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【検索用 すすきおう 登録タグ 作す 作すさ 作り手】 + 目次 目次 特徴 リンク 曲 CD 動画 関連タグ内の更新履歴 コメント 【ニコニコ動画】%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%87%B9%E3%81%AE%E6%9B%B2 【ニコニコ動画】%E9%88%B4%E6%9C%A8O%E3%81%AE%E6%9B%B2 特徴 作り手名:『鈴木凹』(すずきおう) 2016年1月、「ムーン・ランディング」(UTAU曲)にてボカロPデビュー。当Wiki掲載対象曲では、2021年4月に投稿された「四月の夕暮れだけが」がオリジナル曲としては最古。 使用合成音声は小春六花、花隈千冬。リミックスに限りさとうささらも使用している。UTAUでは雪歌ユフ、ORIGAMI-I、ぱみゅすりむ、闇音レンリを使用している。 リンク YouTube piapro Twitter 曲 BIG LOVE 夏 GOD ONLY KNOWS paradox/鈴木凹 インターネットにほんとのことなど書いてないから好きです 美しくてなにもない 九月の青空さえも 言葉には戻れない 四月の夕暮れだけが どくんどくん リファレンス・エンジン CD 言葉には戻れない/CD 表面 動画 関連タグ内の更新履歴 + 関連タグ内の更新履歴 関連タグ内の更新履歴 ※「鈴木凹」「鈴木凹CD」タグ内で最近編集やコメントのあった記事を新しい方から10件表示しています。 美しくてなにもない 言葉には戻れない どくんどくん 四月の夕暮れだけが BIG LOVE 夏 言葉には戻れない/CD paradox/鈴木凹 GOD ONLY KNOWS インターネットにほんとのことなど書いてないから好きです リファレンス・エンジン コメント 名前 コメント
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index 目次 (11)海上挺進戦隊顕彰之記 斉藤義雄 昭和十九年戦局の頽勢を挽回すべく、船舶特別幹部候補生の少年を主体とし全陸軍より選抜せる下士官、将校野(※ママ)精鋭を以て編成されたる陸軍海上挺進戦隊は、二五○キロ爆雷を装備せるベニヤ製モーターボートにより一艇以て一船を屠るを任務とし、此処幸之浦の船舶練習部第十教育隊に於いて昼夜を分かたぬ猛訓練に励み、第一戦隊以下三十ケ戦隊が同年九月以降続々沖縄、比島、台湾への征途にのぼり、昭和二十年一月比島リンガエン湾の特攻を初めとし同年三月沖縄戦に至る迄壮烈鬼神も泣く肉迫攻撃を敢行しその任務を全うせし者或は戦局の赴く所己むをえず挺身陸戦に転じ奮戦せし者を含め戦闘参加の勇士二二八八名中再ひ帰らざる隊員実に一六三六名の多きに達し挙げたる戦果敵艦船数十隻撃沈、誠に嚇々たるものありしも当時は、秘密部隊として全く世に発表されざるままに終われり。而して又第二次訓練再開されるや第三十一戦隊以下十ニケ戦隊が九州、四国、紀州の各地に展開し米軍の本土上陸に備え更に第四十一戦隊以下十一ケ戦隊は終戦当時当地に在り原爆投下直後の広島市民の救出残骸の整理に挺身活躍同年十月艇を焼き部隊解散せり。 此等教育期間中の殉職者も数十名に及び又各戦隊に配属されたる基地大隊も戦隊出撃後は陸戦に殉じ殆ど生還するを得ず。その運命を共にせるものの如し。祖国の為とは言え春秋に富む身を国に殉ぜし多数の若者の運命を想う時誠に痛惜の念に堪えず。ここにその霊を慰め後世に伝える為この碑を建立するものなり。 昭和四十二年十二月三日 元教育隊長 斉藤義雄 所在地 広島県安芸郡江田島町幸之浦区字サクラカワ 一三六八○番地 index 目次
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吉宗直轄の西洋研究と天文暦算 みたいな人たちの経歴 年表 享保 元 1716 二月、寺内平八郎「垜疊招差新術」 享保 二 1717 参府和蘭商館長にAstrolabium の用法に就いて質問に来た人がある。【岩崎克己「前野蘭化」p93-p106】【明治前日本天文史】 長崎奉行、アストロラビウムを出嶋に送り、その使用法を問う(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 「括要算法第三難角法演段図抄」に「関流末学葆真斎松永良弼」とある 享保 三 1718 参府和蘭商館長、天上の質問を受く(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 建部賢弘(1664-1739)、この頃、天文の事について下問ある。 荒木村英(1640-1718)、没する 享保 四 1719 建部賢弘、日本国総図の不備を正すことを命じられる。 中根元圭(1662-1733)、『新撰古暦便覧』刊行 西川如見(1648-1724)、天文御用として江戸に召さる(先民伝、徳川実記)【明治前日本天文史】 参府和蘭商館長(ワーヘマンス)、天文学者二名の訪問を受け、質疑あり【岩崎克己「前野蘭化」p93-p106】【明治前日本天文史】 また、新井白石が商館長を訪れる。 享保 五 1720 建部賢弘、妙見山などの測量を行う 禁書の令が緩められる。 渋川敬尹、暦作を停め天文の学精研するよう命ぜられる(徳川実紀 第5編) 「〇廿四日天文方澁川右門敬尹に。飼豊次郎久一と相はかりて。暦を進呈すべしと命ぜらる。これ去年つくる事を停められて。もはら天文の精研すべしとありしを。こたびからは命ぜらるゝなり。」 西川如見、「書暦象俗解」刊行【明治前日本天文史】 享保 六 1721 中根元圭、吉宗に召され江戸に来る。 七月二四日、渋川右門敬尹と猪飼豊次郎久一に暦を進呈すべしと命ぜられる(徳川実紀 第5編) 享保 七 1722 建部賢弘、『辰刻愚考』 建部賢弘、『綴術算経』 (arc sin x)^2の展開式 一二月六日、猪飼豊次郎、北本所御貯御材木方会所付近に二百坪の屋敷を拝領。寺社奉行支配とある。(東京市史稿20) 幕府、和蘭商館に望遠鏡を注文す(出嶋蘭館日誌) 享保 九 1724 正月二八日、山路主住、松前主馬組御徒へ召し出される。(21) 建部賢弘、『目力分量愚考』 西川如見歿、年七七(九月)(先民伝)【明治前日本天文史】 享保一〇 1725 建部賢弘、『歳周考』 享保一一 1726 建部賢弘、『暦算全書』の訳述を申し渡される。 中根元圭、暦算全書の訓訳を命じられる 享保一二 1727 中根元圭、『没滅俗解』 六月一二日、渋川六蔵、天文方になる 建部賢弘、カピタンを訪問。深見久太夫が天文・暦法に就いて質問した。【「前野蘭化」】 建部賢弘、江戸近郊測量の事により賞を賜う(徳川実記)【明治前日本天文史】 徳川吉宗、参府和蘭商館長の時計を見ん事を求む(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 享保一三 1728 五月、中根元圭、舶来之暦算全書點訓并八線表著述を仰付られる 十一月十日、褒美、白銀三枚を賜る【[[『日本財政経済史料 第二訂』】 享保一四 1729 山路之徽,生まれる 享保一五 1730 建部賢弘、御留守番 久留島喜内、内藤氏に仕える 享保一七 1732 中根元圭、出府被二仰付一 【『日本財政経済史料 第二訂』】 五月 十日 豆州下田太陽高低測量御用被二仰付一候旨、御側衆有馬兵庫頭(氏倫)、加納遠江守(久通)、巨勢縫殿頭被二申渡一(三人共、吉宗側近) 【『日本財政経済史料』】 五月十五日 御手大工両人御傳馬被二下置一、彼地罷越御用相勤 五月 晦日 帰府 一二月一一日、中根元圭『日月高測』を吉宗に提出 建部賢弘、御広敷の用人 幸田親盈(1692-1758)、「八線儀術意」 千葉歳胤(1713-1789)、江戸に出る? 松永安右衛門、内藤氏に仕える。 大島喜侍、「演段数品述」 享保十八 1733 二月 太陽高低測量算術之書献上仕 【『日本財政経済史料』】 二月二日、山路主住、支配勘定になる 二月七日 右爲二御褒美一金貳枚被二下置一候旨御小姓田沼主殿頭申渡頂戴仕 【『日本財政経済史料』】 三月五日 御暇被二下置一上京仕 【『日本財政経済史料』】 九月二日 中根元圭、病死仕候 【『日本財政経済史料』】 建部賢弘、勤めを辞す この頃の、天文方及び西洋研究グループ(暦班)??? 渋川則休 天文方 猪飼豊次郎 後、天文方 深見久太夫 暦、博物担当 はじめ儒者、後に書物奉行 建部賢弘(-1739) 松永良弼(-1744)、久留島義太(1690頃-1757) 中根元圭(-1733) 中根彦循、山路主住(*1724-)、山路之徽(*1748-) 幸田親盈(*1713-)、今井兼庭(*1739-)、幸田親平(*1731-)、千葉歳胤(*1732-) 西川如見(-1724) 盧草拙(-1729)、西川正休(後に天文方) 佐々木文次郎(*1750-) 磯永孫四郎 (*1747-) 浅井村右衛門(*1748-) 享保一九年 1734 和蘭時計工渡来(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 幸田親盈『推積年日法術及類法』 享保二〇年 1735 書物奉行深見久太夫、参府和蘭人を訪い、天文に関して質疑す【「前野蘭化」】【明治前日本天文史】 元文 元 1736 猪飼豊次郎、天文方になる。百俵十人扶持 深見久太夫が参府蘭人に、和蘭暦法・月の運行・講星の排列・日蝕月蝕の理由等に就いて質問した。【「前野蘭化」】【明治前日本天文史】 暦を作る和蘭人一名の派遣を蘭本国に求む(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 和蘭時計工アントニー、クロイト渡来す(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 通詞今村元右衛門、和蘭商館に至り将軍に提出すべき四分儀を求む(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 在府長崎奉行、その所有する四分儀の用法を参府蘭人に質す(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 松永良弼「割円十分標」 元文 二 1737 深見久太夫、参府蘭人に天文の事を質問す(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 元文 三 1738 深見久太夫、参府蘭人に暦法・新月満月の理・潮の満干等に就いて質問した。【「前野蘭化」】【明治前日本天文史】 元文 四 1739 建部賢弘、没する 八月十三日、山路主住、御留守居瀧川播磨守組小普請入りを命ぜられる 中根元圭、天文図解発揮刊行 入江脩敬「探玄算法」 松永良弼「方円算経」 sinx、cosx などの展開式 元文の頃 徳川吉宗、長崎の工人に命じ、自鳴鐘を製せしむ(徳川実記) 寛保 元 1741 西川忠次郎、江戸城内で暦術測量御用【近世日本天文学史】 西川正休、吹上御苑に召され観測に従事す(徳川実記) 一二月二四日、猪飼豊次郎、没する 入江脩敬、江戸から大阪に移る 山路、松永の「垜疊招差新術」訂写 寛保 三 1743 渋川六蔵と猪飼豊次郎、彗星出現に対して天文占を出す(※松山市史料集 第7巻 (近世編 6)、※岩邑年代記 3、※南魚沼 (新潟県文化財調査年報 ; 第15)){猪飼は元年に亡くなっている??} 深見久太夫外一名、参府蘭人に彗星その他の天體に就いて質問した。(出島蘭館日誌)【明治前日本天文史】 延享 元 1744 長崎奉行、人をして出嶋蘭館に天文暦法の事を問わしむ(出嶋蘭館日誌)【明治前日本天文史】 徳川吉宗、天文台を江戸神田に建て、自ら製する所の簡天儀を以って之に備う(徳川実記) 八月 九日 西川忠次郎「暦算全書・割円八線之表」を借りる(書物方年代記(1) 廷享三年~宝暦十年) 八月廿三日、西川忠次郎「西洋暦経」を借りる(書物方年代記(1)) 松永良弼、没する 延享 二 1745 北島見信、長崎奉行所天文方となる(長崎年表)【明治前日本天文史】 西川正休、参府蘭人に天文の事を質す(出島藺館日誌)【明治前日本天文史】 【前野蘭化】 延享 三 1746 八月二九日 西川忠次郎「西洋暦経」を返却(書物方年代記(1)) 九月 二日 西川忠次郎、「暦算全書・内二冊割円八線之表」を返却(書物方年代記(1)) 九月二八日 渋川六蔵、改暦について尋ねられるが、独力では難しい旨を回答 一〇月 朔日 西川忠次郎、渋川六蔵、改暦について尋ねられる 一〇月 六日 渋川六蔵、改暦について返答 一〇月十四日 西川忠次郎に貞享補暦ノ命アリ。同日、渋川六蔵に改暦の命あり。七人扶持 神田佐久間町に司天臺を築く。簡天儀その他の測器を移し、西川、渋川に掌らしむ 延享 四 1747 西川忠次郎、卯年正月二十日天文方被仰付新規御切米二百俵被下 磯永孫四郎、西川の門人として改暦に従事することになる。 「乾隆十三年の時憲暦」【117暦方諸向往来日記 86】 寛延 元 1748 八月二九日、山路弥左衛門、浅井村右衛門、正休の補佐する。山路ははじめ猪飼の門人 山路主住、渋川六蔵、西川忠次郎の補暦之御用手伝 三人扶持(45) 山路主住、山路之徽、この頃、阿蘭陀人に会う(和蘭緒言) 五月十二日、渋川六蔵・西川忠次郎が「暦算全書、西洋暦経、明史稿」を借りる。(書物方年代記(1)) 閏十月二四日、左之御書物土佐守殿より只今差出候様被仰下即刻差出之「割円八線之表、割円八線互求法、割円勾股八線之表」(書物方年代記(1)) 「寛延元年の紅毛暦」【117暦方諸向往来日記 86】 「乾隆十三年の時憲暦」【117暦方諸向往来日記 86】 寛延 ニ 1749 山路主住、五人扶持 二月二〇日 西川忠次郎が借りた書物のうち「明史稿」を二一日に返却したいと申し出る 七月二七日 伝奏と土御門泰邦が対談。改暦の先例について、関東に書状を送ることになる。 十一月 五日 今度改暦被仰出候ニ付渋川六蔵同様上京仕測量御用相勤可申旨松平宮内少輔殿御書付ヲ以被仰渡 一一月二一日 新暦のことについて、渋川、西川より問い合わせがあると、所司代からの申し出あり 和蘭通詞、和蘭暦本を出嶋蘭館に持参、日月食の事を質す(出島蘭館日誌)【明治前日本天文史】 入江脩敬、有馬頼僮に召し抱えられ、山鹿流の軍学,天学算術師範を勤める。 「寛延ニ年の紅毛暦」【117暦方諸向往来日記 宝暦八年六月廿七日、土御門泰邦から渋川・山路への書状】 「乾隆十四年の時憲暦」
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フーダニット?(正解探し) 呼び出し 九月の末頃、公共棟一回にある掲示板に二十数名の名前が張り出される それは、実戦投入部隊を対象に定期的に行われる訓練の参加者達だった もちろんPC達も参加することに。 訓練とは、4チームに別れて旗の争奪戦をする。という内容だった また、PCは会場である学園地下の遺跡に謎の所属不明機が出現していることを知らされる 訓練開始 PC達はアルベールの友人であるデイブを含めたAチームとして、旗探しの訓練に参加することに しかし何やらデイブの様子がおかしい。 訓練中に隊から離脱しようとするデイブを追うと、デイブの思い人であるステファニーを含めたBチームと遭遇する 早速戦闘態勢を取る両チーム。その瞬間、あたり一帯が爆発して床が抜けてしまう A,Bチームの双方は遺跡のさらに下へと落下してしまうのだった… 地下探検 辛くも損害無く地下へと降り立った両チーム。 Bチームのアランの提案により一時共闘することに。 地下の探索を進めるPC達だが、途中何度か不可解な場面に遭遇する PC達はBチームのアランが何やら怪しいと感じ始める vs所属不明機体 探検をすすめ、ようやく地上の入口らしきものを発見したのも束の間、目の前に謎のEM大の物体が何機も出現する PC達は交戦をし、何とか撃破に成功する。 所属不明機の中から出てきたのは学園の上級生達であった 訓練終了 PC達は、今回の訓練が突発的な事態にどう対処するかという内容であったことを改めて知らされる Bチームのアランもまた、試験官側の人間で色々と妨害していたのであった 幾つか怪しいところもあったものの、見事訓練を終了したPC達の今後の成長が期待される
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<魏 234年> <蜀漢 234年> <呉 234年> 234年 嘉禾三年(呉) 皇帝 孫権(呉大帝) 皇后 (空位) 皇太子 孫登 三公(呉) 丞相:顧雍(前太常) その他の要職(呉) 太常:潘濬 光禄勳:? 衛尉:? 太僕:? 廷尉:? 大鴻臚:? 宗正:? 大司農:? 少府:? 大司馬:? 大将軍:? 驃騎将軍:? 車騎将軍:? 衛将軍:? 上大將軍:陸遜? 主な事件 三年春正月、詔して「兵乱は永く続き、民は賦役に困っている。歲或不登.其寬諸逋,勿復督課。」《三国志呉書呉主権伝》 夏五月、孫權は陸遜、諸葛瑾等を江夏、沔口に、孫韶、張承等を廣陵、淮陽に遣わして、孫權自らは大軍を率いて合肥新城を囲む。是時、蜀の相である諸葛亮が武功に出ていたので、孫權は魏の明帝が遠く出てこられないだろうと言っていたが、明帝は司馬宣王に兵を増兵して亮を拒む一方、自ら水軍を率いて東征してきた。壽春に至る前に孫權は退還する。孫韶らもまた退却した《三国志呉書呉主権伝》 秋八月、諸葛恪を丹楊太守と為し、山越を討伐する《三国志呉書呉主権伝》 九月朔、霜がおり、穀物を傷つける《三国志呉書呉主権伝》 冬十一月、太常の潘濬が武陵蠻夷を平定する。事畢,武昌に還る。詔して再び曲阿を雲陽、丹徒を武進とする。廬陵の賊の李桓、羅厲等が反乱する《三国志呉書呉主権伝》 誕生者 死没者 注 ▲PAGE TOP 233年<< >>235年
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1年よいこ組 幼稚舎 ≪人数・レベル≫ 総数:10人 / ギルドLv:3 ≪責任者≫ ギルドマスター:きれいなお姉さん ≪成績≫ 現在ギルドポイント:1,239 ( 次のレベルまで:8,761 ) AL:-8 AL2:0 LH:-2 NP:1,249 ≪メッセージ≫ 天使すぎるYIK48 4枚目のCD発売決定♪ 「100年に一度の札」予約特典 タチタクナールEX30錠 ≪メンバー≫ (wikiのプレイヤーリストに載っている人のみ) きれいなお姉さん るしーだ 九月姫 31415926535 りんりん☆ だいじろう74 さとり世代 あしタ、元気ニなぁレ。 ≪受賞歴≫ 2015年3月 月間ギルドランキング3位 2015年4月 月間ギルドランキング3位 2015年6月 月間ギルドランキング2位 2015年7月 月間ギルドランキング2位 2015年8月 月間ギルドランキング2位 2016年1月 月間ギルドランキング3位 2016年3月 月間ギルドランキング1位 2016年4月 月間ギルドランキング1位 2016年5月 月間ギルドランキング3位 2016年6月 月間ギルドランキング2位 2016年10月 月間ギルドランキング1位 2016年11月 月間ギルドランキング1位 2016年12月 月間ギルドランキング2位 2017年1月 月間ギルドランキング1位 2017年2月 月間ギルドランキング1位 2017年3月 月間ギルドランキング1位 2017年7月 月間ギルドランキング1位 2017年9月 月間ギルドランキング3位 2017年10月 月間ギルドランキング2位 ≪サイト≫ ≪ギルド情報≫ https //login.alteil.jp/guild/readingGuild.php?id=4359 ≪活動期間≫ 2012年8月~現在 ≪記事≫ 1年よいこ組の関連ギルド。
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珍しく早起きしたら、クラスメートが先を歩いていた。 「おはよう」 ポンと肩を叩く 「おはようキョン」 クラスメートはそう言って振り返る。髪の芳香がいつもと違う。 「シャンプー別のに替えたか?」 「うん、そうなんだ。よく気が付いたね」 「香りが全然違うからな」 「キミは嗅覚に鋭敏なんだね。でも、ちょっと変かな?」 「前のも良かったけど、今日のも良いと思う。髪だってこんなにサラサラで、手触りも最高だ」 「そうか。ちょっと心配してたんだ。ありがとう」 次の日、昨日よりもっと早く家出た。 さすがに早すぎると思ってゆっくり歩く。 「やあキョン」 ポンと背中を叩かれて挨拶される。 「今日は冬服か」 「衣替えだからね」 「冬服も似合っているぞ」 土曜日は塾の日 「おはよう佐々木。それは新しい服か?でも夏物だよな」 「九月上旬に売り尽くしバーゲンで買ったきりだったからね」 「大人っぽくてかっこよいぞ」 「ありがとう」 日曜日、女子達と遊んでいる佐々木にひょっこり出会った。服はいつも見掛ける服の一つである。 「奇遇だな、佐々木」 「ササッキーは今日の機会にランチでも奢って自転車のお礼しちゃいなよ。あたし達は映画見に行くから」 「ちょ、ちょっと」 「……」 「……」 「えーと。キミさえ良ければ、普段のお礼に何か奢るけど、今日は暇かな?」 「喜んで。でも、そのバックもしかしたら新しいやつか?」 「うん。伯父のお土産なんだ」 「やあ、キョン」 一年ぶりに会う佐々木。昔よく着ていた服を着ていた。 変わったことと言えば…… 「胸がでかくなったな」とはさすがに言えなかった。 (終わり)
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79質問-2 作者 79氏 ハロ「さあさあやってまいりました、『ツンデレにこれって足コキだよなって言ったら』質問コーナー!」 蕪「今週も張り切って二枚の葉書を紹介するお!二枚だお!い~ち、に~い、うん、二枚!」 ハロ「ちょwwwwwww」 蕪「現実だお」 ハロ「今日のゲストは・・・ウィッシュか」 ウ「ちょっと、何でそんなにテンション低いの。確かに悪い事したけどさ」 蕪「巫女さん(*´Д`)ハァハァ」 ハロ「(属性多いなコイツ・・・)さ、お頼り一枚目だ」 (´・ω・)つ[] ◆sKDRdae3Hsは処女だったんですか? ハロ「・・・キャラクターとは全く関係無い件」 ウ「筆者だね」 蕪「何で過去形なんだよwwwwwww前提wwww」 Kick&Destroy&Rescind79#゚Д゚)三○そ三[] ガッ ハロ「ああ!葉書が!」 ウ「sKDRdae3HsのKDRってそういう意味なの?」 蕪「こじつけだお」 ハロ「では、続いて二枚目」 (´・ω・)つ[] 俺の初体験の人はいつ現れるんですか? ハロ「・・・・・・」 蕪「・・・・・・」 ウ「よくこんなのを恥ずかしげも無く」 ハロ「いつだ?ウィッシュ」 ウ「ゲストに言わせる気!?」 蕪「知ってるのかwwww」 ウ「知るわけないでしょ!」 ハロ「まぁそういわずに。いつだって聞いてんだから」 ウ「うーん・・・九月九日」 ハロ「えらくピンポイントだな」 蕪「漏れはいつだお?」 ウ「もう終わってるでしょ?」 ハロ「え?」 蕪「マジレスするとまだだお」 ウ「お父さんに」 蕪「違うお!!」 ハロ「お前h」 蕪「信じてくれお!!」 ツン「(・・・なんで私は呼ばないのよ)」
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唐書巻十 本紀第十 昭宗 哀帝 昭宗聖穆景文孝皇帝は、諱を曄といい、懿宗の第七子である。母は恭憲皇太后王氏といった。始め寿王に封ぜられた。乾符三年(876)、幽州盧龍軍節度使を領した。僖宗が乱に遇って再び出奔すると、寿王は兵を掌握して左右に侍り、尤見倚信。 文徳元年(888)三月、僖宗疾大漸、群臣は吉王が年長であるので、これを立てたく思っていた。観軍容使の楊復恭が兵を率いて寿王を迎え、立てて皇太弟とし、敏と名を改めた。乙巳、柩の前で皇帝位についた。 四月戊辰、孫儒が揚州を陥落させ、淮南節度使を自称し、楊行密が廬州に逃れた。庚午、母を追尊して皇太后とした。韋昭度が中書令となり、孔緯が司空となった。乙亥、張全義が孟州を陥落させ、李罕之が河東に逃れた。成汭が江陵を陥落させ、留後を自称した。辛卯、朱全忠が秦宗権と蔡州で戦い、これを破った。 五月壬寅、趙徳諲が襄州をもって降り、趙徳諲を忠義軍節度使・蔡州四面行営副都統とした。 六月、閬州防禦使の王建が漢州を陥落させ、刺史の張頊を捕らえて、成都を寇した。韋昭度が宰相を退いて剣南西川節度副大使となり、両川招撫制置使を兼ねた。 十月、陳敬瑄がそむいた。辛卯、恵聖恭定孝皇帝を靖陵に葬った。 十一月丙申、秦宗権が許州を陥落させ、忠武軍節度使の王縕を捕らえた。辛酉、奉国軍の将の申叢が秦宗権を捕らえた。 十二月丁亥、韋昭度が行営招討使となり、永平軍節度使の王建とともに陳敬瑄を討った。山南西道節度使の楊守厚が夔州を陥落させた。 龍紀元年(889)正月癸巳、大赦をおこない、改元した。翰林学士承旨・兵部侍郎の劉崇望が同中書門下平章事となった。壬子、宣武軍の将の郭璠が奉国軍留後の申叢を殺し、留後を自称した。 二月戊辰、朱全忠が秦宗権を捕らえて献上した。己丑、秦宗権が処刑された。 三月、孔緯が司徒となり、杜譲能が司空となった。丙申、銭鏐が蘇州を陥落させ、刺史の徐約を追放した。 六月、李克用が邢州を寇した。昭義軍節度使の孟方立が亡くなると、その弟の孟遷が留後を自称した。楊行密が宣州を陥落させ、宣歙観察使の趙鍠がここに死んだ。廬州刺史の蔡儔が叛いて孫儒についた。 八月甲戌、孟遷が叛いて李克用についた。 十月、平盧軍節度使の王敬武が亡くなると、その子の王師範が留後を自称し、棣州を陥落させ、刺史の張蟾がここに死んだ。宣歙観察使の楊行密が常州を陥落させ、刺史の杜陵がここに死んだ。銭鏐が潤州を陥落させた。 十一月丁未、太清宮で朝献した。戊申、太廟で朝享した。己酉、有事于南郊、大赦をおこなった。 十二月、孫儒が常・潤の二州を陥落させた。戊午、孔緯が太保となり、杜譲能が司徒となった。壬申、眉州刺史の山行章が叛いて王建についた。 大順元年(890)正月戊子、群臣が尊号をたてまつって聖文睿徳光武弘孝皇帝といい、大赦をおこない、改元した。壬寅、簡州の将の杜有遷がその刺史の員虔嵩を捕らえ、叛いて王建についた。 二月己未、資州の将の侯元綽がその刺史の楊戡を捕らえ、叛いて王建についた。 三月戊申、昭義軍節度使の李克修が亡くなると、その弟の李克恭が留後を自称した。 四月丙辰、宿州の将の張筠がその刺史の張紹光を追放した。丙寅、嘉州刺史の朱実が叛いて王建についた。丙子、戎州の将の文武堅がその刺史の謝承恩を捕らえて、叛いて王建についた。 五月、張濬が河東行営都招討宣慰使となり、京兆尹の孫揆がその副使となった。幽州盧龍軍節度使の李匡威が北面招討使となり、雲州防禦使の赫連鐸がその副使となった。朱全忠が南面招討使となり、王鎔が東面招討使となり、李克用を討った。壬寅、昭義軍の将の安居受がその節度使の李克恭を殺して、叛いて朱全忠についた。癸丑、剣南東川節度使の顧彦朗が亡くなると、その弟の顧彦暉が留後を自称した。 六月辛酉、雅州の将の謝従本がその刺史の張承簡を殺して、叛いて王建についた。辛未、朱全忠が河東東面行営招討使となった。この月、河東の将の安知建が邢・洺・磁の三州をもって叛いて朱全忠についた。 七月、楊行密が潤州を陥落させた。戊申、李克用が昭義軍節度使の孫揆を捕らえた。 八月、銭鏐が蘇州刺史の杜孺休を殺した。楊行密が蘇州を陥落させた。淮南節度使の孫儒が潤州を陥落させた。庚午、朱全忠が中書令となった。 九月、李克用が潞州を陥落させた。楊行密が潤・常の二州を陥落させた。 閏月、孫儒が常州を陥落させた。壬戌、邛州の将の任可知がその刺史の毛湘を殺した。 十月癸未、蜀州刺史の李行周が叛いて王建についた。李克用が邢・洺・磁の三州を陥落させた。 十一月丁卯、李匡威が蔚州を陥落させた。この月、張濬が李克用と陰地で戦い、敗れた。孫儒が蘇州を陥落させた。 十二月、李克用が晋州を陥落させた。 二年(891)正月庚申、孔緯・張濬が宰相を退いた。翰林学士承旨・兵部侍郎の崔昭緯と御史中丞の徐彦若が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。甘露鎮使の陳可言が常州が陷した。銭鏐が蘇州を陥落させた。 二月乙巳、陳敬瑄を赦した。丁未、詔により王建の兵権を奪ったが、王建は命を受けなかった。 この春、淮南で大飢饉があった。 四月庚辰、彗星が太微に入った。甲申、大赦をおこない、正殿を避け、膳を減らし、音楽をやめた。両軍に金帛を賜り、贖所略男女還其家。民年八十以上及疾不能自存者、長吏存卹。武徳の功臣の子孫を訪れた。癸卯、王建が成都を寇した。 五月、孫儒が和・滁の二州を陥落させた。 六月、楊行密が和・滁の二州を陥落させた。丙午、子の李祐を封じて徳王とした。 七月、李克用が雲州を陥落させ、防禦使の赫連鐸が退渾に逃れた。孫儒が揚州を焼いて逃げた。 八月庚子、王建が成都を陥落させ、剣南西川節度使陳敬瑄を捕らえて、留後を自称した。 十月壬午、朱全忠が宿州を陥落させた。 十一月己未、曹州の将の郭銖がその刺史の郭詞を殺し、叛いて朱全忠についた。辛未、朱全忠が寿州を陥落させた。 景福元年(892)正月己未、朱全忠が孟州を陥落させ、河陽節度使の趙克裕を追放した。丙寅、大赦をおこない、改元した。 二月、劉崇望が宰相を退いた。銭鏐が蘇州を陥落させた。甲申、朱全忠が鄆州を寇したので、天平軍節度使の朱宣がこれを破った。 三月、戸部尚書の鄭延昌が中書侍郎・同中書門下平章事となった。乙巳、楊行密が楚州を陥落させ、刺史の劉瓚を捕らえた。また常州を陥落させ、刺史の陳可言がここに死んだ。丙辰、武定軍節度使の楊守忠と龍剣節度使の楊守貞が楊守厚の兵と合流して梓州を寇した。丙寅、福建観察使の陳巌が亡くなると、護閩都将の范暉が留後を自称した。庚午、泉州刺史の王潮が福州を寇した。 四月辛巳、杜譲能が太尉となった。 六月戊寅、楊行密が揚州を陥落させた。己巳、鳳翔隴右節度使の李茂貞が鳳州を陥落させ、感義軍節度使の満存が興元に逃れ、そのまま興・洋の二州を陥落させた。 八月壬申、李茂貞が興元を寇し、楊守亮・満存が閬州に逃れた。丙戌、降京畿・關輔囚罪、免淮南・浙西・宣州逋負。 十月、蔡儔が廬州をもって叛いて朱全忠につき、河東の将の李存孝が邢州をもって叛いて朱全忠についた。 十一月、有星孛于斗・牛。辛丑、武寧軍の将の張璲・張諌が濠・泗の二州をもって叛いて朱全忠についた。乙巳、朱友裕が濮州を陥落させ、刺史の邵儒を捕らえた。孫儒の将の王壇が婺州を陥落させ、刺史の蒋瓌が越州に逃れた。 この年、明州刺史の鍾文季が亡くなると、その将の黄晟が刺史を自称した。 二年(893)正月、徐彦若が宰相を退いて鳳翔隴右節度使となり、李茂貞が山南西道節度使となった。李茂貞は命を受けなかった。 二月、楊行密が常州を陥落させた。 三月辛酉、幽州盧龍軍兵馬留後の李匡籌がその兄の李匡威を追放して、節度留後を自称した。 四月乙亥、王建が陳敬瑄と剣南西川監軍田令孜を殺した。乙酉、彗星が太微に入った。丁亥、王鎔が李匡威を殺した。戊子、朱全忠が徐州を陥落させ、武寧軍節度使の時溥がここに死んだ。 五月庚子、王潮が福州を陥落させ、范暉がここに死に、王潮が留後を自称した。 七月、楊行密が廬州を陥落させ、蔡儔がここに死んだ。 八月丙申、嗣覃王李嗣周が京西面招討使となり、神策大将軍の李鐬が副使となり、李茂貞を討った。庚子、昇州刺史の張雄が亡くなると、その将の馮弘鐸が刺史を自称した。この月、楊行密が歙州を陥落させた。 九月壬午、嗣覃王李嗣周が李茂貞と興平で戦い、敗れた。甲申、李茂貞が京師を侵した。乙酉、李茂貞は観軍容使の西門重遂・内枢密使の李周𧬤・段詡を殺した。杜譲能が左遷されて梧州刺史となった。壬辰、東都留守・検校司徒の韋昭度が司徒となり、御史中丞の崔胤が戸部侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。この月、昇州刺史の馮弘鐸が叛いて楊行密についた。 十月乙未、杜譲能と戸部侍郎杜弘徽を殺した。楊行密が舒州を陥落させた。 十二月、韋昭度が太傅となった。邵州刺史の鄧処訥が潭州を陥落させ、欽化軍節度使の周岳がここに死に、処訥が留後を自称した。 この年、建州刺史の徐帰範と汀州刺史の鍾全慕が叛いて王潮についた。 乾寧元年(894)正月、有星孛于鶉首。乙丑、大赦をおこない、改元した。李茂貞が兵をつれて来朝した。 二月、右散騎常侍の鄭綮が礼部侍郎・同中書門下平章事となった。彰義軍節度使の張鈞が亡くなると、その兄の張鐇が留後を自称した。 三月甲申、李克用が邢州を寇し、李存孝を捕らえてこれを殺した。 五月丙子、王建が彭州を陥落させ、威戎軍節度使の楊晟がここに死んだ。この月、鄭延昌が宰相を退いた。孫儒の将の劉建鋒・馬殷が潭州を陥落させ、武安軍節度使の鄧処訥がここに死に、劉建鋒が留後を自称した。武岡指揮使の蒋勲が邵州を陥落させた。 六月、大同軍防禦使の赫連鐸が李克用と雲州で戦い、ここに死んだ。戊午、翰林学士承旨・礼部尚書の李磎が同中書門下平章事となった。庚申、李磎が宰相を退いた。御史大夫の徐彦若が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 七月、雨霖のため正殿を避け、膳を減らした。鄭綮が宰相を退いた。李茂貞が閬州を陥落させた。 八月、楊守亮が処刑された。癸巳、減京畿・興元・洋金商州賦役。 九月庚申、李克用が潞州を陥落させ、昭義軍節度使の康君立がここに死んだ。 十月丁酉、子の李祤を封じて棣王とし、李禊を虔王とし、李禋を沂王とし、李禕を遂王とした。 十一月、李克用が武州を陥落させた。 十二月、新州を陥落させた。甲寅、幽州盧龍軍節度使の李匡籌が滄州に逃れ、義昌軍節度使の盧彦威がこれを殺した。丙辰、李克用が幽州を陥落させた。 この冬、楊行密が黄州を陥落させ、刺史の呉討を捕らえた。 二年(895)正月己巳、給事中の陸希声が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。壬申、護国軍節度使の王重盈が亡くなると、その子の王珂が留後を自称した。 二月乙未、太子太傅の李磎が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。 三月、崔胤・李磎が宰相を退いた。戸部侍郎・判戸部の王摶が中書侍郎・同中書門下平章事となった。楊行密が濠州を陥落させ、刺史の張璲を捕らえた。庚午、河東で地震があった。 四月、蘇州で大雨と大雪があった。陸希声・韋昭度が宰相を退いた。泰寧軍節度使の朱瑾が朱全忠と高梧で戦って、敗れ、その将の安福慶がここに死んだ。楊行密が寿州を陥落させ、刺史の江従勗を捕らえた。 五月甲子、静難軍節度使の王行瑜・鎮国軍節度使の韓建と李茂貞が京師を侵し、太保として致仕した韋昭度と太子少師の李磎を殺した。この月、李克用が絳州を陥落させ、刺史の王瑤がここに死んだ。 六月庚寅、鎮海軍節度使の銭鏐が浙江東道招討使となった。癸巳、吏部尚書の孔緯が司空となり、門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。 七月丙辰、李克用が兵を河中に駐屯させた。戊午、匡国軍節度使の王行約が京師に逃れた。庚申、左右神策軍護軍中尉の駱全瓘と劉景宣と指揮使の王行実および李継鵬がそむいた。行在莎城。嗣薛王李知柔が権知中書事となった。壬戌、李克用が同州を陥落させた。甲子、次石門。前護国軍節度使の崔胤が中書侍郎・同中書門下平章事となった。 八月戊戌、李克用が邠寧四面行営招討使となり、保大軍節度使の李思孝が北面招討使となり、定難軍節度使の李思諫が東北面招討使となり、彰義軍節度使の張鐇が西面招討使となった。辛丑、李克用が邠寧四面行営都統となった。李継鵬が処刑された。李茂貞を赦した。辛亥、石門から到着した。壬子、崔昭緯が宰相を退いた。 九月丙辰、徐彦若が司空となった。癸亥、孔緯が薨去した。前昭義軍節度使の李罕之が邠寧四面行営副都統となった。 十月、京兆尹の孫偓が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。丙戌、李克用が王行瑜と梨園で戦い、これを破った。庚寅、王行約が寧州を焼いて逃亡した。義武軍節度使の王処存が亡くなると、その子の王郜が留後を自称した。 十一月丁巳、李克用が王行瑜と龍泉で戦い、これを破った。辛酉、衢州刺史の陳儒が亡くなると、その弟の陳岌が刺史を自称した。丁卯、王行瑜が処刑された。壬申、斉州刺史の朱瓊が叛いて朱全忠についた。丁丑、王建が利州を陥落させ、刺史の李継顒がここに死んだ。 十二月癸未、京師で赦をおこない、大順年間以降に官爵を削奪されたものでその罪にあたらない者の官爵を復した。甲申、閬州防禦使の李継雍・蓬州刺史の費存・渠州刺史の陳璠が叛いて王建についた。丙申、王建が梓州を寇した。戊戌、通州刺史の李彦昭が叛いて王建についた。 この年、安州防禦使の宣晟が桂州を陥落させ、静江軍節度使の周元静の部将の劉士政がここに死に、宣晟が知軍府事を自称した。 三年(896)正月癸丑、王建が龍州を陥落させ、刺史の田昉がここに死んだ。 閏月丁亥、果州刺史の周雄が叛いて王建についた。 四月壬子、武安軍が乱を起こし、その節度使の劉建鋒を殺し、その将の馬殷が留後を自称した。 五月癸未、楊行密が蘇州を陥落させ、刺史の成及を捕らえた。光州を陥落させ、刺史の劉存がここに死んだ。庚寅、成汭が黔州を陥落させ、武泰軍節度使の王建肇が成都に逃れた。乙未、董昌が処刑された。この月、蘄州刺史の馮行章が叛いて楊行密についた。 六月庚戌、李茂貞が京師を侵し、嗣延王李戒丕がこれをふせいだ。丙寅、李茂貞と婁館で戦い、敗れた。 七月癸巳、渭北を行在とした。甲午、韓建が来朝し、華州に行った。乙巳、崔胤が宰相を退いた。丙午、翰林学士承旨・尚書左丞の陸扆が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。 八月甲寅、王摶が宰相を退いた。乙丑、国子毛詩搏士の朱朴が左諫議大夫・同中書門下平章事となった。 九月乙未、武安軍節度使の崔胤が中書侍郎となり、翰林学士承旨・兵部侍郎の崔遠が同中書門下平章事となった。丁酉、陸扆を左遷して峽州刺史とした。 十月、李克用が羅弘信と白龍潭で戦い、これを破った。壬子、孫偓が持節・鳳翔四面行営節度・諸軍都統・招討・処置使となった。戊午、威勝軍節度使の王摶が吏部尚書・同中書門下平章事となった。 十一月戊子、忠国軍節度使の李師悦が亡くなると、その子の李継徽が留後を自称した。 四年(897)正月乙酉、韓建が兵をもって行宮を囲み、扈蹕都将の李筠を殺した。丙申、朱全忠が鄆州を陥落させ、天平軍節度使の朱宣がここに死んだ。己亥、孫偓が都統を辞任した。 二月、朱全忠が兗州を寇し、泰寧軍節度使の朱瑾が淮南に逃れ、その子の朱用貞が兗州をもって叛いて朱全忠についた。朱全忠は沂・海・密の三州を陥落させた。保義軍節度使の王珙が河中を寇した。韓建が太子詹事の馬道殷と将作監の許巌士を殺した。楊行密が江南諸道行営都統となった。癸丑、王建が瀘州を陥落させ、刺史の馬敬儒がここに死んだ。己未、徳王李裕を立てて皇太子とし、大赦をおこない、行廟に饗した。辛未、王建が渝州を陥落させた。乙亥、孫偓・朱朴が宰相を退いた。 五月壬午、朱全忠が黄州を陥落させ、刺史の矍璋がここに死んだ。 六月、王建を左遷して南州刺史とした。李茂貞を剣南西川節度使とし、嗣覃王李嗣周を鳳翔隴右節度使としたが、李茂貞は命を受けず、李嗣周は李茂貞と奉天で戦い、敗れた。 八月、韓建が通王李滋・沂王李禋・韶王・彭王・嗣韓王・嗣陳王・嗣覃王李嗣周・嗣延王李戒丕・嗣丹王李允を殺した。 九月、銭鏐が湖州を陥落させ、忠国軍節度使の李継徽が淮南に逃れた。彰義軍節度使の張璉が鳳翔西北行営招討使となり、静難軍節度使の李思諫が鳳翔四面行営副都統となって、李茂貞を討った。 十月壬子、遂州刺史侯紹が叛いて王建についた。乙卯、合州刺史の王仁威が叛いて王建についた。庚申、王建が梓州を陥落させ、剣南東川節度使の顧彦暉がここに死んだ。甲子、子の李秘を封じて景王とし、李祚を輝王とし、李祺を祁王とした。 十一月癸酉、楊行密が朱全忠と清口で戦い、これを破った。丙子、銭鏐が台州を陥落させた。 十二月丁未、威武軍節度使王潮が亡くなると、その弟の王審知が留後を自称した。 光化元年(898)正月、徐彦若が司徒となった。 二月、李茂貞を赦した。 三月、幽州盧龍軍節度使の劉仁恭の子の劉守文が滄州を陥落させ、義昌軍節度使の盧彦威が汴州に逃れた。 四月丙寅、淑妃何氏を立てて皇后とした。 五月己巳、大赦をおこなった。辛未、朱全忠が洺州を陥落させ、刺史の邢善益がここに死んだ。また邢州を陥落させた。壬午、磁州を陥落させ、刺史の袁奉韜がここに死んだ。この月、馬殷が邵・衡・永の三州を陥落させ、刺史の蒋勲・楊師遠・唐旻がここに死んだ。 七月丙申、朱全忠が唐州を陥落させ、また隋州を陥落させ、刺史の趙匡璘を捕らえた。 八月戊午、朱全忠が鄧州を陥落させ、刺史の国湘を捕らえた。壬戌、華州から到着した。甲子、大赦をおこない、改元した。 九月丙子、北方に星が落ちた。甲申、銭鏐が蘇州を陥落させた。 十月、魏博節度使の羅弘信が亡くなると、その子の羅紹威が留後を自称した。己亥、朱全忠が安州を陥落させ、刺史の武瑜がここに死んだ。 十一月、衢州刺史の陳岌が叛いて楊行密についた。甲寅、子の李禛を封じて雅王とし、李祥を瓊王とした。 十二月癸未、李罕之が潞州を陥落させ、節度留後を自称した。李克用が沢州を陥落させた。 二年(899)正月乙未、給復綿・剣二州二年。丁未、崔胤が宰相を退いた。兵部尚書の陸扆が同中書門下平章事となった。この月、李罕之が沁州を陥落させた。劉仁恭が貝州を陥落させた。 二月甲子、朱全忠が蔡州を陥落させ、奉国軍節度使の崔洪が淮南に逃れた。 三月丁巳、朱全忠が沢州を陥落させた。 六月丁丑、保義軍が乱を起こし、その節度使の王珙を殺して、その将の李璠が叛いて朱全忠についた。 七月壬辰、海州の戍将の陳漢賓がその州をもって叛いて楊行密についた。馬殷が道州を陥落させ、刺史の蔡結がここに死んだ。 八月、李克用が沢・潞・懐の三州を陥落させた。 十一月、徐彦若が太保となり、王摶が司空となった。馬殷が郴・連の二州を陥落させ、刺史の陳彦謙・魯景仁がここに死んだ。辛丑、保義軍の将の朱簡がその節度使の李璠を殺して、叛いて朱全忠についた。 三年(900)四月辛未、皇后と皇太子が太廟で享した。 六月丁卯、清海軍節度使の崔胤が尚書左僕射となり、門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。王摶が宰相を退いた。己巳、これを殺した。 七月、浙江が氾濫した。 八月庚辰、李克用が洺州を陥落させ、刺史の朱紹宗を捕らえた。 九月、朱全忠が洺州を陥落させた。銭鏐が婺州を陥落させ、刺史の王壇が宣州に逃れた。衢州刺史の陳岌が叛いて銭鏐についた。乙巳、徐彦若が宰相を退いた。丙午、崔遠が宰相を退いた。戊申、刑部尚書の裴贄が中書侍郎・同中書門下平章事となった。甲寅、朱全忠が瀛州を陥落させた。 十月丙辰、朱全忠が景州を陥落させ、刺史の劉仁霸を捕らえた。辛酉、莫州を陥落させた。辛巳、祁州を陥落させ、刺史の楊約がここに死んだ。甲申、定州を陥落させ、義武軍節度使の王郜が太原に逃れた。 十一月己丑、左右神策軍中尉の劉季述と王仲先と内枢密使の王彦範および薛斉偓が乱を起こし、皇帝居于少陽院。辛卯、劉季述は皇太子の李裕を皇帝とした。丁未、太白(金星)が昼に見えた。 十二月、劉季述が睦王李倚を殺した。 この年、馬殷が桂・宜・巖・柳・象の五州を陥落させた。睦州刺史の陳晟が亡くなると、その弟の陳詢が刺史を自称した。 天復元年(901)正月乙酉、左神策軍の将の孫徳昭・董彦弼・周承誨が兵をもって乱を討ち、皇帝を位に復させた。劉季述・薛斉偓は処刑され、皇太子李裕は降封されて徳王となった。戊申、朱全忠が絳州を陥落させた。壬子、崔胤が司空となった。朱全忠が晋州を陥落させた。 二月甲寅、旱害のため正殿を避け、膳を減らした。戊辰、朱全忠が河中を陥落させ、護国軍節度使の王珂を捕らえた。辛未、朱全忠を封じて梁王とした。この月、翰林学士・戸部侍郎の王溥が中書侍郎となり、吏部侍郎の裴枢が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。 三月辛亥、昭義軍節度使の孟遷が叛いて朱全忠についた。 四月壬子、朱全忠が沁・沢二州を陥落させた。丁巳、儀州刺史の張鄂が叛いて朱全忠についた。甲戌、太廟で享した。丙子、大赦をおこない、改元した。武徳・貞観配饗功臣主祭子孫進之、介公・酅公後予一子九品正員官。免光化以來畿内逋負。 五月、李茂貞が来朝した。 六月、李克用が隰・慈の二州を陥落させた。 十月戊戌、朱全忠が京師を侵した。 十一月己酉、朱全忠が同州を陥落させた。壬子、如鳳翔。丁巳、朱全忠が華州を陥落させ、鎮国軍節度使の韓建が叛いて朱全忠についた。辛酉、兵部侍郎の盧光啓が権勾當中書事となった。癸亥、李茂貞が朱全忠と武功で戦い、敗れた。丁卯、盧光啓が右諫議大夫となり、參知機務。戊辰、朱全忠が鳳翔を侵した。辛未、邠州を陥落させ、静難軍節度使の李継徽が叛いて朱全忠についた。甲戌、崔胤・裴枢が宰相を退いた。 十二月、鍾伝が吉州を陥落させた。 この年、清海軍節度使徐彦若が亡くなると、行軍司馬劉隠が留後を自称した。武貞軍節度使雷満が亡くなると、その子の彦威が留後を自称した。 二年(902)正月丁卯、給事中の韋貽範が工部侍郎・同中書門下平章事となった。丙子、給事中嚴龜為汴・岐和協使。 二月己亥、盗人が簡陵をあばいた。王建が利州を陥落させ、昭武軍節度使の李継忠が鳳翔に逃れた。 三月庚戌、晝晦。癸丑、朱全忠が汾州を陥落させた。乙卯、浙西で大雨と大雪があった。戊午、朱全忠が慈・隰の二州を陥落させた。丁卯、李克用が汾・慈・隰の三州を陥落させた。 四月、盧光啓が宰相を退いた。丙申、温州刺史朱褒が亡くなると、その兄の敖が刺史を自称した。楊行密が昇州を陥落させた。 五月丙午、李茂貞が朱全忠と武功で戦い、敗れた。庚午、韋貽範が宰相を退いた。 六月丙子、中書舎人の蘇検が工部侍郎・同中書門下平章事となった。丙戌、朱全忠が鳳州を陥落させた。 七月甲辰、朱全忠が成州を陥落させた。乙巳、隴州を陥落させた。 八月己亥、韋貽範起復。辛丑、王建が興元を陥落させ、山南西道節度使の王万弘が叛いて王建についた。 九月戊申、李茂貞が朱全忠と槐林で戦い、敗れた。武定軍節度使の拓抜思恭が叛いて王建についた。 十月癸酉、楊行密が東面諸道行営都統となり、湖南節度使の馬殷とともに朱全忠を討った。王建が興州を陥落させた。 十一月癸卯、保大軍節度使の李茂勲が兵をもって鳳翔をたすけた。丙辰、韋貽範が薨去した。 十二月癸巳、温州の将の丁章がその刺史の朱敖を追放した。己亥、朱全忠が鄜州を陥落させ、保大軍節度使の李茂勲が叛いて朱全忠についた。 この年、盧光稠が韶州を陥落させた。岳州刺史の鄧進思が亡くなると、その弟の鄧進忠が刺史を自称した。 三年(903)正月丙午、平盧軍節度使の王師範が兗州を取った。戊申、左右神策軍護軍中尉の韓全誨と張彦弘と内枢密使の袁易簡と周敬容を殺した。辛亥、翰林学士の姚洎が汴・岐和協使となった。壬子、工部尚書の崔胤が司空となり、門下侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。甲子、朱全忠の軍に幸した。己巳、鳳翔から到着し、太廟で哭し、大赦をおこなった。庚午、崔胤と朱全忠が中官七百人あまりを殺した。辛未、崔胤が判六軍十二衛事となった。丁章が処刑された。 二月、雨土。甲戌、陸扆を左遷して沂王の傅とし、東都を分司させた。丙子、王溥が宰相を退いた。朱全忠が蘇検と吏部侍郎の盧光啓を殺した。戊寅、降京畿・河中鳳翔興徳府・同邠鄜三州死罪以下。己卯、輝王李祚が諸道兵馬都元帥となった。庚辰、朱全忠が太尉・中書令となり、副之。崔胤が司徒となった。乙未、清海軍節度使の裴枢が門下侍郎・同中書門下平章事となった。 三月、朱全忠が青州を陥落させた。楊行密が密州を陥落させ、刺史の劉康乂がここに死んだ。 四月己卯、朱全忠が判元帥府事となった。 五月壬子、荊南節度使の成汭が楊行密と君山で戦い、ここに死んだ。武貞軍節度使の雷彦威の弟の雷彦恭が江陵を陥落させた。 六月乙亥、朱全忠が登州を陥落させた。 九月、楊行密が奉国軍節度使の朱延寿を殺した。辛亥、朱全忠が棣州を陥落させ、刺史の邵播がここに死んだ。密州を陥落させた。戊午、平盧軍節度使の王師範が叛いて朱全忠についた。 十月、忠義軍の将の趙匡明が江陵を陥落させ、留後を自称した。王建が忠・萬・施の三州を陥落させた。甲戌、夔州を陥落させた。丁丑、平盧軍の将の劉鄩が兗州をもって叛いて朱全忠についた。 十二月、裴贄が宰相を退いた。楊行密が宣州を陥落させ、寧国軍節度使の田頵がここに死んだ。辛巳、礼部尚書の独孤損が兵部侍郎・同中書門下平章事となった。丙申、朱全忠が尚書左僕射として致仕した張濬を殺した。 天祐元年(904)正月乙巳、崔胤が宰相を退いた。裴枢が判左三軍事となり、独孤損が判右三軍事となった。兵部尚書の崔遠が中書侍郎となり、翰林学士・右拾遺の柳璨が右諫議大夫となり、ともに同中書門下平章事となった。己酉、朱全忠が太子少傅の崔胤と京兆尹の鄭元規・威遠軍使の陳班を殺した。戊午、朱全忠が唐の都を洛陽に遷した。 二月丙寅、日中に北斗が見えた。戊寅、次陝州。朱全忠が来朝した。甲申、子の李禎を封じて端王とし、李祁を豊王とし、李福を和王とし、李禧を登王とし、李祜を嘉王とした。 三月丁未、朱全忠が判左右神策および六軍諸衛事を兼ねた。 閏四月壬寅、次穀水。朱全忠が来朝した。甲辰、西都から到着した。太廟で享した。大風、雨土。乙巳、大赦をおこない、改元した。 六月、静難軍節度使の楊崇本が李克用・王建の兵と合流して朱全忠を討った。 七月乙丑、朱全忠が兵をつれて河中に駐屯した。 八月壬寅、朱全忠が、左右龍武統軍の朱友恭・氏叔琮・枢密使の蒋玄暉の兵に宮門を犯させた。この夕、皇帝が崩じ、年は三十八であった。明年、起居郎の蘇楷が「恭霊荘閔」と謚を改め、廟号を襄宗とするよう請願した。後唐の同光初年にいたって、ふるい諡号にもどした。 昭宣光烈孝皇帝は、諱を祝といい、昭宗の第九子である。母は皇太后何氏といった。始め輝王に封ぜられた。朱全忠が昭宗を弑すると、詔をいつわって皇太子として立て、監軍国事とした。 天祐元年(904)八月丙午、柩の前で皇帝位についた。衢州刺史の陳璋と睦州刺史の陳詢が叛いて楊行密についた。 九月庚午、皇后を尊んで皇太后とした。 十月辛卯朔、日食があった。癸巳、朱全忠が来朝した。甲午、朱全忠が朱友恭・氏叔琮を殺した。 十一月、朱全忠が光州を陥落させた。 この年、虔州刺史の盧光稠が亡くなると、衙将の李図が知州事を自称した。 二年(905)正月、盧約が温州を陥落させた。楊行密が平盧軍節度使の安仁義を殺した。丁丑、盜焚乾陵下宮。 二月、楊行密が鄂州を陥落させ、武昌軍節度使の杜洪がここに死んだ。戊戌、朱全忠が徳王李裕および棣王李祤・虔王李禊・遂王李禕・景王李秘・祁王李祺・瓊王李祥を殺した。己酉、聖穆景文孝皇帝を和陵に葬った。 三月甲子、裴枢が宰相を退いた。戊寅、独孤損が宰相を退いた。礼部侍郎の張文蔚が同中書門下平章事となった。甲申、崔遠が宰相を退いた。吏部侍郎の楊渉同が中書門下平章事となった。 四月乙未、旱害のため正殿を避け、膳を減らした。庚子、有彗星出于西北。甲辰、出于北河。辛亥、降京畿死罪以下、給復山陵役者一年。 五月、王建が金州を陥落させ、戎昭軍節度使の馮行襲が均州に逃れた。 六月、馮行襲が金州で勝利した。楊行密が婺州を陥落させ、刺史の沈夏を捕らえた。戊子、朱全忠が裴枢・静海軍節度使の独孤損・左僕射の崔遠・吏部尚書の陸扆・工部尚書の王溥・司空として致仕した裴贄・検校司空兼太子太保として致仕した趙崇・兵部侍郎の王賛を殺した。 七月、卜郊。岳州刺史の鄧進忠が叛いて馬殷についた。 九月甲子、朱全忠が襄州を陥落させ、忠義軍節度使の趙匡凝が淮南に逃れた。丙寅、弟の李禔を封じて潁王とし、李祐を蔡王とした。朱全忠が江陵を陥落させ、留後の趙匡明が成都に逃れた。乙酉、改卜郊。 十月丙戌、朱全忠が諸道兵馬元帥となった。 十一月庚午、三卜郊。庚辰、淮南節度使楊行密が亡くなると、その子の楊渥を淮南節度副大使・東面諸道行営都統とした。辛巳、朱全忠が相国となり、百揆を総べ、魏王に封ぜられた。 十二月乙未、朱全忠が天下兵馬元帥となり、蒋玄暉と豊徳庫使の応頊と尚食使の朱建武を殺した。癸卯、柳璨が司空となった。戊申、朱全忠が皇太后を弑した。辛亥、罷郊。癸丑、柳璨を左遷して登州刺史とした。甲寅、柳璨と太常卿の張廷範を殺した。 三年(906)正月壬戌、淮南の将の王茂章が宣・歙の二州をもって叛いて銭鏐についた。 二月、楊渥が岳州を陥落させた。癸巳、王建が帰州を陥落させた。 四月癸未朔、日食があった。鎮南軍節度使の鍾伝が亡くなると、その子の鍾匡時が留後を自称した。 六月、銭鏐が衢・睦の二州を陥落させ、刺史の陳璋・陳詢が淮南に逃れた。 七月、楊渥が饒州を陥落させた。 八月癸未、朱全忠が相州を陥落させた。 九月、楊渥が洪州を陥落させ、鍾匡時を捕らえた。乙亥、匡国軍節度使の劉知俊が坊州を陥落させ、刺史の劉彦暉を捕らえた。 十月辛巳、楊崇本が鳳翔・涇原・鄜延・秦隴の兵と合流して朱全忠を討ち、美原で戦ったが、敗れた。 十一月、忠国軍節度使の高彦が亡くなると、その子の高澧が留後を自称した。 閏十二月戊辰、李克用が潞州を陥落させ、昭義軍節度使の丁会が叛いて李克用についた。乙亥、震電、雨雪。 四年(907)三月、劉守光がその父の劉仁恭を捕らえて、幽州盧龍軍節度使を自称した。 四月戊午、銭鏐が温州を陥落させた。甲子、皇帝が位を譲り、曹州にうつされ、済陰王と号した。後梁の開平二年(908)二月に弑され、年は十七で、謚を哀帝といった。後唐の明宗が昭宣光烈孝皇帝と追謚し、陵を温陵といった。 賛曰:自古亡国、未必皆愚庸暴虐之君也。其禍乱之來有漸積、及其大勢已去、適丁斯時、故雖有智勇、有不能為者矣、可謂真不幸也、昭宗是已。昭宗為人明雋、初亦有志於興復、而外患已成、内無賢佐、頗亦慨然思得非常之材、而用匪其人、徒以益乱。自唐之亡也、其遺毒餘酷、更五代五十餘年、至於天下分裂、大壞極乱而後止。跡其禍乱、其漸積豈一朝一夕哉! 前巻 『新唐書』 次巻 巻九 本紀第九 『新唐書』巻十 本紀第十 巻十一 志第一
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岡本の関白家平公が、満開の紅梅の枝に鳥を一|番《つがい》添えて、この枝につけて来いと鷹飼の下毛野《しもつけの》武勝に申しつけられたが、「花に鳥をつける方法は存じません。一枝に一番つけることも存じません」と言ったので料理方にもお尋ねがあって人々に問うてから、ふたたび武勝に「それでは其方の思う通りにつけて差出せ」と仰せられたので、花のない梅の枝に、鳥は一つだけつけて差し上げた。武勝が申しますには、「柴の枝、梅の枝の、蕾みのあるのと散ったのとにはつけます。五葉の松などにもつけます。枝の長さは七尺か六尺、そぎ取ったのをかえし刀で五分に切ります。枝の中ほどに鳥をつけ、つける枝、踏ませる枝があります。つづら藤の割らないままので、二ヵ所結びつけます。藤のさきは火打羽の長さにくらべて切り、それを牛の角のように曲げておきます。初雪の朝枝を肩にかけて、中門から様子を整えて参り、軒下の石を伝い、雪には足跡をつけないで、尾のつけ根にある毛をすこし抜き散らして、二棟の御所の欄干に寄せかけておきます。下されものがあったら、肩にかけて礼をして退出いたします。初雪と申しても、沓の鼻のかくれないほどの雪なら参りませぬ。尾のつけ根の毛を抜き散らすのは、鷹は腰を襲うものだから鷹の獲《と》ったもののようにするためでしょう」と申した。 花に鳥をつけないというのは、どういう理由であるやら。九月の頃に梅の造り枝に雉をつけて「君がためにと折る花は、時しもわかぬ」と言ったことが伊勢物語に見えている。造り花には鳥をつけても差しつかえないものなのであろうか。