 673 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 21 36 57 ID lrR0tlsm0 671 え~? それでいくなら、謝玄を外す理由が… 674 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 21 37 33 ID bD3yaGQI0 張須陀は、秦末の章邯みたいな感じだよな 李密が入らないなら、張須陀も入れるべきではないと思う 賀若弼と韓擒虎は確かにセットで外したほうが良いかも 平陳の軍事的功績を考慮すると、楊素が代表選手で問題ないだろう ここら辺は、西晋の平呉の役の功績争いと似ているな (一番の栄誉は、現場の将軍ではなくて、作戦の企画立案者に与えられるべきだろうしね) 一瞬、このまま行くと李世民が落ちるんじゃないかとビクビクしてた プロテクトかけるべき武将を確定しといた方がいいな 675 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 21 56 51 ID 7zGSTAs70 賀若弼は戦略的センスもあるし、 平陳の役の最大の功労者。外すには惜しい。 その軍事行動が歴史にほとんど影響を与えていない点においては、 楊義臣も該当するのでは? 673 謝玄の場合、その最も華々しい勝利を敵軍の自滅で得たようなものなので、 名将百選に加えるのは苦しいと思う。 676 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 21 58 32 ID rvZQ9bm9O ここらへんの時代はあんまり詳しくないけど、 後漢時代の選定が光武帝絡みの人物が多くなるのと一緒で 凌煙閣の二十四功臣とかの太宗関係の人物でほとんど埋まっちゃうんじゃないの? 677 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 22 01 38 ID 7zGSTAs70 突厥を破り、林邑を攻略した劉方も候補として挙げてもよいのでは。 678 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 22 02 02 ID YE4PqiX80 盛唐~晩唐 640 から 裴行倹 高仙芝 郭子儀 李光弼 顔真卿 張巡 王式 黄巣 朱温 李克用 をひっぱってきて、朱温は五代に入っても李存勗相手に暴れてるからそっちに。 郭子儀とかぶる所が多い李光弼も候補に下げて、交代で安録山を入れる、と。都合9名。 10人目の候補として李晟(息子のほうがいいか?)、薛訥。五代に入る前に処刑されてる李存孝も候補でいけるか。 641の挙げた高駢、諸葛爽、楊復光も候補に控えてもらおう。 個人的には張須陀、李密は二人とも入って欲しいな。張須陀の戦功は隋の名将たちに劣らんと思うし、李密は三日天下とはいえ一度は天下に手をかけたわけだから 679 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 22 37 36 ID lrR0tlsm0 678 顔真卿を落として李存孝を一押し。 多少身の振りに問題はあろうが、後梁に対しての脅威ぶりは圧巻だし。 歴史を動かしたと言うほどではないが、潞州、邢州といった要地の確保に絡んでいるし、その死後(刑死後)李克用勢がいきなり落ち目になったのは有名だから。 王式ってどんな人だっけ? 李晟や李愬か… 対節度使戦線だと、憲宗の指導力を一押ししたいのだけどな。 ふたりとも捨てがたすぎる。 で、候補として高駢とかにくらべイマイチな諸葛爽は切り捨て、代わって鄭畋をいれようか。 忘れていたけど、この人の呼びかけで反黄巣包囲を敷いて長安を一回回復している。 いろいろ軋轢があり、最後は宦官に憎まれ殺された。前時代の英雄という感じか。 そのあと、唐は沙陀の李克用を招いた。つまり自力ではどうしようもなかったということ。 680 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 22 44 25 ID 7zGSTAs70 676 顔真卿と張巡は外してもいいんじゃないかなあ? 二人とも戦歴不足で一発屋感がある。 代わりに史思明と李観を入れたらどうだろう。 李観は吐蕃や藩鎮との戦いで功績のあった名将。 681 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 23 04 01 ID YE4PqiX80 679 王式は裘甫の乱平定の立役者。 860年1月、裘甫は困窮にあえぐ農民や賊徒を集め、剡州に割拠して旗揚げ、翌月には浙東地方の官軍を粉砕して現地を占領、群盗や亡命の徒を取り込んで3万の大兵力を擁するに到る。 山東地方全域を版図に納めて唐朝との対決を明らかにした裘甫撃破のために起用されたのが当時安南都護経略使だった王式。 王式は速戦即決を上奏して裁可を得、官軍の精兵と江淮に住んでいた吐蕃・ウイグル族を用いて騎兵隊を編成、速攻で現地民衆のために官戸を開き、反乱軍中枢と飢餓のためやむなく決起した民衆を隔絶、 (このときは反乱軍の策士・劉暀が唐朝の財源地を押さえる寸前で、王式が出征してなかったら唐朝の命脈はヤバかった) 追い詰められた裘甫は女軍までも繰り出して抵抗したが王式は3日間で83戦して83勝、この叛乱を平定した。 ・・・以上はおもにアジア歴史事典「裘甫」の項からの転用。《旧唐書》、《新唐書》に書かれてる王式の項はごくごく短く、裘甫・銀盗の乱を平定した、としか書かれてない。 682 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 01 39 55 ID 760Ds2l6O 劉文静の軍暦教えてください。 小説十八史略での謀臣としての活躍しかイメージがないもので 683 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/17(日) 02 35 41 ID Yd96qdjE0 劉文静 権門の出身。容貌魁偉で卓越した知略と遠謀を備える。 李淵の太原起義から一貫して唐の臣。大将軍府が置かれると軍司馬に任命される。 屈突通討伐に出征、丸半日をかけて数千人を討ち取る。屈突通が数万の兵力を擁して東都に撤退すると諸将に命じてこれを追撃、 自らは新安から以西の版図を切り取り、平定。功績により大丞相府司馬、魯国公。 薛挙が涇州を犯すと李淵直々の命でこれを討伐。副将殷開山の策を容れて速戦即決に出るが失敗、大敗して逃げ帰る。 官爵を削られるもまもなく李世民の副将として再び薛挙討伐に出陣、討伐に成功し官爵を復す。 同輩の裴寂にねたまれ讒言により死刑となる。死後詔書左僕射を追贈された。 他にもいろいろ活躍してるし建策もしてるんだけど、目に止まる功績っていうと屈突通討伐と薛挙討伐の二つ。 巴蜀の三十余州を降しさらに岒南49州を招撫、輔公柘を討伐して揚州大都督に任命された李孝恭に比べると劣るか。 ・・・まぁ、謀臣としては申し分のない人物ではある。他にもこんな功績あるよーって人、補完よろしく。 684 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/17(日) 02 44 13 ID Yd96qdjE0 683 変換ミス。詔書左僕射→尚書左僕射です。すんません 685 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 04 57 37 ID a7+dVwEY0 安禄山が入っているのは北方での活躍によってなのか? 686 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/17(日) 09 31 19 ID 2yc7CQf6O http //look2.jp/1995/ 687 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 11 11 15 ID Aw3FNLBr0 名将百選は、マイナー武将を推挙する場所ではござらん 隋から、楊素、賀若弼、張須陀 唐初から、李世民、李孝恭、李靖、徐勣 以降から、薛礼、裴行倹、郭子儀 候補で 隋から、劉方、韓擒虎、張須陀、楊義臣 群雄から、李密、竇建徳、劉黒闥 初唐以降で、蘇烈、劉仁軌、高仙芝、李光弼、顔真卿、張巡、安禄山、史思明、李愬、王式 唐末で、黄巣、李克用、李存孝 マイナー削っても、ここまで残るとは (でも王式レベルで候補に上げられると、晋の劉弘も候補に挙がってしまうような) 688 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 11 39 33 ID 8te71jpe0 687 名将にマイナーもメジャーも関係ないだろ。馬鹿? 689 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 11 56 38 ID ToAqQ+mL0 周亜夫を外せとか李密入れろとか言われると何か勘違いしてるなとは思うw 690 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 12 07 07 ID nAZZOTwH0 内乱を鎮圧した将と、混乱期に割拠した将を同列に見るのもおかしいと思うが。 それにマイナーって何を指してマイナーと? 691 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/17(日) 18 09 17 ID hzfcjqZe0 知名度が高くない香具師ってそれなりの理由があるんだよね 自分の得意な時代で候補を大量に挙げてから名将10人に絞り込んでいってみ? 理由がわかるだろう。 692 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 19 54 08 ID BuX8wVVS0 経冪は? 693 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 00 22 56 ID fucBJHAw0 691 誰、それ? 人名を挙げる時は、戦績を教えてくれるとありがたいな。 694 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 00 39 07 ID o4R9z5VP0 戦績と歴史的意義(戦略に果した役割とか)、勢力における重要度とか、そういったことは、出揃ってからでもいいような気がする。 今はマイナー(これがよくわからんが)でも戦功のあるヤツなどを挙げていけばいいんじゃないか? 695 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 01 01 47 ID Ua43b9FXO 691 後漢魏晋南北朝まで広げても知名度で選ぶと三国志演義補正で10人埋まりかねんがそれもあり? 696 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 01 32 00 ID CULbPcSC0 日本での知名度=戦績・功績だという前提に無理があるだろ。 697 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 02 55 17 ID GsR7y1RC0 講談補正を除けばだいたい功績と知名度は相関関係にあるんじゃね? 698 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 07 24 21 ID CULbPcSC0 例えば、李牧なんかは、田中某氏が取り上げたのが知名度が上がる 契機になってるけど、それ以前と功績に違いでも出たのか? 699 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/18(月) 12 49 24 ID xkzEVeN40 695 ただ単に知名度で選ぶなんて、誰も言ってないだろ? 一番大切なのは名将かどうかって事 700 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 12 59 23 ID so9J8RcB0 関羽だけはいれてくれ 701 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 14 09 07 ID o4R9z5VP0 695 伝があればマイナーではないよね? 一応、確認しておくが。 702 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 18 43 24 ID KuN+hWBI0 マイナーな奴を外していくと、 認知度の低い時代の武将がいなくなってしまう。 武勲が大きければ、どんどんノミネートしてもいいと思うんだが。 703 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 19 21 24 ID DZYXAlq60 どうして初唐に尉遅恭がいないんだろう? 単なる猛将扱いなんだろうか…。 704 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 19 44 57 ID CULbPcSC0 703 個人的な武勇も、騎兵を指揮する将としても、歴代最高クラスだと思うよ。 705 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 20 31 43 ID KuN+hWBI0 703 単独で軍を指揮したことが無い将を入れると、 「じゃああいつも入れろ、こいつも入れろ」と 収拾がつかなくなるからじゃないかなあ。 706 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 20 45 55 ID o4R9z5VP0 705 尉遅恭は一隊の指揮官じゃなかったっけ? でも、その功績は李世民であらわすこととしているのだと、自己完結していた。 数が多いからね。 それにしても、軍制度の転換期である中唐~末期になると、ほうぼうに軍功のある「武将」が登場しまくるけど 魏晋南北朝のような、一方面を確実に安定的に任せられた将が極めて少ない。 よって、軍功の蓄積という面で劣り、実に選抜しにくく、また数が多くなってくるのはどうしたもんか。 制度的に、局地戦で有能な将が、継続して辣腕を発揮できなくなっているのだ。 一発屋と上でも言っているが、制度がそうさせている。 707 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/18(月) 21 12 54 ID j7QksZf7O 指揮官としてはやっぱり尉遅敬徳よりかは李靖や李セキの方が上だと思うけど 708 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 21 45 59 ID fGsA1XjR0 個人的武勇より方面軍司令官としての功績で言えば 707の言うとおりだな。 李靖は突厥の騎馬民族相手に勝っているし 李勣は高宗期に高句麗を占領している。 後、処世術で言えば太宗の左遷命令の意味を逸早く察知して難を逃れて 武則天立后に消極的賛成して天寿を全うできた李勣が一番だと思う。 尤も、孫の代で水の泡と化したが。 709 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 01 58 17 ID etSAw/KpO 683 遅くなりましたがありがとうございます 710 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 02 00 05 ID s6AxRV8Q0 702 認知度が低い時代でも、この時代ならこいつって奴がいる だけど頭おかしい人はわざわざそういう奴を外して武勲の伴わない奴を入れたがる。 711 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 08 46 37 ID LH1xMiZn0 710 確かに。知名度低い時代でも「こいつは間違いない」って人物は何処に行ってもいる。 でも 702の言う 武勲があればどんどんノミネートしてもいいと思う、ってスタンスも間違ってないと思う。 「100傑入りは無理だろうけど存在を無視するのは惜しい」って人物はそれこそ腐るようにいるし。 それに、隠れた名将を見つけたらそれは自分の胸のうちに仕舞って置くよりみんなに公表して宣伝したほうがいいと思うんだ。 つーわけで。26史に伝がなくてもいいよね。 今俺は『十国春秋』って26史外の資料漁ってるわけだが、ここで名将を見つけたらどんどん紹介していきたいのでよろしく。 709 どういたしまして。 712 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 09 54 13 ID nWXLFNsB0 711 先輩とよばせていただきます。 十国は呉~南唐にしか、今んとこ興味なく、あんまり読んでない(読めない)から 米志誠や周本以外のかっこいいの期待してます。 713 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 19 34 17 ID oXMArno70 どうでもいいけど、韓擒虎ってどう考えても本名じゃないだろ。 この時代はよう知らんけど、こいつの名って明らかにされてんの? 714 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 20 19 17 ID q6fRrMUJ0 713 隋書韓擒虎伝には「名は擒。字は子通」とあるが、 注では「本名は韓擒虎」だが、 唐の人は諱を避け、『虎』の字を省いた」とある。 715 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 20 24 16 ID ir9idvLR0 712 先輩は面映いので同輩で。 俺も漢文自在に読めるわけじゃなし、読書スピードそんなに速くない。正確な訳とも無縁だし。 しかし周本の名が先に出るとは。一応隠し玉にとっとくつもりだったんだが。 716 713 sage 2006/12/19(火) 21 33 48 ID oXMArno70 714 すげぇ名前・・・ てっきり虎を捕えた逸話から そんな異名がついたのかと思った。 生まれる直前に父親が虎を捕まえたとか、 生まれる直前に嬰児が虎を捕える夢を母親が見たとか、 そんな裏話が命名の裏にはありそうな気がする。 717 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 21 36 51 ID 6cX9+mS4O 凄い名前といえば、王猛の孫に王鎮悪という劉宋に仕えた名将がいますな 王猛が鎮悪っていう名前つけたらしいけど 718 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 22 13 25 ID ir9idvLR0 スレの流れが変わってきてる? 今はとりあえず隋唐ですよ、みなさん。 叩き台係としては隋唐の議論が終わるまでに十国からそれぞれ1人、2人は目星をつけときたいところ。 まぁ、 【後梁】 朱温 王彦章 【晋→後唐】 李存勗 周徳威 郭崇韜 【後晋】 該当者なし 【後漢】 郭威 【後周】 柴栄 趙匡胤 あたりは不動だと思う(民衆の反感を買いまくった李存勗は外してもいいかも)。残り二枠に誰を入れるか、だな。 現時点での有力候補 呉の周本・・・10万の楚軍を七千の精兵で大破した。のち閩・呉越・楚の三国連合二万を数百人で撃破。無学だったが儒者を尊敬し、士卒や民衆を愛し、人々からも愛された。 後蜀の趙廷隠・・・後梁から唐に降り、さらに翻って後蜀につく。蜀土平定戦で活躍した上、契丹をバックボーンに持つ石敬瑭を撃破した。 他にもいろいろいるんだが・・・まず先に隋唐を煮詰めるってコトで。 719 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 22 23 08 ID htMtA+Ae0 718 実績等で判断した場合、後周の将軍として、 趙匡胤入れるのはありだね。 720 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 23 14 32 ID nWXLFNsB0 715 同輩ですか。 よろしく頼みます。 周本の説明に、「周瑜の子孫」を入れると、さらに箔がつくかと(関係ないか) 隋唐は、まず前半のを削って、後半のを入れるようにしないと。 隋初 韓擒虎 →候補へ 賀若弼 →候補へ 楊素 隋末 張須陀 竇建徳→楊義臣(?) 李密→劉黒闥(?) 唐初 李世民 李孝恭 李靖 李勣 盛唐 裴行倹 高仙芝→この際外すか…? 郭子儀 李光弼→郭子儀と合体(候補) 顔真卿→候補へ 張巡→候補へ 唐末 王式→? かわりに李存孝あるいは高駢。 黄巣 李克用 結果、隋唐期で 楊素、張須陀、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、黄巣、李克用、(李存孝or高駢) 687とはちょっと違うけどこんな感じ? 721 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 23 29 27 ID k53fwgLn0 黄巣は名将に入れるにはかなり抵抗が 722 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 23 34 18 ID ir9idvLR0 720 薛仁貴が、俺的名将ベスト10に入る薛仁貴がいませんよ!? ここは裴行倹か黄巣に譲ってもらわにゃ。 723 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 23 36 09 ID 6cX9+mS4O 劉方はやっぱ無理かな… 724 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 23 41 44 ID f9E/gEPy0 687がマイナー論議の発端になってるけど 荒れるような人選ではないよな 687から張須陀外して、李克用だな 725 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 00 17 08 ID OKqabo840 李存孝もこの際、功績は李克用に帰すとして、高駢は個人的には欲しいところ。 晩年はアレだけど、華南での文鎮っぷりは無視できないし。 で、黄巣削って薛仁貴(忘れてた… なんで無いかな) 現在 楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、薛仁貴、裴行倹、郭子儀、李克用、高駢 …10人枠だと、こざっぱりするね… 726 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 01 26 00 ID aNCmPep50 五代十国・参考までにこんな人物も。 十国春秋【後蜀編】 趙李良・・・孟知祥の軍師。蜀土統一のために西川節度使董璋を徹底的にこき使い、ポイ捨て。キレて牙をむいた董璋を鮮やかに討伐した。 王環・・・世宗(柴栄)の派遣した後周軍を撃退、本腰を入れて親政してきた世宗の軍を百日に渡って拒むがついに落城、直々に誘降されて後周の臣に。 こんなもんで。まだ後から南漢ぐらいまでしか訳せてないんです、すんません。ちなみに閩と北漢には名将不在。 727 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 01 28 00 ID aNCmPep50 726 後って何処の国だ、俺。呉の変換ミスです。なにとぞ寛大な心でね、テキトーに笑ってやってください。 728 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 01 58 39 ID nxL6uTJp0 北漢には名将不在。 つ楊業 729 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 02 04 33 ID aNCmPep50 728 楊業は北宋の名将扱いらしいよ。 十国春秋には楊業の名前は欠片も載ってなかったし、楊業の本格的な軍事活動は北漢降伏後でしょ。 契丹に後援されてた立場と契丹相手に奮戦する立場ではまったく逆だし。楊業は北漢朝廷に飽き飽きしてたっぽいし。 宋の名将にはまちがいなく絶対入れるから許して。 730 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 07 48 29 ID L0wB2fLV0 高仙芝は百人に入るほどの名将ではないかもしれんが、 自分としては欄外か番外で入れておきたいところだな (多分)一番遠くで戦った将軍でもあることだし 731 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 08 34 01 ID rtTkMZGj0 720 安禄山,史思明は? 732 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 08 37 10 ID rtTkMZGj0 随唐で一つにまとめるの? 随末唐初と、中唐以降は分けてもいいと思うんだが。 733 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 10 02 46 ID PWEFyPx10 732 賛成。実際唐初までと盛唐で2つ叩き台出したし。 隋から唐末までを一括りにするとランキング漏れの武将が多すぎる。 特に隋末動乱期からのエントリーがないのはどうしたものかと思うし。 どうせあとで100選するときに篩い分ければいいんだし、現時点では2期に分割、でいいんじゃない? あ、仕事遅刻するわ。そんじゃまた夜に。 734 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 10 40 32 ID k61fKPRFO 730 流石に郭侃の方が遠くに行ってるだろ 735 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 11 14 56 ID SYrbq0Ds0 「分割しようぜ・後で絞れば良いんだから」は大抵は言いっぱなしで絞れずにグダグダになる。 100選なんだから選考基準や枠は厳しくて当たり前。 736 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 12 17 59 ID zo5VhKRZO このスレで結論出すなら厳しくしないといけないけど この後次スレとか立てるんなら選考基準や枠はなるべく緩くしといて なるべく沢山の候補を挙げることが出来るようにしといた方がいいと思うけど。 737 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 12 31 55 ID OKqabo840 736に賛成。 その方が、知的好奇心が満たされやすい。 735が、そのグダグダにならないよう、最後に締め上げればいいのと違う? と、いうわけで古代(あるいは中世)最大の王朝、隋唐から以下をランキング。 隋初 韓擒虎 賀若弼 楊素 隋末 張須陀 竇建徳→楊義臣(?) 李密→劉黒闥(?) 唐初 李世民 李孝恭 李靖 李勣 薛仁貴 盛唐 裴行倹 高仙芝 郭子儀 顔真卿 張巡 唐末 王式 高駢 黄巣 李克用 李存孝 723 劉方ってどんな人だっけな? 黄巣を外していれてもいいよ。 で、安録山もいれたいのだけど… さぁ昼飯。 後は夜に… 738 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 14 48 07 ID jnMNE7dE0 1スレで暫定的にでも決めておくつもりじゃないと、いつまでもまとまらなそうだ。 大量に挙げるのはいいが、きっちりまとめておいてくれ。 739 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 14 55 22 ID L0wB2fLV0 734 いや、郭侃はモンゴル帝国の武将だと思ったから・・・ 「中華王朝の武将の中で」が抜けてた 740 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 15 14 09 ID 5yLXNnrV0 737 どうして盛唐の候補に劉仁軌と李光弼と安禄山と史思明が入ってないんだ? 741 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 19 57 15 ID b3Reonmp0 関羽は? 742 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 20 00 46 ID OKqabo840 726 ふと気づいたけど、後蜀のその人「趙季良」ですよね? 王環は、粘り腰のある将ですよね~。 李廷珪なんかもその点… どうなんだろうか(よく知らんし) でも、秦・鳳の奪回戦は、柴栄の意(般若のイメージw)を受けた趙匡胤にはっぱをかけられて、涙目で相手の糧道を断って勝利した、王景のほうをこそ誉めるべきなんでしょうね。 738 隋唐を二分割するんでしょ? だったら20人ほどの一応のランキングだし、まとまってないこともないと思うけど。 もっとうまくまとめられるのなら、お任せしますよ。 740 入れたいのはやまやまだけど、そこは人数の壁というものがあって… 743 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 20 04 13 ID +L+CkykA0 いきなり100人は多すぎ。 名将とは言い難い良将程度のやつらがランクインしている。 744 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 20 43 23 ID iZt1LpJM0 特定の時代に偏らせるなって1に書いてるから隋唐で20人枠は反対。 最初に決めたことは守ろうや。 745 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 21 31 33 ID xQdnTEt70 自分の好きな時代は、あいつもこいつもいれたくなる。 五胡と南北朝だって、めちゃめちゃ良い武将いっぱいいるのに 泣く泣く削ったんだ。 10人枠は守ってくれ。 746 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 22 25 33 ID OKqabo840 おいおい、二分割する言ったから 737にしたんじゃないか。 10人枠というなら、 725でよかったんじゃないのか? どっちもおれが書いたんだけど。 どっちにするのか決めてくれ。 747 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 23 17 30 ID vd7Yla4B0 746 安禄山、史思明が入らないのに高駢を入れる理由が解らん 楊素、張須陀、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、薛仁貴、裴行倹、郭子儀、李克用 唐朝開闢の名将4人が固定状態だから、その下の連中で荒れるんだよな 上の4人は、百選で順位つけても上位に来そうだから、思いっきり割を食ってるな、この時代 748 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 23 40 04 ID /MzsbUtC0 742 そのとおり、趙「季」良です。指摘されても10秒ぐらいwhy?状態だった。誤字多いな、最近。ボケてんのか、俺。 749 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/21(木) 00 28 23 ID RwOENkKG0 今はまだ10人に削らなくてもいいんじゃないの?これ以上候補者が出ないのだったら、 次の時代に移ろうか? 750 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/21(木) 00 35 43 ID PHuxV8+X0 懲りずに十国春秋から【南漢編】 蘇章・・・兵法に通暁した南漢随一の名将。楚軍に戦艦100艘で囲まれたとき、強弩隊を率いて敵中突破、囲みを解いて悠々と撤退した。 潘崇徹・・・兵書を好む知略の人。宋の南侵に対し大将の潘美を破って救国の英雄と称えられるも、南漢に見切りをつけて宋朝に降った。 あとこの国は二代目の高祖・劉龑がかなりすごい。自ら江東の塞70余を破って版図を拡大した、ってぐらいだからかなりの猛者。
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唐書巻八十三 列伝第八 諸帝公主 世祖一女 高祖十九女 太宗二十一女 高宗三女 中宗八女 睿宗十一女 玄宗二十九女 粛宗七女 代宗十八女 徳宗十一女 順宗十一女 憲宗十八女 穆宗八女 敬宗三女 文宗四女 武宗七女 宣宗十一女 懿宗八女 僖宗二女 昭宗十一女 世祖に一女があった。 同安公主は、高祖の同母妹である。隋州刺史の王裕にとついだ。貞観のとき、尊属として大長公主に進んだ。にわかに病んだが、太宗みずから訪問し、縑(かとり)五百を賜い、乳母らには皆物を賜った。永徽年間(650-655)初頭、実戸三百を賜り、年八十六で薨去した。 王裕は、隋の司徒の王柬の子で、開府儀同三司に終わった。 高祖に十九女があった。 長沙公主は、馮少師にとついだ。 襄陽公主は、竇誕にとついだ。 平陽昭公主は、太穆皇后から生まれ、柴紹にとついだ。かつて、高祖が兵を興したとき、公主は長安にいた。柴紹は、「あなたはまさに出兵して京師を鎮めようとしています。わたしも行きたいです。お願いですからお供できませんか、どうでしょうか?」といった。公主は「あなたは行きなさい。わたしは自分のはかりごとを実行します」といった。柴紹は間道を抜けて并州に逃れ、公主は鄠に逃れて、家財を発して南山の亡命者を招き、数百人をえて帝に呼応した。ここにおいて大賊である何潘仁は司竹園を根拠として行人を殺して総管と称した。公主は家奴の馬三宝を遣わして説諭してこれを降伏させて、ともに鄠県を攻めた。また別の部賊の李仲文・向善志・丘師利らをそれぞれ所領をもって旗下につかせ、よって盩厔・武功・始平を攻略してこれを降伏させた。法の遵守を部衆に誓わせ掠奪を禁止したから、遠近みな服し、兵七万となり、威は関中に振るった。帝は黄河を渡ると柴紹は数百騎で南山に並んで迎えた。公主は精兵数万人を率いて秦王(太宗)と渭北に会した。柴紹と公主はならんで幕府を設置して京師の平定にあたり、娘子軍と号した。帝が即位すると、功績によって物を賜うこと果てがなかった。 武徳六年(623)に薨去し、葬列の前後に羽葆・鼓吹・大路・麾幢・虎賁・甲卒・班剣の礼を加えた。太常は議して「婦人の葬は古より鼓吹はありません」といったが、帝は従わず、「鼓吹は軍楽である。かつて公主は身に金鼓をとって、参軍して命をたすけた。古にこのようなことがあったか?だから用いるべきだ。」と言った。 高密公主は、長孫孝政にとつぎ、また段綸にとついだ。段綸は、隋の兵部尚書の段文振の子で、工部尚書・杞国公となった。永徽六年(655)に公主は薨去し、「わたしが葬られるときは必ず墓を東向きにさせ、献陵を望むようにし、孝を忘れないように願いたい」と遺命した。 長広公主は、始め桂陽に封ぜられた。趙慈景にとついだ。趙慈景は、隴西の人で、帝はその姿が美しいのとよしとし、そのため彼に娶せた。帝が決起すると、ある者は逃亡を勧めたが、答えて「母は私を命としている。どうして行こうとするのだろうか?」官吏は捕縛して獄に繋いだ。帝が京師を平定すると、開化郡公に封ぜられ、相国府文学となった。兵部侍郎に進み、華州刺史となった。堯君素に討たれて戦死し、秦州刺史を贈られ、謚を忠といった。 公主はさらに楊師道にとついだ。聡明で詩作を得意とし、豪奢な生活を自らほしいままにしたが、晩年になってようやく節制した。長寿で薨去した。 長沙公主は、始め万春に封ぜられた。豆盧寛の子の豆盧懐讓にとついだ。 房陵公主は、始め永嘉に封ぜられた。竇奉節にとつぎ、また賀蘭僧伽にとついだ。 九江公主は、執失思力にとついだ。 廬陵公主は、喬師望にとつぎ、喬師望は同州刺史となった。 南昌公主は、蘇勗にとついだ。 安平公主は、楊思敬にとついだ。 淮南公主は、封道言にとついだ。 真定公主は、崔恭礼にとついだ。 衡陽公主は、阿史那社尒にとついだ。 丹陽公主は、薛万徹にとついだ。万徹は愚かなこと甚だしく、公主は羞じて、同席しないこと数月であった。太宗はこれを聞いて笑って、酒宴を開いて他の者と万徹を召喚して従容として語り、槍を握って試合して佩刀を賭け、偽って勝てないふりをし、遂に佩刀を解いて賜わった。公主は喜び、命により同じ車に載って帰った。 臨海公主は、裴律師にとついだ。 館陶公主は、崔宣慶にとついだ。 安定公主は、始め千金に封ぜられた。温挺にとついだ。温挺が死ぬと、また鄭敬玄にとついだ。 常楽公主は趙瑰にとついだ。娘が生まれ、周王の妃となると、武后がこれを殺した。趙瑰は括州刺史に左遷され、寿州にうつされた。越王李貞がまさに挙兵しようとして、趙瑰に書を与えて教え導いた。趙瑰はこれに応じようとし、公主もまた使者に進んでいった。「私は王に感謝します。ともに進みますが、退くことはありません。もし諸王らが皆立派な男であるなら、長々と留まっていないでただちにここに来るでしょう。私は次のように聞いています。楊氏が北周を簒奪した時、尉遅迥は北周のために出兵し、なおよく突厥と連合して天下を震撼させましたと。ましてや諸王は国の親族なのですから、国家は託するところで、身を捨てずに大義をとろうなど、何をしようというのでしょうか?人臣は同じく国を憂うのを忠臣といい、憂えないのは逆臣といいます。王らは努めなければなりません。」 越王貞は敗れ、周興の弾劾により趙瑰と公主は連座となり、みな殺された。 太宗に二十一女があった。 襄城公主は、蕭鋭にとついだ。性格は親孝行で温厚であり、その行動は規則を守った。帝(太宗)は諸公主に勅してみならうように命じた。役人が別第の造営を告げたとき、「婦人は舅・姑につかえることは父母のようにしなければなりません。宮を異にすれば、できなかったり欠けたりすることがあるでしょう」と述べた。そのため造営をやめて元の邸宅のままとし、門列には二つの戟があるのみであった。蕭鋭が亡くなると、さらに姜簡にとついだ。永徽二年(651)に薨去し、高宗は命婦朝堂にて挙哀し、工部侍郎の丘行淹を遣わして逓送して弔祭し、昭陵に陪葬した。喪列が故城にいたると、帝(高宗)は楼に登って望見し、泣いて柩を見送った。 汝南公主は、早く薨去した。 南平公主は、王敬直にとつぎ、王敬直が連座して嶺南に流されると、さらに劉玄意にとついだ。 遂安公主は、竇逵にとついだ。竇逵が死ぬと、また王大礼にとついだ。 長楽公主は、長孫沖にとついだ。帝は長孫皇后から生まれたことから、勅によって役人に命令して、送別の金銭を、長公主の倍の額にしようとした。魏徴は言った、「昔、漢の明帝は諸王を封じた時、『朕の子は先帝の子と同じような領地を得られるだろうか?』と言いました。ですから長公主というのは、公主で最も尊いものです。制には等差というものがあり、どうして越えることができましょうか?」と。帝は后に語り、后は言った「陛下が魏徴を厚遇する理由はわかりませんでしたが、今その言を聞ききましたが、公主を礼義上の内におさめるというのは、社稷の臣ならではの言です。妾は陛下との間は夫婦の交わりがありますが、それでも言わなければならないことがあれば、なおも顔色を伺うのです。ましてや臣下の情は特別の待遇をへだてて、あえて厳顔をおかして忠言を述べるのです。願わくはこれを許されて、天下にこれを公けにしてください」と。帝は大いによろこび、帛四百匹・銭四十万を魏徴の家に賜った。 豫章公主は、唐義識にとついだ。 比景公主は、始め巴陵に封ぜられた。柴令武にとつぎ、房遺愛の反乱計画にともに連座して、公主も同じく死を賜った。顕慶年間(656-661)に追贈され、墓に廟を立てられ、四時祭では少牢(羊と豚)をお供えした。 普安公主は、史仁表にとついだ。 東陽公主は、高履行にとついだ。高宗が即位すると、大長公主に進んだ。韋正矩が誅されると、公主は婚家に連座して、排斥されて集州に徙された。また章懐太子に連座して、邑封を剥奪された。長孫無忌の舅族であったから、武后に憎まれ、垂拱年間(685-688)、二子とともに巫州に徙し置かれた。 臨川公主は、韋貴妃から生まれた。周道務にとついだ。公主は篆書・隷書にすぐれ、文章をよくした。高宗が立つと、『孝徳頌』を奉り、帝から詔を下されて褒賞にあずかった。永徽初年(650)、長公主に進み、恩賞は他より秀でていた。永淳初年(682)に薨去した。 周道務は、殿中大監・譙郡公周範の子である。はじめ周道務は乳幼児の時、功臣の子であるから宮中にて養われた。周範が卒すると、邸宅に戻り、喪に服して身が衰える様子は成人のようであった。再び宮中に戻り、十四歳の時に宮中を出た。営州都督、検校右驍衛将軍を歴任した。謚を襄という。 清河公主は、名を敬、字を徳賢といい、程懐亮にとつぎ、麟徳年間(644-645)薨去し、昭陵に陪葬された。程懐亮は、程知節の子であり、寧遠将軍に終わった。 蘭陵公主は、名を淑、字を麗貞といい、竇懐悊にとつぎ、顕慶年間(656-661)に薨去した。竇懐悊は官は兗州都督となり、太穆皇后の族子であった。 晋安公主は、韋思安にとつぎ、また楊仁輅にとついだ。 安康公主は、独孤諶にとついだ。 新興公主は、長孫曦にとついだ。 城陽公主は、杜荷にとつぎ、太子李承乾の事件に連座して杜荷が処刑されると、また薛瓘にとついだ。 はじめ公主が結婚の時、帝は占わせた。占いには「二火みな食す。始めは同じく栄え、末は同じく悲しむ。昼の暗い時に請ずれば吉である」とあった。馬周は諫めて言った、「朝謁を朝にするのは、思相が戒だからです。講習を昼にするのは、思相が成だからです。宴会を暗くなってからするのは、思相が歓だからです。婚礼を夜にするのは、思相が親だからです。だから上下には成があり、内外には親があり、動いたり休んだりするのは時があり、吉凶には儀があります。今さきにその始めを乱すようなことはしてはなりません。占いというのは疑いや迷いを決するためであって、もし礼をけがして先に乱すというのは、聖人の用いないことです」と。よって帝は止めにした。 麟徳年間(644-645)初頭、薛瓘は左奉宸衛将軍を歴任した。公主が巫蠱のことに連座したため、薛瓘も房州刺史に左遷され、公主も従った。咸亨年間(670-674)、公主は薨去して薛瓘もまた卒した。柩を並べて京師に帰った。 子の薛顗は、河東県侯・済州刺史に封じられた。琅邪王李沖が挙兵すると、顗と弟の薛紹は所領の庸・調より兵士を募り、かつこれに応じた。琅邪王沖が敗れると、都吏を殺して口封じしたが、事は露見し、獄に下されてともに死んだ。 合浦公主は、始め高陽に封ぜられた。房玄齡の子の房遺愛にとついだ。公主は帝に愛され、そのため礼は他の婿とは異なっていた。公主愛されていたから驕りたかぶっていた。房遺直は嫡子であるから銀青光禄大夫となっていたが、弟の房遺愛に譲ろうとし、帝は許さなかった。房玄齢が卒し、公主は遺愛に財産を異にさせ、かえって罵った。房遺直は自ら申し出たため、帝は叱責して公主に譲らせたため、免れることができた。これよりよそよそしくなり、公主は心が晴れ晴れしなかった。たまたま御史が盜みを弾劾し、僧弁機が金宝神枕を得て、自ら公主より賜ったと言っていた。はじめ寺院の封地にて、公主と房遺愛が猟をし、これを見て喜び、その寺に隠れては乱交にふけった。さらに二女子を房遺愛に従わせ、食糧を横流しして私すること億を数えた。ここにいたって僧は死罪となり、奴婢十余人も殺された。公主はますますうらみ、帝が崩じても哀みの顔色もなかった。 また僧智勗は迎合して禍福を占い、恵弘はよく鬼神を見、道士李晃が医術をよくし、みな密かに公主に侍った。公主は掖廷令の陳玄運をして宮省の禨祥をうかがい、星次を歩いた。永徽年間(650-651)、房遺愛と謀反し、死を賜った。顕慶年間(656-661)に追贈された。 金山公主は、早く薨去した。 晋陽公主は、字を明達、幼字を兕子といい、文徳皇后から生まれた。よろこびや難しげな顔色をみせず、帝は怒り叱責することがあるたびに、必ず公主の顔をみると徐々に怒りがとけたから、省中は多くその恩恵を蒙り、誉め愛されないということはなかった。后が崩じた時、公主はまだ乳幼児だったからこれを理解しなかったが、五歳になると、后と遊んだ地をみるたびに哀しみにたえなかった。帝の諸子のなかで、ただ晋王(後の高宗)と公主が最年少であったから、親しく遊び、晋王が邸宅を出るたびに公主は虔化門で見送って泣いて別れた。晋王が幼年となって、朝堂に班ぶと、公主は泣いて「お兄ちゃんは群臣と同じになっちゃって、宮中にはかえってこないの?」と言った。帝もまた涙を流した。公主は帝の飛白書を臨模したが、下々の者にはどちらが帝か公主かわからなかった。薨じたとき年十二歳であった。帝はひと月の間食事もままならず、日に数十回悲しみ、そのためやせ衰えた。群臣は励ましたが、帝は「朕がどうして悲しむことが無意味だと知らないとでもいうのだろうか?それでも悲しみがやまないのだ。私もまたその理由がわからないのだ」と言った。よって役人に詔して公主の皇族領を記録させ、仏寺のに墓を営んだ。 常山公主は、とつがないうちに、顕慶年間(656-661)に薨去した。 新城公主は、晋陽公主の同母妹である。長孫詮にとつぎ、長孫詮は罪によって巂州に徙された。さらに韋正矩に嫁し、奉冕大夫となった。韋正矩は公主に会っては礼をもってせず、突然薨去した。高宗は三司雑治に詔し、韋正矩は弁解することができなかったから、誅殺された。皇后の礼をもって昭陵の旁らに葬られた。 高宗に三女があった。 義陽公主は、蕭淑妃から生まれ、権毅にとついだ。 高安公主は、義陽公主の同母妹である。始め宣城に封ぜられた。潁州刺史の王勗にとついだ。天授年間(690-692)、王勗は武后に処刑された。神龍年間(707-710)初頭、長公主に封ぜられ、実封千戸となり、府を開いて官属を設置された。睿宗が即位すると、さらに千戸を増封された。開元(713-741)の時に薨じた。玄宗は暉政門にて哭し、鴻臚寺に持節を遣して弔問させ、京兆尹に鴻臚寺を率いさせて喪事を護衛した。 太平公主は、則天武皇后から生まれ、武后は諸公女のうちことのほか彼女を愛した。栄国夫人(武后の母)が死ぬと、皇后は公主を道士にさせ、冥福を祈らせた。儀鳳年間(676-679)に吐蕃が公主を降嫁させることを要請したが、武后は夷狄に捨て去るようなことはしたくはなく、本当に宮を築いて、方士のように薰戒させ、和親の事を拒んだ。しばらくして公主は紫の衣を着て玉帯をつけ、折上巾(冠)をかぶり、白粉をつけて帝の前で歌い舞った。帝と武后は大笑して「この子は武官になれなければ、いったいお前はどうするのかのか?」と言った。公主は「駙馬(公主の夫)を賜わればいいのでは?」といった。帝はその思いを知り、薛紹を娶せ、万年県を婚館とし、門には人が多く集まってしまい翟車を収容できなくなったから、役人は垣を壊して入れるようにし、興安門よりかがり火を設置したから道の並木は枯れてしまった。薛紹が死ぬと、さらに武承嗣に嫁したが、武承嗣が病気となったため、武后は武攸曁の妻を殺して、武攸曁を公主の配偶者とした。公主は額が四角く顎がひろく、陰謀を多くし、母の武后は常に「私に似ている」と言っており、公主と内に謀とともにし、外には恐れられたから、武后の世が終わるまで他に非難する者などいなかった。 永淳年間(682-683)以前、親王は実戸八百をはみ、増えても千戸止まりであり、諸公主は三百を超えなかったが、太平公主はひとりさらに戸五十を加え、聖暦年間(698-700)には三千戸に及んだ。張易之・張昌宗の誅殺に功績があり、鎮国の号を贈られ、相王(後の睿宗)とならんで五千となり、また婚家の薛・武の二家の娘もみな実封をはんだ。公主と相王・衛王・成王・長寧公主・安楽公主はみな衛士を給せられ、邸宅の周囲は十歩を一区とし、兵を持って衛らせ、ひそかに宮省にあやかった。神龍年間(705-707)には長寧公主・安楽公主・宜城公主・新都公主・定安公主・金城公主の七公主は、みな府を開いて官属を置いた。安楽公主は戸数は三千にいたり、長寧公主は二千五百、府を開いたが長史は設置しなかった。宜城公主・定安公主は韋后からの生まれではなかったから、戸は二千止まりであった。公主の三子の薛崇簡・武崇敏・武崇行はみな三品を叙位された。 韋皇后・上官昭容の変事に、謀は公主の所から出たため、功は公主に遠く及ばず、これを憚った。公主はまた自ら我慢して必ず勝てるようにしたから、ますます専横となった。ここに天下の士を推薦し、儒者は多くが貧しいからと言って、厚く金帛を持たせて謝礼とし、大議を動かしたから、遠近より多くの者が集まって靡いた。 玄宗が韋氏を誅殺しようとして、公主と秘計をともにし、公主は子の薛崇簡を遣わして従わせた。事が定まり、まさに相王(睿宗)が即位しようとしたとき、そのことを言い出そうとする者がいなかった。公主は温王(少帝)とその子をかえりみて、おどすようにして功績をたてた。温王にまみえて、「天下の事は相王に帰した。玉座は子供が座っているようなところではない」といい、温王を助けて下り、乘輿と服をとって睿宗に進めた。睿宗は即位し、公主の権はこれによって天下を震わせ、実封を加えて一万戸にもいたり、三子は王に封じられ、他は皆祭酒・九卿となった。 公主は奏事するごとに、漏刻(水時計)がしばしば時を刻んでからようやく退出したが、公主の申すところは皆従った。人物を論じて薦めると、ある者は寒門より順序を踏まず一足飛びに侍従となったから、将相はきびすをめぐらせて足を運んだ。朝廷の大政の事は関わり決しないことは下さず、謁見しない間、すなわち宰相は公主の邸宅に就いて咨判を請い、天子はほとんど裁可するだけであった。公主は武后に侍ること久しかったから、前後の策を公主が人にわずかに指示するだけで、先事はすべて適合し、あたらないことはなかった。田園はあまねく都近郊にあり、すべて肥沃な土地であった。呉・蜀・嶺嶠の市で器をつくらせて用い、州県に護送させ、道に向かい合うほどであった。天下の珍しい奇怪な物は家に満ち、宴会の歌妓は天子と等しかった。仕える侍児は白い細絹を引き摺っている者が数百、奴婢や老女が千人、隴右の牧馬は万匹を数えた。 長安の僧慧範が蓄財すること千万、権力を持つものと仲が良く、もとより張易之と親しかった。張易之が誅されると、ある者は彼が陰謀に関与した言うものもあり、上庸公に封じられ、月々俸禄を給付された。公主の乳母と密通し、奏上により抜擢されて三品御史大夫となり、御史の魏伝弓がその悪事を弾劾したため四十万を贓ったが、死刑を求刑した。中宗は赦そうと思ったが、魏伝弓は「刑や賞というのは、国の大事であって、陛下は賞をすでに妄りに加えられています。また死刑を廃そうとするのは、天下になんと言い訳すればいいのでしょうか?」と奏進したから、帝はやむをえず、銀印青綬(三品御史大夫)の階を削った。大夫の薛謙光は慧範の不法を弾劾し、公主が申理をして、そのため薛謙光らはかえって罪を得た。 玄宗が太子監国となり、宋王李憲・岐王李範に禁兵を統轄させた。公主は権力を分けられたのを恨み、乗輦(睿宗)が光範門に至ると、宰相を召喚して廃太子を申した。ここに宋璟・姚元之は喜ばず、公主を東都より出すことを請うたが、帝は許さず、詔して公主を蒲州を居らさせた。公主は大いに望んだが、太子はおそれた。奏上して宋璟・姚元之を排斥し、これで恨みを収めた。監察御史の慕容珣がまた慧範の事を弾劾したが、帝は慕容珣が骨肉離間しようとしていると疑ったから、密州司馬に左遷した。公主が都より出ていること四箇月、太子が上表したから京師に帰った。 当時の宰相の七人のうち、五人は公主の門下より出ていた。また左羽林大将軍の常元楷・知羽林軍の李慈は皆公主に私淑しており、公主は内心では太子の聡明さを嫌っていた。また宰相はみなその郎党であり、そのため逆謀した。先天二年(713)、尚書左僕射の竇懐貞・侍中の岑羲・中書令の蕭至忠と崔湜・太子少保の薛稷・雍州長史の李晋・右散騎常侍昭文館学士の賈膺福・鴻臚卿の唐晙および常元楷・李慈・慧範らが廃太子をたくらみ、常元楷・李慈をして羽林兵を挙兵させて武徳殿に突入させて太子を殺し、竇懐貞・岑羲・蕭至忠が南衙で挙兵して応じる、というものであった。すでに数日をへて、太子はそのたくらみを知って、岐王李範・薛王李業・兵部尚書の郭元振・将軍の王毛仲・殿中少監姜皎・中書侍郎の王琚・吏部侍郎の崔日用が計画を定めた。その前日、王毛仲が宮中の閑馬三百をとり、太僕少卿の李令問と王守一・内侍の高力士・果毅都尉の李守徳が虔化門を叩き、常元楷・李慈を北闕の下に梟首し、賈膺福を内客省にて拘束し、岑羲・蕭至忠を朝堂で捕らえて斬った。よって天下に大赦した。公主は変を聞き、逃亡して南山に入ったが、三日して出て来て、自邸にて死を賜った。諸子および党派の死者は数十人におよんだ。その田畑・財産を記録すると、珍宝は山のようであり、子に監督して貸与させていたが、三年たっても尽きることはなかった。 子の薛崇簡はもとより公主の謀を知っていたから諫めたが、公主は怒り、拷問して鞭打ったから、ここにいたって官爵を復し、氏は李姓を賜った。 はじめ公主は観池として楽游原をつくり、人々が盛んに集まった。公主が敗れると、寧王李憲・申王成義・岐王李範・薛王李業の四王兄弟に賜り、都の人は歳末の祓にこの地で禊した。 中宗に八女があった。 新都公主は、武延暉にとついだ。 宜城公主は、始め義安郡主に封ぜられた。裴巽にとついだ。裴巽には愛妾がおり、公主は怒って、耳をきり鼻をそぎ、かつ裴巽の髮を切った。帝は怒り、公主を排斥して県主とし、裴巽もまた左遷された。しばらくしてまた元通りに封ぜられた。神龍元年(705)、長寧公主・新寧公主・安楽公主・新平公主とともにみな進封された。 定安公主は、始め新寧郡主に封ぜられた。王同皎にとついだ。王同皎が罪をえると、神龍年間(705-707)、また韋濯にとついだ。韋濯は韋皇后の従祖弟にあたり、衛尉少卿として処刑されると、さらに太府卿の崔銑にとついだ。公主は薨去し、王同皎の子は父とともに合葬されることを請うたが、給事中の夏侯銛は「公主は王家の廟と義絶しており、恩は崔家の室となっています。逝った者は知ったならば、王同皎はまさにあの世で拒むでしょう」と言った。崔銑があるとき帝に訴えたから、そのことは沙汰止みとなったが、夏侯銛は連座して瀘州都督に左遷された。 長寧公主は、韋庶人から生まれ、楊慎交にとついだ。東都(洛陽)に邸宅を造営し、楊務廉をして造営の総監督とした。邸宅が完成すると府の財はいくばくか枯渇し、楊務廉を抜擢して将作大匠に任命した。また西京(長安)の高士廉の邸宅と左金吾衛の故営を合わせて邸宅とし、右は都城に、左は大道にうつむき、三重の楼閣を立てて展望とし、山を築いて池を浚った。帝および韋后はしばしば臨幸し、酒を置いて詩を賦した。また坊の西の空き地に広大な蹴鞠場をつくった。 東都が永昌県を廃すると、公主はその治を自身の府とするよう請願し、その地は洛陽に瀕しており、これに鄣(障壁か)を築き、崇台・蜚観を連ね、考えもせずに二十万もの大金を費やした。魏王李泰の旧邸は東西一坊、溜池は三百畝に及んだが、魏王李泰が薨去したため、民間に与えられた。ここによって公主は請うて魏王李泰の旧邸を得て、亭閣を築いて、偽って「西京を囲った柵」であるとした。内には母の愛をたより、寵愛は一朝を傾け、安楽公主・宜城公主の二公主、韋后の妹の郕国夫人・崇国夫人と争任の事をともにし、賄賂が飛び交った。東都の邸宅が落成したが、住むことがなく、韋后が敗亡すると、楊慎交は左遷されて絳州別駕となり、公主も共に赴き、東都の邸宅を景雲祠とすることを請い、西京の邸宅を売却したが、木石の値段の評価額は銭二十億万にも及んだ。 開元十六年(728)、楊慎交が死ぬと、公主はさらに蘇彦伯に嫁した。楊務廉がついに数十万もの坐贓(受諾収賄罪)によって終身免職となった。 永寿公主は、韋鐬にとついだ。早く薨去し、長安年間(701-705)初頭に追贈された。 永泰公主は、郡主として武延基にとついだ。大足年間(701)、張易之にさからい、武后に殺された。帝が追贈し、礼をもって改葬し、墓を号して陵とした。 安楽公主は、最も幼いむすめであった。帝が房陵に流罪となったときに公主は生まれ、衣をほどいて褓(おくるみ)としたから、名を裹児といった。眉目秀麗かつ聡明で、韋皇后が最も愛した子であった。武崇訓にとついだ。帝が復位すると、艶やかさは天下を動かし、侯王柄臣は多くその門より出た。かつて詔によって門前を塞ぐべく帝の裁可を請うたが、帝は笑って従った。また皇太女とするよう請うた。左僕射の魏元忠が諫めた。公主は「魏元忠は山東の無骨者で、カラスなんぞに国事を論ずるに足るでしょうか?武氏のお子がなお天子になったというのに、天子が女であることにいけないことなどありますか?」と言った。太平公主ら七公主とともに皆府を開いたが、安楽公主府の官属はむやみに多くいて、みな身分の低い者から出た。財産を納めた者に売官し、墨勅斜封をくだして授けた。そのため斜封官といった。 公主は邸宅と安楽仏廬を造営し、その方式は宮省を模倣し、工事は精巧でこれ以上の物はなかった。かつて昆明池を自分の沼にするよう請うたが、帝は「先帝はいままで人に与えたことはなかった」といったから公主は不機嫌となり、自ら昆池を定めて開鑿し、広げ延ばすこと数里。定まってから言上し、抗うべくただした。司農卿の趙履温が修繕して、石を重ねて肖華山とし、階段・丸木橋をかけ、渕をめぐらすこと九度、石で噴水をつくった。また宝玉の火鉢をつくり、怪獣・神禽を彫刻し、その間を螺鈿・珊瑚で飾りたてるなど、言いつくすことができないほどであった。 武崇訓が死ぬと、公主は平素より武延秀と不倫していたから、即時武延秀に嫁した。この日、后の車輅(天子の車)が宮より出て公主の邸宅に至り、帝と韋皇后は安福門に御して臨観し、雍州長史の竇懐貞に詔して礼会使とし、弘文館学士に挨拶をし、相王(後の睿宗)は車をふさいた。捐て賜わった金帛は計り知れなかった。翌日、群臣と太極殿に会し、公主は翠服を着て出て、天子に向かって再拝した。南面して公卿に拝し、公卿は皆地に伏せて稽首した。武攸曁と太平公主とともに舞って帝の寿を祝った。群臣に帛を数十万賜った。帝は承天門に出御し、大赦し、よって民に宴を賜うこと三日、内外の官に勲を賜い、礼官の属によって階・爵を兼任させた。臨川長公主の邸宅を奪って邸宅とし、その一方で民家を撤去し、怨嗟の声は傲然とした。邸宅が完成すると、宮中の金庫は尽きて空しくなり、臨時に一万もの騎仗をならべ、宮中に音楽を奏でて公主を邸宅に送り、天子は親ら行幸し、近臣と宴した。崇訓の子はわずか数歳で太常卿を拝命し、鎬国公に封ぜられ、実封は戸五百であった。公主の産後に帝と后は再度邸宅に行幸し、天下に大赦した。 公主と長寧公主・定安公主の三家の家奴は民間の子女を拉致して奴婢とし、左台侍御史の袁従一は逮捕して獄に下した。公主は入朝して訴え、帝は手ら詔して赦免した。袁従一は「陛下は公主の訴えをいれられましたが、ほしいままに家奴や平民をさらったら、どうやって天下を治めるというのでしょうか?臣は、家奴を釈放すれば禍を免れ、家奴を弾劾すれ公主は罪を得てしまうということをわかっていますが、だからといって陛下の法を曲げるには忍びないのです。私は恥を忍んで生き長らえるのです」と言ったが、受け入れられなかった。 臨淄王隆基(後の玄宗)が庶人(韋皇后)を誅殺した時、公主はまさに鏡をみながら眉をつくっていた。乱を聞いて、逃走して右延明門に至ったが、兵に追いつかれ斬首された。追貶して「悖逆庶人」と称された。睿宗が即位すると、詔して二品の礼によって葬られた。 趙履温は諂って公主に仕えかつて朝服をはいで、車を曳いたことがあった。庶人(安楽公主)が死ぬと、承天門で舞い踊って万歳と唱えたが、臨淄王隆基(後の玄宗)はこれを斬殺し、父子は同じく刑された。百姓は病気に効き目があるとして、その肉を割り取って行った。 成安公主は、字を季姜といった。始め新平に封ぜられた。韋捷にとついだ。韋捷は韋皇后の従子として処刑され、公主はのちに薨去した。 睿宗に十一女があった。 寿昌公主は、崔真にとついだ。 安興昭懐公主は、早く薨去した。 荊山公主は、薛伯陽にとついだ。 淮陽公主は、王承慶にとついだ。 代国公主は、名を華、字を華婉といい、劉皇后から生まれた。鄭万鈞にとついだ。 涼国公主は、字を華荘といい、始め仙源に封ぜられた。薛伯陽にとついだ。 薛国公主は、始め清陽に封ぜられた。王守一にとついだ。王守一が処刑されると、さらに裴巽にとついだ。 鄎国公主は、崔貴妃から生まれた。三歳のとき貴妃が薨去すると、哭泣して三日食わず、成人のようであった。始め荊山に封ぜられた。薛儆にとつぎ、また鄭孝義にとついだ。開元年間(713-741)初頭、封邑が千四百戸にいたった。 金仙公主は、始め西城県主に封ぜられた。景雲年間初頭(710-712)に進封された。太極元年(712)、玉真公主とともに道士となり、京師に道観を築き、方士の史崇玄を師とした。史崇玄はもとは寒人で、太平公主につかえて、禁中に出入りすることができ、鴻臚卿に任ぜられて、威光は重なり、道観を建造するにあたって、詔して史崇玄に監督させ、日に一万人を動員した。多くの仏僧がこれをねたみ、銭数十万で狂人の段謙を雇って承天門から乱入し、太極殿に昇って天子を自称させた。役人が逮捕すると、「崇玄をして我を来さしめた」といったが、詔して嶺南に流刑し、また僧・道士に勅して互いに争わないようにさせた。太平公主が敗れると、史崇玄は処刑された。 玉真公主は、字を持盈といい、始め崇昌県主に封ぜられた。にわかに上清玄都大洞三景師の号を進った。天宝三載(744)、上言して、「先帝は私に家を捨てることを許されました。今、公主の邸宅・食租賦をむさぼっていますが、誠に願わくば公主の称号をお返しし、食邑司を止め、これを国庫に返したいです」と言った。玄宗は許なかった。また「私は高宗の孫で、睿宗の娘で、陛下の妹で、天下に卑しからざる者です。どうして公主の号や湯沐料で名をつなぐ必要がありましょうか。それがなければ貴いとされないのでしょうか?願わくは数百家の産を入れ、功徳で十年の命を延ばしたいのです」と言い、帝はその深厚なる心を知って、これを許した。宝応年間(762-763)に薨去した。 霍国公主は、裴虚己にとついだ。 玄宗に二十九女があった。 永穆公主は、王繇にとついだ。 常芬公主は、張去奢にとついだ。 孝昌公主は、早く薨去した。 唐昌公主は、薛鏽にとついだ。 霊昌公主は、早く薨去した。 常山公主は、薛譚にとつぎ、また竇沢にとついだ。 万安公主は、天宝(742-756) のとき道士となった。 開元の新制では、長公主は封戸二千、帝の妹は戸千、率は三丁を以て限とした。皇子王は戸二千、公主はその半分であった。事情によってさらに減じられた。玄宗は「百姓の租賦は朕のあるところではなく、士は万死の功によって、賞はようやく束帛をもらえるに過ぎない。女は何の功があって多大の封戸を受けるのであろうか?倹約することも知らしめるのは、またできないことではないのだろうか?」といい、これによって公主はほとんど車服を給付されなかった。後に咸宜公主は母の愛によって封を増加されて千戸に至り、諸公主もみな増加し、これより令に著されることとなった。公主で下嫁しないものは、また千戸を封ぜられ、有司に奴婢を給されることは令の通りであった。 上仙公主は、早く薨去した。 懐思公主は、早く薨去し、台を築いて葬られ、登真と号した。 晋国公主は、始め高都に封ぜられた。崔恵童にとついだ。貞元元年(785)、衛・楚・宋・斉・宿・蕭・鄧・紀・郜国の九公主とともに同じく徙封された。 新昌公主は、蕭衡にとついだ。 臨晋公主は、皇甫淑妃から生まれた。郭潜曜にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 衛国公主は、始め建平に封ぜられた。豆盧建にとつぎ、また楊説にとついだ。貞元年間(785)に薨去した。 真陽公主は、源清にとつぎ、また蘇震にとついだ。 信成公主は、独孤明にとついだ。 楚国公主は、始め寿春に封ぜられた。呉澄江にとついだ。上皇が西宮に居るとき、ひとり公主は入侍した。興元元年(784)、請うて道士となり、詔があって裁可され、名を上善と賜った。 普康公主は、早く薨去した。咸通九年(868)に追封された。 昌楽公主は、高才人から生まれた。竇鍔にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 永寧公主は、裴斉丘にとついだ。 宋国公主は、始め平昌に封ぜられた。温西華にとつぎ、また楊徽にとついだ。元和年間(806-820)に薨去した。 斉国公主は、始め興信に封ぜられ、寧親に徙封された。張垍にとつぎ、また裴潁にとつぎ、最後には楊敷にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。 咸宜公主は、貞順皇后から生まれた。楊洄にとつぎ、また崔嵩にとついだ。興元年間(784)に薨去した。 宜春公主は、早く薨去した。 広寧公主は、董芳儀から生まれた。程昌胤にとつぎ、また蘇克貞にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 万春公主は、杜美人から生まれた。楊朏にとつぎ、また楊錡にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 太華公主は、貞順皇后から生まれた。楊錡にとついだ。天宝年間(742-756)に薨去した。 寿光公主は、郭液にとついだ。 楽城公主は、薛履謙にとつぎ、嗣岐王李珍の事件に連座して処刑された。 新平公主は、常才人から生まれた。幼いころより聡明で、習って図訓を知り、帝は賢いとした。裴玪にとつぎ、また姜慶初にとついだ。姜慶初は罪を得て、公主も禁中に幽閉された。大暦年間(766-779)に薨去した。 寿安公主は、曹野那姫から生まれた。妊娠九か月で生まれ、帝はこれを嫌って、詔して道士が着る衣羽服を与えた。代宗が広平王の時に入謁したが、帝は名前で公主を呼んで、「蟲娘よ、お前には後で名前を与えるべきだ。広平王は霊州にいるから封を願いなさい」と言った。蘇発にとついだ。 粛宗に七女があった。 宿国公主は、始め長楽に封ぜられた。豆盧湛にとついだ。 蕭国公主は、始め寧国公主に封ぜられた。鄭巽にとつぎ、また薛康衡にとついだ。乾元元年(758)、回紇(ウイグル)の英武威遠可汗に降嫁し、公主府を設置した。乾元二年(759)、帰朝した。貞元年間(785)、府属を譲ったが、さらに邑司を設置された。 和政公主は、章敬太后から生まれた。生まれて三歳、后は崩じ、韋妃に養育された。性格は聡明で、妃につかえて孝ありと称された。柳潭にとついだ。安禄山が京師を陥落させると、寧国公主(蕭国公主)は寡婦で暮らしていたから、公主は自身の三子を捨て、夫柳潭の馬を奪って寧国公主を乗せ、自身は柳潭とともに歩くこと日に百里、柳潭は水薪を背負い、公主は竈を背負い、寧国公主を守った。 それより以前、柳潭の兄の柳澄の妻は、楊貴妃の姉(秦国夫人)であり、勢いは国政を傾けるほどであったが、公主はいまだかつて私事で助けを求めたことがなかった。夫人が死ぬと、その子供を撫育することは自身が産んだ子のようであった。玄宗に従って蜀に至り、始め封を受け、柳潭も駙馬都尉に任じられた。郭千仞が反乱すると、玄宗は玄英楼に御して諭して降伏させようとしたが、聞かなかったため、柳潭は折衝の張義童らを率いてとくに死闘し、公主も弓を射当てて柳潭をたすけ、柳潭は手ずから賊を斬ること五十人で、これを平定した。 肅宗が病となると、公主はその左右に侍って看病に励んだから、詔して田を賜ったが、妹の宝章公主)がいまだに賜っていないことを理由に、固く譲ってあえて受けなかった。阿布思の妻が後宮に入れられ、帝が宴すると緑の衣を着て歌わされていた。公主は諫めて「阿布思は本当の逆人で、妻を至尊にお近くに入れてはなりません。罪なくして大勢とともに歌わせていいのでしょうか」と。帝はそのため許して宮中より出した。自ら兵を養い、財を用立てて費やし、公主は貿易によって得た利益千万をとって軍をうごかした。帝の山陵の造営するに及んでは、また食邑を奉って千万を入れた。 代宗が即位すると、しばしば人間の利病・国家の盛衰の事をのべ、天子は受け入れた。吐蕃が京師に侵入すると、公主は避難して南に逃げ、商於にいたると群盜に遭遇し、公主は禍福を諭したから、皆ひざまずいて奴となることを願った。代宗は公主が貧しいから、諸節度使に詔して贈物させたが、公主はすべて受け取らなかった。自ら裳衣の綻びを縫い合わせ、諸子にも練り絹や細かい葛の服を着せなかった。広徳年間(763-764)、吐蕃が再び入寇したとき、公主は妊娠中で、入朝して辺境への備えの計略を語ろうとし、柳潭は強くとめたが、公主は「あなただけはお兄さんがいないというのですか?」といい、内殿に入った。翌日、出産して薨去した。 郯国公主は、始め大寧に封ぜられた。張清にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。 紀国公主は、始め宜寧に封ぜられた。鄭沛にとついだ。元和年間(806-820)に薨去した。 永和公主は、韋妃から生まれた。始め宝章に封ぜられた。王詮にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 郜国公主は、始め延光に封ぜられた。裴徽にとつぎ、また蕭升にとついだ。蕭升が亡くなると、公主と彭州司馬の李万は乱倫にふけり、しかも蜀州別駕の蕭鼎・澧陽令の韋惲・太子詹事の李衛はみな公主の家に私侍した。しばらくして不祥事を聞いて徳宗は怒り、公主を他邸に幽閉し、李万を杖殺し、蕭鼎・韋惲・李衛を嶺表に流した。貞元四年(788)、また巫蠱での呪詛で廃された。貞元六年(790)に薨去した。子の蕭位は巫蠱の呪詛に連座し、端州に幽閉され、蕭佩・蕭儒・蕭偲は房州に捕らえらた。前夫の間に産んだ子の駙馬都尉の裴液は錦州にとらえられた。公主の娘は皇太子妃となり、帝は妃の怨みを恐れ、まさに殺そうとしたが、発覚する前にたまたま公主は薨去したから、太子(順宗)が病となっているすきに、妃を殺して災いを除いた。謚を恵といった。 代宗に十八女があった。 霊仙公主は、早く薨去し、追封された。 真定公主は、早く薨去した。追封された。 永清公主は、裴倣にとついだ。 斉国昭懿公主は、崔貴妃から生まれた。始め升平に封ぜられた。郭曖にとついだ。大暦年間(766-779)末年、寰内の民が涇水が磑壅(水車)のために灌漑田ができないことを訴え、京兆尹の黎幹が奏請した。詔して磑を撤去して水を民に与えた。当時公主および郭曖の家ではみな磑(うす)があり、残置を請うたが、帝は「私が民草のためか、もしくは諸親戚の訴えのためにすべきなのか」といって、即日毀し、これによって廃するところは八十所に及んだ。憲宗が即位すると、女伎を献じた。帝は「太上皇(順宗)は献を受けなかったが、朕はどうして敢えて違うというのか?」といい、返却した。元和年間(806-820)に薨去した。虢国を贈り、謚を賜った。穆宗が即位するとまた贈封した。 華陽公主は、貞懿皇后から生まれた。聡明なこと人より秀で、帝はこれを愛した。帝が喜ぶところを見ると、必ずよろこんだ。嫌うところがあれば曲げても迎合した。大暦七年(772)、病のため請願して道士となり、瓊華真人と号した。病が重く、帝は指を噛んで傷けた。薨去し、追封された。 玉清公主は、早く薨去し、追封された。 嘉豊公主は、高怡にとついだ。普寧公主とともに同時に降嫁し、役人はともに光順門で冊礼したが、雨のためにできず、中止した。建中年間(780-783)に薨去した。 長林公主は、衛尉少卿の沈明にとついだ。貞元二年(786)冊礼したが、徳宗は正殿に御さず、音楽も設けず、遂にこれが故事となった。元和年間(806-820)に薨去した。 太和公主は、早く薨去し、追封された。 趙国荘懿公主は、始め武清に封ぜられた。貞元元年、嘉誠に徙封された。魏博節度使の田緒にとつぎ、徳宗は望春亭に行幸して餞とした。厭翟車(公主の車)が破れて乗ることができなかったため、金根車(皇后の車)で代用した。公主が出降すると金根車に乗る慣例は、公主のときより始まった。元和年間(806-820)に薨去し、贈封と謚があった。 玉虚公主は、早く薨去した。 普寧公主は、呉士広にとついだ。 晋陽公主は、太常少卿の裴液にとついだ。大和年間(827-835)に薨去した。 義清公主は、秘書少監の柳杲にとついだ。 寿昌公主は、光禄少卿の竇克良にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。 新都公主は、貞元十二年(796)に田華にとつぎ、光順門で礼し、令で定められた五礼はこれによって廃止された。 西平公主は、早く薨去した。 章寧公主は、早く薨去した。 徳宗に十一女があった。 韓国貞穆公主は、昭徳皇后から生まれた。幼くして親孝行につとめ、帝はこれを愛した。始め唐安に封ぜられた。秘書少監の韋宥にとつぐところだったが、朱泚の乱のためかなわず、このため城固にいたって薨去し、加封と謚があった。 魏国憲穆公主は、始め義陽に封ぜられた。王士平にとついだ。公主は勝手な振舞いで法をおかし、帝は公主を禁中に幽閉した。王士平を邸宅に禁錮した。しばらくして安州刺史を拝したが、民間との交わりで連座して、賀州司戸参軍に左遷された。門下客の蔡南史・独孤申叔が公主のために「団雪散雪の辞」をつくり離別の思いの手紙とした。帝は聞いて怒り、南史らを捕らえて放逐し、しばらくして進士科を廃止した。薨去し、追封と謚があった。 鄭国荘穆公主は、始め義章に封ぜられた。張孝忠の子の張茂宗にとついだ。薨去し、加贈と謚があった。 臨真公主は、秘書少監の薛釗にとついだ。元和年間(806-820)に薨去した。 永陽公主は、殿中少監の崔諲にとついだ。 普寧公主は、早く薨去した。 文安公主は、求めて道士となった。大和年間(827-835)に薨去した。 燕国襄穆公主は、始め咸安に封ぜられた。回紇の武義成功可汗にとつぎ、公主府を設置した。元和年間(806-820)に薨去し、追封と謚があった。 義川公主は、早く薨去した。 宜都公主は、殿中少監の柳昱にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。 晋平公主は、早く薨去した。 順宗に十一女があった。 漢陽公主は、名を暢といい、荘憲皇后から生まれた。始め徳陽郡主に封じられた。郭鏦にとついだ。辞して邸宅に帰るとき、涕泣してどうすることもできなかった。徳宗は「お前に足りないことでもあるか?」と聞くと、答えて「離れることを思ってで、ほかに恨みはありません」と言った。帝もまた泣いて太子をかえりみて「ほんとうの子だな」と言った。 永貞元年(805)、諸公主とともに皆進封された。時に外戚や近臣はあらそって傲慢大言したが、公主はひとり倹約し、常に鉄の簪、壁画を用い、田租を記して入れた。文宗は最も世の中が奢侈に流れるのを憎み、よって公主を入朝させ問うた、「叔母上が着ている服は、何年のものか?今の弊害は何代にしてそうなったのだろうか?」と。公主は「私は貞元の時に宮を辞してより、服するところはみな当時賜ったもので、いまだかつてあえて変えていません。元和の後、しばしば兵を用いましたが、ことごとく禁蔵の纖麗物を出して戦士の賞としました、これによって民間に流出し、内外は互いに自慢しあったので、慣れてこのような風潮となったのです。もし陛下がよしとするところを天下にお示しあれば、誰があえて変えようとするでしょうか?」と答えた。帝は喜び、宮人に詔して公主の衣の広狭のつくりをみせ、ひとえに諸公主を諭し、かつ京兆尹に勅して華美を禁じた。公主はかつて諸皇女を戒めて「亡き姑(昇平公主)が申していましたが、私もお前もみな帝の子である。えらそうにして貴顕であることを奢れば、戒めなくてはならなくても頼みとはしてくれないだろうと」と言った。開成五年(840)に薨去した。 梁国恭靖公主は、漢陽公主と母を同じく生まれた。始め咸寧郡主に封ぜられ、普安に徙封された。鄭何にとついだ。薨去し、追封と謚があった。 東陽公主は、始め信安郡主に封ぜられた。崔杞にとついだ。 西河公主は、始め武陵郡主に封ぜられた。沈翬にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。 雲安公主は、また漢陽公主と同じく生まれた。劉士涇にとついだ。 襄陽公主は、始め晋康県主に封ぜられた。張孝忠の子の張克礼にとついだ。公主は雄健奔放で、常に市や里にお忍びで行った。薛枢・薛渾・李元本はみな密通して侍ったが、薛渾を最も愛し、薛渾の母に会うと姑のようであった。役人は難詰しようとしたから、多くの金を与え、暴かれないようにさせたが発覚し、夫の張克礼は奏上して、穆宗は公主を禁中に幽閉した。李元本は功臣李惟簡の子であるから、死を免じて象州に流刑とし、薛枢・薛渾は崖州に流刑とした。 潯陽公主は、崔昭儀から生まれた。大和三年(829)、平恩公主・邵陽公主の二公主とともにそろって道士となり、一年に封物七百匹を賜った。 臨汝公主は、崔昭訓から生まれた。早く薨去した。 虢国公主は、始め清源郡主に封ぜられ、陽安に徙封された。王承系にとついだ。薨去し、追封された。 平恩公主は、早く薨去した。 邵陽公主は、早く薨去した。 憲宗に十八女があった。 梁国恵康公主は、始め普寧に封ぜられた。帝は特に彼女を愛した。于季友にとついだ。元和年間(806-820)に永昌にうつった。薨去し、詔により追封と謚があった。葬られるときに、度支使(財賦の調達と出納を担当した使職)が義陽公主と義章公主の葬儀に銭四千万が用いられたと上奏したので、詔によって銭千万を減らされた。 永嘉公主は、道士となった。 衡陽公主は、早く薨去した。 宣城公主は、沈𥫃にとついだ。 鄭国温儀公主は、始め汾陽に封ぜられた。韋譲にとついだ。薨去し、追封と謚があった。 岐陽荘淑公主は、懿安皇后から生まれた。杜悰にとつぎ、帝は公主のために正殿に御して臨遣し、西より朝堂を出て、再び延喜門に御し、公主の車を止め、大いに賓客・従者に金銭を賜った。邸宅を昌化里に建造し、龍首池から水を水路で引き入れて沼とした。懿安皇后の家は尚父(郭子儀)で、大通里の亭を公主の別館とした。貴きことは当世を震わせた。しかし公主が舅姑に仕えることは礼を以て聞き、賜わった奴婢は自由のびのびとさせ、皆上に返却し、直接請うて自ら市場に出かけた。杜悰は澧州刺史となり、公主は共に任地に赴き、従者は二十婢を超えなかった。驢馬に乗り、肉食せず、州県には必要な事柄がそなわっているから、それ以外の物は拒んで受けなかった。姑が病となって寝たきりとなると、公主は着替えもせず、薬は自分で嘗めて確認しなければすすめなかった。開成年間(836-841)、杜悰は忠武軍より入朝したが、公主は病に侵されており、「願わくは興慶宮に入朝できれば、道に死すといえども恨みません」と言い、途中で薨去した。 陳留公主は、裴損にとついだ。裴損は太子諭徳となった。 真寧公主は、薛翃にとついだ。 南康公主は、沈汾にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。 臨真公主は、始め襄城に封ぜられた。衛洙にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。 普康公主は、早く薨去した。 真源公主は、始め安陵に封ぜられた。杜中立にとついだ。 永順公主は、劉弘景にとついだ。 安平公主は、劉異にとついだ。宣宗が即位すると、宰相は劉異を平盧節度使にしようとしたが、帝は「朕のただひとりの妹であり、会いたい時に彼女と会いたいのだ」といった。そこで中止した。後に異居外への赴任に従ったが、歳時には駱駝に乗って入朝することとなった。乾符年間(874-879)に薨去した。 永安公主は、長慶年間(821-825)初頭、回鶻の保義可汗に降嫁されることとなったが、たまたま可汗が死んだため、中止して行かなかった。大和年間(827-835)、求めて道士となり、詔して邑印を賜ることは、尋陽公主の故事の通りであり、かつ婚資に帰した。 義寧公主は、とつがないうちに薨去した。 定安公主は、始め太和公主に封ぜられた。回鶻の崇徳可汗にとついだ。会昌三年(843)来帰し、宗正卿の李仍叔・秘書監の李践方らに詔して景陵に報告させた。公主は次いで太原に奉ぜられ、詔して使の労をいたわり、黠衛斯(キルギス)が献ずるところの白貂皮・玉の指環をもって往賜した。京師に至り、百官に詔して迎謁再拝させた。邑司の官が命を受けて答拝する故事にならった。役人は議して「邑司の官は身分が低く、該当させるべきではない」と言った。群臣は公主の左右の上媵(おつき)に鬢の帛をつけて承拝することを請い、両襠(うちかけ)をつけて待命させた。また神策軍四百に行列させて、群臣に列班迎接させた。公主は輅(くるま)に乗って憲・穆の二廟室に謁し、涙を流してすすり泣き、退いて光順門に詣り、服をかえ、冠の宝鈿をはぎ、待罪し、自ら和親を申して書面にはしなかった。帝は中人を遣わして慰労させ、また冠の宝鈿をつけて入朝し、群臣は天子に祝賀を申し述べた。また興慶宮に詣でた。翌日、公主は太皇太后に謁し、長公主に進封し、ついに太和公主府は廃止となった。公主が始めて至った時、宣城公主以下、七公主は出迎えしなかった。武宗は怒り、絹で贖罪させた。宰相が「礼の始まりは宮中の女房部屋で、天下に行われ、王化の美です。願わくば史書に載せ、後世に示してください」と建言し、詔して裁可された。 貴郷公主は、早く薨去した。 穆宗に八女があった。 義豊公主は、武貴妃から生まれた。韋処仁にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。 淮陽公主は、張昭儀から生まれた。柳正元にとついだ。 延安公主は、竇澣にとついだ。 金堂公主は、始め晋陵に封ぜられた。郭仲恭にとついだ。乾符年間(874-879)に薨去した。 清源公主は、大和年間(827-835)に薨去した。 饒陽公主は、郭仲詞にとついだ。 義昌公主は、道士となった。咸通年間(860-874)に薨去した。 安康公主は、道士となった。乾符四年(877)、公主が在外のためすこぶる人を騒がせるから、詔して永興公主・天長公主・寧国公主・興唐公主らとともに南内(興慶宮)に帰還させた。 敬宗に三女があった。 永興公主。 天長公主。 寧国公主は、広明年間(880-881)に薨去した。 文宗に四女があった。 興唐公主。 西平公主。 朗寧公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。 光化公主は、広明年間(880-881)に薨去した。 武宗に七女があった。 昌楽公主。 寿春公主。 長寧公主は、大中年間(847-860)に薨去した。 延慶公主。 静楽公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。 楽温公主。 永清公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。 宣宗に十一女があった。 万寿公主は、鄭顥にとついだ。公主は帝の愛するところで、これより先に詔を下して、「先王の制礼は、貴賎がこれを共にした。万寿公主は舅姑に奉り、よろしく士人の法に従うべし」と。旧制では車輿は金銀の釦飾であった。帝は「朕は倹約をもって天下に率先しており、身近なところから始めて、金銀を銅に変える」とした。公主は進見するごとに、帝は必ず篤行を教えさとし、「田舎者の家なく、懺悔する時もなし」といい、また「太平公主・安楽公主の禍は戒めを忘れてはならない!」といった。そのため諸公主はただ恐れ、争って喜事をしようとした。帝はついに「夫婦は教化の一端である。公主・県主に子があって寡婦となった場合、再嫁してはならない」と詔した。 永福公主。 斉国恭懐公主は、始め西華に封ぜられた。厳祁にとついだ。厳祁は刑部侍郎となった。公主は大中年間(847-860)に薨去し、追贈と謚があった。 広徳公主は、于琮にとついだ。かつて于琮に永福公主を娶せようと、帝とともに食事をした際に、永福公主が怒って匙や箸を折ったから、帝は「こいつは士人の妻にして大丈夫か?」といい、あらためて于琮と広徳公主を娶せた。于琮が黄巣に殺害されると公主は泣いて、「今日まで誼みがあって一人では生きられない、賊め、私を殺せ!」と言ったが黄巣は許可しなかったから、部屋で自縊死した。 公主は家をおさめるのに礼法があり、かつて于琮が韶州に左遷されるのに従った際、侍者はわずかに数人、州県の公主への贈物をも退けた。すべて内外の冠婚葬祭は、公主がすべて自ら答労したので、親しい者もそうでない者もみな感心し、世間で賢妻として知られた。 義和公主。 饒安公主。 盛唐公主。 平原公主は、咸通年間(860-874)に薨去し、追封された。 唐陽公主。 許昌荘粛公主は、柳陟にとついだ。中和年間(881-885)に薨去した。 豊陽公主。 懿宗に八女があった。 衛国文懿公主は、郭淑妃から生まれた。始め同昌に封ぜられた。韋保衡にとついだ。咸通十年(869)に薨去した。帝はすでにもとより愛するところであり、自ら挽歌をつくり、群臣に唱和させた。また百官に許可して祭儀物として金貝・寓車・廞服をつくり、これを火中に投じたから、民が争って燃えかすから宝を取り出した。葬におよんで、帝は妃とともに延興門に座って、柩が通過するのをみて哭泣し、仗衛の列は数十里にもおよび、金を加工して俑をつくり、宝物は千を数え、実際の墓中に乳母とともに埋葬した。追封と謚があった。 安化公主。 普康公主。 昌元公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。 昌寧公主。 金華公主。 仁寿公主。 永寿公主。 僖宗に二女があった。 唐興公主。 永平公主。 昭宗に十一女があった。 新安公主。 平原公主は、積善皇后から生まれた。帝は鳳翔府の李茂貞のもとにあるとき、公主を李茂貞の子の李継侃に降嫁させたが、后は不可とした。帝は「そうでなければ、私にやすんずるところがないではないか!」といい、この日、内殿で宴し、李茂貞は帝の東南に座り、公主は殿上に拝した。李継侃の族兄弟はみな西向に立ち、公主と李継侃はこれを拝した。帝が長安に帰還すると、朱全忠は李茂貞に書を送り、公主を取り返して京師に帰還させた。 信都公主。 益昌公主。 唐興公主。 徳清公主。 太康公主。 永明公主は、早く薨去した。 新興公主。 普安公主。 楽平公主。 賛にいわく、婦人は内は夫家にあるから、天子の姫という高貴な身分であっても、史官はなお外にあるから詳細はわからなかった。また僖宗・昭宗の時の大乱のため、文書は散逸消滅し、そのため諸帝の公主が降日・薨年は、大体その概略は得たが、失われて不十分であったから書かなかった。 前巻 『新唐書』 次巻 巻八十二 列伝第七 『新唐書』巻八十三 列伝第八 巻八十四 列伝第九
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資治通鑑巻第二十八 漢紀二十 孝元皇帝上 初元元年(癸酉、前四八) 1春,正月,辛丑,葬孝宣皇帝於杜陵;赦天下。 1. 正月辛丑 2三月,丙午,立皇后王氏,封后父禁爲陽平候。 2. 3以三輔、太常、郡國公田及苑可省者振業貧民;貲不滿千錢者,賦貸種、食。 3. 4封外祖父平恩戴侯同産弟子中常侍許嘉爲平恩侯。 4. 5夏,六月,以民疾疫,令太官損膳,減樂府員,省苑馬,以振困乏。 5. 6關東郡、國十一大水,饑,或人相食;轉旁郡錢谷以相救。 6. 7上素聞琅邪王吉、貢禹皆明經潔行,遣使者征之。吉道病卒。禹至,拜爲諫大夫。上數虚已問以政事,禹奏言:「古者人君節儉,什一而税,亡它賦役,故家給人足。高祖、孝文、孝景皇帝,宮女不過十餘人,厩馬百餘匹。後世爭爲奢侈,轉轉益甚;臣下亦相放效。臣愚以爲如太古難,宜少放古以自節焉。方今宮室已定,無可奈何矣;其餘盡可減損。故時齊三服官,輸物不過十笥;方今齊三服官,作工各數千人,一歳費數巨萬,厩馬食粟將萬匹。武帝時,又多取好女至數千人,以填後宮。及棄天下,多藏金錢、財物,鳥獸、魚鱉凡百九十物;又皆以後宮女置於園陵。至孝宣皇帝時,陛下惡有所言,羣臣亦隨故事,甚可痛也!故使天下承化,取女皆大過度,諸侯妻妾或至數百人,豪富吏民畜歌者至數十人,是以内多怨女,外多曠夫。及衆庶葬埋,皆虚地上以實地下。其過自上生,皆在大臣循故事之罪也。唯陛下深察古道,從其儉者。大減損乘輿服御器物,三分去二;擇後宮賢者,留二十人,餘悉歸之,及諸陵園女無子者,宜悉遣;厩馬可無過數十匹,獨捨長安城南苑地,以爲田獵之囿。方今天下饑饉,可無大自損減以救之稱天意乎!天生聖人,蓋爲萬民,非獨使自娯樂而已也。」天子納善其言,下詔,令諸宮館希御幸者勿繕治;太僕減谷食馬;水衡省肉食獸。 臣光曰:忠臣之事君也,責其所難,則其易者不勞而正;補其所短,則其長者不勸而遂。孝元踐位之初,虚心以問禹,禹宜先其所急,後其所緩。然則優遊不斷,讒佞用權,當時之大患也,而禹不以爲言;恭謹節儉,孝元之素志也,而禹孜孜而言之,何哉!使禹之智足不以知,烏得爲賢!知而不言,爲罪愈大矣! 7. 8匈奴呼韓邪單于復上書,言民衆困乏。詔雲中、五原郡轉谷二萬斛以給之。 8. 9是歳,初置戊己校尉,使屯田車師故地。 9. 二年(甲戌、前四七) 1春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。樂陵侯史高以外屬領尚書事,前將軍蕭望之、光祿大夫周堪爲之副。望之名儒,與堪皆以師傅舊恩,天子任之,數宴見,言治亂,陳王事。望之選白宗室明經有行散騎、諫大夫劉更生給事中,與侍中金敞並拾遺左右。四人同心謀議,勸導上以古制,多所欲匡正;上甚郷納之。史高充位而已,由此與望之有隙。 中書令弘恭、僕射石顯,自宣帝時久典樞機,明習文法;帝即位多疾,以顯久典事,中人無外黨,精專可信任,遂委以政,事無小大,因顯白決,貴幸傾朝,百僚皆敬事顯。顯爲人巧慧習事,能深得人主微指,内深賊,持詭辯,以中傷人,忤恨睚眥,輒被以危法;亦與車騎將軍高爲表里,議論常獨持故事,不從望之等。 望之等患苦許、史放縱,又疾恭、顯擅權,建白以爲:「中書政本,國家樞機,宜以通明公正處之。武帝游宴後庭,故用宦者,非古制也。宜罷中書宦官,應古不近刑人之義。」由是大與高、恭、顯忤。上初即位,謙讓,重改作,議久不定,出劉更生爲宗正。 望之、堪數薦名儒、茂材以備諫官,會稽鄭朋陰欲附望之,上書言車騎將軍高遣客爲姦利郡國,及言許、史弟子罪過。章視周堪,堪白:「令朋待詔金馬門。」朋奏記望之曰:「今將軍規撫,雲若管、晏而休,遂行日昃,至周、召乃留乎?若管、晏而休,則下走將歸延陵之皋,沒齒而已矣。如將軍興周、召之遺業,親日昊之兼聽,則下走其庶幾願竭區區奉萬分之一!」望之始見朋,接待以意;後知其傾邪,絶不與通。朋,楚士,怨恨,更求入許、史,推所言許、史事,曰:「皆周堪、劉更生教我;我關東人,何以知此!」於是侍中許章白見朋。朋出,揚言曰:「我見言前將軍小過五,大罪一。」待詔華龍行汚穢,欲入堪等,堪等不納,亦與朋相結。 恭、顯令二人告望之等謀欲罷車騎將軍,疏退許、史状,候望之出休日,令朋、龍上之。事下弘恭問状,望之對曰:「外戚在位多奢淫,欲以匡正國家,非爲邪也。」恭、顯奏:「望之、堪、更生朋黨相稱舉,數譖訴大臣,毀離親戚,欲以專擅權勢。爲臣不忠,誣上不道,請謁者召致廷尉。」時上初即位,不省召致廷尉爲下獄也,可其奏。後上召堪、更生,曰:「繋獄。」上大驚曰:「非但廷尉問邪!」以責恭、顯,皆叩頭謝。上曰:「令出視事。」恭、顯因使史高言:「上新即位,未以德化聞於天下,而先驗師傅。即下九卿、大夫獄,宜因決免。」於是制詔丞相、御史:「前將軍望之,傅朕八年,無它罪過。今事久遠,識忘難明,其赦望之罪,收前將軍、光祿勳印綬;及堪、更生皆免爲庶人。」 1. 2二月,丁巳,立弟竟爲清河王。 2. 3戊午,隴西地震,敗城郭、屋室,壓殺人衆。 3. 4三月,立廣陵厲王子霸爲王。 4. 5詔罷黄門乘輿狗馬,水衡禁囿、宜春下苑、少府佽飛外池、嚴□池田假與貧民。又詔赦天下,舉茂材異等、直言極諫之士。 5. 6夏,四月,丁巳,立子驁爲皇太子。待詔鄭朋薦太原太守張敞,先帝名臣,宜傅輔皇太子。上以問蕭望之,望之以爲敞能吏,任治煩亂,材輕,非師傅之器。天子使使者征敞,欲以爲左馮翊,會病卒。 6. 7詔賜蕭望之爵關内侯,給事中,朝朔望。 7. 8關東饑,齊地人相食。 8. 9秋,七月,己酉,地復震。 9. 10上復征周堪、劉更生,欲以爲諫大夫;弘恭、石顯白,皆以爲中郎。 上器重蕭望之不已,欲倚以爲相;恭、顯及許、史子弟、侍中、諸曹皆側目於望之等。更生乃使其外親上變事,言「地震殆爲恭等,不爲三獨夫動。臣愚以爲宜退恭、顯以章蔽善之罰,進望之等以通賢者之路。如此,則太平之門開,災異之願塞矣。」書奏,恭、顯疑其更生所爲,白請考姦詐,辭果服;遂逮更生繋獄,免爲庶人。 會望之子散騎、中郎人及亦上書訟望之前事,事下有司,復奏:「望之前所坐明白,無譖訴者,而教子上書,稱引亡辜之詩,失大臣體,不敬,請逮捕。」弘恭、石顯等知望之素高節,不詘辱,建白:「望之前幸得不坐,復賜爵邑,不悔過服罪,深懷怨望,教子上書,歸非於上,自以托師傅,終必不坐,非頗屈望之於牢獄,塞其怏怏心,則聖朝無以施恩厚。」上曰:「蕭太傅素剛,安肯就吏!」顯等曰:「人命至重,望之所坐,語言薄罪,必無所憂。」上乃可其奏。冬,十二月,顯等封詔以付謁者,敕令召望之手付。因令太常急發執金吾車騎馳圍其第。使都至,召望之。望之以問門下生魯國硃雲,雲者,好節士,勸望之自裁。於是望之仰天歎曰:「吾嘗備位將相,年逾六十矣,老入牢獄,苟求生活,不亦鄙乎!」字謂雲曰:「游,趣和藥來,無久留我死!」竟飲鳩自殺。天子聞之驚,拊手曰:「曩固疑其不就牢獄,果然殺吾賢傅!」是時,太官方上晝食,上乃卻食,爲之涕泣,哀動左右。於是召顯等責問以議不詳,皆免冠謝,良久然後已。上追念望之不忘,毎歳時遣使者祠祭望之塚,終帝之世。 臣光曰:甚矣孝元之爲君,易欺而難寤也!夫恭、顯之譖訴望之,其邪説詭計,誠有所不能辨也。至於始疑望之不肯就獄,恭、顯以爲必無憂。已而果自殺,則恭、顯之欺亦明矣。在中智之君,孰不感動奮發以厎邪臣之罰!孝元則不然。雖涕泣不食以傷望之,而終不能誅恭、顯,才得其免冠謝而已。如此,則姦臣安所懲乎!是使恭、顯得肆其邪心而無復忌憚者也。 10. 11是歳,弘恭病死,石顯爲中書令。 11. 12初,武帝灰南越,開置珠崖、儋耳郡,在海中洲上,吏卒皆中國人,多侵陵之。其民亦暴惡,自以阻絶,數犯吏禁,率數年壹反,殺吏;漢輒發兵撃定之。二十餘年間,凡六反。至宣帝時,又再反。上即位之明年,珠崖山南縣反,發兵撃之。諸縣更叛,連年不定。上博謀於羣臣,欲大發軍。待詔賈捐之曰:「臣聞堯、舜、禹之聖德,地方不過數千里,西被流沙,東漸於海,朔南曁聲教,言欲與聲教則治之,不欲與者不強治也。故君臣歌德,含氣之物各得其宜。武丁、成王、殷、周之大仁也,然地東不過江、黄,西不過氐、羌,南不過蠻荊,北不過朔方,是以頌聲並作,視聽之類咸樂其生,越裳氏重九譯而獻,此非兵革之所能致也。以至於秦,興兵遠攻,貪外虚内而天下潰畔。孝文皇帝偃武行文,當此之時,斷獄數百,賦役輕簡。孝武皇帝厲兵馬以攘四夷,天下斷獄萬數,賦煩役重,寇賊並起,軍旅數發,父戰死於前,子斗傷於後,女子乘亭障,孤兒號於道,老母、寡婦飲泣巷哭,是皆廓地泰大,征伐不休之故也。今關東民衆久困,流離道路。人情莫親父母,莫樂夫婦;至嫁妻賣子,法不能禁,義不能止,此社稷之憂也。今陛下不忍悁悁之忿,欲驅士衆擠之大海之中,快心幽冥之地,非所以救助饑饉,保全元元也。詩云:『蠢爾蠻荊,大邦爲讎。』言聖人起則後服,中國衰則先畔,自古而患之,何況乃復其南方萬里之蠻乎!駱越之人,父子同川而浴,相習以鼻飲,與禽獸無異,本不足郡縣置也。顓顓獨居一海之中,霧露氣濕,多毒草、蟲蛇、水土之害;人未見虜,戰士自死。又非獨珠崖有珠、犀、玳瑁也。棄之不足惜,不撃不損威。其民譬猶魚鱉,何足貪也!臣竊以往者羌軍言之,暴師曾未一年,兵出不逾千里,費四十餘萬萬;大司農錢盡,乃以少府禁錢續之。夫一隅爲不善,費尚如此,況於勞師遠攻,亡士毋功乎!求之往古則不合,施之當今又不便,臣愚以爲非冠帶之國,禹貢所及,春秋所治,皆可且無以爲。願遂棄珠崖,專用恤關東爲憂。」上以問丞相、御史。御史大夫陳萬年以爲當撃,丞相於定國以爲:「前日興兵撃之連年,護軍都尉、校尉及丞凡十一人,還者二人,卒士及轉輸死者萬人以上,費用三萬萬餘,尚未能盡降。今關東困乏,民難搖動,捐之議是,」上從之。捐之,賈誼曾孫也。 12. 三年(乙亥、前四六) 1春,詔曰:「珠崖虜殺吏民,背畔爲逆。今廷議者或言可撃,或言可守,或欲棄之,其指各殊。朕日夜惟思議者之言,羞威不行,則欲誅之;狐疑辟難,則守屯田;通於時變,則憂萬民。夫萬民之飢餓與遠蠻之不討,危孰大焉?且宗廟之祭,凶年不備,況乎辟不嫌之辱哉!今關東大困,倉庫空虚,無以相贍,又以動兵,非特勞民,凶年隨之。其罷珠崖郡,民有慕義欲内屬,便處之;不欲,勿強。」 1. 2夏,四月,乙末晦,茂陵白鶴館災;赦天下。 2. 3夏,旱。 3. 4立長沙煬王弟宗爲王。 4. 5長信少府貢禹上言:「諸離宮及長樂宮衞,可減其太半以寬繇役。」六月,詔曰:「朕惟烝庶之饑寒,遠離父母妻子,勞於非業之作,衞於不居之宮,恐非所以佐陰陽之道也。其罷甘泉、建章宮衞,令就農。百宮各省費。條奏,毋有所諱。」 5. 6是歳,上復擢周堪爲光祿勳,堪弟子張猛爲光祿大夫、給事中,大見信任。 6. 四年(丙子、前四五) 1春,正月,上行幸甘泉,效泰畤。三月,行幸河東,祠后土;赦汾陰徒。 1. 五年(丁丑、前四四) 1春,正月,以周子南君爲周承休侯。 1. 2上行幸雍,祠五畤。 2. 3夏,四月,有星孛于參。 3. 4上用諸儒貢禹等之言,詔太官毋日殺,所具各減半;乘輿秣馬,無乏正事而已。罷角抵、上林宮館希御幸者、齊三服官、北假田官、鹽鐵官、常平倉。博士弟子毋置員,以廣學者。令民有能通一經者。皆復。省刑罰七十餘事。 4. 5陳萬年卒。六月,辛酉,長信少府貢禹爲御史大夫。禹前後言得失書數十上,上嘉其質直,多採用之。 5. 6匈奴郅支單于自以道遠,又怨漢擁護呼韓邪而不助己,困辱漢使者乾江乃始等;遣使奉獻,因求侍子。漢議遣衞司馬谷吉送之,御史大夫貢禹、博士東海匡衡以爲:「郅支單于郷化末醇,所在絶遠,宜令使者送其子,至塞而還。」吉上書言:「中國與夷狄有羈縻不絶之義,今既養全其子十年,德澤甚厚,空絶而不送,近從塞還,示棄捐不畜,使無郷從之心,棄前恩,立後怨,不便。議者見前江乃無應敵之數,智勇倶困,以致恥辱,即豫爲臣憂。臣幸得建強漢之節,承明聖之詔,宣諭厚恩,不宜敢桀。若懷禽獸心,加無道於臣,則單于長嬰大罪,必遁逃遠捨,不敢近邊。沒一使以安百姓,國之計,臣之願也。願送到庭。」上許焉。既到,郅支單于怒,竟殺吉等;自知負漢,又聞呼韓邪益強,恐見襲撃,欲遠去。會康居王數爲烏孫所困,與諸翕侯計,以爲:「匈奴大國,烏孫素服屬之。今郅支單于困在外,可迎置東邊,使合兵取烏孫而立之,長無匈憂矣。」即使使到堅昆,通語郅支。郅支素恐,又怨烏孫,聞康居計,大説,遂與相結,引兵而西。郅支人衆中寒道死,餘財三千人。到康居,康居王以女妻郅支,郅支亦以女予康居王,康居甚尊敬郅支,欲倚其威以脅諸國。郅支數借兵撃烏孫,深入至谷城,殺略民人,驅畜産去。烏孫不敢追。西邊空虚不居者五千里。 6. 7冬,十二月,丁末,貢禹卒。丁已,長信少府薛廣德爲御史大夫。 7. 永光元年(戊寅、前四三) 1春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。視畢,因留射獵。薛廣德上書曰:「竊見關東困極,人民流離。陛下日撞亡秦之鐘,聽鄭、衞之樂,臣誠悼之。今士卒暴露,從官勞倦,願陛下亟反宮,思與百姓同憂樂,天下幸甚!」上即日還。 1. 2二月,詔:「丞相、御史舉質樸、敦厚、遜讓、有行者,光祿歳以此科第郎、從官。」 2. 3三月,赦天下。 3. 4雨雪、隕霜,殺桑。 4. 5秋,上酎祭宗廟,出便門,欲御樓船。薛廣德當乘輿車,免冠頓首曰:「宜從橋。」詔曰:「大夫冠。」廣德曰:「陛下不聽臣,臣自刎,以血汚車輪,陛下不得入廟矣!」上不説。先驅光祿大夫張猛進曰:「臣聞主聖臣直。乘船危,就橋安,聖主不乘危。御史大夫言可聽。」上曰:「曉人不當如是邪!」乃從橋。 5. 6九月,隕霜殺稼,天下大饑。丞相於定國,大司馬、車騎將軍史高,御史大夫薛廣德,倶以災異乞骸骨。賜安車、駟馬、黄金六十斤,罷。太子太傅韋玄成爲御史大夫。廣德歸,縣其安車,以傳示子孫爲榮。 6. 7帝之爲太子也,從太中大夫孔霸受尚書。及即位,賜霸爵關内侯,號褒成君,給事中。上欲致霸相位,霸爲人謙退,不好權勢,常稱「爵位泰過,何德以堪之!」御史大夫屢缺,上輒欲用霸;霸讓位,自陳至於再三。上深知其至誠,乃弗用。以是敬之,賞賜甚厚。 7. 8戊子,侍中,衞尉王接爲大司馬、車騎將軍。 8. 9石顯憚周堪、張猛等,數譖毀之。劉更生懼其傾危,上書曰:「臣聞舜命九官,濟濟相讓,和之至也。衆臣和於朝則萬物和於野,故簫韶九成,鳳皇來儀。至周幽,厲之際,朝廷不和,轉相非怨,則日月薄食,水泉沸騰,山谷易處,霜降失節。由此觀之,和氣致祥,乖氣致異,祥多者其國安,異衆者其國危。天地之常經,古今之通義也。今陛下開三代之業,招文學之士,優遊寬容,使得並進。今賢不肖渾殽,白黑不分,邪正雜糅,忠讒並進;章交公車,人滿北軍,朝臣舛午,膠戻乖剌,更相讒訴,轉相是非;所以營惑耳目,感移心意,不可勝載,分曹爲黨,往往羣朋將同心以陷正臣。正臣進者,治之表也;正臣陷者,亂之機也;乘治亂之機,未知孰任,而災異數見,此臣所以寒心者也。初元以來六年矣,按春秋六年之中,災異未有稠如今者也。原其所以然者,由讒邪並進也;讒邪之所以並進者,由上多疑心,既已用賢人而行善政,如或譖之,則賢人退而善政還矣。夫執狐疑之心者,來讒賊之口;持不斷之意者,開羣枉之門;讒邪進則衆賢退,羣枉盛則正士消。故易有否、泰,小人道長,君子道消,則政日亂;君子道長,小人道消,則政日治。昔者鯀、共工、驩兜與舜、禹雜處堯朝,周公與管、蔡並居周位,當是時,迭進相毀,流言相謗,豈可勝道哉!帝堯、成王能賢舜、禹、周公而消共工、管、蔡,故以大治,榮華至今。孔子與季、孟偕仕於魯,李斯與叔孫倶宦於秦,定公、始皇賢季、孟、李斯而消孔子、叔孫,故以大亂,汚辱至今。故治亂榮辱之端,在所信任;信任既賢,在於堅固而不移。詩云:『我心匪石,不可轉也,言守善篤也。易曰:『渙汗其大號』,言號令如汗,汗出而不反者也。今出善令未能逾時而反,是反汗也;用賢未能三旬而退,是轉石也。論語曰:『見不善如探湯。』今二府奏佞謅不當在位,歴年而不去。故出令則如反汗,用賢則如轉石,去佞則如撥山,如此,望陰陽之調,不亦難乎!是以羣小窺見間隙,縁飾文字,巧言醜詆,流言、飛文嘩於民間。故詩云:『憂心悄悄,慍於羣小,』小人成羣,誠足慍也。昔孔子與顏淵、子貢更相稱譽,不爲朋黨;禹、稷與皋陶傳相汲引,不爲比周,何則?忠於爲國,無邪心也。今佞邪與賢臣並交戟之内,合黨共謀,違善依惡,歙歙訿□,數設危險之言,欲以傾移主上,如忽然用之,此天地之所以先戒,災異之所以重至者也。自古明聖未有無誅而治者也,故舜有四放之罰,孔子有兩觀之誅,然後聖化可得而行也。今以陛下明知,誠深思天地之心,覽否、泰之卦,歴周、唐之所進以爲法,原秦、魯之所消以爲戒,考祥應之福。省災異之禍,以揆當世之變,放遠佞邪之黨,壞散險詖之聚,杜閉羣枉之門,方開衆正之路,決斷狐疑,分別猶豫,便是非炳然可知,則百異消滅而衆祥並至,太平之基,萬世之利也。」顯見其書,愈與許、史比而怨更生等。 是歳,夏寒,日靑無光,顯及許、史皆言堪、猛用事之咎。上内重堪,又患衆口之浸潤,無所取信。時長安令楊興以材能幸,常稱譽堪,上欲以爲助,乃見問興:「朝臣斷斷不可光祿勳,何邪?」興者,傾巧士,謂上疑堪,因順指曰:「堪非獨不可於朝廷,自州里亦不可也!臣見衆人聞堪與劉更生等謀毀骨肉,以爲當誅;故臣前書言堪不可誅傷,爲國養恩也。」上曰:「然此何罪而誅?今宜奈何?」興曰:「臣愚以爲可賜爵關内侯,食邑三百戸,勿令典事。明主不失師傅之恩,此最策之得者也。」上於是疑之。 司隸校尉琅邪諸葛豐始以特立剛直著名於朝,數侵犯貴戚,在位多言其短。後坐春夏繋治人,徙城門校尉。豐於是上書告堪、猛罪,上不直豐,乃制詔御史:「城門校尉豐,前與光祿勳、光祿大夫猛在朝之時,數稱言堪、猛之美。豐前爲司隸校尉,不順四時,修法度,專作苛暴以獲虚威;朕不忍下吏,以爲城門校尉。不内省諸己,而反怨堪、猛以求報舉,告按無證之辭,暴揚難驗之罪,毀譽恣意,不顧前言,不信之大也。朕憐豐之耆老,不忍加刑,其免爲庶人!」又曰:「豐言堪、猛貞信不立,朕閔而不治,又惜其材能未有所效,其左遷堪爲河東太守,猛槐里令。」 臣光曰:諸葛豐之於堪、猛,前譽而後毀,其志非爲朝廷進善而去姦也,欲比周求進而已矣。斯亦鄭朋、楊興之流,烏在其爲剛直哉!人君者,察美惡,辨是非,賞以勸善,罰以懲姦,所以爲治也。使豐言得實,則豐不當絀;若其誣罔,則堪、猛何辜焉!今兩責而倶棄之,則美惡、是非果何在哉! 9. 10賈捐之與楊興善。捐之數短石顯,以故不得官,稀復進見;興新以材能得幸。捐之謂興曰:「京兆尹缺,使我得見,言君蘭,京兆尹可立得。」興曰:「君房下筆,言語妙天下;使君房爲尚書令,勝五鹿充宗遠甚。」捐之曰:「令我得代充宗,君蘭爲京兆,京兆,郡國首,尚書,百官本,天下眞大治,士則不隔矣!」捐之復短石顯,興曰:「顯方貴,上信用之;今欲進,第從我計,且與合意,即得入矣!」捐之即與興共爲薦顯奏,稱譽其美,以爲宜賜爵關内侯,引其兄弟以爲諸曹;又共爲薦興奏,以爲可試守京兆尹。石顯聞知,白之上,乃下興、捐之獄,令顯治之,奏「興,捐之懷詐偽,更相薦譽,欲得大位,罔上不道!」捐之竟坐棄市,興髡鉗爲城旦。 臣光曰:君子以正攻邪,猶懼不克。況捐之以邪攻邪,其能免乎! 10. 11徙清河王竟爲中山王。 11. 12匈奴呼韓邪單于民衆益盛,塞下禽獸盡,單于足以自衞,不畏郅支,其大臣多勸單于北歸者。久之,單于竟北歸庭,民衆稍稍歸之,其國遂定。 12. 二年(己卯、前四二) 1春,二月,赦天下。 1. 2丁酉,御史大夫韋玄成爲丞相;右扶風鄭弘爲御史大夫。 2. 3三月,壬戌朔,日有食之。 3. 4夏,六月,赦天下。 4. 5上問給事中匡衡以地震日食之變,衡上疏曰:「陛下躬聖德,開太平之路,閔愚吏民觸法抵禁,比年大赦,使百姓得改行自新,天下幸甚!臣竊見大赦之後,姦邪不爲衰止,今日大赦,明日犯法,相隨入獄,此殆導之未得其務也。今天下俗,貪財賤義,好聲色,上侈靡,親戚之恩薄,婚姻之黨隆,苟合徼幸,以身設利;不改其原,雖歳赦之,刑猶難使錯而不用也,臣愚以爲宜壹曠然大變其俗。夫朝廷者,天下之楨幹也。朝有變色之言,則下有爭鬥之患;上有自專之士,則下有不讓之人;上有克勝之佐,則下有傷害之心;上有好利之臣,則下有盜竊之民;此其本也。治天下者,審所上而已。教化之流,非家至而人説之也;賢者在位,能者布職,朝廷崇禮,百僚敬讓,道德之行,由内及外,自近者始,然後民知所法,遷善日進而不自知也。詩曰:『商邑翼翼,四方之極。』今長安,天子之都,親承聖化,然其習俗無以異於遠方,郡國來者無所法則,或見侈靡而放效之;此教化之原本,風俗之樞機,宜先正者也。臣聞天人之際,精祲有以相蕩,善惡有以相推,事作乎下者象動乎上,陰變則靜者動,陽蔽則明者晻,水旱之災隨類而至。陛下祗畏天戒,哀閔元元,宜省靡麗,考制度,近忠正,遠巧佞,以崇至仁,匡失俗,道德弘於京師,淑問揚乎疆外,然後大化可成,禮讓可興也。」上説其言,遷衡爲光祿大夫。 5. 6荀悅論曰:夫赦者,權時之宜,非常典也。漢興,承秦兵革之後,大愚之世,比屋可刑,故設三章之法,大赦之令,蕩滌穢流,與民更始,時勢然也。後世承業,襲而不革,失時宜矣。若惠、文之世,無所赦之。若孝景之時,七國皆亂,異心並起,姦詐非一;及武帝末年,賦役繁興,羣盜並起,加以太子之事,巫蠱之禍,天下紛然,百姓無聊,人不自安;及光武之際,撥亂之後:如此之比,宜爲赦矣。 6. 荀悦が論じて曰く:それ大赦なるものは便宜上の措置にあり、常なる典範にあらず。漢が興ったときは秦の兵革の後を承けた後であり、大愚の世のため、多くの者が身に重罪を負い、法に則ればことごとく民衆を誅殺しなければならなかった。ゆえに三章の法を設けてこれに令して大赦し、汚いものを洗い流して民とともに新しい時代を始めたのである。時の勢いとしてこうするべきだったのだ。しかし後世に至り、この制度を承けて襲して革(あらた)めずにいたならば、時宜を失していただろう。もし、恵帝、文帝の世に大赦が無かったならば、景帝の世で七国の乱があったときに、皆、異心沸き起こって奸詐は一つどころではなかっただろう。武帝の末年になると、賦役が繁雑に興されて群盗が沸き起こった。加えて皇太子の事件をもって巫蠱の禍があり、天下は紛然となった。百姓は頼るものとてなく、人々は皆、自ずと不安となった。光武帝の際には混乱の後を承けて前世になぞらえ、かくの如くにして大赦すること宜しきを得たのである。 7秋,七月,隴西羌彡姐旁種反,詔召丞相韋玄成等入議。是時,歳比不登,朝廷方以爲憂,而遭羌變,玄成等漠然,莫有對者。右將軍馮奉世曰:「羌虜近在竟内背畔,不以時誅,無以威制遠蠻,臣願帥師討之!」上問用兵之數,對曰:「臣聞善用兵者,役不再興,糧不三載,故師不久暴而天誅亟決。往者數不料敵,而師至於折傷,再三發調,則曠日煩費,威武虧矣。今反虜無慮三萬人,法當倍,用六萬人。然羌戎,弓矛之兵耳,器不犀利,可用四萬人。一月足以決。」丞相、御史、兩將軍皆以爲:「民方收斂時未可多發,發萬人屯守之,且足。」奉世曰:「不可。天下被饑饉,士馬羸耗,守戰之備久廢不簡,夷狄有輕邊吏之心,而羌首難。今以萬人分屯數處,虜見兵少,必不畏懼。戰則挫兵病師,守則百姓不救,如此,怯弱之形見。羌人乘利,諸種並和,相扇而起,臣恐中國之役不得止於四萬,非財幣所能解也。故少發師而曠日,與一舉而疾決,利害相萬也。」固爭之,不能得。有詔,益二千人。於是遣奉世將萬二千人騎,以將屯爲名,典屬國任立、護軍都尉韓昌爲偏裨,到隴西,分屯三處。昌先遣兩校尉與羌戰,羌虜盛多,皆爲所破,殺兩校尉。奉世具上地形部衆多少之計,願益三萬六千人,乃足以決事。書奏,天子大爲發兵六萬餘人。八月,拜太常弋陽侯任千秋爲奮武將軍以助之。冬,十月,兵畢至隴西,十一月,並進,羌虜大破,斬首數千級,餘皆走出塞。兵未決間,漢復發募士萬人,拜定襄太守韓安國爲建威將軍,未進,聞羌破而還。詔罷吏士,頗留屯田,備要害處。 7.
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資治通鑑巻第三十五 漢紀二十七 孝哀皇帝下 元壽元年(己未、前二) 1春,正月,辛丑朔,詔將軍、中二千石舉明習兵法者各一人,因就拜孔郷侯傅晏爲大司馬、衞將軍,陽安侯丁明爲大司馬、票騎將軍。 1.春、正月、???、将軍に命令し、二千石の中から兵法に明らかで慣れた者各一人を挙げさせ、よって孔郷侯傅晏を大司馬、衛将軍、陽安侯丁明を大司馬、票騎将軍に就かせる。 2是日,日有食之。上詔公卿大夫悉心陳過失;又令舉賢良方正能直言者各一人。大赦天下。 丞相嘉奏封事曰:「孝元皇帝奉承大業,温恭少欲,都内錢四十萬萬。嘗幸上林,後宮馮貴人從臨獸圈,猛獸驚出,貴人前當之,元帝嘉美其義,賜錢五萬。掖庭見親,有加賞賜,屬其人勿衆謝。示平惡偏,重失人心,賞賜節約。是時外戚貲千萬者少耳,故少府、水衡見錢多也。雖遭初元、永光凶年饑饉,加以西羌之變,外奉師旅,内振貧民,終無傾危之憂,以府臧内充實也。孝成皇帝時,諫臣多言燕出之害,及女寵專愛,耽於酒色,損德傷年,其言甚切,然終不怨怒也。寵臣淳於長、張放、史育,育數貶退,家貲不滿千萬,放斥逐就國,長榜死於獄,不以私愛害公義,故雖多内譏,朝廷安平,傳業陛下。 2、??、日食あり。公卿大夫の悉心陳が過失を申し上げ;又賢良で方正の才能の直言者を各1名挙げるよう命令した。天下に大赦した。 2a陛下在國之時,好詩、書,上儉節,征來,所過道上稱誦德美,此天下所以回心也。初即位,易帷帳,去錦繡,乘輿席縁綈繒而已。共皇寢廟比當作,憂閔元元,惟用度不足,以義割恩,輒且止息,今始作治。而駙馬都尉董賢亦起官寺上林中,又爲賢治大第,開門郷北闕,引王渠灌園池,使者護作,賞賜吏卒,甚於治宗廟。賢母病,長安廚給祠具,道中過者皆飲食。爲賢治器,器成,奏御乃行,或物好,特賜其工。自貢獻宗廟、三宮,猶不至此。賢家有賓婚及見親,諸官並共,賜及倉頭、奴婢人十萬錢。使者護視、發取市物,百賈震動,道路讙嘩,羣臣惶惑。詔書罷苑,而以賜賢二千餘頃,均田之制從此墮壞。奢僭放縱,變亂陰陽,災異衆多,百姓訛言,持籌相驚,天惑其意,不能自止。陛下素仁智愼事,今而有此大譏。 2b 孔子曰:『危而不持,顛而不扶,則將安用彼相矣!』臣嘉幸得備位,竊内悲傷不能通愚忠之信;身死有益於國,不敢自惜。唯陛下愼己之所獨郷,察衆人之所共疑!往者寵臣鄧通、韓嫣,驕貴失度,逸豫無厭,小人不勝情慾,卒陷罪辜,亂國亡軀,不終其祿,所謂『愛之適足以害之』者也!宜深覽前世,以節賢寵,全安其命。」上由是於嘉浸不説。 2c 前涼州刺史杜鄴以方正對策曰:「臣聞陽尊陰卑,天之道也。是以男雖賤,各爲其家陽,女雖貴,猶爲其國陰。故禮明三從之義,雖有文母之德,必繋於子。昔鄭伯隨姜氏之欲,終有叔段簒國之禍;周襄王内迫惠後之難,而遭居鄭之危。漢興,呂太后權私親屬,幾危社稷。竊見陛下約儉正身,欲與天下更始,然嘉瑞未應,而日食、地震。案春秋災異,以指象爲言語。日食,明陽爲陰所臨。坤以法地,爲土,爲母,以安靜爲德;震,不陰之效也。占像甚明,臣敢不直言其事!昔曾子問從令之義,孔子曰:『是何言與!』善閔子騫守禮不苟從親,所行無非理者,故無可間也。今諸外家昆弟,無賢不肖,並侍帷幄,布在列位,或典兵衞,或將軍屯,寵意並於一家,積貴之勢,世所希見、所希聞也。至乃並置大司馬、將軍之官,皇甫雖盛,三桓雖隆,魯爲作三軍,無以甚此!當拜之日,晻然日食。不在前後,臨事而發者,明陛下謙遜無專,承指非一,所言輒聽,所欲輒隨,有罪惡者不坐辜罰,無功能者畢受官爵,流漸積畏,過在於是,欲令昭昭以覺聖朝。昔詩人所刺,春秋所譏,指象如此,殆不在它。由後視前,忿邑非之。逮身所行,不自鏡見,則以爲可,計之過者。願陛下加致精誠,思承始初,事稽諸古,以厭下心,則黎庶羣生無不説喜,上帝百神收還威怒,禎祥福祿,何嫌不報!」 2d 上又徴孔光詣公車,問以日食事,拜爲光祿大夫,秩中二千石,給事中,位次丞相。 初,王莽既就國,杜門自守。其中子獲殺奴,莽切責獲,令自殺。在國三歳,吏民上書冤訟莽者百數。至是,賢良周護、宋崇等對策,復深訟莽功德。上於是征莽及平阿侯仁還京師,侍太后。 2. 3董賢因日食之變以沮傅晏、息夫躬之策,辛卯,上收晏印綬,罷就第。 3. 4丁巳,皇太太后傅氏崩,合葬渭陵,稱孝元傅皇后。 4. 5丞相、御史奏息夫躬、孫寵等罪過,上乃免躬、寵官,遣就國;又罷侍中、諸曹、黄門郎數十人。 鮑宣上書曰:「陛下父事天,母事地,子養黎民。即位已來,父虧明,母震動,子訛言相驚恐。今日食於三始,誠可畏懼。小民正朔日尚恐毀敗器物,何況於日虧乎!陛下深内自責,避正殿,舉直言,求過失,罷退外親及旁仄素餐之人,征拜孔光爲光祿大夫,發覺孫寵、息夫躬過惡,免官遣就國,衆庶歙然,莫不説喜。天人同心,人心説則天意解矣。乃二月丙戌,白虹干日,連陰不雨,此天下憂結未解,民有怨望未塞者也。侍中、駙馬都尉董賢,本無葭莩之親,但以令色、諛言自進,賞賜無度,竭盡府臧,併合三第,尚以爲小,復壞暴室。賢父、子坐使天子使者,將作治第,行夜吏卒皆得賞賜,上塚有會,輒太官爲供。海内貢獻,當養一君,今反盡之賢家,豈天意與民意邪!天不可久負,厚之如此,反所以害之也!誠欲哀賢,宜爲謝過天地,解讎海内,免遣就國,收乘輿器物還之縣官,如此,可以父子終其性命;不者,海内之所仇,未有得久安者也。孫寵、息夫躬不宜居國,可皆免,以視天下。復征何武、師丹、彭宣、傅喜,曠然使民易視,以應天心,建立大政,興太平之端。」上感大異,納宣言,征何武、彭宣;拜鮑宣爲司隸。 5. 6上託傅太后遺詔,令太皇太后下丞相、御史,益封董賢二千戸,賜孔郷侯、汝昌侯、陽新侯國。王嘉封還詔書,因奏封事諫曰:「臣聞爵祿、土地,天之有也。書云:『天命有德,五服五章哉!』王者代天爵人,尤宜愼之。裂地而封,不得其宜,則衆庶不服,感動陰陽,其害疾自深。今聖體久不平,此臣嘉所内懼也。高安侯賢,佞幸之臣,陛下傾爵位以貴之,單貨財以富之,損至尊以寵之,主威已黜,府臧已竭,唯恐不足。財皆民力所爲,孝文皇帝欲起露台,重百金之費,克己不作。今賢散公賦以施私惠,一家至受千金,往古以來,貴臣未嘗有此,流聞四方,皆同怨之。里諺曰:『千人所指,無病而死,』臣常爲之寒心。今太皇太后以永信太后遺詔詔丞相、御史,益賢戸,賜三侯國,臣嘉竊惑。山崩、地動、日食於三朝,皆陰侵陽之戒也。前賢已再封,晏、商再易邑,業縁私橫求,恩已過厚,求索自恣,不知厭足,甚傷尊尊之義,不可以示天下,爲害痛矣!臣驕侵罔,陰陽失節,氣感相動,害及身體。陛下寢疾久不平,繼嗣未立,宜思正萬事,順天人之心,以求福祐,奈何輕身肆意,不念高祖之勤苦,垂立制度,欲傳之於無窮哉!臣謹封上詔書,不敢露見。非愛死而不自法,恐天下聞之,故不敢自劾。」 初,廷尉梁相治東平王雲獄,時冬月未盡二旬,而相心疑雲冤獄,有飾辭,奏欲傳之長安,更下公卿覆治。尚書令鞫譚、僕射宗伯鳳以爲可許。天子以爲相等皆見上體不平,外内顧望,操持兩心,幸雲踰冬,無討賊疾惡主讎之意,免相等皆爲庶人。後數月,大赦,嘉薦「相等皆有材行,聖王有計功除過,臣竊爲朝廷惜此三人。」書奏,上不能平。後二十餘日,嘉封還益董賢戸事,上乃發怒,召嘉詣尚書,責問以「相等前坐不忠,罪惡著聞,君時輒已自劾;今又稱譽,云『爲朝廷惜之』,何也?」嘉免冠謝罪。 事下將軍中朝者,光祿大夫孔光等劾「嘉迷國罔上,不道,請謁者召嘉詣廷尉詔獄。」議郎龔等以爲「嘉言事前後相違,宜奪爵土,免爲庶人。」永信少府猛等以爲「嘉罪名雖應法,大臣括發關械,裸躬就笞,非所以重國,褒宗廟也。」上不聽,三月,詔「假謁者節,召丞相詣廷尉詔獄。」 使者既到,府掾、史涕泣,共和藥進嘉,嘉不肯服。主簿曰:「將相不對理陳冤,相踵以爲故事,君侯宜引決。」使者危坐府門上,主簿復前進藥。嘉引藥杯以撃地,謂官屬曰:「丞相幸得備位三公,奉職負國,當伏刑都市,以示萬衆。丞相豈兒女子邪!何謂咀藥而死!」嘉遂裝,出見使者,再拜受詔;乘吏小車,去蓋,不冠,隨使者詣廷尉。廷尉收嘉丞相、新甫侯印綬,縛嘉載致都船詔獄。上聞嘉生自詣吏,大怒,使將軍以下與五二千石雜治。吏詰問嘉,嘉對曰:「案事者思得實。竊見相等前治東平王獄,不以雲爲不當死,欲關公卿,示重愼,誠不見其外内顧望,阿附爲雲驗,復幸得蒙大赦。相等皆良善吏,臣竊爲國惜賢,不私此三人。」獄吏曰:「苟如此,則君何以爲罪?猶當有以負國,不空入獄矣。」吏稍侵辱嘉,嘉喟然仰天歎曰:「幸得充備宰相,不能進賢、退不肖,以是負國,死有餘責。」吏問賢、不肖主名。嘉曰:「賢:故丞相孔光、故大司空何武,不能進;惡:高安侯董賢父子,佞邪亂朝,而不能退。罪當死,死無所恨!」嘉繋獄二十餘日,不食,歐血而死。 已而上覽其對,思嘉言,會御史大夫賈延免,夏,五月,乙卯,以孔光爲御史大夫。秋,七月,丙午,以光爲丞相,復故國博山侯;又以汜郷侯何武爲御史大夫。上乃知孔光前免非其罪,以過近臣毀短光者,曰:「傅嘉前爲侍中,毀譖仁賢,誣訴大臣,令俊艾者久失其位,其免嘉爲庶人,歸故郡。」 6. 7八月,何武徙爲前將軍。辛卯,光祿大夫彭宣爲御史大夫。 7. 8司隸鮑宣坐摧辱宰相,拒閉使者,無人臣禮,減死髡鉗。 8. 9大司馬丁明素重王嘉,以其死而憐之;九月,乙卯,冊免明,使就第。 9. 10冬,十一月,壬午,以故定陶太傅、光祿大夫韋賞爲大司馬、車騎將軍。己丑,賞卒。 10. 11十二月,庚子,以侍中、駙馬都尉董賢爲大司馬、衞將軍,冊曰:「建爾於公,以爲漢輔!往悉爾心,匡正庶事,允執其中!」是時賢年二十二,雖爲三公,常給事中,領尚書,百官因賢奏事。以父衞尉恭不宜在卿位,徙爲光祿大夫、秩中二千石;弟寬信代賢爲駙馬都尉。董氏親屬皆侍中、諸曹、奉朝請,寵在丁、傅之右矣。 初,丞相孔光爲御史大夫,賢父恭爲御史,事光。及賢爲大司馬,與光並爲三公。上故令賢私過光。光雅恭謹,知上欲尊寵賢。及聞賢當來也,光警戒衣冠出門待,望見賢車乃卻入,賢至中門,光入閣,既下車,乃出,拜謁、送迎其謹,不敢以賓客鈞敵之禮。上聞之,喜,立拜光兩兄子爲諫大夫、常侍。賢由是權與人主侔矣。 是時,成帝外家王氏衰廢,唯平阿侯譚子去疾爲侍中,弟閎爲中常侍。閎妻父中郎將蕭咸,前將軍望之子也,賢父恭慕之,欲爲子寬信求咸女爲婦,使閎言之。咸惶恐不敢當,私謂閎曰:「董公爲大司馬,冊文言『允執其中』,此乃堯禪舜之文,非三公故事,長者見者莫不心懼。此豈家人子所能堪邪!」閎性有知略,聞咸言,心亦悟;乃還報恭,深達咸自謙薄之意。恭歎曰:「我家何用負天下,而爲人所畏如是!」意不説。後上置酒麒麟殿,賢父子、親屬宴飲,侍中、中常侍皆在側,上有酒所,從容視賢,笑曰:「吾欲法堯禪舜,何如?」王閎進曰:「天下乃高皇帝天下,非陛下之有也!陛下承宗廟,當傳子孫於亡窮,統業至重,天子亡戲言!」上默然不説,左右皆恐。於是遣閎出歸郎署。 久之,太皇太后爲閎謝,復召閎還。閎遂上書諫曰:「臣聞王者立三公,法三光,居之者當得賢人。易曰:『鼎折足,覆公餗,』喩三公非其人也。昔孝文皇帝幸鄧通,不過中大夫;武皇帝幸韓嫣,常賜而已,皆不在大位。今大司馬、衞將軍董賢,無功於漢朝,又無肺腑之連,復無名跡高行以矯世,升擢數年,列備鼎足,典衞禁兵,無功封爵,父子、兄弟橫蒙拔擢,賞賜空竭帑藏,萬民喧嘩,偶言道路,誠不當天心也!昔褒神蚖變化爲人,實生褒姒,亂周國,恐陛下有過失之譏,賢有小人不知進退之禍,非所以垂法後世也!」上雖不從閎言,多其年少志強,亦不罪也。 11. 二年(庚申、前一) 1春,正月,匈奴單于及烏孫大昆彌伊秩靡皆來朝,漢以爲榮。是時西域凡五十國,自譯長至將、相、侯、王皆佩漢印綬,凡三百七十六人;而康居、大月氏、安息、罽賓、烏弋之屬,皆以絶遠,不在數中,其來貢獻,則相與報,不督録總領也。自黄龍以來,單于毎入朝,其賞賜錦繡、繒絮,輒加厚於前,以慰接之。單于宴見,羣臣在前,單于怪董賢年少,以問譯。上令譯報曰:「大司馬年少,以大賢居位。」單于乃起,拜賀漢得賢臣。是時上以大歳厭勝所在,捨單于上林苑蒲陶宮,告之以加敬於單于;單于知之,不悅。 1. 2夏,四月,壬辰晦,日有食之。 2. 3五月,甲子,正三公官分職。大司馬、衞將軍董賢爲大司馬;丞相孔光爲大司徒;御史大夫彭宣爲大司空,封長平侯。 3. 4六月,戊午,帝崩于未央宮。 帝睹孝成之世祿去王室,及即位,屢誅大臣,欲強主威以則武、宣。然而寵信讒諂,憎疾忠直,漢業由是遂衰。 太皇太后聞帝崩,即日駕之未央宮,收取璽綬。太后召大司馬賢,引見東箱,問以喪事調度。賢内憂,不能對,免冠謝。太后曰:「新都侯莽,前以大司馬奉送先帝大行,曉習故事,吾令莽佐君。」賢頓首:「幸甚!」太后遣使者馳召莽。詔尚書,諸發兵符節、百官奏事、中黄門、期門兵皆屬莽。莽以太后指,使尚書劾賢帝病不親醫藥,禁止賢不得入宮殿司馬中;賢不知所爲,詣闕免冠徒跣謝。己未,莽使謁者以太后詔即闕下冊賢曰:「賢年少,未更事理,爲大司馬,不合衆心,其收大司馬印綬,罷歸第!」即日,賢與妻皆自殺;家惶恐,夜葬。莽疑其詐死。有司奏請發賢棺,至獄診視,因埋獄中。太皇太后詔「公卿舉可大司馬者」。莽故大司馬,辭位避丁、傅,衆庶稱以爲賢,又太皇太后近親,自大司徒孔光以下,舉朝皆舉莽。獨前將軍何武、左將軍公孫祿二人相與謀,以爲「往時惠、昭之世,外戚呂、霍、上官持權,幾危社稷;今孝成、孝哀比世無嗣,方當選立近親幼主,不宜令外戚大臣持權。親疏相錯,爲國計便。」於是武舉公孫祿可大司馬,而祿亦舉武。庚申,太皇太后自用莽爲大司馬、領尚書事。 太皇太后與莽議立嗣。安陽侯王舜,莽之從弟,其人修飭,太皇太后所信愛也,莽白以舜爲車騎將軍。秋,七月,遣舜與大鴻臚左咸使持節迎中山王箕子以爲嗣。 莽又白太皇太后,詔有司以皇太后前與女弟昭儀專寵錮寢,殘滅繼嗣,貶爲孝成皇后,徙居北宮。又以定陶共王太后與孔郷侯晏同心合謀,背恩忘本,專恣不軌,徙孝哀皇后退就桂宮,傅氏、丁氏皆免官爵歸故郡,傅晏將妻子徙合浦。獨下詔褒揚傅喜曰:「高武侯喜,姿性端愨,論議忠直,雖與故定陶太后有屬,終不順指從邪,介然守節,以故斥逐就國。傳不雲乎:『歳寒然後知松柏之後凋也。』其還喜長安,位特進,奉朝請。」喜雖外見褒賞,孤立憂懼;後復遣就國,以壽終。莽又貶傅太后號爲定陶共王母,丁太后號曰丁姫。莽又奏董賢父子驕恣奢僭,請收沒入財物縣官,諸以賢爲官者皆免。父恭、弟寬信與家屬徙合浦,母別歸故郡巨鹿。長安中小民歡嘩,郷其第哭,幾獲盜之。縣官斥賣董氏財,凡四十三萬萬。賢所厚吏沛硃詡自劾去大司馬府,買棺衣,收賢屍葬之。莽聞之,以它罪撃殺詡。莽以大司徒孔光名儒,相三主,太后所敬,天下信之,於是盛尊事光,引光女婿甄邯爲侍中、奉車都尉。諸素所不説者,莽皆傅致其罪,爲請奏草,令邯持與光,以太后指風光。光素畏愼,不敢不上之;莽白太后,輒可其奏。於是劾奏何武、公孫祿互相稱舉,皆免官,武就國。又奏董宏子高昌侯武父爲佞邪,奪爵。又奏南郡太守毋將隆前爲冀州牧,治中山馮太后獄,冤陷無辜,關内侯張由誣告骨肉,中太僕史立、泰山太守丁玄陷人入大辟,河内太守趙昌譖害鄭崇,幸逢赦令,皆不宜處位在中土,免爲庶人,徙合浦。中山之獄,本立、玄自典考之,但與隆連名奏事;莽少時慕與隆交,隆不甚附,故因事擠之。 紅陽侯立,太后親弟,雖不居位,莽以諸父内敬憚之,畏立從容言太后,令己不得肆意,復令光奏立罪惡:「前知定陵侯淳於長犯大逆罪,多受其賂,爲言誤朝。後白以官婢楊寄私子爲皇子,衆言曰:『呂氏少帝復出。』紛紛爲天下所疑,難以示來世,成襁褓之功。請遣立就國。」太后不聽。莽曰:「今漢家衰,比世無嗣,太后獨代幼主統政,誠可畏懼。力用公正先天下,尚恐不從;今以私恩逆大臣議,如此,羣下傾邪,亂從此起。宜可且遣就國,安後復徴召之。」太后不得已,遣立就國。莽之所以脅持上下,皆此類也。 於是附順莽者拔擢,忤恨者誅滅,以王舜、王邑爲腹心,甄豐、甄邯主撃斷,平晏領機事,劉秀典文章,孫建爲爪牙。豐子尋、秀子棻、涿郡崔發、南陽陳崇皆以材能幸於莽。莽色厲而言方,欲有所爲,微見風采,黨與承其指意而顯奏之。莽稽首涕泣,固推讓,上以惑太后,下用示信於衆庶焉。 4. 5八月,莽復白太皇太后,廢孝成皇后、孝哀皇后爲庶人,就其園。是日,皆自殺。 5. 6大司空彭宣以王莽專權,乃上書言:「三公鼎足承君;一足不任,則覆亂美實。臣資性淺薄,年齒老眊,數伏疾病,昏亂遺忘,願上大司空、長平侯印綬,乞骸骨歸郷里,俟寘溝壑。」莽白太后策免宣,使就國。莽恨宣求退,故不賜黄金、安車、駟馬。宣居國數年,薨。 班固贊曰:薛廣德保縣車之榮,平當逡巡有恥,彭宣見險而止,異乎苟患失之者矣! 6. 7戊午,右將軍王崇爲大司空,光祿勳東海馬宮爲右將軍,左曹、中郎將甄豐爲光祿勳。 7. 8九月,辛酉,中山王即皇帝位,大赦天下。 平帝年九歳,太皇太后臨朝,大司馬莽秉政,百官總己以聽於莽。莽權日盛,孔光憂懼,不知所出,上書乞骸骨;莽白太后,帝幼少,宜置師傅,徙光爲帝太傅,位四輔,給事中,領宿衞、供養,行内署門戸,省服御食物。以馬宮爲大司徒,甄豐爲右將軍。 8. 9冬,十月,壬寅,葬孝哀皇帝於義陵。 9. 孝平皇帝上 元始元年(辛酉、一) 1春,正月,王莽風益州,令塞外蠻夷自稱越裳氏重譯獻白雉一、黑雉二。莽白太后下詔,以白雉薦宗廟。於是羣臣盛陳莽功德,致周成白雉之瑞,周公及身在而托號於周,莽宜賜號曰安漢公,益戸疇爵邑。太后詔尚書具其事。莽上書言:「臣與孔光、王舜、甄豐、甄邯共定策;今願獨條光等功賞,寢置臣莽,勿隨輩列。」甄邯白太后下詔曰:「『無偏無黨,王道蕩蕩。』君有安宗廟之功,不可以骨肉故蔽隱不揚,君其勿辭!」莽復上書固讓數四,稱疾不起。左右白太后,「宜勿奪莽意,但條孔光等,莽乃肯起。」二月,丙辰,太后下詔;「以太傅、博山侯光爲太師,車騎將軍、安陽侯舜爲太保,皆益封萬戸。左將軍、光祿勳豐爲少傅,封廣陽侯。皆授四輔之職。侍中、奉車都尉邯封承陽侯。」四人既受賞,莽尚未起。羣臣復上言:「莽雖克讓,朝所宜章,以時加賞,明重元功,無使百僚元元失望!」太后乃下詔:「以大司馬、新都侯莽爲太傅,干四輔之事,號曰安漢公,益封二萬八千戸。」於是莽爲惶恐,不得已而起,受太傅、安漢公號,讓還益封事,云:「願須百姓家給,然後加賞。」羣臣復爭,太后詔曰:「公自期百姓家給,是以聽之,其令公奉賜皆倍故。百姓家給人足,大司徒、大司空以聞。」莽復讓不受,而建言褒賞宗室羣臣。立故東平王雲太子開明爲王;又以故東平思王孫成都爲中山王,奉孝王后;封宣帝耳孫信等三十六人皆爲列侯;太僕王惲等二十五人皆賜爵關内侯。又令諸侯王公、列侯、關内侯無子而有孫若同産子者,皆得以爲嗣;宗室屬未盡而以罪絶者,復其屬;天下令比二千石以上年老致仕者,參分故祿,以一與之,終其身。下及庶民鰥寡,恩澤之政,無所不施。 莽既媚説吏民,又欲專斷,知太后老,厭政,乃風公卿奏言:「往者吏以功次遷至二千石,及州部所舉茂材異等吏,率多不稱,宜皆見安漢公。又,太后春秋高,不宜親省小事。」令太后下詔曰:「自今以來,唯封爵乃以聞,他事安漢公、四輔平決。州牧、二千石及茂材吏初除奏事者,輒引入,至近署對安漢公,考故官,問新職,以知其稱否。」於是莽人人延問,密緻恩意,厚加贈送,其不合指,顯奏免之,權與人主侔矣。 1. 2置羲和官,秩二千石。 2. 3夏,五月,丁巳朔,日有食之。大赦天下。公卿以下舉敦厚能直言者各一人。 3. 4王莽恐帝外家衞氏奪其權,白太后:「前哀帝立,背恩義,自貴外家丁、傅,橈亂國家,幾危社稷。今帝以幼年復奉大宗爲成帝后,宜明一統之義,以戒前事,爲後代法。」六月,遣甄豐奉璽綬,即拜帝母衞姫爲中山孝王后。賜帝舅衞寶、寶弟玄爵關内侯。賜帝女弟三人號曰君,皆留中山,不得至京師。 扶風功曹申屠剛以直言對策曰:「臣聞成王幼少,周公攝政,聽言下賢,均權布寵,動順天地,舉措不失;然近則召公不説,遠則四國流言。今聖主始免襁褓,即位以來,至親分離,外戚杜隔,恩不得通。且漢家之制,雖任英賢,猶援姻戚,親疏相錯,杜塞間隙,誠所以安宗廟,重社稷也。宜亟遣使者征中山太后,置之別宮,令時朝見,又召馮、衞二族,裁與冗職,使得執戟親奉宿衞,以抑患禍之端。上安社稷,下全保傅。」莽令太后下詔曰:「剛所言僻經妄説,違背大義。」罷歸田里。 4. 5丙午,封魯頃公之八世孫公子寬爲褒魯侯,奉周公祀;封褒成君孔霸曾孫均爲褒成侯,奉孔子祀。 5. 6詔:「天下女徒已論,歸家,出雇山錢,月三百。復貞婦,郷一人。大司農部丞十三人,人部一州,勸農桑。」 6. 7秋,九月,赦天下徒。 7. 二年(壬戌、二) 1春,黄支國獻犀牛。黄支在南海中,去京師三萬里。王莽欲耀威德,故厚遺其王,令遣使貢獻。 1. 2越巂郡上黄龍游江中。太師光、大司徒宮等咸稱「莽功德比周公,宜告祠宗廟。」大司農孫寶曰:「周公上聖,召公大賢,尚猶有不相説,著於經典,兩不相損。今風雨未時,百姓不足,毎有一事,羣臣同聲,得無非其美者?」時大臣皆失色。甄邯即時承製罷議者。會寶遣吏迎母,母道病,留弟家,獨遣妻子。司直陳崇劾奏寶,事下三公即訊。寶對曰:「年七十,悖眊,恩衰共養,營妻子,如章。」寶坐免,終於家。 2. 3帝更名衎。 3. 4三月,癸酉,大司空王崇謝病免,以避王莽。 4. 5夏,四月,丁酉,左將軍甄豐爲大司空,右將軍孫建爲左將軍,光祿勳甄邯爲右將軍。 5. 6立代孝王玄孫之子如意爲廣宗王,江都易王孫盱台侯宮爲廣川王,廣川惠王曾孫倫爲廣德王。紹封漢興以來大功臣之後周共等皆爲列侯及關内侯,凡百一十七人。 6. 7郡國大旱,蝗,靑州尤甚,民流亡。王莽白太后,宜衣繒練,頗損膳,以示天下。莽因上書願出錢百萬,獻田三十頃,付大司農助給貧民。於是公卿皆慕效焉,凡獻田宅者二百三十人,以口賦貧民。又起五里於長安城中,宅二百區,以居貧民。莽帥羣臣奏太后,言:「幸賴陛下德澤,間者風雨時,甘露降,神芝生,蓂莢、硃草、嘉禾,休征同時並至。願陛下遵帝王之常服,復太官之法膳,使臣子各得盡歡心,備共養!」莽又令太后下詔,不許。毎有水旱,莽輒素食,左右以白太后,太后遣使者詔莽曰:「聞公菜食,憂民深矣。今秋幸孰,公以時食肉,愛身爲國!」 7. 8六月,隕石于鉅鹿二。 8. 9光祿大夫楚國龔勝、太中大夫琅邪邴漢以王莽專政,皆乞骸骨。莽令太后策詔之曰:「朕愍以官職之事煩大夫,大夫其修身守道,以終高年。」皆加優禮而遣之。 9. 10梅福知王莽必簒漢祚,一朝棄妻子去,不知所之。其後,人有見福於會稽者,變姓名爲呉市門卒云。 10. 11秋,九月,戊申晦,日有食之,赦天下徒。 11. 12遣執金吾候陳茂諭説江湖賊成重等二百餘人皆自出,送家在所收事。重徙雲陽,賜公田宅。 12. 13王莽欲悅太后以威德至盛,異於前,乃風單于令遣王昭君女須卜居次雲入侍太后,所以賞賜之甚厚。 13. 14車師後王國有新道通玉門關,往來差近,戊己校尉徐普欲開之。車師後王姑句以當道供給使者,心不便也。普欲分明其界,然後奏之,召姑句使證之;不肯,繋之。其妻股紫陬謂姑句曰:「前車師前王爲都護司馬所殺,今久繋必死,不如降匈奴!」即馳突出高昌壁,入匈奴。又去胡來王唐兜與赤水羌數相寇,不勝,告急都護,都護但欽不以時救助。唐兜困急,怨欽,東守玉門關;玉門關不内,即將妻子、人民千餘人亡降匈奴。單于受,置左谷蠡地,遣使上書言状,曰:「臣謹已受。」詔遣中郎將韓隆等使匈奴,責讓單于;單于叩頭謝罪,執二虜還付使者。詔使中郎將王萌待於西域惡都奴界上。單于遣使送,因請其罪;使者以聞。莽不聽,詔會西域諸國王,陳軍斬姑句、唐兜以示之。乃造設四條,中國人亡入匈奴者,烏孫亡降匈奴者,西域諸國佩中國印綬降匈奴者,烏桓降匈奴者,皆不得受。遣中郎將王駿、王昌、副校尉甄阜、王尋使匈奴,班四條與單于,雜函封,付單于,令奉行;因收故宣帝所爲約束封函還。時莽奏令中國不得有二名,因使使者以風單于,宜上書慕化,爲一名,漢必加厚賞。單于從之,上書言:「幸得備籓臣,竊樂太平聖制。臣故名囊知牙斯,今謹更名曰知。」莽大説,白太后,遣使者答諭,厚賞賜焉。 14. 15莽欲以女配帝爲皇后以固其權,奏言:「皇帝即位三年,長秋宮未建,掖廷媵未充。乃者國家之難,本從無嗣,配取不正,請考論五經,定取後禮,正十二女之義,以廣繼嗣,博采二王后及周公、孔子世、列侯在長安者適子女。」事下有司,上衆女名,王氏女多在選中者,莽恐其與己女爭,即上言:「身無德,子材下,不宜與衆女並采。」太后以爲至誠,乃下詔曰:「王氏女,朕之外家,其勿采。」庶民、諸生、郎吏以上守闕上書者日千餘人,公卿大夫或詣廷中,或伏省戸下,咸言:「安漢公盛勳堂堂若此,今當立後,獨奈何廢公女,天下安所歸命!願得公女爲天下母!」莽遣長史以下分部曉止公卿及諸生,而上書者愈甚。太后不得已,聽公卿采莽女。莽復自白:「宜博選衆女。」公卿爭曰:「不宜采諸女以貳正統。」莽乃白:「願見女。」 15.
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十八史略卷之六資ゆるどてん(おそいじつおほいすに足れり、必ずしも許すに土田を以てせざれ、恐らくは、異日大ちうごくうれひけいたう)に中國の患をなさむと。敬塘、聽かず。表、至る。契丹主、大に喜きたうへいしんやうきつたんび、騎五萬を將ゐて來り、唐兵と音陽に戰つて大に之を敗る。契丹しゆけいたうしんがう)えいほこたく主敬塘を立てて帝となし、國を晉と號す。幽薊、濵、莫涿、だんじゆんしんじゆぶうんおうくわんさくうつさ檀、順新嫣儒.武、雲、應寰朔蔚十六州を割いて、あたきつたんろしう之に與ふ。契丹、晉主を以て南下し、又、唐兵を破つて、潞州に至かしやうかうじやうとる。契丹、北に還る。晉主、引いて南す。唐の將校、皆、狀を飛ばたうしゆ(して以て迎ふ。唐主、殂す。晉主、入つて、洛に都す。旣にして、べん汴に還る。ぢよちかうごしゆふじやうくわうちよ吳の徐知誥、帝と稱し、吳主薄を奉じて、讓皇となす。初め、徐をんちかうしようしうはんふじやうしふしや溫、知誥に命じて、昇州を治めしむ。繁富を致し、城市府舎、甚だうつくわうれうごせい盛なり。溫、自ら徒つて、之に居る。知誥、廣陵に入つて、吳政をたすをんちうしよれい輔く溫、卒す。知誥、中書令を以て、昇に鎭して、其子を留めてたすきんれうじやうだいげんすゐせいわう政を輔けしむ。金陵城を廣くす。吳、知誥に大元帥を加へ齊王にしゆれいゆづりぢよしう封じ、殊禮を加ふ。是に至つて、吳の禪を受く。知誥は、もと徐州しのちたうがうつ李氏の子なり。自ら唐の後といひ、國を唐と號し、尋いで、姓李をざべんなんたう南唐復し、名を弄と改む。之を南唐となす。きつたんたいれうがう大遼(西紀契丹、國を改めて大遼と號す。九三七)びんわうざそのしゆちやうしじりふ閩の王議、其主昶を弑して自立す。ごえつわうせんげんくわんしゆつこうさ吳越王錢元瓘卒す。子弘佐嗣ぐ。五代-晉六四九 十八史略卷之六六五〇南漢王劉襲、又名を襲と更む。尋いで、殂す。子玢、立つ。晉主在位、七歲ならずして殂す。改元するもの一、曰く天福。齊王立つ、之を出帝となす。【出帝】名は重貴、高祖の兄の子なり。高祖、終に臨んで、幼子重璿に命じ、宰相馬道を拜せしめ、其輔立を欲す。景延廣の議に以へらく、國家多難、宜しく長君を立つべしと。遂に重貴を立つ。延廣事を用ゆ。南唐主李昇、殂す。子環、立つ。聞王の弟王延政、建州に據つて、殷帝と稱す。南漢主劉玢の弟弘熙、玢を弑して自立し、名を最と改む。聞の朱文進、其主王曦を弑して自立す。殷主延政、兵を遣して、之を討つ。閩人、文進を殺して、首を殷に傳ふ。殷國號を更めて聞といふ。唐人、攻めて建州を拔く。延政、出でて降る。闘亡ぶ。唐、福州を攻む。克たず。後、吳越、兵を遣して、之を取らしむ。初め、晉の高祖、契丹に事へて、甚だ謹む。少主、位に卽くに至つて、景延廣、議を主どり、哀を告ぐるに復た臣と稱せず。契丹、大に怒る。延廣、又、其囘圖使を囚へ旣にして、歸らしめ、大言して曰く、歸つて、而の主に語れ。先帝は北朝に立てらる、故に臣れと稱して表を奉る。今上は、乃ち中國の立つる所、隣となつて、孫と稱すれば足らむ。翁怒らば來り戰へ孫に十萬、磨劍を橫へて相五代-晉六五一 十八史略卷之六六五二待つありと。桑維翰、屢ば遜辭以て契丹に謝せむを請ふ。毎に延廣に沮まる。是に於て、契丹、入寇して、河を渡る。晉主、自ら將とし、及び李守貞等を遣し、道を分つて、之を擊つ。契丹、敗走す。契丹、再び相州に至つて、引いて還る。晉主、又自ら將として、之を追ふ。契丹、兵を旋して南下す。晉人、之を擊つ。契丹、又敗走す。晉主、旣に再び勝ち、契丹は畏るるに足らずと意ふ。契丹主、大擧して入寇す。晉將杜伏威、降る。契丹、兵を遣して汁に入り、晉主を執へて、以て其國に歸る。在位五年、改元するもの一、曰く開運晉は、高祖より、是に至るまで再世、一十二年にして亡ぶ契丹主、大梁に入る。胡騎四出して剽掠す之を打草穀といふ丁壯は鋒刄に斃れ、老弱は溝壑に委し、東西兩幾より、鄭滑曹濮に及ぶまで、數百里の間、財帛殆んど盡く。契丹主、判三司劉昫に謂つて曰く、契丹の兵、優賜あるべしと。遂に都城士民の錢帛を括し、使者數十名を遣して、諸州に括し、皆迫るに嚴誅を以てす。人 生を聊んぜず。括し至るや、初めより、頒給なく、皆輦して歸らむと欲す。中外怨憤、皆之を逐はむを思ひ、所在盜起る。契丹主曰く、我、中國治め難きこと、かくの如くなるを知らずと。汴に居ること三月にして還る。晉の劉知遠、先つこと一月、位に晉陽に卽く。漢五代-音-漢六五三 十八史略卷之六六五四りうしちゑんしやだしんそけいたう【漢高祖皇帝】姓は劉氏、初名は知遠、沙陀の人なり。晉祖敬塘に、しんそかとうろわうつかへいかん之兵間に事へて、功、最も多し。晉祖、河東に在るや、唐の潞王、うつうんめいこうを移して、鄲を鎭せしむ。知遠曰く、明公、久しく兵に將として、けいしやうしばせいきやう士卒の心を得たり。今、形勝の地に據つて、士馬精强なり。若し兵あけきつたていげふないかんしせいしよ一部八を稱げ、檄を傳ふれば、帝業成るべし。奈何ぞ、一紙の制書を以てにあんて投自制ぜら書こうとうたうしやう虎口に自ら虎口に投ぜむやと。遂に命を拒む。唐,將を遣して之を攻む。んやかほろぼじえい克たず。晉祖、兵を擧げ、唐を滅して洛陽に入る。知遠、時に侍衞はぐんとしきしかんへいえいじくわん馬軍都指揮使たり。漢兵を分つて營に入れ、契丹の兵を寺に館す。そじやうちうしゆくぜん晉祖、城中肅然たり。後、晉祖、知遠を以て河東に鎭せしむ。殂るゆ茶たすしんじんこれかくす。遺命して、知遠を以て、入つて政を輔けしむ。晉人之を匿す。てにふこう知遠、之に由つて、朝廷を怨む。契丹、しきりに入寇す。晉、知遠かうえいととうたいを以て行營都統となすと雖も、知遠、行かず。契丹、晉を滅して大れうたいげん梁に入る。知遠、帝を晉陽に稱す。契丹去る。乃ち太原を發して、べんかんがうかうあらた洛に入り、遂に汴に入り、國を漢と號し、後、名を暠と更む。きつたんしゆやりつとくくわうさつこりんさしほみ契丹主耶律德光、歸つて、殺胡林に至り死す。腹を剖き、鹽を實のていはここつよく帝把兀欲たして、載せて去る。人、之を帝把といふ。子兀欲、立つ。宗之契とを丹な遼主そわうばはんきくわうすの世楚王馬希範、卒す。子希廣、立つ。ごえつわうせんこうさこうさうこうしゆく吳越王錢弘佐、卒す。弘倧、立つ。其下、之を廢して、弘俶を立つかんしゆそけんいうこしうわうたいんてい漢主殂す。在位一年、元を乾祐と改む。子周王立つ、之を隱帝と五代-漢六五五 十八史略卷之六六五六なす。【隱帝】名は承祐、年十八にして、位に卽く。之より先、漢祖、弟崇を以て、太原に尹とし、留守河東節度使となす。崇、郭威と隙あり。是に至つて、威、樞密使侍中となつて勇士を選募し、亡命を招納し、甲政を執る。崇、自全の計をなし、朝廷の詔令、兵を繕し、府庫を實たし、財賦を上供するを罷め、多くは稟承せず〓南の高從誨、卒す。子寶融、軍府に知たり。河中の李守貞、反す。郭威、諸軍を督し、討つて、之に克つ。守貞、自殺す。漢、郭威を以て、鄴都の留守となす。楚王馬希廣の兄希萼、希廣を殺して自立す。漢王、卽位より以來、同平章事楊邪、機政を總べ、樞密使郭威征伐を主り、侍衞指揮使史弘肇、宿衞を典り、三司使王章、財賦えを掌る。邪頗る公忠、弘肇、京師を察し、道、遺ちたるを拾はず。章は、遣利を招拾して、供饋乏しからず、國家相安し。弘肇、嘗て謂ふ、天下須らく長槍大劍を用ゆべし。安んぞ毛錐子を用ゐむ立ニや。章曰く、若し毛錐なくむば、財賦何に由つて取辨せむと。章、にじ文人を輕んず。嘗て曰く、この輩、算を握るも、縱橫を知らず、何둘ぞ用に益あらむと。漢主の左右嬖倖、寝く事を用ゐ、親戚政を干五代-漢六五七 十八史略卷之六甕す、邪等、毎に之を裁抑す。漢主、益す壯、大臣に制せらるるを厭ふ。楊邪、嘗て事を前に議す。曰く、陛下、惟だ聲を禁ぜよ。臣等左右因つて之を譜の在るありと。漢主、積んで平らかなる能はず、す。乾祐二年。邪弘肇、章を殺し、密詔を遣して、郭威を鄴に殺ささむと欲す。將佐、威に勸め、入朝して自ら訴へしむ。威、大軍をふ引いて至る。漢主、兵を遣して、之を拒ぐ。或は降り、或は戰はずし白して、て還り、漢主、亂兵の爲に弑せらる。威太后に武寧節度賛を迎へしむ。未だ至らず。契丹の入寇を聞き、威を遣し、兵に將として、之を擊たしむ。威、澶州に至る。將士、大に課ぎ、黄旗を裂むいて、以て威の體に被らしめ、共に之を扶抱して、萬歲を呼び、地に震ふ。威を擁して南行し、遂に漢に代る。漢二世四年にして亡ぶ。周【周太祖皇帝】姓は郭氏、名は威、太原の人なり。唐の莊宗、宮人六ら〓柴氏あり。其家に歸つて、姻を擇ぶ。一日、門に窺ひ、疾走して過ぐる者あるを見る。柴氏、大に驚いて、何人ぞと問ふ。告ぐるもの曰く、從馬軍使郭雀兒なりと。柴氏、之に嫁せむと欲す。父母、肯んぜずして曰く、汝は帝の左右の人、當に節度使に嫁すべし。奈何ぞ、此人に嫁せむやと。柴氏、堅く他人に嫁せず、竟に威に歸す。五代-周六五九 十八史略卷之六六六〇漢祖、河東に鎭するや、威、孔目官となる。契丹、汴に在り、威 漢祖に勸めて兵を擧げしめ、遂に帝業を爲す。漢の隱帝の時、威.專ら征伐を主る。隱帝、之を殺さむと欲す。克たず。威、兵を擁し立て、汴に入り、旣にして、出でて契丹を禦ぐ。軍士、擁して、汴にか、)た還る時に已に賛を徐州に迎ふ乃ち漢の太后の令を以て賛を廢して湘陰公となし、威を監國となし、尋いで位に卽き、自ら周の號叔の後なりと謂ひ、國を周と號す。贇は崇の子なり。崇、初め、隱帝が害に遇ふを聞き、兵を起して、南に向はむと欲す。贇を迎立するを聞くに及び、すなはち曰く、吾が兒、帝とならば、吾、復た何をか有求めむやと。賛、廢せられて死す。崇、乃ち帝を晉陽に稱す。つえだ所は並、汾、忻、代嵐、憲隆、蔚、沁、遼麟石、十二州の地なり。其臣に謂つて曰く、顧るに、我は是れ何の天子、汝等は是れ何の節度使かと。之を北漢となす。子承鈞を遣して、周を伐つ。きつたん克たず。使を遣して、師を契丹に乞ふ。契丹、北漢主を策名し、名を旻と更む。契丹の述軋兀欲を弑して自立す。述律、討つて述軋を殺して之に代る。楚は、希廣、希萼より以來、相攻奪して、寧歲なし。其下、又、希萼を廢して、希崇を立つ。南唐、邊鎬を遣して楚を擊たしむ。希崇、降る。南唐、馬氏の族を金陵に遷す。楚亡ぶ。五代-周〓. 十八史略卷之六六六二故の楚將劉言、朗州より潭を攻む。邊鎬走る。言、湖南を取り、命を周に請ふ。周、言を以て朗を鎭せしめ、王達に潭を鎭せしむ。げん·達、襲うて、言を朗に殺し、周行逢を以て朗を守らしむ。達、潭にか、還る。後、又、行逢を以て潭を鎭せしめ、達、自ら朗に居る。周主、在位三年にして殂す。改元するもの一、曰く廣順晉王、立つ、之を世宗皇帝となす。【世宗皇帝】名は榮、本姓は柴氏、周祖の妻の兄柴守禮の子なり。周祖、子なし、故に之を養ふ。周初、節鎭を領す。旣にして、開封に尹たり。晉王に封ぜらる。周主、終に臨んで、晉王に命じて、政を聽かしめ、尋いで、位に卽く。北漢主、周主の殂するを聞き、大に喜び、兵を契丹に請ふ。契丹、將楊衰を遣して、萬騎に將たらしめ、北漢主、自ら三萬人に將として來る。周主、自ら將として、之;を禦がむと欲す。群臣、皆、諫む。主曰く、崇、大喪を幸なりとし、朕の年少を輕んず、是れ必ず自ら來らむ。朕、往かざるべからず。吾が兵力の强を以て崇を破る、山の卵を壓するが如きのみと。馮道、力めて爭ふ。惟だ王溥勸めて行かしむ。北漢主、高平に軍す。周の前鋒、之を擊つ。北漢の兵、郤く。キ、其遁去を慮り、諸軍を趣して、亟に進む。後軍、未だ至らず、衆心、危懼す。而して、主の志氣、益す銳、合戰未だ幾ならず、周の右軍の將樊愛能、何徵、先づ遁れ、右軍潰ゆ。步軍千餘、甲を解いて降る。主、軍勢の五代-周六六三 十八史略卷之六六六四趙匡胤危きを見、自ら親兵を引いて矢石を犯して督戰す。督衞の將趙匡胤曰く、主、危きこと此の如し。吾が屬、何ぞ死を致さざるを得むと又、禁兵の將張永德に謂つて曰く、賊氣驕れり、破るべきなり。公、兵を引いて高きに乘じ、西に出でて、左翼となれ。我、右國家の安危翼となつて、以て之を擊たむ。國家の安危、この一擧に在りと。永此一擧に在德、之に從ひ、各二千人に將として、進み戰ふ。匡胤、身、士卒に先んじ、馳せて其鋒を犯す。士卒死戰、一、百に當らざるなく、北〇%漢の兵、大に敗る。楊衰、敢て救はず。北漢主、晝夜北走、わづかに晉陽に入るを得たり。周主、焚愛能、何徽、及び所部軍使以上七十餘人を收め、之を責めて曰く、汝輩、戰ふ能はざるに非ず、正にらは、とる〓朕を以て奇貨となして、劉崇に賣與せむと欲するのみと、悉く之を〓斬る。之より、驕將惰卒、初めて、懼るる所を知り、姑息の政を行;はず。張永德、盛に趙匡胤の智勇を稱し、權に殿前都虞候たり。周¥.主、侍臣に謂つて曰く、兵は精を務めて、多きを務めず、農夫百、評世用渡民ずを未めては宗養だず多精のを此血何能士夫を務 周言未だ戰士一を養ふ能はず。奈何ぞ、民の膏血を浚うて、この無用のき金政養無をぞは一百務め兵農きを3,物を養はむやと、乃ち命じて、大に諸軍を簡せしめ、又諸道に詔戰して、天下の壯士を募り、咸な闕に詣らしめ、匡胤に命じて、其尤物て膏奈ふりと志んのうのなる者を選ばしめて、殿前諸班となし、其騎步諸軍は、各、將帥に命じて、之を選ばしむ。之に由つて、士卒精强、向ふ所、克捷す。な鑑にはすすべ者周、北漢を攻む。汾、遼憲、嵐石、沁忻の州、皆、周に入五代-周六六五 十八史略卷之六大阪る。周主、晉陽を攻む。克たず。軍を引いて還る。北漢主劉旻、殂す。子鈞、立つ。か、周、蜀を伐ち、秦、階、成、鳳の州を取る。周、南唐を伐つ。唐、兵を遣し、壽州に拒いで敗る。周主、自ら將として、大に唐兵を正陽に敗る。唐將皇甫暉、姚鳳、〓流關を保つ。主、趙匡胤に命じ、道を倍して、之を襲はしめ、暉、鳳を擒にし、滁州に克つ。周師、楊泰光、舒、斬の州を取る。唐兵、周師を拒いで、復た泰州を取り、楊州を攻む。周主、匡胤に命じて六合に屯せしむ。唐兵、來り攻むるや、奮擊して、大に之を破る。將士、力を致さざる者あれば、匡胤、陽つて、督戰をなし、劍を以て、其皮笠を斫り、明日、遍ねく其笠を閱し、劍跡ある者數十人、部兵敢て死を盡?皆、之を斬る。之に由つて、さざるなし。周主、大か、と梁に還り、兵を留めて、壽州を圍む。唐兵、江北諸州を復す。周の守將、皆棄てて去る。兵を併せて、壽州を攻む。周主、復た自ら將として、壽に如く。唐人、城を以て降る。周主、大梁に還る。旣にして、復た自ら將として、濠泗を攻む。皆、降る。進んで楚州を攻황。兵を遣して、楊泰を取る。周主、楚州に克ち、還つて、楊州にと〓〓至る。唐主、使を遣して、盡く江北の地を獻ず。周主、乃ち還る。唐主、名を景と更め、帝號を去り、周の正朔を奉ず。朗州の王達、潘叔嗣の爲に殺さる。將吏、潭州の周行逢を迎へて五代-周奏若者 十八史略卷之六六六八かうはうたんらうあはたも朗に入らしむ。行逢、潭、朗を併せて、之を有つ。なんかんしゆりうせいこちやう南漢主劉晟、殂す。子銀、立つ。しうしゆしやうきつたんえいまいけい周主、自ら將として、契丹を伐ち、瀛莫、易の州を取る。京をはなくわんなんこと〓〓たひいうしうおもむ離るること四十一一日にして、關南悉く平らぐ。議して、幽州に趨ゆうしうえきしんくわん不豫に會して止む。よくわいぐわけうくわんかむとす。瓦橋關を以て雄州となし、益津關をはし)じゆかわうくわん霸州となし、成を置いて還る。往還六十日。てうきやうかんでんぜんとしわいなん趙匡胤、之より先、殿前都指揮使となり、從つて、淮南を攻む。したがきつたんてんぜんとてんけん又、從つて契丹を征す。是に至つて、殿前都點檢となるしうしゆかいげんけんとく周主、在位六年にして殂す。改元するもの一、曰く顯德。周主、はんたうくわいしゆかうへいかう藩に在つて韜晦す。位に卽くに及びて、首として、高平の寇あり。そのえいぶがうれいげんめひとあんで人、初めて其英武に服す。號令嚴明、人敢て犯すなし。城を攻め、てきしせきさ;ほかたちうごおう敵に對するや、矢石左右に落つれども、略ぼ容を動かさず、機に應きくけついへうせいじかんあばさじ、策を決する、人の意表に出づ。又、政事に勤め、姦を發き、伏評りる宗の鮮奶稀周な見世てきそうさつかんかじゆしやを摘し、聰察、神の如し。閒暇には、儒者を召して史を讀ましめ、たいぎしやうかくせいしちくちんぐわんよろこび業す惜ちらに早ず帝世か故哉大義を商権す。性絲竹珍玩の物を好まず、常に言ふ。朕、必ず喜完よしやういかりけいぶんぶさんようかくそののうに因つて人を賞し、怒に因つて人を刑せずと。文武參用、各其能をそのめいおそそのけいなつてき盡くす。人、其明を畏れて、其惠に懷く。故に能く敵を破り、地をひろところまとうかゑんきんあいぼれうわうたきよう廣め、向ふ所前なし。登遐の日、遠近哀慕す。子梁王立つ、之を恭てい帝となす。そうくん【恭帝】名は宗訓、七歲にして位に卽く。五代-周義 十八史略卷之六六七〇てうきやうかんとくせつどしていげんちんきつたん趙匡胤を以て歸德節度使となし。明年春、定言に鎭せしむ。契丹にふかうきよういんしやうふせちんけうえき入寇す。匡胤をして兵に將として、之を禦がしむ。陳橋驛に至るぐんしようか、さくりつしうしゆざいゐそうゆつしうや、軍士擁し還つて策立す。周主在位半年、遂に宋に禪る。周は、太祖より、是に至るまで、三世、二姓、十年にして亡ぶ。宋てうしなきやういんそのせんたくじんあひつた西紀九六〇【宋太祖皇帝】姓は趙氏、名は匡胤、其先は涿人なり。相傳へて、ちゝこういんらくやうきんえいしやうかうきやういんかんけいてうくわうかん匡胤を漢の京兆廣漢の後となす。父弘殷、洛陽の禁衞將校となる。せきくわうしつえいちういかうかふはたいちう人、之を甲馬營中に生む。赤光室に滿つ、營中異香あること一月、かうがいじしんぶんえつしたがまな香孩兒の營といふ。少にして、辛文悅に從つて學ぶ。文悅、嘗て駕むかゆめきやういんしうせいそうぐんせいつかさどを邀ふるを夢む、乃ち匡胤なり。周の世宗の時、軍政を掌る。凡そそのおんゐさしばしせいばつしたがたいこうせいそう六年。士卒、其恩威に服す。數ば征伐に從つて大功を立つ。世宗、にちぶんしよけふちうぼくしよてんけんな一日文書篋中に於て、一木書を得たり。曰く點檢、天子と作ると、ちやうえいとくてんけんうつかきやういん時に、張永德、點檢たり。世宗、乃ち之を遷して、易ふるに、匡胤せいそうそきやうそうそくるめ、しゆくえいりやうを以てす。世宗殂す。恭宗卽位の明年、命じて、宿衞を領せしめ、きつたんふせしゆわかくにあやふちうぐわいはじすゐたいぎ契丹を禦ぐ。時に、主少く、國危く、中外始めて推戴の議あり。大ぐんかうべうくんじつかまじつこくくわうあひうごか軍、旣に出づ。軍校苗訓、日下に復た一日あつて、黑光相盪すをゆびさてんめいちんけうえきじぐんししゆうぎ見て、指して曰く、之れ天命なりと。夕に陳橋驛に次す。軍士聚議てんけんほくせいくわんし、先づ點檢を立てて天子となし、然る後に、北征せむといひ、環カンあしたてんけんすゐぐわれいめいあして、旦を待つ。點檢、醉臥して知らざるなり。黎明、軍士甲を宋-太祖皇帝-六七一 十八史略卷之六六七二た撮し、兵を執り、直に寢門を叩いて曰く、諸將主なし、願はくは、大尉を策して、天子となさむと。點檢、驚起し、衣を披けば、相與に扶け出で、被らすに黃袍を以てし、羅拜して、萬歲を呼び、擁して、馬に上ぼせて南行す。之を拒めども可かず。乃ち轡を攬つて、諸將に誓ひ、仁和門より入る、秋毫も犯す所なし。恭帝、遂に位を禪る。領する所の節鎭、宋州の歸德軍なるを以て、故に國號を宋といふ。卽位の初、陰に群情を察せむと欲し、頗る微行をなす。或ひかろ〓〓と輕しく出づる勿れと諫む。上曰く、帝王の興る、自ら天命あり。周の世宗、諸將の方面大耳の者を見れば、皆、之を殺す。我終日しは·側に侍するも、害する能はざるなりと。微行、愈よ數す。曰く天命ある者は、自ら之を爲すに任かす、汝を禁ぜざるなりと。中外警服す。昭義節度使李筠は、故の周の宿將なり。澤に反す。上、石守信に命じて、之を討たしめ、尋いで親征す。筠、自ら焚死す。澤潞、平らぐ。淮南の節度使李重進は、周祖の甥なり。亦た反す。上、石守信に命じて、之を討たしめ、尋いで親征す。重進、自ら焚死す。淮南、平らぐ。〓南の高寶融、卒す。弟寶勗、之に代る。南唐泉州の留從效、藩と稱す。宋-太祖皇帝-六七三 十八史略卷之六六七四建隆二年南唐主李景、都を南昌に遷し、其子從嘉を以て、建康を守らしむ。從嘉立つ、名を煜と更む。趙普上、旣に筠、重進を誅し、樞密直學士趙普を召して問うて曰く、吾、天下の兵を息め、國家長久の計を爲さむとす、其道如何、普にてい、曰く、唐季以來、帝王數ば易はるは、節鎭太だ重く、君弱く、臣强きに坐するのみ。今、稍く其權を奪ふに若くはなし。其錢穀を制し其精兵を收むれば、天下自ら安からむと。又言ふ、殿前帥石守信等皆、統御の才に非ず、宜しく、他職を授くべしと。上悟る。守信等を召し、宴酣なる時、左右を屏けて謂つて、曰く、我、爾曹の力に非ずむば、是に至らず。然れども、終夕未だ嘗て枕を安くせざるなり。この位に居る者は、誰か之を爲すを欲せざらむ。守信等、頓首して曰く、陛下何すれぞ此言を出す。天命旣に定まる、誰か敢て異心あらむや。上曰く、汝曹異心なしと雖も、麾下の人の富貴を欲〓に切る點てれの砲ば身をするを如何。一旦、黃袍を以て、汝の身に加ふれば、爲すを欲せずと雖も、それ得べけむや。皆頓首して泣いて曰く、臣等、愚、是に爲すけも欲やんずつ きずしずとんそせ及ばず、惟だ陛下哀矜して、生くべきの途を指示せよ。上曰く、人生白駒の隙を過ぐるが如し。富貴を好むと爲す所のものは、多く金錢を積んで、厚く自ら娛樂し、子孫をして貧乏なからしめむと欲するに過ぎざるのみ。汝曹、何ぞ兵權を釋いて去り、出でて、大藩じ七よを守り、便好の田宅を擇んで、子孫の計を爲さざる。多く歌童舞女宋-太祖皇帝-六七五 十八史略卷之六大丈を置き、日に酒を飮んで、相安んずる、亦た善からずや。皆、拜謝して曰く、陛下臣等を念ふこと、是に至る。謂ゆる死を生かし骨に肉づくるなりと。明日、皆、疾と稱して、罷めむを請ふ。趙普は、薊人なり。上に滁州に遇ひ、用ゐて節度掌書記となす。上、卽位の後、專ら與に謀議し、之に倚信す。女眞、馬を貢す。囘體于鬪、來貢す。留從效、建隆三年。泉州の卒す。衙將陳洪進、張漢思を推して、軍務を領せしむ。定難節度使、周の西平王李彜興、馬を貢す。ヘ武平、武安の鎭帥周行逢卒す。子保權、軍府を領す。衡州の太守)張文表、亂を作し、兵を起して、潭州に據る。保權、表して救を宋に請ふ。〓南の高寶勗、卒す。兄の子繼冲、之に代る。高麗、來貢す。けんとくぐわんねん乾德元年慕容延到等に命じ、周保權に會して、張文表を討たしむ。師江陵より出づ。高繼冲、出でて降り、〓南平らぐ。延到、二湖南に至る。文表、さきに已に敗死す。保權、宋師の〓南に下るを、〓聞いて、懼れて拒守す。師進んで、之を討ち、保權を獲、湖南、平らぐ。宋-太祖皇帝六七七 十八史略卷之六発二年。宰相、范質、王溥、魏仁浦、乞うて罷む。質等は、周朝の舊相なり。唐より以來、宰相は、惟だ大政事を面奏するのみ。餘の號令刑賞除拜は、但だ熟狀を入る。質等、前朝の大臣を以て、稍こと〓〓や形跡を存し、事每に割子を具へて進呈し、退いて得る所の聖旨を批し、同列、皆、字を書して、以て之を志す。奏御の多きこと、是cに始まる。質等、旣に罷む。趙普を以て、同平章事とす。けんとぐ王全斌に命じて、蜀を伐たしむ。乾德三年、蜀相 李昊、蜀主孟す、昶に勸めて、出でて降らしむ。前蜀王氏の亡ぶるや、降表、亦た昊よ草する李家世々降表をの草する所、蜀人、夜、其門に書して曰く、世、降表を修する李家と。初め、上、宰相に命じて、前代未だ有らざる年號を擇ばしめ、以て今の元に改む。是に及びて、蜀鑑を得たり。乃ち乾德四年鑄の字あり。之を怪んで、學士竇儀を召して問ふ。曰く、むかし、僞蜀王衍に此號ありと。上歎じて曰く、宰相は、須らく、讀書の人を用ゆべしと。五年、五星奎に聚まる。之より先、周の顯德中、竇儼、楊徽之、盧多遜、同じく諫官となる。儼推歩を善くす。嘗て曰く、丁卯の歲、五星、奎に聚まり、之より、天下太平ならむ。二拾遺、之を見む、儼は預らざるなりと。是に至つて、果して然り。(Amagdala)夏州の李彝輿、;卒す。千五百八軍務を領す。宋-太祖皇帝-大元 十八史略卷之六六八〇し開寶元年北漢王劉鈞、殂す。養子繼恩、立つ。郭無爲、之を弑して、其同母弟繼元を立つ、皆、異姓の子なり。良擅に刑雷德驤大理寺に判たり。官屬、堂吏と宰相に附會し、f名を增減す。德驤、憤惋し、直に講武殿に詣つて、之を奏す、併せて言ふ、趙普、强ひて人の第宅を市ひ、財賄を聚歛すと。上、怒つ鼎鐺尙ほ耳て叱して曰く、鼎鐺、尙ほ耳あり。汝、趙普は、吾が社稷の臣たるを聞かざるかと。柱斧を引いて、其二齒を擊折し、命じて、曳き出さしめて、之を黜く。二年。曹彬等に命じて、北漢を伐たしめ、尋いで、親征し、太原を攻む。城久しく下らず。兵を百草池に頓す。暑雨に中つて、軍中疾疫す。詔して、師を班へす。び。上、位に卽いてより、或は微行して、功臣の家に幸し、測るべからず。趙普、退朝する毎に敢て衣冠を脫せず。一夕、大に雪ふる。た普、意へらく、上、復た出でずと。之を久しうして、門を叩く聲を聞く、異甚し。亟に出づれば、上、雪中に立つ。普、惶恐して、迎へ拜す。普の堂に卽き、重〓を設けて地坐し、炭を熾にし、肉を燒く。普の妻、酒を行ふ。上、嫂を以て、之を呼ぶ。普、從容として、問うて曰く、夜、久しく寒甚し。陛下何を以て出づる。上日晋く睡れども著く能はず、一榻の外、皆、他人の家なり。故に、來つて卿を見る。普曰く、陛下、天下を少とするか。南征北伐、是宋-太祖皇帝-交 十八史略卷之六六八二ねせいさんむかじやういはたいげんれ其時なり。願はくは、成算の向ふ所を聞かむ。上曰く、吾、太原もくぜんを取らむと欲す、普、默然、やや久しうして曰く、臣の知る所に非たいげんせいほくヘんあたきよへんくわん評太趙ざるなり。太原は西北二邊に當る。一擧して下らしむれば、邊患說に備え之湯 5一二大地 200よくられて富西所にら獨れて當西あたしばらとじもつしよこくさくへい以て諸國を削平するを俟たし大大むりば下る北我獨り、之に當らむ。何ぞ姑く留めて、云之邊ら一だんぐわんこくしはのがざる。かの彈丸黑子の地、將た何の逃るる所ぞ。上笑つて曰く、吾まさしかしばらけいこゝろしけいこが意、正に爾り、姑く卿を試みるのみと。是に於て、師を〓湖に用に陸べ上つせいせんほくかんてふしやほくかんしゆきんゐ、繼いで、西川を取る。嘗て、北漢の謀者に因つて、北漢主鈞にしうしよゝあだうべくつ語つて曰く、君が家、周氏と、世仇なり、宜なり、屈せざるや。われなんぢかんくるしきん今、我爾と間あるなし。何の爲にかこの一方の人を困むと。鈞、てうしやふくめいとうとちへいかうじふいちあた謀者を遣して、復命して曰く河東の土地兵甲、中國の什の一に當는まもけだかんしけつしいおそるに足らず。區區として、此を守るは、蓋し漢氏の血食せざるを懼かなしきんよをはるればなりと。上、其言を哀んで、鈞の世を終るまで、大軍を以てほくばつけいげん北伐せず。繼元の立つに及びて、始めて兵を用ゆ。としきつたんそのしゆじゆつりつぼくそうがうそのをちこつよくこめいこの歲、契丹、其主述律を弑す。穆宗と號す。其伯父兀欲の子明きげいりふけんあらた記を迎立す、名を賢と更む。はんびめいなんかんくわうしうかりうちやう三年。潘美に命じて、南漢を伐つ。四年、廣州に克つ。劉銀、降なんかんる。南漢、亡ぶ。かうしていれんないふせいかいせつど六年。交趾の丁璉、上表して內附を求む。詔して、以て靜海節度しあんなんと使安南都護となす。てうふしやうかじやうせつどしちんきくわだん評趙普は所趙普、相を罷めて、河陽三城節度使を領す。普、沈毅果斷、天下宋-太祖皇帝-六八三 十八史略卷之六六日謂宋の社稷を以て、己の任となす、嘗て、某人を除して某官となさむと欲す。の臣なり上、用ゐず。明日、又、之を奏す。上、怒つて、其奏を裂く。普、か、さ、徐に拾うて以て歸り、補綴して以て進む。上、悟つて、乃ち之を可とす。又、功を立てて、當に官を遷すべき者あり。上、素より、其き人を嫌うて與へず。普、力め請うて、下さむを謂ふ。曰く、朕、固;く與へざれば奈何。普曰く、刑賞は天下の刑賞、安んぞ、私の喜怒を以て、之を專らにするを得むと。上、聽かずして起つ。普、之に隨ふ。上、宮に入る。普、宮門に立つて去らず。上、之を可とす。普、常に大甕を闇後に設け、表疏の意可とせざる者は、其中に投じ雷德驤の子、て、之を焚く。其多く謗を得る者は、此を以てなり。又、之を許く。上、始めて、普を疑ふ。之より先、參知政事を置いさて、以て普に副すと雖も、制を宣せず、押班せず、知印せず、政事堂に升らず。是に至つて、始めて、二參政に詔して、政事堂に昇つて、同じく政を議し、更に知印押班、普と齊しからしむ。未だ幾ならずして、普、遂に罷む。薛居正、呂餘慶等其後、繼いで、相となる。七年。曹彬に命じて、江南を伐たしむ。上、屢ば使を遣し、江南國主李煜5に諭して、入朝せしむ。至らず。乃ち、彬及び播美等を以て、之を討たしめ、戒むるに、切に生民を暴略するなく、務めて、威信を廣くし、自ら歸順せしめて、須らく急に擊つべからざるを以宋-太祖皇帝-六八五 十八史略卷之六交六かうけんひんさづふくしやうしてし、匣劍を取つて、彬に授けて曰く、副將より下、命を用ゐざるいかいうぜんびんしよく者は之を斬れと。美以下、皆、色を失ふ。王全斌、蜀を平らげて、じやうつねうらひんせいじんこうせんにん多く人を殺せしより、上毎に之を恨む。彬性仁厚、故に專任すこうなんはんじやくすゐしんしあだいじやうしよ之より先、江南の焚若水、進士に擧げられて、第せず。上書して事さいせきこうじやうなはくわうけうを言ふ。報ぜず。乃ち魚を釆石江上に釣り、繩を以て、江の廣狹をはかけつさくちんいなんたい度り、闕に詣つて、策を陳ず。上、其言を用ゐ。〓南に令して、大かんつくれうしわたせきすんたが艦を造つて、浮梁となし、以て師を濟す。是に至つて、尺寸を差へずさうひんきんれうかこぢよげんにふてう八年、曹彬、金陵を圍むこと急なり。李煜、徐鉉を遣して、入朝ゆるげん5かせしめ、兵を緩うせむことを求む。鉉、言ふ。爆小を以て大に事つかそのせつすうひやくかさなんぢふる、子の父に事ふるが如しと。其說、數百を累ぬ。上曰く、爾りやうかかテ父子といふ、兩家となして可ならむやと。鉉、對ふる能はず。尋いまそうこうなんつみきますまはげで、復た至り、奏して言ふ、江南、罪なしと。辭氣益す属し。上、けんあんたげんもちこうなんま怒つて、劍を按じて曰く、多言を須ゐず、江南亦た何の罪あらむ。ぐわたふかたはらあたにんかんすゐげんくわう臥榻に佗容人のれの側ん肝豈惟だ天下は一家、臥榻の側、豈に佗人の鼾睡を容れむやと。鉉、惶きようしりぞきんれうかこみいきほひや睡をいよいきうしゆく恐して退く。金陵、圍を受けて、春より冬に徂き勢愈よ窮蹙ひんんだいくす。彬、終に之を降さむと欲し、しきりに、人をして、煜に告げしぼうじつよろところなめて曰く、某日、城必ず破れむ、宜しく早く之が所を爲すべしと、ひんやまひしようしよしやうひんやまひ一日、彬、疾と稱す。諸將、來り問ふ。彬曰く、彬の疾は、藥の能しんせいみだりく癒やす所に非ず。諸公、若し共に信誓をなして、城を破るに、妄宋-太祖皇帝-六八七 十八史略卷之六炎に一人を殺さざれば、彬の病、癒えむと。諸將、皆、許諾し、香を焚いて約誓す。翌日、城陷る。煜出でて降る。南唐亡ぶ。捷書至る。上、泣いて曰く、宇縣の分割、民、其禍を受く。城を攻むるかの際、必ず橫に鋒鏑に罹る者あらむ。哀むべきなりと。彬還る。舟中、惟だ圖籍衣衾のみ、閤門より、其榜子を通じて曰く、敕を江南に受け、事を幹して囘ると。其伐らざること、かくの如し。評九年、吳越王錢俶、來朝す。辭して歸るや、上、賜ふに黃袱を以胤人度人此を君所示た趙する匡封緘甚だのてす。固し。曰く、途中にして、宜しく密に觀るべしと。と之を啓くに及べば、皆、群臣俶を留めむを乞ふの章疏なり。俶、感懼す。上、西京に如き、宣祖の安陵に謁す。夏四月、郊す。都民の垂白なる者相謂つて曰く、我輩、少より離亂を經たり、圖らざりき、今日復た太平天子の儀衞を觀むとはと。泣下るものあり。と上、留まつて洛陽に都せむと欲す。群臣咸な諫む。上曰く、吾長安に都せむとす。晉王、叩頭して曰く、德に在つて險に在らず。上曰く、吾が將に西遷せむとするものは、山河の勝に據つて、冗兵を去らむと欲す。晉王の言、まことに善し。今、しばらく之に從はむ。百年を出でずして、天下の民力殫きむと。乃ち大梁に還る。上崩ず、在位十七年。改元するもの三、曰く建隆、乾德、開寶。宋-太祖皇帝-六八九 十八史略卷之六六九〇評壽五十。上、仁孝、豁達にして大度あり。陳橋の變、衆心に迫ら豁趙い賢朝度達匡りし仁て孝ふ英をあに胤大る京師に入るに泊びて、市、肆を易へず。嘗て、一日朝を罷め、し主じ廿通とて四の便殿に坐して樂まざるもの、之を久しくす。左右、其故を問ふ。上曰く、爾天子と爲る。容易なりと謂へるか。適ま快に乘じて、事を指揮して誤る。故に樂まざるのみと。嘗て、近臣を紫雲樓下に宴し、因つて、民事に論及し、宰相に謂つて曰く、愚下の民、菽麥を分たずと雖も、藩侯爲に撫養せず、務めて、苛虐を行ふは、朕、斷じて之を容さずと。開寶の初、京城及び大内を修め、營繕し畢る。上、寢殿に坐し、諸門を洞開せしむ。皆、端直軒豁壅蔽あるなし。因つて左右に謂つて曰く、是れ、我が心の如し、少しく邪曲あれば、人、皆、之を見むと。蜀を平らぐるの後、嘗て、其兵百餘を擇んで、川班殿直となしき郊禮して賞を行ふに、御馬直扈從を以て、特に給を增す。川班登聞鼓を擊ち、例を援いて陳べ乞ふ、上、怒つて曰く、朕の與ふる所は、卽ち恩澤たり、豈に例あらむやと其妄訴する者四十餘人を斬こと〓〓り、餘は悉く諸軍に配隷し、遂に其直を廢す。內臣、後唐に事ふるに逮ぶ者あり。上、問ふ、莊宗英武、天下を定め、國を享くること久しからざるは、何ぞやと。其人、其故を言ふ上、髀を撫して、嘆じて曰く、二十年、河を夾んで戰爭し、天宋-太祖皇帝-発 十八史略卷之六充下を取り得るも、軍法を用ゐて約束する能はず、まことに、兒戯たり朕、今士卒を撫養して、爵賞を客まず、苟くも、吾が法を犯せば、惟だ劔あるのみと。五代以來、藩鎭强盛、上、漸を以て之を削り、諸節鎭を罷めて、專ら儒臣を用ゐ、郡國を分理し、以て節鎭の橫を革む。又、諸州の通判を置き、以て刺史の權を分たしむ。之より諸侯勢輕くして禍難作らず、專ら民力を愛養するを務む。貢獻を罷め郤け、羨餘をす、進むるを禁ず。常に澣濯の衣を衣、寢殿は、靑布、葦簾を緣す。晩節、讀書を好む。嘗て、歎じて曰く、堯舜の世、四凶、投竄に止まる、何ぞ近代法網の密なるやと。諸國を削平するに必ず之を招き、至らずして後に、兵を用ゐ、其旣に降るに及びて、皆戮を加へず、禮して、之を存し、其世を終らしむ。嘗て、武成王の廟に幸し、從祀を觀るに白起あり、指して曰く、起、巳降を殺す、不武なりと。命じて之を去らしむ。評明治三十七年太祖周周の恭帝、鄭王に封ぜられ、後、房州に遷る。上、辛文悅の長者に當服装なるを以て、き前當 日房州の守たらしむ。恭帝上に先つこと二年、始めてすり例な其か、卒す。上哀を發して、朝を輟むること十日、還つて葬ること、禮の如くす。上、初め、京に入る時、周の韓通、節に死す。追贈、優厚なり。宋-太祖皇帝-六九三 十八史略卷之六六九四王彥昇命を棄てて、殺を專らにす。終身、節鉞を授けず。受禪の際倉卒、未だ恭帝の禪制あらず。學士陶穀、之を懷中より出す。上、之を薄しとす。穀久しく翰林に在つて頗る怨望す。上曰く、哥ゑ學士の草制は、樣に依つて葫蘆を畫くのみ、何の勞か之あは學樣十七を依草畫つ制くTalらむと。卒に之を政府に登さず。よっき內外の官、時望ある者姓名を籍記し、以て不次の選用を待つ。職に稱ふ者は、多く久任して遷らず。銓選法を定め、擧主連坐の法を嚴にし、贓吏の法を嚴にし、極刑に眞く者あり。五代藩鎭、苛征重歛の弊に懲りて、商征を寛うし、麴鹽酒の禁を寛うし、倉吏多く民租を入るる者は、或は棄市す。五代、多く武人を以て牧守となし、日ニ意に率つて刑を用ゆ。上、之に懲り、ことさらに入る者は、必ず罪たに抵る。大辟詳覆法を定め、折杖法を定め、新刑統を頒ち、差役法を定め、版籍、戶帖、戶鈔を作る。長吏、民田を度つて實ならざるV者あれば、或は之を杖流す。諸州、旱蝗あれば、饑を賑はし、租を§かう、獨き、惟だ及ばざるを恐る。德行孝悌を擧げ、制科を親策す。擧人進士の榜を放つ。覆試法を嚴にし、殿に御して進士を親試し、書判拔萃を試み、數ば國子監に幸し、天下に詔して遺書を求む。始めて和峴定むる所の雅樂を用ゆ。始めて、劉溫叟上つる所の開寶通禮二百卷を行ふ。宰執に命じて、日々時政を記し、史館に送つて、日曆を撰せしむ。制度典章、彬彬として條理あり。太弟晉王立つ、之を宋-太祖皇帝-六九五 十八史略卷之六六九六太宗皇帝となす。西紀九七六【太宗皇帝】初名は匡又、太祖の長弟なり。太祖の京城に入るや、1九九七匡又、首として諸將に號令し、士卒を戰めむことを請ひ、仍つて、自ら馬前に於て標掠を戒む。太祖、禪を受くるや、乃ち光義と改名し、開平に尹とし、同平章事たり。晉王に封ぜらる。建隆二年昭評博多明治君太あ后憲杜太后、崩ずるに臨み、太祖に謂つて曰く、汝、天下を得る所以〓るは長久ののものを知れりや。太祖曰く、皆、祖考と太后との餘慶なり。太后リ大途理り由とあす笑つて曰く、然らず、正に柴氏幼兒をして天下に主たらしめしに由るのみ。汝萬歲の後、當に位を管王に傳へ晉王は秦王に傳へ秦王は以て德昭に傳ふべし。國に長君あるは、社稷の福なり。太祖曰とく謹んで〓を受くと。太后、趙普を呼んで曰く、趙書記、共に吾が言を記せよ、違ふべからずと。因つて普に命じて、榻前に於て、?臣普記す誓書を爲らしむ。普、紙尾に署して曰く、臣普記すと。之を金匱に藏す。太祖、友愛篤く至る。晉王、嘗て疾に寝ねて灼支す。太祖亦た自ら灸し、以て其痛を分つ。嘗て曰く、晉王は龍行虎步、且つ生まるる時、異あり、佗日必ず太平の天子とならむ。福德は吾が能く及ぶ所に非ざるなりと。太祖、蜀に幸す。布衣張齊賢あり、十策を獻ず、召し問うて食を賜ふ。且つ陷ひ、且つ對ふ。太祖、其某策を善しとす。齊賢、固く餘策皆善なるを稱す。太祖、怒つて斥け、便ち出づ。旣に還つて、音王に語つて曰く、吾、西都に幸して、宋-太宗皇帝-六九七 十八史略卷之六六九八の張齊賢を得たり。吾、之を用ゆるを欲せず。佗日、留めて、汝に與へて、宰相と作さむと。蓋し、傳位の定まれる久し。太祖、不豫13けいおんなり。后、王繼恩をして、皇子德芳を召さしむ。繼恩、徑に晉王を召す。王、宮中に至り、左右を散遺し、言ふ所、皆、聞くを得ず。¥但、遙に見る、燭影の下、王、席を離るるの狀あるを。既にして、上、柱斧を引いて地を戮し、こう)大聲して曰く、好く之を爲せと。遂に崩ず。后、晉王を見て愕然として曰く、吾が母子の命、皆官家に託す。王曰く、共に富貴を保し、憂なきなりと。王、位に卽き、名を昊と更む。秦王廷美、開封に尹たり。改めて齊王に封ぜられ、德昭、武功郡王に封ぜらる。使を遣し、州縣を分行して、官吏を廉察し、其優劣を第せしめ、罷軟にして任に勝へず、惰慢にして事を親らせざるものは、官を免にす。贓吏の配せられし者は、赦に遇ふも敍せず。大理評事陳舜封。事を奏するや、口捷に、擧止、倡優に類す。問ふ誰が氏の子ぞと。對ふるに、父、伶官たるを以てす。上曰く、汝は眞に雜類なり、豈に〓望に任ずるを得むやと。改めて、殿直を授く。陳洪進、來朝して、漳泉二州を獻ず。吳越王錢俶、來朝して、遂に其地を獻ず。潘美に命じて、北漢を伐たしめ、尋いで、親征して太原を圍む。宋-太宗皇帝-六九九 十八史略卷之六七〇〇りうけいげん劉繼元、出でて降る。北漢、亡ぶ。詔して契丹を征す。易州、涿州、來り降る。上、幽州を攻む。旬を踰えて下らず、遂に師を班す。郡王德昭、從つて幽州を征す。軍中、夜、驚いて、上の在る所を知らず。德昭を立てむことを謀る者あり。上聞いて悅ばず。歸るに及びて、北征利あらざるを以て、北漢を平らぐるの賞を行はず。德昭、之を言ふ。上、大に怒つて曰く汝が自ら之を爲すを待つて、賞するも未だ晩からざるなりと。え德昭、退いて自刎す。後二年、岐王德芳、卒す。太祖の二子、相繼いで死せしより、齊王廷美、自ら安んぜず。佗日土、傳國の意を以て、趙普に訪ふ。普曰く、太祖、既に誤る。陛下、豈に再び誤るべけむやと。是に於て、普、復た入つて相たり。廷美、遂に罪を得て、涪陵縣公に降す。普、復た知開封府李符をして、其怨望を〓げしむ。南房州に還し、尋いで、之を殺す。普、李符が言を漏らさむことを恐れ、弭、德超、曹彬を譜するの故に因つて、符、德超を薦めしを以て、符を春州に貶して卒す。种放、終南山に隱れ、草を結んで廬となし。講習を以て務となす。後進、多く之に從つて學ぶ。上聞いて、之を召す。辭するに、母の老いたるを以てす。上、其節を高しとして、厚く錢帛を賜うて之を旌はす。呂蒙正、參政となる。朝士あり、之を指して曰く、この子も亦た宋-太宗皇帝-七〇一 七〇二十八史略卷之六どうれつなじさんせいまうせいいつは蒙蒙正、佯つて聞かず。同列、其姓名を詰らむと欲す。加上有名參政かと。評姓し正を一名しうしんわすとじ終身忘れず、知る正、之を止めて曰く、若し一たび名姓を知らば、り如知終かる身しななきに如かざるなりと。ざるきくわざんちんたんがうきいせんぜたま華山の陳摶を召し、號を希夷先生と賜ふ。つひやところおくまんでんしやくかいほうじた費す所億萬田錫、奏して曰く、開寶寺の塔、成る。前後八年、あぶらぬちきんへきけいくわうしゆうお膏を塗り、血衆以爲へらく、金碧焚煌たりと。臣、以爲へらく、ぬいかを覺ると。上、怒らず。こけいゐんおとうとけいせいやりくわうえい之より先、西夏の李光叡、らいてう卒す。子繼筠、けん嗣ぐ。そのおとうとけいせん又卒す。そむ弟繼ほう其弟繼遷、叛き去捧、嗣ぐ。繼捧、來朝して、四州の地を獻ず。しばしへんふこうり、數ば邊に入寇す。きつたんしょいそうりうちよた緒十なち律契丹主明記、四宗卽耶はり遼隆はゝせうしの聖殂す。景宗と號す。子隆〓立つ、年十二。母蕭氏、そのこくせいもつは在位九年其國政を專らにす。(無料)九り遼一自さうひんらめいきつたんう上、曹彬等に命じ、道を分つて、ひんかう八二三一)至のくわんたいはいみことのりかつ契丹を伐たしむ。きつたん彬の兵、岐溝名君な關に大敗す。詔れんねんにふこうのちぢよしんきつたんして、そのてうこう師を班さしむ。みち契丹、之より連年入寇す。後、ゆる女眞、ぢよしん契丹、其朝貢の路を隔つるを以て、きつたん之を擊たむを請ふ。許さず。女眞、遂に契丹に臣たり。りけいほうせいめいてうはうちうせつど李繼捧に姓名を趙保忠と賜ひ、たまさづ上、しめいかぎんすゐいうせい節度使を授け、命じて、夏、くわんけいせんはか銀けいせん綏、くだてうはうきつ宥、靜、五州を管し、まへん繼遷を圖らしむ。かうり繼遷、降る。姓名を趙保吉と賜ふ。けいりうはうちうい保吉、はうきつ復た邊に寇す。きうと李繼隆に命じて、之を討たしむ。保忠言ふ。旣に保吉と仇を解く、乞ふ、兵を罷めむと。上、宋-太宗皇帝-七〇三 十八史略卷之六七〇四怒つて、繼隆に命じて、先づ兵を移して、之を討せしむ。繼隆、夏州に入り、保忠を闕下に檻送す。保吉、尋いで、亦た降を請ふ。然も、復た叛く。繼隆に命じて、之を討せしむ。こと〓〓蜀、旣に平らぎしより後、府庫の物、悉く載せて内府に歸る。土た、狹く、民稠く、有司賦外の科なきにあらず。王小波、起つて盜をなす。小波、死す。李順、之に繼ぎ、成都を攻め陷れ、蜀王と僭號す。上、王繼恩に命じて、討つて、之を擒にせしむ。蜀、平らぐ。交趾の丁連卒す。大校黎桓、其宗族を囚へて、其國を專らにす。上、初め命じて、之を討たしむ。功なし。旣にして、桓、奉貢す。竟に桓を以て、交趾郡王となす。時に、霖潦、寇準班を越度に過ぐ。上曰く、朕、刑獄に於ける、心を盡す。えて言ふ安んぞ積陰の譴を得たると。寇準、班を越えて、對へて言ふ。某州の局吏、官錢を侵すこと若干、法に於て小過となす。陛下、之を殺す。王淮は、參政王汚の弟なり。錢數百萬を盜む、法に於て大怒となす。陛下、汚の故を以て、{務めて、相容れて蔽ふ。かくの如くして、刑獄に心を盡すといふ。之を如何にして、積陰の譴なからむやと。上、卽日、淮を誅し、汚を罷む。俄にして、霖、止む。上、崩ず。在位二十二年。改元するもの五、曰く太平興國、曰く雍熙、端拱、淳化、至道。15壽五十九。薛居正、沈淪、趙普、宋琪、李昉、呂蒙正、張齊賢、呂端等、相繼いで、相となる。普は、凡そ宋-太宗皇帝-七〇五 十八史略卷之六七〇六趙普の言行再び入つて再び罷めらる。尋いで薨ず。普、初め、吏道を以て聞こさゆ學術寡し。太祖、嘗て勸むるに經書を以てす。普、遂に手に評論鮮奶茶奶茶奶茶語に卷を釋かず。朝に大議ある毎に、卽ち戶を闔ぢて自ら一筐を開き、し參大·一書を取つて、之を閱す。卒するに及びて、家人、其筐を視れば、論語なり。嘗て、上に謂つて曰く、臣に論語一部あり、半部を以て太祖を佐けて天下を定め、半部を以て陛下を佐けて太平を致すと。呂蒙正蒙正、晩に出づ。嘗て、普と並び相たり。普、甚だ之を推す。蒙正、嘗て、冊子を夾袋中に置いて、四方人材の姓名を疏し、以て選張齊賢用を待つ。初め太祖、嘗て、張齊賢を以て、上に屬す。齊賢、進士に擧げらるるに至つて、上、之を上第に置かむと欲す。然も、有司、其名を第して、下に在り。と乃ち、詔して、一種、特に通判を與へ卒に大に用ゐらるるに至る。呂端糊塗す呂端、相となる。人、謂ふ、呂相、事を作して糊塗すと。上之を知つて曰く、端、小事は糊塗すれども、大事は糊塗せずと、上位に卽いて以來、小人を以て相となす者は、盧多遜一人のみ。太子立つ、之を眞宗皇帝となす。【眞宗皇帝】初名は元侃、襄王に封ぜらる。擧人楊礪といふ者あり、嘗で、夢に一大殿に至る。殿上に坐する者あり、あ之に語つて曰我は汝の主に非ず、く來和天尊は汝の主なりと。指示して、之に謁せしむ。礪後に進士第一なり。入つて、襄王府の記室たり。旣謁すれば、に、夢中見る所の如し。太宗、嘗て、相者をして、襄王宋-太宗皇帝-眞宗皇帝-七〇七 十八史略卷之六七〇八下六大きに詣らしむ。門に及んで、返つて曰く、王門は斷役も、皆將相たbo王、知るべしと。立つて、太子となる。是に至つて位に卽く、1;名を恆と更む。咸平二年、契丹、入寇す。上、親征す。大名府に至つて還る。三年。益州の卒王均反し、大蜀と僭號す。雷有終を以て州に知とし、討つて、之を擒にす。益州、平らぐ。亟に之范廷召、契丹を討ち、援を高陽關の都部署康保育に求む。力戰して之に死に赴く。廷召、ひそかに遁る。保裔、爲に圍まれ、す。靈州を李繼遷、先朝賜ふ所の姓名を奪はれ、邊に寇して已まず、攻め陷る。西凉六合の會長潘羅支、乞うて王師に會して、之を討つ。繼遷、西凉府を攻め陷る。潘羅支、要して、之を擊つ。繼遷、流矢に中り、靈州の境に於て死す。其子德明、降を請ふ。復た姓趙を賜ひ、後、封じて、西平王となす。楊嗣、楊延朗、智勇にして、善く戰ふ。團練使を加へらる。虜之を憚り、目して、楊六郞といふ。景德元年契丹主、其母蕭氏と大擧して入寇す。中外震駭す。參政陳堯叟は蜀人、蜀に幸せむことを請ふ。王欽若は江南の人、江南に幸せむことを請ふ。上、以て宰相寇準に問ふ。準、問ふ、誰か此策を畫する。上曰く、卿暫らく、其可否を斷ぜよ。問ふ勿れ。宋-眞宗皇帝-七〇九 十八史略卷之六七一〇準曰く、臣、策を獻ずるの臣を得て、斬つて以て鼓に釁り、然る後に北伐せむと欲するのみと。遂に親征の議を定む。上、蹕を韋城に澶州に至り、三面駐む。尋いで、衞南に至る。契丹、兵を擁して、弩に中つてを園合す。李繼隆等、出でて、之を禦ぐ。契丹の撻覽、す死し、大に挫けて退却し、敢て動かず。て寇準、力めて上に勸めて、猶豫の間瓊衞士河を渡らしむ。殿前帥高瓊、亦た力めて賛す。を麾いて、輦を進めて曰く、陛下、若し河を過ぎざれば、百姓考君が輩、此妣を喪ふが如しと。梁適、之を呵す。瓊怒つて曰く、遂評言痛烈骨を高瓊の一時、尙ほ人の失禮を責む、何ぞ一詩を賦して虜を退けざるやと。刺す黃旗幟に上を擁して、以て渡り、旣に澶州に至り、北城に登つて、を張る。諸軍、皆、萬歲と呼ぶ。聲數十里に聞こゆ。契丹、氣、評奪はる。ににを提の充ら利宋條必實れに帝と逸姑衰ずた的和力惑好しのをるてら件須が國誘和之より先、王繼忠といふ者虜に陷り、嘗て、和好の利を言亡遂る前好のせの故に大擧すと雖も、3.0.亦た使を遣し、繼忠の書を以て來らしむ。曹利用に命じて、上、之を報ず。利是に至つて、用、契丹の使者韓べも事至以悟せいそうと杞と共に來り、息世宗取る所の關南の故地を請ふ。上曰く、地.必ずふる大得べからず。寧ろ、金帛を與へて、いす以て和せむと。準の意、亦た與ふるを欲せず、且つ畫策して、以て進めて曰く、此の如くなれば、百年の無事を保つべし。然らざれば、數十歲の後、戎、復た心を生ぜむと。準蓋し之を擊つて、隻輪をして返らざらしめむと欲す。上曰く、數十歲の後、當に能く之を禦ぐ者あるべし。吾、生靈重ね宋-眞宗皇帝-七二一 十八史略卷之六七一二りようくるししのそのわゆるて困むに忍びず、しばらく、其和を聽せと。遂に再び利用をして往さいろきんはくすうやかしむ。利用、歲賂金帛の數を請ふ。上曰く、必ず已むを得ざれちよくじゆんば、百萬と雖も、亦た可なりと。準召して、之に語つて曰く、敕このすう旨ありと雖も、三十萬に過ぐるを得ず、じゆん若し此數を過ぐれば、つひけんまんぎん來つまんじゆんなか銀十萬て準を見る勿れ、準汝を斬らむと。利用、卒に絹二十萬、こもごせいやくなんてうけいほくてうを以て、和議を定め、南朝を兄となし、北朝を弟となし、交も誓約し、各、兵を解いて歸る。じゆんけいしはつてうしめいしよしうち準初め、でんらう京師を發するや、ち朝士に命じて、いまし出でて諸州に知たらひやくしやうみなしめ、皆、殿廊に於て、敕を受けしむ。之を戒めて曰く、百姓は皆ニみなざいみだじやうべきうしな兵、府庫は皆財なり。汝に浪りに戰ふを責めず、但だ一城一壁を失まぐんねこきんじやくしんせい當に軍法を以て事に從ふべしと。にくは、欽若が親征の議を沮むを恐そのちきんじやくてんゆうぐんれ、其智あり、きつたん且つ福あるを以て、きんじやく欽若を出して、つか天雄軍に知たら契丹、さくさいしむ。しうきやうじゆ城下に至る。欽若、せんえん門を閉ぢ、かへ手を束ねて策なく、じゆん齋を修し、きはあつ經を誦するのみ。上、澶淵より還り、うらてう準を待つこと、しりぞじやう極めて厚し。欽若、じゆん歸つて深く準を恨む。嘗て朝より退くや、上、準をもくさうきんじやくすへいかじゆんけいそのしやしよく目送す。欽若、進んで曰く、陛下、準を敬す、其社稷に功あるが爲じやうかちかひしゆんじうせうこくはかしうぜん城下の盟は、春秋の小國も、恥づる所なりと。上、愁然たり。きんじやくつねせんえんえきじゆん欽若、ちう且相となる寇準罷め王毎に曰く、や澶淵の役、うすつ準、陛下を以て孤注となすと。わうたんどうへいしやうじ上、準を待つこと。寢や薄し。尋いで、相を罷む。王旦を以て、同平章事たんわうこたいそかつこあんとす。旦は、王祐の子なり。太祖、嘗て、祐を遣して、事を按ぜし宋-眞宗皇帝-七一三 七一四十八史略卷之六か、 太祖の意に徇む。謂ふ、祐還らば、王溥の官職を與へむと。祐、はず、竟に大に用ゐられず。祐曰く、祐、做らずとも、兒子二郞、〓必ず三公となる必ず做らむと。三槐を庭に植ゑて曰く、吾が後世、者あらむと。是に至つて、旦、果して、相となる。深沈にして德望くあり、能く大事を斷ず。上、心深く之に屬す。趙德明、嘗て民の饑ゑたるを以て、表を上つて粮を乞ふ。群臣、皆、之を責めむことを請ふ。旦曰く、臣、德明に詔して云はしめんと欲す。塞上の儲粮は與ふべからず、己に京師に於て百萬を積む、自ら衆をして來り取らさいは、上、しむべしと。德明、再拜して詔を受けて曰く、朝廷人ありと。既に欽若の言を入れて、屢ば欽若に問ふ、何を以て恥を刷はむと。欽若、上の兵を用ゆるを厭ふを知り、謬つて曰く、幽薊を取れば可なりと。上、其次を思はしむ。乃ち請ふ、封禪し、以て四海を鎭伏夷狄に誇示せむと。し、又言ふ、封禪は當に天瑞を得べし、前代、人力を以て之を爲すあり、河圖、洛書、果して此あらむや。聖人神道を以て〓を設くるのみと。是に於て、太中祥符より以來、屢ば天書あつて降る。東、泰山に封じ、西、后土を汾陰に祀る。又、趙氏の祖九天司命天尊あつて降る。天下に天慶觀を立て、聖祖殿を置聖祖の名玄朗を諱み、き、玉〓昭應宮を作る。旦、其事を止むる能はず。上、在位二十六年。元年、呂端罷めてより後、張齊賢、李流、呂宋-眞宗皇帝-七一五 十八史略卷之六七六蒙正、向敏中、畢士安、寇準王旦、相繼いで、相となる。惟だ旦は位に居ること十一年。李沆の相たりし時に當つて、旦、始めて參李沈と王旦論語中政たり。沆論語を讀むを喜ぶ。嘗て曰く、宰相となつて、の「用を節して人を愛し、民を使ふに時を以てす」といふ兩句の如き、なほ行ふ能はず。聖人の言、終身之を誦するも可なりと。流評人主日に四方の水旱盜賊を取つて、之を奏す、旦謂ふ、細事、上聽をふすむ情賊し李べ名べを社て流水旱下盜を會の煩すに足らずと。流曰く、人主少年、當に人間の疾苦を知らしむし言し知ととら意を聲色犬馬に留めざれば、べし。然らざれば血氣方に剛なるや、是れ參政他見るに及ばず、土木甲兵禱祀の事作らむ。吾老いたり、封禪祠祀士木、日の憂なりと。太中祥符に至つて、並び興る。旦乃李文靖は眞に聖人なりと。ち歎じて曰く、大禮ある每に、旦、輒ち首相を以て天書を奉じて行く、常に悒悒として樂まず、13去らむと欲すれば、上、之を遇する厚し、位に薨ずるに及びて、遺令すらく、髪を削り、緇を披き、以て歛せよと。議者謂ふ、具、君を得たりしも、正を以て自ら終る能はずと。或は之を馮道に比すといふ。張詠嘗て言ふ、吾が榜中、人を得る、最も多し。謹重にして德望あ李文靖に如くはなく、るは、深沈才德、天下を鎭服するは、王公に如くはなく、面折廷爭して素より風釆あるは、寇公に如くはなく。方面の寄に當つては、詠敢て辭せずと。旦の世に當つて、王欽若旣に相たり。欽若、罷む、寇準、再び入つて相たり。參政丁謂、準宋-眞宗皇帝-七一七 七一八十八史略卷之六くわいしよく謂に事へて、甚だ謹む、嘗て、會食するや、羹準の鬚を汚す。起つて之を拂ふ準笑つて曰く、參政は國の大臣なり、乃ち官長李迪、相丁謂、罷む。の爲に鬚を拂ふかと。謂.甚だ愧恨す。準評ん謂拂爲人者に官な豈鬚長ら丁をの上一ふめ時に、となる。準、遠く貶せらる。迪罷む。謂.獨り相たり。中宮に白謂.旣に病あり、昏眩す。準が罷貶せらるるが如き、皆、在位改元するして之を行ひ、上、知らず。尋いで崩ず。年五十五、太子立もの五、曰く咸平、景德、曰く太中祥符、曰く天禧、顯興。つ、之を仁宗皇帝となす。之を子とす。【仁宗皇帝】名は禎、母は李氏。章獻明肅劉皇后、晝夜啼いて止眞宗、皇子を得ること、旣に晩し。初め生まるるや、ご、まず、道人あり、言ふ、能く兒啼を止めむと。召し入る。乃ち曰叫ぶ莫かれ、 叫ぶ莫かれ、何ぞ當初の笑ふ莫きに似かむと。啼卽ち止む。くこと、蓋し謂ふ、眞宗、嘗て上帝に顬つて嗣を祈る。群仙に問ふ、誰か當に往くべき者ぞと。皆、應ぜず。獨り、赤脚大仙一笑す。遂に、命じて、降つて、眞宗の子とならしむ。宮中に在つて、赤脚を好む、其驗なり。昇王より、太子となり、年十三にして、位に卽く。劉太后、簾を垂れて、同じく政を聽く。丁謂、事さんせいわうそうを用ゐ、寇準を讒して、雷州司戶となす。參政王曾、密に奏す。謂.禍心を包藏し、眞宗の山陵、擅に皇堂を絕地に移すと。遂に謂を罷め、貶して、崖州司戶に至る。謂.初め、學士に命じて、準宋-仁宗皇帝-七一九 十八史略卷之六七二〇謂が讒の責詞を草し、春秋無將漢法不道を用ゐしめて證事となす。以る寇ての準べも己た己らのをす謂評を貶はで謂せら詞貶丁責詞せらるるに及び、學士乃ち其語を用ゆ、人、是を快とす。準を逐ふの出所と自にるれる責返もに 詞當に眼中で謂せ時に方つて、京師語つて曰く、天下の寧を得むと欲せば、もにの丁を拔くべく、天下の好を得むと欲せば、寇老を召すに如くはなきのといへふるかしと。然れども、準竟に北に還るに及ばずして卒す。王會、相となり、王欽若、再び相たり。欽若、卒す。張知白、相たり。知白、卒す。張士遜、相たり士遜、罷む。呂夷簡、相たり。惟だ王曾、天聖の初より、相位に居り、是に至るまで七年にして罷む。曾、初め進士に擧げられ、靑州の發解、禮部の延試、皆、第一なり。人曰く狀元三場、喫著し盡きずと。曾曰く、曾、平生の志、溫飽に在らずと。眞宗の末、色を正しうして朝に立つ。朝廷、賴つて以て評重きを爲す。相と作るの日、進退する所の士、知る者あるなし。或採用王べを亦てもり得す曾る人のをひと、其故を問ふ。曾曰く、恩、己に歸せむと欲せば、ずざるれ用れ事法べき怨は誰をしららあすを然て當らしめむと。か知弊偏之交趾の黎桓景德中に卒す。子龍廷、其兄龍鉞を殺して自立し、る來貢す。名を全忠と賜ふ。太中祥符の間、全忠卒す、子幼なり。弟立つを爭ふ。大校李公蘊、遂に之を殺して自立す。是に至つて公蘊、卒す。子德政、立つ。來つて、喪を告ぐ、封じて交趾郡王となす。契丹主隆〓殂す。聖宗と號す。子宗眞立つ。宋-仁宗皇帝-七二一 七二二十八史略卷之六せいかてうとくめい げんかう西夏の趙德明、卒す。王士大學立つ。はゝりしもくもくおつもりうたいこう上の母李氏、默默とし劉太后、上を以て己の子となす。而して、一)おそをかついせんてうひんぎよ人、亦た后を畏て、先朝嬪御の中に處り、未だ嘗て自ら異とせず。しんびすさいしやうりよやまひあらたあえ宰相呂れて、敢て言はず。病革まる、れい乃ち位を宸妃に進めて薨ず。そなほうむたよろ他かんたいこうそう曰く、い以て葬るべし。夷簡、太后に奏す、宜しく、禮を備へて、しんひしゆつきたじついかんかつと一年を踰え日夷簡、嘗て說き來らずと道ふ勿れと。宸妃卒して、しようせいみづかたいこうほうせい之よりて、太后崩ず。制を稱する十一年。上、始めて政を親らす。いかんてきしやうりよいかんちやうしそんたらかしやう李迪、相たり。而先、呂夷簡、張士遜、並に相たり。夷簡、罷む。かんまはつめいししゆ復た相たそん夷簡、して、士遜、首相たり、發明する所なくして罷む。まけんいかんてきやわうそう夷簡のり迪罷む。王會、復た相たり。然も、權夷簡に在り。はじくわくくわうごう初めて罷むるや郭后の言を以てす。こう皇復た入るに及びて后せうびじんてうあらそげきくわくこうはいだいかん尙美人と寵を爭ふの隙あり遂に郭后を廢す。夷簡、力あり。臺諫こうだうほはんちうえんちうえんてうかへたいせい孔道輔、范中淹、爭ふ。得ずして出づ。仲淹、朝に還つて、待制とかいほうふちいよいきふしばしじせいなり、いかんぞのしよく開封府に知たり。うつた事を言ふこと、ぜうしうち愈よ急、數ば時政を議す。くわんかくよせいゐんしゆ夷簡其職を越ゆるを訴ふ。罷めて饒州に知たり。館閣余靖、尹洙、んんおうやうしうかんぐわんかうじやくとつ之を爭ふ。坐して貶せらる。いさ皆、歐陽修諫官高若訥の諫めざるにんげんしうちじやくとつそのしよを責む、そう謂ふ、人間羞恥の事あるを知らずと。若訥、其書を奏す、さいじやう四賢一不肖の詩を作る。けんせうけんちうえんしゆ之詩四賢一不肖亦た貶せらる。せいしう蔡襄、ふせうさわうそう四賢は、たい仲淹、洙かん靖、修を指し、い本日は、若訥を指すなり。王曾、對に因つて、夷簡ろいしりぞそうならびが賂を納れて恩を示すを斥く。やわうずゐちん夷簡、曾並に罷めらる。王隨、陳朱-仁宗皇帝-七二三 十八史略卷之六七二四ちやうしそんしやうとくけんめいげうさかは章得堯佐、之に代る。建明する所なきを以て、罷めらる。張士遜、しやう象てうげんかう之に代る。ぎんすゐいうれいえんくわいしやうかんりやうこしやしゆく趙元昊、夏、銀綏、宥、雲、鹽、會勝甘、凉瓜、沙肅こうしうがらんざんかためたいかくわうしうきよいう大夏皇州の地を據有し、せんがうせいへん興州に居り、さうぜん賀蘭山を阻して、はんようせいかけいえい固となし、げんかうえんで、元昊が將に延帝と僭號す。西邊、騷然たり。范雍、西夏を經營す。しうおそと1、州を攻めむとするを聞き、懼るること甚しく、門を閉ぢて救はず。ちうくわんくわうとくわそうりうへい兵を以て其家劉平、かこ戰ふ。そのぞく中官をさ黃德和、平、賊に降ると誣奏す。ひついくわんけいたす富弼を圍み、其族を收めむを議す。やぶのゝし富弼言ふ、平、とくわ環慶より來り援く、しのがかんしんすく人を誣ひて免れむ姦臣救はず、こひねが故に敗れ、賊を罵つて死す、えうざんはんよう德和、ときぐんおこたことを冀ふと。坐して腰斬せらる。范雍、罷む。時に軍興つて多養老場なら政事府豈に事、じ張士遜、ちやうしそん補ふ所なし。おぎな諫官韓琦、かんくわんかんき上疏して曰く、じやうそ政事府は、せいじ豈やうびやうばうんやしそんちかんに養病坊ならむやと。りよいましやうかんきはんちうえん是に於て、へんすゐ士遜致仕す。呂夷簡、復た相た韓琦、かえんしうり范仲淹を用ゐて、邊帥となす。うかじんあひいましえんしう仲淹、嘗て、兼ねて延州せうはんらうしに知たり。けうちうおのづか夏人、相戒めて曰く、かうへい延州を以て意となす勿れ、たいはんらうしあざむ小范老子、胸中 自ら數萬の甲兵あり、大范老子の欺くべきに比せざるなへんじんこれぐんちうかんせいぞくこれしんりと。邊人之が爲に語して曰く、たんさむぐんちうはん軍中一韓あり、西賊之を聞いて心膽寒し。きやうはかう軍中一范あり、たくま西賊之を聞いて膽を驚破すと。昊の大に逞けだちうえんきよたしうするを得ざるは、上蓋し、埼.仲淹の力を宣ぶること、居多なるに藉る。きつだんてうていせいかたうじようへんしせきしんさ契丹、朝廷、西夏の撓あるに乘じて泛使を遣して、石晉割く所、宗-仁宗皇帝-七二五 十八史略卷之六七二六周の世宗取る所の關南の地を求めしむ。知制詰富弼、接伴す。時に夷簡、事に任ず。人、敢て抗するなし。弼、數ば之を侵す。夷簡、事に因つて、弼を罪せむと欲し、弼を以て、報使とす、弼至る。徃返論難、力めて、其地を割くを拒む。使、還る。再び遣る。而し5て國書、ことさらに異同をなし、夷簡、以て弼を陷れむと欲す。弼疑うて啓き觀る。乃ち復た囘奏し、夷簡を面責し、書を易へて徃き、歲賂銀絹各十萬を增し、和議を定めて還る。呂夷簡、罷めむことを求む。上遂に天下の弊事を更めむと欲し、諫官の員を增し、王素、歐陽修、余靖、蔡襄に命じて、諫院の職に供せしめ、韓琦、范仲淹を以て、樞密副使となし、夏竦を召して、ミ樞密使となす。諫官、論じて竦を罷め、杜衍を以て、之に代ふ。國子直講石介、喜んで曰く、是れ盛德の事なりと。乃ち慶曆盛德の詩ニを作る曰へるあり、衆賢の進むは、茆の斯に拔くが如く、大姦のニ去るは、距の斯に脫するが如しと。大姦は、竦を指すなり。仲淹、琦.適ま陝西より來る。道中、詩を得たり。仲淹、股を拊つて琦に上謂つて曰く、此怪鬼輩の爲に事を壞ると。竦、因つて、其黨と論をう(造し、衍等を目して黨人となす。歐陽修、乃ち朋黨論を作つて、之歐陽修朋黨論を上るを上る。略に曰く、小人は朋なし、惟だ君子は之あり。小人利を同じうする時、しばらく朋を爲すものは僞なり。其利を見るに及びては、先を爭ひ、或は利盡きて情疎、反つて、相賊害す。君子、身を宋-仁宗皇帝-七二七 十八史略卷之六三八をさあひえき23修むれば、道を同じうして相益し、國に事ふれば、心を同じうしてたまさしうし共に濟ふ、終如一の如し。是れ君子の朋なり。君たる者は、但だ當ぎしんはうに小人の僞朋を退けて、君子の眞朋を進むべし、乃ち天下治まらむとちうえんさんせいうつひつすうふくぬき仲淹、參政に遷り、富弼、樞副となる、上既に仲淹等を擢んで、しんけんてんしやうかくひらせうたいさ進見する毎に、太平を以て之を責め、天章閣を開いて召對し、坐をたまひつさつきふみなくわうきやうしりぞれつさう賜ひ、筆札を給す。仲淹等、皆惶恐す。退いて、十事を列奏す。ちゆつちよくあきらげうかうおさ一に曰く、黜陟を明かにせよ。二に曰く、僥倖を抑へよ。三に曰こうきよくわんちやうえらこうようく貢擧を精しくせよ。四に曰く、官長を擇べ五に曰く、公用ひとのうさうあつぶびをさを均しくせよ。六に曰く、農桑を厚うせよ。七に曰く、武備を修めえうえきおんしんおよぼよ。八に曰く、徭役を減ぜよ。九に曰く、恩信を覃せよ。十に曰くめいれいおもじやうまきしんかうたぶび命令を重くせよと。上方に信向して、悉く其說を用ゆ。惟だ武備、いささいしやうもつかしやうとく府兵を復せむと欲するの一說は、宰相以て不可となす。時に、章得しやうあんしゆどうへいしやうじいくばくちうえんせんせいかとう象晏殊、並に同平章事たり。未だ幾ならず、仲淹、陝西、河東をせんぶひつかせんぶしようらばうちうえんらてう宣撫し、富弼、河北を宣撫す。竦等、謗を造す。故に、仲淹等、朝やすおうやうしうあんしゆとえんに安んぜず、歐陽修、亦た出でて河北に使す。晏殊、罷む。杜衍、つとげうかうさいないかうごとおほむしんかく同平章事たり。衍、務めて僥倖を裁す。內降ある每に、率ね寢格しせうしよっすなはかんて行はず、詔書を積むこと十數、輒ち上の前に納る。上、嘗て、諫ぐわんえんないかうふうくわんきうちう官に語つて曰く、外人、術が内降を封還するを知るか。朕、宮中につねふうくわん在つて毎に〓ぐべからざるを以て止むもの、封還する所よりも多き宋-仁宗皇帝-七二九 十八史略卷之六七三〇なりと。會ま、衍の婿蘇舜欽、進奏院に監とし、故紙を鬻ぐの公錢か、を用ゐ、神を祀り、客を會す。御史中丞王拱辰、素より衍等の爲ミす所を便とせず、因つて其事を攻む。獄に置いて罪を得る者數人。(一網打去し拱辰、喜んで曰く、吾、一網打去し盡せりと。行、相たること七十盡す日にして罷む。賈昌朝、平章事兼樞密使たり。韓琦、樞副を罷めて揚州の事に知たり章得象、罷む。陳執中、平章事たり。昌朝、罷む。夏竦、代つて、樞密使となる。貝州の卒王則反す。文彥博、河北を宣撫す。討つて之を平らぐ。趙元昊、慶曆の初、嘗て、范仲淹に因つて和を請ひ、反覆數歲、竟に款を納れて、復た臣と稱す。策命して、夏國王となし、曩霄と名づけ、歲に銀絹茶絲二十五萬五千を賜ふ、遂に復た邊に寇せず。卒す。子諒祚、立つ。陳執中、建明する所なきを以て罷む。夏竦、罷む。宋庠、之に代る。尋いで、同平章事たり。未だ幾ならずして罷む。張貴妃兄堯佐、一日、四使に除せらる。監察御史裏行唐介、之を論ず。聽かず。遂に効奏す、文彥博、さきに蜀に守たり。燈籠錦を以て貴妃に獻じて、執政を得たり、故に堯佐に黨すと。上、怒つて介を遠貶す。彥博、亦た罷むるを求む。龐籍、平章事たり。ニ廣源州の儂智高、廣州に寇し、連歲、諸州を陷る。邕より廣西に宋-仁宗皇帝-当 十八史略卷之六七三二至るまで、皆、其害を被る。樞副狄靑に命じて、討つて、之を平らぐ還つて、樞密使となる。龐籍、罷む。陳執中、梁適、平章事たり。適罷む。劉流、之に代る。執中、罷む。文彥博、富弼、並に同平章事たり。士大夫、人を得るを相慶す。上曰く、人情、斯くの如し。豈に夢トに賢らずやと。上、嘗てくわん〓〓王素に問ふ、孰れか相と爲すべきと。素曰く、惟だ宦官宮妾、姓名を知らざる者、其選に充つべし。上、慨然として曰く、斯くの如くなれば、富弼のみと。契丹主宗眞、殂す。興宗と號す。子洪基、立つ。交趾の李德政、卒す。子日遵、立つ。劉流、罷む。文彥博、罷む。韓琦、平章事たり。富弼、罷む。王安石王安石、知制誥たり。安石、官を遷る每に、遜避して已まず。知制誥に至つて、復た官を辭せず。ら安石、嘗て花を賞し魚を釣るの宴{に侍し、誤つて釣餌を食ふ。既に悟るも、之を食ひ旣す。上、其不情にして非を遂ぐるを以て、之を惡む。安石、重名あり。キ、爭つて之に向ふ。惟だ、蘇洵、見ず、辨姦論を著し、亦た以爲へらく、人情に近からず、必ず大姦慝ならむと。き、割司馬光進三司馬光、諫院に知たり。三箚を進む。一に君德を論ず、三あり、曰く仁、曰く明、曰く武。二に臣を御するを論ず、曰く官に任ず、宋-仁宗皇帝-七三三 十八史略卷之六書曰く賞を信にす、曰く罰を必す。三に軍を揀ぶを論ず。又、五規を進む、曰く業を保す、曰く時を惜む、曰く謀を遠くす、曰く微をこ謹む、曰く、實を務むと。い策して、科人を制す。蘇軾、蘇轍を得たり。曾公亮、平章事たり。上在位四十二年、改元するもの九、天聖、明道は垂簾の政なり。お·のれ景祐以來は、政己より出づ。寶元、康定の間は西鄙多事。慶曆更めて化し、君子朝に滿つ。皇祐、至和、嘉祐に至つて、天下承平〓無事恭儉の德、人を愛し、物を恤むの心、卽位より升退に至るまで、終始一日の如し。遺制下る時、深山窮谷と雖も、奔走せざるな大く悲號して止む能はず。壽五十四。皇子立つ、之を英宗皇帝となす。【英宗皇帝】初名は宗實、濮の安懿王允讓の子、太宗の會孫なり。仁宗、立てて皇子となし、名を曙と賜ふ。仁宗崩ず、固く避くること數囘にして後に、位に卽く。憂疑を以て、疾を致す。慈聖光獻曹太后、權に政を聽く。上の擧措、或は常度を改め、宦者を遇する、尤も恩少し。左右、多く悅ばず、乃ち共に讒開をなす。兩宮遂に隙な宰相韓琦、を成す。參政歐陽修等の調護するに賴つて、上、旣に康ふ復して政を親らす。太后、簾を撤す。琦、一日、空頭の救を出す。修、旣に僉す、趙槩、未だ僉せず。修曰く、惟だ之に書せよ。韓公宋-英宗皇帝-臺 十八史略卷之六美必ず說あらむと。琦、政事堂に坐し、內侍任守忠を召して、庭下に立たしめて曰く、汝の罪、死に當すと。責めて、〓州に安置す。蓋し、兩宮を交鬭するの人なり。又、太濮王を崇奉する典禮を議す。執政、皇考と稱せむと欲す。后の詔を以て、上をして親と稱せしむ。司馬光、范鎭、呂誨范以て不鎭は輸林を純仁、呂大防、呂公著、交も論じて、可となす。議、竟に罷め、誨純仁、大防は言職を解き、公著は侍講を罷む。決せず。契丹、大遼と改號す。上、崩ず。在位四年。改元するもの一、曰く治平。年三十八。皇太子立つ、之を神宗皇帝となす。【神宗皇帝】名は項、母は宣仁聖烈皇后高氏、曹太后の甥なり。幼ごにして、英宗と同じく后の所に鞠はる。後に英宗の配となつて、項を生む。潁王より太子となり、尋いで、位に卽く濮議あつてより以來、言者、歐陽修を攻めて已まず、遂に罷む。韓琦亦た罷む。王安石、翰林學士となり入對す。首に術を擇ぶを以て言となし、言、必ず堯舜を稱す。富弼、同平章事たり。王安石、參政たり。安石、旣に政を執る。士太夫、素より、其名を重んず。以爲へらく、太平立どころに致す宋-英宗皇帝-神宗皇帝-七三七 十八史略卷之六七三八べしと。呂誨時に御史中丞たり、將に對せむとす。學士侍讀司馬光亦た將に經筵に詣らむとし、相遇うて並び行く。光密 に問新參ふ、今日言ふ所は何事ぞ。曰く、袖中の彈文は乃ち新參なり。光、愕然として曰く、衆人を得るを喜ぶ、奈何ぞ之を論ずるや、誨曰く君實亦た此言をなすか、安石、偏見を執り、人の己に佞するを喜ぶ、天下必ず其弊を受けむと。光、退いて、之を思へども、其說を得ず。縉紳の間其疏を傳ふる者あり、往往其太だ過ぎたるを疑大姦似忠大ふ。誨言ふ、大姦は忠に似たり、大詐は信に似たり、安石、外詐似信朴野を示し、中、巧詐を藏し、驕蹇、上を慢り、陰賊、物を害す、チと其十事を疏す。上、再び手詔を降して、誨を諭す。誨、之を論じて己まず。遂に誨を罷む。安石、建議して、始めて、三司の條例5正式です。司を置き、議して新法を行ふ。言ふ周、泉府の官を置いて、天下ですねぇいの財を變通す。後世、惟桑弘羊、劉晏、粗ぼ此意に合す。今、當中心力に呂惠卿りよけい〓〓に泉府の法を修め、以て利權を收むべしと。安石多く呂惠卿と謀る人、安石を號して孔子となし、惠卿を顏子となす。之より先、評示支は政をる否氣りの來る國權ざ當地南知說もをの治平中、邵雍客と天津橋上に散歩し、杜鵑の聲を聞いて、愁然樂な實年すば人らはば人らか、まず。客其故を問ふりも今す那四紛得亦の所史千亂れ雍曰く、洛陽、もと杜鵑なし。今、始めてす至る天下、將に治まらむとすれば地氣北よりして南し、將に亂れむとすれば、南よりして北す。今、南方地氣至る。禽鳥飛類は南蔣人介な石氣の先を得たるものなり。二年ならずして、上、南士を用ゐて相と宋-神宗皇帝-臺 十八史略卷之六七四〇なし、多く南人を引いて、專ら更變を務め、天下、之より多事なら靑苗法むと。是に至つて、雍の言、果して驗ありといふ安石、靑苗法を評香蕉雞腿行はむと欲す。以爲へらく、周官の國服爲息の法なりと。蘇轍曰く刀の集合は、純米比のする金を以て民に貸せば、吏、"緣つて姦をなし、錢、民の手に入れば、良民と雖も、妄に用ゆるを免れず。其錢を納るるに及びては、富民と雖も、違限を免れず。鞭筆必ず用ゆれば、州縣、煩に勝へざらむはと參政唐介、新法を爭論す。勝たず。疽背に發して卒す。時人生老病死苦生老病死苦の喩あり。安石を謂うて生となし、曾公亮を老となし、か、介は死し、富弼は議論合はず、病と稱す、參政趙抃、安石を如何ともするなく、惟だ苦苦と稱するのみ。安石、抃を折いて曰く、君が輩、書を讀まざるに坐するのみ。抃曰く、皐夔稷契、何の書をか讀むべきと。安石、亦た對ふる能はず。使を遣して、農田水利を察せしむ。義倉を罷む。に·均輸の法均輸の法を行ふ。·せんがい臺諫劉琦、錢顫、新法を議するを以て貶せらる。諫院范純仁、檢詳文字蘇轍、新法を議するを以て罷めらる。靑苗の法を行ふ、常平官を置く富弼罷む。陳升之、同平章事たり。升之、初め、安石に附く。旣に相として、頗る異同をなす。宋-神宗皇帝-七四一 十八史略卷之六1211,よはいしよろあらかじきふちうけんくわばい預買の法預買の法を行ふ。諸路をして豫め錢を給して紬絹を和買せしむ。てうべんやひかうな趙抃罷む。抃日に爲す所の事、夜は必ず香を焚いて天に〓ぐ。きよじんしんしまいえふそかふふくわい擧人を親試す。始めて策を用ゆ。葉祖治、新法に附會するを以てぬき擢んでて第一となす。いうぜいげんそんかくぎよしりかうていかう右正言孫覺、御史裏行程顥、新法を議するを以て罷む。ちうじようりよこうちよりかうちやうせん中丞呂公著、裏行張哉、新法を議するを以て罷む。だいりんていしとうけうかうちせいかうそうびんきうそしようてい定の詞頭を繳李定、裏行となる。知制誥宋敏求、蘇頌、李大臨、するを以て罷む。しやけいをんぎよしちざつ謝景溫、御史知雜となる。ちよくしくわんそでばんげんたてまつていしきたい直史館蘇轍、嘗て、萬言の書を上り、及び廷試策に對するに擬し、さからけいをん新法を議して、安石に作ふを以て、景溫に効せられて去る。とうわんりよさひやくしやうせいべうめんえき鄧縮、上書して言ふ、陛下、伊呂の佐を得たり、百姓、靑苗免役とうかぶしよおよしようらうしよけんぜい等の法を歌舞すと。又、安石に書及び頒を與ふ。中書檢正を置き.わんきやうじんせふばわんいは評縮を以て之を爲さしむ。な豈し之す笑笑ら第とを好屁罵す爲官にはるすは從佗〓人、皆、笑罵す。縮曰く笑罵は佗の笑罵ベ我かのまかかうくわんに從す。好官は、我、之を爲すべしとそうこうりようみ者の曾公亮、罷む。やせいくわさいりうたうちやうくわいこうぶんちうつとしんはふそし制科の人を策す。劉陶、張繪、孔文仲、力めて新法を詆る。皆、報じて罷む。はんちんしばしそしよくこうぶんちうす范鎭、數ば新法を議し、及び、嘗て蘇軾、孔文仲を薦めしを以て宋-神宗皇帝-雪 十八史略卷之六七四四罷めらる。乞うて致仕す。陳升之、罷む。韓絳、王安石、同平章事たり。保甲の法保甲の法を立つ。曾布、中書檢正となる。科擧の法を更め、詩賦明經の諸科を罷め、經義論を以て進士を策試す。司馬光、さきに學士より、樞副に除せらる。力辭して拜せず。數た、三不足の說ば、新法の害を言ふ。上、安石に喩して曰く、三不足の說を聞くや否や。曰く、聞かず。上曰く外人云ふ、朝廷以爲へらく、天變畏るるに足らず。人言恤ふるに足らず、祖宗の法守るに足らずと。昨さ、6)學士院、館職の策問を進む、專ら、この三事を指すと。策問は、光(の爲る所なり。光、屢ば外を請ひ、永興を得たり、許州に移る。上臣の不才、言すらく、最も群臣の下に出づ、先見は呂誨に如かず、公直は范純仁、程顥に如かず、敢言は蘇軾、孔文仲に如かず、勇決せいけいりうしゆぎよしは范鎭に如かずと。屢ば、西京留守御史臺に判たらむことを請ふ。ひ是に至つて、請を得。後、四たび任ぜられて、嵩山崇福宮に提擧たり。歐陽修、さきに靑州に知たり。擅に靑苗錢を給散するを止むるを以て、徒つて、蔡州に知たり。是に至つて、乞うて致仕す。か、富弼、さきに毫州に知たり。靑苗の法を格するに坐して、徒つて宋-神宗皇帝-小麺屋 十八史略卷之六七四六ぢよしうち汝州に知たり。ちうじやうやうくわいかうりうし中丞楊繪、裏行劉摯、新法を議するを以て罷めらる。さえきほえき募役の法差役を罷む。募役の法を行ふ。だいがくしや15-大學三舍の大學三舍の法を立つ。法しえき市易の法市易の法を行ふ。はうば保馬の法保馬の法を行ふ。はふでんきんぜいわか方田均稅の方田均稅の法を頒つ。法かろわうせうけいりやくあんぶとうしせう熙河路を置き、王韶を以て經略安撫等の使となす。之より先、韶へいじゆうさいたてまつせいかたひきはかくわう平戎の策を上る。謂ふ、西夏を平らげむと欲せば、當に河湟を復すらんぜんかんらうせいぐんとばんかく古渭ゐべし。今、の西、熙河蘭部、皆、漢の隴西等の郡なり。吐蕃唃へいいうじんいう厮囉の一族、この間に國す。宜しく、之を併有して、以て夏人の右たあんせきぼうかえき臂を絕つべしと。安石、以て奇謀となし、始めて熙河の役を開く。せうてうびんでうたうせいとういんこう上韶河洮、岷疊、宕等の州に克ち、又、靑唐咽喉の地に據る。へんこうますまとほざかえきへい邊堠益す斥り、役兵の死亡甚だ多し。ちうしよけんせいしやうじゆんこほくさつはうなんぼくこうばんしんしう中書檢正章惇、湖北に察訪す。始めて、議して、南北江蠻辰州けいせいなんぼくこうきんしうしきんやうかせつしやうを經制す。南北江は、乃ち古しへの錦州の地、施點牂牁に接す。章じゆんそちじゆんいばいざんばんえうせうゆ惇に命じて、措置せしむ。惇言ふ、梅山の蠻搖を招諭し、令して、こ·はぶなみなくわんげいそのじつさつりつしこうおほ戶を省くを作せば、皆歡迎せむと。其實は殺截し、浮屍江を蔽ふ。ししよしうらいけいぎきよくあんせきていきよりよけいけいおよあん詩、書周禮、三經義局を置く。安石、提擧たり、呂惠卿及び安せきこはうらけんたう石の子雪等、檢討たり。宋-神宗皇帝-市営 十八史略卷之六夷かとうほくせんせいりうみんきねいねん流熙寧七年、天、久しく雨ふらず。河の東北、きみんもつと陝西の流民、かんあんじやうもんてい皆、れて京城に入る。づ而して、じやうしよ京城の外、饑民尤も多し。なんせいほくばつ監安上門鄭しやうせうゑが勝捷の15.南征北伐、皆俠、畫いて圖となし、上書して曰く、陛下、てんかいうくさいしあひほづきたたてまついきほひ天下憂苦、妻子相保勢を以て、せんい圖を作して來り上る。くわう〓きふじやう一人として、なけんこんとん獻ずる者せず、遷移困頓、遑遑給せざるの狀を以て、圖を爲して、なんだあんじやうもんひなし。安上門、日を逐うて見る所、百一に及ばず、亦た涕を流すかんちよくげんいは直言をべし。況んや、千萬里の外をやと。時に、旱を以ての故に、とがじやううたがあんげんしや安求む。言者、皆、新法を咎む。上疑うて、之を罷めむと欲す。かんかうきちこうねいふはいせきよろこ安石、韓経を薦め石、悅ばず。去るを求む。しやう知江寧府に拜せらる。りよけいけいさんせいかうがうおのれ絳を號して、己に代つて、相となし、呂惠卿を參政となす。時に、はふしやもんけいけいはふぜんしんけいけいけんぎめんえきしゆつせんて傳法沙門となし、ひと惠卿を護法善神となす。ほしよ惠卿、しゆじつ建議す、免役出手實の法錢すでいきほひ均しからざるは、ま簿書の不善に出づと。手實の法を行ふ。惠卿あらかじそのみち旣に勢を得、ししよ安石の復た入るを恐れて、遂に逆め其途を閉ぢ、安石なかおよの私書を出すに、上をして知らしむる勿れ、の語あり。凡そ、以てあんせきがいそのちもちしばしかう安石を害すべき者、さからかんじよう其智を用ゐざる所なし。はくましやう又、數ば絳と忤ふ絳、あんせき間に乘じて、やふたゝ上に白し、復た安石を相とす。じきんれう安石、罷めて一年ならず、か再び入る。命を聞いて辭せず、かうけいけいあひつ金陵より、七日にして、闕下に至る。後數月、絳惠卿と相繼いで罷む。こは戶馬の法を行ふ。はんしやうしうかんきこうきてんしちうこう判相州韓琦、だんちへいあひだ薨ず。琦、天資忠厚、能く大事を斷ず。治平の閒宋-神宗皇帝-七四九 七五〇十八史略卷之六せいじしふけんてんことうちやうとせいちやうしゆしやう文學は西廳に首相となり、政事は集賢に問ひ、ろうるけつ典故は東廳に問ひ、しやうしうにんせいべう問ひ、大事は自ら之を決す。出てで相州に判たり。初め、靑苗の不評給じる之 法法り靑をち行朝と靑韓所爲す臣散命す議す苗琦してやを而をよしたがさんきふはんしんたいまさてうてい藩臣の體、當便を言ふ。朝廷、從はず。卽ち命じて散給して曰く、之卽强も非きやうぐんをはぎよせい强行に是の如くなるべしと。〓郡に在ること、八年にして終る。御製のりやうてうこめいていさくげんくんのひ碑に曰く、兩朝顧命定策元勳之碑と。ざ人をての示藩のり得常體されうししばしかんしんかとう遼使、屢るなし韓纖に命じ、河東に如いて、とうヘン地を割かしむ。じゆうるゐぞうしう之より先、ほしやば至つて言ふ、うつおうさく河東は邊に沿うて成壘を增修し、しうかいしんにふきてつ舗舎を起して、かかいしの國の蔚應朔の州界に侵入す、乞ふ毀撤を行ひ、別に界至を立てむてうていかうらいまねかたせいざん;けだれうじん西山に楡柳を植と蓋し、遼人、朝廷の高麗を招き、熙河を建て、かほくじやうちきづとさくゐんはじきふたうしんやうはうかう弓刀の新樣をゑる、保甲を創め、河北の城地を築き、都作院を創め、かいほくえん降し、ち界北の三十七將を置くを見て、かいあらそ燕を復するの意あるを疑ひ、おううたが故に地界を爭ふを以て名となし、あんせきだん朝廷の應ずる所以を觀る。安石、しばら之を斷じて曰く、將に之を取らむと欲すれば必ず姑く之を與ふと。あたとうざいちうしな東西地を失ふこと七百里。あんせきふたゝしやうしばししや及をての安はうし郵安石再び相たること二年こす濟會法つ者じ十家は王業前り合經社新立ぶ通二大石屢ば病を謝す。子雪死す、去るを求む四と法朝し制つとますまいと尤も力む。こうねいふること、上、益す、はん其爲す所を厭ひ、出して江寧府に判之所しにまあんせきたらしめ、遂に復た用ゐられず。せんわうるな安石の事を用ゐしより、立ちるまな終わただんもつばくわんしやうせいふきやう口に先王政亦を談じて、こゝろざしそのよくな專ら管商ゆえんの政を行ひ、お上の富强の志あるを知つて、其欲を濟す所以を思ふ。きさせうじんくんし謂へらく、まも法を立つるには、當に小人を用そのこのりゐて後に、君子を以て之を守らしむべしと。さと業其是理なきを悟らざる宋-神宗皇帝-書 十八史略卷之六七五二てんかさうぜんくにいまかつへんびことしやういたづら天下騒然として、國未だ嘗て富まず。邊鄙事を生じ、徒に多馬ず雅行且最多としてをばてして權氏·と精見なり。れ德司せり專く德數人然い妙れしと精13はいつよせいひちいすゑちうがくするしうく喪敗して、國未だ嘗て强からず。西鄙は、治平の末、仲諤、綏州かじんおこはうふく以さのれ耐あ斷して權其を取りしより、夏人、卽ち兵を興して、報復せむと欲すかわうりやうそしゆつこいじやうたにふかうあんせきわうせうきか夏王諒祚卒す。子秉常立つ。大に入寇す。安石、王韶、熙河を取所壓公之忍弊獨さくいたづらうらみせいはんかまきしやうらしばしかうくわんるの策を用ゆと雖も、徒に怨を西蕃に構へて、鬼章等屢ば寇患これせいかせいをなすを致し、初めより、此を以て、西夏を制する能はず。用ゆるるに溫ちんきまたきんりた望りうい所の沈起、劉舞、又景を南方に生ず。なかうしりじつじゆんけんとくいあひつけいしう交趾の李日遵、卒す。子乾德、立つ。起舞、相繼いで、桂州に知どていあつはうかうかいひんしうしすゐたり。土丁を集めて、保甲となし、海濱に於て、舟師を集めて、水せんしうけんかうじんぼうえききんしたいきよにふかう戰を〓へ、州縣、交人と貿易するを禁止す。交人、大擧して入寇し、いうしうかニさんれんおとしいせいげんちうごくせいべうじよえき邑州を圍み、欽廉を陷る。聲言すらく、中國、靑苗助役の法を作くるしあひすくあんせきてうせつつて、以て民を困む、兵を出して、相救はむと。安石、怒り、趙高へいくわあんせき等を遣して、之を討たしむ。官軍死する者。十に六。兵禍、安石のいたごじうわうけいあんせきしやう去るに訖るまで、未だ已まず。吳充、王珪、安石に繼いで相となる。드しばしひべんあんせき充、さきに政府に在り、數ば政事の非便を言ふ。既にして、安石にさいかくとうじゆんほら代る。蔡確、鄧潤甫等、共に之を攻むるも、去らしむる能はず。げんほうぐわんねんちしうそしよくくわうしうあんちちうじようりてい蘇東坡黃州元豐元年知湖州蘇軾を黄州に安置す。之より先、、中丞李定言に安置せらしよくねいくんぷゑんばうじよだんしよく軾じるふ熙寧より以來、君父を怨謗すと。舒亶も亦た言ふ、軾時じせんほんはつたすか事を議す。陛下、錢本を發して以て貧民を業くれば、曰く羸ち得じどうごいんよねんきやうはんじやうちうめいはふもつぐんりたり兒童語音の好き、一年强半は城中に在りと。明法以て群吏を宋-神宗皇帝-七五三 十八史略卷之六七五四どくしよまんくわんりつよきみげうしゆんいた課試すれば、曰く、讀書萬卷律を讀まず、君を堯舜に致す、終じゆつすゐりおことうかいめいしゆに術なしと。水利を興せば、曰く、東海もし明主の意を知らば、さうでんんんえんきんつゝしあ斥鹵をして桑田に變ぜしむべしと。鹽禁を謹めば、曰く、豈に是れせうあちわすかいじらいつきしよくそのた詔を聞いて味を忘るるを解せむや、通來三月食に鹽なしと其他きばうしゆしよく物に觸れ、事に卽いて、譏謗を以て、主となさざるなしと。乃ち軾おぎよしミつなていちやうさうすゐちわうさいを追うて、御史の獄に繋ぎ、定と張操とに命じて推治せしむ。王珪ふしんいくわいしあきうせんきよく言ふ、軾不臣の意ありと軾の檜の詩を擧ぐ。根は九泉に到つて曲しよせけんたちつりうひりうてんぎよ處なし、世間惟だ蟄龍の知るありと。陛下、飛龍天に御す。然るにしよくかれちかちつりうふしん軾彼は之を地下の蟄龍に求む、不臣に非ずして何ぞ。上曰く、彼くわいえいちんあづかつみ自ら檜を詠ず、何ぞ朕の事に預らむと。上、もと軾を罪するに意なごじう-わうあんれいごくなし。吳充、王安禮、皆、上に勸めて、之を容るさしむ。獄成つて、このめいおとうとてつしよくざへんしあんざ是命あり。弟轍、亦た軾を救ふに坐して貶せらる。軾の詩案に坐ちゆつはつちやうはうへいしばくわういかじつして、黜罰せらるる者、張方平司馬光以下、二十二人。上實にあはれぢよしううつまさいかくちやうさうら軾を憐む。尋いで、汝州に移し、復た用ゐむとす。蔡確、張璪等のはじ爲に沮まる。ごじうや吳充、罷む。月を踰えて卒す。げんほうぐわんねんくわんめいたじへいしやうじあらた元豐元年大に官名を正し、元豊五年、官制成る。平章事を改めいうぼくやわうけいさいかくさんちせいじもんかて、左右僕射となし、王珪、蔡確を以て之となし、參知政事を門下ちうしよじらうしやうじゆんちやうさうせうしよさいうじよう中書侍郞となし、ほそう章惇、張璪を之となし、尙書左右丞を置き、蒲宗3)わうあんれいとうりやうちうしよむね孟王安禮を之となす。三省を以て、百議を統領し、中書、旨を取宋-神宗皇帝-七五五 十八史略卷之六〓もんかふくそうせうしよしかうしやうさい三旨宰相り、門下、覆奏し、尙書、施行す。珪相となる。人、之を三旨宰しやうたせいし相といふ。凡そ、事、惟だ聖旨を取るといひ、聖旨を得れば聖旨をりやうしりぞしよそう領すといひ、退いて之を書すれば聖旨を奏すといふのみ。上、之をいとかくいれいぶ厭ふ。確珪に謂つて曰く、上、久しく靈武を取らむと欲す、公、せめにんしやうゐたもけよろこ能く責に任ずれば、相位保つべきなりと。珪、喜んで、其言の如くないじけんかテうれいしうせし、內侍李憲に命じ、道を分つて、夏國を伐ち、靈州を攻むれどもかしそつしとうすいけんさいきよ克たず。士卒死し、及び凍餒する者、十に五六。憲再擧の議を上ぢよきまたしようらくしんじやうきづかじんたいきよる。徐禧、又承樂の新城を築くを議す。夏人、大擧して城を攻む。きらはんかんぐわんおよしよぐんそう城陷る。禧等、蕃漢官及び諸軍、死する者萬三千。上、奏を聞いどうこくて働哭す。富强遺表をふひつる)たてまつちうかんとぜつてんゆひしん富弼すこうり上る遺表を上る。言ふ、忠諫杜絕、諧諛日に進み、興利の臣、うらみをさまたいせいじおほいうれ國の爲に怨を歛むのぞせいねん又言ふ西事大に憂ふべし、望むらくは聖念をこひつこうほGriftいてきれうしいた留めよと。ごと弼早く公輔の望あり、名、夷狄に聞こゆ。遼使至る毎そのしゆつしよあんびちうぎいよいあつ必ず其出處安否を問ふ。かきよきしばらくに、てうてい忠義の性老いて彌よ篤くこう家居一紀、斯須も朝廷を忘れず。是に至つて薨ずさいしやうたいじやうじんさいたんほそうまういは宰相同じく對す。上、人材なきの歎あり。蒲宗孟曰く、人材、なかばしばくわうじやせつやぶみ半は司馬光の邪說に壞らると。そうまう上、語らず宗孟を視ること、之ばくわう評に久しうして曰く、とてし通司い千文鑑馬ふ載献の光べ不と著資蒲宗孟は乃ち司馬光を取らざるかと。宗孟、尋し滅し盖治しちつうかんなはじのいで罷む。司馬光の資治通鑑成る。そくゐかつぎよせい上、卽位の初、旣に嘗て御製じよげんほうねんしよたてまつくわんせいの序あり元豐七年に至つて、書始めて上る。初め、官制將に未-神宗皇帝-七五七 十八史略卷之六美ナ行はれむとす。上、新舊人を取つて、兩つながら、之を用ゐむと欲す。曰く、御史大夫は司馬光に非ざれば不可なり蔡確曰く、國是흔二方に定まる。願はくは、少しく之を遲てと。旣にして上疾あり。又曰く、來春、儲を建つれば、當に司馬光、呂公著を以て師保となすべしと。公著は、夷簡の子なり。上、在位十八年。改元するもの二、曰く、熙寧、元豐。精を勵まし。治を求め、日昃、食に暇あらず。平生、〓遊を御せず、宮室を治めず、惟れ勤、惟れ儉、將に以て大に爲すあらむとするなり。奈何せん、熙寧以來安石に誤られ、元豐以後、事を用ゆる者、終始、皆、安石の黨、竟に天下の患となる。北狄の倔强を憤つて、慨然として、幽燕を恢復するの志あり、先づ靈夏を取り、西羌を滅し、乃ち北伐を圖らむと欲す。安南律を失ふに及びて、喟然として、赤子罪なくして死するを歎じ、永樂の敗益す用兵の難を知り、初めて、征伐を念ふを息め、卒に一事意の如くなるなし。崩ず。年三十八。皇太子立つ、之を哲宗皇帝となす。宋-神宗皇帝-七五九 評譯十八史略卷之七宋えんあんぐんわうしんそうたいぜん【哲宗皇帝】名は煦、初め、延安郡王たり神宗大漸、立つて太子さいかくしやじんけいじよかうこうくわいむかとなる。之より先、蔡確舍人邢恕を遣して、高公繪を邀へ太后はくちうえうきかけんわうに白せしめむと欲す。言ふ、延安は沖幼、岐嘉、皆賢王なりと。こうくわいおそわざわひすみやか公繪、懼れて曰く、公、吾が家に禍せむと欲するが亟に去れと。じよくわしんはうぞうかいいたいこうわうけいへうりえんあん恕禍心を包藏し、反つて謂ふ、太后、王珪と表裏し、延安を捨てー)おのれおよしやうじゆんさいかくよて、子顎を立てむと欲し、己及び章惇、蔡確に賴つて變なきを得宋-哲宗皇帝-夫 十八史略卷之七基たりと。且つ其說を士大夫の間に播く。神宗、崩じて、太子位に卽太皇太后新く始めて十歲。太皇太后、同じく政を聽く。熙寧中、太后、旣法を廢止すに嘗て流涕して、神宗の爲に言ふ、安石の變法便ならずと。既に、簾を垂れて、天下厭苦すること日久しきを知り、首として、東京の戶馬を罷め、京の東西路の保馬を罷め、京の東西の物貨場を罷め、bo諸州鎭寨市易の抵當を罷め、汁河堤岸司の地課、放市易、常平免役の息錢を罷め、在京免行錢を罷め、提擧、保甲、錢粮、巡〓等の官を罷め、方田等を罷む。皆、中より出で、大臣は與らず。王珪卒す。蔡確、韓鎭、左右僕射となり、章惇、樞密院に知た50司馬光、門下侍郞たり。光、洛に居ること十五年、兒童走卒も皆司馬君實を知る。神宗升遐、闕に赴いて入つて臨むや、衞士望見し、手を以て額に加へて曰く、司馬相公なりと。爭つて、馬首を擁して呼んで曰く、公、洛に歸る勿れ。留まつて天子に相として、百姓を活かせと。所在數千人、之を聚觀す。光、懼れて洛に歸る。旣にして、召されて執政となる。か、程子卒す河南の程顎、この歳を以つて卒す。顯字は伯淳弟 頭、字は周惇頤字茂叔正叔兄弟、皆濂溪の周惇頤に從つて學を受く。惇頤、字は茂叔、博學力行、道を聞くこと早く、事に遇うて剛果、古人の風あり。政(みがを爲すこと嚴恕、務めて理を盡し、名節を以て自ら礪く。雅より高趣あり、聰前の草を除かず、曰く、自家の意思と一般なりと。黃庭宋-哲宗皇帝-七六三 十八史略卷之七大君けんそのじんびんけうちうしやらくくわうふうせいげつたいきよく光風霽月堅、稱す、其人品、甚だ高く、胸中洒落、光風霽月の如しと。太極つうしよかつちう圖、通書あり、世に行はる。顎頤初め之に從ふ。首として、仲じがんしたのしたづ尼、顏子、樂む所は、何事なるかを尋ねしむ。學成る。各、斯文をおのれにんかうめいいじやういやし以て己の任となす。題、嘗て言ふ、一命以上、苟くも心を物を愛すなねいちうしんはふあるに存すれば、人に於て、必ず濟す所あらむと、熙寧中、新法合はすゐたくさざるを以て、國を去る。神宗、嘗て人才を推擇せしむ。薦むる所、へうしゆくちやうさいおとうといしゆぶんげんはく數十人、表叔張載と弟頤とを以て首となす。其死するや、文彥博しうろんそのはかへめいだうせんせいおとうとい衆論を採り、其墓に表して明道先生といひ、而して、弟頤、之がじよ(しうこうぼつせいじんまうしし序を爲つて曰く、周公沒して、聖人の道、行はれず。孟子死して、つたひやくせいぜんちがくつた聖人の學傳はらず。道行はれざれば、百世善治なく、學傳はらさいしんじゆざれば、千載眞儒なし。善治なくとも、士、尙ほ、かの善治の道を明ひとしゆくのちしんじゆかにして之を人に淑し、以て之を後に傳ふるを得。眞儒なければ、てんかばうばうえんじんよくほしひまゝてんりめつ天下貿貿焉として之く所なく、人欲肆にして天理滅せむ先生、のちうでんから、ゐけいいたんべんじやせつ千四百年の後に生まれ、不傳の學を遺經に得、異端を辨じ、邪說をまけだまうし息め、聖人の道をして、復た世に明かならしむ。蓋し、孟子の後よみちり一人のみと。頤、嘗て、人に語る。吾の道を知らむと欲せば、こじよみかちやうさいあざなしこう張載字子厚の序を觀て可なりと。張載、字は子厚。初め、學ばざる所なし。のちていこと〓〓すかうとうめいせいめい後、二程の言を聞いて、乃ち盡く其學を棄てて講ず。東銘、西銘、せいまうりくつわうきよせんせいきよう正蒙、理窟等の書あり、世に行はる。人、之を橫渠先生といふ。共邵雍號康節じやうせうようげうふかなんていようもてあそ先生城の邵雍、字は堯夫、河南に居り、二程と友たり。雍の學心を玩宋-哲宗皇帝-七六五 十八史略卷之七奏ぶこと高明にして、天地の變化、陰陽の消長を觀、以て萬物の變に達し、物數に精しく、推して中らざるなし。顎嘗て、考試院に在り其數を以て之を推し、出でて雍に謂つて曰く、堯夫の數は、只で雍、其聰明を歎ず。雍、數學を以て二程にだ是れ加一倍の法なりと。傳へむと欲す。二程、受けず。邢恕、受けむと欲す。雍、許さずして曰く、徒に姦雄を長ずと。雍に皇極經世書十二卷、擊壞集歌あり。世に傳ふ。人、之を康節先生といふ富弼、司馬光等、皆深く之を敬重す。宋は、歐陽修、古文を以て天下に唱へしより文章大に變ずと雖も、然も、儒者義理の學は、周程出づるに至つて、然る後に明かなり。雍、惇頤、載皆、神宗の世に歿す。是に至つて、顎、又歿し、惟だ頤のみあり。學者之を宗とし、伊川先生といふ。元祐元年、蔡確、罷む、確章惇、邢恕と相交結す。恕、往來、語言を傳送し、自ら定策の功ありといふ。言官王覿惇確及び韓縝張璪の朋邪を極言し、劉摯、朱光庭蘇轍、數十疏を累ねて、論効す。確先づ黜けらる。司馬光を以て、左僕射となす。時に、王安石、旣に病む。其弟邸吏の狀を以て之に示す。安石曰く、司馬十二、相となると。悵然之を久しうす。議者、或は謂ふ、三年、父の道を改むるなし。新法、しばらく稍や、其甚しき者を損じて足らむと。光、慨然、之を爭つて曰く、先帝の法、善きものは、百世と雖も變ずべからず、安石、·惠卿等の建つる所の如き、天下の宋-哲宗皇帝-七六七 十八史略卷之七奏1害を爲し、先帝の本意に非ざるものは、當に焚を救ひ、溺を拯ふが如くなるべく、猶ほ及ばざるを恐る、況んや、太皇太后、母を以て子を改む、子、父を改むに非ざるをやと。衆議乃ち定まる。或ひと、光に謂つて曰く、章惇、呂惠卿の輩、他日、父子の議を以て、上に聞するあらば、朋黨の禍作らむと。光、起立拱手し、属聲して曰く.天、若し宋に祚すれば、必ず此事なからむと。安石、朝廷、其法を變ずるを聞く毎に、夷然として以て意となさず。助役を罷め、는差役を復するを聞くに及びて、愕然失聲して曰く、亦た罷めて此に至れるかと。良や久しうして曰く、この法、終に罷むべからず。安石、先帝と之を議する二年にして、乃ち行ふ、曲盡せざるなしと。章惇、韓鎭、罷む。王安石卒す王安石、卒す。安石、金陵に在つて、常に福建子と獨語す。惠卿を恨んでなり。惠卿、安石に叛く。唯だ章惇のみは、終始叛かず。安石、又常に曰く、新法の行はるるや、始終以て行ふべしとなす者始終以て不可となす者は曾子宣なり。は司馬君實なりと。呂公著、右僕射たり。文彥博、軍國重事たり程頤、崇政殿說書たり。蘇軾、翰林學士たり。呂惠卿鄧縮等を竄貶す。司馬光薨ず司馬光、相となつて八閱月にして薨ず太皇太后、之を哭して働す。上亦た感涕して己まず。太師溫國公を贈り、文正と證す。光、位に在るや、遼人、夏人の使來る時、必ず光の起居を問ふ。而宋-哲宗皇帝-奏 十八史略卷之七118して、遼人、其邊吏に敕して曰く、中國、司馬を相とす、切に事を生じて邊隙を開く勿れと。卒するに及びて、京師の民、市を罷め、其像を畫し、印して之を鬻ぎ、畫工富を致す者あり、葬るに及びて四方來會する者、之を哭して、其親戚を哭するが如し。光、嘗て、評支司る文公く玲其望に那馬ゝ正を眞職人家見四溫に玉となる千公は晁無各に語つて曰く、吾、人に過ぎたるなし、惟だ平生爲す所、未の年德稀りだ嘗て人に對して言ふべからざるものあらざるのみと。劉安世、光爲り溫の國如に一言以て終身之を行ふべきものを問ふ。光曰く、それ誠かと。安諸勝れにと贈ら世、其從つて入る所を問ふ。曰く、妄語せざるより入ると。諡足、勇に夫はる蘇軾程頤、同じく經筵に在り、軾諧謔を喜ぶ、而して、頤は邪智正たず嘲侮す。禮法を以て自ら持す。軾毎に之を光の薨ずるや、百官、頤かしている方に慶禮あり、事畢つて、往いて弔はむと欲す。可かずして曰を安徽義今たして能王通古克、く子、この日に於て哭すれば歌はず。或は曰く、歌へば哭せずとを安いはず。軾曰く、是れ枉死市の叔孫通、この禮を制するなりと。溫公な得るざなし宜頤、怒る。二人、遂に隙を成す。門人朱光庭賈易、言官たり、力めて軾を攻む。傅堯兪、王巖叟、呂陶等、相繼いで論列す。堯兪、巖叟は光庭を右け、陶は軾を右く。この時、元豐の大臣、散地に退さき、皆、怨を衡んで、骨に入り、陰に間隙を伺ふ。諸賢悟らず方に自ら黨を分つて相攻む。洛黨、川黨、朔黨あり。洛黨は、頤を以て領袖となし、光庭、易、羽翼たり。川黨は、軾を以て領袖となし、陶等羽翼たり。朔黨は、劉摯、王巖叟、劉安世を以て領袖と宋-哲宗皇帝-七 十八史略卷之七基おほいくばく5やまめなして、羽翼尤も衆し。未だ幾ならずして、頤罷めて復た召されしよくず。之を久しうして、軾亦た罷め、後、再び入り、三たび入り、ひさ皆、久しからずして出づ。りよこうちよしくうどうへいしやうぐんこくじりよたいばうはんじゆんじんさいうぼくや呂公著、司空同平章軍國事となり、呂大防、范純仁、左右僕射たじゆんじんちうえんっり純仁は、仲淹の子なり。公著、尋いで薨ず。ちかんやうぐんごしよこうさいかくあんしうてきかちうしや知漢陽軍吳處厚、言ふ。蔡確、安州に謫せらるるの日、夏中、車がいていのぼだいかんきせんかくしん蓋亭に登るの詩を作つて、臺諫を議訓すと。確を論じて已まず。新しうあんちりよたいばうりうしはんじゆんじんわうそんらおよろ州に安置す。呂大防、劉摯、范純仁、王存等以爲へらく、宜してれいすしちみちけいきよく嶺を過ぎて、死地に置かしむべからずと。純仁曰く、この路〓棘いかんわがさうまさまぬかおそ八十年、奈何ぞ之を開かむ。吾曹、政に免れざるを恐るるのみと。あらそだいかんかうしやうかくたう之を爭へども、得ず。臺諫、交章して、純仁の確に黨するを攻む。りうしうRTげんほう純仁、遂に罷む。劉摯、右僕射となる。大防、摯、元豐の黨人を引きうゑんてうていてつらつといて、以て舊怨を平らげむと欲す。之を調停といふ。蘇轍等、力め其不可を陳す。そのちんしやそしよううぼくやじゆんじんて、摯、罷む。蘇頌、右僕射たり。頌罷む。純仁、又、之に代る。ざんいうねんぐわつせんじんせいれつたいくわうたいごうほうのぞたい元祐八年九月宣仁聖烈太皇太后崩ず。崩ずるに臨み、上に對したいばうじゆんじんらいらうしんぼつごかならくわんかてうぎて、大防、純仁等に謂つて曰く、老身歿後、必ず官家を調戯する者よろきこうらしりぞあらむ。宜しく、之を聽くなかるべし。公等、亦た宜しく早く退くくわんかさいうべし。官家をして、別に一番の人を用ゐしめよと。左右を呼んで問しやはんたまこうらおの〓〓さふ、嘗て、社飯を賜ひ、出すや否やと。因つて曰く、公等各去つて宋-哲宗皇帝-書 十八史略卷之七七七四ししやはんきつめうねんしやはんらうしんしりやうこうまつりごと一匙の社飯を喫し、明年社飯の時、老身を思量せよと。后、政をてんかしようぢよちうげうしゆんぐわいかひしくん聽くこと九年、天下稱して女中の堯舜となし、外家に比せず。嗣君ようさうとし13を擁佐するの故を以て、二子一女、皆、疎んぜらる至公を以て、ぎよけんじやことんてうあつせいこうせいけい天下を御し、當世の賢者、畢く朝に集まる。君子の盛、後世、慶れきげんいうへいしやうしんそういときうそく曆、元祐を以て並稱す。神宗、兵を厭ふの後を承けて民と休息す。せいばんきしやうへんしやうきんけんゆるちうぞのぶぞく西蕃の鬼章、邊將の爲に擒獻せらる。釋して誅せず、以て其部屬をかミそのしゆへいじやうしゆつけんじゆんたせいみだしゆえうしばし招く。夏國、其主乗常卒し、乾順立つてより、政亂れ、主幼、屢へんかうはんしんきやうしんこれそのくんみんつみば邊に寇して、藩臣の禮を失ふ、皆、强臣之を爲し、其君民罪あるしだたうばつしのしよろに非ざるを以て、師を興して討伐するに忍びず、諸路に詔し、兵をげんそな嚴にして、自ら備ふるのみ。みづかにらうやうゐしゆりよたいぼうそむ上、始めて政を親らす。侍郞揚畏、首として、呂大防に叛き、自あとげんいうほうにふたいしやうじゆんら謂ふ。迹は元祐と雖も、心は熙豊に在りと。入對して、章惇を召章惇復活せうせいたいばうじゆんうぼくやさむことを乞ふ。明年、紹聖と改元す。大防、罷む惇右僕射たじゆんじんちんくわんあじゆんり。純仁、罷む。惇の來るや、道にして陳瓘に遇ふ惇素より、ことせいむ其名を聞く、獨り、共に載らむことを請ひ、訪ふに世務を以てす。くわんいはたとへへんちやう瓘曰く、請ふ、乘る所の舟を以て喩となさむ。偏重なれば、其れ行そのへんじゆんもくぜんるべけむや。或は左し或は右す。其偏は一なりと、惇默然たり。ひさしばくわうかんじやまさんくわん良や久しうして曰く、司馬光の姦邪、當に先づ辨すべき所なり。瓘いはしやうこうあやましうせいたひらうつ曰く、相公、誤れり。是れ猶ほ舟勢を平かにせむと欲して、左を移はたまさのぞみうしなし以て右に置くなり。果して然ちば將に天下の望を失はむとすと。宋-哲宗皇帝-七七五 十八史略卷之七美じゆんぜんことくきほうさげんいうち惇旣に至る。漸を以て、盡く熙豐の法を復し、元祐の人の罪を治きよじつしばくわうりよこうちよわうがんさうてうせんかんゐそんこはんする、虛日なし。司馬光、呂公著、王巖叟、趙瞻、韓維、孫固、范びやくろくそうゆしはかうらみなつひへんう)うば百祿、胡宗愈、司馬康等、旣に死する者は、皆追貶して贈を奪ひ、りよたいばうりうしそてつれうたうはんじゆんじんりうほうせいかんゐわうてきかんせん呂大防、劉摯、蘇轍、梁燾、范純仁、劉奉世、韓維、王覿、韓川、そんしやうりよたうはんじゆんれいてうくんしやくはちく りんはんじゆんすゐこうぶちうわうきん孫升、呂陶、范純禮、趙君錫、馬默、顧臨、范純粹、孔武仲、王欽しんりよきてつりよきじゆんえうめんごあんしわうひんちやうらいてうほしくわうてい臣、呂希哲、呂希純、姚動、吳安詩、王份、張耒晁補之、黄庭けんかえきていいしんくわんしゆくわうていそんかくてうせつしじゆんそ堅、賈易、程頤、秦觀、朱光庭、孫覺、趙高、李之純、李固、蘇しよくはんそうりうあんせいていけふらへんざんぶんげんはくひさ軾范祖禹、劉安世、鄭俠等、皆しきりに貶竄せらる。文彥博、久ちしたいしたいほせつえつくわうごうまうししく致仕す、降して、太子太保となし、節鉞を罷む。皇后孟氏は、せんへいちうぐうはいしやう太皇太后の選聘する所なり。中宮に居ること五年にして廢す。章じゆんさいべんつひはたいこうかうしにいひしゆし惇蔡卞、太皇太后を追廢せむことを請ふ。太后向氏、太妃朱氏のいきさとじゆんべんかたしかう泣いて諫むるに賴つて、上、悟る。惇〓、堅く施行を請ふ。上、けいらちんえいそうべうていそのそう怒つて曰く、卿等、朕が英宗の廟庭に入るを欲せざるかと。其奏をなげう地に抵つ。けんひりうしうぜいげんすうかうさくれいつひていめい賢妃劉氏を立てて后となす。右正言鄒浩、册禮を追停し、別に名ぞくえらかうのぞろくていしんしう族を選ばむことを乞ふ。詔して、浩は名を除き、勒停して新州に覊くわんみちそのともでんくわくすわかれのぞなみだくわく管す。浩、道に、其友田畫を過ぎ、·別に臨んで涕を出す。晝色をたゞいんもくかんしつ正しうして曰く、君をして、隱默して京師に宦たらしむるも、寒疾ああぜひとれいかいほかに遇うて、汗せざれば、五日に死せむ。豈に獨り嶺海の外のみ、能みづかはじまきく人を死せしめむや。願はくは、自ら沮む勿れ。士の當に爲すべき宋-哲宗皇帝-毛 十八史略卷之七夫所のもの、未だ此に止まらざるなりと。元符三年、上崩ず。在位十五年、改元するもの三。壽二十五。皇弟立つ。之を徽宗皇帝となす。【徽宗皇帝】名は佶、神宗の第十一子なり。初め端王に封ぜらる。哲宗、崩ず。欽聖憲肅皇太后向氏、宰執を召して、嗣を立てむことを議す。后、端王を立てむと欲す。章惇曰く、端王は浪子のみと。曾布、身長し。望み見れば、端王、旣に簾下に在り。叱して曰く章惇、太后の處分を聽けと。王、簾を出づ。惇、惶恐して措を失す。王、位に卽く、太后に請うて、權に同じく軍國の事を處分せしむ。范純仁等、二十餘人、並に收敍せらる。襲夫陳瓘、鄒浩、臺諫となる。韓忠彥、右僕射となる。琦の子なり。文彥博、司馬光等、三十三人の官を追復す。太后、簾を垂れて。半年にして、政を還す。章惇罷む。尋いで、竄せらる。韓忠彥、曾布、左右僕射たり。邢恕を貶す。蔡京、蔡下を貶す。下は、安石の婿なり。之より先、臺諫陳瓘任伯雨等、下を攻めて、其執政を罷む。京翰林承旨となる。瓘其日を視て瞬せざるを見て謂ふ、この人、必ず大に貴からむ、然れ宋-徵宗皇帝-七八九 十八史略卷之七さんそのくせいしんあへたいやうかうども、其區區たる精神を以て、敢て太陽に抗す他日志を得ば、必うれひくわんい人を射ば先ず天下の患をなさむと。瓘、人に語つて曰く、人を射ば先づ馬を射づ馬を射よぞくとりこわうとりこれんそせよ、賊を擒にせば先づ王を擒にせよと。連疏して之を攻むること、はなはつとけいぎよしちんじしやうらべん甚だ力む。京罷む。尋いで、又、御史陳次升等の言を以て、下とへん共に貶す。じやういもつほきほうせうじゆつそうふすこ上の意、專ら熙豐の政を紹述せむと欲す。而して、曾布は、微しほうげんいうりやうそんけんちうせいこくほく.熙豐、元祐を兩存するの意あり。故に建中靖國の初、嘗て、略しやうじゆんさいべんへんむねむかせいぼ章惇、蔡下の爲せし所を變ず。旣にして、布、上の旨を迎ふ。正じん·はくうこうこうばうちんくわんらてういせうじんおの〓たう人任伯雨、江公望、陳瓘等、朝に容れられず、小人各黨ありと雖かうてつしゆつにふいかうも、更迭出入、意向は同じく安石を祖とするのみ。れうしゆこうきそだうそうがうえんきてんそ殂す。道宗と號す。一〇年在遼主弘基、打女〇五西任遼紀四の至自十道一六宗孫延禧、立つ。天祚と號す。ぢよしんあだたちよしんほんみやうしゆりしんしゆくしんゐしゆぼつかい四一女眞の阿骨打立つ。女眞は、本名朱里眞、肅愼の遺種にして渤海べつぞくどしんかんいはいうろう立眞つの阿骨げんぎの別族なり。いは或は曰く、こつきつたう本姓は拏、にこくすゐまつかつ辰韓の後、三國に謂ゆる把婁元魏に謂ゆる勿吉、唐に謂ゆる黑水靺鞨なるもの、其地なりと。七ぶらくあひすたいちうしやうふた十二の部落あり。もと相統べず、太中祥符より以後、絕えて中國とせいぢよしんそのるゐなしげそのしうがんはん通ぜず。生女眞といふ者あり、其類猶ほ繁し。其曾を巖版といふ。まいやうかたいしゆうやうくわつ孫あり、楊哥太師といふ。遂に諸部に雄たり。或は曰く、楊割の先しらぎくわんがんしちよしんめあは新羅の人、完顏氏。女眞、之に妻はすに女を以てし、子二人を生らいつたやうくわつあくだむ。長を胡來といひ、三人に傳へて、楊割に至る。阿骨打は、其子ちんきたいしなりと。人と爲り、沈毅にして、大志あり。宋-徴宗皇帝-大 十八史略卷之七七八二建中靖國、一年にして、崇寧と改む。韓忠彥、罷む。再び司馬光等の官を追奪し、元祐の黨人を籍す。蔡京相とな曾布、罷む。蔡京、相となり。蔡下、政を執る。再び元祐の人をり太師とな貶竄し、姦黨の碑を立つ。京、崇寧に僕射となつてより、大觀、政 和重和を歷て、太師となる。嘗て、暫く罷められしも、輒ち復た入り、罷めらるるの日と雖も、實に國命を執る。其間、趙挺之、張商英相となり、嘗て、京と異なり。然れども位に在ること、各數月に過ぎず、或は一年にして罷む。何執中、鄭居中、劉正夫、余深の如きは、相位に在ること、或は久しく、或は淺く、居中、亦た京とけ異にして常に相排し、正夫亦た小異なりと雖も、然れども、京の權う寵に於て、損ずるなきなり。京の子攸の婦、宮禁に出入し、攸、遂に大に用ゐられ、父子權勢自ら相軋るに至る。上、攸を寵して、京の子弟親戚を尊び、滿朝、皆、其父子の黨なり。京、邪說を倡ふ、す以爲へらく、豐享豫大の運に當ると、專ら奢侈を以て、上に勸め、土木の功を窮極し、京城を廣め、大内を修め、盛に內苑を廣め、九鼎を鑄、鼎成るや、九州の水土を以て鼎中に納る。北方の寶鼎を奉安するに及びて、忽ち、水外に漏る。大最樂を作る。玉〓神霄宮き帝〓主道君皇を作り、道士林靈素を崇信し、上を策して〓主道君皇帝となし、延福宮を作り、保和殿を作り、萬歲山を作り、朱働を以て、花石綱を領せしむ。奇花異木怪石珍禽奇獸、遠く致さざるなく、民間の一花宋-徹宗皇帝-七八三 十八史略卷之七七八四めうすなはくわすうびんつひやせき一木の妙、輒ち上供せしめ、一花、數千緡を費し、一日、數萬緡をさんりんかうしんびろくぐんなこんがくかいめい費すものもあり。二十年間、山林高深、麋鹿群を成す。良嶽と改名そんきよやてんしゆしせいれんまいさいとうじとうす。又、村居野店酒肆靑帑を其聞に作り、毎歲冬至の後、卽ち燈をはなほしひまゝいんはくまげんせう放ち、縱に飮博せしめ、之を先づ元宵を賞すといふ。せいぼうしばしあらうふるけつくわいいたがひおほむ時に、星芒屢ば見はれ、地震ひ、河決し、怪異迭に出で、率ね以けいらふそうかんろくだしやううんあらひかくそらおほ·て常となす。京等誣奏す。甘露降り、祥雲現はれ、飛鶴空を蔽ひ、しくわしさうこんがくしよしうれんりさうくわふ評蔡京三臘竹に紫花を生じ、芝草良嶽に產し、及び諸州連理の木、明治三六五一起證據書籍、てが條せ稱し月月きよしやくやくぼたんらうげつらいさやゐ渠芍藥牡丹ありと。臘月の雷、三月の雪を指して、皆、瑞と稱し指趙る表瑞へうがて表賀するに至る。味噌?汁ないじどうくわんれうしせいしせいもつぱおうほうつと內侍童貫、梁師成、事を用ゆ。師成、專ら應奉を務め、以て上の한いえんくんしやくるさうち山トどうくわんヘん風吹め屋のと二し心を蠱し、勢焔熏灼し、威福を中に竊む。童貫、專ら邊を開くを務と般さいけいふあひへうりいふべしめ、事を外に生ず。皆蔡京父子と相表裏す。ぢよしんあだちようくわぐわんねんぼじゆっ女良の打帝と上野原因子女眞の阿骨打、重和元年戊戌を以て、帝と稱す。初め、遼の天同家誌けいしやうせんらんきんしよくとしごとめいようかいとうせいぢよしんもとす祚刑賞僭濫、禽色に荒み、歲毎に、名鷹海東靑を女眞に索む。女そのりんとうほくせんとうこのとりえけんその眞、其隣東北の五國と戰鬪し、乃ち能く此禽を獲て、以て獻じ、其ぜうたあそむこんどうこうとうねいこうしうおとしいれう擾に勝へず。阿骨打、遂に叛き、混同江東の寧江州を陷る。遼將ちうけいじやうけいちやうしゆんせいれうろを遣し、之を討つ。敗る。中京、上京、長春西遼、四路の兵をならびらいりうかろふかたいはい起して、並に進む。獨り漆流河の一路、深く入つて大敗し、三路、しりぞぢよしんこと〓〓れうとうかいとりこじゆくちよしんてつききすまおほ皆、退く。女眞、悉く遼の東海を虜にす。熟女眞の鐵騎益す衆し。てんそしんせいまかちじようぼつかいれうやう天祚、親征して、復た大に敗る。女眞、勝に乘じて、渤海、遼陽、宋-徽宗皇帝-七八五 十八史略卷之七七八六五十四州を〓せ、又遼西に度つて、五州を降す。阿骨打、遂に號を建てて旻と改名し、國を大金と號す。明年、遼の上京を破る。高麗、來つて、醫を求む。上、二醫を遣して、行かしむ。還つて奏す、實は醫を求むるに非ず、乃ち、彼中國將に女眞と契丹を圖らむとするを知り、謂ふ、苟くも、契丹を存すれば、猶ほ中國の爲に邊を捍ぐに足らむ、女眞は狼虎、交るべからず、宜しく、早く之が備をなすべしと。上、之を聞いて樂まず。上、嘗て都市酒肆妓館に微行す。正字曹輔、上言し、彬州に編管せらる。ぶ童貫、崇寧の間より、王韶の子と兵を領して、湟州を復し、責に邊事を措置するに任ず。旣にして、部州、廓州を復す。貫、遂に節を建てて宣撫となり、旣に志を西邊に得るや、遂に謂ふ、北邊も亦た圖るべしと。政和の初、乃ち自ら請うて、使を奉じて、遼國を覘ふ燕人馬植といふ者あり、燕を滅すの策を陳ず。貫挾んで以えて歸り、姓名を趙良嗣と改む。燕を復するの議、遂に起る。政和の末、漢人海に浮んで來るあり、具に女眞、遼を攻むる事を言ふ。重和の春、乃ち蔡京、童貫の議を用ゐて、馬政を遣し、海道より阿骨打の居る所、阿芝川、淶流河に至らしめ、與に、共に、遼を攻めむことを議す。阿骨打、遂に使を遣して來らしむ。宣和の初、京に至る京、貫に詔して、夾攻燕を取るの意を以てし、軍校呼慶を差し宋-徴宗皇帝-七八七 十八史略卷之七奏かいだうとしわうほしやうて、其使を送らしめ、海道より國に歸る。この歲、王黼相となり、つとれうさんけい力めて遼を攻むるの策を賛す。まきんし及び呼慶、復た金使と共に來る。時りやうしつかはゆやくきんに、阿骨打上京に在り。遂に良嗣を遣して往かしめ、約すらく金くれうちうけほんてうえんけいさいへいれう國は遼の中京を取り、本朝は燕京を取らむ。歲幣は遼に與ふるの數りやうしいはえんけいたいあはの如くせむと。良嗣曰く、燕京一帶は、西京を併せて是れなりと。きんしゆさつりやうしちよしん金主、へいちしようりん亦た之を許し、ほあむし札を以て良嗣に付し、なんへいはくかうけふこう期するに、女眞の兵は平地松林より古北に趣き、南兵は白溝より夾攻するを以てす。良嗣はせいましくわうこくしよちひしくげん歸る。馬政、復た子擴と共に、國書を持し、往いて、彼此の兵、關すていいくばくきんしを過ぐるを得ざるを訂す。ま未だ幾ならずして、金使、復た來る。きたこくしよそのつかひ又國書を以て、わいなん就いて、其使に付して國に歸らしむ。時に、淮南まさせうあんっ山東の宋江あひったうおこそうこう招安に就く京西、河北、江南、相繼いで、盜起る。山東の宋江、方に招安に就ぼくかうはうらふせつぐんおとしいちうとためふるどうくわんく睦寇方臘、しきりに、浙軍を陷れ、中都爲に震ふ童貫、始めはうらふたひほくじて、方臘を平らげて、北事作る。きんじんれうわたおもむせおとしい金人、師を悉くして、遼を渡り、中京に趨いて之を攻め陷る。中もとけいこくしようていくわんそうおの〓〓京は、故の奚國なり。遂に兵を引いて、松亭關に至り、宋と各くわんとじ關を過ぎざるの約あるを以て止まり、兵を引いて、其西よりして過れうしゆすでさきんぜんぼうまさ遼主、さきに已に引いて避く。或は言ふ、金の前鋒、將に至られうしゆしんきやうすみやかうんちうはしけふざんいむとすと。遼主、震驚して、亟に雲中に奔り、夾山に入る。時に、えんわうじゆんえんせうかんさいいう燕王淳、燕を守る。蕭韓、淳を立てて主となす。宋の童貫、蔡攸、ひきはくかうはんそんせうかんむか師を帥ゐて、東路は白溝に至り、西路は范村に至る。蕭韓、迎へ戰宋-徽宗皇帝-九九 十八史略卷之七七九〇甚だ力む。つて、宋師、敗れて退く。耶律淳、死す。宋師、再擧す。遼の涿州の將 郭藥師、常勝軍を領して、來り降る。宋兵五十萬、進んで、盧溝河に駐まる蕭韓、之を拒ぐ。藥師、間道より燕を襲ふ。幹、還り救うて死闘し、藥師、屢ば敗れ、わづかに身をくわん以て、免れて、遁れ還り盧溝の師、遂に潰ゆ。貫攸、功なくして、罪を獲むことを懼る。時に金主、奉聖州に在り、乃ち客を遣ほはして金主に之を圖るを禱む。金主、三道に分つて兵を進め、遂に居庸關に入る。燕金に降る。金使、來つて言ふ、燕京は、金兵を以て攻下す。其地は宋に與へ、租稅は、當に以て金に輸すべしと。宋使趙良嗣、往いて之を議し、歲幣を許すこと、契丹の如くし、奮數の外、更に百萬を以て租稅に代へて、併せて雲中の地を求む。金リい人わづかに燕京、涿、易、檀、順景、薊の六州を以て、來り歸す。貫攸、燕に入る。燕の金帛子女職官民戶は、金人席卷して東す。得る所は、空城のみ。貫、攸歸り、王安中を以て燕山府に知たらしめ、詹度、郭藥師、同知たり。ちよ!星あり、月の如く、徐徐として南行して落つ。光人物を照し、月と異なるなし。神保觀を修す。其神、都人、素より之を畏る。傾城の男女、土を負うて以て獻じ、名づけて、獻土といふ。又、鬼使を飾作し、土を納るるを催す者あり。上、亦た微服して、之を觀る。後數日、旨あ宋-徽宗皇帝-·究 十八史略卷之七七九二きんつて禁ず。り、しかとうせんせいちふるでんもんえうどうらんしう京師、河東、ぼつにふ陝西、地震ふ。さんかばくべう宮中の殿門搖動して、且つ聲あり。蘭州の草木、きんこくじやうくわくきうしつ沒入し、山下の麥苗、きつたんきうれい乃ち山上に在り。けつさいざん金國、城郭宮室なし、しやうがくとうけいげききく契丹の舊禮を用ゐ、結綵山に如いて倡樂しゆうがくをなし、擊鞠の戯、ぢよすうにん鬭雞、かぐみ中國と同じ。でんぼ但だ衆樂の後に於て、舞女數人を飾り、るゐ兩手に鏡を持たしめ、みなばつしや電母に類す。其國茫然、皆、麦まさたいをくすうけんえい舍して以て居る。是に至つて、ことんななら方に大屋數千間を營して、盡く中國の爲す所に做ふ。災異疊見すりやうけいかせつみちさいいでふけんとじやうせいくわ兩京河浙の路、はらまたほうらくろう災異疊見す。しゆほしゆし都城に靑菓を賣る男子あり、孕んで子を生む。そのつまとし又豐樂樓の酒保朱氏あり、たちましぜん其妻年五十、忽ち髭髯を生ず、えんどぢよにうし長さ六七寸、宛として一男子なり。詔して、度して女道士となす。かほくさんとうたうおこれんさいきやうくわうゆひさいきふ河北、山東、盜起る連歲凶荒、民、楡皮を食ふ、野菜給せず、あひくらきみんならびちやうせんしゆう相食ふに至る。饑民並に起つて、盜をなす。張仙といふ者あり、衆まんちやうてきかうたくざんしゆうまんじよまんものあ十萬、張迪の衆五萬、高托山の衆三十萬、自餘二三萬の者、勝げてはか計るべからず。きんしゆたいそたいせいぶげんくわうていおとうと阿骨打殂す金主、帝と稱す。六月にして殂す。太祖大聖武元皇帝と號す。弟ごきつばいせいかいめいえんざんちえきしうきんはくわん吳乞買、立つ。晟と改名す。燕山の地、易州の西北は乃ち金坡關、しやうへいきよようくわんじゆんしうこほくくわんけいしうしよう昌平の西は乃ち居庸關、順州の北は乃ち古北關、景州の北は乃ち松ていくわんゆくわんきんじんらいろ亭關、平州の東は乃ち險關、險關の東は乃ち金人の來路なり。凡そすうくわんばんかんかぎえんきやうたもこの數關は、天、蕃漢を限る。之を得れば、燕境保つべし。然れど宋-徽宗皇帝-六三 十八史略卷之七古いいも、關內の地、平、樂營の三州は、後唐、契丹阿保機に陷れられしより、營、灤を以て平に隷して、平州路となす。燕を得て、平州くわんないを得ざれば、關內の地、蕃漢雜處して、燕保ち難しとなす。遼の張穀、平州を守る。金、旣に人を遣して穀を招く。穀曰く、契丹、凡そ八路、今特だ平州存するのみ、敢て異志あらむやと。旣にして平州を以て南附す。朱、遽に之を納る。趙良嗣、力めて爭ふ、以爲必ず金兵を招かむと。へらく、金人、謀して知る。卽ち平州を襲う之を破る。て、宋の詔札を得たり。之より曲を歸し、檄を累ね、穀を取らむとす。己むを得ずして、王安中に命じて、之を縊つて、其首を國送す。未だ幾ならずして、金の太子斡離不、旣に平州路よこり 將に燕に入らむとす。宋、方に且つ人を遣し、密に天祚を誘うて來り降らしめ、童貫を以て兩河燕山路を宣撫せしめ、將に天祚を迎へむとす。金人、方に退く。天祚、陰夾山に入らむとするも得べからず。是に至つて、衆を領して南に出づ、遂に金人に敗られて、は評(雜誌時に擒に就く。契丹は、阿保機より天祚に至るまで、九世にして亡ぶ。に二立口腔炎時に宣和七年乙巳の歲なり。この冬、金の斡離不、粘罕、道を分つて南す。斡離不、燕山を陷る。郭藥師之に降る。金兵、長驅して進む。郭藥師、爲に前驅す。童貫、太原より逃れ歸る。粘罕、太原を圍む。太原の帥張孝純、1歎じて曰く、平時、童太師、多少の威重を作す、乃ち畏怯すること宋-徹宗皇帝-七九五 十八史略卷之七奏さえんなんめんぼく此の如し。身、大臣となつて、難に死する能はず、何の面目あつてかうじゆんくわん天下の士を見むと。さくねそんよくきた孝純み冀景を以て關を守らしむ。きんじんちやうかうじゆんいは知朔寧府孫翊來り救ふ。兵、二千に滿たず、金人と城下に戰ふ。張孝純曰く、賊あ、くわんさつちうつく旣に近きに在り、敢て門を開かず。觀察、忠を盡して國に報ずよくいはうらむまべし。翊曰く、但だ恨らくは兵少きのみと。乃ち復た引いて戰ふ。はじてきよく金人大に阻む。あ、くだ再び兵を益す。わうほカ、敵する能はず。翊、死す。一騎の肯て降るなし。時に、王黼、先つこと一年、旣に罷めらる。而しはくじちうりはうげんならびしやうきんへいきた李邦彥、じ白時中、ちうて、並に相たり。皆、鄙夫なり。金兵來る。時中たしゆつほん。きくたないぜん惟だ出奔の策を建つるのみ。上、內禪す。在位二十六年。改元するけんちうせいこくすうねいたいくわんせいくわちようくわせんくわもの六、曰く建中靖國、曰く崇寧、大觀、政和、重和宣和太子きんそうくわうてい立つ、之を欽宗皇帝となす。くわんとうきうしつとくさいけいどうくわんはいみ【欽宗皇帝】名は桓、東宮に在つて失德なし。蔡京、童貫の輩、咸はじかどうえうな之を憚り、動搖せむと欲するも、不可なり。是に至つて、位に卽がくせいちんとうらけつじやうしよさいけいどうくわんわうほれうしく大學生陳東等、闕に伏して上書し、蔡京、童貫、王黼、梁師せいげんしゆめんぜん成、李彥、朱動の六賊を誅して、以て天下に謝せむを乞ふ。彥は、こんくわつひやくしやうはたううらみかほくけいろ民田を根括するを以て、百姓を破蕩し、怨を河北、京の東、西三路むすめんわせきかうしよざいさうどううらみに結ぶものなり。動は、花石綱を以て、所在騒動して、怨を東南にせ、かうぐわんねんしゆほめんげんざん結ぶものなり。靖康元年、首として、鶴動彥を竄し、尋いで、皆、之を殺す。ぎよたふのぼざみことのりわうべうニ狐あり、御榻に升つて坐す。詔して、狐王廟を毀たしむ。宋-欽宗皇帝-老君 十八史略卷之七奏上皇應天府に奔る。李綱李綱を以て行營使となし、城守の策を定めしむ。元祐の黨籍を除き、范仲淹、司馬光等に官を追贈す。老麵線自由、罷む。張邦昌、相となる春正月、健康、京師に抵る。之より先、朝廷、李鄴を遣して、げ和を求む。斡離不、鄴を携へて、以て京城を攻む。克たず。乃ち王汭を遣し、鄴と偕に來らしむ。邦彥等、皆和を主とす。惟だ綱は、戰はむと欲す。上、邦彥の計を是とし、鄭望之を遣して、出でて使せしむ。未だ至らずして、王〓に遇ひ、與に倶に入つて見ゆ。又李稅を遣して、出でて使せしむ。稅、又金使と偕に來る。金人、犒師の金五百萬兩、銀五千萬兩、牛馬萬頭、表段百萬匹、中山、河間、原太三鎭の地二十餘郡を割くを求め、且つ宰相親王を質となさむと欲す。張邦昌をして、康王に副として、其營に如かしむ。金國の太子、康王と同じく射る。連發三矢、皆、筈に中る。金人謂ふ、是れ將家の子、親王に非ずと。歸らしめて、更めて、肅王を請うて質となす。种師道等、諸路の勤王の兵至る。師道、奏す、京城は、 周囘八十里、城の高さ數十丈、粟、數年を支ふ。宜しく、城內と寨を割して拒守し、困を俟つて之れ擊つべしと。綱亦た奏す、金、)5孤軍を以て、深く入る、虎の檻に投ずるが如く、共に、一旦の力を角すべからず、縱ち歸らしめて、之を擊たば、必勝の計ならむと。宋-欽宗皇帝-七九九 十八史略卷之七八〇〇評る和國之上、之を然りとす。而して、李邦彥、吳敏等、專ら和を主とす。議誤しる巳を定|魔ま汝るがの議時論論一ならず。虜をして、汝が議論定まるの時を待てば、我、旣に河むのに待議河てら渡我あをばを渡るの譏あらしむるを致す。未だ幾ならずして、統制官姚平仲、宵に金營を攻む。克たず。上、大に恐懼し、行營を廢し、李綱を罷闕に伏しめ、以て金人に謝す。大學生陳東、及び都人數萬、て、復えた綱を用ゐむことを乞ふ。旨を得て、右丞に復し、守禦使に充つ。衆乃ち散ず。金使、復た來る。乃ち三鎭を割くの詔書を以て、使を遣して、持して往かしむ。時に在京の金を括して、わづかに二十餘萬兩、銀四百餘萬兩を得たり。藏蓄、旣に空し。金人、京城を圍むこと、凡そ三十三日、地を割くの詔を得、金幣數足るを俟たずカ。して退く。种師道、河に臨んで、之を要擊せむことを請ふ。綱、亦た以爲へらく、彼の兵六萬にして、我が勤王の師は二十餘萬、其半ば渡るを縱るして、之を擊たば、必ず勝たむと。邦彥等、從はず。惟だ三鎭に詔して、尙ほ堅守して割かざらしむ。京師、圍を受くる時、梁師成、旣に誅せらる。是に至つて、蔡京死す蔡京竄所にを儋州に竄す。x潭に至つて死す。年八十。蔡攸萬安軍に竄せらる。尋いで、詔あり、所在に卽いて之を斬る。童貫、亦た遠竄せられ、追うて、南雄に斬らる。李邦彥、罷む。張邦昌、吳敏、並に相たり。邦昌、罷む。徐處七、相たり。處仁、敏、罷む。唐恪、相たり。恪、罷む。何桌、相宋-欽宗皇帝-八〇一 十八史略卷之七八〇二たり。上皇、京師に歸る。數月にして、金兵復た至る。斡離不、東路より眞定を陷れ、長驅して先づ京師に抵る。粘罕、西路より、隆德、太原府、汾澤州、平定軍、平陽府、河南府、河陽府、鄭州、懷州を陷れ、京師に抵る。張叔夜等、兵を統べて、闕に赴く。唐恪、耿南仲、專ら和議を主とす。曰く、今、百姓困匱、數十萬を城下に養へば、何を以て、之に給せむと。乃ち各道の兵を止めて動くを得るなからしむ。京師は、十一月、圍を受けしより、凡そ四十日卒郭京といふ者あり、言ふ、能く六甲の法を用ゐて、粘罕、斡離不をこと〓〓生擒せむと。盡く守禦の人をして、城を下らしめ、獨り、城樓の上に坐し、親兵數百を以て、自ら衞る。俄頃にして、金人鼓譟して進む。京、衆を給いて曰く、須らく自ら城を下つて法を作すべしと。い因つて、餘兵を引いて、南に遁る。虜兵、城に登る者、わづかに四人衆皆、披靡して大に潰ゆ。上、城の陷るを聞き、慟哭して曰く、朕、种師道の言を用ゐず、以て是に至ると。時に、師道、前一月に卒す。護駕の人、猶ほ萬餘あり、馬、亦た數千。張叔夜、連戰四日、其貴將一人を斬り、駕を護し、圍を突いて出でむと欲す。評不動熱敷設國議優遂に柔上、和議に惑うて定らず。士卒號哭して散ず。虜使劉晏、上に請うには、て城を出でしむ。都民、爭ひ入り、變して之を食ふ。何桌、都民を率ゐて、巷戰せむと欲す。聞く者、爭ひ奮ふ。金人、之に因つ宋-欽宗皇帝-八〇三 十八史略卷之七八〇四て、兵を歛めて下らず。惟だ地を割き金幣を責め和議するを以て辭ら、となし、以て戰守の計を誤らしむ。侍郞耿南仲、力めて、和を議するを主とす。上、以て然りとなし、遂に其計に墮つ。二元帥、上皇と相見むことを請ふ。上曰く、上皇、驚憂して、既に病む。朕當に自ら往くべしと。遂に靑城に如いて、之を見、二宿して返る。明年春、復た上に請うて、郊に出でしめ、續いて、逼つて、上皇を出さしむ。張叔夜、諫めて曰く、今上一たび出でて歸らず、陛下、再び往くべからず。臣、當に精兵を率勵し、駕を護して、以て出づ芝んべし。たとひ、虜騎追ひ至るも、臣決して、死戰せむ。或は僥倖すべし。若し、天、祚せざれば、封疆に死せむ。猶ほ、生きながら夷狄に陷らざらむかと。上皇、藥を飮まむと欲す。范瓊に奪はる。上皇に逼つて、宮を出でしむ。皇后太子、親王、帝姫、皇族前後三千餘人、悉く軍前に赴く。城中の子女金帛寶玩車服器用圖書百物、括索して、公私上下、共に空し。然る後に、金主の詔書を宣して(童食るのは北二異姓を選立し、遂に前太宰張 邦昌を册して、楚帝となし、宋の二に歸帝を以て、北歸す。金人、汴に在ること、凡そ七閱月にして去る。初め、至る時、張叔夜、嘗て力戰す。餘は、皆、和を主とし、以て1)吳〓、莫儔、王時雍、徐秉哲、范瓊等に至るまで、往來して、上皇i以下を逼逐して、郊に出でしめ、議して、異姓を擧ぐ。上の靑城に在るに方つて、逼つて御服を易へしむ。時に、惟だ李若水、抱持し宋-欽宗皇帝-八〇五 十八史略卷之七八〇六評て大呼奮罵す。金人、して麻刀を以て、其頤を裂き、景人を人亡國其舌を斬つて、然眼むる後に、之を梟す。相謂つて曰く、大遼破れし時、義に死する者十數。今、南朝、惟だ李侍郞一人のみと。然れども、一時憤死する者甚だ衆し。金人、知らざるなり。吳革、衆に結んで、二帝を劫還せむと欲す。范瓊に誘殺せらる。何桌、孫傳、張叔夜、秦檜、司馬朴、皆爭論して、趙氏を存立せむを乞ふ。金人、之を驅つて、上に生活〆地in從つて、北行せしむ。叔夜、粟を食はず、惟だ湯を飮み、界河を過竹篙灣產業ぎて死す。桌、燕に至り、亦た食はずして死す。京城危急の時に當とつて、四方勤王の師、至る者、皆詔して、止まつて進まざらしめ和議を妨げむことを恐る。金人の退くに訖るまで、未だ嘗て兵を交へず。上、在位二年ならずして國破る。改元して、靖康といふ。弟康王、南京に立つ、之を高宗皇帝となす。南宋【高宗皇帝】名は構、徽宗の第九子なり。母は韋氏。徽宗、吳越の武肅錢王、室に入るを夢み、旣にして構を生む。康王に封ぜらる靖康の初、嘗て出でて、斡離不の軍に使す。この冬、斡離不、再び10 來るや、詔を奉じて、再び出でて使す。耿南仲、偕に行きて、相州に至る。民、道を遮つて、往くことなきを請ひ、守臣宗澤、之を止む。相州の守、蠟書を以て言ふ、金人騎を遣して、康王の所在を宋-欽宗皇帝-南宋-高宗皇帝-八〇七 十八史略卷之七八〇八か物色すと。乃ち相州に囘り、南仲と共に榜を揭げて、兵を召して勤さ王す。詔あり、康王を以て大元帥となし、汪伯彥、宗澤を副となし兵を領して、入つて衞らしむ。王伯彥の議に從ひ北門を出でて、河を渡つて、大名に至る京師陷るを聞く。澤兵を進めて、京城に向はむを請ふ。伯彥、王に請ふ、兵を東平に移して、身を安地に措かむと。南仲、亦た以て然りとなす。遂に東に去る。知河間府黃さ、潜善、亦た兵を領して至り、進んで濟州に屯して探報す、二帝北行し、張邦昌、金に立てられ、國を楚と號すと。この日風霾、日に薄暈あり、百官慘怛、邦昌亦た憂色あり、惟だ王時雍、范瓊等、欣然得るあるが如し。邦昌、位に在ること三十三日。御史馬紳書でを邦昌に貽り、請ふ、速に行いて、正を改め、服を易へて歸省せよと遂に元祐孟太后を迎へて政を聽かしむ。太后、康王を迎立す。詔して、中外に〓ぐ、曰ふあり、漢家の厄十世、光武の中興に宜しく獻公の子九人、惟だ重耳尙ほ在りと。使を遣し、表を奉じ、及び孟后の詔を以て來る。邦昌、繼いで至り、地に伏し、慟哭して死を請ふ。使臣、河北より竄げ來り、道君の手札を進む。曰く、便ち眞に卽いて、來つて、父母を救ふべしと。王、働哭して拜受し、遂に應天府に趨いて、位に卽き、元を建炎と改む。和を主とし國を誤るを以て、耿南仲を罷竄し、李綱を召して相となし、宗澤を以て開ほ封に知として留守となす。綱至る、邊防軍政、略ぼ〓あり。而し南宋-高宗皇帝-八〇九 千八史略卷之七八一〇伯彥て、潜善、復た和を主とし、亟に祈請使を遣す。綱相たること、數十日にして罷め、潜善、伯彥、相となり、首として、上書の人、陳東、歐陽徹を殺し、策を決して、東南に幸し、復た兩河を經制するの意なし。この冬、車駕、遂に揚州に至る。金人、三道に岐れて、南に來る。二年春、金人、汴に至り、宗澤に敗らる。澤き群盜を招撫し、四方の義士を募り、百餘萬を合し、糧半歲を支ふ。表疏、數十を連ね、上に請うて、汁に還らしむ。潜善、其成功を忌〇四、〇一〇、に評南の復んで、中より之を沮む。憂憤、疽背に發して沒す。終に臨んで、3.4(4)き折なすり惜一語の家事に及ぶなく、惟だ河を過ぎむと連呼するもの三たび、都人之が爲に號働し、聞く者、皆、相弔うて、涕を出す。三年春。金人將に揚州に至らむとす。上、報を得て亟に出づ。二相方に堂に會食す。吏呼んで曰く、駕行くと。乃ち戎服して南走張浚す。揚州を囘望すれば、烟焔、既に天に漲る。呂頤浩、張浚、上に〓瓜州に追及し、小舟を得て、以て渡り、鎭江に至り、遂に杭州に如く潜善、伯彥を罷め、朱勝非を以て相となす。御營の將、苗傅、劉正彥、亂を作し、上に請うて、位を皇子專に禪らしむ、未だ三歲ならず。孟太后、政を聽く、呂頤浩、張浚、師を帥ゐて、勤王す。張俊韓世忠、前軍たり、張俊、之を冀く。劉光世、遊擊して殿となる勝非、二免に說いて、亟に反正せしめ、孟居を尊んで、隆祐皇太后となす。勝非、罷む。呂頤浩、相となる。二兒、走る。世忠、之を南宋-高宗皇帝-全 十八史略卷之七八一二え追ひ、皆誅に伏す。上、建康に如く。俊を以て、川陝宣撫處置使となす。隆祐太后南昌に如く。元朮が粘牢に請うて、將に江浙を犯さむとするが故なり。杜充、右僕射となり、建康を守る。上、杭州に如く杭を昇せて臨安府となす。臨安より浙東に如く。金人、兩道にき、分れ、一軍は、〓黄より江を渡る。劉光世江州に在り、以爲らく斬黄の小盜なりと、王德を遣して、之を興國軍に拒がしめ、始めて、金人たるを知る。金入、大冶より洪撫、建昌臨江、吉州に趨き、隆祐太后を追ひて及ばず。遂に袁潭、〓南、澧州を陷れ、乃ち石首より北に渡つて去る。一軍は、滌和より江東の馬家渡に向ひ、江をつうばんやうはうがいしたが濟つて、建康を陷る杜充及び守臣、皆、兀朮に降る。通判楊邦又從ははず、血を刺して裾に書して曰く、寧ろ趙氏の鬼となるも、他邦の臣とならずと。衆擁して、兀朮に見えしめ、誘諭累日輒ち叱罵し、卒に大に罵つて殺さる。兀朮、長驅して、杭州を陷る。上、去つて、旣に七日。兀朮、進んで、越州を陷る。四年春、明州を陷る。時に、上、旣に台州章安鎭に次す。金人、船を以て、昌國縣を犯し、追うて、上の舟を襲はむと欲す。提領海舟張公祐、大船を率いて、之を擊散す。乃ち退く。兵を囘して、秀、平江、常州を陷れ、鎭江に至る。韓世忠、之を邀へ海舟を以て與に戰ふこと數十合、俘獲多し。卒を金山龍王廟に伏せて、幾んど、兀朮を獲むとす。黄うや〓天蕩に相持す。兀朮、道を假らむことを求め、甚だ恭し。許さず。南宋-高宗皇帝-八一三 十八史略卷之七八一四建康より北歸せむと欲す。去るを得ず。或ひと〓へて、冶城西南隅の蘆場の地に於て、大渠を鑿たしめ、一夕にして成る。次早、舟を出して、建康に趨く。世忠、大に驚いて、之を尾擊す。一、、風なきに値うて、海舟動く能はず。兀朮、乃ち其舟を率ゐて、江を出でて北に去る。疾きこと、飛ぶが如く、火箭を以て海舟を射る、世忠、岳飛軍亂れて奔り還る。兀朮、乃ち北に遁るるを得たり。統制岳飛、邀へ擊つて、之を六合に敗る。初め、張浚、西行す。上、浚に命じ、三年にして後に、師を用ゐしむ。是に至つて、撻辣、兀朮、皆、淮東に在り。浚聞く、〓朮(3)躊躇するも、必ず再び東南を犯さむとすと。議して、師を出し、攻取して以て其勢を分たむとす。士大夫及び諸將、皆以て不可となす。浚、策を決し、檄を粘罕に移して、罪を問ひ、吳〓を遣して、長安に入らしむ。金人、遂に兀朮を調し、京西より星馳して、陝西に赴き、婁室と合す。浚、六路の兵を合して、富平に至る。婁室、兵を擁して、驟に至る。鐵騎、直に環慶路趙哲の軍を擊つ。佗路、援けず。哲、所部を離る。諸軍退く。金遂に勝に乘じて前む。浚、趙哲を斬る。諸路の兵、皆散じ去る。陝西大に震ふ。浚軍を興州に駐め、劉子羽を遣して、諸將の在る所を訪はしめ、各、所部を引p.いて、來會せしむ。人心粗ば安し。吳玠、走つて、大散關東の和尙た原を保つ。南宋-高宗皇帝-八一五 十八史略卷之七八一六上、海道より、囘つて越州に駐まる。呂頤浩、罷む。范宗尹、相秦檜二心となる。秦檜、南に歸つて、行在に赴く。檜、北に在り、撻辣に依つて任用せられ、撻辣の南侵するや、檜其軍に參謀たり。嘗て、爲に檄を草し、山東の州郡を下す。全家を挈へ小舟を浮べて、漣水軍に抵る。自ら逃れ歸るといふも、朝士多く之を疑ふ。檜言ふ、天下の無事を欲せば、須らく是れ、南は自ら南、北は自ら北たるべしと。上に乞うて、書を撻辣に致し、以て好を求めしむ。其言は、皆、撻辣の意なり。劉豫帝と稱この歲、劉豫、帝と稱す。豫は景州の人、建炎戊申に於て、濟南すの守を以て金に降り、之が用をなし、東平府に知たるを得、兼ねてほ上河南に節制たり。粘罕、金主に白し、邦昌の故事に循つて、豫を立てて、國を大齊と號し、後に都を汴に遷す。粘罕、旣に關中の地を得、悉く割いて以て豫に與ふ。紹興元年、張俊に命じて、江淮の盜李成を討たしむ。成、江淮上の六七州に據り、兵數萬を連ね、東南を席卷するの勢あり。尋いで江筠、臨江を陷る。後、其軍を擊つて、三郡を復す。成、遁れて齊に降る。こと〓〓ざ張浚、盡く陝西の地を失ひ、惟だ階、成、岷鳳洮の五郡、及び鳳翔府の和尙原、隴州の方山原を餘すのみ。浚退いて圓州を保す。統制曲端、威名あり。浚、さきに譜を用ゐて其兵柄を罷め、南宋-高宗皇帝-八一七 十八史略卷之七八一八ばんしうあんちたん上だへん萬州に安置す。西人、端に倚つて、重きをなす。貶せらるるに及びぐんじやうよろこきようしうミて、軍情悅ばず。是に至つて、又、恭州の獄に送つて之を殺す。みならやうこんせいじんますましゆんひ士大夫軍民、皆帳恨す。西人益す是を以て、浚を非とす。しよくごかいおとうとりんくわせうげん金人、兩道に分れて、蜀に向ふ。吳玠、弟璘と大に之を和尙原やぶえらせんくわつくわんりやうだうに敗り、又將を選んで、之を箭筈關に敗る。兩道、皆、入る能はず。はんそうゐんしんくわいしやうげんさい范宗尹、罷めらる。秦檜、昌言して曰く、我に二策あり、以て天しようどうつひいうしやうりよいかう下を聳動すべしと。遂に右相となり、呂頤浩、左相となる。こつじゆつしよだうおよちよしんふれうはうけいけんゐ兀朮、諸道及び女眞の兵を會して、浮梁を寶雞縣に造り、渭を渡かいりんつて、和尙原を攻む。玠璘三日、三十餘戰、大に之を破る。〓りうしまぬかとうえんざん朮、流矢に中り、わづかに身を以て免れ、始めて、河東より燕山に歸る。せうこうねんえつしうりんあんかへげんしやしんくわい紹興三年。上、越州より臨安に還る。言者、秦檜、專ら和議を主くわいふくゑんとそか、くわいしゆしようひとして、恢復の遠圖を沮止するを効す。檜罷む。朱勝非、右相となる。さんりかつほうしやうせいげん紹興三年。春金の撒離曷、鳳翔、長安より東に去ると聲言し、しやうおかんいんたゞちきんしやうおもむごかいきふ實は商於より漢陰に出で、直に金商に趣く。吳玠、急に兵を率ゐてげうふうれいやくかんたうめぐそのうしろかいにはか之を饒風嶺に扼す。金人、閒道より、遠つて其後に出づ。玠、遽にせんにんくわんかつこうげんおとしいちりうしうしりぞ仙人關に還る。金人、遂に進んで興元を陷る知府劉子羽、退いせんけんたんどくさんさんりかつしよくつかへごて、三泉縣、潭毒山を保つ。撒離曷、食盡く、乃ち引いて還る。吳南宋-高宗皇帝-八一九 十八史略卷之七八二〇璘粮なきを以て、塞を拔き、和尙原を棄つ。金人、之を得たり。か玠、其必ず深く入るを度り、乃ち兵を嚴にして、以て待つ兀朮果して、撒離曷と共に、來つて仙人關を犯す。玠璘、共に戰ふこのがでと七日、金人支ふる能はず、宵に遁る。玖、伏を設けて、其歸路を扼し、又之を敗る。この擧、金人、意を決して、蜀に入らむとす。卒に志を得ず。この歲、浚又、洮岷關外を失ひ、惟だ階成秦鳳を存するのみ。浚、召し還され、尋いで、劉子羽と共に、皆貶竄こと〓〓せらる。浚の是行、もと關陝より、中原を取らむと欲し、乃ち盡く關陜を喪うて歸り、賴に玠璘を得て蜀を保するのみ。13えい.齊李成を遣し、攻めて、鄧襄、隨郢唐州、信陽軍等を陷える。岳飛、隨郢を復す。成、襄陽を棄てて遁る。呂頤浩、朱勝非、相繼いで罷められ、趙鼎、右相となる。齊金兵を以て、道を分つて南侵す。上、詔して親征し、出でて平江に如く張浚を以て、樞密院に知たらしむ。之より先、浚、北方既に西顧の憂なく、必ず力を併せて東南を窺はむことを極言す。上、其言を思うて、遂に之を召す。浚、至り、請うて、岳飛を遣して、江を渡つて淮西に入らしめ、以て北兵の淮東に在る者を牽制せむとす之に從ふ。上、浚に命じて、師を江上に視しむ。將士、浚の來るを見て、勇氣皆倍す。時に、韓世忠、揚州に停まり、さきに已に大に金兵を大儀鎭に敗り、其將撻也を擒にし、解元、成閔、共南宋-高宗皇帝-〓〓 十八史略卷之七八二二しようしうたゝかせふきうよそんきじゆしゆんわうとくに承州に戰ひ、十三捷す。仇悆孫暉は之を壽春に敗り、王德は之をぢよしうがくひぎうくわうらろしうだつらつこつ滁州に敗り、岳飛は牛皐等を遣して、之を廬州に攻めしむ。撻辣元じゆつせいちうやくか朮世忠に扼せられて、江の渡るべからざるを知つて、引いて還る。せいりうりんりうげいしちようのが齊の劉麟、劉猊、輜重を棄てて遁れ去る。せうこうねんへいこうりんあんかへてうていちやうしゆんしやう紹興五年。上、平江より臨安に還る。趙鼎、張浚、左右の相たぐんはととくり。浚、兼ねて、諸所の軍馬を都督す。尋いで、復た浚に命じて、しゆんちんこうかんせいちう師を江上に視しむ。浚、鎭江に至り、韓世忠を召し、兵を擧げて、そしうたむろけんかうたいへいしう移つて楚州に屯せしむ。浚、建康に至り、張俊の軍を撫し、太平州りうくわうせいようやくふんがくひに至つて、劉光世の軍を撫す。踊躍して奮を思はざるなし。岳飛をかほくけいせいせうたうし以て、河北京西招討使となす。けんえんかうじゆつちうふれうひとしやうしやうていしう之より先、建炎庚戌中、武陵の人鍾相といふ者あり、鼎州に起せんそがうていれいたんしんがくきやうたうくり、僭して、楚と號す。鼎、澧潭、辰岳の境、皆、盜區なり。しやうやぶきんそのとやうえうどうてい上相敗れて擒に就く。其徒に揚工といふ者あり、洞庭に據り、遂にげきかうおそ劇寇をなす。官軍、陸より之を襲へば湖に入り、水より之を攻むれきしのぼがいひらいしゆんば岸に登る。曰く、能く我を害するあらば除だ是れ飛來のみと。浚じやうりうまえうふくしんがいまさ謂ふ、上流先づ去らざれば、ム、腹心の害をなし、將に以て國を立しゆんこなんがくひつるなからむとすと。請うて、自ら行く。浚、湖南に至り、岳飛のくわいきふそのすゐさいえうきうしゆくおもむ兵、至るに會し、急に其水寨を攻む、云窮蹙、水に赴いて死す。遂てんりやうわいしよしやうばうしうに平らぐ。浚、湖南より轉じて、兩淮に由り諸將を會し、防秋を議まみし、乃ち入つて見ゆ。南宋-高宗皇帝-八二三 十八史略卷之七八二四西紀一一三五金主晟、殂す。文烈と證す。初め、旻、晟と約す、兄終はれば弟立ち、然る後に、旻の子に復歸せむと。故に、最己の子宗盤を捨てて、旻の長孫易囉馬を立てて諳版字極烈となす。儲副の位なり曷囉馬、名は亶、是に至つて、遂に位に卽く。宗盤、旻の別子及び粘罕と、皆立つを爭うて得ず。粘罕、時に已に兵柄を失し、悟室と並に相たり。粘罕、食を絕ち、縱飮して死す。蒙國、金に叛く、蒙蒙國金に叛は、女眞の北に在り、唐に在つては、蒙兀部たり、亦た蒙骨斯と號す紹興六年、張浚、復た出でて、師を視る。上、臨安より平江に如せいじんく齊人、道を分つて入寇す。初め、劉豫、粘罕に因つて、立つを得、粘罕を奉ずるを知るのみ、他帥を蔑視す。是に及びて、兵を金に請ふ宗盤、之を沮み、豫が自ら行くを聽るし、然も、兀朮を遣し、兵を黎陽に提げて、以て釁を觀せしむ。劉光世、時に廬州に駐まる以爲へらく、守り難しと張俊、泗州に駐まり、亦た兵を益すを請ふ。衆情淘懼す。張浚、書を以て、俊及び光世を戒め進擊あつて退保なからしむ。趙鼎等、上に請うて、親書して、浚に付し、師を退けて南に還り、江を保たむと欲す。浚力爭す、以爲へらく、必勝を保すべし、一たび退けば大事去らむと。光世、旣に廬州を捨てて退く。浚卽ち星馳して、釆石に至り、人を遣して、其衆を喩さしめ、若し一人の江を渡るあらば、卽ち斬つて以て徇へむ南宋-高宗皇帝-八二五 十八史略卷之七会えといひ、仍つて光世を督し、復た廬州に還らしむ。光世、已むを得ず、乃ち兵を駐め、王德、酈瓊を遣し、三たび齊兵を霍丘、正陽及び前羊市に敗る。時に劉猊、淮東に至り、韓世忠の兵に阻まれてあす、敢て進まず、乃ち淮西より渡る。浚張俊の統制官楊沂中を遣して、濠州に至らしめ、俊と兵を合す。沂中、猊の前鋒を敗る。猊兵を引いて、劉麟に合肥に會して後に進まむと欲す。沂中共に藕塘ずに遇うて合戰す。猊大に敗る。麟猊の敗を聞き、風を望んで潰え去る。光世、勝に乘じて、追ひ襲うて、亦た捷つ。北方、大に恐評北悲敵虜宋し地とのむにな天終り子るて俘る。上曰く、敵に克つの功、皆、右相より出づと。趙鼎遂に罷む。し上皇、五年四月を以て殂し、七年に至つて、凶問、始めて至る。壽五十四。二帝、建炎の初より、燕山より中京に如く。古しへの奚國霤郡なり。燕山の北千里に在り。次年、又中京より韓州に移る。中京の東北千五百里に在り。後二年、又韓州より五國城に移る。金國都する所の東北千里に在り。上皇終る。 評爭ふ亡國の宿將功を岳飛、湖北京西宣撫使となる。時に淮東宣撫使韓世忠、江東宣撫兆也使張俊、皆、久しく、旣に功を立つ。而して、飛は列將を以て拔起soす。世忠、俊、不平なり。飛己を屈して、之に下る。二人皆、答けんげぎへず。飛が楊云を破るに及び、俊、益す之を忌む。是に於て、嫌隙日に深し。上、自ら平江に如き、建康に如く。飛因つて、駕に扈して、以て行き、入つて見え、疏して恢復を論ず。秦檜、時に樞密南宋-高宗皇帝-八二七 十八史略卷之七会副使たり、和議を主とし、飛の成功を忌んで、之を沮む。飛內艱てりうくわうせいを以て去る。上、力めて、之を起す。劉光世、言者、其師を退け、幾んど事を誤るを論ずるを以て、兵柄を罷む。張浚、王德を以て其를軍を統べしむ。德酈瓊と等夷にして相下らず、大に課いで、督府督府都를に詣つて、德を訴ふ。浚乃ち德を召して還らしめ、統制となし、而して、呂社を以て督府參謀となし、其軍を領せしむ。社簡倨にして、將士の情に通ぜず。瓊等の反側を聞き、密に之を罷めむを乞ふ。瓊叛き、社を執へ所部數萬を以て齊に降る。張浚、ま遂に言を以て罷む。浚の德と社とを用ゆる、岳飛、嘗て、其不可を言ふ、滲聽かず、故に破る。趙鼎、復た相たり。金人、劉豫の國を立つる能はざるを以て、之を廢す。齊、立つこと、八歲にして亡ぶ。紹興八年。上、建康より臨安に還る。秦檜復た相たり趙鼎罷む。詔して講和を議す。建炎より以來、歲として、使を遣して直に尊號を去り。其正朔を奉じ、藩臣に比するを願はざるなし。金人從はず。使者往くも、多く拘囚せらる。後、數ば南侵すれども、利あらず。江南の圖るべからざるを知り、然る後に、檜を遣して、閒を上爲さしむ。豫が廢せらるるに至つて、和議乃ち決す。金使張通古來評胡上銓(坦庵)疏措る編修官胡銓、上疏す。以爲へらく、陛下、一度膝を屈すれば、辭痛し懦む夫を記載と〓〓祖宗廟社の靈、盡く夷狄に汚され、祖宗の赤子は盡く左袵となり、南宋-高宗皇帝-八二九 十八史略卷之七八三〇てうていさいしつばいしんいじさいらうあいづく朝廷の宰執、皆、陪臣とならむ。異時豺狼厭くなき、安んぞ、我にくはぶれいりうよごと加ふるに無禮を以てする、劉豫の如くならざるを知らむ。夫れ三むちけんしふつぜん尺の童子は、無知なるも、犬豕を指して拜せしむれば、怫然としてだうてうてうあひひきけんしどうちはぢ怒らむ。堂々たる天朝、相率ゐて、犬豕を拜せば、嘗て童稚の羞なほうしわうりんほくしいうちこうなんせつゆからむや。奉使王倫、北使を誘致し、江南を招諭するを以て、名としんせふしつせいそんきんしんくわいふくわいなし、我を臣妾にせむと欲す。執政孫近、秦檜に附會す。臣、義とくわいらいたゞりんくわいきんかうべきして檜等と共に天を戴かず。乞ふ、倫檜近、三人の頭を斬り、かうがいかんせもんざいしおこ之を藁街に竿し、然る後に其使を覊し、無禮を責めて問罪の師を興おのづかばいさむ。三軍の士、戰はずして、氣、自ら倍せむ。然らざわば、臣、とうかいふいづくせうてうていをくわつ東海を蹈んで死するあらむのみ。寧んぞ、能く小朝廷に處つて活をしよたてまつへんざん求めむやと。書上る。しきりに貶竄せらる。せんせいかなんそうか、紹興九年。金人、先づ陝西、河南の地を以て、宋に歸す。朝廷、くわんれうしんえつちかかうべんけいりうしゆちよ官を遣し、陵寢に謁し、地界を交し、汁京留守を除す。せいかんじやうりせいほせいほるゐせいばんぞくとじゆんけんし靑澗城の李世輔、來り歸す。世輔の先は累世蕃族都巡檢使たり。せいつかつねあひなそう父子、嘗て、齊に仕ふと雖も、毎に相泣いて、宋に歸するを得ざるうらせいせいほどうしうらかんさんを恨む。齊、世輔を用ゐて、同州に知たらしむ。嘗て、閒を得て撒りかつせいきんてうきんへいはな離局を生擒して朝に歸せむと欲す。金兵、來り追ふ。之を縱つて、せいかはしみなりく西夏に奔らしむ。其父母及び二子一孫、皆戮せらる。是に至つて、かかせんせいそう兵を夏に乞ひ、以て復る。旣に出でて、陝西、旣に宋に還りしを知かひゐらうらいはけんちうり.乃ち夏兵を部して來る。上、慰勞して賜資を加へ、名を顯忠と南宋-高宗皇帝-八三一 十八史略卷之七八三二賜ふ。金國、謀反の者あり。事、宗盤等に連る。皆、坐して誅せらる。左副元帥撻辣は、實に楊割の長子なり、金主亶の大父行なり。粘罕の死せしより、宗戚大臣、皆懼る。撻辣、悟室と共に、尋いで亦た謀叛を以て、先後して誅せらる。金、宋と和するは、實に撻辣之を主とす。撻辣、既に死す。是に於て、右副元帥兀朮、左相たり。乃ち密に其主に奏するに。宋、未だ歲貢正朔誓表册命を議せず、然も、撻辣、擅に地を割くを許すを以てす。遂に盟を渝ふ。評秦檜の反紹興十年金兵四道に分れて、南侵す。劉錡、大に兀朮を順昌を開始ナッ人し理府に破る。檜急に上に啓して、錡を召し還さしむ。岳飛、大に之城に敗り、幾んど元朮を擒にせむとす。飛.朱仙鎭に至る。せる ふつふきを〓はをてを排切ず排商て切檜急に上に啓して、飛を召し還さしむ。韓世忠、金人を淮陽の珈む口に敗る。兀朮、汴に還り、兩河の軍と蕃部とを檢し、以て再擧を謀る。十一年。兀朮、廬州を陷れ、和州を侵す。劉錡、楊沂中、之を彙皐に敗る。檜又上に啓して、亟に師を班さしむ。沂中、瓜州渡より行在に返る。張俊、宣化より建康に歸る。劉錡、釆石より太平州に歸る。宣撫司を罷め、其兵を以て、御前に隷す。師を出す時に遇へば、臨時、旨を取る韓世忠、張俊を以て樞密使となし、岳飛、副使たり。飛世忠、尋いで罷む。兀朮、書を以て、檜に抵して曰南宋-高宗皇帝-八三三 十八史略卷之七合評第二爾朝夕和を以て請ふ、)のと行名南日詩滿試叙しも鑑言のは 然るに、岳飛方に河北の圖をなす、必ず發財)なデ飛を殺せば、乃ち可ならむと。張俊、又飛の罪を構成し、逮して獄難今頗すし、そ の きに赴かしむ。檜、奏して、飛及び張憲岳雲を誅して、和議遂に諧こと〓〓章太后及び黴宗の梓宮を宋に歸す。其所作ひ、金人惟だ盡く許す所の陝西河南の地を悔ゆるのみならず、なほ唐郵等の州を割いて金に入れしめ、淮の中流を盡して界となし、西、商秦の半を割き、和尙、眼雨歇)方山の原を棄てしむ。仰時に、宣撫使吳玠、卒して四年、胡世將、之·に代り、力めて和尙原等の地を以て棄つべからずとなす。兀朮、必了莫路土)少等雲和月ず之を欲す。遂に大散關を以て界となす。閑)年頭均空悲時に、金國、屢ば內叛あり、宗感大臣、切、靖康恥相繼いで誅夷せらる。且認定下さい臣つ、北に蒙兀あり。自ら大蒙と號し、帝と稱し、元と改む。連歲兵ヘ鹹皮發賣活長車蘭山何時を用ゆるも、卒に討つ能はずして之と和し。南侵又逞しうするを得)志飢缺壯餐胡虜肉す。而して、宋の猛將精兵、方に日に盛なり。恢復實に難からず。笑談渴拾待飲舊從匈)秦檜に沮まる。有志の士、扼腕して歎息す。奴血兀朮死せむとするや、收闕山頭河朝天曰く、南朝の軍勢、强きこと甚し、宜しく、益す和好を加へて、十數年を俟つべく、南軍衰老、然る後に、之を圖れと。張浚、趙鼎、皆、遠竄せられ、鼎、海外に卒す。當時、異議の人、貶竄殆んど盡き、復た敢て兵を言ふ者なし。金主亮立つ紹興十九年、金主亶、其下に弑せられ、共に丞相岐王亮を立つ、西紀一、一二九曼の孫なり。南宋-高宗皇帝-八三五 十八史略卷之七八三六紹興二十年。金主亮、上京一隅に僻在するを以て燕京に城づき、燕京析津府を徒つて之に居り、改めて大興府となし、中都と號し、中京會寧府を以て北京となし、汴京開封府を以て南京となし、而して、舊の遼陽府を東京となし、大同府を西京となすこと故の如く、蕃漢の地を分つて十四路となし、總管府を置く。評秦二十五年。秦檜、卒す。檜政を秉ること十八年、終に臨んでに如好泰 大阪 のににを至讀へりみ這邊猶ほ大獄を起し、己に異なる者を殺さむと欲す。張浚、李光、胡寅堪汚穢ず等五十三人。幸に檜病んで、旣に書する能はずして、免るるを得たり沈該、万俟高、湯思退、陳康伯、朱倬、相繼いで相となるM凶問至る。三十一年。欽宗の去年冬を以て、五國城に殂す、年六十。評金主亮の金主亮、汴京を修す。蓋し、南侵を經營すること幾年。嘗て、使静岡べあ絕壯詞山湖移有同里しりす大想第上兵別 )車津田五箇所の來るに因つて、密に畫工を藏し、臨安の山水城市宮室を圖繪して雄一立百提峰馬萬封)以て歸らしめ、詩を其上に題し、馬を立つ吳山の第一峯の句あり。ふ〓橫豪「吳西この秋、徒つて汴に居り、遂に盟を渝へて兵を擧ぐ。其母、諫む。いのを渾とる空之を殺して、以て衆を威す。兵百萬と號す。淮西の諸郡を陷る。江淮浙西制置使劉錡、王權を遣して、敵を迎ふ。權逗留す。旣にしか、て退き、還つて采石に奔る。報至る。中外大に震ひ、海に沈んで敵を避くるの議あり。陳康伯、可かず。葉義問に命じて師を視しむ。中書舍人虞允文、參謀軍事たり。金人、揚州を陷れて瓜州に趨く。南宋-高宗皇帝-八三七 十八史略卷之七〓劉錡、將を遣して、之を早角林に敗る。詔あり、錡をして、軍を還さしめ、專ら江上を防ぐ。金主、采石より渡らむと欲す。朝廷李顯忠を以て、權に代らしむ。然も、未だ至らず。金人の舟來る。虞允文、亟に水軍を督し、海鰍船を以て、迎へ擊つて死闘す。金人渡る能はず。時に、亮內變あるを聞き、又、舟師、海道より來る者は、旣に、李寶に焚かれ、然も、〓鄂の諸軍方に上流よりして下るを聞き、忿ること甚し。乃ち揚州に囘り、諸將を召して約す、三日必ず濟らむ、期を過ぐれば、盡く殺さむと。諸將遂に亮を弑す。亮の引いて南するに方つて、渤海の一軍、叛き去る。旣にして、葛王褒を遼陽に擁立し、亮の死を聞いて、遂に譙京に入り、亶を追諡して閔宗となし、亮を廢して海陵王となし、諡して煬といふ。褻は晟の孫なり。後に雍と改名す。之より先、數年、張浚、嘗て言ふ、金必ず盟を渝へむと。時相湯思退等、大に愕いて、以て狂となす。是に至つて、浚、起つて建康に判たり。上、臨安より建康に如く浚、迎へて謁す。衞士、其復た用ゐらるるを見て、手を以て額とに加ふ。三十二年。上、臨安に還る。金使來る。使を遣して、之に報ぜしな、め、復た和議を尋ぬ。夏、六月上、內禪し、退いて德壽宮に居る、在位三十六年。改元するもの二、曰く、建炎、紹興。皇太子立つ、之を孝宗皇帝となす。南宋-高宗皇帝-八三九 十八史略卷之七、송【孝宗皇帝】初名は伯琮、宗室追封は秀王諡は安僖、子偁の子、太祖七世の孫なり。母張氏、夢に、崔府君、一羊を擁して、來つて曰く之を以て識となせと。高宗の康王たるや、出でて使して、磁州に至る。磁人夢む、崔府君出でて迎ふと。張氏、この歲、丁未を以伯琮を秀州に生む。4て、嘉禾の瑞あり。小字は羊。高宗、太子專を喪ひ、命じて、太祖の後を選ばしむ。伯琮を得て、宮中に鞠ひ、名を瑗と賜ふ。偶ま、崔府君と同じ。音安郡王に封ぜらる。秦檜、其15英明を疾むも、害する能はざるなり。竟に立つて、皇子となり、名を瑋と賜ひ、楚王に封ぜらる。紹興の末、名を春と賜ふ。立てて、皇太子となし、尋いで、詔して位に卽かしむ。上皇を尊奉して、光堯壽聖皇帝といひ、皇后吳氏を壽聖太上皇后となす。史浩を以て右相となし、張浚、樞密使たり、師を淮に督し、遂にある北伐す。浩、其議に與らず、力め丐うて罷む。李顯忠、濠州より出でて、靈壁に趨いて、金兵を敗る。邵宏淵、泗州より出でて、虹縣n.を圍み、金將を降し、進んで宿州に克つ。金の副元帥紇石烈志寧、兵を率ゐて至る。顯忠、共に戰ひ、連日決せず。諜、報ず、金人大に河南の兵を興して、將に至り會せむとすと。宏淵、顯忠と相能くせず、然も、顯忠、又士を犒はず、士憤怨し、遂に潰えて歸る。金人、亦た解いて去る。上、恢復に銳意なるも、此役、利あらず、乃ち復た和を議す。陳康伯、罷む。湯思退、張浚、左右の相とな南宋-孝宗皇帝-〓 十八史略卷之七八四二としみいくばくる。浚、尙ほ都督を以て、師を視る。數月にして罷め、未だ幾なら張浚卒すしゆつしゆんゆるはくしゆかはしうしんわぎずして卒す。浚、國に許すの心、白首まで渝らず、終身、和議を主るめい中原を復し國ちうげんこくちさ評製作所にとせず、遺命して、其二子に付するに、耻を雪ぐ能はの風校舎のせんじんはかさう然れども局ずんぱ、先人の墓に祔葬するを得ずといふを以てす。量狭少たうしたいひそかりよあとげんしや湯思退、密に虜を召し和を議するの跡あり。言者、論じて罷む。ざんかうはくミ之を竄す、道に死す。康伯、復た相たり。和議成る。之より先、國上たいそうくんし書、大宋は大の字を去り、皇帝は皇の字を去り、書は君臣の禮を用さいはいとうきんしいたりつきよざゐ、再拜等の語あり。金使至れば、起立して金主の起居を問ひ、坐くだほうしおのづかはいしんくわんしふくを降つて書を受く。奉使の者は、自ら陪臣に同じく、館使の屬、そのらいしじやうそうくわうてい皆、其來使を拜す。是に至つて、始めて上を稱して宋皇帝となし、たしゆくてつさいこうさいへいかず止だ叔姪の國となし、歲貢を易へて歳幣となし、歳幣は十萬の數をげんちかいせうこうよれいわうつひ減じ、地界は紹興の時の如くす。然も、餘禮は、往々竟に盡く改むしうしんこれいきどほしばしかなんれうしんかたる能はず。上、終身之を憤る。この後、屢ば河南陵寢の地を還し、じゆしよきんじんつひけだふくしう受書の禮を改めむを請ふ。金人、卒に從はず。蓋し、上、復讐に志たすちんかうはくしゆつありと雖も、然も能く其志を輔くる者なし。陳康伯卒せしより後、きようくわつえふぐうきしやうふつちんしゆんけいぐいんぶんれうこくかそうくわいえふ共适葉〓、魏杞、蔣芾陳俊卿、虞允文、梁克家、曾懷、葉かうしかうてうゆうわうわいしうひつだいりうせいあひつしやう衡史浩、趙雄、王淮、周必大、留正、相繼いで相となる。惟だ、しゆんけいいんぶんならびけいえい俊卿、允文、並に相たるの時、北方を經營するの議あり。然も、俊持重して卒にぢちようそのきよたん卿允文と合はず。允文の爲す所、人、亦た其虛誕をつひかうひつ議し、竟に效あらず。浩の如きは、尤も兵を用ゆるを主とせず。必南宋-孝宗皇帝-八四三 十八史略卷之七八四四朱子大は、廟堂に從容として、善類、引進する所多し。朱熹、淳熙十五て、年を以て召さる必大、相たるの時なり。初め、程頤、徽宗の世に卒し、其徒楊時、欽宗、光堯の時に在つて、皆擢んでらる。趙鼎、頤を識るに及ばずと雖も、然も、其學を主張す。之を惡む者、楊時を以て還魂となし、鼎を尊魂となし、胡安國を强魂となす。其後、又、尹焞あり、召されて經筵に入る。焞は、蓋し頤が晩年の高弟な道學り。士大夫、理氏の學を名づけて道學といひ、時好の貴ぶ所、或は此名を冐して以て進み、時好同じからざれば、亦た多く此名を以て世に擠せらる。延平の李侗、學を楊時の門人羅從彥に受く。而しすて、熹又學を伺に受く。胡銓、嘗て、熹を光堯に薦む。熹、至らc.ず。顯道以來、屢ば召せども起たず、特旨、秩を奉祠に改め、召して館に入るれども就かず。後に、南康の守となる。浙東荒る。熹を提擧に除し、往いて之を救はしむ。闕を過ぐるや、嘗て一たび入つて事を奏す。是に至つて、召對して兵部郞に除す。侍郎林稟と合は朱熹封事をず卽ち奉祠して去るさ進む數月、復た召す。熹辭し、唯だ封事を進めて、天下の大本と今日の急務とを言ふ。大本は陛下の心に在り、急務は、太子を輔翼し、大臣を選任し、綱維を振擧し、風俗を變化民力を愛養し、し、軍政を修明す。六者是れなりと。熹の同志に廣bin漢の張栻といふ者あり、魏忠獻公浚の子なり。其學、之を胡宏に得張栻曰く-爲にする所たり。宏は安國の子なり。械の言に曰く、爲にする所あつて爲すも南宋-孝宗皇帝-八四五 十八史略卷之七〓のは利なり、爲にする所なくして爲すものは義なりと。學者、誦し믄た第は一あしすなすものだり、て名言となし、杖を稱して南軒先生といふ。呂祖謙といふ者あり、る所は義なりとて爲すもの公著の五世、希哲の四世の孫なり。亦た程氏の學を祖とす。學者呂東葉稱して東萊先生となす。皆、之に先つこと數年にして卒す。惟だ熹は、學問老いて彌よ篤く、學者、之を師宗し、稱して晦菴先生といふ、四方、其人を仰ぐこと泰山北斗の如し。南使、北に至れば、陸象山金人必ず朱先生安くに在るかを問ふ。同時に臨川の陸九淵、世に象山先生と號する者あり。熹と太極圖說を爭論し、且つ謂ふ、學に悟入ありと。熹が訓解に從事するを議つて、意見頗る異を立つといふ上、久しく子に與ふるの意あり。會ま、光堯皇帝、壽八十二に;して崩ず。乃ち詔して內禪す。上、德壽に奉ずる二十六年、孝養備に至る。旣に升遐して、哀慕尤も切、日に几筵に奉ずるを得ざるを以て、退いて、喪制を終らむと欲し、移つて重華宮に居る。在位二十八年。金の世宗雍、此歲を以て殂す。其嗣允恭、先つて卒す。雍在位二十孫環立つ雍賢明仁恕、號して、北方の小堯舜となす。故に金の九年西一紀自-六至大定三十年、宋の隆興、乾道、淳熙と相終始し、九南北、皆、休息を得、彼此乘ずべきの釁なく、上の志を齎して、大に爲すある能はざるもの、此を以てなり。太子立つ、之を光宗皇帝となす。【光宗皇帝】名は惇、年四十四、東宮より禪を受く。太上皇帝を尊南宋-孝宗皇帝-光宗皇帝-八四七 十八史略卷之七八四八んで、至尊壽皇聖帝となす。周必大、罷む。留正、葛邲、左右の相となる。改元して紹熙といふ。皇后李氏は、大將李道の女なり。悍にして妬、亟ば太子嘉王を立てて儲嗣となさむと欲し、內宴に因つさて、壽皇に請ふ。許さず。后不遜、壽皇怒語あり、后、之を街み、き)乃ち誣罔を造り、壽皇廢立の意ありといふ。上、驚恐して疑疾を得るを致す。後宮、暴死の者あるを聞くに及びて、上、震懼す。疾愈よ甚しく、復た重華宮を過ぎず、兩載に近くして、始めて、一たび至る。壽皇、彌よ懌ばず、上、亦た疾を視ること能はず、壽皇、重華に居て、五歲を踰え、壽六十八にして崩ず。上、喪を執る能はず、一日忽ち地に仆る。中外危懼す。太皇太后、嘉王を立つ、之を寧宗皇帝となす。【寧宗皇帝】名は擴、初め嘉王に封ぜらる。孝宗崩じ、光宗疾病趙汝愚なり知樞密院事趙汝愚、密に翼戴の議を建て、憲聖慈烈吳太皇太后、宗社を以て憂となすを知り、將に事を白せむとして、其人を難んず。知閣門事韓侂胄といふ者あり、鋳の會孫にして、太皇の女弟の子なり。因つて、入つて白す。太皇簾を垂れて、嘉王を引き、入つて位に卽かしめ、代つて高宗の喪を執らしむ。中外危疑する者、乃ち定まる。光宗、壽康宮に居り、後六年にして崩ず、壽五十四。上の嘉王たるや、黃裳、翊善たり、講說開導す。光宗、嘗て宣諭してす曰く、嘉王、學に進むは、皆、卿の力なり。裳曰く、若し德に進み南宋-寧宗皇帝-ニ元 十八史略卷之七八五〇業を修め古先哲王に追蹤せむと欲せば、須らく、天下第一の人を尋ねて、乃ち可なるべしと。誰となすを問ふや、朱熹を以て對ふ。彭龜年、繼いで、宮僚となり、講に因つて、毎に熹の說に及ぶ。上心を傾くること、旣に久し。烹光宗の時に在つて、漳州に守た り、後、潭州に守たり、湖南安撫となる上の登極に至つて、首として、召されて、待制兼侍講に除せらる。素、未だ至らず、旣に近習事を用ゐ御筆指揮して、皆漸あるを聞き、深く之を憂ふ留正部活鱼功あるを負んで、不罷む、汝愚、相となる。韓侂冑、自ら定策の次の賞を希ふ。汝愚、肯て驟に除せず、遂に怨む。汝愚、政を爲す、方に務めて、善類を引進し、僥倖を裁抑す、小人滋す悅ばず、相與に共に之を排す。朱熹、旣に至る。上疏して、侘冑に忤ふ、朝に在ること、四十六日にして罷む。言者、以爲へらく、熹、宮祠の命ありと遠近相弔ひ、天下の大老、之を去らば、誰か去るを欲せざらせいじんこと〓〓む、若し正人盡く去らば、何を以て國を爲めむと。汝愚、袖よりF內批を還して、且つ諫め、且つ拜すれども、聽かず。侘胄、併せにて、汝愚を逐はむと欲す。然も其名を難かる、或ひと、之に〓へて曰く、彼は宗姓、誣ふるに、社稷を危うするを以てせば、一網にして盡きむと。侘胄、之を然りとす。汝愚、相位に在ること、數月불にして罷め、しきりに貶竄せられ、藥を服して死す。侘冑、李沐、こ;何澹、劉德秀、胡紘、沈繼相等を用ゐて、鷹犬となし、善類を摶擊南宋-寧宗皇帝-八五一 十八史略卷之七八五二のこはうきねんりうくわうそしやうえいえふてきぢよぎちんいうかいごして遺すなく、彭龜年劉光祖、章穎、葉適、徐誼、沈有開、吳れふくわういうくわたとうじつふりやうろうやくていしよくりしやうやうかんりよそ獵黃由、黃度、鄧驅、陳傅良、樓鑰、鄭湜、李祥楊簡、呂祖けんそうないうちうこうこあんせいそんげんとくゑんせうちんぶわうきはんちうほ儉曾三聘、游仲鴻、項安世、孫元德、袁變、陳武、汪達、范仲黼、くわうかうせんたいじんらへんちくあたうじんせきき黃瀬、詹體仁等貶逐、勝げて紀すべからず。黨人の姓名を籍記ぎがくしゆきしゆし、目して僞學といひ、朱熹を以て首となし、籍に在る者數十人。さいげんていきるゐざだうしうへんくわんだいがくせいやうくわうちうら蔡元定、熹の累に坐して、道州に編管せられ、大學生楊宏中等六にんじやうしよたうじんりうせい人亦た上書して黨人を救ふに坐して編管せらる。留正、嘗て黨いんようちゆつざんゆたんれいけいしやしんほあひ人を引用するを以て、亦た黝竄せらる。俞端禮京鐘、謝深甫、相しやう繼いで、相となるしゆきけいげんかうしんおくたうきんげん慶元庚申を以て卒す。わい朱熹卒す朱熹、時に僞學の黨禁、嚴なりと雖も、會さうりよそたいぎがくこ葬する者、亦た數千人。呂祖泰、上書して、僞學を雪ぐを論じ、乞たくちうおよそのたうそしたんしノろんちんじきやうとひちきしうひつうて侘胄及び其黨蘇師旦、周筠を誅し、陳自强の徒を罷逐し、周必大を召用せうようまさはハせむを乞ひ、然らざれば、事、將に測られざらむとすといちうぐわいおほいおどろめんきんしうまふ書出づ。中外大に駭く。杖一百、面を刺さずして欽州に配せざたくかうき55らる。必大、亦た坐して、謫降せらる。熹沒して、年を踰えて、たうきんさみづかせうしよ黨禁稍や解く。諸人、或は官を復し、自ら便にす。然れども、消へんくわよふうごくくづ變化の餘、風俗、既に大に壞る。しやしんほちんじきやうたくちうたいしへいげんぐんわう謝深甫、罷む。陳自强、相となる。侂冑、太師平原郡王を以て、ぐんこくへいしやうけんかたむせいふくぎよじようよ軍國の事を平章し、權人主を傾け、威上下を制し、服御、乘輿土木、どきんえんおごしやおんしゆせいしやうに擬し、禁苑より修り、諛者、稱して、恩主聖相となすに至南宋-寧宗皇帝-八五三 十八史略卷之七八五四る。或は、詩九章を作り、每章、一の錫字を用ゆ。侘冑、亦た辭せず。罪惡を稔積し、事を生じ、邊を開くに至つて極まる。之より先蒙古部帝と蒙古部あり、北方に興る。金の世宗の時に在つて、既に强盛帝と稱す稱す。環の立つに至つて、蒙古の兵、來つて、便ち長驅す。金、始めて多事。侂胄、金、この釁あるを聞き、謂ふ、中原圖るべしと。と吳曦といふ者あり、前の蜀帥吳挺の子、璘の孫なり。吳氏、世、西せいしよく陲に職とし、威西蜀に行はる。其子孫を京に留む、蓋し、累朝遠慮曦、異志あること久し。蜀に歸らむと欲するも、得べからず。侘胄、歸らしむる數年、蓋し、西蜀をして兵を出さしめむと欲す。開禧二年、丙寅。金を伐つの詔を以て、四方諸路に〓げて、師を進む。曦、首として、關外四州を以て金に獻じ、封を求めて、蜀主となる。尋いで、卽ち、帝と稱す。李好義、楊巨源が安丙と密に謀るに賴つて、曦、僭號すること、月を踰えて誅せらる。を元の太祖成この歲、元の太祖、斡難河の源に卽位す。太祖、姓は奇渥溫氏、吉思OK〓紀位十番諱は鐵木眞、蒙古部の人なり。其先世、蒙古の部長たり。太祖の父リ一二。なに至つて也速該といひ、始めて、諸部落を併呑し、愈よ强大、後、追謚して烈祖神元皇帝といふ。初め、神元、塔塔兒部を征し、其部長鐵木眞を得たり。宣懿后月倫、適ま太祖を生む、手に凝血を握る、赤石の如し。神元、之を異とす。因つて、獲る所の鐵木眞を以て、之に名づく、武功を志るすなり。元年、大に諸王群臣を會し、南宋-寧宗皇帝-八五五 十八史略卷之七八五六九游の白旗を建てて位に卽く。群臣、共に尊號を上つて、成吉思汗といふ、時に金の章宗泰和六年なり。丁卯、開禧三年時に、北伐諸軍の向ふ所、潰散して、退かざるしよくかんけいじやうりやうわいしよぐんはなし。金人、大に兵を發し、しきりに蜀漢〓襄兩淮諸郡を陷る。東南、大に震ふ。亟に使を遣して、金に通謝せしむ。而して、侂胄、兵を弄するの意、猶は未だ已まず。中外之を患ひ、遂に兇を誅するの議あり。皇后楊氏、書史を知り、古今に通ず。當時、侍郞史彌遠、密策を建つ。而して、旨、中より出づる者、皆、后、實に之を爲す、一日、侘胄、入朝す。彌遠、殿帥夏震をして、兵を以て、之を塗に邀へしめ、擁して、玉津園に出で、之を推殺す。之より先、元の太祖西夏を征し、力吉里塞を拔いて還り、この秋に至つて、再び之を征す。と皮氏、嘉定元年。陳自强、竄死し、蘇師旦、斬に處し、周筠、決ほ配せらる。侘胄の首を凾して金に謝し、和議、復た成る。錢象祖、相となり史彌遠、累遷して、象祖と並び相たり。象祖、罷む。彌遠、獨り相たり。金の章宗環在位二十年にして殂す。子なし。世宗の別子允濟を立つ環に於て叔たり。己巳、嘉定二年。春、元の太祖、河西に入り、屢ば西夏の兵を破る。夏主李安全、女を納れて和を請ふ。南宋-寧宗皇帝-八五七 十八史略卷之七粂庚午、嘉定三年。金、元を討つを謀り、烏沙堡を築く。太祖、將を遣し、襲うて其衆を殺し、遂に地を略して東す。初め、太祖、歲へこ幣を金に貢す。金主、衞王允濟をして貢を靜州に受けしむ。太祖、允濟を見て禮を爲さず、允濟怒り、歸つて兵を請うて、之を攻めむと欲す。金主環の殂するに會し、允濟、位を嗣ぐ。詔あり、國に至り、傳言して拜すべしといふ。太祖、金使に問うて曰く、新君は誰とかなす。曰く、衞王なりと。太祖、遽に南に唾して曰く、我、謂ふ、中原の皇帝は、是れ天上の人と做すと。此等も亦た之を爲すか。何を以て拜するを爲さむと。卽ち馬に策つて去る。金使、還つて言ふ。允濟、益す怒り、太祖の再び入貢するを俟つて、之を害せむと欲す。太祖、之を知り、遂に金と絕つ。辛未、嘉定四年春、元の太祖南侵し、金兵を敗り、群牧監を襲ひ、其馬を驅つて還る。之より、連歲、金の州郡を攻取す。癸酉、嘉定六年。金主衞王允濟、在位五年、歲として兵を受けざきるはなく、幾んど、支ふる能はず、且つ將士の心を失ひ、大將に弑せらる。追廢して、東海郡侯となし、豐王洵を立つ、環の兄なり、之を宣宗となす。太祖、兵を三道に分つて、並び進んで燕南、山東、河北の五十餘郡を取る。甲戌、嘉定七年。元の太祖、蹕を燕北に駐む。金主、岐國公主及び童男女五百、馬三千と金帛とを、以獻して、和を乞ふ。許さるる南宋-寧宗皇帝-八五九 十八史略卷之七八六〇と雖も、燕に自立する能はざるを度り、五月、汴に遷り、丞相完た顏福興を留めて、太子守忠を輔けて、燕に居らしむ。太祖、兵を遣して、之を圍む。守忠、汴に走る。後、一年にして、燕京陷る。元兵、河東より河を渡つて南し、汁を距ること二十里にして去る。金人、之より、地勢益す蹙まり、山東、之に叛き、東は河を阻て、西は潼關を阻つるのみ。宋の川蜀淮漢を窺ひ、以て自ら廣めむと欲し、遂に盟を敗つて來侵す。宋、黄榜を以て、忠義の人を募り、進け、芝んで、京東路を討つ忠義李全、歲の戊寅を以て、衆を率ゐて來歸ぶす。全は、もと漣水縣の弓手、開禧乙丑の間に在つて、旣に、嘗て、募に應じて、其縣を焚く。木華黎丁丑、嘉定十年。元、木華黎を以て太師となし、國王に封じ、諸軍を率ゐて南征し、大名府、定、益、都溜、策等の州に克つ。戊寅、嘉定十一年。元の木華黎西京より河東に入り、太原、平た世界中陽及び忻、代、澤、溶等の州に克つ、この歲、西夏を伐つて、其王城を圍む。夏王李遵項、西京に走る。高麗王暾、元に降り、歲貢方物を請ふ。己卯、嘉定十二年。西域、元の使者を殺す。太祖、親征す。庚辰、嘉定十三年。元の木華黎、地を徇へて、眞定に至り、又河北諸郡を徇ふ。壬午、嘉定十五年。元の太子拖雷、西域の諸城に克ち、遂に太祖南宋-寧宗皇帝-八六一 十八史略卷之七八六二と會す。秋金主、復た使を遣して和を請ふ。太祖、時に囘鴨國に在り。之に謂つて曰く、我、さきに汝の主に令して、我に河朔の地を授け、汝の主をして、河南王となし、彼此兵を罷めむとす。汝のこと〓〓主、從はず。今、木華黎旣に盡く之を取る。乃ち始めて來り請ふやと。遂に許さず。癸未、嘉定十六年。春三月、元の太師魯國王木華黎卒す。五月、元、始めて、達魯花赤を置いて、郡縣を監治せしむ。金の章宗殉、在位十二年にして殂す。子守〓、立つ、之を哀宗yとなす。と甲申、嘉定十七年。元の太祖、東印度に至り、鐵門關に駐まる一獸あり、鹿形馬尾、綠色にして一角、能く人言を作す。侍衞の者耶律楚材に謂つて曰く、汝の主、宜しく早く還るべしと。太祖、以て耶律楚材に問ふ。曰く、この獸は、角端と名づけ、能く四方の語を言ふ生を好んで、殺を惡む。是れ、天、符を降し、以て陛下に〓ぐ。願はくは、天心を承けて、この數國の人命を宥せよと。太祖、卽日師を班す。歲の丁丑より以後、宋、金と戰ひ、迭に勝敗ありと雖も、然も三邊、歲として、其擾を被らざるなし。上、在位三十年、改元する者四謙恭仁儉、終始一の如し。然れども、慶元、嘉泰、開禧、凡そ十三年は侂冑の政、嘉定十七年は彌遠の政なり。壽五十七にして南宋-寧宗皇帝-八六三 十八史略卷之七八六四崩ず。彌遠、定策して嗣を立つ、之を理宗皇帝となす。【理宗皇帝】初名は與莒、宗室追封は榮王、證は文恭、希瓐の子、,太宗十世の孫なり。寧宗、子多けれども育せず、宗室の子を鞠ふ、名は詢、立てて太子となす。薨ず。初め、皇從弟沂の靖惠王柄、子なし。嘗て、宗室の子を以て、名を貴和と賜うて、之が後となす。太子詢を失ふに及び、遂に貴和を立てて皇子となし、名を竝と賜ひ濟國公に封ず。竑慧にして輕、嘗て史彌遠の權を專にするを5く美食の日異日容すべからずと謂ふ。彌遠、聞いて、之を惡む。故に陰に之が計をなす與莒、幼にして弄を好まず、群兒聚嬉、輒ち獨り高きに登り、坐して動かず。長上、見る者、指して以て群兒に語つて曰く、汝曹、この人に效はざるか、恰も一大王に相似たりと。群兒、毎に其下に羅拜す、遂に趙大王の號あり。彌遠、物色して之を得たり。嘗て、取つて、擧に應じ得たり。特旨、官に補す。竑上旣に寧宗の子となる、遂に與莒を以て沂王の後となし、名を貴誠とる)賜ひ、郡州防禦使に除せらる。寧宗大漸、乃ち中宮に白し、貴誠を以て皇子となし、昀と改名し、遺詔を宣べて、位に卽かしめ、竑を濟陽郡王に進め、出でて寧國府に判たらしむ。恭聖仁烈楊后、同じく政を聽く。事定まつて、然る後に、簾を撤す。乙酉、寶應元年時に、外議籍籍、亂を作し竑を立てむと謀る者李全、あり。事克たずして、皆死す。楚州に在り、制置許國と相失南宋-理宗皇帝-八六五 十八史略卷之七〓す。國を殺し、亦た問罪を以て辭となし、兵を擧げて南向し、揚州を圍み、幾んど陷る。丙戌、寶慶二年。元の太祖、西夏を伐つて、甘肅等の州を取り、遂に沙陀を踰えて、黄河九渡に至る。丁亥、寶慶三年。元、夏を滅し、夏主李睨を以て歸る。祖殂七月、元の太祖、六盤山に殂す。一す元二時の二に太殂するに臨んで、左右に謂つて七西紀曰く、金の精兵、潼關に在り、南は連山に據り、北は太河を限る。以て遽に破り難し。道を宋に假るに若くはなし。宋金は世讐、必ず能く我に許さむ。乃ち、兵を唐郵に下し、直に汴京を擣け汴、急なれば、必ず兵を潼關に徵さむ。然れども、數萬の衆を以て、千里赴き援くれば、人馬疲弊、至ると雖も戰ふ能はず、之を破ること必せりと。言訖つて殂す。在位二十二年。壽六十六。起輦谷に葬る。至元二年冬、追謚して、聖武皇帝といひ、廟を太祖と號す。太祖深沈にして大略あり、兵を用ゆること神の如し。故に能く國を滅すること四十。其動績甚だ衆し。史の紀載、備はらず、惜い哉。太祖旣に崩ず。皇子窩濶台、霍博の地に留まる。國事屬する所なし。皇子拖雷、國を監し、以て皇太子の至るを俟つて、之を立つ。越えて二年、皇太子、始めて立つ、之を太宗となす。己丑、紹定二年。元の太宗、名は窩濶台、太祖の第三子。母を光獻皇后弘吉刺氏といふ。是歲夏、喪に奔り、忽魯班雪不只の地に至南宋-理宗皇帝-八六七 十八史略卷之七癸る。皇弟拖雷、來り見え、大に諸王百官を會し、太祖の遺詔を以て位に卽かしむ。始めて、朝儀を立て、皇族尊屬、皆、班に就いて、以て拜す。元、始めて倉廩を置き、驛を立て、命を傳ふ。庚寅、紹定三年。元、兵を遣して、京兆を取る。七月、太宗、自ら將として金を伐つ。皇弟拖雷、姪蒙哥、師を率ゐて從ふ。辛卯、紹定四年。春、趙范、趙葵、大に李全を揚州城下に敗る。時に、上元燈を張るに屬し、全、平山堂に置酒高會す。城中謀して知り、夜、兵を遣して、其不意に出でて、之を劫す。全走つて濠た、に陷り、亂槍に斃さる。其餘は、奔走して逃げ去る。二月、元の太宗、鳳翔に克ち、洛陽、河中の諸城を攻めて、之を下す。五月、元、使を遣し、來つて、道を假る。宋、之を殺す。八月、元、始めて、中書省を立て、從官の名を改め、耶律楚材を以て、中書令となし、粘合重山、左丞相となり、鎭海、右丞相となる十二月、元の太宗、河中を取る。太弟拖雷、騎六萬を發し、兵を分つて、西、和州より興元に入り、金房より襄陽に道して唐郵に至り、金人と陽翟に鏖戰す。潼藍の戍、亦た潰え、西兵、畢く至り、汁を合圍す。壬辰、紹定五年。元の太宗、白坡より河を渡つて、鄭州に次し、南宋-理宗皇帝-八六九 十八史略卷之七八七〇釣州を攻めて、之に克ち、遂に商、號嵩汝等を取る。十四年、速不臺をして、金の汁京を圍ましむ。金主、其弟訛可をして、入とつて質たらしむ。太宗還り、速不臺を留めて、河南を守らしむ。八月、金兵、汁を救ふ。諸軍、共に戰つて、之を破る。九月、太弟拖雷、師に卒す。金主守緒、圍を突いて出で、歸德府に走る。元、再び王鐵を使とし、來つて、夾攻して金を伐つを議せしむ。京湖制置使史嵩之、以聞す。朝臣、皆、以爲へらく、復讎の擧、遂はなは、ぐべしと。趙范、喜ばずして曰く、宣和海上の盟、其初、甚だ堅し、以て禍を取るに及ぶ。鑑みざるべからずと。帝、從はず、嵩之に詔し、使に報じて、之を許す。嵩之、乃ち鄒伸之を遣して、報謝せしめ、且つ汁京を夾攻するを議す。元人、成功を俟つて、河南のか、地を以て宋に歸すを許す。룬癸己、紹定六年。金主、歸德に奔る。粮絕ゆ。乃ち蔡州に趨る。其將崔立、汴京を以て、元に降る。四月、元の速不臺、進んで靑城に至る。崔立、金の太后王氏、皇后徒單氏、〓王從恪等を以て、軍に至る。速不臺、北に送り還さしむ。元孔子五十世の孫元楷を以て、衍聖公に襲封し、孔子廟及び渾天儀を整修す。宋の丞相史彌遠、卒す。鄭〓之、相となり、史嵩之、京湖の制帥となつて、襄陽に在り。南北、蔡州を夾攻するの約あり。嵩之、南宋-理宗皇帝-仝 十八史略卷之七八七二孟洪を遣し、兵四萬人を以て、先づ至つて、其東南を圍ましむ、元び兵、其西北を圍む。甲午、端平元年正月、金主守〓、位を宗室の子承麟に傳ふ。宋の孟洪、蔡州に入る。元師、之に從ふ。守〓、自經して死す。其首を函して、宋に送り、承麟を得て、之を殺す。金は、完顏旻、帝と稱してより、是に至るまで、九世、一百一十七年にして亡ぶ。四西て十金亡七九りーぶ年世に一にし百時夏四月、金の俘を太廟に獻ず。會ま淮帥趙范、趙葵、金人の亡びな紀二三しに乘じて、恢復の計をなす。朝臣多く、以て未だ可ならずとなす。獨り、鄭〓之、力めて、其說を主とす。帝、乃ち范に命じ、移つて、黃州を司らしめ、日を熟して、兵を進む。范の參議官丘岳12曰く、方に興るの敵、新に盟つて退く。氣盛に鋒銳なり。、寧んぞ肯て得る所を捐てて、以て人に與へむや。我が師、若し往けば、彼必ず突至せむ。惟だ進退據を失ふのみならず、釁を開き、兵を致すは必ず此より始まらむ。且つ千里長驅、以て空城を爭ふ之を得れば、當に饋餉を勤むべく、後、必ず之を悔いむと、范聽かず。史嵩之、亦た言ふ〓襄方に爾く饑饉す、未だ師を興すべからずと。が故の〓湖制師趙方の子、杜杲、亦た出師の害を陳ず。范葵は、兵に習ひ、攻取に銳意に、山東の忠義を募るに、皆、響應す。伸之、未ん、だ囘らず、然も、宋師出づ。伸之等、幾んど燕に覊留せられ、詭辭して鐵と倶に來るを得たり。撒曰く、何すれぞ盟を敗るやと。之よ南宋-理宗皇帝-八七三 十八史略卷之七八七四り、淮漢の間、寧日なし。數日ならずして、汴人、城を以て、宋に附き、宋師、汴に入り、卽ち洛に趨く。元兵、洛を成る者、幾もなくして、しばらく避け去る。宋師、洛に入り、數日ならずして粮元の生兵の大に至らむとするを聞いて、絕ゆ。潰えて歸り、嵩之があ、和を主として、肯て粮を運せず、事を誤るを致すを咎む。乙未、端平二年。春、元和林に城づき、萬安宮を作る。諸王拔都太子貴由、姪蒙哥を遣して、西域を征し、太子闊端は蜀漢を侵太子曲出及び胡士虎は宋を侵し、し唐吉は高麗を征す。之を行ふ。p丙申、端平三年。元、交鈔を印造して、耶律楚材、請うて、燕京に於て編修所を立て、平陽に於て經籍所を立て、經史を編集し、儒生梁陟を召して、長官に充て、王萬慶、趙著を以て之にさ副とす。秋闊端、宋の關外の數州を取り、十月、成都に入り、秦鞏等四十餘州を取る。時に、和議旣に復た諧はず、蜀、遂に破陷し、〓襄淮甸、歲として攻哨を受けざるはなし。元、耶律楚材の言を以て、始めて、天下の賦稅を定め、上田は、毎畝に稅三升、中田は二升半、下田は二升、水田は一畝に五升、商稅は三十分の一五戶に絲一斤を出さしめ、以て諸王功臣湯沐の賜に供す。鹽は銀一兩每に四十斤、永く定額となす。朝臣、皆、甚だす輕しといふ。耶律楚材曰く、將來必ず利を以て進む者あらむ、乃南宋-理宗皇帝-八七五 十八史略卷之七〓ち、旣に重しとなすと。丁酉、嘉熙元年、經筵に詔して、朱熹の通鑑綱目を進講せしむ。八月、元、諸路の儒士を試む。選に中る者、本貫議事の官に除して、四千三十人を得たり。元兵、地を略して、黃州に至る。宋の孟洪之を敗る。嘉熙二年。戊戌、之より先、杜杲、元人の安豐の兵を却け、復た察罕八十萬の兵を盧州に敗る。後、儀眞の圍を解く。功を以て、權に刑部尙書たらしめ、復た敷文閣學士に進む。わ、呂文德呂文德、兩淮出戰の軍馬を總統し、淮西招撫使に進む。文德は安豐の人、魁梧勇悍、微時、薪を城中に鬻ぐ趙師葵、道傍に遺腰の長さ尺有咫なるを見て驚訝し、訪求して、之を得たり。之を麾下に留む後、邊功を以て、顯官に至る。元の塔思の軍北峽關に至る宋將汪統制、降る。之より先、曲しゆつて宋の孟洪出張柔等を率ゐ、郢州を攻めて之を拔く。是に至つ復た襄陽を取る。元の領中書行省楊惟中、太極書院を燕京に建て、趙復を延いて師となす。時に、〓溪周子の學、未だ河朔に至らず、惟中、師を蜀湖京漢に用ゐて、名士數十人を得、始めて、其道の粹なるを知り、乃ち伊洛の諸書を收集し、載せて、燕京に送る。師の還るに及びて、註六子は程遂に大極書院及び周子の祠を建て、二程張楊游朱の六子を以て配食南宋-理宗皇帝-八七七 十八史略卷之七八七八かさく子兄弟、せしむ。之に由つて、河朔、始めて道學を知る。載)楊時、最かうしたいしいうせいゐき游酢なり朱熹庚子、嘉熙四年。春元の太子貴由、西域の未だ下らざる諸部にちよくつぐな克つ。元、州郡に敕し、盜を失うて獲ざれば、官物を以て之を償はこくしよきよしよほんろしむ。國初、盜多し。令を下し、凡そ盜の去處を失すれば、本路のみんこばうめい民戶をして、代つて償はしむ。民、之を苦んで、多く亡命す。是にちようくわいこつかとし至つて、徵を罷む。又、官民、囘鶻の金銀を貸り、之を償ふ者、歲かはい羊羔利といふわう〓〓ち羊羔利の弊に加倍し、之を往々、家を破り、妻子を以て質となりつそざいこと〓すに至るも、終に償ふ能はず。耶律楚材、請うて、悉く官物を以てかへていよかたいとしひさ代へて還さしむ。凡そ七萬六千錠。仍つて令す、凡そ、假貸、歲久しほんあひひとしやちよしきも、惟だ子本相伴うして止むと。著して令となす。しんちうじゆんいうぐわうねんしうじゆんいぢよなんはくちやうさいびはく辛丑、淳祐元年。宋、詔して、周敦頤を汝南伯に、張載を郿伯ていかうかなんはくていいやうはくしゆきこくこうつひほうに、程顎を河南伯に、程頤を伊陽伯に、朱熹を徽國公に追封し、並べうていじうしわうあんせきじうししりぞえっに孔子の廟庭に從祀し、王安石の從祀を黜く。帝、孔子に謁し、遂のぞに大學に臨む。れふくわてつここらんき元の太宗殂十一月、元の太宗出でて獵し、銚鐵鐸胡蘭に殂す。年五十六。起すれんこくはうむつひしえいぶんくわうていべう輦谷に葬る。後、追謚して、英文皇帝といひ、廟を太宗と號す。太くわんこうりやうじんじよはかはかきよくわじ宗、寬弘の量、仁恕の心より、時を量り、物を度り、擧に過事なくわかいんふしよみんげふかうりよりやうもたらちいく華夏殷富、諸民業を樂み、行旅糧を齎さず、時に治平と稱す。くわうごうばしんしてうのぞせい元は、太宗殂してより後、皇后馬眞氏、朝に臨んで制を稱すること凡そ五年、君を立てず。南宋-理宗皇帝-発 十八史略卷之七八八〇甲辰淳祐四年。之より先、鄭〓之、相を罷め、喬行簡、李宗勉等、繼いで、政をなす、決斷する所なし。上、史嵩之の言を思ひ、督府より入らしめて、相となす。和を議せむと欲すと雖も、輒ち衆論に沮まる。嵩之、父彌遠の憂に丁る。訃を聞いて、數日にして、乃ち行く。詔して、起復して相となす。言者、目して權姦となし、力めて、之を攻む、遂に復た相たらず。范鍾、游侶、鄭〓之、射方叔吳潛、董槐、程元鳳、丁大全等、相繼いで、相となり、每歲、每歲防秋を以て常事と防秋を以て常事となす。す元の中書令耶律楚材、卒す。后嘗て儲嗣の事を以て、楚材に問ニふ、對へて曰く、是れ外臣の敢て知る所に非ず、自ら太宗遺詔の在るあり、守つて之を行はば、社稷の幸なりと。后、嘗て、御寶の空紙を以て、幸臣奧都刺合蠻に付し、自ら書塡して、之を行はしむ。楚材、天下は先帝の天下、評奏して曰く、朝廷自ら憲章あり。今、はる英文耶加備忠之を紊さむと欲す。臣敢て詔を奉ぜずと。事、遂に止む。復た旨あ眞一る貞國にり凡そ奧都刺合蠻の奏〓する所にして、令史之が爲に書せざる者の·せんていこと〓〓貫すは、其手を斷てと。楚材曰く、軍國の事、先帝悉く老臣に委す。皇后)にし祚をぜ元ふ稷る狄安きべの數仁んて令史、何ぞ與らむ。事、若し理に合はば、自ら當に奉行すべし。し臣等傑とい社若し行ふべからざれば、死、且つ避けず。況んや手を斷つをやと。后、其先朝の動舊なるを以て、曲げて、敬憚を加ふ楚材、天資英ま·邁負かに人表に出づ。案牘、前に滿つと雖も、酬答、其宜しきを南宋-理宗皇帝-스 十八史略卷之七仝失はず。色を正しうして、朝に立ち、勢の爲に屈せず。身を以て天下に徇ぜむと欲し、毎に國家の利病、生民の休戚を陳べて、辭色ミ懇切なり。太宗、嘗て曰く、汝、又、百姓の爲に哭せむと欲するかぎと。楚材、毎に言ふ、一利を興すは一害を除くに若かず、一事を生んは一若害を得を興除すずるは一事を減ずるに若かずと。平居、妄りに言笑せず、士人に接ずる一一生若をずするに及んで、溫恭の容、外に溢る。其德に感ぜざるなし。減ずるにかず元の便宜總帥汪世顯、卒す。世顯、兵を善くして、能く將たり。儒を重んじ、民を愛し、勤儉にして自ら持す、古名將の風あり。丙午、淳祐六年元の定宗、速蔑禿都に卽位す。定宗名は貴由、太宗の長子なり。母を六皇后といふ、乃ち馬眞氏。初め、太宗旨あり、皇孫失烈門を以て嗣となす。殂するに及んで后、朝に臨み、制を稱するもの五年、乃ち議して定宗を立つ。戊申、淳祐八年。元の定宗、戶位三年にして殂す。壽四十三。起輦谷に葬る。簡平皇帝と追諡す。元は、馬眞氏、朝に臨んでより以來、法制一ならず、內外心を離女主事を誤る。定宗、旣に殂し、皇后海迷失、子失烈門を抱き、簾を垂れて政後二年、を聽く。諸王大臣服せず。共に議して、太弟蒙哥を立つ。之を憲宗となす、卽位す。辛亥、淳祐十一年。元の憲宗、名は蒙哥、太祖の第四子拖雷の長子なり。之より先、諸大臣、届出の子失烈門を奉ぜむと欲す。久し南宋-理宗皇帝-八三 十八史略卷之七八八四こつらうかふたいおもうして、決せず。是に至つて、兀良哈歹、以へらく、太祖の諸孫、たけんそうけんしんくわつてうこつあらん惟だ憲宗のみ、謙愼、宜しく立つべしと。遂に大に濶帖兀阿蘭の地しつれつもんに會して、位に卽かしむ。失烈門、服せず。憲宗、因つて、諸王のいどうきびしゆばうしやちうい異同ある者を察して、並に之を覊靡し、主謀者を取つて、之を誅夷す。之に因つて、始めて定まる。よかいこうげんやぶ余玠、大に元人を興に敗る。たいていくびらいめいまうこかんちみんこそうち忽必烈元の憲宗、太弟忽必烈に命じて蒙古漢地民戶の事を總治せしめ、きんれんせんえうすうもん姚樞府を金蓮川に開く。之より先、姚樞、蘇門に陰居し、道を以て自らえんすういたそうめいふせいしゆつ任ず。太弟、之を召す。樞至る。太弟の聰明にして、オ、不世出、おのれむな己を虛しうして言を受け、將に大に爲すあらむとするを見て、乃ちそのへいじつまな(しよすう(たてまつはじめ其平日に學ぶ所を盡し、書數千言を爲つて、之を上る。首に二帝、がくなもとちじよちこくへいてんかたいけいる三王、學を爲すの本、治を爲すの序と治國平天下の大經を以て、彙るくしうしんりよくがくそんけんしんゐてんあいみんかうして八目となす。曰く修身、力學尊賢、親親畏天、愛民、好ぜんゑんねいじせいへいでうほんまつけんがいさいだい善,遠侫。次に、時政の弊に及び、條三十となし、本末兼該、細大の、たいていはなはうご遺さず。太弟太だ其才を奇とし、動けば必ず詢はる。してんたくてうへきかなんけいりやくし史天澤元、史天澤、趙壁を以て河南經略使となす。じんしていそうしつれつもんえふじやうことあら壬子、淳祐十二年。元の定宗の后及び失烈門の母、厭禮、事覺はほつだつせきれしを以て、死を賜ひ、失烈門及び其黨を沒脫赤の地に謫す。どうせいくわん六月、元の憲宗、中州の漢地を以て同姓を封ず。太弟、汴京、關ちうえらえうすういはかうつつね中に於て、自ら其一を擇ぶ。姚樞曰く、南京は、河徒つて常なく、南宋-理宗皇帝-八八五 十八史略卷之七公式つちうすみづあさしやろこれ土薄く、水淺く、潟鹵之に生ず。關中に若かず。其田、上の上、古てんふりくかいつひしへより、天府陸海と名づくと。太弟、遂に關中を請ふ。之に由つくわんちうかなんて、太弟、關中、河南の地を有す。きちうはういうぐわんねんしせんせいちしよかいよくわいしせんせん余玠卒す癸丑、寶祐元年四川の制置使余玠、卒す。余晦を以て、四川宣ゆし諭使となす。くびらいだいりこく元の忽必烈、大理國を平らぐ。かふいんよくわい世大正しこんふそう甲寅、寶祐二年。時に、余晦、四川に宣撫たり。私恨を以て誣奏りろあんぶわうゐちうだいりちんたいはうむねす、利路安撫王惟忠、ひそかに北境に通ずと。大理の陳大方、旨をたんせいゐちうまさしきいろへん承けて、之を鍛成す。惟忠、將に市に斬られむとするや、色變ぜず、たいはういうつたちぎやく大方に謂つて曰く、吾、死せば、天に訴へむと。旣に斬るや、血逆りうのぼいまいくばくたいはうにふてうくわうこつるちう流して上る。未だ幾ならずして、大方入朝し、恍惚として、惟忠とかんはうだいがしよくをさ還り、遂に卒す。之より先、朝廷、彭大雅を用ゐて蜀を理めしむ。ゐめいかさぢうけいじやうきづよかいしよくぐんへいくわう甚だ威名あり。重ねて重慶城を築く。余玠、蜀郡 平曠の地を遷しけんえうがふしうてうぎよざんるゐて、險要を分治す。合州に釣魚山を治むるの類の如し。蜀に在るこよよくわいとんべうと二十年。民、藉つて以て安し。余晦に至て、貪繆功なく、敗れてくわしうしゆりうゆうひしせんせいちこえいいんし要地を失ふ。和州の守劉雄飛を以て、四川制置となす。胡穎、淫祠ごとこぼだくわうとうけいりやく胡打鬼を見る每に、卽ち之を毀つ。人之を胡打鬼といふ。廣東に經略たくわうぶつじきよださいしり廣に佛寺あり、佛像中、巨蛇あり、時に出でて、人の祭祀を享すうびんえいぶつく。價、之に托し、疏を題して數千を得たり。頴至つて、佛をこぼだそのくわい毀ち、蛇を擊つ。其怪、遂に息む。南宋-理宗皇帝-公 十八史略卷之七父丙辰、寶祐四年。高麗王細差甫、雲南の曾長摩合羅嵯、及び素州諸國、元に朝す。元の憲宗、城市を建てて都會の所となさむと欲す。太弟、忽必烈劉乗忠言ふ、劉秉忠、天文地理の術に精しと。乃ち命じて、宅を相せしむ。秉忠、桓州の東、欒水の北の龍岡を以て、吉となす。乃ち秉忠かに命じて、之を營せしめ、名づけて、開平府といふ三年にして、功を畢る。心を元評丁巳、寶祐五年。元、囘體水精盆、珍珠傘を獻ず、銀三萬餘錠を却文帝に直すべし。憲宗曰く、方今、百姓疲弊、急なる所のものは錢の馬を相へ里似すの心ゐ。朕獨り此あるも、何ぞ用ゐむと。之を却く。仁十月、元の兀良哈歹、安南を伐つて、其城を屠る。君の志古今同軌といふ戊午、寶祐六年二月。安南王、國を長子光〓に傳へ、使を遣し、方物を以て元に獻ず。元、囘囘哈里發を討つて、之を平らぐ。九月、憲宗、親ら大軍を帥ゐて蜀に入り、苦竹隘を攻む。宋の守將楊立、張實、之に死す。ミこの時、元人、勢流に順つて東下せむと欲す。一軍は大理國斡服の南より來り、色桂の境を經、以て潭州に至り、一軍は江を渡つてか、鄂州を圍む。賈似道丁大全を罷め、吳潜を以て左相となし、軍中に卽いて、賈似道を拜して右相となす。趙葵は樞密策應使たり、杜庶は兩淮制置たり、南宋-理宗皇帝-八八九 十八史略卷之七八九〇夏貴は舟師を總領す。呂文德等、風に乘じて、戰つて勝つ。潜、向〓十士壁を以て、潭を守らしむ。適ま南來の二哥元帥、宋の候騎に遇うか〓て死す。潭の圍、先づ解く。高達等、鄂を守り、似道、漢陽に駐まつて、鄂の援となる。か、己未、開慶元年元の憲宗、合州を圍み、使を遣して、守將王堅を招諭せしむ。堅、使者を殺し、固守して、之を拒ぐ。元の憲宗殂す七月、元の憲宗、釣魚山に殂す、在位九年、壽五十二。後に追諡して、桓肅皇帝といふ。憲宗、剛明雄毅、沈斷寡言、宴飮を樂まず修靡を好まず、后妃と雖も、亦た制置に過ぎす。太宗の末年、群臣、權を擅にし、政多門より出づ。憲宗に至つて、凡そ詔旨必ず親ら起草し、更易すること數囘、然る後に、之を行ふ。群臣を御すること甚だ嚴、嘗て諭して曰く、汝輩、若し朕の奬諭を得れば、卽ち志氣驕逸して、災禍未だ隨つて至らざるものあらず。汝輩それ之を戒めよと。時に、太弟、進んで鄂州を攻む。宋の守將張堅守つて下らず、遂に之に死す。似道、漢陽より鄂に至り、師を督す。而して、太弟忽必烈、城を攻むること、益す急、城中、死傷する者、萬三千人に至る。似道、大に懼れ、密に宋京を遣して、元營に詣らしめ、臣と稱し、幣を納るるを請ふ。太弟、許さず。會ま、合州の守王堅、人を遣して、鄂に走らしめ、憲宗の訃を以て似道に聞す。似道、再び宋京を遣して南宋-理宗皇帝-八九一 十八史略卷之七八九二元營に往かしむ。太弟、亦た阿里不哥が尊號を襲がむと欲するを聞く郝經曰く、若し、彼果して遺詔と稱し、便ち位號を正し、詔を中原に下し、赦を江上に行はば、歸らむと欲するも得むや。願はか、くは大王、社稷を以て念となし、師を班して、和を議し、輜重を置き、輕騎を率ゐて歸り、直に天都に造り、二軍を遣し、大行の靈界を逆へ皇帝の璽を收め、使を遣して、旭烈、阿里不哥諸王を召し、和林に會葬し、官を諸路に差し、安輯して、王の長子眞金に命じて、燕都を鎭守し、示すに形勢を以てせば、大寶歸するあつて、社稷安からむと。太弟、之を然りとし、乃ち似道に之を許し、且つ歲幣の數を約し、遂に寨を拔いて去り、張傑、闇旺を留め、偏師を以て、湖南兀良哈歹の兵を候せしむ。元世祖卽位庚申、景定元年元の世祖、名は忽必烈、憲宗の同母弟なり。憲(西紀一二六〇)宗、旣に殂す。阿藍荅兒、渾都海等、世祖の弟阿里不を立てむを謀る。憲宗の后、之を聞き、使を遣し、馳せて鄂に至り、請うて速に還らしむ。三月、開平に至る。諸王大臣、同じく、勸進す。三讓して、乃ち位に卽く。元の元良哈歹、張傑に鄂州に會し、師を帥ゐて北に還る。宋の賈似道、夏貴に命じ、其後軍を新生磯に敗り、遂に其和を議し、臣と)稱し、幣を納るるの事を匿し、表を上つて言ふ、鄂の圍、始めて解け、江面肅〓、宗社危くして復た安し、實に萬世無疆の休なりと。南宋-理宗皇帝-八九三 十八史略卷之七八九四おもじだうさいざうはうびしやうらいはな帝、以へらく、似道、再造の功ありと。詔を下して褒美し、賞資甚あつだ厚し。あふかからこるむじやうきよくせんがう元の阿里不哥、和林の城曲に僭號す。ちうとうけんげん五月十九日、元、中統と建元す。ちうとうやうせうす中統交鈔を進む。元の世祖、自ら將として、阿里不哥を討つ。れんきけんせいぐんざうあらんたるおよこんとかい廉希憲元の廉希憲、大に西軍を姑臧に敗り、阿藍荅兒、及び渾都海を斬る。げんぼんそうはがふすはこくし元、梵僧八合思八を以て國師となす。ちかひたづか郝經元郝經を遣し、來つて盟を尋ねしめ、且つ前日和を請ふの議をちようかじだうてうかへそのかくれうえいちうふくくわへんせん徵す。賈似道、旣に朝に還り、其客廖營中をして福華編を撰して、がくこうしようしやう鄂功を稱唱せしむ。朝廷、其和を求めしことを知らざるなり。れんきげんよしみかう元の世祖、旣に立つ。廉希憲、使を遣し、以て兵を息め、好を講ほくきおんゐならびあらじ、軍に命じて北歸せしめ、恩威並に著はさしめむことを請ふ。世わうぶんとうかくけい祖、之を善しとす。然も、未だ其人を得ず。王文統、素より郝經のさいとくいけい才德を忌み、乃ち經を遣して行かしむ。或ひと、經に謂つて曰く、盍やまひけいいはかまこうわいゐれいんぞ疾を以て辭せざる。經曰く、南北難を構へてより、江淮の遺黎よふりやくさうげんやへいつらなくわむす弱き者は俘略せられ、壯なる者は原野に死し、兵連り禍結ぶこと、せいじやうしどうじんよしみつうつとび聖上一視同是れ亦た多し。聖上、一視同仁、兩國の好を通ぜむことを努む。微仁えんいやしやす軀を以て不測の淵をたい蹈むと雖も、苟くも、能く兵を强め、亂を靖ん南宋-理宗皇帝-八九五 十八史略卷之七八九六す、たじ、百萬の生靈を鋒鋼の下に活かさば、吾が學、用ありとなすと。陰に李壇に諷し、う遂に行く。王文統、宋を侵し、以て之を沮撓せしめ、手を假つて以て經を害せむと欲す。經、淮を踰ゆ。賈似道、姦謀の呈露するを懼れ、遂に李壇を以て辭となし、經を眞州の忠勇軍營に拘留し、驛吏防守、獄〓よりも嚴。介佐、或は堪ふる能はず。經之に語つて曰く、命を將つて此に至る、死生進退、其彼に在ること〓〓評いきを使なに聽かす。盡く其れ我に在り、豈に能くはしのし君里烈節を守つて屈せざるは、士て千にに不忠不義、以て中州の士大夫に耻かしめられむや。但だ、公等不幸め命ふる恥かもベ須らく死を忍び、以て待つべし。之を天命人事に揆るに、宋祚殆んど遠からずと。衆其言に感じて、皆自ら振勵す。帝、北使あるを聞き、宰執に謂つて曰く、北朝、使來らば、事體さいかる〓〓當に議すべしと。似道、奏す、和は彼の謀に出づ、豈に一切輕しく徇ふべけむや。若し、隣國に交るの道を以て來らば、當に入つて見えしむべしと。賈似道、闘臣を忌害す。兵退いて、費用を打算するの法を行ひ、此を以て之を汚さむと欲す。向士壁、趙葵、史巖之、杜庶等、皆、侵盜掩匿に坐し、官を罷めて償を徵す。而して、士壁、償ふ所、尤も多く、竟に安置されて死す。復た其妻妾を拘へ謝枋得て、之を徵す、尙ほ足る能はず。信州の謝枋得、趙葵の檄を以て、錢粟を給し、民兵を募つて守禦す。枋得曰く、以て趙宣撫を累すべからざるなりと。自ら萬緡を償ふ、餘は辨ずる能はず。乃ち似道に南宋-理宗皇帝-八九七 十八史略卷之七灸上書して云ふあり、千金を以て募つて木を徒し、信を市人に取らむとし、二卵を以て干城を棄つ。豈に隣國に聞かしむべけむやと。遂に餘を徵するを免ずるを得たり。呂文德、〓湖に制置として鄂州に知たり。辛酉、景定二年瀘州の守劉整、叛いて元に降る。之より先、遷(蹕の儀を止むる者は吳潛、守城の力を盡す者は向士壁、斷橋の功を奏する者は曹世雄、劉整。旣にして、似道、功を妬み、士壁、世雄を讚し、皆貶死す。整旣に禍を懼る。而して、蜀帥鄭興復、宿憾を以て、吏を遣して、瀘に至らしめ、軍前の錢粮を打算せしむ。適ま、北軍境を壓す、遂に叛き去る。元、軍中俘とする所の儒士に命じて、贖うて民となすを聽るす。七月、元、始めて、翰林國史院を立つ。諸路提擧學校官を立つ。元の諸將、西軍を敗る。阿里不哥、北に遁る。元、皇子眞金を封じて燕王となし、中書省事を領せしむ。さ壬戌景定三年呂文德、瀘州を復す。と、元の江淮大都督李壇、京東漣海を以て來歸す。詔して、壇を封じて、齊郡王となし、其父全の官爵を復す。元の宰臣王文統、壇と謀を通ずるに坐して誅に伏す。元の史天澤、李壇を濟南に圍む。壇、復た元に降る。元人、之を南宋-理宗皇帝-八九九 十八史略卷之七九〇〇誅す。元、董文炳を以て山東路經略使となす。元、十路宣慰司を立て、諸路轉運司を立つ。癸亥、景定四年二月。え元、王德素を以て使となし、劉公諒を副となし、書を致し、來つて、其都經を稽留するの故を詰る。三月、元、始めて太廟を建つ。五月、始めて、樞密院を立て、太子燕王眞金を以て中書令に守たらしめ、かいへいふ兼ねて、樞密院事を判す。開平府を以て上都となす。元、姚樞を以て中書左丞となす。樞曰 陛下、基業に於ては守成となし、治道に於ては創始となす。正に宜しく親族に睦まじくし、以て本を固くし、儲副を建て、以て祚を重くし、大臣を定めて、以て國に當らしめ、經筵を開いて、以て心を格し、邊備を修めて、以て虞を防ぎ、粮餉を蓄へて、以て歉をす待ち、學校を立てて、以て才を育し、農桑を勸めて以て生を厚くすべしと。世祖、之を納る。文德黑灰團呂文德、瀘州を復す。文德、黑灰〓と號す。劉整、元に獻言してと號す曰く、南人、惟だ黑灰團を恃む。然れども、利を以て誘ふべしと。乃ち、使を遣し、玉帶を文德に獻じ、権場を襄城外に置かむことを求む。文德、之を許す。使曰く、南人信なし、願はくは、土城を築いて、以て貨物を護せむと。文德、許さず。使者、復た至る。文一)德、朝に請うて、之を許し、権場を樊城外に開き、土城を麓門山南宋-理宗皇帝-九〇一 十八史略卷之七九〇二外に築き、互市を通じ、內に堡を築く。文德の弟呂文煥、欺かるるを知つて、再び制置に申す、吏に匿さる。元人、又、白鶴城に於て第二堡を築く。文煥、再び申す。文德、大に驚いて曰く、朝廷を誤る者は我なりと。卽ち請うて、自ら赴き援く、會ま病んで卒す。甲子、景定五年。七月、彗星、長さ十數丈、芒角天を燭す、四更より東より見はれ、高くして方に歛まる。月餘乃ち見えず、楊棟、上因つて指して蚩尤旗といひ、之に因つて、論に遇うて、國を去る。八月、元、燕京を以て、中都大興府となす。劉秉忠、都を燕に定めむことを請ふ。世祖、之に從ふ。元、至元と改元す。時に阿里不哥の兵、屢ば敗る。是に至つて、諸王玉龍、答失罕、速帶、音里吉合、及び其謀臣不魯花、脫忽思等と來歸す。詔す。諸王は、皆太祖の裔なりと。並に釋して問はず、其謀臣不魯花のみ誅に伏す。元、諸路行中書省を立つ。西紀一二六冬十月。上、崩ず。在位四十一年。改元するもの八、寶慶、紹定四は、彌遠十年の政、端平の初元には、善類朝に滿ち、眞德秀、魏了翁あつて、執政侍從人たり、以て慶曆、元祐に比す。嘉禧より以後淳祐に至るまでは、嵩之、數年の政あり。嵩之、旣に去り、淳祐より寶祐に至るまでは、正人、邪を指して邪となし、邪人、正を指して邪となし、互に消長をなす。而して狼狽すること、開慶丁大全の南宋-理皇宗帝-九〇三 十八史略卷之七九〇四政に如くはなし。景定と改元あるや、大全と吳潜と人品同じからずおの〓〓ざんと雖も、各竄を以て死し、似道、獨り相たり。遂に國政を執る。末年、寝や君臣相猜むの跡あり、未だ更變するに及ばずして崩ず、から、壽六十一上、臨御以來、終始、周程張氏及び朱張呂氏義理の學を1崇奬す、故に廟を理宗と號す。太子立つ、之を度宗皇帝となす。【度宗皇帝】初名は孟啓、福王與丙の子、理宗の猶子なり。理宗、rs子多けれども育せず、孟啓を宮中に鞠ひ、孜と改名し、又祺と改名し、立てて皇子となし、忠王に封ぜらる。旣にして、儲に建て、〓と改名す。歲の甲子、位に卽く。時は則ち、蒙古部、國を大元と號し、至元と紀元するの初なり。賈似道、政を專にして平章軍國重ざ事魏國公に進み、相を立てて、以て自ら副とす。臨安府の士人、葉李、蕭規等、上書して、似道が權を專にし民を害し國を誤るを譏る。似道怒り、他事を以て、罪して遠州に竄す。まちに馬延鸞、留夢炎に詔して、侍讀を兼ねしめ、表面に陳宗禮、范東叟、侍講を兼ね、何基、徐幾、宗政殿說書を兼ぬ。元、王盤を以て翰林學士承旨となす。伯顏乙丑、咸淳元年元、安童を以て右丞相となし、伯顏を左丞相となし、劉秉忠を以て太保となして、中書省事に參せしむ。丙寅、咸淳二年呂文煥、襄陽を守る。元人、互市を開いてより以來、城を築き、堡を置き、江心に萬人臺、撒星橋を起し、以て南南宋-度宗皇帝-九〇五 十八史略卷之七九〇六と兵の援を遏め、時に師を出して、襄樊城外を哨掠し、兵威漸く振ふ。似道、第を西湖の葛嶺に建てて、自ら娯む。五日に一たび湖船に乘じて入朝す。堂に赴いて事を治めず、吏、文書を抱いて、第に就いて呈署し、他相は紙尾に書するのみ、內外諸司の彈効薦辟擧削、關白關白するに非ざれば、敢て行はず、一時正人端士、斥罷殆んど盡く吏、爭つて、賂を納れ、以て美職を求め、帥聞監司郡守たるを評賈塞似道言圖る者、貢獻、勝げて計るべからず。趙滑輩、爭つて、寶玉を獻ず。路をぎ君貪風大に肆に、兵、外に喪へども、匿して以聞せず、民、下に怨主を早熟かきヒレし國を早かむむも、誅責無稽、敢て言ふ者なし。元、制國用使司を立て、阿合馬を以て使となし、世子南木合を封じて北平王となす。日本國王に書を賜ふ日本國王に書を賜ふ。始めて、官吏の俸及び職田を給す。元、太子忽哥赤を封じて雲南王となす。丁卯、咸淳三年。元、史天澤を以て左丞相となし、忽都答兒、耶5律鑄、降つて平章政事となり、伯顏は右丞に降り、廉希憲は左丞に降る。戊辰、咸淳四年。襄陽、圍を受く。文煥、急を告ぐ。高達、范文총虎をして、赴き援けしむ。道通ぜず。二將、亦た命を用ゐず。南宋-度宗皇帝-九〇七 十八史略卷之七九〇八さ三學の士人、上書して、諸道の兵を調し、力を併せて、襄を救はむを乞ふ。報ぜず。弓量を以て田畝を推排す。葉夢鼎、位を辭す。允さず。徑に去る。江萬里、馬廷鸞、相となる。しんせいまうこ元、御史臺及び諸道提刑按察司を立て、新製蒙古字を行ひ、僧八合思馬を更號して帝師となし、堡を鹿門山に築き、諸路蒙古字學を立つ。庚午、咸淳六年。江萬里、援兵を請うて襄を救ふ。議合せず。罷めて去る。上、一日、似道に問うて曰く、襄陽圍を受くる三年、奈何。對へて曰く、北兵、既に退く、陸下、何人の言を得たる。上曰く、適ま女嬪之を言ふありと。詰問し、誣ゆるに他事を以てして死を賜ふ。之より、敢て變事を以て言ふ者なし。、似道、權人主を傾け、諛者、動もすれば周公、成王を輔くるしんわうぐわいせきくわんぐわんきんじふを以て之に擬し、親王外戚宦官近習皆箝制せられて、敢て恣にせず、當世の望士も、亦た引用し、朝に登して儀羽となす。然も服心在らず、在外の監守郡司も、亦た廉介を參用し、其人に非ずして進むを得たる者は、各、蹊徑あり、最も吝賞誅貨を以て、將帥の心を失ふ。劉整、北に降り、策を獻じて、東南を取る。謂ふ、緩く南宋-度宗皇帝-九〇九 十八史略卷之七九一〇取れば、經營して蜀よりして下らむ、急なれば襄淮より直に進めと。時に、諸將、北に降り、國の虛實を知る者、相繼ぐ。似道、方ほに太平を粉飾するを以て事となし、略ぼ意を加へず。元の平章評政事廉希憲、罷む。世祖、嘗て帝師の戒を受けしむ。希皆び衡元史劉廉き言初天乗希も行の澤忠憲の傳名は及許憲、對へて曰く、臣、旣に孔子の戒を受く。世祖曰く、汝の孔子も臣其亦た戒ありや。對へて曰く、臣とならば當に忠なるべく、子となれ多ふば當に孝なるべし、是れなりと。方士あり、大丹を鍊らむを請ひ、中書に敕して、其需むる所を給す。希憲奏して曰く、前世人主、多く方士に誰惑せらる。堯舜壽を得るは靈を大丹に假らざるなりと。許衡世祖、之を善しとす。許衡を以て中書左丞となす。時に、阿合馬、權を專らにし、上を無し、國を蠧し、民を害し、嘗て其子を以て兵し 評順番多い柄を典らしめむと欲す。衡曰く、國家の事權は、兵民財の三者の權は兵民財み父、尙書省に位し、民を典り、財を典り、而して、又兵を典る、甚だ重し。世祖曰く、卿阿合馬の反を慮るか。衡、對へて曰く、是れ反道なり。古しへより、奸邪未だ此に由らざる者あらずと世祖、衡の語を以て、阿合馬に語る。阿合馬、之に由つて、衡を怨む。辛未、咸淳七年。元の劉秉忠、許衡、定むる所の朝儀を進む。司農司を立て、張文謙を以て司農卿となす。水軍七萬を〓へ、戰艦五十三を造り、環城を築き、以て襄陽に逼南宋-度宗皇帝-九一一 十八史略卷之七九一二る。許衡を以て集賢大學士國子祭酒となす。評十月、國を建てて、大元と號す。詔に曰く、誕に景命に膺り、四す深辭る大ベ遠雄の元と詔書藻文す;必ず美名あり。百王に紹いで、統を紀し朗渾々詞海を奄うて、以て尊に宅る、誦す、肇めて隆古に從ふ、獨り我が家のみに非ず。且つ、唐の言たる歩虞の言たるや樂なり、や蕩なり、堯、之を以て著稱す。舜之に因つて號となして馴致す。西、興つて湯造す、互に夏大と殷中とを以た。て名とす。世降つて以還、事殊に古しへに非ず。時に乘じて國を有つと雖も、義を以て制を稱せず。秦となし、漢となすもの蓋し初起の地名に從ひ、隋といひ、唐といふもの、又、始封の爵邑に卽く是れ皆百姓見聞の狃習に徇ひ、一時經制の權宜に要せらる。か〓するに至公を以てすれば少貶なきを得むや。我が太祖聖武皇帝、乾符を握つて、朔土より起り、神武を以て、帝圖に膺り、四に大聲を振ひ、大に土宇を恢にし、興圖の廣き、歷古無き所、頃ろ耆宿、廷に詣り、奏章伸請して謂ふ、旣に大業を成す、宜しく早く鴻名を定むべしと。古制に在つて、以て當れり。然れども、朕の心に於て何か有らむ。國號を建てて大元といふべし。蓋し、易經乾元の義にあ·た取る。是に大に治まり庶品に流形す。孰れか資始の功を名づけむ。上子一人寧を萬邦の爲に底さん。尤も仁を體するの要切なり。事、革に從ひ、道。天人に協ふ。於戯、義に稱うて名づく、素より、之南宋-度宗皇帝-九一三 十八史略卷之七九一四が溢美を爲すに非ず、孚に休し、惟れ永し。尙ほ艱に投ずるに負かあず、敷天と共に大號を隆にするを嘉す。咨、爾有衆、予の至懷を體せよと。太保劉秉忠の議に從ふなり。評壬申、咸淳八年。葉夢鼎、再び相たり。似道と意合はざるを以て年を一にく腸圍く善無呂る六去る。國家大學教育大學とにに年善而煥きな元而い古耐の戰し孤襄陽、陷る。之より先、理宗の初年、襄陽は制臣撫御を失するをし以て、王旻、亂を作して陷るを致す。謝方叔、相となり、李曾伯に將を遣して、北方も亦た苦爭せず。降もべ獨喩し、之を取らしむ。劉整の策おんまいで行はるるに及び、重兵、襄陽を圍む。呂文煥、城を守ること六年、な惜扞禦備さに至る。然も、似道、肯て調援せず、粮食未だ乏しからを事てる平もずと雖も、衣裝薪蒭、措辨する所なく、盧舍を轍して薪となし、關粉似のに亦想り援れしす太も情ばにざ救是に飾道急楮を緝めて衣となすに至る。援兵至らず、遂に城を以て降つて、元かしす掬すの致と擁情さして52人の用となる。にざ救な値一到しば賈似道、章を累ね、出でて督せむとし、陰に朝廷を諷して、之を老闆奶茶留めしめ、卒に行かず。重にらず元、尙書省を併せ、皇子忙哥剌を封じて安西王となす。文天祥直學士院文天祥、致仕す。初め、賈似道、疾と稱して致仕を乞ふおや、以て君を要すとなす。似道、張立志に諷し、効して之を罷む。な天祥、遂に錢若水の例を引いて、致仕を乞ふ。時に年三十七。癸酉、咸淳九年。平地に白毛を產す、銀線菜の如し。臨安、尤も南宋-度宗皇帝-九一五 十八史略卷之七九一六多し。元、樊城を侵す。守將張漢英及び都統制范天順、牛富、之に死す。評○○番地り元元の國子祭酒許衡罷むるを乞ふ。之を許す。衡家に居て勤儉、自治に强、公愛兼盡、嚴ならざるも整、閨門の内朝廷の若く然り。夫婦相待つこと、賓の如し。凡そ、喪葬一に古制に遵ひ、佛老を用ゐず、懷孟の閒之に化す。旁舎に僧德公といふ者あり、年百餘歲。嘗て其徒に謂つて曰く、老僧、苦行百年、亦た佛となる能はず、徒に不孝の人となり、祖宗を地下に見るを羞づ。但だ、願はくは、小僧輩、還俗以て汝が祖宗の嗣を壽せよと。之より復た弟子を度せず、蓋し之に化するなり。え甲戌、咸淳十年。賈似道、母の憂に丁る、隨つて起つて復す。陳宜中陳宜中、僉書樞密院たり。七月、上、崩ず。在位十年。咸淳と改元す。壽三十五。似道、皇子暴を立つ、年四歲、之を孝恭懿聖皇帝となす。「孝恭懿聖皇帝】名は黒、皇后全氏の出なり。太皇太后謝氏、朝に臨んで詔を稱す。德祐と改元す。兄建國公是を封じて吉王となす、弟永國公〓を信王となす。元の太保劉元の太保劉秉忠、卒す。秉忠、天下を以て己の任となし、知つて秉忠卒すさおの!言はざるなく、言つて聽かれざるなく、其人才を薦むる、各、器に稱ふ。開平に城き、燕都に城かしむるや、皆、秉忠、其地を相す。南宋-度宗皇帝-孝恭懿聖皇帝ー九一七 十八史略卷之七九一八是に至つて疾なくして、端坐して卒す。世祖、聞いて驚悼して、群臣に謂つて曰く、秉忠、朕に事ふる三十餘年、小心愼密、其陰陽術數の精は、唯だ朕のみ之を知ると。元、中書平章史天澤、中書左丞相伯顏に命じ、諸軍を帥ゐて南侵す。陛辭するや、世祖、之に諭して曰く、古しへの善く江南を取る者は、唯だ曹彬一人のみ。汝能くん、史天澤卒す不殺なれば、是れ吾が曹彬たりと。天澤、疾あつて還り、尋いで卒す。之より先、世祖、醫を遣して、馳せて視せしむ。天澤、附奏して曰く、臣、大限終あらむ、死は惜むに足らず。唯だ願はくは、天兵江を渡るとき、殺掠を以て戒となせと。言訖つて卒す。天澤、忠亮にして大節あり、將相に出入すること五十年に近く、四朝に柱石)として百辟に師表たり、社稷の臣といふべし。其富貴權勢を視るや、跡を歛めて退避し、將に之に漁されむとするものの若し。故に能く始を善くし、終を令くし、開國の元臣となる。元の伯顏丞相、大に兵を襄樊に會す。九月、降人劉整を以て騎兵を領して淮泗より出でしめ、呂文煥、舟師を領して襄陽より出でしめ、先を爭うて向導し、水陸並に進み、沙市の新城を攻む。都統邊居誼、所部三千人を帥ゐて、力戰して之に死す。策應使夏貴、力戰す。元兵、其不意に出づ。兵敗る。西南岸に沿ひ、火を縱つて、廬州に歸る。宣撫使朱機孫、重兵を提げ、戰はずして、江陵に歸る。鄂州、降る。南宋-孝恭懿聖皇帝-九一九 十八史略卷之七きつ天目山、崩る。天下に詔して、勤王せしむ。乙亥、德祐元年元の伯顏、阿里海牙を留め、兵四萬を以て、鄂を守らしめ、而して、阿朮と、大軍を率ゐて江を渡り、流に順つてず東に下る。時に沿江の諸將、呂氏の部曲多く、風を望んで降附す。江州降る、運使錢眞孫、自ら縊る。と似道、軍馬を都督し、遷延して出でず。兵、旣に建康に下ると聞き、始めて、諸軍を率ゐて、行在を發し、迂道して行き、數日、始にめて蕪湖に達し、將に安慶府に趨り、下流の師を牽制せむとす。未だ至らざること三日、安慶の帥范文虎は、呂氏の婿、旣に降り、將士復た固志なし。似道、官資を竭轉するを許す。諸軍詬つて曰く、た官資を要して甚を做さむ。巳未庚申の官資、何に在ると。似道答ふる能はず。鑼を鳴らす一聲、兵を珠金砂に退く。十三萬の衆、一時に潰散す、似道、奔つて、揚州に入る。江西提刑文天祥、兵を募つて勤王す。天祥は、吉州廬陵の人、丙辰進士の第に魁たり。殿帥韓震、劫して都を遷さむを謀る。陳宜中、計を以て之を誅す。趙〓發夫妻池州破る。通守趙〓發、將に死せむとす。其妻と訣る。妻曰く、忠死す卿能く忠臣たり、妾、顧みて忠臣の妻となる能はざらむやと。昂南宋-孝恭懿聖皇帝-九二一 十八史略卷之七九二二發、喜んで、衣冠を具し、共に倶に縊る。明日、伯顏、城に入つて之を憐み、衣棺を具へて葬る。·ア建康、破る。趙淮、之に死す。京師、戒嚴す。朝臣、踵を接して、宵に遁る。王爚、陳宜中等、似道が不忠不孝の罪を効す。宜中、もと賈の恩を受く。是に至つて亟に賣を効して以て自ら解く。評要用途無大阪府左衛門似道、貶に赴く。鄭虎臣、父の仇を以て、監押して漳州に至り、亡ぼし身亦第三十五年厠上に卽いて、其胸を拉して之を殺す。···あああああベ張世傑、兵を以て入衞す。元兵、境に在り。陳宜中等、惟だ賣の黨を攻擊するのみ、略ぼ備禦の策なし。司馬夢求、江陵の沙市鎭を監す。力戰して死す。諸帥を徵して、入衞せしむ。夏貴、省萬壽、黄萬石等、至らず。ぐわつかうしんさく六月庚申朔、日蝕晦冥、雞塒に棲み、咫尺人物を辨ぜず、巳さより午に至り、明、始めて復す。留夢炎、相たり。評文天祥器文天祥、民兵峒丁、二萬餘人に將として入衞す。夢炎と意相樂ま局狹少ず、尙書を以て、江浙制置に降し、吳門を守る。州郡、しきりに降る。元兵、臨安を距ること百里、獨松關、急張世傑を告ぐ。時に張世傑の軍五萬、諸路勤王の兵四十餘萬。天祥、世傑もと議す、兩軍堅く聞廣を守り、全城の王師血戰し、萬一捷を得ば、南宋-孝恭懿聖皇帝-九二三 十八史略卷之七九二四猶ほ爲すべきなりと。世傑、大に喜び、議して師を出す。宜中、王師を以て、務めて持重し、詔を降して、之を沮み、使を遣して、和を乞ふ。天祥等に詔して、兵を罷む。ご潭州、陷る。時に、一軍は湖南より潭州を圍む。守臣李帯、戰守屢ば捷つ。八九月を經て、城將に陷らむとし、闔門、之に死す。丙子、德祐二年。正月、秀王與睪、皇兄益王星、皇弟廣王〓等を奉じて海に航す。世傑、朝を去る。元兵、高亭山に駐まる。都城を去ること三十里。宜中、夜、遁る。文天祥、右丞相たり、辭して拜せず。賈餘慶、吳堅、相たり。天祥、出でて軍前に使す。辭氣慷慨、議論して屈せず。伯顏、之とを留む。賈餘慶三宮元兵、臨安に入る。賈餘慶等、三宮を奉じて以て降る。手詔してを奉じて元に降る諸路に諭して、內附せしむ。伯顏、宰執を遣し、先づ大都に赴かしむ。天祥、亦た舟に登つて北行し、鎭江に至り、間を得て逸し去る。三宮、北に遷る宮室、尉馬、宮人、內侍、太學生等數千人、皆南宋-孝恭懿聖皇帝-九二五 十八史略卷之七九二六遣中に在り。眞州を過ぐ。守苗再成、駕を奪はむとす。幾んど遂げむとして克たず。五月、宋帝、上都に至り、瀛國公に降封す。帝、在位二年、改元즐するもの一曰く德祐。益王、廣王、海道より溫州に至る。蘇劉義、陸秀夫、來り會し、陳宜中、張世傑、海舟を以て福州に至る。謝太后の手詔を宣し、二王を以て天下都副元帥となし諸路の忠義を召す。五月朔、陳宜中、陸秀夫、張世傑等、共に益王是を立てて帝となし、福州に卽位す。之を端宗皇帝となす。【端宗皇帝】名は是、孝恭懿聖皇帝の兄なり。位に卽いて、景炎と改元し、はるかに、帝に尊號を上つて孝恭驚聖皇帝となし、太皇太后を壽和聖福至仁太皇太后となし、皇太后を仁安皇太后となし、度宗の淑妃楊氏を皇太后となし、同じく政を聽く。廣王〓を封じて衞王となす。陳宜中、左丞相たり。張世傑、少保たり。5文天祥、至る。右丞相に除せらる。宜中、世傑と異意なるを以てあ、肯て拜せず。九月、天祥、督を南劍州に開き、兵を募つて數千を得、遂に郡武さ軍を復す。冬十月、天祥、師を帥ゐて、汀州に次す。興化軍の通判張日中等來り會す。時に、贛寇猖獗江聞廣の路を血にす。日中南宋-端宗皇帝-九二七 十八史略卷之七九二八おの?等、天祥が開督勤王するを聞き、遂に各兵を起して來り應ず。天ニ祥趙時賞、張日中、趙孟深を遣し、一軍を將ゐて〓に趨かしめ、以て寧都を取り、吳浚を遣し、一軍を將ゐて、雪都を取る。劉洙、じ.蕭明哲、陳子敬、皆、江西より兵を起して來り會す。鄒源、元人と寧都に戰つて敗績す。武崗〓授羅開禮、兵を起してえ文永豐縣を復す。亦た死す。天祥、爲に服を製して哭す。十一月、元の阿刺罕、董文炳、建寧府に入り、遂に福州を侵す。宜中、世傑、帝及び衞王、楊太后等を奉じて、海に航し、潮州より廣州に至り、富陽に趁き、謝女峽に遷る。丁丑、景炎二年阿刺罕、汀州に入る。文天祥、漳州に奔る。入衞を謀れども、道阻して通ぜず、江廣の間に往來し、戰つて勝負あり。吳浚、元に降り、因つて、漳に趁き、天祥に說いて降らしめむとす。天祥、責むるに大義を以てして、之を誅す。三月、文天祥、梅州を復す。四月、天祥、興國縣を復す。五月、張世傑、潮州を復す。天祥、梅州より江西に出で、遂に會昌縣を復す。趙時賞、張日中の兵と、皆、之に會す。元廉希憲卒す元の中書政事廉希憲、卒す。希憲、江陵に在り、遠近化に向ふ。南宋-端宗皇帝-九二九 十八史略卷之七九三〇疾あつて召し還るるに及びて、民、皆、涕を垂れて擁し送り、祠を建て、像を繪いて、以て之を祠る。世祖、歎じて曰く、復た大事え評伯顏の廉を決する廉希憲の如き者あるなし。伯顏、亦た曰く、廉公は宰相中當れの眞に希憲の眞宰相、男子中の眞男子と。世、以て名言となす。六月、天祥、元人を雪都に敗り、遂に興國縣に次す。秋七月、張ニ;日中、趙時賞等をして、師を帥ゐて、吉贛諸縣を復せしめ、遂に贛州を圍む。張世傑、師を囘し、潮州より泉州を圍む。克たず。帝の舟、潮州の淺灣に遷る。ニ)天祥元の李恆元の李恆、兵を遣し、贛を援けしめ、然も、自ら將として、を興國に襲ふ。天祥、恆の猝に至るを意はず、乃ち兵を引いて走り 鄒〓に永豐に卽く。鳳の兵、先づ潰ゆ。恆、天祥を窮追す。天祥、方石嶺に至る。恆、之に及ぶ。鞏信、拒ぎ戰ふ。箭.體に被つて死す。天祥、空院に至る。恆又之に及ぶ。張日中、奮つて力戰す。元兵、少しく卻く。恆鐵騎を麾いて、橫に之を擊たしむ。日上こと〓〓中身に十餘創を被り、猶ほ十餘騎を手刄して死す。兵、悉く潰ゆ。天祥の妻歐陽氏、男佛生、環生、及び二女、皆執へらる。趙時賞、肩興の後に坐す。元人、誰となすを問ふ。時賞曰く、我が姓は文と衆以て天祥となし、之を禽にす。天祥、之に由つて、身を挺するを得。其長子道生及び杜滸、鄒源と、騎に乘じて逸し去り、遂南宋-端宗皇帝-当三 十八史略卷之七九三二に循州に奔る。散兵、頗る集まる。乃ち寸南嶺に屯す。幕僚客將、植時賞奮罵皆、執へらる。時賞、隆興に至り、奮罵して屈せず。刑に臨み、劉して殺さる洙、頗る自ら辯ず。時賞、叱して曰く、死せむのみ、何ぞ必ずしも然らむと。是に於て、將佐幕屬、執へられて、皆死す。而して、天祥の妻子家屬、燕に送らる。二子、道に死す。廣州、陷る。十一月元の劉深、舟師を以て淺灣を襲ふ。張世傑、戰つて利あらず。帝舟を奉じて、秀山に走る。陳宜中、占城に之いて兵を求む、遂に復た還らず。十二月、帝、再び〓隩に還る。颶風作る。帝病あり。元の劉深、復た舟師を以て、來つて〓陳を襲ひ命如珪を執ふ。帝舟、謝女峡に遷る。戊寅、景炎三年。張世傑、師を遣して、雷山を討つ。克たず。三月、文天祥、兵を會して、麗江浦に次す。李恆、元の張弘範元、張弘範を以て、都元帥となし、之に副たり。師を率ゐて、聞廣に入る。帝舟、〓州に遷る。夏四月、帝、硼州に崩ず。陸秀夫、衞王を立てて帝となす。之を帝〓となす。【帝醫】端宗皇帝の弟なり。名は〓、位に卽いて祥興と改元す。皇太后楊氏同じく政を聽く。之より先、群臣多く散じ去らむと欲す。陸秀夫曰く、度宗皇帝の一子、尙ほ在り、將に焉にか之を置かむ。南宋-端宗皇帝-帝〓-九三三 十八史略卷之七九三四古人、せ、一旅一成を以て中興する者あり。今、百官有司、皆具はり、士卒數萬、天、若し未だ宋を絕やすを欲せざれば、是れ豈に國を爲すべからざらむやと。乃ち衆と共に帝を立つ、年八歲。適ま黄龍あり、海中に見ず。遂に祥興と改め、硼州を升せて翔龍縣となし、陸秀夫を以て左丞相となし、樞密使を兼ねしむ。時に、海濱に播越して、庶事疎略、時節朝會每に、獨り、秀夫、儼然として笏を正して立ち、治朝の如くす。或は行中に在つて、凄然として泣下り、朝衣いこと〓〓を以て淚を拭ふ、衣盡く濕ふ左右、悲働せざる者なし。首相に拜するに及び、張世傑と共に政を秉り、外は軍旅を籌り、內は工役を調す、すべて其手より出で、忽遽流離の中と雖も、尙ほ日に大學章句を書し、以て勸講す。六月、帝舟、新會の厓山に遷る。大星あり、南に流れて海中に墜つ。小星千餘、之に隨ふ。聲、雷の如く、數刻にして止む。な天祥、帝の卽位を聞き、上表して自ら江西に敗るるの罪を効し、入朝を乞ふ。許さずして、少保を加へ信國公に封ず。會ま、軍中大疫、士卒多く死す。天祥の子道生、復た亡し、家屬共に盡く。元、許衡を以て集賢大學士となし、太史院事を兼領せしむ。文天祥、潮陽に屯す。鄒溷、劉子俊、皆、師を集めて之に會し、遂に盜陳懿、劉興を潮に討つ。興は死し、懿は遁れ、張弘範の兵を南宋-帝昺-九三五 十八史略卷之七九三六き道いて、潮陽を濟す。天祥、カ、支へず、其麾下を帥ゐて、海豐に走る。張弘正、之を追ふ。天祥、方に五坡嶺に飯す。弘正の兵、突文天祥執へ至す。衆戰ふに及ばず、皆、頓首して草莽に伏す。天祥、執へら自動からる。腦子を呑んで死せず。鄒溷、劉子俊、自ら詭つて天祥となし、天祥を免ずべきを冀ふ。天祥を執へて至るに及びて、各眞僞を爭ふ、遂に子俊を烹る。而して、天祥を執へて、弘範に見えしらむ。左右之に命じて拜せしむ。天祥、屈せず。弘範、其縛を釋き、客禮を以て、之を見る。天祥、固く死を請ふ。弘範、許さず。或ひと弘範に謂つて曰く、敵人の相、測るべからざるなり、宜しく、之族を近づくべからず。弘範曰く、彼は忠義なり、他なきを保すと。こと〓〓か、屬の俘にせられし者を求めて、悉く之に還し、舟中に處いて、以て自ら從はしむ。端宗を厓山に葬る。元の阿里海牙、海南より還つて上都に師す。巳卯、祥興二年。正月、元の張弘範の兵、厓山に至る。張世傑、力戰して、之を禦ぐ。弘範、之を如何ともするなし。時に、世傑に甥韓あり、元師中に在り。弘範三たび、韓をして、宋師に至つて、世傑を招かしむ。世傑、從はずして曰く、吾、降れば、生きて且つ富貴なるを知る、但だ義は移すべからざるのみと。因つて、古忠臣{を歷數して以て之に答ふ。弘範、乃ち文天祥に命じ、書を爲つて、南宋-帝員-九三七 十八史略卷之七九三八評世傑を招かしむ。天祥曰く、吾、父母を扞ぐこと能はず、乃ち人にゝる信無のは謂にと眞臣末文ゝべ心は零値いに純隨天すは文忠一祥破周千年日月彼の所る公類名実〓へて、父母に叛かしめて可ならむやと。固く之に命ず。天祥、遂に過ぐる所の零丁洋の詩を書して、之に與ふ。其末に云ふあり、人ゝをて洋以丁生古しへより誰か死なからむ、丹心を留取して汗靑を照らすと。弘星戈營くるの詩山落一辛し事範笑つて、之を置く。弘範、復た人を遣して、崖山の士民に語ら河四經苦落起しめて曰く、汝の陳丞相、旣に去り、文丞相、旣に執へらる。汝、水瓶絮何をか爲さむと欲すと。士民、亦た叛く者なし。弘範、又舟師を以恐風零選打印 はて、海口に據る。宋師、樵汲の道絕ゆ。兵士、乾糧を茹ふこと、十嘆恐零丁人世餘日にして、大に渴す。乃ち下つて、海水を掬して、之を飮む。水自重車心無昭死旬の折取鹹く、飮めば乃ち嘔泄す。兵士、大に困む。世傑、蘇劉義、方興等汗靑を帥ゐて、旦夕大に戰ふ。元の李恆、廣州より師を以て會し攻む。弘範、恆に命じて、崖山の北面を守らしむ。二月戊寅朔、世傑の將陳寶、叛いて、元に降る。巳卯、都統制張達、夜、元師を襲ひ、敗れ還る。元人、進んで、世傑の舟に薄る。甲申、弘範、其軍を四分し、自ら一軍に將たり、相去ること里許。諸將に令して曰く、宋の舟、西、厓山に艤す、潮至れば必ず東に遁れむ、急に之を攻めて、去るを得せしむる勿れ。吾が樂作るを聞かば、乃ち戰へ令を違ふ者は斬らむと。先づ北面の一軍を麾き、早潮に乘じて戰ふ。世傑、之を敗る。李恆等、潮に順つて師を退く。午潮上る。元師、樂作る。宋師、以爲へらく、且く懈ると。備を設南宋-帝昺-九五九 十八史略卷之七九四〇けず。弘範、舟師を以て、其前を犯す。南師、之に繼ぐ。宋師、南北より敵を受け、兵士皆疲れて、復た戰ふ能はず俄に一舟の檣旗仆るるあり、諸舟の檣旗、皆仆る世傑、事の去るを知り、乃ち精Na兵を抽いて中軍に入る。諸軍、大に潰ゆ。元師、宋の中軍に薄る會ま日暮れて風雨、昏霧四塞、咫尺辨せず。世傑乃ち蘇劉義と維を評陸秀夫、帝舟に走る。帝舟大入低勝ちにて夫をし帝りざ見國溺同帝斷ち、十六舟を以て港を奪つて去る。じにして、且つ環結す、出走するを得ざるを度り、乃ち先づ其妻子をKELICAL FACTION COLLECTION店1)る忠に無ともあび狀後宮もに驅つて海に入らしめ、卽ち帝を負うて同じく溺る。帝、崩ず。る操忠人どの然れ諸臣、從死する者甚だ衆し、越えて七日、屍海上に浮ぶもの十餘のて側情純の至雜萬人。因つて、帝の屍及び詔書の寶を得たり。既にして、世傑、復さしつ丁氏八正をた厓山に還つて、兵を收め、楊太后に遇ひ、奉じて、以て趙氏の後しむを求めて、復た之を立てむと欲す。楊太后、始めて、帝の崩ぜしをニ聞き、膺を撫して、大働して曰く、我、死を艱關に忍んで此に至るものは、正に趙氏の一塊肉の爲のみ、今、望なしと。遂に海に赴いて死す。世傑、之を海濱に葬る。世傑、將に安南に趨かむとし、平章山下に至つて、颶風、大いに作る。舟人、岸に艤せむと欲す。世傑曰く、以て爲すなきなりと。香を焚き、天を仰いで呼んで曰く、評していますたべ自傑しのしりき滅香を焚我、趙氏の爲にすること、亦た已に至れり。一君亡びて、復た一君をすを立つ。今、又亡ぶ。我未だ死せざるものは、庶幾はくは、敵兵退る忠ふべ臣ベ鑑以かば、別に趙氏を立てて以て、祀を存せむとするのみ。今かくの若南宋-帝昺-〓 十八史略卷之七九四二豈に天意なるかc若し、天、我が復た趙の祀を存するを欲せざ宋亡ぶ西し、紀-二七溺九)れば、大風吾が舟を覆せと。舟、遂に覆り、世傑、る。宋、亡ぶ。元の張弘範等、置酒大會し、文天祥に謂つて曰評至且天地 30元厓山、旣に破る。〓り遇を範のるき文の而とす說く國亡ぶ、丞相の忠孝盡せり。能く心を改め、宋に事ふる者を以二五天祥汝然として涙とを渡しすて、今に事ふれば、宰相たるを失はざるなりと。世しれは祥りざさを出して曰く、國亡ぶるも救ふ能はず、人臣たる者、死するも餘罪)所臣以也鑑百る忠あり、況んや、敢て其死を逃れて其心を貳にせむやと。弘範、之をた義とす。燕京に送らしむ。道吉州を經、痛恨して食はず、八日尙デほ生く。十月、天祥、燕に至る。屈せず、獄に繫がれ、勵操愈よ堅宋の故臣、亦た嶺海より安南に走る者あり。安南は、其國王李乾子天祚、德紹興に卒してより子陽煥、立つ。陽煥、卒す。立つ。天祚、淳熙に卒す。子龍翰、立つ。龍輸、嘉定に卒す、子昊〓、立と;つ世、宋の正朔を奉ず。龍輸の時に當つて、聞人陳京といふ者あり、其國に入つて、政を得、國婿となる。京の子承、再世其國柄を);執る。昊〓の時に及びて、承、其國を奪ひ、子威晃に傳ふ。理宗、其貢を受けて、之を封ず。威晃、子日照に傳ふ。宋亡びて、乃ち名を日恒と改め、貢を元に奉ず。初め、邵雍、客と語つて、國祚に及ぶや、晉の出帝紀を取つて、之を示す。靖康に驗あり、德祐に至つ南宋-帝〓-九四三 十八史略卷之七九四四四廣の說一汴二杭三て益す驗あり。陳摶も、亦た、嘗て、一1、二杭、三聞、岡四廣の說あり。宋、果して聞廣に至つて盡く。太祖建隆より欽宗靖康に至るまで、一百六十七年。高宗建炎より祥興に至るまで、又一百五十三年。けんりうぐわんねんかうしん帝〓祥興乙卯に至るまで、凡右、宋の太祖建隆元年庚申より、そ三百二十年にして亡ぶ。評譯十八史略大尾結言カーライルのヒローウォーシップやフレンチレヴォリューシンを見ると、時代が英雄を作り而して英雄が時代を作るといふ樣な事が書かれて居る。支那人の書いたものにも一國一人を以て興り一人を以て亡ぶといふ樣な事がある其考へ方は東西古今其軌を一にすといふべく、英雄は皆な時代の產物であると同時に又英雄が時代を作り出す。元龜·天正の亂脈時代であつたればこそ、水呑百姓の小伜猿面冠者から一躍太閤殿下に出世した豐臣秀 吉が出て來たのであつて、其秀吉-成り上り者の秀吉が出たればこそ、絢爛たる桃山時代が出現したのであらう。奔放自在、天馬空を行く底の太閤の遣りツ放しの後ト始末をするの必要によりて、堅實無比の家康が現はれ、家康の出現によりて德川三百年の鎖國時代が生れ出たのであつて、幕政三百年の鎖國がなかつたならば、ペルリの來訪もなく、維新當時の群雄も出ては來なかつたかも知れぬ。ソレは皆ソウなる順序があつてソウなりつゝあるのであつて、這間の前後連絡、因緣成行を靜觀すれば、西洋人の經た所も東洋人の經た所も道理に於て變はる所はない。弱肉强食の結果が自由平等を喚び起し、自由平等の結果が共產無政府の傾向まで進めば、統制獨裁の風潮を復活して來る。而してソコにイツでも色々の英雄や先覺者や指導者の活躍が見られる。是れは古今東西の歷史の〓ゆる不動の哲理であつて、古人は此事を簡單に歷史は繰り返へすともいふて居る。然り歷史は繰り返へすに違ひないけれどもソノ繰り返へすのは道理であつて、いはゞ道理に二つはない-眞理は常に新しいといふ意味で、其實、實際としての事實は皆別々である故に同じく聖人といふても、時代を異にし、場合を異にするに從て各々聖人振りが異つて居り、同じく馬三 鹿とか阿呆とかいふても、各々ソノ馬鹿ブリ阿呆ブリが異つて居る堯も舜も禹も湯も文王も武王も周公も皆一樣に聖人といふけれども、堯の時には鼓腹擊壤の歌であり、舜の時には南風の詩であるのに、禹の時は一饋十起以て天下の民を勞し、湯に至りては素車白馬身を以て犧牲となして桑林の野に禱らねばならなくなつて居る。凡そ是等の變遷を抽象的に云へば、成程ソウかと點頭く程度のものに過ぎず、ソレを詳細に探究すれば正史から外史ソレからソレと所謂汗牛充棟、仲々際限がない。其兩者の中間を行く略史として、上下四千年の經過を〓觀し得るものとしては蓋し此十八史略以上のものはない。略史であり、史略であり、十八種の史書の抄略拔き書きであるといふので、漢學先生ガタは餘り十八史略を推賞せず、或は却て之を輕蔑するの風さへあるが、ソレは專門家のいふ事であつて、一般大衆としてはコレ程便利な重寳な讀物はない。日本で漢學の入門者に初歩第一の讀本として、十八史略を讀ませる事にしたのは何人か知らぬけれども、今よりして之れを評すれば非常な卓見家といふべきである。支那人は殊に此書を輕視する樣であるが、ソレは要するに淺薄であるといふ所からであらうが、四千有餘年五 以て結言として置くんで見て見られよ、中に於て政治に興味を持つ人達に讀ませようといふのである之を支那の人達に勸めようといふのではないが得らるゝかと考へて見るがよい昭和十二年三月廿七日夜年十一ノ點をヨク合點して成程と思はるゝならば、の史實をコレ丈けのものに縮寫するとして果してコレ以上のもの昭和十六年五月昭和十二年十一月三日再版昭和十二年四月昭和十二年四月月發行日讀了として繰り返して見たくなるから、所八六二必ず僕が遣つた樣に印發編日改訂版日發行日印刷東京市京橋區銀座西五丁目三番地刷行者者兼島田俊雄法律事務所W譯併し僕はソンな議論をして、導十八史略電話銀座(57)〇〇三五番渡東京市小石川區東古川町十番地島東京市京橋區銀座西五丁目三番地定 價譯年十モウ一度始めから讀邊田參一俊評日本人お互大衆の月者六郞雄識行印社會式株刷印外中日始め之をソ 301
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唐書巻一百一十二 列伝第三十七 王義方 員半千 石抱忠 韓思彦 琬 蘇安恒 薛登 王求礼 柳沢範 奭 馮元常 元淑 蒋欽緒 沇 清 王義方、泗州漣水人、客于魏。孤且窶、事母謹甚。淹究経術、性謇特、高自標樹。挙明経、詣京師、客有徒歩疲于道者、自言:「父宦遠方、病且革、欲往省、困不能前。」義方哀之、解所乘馬以遺、不告姓名去、由是譽振一時。不肯造請貴勢、太宗使宰相聽其論。於是尚書外郎獨孤悊以儒顯、給事中許敬宗推悊確論、義方引逮百家異同、連拄悊、直出其上。左右為悊不平、輒罷會。補晋王府参軍、直弘文館。魏徴異之、欲妻以夫人之姪、辭不取。俄而徴薨、乃取女。人問其然、曰:「初不附宰相、今感知己故也。」 素善張亮、亮抵罪、故貶吉安丞。道南海、舟師持酒脯請福、義方酌水誓曰:「有如忠獲戻、孝見尤、四維廓氛、千里安流。神之聽之、無作神羞。」是時盛夏、濤霧蒸湧、既祭、天雲開露。人壮其誠。吉安介蛮夷、梗悍不馴、義方召首領、稍選生徒、為開陳経書、行釋奠礼、清歌吹籥、登降跽立、人人悅順。久之、徙洹水丞。而亮兄子皎自朱崖還、依義方。将死、諉妻子、願以尸歸葬、義方許之。以皎妻少、故與之誓於神、使奴負柩、輟馬載皎妻、身歩従之。既葬皎原武、歸妻其家、而告亮墓乃去。遷雲陽丞。 顯慶元年、擢侍御史、不再旬、會李義府縱大理囚婦淳于、迫其丞畢正義縊死、無敢白其姦。義方自以興県屬、不三時拜御史、且疾當世附離匪人以欺朝廷、内決劾奏、意必得罪、即問計於母。母曰:「昔王母伏剣、成陵之誼。汝能盡忠、吾願之、死不恨。」義方即上言:「天子置公卿大夫士、欲水火相済、鹽梅相成、不得獨是獨非也。昔堯失之四凶、漢高祖失之陳豨、光武失之逢萌、魏武失之張邈。彼聖傑之主、然皆失於前而得於後。今陛下撫万邦而有之、蛮區夷落、罪無逃罰、況輦轂下姦臣肆虐乎?殺人滅口、此生殺之柄、不自主出、而下移佞臣、履霜堅冰、彌不可長。請下有司雜治正義死状。」即具法冠對仗、叱義府下、跪讀所言。帝方安義府狡佞、恨義方以孤士觸宰相、貶莱州司戸参軍。歳終不復調、往客昌楽、聚徒教授。母喪、隱居不出。卒、年五十五。 義方為御史時、買第、後数日、愛廷中樹、復召主人曰:「此佳樹、得無欠償乎?」又予之錢。其廉不貪類此。始、魏徴愛其材也、毎恨太直、後卒以疾惡不容于時。既死、門人員半千・何彦先行喪、蒔松柏冢側、三年乃去。 彦先、斉州全節人。武后時、位天官侍郎。 員半千字榮期、斉州全節人。其先本彭城劉氏、十世祖凝之、事宋、起部郎、及斉受禅、奔元魏、以忠烈自比伍員、因賜姓員、終鎮西将軍・平涼郡公。 半千始名餘慶、生而孤、為従父鞠愛、羈丱通書史。客晋州、州挙童子、房玄齡異之、對詔高第、已能講易・老子。長與何彦先同事王義方、以邁秀見賞。義方常曰:「五百歳一賢者生、子宜當之。」因改今名。凡挙八科、皆中。咸亨中、上書自陳:「臣家貲不滿千錢、有田三十畝、粟五十石。聞陛下封神岳、挙豪英、故鬻錢走京師。朝廷九品無葭莩親、行年三十、懐志潔操、未蒙一官、不能陳力歸報天子。陛下何惜玉陛方寸地、不使臣披露肝膽乎?得天下英才五千、與榷所長、有一居先、臣當伏死都市。」書奏、不報。 調武陟尉、歳旱、勸令殷子良發粟振民、不従。及子良謁州、半千悉發之、下賴以済。刺史大怒、囚半千于獄。會薛元超持節度河、讓太守曰:「君有民不能恤、使惠出一尉、尚可罪邪?」釋之。俄挙岳牧、高宗御武成殿、問:「兵家有三陣、何謂邪?」衆未對、半千進曰:「臣聞古者星宿孤虚、天陣也。山川向背、地陣也。偏伍彌縫、人陣也。臣謂不然。夫師以義出、沛若時雨、得天之時、為天陣。足食約費、且耕且戰、得地之利、為地陣。挙三軍士如子弟従父兄、得人之和、為人陣。捨是、則何以戰?」帝曰:「善。」既對策、擢高第。 歴華原・武功尉。厭卑劇、求為左衛冑曹参軍。使吐蕃、将行、武后曰:「久聞爾名、謂為古人、乃在朝邪!境外事不足行、宜留待制。」即詔入閤供奉。遷司賓寺主簿。稍與丘悅・王・石抱忠同為弘文館直学士、又與路敬淳分日待制顯福門下。擢累正諫大夫、兼右控鶴内供奉。半千以控鶴在古無有、而授任者皆浮狹少年、非朝廷徳選、請罷之、忤旨、下遷水部郎中。會詔擇牧守、除棣州刺史。復入弘文館為学士。武三思用事、以賢見忌、出豪・蘄二州刺史。半千不顓任吏、常以文雅粉沢、故所至礼化大行。睿宗初、召為太子右諭徳、仍学士職。累封平原郡公。表丐骸骨、有詔聽朝朔望。 半千事五君、有清白節、年老不衰、楽山水自放。開元九年、遊堯山・沮水間、愛其地、遂定居。卒、年九十四、即葬焉。吏民哭野中。 抱忠、長安人。名屬文。初置右臺、自清道率府長史為殿中侍御史、進検校天官郎中、與侍郎劉奇・張詢古共領選、寡廉潔、而奇號清平、二人坐綦連耀伏誅。 悅、河南人。亦善論譔、仕至岐王傅。 韓思彦字英遠、鄧州南陽人。游太学、事博士谷那律。律為匪人所辱、思彦欲殺之、律不可。万年令李乾祐異其才、挙下筆成章・志烈秋霜科、擢第。授監察御史、昌言當世得失。高宗夜召、加二階、待詔弘文館、仗内供奉。 巡察剣南、益州高貲兄弟相訟、累年不決、思彦敕廚宰飲以乳。二人寤、齧肩相泣曰:「吾乃夷獠、不識孝義、公将以兄弟共乳而生邪!」乃請輟訟。至西洱河、誘叛蛮降之。會蜀大饑、開倉振民、然後以聞、璽書褒美。使并州、方賊殺人、主名不立、醉胡懐刀而汙、訊掠已服。思彦疑之、晨集童兒数百、暮出之、如是者三。因問:「兒出、亦有問者乎?」皆曰:「有之。」乃物色推訊、遂禽真盜。 後太白晝見、勸帝修徳答天譴。帝讓中書令李義府曰:「八品官能言得失、而卿冒沒富貴、主何事邪?」義府謝罪。司農武惟良擅用并州賦二百万緡、思彦劾處死、武后為請而免。義府與諸武共譖思彦、出為山陽丞。初、尉遲敬徳子姓陷大逆、思彦按釋其冤、至是贈黄金良馬、思彦不受。至官閲月、自免去、放蹟江・淮間。久之、補建州司戸参軍。帝召問:「不見卿久、今何官邪?」思彦泣道所以然。帝謂宰相:「此亦太屈。」復召為御史。 俄出為江都主簿、又徙蘇州録事参軍。罷、客汴州。張僧徹者、廬墓三十年、詔表其閭、請思彦為頌、餉縑二百、不受。時歳凶、家窶甚、僧徹固請、為受一匹、命其家曰:「此孝子縑、不可輕用。」上元中、復召見。思彦久去朝、儀矩梗野、拜忘蹈舞、又詆外戚擅權、后惡之。中書令李敬玄劾奏思彦見天子不蹈舞、負氣鞅鞅、不可用。時已拜乾封丞、故徙朱鳶丞。遷賀州司馬、卒。 始、思彦在蜀、引什邡令鄧惲右坐、曰:「公且貴、願以子孫諉公。」比其斥、而惲已為文昌左丞。 子琬。 琬字茂貞、喜交酒徒、落魄少崖検。有姻勸挙茂才、名動里中。刺史行郷飲餞之、主人揚觶曰:「孝于家、忠于国、今始充賦、請行無算爵。」儒林榮之。擢第、又挙文芸優長・賢良方正、連中。拜監察御史。景雲初、上言: 国安危在於政。政以法、暫安焉必危。以徳、始不便焉終治。夫法者、智也。徳者、道也。智、權宜也。道、可以久大也。故以智治国、国之賊。不以智治国、国之福。 貞観・永徽之間、農不勸而耕者衆、法施而犯者寡。俗不偸薄、器不行窳。吏貪者士恥同列、忠正清白者比肩而立。罰雖輕而不犯、賞雖薄而勸。位尊不倨、家富不奢。学校不勵而勤、道佛不懲而戒。土木質厚、裨販弗蚩。其故奈何?雜以皇道也。自茲以来、任巧智、斥謇諤。趨勢者進、守道者退。諧附者無黜剥之憂、正直者有後時之歎。人趨家競、風俗淪替。其故奈何?行以霸道也。貞観・永徽之天下、亦今日天下、淳薄相反、由治則然。 夫巧者知忠孝為立身之階、仁義為百行之本、託以求進、口是而心非、言同而意乖、陛下安能盡察哉!貪冒者謂能、清貞者謂孤、浮沉者為黠、剛正者為愚。位下而驕、家貧而奢。歳月漸漬、不救其弊、何由變浮之淳哉?不務省事而務捉搦。夫捉搦者、法也。法設而滋章、滋章則盜賊多矣。法而益国、設之可也。比法令数改、或行未見益、止未知損。譬弈者一棋為善、而復之者愈善、故曰設法不如息事、事息則巧不生。聖人防亂未然、天下何繇不治哉? 永淳時、雍丘令尹元貞坐婦女治道免官、今婦夫女役常不知怪。調露時、河内尉劉憲父喪、人有請其員者、有司以為名教不取、今謂為見機。太宗朝、司農以市木橦倍價抵罪、大理孫伏伽言:「官木橦貴、故百姓者賤。臣見司農識大體、未聞其過。」太宗日:「善。」今和市顓刻剥、名為和而實奪之。往者学生・佐史・里正毎一員闕、擬者十人、今當選者亡匿以免。往選司従容有礼、今如仇敵賈販。往官将代、儲什物俟其至。今交罷、執符紛競校在亡。往商賈出入万里、今市井至失業。往家藏鏹積粟相夸、今匿貲示羸以相尚。往夷狄款関、今軍屯積年。往召募、人賈其勇。今差勒、闔宗逃亡。往倉儲盈衍、今所在空虚。 夫流亡之人非愛羈旅・忘桑梓也、斂重役亟、家産已空、鄰伍牽連、遂為游人。窮詐而犯禁、救死而抵刑。夫亂繩已結、急引之則不可解。今刻簿吏能結者也、挙劾吏能引者也、則解者不見其人。願取奇材卓行者、量能授官。 又言: 仕路太広、故棄農商而趨之。一夫耕、一婦蠶、衣食百人、欲儲蓄有餘、安可得乎? 書入、不報。 出監河北軍、兼按察使。先天中、賦絹非時、於是穀賤縑益貴、丁別二縑、人多徙亡。琬曰:「御史乃耳目官、知而不言、尚何賴?」又上言:「須報則弊已甚、移檄罷督乃聞。」詔可。開元中、遷殿中侍御史、坐事貶官、卒。 蘇安恒、冀州武邑人。博学、尤明周官・春秋左氏学。武后末年、太子雖還東宮、政事一不與、大臣畏禍無敢言。安恒投匭上書曰:「陛下膺先聖顧託、受嗣子揖讓、應天順人、二十餘年、豈不聞虞舜褰裳・周公復辟事乎?今太子孝謹、春秋盛壮、使統臨宸極、何異陛下身撫天下哉!胡不伝位東宮、休安聖躬?自昔天下無二姓並興、且梁・河内・建昌諸王、以親得封、恐万歳後不能良計、宜退就公侯、任以閑簡。又陛下二十餘孫、無尺土封、非長久計也、請以都督府要州分而王之。縱今尚幼、且擇立師傅、養成徳器、藩屏皇家。」書奏、后雖猜克、不能無感、乃召見賜食、厚慰遣之。 明年、復諫曰:「臣聞天下者、高祖・太宗之天下。有隋失馭、群雄鹿駭、唐家親事戎旅、以平宇県、指河為誓、非李氏不王、非功臣不封。陛下雖居正統、實唐舊基。前日太子在諒闇、相王非長嗣、唐祚中弱、故陛下因以即位。今太子年徳已盛、尚貪有大宝、忘母子之恩、蔽其元良、以據神器、何施顔面見唐家宗廟・大帝陵寢哉!臣謂天意人事、還歸李氏。物極則復、器滿則覆。當斷不斷、将受其亂。誠能高揖万機、自怡聖心、史臣書之、楽府歌之、斯盛事也。臣聞見過不諫非忠、畏死不言非勇。陛下以臣為忠、則擇是而用。以為不忠、則斬臣頭以令天下。」書聞、不報。 於是魏元忠為張易之兄弟所構、獄方急、安恒獨申救、曰: 王者有容天下之量、故済其心。能進天下之善、故除其惡。不然、則神鬼馮怒、陰陽紛舛。陛下始革命、勤秉政樞、博逮謀猷、天下以為明主。暮年厭怠、讒佞熾結、水火相災、百姓不親、五品不遜、天下以為暗君。邪正糅進、獄訟冤劇。何昔是而今非邪?居安忘危之失也。 竊見元忠廉直有名、位宰相、履忠正、邪佞之徒嫉之若讎。易之兄弟無功無徳、但以馮附、不閲数期、位勢隆極、指馬獻蒲、先害善良。自元忠下獄、人人偶語、謂易之交亂、且及四国。烈士撫髀、忠臣鉗口、懼易之之權、恐先諫受戮、虚死無名。況賊虜方彊、賦斂重困、而自縱讒慝、搖變遐邇。臣恐四夷低目窺覘、為邊鄙患、百姓託義以清君側、逐鹿之人叩関而至、陛衛左右、従中以應、爭鋒朱雀之門、問鼎大明之宮、陛下何以謝之?臣今計者、莫若收雷電之威、解恢恢之網、復爵還位、君臣如初、則天下幸甚。陛下縱不能斬佞臣、塞人望、且當抑奪榮寵、翦其羽翅、無使驕橫為社稷之憂。 疏奏、易之等大怒、遣刺客邀殺之、賴鳳閣舎人桓彦範等悉力營解、乃免。 神龍初、為習芸館内教。節愍太子難、或讒安恒豫謀、死獄中。睿宗立。知其枉、詔贈諫議大夫。 薛登、常州義興人。父士通、為隋鷹揚郎将。江都亂、與州民聞人嗣安據城拒賊。武徳初、持地自歸、授東武州刺史。輔公祏反、士通與賊将西門君儀戰、破之。及平、封臨汾侯。終泉州刺史。 登通貫文史、善議論、根證該審、與徐堅・劉子玄斉名。調閬中主簿。天授中、累遷左補闕。時選挙濫甚、乃上疏曰: 比観挙薦、類不以才、馳聲假譽、互相推引、非所謂報国求賢者也。古之取士、考素行之原、詢郷邑之譽、崇礼讓、明節義、以敦樸為先、雕文為後。故人崇勸讓、士去輕浮、以計貢賢愚為州之榮辱。昔李陵降而隴西、干木隱而西河美。名勝於利、則偸競日銷。利勝於名、則貪暴滋煽。蓋冀缺以礼讓升而晋人知礼、文翁以経術教而蜀士多儒。未有上好而下不従者也。漢世求士、必観其行、故士有自脩、為閭里推挙、然後府寺交辟。魏取放達、晋先門閥、梁・陳薦士特尚詞賦。隋文帝納李諤之言、詔禁文章浮詞、時泗州刺史司馬幼之表不典實得罪、由是風俗稍改。煬帝始置進士等科、後生復相馳競、赴速趨時、緝綴小文、名曰策学、不指實為本、而以浮虚為貴。 方今挙士、尤乖其本。明詔方下、固已驅馳府寺之廷、出入王公之第、陳篇希恩、奏記誓報。故俗號挙人皆稱覓挙。覓者、自求也、非彼知之義。是以耿介之士羞於自抜、循常小人取附。願陛下降明制、頒峻科、斷無當之游言、收實用之良策、文試効官、武閲守禦。昔呉起将戰、左右進剣、呉子辭之、諸葛亮臨陣、不親戎服、蓋不取弓剣之用也。漢武帝聞司馬相如之文、恨不與同時、及其至也、終不處以公卿之位、非所任故也。漢法、所挙之主、終身保任。楊雄之坐田儀、成子之得魏相、賞罰之令行、則請謁之心絶、退讓之義著、則貪競之路銷。請寬年限、以容簡汰、不實免官、得人加賞、自然見賢不隱、貪禄不專矣。 時四夷質子多在京師、如論欽陵・阿史徳元珍・孫万榮、皆因入侍見中国法度、及還、並為邊害。登諫曰: 臣聞戎・夏不雜、古所戒也。故斥居塞外、有時朝謁、已事則歸、三王之法也。漢・魏以来、革襲衣冠、築室京師、不令歸国。較其利害、三王是而漢・魏非、拒邊長而質子短。昔晋郭欽・江統以夷狄處中夏必為變、武帝不納、卒有永嘉之亂。伏見突厥・吐蕃・契丹往因入侍、並被奨遇、官戎秩、歩黌門、服改氈罽、語習楚夏、窺圖史成敗、熟山川險易。国家雖有冠帶之名、而狼子孤恩、患必在後。 昔申公奔晋、使子狐庸為呉行人、教呉戰陣、使之叛楚。漢遷五部匈奴於汾・晋、卒以劉・石作難。竊計秦并天下、及劉・項用兵、人士凋散、以冒頓之盛、乘中国之虚、而高祖困厄平城、匈奴卒不入中国者、以其生長磧漠、謂穹廬賢於城郭、氈罽美於章紱、既安所習、是以無窺中国心、不楽漢故也。元海五部散亡之餘而能自振者、少居内地、明習漢法、鄙單于之陋、竊帝王之稱。使其未嘗内徙、不過劫邊人繒綵・麴歸陰山而已。 今皇風所覃、含識革面、方由余効忠、日磾盡節。然臣慮備豫不謹、則夷狄稱兵不在方外、非貽謀之道。臣謂願充侍子可一切禁絶、先在国者不使歸蕃、則夷人保疆、邊邑無爭。 武后不納。 久之、出為常州刺史。屬宣州賊鍾大眼亂、百姓潰震、登厳勒守備、闔境賴安。再遷尚書左丞。景雲中、為御史大夫。僧慧範怙太平公主勢、奪民邸肆、官不能直、登将治之、或勸以自安、答曰:「憲府直枉、朝奏暮黜可矣。」遂劾奏、反為主所構、出岐州刺史。遷太子賓客。開元初、為東都留守、再為太子賓客。登本名謙光、以與皇太子名同、詔賜今名。坐子累歸田里、家苦貧、詔給致仕禄。卒、年七十三、贈晋州刺史。 王求礼、許州長社人。武后時、為左拾遺・監察御史。后方營明堂、琱飾譎怪、侈而不法。求礼以為「鐵鸑金龍・丹雘珠玉、乃商瓊臺・夏瑤室之比、非古所謂茅茨棌椽者。自軒轅以来、服牛乘馬、今輦以人負、則人代畜」、上書譏切。久不報。 契丹叛、使孫万榮寇河北、詔河内王武懿宗禦之、懦擾不進、賊敗数州去。懿宗乃條華人為賊詿誤者数百族、請誅之。求礼劾奏曰:「詿誤之人無良邊吏教習、城不完固、為虜脅制、寧素持叛心哉?懿宗擁兵数十万、聞敵至、走保城邑、今乃移禍無辜之人、不亦過乎?請斬懿宗首以謝河北。」懿宗大懼、后盡赦其人。 當是時、契丹陷幽州、饋輓屈竭、左相豆盧欽望請停京官九品以上兩月奉助軍興。求礼曰:「公禄万鍾、正可輟、仰禄之人可奈何?」欽望拒不應。既奏、求礼歴階進曰:「天子富有四海、何待九品奉、使宰相奪之以済軍国用乎?」姚曰:「秦・漢皆有税算以佐軍、求礼不識大體。」對曰:「秦・漢虚天下事邊、奈何使陛下効之?」后曰:「止。」 久視二年三月、大雨雪、鳳閣侍郎蘇味道等以為瑞、率群臣入賀。求礼讓曰:「宰相燮和陰陽、而季春雨雪、乃災也。果以為瑞、則冬月雷、渠為瑞雷邪?」味道不従。既賀者入、求礼即厲言:「今陽氣僨升、而陰冰激射、此天災也。主荒臣佞、寒暑失序、戎狄亂華、盜賊繁興、正官少、偽官多、百司非賄不入、使天有瑞、何感而来哉?」群臣震恐、后為罷朝。然以剛正故、宦齟齬。神龍初、終衛王府参軍。 柳沢、蒲州解人。曾祖亨、字嘉礼、隋大業末、為王屋長、陷李密、已而歸京師。姿貌魁異、高祖奇之、以外孫竇妻之。三遷左衛中郎将、壽陵県男。以罪貶邛州刺史、進散騎常侍。代還、数年不得調。持兄喪、方葬、會太宗幸南山、因得召見、哀之。数日、入對北門、拜光禄少卿。亨射獵無検、帝謂曰:「卿於朕舊且親、然多交游、自今宜少戒。」亨由是痛飭厲、謝賓客、身安靜素、力吏事。終検校岐州刺史、贈礼部尚書・幽州都督、謚曰恭。 沢耿介少言笑、風度方厳。景雲中、為右率府鎧曹参軍、四歳不遷。先是、中宗時、長寧・宜城・定安諸公主及后女弟・昭容上官與其母鄭・尚宮柴・隴西夫人趙及姻聯数十族、皆能降墨敕授官、號斜封。及姚元崇・宋璟輔政、白罷斜封官数千員。元崇等罷去、太平公主盡奏復之。沢詣闕上疏曰: 臣聞藥不毒不可以蠲疾、詞不切不可以補過。故習甘旨者、非攝養之方。邇諛佞者、非治安之宜。臣竊見神龍以来、綱紀大壞、内寵專命、外嬖制權、因貴憑勢、賣官鬻爵。妃主之門同商賈然、挙選之署若闤闠然、屠販者由邪忝官、廢黜者因姦冒進。天下溷亂、幾危社稷、賴陛下聰明神武、拯溺挙墜。耳目所親、豈可忘鑒誡哉?且斜封官者、皆僕妾私謁、迷謬先帝、豈盡先帝意邪?陛下即位之初、用元崇等計、悉以停廢、今又收用之。若斜封之人不可棄邪、韋月将・燕欽融不應褒贈、李多祚・鄭克乂不容盪雪也。陛下何不能忍於此而能忍於彼、使善惡混并、反覆相攻、道人以非、勸人以僻。今天下咸稱太平公主與胡僧慧範以此誤陛下、故語曰:「姚・宋為相、邪不如正。太平用事、正不如邪。」臣恐流遁致遠、積小為大、累微成高。勿謂何傷、其禍将長。勿謂何害、其禍将大。 又言: 尚醫奉御彭君慶以巫覡小伎超授三品、奈何輕用名器、加非其人?臣聞賞一人 而千万人悅者、賞之。罰一人而千万人勸者、罰之。惟陛下裁察。疏入、不報。 沢入調、會有詔選者得言事。乃上書曰: 頃者韋氏蠱亂、姦臣同惡、政以賄成、官以寵進、言正者獲戻、行殊者見疑、海内寒心、人用不保。陛下神聖勇智、安宗社於已危、振黎苗之将溺。乃今蠲煩省徭、法明徳挙、万邦愷楽、室家胥歡。詩曰「靡不有初、鮮克有終。」惟陛下慎厥初、脩其終。書曰:「惟徳罔小、万邦惟慶。惟不徳罔大、墜厥宗。」甚可懼也。 夫驕奢起於親貴、綱紀亂於寵倖。禁之於親貴、則天下従。制之於寵倖、則天下畏。親貴為而不禁、寵倖撓而不制、故政不常、令不一、則姦詐起而暴亂生焉、雖朝施暮戮、而法不行矣。陛下欲親與愛、莫若安之福之。夫寵禄之過、罪之階也、謂安之邪?驕奢之淫、危之梯也、謂福之邪?前事不忘、後之師也。陛下敷求俊哲、使朝夕納誨。其有逆于耳・謬于心者、無速罰、姑求之道。順于耳・便于身者、無急賞、姑求之非道。羞淫巧者拒之、則淫巧息。進忠讜者賞之、則忠讜進。 臣聞生於富者驕、生於貴者。書曰:「罔淫於逸、罔遊於楽。」今儲宮肇建、王府復啓、願采温良・博聞・恭儉・忠鯁者為之僚友、仍請東宮置拾遺・補闕、使朝夕講論、出入侍従、授以訓誥、交修不逮。 臣又聞「馳騁畋獵、令人發狂」。今貴戚打毬撃鼓、飛鷹奔犬、狎比宵人、盤游藪沢。書曰:「内作色荒、外作禽荒。」惟陛下誕降謀訓、勸以学業、示之以好惡、陳之以成敗、則長享福禄矣。 臣聞「富不與驕期而驕自至、驕不與罪期而罪自至、罪不與死期而死自至」。頃韋庶人・安楽公主・武延季等可謂貴且寵矣、權侔人主、威震天下。然怙侈滅徳、神怒人棄、豈不謂愛之太極・富之太多乎?「殷鑒不遠、在夏后之世。」今陛下何勸?其皇祖謀訓之則乎!陛下何懲?其孝和寵任之失乎!故愛而知其惡、憎而知其善。夫寵愛之心未有能免、要去其太甚、閑之以礼、則可矣。諸王・公主・駙馬、陛下之所親愛也、矯枉監戒、宜在厥初、使居寵思危、観過務善。書曰:「三風十愆、卿士有一于身、家必喪、邦君有一于身、国必亡。」惟陛下黜奢僭驕怠、進樸素行業、以勗其非心。 臣聞「常厥徳、保厥位。厥徳匪常、九有以亡」。願陛下不作無益、不啓私門、不差刑、不濫賞、則惟徳是輔、惟人之懐、天禄永終矣。 睿宗善之、拜監察御史。 開元中、轉殿中侍御史、監嶺南選。時市舶使・右威衛中郎将周慶立造奇器以進、沢上書曰:「『不見可欲、使心不亂』、是知見可欲而心必亂矣。慶立雕製詭物、造作奇器、用浮巧為珍玩、以譎怪為異宝、乃治国之巨、明王所宜厳罰者也。昔露臺無費、明君不忍。象箸非大、忠臣憤歎。慶立求媚聖意、搖蕩上心。陛下信而使之乎、是宣淫於天下。慶立矯而為之乎、是禁典之所無赦。陛下新即位、固宜昭宣菲薄、広示節儉、豈可以怪好示四方哉!」書奏、玄宗稱善。歴遷太子右庶子。為鄭州刺史、未行、卒、贈兵部侍郎。 沢従祖範・奭。 範、貞観中為侍御史、時呉王恪好田獵、範彈治之。太宗曰。「權万紀不能輔道恪、罪當死。」範進曰:「房玄齡事陛下、猶不能諫止畋獵、豈宜獨罪万紀?」帝怒、拂衣起。頃之、召謂曰:「何廷折我?」範謝曰:「主聖則臣直、陛下仁明、臣敢不盡愚?」帝乃解。高宗時、歴尚書右丞・揚州大都督府長史。 奭字子邵。以父隋時使高麗卒焉、故往迎喪、號踊盡哀、為夷人所慕。貞観中、累遷中書舎人。外孫為皇后、遷中書侍郎、進中書令。皇后挾媚道覺、罷為吏部尚書。后廢、貶愛州刺史。許敬宗等構奭通宮掖、謀行鴆毒、與褚遂良朋黨、罪大逆。遣使殺之、沒其家、期以上親並流嶺表、奭房隸桂州為奴婢。 神龍初、乃復官爵、子孫親屬縁坐者悉免。開元初、沢兄渙為中書舎人、上言:「臣従伯祖奭、去顯慶三年與褚遂良等五門同被譴戮、雖被原雪、而子孫殆盡、唯曾孫忝客籍龔州。陛下先天後詔書、嘗任宰相家並録其後。況臣之伯祖無辜被誅、今窆未還、後嗣僑處、願許伯祖歸葬、孤孫北遷。」於是詔忝護奭柩歸郷里、官給喪事。忝後歴潭州都督。 馮元常、相州安陽人、其先蓋長楽信都著姓。曾祖子琮、北斉右僕射。叔祖慈明、有文辭、仕隋為内史舎人。奉詔討李密、為密将所縛、身数創、密厚礼之、情謂曰:「東都危蹙、我欲率四方賢豪建功業、幸公同之。」慈明曰:「公家事先帝、名在王室、乃挾玄感挙兵、亡命至今、復圖反噬、何耶?」密囚之。俄為翟讓所殺。武徳初、贈吏部尚書、謚壮武。 元常挙明経及第、調浚儀尉。高宗時、擢累監察御史・剣南道巡察使、興利除害、蜀人順賴。歴尚書左丞。嘗密諫帝中宮權重、宜少抑、帝雖置其計、而内然之、由是為武后所惡。元常在職脩挙、識鑒澄遠、帝委遇特厚。及不豫、詔平章百司奏事。武后擅朝、嵩陽令樊文進瑞石、后暴石朝堂示百官。元常奏石妄偽、不可以示群臣。后怒、出為隴州刺史。會天下岳牧集乾陵、后不欲元常得會、故道徙眉州刺史。剣南有光火盜、夜掠人、晝伏山谷。元常喩以恩信、約悔過自新、賊相率脱甲面縛。賊平、轉広州都督、詔便驛走官。安南酋領李嗣仙殺都護劉延祐、劫州県、詔元常討之。率士卒航海、馳檄先示禍福、賊黨多降、元常縱兵斬首惡而還。雖有功、猶以拂旨見怨、不録功。凡三徙、終不得至京師、卒為酷吏周興所陷、追赴都、下獄死。 元常閨門雍睦、有礼法、雖小功喪不御私室。神龍中、旌其家、大署曰「忠臣之門」。天下高其節、凡名族皆願通婚。 従弟元淑、及后時、歴清漳・浚儀・始平三県令、右善去惡、人稱為神明。與奴僕日一食、馬日一秣、所至不挈妻子、斥奉餘以給貧窮。或譏其近名、元淑曰:「吾性也、不為苦。」中宗降璽書勞勉、付状史官。元淑約潔過於元常、然剛直不及也。終祠部郎中。 蒋欽緒、莱州膠水人。頗工文辭、擢進士第、累遷太常博士。中宗始親郊、国子祭酒祝欽明建言、皇后應亞獻、欲以媚韋氏。天子疑之、詔礼官議。衆曲意阿徇、欽緒獨抗言不可、諸儒壮其節。 歴吏部員外郎。始、韓琬為高郵主簿、使京師、自負其才、有不遇之言題客舎。它日、欽緒見之、笑曰:「是子歎後時耶?」久之、琬挙賢良方正、欽緒擢其文異等、因謂曰:「朋友之過免未?」琬曰:「今日乃見君子之心。」其務薦引士類此。 欽緒精治道、馭吏整厳、雖銖秒罪不貸。出為華州長史。蕭至忠自晋州被召、過欽緒、欽緒本姻家、因戒曰:「以君才不患不見用、患非分而求耳。」至忠竟及禍。開元十三年、以御史中丞録河南囚、宣尉百姓、振窮乏。徙吏部侍郎、歴汴・魏二州刺史、卒。 性孤潔自守、唯與賈曾・郭利貞相友云。 子沇、亦專潔博学、少有名。以孝廉授洛陽尉、遷監察御史、與兄演・溶・弟清倶為才吏、有名天宝間。始、河南尹韓朝宗・裴迥嘗委訊覆検句、而處事平、剖斷精允、群寮莫能望也。乾元中、歴陸渾・盩厔・咸陽・高陵四県令、美政流行、長老紀焉。郭子儀軍出其県、敕麾下曰:「蒋沇、賢令、供億當有素、士得蔬飯足矣、毋撓其清也!」遷長安令、以刑部郎中兼侍御史、領渭橋運出納使。 元載持政、守道士類不遷、沇以故滯郎位、不得調。常代相、聞士議恨沇屈、故擢御史中丞・東都副留守。再遷大理卿、持法明審、號稱職。徳宗出奉天、沇奔行在、為賊所拘、欲誘署偽職、沇絶食不應命、竄伏里中、不復見。京師平、乃出、擢右散騎常侍。卒年七十四、贈工部尚書。 清挙明経中第、調鞏丞。東京留守李賢之、表為判官、與同死安禄山亂、贈礼部侍郎。敬宗時、録其孫鄅為伊闕令。初、清蒙難、以秩卑不及謚。大和初、其出吏部郎中王高言之朝、追謚曰忠。