約 2,007 件
https://w.atwiki.jp/pam-iwate/pages/985.html
菅原屋旅館 北上山地南端の独立峯、標高895.4メートルの室根山で「パラグライダー体験+1泊朝食付プラン」です。 今年で開設31年目を迎える「MAPS パラグライダースクール」が丁寧にご指導します。 〈菅原屋旅館公式サイトより引用〉 菅原屋旅館 〒029−0711 岩手県一関市大東町大原一六34番地 TEL:0191−72−2166 FAX:0191−72−2814 パンフレット ※画像をクリックするとパンフレットが開きます。 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 ホームページ http //www5.ocn.ne.jp/~sugayado/ 《ブログ等》 10月18日 室根山 パート1 http //blogs.yahoo.co.jp/xwqmj032/2194135.html JAまつり&室根山に行く☆ http //blogs.yahoo.co.jp/chakotam/58637056.html take off http //blogs.yahoo.co.jp/sfnry064/29176952.html バイクが来て約1ヶ月っ!(その2) http //blogs.yahoo.co.jp/kbbgm515/1041014.html 「室根山のつつじ」 http //blogs.yahoo.co.jp/beefjerkynotengu/8659845.html 室根山山頂付近での早朝ウォーキング・岩手県南部 http //blogs.yahoo.co.jp/gin5510/8010703.html 携帯サイト 最新のチラシ imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 《周辺情報》 中尊寺…平泉文化の象徴 http //www.chusonji.or.jp/ 毛越寺…藤原氏が造営した浄土式庭園 http //www.motsuji.or.jp/ 名勝げいび渓舟下り…日本百景の一つに数えられる渓谷 http //www.machinet.jp/geibikanko/ 幽玄洞(自然洞窟博物館)…日本で最古の鍾乳洞と言われています http //www6.ocn.ne.jp/~yuugen/ 厳美渓…栗駒山を源に流れる磐井川が巨岩を浸食 http //www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,4270,112,95,html サハラガラスパーク…世界のガラス工芸品10,000点 http //www.sahara-g.co.jp/park/ みちのくあじさい園…6月下旬から約1カ月間 http //www.h4.dion.ne.jp/~mi-aji/ 岩手サファリパーク…天空のサバンナ http //www.iwate-safari.jp/ 館ヶ森アーク牧場…岩手の大自然のなかで農業を体験できる館ヶ森 http //www.arkfarm.co.jp/ 館ヶ森高原ホテル…岩手サファリパークまでは車で約2分 http //www.tategamori.com/pc/index.html 花と泉の公園・ぼたん園…四季折々1年中いつでも、お花をお楽しみ下さい。 http //www.hanatoizumi.jp/ 〈ブログ2〉 #blogsearch /
https://w.atwiki.jp/junretsuwago/pages/1256.html
辞書 品詞 解説 例文 漢字 日本国語大辞典 名詞 ① リズムとメロディーを付けてことばを声に出すもの。また、そのことば。多くは楽器に合わせて歌う。歌曲、童謡、歌謡曲など。 ※書紀(720)神武即位前「御謡(ウタよみ)して曰く、〈謡、此をば宇多(ウタ)預瀰と云ふ〉」 歌・唄 ② リズムを主として作られた一種の文章の総称。古代からの短歌、長歌、旋頭歌(せどうか)、歌謡などや近代の詩をも含める。 ※万葉(8C後)一・一六・題詞「額田王以 レ 歌判之歌」 ③ 特に和歌をさしていう。五、七、五、七、七の三一音から成る短歌形式をいう。やまとうた。 ※土左(935頃)承平五年二月五日「『御船(みふね)よりおふせたぶなり。朝北(あさきた)の出で来ぬさきに、綱手はやひけ』と言ふ。このことばのうたのやうなるは」 ④ 謡曲における曲節の名称。拍子に合わせて吟詠するところで、その音程を下げてうたい出すのを下歌(さげうた)、上げてうたい出すのを上歌(あげうた)という。歌地(うたじ)。 ※五音(1434頃)下「歌 花洛の塵にまじはり、まじはり」 ⑤ 三味線に合わせて語り、または、歌う近世の歌曲の称。浄瑠璃、祭文、長唄、小唄、歌沢、地唄、流行歌の類をいう。 ⑥ 歌舞伎で、幕明きや役者の舞台の出入りなどに下座でうたう音曲。 ※歌舞伎・幼稚子敵討(1753)六「『きっと云付たぞ』ト哥に成」 ⑦ 義太夫浄瑠璃の中にはさまれた一句、あるいはひとくだりの曲節。地唄や琴歌(ことうた)をはじめ、俗謡、流行歌をとり入れたくだり、またはそれらに似せて作曲した部分で、これによって曲節に柔らかなふくらみを生じ、曲調を変化させる効果がある。 ※浄瑠璃・源平布引滝(1749)一「哥 鏡とぎ鏡とぎ鏡とぎ、といでやりたい世の噂」 ⑧ 笛の吹き口より指穴までの部分の名称。うたぐち。 ※歌儛品目(1818‐22頃)四「笛〈略〉懐竹抄笛の図に、吹口より六の孔までの間に歌とあり、今も俗に口を歌口と称す」 ⑨ 鳥のさえずりをいう。 ※小学読本(1873)〈田中義廉〉一「汝は、鳥の歌を聞くことを好むや」 広辞苑 名詞 ①声に 節 (ふし)をつけて歌う詞。 推古紀「 拝 (おろが)みて仕へ奉らむ―つきまつる」 歌 ②音律に合わせて数を整えた詞。古代からの短歌・長歌・ 旋頭歌 (せどうか)・歌謡、また近代の詩歌などの総称。 源氏物語桐壺「 大和 (やまと)ことのはをも、 唐土 (もろこし)の―も」 ③(五・七・五・七・七の三十一音から成る)和歌。短歌。やまとうた。 源氏物語常夏「三十文字あまり本末あはぬ―」。「―よみ」 ④はやりうた・長唄・小唄・地唄・端唄などの総称。 「―うたい」 大言海 名詞 (一)聲ヲ長クシ、節ヲツケテ歌フ詞ノ總稱。多クハ、音樂ノ調ニ合セテ歌フ、神樂歌、催馬樂、今樣ナドヲ初トシテ、俗謠、俚歌、種類多シ。 太神宮式「歌長三人」 歌・謠 (二) 詠 (ヨ)ミ綴ル一種ノ文詞、思フ事ヲ、言語ニアヤナシテ述ブルモノ。 詩 (カラウタ)ニ對シテ、やまとうた、又、 和歌 (ワカ)ト云フ、大抵、一句ヲ五音ト七音トニ定メテ、五、七、五、七、七、合セテ、五句、 三十 (ミソ) 一音 (ヒトモジ)ナルヲ常格トス。其初ノ三句ヲ、上の句ト云ヒ、末ノ二句ヲ、下の句ト云ヒ、又、 本末 (モトスヱ)トモ云フ。然レドモ、六音、八九音ノモノモアリ、又、 長歌 (ナガウタ)、 旋頭歌 (セドウカ)、 折 (ヲリ) 句 (ク)、 沓冠 (クツカブリ)ナド、句法、種種ナルモアリ、各條ニ注ス。 検索用附箋:名詞名称 附箋:名称 名詞
https://w.atwiki.jp/junretsuwago/pages/1782.html
辞書 品詞 解説 例文 漢字 日本国語大辞典 名詞 ① 動植物の肉、身を包んでいる、外側の膜(まく)。表皮。皮膚。 ※書紀(720)神代上(水戸本訓)「一箇(ひとつ)の小(すくな)男、白蘝(かかみ)の皮(カハ)を以て舟を為(つく)り」※古事談(1212‐15頃)一「相国、御前に枇杷の有りけるを一ふさ取りて琴のつめにてかはをむきて」 皮・革 ② 獣類の①を剥ぎ取ったもの。 ※万葉(8C後)一六・三八八五「韓国(からくに)の 虎と云ふ神を 生け取りに 八頭(やつ)取り持ち来 その皮(かは)を 畳に刺し」 ③ (「側」とも書く) (一般的に) 中身を覆い包むもの。蒲団の綿を包む表布、饅頭や餠の餡(あん)を包む外側の部分など。 ※人情本・閑情末摘花(1839‐41)初「残りしものを買集、竹皮(カハ)につつみて持て行(ゆく)」 ④ (比喩的に) 物事を包んでいる表面のもの。また、物事の本質、内面を隠している表面のもの。「化けの皮」「うその皮」「欲の皮」など。 ※歌謡・閑吟集(1518)「人のすがたは花うつぼやさし、さしておふたりや、うそのかはうつぼ」 ⑤ 物事の表面。うわべ。多く、中身のない、うわべだけの意に用いられる。 ※洒落本・三人酩酊(1799か)笑上戸の段「『おめへのるすに、てへてへわるくいいなはった事じゃアねへ』『そうだらうよどうも東さんはかはだよ』」 ⑥ (革) ②の毛を取り去り、なめしたもの。なめしがわ。 ※書紀(720)天智二年六月(北野本訓)「革(カハ)を以て、掌を穿ちて縛(ゆは)ふ」 ⑦ (⑥を用いてあるところから) 鼓(つづみ)または三味線のこと。 ⑧ 「かわばおり(革羽織)②」の略。 ※洒落本・深川手習草紙(1785)上「成程お前(めへ)は見かけに寄ねへ革だのう」 ⑨ =つりかわ(吊革) ※落語・船徳(1889)〈三代目三遊亭円遊〉「鉄道馬車や赤馬車が贔負で車が便利だてェので、幾ら混雑(こみ)合てても彼(あ)の革へ縋(ぶ)ら下(さがっ)て」 広辞苑 名詞 ➊覆って外面となるもの。①動植物の外表を覆う膜など。 新撰六帖5「身をすてて後さへ人を恋ひをればさこそは骨と―となるらん」。「蜜柑の―」「 面 (つら)の―」 皮・革 ②(「側」とも書く)中に物を詰め、その覆いとするもの。 「蒲団の―」「ギョーザの―」 ③物の表面。うわかわ。 「化けの―を剝がす」 ➋おもに獣類の皮を剝いでつくったもの。①皮を肉から剝ぎ取ったもの。あらかわ。毛皮。 ②(「革」と書く)あらかわの毛を除去したもの。また、なめしたもの。 「牛―の靴」「わにの―の装身具」 ③鼓 (つづみ)の別称。 万代狂歌集「節のそろはぬしほから声、―に合はぬをいかにせん」 大言海 名詞 (一){動物、植物ノ體ノ、 表面 (ソトガハ)ヲ包メル物。 倭名抄、三 五 「皮、被 レ 體也、賀波」 皮 (二){特ニ、獸類ノ皮ヲ剝ギ取リタルモノ。あら皮、毛皮、つくりか は (ワ)、 を (オ)しか は (ワ)、なめしが は (ワ)、もみか は (ワ)、等、各條ニ注ス。 (三) 大皮 (オホカハ)、 小 (コ) 皮 (カハ)(大鼓 (オホツヅミ)、小鼓 (コツヅミ))ノ略。 萬代狂歌集(文化)「節ノ揃ハヌ、シホカラ聲、皮ニ合ハヌヲ、如何セン」 (四)スベテ、物ノ上ヲ包メル物。 「竹ノ皮」蒲團ノかは」榮耀ニ餅ノ皮」 (五)へちまのか は (ワ)ノ條ヲ見ヨ。 検索用附箋:名詞物品名称 附箋:名称 名詞 物品
https://w.atwiki.jp/asterisk99/pages/187.html
MT*2_47-「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉 2010.6.12 第二巻 第四七号 「日本民族」とは何ぞや 本州における蝦夷の末路 一 緒言 二 蝦夷馴服(じゅんぷく)の歴史 三 遺物・遺跡より見たる蝦夷 四 北海道のアイヌ民族 五 近世まで保存せられた本州の蝦夷 六 蝦夷と日本民族 七 日の本将軍 八 蝦夷と武士道 九 東人(あずまびと) 十 武士の起原と蝦夷 十一 結語 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*第二巻 第四七号】 (http //www.dl-market.com/product_info.php?products_id=71431) ※ クリックするとダウンロードサイトへジャンプします。 (788KB) 定価:200円(税込) p.224 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(122項目)p.679 飛び出せ! 週刊ミルクティー* この点については、さすがに日の本将軍ともいわれた安東氏の態度は見上げたものです。安倍氏にしても、清原氏にしても、藤原氏にしても、みなそれぞれに名家の姓を名乗っておりますが、安東氏のみはそれをいたしません。彼はみずから土人の後裔たることを立派に認めております。その先祖は長髄彦(ながすねひこ)の兄安日(あび)というもので、神武天皇ご東征以前の、大和の領主であったといっております。長髄彦は神武天皇に反抗して殺されましたが、兄の安日は奥州外が浜へ流されて、子孫蝦夷の管領となったといっております。その後裔なる秋田実季(さねすえ)のごときは、自分の家が天地開闢以来の旧家だということをもって、家の誇りといたしているのであります。この系図は徳川時代になって、秋田実季が自身調査をかさねて編纂したもので、その安倍という本姓は、先祖の安日という名を取ったというのでありますが、しかしその説の由来はすこぶる古いもので、すでに津軽浪岡家の『永禄日記』十年(一五六七)の条に、同地岩木神社の祠官阿部氏が、やはり同様の系図を持っていたおもむきに見えております。(略)しかしながら、仮に安東氏が土人の後裔であるとしましても(略)血においてはつとに混淆してしまい、生活その他においても、もちろん日本民族になってしまっているのであります。(略)徳川時代において三春五万六千石の大名たる秋田氏をもって、日本民族でないというものがありましょう。蝦夷と日本民族との関係の、きわめてなだらかに推移してまいりましたことは、この一例をもってしても思いなかばに過ぎるでありましょう。 2_47.rm (朗読:RealMedia 形式 408KB、3'18'') 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939(明治4.5.24- 昭和14.7.3) 歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。 ◇参照:Wikipedia 喜田貞吉、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。 底本 「日本民族」とは何ぞや 日本民族の概念を論ず 底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社 2008(平成20)年1月30日初版発行 初出:「民族と歴史 第一巻第一号」 1919(大正8)年1月 本州における蝦夷の末路 底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社 2008(平成20)年1月30日初版発行 初出:「東北文化研究 第一巻第四号」 1928(昭和3)年12月 NDC 分類:210(日本史) http //yozora.kazumi386.org/2/1/ndc210.html NDC 分類:380(風俗習慣.民俗学.民族学) http //yozora.kazumi386.org/3/8/ndc380.html 年表 本州における蝦夷の末路 宝亀一一(七八〇) 伊治公呰麿、暴動を起こし按察使・紀広純を殺す。 延暦年間(七八二〜八〇六) 坂上田村麿の遠征。胆沢城に鎮守府を設けて蝦夷地経営・東北守備の根拠地となし、さらにその北の紫波郡の地に志波城を築く。 弘仁(八一〇〜八二四)の頃 文室綿麿が遠征。今の岩手県二戸郡福岡町付近の爾薩体・都母あたりまで従える。和賀、稗貫、紫波の三郡を設置。 貞観一一(八六九) 新羅の海賊船が二艘、九州博多の海岸をかすめた時、太宰府の軍人は誰もよう出かけない。付近に移住していた蝦夷人をさしむけたところ、容易にこれを撃退。これから太宰府海岸の防御には、蝦夷人をして当たらしめる。 元慶年間(八七七〜八八五) 出羽の乱。今の秋田県地方の蝦夷が国司の悪政をうらんで暴動を起こす。御物川から北の地方をもって、蝦夷の国として要求。藤原保則、赴任し善政をほどこす。大乱を鎮定。 延喜(九〇一〜九二三)のころ 藤原利仁(利仁将軍)、蝦夷を征伐。事跡は不明。 永承六(一〇五一)〜康平五(一〇六二) 前九年の役。 永保三(一〇八三)〜寛治元(一〇八七) 後三年の役。 鎌倉時代の末ごろ 津軽に蝦夷の乱がおこる。幕府、容易に鎮定することができず。詳細は不明。 鎌倉・室町時代のころ 安東氏、津軽地方に勢力を有して日の本将軍とよばれる。 津軽浪岡家『永禄日記』一〇年(一五六七)の条 同地岩木神社の祠官阿部氏が、秋田実季(本姓、安倍)と同様、先祖の安日という名を取ったという系図を持っていたおもむきに見える。 寛文(一六六一〜一六七三)頃 津軽藩領分内に蝦夷として認められたもののいた村が、外が浜に十六か村、戸数が四十二軒。たいていは日本人と同じ名をつけていた。それを区別するために、時としてその名の下に犬という字をつける。最北の六か村のものは、このとき日本人になるのを嫌って逃げ出す。 宝暦六(一七五六) 津軽藩「この年、外が浜の狄(えびす)シャモとなる」。蝦夷を平民の戸籍に編入し、普通の日本人と同一の待遇を与える。蝦夷村が解放。 文化三(一八〇六) 津軽藩の蝦夷、はじめて最後の解放を受ける。 嘉永五(一八五二) 吉田松陰、津軽の地を視察。『東北遊日記』を書く。 大正一三(一九二四) 喜田貞吉、以来、東北大学へ勤務。年中の大部を東北地方に暮らす。 昭和三(一九二八) 七月十一、十二日 仙台放送局「本州における蝦夷の末路」放送。 難字、求めよ。 崇祭 祖祢 そでい 王道融泰 人禽 日の本将軍 虜陣戎庭 窮説 橘正一 スリーパーズ日記 六月一二日(土)快晴。県内で今年はじめて三〇度をこえ、真夏日となる。三週間に一度の恒例のブックオフ・図書館参り。 都城で口蹄疫確認。本日より緊急に宮崎県内の図書館・博物館など文化施設・スポーツ施設も閉鎖という。動物園ならわかるが、図書館の閉鎖の意味がわからん。(1) 正常な判断能力がマヒするほどに行政の意志決定が疲労・どうしたらいいのかわからなくなっている可能性。すべてのものを疑ってしまう状態。(2) 収集している新聞や週刊誌・過去の関連記録などへのアクセス数が増加。農家や業者が特定され非難を受ける可能性への配慮。(3) 口蹄疫の伝染媒介を図書館利用者・貸し出し図書がおこなっている可能性。 図書館情報へのアクセス規制というと、未成年者の加害事件にともなう実名報道の問題と、2008年の元厚生事務次官宅連続襲撃事件にともなう名簿閲覧の制限が記憶に新しい。が、情報コントロールは相互疑心を強くするもので、良策かは疑問。 空気感染、同一水源の汚染、人間媒介……? 体液感染の可能性がもっとも高いような気がするのだが、ハエ・アブ・カラス、か?。 2010.6.14:公開 ♪ハゲに牛のヨダレをあびせろ。ニッポン牛のヨダレ化計画。 目くそ鼻くそ、ケツ毛ボーボー亀仙人。/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/teitoku_bbs/pages/7496.html
72: 小火器年表作者 :2021/11/19(金) 20 59 46 HOST KD111239158227.au-net.ne.jp 憂鬱日本 小火器開発年表 1890年 7.7㎜実包(.303ブリティッシュ弾(ラ国)) 1890年 馬式機関銃(マキシム機関銃(輸入品)) 1897年 三十年式実包(6.5 Creedmoor(弱装弾)) 1897年 三十年式歩兵銃(三八式歩兵銃) 1897年 三十年式騎銃(三八式騎銃) 1897年 三十年式銃剣(三十年式銃剣) 1902年 窓式機関銃(マドセン機関銃(輸入品)) 『日英同盟成立』1902年 1904年 .38スペシャル実包(輸入後ラ国) 1904年 9.65㎜拳銃(S W M10(輸入後ラ国)) 『日露戦争』1904年~1905年 1905年 三八式歩兵銃(三八式短小銃(部品互換)) 1909年 毘式機関銃(ヴィッカース重機関銃(ラ国)) 1912年 留式軽機関銃(ルイス軽機関銃(ラ国)) 1913年 ブローニング実包(.32ACP弾(ラ国)) 1913年 ブローニング拳銃(FN M1910(ラ国)) 『第一次世界大戦勃発』1914年 1917年 六年式手榴弾(F1手榴弾(ソ連)) 『第一次世界大戦終結』1918年 1919年 9㎜実包(9x19mmパラベラム弾) 1919年 ベ式短機関銃(MP28) 1920年 九年式固定金具(ピカティニー・レール) 1920年 九年式狙撃銃(九七式狙撃銃) 1921年 十年式擲弾筒(八九式重擲弾筒) 1921年 十年式信号拳銃(55式信号拳銃) 1922年 十一式実包(12.7x99mm NATO弾(ラ国)) 1922年 十一式(ブ式)重機関銃(M1921(ラ国)) 『関東大震災』1923年 『第一次五ヵ年計画』1925年~(統一規格) 『世界恐慌』1929年 1930年 昭五式実包(6.5x39mm(オリジナル)) 1930年 昭五式小銃(M59/66と63式自動歩槍) 1930年 昭五式銃剣(64式銃剣) 1931年 サカバ M17(イサカM37 (ラ国)) 『上海事変』1932年 『第二次五ヵ年計画』1932年~ 1932年 九二式(智式)軽機関銃(ブレンガン(ラ国)) 1933年 九三式(ブ式)重機関銃(M2機関銃(ラ国)) 『プレス加工の発展』1933年~ 1934年 簡易短機関銃(ステン Mk.II(販売用)) 1935年 九五式拳銃(ブローニングハイパワー) 『スペイン内戦』1936年~ 1936年 試製九六式狙撃銃(昭五式小銃の狙撃銃化) 1937年 九七式狙撃銃(九九式狙撃銃(.303弾)) 1938年 九八式強化狙撃銃(PTRS1941(12.7mm)) 1939年 九九式火炎放射機(携帯放射器(自衛隊)) 1939年 九九式発煙弾(M18発煙弾) 『冬戦争』1939年~ 1940年 一〇〇式短機関銃(UZIシリーズ) 1940年 サカバ M70(Winchester M70(ラ国)) 1941年 一式手榴弾(RGD-5) 1942年 二式突撃銃(AKM) 1942年 二式銃剣(89式多用途銃剣) 『日米戦争』1942年~1943年 1943年 三式軽機関銃(RPK軽機関銃) 1944年 四式小銃擲弾(M60 rifle grenade) 『東南海地震』1944年 1945年 五式狙撃銃(FPK(PSL)) 1945年 SKB MAC10(MAC11 (販売用)) 『河北事変』1945年 1946年 六式汎用機関銃(PKM機関銃) 1947年 ミロクM870(レミントンM870) 1948年 SKB M1(スタームルガーMk.II) 1949年 ナンブM36(S W M36 (販売用)) 1950年 一〇式40mm擲弾(40mm×46) 1950年 一〇式擲弾銃(M79(一部採用)) 『ソビエト連邦の分裂』1951年 1951年 ミロクM700(レミントンM700) 1951年 トーホー ウェザビー MkV 1952年 ナンブM19(S W M19(警察用)) 1952年 ニッコー コルトM1911A2(カスタム品) 『モーリシャス事変』1952年 1953年 ミロクM1100(レミントンM1100) 1954年 ナンブM29(S W M29(販売用)) 1954年 SKB Blackhawk(Ruger Blackhawk) 1955年 ニッコー コルト パイソン 73: 小火器年表作者 :2021/11/19(金) 21 00 16 HOST KD111239158227.au-net.ne.jp 『壊滅したニューヨークの復旧』1955年 1956年 一六式実包(7.62x51mm NATO弾) 1956年 一六式汎用機関銃(UKM-2000) 1957年 トーホーM1500(豊和M1500) 1958年 一八式狙撃銃(FPK(PSL) (.308弾)) 1958年 SKB 10/22(Ruger10/22(販売用)) 1959年 一九式散弾銃(モスバーグM590A1) 1959年 ニッコー ウィンチェスター M101 1960年 二〇式重機関銃(M134D ミニガン) 1960年 SKB No.1 (Ruger No.1シリーズ) 『樹脂成型技術の発展(ガンプラ流行)』1960年~ 1961年 SKB TEC-9(販売用) 1961年 二一式特殊散弾銃(TP-82) 1962年 二二式拳銃(SIG SAUER P228) 1962年 ナンブM62(CZ75 (販売用)) 1963年 二三式40mm強化擲弾(40mm×53) 1963年 二三式自動擲弾銃(Mk19 自動擲弾銃) 1963年 SKB M63(Ruger M77 Mark II) 1964年 二四式突撃銃(RK 95 TP) 1964年 二四式試作突撃銃(ピンダッドSS2) 1964年 二四式小銃擲弾(06式小銃てき弾) 1965年 二五式多用途手榴弾(DM51) 1965年 ニッコー ウィンチェスター M23 1965年 SKB M1930(昭五式のミニ14版) 1966年 二六式短機関銃(PP-19-01 Vityaz) 1967年 トーホーP232(SIGSAUER P232) 1967年 二七式閃光手榴弾(M84) 1968年 二八式強化狙撃銃(バレットm107) 1969年 二九式狙撃銃(M24A2) 『ダットサイトの普及』1970年~ 1970年 拡張レール(AKマウントベース) 1971年 三二式擲弾銃(ダネル M32) 1972年 SKB Redhawk(Ruger Redhawk) 1973年 ナンブM686(S W M686) 1974年 タイホーM74(Glock19 (販売兼一部採用)) 1975年 ニッコー デザートイーグル 1975年 タイホー M75(ベネリM3 (販売用)) 1976年 ナンブM360(S W M360) 1977年 三七式軽機関銃(IMI ネゲヴ) 1978年 タイホーM78(B T MP9(販売用)) 1979年 ナンブM340PD(S W M340PD) 『ハードボディーアーマーの普及』1980年~ 1980年 四〇式散弾銃(Vepr-12) 1980年 タイホー M80(ベネリM4(販売用)) 1981年 ニッコー ベビーイーグル 1982年 ナンブM82(S W M P) 1983年 四三式特殊小銃擲弾(M100 GREM) 1984年 四四式突撃銃(HK416F (一部採用)) 1985年 四五式機関銃(IMI ネゲヴ(.308弾)) 1986年 ナンブM500(S W M500 (販売用)) 1987年 四七式重機関銃(GAU-19 / B) 1988年 四八式強化狙撃銃(TAC-50 A1-R2) 1989年 トーホーロック(M-LOK) 1989年 四九式突撃銃(CXP-ARK風AK-19) 『カスタムパーツやホロサイトの発展』1990年 1990年 五〇式擲弾銃(GLX160 A1) 1991年 五一式散弾銃(M26 MASS) 1992年 五二式自動擲弾銃(Mk 47 Striker) 1993年 SKB SR9(Ruger SR9) 1994年 SKB LCP(Ruger LCP) 1995年 トーホーP380(Kahr P380) 1996年 SKB LCR(Ruger LCR) 1997年 タイホーM97(B T APC) 1998年 五八式狙撃銃(SIG716 G2) 1999年 タイホーM99(Kel-Tec KSG) 2000年 六〇式強化狙撃銃(GM6 Lynx ) 2001年 六一式短機関銃(SIG MPX) 2002年 六二式拳銃(H K SFP9 M) 2003年 六三式実包(.338 ノルママグナム弾) 2003年 六三式狙撃銃(Barrett MRAD) 2004年 SKB PRECISION RIFLE(Ruger PR) 2005年 六五式突撃銃(20式小銃+HK433) おおよそ史実の設計年順に並べていますが、 先取りする理由があって、素材の加工方法的に、 早期開発が可能と判断した銃に関しては、 かなり早めの登場となっております。 提督たちの憂鬱での登場兵器を元に、 この小火器年表を制作しましたが、 オリジナルの設定や小火器も入っており、 この年表が憂鬱本編での小火器開発を、 確定させるものではありません。 また、日本がこれまで開発した全ての銃器が、 この年表内にあるわけではない事をご留意ください。 提督たちの憂鬱以外の作品での、 コピペや設定の転用はご遠慮ください。
https://w.atwiki.jp/gochamazewar/pages/33.html
【名前】アガーテ・マックス・ゴロプ 【年齢】15才 【性別】女 【外見】 連邦の構成国家、クロイツ帝国の黒い軍服を見に纏った少女。背は160cmを超えない程度で、程よく育った身体つきをしている。 青い瞳に金の髪、そのどちらも元々は綺麗な色をしていたのだが、髪は手入れが行き届かずくすみ、瞳は光を通さず酷く澱んでいる。 【能力・技能】 『強化兵士製造計画・廃棄番号一六五五』 人間としてのリミッターを自分の意思でカット出来る。 痛覚や自身の身体の限界を一切考慮せずに行動が出来るため、通常の人間を遥かに超えた反射や運動能力、筋力等を発揮することが出来る。 身体に何発の弾丸を受けようが、身体が維持の為の限界を設けることが無いために、死亡するまでは常に限界値を以て戦闘を続行することが出来る。 思考は常に『クリア』になるように訓練されており、如何なる状況であろうとも的確に相手の急所を狙い、撃つ、刺す、という行動を取ることも可能となっている。 ただし、その反動は極めて大きく、一度戦闘態勢を解除すれば痛覚等のリミッターが強制的に再起動するため、戦闘中に受けた痛みが一気に帰ってくる。 まともに立っていることすら叶わない程の痛みになるため、戦場においては最早役に立たない木偶に成り下がる。 【所持品】 『短銃身化半自動小銃』 銃身を切り詰めた半自動小銃。非常に短く加工されてあり、ストックから銃身まで合わせて40cmにも届かないほどで、これを拳銃のように両手で二丁扱う。 小銃弾を使用しているため拳銃のそれよりも威力は大きいが、遥かに反動も大きく、精度、射程も低くなるが、これを無理矢理御することによって使用可能にしている。 装填数は10発+1発で、箱型の弾倉を常に幾つか持ち歩いている。 普段は専用のホルスターを用いて両腰に提げている。 その他、兵士として一般的な手榴弾、銃剣等の装備を携行している。 【背景・その他】 連邦を構成する国家の内の一つで産まれた兵士。 産まれてすぐに両親に軍へと多額の報奨金と共に預けられ、次世代の『強化兵士』を生み出すための実験材料の内の一つとして扱われる事になる。 その計画の内の一つとして、『脳の外的操作による異能への覚醒』という項目が存在し、その被験体になったものの、満足の行く結果を得られることはなかった。 結果として異能と呼べるものは手に入れられず、得られたものはただの自主的なリミッターカット機能。 わざわざコストをかけてそんなことをするのならば薬を用いた方が早いとして、失敗作扱い・廃棄処分となり両親の下へと送還されることとなる。 ただし、貧乏な両親がまともに育てられる余裕も無く、すぐに兵士となるべく軍隊に送られる事になる。 その特性から普通の人間なら気絶するような訓練もこなす事が可能で、異様なまでの意欲も合わせて徹底的に鍛錬を続けていた。 その様を、現在の上官『ヒットレル』に見出され、前線兵としての役目を兼ねつつ、『スパイ』の処分や『警備任務』を行ってもいる。
https://w.atwiki.jp/apgirlsss/pages/426.html
せつな~迷宮の中から~/一六◆6/pMjwqUTk ―――何てことをしてくれたのだろう。 それが、驚愕の後にやってきた、偽らざる感情だった。 キュアピーチとの・・・ラブとの、全力と全力での果たし合い。 初めて明かした、自分でも気付いていなかった想い。 思いがけず見つけた幸せの素に、手が届かなかったのは残念だった。 でも、私は満足していたのだ。 私に許された、たったひとつの生き方。 その最後の最後で、本当に大切な人と、心を通わせた。 偽りで築いてきた友情を、自らの手で壊し 互いの本当の気持ちを、全力でぶつけ合って。 それは私にとって 生涯にただ一度の 自分のためだけの 戦いになるはずだったのだ。 突然与えられた、新しい命。 その代償は・・・私が、プリキュアであること? 一体 誰が信じられるというのだろう。 ラビリンスのイースが、4人目のプリキュアだったなんて。 そんなこと、許されるわけがないのに。 私にそんな資格が、あるはずもないのに。 戸惑う私に、本国へ戻ろうと言うウエスター。 しかし、ラビリンスに戻る気には どうしてもなれなかった。 ラブと出会って、私は気付いてしまったのだ。 偽りだと思っていたものが、確かに存在するということに。 弱者の言い訳と見下していたものの、本当の強さに。 そしてだからこそ、それを下らないと切り捨てることが、 自分にはもう、出来ないのだということにも。 でも、だからと言って・・・。 ―――あのまま死なせてくれていたら、どんなにか楽だったろうに。 いつの間にか、プリキュアの姿ではなくなっていることに気付く。 さっきの雨で出来た水溜りを、そっと覗きこんだ。 思わず息を飲む。 驚いた眼差しで 水面からこちらを見返しているのは、イースではない。 東せつな―――この世界に潜り込むための、私の仮の姿。 そして、ラブがあの笑顔で、親友と呼んでくれた姿。 揺らめくその顔を見ながら、心に想いが湧きあがる。 偽りだと思っていたものは、確かにあった。 弱者の言い訳と思っていたものは、真の強さだった。 それなら。 仮の姿だと思っていたものも、いつか真の姿になれるのだろうか。 風を感じる。 夏の風が柔らかく、黒髪をそよがせる。 そのかすかな力に押されるように、丘の上から立ちあがった。 無数に広がるクローバーの群れから目をそらし、そして、歩き出す。 夕陽を浴びた雲が、金色に輝くのが見える。 昼間とは違った涼やかな空気が、胸に行きわたる。 何かに急かされるように鳴く、蝉の声。 足元から立ち上る、草の匂い。 私は―――生きている。 一歩一歩、大地を踏みしめるように歩く。 一瞬先のことすらわからないなんて、初めてだ。 それも、この姿にはお似合いかもしれない。 私にはもう、帰るところは無い。 でも、帰るところが無くとも、前へ進むことはできる。 私がプリキュアになんて、なれるわけない。 それでも今、この姿とこの命は、紛れもなく私のものだ。 ならば―――とにかく歩き続けてみよう。この先へと。 クローバータウン・ストリート。 いつの間にか、足が向いていた。 今日、クローバーの丘で誘われた場所。 そして、ラブとのつかの間の、思い出の場所。 何かに導かれるように歩いてきた私は そこで茫然として、立ち止まった。 3つの背中が、ゆっくりと、こちらを振り向いた。 ~終~
https://w.atwiki.jp/junretsuwago/pages/1278.html
広辞苑 辞書 品詞 解説 例文 漢字 日本国語大辞典 自動詞 (「打たれる」意から)① 力、技、態度などで圧倒される。(イ) (すもうなどで)負ける。 ※順集(983頃)「言の葉はこはく見ゆれどすまひ草露にはうつる物にざりける」※古今著聞集(1254)一六「『いざさらば、いま一度とらむ』とて、又よりあひて取るに、此のたびは壇光うてにけり」 打 (ロ) (花が霜などで)しおれる。まける。 ※賀茂女集(993‐998頃)「くれなゐの世になからめや菊の花霜にもうてぬ色ぞかなしき」 (ハ) 気おくれする。臆する。また、けおされる。 ※源平盛衰記(14C前)三四「ゆゆしく見えつる磨墨(するすみ)も、勝(まさ)る生唼(いけづき)に逢ふたれば、無下(むげ)にうててぞ見えたりける」※ささめごと(1463‐64頃)上「大内裏大極殿の高座にて、ひとりなしても、うてぬやうにといふ。たくましく強力にといふなるべし」 ② おしつぶされる。 ※太平記(14C後)一三「軍兵共五百余人、一人も残らず、圧(おし)にうてて死にけり」 ③ 神仏に罰せられる。ばちがあたる。 ※宇治拾遺(1221頃)二「あはれ、世にもあひ、年なども若くて、みめもよき人にこそあんめれ、式にうてけるにか、此鳥は式神にこそありけれ」 ④ 承服できる。合点がいく。多く打消の形で用いる。 ※浄瑠璃・聖徳太子絵伝記(1717)二「嶋主一円うてぬ顔」 ⑤ 魚などが腐る。 〔譬喩尽(1786)〕 ⑥ 評判される。うたわれる。 ※浄瑠璃・倭仮名在原系図(1752)四「壬生(みぶ)村で名うてにうてた器量よし」 大言海 自動詞 〔擊つノ受身ノ擊たるノ、 約 (ツヅマ)リテ、一ノ自動詞トナレルモノ、(口語ハ、うてる) 措 (オ)かるノ、 後 (オク)るトナルト、趣ヲ同ジウスル語ナリ〕(一){ 氣壓 (ケオ)サル。弱 (ヨワ)ル。壓シ倒サル。負クル。所壓倒 所壓 源順集「 言葉 (コトノハ)ハ、 强 (コハ)ク見ユレド、 相撲草 (スマヒグサ)、露ニハうつる、モノニザリケル」金葉集、十、連歌「取ル手ニハ、ハカナクうつる、花ナレド、引クニハ 强 (コハ)キ、相撲草カナ」六帖、一「 深 (フ)ケシ夜ノ、行合ヒノ霜ニ、うてシカド、ナド身ニ寒ク、アタラザリケム」盛𮕩記、三十四、東國兵馬汰事「磨墨ニモ 勝 (マサ)ル 生唼 (イケズキ)ニ逢ヒタレバ、 無下 (ムゲ)ニうてテゾ見エタリケル」(磨墨、生唼、共ニ名馬ノ名)著聞集、十六、興言利口、壇光坊、相撲「今一度取ラムトテ、又寄合ヒテ取ルニ、此ノタビハ壇光うてニケリ」太平記、十三、時行滅亡事「大佛殿ノ棟梁、微塵ニ折レテ、云云、五百餘人、一人モ殘ラズ、壓ニうてテ死ニケリ 」 (二)神ニ罰セラル。 平家物語、十二、土佐坊事「イカニ土佐坊、起請ニハ早クモうてタルゾカシ」(起請文ニ背キテ捕ヘラレタルナリ)宇治拾遺、二、第八條、鳥ニ 糞 (ヱド)ヲシカケラレ「此ノ鳥ハ、 式神 (シキガミ)ニコソアリケレ、云云、オノレ只今、式ニうてテ、死ニ侍リヌ」 動詞活用表 未然形 うて ず、らゆ、らる、む、じ、さす、しむ、まほし 連用形 うて たり、き、つ、ぬ、つつ、たし、ても 終止形 うつ べし、らし、らむ、ましじ、まじ 連体形 うつる も、かも、こと、とき 已然形 うつれ ども 命令形 うてよ 広辞苑は同じ見出し語の扱い。「うつ(打・撃)」を参照。 検索用附箋:自動詞下二段 附箋:下二段 自動詞
https://w.atwiki.jp/puppet-guardian/pages/100.html
眠りの書やキュアライトワンドなど、水属性の魔法を使いたい場合は、サファイアの魔力を借りることになる。 入手方法(サファイア) 鳥の楽園の19~21マス目で稀に採取 女王の砂漠・現の39~40マス目で稀に採取 ハルマの入江に出現するクトゥルフから稀に入手 試練の洞窟第一六階層に出現するコーロモドモから稀に入手 トールから入手(ドロップ条件あり) サファイアのかけらx5で合成 入手方法(サファイアのかけら) ハルマの入江で稀に採取 宮殿前の噴水から稀に採取 その他、イベント限定ステージやモンスターからも採取できることがある。 サファイアを使用する主な合成アイテム ※公式アイテム図鑑も参照のこと。 完成品 主材料 副材料 魔力数 称号 備考 サファイアの指輪 金塊×1 サファイア×1 1 - 眠り耐性25% 水の指輪 サファイアの指輪×3 - 3 青の~ 眠り耐性50% 紺碧の指輪 水の指輪×3 - 9 紺碧の~ 眠り耐性100% サファイアの首飾り サファイア×1 金塊×2 1 - 水耐性25% 水の紋章 サファイアの首飾り×3 - 3 水の~ 水耐性50% 深海の紋章 水の紋章×3 - 9 深海の~ 水耐性100% サファイアの腕輪 金の腕輪×1 サファイア×1 1 青い~鯨 水属性付与40% 青眼のガントレット サファイアの腕輪×1 黄金の鉤爪×3金の腕輪×5 1 青眼の~ 水属性付与40% 水眼のガントレット 青眼のガントレット×3 巨大昆虫の眼×3 3 水眼の~ 水属性付与60% 水のアームレット メビウスアームレット×1 サファイア×1 1 ~水使い 水属性増幅40% 深海の◯眼アームレット 水のアームレット×3 水以外のアームレット×1 サファ3副材料の魔力1 水の~化身 水属性増幅70%副材料の属性増幅30% サファイアの杖 木の杖×1 サファイア×1 1 - - スリープロッド サファイアの杖×1 魔法の水種×50 1 ~魔法使い 水属性50%眠り10% キュアライトワンド サファイアの杖×1 水のたてがみ×50 1 ~魔法使い 水属性50%使う(自分または最も近くの味方を20回復) オアシススタッフ スリープロッド×1 キュアライトワンド×1 2 ~魔道師 水属性50%眠り10%使う(自分または最も近くの味方を20回復) 黄金の煙管 魔法の絹糸×50 サファイア×2金塊×50ライカンスロープの爪×50 2 煙管の~魔女 水属性50%材質 金使う(「とどろけ濃霧」と同様の魔法) 眠りの書 眠りの巻物×10 サファイア×1 1 眠りの~ 水属性50%使う(眠りの巻物と同様の魔法) 癒しの書 癒しの巻物×10 サファイア×1 1 癒しの~ 水属性50%使う(癒しの巻物と同様の魔法) 濃霧の書 濃霧の巻物×10 サファイア×2 2 濃霧の~ 水属性50%使う(「とどろけ濃霧」と同様の魔法) イピリアの書 イピリアの巻物×10 サファイア×3 3 雨の~精霊使い 水属性50%使う(イピリアが現れ周囲に4*複数の水属性ダメージ) 狼神の呪書 狼神の書×3 サファイア×2エメラルド×1 サファ8エメ4 ~狼使い 水属性75%自然属性25%使う(777の水・自然属性ダメージ+毒・眠り)消費魔力はサファ6エメ3 溺神のバレットスナッパー バレットスナッパー×1 サファイア×3 3 水属性100%クリティカル3%(水)特殊攻撃で魔力を1消費して弾丸を発射 水のフェアリーウイング フェアリーウイング×1 サファイア×1 1 ~妖精 水耐性5%上着枠 アクアフェンリス フェンリルアーマー×1 サファイア×15黒曜石×99災呼の大角×10 15 災呼の~浪狼 水耐性50%シャツ枠 ※「黄金の煙管」「濃霧の書」の魔法は、「濃霧の巻物」よりヒット数が少ないため注意 宝石を使ったマジックアイテムについてはマジックアイテムも参照のこと 宝石: ダイアモンド | ゾイサイト | ルビー | サファイア | トルマリン | エメラルド
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2100.html
植民地支配と日本語 第一章 台湾における日本語普及政策 2 台湾の日本語教育の歴史的展開 台湾での日本の植民地政策はまず同化政策として現れる、とよく指摘されている。総督府の言語政策もそのなかに位置しており、植民地政策の重要な一環であった。ここで、まず学校教育を中心にその日本語普及政策の時代区分を概観しておこう。 第一段階は、一八九五年から一八九八年七月勅令一七八号の台湾公学校令発布までの期間である。このあいだに、芝山岩学堂と国語伝習所をはじめ、台北県立日本語学校、基隆学校・宜蘭国語会などの県、庁立の日本語学校が設立された。そのいずれも応急的な要素をもち、「施政上の便を謀る」ための性質が目立つ。 第二の段階は、台湾公学校令発布から一九一九年(大正八年)一月の台湾教育令公布までである。公学校令によれば、公学校は台湾人の子弟に「徳教ヲ施シ実学ヲ授ケ、以テ国民的性格ヲ養成シ同時ニ国語ニ精通セシムルヲ以テ本旨」としている。この期間に、公学校令の改正をはじめ、たえず教育制度が修正され、学年の変更、修業年限および授業科目の変動などもつねであった。 一八九八年三月から九年問台湾総督府民政局長の任にあった後藤新平は、「教育方針は未だ考究中」と断ったうえで、当面の大事は、「乃ち国語の普及なり。目下は唯此の目的を達するを第一とす。此の 32 第一主眼にして達せらるヽ日は、教育の方針も亦考究を経て確立の秋来るべし」と述べ、むしろ日本語の普及を教育方針確立の前提条件としている。しかし教育方針が揺れていたため、日本語普及政策の実行に、制度としての保証を提供するまでには至らなかった。学校教育では、日本語の授業が重要視される一方、大正中期までは漢文の授業が依然一定の比重を占めていた。学校教育用語の面では、大正二年総督府が教科書を改正した機会に、日本語教育において母語の使用を禁止したにもかかわらず、大正八年の教育令までは徹底されなかった。 第三の段階は、一九一九年(大正八年)一月の台湾教育令公布から一九四五年までである。そのあいだにいくらかの調整もみられ、さらに細かく分析することも可能であるが、日本語普及政策の確立と強化および基本的な立法措置の整備などの面から、大きく一つの時代として考えられる。台湾教育令は、それまでの公学校令と違い、「国語に精通せしむる」の代わりに、「国民たるの性格を涵養し国語を普及する」ことを普通教育の目的として強調する。これは、もっと広い範囲での日本語普及を意味していると考えられる。 一九二二年二月、新台湾教育令が公布されてから、いわゆる内台共学時代に入る。新台湾教育令は「内地人」と「本島人」の区別の代わりに、「国語を常用する者」と「国語を常用しない者」という分け方で、はじめて台湾人の学生が日本人学生と同じ学校で勉強することを認めた。事実上、もちろんそれはほんの一握りの特権的階層の子弟にかぎられていた。政策主体としての台湾総督府が、国語の概念をもって立法措置に臨んだことはかつてなかった。「国語」の常用か否かという基準を打ちだしたことから、その言語政策の一端がうかがわれる。その意味で、注目すべきことである。さらに、一九四一年(昭和一六年)四月には台湾公立国民学校規則が発布され、日本語教育が一段と強化された。 学校教育から日本語普及の実態をみると、日本語教育を受けた児童の比率は、一八九九年(明治三 33 二年)の時点では二%だったが、一九一八年(大正七年)は一六%弱、一九三五年(昭和一〇年)は四一・五%、一九四四年(昭和一九年)は七一%にのぼった。 学校教育を通して日本語の普及をはかろうとすると同時に、「社会・家庭の国語化」の政策もとられた。一九一〇年代からおかれた国語普及会、国語夜学会、国語練習会などがそれである。これらは、地方官庁所管の組織・施設として、一九二〇年頃から、常時日本語の普及に利用されるようになった。一九一四年(大正三年)には台湾総督を総裁とする台湾教育会が、「国語演習会」を創設し、年に一回のぺ-スで全島の日本語コンクールにあたる演習会を催した。これは、やがて日本語普及のための大がかりな行事となり、日本の敗戦まで計三一回行われた。 一九二八年(昭和三年)、官庁に社会教育係が設けられるようになり、一九二九年台中に国語講習所が設立された。一九三一年、総督府は府令の形で、公立の特殊教育施設に対して国庫補助を行うように決めた。それ以後、各州、庁に国語講習所が設けられ、これに呼応して総督府社会課は「公学校に入学し得ない児童は勿論、七〇歳以下の成年は男女を問わず悉く国語講習所に入所せしめて国語を学習させ、なお国語講習所も各部落に設置せしむるを理想とし、将来はこの理想に向って奨励をなす計画」を打ちたてた。一九四一年(昭和一六年)の『台湾事情』は、一年に一〇〇日以上、一年ないし四年のあいだ日本語教育を施す国語講習所および簡易国語講習所が一万五〇〇〇カ所をこえて、生徒数は七六万人以上であると報告している。「生徒のなかには乳呑児をかかへた主婦もあって、夜間電灯の下で乳房を含ませながら講習を受けてゐるのなど実に涙ぐましいものがある」と、ある日本人は記録している(加藤春城「台湾の国語教育」一九四二)。 一九三七年には「国語常用家庭」制度が設けられ、家族全員が日本語を常用し、そのうえに、「皇民的生活」すなわち神宮大麻の奉齊、服装住居および生活習慣などの日本化も要求された。一九三八年から「国語を中心とする生活の指導と、皇民生活を営ましめんとする家庭の幼児に対する基礎的錬成」という自的を掲げた「幼児国語講習所」まで開かれ、一九四二年(昭和一七年)には一七九七ヵ所にも達し、園児は七万人をこえた。 台湾総督府は、このようにその統治政策のもっとも基本的な条件として、手段をつくして日本語の普及をはかろうとした。一九三二年から四年問台湾総督の任にあった中川健蔵は、総督府の植民地行政と言語問題に対する認識を次のように述懐している。 わたしは最近台湾に在任しましたが、いわゆる国語が十分に理解されて初めて、国民性を会得するのであるとゆうことは、植民地に行くと実によく分かります。日本精神の涵養が植民地統治の上には、最も必要であって、歴史の話もし、色々学校で教育をするが、実は言葉の意味が十分に理解されて初めて、国家精神の涵養ができるのであります。(中略)国語の普及とゆうことが新領土の国民性を形作る上に一番必要であります。植民地の統治には、同化主義がよいとか、悪いとか、或いはその土地の風俗に従って行くべきものであるとか、言われていますが、もし植民地を日本の本当の領土たらしめんとするには、どうしても其処の住民が日本精神を持たなければならん、それにはどうしても国語が必要である、それで国語普及とゆうことは、植民地行政上に非常に重要性がある。(「国語運動」第一巻二号、一九三七) 年度別 国語教習所 簡易国語教習所 合計 所数 生徒数 所数 生徒数 所数 生徒数 昭和6年 68 561 805 31201 873 31762 7年 185 4835 702 27675 887 32510 10年 1629 63023 754 31370 2383 94393 13年 3454 214865 3852 257277 7306 472142 15年 11206 547469 4627 215794 15833 764263 『台湾事情」(昭和16年版・台湾総督府刊)による 35 日本語の普及が新領土の「国民性を形作る」ため、「日本精神」をもたせるために、いちばん必要なこととされ、植民地統治上、不可欠なことと考えられ、推しすすめられてきたのである。一九四二年の時点では、日本語教育を受けた人数はすでに三二〇万人をこえ、当時の台湾総人口の五七%を占めた。 他方少数民族に対する日本語普及対策も重要視された。樺山総督は就任早々、「本島ヲ拓殖セントセバ、必ズ先ヅ生蕃ヲ訓服セシメザルベカラズ」と訓示をだした。伊沢もはじめから「生蕃教育」に関心をもち、一八九六年九月に「生蕃教育について学務部長通知」をだしており、のちにも数回言及している。台湾の原住民族は高山族というが、じつは広域に分布する言語と文化の違う九つの部族(アタイヤル、サイセット、ブヌン、ツオゥ、ルカイ、パイワン、アミ、ピュマ、ヤミ)を総称したいい方である。明末から「蕃人」、「土蕃」と呼ばれてきた。日本植民地時代には「蕃族」、「蕃人」と呼ばれていたが、民族矛盾を緩和するため、一九三五年からは「高砂族※」と公的に改称した。高山族に対する日本語普及政策は、資源開発と治安整備に結びつけて考えられており、一九二七年までには、すでに全人口の三分の一に対してある程度の日本語教育を施した(「台湾原住民の向化」台湾総督府警務局理蕃課編)。 =========================== ※ 高砂という呼称の由来には、日本人がはじめて台湾にきたとき、その美しい景色が播州の高砂の海辺に似ているとみて、台湾のことを高砂と称したという説のほかに、倭冠が台湾の「打狗山(タアカオスア〕」の発音をなまってタカサゴ・タカサグンと呼んだという説がある。ちなみに、「高雄」という地名も同じように、「打狗山」の発音から日本人が漢字にあてたものであった。漢文の構文論と造語法からみても、高も雄も修飾語的言葉で、中心詞としての名詞がなくて、この二字だけでは地名になれないのである。 =========================== 少数民族への日本語普及の担当機関は一般とは違っていた。一八九六年(明治二九年)四月、軍政から民政に切りかえた総督府は、蕃地を民政局殖産部の管轄下においた。九月、恒春国語伝習所チロソ分教場が設けられ、いわゆる「蕃人」への日本語教育がはじまった。同年に一〇ヵ所の蕪墾署が設置され、翌年四月の撫墾署長会議で、「各蕃社より児童の怜悧なる者を一所に集め、日常の生活に須要なる事項及五〇音並びに簡易なる数字の類を教授せんことを希望す」と打ちだした。一八九八年六月に撫墾署が廃止され、その事務は弁務署第三課に移された。二三の弁務署では、派出所を設けて蕃童教育を実施したが、正式な教育機関を設けるまでには至らなかった。 36 一九〇一年一一月に弁務署が廃止され、新設置の警察本署に蕃務課(のち理蕃課)が設けられた。警察本署は各要地に警察官吏派出所を設置し、所員が執務のかたわら蕃童を集めて教育するという方策を講じた。蕃童教育所と称する教育機関が警察官の手によって、はじめて作られたのである。警察と教育、あるいは警察と言語との結びつきは、植民地での言語政策の本質的な一面を物語っている。一九〇五年二月、蕃人子弟就学に関する公学校規程が勅令により公布され、国語伝習所の代わりに、一五ヵ所の公学校が設立された。「國語を教え」、「國風に化せしむる」ことが、その規程によって公学校の目的として決められている。その際、当時のいわゆる歴史仮名遣いではなく、表音的仮名遣いがつかわれていたことに注目すべきだろう。のちに民政長官の名義で、蕃童教育標準、蕃童教育綱要、蕃童教育費額標準などが制定され、蕃地関係の各庁長に通告され、一九二八年まで実施された。それ以後、蕃童教育所が設置されるようになった。一九三六年七月、総務長官から「高砂族国語講習所規程準則」が通達され、警察官吏駐在所または派出所に、成人向けの国語講習所を設置させた。授業はたいてい夜間に行われ、教師もほとんどは警察官だった。一九四三年末には、二七二ヵ所の国語講習所が設置され、講習を受けた人数は二万人をこえた。 植民統治に対する少数民族の反抗が頻発したこともあるが、樺山時代から「生蕃対策」には非常に神経がつかわれてきた。そして、日本語教育もその有効な手段として考えられ、台湾総督府警務局の『高砂族の教育』(一九四三年版)によれば、山地高砂族の教育費はすべて国費で、教育所においては授業料を徴収せず、教科書なども給与制であった。これにより、日本語の普及は他の地方より、むしろ少数民族の方がすすむことになり、「皇民化」教育もより徹底された。のちに組織された高砂義勇隊の肉搏斬込隊や敵陣夜襲隊が、侵略戦争の第一線にだされたことなどは有名な話である。それに対して、たとえば海南島に派遣された、文化水準が高いとされている漢族系の台湾人志願兵は、「陣前起義」し、国民政府に寝返ってしまった 37 という例がある。 次へ