約 1,574,257 件
https://w.atwiki.jp/trpgken/pages/1765.html
このページは神我狩キャンペーン「千年の黄昏」 第四話のページです。 今回予告 2015年12月1日。 もう間もなく2015年が終わろうとしている。 バシレイオスⅡ世が千年皇帝としての役目を終えようとしている今、 英知の使徒は大きな賭けに出ようとしていた… 現代伝奇RPG 神我狩 千年の黄昏:第四話「Eclipse」 全ての選択や思惑すらも、ローマへと通じるのか。 PC表ハンドアウト(第四話ハンドアウト) PC1 ファルナが突然「ローマに行きたい。というか行かなくちゃいけない。行かせてくれないなら、ここを出ていく。」と訴えてきた。ファルナの考えは一旦置いておくとして、ローマへ行くならば空路しかない。しかし、ローマへと通じるルート全てが聖堂騎士団によって遮断されているようだ。聖堂騎士団はファルナを日本から出させないつもりなのか。またヴェルデに色々と聞いてみることになりそうだ。現状、彼女が聖堂騎士団との唯一の接点なのだから。 PC2 先日のBRINGERシリーズの件からして、どう考えてもコーデリアの行動はおかしい。聖堂騎士団が優勢の局面であるから、B.E.G.が戦闘を長引かせようと英知の使徒に肩入れしているのはわかる。だが彼女は、そこまでして会社の利益にこだわるような人物ではなかったはずだ。とはいえミレニアムに絶縁を突きつけた以上、彼女はミレニアムに そして親友である自分にすらも刃を向ける可能性がある。そして、あのメールの差出人は誰なのだろうか。 PC3 ファルナは最近ローマに行きたがっているようだ。しかし、ローマへ行く手段が見つからない。このまま時間が過ぎるとファルナはミレニアムを飛び出してでもローマへ向かおうとするのではないか? それだけは避けなければならない。また、最近入ってきた情報によると、グレッグは現在ローマにいるようだ。何の目的もなしにグレッグがローマに行くとは思えない。グレッグとの決着を付けるためにもローマへと向かわなければならない。 PC4 宮原の体内から取り出した魔石エクリプス。彼女は石の力で確かに太陽と月の魔法を使用した。だが、本当に魔石の力はこれだけなのだろうか? この魔石は誰の手にあるのが相応しいのだろうか? 答えを知っているであろうレオニー・ホーエンハイムは未だ行方不明である。一方、宮原は順調に回復しているようだ。時々、以前の記憶がフラッシュバックすることもあるようだ。もう少し回復すれば、魔法少女ホーリークロスが抱いていた思惑も判明するかもしれない。 第四話の感想、質問用のコメントフォーム 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/minnasaba/pages/1872.html
【元ネタ】史実 【CLASS】ランサー 【マスター】 【真名】ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス 【性別】男性 【身長・体重】192cm・98kg 【属性】秩序・善 【ステータス】筋力B+ 耐久A 敏捷A 魔力D 幸運C 宝具A+ 【クラス別スキル】 対魔力:C 第二節以下の詠唱による魔術を無効化する。 大魔術、儀礼呪法など大掛かりな魔術は防げない。 【固有スキル】 皇帝特権:B 本来有していないスキルを短期間獲得できる。 騎乗、剣術、カリスマと多岐にわたるスキルを習得できる。 ローマの危機を救った皇帝だが在位期間が短く、また低い身分の生まれであった為かこのランクに留まる。 戦線破棄:B ダキアの領土をゴート族に割譲し、ローマ帝国の防衛線を安定させたという逸話に由来。 ランサーが確保した領地を一部、捨てる事により、ランサーのステータスを1ランク上昇させる。 アウレリアヌスの攻囲:A ナイススの戦いやパルミラ帝国との戦いでのランサーの手腕を示す、軍略の亜種スキル。 兵站線となる地脈を確保することで、敵軍を包囲殲滅する。 【宝具】 『紮げよ黄金の帝国、不敗の太陽(レスティトゥトル・オルビス)』 ランク:A+ 種別:対軍宝具 レンジ:1~50 最大捕捉:500人 「世界の修復者」と称された偉業が太陽神ソル・インヴィクトゥスの加護と合わさり昇華された宝具。 分裂したローマを繋ぎ止め、修繕を施す国造りの大権能を、不敗なる太陽神が齎す陽光によって再現する。 単純な熱量兵器としても凄まじい出力を誇るが、「世界の修復者」の名が示す通り有機物・無機物を問わぬ癒しの概念をも内包し矛盾なく両立させる。 また、神祖のそれには及ばぬものの、ランサーが取り戻したローマを具現化した軍隊、各種兵装、アウレリアヌス城壁に代表される建築物などを展開可能。 潤沢な魔力に恵まれれば、その進軍は破壊と再生を司る新たな神に等しい様相を成すだろう。 『僭帝よ、真なる皇威に傅くべし(カプティウス・アウグスタ)』 ランク:B+ 種別:対心宝具 レンジ:1~30 最大捕捉:1人 パルミラ帝国の戦士女王ゼノビアに恥辱の限りを味あわせた黄金の鎖と枷と宝飾群。 鎖に触れた対象の身体に枷と宝飾群が具現化され、全ステータスが低下し更に確率で一時的に武装解除と恐怖状態を付与する。 対象が高貴な者であるほど効果量及び成功確率は増大し、武装解除され裸同然となった姿と宝飾による輝きのコントラストは精神に甚大な打撃を与える。 一国の王であれば真の豪傑、女傑でもない限りその尊厳は徹底的に破壊され二度と立ち上がれなくなるだろう。 が、敗者への措置という逸話から成立した宝具であるため、戦闘の趨勢がランサーの決定的な優勢に傾いた時のみ発動が可能。 事実上、予期せぬ抵抗を潰すための駄目押し・保険としての趣が強い宝具である。 【Weapon】 『ピルム』 古代ローマ軍団の兵士が使用したとされる投槍。 数多く支給される消耗品であるが、故にこそ一介の軍団兵から昇格したランサーには馴染み深い武装。 『紮げよ黄金の帝国、不敗の太陽』使用時には陽光を纏った状態で投擲され、敵の守りを崩す。 【解説】 三世紀の危機を救ったローマ皇帝。 低い身分の出身でありながら、一介の軍団兵から持ち前の武勇により、昇進し皇帝ヴァレリアヌスによって見出された事でその名がローマに広まった。 ナイススの戦に於いてゴート族を撃退し、騎兵の総司令官を務めた。 その後、アウレリアヌスはローマ皇帝に即位したがその頃のローマは三つに分裂していた。 皇帝に即位したアウレリアヌスは度重なる北方異民族の侵入に対処しなければならなかった。 アウレリアヌスはローマ軍を指揮し、侵入した異民族を北方へ退けた。 また、ローマの防衛線を安定させる為にダキア属州を放棄し、ゴート族に割譲した。 三つに分裂したローマを統一させる為、ローマから独立したパルミア帝国、ガリア帝国を下したアウレリアヌスは元老院から世界の修復者の称号を獲得した。 アウレリアヌスはただの征服者ではなく、寛大さも持ち合わせており抵抗した都市を下したがそこに住む兵士、市民に慈悲を見せ、丁重に扱ったという。 これらの話から多くの都市が無血で開城した。 ローマを再統一した後はササン朝の遠征へと向かうも同行した秘書官により暗殺され、その生涯を終わらせる事になった。 アウレリアヌスは不敗の太陽神ソル・インウィクトゥスをローマの正式な信仰に加えたという。 この太陽神はシリアから持ち込まれた外来の神であったが勝利を齎す事から兵士達から崇拝を受けていたという。 また、アウレリアヌスもローマの再統一の際にこの神に感謝を捧げていた。
https://w.atwiki.jp/works_petrowka/pages/33.html
さて、まずはVicにおけるイタリアとはなんぞや? と言うところをVictoriawikiから説明を拝借しつつから始めよう。 このゲームではサルディニア・ピエモンテ、教皇領、両シチリア王国がイタリア統一の候補となる。 1859年ごろに、「権威の失墜」イベントが発生し、続いて「統一か死か」イベントが発生する。 するとフランスが、どの国の後ろ盾となって統一を支援するかを決める。フランスが選択した国は、 フランスの支援をうけて他のイタリア諸邦(やその同盟国)と戦争をしなければならない。 しかしこのイベント連鎖は、多くのプレイヤーにとって厄介なものであった (オーストリアが参戦し、フランスは参戦しているわりにイタリア北部には軍隊をまったく派遣してくれないなど) もっともAIが国家を運営する場合たいていサルデーニャを支援するようだ。また、イベントの発生を待たずとも、統一のための条件である ローマ・フィレンツェ・パルマ・モデナ・トリノ・ナポリの5つを保有していれば自動的にイタリアが統一される。 AIがイタリアを誕生させることに成功しても、ゲームの期間中に未回収のイタリアをも手に入れることはまず無い。 ゲーム開始時点の両シチリアはこんな感じ。 典型的な中規模国家だね。フランス・スペインと防衛同盟を結んでて、この2国は何かと友好度を上げてきてくれるよ。 機械部品と衣類を輸入するように設定。直接税は全階級39.84%で関税は最大。防衛費と陸軍維持費、教育費も最大値に。ちなみにこの時点での研究点は月0.59 順位が21位じゃ当分機械部品は入ってこないだろうがな。おまじないみたいなものか。 とまあごたくは置いといて。全軍をローマへ移動させる。 ローマ教皇領とも同盟を結んでるから移動出来るんだ。 右下のピンクが両シチリア、その隣のオレンジがローマ教皇領、上の黄色がトスカーナ、 その左の青緑がルッカ、その上の茶色がモデナでさらに上がパルマ。一番左上のクリーム色がサルデーニャ・ピエモンテです。 でもってモデナに宣戦。 モデナ・ローマ教皇領・パルマと交戦状態に! ちょ…まさか。 宣戦布告した翌日、ローマに2個師団が到着!(*1)敵は補充するまも無い!(*2) これは酷い。凄く酷い。 さらに数日後にはもう1個師団が到着! 開戦前に軍事行動してるって下手すると歴史の汚点になりそうだな…っていうかどっかで聞いた話だ。 2月13日にはローマ陥落! 同時に輸入し終えた衣類を使って7万人のPOPを兵士に変換! 元から居る部隊に兵力補充した後、のこりのマンパワーを使って騎兵2個師団を生産開始。 ゲーム開始時点で各国の陸軍技術の研究がほとんど進んでいない内は騎兵が最強なのだ。 ローマ防衛に1個師団残した後残りの部隊でマッサに強襲上陸。無血占領に成功したよ。 なんという火事場泥棒。 さらに部隊を二手に分けて進軍。足の速い騎兵で拘束しつつ…。 砲兵付き歩兵で粉砕。別働隊でモデナの占領開始! よく見るとラクイラ(*3)に敵が来てるぞ。ローマの師団を防衛に向かわせるか。 そうこうするうちに騎兵の生産が終わるからローマ周辺を防衛。 さらにモデナとパルマの占領が完了。それぞれ6月1日、16日に迷わずポチッと併合だー! すぐにローマ教皇領と「ヴィテルボ以外全領土割譲」で和平! 7月17日、4回目のトライで成功! ローマ教皇領は同盟の盟主扱いされているから、ローマを落とした段階で和平を結ぶと他の2国とは自動的に白紙和平が結ばれてしまう。 だからこのタイミングまで待ったんだな。 その通り。 講和したら急いで部隊を次に備えて再配置。 よく見るとフランス(*4)にも配置してるな。 全ての準備が整った8月23日、トスカーナに宣戦布告! まだモデナにローマ教皇軍がいるぞ? いいのか…って 「開戦時に敵国にいた師団は士気が0になる」というルールがあるんだ。翌日撃破したよ。 アリステア…恐ろしい子! フランスから侵攻した部隊もサルデーニャ領トリノに到着。 相変わらず補充されていないな。 トスカーナ侵攻部隊もフィレンツェで交戦。 こっちは補充されたせいで士気が低くなってるね。 あっちが立てばこっちが立たない。痛し痒しだ。もっともこちらにとっては有り難いことこの上ないが。 9月7日。こっそりとローマを無血占領。 ローマ教皇領とはさっき和平したばっかじゃないのか? ローマ教皇領はトスカーナとも防衛同盟を結んでるからそのせいで参戦してきたの。 同盟は2つ以上の連鎖がないから、最初の宣戦ではトスカーナとは戦争状態にならなかったんだ。 そう言えば上の画像にはローマに軍が居たが。 何でか分からないけどヴィテルボの防衛に向かったみたい。 …何故? さぁ? フィレンツェ攻略中の部隊を支援するためにローマを占領した部隊をルッカに強襲上陸させる。 ルッカそのものは占領する必要がないけど、ここにいる敵軍がフィレンツェの部隊にちょっかい出すとその分占領が遅れるからね。 10月21日、トリノを占領。 翌日にはフィレンツェも占領! これでイベントの発生条件は満たしたよ。あとは待つだけ。 早ければ3日、遅くても1ヶ月くらいで発生するな。…お。 10月26日、イタリア爆誕! イベントの効果により交戦国すべてを併合、しかも軍隊はそのまま引き継がれて自分のものに。さらに威信値はプラス500でぶっちぎりの1位! 史実より35年は早い、しかも列強2位の超国家イタリアが誕生したぁ! ブラボー! おお… ブラボー!! でも4400£もの借金を抱えてることもお忘れ無く。 うぐっ! かくて1836年中にイタリア王国が誕生してしまった。果たしてこの国家は、後に語られるヘタレの汚名をすすぐ事が出来るのだろうか? イタリアの戦いはこれからだ! アリステア先生の次回作にご期待下さい! 次へ 前へ 目次へ戻る .
https://w.atwiki.jp/oldds/pages/102.html
リーデンベール × フラッシュオブスティール(88-逆) × グレートローマン [牡馬] 124-83-54-73 124-51-68-60 123-81-92-68 122-75-38-46 122-53-35-66 121-84-34-13 121-80-78-34 121-77-38-45 121-74-37-34 121-72-43-51 121-68-68-41 121-62-03-64 * 121-60-80-77 121-59-14-60 120-92-53-72 120-77-18-52 120-68-48-70 120-65-61-28 * 120-64-96-12 120-64-56-42 120-57-40-26 120-55-65-02 [牝馬] 117-120-43-43 125-84-49-29 122-83-46-21 122-76-51-26 121-89-42-18 121-85-54-36 121-80-43-20 121-72-08-06 121-63-75-29 121-63-11-04 121-60-62-08 120-76-48-62
https://w.atwiki.jp/index-index/pages/2409.html
【種別】 人名 【元ネタ】 十二使徒の一人、 ペトロ(ペテロ) 。 【初出】 二十一巻 【CV】 拝 真之介 【解説】 ローマ正教の枢機卿。 登場当初は上昇志向が高く積極的に漁夫の利を狙う、ニコライ=トルストイに近い性格であった。 ローマ教皇が昏睡状態になったことに乗じ、自身が教皇となるべく教皇選挙の実施を決意。 だが、ローマ教皇が目覚めたことにより選挙は中断。人々もローマ教皇に付き従い計画は破綻する。 しかし、そのローマ教皇から苦労を労われ、 さらに教皇選挙では自身の票をペテロへ入れるとまで約束される。 その行動に器の差を思い知り、その場で泣き崩れた。 その後、第三次世界大戦の戦後処理におけるローマ正教再編によって、 教皇の席に就くことが報じられた。 新約十巻では正式にローマ教皇として登場。 国連ビルで行われた対グレムリンの会合に参加し、学園都市を警戒しながらイロモノ揃いの首脳陣の中で冷静な対応と意見を行っている。 終盤ではロシアの総大主教と共に世界の『アメリカの声が届きにくい場所』へ向けて問いかけを行った。 【口調】 一般的な堅い言葉を使う。 私は思う。正当化できる怒りに身を委ねるのは簡単で、そして楽しささえ覚えるものだろう。 だが溺れた者は己の真実を知れ。それもまた暴力に変わりなく、鏡に映ったのは己の姿なのだと。
https://w.atwiki.jp/gods/pages/19605.html
タルペイア ローマ神話に登場する女性。 タティウス王が陣取ったカピトリウムの丘にあった砦の防衛隊長タルペイウスの娘。 ローマとサビニ人との戦争でローマを裏切り窮地に追い込んだ。 ローマのカピトーリーヌスの断崖に名を与えた。 関連: タルペイウス (父) 別名: タルペーイア
https://w.atwiki.jp/gatirezu/pages/125.html
レ「ハンニバルはローマを潰すという誓いを立てておきながら、 結果的にローマ軍の強化に最も貢献してしまったという非運の方なのですよー」 女「はぁ」 レ「しかもあんなに苦労して連れてきた象群はほとんど役に立たなかったのです」 女「うっわ…」 レ「しかも最終的に、純粋な軍事の才能を較べれば勝っていたと思われる プブリウス=コルネリウス=スキピオに敗れてしまったんですねぇ」 女「戦術的にはハンニバルのパクりだったのにね…」 レ「そしてローマ軍が強くなり過ぎた結果が、これです」 ローマ軍15,000 対 アルメニア軍125,000 結果、アルメニアの戦死者十万以上、ローマの死者、五人 女「…え? なんか桁間違ってない?」 レ「史実です♪」 女「なんか異常気象とかでなく?」 レ「ローマの指揮官ルクルス様の実力ですよー」 女「うっわぁ…」 レ「…ハンニバルさん」 女「?」 レ「天パだったんですかね…?」 女「…知るかよ」
https://w.atwiki.jp/gentoo64/pages/86.html
公会議/教会会議 ■公会議 ※ここで列挙されているのは、ローマ・カトリック教会が承認している公会議である。したがって、東方正教会やプロテスタント教会は非承認の公会議も含まれるし、ここで列挙された公会議以外にもカトリックが非承認の教会会議は幾度も行われている。 ◆第1回 第一ニカイア公会議 【開催年】325年(5月23-6月30日) 【開催地】ニカイア(トルコ) 【招集者】ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(大帝) 【議長】ホシウス 【主要人物】アレクサンドリアのアレクサンドロス(「同質」派)、アレイオス、カエサリアのエウセビオス(「相似」派) …アレイオス派は御子の絶対的な神性を否定し、子は神の被造物だと主張していた。一方、アレクサンドリアのアレクサンドロス司教とアタナシオス(助祭)は、父と子の神性は同質であると主張した。父と子は「同質」(ホモウーシオス)なのか「相似」(ホモイウーシオス)なのかで議論され、アレイオス派は追放された。 出席者は250-300名程。カエサリアのエウセビオスによれば「250名以上」、アタナシオスによれば「およそ300名」、アンティオキアのエウスタティオスによれば「270名」、コンスタンティヌス帝によれば「300名以上」。 ●ヒスパニア代表 ・ホシウス(議長、アレクサンドロス派) ●西方教会の代表 ・ローマのウィクトル ・ローマのウィンケンティウス ・カルタゴのカエキリアヌス ・ガリアのニカシウス ・カラブリアのマルクス ・パンノニアのドムヌス ●東方教会の代表 ●アレイオス派支持者 ・ニコメディアのエウセビオス(エウセビオス派) ・カエサリアのエウセビオス(中央左派:オリゲネス的従属説) ・エフェソスのメノファントス ・スキュトポリスのパトロフィロス ・ネロニアスのネエルキッソス ・マルマリカのテオナス(アレイオス派) ・リビュアのプトレマイスのセクンドス(アレイオス派) ・ニカイアのテオグニス ・シュリアのアナツァルボスのアタナシオス ・カルケドンのマリス ●アレイオス派反対者 ・アレクサンドリアのアレクサンドロス ・アタナシオス(助祭)…アレクサンドロス司教に随行して参加 ・アンティオキアのエウスタティオス(極右:サベリオス主義) ・アンキュラのマルケロス(極右:サベリオス主義) ・エルサレムのマカリオス ●決定事項 ニカイア信条 復活祭の日付を確定 アレイオス派の排斥 父と子は「同質」(ホモウーシオス) ◆第2回 第一コンスタンティノポリス公会議 【開催年】381年 【開催地】コンスタンティノポリス(トルコ) 【招集者】ローマ皇帝テオドシウス1世 【議長】ナジアンゾスのグレゴリオス …マケドニウス1世(マケドニウス派)は聖霊の神性を認めず、排斥された。 アレイオス派、サベリウス主義、アポリナリオス主義、ホモイウジオス主義を排斥 ニカイア・コンスタンティノポリス信条(ニカイア信条を改訂) ◆第3回 エフェソス公会議 【開催年】431年 【開催地】エフェソス(トルコ) 【招集者】東ローマ皇帝テオドシウス2世 【主要人物】アレクサンドリア総主教キュリロス、コンスタンティノポリス大主教ネストリオス …ネストリウスはアレイオス主義とアポリナリオス主義を批判する目的で、キリストの神性と人性は分離していると説明した。さらにその裏付けとしてマリアは「神の母」ではなく、「キリストの母」と呼ぶ方がふさわしいと論じた。しかし、ネストリウスのその理論は異端となった。 ネストリウス派の排斥 ペラギウス派の排斥 マリアはテオトコス(神の母) ◆第4回 カルケドン公会議 【開催年】451年(10月8日-11月1日) 【開催地】カルケドン(トルコ) 【招集者】東ローマ皇帝マルキアヌス 【議長】コンスタンティノポリス総主教アナトリオス 【主要人物】ローマ教皇レオ1世(両性論)、アレクサンドリア総主教ディオスコロス(被告、単性論) …448年コンスタンティノポリス地方会議でエウティケスが破門となるが、アレクサンドリア総主教の働きで、449年のエフェソス会議でエウケティスが逆転勝利した。教皇レオ1世は再度カルケドン公会議を開き、ディオスコロスを断罪し、単性論を排斥した。 キリスト単性論排斥 カルケドン信条 ◆第5回 第二コンスタンティノポリス公会議 【開催年】553年(5月5日-6月) 【開催地】コンスタンティノポリス 【招集者】東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(単性論) 【議長】コンスタンティノポリス総主教エウテュキオス 【主要人物】ローマ教皇ウィギリウス(両性論) ユスティアヌス帝は単性論に理解を示すようローマ教皇を促すが、ウィギリウス教皇はこれを拒否したため、単性論を反駁した三つの著作を排斥した(三章書問題)。 単性論派と両性論派の調停が試みられるが決裂 オリゲネスを異端と宣告 ◆第6回 第三コンスタンティノポリス公会議 【開催年】680-81年 【開催地】コンスタンティノポリス 【招集者】東ローマ皇帝コンスタンティヌス4世 【主要人物】ローマ教皇レオ2世(両意論)、ローマ教皇ホノリウス1世(単意論) …ホノリウス1世は生前、両性論と単性論を調停する為に「単意論」を説いた。単意論は、子の内に神の意志のみを認める考えであるが、レオ2世は単意論を排斥し、すでに死去しているホノリウス1世をも破門した。 単意論排斥→東方のマロン派は単意論を信奉した。 ◆第7回 第二ニカイア公会議 【開催年】787年 【開催地】ニカイア 【招集者】コンスタンティヌス6世 【主要人物】皇后エイレーネー …726年、東ローマ皇帝レオーン3世は聖像廃止に取り掛かり、730年に聖像禁止令を発布。レオーン3世の子、コンスタンティノス5世は754年、イエリア公会議で聖像擁護派を排斥し、聖像破壊運動(イコノクラスム)を推進した。そこで、聖像擁護派だった皇后エイレーネーの働きで第二ニカイア会議が開かれ、聖像破壊主義者は排斥された。 聖像破壊主義者排斥(イコンは偶像崇拝ではないと定義) ◆第8回 第四コンスタンティノポリス公会議 【開催年】869-70年 【開催地】コンスタンティノポリス 【招集者】東ローマ皇帝バシレイオス1世、ローマ教皇ハドリアヌス2世 【主要人物】東ローマ皇帝ミカエル3世、コンスタンティノポリス総主教フォティオス1世、ローマ教皇ニコラウス1世、前総主教イグナティオス …東ローマ皇帝ミカエル3世によって、学者フォティオス1世は総主教に就任したが、それまで聖職者でなかった者が総主教になるのは適任ではないとして、863年、反対派の前総主教イグナティオスとローマ教皇ニコラウス1世により、ラテラノ教会会議で廃位を宣言される。フォティオスはこれに対抗して、867年の教会会議で反対派のローマ教皇ニコラウス1世を破門する。破門の際、「フィリオクエ問題」が持ち出された。それは、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の翻訳問題であった。原文は「聖霊は父から出る」だが、カトリック側はそれを勝手に「聖霊は父と”子より(=Filioque)”出る」と付け加えていたことを突いたのである。しかし、バシレイオス1世が東ローマ帝国に即位すると、ローマ教皇との関係改善の為にイグナティオスが総主教に再任される。そして869年、第4コンスタンティノポリス公会議が開かれ、総主教フォティオス1世は排斥された。しかし、ローマ教皇と関係改善効果がなかったので、バシレイオス1世は、再びフォティオス1世を総主教の座に復位させている。 コンスタンティノポリス総主教フォティオス1世追放 五大総主教のランク付け(ローマ教会→コンスタンティノポリス教会→アレクサンドリア教会→アンティオキア教会→エルサレム教会) 「フィリオクエ問題」は未解決のまま ◆第9回 第一ラテラノ公会議 【開催年】1123年 【開催地】ラテラノ(サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂) 【招集者】ローマ教皇カリストゥス2世 …西方における最初の公会議。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世以来、叙任権闘争が生じていたが、1122年、ドイツのヴォルムスで成された協約によって、「聖職者の叙任権は教会にあり、皇帝は世俗の権威の任命権のみ」と定められた。ラテラノ公会議では、このヴォルムス協約が確認され、正式に承認された。 ヴォルムス協約の承認 聖職売買禁止の再確認 十字軍参加者に対する部分免償の実施 十字軍参加者の家族と財産の保護の徹底 ローマ巡礼者への略奪禁止 叙階や叙任に関する権限の確認 ◆第10回 第二ラテラノ公会議 【開催年】1139年 【開催地】ラテラノ(サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂) 【招集者】インノケンティウス2世 …ローマ教皇ホノリウス2世の死後、後継者を巡って対立が生じた。フランス側はインノケンティウス2世を、ローマ側はアナクレトゥス2世を擁立した。アナクレトゥス2世の死後、インノケンティウス2世は、事態を清算するために公会議を開いた。 アナクレトゥス2世を支持した司教・枢機卿の罷免 修道者が法学・医学を専攻することを禁止 聖職者と修道者の婚姻は無効 司教選挙権が司教座聖堂(カテドラル)参事会員であることの確認 アルノルド・ダ・ブレシアの説教・著述の禁止(聖職者が財産を持つべきでないと教えた) 危険な馬上槍試合の禁止 ◆第11回 第三ラテラノ公会議 【開催年】1179年 【開催地】ラテラノ(サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂) 【招集者】ローマ教皇アレクサンデル3世 …神聖ローマ皇帝赤髭王フリードリヒ1世は、アレクサンデル3世が教皇となることに反対し、対立教皇としてウィクトル4世、パスカリス3世、カリストゥス3世を立てた。しかし、1177年にヴェネツィア条約が結ばれ、アレクサンデル3世が教皇となった。対立教皇が乱立する混乱を収拾すべく公会議が招集され、コンクラーベは投票者の三分の二以上の賛成を必要とすると改定した。 コンクラーベ改正(投票者の三分の二以上の多数決) ワルドー派は、信徒による説教を許可してくれるよう申請したが、拒否された。 カタリ派排斥 カタリ派討伐の兵を「十字軍」と認める→後のアルビジョワ十字軍 司教の複数教区掛け持ち禁止 司教座聖堂(カテドラル)に教師配置義務 ソドミー(同性愛行為など)を行う聖職者は追放 ◆第12回 第四ラテラノ公会議 【開催年】1215年 【開催地】ラテラノ(サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂) 【招集者】インノケンティウス3世 …1380名以上集まる大規模な公会議だった。 聖体の「全実体変化(transsubstantiatio)」の宣言…化体説、ミサの際、パンと葡萄酒がキリストの実際の体と血に変化する。 異端と異端を保護する事への処罰 教会の順位の確認(ローマ教会→コンスタンティノポリス教会→アレクサンドリア教会→アンティオキア教会→エルサレム教会) 司祭の避けるべき行動規則を定める(狩猟・外科手術など) 全信徒に、年一回の聖体拝領と告解を義務付ける ユダヤ人とイスラム教徒への特別な服装の義務付け フリードリヒ2世を神聖ローマ皇帝として承認 ◆第13回 第一リヨン公会議 【開催年】1245年6月 【開催地】リヨン(フランス) 【招集者】ローマ教皇インノケンティウス4世 教会を迫害したとして、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を破門 ◆第14回 第二リヨン公会議 【開催年】1274年 【開催地】リヨン(フランス) 【招集者】ローマ教皇グレゴリウス10世 …東ローマ帝国の使節も招待した。また、モンゴル帝国の皇帝クビライも出席した。 以後6年間の十分の一税は十字軍の資金に充てる 東西教会の和解として、西方教会の首位権を認める代わりに、フィリオクエ問題について東方教会の伝統を認めると合意したが、見せ掛けだけの和解だった。 コンクラーベでは、教皇没後すぐに選出をはじめ、決定するまで枢機卿たちは外界から遮断される。 ハプスブルク家のルドルフ1世にドイツ王の権威を認める(大空位時代終結)。 ◆第15回 ヴィエンヌ公会議 【開催年】1311-12年 【開催地】ヴィエンヌ(フランス) 【招集者】ローマ教皇クレメンス5世 …1308年、ローマ教皇はフランスの要請を受けて、アヴィニョンに教皇庁を移転した(教皇のバビロン捕囚)。そのため、教皇に対するフランス王フィリップ4世の影響力が強い状態だった。フィリップ4世は、テンプル騎士団の財産に目をつけていた。1307年、フィリップ4世は、テンプル騎士団に冤罪を負わせて修道院を襲撃し、逮捕した。クレメンス5世はこれに反対することができず、公会議でテンプル騎士団を有罪とし、解散させた。 テンプル騎士団解散命令(修道会の財産は聖ヨハネ騎士団に相続された)。 ◆第16回 コンスタンツ公会議 【開催年】1414-18年 【開催地】コンスタンツ(ドイツ) 【招集者】神聖ローマ皇帝ジギスムント …1378年、ローマのウルバヌス6世とフランスのクレメンス7世が、共に教皇権を主張し、二人の教皇が並立する事態(シスマ)となった。1409年、ピサ公会議で二人の教皇(当時はローマ教皇グレゴリウス12世とアヴィニョン教皇ベネティクトゥス13世)を罷免し、新たにアレクサンデル5世を擁立した。しかし、二人は退位しなかった為、教皇が三人並立状態となった。アレクサンドル5世は翌年に急死し、ヨハネス23世が選出された。皇帝は公会議を招集するが、ヨハネス23世は逃亡してしまう。そこで、教皇さえも公会議の決定に従うべきとする「公会議主義」の考えで会議を続行し、新たにマルティヌス5世を教皇として立てた。こうしてシスマ(教皇分裂)は終結した。 シスマ終結(教皇統一) 教皇の暴走を食い止めるため、公会議を定期的に開催すること ジョン・ウィクリフ排斥…墓から遺体を掘り起こされて著書と共に焼かれた。 ヤン・フス排斥…火刑に処せられた。 ◆第17回 バーゼル公会議、フェラーラ・フィレンツェ公会議 【開催年】1431-45年 【開催地】バーゼル(スイス)1431~、フェラーラ(イタリア)1437~、フィレンツェ(イタリア)1439~、ローマ1443~ 【招集者】ローマ教皇エウゲニウス4世 …バーゼル公会議が教皇派と公会議派に分裂し、教皇派はイタリアに会議を移転し、公会議派はバーゼルに留まった。公会議派は対立教皇としてフェリクス5世を立てた。教皇派はファラーラで会議を続けたが、財政難と疫病が流行した為、フィレンツェに移動した。 フィリオクエ問題は、「父から子を通して」とすることで、一応の決着がつく。しかし、東西教会の一致の促進には至らなかった。 教皇首位説(公会議が分裂した為) 七つの秘跡(サクラメント)が確立する。秘跡とは、洗礼・堅信・聖体・赦し・病者の塗油・叙階・結婚のこと。 ◆第18回 第五ラテラノ公会議 【開催年】1512-17年 【開催地】ラテラノ(サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂) 【招集者】ローマ教皇ユリウス2世、レオ10世 …ユリウス2世が中々公会議を開かないので、1511年、教皇なしでピサ公会議を開催する。これを無効にするため、教皇はやむやむ正規の公会議を開く。 公益質屋(モンテ・ディ・ピエタ)が公認される。(ユダヤ人が高利貸付をして民衆を苦しめたので、教会が低利貸付を始めていた)。 教会の独立と司教の権威を確認(1438年、フランス王シャルル7世が公布した「ブルージュの国体勅諚」を排斥…教会は国家に独立しておらず、国家に従属すべきとの理論) 対オスマン帝国戦争の承認 当初は教会改革が目的だったが達成できず、ルターの宗教改革を招くことになる。 ◆第19回 トリエント公会議 【開催年】1545-47、1551、1562-63年 【開催地】トリエント(イタリア) 【招集者】教皇パウルス3世、ユリウス3世、ピウス4世 …宗教改革に対抗するカトリック側の教理の確認と自己改革(対抗宗教改革) ニカイア・コンスタンティノポリス信条の再確認 第二正典が正式に承認される(ルターが第二聖典を省いた為) 聖書と聖伝が教えの拠り所(ルターは聖書のみと主張していた) ラテン語訳『ウルガータ訳聖書』が唯一の公認聖書(ルターは聖書を母国語に翻訳すべきと主張していた) 救いは神の恩寵と人間の協働による(ルターは救いは恩寵のみと主張していた) 七つの秘跡(サクラメント)を再承認(洗礼・堅信・聖体・赦し・病者の塗油・叙階・結婚) 聖体の実体変化(化体説)を再主張 司教の定住、養成施設の充実(聖職者の世俗化を防止する対策) 今後、免罪符(贖宥状)の販売を禁止(但し効果や意義は保たれる) 聖人や聖遺物への崇敬、煉獄、諸聖人の通効など、伝統的教義は依然として有効と確認 禁書目録を作成(~1966年廃止) ◆第20回 第一バチカン公会議 【開催年】1869-70年 【開催地】バチカン 【招集者】ローマ教皇ピウス9世 …目的は近代思想における誤謬を排斥すること 「デイ・フィリウス」…極端な合理主義を否定 「パストール・エテルヌス」…教皇首位権、教皇不可謬説(一定の条件下での教皇の発言に誤りはない) →教皇無謬説を否定した一部の司祭たちが教会から分離し、「復古カトリック教会」を創立した。 ◆第21回 第二バチカン公会議 【開催年】1962-65年 【開催地】バチカン 【招集者】ローマ教皇ヨハネス23世、パウルス6世 …教会の現代化(アジョルナメント)で世界と教会の一致をはかる。 四つの憲章『典礼憲章』『神の啓示に関する教義憲章』『教会憲章』『現代世界憲章』 礼拝において自国語を用いる自由を認める 信徒の聖書研究が推奨される エキュメニズムの推進 ■その他の教会会議 ◆252年 カルタゴ会議 幼児洗礼を承認 ◆397年 カルタゴ会議 聖書正典確立 ◆411年 カルタゴ会議 ドナトゥス派異端宣告 ◆448年 コンスタンティノポリス地方会議 エウティケス(単性論)排斥 ◆449年 エフェソス強盗会議 アレクサンドリア総主教ディオスオコロスが皇帝の許可を得て開催 エウティケス(単性論)排斥を撤回 ◆589年 トレド公会議 フィリオクエ(聖霊は父と子から出る)が成文化される ◆754年 イエリア公会議 コンスタンティノス5世主催、聖像擁護派を排斥 ◆863年 ラテラノ教会会議 ローマ教皇ニコラウス1世、コンスタンティノポリス総主教フォティオスの廃位を宣言 ◆867年 教会会議 東ローマ皇帝ミカエル主宰、フォティオス1世のコンスタンティノポリス総主教就任に反対したローマ教皇ニコラウス1世を破門する。 「フォリオクエ問題」で、カトリック側がニカイア・コンスタンティノポリス信条の原文に勝手に「フォリオクエ(子より)」を追加した教義を異端とする(聖霊は父と"子より”出て)。 ◆879-880年 コンスタンティノポリス教会会議 ローマ教皇の特使、フォティオス1世の総主教再任を認める。 ◆1046年 スートリ教会会議 ◆1095年 クレルモン会議 第一回十字軍を承認 ◆1409年 ピサ公会議 二人の教皇(ローマ教皇グレゴリウス12世とアヴィニョン教皇ベネティクトゥス13世)の代わりに、新たな教皇(アレクサンデル5世)を選任する。 ◆1511年 ピサ公会議 教皇ユリウス2世が中々公会議を開かないため、公会議主義者が教皇なしで公会議を開いた。教皇はこれを無効にするため、第5ラテラノ公会議を開いた。 ◆1618-19年 ドルト会議 プロテスタント(オランダ改革派)の教会会議 アルミニウス主義(万人救済説)排斥 ◆1643-49年 ウェストミンスター会議 プロテスタント(改革派)の教会会議 「ウェストミンスター信仰告白」1646年 「ウェストミンスター大教理問答」1647年 「ウェストミンスター小教理問答」1647年
https://w.atwiki.jp/bukipedia/pages/71.html
ピラ ~Pila~ 基本スペックと定義 全長 100~120cm 重量 0.8~1.2kg 地域 古代ローマ 年代 紀元前4~紀元1世紀 古代ローマ兵が使った投げ槍の一種がピラである。 歴史家のリウィウスの著書によると、ピルムには太いものと細いものがあると書かれており、現在では太いものを「ピルム」、細いものを「ピラ」と呼んでいる。 ピラのほうは特に重りが無く、ソケット式の投げ槍で、ピルムよりも飛距離が長いと言う違いがあるので、見た目だけで簡単に判別できる。 部位別の呼称 1 穂先:スピアーヘッド(SpearHeads) 2 刺先:スパイク(Spike) 3 口金:ソケット(Socket) 4 柄:ポール(Pole) 時代背景 ローマが王政から共和制に変わった頃、古代ローマは周辺部族との戦いに明け暮れていた。 当時のローマ軍はギリシア風に長槍を持って戦隊を築き、敵と相対するものであった。 しかし、サムニウム人やエトルリア人たちが使用した穂先の長い投げ槍に苦戦した経験から、自らの部隊にもエトルリア式の投げ槍を採用した。 全軍の5分の4…つまりほとんどの部隊にピルムとピラを持たせ、遠くからピラを、近づいてピルムを投げて、一方的にフルボッコする戦法が生まれた。 この戦法は長い間ローマ軍を支え、無敵のローマ軍といわれる所以となったのである。 使用用途 遠距離から投げて敵をひるませることを目的としている。 ローマ軍の戦術では、先制攻撃を担当する非常に重要な武器であった。 2008年 9月29日更新 参考文献 文献 新紀元社 武器事典 市川定春 著 新紀元社 武器と防具 西洋編 市川定春 著 新紀元社 図解 近接武器 大波篤司 著 ダイヤグラム・グループ 武器―歴史、形、用法、威力 田島優 北村孝一 著
https://w.atwiki.jp/tulbi/pages/38.html
第5回 ギリシア・ローマ3 ここからはローマの話に移ります。ローマについては、ギリシア以上に時代が下るまで同時代の文献資料がありません。そのため、ローマの始まりは伝説に依拠しています。ここではそうした伝説の時代に位置づけられる王政時代が終わり共和政が始まる前509年から話を始めたいと思います。 とはいえ、共和政初期についても同時代資料は決定的に不足しています。後代やギリシアの歴史家の記述もまた一つの解釈であることに変わりはありません。そうした中で描かれているのは、共和政初期の貴族(パトリキ)と平民(プレブス)の抗争です。イタリア半島の中心部に位置するローマは、このころ、異民族の侵入に悩まされているわけですが、そうした状態も手伝って、貴族は平民に譲歩せざるを得なくなります。こうした中で設置されたのが平民の代表である護民官です。また貴族の勝手な法の運用を防ぐため、十二表法が制定され、ローマ法の基礎となりました。