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https://w.atwiki.jp/tohohopeacewalk/pages/312.html
画 2_91 "143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思います。" http //www21.atwiki.jp/tohohopeacewalk/pages/149.html http //pipponan.fc2web.com/gazokensyo_2/ga-91.htm -------------------------------------------------------------------------------- [91]143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思います。 ピッポ 05/3/30(水) 2 55 [92]Re(1) 143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思い... とほほ 05/3/30(水) 11 35 [95]Re(2) 143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思い... ピッポ 05/3/30(水) 13 36 [133]Re(3) 143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思い... ピッポ 05/4/3(日) 21 18 [102]前半 ピッポ 05/3/31(木) 1 41 -------------------------------------------------------------------------------- [91]143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思います。 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/3/30(水) 2 55 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード -------------------------------------------------------------------------------- ~添付ファイル~ ・名前 : 143mai.jpg ・サイズ : 68.7KB -------------------------------------------------------------------------------- ~添付ファイル~ ・名前 : 143枚の写真一覧.htm ・サイズ : 6.0KB 143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思います。 ←サンプルのPrintScreenです。 htmファイルは、右側添付ファイルの "143枚の写真一覧.htm"をクリックしてください。 みなさんから戴いた ご意見、書き込む内容にしたがって のんびり完成させたいと思います。 否定派サイト 写真付き批判 文章で批判 は、サイトや過去投稿へのリンク欄です。 573 hits -------------------------------------------------------------------------------- [92]Re(1) 143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思い... ←back ↑menu ↑top forward→ とほほ - 05/3/30(水) 11 35 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼ピッポさん: みなさんから戴いた ご意見、書き込む内容にしたがって のんびり完成させたいと思います。 すばらしい、アイディアだと思います。完成をお祈りします。 否定派サイト 写真付き批判 文章で批判 は、サイトや過去投稿へのリンク欄です。 否定派サイトへのリンクを貼るのは、私は感心しません。 これはネット検索上の技術的な問題からです、大手の検索エンジン(googleとかのロボット)はネット上にリンクの多いページを上位にランクします、しかも最近はYahooとかでもロボットの検索結果を上位表示する傾向にあるようです。 ですから批判しようと思って否定派のページにリンクを貼る人が多いのですが(その方が社会通念的にはフェア)これは否定論の宣伝に一役かっているんです。否定論ページではまともなサイトにリンクをしてませんでしょう。これは私はそう言う意味だと思ってます、連中そう言うことだけはマメですから。 「写真つき批判リンク」と「文章で批判リンク」を分ける事は意味がないと思います、せっかくだからピッポさんのページで全画像(可能な限り)をサムネイル表示すべきです。著作権法上はネット上にある画像であればすべて可能です、リンクは転載にならないからです。ただ画像への直リンクを嫌がるのは他にも「不特定多数のサイトに直リンクされるとアクセスが渋滞する」と言う理由があります。 ですから、ページのどこかに「このページでサムネイル表示している画像は他サイトへのリンクまたは私の所蔵する画像のうち著作権法上問題のない画像のコピーです、画像の出典等は特に確認してませんので東中野本のオリジナル画像とは異なります」と書いておけばよいです。基本的に東中野本をコピーしても「歴史資料」と言う観点から著作権法に引っかかる事はないとは思うのですが、、、あくまで自己責任で(^^;、私ならコピーします。 それから、ピッポさんの連絡先やコメントは入れておいたほうがHPの信憑性や信頼性が高まると思います。個人情報を公開する必要はありませんよ。 そういう観点で私ならこう言うページにする、と言うサンプルを作ってみましたので以下にアクセスしてみてください。もし良ければピッポさんの原案HTMLが完成したら私のほうで技術的に改良したHPを作りますよ、もちろんピッポさんのページとして公開するわけです。 http //t-t-japan.com/tohoho/internet/samp/ 589 hits -------------------------------------------------------------------------------- [95]Re(2) 143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思い... ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/3/30(水) 13 36 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード とほほさん、 ご助言有難うございます。 私は初学者ですから、ぜったいに完成には至りません。 初心者のためのインデックスがあったらいいな、と思ったに過ぎません。 サムネイルは Good Ideaですが、私にはスキャナがありません。 当分は空白で、工夫してみます。 まあ、叩き台を作って、あとは、皆さん、そして 靴屋さんとほほさんにお任せしたいと思います。 (適当な時期に、ファイル、フォルダをお送りします) 618 hits sage -------------------------------------------------------------------------------- [102]前半 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/3/31(木) 1 41 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ブリーフケースを設置しました http //briefcase.yahoo.co.jp/pipopipo555jp ここにアクセスしたら、 ファイルフォルダ photos143 と進み 143photos.lzh を右クリック、「対象をファイルに保存」で ダウンロードしてください。 解凍したら、フォルダの中の、photos143フォルダを お好みのところに保存してください。 その中の、一覧_源流ver_1.htm が一覧表です。 photofilesフォルダには、画像が入っています。 このフォルダを移動すると、一覧表には画像が表現できません。 ※ どうぞご自由に作り変えてください。Java とか JavaScript は一切使っていません。 592 hits sage -------------------------------------------------------------------------------- [133]Re(3) 143枚の写真一覧表をhtmで作りたいと思い... ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/4/3(日) 21 18 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ブリーフケースを設置しました http //briefcase.yahoo.co.jp/pipopipo555jp (4月3日更新) ここにアクセスしたら、 ファイルフォルダ photos143 と進み 143photos_vx.lzh を右クリック、「対象をファイルに保存」で ダウンロードしてください。 解凍したら、フォルダの中の、photos143フォルダを お好みのところに保存してください。 その中の、 ichiran(1)_v0x.htm ichiran(2)_v0x.htm が一覧表です。 photofilesフォルダには、画像が入っています。 このフォルダを移動すると、一覧表には画像が表現できません。 ※漸次更新します。 ※どうぞご自由に作り変えてください。Java とか JavaScript は一切使っていません。 また、情報、ご意見、お叱り、メールで寄せてください。 (半角2度打ちをこの投稿フォームでは全角と認識するようです。今確認しました) 577 hits --------------------------------------------------------------------------------
https://w.atwiki.jp/k09095/pages/15.html
ジャパンボトルドウォーターはマガタ富士化成株式会社ボトル事業部を分社化した会社である。 ジャパンボトルドウォーターは静岡県磐田市にある。 ジャパンボトルドウォーターは平成22年4月に設立した。 安全で衛生的な会社はジャパンボトルドウォーターである。 品質・コスト・納期・商品開発を追求しているのはジャパンボトルドウォーターである。 飲料水供給事業をトータルにサポート。 クリーンで美味しい水の需要が急速に高まり、ウォーターサーバーを設置する飲食店や事業所、家庭が増えています。 ジャパンボトルドウォーターは、これに対応するリターナブルボトルの生産設備を保有する企業です。 ガロンボトルをはじめ、キャップ、ケース、サーバー等を提供し、飲料水供給事業をトータルにサポートしています。 また、ウォーターサーバー以外の飲料・食品用途の大容量容器のラインナップも揃えております。 当社のガロンボトル、ガロンキャップ、ウォーターディスペンサー、大容量容器は、厚生労働省の認可を受けた第三者機関での溶出検査において全ての項目で適合すると共に、離型剤にも食品同等のものを使用するなど、衛生・安全面について厳しいチェックを行っています。 株式会社ジャパンボトルドウォーター ジャパンボトルドウォーターマガタ富士化成 ジャパンボトルドウォーター飲料水 ジャパンボトルドウォーター容器 ジャパンボトルドウォーター静岡県 ジャパンボトルドウォーター磐田市 ジャパンボトルドウォーターガロンボトル ジャパンボトルドウォーターディスペンサージャパンボトルドウォーターガロンキャップ ジャパンボトルドウォーター浄水器
https://w.atwiki.jp/tohohopeacewalk/pages/225.html
思01_6339t "ガザ 私たちは殺戮に「否」と言ったか?" http //www21.atwiki.jp/tohohopeacewalk/pages/168.html http //pipponan.fc2web.com/shikosakugo_01/shi-6339.htm -------------------------------------------------------------------------------- [6339]ガザ 私たちは殺戮に「否」と言ったか? ピッポ 09/3/6(金) 12 21 [6340]Re(1) ガザ 私たちは殺戮に「否」と言ったか? ピッポ 09/3/6(金) 12 30 [6341]ラーベの日記、ヴォートリンの日記にも似て ピッポ 09/3/6(金) 15 20 -------------------------------------------------------------------------------- [6339]ガザ 私たちは殺戮に「否」と... ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 09/3/6(金) 12 21 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード 今ごろになってやっと、 適確な文章をみつけました。 http //www36.atwiki.jp/pipopipo777/ =================== ガザ 私たちは殺戮に「否」と言ったか? =================== 京都大学准教授 岡 真理 京都新聞2009年1月12日(月)朝刊 -------------- イスラエル軍による、パレスチナ自治区ガザ地区への攻繋が始まって二週間がすぎた。国連の運営する学校も爆破されるなど、パレスチナ人の死者は八百人以上に上る。泥沼化が懸念される中、世界の共通課題としてパレスチナ問題に取り組む京都大准教授の岡真理さんが寄稿した。 -------------- 私たちは知らなかったーホロコーストのあとで、ドイツ人はそう言って自らを免罪しようとした。「知らなかった」ということが、もし言い訳になりうるとすれば、それは、「知っていたら必ずや黙っていなかった」という含意があるからだ。だが、本当にそうなのか?私たちは、人間が収容所に閉じ込められて、なす術もなく殺されているのを知っていたら、必ずや「否」の声を上げるのだろうか? では今、ガザで起きていることは百五十万の人間を出口なしの檻に開じ込めて、空から海から陸からミサイルを砲弾を浴びせて殺戮する。そんなことが、世界注視のなかで公然と、半月以上にわたり続いている。 まるで、「知っていたら、おまえたちは本当に声を上げるのか?」と問わんばかりに。 この「公然性」は私たちをみな、殺戮の共犯者にする。いや、私たちはその前から共犯していたのではないか。過去三年間、封鎖されたガザで、水も電気もガスもガソリンも、ライフラインのすべてをイスラエルにコントロールされ、かろうじて生命だけを維持するような「生かさず、殺さず」の状況に百五十万もの人間がとどめおかれてきた。だが、私たちはそれに異議を唱えず事態を許容し、そうすることで殺人者たちにメッセージを送っていたのではないか。 パレスチナ人の生など、私たちには関心がないと。ガザという監獄でパレスチナ人が「これが人間か!」という生を強制されていたとき、私たちが大きな声で「否」を訴えていたならば、果たして今回のこの殺戮はありえただろうか。殺人者たちに青信号を出したのは私たちではないのか? ガザは今「監獄」から「絶滅収容所」に変貌した。「アウシュヴィッツ」「ヒロシマ}と同じく、「ガザ」は人間が人間であることの臨界を意味する言葉となってしまった。「ホロコースト」とは、「ヒロシマ」とは、私たちにとっていったい何だったのか?「人間の命は決してこのように扱われてはならない、人間とは決してこのように死んではならない」という命顕は、これらの悲劇から私たちが掴み取った、決して手放してはならない真理ではなかったのか。 このよろな出来事のあとで、ガザの人々はなお、人間の善性を信じることができるのだろうか? 彼らは許すことができるのだろうか? ミサイルと砲弾の雨のなかで逃げ惑っていた彼らを、知っていながら見殺しにした世界を。ガザを瓦礫の海にして、八百名以上を犠牲にすることで、イスラエルは証明したいのだろうか? 世界は人間がこんな形で殺されるのを知っていても止めはしないのだということを。このとき、破壊され尽くしたガザの街とは、倫理的に破壊されたこの世界の似姿になるだろう。 だが、攻撃が始まってから二週間ほどのあいだに、市民社会のネットワークはインターネットを駆使し、グローバルにつながりながら、世界各地で、緊急の抗議行動を組織し、「否」を訴えている。人間はなんぴともこのように死んではならないと。攻撃をテロに対する自衛と位置づける日本のマスメディアは報道しないが、テルアビブでも三日、ユダヤ系市民を中心に一万人以上が一大反戦デモを行い、封鎖と占領による尊厳の破壊こそが問題の根源だとして大義なき戦争を告発した。 たとえ停戦が実現しても、封鎖と占領が続く限り、問題は解決しない。爆撃で虫けらのように命を奪うことも、封鎖で尊厳ある生を奪うことも、人間性を顧みない点において等しい。私たちは訴え続けなければならない。なんぴとも決してこのような生を生きてはならないと。 (現代アラブ文学、京都大准教授・岡真理) -------------- ※ 強調は引用者による 143 hits -------------------------------------------------------------------------------- [6340]Re(1) ガザ 私たちは殺戮に「... ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 09/3/6(金) 12 30 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード おか さんのAML寄稿文です。 [AML 23563]2009年 1月 16日 【転送・転載歓迎】 京都のおかです。 お知らせとお願いです。長文ですが読んでください。 ガザ市では市街戦が始まりました。 死者も負傷者もひたすら増加の一途をたどっています。 (フランスの「緊急ガザ」によれば、攻撃21日目、死者は1105名(子ども346、女性100)、負傷者5130(重態500)です。) 地元の京都新聞に寄稿しました。 『私たちは殺戮に「否」と言ったか?」というタイトルで、1月12日付け朝刊に掲載されました。 「アラブの会」の中村聡さんが、同会のWEB通信にアップしてくださいました。 http //arab-club.hp.infoseek.co.jp/kyotoshimbun.html (中村さん、ありがとうございます。) アフガン空爆のときは、朝日、京都新聞など、メディアの側から原稿を依頼されました。 京都新聞はあのとき、専門を異にする識者5名(目取真俊(沖縄)、佐藤卓巳(メディア論)、おか(アラブ文学)、あと2名、忘れましたが、たぶん国際関係とかだったと思います)に寄稿を依頼、アフガン問題について連載をしました。 アフガンのときも、イラク戦争のときも、たとえば中東研究の専門家がテレビに呼ばれ、解説をしました。でも、今回、そういうことがいっさい、ないように見受けられます。 まっとうな中東研究者がスタジオに呼ばれたら、イスラエルによる「封鎖・占領」こそが問題の根源であることを主張するでしょう。ハマースのロケット弾攻撃を問題の起点にすえて、ハマースのテロVSイスラエルの自衛の戦いというマスメディアが設定した枠組みがいかに虚偽であるかを告発するでしょう。 それを敢えてしないマスメディアは、殺戮幇助をしていると言っても過言ではありません。 そこでみなさんにお願いです。 専門家、有識者のみなさん(なんの専門でもかまいません)、 自分からメディアに働きかけて、ご自身の専門の立場から、今回の出来事についての論考を新聞(とくに地元紙)に寄稿してください。こちらから働きかけて、マスメディアに、別の意見を、別の論調を作りましょう。そして、寄稿された場合は、その情報を寄せてください。 ※ 千葉大学の栗田禎子さん(アラブ現代史)が、信濃毎日新聞に寄稿されたとうかがっています。どなたか、栗田さんの論考をみなで共有できるようにしていただけたら、たいへんありがたいです。 宗教関係者のみなさん、 宗教者の立場から、現在の事態に対する意見を新聞等に寄稿してください。 団体としての見解を、イスラエル大使館に送るだけでなく、マスメディアで表明してください。また、関係者の方々は、宗教者にそうするよう働きかけてください。 市民のみなさん、 地元メディア、全国メディアにご自身の意見を投稿してください。 また、ネットで流れているような情報を掲載しないことで事実の隠蔽、殺戮幇助に加担しているマスメディアに抗議してください。 ガザで何が起こっているのか、攻撃の真の目的は何なのか、専門家の解説を載せろと地元紙、全国紙に要求してください。 きのうの朝日新聞は、攻撃開始後、イスラエル政府がプレスカードをもっている外国人記者にもガザの立ち入りを認めないので、ガザの中のようすを報道できないと、言い訳めいた記事を載せていました。 でも、イラク戦争が剣呑になり、爆弾テロや外国人の誘拐が頻発すると、全国紙は、いっせいにイラクから特派員を引き上げました。記者にもしものことがあったとき、社の責任になるからです。だから特派員は、エジプトのカイロ支局から、バグダードにいるイラク人助手に電話取材したものを記事として流していました。 ガザに入れないなら、なぜ、いま、同じことをしないのでしょうか? ガザで起きていることを世界に知らしめるために、命を顧みずに、ガザにとどまった外国人活動家たちがいます。ガザから発信し続けているパレスチナ人もいます。 10日の大阪の集会では、ガザ在住のパレスチナ人に電話連絡してその肉声を録音したものが紹介されました。一般市民にできることが、なぜ、マスメディアにできないのでしょうか? 「ジャーナリズム宣言」をするなら、ジャーナリズムの責任を果たせと、新聞社に要求してください。マスメディアは、「読者の反応」をとても気にします。 地元紙に働きかけてください。 地元紙は、地元の市民の存在を大切にします。 みなさんの声を、どうかメディアに届けてください。 最後まで読んでくださって、ありがとうございます。 おか まり ========================================== 134 hits -------------------------------------------------------------------------------- [6341]ラーベの日記、ヴォートリンの... ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 09/3/6(金) 15 20 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード 上記、岡真理さんが、 ガザからの決死のEメールを、翻訳なさっていました。 TUP速報 自家発電で命がけで世界に発信される現地の声 http //groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/851 原文 Prof. Abdelwahed (ガザ・アル=アズハル大学教養・人文学部英語学科) 発信の一連の電子メールです。 転載自由というので、検索の便宜も考えてこちらに転載しました。 http //www36.atwiki.jp/pipopipo777/pages/77.html これまでの43通のメールは、ラーベの日記、ヴォートリンの日記を読むかのようです。南京戦とガザ戦争が違うのは、侵略者は被占領者の顔を見ず人が殺せることです。しかし、被占領者の家族の底知れない悲惨、そして、モスクへの卑猥な落書きにも象徴される占領者兵隊の精神的退廃の構図は、「民族的懲罰戦争」としては同じ構図を持っています。 ぜひ、12月27日の「メールその1」からお読みください。 133 hits --------------------------------------------------------------------------------
https://w.atwiki.jp/tohohopeacewalk/pages/238.html
思01_6288t "今回の停戦に、ヒロシマ・ナガサキ・南京・沖縄を思う" http //www21.atwiki.jp/tohohopeacewalk/pages/168.html http //pipponan.fc2web.com/shikosakugo_01/shi-6288.htm -------------------------------------------------------------------------------- [6288]今回の停戦に、ヒロシマ・ナガサキ・南京・沖縄を思う ni0615 09/1/21(水) 13 52 [6289]Re(1) URLはこちらのほうがアクセスしやすく ni0615 09/1/21(水) 14 10 [6291]AFP写真:白リン砲弾で負った火傷 ni0615 09/1/21(水) 15 40 -------------------------------------------------------------------------------- [6288]今回の停戦に、ヒロシマ・ナガ... ←back ↑menu ↑top forward→ ni0615 - 09/1/21(水) 13 52 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード 今回の停戦はいはば、オバマセレモニー停戦だったのでしょうね。数百万人があつまったワシントンで「イスラエルは市民を殺すな」という声が自然発生的に起こってしまったら、イスラエルにとっては命取りですから。 今回の停戦は協議停戦ではありませんから、それを良いことにイスラエルは、ジャーナリストのガザ入国をエジプトに圧力を掛けて制限させているようです。 これはおそらく原爆報道のプレスコードと同じ意味をもつのでしょう。1月11日に、ガザ市内で白リン弾攻撃をしたことに、国際人道団体がイスラエルに抗議と警告をしました。 それを受けてAPの取材クルーがガザ市内の病院を取材におとずれました。南京事件であればマギー牧師が訪れ16ミリ映画で撮影した鼓楼病院にあたります。 医師は、その酷い火傷が何によるものか最初はわからなかったといいます。それは、ヒロシマの故重藤先生の言葉やナガサキの故秋月先生のくやしさと同じです。 APの記者は、カメラマンやビデオクルーを伴って、そのN病院の火傷患者の体験を取材しました。短い取材だったのでしょう、あまり確定的なことはその記事では分かりません。 そのN病院が、証拠と証人の隠滅のためにイスラエルによって再爆撃されてないことを祈りつつ、徹底的な事実の検証を願っています。 ※1 AP記事 http //hosted.ap.org/dynamic/stories/M/ML_ISRAEL_W【URL短縮表記 C-BOARD】 ※2 赤十字国際委員会の白リン弾に対する見解 http //www.icrc.org/web/eng/siteeng0.nsf/html/weapons-interview-170109 これは、APが誤った見出し 「ICRC Israel s use of white phosphorus not illegal 」 で配信した記事の誤解を訂正するものです。 ※3 ナチスによるホロコーストとガザ・アトロシティーズとの写真対比 http //ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/880492/ 507 hits -------------------------------------------------------------------------------- [6289]Re(1) URLはこちらのほうがア... ←back ↑menu ↑top forward→ ni0615 - 09/1/21(水) 14 10 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ※1 AP記事 http //news.yahoo.com/s/ap/20090111/ap_on_re_mi_ea/ml_israel_white_phosphorus 253 hits -------------------------------------------------------------------------------- [6291]AFP写真:白リン砲弾で負った... ←back ↑menu ↑top forward→ ni0615 - 09/1/21(水) 15 40 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード <包帯でグルグル巻きの熱傷者> 写真は下記ページの 関連写真1/1ページ(全6枚から)を選択 メールアドレスとパスワードを登録すれば、 写真を拡大してみれます http //www.afpbb.com/article/war-unrest/2557242/3678671 (写真キャプション) パレスチナ自治区ガザ地区(Gaza Strip)南部ハンユニス(Khan Yunis)にあるナセル病院で、イスラエル軍が発射した白リン砲弾で負った火傷の治療を受けるパレスチナ人(2009年1月12日撮影)。(c)AFP/SAID KHATIB 関連写真1/1ページ全6枚 [AD] スライドショーを見る 記事 【1月12日 AFP】 イスラム原理主義組織ハマス(Hamas)を標的としたパレスチナ自治区ガザ地区(Gaza Strip)に対するイスラエル軍の攻撃によるパレスチナ人の死者は、攻撃開始から17日間で900人を超えたと、パレスチナの医療関係者が明らかにした。 ガザの救急医療サービスを指揮するMuawiya Hassanein医師によると、イスラエル軍がハマスが発射するロケット弾に対抗し、「キャスト・レッド作戦(Operation Cast Lead)」と呼ぶ軍事作戦を開始して以降、パレスチナ側の死者は少なくとも905人、負傷者は3950人に上った。死者のうち少なくとも227人は子どもだという。 またガザ市(Gaza City)内のナセル病院の医師によると、11日早朝にイスラエル軍は白リン砲弾を発射し、この攻撃で少なくとも55人が負傷した。同医師は電話インタビューで「これらの患者のやけどは、白リン砲弾でしかありえない焼け方をしている」と語った。 白リン砲弾は、民間人に対する使用は国際法で禁じられているが、煙幕生成のための使用は許可されている。 一方、イスラエル軍報道官は白リン砲弾の使用を否定し、「わが軍が使用しているものはすべて国際法にのっとっている」と述べた。(c)AFP ※ナセル病院 Al-Nasser Hospital ※Al-Nasser Hospital でGoogle画像検索すると、かつてのイスラエルのガザ攻撃による負傷者の写真がヒットします 266 hits --------------------------------------------------------------------------------
https://w.atwiki.jp/tohohopeacewalk/pages/164.html
画像資料検証 画1_274_2t "マギーフィルム画像と解説書_2" ツリーと写真付を見るには → http //pipponan.fc2web.com/gazokensyo_1/ga-274_2.htm indexは → http //www21.atwiki.jp/tohohopeacewalk/pages/147.html スレッドトップは、 [274]マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/5/5(木) 12 58 これは3分割の2 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ [353]Re(3) マギーフィルム画像と解説書 ←back ↑menu ↑top forward→ 渡辺 - 05/5/8(日) 19 10 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼ピッポさん: これらから私が類推したことは、 ============== 1、マギー牧師は16ミリのモノクロリバーサルフィルムの100フィートロールを使って撮影した。 私の理解している範囲では、白黒の16mmフィルムは基本的にはネガで、リバーサルフィルムというものは存在しません。現像処理によってポジにもできます。アマチュアの場合、一般的には、すぐに映写できるようにポジで現像したものと思います。 フィッチは、"My Eighty Years in China"で、8巻のフィルムを上海にもちだしたとしています。 原文の processing の意味は現像だと思われるので、上海のコダックで現像されたと言う意味でしょう。しかし、『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.347 の訳では、「複写」と訳しています。これは、フィッチが「ネガ」をもってきたということから、南京で現像されたものと理解したのでしょう。 6、上海に届いたフィルムはまず現像された。そうして4本のコピーが取られたのだが、 現像とコピーの間に「編集」が介在したのかどうかは不明である。つまり、上海にいたTimperleyが編集したかどうか? 1938年2月16日付、Timperleyのホーンベック宛ての手紙では、「余分な個所をカット」し、「若干のタイトルを挿入した」となっています。この手紙では、フィルムは Julean Arnold が米国に届けることになっています。また、「ジョージも多分予備のフィルムを飛行機に持ち込むだろう」となっています。[『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.344]フィッチは"My Eighty Years in China"において、途上のロスァンジェルスで映画を上映したと書いていますので、「予備」のフィルムを持っていたわけです。(Julean Arnoldとは、ワシントンに着いてから会った。)なお、映画はセンセーショナルだったらしく、あまりフィルムは使わなかったとしています。 ということで、米国のフィルムについては、Timperleyの挿入した字幕が入っていたはずです。 それから、うっかりしていましたが、『抗戦時期重慶的対外外交往』(重慶出版社、1995年)に下記のように書かれています。 --- 1938年、国際宣伝処将記録片≪南京日軍暴行≫和故事片≪保衛我的土地≫、≪熱血忠魂≫等電影送往美国。[p.270] --- ≪南京日軍暴行≫という記録フィルムは、マギーのフィルムのことでしょう。 9、マギー家所蔵のものが、必ずしもオリジナルとはいえないかもしれない。 はい、マギー家所蔵のフィルムを確認しないと断定できないことは確かです。とりあえず、フィルムのオリジナルは本人が所持していたという前提でよいのではないでしょうか。 2,893 hits -------------------------------------------------------------------------------- [356]Re(5) マギーフィルム画像と解説書 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/8(日) 22 12 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼渡辺さん: マギーの子息は、『天皇名のもとに』の中で、父親が東京裁判にフィルムを持っていったが、なぜか上映されなかった、と言っています。 裁判でフィルムを証拠に使う場合、どういう争点の証拠とするのかということですね。そこまで、必要があったかですね。証言で十分だったとも考えられます。 なるほど。不勉強でした。 しかし、フィッチに托して現像・焼付け(プリント)したものは、 マギー本人はいつ誰から手に入れたのでしょうか? 興味深いところです。 誤りのご指摘感謝します。 2,917 hits -------------------------------------------------------------------------------- [357]Re(4) マギーフィルム画像と解説書 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/8(日) 23 28 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼渡辺さん: 1、マギー牧師は16ミリのモノクロリバーサルフィルムの100フィートロールを使って撮影した。 私の理解している範囲では、白黒の16mmフィルムは基本的にはネガで、リバーサルフィルムというものは存在しません。現像処理によってポジにもできます。アマチュアの場合、一般的には、すぐに映写できるようにポジで現像したものと思います。 そうですね。 しかし、16mmの白黒リバーサルというものはマギー牧師のようなムービーマニアにはもってこいです。ですから、そのようなものが無かったとは考えられません。 http //blogs.dion.ne.jp/wuemme/archives/cat_40405.html 問題は16mmの白黒リバーサルというものが、1937年にあったかどうか?また上海で手に入ったかどうかです。コダックやアグファなどの歴史を調べる必要がありそうです。 ちなみに、ある時代には8ミリ愛好家の世界ではあったはずです。 また、ENGビデオカメラが普及する前の1970年代は、16ミリカラーリバーサルフィルムがテレビニュースの世界では主流でした。それは実際に知っています。NHKの支局、通信員には16ミリのハンディカメラ、キャノンスクーピックが支給され、16ミリカラーリバーサルフィルムを使っていました。その前の1955~1960年代はどうだったのでしょうか?白黒テレビ時代は体験しておりませんが、プリントを複数作る必要の無いテレビニュースでは、白黒リバーサルは重宝がられたと想像します。 フィッチは、"My Eighty Years in China"で、8巻のフィルムを上海にもちだしたとしています。 ということは、「解説書」の4巻と一致しませんね。8巻が全て未現像のフィルムだったのか、また、南京空爆以前のものも含んでいたのか、記述はあるのですか? 知りたいところです。 原文の processing の意味は現像だと思われるので、上海のコダックで現像されたと言う意味でしょう。しかし、『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.347 の訳では、「複写」と訳しています。これは、フィッチが「ネガ」をもってきたということから、南京で現像されたものと理解したのでしょう。 ネガフィルムで撮影した場合の processing (工程)とは、ネガフィルムの現像、と、ネガからポジへの焼き付けの2工程です。フィルムはネガとポジの2通りが残ります。ネガで撮影していたなら、マギーの下に現像済みネガフィルムがポジフィルムとともに残っているはずです。 processing を「複写」と訳すのは、感じっこ訳ですね(笑)。 南京でネガフィルムの現像をすることはありえないでしょう。ネガを現像下だけでは、何も鑑賞できないのですから無駄です。上海の現像所でネガを現像して、ポジを焼きつつけて、ネガとポジのセットを納品してもらうのが、普通です。16ミリのネガからポジを得るためには、現像済みネガと未露光ポジの日本のフィルムを重ね合わせて露光部に送る、ムービーカメラのお化けのような装置が必要です。そうした装置をもった現像所が上海にあったのでしょう。(上海にあれば、南京には必要ありません) ネガで撮影した場合の編集は、ネガフィルムを切り刻んで編集して原版とし、そこからポジの焼き付けてプリントを作ります。複数のプリントが作れます。 6、上海に届いたフィルムはまず現像された。そうして4本のコピーが取られたのだが、 現像とコピーの間に「編集」が介在したのかどうかは不明である。つまり、上海にいたTimperleyが編集したかどうか? 1938年2月16日付、Timperleyのホーンベック宛ての手紙では、「余分な個所をカット」し、「若干のタイトルを挿入した」となっています。 「余分な個所をカット」し、「若干のタイトルを挿入した」がどの程度かによりますが、 編集作業が、フィッチの帰米に間に合ったのですね。ただしこの編集は、ポジフィルムで編集し、その耳にうたれた番号を目安にネガを編集するという工程です。Timperleyは自ら編集したのではなく、編集者に指示を与えたのでしょう。上海には優秀なムービー技術者がいたので、急ぎ仕事も可能だったのでしょう。 ということで、米国のフィルムについては、Timperleyの挿入した字幕が入っていたはずです。 しかしながら、このときいれた「若干のタイトル」が少しも目に触れないのが不思議です。そういうものが公開されれば、必ず印刷物に使われるはずだからです。 >この手紙では、フィルムは Julean Arnold が米国に届けることになっています。また、「ジョージも多分予備のフィルムを飛行機に持ち込むだろう」となっています。 [『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.344]フィッチは"My Eighty Years in China"において、途上のロスァンジェルスで映画を上映したと書いていますので、「予備」のフィルムを持っていたわけです。(Julean Arnoldとは、ワシントンに着いてから会った。)なお、映画はセンセーショナルだったらしく、あまりフィルムは使わなかったとしています。 『予備のフィルム』これは、原文はどうなんでしょう。 何を本体とし、何を『予備』と言っているのでしょうか? 予備のコピー(プリント)なのか、編集で取り除いた部分(リザーブ)なのでしょうか? あるいは、原版であるネガに対しての予備のポジプリントなのでしょうか? ここで、2本のプリントがアメリカに行くと、上海で4本のプリントを焼いたのでは、すでに足らなくなってしまいます。 それから、うっかりしていましたが、『抗戦時期重慶的対外外交往』(重慶出版社、1995年)に下記のように書かれています。 --- 1938年、国際宣伝処将記録片≪南京日軍暴行≫和故事片≪保衛我的土地≫、≪熱血忠魂≫等電影送往美国。[p.270] --- ≪南京日軍暴行≫という記録フィルムは、マギーのフィルムのことでしょう。 なるほど。 9、マギー家所蔵のものが、必ずしもオリジナルとはいえないかもしれない。 はい、マギー家所蔵のフィルムを確認しないと断定できないことは確かです。とりあえず、フィルムのオリジナルは本人が所持していたという前提でよいのではないでしょうか。 はい。しかし、これはかなり大きな問題です。テレビ局のプロデユーサなら、その結論を有無も言わさず下すでしょうが。 原版が本人の手に戻るというのは、映像の世界では大変なことです。というのも、映像を利用する際に、「必ず原版を保存し利用するのはDupelicationだけ」という原則が守られないからです。アナログメディアはコピーするたびに、画質が低下するからです。 一旦本人の手からはなれれば、原版はばらばらになり、再収集したときには雑多なものが混じっている、というのが予想されることです。ですから、よりいっそう緻密な考証と吟味が必要なのです。 毎日放送の「女性ディレクター」はどこまでやったのかなあ? 渡辺さん、有難うございました。 2,962 hits -------------------------------------------------------------------------------- [358]Re(5) マギーフィルム画像と解説書 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/8(日) 23 38 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード 訂正です 1、ネガを現像下だけでは→現像しただけでは 2、日本のフィルムを重ね合わせて→二本のフィルムを重ね合わせて 3、Dupelication → Duplication 複製・コピーのこと 2,944 hits -------------------------------------------------------------------------------- [360]渡辺さんのページ、削除危機回避委員会 ←back ↑menu ↑top forward→ とほほ - 05/5/8(日) 23 57 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼msqさん: 関係ないことですが、「渡辺さんのページ」の最上部に 多いに関係ありますです。(笑) "現在ご覧頂いているページは移行手続きが完了していない為、<<削除>>の対象となっています。" という表示が出ています。<詳細>に"移行期間は2004年10月5日~2005年3月31日です。"とありますが、大丈夫ですか。管理者様、お手数ですが、用済みになればこのコメント削除して下さい。 これ、前にも思考錯誤で申し出ましたが、私のここのサーバーいつでも無料で貸しますから、渡辺さん声かけてくださいね。普通にftpアカウントを発行しますから。 2,894 hits -------------------------------------------------------------------------------- [364]16mmの白黒リバーサルフィルムは有ったけど ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/9(月) 10 01 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード -------------------------------------------------------------------------------- ~添付ファイル~ ・名前 : filmo.jpg ・サイズ : 31.5KB -------------------------------------------------------------------------------- ~添付ファイル~ ・名前 : kodak_plus_x.jpg ・サイズ : 5.6KB -------------------------------------------------------------------------------- ~添付ファイル~ ・名前 : kodak_tri_x.jpg ・サイズ : 6.7KB 上左は、マギー牧師が使っていたと思われる16ミリカメラ「フィルモ」 中、右は、コダックが今も売っているムービー用白黒リバーサルフィルム(8mm) カラーが主流になるまでは、16mmの白黒リバーサルフィルムも売れ筋だった。 日本での小型映画ブームは戦後 http //www.fujifilm.co.jp/history/dai3-06.html 小型映画の歴史は,1920年代から1930年代にかけて始まっている。この間,さまざまなサイズのフィルムが登場した。この中でも,17.5mm,16mm,9.5mmの3つの幅のフィルムが比較的多く使用された。そして,1932年(昭和7年),コダック社が“シネコダック8”を発売するに及び,8mm時代の夜明けを迎えることとなった。“シネコダック8”は,その後のダブル8システムのはしりで,幅16mm,長さ7.6mの両側せん孔フィルムを用い,片側を撮影後,スプールを上下入れ換えて反対側を撮影し,現像終了後,中央で裁断,両者のフィルムをつないで1本の8mm映画とし,それを映写機で鑑賞するという方式であった。同じころ,アグファ社でも8mmフィルムとカメラを開発し,また,ベル&ハウエル社などがカメラを発売した。その後も,各社がカメラを開発し,フィルムもスプール巻き・マガジン入りなど種々の方式が生まれたが,結局16mm幅のダブル8システムのスプール巻き方式が主流となっていった。 わが国でも,戦前からの8mm映画愛好家は,戦争による中断の後,1950年代に入ってから再び愛機を使って自作映画の製作にいそしみはじめ,また,アマチュア用スチル写真ブームの到来につれて,新たに8mm映画にも関心をもつ人びとも現われてきた。 ちなみに大戦中米軍が記録用に多用した16mmカラーフィルムはネガ・ポジ式ではなくてリバーサルフィルムだったそうです。 http //www.warmovie.com/cgi/off/cf.cgi?mode=all namber=227 rev=1 ============================== モノクロのリバーサルフィルムというのは、北米では1930年代のブームだったようです。 大不況の後の映画ブームから映写マンとして生きた人の回顧から。 LOOKING BACK Touchdown! 42 Years In the Motion Picture Industry by Kenneth R. Davey http //www.csc.ca/news/default.asp?aID=757 It all started in Winnipeg at the peak of the worst depression of the century, in 1932. There were no jobs, no unemployment insurance, no welfare to speak of, no training or technical facilities, no place to apprentice. Motion pictures were a fairly new business and we were far west of Toronto, out in the colonies so to speak, and therefore at a great disadvantage. After graduating from high school with only some experience as manager of my high school yearbook in 1932-33, and no possibility of university, I was able to get a job with the Hudson?s Bay store. There I got a chance to work in sales in the newly- formed Photographic Department at $4 a week in a six-day week from 9 a.m. to 6 p.m. each day. In 1935-36, I was made head of the department (a staff of three) and I received $6 a week, no overtime. You had to learn, fast?cameras, film processing, a host of other products and services?but then nobody else knew too much either. Most interesting to me was the fairly new non-flammable 16mm film that Kodak was producing, compared to the flammable 35mm film used in the movie business. The 35mm cellulose-based stock was the cause of many fires, due in part to the arc light sources necessary for theatre projection. The safety panchromatic reversal black white 16mm film made it possible for the amateur to get involved?and they did. The 16mm format was made to compete with and eventually replace the 9.5mm European size, with its single, between-frames sprocket. The 16mm American size gave a larger picture area, with sprockets on both edges (until sound came) for a steadier image. These were the days of silent footage and titles. Sound was just arriving in the theatres. We demonstrated and sold titlers of all sorts, from ones with adapter lenses for closeups and those for use with typewritten copy, to larger ones with loose fonts or hand-lettered cards. There was no through-the-lens viewing, so a lot of trial and error was the only way to learn. This introduced me to my really first film production job. It became my job in the photo department to take customers? film, cut out the bad parts, rearrange if required, splice in titles, etc., then teach the customers how to do it. I later found out that I had become some kind of editor. 1935-1936年ごろ、 16ミリのリバーサル白黒フィルムの出現が一番面白かった、とかかれています。 それは35ミリフィルムのように燃えることが無くアマチュアが扱える。それらは、両側にフィルム送りの穴が開いて安定し、ヨーロッパタイプの9.5ミリフィルムよりも画面が大きい、と。 また、劇場(35ミリ)ではトーキーに変わっていたが、16ミリはまだサイレント。だから簡易にタイトルが作れるキットを売りまくった。手早く映画をつくるためのサービスを次々に繰り広げた、といっています。 画像は、マギー牧師の遺品のカメラを紹介する、息子のデヴィッド・マギー氏。 http //www.geocities.jp/pipopipo555jp/mg_images/youshi.htm マギー牧師が南京で16ミリの撮影を行ったのはそうした時期です。彼が使ったカメラは、ベル&ハウエルのフィルモというカメラだと思います。ゼンマイ仕掛けでフィルムを送るカメラで100フィート装てん可能です。1秒あたり24コマで廻すと1巻は2分40秒、1秒あたり18コマだと3分30秒ほどになります。当時は確か後者ではないでしょうか。 なお、日本のテレビニュースのフィルム取材については、以下の記事が面白い。 映像取材から見たテレビ報道の歴史 br http //www.tbs.co.jp/cameraman/terada/terada1.html ■初期のテレビニュース http //www.tbs.co.jp/cameraman/terada/terada1.html#d カメラマンのたわごと http //www.tbs.co.jp/cameraman/terada/terada2.html 戦後の日本のテレビでは、モノクロリバーサルは使われていなかったようだ。 3,042 hits -------------------------------------------------------------------------------- [365]Re(5) マギーフィルム画像と解説書 ←back ↑menu ↑top forward→ 渡辺 - 05/5/9(月) 23 18 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼ピッポさん: 1、マギー牧師は16ミリのモノクロリバーサルフィルムの100フィートロールを使って撮影した。 ▼渡辺: 私の理解している範囲では、白黒の16mmフィルムは基本的にはネガで、リバーサルフィルムというものは存在しません。現像処理によってポジにもできます。アマチュアの場合、一般的には、すぐに映写できるようにポジで現像したものと思います。 あ、間違えました。コッダックが反転現像をしていたと思い違いをして投稿してしまいました。申し訳ない。 いいたいことは、コダックの16mmは基本的にはポジだということです。 フィッチは、"My Eighty Years in China"で、8巻のフィルムを上海にもちだしたとしています。 ということは、「解説書」の4巻と一致しませんね。8巻が全て未現像のフィルムだったのか、また、南京空爆以前のものも含んでいたのか、記述はあるのですか? 知りたいところです。 (以下の記述は、今回の投稿に際して検討した結果です。) 「解説書」というのは、『ドイツ外交官の見た南京事件』p.166以下に掲載のものだと思います。これは、ラーベがもっていたもののようです。ラーベの日記の独語版に同じものが収録されています。 「解説書」の最終版というべきものが、イエール神学院のマギー文書に収蔵されていて、それによりますと、フィルムの番号は1から12まであります。("Eyewitnesses to Massacre",p.201以下に収録。)フィルム1-4については、追加の記述を除いて内容が一致するようです。 なぜ、こういうことになるかといいますと、『ドイツ外交官の~』の「解説書」の日付は 1938年2月10日[p.166]となっているのですが、"最終版"では3月や4月撮影のフィルムも含まれているからです。 1938年2月10日という日付が意味することは、フィルム1-4が、2月10日以前に現像されており、南京にいたマギーが見ることができた、ということです。ということは、フィッチが1/29-2/12の上海訪問のときフィルム1-4を現像し、南京へ持ち帰ったということになります。また、Timperleyの2月16日付ホーンベック宛書簡で触れられているフィルムは、フィルム1-4のことだということにもなります。 フィッチが次に上海に行ったのは2月19日です。恐らくこのときも別のフィルムを上海へ持ちだしたものと思われます。これが、多分別途4巻あり、全部で8巻であったのを、フィッチは1度の上海行きで8巻を持ち出したと錯覚して回想録に書いたのではないかと推察されます。 「解説書」"最終版"の最後には Please return to Mrs.Forster 990, Jespeed RD. Shanghai とあります。これは、上海にいたフォスター牧師婦人がマギーのフィルムを管理し、フィルムを回覧していたことを示唆しているものと思います。なお、マギーは1938年の夏に米国に帰国したということです。(帰国の時期については、東京裁判で証言しているはずなので、後で調べてみます。) -- 参考 -- 1938年 1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目) 2/12? フィッチ、南京に戻る 2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう 2/23 ラーベ、南京を出発 2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発 2/27 ラーベ、上海到着 3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く 3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく --- 『予備のフィルム』これは、原文はどうなんでしょう。 何を本体とし、何を『予備』と言っているのでしょうか? 残念ながら、原文は手元にありません。 ここで、2本のプリントがアメリカに行くと、上海で4本のプリントを焼いたのでは、すでに足らなくなってしまいます。 「4本」というのは、コダックがフィッチに作ってくれたというコピーの数です。それを元に更にコピーされたかも知れないので総数は分からないというのが正解でしょう。 2,946 hits -------------------------------------------------------------------------------- [366]Re(6) マギーフィルム画像と解説書 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/10(火) 1 39 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード 渡辺さん、 克明なレスありがとうございます。 いいたいことは、コダックの16mmは基本的にはポジだということです。 コダックの16mm白黒フィルムには イ)撮影用ネガフィルム ロ)焼き付けプリント用ポジフィルム ハ)現像しただけで映写用の陽画が得られるリバーサルフィルム 以上3種があったようです。 フィッチは、"My Eighty Years in China"で、8巻のフィルムを上海にもちだしたとしています。 ということは、「解説書」の4巻と一致しませんね。8巻が全て未現像のフィルムだったのか、また、南京空爆以前のものも含んでいたのか、記述はあるのですか? 知りたいところです。 (以下の記述は、今回の投稿に際して検討した結果です。) 「解説書」というのは、『ドイツ外交官の見た南京事件』p.166以下に掲載のものだと思います。これは、ラーベがもっていたもののようです。ラーベの日記の独語版に同じものが収録されています。 「解説書」の最終版というべきものが、イエール神学院のマギー文書に収蔵されていて、それによりますと、フィルムの番号は1から12まであります。("Eyewitnesses to Massacre",p.201以下に収録。)フィルム1-4については、追加の記述を除いて内容が一致するようです。 なぜ、こういうことになるかといいますと、『ドイツ外交官の~』の「解説書」の日付は 1938年2月10日[p.166]となっているのですが、"最終版"では3月や4月撮影のフィルムも含まれているからです。 なるほど1-12。マギーフィルムも奥が深いのですね。 1938年2月10日という日付が意味することは、フィルム1-4が、2月10日以前に現像されており、南京にいたマギーが見ることができた、ということです。 「解説書」は、フィルムを映写して見てから書いたのでしょうか? 私はそうは思いません。今でこそ撮影したその場で見れるビデオの時代ですから、何を写したかは映像を見ながら書きます。しかし、フィルムの時代は違います。撮影したものが見れるのは、最低でも1週間も先なのですから、撮影したその日のメモこそがもっとも重要なスクリプトになります。 私は「解説書」は、マギーの個人的な「撮影記録メモ」から書き写して、2月10日に作成したものではないかと類推しています。 ということは、フィッチが1/29-2/12の上海訪問のときフィルム1-4を現像し、南京へ持ち帰ったということになります。 それは、別の証拠が必要ではありませんか? 上記の理由からです。 また、現像済みフィルムを持ち込んでみつかったら、大変ですね。何が写っているかわかってしまうのですから、フィッチはスパイ容疑がかけられるでしょう。現像前のものならば、フィルム缶を開けてしまえばすべての像が消えてしまうのですが。 また、Timperleyの2月16日付ホーンベック宛書簡で触れられているフィルムは、フィルム1-4のことだということにもなります。 フィッチが次に上海に行ったのは2月19日です。恐らくこのときも別のフィルムを上海へ持ちだしたものと思われます。これが、多分別途4巻あり、全部で8巻であったのを、フィッチは1度の上海行きで8巻を持ち出したと錯覚して回想録に書いたのではないかと推察されます。 あとの4巻は解説書の5-8なのでしょうか。まあ、これにこだわっていると先に進めませんね。 「解説書」"最終版"の最後には Please return to Mrs.Forster 990, Jespeed RD. Shanghai とあります。これは、上海にいたフォスター牧師婦人がマギーのフィルムを管理し、フィルムを回覧していたことを示唆しているものと思います。なお、マギーは1938年の夏に米国に帰国したということです。(帰国の時期については、東京裁判で証言しているはずなので、後で調べてみます。) なるほど、キーマンはフォスター夫人。Timperlyという席を暖めることができない男が、フィルムの管理なんかできませんね。 -- 参考 -- 1938年 1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目) 2/12? フィッチ、南京に戻る 2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう 2/23 ラーベ、南京を出発 2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発 2/27 ラーベ、上海到着 3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く 3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく --- 貴重なデータですね。ありがとうございます。 『予備のフィルム』これは、原文はどうなんでしょう。 何を本体とし、何を『予備』と言っているのでしょうか? 残念ながら、原文は手元にありません。 ここで、2本のプリントがアメリカに行くと、上海で4本のプリントを焼いたのでは、すでに足らなくなってしまいます。 「4本」というのは、コダックがフィッチに作ってくれたというコピーの数です。それを元に更にコピーされたかも知れないので総数は分からないというのが正解でしょう。 私がフィルムの種類を気にするのは、 1)Timperleyの「編集」の規模です。ネガで編集を行うのは専門家の力が必要です。 リバーサルでおこなうならば、Timperley自身でもできたかもしれません。つまり、Timperleyのかかわり方です。 2)いずれにしても、ネガフィルムでマスターを作らなければ、3本以上のプリントを作るのは不自由だったでしょう。マスターは、リバーサルから焼着付けた場合は、画質はかなり劣化します。 3)そうした事実が、残されたフィルムの考証(どちらがオリジナルかといった)に役立つでしょう。 とまれ、こうやって苦労してフィルムを残してくれた人々に厚く感謝いたします。 マギーフィルムは世界人類の遺産です。 南京事件の悲惨を記録するとともに、国際安全区という 戦時の中でのヒューマニズムの偉業を私たちに伝えてくれるからです。 2,952 hits -------------------------------------------------------------------------------- [367]Re(2) 写真119 「夏琴淑さん事件」 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/11(水) 7 57 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード マギーの東京裁判での証言から。 ゆうさん 「小さな資料集」 『マギーが証言したこと』より http //www.geocities.jp/yu77799/magee.html 続いて、有名な「夏淑琴さん事件」の証言が見られます。 ○マギー証人 一月の終り頃になりまして、私は南市の方へ参りまして沢山の街で色色な事件が起こつたのを承知したのでありますが、其の中で特に私の申上げようと思ひますのは、新開路六番<地>の家で起つた事件であります。 ○サトン検察官 それは何年のことですか。 ○マギー証人 一九三八年のことであります。私が参りました道は南門の丁度内側にあつたのでありますが、そこで中国人の話します所に依りますと、其の辺りで約五百人の中国人が殺されたと云ふ話でありました。 私は新開路の六番地の家へ連れて行かれて見せられたのでありますが、それは案内したのは非常に年を取つた母方の祖母さんでありましたが、そこでは多数の中国人の子供が死んだと云ふ話でありました。 其の家に十三人の人が住んで居つたのでありますが、唯二人の子供だけが逃げたのであります。其の中に一人の少女、其の年は約八歳から九歳位の一人の少女でありましたが、其の少女の話に依りますと、日本兵が入つて来た時に背中を二度ばかり刺された、さうして其の時にはもう傷は大体治つて居りましたが、其の刺された傷を私は現に見たのであります。写真を撮つて参りました。 約三十名の日本兵がやつて来まして入口の所で大きな声で怒鳴つたのであります。回教徒の人が戸を開けました所が、即座に日本兵はそれを殺したのであります。さうして其の後ろに跪づいて居る男を殺し、又其の妻を殺したのであります。(モニターによる修正後の文) それから此の兵隊は、私が先程申しました一寸広場の横の所へ是等の人を連れて行きまして、さうして十四歳から十六歳位の女の子を裸にしようとしたのであります。 先程申しました非常に父方の祖母が其の女の子を保護しようと致しました所が直ぐに殺されたのであります。其の人は七十九歳でありました。其の主人は七十六歳でありましたが、腕を妻の方に差延べようとした所を殺されました。 それから是等の日本兵は此の少女達を強姦したのであります。先程申しました案内役に立つた其の祖母は、此の部屋に行つて、竹の棒を女の膣から引摺り出して持つて来たのであります。是等の女は強姦され且つ殺されたのであります。(モニターによる 追加後の文) 其の時には其の小さな娘と、それから彼女自身とが居たのでありますが、それ以外に其の娘の子の弟になります四歳になる男の子が居たのでありますが、其の男の子は女の子の着物を着て居つた為に、其の竹で突き刺されたと云ふことであります。男の子が女の着物を着て居つた為に竹で突き刺された、と云ふことは、それが男であるか女であるかと云ふことの証明にはなりませぬが、兎に角其の子供が二回突かれたのであります。 其の広場に面して居る他の家の出来事でありました。一人の母親が小さな一歳の子供と共に「ベッド」の下に隠れて居つたのであります。日本兵はその女を強姦し、さうして後に其の女も殺し、又赤ん坊も殺してしまつたのでありますが、後程行つて見ますと、其の殺された女の膣の中には瓶が入れてあつたのであります。(モニターによる修正後の文) 或る女の子から、他の殺人に付て話を聞きましたが、其の子供の年は分かりませぬけれども、頭から日本刀で斬られたのであります。(モニターによる修正後の文) 其の死体は家の中から外に引摺り出されたのでありますが、私が行つた時は丁度其の事件が起つてから約六週間のことでありましたが、到る処に血が散乱して居つたのであります。若し私が色を出す活動写真の映写機を持つて居たならば、其の時の血の色の工合をはつきりと写し取ることが出来ただらうと思ふのであります。即ち其の中の一人の少女が強姦された机の上、それから他の少女が殺された床の上には到る処に血が散乱して居つたのであります。 其の老婆は私を更に其の広場の近くに連れて行つて案内したのでありますが、さうして其処で、竹の菰が其の死体の上に掛けてあるのを取除けて其の死体を私に見せたのであります。其の死体は一つは約十四歳の少女、もう一つは十六歳の少女、それからもう一つは其の老婆の娘である一歳の嬰児のお母さんと一緒に其処に死んで居りました。 (『南京大残虐事件資料集 第1巻』 P95~P96) 3,602 hits -------------------------------------------------------------------------------- [368]Re(3) 東中野修道氏のトリック ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/11(水) 8 36 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ゆうさん「小さな資料集」 東中野氏の徹底検証 10 夏淑琴さん事件 http //www.geocities.jp/yu77799/higasinakano111.html それはともかく、東中野氏の「トリック」を解説しましょう。まず、東中野氏の記述から。 ここに、もう一つ、この「八歳の少女」の語った事件にかんして、許伝音が東京裁判で証言したことを付け加えておきたい。・・・許伝音は、十七歳(十六歳の間違い)と十四歳の少女の死体が「テーブルの上の血の海の中」と「ベッドの血の中」に横たわっていた、と証言した。「日支紛争」の中のマギーの説明によれば、マギーが現場に行ったときは、すでに「死体が全て取り除かれ」ていたのではなかったか。これは許伝音の偽証であった。(「徹底検証」P250~251) 東中野氏の引用する、「日支紛争」の中の「マギーの説明」は、以下の通りです。 (略)写真撮影者の私が、この話の一部を得ることができたのは、上の八歳の少女からで、詳細は一人の隣人と一人の親戚から語ってもらって、確認と訂正ができた。 兵士たちは毎日この家に物を取るためやってきたが、二人は古い敷布の下に隠れていたので発見されなかったと、この八歳の少女は語った。 このような恐ろしいことが起こり始めた時、近所の住民はみな避難民地帯に逃げた。それから十四日して、このフィルムに出て来る老女性が近所に戻って、二人の子供を発見した。その後、死体が全て取り除かれたあとの部屋に、写真撮影者の私を案内したのは、この老女性であった。彼女や、シアさんの弟と、この小さな女の子に対する質問を通じて、恐るべき悲劇についての疑問の余地なき理解が得られたのである。(「徹底検証」P242) 確かにこれだけを見ると、マギーは「死体が全て取り除かれたあとの部屋」に入り、死体を全く目撃せずに「聴取」のみで記録を書いたように見えます。ところが、これはトリックでした。以下、検証していきましょう。 -------------------------------------------------------------------------- まず、「許伝音」の「証言」から。なお、東中野氏の引用部分は、正確には「証言」ではなく、「証言」とは別に文書で提出された「宣誓口供書」の記載です。以下、引用します。 極東軍事裁判 許伝音 宣誓口供書 十三才以上、七十以下の女と云ふ女は日本兵<に>陵辱されました。屡屡続けざまに陵辱を受けたのであります。幾千とも知れない女達は、日本兵に陵辱された揚句に殺されて屍体までも汚されて居ました。市中及び其の外郭で繰り返し行は<れ>たこの兵士共の行為の例証として、私は南門の『シンカイ路七番地』の例を引用します。その家では十一人が殺されたのであります。 (略)その家族には十七と十四になる二人の未婚の女の子がありました。二人とも兵士に陵辱を受け<た>揚句に殺されました。一人の女の子はテーブルの上の血の海の中で膣に棒切をつきこまれて横<た>わつて居り、もう一人は香水の瓶を膣につきさされて『ベッド』の血の中に横<た>わつて居たのでありました。 (「南京大残虐事件資料集 第1巻」 P29) 第一のトリック。東中野氏は、引用部分をあたかも許伝音の「目撃証言」であるかのように語っていますが、これは、「兵士共の行為の例証」としての「引用」であり、「目撃証言」ではありません。 実際の「目撃証言」は、次の通りです。 極東軍事裁判 許伝音証言 ・・・是等の強姦された婦人の中二人は十四歳であり、一人は十七歳でありました。・・・此の若い娘さんは卓の上で強姦され、さうして其の卓の上にまだ血が流れているのを私は見ました。それから私達は又其の死骸を見ました。是等の死骸は其の家から数「メートル」離れた所に放ってあったのであります。「マギー」さんと私は是等の死骸の写真を撮りました。何となれば是等の死体は裸であり、さうして酷い傷を受けて居つたことがはつきりして居つたからであります。 (「南京大残虐事件資料集 第1巻」 P29) 第二のトリック。部屋から「取り除かれた」死体は、実は家から数「メートル」離れたところにあったわけです。許伝音は、家の外で死体を目撃し、「マギー」とともに死体の写真を撮りました。 ------------------------------------------------------------------------ かつこれに加えて、「マギーの説明」の方にも「トリック」があります。この文は、「徹底検証」が出版された1999年より後の2001年に出た、「ドイツ外交官が見た南京事件」に収録されていますが、これを読むと、この文は、実は「マギーフィルム」の解説書であったことがわかります。 「ドイツ外交官の見た南京事件」と東中野氏の引用を比較すると、東中野氏の方には、最後の2行が脱落していることに気がつきます。 マギー牧師の解説書(最後の2行のみ引用。東中野氏の引用文の続き) ・・・彼女と夏氏の兄、さらには八歳の少女に問いただすことによって、この惨劇に関する明確な知識が得られた。このフィルムは、同じころに殺害された人の屍の群に横たわる十六歳と十四歳の少女の死体を映し出している。夏夫人と彼女の赤ん坊は最後に映し出される。(「ドイツ外交官が見た南京事件」P177) 東中野氏は、マギーが死体を目撃していないかのような文を書きましたが、実際には、マギーも死体を目撃して、これを撮影していました。 東中野氏は、以上、3つのトリックを使って、「許伝音の偽証」を作り上げたわけです。 ================================================================== 『南京大虐殺 日本人への告発』p.166-167 http //www.asyura2.com/0406/dispute19/msg/504.html より転載 夏淑琴さんの証言 新路口(Hsin Lu Ko)五番地は、私の家です。 … 日本兵たちは私の父を追いかけ回し後ろから撃ち殺したんです。彼らはとなりの家に住んでいた二人の子供と両親も殺しました。その後、彼らは私の一番下の妹を、彼女はまだ赤ん坊だったのですが、母の腕から取り上げて床に投げつけ殺しました。それから彼らは母の着ているものをはぎ取りました。私たちは広間の反対側のドアの後ろに隠れて一部始終を見たのです。日本兵たちは母を一人残すなんてことはしませんでした。 … 兵士たちが私の一番上の姉をテーブルに載せ、パンツを引き下ろし、繰り返し強姦するところを見たんです。私は三回刺され気を失いました。気が付いたとき二番目の姉が裸で倒れているのが見えました。彼女は強姦され殺されたのでした。 … 彼らが憎いです。ひどく憎い。どうしてそんなに残酷で野蛮だったんでしょう。私たちが彼らに何をしたと言うのですか。本当にわからない! (『南京大虐殺 日本人への告発』p.166-167) 3,985 hits -------------------------------------------------------------------------------- [369]Re(6) 私の頭の中の困った事象 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/11(水) 15 07 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼渡辺さん: -- 参考 -- 1938年 1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目) 2/12? フィッチ、南京に戻る 2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう 2/23 ラーベ、南京を出発 2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発 2/27 ラーベ、上海到着 3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く 3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく --- 渡辺さん、私の頭の中に困った事象がおきました。 それは、George Fitch の回想録における、 「マギーフィルム運搬エピソード」に関することです。 北村稔「南京事件の探求」からの引用(キャッシュのみ残) フィッチが南京から上海に移動したのは、回想録の文面から判断して一九三八年の一月十九日である。日本軍の許可を得て、軍用列車で日本兵とともに上海に到着した。フィッチは次のように言う。 「私はそのとき〔中略〕オーバーの裏地に、虐殺場面を撮った十六ミリのネガフィルムを八リール(ほとんどは大学病院で撮影したもの)を縫い込んでいたので、少し気をつかった。〔中略〕幸いにして、それらはみつからなかった。上海につくとただちに、フィルムを複写するためにコダックの営業所へ持っていった。〔中略〕コダック代表は急いで四セットを作成してくれた」。 笠原十九司「南京難民区の百日」からの引用 http //www.jca.apc.org/nmnankin/nanmin28.html 2)1月下旬、ジョージ・フィッチは日本軍の軍用列車に乗って上海へ向かった。オーバーの裏地にはマギーが撮影した16ミリのネガフィルム8リールが縫いこんであった。日本軍の残虐行為の証拠となるものである。上海でコピーを4セット作製し、香港を経由しアメリカへと飛び立った。 彼の渡米の目的は南京の状況をアメリカ政府と国民に知らせるとともに、南京をはじめとして戦禍で苦しむ中国の難民を救済するためのキャンペーンを全米で展開し、救済資金を集めることにあった。 ご覧のように、どちらも1月下旬に日本の軍用列車に乗って運んだ、となっています。 そうして、フィッチは1ヶ月上海に滞在したことになっています。 しかし渡辺さんご指摘のようにラーベの日記によれば、フィッチは、 1月29日に上海にBee号で行って、2月4日にラジオ上海に出演し、 2月12日に南京に戻り、2月179日にはラーベとともにヴォートリン主催のお別れパーティーに出ています。 疑問-1 上記の回想録からの引用の方が間違っていると思われます。 フィッチが列車で移動したのは2回目の2月19日だったのでしょう。 この間違いは、翻訳作業のどこかで誤記があったのでしょうか? それとも、フィッチの回想に誤りがあったのでしょうか? 渡辺さんは、原書"My Eighty Years in China"をお持ちだそうで、 お時間が有るときにご確認いただけないでしょうか? なお、Timperleyのホーンベック宛書簡が2月16日付ですから、 渡辺さんが仰るように、2月19日に運び出したのでは、日時が前後してしまいますから、1月29日に運び出したと考えるのが順当です。 そうすると、 マギーフィルムは、1月29日にBee号に乗ったフィッチによって上海に運ばれ、 上海着は2月2日か3日か? それを、Timperleyが編集して、上海コダックが4セットのプリントをつくる。そうして、(船に乗ってか?)フィッチが2月12日に南京に戻る。ということになって、フィルムの現像→編集→プリント作業としてはぎりぎりで、余裕がなくても不可能ではありません。 疑問-2 そうした日時手順を考えますと、マギーが現像、編集済みのフィルムを見て「解説書」を書き、2月10日づけでドイツ大使館分室文書に添付することは、物理的に不可能です。 その点でも、私の勝手な推論「マギーは現像済みのフィルムではなく撮影記録を見ながら解説書を書いた」に幾分か理があります。 ところがところが、 「マギーフィルムの解説書」を読み返してみますと、その記述の順番が、撮影日時順ではなさそうだということに気がついたのです。 ということは、 1、2月10日以前にマギーは、編集されたものを見て「解説書」を書いた。 2、それは、1月29日にフィッチが運び出して、フィッチが持ち帰ったのでは間に合わない、 3、つまり巻1から巻4は、それ以前に上海に運ばれていた。 4、考えられるのは、ドイツ大使館が「外交文書として」上海に運んだということです。 5、それが現像されて戻り、ヒットラー宛に送付するために添付する「解説書」の執筆をマギーに依頼した。 6、とするとそれは、マギーフィルムの前編ということになるかもしれません。 X、それともフィッチは、密かに1月29日以前にも上海に行って帰ってきたのか?あるいは、別の誰かが運んだことをフィッチのしたことにしたのか? Y、矛盾無く解釈することができません。 以上、 己の読み方の未熟さからくる疑問です。 渡辺さんのお手元を騒がせて申し訳ありません。 [管理人一回修正 タグ] 2,974 hits -------------------------------------------------------------------------------- [370]Re(7) 訂正です ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/11(水) 15 13 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード 2月12日に南京に戻り、2月179日にはラーベとともにヴォートリン主催のお別れパーティーに出ています。 2月179日→2月17日 2月に179日は有りません(苦笑。大汗) 2,984 hits -------------------------------------------------------------------------------- [374]Re(7) マギーフィルム画像と解説書 2月10日とい... ←back ↑menu ↑top forward→ 渡辺 - 05/5/14(土) 17 31 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード 渡辺 1938年2月10日という日付が意味することは、フィルム1-4が、2月10日以前に現像されており、南京にいたマギーが見ることができた、ということです。 ▼ピッポさん: 「解説書」は、フィルムを映写して見てから書いたのでしょうか? 私はそうは思いません。今でこそ撮影したその場で見れるビデオの時代ですから、何を写したかは映像を見ながら書きます。しかし、フィルムの時代は違います。撮影したものが見れるのは、最低でも1週間も先なのですから、撮影したその日のメモこそがもっとも重要なスクリプトになります。 結論から言いますと、1938年2月10日には映写可能なフィルムがマギーの手元にありました。10日には複製がドイツ大使館に提供され、11日にはラーベが見ています。 『ドイツ外交官の見た~』p.166以下掲載のフィルム「解説書」が添付されていた手紙によれば、マギーが「コダック上海支店に支払う費用と引き替えに複製フィルムの提供を申し出た」こと、複製フィルムが外務省に送られるだろうことが書かれています。[p.162]この文書は、ラーベの日記にもありますが、講談社版には収録されていません。[英語版、p.187] 1938年 1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目) 2/12? フィッチ、南京に戻る 2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう 2/23 ラーベ、南京を出発 2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発 2/27 ラーベ、上海到着 3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く 3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく ここで問題となるのが、フィッチが上海から南京へ戻った日付です。 前回の投稿ではうっかりしていたのですが、フィッチが南京に帰ったのは、上の手紙の日付2月10日より後の12日となっており、明らかに矛盾しておりました。 上記の日程表は、調べものなどをした機会に蓄積している私の時系列"データベース"を元に作ったものです。2月12日にフィッチが帰ってきたということは、ラーベやヴォートリンの日記に書かれています。それにもかかわらず、この日付に疑問を持った理由があったわけですが、それをメモしておかなかったので、その根拠が分からなくなってしまいました。 そこで、フィッチがいつ南京に帰ったのか、この頃に書かれた文書をあらためて調べてみました。その結果、フィッチの1938年2月14日付 Peter Shih 宛て書簡に、10日に帰ったと書かれていることがわかりました。 --- There is also a chance that I shall be going to Shanghai again next week. I went the time before, leaving Jan.29, by a British gunboat, the Bee, and returned the 10th by the U.S.S. Oahu.["Eyewitnesses to Massacre","p.105] --- マギーは2月10日にフィルムを受取ると、即日「解説書」を作成してドイツ大使館に複製フィルムを提供し、翌日にはラーベたちにフィルムを見せたと考えられます。[ラーベの日記2月11日記述、『南京の真実』p.244 参照のこと] 従って、フィッチはフィルムを1月29日~2月10日の上海行きのとき持ち出し、上海で現像して持ち帰ったということになるでしょう。フィルムの原版の行方については今のところ史料はありませんが、親しかったフォスター牧師の、上海にいた婦人に預けられた可能性が高いでしょう。その場合、フィッチが上海で受取った複製のうち3本の行方は、 上海のTimperley、南京のローゼン、マギーということになります。この3本はマギーが撮影した4本のフィルムをそのまま複写したものということになるでしょう。 また、現像済みフィルムを持ち込んでみつかったら、大変ですね。何が写っているかわかってしまうのですから、フィッチはスパイ容疑がかけられるでしょう。現像前のものならば、フィルム缶を開けてしまえばすべての像が消えてしまうのですが。 史料がないと、細かい状況はなんとも言えませんが、行きは英国のBee号、帰りは米国 Oahu号ですから、個人の荷物までは検査できなかったのではないかと思います。 フィッチが上海に日本軍の列車で行ったというのは、フィッチの回想録によるもので、これは2月19日の上海行きのことでしょう。 私がフィルムの種類を気にするのは、 1)Timperleyの「編集」の規模です。ネガで編集を行うのは専門家の力が必要です。 リバーサルでおこなうならば、Timperley自身でもできたかもしれません。つまり、Timperleyのかかわり方です。 2)いずれにしても、ネガフィルムでマスターを作らなければ、3本以上のプリントを作るのは不自由だったでしょう。マスターは、リバーサルから焼着付けた場合は、画質はかなり劣化します。 3)そうした事実が、残されたフィルムの考証(どちらがオリジナルかといった)に役立つでしょう。 私がオリジナルといっているのは、写された映像がそのまま編集されずに残っているものをいいます。複写かどうかは大きな問題には思えません。文書史料が複写されたものである場合と、同種の状況ということになるでしょう。 2,978 hits -------------------------------------------------------------------------------- [376]Re(8) マギーフィルム画像と解説書 2月10日とい... ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/14(土) 19 15 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼渡辺さん: 渡辺 1938年2月10日という日付が意味することは、フィルム1-4が、2月10日以前に現像されており、南京にいたマギーが見ることができた、ということです。 ▼ピッポさん: 「解説書」は、フィルムを映写して見てから書いたのでしょうか? 私はそうは思いません。今でこそ撮影したその場で見れるビデオの時代ですから、何を写したかは映像を見ながら書きます。しかし、フィルムの時代は違います。撮影したものが見れるのは、最低でも1週間も先なのですから、撮影したその日のメモこそがもっとも重要なスクリプトになります。 結論から言いますと、1938年2月10日には映写可能なフィルムがマギーの手元にありました。10日には複製がドイツ大使館に提供され、11日にはラーベが見ています。 『ドイツ外交官の見た~』p.166以下掲載のフィルム「解説書」が添付されていた手紙によれば、マギーが「コダック上海支店に支払う費用と引き替えに複製フィルムの提供を申し出た」こと、複製フィルムが外務省に送られるだろうことが書かれています。[p.162]この文書は、ラーベの日記にもありますが、講談社版には収録されていません。[英語版、p.187] 1938年 1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目) 2/12? フィッチ、南京に戻る 2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう 2/23 ラーベ、南京を出発 2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発 2/27 ラーベ、上海到着 3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く 3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく そこで、フィッチがいつ南京に帰ったのか、この頃に書かれた文書をあらためて調べてみました。その結果、フィッチの1938年2月14日付 Peter Shih 宛て書簡に、10日に帰ったと書かれていることがわかりました。 --- There is also a chance that I shall be going to Shanghai again next week. I went the time before, leaving Jan.29, by a British gunboat, the Bee, and returned the 10th by the U.S.S. Oahu.["Eyewitnesses to Massacre","p.105] --- マギーは2月10日にフィルムを受取ると、即日「解説書」を作成してドイツ大使館に複製フィルムを提供し、翌日にはラーベたちにフィルムを見せたと考えられます。[ラーベの日記2月11日記述、『南京の真実』p.244 参照のこと] 日本語版のマギー日記の2月11日(P244)では、 マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムがおびただしいフィルムを持ってきた。ローゼンは上海で複製を作らせている。ベルリンに送るつもりだ。私にも一本くれることになっている。(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚え阿がある。そのうち幾人かとは、いまわのきわに話ができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人達も写っていた。 渡辺さんのご指摘で、めくりなおしたら見つかりました。見落としていました。 フィッチは2月10日に南京に戻ったが、ラーベのところにソーセージ、チーズ、インシュリン、郵便物をもって現われたのは2月12日だったのですね。(あるいは、何日かまとめて日記を書くうちに、1~2日のずれが生じたかも) そうして、マギーは2月10日にフィッチが持ってきた編集済みフィルムを大急ぎで見て、 その日のうちに「解説書」を手書きで書いた。(後にドイツで発見された「解説書」が、確かにマギーの筆跡だということは、「目撃者の南京事件」にあります)。そうして翌日にはラーべにも見せた。 このように素早い段取りをDirectしたのは、ドイツ大使館書記官のローゼンだったのですね。 先の2月11日のラーべ日記(日本語版)は、こうなっています。 13時 ローゼン宅で、イギリス砲艦クリケットの将校たちと昼食。感じのいい人たちだ。まだ荷造りが終わっていないのは残念だ。そうでなかったら明日クリケット号で発てたのに。 とあって、それが次に続いています。 マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムがおびただしいフィルムを持ってきた。ローゼンは上海で複製を作らせている。ベルリンに送るつもりだ。私にも一本くれることになっている。(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚え阿がある。そのうち幾人かとは、いまわのきわに話ができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人達も写っていた。 おそらく、クリケット号の出向に間に合うように、ヒットラーにフィルムを見せるための「解説書」が作成されたと予想されます。 従って、フィッチはフィルムを1月29日~2月10日の上海行きのとき持ち出し、上海で現像して持ち帰ったということになるでしょう。フィルムの原版の行方については今のところ史料はありませんが、親しかったフォスター牧師の、上海にいた婦人に預けられた可能性が高いでしょう。その場合、フィッチが上海で受取った複製のうち3本の行方は、 上海のTimperley、南京のローゼン、マギーということになります。この3本はマギーが撮影した4本のフィルムをそのまま複写したものということになるでしょう。 また、現像済みフィルムを持ち込んでみつかったら、大変ですね。何が写っているかわかってしまうのですから、フィッチはスパイ容疑がかけられるでしょう。現像前のものならば、フィルム缶を開けてしまえばすべての像が消えてしまうのですが。 史料がないと、細かい状況はなんとも言えませんが、行きは英国のBee号、帰りは米国 Oahu号ですから、個人の荷物までは検査できなかったのではないかと思います。 フィッチが上海に日本軍の列車で行ったというのは、フィッチの回想録によるもので、これは2月19日の上海行きのことでしょう。 私の推理では 2月10日にフィッチが持ち帰ったフィルムはドイツ送致用の1本だったと思われます。 マギー、ラーべ、フィッチは帰国時に上海で受け取ったと思います。 最初に未現像フィルムを上海に送ったのが、フィッチだったかは確証がありません。 2月10日に南京に持ち帰ったのは、渡辺さんのおかげで確かになりました。 私の勘ですが、「Timperleyがタイトルをつけたい」といっていたのは、後続のフィルムを併せたものの、『編集構想』ではなかったかと思います。 詳しく読み解く時間がないので、今日のところはこれにて御免蒙ります。 渡辺さん、有難うございました。 2,990 hits -------------------------------------------------------------------------------- [379]Re(9) マギーフィルム画像と解説書 2月10日とい... ←back ↑menu ↑top forward→ 渡辺 - 05/5/15(日) 0 33 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼ピッポさん: フィッチは2月10日に南京に戻ったが、ラーベのところにソーセージ、チーズ、インシュリン、郵便物をもって現われたのは2月12日だったのですね。(あるいは、何日かまとめて日記を書くうちに、1~2日のずれが生じたかも) これは、両方とも正しいのかもしれません。ベイツも12日の午後にオアフ号が「寄港予定」と前日付の手紙に書いています。 --- シール 一九三八年二月十一日 南京 最愛の人 .... ...オアフ号は明日午後寄港予定だが、到着はいつものとおり遅れるだろうし、上陸時間もとても短い。フィッチがオアフ号に乗船しているとは意外だ。が、おそらく身の回りを整理するために戻ってくるのだろう。[『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.331] --- オアフ号は一旦近くに係留し、荷物だけを先に小型の船で陸地に運んだということが考えられます。これが、2月10日で、フィッチが上陸したのが12日午後だと考えればつじつまが合います。 先の2月11日のラーべ日記(日本語版)は、こうなっています。 この訳は例によって要注意です。 マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムがおびただしいフィルムを持ってきた。 →「マギー牧師が残虐行為の映画(複数)を撮影した。」 ローゼンは上海で複製を作らせている。 →「ローゼン博士は上海で複製を作らせるつもりだ。」 私にも一本くれることになっている。 →「私も後で別の複製を入手することになっている。」 最初に未現像フィルムを上海に送ったのが、フィッチだったかは確証がありません。 誰か他に可能性があるでしょうか? 1月23日に、クレーガーが上海に向かいました。[ラーベの日記 1/23記述、『南京の真実』p.200]クレーガーは日本軍の占領後に南京から出た最初の安全区の外国人だったと思います。しかし、クレーガーが出発した後の1月24日に銃剣で刺された男性の映像が写っていることが「解説書」の(八)からわかります。従って、1月29日に南京を出たフィッチ以外にフィルムを持ち出した人は考えられないと思います。 2,998 hits -------------------------------------------------------------------------------- [380]Re(10) マギーフィルム画像と解説書 2月10日と... ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/15(日) 0 57 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード 先の2月11日のラーべ日記(日本語版)は、こうなっています。 この訳は例によって要注意です。 マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムがおびただしいフィルムを持ってきた。 これは マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。 でした。ごめんなさい。 →「マギー牧師が残虐行為の映画(複数)を撮影した。」 うむ。ここは英文はいかがですか? ローゼンは上海で複製を作らせている。 →「ローゼン博士は上海で複製を作らせるつもりだ。」 私にも一本くれることになっている。 →「私も後で別の複製を入手することになっている。」 最初に未現像フィルムを上海に送ったのが、フィッチだったかは確証がありません。 誰か他に可能性があるでしょうか? 1月23日に、クレーガーが上海に向かいました。[ラーベの日記 1/23記述、『南京の真実』p.200]クレーガーは日本軍の占領後に南京から出た最初の安全区の外国人だったと思います。しかし、クレーガーが出発した後の1月24日に銃剣で刺された男性の映像が写っていることが「解説書」の(八)からわかります。従って、1月29日に南京を出たフィッチ以外にフィルムを持ち出した人は考えられないと思います。 はいご明察、確かに確認いたしました。 http //www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#4-8 3,010 hits -------------------------------------------------------------------------------- [381]Re(11) マギーフィルム画像と解説書 2月11日の... ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/15(日) 7 48 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード 渡辺さん 再確認お願いできますか? この訳は例によって要注意です。 マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。 →「マギー牧師が残虐行為の映画(複数)を撮影した。」 ローゼンは上海で複製を作らせている。 →「ローゼン博士は上海で複製を作らせるつもりだ。」 私にも一本くれることになっている。 →「私も後で別の複製を入手することになっている。」 だろすると、2月11日のラーべ日記(日本語版)は、こうなる。 13時 ローゼン宅で、イギリス砲艦クリケットの将校たちと昼食。感じのいい人たちだ。まだ荷造りが終わっていないのは残念だ。そうでなかったら明日クリケット号で発てたのに。 マギー牧師が残虐行為のフィルムを撮った。ローゼン博士はその複製を上海で作らせるつもりだという。1本はベルリンに送るつもりで、私も後で別の複製を入手することになっている。(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚えがある。そのうち幾人かとは、いまわのきわに話ができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人達も写っていた。 この日フィルムを見せてくれたのは、マギーではなくローゼンだったかも知れませんね? マギーが同席したかもしれないが、同席してなかったかもしれない。マギーがフィルムを持ってきたわけではない?(took pictures でしょうか? had took pictures でしょうか?brought ではない?)英文ではどのように判断できますか? 3,022 hits -------------------------------------------------------------------------------- [382]Re(12) マギーフィルム画像と解説書 2月12日記述 ←back ↑menu ↑top forward→ 渡辺 - 05/5/15(日) 15 02 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼ピッポさん: この日フィルムを見せてくれたのは、マギーではなくローゼンだったかも知れませんね? マギーが同席したかもしれないが、同席してなかったかもしれない。マギーがフィルムを持ってきたわけではない?(took pictures でしょうか? had took pictures でしょうか?brought ではない?)英文ではどのように判断できますか? Reverend John Magee has taken motion pictures of the atrocities. Dr. Rosen is having a copy of the film made in Shanghai, which he then wants to forward to Berlin. I m supposed to get another copy later, too. I saw some of the casualties(shown in the film)and was able to speak with a few before they died.[英語版 p.188] -- 参考 独語版 -- Reverend John Magee hat einen Film von Greueltaten aufgenomen. Dr. Rosen laesst sich eine Kopie des Films in Shanghai anfertigen, die er nach Berlin schicken will. Ich soll spaeter auch eine Kopie erhalten.Verschiedene der (im Film gezeigten) Verwundeten habe ich gesehen und einige auch noch sprechen koennen, bevore sie starben.[独語版 p.259] (文字表記: ae=aウムラウト、oe=oウムラウト、ss=β(エスツェット) あ、いかん。映画は、einen Film と単数でした。なお、Filmには、「フィルム」の他に「映画」という意味があります。 aufgenomenは、aufnehmen(英語のtakeに相当) の完了形で、「取る」とか映画や写真を「撮影する」という意味があります。私、独語は大分忘れましたのでよろしく。 「 ジョン・マギー師は残虐行為の映画を撮影した。ローゼン博士は上海で映画の複製を作り、それをベルリンに送るつもりだ。私も後で複製を入手するつもりだ。さまざまな負傷者(映画に現れた)を私は見たことがあり、何人かは彼らが死ぬ前に話すことすらできた。」 それから、これに続く文は、「彼らの何人かの遺体を、私は鼓楼病院の遺体安置所で見せられた。」ですね。『南京の真実』は「適当訳」です。 ローゼンの手紙の意味するところは、複製費用をドイツ大使館の負担とする条件でフィルムの複製を上海で作ってもよいという申出をマギーから受けたということかもしれません。 3,035 hits -------------------------------------------------------------------------------- [383]Re(13) マギーフィルム画像と解説書 2月12日記述 ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/15(日) 16 20 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼渡辺さん: ▼ピッポさん: この日フィルムを見せてくれたのは、マギーではなくローゼンだったかも知れませんね? マギーが同席したかもしれないが、同席してなかったかもしれない。マギーがフィルムを持ってきたわけではない?(took pictures でしょうか? had took pictures でしょうか?brought ではない?)英文ではどのように判断できますか? Reverend John Magee has taken motion pictures of the atrocities. Dr. Rosen is having a copy of the film made in Shanghai, which he then wants to forward to Berlin. I m supposed to get another copy later, too. I saw some of the casualties(shown in the film)and was able to speak with a few before they died.[英語版 p.188] -- 参考 独語版 -- Reverend John Magee hat einen Film von Greueltaten aufgenomen. Dr. Rosen laesst sich eine Kopie des Films in Shanghai anfertigen, die er nach Berlin schicken will. Ich soll spaeter auch eine Kopie erhalten.Verschiedene der (im Film gezeigten) Verwundeten habe ich gesehen und einige auch noch sprechen koennen, bevore sie starben.[独語版 p.259] (文字表記: ae=aウムラウト、oe=oウムラウト、ss=β(エスツェット) あ、いかん。映画は、einen Film と単数でした。なお、Filmには、「フィルム」の他に「映画」という意味があります。 aufgenomenは、aufnehmen(英語のtakeに相当) の完了形で、「取る」とか映画や写真を「撮影する」という意味があります。私、独語は大分忘れましたのでよろしく。 「 ジョン・マギー師は残虐行為の映画を撮影した。ローゼン博士は上海で映画の複製を作り、それをベルリンに送るつもりだ。私も後で複製を入手するつもりだ。さまざまな負傷者(映画に現れた)を私は見たことがあり、何人かは彼らが死ぬ前に話すことすらできた。」 それから、これに続く文は、「彼らの何人かの遺体を、私は鼓楼病院の遺体安置所で見せられた。」ですね。『南京の真実』は「適当訳」です。 渡辺さん、大変な書き写し作業、ほんとうに有難うございました。 ドイツ語はもちろん、英語もダメな私なので、どうしようも有りませんが、 ここの記述のポイントは、 ローゼンがベルリンに送るプリントを製作中であって、マギーも後でゲットするつもりだ。 にあるように思いました。つまり、ローゼンからフィルムに関する方針を聞いたということ。 the casualties(shown in the film)、(im Film gezeigten)Verwundeten は、その場でフィルムを「マギーが見た」という意味ではなく、フィルムの中味の犠牲者、といってるに過ぎないのかもしれませんね。 映画に登場する負傷者の幾人かとは私も会っています。私は少なからぬ人と死ぬ前に話をすることもできました。 もし、その場で編集したフィルムを見せられたなら「待望のフィルムを見た」とか、映写時の描写などが書かれていて不思議ではありません。 この推理も、他の場面での推理と平仄が合わなくなったら、直ぐに撤回いたします。 3,064 hits -------------------------------------------------------------------------------- [384]Re(3) 再登録お試しになったらいかがですか ←back ↑menu ↑top forward→ ピッポ - 05/5/16(月) 17 31 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼msqさん: 関係ないことですが、「渡辺さんのページ」の最上部に "現在ご覧頂いているページは移行手続きが完了していない為、<<削除>>の対象となっています。" という表示が出ています。<詳細>に"移行期間は2004年10月5日~2005年3月31日です。"とありますが、大丈夫ですか。管理者様、お手数ですが、用済みになればこのコメント削除して下さい。 渡辺さん、 期限切れでも再登録(移行)できるかもしれません。 お試しになったらいかがですか? http //geocities.yahoo.co.jp/v/renewal/start.html >標準モードで移行を開始する に進む。 URLを変更せず、Yahoo IDを取得する。 2,883 hits -------------------------------------------------------------------------------- [387]Re(14) マギーフィルム画像と解説書 2月12日記述 ←back ↑menu ↑top forward→ 渡辺 - 05/5/20(金) 23 24 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼ピッポさん: the casualties(shown in the film)、(im Film gezeigten)Verwundeten は、その場でフィルムを「マギーが見た」という意味ではなく、フィルムの中味の犠牲者、といってるに過ぎないのかもしれませんね。 「映画にでてくる」というコメントは、ラーベが映画を見たことを前提にしていると考えるべきだと思います。 英語でも独語でも、「負傷者」に定冠詞が付いているということは、書き手と読み手が「あの負傷者たち」と共通の認識をもっていることを前提としています。ですから、それまでに言及されていない「負傷者」に定冠詞が付いているのは、本当はおかしいわけです。日記ですから、書き手と読み手が同じなので、こういう現象が起こったのでしょう。そこで、この文を書いた後にで、定冠詞 der のところ(不自然な位置)に「(マギーの)映画にでてくる」と、注釈をいれたと考えられます。 もし、その場で編集したフィルムを見せられたなら「待望のフィルムを見た」とか、映写時の描写などが書かれていて不思議ではありません。 それが書かれていても、書かれていなくても不思議ではありません。 日記は、あくまでも書いた人の判断でトッピクが選ばれているわけです。我々には重要と思われるような事実でも、日記にはひとことも書かれていないことはめずらしくありません。キーワードだけで出来事が克明に思い出されるような場合、当事者には当たり前の事実、経緯が複雑で日記にかくのはめんどうな場合、万一日記が外部に露見したときさしさわりがあるので明記しない場合、日記に書くことにより不快な感情をおもいだしたくない場合など、様々な場合があります。 史料を読むとき、不明な個所にさまざまな可能性がありうることは考慮すべきですが、特定の可能性を支持する史料がない場合は、単純な線で史料間を結ぶほうがよいと私は考えます。 3,063 hits -------------------------------------------------------------------------------- [388]Re(3) マギーフィルム画像と解説書 ←back ↑menu ↑top forward→ 渡辺 - 05/5/20(金) 23 34 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード ▼msqさん: 関係ないことですが、「渡辺さんのページ」の最上部に "現在ご覧頂いているページは移行手続きが完了していない為、<<削除>>の対象となっています。" という表示が出ています。<詳細>に"移行期間は2004年10月5日~2005年3月31日です。"とありますが、大丈夫ですか。 ご心配ありがとうございます。 そのHPは、K-Kさんが管理者で、私の過去の投稿を整理して掲載されているものです。K-Kさんもお忙しいと思いますので、K-Kさんの判断に委ねております。 内容は、すべてダウンロードしておりますが、読み難い文章も多いし、内容を修正したいところがかなりあります。いずれ自分でHPを作る予定ではいますが、まだ時間がかりそうです。 2,885 hits -------------------------------------------------------------------------------- [389]Re(6) 解説書 Film 10解説 と埋葬数 ←back ↑menu ↑top forward→ 渡辺 - 05/5/22(日) 3 05 - -------------------------------------------------------------------------------- 引用なし パスワード "Eyewitnesses to Massacre"に掲載されているフィルム解説の Film 10のケース3のCに、埋葬数について興味深い数字が言及されています。 この中で、埋葬数が 32,104 で約半分の作業が終わったと推定されているという部分があります。この 32,104 という数字は、『大阪朝日新聞』北支版、1938年4月16日付けの記事(『日中戦争史資料 8』p.393)と一致します。『大阪朝日新聞』では、城内で 1,793体、城外で30,311体を「片付けた」、「真夏に入るまでにはなんとか処置を終はる予定である」とあり、この数字を合計すると、「解説書」と1体しか違わない、32,103になるのです。これは、偶然の一致ではなく、同じ情報源と考えるべきでしょう。 マギーは軍民合わせて少なくともこの数字の倍程度6~7万の遺体が埋葬されたとの認識をもっていたのではないかと思われます。南京戦前に疎開し1938年9月に南京へ戻った Albert N. Stewardが、1938年12月11日の記の中で、南京が陥落したとき6~7万の人々が命を失った("Eyewitnesses..."p.320)としているのは、こうした認識の反映かもしれません。 --- ["Eyewitnesses to Massacre", p.223"] Introduction of Magee s Film Film 10 3.c. (途中省略) Between January 23, when they started work, amd March 19, the Red Swastika Society had buried 32,104 corps in Nanking and the immediate vicinity(around the city walls). They estimate that they have done just about one half of this work. In addition many bodies were buried by relatives and other groups. It is very probable that many bodies were burned up in the innumerable fires that were started in the city possibly for that very purpose. There are still large numbers of unburied bodies in section outside the city walls. - 試訳 - 1月23日(紅卍字会が仕事を始めたとき)から3月19日までの間に、紅卍字会は南京とその直近(城壁の周囲)で 32,104の死体を埋葬した。彼らは、およそ半分の作業を終えたところだと推定している。それに加えて、多くの遺体が親戚や他の団体(複数)によって埋葬された。多くの遺体が、おそらく、まさにその目的で市中で始まった無数の火事によって焼却されたことは十分ありえる。城壁の外側の地域には、まだ多数の埋葬されていない遺体がある。 --- 2,955 hits --------------------------------------------------------------------------------
https://w.atwiki.jp/homocraft/pages/167.html
ここではウォーカーレッグについて解説しているページだゾ ウォーカーレッグ(クモ足)とは何か 簡単に言うとクモのような脚のパーツのことで、ホイールなどとは違って歩いて移動するゾ。 滑らかな斜面はもちろん、壁にも登れることが可能にする画期的な移動パーツなんだゾ。 このクモ脚を移動手段とする機体のことを「ウォーカー」というんだゾ。 ちなみにクモ脚はT7~T10しかない、つまり低ティアの人は使えないからそこらへんとこ注意してくれよなぁ~頼むよ~ 特徴としてはある程度の機体の重さなら問題なく動けるけど、クモ脚の数が少ない、機体重量があまりに重過ぎると移動速度が低下してしまうゾ。 敵の攻撃で一部のクモ脚が破壊されると移動速度が低下するだけでなく移動制御が難しくなってしまうんだよなぁ・・・ 長所・短所 長所: ・同じTierのホイールと比べて装甲値が2.5倍以上ある ・簡単に壁を登ることができる ・ジャンプを駆使することによりトリッキーな攻撃や回避ができる 短所: ・CPUをたくさん使う ・当たり判定がでかい ・占有範囲が広いためクモ脚をブロックで覆うことは困難 ・クモ脚が少なくなると移動速度低下、移動制御が難しくなる +占有範囲ってどれくらいですかね(小声) ほら、みろよみろよ T7とT8、T9とT10は同じ大きさだゾ・・・ 若干高さも変わるってはっきりわかんだね アドバイス 壊された時用のためクモ脚はできるだけ多く付けた方が良いゾ。 あっそうだ(唐突)崖の上登って戦うスタイルなら空を飛ぶプラカスやムカデに注意だゾ。崖の上は障害物がほとんどないため格好の的になっちゃうんだゾ・・・。 序盤に崖の上から偵察する感じで複数の敵君をスポットすると地上にいる味方君はすごい助かるゾ(切実) パパパッとQキー押して終わりっ! それとあまり戦闘に参加しないで崖の上にこもっていると敵君の攻撃対象が地上や空にいる味方君に集中して負担を掛けてしまう事になってしまうゾ。デデドン(敗北)とならないためにも ちょくちょくうまい具合に崖の上から顔を出してヘイトを稼ごう(提案) 各ウォーカレッグ(クモ脚)の性能 Walker Leg T7 CPU上昇値 40p ランキング上昇値 15,497 装甲値 8630 積載量 1,050kg 重さ 12.5kg Walker Leg T8 CPU上昇値 42p ランキング上昇値 43,933 装甲値 12,447 積載量 1,191kg 重さ 12.5kg Walker Leg T9 CPU上昇値 44p ランキング上昇値 124,269 装甲値 17,047 積載量 1,341kg 重さ 15kg Walker Leg T10 CPU上昇値 46p ランキング上昇値 350,777 装甲値 22,108 積載量 1,500kg 重さ 15kg まだ未完成なんだよなぁ・・・間違っている情報があったら編集にて修正オナシャスセンセンシャル!
https://w.atwiki.jp/magicman/pages/48708.html
電脳爆地グランウォーカー R 火/水/自然 (6) クリーチャー:フレイム・コマンド/サイバー・コマンド/ガイア・コマンド 3000 ■S・トリガー ■このクリーチャーが出た時、相手のクリーチャーを1体選び、持ち主の超次元ゾーンに置く。 作者:ぺこ 超次元送りのS・トリガーコマンド獣です。 フレーバーテキスト 次元を越え、「なにか」を巻き込みながら歩き続ける。 評価 選択肢 投票 壊れ (0) 優秀 (0) 普通 (0) 微妙 (0) コメント 名前 コメント
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(ノア・クラークウォーカー) 目次 更新日:2022/03/03 Thu 10 01 02NEW! タグ一覧 創作注意事項 ネタやパロディOK 各種創作に自由に使ってOK カラーや服装のアレンジ可 good boy good boy (marmalade and witch) good boy good boy good boyso there is no noise I ll give you a little lemon, she ll give you some grapes Or is basketball good? Or is it your best friend? I ll give you everything, so don t make a noise いいこ いいこ(翻訳版) いいこ いいこ いいこだから騒がないのよ レモンをすこしあげるから ブドウも一緒にあげるから それともバスケットボールがいい? それとも親友? いいわ全部あげるから 騒がないでちょうだいね 概要 コテキャシート作成 塩様 プロフィール 役名 ノア・クラークウォーカー 愛称 ノア 種族 ヴァンパイアらしい 年齢 マリネッタと同じくらいらしい 誕生日 12月24日らしい 身長 138cm 体重 32kg 好きなもの 焼き菓子 カフェオレ 読書 運動 友人とすることならなんでも 恋人 友達 嫌いなもの 一般的に知られているヴァンパイアの弱点 趣味 バスケット 女装 人物像 本屋の主人マリネッタの恋人で、本屋の常連。 オウマがトキの喫茶スペースにも来ることがある。 童顔で小柄な為、ノせられれば女装も出来る。 優しく紳士的で、外見の年齢よりだいぶ大人びている。 クールなニヒリストのマーマレードとは、性格は違えど無二の親友で、よく一緒にいる。 天然ぎみなノアにマーマレードがツッコンだり、ついキツイ言い方になってしまうマーマレードの言葉をノアが優しく翻訳したり、ツッコミ疲れたマーマレードにノアが胃薬を渡したりしている。 一人称・二人称 一人称 僕 二人称 君 ~さん、~ちゃん 親しいものには呼び捨て 台詞例 「やあ、僕はノア。ここの本屋の常連なんだ。君の名前を教えておくれよ!」 「ここのカフェオレとビスケットが大好きなんだ。甘いものって、疲れを飛ばしてくれるよね」 「マーマレード!今日もバスケットやらないかい?君といると、とても楽しいんだ」 「マリネッタ……僕……彼女……彼を自由に……」 容貌・服装 褐色の肌に、映えるようにカラーリングされた金髪。大きな緑色の瞳をしている。 マリネッタと同じ生地と柄の黒いポンチョを着ており、その下は白いブラウスと黒いタイ、下は青みの入った黒のサロペット。 ある日常 Little boy Little girl (Noah and Marinetta) A little boy and a little girl I lived in a organized coffee shop The boy talked to the girl That s right The girl said to the boy What a girlfriend The boy said to the girl I want to free him For the hair of a little girl A small snake lived It was in the middle of the back hair When the girl was in a good mood It s very cute When the girl was in a bad mood It s very scary 小さな男の子小さな女の子(翻訳版) 小さな男の子と小さな女の子が 仕組まれた喫茶店に住んでいました 男の子が女の子に話しかけました あのね あのね 女の子が男の子にいいました なんの ごよう 男の子は女の子にいいました 彼を自由にしてあげたいの 小さな女の子の髪の毛には 小さなヘビが住んでいました 後ろ髪の真ん中ほどにかかってたんです 女の子の機嫌がよいと それはとても可愛いのです 女の子の機嫌がわるいと それはとてもこわいのです + これは本当の話 正体はマリネッタが使役する土くれから作られた人形。ゴーレム。 文武両道で、一番オウマがトキの闇から抜け出そうとしているマーマレード・ロリポップのストッパーとして作成され、『役名』と『存在理由』を与えられた。 ゴーレムは何度でも作成でき、何度でも破壊できる。 今は13体目のゴーレム。 ゴーレムが破壊される理由は、ほとんどがマーマレードの解放をマリネッタに進言するから。 親友を演じているうちに、本当に彼のことが好きになっていくのだ。 実際に生きていたとある少年の骨と血を使って生成しているゴーレムなので、姿や性格は変わらず、何度でもマーマレードと仲良くなる。 マーマレードに気付かれないよう、記憶も一部引き継がせなければならないので、鼬ごっこが続いていく。 だが、何度もループし、記憶を繋いでいけば、当然繰り返した分狡猾に、聡明になっていく。 マーマレードへの友情も、繰り返された分、濃く、強くなる。(繰り返しを知らないマーマレードは関係なく、ノアからの一方的な感情だが) ノアがマーマレードを連れ出して、人間に戻る秘薬を作り出す日は、意外と近いのかもしれない。(だが敵…マリネッタも手ごわい。永遠に終わらない可能性もある) Kitty Fisher (Lucy and Kitty) Lucy Rocket lost his life I picked up Kitty Fisher The contents of the body are Sukkarakan Only mud is stuck around キティ・フィッシャー(翻訳版) ルーシー・ロケット 命をなくした キティ・フィッシャー 拾ってあげた 身体の中身はスッカラカン 周りに泥がこびりついているだけ 登場作品名 店の店員の関係やお客さん同士の関係 店員 マリネッタ僕の……恋人。 シトロンちゃん 親友のお姉さん。な、なんだか時々視線を感じる…… マーマレード 僕の無二の親友にして生きている理由。大好き。なんとか君を外に出してあげたいけれど…… ピオーネちゃん 何にも知らずに幸せな子だね。 淡雪ちゃん 本屋によくいる子だよ。なんだかとっても眠そうだけど……大丈夫かな? ジュジィちゃん 女の子の友達だね!よく遊んでいるよ! 逆吊様 ジュジィと違っておとなしい子だね。それに、マリネッタと仲がいいかもしれない…… ウリエルさん この子も本屋によく来る子だよ。急に笑い出したり寒がり出したりして、身体が無いって大変なんだなって思う。 たたる君 男の子の店員さんなんだね。時々お話しするよ。 お客さん ヤスカタさん 本屋のお客さんだね。普段はおとなしいんだけど、猫が好きなようで、猫がいるととってもパワフルだよ。 ウリエルさんの身体さんお世話を頼まれた身体さん。でも、僕が引き受ける前にレムちゃんとノンくんが勝って出てくれたんだよね。 その他 キティ・フィシャー どうか元の君に戻っておくれ。 ルーシー・ロケット 昔の僕。 とある者 関連イラスト 塩様 るっち様
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アナキン・スカイウォーカー Anakin Skywalker 性別 男 種族 人間 出身 タトゥイーン 身長 (子供時代)135cm(青年時代)185cm 称号 パダワン(EP1,2)⇒ナイト(EP3) マスター オビ=ワン・ケノービ パダワン なし ライトセーバー 青 フォーム Ⅴ 俳優 /ヘイデン・クリステンセン ヨーダより高いミディ=クロリアン値を誇り、強力なフォースを持っている。それゆえに成長していくにつれ少々傲慢で自己中心的になっていくが、基本的には良い子だと思うよ私は。 実力が有るのになかなか認めてくれないオビ=ワンやマスター達が非常に不満で、自分を評価してくれるパルパティーンに好意を持っている。まぁそこに付け入られちったんですけど。 またパイロットとしても一流で、人間で唯一のポッドレーサーでもある。これもフォースの賜物だね。 クワイさん曰く「選ばれしもの」だというが、他のマスター達は懐疑的である。 独占欲が強い。あと何かとオビ=ワンのせいにする。 主な経歴 タトゥイーンでワトーの奴隷として生活していたが、クワイ=ガンによって連れ出され、オビ=ワンのパダワンとなる(EP1) アミダラ議員の身辺警護のためナブーに行くが、母の危機を感じタトゥイーンに向かう。しかし母は目の前で死んでしまい、アナキンはタスケンを皆殺しにしてしまう。その後、オビ=ワンを助けるためジオノーシスへ向かうが捕まってしまい、処刑されそうになるが間一髪ジェダイ騎士団とクローンに助けられる(EP2) ドゥークー伯爵と戦い、右腕を切られてしまい義手になる(EP2) ジェダイの規則を破りパドメと結婚する(EP2) ナイトの称号を得る(CW) パルパティーンを救出するためにドゥークーと対決し、勝利する。コルサントに戻るとパドメから「子供が出来た」と告白されるが、彼女が出産中に死ぬ夢を見て悩む。パルパティーンがシスだと知りつつ、パドメを助けるためアナキンは暗黒面に落ちてしまい、ダースベイダーとなる。そしてムスタファでかつての師であるオビ=ワンと戦い、両足と左手を失い敗北するが生き延びる(EP3) 主な出演作品 TPM/AOC/ROS/ローグ・プラネット/悪の迷宮...他多数
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ファクトタム 90 ダブルウォーカーズ 3D探索 APZL 800円(税込)379MB 緊急事態発生!2体のウォーカー(歩行ロボット)を使い、故障した宇宙船をリペアせよ! 宇宙空間を旅していると、突如何かが宇宙船に衝突してしまった。 主電源が切れて、船内に閉じ込められたあなたにとって唯一の頼みの綱は、端末が起動できるということだけだ。 少し古いモデルではあるが、2体のウォーカーを賢く操ることができれば、無事に電源を復旧して生き延びることができるはずだ。 2体のウォーカーを操作して、研究所や厳重に警備されているエリアを含む合計30種類のデッキを、工学を駆使しながら突破しよう。 ウォーカーたちは同時に操作することができないので、交互に動かしながら謎を解いて、デッキをクリアするのに必要な作業をこなそう。 好きなタイミングでそれぞれのウォーカーを切り替えながら、スイッチやリフトを作動して、爆弾やビームを放ち、そしてテレポートを行い、電力を回復して生命維持装置を作動させて、最終的に衝突の真相を解明しよう。 あなたを唯一サポートしてくれるのは、端末を通じて語る謎の音声だけだ… メーカー レイニーフロッグ 配信日 2020年3月19日 対応ハード Nintendo Switch セーブデータお預かり対応 対応コントローラー Nintendo Switch Proコントローラー プレイモード TVモード, テーブルモード, 携帯モード プレイ人数× 1 対応言語 日本語, 英語, スペイン語, フランス語, ドイツ語 レーティング CERO A 名前 コメント