約 3,508,510 件
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/28.html
下雨屋城(しもあまやじょう) 所在地会津若松市大戸町石村 別称 築城年不明 築城者不明 城主変遷不明 廃城年不明 現状山林 概要 下雨屋城は福島県会津若松市に所在した城館跡である。 歴史 詳細は不明、国道118号線(会津西街道)沿いの館山に所在する。平場が確認出来るという。 現状・感想 わたしが南へ向かう際、ほとんどの場合この館山の下を通過しています。館跡であることは以前から判っていましたが、館跡として見たのは初めて…、しかしこちらも何処から登れるもんだか(^-^; 南側に登れそうな箇所がありましたがもうちょっと調べてみてからかな~。 関連項目 福島県の城館一覧
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/42.html
中地館(なかじだて) 所在地会津若松市町北町中地 別称 築城年天文十二年(1543) 築城者不明 城主変遷蘆名氏[平塚氏]… 廃城年不明 現状宅地、耕作地 概要 中地館は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、平塚氏が居住したという。 歴史 天文十二年(1543)に構築されたとされ、館主として平塚丹波守実恒の名が伝わる。 平塚氏は元は平塚館に居住、元亀、天正年間(1570-93)頃に平沢館へと移り、天正十二年(1584)当地へ居館したという。 現状・感想 まほろん「文化財データベース」で、中地集落内の菅原神社南西一帯が示されていたので訪問も、その位置は一面の田んぼとなっていました。圃場整備で遺構も認められないでしょうが、水田地は明らかに集落より低地ですので、おそらく集落内に館跡があったのでは、と思いますが…? 郷土史家石田明夫氏の著述に拠れば土塁と堀跡が遺るとのことですが、さすがに民家敷地に侵入も出来ません…。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/29.html
下塩生城(しもおしゅうじょう) 所在地会津若松市大戸町上小塩 別称 築城年不明 築城者不明 城主変遷不明 廃城年不明 現状山林 概要 下塩生城は福島県会津若松市に所在した城館跡である。 歴史 詳細は不明、大川(阿賀川)と闇川の合流点南側に所在し、平場が確認出来るという。 現状・感想 城跡西側を会津鉄道が走っており、さらに大川を挟んで国道118号線(会津西街道)が通じています。会津盆地の南側入口を押さえる城館でしょうが、訪問時は時間が取れず遠望のみの確認です(^-^; 関連項目 福島県の城館一覧
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/31.html
幕内館(まくのうちだて) 所在地会津若松市神指町南四合字幕内 別称 築城年(承久二年(1191))、天授五年(康暦元・1379)など諸説 築城者(佐原義連、)蘆名直盛 城主変遷蘆名氏… 廃城年不明 現状新城寺、二本木稲荷神社 概要 幕内館は福島県会津若松市に所在した城館跡で、会津領主であった蘆名氏の初期の居館であったという。 歴史 文治五年(1189)奥州合戦の戦功で会津の地頭職を賜った蘆名氏祖佐原十郎左衛門尉義連がこの地へ来た際、二本木稲荷神社の地に幕を張って陣所としたのが幕内村の名の由来という。その後天授五年(康暦元・1379)7代孫である蘆名直盛が会津へ下向して幕内館(新城寺)に入り、元中元年(至徳元・1384)東黒川館(小高木館、のち黒川城)へ移るまで居住したという。直盛が東黒川館を築城するにあたり二本木稲荷神社に祈願したところ、遣いの白狐が城の縄張りを示したと云われ、現在の鶴ヶ城稲荷は二本木稲荷の分神とも伝えられている。 また、幕内館は義連が会津を拝領した2年後の建久二年(1191)に築かれ、その後の承久四年(1221)に孫の光盛が小田山城を築城、その麓の小田館へ移ったとする説もある。しかしいずれにしても、当時義連が会津へ入ったとは考えにくいとされている。 現状・感想 実際のところは良くわかりませんが、一般には直盛が会津へ下向した際に入った幕内館とは飯寺館を指していると考えられています。佐原義連が会津へ来たというのも併せて、伝説の域を脱していない様です。きつねの話も含めてね。 本当言うと、幕内集落は天文年間(1532-55)、寛永十年(1633)の2度に渡って東へ移動しているらしく、往時は今より西約1kmの地点にあったらしいです。ですので現在は大川(阿賀川)の河川敷となっているとの事。館跡は旧村の新城寺の場所なんでしょうね。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/71.html
南高野館(みなみこうやだて) 所在地会津若松市河東町(旧河沼郡河東町)南高野字館ノ内 別称 築城年不明 築城者不明 城主変遷不明 廃城年不明 現状耕作地 概要 南高野館は福島県会津若松市(旧河沼郡河東町)に所在した城館跡である。 歴史 詳細不明、単郭式方形館だった模様。 現状・感想 現在は圃場整備で全くの水田となっています。所在地に「館ノ内」とありますが、ゼンリン住宅地図にも載ってないんですよねー。以前河東町史だったか?で、圃場整備の際に××が出土した、なんて記述を目にした記憶がありますが…。役に立たない頭脳ですなあ。 近隣の集落に若干気になる地形があるので、あるいはその付近が館跡だったのかな…なんて考えております。何れにせよもうちょっと調べてみなきゃです。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/58.html
嶋村館(しまむらだて) 所在地会津若松市河東町(旧河沼郡河東町)福島 別称内島館 築城年天授五年(康暦元・1379) 築城者伴野重清 城主変遷蘆名氏[伴野氏](1379-1522) 廃城年大永二年(1522) 現状耕作地、河川 概要 嶋村館は福島県会津若松市(旧河沼郡河東町)に所在した城館跡であり、子孫は居所を変えて現在も続いている。 歴史 天授五年(康暦元・1379)伴野伯耆守重清が築城したとされる。重清は蘆名直盛に従い会津へ下向、初め耶麻郡宇津野に居住し、その後この地へ移り住んだという。しかし大永二年(1522)火災に見舞われて廃館となり、村中に島村館を築いて以後代々居館とし、現在も子孫が居住している。また北側に面する堂島川(日橋川)の水禍を避けて居館を移した、とする説もある。 現状・感想 島村館と県道69号線を挟んで東側に相対する位置にあり、「まほろん」文化財データベースの位置情報を基にすると日橋川南岸に接する様に所在した様です。日橋川と用排水路の間には林があり、大体その辺りと踏んで水路のフェンスを越えて進入することも容易でしたが、訪問時は出勤前だったのでさすがに控えました(^-^; なお北側は日橋川と並んで県道7号線が走っており、伊達政宗が摺上原合戦後に会津北方地方侵攻の際の本陣を置いた駒形山は直ぐ北東に所在します。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/49.html
御山館(おやまだて) 所在地会津若松市門田町御山字館ノ内 別称尾山館 築城年康平年間(1058-65)、応安年間(1368-75)など諸説 築城者源義家?、新宮氏、多々良氏らか 城主変遷源義家?…新宮氏…蘆名氏[多々良氏] 廃城年宝徳三年(1451)か 現状耕作地 概要 御山館は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、三峯城の居館であった。 歴史 詰城である三峯城とともに康平年間(1058-65)源義家によって築かれたとされるが時代的に疑わしい。 応安年間(1368-75)の館主は多々良氏であり、八良行政が最初の館主とされるがその時代は不明である。宝徳三年(1451)七月十五日、行政より9代目の伊賀守政重は允殿館主松本右馬允通輔(典厩)により御山館を襲撃され、蘆名盛詮を奉じて小高木館へ逃れるも、二十一日敗れて自刃したという。右馬允との私闘であったという。 現状・感想 現在は見渡す限りの柿畑…、御山の身不知柿は有名です。土塁の一部が残るとありますが全く判りませんでした。皆様が柿畑のお手入れをされている中をふらふら歩いて、不審者として通報されたくもないですからね~(柿食えないのに)。そんな中唯一「舘ノ内橋」という橋に名残を感じました。 なお三峯城との間にある八幡社は源義家の勧請と伝えられ、また周囲にも八幡太郎の伝承が残っているそうです。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/45.html
鵜浦城(うのうらじょう) 所在地会津若松市湊町静潟字鵜ノ浦 別称 築城年弘安年間(1278-88)か 築城者山口重義 城主変遷(山口氏)…蘆名氏[鵜ノ浦氏] 廃城年天正十七年(1589) 現状神社、山林(鵜ノ浦トンネル上) 概要 鵜浦城は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、蘆名氏家臣鵜浦氏が居城し白河街道方面の守備に当たった。 歴史 弘安年間(1278-88)山口三郎重義が築城したとされ、天正年間(1573-92)初め頃には若松城主蘆名氏家臣鵜浦甲斐守が1万石を以て領した。黒川城の出城の一つとして、白河街道を押さえる役割を果たしていた。 天正十七年(1589)伊達政宗は白河街道より会津侵攻を図り、鵜浦城を攻め落とそうとした。そこで戦上手な甲斐守は、木の樋から大量に白米を流し滝のように見せた。これを見た伊達勢は、これほど豊富な水源を持つ山城を攻め落とすのは容易ではないとして、猪苗代の湖上を渡って城の背後から奇襲し攻め落としたとされる。 東を猪苗代湖、西を湿原(現在は田地)に囲まれた、比高100m、東西約70m、南北約50mの館山が城跡であり、周囲には土居や空堀が巡らされていた。 現状・感想 白河街道(国道294号線)沿の「鵜ノ浦集落はコッチ」表示を曲がり、猪苗代湖方面へ進むと、「鵜ノ浦トンネル」を通ります。そのトンネルの上が鵜ノ浦城跡になります。 登路はトンネル東側に付いており、神社鳥居をくぐって直線の参道を数分登ると主郭部へ至ります。主郭には神社が祀られ、周囲に数条の横堀が巡らされています。 「白米を流して滝に見せる」「白米で馬を洗う」などといった伝説は色々な城跡で目にしますが、寄せ手に見破られて敢えなく落城ってのがほとんどですよねー。上に書いたことが本当なら、伊達勢の何とトンマなことか…。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧
https://w.atwiki.jp/zakuromaru/pages/90.html
2008-04-05 16 43 08 | Weblog 私はクレーマー? 最近ちょっとトラブルばかりで・・・・いや、もしかして私の性格に問題があるの?と不安にもなる。 4月4日夕方、携帯ショップの帰りに、スタンドの前を通った。「安いね」と助手席の母が言った。 で、入れてみようか、と思った。 ちなみにマドレーヌ印の石油会社だ。 実は、私は引っ越してきてすぐに、ガソリンがなくなったので、そのスタンドで入れたことがある。 そのスタンドは、私の父母が会員であり、いつもそこで入れているのだ。 私も独身時代、父母と住んでいた時は利用していた。 店員「いらっしゃいませ、会員ですか?」 私「いえ、違います。」 そこで、話が終わりそうになるので、引っ張る私。 あのな~、会員増やしたくないの? 私「でも、今度この近くに引っ越してきました。 このスタンドが良いと聞いたので、 これからここで入れたいのですが、 会員になるのはどうしたら良いのですか? メンバーカードか何か作るの?」 すると店員は、すごく粗末な刷りのチケットをくれた。 しかし、説明はなし。 まあ、私はそのチケットを実家で見たことがあったので、 次回チケットを持参すれば、会員価格で入れられるのだろうと推測し、スタンドを後にした。 さて、私は運転がドヘタなので、あまり乗らない。 だから、必然的にガソリンがなかなか減らない。 で、次に入れようとスタンドに行ったとき、チケットの期限が切れていた! 私「私は気がつかなかったんだけど、 このチケットは期限があったんですね。」 ←渡す際に説明しろ! 店員「そうです」 私「(そうですって・・・・ええ~いダメモト・・・交渉開始☆) 説明をしていただけなかったので、 気がつかなかったのですが、 今日は定価になってしまうのですか?」 店員「そうです」 私「(あのな~・・・) では、いつから会員価格になるのですか? どうすれば会員になれるのですか?」 ここで判明。 まず、定価でガソリンを入れて、あのチケットをもらう。 次回、来店時にチケットにスタンプを押してもらう。 さらに3回目来店時にまたスタンプを押してもらう。 スタンプが3個たまると(一個目はチケットをくれる際にすでに押してある)、晴れて会員になれる。 な、なるほど~。 でもさ、それ説明してくれなきゃ、わからないじゃん? 結局、その時は定価で入れて、それがまだなくなっていなかった。(でも、農協でカードで入れれば安いので、もうマドレーヌに行く気力は薄れていた・・・)
https://w.atwiki.jp/sakushiro/pages/25.html
大塚山城(おおつかやまじょう) 所在地会津若松市一箕町八幡 別称 築城年16世紀 築城者大塚氏か 城主変遷蘆名氏[大塚氏、石塚氏]- 廃城年不明 現状会津大塚山古墳群、大塚山墓園 概要 大塚山城は福島県会津若松市に所在した城館跡であり、中世に会津領主であった蘆名氏の家臣大塚氏、石塚氏の居城である。所在地は国指定史跡会津大塚山古墳となっている。 歴史 「新編会津風土記」に大塚氏、石塚氏が居住とある。石塚氏は石部館にあった石部氏であろう。土塁、堀、平場、虎口が残るという。 現状・感想 東北地方最古の古墳とされ、東北で唯一(だったか?)三角縁神獣鏡が発掘された、国指定史跡となっている会津大塚山古墳の地に築かれた中世の山城です。堀や土塁、虎口などが残っているらしいですが…、不勉強はわたしはどこがどうやら??当然古墳の地形を利用して築かれたものでしょうが、城郭としての遺構なのか単に古墳のカタチなのか…。因みに山頂からその麓にかけて墓地公園となっておりお墓が林立しています。そこが古墳なわけじゃないですよ(あたりまえ)。 関連項目 福島県の城館一覧 蘆名氏の城館一覧