約 2,132 件
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/301.html
陸奥国 会津郡 高久組 神指(かうざし)村 大日本地誌大系第31巻 27コマ目 昔融大臣に仕えし秦何某という者故(ゆえ)ありてこの地に来り。住所を定めんことを山王権現に祈りしに、一老翁夢中にあらはれ指示て言う。ここより北の林中に異香(いきょう)(*1)の樹あるべし、これ村民を開き耕耘(こううん)の起すべき地なり、といい終わて夢さめぬ。行て見るに果て異香樹あり。よりて田圃(たんぼ)を開き一村をたつ。故に初めは香指村と書しに何の頃よりか今の字に改めしといい伝う。今も田圃の字に山王権鳥居田などいう所あり。 この村もと上神指より亥(北北西)の方6町にあり、正保3年(1646年)3区に分る。 府城の北西に当り行程1里。 南を上神指という。家数28軒、東西2町10間・南北2町15間。四方田圃にて西は鶴沼川に近し。 ここより2町10間北を東神指という。家数27軒(内2軒上神指の民居に雑はる)、東西55間・南北2町20間。四方田圃なり。 ここより8町30間余戌(西北西)の方を下神指(寛文の頃(1661年~1673年)までは中丸神指という)という。家数17軒、東西1町18間・南北1町32間。西は鶴沼川に傍(そ)ひ三方田圃なり。 東5町10間中地村の界に至る。その村まで9町30間。 西11町6間本郡中荒井組真渡村に界ふ。 南5町12間如来堂村の界に至る。その村まで7町30間余。 北は村際にて横沼村に界ふ。その村まで40間余。 また亥(北北西)の方6町32間高久村の界に至る。その村まで8町30間余。 端村 横沼 下神指の丑(北北東)の方1町20間余にあり。 家数3軒、東西35間・南北20間。 東南は田圃にて、西北は横沼村に続く。 榎壇新田(えのきだんしんでん) 東神指の寅(東北東)の方2町10間にあり。 家数17軒、東西48間・南北1町12間、越後街道の左右にあり四方田圃なり。 寛永2年(1625年)開けり。 この村の北壇上に榎の古木あり、因て名けり。 山川 鶴沼川 俗に大川という。下同 上神指より申(西南西)の方3町50間にあり。 本郡中荒井組蟹川村の境内より来り、北に流れ真渡村の界に入る。 この村の境内を流ること24町30間。 黒川 端村榎壇新田の東2町にあり。 中地村の境内より来り、北に流るること5町10間余、上吉田村の界に入る。 水利 神指堰(かうざしせき) 上神指の申(西南西)の方にて鶴沼川を引き数派となり田地に灌ぐ。 高久堰 上神指の申(西南西)の方にて鶴沼川を引き高久村の方に注ぐ。 神社 住吉神社 祭神 住吉神? 鎮座 不明 東神指の東1町30間余にあり。 昔は社頭もやや大なりしが、漸々に破壊して今は小社となれり。 鳥居拝殿あり。正法寺司る 稲荷神社 祭神 稲荷神? 勧請 不明 上神指の亥(北北西)の方3町20間にあり。 鳥居あり。照明寺司なり 寺院 極楽寺 下神指にあり。 蓮台山と号す。府下道場小路の末寺真言宗なり。開基の年月を詳にせず。 慶長の初め(1596年~)火災に罹り院宇燒亡す。 後何の頃にか春覺という僧住してより相続いて今に至る。 本尊大日客殿に安ず。 漏泉碑 境内にあり。高5尺5寸余。 享和2年(1802年)洪水ありて居民の墓を決し、髑髏許多(あまた)を漂流せり。水復して後索(もと)め聚めてここに埋め、府金を出し碑を立てこれを表せしむ。篆額(てんがく)に漏泉碑の三字、その下に左の運を彫れり。 正法寺 東神指にあり。 吉禮山と号す。真言宗なり。草創の初を伝えず。 昔は住吉神社の社僧なりしという。元和中(1615年~1624年)府下大町弥勒寺の末寺となりし。 本尊弥陀客殿に安ず。 照明寺 上神指にあり。 曹洞宗福聚山と号す。本郡南青木組小田村寶積寺の末山なり。 開基詳ならず。 慶長元年(1596年)雲室という僧中興せり。 客殿に観音を安じ本尊とす。 文殊堂 客殿の西にあり。 墳墓 石塔 村西2町計にあり。 高2尺。 『法德女天正十五丁亥六月十二日死 延享二丑年迄百五十九年』と彫付あり。 皆川掃部介某という者の母の墓なりという。 ※天正15年=1587年、延享2年=1745年。159歳?? 古蹟 いたみ堂 上神指の北6町余にあり。何の頃にか彼堂社と出羽国米沢下永井小松という処に移し「御いたみ」と云いしとぞ。ここに高8尺余・周13間の檀あり。何の謂れを知らず。陶器のかけたるを得ることあり。 この南に八坊趾(はりはうし)という字あり。これも昔堂社ありし時坊中八宇ありし故(ゆえ)によれりという。 法然原(ほうねんはら) 東神指の東にあり。 数村に亘りて濶狭量るべからず。 相伝う。藤原秀衡深く法然を慕しかば、法然自らその像を摹(も)せしめ相賜りしに、負者ここにいたりて奇特のことありければ、遂に一宇を建立し来迎院と号しこの像を安置せり。その後衰廃せしを、永禄中(1558年~1570年)京師百萬遍の住僧岌州爰(ここ)に来り時、盛氏に告て像を府下五之町高巌寺に移せり(高巌寺の条下を併見るべし)。 城跡 上神指の辰巳(南東)の法2町10間にあり。 この城は上杉景勝慶長3年(1598年)にこの地に封ぜられ府城を移さんとて、始は河沼郡北田の墟(あと)に築かんとせしが地勢心に協(かな)はざりしにや。同5年(1600年)2月10日よりこの地を経営せり。総奉行直江山城守、小奉行小国但馬・甘糟備後・山田喜右衛門・清水権右衛門、割奉行島倉孫左衛門、材木奉行満願寺仙右衛門等その事を任じ、本丸は3月18日より6月朔日まで日数72日の内に家中の人夫を以てこれを築き、二丸は5月10日より6月朔日まで日数20日の内にに越後・仙道・米沢及び会津4郡の人夫120万余の着到にて壘(とりで)池の形大概備われり。この時慶山村の山中より大石を切出し人夫立ち並び手繰にしてここに運送せしとぞ。 然るに景勝陰謀の聞えあり。東照宮小山まで御動座あればその功を果さざりしという。 いまは田畠となれどもその構尚(なお)残れり。 本丸 東西1町40間・南北2町50間。 壘趾、10間・高3丈5尺・周9町。 回に堀あり。広23間。 東西3方に口あり。 四方に石垣もありしが、今は半崩れぬ。 二丸 東西4町50間・南北4町50間。 壘趾、9丈・高2丈5尺・周16町14間。 堀、広20間。 四方に門を構えし所ありしが、寛永中(1624年~1645年)如来堂村この城跡西南の隅に移り土居を毀(こぼ)ち村居とせし故、東北はその形あれども西南は欠て土居形なり。 今百姓作兵衛という者の家に当時石工の宿せしとて竹籠1箇・大網13尋程あり。外に竹竿数本、首に孔を穿ち麻索を引遠し3又とし5寸釘を屈て鉤(かぎ)とせしものあり。炊器を懸けて食を作りしものという。 ここの堀より鰕(えび)を産す。美味なり。土人景勝と唱ふ。 さきに景勝御征伐の事起り御馬を出されし頃までも猶(なお)普請の最中にて、萬願寺仙右衛門柿色の手拭をもて鉢巻し毎日馬上にて七日町を通り普請の事を沙汰し府下の匇劇(そうげき)大かたならず。されば士民等の言にも会津退治御諱が江戸まで来なされたと言えども爰(ここ)へ来なされたらその儘(まま)をつころされなさるべいとて女童まで騒ぐ気色もなかりしとぞ。 この頃のざれ言に、また萬願寺仙右衛門殿の二十ばたらき大八日(おおはちにち)かとて笑いしことあり。これは初め景勝関東勢を防んため人数を駆催(かけもよお)して、この二十八日には大働あるべしと言うを言誤りて、二十ばたらき大八日に候間(そうろうあいだ)鑓ない人は借てもおでやれ、とふれ廻りける故(ゆえ)なりと民間に記せしものあれば伝わるままにここに付す。 蛇足 二十八日大働あるべし 二十働大八日あるべし Google Map住吉神社(東神指) 稲荷神社(上神指) 極楽寺(下神指) 正法寺(東神指) 昭明寺(上神指) 神指城跡 北田城跡(佐原広盛の居城) 神指城跡(会津観光ナビ)
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/320.html
陸奥国 会津郡 高久組 下吉田村 大日本地誌大系第31巻 35コマ目 府城の西北に当り行程1里26町。 家数8軒、東西26間・南北42間。 四方田圃(たんぼ)なり。 東10間・南2町27間、共に上吉田村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り5町4間。 西・北、共に村際にて界沢村に界ふ。その村は戌(西北西)に当り7町余。 寺院 善福寺 村中にあり。 真言宗雷電山と號す。 本寺村恵日寺の末山なり。 文明の頃(1469年~1487年)隆空という僧草創せり。 その後衰廃せしを慶長中(1596年~1615年)宥秀という僧中興せり。 本尊地蔵客殿に安ず。
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/324.html
陸奥国 会津郡 高久組 上高野村 大日本地誌大系第31巻 36コマ目 府城の西北に当り行程1里。 家数39軒、東西1町59間・南北3町56間。 米沢街道の左右に住し、四方田圃(たんぼ)なり。 東3町18間沼木村の界に至る。その村まで5町20間余。 西2町57間中地村の界に至る。その村まで5町20間余。 南4町21間府下西黒川達磨分の地に界ふ。 北4町42間鶴沼村の界に至る。その村まで8町余。 また 巳(南南東)の方4町13間中明村の界に至る。その村まで11町40間余。 未(南南西)の方の1町36間平沢村の界に至る。その村まで7町20間余。 亥(北北西)の方5町50間下高野村の界に至る。その村まで8町40間余。 神社 丘降神社 祭神 不明 倉稲魂命? 相殿 伊勢宮 稲荷神 山王神 明神 鎮座 不明 村の戌亥(北西)の方1町20間にあり。 祭神及び鎮座の始を詳にせず。 或云。倉稲魂命祭れりと。 鳥居幣殿拝殿あり。高久村黒沢縫殿之助が司なり。 ※読み方は「丘降(おかふり)神社」。 寺院 西方寺 村中にあり。 曹洞宗無量山と號す。 天文8年(1580年)浄土宗の僧傳長という者開基せり。 文禄元年(1593年)寒首座という僧住してより今の宗に改め、天寧村天寧寺の末寺となる。 本尊地蔵客殿に安ず。 Google Map高野地区 高野神社(丘降神社) 西方寺 大天白神社 メモ 大天白神社と聞きなれない神社ですが、軽く調べてみると埼玉県羽生市にも同名の神社があるようです。 関連は分かりませんが、羽生市にある大天白神社では大山祇命・大己貴命・少彦名命の三柱を祭っています。 追加 上高野地区について詳しい説明を見つけたので引用します。 永和の暮らしと歴史(会津若松市) 幕末、会津藩主の松平容保が京都守護職時代、禁門の変で亡くなった「上高野村伊藤伝助」の墓が京都黒谷の光明寺にあります。村東にある西方寺は、天文8年(1539)に建てられています。高野神社は、『会津鑑』によると、「里老の伝に、この神社、天文(てんぶん)年中の洪水にて、神の祠が漂い来て、この丘に留まる故に、丘降(おかふり)神社」という」と書かれています。そのことから、天文年間の大洪水、『会津旧事雑考』にある天文5年(1536)6月28日にあった「白鬚(しらひげ)大水」をさすもので、会津最大の洪水とされ、大川の流れが、それまで本郷から新鶴方面に流れていものが、本郷から塩川方面へ北に流れを変えた他大洪水のことです。集落の中心部には、「湯殿山」の石碑があります。明治2年(1867)に、会津藩の名書家だった星研堂によって書かれ建てられたものです。星研堂は、会津戦争で若松城に籠城し、息子は戦死しています。その後、開城後に塩川送りとなり、塩川代官所・現在の塩川小学校にいて、学問所として設置された「日新館」で書を教えていました。若松と塩川との往復時に、米沢街道の本街道が通る上高野では、村人が会津戦争の慰霊のためにと頼み込んだものです。星研堂は、その年亡くなり、墓が塩川町の阿弥陀寺にあります。 ※引用元ですが下高野の説明文が上高野の中に混ざってしまっています。担当の方、気づいて! 丘降神社は高野神社に合祀されているようです。
https://w.atwiki.jp/wakui18/pages/35.html
【ポジション】 … 二塁手 【所持金】 … 100円 【評価】 スカウト … 監督 … 【持ち物】 【所持カード】 【備考】
https://w.atwiki.jp/amwa12369/pages/19.html
皆私たちの事を恐れ敬い称え奉っているんだよっ! よっ! んなわけねーだろうが・・・。 【名前】 黒瀬朱里・朱利(くろせしゅり) 【容姿】 二人ともにダークオレンジの髪、ブラックレッドの双眸 姉の朱里は背中まで伸ばしたロング、妹の朱莉は肩に掛かる程度のショートヘア 髪飾り一つつけず、髪型以外の違いは分かり辛い 小学校の制服のようなスカートとシャツを着ており 胸元には大きく括られた紅色のリボン 黄色い帽子とランドセルが無くとも、姉妹が幼い少女であることは一目瞭然だろう 常にお互いの右手と左手を握り合っており、二心同体のような印象を与える どうやら双方利き手の方では握り合っていないようだ 【能力】 ・能力名:皇合成(スペース・オア・オールチェンジャー) 彼女たちは二人いるが、二人合わせて一つの能力しか使用することは出来ない これは創作者自身も意外だったようだ(双子を“創作”したので、当然の結果ともいえるが) つまりどちらかが欠けたりすると使用不可能になると思われる ただし、“状況に変化が訪れる”事が類稀なる為、断言は不可能 能力は、“お互いの利き手の掌で触っている物を合成させる能力” 往々にしてこの合成には物理法則は届かず、合成されたものにのみ物理法則は影響される 掌が触れてさえ居れば、どんな大きなものでも可能だが、意思を持った生物“同士”では不可能(生物x無機物は可能) 合成されたものは、元と成るもののお互いの長所(と、姉妹たちが考えているもの)を お互い発揮できるようになる合成であり、短所は出来る限り小さくなる様に成っている また、合わさりえないものである場合、長所の優先が優先される(パンと電池だと、電流が通うパン、ちゃんと食べられます) ただし、作り出したものを姉妹が“知っている”訳ではなく、ただ“出来た”だけであるため 想像を遥かに超える物体になったり、突然液体と化したりすることも有り得る 戦闘には余り向いていないが、合成速度は創作者のそれを越える一瞬であるため 銃弾などは不可能でも、遅い魔法程度なら“合成”されて勢いを消すことも可能 姉妹たちによって作られるものは、もっぱら未知物質である為 研究に重宝される 【概要】 姉妹たちはお互いに非常に仲がよく、また年頃ゆえ誰とでも懐く 好奇心を何よりも筆頭に考え、作り、造り、創る 姉妹の行動力には創作者も一目置くものがあり、高い評価を得ている また、組織内を和ませるムードメーカーとしても程よく活躍している その性格が実験の効率を上げているとともに、計画などでは足を引っ張る要因となるが なんだかんだ言って、皆が彼女たちの事を鬱陶しく思わないのは やはりそれも性格ゆえのことだろう ついでに、二人とも当然のように頭がいい なのに組織内では馬鹿と呼ばれ、本人たちもそれで良いと考えている つまり誰も本気で彼女たちを馬鹿だとは思っていないのであろう 【組織内地位】 化学実習班最高権力者および錬金術課最高顧問 理由は実験において最高の結果、未知の結果を起こし続ける為 【口癖】 同時発言、口癖ではないが 【絡み履歴】 無し
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/319.html
陸奥国 会津郡 高久組 上吉田村 大日本地誌大系第31巻 35コマ目 府城の西北に当り行程1里24町。 家数18軒、東西1町18間・南北1町30間。 四方田圃(たんぼ)なり。 東は村際・北5町、共に下高野村に界ふ。その村は寅(東北東)に当り7町20間余。 西7町33間横沼村に界ひ黒川を限りとす。その村まで12町10間。 南3町37間中地村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り8町20間。 また未(南南西)の方4町23間神指村の界に至る。その村まで11町10間余。 亥(北北西)の方5町33間下吉田村の界に至る。その村まで5町40間余。 山川 黒川 村の申(西南西)の方3町余にあり。 神指村の界より来り、屈曲して西北に流るること8町30間、界沢村の境内に入る。 水利 吉田堰 中地村の方より来り田地に注ぎ下高野村の方に注ぐ。 清水堰 村西にて黒川を引き界沢村の方に注ぐ。 Google Map地蔵尊 稲荷神社及び末社熊野神社
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/310.html
陸奥国 会津郡 高久組 天満村 大日本地誌大系第31巻 32コマ目 この村にもと天満宮あり。村名これに因れりという。 府城の西北に当り行程24町。 家数23軒、東西48間・南北1町39間。 南は西城戸村に続き三方田圃(たんぼ)なり。 東は村際にて西城戸村に界ふ。 西1町20間小見村の界に至る。その村まで3町。 北4町6間高瀬村の界に至る。その村まで10町40間余。 また丑寅(北東)の方2町48間東城戸村の界に至る。その村まで7町20間。 山川 応湖川 村の丑寅(北東)の方20間にあり。 東城戸村の境内より来り、北に流るること1町30間余、高瀬村の界に入る。 土産 晒木綿 この村にて製するもの佳なり。 俗に天満晒という。 水利 天満堰 西城戸村の方より数派となり田地に灌ぐ。 神社 十二天神社 祭神 天神地神十二代の神 相殿 伊勢宮 鎮座 不明 村の戌亥(北西)の方1町50間にあり。 この社は天神・地神12代を祭れり。 相伝て、久壽2年(1155年)三浦大輔義明、下野国那須郡の狐退治の時祈誓しその功成りしかば、報賽のためにこの社を建立せりという。 鳥居あり。五之町修験常蓮院これを司る。 Google Map十二天神社 余談 那須郡の狐退治の狐とは玉藻前(たまものまえ)の事かと思われます。 詳しい説明はwikipediaの玉藻前の記事に任せますが、メンバーの一人に三浦介義明の名前が挙げられています。 河沼郡野沢組縄沢村の寶物の中に彼が狐退治に使った脇指「狐丸」が伝わっています。
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/316.html
陸奥国 会津郡 高久組 平沢村 大日本地誌大系第31巻 33コマ目 往古は村居の地高く前に広き沢ありて水湛えし故(ゆえ)広沢村という。また月を賞するに佳なりし故月見の里とも名けしとぞ。いつの頃よりか沢埋み平地となりしにより今の名に改めしという。 旧村西2町40間にあり。何の頃にか洪水を患てここに移せり。 府城の西北に当り行程28町余。 家数23軒、東西1町・南北2町、四方田圃(たんぼ)なり。 東1町54間府下西黒川達磨分の地に界ふ。 西3町16間高瀬村の界に至る。その村まで8町30間余。 南5町31間西黒川小黒川分の地に界ふ。 北5町上高野村の界に至る。その村は丑(北北東)に当り7町20間余。 また亥(北北西)の方2町39間中地村の界に至る。その村まで7町10間余。 端村 新田 本村の未(南南西)の方1町10間余にあり。 家数2軒、東西50間・南北22間。 西は黒川に臨み三方田圃なり。 山川 黒川 端村新田の西にあり。 小黒川分の境内より来り、高瀬村の地を経て北に流れ、中地村の界に入る。 この村の境内を経ること10町40間。 応湖川 村西2町30間にあり。 高瀬村の境内より来り、北に流るること5町20間余、村西にて黒川に入る。 広2間。 土産 甜瓜(てんか) この村より産するもの味美なり。 会津郡橋爪組栢原村の産につく。 水利 平沢堰 達磨分より来り田地に灌ぎ上高野村の方に注ぐ。 中地堰 端村新田の西にて黒川を引き中地村の方に注ぐ。 寺院 国姓寺 村中にあり。 広沢山と號す。 文禄元年(1593年)林廓という僧草創す。 本郡南青木組天寧村天寧寺の末山曹洞宗なり。 本尊釈迦客殿に安ず。 観音堂 境内にあり。 会津三十三所順禮の一なり。 古蹟 館跡 村より寅(東北東)の方2町10間余のあり。 35間四方、隍の形遺れり。 元亀(1570年~1573年)・天正(1573年~1593年)の頃には二国若狭實国という者居りしという。 今田圃を開けり。 Google Map広沢山国姓寺(平沢観音)
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/303.html
陸奥国 会津郡 高久組 如来堂村 大日本地誌大系第31巻 29コマ目 昔村南に阿弥陀堂あり。村名これに因りしという。 旧本郡中荒井組下荒井村の端村にて鶴沼川の西にあり。何の頃にか格村となり、寛永13年(1636年)洪水を患て今の地に移せりという。 府城の北西に当り行程30町。 家数18軒、東西1町29間・南北1町29間。 神指城迹の中未申(南西)の隅にあり。 東1町30間高瀬村の界に至る。その村は丑寅(北東)に当り7町20間。 西1町40間本郡中荒井組蟹川村の界に至る。その村は未申(南西)に当り10町余。 南50間小見村の界に至る。その村まで4町50間余。 北2町20間神指村の界に至る。その村まで7町30間余。 水利 小見堰 小見村の方より来り、数派となり田地に灌ぐ。 神社 八幡宮 祭神 八幡宮? 鎮座 不明 村南30間経にあり。 鳥居あり。村民の持なり。 寺院 観音堂 八幡宮の東にあり。 創建の始を知らず。 昔は弥陀を安ず。 村民の持なり。 Google Map八幡神社 神指町如来堂 新選組殉難の地 斉藤一本陣跡(如来堂)
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/309.html
陸奥国 会津郡 高久組 西城戸村 大日本地誌大系第31巻 32コマ目 府城の西北に当り行程24町。 家数23軒、東西1町15間・南北1町10間。 北は天満村に続き三方田圃(たんぼ)なり。 東8町9間府下西黒川小黒川分の地に界ふ。 西6間・南46間、共に天満村に界ふ。 また丑寅(北東)の方4町18間東城戸村の界に至る。その村まで8町。 巳(南南東)の方1町12間西柳原村の界に至る。その村まで8町40間余。 山川 応湖川 村東2町50間にあり。 西柳原村の境内より来り、北に流るること2町50間余、東城戸村の界に入る。 水利 西城戸堰 西柳原村の方より来り、田地を潤し天満村の方に注ぎ、天満堰という。 東城戸堰 村より東の方にて応湖川を引き、小黒川分の地を経て東城戸村の方に注ぐ。 神社 稲荷神社 祭神 天満宮? 相殿 伊勢宮 鎮座 不明 村の丑寅(北東)の方40間にあり。 鳥居拝殿あり。諏訪神社の神職笠原幸之丞が司なり 寺院 延命寺 村中にあり。 天台宗、開基詳ならず、昔は浄土宗なりしという。 天文21年(1552年)天台の僧春玄という者住せり。 時に村東に小沼あり夜毎に光明を発す。怪しみ行て見れば地蔵の銅像出現せり。即霊瑞に因て本尊とし地蔵山延命寺と號し春玄を中興の祖とす。 郭内延壽寺の門徒なり。 本尊地蔵、長1尺5寸、客殿に安ず 観音堂 境内にあり。 Google Map稲荷神社 延命寺 稲神社(小さい!)