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使おう活用しよう括目しよう - 名無しさん 2012-02-05 12 31 57 運営いつあのラグなおすんだろうね;; - 彩華 2012-02-06 21 33 18 運営ks - 名無しさん 2012-02-08 17 03 25 来週、来週こそなおしますから - 名無しさん 2012-02-09 00 06 38 っていうかお前ら○使えよks - 名無しさん 2012-02-09 13 41 16 かかっww - 名無しさん 2012-02-10 02 16 40 ! - 名無しさん 2012-02-17 23 58 37 ! - 名無しさん 2012-02-17 23 58 54 ? - 名無しさん 2012-02-29 02 49 33 あやかちゃんいじりまくりだね - 名無しさん 2012-03-01 01 18 20 いじるためのこのページ - 彩華 2012-03-04 20 30 06 べねりいいいいいいいいいいいいいいい - 名無しさん 2012-03-16 11 54 28 パイソン・・・ - 名無しさん 2012-03-18 22 13 44 未満はいるとけられるから専用いってくるね!! - .*彩華*. 2012-04-01 20 07 21 かわりに気もいサブいれとくから!! - .*彩華*. 2012-04-01 20 07 58 過疎おつ - pQ 2012-04-30 02 45 50 私は、しばらく 篭る - 名無しさん 2012-06-30 02 18 24 思えばもう九月中旬ですよ・・・・ - 名無しさん 2012-09-17 18 26 01 なんか寒くないですか・ - 名無しさん 2012-09-21 21 55 17 たくあん・・・・ - 名無しさん 2013-02-10 00 47 53 なんでだよ・・・・ - 名無しさん 2013-02-10 00 48 01 鉛をあげましょう! - 名無しさん 2015-05-21 00 42 15 名前
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<魏 234年> <蜀漢 234年> <呉 234年> 234年 嘉禾三年(呉) 皇帝 孫権(呉大帝) 皇后 (空位) 皇太子 孫登 三公(呉) 丞相:顧雍(前太常) その他の要職(呉) 太常:潘濬 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:? 大将軍:? 驃騎将軍:? 車騎将軍:? 衛将軍:? 上大將軍:陸遜? 主な事件 三年春正月、詔して「兵乱は永く続き、民は賦役に困っている。歲或不登.其寬諸逋,勿復督課。」《三国志呉書呉主権伝》 夏五月、孫權は陸遜、諸葛瑾等を江夏、沔口に、孫韶、張承等を廣陵、淮陽に遣わして、孫權自らは大軍を率いて合肥新城を囲む。是時、蜀の相である諸葛亮が武功に出ていたので、孫權は魏の明帝が遠く出てこられないだろうと言っていたが、明帝は司馬宣王に兵を増兵して亮を拒む一方、自ら水軍を率いて東征してきた。壽春に至る前に孫權は退還する。孫韶らもまた退却した《三国志呉書呉主権伝》 秋八月、諸葛恪を丹楊太守と為し、山越を討伐する《三国志呉書呉主権伝》 九月朔、霜がおり、穀物を傷つける《三国志呉書呉主権伝》 冬十一月、太常の潘濬が武陵蠻夷を平定する。事畢,武昌に還る。詔して再び曲阿を雲陽、丹徒を武進とする。廬陵の賊の李桓、羅厲等が反乱する《三国志呉書呉主権伝》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 233年<< >>235年
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1年よいこ組 幼稚舎 ≪人数・レベル≫ 総数:10人 / ギルドLv:3 ≪責任者≫ ギルドマスター:きれいなお姉さん ≪成績≫ 現在ギルドポイント:1,239 ( 次のレベルまで:8,761 ) AL:-8 AL2:0 LH:-2 NP:1,249 ≪メッセージ≫ 天使すぎるYIK48 4枚目のCD発売決定♪ 「100年に一度の札」予約特典 タチタクナールEX30錠 ≪メンバー≫ (wikiのプレイヤーリストに載っている人のみ) きれいなお姉さん るしーだ 九月姫 31415926535 りんりん☆ だいじろう74 さとり世代 あしタ、元気ニなぁレ。 ≪受賞歴≫ 2015年3月 月間ギルドランキング3位 2015年4月 月間ギルドランキング3位 2015年6月 月間ギルドランキング2位 2015年7月 月間ギルドランキング2位 2015年8月 月間ギルドランキング2位 2016年1月 月間ギルドランキング3位 2016年3月 月間ギルドランキング1位 2016年4月 月間ギルドランキング1位 2016年5月 月間ギルドランキング3位 2016年6月 月間ギルドランキング2位 2016年10月 月間ギルドランキング1位 2016年11月 月間ギルドランキング1位 2016年12月 月間ギルドランキング2位 2017年1月 月間ギルドランキング1位 2017年2月 月間ギルドランキング1位 2017年3月 月間ギルドランキング1位 2017年7月 月間ギルドランキング1位 2017年9月 月間ギルドランキング3位 2017年10月 月間ギルドランキング2位 ≪サイト≫ ≪ギルド情報≫ https //login.alteil.jp/guild/readingGuild.php?id=4359 ≪活動期間≫ 2012年8月~現在 ≪記事≫ 1年よいこ組の関連ギルド。
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珍しく早起きしたら、クラスメートが先を歩いていた。 「おはよう」 ポンと肩を叩く 「おはようキョン」 クラスメートはそう言って振り返る。髪の芳香がいつもと違う。 「シャンプー別のに替えたか?」 「うん、そうなんだ。よく気が付いたね」 「香りが全然違うからな」 「キミは嗅覚に鋭敏なんだね。でも、ちょっと変かな?」 「前のも良かったけど、今日のも良いと思う。髪だってこんなにサラサラで、手触りも最高だ」 「そうか。ちょっと心配してたんだ。ありがとう」 次の日、昨日よりもっと早く家出た。 さすがに早すぎると思ってゆっくり歩く。 「やあキョン」 ポンと背中を叩かれて挨拶される。 「今日は冬服か」 「衣替えだからね」 「冬服も似合っているぞ」 土曜日は塾の日 「おはよう佐々木。それは新しい服か?でも夏物だよな」 「九月上旬に売り尽くしバーゲンで買ったきりだったからね」 「大人っぽくてかっこよいぞ」 「ありがとう」 日曜日、女子達と遊んでいる佐々木にひょっこり出会った。服はいつも見掛ける服の一つである。 「奇遇だな、佐々木」 「ササッキーは今日の機会にランチでも奢って自転車のお礼しちゃいなよ。あたし達は映画見に行くから」 「ちょ、ちょっと」 「……」 「……」 「えーと。キミさえ良ければ、普段のお礼に何か奢るけど、今日は暇かな?」 「喜んで。でも、そのバックもしかしたら新しいやつか?」 「うん。伯父のお土産なんだ」 「やあ、キョン」 一年ぶりに会う佐々木。昔よく着ていた服を着ていた。 変わったことと言えば…… 「胸がでかくなったな」とはさすがに言えなかった。 (終わり)
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79質問-2 作者 79氏 ハロ「さあさあやってまいりました、『ツンデレにこれって足コキだよなって言ったら』質問コーナー!」 蕪「今週も張り切って二枚の葉書を紹介するお!二枚だお!い~ち、に~い、うん、二枚!」 ハロ「ちょwwwwwww」 蕪「現実だお」 ハロ「今日のゲストは・・・ウィッシュか」 ウ「ちょっと、何でそんなにテンション低いの。確かに悪い事したけどさ」 蕪「巫女さん(*´Д`)ハァハァ」 ハロ「(属性多いなコイツ・・・)さ、お頼り一枚目だ」 (´・ω・)つ[] ◆sKDRdae3Hsは処女だったんですか? ハロ「・・・キャラクターとは全く関係無い件」 ウ「筆者だね」 蕪「何で過去形なんだよwwwwwww前提wwww」 Kick&Destroy&Rescind79#゚Д゚)三○そ三[] ガッ ハロ「ああ!葉書が!」 ウ「sKDRdae3HsのKDRってそういう意味なの?」 蕪「こじつけだお」 ハロ「では、続いて二枚目」 (´・ω・)つ[] 俺の初体験の人はいつ現れるんですか? ハロ「・・・・・・」 蕪「・・・・・・」 ウ「よくこんなのを恥ずかしげも無く」 ハロ「いつだ?ウィッシュ」 ウ「ゲストに言わせる気!?」 蕪「知ってるのかwwww」 ウ「知るわけないでしょ!」 ハロ「まぁそういわずに。いつだって聞いてんだから」 ウ「うーん・・・九月九日」 ハロ「えらくピンポイントだな」 蕪「漏れはいつだお?」 ウ「もう終わってるでしょ?」 ハロ「え?」 蕪「マジレスするとまだだお」 ウ「お父さんに」 蕪「違うお!!」 ハロ「お前h」 蕪「信じてくれお!!」 ツン「(・・・なんで私は呼ばないのよ)」
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唐書巻十 本紀第十 昭宗 哀帝 昭宗聖穆景文孝皇帝は、諱を曄といい、懿宗の第七子である。母は恭憲皇太后王氏といった。始め寿王に封ぜられた。乾符三年(876)、幽州盧龍軍節度使を領した。僖宗が乱に遇って再び出奔すると、寿王は兵を掌握して左右に侍り、尤見倚信。 文徳元年(888)三月、僖宗疾大漸、群臣は吉王が年長であるので、これを立てたく思っていた。観軍容使の楊復恭が兵を率いて寿王を迎え、立てて皇太弟とし、敏と名を改めた。乙巳、柩の前で皇帝位についた。 四月戊辰、孫儒が揚州を陥落させ、淮南節度使を自称し、楊行密が廬州に逃れた。庚午、母を追尊して皇太后とした。韋昭度が中書令となり、孔緯が司空となった。乙亥、張全義が孟州を陥落させ、李罕之が河東に逃れた。成汭が江陵を陥落させ、留後を自称した。辛卯、朱全忠が秦宗権と蔡州で戦い、これを破った。 五月壬寅、趙徳諲が襄州をもって降り、趙徳諲を忠義軍節度使・蔡州四面行営副都統とした。 六月、閬州防禦使の王建が漢州を陥落させ、刺史の張頊を捕らえて、成都を寇した。韋昭度が宰相を退いて剣南西川節度副大使となり、両川招撫制置使を兼ねた。 十月、陳敬瑄がそむいた。辛卯、恵聖恭定孝皇帝を靖陵に葬った。 十一月丙申、秦宗権が許州を陥落させ、忠武軍節度使の王縕を捕らえた。辛酉、奉国軍の将の申叢が秦宗権を捕らえた。 十二月丁亥、韋昭度が行営招討使となり、永平軍節度使の王建とともに陳敬瑄を討った。山南西道節度使の楊守厚が夔州を陥落させた。 龍紀元年(889)正月癸巳、大赦をおこない、改元した。翰林学士承旨・兵部侍郎の劉崇望が同中書門下平章事となった。壬子、宣武軍の将の郭璠が奉国軍留後の申叢を殺し、留後を自称した。 二月戊辰、朱全忠が秦宗権を捕らえて献上した。己丑、秦宗権が処刑された。 三月、孔緯が司徒となり、杜譲能が司空となった。丙申、銭鏐が蘇州を陥落させ、刺史の徐約を追放した。 六月、李克用が邢州を寇した。昭義軍節度使の孟方立が亡くなると、その弟の孟遷が留後を自称した。楊行密が宣州を陥落させ、宣歙観察使の趙鍠がここに死んだ。廬州刺史の蔡儔が叛いて孫儒についた。 八月甲戌、孟遷が叛いて李克用についた。 十月、平盧軍節度使の王敬武が亡くなると、その子の王師範が留後を自称し、棣州を陥落させ、刺史の張蟾がここに死んだ。宣歙観察使の楊行密が常州を陥落させ、刺史の杜陵がここに死んだ。銭鏐が潤州を陥落させた。 十一月丁未、太清宮で朝献した。戊申、太廟で朝享した。己酉、有事于南郊、大赦をおこなった。 十二月、孫儒が常・潤の二州を陥落させた。戊午、孔緯が太保となり、杜譲能が司徒となった。壬申、眉州刺史の山行章が叛いて王建についた。 大順元年(890)正月戊子、群臣が尊号をたてまつって聖文睿徳光武弘孝皇帝といい、大赦をおこない、改元した。壬寅、簡州の将の杜有遷がその刺史の員虔嵩を捕らえ、叛いて王建についた。 二月己未、資州の将の侯元綽がその刺史の楊戡を捕らえ、叛いて王建についた。 三月戊申、昭義軍節度使の李克修が亡くなると、その弟の李克恭が留後を自称した。 四月丙辰、宿州の将の張筠がその刺史の張紹光を追放した。丙寅、嘉州刺史の朱実が叛いて王建についた。丙子、戎州の将の文武堅がその刺史の謝承恩を捕らえて、叛いて王建についた。 五月、張濬が河東行営都招討宣慰使となり、京兆尹の孫揆がその副使となった。幽州盧龍軍節度使の李匡威が北面招討使となり、雲州防禦使の赫連鐸がその副使となった。朱全忠が南面招討使となり、王鎔が東面招討使となり、李克用を討った。壬寅、昭義軍の将の安居受がその節度使の李克恭を殺して、叛いて朱全忠についた。癸丑、剣南東川節度使の顧彦朗が亡くなると、その弟の顧彦暉が留後を自称した。 六月辛酉、雅州の将の謝従本がその刺史の張承簡を殺して、叛いて王建についた。辛未、朱全忠が河東東面行営招討使となった。この月、河東の将の安知建が邢・洺・磁の三州をもって叛いて朱全忠についた。 七月、楊行密が潤州を陥落させた。戊申、李克用が昭義軍節度使の孫揆を捕らえた。 八月、銭鏐が蘇州刺史の杜孺休を殺した。楊行密が蘇州を陥落させた。淮南節度使の孫儒が潤州を陥落させた。庚午、朱全忠が中書令となった。 九月、李克用が潞州を陥落させた。楊行密が潤・常の二州を陥落させた。 閏月、孫儒が常州を陥落させた。壬戌、邛州の将の任可知がその刺史の毛湘を殺した。 十月癸未、蜀州刺史の李行周が叛いて王建についた。李克用が邢・洺・磁の三州を陥落させた。 十一月丁卯、李匡威が蔚州を陥落させた。この月、張濬が李克用と陰地で戦い、敗れた。孫儒が蘇州を陥落させた。 十二月、李克用が晋州を陥落させた。 二年(891)正月庚申、孔緯・張濬が宰相を退いた。翰林学士承旨・兵部侍郎の崔昭緯と御史中丞の徐彦若が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。甘露鎮使の陳可言が常州が陷した。銭鏐が蘇州を陥落させた。 二月乙巳、陳敬瑄を赦した。丁未、詔により王建の兵権を奪ったが、王建は命を受けなかった。 この春、淮南で大飢饉があった。 四月庚辰、彗星が太微に入った。甲申、大赦をおこない、正殿を避け、膳を減らし、音楽をやめた。両軍に金帛を賜り、贖所略男女還其家。民年八十以上及疾不能自存者、長吏存卹。武徳の功臣の子孫を訪れた。癸卯、王建が成都を寇した。 五月、孫儒が和・滁の二州を陥落させた。 六月、楊行密が和・滁の二州を陥落させた。丙午、子の李祐を封じて徳王とした。 七月、李克用が雲州を陥落させ、防禦使の赫連鐸が退渾に逃れた。孫儒が揚州を焼いて逃げた。 八月庚子、王建が成都を陥落させ、剣南西川節度使陳敬瑄を捕らえて、留後を自称した。 十月壬午、朱全忠が宿州を陥落させた。 十一月己未、曹州の将の郭銖がその刺史の郭詞を殺し、叛いて朱全忠についた。辛未、朱全忠が寿州を陥落させた。 景福元年(892)正月己未、朱全忠が孟州を陥落させ、河陽節度使の趙克裕を追放した。丙寅、大赦をおこない、改元した。 二月、劉崇望が宰相を退いた。銭鏐が蘇州を陥落させた。甲申、朱全忠が鄆州を寇したので、天平軍節度使の朱宣がこれを破った。 三月、戸部尚書の鄭延昌が中書侍郎・同中書門下平章事となった。乙巳、楊行密が楚州を陥落させ、刺史の劉瓚を捕らえた。また常州を陥落させ、刺史の陳可言がここに死んだ。丙辰、武定軍節度使の楊守忠と龍剣節度使の楊守貞が楊守厚の兵と合流して梓州を寇した。丙寅、福建観察使の陳巌が亡くなると、護閩都将の范暉が留後を自称した。庚午、泉州刺史の王潮が福州を寇した。 四月辛巳、杜譲能が太尉となった。 六月戊寅、楊行密が揚州を陥落させた。己巳、鳳翔隴右節度使の李茂貞が鳳州を陥落させ、感義軍節度使の満存が興元に逃れ、そのまま興・洋の二州を陥落させた。 八月壬申、李茂貞が興元を寇し、楊守亮・満存が閬州に逃れた。丙戌、降京畿・關輔囚罪、免淮南・浙西・宣州逋負。 十月、蔡儔が廬州をもって叛いて朱全忠につき、河東の将の李存孝が邢州をもって叛いて朱全忠についた。 十一月、有星孛于斗・牛。辛丑、武寧軍の将の張璲・張諌が濠・泗の二州をもって叛いて朱全忠についた。乙巳、朱友裕が濮州を陥落させ、刺史の邵儒を捕らえた。孫儒の将の王壇が婺州を陥落させ、刺史の蒋瓌が越州に逃れた。 この年、明州刺史の鍾文季が亡くなると、その将の黄晟が刺史を自称した。 二年(893)正月、徐彦若が宰相を退いて鳳翔隴右節度使となり、李茂貞が山南西道節度使となった。李茂貞は命を受けなかった。 二月、楊行密が常州を陥落させた。 三月辛酉、幽州盧龍軍兵馬留後の李匡籌がその兄の李匡威を追放して、節度留後を自称した。 四月乙亥、王建が陳敬瑄と剣南西川監軍田令孜を殺した。乙酉、彗星が太微に入った。丁亥、王鎔が李匡威を殺した。戊子、朱全忠が徐州を陥落させ、武寧軍節度使の時溥がここに死んだ。 五月庚子、王潮が福州を陥落させ、范暉がここに死に、王潮が留後を自称した。 七月、楊行密が廬州を陥落させ、蔡儔がここに死んだ。 八月丙申、嗣覃王李嗣周が京西面招討使となり、神策大将軍の李鐬が副使となり、李茂貞を討った。庚子、昇州刺史の張雄が亡くなると、その将の馮弘鐸が刺史を自称した。この月、楊行密が歙州を陥落させた。 九月壬午、嗣覃王李嗣周が李茂貞と興平で戦い、敗れた。甲申、李茂貞が京師を侵した。乙酉、李茂貞は観軍容使の西門重遂・内枢密使の李周𧬤・段詡を殺した。杜譲能が左遷されて梧州刺史となった。壬辰、東都留守・検校司徒の韋昭度が司徒となり、御史中丞の崔胤が戸部侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。この月、昇州刺史の馮弘鐸が叛いて楊行密についた。 十月乙未、杜譲能と戸部侍郎杜弘徽を殺した。楊行密が舒州を陥落させた。 十二月、韋昭度が太傅となった。邵州刺史の鄧処訥が潭州を陥落させ、欽化軍節度使の周岳がここに死に、処訥が留後を自称した。 この年、建州刺史の徐帰範と汀州刺史の鍾全慕が叛いて王潮についた。 乾寧元年(894)正月、有星孛于鶉首。乙丑、大赦をおこない、改元した。李茂貞が兵をつれて来朝した。 二月、右散騎常侍の鄭綮が礼部侍郎・同中書門下平章事となった。彰義軍節度使の張鈞が亡くなると、その兄の張鐇が留後を自称した。 三月甲申、李克用が邢州を寇し、李存孝を捕らえてこれを殺した。 五月丙子、王建が彭州を陥落させ、威戎軍節度使の楊晟がここに死んだ。この月、鄭延昌が宰相を退いた。孫儒の将の劉建鋒・馬殷が潭州を陥落させ、武安軍節度使の鄧処訥がここに死に、劉建鋒が留後を自称した。武岡指揮使の蒋勲が邵州を陥落させた。 六月、大同軍防禦使の赫連鐸が李克用と雲州で戦い、ここに死んだ。戊午、翰林学士承旨・礼部尚書の李磎が同中書門下平章事となった。庚申、李磎が宰相を退いた。御史大夫の徐彦若が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 七月、雨霖のため正殿を避け、膳を減らした。鄭綮が宰相を退いた。李茂貞が閬州を陥落させた。 八月、楊守亮が処刑された。癸巳、減京畿・興元・洋金商州賦役。 九月庚申、李克用が潞州を陥落させ、昭義軍節度使の康君立がここに死んだ。 十月丁酉、子の李祤を封じて棣王とし、李禊を虔王とし、李禋を沂王とし、李禕を遂王とした。 十一月、李克用が武州を陥落させた。 十二月、新州を陥落させた。甲寅、幽州盧龍軍節度使の李匡籌が滄州に逃れ、義昌軍節度使の盧彦威がこれを殺した。丙辰、李克用が幽州を陥落させた。 この冬、楊行密が黄州を陥落させ、刺史の呉討を捕らえた。 二年(895)正月己巳、給事中の陸希声が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。壬申、護国軍節度使の王重盈が亡くなると、その子の王珂が留後を自称した。 二月乙未、太子太傅の李磎が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。 三月、崔胤・李磎が宰相を退いた。戸部侍郎・判戸部の王摶が中書侍郎・同中書門下平章事となった。楊行密が濠州を陥落させ、刺史の張璲を捕らえた。庚午、河東で地震があった。 四月、蘇州で大雨と大雪があった。陸希声・韋昭度が宰相を退いた。泰寧軍節度使の朱瑾が朱全忠と高梧で戦って、敗れ、その将の安福慶がここに死んだ。楊行密が寿州を陥落させ、刺史の江従勗を捕らえた。 五月甲子、静難軍節度使の王行瑜・鎮国軍節度使の韓建と李茂貞が京師を侵し、太保として致仕した韋昭度と太子少師の李磎を殺した。この月、李克用が絳州を陥落させ、刺史の王瑤がここに死んだ。 六月庚寅、鎮海軍節度使の銭鏐が浙江東道招討使となった。癸巳、吏部尚書の孔緯が司空となり、門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。 七月丙辰、李克用が兵を河中に駐屯させた。戊午、匡国軍節度使の王行約が京師に逃れた。庚申、左右神策軍護軍中尉の駱全瓘と劉景宣と指揮使の王行実および李継鵬がそむいた。行在莎城。嗣薛王李知柔が権知中書事となった。壬戌、李克用が同州を陥落させた。甲子、次石門。前護国軍節度使の崔胤が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 八月戊戌、李克用が邠寧四面行営招討使となり、保大軍節度使の李思孝が北面招討使となり、定難軍節度使の李思諫が東北面招討使となり、彰義軍節度使の張鐇が西面招討使となった。辛丑、李克用が邠寧四面行営都統となった。李継鵬が処刑された。李茂貞を赦した。辛亥、石門から到着した。壬子、崔昭緯が宰相を退いた。 九月丙辰、徐彦若が司空となった。癸亥、孔緯が薨去した。前昭義軍節度使の李罕之が邠寧四面行営副都統となった。 十月、京兆尹の孫偓が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。丙戌、李克用が王行瑜と梨園で戦い、これを破った。庚寅、王行約が寧州を焼いて逃亡した。義武軍節度使の王処存が亡くなると、その子の王郜が留後を自称した。 十一月丁巳、李克用が王行瑜と龍泉で戦い、これを破った。辛酉、衢州刺史の陳儒が亡くなると、その弟の陳岌が刺史を自称した。丁卯、王行瑜が処刑された。壬申、斉州刺史の朱瓊が叛いて朱全忠についた。丁丑、王建が利州を陥落させ、刺史の李継顒がここに死んだ。 十二月癸未、京師で赦をおこない、大順年間以降に官爵を削奪されたものでその罪にあたらない者の官爵を復した。甲申、閬州防禦使の李継雍・蓬州刺史の費存・渠州刺史の陳璠が叛いて王建についた。丙申、王建が梓州を寇した。戊戌、通州刺史の李彦昭が叛いて王建についた。 この年、安州防禦使の宣晟が桂州を陥落させ、静江軍節度使の周元静の部将の劉士政がここに死に、宣晟が知軍府事を自称した。 三年(896)正月癸丑、王建が龍州を陥落させ、刺史の田昉がここに死んだ。 閏月丁亥、果州刺史の周雄が叛いて王建についた。 四月壬子、武安軍が乱を起こし、その節度使の劉建鋒を殺し、その将の馬殷が留後を自称した。 五月癸未、楊行密が蘇州を陥落させ、刺史の成及を捕らえた。光州を陥落させ、刺史の劉存がここに死んだ。庚寅、成汭が黔州を陥落させ、武泰軍節度使の王建肇が成都に逃れた。乙未、董昌が処刑された。この月、蘄州刺史の馮行章が叛いて楊行密についた。 六月庚戌、李茂貞が京師を侵し、嗣延王李戒丕がこれをふせいだ。丙寅、李茂貞と婁館で戦い、敗れた。 七月癸巳、渭北を行在とした。甲午、韓建が来朝し、華州に行った。乙巳、崔胤が宰相を退いた。丙午、翰林学士承旨・尚書左丞の陸扆が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。 八月甲寅、王摶が宰相を退いた。乙丑、国子毛詩搏士の朱朴が左諫議大夫・同中書門下平章事となった。 九月乙未、武安軍節度使の崔胤が中書侍郎となり、翰林学士承旨・兵部侍郎の崔遠が同中書門下平章事となった。丁酉、陸扆を左遷して峽州刺史とした。 十月、李克用が羅弘信と白龍潭で戦い、これを破った。壬子、孫偓が持節・鳳翔四面行営節度・諸軍都統・招討・処置使となった。戊午、威勝軍節度使の王摶が吏部尚書・同中書門下平章事となった。 十一月戊子、忠国軍節度使の李師悦が亡くなると、その子の李継徽が留後を自称した。 四年(897)正月乙酉、韓建が兵をもって行宮を囲み、扈蹕都将の李筠を殺した。丙申、朱全忠が鄆州を陥落させ、天平軍節度使の朱宣がここに死んだ。己亥、孫偓が都統を辞任した。 二月、朱全忠が兗州を寇し、泰寧軍節度使の朱瑾が淮南に逃れ、その子の朱用貞が兗州をもって叛いて朱全忠についた。朱全忠は沂・海・密の三州を陥落させた。保義軍節度使の王珙が河中を寇した。韓建が太子詹事の馬道殷と将作監の許巌士を殺した。楊行密が江南諸道行営都統となった。癸丑、王建が瀘州を陥落させ、刺史の馬敬儒がここに死んだ。己未、徳王李裕を立てて皇太子とし、大赦をおこない、行廟に饗した。辛未、王建が渝州を陥落させた。乙亥、孫偓・朱朴が宰相を退いた。 五月壬午、朱全忠が黄州を陥落させ、刺史の矍璋がここに死んだ。 六月、王建を左遷して南州刺史とした。李茂貞を剣南西川節度使とし、嗣覃王李嗣周を鳳翔隴右節度使としたが、李茂貞は命を受けず、李嗣周は李茂貞と奉天で戦い、敗れた。 八月、韓建が通王李滋・沂王李禋・韶王・彭王・嗣韓王・嗣陳王・嗣覃王李嗣周・嗣延王李戒丕・嗣丹王李允を殺した。 九月、銭鏐が湖州を陥落させ、忠国軍節度使の李継徽が淮南に逃れた。彰義軍節度使の張璉が鳳翔西北行営招討使となり、静難軍節度使の李思諫が鳳翔四面行営副都統となって、李茂貞を討った。 十月壬子、遂州刺史侯紹が叛いて王建についた。乙卯、合州刺史の王仁威が叛いて王建についた。庚申、王建が梓州を陥落させ、剣南東川節度使の顧彦暉がここに死んだ。甲子、子の李秘を封じて景王とし、李祚を輝王とし、李祺を祁王とした。 十一月癸酉、楊行密が朱全忠と清口で戦い、これを破った。丙子、銭鏐が台州を陥落させた。 十二月丁未、威武軍節度使王潮が亡くなると、その弟の王審知が留後を自称した。 光化元年(898)正月、徐彦若が司徒となった。 二月、李茂貞を赦した。 三月、幽州盧龍軍節度使の劉仁恭の子の劉守文が滄州を陥落させ、義昌軍節度使の盧彦威が汴州に逃れた。 四月丙寅、淑妃何氏を立てて皇后とした。 五月己巳、大赦をおこなった。辛未、朱全忠が洺州を陥落させ、刺史の邢善益がここに死んだ。また邢州を陥落させた。壬午、磁州を陥落させ、刺史の袁奉韜がここに死んだ。この月、馬殷が邵・衡・永の三州を陥落させ、刺史の蒋勲・楊師遠・唐旻がここに死んだ。 七月丙申、朱全忠が唐州を陥落させ、また隋州を陥落させ、刺史の趙匡璘を捕らえた。 八月戊午、朱全忠が鄧州を陥落させ、刺史の国湘を捕らえた。壬戌、華州から到着した。甲子、大赦をおこない、改元した。 九月丙子、北方に星が落ちた。甲申、銭鏐が蘇州を陥落させた。 十月、魏博節度使の羅弘信が亡くなると、その子の羅紹威が留後を自称した。己亥、朱全忠が安州を陥落させ、刺史の武瑜がここに死んだ。 十一月、衢州刺史の陳岌が叛いて楊行密についた。甲寅、子の李禛を封じて雅王とし、李祥を瓊王とした。 十二月癸未、李罕之が潞州を陥落させ、節度留後を自称した。李克用が沢州を陥落させた。 二年(899)正月乙未、給復綿・剣二州二年。丁未、崔胤が宰相を退いた。兵部尚書の陸扆が同中書門下平章事となった。この月、李罕之が沁州を陥落させた。劉仁恭が貝州を陥落させた。 二月甲子、朱全忠が蔡州を陥落させ、奉国軍節度使の崔洪が淮南に逃れた。 三月丁巳、朱全忠が沢州を陥落させた。 六月丁丑、保義軍が乱を起こし、その節度使の王珙を殺して、その将の李璠が叛いて朱全忠についた。 七月壬辰、海州の戍将の陳漢賓がその州をもって叛いて楊行密についた。馬殷が道州を陥落させ、刺史の蔡結がここに死んだ。 八月、李克用が沢・潞・懐の三州を陥落させた。 十一月、徐彦若が太保となり、王摶が司空となった。馬殷が郴・連の二州を陥落させ、刺史の陳彦謙・魯景仁がここに死んだ。辛丑、保義軍の将の朱簡がその節度使の李璠を殺して、叛いて朱全忠についた。 三年(900)四月辛未、皇后と皇太子が太廟で享した。 六月丁卯、清海軍節度使の崔胤が尚書左僕射となり、門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。王摶が宰相を退いた。己巳、これを殺した。 七月、浙江が氾濫した。 八月庚辰、李克用が洺州を陥落させ、刺史の朱紹宗を捕らえた。 九月、朱全忠が洺州を陥落させた。銭鏐が婺州を陥落させ、刺史の王壇が宣州に逃れた。衢州刺史の陳岌が叛いて銭鏐についた。乙巳、徐彦若が宰相を退いた。丙午、崔遠が宰相を退いた。戊申、刑部尚書の裴贄が中書侍郎・同中書門下平章事となった。甲寅、朱全忠が瀛州を陥落させた。 十月丙辰、朱全忠が景州を陥落させ、刺史の劉仁霸を捕らえた。辛酉、莫州を陥落させた。辛巳、祁州を陥落させ、刺史の楊約がここに死んだ。甲申、定州を陥落させ、義武軍節度使の王郜が太原に逃れた。 十一月己丑、左右神策軍中尉の劉季述と王仲先と内枢密使の王彦範および薛斉偓が乱を起こし、皇帝居于少陽院。辛卯、劉季述は皇太子の李裕を皇帝とした。丁未、太白(金星)が昼に見えた。 十二月、劉季述が睦王李倚を殺した。 この年、馬殷が桂・宜・巖・柳・象の五州を陥落させた。睦州刺史の陳晟が亡くなると、その弟の陳詢が刺史を自称した。 天復元年(901)正月乙酉、左神策軍の将の孫徳昭・董彦弼・周承誨が兵をもって乱を討ち、皇帝を位に復させた。劉季述・薛斉偓は処刑され、皇太子李裕は降封されて徳王となった。戊申、朱全忠が絳州を陥落させた。壬子、崔胤が司空となった。朱全忠が晋州を陥落させた。 二月甲寅、旱害のため正殿を避け、膳を減らした。戊辰、朱全忠が河中を陥落させ、護国軍節度使の王珂を捕らえた。辛未、朱全忠を封じて梁王とした。この月、翰林学士・戸部侍郎の王溥が中書侍郎となり、吏部侍郎の裴枢が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。 三月辛亥、昭義軍節度使の孟遷が叛いて朱全忠についた。 四月壬子、朱全忠が沁・沢二州を陥落させた。丁巳、儀州刺史の張鄂が叛いて朱全忠についた。甲戌、太廟で享した。丙子、大赦をおこない、改元した。武徳・貞観配饗功臣主祭子孫進之、介公・酅公後予一子九品正員官。免光化以來畿内逋負。 五月、李茂貞が来朝した。 六月、李克用が隰・慈の二州を陥落させた。 十月戊戌、朱全忠が京師を侵した。 十一月己酉、朱全忠が同州を陥落させた。壬子、如鳳翔。丁巳、朱全忠が華州を陥落させ、鎮国軍節度使の韓建が叛いて朱全忠についた。辛酉、兵部侍郎の盧光啓が権勾當中書事となった。癸亥、李茂貞が朱全忠と武功で戦い、敗れた。丁卯、盧光啓が右諫議大夫となり、參知機務。戊辰、朱全忠が鳳翔を侵した。辛未、邠州を陥落させ、静難軍節度使の李継徽が叛いて朱全忠についた。甲戌、崔胤・裴枢が宰相を退いた。 十二月、鍾伝が吉州を陥落させた。 この年、清海軍節度使徐彦若が亡くなると、行軍司馬劉隠が留後を自称した。武貞軍節度使雷満が亡くなると、その子の彦威が留後を自称した。 二年(902)正月丁卯、給事中の韋貽範が工部侍郎・同中書門下平章事となった。丙子、給事中嚴龜為汴・岐和協使。 二月己亥、盗人が簡陵をあばいた。王建が利州を陥落させ、昭武軍節度使の李継忠が鳳翔に逃れた。 三月庚戌、晝晦。癸丑、朱全忠が汾州を陥落させた。乙卯、浙西で大雨と大雪があった。戊午、朱全忠が慈・隰の二州を陥落させた。丁卯、李克用が汾・慈・隰の三州を陥落させた。 四月、盧光啓が宰相を退いた。丙申、温州刺史朱褒が亡くなると、その兄の敖が刺史を自称した。楊行密が昇州を陥落させた。 五月丙午、李茂貞が朱全忠と武功で戦い、敗れた。庚午、韋貽範が宰相を退いた。 六月丙子、中書舎人の蘇検が工部侍郎・同中書門下平章事となった。丙戌、朱全忠が鳳州を陥落させた。 七月甲辰、朱全忠が成州を陥落させた。乙巳、隴州を陥落させた。 八月己亥、韋貽範起復。辛丑、王建が興元を陥落させ、山南西道節度使の王万弘が叛いて王建についた。 九月戊申、李茂貞が朱全忠と槐林で戦い、敗れた。武定軍節度使の拓抜思恭が叛いて王建についた。 十月癸酉、楊行密が東面諸道行営都統となり、湖南節度使の馬殷とともに朱全忠を討った。王建が興州を陥落させた。 十一月癸卯、保大軍節度使の李茂勲が兵をもって鳳翔をたすけた。丙辰、韋貽範が薨去した。 十二月癸巳、温州の将の丁章がその刺史の朱敖を追放した。己亥、朱全忠が鄜州を陥落させ、保大軍節度使の李茂勲が叛いて朱全忠についた。 この年、盧光稠が韶州を陥落させた。岳州刺史の鄧進思が亡くなると、その弟の鄧進忠が刺史を自称した。 三年(903)正月丙午、平盧軍節度使の王師範が兗州を取った。戊申、左右神策軍護軍中尉の韓全誨と張彦弘と内枢密使の袁易簡と周敬容を殺した。辛亥、翰林学士の姚洎が汴・岐和協使となった。壬子、工部尚書の崔胤が司空となり、門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。甲子、朱全忠の軍に幸した。己巳、鳳翔から到着し、太廟で哭し、大赦をおこなった。庚午、崔胤と朱全忠が中官七百人あまりを殺した。辛未、崔胤が判六軍十二衛事となった。丁章が処刑された。 二月、雨土。甲戌、陸扆を左遷して沂王の傅とし、東都を分司させた。丙子、王溥が宰相を退いた。朱全忠が蘇検と吏部侍郎の盧光啓を殺した。戊寅、降京畿・河中鳳翔興徳府・同邠鄜三州死罪以下。己卯、輝王李祚が諸道兵馬都元帥となった。庚辰、朱全忠が太尉・中書令となり、副之。崔胤が司徒となった。乙未、清海軍節度使の裴枢が門下侍郎・同中書門下平章事となった。 三月、朱全忠が青州を陥落させた。楊行密が密州を陥落させ、刺史の劉康乂がここに死んだ。 四月己卯、朱全忠が判元帥府事となった。 五月壬子、荊南節度使の成汭が楊行密と君山で戦い、ここに死んだ。武貞軍節度使の雷彦威の弟の雷彦恭が江陵を陥落させた。 六月乙亥、朱全忠が登州を陥落させた。 九月、楊行密が奉国軍節度使の朱延寿を殺した。辛亥、朱全忠が棣州を陥落させ、刺史の邵播がここに死んだ。密州を陥落させた。戊午、平盧軍節度使の王師範が叛いて朱全忠についた。 十月、忠義軍の将の趙匡明が江陵を陥落させ、留後を自称した。王建が忠・萬・施の三州を陥落させた。甲戌、夔州を陥落させた。丁丑、平盧軍の将の劉鄩が兗州をもって叛いて朱全忠についた。 十二月、裴贄が宰相を退いた。楊行密が宣州を陥落させ、寧国軍節度使の田頵がここに死んだ。辛巳、礼部尚書の独孤損が兵部侍郎・同中書門下平章事となった。丙申、朱全忠が尚書左僕射として致仕した張濬を殺した。 天祐元年(904)正月乙巳、崔胤が宰相を退いた。裴枢が判左三軍事となり、独孤損が判右三軍事となった。兵部尚書の崔遠が中書侍郎となり、翰林学士・右拾遺の柳璨が右諫議大夫となり、ともに同中書門下平章事となった。己酉、朱全忠が太子少傅の崔胤と京兆尹の鄭元規・威遠軍使の陳班を殺した。戊午、朱全忠が唐の都を洛陽に遷した。 二月丙寅、日中に北斗が見えた。戊寅、次陝州。朱全忠が来朝した。甲申、子の李禎を封じて端王とし、李祁を豊王とし、李福を和王とし、李禧を登王とし、李祜を嘉王とした。 三月丁未、朱全忠が判左右神策および六軍諸衛事を兼ねた。 閏四月壬寅、次穀水。朱全忠が来朝した。甲辰、西都から到着した。太廟で享した。大風、雨土。乙巳、大赦をおこない、改元した。 六月、静難軍節度使の楊崇本が李克用・王建の兵と合流して朱全忠を討った。 七月乙丑、朱全忠が兵をつれて河中に駐屯した。 八月壬寅、朱全忠が、左右龍武統軍の朱友恭・氏叔琮・枢密使の蒋玄暉の兵に宮門を犯させた。この夕、皇帝が崩じ、年は三十八であった。明年、起居郎の蘇楷が「恭霊荘閔」と謚を改め、廟号を襄宗とするよう請願した。後唐の同光初年にいたって、ふるい諡号にもどした。 昭宣光烈孝皇帝は、諱を祝といい、昭宗の第九子である。母は皇太后何氏といった。始め輝王に封ぜられた。朱全忠が昭宗を弑すると、詔をいつわって皇太子として立て、監軍国事とした。 天祐元年(904)八月丙午、柩の前で皇帝位についた。衢州刺史の陳璋と睦州刺史の陳詢が叛いて楊行密についた。 九月庚午、皇后を尊んで皇太后とした。 十月辛卯朔、日食があった。癸巳、朱全忠が来朝した。甲午、朱全忠が朱友恭・氏叔琮を殺した。 十一月、朱全忠が光州を陥落させた。 この年、虔州刺史の盧光稠が亡くなると、衙将の李図が知州事を自称した。 二年(905)正月、盧約が温州を陥落させた。楊行密が平盧軍節度使の安仁義を殺した。丁丑、盜焚乾陵下宮。 二月、楊行密が鄂州を陥落させ、武昌軍節度使の杜洪がここに死んだ。戊戌、朱全忠が徳王李裕および棣王李祤・虔王李禊・遂王李禕・景王李秘・祁王李祺・瓊王李祥を殺した。己酉、聖穆景文孝皇帝を和陵に葬った。 三月甲子、裴枢が宰相を退いた。戊寅、独孤損が宰相を退いた。礼部侍郎の張文蔚が同中書門下平章事となった。甲申、崔遠が宰相を退いた。吏部侍郎の楊渉同が中書門下平章事となった。 四月乙未、旱害のため正殿を避け、膳を減らした。庚子、有彗星出于西北。甲辰、出于北河。辛亥、降京畿死罪以下、給復山陵役者一年。 五月、王建が金州を陥落させ、戎昭軍節度使の馮行襲が均州に逃れた。 六月、馮行襲が金州で勝利した。楊行密が婺州を陥落させ、刺史の沈夏を捕らえた。戊子、朱全忠が裴枢・静海軍節度使の独孤損・左僕射の崔遠・吏部尚書の陸扆・工部尚書の王溥・司空として致仕した裴贄・検校司空兼太子太保として致仕した趙崇・兵部侍郎の王賛を殺した。 七月、卜郊。岳州刺史の鄧進忠が叛いて馬殷についた。 九月甲子、朱全忠が襄州を陥落させ、忠義軍節度使の趙匡凝が淮南に逃れた。丙寅、弟の李禔を封じて潁王とし、李祐を蔡王とした。朱全忠が江陵を陥落させ、留後の趙匡明が成都に逃れた。乙酉、改卜郊。 十月丙戌、朱全忠が諸道兵馬元帥となった。 十一月庚午、三卜郊。庚辰、淮南節度使楊行密が亡くなると、その子の楊渥を淮南節度副大使・東面諸道行営都統とした。辛巳、朱全忠が相国となり、百揆を総べ、魏王に封ぜられた。 十二月乙未、朱全忠が天下兵馬元帥となり、蒋玄暉と豊徳庫使の応頊と尚食使の朱建武を殺した。癸卯、柳璨が司空となった。戊申、朱全忠が皇太后を弑した。辛亥、罷郊。癸丑、柳璨を左遷して登州刺史とした。甲寅、柳璨と太常卿の張廷範を殺した。 三年(906)正月壬戌、淮南の将の王茂章が宣・歙の二州をもって叛いて銭鏐についた。 二月、楊渥が岳州を陥落させた。癸巳、王建が帰州を陥落させた。 四月癸未朔、日食があった。鎮南軍節度使の鍾伝が亡くなると、その子の鍾匡時が留後を自称した。 六月、銭鏐が衢・睦の二州を陥落させ、刺史の陳璋・陳詢が淮南に逃れた。 七月、楊渥が饒州を陥落させた。 八月癸未、朱全忠が相州を陥落させた。 九月、楊渥が洪州を陥落させ、鍾匡時を捕らえた。乙亥、匡国軍節度使の劉知俊が坊州を陥落させ、刺史の劉彦暉を捕らえた。 十月辛巳、楊崇本が鳳翔・涇原・鄜延・秦隴の兵と合流して朱全忠を討ち、美原で戦ったが、敗れた。 十一月、忠国軍節度使の高彦が亡くなると、その子の高澧が留後を自称した。 閏十二月戊辰、李克用が潞州を陥落させ、昭義軍節度使の丁会が叛いて李克用についた。乙亥、震電、雨雪。 四年(907)三月、劉守光がその父の劉仁恭を捕らえて、幽州盧龍軍節度使を自称した。 四月戊午、銭鏐が温州を陥落させた。甲子、皇帝が位を譲り、曹州にうつされ、済陰王と号した。後梁の開平二年(908)二月に弑され、年は十七で、謚を哀帝といった。後唐の明宗が昭宣光烈孝皇帝と追謚し、陵を温陵といった。 賛曰:自古亡国、未必皆愚庸暴虐之君也。其禍乱之來有漸積、及其大勢已去、適丁斯時、故雖有智勇、有不能為者矣、可謂真不幸也、昭宗是已。昭宗為人明雋、初亦有志於興復、而外患已成、内無賢佐、頗亦慨然思得非常之材、而用匪其人、徒以益乱。自唐之亡也、其遺毒餘酷、更五代五十餘年、至於天下分裂、大壞極乱而後止。跡其禍乱、其漸積豈一朝一夕哉! 前巻 『新唐書』 次巻 巻九 本紀第九 『新唐書』巻十 本紀第十 巻十一 志第一
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<魏 244年> <蜀漢 244年> <呉 244年> 244年 正始五年 (魏) 皇帝 曹芳(魏齊王・字蘭卿) 皇后 甄氏(文帝皇后の甄氏の兄甄儼の孫娘) 三公 太傅:司馬懿(前太尉) 太尉:蒋済(前領軍將軍) 司徒:衛臻(前司空) 司空:崔林(前司隸校尉)→(死亡) 九卿 衛尉: その他の要職 大将軍:曹爽(前武衛將軍) 驃騎大將軍:→ 車騎將軍:王淩(前征東將軍) 地方官 荊州刺史:胡質 幽州刺史:母*丘儉 雍州刺史:郭淮 主な事件 五年春二月、詔して大將軍の曹爽は軍を率いて蜀を征討する《三国志魏書三少帝紀》 夏四月朔、日蝕《三国志魏書三少帝紀》 五月癸巳、帝は「尚書」の講義を終了した。太常を遣わして太牢を捧げ孔子を辟雍に祀り、顏淵を配した。太傳、大將軍及び侍講者に各々格差を以って下賜があった《三国志魏書三少帝紀》 五月丙午、大將軍の曹爽は軍を還す《三国志魏書三少帝紀》 秋八月、秦王の曹詢が薨ず《三国志魏書三少帝紀》 九月、鮮卑が內附し、遼東屬國を置く。昌黎縣を立ててここに居住させる《三国志魏書三少帝紀》 冬十一月癸卯、詔して故人の尚書令荀攸を太祖の廟庭に祀る《三国志魏書三少帝紀》 十一月己酉、秦國を復して京兆郡と為す《三国志魏書三少帝紀》 十二月,司空の崔林が薨ず《三国志魏書三少帝紀》 この年、曹髦を郯縣高貴鄉公に封ず《三国志魏書三少帝紀》 誕生者 死没者 曹詢:秦王 崔林:司空
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M-Tea*3_35-地震の話(一)今村明恒 2011.3.26 第三巻 第三五号 地震の話(一) 今村明恒 一、はしがき 二、地震学のあらまし 三、地震に出会ったときの心得(こころえ) 一、突差(とっさ)の処置 二、屋外(おくがい)への避難 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第三巻 第三五号】 (http //www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload act=open pageid=261 file=milk_tea_3_35.zip) ※ クリックするとダウンロードを開始します。 (684KB) ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は青空文庫にて入力中です。転載・印刷・翻訳は自由です。 (c) Copyright this work is public domain. 月末最終号:無料 p.168 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(25項目)p.191 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ひきこもれ! 週刊ミルクティー* 日本は地震国であり、また地震学の開けはじめた国である。これは誤りのない事実であるけれども、もし日本は世界中で地震学がもっとも進んだ国であるなどというならば、それはいささかうぬぼれの感がある。実際、地震学のある方面では、日本の研究がもっとも進んでいる点もあるけれども、その他の方面においては必ずしもそうでない。それゆえ著者らは地震学をもって世界に誇ろうなどとは思っていないのみならず、この頃のように、わが国民がくりかえし地震に征服せられてみると、むしろ恥かしいような気持ちもする。すなわち大正十二年(一九二三)の関東大地震においては一〇万の生命と五十五億円の財産とを失い、二年後、但馬の国のケチな地震のため、四〇〇の人命と三〇〇〇万円の財産とを損し、また二年後の丹後地震によって三〇〇〇の死者と一億円の財産損失とを生じた。そしてこれらの損失のほとんど全部は地震後の火災によるものであって、被害民の努力しだいによっては大部分、免れ得られるべき損失であった。しかるに事実はそうでなく、あのような悲惨な結果の続発となったのであるが、これを遠く海外からながめてみると、日本はおそろしい地震国である。地震のたびごとに大火災をおこす国である。外国人は命がけでないと旅行のできない国である。国民は、ああたびたび地震火災に悩まされても少しもこりないもののようである。地震によって命を失うことをなんとも思っていないのかもしれないなどという結論を下されないとも限らぬまい。実際、これは欧米人の多数が日本の地震に対する観念である。かく観察されてみるとき、著者のごとき斯学の専攻者は非常な恥辱を感ぜざるを得ないのである。もちろん、この学問の研究が容易に進歩しないのも震災国たるの一因には相違ないが、しかしながら地震に対して必要な初歩の知識がわが国民に欠けていることが、震災拡大の最大原因であろう。じつに著者のごときは、地震学が今日以上に進歩しなくとも、震災のほとんど全部はこれを免れ得る手段があると考えているものの一人である。 3_35.rm (朗読:RealMedia 形式 528KB、4'18'') milk_tea_3_35.html (html ソーステキスト版 304KB) 今村明恒 いまむら あきつね 1870-1948(明治3.5.16-昭和23.1.1) 地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる。 ◇参照:Wikipedia 今村明恒、『日本人名大事典』(平凡社)。 底本 底本:『星と雲・火山と地震』復刻版 日本児童文庫、名著普及会 1982(昭和57)年6月20日 発行 親本:『星と雲・火山と地震』日本兒童文庫、アルス 1930(昭和5)年2月15日 発行 http //www.aozora.gr.jp/index_pages/person1578.html NDC 分類:K450(地球科学.地学) http //yozora.kazumi386.org/4/5/ndck450.html NDC 分類:K453(地球科学.地学/地震学) http //yozora.kazumi386.org/4/5/ndck453.html ※ 青空本体に該当図書がないため、2011年4月現在、リンク先のページはなし。 難字、求めよ グレー博士 電気学。 しかせんと 石本李蹊 いしもと りけい 石本新六男 いしもと しんろくだん むしとりホイホイ 物(もつ)せられたる → 物(もの)せられたる 【の、か?】 このごろにおいて → このころにおいて 【ころ、か】 変(か)わられなければ → 変(か)わらなければ 【れ、削除か】 ことが多い、もし → ことが多い。もし 【。か】 底本は左辺のとおり。現代表記版は右辺に修正した。 ほかに、 震原 → 震源 有《も》つ → 持つ 大《おほ》いさ → 大きさ 地震波(じしんぱ) → 地震波(じしんは) ……を変更、若干の句読点を修正。「小国民」「大小国民」という表記は違和感ありまくりですが、そのままとしました。 年表 一八五五(安政二)一〇月二日 江戸大地震。小石川の水戸屋敷において藤田東湖、圧死。麹町神田橋内の姫路藩邸において石本李蹊、圧死。 一八八〇(明治一三)二月二二日 横浜ならびにその近郊において地震、レンガ煙突ならびに土壁に小破損を生じる。二週間後、日本地震学会を組織。毎月の会合に研究結果を発表。数か月ののちユーイング博士、水平振子地震計を発明。 一八八一(明治一四) グレー博士の考案を改良した上下動地震計を作り出す。 一八九一(明治二四)一〇月二八日 濃尾大地震。 一九二三(大正一二)九月一日 関東大地震。一〇万の生命と五十五億円の財産とを失う。 一九二四(大正一三) 震災予防調査会、廃止。発表した報告書は和文のもの百一号、欧文のもの二十六号、別に欧文紀要十一冊、欧文観測録六冊。 一九二五(大正一四)五月二三日 但馬地震。四〇〇の人命と三〇〇〇万円の財産とを損す。 一九二六(大正一五) 今村明恒、東京帝国大学地震学教室における同人の助言によって地震の注意書を編纂、公にする。 一九二七(昭和二)三月七日 丹後地震。三〇〇〇の死者と一億円の財産損失とを生じる。 一九二七(昭和二)九月 今村明恒、チェコスロバキア、プラーグにおける地震学科の国際会議において、わが国最近の研究結果につき報告。 一九二七(昭和二)九月一三日 西九州における風水害。 スリーパーズ日記 33号・34号を当面欠番としてあつかい、35号(今号)より再開します。それでもまだ出版日が一週間ずれていますが、これは早々に挽回(の予定)。月末最終号(無料)のほうが手にとってもらえる機会がふえることをもくろんでみました。メール、ブログ、ツイッター、新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどでの紹介歓迎。よろしく、お願いします。 2011.4.2:公開 2011.4.6:更新 東北が、バクハツだ! 目くそ鼻くそ。しだひろし/PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ: - もちろんパブリックドメインですから、被災地・避難所などでのプリントアウト、まわし読みも歓迎です。励行・推奨します。 -- しだ (2011-04-06 01 58 03) 名前 コメント
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岡本の関白家平公が、満開の紅梅の枝に鳥を一|番《つがい》添えて、この枝につけて来いと鷹飼の下毛野《しもつけの》武勝に申しつけられたが、「花に鳥をつける方法は存じません。一枝に一番つけることも存じません」と言ったので料理方にもお尋ねがあって人々に問うてから、ふたたび武勝に「それでは其方の思う通りにつけて差出せ」と仰せられたので、花のない梅の枝に、鳥は一つだけつけて差し上げた。武勝が申しますには、「柴の枝、梅の枝の、蕾みのあるのと散ったのとにはつけます。五葉の松などにもつけます。枝の長さは七尺か六尺、そぎ取ったのをかえし刀で五分に切ります。枝の中ほどに鳥をつけ、つける枝、踏ませる枝があります。つづら藤の割らないままので、二ヵ所結びつけます。藤のさきは火打羽の長さにくらべて切り、それを牛の角のように曲げておきます。初雪の朝枝を肩にかけて、中門から様子を整えて参り、軒下の石を伝い、雪には足跡をつけないで、尾のつけ根にある毛をすこし抜き散らして、二棟の御所の欄干に寄せかけておきます。下されものがあったら、肩にかけて礼をして退出いたします。初雪と申しても、沓の鼻のかくれないほどの雪なら参りませぬ。尾のつけ根の毛を抜き散らすのは、鷹は腰を襲うものだから鷹の獲《と》ったもののようにするためでしょう」と申した。 花に鳥をつけないというのは、どういう理由であるやら。九月の頃に梅の造り枝に雉をつけて「君がためにと折る花は、時しもわかぬ」と言ったことが伊勢物語に見えている。造り花には鳥をつけても差しつかえないものなのであろうか。
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自治体と原発 2011年10月22日東京新聞 県議会採択も国会冷淡 共産党系の団体が提出、いったん棚上げされたが、県議選が一か月後に迫る中、 脱原発を切望する県民世論を無視できなくなった。 だが、全国各地で再稼働をもくろむ政府・民主党、原発を推進してきた自民党国会議員の反応は鈍い。 (佐藤圭) 請願は六月に提出、六月定例会では継続審査 九月定例会では、10月19日の企画環境委員会の採決で、自民、公明両党の反対4、県民連合などの賛成4 自民党の委員長が不採択を決めた。 しかし、11月県議選を前に、自民党内で「選挙を戦えるのか」と異論が噴出。 10月20日の本会議採決で自民、民主両党など計5人が退席したものの、 自民、公明両党、県民連合などの賛成多数で採択された。 自民党佐藤憲保議長「原発で働いてきた人の雇用をどうするかなど乗り越えるべき課題はあるが、 最終的には、原発はいらないという県民の声を形にした」 県議選が影響したかについては「大きな背景にある」 「首都圏への電力供給に協力してきたが、これからはエリアごとにエネルギー政策を考えるべきではないか」 (しかし政府や与野党幹部の反応はほとんどなし) ある自民党議員は「(請願は)日本の原発すべてを止めろというメッセージではない。福島のようにならないために、 安全な原発をつくってほしいということだ」と言い切った。 政治ジャーナリスト角谷浩一氏「国会議員は、放射能汚染におびえる国民の気持ちが分かっていない。今の政治は鈍感すぎる」 「野田佳彦首相は脱原発どころか、維持、推進に近い発言をしている。自民党も相変わらずだ。 国政選挙前に慌てて脱原発を言い出すのはみっともない。現在の主張が選挙戦でも通用するのかを考え直すべきだ」