約 2,132 件
https://w.atwiki.jp/political_thought/pages/22.html
ツイートデータ保管庫 Twitter Link ツイート情報のマイニング結果WordCloud 共起ネットワーク サンバーストチャート 単語の出現頻度のヒストグラム Ngram 棒グラフ Ngram ツリーマップ ツイートデータ保管庫 https //drive.google.com/drive/folders/12t4Hp14dMb084FpPo5JwCAgeAQtOh_Bp Twitter Link アカウント削除済み ツイート情報のマイニング結果 WordCloud ここから下の図たちは、下記URLにおいてあるHTMLをDLすれば図の拡大縮小などの操作が可能で、詳細もわかりやすくなる https //drive.google.com/drive/folders/12t4Hp14dMb084FpPo5JwCAgeAQtOh_Bp 共起ネットワーク サンバーストチャート 単語の出現頻度のヒストグラム Ngram 棒グラフ Ngram ツリーマップ
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/330.html
陸奥国 会津郡 高久組 上荒久田(かみあらくだ)村 大日本地誌大系第31巻 37コマ目 昔は村より2町丑(北北東)の方にあり。萬治2年(1659年)今の地に移す。 府城の北に当り行程12町。 家数58軒、東西1町15間余・南北3町29間余。 四方田圃(たんぼ)なり。 東3町36間府下東黒川上河原分の地に界ふ。 西2町36間藤室村の界に至る。その村まで6町。 南25間余府下西黒川石堂分に界ふ。 北6町下荒久田村の界に至る。その村亥(北北西)に当り7町30間余。 また 亥(北北西)の方6町滝沢組下柳原村の界に至る。その村まで7町50間余。 寅(東北東)の方3町36間滝沢組北柳原村の界に至る。その村まで7町。 戌(西北西)の方2町54間中明村の界に至る。その村まで6町10間余。 水利 黒川堰 上河原分より来り田地に灌ぎ下荒久田村の方に注ぐ。 黒川堰(*1) 西黒川小黒川分より来り中明村の方に注ぐ。 神社 天子神社 祭神 天子神? 相殿 伊勢宮 2座 熊野宮 2座 稲荷神 白鬚神 伊豆神 三島神 諏訪神 山神 八乙女神 鎮座 不明 村中にあり。 鳥居拝殿あり。高久村黒沢縫殿之助が司なり 寺院 西光寺 村西にあり。 真言宗安楽山と號す。 博労町自在院の末寺なり。 開基詳ならず。 元亀中(1570年~1573年)宥意という僧中興す。 もと村と同く丑(北北東)の方2町にあり、萬治4年(1661年)ここに移せり。 本尊弥陀客殿に安ず。 古蹟 館跡2 一は村中にあり。東西32軒・南北28間。土居堀の趾遺れり。いつの頃にか渡部源左衛門某という者居りしという。 一は村より丑(北北東)の方3町30間計にあり。東西20間・南北30間。堀形あり。何人の住せしということを知らず。土人鈴木屋敷と唱ふ。 Google Map上荒久田 天子神社 西光寺 館跡(渡部源左衛門)? 館跡(鈴木屋敷)? 麓山神社 余談:上荒久田について。 永和の暮らしと歴史(会津若松市)の記載を引用します 鎌倉時代以降に開発された地区で、南北に米沢街道上道がとおっています。江戸時代前半の万治3年(1659)に、街道が整備されるのに伴って、現在の集落形態になったものです、それまでは、今の集落の東側、農協倉庫東の「古屋敷」に集落の中心部がありました。また、そこには渡部源左衛門の館跡があり、元亀年間(1570年頃)に再興された安楽山西光寺もありました。村の北東には「鈴木屋敷」と呼ぶ館跡もありました。その場所は、鈴木新田と呼ばれているところです。また鎮守の「天子神社」は、蒲生氏時代の1620年頃、キリシタンの教会が建てられていたところで、教会特有の建て方の一段高く造られています。その後、キリシタンは禁制となり、今では名残の「天子」のみが残されています。会津戦争では佐藤家2軒を残し焼かれています。 天子神社について 天子神社内の解説版の記載を引用します。 天子神社について 一、祭 神 瓊々杵尊・相殿天照大御神 一、勧 請 文治五年(西暦一一八九年) 一、例大祭 四月三日 由来推考 本社は、文治五年日向高千穂嶽より勧請とあり、中世芦名時代には領主の庇護も受け栄えるも天正の兵乱に罹って神器・古文書・社記当悉く焼失とありますが途絶えたのではないと思います。 その後郷土史諸説の中で圧巻としては、天正十八年(一五九〇年)キリシタン大名蒲生氏郷公入国を以て産業の創出・城下町づくり、特に民生の安定に尽瘁されて城下三ヶ所に天主堂を建てたとあるので、との一堂が本社にもあったのではないか。そのため村にはキリシタン信者が多かったのではないか、との推考も歪めないと思います。その証のように寛永二十年(一六四三年)保科正之公の会津入城に従って来られた家老の太田小太夫実次という人、敬虔なキリシタン信者であったが、幕府のキリシタン禁制を憚った公が、彼を谷野又右エ門と改姓させて城北荒久田の地に六町四方を与えて帰農させた。その時青苧を栽培していた。しかし更に幕府の探索厳しくなったので、北方耶麻郡小布瀬ヶ原を経て千咲原に移住させたとあります。在住は僅かであったにせよ村人との間には何らかの交際があってお互い至福を感じたのではないかと思います。 明治以降は国家神道において「町北村村社」となり遠近の参詣者も多く栄えたが、第二次世界大戦後暫し苦難を経て「宗教法人・天子神社」となり、現在は境内の一部を町内会施設等、町民融和にも役立たせています。 平成十四年 四月三日 上荒久田 天子神社氏子会 天子神社敬神会 ざっとした歴史はこんな感じでしょうか? 文治5年に高千穂より勧請 →天正の兵乱(おそらく天正巳丑の乱、伊達家の会津攻め) →蒲生氏郷がキリシタンの為に天主堂設立(その一つか?) →寛政20年保科公入城時にはキリシタン弾圧あり →キリシタン弾圧が激しくなり家老が千咲原に逃亡 →会津戦争(戊辰戦争)で一時衰退 →明治政府により町北村村社に指定 →第二次世界大戦で一時衰退 →宗教法人化
https://w.atwiki.jp/nouryoku/pages/2615.html
皆私たちの事を恐れ敬い称え奉っているんだよっ! よっ! んなわけねーだろうが・・・。 【名前】 黒瀬朱里・朱利(くろせしゅり) 【容姿】 二人ともにダークオレンジの髪、ブラックレッドの双眸 姉の朱里は背中まで伸ばしたロング、妹の朱莉は肩に掛かる程度のショートヘア 髪飾り一つつけず、髪型以外の違いは分かり辛い 小学校の制服のようなスカートとシャツを着ており 胸元には大きく括られた紅色のリボン 黄色い帽子とランドセルが無くとも、姉妹が幼い少女であることは一目瞭然だろう 常にお互いの右手と左手を握り合っており、二心同体のような印象を与える どうやら双方利き手の方では握り合っていないようだ 【能力】 ・能力名:皇合成(スペース・オア・オールチェンジャー) 彼女たちは二人いるが、二人合わせて一つの能力しか使用することは出来ない これは創作者自身も意外だったようだ(双子を“創作”したので、当然の結果ともいえるが) つまりどちらかが欠けたりすると使用不可能になると思われる ただし、“状況に変化が訪れる”事が類稀なる為、断言は不可能 能力は、“お互いの利き手の掌で触っている物を合成させる能力” 往々にしてこの合成には物理法則は届かず、合成されたものにのみ物理法則は影響される 掌が触れてさえ居れば、どんな大きなものでも可能だが、意思を持った生物“同士”では不可能(生物x無機物は可能) 合成されたものは、元と成るもののお互いの長所(と、姉妹たちが考えているもの)を お互い発揮できるようになる合成であり、短所は出来る限り小さくなる様に成っている また、合わさりえないものである場合、長所の優先が優先される(パンと電池だと、電流が通うパン、ちゃんと食べられます) ただし、作り出したものを姉妹が“知っている”訳ではなく、ただ“出来た”だけであるため 想像を遥かに超える物体になったり、突然液体と化したりすることも有り得る 戦闘には余り向いていないが、合成速度は創作者のそれを越える一瞬であるため 銃弾などは不可能でも、遅い魔法程度なら“合成”されて勢いを消すことも可能 姉妹たちによって作られるものは、もっぱら未知物質である為 研究に重宝される 【概要】 姉妹たちはお互いに非常に仲がよく、また年頃ゆえ誰とでも懐く 好奇心を何よりも筆頭に考え、作り、造り、創る 姉妹の行動力には創作者も一目置くものがあり、高い評価を得ている また、組織内を和ませるムードメーカーとしても程よく活躍している その性格が実験の効率を上げているとともに、計画などでは足を引っ張る要因となるが なんだかんだ言って、皆が彼女たちの事を鬱陶しく思わないのは やはりそれも性格ゆえのことだろう ついでに、二人とも当然のように頭がいい なのに組織内では馬鹿と呼ばれ、本人たちもそれで良いと考えている つまり誰も本気で彼女たちを馬鹿だとは思っていないのであろう 【組織内地位】 化学実習班最高権力者および錬金術課最高顧問 理由は実験において最高の結果、未知の結果を起こし続ける為 【口癖】 同時発言、口癖ではないが 【絡み履歴】 無し
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/318.html
陸奥国 会津郡 高久組 中地(なかぢ)村 大日本地誌大系第31巻 34コマ目 府城の西北に当り行程1里余。 家数36軒、東西1町15間・南北4町10間。 四方田圃(たんぼ)にて西は黒川に近し。 東2町28間上高野村の界に至る。その村まで5町20間余。 西4町25間神指村の界に至る。その村は申酉(西南西~西の間)に当り9町30間。 南1町10間平沢村の界に至る。その村は巳(南南東)に当り7町10間余。 北6町下高野村の界に至る。その村は丑(北北東)に当り10町。 また未申(南西)の方4町25間高瀬村の界に至る。その村まで8町30間。 戌亥(北西)の方4町26間上吉田村の界に至る。その村まで8町20間。 山川 黒川 村西1町10間にあり。 平沢村の境内より来り、西に流れ北に折れ、凡て6町20間流れて神指村の界に入る。 水利 中地堰 平沢村の方より来り、数派となり田地に灌ぐ。 吉田堰 村西にて黒川を引き、上吉田村の方に注ぐ。 神社 天満宮 祭神 天満宮? 草建 不明 村中にあり。 修験地蔵院司る。 天文12年(1543年)ここの地頭平塚丹波実恒という者神前にて法楽をなし千句の連歌を試むとあれば、それ以前の鎮座なるべし。今こ の村の肝煎覺次という者その時の連歌を蔵む(旧家の条下に載す)。 熊野宮 祭神 熊野神? 境内にあり 寺院 常勝寺 村中にあり。 真言宗稲荷山と號す。 府下博労町自在院の末寺なり。開基詳ならず。 天文中(1532年~1555年)放光という僧中興せり。 本尊地蔵客殿の安ず。 古蹟 館跡 村中にあり。 東西17間余・南北30間。 平塚実恒居りしと云う。 旧家 平塚覺次 この村の肝煎なり。その先に大友氏に出づといい伝えれども家系なり。またこの地に来りし初めを伝えず。 その祖大友実国というもの 元亀(1570年~1573年)・天正(1573年~1593年)の頃にや葦名氏に仕え、平沢村を領し二国若狭と改む。これよりさき故(ゆえ)ありて平塚村にも住居せり。因てまた二国を改めて平塚氏と称す。 天正17年(1589年)葦名氏亡て後実国が子実恒浪人しこの村に退去し農民となり、6世の孫覺兵衛という者肝煎となり、相続いて5世今に至りしという。また実恒葦名の老臣佐瀬富田等と天満宮の社頭にて法楽にそなえし千句の連歌を蔵む。 左にその数首を載す。 天文十二年二月五日於中地天神法楽 何人第一 ぬさはけふとるとも花の錦哉 與輔 神かきしろき有明の春 盛治 鶯の聲する虚に雪散て 舜輔 朝何第二 明るまを霞の残す頂端哉 盛純 梅かゝくらき手枕の夢 舜輔 青柳の入江によるの舟にねて 滋實 何路第三 しらはなそ朧月夜に雁の聲 常和 門田の柳雨すくる比 重悦 家居する花の山もと水晴て 輔泰 何舟第四 春雨の空をほれせし晴ま哉 盛常 かたしひ暮ぬ燕なく宿 滋實 山さとの柴ゆふかきね長閑にて 盛純 御何第五 出て入山の端をそき日影哉 盛治 聲もはるかに雲雀飛空 方茂 わか草の野を狩衣分くれて 常和 何田第六 雲雀鳴芝生か露の秋もなし 重悦 あかぬあそひの野は暮にけり 實恒 梓弓春の遠山雲引いて 似輔 何鳥第七 篠つゝし山ちの春の行てかな 似輔 さくらの後の永き日くらし 輔泰 駒いはふ朝鷹人の打むれて 重悦 一字露顯第八 うち解て匂へ柳の朝ね髪 輔泰 まゆほの霞む遠の山のは 常敦 春の夜の更る雲井に月出て 實恒 何屋第九 欵冬やかけにおらるゝ春の水 舜輔 舟にかさしの袖の故なみ 與輔 たか詠彌生も末としたふらん 盛常 二字返音第十 花鳥にあまり彌生の日数哉 滋實 春の夜うすきしのゝめの月 常和 影かすむ灯白く消やらて 與輔 下何追加 若草はすそ野に青し嶺の雪 實恒 Google Map菅原神社 メモ 常勝寺は本郷(会津美里町)にならあるのですが。 ちなみに湯川町にあるのは勝常寺。
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/307.html
陸奥国 会津郡 高久組 幕内(まくのうち)村 大日本地誌大系第31巻 30コマ目 昔三浦義連この地に下向のとき油幕(ゆばく)(*1)を打て居りし処故(ゆえ)村名とせしという。 旧は西の方10町計にあり。天文中(1532年~1555年)の洪水に居を移せしがその後も数度の水災ありしかば、寛永10年(1633年)再び今の地に移しき。 府城の西に当り行程27町余。 家数56軒、東西1町23間・南北1町37間。 四方田圃(たんぼ)にて西は鶴沼川に近し。 東32間・南2町47間・北は村際にて、共に西柳原村に界ふ。その村は丑(北北東)に当り5町余。 西9町42間本郡橋爪組下米塚村の界に至る。その村まで15町。 また戌(西北西)の方8町42間本郡中荒井組二日町村の界に至る。その村まで14町40間余。 亥(北北西)の方7町5間鍛治屋敷村の界に至る。その村まで8町50間余。 もと片原町とて寛永13年(1636年)に開きし端村あり。元文2年(1737年)府下西黒川分に属す。 山川 鶴沼川 村西3町にあり。 本郡南青木組飯寺村の境内より来り、北に流るること10町余鍛治屋敷村の界に入る。 応湖川 村の寅(東北東)の方5町計にあり。 小黒川分の界より来り、北に流るること1町計西柳原村の境内に入る。 水利 飯寺堰 飯寺村の方より来り田地に灌ぎ深川村の方に注ぐ。 鍛治屋敷堰 飯寺村の方より来り鍛治屋敷村の方に注ぐ。 神社 熊野宮 祭神 熊野神? 相殿 稲荷神 諏訪神 鎮座 建久2年(1191年)~? 村西1町50間余にあり。 縁起に、葦名氏の先祖紀州(*2)牟婁郡より勧請し、尊崇(そんすう)他に異にして社頭も壮大なりしが、天文中(1532年~1555年)洪水のために社屋漂没し今の地に移せり(旧地を詳にせず。蒲生氏その地の木材を伐て府城の守を築けりといい伝う)。 古木繁茂(はんも)して物ふりたり。 鳥居あり。郭内諏訪神社の神職佐久上総が司なり 寺院 真浄寺 村中にあり。 浄土宗本州岩城専称寺の末山なり。 相伝う。義連初め假にこの村に住せしが、後に今の飯寺村の館に移住し家臣仁科太郎光盛という者をしてここに住らしめしが、光盛そのまま私の居にすることを憚(はばか)り、良智という僧をして郭地に一宇を建立せしめ佛恩寺新城寺と號し後に今の字に改めき。 天文中(1532年~1555年)水災に院宇漂亡せしを、慶長中(1596年~1615年)教残という僧中興せり。 その後元和(1615年~1624年)・寛永(1624年~1645年)の際数洪水の難あり、因て今の地に移せり(旧地はここより西3町余にあり)。 本尊弥陀客殿に安ず。立像長2尺6寸、恵心作という。 また地蔵立像1軀あり。長2尺5寸、運慶作という。その像旧はこの村の端村中島という処に安置す。天文中の洪水に村と共に本村の南に移し、中島を改めて上幕内と称し高蔵院という密宗の一寺を創めこの像を安せしが、元和中の洪水に漂亡せり。因て当寺に移せりと縁起に見ゆ。然れども土人端村中島・上幕内等の称あることを伝えず。 Google Map幕内 熊野神社 新城寺 Wikipedia佐原義連(三浦義連)
https://w.atwiki.jp/inamurajunichi/pages/85.html
自称ネトウヨの皇帝。 飯塚軍の黒幕扱いされているが詳細は不明。
https://w.atwiki.jp/sekaishikaiwai/pages/126.html
概要 政治界隈のツイッタラー。 虚言癖やカルト宗教との関係など、 怪しい噂が多い。
https://w.atwiki.jp/bl-seiyu/pages/17.html
凪野隼斗 氏名:凪野隼斗 よみ:なぎのはやと 所属:不明 出演作品 MESSIAH煌CORE 2006年 メイド★はじめました ~ご主人様のお世話いたします~--苅野健太郎VividColor 2007年 MESSIAH ~パラノイア∞パラドックス~煌・The King of White HeartCORE 2008年
https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/308.html
陸奥国 会津郡 高久組 西柳原村 大日本地誌大系第31巻 31コマ目 府城の西に当り行程20町余。 家数40軒、東西2町40間・南北2町。 また西40間に1区あり、西新田という(旧板屋という)。 家数5軒、東西49間・南北36間。 共に四方田圃(たんぼ)なり。 東20間・北8町50間、共に府下西黒川小黒川分の地に界ふ。 西8町鍛冶屋敷村の界に至る。その村まで8町10間。 南11町本郡南青木組飯寺村の界に至る。その村まで15町10間余。 また未(南南西)の方5町幕内村の界に至る。その村まで5町余。 申(西南西)の方4町10間深川村の界に至る。その村まで5町10間余。 戌(西北西)の方10町29間余小見村の界に至る。その村まで12町40間余。 亥(北北西)の方7町西城戸村の界に至る。その村まで8町40間余。 もと片原町とて寛永13年(1636年)に開きし端村あり。元文2年(1737年)幕内村の端村片原村と共に小黒川分に属す(舊事雑考寛永13年の記に柳原村に片平町を置し由(よし)見ゆ。然らば初めは片平町と称せしにや諸の旧記にその事見えず。如くは彼書の誤写なるも知るべからず)。 山川 応湖川 村東20間にあり。 幕内村の境内より来り、戌亥(北西)の方に流るること10町20間、西城戸村の界に入る。 水利 住吉堰 府下東黒川材木町分より来り、田地に灌ぎ西城戸村の方に注ぎ西城戸堰という。 神社 天満宮 祭神 天満宮? 相殿 伊勢宮 2座 稲荷神 熊野宮 若宮八幡 金鑄神 創立 不明 村の未申(南西)の方40間余にあり。 鳥居幣殿拝殿あり。祭禮6月24日・25日。 郭内諏訪神社の神職河原幸之丞これを司る。 寺院 柳原寺 村中にあり。 天龍山と號す。 慶長2年(1597年)密宗の僧草創し徳王寺と號す。 寛永7年(1630年)喜可という僧住してより浄土宗となり寺號を改しとぞ。 五之町高巖寺の末山なり。 もと村の南にあり慶安4年(1651年)今の地に移せり。 本尊弥陀客殿に安ず。 古蹟 帽子沼 村の未申(南西)の方1町にあり。 東西6間半・南北1町21間。 舊事雑考に、皆鶴姫が帽子を投げし所故(ゆえ)名くとあり(河沼郡代田組藤倉村の条下を併見るべし)。 土人の伝える処は、皆鶴義経の跡を慕い帽子丸とて2歳になれる義経の子を抱きここに来りしに、敵の為にこの沼に投られ溺死せり。因て名けりという。 狐塚 村より丑寅(北東)の方1町にあり。 昔助次郎狐とてこの邊に住て村民の吉凶を告示し聊(いささ)か人の害をなさす。死してここに埋めしという。 皆鶴姫 河沼郡代田組藤倉村 Google Map柳原町 天満宮? 柳原寺 帽子丸の墓 菅原神社
https://w.atwiki.jp/mugen_tarie/pages/58.html
★通常技 技名 解説 コマンド パンチ 発生4Fのパンチ。連キャン可能ヒットorガード時+1F。しゃがみには空振りする P キック 発生6Fの上方向への蹴り。ヒットorガード時+1F。しゃがみには基本空振りする K 斬り攻撃 発生7Fの踏み込んで斬る。ヒット時-2F。ガード時-4F S 強斬り攻撃 発生9Fの払い斬り。ヒット時-5F。ガード時-7F先端からでも 236+S が繋がる HS しゃがみパンチ 発生4Fのパンチ。連キャン可能。ヒットorガード時+2F 2+P 屈みキック 発生4Fの下段蹴り。連キャン可能黒瀬恭介の下段はこの2弱Kと3弱K(スライディングの)の二つのみ。 2+K 屈み斬り攻撃 発生8F剣で攻撃。リーチが長め 2+S 屈み強斬り攻撃 発生8F。対空部分の発生は10F。空中ガード可能剣閃部分には判定が無いため要注意 2+HS 空中パンチ 発生4Fパンチ。3回まで連キャン出来るこの技を空ガさせた場合 JP×2→一瞬待って J63214+P+S(空中投げ) を狙いたい JP 空中キック 発生6Fのキック。めくり判定有り JK 空中斬り攻撃 発生9F 剣を真横に突き出す。空vs空用 JS 空中強斬り攻撃 発生9F。剣を振り下ろす JHS